1.はじめに
このたび私はユーラス・ツァーズ社が企画したヨーロッパ旅行「ファシズム・スターリン主義と闘った歴史を訪ねる旅」に参加しました。
かんたんにご報告申し上げたいと思います。
いろいろ考えたのですが、旅の概要について写真も交えながらご説明します。後半はとくにドイツ左翼党の紹介に当てたいと思います(これは多分次回になると思います)。
本日の新聞で、ドイツの経済的心臓部である南西部州の選挙で、二大政党であるキリスト教民主同盟と社会民主党が歴史的な大敗を喫し、メルケル首相が辞意を表明したという報道がありました。
これに関してもいささか感じるところはありますが、後日情報を収集してからということにします。

2.ツァーの概要
旅のテーマがかなり異色ですが団塊の世代を中心に23人が参加する大旅行団となりました。
長年、赤旗のモスクワ特派員として勤務された聽濤弘さんが同行・解説してくれるということで、いわば「ジジイの修学旅行」という雰囲気です。
参加者の中には大学の経済学の名誉教授、赤旗の元ワシントン特派員、岩波書店の元編集部員なども参加する顔ぶれとなりました。
訪問先はベルリン、プラハ、ウィーンにそれぞれ2日間でかなりタイトな旅行となりました。
A)ベルリン
ベルリンでは左翼党国際部の方の講演がメイン。ほかにポツダム会議の舞台となった宮殿、ユダヤ人抹殺計画が確定されたヴァンゼー会議の記念館がテーマの訪問先でした。
あいまにサンスーシ宮殿、ペルガモン博物館が入りましたが、こちらは観光です。
ほかに市内めぐりとしてテロのトポグラフィー、ホロコースト記念碑などを回りました。
写真は旧西ベルリン北西部ジーメンス街のSバーンの廃線跡です。冷戦時代の遺物のひとつです。詳しくは東西ベルリン年表をご覧ください。
sbahn
B)プラハ
次に向かったのがプラハです。実はモスクワまでの飛行機で隣りに座った方が、プラハ観光のツァーに参加するのだと言っていました。なんと9日間、ひたすらプラハを観光するのだそうです。
それだけプラハが魅力的な町なのだということでしょうが、それにしてもマニアックな旅ですね。
ここでは大きな目的が2つ。ひとつはチェコ共産党の人と懇談すること、もう一つはリディツェ村を訪問することでした。
チェコ共産党の方は大変誠実な印象で、チェコ事件のことを語るときはうっすらと涙を浮かべていました。彼はその頃はまだ小さくて抗議運動に関わったわけではなかったのですが、十数年後にポーランドで「連帯」の民主化運動が起きると、今度はワルシャワ条約軍の一兵士として、ポーランド国境まで迫ったそうです。
ckp speech
大国に翻弄される小国の悲哀を感ぜずにはいられませんでした。
リディツェ村については、ここでは書ききれないので、私のブログを見てください。検索窓にリディツェと入れると見ることができます。
一言で言うと「チェコ版平頂山」ということになりますが、子どもたちの群像の塑像があまりに見事で、しばし立ち竦むほどでした。
街はきれい、物価は安い、ビールはうまいということで、どなたにもお勧めの街です。ただ物価が安いということは賃金も安いということです。そこは覚えておいたほうが良いでしょう。
お土産にミューシャの絵のチョコレートを買いました。
4_001000000546
C) ウィーン
ウィーンの最大の誤算は社会民主党の関係者と会えなかったことでした。
なにか手違いがあったようです。結局、そのおかげで残りのスケジュールもきわめてタイトとなり、あまり何を見たという記憶がありません。
ベートーベンが暮らしたというハイリゲンシュタットの小径をぞろぞろと歩いて、ウィーンの森というのが藻岩山みたいなものだということが分かったりしました。
ホテルの近くのシェーンブルン宮殿に行ったのですが、すごいなという以上の感想はありません。
ただ翌日、地図を見ながら散歩して、ホテルから1キロくらいなのだということがわかりました。
もうひとつ、その道すがらにスターリンが住んだ家というのを見つけました。
ウィキペディアのスターリンの項目にはスターリンがウィーンにいたということは書いてありません。しかし各種記録から見ると間違いありません。
ひょっとしてウィーン旅行の目的が、レーニンの命令でトロツキーと会うことだったので、それを隠したかったのかもしれません。
こちらも、詳しくはブログに載せましたので、そちらをご参照ください。