鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

オウム幹部の集団処刑に関連して、竹内精一さんの談話が赤旗に掲載されている。社会面のトップではあるが、内容的にはその扱いでよいのかという感もある。一面の何処かに囲みで載せるべきではなかったろうか。
もうずいぶん前の事件なので、ちょっと解説を入れておく。
竹内さんは共産党員で、オウムの本部があった富士山麓の上九一色村の村会議員を務めていた。現地で先頭に立って反オウムの運動に取り組んだ。テレビにもしばしば登場したが,共産党議員の肩書きは慎重に避けられた。テレビではずいぶん多くの解説者が登場したが、多くが警察の垂れ流し情報の受け売りで、竹内さんほど適切な評価を下す人はいなかった。

それで、竹内さんの言いたいことは3つある。
1.集団処刑は「事実」隠しではないか
この事件で解き明かされるべき核心的事実は「多くの若者が入信し平気で人を殺す集団になっていったか」である。であれば、処刑は事実隠しになるのではないか。
2.オームの狂気を増長させた一連の責任は問われないのか
処刑後の法相会見では、裁かれるべきものが裁いているという後ろめたさが感じられない。
事件の多くは避けられたはずだ。裁く者の過失は相殺されないのか。処刑を命じる権原は毀損されてはいないだろうか。
3.松本死刑囚以外の人の死刑は正しいのだろうか
「死刑反対」の立場ではなく、やれと命令されて殺った人々に、極刑を与えることが正義に値するのか。戦争中の兵隊と同じで、命令されて敵を殺すことが、悪いことには違いないが、それは果たして極悪者なのだろうか
ここで竹内さんは深刻な告白を行う。
私は戦争に行った最後の世代です。中国で、人としてやらなくてもいいことをやっていました。私は戦争の被害者だが、中国の人民にとっては加害者だ。
あなた達もオウムの被害者かもしれないが、信者としては加害者なんだと伝えてきました
ここで読者は、なるほど竹内さんの生き様にはそういうバックボーンが通っていたんだ、とわかる。
(なおこれは具体的な誰彼の話ではなく、思想の話だと思う)


いま、なにげに教育テレビを見ている。NHKの制作なのか外国から買ったコンテンツなのかよくわからないのだが、AIが進むとホワイトカラー的な仕事がなくなって中間層が貧困化して、社会矛盾が激化するのではないかという番組だ。似たような主張は何度も目にしている。
この主張にはウラがあって、結局は「現状甘受論」と「イノベーションで生き延びろ」とさらなる競争を煽るところに持っていくのだ。
論理の持って行き方は19世紀の産業革命のときと同じだ。基本はジャングルの掟を持ち込む「社会ダーウィン主義」と、これに反対するラダイト(打壊し)という流れの構成になる。AIのところにグローバリゼーションを入れても、金融ビッグバンを入れても後の論理は同じだ。
マルクスはこのような流れに対する批判者として歴史に登場するのだが、その最大の優点は超階級的・超歴史的な視点から生産力論を展開したところにある。
ただしこの生産力理論には2つの異なる基盤がある。一つは「ドイツ・イデオロギー」的な「まず食うことから始めなければならない」という素朴な生産力理論だ。
もう一つは経済学批判序文で展開された徹底的にヘーゲル的な視点、すなわち「消費は欲望の生産である。豊かな欲望こそ社会の生産力だ」に見られる欲望→生産→消費の転換・発展関係だ。
マルクスの理論は常にこの2つの関係を行ったり来たりしながら発展していく。
そしてネオリベに根本的に立ち向かうためには、後者の視点の押し出しが決定的に必要なのだ。
ここはおそらくスティグリッツら有効需要論者とは意見を異にするところがあると思う。大事なのは「需要」ではなく人間的欲望なのであり、欲望の発展こそが人類発展の本質なのだということである。

青空文庫に下記名の文章があった。


まことにありがたい文章である。

文章の由来は少々面倒だが、こういうことだ。

昭和のはじめころ、岩波書店で「カント著作集」というセットを発売した。
その第11巻に『自然哲学原理』が収載された。その翻訳を担当したのが戸坂潤であった。
翻訳が完了したのが1928年(昭和3年)のことであった。戸坂はこの第11巻のために解説を書いた。この解説が脱稿したのが7月のことであった。
文頭あいさつのところに、「読者は「解説」に依頼するべきではないであろう」と書いているが、大きなお世話である。
この『自然哲学原理』をふくむカント著作集・第11巻は翌1929年の7月に発売になっている。
そしてこの解説は、40年後にカント著作集から抜き出され、1966年に戸坂潤全集の第1巻の一部として勁草書房から出版された。
この戸坂潤全集から、青空文庫のボランティアの方が拾い出し、インターネットにアップしてくれたという経過である。
戸坂潤全集の第1巻というのはたしか持っているはずだと思って探してみたらあった。ただしこの文章は巻末付録みたいな扱いで載っているので、気が付かなかった。と偉そうに書いたが、そもそもこの本、ほとんど読んだ形跡がない。多分、古本屋の軒先の均一本で出ていたのを「あぁいたわしや」と買ったのではないかと思う。

カントの先駆者たち 
<ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)>
1646年7月 ザクセンの首都ライプツィヒに生まれる。父はライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツ。
1661年 ニコライ学院を卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、数学や哲学を学ぶ。
1663年6月 哲学の学士論文をライプツィヒ大学に提出。
1664年 哲学の修士論文をライプツィヒ大学に提出。
1666年 ライプニッツ(20歳)、ニュルンベルクのアルトドルフ大学に法学の博士論文を提出。
1673年 庇護者のマインツ選帝侯の死。ライプニッツはパリで求職活動を行う。この間に多くのフランス人学者と交流。
1675年 微積分法を発見する。
1676年 バールーフ・デ・スピノザを訪問。『エチカ』の草稿を提示される。
1676年 30歳。ハノーファー選帝侯の宮廷に仕える。
1700年 54歳。ベルリンに招かれ、ベルリン科学アカデミーの設立に尽力。初代総裁に就任する。ハノーファーからプロイセンに嫁した王妃ゾフィーの招きによるもの。
1704年 ロック思想を批判的に検討する「人間知性新論」を執筆。脱稿直後にロックが亡くなったため発刊中止、出版は死後となる。
1710年 アムステルダムの出版社から『弁神論』を匿名で発表
1714年 『モナドロジー』の草稿を書きあげる。発表は没後となる。
モナド(単子)は単純実体である。表象と欲求とを有する。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはない。神が設けた「予定調和」によって、他のモナドと調和しながら自己を展開する。
1714年 選帝侯妃ゾフィーが死去。息子が即位し同時にイギリス国王を兼任。ライプニッツは家史編纂の閑職に追いやられる。
1716年 70歳。ハノーファーにて死去。その著作の大半は未完で、現在も全集は完結していない。

<クリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff)>
1679年1月 パン屋の息子としてブレスラウに生まれる。
1700年 イェーナ大学で哲学と数学を修める。
1702年 ライプツィヒ大学に移る。
1703年 論文『数学的方法で書かれた一般実践哲学について』を発表。教授資格を得る。この論文をライプニッツに送り高い評価を受ける。
1706年11月(27歳)ライプニッツのの推薦で、ハレ大学の数学・自然学教授となる。
ハレ大学はブランデンブルク選帝侯により創設され、「敬虔主義の牙城」であった。敬虔主義はプロテスタント内の原理派。
1709年 哲学科の教授も兼任。論理学、形而上学、倫理学を教える。 一部の学生が神学や聖書について定義や証明の改善を求めるようになった。このためヴォルフは「神学嫌悪」を引き起こしてると非難される。
1711年 ライプニッツの推薦によってベルリン・アカデミーの会員となる。
1712年 ヴォルフ、最初の体系的著作「ドイツ語による論理学」を発表。
1715年 プロイセン国王から宮廷顧問官(Hofrat)の称号を授与される。
1719年 第2作目の体系書「ドイツ語による形而上学」が刊行される。
ヴォルフの代表作と言われる。第二章は存在論(事物論)、第三章は経験的心理学、第四章は宇宙論(世界論)、第五章は合理的心理学、第六章は自然神学を扱う。 存在論は事物を一般的に考察し、他は特定の対象を弁証する。
1721年 ハレ大学の副学長を退任。記念講演で「中国人の実践哲学について」を語り、孔子を称賛する。
1723年11月(44歳) ヴォルフ、無神論の罪でプロイセンを追放される。プロイセンではヴォルフの哲学を重罰をもって禁止する。
1723年 ヴォルフ、ヘッセン=カッセル方伯の招請を受け、マールブルク大学の哲学科主任教授となる。
1733年6月 パリの王立学術協会の外国人会員に選ばれる。この後、プロシアでのヴォルフの研究はなし崩しに容認される。
1735年 ヴォルフの書籍がハレで刊行される。
1740 年、ヴォルフを追放したフリードリッヒ・ヴィルヘルム一世が死亡。フリードリッヒ二世(大王)が即位。
1740年(61歳) ハレ大学に返り咲く。5年後には学長となる。
1754年4月 死去。

<バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten>
1714年7月 ベルリンで7人兄弟の5男として生誕。父は軍営教会の牧師。
1727年(13歳) 両親が早世し、里子としてハレに移り住む。 12 歳年上の長男ジークムント(のちにハレ大学教授)が指導した。 
1730年(16歳) 飛び級でハレ大学に進む。
このときすでにヴォルフ追放後7年を経過している。彼の教師となったのはヴォルフを追放したランゲであった。
1735年(21歳) 哲学でマギスターの学位を取得。
1735年 論文「詩に関する若干の事柄についての哲学的省察」を発表。教授資格を得る。
この論文で「美学」(aesthetica)の概念を提唱した。 可知的なものは論理学の対象であり、可感的なものは感性の学としての美学の対象である。
1737年 ハレ大学の員外教授となる。
1739年(24 歳) バウムガルテン、『形而上学』を公刊する。
1740年 ハレを去り、フランクフルト・アン・デル・オーデル大学教授。ヴォルフとはすれ違いとなる。
1750年 「美学」(aesthetica)を発表。(未完に終わっている)
1757年 『形而上学』を発表。「エステティカ」の訳語に「美しいものの学」を充てる。

カントとヘーゲルを繋ぐ橋がだいぶ見えてきた。
とくにシェリングの果たした自然哲学での理論的貢献がヒトカタならぬものであったことが実感された。
ただ、その多くがひらめきによるものであり、理論的な詰めが甘かったから、手柄をヘーゲルに横取りされてしまった感がある。
それでも、これまでヘーゲルの弁証法哲学の成果と思い込んでいたことの多くが、実はシェリングの直感に基づいていたということが分かった。
翻って、カントに遡行して行くと、カントが必死になって解き明かそうとしたことの核心が見えてくる。
それは「物自体」概念なのではないだろうか。
以下は作業仮説であって、学習する中でまったく違ったものになるかも知れないが、「予想屋」の工場と思っていてください。
1.カントはライプニッツを批判し、デカルトとヒュームを取り入れて理論を構築したと物の本には書いてある。
これは多分ウソだろう。
理論構築の仕方はどう見てもライプニッツ・ヴォルフのそれだ。じゃがいもと酢キャベツで出来上がっている。
2.モナドを起点に構築されたライプニッツ哲学は、不可知論と主観論によって危機にさらされた。認識論・現象論のダイナミックな過程を念頭に置かなければ体系そのものが崩壊する。
3.そこで一方では「物自体」概念を作って、外界を不可知のものとして遮断し、一方では「理性」概念を作って主観を伴う知性を主体とすることで、物自体への接近を可能にするという道を作った。
というのがあらあらの流れではないかと想像している。

3. シェリング自然哲学からみた人間と自然との関係
「力動的過程あるいは自然学の諸カテゴリーの普遍的演繹」(1800年)より

①可視化の過程
自我はその能動性を、産物を通じて可視的にする。可視化するというのは、時間軸を取り去って3次元の静的世界に構造化することである。
これに対し自然は、その能動性を、産物を通じて可視的にしている。だから自我はそれを構造的に認識することが可能となるのである。
認識の一歩としての視認は、可視的対象を挟んだ自然と主体の分離→結合過程である。
シェリングはその後で「自然の限界において観念論が出現する」と結論する。しかしそれは可視化できない自然が自我の外側に広がっていることを表現しているに過ぎない。それはむしろ実在論であって、それが観念においてしか捉えられないということである。
確率的存在の世界は非在ではない。そこでは物質はエネルギーとして(確率論的に)存在している。
だから、シェリングの立場は、骨の髄まで紛れもなく実在論だ。
②自然過程の頂点における人間の出現
シェリングにおいては、自然過程がその頂点において人間を生み出したのである。
“主体としての自然”は、自己を見るという潜勢的志向を実現するために、自分の有機的部分を人間理性として分離したのである。
ところが超越論的観念論(フィヒテ)は自己意識において成立する“自我”を絶対化する。その場合には“自我”の存立の根拠、すなわち自らと自然との連関が忘却されてしまう。
人間は意識的に「自然から身をもぎ離」そうとする。しかしそれは根底的には「自然自身の志向」なのである。
そこを押さえずに、人間と世界との現実的連関を分断するような観念論は、結局のところ主観的なものに転落する。その絶対性も見せかけのもの、「仮象」となる。
③フィヒテの反発
フィヒテは1801年5月にでシェリング宛に手紙を書いた。この中で「感性の世界すなわち自然は、意識というこの小さな領域の内に存在する」ものでしかないと主張した。
その後フィヒテは極端な汎生命論まで行き着く(1806 年の通俗講義『学者の本質』第二講義)
フィヒテの結論は「絶対的なものは生命であり、生命は絶対的なものである」と語られる。そこでは自然は「死んで自己のうちに閉じこめられ硬直したもの」としてのみ登場する。
自然は、人間的生命を制限し脅かし束縛するものであり、人間的生命によって「廃棄されるべきもの」である。
これに対しシェリングはフィヒテを切り捨てる。
理性的生命による自然の賦活とは、実際は自然の殺害にほかならない。
そこからは「全面的な精神の死」が帰結せざるをえない。
④自然哲学の営み
この節には名文句が並ぶ。“てにをは”をいじるだけでそのまま転載する。
自然哲学は、自然全体がその潜勢的指向を実現して意識にまで高まってくる際の諸段階を跡づける。それは諸段階に残された“記念碑”をたどる作業である。
理性はいっさいの自己創造者としてみずからを誇るが、自分の後には、みずからの存立根拠としての有機体を引きずっている。
人間は自然存在者であるからこそ、主体としての自然そのものから主体としての力を付与され、主体でありうる。主体として、自然にかかわり、自然との相互作用の中で生き、活動できる。


