今日のような複雑で、混乱していて、人を殺すことをなんとも思わない人々が世界を支配している野蛮な世界とは何なのだ。こんな世界になってしまったのはどうしてだ。どうしてみんな平気で生きているんだ。どうしてやめようとしないのか、やめさせようとしないのか?

こういう世界をどうするのか考えるのは大変で、絶望的な感じすらします。こんなときは世界を歴史的に俯瞰しながら答えを探すほかありません。もちろん誰が正しいとか、「こいつが悪い」とかありますが、それで何か解決するかというと、それはまた別の問題です。人間とか人間社会とかが良い人だけで存在しているわけではなく、我慢するときは我慢しながら折り合っていかなければならないこともあるのです。

そんなときは、「国連憲章を唯一の拠り所とする」のではなく、よく話し合いながら折り合い場所を探していくほかありません。そんなとき知恵の寄せどころとなるのが、過去の人々の知恵です。そこで「世界の見方」が「世界史の捉え方」と重なって議論されるようになっているのです。


Ⅰ. 世界史の流れをどう捉えるのか 言葉の定義から

前回はいきなり欧州に絞り込んで、しかも16世紀に本格化した植民地主義の時代から話を始めて、ヨーロッパの持つスティグマに切り込んでいきました。今回は世界史的視点とはどういうことかを考えていと思います。

1️⃣ ホモサピエンス以来の人類史的流れ

時間軸を思い切りズームアウトして行くと、おそらく20万年前ころにホモ・サピエンスがアフリカの大地溝帯に発生し、遅くとも10万年前までには出アフリカを果たしているようです。

(AIその他には、より早期からより多数の個体が旅立っているように書かれているが、私は旧石器スキャンダルのトラウマが消えていない)

最初の出アフリカ人は死に絶え、おそらくその後も何度かの出アフリカの試みはあったでしょう。およそ6万年前に出アフリカを果たした人々は、現在のその末裔が世界各地に散在しています。
これが最大限に広げた「世界史」です。これは人類史でもあり、自然史の一幕としてのホモ・サピエンスの発生史でもあります。そのDNA的多様性はY染色体系統樹+体染色体異型でかなり細かく分かっています。
ただし、人種的多様化は文明時代の始まり頃には完結しており、その後の人類の発展を跡づける指標にはなりません。

ただしこの間に人類が獲得したスキル、道具、習性。さらに言語、文字。そして集団的労働、分業、社会慣習などは、おそらく現代人の生活にも深く影を落としているでしょう。

付言: 先日「目には目を」を調べたら、本来は「過剰な報復を禁じ、被害以上の罰を与えないようにするための制限を意味する」とあり、「なるほど!」と思いました。

このような労働と生活を追体験することで、案外だいじなヒントを貰ったりすることもあります。エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」はそんな楽しい読み物の一つと言えるでしょう。ただし極端な生産力の差を無視して普遍化するのは、「高貴な野蛮人」的誤解の元ともなりかねないので要注意です。

付言: 先日「目には目を」を調べたら、本来は「過剰な報復を禁じ、被害以上の罰を与えないようにするための制限を意味する」とあり、「なるほど!」と思いました。


2️⃣ 「箱物」史観

これはもっともオーソドックスかつ便宜的な歴史観です。こんな言葉はありませんが「唯物史観」という言葉があるので、ついでに作った造語です。何なら下駄箱史観でもよいでしょう。(下駄箱と言っても若い人には馴染みないかも知れませんが、風呂屋のロッカです。わたしの勤めた最初の病院は受付でスリッパに履き替える習わしでした。潔癖な人はマイスリッパを持っていったものです)

この史観の良いところは、見た目一筋でわかりやすいのと、「とりあえず」的な謙虚さがつまらないケンカを避けるのに便利なのです。ただし中途半端に生産力段階的な意味をもたせたりすると、かえって厄介なことになります。

縄文というのは長さも適当で、人種としても独特で、何より火焔を吹き上げるようなイメージがなんとも言えません。しかしそれに引きずられた弥生はあまりにも無意味な命名です。(前方後円墳以外は古墳とも思わない)古墳時代に至ってはあまりにも傲慢です。なんとかならないものでしょうか。

世界史的には、統一したものはありません。わたしに言わせると、あるわけがないのです。コロンブスの新大陸発見と、これに継ぐ西欧の植民地主義的拡大によって、はじめて「世界」が晴れ渡り、ネットワークとして形成されていくのです。
だから無理やり世界を統一的に把握しようとするなら、「諸文明の勃興期」と呼ぶほかありません。

ところで最近、世界は時代を名付けなくなりました。近世、近代、現代という具合です。ひとっくるめにすると資本主義の時代というのでしょうか。どうもピンときません。

とにかく今こそ、時代に冠を被せ、名前をつけるべき時代ではないかと思います。私はそれなら植民地主義、あるいは帝国主義の時代と呼ぶようが生っぽくてよいのではと思います。


3️⃣ 唯物史観

マルクスが「経済学批判への序言」で示した5段階は漫画でしかなく、しかも大層質の悪い漫画です。同じ5段階でもロストウの方がはるかにマシです。なんでこんな事を言ってしまったんでしょう。どうして取り消さなかったのでしょう?

グーグルのAIによる概要にはこう記されています。

マルクスの歴史段階論(唯物史観)は、人間社会が「生産力」の発展に伴い、生産手段の所有形態(生産関係)を変えながら5つの段階(原始共産制 古代奴隷制 封建制 資本主義社会 共産主義社会)を経て発展するという歴史法則です

つまり生産力の水準が連続的に上昇する際に、システムは階段的に対応するという弁証法を示したに過ぎないのだが、それにいちいち変な名前をつけちゃったわけです。マルクスは自分のまいた種で苦しみました。晩年にはアジア的生産様式やロシア型発展などのオルタナティブも検討しています。

私だったら、生産力を人口に置き換えて、100万人システム、1千万システム、1億人システムという具合に逃げていきます。日本国内だったら米1万石システムというふうに置き換えてもいいかと思います。そうするとかなり実証的な検討ができるのではないかと思います。

多分どこかに藩内、国内、多国間分業の飛躍的発展の折り目があり、それがエネルギー革命や産業革命という成長爆発、階級支配や根源的蓄積という社会の強引な屈折を織り込んだものになっていく変曲点が見つかるでしょう。

成長段階で生じるひずみ、断層が生産力の増強とともに深刻化し、最後にカタストロフ化して次の時代へと移行する20世紀はそういう時代でした。21世紀に入って今起きている現象は、激震からの揺り戻しと見られます。

20世紀は2つの激震の複合でした。一つは植民地主義体制の解体という数世紀に一度の大事件です。今世紀に入ってから、唯一の帝国主義国となったアメリカが、卓越した金融力と軍事力を使用して、地球全体を不条理な支配のもとに置こうとしています。しかしその余波は歴史の流れを押しつぶすことはできませんでした。いまそれは巨大なきしみを立ててくずれようとしています。

もう一つは地球全体を揺り動かすほどの規模ではなかったものの、次の世紀に必ず型をつけなければならない社会不安です。それは、金がすべての価値の源となるレント資本主義と、解雇か搾取かの脅迫システムの解消をもとめています。


現実に私達の目の前で起きていることにはさまざまな側面があり、一筋縄では行きません。しかしマクロな、歴史的な視点から見れば勝敗の行方は明らかです。