鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

ナポレオン戦争とドイツとヘーゲル

ヘーゲルの思想遍歴を知る上でナポレオンのドイツ侵略はよけて通れない。

フランス革命がそれ自体は隣の国の事情であったのに比べ、ナポレオンの侵攻はすべてのドイツ人が巻き込まれる一大事であった。

否が応でもフランス革命の必然性、神聖ローマ帝国の行く末、ドイツの近代化についてすべてのドイツ人が思いを致さざるを得なくなった。

そのなかで辺境国プロシアが「近代化」の道を歩みだしたとき、ドイツ人に方向をしめしたのがヘーゲルだったとすれば、その政治姿勢がヘーゲルへの支持を呼び込んだのではないだろうか。
精神現象学もエンチクロペディーもその後に付いてきたのではないのか。



1792年 フランス革命戦争が始まる。市民革命の波及を恐れる周辺諸国のフランス侵攻が引き金となる。フランスでは農民や都市下層民を中心に50万人規模の志願兵が集まる。

1793年 イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどによって第一次対仏大同盟が結成される。

9月 ヘーゲルがチュービンゲン神学校を卒業。スイスのベルンにシュタイガー家の家庭教師として赴く。

1795年 ポーランド、プロイセン、オーストリア、ロシアによって分割され国家として消滅。

1796年

3月 第一次イタリア遠征の開始。ナポレオンがイタリア方面軍司令官に就任する。

1797年

10月 北イタリア戦争、フランス側の勝利に終わる。フランスは南ネーデルラントとライン川左岸を併合。オーストリアの敗退により第一次対仏同盟が解体。

ヘーゲル、ヘルダーリンの誘いで、フランクフルトに移動。シェリングの助けを借りてカント・フィヒテの影響を脱却。


1798年

7月 ナポレオン軍がエジプトを制圧。しかし英国に制海権を奪われ孤立。

12月 イギリス、オーストリア、ロシアなどによって第二次対仏大同盟が結成される。

1799年

11月 ブリュメールのクーデター。エジプトを脱出したナポレオンが政権を握る。

ヘーゲル、スチュアートの「国民経済学」(独訳)の読書ノートを作成。

1801年

2月 オーストリアとの間で二度目の陸戦となるが、ナポレオン軍が勝利。第二次対仏大同盟も崩壊する。

ヘーゲル、シェリングに招かれイエナ大学の私講師となる。カント・フィヒテに対する激しい批判を展開。

1802年

3月 アミアンの和約。イギリスとフランスが講和。

1803年

5月 イギリスがアミアンの和約を破棄してフランス第一共和政に宣戦。ナポレオン戦争の始まりとされる。

シェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去る。ヘーゲルは助教授に昇格。

1804年

12月 ナポレオンが戴冠式。第一帝政が発足する。

1805年

イギリス、オーストリア・ハプスブルク、ロシアが第三次対仏大同盟を結成し戦争を挑む。プロイセンは中立的立場を取る。

9月 ナポレオン、ウルムの戦闘に勝利しウィーンに入る。

10月 トラファルガーの海戦。フランス・スペイン連合艦隊がネルソン率いるイギリス艦隊により壊滅される。

12月 アウステルリッツの戦い。ロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑むが敗北。

ヘーゲル、「精神現象学」を完成させる。序文にてシェリングを批判したため、絶縁状態となる。

1806年

神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖でも、ローマでも、帝国ですらない帝国が崩壊する。

7月 西南ドイツ諸邦が親ナポレオンのライン同盟を立ち上げる。

7月 プロイセンは中立を破棄し、イギリス、ロシア、スウェーデンなどと第四次対仏大同盟を結成。

10月 プロイセン、フランスへの単独宣戦。ナポレオン軍が怒涛の進撃。プロイセン軍はイエナ・アウエルシュタットの戦いで壊滅的打撃を受ける。

10月 ナポレオン軍がベルリンを制圧。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、東プロイセンのケーニヒスベルクへ逃げ込む。

シャルンホルストはリューベックで、グナイゼナウはマルデブルグで最後まで抗戦し、弾薬が尽き降伏。

11月 ベルリン入りしたナポレオンが、大陸封鎖令を発布する。

1807年

2月 ナポレオン軍、東プロイセンに入りプロシア・ロシア連合軍と戦闘。吹雪の中、膠着状態に入る。

6月 東プロシアの闘いはナポレオン軍の勝利に終わる。

7月 ティルジットの和約が結ばれる。ポーランド旧領の一部がワルシャワ公国として独立を回復。プロイセンはエルベ川以西の領土を失う。プロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が置かれナポレオンの弟が即位する。

屈辱的な敗北を喫したプロイセンでは、哲学者フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行い、またシャルンホルストとグナイゼナウによる軍制改革が実施された。

1808年

5月 ナポレオン、スペインを併合。スペインで国民的な抵抗が起こり泥沼化。

ヘーゲル、バンベルグ新聞をやめ、ニュルンヘルク・ギムナジウムに就職。

1809年

4月 オーストリアは、イギリスと第五次対仏大同盟を結びバイエルンへ侵攻。ナポレオンは直ちに反撃しウィーンを制圧。

10月 オーストリアは領土の割譲と巨額の賠償をせまられる。

1810年

ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。ナポレオンはロシア攻撃を決意する。

1812年

6月 27万のフランス軍を主体とし同盟国の軍隊を含む70万の大陸軍がロシア国境を渡る。ロシア軍は正面対決を避けつつ、焦土戦術によって食料の補給を断つ。

10月 ナポレオンはモスクワからの撤退を決意。撤退の過程で、大陸軍では37万が死亡し、20万が捕虜となった。故国に帰還したのはわずか5,000であった。

ロシアはドイツ諸侯に大同同盟を勧め、「ロシア・ドイツ諸侯軍」を結成。プロイセンにも同盟を提起する。

1813年

3月 プロイセンがフランスへ宣戦布告。ドイツではこれを「解放戦争」と呼ぶ。

国軍のみならず義勇軍も組織され、国民意識鼓吹のため「鉄十字勲章」も創設される。

8月 イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデンによる第六次対仏大同盟が成立。

10月 ライプツィヒの戦い。19万のフランス軍に対して36万のロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍が包囲攻撃。フランス軍は多くの死傷者を出して敗走した。ドイツでは「諸国民の戦い」と呼ばれる。

1814年

3月 連合軍はパリに入城。ナポレオンは退位する。ルイ18世が即位し王政復古。

1815年

3月 エルバ島を脱走したナポレオンは、パリに入城して再び帝位に就く。

6月 ワーテルローの戦い。フランス軍は完全に崩壊する。

フランス復古王朝が事実上の降服を認める第二次パリ条約に調印。ナポレオン戦争の終焉。


雑誌「現代の理論」に掲載された論文らしい。「マルクス生誕二百年」と書かれているので、去年に書かれたものであると思われる。

やや下世話な話題も含め、私の知らない世界が広がっている。

1.日本アカデミズムのなかのPolitical Economy

60年代までは、「マル経」と「近経」という二つの経済学がはっきりと分かれて対峙していた。

マル経の拠点学会は「経済理論学会」と称し、現在でも800人近い会員を擁している。

この学会は1959年に創立された。マルクス経済学が政治と過剰に結びついたことの反省の上に純学術的な研究学会として位置づけられた。

A) 経済理論学会の現状

学問的立場 
マルクス経済学を経済学の基幹とする。
理論と方法の多様性を尊重する。

『季刊経済理論』(桜井書店)を準機関誌(査読制のオープンジャーナル)とする。

B) 学術会議騒動

2013年に、学術会議の経済学部会が、新古典派的発想のもとに経済学の教育基準を構想した。
素案はミクロ経済学、マクロ経済学、統計学ないし計量経済学を「基礎科目」として重視し、他をその応用と位置づけようとした。

マル経「原論」は不要とみなされ、周辺に追いやられるようになった。

そこで最近では「政治経済学」、「社会経済学」、「制度経済学」などの名称を用いるようになった。
いずれも英語ではPolitical Economy である。


2.1970年代以降の日本のマルクス経済学

A) 1970年代の3つの学派

70年代、「マル経」には宇野学派、正統派、そして市民社会派の3つの潮流があった。

市民社会派というのは高島善哉、水田洋、内田義彦、平田清明などの思想的影響を受けた学派で、『現代の理論』や日本評論社のいくつかの出版シリーズに結集していた。

B) マルクス経済学の数理化と国際化

数理化: 置塩信雄、森嶋通夫らの研究。森嶋はまもなくマルクス批判に転じた。ピエロ・スラッファは新古典派的な資本理論に批判を加えた。

国際化: 70年代になると欧米でも「マルクス・ルネサンス」が起こった。ラディカル・エコノミクスが華々しく登場した。
フランクやアミンの「従属発展論」、ウォラーシュタインの「世界システム論」も登場した。

C) 二つの対応:集中と開放

大学でもマルクス経済学の没落は続いた。そのようななかで対応は二つに分かれたように思われる。

第一は、マルクス主義の問題構成に注意を集中することである。

1984年に「若手マルクス・エンゲルス研究者の会」が結成され、『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』の継続的刊行を開始した。

新MEGAの編集協力に参加し、『資本論』草稿などの公刊を現在も支え続けている。

第二の対応は、アカデミズム主流派に対抗する多くの異端派との連携である。

スラッファ経済学、カレツキの再評価、「新古典派総合」から解放されたケインズの貨幣・金融論の再発見を通じて、ネオ・リカーディアン、ポスト・ケインジアン、構造的マクロ経済学と連携が生じている。

著者としてはそれらを包括して「制度の経済学」として発展させるべきだと考えている。

後略

の教科書をネット上で見つけた。同志社大学 経済学部の  田中 靖人さんの手になるものだ。

その目次を移させてもらった。

第 1 章 需要と供給 
1.1 財と市場
1.2 需要と需要曲線
1.3 需要の価格弾力性
1.4 代替財と補完財
1.5 供給と供給曲線
1.6 供給の価格弾力性
1.7 市場均衡
1.8 需要•供給曲線のシフト
1.9 市場均衡の安定性

第 2 章 消費者の行動
第 3 章 企業の行動
第 4 章 ゲーム理論入門

第1章だけで全9節。ここでは省略したが第2~第4章にも同じくらいの節がついている。

最初に言っておきたいのだが、この教科書自体は本当に素晴らしいものだ。著者の真摯な態度がひしひしと伝わってくる。だから私としてはミクロ経済の最良の教科書を見た上での感想ということになる。



ミクロ経済学の「学」としてのエンタイティを考えるならば、かなり空虚な学問という印象は否めない。

もし私が経済学部に入って、何かを学ぼうと意気込んだとき、こんな学習メニューが出されたら、明日から登校拒否だ。こんなことを学びたくて経済学部に来たのではない。

それは「無意味さ」を数式で飾り立てている、学生には無間地獄の世界だ。このようなゾンビ世界はソシュールの言語学以来だ。

「ミクロ経済学」は怪しげな数式で学生を絡みとり、意味不明な「解答」をもとめ、試験で学生を苦しめ、挙句の果てに卒業証書と引き換えに何らかの犠牲を求める。

こんなものは一国の経済を理解するのに何の役にも立たない。学校と教師にいくばくかの月謝を払うのに役立つのみだ。即刻やめるべきだ。

中には本当のバカがいて、「マルクス主義にはこんな世界は理解できないだろう」とふんぞり返っている。「大奥」のお局様の世界だ。大奥の世界のルールなどなんの意味もないのだ。

「だれにもこんな世界は理解できないよ!」

これは男子一生の仕事ではない!
ミクロをやっている人がそうだとは言わないが、正直、半分はそう思っている。


と言いつつ、第一章 市場均衡 だけは一応やって置かなければならないと思う。古典派との論点にならざるを得ないところだから。
ただし私は数式に興味ないし、そもそも市場のイメージ構築という質的な問題を片付けない限り、問題設定そのものに意味がないと思うからだ。

市場とはなにか、均衡(とくに動的均衡)とは何かというそもそも論をもう少し突き詰めていきたい。
その際「ミクロ経済学」というようなわけのわからない言葉はやめて、「商業」論の分野の一つとして「市場」論を語り、さらに「市場」論の分野の一つとして「市場力学」を語ることが望ましいと思う。
さらにいうなら「市場経済」といういい方はやめるべきだと思う。商業が市場を必要とする以上、市場の否定は商業の否定となるが、そんな世界はありえないからだ。
「市場経済」を批判する者の論点は「神の手」を信じるか否か、商業という名の詐欺や強盗を是とするか否か、ということなのだ。

欧州危機以来あまり経済の勉強をしていない。ということはあまりスティグリッツを読んでいない。

とりあえず、ここ1年の日本語ソースをさがす。ほとんどが有料版だ。昔はもう少し読めたのだが…グーグルは有料版を除く検索ができないのか。(考えてみればあの頃は英語で読んでいたんだよね。すっかり退歩してしまったようだ)


1.対中貿易摩擦

二国間貿易の赤字に集中するのは愚かだ。

ブードゥー経済学を今さら議論する意味はすくない。
問題は行動パターンの悪質さだ。

トランプが国境の壁の話をし出す前にメキシコからの移民の数はすでにゼロ近くまで減っていた。

中国政府はすでに実際に人民元高を誘導していた。中国の過剰供給力削減努力によって、鉄鋼価格は底値から130%も上昇した。

一縷の望みは米裁判所か議会共和党がトランプを抑え込むことだが、彼らは長年コミットしてきた自由貿易や財政規律を忘れてしまった。

彼の行動は純粋に政治的動機によるものだ。

2.世界の対応

世界が米大統領のツイッターに注目し、崖から突き落とされないようしている。

そのために難しい課題への取り組みがなされないままになっている。

そのしわ寄せが特に新興国に集中している。

新興国は成長し、それとともに世界のバランスが変化した。その結果、西側先進国を中心に作られた国際ルールがうまく機能しえなくなっている。

本当は今こそ「公正な」新たな秩序が必要なのだ。




趨勢的停滞論は The Myth of Secular Stagnation の訳。おそらく機械語翻訳なのだろう。

イミダスではかくのごとし。
常態化した景気停滞。ローレンス・サマーズ元財務長官が2013年のIMF会合で提起した。
先進国では少子高齢化などで需要の伸びが止まるため、いわゆる「マイルドな不況」と高い失業率が常態化する。この状況では金融緩和も長期に続く。
以下が本文。

1.趨勢的停滞論はまちがい

スティグリッツが趨勢的停滞論を厳しく批判した。

リーマン危機後の経済をになった人々は、趨勢的停滞論というアイデアに魅力を感じている。
自分たちが“ぐずつく経済”を立て直せない言い訳になってくれるからだ。

彼らは「私たちのせいじゃない、私たちはやれることをやっている」と言いたいのだ。

なぜスティグリッツがサマーズを批判するのか。それはトランプ大統領と共和党による景気浮揚策のためだ。

2018年1月のトランプによる財政刺激策はそれなりの効果を発揮した。であれば、失業率がはるかに高かった10年前なら、もっと大きな効果を発揮したはずだ。

だから、回復が弱かったのは『趨勢的停滞』の結果ではなかったはずだ。

リーマン危機のあと、オバマ政権は十分な規模と適切な内容の財政政策を講じなかった。それが景気回復の遅さの主因であった。決して趨勢的停滞のためではなかった。


2.リーマン危機への機動的対応が必要だった

リーマン危機の主要な側面は住宅バブル崩壊であった。バブルが弾けたことで多くの人が家を失い、職を失った。米社会の格差は大きく拡大してしまった。

たとえその後GDPが増えたところで、大多数の市民の所得はたいして増えない。

この状態を押し戻すためには、財政政策による需要拡大と金持ちから大多数への再配分を実現する強力な政策が必要だった。

問題を抱えた経済に対して緊縮を強いることには反対だ。趨勢的停滞を認めることは、半ば多くを諦めるようなものだ。



 2018/12/13 幸福とは何か

1.幸福はGDPでは測れない

GDP統計は基本的に金銭的、したがって物質的な豊かさに焦点を当てている。だからGDPに偏った目標をたてると、政治は誤った方向に向かいかねない

2.ベター・ライフ指数(OECD)を用いるべきだ

人々の幸福を11の側面(住宅、所得、雇用、コミュニティ、教育、環境、政治参加、健康、人生への満足度、安全、ワーク・ライフ・バランス)から捉え各項目ごとに幸福度を計測している。

日本は38か国中23位だ。上位にあるのは所得・教育のみで、下位にあるのは住宅、コミュニティ、政治参加、健康、人生への満足度、ワーク・ライフ・バランスだ。

3.なぜトリクルダウンのウソは続くのか

民主主義の国家では、往々にして企業を応援すれば人々が幸福になるとのレトリックが横行する。

それがうまく機能しないのを目にしていながら、それが終わることはない。

アンチテーゼを主張する人たちにも具体性・実現性が乏しいから、国民は議論を行うことすらやめてしまう。


米国の金融政策正常化は危険だ。

金融政策正常化と各国財政のリスクは極めて重大なテーマだ。

過剰債務国では、財政リスクが露呈され、深刻な資金の流出がもたらされる可能性がある。これにより予算編成が困難な事態にも陥りかねない。

特に欧州にとっては、ユーロ圏のさまざまな制限が付け加えられる。

たとえばイタリアのように莫大な政府債務を抱える国では、金利が上昇すれば国の利払い負担が重くなる。

こうした国では、予算を組む上で「莫大な重荷」を負うことになる。

『より正常な金利』に戻すプロセスは慎重でなければならない。

根井雅弘さんの「ケインズ革命の群像」という本を読んでいる。中公新書の一冊でバブル真っ盛り1991年の出版である。
本棚の隅から掘り出した。我が家の本棚は最近ブックオフの本棚と変わりない。みたこともないような本が並んでいる。読んだ本➗買った本の比率がどんどん下がる。主要な原因は読書力がどんどん落ちているのに購買欲がその割に落ちないからである。
こういうのを「無効需要」というのだろう。同じ無効需要でもかみさんのアクセサリは誰かにくれてやるという活かし方があるが、こちらはおそらく最終需要であろう。

面白い一節があったので、メモしておく。
第一章 ハーバードにおけるケインズ の中の 「マルクス主義者のケインズ批判」というくだり。
スウィージーの一言である。
“資本主義的なゲームの規則通りに行動している人間”という役者が、逃れようのないかのように見える窮地に陥るたびに、この「神」が舞台に登場するのである。もちろんのこと、オリンピア劇におけるこのとりなしの神は、著者と、そしておそらくは見物人にも満足のゆくようなやり方で。万事を解決してしまう。
ただ一つここで困ったことにはーマルクス主義者なら誰でも知っているようにー国家は神ではなくて、他のすべての役者たちと同じように、舞台で一役を演ずる役者仲間の一人に過ぎないのである
これはいつの文章かは知らないが、翻訳・出版は1954年である。(「歴史としての現代」都留重人監訳 岩波書店)

これを読んでう~むと唸ったのは、去年の9月リーマンショック10周年で、その後の変化をどう捉えるのかということで悩んでいたときの問題意識に、かぎ穴に差し込んだ鍵のようにあてハマったからである。

リーマン・ショック後にEU諸国は長く続く不況と失業に苦しんだ。ユーロ圏では思い切った金融救済策が取られたが、それが相対的に弱小な国に重い負担となってのしかかり、PIGGSでは国家存亡の危機を招き、フランスの屋台骨さえきしみ、揺らいだ。

話は2つだ。

一つはサムエルソンよろしく、ふだんは新古典派やネオリベでやっていて、苦しくなるとケインジアンにやってくる。
そんな気楽な若旦那みたいなことしてちゃいけないよ、というのがジョアン・ロビンソンの言い種だが、スウィージーにとってはそもそもそれがケインズじゃないの? ということになる。

もう一つは、もうリーマン・クライシスはないよということだ。次にこれが来たら世界経済と資本主義国家はすべて底が抜けてしまう。そこんとこを本気で反省しているの?
あとになったら、「ケインズみたいな方法、知らないほうがまだマシだったんじゃないの」ということにもなりかねない。

南海大地震じゃないけど、こういう経済システム、そろそろ根本から変えないとだめなのじゃないかな。それには「民主主義的社会主義」しかないんじゃないかな、ということだ。


なんの役に立つやらわからないが、とりあえず載せておく。むしろケインズ第2世代へつなげていくためのイントロという位置づけになるのかもしれない。

1883年 ジョン・メイナード・ケインズ、ケンブリッジに生まれる。

1902年 ケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学。G.E.ムーアの主催する「ザ・ソサエティ」に加わる。

1904年 政治問題を討論する学生団体「ユニオン」の会長となる。

1905年 キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)を卒業。数学で学位取得。

1906年 高等文官試験に合格。インド省に勤務。

1908年 インド省を退官しケンブリッジ大学で貨幣論を研究。マーシャルに経済学者になることを勧められた。

1909年 特別研究員として金融論を担当。

1909年 『エコノミック・ジャーナル』に「インドにおける最近の経済事情」を書く。

1913年 インド省での経験に基づき処女作『インドの通貨と金融』 を発行。金本位制の問題点を指摘し、最良の国際通貨システムとして金為替本位制を提唱する。この視点は晩年のバンコール構想へとつながっていく。

1913年 王立経済学会書記長に就任。死亡直前まで務める。

1914年8 月,イギリスはドイツに宣戦を布告した。第一次大戦の勃発

1915年 28歳でエコノミック・ジャーナル誌編集長に就任。

1915年1月 大蔵省に勤務。戦争の金融的管理を扱う第1課に配属、さらにはそこから独立したA課の長に任命され、国際金融問題を担当する。同盟諸国間の戦時借款制度の構築を担当。特に米国からの資金調達に力を発揮する。(まぁ他にはないよね)

1918年 二人の大蔵次官につぐ次官補まで昇任。

1919年 パリ講和会議に省首席代表として参加する。

8月 対独賠償要求に反対して辞任。

「平和の経済的帰結」を発表。報復的な補償要求は、ドイツのみならずヨーロッパを破壊させると主張。ベストセラーになる。

1920年 大蔵省A課の人々と投資会社「A.D」を設立。インサイダーまがいの投資で巨利を得る。この年、ピグー『厚生経済学』を出版。イギリス共産党結成。

1921年 『確率論』発表。中身はよくわかりません。

1922年 ジェノア国際経済会議に「マンチェスター・ガーディアン」紙特派員として参加。

1923年 『貨幣改革論』発表。保守党のデフレ政策批判、ついで金本位制復帰論を批判。

1924年 初の労働党第一次マクドナルド内閣成立。自由党は小選挙区制のため激減。

1924年 ロイド-ジョージの公共事業計画案を支持。『自由放任の終わり』発表。

市場社会は「似而非道徳律と経済的効率性のジレンマ」を内包している。市場社会は経済的効率からは便宜的に必要ではあるが、似而非道徳律に立脚しているから、いずれは否定さるべき存在である。

1925年 『チャーチル氏の経済的帰結』を発表。金本位制を復活させたチャーチル蔵相を徹底批判。

1925年 ロシアのバレリーナ、Lydia Lopokovaと結婚。ただしケインズはホモだったと言われる。

1926年 炭鉱労働者が長期ストに突入、五月ゼネストに発展する。ケインズは、労働者に同情する立場を表明。

「資本主義は、賢明に管理されれば、いかなる制度よりも有効に経済目的を達成するだろう。しかし、多くの点できわめて好ましくない点がある」 

1928年 自由党が『イギリスの産業の将来』を発表。ケインズは執筆の中心となる。

1929年 

5月 労働党がはじめて第一党となり、第二次マクドナルド内閣が成立。ケインズは「マクミラン委員会」委員として参加。

10月 大恐慌が始まる。ケインズは、企業の投資が過小であるとし、失業を減らすために公共事業を増やすよう提案。

1930年

1月 経済諮問会議委員となる。7月にはそのサブ・コミティーである「経済学者委員会」の委員長に就任。

30年 『貨幣論』発表。ハイエクとの間で論争となる。

理論をさらに一般化するためリチャード・カーン、 ジョーン・ロビンソンら若手理論家と共同作業を開始。

1930年 100 年後を見越した『孫の世代の経済可能性』を執筆。

1932年 イギリス、輸入税法を制定。自由貿易政策を放棄する。ポンド=ブロックの結成に動く。

1933年 ドイツでヒトラーが首相となる。アメリカでローズヴェルトが大統領に就任、ニュー・ディール政策を実施。

ケインズの主張: 失業者に生活維持費の一部を費やすよりも、造船工を失業させておくほうが、国富を増加させるのにより経済的だと考える政治家がはたして正気なのだろうか。

ケンブリッジ大学でケインズ革命の動き。ジョーン・ロビンソン『不完全競争の理論』を出版。

6月 ロンドンで世界経済会議。国際金本位制の再建を目指すが失敗。

1934年 ケインズ、アメリカに渡りローズヴェルトと会う。

1936年

1月  『雇用・利子および貨幣の一般理論』を発表。

雇用の量は、財市場と貨幣市場の相互関係で決定される。それは一般的に不完全雇用均衡に陥りやすい。

2月 スペイン、フランスの総選挙で人民戦線が勝利。ケインズは対ドイツ宥和政策を支持する。

1937年 心筋梗塞により一時重体に陥る。

1938年

9月 ミュンヘン会議。チェンバレンは、フランスとともに宥和政策を推し進めた。

38年 グラハム、金本位制に代わる国際「商品準備貨幣」案を提案。ケインズはこれを積極的に受け止める。

1939年

9月 ドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦始まる。

1940年 

7月 ケインズ、大蔵省のアドバイザーに就任。戦時経済統制の立案に当たる。「戦費調達法」(How to pay For the War)を発表。物価インフレ阻止のために「強制貯蓄」や配給策を奨励する。

さらに戦後の世界秩序形成に関する提言活動。国際通貨体制として「清算同盟案」を提唱。またベヴァリッジ案の策定過程で大いなる協力・支援を行う。

1941年

1月 ローズヴェルトが年頭教書で武器貸与法を声明。ケインズがアメリカに渡り、武器貸与法に基づく交渉。

6月 ドイツがソ連に侵攻。

10月 イングランド銀行理事に就任。

1942年 戦後の世界金融体制のため討論が始まる。イギリス案はケインズが、アメリカ案は財務長官モーゲンソーを助けたホワイトが中心となる。

 ケインズ男爵位を受爵。上院議員となり自由党席につく

1943年

3月 戦後世界金融制度のための討議。アメリカに渡ったケインズはホワイトと厳しい交渉。

ケインズは、国際決済連合と国際通貨「バンコール」を提唱。ホワイトは参加国の通貨で保管される国際為替平衡「基金」を提唱する。

1944年

7月 ブレトンウッズ通貨会議が開催。ケインズはイギリス首席代表として出席。各国の通貨が対ドル固定レートを維持し、米国はそれに対応するだけの地金を準備することとなる。