ちょっと感想
えらい難しい内容だが、言葉の使い方にある程度慣れればきわめて説得力のある議論だ。
一番共感するのは、現代物理学や生物学の到達水準によく照合していることだ。

これまでカントがフィヒテからヘーゲルへ発展したと言うことで説明されてきた。
とくにマルクス主義哲学の分野ではそれが主流だった。
ところが勉強してみると、なかなか状況はカンタンではない。それどころか私にはカント→シェリング→ヘーゲルと書きたくなる内容だ。
もう一つは、観念論対唯物論という図式がずっと強調されてきたが、果たしてそうなのだろうかということだ。
むしろ実在論対経験論というか主観論の対抗という側面が主要なのではないかと思う。

シェリングにおける3つの発展
非常に雑駁な感想だが、シェリングには3つの哲学上の発展があったと思う。
それは、自然を自己の根源に据える実在的唯物論の視点、自然と自己を発展の過程のうちにとらえる弁証法の視点、カントの「物自体」の生き生きとした復権と自己との一体化である。
カントが不十分ながらも「物自体」を定式化することによって、宗教と科学精神を分けた。理神論的な曖昧さを残そつつも実在論に向かって大きく踏み出した。
それをフィヒテが、実践概念を持ち込むことによって、ふたたび主観論に引き戻した。
ただしフィヒテの主体論はカントの静的二元論に動きを持ち込み、発展の概念をもたらした。
そしてシェリングがカント的世界にコペルニクス的転回をもたらした。天体が動くのではなく私と私を乗せた大地こそが回転しているのである。
それは、ある意味でカントの「物自体」の復権でもあった。しかも生き生きとした、みずから発展するものとしての自然の復権でもあった。

イマヌエル・カント 年譜
森本誠一さんのサイトその他を参考にさせていただきました。より詳しく知りたい方はそちらにお進みください。

1724年4月 カント、ケーニヒスベルクに生まれる。馬具職人の四男(9人兄弟)であった。
1732年(8歳) ラテン語学校のフリードリヒ学院に進む。この学校は当時プロシアで優勢であったプロテスタント敬虔主義の教育方針をとっていた
1740年(16歳) ケーニヒスベルク大学に入学。当初、神学をこころざす。のちにライプニッツやニュートンの自然学を研究。
1746年(22歳) 父の死去にともない大学を去る。正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったとされる。その後は家庭教師をして生計をたてる。

前「批判」期
1749年(25歳) 卒業論文『活力の真の測定に関する考察』が出版される。『引力斥力論』などニュートン力学や天文学を受容。
1755年(31歳) 最初の論文「天界の一般的自然史と理論」を発表。
銀河系は多くの恒星が重力により集まった円盤状の天体であると推論。さらに太陽系は星雲から生成されたと論証した(カント‐ラプラスの星雲説)。
1755年 ケーニヒスベルク大学哲学部の私講師として採用される。論理学、数学、物理学、形而上学を講義。私講師就職論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』が出版される。
1756年(32歳) 『物理的単子論』をあらわす。公開討議の第1回目の素材となる。これにより教授資格を獲得。(就任したわけではない)
1758年(34歳) ケーニヒスベルクがロシア軍によって占領される(62年まで)。
1762年(38歳) 『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠』を出版。初めて学界の注目をひくが、ウィーンでは禁書扱いになる。
1762年 ルソーの『エミール』が出版される。カントはこの本から強い感銘を受けた。
1764年(40歳) ベルリン・アカデミーの懸賞論文に応募。『自然神学と道徳の諸原則の判明性』が次席に入る。
1764年 『美と崇高の感情に関する考察』を出版。大学側からの詩学教授職への就任要請を辞退する。
1766年(42歳) 『視霊者の夢(形而上学の夢によって解明された)』を出版。ライプニッツの形而上学を否定的に総括。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎない。この世界と別の世界を同時に往することはできない。それは理性の必然的な仮説である。」

「批判」期
1770年(46歳) ケーニヒスベルク大学哲学部論理学・形而上学の正教授に就任。前年よりエアランゲン大学、イェナ大学の招聘を受けたがいづれも辞退。
1770年 就任論文として『可感(感性)界と可想(知性)界の形式と原理』を発表。ルソーの肯定的な人間観に影響を受け、ふたつの領域での人間理性の働きを分析した。この論文の増補改訂の計画が、おその後の『純粋理性批判』の構想に発展した。
1772年(48歳) ポーランド分割にともない、ケーニヒスベルクがプロシアに返還される。その後7千人の軍を含め人口は6万人となり、ドイツ屈指の都市となる。
1776年(52歳) カント、哲学部の学部長に就任。教育学の講義を開講する。
1781年(57歳) 『純粋理性批判』第一版を出版。当初はバークリーの観念論と同一視された。
認識(経験)を感性と悟性(理解)に分け、認識できないものを理念(物自体)とした。悟性は現象の文字化されたもので、直観(時間軸)は失われている。
1783年(59歳) カント、『プロレゴーメナ』(形而上学は可能か)を出版。純粋理性批判にまつわる誤解を解くための解説本と言われる。ヒュームに影響を受けたが、不可知論ではないと強調。
1784年(60歳) 「世界市民的見地における一般史の理念」、「啓蒙とは何かという問いに対する回答」を発表。
1785年 『人倫の形而上学の基礎づけ』を発表。
1786年(62歳) ケーニヒスベルク大学学長に就任。ベルリン・アカデミーの会員に選ばれる。
1787年(63歳) 『純粋理性批判』第二版を出版。
1787年 「実践理性批判」が発表される。当初は『純粋理性批判』再版にあたっての付録として構想されていた。
物自体の秩序を「叡智界」とし、叡智界の因果性の法則を道徳として規定する。この法則に従うことで、「現象界」の純粋理性が実践的に実在化される。
1789年 フランス革命が勃発。その後革命の波及を警戒する政府の勅令により、出版物の検閲が厳しくなる。
1790年(66歳) 三批判最後の著作「判断力批判」が発表される。
判断力は「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」であり、美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種よりなるとされる。

後「批判」期
1791年(67歳) フィヒテが経済的支援を求める。カントは『あらゆる啓示の批判の試み』の出版先の紹介という形で援助する。
1793年 カント、既成宗教への批判をふくむ『単なる理性の限界内における宗教』をあらわす。プロイセン政府は出版を禁止。
1794年 勅書により、宗教に関して公に語ることを禁じられる。カントは「陛下の忠実な臣下として」勅令を甘受すると表明。
1795年(71歳) 『永遠平和のために』を発表。国家にとっての自然状態(戦争状態)を脱して恒久的な平和をもたらすことを訴える。
1797年 『人倫の形而上学』を発表。ロック的な社会契約説を展開する。
1799年(75歳) 「フィヒテの知識学に関する声明」を発表。
1802年(78歳) 認知症が進行。約40年間カントに仕えた召使のマルティン・ランペを解雇する。
1804年2月(80歳) カントが逝去。16日間かけて町中の市民がカントに別れを告げ、数千人以上が葬儀の列に参加した。

より

2. 個別有機体と環境
①環境について
環境という概念は近代の産物である。したがってシェリングの文章には登場しない。しかしシェリングは環境という発想を最初にした人物である。
環境は、主体の内と外を区分する境界領域を意味する。環境は肉体にとって自然の一部ではあるが、訓化された自然、一種の膜である。
②普遍的有機体から個別有機体へ
根源的産出的能動性が単一の肯定的原理として働くこと、それを受容する否定的諸原理が差異性を持つという関係。
「生命と有機体の肯定的原理は、絶対的に一である以上、有機諸組織は本来ただその否定的諸原理によってのみ異なる」
③個別有機体のありよう
自然の個体は、普遍的有機体に同化されず自己を存立しなければならない。
同化されないためには、いっさいを自分に同化しなければならない。有機組織化されないためには自分を有機組織化しなければならない。
この、閉じたシステムとしての有機的物体の内には、外界に抗して均衡を維持するような対立的能動性が働く。
その営為は、たんなる外的刺激に対する反応(因果的受容)ではない。
その行為によって内的なものが外的なものから区分される。その境をなすのが環境(訓化された外界)である。
分かりにくいので噛み砕くと、普遍的有機体というのは環境(自然)と生命主体(個別有機体)をふくんだ全体であり、個別性というのは普遍性への反抗ないし抵抗として存在する。
ただし直接的な抵抗はたちまちのうちに粉砕・吸収されてしまうから、反抗する主体が永らおうとすれば、その周囲に外皮(膜)をまとう必要がある。
生命というのは持続性(持続する反抗)を必要とするからこの環境という外皮は生命にとって必須(特殊な反抗形態としての生命)である。
こう読み解けば、シェリングの自然哲学の素晴らしさが分かってくる。
④個別有機体の発展
個体的有機体は受容と能動性との相互作用、交互限定を通じてみずからを有機組織化する。この二重性を介して外界との交互限定関係も形成される。この二重性は無機的自然の二重性の反映である。
有機的個体は栄養摂取、成長の過程をとおして、二重性としての自分を不断に維持、再生産する。

1. 普遍的有機体 
A) 1797年「自然哲学考」(Ideen)より「序論」

精神としての人間は自然の一部である。
自然とは現実の生きた相互連関が織りなす総体である。
「人間と世界とはたえず接触と相互作用が可能でなければならない。いかなる裂け目もあってはならない。ただそのようにしてのみ、人間は人間になる」

(哲学的)自然状態においては、人間は自分をとり まく世界と一体であった。
「哲学」が誕生すると、人間は外界に対して独立し、自由への道を歩み始める。 だから哲学の基本問題となるのは「外の世界(自然)がどのようにして可能か、どのようにして経験可能か」ということである。

人間の意識性と自由な能動性は、自然との現実的連関を前提とする。
したがって自然は、人間精神と同様に能動的主体でなければならない。自然は精神と同じく、自由な生命的なものとして捉えられる。
この自然という主体は、個別の人間を意識主体たらしめ、その自由を可能にする根拠である。それは自然の内的展開を通して行われるのである。

④精神と自然の絶対的同一性
以上の経過は、精神と自然の絶対的同一性をしめす。すなわち「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然である」というテーゼである。

⑤この絶対的同一性をふくんだものが普遍的有機体である。
それは自分自身で存立し、自分自身を産出し、自己自身を有機組織化する。

⑥自然の根源的産出性は無限な能動性である。
そのため自然の産物も「無形態的」で流動的である。したがってそれが発展するためには無限に阻止されなければならない。 事物は無限に阻止される結果として現象する。

⑦無限に阻止する能動性は、産物として把握された経験的自然である。
(この詳細は展開されない)

⑧二つの能動性の衝突により、根源の能動性は一定の点に収斂するようになる。
この点は繰り返し充実させられ、自分の「領域」を形成する。 これが客体としての自然となる。

B) 普遍的有機体が内包する二つの問題点

これは普遍的有機体としての全体的自然の内部構造の問題である。 第一は、形態的にも質的にも多様な有機体が類としてどのように存立しうるのか。 第二は、普遍的有機体の内部で、個体的有機体と外界をなす物質的自然がどのような関係にあるのか。 これらは以下に述べる第二の課題と大きく関わってくる。

の学習ノートです

はじめに

シェリングは生きた創造的自然という見方を提起した。
それは自然を能動的な主体として捉えた。
そして自然そのものを生成し、形態化する力を備えた主体として把握しようとした。
彼の自然哲学は、その自然の産出過程を描き出そうという試みであった。

シェリングの「主体としての自然」という表現は、ロマン主義的な擬人観ではないかと考えられてきた。
しかし今日では自然を主体として捉える発想は一定の支持を受けるようになっている。

今日、シェリング自然哲学は環境学の立場から3つの点で注目される。
(1)普遍的有機体
前期自然哲学で提示された「精神と自然との根源的同一性」の考えは普遍的有機体という概念を生み出した。
これは「総体としての自然」を一つの有機組織ととらえる考えである。
そして、その中に自我・意識・精神もふくまれる。
(2)個別的有機体
自然が普遍的有機体としてとらえられるとき、その全体的自然のうちで、個別的有機体は規定されるのか。
個別的有機体(例えば人類)は普遍的有機体(環境)の中で、どのようにして存立できるか。
(3)客観的観念論
自然哲学は、主観的なものに一面化された観念論(フィヒテ)に対する批判である。
それは客観的存在の自立性と主観に対する規定性を意味している。
その際に、自我・主観は自然に対してどのように再措定されるのであろうか。

と、ここまでが短い序論。ついで(1)、(2)、(3)について検討に入る。

フリードリヒ・シェリング 年譜
(シェリングの資質はエンゲルスと非常に近い印象を受ける。シェリングは、エンゲルスが初期マルクスに対して果たしたのと似たような役割を、ヘーゲルに対して果たしたのではないだろうか)

