鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ:02 ラテンアメリカ > C 南米諸国(ベ・エ・ボを除く)

internacionalista さんからペルー大統領選挙についての情報をいただきました。ありがとうございます。
多分、ラテンアメリカ関連をサボっている私への叱咤激励の意味もあるかと思います。
とりあえずの感想ですが、私のペルーはオジャンタ・ウマラVSケイコ・フジモリのところで止まっています。
じつは、どうもアンデス左翼の方向性について確信が持てなくなっているところもありました。
おそらくはペルー共産党は党創立者のホセ・マリアテギの路線を引っ張っているのだろうと思います。マリアテギ自身が、先住民の意義を重視し彼らを立ち上がらせることにペルー革命の意義を見出していたことについては異論はありませんが、それがどの程度のものだったか、これは現場を見てみないとわかりません。
そのマリアテギすら、スターリン主義からの逸脱を指摘され批判された経過があるわけですから、どうしても都市の組織労働者に依拠することになるでしょう。
たしかにそれは必然だったかもしれません。ただいつまでもそうではないでしょう。
否応なしに資本が、道路が、商品が、文化が地方の隅々にまで浸透し、いまや地方の先住民を抜きに民主主義も政治も語れなくなっています。
それまでは一種のアパルトヘイト状態で、地方は国の政治とは無関係に生きてきました。しかし資本主義の浸透は逆に地方の政治参加を促したといえます。
そこをすくい上げたのがフジモリだったと思います。一面ではバラマキのポピュリズムと言われても仕方ないでしょうが、大事なことは、彼が地方の住民に初めて援助や「救い」ではなく、「展望」を与えたことだろうと思います。彼は地方に「農本主義」の思想を持ち込みました。その「展望」を持ったからこそ、地方はセンデロ・ルミノソを自らの手で駆逐したのだろうと思います。
リマの左翼は独裁者とか弾圧や腐敗とかを取り上げて、フジモリを悪しざまに罵るのですが、彼らが地方の小農・貧農(イコール先住民)、その難民としてのリマ市内貧困者に有効な展望を指し示しているのでしょうか。そこが気になります。
チャベスはベネズエラの左翼活動家でしたが、フジモリに学び従来の都市型選挙の枠を超えて大衆を組織し、その力で大統領に当選し、大衆の支えによりその座を守りました。(その任期の後半は強引な政権運営が目立ちましたが)
ベネズエラでは労働組合の多くは企業側と共同し、チャベスを攻撃しました。
新たな左翼の枠組みができようとする時、誰と肩を並べ、誰と対決するかは重要な問題です。
オジャンタ・ウマラは左翼の支持を受けて大統領選に出馬したのですが、決選投票でケイコと対決する中で、企業代表や札付きの右翼と手を結びました。それはリマの左翼の共同意志でもあったかもしれません。
はたしてそれでよかったのか。
その後のウマラ政権の軌跡は、それを疑わせるに十分なものでした。

と、ここまでが感想ですが、この後は少し勉強してからものを言うことにします。



私もへそ曲がりだから、人が誉めそやすと「ほんとかいな?」とチャチを入れたくなる。
ウルグアイの前大統領ムヒカのことだ。
知っている人は知っているだろうが、知っている人はほとんどいないだろうが、彼は元ツパマリョスだ。
都市ゲリラを気取って、散々好き勝手なことをやった連中だ。
もともとウルグアイはゲリラ闘争とはおよそ縁のない平和な国だった。予定通り行けばチリの次に「社会主義」が実現したであろう国だ。
社会党と共産党を軸とした民主連合勢力(拡大戦線)は、軍の革新派も巻き込んでいま一歩でその政府を実現するところだった。
そこに「極左」勢力が割り込んできて都市ゲリラという名のテロを繰り返した。左翼は敵の反動攻勢については実に粘り強く戦う。しかし左翼の衣をかぶったオオカミに対しては実にナイーブであった。そして極左グループの妄動の責任を取らされて、軍事独裁を許し、計り知れないほどの犠牲をこうむった。
軍事独裁がさじを投げ、民主政治が戻ってきたとき、多くの人は挑発者である極左集団も許さなかった。しかし、その一員であったムヒカは獄中何年の勲章を引っ提げて政界復帰に成功した。
その結果、拡大戦線の統一候補にまでなり、大統領候補となり、勝利した。しかし挑発者としての経歴に反省したかどうかは定かではない。
彼の大統領としてのキャリアは非の打ちどころのないものであった。無事に拡大戦線を守り次の大統領へのバトンタッチという重責も果たした。
これらの経過については何も異論をはさむ余地はない。
しかし、奥歯にものの挟まったような不快感はいまだに残っている。だから「世界一貧しい大統領」という称賛にはもろ手を挙げて賛成とはいかないのである。
経団連の土光会長は毎朝メザシを食おうとも、経団連の会長である。
(私のホームページのウルグアイ 年表をご参照ください)

アルゼンチン議会が「債務交換法」を可決したとの報道。一方、米地裁はこの計画を違法と裁定したそうだ。

まずは情報を収集してみる。

11日のロイター。

アルゼンチンの下院は11日、債務再編問題をめぐり、海外で保有されている同国国債をアルゼンチン法に基づく国債に交換したり、国内での利払いを可能にする法案を可決した。

この法案は上院では可決済みで、フェルナンデス大統領はこの日、法案に署名した。

今後、米バンク・オブ・ニューヨーク・メロンに代わって、ブラジル国有銀行のバンコ・ナシオンが国債の元利払い業務を受託する見通し。

一方、キシロフ経済財務相は、新国債への切り替えを望む債権者は少ないと認めている。


これで、元本の割引に応じて支払いを受けてきた債権者が、受け取りを継続することが可能になる。しかしそれに応じる債権者は少ないということだ。「ひょっとしたら元本を額面通りに受け取れるかもしれない」と思えば、当然、模様を眺めるだろう。

とにかく出口はひとつ作ったわけで、後は持久戦になる。

次は19日のロイター

法案成立を受けたキシロフ経済財務相は、米国法に準拠する再編した債券を自国法に準拠した債券と交換すると表明した。

これを受けた金融市場ではアルゼンチン国債価格が下落した。新たな債務交換の提案が嫌気されている。

2033年償還のドル建て割引債は2ポイント以上下落し71.33セントとなった。利回りは12.67%に上昇した。

とは言うものの、事実上のデフォルト(選択的デフォルト(SD))になってからすでに約1ヵ月が経つが、世界の金融市場にそれほど大きな影響は出ていない。アルゼンチン国債などハナから信用されていないからだ。


アメリカも早速反撃に出ている。

同じ19日付のロイター

米最高裁は、アルゼンチン国債の債務再編に応じなかった債権者への13億3000万ドルの支払いを命じた米連邦地裁の判決の見直し請求を退けた。

再編した債券の支払い期限までに解決策が打ち出されなければ、アルゼンチンは「テクニカル・デフォルト」に陥る。


8月22日 WSJ

違法判決を出したニューヨーク連邦地裁のトマス・グリーザ判事は「この債務交換計画の意図は司法判断を巧みに逃れようとするもので、実施が禁じられている」とし、「米国の銀行も含め、いかなる組織も協力が禁じられている」と強調した。

どうもこのグリーザ判事、自分の判断がアルゼンチン国民にどのような影響をもたらすかには、とんと興味が無いらしい。脳のブレーキのネヂが飛んでいるようだ。客観的に見ればハゲタカファンドとグルになっていると見られても仕方あるまい。


三菱UFJには以下のお知らせがある

保有する米ドル建てアルゼンチン国債はアルゼンチン国内法に準拠した債券であることから、今般の米国最高裁判所による利払い禁止命令の対象外であり、利払いは継続しております。

2014.08.02 しんぶん赤旗 【ワシントン=島田峰隆】


この記事は赤旗の特ダネのようで、いろいろなサイトがこの記事を引用している。


アルゼンチンの債務返済問題をめぐり、債務再編に応じず全額返済を求める米投資ファンドの訴えを認めた6月の米 最高裁判決について、世界の100人以上の経済学者が7月31日、判決は「モラル・ハザード」(倫理の崩壊)を招くと批判し、米議会に対し、国際金融 市場への悪影 響を緩和する法的措置を取るよう求める連名書簡を送りました。

ノーベル経済学賞受賞のロバート・ソロー氏(マサチューセッツ工科大学名誉教授)やプリンストン高等研究所のダニ・ロドリック教授らが呼 び掛けたもので、米シンクタンク経済政策研究所(CEPR)が発表しました。

