鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ:02 ラテンアメリカ > B ベネズエラ・エクアドル・ボリビア

ブラジル、ボリビアに続きウルグアイでも革新勝利の勢い

投票日は11月30日なので、結果はまだ出ていないが、世論調査では拡大戦線が圧倒的優勢を示している。今度の勝利により、革新政権の支配がウルグアイでは定着するだろう。

バスケス

この国は伝統的にコロラド党とブランコ党が政権を握ってきた。それが70年代前半に社会党・共産党を中軸とする拡大戦線が登場して、政権を脅かすほどの勢いを示した。危機感を感じた支配層は軍事クーデターを敢行し、独裁政権が樹立された。

しかし軍事政権は長くは続かず、80年代の前半に民政に移行した。しかしこの間の弾圧で拡大戦線はボロボロにされた。

それから長い間の試練を経てタバレ・バスケスが勝利し拡大戦線が政権を握ったのは2004年のことであった。最初は少数与党として中道的政策を強いられたが、徐々に議会でも勢力を伸ばし、政権基盤は安定してきた。

かつては南米のスイスと呼ばれるほど手厚い社会保障と労働者保護を行ってきたが、現在はそれほどの経済的余裕はない。政策選択の幅は限られているが、その中で地道に精一杯やっている。

もっと注目されて良い政権であろう。

野党ブランコ党は農牧業を背景とする伝統政党である。かつて圧倒的勢力を誇ったコロラド党は、新自由主義政策が裏目に出て現在は第三党に転落、存在意義を失いつつある。

ベネズエラがガソリン値上げに

ベネズエラは世界で一番ガソリンが安い国である。もちろん石油が産出されるからでもあるが、何よりも大きいのは莫大な政府の補助金である。

年間なんと150億ドルの補助金が国庫から支出されている。日本円で言うと2兆円に近い金額だ。ベネズエラの国家予算が年間400億ドル強だから、これだけで1/3になる。誰が考えてもこれはやり過ぎだ。

ベネズエラでガソリンを入れると、40リットル満タンで50円だそうだ。リッターじゃないよ! サウジでもその7倍はとっているそうだ。

どうなるか、麻薬よりも金になる。密売が商売になる。1日の総消費量80万バレルのうち、10万バレルがコロンビア、ブラジルに密輸され、その損失額は年80億ドルにも及ぶ。それでガソリンが不足して米国から輸入している。

もっともこれはチャベスが始めたわけではなく、それ以前からの“悪しき風習”だ。ラテンアメリカは公共料金値上げには殊の外敏感で、バス代が10円上がるだけでも全国ゼネストが起きる。

私が大統領なら有無をいわさず10%にするところだ。強い政権の時にこそ断行すべきだし、原油価格の値下がりという外圧のもとで絶好のチャンスだと思う。

これでインフレに拍車がかかると危惧する向きもあるが、この国の基礎生活資料は圧倒的に輸入に頼っているので、直接物価に反映するとは考えにくい。もしやばいと考えれば公共運輸機関への選別補助を維持すればよい。

この国の社会保障費は上がったとはいえまだ低い。税金は所得の再分配に回すべきだろう。そういう意味では、今回の補助金を減らして社会保障に回そうというスローガンは正しい。

ベネズエラ経済が急速に悪化

ベネズエラ経済が急速に悪化している。①インフレは去年が56%、今年はさらに上回り100%超えが予想されている。②一方でGDPは4%後退する見込み。③この結果、財政赤字はGDPの20%に達する見込み。

要するにスタグフレーションと双子の赤字が膨れ上がるということだ。

ただ次の記載は要注意である。

一家四人の標準家庭の食費は今年、月790ドルだった。2012年には290ドルだった。

これだと2年間で2.7倍に跳ね上がっていることになり、物価上昇率をはるかに上回っている計算になる。

行けばずれにしても、主要な原因は国際原油価格の低下。米国の原油生産の増大、中国経済の伸び悩みによる需要減少の重なりで、これまでのバレル100ドル台から93~94ドルに低下した。

このまま行けば来年度は80ドル台に下落することも考えなければならない。

政府は、当然これは予想していて、そのための備えもしている。とはいうものの、やはり高い原油価格を当てにした政策もやってはいるわけで、それが今後3年間に100億ドルに達する債務の支払だ。とくに対中国の借款が厳しい状況を迎えている。

政府は、これにCITGOの売却金で対応しようとしていた。CITGOは国営石油会社(PDVSA)が所有しており、年間8億ドルの純益を上げている。これを80億で売ればとりあえずの債務支払は可能である。ところが買い手は現れなかった。

citgo
     ニューヨーク州ベルゲンのCITGOスタンド
以上のように状況は大変厳しいが、これを機にベネズエラ経済が奈落の底に沈むというのは、反政府勢力の宣伝のたぐいであろう。

むしろこれを機に、あまりにも政治的な意図で膨らませすぎた国庫財政を思い切り整理するチャンスが来たと見るべきではないか(例えばガソリン補助金)。

あの時のキューバを考えれば、できないことなどひとつもない。

FARCはタガが外れている

陸軍対ゲリラ戦特殊部隊の司令官アルサテ少将がFARCに捕らえられた。これまでFARCに拉致・誘拐された軍人の中で最高位だそうだ。捕まえた方も驚いたろう。

FARCの本体のほうは、とうに武装解除の方向を出しているのだが、話は一向に進まない。ある意味でFARCに対する攻撃が強まり指導者の多くが逮捕されたり死んでしまったことから、統制がきかなくなっている可能性が高い。

チョコ州の州都キブドは、麻薬カルテルの拠点メデジンからアンデスを越えた太平洋側。パンナム・ハイウエイを北上すればパナマにつながる麻薬密輸ルートとなり、海岸山脈を越えれば太平洋である。犯罪者が集まっている物騒なところである。

今度の誘拐犯も、FARCというよりFARCの一派を名乗る犯罪者集団と見たほうが良いだろう。

サントス大統領は、和平会談を中止することでFARCを通じて圧力をかけせせようとしているのだろうと思うが、FARCにそれだけの力があるだろうか。

キブド

またもペトロブラスの重大疑獄

再選を狙うヂウマ・ルセフ大統領が大いに苦しめられたのがペトロブラスの裏金疑惑だった。ルセウの前のルーラ大統領も、これで危うくクビが飛ぶところだった。

今回の疑惑は、計39億ドル(4千億円)にのぼる政治資金がペトロブラス(国営石油会社)から労働党に流れていたというもの。悪名高い日本の政党助成金は13年度で354億円。ラテンのやることは半端じゃない。

その仕掛けは、企業との契約金に「礼金」を上乗せし、それを闇資金として流したというもの。

ペトロブラスは国営で、儲けは国の金だ。何に使ってもいいというものではない。私企業ならなんでもいいというわけではないが。

これを踏まえてルセフ大統領は粛清を公約した。おそらくもともとルセフはやりたかったんじゃないか。11月14日にペトロブラスの重役18人を一斉逮捕した。

ブラジルの労組のだら幹が政府を食い物にしているのは、歯ぎしりするほど悔しかったろう。このあいだ来たブラジリア本願寺の佐藤和尚さんは、労働党政権の幹部も務めた人だが、ルーラ以下労組幹部の腐敗ぶりに頭にきてやめてしまった。

ルセフは学生時代に反軍政の闘いでゲリラに参加し、秘密警察に捕らえられて拷問された経歴を持つ。組合活動家の成り上がりとはレベルが違うのである。

こういうとき、やはり野党との緊張関係は必要だ。間違ったら容赦なく叩かれることも民主主義に必要な試練である。

ルセウ




開発メディアganas 

http://dev-media.blogspot.jp/2013/03/14.html

というサイトに載っていたもの。元々は

「ガーディアン」紙の12104記事を転載したもの。



http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/a/1/a1f9ca18.jpg

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/9/e/9e7bd14d.jpg

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/0/b/0b4314db.jpg

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/6/1/61c4416d.jpg

文字にすれば以下のとおり。ポジティブな数字とネガティブな数字を分けて、列挙する。

ニュートラルな数字

【人口】
99年約2400万人(増加率は1.9%)→11年約2900万人(同1.5%)

