鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

エピクロスの略歴

紀元前341年 エピクロス、イオニア地方の島、サモス島で守備兵の子として生まれる。守備兵は恵まれない職業であり、一家は貧困から脱するため、エーゲ海の島々を放浪する。この間に原子論や形而上学を知る。

AD323 父親の故郷アテネに渡って軍役に就く。この頃プラトンやアリストテレスの後継者が塾を開設していた。エピクロスはデモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下に入ったと言われる。

この年、アレクサンドロス大王が急死し、後継者を巡る争いが始まる。

エピクロスは、軍役を終えた後、両親と共にエーゲ海沿いの小アジアの都市を転々と移り住む。この間に哲学者として名を上げるようになる。

AD306 35歳の時、アテネ郊外に「庭園」を買い、「庭園学校」を設立。弟子達と共に暮らすようになる。プラトンの開いたアカデメイアの近くだった。

「隠れて生きよ」のモットーに従い、「庭園」に引きこもったまま政治や社会とは一切関わろうとしなかった。その生活スタイルは世上の評価とは逆にきわめて質素なものだった。

エピクロスは弟子入りを希望する者に対して男女分け隔てなく受け入れた。講義は万人に解放され、召使の奴隷や遊女が聴講したという記録もある

物質的充足は苦であって精神的充足が快であると説き、異性にも触れずパンと水だけで静かに生きることを是とした。その考えのどこが快楽主義と言えるのか。

ストア派の哲学者たちは、エピクロスを思想的ライバルとみなし、有る事無い事を吹聴し、中傷した。その事によって得られる現世的利益を、ストア派は重視したことになる。

BC270 エピクロス、腎臓結石を患い死去。エピクロスは死後の世界や転生があるとは考えず、死とは快楽と苦痛を感じる感覚が消失することと考えていた。

「隠れて生きよ」のモットーに従い、「庭園」に引きこもったまま政治や社会とは一切関わろうとしなかった。その生活スタイルは世上の評価とは逆にきわめて質素なものだった。

エピクロスは弟子入りを希望する者に対して男女分け隔てなく受け入れた。講義は万人に解放され、召使の奴隷や遊女が聴講したという記録もある

物質的充足は苦であって精神的充足が快であると説き、異性にも触れずパンと水だけで静かに生きることを是とした。その考えのどこが快楽主義と言えるのか。

ストア派の哲学者たちは、エピクロスを思想的ライバルとみなし、有る事無い事を吹聴し、中傷した。その事によって得られる現世的利益を、ストア派は重視したことになる。

BC270 エピクロス、腎臓結石を患い死去。エピクロスは死後の世界や転生があるとは考えず、死とは快楽と苦痛を感じる感覚が消失することと考えていた。

忘却と再発見

BC99頃-BC55頃 この頃、共和制末期のローマでは、エピクロスの唯物論的な世界観に基づく素直な生き方がもてはやされた。崇拝者の一人ルクレティウスは「物の本質について」という著作を表した。しかしその後は、キリスト教の拡大に反比例して没落し、5世紀には消滅したと伝えられる。
ルクレティウスの著作自体も長い間埋もれていたが、イタリアの人文学者ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380-1459)が、ドイツの修道院で写本を発見した。これによりルクレティウス並びにエピクロスの業績がふたたび世に出ることになった。

エピクロス主義=快楽主義か?

今日、社会思想や学問の世界では、世間と隔絶して生活の喜びを静かに味わう生き方として正当に評価されているが、一方では刹那的な快楽主義であるかのようにレッテルを貼られ、そのレッテルは未だに生きながらえている。共産主義、社会主義が生まれて200年経った後も悪魔の思想のごとく罵られるのと似ている、
我々は快楽が目的であると言うが、それは道楽者の快楽や性的な享楽ではない。それは苦しみがなく、魂が平静であることにほかならない。 『メノイケウス宛の手紙』
ということで、「快楽」(アタラクシア)だ。エピクロスのいうアタラキシアはエクスタシーどころかむしろ逆の心身ともに平穏な状態だ。むかし最も売れていた精神安定剤はアタラキシンという商品名だった。といってももちろん精神的にニュートラルというのではなく、何らかの充足感を伴う「しっかりした幸せ感」だ。

この人生観は、彼がデモクリトスから受け継いだ「原子論」にもとづく一種の能動的アナーキズムだ。 原子の集合に過ぎない人間が、感情に走ることは無意味である。感覚に基く穏やかな「快楽」(アタラクシア)を求めることを目標とすべきだというのが論旨である。

目的意識的行動があり、自らの力能が発揮され、その結果として何らかの使用価値が生み出され、それを我がものとして獲得し、使用(消費)した結果得られる充足感と心の安静というのが生活の基本的サイクルを構成する。
それは労働→享受→労働力能の再生産という連環の中に生み出される感情ではないかと思う。


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この話は拙著「療養権の考察」を執筆時に何回も触れた。これは経済学批判要綱に何度も言及されている。「経済学批判」の第一章、「生産は消費であり、消費は生産である」というところだ。
マルクスは価値と使用価値の二重性に関連して、労働と享受という対になる概念を提示している。今でも経済関係の論文でしばしば混用されているのだが、生産に消費が対応しているように、労働には享受が対応しているのである。
生産は資本と労働の結合であり、労働は労働能力の使用(支出)であり、これに対しヒトは労働の産物(使用価値)を享受するのである。しかも直接にenjoyするのではなく、まずは我がものとし、その上で享受するのである。それは直接的に快楽のために消費されるのではなく、労働能力(正確には労働力能)を培うために消費されるのである。

「要綱」のマルクスは、賢明にもこの生産と消費、労働と享受の二重の弁証法を踏まえていた。しかしミクロ経済の命題の解明の過程で難関を突破するために、人間的諸活動を生産・労働・価値優位の理論に矮小化してしまった。そのために市場問題と価格実現過程で苦しみ、大工業における社会主義的協業関係の成長過程を描き切れずに終わってしまったのである。労働者は資本主義の墓堀人ではなく、(もちろん深刻な矛盾をはらみつつも)次の世界の正統な継承者なのだ。

ある人に言われて、こんな感想を書いてくれた人がいたことを知った。
まことにありがたい限りである。

2018年8月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
医師の方でこのような考え方をされる人のいることに驚く。
生存権を実定的権利にするにあたり、極めて有効な戦略と思う。敬意を表します。 

こちらこそ、こんなヘーゲル臭い文章を読みとってくれた人に感謝申し上げたい。


2.「同時代社の通販_療養権の考察の通販」というページに下記のごとく紹介されいた。

なんとなく心当たりはある。10年ほど前、二度ほど電話があって、電子出版を熱心に勧められた。私は自費出版で500万円くらい使って、ほとんど売れなかったから、さすがに二の足を踏んだ。多分その時の営業の人ではないかな。

医療をはじめ福祉や教育を含む公的サービスのあり方が根本的に問われている現代において、国民の「療養する権利」について多角的な視点から考察。より豊かで積極的な療養権実現を提唱する。【「TRC MARC」の商品解説】

3.山口民医連、野田先生の書評

次は野田先生の書評。以前より身に余るほどのご評価を頂いている。野田先生が書いておられるとおり、当時我々は四面楚歌であった。進歩的医療運動もふくめ、集団的知性を推進力に掲げる民医連運動は、残念ながら理論的昇華では前世紀的な遅れを引きずっていた。最も頼りになる理論的味方は教育運動、なかんづく障害者教育運動であった。

この本は鈴木先生から直接送っていただいたものである。正直に言って、その時は用語の難解さに歯が立たない感じで、お礼も申し上げなかったように思う。
森谷先生が亡くなられたことに際して、実質的にこれが鈴木・森谷の共著だとする鈴木先生の文章を読んだ。 shosuzki.blog.jp/archives/79200777.html?fbclid=IwAR12KJxyzDRQnSkj4mu7P9JxIA1JNhSVl1PhbFgdw1zvHh5FxJm84rCpxHQ
東京から宇部に帰って病院の自室の書棚からこの本を探し出して、しばらく読んで見た。
もう歴史的遺産に過ぎなくなったと鈴木先生は謙遜されているが、全くそうではない気がした。
下の写真に引用した箇所など、今でも鮮やかで刺激的である。人間活動において生産だけが特権的位置をしめるのでなく、消費の方がより本質的かもしれないとするのは、柄谷行人やデヴィッド・ハーヴェイにも共通する。
共同の営みを三側面を持つものとして捉える視点は、例えばSDH理解を平板なものにしないために不可欠で、まち育て・協同組合主義運動と医療の関係構築の理論的バックボーンになるものだろう。




過去30年、私の勉強法(叙述法もふくめて)はひたすら年表方式だった。時の流れに諸事実を乗せることで、ものを社会の中に歴史の中に定位していく、いわば近似的な認識法が私の勉強法だった。

この見方は、あまり具体的な研究成果として実を結ばない、結局自分限りの勉強に終わることが多い。物事を構造的に、実体的に定着させていないから、いざというときものの用に立たないのである。

しかしこうしたほんわかとした、「物があること、生きていて、ある方向へと動いていること」への確信というのは悪いものではないと思う。

10年ほど前からブログという発表形式ができて、おかげで数十万回ものアクセスをもらっているので、多少は生きた証を残せたかと思うが、やはり、そこそこまとめておきたいとも思うようになっている。

最近、気候変動とCOP問題を勉強していて、一つの自分なりの結論として、「今必要なのはタイムテーブルではなく、ロードマップではないか」と書いた時、ひょいと思いあたった。

「それって、自分への批判じゃないの?」

ロードマップは、ただの地図ではない。旅行者にとっての地図である。余分なものを削ぎ落として、旅行者に必要な情報を落とし込んだ図面である。後頭葉に投影された一次視覚情報が、研ぎ澄まされて頭頂葉の第五野に写し込まれたイメージである。

しかもそれはあくまでもマップであって、たんなる行程表ではない。バーコードではなくQRコードなのだ。

これからの仕事としては、これまでに作成した膨大な年表に、要所要所に花を咲かせ実を成らせて、全体として一本の木に育て上げることなのかもしれない。

そしてそれが全体として一つの木であることが分かるように仕上げることなのかもしれない。 

マイケル・ハドソン
Life & Thought: An Autobiography
Interviews at Peking University
August 2018 


トロツキーの名付け子に生まれて

私はミネアポリスで生まれました。1930年代、そこは世界で唯一のトロツキストの都市でした。

私の両親はメキシコでレオン・トロツキーと一緒に働いていました。

私が3歳のとき、父はレーニンとマルクスの作品を棚に置いていました。そして1934年から1936年までのミネアポリスのゼネストの指導者の一人でした。

父は1929年にミネソタ大学でビジネスの修士号を取得して卒業しましたが、その直後に大不況が襲いました。

彼はラテンアメリカに行って億万長者にななるつもりでした。しかし資本主義は不公平でした。それが彼をトロツキストにしました。

彼は労働新聞、「北西の組織者」に入って活動をはじめました。そこには古いドイツ共産党のメンバーであるアメリカ人がいました。

そのことで、政治犯として刑務所に入れられました。わたしが3歳だったときです。刑務所仲間の人たちはロシア革命の古参で、レーニンが政権を握っていたときの中央委員会のメンバーでした。

父が刑務所を出たあと、私たちはシカゴに移り、そこで彼は「交通世界」紙と「運輸新聞」の編集の仕事に就きました。

私が成長するあいだ、彼らは皆、家に来て、革命の話をしてくれました。私がおとなになった時、革命を指導するように期待されました。

私は10代の頃から、「正しい革命の条件とは何か」などについて話し合いました。

しかし、当時私は、実のところ政治にはそれほど興味がなく、物理学、化学、そしてますます音楽に魅了されていました。


シカゴ大学の思い出

私はシカゴ大学に入学しました。そこは選ばれた才能のあることもが進む大学でした。

父のIQは、連邦刑務所の受刑者で最高のIQを持っていたと言われていました。「きっと子供も優秀だろう」と思われたのか、かなり飛び級をしました。14歳のときに、学年は高校1年でした。

高校の社会科学の教師は名だたる右翼のCurtisEdgettでした。彼は私をコミーと呼び続けました。

彼は教室の黒板に「ローゼンバーグの獲物を全部差し出せ」と書いた。ローゼンバーグはスターリンのスパイでした。「どういう意味ですか?共産主義者という意味ですか?」私は聞いた。彼は言った。「いいえ、ユダヤ人の意味です」
(ローゼンバーグはユダヤ系米国人。原爆の秘密をソ連に漏らしたとの疑いで処刑される)

まあ、彼は共産主義者である私をスターリン主義者と呼ぶかもしれない。しかし、同級生であるダニー・ランダウはスターリン主義者だったので、彼は私をファシストと呼びました。

だから高校では、私は常識的な“中道派”でした。それは私の人生の中で私が中道派だった唯一の時です。

友達と私は教室でレーニンの著作を隣の机において、引用するのが常でした。

私の父が刑務所にいたとき、彼がしたことの1つは、レーニンとトロツキーがさまざまな主題について言ったことすべてを、辞書のかたちに編集することでした。

教授たちはレーニンがどこでそれを言ったのかを聞きます。そして私は私は手を挙げて、第6巻の322ページと言います。私の学生はまだそこにはいません。

私が右翼に嫌われるのが好きなのは、そのためにたくさんの友達ができたからです。スターリン主義者が私をファシストと呼び、ファシストが私を共産主義者と呼んでいる間、私はシカゴの社会主義青年グループに多くのメンバーを結集ました。


音楽家を目指す

当時は音楽に興味があり、ピアノを学び、基本的に指揮者になることを目指しました。

1959年にシカゴ大学では、文献学とドイツ文化史を専攻していました。しかし在学中は、ドイツの音楽理論家ハインリヒ・シェンカーを中心に音楽理論を勉強していました。

1960年にレフ・トロツキーの未亡人ナタリアが亡くなったとき、私はトロツキーの名付け子だったので、遺言執行人マックス・シャハトマンが私に著作権を割り当てた。かれは私に出版社をやるべきだと言った。

私はハンガリーの文芸評論家であるジョルジュ・ルカーチと連絡を取り、彼は著作権を与えてくれた。

私はニューヨークにでて、出版社を始めようと思いました。その間にニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の指揮者ディミトリ・ミトロプーロスに指揮を勉強しようと考えました。

第一部終わり 



米国はいかに同盟国を蹴落としてきたか

 

ベン: 米国が敵対者だけでなく、英国や日本のようないわゆる同盟国に対しても経済戦争を仕掛けてきた。どのように行ってきたのかを説明して欲しい。

 

ハドソン: 第二次大戦中、イギリスは戦争遂行のため英国ローンと呼ばれるローンを組んだ。債権を買うのは米国だった。その結果、買い主を損させないためにイギリスはポンドを5ドルで維持しなければならなくなった。

 

その結果、1945年から1950年頃まで、イギリスはこの巨大な過大評価された英ポンドを返還するため、インド市場、アルゼンチン市場、スターリングエリア内にあったほとんどすべての国の市場を手放さざるをえなかった。

 

一方で米国は、英国の国内金融政策の支配権を獲得していた。

 

ドイツが連合国に降伏したように、イギリスは米国に降伏したのである。

 

日本でも同じだ。1985年、当時の国務長官のジェームズ・ベイカーは、「レーガノミクスとは何か?」と問われ、こう答えた。

それは低金利と富裕層への減税だ。そのために巨額の対外債務と財政赤字を抱えることになるが、それを債券化して日本に買わせる。

同時に日本に通貨の再評価を迫った。通貨は1ドルあたり240円から100円まで下がった。日本の自動車価格、電子価格、輸出価格は2倍になった。そして市場を失った。そして完全に壊れてしまった。

 

レーガノミクスは、他の国々にアメリカの減税の費用を負担させるという天才的な策だった。

 

しかし中国は日本や韓国のように考えていない。すべてを米国に捧げるようなことは考えていない。それで日本や韓国はどうだろう。彼らは突然、経済を米国ではなく中国に向けて、切り替えることもできる。

 

アメリカは軍事費と貿易赤字をさらに支援するために日本と他のアジア諸国を圧迫している。だから、これらの国々は、米国の関係から何を得るのかと疑いだしている。

 

中国と交渉して、南シナ海の石油とガスの埋蔵量を共有できる地図を作成できたらもっといいのではないかと考え出している。


バイデン政権とインフレ問題

 

マックス: 今、バイデンの最悪の問題、バイデンが今直面している最大の問題は、インフレ、高い食料価格だ。記録的なガソリン価格が発生している。グローバルサプライチェーンは至るところで詰まっている。

 

米国経済は、財政的に無力化されている大量の大量の労働者、下向きに移動する中産階級、無限のお金の印刷、そしてこれの結果、より多くの富が集中するのを見ている。

 

ハドソン: インフレの話だが、不正確なところがある。

 

数兆ドル、数兆ドル、より多くのお金、より本質的なクレジットを印刷しているが、はすべて株式市場、債券市場、パッケージローン市場に投入されていて、それらの資金は実体市場には影響していない。

 

それは国内インフレではなく、資産価格インフレに回っている。いま問題になっている国内インフレは、マネーサプライの増加ではなく、供給不足によるものである。

 

ここ20年の間に、企業は可能な限りコストを削減し、そのために在庫を最小限に抑えた。いわゆるカンバン方式だ。ところがコロナによって突然、彼らはすべての在庫を使い果たした。さらに送料は10倍になった。1年前の10倍だ。

 

それは大なり小なりすべての国で起きているのだが、米国においてとりわけひどい。


ヨーロッパのエネルギー危機の本質

 

ベン: ヨーロッパのエネルギー危機に関連して伺いたい。

 

ハドソン: まず抑えておかなければならないのは、短期的思考と長期的思考の両方が必要だということだ。

 

危機のきっかけは、欧州委員会がロシアからガスと石油を輸入するための長期契約を、すべてキャンセルしたことだ。代わりに、短期的にはスポット市場でロシアのガスと石油を購入した。

 

ところが最近、ガスと石油の価格が高騰した。これは主として東アジアの国々がコロナウイルスのパンデミックから回復したためだ。

 

今、ヨーロッパはガスと石油が非常に不足している。理由はロシアとの政治対決ではなく、それを隠れ蓑にした欧州委員会と銀行家たちの短期的な新自由主義イデオロギーである。それをイデオロギー的な対決姿勢でごまかしているだけだ。

 

彼らはロシアを非難し、ロシア人から購入するよりも暗闇の中で飢えたほうがいいと言っている。それが意味するのは、アメリカ人から彼らの銀行口座に入金する賄賂を受け取ることでしかない。

 

プーチンが考え、ラブロフが言うように、欧州委員会はヨーロッパを代表していない。ブリュッセルはワシントンで働いているということだ。ブリュッセルは米国国務省の一部門だ。それはヨーロッパの民衆とは何の関係もない。

 

ヨーロッパはいまや民主主義ではなく、金融寡頭制でである。それはまた、米国によって管理されている軍事化された寡頭制でもある。

 

ヨーロッパはアメリカ人を喜ばせるために行動しており、家々を凍らせ、暖房パイプを凍らせ、家を氾濫で水浸しにさせようとしている。

 

このような状況が革命を起こすことなくどこまで続くだろうか。社会主義者は反アメリカの立場をとっていない。目下のところ、主要な抗議は、驚くことに、左からではなく右から来ている。

 

ドイツでは「ドイツのためのオルタナティブ」が躍進し「左翼党」が惨敗した。ヨーロッパの社会主義政党と左翼政党はすべて親米党である。

 

彼らはもはや経済学について語らず、福祉について語らず、ドロドロなので、私は彼らが言っていることを要約することさえできない。


財界の「グレートリセット」論について

 

マックス: 世界経済フォーラムの会長であるクラウスシュワブが、グレートリセットを提起している。ナオミ・クラインはそれを陰謀説として非難した。これについてどう思われるか?

 

ハドソン: 彼らは「未来はこれまで世界になかったものである」と訴えている。一言で言えば、彼らは、現実ではなく、世界を驚かせるようなレトリックを信じるように訴えている。

 

可能な政府は2種類だけだ。1つは、バビロニアのシュメール以来の通常の政府だ。それは政府が基本的なサービスを提供し、民間部門が貿易とイノベーションを担う混合経済である。

 

もう1つは、崩壊する直前のローマで一時的に出現した国家形態である。そこでは政府は存在せず、ビジネスを規制したり課税したりするすべての力も存在しない。

 

通常のリバタリアンと異なり、経済計画は必要だと考える。中央で計画された経済が必要であるが、その計画者はウォール街、ロンドンの街、そしてパリ証券取引所になる。

 

ファイナンシャルプランナーがこの計画を引き継ぐ。そして彼らはそれを生産する人々、労働、原材料国にファイナンスすることになる。

 

彼ら「世界経済フォーラム」の幹部が、政府なしで仲良くして、世界を支配しようというのだ。

 

すでに現実に彼らは世界を支配している。そして世界はますます悪くなっている。

 

彼らだけがどんどん良くなっていることをどうやって世界に納得させ、自分たちの手にますます多くの富を集中させて行くのか?

 

以下会場からの質疑応答については省略。



 



アメリカの二重基準

 

アメリカは本質的に、軍事費高騰の結果として、技術投資・設備投資で遅れを取り、産業上の利点を失った。アメリカはその国際的な競争力を失った。

 

残された唯一の戦略は、残された唯一の力を使って他の国が経済的に独立しないよう支配し、独立傾向を放棄しなければ破壊することである。

 

そのとき、米国は「私はあなたを支配していない」と言い、善意の第三者で非覇権主義国であるふりをする。「あなたを支配するのは私ではなく、世界銀行であり、IMFであり、国際機関なのだ」というのである。

 

しかし、それは「二重基準」だ。この二重基準こそが、これらの一見国際的な組織を、本質的に国防総省と国務省の武器に変えたのだ。
 
冷戦は米国の「超黒字」減らしに役立った?

マックス: あなたは「超帝国主義」の本の中で、第二次世界大戦直後の米国にとって、国際収支の問題は「超黒字」であることだったと書いた。

 

米国は、その後の冷戦を通じてこの問題を解決することができた。冷戦では、海外の輸出市場と世界の通貨の安定を促進するために貿易赤字と財政赤字に陥ったからだ。

 

このパラドキシカルで、ややレトリカルな表現は、「新しい冷戦を扇動する、衰退しつつある帝国」の歴史的説明として適当だろうか?