書簡は、債権者の9割以上が再編に応じているなかで、投機を目的とする一部の米ファンドの主張を認めることは「交渉する道を選択した他の 債権者の既存の合意まで破壊する」と強調。こうした事態を許せば「国際金融市場の機能に甚大な悪影響を与えうる」と懸念を示しました。

また米ファンドは、再編に応じなかった債権者から二束三文で債権を買い集め、債務全額の支払いを受けて大もうけしようとしていると批判。 こうした手法は「金融の不安定化」を招くと指摘しました。

CEPRは「アルゼンチンを債務不履行に陥れた米最高裁の判決は誤りであり、金融に打撃を与えるものだという見解が経済学者の間で広く共 有されている」と強調しています。


元ネタはこれのようだ

Economists Call on Congress to Mitigate Fallout from Ruling on Argentine Debt

冒頭に速報が掲げられており、記事はこれを要約したもののようだ。

以下が本文(拙い訳ですみません)

July 31, 2014

親愛なる国会議員の皆さん、

私たちは、アルゼンチン対NMLキャピタルの裁判の最近の展開に対し懸念を抱いています。

連邦地裁の判決は不必要な経済的ダメージを引き起こす可能性があります。とくに、外国人債券保有者の93%に対するアルゼンチンの債務支払を禁止する命令は危険なものです。

この判決は国際的な金融システムに関して、米国、アルゼンチン双方の不利益となる可能性があります。この問題に関して15年にわたり米国が積み上げてきた債務救済交渉についても同様です。

私たちは、議員の皆さんが今すぐ行動に移り、判決の有害な衝撃を軽減するために立法上の措置をとるようもとめます。

政府は時にさまざまな理由で困難に陥ることがあります。国債の償還を続けることができなくなることもあります。

これは2001年末のアルゼンチンの状況にも当てはまります。何年にもわたる交渉のあと、アルゼンチンは債務再編協定を結びました。債権がデフォルトとなった債券保有者は、その93%が協定に合意しました。そしてアルゼンチンは協定にもとづく債務支払いを続けてきたのです。

判決はこう言っています。「原告への支払いを優先すべきだ。それが実行されないのなら、アルゼンチンは再構成された債権の保有者への支払いをしてはならない」

それはどんな意味を持つのでしょうか。

それは、どんな「持ち越し」(Hold-out)債権者でも、交渉に応じた債権者とのあいだの協定をぶちこわす(torpedo)ことができるということです。

個人と会社は破産法の保護を与えられているのに、そのようなメカニズムは独立国の政府のためには存在しないのでしょうか。

裁判所の判決は、債権者と債務者の和解意欲を著しく低下させます。そして秩序だった再建を妨害し、債務危機の激化をもたらすことになります。

それは、国際的金融市場のはたらきに重大な否定的影響をあたえることになります。国際通貨基金(IMF)がくりかえし警告したとおりです。

 

そもそもアルゼンチンの債権に投資した人々は、デフォルトの危険性を承知のうえで高い金利に惹かれたのです。これは取引です。

国債に投資するときには国債特有のリスクがあります。もし判決がリスクを無視するのなら、それは一種のモラル・ハザードとなります。投資家がどんな危険な投資であってもフル償還を獲得するのを認めることになるからです。

この裁判における原告は、2001年のデフォルトの後、「第二の市場」(ジャンク市場?)でアルゼンチンの債券を買い集めました。買値はしばしば20セント以下だったといいます。

この役者たちは、もし再建案を受け入れたとしても巨額の利益を受けることは可能でした。しかし彼らはそうする代わりに、10年もの長きにわたる法廷戦争を闘いました。

そして、その報酬として1,000パーセントを超える過剰利益を求めたのです。その結果、国家財政が不安定化することも厭わなかったのです。

最近の変化は、アメリカの世界経済の財政センターとしてのステータスにも、直接的な影響を与えています。

発展途上国の国債の多くはニューヨークで取引されています。それらはニューヨーク州法により統制され、ニューヨークに拠点を置く金融機関の運営のもとで行われています。

今回の判決は、途上国政府が債務問題の解決の場所を他所の国に移す可能性を強めることになるでしょう。例えばイギリスとベルギーはすでに、「ホールドアウト」債権者の行動を認めない法律を可決しています。

法廷はそれに加えて、ニューヨークに籍を置く銀行にも規制をかけました。彼らはスケジュールに従って、リストラに賛成した債権者に通常の利子支払いを行おうとしましたが、それは妨げられました。

すでに、銀行は投資家から訴訟を受けています。それはアメリカを拠点とする金融機関にとって大きな不確実性をもたらしました。

アルゼンチンは交渉の意思があることを表明しています。彼らは最近パリ・クラブ(民間債権者グループ)との交渉で合意に達しました。さらに他の国際的な投資家との交渉についても前向きに取り組もうとしています。

議員の皆さん、私たちはこの判決や類似した判決が不必要な害を引き起こすことを望みません。その代わりに、あなた方が適切な立法的解決を打ち出すことを望みます。

Sincerely,

Robert Solow, Nobel laureate in Economics, 1987, MIT Professor of Economics, emeritus

他100名以上



2001年のアルゼンチン債務危機については、アルゼンチン年表をご参照ください。

アルゼンチンに襲いかかるハイエナファンドについては下記をご覧ください。



チリの教育システムについて概説した文献が見つかった。

国立教育政策研究所の斉藤 泰雄さんが書いた「チリ:新自由主義的教育政策の先駆的導入と25 年の経験」というものである。

全文もそう長いものではなく、難しいものでもないので、直接そちらをあたっていただければよいのだが、とりあえず抜粋して紹介する。

はじめに―――なぜチリなのか?

チリは、教育の市場化・民営化を中心とした新自由主義的教育政策を徹底して推進してきた。

それはピノチェト軍事独裁政権時代の遺物でもある。

その特徴は

①バウチャー制度: 教育予算の人頭割

②基礎・中等教育で私立学校在籍者の比率がほぼ半数を占める

③管理運営を国から市町村に全面的に移管した

④世界で最も多数の高等教育機関を持つ

⑤父母の負担がきわめて高い

従来よりチリの教育水準はきわめて高い。高等教育就学率は31.5%に達している。成人識字率も95%を超える。

しかし、国際的学習達成度調査によれば、チリ教育は質の面において、大きな課題を抱えている。

1. チリにおける新自由主義教育政策の導入の経緯

1980 年、ピノチェット軍事政権体制下にあったチリ政府は教育の市場化・民営化を打ち出した。

「将来の完全民営化に至るまでの過度的な措置」として、市町村への分権化が打ち出された。

バウチャー制度により、公・私立校の区別なく、在籍する児童生徒数に応じて、生徒一人当たり同額の国庫助成金を配分する方式を採用した。

教員は、国家公務員としての身分を喪失し、、民間企業に対する労働法が適用されることになった。

2.新自由主義的教育政策の効果と限界

(1)バウチャー導入以降のチリ教育界の変貌

chileschool

助成私学経営への参入が相次いだ。1990 年までの10 年間で約50 万人の生徒が私学に流出した。現在では公立学校の在籍者は50%にまで低下している。

なお、独立私立校は、高い授業料を徴収する伝統的エリート系私立校であり、ここに通う生徒はバウチャーの対象外である。

(2) 「選択と競争」政策の効果と限界

私立校が少ないコストで公立校と同等あるいはより良い教育成績をあげたことは効率性の高さを示すものであると見なされた。

しかし私立校には多くの問題があった。

私立校はインフラ建設のローンを抱え、教員給与も公立校よりも低く抑え、また、学級規模も公立校よりも大きかった。

助成私立校は、英語の学校名、派手な制服やカバンの採用、課外活動の充実、愛校心の強調や校歌の制定など、中産階級の趣味をくすぐるようなマーケッティング戦略に走り、コストのかかる教育の質を向上させるための努力は回避した。

生徒数の少ない農村部やへき地には、私立校の進出はなく、教育の民営化そのものが不可能であった。

3.民政復活後の軌道修正

民政化後も、新自由主義的教育政策は維持された。その理由は

①軍事政権が法改正に憲法修正を求め、教育システムの維持を計った。

②ピノチェットは陸軍最高司令官にとどまり、「大砲の側で情勢を見守る」と宣言して文民政権を牽制した。

③すでに10 年間の実績があり、一定の効果をもたらした。父母も学校選択権を歓迎していた。

新教育相ラゴスの改革は二面的であった。

①教育の質と公正の改善をはかった。教育条件の整備は原則として国家が主導するとした。教職の地位の安定化と待遇改善をはかった。

②助成私立校の無償制を廃止し、授業料を徴収することを認める。助成私立校はバウチャーの恩恵を受けながら、同時に授業料を徴収できるようになった。

これらの部分修正により、結果的に市場化・民営化路線は存続・強化されることになった。

4.OECD調査団によるチリ教育政策評価

2003 年10 月にOECD教育委員会が調査を行った。これに合わせ、チリ教育省もレポートを提出している。

[チリ教育省報告部分から]

