鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

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幕末期 国学や水戸学の一部や吉田松陰ら、「日本書紀」の記述を牽強付会。日本が朝鮮を支配していたと主張。これを論拠として朝鮮進出を唱える。背景に朝鮮侵略で、欧米からの圧迫の代償を得ようとしたと言われる。

長州藩の桂小五郎(木戸孝允)は征韓論に基づく日朝提携論を唱え、勝海舟に献策。勝は欧米勢力に対抗する日清韓三国の連合を構想した。(木戸は後に反征韓論に転換)

1864年 国王の後見となった大院君は、清を除く他国との通商・交流を禁止する強力な鎖国政策を開始。

1866年

2月 大院君政権が「丙寅教獄」と呼ばれるキリスト教弾圧。フランス人宣教師9人、朝鮮人教徒8000人を殺害。

7月 米国の武装商船ジェネラル・シャーマン号が大同江へ侵入。座礁した際に朝鮮民の攻撃を受け、全員殺害される。

10月 フランス人宣教師殺害に対し報復攻撃。フランス極東艦隊が1ヶ月に渡り江華島を占領、朝鮮軍と戦う。

1867年

1月 八戸事件発生。「八戸順叔」なる香港在住の日本人が、清国広州の新聞に「日本(幕府)は軍備を西洋化し、朝鮮を征討しようとしている」との記事を寄稿。清・朝鮮の疑念を招く。

3月 徳川慶喜がフランス公使ロッシュに、フランス・朝鮮間の調停を依頼する。

7月 老中板倉勝静から対馬藩へ八戸記事を公式に否定するよう命じる。

11月 徳川慶喜、大政を奉還。

1868年

1月(旧暦で慶応3年12月) 王政復古の大号令。錦旗をいただく明治政府が成立。鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと進展。

1月 新政府は対馬藩を介して発足を通告し、国交確立を望む。朝鮮側は国書の受理を拒否。

これまで外交権を代表する徳川将軍と朝鮮国王は彼比対等の礼をとっていたが、国書は清国皇帝の使用する字句である「皇」「勅」などを含んでいた。

4月 江戸開城。

10月 慶応4年から明治元年へと改元。

11月 新政府、対馬藩を通じて国書を送り、王政復古したことを知らせる。この中で新しい印鑑や「左近衛少将」「朝臣」「皇」「勅」などの文言が含まれていたことから、朝鮮政府は受け取りを拒否。

12月 岩倉具視、木戸孝允らが国書受理拒否の事態を受け朝鮮侵略を画策。戊辰戦争に動員された将士を朝鮮侵略に転用するとともに国民の眼を外にそらしたいと考えていた。

1870年(明治3年)

2月 明治政府は特使佐田白茅を釜山に派遣。国交を求めるが拒否される。

4月 佐田白茅は、朝鮮の対応に憤慨し征韓を建白する。「三十大隊を出兵すれば朝鮮を征服できる」とし、参議の木戸孝允が訴えに共鳴。

7月 薩摩藩士の横山安武が、征韓論の非を訴え諫死(切腹)。

12月 岩倉視察団が出発。岩倉・大久保・木戸の三巨頭と伊藤博文らが1年10か月にわたる外遊を行う。「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と批判される。

1872年(明治5年)

1月(明治5年) 対馬旧藩主を朝鮮に派遣し国交を要請。朝鮮はこれを拒否。

5月 対朝鮮交渉は外務省の専管となり、対馬藩の関係は解消される。

8月 外務大丞花房義質が釜山の日本人滞在施設「草梁倭館」に赴き折衝するが不調に終わる。

1872年 大院君の排外鎖国政策がさらに強化される。これに伴い排日の風も強まる。

1873年(明治6年)

伊達宗城が清に派遣され、日清対等の日清修好条規の締結に成功する。朝鮮は再度の国交交渉呼びかけも拒否。

5月 朝鮮が、釜山の日本人滞在施設「草梁倭館」に日本を侮辱した書を掲示。倭館への食糧供給を拒絶する。

6月 閣議で対朝鮮外交問題を議論。板垣退助は居留民を保護するため兵を派遣するよう主張。西郷隆盛は派兵に反対し、まず大使を派遣し直接交渉するよう主張(遣韓論)。

6月 太政大臣三条実美は、閣議を受け、朝鮮出兵と特使派遣を含む原案を作成。西郷は自身が大使として赴くと主張し即時出兵を抑える。これを板垣・大木・後藤・江藤が賛同。

6月 副使大久保利通、が帰国。そのまま閉居となる。

7月 木戸孝允が帰国。原因不明の脳発作のような持病が出現。そのまま閉居となる。

7月 中国出張から戻った外務卿の副島種臣、遣韓大使の派遣に賛成したが大使にはみずからあたることを要望する。

8月17日 閣議で西郷の遣使を決定。事重大に属するので岩倉大使の帰国を待って熟議することとなる。

8月 三条は明治天皇を巻き込んで決行を抑える。三条の意を受けた伊藤博文がフィクサーとなる。

9月23日 岩倉具視,大久保利通らが欧米視察から急遽帰国。西郷派遣案潰しに奔走し始める。

「10月政変」

10月12日 大久保利通が参議に復帰。副島外務卿も参議兼任となる。大久保は厳しい財政状況の中で戦端を開くのは困難とし、西郷と対決する意志を固める。

10月14日 参議会議。岩倉と大久保は、内政改革・国力充実を急務として出兵・遣使に反対。西郷・板垣・江藤・後藤・副島らと論戦となる。大隈,大木は大久保に同調。
三条は「軍備が整っていない」ことを口実にし、征韓論を受け入れつつ、西郷の派遣を遅らせようと図る。これには岩倉・大久保・木戸が反発し、辞職の構えを見せる。

10月18日 三条は病に倒れる。副島・江藤・後藤・大木喬任の四人で行われた閣議は、岩倉を太政大臣摂行とする。

10月20日 明治天皇が三条邸への見舞いを行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任を命じる。大久保利通の差し金によるとされる。

10月22日 西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、朝鮮遣使を発令するよう談判。岩倉は自らが太政大臣摂行となった以上、自分の意見を奏上するとし、事実上遣使を拒否。

10月23日 西郷、参議を辞任し東京を離れる。

10月24日 岩倉は樺太問題が急務であるという趣旨を上奏し、大使派遣の中止案が裁可される。西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を解かれる。大久保・木戸らの辞表も却下される。

