H.I.ハートマンの「マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚」を、3回に分けて掲載します。原文が25ページ(参考文献一覧を除く)なので1回が8ページ分です。最後までたどり着くかどうかわからないけどトライしてみます。女性運動に関わっている人に参考になれば幸いです。
https://web.ics.purdue.edu/~hoganr/SOC%20602/Hartmann_1979.pdf
マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚
より進歩的な共同体に向けての論攷
THE UNHAPPY MARRIAGE OF MARXISM AND FEMINISM
TOWARDS A MORE PROGRESSIVE UNION
Heidi I. Hartmann
はじめに
本稿は次のように主張する。

ハートマン: 女性解放運動の初期から、経済、公共政策、ジェンダーの交差点を研究する第一人者として活躍。女性の生涯にわたる経済的安定に関する彼女の研究は、アメリカ社会における女性の声を反映してきた。 (エール大学HP)
マルクス主義とフェミニズムの関係は、これまでどのような形であれ、不平等なものであった。
マルクス主義の手法とフェミニズムの分析は、資本主義社会とその中での女性の立場を理解するために必要なものであるが、実際には、フェミニズムは一貫して従属的であった。
本論文は、「女性問題」に関するマルクス主義とラディカル・フェミニズムの両者への挑戦を提示する。そして次のように主張する。
「分析する必要があるのは、家父長制と資本主義の絡み合い(combination)である」
この論文が多くの議論を喚起することを期待している。
マルクス主義とフェミニズムの「結婚」は、英国の慣習法に描かれる夫婦の結婚のようなものである。マルクス主義とフェミニズムは一体であり、その一体化したものはマルクス主義そのものなのである。
マルクス主義とフェミニズムを統合しようとするマルクス主義者の試みは、フェミニストである私たちにとって満足のいくものではない。彼らはそうやって、フェミニズムの闘争を、資本に対抗する「より大きな」闘争に包摂してしまうからである。
比喩のついでに言っておけば、我々にとって必要なのは、より健全な結婚なのか?、それとも離婚の自由なのか? のどちらなのかである。
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結婚と女性問題を考えるにあたっては、一方においてマルクス主義的分析、特にその歴史的・唯物論的手法が必要である。
第1部では、「女性問題」に対するいくつかのマルクス主義的アプローチを検討する。
第1部では、「女性問題」に対するいくつかのマルクス主義的アプローチを検討する。
続いて第二部では、ラディカル・フェミニストの研究に目を向ける。ここではラディカル・フェミニストによる家父長制の定義の限界を指摘した後、われわれ自身の定義を提示する。
第3部では、マルクス主義とフェミニズム双方の持ち分を活かし、資本主義社会の発展史と女性の現状について提言する。
ここでは、フェミニズムの本来の目的である不平等と貧困を分析する中で、フェミニズムの持つ限界を乗り越えるために、マルクス主義の方法論を用いようと試みた。
かくして社会主義フェミニズムにおける不均衡是正の課題を析出し、社会と経済のより完全な構造化を提案する。
私たちは、唯物論的な分析によって、家父長制がたんに道徳的なものではなく、社会的・経済的な構造でもあることを示す。
私たちは、社会が資本主義的な方法と家父長制的な方法の両方で組織されていることを認識すること、そのことによって社会構造をよりよく理解できると考える。
家父長制的利益との間の緊張をする中で、我々は以下の結論に達した。資本主義的利益は家父長システムと矛盾せず、家父長制的社会構造を包摂し、それを永続させるよう手助けすると考える。
この文脈で、性差別イデオロギーが現在、余剰労働力の産出という資本主義特有の形をとっていると指摘し、家父長制的関係がこれによって資本主義を強化する性格を持つことを示す。
