鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ:02 ラテンアメリカ > A 中米・カリブ

「カストロ 十話―知られざる逸話」

1.サメの泳ぐ海を泳いで逃げた

カストロが国立ハバナ大学に入学したのは第二次大戦の終わった年です。

カストロはやる気満々でオリエンテ(東部)の田舎から出てきました。

一説によれば、カストロはヒトラーの「我が闘争」を愛読,ムソリーニの演説フィルムを見ては,鏡の前で演説の練習をしたそうです.

当時の学生運動は軍隊帰りもいて、多少の暴力はいとわない血気盛んな時代で、3つの集団が覇権を争っていました。

カストロもそのひとつに近づくのですが、自分こそが指導者だと思っていますから、組織の論理で動くことはありませんでした。

当時の真正党政権は比較的進歩的でしたが、汚職・腐敗はひどいものでした。これを正そうという正統党を担いで学生を組織していきます。

このとき、隣の島ドミニカの独裁者トルヒーヨを倒そうという運動が持ち上がります。半分は暴力学生の矛先を外に向けようという支配層の思惑でもありました。これにカストロも乗ります。

カストロら参加者1200名が沖合の小島に集められ軍事訓練を開始しました。ところが直前になって、陰謀はアメリカの知るところとなり、米政府はキューバ政府に弾圧を求めました。

小島に取り残された参加者は一網打尽となるのですが、カストロはゴムボートで脱走.最後にはサメのいる海を泳いで対岸にたどり着き脱走に成功します。

カストロの偉いのはその日のうちにハバナにたどり着きただちに行動を開始したことです.カストロが政府非難の集会に顔を見せるや満場の拍手で歓迎されました.このような土壇場でのクソ力が何度カストロの命を救ったことでしょうか.

これが最初の武勇伝。

2.ボゴタ事件に遭遇

カストロと対立する暴力集団の幹部が暗殺されました。その場に居合わせた人物がフィデルを犯人だと名指ししたためカストロは逮捕されてしまいます.

これが偽証だったことが分かり警察からは釈放されますが、暴力集団はそれで許してくれるわけではありません。

当時法学部の自治会委員長だったカストロは、第1回LA学生会議がコロンビアで開かれるのを知り、これに飛びつきました。

コロンビアの首都ボゴタに到着したカストロは、学生代表として進歩派の代表ガイタンと会見の約束を取り付けます。ガイタンは自由党の大統領候補者として国民のカリスマ的人気を集めていました。

ところが会見の直前、ガイタンが街頭で暗殺されてしまったのです。これをきっかけに憤激した群衆が暴動を起こしました。「ボゴタソ」と呼ばれる事件です。

反乱のあいだフィデルはどうしたかということですが,この血の気の多い青年がじっとしているわけがありません.どさくさ紛れにいつのまにか学生の一団を率いることになります.

しかし、この手の暴動が長続きするわけがありません。やがて政府軍が進出し、暴動派の形勢は不利になりました。

カストロは近くの山に逃げ込み一夜を明かしました。そのあげくキューバ大使館に命からがら逃げ込みます.キューバ大使館はこの厄介者を密かにハバナ行きの家畜輸送機に潜り込ませます.

なおこのボゴタソはコロンビア全土に波及し、農民の抵抗の中からFALCが生まれていきます。今回の停戦に至る間、キューバがさまざまな交渉努力をしたのもそういう因縁でしょう。

3.ジャイアンツから指名されたカストロ投手

パターソンの本におもしろいエピソードが載っています.48年11月ボゴタソから半年後のことです.キューバ転戦中のメジャーリーグ選抜チームがハバナ大学と対戦します.

ハバナ大学の主戦投手はなんとフィデル.それがメジャーリーグを3安打無得点に抑えてしまったというのですからどうも開いた口がふさがりません.あまりにもハリウッド映画の世界です.

その年のストーブリーグではニューヨーク・ジャイアンツが彼を指名し年棒5千ドルを提示しました.しかしフィデルは熟慮の末この誘いを断り弁護士への道を選んだのだそうです.

このエピソードでもうひとつおもしろいのが,フィデルはあの立派な体形にもかかわらず豪速球投手ではなかったということです.逆にカーブを主体とした技巧派の投手だったそうです.

後年の彼の言動を検討しているとついこの話が思い浮かばれて微苦笑を禁じえません.

カストロは激しい学生運動を指導しながらも、野球もやり、恋もしました。バチスタとも遠縁にあたる名門令嬢と結婚し,バチスタからは過分のご祝儀をいただいたそうです。新婚旅行ではマイアミで高級車を乗り回して豪遊したそうです。

こっらの逸話はパターソンの本からのものですが、キューバではほとんど知られていません。7,8年後にハバナの地下で闘っていたコシオ元大使も知りませんでした。

革命前のキューバ

ちょっと数字を並べさせていただきます。53年度の国勢調査報告です.

国民一人当たり所得はラテンアメリカ諸国中5位と高位を占めます.自家用車普及率は第3位,テレビ普及率ではなんと1位です.53年に日本にテレビなどあったかしら?

 暗の部分がこれまたすごい.報告によれば「都市と農村をふくめて,キューバ全体で水道があるのは住宅戸数のわずか35%,屋内便所があるのは28%にすぎない.また農村の住居の3/4は掘ったて小屋(ボイオ)に住み,54%がトイレなしで小屋掛けカワヤも持っていない」状況でした.

 報告は衣・食にも言及します.これによると97%が冷蔵庫なし,水道なしが85%,電気なしが91%.牛肉を常食するのは4%,魚は1%,卵は2%,パンは3%,ミルクは11%,生鮮野菜は1%以下という具合です.一体何を食っていたのでしょう.

 次は保健・衛生です.報告は「医師は2千人に1人しかおらず,農村の大衆は医療を受けられないことが度々ある.多数の子どもが寄生虫に感染し,ひどく苦しみ,苦痛のうちに死んでいく」と告発しています.

 それから教育.学齢期児童の就学率は56%,地方では39%にとどまります.オリエンテの砂糖地帯ではさらにひどく,わずか27%です.国民の1/4が文盲とされ,都市部以外では42%にのぼりました.

 報告はさらに続きます.「農地のうち8割が遊休地であり,なんら利用されぬまま放置されている.一方で基礎食料のほとんどを輸入に頼っている.労働可能な人口の4人に一人は常時失業している」つまりばく大な富が再生産や投資に回されないで,死蔵されたり浪費されたりしているということです.

 報告は米国に従属した産業構造にも触れます.「電力の9割以上が米国の会社によって供給されている.電話はすべて米国の会社のものである.鉄道の多くもそうである.製糖工場の4割は米国のもので,とくに優れた性能のものはそうである」

 バチスタ政権下でどうしてこのような国勢調査報告が発表されたのかよく分かりませんが,これを読めば誰でも今日から革命家になってしまいます.

4.モンカダ兵営の襲撃

モンカダとシェラマエストラの戦いについては、すでに書きつくされているので飛ばそうかとも思いましたが、知らない人も増えているでしょう。簡単に書いておこうと思います。

大学を卒業したカストロは人権派弁護士として活動を開始します。とは言ってもゆくゆくは代議士になり大統領を目指すというつもりだったでしょう。

ところがまもなくバチスタ(元軍人で元大統領)がクーデターを起こし独裁政治を始めます。民主的な方法で政治の実権を握る可能性は消えました。

そこでカストロは武装蜂起を決意します。彼は仲間を募り、53年夏にキューバ第二の都市サンチアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃しました。

百人余りの手勢で奇襲をかけるのですが、さまざまな手違いで失敗。近くの山に逃げ込みます。逃げ遅れたものは逮捕され、そのうち70人ほどが拷問の末虐殺されます。

結局、カストロも住民の密告で逮捕され警察に連行されました。この警察というところがミソで、捜査隊長のサリアという人物はハバナ大学の同期生でした。彼は軍に手渡せば即刻射殺されることを知っていましたから、軍への引き渡し命令を巧妙に避け、フィデルをサンチアゴ市警察に引き渡すことに成功します。

こうしてかろうじて命をつないだカストロですが、決してへこたれもしないし、転んでもただでは起きません。

公判闘争では弁護士がつかない中で、自らの力で弁論を行います。その文章が「歴史は私に無罪を宣告するだろう」という論文です。この論文はニューヨークで印刷され密かに国内に持ち込まれました.そして地下活動により広範に流布していきます.

こうして、カストロは「テロリスト」から「キューバ人の希望の星」へと大転換を遂げていくことになります。

5.カストロのニューヨーク騒動

これも語り尽くされた話題ではありますが、カストロの行動パターンを見る上ではだいじなエピソードを含んでいるので紹介しておきます。

カストロは国連総会出席のため、60年9月18日から10日間にわたりニューヨークを訪れています。

以下は私のキューバ革命史からの転載です

ニューヨークに到着したフィデルらは数千の民衆の出迎えを受けました.代表団は国連ビルに近いシェルボーン・ホテルに入りますが,ここで早くも大騒動が持ち上がります.亡命者らによる騒動を懸念したホテルは代表団に対し「もしもの際の保証金」を要求しました.代表団はこの「不当かつ受理不可能な金銭的要求」に激怒します.ホテルを飛び出した代表団はなんと国連本部前の芝生にテントを張ってしまうのです.結局深夜になって支援団体の紹介を受けた代表団はハーレムのホテル・テレサに移動します.ひげ面の若者たちによるこのパフォーマンスには,さすがのニューヨークっ子も度肝を抜かれました.

続いての騒動は翌日早朝にフルシチョフがホテルテレサを訪問したことです.米国と並ぶ大国の指導者が突然ウラ寂れた下町に入ったのですから大変です.そのあともホテルテレサにはナセル大統領,ネルー首相など各国首脳がきびすを接するように訪れます.いうまでもなく黒人も大喜びです.ラングストン・ヒューズやマルコムXなど黒人運動の指導者があいついで訪問します.もう大変なお祭り騒ぎとなります.

第三のハプニングは22日に起きました.アイクはLA各国首脳を招き昼食会を開きます.キューバだけが招待されませんでした.露骨な当てこすりというか子どものいじめに近い幼稚さです.カストロの奇想天外ぶりが発揮されたのはこの時です.彼はみずから昼食会を開きます.招待されたのはなんとホテル・テレサの従業員でした.もう市民はヤンヤの喝采です.

ハプニングはこれで終わったわけではありません.27日代表団が帰国の途につこうとしたとき,米国はイチャモンをつけてキューバ航空機を差し押さえてしまいます.またもや一騒動?と思ったときソ連がさっと飛行機を提供します.代表団はこれに乗り意気揚々とニューヨークをあとにするのです.

