マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚 3
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第三部 家父長制と資本のもたれ合い の続き
労働市場で女性が受け取る賃金が低いことは、女性の男性に対する物質的劣位を固定化し、永続させ、女性が職業として妻を選ぶ傾向を助長する。
第二に、女性は家事や育児など、男性に直接利益をもたらすサービスを家庭で行っている。女性の家庭での過剰な責任は、回り回って、女性の労働市場における劣位を強化する。
20世紀初頭に発展した賃金劣位の解決策は、家父長制的利益と同様に資本主義的利益にも利益をもたらすと見ることができる。
資本家たちは、19世紀初頭のような極端な状況では、女性労働者の労働市場における地位が劣位にあることを認識していた。
資本家たちは、19世紀初頭の工業化の極端な状況をそのままにしておいては、労働者階級階級は自らを十分に再生産することができなくなると認識していた。彼らは、専業主婦は賃金労働者の妻よりも健康な労働者を生産し維持し、教育を受けた子どもはそうでない子どもよりも優れた労働者になることに気づいていた。
男性に家族給を支払い、女性を家に閉じ込めておくという交渉は、当時の資本家にとっても男性労働者にとっても好都合だった。
交渉の条件は時代とともに変化してきたが、家庭における女性の労働が資本に奉仕していることに変わりはない。そして家庭は労働力を提供し、男性が特権を行使する空間として発展する。
男性とその家族に奉仕するために働く女性は、また、消費者として資本に奉仕している。
ファイアストンやフランクフルト学派、その他多くの人々が説明しているように、家族は支配と服従を学ぶ場でもある。従順な子どもは従順な労働者になり、少女と少年はそれぞれ適切な役割を学ぶ。
家族賃金は、資本主義が家父長制に適応することを示している。そして子どもの地位が成長に伴って変化することは、家父長制が資本に適応することを示している。
子供も女性と同様、直接の賃金労働から排除されるようになった。子どもたちの収入を得る能力が低下するにつれ、両親との法的関係も変化した。
アメリカでは工業化時代が始まると、子どもたちが父親を必要とすることは、子どもたちの幸せな成長にとって極めて重要であり、第一であるとさえ考えられた。親権が争われる場合、良き牛や良き馬と同様に、父親が法的に優先優先権を与えられた。
キャロル・ブラウンは次のことを示した。
しかし家族の経済的幸福への子どもの貢献が低下するにつれて、父親は親権に無頓着となり、母親の養育の役割はますます重要視されるようになった。
家父長制は、子どもの経済的役割の変化に適応した。最初、子どもたちが生産労働者であったとき、男性は家庭の生産力の基礎として、よりたくさんの子どもたちを要求し、子どもたちにより多くの義務をもとめた。
子どもが家庭にとって、直接生産的な存在ではなくなると、子どもは資産対象として女性に与えられるようになった。母親は子どもの幸せな成長(肥育?)にとって極めて重要であると見なされるようになった。だから親権が争われる場合には法的優先権を獲得した。
20世紀の資本家と家父長制の絡み合い
20世紀の資本家と家父長制の絡み合い
19世紀のマルクス主義者たちは、家父長制は衰えるだろうと予測していたが、現実にはそうならなかった。20世紀の先輩たちは、資本主義がすべての人をプロレタリア化し、その結果として没落していくという歴史的過程の必然性に着目したが、社会主義への全面移行は実現しなかった。
彼らは家父長制の強さと柔軟性を過小評価し、資本の強引さも過大評価していた。彼らは、封建的関係を引き裂いた資本主義という新しい社会的力を、事実上オールマイティーな力を持つものとして想定していた。
それと比べると、現代の観察者たちは、事実をよりよく見ることができる立場にある。「純粋な」資本主義の傾向と、「実際の」資本主義とは違うものだ、表現形式も変わるものだ、それは日常的な実践の中で歴史的な力に直面して、時々刻々と変容していくのだという事実だ。
資本と人種的位階の共鳴や、労働市場の細分化に関する議論は、「純粋な」資本主義の力が歴史的現実にどのように立ち向かっているかを示す、さまざまな例を示している。この過程において、資本主義は大きな柔軟性を示してきた。
