鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

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前記記事のごとく、一応歴史的あと付けもした上で、ドイツ左翼党国際部との交流の感想を書いておこうと思う。
首から上はWASG、首からは下はPDS というのがとりあえずの感想
多分この交流は、今回の訪問団の最大の成果だったろうと思う。
20数名の訪問団の参加者が一斉に質問を始めたのには驚いた。おかげで私の質問の機会は奪われてしまったが、日本との問題意識の重なりが非常に印象的で、とくに国際部の若い担当者が非常にツボにはまった回答をしてくれたのには嬉しい意外感を抱いた。

1.ギジの功績
一言で言って、この党は完全に「離陸」を果たしたなと思う。少々の風では飛ばされないだけの底力を身に着けたように見える。
もう一つは、あまり個人に功績を集中するのはいけないとは思うが、要所要所でギジの力が大きかったのではないかと思う。
私はこれまでイタリアの共産主義再建運動とスペイン共産党・統一左翼の動きをあとづけてきたが、率直にうまくは行っていない。
イタリアは結局スターリン主義についてほとんど総括をしないまま過去の遺産で突っ走った。遺産を食い尽くしたとき党の運命も終わった。
スペインはこれに比べればはるかにまともな総括をしつつ、左翼の結集に努めた。しかしボルシェビズムを剔抉するところまでは行っていない。党を撹乱したサンチアゴ・カリリョの資質の問題もある。

2.なぜギジは方向転換ができたのだろうか
ドイツの党、というよりギジはそこまで見通していた。シュタージの傷跡が残る東ドイツではたしかにそこまでしなければならなかったのだろう。スペインなら多少の問題はフランコ独裁のせいにして済ましていられる。
シュタージの党、社会主義統一党は、とにかくまず「坊主マル懺悔」をしない限り生き延びることはできなかった。
それはシュタージ関係者にはできなかった。そこで手がきれいなギジにお鉢が回ったのだろう。
ギジは思い切った総括をした。みな心の底では不満でも従った。従わざるを得なかったのだろう。ここから再出発したことが左翼党の運命を決めたのだろうと思う。

3.PDSは旧東ドイツの弱者の受け皿となった
PDSは少なくとも旧東ドイツに居住する社会的弱者を結集できた。それは反スタ総括なしにもある程度はできたかもしれない。しかしそこから出発し、そこから離脱するためには、そういう弱者たちの心からの信頼を勝ち取らなくてはならない。そのためにもシュタージ政治への総括をゆるがせにはできない。
実践を通じて下までその考えを浸透させること、それこそがギジのもっとも力を尽くしたところだっただろうと思う。

4.西側に味方を作ること
ギジは一度手ひどい個人攻撃を受けたことがある。国会議員になってしばらくした頃、マイレージの私的流用疑惑で徹底して叩かれたのである。
国会議員として各地に視察や旅行をした際に、マイレージが貯まる、これで家族旅行をしたのがバレて、議員団長をやめたり党の要職を退いたりしたように覚えている。
同じ頃大蔵省の役人が公用タクシー代のキックバックを私的に使っていたのが問題になったのと似たような話で、「横領」かと言われるとかなりグレーの領域である。
とにかく、この問題を通じてPDSは徹底的に孤立していることがわかった。世の中を変えていくにはまず血路を開かなくてはならない、これがギジの至上命題となったであろう。

5.WASGへの接近
ちょうどこの頃社会民主党の左派が分党してWASGを作った。ギジはこれを千載一遇のチャンスととらえた。彼には党の刷新を図り党の消滅を防いだ功績があるから、思い切った手を打つだけのフリーハンドを確保していた。
PDSはWASGに擦り寄り、WASGの言う事なら何でも聞いた。ラ・フォンテーヌはこれを徹底的に利用して、自分の党の全国政党化を果たした。当選してしまえばいつでも別れるつもりだったかもしれない。
ただギジの方にも自信はあった。シュタージとの関係さえはっきりしてあれば、プロレタリア独裁や国有化問題がスッキリ整理してあれば、一度一緒にやるだけでPDSの市民権は確立する。そうなればPDSの組織票だのみのWASGは離れられなくだろうと考えた。

