以前からヤマトに神話はなく、出雲神話からの借り物ではないかと思っていたが、「古代出雲を歩く」(平野芳英 岩波新書)を読んで、ふと感じた。
少し長めに引用させてもらう。
国土として引き寄せてきた最初の土地は、去豆の折絶から西の、支豆支の御埼、すなわち出雲大社のある島根半島の西端の山並である。八穂尓は「八百丹よし」で、たくさんの丹(赤土を杵で突きかためて築くという意味から、築きの枕詞…
 こうして引き寄せてきた支豆支の御埼を、命は出雲の国と石見の国の境にある佐比売山(現、三瓶山)に、引き綱を固定してかためたのである。
ということで、出雲国風土記の現代語訳だが、訳されてもなおかつわからない。

著者の解説によると、去豆の折絶から西の、「支豆支の御崎」は“きずきのみさき”と読む。島根半島西端の「日御碕」(ひのみさき)を指すのだが、風土記では岬の先端だけでなく半島の脊梁山地の西3分の1を含んでいるらしい。

「去豆の折絶」は“こずのおりたえ”と読む。これは「支豆支の御崎」山塊とそれより東部の山塊とを距てる谷筋を指すもののようである。

この手の本はいつも、本筋と関係ないこのような情報に悩まされる。かと言って読み飛ばしていくと、後で本筋も見えなくなってしまうから厄介だ。

本題に戻ろう。

つまり「日御碕」と「支豆支の御崎」とでは、ちょっと範囲が違うのである。いわば「日御碕」は岬であり、一つのポイントなのだ。しかし「支豆支の御崎」は岬を含んだ一つの塊なのだ。
鼻高山
 おそらく鼻高山が「支豆支の御崎」でその東の低地が「去豆の折絶」ではないか

これが国引き神話との関係では重要になる。

「支豆支」は万葉仮名で字そのものに意味はない。“築き” に音を当てただけだそうだ。つまりこの御崎は自然のものではなくて築いたものだということになる。

もちろんそれは神話であって、新羅の御崎を引っ張ってくるなどということはありえない。しかし、とりあえずそれについては争わない。

一番肝心なことは“築く”という所作に該当する枕詞があって、それが「八百丹よし」ということなのだ。

それが、“支豆支の御碕” に一体化していく。いわば島根半島西部の山塊全体の枕詞となっていたtのではないか。


「青丹よし」という言葉の解説にはいろいろなことが書いてあるが、一つ根本的な疑問をスルーしているように思えてならない。水が青いように、丹というのは赤いのである。青い丹があるたかのように言うのは、あまりにも強引ではないか。

ということで私には、「青丹よし」という奈良の都にかかる枕詞は、出雲の国引き神話の「八百丹よし」がなまったものというのが、もっとも自然な解釈ではないかと考えられるのである。

それは、古事記や日本書紀の神話部分の源流が出雲系の渡来人にある、という説を補強するものとなるであろう。つまり近畿地方はまず新羅系天孫族に占領・支配され、その後神武により征服されたものの出雲人が支配する国家という枠組みはそのまま存続したのではないか。