ポジティブな数字

1人当たりGDP
994105ドル→111801ドル

【石油輸出による収入】
 99144億ドル→11年は600億ドル

【失業率】
99
14.5%→097.6

【極度の貧困層が国民に占める割合】

 9923.4%→118.5


【乳幼児死亡率(1000人当たり)】

 9920人→1113

ネガティブな数字

【インフレ率】

 9923.6%→1231.6


1ドル当たりの公式為替レート】

 990.56ボリーバル→124.29ボリーバル


【殺人率(10万人当たり)】

 9925人(殺害された人数は5968人)→1145.1人(同13080人)

この数字をどう読むかだが、公平に見てブログ主の見解は偏見に近いと思う。

上のインフォグラフィックは、ガーディアンが12104記事に掲載したもの。これによると、チャベス政権は14年間で、ドル換算で1人当たり国内総生産(GDP)を2.5倍に伸ばし、極度の貧困人口を半分以下に減らした一方、インフレ率は30%を超え、また殺害された人数は倍増するなど治安は極度に悪化している。

チャベス大統領は19992月 に大統領に就任。それ以降、貧困層のための改革を進めてきた。バラマキとの批判もかねて根強かったが、石油価格の高騰を背景にした石油輸出に支えられ、政 権を維持してきた。ただ近年は、とどまるところのないインフレ高進と深刻化する治安状況もあって、国民からの支持を大きく失いつつあった。12107日に実施された大統領選の苦戦は記憶に新しい。


また松島記者のおかしな連載が始まったようだ。
今度は「プロセソ」誌の国際部責任者にインタビューしている。

①中南米諸国は自分たちの問題を自力で平和に解決できるようになった。

言葉の綾としてはそれでいいのですが、現にホンジュラスやパラグアイで事実上のクーデターが続いており、それは未だ現在進行形の、闘いの課題でしょう。

②米国にとってこの地域で最も重要なのは、(覇権ではなく)安定である。米国の中南米政策は冷戦時代のように、気に入らない政権を転覆させようというものではない。
この記述は、どう考えても不適切だと思います。権力の真の中枢である軍産複合体とオバマ政権はある程度分けて考えるにしても、これではあまりにバラ色過ぎます。

③米国にとっては、中東やアジアがより優先的な地域となった。
これも賛成できません。中南米はアメリカにとって、美人であろうとなかろうと本妻であり、経済力の根源なのです。

④メキシコの役割は南北米州の中でバランスをとることにある。
百歩譲って、特殊な地政学的役割を認めるにしても、それは「我らのアメリカ」の一員となることによってしか発揮されないはずです。鵺的なスタンスではどちらからも馬鹿にされるだけです。

⑤メキシコ、コロンビア、チリ、ペルーの太平洋同盟には積極的な意義がある。
これはTPP賛美論にもろにつながっています。これらの国々は米州自由貿易構想の賛同国であり、アメリカとFTAを結んでいる国々でもあります。
何よりも反共政党が支配する国々です。(その後ペルーは変わったが)
これはあからさまな反共、反ALBA、反メルコスール、反UNASURの同盟です。
「いいところもある」といって澄ましているわけには行きません。


ブロゴスというサイトに広瀬隆雄さんという方の書いた記事がある。

ウゴ・チャベス大統領の死が世界の石油関係者や石油関連の投資家にとって重要な理由

2013年03月06日 21:27

ということで、重要な理由は、結論から言えば、「ベネズエラは石油の確認埋蔵量で世界最大」だからです。

一方、なるほど埋蔵量は増えているけど、毎年の生産高の推移を見ると、ベネズエラは逆に1998年あたりを境としてジリ貧になっています。1998年はチャベスが大統領に就任した年です。

ということで、チャベスが悪いから石油生産が減ったんだという筋書きになっています。

ここで広瀬さんは2つのグラフを提示しています。最初が各国比較の推移です。ついでベネズエラだけを取り出したグラフを提示します。

「上のグラフは見にくいので、ベネズエラだけを抽出する」というふうに並べるのが、ちょっとしたトリックです。本当はまず、ベネズエラ単独の推移を見て、それが世界の中ではどういう関係になっているのだろうと、考えなければなりません。

ここでは、まずベネズエラ単独の推移を見てみます。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/3/f/3f798b1c.jpg

この図から、広瀬さんは次のような結論を導き出しました。

チャベス大統領はベネズエラの国営石油会社、PDVSAから上がる石油売却代金をどんどんバラマキ政治のために使ってしまいました。このため本業への再投資がおろそかになり、生産が細ったというわけです。

この図は実はそうは読めないのです。

まず08年以降の漸減ですが、これはリーマン・ショック後の需要低迷と原油価格の下落に伴う生産調整です。(それが全てとは言いませんが)

なお、2011年の原油生産量は09年レベルまで復しているが、このグラフには反映されていません。

もうひとつ付け加えて置かなければならないのは、ベネズエラに投資している国際石油メジャーとの利益配分をめぐる闘いです。強硬な姿勢をつらぬくベネズエラ政府に嫌気が差して、いくつかのメジャーが撤退しました。これが生産量の落ち込みと関連している可能性があります。ただし、現在は裏付け資料を持っていませんので推測になりますが。

03年の落ち込みは、言うまでもなく石油公社のゼネストによる影響です。

問題は98年のピークですが、この年の末にチャベスが二大政党の候補を打ち破り大統領になったのです。この年に国民生活は最悪の状況を迎え、国民は金持ちにバラまく既成政治にノーを突きつけたのです。生産が拡大すれば景気が良くなるはずなのに、なぜそうなったのか、そこが問題です。

じつはこの時、膨大な対外債務に苦しんでいたベネズエラは、メジャーに大増産を迫られたのです。なぜか、当時OPEC諸国は原油安に悩み、生産調整によって価格の底支えを図りました。これに対しこの協定を破壊しようと考えたメジャーは、ベネズエラにスト破りの役割を押し付けたのです。

これが各国生産量の推移を示す図に現れています。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/d/a/da84335e.jpg

お分かりのように、中東諸国やナイジェリアとベネズエラの生産量はほぼ横並びです。ところが94年から01年にかけては突出しています。あとは元に戻っていますが、それ以上にドンドンと落ちていくわけではありません。

なお、ベネズエラはOPECの創設国の一つですが、ペレス政権時代にメジャーからOPEC離脱を迫られ、オイルショックに対する安全弁の役割を果たしてきました。しかしチャベス政権になってからOPECに復帰し、他産油国と共同歩調をとるようになっています。


もうひとつ付け加えて置かなければならないのは、日本のような輸入国にとっては生産高が主要な問題ですが、輸出国にとっては輸出高のほうが重要だということです。

これは前にも引用した図ですが、これを見れば生産量アップの必要などないことがわかるでしょう。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/e/0/e082dca0.jpg

広瀬さんの結論はこうなっています。

ベネズエラが欧米に フレンドリーな政治に戻ってゆくならば、オイルメジャーなどがベネズエラに食指を動かすでしょう。その半面、ニコラス・マドゥロがチェベス流の政治を継承 し、同じような政策を続けるのなら、ベネズエラは現状維持、そしてゆくゆくは中国からの強い影響下に置かれるでしょう。

欧米に フレンドリーな政治」とはどういう政治でしょう。メジャーに「食指を動かされる」のはどんな気分でしょう。私には生娘が金持ちのヒヒ爺に、“おとなしくしていれば悪いようにはしないから”と舌なめずりしながら、言い寄られている場面が想像されてなりません。