1775年 シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling)、ヴュルテンベルク公国にルター派神学者の子として生まれる。
ヴュルテンベルク公国はシュツットガルトを中心とし、神聖ローマ帝国の一部をなす小国である。紆余曲折を経つつ第一次大戦終了まで存在した。
1790年 テュービンゲン神学校に入学。特例により15歳で入学し、5歳年上のヘーゲル、ヘルダーリンと同級・同寮となる。
彼らは、フランス革命に熱狂し、カント哲学に集中した。シェリングがとりわけ学んだのはフィヒテとスピノザであった。
1794年 神学校を卒業。神職を選ばず、家庭教師をしながら著作に勤しむ。
1794年 シェリング、フィヒテの忠実な紹介者、支持者として文壇に登場。
雑誌に『哲学の諸形式』(1794年)、『自我について』(1795年)、『哲学的書簡』などの論文を発表。
1796年 ライプツィヒ大学に移り、自然学の講義を聴講する。
生物学や化学、物理学の最新知見に刺激されたシェリングは、『イデーン』(1797年)を発表。自然の哲学的把握に力を注ぐ。
ライプニッツの理論を引き継ぎ、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。(Wikipedia)
1796年 シェリングとヘーゲルら、『ドイツ観念論の最古の体系計画』の共著を計画。意識を超越した先験的観念論の構築に踏み出す。
1798年 「世界霊について」を発表。ゲーテに認められる。
自然の目標を生命におき、自然の根源を世界霊(宇宙霊)であるとした。自然と精神との最高の統一形態が芸術であるとする。
1798年 イェーナ大学の助教授に就任する(23歳)。
すでにフィヒテとの見解の相違は明らかだった。フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。
しかし自然科学に触れる中でスピノザ・ライプニッツ主義者となっていたシェリングはそれでは納得出来ない。絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力がある。
1799年 フィヒテがイェーナ大学を辞職。シェリングは哲学の正教授となる。
1800年 シェリング、『先験的観念論の体系』を発表。独自の自然哲学は「同一哲学」と名づけられた。
自然と精神は絶対者の二つの現象である。主観と客観とは同一であり、自然と精神はその現れである。「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」
1800年 シェリング、ヘーゲルをイェーナ大学の私講師として推挙する。
1800年 ヘーゲル、『フィヒテ哲学とシェリング哲学の差異』を発表。
1801年 フィヒテの転居を機に始まったシェリングとの文通が止まる。
1802年 シェリングとヘーゲル、共同で雑誌『哲学批判雑誌』を刊行。主に自然哲学を扱う。シェリングの転居をもって終刊。二人の協力関係も止まる。
1803年 シェリング、イェーナで保守派と対立。イェーナ大学を去る。
1806年 シェリング、いったんヴュルツブルクに移った後、ミュンヘンに移住。バイエルン科学アカデミー総裁に就任する(31歳)。
1807年 ヘーゲルの『精神現象学』が刊行される。シェリングの同一哲学が批判される。
シェリングは絶対者を直観によって把握する。ヘーゲルはその無媒介性を批判した。
1809年 「人間的自由の本質」についての哲学的考察を発表。
人間の存在根拠たる神には、「神のうちの自然」があり、神自身と対立している。自然は、自らを現そうとする神自身にとっての「根底」である。被造物の頂点である人間のなかには、対立は自由の可能性として再び現れる。
1813年 シェリングの妻カロリーネが病死(09年)。ゲーテの紹介で再婚する。
1814年 フィヒテがチフスにて急死。ヘーゲルがベルリン大学の後継教授となる。
1820年 シェリング、ベルリンのエアランゲン大学哲学教授となる。(45歳)エアランゲン大学にはフィヒテが05年から勤めていた。
1827年 シェリング、ミュンヘン大学創立に伴い哲学教授に就任。バイエルン王国への貢献をもって貴族に叙せられる。
1831年 ヘーゲルが死亡。
1830年代 シェリング、積極哲学を提唱。
消極哲学は "das Was"「あるものがなんであるか」にのみかかわっており、"das Dass"「あるとはどのような事態であるか」について答えていないとする。(ウィキ)
1841年 ベルリン大学哲学教授に就任(66歳)。4年間在職。
ヘーゲル左派の急進的思想に対する防壁となることを期待されたという。
就任講義には、エンゲルス、バクーニン、ブルクハルト、キルケゴールなどの錚々たるメンバーが聴講した。しかしその後の講義は閑散としていたと言う。
1854年 スイスの療養先で死亡。


カントからヘーゲルというのがドイツ古典哲学の流れで、フィヒテとシェリングは刺身のツマ扱いになっている。
フィヒテからヘーゲルが何を引き継いだかは、ほとんど論及されない。またシェリングの役割はほとんど扱われない。
一番の問題はシェリングがポスト・フィヒテなのか、プレ・ヘーゲルなのかの位置づけがはっきりしない。多分両方なのだろうが、彼は早熟であったためにフィヒテの後継として登場しているが、実際にはヘーゲルとは年下の同級生の関係にある。
二人とヘルダーリンは1790年代末には共同の理論構築作業を行っており、そこには一歩を先行していたシェリングの論及がかなり影響を及ぼしていると思われる。

フィヒテによれば、自然を認識するためには、自我という人間精神が前提である。
フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。

なぜフィヒテが哲学を認識論として提起したか。それはカントが、物自体を認識不可能なのものと裁断したからである。
カントは人間の認識能力の限界を示して、物自体を認識不可能なのものとし、現象界と叡智界とを厳然と区別した。
だからフィヒテの出発点となる問題意識は、物自体の壁を押し広げ、叡智感を拡大することにあった。それはカントが密かに企んでいたことでもあっただろう。

シェリングの論理も、出発点においてはフィヒテと同じく自我と考えられる。しかし彼はライプツィヒで自然哲学を学んできたために、自然をたんなる認識の対象(非我)としては捉えなくなっている。
非我にも駆動力はあるということだ。非我も自我の芽を内包しているということになる。

フィヒテは自然を、意識から「排除すべきもの」と考えていた。シェリングはそれを精神と同一の原理において把握しようとした。

シェリングは、絶対我の代わりに自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」を想定した。彼はこれを「同一哲学」と名づけた。
「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」

それでは、自然と精神とのこの相互転換はどのようにして起こるのか。自然はどのように知として意識に取り込まれるか、自然が精神として内実化される過程はいかなるものか。

世界を統一的な視点から説明するという問題意識は、ヘーゲルの精神現象学に連なる。ヘーゲルは絶対我の代わりに「絶対精神」の諸事象への展開として考察する。

認識論の動画を逆回しすれば現象論になるというのがシェリングが提示しヘーゲルが引き継いだ論理である。
それは世界を観念の世界から逆立ちして描き出すことになる。
しかしそれは静止画ではなく動画である。その故に機械的唯物論よりはるかにリアルである。

まだ語るべきほどのものを持ち合わせていないが、シェリングの自然哲学の弁証法的な優位性は注目すべきものがあり、誰かエンゲルスの自然弁証法と突き合わせながら展開してくれるのを待ちたい。


1762年5月19日 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)、ドレスデン近郊の農家に生まれる。貧困のため修学できず。
1780年 近郊の貴族の援助を受けイェナ大学神学部へと進学する。
1781年 ライプチヒ大学に転学
1788 パトロンの死により学資を失う(26歳)。友人の紹介でスイス・チューリヒで家庭教師の職を得る。この時カント哲学に興味を覚える。
1789年 フランス大革命が発生。フィヒテはこれを熱烈に支持する。
1790年 ライプチヒでカント哲学を個人教授
1791年7月 カントのいるケーニヒスベルクを訪ね、講義を受ける。7月半ばから8月半ばまで、『あらゆる啓示の批判の試み』を執筆しカントに送る。
1792年 『あらゆる啓示の批判の試み』がカントの仲介で出版。実践理性批判を元に宗教概念を論じたもの。多くの人が著者をカントだとみなしたが、7月末にカントは著者がフィヒテであると公表した。
1793年6月 Berlin, Leibzig、Stuttgart, Tubingenを経てチューリヒに到着。
1793年 チューリッヒで『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』、『思想の自由の返還要求』などを発表。この年、知人の娘ヨアンナ=ラーンと結婚。
1794年 イェーナ大学の助教授に就任。『全知識学の基礎』を発表。知識学を提唱。
意識を事物ではなく実践として措定。カント哲学に能動的性格を与える。「自我は根源的に端的に自己自身の存在を措定する」ところから出発して、それが成立するための条件として自然の認識を演繹する。「知識学」というのはWissenschafts のことであり、「諸科学」と訳してもなんの問題もない。「諸知識」は一つの体系であるが、認識過程の諸結果でもある。
1797年 「知識学への第一序論」を著す。「ひとがいかなる哲学を選ぶかは,ひとがいかなる人間であるかによる」が有名。
哲学体系は観念論と独断論の二つだけである。観念論は経験を「自我」から説明する。「物」から説明するのは独断論である。しかし自我の自立性と物の自立性は両立し得ない。ゆえに独断を拒否する限り、我々は観念論に立たざるをえない。
ということで、現状容認の論理(唯物論)に対して、「否定の論理の積み上げ」というラディカルな理屈を持ち込む。
1798年 フィヒテ、知識学の各論となる『全知識学の基礎』を発表。  『学者の使命に関する講義』も発表される。
「普遍的な思考」は共同体が生み出す。この思考は、共同体を存在可能とする基底的な条件を考察する。普遍的思考は共同体を志向するが、共同体が思考の主体とはならず、あくまで諸個人の思考にとどまる。なぜなら共同体は、経験的には常に限定された所与に過ぎないからである。
1799年 「神的世界支配についての我々の信仰の根拠について」を発表。神概念のあり方をめぐり、無神論論争を引き起こす。無神論者のレッテルを貼られ、イエナを去った。
この間、フィヒテは「物自体の考え」を否定、カントが、物自体を認めて、世界を二元論として解釈することを強く批判する。(ただし彼は「カントは二元論みたいなことは言っていない」と主張している)
フィヒテは、二元論者は「物質から精神への、もしくは精神から物質への絶えざる移行、あるいは同じことだが、必然性から自由への絶えざる移行を前提とするような、こうした結合の可能性を証明しなければならない」とし、「自我の実践性」(事行)を理論的認識にまで広げた。これは現象学の漫画化だが、逆説的に弁証法の必然性を示唆しているともいえる。
1799年7月 ベルリンに転居。
1800年 『人間の使命』などを著す。
1801年 「知識学の叙述」を発表。シェリングとの論争を受けて自我概念が後退。絶対知を出発点にして全経験を説明するようになる。ただし絶対者の存在を最初から前提することはせず。
決断を行うとされる個人が、ここでは本来的な知の担い手ではなくなっている。個人の自由もまた「普遍的自由」の内部でのみ成立する
1802年 シェリングとの関係を断絶。
1805年 ベルリンのエアランゲン大学教授に就任。
1806年 『現代の特質』を発表。「絶対者」から存在根拠を出発するようになる。この「神」は自由な道徳的主体の総体であり、「我々」(das Wir)を可能にする根拠となる。
1806年 ベルリンがナポレオン軍に占領され、10月18日ケーニヒスベルクへ避難。
1807年8月 フィヒテ、占領下のベルリンに戻る。12月に『ドイツ国民につぐ』を講演(1808年出版)
1810年 フィヒテ、新設されたベルリン大学の教授に就任。哲学部長に任命される。翌年には学長に就任する。
1813年 「知識学」を発表。「知識学が自己の存在証明をなしうるのは、知識学に帰依する人によってのみ」であるとする。
1814年1月 チフスにて急死。52歳。国内の救援に夫人がボランティア看護婦として参加しチフスに罹患。彼女を看護したフィヒテも感染した。
1814年 フィヒテの後にはヘーゲルがベルリン大学教授として招聘される。

フィヒテの思想はきわめて魅力的だ。彼はみずからを「観念論」と規定することによって、すべてのしがらみから解き放たれた。世界を中世の千年の眠りから解き放ったフランス革命とはなんだったろうか、まさに呪縛からの解放という精神の所業ではないか。
カントはフィヒテを得て、あたかも翼を得たように感じただろう。時間感覚、浮遊感覚こそがフィヒテのすべてだ。「精神一到、何事かならざらん!」というのが主観的観念論以外の何物であろうか。
フィヒテを考えるのに、偉くなってから(ベルリン時代)の哲学は必要ない。思想家としてはもはや抜け殻である。無神論論争の戦士としてのフィヒテが、我々には必要なのである。
カントの動かない世界に動力を与え、かくして必然性の克服の契機を与えたことである。
フィヒテの最大の貢献は、カントに弁証法を持ち込んだことにあるのであって、持ち込む際の乗り物が主観的観念論だったことは主要な問題ではない。
調和とか必然性というのはキリスト教の世界であり、絶対王政の世界でもあった。その必然性がバスチーユの襲撃に始まり音を立てて崩れつつあったのである。
そこではジャコバンが「必然性」をギロチンにかけていた。ギロチンというのは実に鮮やかな装置で、一瞬にしてルイ16世やマリー・アントワネットの首がコロコロと落ち、血しぶきが飛び散るのである。
これはまさに観念論の世界である。唯物論からこのような勢いは生まれないだろうと、たしかにそう思う。
「はだかの王様」をはだかと見切り、「王様ははだかだ」と叫ぶのは、決して唯物論的な行いではなく観念の転換なのだ。
これは良い観念論だ。
カントがフィヒテとシェリングに分かれ、それをヘーゲルが止揚して…などというのは最悪の観念論だ。
フィヒテ哲学の全体像を求めて -- 知識学の変転とその理由--入江幸男
という文章を参考にさせていただいた。これだけでも結構ごちそうさまだが、もっとすごい文章もある。ただそこまでやっていくと、肝心の時代性が見えなくなる。
私としては1789年のバスチーユをヨーイドンの出発点に、「自由・平等・博愛」の旗印、ジャコバンとダントンとギロチンの世界、そしてナポレオンの登場までのかけっこを見物するのが目的だ。
1790年代の10年間、カントもフィヒテもシェリングもヘーゲルも時代を並走している。さらに言えばゲーテもシラーもベートーベンもお互いの方を見ながら並走している。ドーバー海峡の向こうではアダム・スミスとベンサムとリカードウが走っている。すべてのヨーロッパ人が「想い」としてフランス革命に参加しているのだ。
そういう時代精神をまず受け止めることがだいじだ。
2007年6月30日 日本ディルタイ協会2007年関西研究大会
を参考にさせていただきました。

1.名誉革命とロック

ロックは17世紀のイギリス思想を集大成しただけではなく、それに自然法と社会契約という骨組みを与えた。

一言で言えば、人間には資産(Property)がある。資産を持つのは自然に与えられた権利である。これを社会の中で守るためには相互の契約が必要である。この契約を安定したものとするためには社会による保全が必要であり、このために国家(という社会形態)が設立されている。

これは国家形成の歴史から見れば、ほとんど空論であるが、出来上がった国家を主体的かつ合理的に運営するためには有効な議論である。

ただこれだけであったら、「そういうふうにも言えるね」程度の話であるが、こういう「契約社会国家」を壊すことは、契約で成り立つ社会そのものを壊すことになるのだから許せない、というところに話を持っていくのだから、俄然説得力を帯びてくるのである。

いずれにせよ、これは富裕層の論理であり、契約を旨とするリバタニアン・ビジネスマンの論理である。「必要なときはこちらから頼むから、お願いだから放っといてくれ。あまり目障りなら潰しちゃうよ」という上から目線の話だ。
2.ルソーによるロックの改作と「一般意思」

