2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜
を上げたあと、この記事を増補版としてアップロードした。その際、旧版はそのまま残したが、これが混乱を招く可能性があることが分かった。そこで17年版を削除し、この記事から「増補版」の名を削除した。
なおこの年譜には、明治時代に北海道を訪れアイヌ文化の調査にあたった多くの人々や、明治大正のアイヌ人(知里兄妹、違星北斗ら)の足跡も記載されている。その意味ではバチェラーと研究者たちの年表とするべきであるが、各々の資料が増えてくればそちらを分離するつもりなので、とりあえずここに保管しておく。
(2021年5月記載)



ジョン・バチェラー 年譜



1854年(安政元年)3月20日 イギリス南部のサセックス州アクフィールドに生まれる。11人兄弟の6番目。バチェラー家は、由緒正しい騎士の家系で、父は市長を 3 期も務めた。

1859年 フランス人でカトリック司教メルメ・デ・カッション、函館に4年間滞在した。アイヌコタンを訪ねるとともにアイヌ語小辞典の編集を手がけた。

1865年 アイヌ墳墓盗掘事件。イギリス領事館員3人と日本人雇員により北海道南部の森,八雲の墓から人骨17体が掘り出された。国際的な問題になりイギリスが謝罪、賠償する

1874年5月 英国聖公会海外伝道協会(CMS)、北海道にウォルター・デニング司祭ら2人の宣教師を派遣。デニングはマダガスカルから、もうひとりも東アフリカから転勤となり、函館の教会で働き始める。


1876年(明治9)

6月 デニングが平取アイヌを訪問。現地調査とともにペンリウクからアイヌ語を学ぶ。


1876年 バチェラー、ケンブリッジ大学神学部を卒業。東洋伝道の志を持ち英国聖公会宣教会に入会。海外伝道協会の給費生として英国を出発。このとき23歳だった。香港にある宣教師養成のためのセント・ポール学院に入学。


1877年(明治10年) バチェラー、香港にて勉学中にマラリアに罹患。療養のために横浜に移動。


5月 さらに冷涼な北方の地を勧められ函館に転地。デニング司祭の指導を受け日本語の勉強を始める。


1878(明治11)

3月 バチェラー、函館の町中で偶然アイヌが日本人から非人間的な扱いを受けている現場に出合わせる。アイヌの差別と悲惨な生活の実態を知り、アイヌ民族の伝道を志す。

バチェラーの回想

学生達は「アイヌは本当の人間ではない。人と犬との混血児だ。だから犬や熊のように多毛である。何にも料理しないで生のまま食べる。余り野蛮ですからその中へ行くのは甚だ危険」と語った。


札幌に2ヶ月ほど滞在。開拓使長官黒田清隆とも会見。対雁のアイヌ(デンベ)からアイヌ語を習得。年末には函館に戻る。



イサベラ・バードの北海道の旅(1878年)

とりあえずここに突っ込んでおくが、膨らんでくるようなら別途記事を起こす。「イザベラ・バードの道」を現代に活かす に詳細な論究あり。
「イザベラ・バードはなぜ平取をめざしたのか」では、平取詣での理由が下記のごとく説明されており、納得がいく。

ダーウィンが『種の起源』で進化論を発表した影響で、欧米の人類学者の間で「容貌がまるでヨーロッパ人のようだ」と日本の先住民族アイヌへの関心が高まった。
当時英語で表記された地図では北海道の東部や北部は描かれておらず、「平取」が北海道の最深部と思われた。それで桃源郷のように扱われたのではないか。

ここには書かれていないが、2年前に平取を訪問調査したデニングの影響を無視するわけには行かない。

5月 イザベラ・バードが横浜に入る。3週間の準備の後、東北北海道旅行に出発。


8月12日 イザベラ・バードが函館に上陸。聖公会のデニング夫妻の歓迎を受ける。

8月 シーボルトJrが平取を訪問。現地でイザベラと顔を合わす。

8月23日 イザベラ・バード平取に到達。義経神社近くの平取アイヌの首長・平村ペンリウク宅に4日間滞在する。義経神社は二風谷より下流の平取本町にある。当時はアイヌ人専用の神社だったらしい。