①90年代の前半には、公立校と助成私立校との成績格差はわずかに縮小したが、その後は拡大を続けている。

②学習成果は不平等で、高度に階層分化されており、90年時点に比べ改善はない。

③公立と助成私立校間での学習成績の相違は目立たない。むしろ社会経済的階層による違いが顕著である。

(③は、「助成私立校が公立校より成績が高くコストが安い」という主張に対する控えめな反論)

[調査団報告部分から]

バウチャー・システムや教育の市場化と関連するその他の政策は全般的な合意を受けており、もはや逆転させることは難しい。

家庭を私立学校に引きつける最も重要な要因は、「私立学校では最悪の不良生徒の入学を拒絶できること」であった。私立学校は特殊教育について配慮する必要がないし、素行態度が最悪の生徒の入学を拒絶することもできる。

公立校から良質の上澄み部分の収奪が、公立学校の平均テスト成績を低下させる原因となっている。

つまり、助成私立校は公立校よりも効率的だが、それは最低部分を切り捨てることで成り立っており、チリの教育システム全体に代わるような方式ではないということである。

助成私立校のコスト効率が良いとされるが、その実態は、助成私立校の(かなり無理をした)教員の労働コスト削減によって生じたものである。公立校に適用しうるものではない。

調査団は、次のような結論を下さざるをえない。

将来、教育システムにおいてより大きな効果と効率を生み出すためには、市場メカニズム(たとえば、学校間での競争や教員の業績給) に依存しつづけることは、高い成果をもたらす戦略ではない。

チリの教育コスト

ピノチェトの民営化政策は教育の効率化をネガティブな形で追求したものであった。つまり教育の質を落とさずに、どこまでコストカットできるかという視点である。

その結果が下の表である。

対GDP比で見た各国の教育費支出とその負担区分の事例 (2001 年) 単位:%

国名

全教育レベル

高等教育レベル

公財政支出

私費負担

公財政支出

私費負担

日本

3.5

1.2

0.5

0.6

アメリカ

5.1

2.3

0.9

1.8

チリ

4.3

3.2

0.5

1.7

OECD平均

5.0

0.7

1.0

0.3

チリのことは笑えない。日本ははるかにひどいことになっている。

チリの学生抗議運動

Ⅰ.はじめに

チリの学生抗議運動は2006年の高校生の運動に始まり、2011年に大きな盛り上がりを見せました。

残念ながら日本ではほとんど報道されず、たまのニュースでも覆面姿の学生が該当で暴れまわっている場面しか報道されません。

この記録も不十分なものですが、とりあえず皆さんに多少とも知っておいてもらいたいと思い作成しました。

チリの運動にはもちろん大きな前史があります。あの70年代のアジェンデ大統領と人民連合政府の闘いです。

合法的に権力を獲得し、民主主義の実現と社会体制の変革に向けて大きく踏み出したチリでしたが、その後1973年9月11日に悪名高いCIAとピノチェト将軍のクーデターで押しつぶされました。

何千もの人が軍により殺され、あるいは「行方不明」となりました。多くの人が捕らえられ拷問を受けました。国外亡命を余儀なくされた人たちもたくさん居ました。

その後、ピノチェトによる軍事独裁が長い間続くのですが、チリの人々は文字通り命をかけて不屈に戦い続けました。

そして1989年、ついにピノチェトを退陣に追い込み、民主政治を回復させたのです。

しかしその民主化は本当の民主化ではありませんでした。軍の実権はそのまま維持され、政府といえどもピノチェトにないし指一本触れることすら出来ませんでした。

軍は政府の言うことを聞かず、ときには政府をまったく無視して左翼勢力の弾圧を行いました。チリ共産党は国会の議席を失ったまま、孤立を余儀なくされました。

民主化を成し遂げた中道勢力は、ピノチェト時代の経済政策をそのまま踏襲し、むしろ新自由主義経済を推進していきました。

貧富の差はますます拡大し、経済成長とは裏腹に国民生活は困窮の度を増していきます。

きわめて雑駁ですが、ここまでが2006年、学生の抗議運動が爆発するまでの経過です。

Ⅱ.2006年、高校生の抗議運動 「ペンギン革命」

A) 闘いの始まり

4月24日、成立したばかりのバチェレ新政権が、学生の負担をさらにもとめる方針を発表しました。

そこには、大学共通入学試験の受験料を引き上げること、またバス料金の学生割引の対象を制限する内容がふくまれていました。

それは高校生の生活を脅かすだけではありませんでした。実はバチェレ新大統領は中道勢力の中でも左翼に属するとみなされ、新自由主義に苦しむ民衆の期待を集めていた人でした。だからこそ、その大統領に裏切られたという怒りが一気に爆発したのです。

26日、高校生のグループが行動を起こしました。サンティアゴのメインストリートであるアラメダ通りで、制服姿の高校生がデモを敢行したのです。

高校生の制服は白黒のツートンカラーで、ペンギンに似ていることから、高校生の抗議運動全体が「ペンギン革命」と呼ばれるようになります。

警察がたちまち襲いかかり、50人近くが逮捕されました。しかしこのデモは国民の共感と支持を呼びました。何よりも他の高校生たちの憤激を呼びました。

折しも5月1日のメーデーが各地で行われました。自らを組織するすべを持たない高校生たちは、メーデーの行進に参加することで抗議の意志を示しました。

警察はこれらの行動も容赦しませんでした。全国で高校生1千名を逮捕しています。このことからも、ピノチェト独裁政権時代の抑圧体質がそのまま残されていることが分かります。

バチェレ政権はこのような警察の横暴に対して情けないほど弱腰でした。「暴力は正しい手段ではなく、政府は警察の行動を支持する」との声明を出したのです。

血気にはやる高校生はこのような状況を我慢できませんでした。

5月19日、チリの中でも名門校とされるインスティトゥト・ナシオナルとリセオ・デ・アプリカチオンで、高校生たちが学校を占拠しストライキを開始しました。この衝撃はあっという間に国内に広がりました。わずか数日のあいだに、学園の占拠やストライキは14校に拡大しました。

占拠学生は高校生調整会議(ACES)を結成。学生用公共バスの無料化、大学統一試験受験の無料化、教育法の改正などを要求し、「5.30全国ストライキ」を呼びかけます。

ストライキ闘争の影響は高校生のみならず大学生、教員、労働者へと広がっていきます。各団体が相次いで支持声明を発表します。その広がりは底知れぬほど巨大なものとなりました。

5月30日、全国ストライキが打たれました。全国で320の学園が占拠されました。100校以上がストライキに参加しました。各地でのデモには、あわせて80万人が参加しました。

ほぼ根こそぎといっていいでしょう。

B) 政府の対応の変化

高校生の抗議運動が影響力を拡大するのを見た政府は、急遽、高校生との交渉に応じる構えを見せます。

バチェレ大統領はテレビ演説し、「高校生たちの要求を受け入れる。新たな教育政策を検討する。そのために大統領に直接つながる諮問委員会を設置する」と述べました。

30日の全国スト当日には、ジリッチ教育長官が現場に出て学生リーダーと第1回目の交渉を持ちました。この辺りの反応はさすがに素早いものがあります。

ところが警察はこの交渉そのものを潰しにかかりました。会談は国立図書館前で行われたのですが、図書館前に集まっていた高校生たちに、突然警察部隊が襲いかかったのです。

やることがめちゃめちゃです。公安部隊は催涙弾を撃ちまくり、700人余りを逮捕し怪我を負わせました。通りがかりの野次馬は言うに及ばず、個人宅にいた見物人も逮捕されました。報道関係者も襲われました。

警察の暴行はメデイアを通じて流されました。「クーデターの再現」すら思わせる光景に、世論は沸騰しました。警察は政府や世論をなめきっていたのだと思えます。

バチェレは怒りを爆発させました。「警察に治安の維持を期待しているが、昨日目撃したような出来事は到底受け入れることはできない」と発言します。そして特殊部隊の隊長と副隊長を含む10人の解雇を発表します。

警察は一気に孤立することになりますが、一向に平気です。「いざとなればバチェレもろとも捕まえてしまえ」くらいの勢いだったのでしょう。

この国の裁判所・司法機構は一貫して反人民・親ピノチェトの姿勢をとり続けていたからです。(一握りの良心的な判事もいましたが)