という具合で、カストロは窮地に陥ったとき奇想天外な手段を編み出して、それを果敢に実行するのです。劇場型政治家の典型です。


1.氾濫する憶測記事

“キューバ 国交回復”と入れて、グーグルで検索すると山のような記事にあたる。しかし数は多いが、中身は大同小異だ。

しかもうんざりするような話ばかりだ。

オバマの点数稼ぎ、政策転換により変革を促したい米国とか

経済苦境を解決したいキューバとか、ソ連なき後、孤立からの脱却を狙っているとか

これからキューバの人権問題が浮かび上がる、ビジネスチャンスを伺う産業界、

さらに言うなら、日本のメディアは本当はキューバなんかに興味はないのだ。欧米諸国でこのニュースがもてはやされるからお付き合いしているだけだ。

そういう連中の言うことを聞いていても、何の役にも立たない。

すみません。以後アメリカ・キューバ関係のことを米玖関係と書かせてもらいます。玖というのはキューバを漢字で書くと玖瑪となるからです。ちなみに米国というのはアメリカの漢字書きが亜米利加となるからです。

2.国際外交上の原則が確認された

なぜ米国交回復がそれほどまでに重大なニュースなのか。

まず言っておきたいこと、それは米玖国交回復が世界の外交の原則に関わっているからこそ、重視されているということだ。

それは経済封鎖という外交手段である。

これまでアメリカは国際外交の原則 を蹂躙し続けてきた。

それがもはや許されなくなった。そのことを明らかにしたから、その故に、このニュースは重大なのだ。

米国の側にどんな言い分があろうと、どんな歴史的経過があろうと、この外交原則は破ってはならないのである。

3.守るべき国際原則とは何か

それは国連の制裁解除決議に端的に示されている。去る10月28日には23回目の決議が採択された。反対したのは米国とイスラエルのみ。あの日本ですら賛成 しているのだ。

米国の対キューバ経済封鎖は、国連憲章、国際法、民族自決権、内部問題不干渉、国内政策の域外適用、自由貿易に反するものである。

ということで、やたらと引っかかっているが、根本的には「自由貿易の原則」の侵害なのであろう。

自由貿易は第2次世界大戦の反省の上に作られた原則で、弱者の保護を前提としつつもすべての国々の産業の基盤となっている。

問題は制裁という行為にあるのではなく、それを強大国が単独で、実力封鎖という手段で押し付けることにある。そのことが自由貿易の原則を著しく毀損することになる。

当然それは内政干渉にもなるし、民族自決権の侵害にもなる。これが米を除く全ての国の共通認識だ。

なお、日本のでは経済制裁(economic sanctions)と報道されているが、これはおそらくは意図的な誤訳であり、決議は取引禁止(Embargo)となっている。制裁は、どちらかと言えば“言うことを聞かせる”方に力点がある。せめて経済封鎖(economic blockade)というべきであろう。

池上彰のニュースそうだったのか!! 2時間スペシャル
放送日時
2015年9月5日(土) 18:56 ~ 20:54
番組概要
1日本がスパイに狙われている!?…先日アメリカのNSAが日本政府・企業を盗聴しているとのニュースが…なぜ同盟国に?その狙いとは?
【スパイの今と昔】
 先月、アメリカの情報機関NSAが日本の政府や大企業の電話を盗聴していたと内部告発サイトのウィキリークスが暴露し、日本に衝撃が走った。盗聴内容は アメリカを含む5カ国で共有されている可能性があるというが、アメリカは同盟国の日本をなぜスパイの標的にしたのか? 戦時中には勝敗を分けるとも言われ るスパイ活動の驚くべき歴史を紐解きながら、現在も世界的規模で行われているスパイ活動の目的と実態に迫る。


・カストロ,危機一髪

 今度の暗殺計画は一番成功に近かった作戦でした.キューバ国内にカプセルを持ち込む「運び屋」には,買収されたスペイン外交官ベルガーラがあたることになりました.ベルガーラは外交特権を使って警備の網を潜り抜けます.毒薬カプセルが再び持ち込まれました.

 トニーの「救援隊」はまだ健在でした.ベルガーラは救援隊のカソを呼び出しスペイン大使館内でカプセルを渡します.カソはホテル・ハバ ナ・リブレを暗殺の場に選びました.ハバナ・リブレはキューバ最高のホテルで海外の賓客が宿泊することも多かったのです.館内には接待に赴いたカストロが しばしば立ち寄るビュッフェがありました.カストロはそこでアイスクリームを食べるのが楽しみだったといいます.

 恰好なことにホテルのバーテンダー,サントス・ペレスは救援隊の秘密隊員でした.カソはペレスにカプセルを渡しアイスクリームにこれを混ぜるよう指示しました.ペレスはこれを冷凍庫に隠します.準備万端整いました.あとはカストロが来るのを待つばかりです.

 結局この計画も失敗に終わりました.別に当局に察知されたわけではありません.ペレスをはじめとするハバナ・リブレ内の反革命分子が摘発されたのは,それから2年半も経った64年末のことです.彼らの自白から恐るべき計画が明らかになったのです.

 現にチャンスはあったのです.外国のゲストにあいさつするためホテルを訪れたカストロは,くだんのごとくビュッフェに立ち寄りアイスク リームを注文しました.注文を受けたペレスは冷凍庫の扉を開け,ふるえる手でカプセルを取り出そうとします.ところがなんと容器は冷凍庫のなかで凍結して しまっていたのです.ごりごりこじってもすぐには剥がれそうにもありません.もちろんいつまでそうやって遅くなれば怪しまれます.この瞬間ペレスは実行を 断念します.

 こういうことは一度失敗するともうダメなのでしょうか.ペレスたちはすっかり怖じ気付いてしまいカプセルをトイレに流してしまいました. それにしてもピッグス湾のときのトニーの「失踪」とか冷凍庫の失敗とか,カストロ暗殺計画にまつわるさまざまなエピソードにはなにかブラック・ユーモアを 感じてしまいます.

むかし森山加代子の歌で、「月のキューバの、夜のことよ、甘い恋の囁き…」というのがありました。

Lobby of Tryp Habana Libre

奥のガラス張りの部屋がメイン・ダイニングなので、多分その中にビュフェコーナーがあるのではないでしょうか。一見綺麗ですが、なにせ築50年ですから相当ガタが来ているはずです。郊外にきれいな新築ホテルができているので、そちらの方をおすすめします。よんどころなくお泊りの方はまずエアコンと水回りをチェックしてください。ただし20階以上の海側はすべてを補って余りある眺めです。


〇〇様
まことに申し訳ございません。
1.コンビニでファックス送れるかと思ったら送れなかった。
2.我が家のファックス試したがやっぱりダメだった。
3.我が家のプリンターでスキャンしようとしたら、パソコンにドライバーがなかった。
4.デジカメで撮ろうと思ったが、デジカメを職場においてあることに気づいた。
5.嫁さんのデジカメは電池切れで、充電が間に合いそうもない。
6.最後にウィンドウズのスキャン&ファックスというソフトで試したらどうやら取り込めた。
というところまで来ました。
メールだとパンクするかもしれないので、私のブログにアップロードします。
これが本の表紙です。
1

これが裏表紙です。
2

これが1ページ目です。
3

これが該当部分です。
4

これが次のページです。
5

とりあえず、これですべてです。
ちょっとだけ付加情報
20年前にハバナで買った本です。
オーストラリアの出版社になっていますが、ダミーです。
この本の後ろには、根拠となったCIAの秘密文書のコピーが貼り付けられています。
著者の名前はどうでもよくて、ヘドス(G2)が自らの力を誇示すべく書かせた文書であることが用意に察せられます。

米・キューバ関係改善を目指すこの間の動き

2014年

12.17 オバマ米大統領、キューバとの国交正常化に乗り出すと発表。

キューバ国民と米国民、そして全半球と世界のために、米国は過去の足かせを緩めることを選ぶ。

米国は長い間キューバの民主化促進を唯一の政策として掲げてきた。アメリカの外交政策で賞味期限が切れたものがあったとすれば、それは対キューバ政策だこれまで失敗してきた時代遅れの手法を終わらせる。
頑なな政策は、私たちのほとんどが生まれる前に起きた出来事に根差すものだ。それは米国人のためにもキューバ人のためにもなっていない。
キューバとの対話を直ちに始めるようケリー国務長官に指示するとともに、キューバの首都ハバナの米大使館を再開する。
ケネディ政権時代から続いてきた渡航禁止、送金規制も緩和する。また原則として禁止してきた、建築資材や携帯電話などの禁輸措置を緩和し、テロ支援国家指定の見直しも検討する。
カナダ政府とローマ法王フランシスコの仲介で、2013年6月から舞台裏の交渉が続けてられていた。
フランシスコ法王は、3月にオバマと会談しキューバを巡って意見交換した。さらに両首脳に書簡を送り、10月にはバチカンで対話の場を提供した。オバマは「ローマ法王の支援で道義的な権威が得られた」と感謝している。

12.17 ラウル・カストロ国家評議会議長もキューバで演説。

オバマ大統領の発表は尊敬と評価に値する。ローマ法王庁の力添え、特にキューバと米国の関係改善に向けたフランシスコ法王の力添えに感謝したい。(全文はここに掲載)

12.17 米国人アラン・グロスが、「人道的」見地から釈放される。20年にわたって拘束されていた米情報要員も釈放される。米国はスパイとして服役していた3人を釈放する。

12.17 共和党の反応。

共和党のベイナー下院議長が「キューバ国民が自由を享受するまでカストロ政権との関係を見直すべきではない」とする声明を発表。
共和党のマルコ・ルビオ上院議員が非難声明を発表。経済制裁の緩和を「理解できない」と批判。あらゆる権限を行使してキューバへの米大使派遣を阻止すると述べる。
ルビオはフロリダ選出で、亡命キューバ人の家系。反共謀略組織CANFの幹部を務める。次期大統領候補の一人と目されている。

12.20 ラウル・カストロ、人民権力全国会議(国会)で演説。「われわれは米国に政治体制の変更を求めてこなかった。米国にもわれわれの政治体制を尊重するように求めていく」と述べる。

12月 国交回復交渉への日本メディアの見解。

歴史に名を残したいオバマ大統領と、キューバのラウル・カストロ国家評議会議長の思惑が一致

原油価格急落で、キューバの友好国であるベネズエラのデフォルトが現実味を帯び、キューバ経済が厳しさをました。

ウクライナ情勢を受けて米ロ関係が悪化したことから、ロシアとキューバの接近が懸念された。

12月 オバマ大統領、テロ支援国家の指定を見直すようケリー長官に指示。大統領権限の範囲で、貿易や渡航の制限緩和をうちだす。

12月 キューバ、米国の指名した政治犯53人の釈放に同意。さらにインターネット利用の解禁や、赤十字国際委員会、国連人権保護担当官の受け入れも表明。

12月 フロリダ・インターナショナル大学が行った世論調査によると、フロリダ州デイド郡に住むキューバ系米国人の間では禁輸支持は、1991年の87%から現在では48%に低下。(フロリダ州はキューバ系米国人約130万人のの本拠)

