土偶の歴史
土偶の概念をすこし整理しておく。
土偶は「縄文的生き方」の象徴と考えられる。
土偶は、人間(特に女性)を模して作られたもので、縄文時代に日本全土で作成された(沖縄を除く)
土偶は時期的にも地域的にも偏りがあり、北方に集中している。これは土偶文化がマンモス人の系統に支えられたものであることを示唆している。

という文章からいくつかのポイントを抜き出しておく。
①土偶の顔
土偶の顔は稚拙というのではなく、意識的に平面化された様式を持っている。それは早期のものから晩期に至るまで一貫している。これは仮面を表すものと思われる。
土偶と同じように土製の仮面が出土する。とくに後期~晩期の東日本に多く出土するようだ。
人間の顔と同じぐらいの大きさで、左右に紐を通すための穴があいているものもある。
②女性シャーマンがモデルか
千葉県さら坊貝塚で、鉢を被せ葬られた人骨が発見されている。
縄文時代中期後葉の中年女性の遺骨で、左腕に、おそらくはシャーマンのシンボルである貝輪をはめている。
③北方文化と女性信仰
女性信仰は農耕社会と結び付けられることが多い。
狩猟・採集社会では男性の脱魂型シャーマンが政治的リーダーも兼ねるのが一般的である。しかし農耕・牧畜社会への移行過程で女性の憑霊型シャーマン(天照大神)が出現する。これは男性の祭司的首長と権力分担する。
④土偶とつながる北方文化
土偶は北部ユーラシアの旧石器時代にみられる、いわゆる「ヴィーナス像」の系譜を受け継いでいる。そこにはなんらかの女神崇拝があった。それは処女ではなく母性の象徴である。


ということで、下の図は国立歴史民俗博物館の10641件のデータに基づいて時代別、地域別分類を行ったものである(縄文と古代文明を探求しよう!より転載)
出土分類2
説明文の中で、
都道府県別では岩手県2152個(21.5%)、長野県1140個(11.4%)、山梨県938個(9.4%)となっています。
と書かれていた。意外だった。
私なりにこの図を読み込むと、
1.草創期より存在しているが、紀元前3千年(中期)になって土偶爆発がもたらされた。
2.震源地は東北と考えられ、この土偶文化を持った人々が一気に関東・中部に広がり、土偶(がらみの)信仰を展開した。
3.紀元前2千年以降(後期)では中部の減少と東北の増多が著明である。日本列島の温暖化により居住域が全体として北方へシフトしたのであろうか。
4.紀元前1千年(晩期)になると北方シフトはさらに進み、東北が全出土の過半数を占めるようになる。
5.この時期にこれまで土偶と無縁だった九州四国での出土が増えるが、これは気候では説明がつかない現象である。
 

1万1,000年前(草創期) 三重県松阪市、滋賀県東近江市で最古の土偶。

紀元前8千~7千年(早期前半) 関東東部に定住生活の始まりと一致して土偶が出現。逆三角形や胴部中程がくびれた土偶。

紀元前6千年(早期後半) 東海地方にまで土偶の分布が広がる。

紀元前5千年(前期) ほぼ同様の場所で板状土偶が発達する。

紀元前4千年(前期後半) 顔の表情豊かな土偶が、東海地方から関東地方までの東日本に出現。

紀元前3千400年(中期初頭) 土偶が大きく立体的になる。デザインも複雑となる。四肢・頭部の表現がはっきりし、土偶自体が自立するようになる。 

紀元前3千年(中期前葉) 長野県棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」が新型土偶の到達点。
棚畑遺跡
       縄文のビーナス(棚畑遺跡出土)

紀元前2700年ころ(中期後半) 長野県坂上遺跡出土の土偶
坂上遺跡
           坂上遺跡出土

紀元前2500年(中期の終わりないし後期の始まり) 一旦土偶は消失。この頃寒気のため人口の減少が見られる。 

紀元前2500年(後期初頭) 九州北部~中部に新たに出現。本州の土偶の延長と見られ、寒冷化に伴い縄文人が水平移動したことを示唆する。 しかし西日本を飛び越えて九州という理由はわからない。

紀元前2千年ころ(後期前半) 宮城から神奈川にかけて広く東日本全体に出土。壊さないタイプの土偶が主体となる。

紀元前1500年(後期後半)青森県風張1遺跡の坐像  
青森県風張1遺跡
      青森県風張1遺跡

紀元前1千年(後期~晩期) 山形土偶やミミズク土偶、遮光器土偶(青森県亀ケ岡のものが有名)など。

紀元前1千年ころ(晩期前半) 九州北部を中心に土偶が大量に見出される。 

紀元前4世紀ころ(晩期後半) 九州北部で水田の普及に伴い土偶が激減。環濠集落が出現する頃には消失する(板付遺跡) 

紀元500年 東北地方では、弥生時代前期まで製作。中期から衰退し、後期には消滅。