C) 力による抑え込み

学園占拠闘争をはじめてすでに3週間、ここいらが潮時とみたACESは、5日に打ち上げストを決行した後、7日にストの終了を宣言しました。

5日のストは国民的な抗議の高まりを象徴するものでした。高校生に加えて大学生、高校教師、トラック運転手、労働者の組合も連帯ストを打ちました。

警察は運動の拠点インスティトゥト・ナシオナルの封鎖に対し、催涙ガスや放水で挑発攻撃をかけました。反撃に出た高校生は次々と逮捕され、240人が拘留されます。

ここまでで逮捕者の異常な多さに驚かれるだろうと思います。4月26日に50名、5月1日に1千名、5月30日に700名、6月5日に240名という具合です。
我々もデモやピケで逮捕者を出しましたが、せいぜい逃げ遅れた2,3名が2泊3日の勾留となる程度でした。
これだけの人数を逮捕するのは、逃げるやつを追いかけるだけでは無理です。罠を書けて追い込んで一網打尽にしなければ不可能です。この逮捕劇は間違いなく流血を伴うでしょう。
このことだけ考えても、警察がきわめて攻撃的で暴力的であることが分かります。「愛される警察」などというモットーは考えも及ばないでしょう。

同じ日、バチェレ大統領が大統領諮問委員会のメンバーを発表。高校生にも6つの席が与えられました。バチェレはさらに、問題の責任を問う形で教育大臣と内務大臣(警察管轄)とを更迭しました。

高校生にとっては、とりあえず大成果といえるでしょう。

しかし約束された改革はなかなか進みませんでした。諮問委員会では「何を諮問するか」をめぐる入り口論議が果てしなく続きました。

2ヶ月が過ぎて学生のあいだに苛立ちが募り始めました。8月に入って相次いで高校生のデモが行われますが、相変わらず警察の対応は強硬でした。8月23日のデモでは2千人のデモ隊の1割、200人が逮捕されるにいたります。デモ自体が犯罪扱いされているのも同然です。

こうして高校生の闘争は徐々に沈黙を余儀なくされ、抑えこまれていくことになります。

昨日は
チリの学生運動の経過を年表に組み込む、
ネパールの年表を一本化する

ことに時間がとられました。

ホームページの方に掲載しましたので、よろしければご参照ください。

チリの学生運動の経過をレビューする作業は、まだ行われていないようです。英文でも、チリの闘いの歴史の中に位置づけて語るレビューはなさそうです。

ラテンアメリカ諸国の団結と平和路線は21世紀の新たな世界への駆動力の一つとして注目されていますが、チリに代表されるラテンアメリカの学生運動も、今後の大衆運動のあり方を示すものとして、もっと注目されて良いと思います。

一つ面白そうな題名の論文がありましたが、読んでいくうちに独特の臭みが鼻につきだして、「あぁ、例によってトロツキストだな」と分かり、途中で読むのをやめました。

トロツキストというのは、着想はいいのですが、最後は既成左翼の乗り越えと労農ソヴェートへの流し込みです。学ぶのではなく教えることに目的があるのでしょう。

過去の経験との突き合わせもアナリーゼもいいのですが、もっとリアルな現実から確実な果実を取り出し、学んでいくことで初めて「理論」というものは積み上がっていくのではないでしょうか。

話は飛びますが、

労働というのは生産活動の核心に座るものですが、生産活動そのものに取って代わるものではありません。

そして生産と消費(生産力の再生産)は対になって発展していく(べき)ものです。

「生産者が主人公」というスローガンの重みを感じてほしいものです。


今日の赤旗国際面

12月9日 コロンビアの検事総長が首都ボゴタの市長を解任し、15年間にわたり公職から追放すると発表した。
どう考えても横紙破りだ。筋が通らない。

解任の理由は、ごみ収集事業について混乱を引き起こしたというもの。
市長はごみ収集の公営企業を立ち上げ、民間企業と競争しながら雇用拡大を進めてきたが、これが企業の自由な競争を制限している憲法に違反している、という。

これもメチャクチャだ。賄賂とか、犯罪とかに関連してのものならないわけではないだろうが、市長が公約に掲げ、選挙で勝利し、実行してきた政策を憲法違反と判断する権限が、一検事総長にあるだろうか。

これ自体が憲法違反ではないか。検事総長の論理から言えば、解任されるべきは検事総長自身だろう。

元検事総長のモラレス氏もそう考えている。彼は国会議長あてに検事総長の解任をもとめる書簡を送った。

ボゴタ市長

ボゴタ市長の名はグスタボ・ペドロ。2011年の選挙で左派勢力を代表して立候補し当選した人物だ。

「ごみ収集公社」は、富裕層への増税、貧困世帯の水道料引き下げなどとともに、ペドロ市長の一種の目玉政策となっている。

50年ぶりの政治闘争に発展する可能性


ボゴタ市中心部のボリーバル広場には4万人が集まり抗議行動を展開したそうだ。これは手始めだろうが。

コロンビアではこの50年間、暴力と虐殺の時代が続いてきた。合法的な反政府活動はほとんど不可能に近かった。
とくに80年代後半の白色テロは凄まじく、多くの野党指導者が命を失い、生き残ったものもジャングルに逃げこむしかなかった。
それがFARCでありELNであった。

やっと数年前から合法活動が可能になり、依然ブラックメールは後を絶たないが、首都ボゴタでは左派系の市長が実現するようになっている。

今度の事件は10年ほど前のメキシコの事件によく似ている。この時もメキシコ・シティーの革新派市長がその座を逐われかけた。
この時も市民が一斉に立ち上がり市長を守った。名前の頭文字をとってアムロと呼ばれる市長は、野党のシンボル的存在となり、次の大統領選挙で大接戦を演じた。(ラテンアメリカの大統領選では、野党候補は圧勝しない限り“惜敗”するものと相場が決まっている)

一気にコロンビアの政治情勢が動く可能性がある。見逃せない動きだ。


カミラ・バジェホが国会議員(共産党)に

Reuters in Santiago

18 November 2013


2011年のチリ学生蜂起を率いた女性が下院議員に当選した。

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サンチアゴ市内で選挙演説中のカミラ  Photograph: Martin Bernetti/AFP/Getty Images



カミラは2011年にチリ学生運動の先頭に立った。他にも3人の学生運動出身者が下院に当選した。これはチリの政治の世代交代を強く印象づけた。

カミラ・バジェホ、25歳の共産主義者は国際的な名声を得ている。彼女はOECD加盟34カ国中、最悪の所得格差を誇るこの国で、無料の良質の教育をもとめる運動の顔となった。

カミラの勝利はミシェル・バチェレと「新多数派」(Nueva Mayoria)が議会に強い基盤を作るための鍵となった。

「ラ・フロリダ街(学生デモの定番地区)で勝利を祝おう」とかミラはツィッターで呼びかけた。

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この日、最も明らかな勝者は大統領選挙で一位となったバチェレであった。彼女は06年から10年までの間大統領を務めている。

しかし彼女は勝利を確実なものとするためには来月の決選投票を闘わなければならない。

11年の巨大な学生の抗議行動は、現職の保守派大統領(セバスチャン・ピニェラ)の政府を動揺させた。

そして

2013年のバチェレの大統領選挙キャンペーンを助けた。バチェレは教育の全面的見直しに必要な資金を税制の改正により獲得すると公約した。

カミラとともに3人の学生運動指導者も当選した。ジョルジョ・ジャクソンとガブリエル・ボリクは独立派として、カロル・カリオラは共産党に所属した。

このパワーは、しかし来年も続くとは限らない。学生運動の新しい世代の何人かは、彼らを“sellouts”と見ている。

かつてカミラもその席にあったチリ大学学生連合の新議長メリッサ・セプルベダは、「私は、カミラにもジョルジョ・ジャクソンにも投票しないだろう」という。

「変化の可能性は議会にはないのだから」

そうだ、今年はあれから40年だ。何かやらなくてはいけない」と書きましたが。結局何もせずに9月11日が通り過ぎて行きました。

「チリ人民連合の軌跡」と仮題をつけて書き始めましたが、とりあえず頓挫しています。

とりあえず、このページの検索欄に「チリ」と入れてください。40本ほど記事が引っかかってきます。

主なものを上げておきます。

“フォルクローレ”の流れ

ビクトル・ハラの虐殺犯が逮捕


チリ・クーデター 佐藤さんの証言 その2

アジェンデ最後の演説


チリ・クーデター 佐藤さんの証言

チリ大統領が大企業増税を宣言

チリ学生闘争年表 その3


チリ学生闘争年表 その2


チリ学生闘争年表 その1


チリ学生は何をもとめているか


チリ学生運動のジャンヌ・ダーク

私のHPに行ってもらうと、膨大なチリ年表がご覧いただけます。また評論のページには、いくつかの文章を掲載しています。

チリ年表

ピノチェト事件の行方   

ビリャ・グリマルディ(政治犯収容所、多くの人が拷問され殺された)  

