赤旗にこんな小さな記事が載った。

遺骨

紛れもなく、我がマンロー医師の仕業である。この記事にあるエジンバラ大学への人骨寄贈は、マンローによる浩瀚な著書「先史時代の日本」が発刊された直後のことである。彼は1880年ころにエジンバラ大学医学部を卒業して、そのままアジアの旅に出た。1年ほどしてインドから香港、そして横浜へと流れ着き、そのまま腰を据えることになる。
当初からアイヌ研究にも食指を動かしていたが、それはアイヌそのものというより日本人の研究が目的で、アイヌはその一分野であった。
マンローは精力的に遺跡の発掘に取り組み、その成果を1912年に「先史時代の日本」としてまとめる。その中で、日本人は東アジアの一種族が朝鮮半島を経由してやってきたと主張した。そして日本人がやってくる前、そこには先住民がいて狩猟・漁撈・採集生活を営んでいたとし、それをアイヌ人ではないかと想像している。
その根拠になったのが貝塚の地層から出てくる人骨の特徴で、これは現代日本人よりもアイヌ人に近いとされていた。これは東大の人類学者の研究に基づくものであったが、この知見は明治期のヨーロッパ人研究者にも共有されていた。
私たちが日本人である以上、日本人の起源に興味を持つのは当然であるが、それと同じくらい当時のヨーロッパ人にとってはアイヌ人の起源も興味あるものであった。外見は東~東北アジアの人々とはまったく異なる。ヨーロッパ人はそこに自分たちとつながる血の流れを見た(今日では否定されているが)。
それをなんとか証明しようと、初期のヨーロッパ人は懸命になった。当時の実証的研究というのは石器の分析か、もしあれば人骨の計測以外になかったから、材料は喉から手が出るほど欲しいものだった。
だから、つい、埋葬された人骨に手が出る。
一番最初のスキャンダルは幕末期に函館奉行所管下のアイヌ人集落で発生した。イギリス領事館の館員が墓地を盗掘して人骨を持ち去ったのである。これは横浜の本家に勤務していた医師兼人類学者の求めに応じて、現地係員が行ったものらしい。これを知った箱館奉行所は激怒して返還を迫った。今では想像もつかないほどの矜持である。
その後は英国人は、こんな馬鹿なことはしなくなった。道内各地から盗掘者が骨を持ち込むことになったからである。お土産を買うような気持ちでヨーロッパ人はそれを買い求め、いそいそとヨーロッパに送り込んだ、というのが真相ではないかと考えている。

ドイツとオーストリアにも人骨が持ち込まれたとある。これについても犯人は特定できる。ドイツに持ち込んだのは東大医学部のお雇い教授ベルツである。オーストリアはシーボルト、大シーボルトの息子で明治維新後に来日し、オーストリア大使館に勤務の傍ら人類学研究に勤しんだ。彼はバイエルン生まれのドイツ人であり、もともとオーストリアとは関係はない。父シーボルトが日本に来たいためにオランダ人になりすましたのと同断である。

この3人は結構つるんでいて、平取にも来ている。シーボルトは英国人女性探検家イサベラ・バードが日本に来たとき、彼女に平取の存在を紹介し、自らも平取に赴いている。ベルツは現地で活動した看護婦ブライアントを支援したりしている。マンローに至っては晩年の10年以上を二風谷で無償診療に捧げ、死の床でもアイヌの墓地に埋葬するよう求めた人である。


遺骨を収集することが人道的にも法的にも許されないことは言うまでもないが、それがアイヌ人への愛情とリスペクトと並行していた事に、歴史というものを感じずにはいられない。

そんなことが、この小さな記事を読んでいて感じたことである。

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