京都AALA第48回定期総会記念講演会
講師 立石洋子 さん
* 同志社大学グローバル地域文化学部准教授
同志社大学の立石と申します。本日は、このような場を与えて頂きましてどうもありがとうございます。
ただ、こういう市民の意見とは別に、ウクライナの国内のいろいろな政党の意見はかなり分かれていまして、ゼレンスキーのように交渉で解決すべきだという人たち、そのような政党もあったんですが、やはり戦わずに交渉で問題を解決するという、そのような立場に非常に強硬に反対するという政党もありました。
政党の意見が大きく分かれて対立する中で、ゼレンスキー政権はそれをうまく一つの方向に引っ張っていけない。なかなか具体的な成果を得られない中で支持率が再び低下していくことになりました。この頃の変化は少し分かりにくいんですけれども、2020年にゼレンスキーが国内のある集会で、ロシアとの和解、ドンバス紛争の中の分離派との和解を提案するという場面があったんですけれども、ここにウクライナのアゾフ連隊という、これはもともと極右組織で、2014年の紛争から国軍の一部として活躍している組織ですが、その活動家がこの集会に乱入しまして、ゼレンスキーの演説を中断させるという事件がありました。
そこにいたシヴォホという、先ほど写真が出てきた和解と対話での解決を進めようとした中心的な側近であったシヴォホに暴行を加えるという非常に衝撃的な事件も起こっています。この事件との関係はまだ明らかになっていないことが多いのですが、シヴォホはこの事件から2週間後に解任されています。この頃からウクライナの政策にかなり大きな転換が見られるということで、もしかしたらこの事件の影響が何かあったかもしれないとも言われています。
これ以降、例えば9月に、ゼレンスキーがNATO加盟を求める路線に変更はないと公の場で発言するということがあり、これは大統領就任後初めてのことでしたが、ロシア側は非常に幻滅したと言われています。その次の年の2021年になりますと、政策転換がよりはっきりとしてきまして、3月と8月に、軍事とか対外政策に関する政府の公式の文書が作られるのですが、こういった公式の文書でロシアの脅威を前面に出し、NATOと協力を推進するという表現が現れるようになっていきました。
(以下後編)
また、軍事的には、2002年にアメリカが弾道弾迎撃ミサイル制限条約から離脱したことが、一つの大きな節目になったと考えられています。これは核ミサイルを自分たちの国に撃たれたときに、それを撃ち落とすための仕組みですが、この開発が進みますと、いくら核兵器を持っていても意味がないということになります。核兵器による抑止が全く機能しなくなると危険なので、迎撃ミサイルの開発を制限するための条約がアメリカとソ連の間で締結されていたのですが、それが2002年になくなってしまう。さらにその後、アメリカはヨーロッパに、ミサイル防衛システムという、核ミサイルからヨーロッパを防衛するためのシステムを作ろうとします。
ウクライナ戦争の現状と今後
~停戦合意の行方は?~
要旨
講師 立石洋子 さん
* 同志社大学グローバル地域文化学部准教授
同志社大学の立石と申します。本日は、このような場を与えて頂きましてどうもありがとうございます。
私もロシアの外交を専門に研究しているというわけではありませんし、知らないこともたくさんあります。また資料自体が出てこない、ということもおそらくあると思います。ロシアやウクライナの外交を専門に研究していても、なかなか難しい問題であるとは思います。今日、私自身が勉強したことを皆さんにお話しさせて頂き、ご意見を頂いて私自身も改めてこの問題を考えてみたい、と思います。
今日お配りしました資料は、1つはスライドをそのままプリントアウトしたものです。さっき見直していましたら少し間違いがありましたので、それは後で訂正いたします。もう1つは最近私が書きました文章で、今日の話には直接は関係がないのですが、独ソ戦の戦勝記念日に、毎年プーチンが演説をしています。その中でウクライナがどのように語られていたのか、ということを書いたものです。では早速始めたいと思います。
ウクライナ戦争の前段 マイダン革命とドンバス紛争
最初の予想よりも非常に長引いているウクライナ戦争ですが、また先程言いましたように、開戦に至った具体的な要因や開戦後に2つの国がどうなったのか、他の国がどういうふうにそれに関与してきたのか、というのは今もわからないところが多く、研究者の中にも、またメディアの中にも大きく対立する見方があります。
ウクライナでマイダン革命と呼ばれる政権の崩壊(転覆)が起こり、そこからロシアがクリミアを併合してウクライナのドンバスで紛争が始まり、そこから2022年、本格的な国家間の戦争に至るという一連の流れがあります。実はこの10年ほどの期間というのは一貫した流れではなくて、いろいろと細かい起伏があります。まずはそこから見ていきたい、と考えております。
1️⃣ ヤヌコビッチのとった政策
ウクライナの政変はマイダン革命と呼ばれていますけれども、その時の大統領はヤヌコヴィチ大統領という写真(下)の人物でした。一般的には親ロ的と呼ばれることが多いですけれども、実際は少しイメージと違っています。EUであったりアメリカであったりですね、欧米諸国それからロシアの両方と良い関係を維持しようとした、そういう特徴がありました。

それは当時のウクライナの世論を反映したものでもあり、ロシアがクリミアを併合するまではウクライナの中でもロシアのイメージというのは相当良いもので、またロシアのイメージだけではなくて、経済政策の点では EUにウクライナが入るべきだという主張とロシアを中心とする経済同盟に入るべきだという、両方の意見が大体同程度の割合で、どっちが多いということはなかったわけです。
また軍事面を見ても、非同盟を支持する人が圧倒的に多かったということが分かっています。 NATOに入るべきだという意見は、少なくとも2013年までは非常に少なかった。こうした社会の意見を反映してヤヌコヴィチは、ロシアやアメリカ、ヨーロッパ諸国と関係を良くしていこうという政策を取っていたということになります。
ロシアはまだEU自体を敵視していたわけではなく、ウクライナがNATOに入るということに非常に強く反対していたのです。 EUは経済的な同盟ですので、それにウクライナが接近するということには反対していなかったという、そのような今との違いがありました。
このヤヌコヴィチの前の大統領で、ユシチェンコという大統領の時代がありましたけれども、この時代は非常に反ロシア的で、ウクライナ民族主義を煽るといいますか、それを政策の中心にしたという特徴があり、先ほど紹介したような社会の意識の中で、こういう政策を推進することはやはり支持率の急落を招きました。
それもあってヤヌコヴィチは前のユシチェンコ大統領の路線から距離を置こうとしたという側面もあります。またEUとロシアの両方と良い経済的関係を維持するというのは、実はユシチェンコ以前のウクライナではずっと長く採用されていた方針でもありましたので、ヤヌコヴィチだけの特徴ではなかったということになります。元に戻ったと言いますか、ユシチェンコ以前の路線に戻ったという、そのような側面がありました。