グラディス・マリンの死を悼む



Havana.  April 26, 2012

チリ共産党、100年の闘い

ホアキン・リベリ

 

チリ共産党100年の歴史は、南米諸国における自由と社会正義の願いを実践に移すための鍵を示している。

右派セバスチャン・ピニェラ大統領の政府に挑戦した大きい学生デモンストレーションの起こった昨年、その名声はさらに高まった。

その運動の先頭に立ったのは共産青年同盟の書記長カロル・カリオラ、そして共産青年同盟の執行委員で、全学連の副委員長でもあるカミラ・バジェホである。

(カミラ・バジェホとチリ学生の闘いについてはこのブログでも以前紹介している)

何千もの学生は、無償で質の高い教育を要求し、野蛮な弾圧にも退かなかった。

共産党はまた、労働者の要求を支持し、政府のネオリベラリズム政策への大衆抗議を支持した。そして憲法の改正を呼びかけている。

 

1912年6月12日、社会主義労働者党として創立されてから100週年となる日が近づいてきた。そしていま共産党は好位置につけている。

 

その党は印刷工ルイス・エミリオ・レカバレンによって組織された。そして北チリの都市イキケの30人の鉱夫と労働者とが加わった。その党は新聞“El Despertar de los Trabajadores”(労働者の目覚め)のオフィスで結成された。

1922年1月2日、第二回目の大会でその名は変更された。党員たちが共産主義インタナショナルに加わることを決議したからだ。

20世紀の初頭にチリを襲った危機に直面して、できたばかりの共産党は革命にたちあがれ、権力を奪取せよとプロレタリアートに呼びかけた。闘いは始められ、直ちにブルジョア支配階級の強烈な弾圧で応えられた。

数十年にわたる闘いで、チリの共産主義者は何度も激しい迫害の期間を経験した。そして地下での活動を強いられた。そして何度も何度も組織の再建を余儀なくされた。共産党員は襲撃され拘束され殺された。

有名なシンガーソングライターでマルクス主義者のビクトル・ハラもその一人だった。彼の拷問と死は、17年のアウグスト・ピノチェト独裁のなかでも最悪の犯罪の一つである。

しかしピノチェト独裁は、その残忍性にもかかわらず、チリの共産主義思想を除去することはできなかった。

 

1933年に、チリ共産党は社会党、急進民主党と労働者総同盟と人民戦線を結成した。このことはチリの政治における共産党の比重を強めた。

第二次大戦後にチリ共産党は地下活動を強いられた。地下の共産党は1952年の大統領選挙で初めてサルバドル・アジェンデを支持し闘った。そのために社会党との間で民族解放戦線、別称人民戦線が結成された。 

この統一戦線はまだ勝利を得るにはあまりに早かったが、アメリカとチリの反動勢力の厳しい反響宣伝を促すには十分だった。

共産党はふたたび戦線に復帰し、帝国主義反対、寡占層支配反対の綱領を掲げ、社会・経済の変化を訴えた。そして1958年に合法活動を認められると、人民行動戦線(FRAP)を結成しアジェンデを支持した。58年の選挙ではアジェンデと左翼に対する支持は大幅に増加した。しかし右翼の大規模な宣伝キャンペーンの前に敗れた。

64年の選挙ではアジェンデはこれまでになく有望だった。しかしこのままでは敗北すると見た右翼は、自らの候補を辞退させキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ候補の支持に回った。フレイは扇動的なスピーチと改革の公約を乱発することで、アジェンデから投票をもぎとった。

1969年に、再び、もう一つの連立がつくられるまで、階級闘争は強くなり続けた。1970年大統領選挙のため、共産党をふくむ人民連合が結成された。その綱領は民衆を引きつけた。人々はブルジョア政党の約束違反に飽き飽きしていた。

アジェンデは勝利した。しかし銅山の国有化など貧しい民衆の利益を図るための手段は、アメリカにとって受け入れがたいものだった。それはまた寡頭支配層とピノチェトの率いるファシスト軍にとっても認めがたいものだった。

そしてピノチェトらは1973年9月11日に、CIAの組織した流血のクーデターをひきおこした。クーデターは何千人もの死者と行方不明者と拷問の被害者を残した。共産党書記長ルイス・コルバランも捕らえられた。中央委員のほとんどが亡命を強いられた。

それは組織の真空状態と崩壊をもたらした。そして組織の再建を余儀なくされた。ほとんどが無名の党員からなる指導部が、地下で組織を再結集するために活動した。はやくも1974年、国内指導部は機能し始めた。

1990年代の初めに、ピノチェト退陣にともなって、党の指導部は国内での闘争の再開を決定した。法的にはピノチェト時代の残滓やさまざまな制限があったが、それを乗り越えるべく挑戦を始めたのである。

とくに憲法は共産党の政治的な影響を制限し、議会への参加を防ぐように作られていた。それにもかかわらずチリ共産党はすべてのレベルの選挙に参加することを決定した。

1999年、党書記長の闘士グラディス・マリンが大統領に立候補して、困難な状況のなかで3.19% を獲得した。

2005年、彼女は病に倒れ、もう一人の傑出した革命家、ギジェルモ・テイジェルが党の指導部を引き継いだ。

その年に行われた議会選挙で共産党は民主連合との協定を結び、三人の下院議員の当選を実現した。ウーゴ・グティエレス、ラウタロ・カルモナ、そしてテイジェルである。

共産党はまた、わずか3人の議員団でピノチェト独裁の制定した法律に果敢な闘いを挑んだことで威信を高めた。それらの法律はネオリベラリズムの立場に立ち、国家の天然資源を略奪する多国籍企業と国内寡占層を保護するものであった。

党の現在の任務の一つはいわゆる“binominal elections”の排除である。これは一種の法的トリックで、独裁政権時代に左翼が議会に代表を送り込むのを防ぐために創りだされたものだ。

Wikipedia には長々と説明が書かれているが、読んでもさっぱりわからない。最後の「共産党はこのために1議席も取れなかった」というところだけは分かる。

that rewards coalition slates. Each coalition can present two candidates for the two Senate and two lower-chamber seats apportioned to each chamber's electoral districts. Typically, the two largest coalitions split the seats in a district. Only if the leading coalition ticket outpolls the second-place coalition by a margin of more than 2-to-1 does the winning coalition gain both seats. The political parties with the largest representation in the current Chilean Congress are the centrist Christian Democrat Party and the conservative Independent Democratic Union (Unión Demócrata Independiente). The Communist Party and the small Humanist Party failed to gain any seats

先住民であるマプーチェの人々はつねに党を無条件に支持してきた。

党は学生の弾圧に反対している。そして生活水準の改善を求める労働者のストライキを支持している。

それらすべての活動は無産者の解放とチリにおける社会正義の実現に捧げられている。

チリ共産党は勝利を確信し、この路を歩み続けるだろう。


チリとクーデターについての知識が行き渡っているラテンアメリカで、チリ共産党の100年の歴史をこれだけのスペースにまとめるとは、グランマもいい度胸だと思います。

まずは言い訳がましいが、このところやる気がでない。
日本ハムにスランプがあるように、私にもスランプはある。
せっかくこれから反転攻勢というのに、カリソメにもエースと呼ばれた武田勝が初回に5点だ。
北海道のファンは優しいというが、そうでもない人間もいる。
重営倉送りだ! これからは武田敗と名乗れ。思わず全柔連の強化コーチの気持ちが乗り移る。

それで、写真を貼り付けて記事の代わりにする。

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この写真は1973年、クーデターの直前に撮影されたものだ。

アジェンデ派の集会で、ジャンパー姿の労働者に混じってこんな女の子がいた。フランスのニュース映画に一瞬写った。カメラに気づいてちょっと表情が緩んだ。それがたまらなく良くって、ここに載せてしまった。

すでにフィルムはセピア色に変色しているが、あの頃としては、なかなかおしゃれだ。化粧こそ目立たないが髪もウェーブをかけてイヤリングもつけているようだ。ベージュの綿セーターに紺のカーディガンで決めている。あの頃の学生の典型的スタイルだ。

あちらの女性は20歳過ぎると老け顔になって、ケバくなって、肉がつき始めるから(あの頃の一般的傾向としては)、せいぜい20歳前後かと思う。もしクーデターを無事に生き延びることができていれば、いまは60歳くらいになっているだろう。
たくさんの人が殺された。逮捕され、拷問され、行方不明になった。そのあと20年近く、こんどは沈黙を強いられた。彼女の20年はどうだったのだろうか。

