1866年 普墺戦争。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦う。勝利したプロイセンはライン川流域まで勢力を伸ばし、北ドイツ連邦を主導する。

1868年 スペインの王位にホーエンツォレルン家のレオポルトが推挙される。ホーエンツォレルン家はプロイセン王の親戚に当たるため、フランスが強く反対。

1870年

7.12 インタナショナル・パリ支部、戦争反対の宣言を発表する。

7月14日 エムス偽電報事件 スペイン王位の継承問題についてのフランス大使とプロシア王ウィルヘルムが会談。会談後にエムス(保養地)滞在中の王からの電文を、ビスマルクが改ざんして報道発表した。フランス国民の怒りを誘発し戦争を仕向ける狙いだったとされる。

7月15日 フランス皇帝ナポレオン3世、世論の怒りを背景に動員令を発令。

7月19日 プロイセンに宣戦布告。ドイツ国境に侵攻。戦争は最後の軍事的賭けであった。北ドイツ連邦と南ドイツ諸国(バーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国)は直ちにプロイセン側に立つ。
フランス軍は約40万人の常備兵。バゼーヌ、マクマオン、トロシュらの元帥が率いる。プロイセン、およびその北ドイツ、南ドイツの同盟国は約120万人(ただし常備兵ではない)。モルトケ元帥とプロイセン参謀本部が指揮する。


7月23日 「独仏戦争に関するインタナショナル総評議会の第1の呼びかけ」が発表される。

この戦争は、正義の戦争でも、国民的なものでも、フランスの真の利益に合致するものでもない。それはただラインの両岸に専制主義の勝利をもたらすものにすぎない。君主のための戦争は、労働者の眼からみれば、一個の犯罪的愚劣事であるにすぎない。


8月02日 フランス軍が越境しザールブリュッケンに侵攻。

8月06日 ヴルトの闘い。最初の大規模な戦闘。両軍合わせて10万人を超える兵力が激突する。フランス軍2万人が戦死・戦傷・捕虜となる。

8.07 パリに戒厳令が布告される。

8.08 帝政反対のデモがパリで巻き起こる。

8.09 デモの拡大の中でオリヴィエ内閣が崩壊。バリカオ内閣に交代する。

8.14 ラ・ヴィレット大通でのブランキ派の蜂起作戦。警察署を遅い武器強奪を図るが失敗に終わる。

8.16 トロシェ将軍、ナポレオン三世からパリ総督(パリ軍管区司令官)に任命される。

8月16日 メス要塞で孤立したフランス軍13万人が脱出を図る。マルス・ラ・トゥールでプロイセン軍と激突するも包囲を破れず。

8月18日 メスの西方約10kmのグラヴロットで最大の戦い。モルトケの率いるプロイセン第1軍と第2軍(19万名)が、バゼーヌ元帥率いるライン軍(11万名)陣地を攻撃。フランス軍は甚大な損害を与えた後、メスに退却し立てこもる。

8月末 劣勢を打開するため、ナポレオン三世自らが北東部のセダンに進出、メスとの連絡を目指す。プロシア軍はナポレオン三世軍の背方にまわり、パリ・セダン間の連絡を断つ。

8月30日 ボーモン(Beaumont)の闘い。プロイセン軍がフランス軍を攻撃。フランス軍はセダンに退却し立て篭もる。

9月01日 セダンのフランス軍が血路をもとめて攻撃開始。戦死傷者17,000名、捕虜21,000名を出し戦闘中止。

9月2日 ナポレオン3世が降伏。10万の将兵とともに捕虜となる。

9月4日 「皇帝降伏」の報告を受けたパリ民衆が蜂起。数千の住民が国民議会のある「ブルボン宮」に侵入し、現体制の解散を求める。

9月4日 市庁舎に結集したパリ選出の立法院議員(ブルジョア共和派)は、トロシュ将軍を首班とする共和国臨時政府(国防政府)の樹立を宣言。

9月4日 パリ20区の中央委員会代表はセーヌ県における選挙の実施、警察国家の廃止、全フランス人の武装を要求する。リヨンに公安委員会成立。

9月5日 ヴィクトル・ユゴー、19年の亡命生活を終えパリに戻る。国民的英雄として歓迎される。

9月8日 「臨時政府」が戦争継続を宣言(裏では終戦工作)。ビスマルクは講和に持ち込もうとするが、プロイセン軍と世論はパリ進撃をもとめる。

9月9日 「独仏戦争に関するインタナショナル総評議会の第2の呼びかけ」が発表される。マルクスは早すぎる蜂起への警告を行う。

マルクスは、臨時政府首脳陣の裏切り行為を非難しつつも、ことの緊急性に鑑み新政府を支持する。同時に共和制の自由があたえる便宜を利用して「自分自身の階級を組織する」よう訴える。


