モスクワ攻防戦
7月 ドイツ軍、モスクワへの中間点スモレンスクを陥落する。
8月 ヒトラーは中央軍を北方と南方へと転進するよう命じ、モスクワ攻略を遅らせた。この結果9月末までにウクライナを制圧し、ソ連軍100万人を無力化した。
モスクワ攻撃を最優先しない(=ドイツの生活圏確保を優先)という戦略に関しては、ヒトラーと軍トップの意見は一致していたという説もある。(山崎雅弘:モスクワ攻防戦ードイツ軍敗北の真因)
タイフーン作戦発動
モスクワ攻撃を最優先しない(=ドイツの生活圏確保を優先)という戦略に関しては、ヒトラーと軍トップの意見は一致していたという説もある。(山崎雅弘:モスクワ攻防戦ードイツ軍敗北の真因)
タイフーン作戦発動
9月30日 ドイツ軍が「タイフーン作戦」を発動。モスクワ攻防戦が始まる。
ドイツ軍はモスクワの北部と南部からの両翼包囲を目指した。北方では第3装甲軍と第4装甲軍がモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道を切断しようと試みた。南方では第2装甲軍がトゥーラ南方に進出。主力の第4軍は直接西からモスクワへ進む。
10月7日 初雪が降る。そのあとに道は泥濘地(ラスプティッツァ)となる。ドイツの機甲部隊は大幅に機動力が低下。ソ連のT34戦車と狙撃師団がドイツ軍に出血を強いる。
10月10日 レニングラード防衛軍司令官のジューコフが呼び寄せられ、首都防衛に当たることとなる。共産主義者義勇団など予備兵力を大量動員し、防衛戦を再構築。
10月14日 ドイツ第3装甲軍がヴォルガ川を渡河。モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を断つ。
10月25日 ドイツ空軍がモスクワを空襲。消耗が激しい為これを最後に出撃不能となる。
10月末 第2装甲軍がトゥーラ近郊まで到達。
11月7日 革命記念日。赤の広場で恒例のスターリン演説と軍事パレードを敢行。スターリンは首都残留の姿勢を誇示する。
モスクワ攻防戦に突入
モスクワ攻防戦に突入
11月12日 参謀総長ハルダ―と中央軍集団幹部がオルシャで戦略会議。補給線の厳しさに警戒の声もあったが、中央軍司令官ボック元帥はモスクワへの攻勢を主張し認められる。
11月15日 ドイツ軍が「秋季攻勢」を開始。第2,3,4装甲軍が前進。
11月15日 ドイツ軍が「秋季攻勢」を開始。第2,3,4装甲軍が前進。
11月30日 ドイツ第4装甲軍、モスクワから8kmのヒムキに到達。ここで気温が零下20~40度まで下がり、車両や火器は使用不能に陥る。
ソ連軍の反撃
12月5日 ソ連軍は、ドイツの機動作戦が一段落するのを待って反撃を開始。シベリア軍管区と極東軍管区から抽出した部隊により押し返す。とくに南西方面ではドイツ軍に1万6千人の損害を強いる。
12月6日 補給路の伸び切ったドイツ軍は有効な反撃できず。各軍司令官はモスクワ攻勢の中止と西方撤退を指示。
12月6日 補給路の伸び切ったドイツ軍は有効な反撃できず。各軍司令官はモスクワ攻勢の中止と西方撤退を指示。
12月14日 ドイツ軍首脳、限定的撤退を容認。ヒトラーの怒りを買う。
12月19日 ブラウヒッチュ陸軍総司令官が解任される。ヒトラー自らがドイツ陸軍の最高司令官に就任。(山崎は敗北の原因はヒトラーではなく、ブラウヒッチェら軍トップにあったとする)
1942年
1月5日 スターリン、春の全面攻勢を主張。
1月7日 ドイツ軍、モスクワ攻撃を断念。
1月 各地でソ連軍の攻撃が行われたが、"ルジェフ肉挽き機"などいずれも失敗に終わり、深刻な戦力低下をもたらす。
蛇足 戦死者ランキング
ルジェフの戦いは世界戦闘ランキングで堂々の1位に輝いている。戦死者は189万149人。うちドイツ軍が78万人、ソビエト軍が111万149人というものだ。札幌の人口が一つの戦闘で亡くなったというから信じがたい。
ちなみに第2位が第一次大戦におけるソンムの戦いで、戦死者は122万人。第3位がスターリングラードの戦いで、死者72万741人となっている。
これだけ死んだら、2千万、3千万という数字もたしかに納得はする。それほどヒットラーとナチは凶悪だったのだ。そして日本もそれに加担していたのだ。
蛇足 戦死者ランキング
ルジェフの戦いは世界戦闘ランキングで堂々の1位に輝いている。戦死者は189万149人。うちドイツ軍が78万人、ソビエト軍が111万149人というものだ。札幌の人口が一つの戦闘で亡くなったというから信じがたい。
ちなみに第2位が第一次大戦におけるソンムの戦いで、戦死者は122万人。第3位がスターリングラードの戦いで、死者72万741人となっている。
これだけ死んだら、2千万、3千万という数字もたしかに納得はする。それほどヒットラーとナチは凶悪だったのだ。そして日本もそれに加担していたのだ。