10月25日 板垣・江藤・後藤・副島らの辞表が受理される。以降岩倉・大久保政権となる。大久保は内務省への全権集中を図る。

10月25日 西郷らの辞職を受け、の薩摩系官僚・軍人の約600人もが明治政府に辞職を申し出る。

1874年(明治7年)

1月 岩倉が赤坂喰違坂で旧土佐藩士暴徒に襲われる。軽傷を負うが命に別状なし。

1月 板垣、江藤、副島、後藤らが愛国公党を結成し、民選議院設立建白書を政府に提出する。

5月 宮古島島民の遭難を発端として、初の海外出兵となる台湾出兵。この後大久保は右旋回。木戸孝允は出兵に抗議し参議を辞任。木戸は当初征韓論者であったが、外遊後は反征韓論に変わった。

1875年(明治8年) 江華島事件。李氏朝鮮に対して軍艦を派遣。

1875年 日朝修好条規(江華条約)を締結する。朝鮮侵略の突破口。

1876年(明治9年)10月 熊本県で神風連の乱、3日後に「秋月党」の乱が発生。




征韓論の動きは現在の安倍政権の行動ときわめて類似している。

最大の類似点は、朝鮮政府側に落度がないということである。
もっぱら日本政府側が難癖をつけ、それを口実に韓国に口出しし、手出ししようとしていることである。

もう一つの類似点は、日本側の行動の理由が下心があってのものだということだ。初期の木戸孝允らがあけすけに語っているように、それは戊辰戦争後の失業武士や兵士の不満の、イデオロギー的はけ口として期待されている。もちろんそれは成立したての新政府の基盤強化に役立つであろう。
そして三つ目の類似点が、真の敵である中国やロシアなどとの衝突に備えた橋頭堡としての朝鮮半島の確保である。
これらを一言で言えば、軍国主義・帝国主義の強化だ。

大久保も木戸も西郷と変わるところはない。その攻撃性においてまったく一致している。それをいかに実現するかという手法の違いだけだ。
平たくいうと「食われないためには食うしかない」ということで、それが19世紀後半の世界政治の論理だったというほかない。ただ、「朝鮮人民にはまことに相済まないことであった」という反省は持たなければならない。これがないと、いくら未来志向と言っても、そもそも話は始まらない。

ナポレオン戦争とドイツとヘーゲル

ヘーゲルの思想遍歴を知る上でナポレオンのドイツ侵略はよけて通れない。

フランス革命がそれ自体は隣の国の事情であったのに比べ、ナポレオンの侵攻はすべてのドイツ人が巻き込まれる一大事であった。

否が応でもフランス革命の必然性、神聖ローマ帝国の行く末、ドイツの近代化についてすべてのドイツ人が思いを致さざるを得なくなった。

そのなかで辺境国プロシアが「近代化」の道を歩みだしたとき、ドイツ人に方向をしめしたのがヘーゲルだったとすれば、その政治姿勢がヘーゲルへの支持を呼び込んだのではないだろうか。
精神現象学もエンチクロペディーもその後に付いてきたのではないのか。



1792年 フランス革命戦争が始まる。市民革命の波及を恐れる周辺諸国のフランス侵攻が引き金となる。フランスでは農民や都市下層民を中心に50万人規模の志願兵が集まる。

1793年 イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどによって第一次対仏大同盟が結成される。

9月 ヘーゲルがチュービンゲン神学校を卒業。スイスのベルンにシュタイガー家の家庭教師として赴く。

1795年 ポーランド、プロイセン、オーストリア、ロシアによって分割され国家として消滅。

1796年

3月 第一次イタリア遠征の開始。ナポレオンがイタリア方面軍司令官に就任する。

1797年

10月 北イタリア戦争、フランス側の勝利に終わる。フランスは南ネーデルラントとライン川左岸を併合。オーストリアの敗退により第一次対仏同盟が解体。

ヘーゲル、ヘルダーリンの誘いで、フランクフルトに移動。シェリングの助けを借りてカント・フィヒテの影響を脱却。


1798年

7月 ナポレオン軍がエジプトを制圧。しかし英国に制海権を奪われ孤立。

12月 イギリス、オーストリア、ロシアなどによって第二次対仏大同盟が結成される。

1799年

11月 ブリュメールのクーデター。エジプトを脱出したナポレオンが政権を握る。

ヘーゲル、スチュアートの「国民経済学」(独訳)の読書ノートを作成。

1801年

2月 オーストリアとの間で二度目の陸戦となるが、ナポレオン軍が勝利。第二次対仏大同盟も崩壊する。

ヘーゲル、シェリングに招かれイエナ大学の私講師となる。カント・フィヒテに対する激しい批判を展開。

1802年

3月 アミアンの和約。イギリスとフランスが講和。

1803年

5月 イギリスがアミアンの和約を破棄してフランス第一共和政に宣戦。ナポレオン戦争の始まりとされる。

シェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去る。ヘーゲルは助教授に昇格。

1804年

12月 ナポレオンが戴冠式。第一帝政が発足する。

1805年

イギリス、オーストリア・ハプスブルク、ロシアが第三次対仏大同盟を結成し戦争を挑む。プロイセンは中立的立場を取る。

9月 ナポレオン、ウルムの戦闘に勝利しウィーンに入る。

10月 トラファルガーの海戦。フランス・スペイン連合艦隊がネルソン率いるイギリス艦隊により壊滅される。

12月 アウステルリッツの戦い。ロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑むが敗北。

ヘーゲル、「精神現象学」を完成させる。序文にてシェリングを批判したため、絶縁状態となる。

1806年

神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖でも、ローマでも、帝国ですらない帝国が崩壊する。

7月 西南ドイツ諸邦が親ナポレオンのライン同盟を立ち上げる。

7月 プロイセンは中立を破棄し、イギリス、ロシア、スウェーデンなどと第四次対仏大同盟を結成。

10月 プロイセン、フランスへの単独宣戦。ナポレオン軍が怒涛の進撃。プロイセン軍はイエナ・アウエルシュタットの戦いで壊滅的打撃を受ける。

10月 ナポレオン軍がベルリンを制圧。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、東プロイセンのケーニヒスベルクへ逃げ込む。

シャルンホルストはリューベックで、グナイゼナウはマルデブルグで最後まで抗戦し、弾薬が尽き降伏。

11月 ベルリン入りしたナポレオンが、大陸封鎖令を発布する。

1807年

2月 ナポレオン軍、東プロイセンに入りプロシア・ロシア連合軍と戦闘。吹雪の中、膠着状態に入る。

6月 東プロシアの闘いはナポレオン軍の勝利に終わる。

7月 ティルジットの和約が結ばれる。ポーランド旧領の一部がワルシャワ公国として独立を回復。プロイセンはエルベ川以西の領土を失う。プロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が置かれナポレオンの弟が即位する。