6.ベルリン市長選挙とギジのケツまくり
PDS+WASG=左翼党の路線は大成功し連邦議会選挙や州議会で大躍進した。
その時ベルリンで市長選挙があって、WASGのなかに「成功したのだからもうPDSとは縁を切ろう」という勢力が優勢になった。その結果分裂選挙が戦われ分離派は惨敗した。
2012年ころ、同じような理由から左翼党は深刻な後退を経験した。外見上はいわゆる四分五裂の状況が出現した。人の褌で相撲を取る連中が勝手なことを言い出して収拾がつかなくなった。
このとき突如ギジが吠えたのである。「俺達は10年間我慢してきた。WASGの言うことなら何でも聞いてきた。それをお前たちは悪しざまにPDSを罵りながら、利用しようというのだ。オレたちにはこういう権利がある。“利用するのなら尊重せよ”」
これで再任を図ったラ・フォンテーヌの首は吹っ飛んだ。ここから真面目な本当の統一がスタートするのである。

7.首から上はWASG、首からは下はPDSの組織が誕生
共同党首は続けられ、今も二重政党の雰囲気を残しているが、「決めたことは守れ」という政党としての組織原則を保持しつつ、社会民主主義への脱皮を図るという困難な作業は基本的に達成されたと思う。
ただかつての東ドイツの政党の持っていた組織の共同体的体質と、西ドイツの声高で知識人的な原理の間に乖離が生まれないかは気がかりである。
ひとつは時間が解決する問題であり、ひとつは次世代活動家づくりが成功するかどうかの問題であろう。その点で、青年組織の拡大はこの党に希望を抱かせる最大の要因となっている。

8.統一には世代を超える時間が必要だ
ベルリンに3日間いて、表面的には完全に再統一されたかのように見える。それはおそらく旧東ベルリン側の経済状況が急速に改善されているためだろう。
格差は依然としてあるが、活気はむしろ東側(郊外)にある感じがした。西側のザラザラ感に対して東側の空気のしっとり感が印象的であった。(もっとも、治安は東のほうが悪いと書いてあるが、貧しいから仕方ないかな)


グレゴール・ギジ(Gregor Florian Gysi, 1948年1月16日 - )
彼の家系(祖母)はユダヤ人の血を引いており、祖先の代から共産主義活動に熱心だった。曾祖母はロシア貴族の家系。
父クラウス・ギージはすごい人だ。1931年にドイツ共産党に入党し、ナチを逃れてフランスに滞在するが、戦争が本格化すると党の命令でベルリンに戻り抵抗を継続したそうだ。命令する方もするほうだが受ける方も受ける方だ。共産党にはこういう人がいるから、最後には離れられない。
第二次世界大戦後、クラウスは東ドイツで大使、文化大臣、教会問題省次官などを歴任した。
グレゴール自身は1971年から弁護士として働き始め、東ドイツの数少ない自由派弁護士として反体制派や西側への亡命希望者の弁護を担当(これは針小棒大・多少眉唾)
1988年、ベルリン弁護士協会及び東ドイツ弁護士協会の会長に就任した。

