北海道の革新運動における森谷尚行氏の貢献

おそらく各所で故森谷尚行氏(以下敬称略)の顕彰の動きは始まっていると思うのだが、私自身の個人的な事情もあり経緯については知らない。
手元に資料と言ってもほとんどないのだが、とりあえず一つの同時代証言として書き残しておく。

大まかに言って、森谷の業績は3つある。

第一は学生運動における民主派の担い手としての役割だ。

森谷が北大入学の年に60年安保闘争が始まった。当時の北大学生自治会は唐牛を全学連委員長に送り出すなど極左派の拠点だったが、森谷はその北大自治会委員長となり、極左派の手から大学を守るために大いに奮闘した。
その後北大は全国における民主派の拠点となっていった。私が教養部時代を送った60年後半には学生の1割が民主派の活動家であった。いっぽうで札幌医大や地方の学芸大学にはかなりの極左派が残っていた。
もちろんこれらは森谷一人の手になる成果ではないが、それはやがて北海道が民医連運動の先進となっていくことにつながっていく。

第二は、高揚した学生運動を民医連運動へとつなげていく上で果たした役割である。

もちろん医学部においても戦後民主運動、安保闘争などを通じて覚醒した活動家が存在したが、そのような民主的医師運動と民医連は実のところ無縁であった。民医連も、レッドパージされた労働者が地域で展開する消費者生協的なレベルにとどまっていた。
2つの運動を初めて結びつけて、それを「医師集団の技術建設運動」と位置づけたのは森谷を中心とする同期生たちであった。
言うまでもなく、北海道は全国の民医連医師集団運動の「嚆矢」であるが、それ以上のものではない。時期を同じくして全国では怒涛のような医療運動(老人医療・公害医療・労災・職業病の取り組みなど)と自治体革新運動の波が全国を席巻した。それに比べれば北海道の経験はささやかなものである。
しかし北海道青年医師集団の実践が後に続く全国の医師・医学生にとって文字通りの「極北」となったことは間違いない。

第三は、医師集団の技術建設と結びつけながら、医療民主化の課題・医療戦線統一・「新たなイメージの民医連建設」を語り、現実化していったことである。

「新たなイメージ」というのは、じつのところ、かなり未定型のまま残された思想課題である。それを一言で言えば、民医連を何よりもまず変革を目指す技術者集団として捉え、その思想を鍛え合い、その実践を相互に支え合っていくという視点を貫くことである。
それが森谷を先頭とした北海道民医連の展開である。それは集団的な技術建設を勝ち取った医師集団が、生涯にわたりどうその技術を発揮していくかという提起でもあった。
同時にそれは、それ自体が「統一戦線」の思想に基づいていた。「事務職」という強固な活動家集団が技術運動と結合し、独特な「医療・社会実践」の地平を切り開いた。それを全道数万の社員・協力会員組織が支えた。

繰り返すがこれらの仕事は森谷が一人で成し遂げた成果ではない。しかしもし森谷がいなければ、それらのどれ一つとして成し遂げられなかった可能性がある。

これら3つが成し遂げられた社会条件は、いま切り崩され兼ねない危機を迎えている。これを耐え抜いて次の時代にバトンを繋ぐためには、野暮ったいが、医師・医療技術者がもう一度集団として自己形成を強めていく以外にあるまい。

「民主的集団医療の構築」は未だに民医連医療のキー概念であろうと思っている。


2013年02月14日  徳洲会: 民医連との決定的な差は医師の位置づけ もご参照ください。