そうだ、今年はあれから40年だ。何かやらなくてはいけない。CIAは変わったのだろうか、アメリカと反動勢力は変わったのだろうか。人民・民主勢力は変わったのだろうか。クーデターを二度と許さない体制を、我々は構築し得たのだろうか。





それなりにボサノバにはまりつつある。
ボサノバの立ち位置はすごく揺らぐんですね。
基本的にはカルロス・リラの立っているところが真ん中なんだろうけど、彼はものすごいジャズ・コンプレックスなんですね。だからボサノバがブラジル的なものに行こうとすると感覚的にはすごく反発する。「それはボサノバではない」という感じでしょうね。
一方で、マルコス・バリーはジャズというよりアメリカンポップスに行こうとする。これはまったく白人のその辺の人の音楽なんです。
ふたりとも「ブラジル的なもの」が何なのか分からずに、とにかくアメリカ的なテイストを求めて曲を作っていく。
それを周りがムジカ・ノヴァだと囃し立てるから、もうやっている本人がわからなくなってくる。

これはレゲエと似ています。本人たちはまじめにロックやっていると思っているのに、周りはこのひなびた“ロック”に味がある、と注目したのです。沖縄の島唄が何故か変にブームになってしたったところと似ています。

このへんの響きあいは、コールマン・ホーキンスのジサフィナードが最高です。逆に彼らに教えられる形でカルロス・リラがボサノバのスタイルを作り上げていくことになります。



リベルタード号歓迎集会での大統領演説

1月9日に、リベルタード号がアルゼンチンのマル・デル・プラタ港に帰還した時には、20万人が集まって歓迎集会を開きました。

そこでアルゼンチン大統領フェルナンデスが演説を行いました。赤旗はこの演説の内容をかなり詳しく紹介しています。

フェルナンデス大統領は、故キルチネル前大統領の未亡人。国会議員として、キルチネルとともにアルゼンチンの経済再建に尽力し、キルチネルの任期終了に伴い、後継大統領に就任した。




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我々は新自由主義路線と手を切った。そして自主的な経済発展と国民生活の向上を目指して頑張っている。

これに対し「ハゲタカ・ファンド」と呼ばれる国際投機資本は攻撃を仕掛けてきた。今その攻防は先鋭化している。

現在の国際状況は「無政府資本主義」だ。投機ファンドが国境を超えて国の主権と尊厳を踏みにじっている。これと闘うことが重要だと強調したい。

ガーナの司法当局は我が海軍の訓練用帆船リベルタード号を拘束した。これはアルゼンチンの国債を保有するヘッジファンド「NMLキャピタル」の仕業だった。彼らは債務の未払いを理由にガーナに差し押さえを要請した。この要請を受けたガーナ当局が行った措置であった。

アルゼンチンは2001年に債務不履行を宣言した。その後、新政府は国債を保有する債権者と交渉を開始した。そして価値を7割削減した新国債との交換を提案した。

債権者の93%はこの提案を受け入れたが、これに同意しないものも残っている。ヘッジファンドは元々の債権者ではない。彼らはこれら同意しない債権者の債権を二束三文で買い取った。そして100%の償還を求め、アルゼンチンの国有資産を差し押さえる動きを活発化させてきた。

投機ファンドはハゲタカだ。彼らは借金漬けや債務不履行になった国々の上を飛び回っている。そして降りてきて、額面の10%で債権を買い集め、それを100%で回収しようとしている。

我々は改めて宣言する。ハゲタカファンドへの支払いは一切拒否すると。

今回の闘いもその一つだ。リベルタード号の帰還は、その闘いの末に実現した。ロイター通信は「“無政府資本主義”に対する主権の勝利」と報じた。リベルタード号はアルゼンチンの主権と民族の尊厳を守る闘いの象徴となった。

故キルチネル前大統領が大統領に就任した、2003年以降の政府の活動を振り返ってみたい。政府は債務再編で合意した債権者に対して誠実に支払いを行なってきた。

それと同時に国内産業を立て直し、約530万人の雇用を生み出してきた。これは投機資本の横暴や新自由主義政策の破壊策動と闘いながら生み出した成果である。

いま投機資本は、アルゼンチンの政府専用機の差し押さえすら狙っている。それを防ぐため、1週間後の大統領のアジア各国歴訪に際して、専用機の使用を控えなくてはならなくなった。

投機資本との激しい攻防はこれからも続くだろう。それは他の国でも繰り返される可能性がある。だから諸国民の幸福を擁護するためには各国の共同した闘いが必要だ。

投機資本は世界を股にかけた略奪者である。そのことを念頭にいて、世界が堅固で真剣な立場をとることが必要になっている。

この闘いにおける国際的共同を心から呼びかける。

一体にラテンの人たちのこの手の演説は極めてレトリカルで読みづらい。これを読み通して記事にまとめた菅原記者には敬意を評したい。

「アトランティック」紙電子版が帆船乗っ取りの手口を説明したTim Fernholz記者の記事を載せている。以下に紹介する。


あなたがアルゼンチンに若干の債権を所有するとしよう。

国は、債務返済不能に陥る。

しかし、あなたはまだ全部支払われたいと望む。

解決法は?

彼らの船のうちの1台を抑えなさい。もちろん身代金目当てだ。

ウォール街はそういう考え方をするものだ。それはどんな政府よりはるかに重要である。

それが、ヘッジファンドが過去のローンを取り戻すためにアルゼンチンの海軍船を押収したしても驚かない理由である。

Elliott Capital Managementの子会社は、9月2日に地元の法廷から仮処分命令を得て、ガーナの港でリベルタード号と200人のクルー・メンバーを拘束した。

アルゼンチンは2001年に総額1000億ドルのデフォルトを起こした。その負債は再構成したとき、1ドルの債権に対する支払いを30セントまでカットされた。ファンドは、減額を納得せず、そのとき失ったお金を集金しようとしている。

リベルタード号は、全長100メートルの長い高い帆船である。1950年代に建造され、アルゼンチン海軍のトレーニング船として就航した。現在の評価額は1千ないし1千5百万ドルとされる。押収されたときは、海軍士官候補生の卒業航海中であった。

億万長者ポール・シンガーが創設したエリオット社は、アルゼンチンの債務リストラを拒絶した数社のうちの一つである。

エリオット社は債務の完全な支払いを要求して、米国内、国際的な法律の場を通して問題を追求してきた。法的手続きは、とてもフォーマルと呼べるものではなかったが。

2001年のアルゼンチンのように、財政的に問題を抱えた国から減価した債券を買い集める。そして国が経済的に回復した時に全額を額面通りに回収しようとする。

1990年代にペルーの政府債務支払で、エリオットが投資額の400%を回収するのに成功した時、この戦略はポピュラーなものになった。

明らかに、ファンドは慎重に船のコースを見守ってていた。そして、船を押さえて要求を突きつける機会を待っていた。

アルゼンチンが船を返して欲しければ、ガーナの法廷に債券に相当する現金を払わなければならない。伝えるところによると、それはエリオットの懐に入ったという。

いわゆる「ハゲタカ」ファンドは、すでにヨーロッパの金融危機がもたらした機会を利用している。

今回の行動は、遠くない将来を映す試写会であるかもしれない。融資者が政府資産を追いかけている。飛行機、船舶、そして不幸なケースにおいては国際援助資金さえもが狙われる。

世界中の、債務で鞭打たれた政府がついに倒れようとするのを、彼らは狙っている。


昨年10月に起きたリベルタード号事件は憶えておくべきニュースだ。
赤旗報道から概要を書きだしておく。
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リベルタード号はアルゼンチン海軍の保有する訓練用帆船。大西洋を横断する航海を終えて、ガーナの港に寄港した。

これを知ったヘッジファンド「NMLキャピタル」社は、債務の未払いを理由に同船の差し押さえをはかり、ガーナ司法当局に要請した。

要請を受けたガーナ司法当局はこの要請を受け、停泊中のリベルタード号を拘束した。

アルゼンチン政府はこの措置に抗議するとともに、船舶の解放を求め、国連国際海洋法裁判所に提訴した。

12月15日、裁判所はリベルタード号を解放せよとの判決を下した。判決の主要な根拠は、リベルタード号が「軍用船」であることとされた。(この根拠付けはよくわからない)

ガーナ側はこの判決を受け入れ、リベルタード号を解放した。リベルタード号は1月9日にアルゼンチンのマルデプラタ港に入港した。

現地での歓迎集会にはフェルナンデス大統領始め、20万人の市民が結集した。

フェルナンデス大統領は、「リベルタード号の帰還はアルゼンチンの主権と民族的尊厳の尊重を守る立場」の勝利と演説した。









嬉しいような嬉しくないようなニュースだ。
40年ぶりにビクトル・ハラの虐殺犯が逮捕されたという。

時間の問題だったようだ。
すでに昨年5月に、チリのテレビ局が軍人の証言を紹介していたそうだ。
「犯人は、ハラが質問に答えなかったことに激怒し、至近距離で彼を撃った」と語っている。