さすがWSJ、この期に及んでチャベスをクソミソ

チャベス氏が残した教訓―カリスマ扇動政治家には要注意

社説はこのような書き出しから始まる。

チャベス 時代がようやく終わる。

ベネズエラ国民の生活はこれまで悪くなる一方だった。

1998年時点で、ソビエト連邦はとっくに崩壊 し、メキシコからチリまでさまざまな南米諸国は自由市場政策の導入に成功し、フィデル・カストロ議長はすっかり時代遅れの人物となっていた。

チャベスは、莫大の石油収益を得るという幸運に恵まれた。その結果、歴史の流れに逆らって進むことが可能となった。その資金のおかげで典型的な産油国独裁者にもなれた。

以下は、いかにチャベスが非民主的な独裁者であったかが、るる語られる。しかし02年に、クーデターで政府を転覆するという反民主主義の極致については口を拭ったままだ。

ついで、チャベス政権の経済運営の失敗を暴き出す。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなあなたが悪いのよ」のデンで、ほとんどヒステリックだ。

ベネズエラ国民、特に貧しい人々の生活は悪くなる一方だった。物価は1999年当時の20倍 以上になっている。

物価統制と資本統制のおかげで日常的に食料・医薬品不足が蔓延している。

資本は国外に逃避している。

首都カラカスの殺人発生率は世界有数となっている。橋や道路は修理が必要な状態にあり、停電も多く、未処理の下水が飲料水を汚染している。

その原因としてあげるのが石油公社の失敗である。

ベネズエラ国営石油公社(PdVSA)はほぼ解体されてしまった。(旧来の管理・支配機構という意味では確かに解体された)

日産量は100万バレル以上減少し、2012年末時点では250万バレルとなっている。(解体された石油公社が250万バレルも生産していることになる)

その後も悪口雑言、てんこ盛りの社説はこう結ばれる。

ベネズエラ国民がこのチャンスをつかみ、痛ましいチャベス革命の遺産を、その指導者の遺体と共に葬ることを願うばかりだ。

アメリカが「葬ることを願う」というとき、それは「葬るぞ」という宣言と同じだ。


ところで
ベネズエラ国民、特に貧しい人々の生活は悪くなる一方だった。物価は1999年当時の20倍 以上になっている。

という一節、以前にも反論済みだが、さすがにこれはひどい。

たしかに物価上昇率は褒められたものではない。年平均20%前後の物価上昇が続いている。ビッグマック価格は堂々たる世界一だ。しかし必ずしも物価上昇イコール貧困化ではない。日本も高度成長時代に物価は数十倍になったはずだ。

このへんはまず物価指数で補正した実質GDPで評価するのが基本だ。人口が爆発的に増えている国では国民一人あたりGDPでみなければならない。そうは言ってもやはりドル換算してみないと、というなら購買力平価換算のGDP(USドル)で判断すればよい。

いちいち挙げないが、ベネズエラの経済パーフォーマンスが悪化しているというデータは、探した限りない。

貧しい人々の生活は悪くなる一方というのはほとんどデマに近い。逆のデータならいくらでも挙げることが出来る。そのほとんどは国際機関の折り紙つきだ。だからファイナンシャル紙さえ渋々認めざるをえない。


英フィナンシャル・タイムズがチャベスの死で大はしゃぎしている。

3月7日には、社説で取り上げた。題して「チャベス亡き後の前進のチャンス」だ。正直でよろしい。

まずはイギリス人らしい皮肉と嫌味と当てこすりのオンパレードだ。ここは飛ばす。

次いで、「ベネズエラに緊張の芽」ということで3つの緊張要素をあげる。

派閥が支配する政権内で結束を維持すること

大統領選挙での現政権と野党との戦い

失政や汚職、インフレ、モノ不足、さらにはカラカスを世界で最も危険な都市の1つにした暴力の急増

だがフィナンシャル・タイムズは3つを列挙したあと、③以外はあまり問題にはならないと自白している。

ついでフィナンシャル・タイムズはベネズエラ革命の成果に難癖をつける。

ベネズエラは当然ながら、貧困率を2000年の52%から2010年の32%まで引き下げたことを誇りに思っている。

これに正面から反論できないので、迂回作戦をとる。これは“うまく行ったらひとのせい、悪く行ったらお前のせい”というおなじみの論理だ。

①「だがそれは“自国経済を略奪する”ことによって成し遂げられたのだ

要するに経済の実女を顧みないバラマキ政策の結果だというのが一つ。

多くの国は、チャベスがやったようにことなく、ベネズエラと同等ないしそれ以上の成果を上げた

成果の相対化である。きわめてありふれた難癖のハウツーである。

より実際主義的な選択肢を具現化し、もっと著しい成長を遂げる太平洋同盟諸国がベネズエラに取って代わるだろう

この辺りは思わず笑ってしまう。

格差を縮小することに関しては、ベネズエラは最も成績の悪い国の1つだ。

これは“中南米のシンクタンクSEDLAC”の統計だそうだ。得体のしれない数字を持ってくるのも、よくやる手口だ。

石油に基づくベネズエラの経済モデルは他国では繰り返せない。

チャベスのイデオロギー的な存在感と小切手帳がなければ、地域におけるベネズエラの影響力は衰えていく。(だが、小切手帳は当分無くなりそうにない。おそらくそこがフィナンシャル・タイムズが苛立つ最大の理由だろう)

チャベス主義がモデルだった時代はとうの昔に去った

これも変な話で、“チャベス主義がモデルだった時代”が、かつてはあったということを認めているようにも聞こえる。フィナンシャル・タイムズはそれを第二次大戦直後のペロンに擬している。

ただそれは、ペロン主義がわずか10年足らずで破産したのに、チャベスが大統領に就任して既に15年を経過し、ますます発展しようとしている現実が説明できないことの告白でしかない。

チャベスは結局、…大勢の人物の1人に過ぎなかった

これはある意味で、私も同意する。“中南米諸国に一体感のある自意識を与えた”人物は決してチャベス一人ではなかった。しかしもっとも影響力のある人物であったことは疑いない。

彼の生涯は、中南米の歴史-ポピュリストの軍事独裁者の歴史-の退行期の終焉を象徴している。

ここまで来ると、もうあかん。

締めはこうなる。

チャベスは貧しい人たちを大事にし、テレビ宣教師のような堂々たる態度でその愛を示した。感動的な話だ。それでも彼の死は、この地域にとって助けにしかならない。

実に感動的な話だ。


C.権力を握った政府が何を成すべきかを示した

せっかく権力を握っても、バラマキ政治や逆に借金の返済に四苦八苦していたのでは意味が無い。

まず一番大事なのは自主財源の確保であり、途上国にあっては地下資源の確保をおいてない。それがベネズエラにあっては石油公社の奪還であった。

第二には、一種の鎖国政策である。とりわけ資本取引の制限と、為替相場の管理である。

03年3月、ゼネストにより疲弊した経済を立て直すため、チャベス政権は外貨割当制を導入し、生活必需品以外の輸入を厳しい統制下においた。

おりからの原油高もあり、債務の返還は順調に進捗した。それまでの経済危機と、石油公社の高級職員を数万人ほど解雇したことにより、外貨需要は減退していたから、それでも矛盾は激化しなかった。

2004年以降、景気の回復が進行した。当然ながら、諸物価の値上がりにより、通貨の高値維持政策と実勢との極端な乖離が生じた。

通常は通貨の下落はインフレに伴い進行するのだが、流通ドルの不足がそれに拍車をかける形となった。しかし通貨の価値は本来は外貨準備高によって規定されるのであるから、膨大なオイルダラーを積み上げたベネズエラの固定為替相場が著しく不当とはいえない。