1945年 戦後復興に向け米国との借款交渉に当たる。

1946年

46年 国際通貨基金および世界銀行の創立総会に理事として出席。

4月21日 心臓発作で倒れ、サセックス州の山荘で没する。



前期ヘーゲル とりあえずの感想

かなり等身大のヘーゲルが見えてきた。

キリスト教に首まで浸かった青年がフランス革命に触れて、宗教の改革に乗り出す。
キリスト教から秘義や奇跡を取り除いたときに、フランス革命がギロチンとともに転げ落ちる。
仕方なしに「カントの道徳」に挿げ替えて民族宗教から衣替えしようとするが、そんなときにシェリングから神様なんてもうやめたらと言われ、ショックに陥る。
そこでシェリングから教わったスピノザの汎神論を使ってみたら、非常に使い心地が良い。それでやっているうちに、カントの道徳律とスピノザがどうも相性が悪い。
シェリングを見ると、彼もカントやフィヒテの2元論を使わないで世界を説明する方向でやっている。

そこで、イエナ大学で二人でカントとフィヒテを排除してスピノザ的理論構築をしていこうということになった。
それでシェリングは世話になったフィヒテと面と向かって喧嘩はやりにくいというので、ヘーゲルが汚れ役を引き受けることになった。

ところが、フィヒテを切り刻んでいるうちに、フィヒテの最大の問題意識、物自体への切込みと主体の構築という点で、どうもこの視点は捨ててはいけないなということになったのではないか。
たしかにスピノザのいう根源的実在の自己展開というのは正しいのだが、その根源的実在というのは自己意識ないし精神なのではないか、なぜなら物自体に時代を駆動する力はない、人間の感情が時代を駆動するのだから。

と、ここがすごい一人よがりなのだが、そう思い込んでしまう。
それでシェリングとスピノザを串刺しにして、先験論ということでやっつけてしまう。
ただし、スピノザにおいて先験知は本質的な概念ではない。下記参照のこと

人間は神の精神を表現している。それは人間が自然に抗い、生き延びる努力として示される。精神は自己の「有」に固執する。これが自己保存の努力であり、人間の本質にほかならない。
…すべての事物は常に変化しておリ定まるところがない。しかし事物は、変化すると同時に、変化のなかで自己の存在を維持している。この「同一性維持の傾向」が本質となる。

ここまでスピノザが書いているのに、「暗闇の牛」あつかいするのはまったくフェアーでない。

ただヘーゲルの「精神」はもう少し万物の始源に関わっているのかもしれない。すなわち事物に命を吹き込み、それらを動かすに至ったものはなにか? という問題だ。
これは哲学というよりはむしろ現代自然科学の専門とする分野である。そしてすでに解答は示されている。すなわち万物の根源にあるのはビッグ・バンによって作られた巨大なエネルギーだ。このエネルギーがあるときは事物の形を取り、あるときはさまざまな力となって身の回りに存在し、ネットワークを形成しているのだ。
エネルギーは加速度、すなわち速度の変化を通じて万物を貫く。そういう時間軸のゆらぎが世界中には満ち溢れている。これが「神」だと思う。

そんなことを突き詰めていくと、いわば「精神現象学は逆立ちしたスピノザ主義」とも考えられる。そうすれば、自己意識から絶対知へと登っていく骨組みが見えてくるのかもしれない。

ヘーゲル年表(シェリングと袂を分かつまで)

2019.4.21 増補版を作りました。そちらへ移動願います。

ヘーゲルの「前期」とは、1807年に『精神現象学』が刊行されるまでの時期を指す。精神現象学はヘーゲルのシェリングとの決別の辞であった。
前期からさらに初期を分けることもありだ。その境界はフランクフルト行きかイエナ行きか、そのへんが難しい。しかしそれはいずれにせよシェリングとの出会いと別れを以って区切られることになるだろう。
そんな経過を追求すべく足取りを追ってみる。


1770年8月27日 ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)、シュツットガルトに生誕。生地シュトゥットガルトは当時ヴェルテンベルク公国の首都であり、父ヘーゲルは公国の官僚であった。

1778年 小学校2年でシェイクスピア全集を読破。ヘーゲルの才能を愛した学校の教師が、独語訳全集をプレセントしたという。ゲーテやシラーは好まなかったとされる。

1781年 カントの『純粋理性批判』が発表される。

1785年 歴史や法律、道徳などを広く学び、ノートするようになる。

ヘーゲルの心を捉えたのはギリシア悲劇や歴史書であったという。世界における避けがたい矛盾と分裂、そして闘争を主題とする学問路線を形成する基盤となった。

1786年(16歳) 王立カール学院に入学。ギリシア・ローマ古典文化、歴史を学ぶ。


「学生時代」

1788年

9月 カール学院を卒業。卒業にあたり「トルコ人における芸術と学問の萎縮について」と題して講演。

10月 チュービンゲン大学哲学部に入学。この大学はドイツ南西部におけるルター派正統主義の代表的学府であった。哲学部ではキリスト教史に関する研究の傍ら、ギリシア文化に加えてカント哲学を学ぶ。またフランス啓蒙主義の影響を受ける。

またシュティフトの神学院で寮生活をしながら、同級生ヘルダーリンと親密な交友関係を築く。

ヘルダーリンは初期のグループを主導していた。「ヘン・カイ・パン」を唱え、「美的プラトン主義」の弁証法を主張した。ヘンカイパンは「一にして全」という意味で、万能の神は自分の内にすべての要素を備えているという神秘的汎神論。

1788年 カントが『実践理性批判』を公刊、理性に基づく道徳の体系を明示。意志の自由と人格の尊厳を主軸とした道徳理論を提示する。

1789年

7月 フランス革命が勃発。

8月 フランス革命派が人権宣言を発する。

9月 卒業生のニートハンマーが大学を訪れ、学生らと懇談。フランス革命の情報を伝える。ヘーゲルは熱烈に革命を支持しルソーに心酔した。(ニートハンマーはかなり有名な教育哲学者で、ヒューマニズムという言葉を最初に使い始めた人。最後まで残ったヘーゲルの友人)

11月 チュービンゲン公が大学を視察。学生への観察を強化するよう指示する。



1790年(20歳)

9月 哲学部教師にカント主義者のディーツが赴任。この年カントの『判断力批判』が公刊される。美と生物の合目的性を主張。
ヘルダーリンはカントに傾倒。ヘーゲルはカント哲学とキリスト教の両立を試みる。ただヘーゲルは、悟性(神学的宗教)は生きた宗教(主観的宗教)をとらえることができないという実感を持ち続けた。

10月 15才のシェリングが哲学部に入学。2級下でかつ5歳下の仲間ということになる。卒業も2年遅く95年9月まで在学。

11月 ヘーゲル、哲学部を修了し神学部にうつる。

冬 ヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングを含む10人が、神学院2階の大部屋で共同生活を送るようになる。部屋は一種の秘密結社となり、フランス革命についての禁書を読みあった(ルカーチ)

1791年

11月 オイゲン公が神学院を視察。学内規律について立腹したという。

1792年

夏 進学院内にも政治クラブが結成される。フランスの新聞を教材に討論を重ねる。ヘーゲルは最も熱心な革命支持者であった。このころ草稿群「民族宗教とキリスト教」の執筆を開始。ルソーの影響を強く受け、宗教は公的で社会的な現象とみなされ、「民族精神」とのかかわりから考察される。

ヘーゲルはキリスト教を「客体的私的宗教」と呼び批判。客体的とは押し付けられたという意味、私的とは俗物的ということ。

1793年

6月 ヘーゲルら、チュービンゲン郊外の牧草地に「自由の木」を植樹。シェリングは「ラ・マルセイエーズ」を独語訳。

夏 カントの『たんなる理性の限界内の宗教』が出版される。これまでルソー派だったヘーゲルは、これを読み抜粋を作るなど、強い影響を受ける。

「ベルン時代」

1793年(23歳)

9月 チュービンゲン神学校を卒業。牧師補の資格を取得したが、キリスト教に対する批判を強め、牧師にはならなかった。

10月 スイスの首都ベルンにシュタイガー家の家庭教師として赴く。草稿群「民族宗教とキリスト教」(第17~26篇)の執筆を継続(94年まで)。

1794年

6月 ジャコバン党のロベスピエール、「最高存在の祭典」を開催。ルソー主義に基づく国家宗教の樹立浸透を図る。

7月 テルミドールの反動。ヘーゲルは恐怖政治期のフランスに批判的な立場を強める。

94年後半 「民族宗教とキリスト教」の後半の執筆が始まる。カントの実践理性の視点からキリスト教批判が展開される。「民族宗教」の試みは事実上放棄される。

94年末 ヘルダーリンやシェリングと文通を通じて交流を再開する。

94年9月 シェリング、神学校を卒業。フィヒテの忠実な紹介者、支持者として頭角を現す。

12月 ヘーゲルからシェリングあての手紙。「ロベスピエールの奴らの破廉恥極まる所業」が裁判で暴かれたと伝える。

1795年

1月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「神の国よ、来たれ!われわれは、何もせずに手をこまねいていてはなりません。・・・ 理性と自由はいまだにわれわれの合言葉だし、われわれの一致点は見えざる教会だからです」

2月 シェリング、「哲学一般の形式の可能性」を執筆。ヘーゲルにも送付する。
シェリングのヘーゲルへの手紙「ともかく人格神という正統派の神概念は我々には存在しない。ぼくはこの間、スピノザ主義者になった」とし、キリストとの関わりを断ち切れないヘーゲルを強烈に批判。

4月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「カントの体系とその最高の完成から、ドイツに革命が起こることを、僕は期待する」

5月 「イエスの生涯」の執筆に取りかかる。シェリングの批判を受け、“神性とは実践理性(カント)を行使すること”という結論に到達する。

7月 「イエスの生涯」を完成。引き続き「キリスト教の既成性」の執筆にとりかかる。

7月末 シェリング、『自我について』、『哲学書簡』などを発表し、ヘーゲルにも送付する。

7月末 ヘルダーリンが母校を訪れ、シェリングと面談。シェリングからフィヒテを勧められ、研究に着手。

8月末 ヘーゲル、シェリングあての手紙で、自らの孤独な境遇を訴える。

11月 「キリスト教の既成性」がほぼ完成。カントの「実践理性の要請論」の立場は理性の無力の告白に他ならないとし、道徳論の「定言命法」が持つ「既成性」を見るようになる。

既成性はPositivitaet の訳。実定性とも訳すが余計わからない。前向きという意味ではなく「既成政党」の既成。“形骸化”に近いネガティブな言葉。

11月 シェリング、チュービンゲン大学を卒業。「キリスト教の実定性」の執筆に取りかかる。(ヘーゲルの「キリスト教の既成性」との内容的関連は不明)

1796年

1月 ヘルダーリン、大学時代の盟友だったシンクレアの紹介で、フランクフルトで家庭教師の職を得る。

4月 シェリング、家庭教師の職を得、ライプツィヒに転居。ライプツィヒ大学で、3年にわたり自然学の講義を聴講する。

夏 「キリスト教の既成性」を脱稿。

宗教は、本来自由から生まれるべき道徳法則を、我々の外にある存在から与えられたものとして提示している。このような既成的宗教は人間の道徳的自立性の廃棄を意味する。

秋 ベルンの家庭教師の職を辞し、生地シュツットガルトに戻る。軽度のうつ状態に陥る。


「フランクフルト時代」(政治の時代)

1797年

1月 ヘルダーリンの誘いで、フランクフルトに移動。馬市商人ゴーゲル家で家庭教師の職に就く。

4月 ヘルダーリン、「ヒュペーリンオン」第一部を発表。

4月 シェリングが『自然哲学へのイデーン』を発表。ライプツィヒ大学での自然科学の知識を元にして、「有機体」概念を中核に、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。

ヘーゲルはこれを、「シェリングの客観的観念論は、カント・フィヒテの自由の観念論から脱皮し、宇宙を神的力の自然的活動として把握したもの」と評価する。

冬 イェーナ大学哲学部助教授だったニートハンマーがシェリングの招聘を計画。

1998年

4月『カル親書注解』を匿名で刊行。ベルン時代に書かれたもの。カルはベルン出身の民権派弁護士でベルン政府の抑圧を受けていた。

夏 ヘーゲル、カントの「人倫の形而上学」を研究。これに基づいて「キリスト教の精神とその運命」の執筆を開始。「カントと離婚してキリスト教と婚姻」したとされる。(執筆時期には諸説あり)

カントは「分離するという悟性の本性、決して満たされることのない理性の果てしのない努力、思惟の分裂、世界観の超越性」などの化身と、三行半を突きつけられるに至る。義務道徳は、むしろ道徳的自律を妨げる宗教の律法に比せられるようになる。

10月 シェリング、イェーナ大学哲学部の助教授に就任する。このときの教授はフィヒテだったが、無神論論争に巻き込まれていた。

シェリングは、絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力があるとし、フィヒテの顔を立てつつ自説を展開。

1799年

1月 父の死により遺産を相続。

2月 スチュアートの「国民経済学」(独訳)の読書ノートを作成。(5月まで)

イギリス国民経済学の研究から、1.労働が共同生活を歴史的に形成する。2.労働手段(道具や機械)が人間と自然を媒介する。3.言語が人間と人間を媒介する。4.分業と機械化は全一な人間性を分裂させる。などの規定が抽出される。

11月 ブリュメールのクーデター。ナポレオンが権力を握る。

7月 フィヒテは論争に破れイエナ大学を去る。シェリングが教授となる。

1800年(30歳)

9月 シェリング、フィヒテを否定的に受け継ぐ形で『先験的観念論の体系』を発表。「同一哲学」を提唱する。

「産出的な自然」の概念を基礎に、精神と自然との絶対的な同一性を原理とする。超越的な絶対者の自己展開を叙述する学として定式化。

9月 ヘーゲル、この頃「1800年の体系断片」を記述。

11月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。仕事と研究のための機会を依頼。同時に自己の思索の体系化を目指す意気込みを語る。二人は、ヘルダーリンのロマン主義より強固な論理を求めることで一致したと言われる


「イエナ時代」

1801年

1月 ヘーゲル、シェリングに招かれイエナ大学の私講師となる。共同研究をおこないカントとフィヒテを批判。「哲学的」協業を開始したといわれる。

5月 シェリング、「私の哲学体系の叙述」を発表。自然と精神との連続性を強調して、自然は眠れる精神であり、精神は目覚めた自然であるとする。これをフィヒテが批判したことから関係決裂。

10月 ヘーゲル、「フィヒテとシェリングとの哲学体系の差異」を発表。フィヒテのいう絶対的自由は抽象的・無規定的だとし、人格同士の共同は自由の制限ではなく自由の拡張であると主張。

「存在は非存在の中へ生成される。有限なものは無限なものの中へ生成される。哲学の課題は、それらの過程を生として定立するところにある」(このくだりは法の哲学の冒頭でも使われている)

1802年

1月 シェリングとヘーゲル、共同で「哲学批判雑誌」第一巻第一分冊を刊行。主なヘーゲル論文に「哲学的批判一般の本質」、「常識は哲学を如何に解するか」、「懐疑論の哲学に対する関係」、など。

3月 第一巻第二分冊が刊行される。

7月 第二巻第一分冊が刊行される。ヘーゲルの「信と知」が掲載される。

「信と知」において、カント,ヤコービ,フイヒテの三者は「反省哲学」の下に一括され、二元論的世界観を批判される。
二人は反省哲学を、「有限なものを絶対化し、その結果、無限なものとの対立を絶対化し、その結果、無限なものを認識不可能として彼岸に置きざりにする」と非難。

1803年

5月 保守派と対立したシェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去りヴュルツブルグへと移る。シェリングの転居をもって『哲学批判雑誌』は終刊。翌年、ニートハンマーもヴュルツブルグへと移る。

冬 「思弁哲学体系」の草稿が完成する。

直観と概念の相互包摂を通して、理念(イデー)が展開される。ヘーゲル弁証法の第一論理。絶対者の運動は、実体的統一から対立・差別を通じて再統一に至る。ヘーゲル弁証法の第二論理。

1804年

冬 「思弁哲学(論理学・形而上学)・自然哲学・精神哲学」の草稿が完成。

1805年

2月 ヘーゲル、ゲーテ(イェナ大学のパトロン)への陳情が奏功し、私講師から助教授(員外教授)に任じられる。シェリングとの立場の違いが次第に明らかになる。

5月 シェリング、ミュンヘンに移住し学士院会員となる。

12月 アウステルリッツの戦い。ナポレオンが神聖ローマ帝国軍を撃破。

1806年

2月 『精神現象学』が出版社に回る。歴史意識を概念的に把握することを主題とする。シェリングを厳しく批判する内容となる。(この本が世に出る過程には幅があるようだ。後ほど調べる)

正式題名は“「学の体系」第一部に基づき、精神現象学を序文とする思弁哲学(論理学および形而上学)、自然哲学、および精神哲学、哲学史”という超長ったらしいもの。ヘーゲルは自著紹介で、これは第一巻であり「精神現象学」と呼ばれるもの。このあと第二巻「思弁的哲学としての論理学と、残りの哲学の2部門自然の学と精神の学徒の体系を含む」と告知している。

7月 西南ドイツ諸国がライン連邦を結成、神聖ローマ帝国からの脱退を宣言。間もなく皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国は消滅。

9月 ヘーゲル、イェーナ大学での実質的な最終講義。

10月13日 イエナ会戦。プロイセン王国がナポレオンに敗北。イエナは占領されイエナ大学は閉鎖される。ヘーゲルは行進中のナポレオンを目撃。「馬上の世界精神」と評する。

10月 ヘーゲルは職を失う。(形式的には1808年まで所属)

11月 バンベルクに避難して「精神現象学」の最終校正を行う。

1807年

1月 ヘーゲル、シェリングに手紙を送りバイエルンでの就職斡旋をもとめる。

3月 ヘーゲル、日刊バンベルク新聞記者となり赴任。

4月 精神現象学(正式には「学の体系・第一部:精神の現象学」)が上梓される。「序言」でシェリングを闇討ち批判する一節。

シェリングの「同一性の哲学」は、絶対者を直観によって把握し、これを始源に置く。ヘーゲルはこれを以って「全ての牛が黒くなる闇夜に、ピストルから発射されでもしたかのように、直接的に、いきなり絶対知から始める」と嘲弄。動因としての主観を強調する。

11月 シェリングより抗議の書簡。返答をもとめるがヘーゲルは無視。このあとヘーゲルとシェリングの文通は終了。

ヘーゲルが批判したのはおそらくシェリングと言うよりスピノザだったのだろう。ただしヘーゲルのスピノザ理解度が問われるという側面もある。

「ニュルンベルク時代」

1808年(38歳)

5月 バイエルンの教育監となったニートハンマーが、ニュルンベルクのギムナジウムの校長の職を斡旋。

11月 バンベルク新聞編集者を辞任。ニュルンヘルクのメランヒトン高等学校の教授兼校長として赴任。上級クラスで哲学的予備学と数学、中級クラスで論理学を教える。



参考資料



上妻 精 他 「ヘーゲル 法の哲学」(有斐閣新書) 

武田趙二郎 「若きヘーゲルの地平」〈行路社)

現代思想「総特集=ヘーゲル」青土社 1978

シェリングについては下記の記事を参照のこと

2018年03月04日  シェリング 年譜
2018年12月21日  「弁証法的実在論者」としてのシェリング

カントはスピノザから何を受け継いだのか、スピノザ→カントという流れは哲学史の主流なのだろうか。

以上のことが知りたくて、少し文献をあたってみたが、端的に言って状況は絶望的だ。

なにか意味のある教えはほとんどない。しかし情報量だけはものすごい。

二人の関係について書かれた文章は、すべて超難解だ。真剣に知りたいと思う人にとって、説得力のある文章とは思えない。

つまり、早い話が二人に意味のある関係はないということだ。スピノザがカントを知るわけはないから、カントがスピノザからどれくらい影響を受けたかということになる。

これだけ奥歯にモノの挟まった言い方が並べられると、「要するに関係ないんですね」ということになる。

ある人は問わず語りに面白いことをいっている。

大局的に見て、カントとスピノザの間にどのような関係が成立しているか、という点に新しい照明を当てることである。
カントとスピノザの間に「第2スコラ哲学」という共通した背景をおくことで、この問題を考えることができるだろう。

まさにそこにあるのは「スコラ哲学」そのものなのである。

後は哲学者たちの飯のタネみたいなゴシップ話だ。以前言語学でやったソシュールとか構造主義の属と同じだろう。

率直に言って、カントの道徳感(というよりケーニヒスベルクの道徳感)は、スピノザの倫理観よりはるかに古色蒼然としたものだ。スピノザに文句言えるような立場ではない。

もう少し自分でネタ探ししてみたいと思うが、結局スピノザの問題意識は、シェリングとヘーゲルが「カテゴリーの自己展開」を試みる時代まで発展されることはなかったのではないか、という気がしてきている。

とりあえず、「近現代哲学の虚軸としてのスピノザ」を参照のこと

エチカ(Ethica)の摘要

すみません。原文を読まず解説本をまとめただけのものです。自分の心覚え以上のものではありません。

1.自己原因(causa sui)

エチカは「自己原因」という概念の定義から始まる。

万物に原因がある。これをたどっていくと、それ以上探求することができない究極的な原因につきあたる。これが自己原因である。

この自己原因は、事物・自然・神と等しいとされる。

“Causa” はもともと悪い意味だ。「…のせいだ」みたいな響きがある。破門のことが念頭にあるかもしれない。

同時に“Causa”は「大義」という意味にも発展していく。多分両方かけているのだろう。

それでは事物・自然・神はどのような関係にあるのだろうか。

2.「神即自然」: 自然は神の様態の一種である

神はさまざまな形で論証されてきた。それはそれとして、自分は自分なりに“ユークリッドのように”論証してみたい。

神は無限の属性を備えており、自然も万物も無限の属性を備えている。なぜか。
それは神が備える無限の属性が、自然・万物の様態として表されているからである。

自然のうちには一つの実体しかない。それが神である。それは絶対に無限なものである。
然るがゆえにあらゆる事物は神の属性である。

神の思うままに自然世界は存在する。これがスピノザの「神即自然」という概念だ。

しかし、この断言はただちに疑問を引き起こす。
それは「自然は無限なのか」ということだ。もし無限であるならそれは神である。「自然即神」だ。それはかぎりなく唯物論だ。

スピノザは火炙りになるのが怖くて、「神に規定されるがゆえに自然は有限だ」と、“言い繕った”のかもしれない。

実際、スピノザは、18世紀のドイツでは無神論者として受け取られた。

3.「汎神論」: 万物は“大きな神”の一部である

神は超越的な創造者ではなく、自然の諸物の中に内在している。あらゆる事物にとって、神の内在は必然である。

自然の諸物は相互の関係の中で変化している。事物相互の関係は巨大なネットワークを形成する。このネットワークはその中で完結している限りにおいて、神そのものである。

その故に万物は精神性を具備し、“大きな神”の一部を形成する。これが「汎神論」ということである。

これは八百万の神様に慣れ親しんできた日本人にはまことにわかりやすい論理である。ただスピノザの「神」は、そういう物神崇拝的なアニミズムとは違う。万物を貫くのは唯一神である。

だからいずれは唯一神を論証する方向に収斂しなければならないであろう。

4.人間も神の属性の一つ

人間は精神(=意識)と身体に分離される。故に人間は有限である。故に神の属性の一つとして理解される。

人間は自然の一部ではあるが、自然そのものではなく、自然に規定された存在である。人間は、自然の無限の属性に規定されている。さらに自然は神の無限性から派生する、

5.人間の感覚と精神

エチカ第3部で、スピノザは人間の感情を論じている。

前の段落で明らかにしたように、人間は精神(=意識)と身体に分離される。

感覚は身体活動の表現である。それは自然の必然性、自然の力から生じてくる。したがって感覚には自然的原因がある。

人間の身体は自然によって左右される不完全な存在である。感覚的経験に基づいた認識には妥当でないものが内包される。

一方において人間は神の精神を表現している。それは人間が自然に抗い、生き延びる努力として示される。精神は自己の「有」に固執する。これが自己保存の努力であり、人間の本質にほかならない。

その努力が身体に向かえば、それは衝動となり、それが意識に反映されれば欲望となる。

6.「自己保存」の努力: Conatus sese conservandi

ここから先はちょっとややこしい。原文では「自己保存」の努力(Conatus sese conservandi)とされており、良くわからない。

悲しいことに多くの解説を読むと、さらに分からなくなる。

とくに「自己防衛」が神の精神だというと、ちょっと独断的な自己の押し出しが気になる。デカルト的な匂いもする。

國分功一郎さんがNHKの「100分 de 名著」で、うまく解説している。

すべての事物は常に変化しておリ定まるところがない。しかし事物は、変化すると同時に、変化のなかで自己の存在を維持している。この「同一性維持の傾向」が本質となる。

と、非常に納まりのいい解釈をしている。文章にすると、「私が日々の移ろいの中で私であり続けること」、そのための努力を指す言葉だということになる。

ただしこのコナトゥス=ホメオスターシスという解釈があたっているかどうかは、確信は持てない。


7.「善と悪」の基準

自然のうちには、善悪というものはない。だから善悪の判断は意志、欲望に先立つものではない。何者であれ、自分以外の他者に善悪の基準を委ねるのは間違いだ。

各々の人間が欲望を果たすための行動を取るとき、その行動の基準が、人間にとって善の基準なのだ。そしてそれは欲望の強さとの関係で相対的に規定されるものだ。

さらに言えば、人間の行動は自己保存の本能によって規定されている。それは神の指し示すものだ。

5.理性と直感知(Intuitive knowledge)

人間は理性を獲得できる。理性を獲得すれば自ずから真理を獲得できる。

真理を獲得したことは、「その真理を獲得することにより自分が変わった」、という実感をいだくことによって確認される。そして理性により神を認識する直観知を獲得することができる。

言葉にすると良くわからないのだが、日常生活の中で突然コツを掴んでしまうようなことがあるが、そのことを言っているのだろう。ある動作について論理的・演繹的認識が直感型、パターン型認識に移行する経験を指していると思う。

6.人間が成長するということ

成長するということは直感知を獲得して自由人となることである。

自由というのは、好きなものを選ぶということではない。行為のうちで自己のあり方がよりどれだけ多く表現されるかの度合いだ。

つまりある人がある行為において、どのくらい自己を表現できるか、そのためのスキルをどれだけ獲得したかが、自由であるか否かを規定する。

スピノザ 年譜

1632年11月24日 バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza)、アムステルダムに富裕な貿易商の子として生まれる。

父親はポルトガルを逐われてオランダに住み着いたユダヤ人。スピノザも母語はポルトガル語だった。

ユダヤ人学校でヘブライ語を学び、旧約聖書を研究する。著作はラテン語によるがこれも独学だった。

1656年7月(23歳) アムステルダムのユダヤ人共同体から異端として破門される。

追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。スピノザはレンズ磨きによって生計を立てたと言われる。

1662年 ボイルと硝石に関して論争した。

1662年 エチカの執筆を開始(30歳)。

1663年 最初の著作『デカルトの哲学原理』が出版される。

スピノザは「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」を、「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈した。

1664年 オランダ共和派のヤン・デ・ウィットと親交を結ぶ。デ・ウィットはオランダの事実上の政治指導者(ホラント州法律顧問)であった。

1670年 匿名で版元も偽って『神学・政治論』を出版した。

超越した存在者を一切認めないと表明。国家の目的は個人の自由にあると主張する。

未完の「国家論」では、国家は専制政治を避け、国民の平和と自由を保持しなければならないとし、そのための方策を論じている。

1672年 盟友ウィット、対英仏戦争で民衆の怒りを買い虐殺される。スピノザの身辺も怪しくなる。

1673年 ハイデルベルク大学教授に招聘されるも辞退。

1674年 『神学・政治論』が禁書となる。

1675年 執筆に15年の歳月をかけた『エチカ-幾何学的秩序によって証明された』が完成。弾圧の恐れから出版を断念。

1676年 ライプニッツの訪問を受けたが、共感するに至らず。

1677年2月21日 スピノザ、肺病のため療養先で死去〈44歳〉。遺骨はその後廃棄され墓は失われる。

1677年 「エチカ」が友人の手により刊行された。

迷信家たちは、徳を教えるよりはむしろ罪悪を非難することを得意とする。
彼らは人々を恐れによって抑えておこうと努める。
迷信家たちは、その先に何も持っていない。
ただ自分たち以外の人を、
「自分たちと同じようにみじめなものにしておこう」と思い込んでいるだけだ。

(彼を破門したユダヤ教のレビたちへのメッセージ)

一ノ瀬秀文さんが亡くなったそうだ。
96歳だから、もう惜しいとは言えない歳だ。昭和19年に大阪商大事件で治安維持法違反。生き延びたのが不思議なくらいの人だ。
昭和37年に「経済」という雑誌が創刊されて、常連執筆者だった。
巻頭論文を30ページ位書いて、「この項つづく」と予告しながら、続編が載らなかったことも一度ならずある。
経済2号

多分、「おもろいおっさん」だったのだろうと思う。文章はたしかに我々ごときシロウト学生にもそう思わせるところがあった。



一ノ瀬さんの「現代の帝国主義をどうとらえるか」

という文章は、その「面白さ」が溢れ出るような文章だ。要約を紹介しておく。

革命運動にとって,これまでとは違う政治的,社会的情勢が現れたとき,それはなぜか,その客観的条件の本質的変化を解明する必要がある.

