こころよく
    我にはたらく仕事あれ
    それを仕遂げて死なむと思ふ

啄木の処女歌集「一握の砂」20番目の歌です。

この歌の解釈には二通りあるようです、ひとつは啄木の生き方にあわせ、仕事にあれこれと不満を持って職場適応ができない人の思いを歌った歌ととらえる見方です。 もうひとつは啄木のだらしなさとかを勝手に読み込むのではなく、ひたむきで正義感にあふれた青年の思いとして読むべきだという考え方です。私としては断然後者です。

口を開けば美しいことをいうくせに、私生活はまったくだめという人が世の中にはゴロゴロいます。それはある意味で「名人かたぎ」という言葉にも通じます。一芸に集中するときは、身の回りのこまごまとしたことに構ってなどおれるか、という迫力です。

 啄木論はひとまずおくとして、職業に貴賎なし! たとえ仕事がキツイ、汚い、危険という三拍子揃っていたとしても、しかも低賃金の重労働であったとしても、それが社会にとって必要な労働であれば、生きがいの対象ともなります。
一日の仕事を終えたときの心地よさは何者にも変えがたいものがあります。

 つまり問題は労働の具体的有用性ではなく、価値生み労働としての一般性にあるのです。お給料をもらうということは、自分の仕事の社会的有用性が証明され、自分が社会の一員であることが確認されたことになります。だから「心地よい」のです。仕事帰りのビールがうまいのです。

 ビールのおかげで話が飛びますが、前にも書いたのですが、テレビで生活保護者が保護費をもらったその足でパチンコ屋へ行くシーンが映し出されて、「けしからん」と非難されました。
私は、もしこれが失業保険を受け取るのであったら、非難の対象となるだろうかと反論しました。

「勝手に人の首切っておいてなにぬかすんや」
 セーフティーネットがない、そもそも正社員としてあつかわれなかったから失業保険もないし、いきなり生保にならざるを得なかったというのが実情です。
「失業給付金も出さんと、何言うとんじゃぁ」、「文句あるんやったら、仕事もろうてこい」、「明日はわが身やでぇ」