通訳兼案内人の日本人伊藤某は「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただの犬です。人間ではありません」と断言した。

9月12日 イザベラ・バード、函館に戻る

バードは、「アイヌは純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対して思いやりがあると賞賛。

またペンリウクが伝道師デニングを批判した言葉も記録している。

もしあなたを造った神が私たちをも造ったのならば、どうしてあなたはそんなに金持ちで,私たちはこんなに貧乏なのですか

また、アイヌの飲酒の習慣についても同情的な眼差しを送っている。

泥酔こそは,彼らの最高の幸福である。「神々のために飲む」と信じる彼らにとって,泥酔状態は神聖なものである。

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1879年(明治12年) バチェラー、信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。


5月 バチェラー、最初のアイヌコタン訪問。胆振の有珠コタンに3か月滞在。


9月 バチェラー、アイヌの中心地である日高の平取を訪問。平取では、アイヌ長老ペンリウクの下で3ヶ月滞在しアイヌ語を学ぶ。これを契機にアイヌへの布教活動を決意する。平取行きはおそらくイザベラの影響もあったのだろう。

1880年 デニングがバチェラーを伴い平取を訪問。バチェラーに平取での伝道活動を委ねる。


1881年 馬車で札幌経由で平取へ。ペンリウクは自宅の敷地にバチラー専用のチセを建て提供する。半年間滞在し伝道にあたる。

1881年12月 バチェラーの帰還に際し、ペンリウクら平取のアイヌ長老が連名で英国聖公会海外伝導協会あてに支援の要請書を作成。バチラーに託す。

1882年(明治15年) バチェラー、イギリスに一時帰国。5ヶ月滞在し、ケンブリッジなどで再研修を受ける。


1883年(明治16年) デニング、神学上の問題でCMS本部から解任される。聖公会函館教会メンバーが留任要望。バチェラーは勉学を中止し函館に帰任した。


1884年(明治17年)

1月 東京で同僚宣教師の娘ルイザ・アンザレスと結婚した。当時バチェラーが30歳で、ルイザは41歳。

1月 アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介した「蝦夷今昔物語」を出版。著者は<函館英国人バチロル>とされる。アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介する。

アイヌに関して、日本人のための日本語による書物がない。自分が直に見聞きしたことと日本社会の常識の間にずれがある。記述には誤りがあるかも知れないが,それは作り話しではない。

余、窃カニ思フ。彼ヲシテ、培養正シク教育普及セシムレハ、又以テ本邦人ノ如キ才学アル者トナスヘシ…

84年 関西へ講演旅行。その後半年をかけて道内各地を伝道旅行。
バチェラーの足跡

              バチェラーの足跡

84年 バチェラー、長い伝道旅行を終え平取に戻る。この冬に平取で熊送りを体験したと見られる。「これ(絞殺)は残酷で,いまわしく,品位がない。それを正当化するものはなにもない」と記す。

84年 平取で禁酒・断酒運動を進めたが、日本人による排斥運動が強まる。これの影響を受けたアイヌとの関係もこじれ離村を余儀なくされる。


1885年(明治18) 「バチラーのスパイ事件」が発生。


バチェラーがパスポートの更新を求める。時期を同じくしてバチェラーが滞在許可条件を守っていないとの告訴があり、パスポート申請が却下される。却下には3つの理由があったが、それがいずれも不正確な情報に基づくものと判断され、告訴は取り下げられる。

85年 その後、バチェラーは函館を拠点とし全道各地で伝道。

85年 幌別のアイヌ青年カンナリタロウ、聖公会函館教会で受洗。最初のアイヌのキリスト教徒となる。バチェラーにアイヌ語を指導する。


1886年(明治19年)5月、布教活動のため、函館の住居を幌別村(現在の登別市)に移して定住する。ルイザ夫人・養女キンらが同伴。牧場で牛を飼い、農作も展開する。その後6年にわたり、キリスト教伝道やアイヌ語教育を実践。