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南アフリカのアパルトヘイト廃止後の社会経過を研究するマルクス主義社会学者は、次のように主張する。
人種秩序はしぶとく生き残り、すべての人の平等なプロレタリア化を許さないかもしれないが、だからといって、人種的障壁が資本蓄積を妨げるということにはならない。
彼はこう分析する。どのような仕組みが「最も多くの」剰余価値を引き出すことを可能にするかについて、資本家はいろいろ思案する。しかし、特定の歴史的状況においては、資本家は、社会的統制、労働者集団の抵抗、国家の介入などといった事情に影響を受けざるを得ない。
国家は、社会全体を再生産するために市場に介入するかもしれない。あるいは資本が最悪のやり口を続ければ、体制の危険を防ぐために、一部の資本家を取り締まるかもしれない。資本家は、これらの要素も考慮に入れて、最大の利潤を得るための実行可能なオプションを選択することになる。
資本家は特定の方法で労働を組織化する。それは資本家階級による社会統制につながる。だとしても、資本そのものは、賃金労働力の上位と下位を誰が占めるかを決定するものではない。
彼らは、どの個人が社会においてどのような特徴を持つかについて関心はない。
もちろん、資本家自身が支配的な社会集団に属している可能性が高いはずだ。したがって人種差別主義者と性差別主義者の手助けをするのは間違いない。
資本主義は、それ以前の時代の高貴な集団の特徴も、卑俗な集団の特徴も受け継いでいる。独占資本が労働市場の分断を生み出す傾向に関する最近の議論は、この理解と一致している。
資本家が意図的に労働力を細分化し、帰属的特徴(性別、言語、地域、肌の色など)を利用して労働者階級を分断する場合、これは明らかに、経済学的な意味での蓄積の要請というよりも、社会的統制の必要性に由来するであろう。もちろん、そのような分断の試みのすべてが成功するわけでもないし、利益を生むわけでもない。
資本が労働者を集団化する能力は、基本的には経済的蓄積の必要性に依存する。と同時にそれは社会の組織力にも依存する。社会は資本に適応を促し、それを強制する。例えば、多数の労働者間の情報交換と意思統一を必要とするような生産過程においてはとりわけそうである、
(南アフリカで白人と黒人に別々の洗面施設があてがわれることは、資本家にとっては経済的コストでしかないが、白人に黒人と一緒に洗面することを強制する社会的コストはより大きい。
資本主義の発展の過程に関するわれわれの議論の第一の要素が、資本が万能ではないということであるとすれば、第二は、資本はとてつもなく柔軟であるということである。
資本蓄積は、既存の社会形態に遭遇し、それらを破壊すると同時に、それらに適応する。資本の強さは、既存の社会形態を新たな環境でも存続させる適応力の強さとみなすことができる。
しかしそうやって資本が我慢している間にも、事情は刻々と変わっていく。
今日、人種と性に対する考え方は、資本主義の蓄積過程において分断が強化されることによって、悪化の一途を辿っている。
現代における家族と家族賃金
我々は、資本主義と家父長制に関して、20世紀初頭に家族賃金の発展という形で折り合いがついて、両者の融和が行われたと前述した。
家族賃金(扶養手当)制度は、家父長制と資本のパートナーシップを極めて強固なものにした。
特に第二次世界大戦以降、女性の労働力参加が急速に進んだ。それにもかかわらず、女性が主に家事を担当し、男性が主に賃金労働を担当するという性的分業が現在もなお続いている。
家族賃金は依然として家父長制の頑丈な礎石である。
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労働市場における女性の低賃金が固定されると、家族というシステムが、メンバーの存続を保証する収入プールとなる。さらに子どもも誰かに育てられる必要が生じる。
こうして、家族賃金に支えられた家族は、家族の男性による女性の労働の支配を可能にする。女性は家の内外で男性に支配を受けることになる。
女性の賃金労働の増加は家族に緊張をもたらすかもしれない。だからといって、家族の概念や性分業の現実がすぐに消滅すると考えるのは間違いである。これはカウツキーとエンゲルスが19世紀に指摘した家族間緊張ストレスと同様である。