1989年、東欧革命のさなか、ベルリン・アレクサンダー広場における50万人デモでは群衆の前で演壇に立ち、選挙法改正や憲法裁判所設置を政府に要求した。
それが12月のSED臨時大会では突然議長に選出されてしまった。言ってみれば党幹部とシュタージはギジを隠れ簑にして逃げ出したということになる。
1990年3月の初の自由選挙で人民議会議員に当選。東西ドイツ再統一後はそのままドイツ連邦議会議員となる。
1997年、シュタージの “非公式協力者” 疑惑が浮上し党の役職を離れる。その後も2016年まで繰り返し疑惑報道が繰り返される。当時の東ドイツで “非公式協力者” でなかったものなどいない。
2002年7月に旅客機のマイレージサービスを私有したと批判され、全ての公務を辞職して弁護士業に復帰する。2004年には心臓と脳の大手術を受けた。嫁さんは逃げた。もうボロボロだ。泣ける話だ。
2005年、左翼党・PDSの候補として連邦議会選挙に出馬。不死鳥のごとく当選を果たす。
2012年、連邦憲法擁護庁の監視対象をはずれ、ギジらに関する書類はすべて破棄された。
2015年、ギジは後事を託して党代表を辞任する。この後共同代表制が復活。

ドイツ左翼党(Die Linke) 年表

1989年12月 SED(社会主義統一党)が臨時党大会を開催。SED・PDS(民主的社会主義党)に改組して再出発。無名のギジを党首に選出。

1990年 PDS(民主的社会義党)に改称。綱領を改正してスターリン主義を清算する。

1998年 メクレンブルク・フォアポンメルン州で社会民主党とPDSとの連立政権が成立。

98年 SPDと緑の党の連立であるシュレーダー政権が成立。

2002年 連邦議会選挙。PDS(民主的社会主義党)は得票率4%で2議席を獲得。

02年  ベルリン市(州に相当)でも社会民主党との連立政権が成立。

2003年
10月 PDSが第8回大会。綱領を採択し規約を改正。スターリン主義を徹底的に否定し、西欧社会民主主義政党へ転換。

新綱領の柱 
①社会主義の名において行われた犯罪と対決。いかなる独裁も拒否。②SEDは民主主義や自由への意志も能力も持たなかった。③重要生産手段の国有化、計画経済を柱とする「マルクス・レーニン主義」を放棄する。④社会主義は自由、平等、連帯などの実現過程である。それを非暴力と民主的手段によって実現しなければならない。⑤ドイツ連邦基本法の基本的諸権利を擁護しつつ、適法的抵抗権を行使する。


2004年 シュレーダー政権の自由主義的経済改革に反対する社会民主党左派や労組活動家が一斉離党・独立して「労働と社会的公正-選挙オルタナティブ」を形成。“Arbeit & soziale Gerechtigkeit ? Die Wahlalternative”の頭文字をとってWASGと略称。

04年6月 欧州議会選挙。PDSがドイツに割り当てられた99議席中7議席を獲得。欧州の左派政党で結成した欧州左翼党に加わる。

2005年
1月 WASGが政党を結成。党員5000人で発足する。SPD左派のラフォンテーヌ元財務大臣(元SPD党首)が加わったことで影響力を増す。

7月 PDSが左翼党-民主社会党と改称。合党に備える。WASGのラフォンテーヌが左翼党-民主社会党に入党、逆に左翼党-民主社会党のギジがWASGに入党し、お互いに二重党籍になる

9月18日 連邦議会選挙。「左翼党」が約8%を獲得して54議席を獲得する。内訳はWASG12、左翼党-民主社会党42であった。

9月 左翼党、ビスキー旧PDS党首を副議長候補に指名。その後シュタージ(東ドイツ国家保安省)との関係が浮上し、立候補を断念。

05年 WASGと左翼党-民主社会党(Die Linkspartei.PDS)が、“統一会派よりさらに踏み込んだ連合”としての政党連合「左翼党」を結成。

2006年

9月 ベルリン市(州と同格)議会選挙。ドイツ社会民主党のヴォーヴェライト市政に左翼党-民主社会党が連立与党入りする。WASGのベルリン組織はこれに反対し独自出馬。この結果、WASGは議席を獲得できず、左翼党-民主社会党も大幅に得票を減らした