1.「グローバリズム」は帝国主義のあらたな一段階

資本主義の,帝国主義のあらたな一段階としてとらえる.とりわけ金融資本,独占資本,これと融合した国家機構のあらたな一段階としてとらえる.

多国籍企業の支配を基本的カテゴリーとし,多国籍企業こそ現代帝国主義の本質とする論者がいるが,これは間違い.

多国籍企業は,各国の金融資本によるトラスト形成を現象面から見たものに過ぎない.それは,各国国内での競争とカルテル形成の延長線にあるものとしてとらえるべき.

金融独占資本が存在する限り,その政治的代理人としての国家・政府はなくならない.さらにドル基軸体制という,一種の「フィクション」を支えているのも諸国家=独占の意思に基づいている.

とりわけ問題になるのは,「自由競争には民主主義が照応し,独占には政治的反動が照応する」というテーゼの現代的解明.

2.アメリカ覇権主義の再確立としてみる

第二次大戦後のアメリカ覇権主義の確立,その動揺と,ソ連崩壊以降の覇権再構築という三つの段階のなかで読みとっていく.とくに「動揺期」の客観的分析が必要.

この期間,米国の動揺にもかかわらず,資本主義はむしろ史上最大規模の発展を遂げた.そのための武器は覇権主義の確立のために創設された各種国際機関(ブレトン・ウッズ,国連,OECDその他)と,ドル基軸通貨体制だった.

第二次大戦後の変化は主要にはアメリカ覇権主義の確立であり,社会主義体制の出現ではない.

3.情報や金融技術はアメリカの創業者利益である

現在のアメリカの好況はコンピュータや情報などの面におけるアメリカの圧倒的優位にもとづく,一種の創業者利益である.それは産軍複合体が生み出した民生面での貢献である.

クリントン政策や,グリーンスパンの成功によるものではない.露骨な経済覇権主義はむしろ米国の支配基盤を弱めている可能性がある.


グローバリゼーションの四つの意義

1.一般的意味としての「国際化」という意味では,戦後の経済体制がそもそもグローバル化を目指したものである.その意味ではこと改めて強調するものではない.

2.グローバル産業(多国籍企業)の出現ととらえることもできる.しかしこれは,国際的なトラスト形成ということに本質があり,各国独占資本の利害調整の側面をしっかり見ておく.

3.情報,交通手段の発達を基礎に,金融資本そのものの国際化が進んだ.金融資本が世界を相手に取り引きできる技術的能力(バクチ的能力)を獲得した.いわゆる生産力レベルでの国際化.

4.世界の1/3をしめた社会主義圏の崩壊と,市場経済の組み込みによる海外市場の爆発的拡大.既存の地域共同市場の自由経済化.

 
「そのとおり!」と叫びたくなるところと、「うーむ?」というところが混じっていて、刺激的な文章だ。
コンピュータや情報などの面におけるアメリカの圧倒的優位にもとづく,一種の創業者利益 という表現はシュンペーターを思わせる。

 シュンペーターの生涯

1883年2月8日 モラビアのトリーシュという小さな町に,織物工場主の子として生まれた。

1887年,父が死去する。

1893年 母ヨハンナが退役将軍のフォン・ケラーと再婚する。シュンペーターは,ウィーンの貴族の子弟向け教育機関にはいる。

1901年 ウィーン大学法学部に入学する。ベーム・バヴェルクの講座に入る。学友にバウアー,ヒルファーディング,レーデラー,ミーゼスら。

1911年  グラーツ大学教授に任命される。

1912年 『経済発展の理論』を出版。5項目の“イノベーション”を提起。①新商品②新工法③組織改造④新市場⑤新仕入先。
金融資本のイニシアチブを重視する点でヒルファーディングと比肩される。

1913年 アメリカのコロンビア大学に交換教授として滞在。米国経済学者と交流。

1919年3月 オーストリアに社会主義政権が成立。学友バウアーの推薦により財務大臣に就任する。財産課税の導入,通貨価値の安定,間接税の導入を柱とする財政計画を献案するも6ヶ月で政権崩壊。

1921年 グラーツ大学教授を辞任し、ビーダーマン銀行の頭取に就任する。

1924年 株式市場の崩壊により銀行経営が破綻。シュンペーターは頭取を辞す。

1925年 ボン大学の財政学講座の教授に就任。ドイツに移住する。
1926年 『経済発展の理論』第2版を出版する。「企業者利潤・資本・信用・利子および景気の回転に関する一研究」という副題を付す。

1927年 ハーバード大学の客員教授となる。

1931年 初来日し、各地で講演。

1932年 ボン大学教授を辞任しハーバード大学教授に就任する。このとき51歳。
主な学生・院生にポール・スウィージー、サミュエルソン、ガルブレイス、トービン、ソロー(芝田敬、ランゲらはゲスト学者として位置づけられる)。

1934年 ハーバード大学の7人の経済学者がニューディール政策への批判を発表。シュンペーターは「不況(リセッション)は必然で、イノベーションが模倣を呼び、超過利潤がなくなって不況にいたる調整過程にすぎない」と主張する。

1936年 ケインズが『雇用、利子および貨幣の一般理論』を発表。不況を高い失業率で均衡している状況ととらえ、有効需要の喚起によって解決しようとする。これを契機にして、サミュエルソンら弟子の多くがケインズ派に移行。

1937年 『経済発展の理論』が邦訳出版される。序文では「マルクスは資本主義発展が資本主義社会の基礎を破壊すると主張する限りにおいて正しい」と述べる。

1939年 『景気循環の理論』発表。「企業者のイノベーション」が初めて取り上げられる。

1940年 計量経済学会会長に就任(1年で退任)

1942年 『資本主義・社会主義・民主主義』を出版する。資本主義は、成功ゆえに巨大企業を生み出し、それが官僚的になって活力を失い、社会主義へ移行していくという主張を展開。ベストセラーとなり、「創造的破壊」が流行語となる。

1948年 米国経済学会会長となる

1949年 国際経済学連合会長に選出

1950年1月8日 シュンペーター、脳出血のため死去。享年66歳。

1954年 夫人の編集による『経済分析の歴史』が発行される。

1818年からベルリン大学で『法の哲学』を連続講義し、これが出版される。死後にヘーゲルの講義の受講生が編集した解説や補遺が加えられる。

ヘーゲルの“体系フェチ”にいちいち付き合う必要はない。人間の欲望に基づいて社会が発展していくことを押さえておけばよい。

肝心なことは次の点にある。

市民社会は“市場においてもたらされる欲望”に基づく労働の体系だ

ただし労働というのは賃労働のことではない。諸個人の自己陶冶の活動だ。欲望というのも本能的欲望ではなく社会的欲求を指す。

ヘーゲルはここで明らかに聴衆を煙に巻こうとしている。ここから我々は本質をつかみ取る必要がある。
動物の欲求は生理的レベルに制限されているが、人間の欲求はそれを超えており、生理的制限を解き放ち発展させることができる。欲求は多様化し可変的となる。その多様化と可変化は市場が生み出す。
ここがヘーゲルの社会的欲求論のキモである。
この後議論は、「市民社会と国家が2階建て構造を形成している」という方向に移っていく。
国家は欲望の体系を包摂しながら市民社会の利己性を監視する。また対外的には、国際社会における特殊性を実現する。
国家の称揚は、アダム・スミス(見えざる手)の否定のように聞こえるが、そこには多分に国家権力へのリップサービスが混じっているようだ。


フランス革命のスローガン、自由平等はわかるが博愛というのがわからない
わからないなりに考えていく上で、2つの前提がある。

博愛は自由と平等なしには実現し得ないものではないか

だから自由と平等を犠牲にしてまで目指すものではないのではないか。博愛は自由と平等を土台にして、それを乗り越えていく形でしか実現できないのではないか。

これが第一の前提

2つの乗り越えの複合としての博愛

自由の延長あるいは“乗り越え”としての博愛は、万人の自由の尊重である。それは「尊厳」と表現される。
平等の“乗り越え”としての博愛は、「法の下での平等」にとどまらず、すべての生活分野での不平等の拒否である。それはまず「差別」の拒否として表現される。

これが第二の前提である。

博愛の考えが社会主義をもたらした

この2つの前提のもとでの「博愛」の主張、これが社会主義の原点になるのではないだろうか。それを余儀なくさせた社会状況の変化。貧富の格差の新たな展開が社会主義の考えをもたらしたのではないだろうか。


金融資本は金貸し階級の「否定の否定」なのか?

マルクスは中世から近代資本主義への脱皮を、重金主義・重商主義の廃棄と産業資本家の勃興として描いているが、正確にはどうなのだろうか。

資本論第三部の描写にはそれとは違う金融資本家が登場するが、それは金貸し階級の「否定の否定」なのか、それとも産業資本家の巨大な富を吸い取った金貸し階級の発展形なのか、この辺がどうもよく分からない。

日本でもたとえば元禄時代に様々な金融技術を生み出し反映した大阪の商業資本がどういう運命をたどったのか。それは大正から昭和初期の大阪資本の反映と地下水脈を通じてつながっているのか、この辺もよく分からないところである。

ゾンバルトの「ユダヤ人と経済生活」

湯浅赳男さんの「ユダヤ民族経済史」という本が、ゾンバルトの「ユダヤ人と経済生活」という本を紹介している。
ゾンバルトの主張は「中世~近世の国際商業資本」がどういう動きをとってきたか、それは近代資本主義にどのような影響を与えてきたかを知る上で示唆的なものだ。

「ユダヤ問題」というセンシティブな論点をふくんでいるので、ここでは「中世~近世の国際商業資本」と読み替えて、ポイントを探っていきたい。

ゾンバルトによれば、生成期の国際商業資本には3つの特徴があった。
第一に、自らが築いた国際ネットワークが唯一の国際商業の手段であり、彼らはノウハウを独占していた。
第二に、彼らは羨望と嫉妬の的ではあっても、尊敬の対象ではなくつねに経済外的強制のもとにあった。
第三に、彼らの資産は危機に備え、つねに動産の状態(過剰流動状態)に置かれていた。

資本主義の生成期に「国際商業資本」の資本が投下された主要な分野は、①国際商品取引、②アメリカ大陸の植民事業、③軍需品の納入、の3つであった。

これらの歴史的要因の結果、現代資本主義のもう一つの側面、「高度な市場化」がもたらされた。
ゾンバルトはこれを「国民経済の取引所中心化」と呼んでいるが、多少長ったらっしい。

「高度な市場化」の3つの要素

「高度な市場化」は3つの要素からなっている。
第一は、信用の事物化とその請求権の証券化である。具体的には裏書手形、株式、銀行券、無記名債務証書である。
第二は、証券の流通化である。具体的には証券(請求権)の取引所での売買である。
第三は、証券の発行を固有の業務とする企業の成立である。

一言でいえば、それは人間関係の対象化・事物化であり、信用関係の有利証券化である。それは第三者に譲渡可能な「裏書手形」の出現を持って完成した。
この貨幣と信用にかんする一連の進化過程は、17世紀のオランダで発展したと言われる。

湯浅さんのゾンバルト批判

このようなゾンバルトの所説を紹介した上で、湯浅さんはこのような「国際商業資本」があったのは事実だが、それがユダヤ人資本だとは言えないとしている。
なぜなら歴史的事実に即して、ユダヤ人資本が世界に影響を与えるようになったのは19世紀中頃のことに過ぎないからだ。

もう一つ、やや専門的な用語で彩られた「高度な市場化の3つの要素」は、これもまた「高度な市場化」の結果として登場したものであって、それ自身が「高度な市場化」の内容ではないということである。

ただ、それらが巡り巡って「高度な市場化」を加速させたことも間違いがないところなので、「特徴付けとしては面白いんじゃないか」、というのが湯浅さんの結論である。

とはいえ、証券の流通→取引所の発生→証券発行会社の設立という過程は、「あたりまえじゃん」と言うだけの話にも聞こえる。

重商主義から重農主義へ

ケネーを中心とする年表

1628年 ウィリアム・ハーヴェイ、血液の体系的循環を発見。それまで、血液は心臓から消費器官までの一方的な流れと考えられえていた。

体液の循環説は、経済が再生産を通じて循環しているというケネーの発想を生んだ。

1694年6月4日  フランソワ・ケネー(François Quesnay)が生まれる。

1700年ころ ルイ14世の絶対王政のもとで、コルベールによって重商主義政策が推し進められる。

1718年 病院での修行の末、外科医を開業。

1737年 外科アカデミーの終身事務局長に任命される。(43歳)

1744年 薬学博士の免状を得て、国王の常勤内科医となる。

1749年 ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の侍医となり、ヴェルサイユ宮殿で働く。宮殿の「中2階」に居住し、そこは革新的な科学者,思想家たちの集まる場となった。

1750年ころ フランスの国家財政が破綻に直面する。
重商主義は貨幣を富の形態として考えていた。商品は富の原資だが富そのものとは考えられていなかった。そのため、貨幣を稼ぐことを唯一の目的とする保護貿易に終始した。このため貿易はゆがみ、国内産業は弱体化し、生産は伸び悩んだ。

1750年ころ ケネーは重商主義批判の立場から、経済学の勉強を始める。(56歳)

ケネーは血液循環と同じように富という血液が心臓から送り出され、また戻ってくるという循環を繰り返すと考えた。そして農業こそが心臓にあたると考えた。

1756年 『百科全書』第6巻に「明証性」と「定額小作農」の2つの記事を執筆。

1758年 ケネー、『経済表』(Tableau économique)を出版。(63歳)

コルベールの重商主義を過度の統制として批判。農業生産を基本とした自由な貿易によって経済を発展させる方針を提起した。自由放任主義・重農主義と呼ばれる。
その際に論証の材料として再生産表を発表した。これは社会を生産階級(農民),地主・支配階級,不生産階級(商工業者)にわけ、階級間の取引を分析することで生産と取得の循環を解明しようとするもの。 

1760年代 重農主義思想に影響されて、「穀物取引の自由」や「土地囲い込み」をもとめる運動が盛り上がる。
この運動は富農、産業資本家の経済的自由を後押ししたが、いっぽうで農民層の没落ももたらした。

1765年 アダム・スミス、パリに1年間滞在する。ケネーや信奉者と面識を持つ。

1774年12月16日 フランソワ・ケネーが亡くなる。80歳。

1774年 「財務総監」のテュルゴーが重農主義に基づくプログラムに着手。貴族たちの抵抗で混乱。

1776年 アダム・スミス、国富論を発表。

「経済表は、文字と貨幣と並んで、国家社会の安定に最も寄与した3つの偉大な発明品の1つである」と紹介

蓄積資本の概念,固定資本と運転資本との区別などもケネーの学問的功績とされる。

1776年 テュルゴー、農村の賦役と都市のギルドを撤廃するよう提案。国王はテュルゴーを解任。



ケネーの言葉(ケネー『経済表』より)

土地が富の唯一の源泉である。そして富を増殖させるのは農業である。そこにこそ、王国の行政の成功が依存している。
主権者と国民は、このことをけっして忘れてはいけない。

農業の振興は富の増加をもたらす。そして人口の増加を保証する。
人間と富が増加すれば、農業は繁栄し、交易は拡張し、工業は活気づく。
それは富の増加を永続させるのである。

「富の源泉」を考えるきっかけ
はるか昔のことだが、高校3年生の世界史の授業で、ケネーの農業表というのを習って感心したことを覚えている。
「おお、世界の富というのはこういうふうに作られるのだ」
ところが、次にアダム・スミスの講義になると、すべての富は労働によって作られるのだというふうに発展される。
これも「なるほど、たしかにそうだ」と思ったが、なんとなく眉唾の感じもあった。
農業は春に種をまくと、秋には麦粒が撒いた量の100倍になった戻ってくる。そこにはたしかに富が増えたという実感がある。
ところが工業というのはたしかに形を変えたりして使い勝手は良くするが、原料(元の富)そのものの量が増えたわけではないよね、というトゲが残るのである。
スミスはケネーの弟子筋に当たるようだが、ケネーがこれを聞いたらどう思うだろうかというのが気になる。
別に封建時代の人間ではないのだが、昔からある士農工商という身分制度が気になって、やはり農業が富の根本で、工は補助的な役割で、商は稼ぎもしないで人を騙して暮らしているみたいな気分があったのかもしれない。

剰余価値説はまずもって労働価値説だ

農業以外は価値創造を認めない人というのがいて、これには二通りあって、一つは神様以外に価値の創造者を認めないというウルトラの人たちだ。価値と人間が呼んでいるものは、人間の欲望が「価値」として結実した幻想に過ぎないことになる。
これはたしかに一理あって、富といえば金銀財宝を思い浮かべる人に対して、そんなものは社会が生み出した幻想なのだ、というのは正論である。

もう一つが、農業は神の恵みを価値に転化できるから富の源泉として認めてもよいが、それ以外は手慰みであって価値を創造しているわけではないというのだ。
しかし職人たちの仕事は明らかに価値を創造している。機を織ったり毛皮を鞣したりするのは、ほとんど農業の延長だ。もし農業が富の源泉であるなら、生活必需品に関する生産労働も同じではないかということになる。

価値とは使用価値であり、労働とはモノづくり労働だ

使用価値でない価値はありえない。剰余価値はモノづくり労働で初めて生まれる。

剰余価値を労働価値説の流れで把握するというのは、労働イコール物質的生産活動と定義することだ。ここを外して階級関係の中でのみ捉えると、話がとたんに見えなくなる。

労働の過程で付加された使用価値、これが剰余価値の原型となる。
これは資本主義的生産システムの中で、引き算として示されるようになる。なぜなら労働力もが商品化されるからだ。そういう“擬制”のなかで示された労働価値なのだ。

物質的生産労働以外の労働は別個に検討されるべきだ

剰余価値概念への批判は、物質的労働以外の労働をもふくませることから生じる。今日ではそういう労働のほうがはるかに多くなっている。
非物質的労働の範囲は運輸・建設などから始まって商業・金融まで広がっている。さらに教育・医療・福祉など以前は専門職とされた分野までもふくまれ、現実の労働運動の主人公となりつつある。

これらの分野における剰余価値→搾取の問題は別個に論じるべきだと思う。

資本論第2部の第8項に至る改訂稿の検討がこれだけ進むと、第3部をそのまま読む気がしなくなる。
第1部で第2版とかフランス語版があってかなり当初の分析とは様相を異にしている。第2部についても発行には至らなかったとはいえ、66年時点での草稿とは相当変わってしまった。

この調子で書き換えが進んでいったとすれば、第3部はどう書き換えられることになったろうか、多くの人の気になるところだろう。マルクスもその期待はひしひしと感じていたに違いないが、非常にそれが気の重い仕事になっていたのだろうと思う。一気に書き下ろすのは勢いで行くのだが、それを改定する仕事は書き下ろしの3倍くらい気を使う仕事になる。だから気力の低下したマルクスは、ロシアの古い農業形態とか、別に急ぐ必要のない仕事に“逃げ込んだ”のではないだろうか。

とりあえず研究者に期待したいのは、もしマルクスが後10年元気だったら、第3部をどう書き換えていただろうかという点にある。誰かが旗振りをしてそういうテーマでシンポジウムでもやってくれるといいと思う。

もう一つは資本論に今一度、哲学的な意義を付与して、要綱マルクス的な展開をしてみるべきではないかということである。とくに消費過程・生活過程・欲望の産出過程を物質的生産過程と照応させて、人間的過程を複線化することである。

この思想的遡り作業は、骨の折れるわりに、評価が定まらない論争的なものになるので、誰もあまり手を出そうとはしないだろう。しかし哲学的にはだいじなところだ。

2018年03月04日  シェリング 年譜 を増補した。

ついでに「弁証法的実在論者」としてのシェリングについての感想

カントからヘーゲルというのがドイツ古典哲学の流れで、フィヒテとシェリングは刺身のツマ扱いになっている。とりわけシェリングの役割はほとんど扱われない。

そもそもシェリングはプレ・ヘーゲルなのだろうか。彼は早熟であったためにフィヒテの後継として登場しているが、実際にはヘーゲルとは年下の同級生の関係にある。

二人とヘルダーリンは1790年代末には共同の理論構築作業を行っていた。ヘーゲルのとりわけ初期著作には、一歩を先行していたシェリングの論及がかなり影響を及ぼしている。

物自体と自我

フィヒテによれば、自然を認識するためには、自我という人間精神が前提となる。
フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。

物自体へのアプローチは可能だ

なぜフィヒテが哲学を認識論として提起したか。それはカントが、物自体を認識不可能なのものと裁断したからである。
カントは人間の認識能力の限界を示して、物自体を認識不可能なのものとし、現象界と叡智界とを厳然と区別した。
だからカントのしもべたるフィヒテの出発点となる問題意識は、物自体の壁を押し広げ、叡智界を拡大することにあった。それはカントが密かに企んでいたことでもあっただろう。

自然はたんなる対象ではない

シェリングの論理も、出発点においてはフィヒテと同じく自我と考えられる。しかし彼はライプツィヒで自然哲学を学んできたために、自然をたんなる認識の対象(非我)としては捉えなくなっている。
非我にも駆動力はあるということだ。「非我も自我の芽を内包している」ということになる。

フィヒテは自然を、意識から「排除すべきもの」と考えていた。シェリングはそれを精神と同一の「実在の原理」において把握しようとした。

勢いの赴くところ、シェリングは絶対我の代わりに自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」を想定した。彼はこれを「同一哲学」と名づけた。ほぼヘーゲルだ。
「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」

それでは、自然と精神とのこの相互転換はどのようにして起こるのか。自然はどのように知として意識に取り込まれるか、自然が精神として内実化される過程はいかなるものか。

「同一」は無様だが「絶対精神」よりはるかに良い

世界を統一的な視点から説明するという問題意識は、ヘーゲルの精神現象学に連なる。ヘーゲルは絶対我の代わりに「絶対精神」の諸事象への展開として考察する。

認識論の動画を逆回しすれば現象論になるというのがシェリングが提示しヘーゲルが引き継いだ論理である。
それは世界を観念の世界から逆立ちして描き出すことになる。
しかしそれは静止画ではなく動画である。その故に機械的唯物論よりはるかにリアルである。

まだ語るべきほどのものを持ち合わせていないが、シェリングの自然哲学の弁証法的な優位性は注目すべきものがあり、誰かエンゲルスの自然弁証法と突き合わせながら展開してくれるのを待ちたい。


内田弘 『資本論』形成史における『哲学の貧困』
(専修大学社会科学年報第47号)

という論文があって、内田さんの難しいものの言い方にいささか辟易しながら読んだのだが、経哲手稿の冒頭に「剰余価値」の初出があるというのに興味が惹かれた。

じつは、剰余価値の初出があまり良くわからなかったのである。

57年草稿にはまだ出てこないと言われていたので、61年草稿(剰余価値学説史)にいたる2年間の空白の時期に発想されたのか、くらいに思っていた。

ところが内田さんによると、この言葉はすでに経哲手稿に出ているというので、多分違った意味合いで使っているのだろうと思う。

すこし内田さんの文章を引用する。
経哲手稿の冒頭は『国富論』第1編後半の賃金・利潤・地代からの抜書である。
マルクスは、スミスのいう「利潤・利子・地代」を全体として抽象=還元するための概念として、その源泉たるという言葉を導出した。
「剰余価値」はパリノートのなかの「スミス『国富論』ノート」に初出している。
とここまでのところは、スミスを読んでいる間に思い浮かんだ思いつきという書き方だ。

ところが、内田さんの議論はさらに進む。
ただし剰余価値という言葉は、マルクスの創案ではない。すでにヘーゲルが、『法=権利の哲学』で、収入諸形態の総称として「剰余価値」を用いている。
そしてマルクスは、ヘーゲルのこの本を熟読したうえで、「ヘーゲル国法論批判」を執筆しているのである。
つまり内田さんによれば、剰余価値という言葉を最初に使ったのはヘーゲルであり、マルクスの頭にこの言葉が引っかかっていて、スミスを読んでいるうちにふとその言葉が思い浮かんだということになるようだ。

さらに内田さんの説明は続く。
ヘーゲルは「剰余価値」を「収入諸形態の総称」というカテゴリーで用いた。しかしマルクスは、そこにとどまらずさらに深い水準に推し進めた。
「剰余価値」という言葉に「諸収入の源泉」という位置づけを与えているのである。
ヘーゲルの「剰余価値」を受け継いだとしても、マルクスはそれで終わる人ではなかった。

と内田さんは結ぶ。目下のところ確かめるすべはない。

下記も同じく1993年の読書ノートで、ヘーゲルの「法の哲学」からの抜書きである。
労働と欲求の関係が見事に描かれており、労働が「陶冶」という観点からも性格づけされている。
これがおそらく「要綱マルクス」のバックボーンだろうと思う。
今回、「資本論形成史」をまとめてみてわかったのだが、「要綱マルクス」から「資本論マルクス」への変貌は、国際労働者協会との関わりが大きいのではないかと思う。
「経済学批判」ではなく、ある種「組合員学校教科書」的な方向への転化が図られたのではないか。経済の仕組みを解き明かすと同時に、それが労働者にとって持つ意味を考えさせるようなニュアンス、まさに「賃金・価格・利潤」的な方向が目指される。
したがって歴史貫通的な人類共通的な課題、哲学的なテーマはとりあえず控えることになった。だから我々はそこのところを補いながら読み込んでいかなければならないのだと思う。
とくに「未来社会論」を語るときに、この発想は必須のものだと思う。

法の哲学 S187

陶冶としての教養とは,その絶対的規定においては解放であり,より高い解放のための労働である.すなわちそれは,倫理のもはや直接的でも自然的でもなくて精神的であるとともに普遍性の形態へと高められた無限に主体的な実体性へ到達するための,絶対的な通過点なのである.