9.15 国防政府のジュール・ファーブルがフェリエールでビスマルクと秘密会談。停戦を模索するが、交渉は不調に終わる。

9月19日 モルトケの率いるプロイセン軍30万人がパリを取り囲み砲撃を開始。フランス臨時政府はボルドーに撤退する。
軍事マニアのエンゲルスは、ロンドンからパリに行こうとするが、マルクスにとめられたという。

9.22 パリ20区の代表と国民軍司令部がコミューンの選挙を要求する。

9.28 バクーニンとクリュズレらリヨンで蜂起するが失敗に終わる。

10.05 フルランスに率いられた国民軍諸大隊の武装デモ。武装、真剣な軍事行動、ボナパルト派の粛清を要求する。

10月27日 フランス軍の最後の拠点、メスのバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏。フランス軍の組織的な反攻は終わる。

10.30 ティエール、欧州諸国への調停依頼の巡回を終え帰国。ファーブルと休戦条件をすりあわせ。

10.31 パリの民衆的地区の国民軍が市庁舎を占拠し閣僚を一時拘束。新政府の樹立に至らないまま敗走。

11.01 マルセイユでコミューン結成の動き。翌日には失敗に終わる。

11.03 包囲下のパリで区長、助役を選ぶ直接人民投票が行われる。56万対6万票の大差で国防政府が承認される。同時に行われた区長選挙では、政府派が12人、コミューン派が8人を確保。この結果フェリがパリ市長、クレマン・トマが国民軍司令官となる。

12.02 ロアール地方で抵抗を続けていたロアール軍が重大な敗北を喫する。


1871年

71年1月

1月01日 プロイセンを中核とするドイツ帝国成立

1.05 プロイセン軍、パリ砲撃を開始。

1.07 20区中央委員会、「人民に席を譲れ、コミューンに席を譲れ」の「赤いポスター」宣伝を開始。

1月10日 ルマンの闘い。南部で抵抗を続けていた第二ロアール軍が壊滅。

1月18日 ヴィルヘルム1世、占領中のヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国皇帝に即位。

1月19日 サン・カンタンの戦い。北部軍が壊滅。東部のブルバキ軍もスイスに逃れ武装解除される。

1.21 闘いを敗北に導いたトロシュが罷免される。後任にヴィノア。

1.22 国民軍諸大隊の武装デモ。ヴィノアはこのデモを実力で粉砕する。

1.23 パリ市内の左派への弾圧が開始される。クラブが禁止され、17の新聞が停刊となる。

1月28日 ファーブル新首相がヴェルサイユで降伏文書に調印。暫定休戦に入る。開城と交換に食料補給が認められる。

71年2月


2.01 パリで休戦に抵抗する試み、失敗に終わる。

2.08 休戦協定に決められた「国民議会」の選挙。当選者の大多数は正統王朝派(地方地主)。パリからは43人が選出される。うちティエール、ファーブルらの極右派が6人を占める。

2.12 ボルドーで「国民議会」が開催される。王党派の主導で、ブルジョワ共和派のティエールをフランス共和国行政長官(首相)に指名。

2.15 議会、国民軍への給料支払を停止。

2.24 ヴォクセルで国民軍の代議員大会。2千人が結集する。

2.26 ヴェルサイユでティエール・ファーブルとビスマルクとのあいだに仮講和条約が調印される。50億フランの賠償金、アルザス・ロレーヌ地方のドイツへの割譲で合意。

2.26 パリ市民、ドイツ軍による捕獲を避けるため、大砲を東部・北東部地区に移動。
2月 ティエール政府は「国民軍の大砲は国家の財産である」として、「国民軍」の武装解除を目指す。

