宗全以前の山名氏

(煩雑を避けるためできるだけ個人名は省略した)

新田氏一門の義範が上野国山名郷を本貫として山名三郎と名乗った。
源頼朝に従って御家人となり、伊豆の国主に推挙される。

1337年(建武4年) 南北朝時代、山名氏は縁戚の足利尊氏に従い、室町幕府において伯耆国の守護に任じられた。四職家の一つに数えられる。

 室町幕府の重臣は三管領(かんれい)、四職(ししき)と呼ばれた。三管領(かんれい)は斯波氏、細川氏、畠山氏。四職(ししき)は赤松氏、京極氏、一色氏、山名氏が任命される。


全国制覇で戦功を上げた山名氏一族は、丹後・伯耆、紀伊、因幡、丹波・山城・和泉、美作・但馬・備後の守護となり、全国66か国のうち11か国を守ることになる。

1390年(元中7年) 最初の継承紛争。将軍・足利義満の命を得て、惣領の時煕(宗全の父)が放逐される。

1391年(明徳2年) 明徳の乱が発生。将軍義満、時煕を許し惣領に戻す。これに怒った反時煕派が謀反。一時京都を制圧したが、最終的に敗れる。山名氏の守護領地は但馬、伯耆、因幡のみとなる。

応永6年(1399年) 応永の乱が発生。戦功を上げた山名時煕は備後・安芸・石見の3か国の守護職を獲得。

1404年(応永11年) 山名宗全、山名時熙の3男持豊として生まれる。

1428年 時熙が重病になり持豊を後継に指名。6代将軍義教がみずからの側近であった次兄持熙の後継を命令。時熙の病状が回復し後継問題は保留となる。

1430年 細川勝元が生まれる。宗全より26歳の年下。細川氏は畿内、四国、山陽を支配する。

1431年 持豊の次兄持熙、将軍の勘気を受けて廃嫡。このため持豊が後継となることで決着。

1435年 時熙の死。持豊は但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名となる。

1437年 次兄持熙が相続を不満とし備後で挙兵。持豊はこれを鎮圧。


山名宗全の時代
1441年(嘉吉元年)6月24日 播磨・備前・美作守護を勤める赤松氏が第6代将軍義教を殺害。同席した持豊は脱出に成功。

8月 持豊、但馬から赤松領の播磨へ侵攻し反乱を鎮圧。播磨をあわせ5カ国の守護となる。さらに山名一族で石見、美作、伯耆、備前、因幡の守護職を領有する。

1442年 山名持豊、出家して宗全と号す。以後すべて宗全と記載。

1445年 細川勝元が16歳で管領に就任。以後死ぬまで通算23年間も管領職を勤める。

1447年 細川勝元、持豊の養女を正室に迎える。宗全を舅とする関係になる。
そもそも細川氏にとって最大のライバルは同じ管領家の畠山氏だった。畠山に対抗するために山名氏に接近した。

1448年 幕府最大の実力者畠山持国、後継者を弟の畠山持富から庶子・畠山義就に変更。将軍はこの変更を認めるが、細川勝元・山名宗全らは持富を支持する。

1454年 畠山氏で家督をめぐる内紛が起こる。細川勝元は宗全と手を結び、当主持国の実子義就を追放に追い込む。このあと細川・山名連合が幕政の頂点に立つ。

1454年11月 足利義政、赤松氏の再興を認める。山名はこれに猛烈に反対し、将軍の不興を買う。宗全退治を命じられるが、細川勝元の取り成しで一時隠退することで事態を収拾。但馬に隠居となる。

1454年11月 赤松の一族が播摩で山名氏を攻撃。宗全は但馬から出兵して赤松軍を破る。

1458年 宗全、赦免されて再び上洛、幕政に復帰する。

1459年 関東で享徳の乱が発生。斯波氏は総大将に任じられるが動かず。

1460年9月 畠山氏の後継紛争が再燃。将軍義政が一度失脚した実子の義就を復活させる。細川氏はこれをさらに逆転し、政長に家督を与える。

1460年 義就は排除に抗議し嶽山城に一時籠城する。

1462年 山名宗全の次男の是豊、細川氏の引き立てを受け備後・安芸守護に任命される。2年後に山城守護も兼ねる。
この頃から細川氏は宗全に対する警戒心を強め、親子の離間を図るようになる。

1464年 細川勝元、管領を辞し、畠山政長に禅譲。

1465年(寛正6年) 足利義政の正室日野富子、実子の足利義尚を出産。将来の将軍職を望み山名宗全に接近する。義政は弟義視に将軍位の禅譲の意向だったが態度を変更。

1465年 宗全も細川勝元を警戒、畠山義就・斯波義廉らと結託して細川氏の打倒に乗り出す。

1466年(文正1)

9月 文正(ぶんしょう)の政変。将軍の側近が斯波家の相続に介入。さらに足利義視の暗殺を企画したという。宗全と細川は連携し、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる。

12月 山名氏の支援を受けた畠山義就が挙兵し、大和から入京する。宗全は義就を将軍と対面させ、家督につける。その一方で現職管領の畠山政長が追放される。これは宗全の細川氏に対する公然たる挑戦である。

さらに宗全は、将軍家に強要して斯波義廉を越前、尾張、遠江3国の守護職につける。

宗全の横紙破りにより、細川連合と山名連合との対決の様相を呈する。細川連合は足利義視を担ぎ、山名連合は足利義尚を担ぐ。

応仁戦争の時代
1467年(応仁元年)

1月18日 御霊(ごりょう)合戦。宗全に追放された畠山政長が細川氏の支援を受け反乱。戦闘は半日で義就の勝利に終わり、政長は勝元邸に逃げ込む。これを機に応仁の乱が発生。

4月 細川勝元は領地9カ国の兵を京都へ集結させる。宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。宗全は自軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する。東軍は10万を結集。京極氏、赤松氏、武田氏も加わる。西軍は9万を結集。六角氏、一色氏が加わる。

5月26日 「上京の戦い」が始まる。東軍が上京で一斉攻撃。将軍・天皇らを確保する。午後からは西軍が反撃。

8月 周防から上洛した大内氏の軍が西軍に合流。伊予の河野通春ら水軍も動員し西軍が勢いを盛り返す。

10月3日 相国寺の戦い。このあと東軍は劣勢に立たされ洛外で抵抗を続ける。

1468年

7月 足利義政、管領の斯波義廉を解任し、勝元を管領に任命する。

9月 足利義政、義視の排除と実子の義尚擁立に動く。義視は幕府を逃れ西軍に就く。

11月 義視を長とする西幕府が成立。有力守護による合議制の下、義視が発令することとなる。

1469年

4月 西岡の戦い。大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城はほぼ制圧される。この後戦線は膠着し、厭戦気分が広がる。

1470年

2月 大内氏の地元で政弘の叔父教幸が反乱を起こす。

1471年(文明3年)

5月 西軍の主力となっていた朝倉孝景が東軍側に寝返る。これにより西軍不利に繋がる。

1472年

3月 勝元と宗全の双方から和解の動き。すでに当事者能力を失い、周辺の勢力の反対を押しきれず。

5月 宗全は自害を試みる。

1473年

3月18日 西軍司令官の山名宗全(持豊)が病没。享年70歳であった。

5月11日 東軍司令官の細川勝元が病没。

12月 義政が致仕、義尚が将軍となる。畠山政長が管領に就任。

1474年
4月 山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃。
1477年(文明9年)
11月11日 応仁の乱が終結。和睦の結果、義尚が9代将軍を継ぐ。

11月 大内政弘、周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵され撤収。西軍は事実上解体される。