この解放は,個々の主体においては,動作のたんなる主観性や欲望の直接性だけではなく,感情の主観的なうぬぼれや個人的意向のきまぐれをも克服しようとする厳しい労働である.解放がこのような厳しい労働であるということこそ,それが嫌われる理由の一部である.しかし陶冶としての教養のこの労働によってこそ,主観的意志そのものがおのれのうちに客観性を獲得するのであって,この客観性においてのみ,主観的意志はそれなりに理念の現実性たるに値し,理念の現実性たりうるのである.また特殊性は,労働と陶冶によっておのれを作りあげ高め上げて,この普遍性の形式,すなわち悟性的分別を手に入れてしまうからこそ,同時に個別性の真実の対自存在になるのであり,また普遍性を満たす内容とおのれの無限な自己規定とを普遍的にあたえることによって,それ自身が倫理のうちに,無限に対自的に存在する自由な主体性として存在することになるのである.

S189 欲求の体系

特殊性はまず,総じて意志の普遍的な面に対して規定されたものとして,主観的欲求である.この主観的欲求がそれの客体性すなわち満足に達するのは
(α)いまや同じくまた,他の人々の欲求と意志の所有であり産物であるところの外物という手段によってであり,

(β)欲求と満足を媒介するものとしての活動と労働によってである.

食べること,飲むこと,着ることなどのような,一般的欲求とでも呼ぶべきものがある.恣意のこうしたしゅん動は,それ自身のなかから普遍的な諸規定を生みだすのであって,この一見ばらばらで無思想的に見えるものが,おのずから生じる一個の必然性によって支えられるのである.個々での必然的なものを発見することが国家経済学の目的であって,国家経済学は,大量の偶然事に関してもろもろの法則を見出すのである.この関係は一種太陽系にも似たものである.太陽系はいつも肉眼には不規則な運動しかしめさないが,しかしそれのもろもろの法則は,それでもやはり認識されうるのである.

S190 欲求の仕方と満足の仕方

動物の欲求は制限されており,それを満足させる手段および方法の範囲も同様に制限されている.人間もまたこうした依存状態にあるが,それと同時に人間はこの依存状態を越えていくことを実証し,そしておのれの普遍性を実証する.人間がこれを実証するのは,第一には,欲求と手段とを多様化することによってであり,第二には,具体的欲求を個々の部分と側面とに分割すること(労働の分割),および区別すること(社会的分業)によってである.そしてこれらの部分と側面とは,種々の特殊化された,したがってより抽象的な欲求となる.この欲求の立場では,主題は人間とよばれるところの,表象にとっての具体的存在者である.それゆえここではじめて,そしてまた本来ここでのみ,この意味での人間が問題になる.

S192

欲求と手段とは,実在的現存在としては他人に対する存在となる.欲求と手段の充足は他人の欲求と労働によって制約されており,この制約は自他において相互的であるからである.欲求および手段の一性質となるところの抽象化はまた,諸個人のあいだの相互関係の一規定にもなる.承認されているという意味でのこの普遍性が,個別化され抽象化された欲求と満足の方法を,社会的なという意味で具体的な欲求と手段と満足の方法にするところの契機なのである.

私は欲求を満足させる手段を他人から得るのであり,したがって他人の意見にしたがわざるをえない.しかし同時に私は,他人を満足させるための手段を作り出さざるをえない.だから人々は互いに他人のためになるように行動しているのであり,他人とつながりあっているのであって,そのかぎりにおいて,すべて個人的に特殊なものが社会的なものになるのである.

S196 労働の仕方

もろもろの特殊化された欲求を満たすのに適した,同じく特殊化された手段を作成し獲得する媒介作用が労働である.労働は自然によって直接に提供された材料を,これらの多様な目的のために,きわめて多種多様な過程を通して種別化する.だからこの形成は,手段に価値と合目的性をあたえるのであって,その結果,人間が消費においてかかわるのは主に人間の生産物であり,人間が消費においてかかわるのはこうした努力の産物である.

S197

労働によって得られる実践的教養とは,あらたな欲求の産出と仕事一般の習慣,さらにはおのれの行動を,ひとつには材料の本性にしたがって,またひとつにはとくに他人の恣意にしたがって制御することの習慣であり,またこうした訓練によって身についた客観的活動とどこでも通用する技能との習慣である.

S198

ところで労働における普遍的で客観的な面は,それが抽象化していくことにある.この抽象化は手段と欲求との種別化を引き起こすとともに,生産をも同じく種別化して,労働の分割を生み出す.個々人の労働活動はこの分割によっていっそう単純になり,単純になることによって個々人の抽象的労働における技能もいっそう増大する.

同時に技能と手段とのこの抽象化は,他のもろもろの欲求を満足させるための人間の依存関係と相互関係とを余すところなく完成し,これらの関係をまったくの必然性にする.生産活動の抽象化は,労働活動をさらにますます機械的にし,こうしてついに人間を労働活動から解放して機械をして人間の代わりをさせることを可能にする.

S199 資産(VERMOGEN)

万人の依存関係という全面的からみあいのなかに存するこの必然性がいまや,各人にとって普遍的で持続的な資産(VERMOGEN)なのであり.

下の二つは「美学」の抜書きである。

ヘーゲル美学講義 Ⅰ-51

人間はこの自分についての意識を二つのやり方で手に入れる.すなわち理論的には,人間は自分自身を人間の内面において意識する.…人間は実践的活動によって対自的となる.そして人間は外界の事物を変化させ,これに自分の内面の印章をおす.この欲求は芸術作品でみられるような外的な事物の中における自分自身の生産の仕方にいたるまで,ありとあらゆる形の現象にゆきわたっている.

ヘーゲル美学講義 Ⅱ-213

このような影の国がすなわちイデアールであって,そこにすがたを見せる精たちは,直接的存在には興味を失い,物質的生活の必要を免れ,有限の現象に必ずともなう環境への依存性や,あらゆるゆがみやひずみから解放されている.

 

要綱ノート(ページ数は草稿集①のもの)
多分1993年ころのもの。当然、まだウィンドウズではなく、NEC98の互換機で「松」で打ち込んだものです。


P327

「措定された交換価値としての資本に対立する使用価値は労働(力)である」.これはGーWであり,G→Wであるということ.①G→Wとなるところに資本の使用価値がある.②しかもWは現実的には「労働そのもの」である.

「資本家は労働そのものを,すなわち価値をうみだす活動としての生産的活動そのものとしての労働を手に入れる」.ここでは「労働そのもの」は抽象的一般的人間活動として,価値うみ過程からのみ規定されており,具体的な有用性は捨象されている.したがってこの「労働そのもの」はそれ自身資本の生産力となる.

P329

資本の諸要素,それが労働に対して持つ関係にしたがって分解されたもの(生産物,原料,労働用具).(二)資本の特殊化(a)流動資本,(b)固定資本

P339

彼が提供する使用価値(労働力の使用価値)は,(交換の時点では)彼の身体の能力,力能としてのみ存在するに過ぎず,それ以外には定在しない.彼の労働力能(VERMOGEN)が存在する場である一般的実態,つまり彼自身を肉体的に維持するとともに,この一般的実態(彼自身)を変容させてその特殊的力能を伸ばすようにさせるのに必要な,対象化された労働(諸商品の形を取った生活手段)は,この実体(彼自身)のなかに対象化された労働である(として定着する).

P342

(貯蓄金庫の)本来の目的は富ではなくて,いっそう目的にかなった支出配分でしかなく,したがってそれらは,老後とか,それともまた病気,恐慌などがそのあいだにやってきたときに,救貧院や国家や物乞いに厄介をかけないようにするのが目的である.

P350

なんらかの類推によってなにもかも然るべく配列してしまうこうした三文文士的な空語は,それがはじめて口にされるときは才知ゆたかにもみえるだろうし,またそれがもっとも異質なものを同一化すればするほど,ますます才知ゆたかにみえるであろう.だが何度も口にされると,しかも鼻高々と学問的価値をもつ提言として繰り返されると,それはまったくのところ愚かしい.

P351

 「資本家が望んでいるのは,まさに彼(労働者)が彼のひとり分の生命力(LEBENSKRAFT)をできるだけ多く,中断せずに使い切ることでしかない」.①労働力の再生産過程の合理性,したがって労働力修理工場はまさしくそのかぎりのことである.②生命力が労働力として規定されている.

 

P353

所有(関係)の労働(過程)からの分離は,資本と労働(力)とのこの交換の必然的法則(的結果)として現われる.「非資本そのもの」(資本と向き合っているがゆえに)として措定された労働力はつぎのようなものである.①対象化されていない労働(可能性ではあるがまだ発揮はされていない力能).否定的に把握されたそれ(その消費を目的とする観点からの把握).このようなものとしては労働(力)は非原料,非労働用具,非原料生産物であり,あらゆる労働手段と労働対象から,つまり労働(過程)の全客体性から切り離された労働そのものである.それは労働(過程)の実在的現実性のこれらの諸契機からの抽象として存在する生きた労働そのものであり,このような丸裸の存在,あらゆる客体性を欠いた純粋に主体的な労働(力)の存在なのである.

P354

「(労働力は)存在する非価値そのもの(であり),媒介なしに存在する純粋に対象的な使用価値(である)」労働力商品の価値はその生産費によって措定されてはいるが,本質的には価値をもたない使用価値である.それは太陽の光,大地の恵みとおなじように一つの自然力である.

(労働力および労働そのもの)の対象性は,人格から切り離されていない対象性,人格の直接的肉体性と一体化した対象性でしかありえない……それは個人そのものの直接的定在性をはなれては存在しえない対象性なのである.

(二)対象化されていない労働(力),肯定的に把握されたそれ(労働能力の主体的発揮としての労働そのもの).すなわち自分自身にかかってくる否定性(認識の発展と成長).それは対象化されていない,したがって非対象的な,すなわち主体的な,労働そのものの存在である.それは対象としての労働(力)ではなく,活動としての労働(過程)であり,それ自体価値としての労働(力)ではなく,価値の生きた源泉としての労働そのものである.それ(労働力能)は,富が対象的に現実性として存在する資本(現実の富としての資本)に相対して,行為(労働過程)のなかで自己をそのものとして確証する.富の一般的可能性としての一般的富である.(現実的・対象的富と一般的富との対置に注目)

(三)(労働能力の発揮は)資本として措定された貨幣に対するその使用価値として,あれやこれやの労働でなく,労働そのもの(ARBEIT SCHLECHTHIN),抽象的労働であり,労働(過程)の特殊的な規定性に対してはまったく無関心である.

ある規定された(個別の)資本を存立させている特殊的な実体には,もちろん特殊的な労働(過程)としての労働(そのもの)が対応しなければならないが,資本そのもの(総資本)は,その実体の総体性としてあるとともに,その実体のあらゆる特殊性の捨象としてもあって,自己の実体の特殊性に対してはいっさい無関心であるから,(総)資本に対する(総)労働(力)のほうも,主体的には同一の総体性と抽象性とを即自的にもっている..(労働力の抽象性は,資本の抽象性によって規定された歴史的概念でもある)

あらゆる労働(力)の総体(総労働力)が可能的に(総)資本に相対するのであって,とくにどの労働(力)が資本に相対するかは偶然的である.

P355

労働(過程)があらゆる技能的性格を失うにつれて,また労働(そのもの)の特殊的な熟練がますます抽象的なもの,無差別的なものとなり,また労働(そのもの)がますます純粋に抽象的な活動に,純粋に機械的な,したがって無差別的な,その特殊的形態には無関心な活動になるにつれて,つまりたんに形式的な活動,あるいはおなじことであるが,たんに素材的な活動一般となるにつれて(抽象性は歴史的に作られたもの),この経済的関係はますます純粋に,ますます適合的に展開されていくのである.(労働そのもの概念は資本によって練り上げられた概念である)

P356

労働(力)は対象化されたものの諸価値の非存在(即自的には無価値)であって,そのようなものとして,対象化されていないもの(可能態)としての諸価値の存在であり,つまり諸価値の観念的存在なのである.つまり労働(力)は諸価値の可能性であり,また活動(労働そのもの)としては価値措定(労働過程で実現されるべき価値)である.

労働(力)は資本に対してあるばあいには,ただ能力や力能としてのみ身体のうちに存在している,(抽象的な)価値措定活動(労働そのもの)のたんなる抽象的な形態(担い手),たんなる可能性に過ぎない.

しかし(労働力は),資本との接触を通じて現実的な活動(労働過程)に導かれることによって,それは現実的な価値措定的,生産的活動となる.

P357

資本が(商品として)対象化された労働(力)のどんな特殊的諸形態のうちにも存在する貨幣として,対象化されていない,生きている労働(そのもの),過程および行為として存在する労働(そのもの)とともに,(生産)過程に歩み入るかぎりでは……

(そこでは)たんなる形態としての労働(力)のたんなる主体性が止揚され,資本の材料のなかに対象化されなければならない.

活動としての労働(そのもの)とのかかわりにおいては,素材すなわち対象化された労働(そのもの)は,つぎのふたつの関連をもつだけである.まず原材料,すなわち形態のない(自然のままの)素材の関連,目的にそって(生産物としての)形態をあたえる労働(過程)の活動にとってのたんなる材料の関連.つぎに労働用具,すなわちそれ自体(原材料と同じように)対象的である(労働)手段の関連がそれである.

P358

たんなる「生産の行為」(単純な生産過程)を即自的(単純)に考察するばあいには,労働用具や原材料は自然のなかにあらかじめあるものとして現われるだろうから,したがってそれらのものはただ領有されさえすれば,すなわち労働(過程)の対象や手段とされさえすればよいのであって,このことはそれ自体労働の過程ではないのである.したがって生産用具や原材料に対比されるばあいには,生産物は質的に別なものとして現われるのであって,用具を使って素材に対して労働した(特殊な形態で労働力を発揮した)結果として生産物だ,というばかりでなく,それらのものとならんで最初の労働の対象化(一般的形態での労働力の消費)としても生産物なのである.

P359

生産過程そのものによって措定されている唯一の分離(歴史貫通的な分離)は,もともとある分離,対象的な労働(生産物)と生きた労働との区別そのものによって措定された分離,すなわち原材料と労働用具のあいだの分離である.

P360

原材料は労働(過程)によって変えられ,形態をあたえられることによって消費され,また労働用具は,この過程のなかで使用され,使いつくされることによって消費される.他方労働(力)もまた用いられ,運動させられ,こうして労働者の一定の分量の筋肉が消耗させられることによって消費されるのであり,それによって彼は疲れはてる.

労働(力)はただ消費されるだけでなく,同時に(労働そのものという)活動の形態から,(生産物という)静止の形態へ固定化され,物質化される.労働(力)は対象の変化として自分自身の姿態を変え,活動(THATIGKEIT)から存在(SEIN)になる(S-T-S).材料,用具,労働(そのもの)という(労働)過程の三つの契機はすべて合体して中性的結果ー生産物となる……

したがって(労働)過程全体が生産的消費として現われる.すなわち無に終わる(個人的消費あるいは消費的消費)のでもなければ,対象的なもののたんなる主体化(SーT)に終わる(だけ)でもなく,それ自身ふたたびひとつの対象として措定されるような消費(SーTーS)として現われる.(すなわち生産的消費とはSーTーSとW…P…Wの統一)

この消費は素材的なものの単純な消費(消費的消費)ではなく消費(生産のために消費されるべき力能,すなわち労働力)の消費であり,素材的なものを使用するなかで,この使用(W…P…W)を使用する(SーTーS)こと,したがってまた,素材的なもの(三つの契機)の措定である.(これこそが三要素定立の根拠)

(対象に対して)形態をあたえる活動(労働過程)は,対象(的諸条件)を消費するとともに,また自分自身(労働力)を消費するが,しかしそれは(労働)対象(となる生産物)をあらたな対象的形態として措定するためにのみ,あたえられた対象の形態を消費するだけなのである.

P361

第一に労働(力)の領有,労働(力)の資本への合体によって,資本は発酵して過程となる.つまり生産過程となる.貨幣,すなわち労働者に対する処分能力を買う行為は,ここでは過程を導きだすためのたんなる手段として現われ,過程それ自体の契機としては現われない.

この過程で資本は,総体としては,生きた労働(力)としての自分自身を,対象化された労働であるだけでなく,対象的であるがゆえに,労働(過程)のたんなる対象でもあるものとしての自分自身と関連させるのである.(過程を導きだす手段と,過程そのものの契機のちがい)

P362

資本を,それが労働(過程)からは区別されて最初に現われる面から考察すれば,資本は過程のなかでたんに受動的な定在,たんに対象的定在(原材料および用具)にすぎず,そこでは資本を資本たらしめている形態規定(WーGーW)ーしたがって対自的に存在する社会的関係ーは完全に消え去っている.資本は,その内容の面からのみーつまりただ対象化された労働一般としてのみー過程に入る.

しかし資本が対象化された労働であるということは,労働(過程)にとってはまったくどうでもよいことである.資本が過程に入り込み,加工されるのは,ただ対象としてだけなのであって,対象化された労働としてではない.……それらのものが,それ自体労働(過程)の生産物であり,対象化された労働であるかぎりは,それらは決して過程に入らないのであって,ただ規定された自然的諸性質をもった物質的な実在としてのみ過程に入るのである.これらの自然的諸性質が,それらのものにどのようにして措定されたのかは,それらのものに対する生きた労働(そのもの)の関連にとってはかかわり知るところではない.

P363

他方,労働者との交換によって労働(力)そのものがすでに資本の対象的諸要素のひとつになってしまっているかぎりでは,資本そのものの対象的諸要素からの労働(そのもの)の区別は,たんにひとつの対象的な区別でしかない.すなわち一方の要素は静止(RUHE)の形態にあり,他方の要素は活動(THATIGKEIT)の形態にある.したがって資本は一方では,あらゆる形態関連が消滅している受動的対象としてのみ現われるが,他方では,資本は単純な生産過程として現われ,この単純な生産過程のなかには,資本としての資本が,すなわち自己の(対象化された労働としての)実態とは異なるものとしての資本が入り込むことはないのである.

この面からみれば,資本の過程は,単純な生産過程そのものと一致しており,そこでは過程の形態において資本の資本としての規定が消滅している.

P364

こうして資本の生産過程は,資本の生産過程としては現われずに,生産過程そのものとして現われ,また労働(そのもの)と区別された形では,資本は,原材料と労働用具という素材的規定性においてのみ現われるに過ぎない.

P364

こうして資本の資本の生産過程は,資本の生産過程として現われずに,生産過程そのものとして現われ,また労働(そのもの)と区別された形では,資本は,原材料と労働用具という素材的規定性においてのみ現われるにすぎない.

P366 労働過程と価値増殖過程

(α)労働(力)が資本に合体することによって,資本は生産過程になる.だがさしあたっては,資本は物質的生産過程,生産過程一般となり,その結果資本の生産過程は,物質的生産過程一般と区別されなくなる.資本の形態的規定は完全に消え去っている.

資本がその対象的存在(財貨)を労働(力)と交換したことによって,資本の対象的定在そのものが,対象としての自己(財貨)と,労働(力)としての自己とに二分され,両者の関連が生産過程を,あるいはさらに厳密にいえば(資本の形態規定はそこでは消失しているゆえに)労働過程を形成する.こうして価値に先立って,出発点として(無価値として)措定された労働過程=これはその抽象性,純粋な素材性のゆえに,あらゆる生産過程(資本主義に先行する諸形態をふくめ)に等しく固有なものである=はふたたび資本の内部で,一つの過程として現われ,この過程が資本の素材の内部で進行し,資本の内容を構成するのである.

P367

資本が…素材またはたんなる手段として労働に対する一項として解されるならば,その場合にはまさしく資本は,労働(そのもの)に相対する対象,物質としてしかみなされず,したがってただ受動的なものとしてしか見なされないのだから,資本は生産的ではないといっても誤りではない.

しかし資本は両項(労働力と生産手段)のうちの一項として現われたり,あるいは一つの項それ自体のなかでの再生(労働対象と労働手段)として現われるのでもなく,単純な生産過程そのものとして現われるのであり,この過程がいまや資本の自己運動的内容として現われる.

P372

文明のあらゆる進歩,言い換えるならば社会的生産諸力のあらゆる増大,それに言い方を変えれば,労働そのものの生産諸力のあらゆる増大ーそれは科学,発明,労働(過程)の分割と結合,交通手段の改善,世界市場の創出,機械装置などから生じてくる.

労働(生きた目的にかなった活動としての)の資本への転化は,それが資本家に労働生産物に対する所有権(および労働(過程)に対する支配権)をあたえるかぎり,即自的には資本と労働力との交換の結果である.この転化は,(資本主義的)生産過程そのもののなかではじめて措定される.

資本が生産の基礎をなし,したがって資本が生産者であるところでは,労働そのものは,ただ資本のうちに入りこむものとしてだけ生産的であるに過ぎない(自営業者や自由業者は生産的でない).資本と対立して対自的に労働者という姿をとっている労働(そのもの),つまり資本から切り離されてその直接的規定性のなかにある労働は生産的ではない.労働者の活動としても,この労働は決して生産的にはならない.なぜならそれは単純な形態的にのみ変化する流通過程のなかにだけ入りこむに過ぎないからである(その分業が生産的かどうかが,労働が生産的かどうかを決める).

P374

資本に対して主体として現われるのは労働(力)なのだということ,すなわち労働者はただ労働(力)という規定でのみ現われるに過ぎないのであって,この労働(力)とは労働者自身のことではないのだということ.

P377

(自己増殖過程においては)価値は主体として登場する.労働(そのもの)は,目的にかなった活動であるから,そこで素材的な面から前提されていることは,生産過程においては労働用具がある目的のための手段として実際に使用されたということ,原材料は,化学的な素材転換によるにせよ力学的な変化によるにせよ,それが以前に持っていたよりも高い使用価値を生産物として受け取ったということである.しかしこの側面はそれ自体としてはたんに使用価値にのみ関わるものであるために,いまだに単純な生産過程に属している.

P403

どのようにして資本によって,すなわち現存する諸価値によって剰余価値が労働を媒介として作り出されるのか,ここで彼ら(重農主義者)は(資本の運動の)形態をまったく見落として,単純な生産過程だけを見ている.したがって労働者が労働用具の自然力のおかげで,自分の消費分よりも多くの価値を明らかに生産できるような分野でおこなわれる労働が生産的であると主張することができる.したがって剰余価値は,労働そのものから生じるのではなく,労働によって利用され管理される自然力から生じる.したがって農業だけが唯一の生産的労働である(剰余価値はひとつの物質的生産物で表現されなければならないというのは,A・スミスにもなお現われている未熟な見解である).役者は生産的労働者であるが,それも芝居を生産するかぎりにおいてではなく,彼らの雇主の富を増加させるかぎりにおいてなのである.ところがどんな種類の労働がおこなわれるか,つまりどんな形態で労働が物質化されるのかということは,この関係にとってはまったくどうでもよいことである.他方このことは,後にでてくる諸観点からすればどうでもよいことではない.

P427

つまり労働者は自分の労働能力(ARBEITSFAHIGKEIT)を,つねに一定時間にかぎって,すなわち一定の労働時間にかぎって他人の処分に委ねるのである(労働能力の初出).この場合,労働(力)はその生きた労働力能(VERMOGEN)に対象化された労働時間を表わす.

P456

用具が労働(過程)の用具として用いられ,原材料が労働(過程)の原材料として措定されているという単純な(素材的)関係を通して,すなわちそれらの用具や原材料が労働(そのもの)と接触し,労働(そのもの)の手段および対象として措定されるという単純な過程を通して,それらの用具や原材料は,形態的には保持されないにしても実体的には保持されるのである.そして経済的に見れば,対象化された労働時間(労働時間で計られた価値)がそれらのものの実体なのである.

対象化された労働は,それ自体ふたたび生きた労働(そのもの)の契機として,つまり対象的な材料の形をとった労働(生産物)自身に対する生きた労働(そのもの)の関連として,生きた労働(そのもの)の対象性として措定されているのであるから,それは外的で無関心な形態として,生命なく素材のなかに存在することをやめる.こうして生きた労働(そのもの)が材料のうちに自己を現実化させることによってこの材料そのものを変化させ,したがって労働(過程)の目的によって労働(力)の合目的活動によって規定された変化をもたらす.

P457

労働(そのもの)は生命のある造形的な火であり,生きた(労働)時間による諸物の形成として,(運動であるがゆえに)諸物の無常性,それらの時間性である.

そこでは素材を消費し,素材の形態を使用することが人間の享受となり,素材の変化が素材の使用そのものなのである.

P459

価値増殖過程では,資本の構成諸部分(材料および用具)は,生きた労働(そのもの)にたいして,価値としてではなく生産過程の単純な諸契機として,労働にとっての使用価値として,労働(力)が活動できるための対象的諸条件として,すなわち労働(そのもの)の対象的契機として現われる.