1887 年(明治20 年) バチェラー、本国の伝道教会から司祭に除され、アイヌ民族の宣教を委ねられる。


1888年(明治21年) 募金を募り、幌別で私塾の愛隣学校(相愛学校)を設立する。キリスト教教育を行なうアイヌ学校への発展を目指す。


1888年(明治21年) 札幌にも『愛隣学校』を開設。アイヌ語の読み書きをローマ字で教える。(その後愛隣学校は道内各地に作られた)

88年 アメリカ人ヒッチコック、平取を訪問しアイヌ調査を行う。この他90年にはイギリス人ランドー、92年にはオーストリア人アドルフ・フィッシャーがアイヌ調査に入る。

1889年 北海道庁の依頼を受け、「蝦和英三対辞書」を発刊。


1890年 バチェラー夫妻、英国に半年間滞在。この間にヨハネ福音書、マルコ福音書などのアイヌ語訳を出版。


1891年


1月 バチェラー、北海道禁酒会の要請に応え札幌に移転。自宅でバイブルクラスと日曜礼拝を始めた。並行してアイヌ伝道を展開した。活動は樺太までおよび、樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタにも布教活動を行う。


91年 平取アイヌとの関係が6年ぶりに修復。平取のキリスト教信者は100名以上に達する。

91年 カトリックも布教活動を活発化。函館司教区長にベルリオーズ司教が着任し、おもに室蘭地方に伝道した。


1892年(明治25年) 札幌聖公会が正式に組織される。バチェラーは伝道の対象を全道各地に拡げていく。樺太アイヌ、ギリヤーク人、オロッコ人も布教の対象となる。


92年 札幌にアイヌを対象とする無料施療病室を開設する。札幌市立病院の関場院長もボランティアとして診療に加わる。遠方から訪れるアイヌの人々で、診療所はいっぱいになったと言われる。

92年 ロシア人研究者シュテルンベルグが『サハリン・ニブフのクマ送り』を報告。イヨマンテはアイヌ古来の伝統ではなく、ニブフ(ギリヤーク)からの引き継ぎではないかと示唆する。

1893年 バチェラーの秘密扱い書簡。

私の蝦夷における16年の経験は、ここでは極度の注意をもって行動しなければならぬことをはっきりと教えてくれました。私のあらゆる行動や行為、言葉がスパイによってマークされています。

1894年 フランスのカトリック教会からベルリオーズとリボーが伝道に入る。(91年の記事との突合せが必要)


1895年(明治28) 

5月 平取と有珠で自費で教会堂を建設した。平取町本町の教会は現在、「バチェラー保育園」として運営を続けている。

1896年 バチェラーの要請に応え、英国聖公会からエディス・ブライアント看護婦が派遣される。約1年半、札幌でアイヌ語を学んだあと、13年間にわたり平取でアイヌの伝道・医療・教育にあたる。


1897年 有珠のアイヌ豪族・向井富蔵の娘・八重子、バチェラーを頼り札幌に出る。「アイヌ・ガールズスクール」に通う。

1898年(明治31) 札幌北3 条西7 丁目(北海道庁裏)に住宅を新築。ここに離日まで住み続ける。

8月 東大医学部教授のベルツが平取に入る。ブライアント看護婦に指導助言を行ったと言う。

98年 マンローも、この年北海道へ初めて旅した。(要確認)

1899年 日本政府はアイヌ民族の同化を目指すようになる。同化推進のために「北海道旧土人保護法」が制定される。この頃からバチェラーは政府に協力するようになる。法律制定過程に協力した可能性もある。

1900年 バチェラー、アイヌ教会での説教をアイヌ語から日本語に切り替える。

00年 ブライアント看護婦、健康を害し一時帰国、01年に平取に戻る。助手を勤めた金成ナミは幌別に戻る。


1903年 大阪で第5回内国勧業博覧会が開催される。バチェラーは学術人類館の展示のために、7人のアイヌを見世物として紹介。
この学術人類館では琉球人、台湾先住民、ジャワ人、トルコ人、マレー人、インド人などが「展示」された。

9月 ピウスツキを団長とするロシア帝室地理協会の調査団が平取を訪問。1ヶ月にわたり滞在。

11月 平取のアイヌ長老ペンリウクが病歿。

1904年

3月 アメリカのセントルイス博覧会。バチェラーは9人のアイヌ人派遣を斡旋。

余市生まれのアイヌ人詩人、違星北斗の歌

 白老のアイヌはまたも見せ物に 博覧会へ行った 咄(アー)! 咄(アー)!