 

ハドソン: 第二次世界大戦の終わりにケインズと米国財務省の間で話し合いが行われた。ヨーロッパ代表としてのケインズは、ドルを事実上金本位に代わるドル本位制度を受け入れた。

 

アメリカはドルを軍事費としてばらまいた。このドルによって各国経済は回り始めた。

 

朝鮮戦争は1950年から1951年まで、米国に膨大な貿易赤字をもたらした。それはすべてドルによって決済されたので他の国々に歓迎された。

 

新しい通貨制度を作る必要はなくなり、自分たちの経済成長に資金を供給するのに十分なドルを稼ぐことができるようになった。そして、彼らはアメリカの経済軌道にとどまることを選ぶ、従順な衛星国となった。


戦後の国際経済システム

ベン: ここでブレトン・ウッズとガットについて、ハドソン氏の評価を補足説明しておきたい。

ハドソン氏は「1920年代から1940年代までのその時期に、米国は世界的な債権者であった」と述べている。しかしハドソン氏の主張はそこではなく、50年代以降、米国は世界的な債務者から世界的な債務者へと移行したということである。

 

そしてその理由が、社会主義と共産主義勢力に対して行った戦争にあるという事実だ。

 

ハドソン: はいそのとおりです。

しかしそれまでと違うのは、債務の性格だ。冷戦に伴う債務は「支払う必要のない対外債務」だということだ。

 

ベン: 財務省債の形で。

 

ハドソン: 国債。ええ、その通りです。

 

この債務は基本的に軍事費によって生み出される。したがって、アメリカはそのお金を発行することによって他の国を軍事的に支配することができた。

 

アメリカの借金は他の国のお金である。アメリカが国債という形で保有している中央銀行の準備金(ドル)は、借金なのにアメリカ経済のための金銭的準備として計上できる。

 

そもそも米ドルは、技術的には米国財務省の債務である。これらのドル紙幣または5ドル紙幣または50ドル紙幣は、誰も金によって返済されることを期待していない。


返済しなくてもよいのは、それが軍事費だから

 

ベン: 米軍のために、誰も米国に彼らに返済を強制することはできまない。

 

結局のところ、米国がこの世界的な債務者の地位を持つことができる理由は、誰もそれに侵入することができないからである。

 

ハドソン: 最近までそうだった。確かに、米国には返済する金がないから、債務を返済することはできない。他の国はそれを黙って見ているしかない。

 

しかし中国は立場を変えつつある。彼らはドルという債券を貯める方針を改めつつある。

中国は、為替レートを安定させるために必要なものを除いて、ドルの保有を最小限に抑えたいと判断した。外国為替市場で取引するために必要なもの以外はドルを買うのをやめた。

 

ロシアもドルを避けるようになった。イランは価値観としてドルを回避している。ベネズエラもドルを避けている。なぜなら、ベネズエラが保持する全財産を、米国は口座封鎖により没収したからだ。

 

他の国々も米国で金を保有することを恐れている。ドイツでさえ、連邦準備制度に預けている金をドルで引き取り、持ち帰るといい始めている。世界の国々はこう言い始めている。「私たちはもうあなたを信用していません。金を返してください」

 

誰もがドルを捨てており、誰もドルによる返済を望んでいない。今、返済されないドルを発行するフリーランチシステム全体が終わりつつある。


世界銀行と食糧帝国主義

 

ベン: あなたはいままで「食糧帝国主義」を取り上げている。それによると、国際通貨基金(IMF)、世界銀行の役割は米国の食糧輸出に依存しているとされる。

 

今回の版では、「米国の食糧帝国主義と新しい国際経済秩序」と呼んでいる。その中身を説明して欲しい。

 

ハドソン: これは主に世界銀行の選別融資の問題である。

 

世界銀行は理想的には他の国にドルを稼ぐために融資をすることになっている。それらの国はドルで米国製品を買う。

 

しかし、過去80年間のアメリカの外交の最も中心的な要素は、米国の農産物輸出を促進することだった。世界銀行は、チリ、ベネズエラ、ラテンアメリカに自国の食糧供給を増やすための融資を行わなかった。そして米国の穀物を買うようにさせた。

 

熱帯の国では、米国では栽培できないパーム油、コーヒー、バナナのみが開発された。プランテーションが促進され、各国はますます食糧を米国に依存するようになった。

 

米国は革命を起こしたラテンアメリカの諸国を好まない。米国は彼らに制裁を課すつもりであり、これ以上彼らに食べ物を輸出するつもりはない。

 

ホンジュラスのセラヤ大統領が自国の農業を発展させたいと思ったとき、ヒラリー国務長官はすぐにクーデターを起こし、独裁を確立した。

 

米国は、ホンジュラスが望むことをしなかった場合にホンジュラスを餓死させる事ができると証明してみせた。それは、米国がすべての国で求めてきた種類の食糧絞殺である。



事態は米中対立ではなくアメリカの没落にある

マックス: いま、中国との米国の大国競争の重要な側面は、技術を中心に展開している。

 

あなたは、戦後、米国が食糧だけでなく、軍事製品、特に技術への依存を促進しようとしたと語っている。

 

しかし今、あなたは米国が5Gで中国に追い抜かれている。米国は、もはや自国の技術への依存を助長することができなくなった。これから米国はどのように逆襲していくのだろうか?



ハドソン: アメリカはもはや、産業のコストに基づいて競争することはできない。今できるのは、他の国々に知財権を請求することくらいだ。しかしテクノロジーセクターは独占を維持できなくなれば終わりだ。

 

短期的に生きているアメリカは、FacebookGoogleなどに高額でヒットアンドランの非常に迅速な利益をもたらそうとするが、中国は長期的に見て、実際の技術経済を発展させようとしている。

 

10年後、アメリカは中国に、FacebookGoogleをもう使わせないという。中国はそれでいいと言う。それで終わりだ。

 

202110
The Gray Zone

Super Imperialism: The economic strategy of American empire

 


ハドソン
「超帝国主義:アメリカ帝国の経済戦略」

著者との対話

 

マイケル・ハドソンは、「超帝国主義」の第3版を刊行した。

 

ここでは、中国とロシアに対する新たな冷戦、米ドルが支配的な金融システムから「多極化+ドル化された経済」への移行が論じられている。

 

この度はマックス・ブルーメンソールとベン・ノートンが、この本についてハドソンと語っている。

 

とくに第一次世界大戦以来、米国の経済覇権の戦略がどのように進化してきたかについて掘り下げた議論が展開されている。

 

このインタビューはYouTubeにアップロードされており、それを文字起こししたものである。(それを編集部で翻訳・抄出している)

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ベン: ハドソンは非常にユニークな思想家で、経済学だけにとどまらず仕事をしている。

今日は、出版されたばかりの「超帝国主義 3版」について語っていきたい。

 

1版はニクソンによるドル・ショックの1年後に書かれた。

2​​20年前に出版された。それは帝国主義の新しい段階の始まりとも呼べるものだった。

今度の第3版は、最後の章に「新しい冷戦」が盛り込まれている。

 

これらを通じて、米国の超帝国主義システムの変化について語って欲しい。

 

ドル(米国債)支配体制の成立について

 

ハドソン: 米国は金を失ったが、ドル=米財務省債を確保した。アメリカ以外の諸国は、これまでは金に縛られていたが、それからはドルに縛られるようになった。

 

諸国は余剰があれば米国債を買い、必要なときはそれをリサイクルした。

 

これによって軍事費は米国債から賄われ、ドルは減価した。ドルが各国によって買い支えられ、ドルの下落は収まったが、経済は過大評価されるようになった。

 

中国が望む、別の経済モデル

 

15年前に私は中国で働き始めた。中国政府は自分たちがどうすれば非ドル化できるか、さらにそれ以外の西側諸国から自立するかを真剣に考えていた。

 

彼らは中国と米国の間に競争があるとは見ていない。彼らの目標は競争での勝利ではなく、競争からの離脱である。

 

米国が到達した、非産業化(空洞化)と海外産業の支配は彼らにとって成功モデルではなく、回避されるべき教訓である。

 

米国では、市場が価格決定過程のすべてを支配し、価値や使用価値はますます価格に反映されなくなり、運営コストだけが上昇していく。中国は、そのような螺旋を回避しなければならないと考えている。必要なのはこのような高コスト国家ではなく、生産的経済を土台とする国家だ。

 

米国とドイツがかつて19世紀に行ったような生産的経済(産業資本主義)に復帰するつもりである。それは資本主義対社会主義などのイデオロギー的関係とは異なる視点だ。

 

そしてもう一つが混合経済モデルである。それは、基本的な公益事業を民営化するのではなく、補助金を提供することで低価格のプラットフォーム運営を実現するモデルだ。

 

結局これらの施策は新自由主義構造全体の拒絶にほかならない。



世界銀行と国際通貨基金の役割

 

私の言う「超帝国主義」とは、世界銀行と国際通貨基金を2つの柱とする世界経済システムだ。それは新自由主義に反対する諸政府の出現を阻止する働きを持っている。

 

世界銀行の機能は、第三世界の国々との南北問題を、資金の面から米国に依存させる仕組みである。

 

先進国は自国で食糧を栽培するのではなく、途上国に作らせる。そのために輸出農業、輸出プランテーション作物に資金を提供する。それは結局、途上国の主要産業である農業を、金融的に従属させることになる。

 

IMFの機能は、債務レバレッジを使用して他国に緊縮財政を強制することである。つまり、「あなたの政府が米国当局が好まないことをした場合、私たちはあなたの政府を管理する」と言うことだ。

 

それらは米国の一国主義的な支配の道具なのだが、国際組織と呼ばれ、米国が世界組織であるかのように装う。実際には、他国の農業と産業および商業の開発を歪め、米国の利益に奉仕するためのツールである。

 

世界政治の統御の仕方はもはや軍事的なものではなく経済的なものである。超帝国主義はいまや経済的かつ秘密裏に世界を政治支配するようになった。

 

しかしそれには膨大な軍資金が必要だ。それが1971年以来、米国債の購入という形で「預託」された外国の巨額の資金だ。


軍事的支配と財政的支配: 超帝国主義の2つの側面

 

ベン: あなたは米国のやり方が、もはや軍事的支配ではなく、財政的だと言った。しかし私はそれがお互いを補強する同じコインの一種の両面だと思う。

 

米軍が今もなお世界の多くの地域を占領している。1945年から日本、1950年代から韓国、ドイツや他の多くの国に軍隊がいる。それらはどのように機能しているのか。

 

ハドソン: 駐留費を払っているのは支払い余剰国、サウジでありドイツであり日本だ。

 

米国はベトナムでは一方的にお金を使った。現在近東や800の軍事基地でお金を使っている。これは米国の支配の仕方にかかわっているので、分けて考えなければならない。

 

80年代の日本を見てみよう。1986年に、国の財政赤字全体の22パーセントは日本によって補填された。

 

アメリカは言った。

私たちはあなたにどんな主要な会社も買わせるつもりはない。ロックフェラーセンターを購入すると、10億ドルを失うことになるでしょう。

日本が得たお金は米国財務省の国債に投資する必要があります。そうでなければ、私たちはあなたに懲罰的な関税を課し、あなたが嫌い​​なことをするつもりです。

覚えておくように。あなたは日本人です。あなたは私たちが育てた詐欺師であり、日本が社会主義にならないようにするのが努めです。

そして日本は、米国が指示したとおりに行動し、自動車と電子製品の利益を使って米国の貿易赤字と財政赤字を同時に賄った。

 

基本的に、アメリカは世界で唯一の力を持っている国だ。

 

アメリカはあなたの経済を破壊することができる。それでもだめならリビアやイラクのように見せしめを与えたり、引き裂いたりする事もできる。アフガニスタンのように見捨てることもできる。

 

それはアメリカにとって唯一つの力だ。アメリカには経済力がない。生産性もない。競争力もない。しかし、私たちはあなたを破壊する力がある。そして私たちは、いつでもあなたを破壊する用意ができている。

 

米国が世界で唯一のスーパーパワーだということと、それが米国が持っている唯一のパワーだということとは、矛盾するように見える。

 

普通に考えれば、米国はお金を印刷するか、企業や人々に課税する必要がある。これを行うことができるのは、この軍事費のすべてを海外から回収する金融システムを持っているからである。



を増補しました。前から読みにくかったのが、ますます煩雑になってしまいました。
まだ(工事中)の看板は外せません。

このページはそもそも初期のイオニア植民地における自然哲学の流れを追うのが目的だったのですが、ついでに増やしていくうちに大部のものになってしまいました。
おそらく最大の原因はソフィストの大群をそのまま上げてしまったためでしょう。

ギリシャ哲学はおそらく3つの部分に分かれると思います。
1. 初期のイオニア植民地における自然哲学

2.中期のアテネにおけるソフィストたちの論理哲学

3.プラトンとアリストテレスによる古典哲学
2と3の区別はあいまいですが、分量的にはそうなるでしょう。

イタリア学派は1に含まれると思います。ソクラテスはある意味で彼自身もソフィストの一人だったと言えるかもしれません。

以上のことから、いずれギリシャ哲学史年表は3部に分かれるのではないかと予想しています。



ほとんど考えたことがなかったが、こういう学問があるのだそうだ。
日経新聞の10月9日号(土曜版)の読書面、「今を読み解く」というシリーズの企画の一つ。森岡正博さんという方の紹介で、浅野幸治「ベジタリアン哲学者の動物倫理入門」(ナカニシヤ)という本が引用されている。
浅野は、動物には「基本的動物権」があると主張する。
それは人間によって殺されない権利、傷つけられない権利、自由を奪われない権利の三つである。
人間は動物に対するこれらの権利侵害を是正する必要があり、畜産や動物実験は廃止の方向に進めなくてはならないとする。
うーむとうなってしまう。「なぜ三つなのか?」という疑問がある意味で答えに直接つながっていくのだろう。

殺すことと、傷つけることとは、まったく意味が違う。死ぬことと、日夜傷つきながら生きることを強制されることとは別の辛さだ。だから三つの権利なのだ。

と言われても、人命を救うために動物を利用する医師の「倫理」観は案外畜産業者に近いものがある。高い生命倫理が要求される割には、動物の「生活の論理」には無頓着で、動物倫理学とは著しく背馳している。

それと、ベジタリアンは汎生命論者から同じ論理で批判される可能性がある。野菜を切り刻み、煮たり焼いたり、りんごをかじり取り、ぶどうを押しつぶし果汁を吸い取るというプロセスは、この上なく残酷である。
それを果物が望んでいるかのようなレトリックは、肉食者を非難するその同じ口から吐かれる限り醜い。

何れにせよ、この「振り返り」から得られる最大の教訓は、弱者の視点を常に保てということであろう。動物や植物の心配をするよりまえに、動物や家畜扱いされている「人間の弱者」は掃いて捨てるほどいるのだから、まずはその救済に意を注ぐべきであろう。


病いとの共生ということ
療養権と共同の営み


はじめに 療養活動の過程

人は普通、病気になると病院にかかって診察を受けます。だから病気の人を患者さんと呼ぶことが多いのですが、最近は疾病構造の変化により、病院にかかるだけが病人の仕事ではなくなっています。

このことは慢性疾患が増え、高齢化が進み、障害者との境界ゾーンが拡大するにつれ、ますます注目されるようになりましたここでは病気を持ち、病院にかかり、療養する人たちを病者と呼ぶことにします。

病者も一人の人間として健常者と同じように生活する権利を持っています。
「病者の営み」の目的は次のように考えられます。
第一に、病いや病いのもたらす苦しみと向き合い、それを克服しようとすること、これを闘病過程と呼びます。療養活動のなかで物質的基礎となる活動と言えるでしょう。
第二に、病いによってもたらされる生活上の障害に対応し、自立した人格を維持することです。つまり病者が営む社会的な生活過程です。
第三に、病いの中にあっても健常者に伍して目標を持ち、状況を受け入れると同時にそれを変革し、療養の中に生きがいを追求しようとすることです。それは心の動きを伴なう内面的な活動です。
病者には助けが必要です。第一の営みには医療者の診断と治療、家族や友人の心の支え、社会の理解が必要です。第二の営みには病院など医療供給システムや、医療保険など社会的バックアップが必要です。
これらの助けがあって初めて、病者は療養の営みを実行できるのです。そして病気が治ることによって、周りの支えなしに自活できるようになり、療養の営みを完結するのです。
療養生活の中では労働の産物が利用され消費されます。そして、健康な身体と「健康な生活」が再建されます。これは療養生活の特殊性です。


療養権と生存権

ところで、病者が療養活動のために医療者、家族、友人、そして社会に助けを求めるのは不当なことでしょうか? こう聞かれて「不当だ」と答える人はほとんどいないでしょう。苦しいときはお互いさま、助け合うというのが社会というものです。
病者を取り巻く人々も、はじめは病者を支えるものとして病者に向き合いますが、「病者を支える営み」の当事者となることによって、自らの要求を権利として自覚し、主張するようになります。
このことから、「病者の療養する権利」は憲法25条の「健康で文化的な生活を送る権利」に直接つながるものとなり、国民的な広がりを持つようになります。また、教育を受け、学習し、発達する権利や、人としてふさわしい労働をおこなう権利と結びついて、ひっくるめた「人間として生きていく権利」の一部を構成するようになります。
また医療や介護の活動は、病者の療養活動を助け、国民の療養権を保障し擁護する活動、そのために社会から付託された活動として位置づけられるようになります。このように考えることによって、私たちが目指す「共同の営み」の拠って立つ基盤が分かりやすくなります。


論点の整理

以上のような考えは、実はこれまであまり一般的なものではありませんでした。だからすこし言葉や議論を整理しておく必要があります。
病者の立場から医療を考える場合、医療を受けることと、医療を受けながら病気から立ち直ることが二重の行動として捉えられます。それは社会が付与する生存権の一部になっています。
医療に関わる行動の二重性は教育と似ています。児童は教育を受け、学習し、知識・技術を身につけ、みずから発達・成長していくのです。
医療も同じように理解されます。病いを受け止め、構えを形成し、疾病から立ち直り、病前生活に復帰することが本質的で、医療機関への受診やさまざまな医療資源を利用することはそのための条件となります。
そのさい、行動の主体は患者というより病者と呼ぶのがふさわしく、その行動は医療ではなく療養(セルフケア)と呼ぶほうが正確でしょう。そして病いから立ち直り、場合によっては病いと共存しながら生きることは、病者の主体的な権利です。
今まで医療権とか健康権と言われてきた考えは、「療養権」と名付けると非常にわかりやすくなります。

(療養権といえば、かつては療養所に入っている人の権利であって、娑婆の世界とは隔絶したものと考える人がいるかも知れません。たしかに朝日裁判はまさに「療養権裁判」でした。しかし介護、養護、予防などに裾野が広がっている現代、療養権はもっと広く、国民の生存権の重要な柱として蘇るべきと思います)

「患者の権利」を、病院や治療方針の選択の自由と捉える傾向もありますが、それ自体を否定するものではありませんが、病者の権利はもっと広範で底深いものでしょう。


共同体における病者の意味

人間は孤島で一人療養を行うわけではありません。生産が生産関係の中で行われるように、療養は人間同士の交わりの中で行われます。資本主義的生産関係は契約関係ですが、療養は血縁、姻戚、地縁など共同関係の中で営まれます。
療養と周囲の支援の原型は、近代以前の共同体の中にあります。これについては、中世ドイツの医療哲学をヒルデガルトの考察に沿って紹介したいと思います。
医療者をふくむ共同体の人々にとって、病める人は人間的受苦の象徴としてとらえられていた。肉体は限界であるが、単純な限界ではない。それは普遍的な媒介者である。
あらゆる病的状態は根源の状態、われわれの「健全な状態」の想起に役立つだけでなく、終末状態における最後の使命への示唆でもある.あらゆる疾病は治癒への、そして結局のところ救いへの示唆なのである.
病める人は、病めることによって、受肉した(肉体によって媒介された)人間存在の本質を突き出す。そのゆえに、病める人は範例を顕示する存在として受け止められた。
人間は宇宙の中心にとどまり、救いへと出立する.人間は本性上、すべて途上にあり、巡礼者であり、求道者である。
中世世界においては、病いも臨終も「健全な共同体のいとなみの中心に存在」している.病者は共同体と無媒介的に合一した共同主体であり、病を得て死に至るまでのすべての過程を、共同体の一員として生きていくことになる。
HvB Wikimedia
ヒルデガルトの胸像(Wikimediaより)


社会的活動としての療養ー近代以降

近代化に伴なう膨大かつ多面的な変化については、ここでは取り上げません。ただ一つだけ言うとしたら、中世の療養生活を成り立たせていた共同体が砂のように崩れ落ち、すべてが自己責任に帰せられるようになってしまったことです。
それだけではなく、個々の生活過程が共同体の一部ではなく、生産過程と価値増殖過程にとっての「厄介な付着物」にまで陥れられました。
このような歴史的状況の中にあって、療養者は「キズ物」として扱われ、相対的に弱者とならざるを得ません。
近代社会は、それ自体は進歩的ではあっても、共同体社会の対立物です。それをいかに揚棄し、自由で友愛的な共同社会の実現に進んで行くかは、近代社会が与えられた本質的テーマでしょう。
晩年、マルクスはこんなことを言っています。
共同体滅亡の歴史的宿命性は、“純粋に理論的な見地”からみて正しくない。農耕共同体にふくまれる私的所有の要素が打ち勝つか、それとも集団的要素が打ち勝つかは、その共同体がおかれている歴史的環境に依存する。
療養活動と、それを取り巻く集団的要素の構築は、新しい社会に向けての重要な足がかりになるでしょう。


療養権擁護の活動

擁護の活動なくして療養活動はありません。私たちが療養活動と療養権を考える上でも、療養を底支えし、療養活動の横糸となって社会的療養活動を編み上げていく擁護の活動を、社会活動の中に位置づけなければなりません。
そのためには療養活動と擁護の活動とを結びつけ、私たちの生活過程の一環として位置づけるようなパラダイムの転換が必要です。しかしこの作業はまだ緒についたばかりです。
ここでは3つの視点を提起したいと思います。
第一は「統一」の視点です。みずからの要求が病者の要求でもあることを念頭におき、要求の一致を運動の一致につなげていくことです。
労働者は、人間として働くのにふさわしい仕事の確保、人並みに暮らせる最低賃金、健康を損なうことのない労働時間、職場の衛生と安全、社会保険や公的サービスの充実などをもとめています。そういう働く人々の要求は、そのまま療養者たちの生活と健康を守るための条件でもあります。
第二は「参加」の視点です。医療や介護、養護分野の業務を行政的・私的なサービスと捉えるのではなく、自らもその一員として参加することです。
第三は、「未来」への視点です。人間が疎外され、他人への無関心が広がる社会を克服し、連帯と友愛の共同体を作るという共同の目標にどう進んでいくのか、もっと語り合わなければならないと思います。

参考文献
H・シッパーゲス 「中世の医学(治療と養生の文化史)」 人文書院 1988年
岩佐茂 「哲学のリアリティー」 有斐閣 1986年
佐藤正人「ザスーリチの手紙への回答」考 北海道大學 經濟學研究 1973年


空白込みで 3617文字


 

はじめに

1.病者の権利とは

普通、医療機関を受診する人を「患者」と呼びます。

しかし、医学の進歩や社会の高齢化などにより、そういう枠組みに収まりきらない人もたくさん増えています。普通に家で暮らし、働いているけど、立派な病名があり毎日薬を飲んでいる人たちは、「病気持ち」だけど、ほぼ普通人です。

私はこういう人たちは「病者」と呼びたいと思います。

たとえば3ヶ月に1回病院に行って検査をして薬をもらう「病者」の場合、その他の89日は病院とは無縁で生活しています。と言っても、何もしていないのではなく、毎日血圧を測り、定期に体重を測り、食事や運動にも気をつけています。いわば病気を自己管理しているのです。

こういう生活スタイルを、私は「療養」と名付けました。病者には療養する権利、療養権があるのです。今まで医療権とか健康権と言われてきた考えは、「療養権」と名付けると非常にわかりやすくなります。

2.療養権と医療の関係

療養権と医療の関係は、教育に例えることができます。

教育の場でも「教育権」の考えについては随分と議論されてきました。

すでに結論は出ています。「教育権」というのは生徒や学生の「学ぶ権利」なのであって、教育スタッフの権利ではありません。

教育スタッフに保障されるのは、「学習権」を最大限に保障するための「教育の自由」です。そしてこの2つが複合して「国民の教育権」と呼ばれるようになるのです。

医療の場においても、基本的な権利の由来は病者自らの療養権にあります。医療スタッフには、それに応えるべき責務が負わされています。そのためにプロフェッショナル・フリーダム(専門職に与えられる裁量権)が付託されています。

3.療養活動は人間的活動の一部

病気という災厄は往々にして前触れなしに襲ってきます。そして時として命を奪うほどの猛威をふるいます。人類誕生以来、すべての人は例外なく病気や怪我で命を落としています。生命という過程は生きゆく過程であると同時に死にゆく過程でもあります。

青年期のマルクスは「人間は受苦的存在だ」と言っていますが、現代においてもなお自然に翻弄されている人間は、まさに受苦的存在と言えるでしょう。

しかし多くの場合、急性疾患は治るのも早いので、「療養のいとなみ」というほどのものはありません。一方、自覚症に乏しく慢性に経過する成人病では、死ぬまでのお付き合いとなります。

生活の中に療養活動が組み込まれ、毎日ルーチンの活動が繰返されます。

生活過程の中では、労働の産物が消費され、健康の維持回復あるいは増進に役立てられます。この過程の大事なところは、たんに「労働力の再生産」にとどまらず、豊かで多彩な欲望が紡ぎ出されることにあります。


療養活動の概念

1.マルクスの生活過程論

療養にとどまらず、生活過程というのは物質的には消費過程ですが、人間が成長・発展していくための大事な過程です。

それは、「ドイツ・イデオロギー」から導き出される、物質的生活の生産の流れと、物質の消費の流れがさらなる欲望を生み出すという三角形循環です。

「経済学批判要綱序説」にはもう少し詳しく書かれています。大変ややこしい文章なので大意を紹介します。
消費はまた生産でもある。人間は食物を摂取して身体を生産する。
これは消費的生産である。しかしこの生産は、最初の生産物の破壊から生じる第二の生産である。
それは本来の生産とは本質的に異なる。この2つの生産は、二元的関係を構成する。
消費は生産物の現実的意味を創造し、新しい欲望を創造し、さらに生産の衝動を創造する。(国民文庫旧訳 281頁)

労働は生きる手段ですが、生活は生きる意味と目的を内包しています。それは時間ごとに量り売りはできません。社会的生活は価値、したがって価格を実現する本質的契機を内包しています。