屈辱的な敗北を喫したプロイセンでは、哲学者フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行い、またシャルンホルストとグナイゼナウによる軍制改革が実施された。

1808年

5月 ナポレオン、スペインを併合。スペインで国民的な抵抗が起こり泥沼化。

ヘーゲル、バンベルグ新聞をやめ、ニュルンヘルク・ギムナジウムに就職。

1809年

4月 オーストリアは、イギリスと第五次対仏大同盟を結びバイエルンへ侵攻。ナポレオンは直ちに反撃しウィーンを制圧。

10月 オーストリアは領土の割譲と巨額の賠償をせまられる。

1810年

ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。ナポレオンはロシア攻撃を決意する。

1812年

6月 27万のフランス軍を主体とし同盟国の軍隊を含む70万の大陸軍がロシア国境を渡る。ロシア軍は正面対決を避けつつ、焦土戦術によって食料の補給を断つ。

10月 ナポレオンはモスクワからの撤退を決意。撤退の過程で、大陸軍では37万が死亡し、20万が捕虜となった。故国に帰還したのはわずか5,000であった。

ロシアはドイツ諸侯に大同同盟を勧め、「ロシア・ドイツ諸侯軍」を結成。プロイセンにも同盟を提起する。

1813年

3月 プロイセンがフランスへ宣戦布告。ドイツではこれを「解放戦争」と呼ぶ。

国軍のみならず義勇軍も組織され、国民意識鼓吹のため「鉄十字勲章」も創設される。

8月 イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデンによる第六次対仏大同盟が成立。

10月 ライプツィヒの戦い。19万のフランス軍に対して36万のロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍が包囲攻撃。フランス軍は多くの死傷者を出して敗走した。ドイツでは「諸国民の戦い」と呼ばれる。

1814年

3月 連合軍はパリに入城。ナポレオンは退位する。ルイ18世が即位し王政復古。

1815年

3月 エルバ島を脱走したナポレオンは、パリに入城して再び帝位に就く。

6月 ワーテルローの戦い。フランス軍は完全に崩壊する。

フランス復古王朝が事実上の降服を認める第二次パリ条約に調印。ナポレオン戦争の終焉。

日本の旧石器文化

春成 秀爾さんが表を使って編年基準を示してくれている。とりあえずこれを使って年表を作成していくことにする。
旧石器

この表を見ても、いかにみんなが勝手に時代区分を作成しているかが分かる。
数字は“XX年前”という意味だ。“14C”を用いた年代測定値を加 速器質量分析(AMS)法により較正したもので、「精度が高くなった」らしい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/40/6/40_6_517/_pdf
 
旧石器時代を前期、中期、後期と分ける分類があるが、国ごとに違っていて、素人を混乱させるだけである。
地質学分類を持ち出す人もいるが、新生代以降については何の役にも立たない。
3つに分ければ十分である。ひとつは土器出現以前の純粋石器時代。ふたつめは縄文土器の出始めの時代。これは細石刃時代とほぼ一致するので、どちらで呼んでもいい。
本質的には細石刃だろうが、有効性という点では縄文草創期であろう。3つ目が本格縄文時代である。

絶対年代で言うと

① 純旧石器時代 一応3万5千年前からということににあるが、もう少しさかのぼっていくだろう。といっても4万年までか。

3期で十分と言いつつ、早くも①を二つの亜期に分ける。すなわち 
A) 温暖期(プレ姶良)と、B) 寒冷期(ポスト姶良)になる。
その境目は2万9千ないし8千年前になる。
自然事象としてはマイナーだが、2つの点で重要である。すなわち、ナウマンゾウと大形鹿がいなくなったことと、縄文人の主役が朝鮮出身者から樺太出身者に変わったこと。である。

② 前縄文期・細石刃時代 土器が確認される最初期が1万6千年前、細石刃が広がるのが1万4千年前と言うから、中をとって1万5千年としてはどうだろうか。
長い重畳期があるので、旧石器人と縄文人は同一民族すなわち主として北から来たD系人と思われる。

③ 本格縄文時代 1万年前から始まるということになっている。前・中・後・晩期と分かれるが、これは別な扱いになる。

なお日本の考古学の世界では①+②を後期旧石器、それより前を前期旧石器と呼ぶらしい。歴史を学ぶものとしては、率直に言ってナンセンスである。



3万5千年前 寒冷期の開始

このあと寒冷期が1万4千年前まで続く。

野尻湖時代(広島以北。群馬、長野、千葉など)

大型環状集落と、大型動物(ナウマンゾウやオオツノジカ)を解体するための磨製石斧で特徴づけられる。
これらの大型動物は中期更新世(約43万年前)に中国本土から渡ってきた。当時は温暖であった。

約3万年前  姶良Tn火山の噴火 

この後大型動物の狩りは消滅。ニホンジカ ・イノシシの落とし穴狩りに移る。落とし穴は宮城から鹿児島までの間で発見される。

2万9千年前 岩宿で発見された旧石器はこの頃のものとされる。

2万2千年前 港川人 

現在のところ、①本土の縄文人との類似性はなく、現代オーストラリア・ニューギニア人との類似性が認められる。③先島へは南から、中部圏には九州から渡来した。その時点で
港川人はすでに絶滅していた。


2万年前

地質学的には後期更新世末期  
考古学的には旧石器時代第2期  黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた工具

中国大陸の文化とは似ていず、ヨーロッパの旧石器文化と共通する特徴があり、日本独特と考えられる。

宮城県の薬莱山の文化や座散乱木遺跡がこれに相当する。これらの遺跡では縄文文化への連続性が確認される。

1万6千年前 

太平山元(Ⅰ)遺跡 土器の内側に炭化物が付着、もっとも古い煮炊きの後である。弓矢の使用を示す石鏃も、世界でもっとも古い。

植物食の本格化に合わせ部分的に縄文草創期が開始する(御子柴文化)。

南九州では丸 ノ ミ形磨製石斧や石臼 ・磨石の普及。定住を示唆する竪穴住居もはじまる。

1万4千年前  

シベリアからやってきた細石刃文化。北欧から沿海州そしてアラスカまで広がる。鮭の漁労に関係しており、比較的北方に限られる。

1万年 本格的縄文期(縄文早期)に入る。

紀元前5千年 環状集落と墓地をもつ定住生活に入る。

リーマン・ショック後の動き 金融政策を中心に
9.19 増補しました。ネタは主として「世界的金融危機の構図」(井村喜代子)です。2009年6月までの事項しかないので、さほど内容的には増補になっていません。