2015年

1.20 オバマ大統領が上下両院合同会議で一般教書演説。

われわれのやっていること(キューバ孤立策)は50年間機能しなかった。新しい試みに取り組むときだ。

キューバ政策の変更は西半球での不信の遺産を終わらせる可能性を持っている。ローマ法王フランシスコは「外交は小さな一歩の仕事」と述べた。この「小さな一歩」は、キューバの将来に新たな希望を加えた。

我々はキューバ制裁について偽りの口実を除去し、民主的価値のために立ち上がり、キューバの人々に友情の手を拡げる。

そして今、議会は禁輸を終えるための仕事を開始する必要がある。

1.22 ハバナで次官級協議が行われる。移民問題、大使館開設,人権問題が俎上にあげられる。

1.24 2日間の協議を終え、ジェイコブソン国務次官補が記者会見。

米、キューバは、両国の意見の隔たりを埋めるべく取り組んでいる。表現の自由や人権について、今回の協議の一部として話し合った。
オバマ大統領も、テロ支援国家指定と経済封鎖の解除の2つの問題を認識している。

4.04 オバマ、ニューヨーク・タイムズのインタビューで、自らの「関与政策」を説明。強大な軍事力を背景に、軍事力を使用することなく、外交で解決の可能性を探ると語る。

4.11 パナマで第7回米州首脳会議が開かれる。キューバが53年ぶりに参加。両国首脳が非公式に会談。

オバマの演説は以下のとおり

米国はキューバとの関係で新たな章に入った。この政策転換は南北の米大陸全体にとっても重要な転換点となる。
米州首脳会議にキューバを参加できるようにしてくれた米州機構諸国に感謝している。
キューバと違いは残っているが、話し合いは前進している。米国はキューバと新しい関係の構築を目指すとともに、キューバに人権問題の前進を求める。

4.11 オバマ、会議終了後パナマを発つ際の記者会見。

米国はキューバの民主化を諦めていない。民主主義、人権、結社の自由ならびに報道の自由といった問題について話し合うことをやめることはない。社会がどのように構成されるべきかについては、さまざまな考えがあるが、私はラウルと密に話をしている。

米国は完璧である、という主張はしない。
確かに過去の不満について話し合う時間は十分にあり、国内で発生している政治的な問題の言い訳として米国を利用することもできるだろう。
しかし、それでは進展は期待できない。
それによって、字を読めない、十分な食糧を得られない子どもたちの問題を解決できるわけではないし、われわれがより生産的になり、競争力を得られるというわけでもない。

4.14 オバマ米大統領、キューバへのテロ支援国家指定を解除することを承認し、議会に通告する。これにより経済制裁も緩和される。

テロ国家指定解除の仕組み: オバマの指示に基づき、国務省がテロ支援国家の指定が解除できるかの見直し作業をおこなった。

「情報機関が提供した記録などを慎重に検討」した結果、国務長官は、①過去6カ月の間に国際テロを支援していない、②将来もテロを支援しないと予想される、と判断。
大統領に解除を勧告し、オバマ氏がこれを承認した。

この措置は、承認を受け45日後以降に発効する。議会はそれまでに、解除に反対する法案を可決することもできる。
ただ、反対法案が可決されても、大統領は拒否権を行使する。その際、議会は上下両院で3分の2以上の票を集めれば、大統領の判断を覆せる。
世論調査では、米国民の約6割がキューバとの国交正常化に賛成しているため、共和党側もそこまで対決できないのが実情だ。(朝日新聞)

外交政策変更の柱(WSJによる)

1.大使館開設(大使の発令は議会の承認事項のため当面は困難)

2.渡航制限の例外規定の拡大(現在は親族訪問や報道、専門的な研究、貿易業務、医療など12のカテゴリー)

3.米銀発行のクレジットカードおよびデビットカードが使用可能となる。

4.葉巻・ラム酒などの5万円までの持ち込み可。

5.米国からキューバへの送金制限は1四半期当たり500ドルから2000ドルに引き上げられる。送金許可を得る必要はなくなる。

6.インターネット構築のための通信機器の対キューバ輸出が認められる。現在は観光向けホテルを除き一般利用はほぼ不可能。

4月 米州首脳会談に対するラテンアメリカの評価: ブラジルのルセフ大統領は13年の盗聴問題発覚以降中止していた米国訪問を行うと発表。ベネズエラのマドゥロ大統領も言葉を交わす。メキシコのウニベルサル紙は「米州における新時代」との見出しを掲げる。

5.01 岸田外相は3日間にわたりキューバに滞在。ロドリゲス外相や、外国との貿易などを担当するカブリサス閣僚評議会副議長などと会談。

キューバ政策転換の特徴

今回の一連の動きは、ローマ法王などの努力があったとはいえ、基本的には米国側のイニシアチブによるものです。その根底には米国の外交姿勢の転換があります。

だから、「双方の思惑が一致した」などというのはおよそ分析の名に値しません。これらの動きを分析するためには、米国側の姿勢転換の特徴を分析しなくてはなりません。

これまで米国は何回か大きな外交路線の転換を行ってきました。たとえばケネディによる平和共存路線、ニクソンによるベトナム戦争終結と中国との国交回復などがあげられます。

これらの決断に比べれば影響は大きいとはいえませんが、決断の内容はそれらに勝るとも劣らない程のもので、その波及効果は今後注目されるべきです。

第一の特徴 総括を伴う転換

最大の特徴は、これまでの路線に対する「総括」を伴う転換だということです。オバマは12月の声明でこう言っています。

アメリカの外交政策で賞味期限が切れたものがあったとすれば、それは対キューバ政策だ。これまで失敗してきた時代遅れの手法を終わらせる。頑なな政策は、私たちのほとんどが生まれる前に起きた出来事に根差すものだ。それは米国人のためにもキューバ人のためにもなっていない。

過去に対キューバ政策の転換を唱えた政治家はいたが、これだけ明確に過去の政策を弾劾したものはいません。オバマはそこまで立ち入ったことによって、逆に支持を獲得したのだと思われます。

過去のケネディやニクソンの路線転換は「総括」を伴ったものではありませんでした。それはパワーポリティクスやゲオポリティクスの枠組みの中でのみ処理されてきました。だから彼らが打ち出した新路線はケネディ戦略とかニクソン戦略と呼ばれてきました。

今回の路線転換はもっとラジカルに、21世紀型思考への変更をもとめるものとなっています。

これが最大の特徴です。

第二の特徴 外交による解決というオバマ路線の貫徹

レーガンからブッシュ親子へという共和党政府24年の歴史は絶えざる干渉と侵略の歴史でした。それから見ると、オバマは一度も新たな出兵を行っていません。厳密に見ればアフガンの武装を強化したり、リビアやシリアへ出兵の構えを見せたりと、危ういことはたくさんありました。現在でも無人機の攻撃は続けられています。

これはイラクからの米軍撤退を公約に掲げて当選した時からの彼の基本的姿勢が影響していると思います。彼は自らの外交を「関与」の路線と名づけています。強大な軍事力を背景に、軍事力を使用することなく、外交で解決の可能性を探るというものです(ニューヨーク・タイムズとのインタビュー)。

その唯一の例外がキューバだったわけで、武力行使こそないものの、外交関係の断絶と非人道的レベルにまで達した禁輸、キューバ政府転覆活動への公然・非公然の支援は事実上の戦争状態です。これを部分的にせよ改めることで、オバマの「関与」路線は初めて首尾一貫としたものとなるわけです(パレスチナは残るが)。

イランなど中東の関係者は、キューバとの交渉に注目しています。そのプリンシプルは中東にも適用されるべきものだからです。

第三の特徴 大統領権限の一方的行使

そのやり方の特徴は大統領権限を一方的に行使して、世論を味方につけながら政策を遂行していくことです。

現在、議会はティーパーティーに牛耳られ、議会の同意を得ながら進めることはほとんど不可能になっています。それだけ二大政党間の対立、ひいては米国における階級対立が厳しくなっているからです。

議会選挙で共和党が優勢な理由(オバマが不人気な理由)についてはいろいろ挙げられますが、同時に、富裕層を代弁する共和党に対して、世論がオバマ以上に冷たい視線を浴びせていることも見逃せません。

つまり、オバマ政権は議会では少数派でも、世論の後押しを受ければ政策を実現できるという、ちょっと変則的な局面にあるといえます。

こういう少数与党の政権運営は、政党対立が厳しいラテンアメリカではよく見られる現象です。今回のキューバとの関係改善という過程の中で、それが典型的に示されました。

残る1年半の任期で、この手法でどれだけ成果を積み上げられるかが注目されます。その意味でもキューバ交渉は試金石となっています。

いま米国とキューバの関係改善が着々と進んでいます。

これに対して、日本のいわゆる専門家と言われる人々の見方があまりに皮相であることを知って、あらためて驚いています。

まず強調しておきたいのは、今回の事態は世界史的なエポックであるということです。だから世界史的な観点から評価しなければならないのです。

第一は、冷戦体制の最終的終焉だということです。もちろん形を変えた冷戦システムはいまだに健在ですし、大国主義や大小の覇権主義は大手を振っています。しかしそれを資本主義対共産主義というイデオロギーで裁断する手法はすでに過去のものとなっており、アメリカのキューバ制裁がまさにその過去の遺物の象徴でした。オバマが声明で強調したのはまさにそういうことだったし、それが米国民の圧倒的支持を獲得したのも、そのためです。

第二は、民族解放運動の最後の勝利だということです。第二次大戦後に始まった世界の民族解放運動は、ベトナム戦争で最大の高揚を見せました。その後もいくつかの民族解放運動が闘われ、20世紀の末にはほぼ完了していました。その中で、形を変えた民族自決の闘いとなったのが、このキューバ制裁でした。

もはや植民地制度も新植民地制度も、奴隷制度と同じく過去のものとなりました。このことは21世紀の常識です。それが示されたのが国連総会で何度も圧倒的多数で採択されたアメリカ非難決議です。

第三は、これがグローバルな世界の形成という必然的な流れの必然的な結論だということです。米国もキューバもグローバル世界の一員として各国と向き合うことなしに生きていくことはできません。

ローマ法王もカナダ政府もラテンアメリカ諸国も、決してキューバの政策に諸手を上げて賛成しているわけではありませんが、平等なパートナーシップを望む権利があると考えています。

総じて言えば、キューバへの経済制裁政策はあまりに古色蒼然としており、無意味で有害で無益なものとなっており、一日も早く破棄しなければならないということです。それが世界史的に見た常識というものです。