2️⃣ 対ロ断絶を迫ったEU、これを拒否したヤヌコヴィチ
1️⃣ ヤヌコビッチのとった政策
ウクライナの政変はマイダン革命と呼ばれていますけれども、その時の大統領はヤヌコヴィチ大統領という写真(下)の人物でした。一般的には親ロ的と呼ばれることが多いですけれども、実際は少しイメージと違っています。EUであったりアメリカであったりですね、欧米諸国それからロシアの両方と良い関係を維持しようとした、そういう特徴がありました。

それは当時のウクライナの世論を反映したものでもあり、ロシアがクリミアを併合するまではウクライナの中でもロシアのイメージというのは相当良いもので、またロシアのイメージだけではなくて、経済政策の点では EUにウクライナが入るべきだという主張とロシアを中心とする経済同盟に入るべきだという、両方の意見が大体同程度の割合で、どっちが多いということはなかったわけです。
また軍事面を見ても、非同盟を支持する人が圧倒的に多かったということが分かっています。 NATOに入るべきだという意見は、少なくとも2013年までは非常に少なかった。こうした社会の意見を反映してヤヌコヴィチは、ロシアやアメリカ、ヨーロッパ諸国と関係を良くしていこうという政策を取っていたということになります。
ロシアはまだEU自体を敵視していたわけではなく、ウクライナがNATOに入るということに非常に強く反対していたのです。 EUは経済的な同盟ですので、それにウクライナが接近するということには反対していなかったという、そのような今との違いがありました。
このヤヌコヴィチの前の大統領で、ユシチェンコという大統領の時代がありましたけれども、この時代は非常に反ロシア的で、ウクライナ民族主義を煽るといいますか、それを政策の中心にしたという特徴があり、先ほど紹介したような社会の意識の中で、こういう政策を推進することはやはり支持率の急落を招きました。
それもあってヤヌコヴィチは前のユシチェンコ大統領の路線から距離を置こうとしたという側面もあります。またEUとロシアの両方と良い経済的関係を維持するというのは、実はユシチェンコ以前のウクライナではずっと長く採用されていた方針でもありましたので、ヤヌコヴィチだけの特徴ではなかったということになります。元に戻ったと言いますか、ユシチェンコ以前の路線に戻ったという、そのような側面がありました。
2️⃣ 対ロ断絶を迫ったEU、これを拒否したヤヌコヴィチ
ただ、このヤヌコヴィチの時代というのは、世界的に経済の状況が非常に悪い時代で、経済的な対立が緊張を招いていた時代です。そこでEUとロシアが自分たちとの経済的な協力について、どっちを選ぶのだという、二者択一をウクライナに対して迫ったということがありました。ここからウクライナがそれまでのような両天秤と言いますか、どちらともいい関係を維持する経済政策が取れなくなっていくという変化がありました。
ここで大きな争点になったのは EUとの連合協定で、これは経済的な同盟のようなものです。EUに入るわけではないんですけれども、EUとの経済的協力を今よりも進めるという協定に調印するかどうかということが大きな争点となります。
この連合協定を調印する前提としてEUの側は、ウクライナに対してロシアとの関係を切る、当然経済的な関係ということですね。外交ではなく、これまでのような経済的な取引を全てやめる、ということをウクライナに要求しました。交渉は非常に難航しまして、ヤヌコヴィチは直前まで迷っていたという情報もあります。
どの国も経済状況が良くない中で、ウクライナも経済的な危機から脱出しなければいけないということで、ヤヌコヴィチはEUとロシアの両方に経済的な援助を求めるんですけれども、この時に申し出た援助はロシアの方が多かったというのと、元々ウクライナとロシアは隣接していますし、ソ連時代に一つの国だったという歴史もありますので、ウクライナの経済的な取引の約5割がロシアとの取引でした。なので、ロシアとの経済的な関係を切ってしまう、ロシアの市場を失うというのはウクライナの経済にとってはかなりの打撃になる、と考えられたわけです。
そこでヤヌコヴィチはEUとの連合協定調印を諦めるという決断をしたと言われています。この調印停止が発表されたのが2013年11月で、ここからヤヌコヴィチに対する反政府運動が広まっていき、それが最終的には政権の転覆に至るということになりました。
ここで大きな争点になったのは EUとの連合協定で、これは経済的な同盟のようなものです。EUに入るわけではないんですけれども、EUとの経済的協力を今よりも進めるという協定に調印するかどうかということが大きな争点となります。
この連合協定を調印する前提としてEUの側は、ウクライナに対してロシアとの関係を切る、当然経済的な関係ということですね。外交ではなく、これまでのような経済的な取引を全てやめる、ということをウクライナに要求しました。交渉は非常に難航しまして、ヤヌコヴィチは直前まで迷っていたという情報もあります。
どの国も経済状況が良くない中で、ウクライナも経済的な危機から脱出しなければいけないということで、ヤヌコヴィチはEUとロシアの両方に経済的な援助を求めるんですけれども、この時に申し出た援助はロシアの方が多かったというのと、元々ウクライナとロシアは隣接していますし、ソ連時代に一つの国だったという歴史もありますので、ウクライナの経済的な取引の約5割がロシアとの取引でした。なので、ロシアとの経済的な関係を切ってしまう、ロシアの市場を失うというのはウクライナの経済にとってはかなりの打撃になる、と考えられたわけです。
そこでヤヌコヴィチはEUとの連合協定調印を諦めるという決断をしたと言われています。この調印停止が発表されたのが2013年11月で、ここからヤヌコヴィチに対する反政府運動が広まっていき、それが最終的には政権の転覆に至るということになりました。
この時の政策については非常に有名な、ソ連の最後の指導者になりましたゴルバチョフはヤヌコヴィチを擁護していまして、本来であればロシアとウクライナそしてEUで交渉をして互いの経済的な利害を調整するという仕組みを作る必要があったのに、 EUはロシアと協力する機会を拒んだ。この問題についてロシアを加えて3者で話し合うことを一切拒否したと言っていて、ヤヌコヴィチ自身は悪くなかったと主張しています。このような意見は実はゴルバチョフだけではなく、当時のEUの中の政策担当者の中にも一部ありました。
3️⃣ 交渉決裂を機に謀略集団の行動が強化
結局、EUとの連合協定が調印されなかったということで、反政府運動がウクライナではどんどん大きくなっていきます。ここには極右組織と呼ばれるような排外主義的な民族主義を唱えるような集団が、一部は武力も用いるという、そのような集団も加わっていきます。こういう集団だけではないのですが、そのような組織も一部加わっていたということです。そういう人たちがヤヌコヴィチ政権の弾圧に暴力で対抗するという構図ができていきまして、政権と戦っているということで市民の支持・共感をある程度集めるという現象も起こりました。