2008年

08年9月
9月07日 米政府、政府系金融機関の連邦住宅抵当公社(ファニーメイ)と連邦住宅貸付抵当公社(フレディマック)を政府の管理下に。
9.15 米投資銀行リーマン・ブラザーズが倒産。米国史上最大の倒産となる。
9.15 米投資銀行メリルリンチをバンク・オブ・アメリカが買収。
9.16 世界最大の米保険会社AIGが経営破綻、政府が管理下に。AIGは大量のCDS(倒産保険)を扱っており、破綻すればリーマンとは比べものにならない位の大混乱が起きるところだった。
9.16 FRB. ECB、BoEが緊急資金供給。
9.18 米欧日6中央銀行が史上初「ドル供給制度」で緊急ドル供給。
9.20 米政府7000億ドルの「緊急経済安定化法案」提案。
9.21 FRBが投資銀行ゴーノレドマン・サックス、モルガン・スタンレーの銀行持株会社への移行承認。米投資銀行が消滅。
9.25 S&L最大手ワシントン・ミューチュアルが破綻。
9月29日 米下院、共和党の反対で金融安定化法案を否決。予想外の結果に反応して株式市場が大暴落。世界同時株安始まる。
9.30 米欧日10中央銀行が「ドル供給制度」枠を倍増。FRBとのスワップ協定によりドル資金を供給。

08年10月
10月03日 米議会、共和党の賛成を得て「金融安定化法」を修正可決。不良債権買取のため最大7000億ドルの公的資金を投入することが決まる。
10.03 米ウェルズ・ファーゴ銀行がワコビア銀行を買収。
10.06 世界的株暴落の再開 ダウは1万ドル割れ。為替ではドル売りで円が5円高騰。
10.07 FRBがコマーシャルペーパーの買取開始。
10.08 欧米主要6カ国中銀が初の協調利下げを実施する。金利2→1.5‰に低下。
10.10 G7が金融危機対策「行動計画」発表。米欧が協調して公的資金を供給。
10.14 米、安定化法に基づく不良資産救済プログラム(TARP)を発動。大手9銀行への公的資金供給を発表(不良債権買取り用から転用)
10.24 景気悪化懸念で株の世界同時下落の再燃。ダウ8175ドル。日経平均は8000円割れ。
10.29 FRB、FF金利を1.0%に。
10.31 日銀公定歩合0.3%に。
10.31 ニューヨーク株史上最大下げ幅。
10月  欧米当局が金融機関への資本注入,銀行間取引の保証,預金保護の拡大等を実施。

08年11月
11.05 IMFが対ウクライナ融資を承認。その後、対ハンガリー融資等の承認が続く。
11月07日 米大統領選でバラク・オバマ勝利
11.14 G20による「金融市場および世界経済に関する緊急首脳会議」を開催。「金融サミット」と呼ばれる。
11.23 シテイ・グループが経営危機を迎える。政府が資本注入、保有資産への政府保証など支援策を発表。
11.25 FRBが8000億ドルの追加金融対策を発表。CPと資産担保CPの直接買取り、資産担保証券(ABS)支援、政府系住宅金融機関(GSE) 2社発行の住宅ローン担保証券および債券買取りなどをふくむ大規模なもの。
11.26 EUは、2000億ユーロの経済対策を発表。各国の財政赤字による財政出動を容認する。

08年12月
12.04 米欧日諸国、金融危機と実体経済悪化が深刻化。EU諸国、10月に続き再度、大幅な金利引下げを実施する。
12.16 FRB、FF金利を0.00~0.25%まで切り下げ。事実上のゼロ金利に移行。


12.19 日銀も公定歩合を0.1%に引き下げる。
12.19 米政府、GMとクライスラーへの支援策を発表。
12月 FRB、量的緩和第1弾(QE1)の導入を決定。実施は09年3月より。

2009年
1月 米国オバマ新政権発足。
1月 ビットコインを使った世界発の商取引。
2.10 米財務省が「金融安定化策」発表。
2.17 米議会で「米国再生・再投資法」(ARRA)が成立する。支援総額は過去最大の7870億ドルに達する。
2.18 米政府、住宅保有者に対する支援などを柱とする住宅対策を発表。
3月10日、日経平均がバブル後最安値を更新(7054円)
3.18 FRB、長期国債3000億ドルの「買い切り」を発表。さらにGSE 2社が発行する住宅ローン担保証券および債券の買取り枠を拡大するなどの対策を発表。
3.20 米財政赤字は09年会計年度で過去最大の1兆8000億ドルに達する。
3.23 米政府、不良資産買取りのための官民投資プログラムを発表。
4.30 クライスラー、GMが破たん。クライスラーが破産法第11条に基づく破産申請をおこなう。
5月 米国で、銀行のストレステスト(健全性審査)の結果が発表される。
6.01 GMも破産法の適用申請。米政府が国有化措置に踏み切る。
6月 FRB、バランスシート上の総資産が約2兆1000億ドルに達する。これは07年7月の2.3倍に相当する。
6月 BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)が初の首脳会議を開催。
8.12 FRB、長期国債の買い切り期間を1ヵ月延長。
8月 衆院選で民主党圧勝。鳩山内閣が発足。
12月 ギリシャで政権交代に伴い、前政権が隠蔽していた過剰債務と財政悪化が判明。ギリシャ国債が格下げ。

2010年
3月 欧州債務危機(ソブリン危機)が勃発。EUとIMFがギリシャに金融支援。
5月 ギリシャの債務危機が南欧諸国に拡大。ユーロの為替レートが暴落する(ユーロ危機)。欧州中銀はユーロ圏諸国の国債買入れに回る。
7月 「金融規制改革法」(ドッド・フランク法)が成立。商業銀行の業務内容を制限する条項(ボルカー・ルール)を盛り込む。
9月 バーゼル銀行監督委員会が「バーゼル3」を公表。主要国の金融監督当局が金融規制の強化で合意。
11月 FRB,量的緩和第2弾(QE2)を導入。
11月 EUとIMF、アイルランドに金融支援を開始。

