これぞ私のもとめていたものだ!
とりあえず、リード部分を紹介しておく。
と、アルントは主張する。
中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。
「ヘーゲル弁証法の神秘的な観念論の外皮というものは、それを一皮むけばそこに正しい弁証法が現れてくると言った表面的なものではない」
「マルクスの方法を理解するのに、ヘーゲルの言葉や流儀を当てはめようというのは間違いであり、『資本論』にそれらを適用しようと試みるなどというのはまったく非科学的な態度である」
「要するにヘーゲルは、人間の思考過程を現実の過程と同一視した。へーゲルの思考概念は、現実の世界を生みだす真の実在になってしまっている」
哲学史の歩みに照応した認識の深まりの歴史的過程も、実際に事物を分析し総合して行く合理的な認識過程も、すべて萌芽としての根本概念からの発生的展開という衣を着せられてしまう。へーゲル自身、論理学の中で分析と総合をおこないながら、これに概念の自已展開という移式を無理にあてはめるのである。
労働量が価値を決めるのではなく、顧客の満足度が価値を決めるという「逆転の発想」労働価値説の否定でなく、価格形成過程からの排除という「けたぐり」による、古典派経済学のちゃぶ台返し。価格形成論の除外により、労働者と労働過程を経済学の関心圏外に置くこと。ついで今度はフィクションの積み重ね。「おとぎ話」を数式化することで真実らしく見せる詐欺的手口。
不完全雇用時にはケインズ主義的介入を行うべきであるが、ひとたび完全雇用に達すれば新古典派理論がその真価を発揮する
貧しい社会には誘惑がないし、公共サービスを厳格にすることができる。しかし豊かな社会はそうは行かないのだ。そこでは消費欲望を満足させる過程自体によって消費欲望が作り出される。それは依存(Addiction) をもたらす。
アメリカのケインジアンは、「財政赤字は無害だ」とし、産軍複合体がそれを利用するままに任せた。雇用問題は解決されたが、「なんのための雇用か」問題は解決されていない。分配問題は経済の問題ではない。それは不平等の容認。放置すればインフレが発生し自由主義の慣行を掘り崩していく。
経済における革新は消費者の側から自発的に現れるものではない。むしろ新たな欲望が生産の側から教え込まれることが普通である。従って革新のイニシアチブは生産の側にある。
常態化した景気停滞。ローレンス・サマーズ元財務長官が2013年のIMF会合で提起した。先進国では少子高齢化などで需要の伸びが止まるため、いわゆる「マイルドな不況」と高い失業率が常態化する。この状況では金融緩和も長期に続く。
“資本主義的なゲームの規則通りに行動している人間”という役者が、逃れようのないかのように見える窮地に陥るたびに、この「神」が舞台に登場するのである。もちろんのこと、オリンピア劇におけるこのとりなしの神は、著者と、そしておそらくは見物人にも満足のゆくようなやり方で。万事を解決してしまう。これはいつの文章かは知らないが、翻訳・出版は1954年である。(「歴史としての現代」都留重人監訳 岩波書店)
ただ一つここで困ったことにはーマルクス主義者なら誰でも知っているようにー国家は神ではなくて、他のすべての役者たちと同じように、舞台で一役を演ずる役者仲間の一人に過ぎないのである
1786年(16歳) 王立カール学院に入学。ギリシア・ローマ古典文化、歴史を学ぶ。
9月 カール学院を卒業。卒業にあたり「トルコ人における芸術と学問の萎縮について」と題して講演。
10月 チュービンゲン大学哲学部に入学。この大学はドイツ南西部におけるルター派正統主義の代表的学府であった。哲学部ではキリスト教史に関する研究の傍ら、ギリシア文化に加えてカント哲学を学ぶ。またフランス啓蒙主義の影響を受ける。
またシュティフトの神学院で寮生活をしながら、同級生ヘルダーリンと親密な交友関係を築く。
9月 卒業生のニートハンマーが大学を訪れ、学生らと懇談。フランス革命の情報を伝える。ヘーゲルは熱烈に革命を支持しルソーに心酔した。(ニートハンマーはかなり有名な教育哲学者で、ヒューマニズムという言葉を最初に使い始めた人。最後まで残ったヘーゲルの友人)
11月 チュービンゲン公が大学を視察。学生への観察を強化するよう指示する。
すべての事物は常に変化しておリ定まるところがない。しかし事物は、変化すると同時に、変化のなかで自己の存在を維持している。この「同一性維持の傾向」が本質となる。