特に極右政党や極右組織の支持基盤といいますか、活動の基盤になっているのがウクライナ西部であると言われていますが、ウクライナの西部地域では割と早い段階で地方の行政機関をこういった極右政党や極右組織が占拠するとか、警察に代わって自警団を作るとか、そういう形で地域の政権を転覆するという、そのような暴力革命とも見えるような現象が西部地域で先に起こることになります。
2月にはヤヌコヴィチがすぐに退陣することを約束しまして、野党の指導者たちとの合意が成立することになったのですが、この20日にスナイパーが群衆に発砲するという事件があり、多数の死傷者が出ました。これは当時はヤヌコヴィチ政権がやったんだ、というふうに見なされ、そこから反政府運動がコントロールできないものになっていき、ついに中央の政府の施設も占拠されてヤヌコヴィチは逃亡することになります。
この事件は、現在では政府がやったものではなかったということが明らかにされつつあるようですが、その当時は政府がやったんだと市民に受け止められたわけです。ヤヌコヴィチがいなくなってしまったということで、新しい政府が形成され、市民運動の中で活躍した極右政党・極右組織の活動家たちも主要ポストにつくことになります。
4️⃣ ロシア語地域、とくにクリミア処理
こうした暴力革命とも見える、市民運動という面と暴力革命という側面が同じ運動の中にあったわけですね。そのような暴力革命という側面が、クリミアとかドンバスの住民を刺激したと言われています。結局、クリミアはロシアに併合されて、ドンバスでは人民共和国と呼ばれる自治政府を名乗る組織がつくられるということになりました。こうしたクリミアとかドンバスでの変化は、国家秩序を憲法に従わずに勝手に変えてしまったので当然違法ですが、クリミアとかドンバスでそのような活動を推進した人たちは、先にヤヌコヴィチが追放される暴力革命が首都で起こった。だから自分たちも同じようなことをしたんだと主張しています。
クリミアとドンバスは同じ頃に大きな変化が起こるわけですが、クリミアは少し特別で、ソ連時代末期からウクライナから独立するという主張であったり、当時のソ連の中のロシア共和国に移行するという議論がありました。ここでは省略しますが、クリミアがウクライナに移った時期は1950年代であり、それまでロシアの中にありましたので歴史的にウクライナの他の地域とは少し違った意識があると言われています。
ソ連の末期はウクライナ共和国でもウクライナ・ナショナリズムが広まり、独立宣言を採択するという流れがあって、そこから当時ウクライナ共和国の中にあったクリミアでは、ウクライナから独立しようという主張が出てきました。ソ連が無くなった後もそのような議論が続いていましたが、クリミアの問題はウクライナとロシアが独立国家になった後に交渉を進めまして、かなり長い時間がかかりましたが、1997年から最終的には2012年までかけて国境を確定する。
それから、非常に大きな問題になった黒海艦隊は、ロシア帝国がオスマン帝国と戦ってこの地域を獲得して、エカチェリーナ2世が作ったというロシアの軍隊の中では中心的なものですが、その黒海艦隊がクリミアに位置しているということで、それをどうするかが問題になったのですが、ウクライナとロシアで分割することが正式に決まりました。またロシアが、黒海艦隊の母港としてセバストポリというクリミアの都市を港として使うことも交渉で決まります。その代わり、お金をウクライナに支払うということで合意しました。
5️⃣ マイダン革命への反発がロシア語地域の独立志向を強める
国境の問題や黒海艦隊の問題が平和的に合意によって解決されたということで、クリミアの独立論も収束していきました。ウクライナの中でできるだけ自治を持つという方向に変化していきましたが、先ほどお話ししていたマイダン革命の中で、再び急速に独立論が広まったという背景があります。
クリミアで独立やロシアへの併合を支持した人たちは、マイダン革命は暴力革命だと捉えているわけです。極右勢力が権力を無理やり武力で握った、それまでのソ連解体後に築かれてきた協調関係がなくなってしまった、そういうふうにマイダン革命を理解した。さらにマイダン革命の中で、2月の後半にクリミアでも暴力的な衝突事件が起こりまして、これが決定的な要因になったのではないかと言われています。ウクライナからの独立、ロシアに入るという、そのような動きを支持する人たちが増えていくことになります。
3️⃣ 交渉決裂を機に謀略集団の行動が強化
結局、EUとの連合協定が調印されなかったということで、反政府運動がウクライナではどんどん大きくなっていきます。ここには極右組織と呼ばれるような排外主義的な民族主義を唱えるような集団が、一部は武力も用いるという、そのような集団も加わっていきます。こういう集団だけではないのですが、そのような組織も一部加わっていたということです。そういう人たちがヤヌコヴィチ政権の弾圧に暴力で対抗するという構図ができていきまして、政権と戦っているということで市民の支持・共感をある程度集めるという現象も起こりました。
特に極右政党や極右組織の支持基盤といいますか、活動の基盤になっているのがウクライナ西部であると言われていますが、ウクライナの西部地域では割と早い段階で地方の行政機関をこういった極右政党や極右組織が占拠するとか、警察に代わって自警団を作るとか、そういう形で地域の政権を転覆するという、そのような暴力革命とも見えるような現象が西部地域で先に起こることになります。
2月にはヤヌコヴィチがすぐに退陣することを約束しまして、野党の指導者たちとの合意が成立することになったのですが、この20日にスナイパーが群衆に発砲するという事件があり、多数の死傷者が出ました。これは当時はヤヌコヴィチ政権がやったんだ、というふうに見なされ、そこから反政府運動がコントロールできないものになっていき、ついに中央の政府の施設も占拠されてヤヌコヴィチは逃亡することになります。
この事件は、現在では政府がやったものではなかったということが明らかにされつつあるようですが、その当時は政府がやったんだと市民に受け止められたわけです。ヤヌコヴィチがいなくなってしまったということで、新しい政府が形成され、市民運動の中で活躍した極右政党・極右組織の活動家たちも主要ポストにつくことになります。
4️⃣ ロシア語地域、とくにクリミア処理
こうした暴力革命とも見える、市民運動という面と暴力革命という側面が同じ運動の中にあったわけですね。そのような暴力革命という側面が、クリミアとかドンバスの住民を刺激したと言われています。結局、クリミアはロシアに併合されて、ドンバスでは人民共和国と呼ばれる自治政府を名乗る組織がつくられるということになりました。こうしたクリミアとかドンバスでの変化は、国家秩序を憲法に従わずに勝手に変えてしまったので当然違法ですが、クリミアとかドンバスでそのような活動を推進した人たちは、先にヤヌコヴィチが追放される暴力革命が首都で起こった。だから自分たちも同じようなことをしたんだと主張しています。
クリミアとドンバスは同じ頃に大きな変化が起こるわけですが、クリミアは少し特別で、ソ連時代末期からウクライナから独立するという主張であったり、当時のソ連の中のロシア共和国に移行するという議論がありました。ここでは省略しますが、クリミアがウクライナに移った時期は1950年代であり、それまでロシアの中にありましたので歴史的にウクライナの他の地域とは少し違った意識があると言われています。
