赤旗に「明治150年を考える」シリーズの第8話として「東海大一揆」のことが載っていた。変な記事で、「東海大一揆」の記事なのに見出しのどこにも「東海大一揆」という言葉が出てこない。
著者の茂木陽一さんの造語なのかとも勘ぐってしまう。
1.一揆の時代背景
事件が起きたのは1876年、明治9年の末のことだった。
当時の日本は新政府の方針をめぐり騒然としており、翌年には西南戦争が起きるなど国家の屋台骨が揺れ動いていた。
動揺の原因は国家財政の財源をめぐる困難にあった。明治政府は藩体制と米物納制で成り立っていた財政をやめ、中央集権と金納制に置換しようとした。しかし年貢額相当の税を金で収納させることには相当の無理があり、中央集権制という新システムが未だ脆弱なことから、深刻な税収の減少をもたらした。これを補うにはさらに税率を引き上げるを得ないという悪循環に陥った。
2.どういう一揆だったのか
これに対し、庶民の間からは税額の引き下げを求める声が上がる。全国どこで起きてもよいのだが、この場合は三重県が狼煙を上げる役割をつとめた。
12月18日、一揆が発生した。さいしょは三重県松阪の南郊だったと言う。一揆はまたたく間に三重全県に拡大した。三重というのは天領、紀州藩領、中小の藩領が複雑に入り組んだところで、あまり絶対的な権力が存在しなかった。また戦国時代に織田信長と張り合った長島の真宗土一揆の伝統もある。
21日にははやくも、木曽川を渡り愛知県へ、さらに岐阜県へと広がったと言う。政府は武力鎮圧の方針を出し、翌日には警察や鎮台兵らが出動、わずか1日でこれを鎮圧した。
処罰者は5万人に登ったと言う。
3.一揆の影響
三日坊主というが、この打ち上げ花火のような一瞬の事件は明治初期の政治改革に大きな影響を与えたと言う。
西郷らの反政府の動きとの結びつきを警戒した大久保利通政府は、地租を減租し、大幅減税を行った。また府県に議会を導入することで民衆に発言の機会を与えた。以来、民衆は一揆という決死の蹶起ではなく自由民権運動へと流れていくことになる。
というのがあらすじのようである。

どうも、いまいち様子がわからないが、とりあえず赤旗の記事の紹介ということで。
なお明治初期の篤農運動とも重なるところがあるので、読み合わせていただければ幸甚である。

2014年05月01日

2014年04月15日

2014年04月15日

2014年04月14日



赤旗に載った「東海大一揆」というのが気になって少し調べてみた。
とにかくまったく聞いたことのない事件であるが、その理由は「そう呼ばれたことがない事件」だからだということが分かった。
ウィキペディアでは「伊勢暴動」と書かれている。
ついでに少しウィキペディアの記載を引用しておくと、
1876年(明治9年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆である。受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の騒擾事件となった。
ということで、なかなかの事件ではある。知らなかった私のほうが馬鹿である。
地図を見るとたしかに一部は県境を越え愛知、岐阜まで進出しているが、基本的には三重県中北部に局限した暴動と言うべきであろう。
ただし、暴動そのものの様相は発信元の中部と波及した北部ではかなり異なっている。中部では農民そのものが蜂起したのに対し、北部では暴徒化した群衆による暴動となっていったようである。
何れにせよこれは地租改正反対運動のひとつの表れと見るべきものであろう。
むしろ私にとって興味深いのは、これに対して大久保政府が実質的な減税政策で対応したということである。
これが巨額の歳入欠陥となったのは間違いないだろう。そのような苦しい財政事情のもとで西南戦争が発生し、莫大な戦費を捻出する必要に迫られたとき、大久保はどうしたのだろうか。