少しキューバの勉強をしなければならないと思って、ネットの文献を探すことにした。

グーグルで「キューバ 国交回復」と入れて検索すると、まっさきにこの論文が出てくる。

2015.01.22 Thu キューバ革命思想の行方――「帝国主義」アメリカとの国交正常化の背景 森口舞

率直に言えば、表面的事実は要領よく抑えられているが、そのような表面的事実だけからは歴史の真実は浮かび上がってこない。

そこには「なぜか」という問いがないからである。中東問題についての様々な解説と同じだ。それは森口さん自身がよく分かっているのではないだろうか。

わたしは、キューバ封鎖という55年にわたる経過は、ひとつの戦争だと見ている。

それはもうひとつのベトナム戦争だ。

そして国交回復が実現すれば、それは間違いなくキューバの勝利だということである。強調しておきたいのは、それは同時にラテンアメリカの勝利でもあるということである。

それは、ベトナム戦争の勝利が世界の民族運動と平和運動の勝利であったのと同じだ。

たしかにいまキューバは満身創痍の有り様だ。国交回復が実現したとしても、それを「勝利」と呼ぶほどの確信は、多くの国民には残っていないかもしれない。

だから我々はそれをマクロに、歴史的に、南北アメリカの力関係の変化の中で見つめていく必要がある。

…と、ここまでが前置き。

キューバ革命を学び、今を知る旅

キューバ革命を学ぶために二つの企画を検討しています

1.ゲバラとサンタクララの闘い

エスカンブライの山を出てからサンタクララ周囲の基地を次々に陥落させ、市街戦を挑み、最後にハバナから来た軍用列車を奪取するまでの戦跡をたどります。

2.ハバナ市街の闘い

大統領宮殿への突撃、ゼネストなど困難な地下活動の跡を訪ねます。コシオ前大使はこの闘いの指導者でした。現在、コシオさんにガイドをお願いしようと交渉中です。

キューバの今を学ぶために二つの企画を検討しています

1.キューバ文化の多様性

キューバ文化が多様性を維持しているのは、困難な時期においても多様性を守る闘いを積み重ねてきたからです。

テレビ・ディレクターのリセッテ・ビラさんにTV局の見学とお話をしてもらえるよう交渉中です。

2.キューバの医療と国際連帯

日本では「国境なき医師団」が有名ですが、キューバの国際支援ははるかに大規模で、相手の立場に立って行われています。

厳しい状況の中でチェルノブイリの子供たちを受け入れたことも知られています。札幌にも来たアレイダ・ゲバラさんに折衝します。

お楽しみ企画

1.ネルソン・ドミンゲスとの出会い

北海道AALAに絵を寄贈してくれた著名画家ネルソン・ドミンゲスさんとお会いしたいと思います。一流の芸術をタップリと楽しみたいと思います。

若手の画家の絵も格安で手に入るかもしれません。

2.サルサを楽しもう

期間中に一度はトロピカーナに行くべきでしょう。夜の12時になると舞台が下がって劇場全体が一大ディスコになります。体力に自信がある人はどうぞ。

いい演物があれば、カール・マルクス劇場にはとびきりのメンバーが出演します。

3.バラデーロ海岸でビキニ見物

細長い半島の両側が白砂のビーチ、革命前はキューバ人立入禁止のプライベートビーチでした。

追加

私のホームページの「キューバ革命史」は是非目を通しておいてください。

http://www10.plala.or.jp/shosuzki/history/cuba/contents.htm

いまや自分で外堀を埋めつつある。
「10月、キューバ」だ。
キューバはどうしようもなくすごい国だ。「優しさを国是に掲げる国」なのだ。
「そんな国ってあるの、それってまやかしでしょう」と言われるだろうが、あるのから仕方がない。
今度の旅は「キューバ、優しさ」をテーマにしたい。
私がキューバに行ったのは1995年、もう20年も前のことになる。今度は最後の旅になるだろう。
前回の旅で、アントニオ・マセオの闘いは大体見た。フィデルの闘いも見えた。
今回、もう一度確認しておくべきことがいくつかある。
しかし優しさを確認すべきポイントをいくつか付け加えなければならないだろう。
キューバは人を優しくする,人を強くする、そして人をアクティブにする。
皆さん、「10月、キューバ」ですよ。20人で締め切りますよ。



December 17, 2014

Learning the Art of Coexistence  The New Opening With the USA

共存の技法を学ぶこと

USAとの新たな始まり

ラウル・カストロ

国交回復への基本的立場

私が国家評議会と内閣の議長に選ばれて以来、私は事あるごとに、アメリカ合衆国との対話を繰り返し希望してきた。アメリカとの間には相互に関係する多種多様な課題があるからだ。

我々の希望するのは、対等の立場での礼儀正しい対話である。それは我らが民族の独立と自決権を損なうものであってはならない。

すなわち、我々の立場の違いを議論して、解決したいということである。しかし我々はそのために自らの原則を決して捨てないということだ。

このスタンスは、公的に、あるいは私的に同志フィデルによって幾度も米国政府へ伝えられてきた。

我々は長年にわたり闘い続けてきたが、その間、このスタンスが崩れることはなかった。

英雄的キューバ人民は深刻な危険、攻撃、逆境と多くの犠牲に直面してきた。その間も独立と社会正義の理想に忠実であった。我々は忠実であり続けてきたし、これからも忠実であり続けるだろう。

我々はこの間の56年の革命の年月を固く団結して過ごしてきた。

我々は、1868年の独立戦争開始以来、我々の原則を守るために亡くなった多くの人々に、変わることのない忠誠を保ち続けてきた。

両国協議の交渉経過

今日、さまざまな困難にもかかわらず、我々は、 我々の経済モデルをアップデートする作業に乗り出した。それは実りある豊かな、そして持続可能な社会主義を打ち立てるための作業だ。

最高レベルでの対話が行われた。そこには昨日オバマ大統領と私が行った電話会談もふくまれる。

その結果、我々は、両国の相互利益に関するいくつかの議論で前進をすることができた。

3人の「囚われ人」の帰還

フィデルが2001年6月に語ったとき、彼は約束した。

「彼らは戻ってくる!」

そして彼らは戻ってきた。ヘラルド、ラモンとアントニオは、今日、我らが故国に到着した。

彼らの家族と、我々すべてが巨大な喜びを感じている。飽くことなくこの目的のために戦った人々、連帯委員会と何百ものグループ、政府、議会、組織、機関、個人が喜びをわかち合っている。

それらすべてが、これまで16年の間、彼らの解放を求めて絶えず努力を続けてきたからだ。我々は、彼らすべてに心からの感謝の言葉を捧げる。

オバマへの敬意、バチカンとカナダへの感謝

オバマ大統領の決定は、尊敬に値するものであり、我ら人民の歓迎すべきものである。

私は、バチカン宮殿の支持に心からの感謝の意を表したい。とくにフランシスコ法王はキューバと米国との関係改善のため多くの努力を払われた。

私はまた、カナダの政府に感謝したい。カナダはキューバと米国がハイレベルで協議するためにさまざまな便宜を図ってくれた。

米国のスパイの送還について

交換に、我々は米国のスパイの解放と送還を決めた。彼らはキューバの生まれだが、米国のために働いていた。

一方で、人道主義の立場から、今日我々は、アメリカの市民アラン・グロスを送還した。

一方的に、それは我々がいつもやってきたやり方だが、そして、我々の法体系の規定に厳密に適合している方法なのだが、問題の囚人たちは、法的な特典を受け取ることとなった。

アメリカ合衆国の政府が彼らの関心を伝えてきた人物の解放を含めてだ。

外交関係の復活に関して

我々はまた、外交関係を復活させることに同意した。これは決して、物事の核心が解決されたことを意味するものではない。

経済・通商・金融面での封鎖は、我が国への莫大な人的・経済的損害を引き起こしている。まずそれを終わらせなければならない。

封鎖は法律によって体系化されているが、アメリカ大統領は執行権を持っている。そしてその実施法を修正することができる。

我々は、アメリカ合衆国の政府に相互ステップの採用を提案する。

それは相互交流の機運を興隆させ、両国の間のさまざまな関係の正常化に向けて前進するためのステップだ。

それは国際法と国連憲章の原理に基づくものでなくてはならない。

もう一度繰り返す。キューバは、多国間システムの中で協調していきたいという気持ちを持っている。それは例えば国際連合である。

交流の発展を、交流の障害除去を

我々の間には深刻な相違がある。特に民族の主権、民主主義、人権と外交政策に関連した問題に関して見解の相違がある。それは認めるが、

私は我々の気持ちを再確認しておきたい。これらの問題のすべてに関して、我々は対話する意志がある、ということである。

私は、交流の障害を取り除くようアメリカ合衆国政府に呼びかける。とくに旅行の制限、直接郵便の制限、電話の制限である。それらは両国の国民、家族、市民の間の関係をじゃましたり制限している、

我々の交流が発展すれば、多くの問題についてその解答を見いだすことが可能だろう。そのことが証明されるだろう。

我々は技法を学ばなければならない

私は繰り返す。

我々は、技法を学ばなければならない。文化的なあり方についての考えの違いがあっても、その違いをふくめて共存する技法を学ばなければならない。

This is the text of Cuban President Raul Castro’s address to the nation this Wednesday broadcast on radio and television on the recent developments in the Cuba-US relations.

 

米・キューバ関係の前進について

1.諸手を上げて歓迎すべき事態である

2.歴史的観点から見てキューバの完全勝利である。キューバは原則を一歩も譲らずに国交を実現させた。

3.「冷戦時代」の最終的終局であるとともに、多国間主義(Multilateralism)時代の重要な一歩である

3.巨大な落差はキューバにとって一定の痛みをもたらすだろう

4.キューバ共産党の真価が試される

というのが第一印象。

まずはニュースを拾ってみることにしよう。

フレイも暗殺されたのだ

このニュースには驚愕した。最初は「まさか」と思い、ついで「そこまでやったのか」という衝撃に襲われた。

ニュースはこうだ。

チリ法廷は、エドゥアルド・フレイ元大統領(任期1964~70)はピノチェー軍政に暗殺された、との最終判断を確認した。

フレイは1982年1月22日、サンティアゴ市内のサンタマリーア病院で毒物を注入され、死亡した。

この事件で医師5人と元軍政秘密警察要員の計6人が起訴された。医師3人が実行、2人が証拠を隠滅した。同要員は共犯だった。

とりあえず他資料をあたってみる。

「フレイはヘルニアのため手術を受けたが、術後の腹膜炎によりショック死した」とされる。

遺族や民主勢力の調査活動の結果、毒殺された疑いが濃いことが分かり、2009年に軍関係者が逮捕された。

逮捕されたのは、軍の医療部の指導者で手術を担当したパトリシオ・シルバ、軍の民間要員であるラウル・リジョ、運転手であったルイス・ベセラは、秘密警察に雇用され、元大統領の情報を提供していた。警察部隊に所属する医師のペドロ・バル ディビアは、共犯者であった。エルマル・ロンセンベルグとセルヒオ・ゴンサレスは、医師であったが、フレイ大統領の検死をおこない、証拠隠滅の罪に問われることになった。(ラテンアメリカの政治経済より)

