トランプは帝国主義者か、反帝国主義者か? 
反帝同盟の主張とトランプのウクライナ政策

今回のウクライナに関するトランプの立場は、明らかに従来型の帝国主義者とは異なる。それは19世紀末の米国で、スペイン戦争をめぐって現れた、反帝同盟(モンロー主義左派)の動きと平仄を合わせたものかもしれない。
大慌てで、反帝同盟の歴史をなぞってみた。まずはウィキペディア英語版の「American Anti-Imperialist League」という項目。
冒頭に注意書きがある。「コミンテルンの提唱した世界反帝同盟と混同するなかれ!」ということで中味に入っていく。


Introduction 

アメリカ反帝国主義者同盟は、1898年6月15日、アメリカによるフィリピン併合に反対するために設立された組織である。

彼らは、帝国主義の支配がアメリカの伝統に反すると訴えた。そして「被支配者の同意」に由来する公正な共和制政府こそが相手国の基本原則であるべきと考え、強制的な拡張に反対した。

同盟は、アメリカの伝統として、アメリカ独立宣言、ジョージ・ワシントンの告別演説、エイブラハム・リンカーンのゲティスバーグ演説をあげ、それらを通じて表明された、「自治と不介入」をアメリカの理想として掲げた。

反帝国主義者同盟は1920年まで続いたが。しかし結局、世論の競争の中で新しい政治家たちに敗北し、姿を消した。
新しい政治家たちは、米西戦争後、20世紀の最初の数年間、アメリカの領土拡張の美点をうまく主張した。

組織の歴史

1.先駆者

反帝国主義連盟の構想は1898年の春に生まれた。

6月2日、引退したマサチューセッツの銀行家ガマリエル・ブラッドフォード(銀行家)がボストン・イブニング・トランススクリプト紙に、歴史的なファニエル・ホールへのアクセスを得るための支援を求める手紙を掲載した。それは、アメリカの植民地拡張に反対する人々を組織するための公開集会を開こうという呼びかけだった。

米西戦争の反対者であったブラッドフォードは、アメリカの意思決定者たちの間に「非常識で邪悪な」植民地的野心があり、それが「国を道徳的破滅に追い込んでいる」と断じた。
ブラッドフォードの組織化活動は成功を収めた。そして1898年6月15日、「アメリカが行っている帝国政策」に反対する抗議集会が開かれた。
6月15日の会合は、4人のメンバーからなる正式な組織委員会を選出した。それはブラッドフォードが指導する反帝国主義者通信委員会として知られている。

このグループは、全米の宗教、企業、労働、人道主義の指導者たちに手紙を送り、アメリカ政府の帝国主義的行動を阻止する行動を呼びかけた。
呼びかけはとくに、ハワイと旧スペイン帝国の植民地をアメリカが侵略しようとしていることに抗議し、それを阻止するために行動を起こそうとした。
新聞や雑誌の編集者を巻き込んだ手紙のキャンペーンが始まった。

ブラッドフォードと彼の仲間たちによるこの最初の先駆的な努力は、1898年11月19日に実を結んだ。帝国主義者通信委員会が反帝国主義者同盟として正式に設立されたのである。


2.組織構成

反帝国主義者同盟は、会長、書記、会計の3人の常任役員によって運営され、6人からなる執行委員会と連携していた。
組織の地域的な起源を考えれば当然のことだが、この指導者グループの初期メンバーは全員がボストン都市圏の出身であった。

注目されたリーグの会長に選ばれたのは、元マサチューセッツ州知事、下院議員、合衆国上院議員のジョージ・S・ブートウェルであった。彼は1905年に亡くなるまでその地位に留まった。

実質的な日々の執行業務は、アーヴィング・ウィンズロー書紀の手に委ねられた。反帝国主義者同盟には、ボストンを拠点とする統治中枢に加え、全国的な名声を持つ公人たちが副会長として多数名を連ねていた。
このポストは基本的に儀礼的なものであったが、組織に正当性を与える上で重要であった。

11月のリーグ結成時には、合計18人の副会長が指名された。その中には、元アメリカ合衆国大統領のグローバー・クリーブランド、元上院議員で内務長官を務めたカール・シュルツ、鉄鋼王アンドリュー・カーネギー、労働指導者のサミュエル・ゴンパースなどが含まれていた。

1899年前半の間に、リーグの「名目」副会長の数は40人に増加し、リーグのレターヘッドには多くの有力な政治家や知識人が加えられた。

その中には宗教哲学者のフェリックス・アドラー、元アイオワ州知事のウィリアム・ララビー、共和党下院議員のヘンリー・U・ジョンソン、スタンフォード大学学長のデイヴィッド・スター・ジョーダンらが含まれていた。

この拡大の直後、リーグの執行委員会は、アメリカの政治指導者たちに影響を与えるために、組織の事務所をワシントンD.C.に移転することを決議した。しかし首都に拠点を置くというこの決定にもかかわらず、組織の主要な運営はボストンにとどまった。