71年3月

3月1日 ドイツ軍がパリに入城。これは儀式的なもので、シャンゼリゼ通りを行進した後、東部の外部要塞に退去する。

3月1日 ティエール政府もパリに帰還。政府は「国民軍」の武装解除にとりかかる。

3.03 国民軍第200大隊、代議員会議を開き国民軍共和連盟の規約を採択。執行委員会を任命する。

3.10 ボルドーの国民議会、ヴェルサイユへの移転を決議。

3.10 国民議会、デュフォール法を採択。家賃および手形のモラトリアムが廃止される。

3.11 ヴィノア総司令官、共和派の新聞6紙を発行禁止処分。

3.11 フルランスとブランキに欠席裁判で死刑が宣告される。

3月18日 パリ蜂起


未明 フランス正規軍はモンマルトル丘に配置された「国民軍」の大砲を奪おうとするが、「国民軍」の抵抗にあう。

これに民衆も呼応。モンマルトルの砲台を奪取し、市内各地にバリケードを築く。

正規軍の兵士も民衆に味方したため、政府軍は壊走。民衆と兵士は指揮官の二人を捕らえ銃殺する。
夜 ティエール=ヴィノアの政府・議会・正規軍はベルサイユに逃亡。パリ市内はコミューン派=国民軍左派が制圧する。

3.19 国民軍共和連盟中央委員会、コミューン選挙を告示する。各区の区長は国民軍共和連盟を否認。中央委員会派と区長派の対立に移行。

3月20日 リープクネヒト宛書簡、「パリの連中は負けそうな様子だ。それは彼らの罪だが,実際あまりに入が好すぎることからきた罪だ」と述べ、敗北を予想する。

3月22日 リヨンとマルセイユにコミューン成立。リヨンは3日後に崩壊、マルセイユも4月6日に崩壊。ほかにナルボンヌ、トゥルーズ、サン・テティエンヌ、クルゾにもコミューンが一時成立する。

3.24 国際労働者評議会のパリ連合評議会、コミューン選挙に関する宣言を採択。

3月26日 パリ全区でコミューン選挙。総投票数23万。90名の評議員が選出される。中央委員会派が65名を獲得し区長派19名に圧勝。コミューンは執行と立法を同時に行う直接民主的行政機関となる。
長女のシャルル・ロンゲがパリの評議員となる。娘婿のラファルグがボルドー・コミューンの代表に就任。

3月29日 パリ・コミューンの成立と臨時政府からの自立を宣言。ヴェルサイユへの進軍をためらう国民軍中央委員との摩擦が表面化。
マルクスは「当時完全に無力であったヴェルサイユにただちに進撃し、ティエールとその田舎地主たちの陰謀の息の根をとめる」ようもとめる。

3.29 コミューン内に10の委員会が設立される。戦時中の家賃を免除する政令、質流れ品の売却を禁止する政令などが成立する。

3.30 常備軍を廃止し、国民軍を唯一の武装力とする政令が成立する。

71年4月

4月2日 兵力を再び結集したヴェルサイユ軍が攻撃を開始し、クルブヴォアを奪取。内戦が始まる。

4.02 公務員の給料を大幅に引き下げる政令が成立。ほかに教会を国家から分離する政令などが成立する。

4.03 国民軍、ヴェルサイユに進撃するが撃退される。政府軍は捕虜となったコミューン兵士を殺戮。

4.04 国民軍、さらに敗退を重ねる。

4.04 パリ市民に徴兵令。17歳から31歳までの未婚の全市民が国民軍に編入される。

4.06 ドンブロフスキーがパリ要塞司令官となり戦線を立て直し。

4.08 ファーブル、政府軍建て直しのため捕虜となった兵士の早期送還をプロイセンに要請。

4.12 支払期限に関する政令。一切の債務訴訟が停止される。

4月12日 クーゲルマンあての手紙、「官僚=軍事機構を移すことではなく,それを打ち砕くことが必要だ。ルイ・ボナパルトの皇帝制は国家権力の最もけがれた形態であると同時に,その終局形態である。それに対しコミューンは共和制の積極的形態であり、階級支配の君主制形態ばかりでなく,階級支配そのものをも廃止する」と述べる。