このままでは貧民が権利を要求する際の論理建てとしては使えない。そこでルソーが頭をひねった。

ルソーも人間は自然権を持つとし、それを守るために社会契約を結んだとする。ただ自然権というのは資産ではなく、「自由と平等」という抽象である。ここにはすり替えがある。

次に社会契約を結ぶのは人間同士ではなく、人間と社会とされる。社会というのは「全人民の団体たる国家」である。その社会には「一般意思」が形成され法律として体系化される。これが自然法であり、人はこの自然法に従わなくてはならない。つまり、政府・国家は一般意志に従わなくてはならないということだ。

ということで、ロックの自然法思想は換骨奪胎され、詭弁もどきの論理展開により、ほとんどその反対物に転化する。

そこには「一般意思」に名を借りた政府乗っ取りの狙いをはらんでおり、ロックの用心棒国家的思想とは様相を異にする「危険な思想」と化している。

唯物論と経験批判論 あらすじ

序論のかわりに

バークレー批判がまず展開される。おそらくあとから付け加えられたのであろう。率直に言えば不必要に長い。

初めての読者は、飛ばしたほうが良い。とにかくまずマッハから取りかかるべきだ。

エンゲルスの引用

「唯物論にとっては自然が第一次的なもので精神は第二次的なものであるが、観念論者にとってはその逆である」

この両者の間にエンゲルスはヒュームとカントを置き、彼らを不可知論者と呼ぶ。そしてその特徴として、世界の完全な認識の可能性を否定する点をあげる。

その後、ヒュームからの長い引用がある。ハックスレーからの重複引用。バークレイのような悪気はないということを言いたいようだ。

後半はディドロによるバークレー批判を紹介して終わる。

たぶんディドロを発見して「これだ!」と思ってこの序論を書いだのだろう。

第一章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その1

第1節 感覚と感覚の複合

この節では経験批判論の代表者と目される人物が紹介される。

まずマッハの所論の紹介と分析から始まる。

中間結論として、マッハは相対主義を唱えるが、相対主義と弁証法の違いを知らないということを示す。

そしてエンゲルスの言葉、「肝臓が胆汁を分泌するのと同じように脳髄は思想を分泌する」という機械的唯物論批判を対置する。

つまり相対主義は機械的唯物論への罰であり、非弁証法的という点においては五十歩百歩だということである。

この指摘は正しいのだが、その後十分に発展されているとは言い難い。

つぎにアベナリウスの批判に移る。

レーニンの当面の論敵であるボグダノフはアベナリウスの影響を受けたらしく、レーニンはこの二人を串刺しにして批判している

マッハ、アベナリウスに続いてイギリスのピアソンとフランスのポアンカレーが紹介される。

第2節 「世界要素の発見」

ついでレーニンはマッハ主義をマルクス主義に持ち込んだ最初の人物としてアドラーをあげる。

ここからレーニンの舌鋒は鋭さを増す。ここから先はもはや党派闘争の世界だ。

アドラー批判は、つまるところ「マッハもアベナリウスもそんなこと言ってないよ」というものだ。

そしてアドラーの「解釈」を受け継いだのがボグダノフだというわけだ。

アドラーの所説は、観念論者ヴントの経験批判論への攻撃にもとづいている。つまりヴントが徹底した観念論の立場から「マッハは唯物論者だ」と非難した言葉を借りてきて、「ほら、マッハは唯物論者だろう」というこずるい論建てをしている。

そこでヴントの所説の検討に入る。

なお、ここでさり気なく触れられている一文は注目に値する。

…しかし、他方、マッハとアベナリウスの当初の観念論が哲学上の文献で一般に認められているのと同じ程度に、経験批判論が後に唯物論の側に方向転換しようとつとめたことも、一般に認められている。

ということで、マッハの最近の著作(「認識と誤謬」1906)を引き合いに出す。そして折衷主義的な記述を引き出す。

第3節 原則的同格と「素朴的実在論」

ここからはアベナリウスの批判に移っていく。

アベナリウスが観念論でありながら折衷的態度を取っているとのべたあと、その後継者でより強硬な観念論者のエヴァルトらに攻撃が向けられる。

この辺は十把一からげだ。

第4節 自然は人間以前に存在したか?

この領域はマッハらにとってとくに苦手な分野である。そこで彼らの「言い訳」を取り上げてネチネチといじめる。

アベナリウスとその弟子のペツォルト、ウィリーが、しばしばカントやフィヒテを引き合いに出すのに応じて、レーニンもこれを批判するが、どちらかと言えば及び腰である。

そしてその後、今度はロシアの社会民主党内のマッハ派を取り上げる。最初がバザロフである。

自党内部の話だけに攻撃の厳しさは一段と増す。

第5節 人間は脳の助けを借りて考えるか?

これも前節とおなじような経験批判論の弱みだ。

これについてはアベナリウスが「イントロイェクツィオン」という詭弁を思いつき、ボグダノフはそれに引っかかった。

しかし、この詭弁は観念論者ヴントによって暴かれた。

ピアソンはこのような詭弁を用いずに、「意識がどこから来るのかなど関係ない」と開き直った。

第6節 マッハとアベナリウスの唯我論について

経験批判論は主観的観念論であり不可知論であり、最後は唯我論に陥る。

これについては「ネイチュア」誌の寄稿論文(ピアソン批判)と物理学者ボルツマンの文章を載せることで批判に替えている。

今日の私達からすれば、なにもバークレーからディドロ、フォイエルバッハを持ち出すまでもなく、これらの批判で十分であろう。

 

第二章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その2

マッハ批判はすでに終わったが、これから先は党内論争になる。

きっかけはマルクス主義理論家プレハノフが、カントの「物自体」を認めた発言をし、これに経験批判論の連中が噛み付いたことから始まっているらしい。

「エンゲルスと違うじゃないか」とやり始めたので、カント-エンゲルス-プレハノフという一連の理論の評価をしなくてはならなくなった、というのが経過のようである。

というより、レーニンがやりたくて始めたケンカのようだ。

その前にちょっと弁護して置かなければならないが、このときエンゲルスの「自然弁証法」は未発表である。だからエンゲルスの主張は部分的にしか取り上げられていない。

ということはレーニンもエンゲルスの主張を全面的に知った上で論戦に参加しているわけではない。

それにカントはネオカント派だって本格的に勉強したことはなかったはずだから、かなりボロは出ると思う。

これが党内向け論争でなく他流試合であったら、ここまで書くことはなかったろうと思う。さすがに恥ずかしい。

第1節 「物自体」、エンゲルスへの攻撃

この章はまず、チェルノフという人物が「物自体」に関してプレハノフを攻撃したことから始まる。ところが、チェルノフは勢い余ったか、「物自体」の把握についてエンゲルス攻撃まで始めた。

エンゲルスは、カントによれば不可認識的な「物自体」を、ひっくり返してすべての認識されていないものは物自体であると主張した。

というのがチェルノフの主張である。

そこで、レーニンは誰かの引用ではなく自分の言葉で長い反論を書いている。

しかしどうも売り言葉に買い言葉で、ポジティブな論証にはなっていない。

マルクスのフォイエルバッハ・テーゼの第二が引用されるが、この場合適切ではない。

これらのテーゼは、まずもって、観照の立場にとどまる唯物論者フォイエルバッハへの痛烈な批判である。

第2節 「超越」について エンゲルスの「改作」

エンゲルスはカントの物自体を少しも否定していない。認識の限界もふくめ承認している。その上で我々の認識限界を広げていくことは可能であり、その可能性は無限であると主張する。

「超越」というのはその時々の認識の限界を超えて、物自体の世界に踏み込むことであり、エンゲルスは科学的な仮説を除いて、原則的にはこれを認めない。そして科学的な立証を要求する。

これらについてレーニンは力説している。ただしさほど説得的ではない。

第3節 フォイエルバッハとディーツゲン 「物自体」の見解

まずフォイエルバッハが取り上げられる。彼が「物自体」を「実在性を伴った抽象体」と定義したことを紹介する。

ディーツゲンについても色々書かれているが、あまり興味ないので省略。

この節の結論。

1907年にはエンゲルスを否認し、1908年には不可知論へとエンゲルスを「修正」しようと試みる…これがロシアのマッハ主義者たちの「最新の実証主義」哲学である。

第4節 客観的真理は存在するか

ここまで行くと、「もうやめておいたほうが良いんじゃないの」と思ってしまう。今ではほとんど「禁句」だ。

むかしスターリン主義の哲学教科書には必ず載っていたが、この言葉には強い違和感を抱いた覚えがある。それこそ形而上学そのものだ。

とにかく第二章に入ってからというもの、レーニンは変調をきたしている。

客観的真理の否定は不可知論であり主観主義である。…自然科学は…その主張が真理であることを、疑うことを許さない。それは唯物論的認識論とは完全に調和する。

これは「すべてのものは疑いうる」とするマルクスのモットーと完全にバッティングする。

ところで、レーニンが引用したヘーゲルの言葉が面白い。

経験論は一般に外的なものを真実なものとし、超感覚的なものを認める場合でも、その認識は不可能であって、我々はひたすら感覚に属するものに頼らなければならない、と考える。
この原則が徹底させられるとき、それは後に人々が唯物論と呼んだものを産んだ。(エンツィクロペディ)

ウム、たしかにそうも言えるな。

第5節 絶対的真理と相対的真理 エンゲルスの「折衷主義」

まず「マルクス主義は永遠の真理というような独断論を許さない」というボグダノフの言が俎上に載せられる

エンゲルスの「反デューリング論」から長い引用が続く。

ついで今度はディーツゲンの主張に対する論駁が始まる。ただしディーツゲンは部分的に誤りを犯した唯物論者として位置づけられる。

正直のところ、レーニンの論理は相対主義者の尻尾をつかめないまま堂々巡りをしている。

問題は即自・対自という弁証法的な相対論(ヘーゲル論理学が一つの見本)と、ただの相対主義の違いだ。弁証法は相対的真理群を通底する法則を読み込む。ただの相対主義は確率論的にしか操作できない。そして確率論は、そこにとどまる限りでは限りなく不可知論に近い。

このへんはエンゲルスの「自然弁証法」を知らなかったレーニンの不幸だ。

第6節 認識論における実践の基準

これは以前から気になっていたところである。

レーニンはフォイエルバッハの第2テーゼをふたたび取り上げる。

真理が人間の思惟に達するかどうかを実践から離れて提起するのはスコラ学である。

そしてこれをエンゲルスの下記の言葉と結びつけることで議論を始めようとする。

不可知論に対する最良の論駁は実践である。

マルクスの言わんとする所は、「真理」とか「思惟」という概念がそもそもスコラ的であることだ。

エンゲルスの言葉は科学的事実を確認するにあたっては、やや雑駁にすぎる。やはり有無を言わせぬ技術に支えられた実験が必要である。マッハの衝撃波は、当時最新鋭の技術である写真を巧妙に用いた有無を言わせぬ証明だった。

ここでレーニンはマッハの言説を取り上げ、フォイエルバッハの言葉により批判する。


第三章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その3

第1節 物質とはなにか? 経験とはなにか?

第三章はボグダノフらとの党内論争を終え、ふたたびマッハ主義者との論争に戻る。

それぞれの節につけられたタイトルは、ひどく大げさである。正確に表すとすれば、例えば「『物質とはなにか?』についての経験批判論者のおしゃべりとその批判」とすべきであろう。

それにしても、「物質とはなにか?」はデかい。物理学の根本問題だ。一つの節であつかうような話ではない。

ただ、マッハ主義者の「物質」論を蹴っ飛ばすにはこのくらいでも十分なのかもしれない。レーニンはそう思ったのだろう。

まずアベナリウスの物質論から入る。彼は物質論を主張していないということが分かった。

次にマッハ。「物質は要素の連関である」

次にピアソン。物質は一定の感官知覚の群れである。

たしかにこれでは論争のしようがない。

レーニンはマッハがしばしば唯物論の側に脱線しているということに注目している。これについては私も同感である。

第2節 「経験」に関するプレハノフの誤り

「経験」というのはずるい言い逃れである。要するに感覚の集合である。そこから何か特別な概念でもあるかのように議論をこしらえていくのが経験批判論のやり口である。

感覚が経験として記憶されるためには、何らかの整理統合装置と記憶装置が必要である。それは感覚からは作り上げることができない。

ここのところをプレはノフは騙されてしまったらしい。

第3節 自然における因果性と必然性

この問題は端的に言えば「自然の弁証法」に関する議論である。

レーニンは個別の経験批判論者に反論はしているが、一貫した論理は持てないでいる。

彼には武器がない。ある場所では「エンゲルスにはこの問題での言及がない」と泣き言を言っている。エンゲルスの「自然弁証法」は、このとき彼の手元にはなかった。

自然科学的な知識が相当ないと書けない。自然の弁証法は、多くの観察と適切な実験から帰納的に導き出されるものだからである。

たとえばダーウィンについて言及していないことはかなりの欠落であろう。

とくにアベナリウスの弟子のペツォルトには悪戦苦闘している。現象の確率論的な扱いこそ彼らのもっとも得意とする分野だからである。

第4節 思惟経済の原理と世界の統一性

前の記事でも書いたが、マッハの「思惟の経済」はなかなか優れた観点である。知覚として溢れるほどの刺激が脳に飛び込んでくる。巨大コンピュータでなければ到底処理できないほどである。

これを人間は知覚の段階で整理し、諸知覚を統合する過程でさらに切り詰める。そして事物をゲシュタルトとして認識し記憶する。それはもはや感覚ではなく知覚でもなく、いわば「心像」とも呼ぶべき表象である。