一旦は証拠不十分で釈放されたが、今年1月に、これらの被告が別に複数の囚人を毒殺していたことが明らかになり、再逮捕された。


チリ人民連帯運動に携わった者にとって、フレイはまごうことなき“敵”であった。

64年、フレイはキリ民党から大統領選に立候補し、保守政党の支援も受けて勝利した。彼はケネディを信奉するほどの「進歩派」ではあったが、彼が当選したのはそのためではない。

その前で人民連合のアジェンデ候補が善戦し、このままでは選挙は勝てないと見た保守派が、候補をおろしてフレイに票を集めたのだ。

つまりフレイ政権は顔はリベラル、首から下は保守派の政権だったのである。

しかし70年の選挙では保守派は独自候補を立てた。その結果三つ巴の戦いとなった。いわば漁夫の利を占めたアジェンデが4割にも満たない得票で大統領に当選してしまったのである。

フレイの率いるキリ民党はアジェンデ政権に是々非々で臨むことになった。そのうちに徐々に反アジェンデの旗幟を明白にし、クーデターを支持するにまで至っていくのであるが、それを推し進めたのがフレイであった。

ところがクーデターが行われ、人民連合派が徹底的に弾圧されると、今度はキリ民党が標的となった。キリ民党も政治の場から排除され、弾圧の対象となっていく。

最後には保守派の代表すら失脚され、ピノチェト独裁が完成していくことになる。

ここまでは私にも分かっていた。しかしまさか暗殺までしていたとは…

詳しくはチリ歴史年表 その3をご参照ください。


PRD、存続の危機に

ゲレーロの学生拉致・失踪事件の経過を見る中で、かなりはっきりしていたのだが、直接の表現がなかったので、とりあえず控えていた。

11月末になって創設者クアウテモク・カルデナスが離党したことで、やっと確認された。

事実はこうだ。イグアラの市長はPRDの党員だった。ゲレロ州の知事もPRDだった。

PRDは88年にPRIを飛び出したカルデナスが作った政党が母体となっている。この党はPRIの反主流派が主体となった。彼らは必ずしも左翼とは呼べず、PRI的な風習を色濃く残していた。

その後、この党と統一左翼が合併してPRDが作られた。以来、対外的には左翼政党として活動してきたが、党内右派の地域ボス的な傾向が改められることはなかった。

いろいろな矛盾を抱えたまま、前回と前々回の選挙では元メキシコ市長のアムロを押し立てて、それなりに健闘し、地方のいくつかの知事ポストを獲得した。その一つがゲレロ州である。

現在、党の執行部を握っているのはこういう右派党員であり、それが今回の事件を通じて暴露されたことになる。

カルデナスは、メキシコ革命の英雄ラサロ・カルデナスの息子で、現在も高い人気を誇り、PRDの「顔」だった。今回の事件で執行部の引責辞任をもとめたが、容れられなかった。

すでにアムロは離党している(その理由は色々ある)。今度カルデナスが離党することでPRDは決定的な分裂を迎えることになるだろう。

ボリビアでエボ・モラレスが圧勝

まさに圧勝というほかない。10月の総選挙で、エボ・モラレスは61%という驚異的な得票率で大統領に三選された。

与党のMAS(社会主義運動党)は上下両院でいずれも2/3以上の議席を獲得した。法律は全てフリーパスとなる。

この驚くべき支持率は、経済の好調さとともに、貧困層への対策の成功にある。数年前までサンタ・クルス州を中心とする平原部では、ボリビアからの分離をふくむかなり強力な反モラレスの動きがあったが、すっかり影を潜めた。

少し分析してみる必要がありそうだ。

ブラジルのジルマ・ルセウは辛勝

ブラジルの選挙はメディアの影響が大きく、浮動票の行方が大きく左右する。去年のワールドカップ反対運動で、それまで盤石と言われたジルマの基盤は大きく揺らいだ。

だいたい大規模な公共事業が増えれば、その筋の人々には相当の恩恵がもたらされる。労働党とてもその例外ではない。一方で物価は騰貴するから、多くの貧困者にはしわ寄せが行くことになる。

ところがワールドカップでブラジルが連勝していくと、ジルマ人気も挙がる。してやったりとほくそ笑んでいると、「世紀の惨敗」があってジルマ人気もふたたび地に落ちる。

とは言うものの、まさか選挙に負けるとは思っていなかったが、ペトロブラスを舞台にした大規模な疑獄事件が明らかになると、野党との差はみるみる縮まり、一時は世論調査で逆転された。

大企業はここぞとばかりメディアを動員して、おそましいほどのジルマ攻撃を展開した。それでも最終盤になって跳ね返した労働党の地力も大したものだと思う。

決選投票(10月)ではジルマが51.5%、対立候補が48.5%という際どいものだった。

ところで、ブラジルの対立の構図だが、必ずしも保守対革新とは言いがたい。ルーラ以降の労働党の基本路線は「新自由主義」そのものである。労働党の掲げる経済政策は「改良型新自由主義」であり、新自由主義を基本に据えながら、それによって生じる社会の歪みを各種社会政策によって取り繕っていこうとするものだ。

これに対する野党の主張は、社会政策などという面倒なものは止めてしまい、本来の弱肉強食の世界に戻せということになる。

危機感を募らせた知識人、大学教授、芸術家、社会運動家ら2000人が共同声明を発表した。

ルセフ政権継続を阻もうとする一種のクーデターが進行しつつある。大企業、銀行家、マスメディア、右翼、在外勢力(米国など)が結託してルセフ再選を阻止しようとしている。

彼らは<腐敗>、<経済停滞>、<超インフレ>などを誇張し、労働党政権に不利な世論づくりの運動を展開している。

今回の決選は、ルセフの「ポスト新自由主義」(社会政策を大幅に加えた改良型新自由主義)と、ネヴェスの「野蛮な新自由主義」との戦いだ。

ルセフ打倒運動の中心にいるマリーナ・シルヴァや、元大統領フェルナンド=エンリケ・カルドーゾらは、1982年に結成された新自由主義者の組織「米州対話」の会員だ。

90年代のカルドーゾPSDB政権期のように、ブラジルを金融資本と米国の意思に支配させてはならない。米国の介入からブラジルとラ米を守るにはルセフ政権を継続させねばならない。(伊高浩昭氏の紹介)

そして、勝利した。ブラジルの民衆は辛くも、地獄の口の一歩手前で立ち止まったことになるのだろう。


エボラもやはりキューバ医師団

このあいだ、エボラ関連ニュースでキューバ人医師がスイスに送られ隔離収容されたと報じられていた。「おっ、相変わらず頑張っていますね」と感じた。

「国境なき医師団」は宣伝がうまいから、自分たちが医療の代表みたいな顔しているが、現地で一番頑張っているのはキューバ医師団と相場が決まってい る。キューバがシエラレオネ、リベリア、ギニアの西アフリカ3国に送った医師数は256人に達している。「国境なき医師団」をはるかに凌駕している。

さらにキューバでは、2万3000人の医師、看護師、医療技術者がエボラ対策の訓練を受けて待機している。

キューバの医師数は50万人。そのうち5万人の医師、看護師、医療技術者らを世界66カ国に送り込んでいる。これについては世界中どこでも高く評価 されている。例えばブラジルでは1万1800人が働いている。4800万人が診療を受け、その88%は満足している。ブラジルはこれに対し、年間85億ド ルを支払っている(貿易額は20億ドル)

キューバの貢献については、ニューヨーク・タイムズも賞賛を惜しまない。

「キューバはエボラとの戦いで最も際立っており、その姿勢は称賛され真似されるべきだ」と書いた。そして

ケリー国務長官が名こそ挙げないが、その勇気を讃えたことにも触れた。

それで一番頭に来ているのがアメリカの闇の権力だ。そこでアメリカは派遣された医師の亡命を手助けしている。この政策は06年にブッシュ前政権が始めた。この1年間に1278人のクーバ人医師が米国に亡命した。

ニューヨークタイムズはこのような「引き抜き」策を人道にもとるものとして厳しく非難している。現実に亡命した医師がアメリカ国内で医師として活動することは不可能である。「引き抜き」は文字通り引き抜いて捨てるだけの政策である。
ハイチでの医療貢献については下記参照のこと
ハイチで活動するキューバ医師団との連帯を  
メディアが報道しないハイチのキューバ医療団

原油安で厳しさ増したベネズエラ外交

原油価格が低下してきた。

直接的には投機資本が、世界経済を変調に貶めたことで、自分の首を絞めたのであるが、石油産出国はその煽りを食らって、深刻な危機に直面する破目になった。とくにラテンアメリカの左翼政権をけん引するベネズエラとそれに追随するALBA・ペトロカリベ(カリブ石油連帯機構)加盟国にとっては、その存在意義が問われかねない事態に至っている。

こうした状況の中、ペトロカリベの石油相会議が開かれた(11月 カラカス)。

ベネズエラは「従来通り機構との公約を守る」と言明したが、ベネズエラの国内事情を見れば、その言葉を信用して良いものか。

現在、ペトロカリベには中米・カリブ地域の18カ国が加盟している。ペトロカリベのもと、14の合弁製油所が建設され、432の事業が展開されてきた。これらの施設・事業がどうなるかはベネズエラ次第となっている。

ピノチェト軍事独裁への糾弾は終わっていない

二度目の大統領となったミチェル・バチェレ大統領は、ピノチェト政権に捕らえられ拷問を受けた人である。二度と軍事独裁を許してはならないという決意は人一倍堅い。そのために弾圧の思い出は決して忘れてはならないと思っている。なぜなら弾圧の張本人は相変わらずのさばっているし、機会あらばふたたび世に出ようと狙っているからである。

長い間の躊躇を経て司法界もようやくその意義を認めるようになってきた。その象徴がこの判決であろう。

11月、チリ最高裁がバチェレの父アルベルト・バチェレー空将の殺害犯に有罪の判決を下した。実に41年ぶりの判決である。父バチェレは空軍内において立憲主義者を代表していた。73年9月11日の軍事クーデターで彼はクーデターに同調しなかった。彼はクーデター派に捕らえられ、拷問され、それがもとで半年後に亡くなった。

今回の裁判で裁かれたのは拷問の当事者である空軍退役大佐二人で、それぞれ禁錮3年と2年の実刑が言い渡された。刑が軽いのは彼らが実行者に過ぎず、命令したのはピノチェト本人だったからである。命令を受けて実行しただけなのに実刑が下ったのは、彼らがそれを反省していないからである。