動物の欲求は生理的レベルに制限されているが、人間の欲求はそれを超えており、生理的制限を解き放ち発展させることができる。欲求は多様化し可変的となる。その多様化と可変化は市場が生み出す。
国家は欲望の体系を包摂しながら市民社会の利己性を監視する。また対外的には、国際社会における特殊性を実現する。
経哲手稿の冒頭は『国富論』第1編後半の賃金・利潤・地代からの抜書である。マルクスは、スミスのいう「利潤・利子・地代」を全体として抽象=還元するための概念として、その源泉たるという言葉を導出した。「剰余価値」はパリノートのなかの「スミス『国富論』ノート」に初出している。
ただし剰余価値という言葉は、マルクスの創案ではない。すでにヘーゲルが、『法=権利の哲学』で、収入諸形態の総称として「剰余価値」を用いている。そしてマルクスは、ヘーゲルのこの本を熟読したうえで、「ヘーゲル国法論批判」を執筆しているのである。
ヘーゲルは「剰余価値」を「収入諸形態の総称」というカテゴリーで用いた。しかしマルクスは、そこにとどまらずさらに深い水準に推し進めた。「剰余価値」という言葉に「諸収入の源泉」という位置づけを与えているのである。
下記も同じく1993年の読書ノートで、ヘーゲルの「法の哲学」からの抜書きである。
労働と欲求の関係が見事に描かれており、労働が「陶冶」という観点からも性格づけされている。
これがおそらく「要綱マルクス」のバックボーンだろうと思う。
今回、「資本論形成史」をまとめてみてわかったのだが、「要綱マルクス」から「資本論マルクス」への変貌は、国際労働者協会との関わりが大きいのではないかと思う。
「経済学批判」ではなく、ある種「組合員学校教科書」的な方向への転化が図られたのではないか。経済の仕組みを解き明かすと同時に、それが労働者にとって持つ意味を考えさせるようなニュアンス、まさに「賃金・価格・利潤」的な方向が目指される。
したがって歴史貫通的な人類共通的な課題、哲学的なテーマはとりあえず控えることになった。だから我々はそこのところを補いながら読み込んでいかなければならないのだと思う。
とくに「未来社会論」を語るときに、この発想は必須のものだと思う。
法の哲学 S187
陶冶としての教養とは,その絶対的規定においては解放であり,より高い解放のための労働である.すなわちそれは,倫理のもはや直接的でも自然的でもなくて精神的であるとともに普遍性の形態へと高められた無限に主体的な実体性へ到達するための,絶対的な通過点なのである.
この解放は,個々の主体においては,動作のたんなる主観性や欲望の直接性だけではなく,感情の主観的なうぬぼれや個人的意向のきまぐれをも克服しようとする厳しい労働である.解放がこのような厳しい労働であるということこそ,それが嫌われる理由の一部である.しかし陶冶としての教養のこの労働によってこそ,主観的意志そのものがおのれのうちに客観性を獲得するのであって,この客観性においてのみ,主観的意志はそれなりに理念の現実性たるに値し,理念の現実性たりうるのである.また特殊性は,労働と陶冶によっておのれを作りあげ高め上げて,この普遍性の形式,すなわち悟性的分別を手に入れてしまうからこそ,同時に個別性の真実の対自存在になるのであり,また普遍性を満たす内容とおのれの無限な自己規定とを普遍的にあたえることによって,それ自身が倫理のうちに,無限に対自的に存在する自由な主体性として存在することになるのである.
S189 欲求の体系
特殊性はまず,総じて意志の普遍的な面に対して規定されたものとして,主観的欲求である.この主観的欲求がそれの客体性すなわち満足に達するのは
(α)いまや同じくまた,他の人々の欲求と意志の所有であり産物であるところの外物という手段によってであり,
(β)欲求と満足を媒介するものとしての活動と労働によってである.
食べること,飲むこと,着ることなどのような,一般的欲求とでも呼ぶべきものがある.恣意のこうしたしゅん動は,それ自身のなかから普遍的な諸規定を生みだすのであって,この一見ばらばらで無思想的に見えるものが,おのずから生じる一個の必然性によって支えられるのである.個々での必然的なものを発見することが国家経済学の目的であって,国家経済学は,大量の偶然事に関してもろもろの法則を見出すのである.この関係は一種太陽系にも似たものである.太陽系はいつも肉眼には不規則な運動しかしめさないが,しかしそれのもろもろの法則は,それでもやはり認識されうるのである.