このように圧縮し表象化する仕組みをマッハは思惟の経済と読んでいる。内容そのものはきわめて「唯物論的」である。

ただ「経済」はいかにもいただけない。物理学者らしく、語法がガサツなのだ。

これは「今月はちょっとピンチなので経済しました」というのと同じで、倹約の意味だ。語源的にはエコノミーというのは節約という意味であるから、それでも間違いではない。

レーニンも「まったく不器用な、気取って滑稽な言葉」と言っているから、ある程度分かってはいるのだろう。

統一性の問題はペツォルトが提起しているようだが、ペツォルトの真意が不明瞭なのでなんとも評価のしようがない。

第5節 空間と時間

まず、レーニンはフォイエルバッハの言葉を掲げる。

空間と時間はたんなる現象の形式ではなく、存在の本質的条件である。

これは19世紀初頭に打ち出された宣言であるが、いまも妥当である。

ただ極微の世界、宇宙の始まりの世界ではこれらの相互関係はぐちゃぐちゃで、いまだ汲みつくされた認識段階にあるとはいえない。

それらはニュートン力学の世界を相対化しているが、否定しているわけではない。それは宇宙・世界の階層性を示している。

その上でエンゲルスの言葉は説得的である。

時間の概念が問題なのではなく、現実の時間が問題なのである。

現実の時間というのは生命誕生、あるいは地球誕生以降の物質的運動について時間軸に沿った認識を現実的前提としなければならないということである。

感覚が全てというなら感覚の生まれたあとの時間と言ってもよい。

第6節 自由と必然性

エンゲルスの「自由とは必然性への洞察」に関して、認識論上の意義に関連して簡潔に触れられている。

ただしこれは、デューリングとの論争の文脈の中で出てきた言葉であり、「自由」そのものの本質的な規定ではない。


あらすじと言いながら、だいぶ長くなってしまった。第二分冊の方は稿を改める。




マッハの良いところ、悪いところ

マッハの良いところは勇敢なことだ。悪いところは乱暴なところだ。

この2つの素質があると、超大作がいくらでも書けてしまう。良くも悪くも分かりやすい。

乱暴だからといってそれほど馬鹿にしたものではない。かなりの点で革新的で、示唆的だ。

惜しむらくは弁証法がない。論理を駆動させるのはマッハで、その対象はみずから動かない。マッハには「もの」をして語らせようという気風がない。


ウィキから言葉を拾っていく。

1.『力学の発達』

ニュートンによる絶対時間、絶対空間などの基本概念には、「形而上学的な要素」が入り込んでいるとして批判した。

「形而上学」というのは彼の決まり文句で、「古臭い、決まりきった既成概念」くらいの意味だ。

彼は時空間には絶対というものはないとし、ニュートン力学の及ばない世界があると主張した。

「マッハの原理」というのは、「物体の慣性力は、全宇宙に存在する他の物質との相互作用によって生じる」とするものである。

これをアインシュタインが、特殊相対性理論の構築への足がかりにしたということで有名になった。ただしヒラメキのためのヒント以上のものではなかったようだ。

要するに「自分が動いていないとすれば宇宙が動いていることになる」ということらしいが、もちろん逆の可能性(地動説)もあるわけで、万事が相対的ではないかという主張らしい。

マッハは「皆さん、はたしてこの世に《絶対》などというのはあるのでしょうか?」と指摘したそうだが、これはマルクスの「すべてのものは疑いうる」というモットーに類似している。

これは至極まっとうな本のようである。松岡さんの紹介によると、第4章第4節の「科学の経済」という一節にこう書いてあるそうだ。

あらゆる科学は、事実を思考の中に模写し、予写することによって、経験とおきかわる、つまり経験を節約するという使命をもつ。

事実を思考の中に模写するとき、私達は決して事実をそのまま模写するようなことはなく、私達にとって重要な側面(ゲシュタルト)だけを模写する。

われわれは模写するときには、いつも抽象しているのだ。

十分すぎるほどに唯物論的(レーニン的な意味で)だし、現代の脳科学の水準から見ても妥当だ。

ただ、ニュートン力学を「力学的物理学」と呼び、それに代えて「現象的物理学」あるいは「物理学的現象学」を構築するべきだと訴えたそうだが、こちらは少々ピント外れだ。

ビッグバン以降、この世はエネルギーで満たされている。それがときどき「現象」として目に見える形で現れる。それだけの話しだ。

彼は「音速の壁」を突破した男として、世の中のあらゆる壁はぶち破れると思い込んだのではないか。

マッハは以上のような論建てのあと、「物理学的現象学」を提起する。それは、物理学から形而上学的カテゴリーを排除し、感性的要素の複合体を対象とするのだそうである。

排除されるカテゴリーには「実体」、「因果」、「絶対運動」(エネルギー)などがふくまれる。(野家啓一

フッサールはマッハの一元論に賛同しつつも、志向性の概念が欠けていることを批判した(両者の間に論争があったらしい)という。

また同様にマッハは、原子論的世界観や「エネルギー保存則」という観念についても批判したそうだ。

思うに「積み上げ方式」の構築的な科学論と対蹠的な位置に立っていたのであろう。

2.認識論への言及

認識論の分野では、『感覚の分析』(1886年)と 『認識と誤謬』(1905年)が代表的著作である。

マッハの認識論の核心は「要素一元論」と呼ばれる。

主-客二元論や物心二元論を捨て、直接的経験へと立ち戻り、そこから再度、知識を構築しなおすべきだというものである。

意識が完全にめざめるやいなや、人間は誰しも、すでに出来あがった世界像を裡に見出します。

それが出来あがったのは当の本人がこれといって意識的に参与するからではありません。

むしろ反対に、人々は自然および文明の賜物として、何かしら直接的に了解されたものとして、出来合いの世界像を受取ります。

これは、「認識の分析」(1894)という解説本の一節らしい。「出来合いの世界像」というのはDNA的、生得的世界像のことか。とすれば、これは正しい。

気持ちとしては意識の形成における「感覚」の役割をもっと大事にしようということであろう。これ自体については大賛成である。人間の高次精神は、元はと言えば感覚的知覚の集合である。

このあとに前記記事の文章が続く。

我々の「世界」は、もともと物的でも心的でもない、中立的な感覚的諸要素(たとえば、色彩、音、感触、等々)から成り立っている。

「物体」や「自我」などというのは本当は何ら「実体」などではない。

因果関係というのも、感覚的諸要素(現象)の関数関係として表現できる。

騎虎の勢いでカントの物自体も吹き飛ばしたことになる。

これを日夜食うか食われるかの生存競争にいそしんでいる生き物はどう受け取るだろうか。天敵の口の中で噛み砕かれる瞬間、「これは感覚の関数関係にすぎないのだ」と納得するのだろうか。

この「感覚」至上の、あえて言えば形而上学的な認識論への突然のジャンプは、流石に世の指弾を浴びたようである。ルートヴィッヒ・ボルツマンやマックス・プランクらがこれを批判したとされる。

3.ウィーン学団への影響

マッハはこのほか心理学、生理学、音楽学などさまざまな分野の研究を行ったそうだ。

各分野に影響を及ぼしたというが、どちらかと言えば学問的というよりカリスマ的な影響力であろう。

そのカリスマとしての最大の「功績」がウィーン学団の結成(1929)であった。

これはウィーン大学のシュリック、ハンス・ハーンを中心とする科学者、哲学者のグループで、論理実証主義を標榜した。

彼らの多くがナチスの台頭に伴い米国に亡命し、以後米国にその考えが広がっていくことになる。

ウィーン学団については「科学的世界把握 ― ウィーン学団」というページが詳しい。詳しいが難解である。


私の感想であるが、

端的に言えばマッハは十分に唯物論的である。少なくともニュートン力学を批判するとき、彼は唯物論者と言ってもいい。

ところが、認識論に足を踏み込んだとき決定的な間違いを犯した。

マッハは、時空の絶対性を前提にしたニュートン力学に本質的な批判を加えたのであるが、それに代えて「感覚」を至上のものとして持ち込んだ。

それは「感覚」という神の復活であり、彼が忌み嫌ったはずの「形而上学」への復帰である。

レーニンが、対立の主要な側面を唯物論VS反唯物論にあると考えたのは正しいのだが、それはマッハが非弁証法的で形而上学的であったからだ。

唯物論の立場というのは、物質の客観的存在を認めるかどうかにとどまるものではない。自然にはエネルギーがあり、運動があり、あえて言えば「発展」があるということを認めるということだ。

一言で言えば「自然の弁証法」を認めることが唯物論の立場である。

マッハは非弁証法的であったがゆえに、すべての存在を「自然の過程」(エネルギーの流れへの抗い)として捉える唯物論の立場に立ちきれず、感覚至上主義へと漂流していってしまったのである。

経験批判論(Empiriokritizismus): 19世紀末,ドイツの哲学者 R.アベナリウスによって唱えられた学説。
「経験内容から個的な主観的なるものを除去していけば,万人にとって普遍的ないわゆる純粋経験が得られる」と主張。主観的経験論に一種の帰納論を接ぎ木したようなもの。
論理実証主義に大きな影響を与えた。

とあるが、実際上彼の著作が世間的な影響を与えたことはない。

結局、「経験批判論」の名を大いに広げたのはエルンスト・マッハであり、マッハ主義として理解するのが妥当である。

マッハは1838年生まれなので、当時すでに還暦であった。40歳にして超音速に関する論文を発表。衝撃波の写真撮影に成功して一躍有名となった。
衝撃波_ウィキより
  衝撃波_ウィキより
物理学者としてすでに功成り名遂げた存在であった。
それがアベナリウスの経験批判論を借りて自説を展開したと見るべきであろう。
以下、ウィキペディアの「マッハ」の項目より
50歳で「力学の発達」、「感覚の分析」を発表、以後、60歳で「熱学の諸原理」、70歳で「認識と誤謬」を発表する。死後には「物理工学の諸原理」が発行された。
いわば「物理で世界を読み解く」みたいな感じで書き飛ばし、これに理数系に弱い哲学者はねじ伏せたられのではないか。

マッハは経験批判論を広げた。「力学の発達」は、ニュートン力学の基本概念(時間,空間,質量)を批判し、“形而上学的性格を剔抉”したといわれる。この本は若年のアインシュタインに影響を与え,特殊相対性理論を準備した。
マッハの哲学上の主著は「感覚の分析」および「認識と誤謬」である。(現在であれば脳科学のテーマである)
世界を究極的に形づくるのは、物理的でも心理的でもない中性的な感性的諸要素である。具体的には色,音,熱,圧等々である。
これら諸要素間の関数的相互依属関係を「思考経済の原則」に従って、できるだけ簡潔かつ完全に記述することが科学の任務である。
いま読めば、きわめて粗雑なデッサンで、酔っぱらいのセリフである。「色,音,熱,圧等々」が「物理的でも心理的でもない」要素などとは、当時の常識から言っても問題外であろう。第一、「心理的でない感性的要素」などどこに存在するというのか。

フッサールの現象学もマッハを引き継いでいるといわれる。要するに彼の毒気にウィーン中の哲学者があてられたのであろう。

世紀末のウィーンはきわめて魅力的である。
19世紀初頭から産業資本主義、それにふさわしい立憲体制が広がった、ドイツでいったん頓挫したあと、プロシアの帝国主義的資本主義が勃興し英仏と肩を並べるに至った。
オーストリアだけは依然として王権支配が続いていた。青年たちのフラストレーションは頂点に達していたと思われる。それがさまざまな(非政治的な)形で噴出してくる。
その50年前に、マルクスはドイツについて同じような状況を感じている。そして遅れた国では哲学革命から始まるのだと語った。それはヘーゲル左派の青年たちを指す。彼らは国の後進性に憤り、激しく糾弾するが、実践を伴わないから著しく観念的である。
それが、第一次大戦が終わりオーストリアが共和制になって、「赤いウィーン」が成立する頃になると、彼らは著しく微温的になり、反動的にさえなり、ナチに抵抗もせずに海外に逃れることになる。
それが半世紀も経ってから、ナチスの迫害のお陰でアメリカに広がり、いまや世界の思想・文化を見る上で不可欠な要素となっている。
もう一つの特徴は異常なまでのユダヤ人の活躍である。この理由は今のところよく分からない。とにかく民族差別が少なかったとは言えるだろう。
「世紀末ウィーン」の勉強は少し後回しにして、マッハの情報収集をもう少しやっておきたい。

私が「唯物論と経験批判論」を「やや古めかしい」と言ったのは、「物質が先か意識が先か」という問題設定がもはやほぼ解決済みのものになってしまっているからである。
「物質」というより自然の流れの中から生命が生まれ、生命活動の中から脳の活動が生まれ、脳の進化によって「意識」が生まれてきたことは、もはや疑いなく確かめられている。
残されたのは、「意識がどこまで物質を認識できるか」という問題なのだが、これは問題の設定そのものがきわめて曖昧だ。この問題に取り掛かる前に、意識とは?、物質とは?、認識とは?という3つの問題を片付ける必要がある。しかもこれは明らかに自然科学の課題であって、哲学の課題ではない。実証的にやっていかなければならない。
それにこれはWhat課題ではなくHow課題である。唯物論というよりむしろ弁証法の問題なのだ。

何かないかと探したら、下記の文章があった。
私の意見  「マルクス・レーニン主義から実践的唯物論への転換の困難さ」   島崎 隆
完全に同意するわけではないが、「唯物論と経験批判論」の評価についてはほぼ当たっていると思われるので、要約を紹介する。


1 問題提起

2 レーニン的唯物論の問題構成

レーニンは「哲学の根本問題」を物質と意識の関係と見た。そしてそれを「認識論上の根本問題」と理解する。

そのかぎりでは,「物質が先か意識が先か」を認識論的問題とみなして,観念論を批判した段階にとどまる。

私(島崎)は唯物論一般の議論を,さらに物質が先か意識が先かという哲学の根本問題を,ただちに認識論的問題とは見ない。 

私は、レーニンがマルクスの唯物論をきちんと押さえていず,唯物論一般のレベルを十分に脱却できていず,その結果マルクスを誤読してしまったとみる。

レーニンが「意識が存在を反映する」という場合は、あくまで認識活動としての「反映」である。だからレーニンは,「反映は近似的に正しい写しでありうる」という。

そして「社会的存在を社会的意識が反映する」というマルクスの命題を、上記の「存在を意識が反映する」という命題に直接につなげる。つまり、哲学的命題が社会に「領域内に限定されて,そこに適用された」(島崎)と考える。



島崎さんは少々わかりにくいものの言い方をする。
レーニンが「意識が存在を反映する」という場合は、あくまで認識活動としての「反映」である。
というのは、ある人間がある存在を認識し、それを意識に取り込めば、意識にその存在が反映されるということだ。
そうするとある人間がある存在をいかに認識したかで認識が変わってくるということになる。
最初は「群盲象を撫でる」が如き状態であったのが、次第に情報が共有化され、認識の方法が洗練されるにつれて正確に認識されるようになり、その結果、人々の意識は存在を正確に反映したものとなる、ということだ。
それは決してある物質が水晶体を通じて網膜上に像を結ぶ、という単純な反映ではない。
それは「意識に存在を反映させる」行為の過程全体を包括したものだ。(かえってわかりにくい?)