要するに、家父長制と資本主義は互いの間にパートナーシップを発展させてきたという歴史的事実である。
結論として、パートIV、 左翼の「女性問題」理解においてフェミニズムよりもマルクス主義が優位に立つのは、結局、政治の場でマルクス主義が優位に立つことの反映であることを論じる。
マルクス主義とフェミニズムのより進歩的な結合には、階級と性別の相互関係に対する知的な理解を向上させるだけでなく、もう一つ別のことが必要である。
それは男女間の同盟的関係である、それは左翼政治における“支配と従属”(家父長関係の残渣としての)に取って代わるものとなるであろう。
1. マルクス主義と女性問題
「女性の問題」は決して「フェミニストの問題」ではない。
フェミニストの問題意識は、女性と男性の間の性的不平等、男性の女性に対する支配の原因に向けられている。ところが、女性の地位に関するマルクス主義的な分析のほとんどは、女性と男性との関係ではなく、女性と経済システムとの関係を問題として取り上げている。
女性問題についてのマルクス主義的分析は、歴史的に3つの主要な段階と、それぞれ特有の形態をとっている。
そのどれもが、女性の抑圧を生産との関係(あるいはその欠如)にあるとみなしている。マルクス主義は、女性を労働者階級の一部と定義し、これらの分析は一貫して、女性の男性との関係を労働者の資本との関係の下に包摂している。
第一に、マルクス、エンゲルス、カウツキーを含む初期のマルクス主義者 |
第一に、マルクス、エンゲルス、カウツキー、レーニンを含む初期のマルクス主義者たちは、遅かれ早かれ、資本主義がすべての女性を賃金労働者として取り込むと見ていた。そして、この過程が男女の別なく人々を砂粒化し、性的分業を破壊すると考えた。
第二に、現代のマルクス主義者たちは、資本主義における「日常生活」の分析に女性を取り込んでいる。この見方では、私たちの生活のあらゆる側面が資本主義システムを再生産していると見なされ、私たちは皆、そのシステムにおける労働者なのである。
p3
第三に、マルクス主義的フェミニストたちは、家事とその資本との関係に焦点を当て、家事は剰余価値を生産し、家事労働者は資本家のために直接働くと主張する者もいる。
これら3つのアプローチを順番に検討する。
第一 マルクス、エンゲルス、カウツキー、レーニンの考察
第一 マルクス、エンゲルス、カウツキー、レーニンの考察
エンゲルスは、『家族の起源、私有財産と国家』の中で、女性の劣った立場を認め、それを私有財産の制度に帰結させた。
エンゲルスはこう主張した。女性は主人に仕え、一夫一婦制を守り、財産を相続するために相続人を生まなければならなかった。エンゲルスは、プロレタリアの間では女性は抑圧されていないと主張した。継承されるべき私有財産がなかったからである。
エンゲルスはさらに、賃金労働の拡大が小作農を破壊し、女性や子供が男性とともに賃金労働力に組み込まれるにつれて、男性の世帯主の権威が損なわれ、家父長制関係が破壊されていくと主張した。
エンゲルスにとって、女性の労働力参加は女性の解放の鍵であった。資本主義は性差を撤廃し、すべての労働者を平等に扱う。女性は男性から経済的に自立し、プロレタリア革命を実現するために男性と対等な立場で参加するようになる。
そして革命後には、すべての人が労働者となり、私有財産が廃止される。そうなれば、女性は資本からも男性からも解放されることになる。
マルクス主義者は、めでたしめでたしと言っていたわけではない。彼らは女性の労働力参加が女性や家族に与える苦難を認識していた。それは女性が主婦と労働者という2つの仕事をかけ持ちしなければならないことを意味していた。
マルクス主義者が現実に強調したのは、家父長制的関係の破壊という進歩的性格よりも、家庭における女性の従属の継続という二重の苦難であった。しかし社会主義のもとでは、家事も集団化され、女性は二重の負担から解放されるだろう。
マルクス主義者が現実に強調したのは、家父長制的関係の破壊という進歩的性格よりも、家庭における女性の従属の継続という二重の苦難であった。しかし社会主義のもとでは、家事も集団化され、女性は二重の負担から解放されるだろう。