クーデターの直後、ハラは逮捕されサンチアゴ市内のサッカースタジアムに収容された。彼はそこでもギターを弾き、歌をうたい、抵抗を貫いたため、「二度とギターが弾けないようにしてやる」といわれて両手を切断された。
その上で射殺されて死体は遺棄された。側溝から遺体が発見されたのは、1973年9月15日のことである。

これらのいきさつは妻のジョアンが調査し明らかにしている。

今回はその下手人が特定されたということだ。すでに4人が逮捕されたが、主犯のペドロ・バリエントスなる人物は、チリを離れフロリダ州内にいるようだ。

感想といわれても、なんとも答えにくい。ただ、これは正義とか恨みという問題ではなく、二度とあのようなおぞましい事件を起こさないための努力の一環として評価すべきだろう。

暗い歌だが、好きな歌を紹介する。

Manifiesto

歌いたいから歌うわけではない 声がいいから歌うわけではない

それはわたしのギターが心と主張を持っているからだ

わたしのギターが 大地の心と鳩の翼をもってるからだ…

ビクトルハラのことなどに、ずっとうまい訳詩が載っていました)


4)米国留学のいきさつ

チュディは小学校、中学校と彼の生まれ故郷で過ごしました。彼はしばしば学校を休んで、サトウキビ刈に行かなければなりませんでした。彼はまた母の家庭菜園を手伝って、出来た野菜を売りに出かけました。母親はその売り上げの一部を彼が受け取ることを許しました。

父は正規の教育の必要を痛感していました。チュディが15歳のとき、首都ジョージタウンの官立中学であるクイーンズ・カレッジに、息子を送ろうと決めました。そこは故郷の村から160キロも離れたところでした。

チュディは三つの家を転々としながら何とか卒業することが出来ました。しかし学校を卒業した後、彼には就職のあてがありませんでした。インド人の青年には、官庁への就職は絶望的でした。

学校の先生になろうと思ったらキリスト教徒になるしかありませんでした。ヒンズー教を信じる両親にはとても受け入れることが出来ない選択です。しかしチュディがそのままプランテーションに戻ることも、とても耐えられないことでした。

ついに彼の父は、チュディをアメリカに行かせることに決めました。そしてワシントンD.C.のハワード大学で歯科医の資格を取るために、チュディは留学することになりました。

チュディはワシントンDCのハワード大学で2年間、歯科医となるための進学コースを送りました。そしてニューヨークでさらに2年間学び、それからシカゴのノースウエスタン大学で、歯科医になるべく最後の5年間を送りました。

チュディは一生懸命勉強して、ハワード大学の2年目には授業料が免除される奨学制度を獲得しました。そして1938年にはノースウェスタン大学歯学部へ進学することが出来ました。

ハワード大学での経験は、チュディを大きく成長させました。南部での公然と認められた人種隔離の現実は、彼の目をアフリカ系アメリカ人の状態に向き合わせました。ニューヨークとシカゴでの生活は社会科学の研究、社会主義者の書物に接する機会を与え、彼の教養の幅を広げました。

両親の仕送りで生活することはとても出来ませんでしたから、チュディはさまざまなアルバイトを経験しました。ボタン・ショップでのつくろい、怪しげな薬のセールスマン、皿洗い、夕刊紙の配達員、洗濯屋のアイロン掛け、エレベーターボーイなどたいていのことはやってのけました。

5) 祝福されない結婚

1942年、チュディはノースウェスタン大学を卒業し口腔外科(DDS)の学位をとりました。そんなことのあいだに、友人のパーティーでジャネット・ローゼンバーグと出会ったのです。それは衝撃的な愛でした(It was love at first sight!)。

その後8ヶ月のあいだ、二人は慈しみあいました。そして二人はシカゴのシティーホールで簡素な結婚式を挙げました。その結婚式にはどちらの両親も同意もせず、祝福もしませんでした。チュディは研修先の歯科ラボで、お手製の金で出来た結婚指輪をこしらえました。

この写真は、1943年8月5日、彼らの結婚式のときの写真です。“プリクラ”でとった一枚25セントの写真ですが、彼らにとってはこれが唯一の結婚記念写真です。

それから2ヶ月経った10月、“ジャガン博士”は故郷に戻りました。そしてその2ヵ月後、もうじきクリスマスというとき、彼の妻ジャネットは、英領ギアナに到着しました。旦那以外の誰もジャネットの来るのを祝福しませんでした。

「彼女は貧しいもの、恵まれないもの、障害を負うもの、抑圧されたもの、社会からのけ者にされ、爪はじきされた者への変わらぬ誠意と愛情を持ち込んだ。そして、政治というものはまず何よりも誠実であるべきだと主張し、譲らなかった。それが私に与えた影響は計り知れない。その結果、いろいろなことが起こったが、私にはひとつも後悔することはない」

「私は彼女とぴったり一緒になって働いた。どんな心配事も相談し決して隠し事などしなかった。彼女は私に心の安らぎを与えてくれた」

6) 歯科医としてのジャガン

ジャガンは首都ジョージタウンでクリニックを開業しました。政治活動にとびこんだ後も歯科医のしごとをやめることはありませんでした。1943-1957までフルタイムの診療を続けていました。その後政務が多忙になっても、昼食時間はパートタイマーとして働き続けました。

ジャネットは看護学生として受けた教育を生かし、優秀な歯科助手となりました。ジャネットはこう言っています。「幸いなことに彼は決してのぼせ上がることはなかった。そして彼が獲得した“名声”に影響されることもなかった」

彼はきわめてせわしない(meticulous)性格で、数秒単位で同じ場所にたっていることは出来ない人で、いつも最も有効な動き方を追求していたということです。

彼は一緒に働く人々にもいつもベストを尽くすことを要求しました。そして患者が貧乏であろうと金持ちであろうと最良の治療を行おうとしました。彼は決して「つり銭を少なく渡す」ような人ではなく、正直そのものの人でした。ほかの歯科医は彼の治療代が安いのに顔をしかめました。しかし彼は、自分には患者から搾取することなど出来ないと分かっていました。

そのころ歯に金冠をかぶせるのが流行でしたが、彼は金冠をかけるために良い歯までいぢる様な治療を拒否しました。

ジャガンは、クリニックの中にとどまることがありませんでした。いろいろな場所に“歯科クリニック”を立ち上げ、すべての治療を無料で行いました。

仲間の一人はこう語っています。「彼らは、これまで英領ギアナでは見たこともない“草の根”型のキャンペーンを行った。彼らは村々に行って人々に語りかけた。それだけではない。彼らは彼らとともに食べ、彼らの小屋に寝泊りし、農園労働者に彼らの献身ぶりを納得いくまで示した」

彼にはもうひとつの責任がありました。彼を育ててくれた家族に対する責任です。米国での勉強から戻ったその日から、彼は弟や妹に系統的な教育を始めました。彼らを外国に送り、歯科、法学、薬学、検眼、看護の勉強を行わせました。

7) 政治活動の開始

故郷の砂糖農場で働く労働者が次々に彼の元を訪れては、さまざまな問題や闘いにおけるアドバイスを求めるようになりました。彼らは、彼らの身内の一人が「ドクター」となり、このような大きな「管制高地」を獲得したことを誇りにしていました。ジャガンもその願いに誠実に応えようとしました。

1946年11月6日、ジャガン夫妻が中心となり「政治委員会」(PAC)が創設されました。ほかの創設メンバーはジョスリン・ハバード、アシュトン・チェイスという労働運動指導者です。ジャガンは米国留学中に科学的社会主義に触れ、すでに確固とした信念をもっていました。

委員会は労働運動とともに行動しました。そして運動の中に新しい進歩的な思想を広げ、地方と外国企業の労働者に連帯を広げ、マルクス・レーニン主義のクラスを開いて哲学を教え、国際主義を鼓舞しました。

同じ年、英領ギアナにおける最初の女性組織「女性のための政治・経済機構」(WPEO)も結成されます。ジャネットが書記長に就任し、ウィナフレッド・ガスキン、フランセス・スタッフォードらが中心となって活動を開始します。

PACは週刊の機関紙を発行し始めました。それはジャガンが米国で買ってきた小さな謄写版印刷機で刷られました。この機関紙は国内の反動派にとってとんでもない怪物(bugbear)となりました。その発行を禁止すべきかどうかが、国の内外で絶えず議論されるようになりました。しかしその議論は、結局のところ機関紙がますます影響力を広げるのに役立っただけでした。