3 マルクス的唯物論の問題構成

これは,マルクスの「唯物論」とは基本的に異なる。マルクスは,「唯物論一般の立場は世界と人間をとらえるうえで不十分であり,それは観念論と同位対立に陥り,それを超えられない」と主張する。

フォイエルバッハ・テーゼの第一テーゼは、次のような構成になっている。

①従来の唯物論(フォイエルバッハ)の主要欠陥は,現実的対象がただ直観や認識の形式のもとでのみとらえられており,活動的な実践の産物として主体的に把握されていない。

②その活動的側面は,かえって観念論(ヘーゲル)によって展開されたが,しかし抽象的にしか展開されなかった。

その後マルクスは、従来の唯物論を超える新しい唯物論を提起し,それによってヘーゲルらドイツのイデオローグたち全体を克服しようとした。

このあと島崎さんは独特の「実践的唯物論」の展開に至るが、ここでは省略。ただレーニン批判としては、哲学的認識論と社会的構造とはレベルが違うだろうということに帰着する。

ヘーゲルは理念や精神から物質的なものを導き出そうとする。唯物論者であるはずのフォイエルバッハですら,愛というような観念を切り札としてもち出し,そこで観念論へ転倒する。

総じて宗教・道徳・哲学において,現実社会の発生源から切り離されて,何か究極の「真理」がそれ自体で自立して存在しうるかのように考えることは,すべて観念論である。

観念論が蔓延するのはなぜだろうか。マルクスはそこに,複雑な隠蔽関係や理念の「自立化」の現象を発見する。マルクスはまさに宗教を要請せざるをえない人間社会の悲惨さを暴露し,宗教を「阿片」と呼んだ。


4 実践的唯物論の現代性

こうしてマルクスが強調しようとしたのは、(社会的)意識を規定するのは(社会的)存在なのだということである。それは領域の単なる限定ではなく,むしろ根源的なものである。

ひとびとが抱く意識・観念は本人の自覚的意識にかかわらずすべて社会の産物であり,むしろ社会批判のなかで社会現象として説明されなければならない。

では科学的認識の位置づけはどうなるのか。

問題は二つある。

まず、科学の典型たる自然科学とはそもそも何かが問われる。これについては,「産業がなかったら,どうして自然科学などありえようか」とまず発問するのがマルクスである。つまり産業と交易のなかの実践的産物としてそれをとらえることである。

もう一つは、科学的認識とはいかにして可能かという問いである。これについては、認識一般ではなく、科学的・合理的という「意識」が問われなければならない。それが近代でいかにして発生したのかが、まず問われるべきである。

以上のごとく、マルクスの認識論は単純な科学重視の科学論ではない。弁証法を機軸としてヘーゲルを唯物論化した認識批判としてとらえられるべきである。逆に科学の絶対視は「科学主義・科学信仰」として批判されるべきである。


付言1 西欧マルクス主義への批判

現代の西欧マルクス主義は人間中心で主体的な側面をひたすら強調する。しかし人間社会も「自然存在」を大前提としており、自然進化のなかで発生したものである。

人間社会は人間と自然のあいだの質料転換(物質代謝)を必須の生存条件とする。自然弁証法の現代的意義は重視されねばならない。エンゲルス評価の二面性のきちんとした把握もふくめ、「自然の弁証法」の復権がもとめられている。



これには私も大賛成だ。以前シュミットのエンゲルス批判を読んで、「人間の独善化」には到底納得できないと思った。
エンゲルスそのものではないにせよ、自然・少なくとも生物界には弁証法があって、これが弁証法的唯物論の礎なのだと思う。
それは「自然の摂理」に対する「抗い」、ときには「叛乱」を本質としている。もちろん行き過ぎた「擬人化」も危険だが…




付言2 意識は「自然存在」と直結していない

ありのままの自然が意識に反映されるというというのは、没社会的・没歴史的な自然哲学である。

それこそは、フォイエルバッハにたいしてマルクスが批判したものである。たしかに自然は大前提ではあるが、意識にとってはすでに社会による実践的産物へと転化されている。いかなる自然観をもつかは、実は社会的・文化的背景の問題を抜きにしては語れないのである。


付言3 70年代理論活動の思い出

日本でもマルクス主義(弁証法を含む)は,かつて実に多くの知識人・文化人に影響を与え,社会の変革を願う大衆の学習するところともなった。それは社会科学や哲学の領域のみでなく,自然科学はもとより数学,体育などの分野にまで浸透した。だが不幸にして,そこで浸透したマルクス主義とは,上述のマルクス・レーニン主義であった。

1970年代以後,マルクス・レーニン主義(スターリン主義)の批判的検討が進んだ。だがそれは,マルクスに関心をもつ哲学研究者以外にはほとんど浸透せず,そのうち社会主義崩壊のなかでマルクス主義哲学は全般的に関心をもたれなくなった。

真理は発見されたときには,もはや見向かれなくなったというのが現実であった。

マルクス・レーニン主義が第一の誤りであったとすれば,マルクス主義哲学それ自身の放棄は第二の誤りである。


私も拙著「療養権の考察」発表において同じ思いを抱いた。マルクス主義がルネッサンスを迎えたとき、世間的にはマルクス主義の時代は過ぎ去っていた。
みな古文書を眺める目で私の本を見る。







1.「モノから情報へ」は誤り

「モノの時代は終わった。これからは情報の時代だ」と言われる。

身の回りの社会は、たしかに現象的にはそう見える。

しかし、この主張は、それらの情報自体がモノの生産を前提としでいるということを看過している。

というより、利潤率の点で魅力を失ったモノの生産は低賃金従属国に任せて、情報=技術・流通を先進国が独占するという構造を背後に隠している。

(医療・介護をふくめサービス労働を「生産労働」に組み込みたがる論者への素晴らしいプレゼントだ)

2.出産は「女性の生物学的悲劇」

100万年以上もむかしのアフリカのある晴れた日、二本足で立ってみたサルが、両手を使うことを知った。

それから、ヒトの脳とその容れ物は次第に大きくなった。その一方、二本足で立ったがゆえに母親の山道は狭まって、ほかの哺乳動物のように胎内で胎児が十分に育つことは不可能になった。

もしそうすれば、ヒトの母親は難産で死んでしまう。

気の遠くなるような長い生物学的淘汰を経て、未熟のまま子を早産できるような体質を備えたヒト属だけが生き延びられるようになる。

こうして「女性の生物学的悲劇」(ネミーロフ)が始まる。

母親はこの未熟な子を一人前にするのに長い間育児に拘束されるようになる。

以下の本論は若干、時代に制約されて月並みなものになっていくが、この書き出しの2つのエピソードは秀逸で、その筆力も相まっていまも十分に魅力的である。


うかつなことに、「独習指定文献」制度が廃止されたことは知らなかった。いかに不まじめな党員であるかがバレてしまった。

ウィキによると、2004年、「常に変動する政治情勢に対応するため、固定的な独習指定文献制度は時代に合わなくなった」とし、廃止されたのだそうだ。もう13年になる。

廃止直前、2001年ころの独習指定文献は下記のごとし。

初級

『日本共産党第22回大会決定』

『日本共産党綱領』

『日本共産党規約』

『自由と民主主義の宣言』

レーニン『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』

マルクス『賃金、価格および利潤』

エンゲルス『空想から科学への社会主義の発展』

『日本共産党第20回大会での党綱領の一部改定についての提案、報告、結語』

宮本顕治『党建設の基本方向』(新日本出版社)

不破哲三『綱領路線の今日的発展』(新日本出版社)

中・上級

レーニン『カール・マルクス』

エンゲルス『ルードウィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』

マルクス『ゴータ綱領批判』

エンゲルス『反デューリング論』

レーニン『唯物論と経験批判論』

マルクス『資本論』

レーニン『資本主義の最高の段階としての帝国主義』

『日本共産党の70年』(新日本出版社)

宮本顕治『党史論』(新日本出版社)

不破哲三『スターリンと大国主義』(新日本新書)

不破哲三『ソ連・中国・北朝鮮――三つの覇権主義』(新日本出版社)

『日本共産党と宗教問題』(新日本文庫)

けっこう読んでない文献が多いなぁ。


私選、独習指定文献

1.ヘーゲル法哲学批判序説

若々しいマルクスの行動宣言で出発点だ。どうしても押さえておきたい。

2.経済学・哲学手稿

「疎外された労働」のところは趣旨としては分かりやすい。「ミル評注」も、ミルの理論も紹介しながら参考程度につけてやるといい。

第三草稿も面白いが、うんと枝葉を落として、うんと背景説明しないとわかりにくい。中・上級に。

3.ドイツ・イデオロギー

人間は食うために生活していること、食うために生活する人間が社会を作ると、どういう社会になるのか、これが良く分かる。

後ろの方の面倒なところはいらない。

4.哲学の貧困

ものすごく読みにくい本だが、プルードン(的なもの)への批判は、この先どうしても押さえて置かなければならない。マルクスは、初めはプルードンとケンカするために経済学を勉強したのだろうと思う。「ドイツ・イデオロギー」の後半部分、「聖家族」をふくめて「偽左翼」経済学への視点を鍛えるべきであろう。
背景説明をふくむ抜粋本があればいいのだが。中・上級に入れる。

5.共産党宣言

これを抜かすなんて信じられない。搾取というのが社会の最大の問題なんだ。

6.賃労働と資本

入門書として読むならこれしかない。これだけ読んでくれれば他は要らないくらいだ。足りないところは必要に応じて補えばいい。

「賃金・価格・利潤」は解説すると余計わかりにくくなるから、やめた方がいい。大事なことはアダム・スミス以来の経済学の決まり事を憶えることだ。

7.フォイエルバッハ論

分かり易いが、たくさんウソが混じっている。それをやり始めると難しくなる。ヘーゲルにはあえて触れないこと。

ほかにエンゲルスの著作、たとえば「家族」、「自然弁証法」、「空想から科学」は副読本扱いにして、指定文献には入れないほうがいい。マンガにすると若い人がとっつきやすいだろう。

8.ザスーリッチへの手紙

「未来社会」論に関して組合主義者が必ず持ち出してくるので、勉強はして置かなければならない。「経済学批判序説」の時代区分はあまりにも雑駁で、「あんなこと言わなきゃよかった」とマルクスは反省していたのだろう。全部読む必要はサラサラないので、抜粋本があると良い。中・上級

9.帝国主義論

レーニンといえばこれしかない。「国家と革命」も「唯物論と経験批判論」も要らない。ただ「何をなすべきか」は、いろいろ問題はあっても「面白いから読め」と勧めたい。

「金融資本を中心とする独占体」という概念は、グローバル化のもとでは大きく変質しているが、不均等発展の理論はいまなおホットだ。

10.極左日和見主義者の中傷と挑発

平和革命をリアリズムに基づいて説得する文書だ。日本共産党が初めて最初から最後まで自分の頭で考えて作った文書で、私には未だに理念的出発点だ。我々は「4.30論文」と言っていたが、東京の人は「4.29論文」と呼んでいる。それがちょっと悔しい。
袴田里見が講演に来て漫画チックな解説をした。岡正芳さんの講義はボソボソとして分かりにくかった。下司さんの発言は見当違い。米原さんが一番スッキリしていた。まぁ自分で読むのが一番だ。

11.現綱領関連文書

不破さんの貴重な置き土産。「冷戦終結論」で一触即発の雰囲気になったときに、不破さんが鮮やかな切り口で事態を収拾したことは忘れられない。とはいえ不破さんの語り口のスマートさに惑わされず、現綱領を自分のものにする必要がある。


マルクス主義というのは、哲学的にはヘーゲルの伝統を継ぐ弁証法論者であると宣言することであり、経済学的にはアダム・スミスとリカードの伝統を継ぐ労働価値説の陣営に立つことである。
運動的には、おそらくはフランス大革命における急進派(百科全書派)の主張を引き継ぐことではないだろうか。サン・シモンやオーウェンはそこからの派生であると思う。
あれこれの「社会主義」的な試みではなく、自由・平等・博愛の三位一体たる「民主主義の精神」の継承者としてみずからを位置づけるべきであろう。
ついでながら
「科学的社会主義」という言葉は心がけとしては正しい。しかし論争の相手が「非科学的」とは限らない。受け取る側に傲慢だと思われる可能性もある。
科学的であろうとすれば唯我独尊ではありえない。内心では確信しつつも、他人との関係では節度を保った使用法が必要である。

何気なく本棚の一冊を手に取った。
有斐閣新書「マルクス…著作と思想」という入門書だ。1982年の初版で私のもっているのは第4刷、85年の発行となっている。非共産党系マルクス主義者の集団著作だ。
おそらく「療養権の考察」を書いていた頃に買った本だ。かなり読み込んだ形跡があるが、「考察」の参考文献一覧には入っていない。独自的意味はないと判断したのだろう。多少「忖度」したかもしれない。
しかし冒頭の望月清司さんの文章はいま読んでもなかなか良いものだ。
考えてみると原光雄さん、三浦つとむさんから始まって、ずいぶん「異端」の文章に影響を受けている。
人間的諸活動を労働過程と享受・発展過程、社会的活動を生産活動と生活過程の統一として考えるのは中野徹三さんの影響だし、受苦と欲望を人間的発展の二つの動因と考えるのはルカーチの影響だ。

当時、私の積み重ねた「学習」の目的は、客観的には「共産主義読本」をいかに合理的に読み解くかということにあった。感想的結論として、「共産主義読本」は度し難い「スターリン的・非レーニン的文書」だと判断した。大きな声では言わなかったが、批判的に読むべきだということを示唆した。

70年代後半から80年代前半にかけては、そういう批判を許容する時代の雰囲気もあった。そのあと理不尽な反動がやって来て、理論課題が組織問題であるかのように攻撃され、かなりの人が「民主的軍国主義者」の犠牲になった。丸山真男が突如攻撃され、古在由重が除名され、「冷戦は終わっていない」と宣言された。
誰かが同志Mの認知症につけ込んだのだろう。