2.社会的活動としての療養ー近代以前

ここまでは「災厄」への人間的かかわりとして療養活動を見てきました。それは療養活動のなかで物質的基礎となる「闘病」活動と言えるでしょう。

しかし、人間は孤島で一人療養を行うわけではありません。生産が生産関係の中で行われるように、療養は人間同士の関係の中で行われます。ただ生産関係は対面的ですが、療養関係は共同的で共時的です。

今日の社会では、公共サービスのかかわりが大きいのですが、療養と周囲の支援の原型は共同体の中にあります。

これについては、中世ドイツの医学と医療哲学を紹介したシッパーゲスの本がためになるので、すこし要約して紹介します。
医療者をふくむ共同体の人々にとって、病める人は人間的受苦の象徴としてとらえられていた。病める人は、病めることによって、受肉した(肉体によって媒介された)人間存在の本質を突き出す。そのゆえに、病める人は範例を顕示する存在として受け止められた。
中世世界においては、病いも臨終も「健全な共同体のいとなみの中心に存在」している.病者は共同体と無媒介的に合一した共同主体であり、病を得て死に至るまでのすべての過程を、共同体の一員として生きていくことになる。
読者へのお願い。
シッパーゲスの著作の骨格をなすのは、“ビンゲンのヒルデガルト” という一人の修道尼の本です。そこには医学医療論だけではなく、宇宙論から人間論までをふくむ広大な知の世界が広がっています。
できれば下記の記事で、その一端を味わっていただきたいと思います。
HvB Wikimedia
ヒルデガルトの胸像(Wikimediaより)

3.社会的活動としての療養ー近代以降

近代化に伴なう膨大かつ多面的な変化については、ここでは取り上げません。ただ一つだけ言うとしたら、中世の療養生活を成り立たせていた共同体が砂のように崩れ落ち、すべてが自己責任に帰せられるようになってしまったことです。

それだけではなく、個々の生活過程が共同体にではなく、生産過程と価値増殖過程にとっての「厄介な付着物」にまで陥れられました。

このような歴史的状況の中にあって、療養者は相対的に弱者とならざるを得ません。

近代社会は、それ自体は進歩的ではあっても、共同体社会の対立物です。それをいかに揚棄し、人倫的社会の実現に進むべきかというテーマに、マルクスの視座は向けられていました。

晩年に書かれた「ザスーリッチへの手紙」で、マルクスはこう言っています(大略)。

共同体滅亡の歴史的宿命性は、“純粋に理論的な見地”からみて正しくない。農耕共同体にふくまれる私的所有の要素が打ち勝つか、それとも集団的要素が打ち勝つかは、それがおかれているこの歴史的環境に依存する。

療養活動と、それを取り巻く共同関係の構築は、新しい社会に向けての重要な足がかりになるでしょう。


未来へつなぐ療養活動

残り字数が少なくなってきました。最後に療養活動に対する健者の関わりについて触れておきます。

共同体が健全な時代には自明なことだった擁護の活動は、今では再構築していくべき課題となっています。

そのためには療養活動と擁護の活動とを結びつけ、私たちの生活過程の一環として位置づけるようなパラダイムの転換が必要です。ここでは3つの視点を提起したいと思います。

第一は、医療や介護、養護分野の業務を行政的・私的なサービスと捉えるのではなく、共同体的実践の担い手として捉えることです。そのためには多くの市民が医療機関の日常の仕事にも関わり、運営方針づくりにも参加し、医療の現場から「共同の営み」を積み上げることが大事です。

第ニは、私たち勤労者・市民の要求と療養者の願いが一致していることを確信し、要求の一致を運動の一致につなげていくことです。

労働者は、人間として働くのにふさわしい仕事の確保、人並みに暮らせる最低賃金、健康を損なうことのない労働時間、職場の衛生と安全、社会保険や公的サービスの充実などをもとめています。そういう働く人々の要求は、そのまま療養者たちの生活と健康を守るための条件でもあります。

第三は、これらの実践を通じて、来たるべき人倫リテラシー社会のイメージを共有していくことです。歴史に学ぶ私たちは、中世の共同体精神の美しさと同時に、その恐るべき束縛力、苛烈さをも知っています。その故に中世との決別たるルネッサンスは、古代ギリシャの貴族的世界の再現を理想としました。

それらのいずれについても否定するつもりはありません。大いに議論したら良いと思います。マルクスだってあれこれと悩んだのですから。

しかしどのような形態であろうと、近代社会の積み上げた理性の高みと、現在の闘いの見通しの先にしか、そのような世界が実現し得ないことは明らかです。

空白込みで3503文字



この動画に感動しないヒトはいないだろう。
圧倒的な力の差がある敵に対して20頭のブチハイエナが集団で立ち向かっている。
ハイエナに武器はない。あるのは連携力、スタミナ、それと勇気だ。
逆にライオンから失われていくものはスタミナとファイティング・スピリットだ。
あるものは、ライオンの一撃を食らって致命傷を負っているかも知れない。
我々の祖先も、武器を持たない時代には、このように毎日命がけの戦いを続けていたのかも知れない。
そして多くは逆に襲われる身となり、大型獣の狩りの対象となっていったのかも知れない。


ブチ・ハイエナ

生物学的特徴

4種のハイエナのうち、我らの対象となる「狩りをするハイエナ」はこのハイエナである。
ネコ目  ハイエナ科  ブチハイエナ属というのが系統樹アドレスだ。イヌに似た姿をしているが、ジャコウネコ科に近縁である。

頭胴長120-180cm、体重55-85kgでほぼ成人男性並み、かなりの大型である。強力な頭骨と顎によって、他の肉食動物が食べ残すような骨を噛み砕く。

このため草原の掃除人との異名を持つ。マサイ族は人間の遺体を放置してハイエナに食べさせる。

後ろ足の短いのがいかにも不格好だが、時速65kmを超える俊足。しかし最大の特徴は並外れたスタミナにある。数キロの距離を時速40キロで走り続けることができ、執拗に獲物を追及しかならず仕留める。

力が強く、家畜のロバなども引きずっていく。持久力に優れ、獲物を探して1日で30kmほども移動することもある。聴覚は鋭く、眼は夜でもよく見える。水はあまり飲まず、1週間程は水を飲まなくて過ごすことが出来る。

見た目が美しくない、しつこい、不気味な鳴き声などから不吉な言い伝えに包まれている。

アニマルフォトグラファー の平岩雅代さんは「野生動物の中で、ハイエナほど悪い印象を持たれている動物は他に見当たらない」とまで書いている。

野生下の寿命は33年だが、飼育下では40年以上生きた個体もいる



ブチハイエナ


ブチハイエナの生態


サハラ砂漠以南のサバンナ、低木林地帯に生息し夜行性である。

東部アフリカ(ケニア・タンザニアなど)では群れ(クラン)を形成するが、南部では家族単位、あるいはオス単独で縄張り行動を取る。ここでは主としてサバンナのブチを扱う。

生息密度は地域によって異なるが、開けた草原から半砂漠地帯、湿原や藪のある岩場まで、さまざまな環境に適応している。エチオピアなどでは標高4000mの高地にも姿を現す。

家族のリーダーは例外なくメスである。メスはオスより大きく、男性ホルモン(アンドロゲン)の分泌が盛んである。このため外性器は、外見上はオスのそれとほとんど区別がつかない。
札幌市円山動物園HPより
「雌」のカミは性成熟年齢に達した後も発情兆候が見られないことから、カミが雄である可能性が生じたため、麻酔下で超音波画像検査、内分泌学的検査等の性別検査を実施した結果、二頭ともオスであることが判明いたしました。
動物なら何でも食べる。時にはスイギュウなどの大型動物も倒し、キリンやサイ、カバの子どもなども襲うことがある。時には鳥や魚、ヘビやトカゲ、昆虫や果実など、生息域や環境に合わせて、実に様々なものを捕食している。

獲物の種類によって狩りの仕方を変える。単独で狩りをするときは、ノウサギや地上徘徊性の鳥、魚などを狙う。ヌーやシマウマ、ガゼルなどの大型獣では10~25頭のブチが協力し追い回す。最後に、疲れて脱落した個体を仕留める。

ハイエナは他の肉食獣の獲物を奪って食べると言い伝えられるが、実際は食料の半分以上を自分たちで捕える。ライオンに横取りされる場合もある。

彼らは12種類の鳴き声を使い分けている。そのうち1つが笑い声のように聞こえる。このことから「笑うハイエナ」の別称がある。食べ物を見つけた時や威嚇する時には、頭を低く下げて気味悪い声で吠える。実際の声が聞けるが、なかなか不気味である。

ただ、それよりもはるかに印象的なことがある。それは彼らがきわめて饒舌なことだ。母系社会であるせいか、ここでは「沈黙は金」という格言は通用しない。それどころか「饒舌は金」とばかりにしゃべくりまくる。

ハイエナの行動はスマートで大胆だ。食糧倉庫や作物を荒らし、家畜や人間も襲うこともある。害獣として彼らは人間に嫌われ、害獣として大量に捕殺されたこともある。


家族とクラン

ハイエナの基礎コミュニティーは「パック」と呼ばれる家族単位で構成されていて、ふつうは3~4頭程である。

状況によっては有力なパックを中核とし、10~20頭の群れ(クラン)を形成する。クランは80頭に達することもある。ハグレモノのオスが一宿一飯の恩義を受けることもあるらしい。

行動範囲は生息地によって変化し、東部アフリカでは30~40平方キロ、半砂漠地帯では1000平方キロに達する。

クラン内では、メスがオスよりも常に優位である。群れのリーダーもメスである。その地位はリーダーの長女に受け継がれる。もっとも低ランクのメスでもオスよりはランクが高い。基本的にメスはクランに残り、オスは2歳半頃にクランを出る。

群れの仲間同士は強く結びついており、協力して狩りをしたり、ライオンの攻撃から身を守ったりする。


株式会社バイオーム 「ブチハイエナの知られざる社会

Webナショジオ 動物大図鑑 ブチハイエナ

ウィキの「群れ」の項目でいくつかのポイントが分かった。

1.群れの正式術語

まず「群れ」の英語は、一般的には「group」を用いる。草食動物の場合は「herd」、オオカミなどでは「pack」、鳥の場合は「flock」、魚類の群れは「school」である。
スクールというのがいかにもめだかの学校で面白い。

英辞郎ではもっと詳しい
assemblage(人や物の)
band(動物の)
bevy(ヒバリやウズラなどの)
cete(アナグマの)
flock(ヒツジ・ヤギ・鳥などの)
group(人や物の地理的に近い)
herd(牛などの大きな動物の)
huddle(人や動物の)
murder(カラスなどの)
pack(犬やオオカミの)
parliament(フクロウの群れ)
pride(ライオンなどの)
pride(ライオンなどの)
school(魚などの)
shoal(魚の)
troop(人・動物の)
wisp(シギの)

何故かアリやハチなどの群れは群れに含まれないようだ。


2.目的による分類(ただし本当はよくわからない)

それはたんなる集団ではなく、「群れる」という目的で群れているので、なぜ群れるのかという目的によって分類するのが普通である。

捕食、防衛、生殖のための群れに分けられるが、捕食以外の目的は外的形態からの推測にとどまり、目的合理性に乏しい。
(現に、「群れ化」の欠点をあげつらう注釈をつけた論文もたくさんあるが、にもかかわらず、それらの論文が「群れ化」の目的をまったく疑おうとしないのは驚くべきことである)

したがって狼・ハイエナの「Pack」以外の行動は、偶発的な集団行動と捉えておくべきであろう。
(この点をアイマイにした工学的発想の論文があまりにも多い。例えばライオン家族の狩りを群れ行動として分析したり、昆虫の集団行動とチンパンジーとを比較したりするむちゃくちゃがまかり通っている)

なおサイズで分ける人もいるが、サイズは目的によって変わるので本質的ではない。

言語が発達するのも、この「群れ」においてのことだと思われる。


3.群れの反対は縄張り行動

捕食行動+共同活動は犬科の行動を特徴づける。これに対し家族を単位とする捕食行動がネコ科の行動スタイルだ。

縄張り行動にも群れと同様に捕食、防衛、生殖のための行動という分類がなされる。

ただし縄張りが確保できるのは条件的、一次的であり、それ以外の状況においては群れ行動を取らざるを得ない。

家族が大きければ、それ自体が群れではないかと言うが、群れでは子殺しはない。ボスは家長ではない。

両者は絶対的な対立ではなく、相互のあいだに移行が見られる。


4.群れに関する学術的検討は依然として初歩的である

最初にも述べたように、本当のところ何故群れるのか分かっているわけではないので、かなり恣意的な分類となる。

定義も特徴づけも各人各様であり、使用目的に合わせ自分なりに定義立てする他ない。ただ定義を厳密化していくと、結局狼の群れを念頭に置くしかないであろう。

1.普遍文法の隘路を抜け出すために

言語(母語)は生得的か学習によるものか、という議論は形而上学的で不毛なものだ。
こういう際は、ひとつ上のカテゴリーでの議論が必要になる。ではひとつ上のカテゴリーとは何か。
それはコミュニケーションの発達の歴史だろう。この事により人類発祥の前からの流れを一つの数直線に置くことができる。このパスは複線で、一つが必要性でもう一つが可能性(能力)だ。

おそらく言語はホモサピエンスかせいぜい旧人の時代までで、原人や猿人の世界までは遡れないだろうが、霊長類的コミュニケーションの発達史ということになれば、少なくとも100万年前、霊長類からの分岐ということになれば1千万年前まで遡ることができる。
Nature によれば、現生人類が旧人と分岐する約60万年前には、すでに遺伝学的には、現代のような音声器官が備わっていた

そうすると「生得的」という言葉でDNA絡みの適応説を切り捨てる必要もなくなる。獲得形質の「遺伝」というネオ・ラマルキズムは、堂々と議論の主役となることができる。

2.コミュニケーション・ツールという位置づけ

これは言語=道具論だ。それは言語の基幹をなす機能ではあるが、言語と言語で表された世界の全体を示すものではない。これは議論を紛糾させないために必ず必要なことだ。言語はまず人間同士の情報伝達手段として生起する。それは「群れ」のみなに通用する合言葉として、「口述的」な言語として登場する。

ついでそれは自分との対話を生み出す。これが内言語である。それぞれの人間にとって、内言語の世界は巨大である。内言語による言語活動は、用いられるワード数から言えば対話的言語活動の数倍から数十倍に及ぶのではないだろうか。

多くの場合、内言語活動は言語学の対象とはならない。むしろ思索として語られることが多く、哲学や心理学の主たる対象となる。

内言語を研究の対象とする学問と、対話的言語に関心領域を絞り込む学問では、どのように互いが努力してもすれ違いは避けられない。だから避けられないことを念頭に置いて注意深く議論をすすめるべきである。

3.「群れ」の発達と言語の発達

言語の成立を学ぶためには「群れ」、とくに人間の群れの歴史を知らなければならない。
おそらくそれは、エンゲルス風に言えば「猿が人間になるについての“群れ”の役割」ということになるだろう。

そこでは
ヒトから人間への媒介としての“群れ”
集団から群れへ
攻撃的な群れと防衛的な群れ、生殖時の一次的な群れ
運命共同体としての群れ
群れにおけるコミュニケーション
群れと情報蓄積
群れと役割分担
言語能力と群れ
“群れ”が個人に押す刻印としての母語
などが考察されることになるだろう

4.脳科学と脳神経学との違い


同じことが脳科学と脳神経学との関係においても言える。大脳各部、とりわけ側頭葉と前頭葉に興味を集中する脳科学は、ともすればそれが神経組織の一部であり、情報の二次処理の場であることを忘れがちになる。

我々がさまざまな脳の働きを発生学的にあとづけたとき、大脳の機能は一次的には大脳以外の部署で処理可能であることが分かる。だからスキナー箱のように、大脳の働きをなにか一次刺激を与えて、それにたいする大脳の一次応答を見る実験は、所詮は本質的なものではないといえる。

多くの脳科学者は医者ではない。むしろテクノロジー分野の人だったり、心理学者(スキナー派の)だったりするので、操作主義的傾向が非常に強い。脳をブラックボックスに見立て刺激を与え、そのアウトプットを解析する。医学者や発達心理学系の心理学者は、まず観察に始まり、分類し、インデックスを立てる。だから大脳の働きや言語の意味などを神経系全体の動きや、液性制御と切り離せないのである。私が「三脳系」説に固執するわけもそこにある。


「普遍文法」(Universal Grammar)という、ややハッタリをかました言葉に、酒井邦嘉さんが乗っかる形で拡散しているようだ。

「普遍文法」で検索をかけたところ、下記のエッセーにヒットした。

「脳は文法を知っている」という題で著者は不明だが、酒井邦嘉さんのフリークを名乗っているので、関心領域としては一致するのではないかと思う。
http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/NewsJ/WAC2005_Report.htm

かなり長い文章なので、端折りながらたどってみることにする。


赤ちゃんは言語を理解するための基盤を持って生まれてくる。言語能力のなんらかの原型が最初から備わっていることを示す。

ということで、『言語を生みだす本能的能力』の存在がまず提示される。

チョムスキーはそれを言語学的に読み替えた。
1.それはルールの形をとっている。
2.そのルールはユニバーサルである。
3.それは脳に由来する。
(相当の注釈を必要とする定義である。ルールというのは、言語がたんなる音声ではなく言語であるための条件ということであろう。ユニバーサルというのは、諸言語の持つ特殊性は捨象されるということであろう。脳というのは、言語を操る生物、すなわち人間の脳ということであろう。したがって猿の脳が人間になるまでの全発達段階の反映としての脳であろう)

チョムスキーはわざと挑発的な物言いをした可能性がある。

あとは言語学的な例証が続くが、少なくとも無条件支持はしない。

おそらく原人から旧人への移行期に言語が形成されたと思われる。これは解剖学的に推定される。


文法のDNA化でなく、「主語の自立」で良い

動物や鳥類などの観察から言えるのは、主語の自立と中心化であろう。動詞はかなり初期からあったかも知れないが、それが述語になるのは、主語が確立するからであろう。

まず文章が文章であるための必須アイテムとして、主語が析出する。主語の析出が意味するのは個性的な主体の確立である。ついでそれに引きずられて、揺れに揺れながら述語が確立する。それだけの話しであって「普遍文法」などとおどろおどろしい言葉を持ち出すまでもない。

これらはすべて、群れの形成と群れと群(という鏡)によってもたらされた個、という彼我の関係の発生に起因するとかんがえられる。それは大脳の巨大化に要した時間とほぼ一致する。

言語は脳の自然現象

これはチョムスキーと言うよりは酒井さんの考えの受け売りのようだが、かなり明らかな誤りである。

そもそもチョムスキーが誤解を招くような物の言い方をしているのが問題なのだが、酒井さんはこれを素直に受け取って、「脳が言語を生み出している」と単純化する。

言語活動と脳血流分布

酒井さんは f MRI を使って文法的言語活動時と、記憶想起的言語活動時のフローの相違を検討した。

文法判断をしている時は、左脳前頭葉にある赤い部分が目立って活動している。記憶を使った判断では、べつの緑の領域で活動が目立った。

この実験により、ブローカ野が文法的言語活動の中枢であることが明らかとなった。
言語活動とfMR

(この写真はむかし見せられたことがある。ただし介入試験であるため、どこにどう介入したかの問題があって、評価は難しい。そもそも言語活動における脳の働きがこんなに単純なものか?、という感じを捨てきれない。むかし学会でこういう写真見せられると「キレイだね」とささやきあったことを思い出す。なにせ画像屋さんは画像が命ですから…)

ここまでがチョムスキーの紹介と、酒井さんの紹介。ここからは著者の「私的な思案」となる。
ここでは、「文法」という言葉に振りまわされている著者の姿を眺めることになる。

一言だけ私の意見を言わせていただきたい。
言語はたしかにコミュニケーション・ツールではあるが、そこにとどまるものではない。すでに内言語はコミュニケーション・ツールのカテゴリーをはみ出しており、それは思考のツールと言うべきものとなっている。
私たちは「言語」という言葉で、すでに「言語的知性」を語っている。そのような「知性」と「知的主体」の発展の仕方を語っているのだ。それは決して脳味噌のどこが光ったり、赤く染まったりしているかという問題ではない。



この文章も2005年のものなのでかなり古い。今の目で批判すべきものではなく、「あの時代にはこう考えていたのだ」的な、適当な距離をとったほうが良いのかも知れない。


酒井さんの本を読みすすめるうちに「ピアジェとチョムスキーの論争」という小論に目が止まった。酒井さんの議論を考える前に、まずは論争の中身を把握しておきたい。下記は学会のポスター発表による要約である。

ピアジェとチョムスキーの論争…言語獲得は生得か学習か…
柿原直美 (2006年) 早稲田大学教育研究科
(日本教育心理学会 第48回総会 ポスターセッションでの発表)


1975年、ピアジェとチョムスキーは言語獲得の生得性をめぐって論争した。
(きっかけは、異常な言語環境に育った子どもの例を解釈したチョムスキーに対しピアジェが噛み付いたらしい)

次の表は健常児と特殊な環境で育った子どもの言語発達を比較したものである。

言語習得


ヘレン・ケラーが言語を獲得できた理由

カマラとジーニーと違い、なぜヘレンだけが十分な言語を獲得できたのだろうか。

自伝には、聴覚や視覚を失っても、触党、嗅覚で周囲の状況を判断していたことが書かれている。
したがって知能は正常に発達していたと考えられる。

ヘレンやカマラは言葉の必要性を感じる機会はなかった。

種々のテストの結果、ジーニーは「右半球思考者」で、非言語課題のほうができた。

『固定の核』(fixed nucleus)

カマラとジーニーは自然に言葉を獲得できなかったが、その後不完全であっても言葉でのコミュニケーションが可能になった。
このことは、人間には言語に関わる生得的な才能があると考えられる。

すなわちチョムスキーが普遍文法と呼ぶ能力は持っている。

しかし人間は、脳も心も遺伝子的に完全に決まってから生まれるわけではない。

遺伝子は脳の構成要素に正確な構造を授ける。あとから決まるのは自己組織化の圧力である。

つまりチョムスキーの生得論は無条件のものではない。

ということで、柿原さんの論旨はどちらも正しく一理ある、ということで「両者、引き分け!」という心優しい評価である。

ただこの勝負はボクシングのチャンピオン決定戦ではないが、引き分けならチョムスキーの勝ちということになる。

おそらくチョムスキーはピアジェを読みこなしていただろうし、そのほとんどに対し賛成してるだろう。その上で、「生得的なものもあるんじゃないですか」と言うわけだから、そもそも勝負にならない。

その上で、ピアジェが突っかかっていったのが、「普遍文法」というきわめて挑発的な命名だ。無名の新人がデビューにあたってモヒカン刈りとふんどし姿で受けを狙ったような感じもする。

私としては、むしろ生得性に対する軽視がピアジェの最大の弱点だと思う。彼はアメリカ流の心理学に対して十分に唯物論的だが、時間軸の観念が乏しい。そこをヴィゴツキーやワロンに厳しく批判され、すこしは反省した。それでも最後まで枠組み概念への固執から抜け出せなかった。

酒井邦嘉「言語の脳科学」(中公新書 2002年)を読み始める

続くかどうかわからないが、今の所やる気十分である。

「ようやく骨のある言語と脳に関する本と巡り会った」というのが感想。
まだ読み始めでなんとも言えないが、ちょっと読んだだけで、考えのしっかりした論文だということは分かる。ただ初版が2002年というのがいかにも古い。この分野で20年前というのは、前提事実という点からは致命的だろう。

あのころは「脳科学」という言葉を使うのをやめようかと思ったくらい、アレルギーが出るほどの科学分野だった。「脳神経学」の肩書きは厚化粧のテレビ・タレントの専売特許に成り果てた。

いくつか似たようなテーマの本を買い漁ったが、2,3ページで腹が立って捨てた。

医者というのはまず訴えの時系列的な把握を通じて病歴を浮き立たせ、ついで慎重かつ注意深い観察へとつなげる。

ついで類似疾患との共通性、差異性を鑑別しついに一つ、あるいは複数の仮説に達する。それから緻密な実験モデルを組み立て、推論を実証する。

脳科学者の議論には、この積み上げがない。だから実験は多義的でトリトマのないものとなり、そこから恣意的な結論を引き出す。

私の言語論の出発点は、ピアジェ、ヴィゴツキー、ワロンである。まことに教条主義的なマルクス主義者である。

ヘーゲルが「手段の狡知」をとき、マルクスはそれを労働手段と捉えた。「資本論」を書くための作業仮説だから仕方がない。

わたしはそれは外在的なものではなく、人間的活動の「手段」の体系と考えている。その諸手段の中でもっとも本質的なものが言語だと考える。

私は以前、「言語のヘーゲル的理解」という記事の中でこう書いた。
人間的活動は人間的ツール(記号・シンボル)を用いることにより初めて人間的活動となる。
逆の言い方をすれば、言語は人間的活動と共関係を結ぶことで、活動にとって不可欠の要素となる。
そしてそのことで、初めて「可能態」をこえて言語となる。
ややくどい言い方になるが、このような相互依存を前提とする関係において言語を捉えなければならない。