ハイチで相変わらずの暴力衝突

11月18日、ポルトープランスのスラムでマルテリ大統領辞任を求めるデモ行進が行われ、大統領支持派と衝突、1人が死亡、3人が負傷したそうだ。反政府派は「民主愛国運動」および「憲法順守愛国団」を名乗り、選挙の早期実施と政治囚解放を要求した。警官隊が出動し、催涙弾でデモ隊を解散させた。目撃者は、野党議員がライフル銃で大統領支持派側を撃っていた、と語っている。

この10年、まともにハイチ情勢を勉強していない。勉強しないと困るのはそもそも白黒が分からなくなることだ。03年のアリスティド排斥の時、多くのメディアは白黒を完全に間違えていた。ただ民衆もしばしば暴力的になるし、しばしば容易に腐敗するので、うかつに信用出来ないところがある。とにかくAPであろうとロイターであろうと鵜呑みにしないことだ。迷ったらまずルモンドへ。

エボラもやはりキューバ医師団

このあいだ、エボラ関連ニュースでキューバ人医師がスイスに送られ隔離収容されたと報じられていた。「おっ、相変わらず頑張っていますね」と感じた。

「国境なき医師団」は宣伝がうまいから、自分たちが医療の代表みたいな顔しているが、現地で一番頑張っているのはキューバ医師団と相場が決まっている。キューバがシエラレオネ、リベリア、ギニアの西アフリカ3国に送った医師数は256人に達している。「国境なき医師団」をはるかに凌駕している。

さらにキューバでは、2万3000人の医師、看護師、医療技術者がエボラ対策の訓練を受けて待機している。

キューバの医師数は50万人。そのうち5万人の医師、看護師、医療技術者らを世界66カ国に送り込んでいる。これについては世界中どこでも高く評価されている。例えばブラジルでは1万1800人が働いている。4800万人が診療を受け、その88%は満足している。ブラジルはこれに対し、年間85億ドルを支払っている(貿易額は20億ドル)

キューバの貢献については、ニューヨーク・タイムズも賞賛を惜しまない。

「キューバはエボラとの戦いで最も際立っており、その姿勢は称賛され真似されるべきだ」と書いた。そして

ケリー国務長官が名こそ挙げないが、その勇気を讃えたことにも触れた。

それで一番頭に来ているのがアメリカの闇の権力だ。そこでアメリカは派遣された医師の亡命を手助けしている。この政策は06年にブッシュ前政権が始めた。この1年間に1278人のクーバ人医師が米国に亡命した。

ニューヨークタイムズはこのような「引き抜き」策を人道にもとるものとして厳しく非難している。現実に亡命した医師がアメリカ国内で医師として活動することは不可能である。「引き抜き」は文字通り引き抜いて捨てるだけの政策である。

いやいや、大変な思いをしました。
ちょっと摘んでおこうと思ったら、腕ごとズブズブと引き込まれました。
本当は文章化しようと思ったのだけど、あとからあとから事実が出てきて、とりあえずは文章にまとめるのは不可能です。
とりあえず、評論を一つ見つけて、訳して載せて、お茶を濁すことにしました。

感想ですが、一言で言うと、麻薬戦争の時代は終わったのだなということです。
登場人物はずいぶん小ぶりです。
かつてのセタスやベルトラン・レイバ、シウダ・ファレスのカルテルは派手に殺し合いをやりましたが、基本的にはその世界の戦争です。
それがもう麻薬では稼げなくなってきたので、ヤクザぐらしに戻ったわけです。恐喝や誘拐で生活するというのは、堅気の世界に害をなすわけですから、英雄ではなく犯罪者です。

麻薬カルテルがこれほどまでに一世を風靡したのは、二つ理由があります。ひとつは麻薬・ビジネスがボロ儲けできたことです。
もう一つは社会の貧富の差がひどくなって、食っていけない若者が沢山いたからです。そちらの方は全然解決していません。
だから、暴力はもう少し違った表れ方をすることになるでしょう。もっと陰惨で、貧乏人同士が殺し合うような暴力です。
それにしても、この市長夫人、迫力ありますね。映画にしたいくらいの人物です。


Abarca arrest highlights reform risks in Mexico

The Oxford Analytica Daily Brief ® - Wednesday, November 5 2014

昨日、アバルカ市長夫妻が逮捕された。9月26日の学生失踪事件に関連してものである。経済成長予想は11月初めで2.7%を維持しているが、メキシコ銀行は「最近の社会的イベント」が経済にもネガティブな影響をあたえうると認めた。

政府はこの事件により、国内的にも国際的にも信用を失いかねない。暴力問題を軽視したことで、メキシコへの国際的関心は薄れる可能性がある。

Analysis

今回の事件は慢性的には貧困と不平等、短期的には社会・政治と暴力犯罪の問題を浮かび上がらせた。ゲレロ州はオアハカ州に次ぐ貧困、17%に達する高い文盲率、もっとも戦闘的な教員組合を持っている。

Epidemic of violence 

もともとゲレロ州で暴力は当たり前の話だが、この5年間、さらにそれが助長されている。

公務員を狙った政治的暗殺が後を絶たない。去年10月には、チルパンシンゴの連邦警察が襲われ、二人の警官が殺された。福祉や医療従事者も標的とされるようになった。

昔から麻薬業者と州警察とは抗争を繰り返してきたが、最近になって暴力犯罪のチェックは見逃されるようになった。それには二つの要因がある。

麻薬カルテルの戦術が小規模になったこと。これは取り締まりが厳しくなったためだ。そしてもう一つがミチョアカンへの集中取り締まり作戦により、構成員がゲレロに逃げ込んだためだ。

公式統計によれば、ゲレロ州は人口あたりの殺人事件がもっとも多い。63件 per 100,000人だ。 誘拐事件では6位、強盗は10位、つまり取締りによって食えなくなったカルテルが、麻薬取引から誘拐と強盗にシフトしているということだ。

ゲレロ州では教師、人権活動家、環境活動家の暗殺が多いのが特徴だ。これは70年代にこの州で起きたゲリラ闘争を弾圧したことが伝統になっている。

暗殺者が罰せられないのもこの州の特徴だ。2011年にはアヨツィナパの学生二人が殺された。これを機に学生や教師は行動を急進化した。

この2年で少なくとも3人の環境活動家が殺されている。去年は3人の社会運動家とすくなくとも3人の人権活動家が失踪している。これらのケースのいずれもが捜査もされず、解決もされていない。

資料によれば、全国で1,243の秘密の墓地が発見され、多数の遺体が回収されている。

Criminal organisations

ゲレロでは少なくとも4つの地元犯罪組織が地方警察と争っている。すなわちGU、ロス・ロホス、ラ・バレドーラ、アカプルコ独立カルテルである。

これらの組織はあるいは競争の結果として生まれ、あるいは大手カルテルの崩壊により生まれた。時にはミチョアカンのような他州の組織によってもたらされた。

彼らは警察部内に浸透し、あるいは選挙を通じて自治体のコントロールを獲得するようになった。

アバルカがGUの支援を得て市長に選ばれたのは、まさにそのような仕掛けによるものだった。

Political-criminal protection

今の主な懸念は、そうした政治と絡みついた暴力がどこまで成長するかということだ。

ミチョアカン州で示されたのは警察への侵入だけでなく、州政府への侵食を含めたものであった。

ある大学の調査では、300以上の自治体当局への脅迫、暗殺が行われている。メキシコ市長会は来年の中間選挙で暴力的な自治体ポストの簒奪が行われるだろうと警告している。

2012年5月、前回の市長選挙でアバルカと争ったPRDの候補Oscar Diaz Belloは、PRDの有力政治家オブラドールが犯罪組織と関わりを持っていると警告している。

2013年10月 PRDのなかの「民主左翼」は連邦政府に証言した。彼らはアバルカの手で活動家が複数暗殺されていると主張した。

2014年3月、ゲレロ州の裁判弁護オフィスは、連邦検察局に、市長の政治的殺害への関与と責任に関する詳細な事前調査を手渡した。

Resisting responsibility

現在の危機にいたるまでの間、国家と連邦当局は、犯罪についての司法権を認め責任をとることに抵抗してきた。

10月7日までに、連邦政府は責任をもって解決に当たり始めた。しかし州知事を解任し、無所属のRogelio Ortegaを知事代行に任命するまでにはさらに10日を要した。

2015年の選挙についての計算が、PRD指導部を躊躇させている。それが連邦政府の煮え切らない応答を説明している。しかし双方とも間違っているだろう。

そのような対応は高い代償をもたらすだろう。

Pena Nieto政府は危機が国家機関とメキシコの社会に対する大きな試練であることを公然と認めた。

両親との大統領の5時間の会談、その結果としての10項目合意危機を解決するのには十分である。しかし国家の信頼を取り戻すために十分とはいえない。

イグアラ 学生拉致・虐殺事件 タイムテーブル

9月26日に向かう流れ

9月26日以前 メキシコ・シティーでトラテロルコの学生虐殺に対する抗議集会が予定される。(トラテロルコの虐殺については稿を改めて説明。とりあえずメキシコ年表を参照のこと)

「メキシコ年表」より
1968年
10.02 トラテロルコ・アパート団地の「三文化広場」で,学生・住民1万人が参加する大規模な抗議集会.主催者は,混乱を避けるため,当初予定 していたカスコ・サント・トマス高校へのデモを中止.日没と同時に,300台の戦車,ジープ,装甲車,5千の軍と数百の警察部隊が集会参加者を包囲.

6:10pm 緑の照明弾を打ち上げると同時に,群集に紛れ込んだ挑発者が暴動を開始.上空を舞うヘリが銃撃を開始.
オリンピア大隊が,演説席となっていたチワワ・アパートのバルコニーに突入し,CNHの代表を拘束.一列に並べ銃殺したという.
さらにバルコニーの上から群衆に向け一斉射撃,群集に紛れ込んだ私服警察官も無差別発砲を開始.
この後,戦車がチワワ・ビルディングを砲撃.ボイラーや暖房用パイプが次々に爆発,建物の三階までが火の海となる.
軍部隊が両側から銃剣を突きつけ挟撃.機銃掃射を繰り返す.集中的な銃撃は約1時間続き,その後も早朝まで散発的な銃撃が繰り返される.
警察は現場を封鎖し,救急車の立ち入りを阻止.赤十字病院を閉鎖し,たどり着いた負傷者をそのまま逮捕.救急車の乗務員一人が殺され,負傷者を救出しようとした看護婦が負傷.
広場に面する教会には数百の市民が助けをもとめて押し寄せるが,大司教がデモ参加者の受け容れを禁止したため,門は閉じられたままとなった.
この事件で,推定4百名の死者,数千名の負傷者を出す.警察はこのうち32名についてのみ死亡を認める.検死によれば,大部分の死者は近距離で撃たれるか,銃剣で突かれて死亡.無差別発砲により,軍・警察内にも12人の負傷者と二人の死者.


