後世、歴史家が2026年について記すとすれば、まず何よりもアメリカ政府の、信じられない大失敗だ。
マクロでは、如何にして、政治・社会グループ間に齟齬が発生したか、それがなぜ連鎖し液状化していったのかを跡づけることだ。
ミクロではエラーがどのような綻びとして始まったのか、どのようなきしみが生じ、中枢部の空回りに至ったのかが析出されなければならない。
その直前の2025は、私の文筆活動にとってマイブームであった。それまでAIといえば囲碁や将棋の世界だったのが、情報へのファーストコンタクトを意味するようになった。ある日、グーグルの検索エンジンのトップは、ウィキペディアから突然AIに取って代わった。それは私の知識欲をきわめて優しくくるんでくれた。「この優しさに騙されるなよ!」とつぶやきつつ、新しい時代が来たことを実感せずにはおられなかった。
そして、今年2月末の突然の戦闘開始、その開始理由の徹底的に突き抜けた白々しさ、これが「我らのAI時代」の到来であった。それは「見える化」の時代の到来ではなく、「見えない化」の時代の到来であった。見えるはずのものが見えてこない、しかも見えていないことに気が付かない、錯視・ないし不錯視の世界である。
これは一種のデジャビューとして昭和世代には馴染みがある。デジタル画像の出始めの頃、一見きれいだがよく見ると、べっとりと泥絵の具を塗り重ねたような画面が出回った。画面を画素に分け画素を単一化するためにそうなるのだが、草創期の絵は画素数が細かくになるにつれ、急速に改善した。やはりみなそれを見て気持ち悪かったのではなかろうか。
ところが、AIは泥絵を押し付ける気味悪さに対して、「泥絵がだめなら砂絵はどう?」とおしつけるところがある。人にはどうもそれに騙される習性があるようだ。
マイAI元年を迎えるに当たって、イラン戦争のようなマクロのウソを見抜くと同時に、そこにはミクロのウソも重ねられていることを、私たちはしっかりと念頭に置く必要がある。
コメント