性的分業は労働市場に再び現れる。女性は女性向けの仕事で働き、多くの場合、食事の準備やサービス、あらゆる種類の掃除、介護など、かつては家庭でのみ行っていた仕事そのものを行う。
これらの仕事は地位が低く、賃金も低いため、家父長制関係はそのまま維持されるが、その物質的基盤は役割格差から賃金格差へと多少シフトする。
例えば、キャロル・ブラウンは、(比喩的に)資本主義における家父長制は「家族ベース」から「産業ベース」に移行しつつあると主張する。
産業界に根ざした家父長制的関係は、さまざまな形で強化されている。女性の低賃金、低手当、昇進機会の減少を規定する組合契約は、単なる過去の遺物ではない。それは性差別的態度や男性至上主義イデオロギーのあらわれである。それらこそが家父長制の物質的基盤を維持しているのだ。
家父長制はすでに家族には存在しないとまで主張する人もいるが、私たちはそうは思わない。資本と家父長制の妥協の条件は終りを迎えつつあるというが、私たちはそう考えない。以前は“家事”であった仕事が商業化されるにつれて、たしかに女性の労働力が配置される場所は変化している。それにもかかわらず、私たちが上で論じたように、次のことは事実である。
労働市場における極端な職業細分化によって就業の不正規化と賃金格差が生じている。それは、家族の共生関係を強化する。さらに女性の結婚を奨励することによって、家庭内分業が強化されるのである。
男性が家族全員を養うのに十分な収入を得ることができるという「家族賃金の理想」は、新しい理想に取って代わられるかもしれない。男女ともに賃金収入を通じて一家の現金収入に貢献する。
男性も女性も、賃金を稼ぐことで一家の現金収入に貢献するというものだ。これは家父長制にとって危機だ。だから賃金格差は家父長制、つまり男性による女性の労働力の支配を永続させるためにますます必要になってくる。
賃金格差は、女性の仕事を男性の仕事より劣った二次的なものであると定義する。と同時に、女性が男性に経済的に依存し続けることを必要とする。労働市場やその他の場所における性的分業は、家父長制を永続させるのに役立つ家父長制の現れとして理解されるべきである。
多くの論者が、資本と家父長制のパートナーシップは現在も存在するけれと主張しているが、その関係は、長期的には維持不能になる可能性がある。資本はいずれ、家族関係も家父長制も破壊するはずだ。資本の論理は、究極的にはあまねく世界を覆う。家族もその例外ではない。
女性はますますお金を稼ぐことができるようになる。それにつれて、家族における従属に服従することをますます拒否するようになる。すなわち、家族を作ること、その一員となることを拒否するということだ。
家父長制から核家族制へ………しかし形を変えて家族内の男性優位は残る
そもそも、家族は特に女性と子どもにとって抑圧的である。だから人々が家族の外で自活できるようになれば、家族はすぐに崩壊する、という主張もある。しかし私たちは、家族に象徴される家父長制的関係が資本によってそう簡単に破壊されるとは考えていない、
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現在、家族制度が崩壊しつつあるという証拠はほとんどない。女性の労働力参加が進んだことで、離婚は容易になったが、離婚へのインセンティブは女性にとって沸き起こっているわけではない。
女性の賃金では、自分自身と子供を自立して十分に養える女性はほとんどいない。伝統的家族の崩壊を示す証拠はまだまだ弱い。離婚率はそれほど上昇していないし、階級間の格差も見られない。さらに、再婚率も非常に高い。1970年の国勢調査までは、初婚率は歴史的な低下傾向を続けていた。1970年以降、人々は結婚と出産の時期を遅らせてきたが、最近では出生率が再び上昇し始めている。
伝統的な家庭の外で暮らす人の割合が増加したのは事実である。特に若者は、結婚する前に実家を出て、自分の家庭を築いている。また結婚して伝統的な家庭を築く前に、自分だけの家庭を築いている。高齢者、特に女性は、子どもたちが成長し、配偶者との別離や死別を経験した後、自分の家庭で孤独になる。
とはいえ、新しい世代の若者たちは、大人になった時点で自らを起点とする「核家族」を形成する割合が以前より高くなっている。そのことは統計的傾向としても示されている。
