鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

タグ:弥生人

随分前に下記の記事を書いた。書いたことも忘れていて、なんのことかと読み直してみた。


言いたいことは「日本人に特異的にA型が多いのは、A型だから日本に集まったのではないかと思ったのである」ということで、なかなかの着想だ。

ただ、変なのは、「縄文人はA型は少なかったようだから、A型頻度を上げているのはもっぱら弥生人である」と書いているところだ。

わざわざ古畑の「A型」分布説を取り上げているが、この調査でA型が多いのは東北地方だ。つまり縄文色の強いところだ。

これだけで、この「大胆な仮説」は自己破産する。

しかし、事実として、日本人にA型が多いことも事実で、地域分布としては東北に偏っている(古畑による)とされる。

とすれば「縄文人はA型は少なかった」というのが怪しいことになる。

調べれば分かることなのだから調べてみよう。

キラリというページに親切に数字が取り上げられている。

予想はかなり違っていた。というより真逆だった。

血液型 弥生人はA、縄文人はB

まず事実として、日本人にA型の頻度が高いことは確認できた。しかしそれほどではない。

世界での比率は、O型が約45%、A型が40%、B型が11%、AB型が4%である。日本では、A型の割合が約4割、O型の割合が約3割、B型の割合が約2割、AB型の割合が約1割である。

結論として日本はA型特異国ではない。ポルトガル、フランスは半分がA型である。

ただし、最大の特徴はA型ではなく、B型が多いことである。それに引きずられる形でAB型の頻度も高くなっている。

ただしB型の頻度にだけ注目すれば、もっと高い国もたくさんある。インドは4割がB型だ。ハンガリーやイラン、パキスタンも日本と同じ3割を占める。

次に血液型の国内分布である。

A型の人口が多い都道府県は、徳島、福岡、愛媛、島根、鳥取である。それに対して、青森、岩手、沖縄は、A型の割合が少ない。

つまり間違っていたのは古畑の報告で、私の記事が正しかったのだ。

むしろ注目すべきは、国際平均の2倍に達するB型頻度で、いったい誰がBを押し上げているかというと、秋田、青森、長野、岩手、栃木で、特に秋田がすごい。

日本人の三層構造は今や常識

細かいところではいろいろあるのだが、日本人が重層的に形成されてきたことは疑いのない事実である。
それは第一に縄文人であり、第二に弥生人であり、第三に天孫族である。
ただし第三の渡来人の呼称、渡来の時期、朝鮮半島の人々との関係はまだ確定はしていない。
しかしこれまで弥生人として一括されてきた渡来人が、あらゆる点から見て異なる出自であることは確認されている。

縄文人の源流 2つの旧石器人

これが基本であるが、最近の考古学的知見からは縄文人が少なくとも2つの出自を持つことが明らかになっている。

最初の渡来人は3万8千年前、南方系のナウマン象を追って朝鮮半島からやってきた。
彼らの足跡は関東甲信越を中心に分布している。ここでは彼らをナウマン人と呼ぶ。

ナウマン象そのものは、30万年前に朝鮮から渡来し、その北限は北海道まで及んでいる。
しかしナウマン人の足跡は青函海峡を越えない。

3万年前ころに寒冷期がやってくる。

南方系のナウマンゾウは絶滅した。それと入れ替わるように北からマンモス象が南下した。そしてマンモスハンターもやってきた。

マンモスは青函海峡を越えなかった。しかしマンモス人は越えた。もっと温かいところを目指した。そしておそらく津軽地方でナウマン人と出会った。

2つの文化のハイブリッドが生まれた。それは縄文文化を生む土台となった。

旧石器人から縄文人へ

寒冷気候が卓越する下で、人口では北からのマンモス人が優越した。DNA的にはおよそ4対1である。
1万2千年前に生まれた縄文土器も北の影響が強いと思われる。

一方、主たる生活の糧である象や大型獣がいなくなる中で、狩猟のスタイルが落とし穴へと変更を迫られた。
狩猟だけに頼らない木の実の採集、小規模な漁業も試みられた。
それはナウマンゾウ絶滅後にナウマン人が手に入れた、生き残りのノウハウである。

気候の激変、生産・生活の激変、2つの旧石器人グループの出会いにより縄文人が誕生した。

その頃に日本列島はアジア大陸から切り離され孤立化した。
このために日本には独自の人種による独自の文化が発達し始めた。旧石器人はそのまま縄文人へと移行した。

縄文人の全国展開

縄文人の全国展開は、マンモス人が全国進出しつつ現地のナウマン人と混淆し、縄文文化を拡大していく過程であろう。

縄文文化が全国レベルで成立したのは紀元前5千年ころである。ほぼ均質な漁撈・採集・狩猟のスタイルが広がった。
縄文文化の最盛期は3千年に渡り続くが、その後弥生人の渡来までは徐々に衰退していく。

この3千年をどう亜区分していくかは今後の課題であるが、注目されているのは土偶の分布・意味合いの変化である。
これは弥生時代における銅鐸の分布・意味合いの変化と照応する。

晩期縄文人は縄文人か

他在としては渡来した弥生人と共存した縄文人である。しかし「蝦夷の地が最終的に消滅するまでは共存時代だ」と言うのも引っ張り過ぎだろう。

諸研究では紀元前1千年から始まり、わずか300年で弥生時代ということになっている。つまり九州や中国地方の縄文人が渡来人を受容した時代ということになる。

であれば、彼らは後期縄文人である。その中で、その時期にその場所に住んでいて、渡来人を受け入れ、自らも変容した人々、というふうに狭く考えたほうが良い。




↑このページのトップヘ