もちろん「異端」を自認する人の多くは「反スタ・スターリニスト」である。かつての北海道AALAの幹部であった中野徹三さんが、いまも進歩的な政治的役割を果たしているとは思えない。しかし本業のところでは傾聴すべきかなりの意見があることも事実であろう。

の抜書(コピペ+私感)である。元ネタがお手軽というわけでは決してない。

Ⅰ リカードの「価値論」の意味

リカードは、スミス価値論の継承者である。彼はスミスの労働価値論を受け継ぎながら、そこにふくまれる曖昧さを排し、それをいっそう純化させた。そして、労働価値論を駆使して、「生産物の諸階級への分配に関する法則」を解明した。

リカードのスミス批判の意義は、個人がどんなにあがいても貫徹する経済の客観的法則を提示するという点にある。

スミスの命題には、個人の行動結果から類推して、それを経済全体の結果であるかのように見なすところがある。しかし経済法則を客観的に適用すれば逆の結果になる。

そこをリカードは示したのである。

という岡さんのコメント。スミス研究者から見れば、いささかカチンとくる叙述となっているかも知れない。


Ⅱ リカードはスミスから何を受け継いだのか

リカードがスミスから受け継いだのは『労働価値説』である。

リカードは、「原理」の中でスミスの所説のポイントを引用し、コメントしている。

1.交換価値(価値)と使用価値(効用)

価値が二つの側面を持っていることについて、リカードは完全に同意している。

スミスからの引用

「価値という言葉には、2つの異なる意味がある。それは、ある時はある特定の物の効用を表現し、またある時はこの物の所有がもたらす他の財貨の購買力を表現する。一方を使用価値 、他方を交換価値と呼ぶことができる」

「最大の使用価値をもつ物が、交換価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある。これに反して、最大の交換価値をもつ物が、使用価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある」

後段の引用は「水とダイヤモンド」の挿話へと続くところである。

リカードのコメント

したがって、こう言える。

効用(使用価値)は交換価値を持つための必要条件ではあるが、効用は交換価値の尺度ではない。

ということで、話を労働の交換価値に絞ることを宣言する。

2.労働は交換価値の源となる

交換価値というのは「ある物の所有がもたらす他の財貨の購買力」であるから、その購買力の源は何かということになる。

スミスからの引用(ちょっと長い)

「あらゆる物の真の価格は、それを獲得する際の苦労と手数とである。それを欲する人に真に費やさせる物である。

ではそれをすでに取得していて、それをなにか別の物と交換したいと思っている人にとっては、それの値打ちとはなんだろうか。

それは交換によって節約することができ、他の人々に負わせることができる苦労と手数とである」

「未開の状態での相互交換に際して、物の取得に必要な労働量の多寡は、交換のルールを与える唯一の事情である。

一頭のビーバーを仕止めるのに費やされる労働が、一頭の鹿を仕止めるのに費やされる労働の二倍だとする。

そうすると一頭のビーバーは、当然二頭の鹿と交換されることになる」

この2つとも前回の奥山論文で紹介されているおなじみのところである。

スミスはここで一つの定式を打ち出す。
「商品にふくまれる労働量がその交換価値を規定するのである。

だとすれば、労働量の増加は必ず商品の価値を上昇させる。逆に、労働量の減少は必ずその価値を低下させるにちがいない」

リカードからのコメントはとくにない。ここまでの論理(投下労働=価値)について、リカードは全面的に受け止めたとみられる。

Ⅲ リカードはスミスの何を批判したのか

ところが、このあとスミスは価値標準について違う考えを持ち出す。

物の価値は、「それと交換される労働量」あるいは「それが市場で支配する労働量」によっても決まると言ったのである。

「何が“あるいは”だ。ぜんぜん違うじゃないか」とリカードは噛みついた。

リカードは「支配労働」論を認めなかった。そして「ここにスミスの混乱がある」と指摘したのである。

リカードはスミスの混乱の理由を、投下労働論を「初期未開の状態」に限定したことに求めた。「初期未開の状態」に通じることなら発達した社会にもそれは通じるはずだ、というのである。


1. 労働以外の生産手段の価値

ここからあとは、奥山さんの解説とだいぶ話が違ってくる。とりあえずそのまま紹介する。

私感: 労働以外の生産手段の価値についてはスミスにあっては曖昧であった。それらも「労働している」かのような擬人表現が見られる。生産と労働を混同した「労働」原理主義である。これは大地と日光が農作物を育て価値を生み出すという、重農主義の影響もあったのではないか。

リカードはスミスの「労働」原理主義に込められたすり替えを見逃しはしなかった。

ここにリカードは「時間差」というか「経時的観点」を持ち込んだ。リカードは言う。
労働と並んで使用される材料や器具や機械もまた、財貨の価値に貢献する。

それは、それらの材料や器具や機械の生産において投下された労働の量に応じてである。材料や器具や機械は過去の労働の産物である限りにおいて価値にふくまれる。

こうして、過去の労働を持ち込む形で、材料や器具や機械を労働価値説に取り込むことができたのである。

私感: 生産過程においては原材料は「使用価値」として加わるのであって、価格実現過程の話と混同してはいけないと思う。価格実現の話も、その前にまず剰余価値の配分の話を片付けてから取り掛からないとならないと思う。これらはいずれもう少し勉強した上で語ってみたい

② 地代や企業主の才覚の評価

スミスが主張した「労働原理主義」はリカードにおいても受け入れられたのである。ただし「支配労働」の否定という形をとってであるが。

スミスが“苦し紛れに”考えだした「支配労働」は、生産手段が過去からの労働の蓄積であるという考えをすれば、そんなものまでごたまぜにしておばけみたいな労働形態を考える必要はなくなる。

そうなると、支配労働のもう一つの要素である地代や企業主の才覚の評価が問題になる。

これについては、リカードはもう一つの素晴らしいアイデアを考えついた。それは「差額地代論」という理論である。
肥沃な土地は稀少である。だから肥沃でない土地も耕作せざるを得ない。
肥沃でない土地では、同じ量の穀物を生産するのに、より多くの労働の投入が必要となる。
穀物の価格は、最も劣った土地での投下労働量によって決まる。
なぜなら、穀物の価格がそれよりも低いと、最劣等の土地での農業は赤字になり、生産が続けられなくなるからである。
逆に、優等地の穀物は労働量(すなわち価値)を超える交換価値を市場において獲得することになる。したがって、優等地での生産は超過利潤を生む。

その結果、農業経営者間の競争が優良な土地にプレミアムを生むことになる。これが差額地代となる。
地代は農地の豊かさの証明ではなく、農地の相対的な貧しさの反映なのである。
それはマルクス流にいえば、労働の節約による「相対的剰余価値」の変形となる。
これがリカードの地代理論(差額地代論)である。

それではスミスはどう考えていたかというと、

農業では、自然(地力など)や家畜が人間と並んで労働をしていると考えた。そしてそれらが、人間の労働と同様に価値を生み出すと考えた。

そのゆえに、それらをふくめた“労働”の価値として地代が生じると考えた。

この素朴なアニミズムが「支配労働」説のオリジンであったのかもしれない。
リカードは差額地代論を練り上げることで、「支配労働」説の神話的根拠を突き崩したといえるだろう。

さらにいえば、リカードの差額地代論はケネーの農本主義的再生産表の根拠にも侵食しているといえる。

私感: 「差額地代論」はあまりにも鮮やかな一本背負いであるが、それだけに論理だけに寄り掛かるモロさも内蔵している。
これは一口で言えば、“マイナスの労働価値”である。肥沃な土地は生産物をより少ない労働で獲得することができる。この「労働の節約」分がいわゆる超過利潤となり、地代の源泉となるというのである。
ただしこれは究極のところ肥沃でない土地での労働によりあがなわれるので、労働価値の直接の反映ではない。
またそれは生産・分配過程の外で行われるものであり、別途論じるべきものではないだろうか。
リカードはそのあたりにまで考えが回っていなかった可能性がある。

このようにして、リカードはスミスの論理を使ってスミスの「支配労働」を否定した。

これにより原材料や生産手段が価値論に組み込まれ、同時に地代は価値の構成部分からは排除されたことになる。

Ⅳ 労働価値説に基づいた分配理論

ここから先は、スミスの継承というよりリカードが独自に開拓した理論となっていく。

スミスの論理を投下資本オンリー説で再構築していくと、価値はどのように分配されるか。

リカードはこれを賃金、利潤、地代に分けた。これはスミスの価値分解説を踏襲したものである。

賃金はまずもって生存賃金である。それは労働者の生存と再生産を可能にするために必要な生活物資の価値に等しい。

利潤は生産物の価値から、労働の賃金と他の生産手段の価値とを差し引いた残りである。これが資本家階級の所得となる。


リカードは利潤と賃金がトレード・オフの関係にあると提起している。

そして資本主義が発展すると、利潤率は低下する。

これは以下のようなメカニズムで説明されている。

資本が蓄積され、人口が増えると、穀物需要が増える。

それは耕作限界の拡大をもたらす。つまり、肥沃さの劣った土地が生産に引き入れられる。それは穀物の価値の騰貴をもたらし、それが優等地での地代を生む。穀物価値の上昇は、賃金を上昇させ、利潤を低下させる。

利潤がゼロになったとき、資本蓄積は止まり、人口も定常状態に達する。このとき、利潤はゼロ、賃金は相変わらず生存水準で、地代は最大になっている。これがリカードの描く分配の動学である。

私感: これが本当だったら、人類はとうの昔に破滅していたはずで、どこかに誤りがある。
リカードの差額地代論は、地代を賃金・利潤と同一カテゴリーに置くべきでないことを示唆している。また価値と交換価値のより厳密な使い分けを求めていると思う。

リカードの忠実な使徒だったマルクスはこの問題で悩んだ。

搾取者に弔いの鐘はならなかったし、搾取者が搾取される革命も起きなかった。

この結果を見て、マルクスはリカードを離れ、独自の道を模索するようになった。

これについてはまた別な文献で勉強しなければならない。

多少お神酒が入ったところで、もう一度アダム・スミスを語る。

アダム・スミスは画期的な労働価値説を打ち出しながら、「支配労働」というゴミ箱的概念を持ち込むことで、最終的には月並みな「生産費説」(価格=費用価格+平均利潤)に落ち着いてしまった。

労働価値説は生産費説を飾るちょっとおしゃれな彩りにしか過ぎなくなってしまった。

その背景には、①なんでも労働価値という「原理主義」、②これを背景にした「支配労働」論、③「支配労働」論を背景にした「自然価格」論(労働価値=すべてのコスト)という論理上の三段跳び(というか三段落ち)があった。

ところで「支配労働」は、利潤の源泉を労働に求めつつ、利潤と賃金の矛盾をなんとか説明しようとしたところから生まれたトリッキーな議論ではないか。

なぜなら搾取(人為的)を前提とする「自然」価格などあり得ようがないからである。

もう一つは、比較的小さな問題だが、地代まで労働の産物としてふくんでしまったことである。だれでも「流石にそれはないでしょう」ということになる。

ここでリカードゥが立ちはだかった。支配労働なんてくそくらえだ、と。

地代については「差額地代論」で整理がついた。それは利潤論へもつながる論理であり、支配労働論への痛烈な一撃だった。

それでスミスが覆い隠そうとした利潤と賃金の矛盾が、あからさまになってしまった。利潤というのは資本家が生産→販売という過程に紛れ込ませた「詐取」なのではないか、ということになる。

という展開になるのではないかと思うが、まずは勉強だ。

で、勉強は明日だ。もう頭は回らない。アルコールだけが回る。

奥山忠信 「労働価値論の思想と論理-アダム・スミスの遺産」政策科学学会年報 第4号

前項の宮川論文では、議論の前提となるスミスの理論についてさっぱりわからず、読解に大苦労した。
この論文はマル経のものではないが、その分、マルクスの小難しい表現に悩む必要がないだけ読みやすいだろう、と期待して読むことにする。
見出しは、原文の目次を無視して私が勝手につけたものである。
需要曲線と供給曲線における限界効用理論と限界費用曲線に関する問題を考え直すために、アダム・スミスの考察を中心に、古典派労働価値論の意義を再確認する。
ということなので、「古典派労働価値論の意義」のところを読めば、後半の「需要曲線と供給曲線における限界効用理論と限界費用曲線に関する問題」は読まなくて良いだろうと、ずる賢い発想。

Ⅰ はじめに 労働価値論の見直し
主流派の経済学は、伝統的に需要・供給曲線を書くところから始まる。そして需要曲線の右下がりの理由を「限界効用逓減の法則」に置く。
しかし仮に限界効用の逓減が正しいと仮定しても、これは消費の特定の場面での話であって、生産過程をふくめて経済活動全体を見渡したものではない。

アダム・スミスやマルクスの経済学に登場する資本家の行動はこのような限界理論とは異なる。
古典派経済学では、市場価格は需給関係で変動するが、自然価格は一定である。需要曲線がどのようにシフトしても、生産費によって自然価格は規定される。
資本は、価格が上がったから供給量を増やすのではなく、利潤量や利潤率を基準に供給量を増減したり、他部門に移動したりする。
だから自然価格は供給量や需要量とは無関係に一定である。(まぁ、相対的には影響を受けにくいということでしょう)
労働価値論は、現在の経済学においては異端派である。
しかし、本稿は、今日の経済学の説く価値論に強い疑問を持っている。
実体経済を考慮すると、むしろ、労働価値論や生産費説をベースとした古典派の価値論の方が現実性を持っているのではないか、と考える。
良いですね、この滑り出し。

アダム・スミスの労働価値論は、1776年に刊行された『国富論』に展開されている。
これまでスミス価値論は投下労働と支配労働の関係、価値分解説と価値構成説の関係で混乱しており評価に耐えないとされてきたが、いま、一定の再検討が求められているのではないか。