S190 欲求の仕方と満足の仕方
動物の欲求は制限されており,それを満足させる手段および方法の範囲も同様に制限されている.人間もまたこうした依存状態にあるが,それと同時に人間はこの依存状態を越えていくことを実証し,そしておのれの普遍性を実証する.人間がこれを実証するのは,第一には,欲求と手段とを多様化することによってであり,第二には,具体的欲求を個々の部分と側面とに分割すること(労働の分割),および区別すること(社会的分業)によってである.そしてこれらの部分と側面とは,種々の特殊化された,したがってより抽象的な欲求となる.この欲求の立場では,主題は人間とよばれるところの,表象にとっての具体的存在者である.それゆえここではじめて,そしてまた本来ここでのみ,この意味での人間が問題になる.
S192
欲求と手段とは,実在的現存在としては他人に対する存在となる.欲求と手段の充足は他人の欲求と労働によって制約されており,この制約は自他において相互的であるからである.欲求および手段の一性質となるところの抽象化はまた,諸個人のあいだの相互関係の一規定にもなる.承認されているという意味でのこの普遍性が,個別化され抽象化された欲求と満足の方法を,社会的なという意味で具体的な欲求と手段と満足の方法にするところの契機なのである.
私は欲求を満足させる手段を他人から得るのであり,したがって他人の意見にしたがわざるをえない.しかし同時に私は,他人を満足させるための手段を作り出さざるをえない.だから人々は互いに他人のためになるように行動しているのであり,他人とつながりあっているのであって,そのかぎりにおいて,すべて個人的に特殊なものが社会的なものになるのである.
S196 労働の仕方
もろもろの特殊化された欲求を満たすのに適した,同じく特殊化された手段を作成し獲得する媒介作用が労働である.労働は自然によって直接に提供された材料を,これらの多様な目的のために,きわめて多種多様な過程を通して種別化する.だからこの形成は,手段に価値と合目的性をあたえるのであって,その結果,人間が消費においてかかわるのは主に人間の生産物であり,人間が消費においてかかわるのはこうした努力の産物である.
S197
労働によって得られる実践的教養とは,あらたな欲求の産出と仕事一般の習慣,さらにはおのれの行動を,ひとつには材料の本性にしたがって,またひとつにはとくに他人の恣意にしたがって制御することの習慣であり,またこうした訓練によって身についた客観的活動とどこでも通用する技能との習慣である.
S198
ところで労働における普遍的で客観的な面は,それが抽象化していくことにある.この抽象化は手段と欲求との種別化を引き起こすとともに,生産をも同じく種別化して,労働の分割を生み出す.個々人の労働活動はこの分割によっていっそう単純になり,単純になることによって個々人の抽象的労働における技能もいっそう増大する.
同時に技能と手段とのこの抽象化は,他のもろもろの欲求を満足させるための人間の依存関係と相互関係とを余すところなく完成し,これらの関係をまったくの必然性にする.生産活動の抽象化は,労働活動をさらにますます機械的にし,こうしてついに人間を労働活動から解放して機械をして人間の代わりをさせることを可能にする.
S199 資産(VERMOGEN)
万人の依存関係という全面的からみあいのなかに存するこの必然性がいまや,各人にとって普遍的で持続的な資産(VERMOGEN)なのであり.
下の二つは「美学」の抜書きである。
ヘーゲル美学講義 Ⅰ-51
人間はこの自分についての意識を二つのやり方で手に入れる.すなわち理論的には,人間は自分自身を人間の内面において意識する.…人間は実践的活動によって対自的となる.そして人間は外界の事物を変化させ,これに自分の内面の印章をおす.この欲求は芸術作品でみられるような外的な事物の中における自分自身の生産の仕方にいたるまで,ありとあらゆる形の現象にゆきわたっている.
ヘーゲル美学講義 Ⅱ-213
このような影の国がすなわちイデアールであって,そこにすがたを見せる精たちは,直接的存在には興味を失い,物質的生活の必要を免れ,有限の現象に必ずともなう環境への依存性や,あらゆるゆがみやひずみから解放されている.