ハクスリー 年譜
Thomas Henry Huxley

鎖につながれて
正しい道を歩くくらいなら

私は間違いながらも
自由に歩く方を選ぶ。

1825年5月4日 
西ロンドンで生まれる。貧乏人の子沢山の家系で、8人の子の中で下から2番目だった。

1842年(17歳) 奨学金を得て、チャリングクロス病院で医学の研究を開始。

1845年(20歳) ロンドン大学で医学士の試験に合格。解剖学と生理学では首席となる。

1846年12月 海軍の測量船「ラトルスネーク」に船医として搭乗。オーストラリア近海で無脊椎動物(刺胞動物及び尾索動物)の研究に没頭。

1850年 王立協会のフェローに選ばれる。

1854年7月 海軍を辞め王立鉱山学校の講師となる。英国地質調査所の博物学部門も兼任。
当時ほとんどの科学者は裕福なアマチュアだったが、ハクスリーは海軍からの奨学金と大衆科学雑誌の記事を書いて生活を支えた。



1858年 脊椎動物の頭骨と脊柱が相同器官であるというこれまでの通説を否定。

1859年 チャールズ・ダーウィン『種の起源』を出版。ハクスレーは「十分に良い仮説」と評価する。
「進化説を考えなかったのは、私がどれほど愚かだったかの証拠だ」と語る。

以後進化論を熱心に擁護し、「ダーウィンのブルドッグ」と呼ばれる。

1860年 オックスフォードで開催された英国学術協会の討論会。ハクスリーとリチャード・オーウェンの仕込みを受けたウィルバーフォース大司教が対決。ハクスリーは、人間が猿と関係があったと主張。

1863年 ハクスリー、類人猿と人間の連関について包括的なレビューを発表。両者の脳がすべての解剖学的詳細において基本的に一致していることを示す。

1871年 王立協会の事務局長に就任。81年からは総裁となる。

1885年 ハクスレー、重い病に冒され公職を引退。

1895年6月29日 長い闘病生活のあと亡くなる

ジェームズ・スチュアートと剰余価値論の変ぼう

小林昇の解説」から

重農学派が剰余価値説を提唱。
いかなる労働が交換価値をつくり出すか
→いかなる労働が使用価値をつくり出すのか
→いかなる労働が剰余価値をつくり出すのか
への転換。

ジェームス・スチュアートは農業から鉱工業一般に価値論を拡大するに当たり、多くの言葉を生み出し。多くの混乱をもたらしつつ剰余価値の探求を進めた。

もっとも単純化した形態では、スチュアートの主張はこうである。

商品には有用性だけではなく、特有の自然的な性質がふくまれている。これを「内在する価値」(intrinsic worth)と呼ぶ。
これに労働が加えられて商品となるが、そのための労働時間を「有用な価値」(useful value)とよぶ。

つまり商品の売値=交換価値は、材料費(スチュアートのいう内在価値)と労働量=労働時間(スチュアートのいう有用な価値)としてもとめられることになる。

たぶん、スチュアートはケネーの再生産表の厳密な適用によって価値の抽象化に成功したのであろう。

ここには商品の形態は姿を消し、これによって生産の本質が明確に掴まれている。

スチュアートの結論:
原文はこうなっている。

その譲り渡しによって一般的等価(Universal Equivalent)をつくり出す労働を、私は産業(インダストリ)と名づける。

私は次のように読み直す。

(商品の)譲渡によって一般的等価
  “Universal Equivalent”が作り出される。このような商品生産体制を、私は産業  “Industry”と名づける。

スチュアートにあっては生産と労働の分離は行われていない。インダストリーにつながる“労働”については、労働ではなく生産というべきであったと思う。

「生産」という抽象的範疇はまだスチュアートの主張の中には現れない。おそらく産業というのが「生産」の概念を代用しているのであろう。

これは重農説における農業生産と労働の未分離が重石となってのしかかっていたのだろうと思う。率直に言って、それはマルクスにも引き継がれている。

このあと、労働の生産への置換えを注意深く進めながら、議論をたどってみたい。

スチュアートは、将来の資本主義的な生産様式における生産活動を、現在や過去の生産様式と区別する。

この生産活動は生産のブルジョア的形態であって、古代の形態とも中世の形態ともちがっている。

現在は封建的生産からブルジョア的生産への移行期にあり、前者は没落の段階にある。

その違いは、商品の交換過程にもっとも顕著に現れている。

封建時代にも商品はあり、商品が交換される際には貨幣が用いられていた。

しかし、商品は残余ではなく富の基礎形態(交換価値)となった。そして商品の販売は富を取得するための主要形態となった。

このような商品と貨幣のあり方はブルジョア的生産時代に特有のものである。

したがって主要な「生産」の性格は交換価値(富の素材)を生むという抽象的なものとなった。

61年草稿における機械論
(佐竹『剰余価値学説史執筆の動機』の読書ノートです)

協業や分業による生産力の増大は、社会的労働の無償の自然諸力の表現である。

これに対し、機械は生産諸部面に商品として、不変資本の一部分として入っていく。

それが剰余価値の増大にどう結びつくのはは考察が必要である。

まず考えられるのは、機械の採用は生産規模の拡大を意味するということだ。すなわち、資本の蓄積であり、それによる競争での勝利である。

生産規模が拡大すれば機械の効率が上昇し、剰余価値が増大する。しかし生産規模が拡大するとは限らないから、機械が剰余価値を拡大するとは言えない。

では競争での勝利以外にも機械の導入の意義はあるのか?

ここでマルクスは「機械の採用にかんする八つの要因」を指摘する。

(1)特別剰余価値の生産
(2)絶対的労働時間一総労働日ーの延長
(3)労働強度の増大 (労働効率の改善)
(4)機械導入による単純労働への代替
(5)賃金引上げの要求やストライキへの対抗手段
(6)「労働者たちが労働の生産性向上を我が物にしようと思い上がること」を防ぐ
(7)労働や材料のムダの最小化(労働の連続性や廃物利用など)
(8)機械による「労働の代替」

あげては見たものの、それらの多くは的外れだ。機械の採用の動機ではなく、採用の結果・影響・効果に過ぎない。

マルクスは剰余価値の概念が空回りしていることに気づき、それがスミスのv+mドグマ、重農主義の労働価値への単純な当てはめよるものであることを発見する。
そして資本主義のもう一つの特徴である機械の充当という過程が、この空回りを露呈したと考える。

ここで主格としての資本家が、「人格化された資本」として機能していると規定することにより、新たなパラダイムを獲得するのである。

斎藤環の「直接会うのは暴力」だろうか
赤旗の「朝の風」の激賞の吟味

赤旗の「朝の風」で斎藤環の「直接会うのは暴力」という発言を捉えてこれを積極的に捉えた考察が掲載された。
誰とどこで会うかは人権の問題だ。…人間だから直接会うのが当然という前提を見直す必要がある。
などなどだ。

言葉が踊っている。花から花へ舞っている。世間ではこういうのを「哲学」という。

ただ、そもそもの言い出しっぺである斎藤環という人がどういう人で、どういう背景でこのような物言いをしているのかがわからないと、なんとも常識的な判断がしにくい。

6月20日号のヤフーニュース

「朝の風」子が見た元ネタは、ヤフーニュースの6月20日号だそうだ。 

題名はえらく長い。
精神科医・斎藤環が語る、コロナ禍が明らかにする哲学的な事実 「人間が生きていく上で、不要不急のことは必要」

ということで、いわば至極当たり前のことで、特に社会から半ば引退して好き勝手に引きこもっている団塊世代には、共感さえ覚える。

「強いられた引きこもりさん、ようこそいらっしゃいました」ということだ。

斎藤さんは精神科医で引きこもりが専門だそうだ。ここで対象とするのは社会不適応としての引きこもりだ。

つまり現在この瞬間、引きこもりには三種類あることになる。

一つは病的(と言っていよいか)な引きこもり、これは思春期の病気で中年まで引っ張っている人もいる。斎藤さんは非社会性と呼んでいる。
ふたつは好き好んでの引きこもり、活字三昧で、世の中高みの見物、私などがその典型だ。
三つが新種のコロナ性引きこもりだ。この人達はやる気満々で、ある人はこの生き方に満々と闘志を燃やしているし、ある人はフラストが溜まって、日暮れになると紅灯の巷へという場合もあろう。

それで、斎藤さんという人はウィキで調べると、言葉の料理人みたいな人で、和風、洋風、中華、いかようにでも言葉を操って概念らしきものをこしらえる人のようだ。
一応精神科の教授の肩書きもあるので臨床もやっているのだろうが、まずはメディアへの露出が命の人らしい。

だから「直接会うのは暴力」くらいのことは平気で言う種類の人かもしれない。私なぞはどうも苦手で、虫酸が走る。

ただこういう人が実際あってみると案外社交的で如才なかったりすることもあるので、予断は禁物だが。

ヤフーニュースの主な内容

斎藤さんが最近『中高年ひきこもり』という本を発表した。ちょうどコロナでステイホームが強いられたので、話題性はある。

途中まではなんの変哲もない臨床医学の話。「その辺が落とし所かなと思います」なんてセリフは常識人そのものだ。

そこから、急に
なぜ人は直接会おうとするのか。
それは人が直接会うことは暴力であるからだ。
という台詞が飛び出す。
それで
そういう露悪的な言い方をするのは…直接会って話をすることに耐えられない人もいることを想像してほしいからです。
という風につながっていく。つまりは「直接あって話すのは結構精神的には重労働なんだ」ということを「暴力だ!」というキャッチコピーでまとめちゃったということなのであろう。

「朝の風」子は見事にその疑似餌に引っかかったという具合。しかも自身の思いで斎藤さんの言葉を膨らませている。

ただし、インタビューの最後でこうも言っており、バランス感覚はしっかり保たれている。

非常に憂鬱なのは私も同じですけれども、ストレスをあえて引き受けていかないと、精神のバランスは保てないので、私も一緒に取り組んでいきたいと思います。

つまりは小学校の頃の夏休み明けと同じだ。やすみにあきて学校に行きたい気分と、また規則と日課で体も心も縛られることへの拒否感。

この斎藤さんという人言葉遣いは時に過激だが、医学的判断としては結構常識的な人に見える。ただ、
「直接会うのは暴力」というフレーズはウケ狙いっぽくていただけない。人が生きていくための最低の強制というのはあり、その源となっているのは自然・社会のパワーだ。この強制的なパワーをゲヴァルトというならたしかに「暴力」ではあるが…


コロナについていろいろ勉強してきて、結局カギを握るのはユニバーサル(普遍的)な生存権の思想だろうということに思いが至った。
言葉だけ取り出すと、まぁいわば宗教の世界である。ただ偉大な宗教家がそれを思念の果てに漠然たる目標(ゴール)として選び取ったのではなく、もっと現実的で、差し迫った課題(タスク)として提起されているという違いである。
そういう思いで世界人権宣言や各種の人権文書を読んでみると、どれもみな微妙に的を外れていることに気づく。書き出しはりっぱだが、終わりは各論の延々たる羅列に終わる。大河のような流れが事実の砂漠の中にやせ細っていく。そこにはゴールに向かっての道のりが見えない。
これなら聖書を読んだほうが、個人的にははるかに救いは得られる。

我々が心しなければならないのはひとつ。世界人権宣言が発表されて以来70年、世界のすべての人々に対する生存権の保障はほとんど前進していないということである。

そしていま重要なこと。それはコロナのパンデミックのもとで、“ユニバーザルな生存権”が絵に描いた餅だという事実が白日のもとにさらされていることだ。
そしてもっと重要なことは、この権利が保証されないまま事態が進めば、それはブーメランとなって全人類にはね返り、人類滅亡の危険を招きかねないということだ。

致命的な第二波のパンデミックが来ない間に我々がなすべきことは3つある。
短期的には、第一波で人類が叡智を振り絞って考え出したありとあらゆるノウハウを結集し、教訓化し、第二波に備えることだ。とくに臨床医学的知見とウィルス学的治験のつき合わせでこの感染症の科学的構築を進めることだ。
中期的には、必要な医薬品、設備・装置の開発を急ぎ、配備を進めることだ。また第一波を広範に総括し、社会資源の有効な配置を一元的に進めることだ。
長期的には、ここがいちばん大事なのだが、途上国等の流行最前線に必要な援助を行いここで火の手を食い止めることだ。実のところ途上国はいま感染真っ盛りなので、むしろ超短期課題とも言える。ただ私はこれを短期課題にしたくないので、あえて長期課題と括っておく。

コロナとの闘いがユニバーサルな生存権をもとめている

途上国でコロナと闘うためには、ためらいなく、惜しげなく資源を投入する必要がある。
わたしがユニバーサルな生存権を重視するのは、平等な権利は互助の精神と表裏一体のものと思うからだ。

そして、まさにこの「ためらいなく、惜しげなく」の発想が「お互い様」の精神に裏打ちされていなければなならないと思うからだ。

国境の枠にとらわれる限りこのユニバーサルな視点は隠れ勝ちになる。ともすれば二の次にされかねない、下手をすればバイキン扱いされかねない途上国の人々に手を差し伸べるにはどう考えたらよいか。

それは私達先進国に住む諸個人が、資源の拠出を(“ユニバーサルな生存権”に照応する意味で)義務と考えるところから始まるのではないかと思う。

1.超帝国主義はまやかしだ

ネグリの「帝国」はGAFAMのことであろう。当時はまだ正体がわからなかったから、ヘッジファンドとか言っていたが、ようするに新自由主義の発達に伴って、これまでの多国籍企業の枠を超えた超国家的権力が生まれつつあるということだったのだろう。

この考えは2つの点で、大間違いだとうことが分かった。

第一にGAFAMの下に生まれつつある超帝国主義は資本の持つ悪意が極度にまで進展したものだということ。
決して資本主義の進歩した形態ではなく、もっとも腐朽した形態なのだ。

第二に、GAFAMは国籍を持ち、母国によって守られているということだ。
それがもっとも端的に現れたのが、租税回避をめぐる国際論議だ。米国は諸外国におけるGAFAM課税の動きを恫喝し、自国への還流を策している。

つまりGAFAMは超国家権力ではなく、アメリカ帝国主義の一部であり、そのバーチャルな表現なのだ。

2.新自由主義とグローバリスムは厳密に使い分けられなければならない

両者の意味は、少なくとも経済学的にはまったく異なる。しかしその言葉の指す現実社会の領域が類似しているので、しばしば混同される。中には意識的な混同もある。

これはグローバリズムという言葉が多義的であることに原因がある。また新自由主義も学説としてのマネタリズムという他に、主として米財務省が打ち出した国際貿易、金融政策という意味があって、これも意識的に混同される。

新自由主義政策のマニフェストは、ワシントン・コンセンサスである。

これは以下の条項を原理とする
1.資本の移動の自由
2.通貨の交換の自由
3.労働の移動の管理と制限

繰り返しになるが、もう一度確認しておきたい。

「世界資本主義」は、労働の自由と労働者の移動の自由が確保されない限り幻想である。それはアメリカ帝国主義に対する幻想である。


3.マルティチュードと新中間層

とはいえ、先進国や一部の新興国では資本の一定の蓄積のもとで、中間層が形成されつつある。

以前から、こうして形成される新中間層とは何なのかがずっと気になっていた。

去年ニカラグアを訪問したとき、政権を支えるヤング世代の人々の存在が非常に気になった。

サンディニスタ革命40周年というから2世代経過している。サンディニスタが政権を降りてから30年だ。つまり35歳以下の人々、すなわち人口の圧倒的部分はサンディニスタの闘いを知らない。

彼らの多くは2006年、ダニエル・オルテガが大統領に再選されて15年の業績で判断しているのだ。
関係者の話をいろいろ聞いて分かったのは、彼らには定職があり、それは、生活は厳しいが誇りを持てる職業だということだ。彼らはこの間に偽りのない教育を受け、ディーセント・ワークを獲得している。

教員であったりナースであったり、清掃であったり、ゴミ収集であったりするが、公務員だ。正規の労働者として保護される。そんな国は中米に一つもない。

第二には社会的生活基盤が整備され、共稼ぎで子を育て、世代を再生産する余地があるということだ。それは家族の明日があるということであり、未来には安定が期待できるということだ。

これは、中間層=小ブルと考えるこれまでの発想とはまったく異なるが、全人口の95%が貧困層・失業者に属するような社会ではきわめて妥当な定義だ。

肝心なことは、その新中間層が既存の支配層と貧困層を結びつける接着剤となって、国家と国民を形成することなのだ。

昨年4月ニカラグアでは、金で雇われた「民主主義派」の暴動や暗殺などの策謀を平和的に吹き飛ばした。それは私達がこの目で見てきた。

ベネズエラでも、相次ぐクーデター策動や経済封鎖で明日にでも崩壊しそうな政権が、実はアメリカの攻撃に耐え抜く底力を身に着けつつあるのではないだろうか。

4.非生産労働者こそマルティチュード

ラテンアメリカのことだとつい力が入ってしまう。

話がとんでしまったのだが、私はマルティチュードはこのような形で生まれてくるのではないかと思う。

彼らの多くは、物質的生産→流通・販売という広義の生産過程ではなく、物質を消費し、それにより生活を生産し、それにより欲望を生産する過程にかかわる労働者であり、そノ生活インフラを支える労働者であり、マルクス流に言えば非生産労働者である。

5.生産は欲望の拡大と道連れで拡大する

たしかに物質的富の生産こそが社会の村立基盤であり、生産関係が社会関係を規定する。そのことを否定するものではない。

ただ産業革命とマルクスが観察した急速に発展する資本主義社会というのは、世界史的には例外の時代だったのではないかと考える。

それは大規模な世界交易の発展期であり、海外市場は無尽蔵であり、工業製品は作れば売れる時代だった。場合によっては大砲で脅して買わせることも“自由”だった。
したがって物質的生産が度外れに強調される時代だったのである。

市場が円熟すれば、消費活動を抜きに生産活動は語れなくなる。

そこで第二次大戦後の大量生産・大量消費時代が展開されたのだが、人工的に煽られた欲望にはいずれ限界が来る。

そのような「大衆社会論」の行き詰まりが新自由主義を招いたのだが、これは「神の手」論と「トリクルダウン」論に基づくフィクションである。

こんなことをしてはいずれどんでん返しがやってくる。みなそれを感じながら目をつぶって進んできたのではないか。そしてコロナが最悪のどんでん返しをもたらすのではないか。

6.欲望にも市場がある

もちろん欲望の一番の基礎は物質的富にあるのだが、現代では物質的富は一部に過ぎず非物質的なものへの欲望のほうがはるかに高い比重を持つようになっている。

非物質的欲望の一番基礎に座るのは、社会的サービスだ。医療・教育に始まって、清掃から防災など多岐にわたる。私はこれを社会インフラと呼ぶ。

そしてその上に、芸術・スポーツ・娯楽などの実に多様な世界が広がっている。私はあまり勉強していないのでお教えいただければありがたい。

社会インフラが等差級数的に進めば、枝葉の部分は等比級数で拡大する。社会の人的生産力はますますこの世界に広がっていく。

非物質的市場のイメージについては、到底わたしに論及しうるようなものではないが、以下は言えるのではないか。
すなわち、それはかなり労働力市場と近縁のものであり、その“裏返し”の形態を取るのではないか。

社会インフラで働く労働者がその他の労働者を引っ張り、労働者階級の前衛に立つ形で市場の一報を形成していくのではないかということだ。

7.社会インフラ労働は本質的に協業である

物質的生産労働においては分業が本質であり、協業は補完的である。大規模生産においては部門内での協業がかなりの程度まで発展するが、社会的生産の主流を形成するわけではない。

これに対し、社会インフラ労働は、すでに社会の手によって分割されたものとして提示されている。だから社会インフラ労働は本質的に協業的であり、かつ社会的である。

ネグリは、おそらく無意識的であろうが「生産的協働」という言葉を用いている。

ネグリはそれをこういう。
マルチチュード労働者の保有する活動諸力は生活すること、愛すること、変革すること、創造することである。マルチチュードの生きた労働こそが、潜在的なものから現実的なものへの通路を築きあげる。
それらの生きた労働は直接的に社会的ネットワ!ークであり、コミュニティーの諸形態である。
非物質的労働は本質的に協働的であり、必然的に社会的相互作用をもたらす。
これらの特徴が非物質的労働自体を価値づけているのだ。

その兆候はすでに、オキュパイ闘争を通じて現れている。オハイオ州での下級公務労働者の反緊縮の闘い、最低時給の引き上げを求める闘争に示されている。

「人間の安全保障」と日本


外務省の外郭団体の機関誌に載せられた文章なので、若干内輪ぼめも入っているが、要領よくまとめられていると思う。

「人間の安全保障」(以下人間安保)の概念は、日本外交における重要政策として定着している。

人間安保は世界で認められ国連の基本理念の一つともなっている。


1.人間安保が打ち出された背景

人間安保が初めて提起されたのは1994年で、冷戦構造の崩壊がさまざまな地域紛争の契機となる不安定な時期だった。

貧困・感染症、地球温暖化問題など地球規模問題群の存在が顕在化し、それらをバックグラウンドに大量難民の発生、テロ・過激主義が生み出された。

国連は、危機にさらされているのは「人間それ自身」であり、国家中心の安全保障観では対処できないと判断した。

そして「人間への脅威」を取り除くことを、安全保障の新たな理念として提起した。


2.ルーズベルトの「四つの自由」が骨格

具体的作業を委ねられたのは二人の経済学者マブーブル・ウル・ハクとアマルティア・センであった。

ハクはパキスタン出身で国連発展計画の特別顧問、センはノーベル賞を受賞したことで有名である。

二人はF・ルーズベルトが1941年に発表した「四つの自由」を手がかりとして構想を展開した。

「四つの自由」は国連の理念の基礎を成しているだけではなく、日本国憲法前文の原理念のひとつともなっている。


そして、「欠乏からの自由」(Freedom from Want)と「恐怖からの自由」(Freedom from Fear)を統合的に捉えなおし、新たな安全保障の理念として提示した。

先進諸国においては共通の価値として「自由」「民主主義」「法の支配」「基本的人権」の四つが指摘されている。

「人間の安全保障」は、その一つである「自由」を安全保障の観点から解釈発展させたものと考えられる。


3.「人間安保論」と国際社会

国連で案を取りまとめたセンらは、以下のように規定している。
人間安保とは、人間の生存(Survival)、尊厳(Dignity)、生活(Livelihood)のために必要な諸条件を満たすことであり、
人間の生(Vital Core)にとってのあらゆる脅威を除去する取り組みである。(緒方・セン報告書)

見ればわかるように、前段と後段は明らかにニュアンスが異なる。このため、とくに後段をめぐって議論がかわされた。

先進国からは、すでに基本的人権の概念が定着しており不必要と批判された。

一方、途上国からは、「保護」を盾に国際社会の介入が正当化されるのではと警戒された。当時はユーゴスラビア内戦などで「人道的介入」が許容される雰囲気が強まっていたからである。

こうして議論は難航したが、安全保障観を根本的に変更するというのはなく、国家の安全保障とは別に人間安保の考えを打ち立てることの必要性と有用性を共通認識とすることで、コンセンサスを得ることになった。

また、後段については「人間の安全保障無くして、国家の安全保障は無い」という認識を共有するにとどめることとし、今後の具体的展開にかけることとなった。


4.議論を牽引した日本とカナダ

こうして議論は挫折・流産の危機に瀕したが、議論を牽引する役割を果たしたのが日本とカナダであった。

カナダは外交政策の一環として人間安保を採用した。そして対人地雷全面禁止条約、国際刑事裁判所の創設などでイニシアチブを発揮した。

いわば人間安保の実質的内容を具体的に示すことによって、国際社会の説得に成功した。

日本は1998年、当時の小渕首相のもとで人間安保を外交政策に取り入れ、二国間ODAや国連を舞台にこの概念の重要性を推進した。いわば人間安保キャンペーンのパトロン役を買って出た。

