最初の見出しは「ルディー和子さんの 『経済の不都合な話』を読む」だったが、変える。ルディーさんの「話」をネタに私がオダを上げているだけで、ルディーさんがそう言っているように書いているのはほぼウソです。まことに申し訳ございません。
でもけっこう同感してくれるのではないか、とひそかに心中思っています。


ルディー和子さんの 「経済の不都合な話」が面白い。
とりわけ腹を抱えてしまうのがこの部分

第3章 科学になりたかった経済学
・経営学やマーケティングに理論などない 
・教科書どおりにインフレにならない理由 
・「日銀の約束」など誰も信用しない 
・経済学者はおろかなのか、それとも… 
・物理学への憧憬 
・定職につけなかった経済学の祖 
・経済学は厳正科学になりたかった 
・「合理的経済人」が感情の産物という皮肉 
・ノーベル経済学賞が逃れられない後ろめたさ 
・「美しい数式」と絵画や音楽の不思議な共通点 
・数式に魅せられ人間社会を誤認する

ルディーさんはまず、ジェボンズ、メンガー、ワルラスら新古典派に共通する議論の特徴をこうまとめる。
労働量が価値を決めるのではなく、顧客の満足度が価値を決めるという「逆転の発想」
労働価値説の否定でなく、価格形成過程からの排除という「けたぐり」による、古典派経済学のちゃぶ台返し。
価格形成論の除外により、労働者と労働過程を経済学の関心圏外に置くこと。
ついで今度はフィクションの積み重ね。「おとぎ話」を数式化することで真実らしく見せる詐欺的手口。
「顧客の満足度」を微分していくとどうなるか。

財の消費で得る満足感、これを効用と呼ぶ。その一単位(しかも最後の消費)を限界効用と呼ぶ。
これが財の価値を決める。したがって価格を決める。

つまり新古典派は「快感」を定量化するという無茶をやって、それを世の中の事象を測定する上での物差しにしようとするわけだ。

「今のはこんなに気持ちよかったから、これを1万円ということにして、世の中決めていきましょう」という話だ。下品な例えで申し訳ないが…

ついで今度はその「限界効用」をさまざまな条件をつけて積分してみようということになる。つまり、一度干して干魚にしたものを、もう一度お湯で戻して食おうという話だ。

困るのはあらゆるパラメーターが「快感」の関数になってしまうことだ。科学的な様相を呈すれば呈するほど、この極端な主観性による歪みがひどくなる。

ルディーさんは、新古典派がここまでのさばってしまったのはシュンペーターのせいだという。
数学が苦手だったことで有名なシュンペーターがワルラスを天まで持ち上げたのは皮肉だが、かといってシュンペーターにそこまでの責任があるかというと、それはちょっとかわいそうだろう。

新古典派が生き延びたのは、他ならぬケインズとサムエルソンのおかげである。シュンペーターの発想はケインズとは正反対で、ほぼ正統的な古典派だ。

ルディーさんも、高校の微積分でずっこけた「文化系」の人らしいから、シュンペーターとは相見互いだ。他人事ではない。