市中での闇相場がいくら跳ね上がろうと、政府が購入する際には関係ない。それが経済の撹乱要因にならない限りは、民衆にとって二重価格は別に問題ない。輸出企業や輸入業者が困るだけである。

国際資本の自由と民衆の自由は、しばしばトレード・オフの関係となる。新自由主義というのは国際資本にとっての“自由”であって、それは民衆への“不自由”の押し付けだ。

であれば、新自由主義の逆を行く新“不自由”主義で行こうというのが政策の基本だ。民衆の自由を確保するために、内外の資本家には多少の不自由を忍んでもらう他ない。

第三には、外貨の割り当てを通じた政府の経済統制である。どんな大企業も今や政府の意向を伺うことなしに経営を行うことは不可能になった。

これはかつての日本と同じである。経済企画庁や通産省が産業政策を決定し、大企業はその指導のもとに護送船団を組んで海外に進出していった。

もちろんこれは輸出志向の政策のもとに行われたわけだが、ベネズエラでは必ずしも輸出志向ではない。いわば民衆志向である。

これから先、どうなるのかという答えは政府自身も含め確たるものを持っているわけではない。ベネズエラのような石油輸出に特化した国にとって、バランスのとれた産業構造というものがどんなものなのか、答えが出ているわけではない。

それはある意味で、日本にも同様に突きつけられている問題ではある。文化をふくめた第4次産業みたいなものを考えていくことになるのかもしれない。

ただ、それを選択しうるレベルにまで、政治は歩を推し進めることができるという事実は示されたと思う。

 

B.非暴力的な権力獲得への道を指し示した

ベネズエラでの権力獲得への道のりは三段階からなっている。

すなわち大統領選挙での勝利、議会での多数獲得、反革命策動の粉砕である。今日このロードマップはラテンアメリカの多くの国で有効であることが示されている。

この道筋を上昇していくための唯一無二の駆動力は絶えざる民衆へのキャンペーンであり、民衆の直接民主主義的な組織化である(ベネズエラにおいてはボリーバル・サークル)。

軍を中立化させ、少なくともその一角を掌握することはきわめて重要であるが、軍は根本的には米国の支配のための道具であり、過大評価してはならない。

 

①選挙での多数獲得

二度にわたるクーデターは、実はクーデターではない。一斉蜂起計画の一部として実行されたものである。しかし左翼の分裂、労働運動主流の無関心により蜂起は起きず、結果として孤立したクーデターとなったのである。

このようなクーデターは、ベネズエラは過去において経験している。1956年、大衆蜂起と労組のゼネストで行政機関が麻痺するなかで、空軍の一部が出動し軍事独裁政権を打倒した。

しかし国際資本の介入がはるかに強力になっているいま、このような形での政府転覆は不可能であった。

チャベスは大統領選挙での勝利を目指す方向に切り替えた。かなり巧妙に正体を隠したと思う。ペルーのフジモリを支持するポーズを取ったかと思えば、キューバに行ってカストロと握手したりと、変幻自在のところを見せた。維新の会の橋下のようにさえ見えた。

そして既成政治を打倒するという口当たりの良いスローガンで、大統領の座を射止めることに成功したのである。

しかしこれは第一歩に過ぎなかった。ここからさきがチャベスの真骨頂である。

 

②制憲議会での多数派の掌握

チャベスは、「第五共和政」の旗印を掲げ、憲法改正を打ち出した。そしてこれを国民投票にかけ成立させた。そしてこれまでの議会の選挙制度とは異なるシステムにより制憲議会を樹立させた。

ここからが豪腕のふるいどころで、制憲議会に全権限を集中させ、司法制度や選挙制度の改革を打ち出した。

保守派が多数を握る議会は休眠に追い込まれ、改革に異を唱える裁判官や選挙管理委員は次々に更迭された。つまりフジモリが自主クーデター(アウトゴルペ)という暴力的方法によって成し遂げた議会と裁判所のクリーンアップを、チャベスは合法的に成し遂げたのである。

新憲法と新選挙制度のもとで議会選挙が行われ、チャベス与党が圧勝した。

この過程を通じて、チャベスは議会と司法の抵抗を打ち破ることに成功した。これこそチリでアジェンデが失敗した最大の要因であった。

 

③反革命策動との対決

普通ならこれで権力の掌握は完了するはずだが、ベネズエラという国は政府ではなく石油公社が支配する国であった。

この国の政治は事実上、二重構造になっていた。この国の石油は、建前上は国営ということになっていたが、実際には国際資本の手中にあった。国が運営するから国営なのでなく、会社が運営する国だから国営なのである。

満を持したチャベスは、01年12月に自派のメンバーを理事に送り込んだ。「国営」というたてまえを最大限に利用して石油公社の運営権を取り戻そうというのである。

この闘いの内容については、別稿を参照していただきたい。それは1年有余にわたる激戦であったし、その過程でチャベス自らが命を落としかけた。

しかし結局、チャベスは敵をねじ伏せた。

最大の理由は、こちらが権力を掌握しており、それは選挙で選ばれた合法政権であるという大義名分があったからである。これに対する反抗は、結局合法政権に対する反革命という形を取らざるを得なかったからである。


ちょっとつけたし

以下はあまり根拠のない独断である。

このようないわば“三段階革命”の道筋は、その後エクアドル、ボリビア、ペルーでも踏襲されている。このプロットがチャベス一人の頭脳から生み出されたとは考えにくい。控えめに見ても、それはフィデル・カストロとの合作であったと考えられる。

最近は、敵も対応手段を考えているようである。それは議会の早めの行動である。ホンジュラスでは親ALBAに動いた大統領を、議会が不信任し、軍との共同で放逐するという荒業をとった。パラグアイでもでっち上げ事件を口実に議会が大統領を弾劾し、臨時大統領を選出するという挙に出ている。

一方で、政府側もこのような反革命を抑えるために強力な連合を組むようになってきている。ホンジュラスでもパラグアイでも議会による反革命を抑えることには成功しなかったが、ボリビアとエクアドルでは成功している。

両者のせめぎあいは今後とも続くと思われる。それは、たとえ大統領制度のもとでも、権力掌握の鍵は、あくまでも議会での安定過半数にあることを示しているといえる。


前日の記事で「チャベスはラテンアメリカ自立の旗振り役」と書いたが、いささか説明が足りない。

大声をだすだけが旗振り役の役割ではない。砕氷船のように情勢を切り開き、民衆政府建設の水路を作り上げることによって、旗振り役となったのである。

彼の切り開いた水路をあとづけてみる。

A.まず民衆の覚醒を呼びかけたことである。

①おお友よ、このような音ではない!

80年代はラテンアメリカにとって「失われた10年」と呼ばれている。しかし前半と後半では“失われ方”が違う。

前半は軍事独裁の時代であり、軍事政権の失政により急速に経済が崩壊していく時期であった。人々は軍事独裁の打倒と民主化に燃えた。民主化すれば経済も良くなると信じたのである。

しかし民主化は実現したが、経済は一向に好転しなかった。軍人は姿を消したが、もうひとつの支配者である多国籍企業と国際投機資本はそのまま残った。

「民主化」は偽りの民主化であり、もう一つの敵であるネオリベラリズムとの対決なしに、民衆にとっての「民主化」は実現しない。

1990年に起きたカラカス暴動と、それに続くチャベスのクーデターは、それを民衆の前につきつけた。

私は、実はこれこそがチャベスの最大の業績ではないかと思っている。

ベートーベンの第9の歌い出しはこうなっている。

O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.

おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか


②闘う敵を明確にした

80年代の軍政民主化の運動は反軍政派の政治家を前面に押し出した。その多くは軍政時代以前からの政治家で、基本的政治スタンスは親米・反共であるにもかかわらず、民衆からは一定の幻想を持たれていた。

左翼勢力は、軍の徹底した弾圧で国内基盤を失い、有効なイニシアチブを発揮できなかった。

政府は、国際資本と闘うのも大いに結構だが、その前に、まずもって国民に飯を食わさなければならない。冷厳な論理ではあるが、それは決して「資本の論理」と同じものではない。

多分に同情すべき余地はあるのだが、民主政府を担った政治家たちは、結局対外債務を盾に迫る国際資本に対し屈服していった。それは「民主政府」が民衆の敵に転化したことを意味する。

1985年、対外債務の利払い拒否を宣言して大統領となったペルーの第一次ガルシア政権は、国際資本の集中砲火を浴びて炎上した。それはラテンアメリカ諸国に深い敗北感をもたらした。これを目の当たりにしたベネズエラの第二次ペレス政権は、IMF韓国を丸呑みする道を選択した。

このペレスという人物、かつてラテンアメリカでは、民主化の旗振り役としてきわめて評価の高かった人物である。数少ない非軍事政権の指導者として、ニカラグアのサンディニスタの闘いを支援し、地下資源の国有化を宣言し、キューバの国際政治への復活を図り、中米紛争の自主的解決のためのコンタドーラ・グループを組織した。

その人でさえIMF勧告を受け入れたのだからもう仕方ない、というのがおおかたの雰囲気だった。それにノーを突きつける形で、カラカスの民衆暴動が起きた。ペレスは戒厳令を発動し、軍を動員して鎮圧にあたった。

相当手ひどいやり方だったようで、チャベスらはこれに怒ったようだ。

軍隊というのは、そういうところがあって、「国と民衆を守るのは俺達だ、民衆に勝手なことしてもらっては困る」みたいな動きが必ず出てくる。

しかしこのナイーヴと見えた怒りは、じつは国内支配層や、それに付き従う中間層につきつけられていたのだ。

たとえ軍政よりましな民主政府と言えども、国際資本に従い民衆を抑圧する立場に立てば、それは打倒すべき敵だということを、チャベスはさまざまな勢力に先駆けて宣言した。そのことに大きな意義がある。


③闘う左翼の再構築を

当時、ソ連・東欧の崩壊を受けてラテンアメリカの左翼陣営は意気消沈していた。いくつかの国では共産党が事実上消滅していた。

アメリカとIMFは、ワシントン・コンセンサスなる構造改革と自由化を財政支援の踏み絵として押し付けた。少なくない社会主義者が、“革命でなく改革を”と称して、事実上ネオリベを受け入れていった。

中米戦争はニカラグアのサンディニスタ政権の敗北という形で終わりを遂げ、ラテンアメリカの民族解放闘争の路線も挫折を余儀なくされた。

全体に沈滞ムードが高まる一方で、民衆の困難は一段と強まり、闘いが求められていた。

クーデターという方式は決して誉められたものではないにせよ、国際資本主義やそれに追随する既成政治と決別し対決せよという呼びかけは、きわめて異色のものであった。


チャベスに関する私の発言

もっとも包括的なのは、ベネズエラ年表です。と言うよりファクトを雑然と時系列に突っ込んだものです。

#1 ~2001, 312kb  

#2 2002~ , 209kb 

#2 2004~ , 250kb 

2002年のクーデター、ゼネストとの闘いについては下記にまとめています。

ベネズエラ…何が起きたのか?

2002年 ベネズエラ・ゼネストに学ぶ

2つの闘争に勝利したチャベスの政策については下記をご参照ください。

ボリーバル運動の展開: チャベスの挑戦

ベネズエラにおける憲法改正

最近では、チャベス政権を正面から批判できなくなったため、経済運営に対する非難という変化球で攻めてきています。これに対する反論は、ブログの中で随時触れています。

アメリカとベネズエラ 国民が感じる「幸福感」

ベネズエラ経済を、ふと考える

ベネズエラ経済: 立ち止まって考えた

ベネズエラ もう少し考えた

赤旗の「ベネズエラ特集」について

エコノミストはベネズエラを評価している

赤旗「ベネズエラはいま」を読む

チャベスの対抗馬ラドンスキー

ラテンアメリカ全体の最近の動きは下記にまとめました。(あまりまとまってはいません)

「これが世界だ」2012年版 その6

 


200年前、ボリーバルはアンデス北部を解放した。サンマルチンはアルゼンチンを出発しチリとペルーを解放した。しかし両者の新政府のイメージは食い違い、北部と南部が真の同盟に達することはないままに終わった。

地政学的に見れば、ブラジルは軍事的にも政治的にも域内最大の国家ではある。しかし外様である。スペイン語圏が本家である。

チャベスとキルチネルの同盟は、はじめて南米の北部と南部が本音で同盟したことを意味する。だからUNASURの意義はすごいのである。

UNASURが初めてその力を発揮したのは、04年にアルゼンチンで行われたOAS首脳会議だった。当時アメリカはNAFTAを南北アメリカに拡大する自由貿易協定を押し通そうとしゃかりきになっていた。
キルチネルは米州FTAに断固反対の構えを崩さなかった。チャベスはアルゼンチンまで出かけてきて、反対集会に出席し「FTA粉砕!」の旗を振った。
こういう雰囲気の中で、ブラジルのルーラは結局アメリカへの追随を拒否した。

この時の役割分担が、その後も引き続き引き継がれていくのである。

ペルーで革新政権が成立した時、私は「これはオジャンタ・ウマラの勝利ではなくUNASURの勝利だ」と書いた。
コロンビア軍がエクアドルに侵入した時にこれを阻止し、コロンビアに謝罪させたのもUNASURだった。
ボリビアでCIAの指示のもとにサンタ・クルス州が反乱を起こした時も、これを内乱に至ることなく鎮圧したのはUNASURだった。
エクアドルでクーデター未遂事件が起きた時も、これを押さえ込んだのはUNASURだった。
パラグアイで国会が大統領を罷免するという、事実方のクーデターが発生した時、UNASURはこれを厳しく非難し、両手両足を縛り付けてしまった。

これらの事態はUNASURが、もはや国家を超え、CIA・米軍とガチンコで勝負できるような力を身につけたことを意味している。

この力に引きつけられる形で、チリもコロンビアもアメリカとのFTAからUNASURに軸足を移すようになった。もはや保守であろうと、UNASURの基本的立ち位置を受容するほかなくなったのである。

これこそが、チャベスの残した最大の置き土産であった。(ただコロンビアのFALC問題が解決できなかったのは心残りであろう)

チャベス大統領が亡くなった。
日本では、反米急進派の騒々しい奴くらいの扱いだが、ラテンアメリカにとっては、そんなものではない。
彼が偉大であったかどうかではなく、彼が切り開いた地平の広大さが問題なのだ。

忘れっぽい人のために、チャベスが政権についた20世紀末のことを思い出そう。
ラテンアメリカは、これでもかこれでもかという苦難を背負わされ続けた。70年代の10年には、ほんの一握りを除いて、すべての国が軍事独裁国家であった。
80年代は、「失われた10年」と呼ばれ、天文学的なインフレと膨大な対外債務に苦しめられた。
そして90年代は「絶望の10年」と呼ばれた。新自由主義経済の押し付けにより、犠牲はすべて民衆に押し付けられた。人々は職もなく、収入もなくスラムをさまよっていた。
つまり30年の苦しみの末の選択として、今日のラテンアメリカの政治・経済があるのだ。

1.ラテンアメリカ自立の旗振り役をつとめた
それが98年末にチャベスが大統領になって、文字通り命を賭けた闘いで石油会社の経営権を政府の手に取りもどした。
それ以来、チャベスは、ラテンアメリカの新自由主義からの脱却を唱える旗振り役となった。
旗振り役が声を張り上げないでどうするんだ。