ワシントンに移転するという決定は、1899年秋にワシントン反帝国主義同盟が設立されたことで無意味なものとなった。この加盟団体は、全国的な政治家へのロビー活動にその努力を集中させた。この結果、ボストンを拠点とする同盟組織本体がワシントンに移転する必要性はなくなった。
反帝国主義者同盟はその存続期間中、ボストンを拠点とすることになる。


3. 地方組織

反帝国主義者同盟は、グループの宣伝活動を分散し拡大するために、地方組織のネットワークを確立しようとした。

グループの最大かつ最も影響力のある地方加盟組織は、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDC、シカゴ、ミネアポリス、シンシナティ、オレゴン州ポートランド、ロサンゼルスにあった。

1899年2月、反帝国主義者同盟の全国事務局は、グループの総メンバー数を「25,000人をかなり超える」と発表している。
このグループの地方支部の総数は、その年の11月までに「少なくとも100」と見積もられていた。

地方グループはかなりの程度の自治を維持し、フィラデルフィアでは「アメリカン・リーグ」、ニューヨークでは「反帝国主義者同盟」など、しばしば地方独自の呼称を持っていた。ニューヨーク支部の役員名簿は、23人の副会長団を含む、オリジナルのボストン支部と肩を並べるほどの強力なものであった。


4.出版活動

反帝国主義者同盟の主要な活動のひとつは、アメリカの帝国主義活動を宣伝するための政治的なビラやパンフレットの制作であった。これらの出版物は1898年にすぐに出始めた。

 これらの中には、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、ジェームズ・モンローといったアメリカ建国の父たちからの引用を多用した一連の「ブロードサイド」が含まれていた。そこでは、アメリカ共和国が建国された理念と、現代の政治指導者たちによって進められている植民地拡大の構想との間に根本的な矛盾があることが示されていた。

おそらく同盟の最も著名なメンバーであったマーク・トウェインは、エッセイ「暗闇に座っている人へ」を発表し、その声を届けた。それは1901年2月に『ノース・アメリカン・レビュー』誌に掲載された。

このエッセイの中でトウェインは、アメリカ人のフィリピン人に対する見方に、道徳的・文化的優越観が含まれていることを風刺的に描き、それをフィリピン併合論の大きな皮肉であると考えた。

トウェインは次のように主張することで、反帝国主義同盟への大衆の支持を得ることに成功した。
「アメリカの国際的役割は、物質的利益のために他国を征服することにはない。そうではなく、長い間嫌がらせを受け、迫害されてきた奴隷の国が自由になることに満足することだ」



ニューヨークの反帝国主義者同盟は、宣伝・パンフレットの制作で特に目立っていた。そのメンバーには、著名な作家、知識人、政治家などが名を連ねていた。

1898年に勃発したスペインとの戦争は、第一次キューバ反乱(1868年-1878年)に端を発していた。キューバの反乱軍は、自分たちの大義に献身的なアメリカ人の小集団と関係を結んでいた。これらのアメリカ人の多くは、キューバ島の反乱軍に軍事物資を運ぼうとする冒険家を支援していた。

1873年、スペインのキューバ総督政府が、冒険家の船ヴィルヒニウス号を拿捕し、多くのアメリカ市民を含む乗組員のほとんどを処刑した。このことで、アメリカは激怒しスペインの間で戦争が勃発しそうになった。

米西間にサンホン条約が結ばれ、一時的な和平が実現したが、アメリカの同情は相変わらず、独立を望むキューバ人に向けられたままだった。条約によって約束された改革が幻であることが証明されると、反乱軍とアメリカの支持者たちは新たな戦いに備えた。


5.1900年 選挙

1900年の大統領選挙は、連盟内部の揉め事を引き起こした。
特に物議を醸したのは、連盟がウィリアム・ジェニングス・ブライアンを支持したことだった。ブライアンは有名な反帝国主義者であったが、同時に金本位制の主要な批判者でもあった。

ストーリィやオズワルド・ギャリソン・ヴィラードら数名の連盟会員は、金本位制を支持し帝国主義に反対する第三党を組織しようと試みた。この努力は、ルイジアナ州の上院議員ドネルソン・キャフェリーを推薦した国民党の結成につながった。しかし、キャフェリーが選挙戦から脱落し、ブライアンが唯一の反帝国主義候補となったため、党はすぐに崩壊した。

1905年のジョージ・ブートウェルの死後、著名な弁護士で公民権運動家のムーアフィールド・ストリー(Moorfield Storey)が組織の会長を務め、1905年から1920年にリーグが解散するまでその役割を果たした。


6.解散

その反戦の記録にもかかわらず、連盟は米国の第一次世界大戦への参戦に反対しなかった。 (何人かのメンバーは介入に反対したが)。
1920年までにはかつての力は影を潜め、1920年11月27日に解散した。


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すみません、文献選択を間違えたようで、記述はあくまで外形的な素描に終止し、なぜ、どこが「反帝」なのかもわからぬままに終わります。マッキンレーやセオドア・ルーズベルトとの関係にもまったく触れられていません。

一番知りたいのはNATO国防長官会議でピート・ヘグセスが語った、米国のウクライナ戦争の再位置付けの論拠に、「ブロードサイド」が関わっていないかどうかを知ることです。もう少し文献をあたってみます。