要綱ノート(ページ数は草稿集①のもの)
多分1993年ころのもの。当然、まだウィンドウズではなく、NEC98の互換機で「松」で打ち込んだものです。
P327
「措定された交換価値としての資本に対立する使用価値は労働(力)である」.これはGーWであり,G→Wであるということ.①G→Wとなるところに資本の使用価値がある.②しかもWは現実的には「労働そのもの」である.
「資本家は労働そのものを,すなわち価値をうみだす活動としての生産的活動そのものとしての労働を手に入れる」.ここでは「労働そのもの」は抽象的一般的人間活動として,価値うみ過程からのみ規定されており,具体的な有用性は捨象されている.したがってこの「労働そのもの」はそれ自身資本の生産力となる.
P329
資本の諸要素,それが労働に対して持つ関係にしたがって分解されたもの(生産物,原料,労働用具).(二)資本の特殊化(a)流動資本,(b)固定資本
P339
彼が提供する使用価値(労働力の使用価値)は,(交換の時点では)彼の身体の能力,力能としてのみ存在するに過ぎず,それ以外には定在しない.彼の労働力能(VERMOGEN)が存在する場である一般的実態,つまり彼自身を肉体的に維持するとともに,この一般的実態(彼自身)を変容させてその特殊的力能を伸ばすようにさせるのに必要な,対象化された労働(諸商品の形を取った生活手段)は,この実体(彼自身)のなかに対象化された労働である(として定着する).
P342
(貯蓄金庫の)本来の目的は富ではなくて,いっそう目的にかなった支出配分でしかなく,したがってそれらは,老後とか,それともまた病気,恐慌などがそのあいだにやってきたときに,救貧院や国家や物乞いに厄介をかけないようにするのが目的である.
P350
なんらかの類推によってなにもかも然るべく配列してしまうこうした三文文士的な空語は,それがはじめて口にされるときは才知ゆたかにもみえるだろうし,またそれがもっとも異質なものを同一化すればするほど,ますます才知ゆたかにみえるであろう.だが何度も口にされると,しかも鼻高々と学問的価値をもつ提言として繰り返されると,それはまったくのところ愚かしい.
P351
「資本家が望んでいるのは,まさに彼(労働者)が彼のひとり分の生命力(LEBENSKRAFT)をできるだけ多く,中断せずに使い切ることでしかない」.①労働力の再生産過程の合理性,したがって労働力修理工場はまさしくそのかぎりのことである.②生命力が労働力として規定されている.
P353
所有(関係)の労働(過程)からの分離は,資本と労働(力)とのこの交換の必然的法則(的結果)として現われる.「非資本そのもの」(資本と向き合っているがゆえに)として措定された労働力はつぎのようなものである.①対象化されていない労働(可能性ではあるがまだ発揮はされていない力能).否定的に把握されたそれ(その消費を目的とする観点からの把握).このようなものとしては労働(力)は非原料,非労働用具,非原料生産物であり,あらゆる労働手段と労働対象から,つまり労働(過程)の全客体性から切り離された労働そのものである.それは労働(過程)の実在的現実性のこれらの諸契機からの抽象として存在する生きた労働そのものであり,このような丸裸の存在,あらゆる客体性を欠いた純粋に主体的な労働(力)の存在なのである.
P354
「(労働力は)存在する非価値そのもの(であり),媒介なしに存在する純粋に対象的な使用価値(である)」労働力商品の価値はその生産費によって措定されてはいるが,本質的には価値をもたない使用価値である.それは太陽の光,大地の恵みとおなじように一つの自然力である.
(労働力および労働そのもの)の対象性は,人格から切り離されていない対象性,人格の直接的肉体性と一体化した対象性でしかありえない……それは個人そのものの直接的定在性をはなれては存在しえない対象性なのである.
(二)対象化されていない労働(力),肯定的に把握されたそれ(労働能力の主体的発揮としての労働そのもの).すなわち自分自身にかかってくる否定性(認識の発展と成長).それは対象化されていない,したがって非対象的な,すなわち主体的な,労働そのものの存在である.それは対象としての労働(力)ではなく,活動としての労働(過程)であり,それ自体価値としての労働(力)ではなく,価値の生きた源泉としての労働そのものである.それ(労働力能)は,富が対象的に現実性として存在する資本(現実の富としての資本)に相対して,行為(労働過程)のなかで自己をそのものとして確証する.富の一般的可能性としての一般的富である.(現実的・対象的富と一般的富との対置に注目)
(三)(労働能力の発揮は)資本として措定された貨幣に対するその使用価値として,あれやこれやの労働でなく,労働そのもの(ARBEIT SCHLECHTHIN),抽象的労働であり,労働(過程)の特殊的な規定性に対してはまったく無関心である.