1930年以降に生まれたコーホート(集団)は、それまでのコーホートよりも最終的な結婚・子育ての割合がはるかに高い。結婚と子育ての期間は短くなっているかもしれないが、その経験率は依然として増加している。
資本が家族を「破壊する」という議論がある。しかしそれもまた、家族生活を魅力的なものにしている社会的な力を見落としている。核家族は心理的に破壊的であるという批判にもかかわらず、競争社会においては、家族は依然として多くの人々の真のニーズを満たしている。それは長期的な一夫一婦制だけでなく、子育て要求についても同様である。ひとり親は経済的にも精神的にも負担が大きい。
特に労働者階級の女性にとっては、こうした負担が労働力参加による「自立」を幻想的なものにしている。政策アナリストは、「ひとり親家庭は過渡的な家族形態だ」とみなされている。それは再婚によって二人親家庭になる。あるいはそうかもしれない。
女性の労働力参加の増加は、離婚の頻度の増加ではなく、家族内の性的分業の減少、任務の均等化をもたらしている、という声もある。しかし、その証拠も乏しい。賃金を稼ぐ妻がいる家庭でも、誰が家事をするかという統計をとると、結果は近年ほとんど変わっていない。「ダブルデイ」は、賃金労働者である女性にとって現実である。
家庭外、つまり労働市場における性的分業は、女性が自分で賃金を稼ぐ場合でさえも、経済的に自立不能で男性に依存し続けるのだから、これは驚くにはあたらない。しかし、家父長制の未来は、家族関係の未来だけにかかっているわけではない。家父長制は資本と同様、驚くほど柔軟で順応性があるからだ。
家父長制的な分業が、家族内やその他の場所において、資本にとって「究極的に」耐え難いものであるかどうかは別として、それは今、資本主義の社会関係(安全弁)を形成している。
以下に説明するように、家父長制は資本主義の支配を正当化すると同時に、資本に対するある種の闘争形態を委縮させる。
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* 20世紀(前世紀)のイデオロギー
家父長制はまずもって、男性間のヒエラルキーを確立し正当化する。そのことによって、資本主義世界との間に従属的同盟を結ぶ。それは資本主義的支配を強化する要素の一つとなる。その結果、資本主義的価値観が家父長制にとって善悪の究極の価値基準となる。
ファイアストーンが特定した心理現象は、依存と支配の関係で起こることの特別な例である。
男性の社会的権力は女性の平等を否定する。その根拠はあたかも現実社会から生じているように見えるが、実は資本主義社会の文脈で生じているに過ぎない。
競争的、合理主義的、支配的といった、ラディカル・フェミニストたちが表現する男性の特徴を調べてみると、それは資本主義社会の支配的価値観を指す形容詞と瓜二つである。この男性の特徴と資本主義の特徴との「偶然の一致」は、2つの機転で説明できる。
第一に、賃金労働者である男性は、仕事において資本主義的社会関係に吸収され、この関係が規定する競争に駆り出される。そしてそこで、資本主義に対応する価値観を吸収する。
男性に関する急進的なフェミニストの記述は、資本主義社会にとってまったく的外れなものではなかった。
第二に、男性らしい行動類型も、女性らしい行動類型も、実際にはそのような行動をとらない場合がある。しかしそんなときでも、男性は、支配的イデオロギーの中で評価されるような特徴を取り続けようと努力する。
例えば、『クレストウッド・ハイツ』の著者は次のようなことを発見した。
専門職である男性たちは部下を操る毎日を送っていた。そのような男性は「合理的で現実的」であった。仕事上必要とあれば、非合理的な動機に訴えるテクニックを使うこともあるが、その事も含めて原則的には理性的であった。
その間女性たちは、育児と子どもの発達に関する科学的な方法の研究に多大なエネルギーを注いだ、
クレストウッド・ハイツの男女は、女性を『非合理的で感情的』であると特徴づけた。
このことは、資本主義社会における「男性」と「女性」の特徴を説明するのに役立つだけでなく、資本主義社会における性差別イデオロギーの特殊な形態についても説明するのに役立つ。
女性の仕事は、男性支配と資本主義的生産を永続させるという二重の目的を果たしている。その際、性差別イデオロギーは、男性の特性と資本主義的価値観を賛美し、女性の特性と、その社会的必要性を否定するという二重の目的を果たす。