9月26日以前 アヨツィナバ師範学校の学生がメキシコ・シティーでの抗議デモへの参加を計画。

アヨツィナパ(Ayotzinapa)師範学校: 1926年の創立。正式にはRaul Isidro Burgos の名が冠せられている。所在地はチルパンシンゴの東20キロのティシュトラ(Tixtla)。人口3万ほどの小さな町だが、独立戦争の英雄ビセンテ・ゲレーロを生んだ町で、ゲレーロ州都だったこともある。
師範学校は男子校で学生数520人。農村部の小学校の教師を養成する“限定付き免許”の取得を目的とする。学生のほとんどは貧しい農家の出身だ。
学生(そして教師も)は伝統的にきわめて反政府的であり、政府の資金提供が地方に不利であり、雇用システムが都会部に偏重していると考えていた。
ゲレロ州では1995年以来武装ゲリラ「人民革命軍」(EPR)が活動していた。その戦士の多くが師範学校の学生あるいは卒業生だった。学生はゲリラと直接の関係はないが、社会主義のイデオロギーを共にしている。

9月26日以前 学生の動きを知ったイグアラ市のホセ・ルイス・アバルカ 市長は、警察に対し市長は学生たちを市内に入れるなと命じた。

師範学校の学生は、市長が活動家アルトゥーロ・エルナンデス殺害に関与したと非難していた。昨年の6月には市庁舎を占拠する抗議活動をおこなっている。
市長は妻が代表を務める児童保護団体主催の年次総会(当日に予定)が邪魔されないよう、市警に「対処」を指示していた。


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 アバルカ市長夫婦 嫁さんがカマキリとわかる

学生たちはなぜイグアラに行ったのか

9月26日 (おそらくは午前中)学生たちがアヨツィナバのキャンパスを出発する。今回の行動の参加者は100名以上。いずれも1年生だった。一学年の定員が130名ほどだから、ほぼ根こそぎ参加であり、一種の武者修業であろう。

9月26日 当初は、州都チルパンシンゴで抗議集会を開くつもりだったが、州当局が立ち入りを拒んだ。このため、イグアラ市で市長への抗議行動を行ったあと、メキシコ・シティーに乗り込む予定を立てた。(バスをイグアラで「調達」することまで計画に入っていたかどうかは不明)

igualamap

ゲレロ州はメキシコ・シティーの南方、太平洋に連なる州である。州人口は300万人余り。山ばかりの地勢で、貧しい州である。太平洋岸には有名な観光地ア カプルコがある。州都はチルパンシンゴ(正式名称はChilpancingo de los Bravo)。北部のイグアラ市(正式名称はIguala de la Independencia)はメキシコ・シティーから150キロ、アヨツィナパはイグアラからさらに南に130キロ。
ゲレーロ(戦士)という物騒な名前であるが、これはメキシコ独立戦争の英雄の名にちなんで名付けられたものである。
一時最強のカルテルと呼ばれたベルトラン・レイバの本拠地であり、2013年は全国最多となる2,087人が殺害されている。

9月26日 (おそらくは夕方)学生がイグアラの街に入る。

ここから先は推測だが、おそらく学生は乗合バスを利用してバス・ターミナルに入ったのだろうと思う。市長に対する抗議行動を行おうとして、そこから市内に向かおうとしたが、市警に阻止されたということではないか。

9月26日 夕方から市長夫人(Maria de los Angeles Pineda Villa)の主催する慈善団体の集会とパーティーが行われ、無事終了する。市長の妻は次の選挙で夫の後任になるため、出馬の準備を進めていた。学生らは集会の妨害を企図していたが不発に終わる。


第一回目の銃乱射

9月26日 午後8時半、学生らがバス3台を「調達」する。このバスを市警の警官が待ちぶせ。

これも推測だが、バス3台を確保しようとすればバスターミナルに忍びこむしかない。通報を受けた市警が出動したということではないか。あるいは最初から張り込んでいた可能性もある。
学生指導者は、彼らがヒッチハイクしようとしていたと説明している。しかし夜中の9時半に血の気の多い若者100人がヒッチハイクしょうというのは、どう考えても無理がある。
乗り物の「調達」はゲレーロの学生にとって“ルーチン”の戦術である。彼らはしばしばバスやトラックを乗っ取るなどの「好戦的な」戦術をとる。この戦術は当局も大目に見ていた。

9月26日 9時半。バスが出発。警察車両が追跡。バスはスピードを上げ逃げようとした。警官の発砲により最後尾のバスに乗った学生2人が死亡。数十人がこの時捕らえられ、警察車両に載せられた。のこり学生はバスを捨て市街に逃げこむ。


第2回めの銃乱射

9月27日 12時半ころ、目出 し帽をかぶった複数の人物が出現。バスをめがけて乱射する。このとき現場では、警官隊とニュース記者が集まっていた。

当初、警察は「目出し帽の人物は警察と無関係と発表しているが、のちに私服の警官であることが判明。学生の大量逮捕が1回めの時か2回めかは不明。

9月27日深夜 事件の巻き添えとなり、サッカーチームのバスにも射撃。運転手と選手(15歳)の2人人が死亡した。他にタクシー数台も銃撃され、女性1人が死亡する。負傷者は25人にのぼる。

このチームは3部リーグ所属の「チルパンシンゴ・オルネツ」で、翌日の試合を控え、深夜にイグアラに到着。駐車場所を探していて事件に巻き込まれた。


学生は隣町の警察からカルテルの手に渡され殺された

9月27日 深夜。学生43人は警察車両に載せられ、いったん隣町のコクラ警察署に勾留された。これはイグアラ市警の公安部幹部のフランシスコ・サルガド・バジャダレスの指示によるとされる。

9月27日 コクラ警察署の副署長Cesar Nava Gonzalezは犯罪組織「ゲレーロス・ウニドス」に「後始末」を依頼する。この時点では学生たちはまだ生きていた。

戦士同盟(Guerreros Unidos): かつて最強を謳われた「ベルトラン・レイバ」カルテルの後継組織。本拠は隣のモレロス州にあり、ゲレロ州だからゲレロスというわけではないらしい。伝説のボス、ベルトラン・レイバについては「メキシコ麻薬戦争 列伝」を参照のこと。
ベルトラン・レイバが特殊部隊により射殺されてから分裂を繰り返したが、現在は戦士同盟と少数派の「ロス・ロホス」(赤)に整理されているようだ。シカゴのマリフアナ・ヘロイン市場を牛耳るほどの影響力をもつという話もあるが、恐喝と誘拐を主な資金源とするヤクザ組織にすぎないという話もある。
以下GUと略す。

9月27日 深夜。学生たちがカルテルの幹部「エル・カボ・ヒル」と称する人物に引き渡される。エル・ヒルはカルテルのボスであるカサルビアス(Sidronio Casarrubias Salgado 通称チーノ)に電話し判断をもとめた。

エル・ヒルはカサルビアスに「彼が捕まえている連中は、カルテルの統制に対する脅威を起こす」と訴えた。カサルビアスは学生がロス・ロホス(敵対ギャング)の浸透メンバーであると考え、殺害を許可した。

9月27日 深夜。学生らはエル・ヒル所有のトラックに載せられ連れ出される。彼らは数人が頭に銃弾を打ち込まれ、他のものは殴り殺されたり焼き殺された。

Ayotzipana students missing

9月27日 朝、現場付近で学生1人の遺体が発見される。目はえぐりだされ、顔の皮膚は剥がされ、カンナ屑のように丸まって、頭蓋骨がむき出しになっていた。これは敵対ギャングに対するカルテルの典型的な手口である。


州検察による捜査開始

9月27日 学生43人が失踪したことが明らかとなる。州検察当局は、当初より深刻な危機意識を持ち、ただちに独自捜査を開始する。(むしろ連邦検察が動かなかったことが不思議)

当初は57人の学生が行方不明であると報じられた。しかし、そのうちの14人は家族のもとに戻り、あるいは大学に撤退したことがわかった。

9月27日 州当局の聞き取り調査で市警察が護送車で連れ去ったことが明らかになる。また交通監視カメラには、市警の車両後部に市民が乗せられている映像が残っていた。

9月28日 州当局は、162人の警官から事情を聴取する。16人から硝煙反応が検出され、22人の銃から最近使用された形跡が認められた。この結果警官22人を拘束。

一説では280人。なお、その後の報道では警察官40人を逮捕、他にカルテル組員8名が逮捕されている。22人はアカプルコの刑務所に収監され、殺人容疑がかたまったあとは重警備の連邦刑務所に移送されている。

9月29日 州検察のブランコ検事正(Inaky Blanco Cabrera)、「過度で致命的な武力行使があったことは否定できない」と述べ、さらに「強制失踪」と呼ばれている治安部隊による拉致が起きたのかどうか、捜査中だと語った。


アバルカ市長夫妻、姿をくらます

9月29日 アバルカ市長、報道陣に対し「辞任の意志はない」と答える。

事件に対して責任はない。私は事前の知識を持たなかった、事件と同時刻にはパーティーに出席していた。私はずっと警察と連絡をとっていた。そして冒険に陥るなと指示を出した。捜査の要請があれば協力するが辞任の意志はない。

9月29日 アバルカ、PRDの前党首Jesus Zambrano Grijalvaと会見。サンブラーノは調査をすすめるために正式に辞任するよう勧める。

9月29日 妻マリア・デ・ロス・アンヘレス・ピニェーダ、アカプルコでアギレ州知事(Angel Aguirre Rivero)と個人的に面会しているところを目撃される。目撃者は、Pinedaが「悩んでい」て「急いだ」と証言。その後彼女は公の場所から姿を消した。

アバルカ夫妻はかねてからGUの重鎮として“皇帝夫婦”と呼ばれ、恐れられていた。夫妻は市内のショッピングセンターや宝石店、牧場など65の優良資産を所有していた。
妻マリア・デ・ロス・アンヘレスは次期市長選にアバルカ後継として立候補の予定であった。
検察庁によれば、アバルカ市長は麻薬組織に20万ドルを定期的に支払い、その一部が地元警察に賄賂として流れていたとされる。
逆の説もあり、これによると、組織は夫妻に毎月最大で23万ドルを払い、警察には別に月5万ドルを渡していたといわれる。

9月30日 アバルカ、イグアラ市議会に30日の休暇を求める。要請に際し「犯人を探し罰するためにあらゆる協力を惜しまない」と述べる。

9月30日 与党PRD幹部は、アバルカに対し“調査を容易にするため”に辞任するよう求める。

9月30日 連邦捜査官がアバルカの喚問状を持って市議会に入るが、アバルカはすでに逃亡。連邦捜査官は家宅捜査に入る。警察署長兼イグアラ市公安部長のフェリペ・フローレス(Felipe Flores Velasquez)も姿をくらました。