2.21世紀型の成功モデルを実現した
彼は、石油の販売による利益を社会還元することで、経済を活性化させ、人々の暮らしを改善することに成功した。
医療を行き渡らせ、教育を充実させ、文盲を追放した。
反対派は金をばら撒いていると非難したが、実際にはばら撒いてはいない。経済マクロを見れば、相当堅実な運営を行なっている。
ラテンアメリカにとって、天文学的なインフレと財政破綻の恐怖は、未だに記憶に鮮やかだ。
そして、そのインフレと膨大な対外債務をもたらしたのは、まさしく、いま非難している連中であり、その放漫財政であった。そのことも、未だに民衆の記憶に鮮やかだ。
もちろん、何もかもうまくいくわけではない。しかし以前よりはるかにいいのだ。

3.ラテンアメリカの地域統合に貢献した。
彼は大声を上げるだけの政治をしていたわけではない。かなり寝技も使って、ラテンアメリカ諸国の統合への意欲を掻き立てた。
21世紀初頭のラテンアメリカ統合の動きは、チャベス=キルチネル枢軸を中心に展開された。
キルチネルは決して左翼政治家ではない。ただ軍事政権への憎しみと、IMFを先頭とするネオリベに対する嫌悪感は尋常では無い。
この二人が孤立して闘っていたら、おそらく共倒れになった可能性が強い。この二人が組むことで、UNASURの路線は左翼からも民族派からもプレステージを獲得することができた。(そのために、ベネズエラはアルゼンチンに相当の利益供与を行なっている)
そして大国ではあるが国内組織基盤が盤石ではないブラジルのルーラも、安んじて改革路線を歩むことができた。
UNASUR路線は、ブラジルがアルゼンチン、パラグアイ、ボリビアへ譲歩することなしには前進できなかっただろうと思う。その譲歩を可能にしたのはチャベスとキルチネルのスクラムだろうと思う。



ペルーとアルゼンチンへの支援

1960年代初期に、Saldanaはアルゼンチンとペルーのゲリラ戦線のために支援活動に取り組んだ。

1963年後半に、ホルヘ・リカルド・マセッティの率いるゲリラ戦線がアルゼンチンで開かれた。彼はゲバラの指示の下に動いていた。

マセッティはアルゼンチンのジャーナリストで、1958年にシエラ・マエストラに取材旅行に出かけ、キューバの革命の支持者になった。彼はキューバへ引っ越し、通信社プレンサ・ラティーナの創設を手伝った。

アルゼンチンのゲリラに対するロジスティックな支援は、ボリビアで組織され、ボリビア共産党のメンバーも参加している。Abelardo Colome Ibarra (Furry)も当時の仲間の一人で、現在はキューバ軍中将で内相の座にある。

アルゼンチンのゲリラは、1964年の初めに軍によって根こそぎにされた。Masettiと大部分の彼の僚友が、死んだ。

Saldanaは、彼の経験について話した。

「20世紀鉱山」から戻った後、私は自動車修理工場を開業しました。車修理、塗装、板金作業など何でもやりました。

その仕事はニャンカウアスで軍事行動を始めるまでのあいだ続けました。もちろん、そのあいだに店を留守にしたことは何度かありました。たとえば南の闘争を支援したときです。

Q: “南”というのは?

S: アルゼンチンのマセッティのことです。

Q: ペルーについてはどうでしたか? ペルーのゲリラも支援していたのですか?

S: そうです。そちらもです。

Q: ペルーではプエルト・マルドナドのゲリラ闘争もありましたが、それもですか。

S: そうです。彼らの使うすべての装備は私の手を通っていました。私は装備を集め、保管しました。そして積み出しの準備をしました。

私の作業は、私の修理工場で運営されました。とくに南への供給についてはすべてです。

多くのものが必要でした。私は物資を詰めて出荷するのに知恵を絞りました。たとえば上げ底方式です。ドラム缶を持ってきて油を抜きます。それから蓋を外して底の方にアイテムを詰めます。その上に中蓋を置いて溶接します。そしてふたたび油で満たします。

ドラム缶が到着すると、ゲリラたちは逆さにしてノミで穴を開けて中身を取り出すのです。


ここまで読んでがっかり、ゲバラとともに戦ったゲリラ闘争のことは省略されています。70年から後の話がまだ続きますが、もうやめます。
詳しくは雑誌を買って読んでくれということでしょう


Rodolfo Saldaña はゲバラのボリビアでのたたかいを生き抜いた一人で、ボリビア人である。
彼は1997年4月にハバナで「ミリタント」誌のインタビューに応じている。その要旨が下記のページで読める。
http://www.themilitant.com/2001/6503/650350.html

少し紹介しておこう。

Q: あなたの経歴について話してください。どのようにして政治活動にかかわるようになったのですか。

S: 私の最初の政治的な闘いは、高校に入学したときからです。私は、それからずっと革命勢力の味方でした。

Q: それはどんな年でしたか。

S: 1947年に、私はスクレの高校に入りました。その1年前、Villarroelの政府に対して人民の反乱が起きました。Villarroelは、ラパスの街の街灯に吊るされました。

Q: その政権はどんな性格のものだったのですか。

S: Villarroelは軍人でした。彼は帝国主義のあいだの国際的な矛盾をうまく利用しようとしました。彼の政府は、アルゼンチンやブラジルと密接な関係を持ち、第二次世界大戦ではドイツに共感を抱いていました。同時にアメリカの圧力も受けており、どちらにも偏らないようにしていました。

それは反ファシスト人民戦線の時代でした。最も強い人民からの支持をもつ政党はPIR(革命的左翼党)でした。

私はPIRのメンバーでなかったのですが、デモ行進に参加し、よく投石をしていました。

Q: PIRは、当時ありましたか?

S: PIRはその後共産党にその座を譲っています。PIRの左派は党を去り、あらたに共産党を作ったのです。

1950年に、共産党は主にPIRの若者たちによってつくられました。私は実質的のその創設メンバーでした。その時、私はラパスに住んでいました。私は街頭行動やストライキに参加しました。それらは権力との対決、そして虐殺に終わりました。

1952年に、MNR [革命的民族運動]が権力を握り、鉱山の国有化や土地改革の旗手になりました。それらはもともとPIRのスローガンでした。

1950年代初期にボリビアの学生運動のリーダーとなったサルダーニャは、世界民主主義青年連盟の大会に出席するためにチリに送られた。彼はその後、ブラジルとモスクワへ旅立った。

1950年代半ば、MNR政府は大学の自治を奪い取ろうとした。サルダーニャはそれとたたかう学生運動の先頭で活躍した。

その後、私は共産党の組織委員会のメンバーになりました、そして、何をなすべきか、いかに党を組織するか考え始めました。

我々は、最も重要なことはプロレタリアートの間で党を組織することだと決定しました。しかしプロレタリアートのどんなセクターが重要なのか、この国のどの地域に主要な関心を向けなければいけないのか。

その結果が鉱山での活動だということです。そして当時この国で最も重要な鉱山を見出しました。それはPotosi とPulacayo の二つの山を持ち、6千人の労働者を抱え、この大陸で最大の鉱山だった「20世紀」鉱山会社です。

最初は、我々は通常通りの活動を行いました。指導者が鉱山へ行って、党員やめぼしい活動家たちと会い、細胞を作り、同志たちが結集しました。しかし散会した同志たちは何も行動を起こそうとはしませんでした。「元の木阿弥」です。

今度は三人の同志が三つの山に別れ、およそ1ヵ月そこにとどまって、核になりそうな人々を見つけて、彼らに会って、党を組織することにしました。

しかし、我々はこれでもまだ十分ではないという結論に達しました。党を真に建設するためには、我々3人が鉱山会社に入るしかない。それも現場に入らなければならない。そして私は「20世紀鉱山」の鉱夫となったのです。

