「世界の見方」と「世界史の捉え方」
この十年間というもの、「世界の見方」が「世界史の捉え方」と重なって議論されるようになっている。というのも、国連憲章の尊重を唱えるだけでは一向に紛争が解決されない事態が長期にわたって続いており、もう一つ突っ込んだ分析と歴史的な解釈がもとめられているからである。
とりわけウクライナ戦争をめぐっては、「西欧型の近代民主主義の論理」が、「正義」の形式倫理学にとどまり、結果として4年以上にわたる泥沼の戦いをもたらし、なおかつ今も終末を見いだせていない。
ここに近代民主主義の根本的欠陥が露呈されつつある。それは、西欧の近代社会の底に数世紀にわたり分厚い層をなしている植民地主義の残滓である。
グローバリズムという新植民地主義
私は、今こそ植民地主義の清算と克服が喫緊の課題になっていると思う。
植民地支配が近代民主主義に負わせた負の遺産はいくつかあり、どれがどう組み合わさっているかは国によって違いがある。しかしその根底にあるのは経済グローバリズムの浸透である。
それは人の移動の問題を置き去りにして、資本の移動を完全に自由化した。旧植民地の労働現場は奴隷工場、奴隷農場と化した。これぞまさにアパルトヘイトである。さらに旧植民地そのものも対外債務で苦しめられた。
残された植民地主義の個別の現場
見えやすいところでは民族差別がある。西洋人の「正義」観にいささかでも民族差別意識が挟まれていないか、注意深く観察したうえで評価すべきだ。
もう一つの負の遺産は内的意識(というか無意識というか)に関連する。それは植民地から収奪した歴史的資産への無意識のタダ乗りだ。西洋社会は自ら生産した以上に消費し、自ら労働した以上に享受した。
彼らの労働日は生産力の発展に応じて軽減されたが、そこには本来植民地の労働者が享受すべき労働の果実がふくまれていなかったか。富を分け合う民主主義と貧しさを分かち合う民主主義の間にはおのずから違いがあることに、無関心ではなかったか?
今や高齢化した先進国は、レント資本主義へと移行しつつある。レント資本主義についてはマルクス主義経済学でも注目されているが、これもグローバルサウスや難民的移民の存在抜きには語れない。寄生しているのは移民ではなく先進国(の一握りの富裕層)なのである。
レント資本主義
1️⃣ 利益率には自然に低下する傾向がある。
2️⃣ 投機にますます多くの投資が集中する、収益性が高いからだけでなく、必要不可欠になる。
3️⃣ 投資は生産開発ではなくプラットフォームに回る。この中で仮想生産者と仮想消費者のサイクルが形成される。仮想生産者はクラウド資本と政府の介入から恩恵を受け、生産を確保し利益を生む。
コメント