ソ連の末期はウクライナ共和国でもウクライナ・ナショナリズムが広まり、独立宣言を採択するという流れがあって、そこから当時ウクライナ共和国の中にあったクリミアでは、ウクライナから独立しようという主張が出てきました。ソ連が無くなった後もそのような議論が続いていましたが、クリミアの問題はウクライナとロシアが独立国家になった後に交渉を進めまして、かなり長い時間がかかりましたが、1997年から最終的には2012年までかけて国境を確定する。
それから、非常に大きな問題になった黒海艦隊は、ロシア帝国がオスマン帝国と戦ってこの地域を獲得して、エカチェリーナ2世が作ったというロシアの軍隊の中では中心的なものですが、その黒海艦隊がクリミアに位置しているということで、それをどうするかが問題になったのですが、ウクライナとロシアで分割することが正式に決まりました。またロシアが、黒海艦隊の母港としてセバストポリというクリミアの都市を港として使うことも交渉で決まります。その代わり、お金をウクライナに支払うということで合意しました。
5️⃣ マイダン革命への反発がロシア語地域の独立志向を強める
国境の問題や黒海艦隊の問題が平和的に合意によって解決されたということで、クリミアの独立論も収束していきました。ウクライナの中でできるだけ自治を持つという方向に変化していきましたが、先ほどお話ししていたマイダン革命の中で、再び急速に独立論が広まったという背景があります。
クリミアで独立やロシアへの併合を支持した人たちは、マイダン革命は暴力革命だと捉えているわけです。極右勢力が権力を無理やり武力で握った、それまでのソ連解体後に築かれてきた協調関係がなくなってしまった、そういうふうにマイダン革命を理解した。さらにマイダン革命の中で、2月の後半にクリミアでも暴力的な衝突事件が起こりまして、これが決定的な要因になったのではないかと言われています。ウクライナからの独立、ロシアに入るという、そのような動きを支持する人たちが増えていくことになります。
これはクリミアから見たお話ですが、ロシアから見ますとやはり黒海艦隊の基地がクリミアにあるということではロシアとウクライナの政府間の合意で、ロシアがこの基地を使えることになっていました。ウクライナで政権が転覆されるという中で、もしかしたら90年代から2000年代の話し合いの結果が覆される、なかった事にされるんじゃないか、という恐れが出てきたことでクリミア併合という決定をした、と考えられています。つまり、この黒海艦隊をロシアが使えなくなる。さらには外国、アメリカなどNATOの軍隊がそこに置かれるんじゃないかと考えたと言われています。
またクリミアの中では、住民投票で9割以上がロシアへの移行に賛成するという結果になりました。これは違法に賛成の票を多めに数えたという可能性もかなりあるんですけれども、それがなかったとしても大多数がロシアへの移行に賛成したんじゃないか、と言われています。また現地のウクライナ軍ですとか警察とか治安部隊もロシアの側に大多数がつきまして、結果的に違法ではあるんですけれども、武力的な衝突、暴力的な衝突はなく平和的にロシアに移行される、ロシアが併合するということになりました。
その後、政府とは関係のない独立した世論調査機関の調査が行われているんですけれども、やはりこれを見ても大体85%くらいの人がロシアへの移行を肯定的に評価しています。またロシア人とウクライナ人の中で、大きな差はない。クリミアにはロシア人もウクライナ人もいますけれども、民族的な差はなかったという結果が出ています。
6️⃣ ドンバス地方の特殊性
またクリミアの中では、住民投票で9割以上がロシアへの移行に賛成するという結果になりました。これは違法に賛成の票を多めに数えたという可能性もかなりあるんですけれども、それがなかったとしても大多数がロシアへの移行に賛成したんじゃないか、と言われています。また現地のウクライナ軍ですとか警察とか治安部隊もロシアの側に大多数がつきまして、結果的に違法ではあるんですけれども、武力的な衝突、暴力的な衝突はなく平和的にロシアに移行される、ロシアが併合するということになりました。
その後、政府とは関係のない独立した世論調査機関の調査が行われているんですけれども、やはりこれを見ても大体85%くらいの人がロシアへの移行を肯定的に評価しています。またロシア人とウクライナ人の中で、大きな差はない。クリミアにはロシア人もウクライナ人もいますけれども、民族的な差はなかったという結果が出ています。
6️⃣ ドンバス地方の特殊性
他方でドンバス、これはドネツクとルハンスクという2つの州ですが、こちらは元々クリミアのような分離独立運動がなかった地域で、またロシア人アイデンティティとか、ロシア語というような言語とか民族を中心とするアイデンティティではなく、ドンバスという地域を中心としたアイデンティティが普及していた地域だと言われています。なので、特別に親ロシア的ということはない地域だった、クリミアと比べてですね。そういうことはなかったと言われています。
また経済的にも非常に古いタイプの重厚長大型の産業が主な産業なので、ロシアから見ると、そのドンバスを併合することによる利益はあまり大きくない、と考えられていました。ここでは、人民共和国というものが作られ、それに賛成する人、反対する人の間で内戦が始まってしまう。そこにロシアが途中から直接介入するようになりますが、それ以前に、ウクライナとロシアの非公式の軍事組織ですとか、極右組織が戦闘に加わっていまして、こういった組織はウクライナもロシアもどちらの政府も統制しきれていない、コントロールできていない暴力的な組織もこの内戦に加わる。ウクライナからもロシアからもですね。そういうことになってしまって非常に大きな犠牲が出ています。
ロシアは、2014年8月から正規軍をこのドンバスでの紛争に投入することになりました。最初は、ウクライナの中で自治を獲得させることを目標にしていたんじゃないか、途中で方針が変わったんじゃないかと言われています。そしてこの2014年8月以降は、ウクライナの中の内戦と、ウクライナとロシアの紛争が重なり合うという形になりました。
犠牲者がかなり出る中で、2014年秋からミンスク合意と呼ばれる停戦合意が作られまして、いつから戦闘を停止するとか、武器の撤収の方法とか、非常に細かい規定を作り、形の上ではロシアもウクライナもそれを承認したんですが、結局はそれが完全に守られることはなく、やっぱりお互いに不信感があって、自分が守っても相手は守らないんじゃないかということで、停戦違反が続くという状況でした。
7️⃣ ポロシェンコ政権からゼレンスキー政権へ
またウクライナでは、政治の変化がこの中で起こり、2014年6月にポロシェンコという人物が新しく大統領になります。このポロシェンコという大統領はドンバス紛争がなかなか解決しないという中で、非常に急進的なウクライナ・ナショナリズムを煽るという方針を取りました。