P460

単純な生産過程では,先行した労働(過程)のーそれを通してまた,その労働(過程)が措定されている材料のー質の保持として現われるものが,価値増殖過程ではすでに対象化された労働(そのもの)の分量の保持として現われる.

P461

生産過程では,労働(過程)の対象的な定在的諸契機(用具と材料)からの労働(そのもの)の分離は,止揚されている.資本と賃労働との定在はこの分離にもとづいている.生産過程で現実に生じる分離の止揚ー止揚されなければそもそも労働がおこなわれるわけがないーに対して資本は支払わない.

生産過程そのものにおいて,生きた労働(そのもの)が用具と材料を自己の心にとっての身体とし,それによって(死んだ労働を)死から蘇らせるこの同化作用は,労働(力)が対象をもたず,すなわち直接的な生命力の形でだけ労働者における現実性でありーまた労働材料と用具が対自的に存在するものとして,資本のなかに存在していることと事実上対立している(この点については後でたちかえること).

 

「資本論」成立史 年表

1840年 イェーナ大学に『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』と題した学位論文を提出。

1843年10月 マルクス、パリに亡命。経済学の研究を開始。9冊の『パリ・ノート』として存在。「ミル評注」、「アダム・スミス」評注、「リカード評注」などをふくむ。

8月 「経済学・哲学草稿」を執筆。パリ・ノートの中でも、国民経済学の学習を基礎に、出版を意識して書かれた文章。

8月 パリでエンゲルスと同志関係に入る。最初の共著「聖家族」の執筆を開始。

1845年

2月 「聖家族」を出版。

2月 マルクス一家はパリを離れ、ブリュッセルに移る。滞在中に6冊の『ブリュッセル・ノート』を残す。

年末 マルクスとエンゲルス、青年ヘーゲル派の批判を受け、反論として「ドイツ・イデオロギー」を執筆。

1846年夏 「ドイツ・イデオロギー」を脱稿後、エンゲルスとともにマンチェスター滞在。この間図書館通いして「マンチェスター・ノート」5冊を作成。

1847年 『哲学の貧困』を刊行。

1847年 マルクスら、ロンドンで「共産主義者同盟」結成。

1848年

2月 「共産主義者同盟」の綱領として『共産党宣言』を発表。

4月 ドイツ3月革命を受けケルンに移住。『新ライン新聞-民主主義の機関紙』の発行。

1849年

2月 「新ライン新聞」に『賃労働と資本』を連載。

5月 「新ライン新聞」が発行停止となる。

8月 マルクスはロンドン亡命、たけのこ生活を送る。

1850年 ハンブルクで「新ライン新聞」の再刊を企てるも失敗。エンゲルスはマンチェスターで仕事をして、マルクスを支える。

50年9月 ロンドンで経済学研究を再開。53年までの4年間、経済学を中心に『ロンドン・ノート』24冊を書き上げる。

1851年 
1月に貴金属、貨幣、信用。2月には、ヒュームとロック。3月には、リカードとアダム・スミス。4月には再びリカード。5月にはケアリー、マルサス。6月には価値と富の経済学。7月には工場制度と農業収入。8月には人口、植民。秋には銀行業、農耕法、および技術学(マクレラン)

1856年 義母の死により相当額の遺産を獲得。生活が小康を得る。

1857年 

最初の世界恐慌が発生。マルクスはこれを「ブルジョア経済のあらゆる矛盾の現実的総括および暴力的調整」と見る。

7月 マルクス、「57年-58年草稿」の執筆を開始。 商品・貨幣を論じる最初の経済学論文となる。最初の7冊のノートが『経済学批判要綱』と呼ばれる。「経済学批判序説」がふくまれる。

1859年 『経済学批判、第一分冊』が刊行される。「序文」、「第1章 商品」、「第2章 貨幣または単純流通」からなる。最初に構想していたのは全6編であった。

1861年 ふたたび金繰りが悪化。ドイツのおじを金策に訪れる。

1861年 8月からあらたに23冊のノート「61年-63年草稿」が執筆される。最初は経済学批判の第1部第3章 資本一般から始まるが、途中でプランは変更される。

1862年12月28日 マルクス、手紙で「すでに書いたものを推敲・清書して『資本論 - 経済学批判』として刊行する」と明らかにする。

1963年

7月 マルクス、「61年-63年草稿」の執筆を完了。『資本論草稿集』の第4巻から第9巻に相当し、「剰余価値学説史」が主体を占める。

7月 『資本論』草稿の執筆開始。全4部(3部と学説史)構成に変更された。

8月 第1部執筆が完了。

63年 マルクスの実母が死去。遺産相続で小康を得る。

1964年

夏 第2部をスルーして、第3部
の執筆を開始。

9月 ロンドンで「国際労働者協会」(第一インターナショナル)の設立が宣言された。マルクスが宣言を起草。

1965年

この年の前半 第3部第1稿の執筆を中断し、第2部第1草稿の執筆に取り掛かる。

引き続いて第3部第4章が執筆された。さらに第4章執筆の途中にプランの変更が
行われ,それは第4章(貨幣決済)と第5章(信用機能)に分割された(大谷)

この年の後半 第2部第3草稿執筆を完了。引き続き第3部の残りを執筆。

第4章の執筆途中で後半部分が独立した。前半は第4章(貨幣決済)に集中し、後半は第5章(信用機能)にあてられた(大谷)

マルクスは日中は大英博物館で抜粋を作成し、夜間は最後の地代論三章を執筆した。(結局地代論が最後となる)

12月 『資本論』草稿(学説史を除く)の執筆が完了。

1865年 「賃金鉄則」を批判した国際労働者協会中央評議会での講演、『賃金、価格および利潤』を出版。

1866 国際労働者協会第一回大会(ジュネーヴ)

1866年5月 ロンドンの大銀行の破産の破産をきっかけに恐慌が発生。金融恐慌の色彩を強く帯びる。

1866年 「第1巻」の最終稿執筆に着手。このときマルクスは、第1部と第2部を1冊の本に詰め込むつもりだった。

1866年 エンゲルス宛ての手紙。「原稿は、その現在の形では途方もないもので、…出版できるものではない」

1866年10月 「第1巻」を第1部に限定することとした。第2部は第2巻に回される。さらに第2部への移行部となる「第6章」も除外される。

1867年4月 資本論第1部の原稿がマイスナー書店に手渡される。発行は9月。

1867年7月 第2部第4草稿、第3部補足のための諸草稿に着手。この時点でマルクスは、数カ月のうちに第2巻(第二部と第三部)を刊行できると考えていた。

1868年

国際労働者協会のブリュッセル大会。マルクス主義者とブランキストが手を組み、プルードン主義者を圧倒。

エンゲルスがマルクスの負債をすべて精算する。

1868年12月初旬 第2部第2草稿の執筆を開始(第3,4草稿より後)。

1869年1月 第3部第1章の改訂版の執筆を開始。1871年8月より中断。

1870年

1870年半ば 第2部第2草稿の執筆がほぼ終了するが、印刷には回らなかった。

エンゲルス、マンチェスターからロンドン(マルクスの近所)に転居。

1871年 普仏戦争。フランスの敗戦とパリ・コミューン。マルクスは「フランスにおける内乱」を発表。

1872年 国際労働者協会のハーグ大会。バクーニン派の潜入・マヌーバー戦術によりずたずたになる。

1875年 『ゴータ綱領批判』。発表は1891年。

1875年 第3部第1章の改訂版の執筆を再開。何回か中断したあと、1876年2月以降は第3部には着手せず。

1877年3月末 第2部のための補筆・書き直しを開始。第5,6,7草稿が執筆される。

1880年末 第2部第8草稿の執筆が開始される。第3章の新たな書き直しを試みる。1881年に中断。これが最後となる。

1883年3月14日 マルクス死去 
 

中期マルクスの二つの隘路

佐藤金三郎が内田弘の「要綱」研究にコメントした小文がある。(「中期マルクスとは何か」1987年)

内田の原文が難しいらしく、佐藤もそれにつられて読みにくいものになっている。
佐藤は内田の論文をまとめた上で、「内田は中期マルクスの業績として二つを見出したのではないか」と述べている。
それはマルクスがリカードから相対的剰余価値を学び、会得したということ、アリストテレスから自由時間概念を引き出したことである。
佐藤はどうも内田の見解に対して、とくに自由時間概念についてニュートラルなところがあるようだ。

これらは、研究の成果と言うより、研究の先に立ちはだかる二つの関門であり隘路だったのではないか。

以下は、私の考えるところだが、
相対的剰余価値論は、確かにマルクス経済学の核心を形成しているところであり、恐慌→窮乏化革命を乗り越えていく上での飛躍台になっている。
しかし後年、相対的価値論だけでは進まない問題、価格実現問題が出現するので、よりエレメンタリーな概念の析出が求められるのではないか。
自由時間概念については、これが労働力概念から導き出される関数に過ぎないのではないかという思いを捨て去ることができない。社会的にも、倫理的にも、自由な時間は決してブランクな時間ではない。それを生活過程論と欲望の創出過程論抜きに語っても意味がないと思う。


この論文の「序論」はとても面白い。著者の問題意識がとても共感を呼ぶ。
その上で本論に入っていくのだが、徐々に齟齬が生じてきて、この人にはマルクスの問題意識、権力の本質とか量から質への転換という考えが伝わっていないのではないかと思ってしまう。
ただそれはそれなのであって、序論のところは大いに勉強になるし、一生懸命受け止めてみたいと思う。

初期マルクスから革命家マルクスへ
*『ヘーゲル法哲学批判序説』『ユダヤ人問題によせて』および『経哲草稿』等の、いわゆる初期マルクスにおいては、未だ共産主義への移行が成就されていない。
* それに対し、『ドイツ・イデオロギー』および『哲学の貧困』『共産党宣言』等の1840年代後半の文献においては、共産主義者としての視点から「社会主義」リカード派社会主義やプルードンの社会主義等が批判されている。
中期の組織者マルクス
1848年革命は敗北し、ブランキストの革命論を受け継いだマルクスは挫折する。
1850年代から60年代にかけて、マルクスは“恐慌―内乱―革命”の希望を抱きながら、革命の準備と党派の組織に希望を託すが、予測は何度も裏切られる。

後期の理論家マルクス
後期マルクスにおいては、革命情勢はますます遠ざかり、それに伴って長期の革命構想がもとめられるようになった。
過渡的形態、改良的過程を織り込んだ展望の採用、平和的・非権謀的可能性が追求されるようになり、
これにともなって重大な戦略的・戦術的転換がおこなわれる。
それらは、おそくも1860年代半ばには形成され,パリ・コミューンの深刻な教訓を経過し,『ゴータ綱領批判』(1875)において明確な定式化が与えられた。(最後の段落には異論があるが、とりあえず…)

現代世界は、はるかに進んでいる
現在の世界においては、このようなマルクスの時代とはまったく異なった状況が広がっている。それを荒木さんは次のように説明している。

1.ブランキズムは完全に陳旧化した
マルクスが革命家の出発点においてイメージとしたのはブランキズムである。それは一揆主義そのものである。それは決死の覚悟を帯びた少数の革命家集団が、政府との対決を強行的に突破することを前提としていた。それは少数者による政治権力の簒奪を最優先課題としていた。
一揆主義者による暴力革命、そしてプロレタリア独裁を必然的にともなう革命戦略は、しかしながら中期マルクスにおいてさえ、すでに過去のものとなっている。
エンゲルスは「歴史に照らして,われわれもまた誤っていた。当時のわれわれの見解は一つの幻想であった」と自己批判している(「フランスにおける階級闘争」序文)

2.多数者革命と漸進的な所有制改革
21世紀の今日における主要な革命のイメージは、まず第一に、国民の多数が支持し推進する多数者革命である。第二にそれは立憲革命である。革命は民主的なプロセスを経て合法的・平和的に遂行される。第三にそれは高度福祉型の未来社会を目指す“生活第一”革命に収斂していく。
それは「新しい社会主義」の革命であり、抗しがたい理性の流れである。

3.19世紀型革命像から21世紀型革命像への道のり
上記のごとくマルクスが革命家を目指した最初期の革命像と、21世紀に住む我々が思い描く革命像とははるかに懸隔している。
この論文は革命運動が自らの論理をどう変えてきたのかの道筋を、とくに中期から後期マルクスへの変容を通じて描き出そうとしているのだが、それについては目下の関心領域から外れるので仔細には取り上げないでおく。
一言だけ言っておけば、マルクスとエンゲルスは19世紀末にすでにかなりのところまで進んでいたのであり、ボルシェビズムとスターリニズム、第二次大戦後に民族解放を闘った国々では、そこからかなり遡った場所から革命を開始したのである。


私にとって最も印象深かったのは、21世紀型革命の3つの性格付けである。すなわち多数者革命、立憲革命、生活者革命であり、これらを総称して「新しい社会主義」の革命として提唱することである。

ただし、それが「革命」であるということは19世紀来、通底しているのであって、そこには権力の移動が伴うのである。そしてそれが政治的な範疇における質的変化を持って始まり、社会の全分野に拡散するという特徴を持つことである。
そこには政治的、法的、社会的な“押し付け”が伴わざるを得ない。当然ながらそこには反発力も生じ軋轢も発生する。すなわちそこには運動が熱を発するごとく、「闘争」が発生するのである。

もうひとつは、「私有財産制度の否定」という革命の主要目標の一つが、依然として未確定のまま残されているということである。民医連における所有形態論争というのは、それ自身が「目標」ではないが、人民的共同を持続的に発展させる上での最大(というより最低)の制度的保障だということで決着がついた。
ただ、私有財産の否定だけではどうにもならないのではないか?というのが率直な感想である。株式会社制度も、官僚主義制度も個人所有制の否定の上に成り立っている。もう少し社会の形態ではなく社会の目的に即したパラダイム・シフトが必要なのではないかと思う。

マルクスの晩年の動きが今ひとつ見えなかったので、とりあえず年表化してみた。
資本論の第一部出したのが1867年。それから数年間は、国際労働者協会の会長としての仕事がかなり忙しかったようだ。
それが徐々に活動の場が狭まっていく。とくに普仏戦争とパリ・コミューンへの関与が必ずしも大方の支持を得ることができなかったようだ。
ハーグの大会をもって第1インターは事実上の開店休業に入っていく。ドイツで社会民主党(アイゼナッハ)が勢力を増したときは羽振りも良かったのだが、ゴータ大会でのラサール派との合同の後はドイツ国内でも影が薄くなっていく。
理論活動はその後も展開した。
これに宮川彰さんの作成した資本論第2部草稿の執筆年代太字で重ねておく。
エンゲルスによってまとめられた(ゴチャゴチャにされた?)第2部・第3部草稿の他にも、剰余価値学説史や、ザスーリッチ論文などがあるが、今回は調べ切れていない。あまり一生懸命やっている研究者もいないようだ。

1864 第2部草稿 第1稿執筆(65まで)

1865年1月 第3部「主要原稿」の執筆開始(66年12月まで)

1867 『資本論』第1巻ハンブルグで出版 

1867 普墺戦争。勝利したプロオシアはドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放。プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を樹立する。マルクスはこれを「プロレタリア闘争に有利な展望が開けた」と一定の評価。リープクネヒトとベーベルは帝国議会議員に当選。

1968 資本論第二部第2~第4草稿に着手(第2稿は70年まで、第3,第4稿は年内に執筆完了)

1869年 エンゲルスがマルクスの借金(浪費による)を肩代わりする。4年間で1862ポンドに達した。

1969 ベーベル、リープクネヒトらが非ラサール派の労組を組織し、社会民主労働党(アイゼナハ派)を結成。

1870 普仏戦争が始まる。マルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある」と(私的に)論評。

1870 エンゲルス、家業から解放されロンドンに居住。

1870 第1インター総務委員会第1宣言を書く

1871年

3月 パリコンミューン。『フランスにおける内乱』を執筆。

6月 パリ・コミューン支持に反発したイギリス人グループがインターナショナルから脱退。

1872年9月 ハーグでインタナショナル大会。マルクスはプルードン派と組んでバクーニン追放に成功。

1873年には肝臓肥大という深刻な診断。鉱泉での湯治を目的にドイツ国内の湯治場を巡る。

1875年2月 ラサール派とアイゼナハ派」(マルクス派)が合同して「ドイツ社会主義労働者党」が結成される。
ゴータ綱領批判(公表は91年): マルクスは「最悪の敵である国家の正当性を受け入れ、小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるとしたもの」とこき下ろす。また「未来の共産主義社会の国家組織にも触れず、“自由な国家”を目標と宣言するのはブルジョワ的理想だ」と批判。
1876年 フィラデルフィアでインタナショナルの最後の大会。解散決議を採択。マルクスの公的生活はこれをもってほぼ終了。

1876年 草稿 第5,6,7稿に着手(いずれも80年に執筆完了)
第2部から書き直さないと第3部は書けないと悟ったマルクスは、第2部の書き直しに着手する。それが第5~第8稿
1877年 草稿 第8稿に着手(81年に執筆完了)

1878 エンゲルス、『反デューリング論』を発表。間もなく抜粋版として「空想から科学へ、社会主義の発展」が発行される。マルクスは第2篇経済学・第10章「批判的歴史から」を執筆。

1878年 チャンネル諸島で湯治。

1881年

3月 ザスーリチへの手紙(ドイツ語版)が出版される。

夏 妻イェニーとともにパリの娘の元を訪問。帰宅後イエニーが死去。

1881年 草稿第8稿を脱稿。その後当初の目的だった第3部の書き直しには着手せず。

1882 この年も旅行を繰り返す。

1883年

3月14日 マルクス、ロンドンの自宅で病死。享年 64 歳。
E・H・カーは
マルクスはインタナショナルのハーグ大会の後も10年余りを生きていたが、その間は大して目立ったことはない。それは老衰の時期であり,不健康と無能力とが増した時期である。
と書いている。それまでの一心不乱の人生に比べれば、それも半分はあたっているのかもしれない。



1885 『資本論第2巻』が発行される。

1886 エンゲルス、『フォイエルバッハ論』

1891 社会民主党『エアフルト綱領』

1894年 『資本論』第 3 巻が出版

1895 年 エンゲルス死去


「未来社会論」 随想

聽濤弘さんの本「200歳のマルクスならどう新しく共産主義を論じるか」の読後感の続きです。

「未来社会論」ときくと、つい私は、大衆社会論とか市民社会論が流行った60年代の議論を思い浮かべてしまいます。

今あまりそういう議論は意味ないんじゃないかという気もするのです。なぜなら、アメリカやイギリスの若者運動が正面から「社会主義」という言葉を掲げて、それが市民権を獲得しようとしているときに、我々の目標を「未来社会」という曖昧な用語に置き換える必要はないのではないかと思うからです。

ということで、社会的正義と福祉が優先される時代・我々の目指すべき社会という意味で「社会主義」論を熱く語るべきかな、と思います。

資本論→賃金・価格・利潤→ゴータ綱領批判のなかに社会主義像はない

実は以前から私はそう思っているのです。

マルクスの中期から後期への一貫した問題意識は、①改良ではなく革命を、②政治闘争で権力を獲得する、③私的所有を否定する、なのだろうと思います。(ただし③は相当揺れがあります)

そして新しい革命の担い手が労働者階級に移行することを確信し、その根拠を産業資本主義の発展そのものの中に捉えようとしたのだろうと思います。

そういう強烈な問題意識のもとに資本論は書かれているわけで、歴史貫通的な人類の進歩との関係で社会主義が論じられているわけではありません。

したがって、「オメェラ、チンタラやってんじゃねぇよ」というゴータ綱領批判の中に、未来社会論を見つけようというのはお門違いなのではないかと思います。

それはマルクスの指導する国際労働者協会が徐々に影響力を失い、いったん幕を閉じる過程でのマルクスの焦りの表現でもあります。そんなにお行儀の良い文章ではないと思います。

もし社会主義社会像を導き出すのであれば、私は「経済学批判序説」に戻らなければならないと思うのです。
消費によって新たに生産の欲望を想像することにおいて、消費は生産の衝動を創り出す。消費は生産者を改めて生産者にする。
 また生産は、「一定の消費の仕方をつくりだすことによって、つぎには消費の刺激を、消費力そのものを、欲望として創造することによて、消費を生産する」
 ここでは、消費という行為が生産を生産たらしめ、生産という行為が、消費を消費たらしめる関係性が、時間を経由して完成されることが示される。
一人ひとりの人間の中に生産力能と消費力能がふくまれています。
消費力能というのは変な言葉だが、“欲望の生産”あるいは“生産力能の生産”という意味での力能です。

資本主義的生産は資本主義的消費を必要とします。それは主体的要求を抱える近代的個人による消費です。

生産と消費は、いわば自転車のペダルを交互に踏むように相補的過程を繰り返します。それによって人は前に進んでいくのです。

資本論は、基本的には経済学の本なので、哲学を平均値に置換している

生産は消費であり消費は生産であるという観点、欲望を持つ諸個人が生産の原点であるという歴史貫通的視点は、資本論の中ではとりあえずは無視されています。
労働力の価値は労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。…一定の国や時代には必要生活手段の平均範囲は与えられている
しかし、労働する諸人格の価値は、そのような生産コストの集合みたいな惨めなものではないはずだと思います。

価値は価格の集合としてのコストではありません。それは使用価値を根っこに踏まえた抽象なのです。もう一つ、価値は交換によって価格に転化するのではありません。それは仮定された価値・価格関係であり、その使用を通じて価値として実現するのであり、その使用価値に対して後出しで確定されていくのです。
その価値は生産→交換→消費(使用)→欲求→再生産への衝動という循環を経て決まっていくのであって、それが諸商品の平均値となっていく中で価格が歴史的に定まっていくのであろうと思います。

この平均値の決定までの歴史貫通的過程は、資本論の中ではジャンプされています。多分、第2部の第二次草稿がそこに相当するのでしょう。下記をお読みください。


弁証法と戦闘的唯物論

最初にマルクス主義に近づいたとき、教えられたのは、「弁証法的唯物論と史的唯物論」であった。
だから、依然として弁証法的唯物論という言葉は脳ミソに焼き付けられている。

これは、結局、世の中の理論は唯物論と観念論に分かれ、これは唯物論が正しい、というのが第一段階。
それから次に、唯物論にも弁証法的唯物論と機械論的唯物論があって、これは弁証法的唯物論が正しい、という二段重ねになっていた。

それで機械論的と呼ばずに形而上学的ということもあったが、機械論と形而上学の違いはよく分からなかった。いまでもよく分からない。

これで、四つ目表ができあがることになる。でもこれって、形而上学そのものじゃァない?

ところが話はこれで終わらない。唯物論と経験批判論という本が出てきて、唯物論と観念論の対立だけではなく、主観的観念論と客観的観念論があってということになる。

そうすると、議論は豆腐を縦横のほかに上下にも切り分けた8象限のカテゴリーに裁断されることになる。

これはもはやスコラ哲学そのものではないか。

その後、50年を経たいま、私は「弁証法的唯物論」などというパラダイムはまったく信仰していない。それは真面目なキリスト者が三位一体など信じないのと同じだ。

強いて言えば弁証法論者だということになる。それはすべての存在を過程の中にとらえる相対論であるとともに、過程の絶対性をエネルギーとして把握する実体論である。
それは時間軸の絶対性を信じるとともに、時間軸を越えた5次元時空があると信じることである。

これは世界のモデルである。これは立場の違いを越えて人類が普遍的に共有できるモデルだと思う。

ただその上で主体の問題は残る。党派性と言っても良いのだろう。その党派性の拠り所が唯物論なのだろうと思う。
だからレーニンが「戦闘的唯物論の意義について」を語ったとき、彼は正しかったのだろうと思う。

レーニンは戦闘的唯物論者が戦うための武器として弁証法の意義をとらえた。それはすべての知識人が、方法論として共有すべきものだ。

ただそれはもっと研ぎ澄ます必要がある。弁証法はヘーゲルの専売特許ではない。エンゲルスの専売特許でもない。もっと独りよがりでない、客観的で筋肉質な体系が必要なのだ。

それは自然弁証法(シェリング)と、認識の弁証法(フィヒテ)と、弁証法的論理学(ヘーゲル)から構成されるだろう。

いっぽう、唯物論に体系はない。それは戦闘的実践の中で研ぎ澄まされるほかない。そうでなければ、常にさまざまな形の観念論に落ち込んでいく他ないのである。マテリアリスムというのは究極的にはリアリズムである。

結論

弁証法的唯物論などというものはありえない。あるとすれば弁証法的唯物論者、あるいは唯物論的弁証法ということになる。
政治運動に引き寄せていうならば、共産主義的社会主義、唯物論的社会主義ということになるのだろう。
「資本論」は唯物論者でなくても理解できる。しかしそれを実現するのは戦闘的唯物論者、すなわち共産主義者以外にありえないのである。

人間社会の3つの指標

人間社会が健康的であるかどうかを評価する上で、3つの指標があると思う。
ひとつは豊かであることだ。ひとつは民主的であることだ。そしてもう一つは知的であるということだ。
この3番目の知的であることをめぐって、最近さまざまな議論がある。
いうまでもなく、世界の最高指導者の地位に反知性の代表みたいな人が居座っているからだ。
しかもその人物が、この上なく民主的と言われるプロセスを経てそのポストを獲得した。
これは衆愚政治の悪しき典型だろうか。それとも民主主義の過渡的形態なのか。

社会の知的指標としてのリテラシー

社会が知的であるかどうかを判断するスケールとして、リテラシーという言葉がよく使われる。大変使い勝手の良い言葉であるが、よくわからない言葉でもある。

もともとは識字率の意味であり、文盲率の逆数になる。ぶっちゃけた話、非文盲率と言うだけのことだ。多分文盲というのが、差別的なので使わなくなったのだろう。

一種の和製英語としてのリテラシー

もともとは識字率の意味である「リテラシー」であるが、最近の日本では識字率とは別の意味で使われている。

ウィキペディアでは以下のようなリテラシーが列挙されている。

メディア・リテラシー(Media literacy)
コンピューター・リテラシー
情報リテラシー(Information literacy)
視覚リテラシー
ヘルス・リテラシー(Health literacy)
精神リテラシー
金融リテラシー
科学リテラシー
マルチメディア・リテラシー
統計リテラシー
人種リテラシー
文化リテラシー
環境リテラシー

そのほとんどは勢いで作った言葉だろうし、相手を煙に巻くのが目的というのもある。

一体に具体的な単語を雲をつかむような抽象名詞に訳すのは日本人の悪い癖である。(技術とか健康とか医療とか…)

識字率というのは、別名がアルファベチゼーションというくらいで、もともと文字が読める程度までの知識を指す。さほどのものではない。

ただだいじなのは、これが個人的評価ではなく、一つの地域・社会に対する相対評価だということである。

そういう意味では、環境リテラシーなどと抽象的にいうのではなく、「環境に関してイリテレートな社会」とか「リテレートされた社会」と言うような表現をすべきだろうと思う。