この第一のマルクス主義的アプローチの政治的意味は明らかである。
女性の解放は、第一に、女性が男性のように賃金労働者になることを要求する。そして第二に、男性とともに資本主義に反対する革命的闘争に参加することを求める。
初期のマルクス主義者たちは主張した。「資本と私有財産が女性特有の抑圧の原因である。それは資本が労働者全般の搾取の原因であるのと同様である」と。
初期のマルクス主義者たちは、当時の女性の悲惨な状況を認識していたにもかかわらず、男性の抑圧と女性の抑圧の性格の違いに焦点を当てることができなかった。
初期のマルクス主義者たちは、資本主義のもとでの男性と女性の経験の違いに焦点を当てることができなかった。
彼らは、フェミニスト的な問題、つまり、女性が女性としてどのように、そしてなぜ抑圧されているのかという問題に焦点を当てなかった。
それゆえ、彼らは、男性が女性の従属の継続に既得権益を持っていることを認識しなかった。
後述の第III部で論じるように、男性は、家事をしなくてもよいこと、妻や娘が自分に仕えてくれること、労働市場でよりよい場所を得られることから利益を得ていた。
家父長制的な関係は、初期のマルクス主義者たちが示唆したように、資本主義によって急速に時代遅れになるような旧態依然とした遺物ではなく、資本主義とともに生き残り、繁栄してきたのである。
そしてもうひとつ、資本と私有財産は、女性を女性として抑圧する原因ではない。そのため、資本主義社会が終わるだけでは、女性の抑圧が終わることにはならないのだ。
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第二 現代のマルクス主義者たち ー とくにエリ・ザレツキーらの所論に関して
おそらく、第二のマルクス主義的アプローチである日常生活学派を例証する最近の記事の中で最も人気があるのは、『社会主義革命』に掲載されたザレツキーのシリーズであろう。
おそらく、第二のマルクス主義的アプローチである日常生活学派を例証する最近の記事の中で最も人気があるのは、『社会主義革命』に掲載されたザレツキーのシリーズであろう。
ザレツキーは、フェミニズムの分析に同意している、そして性差別は資本主義が生み出した新しい現象ではないと主張する。しかし彼は、性差別の現在的な特殊形態は、資本によって形成されたものだと強調する。

訳注: イーライ・ザレツキー( Eli Zaretsky)は、ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチの教授。20世紀の文化史、資本主義の理論と歴史、そして家族史を研究する。ニュースクールはニューヨーク市にある大学院大学です。社会科学と哲学の分野における進歩的な学術研究を行っています。
彼は、資本主義のもとでの生活体験が男女間で異なることに焦点を当てている。
エンゲルスから1世紀後、資本主義が成熟した後に書かれたザレツキーは、資本主義がすべての女性を男性と対等な条件で労働力に組み入れたわけではないと指摘する。
むしろ資本主義は、一方では家庭、家族、個人生活、他方では職場という分離を生み出した。
ザレツキーによれば、資本主義のもとで性差別はより激しくなっている。賃金労働と家庭労働の分離が原因である。女性が抑圧されるようになったのは、賃金労働から排除されたことに起因している。
ザレツキーは主張する。男性は賃金労働をしなければならないゆえに抑圧されているが、女性は賃金労働をすることを許されないゆえに抑圧されていると…
賃金労働力からの女性の排除は、主として資本主義によって引き起こされた。資本主義は、家庭外で賃労働を創出し、資本主義システムのために賃労働者を再生産するために、女性が家庭内で働くことを要求している。
女性は労働力を再生産し、労働者に心理的な養育を与え、疎外の海に親密さの島を提供する。ザレツキーの考えでは、女性は資本のために労働しているのであって、男性のために労働しているのではない。家庭と仕事場の分離、資本主義がもたらした家事の私有化によって、女性が家庭で個人的に男性のために働いているように見えるだけである。