この人間安保の考えはその後も歴代総理によって尊重され、日本の外交方針の柱の一つとなっている。


5.国際概念としての人間安保の確立

2000年の国連ミレニアムサミットは、人間安保の中心概念である「欠乏からの自由」と「恐怖からの自由」の2つの自由を、国連として取り組むべき優先課題として明示した。

今後の課題としては

① 人間安保を「国家の安全保障」「国際社会の安全保障」の中核に位置づける努力。
これによりグローバル化した世界における「新たな安全保障論」の起点として期待される。

② 人間安保を国内政治にも適用し、ガバナンスや国家統治システムの議論にも応用していく可能性が示唆される。

③ またセンらの議論の後半部分、「人間の生にとってのあらゆる脅威を除去する」取り組みについても、コンセンサスの形成がもとめられていくことになるであろう。

竹之下芳也 『エンゲルスの唯物論・自然弁証法は時代遅れだ』
というまことに挑発的な論文があって、正直のところ面白い。

少し、つまみ食いしてみる。

1.序論 自然哲学の歴史

ケプラー、ガリレオ、ニュートンの評価がほとんどされていない。三者を通じた認識の進化を分析した武谷光男の3段階論も視界の外である。

エンゲルスはニュートンの「力」を誤解していた。ニュートンのいう「力:force」は、質量掛ける加速度として定義されたものであって、常識の社会で使う「力」とは異なる。

ニュートンは、運動には根拠・原因があることを示した。物質はそれ自身で運動しているわけではなく、外から力を加えられない限り運動しないことを示した。

現代の唯物論の運動論は、古代ギリシヤそのままで、誠に時代遅れである。

ここまで読んで、もうやめようと思ったが、もう少し続ける。

しかしエンゲルスは、ニュートンのエネルギー論については最大級の評価をしている。

それは良いのだが、エンゲルスのエネルギー論理解には多くの欠点がある(詳細は略)

2.質量転化の法則について

エンゲルスは運動とエネルギーの違いを理解していない。
しかし化学物質についての「量質転化の法則」の議論は今日でも肯定されるべきだ。

この辺では、竹内氏はほとんど「泥酔」状態だ。

3.運動の基本的諸形態

(イ)運動は、物質の内蔵する属性か

ここでは再び「物質はそれ自身で運動しているわけではない」というニュートンの主張が繰り返される。

つまりニュートンからエンゲルスの議論を導き出すことは出来ないと主張しているようだ。それは正しい。なぜならニュートンは不十分だからだ。

(ロ)運動は牽引と反発とからなる

これらの議論は、ニュートンの力学を否定するものである。万有引力は引力のみであって、反発力は定義されていない。
このような議論が、この21世紀の今日まで通用しているとは驚きであるというか恥ずべきことである。
あぁ聞いていて恥ずかしくなる。

もうやめた。
この人はニュートンを金科玉条とし、エンゲルスがこの近代科学に対して忠実でないと怒っているようだが、ニュートン力学が近代・現代科学に対してどういう位置にあるのかを考えていない。

要するにエンゲルスを批判するにあたっての、自らの立ち位置が、とんと不分明なのである。

題名にあげた「エンゲルスの自然弁証法は時代遅れか?」という問題意識だけなら、私も共有したいのだが、このひとの問題意識には現代物理学の知識が欠如していて、まったく説得力がない。
読んでいる私が恥ずかしいくらいだから、撤回するようおすすめする。


エンゲルスが時代遅れだということは誰が考えたって分かる話だ。
おそらくエンゲルスが19世紀末に書き溜めたノオトなのだろうと思う。それが1930年ころに発見されて世界に広がった。つまり書いてから40年後の話だ。時代遅れに決まっている。
肝心なことはそれを承知の上で若き科学者が感動したということにある。エンゲルスの自然弁証法が武谷の三段階論や坂田の理論、さらに益川のクオーク理論まで生み出したことに注目すべきなのである。
それに感動しつつ、エンゲルスの歴史的限界を指摘しようというのが我々の問題意識だ。そこが共感できない人が議論に参加しても、それは場外乱闘を招くに過ぎない。
議論を生産的なものとしようと考えるならば、最低でも、戦前の唯研での客観的唯物論論争は議論の土台にしてほしい。



大要は以下の通り

皆さん(中南米の教会活動家)へ

コロナとの闘いがひとつの戦争なのだとすれば、皆さんは前線で闘う兵士です。皆さんは連帯と希望と共同体精神だけを武器とする軍団です。

皆さんの粘り強さに、私は大いに教えられています。

1.「家にいろ!」というのは過酷なこと

家にいろというのが、狭いボロ屋暮らしの人々にとって、どんなに厳しいことか! 

皆さんはその現場で彼らと肩を寄せあい、その辛さを和らげようとしています。そんな皆さんを心から祝福します。

いまの危機に取り組むためには、官僚主義的な枠組みでは不十分です。個人や人々が中心に据えられ、癒やし、分かちあい、まとまることが大事です。

皆さんの多くはその日暮らしで、身を守ってくれるものは何もありません。

2.さらに辛い生活が待っている

この嵐は過ぎ去るでしょうが、その深刻な影響はすでに実感されてきています。

そこで私たち全員で考えたいのが、人類全体の発展の計画についてです。

拝金主義に終止符を打ち、人間の生活と尊厳を中心に据えた人間的な社会が来るように願います。

私たちの文明はあまりに競争的で、あまりに個人主義的です。狂乱的に生産し、消費し、ごく一部に富が集中する文明は、このまま続けられてはなりません。減速し、吟味し、改める必要があります。

これは実現できるものです。皆さんが、これまで幾多の危機と困難を乗り越えてきたからです。

父なる神が、希望を私たちに与えてくださるよう願います。

新型コロナと人種差別

1. アジア人と白人

今となっては笑い話みたいな話だが、3月中頃までは欧米の白人たちはアジア人を見下していた。
「アジア人はみなコロナ持ちだ」と思っていた。

典型的なのはトランプの「中国ウィルス」呼ばわりだが、生活の現場でもときにあからさまな差別があった。

ニューヨーク・タイムズは「ダイヤモンド・プリンセスは今や、海に浮かぶ小型版の武漢だ」と断じた。このとき、それが米国の船だということは念頭にない。

中国人と似たアジア人は差別的な扱いを受けた。イタリアの学校では、アジア人に対して医師の診察を受けるまで登校を禁じた学校があった(なんとあの聖チェチリア音楽院)。

感染症は日々、人々が潜在的に持つ差別意識を顕在化させる。これは連帯しようと努力する人々にとって最大の妨げになる。

ところが、これがパンデミックになって話が変わった。

いまや医療崩壊も起きているイタリアを支援するため、中国から医療チームが派遣されている。

中国のネット上にはこんな声も上がっているそうだ(FNN)。
「中国が全力で感染対策している時に他国は批判ばかりしていた。私達は正しいと証明した。彼らは今後、自らの無知の犠牲を払う」

一方で、第二波予防と称して国内在住の黒人への差別も公然化しているという情報もある。


2.内在化した人種差別

コロナは、国籍も人種も階級も関係なく、誰でも平等に襲うと思ったが、そうではなかった。

差別は白人対黄色人種というわかりやすい差別から国内の階級差別へと内在化しつつある。

ミルウォーキーでは人口の黒人比率は26%だが、コロナ死者の約70%に上っている。ルイジアナ州では、黒人は人口の32%だが、死者の70%を占めている。ミシガン州では、黒人は人口比14%だが感染者の33%、死亡者の40%をしめる。シカゴでも死者数の70%近くを黒人が占めている。(ワシントン・ポスト)

それが経済格差だ。黒人は貧しいから保険に加入していない。そもそも黒人地域にはまともな病院がない。

だから高血圧、糖尿病、肺疾患、心臓病などの持病持ちが多く、コロナにかかれば重症化する。

他にも理由は山ほどある。

黒人は低賃金のサービス業で働いているから休めない。集合住宅に住んでいて、公共交通機関で通勤するから、不特定多数の人と接する機会が増える。

アダムス米公衆衛生局長官はこう告白した。
クーリエより
              クーリエより
「私自身、高血圧だし心臓疾患もあります。ぜんそく持ちだし糖尿病予備群でもあります。私はアメリカで貧しく育った黒人を象徴しているのです」

田中克彦「言語学とはなにか」(岩波新書)を読んで

昨日、酔いに任せて一気に言語学ルサンチマンを撒き散らしたが、あらためて読み直すと結構恥ずかしい。

実はこの本読み切っていない。途中で投げ出したのだ。第2章の終わりから第三章のはじめにかけて頭が朦朧としてきた。それと同時に得体のしれない怒りが頭をもたげてきた。

「またしても騙された!」

言語学の本を読むときに味わうあの一種独特な居心地の悪さを、またしても強烈に感じた。
「言語学」とは学的傲慢さの上に成立する学問である。それを承知で読むのならそれはそれで十分面白い。ところがこういう入門書や啓蒙書は、「言語学」が言葉について研究する学問ではないということを嫌というほどあからさまに主張する。にもかかわらず「言語学」という看板を握って離さないのである。
言ってみれば、他人の家の戸口に勝手に自分の表札を付けて、「ここは俺の家だ。何も知らないくせに、勝手に入ってくるな」と主張するようなものだ。
我々が日頃言葉というものについてあれこれ考え、あれこれ発言するのはよくあることなのだが、言語学者は「そんなものは言語学ではない」と言いはるのだ。こういうのを普通は「盗っ人猛々しい」というのである。

ある有名な言語学者はこう言い放ったといいう。
言語学を一般人向きにすることなど不可能である、そのようなことを試みる必要はない。
別の言語学者はこう言っている。
一般の素人はもちろんのこと、教養のある人々や、言語学と密接な関係にある科学の部門に携わる人々でさえ、概して言語学の知識はゼロである。
本来は彼らが言葉を譲って、自らについては「言語の構造学」とか「言語の社会学」とか言うべきなのだ。

最後は著者の田中さん自身の発言である。
世間では、なにはともあれ、言葉の本質を知るためにはその歴史を知らなければならないとよく言われる。こういう事を言う人が、実は物事の本質についてあまり良くわかっていないということは、話しているうちにすぐに分かってくる。
こういうオームみたいな人の本を読む気がしますか?

「心理学」と同じ発想

これは「心理学」という言葉と同じだ。
以下は私が以前に書いた文章の一節だ。何回も引用しているが、また引用させてもらう。
何度も引用するのだが、三木清が「心理学」を批判したことがある。
以前の心理學は心理批評の學であつた。それは藝術批評などといふ批評の意味における心理批評を目的としてゐた。
人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評價することによつてこれを秩序附けるといふのが心理學の仕事であつた。この仕事において哲學者は文學者と同じであつた。
…かやうな價値批評としての心理學が自然科學的方法に基く心理學によつて破壞されてしまった。
2013年11月09日 三木清「幸福について」を参照されたい。
ようするに、心理学という言葉の剽窃であり、しかも厚かましくも商標登録してしまったみたいな感じである。
ネズミを迷路に入れて餌と脅しで走らせて、それが心理学なのだ。あるいは患者に催眠術をかけてプライバシーを覗こうとする出歯亀どもが心理学者と奉られている。
世間の人々は「心理学」こそが人間の心の働きを追求していく学問と思い込んでいるが、心理学会に巣食っているのは知ったかぶりの三百代言ばかりだ。
この「心理学者」の群れが最近では、「脳科学」と模様替えしてあちこちで妄言を振りまいている。

つまり言語学者と心理学者・脳科学者、ついでに文化人類学者は、世の中で信じてはいけない三大「科学」者と言えるだろう。もちろん美容整形医学のようなエセ医学でもないし、優生学者のような悪党でもないので、そこは区別しなければならないが。

閑話休題

この本はそういうソシュール批判を結構気にしていて、いろいろわかったような書き出しで始める。しかし読み進むうちにわかってくるのは、彼も囚われ人の一人であり、「言語学オーム」の一員であるということだ。なぜかと言うと、「言語学」という言葉を使うのに、なんのてらいもためらいも感じていないからだ。

「言語学」が、ことばと言語の研究の広大な分野のほんの一部に過ぎない、ということへの反省がないのだ。「反省だけならサルでもできる」というが、それは本当の反省ではない。

私が思うに…

進化論的に見れば「ことば」の意義はきわめてはっきりしている。ことばこそが人間を作ったのだ。ことばこそが人間を人間たらしめている。もっというと人間の「類的本質」は言語活動と関わって存在するのだ。道具の使用とか「労働の役割」なんでのはチンケなものだ。

パスカルは「人間は考える葦である」と言ったが、より正確には「人間は言葉によって考える葦である」というべきであった。

脳の問題ではもっと端的に明確だ。人間の、とくに大脳部分は言語活動のために発達している。サピエンスにおける大脳の進化はほぼ全て、言葉の発達で説明可能である。

「情緒」とか「本能」ですら、現実には言語の統制下にある。より厳密に言えばせめぎ合いのもとに置かれている。

もし脳を文化論的、哲学的に論じるのではなく、実態的に論じるのであれば、言語学は大脳の進化学として説明されるべきである。



ということで、最後は自爆状態

これでは著者にも失礼なので、もう少し書き足しておく。

言語学はその存在理由を説明することの難しい学問である。
というのが書き出しである。

もうここからピリピリしてくる。「そんな訳はない!」のである。
国語だって立派な言語学だ。ただし、それだけならあえて言語学という必要はないかもしれない。

おそらく近代になって、貿易や外交が盛んになって、世界にはいろいろの言語があるのだということがわかった瞬間に、言語学という学問が成立したのであろうと思う。

しかしその萌芽はもっと昔から、集団と集団との間の交流が始まったときから存在したのだろう。そして集団の境界部に居た人々は経験的に「言語学者」になったのだろう。それが学として成立するのはずっと後のことになる。

おそらく、それは個々の外国語に接する過程を通じて、教会や貿易会社をパトロンとして、一種の「博物学」として始まったのだろう。生物学におけるリンネのような存在ではないだろうか。

世界にいくつの言語があるかは知らないが、それをできるだけ多く採集して、さらに近い言葉と遠い言葉、古い言葉と新しい言葉、混じり合った言葉、さらには絶滅してしまったものまで集めるのが最初の仕事だろう。
つぎにそれを分類して大きなグループに大別して、その特徴をまとめる作業。さらにはそれを発達史的に体系化する作業。
これらすべてが「言葉の博物学」だ。「言語学」という学問名はそうした研究にこそ与えられるべきだ。
それは社会集団の最大の寄る辺であり、象徴であるから、たぶん文化人類学や民俗学と近い関係になるだろう。

言語学には、言語発生学という分野が必ずつきまとう。なぜなら言語は母音と子音の組み合わせから生まれたものであり、それは現生生物としてはホモサピエンスにしかない機能だからである。(鳥の囀りについては勉強中)
だから生物学の一分野としての「ヒト学」の重要な柱を構成するだろうと思う。
これは言語学の分野の中ではさほど重要な分野ではないかもしれないが、生物学者にとってはまさしく核心的な研究分野である。
なまじ「言語学者」がしゃしゃり出ないほうがありがたい分野でもある。

いっそ、そんな棲み分けをしたらどうでしょう。

前の記事でエジンバラ大学が「新哲学」としてニュートン理論を導入し、その影響を受けたスチュアートが「経済学言論」を書いたとあった。

どうもこの辺の経緯がよく分からなくて、ネットをあたってみた。

とりあえず西脇 与作さんのブログに「微積分の背後へ」という記事があった。読んでみたが、ちんぷんかんぷん。とりあえずゴシップ記事的にまとめておく。

ことのはじめはニュートンの秘蔵っ子学者マクローリンがエジンバラ大学に赴任したことにある。

マクローリンは大学の改革を試み、その土台にニュートン理論をすえた。そしてこれを「新哲学」と呼んだ。

バークリのニュートン批判

1734年、これにバークリが噛み付いた。それが『解析家-不誠実な数学者へ向けての論説』(The Analyst: or a Discourse Addressed to an Infidel Mathematician)という論文である。

不誠実な数学者と名指されているのはニュートンその人である。

バークリはどこに噛み付いたか。

ニュートンの微分積分学の基礎には「無限小」といいう概念がある。

ニュートンはこの概念を用いてライプニッツ派(大陸派)と微積分のプライオリティを争っていた。

バークリは「無限小」=ゼロは、帰納的には証明できないと主張した。それは存在論的な誤解にもとづく論理的な誤謬なのだとし、彼岸性を主張した。

バークリは形而上学が数学の限界を定め、それが内包する哲学的問題を明らかにすると述べた。微分積分学は論理的に緻密でなく重大な難点がある。

「それを放置しておいて、教会の教えの非合理性ばかりを批判することができるか」という言い分だった。この男がずるいのは、いつもドローに持ち込めれば勝ちという作戦をとることだ。不可知論者の真骨頂だ。

無限小と無とゼロ

無限大・∞という概念があるのだから「無限小」もあってよい。それはゼロと同じだがゼロとは違う。

バークリの批判は、存在論的なものと論理的なものとの二つに分けることができる。

存在を極限あるいは無限小に帰することは正当化できない。それに相当するものは何も存在しない。

論理的な観点からいえば、「無限」の比較が行われていることである。

また、バークリは物体の存在なしに空間を考えることはできないとして、ニュートンの絶対空間の存在を否定した。

マクローリンとエジンバラ大学

18世紀スコットランドは自然科学の黄金時代だった。

1717年、エディンバラ大学の卒業生たちによって伝説的なランケニアン・クラブが結成された。そこではもっぱら哲学的、宗教的問題が議論された。

ランケニアンという名は、クラブの会合が行われた居酒屋の主人の名前からきている。

その後、人々や医学者たちは正式に哲学協会を発足させる。マクローリンはその中心人物であった。

ランケニアン・クラブにはじまるスコットランド哲学の形成は、クラークの自然神学や、これに対するバークリの批判を検討することから始まった。

マクローリンは無限小は証明を簡略化するためにだけ使用されたと主張した。さらにマクローリンは、極限によるニュートンの証明が「アルキメデスの方法」(帰謬法)の一般化だったとする。

後は面倒なので省略。

近代開始期におけるスコットランドの意味

実は「医師マンロー伝」を執筆中であるが、多分挫折するだろうと、密かに思っている。

その理由は近代開始期よりマンローの出現に至るまでのスコットランドが、なにか宝の山でもあるかのように多くの頭脳を生み出しているからだ。
それに気を取られていると、肝心のマンローの話がちっとも進んでいかない。

スコットランドの歴史への登場、それはまずスミスとスコットランド派の経済学者の著作から始まった。それはスチュアート・ミルの登場をもっていったん終了するのであるが、それはエジンバラ大学医学部の系譜へとつながっていく。

すなわちチャールズ・ダーウィン、コナン・ドイル、そして我らがドクター・マンローである。

イギリスの中でも決して先進地域とは言えないスコットランド、政治・経済的にはイングランドの後塵を拝していたスコットランドが、なぜ今も光り輝くような経済学の古典を生み出したのか、おそらくその精神がエジンバラ医学の骨格を提供しているのではないか。

一応、ウィキから経済的背景をレビューしてみた。

1688年の名誉革命によって、スコットランドはインの支配下に入った。人口で5倍、経済力で38倍の差があった。

1707年 スコットランドはイングランド王国と合同して、グレートブリテンを形成。

それまでスコットランドの伝統的な味方はイングランドではなくフランスだった。知識人は行動の指針をフランスの啓蒙主義に求めた。

1745年 旧王の勢力がスコットランドで反乱。一時はロンドンの北200キロのダービーまで迫る。ジャコバイトの反乱と呼ばれる。
このあとタータンとキルト、バグ・パイプの使用が禁止された。

1760年以降 ヨーロッパの辺境から産業革命の中心地へと変身していく。

製糸や石炭鉱業が盛んになる。ジェームズ・ワットが発明した蒸気機関車は産業革命の中心となる。

スコットランドが経済成長の中心となった理由。
大学・図書館が整備されたこと。
農牧地の囲い込みが大規模に行われ、都市に豊富な労働力をもたらしたこと。
人件費がイングランドより圧倒的に安かったこと。
があげられている(ウィキ)

18世紀スコットランドの学問状況

これは膨大な作業になるだろうと思い、つい怯み続けてきた。

このたび、インターネットで下記の論文に出会い、議論のヒントが多少見えてきた気がする。
とりあえず、読書ノートとしてアップしておく。


出だしの部分は快調なので、そのまま引用させていただく。
十八世紀後半期をもって経済学史上の最も決定的な画期のひとつと見ることができる。
ケネー『経済表範式』(1767)、ジェイムズ・ステュアート『経済の原理』(1767)、アダム・スミス『国富論』(1776)という3つの巨大な経済学体系が、その象徴として聳え立ったからである。
この内、後ろの二つは経済的に後進国であり、政治的にイングランドに従属していたスコットランドの作り上げたものである。
これら「スコットランド歴史学派」は、一つの謎である。
田添が考えるには、

イングランドは、直面する経済・社会問題を次々に認識し、その場その場で対策を樹ててきた。

だがそれでは体系的経済学を発想することさえできない。スミスはそれを「学問研究を全く放棄してしまった」と批判した。

一方、後発のスコットランドは切羽詰った位置に置かれていた。イングランドやフランスのような先進経済に飲み込まれまいとすれば、それに追いつき追いこすことが至上命題であった。

そのためには両国が歩んだコースをたどり、それをセオリー化し、市民社会の形成地図を描き出すこと以外になかった。

このようにして諸範疇を検出し編成する、つまり体系をつくり出すことがスコットランドの使命だったのである。


スチュアートとスミスとマルクス

ここは下世話な話も交えて大変楽しいところであるが、本筋から外れるので省略する。

ごく荒っぽく紹介しておくとスチュアートの著作は歴史的、発生的議論を踏まえておるので大変説得力があるのだが、スミスは彼の議論の曖昧さをついて、要するに重箱の隅をほじくり、取れる揚げ足を取りきってスチュアートを投げ捨てるのに成功した。

その経過を知ったマルクスはスチュアートの歴史的論理を用いてスミスを批判するのだが、結果的には勝手な解釈で議論を混乱させ、しかもなおかつスミスを批判しきれていない、という惨めな状況に陥っている、というのが田添さんの議論のようだ。


スチュアートと「超過利潤」論

田添はスチュアートの理論の内実にも踏み込んでいる。

ステュアートは生産過程を流通から把握するという観点を貫き、利潤範疇に対する内在的な考究を進めた。こうして利潤が流通過程から発生するだけではなく、生産過程にすでに基礎をもつことを明らかにした。

さらにその事をもって、生産過程を中核として近代市民社会が形成される過程を解き明かした。これは重商主義的理解にとどまっていたスミスを凌駕するものである。

スチュアートは有効需要を社会的な発展の原動力として把握した。ステュアートにあっては、賃金が生活資料の価値を規制している。

スチュアートとニュートン

エディンバラ学派については簡単に触れれれているに過ぎない。

ステュアートが学んだエディンバラ大学では18世紀中頃に教育改革が進められた。「新哲学」としてニュートン理論が導入され、それに基づいて教育体系の刷新が進められた。

こうした変革の風はステュアートに強い影響を及ぼした。実証的な歴史過程をふまえた理論的考察が何よりも重視されるようになった。

これ以上については不明である。ニュートンとスコットランド学派については別途検討して見る必要がある。

しかしそれにしても、ここまでふくめて医師マンローを描き出すのはなかなかに大変である。


(4月7日 更新)

我々にとって、たしかに「社会主義の大道」を探ることはだいじなことでしょう。未来社会論というカテゴリーはそれを指しているのだろうと思います。

しかしそれ以上に必要なのは、「社会主義の大道」ではなく「歴史の大道」なのではないでしょうか。
スターリンも見てきて、毛沢東も見てきて、場面によってはそれを反面教師に、それを乗り越える形で、私たちは「社会主義の大道」を学んできました。

ただ綱領(マニフェスト)的見地からみるならば、「社会主義の大道」はもはや主要な問題ではありません。大事なのは、あれこれの路線が社会主義の大道か、それとも脇道とかという「内部論争」ではありません。

大事なのは私たちの目指す「社会主義の大道」が、「歴史の大道」に従っているかどうかです。そのことによって、私たちは社会主義の道が「歴史の大道」であることを主張できるのです。

「歴史の大道」とは何でしょうか。それは20世紀において人類が果たした前進を引き継ぐことです。二つの世界大戦の再現を許さず、平和の道を歩むことです。そして、すべての人間が “人間として平等” であることを認め、人類愛にもとづく世の中を目指すことです。

