ウィキのポイヤウンペの説明は、どうも正直のところ、ぱっとしない。何か他にないかと探していて見つけたのが下記の文献。
いつもお世話になるHUSCAPのデジタル書籍である。この中の第三章がポイヤウンペを取り扱っている。
3.ラッコとユーカラ「虎杖丸の曲」…アイヌ民族の成立との関わりで
A. ユーカラの位置づけ
知里真志保はアイヌの物語文学を下図のように分類した(知里
1973a)。
普通ユーカラという場合,「人間のユーカラ」に当たる。これをアイヌ史研究の資料として本格的に位置づけたのが知里である。
知里は1973年、ヤウンクルを擦文人、レプンクルをオホーツク人に見立て、ユーカラは民族的な戦争の物語と解釈した。
榎森進は知里の見解を受け継ぎ、ヤウンクルは,人名の語葉表現上の特質から,一筋の河川を中心に形成された河川共同体のひとびとであるとした。
B. 「虎杖丸の曲」が標準
研究のための一次資料は、平取の鍋沢ワカルパ翁から採録した「虎杖丸の曲…変怪の憑依、恐怖の憑依」である。虎杖と書いてイタドリと読む。山野にはびこる猛々しい雑草である。
これは金田一京助が大正2年に採録したものである。
「虎杖丸の曲」は全9段からなり、ヤウンクル同士の戦い,ヤウンクルとレプンクルの戦いなど様々な戦いが語られている。そのうち5段までがラッコの争奪を主因とした戦いである。
主人公(われ)はポイヤウンペである。
C. 「虎杖丸の曲」の構成
第1段 浜益の「シヌタプカ」の山城に生まれ、兄と姉に育てられた。
第2段 石狩の河口に黄金のラッコが出没する。石狩彦(石狩のボス)は捕獲者を募った。褒美には妹を差し出すとした。他の人は失敗し、最後にポイヤウンベが成功する。しかしポイヤウンペは捕らえたラッコを、石狩彦に渡さずに浜益に持ち帰ってしまう。
これを知った兄はこう予言する。
こうなっては自分たちの郷も無事ではすむまい,さらに昔起こったことと同じようなことが新たに起ころう。必ず戦乱が起こるであろう。
第3段 石狩彦の妹,石狩媛はポイヤウンペに嫁ごうと思ったが、ポイヤウンペは無視した。顔に泥を塗られた石狩彦は、シスタプカ(浜益)に戦いを仕掛けた。「黄金ラッコ戦争」が始まった。
闘いは殺戮戦となった。ポイヤウンペは攻めてきたチュプカ人、レプンシリ人、ポンモシリ人を撃退した。
さらにレプンクル・モシリ(樺太)の味方を得たポイヤウンペは石狩に乗り込み、石狩援やチュプカ媛を斬り殺した。
その後ポイヤウンベは苦難を潜り披け,ついにシヌタプカの山城に生還し,手創を負って寝ていた養兄・養姉・カムイオトプシなどと勝鬨をあげた。
第4段 シヌタプカではポイヤウンペを迎えて祝勝会が開かれた。岩鎧のシララベツン人,金鎧のカネペツ人が奇襲をかけた。シヌタプカの諸々が倒されたが,最後にポイヤウンベがその仇を討つ。ここで初めて虎杖丸と呼ばれる怪刀がその威力を発揮する。
第5段以降は石狩とのラッコ騒動をめぐる話とは別になるということで省略されている。
D. ラッコが石狩に来ることはありえない
関口さんはラッコは寒流系の動物であり、石狩に来ることはありえないとしている。
つまり,ラッコが登場するそれなりの必然性があった。すなわち、どこからかもってきて放たれたということになる。
ポイヤウンペはそれを捕獲し、シヌタプカに持ち帰り、毛皮とした上で飾ったということになる。手っ取り早く言えば、かっぱらったということだ。
以上
なお最後に関口さんはレプンクル・モシリ(樺太)をウィルタ系と解している。しかしこれはいくつもの推論を重ねて出された仮説であり、そのまま受け取ることは出来ない。
まず、ポイヤウンペの時代が絶対年代としてはあまりに漠然としている。阿倍比羅夫が粛慎を退治した頃の話なのか、北海道からオホーツク人が駆逐されていく8~9世紀の話なのか、樺太からアムール河口まで進出していく時代なのかによって、話は変わってくる。
それから、浜益の人には申し訳ないが、ポイヤウンペの闘いをモヨロ民族とアイヌ民族の戦争だと書いた浜益村史の記述には、かなりの疑問符が突きつけられたことになりそうだ。
その後の検索で、英雄叙事詩の比較研究論— 荻原 眞子
という文書を見つけた。「虎杖丸の曲」のほぼ全文が紹介されている。
もう疲れたので内容の紹介早めるが、是非目を通しておいていただきたい。

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