私は最初に配属された職場で200人の労働者の大半を党に組織することが出来ました。彼らは細胞を組織して、定例会議を開きました。ゲリラ戦士の一人Rosendo Garci'a Maisman は、そこからリクルートしたのです。

しかし私は重労働ですっかり体を壊してしまい、58年にはラパスに戻って療養することになりました。





どうやら「ゲバラ最後の戦い」の年表の改訂作業が一段落しました。
なんだかんだと2週間くらいかかりました。やはり、滅茶苦茶に面白い(読む人には面白くないかもしれませんが)
とくに、最後のシーンがいい。ポンボら4人がアンデスを越えて砂漠を越えてアリカという街にたどり着いたとき、彼らを迎えたのがアジェンデだった。そして用意した船に乗ってタヒチへと脱出する。
まるでハリウッド映画のラストシーンだ。アジェンデと肩を並べ船から望むアタカマの砂漠、そのはるか奥に雪をいただいたアンデスの山並み、その向こうがゲバラたち40名を失ったボリビアの高原…
もう絵ですね。

むかし笛吹童子も紅孔雀も全5巻だった。それに倣って全五巻の映画を作るとする。

第一巻はゲバラのラパス入りまでだ。コンゴの戦いの中で作られた友情、タニアが東ドイツから来て、やがてスパイの訓練を受けた末にラパスに潜入するエピソード、12人の戦士が選抜されて、ピナルデルリオの山中で2ヶ月にわたり猛特訓を受けるエピソード、そして勇躍ボリビアへと飛び立つところで終わる。

第二巻は、冒頭にフィデルがチェの最後の手紙を読み上げるシーンから始まる。そしてビジネスマンに変装したゲバラが、ラパスの空港に降り立ち、おもむろに葉巻に火をつけるシーンがある。そのあとボリビア共産党との悶着、フレディ前村らボリビア人ゲリラの到着、モイセス・ゲバラの組織した現地兵士の到着、部隊の厳しい訓練、そしてタニアとドブレらの到着が次々と積み重ねられる。ゲリラ兵士の超人的能力、タニアの上流社会での活躍が彩りを添えると同時に、裏切り者となる兵士たちの動揺がフィーチャーされる。

第三巻は、裏切り兵士が走る場面からだ。ゲリラの存在を知った政府軍が部隊を送り、戦闘となるが、ここで迎え撃つゲリラ兵士の超人的能力が徹底的に押し出される。場面は一転してCIAのあわただしい動き、南米のなかでも僻地とみなされていたボリビアだが、相手がゲバラとあっては手は抜かないぞと、全面介入の動きを見せる。ナパームによる攻撃やレンジャー部隊の投入など、ベトナム戦争並みの構えで望んだ。
これはゲバラの最大の誤算だった。ゲリラは日に日に追い詰められ、8月31日ついに後衛隊が全滅する。その最後はまちがいなく絵になる。

第四巻は、ゲバラの最後だ。モロコス村で歯医者を演じたゲバラが最初のシーンだ。それから長躯サンタクルスとコチャバンバを結ぶ国道まで進出し、鮮やかな奇襲で街を一時占拠する。ここが戦いの絶頂だ。この後徐々に退却を迫られ、仲間たちが次々に失われていく。最後はウィリーとともに壮絶な戦いとなり、捕らえられ射殺される。キリストのような死に顔が幾度となく強調される。

第五巻はハリー・ビジェガスらの逃亡劇だ。この巻は一つのストーリーを作るのには資料が少なすぎる。しかしどうしてもこの巻が必要だ。ほしいのはコチャバンバに到達した連中がどうやって仲間と連絡をとったのか、それがハバナにどうやってつながり、アジェンデの登場と相成ったかだ。
私はボリビアに行くまではチュキサカ県スクレがもっとも魅力的な町だと思っていた。今もある意味ではそう思っているが、いま一番旬の街はスクレではなくコチャバンバである。
高地で仕事にあぶれた人たちが、山を下ってコチャバンバに流れ込んでいる。そしてボリビア革命の原動力となっている。政府の活動家たちの多くがコチャバンバの出身である。それにしてもあのムチャーチャ、可愛かった。

もう一つ印象的なのがインティ・ペレードとの別れの場面だ。生き残った5人のうち3人がキューバ人、彼らは国に帰る。インティは間違いなく死が待つこの国に残る。(69年9月に殺害された)
インティの別れの言葉「我々はふたたび山に登る」は、翌年キューバで発表された。それは深い感銘を残す。それは全5巻の映画のエンディング・テーマになるだろう。

もう立派な映画じゃないですか。これ以上感想を述べる必要はなさそう。

すみません。しばらくゲバラのボリビア戦記にはまっています。
第二次と言うか第三次というかゲバラブームがあって、そのたびに資料が膨れ上がってきます。
私のゲバラ年表のベースは71年に発行された「タニア」という本で、キューバ国立出版協会編・桃井健司訳/サイマル出版会というから、もう40年も前のものだ。ゲバラが死んで4年目ということになる。
いま読み返してみると誤りもかなり多い。
全面改定の必要に迫られているのだが、どうもそれほど力を入れる話かなという感じがぬぐえず今まで来た。
しかしゲバリスタからの希望も強く、腰を上げることにした。とりあえずいくつかの文献で年表を補充整理している。

ゲバラとともに散った日系人

恥ずかしながら、今回初めてエルネスト・フレディ・マイムラ(Ernesto Fredy Maimura)の存在を知った。

ゲバラが死んだ後に、日本でもドッとゲバラ物が出た。その当時はトロとけんかしていた頃で、トロ(といってもノンセク系)が持ち上げるゲバラにはさほど興味はなかった。

その後、ラテンアメリカに足を踏み入れてからは、ゲバラは横を走る存在になった。多少、皆さんと歩調を合わせるくらいにはなってきて、古本屋で当時の本をあさった。

ゲバラフリークから「さすがですね」といわれるくらいの本は集めた。しかしそれらの本の中に前村は登場しない。

しかし前村はすでに1968年から、一部の人には「知る人ぞ知る」存在だった。それが「橿原日記」というブログで分かった。

このブログがそもそも面白い。生まれは皇紀2600年だそうだ。本名が応請矩明(読めるかな?)と書いてあるが、読めない。

とにかくその平成20年12月27日号に「ボリビア国籍の日系ゲリラ隊員エルネスト・フレデイ・マイムラ」という記事がある。

ここでまず、昭和44年(1969)の「サンデー毎日2月2日号」が紹介されている。この雑誌で報道写真家の中川市郎氏の特別レポート「ゲバラとともに散った日系人」が掲載されていたことが分かった。

以下、「橿原日記」さんの記事から

Ernesto Fredy Maimura は日系二世、昭和14年(1939)10月18日、ボリビアのベニ州トリニダ市で、洋服生地店を営む日本人の父、アントニオ・マイムラと妻ローサとの間に二男として生まれた。

外科医を目指していた彼は、昭和37年(1962)にキューバにわたり、ハバナ大学の医学部に進んだ。そしてチェコスロバキアとソ連に2年間留学して医学の勉強をした。

彼はハバナに戻った後、ゲリラ隊員を志望し、66年11月27日、チェ・ゲバラのもとでゲリラ戦線を戦うためにボリビアに戻ってきた。

67年8月31日、ボリビア軍と遭遇して銃撃戦になった。ボリビア軍は10人いたゲリラ戦士のうち8人を射殺し、2人を逮捕した。その一人がフレディだった。

フレディは、尋問に黙秘権を行使して、一言もしゃべらないまま銃殺された。

ハバナ首都圏のマリアナオ地区の小学校は「フレディ・マイムラ小学校」と改名された。キューバの革命詩人ロサリオ・イサベルは「エルネスト・フレディ・マイムラに捧げる歌」という詩を書いている。