4.16 放棄された作業場を労働者団体の手で再開する。

4月17日 クーゲルマンあての手紙。それまで蜂起に反対していたマルクスは態度を変更「資本家階級とその国家に対する労働者階級の闘争は,パリの闘争によって新しい局面に入った。どのような経過をたどろうとも世界史的に重要なひとつの新しい出発点だ」とする。

4.19 コミューン、フランス人民への宣言を発表。コミューンの綱領を示す。

4.21 コミューン執行権力、9委員会の代表者会議に移行。

4.23 革命的裁判所が設置される。

4.26 ヴェルサイユ軍、イシ・レ・ムリノを占領する。

4.30 地方自治体選挙で共和派が進出する。ルーブル広場で地方共和連合同盟のデモ。

71年5月


5.01 ヴェルサイユ軍、市内への砲撃を開始。

5.04 内通者によりムラン・サケの角面堡が陥落。ヴェルサイユ軍が市内に進出。

5.05 ブルジョア新聞7紙が発行禁止となる。

5.05 ヴェルサイユ軍、クラマールを占領。

5.08 ティエール、商工業代表共和連合の調停を退け、パリ市民に最後通牒を突きつける。

5.09 ヴェルサイユ軍、イシ堡を占領。

5.09 パンの価格がキロあたり50サンチームに固定される。

5月10日 フランス・ドイツ間でフランクフルト講和条約締結。これに基づき、捕虜となっていたフランス軍兵士が一斉解放される。その多くはパリ・コミューンの弾圧に投入された。

5.13 ヴェルサイユ軍、ヴァンヴ堡を占領。

5.15 コミューン少数派、公安委員会に反対する声明を発表。これにもとづき労働組合代表者会議、クラブ連合委員会の会議が開かれる。

5.16 ヴァンドームの円柱が引き倒される。

5.18 公安委員会、新聞6紙を禁止する。

5.19 教育の非宗教化に関する決定。

5.20 ヴェルサイユ軍、ポアン・デュ・ジュール門を突破。

5月21日 ドイツ軍の支持を取り付けた政府軍が、パリ城内への攻撃を開始。第15,16区を制圧する。「血の1週間」が始まる。

5.22 公安委員会はパリ市民に「武器をとれ」と呼びかける。

5.22 ヴェルサイユ軍13万人が市内に入る。シャンゼリゼを占領。

5.23 ヴェルサイユ軍がパティニョルとモンマルトルを占領。コミューン軍司令官ドンブロフスキーが戦死。

5.23 チュイルリー宮殿、パリ市庁舎などが放火され、廃墟となる。

5.24 ヴェルサイユ軍、パリ中心部とカルチェ・ラタンを占領する。捕虜の無差別殺戮を開始。

5.24 コミューンと公安委員会、第11区役所に移転。ダルボア大司教その他の人質を処刑。

5.25 セーヌ左岸を守っていたヴルブレフスキーの部隊が撤収。市の南部がヴェルサイユ軍の手に落ちる。

5.25 シャトー・ドー広場で最後の激戦が展開される。公安委員会のドレクリューズ委員長が戦死。

5.27 ベルヴィルに押し込められたコミューン兵、ペール・ラシェーズ墓地で最後の戦い。立てこもった市民147人は「連盟兵の壁」の前で次々に銃殺される。
パリ国民軍の死者は4000人以上、処刑されたパリ市民は1万7000人。さらに4万3500人以上が逮捕され、強制労働や流刑に処せられた。

5.28 第11,12区の最後のバリケードが破壊される。

5月30日 マルクス、インタナショナル総評議会で「フランスの内乱」を読み上げる。 文章は4月から5月にかけて英文で執筆されていた。

1872年 「共産党宣言」の再版にあたっての序文。マルクスは政治権力の獲得説に代え、国家の破壊説を主張する。


1881年

2月 ニウヴェンフィスあての手紙、①社会主義政府が政権をとるには,そのための前提条件が成熟していなければならない。②コミューンは,「例外的条件のもとでの一都市の反乱でしがなかった。③コミューンの多数の者は,社会主義派でなかった,④かつまた,コミューンが当時なしえたであろう唯一のものは,「有益な妥協」であった



インターネット上では、淡路憲治さんの「パリ・コミューンとマルクス」および、宮内広利さんの「地上の天国に一番近づいたとき~パリ・コミューン考」が参考になりました。