女性が男性のために働いているという外見と、女性が資本のために働いているという真実との違いが、女性運動のエネルギーの方向を誤らせる原因となっている。女性たちは、たとえ家庭で働いていても、女性も労働者階級の一員であることを認識すべきである。
ザレツキーの考えでは、「専業主婦は、プロレタリアと並んで、発達した資本主義社会の2つの特徴的な労働者として登場した」
そして、二種類の労働者の生活は分断され、夫であるプロレタリアと妻である家政婦の両方が抑圧される。
家庭における女性の仕事(生活手段の再生産)と、その他すべての社会的に必要な生産的活動を含む『生産』をトータルに再認識することが決定的に重要である。その作業のみが、この破壊的な分離を克服することにつながる。
このようにして、女性の仕事をあらためて位置づけ直す理論的作業がもとめられている。それこそが次の社会を確立するために闘うことを可能にするのだ。
ザレツキーによれば、男女は共に(あるいは別々に)、分断された生活の領域を再統合し、公的なニーズだけでなく私的なニーズのすべてを満たす人道的な社会主義を創造するために闘うべきである。
要約するのなら、資本主義が問題の根源であることを認識することが肝心だ。 男女は資本主義と闘うのであって、互いに闘うのではない。
資本主義が私生活と公的生活の分離を引き起こしているのだから、資本主義を終わらせればその分離は終わる。ポスト資本主義の世界は、私たちの生活を再統合し、男の抑圧っも女の抑圧も終わらせる。
ザレツキーの分析はフェミニズム運動に負うところが大きい。にも関わらずザレツキーは、最終的にはその運動の方向転換と交代を主張している。
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ザレツキーは、性差別が資本主義に先行しているというフェミニストの主張を受け入れている。そして家事は資本の再生産に不可欠であるというマルクス主義フェミニストの主張の多くを受け入れている。ザレツキーは、家事が重労働であることを認識し、それを軽視していない。そして、男性至上主義や性差別の概念を受け入れている。
しかし彼の分析の立脚点は、結局のところ、男女問題の核心が男女の分裂、つまり資本主義に起因する男女の副次的分裂であるという概念にある。
より根源的な女性の領域と男性の領域が相補的であり、分離しているが等しく重要であると言うような相補論的思考は克服されていない。ザレツキーは、男女間の不平等の存在と重要性をほとんど否定している。
男性と女性は共存しているが、決して相補的ではない。両者は矛盾をはらみながら共存している。両者の領域の重要性は異なる尺度を持っており、単純に比較することはできない。
しかし彼の関心の焦点は、女性、家族、私的領域と資本主義との関係にある。資本主義との関係である。さらに、仮にザレツキーが主張するように資本主義が私的領域を生み出したとしても、なぜ女性がそこで働き、男性が労働力として働くようになったのだろうか。それは資本の威力だけでは説明がつかない。それは前近代社会からの家父長制、つまり女性に対する男性の制度的支配を抜きにしては説明できない。
私たちから見れば、家族、労働市場、経済、社会における問題は、単に男女間の分業ではなく、男性を優位な立場に、女性を従属的な立場に置く分業である。
エンゲルスは私有財産を、女性の抑圧に資本主義が寄与している最大要因と考える。同じように、ザレツキーはプライバシーを見ている。女性は家庭で私的に労働しているから抑圧されているのだ。
ザレツキーとエンゲルスは、産業革命以前の家族と共同体をロマンチックに描いている。そこでは、男性も女性も大人も子供も、家族中心の経営の中で共に働き、全員が共同体の生活に参加していた。
ザレツキーの人道的社会主義は、家族を再統合し、その「幸福な作業場」を再現する。
私たちは、社会主義が男女双方の利益にかなうものだと主張するが、以下の点はまったく不明瞭のままである。
私たち全員が男も女も同じ種類の「人道的社会主義」のために闘っているのかどうか?