2011年
2月 中国のGDPが日本を上回って世界第2位となる。
3月 東日本大震災が発生。福島原発事故。
3月 G7が円高阻止で協調介入を実施
4月 欧州中銀,2回にわたり金利引き上げ。1→1.5%に
5月 ギリシャ、アイルランドに続きポルトガルへの金融支援を開始。
9月 「ウォール街を占拠せよ」運動が発生。格差問題に焦点が当てられる。トマ・ピケティの著書『21世紀の資本』がビッグヒット。
10月 円相場,対ドルで史上最高値(75円32銭)
12月 欧州中銀が利下げし年初の1%に戻す。域内の民間銀行に長期流動性供給オペ(LTRO)を実施。

2012年
1月 FRB、年2%のインフレ目標を導入
3月 ギリシャ、事実上の債務不履行
6月 スペインが金融支援を申請。EUとの間で銀行部門に限定して合意。
6月 LIBORの不正操作問題が発覚。
7月 ドラギECB総裁、「ユーロ防衛のためなら何でもやる」と発言。
8月  3党合意に基づく「消費税増税法」が成立。
9月 ECBが域内重債務国に対し、短期国債の「無制限買い入れプログラム」(OMT)を発表。
9月 FRB、量的緩和第3弾(QE3)を導入する。
12月 総選挙で民主党が惨敗。安倍内閣が成立。アベノミクスが開始される。

2013年
1月 政府・日銀の共同声明。前年比2%のインフレ目標を設定。
3月 キプロスで預金封鎖が勃発。EUとIMFは預金者に損失負担を強いる異例の措置。
3月 黒田日銀総裁が就任。インフレ率2%を目標とし、大規模な金融緩和策を発表。
4月 異次元緩和(量的・質的金融緩和)スタート。長期国債の大量購入に動く。
5月 円が4年ぶりに100円を割り込む。
6月 ユーロ圏、大量資本注入で合意。欧州中銀は0.25%まで利下げ。
8月 財務省、国の借金か1000兆円を超えたと発表し、消費税の早期実施を促す。
12月 円安を引き金に、訪日外国人が年間1000万人を突破。インバウンドに注目が集まる。
2013年 サマーズ元米国財務長官、「長期停滞論」を提唱。世界的な需要不足と貯蓄余剰によって、潜在成長率が低下したと説明。

2014年
1月 新興国で通貨危機が表面化
シャドーバンキングの破綻懸念が高まった中国や、政権崩壊のタイ、経済不安のアルゼンチンやトルコなど、新興国の通貨が暴落。
2月 米FRB議長が交代(バーナンキからイエレンへ)。景気回復に伴い、量的緩和を縮小の方向へ
4月 日本で消費税を増税(5%から8%へ)
6月 欧州中銀、預金ファシリティ金利を△0.1%へ切り下げ。主要国では初のマイナス金利となる。
10月 FRBが量的緩和政策を終了しテーパリングへ移行。リーマンショック以降続いた金融緩和が終わる
10月 日銀、追加金融緩和を実施。国債購入を30兆円増加。
11月 ロシアルーブルが変動相場制へ移行。経済の低迷でルーブルを支えきれなくなり、通貨バスケット制を放棄。

2015年
1月 ECBが量的緩和政策を開始。月額600億ユーロ相当の国債の買い入れを行っていくと宣言。
1月 ギリシャ総選挙。緊縮財政に反対する急進左派連合(SYRIZA)が勝利する。
7月 ギリシャで緊縮財政の受け入れの是非を問う国民投票。反対派の勝利でEU離脱懸念が高まる
7月 東芝の不適切決算処理が発覚。経営危機が表面化する。
8月 中国ショック。当局は景気低迷や上海株式市場の暴落を受けて元安誘導へ転換。
12月 FRB、ゼロ金利政策を解除し短期金利を利上げ。リーマンショック以降、初めての利上げ。
12月 中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)が設立される。

2016年

1月 日銀、量的・質的金融緩和を継続。インフレ目標の達成を目指しマイナス金利を導入。
2月 原油安,中国のバブル崩壊,米国の景気減速懸念などから世界同時株安。
3月 中国と欧州中銀が追加緩和。
6月 消費税の10%への引上げを再延期
7月 英国でEU離脱(ブレグジット)の国民投票が可決。英ポンドは大暴落。
7月 日銀が「総括的検証」を行う。
11月 米大統領選でドナルド・トランプが勝利。
12月 FRBが第1回目の利上げ。その後3回にわたり小幅引き上げ。

2017年 米国の成長率は名目で4.1%に回復。
10月 FRBが資産圧縮を開始。
11月 トランプがアメリカ大統領に当選。「アメリカ・ファースト」を掲げる。
12月 ビットコイン、1BTC=約2万ドルとなる。

2018年 
1月 EUが「第2次金融商品市場指令」(MiFID2)を導入。市場の透明性向上を目指し金融・資本市場に規制。
4月 日銀、目標に2%物価目標の達成時期を記載せず。
7月 日銀「強力な金融緩和継続のための枠組み」を導入。
7月 トランプ政府、中国からの鉄鋼やアルミニウムへの関税を強化。
12月 欧州中央銀行、量的緩和政策の終了

2019年 
3月 みずほFG、6800億円の当期損失を計上。


中国帰還者

公式のものとしてはアジア歴史資料センターの「公文書に見る終戦 -復員・引揚の記録-」というもの。

意外と言っては失礼だが、ウィキペディアの「引き揚げ」の記事が要領よくまとまっており、全体像の理解に役立つ。上のサイトもこの記事のリンクで初めて知った。「引揚者」という同種の記事もあるが、個別の人物にも焦点を当てているためにやや散漫な印象がある。

率直に言って、多くの記事は引き揚げについてと言うより引揚者の手記のようなものが多く、PDF論文も各論の迷路に入りこんだものがほとんどだ。

さらに右翼の諸君の記事はことさらに感情的で、一方的だ。


終戦時海外にいた日本人は、軍人350万人、一般邦人310万人であった。この内一般法人が「引揚者」と呼ばれ、軍人は「復員兵」と呼ばれた。 しかしその人達を載せた船はいずれも引揚船と呼ばれている。

「引揚者に対する特別交付金の支給に関する法律」(昭和42年)で「引揚者」の定義が行われている。

「外地」(日本本土以外の地域)に1945年(昭和20年)8月15日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、終戦に伴って発生した事態に基づく外国官憲の命令、生活手段の喪失等のやむを得ない理由により同日以後日本に引き揚げた者

しかし、基準にはまらないケースが数多くあるため、3つのケース(内容略)が引揚者として扱われた。


昭和20年(1945年)

