序文
宇土市岩古曽町に所在する曽畑貝塚は、九州縄文時代前期の最も代表的な遺跡である。

曽畑式土器の器形や文様は、朝鮮半島の櫛文土器と類似しているとされる。

昭和61年の低湿地遺跡の調査では、縄文時代前期の貯蔵穴62基が発見された。食料にしていたドングリやそれを入れた編み物製品、瓢箪などが出土している。

遺跡の位置と歴史的・地理的環境

曽畑貝塚は早くも明治23年、若林勝邦らによって学会報告されている。昭和34年には慶応大学考古学民族学研究室を中心に本格的な発掘調査が実施された。

層位的分離で九州縄文時代土器編年の実証事例となっており、下層から押型文土器一轟式土器一曽畑下層一曽畑上層一鐘ケ崎式・市来式土器へと移行する。

近隣の松橋町曲野遺跡では、旧石器時代の包含層が検出されている。
2万2千年前の「AT火山灰」層の下層に、小型のナイフ形石器・台形石器・掻器それに局部磨製石斧を有する石器群が発見されている。

宇土には弥生時代や古墳時代の遺跡も多い。熊本県内64基の前方後円墳のうち、12基が宇土半島基部に集中している。なかでも西岡台遺跡の大環濠、豊富な遺物が出土した向野田古墳が著名である。

曽畑低湿地遺跡の動植物遺体

縄文早期~前期初頭の堆積物からは、ニレ、ケヤキなどの落葉広葉樹林から常緑広葉樹林への推移がみとめられる。これにより冷涼気候から温暖気候への転換期に当たることが示唆された。

その後、約6000年前の縄文前期前半に照葉樹林時代に移行。暖温帯要素のアカガシやシイノキの優占によって特徴づけられる。

本遺跡は貝塚本体から約100m離れ、海辺の海抜約3.5m上に営まれていた。58基を数える貯蔵穴の内容物はイチイガシが殆どであった。

本遺跡出土の大型植物の特徴は、ナラ類ではなくカシ類、なかでも唯一アク抜きを必要としないイチイガシが優先していることにある。

東北日本の縄文時代に多いクリは出土しない。カヤやオニクルミもきわめて少ない。それが西南日本の照葉樹林帯の特徴を示している

弥生前期になると、自然林が破壊され、その跡地にマツの二次林が拡大し、雑草類も増加し始めた。

3体分の人骨が発見された。彼らはすべて縄文時代前期に生きていた。

以下略


この論文集では朝鮮半島の土器とのつながりが強調されているようである。
「曽畑式土器」は九州の縄文時代前期の最も代表的な土器とされるものである。
また、曽畑式土器の器形や文様は朝鮮半島新石器時代の櫛文土器と大変類似していることが指摘され、両国の文化交易を理解するための重要な貝塚とも評価されている。
果たしてそうだろうか?

隣に南九州型縄文文化が先行し、かなりの程度まで発達しているのに、なぜそちらを無視するのであろうか? 

朝鮮半島新石器時代というのは5千年ほど前に始まったものであり、それ以前に朝鮮半島に南九州縄文を超えるような水準の文化は存在していない。むしろ文化的空白期と考えるべき時期である。

6千年前に鬼界カルデラの噴火があり南九州の縄文文化は途絶した(アカホヤ時代)。しかしそれ以前の文化が曽畑を含んで成立していた可能性はないのだろうか。

南九州の縄文土器は本州北部の縄文とは明らかに様式が異なり、無文であった。しかも本州に比べ明らかに先行していた。
これらを考えれば押型文土器一轟式土器へと続く流れの端緒にあるのは南九州縄文と同根の文化であった可能性が高いのではないか。現に曽畑からは2万2千年前の旧石器遺物も発見されているが、これは南九州縄文との一体性を強く示唆する。

やや強引な推理ではあるが、「アカホヤを逃れた南九州縄文が北へ逃れ、曽畑文化を作り、さらに海を渡って朝鮮南部にまで進出した」というような可能性もあるのではないかとも考える。