アバルカは妻と子供たちを連れてイグアラを去った。国外逃亡の噂も出たが、当局は、依然メキシコ国内に潜伏していると見ていた。

10月01日 アギーレ州知事、アバルカに当局に出頭するよう命令。しかし彼はどこにも見つからなかった。


大量の遺体の発見で一躍大問題に

10月02日 学生の失踪にカルテルが関係した可能性が浮上する。事情聴取を受けた二人のカルテル組員が17人の学生殺害に加わったと告白。

10月05日 イグアラ郊外プエブロ・ビエホで、地中に埋められた多数の遺体が見つかる。当初は28体と言われたが後に34体となった。遺体はガソリンをかけて焼かれた後に埋められたと見られ、焼け焦げたり、一部が切断されたりしていた。

殺害を告白した2人の組員は、学生らをバスから降ろし、プエブロ・ビエホの丘の上にある組織の秘密墓地で殺害したと供述。捜査官たちを森林の中の「墓」に案内したと述べる。現在考えると、これは組織の陽動作戦だった可能性がある。

10月05日 ゲレロ州のアンヘル・アギレ知事とブランコ検事正が共同で記者会見。1.遺体の身元は捜査中。2.GUが殺害と行方不明の両方に関与している。3.事件に関与したとみられる警察関係者や犯罪組織のメンバーら少なくとも30人を拘束、と発表。

10月05日 ブランコ州検事正は、警官隊がGUのボス、エル・チャッキーに学生らの拉致と殺害を指示したと説明。

10.05 学生らがアカプルコ高速道路の料金所を占拠。通行車両に道路料金所を無料で通過させている。


連邦政府の直接捜査

10.06 ペニャ・ニエト大統領、国家の危機とする演説。「メキシコ社会と犠牲者の家族は、真実の究明と正義の実行を求める権利がある」と述べる。

10.06 このあと連邦政府が直接捜査に乗り出す。軍がイグアラに進駐。憲兵隊400人が市警察を武装解除し治安維持に当たる。

10.06 国家公安委員会、約30人を拘束したと発表。市長夫妻と市警察署長フェリペ・フローレスは事情聴取に応じず行方不明とされる。

10.06 ゲレーロ州内の二つの左翼ゲリラグループ、メキシコ国家への「攻勢」を呼びかける。イグアラ市内には警察官22名の釈放を求めるGUの旗が掲げられる。

10.08 ゲレロ州の州都チルパンシンゴやメキシコ市などで、行方不明に対する抗議デモ。

10.10 国連人権高等弁務官事務所「ゲレロの事件はまったく容認出来ない。無法がまかり通るのを許すことになる。メキシコ政府の対応が問われている」と声明。事件は国際的注目を集めるようになる。

10.12 深夜、チルパンシンゴ市の国道95号線上で、ドイツ人、フランス人及びメキシコ人10人 の学生グループが市警に襲撃され、ドイツ人留学生1人が負傷する。隊員20人が逮捕され、取調べを受ける。師範学校生と誤認されたらしい。

10.13 チルパンシンゴ市内で昨夜の襲撃事件に対する抗議集会。教師や学生等の数百人がアギーレ知事の辞任を要求し州政府庁舎を襲撃。一時数百人の職員を人質に取り立てこもる。その後窓ガラスを割り、建物に放火する。


連邦警察がGUアジトを襲撃

10.14 4日に発見された遺体は別の事件の犠牲者と判明。代わりに4つの別な墓が発見された。メキシコにはこの手の“墓”がゴロゴロある。

10.14 連邦警察の部隊がモレロス州クエルナバカの近郊ヒウテペックのGUアジトを襲撃、銃撃戦となる。ボスのベンハミン・モンドラゴン・ペレダ(通称ベン・ハモン)は自殺。甥のサムエル、アントニオらカルテル幹部8人が逮捕される。

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             ベンハミン・モンドラゴン

9月27日の記事では、このカルテルのボスがカサルビアスだと書いているが、モンドラゴンは組織全体のボスで、カサルビアスはイグアラ地区を担当する幹部という関係のようだ。10月4日の記載ではエル・チャッキーの名が出てくる。その正体は不明だが、市警の署長の指示を受けて動く程度の小ボスと思われる。

10.14 メキシコ連邦検察庁のヘスース・ムリジョ検事総長、学生らの身柄を拘束して麻薬密売組織に引き渡した疑いで、コクラ市警察の14人を新たに逮捕したと発表。

ムリージョは「イグアラ市警は警察とも呼べないほどだ。彼らは制服に泥を塗った。麻薬カルテルで働く殺人者たちだ」と強調する


10.14 アバルカ市長、以前の活動家への拷問殺人への直接の関与で告訴される。当局はアバルカ夫妻と警察署長の3人を全国に指名手配。

この時、マリア夫人が「ファミリー」の一員であったことが明らかにされた。彼女の両親、兄弟はベルトラン・レイバの幹部であり、組織犯罪による逮捕歴がある。兄弟の2人は殺されている。

10.16 全国の大学で2日間の抗議・連帯ストを実施。


カサルビアス逮捕で思わぬ展開

10.17 連邦検察庁、死体隠匿を幇助したシドロニオ・カサルビアスらGU幹部2人を拘束。これまでの逮捕者は計56人となる。

Sidronio Casarrubias Salgado

10.17 彼は取り調べに対して重要証言。(Borderland からの引用

彼は取り調べに対して、「アギレ知事は選挙に際してGUから財政的支援を受けていた」と供述。“チーノ”が組織の司令塔と称するマリア・デ・ロス・アンヘレスは、ベルトラン・レイバ一家のメンバーとして知事の選挙に財政支援を行っている。また彼女は長期にわたりアギレと愛人関係にあった。

10.19 連邦当局、ゲレロ州の13の市で警察の公安業務を取り上げる。

10.20 覆面をした抗議者がチルパンシンゴの州社会援助プログラムの庁舎に放火。

10.21 200人の教師がチルパンシンゴのPRD地区委員会事務所に放火。

大きな声では言われていないが、PRDはゲレロ州の与党である。アバルカ市長もPRDである。PRDはメキシコにおける最大の革新政党で、旧メキシコ共産党もふくまれている。ゲレロのラジカルな地方活動家はPRDに対し以前から強い敵愾心を抱いている。

10.22 連邦政府、アバルカ市長が、市の公式行事への妨害を避けるために学生の逮捕を命じたとし、事件の主犯と断定。市警署長フェリペ・フロレスも共同正犯とされる。

すでにアバルカ夫妻は14日に指名手配されている。しかしこの時の容疑は、活動家アルトゥーロ・エルナンデス殺害に関与した別件である。

10.22 メキシコシティーで5万人の抗議デモ。イグアラでも教師や学生数千人による抗議デモ。一部が市庁舎に放火し市長関連のショッピングモールで略奪。

10.24 アンヘル・アギーレ知事が辞職を表明。カサルビアス証言との関連は不明。ゲレーロ州の観光地アカプルコの観光客は60%減少。日本の外務省もゲレロ州を危険地域と指定している。

アギレと市長

     アギレ知事夫妻とアバルカ夫妻

10.28 州検察、イグアラのとなり町コクラで多数の遺体が埋まっていた場所を新たに発見したと発表。


アバルカ夫婦の逮捕

11.04 午前4時。連邦警察の特殊部隊がメキシコ・シティーに潜伏中だったホセ・ルイス・アバルカ夫妻を逮捕する。妻はさすがファミリーの一員。連行しようとする隊員に噛み付いたという。

2人がいたのは労働者地区イスタパラパ(Iztapalapa)区テノリオスの小さな家だった(なんと動画がある!メキシコ学生失踪事件、前市長拘束の瞬間 Mexico's 'imperial couple' meets inglorious end FASTNEWSFAST 10.2014 消えないうちにお早めにどうぞ

11.05 学生たちの両親、親戚、友人らの一行が首都の憲法広場で抗議集会。2万人が連帯。


とりあえずの総括

11.07 検察庁長官が捜査の経過を発表。

アバルカ市長は警察に学生らのバスの走行を妨害するよう命じた。警察は学生らを2度に渡って攻撃。最初の攻撃で3人を殺害し、2度目の攻撃で学生らを強制的に警察署に連行した。
その後、警察は学生をカルテルに引き渡した。カルテルの組員は学生らを複数のトラックに載せ、ゴミ捨て場に連れて行った。殺害された学生らの遺体は、ごみ捨て場でディーゼル燃料をかけられ、タイヤやがれきとともに少なくとも14時間に渡って燃やされた。
 翌日、遺体はさらにバラバラにされ、黒いごみ袋に入れられ、サン・ファン川に投棄された。
 ダイバーたちが川を捜索し、複数のごみ袋と遺体を発見。1袋だけ完全な状態で発見され、中に人間の遺体が入っていたという。

 

Guerrero Violence Project

という、そのものズバリのサイトが有り、情報がてんこ盛りだ。さすがに読む気はしない。興味のある方はどうぞ。



いつもの酒飲み話なんですけどね。
トリニダーというむかし砂糖成金の街だったところから、かなりのがたごと道を抜けてサンタクララに出たんですよ。
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行けども行けども山道でいい加減おしりが痛くなった頃峠にさしかかりました。
エスカンブライ山地といって、むかしはここにゲリラがいたんですね。このゲリラはカストロとは別の系統で、半分ゲリラ半分山賊というたぐいの連中でした。
当時キューバの東の端にいたカストロはエスカンブライのゲリラとも共闘が必要だと考え、ゲバラの部隊を派遣したのです。2ヶ月余の苦しい行軍を終えエスカンブライに到着したゲバラですが、この連中のあまりの酷さに唖然とします。
いちおう義務としてひと通りの交渉は行いますが、その結果を待つことなく独自にエスカンブライでの行動を開始します。その手始めがこの街道沿いの街マニカラグアの攻撃作戦です。
その後ゲバラはマニカラグアを落とし、その足でフォメントに向かい、駐屯地を攻撃し陥落させます。ここからオリエンテに向かう国道1号線をぶったぎり、連続的にサンタクララの決戦へと向かっていくのです。
詳しくは私のキューバ革命史をお読みください。
manicaragua
   私の行った時(1995年)はガタガタ道だった。

ガイドの男性が車の右側の山を指さして言いました。
「あの山にゲバラがいたんだ。あそこから山の斜面を下っていってマニカラグアの街を襲撃したんだ」
のだそうです。
そして軽くこう言い添えました。
「ちょっと行ってみるかい?」
ご冗談でしょう!
ざっと見て、ここより数十メートルは高い。道があるわけじゃない。
きっと、我ながら相当焦った顔していたのだと思います。ガイドさんの顔が笑っています。「偉そうに革命談義したって、所詮はそんなもんかい」という表情です。
憎らしいこと。
しかし、何気なしに山の斜面に目をやった時、一瞬、そこに山を駆け下るゲリラの一群が見えたような気がしました。その先頭にいたのは確かゲバラだったのでしょうが、一瞬ですからそこまではわかりません。


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