45年8月

8月 ポツダム宣言が発表される。日本軍の即時武装解除と早期本国帰還を一連の措置としてもとめる。いっぽう民間人帰還については触れられず。

8月14日 外務省、在外公館に対し「三カ国宣言受諾に関する訓電」を発する。「居留民はできる限り現地に定着させる方針」を指示。

8月15日 終戦(ポツダム宣言受諾声明の発表)。この時点で軍人・民間人計660万人以上が海外に在住していた。

陸軍が308万人、海軍が45万人。一般人300万人。
軍管区別では中国312万人(47%)。ソ連(旧満州ふくむ)161万人(24%)。英蘭74万人(11%)。オーストラリア(ボルネオ、英領ニューギニアなど)14万人(2%)。アメリカ(沖縄などふくむ)99万人(15%)

8月21日 総合計画局および内務省管理局が在外邦人引揚の計画を立案することが決まる。(実際にはまったく計画は進行しなかったようである)

8月22日 樺太からの引揚者を載せた小笠原丸・泰東丸・第二新興丸、増毛町沖において、国籍不明の潜水艦の攻撃を受ける(後にソ連軍潜水艦であったことが判明)。小笠原丸・泰東丸が沈没。3隻で約1700名の犠牲者を出す。

8月23日 朝鮮に向かう引揚船浮島丸、舞鶴湾港外において触雷・沈没。524名が死亡。

機雷の触雷事故としては、45年だけで、この他室戸丸(10月7日神戸・魚崎沖 死者355名)、華城丸(10月13日神戸港沖 死者175名)、珠丸(10月14日壱岐島勝本沖 死者541名)がある。

8月23日 ソ連、残留日本兵のシベリア抑留(強制労働)を決定。

8月28日 横浜に米軍が進駐。朝鮮在留日本人送還のため、釜山と仙崎・博多を結び興安丸、徳寿丸の運行を許可。

8月30日 次官会議、外地および樺太在留邦人の引揚者に関する応急措置要綱を決定する。

45年9月

9月01日 興安丸が釜山に向け仙崎を出港。翌日には引揚者7000人を載せ仙崎に入港。引揚船第一船となる。

9月03日 100総トン以上の船舶がGHQ総司令部の指揮下に入る。

9月07日 「外征部隊および居留民帰還輸送等に関する実施要綱」が閣議で了解される。「現地の悲状にかんがみ、内地民生上の必要を犠牲にしても、優先的に処置する」ことを指示。(この項については9月20日の記事と食い違いあり、少し検討が必要。)

9月15日 氷川丸が舞鶴を出航。軍人・軍属(約2千人)の救援のためマーシャル諸島のミレ島に向かう。

氷川丸(NKK)と高砂丸(OSK)の2隻が日本に残された外洋航海可能な船舶だった。ともに特設病院船として艤装されていた。(別記事に掲載)

9月18日 引揚者上陸港(10ヶ所)が指定される。舞鶴、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司。(記事からは誰が指定したのか不明)

9月20日 「外地から内地に引揚げる者…に対する応急援護のため」都道府県に引揚民事務所を設置することを決定。(帰郷した引揚者への内務省レベルの対応であろうか?)

9月24日 次官会議、海外邦人帰還に関し、「極力海外に残留せしめるため、その生命財産の安全を保障する」ことを決定。

連合軍は「日本陸海軍の移動に第一優先を、民間人の移動に第二優先を附与すべし」と指示したとされる。

45年10月

10月03日 アーノルド軍政長官、在朝日本人の本国送還を発表。これを機に、民間人の引き揚げが本格化する

10月10日 GHQ、佐世保などを引揚受入港に指定。引揚事務所を設置する。

10月14日 済州島からの引揚第一船が佐世保に入港。陸軍部隊9997人が上陸。(良く分からないが輸送船1隻に1万人も乗るだろうか。スッポンポンでもあるまいに)

10月15日 GHQ、引揚者の受け入れのため受入事務所の設置を指令。引揚に関する中央責任庁として厚生省が任命される。(GHQは内務省を解体し、あらたに引揚者のためのシステムを立ち上げたとみられる)

10月16日 GHQの細部指令。海外日本人の本国送還に関する方針、引揚のための船舶確保等について指令。

GHQ・極東海軍司令官の下にSCAJAP(Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine)が設立される。100トンを超える船舶の運航や船員管理にあたる。氷川丸などの病院船運行もSCAJAPが管理する。

10月22日 厚生省社会局に引揚援護課を新設。浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島に地方引揚援護局が設置される。また横浜・仙崎・門司の三出張所が設置される。

45年11月

11月24日 上記に加えて唐津、仙崎、宇品、田辺、名古屋、函館に地方引揚援護局が設置される。(この後5月までの半年にわたり頻繁に新設・廃止が繰り返される。いかにも戦闘態勢である)

11月01日 栄丸遭難事件が発生。台湾疎開から沖縄行きの引き揚げ船が遭難して約100人が死亡。

当時、沖縄は米軍占領下に置かれ、引き揚げ事業は開始されていなかった。このため多くの沖縄出身者は民間船による密航で自力帰国した。

45年12月

12月01日 陸軍省、海軍省が廃止される。後身として第1(陸軍)、第2(海軍)復員省が発足。

復員省の所管のもとに佐世保など旧鎮守府に地方復員局が設置された。旧陸海軍軍人の引揚業務を行う。職員の大半は引揚船に乗組み、旧軍人、一般邦人を迎えに行く。

12月01日 厚生省、引揚援護局を設置。一般邦人の引揚業務を開始。

12月7日 スカジャップ、日本船に加え、米国艦船を導入し復員業務に投入。

リバティ型輸送船(7000トン)を100隻、LST艦(戦車揚陸艦3000トン)を85隻、病院船6隻が貸与された。

12月15日 「生活困窮者への緊急生活援護要綱」が閣議決定される。戦災者・引揚者・留守家族・傷痍軍人・戦没遺家族等に対し緊急援護の措置を講じるもの。


昭和21年(1946年)

46年1月

1~10月 海外からの引揚げがピークを迎える。最初は南洋諸島からの民間人約2万人の引き揚げ。この作戦は4月までにほぼ完了。

1月15日 NHK、「復員だより」の放送を開始。約1年にわたり続けられる。

1月 中国国民党、中国共産党、アメリカの三者会談。中国残留日本人の帰還方式について協議。東北部残留の日本人を国民党支配区に移送、遼寧省錦州 の葫芦(ころ)島から送還することで合意。なお旧関東州と安東(中朝国境)の日本人は東北民主連軍(紅軍)とソ連軍が送還することとなる。