4月 マンローが最初の二風谷訪問。

04年 日露戦争が始まる。バチラーは戦争協力の音楽会を開き、出征兵士を慰問。赤十字社にも寄附金をよせる。

これら一連の方針転換の結果: 聖公会の教会員(道内)は、1903年の 2,595人から19年の 3,392人に増加したのに対し、アイヌ人は 1,157人から 650人に急減した。アイヌ人の構成比は45%だったのが19%にまで落ち込んだ。(小柳)

1906年 バチェラー夫妻、八重子を養子とする。弟の向井山雄にも学資を支援する。


1908年 バチェラー夫妻、八重子とともにシベリア鉄道経由で英国に行く。八重子はカンタベリー大主教から伝道師に任命される。


1912年 バチェラーと八重子、樺太に行き、伝道活動を行う。


1913年 バチェラー、「アイヌ教化団」を組織し、平取にアイヌの保育園を建てる。(アイヌ教化団の経過記載はかなり異同がある)


1914年(大正3年) 札幌にアイヌの子弟を収容する寄宿舎「アイヌ保護学園」を建てる。


1918年 八重子の弟の山雄、立教大学神学部を卒業しバチェラーの後継者となる。


1917年(大正6年) バチェラーに洗礼を授けられたアイヌ人江賀寅三、札幌でアイヌ語辞典の編纂に協力する。

1920 年(大正9 年) アイヌ教化団の後援会を組織。顧問に徳川義親、佐上信一(北海道庁官)、新渡戸稲造が就任。バチラーが理事長となり、理事には宮部金吾、時任一彦など。

新渡戸はアイヌ民族を未開人・野蛮人と呼び、「強い民族がより弱い民族を扱う」と説いた。


1922年(大正11年) 後援会の援助によりアイヌ学園(後のバチェラー学園)が設立される。アイヌ民族に中等教育を受けさせるために、子供たちを札幌に集める。


1923年(大正12年) バチェラーは70歳になり、規定により宣教師を退職した。その後も札幌に留まり、北海道庁の社会課で嘱託として働く。

1923年 聖公会の手により平取幼稚園が創立される。「社会福祉法人聖公会北海道福祉会バチラー保育園」として現存。


1924年 アイヌの青少年育成の為に『バチェラー学園』(寄宿舎)を設立する。有島武郎、新渡戸稲造らが財政支援。

1927年 違星北斗、平取に滞在してバチェラー幼稚園で働く。2年後に死亡(27歳)

日記にこんな歌を残す

五十年伝道されし此のコタン、見るべきものの無きを悲しむ

沙流川は 昨日の雨で 水濁り コタンの昔 ささやきつつゆく

平取に 浴場一つ 欲しいもの 金があったら建てたいものを

1928年 バチラー『ジョン・バチラー自叙伝~我が記憶をたどりて』(文録社)を発表。徳川義親公爵が序文を寄せる。このとき74歳。
バチェラーにはこの他に下記の伝記がある。

ジョン・バチラー遺稿『わが人生の軌跡』北海道出版企画センター 93年

ジョン・バチラー(安田一郎訳)『アイヌの伝承と民族』 青土社 95年

1931年(昭和6年) 新渡戸稲造を会長とする財団法人「バチェラー学園後援会」が出来る。

1934年1月 伝道師 エディス M.ブライアントが死去。

1934年 ペンリウクの「頌徳碑」が義経神社境内に建立される。当時の村長が碑文を揮毫


1936年(昭和11年) 妻ルイザが札幌でなくなる。享年92 歳。遺骨は円山墓地に埋葬される。


1941年(昭和16年)11月 太平洋戦争の直前、バチェラーは敵性外国人として追放させられた(88歳)


1944年 (昭和19年)4月 郷里サセックス州の生家で逝去。91歳であった。