もし資本主義以前の社会で女性が一段低かったり、強力でなかたりしたとしても、 男性が優位性を証明し支配を合理化する理由は、いまとは異なっていた。それはあくまでフィジカルな評価に集中していた
資本主義社会においてのみ、女性を感情的、非合理的と見下すことが一般化している。そこに意味がある。ルネサンス時代には、このようなかたちでの女性蔑視は意味を成さなかっただろう。資本主義社会でのみ、女性を「依存的」と見下すことが意味を持つ。「依存的」という蔑称は、封建社会では意味をなさない。
分業によって、家庭における妻や母親としての女性は、使用価値(非交換性の価値)の生産に大きく関わることになる。このような活動の価値(具体的有用労働)を否定することは、さらに重大な結果をもたらす。すなわち、「資本には、社会的な必要を満たすつもりはない」という本質的な事実をあいまいにする。
それと同時に、男性が家事・育児労働を蔑視するなら、それは女性を劣等視し、男性優位の根拠を提供することになる。
その一例が、テレビコマーシャルの特異な両義性である。
一方では、生活のためのニーズを満たすうえでの現実的な障害に対処している。衣類を傷め、皮膚を刺激する洗剤、粗悪なあらゆる種類の商品がコマーシャルに乗って流通している。
だが、こうした問題への懸念は重大化されては困るのである。女性こそがこれらの問題に直面している“労働者”であるが、労働者である女性をごまかすためにもコマーシャルが与えられている。
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男女 “分業” を強いる社会
家父長制と資本主義の相互依存を示す議論は、社会的労働における性的分業についても平行して行われる。性的分業によって、女性は低賃金の仕事に就かされ、女性の役割にふさわしいとされる仕事ー養育労働に就かせられる。多くの女性が教師であり、福祉労働者であり、医療分野で働く労働者の大多数である。これらの仕事で女性が果たす養育的役割は、社会的地位が低い。それは男性がそれらの仕事を見下すことも原因となっている。
家父長制と資本主義の相互依存を示す議論は、社会的労働における性的分業についても平行して行われる。性的分業によって、女性は低賃金の仕事に就かされ、女性の役割にふさわしいとされる仕事ー養育労働に就かせられる。多くの女性が教師であり、福祉労働者であり、医療分野で働く労働者の大多数である。これらの仕事で女性が果たす養育的役割は、社会的地位が低い。それは男性がそれらの仕事を見下すことも原因となっている。
女性の地位は低く、社会的サービスへの強烈な要請と矛盾する。これは資本主義が個人の自立をもとめ、社会的ニーズについても私企業の手法と能力を過度に強調するためだ。
養育的な仕事の社会的重要性が、女性がそれを行うという理由で否定されうる限り、使用価値の要求は交換価値を優先する資本主義と対立せざる問えない。このように、フェミニズム(女権思想)ではなく、セクシズム(性差別思想)が、労働者階級を分断し衰弱させるものなのだ。
訳注: 使用価値と価値の使い方については異論はあるが、気分はよく分かる。
第4部 より進歩的な連合(Union)に向けて
まだ多くの問題が残っている。私たちがここで使っているような「家父長制」は、概念的な用語というよりは、依然として暫定的、叙述的な用語である。
マルクス主義だけでは不十分であり、ラディカル・フェミニズム自体も不十分であると考えるならば、新しいカテゴリーを開発する必要がある。
私たちの仕事を困難なものにしているのは、分業のような同じ特徴が、しばしば家父長制と資本主義の両方を強化していることである。家父長制が徹底した資本主義社会では、家父長制のメカニズムを切り離すことは難しい。
とはいえ、これは私たちがやらなければならないことである。
私たちは、いくつかの出発点を指摘した。
女性の労働力から誰が利益を得ているのかを調べること、家父長制の物質的基盤を明らかにすること、男性間のヒエラルキーと連帯のメカニズムを調査すること…
私たちが問うべきことは無限にある。
家父長制の運動法則を語ることはできるのか?
家父長制はどのようにフェミニストの闘争を生み出すのか?
先進資本主義以外の社会では、どのような性の政治や男女間の闘争が見られるのか?