2007年

5月13日 ブレーメン州議会選挙。左翼党が8.4%の得票率で7議席を獲得。西ドイツ地域の州議会では初めて議席を獲得。

6月 両党の合併を最終的に決める党員投票。左翼党-民主社会党の側はほとんどの党員が賛成したのに対し、WASGからは辛うじて過半数を上回るにとどまる。

6月17日 両党が正式に合併。同名の政党「左翼党」となる。新左翼からも参加者があり、幅広い左翼の統一戦線政党となる。大会でラフォンテーヌとビスキーが共同党首となる。

2008年
1月27日 ヘッセン州、ニーダーザクセン州、ハンブルク特別市(州と同格)における州議会選挙において5%の壁を突破。


 バルチ幹事長は「社会的公正、社会保障、教育の平等で我々に期待が寄せられた」と語る。

ギジは、「根強い反共主義を破った、われわれはもはや旧東ドイツ地域だけの党ではない」と語る

2009年
6月 欧州議会議員選挙。8議席を獲得

8月 ザールラント州の州議会議員選挙。ドイツキリスト教民主同盟・ドイツ社会民主党と三つ巴の接戦となる。この州ではラフォンテーヌ共同党首が州首相を13年間務めた。

9月27日 連邦議会選挙。16州全てで議席阻止線である得票率5%を上回る。改選前を22議席上回る76議席を獲得。

2010年
5月 ドイツ最大の州であるノルトライン=ヴェストファーレン州で州議会選挙。5.6%の得票を得て11議席を獲得。

2010年 共同党首が制度化される。ラフォンテーヌ・ビスキーに代わりエルンスト(WASC)とレッチュ(PDS)が共同党首となる。

2012年

5月15日 ノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙。ドイツ海賊党躍進のあおりを受け全議席を失う。

6月 ゲッティンゲンで党大会。ギジの批判を受け、わずか2年で党首が交代。民主社会党出身のキッピングと、WASG出身のリークシンガーが党首となる。

2013年 
連邦議会選挙。8.6%の得票率で64議席を獲得。4年前より得票率と議席を共に後退させるが、全議席を失った自由民主党に代わり第3位政党となる。

13年12月17日 二大政党と地域政党・CSUによる大連立内閣が成立。左翼党は野党第一党となる。

2014年
5月 欧州議会議員選挙。1議席減の7議席を獲得。

9月 テューリンゲン州議会議員選挙で第2党となる。社会民主党、緑の党との2、3、4位連合が成立。州首相とに左翼党のラメロウが選出される。

 社会民主党との合意にあたり、①東独時代の統治は独裁であり、法治国家ではなかった。②秘密警察の耐え難い侵害を批判的に総括する。と踏み込んだ。



14年 ベルリンで赤赤緑連立(左翼党、SPD、緑の党の3党連立)が成立

14年 旧PDS国会議員、憲法擁護庁による監視を解かれる。

2017年

4月 左派党が選挙公約の草案を発表。武器輸出や海外派兵の終了を呼びかける。NATOからの脱退をふくめず。富裕層への課税強化、最低賃金の上昇、医療制度の1本化などを訴える。

9月 連邦議会選挙。得票率9.2%、議席を69議席に増加させ党勢を回復。旧西ドイツで100万票を増やし躍進したが、旧東ドイツでは移民排斥勢力に票が流れる。極右政党「ドイツのための選択肢」は得票率12.6%で94議席を獲得した。

2018年

8月4日 左翼党右派のワーゲンクネヒトら、「立ち上がれ」(アウフシュテーエン)という無党派の運動を組織する。


 派閥は選挙闘争、大衆闘争などを通じて整理されつある。

①改革左翼ネットワーク(Netzwerk Reformlinke):旧PDS ②民主社会主義フォーラム(Forum Demokratischer Sozialismus, fds):旧`PDS ③社会主義左翼(Sozialistische Linke, SL):旧WASG が主要派閥で、これらの間に大きな違いはなくなりつつある。





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