ある規定された(個別の)資本を存立させている特殊的な実体には,もちろん特殊的な労働(過程)としての労働(そのもの)が対応しなければならないが,資本そのもの(総資本)は,その実体の総体性としてあるとともに,その実体のあらゆる特殊性の捨象としてもあって,自己の実体の特殊性に対してはいっさい無関心であるから,(総)資本に対する(総)労働(力)のほうも,主体的には同一の総体性と抽象性とを即自的にもっている..(労働力の抽象性は,資本の抽象性によって規定された歴史的概念でもある)
あらゆる労働(力)の総体(総労働力)が可能的に(総)資本に相対するのであって,とくにどの労働(力)が資本に相対するかは偶然的である.
P355
労働(過程)があらゆる技能的性格を失うにつれて,また労働(そのもの)の特殊的な熟練がますます抽象的なもの,無差別的なものとなり,また労働(そのもの)がますます純粋に抽象的な活動に,純粋に機械的な,したがって無差別的な,その特殊的形態には無関心な活動になるにつれて,つまりたんに形式的な活動,あるいはおなじことであるが,たんに素材的な活動一般となるにつれて(抽象性は歴史的に作られたもの),この経済的関係はますます純粋に,ますます適合的に展開されていくのである.(労働そのもの概念は資本によって練り上げられた概念である)
P356
労働(力)は対象化されたものの諸価値の非存在(即自的には無価値)であって,そのようなものとして,対象化されていないもの(可能態)としての諸価値の存在であり,つまり諸価値の観念的存在なのである.つまり労働(力)は諸価値の可能性であり,また活動(労働そのもの)としては価値措定(労働過程で実現されるべき価値)である.
労働(力)は資本に対してあるばあいには,ただ能力や力能としてのみ身体のうちに存在している,(抽象的な)価値措定活動(労働そのもの)のたんなる抽象的な形態(担い手),たんなる可能性に過ぎない.
しかし(労働力は),資本との接触を通じて現実的な活動(労働過程)に導かれることによって,それは現実的な価値措定的,生産的活動となる.
P357
資本が(商品として)対象化された労働(力)のどんな特殊的諸形態のうちにも存在する貨幣として,対象化されていない,生きている労働(そのもの),過程および行為として存在する労働(そのもの)とともに,(生産)過程に歩み入るかぎりでは……
(そこでは)たんなる形態としての労働(力)のたんなる主体性が止揚され,資本の材料のなかに対象化されなければならない.
活動としての労働(そのもの)とのかかわりにおいては,素材すなわち対象化された労働(そのもの)は,つぎのふたつの関連をもつだけである.まず原材料,すなわち形態のない(自然のままの)素材の関連,目的にそって(生産物としての)形態をあたえる労働(過程)の活動にとってのたんなる材料の関連.つぎに労働用具,すなわちそれ自体(原材料と同じように)対象的である(労働)手段の関連がそれである.
P358
たんなる「生産の行為」(単純な生産過程)を即自的(単純)に考察するばあいには,労働用具や原材料は自然のなかにあらかじめあるものとして現われるだろうから,したがってそれらのものはただ領有されさえすれば,すなわち労働(過程)の対象や手段とされさえすればよいのであって,このことはそれ自体労働の過程ではないのである.したがって生産用具や原材料に対比されるばあいには,生産物は質的に別なものとして現われるのであって,用具を使って素材に対して労働した(特殊な形態で労働力を発揮した)結果として生産物だ,というばかりでなく,それらのものとならんで最初の労働の対象化(一般的形態での労働力の消費)としても生産物なのである.
P359
生産過程そのものによって措定されている唯一の分離(歴史貫通的な分離)は,もともとある分離,対象的な労働(生産物)と生きた労働との区別そのものによって措定された分離,すなわち原材料と労働用具のあいだの分離である.