社会をリテレートすること

最初に戻るが、民主主義は知性と反しない。別のものである。

もうひとつ無知はなくさなければならない。知性は育てなければならない。無知は無策の結果であり、知性を育てる努力の放棄の結果である。

知性が育てば民主主義は、その分揺るぎないものになる。ただしいかなる場合も立憲主義の精神は死守すべきだ。

これらは当たり前のことである。しかし中には無知な人々をだいじにして、無知なままにとどめておこうとする人がいる。

ラテンアメリカでは親米の国ほど文盲率が高く、自決派の国ほど識字率が高い。ベネズエラも識字率が上がったので、米国は下げたいのであろう。

新藤さんから「キューバ憲法改正の問題点」というレポートを送ってもらった。
新藤さんのホームページでも原文が読めると思うので、興味のある方はそちらに回っていただきたい。

概要を書いておくと、
① 2018年7月に国会が開催され、現行憲法の改正案が出された。現在各種・各級で審議中である。
② 現在の経済モデルは、過剰な中央集権化と、「マクロ経済にかかわる構造的諸問題」を引き起こしている。
③ 経済の4つの中心要素: 社会主義的所有、計画経済、限定的な市場、非国家所有(私有)
④ 「共産主義」の憲法からの削除
⑤ 首相(閣僚評議会議長)の復活。以前はドルティコス大統領・カストロ首相であった。

このうち、私にとって興味深いのは、「共産主義の削除」ということだろう。
それは共産主義をイデオロギーとして捉え、社会主義をシステムとして捉えるという使い分けなのだろうと思う。
つまり社会主義には共産主義・マルクス主義に基づく社会主義もあるし、そうでない社会民主主義的な社会主義もある。
いろんな社会主義があって良いという相対化がそこにはある。
それとともに、社会主義は人類史の進歩の流れを代表する未来志向型システム・モデルなのだという確信とが並列されている。
さらに言えば、社会主義を空想的社会主義と科学的社会主義に分けるような喋り方はもうやめようということにもなる(心の中でそう思っても構わないが)。サンダースの社会主義も立派な社会主義だ。「人間の顔をした社会主義」も、あり得べき社会主義の一形態だ。(ただし、我々はスターリニズムもファシズムも社会主義の仮面をかぶっていたことを忘れてはならない)
社会主義に関するキューバのモデルは、今のところ「経済の4つの中心要素」に示されたやや古めかしいものだ。もちろんこのように4つの要素に分析したということは、それぞれについて批判的検討を加えていくという姿勢の表れでもあるので、今後キューバの「社会主義」イメージは変わっていく可能性が大いにある。

一時、「共産主義と社会主義は同じだ」と言われたこともあったが、それに対するさまざまな言及の中で、使い分けがなされるようになっているようだ。
マルクスはサン・シモンの系列を引くプルードンの社会主義に対して、「それではだめだ、どう資本主義を否定し、どう次の社会を実現するのか、それが問題だ」と主張し共産主義を訴えた。
聽濤さんが示唆するように、マルクスの心の中で、共産主義は「宣言」なのだ。キューバの憲法改正はそれを示しているのではないだろうか。

1809年1月15日 ピエール・ジョゼフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon)が生まれる。父は醸造職人。貧困のため学校を中退、印刷所に校正係として勤める。
このあいだにほぼ独学で知識を身につけたという。

1839年 『日曜礼拝論』を発表する。社会改革思想とされ発禁処分を受けた。

1840年6月 『財産とは何か』が出版される。「財産、それは盗奪である」などの過激な表現が話題になる。(財産でなく所有と訳す場合もある)

資本家は「所有」することで「集合的な力」を搾取している。この体制に貧困の原因がある。これに対し自由で平等な協同は、唯一可能で真実の社会形態である。
資本家による搾取の体制は全面的に廃棄しなければいけない。

プルードンはルソー的な一般意志による法律を、「法律的虚構」とする。特に「所有権」については激しく非難。

1842年1月 第三論文『有産者への警告』がブザンソンの司法官憲に押収され、起訴される。

1844年 マルクスから共産主義通信委員会の通信員となるよう依頼を受けるも保留。
マルクスは「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」と称賛したが、プルードンはマルクスの教条主義や権威主義的な傾向を危惧したという(ウィキ)

1846年『経済的矛盾の体系、または貧困の哲学』を出版。

このころ、ロシアのバクーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論したという(ウィキ)

1846 プルードンの『貧困の哲学』が刊行される。
Proudhon
  クールベの描いたプルードン
社会再編の形態として、コミュニタリアニズム (共同体優位主義) を提唱。貨幣や国家の放棄を呼びかける。

「哲学者」は、「高慢さをひっこめて」「社会こそが理性であること、そして自分の手を働かせることこそが哲学することなのだと、かれのほうが学ばなければならない。

1847 カール・マルクス、『哲学の貧困』を発表。プルードンを徹底的に批判する。

1848年
2月 二月革命。プルードンはテュイルリー宮殿の無血占領に参加。

6月 プルードン、国民議会議員に選出される。『人民の代表』『人民』『人民の声』などの新聞を発刊。

プルードンの主張は反政府派の代表的な理論となる。サンディカリスムや無政府主義への道を開く。

1849年 プルードン、人民銀行の創設を図る。貨幣にかわる「交換券」を発行し、自由主義の競争社会を克服しようとはかる。

1849年 プルードン、ルイ・ボナパルトを「反動の権化」と攻撃し、3年の禁固刑となる。

1851年 プルードン、獄中で『革命の一般理念』などを執筆。

『革命の理念』においてアナーキズムの主張が全面展開される。経済的諸力を組織化し、それをもって経済的形態の社会秩序を目指すべきと主張。アソシエーションが意志に基づく約束であり排除すべきものとする。これにより政府は、非意識的な経済的組織の内に解消されることになる。

1858年 プルードン、『革命の正義と教会の正義』を出版。再び禁固3年を宣告され、ブリュッセルに亡命する。

1863年 特赦にて帰国したプルードン、『連邦主義的原理と革命党再建の必要について』(連合の原理)を執筆。

「社会の指導的な中枢部」を複数化することによって、社会主義と政治的自由の両立を試みる。

1865年1月19日 プルードン、パリ郊外で心臓病により死去。
old proudhon
         高齢期のプルードン
1865 年 マルクス、友人に宛てた書簡でプルードンとの交流を回顧。プルードンはプチブルで、科学的な弁証法を理解できなかったと評価。

婦人参政権を否定し、労働者のストライキ権を認めず犯罪と見做したことはプルードンの弱点と言われる。

聽濤弘「200歳のマルクスなら、どう新しく共産主義を論じるか」という本を入手した。

サラサラと読んでいこうかと思ったが、なかなか面白そうなので、メモを取りながら読んでいくことにする。

「未来社会論を語ること」の重要性

非マルクス主義者は「資本主義の歴史的終焉」を唱えている。しかしマルクス主義者もソ連崩壊後は未来社会を描けなくなっている。

こういう状況の中で(分からないなりに)未来社会論を語ることは重要である。その際に「マルクスが生きていたらどう考えるだろう」という視点が大事だ。
それは20世紀に歪められた社会主義の議論を取っ払うことになる。

ということなので、「マルクスに帰れ」という呼びかけにも聞こえる。ことは個人個人のマルクス観と関わってくる。なかなかしんどい話だ。あまり恣意的にならないように気をつけながら進むことにしよう。

「相対主義」について
聽濤さんは、「究極の真理を一方だけが知っているということは弁証法的にはありえません」という主張を紹介し、「やはり相対主義では社会は変えられない」と結論する。
これは納得できない。
真理は諸個人の間で相対的であるだけでなく、むしろこちらの方が重要なのだが、時の流れの中で相対的なのである。
それを前提として99%以上の確実性と再現性を持てば真実であるとしてよいだろうと思う。真実というのは意味のある事実なので、さらに相対的である。
往々にして混乱するのは事実が知られていない、あるいは隠されている場合である。
もう一つ問題はウソと言い逃れだ。「それはあなたの意見に過ぎない」というのは詭弁だ。後はウソとデマと悪意だ。我々が見抜かなければならないのはそこなのではないか。
マルクスのモットーは「すべてのものは疑いうる」である。これが唯物論者の態度である。

へーゲル弁証法について
ヘーゲル弁証法は物事を「矛盾の統一」と捉え、そこで起こる相克によって新しいものが生まれると説く。絶対真理ではなく相対真理をまずつかみ、それを通して絶対的真理に近づいていこうという論理思考である。
うーむ、微妙に的を外している気がする。「ヘーゲルの」といえばそうかもしれないが、マルクスの弁証法はたんなる論理学ではなく実在のあり方を説明した体系なのではないか。
私はフィヒテ・シェリングの物自体をめぐる議論のなかに弁証法の真骨頂を見ている。
自然弁証法について、最も基本となる矛盾は存在と運動の矛盾である。両者はエネルギーの中に統一体となっている。そこにおいては時間の絶対性が前提とされている。2つの存在の二項対立みたいな話は、それ自体が形而上学である。
もう一つ、運動が存在となるためには熱力学の法則が要求される。これについては目下、必要だという以上のことはよくわからない。

アソシエーション論
「資本主義を克服したあとには、個人の自由な発展が万人の自由な発展に貼るような連合体(アソシエーション)が現れる」でOKというのは何も言っていないに等しい。
これについてはまったくの同感。
ただしアソシエーションというのはたんなる仲良しクラブではなくプルードン主義者への毒をふくんでいることに注意が必要だ。


マルクス未来社会論の原点
聽濤さんはかなりユニークな提案をしている。
共産主義が低い段階で私的所有の廃止を内容としているのに対し、社会主義はそれを成し遂げたあとの自生的な社会形態だと言う。それはマルクスが経哲手稿の中で主張している中身だという。
これは新たな発見なのだろうか。

経哲手稿はまことに難解な書物で、まず誰が言っているのかをはっきりさせていかないと、マルクスが批判していることをマルクスの主張のように受け止めかねない。
哲学に関する手稿
少なくとも三人の主張が並行して進んでいく。すなわちまずヘーゲルの主張、ついでそれに対するフォイエルバッハの批判、そして概ね肯定的にフォイエルバッハを受け止めつつ、ときにマルクスの自説が顔を覗かせる。
ところが話を進めていくうちに、どうもそうではなくなってくる。「あれっ、これってヘーゲルのほうがいいじゃん」みたいになってきて、フォイエルバッハより自分の意見のほうが前面に出てくる。
経済学に関する手稿
こちらは論理構造はそれほど難しくない。ミル評注で獲得した経済学の知識をヘーゲル的論理に基づいて整序しているだけだ。
基本的には青年ヘーゲル派の主張にとどまっていると見ておくべきだと思う。なにせ2月革命の直前だ。世の中不穏な空気に包まれている。時代の空気をいっぱいに吸って「造反有理」の精神で満ち溢れていたと考えるべきだ。
これにサンシモンやオーウェンの社会主義が乗っかっていると見てさほどのズレはなかろうと思う。

当面するライバル プルードン

なぜマルクスがジェームス・ミルを一生懸命勉強したか。それは社会主義者プルードンと論争するためだ。

論争と言ってもパリに出てきたばかりのマルクスにとっては、プルードンはライバルと言うより尊敬すべき先輩だったに違いない。

ただ目指すものの違いは間もなく明らかになった。マルクスは革命をやりたかった。プルードンはもう少し地に足のついた改革をしたかったし、政治権力の打倒は念頭になかった。

もちろんマルクスとて社会主義を否定するものではないが、その前にやることがある。
それが私的所有をめぐる対立として浮き彫りにされた。と言っても浮き彫りにしたのはマルクスで、プルードンからすれば難癖つけられているように思ったかもしれない。

正直言って、マルクスが聽濤さんの言うように主張しているのかどうかはわからない。いろいろな解説書を読んだがそのように読み解いている本を見たことがないので、なんともいいかねる。

ただ下世話にプルードンとの関係を推理すれば、「マルクスの共産主義と社会主義」は、上記のように使い分けられていたのではないかと推測される。

エンゲルスは共産党宣言の序文(1890)で、「1847年には、社会主義はブルジョアの運動を意味し、共産主義は労働者の運動を意味した」と言っている。

まぁ、ぶっちゃけた話、そういうことだ。(ぶっちゃけ過ぎだが…)

共産主義の3つの形態

これは左翼の諸潮流をマルクスなりに整理したものに過ぎない。しかも自派の説明は悲しいまでに思弁的で、端的に言えば無内容である。

次に来る社会のスケッチは否応なしに現世と対比して語られざるを得ない。ところが現世の把握はああまりに観念的で情緒的である。

この現世の把握、過去の時代からの変化を前提にした、「未来社会」の弁証法は、この後もかなり揺れている。というより揺れ続けている。

中でももっとも拙劣で形而上学的なのが「経済学批判序説」の時代区分である。だからスターリン学派に重用されたのであろう。

しかし彼の興味の中心は常に「私的所有の廃棄」にあった。マルクス主義者である以上、未来社会を語るにおいて、ここだけは外せないだろうと思う。

この辺については佐藤金三郎さんの「資本論研究序説」が非常に説得的である。

このあと聽濤さんの文章はプルードンとの関係に移っていく。これは私も以前書いていて、非常に気になるところである。しっかり勉強させてもらおうと思う。



中野徹三他の共著による「スターリン問題研究所説」という本がある。この本のなかに、スターリンの弾圧に関する3つの統計があった。とりあえず引用しておく。

1.フ秘密報告など
党幹部への弾圧を示す一連の統計である。
17回大会で選出された当中央委員及び候補139名のうち、98名すなわち70%が逮捕され銃殺された。(主に1937~1938年)
…票決権または発言権を持つ1966名の代議員のうち1108名が、反革命的犯罪のカドで逮捕された。
メドベージェフはウクライナの共産党組織に関する数字を報告している。ウクライナの党員総数は1934年の45万人余りから、38年の28万人に減った。
ベールヒンの研究によれば、「36年憲法」草案を準備した憲法委員会の委員32名中、21名が弾圧の対象となりそのほとんどが刑死・自死した。

2.ロバート・コンフェクトの「大粛清」研究
表現がロシア文学風で、回りくどい。
弾圧はすでに1920年代末に始まっているのだが、大粛清というのは37年から始まる。
37年1月までは小弾圧だったかと言うと、決してそうではない。
37年1月時点での収監者・収容者はすでに500万人を数えていた。
それから2年間が、いわゆる大粛清の2年である。
この2年の間に新たに逮捕されたものが700万人いた。つまり合計で1200万が収監者・収容者である。
しかし2年後の38年12月、収監者・収容者は900万人にとどまった。つまり差し引き300万人が死亡したことになる。コンフェクトはこのうち処刑されたものが100万人と推計している。釈放者もいた可能性はある。

3.メドヴェージェフの報告
1956年、第20回大会直後の数ヶ月で500万人以上の政治犯が釈放された。
30年代から50年代に及ぶ被逮捕者・被収容者の延べ数は推測不能である。

4.エム・マクスードフの研究
「1918年~1958年におけるソ連の人口喪失」という論文にまとめられている。これはあくまで従来のセンサスを用いた推計である。
人口センサスに平常時の死亡率を掛けて、仮定人口を得た。この数と実際の調査結果の差が、公表されていない大量弾圧による人口喪失とした。
「(対独戦争での)750万人を超す兵士の死、600~800万人と言われる非戦闘員の喪失という膨大な数字がある。しかし900~1100万人の人口喪失は、ファシストの攻撃とは直接関係ない数年間に生じている。これこそスターリンの弾圧による喪失にほかならない」
表現がやや面倒くさいが、要するに
1940~45年の戦時中に750万+800万=1550万が死んだ。しかしその前後(実際は多くがその前だろうが)にも1100万の過剰死があった。これはスターリンが殺したロシア人の数である。
ということだ。
以前、第二次大戦でのロシア側死者の数が多すぎると疑問を呈したことがあったが、この大粛清による死亡もあまりにも多すぎる。
敵であればまだしも理解できるにしても、いわば「昨日の友は今日の敵」である。しかも相手は、殺されるまで「自分は友だ」と思っているのだ。
いまだに飲み込めないものを抱えている。
もうすこし他の資料もあたってみたい。


オウム幹部の集団処刑に関連して、竹内精一さんの談話が赤旗に掲載されている。社会面のトップではあるが、内容的にはその扱いでよいのかという感もある。一面の何処かに囲みで載せるべきではなかったろうか。
もうずいぶん前の事件なので、ちょっと解説を入れておく。
竹内さんは共産党員で、オウムの本部があった富士山麓の上九一色村の村会議員を務めていた。現地で先頭に立って反オウムの運動に取り組んだ。テレビにもしばしば登場したが,共産党議員の肩書きは慎重に避けられた。テレビではずいぶん多くの解説者が登場したが、多くが警察の垂れ流し情報の受け売りで、竹内さんほど適切な評価を下す人はいなかった。

それで、竹内さんの言いたいことは3つある。
1.集団処刑は「事実」隠しではないか
この事件で解き明かされるべき核心的事実は「多くの若者が入信し平気で人を殺す集団になっていったか」である。であれば、処刑は事実隠しになるのではないか。
2.オームの狂気を増長させた一連の責任は問われないのか
処刑後の法相会見では、裁かれるべきものが裁いているという後ろめたさが感じられない。
事件の多くは避けられたはずだ。裁く者の過失は相殺されないのか。処刑を命じる権原は毀損されてはいないだろうか。
3.松本死刑囚以外の人の死刑は正しいのだろうか
「死刑反対」の立場ではなく、やれと命令されて殺った人々に、極刑を与えることが正義に値するのか。戦争中の兵隊と同じで、命令されて敵を殺すことが、悪いことには違いないが、それは果たして極悪者なのだろうか
ここで竹内さんは深刻な告白を行う。
私は戦争に行った最後の世代です。中国で、人としてやらなくてもいいことをやっていました。私は戦争の被害者だが、中国の人民にとっては加害者だ。
あなた達もオウムの被害者かもしれないが、信者としては加害者なんだと伝えてきました
ここで読者は、なるほど竹内さんの生き様にはそういうバックボーンが通っていたんだ、とわかる。
(なおこれは具体的な誰彼の話ではなく、思想の話だと思う)


いま、なにげに教育テレビを見ている。NHKの制作なのか外国から買ったコンテンツなのかよくわからないのだが、AIが進むとホワイトカラー的な仕事がなくなって中間層が貧困化して、社会矛盾が激化するのではないかという番組だ。似たような主張は何度も目にしている。
この主張にはウラがあって、結局は「現状甘受論」と「イノベーションで生き延びろ」とさらなる競争を煽るところに持っていくのだ。
論理の持って行き方は19世紀の産業革命のときと同じだ。基本はジャングルの掟を持ち込む「社会ダーウィン主義」と、これに反対するラダイト(打壊し)という流れの構成になる。AIのところにグローバリゼーションを入れても、金融ビッグバンを入れても後の論理は同じだ。
マルクスはこのような流れに対する批判者として歴史に登場するのだが、その最大の優点は超階級的・超歴史的な視点から生産力論を展開したところにある。
ただしこの生産力理論には2つの異なる基盤がある。一つは「ドイツ・イデオロギー」的な「まず食うことから始めなければならない」という素朴な生産力理論だ。
もう一つは経済学批判序文で展開された徹底的にヘーゲル的な視点、すなわち「消費は欲望の生産である。豊かな欲望こそ社会の生産力だ」に見られる欲望→生産→消費の転換・発展関係だ。
マルクスの理論は常にこの2つの関係を行ったり来たりしながら発展していく。
そしてネオリベに根本的に立ち向かうためには、後者の視点の押し出しが決定的に必要なのだ。
ここはおそらくスティグリッツら有効需要論者とは意見を異にするところがあると思う。大事なのは「需要」ではなく人間的欲望なのであり、欲望の発展こそが人類発展の本質なのだということである。

青空文庫に下記名の文章があった。


まことにありがたい文章である。

文章の由来は少々面倒だが、こういうことだ。

昭和のはじめころ、岩波書店で「カント著作集」というセットを発売した。
その第11巻に『自然哲学原理』が収載された。その翻訳を担当したのが戸坂潤であった。
翻訳が完了したのが1928年(昭和3年)のことであった。戸坂はこの第11巻のために解説を書いた。この解説が脱稿したのが7月のことであった。
文頭あいさつのところに、「読者は「解説」に依頼するべきではないであろう」と書いているが、大きなお世話である。
この『自然哲学原理』をふくむカント著作集・第11巻は翌1929年の7月に発売になっている。
そしてこの解説は、40年後にカント著作集から抜き出され、1966年に戸坂潤全集の第1巻の一部として勁草書房から出版された。
この戸坂潤全集から、青空文庫のボランティアの方が拾い出し、インターネットにアップしてくれたという経過である。
戸坂潤全集の第1巻というのはたしか持っているはずだと思って探してみたらあった。ただしこの文章は巻末付録みたいな扱いで載っているので、気が付かなかった。と偉そうに書いたが、そもそもこの本、ほとんど読んだ形跡がない。多分、古本屋の軒先の均一本で出ていたのを「あぁいたわしや」と買ったのではないかと思う。

カントの先駆者たち 
<ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)>
1646年7月 ザクセンの首都ライプツィヒに生まれる。父はライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツ。
1661年 ニコライ学院を卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、数学や哲学を学ぶ。
1663年6月 哲学の学士論文をライプツィヒ大学に提出。
1664年 哲学の修士論文をライプツィヒ大学に提出。
1666年 ライプニッツ(20歳)、ニュルンベルクのアルトドルフ大学に法学の博士論文を提出。
1673年 庇護者のマインツ選帝侯の死。ライプニッツはパリで求職活動を行う。この間に多くのフランス人学者と交流。
1675年 微積分法を発見する。
1676年 バールーフ・デ・スピノザを訪問。『エチカ』の草稿を提示される。
1676年 30歳。ハノーファー選帝侯の宮廷に仕える。
1700年 54歳。ベルリンに招かれ、ベルリン科学アカデミーの設立に尽力。初代総裁に就任する。ハノーファーからプロイセンに嫁した王妃ゾフィーの招きによるもの。
1704年 ロック思想を批判的に検討する「人間知性新論」を執筆。脱稿直後にロックが亡くなったため発刊中止、出版は死後となる。
1710年 アムステルダムの出版社から『弁神論』を匿名で発表
1714年 『モナドロジー』の草稿を書きあげる。発表は没後となる。
モナド(単子)は単純実体である。表象と欲求とを有する。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはない。神が設けた「予定調和」によって、他のモナドと調和しながら自己を展開する。
1714年 選帝侯妃ゾフィーが死去。息子が即位し同時にイギリス国王を兼任。ライプニッツは家史編纂の閑職に追いやられる。
1716年 70歳。ハノーファーにて死去。その著作の大半は未完で、現在も全集は完結していない。

<クリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff)>
1679年1月 パン屋の息子としてブレスラウに生まれる。
1700年 イェーナ大学で哲学と数学を修める。
1702年 ライプツィヒ大学に移る。
1703年 論文『数学的方法で書かれた一般実践哲学について』を発表。教授資格を得る。この論文をライプニッツに送り高い評価を受ける。
1706年11月(27歳)ライプニッツのの推薦で、ハレ大学の数学・自然学教授となる。
ハレ大学はブランデンブルク選帝侯により創設され、「敬虔主義の牙城」であった。敬虔主義はプロテスタント内の原理派。
1709年 哲学科の教授も兼任。論理学、形而上学、倫理学を教える。 一部の学生が神学や聖書について定義や証明の改善を求めるようになった。このためヴォルフは「神学嫌悪」を引き起こしてると非難される。
1711年 ライプニッツの推薦によってベルリン・アカデミーの会員となる。
1712年 ヴォルフ、最初の体系的著作「ドイツ語による論理学」を発表。
1715年 プロイセン国王から宮廷顧問官(Hofrat)の称号を授与される。
1719年 第2作目の体系書「ドイツ語による形而上学」が刊行される。
ヴォルフの代表作と言われる。第二章は存在論(事物論)、第三章は経験的心理学、第四章は宇宙論(世界論)、第五章は合理的心理学、第六章は自然神学を扱う。 存在論は事物を一般的に考察し、他は特定の対象を弁証する。
1721年 ハレ大学の副学長を退任。記念講演で「中国人の実践哲学について」を語り、孔子を称賛する。
1723年11月(44歳) ヴォルフ、無神論の罪でプロイセンを追放される。プロイセンではヴォルフの哲学を重罰をもって禁止する。
1723年 ヴォルフ、ヘッセン=カッセル方伯の招請を受け、マールブルク大学の哲学科主任教授となる。
1733年6月 パリの王立学術協会の外国人会員に選ばれる。この後、プロシアでのヴォルフの研究はなし崩しに容認される。
1735年 ヴォルフの書籍がハレで刊行される。
1740 年、ヴォルフを追放したフリードリッヒ・ヴィルヘルム一世が死亡。フリードリッヒ二世(大王)が即位。
1740年(61歳) ハレ大学に返り咲く。5年後には学長となる。
1754年4月 死去。

<バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten>
1714年7月 ベルリンで7人兄弟の5男として生誕。父は軍営教会の牧師。
1727年(13歳) 両親が早世し、里子としてハレに移り住む。 12 歳年上の長男ジークムント(のちにハレ大学教授)が指導した。 
1730年(16歳) 飛び級でハレ大学に進む。
このときすでにヴォルフ追放後7年を経過している。彼の教師となったのはヴォルフを追放したランゲであった。
1735年(21歳) 哲学でマギスターの学位を取得。
1735年 論文「詩に関する若干の事柄についての哲学的省察」を発表。教授資格を得る。
この論文で「美学」(aesthetica)の概念を提唱した。 可知的なものは論理学の対象であり、可感的なものは感性の学としての美学の対象である。
1737年 ハレ大学の員外教授となる。
1739年(24 歳) バウムガルテン、『形而上学』を公刊する。
1740年 ハレを去り、フランクフルト・アン・デル・オーデル大学教授。ヴォルフとはすれ違いとなる。
1750年 「美学」(aesthetica)を発表。(未完に終わっている)
1757年 『形而上学』を発表。「エステティカ」の訳語に「美しいものの学」を充てる。