人道的社会主義に到達するためにどんな闘いが必要か? それについて同じ概念を持っているわけでもない。それにどう考えても、現在の抑圧の責任が資本だけにあるなどということはない。
ザレツキーが、女性の仕事は男性のためにあるように見えるが、実際は資本のためにあるのだと教える。しかし私たちは、家庭における女性の仕事は本当に男性のためにあると考える。
「生産」を再措定することは、私たちがどのような社会をつくりたいのか? を考える助けになるかもしれない。しかし、その社会ができるまでの間、男女間の闘争は、資本主義との闘争とともに続けられなければならない。
第三 マルクス主義的フェミニストたちー家事労働は剰余価値を生産し、家事労働者は資本家のために直接働く
第三 マルクス主義的フェミニストたちー家事労働は剰余価値を生産し、家事労働者は資本家のために直接働く
家事に注目してきたマルクス主義フェミニストたちもまた、フェミニズムの闘いを資本との闘いに包摂してきた。
マリアローザ・ダラ・コスタ(Mariarosa Dalla Costa)の家事に関する理論的分析は、本質的に、家事と資本との関係、資本主義社会における家事の位置づけについての議論である。それは、家事に例示される男女の関係についての議論ではない。
とはいえ、女性が家事の賃金を要求すべきだというダラ・コスタの政治的立場は、女性運動における女性たちの家事の重要性に対する意識を大きく高めた。

Mariarosa Dalla Costa:イタリアのマルクス主義フェミニストであり、セルマ・ジェームズと共著した古典『女性の力とコミュニティの転覆』の著者である。
この要求は、アメリカ中の女性団体で議論され、今でも議論されている。
ダラ・コスタは、家庭の女性は労働力を再生産することによって資本に不可欠なサービスを提供している。それだけでなく、家事労働を通じて剰余価値を生み出しているという主張を展開した。
そのことによって、家事の重要性に対する左派の意識を大きく高めた。それはさらに、家事と資本との関係についての長い議論を引き起こした。
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ダラ・コスタは、家事を現実の仕事とするフェミニズムの理解を利用し、家事は賃労働であるべきだと主張することで、資本主義のもとでの家事の正当性を主張している。
女性たちは、伝統的な労働力として家事を強制されるのではなく、家事労働の賃金を要求すべきである。ダラ・コスタは、家事労働の賃金を受け取った女性は、家事労働を集団的に組織化し、共同体による育児や食事の準備などを提供できるようになると提案している。
賃金を要求し、賃金を得ることは、彼らの仕事の重要性に対する意識を高めるだろう。それは、より包括的な社会変革への第一歩として必要なことである。
ダラ・コスタは、家事労働が社会的に重要なのは、資本にとっての必要性であると主張する。そこに女性の戦略的重要性がある。
家事の賃金を要求し、労働市場への参加を拒否することで、女性は資本との闘いを主導することができる。女性のコミュニティ組織は、資本の鎖を打破することができる。資本の取り込みに対する抵抗だけでなく、新しい社会の形成の基礎を築くことができる。
訳注: まさしくアテネの戯作者アリストファネスの「女の戦い」のロジックだ。戦争を続ける男たちに反逆するために、女たちは閉じこもり、夜の営みを拒否する。
訳注: まさしくアテネの戯作者アリストファネスの「女の戦い」のロジックだ。戦争を続ける男たちに反逆するために、女たちは閉じこもり、夜の営みを拒否する。
ダラ・コスタは、女性が地域社会で自らを組織化することに対し男性が抵抗するだろうと考えた。女性は彼らと闘わなければならないが、この闘争は副次的なものである。基本線は社会主義という究極の目標をもたらすための闘いだ、とダラ・コスタは考える。
ダラ・コスタにとって、女性の闘いが革命的なのは、それがフェミニストだからではなく、反資本主義だからである。
ダラ・コスタは、女性を剰余価値の生産者とし、結果として労働者階級の一員と位置づけることで、女性の闘いを革命の一環として見出す。これは女性の政治活動を正当化する。なぜなら、フェミニストにとっての究極の目的は女性の解放であり、それは女性の闘いによってのみもたらされるからである。
ダラ・コスタの主張は、家事の社会的性質についての理解を深める上で計り知れない進歩をもたらした。しかし、我々がこれまで検討してきた他のマルクス主義的検討と同様、彼女のアプローチは、男女間の関係ではなく、資本に焦点を当てている。
資本主義システムがいかに私たち全員を抑圧しているか、そしてこのシステムにおける女性の仕事の重要かつおそらく戦略的な役割を持っていることを力強く押し出している。しかしそのゆえに、男性と女性には利害、目標、戦略の違いがあるという事実が見えなくなっている。
ダラ・コスタの文章には、「女性の抑圧」、「男性との闘争」などのフェミニズムのレトリックが散りばめられているが、フェミニズムの焦点はそうではない。
もし資本が家父長制を維持してきたことを見るならば、ダラ・コスタは「社会的関係としての家事の重要性は、男性優位の社会を永続させるものだ」という重要な役割について主張しなければならなくなる。
女性が家事をし、男性のために労働を行うことは、家父長制を維持するために不可欠な要素である。エンゲルス、ザレツキー、ダラ・コスタはいずれも、家族内の労働過程を十分に分析していない。誰が女性の労働から利益を得るのか?