P360
原材料は労働(過程)によって変えられ,形態をあたえられることによって消費され,また労働用具は,この過程のなかで使用され,使いつくされることによって消費される.他方労働(力)もまた用いられ,運動させられ,こうして労働者の一定の分量の筋肉が消耗させられることによって消費されるのであり,それによって彼は疲れはてる.
労働(力)はただ消費されるだけでなく,同時に(労働そのものという)活動の形態から,(生産物という)静止の形態へ固定化され,物質化される.労働(力)は対象の変化として自分自身の姿態を変え,活動(THATIGKEIT)から存在(SEIN)になる(S-T-S).材料,用具,労働(そのもの)という(労働)過程の三つの契機はすべて合体して中性的結果ー生産物となる……
したがって(労働)過程全体が生産的消費として現われる.すなわち無に終わる(個人的消費あるいは消費的消費)のでもなければ,対象的なもののたんなる主体化(SーT)に終わる(だけ)でもなく,それ自身ふたたびひとつの対象として措定されるような消費(SーTーS)として現われる.(すなわち生産的消費とはSーTーSとW…P…Wの統一)
この消費は素材的なものの単純な消費(消費的消費)ではなく消費(生産のために消費されるべき力能,すなわち労働力)の消費であり,素材的なものを使用するなかで,この使用(W…P…W)を使用する(SーTーS)こと,したがってまた,素材的なもの(三つの契機)の措定である.(これこそが三要素定立の根拠)
(対象に対して)形態をあたえる活動(労働過程)は,対象(的諸条件)を消費するとともに,また自分自身(労働力)を消費するが,しかしそれは(労働)対象(となる生産物)をあらたな対象的形態として措定するためにのみ,あたえられた対象の形態を消費するだけなのである.
P361
第一に労働(力)の領有,労働(力)の資本への合体によって,資本は発酵して過程となる.つまり生産過程となる.貨幣,すなわち労働者に対する処分能力を買う行為は,ここでは過程を導きだすためのたんなる手段として現われ,過程それ自体の契機としては現われない.
この過程で資本は,総体としては,生きた労働(力)としての自分自身を,対象化された労働であるだけでなく,対象的であるがゆえに,労働(過程)のたんなる対象でもあるものとしての自分自身と関連させるのである.(過程を導きだす手段と,過程そのものの契機のちがい)
P362
資本を,それが労働(過程)からは区別されて最初に現われる面から考察すれば,資本は過程のなかでたんに受動的な定在,たんに対象的定在(原材料および用具)にすぎず,そこでは資本を資本たらしめている形態規定(WーGーW)ーしたがって対自的に存在する社会的関係ーは完全に消え去っている.資本は,その内容の面からのみーつまりただ対象化された労働一般としてのみー過程に入る.
しかし資本が対象化された労働であるということは,労働(過程)にとってはまったくどうでもよいことである.資本が過程に入り込み,加工されるのは,ただ対象としてだけなのであって,対象化された労働としてではない.……それらのものが,それ自体労働(過程)の生産物であり,対象化された労働であるかぎりは,それらは決して過程に入らないのであって,ただ規定された自然的諸性質をもった物質的な実在としてのみ過程に入るのである.これらの自然的諸性質が,それらのものにどのようにして措定されたのかは,それらのものに対する生きた労働(そのもの)の関連にとってはかかわり知るところではない.
P363
他方,労働者との交換によって労働(力)そのものがすでに資本の対象的諸要素のひとつになってしまっているかぎりでは,資本そのものの対象的諸要素からの労働(そのもの)の区別は,たんにひとつの対象的な区別でしかない.すなわち一方の要素は静止(RUHE)の形態にあり,他方の要素は活動(THATIGKEIT)の形態にある.したがって資本は一方では,あらゆる形態関連が消滅している受動的対象としてのみ現われるが,他方では,資本は単純な生産過程として現われ,この単純な生産過程のなかには,資本としての資本が,すなわち自己の(対象化された労働としての)実態とは異なるものとしての資本が入り込むことはないのである.
この面からみれば,資本の過程は,単純な生産過程そのものと一致しており,そこでは過程の形態において資本の資本としての規定が消滅している.
P364
こうして資本の生産過程は,資本の生産過程としては現われずに,生産過程そのものとして現われ,また労働(そのもの)と区別された形では,資本は,原材料と労働用具という素材的規定性においてのみ現われるに過ぎない.
