ゴーストップ事件
1933年(昭和8年)に大阪の天六交叉点で起きた陸軍兵と巡査の喧嘩が事の起こり。
それに端を発して陸軍と警察のメンツをかけた大規模な対立に発展した。
当時信号を「ゴーストップ」と呼んだことから、ゴーストップ事件と言われる。(ウィキペディア)
大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点(通称 天六)には、当時珍しい交通信号機があった。
ようやく自動信号が付いたころで、往来の人、車とも不慣れのため信号無視が多く、かえって危険だと交差点の中央に巡査が立ち、交通整理していた。(大阪日日新聞) |
天六交差点
天六交差点には、新京阪鉄道「天神橋」駅がそびえていた。この建物は、大正14年に高架プラットホームを設けた日本初の高層ターミナルビルとして建造された。その一角に大阪府警察曾根崎署天六派出所も入っていた。
この日の巡査は戸田忠夫が担当していた。戸田は阪急梅田駅前が勤務場所だったが、同僚の病欠でこの日だけ天六に回されていた。
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戸田忠雄巡査 |
中村政一一等兵 |
1.事件の発端
6月17日午前11時40分頃、休暇外出中の中村政一一等兵(第4師団第8連隊第6中隊所属)が、市電に乗ろうとして交差点を横断した。この時信号は赤だったが、中村はこれを無視した。
戸田忠夫は中村をメガホンで注意した。さらに取り調べのため、中村を天六派出所まで連行した。
派出所内で、中村は「軍人は憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務はない」と抗弁し抵抗した。
押し問答の末に、派出所内で殴り合いの喧嘩となり、双方ともに顔面に負傷した。
2.憲兵の介入
喧嘩は相当長時間にわたったようで、見かねた見物人が憲兵隊に通報した。
大手前憲兵分隊から、憲兵隊伍長が駆けつけた。伍長は中村を保護し連れ出した。戸田もこれを受け入れ、中村を解放した。
中村は原隊には戻らず、大手前憲兵分隊で憲兵の尋問を受けた。
中村の供述: 停止信号に気づかず横断しかけたところはじめて赤信号に気づいた。 |
3.憲兵隊の抗議
その2時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服着用の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」として曽根崎署に対して抗議した。
大阪日日新聞の記載は異なっている。抗議したのは、憲兵隊から報告を受けた第八連隊の直属上官だったとされている。 |
曽根崎署は戸田を聴取した。戸田は「信号無視をし、先に手を出したのは中村一等兵である」と証言した。
4.事件の情報は上層部に及ぶ
この日、中村の原隊である第8連隊と、戸田の所属する曽根崎署のトップはともに不在であった。このため情報が直接上部にあげられることになった。
大阪日日では、井関参謀長は事件当日には不在で、情報は直接寺内師団長に上がった。慎重派の井関に対し、寺内は「瞬間湯沸器」で直情傾向のため、騒ぎが大きくなったという。 |
と、ここまでが当日の経過。
これにより事件はにわかに大掛かりなものとなった。
4日後(21日)には事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わった。最終的には昭和天皇の耳にまで入ることとなった。
5.師団と府警の対決
22日、軍がまずアクションを起こした。
第8連隊の所属する第4師団の井関参謀長が、「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」との声明書を発表し、警察に謝罪を要求した。
抗議文の内容(大阪日日より) 中村一等兵は地理不案内で、天六交差点の自動信号機に気づかず、横断せむとしたところ、いきなり巡査戸田に襟首をつかまれ、交番に連行され、鉄拳で上唇付近を四回、右掌(てのひら)で頬(ほお)および左耳を強打され、左鼓膜を破られて全治し難いとの診断を受けた。 軍人が法律違反を犯したる場合は、まず憲兵隊に通報すべきなるを、一巡査が勝手に不法行為をなしたること、絶対に許すべからざる暴挙なり。軍に対する大阪府警の悪意ある挑戦と見ざるを得ず。 …本事件は明白に軍人に対する警察の暴行傷害侮辱事件なり。一兵士対一巡査の偶発的街頭問題に非(あら)ず。因(よ)りて師団の総力をあげ、断固たる決意で解決に当たる所在なり。 |
穏便に事態の収拾を図ろうとしていた警察側も態度を硬化させた。
大阪府の粟谷警察部長が第4師団からの抗議文に反駁。