家父長制の矛盾とは何であり、資本主義の矛盾とどのような関係があるのか?
etc
家父長制関係がフェミニズム運動を生み出し、資本が階級闘争を生み出すことは知っている。しかし、フェミニズムと階級闘争との関係は、歴史的文脈の中でどのように展開されてきたのだろうか。本節では、この最後の問いに答えを出そうと試みる。
歴史的にも現在においても、フェミニズムと階級闘争の関係は、完全に別個の道を歩むか、左翼の中ではマルクス主義がフェミニズムを支配するかのどちらかである。(一方では「ブルジョア」フェミニズム、他方では階級闘争)。
後者に関しては、マルクス主義の分析力と左派内の男性の力の両方がもたらした結果である。これらは、左翼における公然たる闘争と、マルクス主義フェミニストの矛盾した立場を生み出した。
女性運動の急進派が勢いを失っていることについては、自らを急進派ともみなすフェミニストのほとんどが同意している。一方、「ブルジョワ」部門は、時をつかみ、前進しているようだ。
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私たちの運動は、何をやってもうまくいき、意識を高め、より多くの女性を運動に参加させ、社会における資本主義的・家父長制的な関係に根本的に挑戦する形で女性問題の認知度を高めることができた、あの刺激的でエネルギッシュな時期にはもういない、
今、私たちは、運動の一部が無関係な人々に乗っ取られ、「フェミニズム」が女性の権利を攻撃するために利用されていると感じている。たとえば裁判では、「専業主婦だった長期間の結婚生活から抜け出した女性には扶養料は必要ない」と裁判官が主張する。
今日まで男女同権修正案が可決されなかったことは、多くの女性がこの法案に不安を抱いていることを示している。その不安とは、「フェミニズム」が女性を利用しようとしているのではないかという懸念であり、その懸念は正当である。だから、私たちはマルクス主義にフェミニズムを再評価してくれるように、助けを求めるのである。
マルクス主義の理論はフェミニズムの理論に比べてよく発達しているのは確かだが、それを利用しようとするあまり、フェミニズムの目的から外れてしまうこともある。
左派は女性運動に対して常に両義的である。彼らはフェミニズムを、社会主義革命の大義にとって危険なものとみなすことが多い。左派の女性がフェミニズムを支持することは、左派の男性にとっては個人的な脅威かもしれない。もちろん、多くの左翼組織が女性の献身に支えられていることも確かである。
したがって、多くの左派の分析(進歩的なものも旧来のものも)は、理論的にも政治的にも自己本位である。彼らは、女性の状況について独自の理解を深めようとする試みを放棄し、女性に影響を与えようとしている。そして自分たちの状況理解を採用するよう圧力を加えようとする。
この圧力に対する私たちの反応としては、私たち自身がマルクス主義に傾倒している以上、その分析パラダイムを用いること、そして実践の分野で連帯しようとすることは当然である。しかしそれが行き過ぎれば、女性の状況を実証的に分析しその改善を図るよりも、連帯を主軸に私たちの闘争を組み立てることにもなりかねない。
最後に、多くのマルクス主義者は、女性問題についての伝統的なマルクス主義的分析に満足している。彼らは、女性の立場を理解するための正しい枠組みとして、「階級論」を踏まえている。
たしかに階級論は、フェミニストにとっても認識の土台として位置づけるべきだ。女性は労働者階級の一部として理解されるべきである。資本主義に対する労働者階級の闘いは、男女間のいかなる対立よりも優先されるべきである。性の対立が階級の連帯を妨げることを許してはならない。
ここ数年、アメリカの経済状況が悪化するにつれて、伝統的なマルクス主義的分析が再び力を発揮している。60年代には、公民権運動、学生の言論の自由運動、反戦運動、女性運動、環境運動、専門職やホワイトカラー集団の戦闘性の高まりなど、すべてがマルクス主義者に新たな問題を提起した。
しかし今、インフレや失業といった明らかな経済問題の再来は、これらの個別課題の過度の強調を消し去り、左派を(古典的な)階級闘争の「基本」に戻した。
拡大するマルクス・レーニン主義的な政治セクトは、理論と実践の両方において、徹底的な反フェミニストである。そして、左派論壇におけるフェミニスト理論の存在感も低下している兆しがある。左派の学会からデイケア(保育)論が消えつつある。