というお話

これをハバナで前村の母と出会った中川市郎さんが記事に仕上げたというのが、サンデー毎日掲載にいたる経過のようである。

ボリビア日系協会連合会」のサイトに上記の案内が掲載されている。
http://www.fenaboja.com/bo_che_guevara/vallegrande.html
に直接あたっていただければよいのだが、少し、年表との関連で紹介しておきたいと思います。

バジェグランデ(Vallegrande)の町は、サンタクルスの南西300kmに位置しています。途中、サマイパタを抜け、車で約6時間。海抜2,000mです。

と簡単に書いていますが、地図で探すと、コチャバンバとサンタクルスを結ぶ国道4号線上にSamaipataという町があります。そこから、南に伸びる支道に入り南下するとバジェグランデに到着します。イゲラ村はそこからさらに南東方向にあります。地図で見るとコチャバンバ県、スクレ県、サンタクルス県の交点に近いところです。

と書きましたが、サマイパタからバジェグランデに抜ける道は、地図の上からは存在しない。二山ほど越えたパロという町から南に国道22号線があってその先にバジェグランデがある。

山道の300キロを6時間というのはかなりきついでしょう。時速80キロ以上の高速で休憩なしで行かないと無理だと思います。私もサンタクルスから日系コロニーまでバスで往復しましたが、たしかに100キロ近く出していました。

別のブログの管理人は、サマイパタに前泊して翌日の昼の12時にバスに乗り、バジェグランデに4時に着いたとありますから、100キロちょっとでしょうか。どうも地図を見ていてもこの時間感覚がイマイチ分かりません。

閑話休題
バジェグランデについたゲバラの遺体が置かれたのは、「マルタの騎士病院」ということになっていたので、私は剖検室かと思っていました。剖検台というのはだいたいあんな形です。
しかしそこは剖検室ではなく、屋外の洗濯台でした。
…と書いたが訂正します。洗濯台といっても死体の洗濯台で、そこからちょっと先に剖検室があるそうです。

チェ・ゲバラの遺体が置かれ、バジェグランデの市民にも公開されました。

ということです。

"1967年10月9日、10日
世界の人々に知らせる為、村の軍隊と記者によって、チェ・ゲバラの遺体が展示されていた。"


とかっこつきで書かれているのは、おそらく説明板の文句を写したのでしょう。良く分からない説明ですが。Viva Tarija さんのブログによると、実際に村人に公開されて、筆者の知人で実際に見た経験を持つ人もいるそうです。

バジェグランデは小さな町で、中央広場を中心に同心円状に広がっています。病院は中央広場に近く2丁ほど西に行った所です。これに対し、遺体が埋葬された軍用飛行場は、街の南のはずれにあります。
埋葬場所は二ヶ所あって、一つがゲバラとともに戦死あるいは処刑された6人の遺体、そこから少しはなれた場所に、8月31日戦死組12人が集団埋葬されていました。あの女性兵士タニアもここに眠っていたそうです。

イゲーラ村について


イゲーラ村については「ボリビア日系協会連合会」のサイトでも良く分かりませんでした。
Fudaraku Voiceさんという地図マニアの方が検索してくれています。
このサイトの中の ゲバラ終焉の地を見る というページに、イゲラ村の「ここだろう」という地図が載っています。
これを見るとイゲラ村は山稜の上にあり、そこから西に下っていくと、リオグランデ川の流れるチューロ渓谷(La Quebrada del Churo)という位置関係にあることが分かります。
ゆめぽろさんによると、イゲラから歩いて30分ほどでゲバラが捕えられたスポットまでいけるそうです。
SlowFlowさんによると、バジェグランデから来てイゲラに入るちょっと手前から谷に降りるのだそうで、なかなかきつい道のりのようです。そこから少し上ったところにゲバラたちの隠れ家があったそうです。

ネットサーフィンしていたら

日系旅行会社 ヘネシ

ボリビア サンタクルスにある日系旅行会社です。

というサイトにぶつかって、ここではなんとバジェグランデ2泊三日のツァーを募集している。サンタクルス発でお一人様5万円というからバックパッカーの相場から見ればとんでもなく高いし、日本国内で旅行する感覚ならありがちな値段かも、と思う。


ゲバラの死は、イエス・キリストの受難と似たおもむきがある。
目を背けるような写真の連続だが、案外、向こうの人はそう思ってみるのではないだろうか。
8日の午後3時頃、ゲバラはジャングルで負傷し捕らえられ、ラ・イゲーラまで移送された。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/a/f/af1a57e7.jpg
これがラ・イゲーラに到着したときの写真であろう。顔だけではゲバラとは同定できない。まだ生きている。左上腕を抑えている。左下腿にはかなり経過した傷がうかがえる。靴は靴とはいえない有様になっている。写真に写りこんでいる日差しと影から見て、8日日暮れ時、イゲラ到着直後のものと思われる。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/3/a/3a76d2a0.jpg
生前の写真。一通りの止血措置は終わり、顔にも精気がある。おそらく9日朝、バジェグランデからのチームが撮った最初の写真だろう。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/c/2/c2869427.jpg
よい写真だ。数あるゲバラの写真の中でも1,2を争ういい写真だ。他の生前写真はすべてゲバラをいやしめている。


http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/a/2/a2018432.jpg
処刑直後の写真。教室内ではなく、中庭に連れ出して射殺したことが分かる。タバコをくわえているのが銃殺したテラン軍曹であろう。写真で見る限り射入孔は一つだけだ。みんなでよってたかって撃ったというのは間違い。


http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/e/9/e9f3023a.jpg
ゲバラは左胸に手を当て仰向けの姿勢で絶命している。至近距離で撃たれ、銃弾は心臓を貫通し、数秒のあいだは反応したことが分かる。死亡を確認しているのはベレー帽から見て、第二レンジャー中隊長のプラド大尉であろう。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/0/0/0065b58a.jpg
眉の上の隆起はゲバラの特徴である。この「参った」顔が数分かけて「キリスト顔」に変わっていく、これが見ものである。


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おそらくはイゲラ村からヘリに乗せる直前の写真。目もかっと見開かれている。胸が広げられているが衣装は元のままで、「靴」もそのままとなっている。


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たぶん、上記の写真と同じ状況で足元方向からの撮影。周りの兵士たちも、この顔はぞっとしなかったろう。


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こうやってヘリの脚に結わえ付けて運んだという写真。こうしてラ・ゲーラからベジェグランデまで運ばれた。このヘリにはフェリックス・ロドリゲスも同乗していたはず。

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バジェグランデに着いて、病院に安置されて最初の写真。顔が良く見えるように、首の後ろに板が当てられている。こういう状態で市民が見物したのだろう。口元が緩み、かすかにほほえみを浮かべているよう、完全にキリスト顔。

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軍のお偉いさんの検分。おそらく右がレンジャー大隊司令官の大佐であろう。「靴」は脱がされている。両手はまだ存在している。

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これがゲバラの両手。市民への供覧が終わってから司法解剖に回されており、このときに切断したものであろう。手根骨と指骨のあいだがきれいに切離されており、解剖の知識あるものの仕業と思われる。

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これが現在の墓。下段の左端がゲバラのもの。

すみません。著作権を無視しての転載しまくり。現在はさすがに食欲がない。


ゲバラの死年表を増補しました。というより整理しました。不正確なところを整理し、長い記述は囲みにまとめました。少し読みやすくなったと思います。
遺体の発掘のエピソードも載せようかと思いましたが、それほどのゲバラ・フリークでもありません。
ネットで見ると、ずいぶん多くの日本人旅行者が現地に行っているようです。
ただ、せっかくボリビアに行ったのなら、「ゲバラの息子たち」がどうがんばっているか、現実にボリビアで起きている革命の様子をもう少し学んでくれたらよいのに、とも思います。
私のホームページにはボリビア革命の様子を載せたレビューもいくつか載せています。ボリビア年表は結構包括的です。

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