46年3月

3月 ソ連軍の東北部撤退が本格化。これに代わり国府軍が東北部に進駐開始。

3月 引揚援護院が設置される。援護局、医務局、地方引揚援護局がおかれる。

3月16日 GHQ、「引揚げに関する基本指令」を発する。

3月 福岡に女性患者のための「二日市保養所」が設置される。

4月 南朝鮮にいた民間人のほとんどが日本へ引き揚げを完了。総数は40万人におよぶ。

46年5月

5月7日 錦州地区に集結した日本人が、葫芦島からの引き揚げを開始。46年末までに102万人、48年末までに105万人の送還を完了。葫芦島に移動するまでの間に24万人が死亡したとされる。

満州からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占める。民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、さらには沖縄戦を凌ぐ。
6月 第一復員省と第二復員省が統合して復員庁となる。その後厚生省に所属。

10月05日 大陸同胞救援連合会が結成される。中国に取り残された日本人の帰還促進を呼びかける。

11月27日 「引揚に関する米ソ暫定協定」サハリンと北朝鮮、大連のソ連占領地区からの日本人引き揚げが米ソ間で合意。

11月 テイチクから田端義夫の「かえり船」が発売され、大ヒット。(歌詞はどうもしっくりこない)

46年12月

12月8日 シベリア引き揚げ船第一船、大久保丸などが5000人を乗せて舞鶴に入港。大連引き揚げ第一船が佐世保入港、3000人帰還。

12月19日 日本の要請を受けたアメリカがソ連との交渉。「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立。サハリンと千島地区からの引き揚げが開始。49年7月の第5次引き揚げまでに29万2590人が引き揚げる。(終戦時の在住者は40万人。公式引き揚げまでに数万人が脱出していた)

12月 共産党支配地域を含めて、東北部の日本人の大半が引き揚げを完了。

12月 46年末までに、東南アジア、台湾、中国、朝鮮半島南部居住民の9割が引き揚げを完了。

昭和22年(1947年)

22年末までにソ連軍管区以外の陸海軍兵士の復員がほぼ完了。

 

昭和23年(1948年)

5月 引き揚げ事業が一段落したのを機に、復員局と引揚援護院は一体となって引揚援護庁という厚生省の外局となった。これに伴い地方引揚援護局はすべて閉鎖される。

引揚者団体全国連合会が発足。

昭和24年

01月09日 佐世保にボゴタ丸が入港。フィリピンより日本人将兵4,515人の遺体と300余柱の遺骨を運ぶ。1ヶ月をかけて野天で火葬される。身元不明の遺骨300は、そのまま埋葬される。

6月27日 ソ連からの帰還者を乗せた高砂丸が到着。乗船者2千名は”インターナショナル”を歌いながら入国する。

24年末までに軍人軍属を含む624万人が帰還を完了。その後、朝鮮戦争の開戦により帰国事業は停滞。

昭和25年

4月 ソ連の捕虜抑留の実態が明らかになる。国会は「在外抑留同胞引揚に関する決議」を採択し国連に提訴する。国連は捕虜特別委員会を設置。

昭和27年

12月 北京放送、中国在留の日本人3万人の帰還を援助すると発表。

昭和28年
3月5日 北京協定が締結される。「日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ」発表。

3月23日 中国からの帰還が再開される。第一船は興安丸、第二船は高砂丸で合計3968人。

中国帰還者

11月19日 日ソ赤十字会談。「日本人捕虜の送還に関する共同コミュニケ」を発表。

11月26日 興安丸、ソ連からの再開第一次引揚船として舞鶴を出港。

昭和29年(1954年)

3月31日 厚生省の引揚援護庁が廃止される。

昭和30年(1955年)

6月 日ソ国交回復交渉が開始。日本はシベリヤ抑留者全員の即時帰国をもとめる。

昭和31年

7月 中国からの釈放日本人戦犯335名が興安丸で舞鶴に入港。

10月 日ソ共同宣言・通商議定書調印、抑留者全員の釈放が決定される。

12月26日 興安丸最後の便が舞鶴港に入港。シベリヤ抑留者の最終集団が帰国。

日ソ国交回復により、樺太の日本人約800人とその朝鮮人家族約1500人が集団帰国 

 


引揚げ関係年表として下記を参照した。

引揚関係年表(全般)

引揚関係年表・昭和21年

引揚関係年表・昭和22年

ウィキペディアの以下の事項を参照した。

引き揚げ

引揚者

引揚援護庁

地方引揚援護局

在外父兄救出学生同盟

栄丸遭難事件

三船殉難事件 小笠原丸 第二号新興丸

葫芦島在留日本人大送還

興安丸 高砂丸

引揚者団体全国連合会

 

 結局、全面的に着手してしまいました。意外に日本語資料が多く、読みこなすだけで数日が費やされてしまいました。

日本語版ウィキペディアにはいくつか不正確な記述があるようです。別に論争的なテーマではないので、早めに訂正されるよう期待します。



怖いもので、載せて送ったつもりが送られていませんでした。焦ってバックアップ・ファイルを除いたら、運よく残っていました。ただし、これは最終版ではなく、いくつか重要な事項が抜けています。

とりあえず載せておきますが、近日中に補充します。

1860年 モロッコ南部のイフニ地方がスペインの植民地となる。イフニは港町ジジ・イフニを中心とする1900平方キロほどの地域で、西サハラからは離れている。

1885年 スペインはボジャドールを南端とする「西サハラ」の保護領化を宣言。それまで西サハラはモロッコ王国の影響下にあったが、支配関係にはなかった。

もともとの住民は黒人であったが、北部から「ベルベル人」が移動してきて多数派となり、その次に13世紀頃に東からやってきた「アラ ブ人」と混淆していった。主に遊牧を営み、みんなひっくるめて「サハラウィ」(サハラの民)と総称される。

1910年 マー・アルアイニン、モロッコを攻撃。マラケシュを占領しフェスに向かうがフランス軍に敗れる。内陸部に逃れスマラの町を建設。

マー・アルアイニン: 本名はモハメッド・ムスタファ・ウーラッド・シェイク・モハメッド・ファデル。マー・ア ルアイニンは「目の水」という意味の通称。モーリタニアから西サハラまで の部族を統率、植民地支配者に対する抵抗の指導者となる。モロッコ攻撃は植民地解放運動へのスルタンの不誠実な対応に抗議するものといわれる。
 マー・アルアイニンは1911年に世を去ったが、息子たちがさらに6年にわたり抵抗運動を続けた。

1912年 モロッコ、スペイン・フランス協定によって保護領となる。「アラウィー朝」王室は存続したが外交権等を剥奪される。

1912年 スペインとフランスの協議により西サハラの境界線が確定。スペインは西サハラにモロッコ南部の保護領タルファヤ地方とイフニ飛び地を加え、スペイン領西アフリカとして再編する。