カントとヘーゲルを繋ぐ橋がだいぶ見えてきた。
とくにシェリングの果たした自然哲学での理論的貢献がヒトカタならぬものであったことが実感された。
ただ、その多くがひらめきによるものであり、理論的な詰めが甘かったから、手柄をヘーゲルに横取りされてしまった感がある。
それでも、これまでヘーゲルの弁証法哲学の成果と思い込んでいたことの多くが、実はシェリングの直感に基づいていたということが分かった。
翻って、カントに遡行して行くと、カントが必死になって解き明かそうとしたことの核心が見えてくる。
それは「物自体」概念なのではないだろうか。
以下は作業仮説であって、学習する中でまったく違ったものになるかも知れないが、「予想屋」の工場と思っていてください。
1.カントはライプニッツを批判し、デカルトとヒュームを取り入れて理論を構築したと物の本には書いてある。
これは多分ウソだろう。
理論構築の仕方はどう見てもライプニッツ・ヴォルフのそれだ。じゃがいもと酢キャベツで出来上がっている。
2.モナドを起点に構築されたライプニッツ哲学は、不可知論と主観論によって危機にさらされた。認識論・現象論のダイナミックな過程を念頭に置かなければ体系そのものが崩壊する。
3.そこで一方では「物自体」概念を作って、外界を不可知のものとして遮断し、一方では「理性」概念を作って主観を伴う知性を主体とすることで、物自体への接近を可能にするという道を作った。
というのがあらあらの流れではないかと想像している。

3. シェリング自然哲学からみた人間と自然との関係
「力動的過程あるいは自然学の諸カテゴリーの普遍的演繹」(1800年)より

①可視化の過程
自我はその能動性を、産物を通じて可視的にする。可視化するというのは、時間軸を取り去って3次元の静的世界に構造化することである。
これに対し自然は、その能動性を、産物を通じて可視的にしている。だから自我はそれを構造的に認識することが可能となるのである。
認識の一歩としての視認は、可視的対象を挟んだ自然と主体の分離→結合過程である。
シェリングはその後で「自然の限界において観念論が出現する」と結論する。しかしそれは可視化できない自然が自我の外側に広がっていることを表現しているに過ぎない。それはむしろ実在論であって、それが観念においてしか捉えられないということである。
確率的存在の世界は非在ではない。そこでは物質はエネルギーとして(確率論的に)存在している。
だから、シェリングの立場は、骨の髄まで紛れもなく実在論だ。
②自然過程の頂点における人間の出現
シェリングにおいては、自然過程がその頂点において人間を生み出したのである。
“主体としての自然”は、自己を見るという潜勢的志向を実現するために、自分の有機的部分を人間理性として分離したのである。
ところが超越論的観念論(フィヒテ)は自己意識において成立する“自我”を絶対化する。その場合には“自我”の存立の根拠、すなわち自らと自然との連関が忘却されてしまう。
人間は意識的に「自然から身をもぎ離」そうとする。しかしそれは根底的には「自然自身の志向」なのである。
そこを押さえずに、人間と世界との現実的連関を分断するような観念論は、結局のところ主観的なものに転落する。その絶対性も見せかけのもの、「仮象」となる。
③フィヒテの反発
フィヒテは1801年5月にでシェリング宛に手紙を書いた。この中で「感性の世界すなわち自然は、意識というこの小さな領域の内に存在する」ものでしかないと主張した。
その後フィヒテは極端な汎生命論まで行き着く(1806 年の通俗講義『学者の本質』第二講義)
フィヒテの結論は「絶対的なものは生命であり、生命は絶対的なものである」と語られる。そこでは自然は「死んで自己のうちに閉じこめられ硬直したもの」としてのみ登場する。
自然は、人間的生命を制限し脅かし束縛するものであり、人間的生命によって「廃棄されるべきもの」である。
これに対しシェリングはフィヒテを切り捨てる。
理性的生命による自然の賦活とは、実際は自然の殺害にほかならない。
そこからは「全面的な精神の死」が帰結せざるをえない。
④自然哲学の営み
この節には名文句が並ぶ。“てにをは”をいじるだけでそのまま転載する。
自然哲学は、自然全体がその潜勢的指向を実現して意識にまで高まってくる際の諸段階を跡づける。それは諸段階に残された“記念碑”をたどる作業である。
理性はいっさいの自己創造者としてみずからを誇るが、自分の後には、みずからの存立根拠としての有機体を引きずっている。
人間は自然存在者であるからこそ、主体としての自然そのものから主体としての力を付与され、主体でありうる。主体として、自然にかかわり、自然との相互作用の中で生き、活動できる。


ちょっと感想
えらい難しい内容だが、言葉の使い方にある程度慣れればきわめて説得力のある議論だ。
一番共感するのは、現代物理学や生物学の到達水準によく照合していることだ。

これまでカントがフィヒテからヘーゲルへ発展したと言うことで説明されてきた。
とくにマルクス主義哲学の分野ではそれが主流だった。
ところが勉強してみると、なかなか状況はカンタンではない。それどころか私にはカント→シェリング→ヘーゲルと書きたくなる内容だ。
もう一つは、観念論対唯物論という図式がずっと強調されてきたが、果たしてそうなのだろうかということだ。
むしろ実在論対経験論というか主観論の対抗という側面が主要なのではないかと思う。

シェリングにおける3つの発展
非常に雑駁な感想だが、シェリングには3つの哲学上の発展があったと思う。
それは、自然を自己の根源に据える実在的唯物論の視点、自然と自己を発展の過程のうちにとらえる弁証法の視点、カントの「物自体」の生き生きとした復権と自己との一体化である。
カントが不十分ながらも「物自体」を定式化することによって、宗教と科学精神を分けた。理神論的な曖昧さを残そつつも実在論に向かって大きく踏み出した。
それをフィヒテが、実践概念を持ち込むことによって、ふたたび主観論に引き戻した。
ただしフィヒテの主体論はカントの静的二元論に動きを持ち込み、発展の概念をもたらした。
そしてシェリングがカント的世界にコペルニクス的転回をもたらした。天体が動くのではなく私と私を乗せた大地こそが回転しているのである。
それは、ある意味でカントの「物自体」の復権でもあった。しかも生き生きとした、みずから発展するものとしての自然の復権でもあった。

イマヌエル・カント 年譜
森本誠一さんのサイトその他を参考にさせていただきました。より詳しく知りたい方はそちらにお進みください。

1724年4月 カント、ケーニヒスベルクに生まれる。馬具職人の四男(9人兄弟)であった。
1732年(8歳) ラテン語学校のフリードリヒ学院に進む。この学校は当時プロシアで優勢であったプロテスタント敬虔主義の教育方針をとっていた
1740年(16歳) ケーニヒスベルク大学に入学。当初、神学をこころざす。のちにライプニッツやニュートンの自然学を研究。
1746年(22歳) 父の死去にともない大学を去る。正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったとされる。その後は家庭教師をして生計をたてる。

前「批判」期
1749年(25歳) 卒業論文『活力の真の測定に関する考察』が出版される。『引力斥力論』などニュートン力学や天文学を受容。
1755年(31歳) 最初の論文「天界の一般的自然史と理論」を発表。
銀河系は多くの恒星が重力により集まった円盤状の天体であると推論。さらに太陽系は星雲から生成されたと論証した(カント‐ラプラスの星雲説)。
1755年 ケーニヒスベルク大学哲学部の私講師として採用される。論理学、数学、物理学、形而上学を講義。私講師就職論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』が出版される。
1756年(32歳) 『物理的単子論』をあらわす。公開討議の第1回目の素材となる。これにより教授資格を獲得。(就任したわけではない)
1758年(34歳) ケーニヒスベルクがロシア軍によって占領される(62年まで)。
1762年(38歳) 『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠』を出版。初めて学界の注目をひくが、ウィーンでは禁書扱いになる。
1762年 ルソーの『エミール』が出版される。カントはこの本から強い感銘を受けた。
1764年(40歳) ベルリン・アカデミーの懸賞論文に応募。『自然神学と道徳の諸原則の判明性』が次席に入る。
1764年 『美と崇高の感情に関する考察』を出版。大学側からの詩学教授職への就任要請を辞退する。
1766年(42歳) 『視霊者の夢(形而上学の夢によって解明された)』を出版。ライプニッツの形而上学を否定的に総括。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎない。この世界と別の世界を同時に往することはできない。それは理性の必然的な仮説である。」

「批判」期
1770年(46歳) ケーニヒスベルク大学哲学部論理学・形而上学の正教授に就任。前年よりエアランゲン大学、イェナ大学の招聘を受けたがいづれも辞退。
1770年 就任論文として『可感(感性)界と可想(知性)界の形式と原理』を発表。ルソーの肯定的な人間観に影響を受け、ふたつの領域での人間理性の働きを分析した。この論文の増補改訂の計画が、おその後の『純粋理性批判』の構想に発展した。
1772年(48歳) ポーランド分割にともない、ケーニヒスベルクがプロシアに返還される。その後7千人の軍を含め人口は6万人となり、ドイツ屈指の都市となる。
1776年(52歳) カント、哲学部の学部長に就任。教育学の講義を開講する。
1781年(57歳) 『純粋理性批判』第一版を出版。当初はバークリーの観念論と同一視された。
認識(経験)を感性と悟性(理解)に分け、認識できないものを理念(物自体)とした。悟性は現象の文字化されたもので、直観(時間軸)は失われている。
1783年(59歳) カント、『プロレゴーメナ』(形而上学は可能か)を出版。純粋理性批判にまつわる誤解を解くための解説本と言われる。ヒュームに影響を受けたが、不可知論ではないと強調。
1784年(60歳) 「世界市民的見地における一般史の理念」、「啓蒙とは何かという問いに対する回答」を発表。
1785年 『人倫の形而上学の基礎づけ』を発表。
1786年(62歳) ケーニヒスベルク大学学長に就任。ベルリン・アカデミーの会員に選ばれる。
1787年(63歳) 『純粋理性批判』第二版を出版。
1787年 「実践理性批判」が発表される。当初は『純粋理性批判』再版にあたっての付録として構想されていた。
物自体の秩序を「叡智界」とし、叡智界の因果性の法則を道徳として規定する。この法則に従うことで、「現象界」の純粋理性が実践的に実在化される。
1789年 フランス革命が勃発。その後革命の波及を警戒する政府の勅令により、出版物の検閲が厳しくなる。
1790年(66歳) 三批判最後の著作「判断力批判」が発表される。
判断力は「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」であり、美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種よりなるとされる。

後「批判」期
1791年(67歳) フィヒテが経済的支援を求める。カントは『あらゆる啓示の批判の試み』の出版先の紹介という形で援助する。
1793年 カント、既成宗教への批判をふくむ『単なる理性の限界内における宗教』をあらわす。プロイセン政府は出版を禁止。
1794年 勅書により、宗教に関して公に語ることを禁じられる。カントは「陛下の忠実な臣下として」勅令を甘受すると表明。
1795年(71歳) 『永遠平和のために』を発表。国家にとっての自然状態(戦争状態)を脱して恒久的な平和をもたらすことを訴える。
1797年 『人倫の形而上学』を発表。ロック的な社会契約説を展開する。
1799年(75歳) 「フィヒテの知識学に関する声明」を発表。
1802年(78歳) 認知症が進行。約40年間カントに仕えた召使のマルティン・ランペを解雇する。
1804年2月(80歳) カントが逝去。16日間かけて町中の市民がカントに別れを告げ、数千人以上が葬儀の列に参加した。

より

2. 個別有機体と環境
①環境について
環境という概念は近代の産物である。したがってシェリングの文章には登場しない。しかしシェリングは環境という発想を最初にした人物である。
環境は、主体の内と外を区分する境界領域を意味する。環境は肉体にとって自然の一部ではあるが、訓化された自然、一種の膜である。
②普遍的有機体から個別有機体へ
根源的産出的能動性が単一の肯定的原理として働くこと、それを受容する否定的諸原理が差異性を持つという関係。
「生命と有機体の肯定的原理は、絶対的に一である以上、有機諸組織は本来ただその否定的諸原理によってのみ異なる」
③個別有機体のありよう
自然の個体は、普遍的有機体に同化されず自己を存立しなければならない。
同化されないためには、いっさいを自分に同化しなければならない。有機組織化されないためには自分を有機組織化しなければならない。
この、閉じたシステムとしての有機的物体の内には、外界に抗して均衡を維持するような対立的能動性が働く。
その営為は、たんなる外的刺激に対する反応(因果的受容)ではない。
その行為によって内的なものが外的なものから区分される。その境をなすのが環境(訓化された外界)である。
分かりにくいので噛み砕くと、普遍的有機体というのは環境(自然)と生命主体(個別有機体)をふくんだ全体であり、個別性というのは普遍性への反抗ないし抵抗として存在する。
ただし直接的な抵抗はたちまちのうちに粉砕・吸収されてしまうから、反抗する主体が永らおうとすれば、その周囲に外皮(膜)をまとう必要がある。
生命というのは持続性(持続する反抗)を必要とするからこの環境という外皮は生命にとって必須(特殊な反抗形態としての生命)である。
こう読み解けば、シェリングの自然哲学の素晴らしさが分かってくる。
④個別有機体の発展
個体的有機体は受容と能動性との相互作用、交互限定を通じてみずからを有機組織化する。この二重性を介して外界との交互限定関係も形成される。この二重性は無機的自然の二重性の反映である。
有機的個体は栄養摂取、成長の過程をとおして、二重性としての自分を不断に維持、再生産する。

1. 普遍的有機体 
A) 1797年「自然哲学考」(Ideen)より「序論」

精神としての人間は自然の一部である。
自然とは現実の生きた相互連関が織りなす総体である。
「人間と世界とはたえず接触と相互作用が可能でなければならない。いかなる裂け目もあってはならない。ただそのようにしてのみ、人間は人間になる」

(哲学的)自然状態においては、人間は自分をとり まく世界と一体であった。
「哲学」が誕生すると、人間は外界に対して独立し、自由への道を歩み始める。 だから哲学の基本問題となるのは「外の世界(自然)がどのようにして可能か、どのようにして経験可能か」ということである。

人間の意識性と自由な能動性は、自然との現実的連関を前提とする。
したがって自然は、人間精神と同様に能動的主体でなければならない。自然は精神と同じく、自由な生命的なものとして捉えられる。
この自然という主体は、個別の人間を意識主体たらしめ、その自由を可能にする根拠である。それは自然の内的展開を通して行われるのである。

④精神と自然の絶対的同一性
以上の経過は、精神と自然の絶対的同一性をしめす。すなわち「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然である」というテーゼである。

⑤この絶対的同一性をふくんだものが普遍的有機体である。
それは自分自身で存立し、自分自身を産出し、自己自身を有機組織化する。

⑥自然の根源的産出性は無限な能動性である。
そのため自然の産物も「無形態的」で流動的である。したがってそれが発展するためには無限に阻止されなければならない。 事物は無限に阻止される結果として現象する。

⑦無限に阻止する能動性は、産物として把握された経験的自然である。
(この詳細は展開されない)

⑧二つの能動性の衝突により、根源の能動性は一定の点に収斂するようになる。
この点は繰り返し充実させられ、自分の「領域」を形成する。 これが客体としての自然となる。

B) 普遍的有機体が内包する二つの問題点

これは普遍的有機体としての全体的自然の内部構造の問題である。 第一は、形態的にも質的にも多様な有機体が類としてどのように存立しうるのか。 第二は、普遍的有機体の内部で、個体的有機体と外界をなす物質的自然がどのような関係にあるのか。 これらは以下に述べる第二の課題と大きく関わってくる。

の学習ノートです

はじめに

シェリングは生きた創造的自然という見方を提起した。
それは自然を能動的な主体として捉えた。
そして自然そのものを生成し、形態化する力を備えた主体として把握しようとした。
彼の自然哲学は、その自然の産出過程を描き出そうという試みであった。

シェリングの「主体としての自然」という表現は、ロマン主義的な擬人観ではないかと考えられてきた。
しかし今日では自然を主体として捉える発想は一定の支持を受けるようになっている。

今日、シェリング自然哲学は環境学の立場から3つの点で注目される。
(1)普遍的有機体
前期自然哲学で提示された「精神と自然との根源的同一性」の考えは普遍的有機体という概念を生み出した。
これは「総体としての自然」を一つの有機組織ととらえる考えである。
そして、その中に自我・意識・精神もふくまれる。
(2)個別的有機体
自然が普遍的有機体としてとらえられるとき、その全体的自然のうちで、個別的有機体は規定されるのか。
個別的有機体(例えば人類)は普遍的有機体(環境)の中で、どのようにして存立できるか。
(3)客観的観念論
自然哲学は、主観的なものに一面化された観念論(フィヒテ)に対する批判である。
それは客観的存在の自立性と主観に対する規定性を意味している。
その際に、自我・主観は自然に対してどのように再措定されるのであろうか。

と、ここまでが短い序論。ついで(1)、(2)、(3)について検討に入る。

フリードリヒ・シェリング 年譜
2019.4.18 増補

(シェリングの資質はエンゲルスと非常に近い印象を受ける。シェリングは、エンゲルスが初期マルクスに対して果たしたのと似たような役割を、ヘーゲルに対して果たしたのではないだろうか)

1775年 シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling)、ヴュルテンベルク公国にルター派神学者の子として生まれる。
ヴュルテンベルク公国はシュツットガルトを中心とし、神聖ローマ帝国の一部をなす小国である。紆余曲折を経つつ第一次大戦終了まで存在した。
1790年 テュービンゲン神学校に入学。特例により15歳で入学し、5歳年上のヘーゲル、ヘルダーリンと同級・同寮となる。
彼らはルター派正統神学の牙城にいながらフランス革命に熱狂し、進歩と自由を渇望し、思想の道へ進んだ。彼らは新興のカント哲学に集中した。シェリングがとりわけ学んだのはフィヒテとスピノザであった。
1792年 シェリング、「悪の起源について」(修士論文)、『神話について』(1793)を著す。

1794年 フィヒテ、「全知識学の基礎」を発表。“物自体”も絶対的な自我によって生み出されると主張。

1794年 神学校を卒業。神職を選ばず、家庭教師をしながら著作に勤しむ。フィヒテの忠実な紹介者、支持者として頭角を現す。
雑誌に『哲学の諸形式の可能性』(1794年)、『自我について』(1795年)、『哲学的書簡』などの論文を発表。
1796年 ライプツィヒ大学に移り、3年にわたり自然学の講義を聴講する。自然哲学に傾倒する。「ぼくはスピノザ主義者になった」とヘーゲルに書き送る。

1797年 『イデーン』を発表。「有機体」概念を中核に、自然の哲学的把握と形而上学的根拠付けを行う。この頃から自然を自我にとっての障害と考えるフィヒテと意見が分かれるようになる。
生物学や化学、物理学の最新知見に刺激されたシェリングは、ライプニッツの理論を引き継ぎ、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。(Wikipedia)
フィヒテのように物自体を考察の外に置くと、物自体が発展しても意識はそれを認識できないことになる。シェリングは自然と精神がともに独自に発展すると考えた。
1798年 「世界霊について」を発表。ゲーテに認められる。
自然の目標を生命におき、自然の根源を世界霊(宇宙霊)であるとした。自然と精神との最高の統一形態が芸術であるとする。
1798年 イェーナ大学の助教授に就任する(23歳)。この時の哲学教授はフィヒテであり、無神論論争の最中であった。
すでにフィヒテとの見解の相違は明らかだった。フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。
しかし自然科学に触れる中でスピノザ・ライプニッツ主義者となっていたシェリングはそれでは納得出来ない。絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力があると考えた。
1799年 フィヒテがイェーナ大学を辞職。シェリングは哲学の正教授となる。
1800年 シェリング、フィヒテを否定的に受け継ぐ形で『先験的(超越論的)観念論の体系』を発表。ヘーゲルらとの学的交流を基礎とし、絶対者の自己展開の叙述の学として「同一哲学」を提唱した。
自然と精神は絶対者の二つの現象である。主観と客観とは同一であり、自然と精神はその現れである。「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」
1800年 シェリング、ヘーゲルをイェーナ大学の私講師として推挙する。
1800年 ヘーゲル、『フィヒテ哲学とシェリング哲学の差異』を発表。シェリングはフィヒテ宛ての手紙で論文の発行を告げる。
1.存在は非存在の中に生成してくる。2.絶対者は当初より存在するが、理性の自己産出の中で形態を与えられ、一つの全体となる。3.絶対者はその中に分裂現象を生み出し、意識は全体性から分離する。4.生は無限の中の有限として現れる。
1801年 シェリング、「私の哲学体系の叙述」を発表。自我と自然との絶対的同一を主張。これをフィヒテが批判したことから関係決裂。フィヒテの転居を機に始まったシェリングとの文通が止まる。
自然哲学と超越論的哲学を併置するシェリングに対し、フィヒテは他我を原理的に哲学の対象とはみなさなかった。
1802年 シェリングとヘーゲル、共同で雑誌『哲学批判雑誌』を刊行。主に自然哲学を扱う。
1803年 保守派と対立したシェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去る。シェリングの転居をもって『哲学批判雑誌』は終刊。ヘーゲルとの協力関係も止まる。
1806年 シェリングは不倫相手と結婚し、いったんヴュルツブルクに移った後、ミュンヘンに移住。バイエルン科学アカデミー総裁に就任する(31歳)。
1807年 ヘーゲルの『精神現象学』が刊行される。シェリングの同一哲学が批判される。
シェリングは絶対者を直観によって把握する。ヘーゲルはその無媒介性を批判した。
1809年 ミュンヘンで「人間的自由の本質」を出版。人間的自由についての哲学的考察を発表。
人間の存在根拠たる神には「神のうちの自然」があり、神自身と対立している。自然は、自らを現そうとする神自身にとっての「根底」である。被造物の頂点である人間のなかには、対立は自由の可能性として再び現れる。
1813年 シェリングの妻カロリーネが病死(09年)。ゲーテの紹介で再婚する。
1813年 シェリング、「世界諸世代」を執筆。
1814年 フィヒテがチフスにて急死。ヘーゲルがベルリン大学の後継教授となる。
1820年 シェリング、ベルリンのエアランゲン大学哲学教授となる(45歳)エアランゲン大学にはフィヒテが05年から勤めていた。
1827年 シェリング、ミュンヘン大学創立に伴い哲学教授に就任。バイエルン王太子マクシミリアンの家庭教師を務める。バイエルン王国への貢献をもって貴族に叙せられる。
1831年 ヘーゲルが死亡。
1830年代 シェリング、「積極哲学」を提唱。
消極哲学は "das Was"「あるものがなんであるか」にのみかかわっており、"das Dass"「あるとはどのような事態であるか」について答えていないとする。(ウィキ)
1841年 ベルリン大学哲学教授に就任(66歳)。4年間在職。
ヘーゲル左派の急進的思想に対する防壁となることを期待されたという。
就任講義には、エンゲルス、バクーニン、ブルクハルト、キルケゴールなどの錚々たるメンバーが聴講した。しかしその後の講義は閑散としていたと言う。
1845年 ベルリン大学教授職を辞任。以後公式活動を退く。

1854年 スイスの療養先で死亡。





1762年5月19日 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)、ドレスデン近郊の農家に生まれる。貧困のため修学できず。
1780年 近郊の貴族の援助を受けイェナ大学神学部へと進学する。
1781年 ライプチヒ大学に転学
1788 パトロンの死により学資を失う(26歳)。友人の紹介でスイス・チューリヒで家庭教師の職を得る。この時カント哲学に興味を覚える。
1789年 フランス大革命が発生。フィヒテはこれを熱烈に支持する。
1790年 ライプチヒでカント哲学を個人教授
1791年7月 カントのいるケーニヒスベルクを訪ね、講義を受ける。7月半ばから8月半ばまで、『あらゆる啓示の批判の試み』を執筆しカントに送る。
1792年 『あらゆる啓示の批判の試み』がカントの仲介で出版。実践理性批判を元に宗教概念を論じたもの。多くの人が著者をカントだとみなしたが、7月末にカントは著者がフィヒテであると公表した。
1793年6月 Berlin, Leibzig、Stuttgart, Tubingenを経てチューリヒに到着。
1793年 チューリッヒで『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』、『思想の自由の返還要求』などを発表。この年、知人の娘ヨアンナ=ラーンと結婚。
1794年 イェーナ大学の助教授に就任。『全知識学の基礎』を発表。知識学を提唱。
意識を事物ではなく実践として措定。カント哲学に能動的性格を与える。「自我は根源的に端的に自己自身の存在を措定する」ところから出発して、それが成立するための条件として自然の認識を演繹する。「知識学」というのはWissenschafts のことであり、「諸科学」と訳してもなんの問題もない。「諸知識」は一つの体系であるが、認識過程の諸結果でもある。
1797年 「知識学への第一序論」を著す。「ひとがいかなる哲学を選ぶかは,ひとがいかなる人間であるかによる」が有名。
哲学体系は観念論と独断論の二つだけである。観念論は経験を「自我」から説明する。「物」から説明するのは独断論である。しかし自我の自立性と物の自立性は両立し得ない。ゆえに独断を拒否する限り、我々は観念論に立たざるをえない。
ということで、現状容認の論理(唯物論)に対して、「否定の論理の積み上げ」というラディカルな理屈を持ち込む。
1798年 フィヒテ、知識学の各論となる『全知識学の基礎』を発表。  『学者の使命に関する講義』も発表される。
「普遍的な思考」は共同体が生み出す。この思考は、共同体を存在可能とする基底的な条件を考察する。普遍的思考は共同体を志向するが、共同体が思考の主体とはならず、あくまで諸個人の思考にとどまる。なぜなら共同体は、経験的には常に限定された所与に過ぎないからである。
1799年 「神的世界支配についての我々の信仰の根拠について」を発表。神概念のあり方をめぐり、無神論論争を引き起こす。無神論者のレッテルを貼られ、イエナを去った。
この間、フィヒテは「物自体の考え」を否定、カントが、物自体を認めて、世界を二元論として解釈することを強く批判する。(ただし彼は「カントは二元論みたいなことは言っていない」と主張している)
フィヒテは、二元論者は「物質から精神への、もしくは精神から物質への絶えざる移行、あるいは同じことだが、必然性から自由への絶えざる移行を前提とするような、こうした結合の可能性を証明しなければならない」とし、「自我の実践性」(事行)を理論的認識にまで広げた。これは現象学の漫画化だが、逆説的に弁証法の必然性を示唆しているともいえる。
1799年7月 ベルリンに転居。
1800年 『人間の使命』などを著す。
1801年 「知識学の叙述」を発表。シェリングとの論争を受けて自我概念が後退。絶対知を出発点にして全経験を説明するようになる。ただし絶対者の存在を最初から前提することはせず。
決断を行うとされる個人が、ここでは本来的な知の担い手ではなくなっている。個人の自由もまた「普遍的自由」の内部でのみ成立する
1802年 シェリングとの関係を断絶。
1805年 ベルリンのエアランゲン大学教授に就任。
1806年 『現代の特質』を発表。「絶対者」から存在根拠を出発するようになる。この「神」は自由な道徳的主体の総体であり、「我々」(das Wir)を可能にする根拠となる。
1806年 ベルリンがナポレオン軍に占領され、10月18日ケーニヒスベルクへ避難。
1807年8月 フィヒテ、占領下のベルリンに戻る。12月に『ドイツ国民につぐ』を講演(1808年出版)
1810年 フィヒテ、新設されたベルリン大学の教授に就任。哲学部長に任命される。翌年には学長に就任する。
1813年 「知識学」を発表。「知識学が自己の存在証明をなしうるのは、知識学に帰依する人によってのみ」であるとする。
1814年1月 チフスにて急死。52歳。国内の救援に夫人がボランティア看護婦として参加しチフスに罹患。彼女を看護したフィヒテも感染した。
1814年 フィヒテの後にはヘーゲルがベルリン大学教授として招聘される。