また軍事的にはNATO加盟を初めて公式の目標にします。ウクライナがNATOに入ることを正式に目標にしたのは、この大統領の時代が初めてということになります。ただ、この大統領も2019年の選挙で、ゼレンスキーに敗れることになりました。

Poroshenko
また経済的にも非常に古いタイプの重厚長大型の産業が主な産業なので、ロシアから見ると、そのドンバスを併合することによる利益はあまり大きくない、と考えられていました。ここでは、人民共和国というものが作られ、それに賛成する人、反対する人の間で内戦が始まってしまう。そこにロシアが途中から直接介入するようになりますが、それ以前に、ウクライナとロシアの非公式の軍事組織ですとか、極右組織が戦闘に加わっていまして、こういった組織はウクライナもロシアもどちらの政府も統制しきれていない、コントロールできていない暴力的な組織もこの内戦に加わる。ウクライナからもロシアからもですね。そういうことになってしまって非常に大きな犠牲が出ています。
ロシアは、2014年8月から正規軍をこのドンバスでの紛争に投入することになりました。最初は、ウクライナの中で自治を獲得させることを目標にしていたんじゃないか、途中で方針が変わったんじゃないかと言われています。そしてこの2014年8月以降は、ウクライナの中の内戦と、ウクライナとロシアの紛争が重なり合うという形になりました。
犠牲者がかなり出る中で、2014年秋からミンスク合意と呼ばれる停戦合意が作られまして、いつから戦闘を停止するとか、武器の撤収の方法とか、非常に細かい規定を作り、形の上ではロシアもウクライナもそれを承認したんですが、結局はそれが完全に守られることはなく、やっぱりお互いに不信感があって、自分が守っても相手は守らないんじゃないかということで、停戦違反が続くという状況でした。
7️⃣ ポロシェンコ政権からゼレンスキー政権へ
またウクライナでは、政治の変化がこの中で起こり、2014年6月にポロシェンコという人物が新しく大統領になります。このポロシェンコという大統領はドンバス紛争がなかなか解決しないという中で、非常に急進的なウクライナ・ナショナリズムを煽るという方針を取りました。
また軍事的にはNATO加盟を初めて公式の目標にします。ウクライナがNATOに入ることを正式に目標にしたのは、この大統領の時代が初めてということになります。ただ、この大統領も2019年の選挙で、ゼレンスキーに敗れることになりました。

Poroshenko
ゼレンスキーはこの大統領選の当時はロシアとの交渉によって紛争を解決することを目指していまして、ウクライナ国内の強硬派からは親ロ派だということで、非常に非難されていたという人物でもあったんですが、そういう人が選挙でポロシェンコに非常に大きな差をつけて勝ったというのは、やはりウクライナ国民が当時は交渉で紛争を解決した方がいいと考えていたと言えるのではないかと考えられています。
シヴォホという、もともと選挙前からゼレンスキーの友人であった人物がいます。彼はゼレンスキーが大統領になった後はウクライナの安全保障国防会議という組織の顧問になっています。この人は、交渉でドンバス紛争を解決する、東部の紛争解決のためには憎悪ではなく相互理解が重要なんだと会見で言っていまして、この人を中心としてロシアとの交渉が進むと思われました。ロシアもこの2019年の大統領選の頃は問題の解決をかなり期待していたと言われています。 また、ウクライナの世論を見てみましても、やはりドンバスについて交渉で解決すべきだという意見ですとか、停戦すべきだという意見ですね、それからとにかく軍事行動をやめるべきだといった意見を支持する人が多数を占めていたという調査結果があります。なので、ゼレンスキーが当選したということになるわけですね。
8️⃣ アゾフ連隊の脅迫とゼレンスキーの方向転換
シヴォホという、もともと選挙前からゼレンスキーの友人であった人物がいます。彼はゼレンスキーが大統領になった後はウクライナの安全保障国防会議という組織の顧問になっています。この人は、交渉でドンバス紛争を解決する、東部の紛争解決のためには憎悪ではなく相互理解が重要なんだと会見で言っていまして、この人を中心としてロシアとの交渉が進むと思われました。ロシアもこの2019年の大統領選の頃は問題の解決をかなり期待していたと言われています。 また、ウクライナの世論を見てみましても、やはりドンバスについて交渉で解決すべきだという意見ですとか、停戦すべきだという意見ですね、それからとにかく軍事行動をやめるべきだといった意見を支持する人が多数を占めていたという調査結果があります。なので、ゼレンスキーが当選したということになるわけですね。
8️⃣ アゾフ連隊の脅迫とゼレンスキーの方向転換
ただ、こういう市民の意見とは別に、ウクライナの国内のいろいろな政党の意見はかなり分かれていまして、ゼレンスキーのように交渉で解決すべきだという人たち、そのような政党もあったんですが、やはり戦わずに交渉で問題を解決するという、そのような立場に非常に強硬に反対するという政党もありました。
政党の意見が大きく分かれて対立する中で、ゼレンスキー政権はそれをうまく一つの方向に引っ張っていけない。なかなか具体的な成果を得られない中で支持率が再び低下していくことになりました。この頃の変化は少し分かりにくいんですけれども、2020年にゼレンスキーが国内のある集会で、ロシアとの和解、ドンバス紛争の中の分離派との和解を提案するという場面があったんですけれども、ここにウクライナのアゾフ連隊という、これはもともと極右組織で、2014年の紛争から国軍の一部として活躍している組織ですが、その活動家がこの集会に乱入しまして、ゼレンスキーの演説を中断させるという事件がありました。
そこにいたシヴォホという、先ほど写真が出てきた和解と対話での解決を進めようとした中心的な側近であったシヴォホに暴行を加えるという非常に衝撃的な事件も起こっています。この事件との関係はまだ明らかになっていないことが多いのですが、シヴォホはこの事件から2週間後に解任されています。この頃からウクライナの政策にかなり大きな転換が見られるということで、もしかしたらこの事件の影響が何かあったかもしれないとも言われています。
これ以降、例えば9月に、ゼレンスキーがNATO加盟を求める路線に変更はないと公の場で発言するということがあり、これは大統領就任後初めてのことでしたが、ロシア側は非常に幻滅したと言われています。その次の年の2021年になりますと、政策転換がよりはっきりとしてきまして、3月と8月に、軍事とか対外政策に関する政府の公式の文書が作られるのですが、こういった公式の文書でロシアの脅威を前面に出し、NATOと協力を推進するという表現が現れるようになっていきました。
(以下後編)
またあるテレビ演説で、ゼレンスキーがドンバスの市民に対して、親ロ的な人はロシアより
に去るように、と呼びかけるという場面もありまして、ドンバスの統合を放棄したんじゃないか、という発言も見られるようになっていきます。ゼレンスキーの支持率は最初はかなり高かったんですけれども、この頃には2割程度まで下がっていまして、もしかしたらウクライナ・ナショナリズムに訴えることで、支持の回復を狙ったのかもしれませんが、これもはっきりしたことはわかりません。このような政策転換の裏に何があったのか、ということはまだ明らかになっていません。