マルクス主義や政治経済学が知的に受け入れられるようになると、リベラル派の高齢者ネットワークは、マルクス主義者や急進派の青年ネットワークにそのまま引き継がれる。しかし、その若さと急進性にもかかわらず、メンバーも考え方も男性である。
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ラディカルな女性たちに対して、そんなくだらないことをやめて『まじめな』革命家になれという圧力が強まっている。
「インフレ」や「失業」に比べれば、私たちの仕事は時間の無駄のように思える。私たちの失業が危機と見なされなかったのは、男性優位の徴候である。
最後の大きな経済危機である1930年代には、膨大な失業は、女性をあらゆる種類の仕事から排除し、対処された。部分的にではあるが、それによって労働市場が整理された。
30年代は女性を元の位置に戻した。そして、資本主義と家父長制は危機から立ち直った。
経済危機が資本主義にとって不均衡を是正することで回復機能を果たすように、家父長制にとっても経済危機は救世主となるかもしれない。資本と家父長制に反対する闘いは、フェミニズムの問題の研究と実践を放棄しては成功しない。
資本主義の「労働と資本」関係のもたらす抑圧のみを対象とした闘いは失敗するだろう。なぜなら、家父長制的抑圧関係を根底に抱える社会的歪みが見落とされるからである。(同様に民族・人種的な差別も…)
そして家父長制の分析は、家父長制の根絶された社会主義、つまり女性にとって唯一有用な社会主義を定義するために不可欠である。
男性と女性は資本主義を打倒する必要性を共有しているが、同時にそれぞれのジェンダー集団に特有の利益を保持している。
これまでのスケッチー歴史から、あるいは男性社会主義者たちからみて、いま闘われている「社会主義」が、男女の差なく同じであるとは限らない。
「人道的な社会主義』には、新しい社会がどのようなものであるべきか、健康な人間がどのようなものであるべきかについてのコンセンサスが必要だ。
それだけではない。より具体的には、男性が特権を放棄することが必要なのです。女性である私たちは、過去に何度もそうしてきたように、自分たちの仕事の緊急性と重要性から言い逃れることを許してはならない。
私たちは、フェミニズムの目標を放棄するようもとめる、隠微な、あるいはあからさまな強要と戦わなければならない。
このことは、2つの戦略的考察を示唆している。
第一に、社会主義を確立するための闘争は、異なる利害を持つ集団が同盟を形成する闘争でなければならない。異なるからこその同盟なのである。女性は、「革命後」に自分たちを「解放」してくれる男性を信頼すべきではない。
なぜなら、彼らがその方法を知っていると信じるに足る理由がないからである。したがって信じるだけの必然性がないからである。実際、彼らの当面の自己利益は、率直に言えば、われわれが抑圧され続けることにある。だから、私たちは自分たちの組織と力の基盤を持たなければならない。
第二に、資本主義における性的分業は、女性にもう一つの実践の場を与えてきたと考えられる。その中で私たちは、人間の相互依存と人間的欲求とは何かを理解することを学んだ。
私たちはリセ・ヴォーゲルに同意する。
男性は長い間資本と闘ってきたが、女性はそれプラス何かのために闘うべきことを知っている。一般論として、家父長制と資本主義における男性の立場は、以下のことを認識することを妨げている。
彼らには、育むこと、分かち合うこと、成長することの両方に対する人間の欲求を認識することができない。そして、非階層的で非父長制的な社会が実現して初めて、そのようなニーズを満たす可能性も。
しかし、私たちが男性の意識を高めたとしても、彼らは潜在的な損失に対して顕在的な利益を評価し、現状維持を選ぶかもしれない。
「男性には鉄鎖の他にも失うものがある」のだ。
フェミニスト社会主義者として、私たちは家父長制との闘いと資本主義との闘いの両方に取り組む実践を組織しなければならない。
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私たちがつくりたい社会は、次のような社会である
男女を問わず、すべての人間の間で相互依存を認めること。それが恥ではなく、人格の解放となる社会であるよう主張しなければならない。養育(子育て)は普遍的なtaskであり、誰かに負担と犠牲を強いる抑圧的な行為ではない。
そして女性は、それが男性の現実的な自由を支える社会、女性が支え続ける「偽りの自由」が廃棄された社会となるようもとめなければならない。
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