それが20世紀から引き継ぐべき最大の任務でしょう。

それは世界大戦を引き起こしたものが誰なのかを知ることです。その人類の敵どもが、何を目指して何を行ったのかを知ることです。

同時に、人類の敵と闘い彼らを撃破したのが誰なのかを知り、そのためにどのくらいの血が流されたのかを学ぶことです。

「歴史の大道」は単純に与えられたものではありません。それは私たちに進むべき道として指し示された道なのです。

私たちは「歴史の味方」だった人たちに寄り添い、流された彼らの血を無駄にすることなく、平和と民主主義、人類愛のために戦わなければなりません。これが実践としての「歴史の大道」なのです。

歴史は無謬ではありません。

変革を目指す多くの人たちは、その願いとは別に多くの誤ちを積み重ねてきました。その中には許せない誤ちもあり、甘受せねばならない誤ちもあっただろうと思います。むしろ、正しいものなどなかったという方が正確かもしれません。

肝心なことは、人類は20世紀にどう進歩したのかという視点から流れを見極めていくことです。さまざまな誤りもふくめて、歴史を前進させていく人間の歩みを、全体としてポジティブに受けとめて行くことがだいじなのです。

私たちは審判者ではありません。私たちの仕事は、「社会主義の大道」の視点からあれこれ詮索することにはありません。歴史の審判は歴史がするのです。

メトロノームの針が右に傾いたら反動で左に傾いたら進歩というわけではありません。人間は右足と左足を交互に前に出しながら歴史の歩みを進めていくのです。

だからリアルでしっかりした「20世紀論」を構築し、その上に「21世紀論」と「未来社会」を積み上げなければならないのです。中国批判の上にセメダインで接ぎ木するようなものではありません。

2回めを迎えて、志位さんの綱領改定の講義がますます冴え渡っている。
志位さんの批判の刃は鋭く、快刀乱麻、とどまるところを知らない。
わたしごときオールド・ボルシェビキには、我が身を苛まされる如きマゾヒスティックな快感すら覚える。

今更ながらの話になるが、2000年を迎えるにあたって「来たるべき世紀」の物語は語ったが、20世紀論を語り尽くさなかったことが後悔される。

とくに今回ロシアを旅し、独ソ戦とペテルブルクの包囲戦の実相を知るに及んで、ファシズムというのが20世紀を彩る最大の出来事だったということ、ファシズムとの闘いこそが、民主主義論にヒューマニズムという価値観を付加し、「現代民主主義」の考えを強固にささえていることを実感した。

思えば、20世紀は戦いの世紀だった。本当に数々の戦いがあり、それを世界の民衆は戦い抜いた。そして私達に平和の時代を引き継いでくれた。

ボルシェビズム、スターリン主義、毛沢東主義… いろいろ言われておりそれらに対する批判はまことにもっともなことではある。我々は苦渋を以て「社会主義の失敗」を認めなければならない。

しかし、それにも関わらず、ソ連や中国の人民は多大な犠牲を払って、世界からファシズムを放逐する闘いの先頭に立った。その事を忘れるべきではない。

その事実に思いを致し、その戦いに敬意を払うことは、現下の政策に批判を加えることとはまったく矛盾しない。むしろその敬意こそが、ソ連や中国を批判するうえでだいじな背景となっているのである。



以下は
(広島経済大学研究論集 1987) の摘要である。
2018.07 髙山裕二「ポピュリスムの時代」の情報も追加しました。ただし高山さんの主張には相当異論があります)


かなり辛口の評論になっているが、30年後の今書けば、かなり受け取り方は違ってくるのではないかと思う。今日読んでみると、清家さんが弱点と見ていることが、むしろ非常に新しい視点を展開しているようにも思える。
清家さんは、ルルーが思想家ではなくジャーナリストで、宣伝コピーづくりの名手と評しているように見えるが、たしかに卓見である。しかしかなり水準の高いジャーナリストであったことも間違いないところであろう。

ルルーの思想

1.ソシアリスム(socialisme)の提起

ルルーは宣言する。
私は著述家ではなく信仰者である。その信仰の対象は人類全体 Humaniteである。私はこの信仰を理解し、それに仕えたことを幸福に思う。
ソシアリスム(socialisme)は引力の如き科学的法則である。それは社会的倫理としては協同(アソシエート)である。それは実践としては、多数者階級の物心両面での向上である。

その元になるのは人々の心の繋がり(連帯)であり、生き生きとした日々の暮らし(知情意の備わった営み)であり、それが世代を超えて巡っていくこと(円環の連鎖)である。

2.サン・シモン派への接近

ルルーの評論家としてのスタートは、メッテルニヒ反動のさなかであった。一方でイギリスを起点に産業革命の波が広がり、自由を標榜したブルジョアが革命を裏切り「ブルジョア貴族制」を構築しつつあった。

フランス大革命の共和主義は、カルボナリ党やフリーメーソンを経由してサン・シモン派に流れていった。ルルーもこの流れの中に居た。

サン・シモンの主張
人間による人間の搾取がこれまでの人間関係の基礎だった。これからは協同した人間による自然の開発が進められなければならない。
そのためには、最も数の多い貧困者階級の生活を物心両面から改善すべきである。
理想の社会建設を志向する精神が彼らを惹きつけたと考えられる。


3.サン・シモン派からの離脱

ルルーはジロンド派のコンドルセが唱える「進歩と完全化」を称揚した。そしてコンドルセを引き継ぐサン・シモンに影響されるようになる。

しかしサン・シモンによる「進歩と完全化」は、やがて「宗教」へと収斂していく。「組織は調和的になるほど、宗教的性格を帯びるようになる」のだそうだ。

ルルーはサン・シモンの調和的世界を尊重したが、宗教化は首肯しなかった。絶対者を前提とするかぎり、自由も平等も否定されていく可能性があると見たためである。

彼はサン・シモン派から離れ、「独立評論」誌を立ち上げた。ここから彼の眞面目が発揮されるようになる。

ルルーとサン・シモン派の間にはもう一つの決定的な違いがあった。

サン・シモン派はエリートに指導される社会を構想した。ルルーは共和主義者でありデモクラットであり社会主義者であった。

ブルジョワジーの特権は認めない。ルルーは特権階級の支配の代わりに、代議制政治を「進歩のための必然的道具、不滅の形態」と位置づけた。


4.ルソーとルルー

フランスに社会主義理論が形成されていくのは7月王政下である。何故か?

ナポレオン後の反動政治は、フランス革命を闘った人々にとって耐え難い屈辱であった。さらにフランスにも波及しつつあった産業革命が、多くの貧困層を生み出し、人間の不平等に拍車をかけた。

だから自由・平等の精神は、否応なしに社会主義の色彩を帯びざるを得なかった。これがその理由である。

ルルーは人民主権を唱える点ではルソーの後継者であったが、契約理論は受け入れなかった。彼の立場は一種の全体論であった。
人間一人一人は社会全体の反映である。各人はそのままで人類全体であり、一個の主権である。
そして主権論の立場から、それを否認されたものとしてプロレタリアを位置づける。

ここで有名な言葉「自由・平等・博愛」が飛び出す。
フランス革命と全人類の遺産である,自由・平等・博愛,一言で言えば人民主権がないがしろにされている。
これは「独立評論」の1842年9月号に載せられた「金権政治論」の一部のようである。


5.多数者革命の提案

現在おこなわれているブルジヨワジーとプロレタリアとの闘争は,労働要具を持たない階級とそれを持っている階級との闘争である。
ルルーはこう宣言する。

しかし、ルルーは契約論ではないので、労働者階級の階級闘争という視点には立たない。
彼が念頭に置くのは、労働者階級と言うよりはフランスの3,500万の国民のうちの3,400万人のたたかいである。まさに多数者革命なのである。

彼は、無産階級が政治的権利と経済的権利をもとめて議会の改革と憲法改革に立ち上がるよう訴える。

以降の論考については省略する。


ウィキペディアのルルーに関する記事は簡潔に過ぎ、不当に過小評価している。

ピエール・ルルー(Pierre Leroux)
1797年4月7日 - 1871年4月

ウィキペディアによれば、ルルーは思想家と言うよりは一種のコピーライターで、「三の組」とよばれる基本原理まとめるところに妙技がある。

例えば神におけるそれは「力、知性、愛」、人間におけるそれは「感覚、感情、知識」である。社会経済は家族、国家、財産から成り立っており、という具合に続いていく。

ということで、かなり辛口の評価となっている。
この記事の著者によれば、この評価は Encyclopædia Britannica によっているらしい。

ただこの記事は著しく不十分であり、例えばフランス革命の3つの標語「自由、平等、博愛」の作者であること、社会主義という言葉を、今日の用法で用い始めた人物であることが書かれていない。(初期社会主義 人物と思想

もう少し調べて書いた紹介文が必要であろう。

下記論文が見つかった。この文章からとりあえず年譜を作成する。

広島経済大学研究論集 1987


1797年 パリ郊外に職工の息子として生まれた。父親の死により

1808年 リモナデ、イエ(ソーダ水販売業)の父が死去。

1809年 パリ市の奨学金を得てレンヌのリセに通う。

「ルルーは自らの稼ぎにより家族を支えることを強いられた」とか、「学校を退いて石工として働いた」というのは嘘。
学校に入る前に父は死んでいる。石工(macon)ではなく、フリーメーソンになったという意味。

1814年 リセを卒業。植字工として身を立てる。

1817年 イギリス旅行。進歩的政治に触れ社会改革を志す。熱烈な炭焼党員となる。

炭焼き党(Charbonnerie)はイタリア、フランスを基盤とする革命的秘密結社。フランスでは1820年末時点で 8万人が加盟。

1824年 「le globe」(地球)紙の創刊にたずさわる。

「ル・グローブ」を編集したのはデュボワであった。デュボアはルルーとはリセ時代からの旧友。当時は(師範大学を出てリセ・シヤルルマーニュの教授を勤めていた。ルルーはデュボワの“控えめな共同作業者”であった。

反動的な王制l復古時代に芸術・宗教・政治の自由を鼓吹し、欧州諸国に広く講読された。

1825年 ルルー、サン・シモンと知遇を得る。

1827年 ルルー、「ル・グローブ」に最初の署名記事「ヨーロッパ連合論」を発表。徐々に雑誌の中核の役割を果たすようになる。

1830年 

7月 第二次フランス革命。「ル・グローブ」グループの多数派が新政府支持に乗り換え、雑誌は経営危機に陥る。ルルーは「ル・グローブ」のgerant (発行責任者)となりフィリップ派との合流を拒否。

1831年

1月 「ル・グローブ」はサン=シモン教の準機関誌になる。ルルーとサント=ブーヴは共同声明『無能な自由主義との訣別』を発表。

2月 サン=シモンの教義の普及のためブリユツセル, リエージュ, リヨン,グルノーブルを歴訪。

11月 ルルー、サン・シモン教の教祖アンファンタンと衝突。サンシモン教と断絶。

11月 ルルー、「ル・グローブ」を離れ、「百科評論」に移る。「百科評論」は1819年創刊の自由主義の雑誌出会ったが、サン=シモン教会離反グループの機関誌となる。1835年版まで続く。

1833年 ルルー、レノー と共に『新百科全書』の刊行に着手。「19世紀における人類の知識の一覧表を提供する,哲学,科学,文学,産業辞典」をめざす。

33年 レノーと共に, 『人権協会共和派原理』を発表。

1834年 評論集『個人主義と社会主義』を発行。

1835年 6月 サンド(当時31歳)はサント=ブーヴの紹介でルルーと知り合い、熱烈なルルー賛美者となる。金銭的援助を惜しまなかった。

ショパンとワケアリになりマジョルカ島に渡ったのは38年。

1840年、論文『De l'humanite 』を発表。人道主義哲学に基づくものとされる。

1841年11月 『新百科全書 』が終刊。ルルーはジョルジュ・サンドとともに『独立評論』を創刊する。1年後にルイ・ブランに経営権を引き渡す。

1845年 サンドの援助を得て雑誌「社会評論ープロレタリア問題の平和的解決」を発刊する。

1848年

2月 2月革命が勃発。ルルーは共和制を主張する。

4月 ルルーは立憲議会に立候補するが落選。6月の補欠選挙で選出される。

6月 6月蜂起の直後,ルルーは「勇敢に敗北者の弁護をひきうけた」(コミューン政府の弔文)

49年5月 立法議会選挙。ルルーは再選を果たす。自ら経営する日刊紙『真正共和制』を発行。急進的社会主義者としばしば対立。

1851年12月 ルイ・ボナパルトのクーデターのあとロンドンに亡命。ルイ・プラン、カベらと社会主義雑誌の発行を企画するが果たせず。ジャージー島での農業経営に入る。

1858年 ジャージー島で哲学,政治,文学を扱った雑誌「希 望」を刊行。

1859年 大赦の後帰国するが、政界を事実上引退。マルクスはインターナショナルの中央評議会にルルーを指名。

1871年 4月12日 脳卒中にて死亡。



1.時代遅れになった「科学的社会主義」の表現

「社会主義の大道」論の根拠になっているのは、おそらく「科学的社会主義」論でであろうと思う。

しかし「科学的社会主義」言い方はもはや正確とは言えないと思う。科学的社会主義という言葉は、私の記憶では、第十何回かの共産党大会で打ち出された言葉だろうと思う。それまでは「マルクス主義」とか「マルクス・レーニン主義」と言っていたのを、それでは個人崇拝になってしまうというので言い換えて使うようになったのではないか。

この言葉が生まれた根拠はエンゲルスの書いた「空想から科学へ、社会主義の発展」という入門書から来ているものと思われる。

改称の狙いは社会主義的思想をマルクスの片言隻句に求めるのではなく、その後の理論的成果も組み入れて幅の広い思想として捉えようとするものであった。

しかし昨今のような「野党は共闘」の時代には、かえってその狭さが目立ってしまう。マルクス主義的な社会主義思想を「科学的」と断定することは、それ以外の社会主義を「非科学的」と切り捨てる趣きがある。

だから逆に、「マルクス主義的社会主義」と相対化した言い方のほうが、共闘勢力からすればむしろ自然ではないのかとも思う。「マルクス主義的社会主義」もあれば、「ケインズ左派的社会主義」もあると言った表現である。

2.社会主義の淵源は百科全書派にある

そもそも社会主義は人々が思い浮かべた明日の世界像の集大成なのだ。

それと、労働運動や社会実験を廃棄にした考えではなく、もっと哲学的に考え抜いた社会主義の概念、すなわち「人道的社会主義」の考えからもっと学ぶ必要があるのではないか。

社会主義は個人主義や自由主義より劣ったものではなく、それらの弊害に苦しめられた人々から生まれた新しい考えである。

彼らは旧世界にいたずらに反抗するのではなく、それを不正義のシステムとして認識しようとした。そしてそれを克服するための一段高い倫理を考えぬいた。だからそれは現世の掟より新しく、高級で崇高なものなのだ。

空想的であることは悪いことではなく、素敵なことなのだ。人道的であることは弱々しいことではなく、強靭な思想と信念であることを表現している。

客観的に見れば、マルクスの明らかにしたのは、それが夢ではなくしっかりとした根拠を持っているということなのであって、夢が正しいとか間違っているとかいう評論ではない。

ここではマルクスの主張に基づき形成された社会主義イメージを「マルクス派社会主義」としておく。そして19世紀前半を中心に出現した諸思想は、「初期社会主義」として一括する。


3.自由・平等・博愛こそ、社会主義の根幹

エンゲルス以来、空想的社会主義といえばサンシモン、フーリア、オーウェンと相場は決まっているが、どうも私は違うように思う。

社会主義はあれこれのモデルの中にあるのではなく、三次にわたるフランス革命を通じて研ぎ澄まされてきた思想なのだろうと思う。

「社会主義」については、まずそういう押し出しをすることが大事ではないかと感じる。

そういう点で、フランス革命をさらに前に進めようとした思想家の中には、まだまだ注目すべき人がいるのではないかと思う。

ガローディ『近代フランス社会思想史』(1949)では以下のような人々が列挙されている。

①ラムネーのキリスト教的封建的ロマン主義

②ブルードンのブルジョワ的無政府主義。

③その間をただようサン=シモン主義者ピエール・ルルー

④フーリエ主義者ヴイクトル・コンシデラン、

⑤サン=シモン主義からフーリエ主義に移行したコンスタン・ベクール。

⑥ジャコパン民主主義の伝統に立つ共産主義者ラボンヌレー,ラオチエール, ピヨーなど。

⑦19世紀フランスの唯物論的共産主義の代表者であるデザミ、ブランキ

ほとんど聞いたこともないような人物ばかりである。これらの人物像から集合論理として社会主義を探っていく作業が必要だ。それこそが「社会主義の大道」につながる営為ではないかと思う。


4.イギリスとドイツの社会主義

イギリスで思想家として注目するとしたら、それは父ジェイムズ・ミルではないか。「ミル評注」のミルである。

もうひとり、フランス以外で注目しなければならないのはヘーゲルであり、資本主義の成長の必然性とともにその没落をも予想しているのは流石である。


1821年 ヘーゲル、「法の哲学」を発表。

1821年 ジェイムズ・ミル、政治経済学綱要を発表。

1828年 ブオナローティ、『バブーフの、いわゆる平等のための陰謀』を上梓。七月革命の結果に失望した共和主義者の関心を集める。
バブーフは共産主義という言葉を最初に用い、“完全な平等”という意味を込めた。政府機構の奪取と改革を唱えるが、社会システムでは農地分配の改革を求めるにとどまった。

1831年 リヨンで職工の蜂起

1832年 ピエール・ルルー、「socialisme」を「personnalite」の対比語として用いる。
原義としては「社会化論」というニュアンスとされる。ルルーはフランス革命に際して「自由、平等、友愛」の語を普及させた人物である。

1848年

2月 『共産党宣言』が発表される。社会主義の理論に資本主義の分析を加え、科学的に強化する。

フランス 2月革命、ドイツ3月 革命

1862年 第一インターナショナルが設立される。労働組合の奨励や労働時間の短縮、更には土地私有の撤廃などを決議する。

1871年 パリ・コミューン。世界初の社会主義政権が誕生。

1984年 イギリスでフェビアン協会が発足する。

1889年 第二インターナショナルが結成される。議会制民主主義による平和革命の路線は「修正主義」と呼ばれ、暴力革命やプロレタリア独裁を主張する「教条主義」と呼ばれた

1890年 ドイツ総選挙で社会主義労働党が躍進。このあと社会民主党と改称する。

1896年 ベルンシュタイン、議会制民主主義による平和革命の路線を提唱。「修正主義」と呼ばれる。暴力革命やプロレタリア独裁を主張するカウツキーらは「教条主義」と呼ばれた

1914年 第一次世界大戦が勃発。第二インターナショナルは崩壊。

おあつらえ向きの資料がないので、とりあえず暫定版。
しばらく時間がかかるでしょう。実はその前にしなければならないことが二つ、三つあります。

「社会主義の大道」を考えるにあたって

そもそも社会主義とは何なのか一度整理して見る必要がある。

1.社会主義の定義(所有論としての社会主義)

2.社会主義の歴史(空想的社会主義と科学的社会主義)

3.資本主義か社会主義か(社会システムとしての社会主義)

4.自由主義か社会主義か(平等論・博愛論としての社会主義)

5.社会主義と民主主義(政治システムとしての社会主義)

それぞれが大変に重い理論課題ではあるが、社会主義の歴史を見ていく中で、「大道」も含めて、かなり答えは見いだせそうな気もする。

ということで、例によって年表づくり

社会主義の年表へ


多分、これは不破哲三の遺言だろうと思って受けとめる。
発言の冒頭に、日本共産党が成し遂げた最大の理論的貢献をこうまとめた。

1.20世紀論の核心は民族自決にある

20世紀論の核心は植民地国家の独立にあった。民族自決の原則が“世界の構造”の根本となった。

21世紀のさまざまな出来事は、この歴史認識の正しさを見事に実証した。

2.20世紀の構造変化が核兵器禁止条約を生み出した

この間の平和と社会進歩の最大の変化は、核兵器禁止条約の成立である。

それを生み出したのは“世界の構造”の変化であり、具体的にはアジア・アフリカ・ラテンアメリカの国々の独立と自決だ。

3.世界政治の主役は交代した

発達した資本主義国の政府は、世界平和を目指す人類的な意思に背を向けている。恥ずかしながら被爆国日本もその一員だ。

発達した資本主義国が政治的反動に向けて歩んでいるという事実は、世界政治の主役が交代したことをはっきりと示している。そしてこれも、“世界の構造”の変化がもたらしたものなのだ。

(中国問題への言及は省略)

4.発達した資本主義国の役割

では発達した資本主義国には反動的役割しかないのか。そうではない。

世界史的に見れば、遅れた資本主義から社会主義を目指す流れが続いてきた。ますます世界は単一の富裕層グループの支配下に入りつつある。
だから、その矛盾がとりわけ厳しくしわ寄せされる途上国において、今後も社会変革の道へ踏み出す国は、当然ありうる。

しかし旧ソ連や中国の苦闘の経験は、遅れた国からの社会変革の道もまた厳しいものであることを示した。

5.社会主義への道はさまざまだ

資本主義の危機が進行するなかで、資本主義に代わる次の体制として社会主義を目指す動きもさまざまな国で、さまざまな形で起こっている。

そうした運動状況の中で、日本共産党が「発達した資本主義国での社会変革」の運動の最前線に立っているのは間違いない。

6.「大道」の具体的内容

我々にとって「大道」とは、社会変革をめざし、社会発展の段階的任務を確実に成し遂げることである。それはまず何よりも日本における多数者革命の実践である。この大道を確信をもって前進しよう。



7.社会主義への道は当面の課題ではないが不可欠な議論だ

日本の当面する課題は、社会の変革と段階的発展を内容とする多数者革命だ。“社会主義への道”は今日ただいまの当面の課題として追求するものではない。

社会主義への道は日本共産党の独自課題だ。しかし多数者を結集する上でも、日本共産党が目指す社会について多くの人々の理解を得ることは大変重要である。

感想
私は、「冷戦終結論」のスコラ論争に不破さんが終止符を打ったときのことが忘れられない。不破さんは冷戦の本質がアメリカの反共戦略にあったことを指摘し、その本質は変わっていないという点を強調することで、「終結」論者も納得させた。不破さんの言う意味での「冷戦体制」は、まさに今も続いていることを私達は確認しなければならない。

その後このスコラ論争ははいつのまにか表舞台から消えた。

今回も不破さんは、「我々にとって大道だ」という形でまとめようとしている。同時に「道は多様である」ことを確認する。そして「実践的な大道は多数者革命の実現だ」という点を強調している。
「大道」論はこのようにして理解する必要がある。これが「科学的社会主義」というものだ。何も無理やりに「割り切る」必要はないだろうと思う。

下記もご参照ください
日本共産党綱領改定案(不破議長の報告レジメ) 

「価値は主観、価格は客観」か? 岩井さんの天動説

昨日の話の続きだが、この番組はNHKが制作したものだが、柱となっているのは岩井さんの所論だ。ここを分けて議論しなければならないから話は複雑だ。

岩井さんの貨幣論は、結局「価値は主観、価格は客観」という主張に集約される。これはケネーからスミス、マルクスに至る古典経済学を全面否定するものだ。

立論は完全に逆立ちする。価格の集合概念として価値というものが想起しうる。それは集団主観であり、一種のマインドとして扱わなければならない、という結論に至る。

私はこれは天動説への立ち帰りと考える。

「価値」というのが主観だとすると、貨幣の価値は価格の集合を通じて社会心理学的に決まってくることになる。

こうして価値は投下労働量によって決まるというテーゼから完全に決別する。

貨幣論の歴史

アリストテレスの経済についての考えは「政治学」に示されている。
そこでは自由をもたらすものとして、貨幣が称讃されている。

近世に入り、貨幣は可能性の象徴として考えられるようになった。貨幣を媒介にして自由な世界が出現し、欲望は果てしなく広がり、人間は才能を開花させる

このような貨幣についての思想が、はじめての近代思想、重金主義である。

スミスは貨幣の物神化を批判した

貨幣は交換手段に過ぎず、貨幣に富の見せかけを与えているのは社会関係なのだ。

岩井さんはこのあと使い古されたマルクス批判、価格実現の問題を繰り返すが、ここでは省略する。

ただ、売買そのものが二面性を持つことを抑えて置かなければならない。ものが市場で売られるときは、売り手の側からすれば「命がけの跳躍」を迫られるが、買い手の側はそうではない。

購買は生活手段の獲得に過ぎない。しかしその使用が新たな欲望を生み出す。だから、欲望の水準は一義的には消費の水準に規定される。
別に「命がけの跳躍」をするわけではない。それは生産者の勝手である。


