田口道昭さんが石川啄木の「地図の上朝鮮国にくろぐろと~」の歌をめぐってという文章を書いている。

関心は、どうして歌人の中で啄木のみがこのような思索に達し得たのかということだ。

この歌は明治43年(1910年)に「創作」という一連の作歌に収録され、「9月の夜の不平」という一連の中の一首とされている。

朝鮮併合が行われたのはその1ヶ月前のことだ。

日露戦争に「君死にたもうことなかれ」を書いた与謝野晶子は、朝鮮併合を次のようにたたえている。

韓国に 綱かけて引く神わざを 今の現に見るが尊さ

幸徳秋水の「帝国主義」やその非戦論も、帝国主義戦争への批判にとどまり、植民地獲得競争への視点、朝鮮固有の問題への認識へと発展していなかった。

それでは啄木は独力でこの境地を生み出したのか。

そこで田口さんは先行者としての木下尚江を押し出している。

朝鮮併合の6年前、明治37年6月に木下尚江は平民新聞に「敬愛なる朝鮮」という論文を発表している。記事そのものは無署名で、後の調査で木下の筆によるものであることが明らかになった。

政治家は曰く、「我らは朝鮮独立のために、かつて日清戦役を敢行し、また日露戦争を開始するに至れり」と。

かくて我らは「政治上より朝鮮救済を実行せん」と誇称しつつあり。

然れども、彼らがいうところの「政治的救済」なるものが、果たして朝鮮の独立を擁護する所以なるか否かは、吾人は容易に了解すること能わず。

まことにこれを朝鮮国民の立場より観察せよ。

これ、一に、日本・支那・ロシア諸国の権力的野心が、朝鮮半島という「空虚」を衝ける競争に過ぎざるにあらずや

明治37年6月(1904年)という日付けに注目していただきたい。日露戦争が始まったのがこの年の2月、まさに戦争の真っ最中なのである。

前月、鴨緑江会戦でロシア軍を撃破、ついで第2軍が大連を攻略し、遼陽に向け進軍を開始しようとするさなかである。

まさに命がけの記事であったことは間違いないと思う。

ただこの記事は「黒々と」の歌の6年も前のものだ。当時啄木は18歳。東京で気鋭の歌人としてデビューしたばかりの頃である。この記事を読んでいたかどうかさえ定かではない。

ついで田口さんが挙げるのが、朝日新聞の連載「恐るべき朝鮮」である。

この記事は明治42年(1909年)に24回連続で掲載された。渋川という記者の現地紀行文である。

この記事は決して思想的なものではなかったが、挿話として日本の横暴の実態が散りばめられていたらしい。当時、朝日新聞で校正の仕事をしていた啄木は、このような朝鮮の状況をドイツをロシアに挟まれ、祖国を失ったポーランドへの同情と重ねていたのではないか、と田口さんは見ている。

そして最大の引き金となったのが、大逆事件である。以前の記事でも書いたが、啄木はこの事件に並々ならぬ関心を抱いていたし、場合によっては主体的に関わろうくらいの気持ちを持っていた。

彼の眼にはこれが一揆主義者の暴発と、それを奇貨とした政府の社会主義者弾圧のためのでっち上げであることは明らかだった。

そしてこの弾圧が目前に迫った朝鮮併合をつつがなく行うための予防措置であると啄木は予感した。


というのが田口さんのあらあらの主張である。

こういうことだろう。

啄木は朝日新聞の校正部に職を得て以降、急速に知識を広げ、社会的自覚を高め、一匹狼から組織的行動へと変身を遂げ、新聞記者ではないが人一倍ジャーナリストとしての身構えを身につけることになった。

感想になるが、

啄木像は、まず1909年3月、朝日新聞就職後の最後の3年を原像として把握すべきではないか。それでも24歳から26歳だ。この年にしちゃあ立派なもんだ。

それ以前の啄木は「プレ啄木」というか、成人啄木に至るまでの修行時代、ビルドゥングスロマンとしてみておくべきではないか。

「見よ、飛行機の高く飛べるを」は、その完成期における詩として、大人の詩としてみておくべきだろう。

2012年12月23日の記事 に現れた、天才少年歌人としてのやや酷薄な啄木像は、すでにそこにはない。