またこの頃にOSCEという、元々は冷戦期に生まれたヨーロッパ地域の安全保障のための組織がありますけれども、 そのレポートによりますと、2021年後半からミンスク合意の停戦違反が激増していまして、その8割がウクライナ本土からドンバスの人民共和国領への攻撃であった、と報告されています。なので、ウクライナの中で何らかの政策転換がこの時期に起こった、ということは間違いないのではないかと思われます。
9️⃣ プーチンのウクライナ批判が強まる
またこの頃にOSCEという、元々は冷戦期に生まれたヨーロッパ地域の安全保障のための組織がありますけれども、 そのレポートによりますと、2021年後半からミンスク合意の停戦違反が激増していまして、その8割がウクライナ本土からドンバスの人民共和国領への攻撃であった、と報告されています。なので、ウクライナの中で何らかの政策転換がこの時期に起こった、ということは間違いないのではないかと思われます。
9️⃣ プーチンのウクライナ批判が強まる
また一方、ロシアでは2021年7月に、プーチンがロシア人とウクライナ人の歴史的一体性という非常に長い論文を発表しました。この論文ではロシアとウクライナは、元々歴史的に一つの民族なんだということを言ったので、この頃からプーチンはウクライナ侵攻を決めていたんだという人もいるのですが、おそらくそうではないんじゃないかと私は考えています。というのは、この論文はいろんなことを言っているんですけれども、戦争、開戦に関わるようなことは何も言っていないわけです。また、ウクライナの中の反ロシア的な思考を非常に強く批判しているという特徴があります。また大統領選の時のゼレンスキーは、平和を志向していたのにその後態度を変えた、というような非難が見られます。
ですので、この時点ではまだ戦争そのものではなく、ウクライナの政策転換を非難していると考えた方がいいのではないかと思います。また、ウクライナとロシアが歴史的に一体であると言ったのは、この時が初めてではありません。2014年にNATOのサミットがブカレストで開かれまして、ここで初めてウクライナがNATOに将来加盟すると正式に宣言されました。その時に、当時首相だったプーチンがそれを批判して、ウクライナとロシアというのは元々一つの民族だったんだということを言っています。ですので、この歴史的一体性というのはウクライナがNATOに入ることを批判する文脈で出てきた表現だったわけです。これ以前の歴史的一体性というプーチンの発言は、まだ見つかっていません。おそらくこの2014年が初めてではないかと思います。
ですので、この時点ではまだ戦争そのものではなく、ウクライナの政策転換を非難していると考えた方がいいのではないかと思います。また、ウクライナとロシアが歴史的に一体であると言ったのは、この時が初めてではありません。2014年にNATOのサミットがブカレストで開かれまして、ここで初めてウクライナがNATOに将来加盟すると正式に宣言されました。その時に、当時首相だったプーチンがそれを批判して、ウクライナとロシアというのは元々一つの民族だったんだということを言っています。ですので、この歴史的一体性というのはウクライナがNATOに入ることを批判する文脈で出てきた表現だったわけです。これ以前の歴史的一体性というプーチンの発言は、まだ見つかっていません。おそらくこの2014年が初めてではないかと思います。
その後も、いろいろな交渉が続きました。その中の一つとして、2021年12月にはロシアがアメリカに対して、NATOの不拡大を約束する条約を締結したら、戦争はしないと言っています。これは当然ウクライナがNATOに入らないということを要求しているわけです。また後でお話ししますが、ソ連末期にゴルバチョフが、 NATOは東に拡大しないと言われ、それを信じて裏切られたという見方がロシアの中にあります。そのために2021年12月には条約の形で、そのような約束をアメリカにさせようとしたのではないか、と言われています。
ただ結局、この提案は受け入れられず、戦争になってしまいました。ただ、ロシアがウクライナに軍事侵攻を始める1週間前まで外交交渉が行われていたので、やはり戦争になるかどうかというのは、おそらく直前まで決まっていなかったのではないかと考えられるわけです。
1️⃣0️⃣ ロシアの焦点はNATOの東方拡大阻止へ
ただ結局、この提案は受け入れられず、戦争になってしまいました。ただ、ロシアがウクライナに軍事侵攻を始める1週間前まで外交交渉が行われていたので、やはり戦争になるかどうかというのは、おそらく直前まで決まっていなかったのではないかと考えられるわけです。
1️⃣0️⃣ ロシアの焦点はNATOの東方拡大阻止へ
こうして、ざっとクリミア併合の頃から開戦までを見てみますと、NATOの東方拡大の問題と、ウクライナがNATOに入るかどうかということが、かなり大きな論点になっていることがわかります。先ほど少し出てきましたけれども、この問題というのはソ連の末期に、アメリカと西ドイツの指導者がNATOは東側には拡大しないんだとゴルバチョフに言って、ゴルバチョフは東西ドイツの統合を統一を認めたという経緯がありました。ただ、これには文書による保障はなく、口頭での話だったので、その後ドイツは統一して、さらにNATOに入り、90年代にはNATOに東欧諸国、かつてのソ連の同盟国がNATOに入るということになっています。
ただ、90年代はまだロシアの中にもアメリカをパートナーと見る、NATOをパートナーと見る人が多かった時期です。一方でこの頃、コソボがセルビアから独立しようとしたことで紛争が起こり、その中で中東欧諸国がNATOに入った直後に、NATO軍が国連の承認なしにセルビア軍の拠点を空爆するという事件がありました。
ただ、90年代はまだロシアの中にもアメリカをパートナーと見る、NATOをパートナーと見る人が多かった時期です。一方でこの頃、コソボがセルビアから独立しようとしたことで紛争が起こり、その中で中東欧諸国がNATOに入った直後に、NATO軍が国連の承認なしにセルビア軍の拠点を空爆するという事件がありました。
ロシアは当時エリツィン大統領の時代ですが、セルビアはロシアから見ると伝統的な同盟国ですので、エリツィンはこの軍事攻撃にかなり強く反対したんですが、結局無視されたわけです。この頃のロシアは、経済的にも非常に混乱した時代でして、ソ連時代の方が豊かだったという状況で国力が低下していた事もあり、エリツィンの主張は無視されて終わりました。この中でNATOが東側に拡大して、その直後にセルビアが攻撃されたということが、ロシアの政治家や知識人の中に一定の不信感を植え付けたのではないかと言われています。これは90年代の事ですね。
結局、2008年にコソボはセルビアから一方的に独立を宣言しまして、日本もそれを承認しました。ロシアは、これは戦後ヨーロッパの国境線を武力によって、NATOの空爆によって変えようとする試みだと批判して、こういう事例を認めてしまったら、その後に他の国が同じことをしても反対できなくなると主張して、これに強く反対しました。これに対して、日本をはじめとして、多くの西側の国はコソボの独立を認めました。