貨幣と欲望

貨幣は欲望の対象となる。致富欲が貨幣へと集中するのは、それが不安に基づく欲望だからである。

一方で、貨幣というのは流通してこそ意義を持つ。可能性としての貨幣は全面的な流動性を志向する。

これは議論が振り出しに戻っただけのことだ。貨幣というのは価値の標章であり、価値の裏づけがあるからこそ交換手段としての意義を持つのだ。


すみません。曖昧な記憶を元にした記事のため、誤解等あるかもしれません。特に後半はアルコールが回っています。いずれ岩井さんの文章に目を通した上で、訂正すべきは訂正したいと思います。

年末にNHKで放送された経済番組で「貨幣」を主題とした番組を見た。

NHKの自社制作でそれなりに力が入った番組だ。岩井克人さんという経済学者の論調を柱に構成されて行く。

これがいかにもNHKらしくいいとこ取りしながら、結局何を言いたいのかわからない話で、イライラしながら最後まで見てしまった。

仮想通貨の実験が明らかにしたこと

番組の前1/3はビットコインの話。
これまでの経過は
ホスキンソンが最初に仮想通貨を提唱した。これは貨幣の交換手段としての機能よりも価値の蓄蔵手段としての働きに注目したものだ。
蓄蔵手段であれば、交換はバーチュアルな交換でも良い。その代わり人に盗まれないように保護する機能が重要になる。このため仮想通貨という資産形態は「暗号資産」とも呼ばれる。
② 実際の交換場面で最大の難問は「二重支払い問題」であった。これを克服したのがSatoshi Nakamoto 理論であった。これにより仮想通貨が実用化する可能性が生まれた。(この項、さっぱりわからず)
③ 仮想通貨の位置づけを明瞭にするために、ハイエクの「通貨自由化論」が援用された。
ここでは「仮想通貨は貨幣ではない」という特徴付けが行われた。交換手段でもなく蓄蔵手段ですらもなく、純粋な「資産価値の表象」だとされた。

私が考えるには…
それは結局、蓄蔵ではなく退蔵のための手段だということに行き着く。極度のリバタリアニズムに裏づけされた、闇の中をうごめく蓄蔵貨幣の表象だということになる。
そういう地下金脈を経済の撹乱要因として取り締まるのではなく、事実上容認していくという点では、完璧に退廃的な概念である。
④ 仮想通貨に対する批判はフランスの経済学者ジャン・ティロールが代弁している。
ティロールによれば仮想通貨の欠点は、2つに集約される。
一つは通貨として役に立たないということであり、社会から切り離された存在であるということである。それはカジノのコインのようなものである。形は似ていてもそもそも本質が違う。
これはホスキンソンの提案からも明らかである。
一つは銀行券の役割を破壊する。貨幣が流通手段であり得るのは、致富や蓄蔵の手段でもあるからだ。貨幣が交換のみの手段であればそれはクーポンや、食堂の食券みたいなものになってしまう。
また中銀は貨幣を発行し流通させることで発行益をとり、これにより金融運営を行っているが、貨幣の役割が限定されると経営基盤が脅かされることになる。(ここはなるほど!と唸らせる)

ということで、ここまでは仮想通貨を巡る議論で、それなりにNHKらしく要領よくまとまっている。(的を得ているかどうかは別として)

労働価値説を比定する貨幣論

しかしこの後、延々と岩井克人さんによるマルクス批判が続くのである。それはスミスまで巻き込んで労働価値説の批判に行き着く。

しかも批判はいいとして、「それでお前、何を言いたいんだよ」というのがさっぱり見えてこない。アリストテレスからカントまで巻き込んで講釈を垂れるが、これはウソを付くときの常套手段だ。長年大学教授をやっていると、こういうテクニックばかり上手になる。

とにかく話が長くなるので、ここで一旦記事は切る。

結局、ギリシャ自然哲学の到達点は「非在」ということだ。

非在ということは、2つある。

1.原子論による非在→有関係の乗り越え

一つは諸物の根源は空気だということである。空気というのはなにもないということだから非在であるが、無ではないということだ。

そこにはなにもないようでいて実はある。それが原子だ。

デモクリトスの「原子論」によりギリシャ哲学は非在から有への転換という難問を乗り越えた。

ここから出てくる派生的な見解が、認識の限界と発展だ。

この発展的認識論により相対主義が乗り越えられた。

2.非在・有の相互転移の統一的理解

ヘラクレイトスのすごいのは、アナクシメネスの空気=根源論を解決するために、時間軸の導入によってゼロの概念を生み出し、これにより非在から有が生成されることを説明しようとしたことだ。

実数としてのゼロの概念は、時間軸上においてはごく当然のことだ。すなわち今がゼロであり、未来と過去に向かって正の数直線と負の数直線が伸びていく。

これに対し他のベクトルにはゼロはない。ゼロがあるとしてもそれは相対的なものでしかないし、個別的なものでしかない。

日本橋やオリンポスは、信じる人間にとってのみ中心である。

ところが、今という瞬間をどんどん薄切りにしていくと、だんだん向こうが見えてきて透き通ってくる。

そうして最後は、何もなくなってしまうのではないか、しかしそこには物事が変化していくエネルギーというものが残っているはずだ。それはパンドラの箱の最後に残された“エスペランサ”(希望)だ。

そこでは、非在は希望というエネルギー、すなわち、さまざまな原子のベクトルの集合に転化されているはずだ。

3.非在は証明されなくてはならない

しかしこのような「非在」をめぐるわかりにくい議論は、どこかで終止符が打たれなければならない。

それが物質存在の階層性である。ヘラクレイトスは時間軸の特殊性を強調することで、物質の構造性とリアリティを否定しようとした。

それは頑固な唯物論者の強烈な反撃を呼んだ。そこでデモクリトスが登場し、原子論を提唱することで妥協を図った。モノは消滅しない、しかしそれはアルケーとしての存在の在りようを変える。
原子は単純な妥協ではなかった。

(つづく)



前540年  イオニアのエペソスでヘラクレイトスが生まれる。
宇宙の秩序は、いかなる神も、人も造ったものではない。それは常にあったし、今もあり、これからもあるだろう。
この世界は、対立するものの調和によって「変化しながら成る」ものであり、そこに「在る」ものではない。
「われわれは、存在するとともに、また存在しないのである」

存在を突き詰めていくと「非在」に行き着いてしまう。それは空気という非在でもあり、変動という非在でもある。

したがってアルケーは非在を存在とする「成」のエネルギーである。おそらくそれは熱力学、とくにエントロピーの法則を念頭に置いたものだろう。

火は、絶え間なく揺らぎ、燃え続ける点で「変化」であるが、一定の明るさを保ち続ける点で「不変」である。ロゴスとはこのようなものである。
これは物質存在の「量子性」の表現としての「火であるが、エネルギーと存在の相互転換を示唆する言葉もある。
万物は火の交換物であり、
火は万物の交換物である。

このアルケーの規定は、アナクシメネスの空気=根源論を大きく進めるものであり、エネルギー根源論と確率的存在論に踏み込んだものだ。

プラトンはこれを万物流転論に流し込むことによってイデア論の論拠にしようとするが、それではあまりに狭すぎるように思う。

私がギリシャの自然哲学をまとめて勉強したのには理由がある。
それは前野隆司さんの「脳はなぜ心を作ったのか」という本にたいへん心惹かれたからである。
私のブログを読んでくれている人には分かってもらえると思うが、私は「三脳原基説」を唱えている。
別に独創的な考えではないが、大脳から脳を考える逆立ちした発想に我慢がならないのだ。とりわけマクリーンの「辺縁系」理論にはムカついてしまうのだ。
脳科学者と称する人の妄言にも鳥肌が立つ。あれなら能見正比古の血液型人間学のほうが遥かにマシだ。

脳の進化の歴史ははっきりと教えている。神経管の先端が膨らんで前脳・中脳・後脳を作った。
そのなかで前脳だけが神経内分泌の中枢と結合した。それが視床と視床下部だ。
ここで脳の知覚→運動の連鎖とこれに情動を結びつける「心」の働きが始まった。
だから情動そのものは大脳の発達よりも先行している、とも言える。

ただ「心」は、脳の発達に階層性があるのと同様に階層性がある。ここを知能と結びつけながら、前野さんはかなり掘り下げてた。
だから前野さんの言う「心」は、悟性とか理性とか知性という観念に踏み込んでいる。

だから、こちらにしっかりした「心」の範疇や概念がないと振り回されてしまうなと考えたのである。
哲学に観念論を持ち込み思考をストップする人々との戦いは、むしろ哲学の外の場で争われてきた。この闘いに頭はいらない、必要なのはガッツだけだ。

しかし議論の場に密かに唯名論を持ち込み相対主義の混沌に引きずり込もうとする手合に対しては、厳しい頭脳戦が求められる。
そこで私は、イオニア学派の自然哲学を大づかみにして、自分の座標軸を据えようと考えた。

前野さんのこの本は2003年の出版だ。私は16年前の前野さんに出会ったことになる。そのころの彼はきわめて颯爽としていた。

最近の前野さんの著作を題名から推察すると、もはやその辺の「脳科学者」に成り下がっているようだ。茂木某などの手合にもてはやされて逆上せ上っているのだろうか。日本という国の文化的貧しさの犠牲者かも知れないが、無残である。大変遺憾に思う。


ついで、人名をウィキペディアで追っていくこととする。
彼らの主張は、「ディールス・クランツの断片集」としてまとめられている。

紀元前6世紀  ミレトスのイオニア人社会で自然哲学が興る。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスに代表される。タレスは万物の根源(アルケー)は「水」だと考えたが、アナクシマンドロスは観察不可能で限定できないもの(アペイロン)と考えた。
さらにアナクシメネスは、万物の根源は、濃縮にも希薄にもなれる要素、すなわち「空気」だと定義した。
この辺は、小学校の教室で生徒が次々に手を上げて考えを述べるのに似ている。

略歴をウィキペディアその他から抜き出した。

タレス

紀元前624年頃 - 紀元前546年頃の人。フェニキア人の名門の家系であった。
イオニアに発したミレトス学派の始祖である。
タレス自身の著作は残っておらず、言及した断片から推察する他ない。

彼は万物の根源を水と考えた。
存在する全てのものは水から生成され、やがて水へ回帰していく。万物はDefiniteだが水はUndefiniteである。世界はUndefinite からDehfinaiteされ、やがてUndefinite へと回帰していく。
世界は水からなり、大地は水の上に浮かんでいると考えた。

第一に、「万物の根源は水である」というのは誤りだが、「万物の根源とは何か」という問いを立てたことに功績がある。つまりタレスは最初の回答者ではなく、最初の質問者として意味を持つのだ。

第二に、物質のあり方を、より混沌系で自由度の高いあり方に還元しようとしたことである。固相より液相という還元は非常に本質をついた提起である。ただし液体には形がない。物事を「形あるもの」と考える限り、精霊が宿ることのできない「形なきもの」との往来は素直には頷けないものがあろう。

液相というのは4つの特徴を持つ。
1.可塑性: 「溶けて流れりゃみな同じ」という融通さ
2.相転移の容易さ: 相としての熱エネルギー保持
3.流動性: 流体としての力学エネルギー保持
4.溶媒: 固化だけでなく析出という形で個体の源となる。

これだけでもタレスの水=アルケー論はきわめて優れていて、発展的で多方向的である。

アナクシマンドロス

アナクシマンドロスは紀元前570年頃の人。彼の言葉は断片が伝えられている。
アナクシマンドロスは、万物の根源は「無限なもの」であるとし、それは宇宙に秩序を与えていると説いた。

存在するもの “Da Sein” は時の定めに従って、生成してきたところへ戻り、消滅する。これは必然的である。
万物の根源は「無限なもの」である。そして無限なものの本性は、永遠である。

アナクシマンドロスの言葉は解釈が難しい。一見、タレスからの退歩にすら見える。しかし彼の言う「観察不可能で限定できないもの」(アペイロン)は時間軸そのものを指しているように思える。タレスは事物を空間的自由度を上げることで、事物をより根源的で未定型なものに還元しようとした。

それとおなじように、アナクシマンドロスは事物を時間軸の上において時空的自由度をあげようとしているのではないか。
そして事物を時間微分像(時間軸上の旅人)と描き出すことで、シンボル化とエネルギー付与作業を果たそうとしている。

ただしこれは高度に抽象的な操作になるので、唯名論的な方向にバイアスを受けやすい。それをヘラクレイトスがしっかり受け止めて万物流転につながったとするなら、その意義は大きなものになるのだが…

アナクシメネス

アナクシメネスは万物の根源を「空気」だと考えた。
私たちの魂は空気である。その魂が私たちをしっかりと掌握している。
それと同じように、気息と空気が宇宙全体を包み込んでいるのだ。
これはタレスの二番煎じとしての側面がある。「液体がアルケーなら気体はもっとアルケーだろう」と考えたのだろう。そんなことは少なくとも現代ならすぐに考えつく。

ただ問題は、おそらく当時の人は「空気は空っぽだ」と思っていただろうということだ。つまり「無が有の根源」だと主張している理屈になる。
だから論理的には容易い一歩であっても、常識的にはかなり受け入れにくい説ではなかっただろうか。

アナクシメネスは次のように語っている。
空気は物質を持たないもの、すなわち無に近い。
しかしそれは同時に、無限であって豊かであるはずだ。なぜなら私たちはこの空気が流れ出ることによって、生じるにいたるのだから。
そしてそれは絶対に尽きることがない。
三点セットでミレトス派哲学を見る

この3人を含め、古代ギリシャの自然哲学者たちは、素朴な唯物論者であり、人間も自然の一員であると認識していた。

ミレトス以降の自然哲学

ヘラクレイトス 
紀元前540年頃~480年頃

哲学者は「万物の根源とは何か」を探求してきたが、彼はその議論を、「世界とは何か」の問いに発展させた。

ヘラクレイトスは世界は「在る」ものではなく、「成る」ものだと考えた。

世界は対立するものの調和によって、変化しつつ、その時間ごとに「成立」していると主張した。
人は同じ川に2度入ることはできない。なぜなら、われわれは存在するとともに、存在しないからである
「火」は絶えず変化しその姿を変えながら、火としての特質を保持し続ける。したがって「火」は幻ではない。
世界は「永久に生きる火」である。

ヘラクレイトスは弁証法を貫くことで唯物論の立場に身を置いた。

パルメニデス

反自然哲学派のエレア派を代表する哲学者である。紀元前515年頃 南イタリアの植民市に生まれる。エレア派はピタゴラスの「すべてのものの根源は数字である」という流れを汲み、一種の唯名論の立場に立つ。その議論は抽象的で主観的であり、要するに良く分からない。

ヘラクレイトスを批判し「有るものはあくまでも有り、無いものはあくまでも無い」と主張。
なぜなら「存在するものが存在しなくなり、ある存在が他の存在になる」というヘラクレイトスの論理は不可能である。
川は川であり、水が流れていても川は川として変わらず存在している。
のだから。

しかしこれは反論になっていない。なぜならヘラクレイトスの主張の含意を理解していないからだ。

ヘラクレイトスはパルメニディスのような考えを否定しているわけではなく、それを受け入れた上で、「でも中身は変わっているだろう」と言っているのだ。

デモクリトス

紀元前460年頃~370年頃
エーゲ海北岸のトラケアに位置するイオニア人の植民地アブデラに生まれる。この街はペルシャの支配を嫌ったミレトスの人が移住したことで知られる。
最後の自然哲学者で、イオニア哲学の流れをくむ。

ウィキペディアの「デモクリトス」の記事で「イドニア派」という表記があり、多くの日本語文献がこれを踏襲しているようだが、英語にはこのような言葉はない。「イオニア派」の誤植ではないか。

ソクラテスよりも後に生まれているが、その影響は受けていない。

デモクリトスはエレア派の「あるものはどこまでもあり、あらぬものはどこまでもあらぬ」とするドグマと対決する。

彼は、無限の空虚(ケノン)の中に、目には見えない物体が満たされていると考えた。そして「あるもの」として実体のみならず、「空虚」もあるものとして考えることで、実在と認識をめぐるジレンマを克服した。

そして、小さすぎて目に見えず、それ以上分割できない「原子」(アトム)が、空虚の中で運動しながら、世界を成り立たせているのだとした。

あらぬものは、あるものに少しも劣らずある。

これがデモクリトスの結論である。
こうして認識の相対的限界に規定されない、運動や実在の枠組みを原子論として構築する。実に見事である。

デモクリトスのもう一つの理論的前進は、「無意味な必然である原子が、感覚や意識、さらに魂も形成する」という徹底的な実在的価値観だ。

これに何故、なんとも不格好な快楽主義がくっついてしまうのか不思議だが、これについては無視。

5+1で覚えておけば良い

つまりミレトスの御三家と、その衣鉢を継ぐイオニア派のヘラクレイトスとデモクリトスと覚えておけばよい。+1というのはエレア派のパルメニデスで、この人がヘラクレイトスとデモクリトスの間に入ると納まりが良い。




その後調べていくと、外すわけには行かない功績のある哲学者が何人かいる。とりあえず番外として上げておく。

アナクサゴラス Anaxagoras

紀元前500年頃 - 紀元前428年頃

イオニア出身。紀元前480年、アテナイに移り住み、科学精神を持ち込んだ。

物体は限りなく分割されうるとし、この無限に微小な構成要素を「スペルマタ」(種子)と呼んだ。

ごちゃまぜだったスペルマタは「ヌース」によって整理され、秩序ある世界ができあがった。

(ヌースは理性と訳されているが内因と捉えるのが適切であろう)

ヌースが原因となって、原始の混合体は回転を初めた。それはある一点から始まり、遠心作用で拡大した。
(ビッグバン理論を思わせる)

太陽は「灼熱した石(に過ぎない)」であると説き、太陽神アポロンへの不敬罪に問われ、アテネを追放された。


アルケラオス

アナクサゴラスの弟子で、自然学をイオニアからアテナイにもたらした一人である。

最も過激な意見は以下のもの

生物は土から生まれる。最初の人間もそのようにして生まれた

正しいことや醜いことは自然本来にはなく、法律や習慣によって生じる。


アポロニアのディオゲネス

紀元前460年頃の人。トラキアのミレトス人植民地アポロニア出身で、アテネに移った。変人哲学者のディオゲネスとは別人。

アナクシメネスの空気=起源論を引き継ぎさらに強調。すべての物質は、濃縮化と希薄化によって派生したものとする。

また、意識は必然的に空気に宿っていると主張。かなり原子論に接近している。


レウキッポス Leukippos

紀元前440-430年頃 

ミレトスに生まれ、エレアに赴いてパルメニデスに学んだ。

その後デモクリトスの師として原子論を創始した。

1.事物の総体は限りがない

2.宇宙のすべては虚(Kenon)と実(アトム)からなる。

3.アトムは虚に放出され他のアトムと関係する。

4.アトムが集まると渦を生じ、形の似たもの同士が結びつき、物体を生ずる。

レウキッポスの偉いのはイオニア哲学の嫡流でありながら、わざわざエレアに赴いてパルメニデスに学んだことである。
すでにイオニア派の雄アナクサゴラスがアテネに衝撃のデビューを果たし、哲学界を席捲している。ミレトス派の最大の論敵から謙虚に学ぶということはなかなかできることではない。
おそらくパルメニデスのヘラクレイトス批判が相当応えていたのだろう。
こうやってヘラクレイトスを止揚する形で「原子論」を立ち上げたのならば、それはいわばギリシャ古典哲学の粋を集めた理論だったのではないだろうか。
そして、レウキッポス→デモクリトスの原子論がギリシャ古典哲学の最高の到達だとすれば、プラトンの哲学というのは何なのだろうか。それはソフィスト哲学の集大成でしかなかったのではないか。
(すみません。アルコールが入るとつい、だいそれた事を言ってしまいます)


それでウィキペディアで自然哲学の概要をつかんでおきたい。

まずはウィキペディアの「ソクラテス以前の哲学者」の項目

哲学者の多くは、自然と宇宙を自ら思索の対象とした。
彼らは擬人的な神話による説明を排除し、より一般化された非擬人的な説明を求めた。
自然哲学は、宗教から離れ哲学、さらには科学へ至る考え方の転換点となった。

自然哲学は「宇宙はなにから生じるのか」を思索し、次に個別の現象を説明しようとした。
現象については、その現象が生起する原因、現象が生じる機序、その現象を統御する原理が求められた。
その統制原理は「ロゴス」と呼ばれた。
自然現象への問いは、宇宙の究極的構成原理としての原子を仮定するに至った。そして原子の機械論的運動で世界を描像しようとした。

哲学者たちが提示した答えのほとんどは真実とは受け取られなかったが、彼らが答えを求めようとした質問、さらに問いを立て探求するという態度はそのまま受け継がれた。

次が「イオニア学派」の項目

イオニア学派は自然哲学の嚆矢として知られる。
彼らは知覚的な情報を元に、自然・万物の根源である「アルケー」を様々に考察した。

イオニア学派に分類されるのは、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、ヘラクレイトス、アナクサゴラス、アポロニアのディオゲネス、アルケラオス、ヒッポンなどである。

イオニア学派のうちの何人かは「ミレトス学派」と小区分される。

ついで、「ミレトス学派」の項目


紀元前6世紀  ミレトスで自然哲学が興る。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスに代表される。

万物の根源=アルケーを追究することを目的とする。

タレスは万物の根源は「水」だと考えたが、アナクシマンドロスは観察不可能で限定できないもの(アペイロン)と考えた。

さらにアナクシメネスは、万物の根源は、濃縮にも希薄にもなれる要素、すなわち「空気」だと定義した。



ウィキペディアの3つの項目を読んでもさっぱり姿は見てこないが、そういうものなのだろう。

ギリシャ哲学の根っこはソフィストたちの議論の中にあると思って勉強し始めたのだが、どうもそれ以前のミレトスの自然哲学こそが大もとで、議論の論点はすでにそこに出尽くしてるのではないかという気がして、作業が止まってしまった。

そこで、そちらの仕事はとりあえず脇において、ミレトス学派の勉強に取り掛かることにした。

実は、最近「脳はなぜ心を作ったのか」(筑摩書房/2004年)という前野隆司さんの本を読んで、えらく刺激になったのだが、感想があまりに莫大すぎて、どうもまとめようがなくて困っていたところだ。

とりあえずの結論は「哲学しなければいけない」ということだったが、まさにそれがミレトス学派の課題でもある。

そこで、まずこの付近から問題意識を整理していくのが良いかなと思いついた次第である。

「壮大な挫折」に終わるかも知れないが、まずは手を付けてみよう。

まずは背景事実の整理から。

イオニア人とミレトス地方

歴史的/地理的把握
ギリシャ人の南下

世界の歴史まっぷ」というサイトにわかりやすい図があったので転載させていただく。

この絵からわかることは、

1.ハンガリーあたりから北方系の人が南下してきて、ギリシャ半島からエーゲ海に進出し、さらにトルコ(小アジア)の西岸に植民したということだ。

2.南下の波は2回あって、最初が紀元前2千年頃、2度めが紀元前1200年ころだ。最初に南下した人々はギリシャ半島にとどまり、アテネやスパルタなどの都市国家を建設した。
あとから南下した人々は、3つのグループに分かれ、さらに小アジアへと進出した。
しかしこの図からは、彼らが半島を素通りしてエーゲ海へと赴いたのか、それとも例えば半分は半島に残り、残りの半分が進んだのかは分からない。また先住者との関係が友好的だったのか敵対的だったのかも分からない。

3.南下した人々は、おそらく言語的特徴により、3つの地域的グループに分かれた。
エーゲ海の北半分を占めるイオニア人、南半分を占めるドーリア人、またトロイア周辺にはアイオリス人の集団が居住した。
それ以外に、半島の主部には西北方言(アカイア語)をしゃべる雑多な群の人たちが居住していた。
これらのグループの入植順や優劣関係などはこの図からは判定できない。
しかし、良く出来た分かりやすい図である。
ここには掲げないが、もう少し詳しい地図もあって、それではアイオリス人がテーベを中心とするギリシャ半島の主部を支配し、イオニア人の世界にくさびを打ち込む形でトロイアにも進出しているように見える。
想像するに、南下の順はドーリア人、イオニア人、最後に最強のアイオリス人ということではないだろうか。

この点に関して、歴史書の記述はかなり様相を異にしているが、今はその点にはこだわらない。


イオニアとフェニキア人

イオニアはイオニア人が住むからイオニアという身もふたもない話だが、アテネのイオニア人が入植してできたポリス群である。そしてその最大のものがミレトスということになる。

それではイオニア人はなんの軋轢もなしにイオニア地方を手に入れることができたのだろうか?
この辺も、また分からないところである。

そこでまた「世界の歴史まっぷ」のお助けを乞う。
フェニキア人とイオニア

この図でわかることは、

1.第二期のギリシャ人の大移動が終わったあと、連続して地中海各地への進出/植民が始まったこと

2.進出を担ったのは南部、西部へのドーリア人、東部、黒海方面へのイオニア人であり、イタリア半島南部へはアカイア語グループが進出したことである。

3.フェニキア人はすでに制海権を奪われ、寸断されている。ギリシャの卓越した海軍力が伺える。

4.居住地の色分けと進出路の色分けが一致しないのは、解釈のしようがない。他の図を参照する必要がある。

5.この時期にアイオリス人の活動が見られないのは、紀元前1200年頃に起きたとされるトロイ戦争の影響があるのかも知れない。


イオニア人社会におけるミレトスの位置

前11世紀に創建された。最初はクレタ島からの移住者と先住のカーリア人により構成された。

紀元前1千年頃にアテネに征服され、その植民都市となったが、のちにミレトスそのものが80以上の植民地の拠点となった。

前8世紀半ば、イオニアでホメロスの詩編が成立したとされる。

ギリシア語のアルファベットは、前800年頃にフェニキア文字を借りてミレトスでつくられとされている。エジプトやバビロンの数学や自然科学も流入した。

前6世紀 タレスらミレトス学派を生み、文化の中心となる。

前6世紀に隣国リディア、次にペルシアに服従する。

前500年にペルシア帝国に反乱を起こし、前494年にラデー沖の海戦に敗れて陥落。街は徹底的に破壊された。

この後文化・哲学の中心はアテネに移っていく。


なぜミレトスは自然哲学を生んだのか?