フィヒテの思想はきわめて魅力的だ。彼はみずからを「観念論」と規定することによって、すべてのしがらみから解き放たれた。世界を中世の千年の眠りから解き放ったフランス革命とはなんだったろうか、まさに呪縛からの解放という精神の所業ではないか。
カントはフィヒテを得て、あたかも翼を得たように感じただろう。時間感覚、浮遊感覚こそがフィヒテのすべてだ。「精神一到、何事かならざらん!」というのが主観的観念論以外の何物であろうか。
フィヒテを考えるのに、偉くなってから(ベルリン時代)の哲学は必要ない。思想家としてはもはや抜け殻である。無神論論争の戦士としてのフィヒテが、我々には必要なのである。
カントの動かない世界に動力を与え、かくして必然性の克服の契機を与えたことである。
フィヒテの最大の貢献は、カントに弁証法を持ち込んだことにあるのであって、持ち込む際の乗り物が主観的観念論だったことは主要な問題ではない。
調和とか必然性というのはキリスト教の世界であり、絶対王政の世界でもあった。その必然性がバスチーユの襲撃に始まり音を立てて崩れつつあったのである。
そこではジャコバンが「必然性」をギロチンにかけていた。ギロチンというのは実に鮮やかな装置で、一瞬にしてルイ16世やマリー・アントワネットの首がコロコロと落ち、血しぶきが飛び散るのである。
これはまさに観念論の世界である。唯物論からこのような勢いは生まれないだろうと、たしかにそう思う。
「はだかの王様」をはだかと見切り、「王様ははだかだ」と叫ぶのは、決して唯物論的な行いではなく観念の転換なのだ。
これは良い観念論だ。
カントがフィヒテとシェリングに分かれ、それをヘーゲルが止揚して…などというのは最悪の観念論だ。
フィヒテ哲学の全体像を求めて -- 知識学の変転とその理由--入江幸男
という文章を参考にさせていただいた。これだけでも結構ごちそうさまだが、もっとすごい文章もある。ただそこまでやっていくと、肝心の時代性が見えなくなる。
私としては1789年のバスチーユをヨーイドンの出発点に、「自由・平等・博愛」の旗印、ジャコバンとダントンとギロチンの世界、そしてナポレオンの登場までのかけっこを見物するのが目的だ。
1790年代の10年間、カントもフィヒテもシェリングもヘーゲルも時代を並走している。さらに言えばゲーテもシラーもベートーベンもお互いの方を見ながら並走している。ドーバー海峡の向こうではアダム・スミスとベンサムとリカードウが走っている。すべてのヨーロッパ人が「想い」としてフランス革命に参加しているのだ。
そういう時代精神をまず受け止めることがだいじだ。
2007年6月30日 日本ディルタイ協会2007年関西研究大会
を参考にさせていただきました。

1.名誉革命とロック

ロックは17世紀のイギリス思想を集大成しただけではなく、それに自然法と社会契約という骨組みを与えた。

一言で言えば、人間には資産(Property)がある。資産を持つのは自然に与えられた権利である。これを社会の中で守るためには相互の契約が必要である。この契約を安定したものとするためには社会による保全が必要であり、このために国家(という社会形態)が設立されている。

これは国家形成の歴史から見れば、ほとんど空論であるが、出来上がった国家を主体的かつ合理的に運営するためには有効な議論である。

ただこれだけであったら、「そういうふうにも言えるね」程度の話であるが、こういう「契約社会国家」を壊すことは、契約で成り立つ社会そのものを壊すことになるのだから許せない、というところに話を持っていくのだから、俄然説得力を帯びてくるのである。

いずれにせよ、これは富裕層の論理であり、契約を旨とするリバタニアン・ビジネスマンの論理である。「必要なときはこちらから頼むから、お願いだから放っといてくれ。あまり目障りなら潰しちゃうよ」という上から目線の話だ。
2.ルソーによるロックの改作と「一般意思」

このままでは貧民が権利を要求する際の論理建てとしては使えない。そこでルソーが頭をひねった。

ルソーも人間は自然権を持つとし、それを守るために社会契約を結んだとする。ただ自然権というのは資産ではなく、「自由と平等」という抽象である。ここにはすり替えがある。

次に社会契約を結ぶのは人間同士ではなく、人間と社会とされる。社会というのは「全人民の団体たる国家」である。その社会には「一般意思」が形成され法律として体系化される。これが自然法であり、人はこの自然法に従わなくてはならない。つまり、政府・国家は一般意志に従わなくてはならないということだ。

ということで、ロックの自然法思想は換骨奪胎され、詭弁もどきの論理展開により、ほとんどその反対物に転化する。

そこには「一般意思」に名を借りた政府乗っ取りの狙いをはらんでおり、ロックの用心棒国家的思想とは様相を異にする「危険な思想」と化している。

唯物論と経験批判論 あらすじ

序論のかわりに

バークレー批判がまず展開される。おそらくあとから付け加えられたのであろう。率直に言えば不必要に長い。

初めての読者は、飛ばしたほうが良い。とにかくまずマッハから取りかかるべきだ。

エンゲルスの引用

「唯物論にとっては自然が第一次的なもので精神は第二次的なものであるが、観念論者にとってはその逆である」

この両者の間にエンゲルスはヒュームとカントを置き、彼らを不可知論者と呼ぶ。そしてその特徴として、世界の完全な認識の可能性を否定する点をあげる。

その後、ヒュームからの長い引用がある。ハックスレーからの重複引用。バークレイのような悪気はないということを言いたいようだ。

後半はディドロによるバークレー批判を紹介して終わる。

たぶんディドロを発見して「これだ!」と思ってこの序論を書いだのだろう。

第一章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その1

第1節 感覚と感覚の複合

この節では経験批判論の代表者と目される人物が紹介される。

まずマッハの所論の紹介と分析から始まる。

中間結論として、マッハは相対主義を唱えるが、相対主義と弁証法の違いを知らないということを示す。

そしてエンゲルスの言葉、「肝臓が胆汁を分泌するのと同じように脳髄は思想を分泌する」という機械的唯物論批判を対置する。

つまり相対主義は機械的唯物論への罰であり、非弁証法的という点においては五十歩百歩だということである。

この指摘は正しいのだが、その後十分に発展されているとは言い難い。

つぎにアベナリウスの批判に移る。

レーニンの当面の論敵であるボグダノフはアベナリウスの影響を受けたらしく、レーニンはこの二人を串刺しにして批判している

マッハ、アベナリウスに続いてイギリスのピアソンとフランスのポアンカレーが紹介される。

第2節 「世界要素の発見」

ついでレーニンはマッハ主義をマルクス主義に持ち込んだ最初の人物としてアドラーをあげる。

ここからレーニンの舌鋒は鋭さを増す。ここから先はもはや党派闘争の世界だ。

アドラー批判は、つまるところ「マッハもアベナリウスもそんなこと言ってないよ」というものだ。

そしてアドラーの「解釈」を受け継いだのがボグダノフだというわけだ。

アドラーの所説は、観念論者ヴントの経験批判論への攻撃にもとづいている。つまりヴントが徹底した観念論の立場から「マッハは唯物論者だ」と非難した言葉を借りてきて、「ほら、マッハは唯物論者だろう」というこずるい論建てをしている。

そこでヴントの所説の検討に入る。

なお、ここでさり気なく触れられている一文は注目に値する。

…しかし、他方、マッハとアベナリウスの当初の観念論が哲学上の文献で一般に認められているのと同じ程度に、経験批判論が後に唯物論の側に方向転換しようとつとめたことも、一般に認められている。

ということで、マッハの最近の著作(「認識と誤謬」1906)を引き合いに出す。そして折衷主義的な記述を引き出す。

第3節 原則的同格と「素朴的実在論」

ここからはアベナリウスの批判に移っていく。

アベナリウスが観念論でありながら折衷的態度を取っているとのべたあと、その後継者でより強硬な観念論者のエヴァルトらに攻撃が向けられる。

この辺は十把一からげだ。

第4節 自然は人間以前に存在したか?

この領域はマッハらにとってとくに苦手な分野である。そこで彼らの「言い訳」を取り上げてネチネチといじめる。

アベナリウスとその弟子のペツォルト、ウィリーが、しばしばカントやフィヒテを引き合いに出すのに応じて、レーニンもこれを批判するが、どちらかと言えば及び腰である。

そしてその後、今度はロシアの社会民主党内のマッハ派を取り上げる。最初がバザロフである。

自党内部の話だけに攻撃の厳しさは一段と増す。

第5節 人間は脳の助けを借りて考えるか?

これも前節とおなじような経験批判論の弱みだ。

これについてはアベナリウスが「イントロイェクツィオン」という詭弁を思いつき、ボグダノフはそれに引っかかった。

しかし、この詭弁は観念論者ヴントによって暴かれた。

ピアソンはこのような詭弁を用いずに、「意識がどこから来るのかなど関係ない」と開き直った。

第6節 マッハとアベナリウスの唯我論について

経験批判論は主観的観念論であり不可知論であり、最後は唯我論に陥る。

これについては「ネイチュア」誌の寄稿論文(ピアソン批判)と物理学者ボルツマンの文章を載せることで批判に替えている。

今日の私達からすれば、なにもバークレーからディドロ、フォイエルバッハを持ち出すまでもなく、これらの批判で十分であろう。

 

第二章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その2

マッハ批判はすでに終わったが、これから先は党内論争になる。

きっかけはマルクス主義理論家プレハノフが、カントの「物自体」を認めた発言をし、これに経験批判論の連中が噛み付いたことから始まっているらしい。

「エンゲルスと違うじゃないか」とやり始めたので、カント-エンゲルス-プレハノフという一連の理論の評価をしなくてはならなくなった、というのが経過のようである。

というより、レーニンがやりたくて始めたケンカのようだ。

その前にちょっと弁護して置かなければならないが、このときエンゲルスの「自然弁証法」は未発表である。だからエンゲルスの主張は部分的にしか取り上げられていない。

ということはレーニンもエンゲルスの主張を全面的に知った上で論戦に参加しているわけではない。

それにカントはネオカント派だって本格的に勉強したことはなかったはずだから、かなりボロは出ると思う。

これが党内向け論争でなく他流試合であったら、ここまで書くことはなかったろうと思う。さすがに恥ずかしい。

第1節 「物自体」、エンゲルスへの攻撃

この章はまず、チェルノフという人物が「物自体」に関してプレハノフを攻撃したことから始まる。ところが、チェルノフは勢い余ったか、「物自体」の把握についてエンゲルス攻撃まで始めた。

エンゲルスは、カントによれば不可認識的な「物自体」を、ひっくり返してすべての認識されていないものは物自体であると主張した。

というのがチェルノフの主張である。

そこで、レーニンは誰かの引用ではなく自分の言葉で長い反論を書いている。

しかしどうも売り言葉に買い言葉で、ポジティブな論証にはなっていない。

マルクスのフォイエルバッハ・テーゼの第二が引用されるが、この場合適切ではない。

これらのテーゼは、まずもって、観照の立場にとどまる唯物論者フォイエルバッハへの痛烈な批判である。

第2節 「超越」について エンゲルスの「改作」

エンゲルスはカントの物自体を少しも否定していない。認識の限界もふくめ承認している。その上で我々の認識限界を広げていくことは可能であり、その可能性は無限であると主張する。

「超越」というのはその時々の認識の限界を超えて、物自体の世界に踏み込むことであり、エンゲルスは科学的な仮説を除いて、原則的にはこれを認めない。そして科学的な立証を要求する。

これらについてレーニンは力説している。ただしさほど説得的ではない。

第3節 フォイエルバッハとディーツゲン 「物自体」の見解

まずフォイエルバッハが取り上げられる。彼が「物自体」を「実在性を伴った抽象体」と定義したことを紹介する。

ディーツゲンについても色々書かれているが、あまり興味ないので省略。

この節の結論。

1907年にはエンゲルスを否認し、1908年には不可知論へとエンゲルスを「修正」しようと試みる…これがロシアのマッハ主義者たちの「最新の実証主義」哲学である。

第4節 客観的真理は存在するか

ここまで行くと、「もうやめておいたほうが良いんじゃないの」と思ってしまう。今ではほとんど「禁句」だ。

むかしスターリン主義の哲学教科書には必ず載っていたが、この言葉には強い違和感を抱いた覚えがある。それこそ形而上学そのものだ。

とにかく第二章に入ってからというもの、レーニンは変調をきたしている。

客観的真理の否定は不可知論であり主観主義である。…自然科学は…その主張が真理であることを、疑うことを許さない。それは唯物論的認識論とは完全に調和する。

これは「すべてのものは疑いうる」とするマルクスのモットーと完全にバッティングする。

ところで、レーニンが引用したヘーゲルの言葉が面白い。

経験論は一般に外的なものを真実なものとし、超感覚的なものを認める場合でも、その認識は不可能であって、我々はひたすら感覚に属するものに頼らなければならない、と考える。
この原則が徹底させられるとき、それは後に人々が唯物論と呼んだものを産んだ。(エンツィクロペディ)

ウム、たしかにそうも言えるな。

第5節 絶対的真理と相対的真理 エンゲルスの「折衷主義」

まず「マルクス主義は永遠の真理というような独断論を許さない」というボグダノフの言が俎上に載せられる

エンゲルスの「反デューリング論」から長い引用が続く。

ついで今度はディーツゲンの主張に対する論駁が始まる。ただしディーツゲンは部分的に誤りを犯した唯物論者として位置づけられる。

正直のところ、レーニンの論理は相対主義者の尻尾をつかめないまま堂々巡りをしている。

問題は即自・対自という弁証法的な相対論(ヘーゲル論理学が一つの見本)と、ただの相対主義の違いだ。弁証法は相対的真理群を通底する法則を読み込む。ただの相対主義は確率論的にしか操作できない。そして確率論は、そこにとどまる限りでは限りなく不可知論に近い。

このへんはエンゲルスの「自然弁証法」を知らなかったレーニンの不幸だ。

第6節 認識論における実践の基準

これは以前から気になっていたところである。

レーニンはフォイエルバッハの第2テーゼをふたたび取り上げる。

真理が人間の思惟に達するかどうかを実践から離れて提起するのはスコラ学である。

そしてこれをエンゲルスの下記の言葉と結びつけることで議論を始めようとする。

不可知論に対する最良の論駁は実践である。

マルクスの言わんとする所は、「真理」とか「思惟」という概念がそもそもスコラ的であることだ。

エンゲルスの言葉は科学的事実を確認するにあたっては、やや雑駁にすぎる。やはり有無を言わせぬ技術に支えられた実験が必要である。マッハの衝撃波は、当時最新鋭の技術である写真を巧妙に用いた有無を言わせぬ証明だった。

ここでレーニンはマッハの言説を取り上げ、フォイエルバッハの言葉により批判する。


第三章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その3

第1節 物質とはなにか? 経験とはなにか?

第三章はボグダノフらとの党内論争を終え、ふたたびマッハ主義者との論争に戻る。

それぞれの節につけられたタイトルは、ひどく大げさである。正確に表すとすれば、例えば「『物質とはなにか?』についての経験批判論者のおしゃべりとその批判」とすべきであろう。

それにしても、「物質とはなにか?」はデかい。物理学の根本問題だ。一つの節であつかうような話ではない。

ただ、マッハ主義者の「物質」論を蹴っ飛ばすにはこのくらいでも十分なのかもしれない。レーニンはそう思ったのだろう。

まずアベナリウスの物質論から入る。彼は物質論を主張していないということが分かった。

次にマッハ。「物質は要素の連関である」

次にピアソン。物質は一定の感官知覚の群れである。

たしかにこれでは論争のしようがない。

レーニンはマッハがしばしば唯物論の側に脱線しているということに注目している。これについては私も同感である。

第2節 「経験」に関するプレハノフの誤り

「経験」というのはずるい言い逃れである。要するに感覚の集合である。そこから何か特別な概念でもあるかのように議論をこしらえていくのが経験批判論のやり口である。

感覚が経験として記憶されるためには、何らかの整理統合装置と記憶装置が必要である。それは感覚からは作り上げることができない。

ここのところをプレはノフは騙されてしまったらしい。

第3節 自然における因果性と必然性

この問題は端的に言えば「自然の弁証法」に関する議論である。

レーニンは個別の経験批判論者に反論はしているが、一貫した論理は持てないでいる。

彼には武器がない。ある場所では「エンゲルスにはこの問題での言及がない」と泣き言を言っている。エンゲルスの「自然弁証法」は、このとき彼の手元にはなかった。

自然科学的な知識が相当ないと書けない。自然の弁証法は、多くの観察と適切な実験から帰納的に導き出されるものだからである。

たとえばダーウィンについて言及していないことはかなりの欠落であろう。

とくにアベナリウスの弟子のペツォルトには悪戦苦闘している。現象の確率論的な扱いこそ彼らのもっとも得意とする分野だからである。

第4節 思惟経済の原理と世界の統一性

前の記事でも書いたが、マッハの「思惟の経済」はなかなか優れた観点である。知覚として溢れるほどの刺激が脳に飛び込んでくる。巨大コンピュータでなければ到底処理できないほどである。

これを人間は知覚の段階で整理し、諸知覚を統合する過程でさらに切り詰める。そして事物をゲシュタルトとして認識し記憶する。それはもはや感覚ではなく知覚でもなく、いわば「心像」とも呼ぶべき表象である。

このように圧縮し表象化する仕組みをマッハは思惟の経済と読んでいる。内容そのものはきわめて「唯物論的」である。

ただ「経済」はいかにもいただけない。物理学者らしく、語法がガサツなのだ。

これは「今月はちょっとピンチなので経済しました」というのと同じで、倹約の意味だ。語源的にはエコノミーというのは節約という意味であるから、それでも間違いではない。

レーニンも「まったく不器用な、気取って滑稽な言葉」と言っているから、ある程度分かってはいるのだろう。

統一性の問題はペツォルトが提起しているようだが、ペツォルトの真意が不明瞭なのでなんとも評価のしようがない。

第5節 空間と時間

まず、レーニンはフォイエルバッハの言葉を掲げる。

空間と時間はたんなる現象の形式ではなく、存在の本質的条件である。

これは19世紀初頭に打ち出された宣言であるが、いまも妥当である。

ただ極微の世界、宇宙の始まりの世界ではこれらの相互関係はぐちゃぐちゃで、いまだ汲みつくされた認識段階にあるとはいえない。

それらはニュートン力学の世界を相対化しているが、否定しているわけではない。それは宇宙・世界の階層性を示している。

その上でエンゲルスの言葉は説得的である。

時間の概念が問題なのではなく、現実の時間が問題なのである。

現実の時間というのは生命誕生、あるいは地球誕生以降の物質的運動について時間軸に沿った認識を現実的前提としなければならないということである。

感覚が全てというなら感覚の生まれたあとの時間と言ってもよい。

第6節 自由と必然性

エンゲルスの「自由とは必然性への洞察」に関して、認識論上の意義に関連して簡潔に触れられている。

ただしこれは、デューリングとの論争の文脈の中で出てきた言葉であり、「自由」そのものの本質的な規定ではない。


あらすじと言いながら、だいぶ長くなってしまった。第二分冊の方は稿を改める。




マッハの良いところ、悪いところ

マッハの良いところは勇敢なことだ。悪いところは乱暴なところだ。

この2つの素質があると、超大作がいくらでも書けてしまう。良くも悪くも分かりやすい。

乱暴だからといってそれほど馬鹿にしたものではない。かなりの点で革新的で、示唆的だ。

惜しむらくは弁証法がない。論理を駆動させるのはマッハで、その対象はみずから動かない。マッハには「もの」をして語らせようという気風がない。


ウィキから言葉を拾っていく。

1.『力学の発達』

ニュートンによる絶対時間、絶対空間などの基本概念には、「形而上学的な要素」が入り込んでいるとして批判した。

「形而上学」というのは彼の決まり文句で、「古臭い、決まりきった既成概念」くらいの意味だ。

彼は時空間には絶対というものはないとし、ニュートン力学の及ばない世界があると主張した。

「マッハの原理」というのは、「物体の慣性力は、全宇宙に存在する他の物質との相互作用によって生じる」とするものである。

これをアインシュタインが、特殊相対性理論の構築への足がかりにしたということで有名になった。ただしヒラメキのためのヒント以上のものではなかったようだ。

要するに「自分が動いていないとすれば宇宙が動いていることになる」ということらしいが、もちろん逆の可能性(地動説)もあるわけで、万事が相対的ではないかという主張らしい。

マッハは「皆さん、はたしてこの世に《絶対》などというのはあるのでしょうか?」と指摘したそうだが、これはマルクスの「すべてのものは疑いうる」というモットーに類似している。

これは至極まっとうな本のようである。松岡さんの紹介によると、第4章第4節の「科学の経済」という一節にこう書いてあるそうだ。

あらゆる科学は、事実を思考の中に模写し、予写することによって、経験とおきかわる、つまり経験を節約するという使命をもつ。

事実を思考の中に模写するとき、私達は決して事実をそのまま模写するようなことはなく、私達にとって重要な側面(ゲシュタルト)だけを模写する。

われわれは模写するときには、いつも抽象しているのだ。

十分すぎるほどに唯物論的(レーニン的な意味で)だし、現代の脳科学の水準から見ても妥当だ。

ただ、ニュートン力学を「力学的物理学」と呼び、それに代えて「現象的物理学」あるいは「物理学的現象学」を構築するべきだと訴えたそうだが、こちらは少々ピント外れだ。

ビッグバン以降、この世はエネルギーで満たされている。それがときどき「現象」として目に見える形で現れる。それだけの話しだ。

彼は「音速の壁」を突破した男として、世の中のあらゆる壁はぶち破れると思い込んだのではないか。

マッハは以上のような論建てのあと、「物理学的現象学」を提起する。それは、物理学から形而上学的カテゴリーを排除し、感性的要素の複合体を対象とするのだそうである。

排除されるカテゴリーには「実体」、「因果」、「絶対運動」(エネルギー)などがふくまれる。(野家啓一

フッサールはマッハの一元論に賛同しつつも、志向性の概念が欠けていることを批判した(両者の間に論争があったらしい)という。

また同様にマッハは、原子論的世界観や「エネルギー保存則」という観念についても批判したそうだ。

思うに「積み上げ方式」の構築的な科学論と対蹠的な位置に立っていたのであろう。

2.認識論への言及

認識論の分野では、『感覚の分析』(1886年)と 『認識と誤謬』(1905年)が代表的著作である。

マッハの認識論の核心は「要素一元論」と呼ばれる。

主-客二元論や物心二元論を捨て、直接的経験へと立ち戻り、そこから再度、知識を構築しなおすべきだというものである。

意識が完全にめざめるやいなや、人間は誰しも、すでに出来あがった世界像を裡に見出します。

それが出来あがったのは当の本人がこれといって意識的に参与するからではありません。

むしろ反対に、人々は自然および文明の賜物として、何かしら直接的に了解されたものとして、出来合いの世界像を受取ります。

これは、「認識の分析」(1894)という解説本の一節らしい。「出来合いの世界像」というのはDNA的、生得的世界像のことか。とすれば、これは正しい。

気持ちとしては意識の形成における「感覚」の役割をもっと大事にしようということであろう。これ自体については大賛成である。人間の高次精神は、元はと言えば感覚的知覚の集合である。

このあとに前記記事の文章が続く。

我々の「世界」は、もともと物的でも心的でもない、中立的な感覚的諸要素(たとえば、色彩、音、感触、等々)から成り立っている。

「物体」や「自我」などというのは本当は何ら「実体」などではない。

因果関係というのも、感覚的諸要素(現象)の関数関係として表現できる。

騎虎の勢いでカントの物自体も吹き飛ばしたことになる。

これを日夜食うか食われるかの生存競争にいそしんでいる生き物はどう受け取るだろうか。天敵の口の中で噛み砕かれる瞬間、「これは感覚の関数関係にすぎないのだ」と納得するのだろうか。

この「感覚」至上の、あえて言えば形而上学的な認識論への突然のジャンプは、流石に世の指弾を浴びたようである。ルートヴィッヒ・ボルツマンやマックス・プランクらがこれを批判したとされる。

3.ウィーン学団への影響

マッハはこのほか心理学、生理学、音楽学などさまざまな分野の研究を行ったそうだ。

各分野に影響を及ぼしたというが、どちらかと言えば学問的というよりカリスマ的な影響力であろう。

そのカリスマとしての最大の「功績」がウィーン学団の結成(1929)であった。

これはウィーン大学のシュリック、ハンス・ハーンを中心とする科学者、哲学者のグループで、論理実証主義を標榜した。

彼らの多くがナチスの台頭に伴い米国に亡命し、以後米国にその考えが広がっていくことになる。

ウィーン学団については「科学的世界把握 ― ウィーン学団」というページが詳しい。詳しいが難解である。


私の感想であるが、

端的に言えばマッハは十分に唯物論的である。少なくともニュートン力学を批判するとき、彼は唯物論者と言ってもいい。

ところが、認識論に足を踏み込んだとき決定的な間違いを犯した。

マッハは、時空の絶対性を前提にしたニュートン力学に本質的な批判を加えたのであるが、それに代えて「感覚」を至上のものとして持ち込んだ。

それは「感覚」という神の復活であり、彼が忌み嫌ったはずの「形而上学」への復帰である。

レーニンが、対立の主要な側面を唯物論VS反唯物論にあると考えたのは正しいのだが、それはマッハが非弁証法的で形而上学的であったからだ。

唯物論の立場というのは、物質の客観的存在を認めるかどうかにとどまるものではない。自然にはエネルギーがあり、運動があり、あえて言えば「発展」があるということを認めるということだ。

一言で言えば「自然の弁証法」を認めることが唯物論の立場である。

マッハは非弁証法的であったがゆえに、すべての存在を「自然の過程」(エネルギーの流れへの抗い)として捉える唯物論の立場に立ちきれず、感覚至上主義へと漂流していってしまったのである。

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