中村政一一等兵はメガホンを用いて再三の戸田巡査の注意に、「生意気ぬかすな、憲兵のいうことなら聞くが、お巡りなど問題にならぬ」と暴言を吐いた。 交番に連れていくと戸田の背中を思いきり軍靴で蹴りあげ、なにをすると振り向いた顔面に、アッパーカットをくら わせ、負傷させた。 よって揉み合いになったが、市民の通報で憲兵伍長が駆けつけて、大事に至らずに済んだ。たったこれだけのことである。 …街頭通行の非番兵士は一市民の資格しかない。当然信号は順守せねばならぬ。法を無視してよいとの特権があるはずはない。 …兵士が陛下の赤子なら、我ら警官も銃後を固める陛下の赤子である。陳謝弁明する気は毛頭ない。(大阪日日) |
6.師団長と府知事の交渉が決裂
24日、事態を収拾すべく、寺内第4師団長と縣忍大阪府知事の会見が持たれたが、これも決裂した。
28日、井関参謀長が二度目の言明。「軍人の身体は上御一人に捧げてある。したがって外出中でも軍服を着ていれば、軍の統帥権内にある。地方人のただなかで面目を潰された時は、昔の武士なら相手を切り捨て、切腹するほどのものだ」と強調。
これに対し粟屋警察部長も、「軍隊行動でない個人としての軍人と、一般市民の扱いに違いはない」と反論する。(れきこん)
粟屋は大分県知事を務めたあと農林省に勤務。昭和17年に退官したが、請われて広島市長に就任。原爆により死亡した。 |
問題は軍部と内務省との対立に発展し、もはや大阪では解決できず、中央での交渉が必要となった。
縣府知事は上京して山本内務大臣に要望を伝える。
警察の措置は法を守る番人として当然のことだ。大阪府は軍に一歩も譲るつもりはない。軍の謝罪で収めてもらいたい(大阪日日) |
7.東京での内務省と陸軍の対決
東京でも攻勢に出たのは軍部だった。
寺内から報告を受けた荒木陸軍大臣は、「伝統ある大日本帝国陸軍の名誉にかけ、大阪府警察部を謝らせる」と発言した。7月3日には現地に乗り込み、第4師団を督励するなど対立を煽った。全国在郷軍人会も中村の応援に乗り出した。
これに対し、山本内務大臣と松本警保局長(現在の警察庁長官に相当)は、「謝罪など論外、その兵士こそ逮捕・起訴すべきだ」との意見で一致した。
松本警保局長の回想: 五・一五事件の直後で、またいつ何が起こるかわからん時点で治安の重責を負う者は誰もが命がけだった。特に軍人が増長して横車を押す傾向が起きたのに対して、警保局長として黙止できない立場に立ったので終始軍部と戦った。 |
8.中村が戸田を告訴
7月18日、中村一等兵は大阪地方裁判所に対し、戸田巡査を相手取り告訴した。当然、寺内師団長の指図によるものである。
告訴内容は、刑法第195条(特別公務員暴行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害罪)、同第206条(名誉毀損罪)とされた。
大阪地検は調査に乗り出す一方、両者の和解を勧告した。小山法務大臣も二度にわたり来阪し、斡旋に努める。
9.両者の暴露合戦
憲兵隊は戸田巡査の本名は中西であることを暴いた。警察は中村一等兵が過去に7回の交通違反を犯していることを発表した。
ただしこれは本人が否定している。中村は入隊前は馬力(荷馬車の御者)で、積み荷のことで巡査に注意されたことがあったという。
メディアはこれらの経過を、「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じた。
7月18日、曽根崎署の高柳署長は過労で倒れ、10日後に死亡した。事件の目撃者の一人は、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺した。
10.「和解」と軍部の実質的勝利
10月末、福井県で陸軍特別大演習。臨席した天皇が荒木陸軍大臣へ「大阪でゴー・ストップ事件というのがあったが、どうなったのか」と質問したという。(この項は未確定情報)
11月7日、県府知事の要請を受けた白根兵庫県知事が調停に乗り出した。事態を憂慮した昭和天皇の特命によるものとされる。
白根の実兄は宮内省幹部。天皇の意を受け、斎藤首相に「陛下が心痛されている」と伝えたという。これを受け、斎藤首相が司法大臣に事件の決着を指示した(大阪日日) |
11月18日、井関参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表した。
師団側:軍部が府当局の注意を喚起せし所以は、皇軍建設の本義を宣明し、軍人の特殊地位を明徴にせんとせしに外ならず。 |
20日には戸田巡査と中村一等兵が会い、互いに詫びて幕を引いた。
和解の内容は公表されていないが、その後警察が兵士を勾留することはなくなったことから、軍部の実質的勝利とみられる。