1️⃣1️⃣ 21世紀に入ってからの米国の軍事戦略
ただ、この頃、プーチン大統領は現実主義の立場をとっていまして、西側との協力が必要だということで当時のロシア国内の強硬派を説得して、NATOとの協力関係を構築できればNATOの拡大には反対しない、という立場を繰り返し表明しています。また、例えば9.11事件の後には、テロ対策で協力をするなど、アメリカと積極的に良い関係を築こうとしていました。それに対してロシア国内では不満も生まれていたのですが、それをプーチンは抑えつけて、西側との協力を推進していました。その後もロシアとアメリカの関係は、少しずつ良くなったり悪くなったりを繰り返しました。例えばイラクへの軍事攻撃であったり、リビアへの軍事攻撃で政権を崩壊させるといった出来事があって、ロシアの反対が無視されるということが何度か続き、関係が徐々に悪化していったという面があります。
結局、2008年にコソボはセルビアから一方的に独立を宣言しまして、日本もそれを承認しました。ロシアは、これは戦後ヨーロッパの国境線を武力によって、NATOの空爆によって変えようとする試みだと批判して、こういう事例を認めてしまったら、その後に他の国が同じことをしても反対できなくなると主張して、これに強く反対しました。これに対して、日本をはじめとして、多くの西側の国はコソボの独立を認めました。
1️⃣1️⃣ 21世紀に入ってからの米国の軍事戦略
ただ、この頃、プーチン大統領は現実主義の立場をとっていまして、西側との協力が必要だということで当時のロシア国内の強硬派を説得して、NATOとの協力関係を構築できればNATOの拡大には反対しない、という立場を繰り返し表明しています。また、例えば9.11事件の後には、テロ対策で協力をするなど、アメリカと積極的に良い関係を築こうとしていました。それに対してロシア国内では不満も生まれていたのですが、それをプーチンは抑えつけて、西側との協力を推進していました。その後もロシアとアメリカの関係は、少しずつ良くなったり悪くなったりを繰り返しました。例えばイラクへの軍事攻撃であったり、リビアへの軍事攻撃で政権を崩壊させるといった出来事があって、ロシアの反対が無視されるということが何度か続き、関係が徐々に悪化していったという面があります。
また、軍事的には、2002年にアメリカが弾道弾迎撃ミサイル制限条約から離脱したことが、一つの大きな節目になったと考えられています。これは核ミサイルを自分たちの国に撃たれたときに、それを撃ち落とすための仕組みですが、この開発が進みますと、いくら核兵器を持っていても意味がないということになります。核兵器による抑止が全く機能しなくなると危険なので、迎撃ミサイルの開発を制限するための条約がアメリカとソ連の間で締結されていたのですが、それが2002年になくなってしまう。さらにその後、アメリカはヨーロッパに、ミサイル防衛システムという、核ミサイルからヨーロッパを防衛するためのシステムを作ろうとします。
これが実現すれば、ヨーロッパを核兵器で攻撃することはできなくなり、さらにこの迎撃ミサイルの仕組みを使って、先制攻撃が可能になるという危険性があるのですが、それをアメリカが作ろうとするのが2000年代の後半から、非常に長い期間をかけて、またアメリカ国内でも政権が変わると考え方が変わり、行ったり来たりしながら徐々に構築の方向に向かっていました。
ヨーロッパにミサイル防衛システムを作ることに対して、プーチンはアメリカとロシア、ヨーロッパ諸国によるミサイル防衛システムの共同管理の仕組みを作ろうと要求したのですが、かつてのソ連の同盟国であったポーランドであったり、ソ連の中にあったバルト三国であったり、そういった国の反対もあって、交渉が進みませんでした。そこで、このシステムがロシアを標的としないという文章を作ることも要求するのですが、これも結局拒否されています。この中でプーチンは先ほどのゴルバチョフのエピソードを出して、かつてゴルバチョフはNATOは東欧に拡大しないという保障を口頭で与えられた。だから自分たちは文章による保障が欲しいと言っているんだという意味で、ゴルバチョフは裏切られて今では無数の軍事基地が我々を取り囲んでいるじゃないかということを言っています。こうしてウクライナとロシアの戦争が始まるまでに、すでにロシアとアメリカを中心とするNATOとの関係は非常に緊張したものになっていたと言えるわけです。いろいろな話をして分かりにくくなってしまったのですが、停戦交渉について最後に少しだけ触れて終わりたいと思います。
1️⃣2️⃣ 22年4月の停戦交渉の詳細
ヨーロッパにミサイル防衛システムを作ることに対して、プーチンはアメリカとロシア、ヨーロッパ諸国によるミサイル防衛システムの共同管理の仕組みを作ろうと要求したのですが、かつてのソ連の同盟国であったポーランドであったり、ソ連の中にあったバルト三国であったり、そういった国の反対もあって、交渉が進みませんでした。そこで、このシステムがロシアを標的としないという文章を作ることも要求するのですが、これも結局拒否されています。この中でプーチンは先ほどのゴルバチョフのエピソードを出して、かつてゴルバチョフはNATOは東欧に拡大しないという保障を口頭で与えられた。だから自分たちは文章による保障が欲しいと言っているんだという意味で、ゴルバチョフは裏切られて今では無数の軍事基地が我々を取り囲んでいるじゃないかということを言っています。こうしてウクライナとロシアの戦争が始まるまでに、すでにロシアとアメリカを中心とするNATOとの関係は非常に緊張したものになっていたと言えるわけです。いろいろな話をして分かりにくくなってしまったのですが、停戦交渉について最後に少しだけ触れて終わりたいと思います。
1️⃣2️⃣ 22年4月の停戦交渉の詳細
現在も停戦交渉が行われていますが、2022年に軍事侵攻が始まってすぐの時期に、ウクライナとロシアは停戦交渉をしていまして、ただこれは5月に決裂しています。この時の交渉に関わったウクライナ側の担当者のインタビューを見ると、和平合意が結ばれる直前まで来ていたという回想がいくつか出ています。これについて、アメリカの外交に関わる組織が発行している雑誌が、どうしてこの時の交渉が決裂したのかという論説を2024年4月に発表していまして、それを少しご紹介したいと思います。
この時も交渉の中で何度も草案が作り直されましたけれども、その一つを見てみますと、ウクライナは永世中立の国になる、非核国家になる、そして軍事同盟に入ることを放棄する、それから自国の領土に外国軍の基地とか部隊を置かないという、そのような内容になっていたそうです。またそれに加えて、国連の安全保障理事会の常任理事国など、これはロシアも含みますが、それらが保障国になって、もし今後ウクライナがどこかの国から攻撃を受けて援助を申請した場合、保障国は援助しなければいけないという規定になっていたようです。これについては非常に細かい規定が作られていまして、保障国は直接的な軍事介入も含めて、ウクライナを援助するという内容になっていました。さらに、ウクライナのEU加盟を促進する、それからクリミアの問題を今後、ロシアとウクライナの交渉で解決するということも盛り込まれていたようです。