一説によれば、スペインはモロッコ南部に侵入し、16年にジュビィ岬(Cape Juby)を占領、ビリャ・ベンスを建設。20年にさらにラ・ゲーラを占領し、この地帯を南部保護領とした後、西アフリカに編入したとされる。この前後にビリャ・ベンスはタルファヤと改称され、スペイン領西アフリカの首都とされた様子。

1928年 サンテグジュペリのレポート「リオ・デ・オロ」に拠れば、スペインの植民地支配は海岸線に限定される。この年ラユーンの街が建設される。

1934年 スペイン軍、サハラウィの抵抗を抑える。西サハラはスペイン領サハラと改称。南部のリオ・デ・オロと北部のサギア・エル・ハムラより構成される。

1947年 ブークラーで燐鉱石鉱脈が発見される。

1956年 モロッコがフランスから独立。スペインにも南部支配地イフニ、タルファヤの返還をもとめる。

1957年 

8.11 「サハラ解放軍」が西サハラ北部のリン鉱山の町シジ・イフニで蜂起。イフニ戦争が始まる。スペインはカナリア諸島から落下傘兵連隊を送り、「サハラ解放軍」を退ける。

サハラ解放軍: モロッコの主要政党のひとつイスティクラール党の組織した義勇兵部隊。サハラウィも大挙参加した。

1958年

2月 ハッサン二世、「サハラ解放軍」を再編し、援助を強化する。スペインはフランスの「軍事協力」を得て掃討に乗り出す。

4.01 アングラ・デ・シントラ協定が成立。モロッコはジジ・イフニ周辺のスペイン支配を認め。「サハラ解放軍」への支援を打ち切る代償としてタルファヤとタンタンをふくむ南部保護領の返還を獲得する。

1962年 アルジェリアがフランスから独立。北アフリカにおける民族解放運動のリーダーとなる。

1963年 西サハラ北部ブーカラー (Bou Craa) のリン鉱床の埋蔵量が最大規模の鉱脈であることが明らかとなる。世界の採掘可能燐鉱石の9パーセントに達するとされる。

1965年 西サハラが国連の「独立すべき植民地リスト」に載せられる。翌年にはアフリカ統一機構(OAU)が西サハラの自決権を支持する決議を採択。

1967年 バシリらが中心となり、アイウンに独立を目指す組織が結成される。

1968年 騙されて外人部隊に入隊した日本人2人が砂漠越えの脱走を企てる。3日後には暑さに耐えられなくなって外人部隊駐屯地に引き返し、重営倉(軍隊の懲罰施設)入りとなっ た。

1969年 スペイン、西アフリカの首都となっていたイフニをモロッコに割譲。これに代わりラユーンに総督府がおかれる。

ラユーンは欧米での発音。元々はアラビア語で “al-Aiyun” なのでアル・アイウンが正しい。征服したヨーロッパ人が “Laayoune” と呼び表記した(綴りはスペイン語というよりフランス語ですね)。現地でもラユーンで通用する。東京がトキオになった感じ。
ヨーロッパ語読みは邪道と言われるかもしれないが、それならメヒコ、クーバ、オンドゥラス、ベネスエラ、アルヘンティーナ、チレと呼びますか? 中華民国、朝鮮民主主義人民共和国と呼びますか?

69年 北部スマラの聖職者ムハンマド・バシリ、秘密結社「ハラカト・タハリール」(解放運動)を結成。正式には「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放運動」とされる。

サギア・エル・ハムラはアラビア語で「赤 い運河」を意味する。州都ラユーンを水路が横切っていることから名付けられた。西サハラの北1/3をなす。リオ・デ・オロはスペイン語で「黄金の川」の意味。国の南部2/3を成す。州都ダクラに川が走っていたことから名付けられたという。

1970年

6.17 ハラカト・タハリールがラユーンのスペイン総督に対しサハラの独立と公正な扱いをもとめる請願デモ。市内ゼムラ地区で警察との衝突とな り、外人部隊が出動。少なくとも11人が死亡し、多数が負傷、数百名が逮捕される。指導者バシリは数日後に逮捕されたあと消息を絶つ。

1971年 モロッコ軍内に、ハッサン二世の統治への不満が高まる。ムハンマド・アバドゥ大佐がクーデタを試み、72年には国王専用のボーイング機が狙撃されるなどテロの標的になったが、ハッサン二世は奇跡的に生還した。

1972年

5月 「統一と解放のための戦線」(FLU)を名乗る武装組織が西サハラに侵入。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方を相手に戦闘を開始。実体としてはモロッコ軍の一部とされる。

1973年

5.10 モーリタニア領のアイン・ベンティリで、スペインからの独立を目指すポリサリオ戦線が結成される。

ポリサリオ戦線: Frente Popular de Liberación de Saguía el Hamra y o de Oro の頭文字をとったもの。正式には「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放人民戦線」となる。
 
モロッコの大学に留学するサハラウイ学生を中心に結成され、エル・ウアリ・ムスタファ・サイードが書記長に就任、アブデルアジズらが指導。

5.20 ポリサリオ戦線、エル・ハンガでスペイン軍部隊と最初の交戦。わずか7名のゲリラでスペイン兵16名に勝利。

73 モロッコ、アルジェリア、モーリタニアの3国首脳会談、西サハラの「自決」を求める。

73年 スペイン政府は、内政自治計画を声明。西アフリカを「海外県」とし、現地議会「ジェマー」を開設。本国議会にも3人の議員を送る。親スペイン政党「サハラウイ国民統一党」(PUNS)が結成される。

1974年

7月 スペインの独裁者フランコ総統が病に倒れる。このあと軟化したスペイン政府は国連の監視下において西サハラでの住民投票を行う方向を打ち出す。

74年 スペイン植民地当局が、住民投票の権利を有する西サハラ住民の名簿を作成。この時点では西サハラの登録人口は5万人しかいなかった。

74 モロッコは西サハラの独立を選択肢とする住民投票を拒否。「大モロッコ主義」を唱えて西アフリカの領有権を主張する。

大モロッコ主義: 16世紀以降にモロッコが支配してきた地域はみな現在のモロッコ王国に統合されるべきであるとの考えで、西アフリカだけでなくモーリタニアの全域・マリの北西部・アルジェリア西部までをも含んでいた。


西サハラポリサリオ戦線の戦い

西サハラの闘い その3

西サハラの闘い その2



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