確かに 資本家であることは確かだが、夫として、また父親として、家庭で個人的なサービスを受ける男性も利得者の端くれであることも確かである。そのサービスの内容や程度は、階級や民族や人種、そして何よりも時代によって異なるかもしれないが、それを受けるという事実は変わらない。
男性は、贅沢品、消費、余暇、個人に合わせたサービスといった点で、女性よりも生活水準が高い。消費、余暇時間、個人向けサービスという点で、男性は女性よりも生活水準が高い
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科学的唯物論者は、この重要な点を無視してはならない。すなわち、男性は女性の抑圧が続くことに物質的な利益を有しているということだ。
未来社会への移行後まで見通すならば、これは「誤った意識」かもしれない。というのも、家父長制の中で上下関係がなくなることで、大多数の男性が利益を得ることになるからである。なぜなら家父長制は、長幼の順だけではなく男性の優位も内包しているからだ。
いまだけ切り取ってみれば、これは他人(女性)の労働に対する支配であり、男性が自発的に手放したくない支配である。
第四 女性は労働者階級ではなく産業予備軍ーー著者(ハートマン)の受け止め
第四 女性は労働者階級ではなく産業予備軍ーー著者(ハートマン)の受け止め
初期のマルクス主義者のアプローチが家事を無視し、女性の労働力参加を強調したのに対し、ザレツキーとダラ・コスタに代表される最近のアプローチは、労働市場における女性の現在の役割を無視するほど家事を強調している。
とはいえ、結論からだけ見れば、3つとも女性を労働者階級のカテゴリーに含めている。そして女性の抑圧(女性差別)を階級抑圧のもうひとつの側面として解消しようとしている。そうすることで、フェミニズム分析の対象である女性と男性の不均衡を軽視している。私たちの「問題」はきれいごと風に分析されてきたが、それは誤解されている。
マルクス主義分析の焦点は、階級関係であった。それは資本主義社会の運動法則を理解することであった。私たちは、マルクス主義の方法論がフェミニズムの戦略を立てるために利用できると信じている。 しかしこれまで紹介してきた “マルクス主義的アプローチ” は、明らかにそうではない。彼らの立論が基づいているマルクス主義は、明らかにフェミニズムにマウントしようとしている。しかし彼らのマルクス主義そのものに限界があり、それが方向違いの分析をもたらしている。
マルクス主義は階級社会の発展に関する理論である、
資本主義社会における蓄積過程の理論であり、階級支配の再生産と 階級支配の再生産、そして矛盾と階級闘争の発展に関する理論である。闘争の発展に関する理論である。資本主義社会は蓄積過程の論理によって動かされる。価値は使用価値ではなく交換価値を志向している。
資本主義体制では、生産は利潤を上げることに貢献する限りにおいてのみ重要であり、製品の使用価値は付随的な考慮事項にすぎない。
利潤は、資本家が労働力を搾取し、労働者に生産物の価値よりも低い賃金を支払う能力から得られる。
利潤の蓄積は、生産関係を変容させると同時に、社会構造を体系的に変容させる。
産業予備軍と失業者、多数の人々の貧困、そしてさらに多くの人々の半貧困状態。資本に対するこれらの人間的非難は、蓄積プロセスそのものがもたらした副産物である。
資本家の視点から見れば、労働者階級の再生産は、「それ自身に任せておけば安全」なのである。
同時に、資本は、個人主義、競争主義、支配、そして現代では特殊な消費といったイデオロギーを生み出し、それとともに成長していく。
イデオロギーの発生についてどのような理論を持とうとも、資本主義社会の支配的な価値観として認識しなければならない。
マルクス主義は、資本主義社会について多くのことを理解させてくれる。それは例えば生産構造、専門職集団の構造的生成、支配的イデオロギーの性質などである。資本主義の発展に関するマルクスの理論は、「空虚な場所」(非生産部門のことか?)の発展に関する理論である。