ミレトスの三賢人の思想は自然哲学として一括されているが、人類史に引き寄せてみれば、それは「科学哲学」と呼ばれる方がふさわしいと思う。

事物の根源を突き詰めるということは、科学の精神そのものである。
彼らはまさに「科学して」いたのだ。

もう一つは科学が否応なしに持つ批判精神である。それは既存の常識に対する挑戦であるから危険も伴う。

ミレトスは紀元前1千年から500年にかけて世界の交易の中心であり、知識の集結点であり、人種と文明の交差点であり、自由と平等の街であった。

一言で言えば無国籍都市であった。だからコスモポリタンの発想が支配したのだ。
自然哲学の祖タレスはフェニキア人の出自である。

前700年からペルシャに滅ぼされるまでの200年余り、羊毛ばさみ、手碾き臼、ぶどう絞り機、起重機が発明された。

イオニアはすべてのものの発祥の地となった。ギリシャ文字、ホメロスの神話、市場経済、貨幣がそれである。しかしそこには官僚制や常備軍や雇い兵制度はなかった。

ミレトスはギリシャ文字を生み出し、ホメロスを生み出した。そして神話の否定者をも生み出したのである。

イオニア地域の形成の時代

紀元前1050年頃 (イオニア) ギリシャ本土からイオニアへの植民が始まる。

776年 オリンピア競技会が始まる。

750年 ギリシャ各地にゼウス信仰を共有する都市国家が成立。

750年 (イオニア)植民地イオニアからさらに、地中海・黒海沿岸への植民が盛んになる。市場経済を基礎とする飛び地型都市社会が次々に出現。

750年頃 ギリシャ語のアルファベットが成立。ギリシャ文字は紀元前800年代にセム語系のフィニキア文字から案出された。

前730年頃 ギリシャ語で書かれたホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』が成立。

前700年頃 詩人ヘシオドス、勤勉な労働を称える『仕事と日』と神々の系統に関する「神統記」を著す。ヘシオドスとホメロスはカルキスにおいて詩を競ったとされる。


自然哲学の開花の時代(前古典期BC657年~508年)

前660年頃 ギリシャ各地で立法者・僭主の時代が始まる。

前639年 (アテネ) ソロンがアテネで生まれる。

前624年 (ミレトス) タレースがイオニア地方のミレトスで生まれる。

ミレトスでタレスを始祖とする「自然哲学」が始まる。主な学者にアナクシマンドロスとアクシノメネス。
タレスは天文学に始まり、宇宙を構成する物質の根源(アルケー)を探求。物質の根源は水であると指摘。
アナクシマンドロスは「無差異」についての推考を進めた。アナクシメネスは空気が唯一の基礎的実体であるとする物質的一元論を展開した。

621年 (アテネ)ドラコンによる立法が始まる。貴族政治が崩れ始める。

600年頃 (アテネ)中小農民の債務奴隷化が進行。

前600年頃 (イオニア) シュロス島のペレキュデス、神学を折衷した宇宙生成論を考察。ゼウス、地球神、時の神(クロノス)の3神より派生した宇宙進化論を記した。神話学の思想とソクラテス以前の哲学との間の懸け橋となる。

紀元前594 (アテネ) メガラとの戦いに勝利したソロンが、アテネの執政官に選ばれる。「ソロンの立法」により民主制の基盤が定まる。制度設計はイオニアに範をとったと言われる。

その後ソロンは後継者ペイシストラトスに不満を持ち反抗。敗れてキプロスに追放される。

500年代 (アテネ)ペイシストラトス(もしくはその子のヒッパルコス)が、『イリアス』や『オデュッセイア』を文字に写し、アテネに紹介。今日の形にまとめられたのは紀元前2世紀のアレクサンドリアとされる。

前582年 ピタゴラスが生まれる。生後シチリアに移住。

前500年代前半 南イタリアのエレアにパルメニデス、ゼノン、メリッソスが結集。エレア学派を形成する。徹底的な形而上学的一元論を説く。

前561年 (イオニア)イオニアのミレトスなどの諸都市、東方のリディア王国に征服される。自由な商業活動と哲学の発展は保障される。

前560 (イオニア) クセノパネスが、イオニアのコロフォンでうまれる。ヘシオドスやホメロスを攻撃したことで知られる。

前560年 (アテネ) アテネでペイシストラトスの僭主政治が始まる。独裁制のもとで土地の再分配を実施。

前550年頃  (イオニア)ミレトスのヘカタイオスがうまれる。ホメーロスなどの信頼性は認めるものの、神話と歴史的事実とは区別して考えた。

前546年 (イオニア) ペルシャがリディアを併合。イオニアの諸都市もペルシャの支配を受ける。

前544年 (イオニア) エペソスでヘラクレイトスが生まれる。

前538年 (イオニア) イオニアのサモス島で、ポリュクラテスの僭主政治が始まる。

前500年代後半 イオニア出身の3人(クセノパネス、ピタゴラス、ヘラクレイトス)が各地を漂泊しつつ、自然哲学を広げる。
クセノパネスは南イタリアのコロボンに居を構え、存在するものの構成要素は4つであり、世界は数において無限である。神の本性は全体が知性であり思慮である。魂は気息(プネウマ)である。
ピタゴラスは南イタリアのシチリアに居を構え、自らの理論をバックボーンとする教団を設立。万物の根源は数であると主張。
ヘラクレイトスはイオニア各地を移動。
「万物は流転する」とし、「万物の根源は火のように絶えず変転し、エネルギーを生み出す」と説く。

前507 (アテネ) クレイステネスの改革。僭主ヒッピアスを追放し貴族階級を解体。全市を10区(デーモス)へと再編成する。さらにオストラシズム(陶片追放)と呼ばれるリコール制度を創設することで独裁の復活を阻止する。民主政のもとで、人間と社会、国家(ポリス)のあり方に哲学的関心が向かう。


イオニア文明の衰退とアテネへの移動(古典期BC490年~404年)

紀元前499年 (イオニア) イオニア諸都市で、ペルシャを後楯とする僭主への反乱が勃発。50年に渡るペルシア戦争が始まる。

前497年 (シチリア)ピタゴラス、異端とされシチリアを追放され死亡。85歳まで生きた。

前494年 (イオニア) イオニアの中心都市ミレトスがペルシャに占領される。多くの哲学者がアテネへと逃れる。

前490年 ペルシャがエーゲ海に進出、ギリシャ本土への遠征を開始。50年間、4回にわたりギリシア遠征を繰り返す。

前490年 マラトンの戦い。第三階級である農民階級が、鎧や盾などを自弁。重装歩兵団の密集戦術(ファランクス)によってペルシアの騎兵隊を撃破する。

前400年代前半 

前485年 (アテネ) プロタゴラスがトラキアで生まれる。アテネで授業料を取って弁論術を教授。最初の成功したソフィストとなる。

他にゴルギアス、アルキダマス、プロディコス、ヒッピアス、エウエノスも活躍。
「人間は万物の尺度である」とし、絶対的な真理は存在せず、価値は人間=個人によって異なるという相対主義を主張。

前484年 (イオニア) 小アジア南岸のイオニア植民市でヘロドトスが生まれる。

前481年 アテネを盟主とするギリシャ31カ国連合が成立。

前480年 ペルシャが二度目の進攻。テルモピュライの戦いでレオニダス王ら300人のスパルタ兵が壊滅される。

前400年代前半 (エレア)南イタリアのエレアに、パルメニデス、ゼノン、メリッソス、メトロドロスらにより哲学グループが形成される。
パルメニデスは存在の不動性を説く。ゼノンは、アキレスのパラドクスを提唱。メトロドロスは原子論と存在論との調和を試みた。

前480年 アテネがサラミスの海戦で勝利。無産階級が三段櫂船(ガレー船)の漕ぎ手として勝利に貢献する。

前479年 プラタイアの戦い。ヘラス同盟軍がペルシャ軍を撃退。このあと大規模な戦闘はなし。

前478年 (アテネ) アテネを盟主とするデロス同盟がペルシャ戦を継続。盟主アテネはギリシャ諸国家内において最盛期を迎える。アテナイの全市民(男子)が民主制のもとで平等の参政権を持ち、雄弁が力の源となる。

前400年代半ば (エレア)ミレトスのレウキッポスがエレアに移り、パルメニデスやゼノンに学び、多元論者のグループを形成。
レウキッポスは、アトム(実)が空におちこんで渦を生じ、他のアトムと絡まり合うことによって生じると論じた。この考えはデモクリトスに受け継がれる。
トラキア(アプデラ地方)のデモクリトスは「万物の根源は原子であり、一定の法則によって動いている」と総括。
クラゾメナイのアナクサゴラス、アテネで活躍。宇宙論の第一原因としての知性を説く。のち不敬罪で有罪となる。この他ランプサコスのメトロドロスも原子論を展開

前400年代前半 (アテネ)アテネはギリシア各地から人びとが集まる。イオニアのアナクサゴラスがアテネに移住。自然哲学を持ち込む。イオニアやシチリアなどからおおくの雄弁家が集まり、弁論の作法を教えるようになる。

前469年 (アテネ)ソクラテスが生まれる。

前460年 デモクリトスが生まれる。

前400年代半ば アクラガスのエンペドクレス、ピュタゴラス派の宗教と自然学説を結合。

前400年代半ば サモスのメリッソス、パルメニデスの一元論を改訂

前400年代半ば (アテネ)アルケラス、アナクサゴラスの宇宙論を改訂。アルケラスはソクラテスの教師として知られる。

前449年 ペルシャ戦争が終結。ペルシャ、ギリシャ支配を断念。カリアスの和約を以ってペルシャ戦争が終わる。

前446年 スパルタとアテネ、「30年の和平条約」を結ぶ。アテネのペリクレスは戦費を私物化し、パルテノン神殿の建設を開始。

前444年 (アテネ)アンティステネスが生まれる。ソクラテスの高弟となる。袖なしの外套のみを纏い質素な生活スタイルで有名。ソクラテスは「外套の隙間から君の自惚れが見える」と非難した。

前440年 ヘロドトスが『歴史』を著す。生涯の内にアテネ、ウクライナ南部、フェニキア、エジプト、バビロニアなどを旅した。

前400年代後半 クロトンのピロラオス、ピュタゴラス派の一員として宇宙論を展開。

前431年 (アテネ)ペロポネソス戦争が始まる。30年にわたり断続的に続く。アテネは衰亡の道に入る。

430年 (アテネ)疫病が蔓延し、両軍兵力の三分の一が死亡。アテネの指導者ペリクルスも病死する。

評議会にデマゴーグ(煽動的民衆指導者)が出現し、国策が歪むようになる。ソクラテスは「衰退の要因は相対主義を主張するソフィストにある」と批判。

前430年 (アテネ)ソクラテス、ソフィストを相対主義の詭弁家とし、徹底したディアレクティケ(ディベート)によって真理を追求。

プロタゴラス、『神々について』を著す。「神々について私は、あるとも、ないとも、姿形がどのようであるかも、知ることができない。(なぜなら)人間の生が短く、知るには障害が多いから」としアテネから追放される。

ソクラテスの影響を受けたアルキビアデスがアテネの権力を握る。非民主的なやり方で市民の反感を買う。

前423年 (アテネ) アリストファネスは「ソクラテスが最もあくどいソフィストだ」とからかっている。

前421年 スパルタが戦争に勝利。ニキアスの和約を結ぶ。

前415年 第二次アテネ・スパルタ紛争。一旦収まったペロポネソス戦争が再燃。戦いはペルシャの支援をえたスパルタの優位で推移する。この間アテネは同盟都市の多くを失う。

前412年 ディオゲネスがアポロニアで生まれる。アンティステネスの弟子で、ソクラテスの孫弟子に当たる。イデアを否定し折衷的な物質的一元論を展開。「私は馬を見るが、“馬なるもの”を見ることは出来ない」と批判する。

前411年 (アテネ)アテネで寡頭派が革命を起こす。「400人支配体制」が成立。

前404年 (アテネ)アテネがスパルタに降伏。ペロポネソス戦争が終結。アテナイにはスパルタの意を汲む「30人僭主政治」が樹立される。

前403年 (シチリア)ディオニュシオス王が全島支配を実現。

前400年代末  

前399年 (アテネ)アテネで内戦の末独裁政権が崩壊し、「民主制」が復活する。

前399年 (アテネ)ソクラテス(70歳)は民衆裁判所で裁判にかけられ殺される。ソクラテスは非民主制であるスパルタを礼賛したという。

「悪法も法である」と言ったとされるが、悪法は、厳密に言えば、法ではない。

前395年 スパルタへの反感が強まる。コリントス戦争が開始。

前387年 (アテネ)プラトン、アカデメイアを創設。「プラトンの名において」イオニア自然哲学との決別を宣言。

前387年 (アテネ)コリントス戦争がアテネ=テーベ連合の勝利に終わる。小アジアやキプロスのポリスはペルシアの支配に入る。その後もギリシャのポリスは内紛を繰り返し衰微していく。

前388年 プラトンがシチリアに渡る。

前356年 マケドニアでアレクサンドロスが生まれる。

前338年 カイロネイアの戦い。マケドニア軍がアテネ=テーベ連合を撃ち破る。

2021年10月31日 増補しています。下記をご参照ください。
http://shosuzki.blog.jp/archives/87068753.html

プラトンの思想を眺めていてふと感じたのだが、ソフィストというのはなにか詭弁を弄するやくざ者のように扱われているが、それは違うのではないかということだ。

むしろプラトンは、ソクラテスもふくめたソフィストたちの理論をある意味で集大成したのではないかと考えた。

というのはイデア論の最後に付け加えたパルメニデスの議論が、非常に精緻なものであることに気づいたからだ。

調べてみるとパルメニデスはソクラテスに先行する哲学者であり、その議論はプラトンのイデア論の枠組みには収まりきれない広がりがある。

こういう人々がたくさんいて、それはソクラテスやプラトンにとって心安らぐような仲間ではなかったかも知れないが、そういう星雲状況の中から、それこそ「対話」を通じて、プラトンの著作=イデア論が析出してきたのではないだろうか。

それを思いついたのは、以前勉強した「六師外道」のことを思い出したからだ。


「六師外道」は、釈迦とおよそ同時代にマガダ地方あたりで活躍した6人の思想家たちのことだ。彼らは既存のバラモン教に対する批判者として立ち現れた。

しかし彼らの思想は釈迦によって批判された。

「ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとし、…業を否定した」と。

つまり「六師外道」は素朴なアニミズムに対する否定として登場したが、釈迦は「六師外道」を素朴な唯物論として否定し、あらためて原始宗教を「観念論」として止揚したことになるのかも知れない。

このような「六師外道」と釈迦との関係をソフィストとソクラテス・プラトンとの関係に比定する作業は、なかなか面白そうな課題になるのではないだろうか。

また同じことは春秋戦国の時代についても言えるかも知れない。小国分立状況がこのような思想の百花繚乱をもたらしたのだろうか?

といっても自分でやるほどのガッツも時間もない。とりあえず、提起だけしておく。

プラトン年譜を、イデア論形成過程を中心にざっくりと

アテナイの人、貴族出身 紀元前427年 - 紀元前347年

どんな人か

ギリシャの孔子と目される。基本は教育者、哲学者。しかし政治への色気を捨てきれなかった。

哲学的には観念論の創設者であり、形而上学・主体論の提示者である。また方法論としての弁証法の創始者である。

プラトンの弁証法

著作の大半は対話篇という形式で、ソクラテスを主要な語り手とする。

一つの連関と他の連関との類比関係を「対話」(問答)の中で明らかにする弁証法という手法を編み出した。

プラトンの弁証法は認識の手段としてのみ位置づけられている。
内在的弁証法、すなわち事物の現象過程や諸概念の運動としては考えられていない。

ただし青年期にヘラクレイトスの自然哲学を学び、その「万物流転」思想に影響を受けているようだ。

彼の書物の性格

彼は先行したソクラテスらの論客(ソフィスト)の考察や見解を集大成した。まさに著作そのものが諸弁証の集大成「文殊の知恵」であろう。

ソクラテスの死がもたらしたもの

紀元前404年、アテネはペロポネソス戦争に敗れる。親スパルタ派30人による独裁政権が樹立される。  

紀元前399年、プラトンが28歳のとき、ソクラテスが独裁政権により死刑宣告。毒杯を仰いで死した。

対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索した。この頃の著作が『ソクラテスの弁明』『クリトン』などである。

したがってプラトンの内面では、絶えず変遷するモノと、一貫して変化しない「本質」との対話が続いたと思われる。

中期 ピタゴラス幾何学の受け入れとイデア論

紀元前388年 39歳で第一次シケリア旅行。2年にわたり滞在し、ピュタゴラス派およびエレア派と交流する。

この頃の著作が『饗宴』などである。彼はピュタゴラスを全面的に受け入れる。しかしそれは悟性的な知恵であり彼の考える弁証法的な知恵と正面衝突せざるを得ない。

そこで彼は感覚を超えた実存としての「イデア」概念を構築する。「物事」に対する「本質」、感性的知覚に対する知性的認識の優位を主張。これでピタゴラスとの折り合いを図る。

感覚的事象からの脱却は、相対主義から抜け出せないソフィストとの決別も意味する。

真理というのはピタゴラス的なものであり、そこに属人性はない。「それはあなたの考えでしょう」という逃げ口上とは決別できるのだ。

一方において真理はピタゴラス的な悟性的な存在ではなく、そこには理由があり、始まりがある。これがイデア概念の中核となっていく。

このあと、プラトンは「真・善・美」といった迷路に踏み込んでいく。

観念論の完成

さらに思惟的世界を感性的世界から分離してしまう。これにより存在論が認識論に吸収・解消される。

なおこの「国家」という書物は、アリストクラシーを説いていてきわめて評判が悪い。あたかもボルシェヴィズムの教科書のように扱われる。

紀元前387年、40歳のプラトンは、アテネに「アカデメイア」を設立。天文学、生物学、数学、政治学、哲学などを教えた。

50歳頃に、イデア論の集大成となる『国家』10巻が完成した。

紀元前367年には、17歳のアリストテレスが入門した。このときすでにプラトンは60歳だ。アリストテレスはプラトンが亡くなるまでの20年間、ここで学業生活を送った。

観念論と主体論の接合

後期にはイデアそのものではなく、「イデアに対する志向」を本質とすることにより、事物より事物への意識を対象とする主体論に傾いた。

これはソクラテスがピタゴラスの自然学を、「自然がそうである由縁が説明されていない」と批判したことへの対応であろう。

その一方で、シケリアの国政にもふたたび関わるようになった。

晩期には、宇宙が神によってイデアを鋳型として作られたという、客観的観念論に収斂していく。

とかく功成り名遂げ、齢を重ねると、体系化志向が強まるらしい。

これは70歳代の『ティマイオス』、『法律』(12巻)に展開されている。

当然、アリストテレスはこの傾向に激しく反発することになる。


ヘーゲルとの関係で、プラトンの「イデア論」との類似性が気になり調べた。

究極の真理としてのイデア

プラトンにおける究極の真理は「イデア」と呼ばれる。

普通英語でいうと、「理想」という意味になるが、「イデア」論と言われるのは「理想」とはちょっと違い、さらに抽象的なものである。わかりやすく言うと「本質論」であり「真実論」である。ヘーゲル風に言えば「絶対知」である。

プラトンは、師ソクラテスがソフィストの相対主義を克服し絶対的な真理の探究を押し進めたことを高く評価した。絶対的な真理を求める哲学は、思弁哲学と呼ばれる。それは「普遍的な真実の世界」を、感性ではなく思弁によって認識しようとする哲学である。

イデアをもとめたきっかけ

師ソクラテスを理不尽な形で失ったプラトンは、民主政治という衆愚政治に代わる「理想の国家」をもとめた。まさにイデオロギー国家だ。

それを思索する上で「理想とはなにか」を解き明かす作業が始まる。最初の手がかりは、「イデアとは、人間には知りえない本当の知の実体である」というソクラテスの教えであった。

独自のイデア論の構築

しかしそこに至るには「因果関係」や「構造論」、「実体論」などいくつかの段階がある。
人間の認識という行為も、知覚から始まり認知、把握、了解、理論化などの段階を踏むことになる。

また裸の「本質」と価値判断や力動をもふくんだ「真実」の違いも論じなければならない。つまり範疇論、認識論、価値論を含んだ論証を行うための学問的方法論が必要となる。

本質論と不可分の認識論: 弁証法

プラトンはその論証方法として、師の対話法を継承、発展させて「弁証法」という論理を組み立てた。

逆証明の過程を導入することで、論理のステージを引き上げ、観察と三段論法にだけ依拠する自然哲学の経験論を批判的に乗り越えた。

このようなプラトンの考えを、弟子のアリストテレスはイデア論として定義した。

存在と非在の弁証法 究極のイデア論

イデア論とは別の地平で、存在と非在の弁証法が語られていて、このくだり新プラトン哲学の典拠になっているようだ。

『パルメニデス』という本に書いてあるらしい。

「存在、非存在、現われること、静、動、等々の全く抽象的な諸規定をプラトンは純粋なイデアとみなした
とあるが、これはソフィスト仲間の論争に対する介入であろう。ヒントにはなるかも知れないが、しっかりした論建てとは思えない。

『ピレボス』という本には以下のような言及もあるらしい。かなり意訳して紹介すると…

真理は対立した物の同一性である。それは現象・悟性・概念・原因(本質)である。
そこにおいて真理は一体性の表現であり、主体性の表現であり、支配力の表現であり、構造の表現である。
 

萩原伸次郎 「恐慌と信用制度の崩壊」より

重金主義への回帰を阻んだもの

マルクスは金融恐慌を金融危機の本質とみなし、「信用主義から重金主義への転化」と呼んだ。

しかしこれは「3つの要因」により乗り越え可能となった。

1.金本位制からの脱却

第一次大戦後の不況において、英国は長期の不況に陥ったが、金本位制の停止→銀行券の大量発行により負の連鎖を断ち切ることに成功した。

2.大規模財政出動と金融緩和

需要の創出により、実体経済のテコ入れを行い、経済成長とインフレにより財政赤字を解消した。

3.不均等発展と新興国からの富の還流

海外投資が新興国の発展を促し、先進国は金融支配を強めた。その一部が還流し先進国を潤した。
金融恐慌時は資金が一気に流出し、新興国は資金不足に苦しんだ。

リーマンショックと1929年大恐慌の違い

1.アメリカと世界は、銀行を救済するのに全力を上げた。無制限に信用を供与し資金を注ぎ込んだ。

2.その結果、世界大恐慌は起きなかった。

3.並行して行われるべき金融改革は引き伸ばされ縮小され、キャンセルされた。

4.供与された資金は死蔵され、実体経済には還流されなかった。

その結果、経済回復は遅延し、失業は高止まりし、新興国経済・金融・財政は破綻した。貧富の差は一層強まった。ドルの支配力は絶対となった。

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