神武から雄略まで21代の天皇のうち、寿命が明らかになっているものは8人に過ぎない。そのうち100歳を越えるものが6人に及ぶ。
つまり、順序だけが信用できるが、その他は明らかな嘘である。この嘘の付き方に法則性はあるのか、その目的は何だったのか、それらは永遠の謎である。
ただし、そのヒントとして、日本書紀に何度も繰り返し現れる百済本紀がある。作者はこれと皇統紀をなんとか結べつけようとする。我々も別な立場から関連付けようとする。その付近のせめぎあいが日本書紀の醍醐味であろう。

遠藤慶太さんの「六国史」(中公新書)にその一端が触れられているので紹介しておく。

1.日本書紀の応神紀には百済記が引用される。
(百済で)阿華王の即位にさいし倭への礼を欠いた。倭は百済を攻め、“とむたれ・けんなん・ししん・こくな”の東韓の地を奪った。百済は王子“とき”を倭に遣わし国交を修復した。
2.おそらく同内容が三国史記の百済本紀では以下のように記載される。
百済の“あしん”王は倭国に修好し、太子の“てんき”を身代わりとして派遣した。
この出来事が日本書紀では西暦277年とされるが、三国史記では397年の出来事とされる。三国史記ははるかに後代になるものではあるが、嘘をつく理由はない。とすれば400年ころに大和を治めていたのは応神ということになる。

これは2つの点できわめて重要なポイントだ。
一つは、倭王朝と大和の諸王の関係を見る上で起点となるからだ。
私は以前から仲哀の筑紫進出と不自然な死がいつ頃なのかが気になっているのだが、もし400年頃が応神の治世だったとすれば、応神の父である仲哀は、その少し前に那の津まで達し、そこで客死したことになる。
そのとき仲哀が請われたのは新羅出兵であり、百済出兵ではない。仲哀はそれを断り、その直後に不審死した。

もう一つは、多分こちらは大和王朝とは関係のない話だが、広開土王の金石文とほぼ時期的に一致するからだ。
百済が先の誓約に背いて倭と通じた。そこで広開土王が平壌まで南下し、戦いに備えた。
これが399年のことである。

つまりこういうことだ。高句麗は百済を臣従させるなど朝鮮半島全体で覇を唱えていた。倭(と任那)はこれを快く思わず、介入の機会をうかがっていた。
百済の王が交代し、おそらくはそれに伴って内紛が発生した。これをチャンスと見た倭は百済に出兵し領土の一部を奪った。百済は倭に詫びを入れ、人質を送ることで関係を改善した。
それを見た高句麗の広開土王は、百済に謀反の意ありと断じ、兵を平壌まで進めた。
このときたまたま、中国地方を征服した大和の仲哀天皇が勢いを駆って倭王朝の本拠まで達した。倭国は戦闘参加を呼びかけたが仲哀がこれを受け入れなかったので暗殺した。
倭王朝は寝返った武内宿禰に大和の制圧を命じ、応神を押し立てて難波政権を擁立した。旧仲哀勢力は四散した。

つまり高句麗から百済、倭国、大和王朝にいたるまでのあらゆる流れがこの時期に一点に集中しているのだ。