P364
こうして資本の資本の生産過程は,資本の生産過程として現われずに,生産過程そのものとして現われ,また労働(そのもの)と区別された形では,資本は,原材料と労働用具という素材的規定性においてのみ現われるにすぎない.
P366 労働過程と価値増殖過程
(α)労働(力)が資本に合体することによって,資本は生産過程になる.だがさしあたっては,資本は物質的生産過程,生産過程一般となり,その結果資本の生産過程は,物質的生産過程一般と区別されなくなる.資本の形態的規定は完全に消え去っている.
資本がその対象的存在(財貨)を労働(力)と交換したことによって,資本の対象的定在そのものが,対象としての自己(財貨)と,労働(力)としての自己とに二分され,両者の関連が生産過程を,あるいはさらに厳密にいえば(資本の形態規定はそこでは消失しているゆえに)労働過程を形成する.こうして価値に先立って,出発点として(無価値として)措定された労働過程=これはその抽象性,純粋な素材性のゆえに,あらゆる生産過程(資本主義に先行する諸形態をふくめ)に等しく固有なものである=はふたたび資本の内部で,一つの過程として現われ,この過程が資本の素材の内部で進行し,資本の内容を構成するのである.
P367
資本が…素材またはたんなる手段として労働に対する一項として解されるならば,その場合にはまさしく資本は,労働(そのもの)に相対する対象,物質としてしかみなされず,したがってただ受動的なものとしてしか見なされないのだから,資本は生産的ではないといっても誤りではない.
しかし資本は両項(労働力と生産手段)のうちの一項として現われたり,あるいは一つの項それ自体のなかでの再生(労働対象と労働手段)として現われるのでもなく,単純な生産過程そのものとして現われるのであり,この過程がいまや資本の自己運動的内容として現われる.
P372
文明のあらゆる進歩,言い換えるならば社会的生産諸力のあらゆる増大,それに言い方を変えれば,労働そのものの生産諸力のあらゆる増大ーそれは科学,発明,労働(過程)の分割と結合,交通手段の改善,世界市場の創出,機械装置などから生じてくる.
労働(生きた目的にかなった活動としての)の資本への転化は,それが資本家に労働生産物に対する所有権(および労働(過程)に対する支配権)をあたえるかぎり,即自的には資本と労働力との交換の結果である.この転化は,(資本主義的)生産過程そのもののなかではじめて措定される.
資本が生産の基礎をなし,したがって資本が生産者であるところでは,労働そのものは,ただ資本のうちに入りこむものとしてだけ生産的であるに過ぎない(自営業者や自由業者は生産的でない).資本と対立して対自的に労働者という姿をとっている労働(そのもの),つまり資本から切り離されてその直接的規定性のなかにある労働は生産的ではない.労働者の活動としても,この労働は決して生産的にはならない.なぜならそれは単純な形態的にのみ変化する流通過程のなかにだけ入りこむに過ぎないからである(その分業が生産的かどうかが,労働が生産的かどうかを決める).
P374
資本に対して主体として現われるのは労働(力)なのだということ,すなわち労働者はただ労働(力)という規定でのみ現われるに過ぎないのであって,この労働(力)とは労働者自身のことではないのだということ.
P377
(自己増殖過程においては)価値は主体として登場する.労働(そのもの)は,目的にかなった活動であるから,そこで素材的な面から前提されていることは,生産過程においては労働用具がある目的のための手段として実際に使用されたということ,原材料は,化学的な素材転換によるにせよ力学的な変化によるにせよ,それが以前に持っていたよりも高い使用価値を生産物として受け取ったということである.しかしこの側面はそれ自体としてはたんに使用価値にのみ関わるものであるために,いまだに単純な生産過程に属している.
P403
どのようにして資本によって,すなわち現存する諸価値によって剰余価値が労働を媒介として作り出されるのか,ここで彼ら(重農主義者)は(資本の運動の)形態をまったく見落として,単純な生産過程だけを見ている.したがって労働者が労働用具の自然力のおかげで,自分の消費分よりも多くの価値を明らかに生産できるような分野でおこなわれる労働が生産的であると主張することができる.したがって剰余価値は,労働そのものから生じるのではなく,労働によって利用され管理される自然力から生じる.したがって農業だけが唯一の生産的労働である(剰余価値はひとつの物質的生産物で表現されなければならないというのは,A・スミスにもなお現われている未熟な見解である).役者は生産的労働者であるが,それも芝居を生産するかぎりにおいてではなく,彼らの雇主の富を増加させるかぎりにおいてなのである.ところがどんな種類の労働がおこなわれるか,つまりどんな形態で労働が物質化されるのかということは,この関係にとってはまったくどうでもよいことである.他方このことは,後にでてくる諸観点からすればどうでもよいことではない.
