本日の赤旗「潮流」に奄美の復帰60週年を記念する記事が掲載されている。
そこでは日本共産党員として復帰運動に携わった崎田実芳さんの談話が載せられている。
もう少し詳しく知りたいと思い、「崎田実芳」で検索をかけてみたところ、下記の文献が出てきた。
大原社会問題研究所雑誌 No.509号(2001.4)の
という文章である。著者は加藤哲郎さん。なにやら懐かしい名前である。
最後の加藤さん自身のコメントには次のように書かれている。
この種の文書では,本稿における54年・56年・58年「党史」の比較からも明らかなように,「党史」そのものが時々の政治情勢にあわせて書かれた,政治性を帯びている。史実の確定のためには,これら史資料自体が,批判的に吟味されなければならない。
ということで、なかなか資料の扱いが難しいが、とりあえず例によって年表形式で紹介する。(主観の混じるややこしいところは省略する)
これだけでは当時の状況がなかなかつかめないので、他の資料からの引用を付け加えてある。
その後、奄美復帰運動史年表というきわめて浩瀚な資料を発見しました。その一部も取り入れています。>
1945年
奄美諸島、「解放」地域に指定される
9月2日 日本ポツダム宣言を受諾し降伏文書に調印。沖縄・奄美・小笠原諸島は,台湾・朝鮮・樺太・千島などと同様の「解放」地域に含まれ,日本列島と切り離される。
10月 中村安太郎ら、「奄美文化協会」を再建し活動開始。この会は中村らが戦時中に組織し、島内各地を回って活動していたもの。中村は治安維持法で逮捕された経験を持つ戦前からの活動家。復帰までの奄美共産党の指導的幹部。
10月 中村安太郎,島本忠雄らが奄美の党組織確立を目指し準備を始める。この時は党中央との連絡がつかず,結成に至らなかった。
10.30 米海軍のジャクソン少佐一行が来駐。6日間にわたって名瀬を調査する。
1946年
ミニ国家「北部南西諸島政府」の「成立」
1月1日 「船着場から眺める名瀬の街は周囲の山裾まで見渡せる焼け野原、そこここにはやはり門松が立ち、日の丸の国旗が鮮やかだ」(「奄美の烽火」より)
2月2日 アメリカ占領軍は,奄美大島,沖縄,小笠原諸島を日本の行政下から分離し,直接軍政下におく。
| 本土・奄美間の海上を封鎖。米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放され、本土に強制送還となった。「本土への渡航者は永住者に限る」と通達。本土の奄美・沖縄出身者は非日本人となる。 本土から切り離されたことにより、奄美の島内産業は壊滅。人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていった。 |
2.10 名瀬町連合青年団結成。6月に奄美連合青年団へ発展。
2.24 日本共産党が「沖縄民族の独立を祝う」とのメッセージを出す。
3月 旧鹿児島県大島支庁内に米軍政府が開設される。ロス・H・セントクレアが軍政府長官に就任。
10月3日 臨時北部南西諸島政庁が成立。役職者には地元出身者が就任する。
| 知事に大島支庁長の豊島至、副知事に中江実孝。アメリカ軍は当初、奄美群島を北部琉球と呼んだが、奄美側の強力な反対にあい琉球を外し北部南西諸島とした。 |
10月6日 警察部長兼大島警察署長の豊蔵朝秀が罷免される。理由は警察民主化に期待が持てないというもの。豊倉は後に社会民主党の初代委員長に就任する。
12月 党中央から奄美大島における党組織確立の任務を帯びて,久留義蔵が帰島。(久留は共産主義者の満州グループのメンバーだった)
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奄美では党の綱領規約に準じて独自の活動が活発にできる独自の組織をつくる。軍政下では非合法組織にならざるを得ないので党の合法的な行動党を作る、などの指示を持ち込む。(この指導は党機関の決定によるものではなかったという) |
12月 奄美文芸家協会が発足。雑誌「自由」を発行。泉芳朗が編集長となる。
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雑誌「自由」は奄美で発行された文芸理論誌。元教師・詩人の泉芳朗が主催し、ロシア文学者の昇曙夢(在東京)らが寄稿。 |
1947年
奄美共産党の結成
1月 二代目軍政官ラブリー少佐、年頭の談話を発表。「デモクラシーは大小幾多の革命の所産」と述べる。軍政府は群島レベルの諮問機関として北部南西諸島法制改定委員会(後に奄美民政議会に改称)を設置する。副会長に中村安太郎が就任。
1月 伊仙(徳之島)で小作人組合が結成される。土地の強制取り上げ絶対反対、小作料の公定化 小作料の金納制をもとめる。
2月 久留、中村ら奄美の活動家が集まり党の結成を協議。日本共産党の綱領規約に準じて綱領規約をつくり、日本共産党の指導を受けることを決定。
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1.奄美人民共和国の樹立 2.共和国憲法の制定 3.農地改革の実施 4.集会・結社・信仰の自由 5.労働組合法の制定 の5つの柱からなる |
3月 雑誌『自由』に、久留義蔵の論文「大島民主化の為に」が発表される。
3月 奄美連合大阪本部が結成される。奄美の分離を拒否し復帰の早期実現をもとめる決議を採択。当時全国には20万人の奄美人が散在していた。
4月10日 奄美共産党が創立される。創設メンバーは久留(30)、中村(38)、島本(40)、栄枝(38)の4名。(公式党史『奄美の烽火』は,綱領を定めた4月10日を創立日としている)
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奄美共産党は,久留を連絡者として中央に派遣。党中央に「沖縄,奄美に対する党の方針決定」を要望した。その中心的内容は,奄美大島の日本復帰に対する党の基本態度を明かにすることであり,日本共産党と奄美共産党との組織的な関係についてであった。 |
5.01 米軍政府、「メーデーは共産主義の行事」とし禁止通達を出す。
6月 久留義三は東京にもどり、「奄美青年同盟」を結成する。
軍政府、反共・反復帰の姿勢を明確に
7月 中村安太郎、「共産主義教育をすすめた」として大島中学専攻科の講師職を解任される。
8月 郡内21市町村長会が日本復帰の嘆願を決議。ラブリー軍政長官に口頭で申し入れる。
8月 ラブリー軍政長官、「占領軍は南西諸島を一つのグループにまとめ信託統治を行う。日本復帰はありえない。北部南西諸島が日本に帰るという意見はまったく迷惑である」と言明。
9.19 昭和天皇のメッセージが、GHQに伝えられる。「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう」希望するもの。
9月 全官公庁職員組合が結成される。組合員3千人を擁する島内最大の組織となる。
10月16日 市町村長会や学校長会議が「日本復帰嘆願決議」を採択。軍政府は集会・言論・出版の自由を規制し、弾圧に乗り出す。
10月 奄美共産党は、合法大衆政党として奄美人民党の結成を準備したがアメリカ占領軍によって拒否された。この時奄美地方の人口は20万あまり。
12月 日本共産党第六回党大会。奄美における党は独自の党とし,日本共産党は,奄美の党に対して援助する方向がとられた。在本土沖縄・奄美大島出身党員グループは,「沖縄,奄美,小笠原の日本返還」を党の方針とすることを提案するが否決。
47年 奄美共産党、日本共産党と別個の党として活動を開始。土建労働組合,木材労働組合,農民組合などの結成と指導にあたる。さらに「奄美人民政府樹立」を掲げ、青年団,婦人生活ヨウゴ会,官公庁職員組合などを影響下に置く。
47年 沖縄人民党が結成される。当初は非合法共産党組織への拒否反応をしめしたとされる。
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