この時の交渉に関わった人のインタビューがあるんですけれども、これによると、ロシアにとってウクライナの中立が一番大事であり、冷戦時代のフィンランドのような形でウクライナが中立国になる、そしてウクライナがNATO加盟を拒否すれば、ロシアは戦争を終了させる用意があったんだと言っています。結局、ウクライナの交渉担当者によれば、合意の直前まで行ったけれども、結局決裂しました。
この時の交渉に関わった人のインタビューがあるんですけれども、これによると、ロシアにとってウクライナの中立が一番大事であり、冷戦時代のフィンランドのような形でウクライナが中立国になる、そしてウクライナがNATO加盟を拒否すれば、ロシアは戦争を終了させる用意があったんだと言っています。結局、ウクライナの交渉担当者によれば、合意の直前まで行ったけれども、結局決裂しました。
それはどうしてかということが、この論説でいろいろと書かれているんですが、一つは、この草案ではロシアとウクライナ以外の国が保障国という形で関わるという内容になっていたわけですが、それをアメリカとかイギリスなどが拒否した、そのような義務を負うことを拒否したという背景がありました。その代わりにアメリカ、イギリスはウクライナに対する軍事支援を強化する、ロシアに対する経済的な制裁、圧力を強化するという方針を取った、このことが交渉失敗の要因の一つだと言っています。
この時のウクライナの交渉担当者の中で、中心的な人物であったアラハミアという人物がいるのですが、この人は2023年の秋のインタビューで、この平和交渉の時に、当時イギリスの首相だったジョンソンがウクライナに来て、ロシアと合意するな、援助をするから戦争を続けろと言った。だからジョンソンに交渉決裂の責任があるとアラハミアは言っています。
ただ、そのように言われたゼレンスキーも、外交交渉を優先しなかった。まだウクライナが勝つ可能性があるというふうに考えられていた時期でした。ジョンソンがウクライナに来た後、ウクライナの交渉者たちは態度を硬化させ、ロシアに完全降伏を要求するようになります。ゼレンスキー自身の方針とアメリカとかイギリスの方針が組み合わさった結果が交渉失敗の要因の一つだとこの論説は言っています。
1️⃣3️⃣ 22年停戦交渉に欠けていたものとミンスク合意に欠けていたもの
この時のウクライナの交渉担当者の中で、中心的な人物であったアラハミアという人物がいるのですが、この人は2023年の秋のインタビューで、この平和交渉の時に、当時イギリスの首相だったジョンソンがウクライナに来て、ロシアと合意するな、援助をするから戦争を続けろと言った。だからジョンソンに交渉決裂の責任があるとアラハミアは言っています。
ただ、そのように言われたゼレンスキーも、外交交渉を優先しなかった。まだウクライナが勝つ可能性があるというふうに考えられていた時期でした。ジョンソンがウクライナに来た後、ウクライナの交渉者たちは態度を硬化させ、ロシアに完全降伏を要求するようになります。ゼレンスキー自身の方針とアメリカとかイギリスの方針が組み合わさった結果が交渉失敗の要因の一つだとこの論説は言っています。
1️⃣3️⃣ 22年停戦交渉に欠けていたものとミンスク合意に欠けていたもの
もう一つは、この時に作られていた和平合意の草案を見てみると、この草案は、この地域で冷戦後ずっと続いている安全保障の問題、 NATOの拡大の問題を、最終的にこの合意で解決するための構想であったという特徴がありました。一方で、人道回廊の設置とか、停戦とか、もっと細かい、今のロシアとウクライナの紛争をどう管理して緩和させるのかという、実務的な細かい話、具体的な取り決めには一切言及がありませんでした。そのため、この時点では、この和平合意の内容はあまりにも野心的だったんじゃないかと、この論説は言っていました。反対に、2014年に、ドンバス紛争が起こった後に作られたミンスク合意は、紛争管理と緩和のための細かい具体的な方針については決めていたんですけれども、ウクライナのNATO加盟をどうするか、ロシアとウクライナの安全をどう保障するかというより大きな、核心的な問題には全く触れていなかった。そしてこの合意も結局守られずに終わってしまったということから、大きな問題と細かい問題、その2つの交渉をどちらもしなければいけない、さらに一緒にやるのではなくて別々にやらなければ和平交渉は進まないんじゃないかというのが、この論説の意見でした。どちらかだけではダメだという意見ですね。
1️⃣4️⃣ ロシアの6月提案に加わった領土要求
1️⃣4️⃣ ロシアの6月提案に加わった領土要求
そこで、今行われている停戦交渉でロシア側が6月の初めに出した案を見てみますと、これは3つの章からなっています。1つ目が非常に大きな構想で、長期的な平和を達成するための条件、2つ目が個別的な、具体的な今の戦争を終わらせるための停戦の条件、3つ目はそれをどういう順序で実施するかという案になっています。1つ目の例としては、クリミアとドンバスのほかにザポリージャとヘルソンを、今、ロシアが支配している地域ですけれども、ロシアに編入してそれを国際法上認めるという提案が加わっていました。それに加えて、ウクライナの中立とか軍事同盟への不参加という提案は、以前の2022年の交渉の時にもあった内容です。2つ目の細かい点の例としましては、ウクライナ軍の撤退であったり、外国によるウクライナへの武器供与、それから軍事支援をやめることなどを要求していました。このロシア側が作った要求を、2022年の和平合意案と比べてみますと、新たに領土要求が加わっています。

https://news.yahoo.co.jp/pages/20220217a より

https://news.yahoo.co.jp/pages/20220217a より
6月20日に国際経済フォーラムという国際会議がロシアで行われましたが、そこでプーチンはインタビューに答えて、さきほど挙げた州だけでなく、スームィという、今ロシアが制圧しようとしている地域も排除しないと言っていました。ここもロシア領とするという要求を、今後掲げる可能性があるということになります。一方で、第三国を保障国とするという提案は消えています。講和条約をロシアとウクライナが作った後、最終的に国連の安全保障理事会で承認するという提案はあるのですが、それ以外の、第三国に対する言及は消えているということになります。ですので、アメリカとかイギリスの方針には影響されないような案をロシアは作っている。一方で、2022年のものと比べると非常に厳しい領土要求を加えているということで、この案をウクライナが認めることは難しいのではないかと思われます。ですので、交渉は始まっていますが、実現の見通しは今のところは、難しいのではないかと考えられます。
以上で終わりたいと思います。ありがとうございました。
(おわり)
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