P427
つまり労働者は自分の労働能力(ARBEITSFAHIGKEIT)を,つねに一定時間にかぎって,すなわち一定の労働時間にかぎって他人の処分に委ねるのである(労働能力の初出).この場合,労働(力)はその生きた労働力能(VERMOGEN)に対象化された労働時間を表わす.
P456
用具が労働(過程)の用具として用いられ,原材料が労働(過程)の原材料として措定されているという単純な(素材的)関係を通して,すなわちそれらの用具や原材料が労働(そのもの)と接触し,労働(そのもの)の手段および対象として措定されるという単純な過程を通して,それらの用具や原材料は,形態的には保持されないにしても実体的には保持されるのである.そして経済的に見れば,対象化された労働時間(労働時間で計られた価値)がそれらのものの実体なのである.
対象化された労働は,それ自体ふたたび生きた労働(そのもの)の契機として,つまり対象的な材料の形をとった労働(生産物)自身に対する生きた労働(そのもの)の関連として,生きた労働(そのもの)の対象性として措定されているのであるから,それは外的で無関心な形態として,生命なく素材のなかに存在することをやめる.こうして生きた労働(そのもの)が材料のうちに自己を現実化させることによってこの材料そのものを変化させ,したがって労働(過程)の目的によって労働(力)の合目的活動によって規定された変化をもたらす.
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労働(そのもの)は生命のある造形的な火であり,生きた(労働)時間による諸物の形成として,(運動であるがゆえに)諸物の無常性,それらの時間性である.
そこでは素材を消費し,素材の形態を使用することが人間の享受となり,素材の変化が素材の使用そのものなのである.
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価値増殖過程では,資本の構成諸部分(材料および用具)は,生きた労働(そのもの)にたいして,価値としてではなく生産過程の単純な諸契機として,労働にとっての使用価値として,労働(力)が活動できるための対象的諸条件として,すなわち労働(そのもの)の対象的契機として現われる.
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単純な生産過程では,先行した労働(過程)のーそれを通してまた,その労働(過程)が措定されている材料のー質の保持として現われるものが,価値増殖過程ではすでに対象化された労働(そのもの)の分量の保持として現われる.
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生産過程では,労働(過程)の対象的な定在的諸契機(用具と材料)からの労働(そのもの)の分離は,止揚されている.資本と賃労働との定在はこの分離にもとづいている.生産過程で現実に生じる分離の止揚ー止揚されなければそもそも労働がおこなわれるわけがないーに対して資本は支払わない.
生産過程そのものにおいて,生きた労働(そのもの)が用具と材料を自己の心にとっての身体とし,それによって(死んだ労働を)死から蘇らせるこの同化作用は,労働(力)が対象をもたず,すなわち直接的な生命力の形でだけ労働者における現実性でありーまた労働材料と用具が対自的に存在するものとして,資本のなかに存在していることと事実上対立している(この点については後でたちかえること).
ゴータ綱領批判(公表は91年): マルクスは「最悪の敵である国家の正当性を受け入れ、小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるとしたもの」とこき下ろす。また「未来の共産主義社会の国家組織にも触れず、“自由な国家”を目標と宣言するのはブルジョワ的理想だ」と批判。
第2部から書き直さないと第3部は書けないと悟ったマルクスは、第2部の書き直しに着手する。それが第5~第8稿
マルクスはインタナショナルのハーグ大会の後も10年余りを生きていたが、その間は大して目立ったことはない。それは老衰の時期であり,不健康と無能力とが増した時期である。
消費によって新たに生産の欲望を想像することにおいて、消費は生産の衝動を創り出す。消費は生産者を改めて生産者にする。また生産は、「一定の消費の仕方をつくりだすことによって、つぎには消費の刺激を、消費力そのものを、欲望として創造することによて、消費を生産する」ここでは、消費という行為が生産を生産たらしめ、生産という行為が、消費を消費たらしめる関係性が、時間を経由して完成されることが示される。
労働力の価値は労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。…一定の国や時代には必要生活手段の平均範囲は与えられている