「効用」を考える

1.「効用」と使用価値

新古典派の代名詞は「効用」である。「効用」そして「限界効用」は古典派にはない概念だ。

新古典派にあっては価格の源となるのが効用だ。

効用(utility)というのは商品に付帯する性質である。“Goods”の持つ “Worth”であろう。

それは古典派における「使用価値」(value in use)とかなり重複する概念だ。古典派にあって取引というのは基本的には等価であるから、価値(商品に含まれた労働量)によって決まる。

しかし価格は価値によって決まるのではない。売れるものは売れて、場合によってはプレミアが付く。逆に売れなければ割引するが、最悪投げ売りするほかない。

古典派によれば、価格と価値は個別にブレることはあっても一つの市場全体としてはバランスが取れることになっているので。総価格と総価値はイコールになるはずだと言われる。だがそうだろうか。

もう少しいろいろな事情を取り込みながら、価格の決定過程を具体的に探っていくべきではないだろうか。

そう言われると「たしかにそれはそうだよね」という気持ちにならないでもない。

しかし具体的な算定法になると、「完全競争市場」という信じられないほどの単純化と大胆な仮定の連続で、それで出てくる数字に有効性があるとは思えない。

私としては、「長期的には価格は価値を反映する」ことを前提にして、どんなものが価格実現過程を撹乱するかを列挙し、それらに重み付けするのが一番現実的なように思える。

そういう点では、新古典の分析手法を基本的に受容できないのである。

2.心理学的範疇としての「効用」

効用というのは“もの”に即してみれば、その具体的有用性である。ただ人間側から効用を見れば、それはむしろ心理的な欲望を充足させる度合いである。

そして、新古典派ではこちらの意味合いの方が強そうだ。欲望が強ければ満足量も増えるし満足度も高まる。逆に何度も使っていれば飽きてくる可能性もある。

しかし欲望充足の程度というのはあまりにも多変量的であり、その評価についてはほぼ絶望的であろうと思われる。基数的効用とか序数的効用というが、それは結局、供給量を増加させたときの市場の反応だ。
たしかに「効用」が評価されれば需要は高まり、それは二次的に供給量として反映されるであろうが、原因と結果が堂々巡りする同義反復のような気がする。

3.「効用」と欲望の関係

「効用」というのはおそらく欲望との関係でもたらされる関数であろうと思う。欲望のないところに「効用」は生じないが、ひょっとすると使用価値がゼロであっても「効用」は生じる可能性がある。

欲望は生産とどのような関係にあるか。欲望はモノなしには生じない。それはモノを消費することで生まれる。すなわち欲望はモノそのものではないが、モノと同様に生産されるのである。

欲望の生まれる可能性は無限に存在する。つまり一般的欲望は無限大である。しかし具体的な欲望(例えば需要)は物質に依存するので、時・場所・場合により変わってくる。

4.欲望より見た市場

生存要求に基づく欲望は直接的であるが、生産力が上昇すれば社会的・間接的要求の比重が高くなる。その内容も多彩になるため、需要供給曲線に表すこと自体が無意味になるのではないか。

市場の意義は商取引よりも需要喚起、欲望の掘り起こし機能が主要なものとなる。

実需に基づく市場においては、商品需給と労働力需給がほぼパラレルに動くものと思われるが、欲望が多様化し需要構造が複雑化するようになると、両者にズレが見られるようになる。また信用制度が発達するとキャッシュフローの時間差が激しくなり、市場を揺さぶるようになる。

このような状況になっても「市場原理主義」を貫くのか、さまざまな代替案を組み合わせるのか、真剣に考えなければならない時代になっている。
新古典派経済学がそのままで進めないことは明らかである。