マルクスは、プロレタリアートの成長とプチ・ブルジョアジーの終焉をより正確に、より詳細に予測した。特にブラヴァーマンは、先進資本主義社会における労働者の主要な「居場所」である事務労働者とサービス労働者の創出について説明している。
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資本は、それぞれの働き場所を誰が埋めるかには無関心である。マルクス主義分析のカテゴリーである「階級」、「労働予備軍」、「労働者」なども、誰がどの場所を埋めるか、その理由はなにかを説明できない。
マルクス主義の範疇は、資本そのものと同様、男性・女性の区別には無関心である。なぜ女性が社会にあっても家族内においても男性に従属しなければならないのか、なぜ男女の地位が逆ではないのかについて、何の手がかりも与えてくれない。
女性問題に関するマルクス主義の分析は、この基本的な問題に悩まされてきた。
(訳注: 「資本論は…」というべきだろう。資本論は「りんごが落ちるのは重力のためだ」と証明した本だ。諸階層の形成過程は「要綱」などを読み込むでことで得られると思う)第五 J・ミッチェルとS・ファイアストンーーより良いマルクス主義フェミニズムに向けて
これまで見てきたマルクス主義的分析の拠り所は経済学であった。しかしマルクス主義には、もう一つ、史的唯物論(歴史的かつ弁証法的な唯物論)という有力な分析手法もある。
ミッチェルとファイアストンは、この方法をフェミニズムの問題に役立てることで、マルクス主義フェミニズムの新たな方向性を示唆している。
それは、我々に加えられている抑圧を、その具体的な性質に沿って分析し、その延長線上に我々の革命的役割を分析する方向である。そのための方法として、科学的社会主義(私たちがマルクス主義的方法と呼ぶもの)が用いられる。
ラディカル・フェミニズムを理解するために、マルクス主義は必須である。それはこれまでに提唱されてきたさまざまな分野での社会主義理論の適用と同様である。
エンゲルスが書いているように、
「唯物論的概念によれば、歴史を決定する要因は、最終的には、身近な生活の生産と再生産である。これにもまた、二つの性格がある。一方は、衣食住の生存手段の生産であり、その生産に必要な道具の生産である。もう一方は、人間そのものの生産、つまり種の増殖である。特定の歴史的時代において人々が生きる社会組織は、両方の種類の生産によって決定される」
これがミッチェルの分析の視角である。
J. ミッチェルと史的唯物論
J. ミッチェルと史的唯物論
最初のエッセイ『女性:最も長い革命』では、ミッチェルは社会労働と共同体労働(生殖・性愛・子育ての仕事)の両方を検証している。ミッチェルは、目的に掲げた作業に完全には成功していないが、それはおそらく、女性の仕事のすべてが生産としてカウントされているわけではないからだろう。
訳注: Juliet Mitchell 1960年代に左派政治活動に関わり、雑誌『ニュー・レフト・レビュー』の編集委員を務めた。卒業後はフロイド精神分析学に進みジェンダー問題を専攻した。
訳注: Juliet Mitchell 1960年代に左派政治活動に関わり、雑誌『ニュー・レフト・レビュー』の編集委員を務めた。卒業後はフロイド精神分析学に進みジェンダー問題を専攻した。

市場労働だけが生産的労働とされている。女性が働く他の領域(緩やかに家事労働として集約される)は、価値と連動しない抽象的労働として特定される。なぜなら、家父長制は、再生産、セクシュアリティ、子育てを大きく組織しているが、物質的な基盤を持たないシステムだからである。
ミッチェルがこのエッセイを発展させた『女の荘園』は、題名とは異なり、家族内における女性の労働の分析を発展させることよりも、女性の市場労働の分析を発展させることに重点を置いている。
本書は、女性の資本との関係や資本のための労働に主要な関心がある。女性の男性との関係や男性のための仕事はどちらかといえば副次的なものとして扱われている。一言で言えば、ラディカル・フェミニズムよりもマルクス主義の影響を強く受けている。
その2に続く
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