ジャネットはジャーナリストとして習熟し、やがてブレティンの編集者を任されるようになりました。

8) ジャガン、国会議員に

47年12月18日 チュディはデメララ中部選挙区から独立系候補として国会議員(総督府付属の立法審議会)に立候補し当選しました。このときチュディは29歳、最も若い議員でした。そして、議会でただ一人の野党議員としてやがて国中に知られるようになりました。

「私が立法院に初めて議席を獲得したのは45年前のことだった。それは私の人生のうちで最も刺激的で、楽しくて、生産的な期間であった。私は使える報告を片っ端から読んで、全力を注いで議案作成の仕事に集中した。

それから本当の戦いが始まった。私は地主たちと既得利益層を代表するもっとも頑迷な連中と立ち向かわなければならなかった。私の経験は、いつの日か権力を獲得した暁には、論理とか熱情以上のものが必要になるということを教えてくれた。

私は自らに言い聞かせた。私が成功するとすれば道はただひとつ、私に投票してくれた人々の要求を掲げ、彼らとともに行動することだけだと」

チュディ・ジャガンの生涯

 チュディ・ジャガンは、その妻ジャネット・ローゼンバーグ・ジャガンとともに、ガイアナのシンボルともいえる人物です。ジャガンなくしてガイアナの歴史は語れません。と言うよりジャガンの生涯がそのままガイアナの歴史といっても過言ではないでしょう。

ジャガンが97年になくなった後、ガイアナに記念館が出来ました。その記念館のホームページには、豊富な写真とともに彼の生涯がとても詳しく紹介されています。ここでは彼の活動を編年記風に追ってみたいと思います。ガイアナ年表のほうもご参照ください。

チュディジャガンの生い立ち

1)サトウキビ農場に生まれる

チュディ・ジャガンは1918年3月22日、ガイアナの海岸地帯、アンカービルのサトウキビ農場で生まれました。父親は砂糖農場で働く労働者でした。

生まれたところはベルビセ県ポート・ムーランという町の近く、アンカービルという村です。(Ankerville、Port Mourant、Berbice)

ポート・ムーランは首都ジョージタウンから海岸沿いの道路を120キロほど東に行った所です。

ポートといっても、海岸に直接面しているわけではなく、海岸線とハイウエイのちょうど中間あたりに位置しているようです。街道町というわけでもなさそうで、運河の船着場に接して、農場の集荷場や粗糖工場、オフィスなどがあって職員などの住宅や購買所などが集落を形成しているのでしょう。

地図を見ると分かるように、ジョージタウンから第二の都市ニュー・アムステルダム、そしてスリナムとの国境までのあいだの海岸線は運河の網の目が帯状に広がっています。ガイアナはかつては英領ギアナと言いましたが、そもそもこの地域に植民したのはオランダ人でした。彼らはお得意の運河をこの国でも目いっぱい作ったのです。

青々としたサトウキビ畑とそれを取り囲むジャングル、そのあいだを縫うようにしてゆったりとした川の流れ…、絵のような光景が思い浮かびます。

2)インド系ガイアナ人であることの意味

美しい風景とは裏腹に、人々の生活は大変厳しいものでした。サトウキビ農場の仕事というのは刈り入れ時が勝負です。マチェーテと呼ばれるなたのような山刀で、2メートルはあろうかというサトウキビを根元から切って、それを束ねていくのです。これが集荷場に集められ、工場で圧搾されて最終的には黒砂糖の塊となって出荷されます。

この時期(キューバではサフラという)が過ぎれば、仕事は俄然ヒマになります。労働者はお払い箱となって、あとの9ヶ月を自分の才覚で生き延びなければなりません。

昔はこの刈り入れ作業を黒人奴隷が行っていました。しかし英領植民地では19世紀の中ごろ奴隷制度が廃止になり、労働力が不足するようになってきました。自由の身になった黒人たちは、より良い生活を求めてジョージタウンやニューアムステルダムに行ってしまいました。困り果てた農園主たちは、黒人奴隷の代わりにインド人を連れてくることを思い立ちました。

黒人ほどではないにしてもインド人なら暑さに強いだろう、インドも同じくイギリスの植民地だから言葉には不自由しないだろう、と考えたのです。こうして19世紀の後半から大量のインド人労働者がやってくるようになりました。彼らは契約労働制といって、給料の前払いを条件に5年間の“年季奉公”を強いられていました。その代わり農閑期には与えられた居住地の範囲内で“自由に”生活することが出来ました。

年限は限られているものの実際には奴隷と余り変わらない生活ですが、それでも故郷での労働条件よりはまだましだったため、希望者は後を絶ちませんでした。年季奉公を終えた後も少なからぬ人々がガイアナに居残りました。その結果、今ではインド系住民が人口のほぼ半数に達し、最大のエスニシティーを構成するまでにいたりました。

雇うほうは、心中は奴隷を使うのと同じ気分でインド人を雇っていましたが、インド現地の口入れ屋はきっと夢のような景気のいい話で人々をだましていたでしょう。だから当然ガイアナ入りしてから「話が違うじゃないか」という手のクレームは頻発したことと思います。ガイアナの解放闘争が黒人の抵抗運動とは違った組織性と革新性を持っていることには、こういう背景があります。

3)チュディの両親

チュディの父親も母親も、実は「戻り入植者」です。二人は1901年にも5年契約でガイアナに来たことがあり、ベルビセの別々のサトウキビ農場にいました。

二人の両親はともにインドのウッタルプラデシュ州のバスティというところからやってきました。生活は大変厳しいものでした。一家の生活の足しになるため、二人も小さいときから働きました。父は幸運にも3年ほど学校に通うことが出来ましたが、母はまったく学校に行っていません。

二人はウッタルプラデシュに戻り、その後縁あって夫婦となりました。結局インドでうだつがあがらないまま日々を過ごしていた父親は、ふたたびガイアナにわたる決断をします。乗っていたのは当時インドからの移民を運んでいたエルベ号という船でした。

チュディは両親を回想して次のように語っています。

「私の母は、背が低くて、もの静かで、倹約家で、とても信心深い人だった。私の家族の生活が成り立つよういつも懸命だった。彼女は底知れぬ我慢強さで、長い苦しみに耐えてきた。私は母からやりくりの知恵を学んだ」

「いっぽう私の父は、金もないのに気ばっかり大きくて、大胆というか派手好みの性格だった。クリケットと競馬にかけては“偉大な選手”として郡内に知れ渡っていた。賭け事も大好きだった。背が高く色白で、絵のような美男子で、口髭は郡で最も大きいと自慢していた。もし私が指導者としての資質を持っているとするなら、それは父親から受け継いだものだ」


いろいろ楽しかった「佐藤さんを囲む会」の最後、佐藤さんはこういいました。

私はサンパウロ大学に入って、まず「解放の神学」の信奉者として活動をスタートさせました。軍事政権ができて、それが抑圧的な態度をとるようになり、学生が抗議運動を強めたとき、私はそれを支持して、みずからも活動に関わるようになりました。
当局の弾圧が私の身におよんだとき、私はチリに脱出して国連のラテンアメリカ経済委員会で仕事をするようになりました。まもなく私は人民連合の活動に飛び込みました。
私は「解放の神学」の信奉者から科学的社会主義の信奉者となり、チリ社会党に入党しました。
私はブラジルに戻った後、秘密活動にも関わり、ブラジル労働党(PT)の創立メンバーのひとりとなりました。
しかし、労働党の活動家の、あまりにも労働者的な活動スタイルと感覚的に“ずれ”を感じるようになり、運動野から離れたのです。そのときの私にとって、仏教は逃避するための口実だったかもしれません。
しかし、1年前にブラジルで開かれた世界社会フォーラムで殿平さんと出会い、日本に来ることができて、いろいろ学びました。その中で、もう一度社会実践に取り組まなくてはならないと教えられました。
仏教は、社会実践から逃れる場ではなく、社会実践と取り組む場なのだと感じるようになりました。
ブラジルに帰ってからもう一度考えを整理して、実践的仏教徒として再出発したいと考えています。


私は思います。それは佐藤さんにとっての“業”、カルマでしょう。おそらくそこから逃れることはできないと思います。
チリで三回も死ぬ目にあいながら、ここまで生きながらえてきたのは、いわば「天命」でしょう。ピノチェトから逃れることはできても、「縁」から逃れることはできません。苦しいが、正面から向き合うしかありません。
「連帯」とは業を紡ぐもの同士が因と縁をつなぐことなのかもしれません。
お互い、生きていたらまたお会いしましょう。

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