Ⅱ アダム・スミスの労働価値論 概要
1.重商主義者とスミス 労働価値論の出発点
スミス価値論を理解するためには分業論を知らなくてはならない。スミスはいう。
分業社会では、人々は商人的な性格を帯びる。相互に利己心を刺激つつ、互いに自分の欲するものを獲得する。だから交換は人間の本性に根差しているということができる。
(論旨とは無関係だが、この記載は利己心を人間の本性とする点でほとんどナンセンスだ。利己心は自己防衛本能とはまったく異なる。利他心と同様に歴史的なものだ)
もともと交換には相互需要の不一致という困難がつきまとう。この困難を解決するために、人々に広く受け入れられる商品を手元に保有しておく必要がある。
それが貨幣である。
この場合、手元に置く貨幣は富として蓄えられているわけではない。
それは購買手段として用いるために、一時的に手元で保存された価値なのである。
このあたりちょっと複雑だが、
スミスは重商主義者のように、富(自己目的としての致富)としての価値保存機能を説いているわけではない。
しかし、貨幣が流通手段(交換の道具)として機能するためには、少なくとも一時的には手元に置いておく必要があることを認めている。その限りでは価値保存機能(マインドもふくめて)も残されているといえる。
スミスは貨幣を、商業社会=文明国の普遍的な「商業の道具」と定義する。そこには、貨幣を「富」とする重商主義に対する批判の意味がある。
スミスにとっての富は、貨幣ではなく労働生産物である。
このあと、奥山さんの記載でちょっとわかりにくい一節がある。
スミスはリカードゥから貨幣数量論だとして批判されているが、それは誤解である。貨幣数量論はヒュームの主張したものであり、スミスはこれを批判している。
ヒュームら貨幣数量論者は、中南米から流入する金銀の増加が貨幣量の増加をもたらしたと説くが、スミスは支配労働の下落による貨幣価値の下落が物価を上げた、と説く。
これは何よりも明確な貨幣数量説批判になっている。
貨幣数量論についてはいずれ機会があれば検討することにする。支配労働については後で触れることにして、次に進む。

3.「国富論」第4章での予告的紹介
貨幣を論じた『国富論』第4章は貨幣論であるが、その最後に、第5章以降の価値論がざっと紹介される。
労働生産物の交換には自然のルールがあり、それが商品の相対的価値あるいは交換価値を決定する。こ
の法則の研究が必要だという。
それはマルクスがスミスを乗り越えつつ目指したものでもある。
① スミスの労働価値論における「自然のルール」
スミスは価値を2つの意味に分ける。
第1に使用価値(value in use)であり、第2に交換価値(value in exchange)である。
使用価値とは、使用に際しての有用性(utility)である。
これに対し交換価値というのは、財の所有を譲渡して他の財を購入する力である。
この辺は資本論の最初のところですね。しかし交換価値の規定はなかなか難しい。難しいということは、曖昧さをふくんでいるということにもつながる。
② いわゆる「水とダイヤモンド」問題
水ほど有用なものはないのに交換価値を持たず、ダイヤモンドは使用価値を持たないのに高い交換価値を持つ。
それはなぜか。
ダイヤモンドの美しさが価値を持つのではない。その使用価値が特殊な故に、人々が獲得するための困難を厭わない、ということに裏づけられている。
希少性や審美性は、より多くの労働に裏づけられて、高い価値を持つのである。
宝石は装飾品としてのほかは何の役にも立たない。その「美しさ」と言う値打ちは、その希少性によって、つまり鉱山から取得する時の困難さと費用によって定まる。
この辺はもう少し言い換えてみよう。
希少性について: ダイヤモンドは希少であるが故に価値を持つわけではない。希少であるが故に、より多くの労働に値するから価値を持つ。
審美性について: ダイヤモンドが使用価値を持たない、ということの意味は、衣食住のレベルの人間生活には役に立たない、という意味である。
美しさの持つ使用価値を否定していたわけではない。
この辺は、人間的欲望(の高次化)との関係で語るとより中身が豊富になりそうだ。

4.「国富論」第5章 生産物の価格について
次が第5章の価値論である。ここから少し話が難しくなってくる。
第5章のタイトルは以下の通り
「商品の真の価格と名目価格について、すなわちその労働による価格と貨幣による価格について」
つまり商品の「真の価格」は労働によって決められるが、それが貨幣で示されたのが名目価格ということであろう。
① 労働の量が価格の根本
スミスは生産につぎ込まれた労働の量が価格の根本だと言っているのである。
「世界のすべての富がもともと購買されたのは、金や銀によってではなく、労働によってである。
したがって、労働能力を所有する人が、労働と交換に何か新しいもの(商品)を得ようとする時、彼の労働量は購買できる価値と正確に等しいのである」
スミスはこれで、商品の不変の価値尺度をめぐる論争に確固とした方向性を与えた。
② 労働の多様性をどう処理するか
スミスは労働の多様性についても、時間、強度、難易度などは社会的な平均労働に還元できるとした。それは「市場での交渉や取引」によって、大まかながら調整されるのである。
その根拠となったのが「分業の進展による労働の単純化」である。
ここまではまったくその通りで、すばらしい。
5.投下労働と支配労働
ここから投下労働と支配労働の話が始まる。投下労働についてはまったく問題ないが、支配労働というところからおかしくなってくる。
とにかく読み進もう。
分業の進展により単純化された労働は、商品を生産するのに必要な労働である。これを投下労働という。
「あらゆるものの実質価格は、それを獲得するための労苦である」
俗っぽく言えば、労働の負担(cost)が実質価格(real price)なのである。

スミスの労働にはもう一つのカテゴリーがある。それが支配労働である。
支配労働は、分業と交換の社会において特別な意味を持つという。それは労働に何をもたらすか。
スミスはそれを自分の労働の節約として根拠付ける。なぜなら、労働は苦痛であるばかりではなく、安楽や幸福の放棄でもあるからである。
「彼自身の労働を節約でき、また他人に課すことができる労苦」
とされる。
これはどう考えても不適切なカテゴリーだ。マルクス流にいえば労働ではなく「搾取」だ。
スミスはあらゆるものを「労苦」の成果と考える。ある意味では正しいのだが、言い過ぎだ。
彼は生産手段も原料も地代さえも先人の「労苦」の賜物と考える。だからそれを利用することは他人の労働の成果を「支配」することになるのだ。
ここまで行くと、さすがに常識はずれの「労働」原理主義だ。ただ奥山さんの解説がやや舌足らずになっている可能性もある。
ただ、「労働は苦痛であるばかりではなく、安楽や幸福の放棄でもある」という主張は示唆に富むところがある。おいおい検討しなければならない。
とりあえず、支配労働については保留して先に進む。

6.貨幣がなぜ必要なのか
このようにして購買と販売は、等量労働の交換に帰結する。スミスは労働を「本源的な購買貨幣」と呼ぶ。
それでは、労働という真実尺度があるにもかかわらず、貨幣がなぜ必要なのか。
貨幣という名目尺度が必要となる理由をスミスは次のように説明する。
第1に、「異なる労働の比を尺度するのは困難である」からである。
たしかに労働の交換は理屈では分かるが、社会的平均労働を個別の交換に当てはめるのは難しい。
第2に、商品は労働と交換されるよりは、商品と交換されることが多いこと。
奥山さんは次のようなコメントを加えている。
それに商品や貨幣は手でつかめるわかりやすい対象物であるが、「労働」というのは抽象的概念であり、自然で明白だとは言えないのである。
たしかに常識的には正しいことだ。ただあまりにも常識的というか、皮相な捉え方ではないかとも思える。

Ⅲ 労働価値論と支配労働説
1.価値分解説と価値構成説
いよいよここから価値分解説と価値構成説の問題に入る。
まず、奥山さんによる定義から
価値分解説: 価値分解説とは、商品の価値は労働によって作られ、労働によって作られた価値が、賃金、利潤、地代に分解される、とする見解である。
価値構成説: 価値構成説とは、商品価値は、賃金、利潤、地代の合計によって成り立つ、とする見解である。
見ての通り、基本となるのは価値分解説であり、価値構成説は「逆もまた真なり」という若干安易な論理である。
ただ後の議論では、価値構成ではなく価格構成説となっているので、かなりややこしくなる。

2.「支配労働」概念の挿入
スミスの「国富論」の「第6章 商品の価格の構成部分について」の説明を見てみよう。
まず、初期未開の社会におけるビーバーと鹿の交換事例が例示される。
ビーバーを捕獲するのに鹿を捕獲する際の2倍の労働が費やされるとすれば、1頭のーバーは2頭の鹿と交換される。
この場合、交換に参加した狩人たちの労働は純粋な投下労働である。
次に資本家の登場する世界、すなわち資本主義社会である。
そこでは労働だけが唯一の交換の事情ではなくなる。資本家の監督や指揮が、労働者の労働に付け加えられる。したがって、利潤は労働の量には比例しない。
これに加えて、地代が賃金と利潤に続く第3の構成要素となる。
これが価格構成論である。
価格のさまざまな構成要素のすべての実質的な価値は、それらがおのおの購買あるいは支配することのできる労働量によって測られる
とスミスは述べる。
ここから迷走が始まる。「価値」を構成するのは投下労働ではなく、支配労働だというのである。
支配労働とは何か。
価格の中の労働(投下労働)だけではなく、土地の部分、利潤の部分も労働の結果としてみなければならないということだ。「購買できる労働」というのは設備や原材料のことだ。「支配できる労働」というのは労働者を賃金以上に働かせること、つまり他人の労働の「搾取」だ。
これらの要素も、遡及すれば賃金と利潤と地代に分解されるからだ。

3.スミスのドグマ
これがマルクスの言う「スミスのドグマ」だ。
『資本論』、第2部第3篇第19章第2節「アダム・スミス」にこのことが記載されている。
マルクスは「 v+m のドグマ」と批判している。
(スミスにおいては)生産手段部分が消えて、賃金部分(可変資本 v)と剰余価値(m)だけが商品価格になってしまう
と皮肉っている。(あくまでも皮肉である)
ドグマとは独断ということだが、それなりの根拠を持っているので「原理主義」あるいは「暴走」という方が適当だろう。
スミスはここから支配労働の枠を無限に広げていくわけだが、もともとは、この支配労働と投下労働との差分が利潤になるという理屈を持ち出すための概念だと考えてよいのだろう。
いずれにしてもかなり無理があることは間違いない。
奥山さんは支配労働についてわかりやすく例示している。
例えば、労働者が1日に10時間労働して、10個のパンを作ったとする。この内、労働者は8個のパンを消費すれば1日の生活が成り立つとしよう。
8個のパンの投下労働時間は8時間である。資本家は、8時間労働のパンに相当する賃金で、労働者の10時間の労働を支配したことになる。
10時間から8時間を引いた2時間部分が余剰であり、これが利潤の源泉となる。
このスミス独特の剰余労働論と、その根拠となる支配労働の否定(リカードゥ)のジレンマの中からマルクスの剰余価値論が生まれてきたといえる。

3.価値構成説の問題点
① リカードゥの価値構成説批判
価値構成論の論理の危うさは、リカードゥに厳しく衝かれることになる。それが「賃金・利潤相反説」である。
そもそもリカードゥは支配労働を認めず、労働価値論を投下労働価値説で一貫させた。
その場合、賃金が上がれば、商品の価格が自動的に上がることになる。
価値分解論を正しいとすれば、賃金と利潤と地代のうち地代は不変であるから、賃金が上がれば利潤は減ることになる。
これはつまるところ労働価値論からの乖離ではないか、というのである。
② リカードウの『経済学および課税の原理』
第1章は、「価値について」と題されている。
その第1節のタイトルは、次のようなものである。ずいぶんと長い。
「商品の価値、すなわち、この商品と交換される何か他の商品の分量は、その生産に必要な労働の相対量に依存するのであって、その労働に対して支払われる報酬の多少には依存しない。」
むずかしいが重要な提起である。こういうのが続くと、当方の頭はたちまち豆腐状態になる。
私なりに解説してみる。
報酬というのはスミス風に言えば投下労働であるが、結局これは貨幣化された過去の労働であろう。
報酬の「過去」がどうであっても、この度の生産には関係のない話である。あくまでもこの度の生産に投下された「投下労働」が価値を決めるのだ。
であれば、賃金も利潤も、「労働量によって決定された価値量をどう振り分けるか」という事後の問題でしかない。
賃金や利潤の変化が商品の価値を変えることはないのである。
価格は短期的には別問題だが、長期的には価値法則に従わざるをえないだろう。というのがリカードゥの見解である。
③ マルクスの見解
たしかにこの賃金・利潤相反説は、我々にとって大いなるジレンマである。
マルクスはこれを拡大再生産により切り抜けようとした。
仮に賃金が上がり、商品あたりの利潤率が下がったとしよう。しかしその場合でも、商品の販売量が増えれば利潤量は上がり賃金増をカバーできる。
もちろん販売量が増えなければこの論理は通用しないから、危うさをふくんでいることは間違いない。

Ⅳ 市場価格を規定する自然価格
むずかしい話もいよいよ終わりに近づいた。しかしこれまでの疑問点を足がかりにして理論が積み上げられていくから,ますます話がこんがらがってしまう。
奥山さんはこの章を以下のごとく要約する。
『国富論』の「第7章商品の自然価格と市場価格」の章は、市場価格による商品価格の現実的な動きと、それが収斂する重心としての自然価格が説明されている。
そのあと、いきなりわかりにくい言葉が並ぶ。
スミスは、賃金と利潤と地代のそれぞれに、需給の均衡状態を示す自然率があることを説く。そして、この自然率の合計を商品の自然価格と呼んだ。
しかしスミスの場合、原料や道具などの生産手段の価値は、賃金・利潤・地代に遡及的に解消されるので、この3要素の合計としての自然価格は、費用価格に利潤を加えた生産価格である。
市場価格は、供給量と有効需要の割合によって決まり、日々変動することが説かれる。
まぁ、一つの章を5,6行の文章にまとめること自体がそもそも無理なので、多少のわかりにくさはやむを得ない。「イヤなら原文を読め」と怒られてしまう。
とにかく私なりに読み解いてみよう。
スミスはここに来るまでに、2回危ない橋を渡っている。
最初は労働価値論における「労働原理主義」だ。最初に投下された資本以外はすべて労働の産物だ。だから設備も原材料もすべて労働に算入されてしまう。第二には、それらをひっくるめて「支配労働」という概念に集約してしまう。
その上で、支配労働にくくられた賃金、利潤、地代を今度は分解して、それぞれに価格付け(コスト算定)を行う。その合計が「商品の自然価格」というわけである。
したがって、スミスの言う商品の自然価格は、投下労働を真の労働と考える人にとっては実に奇怪なものとなる。
奥山さんが言うように
この自然価格論は、(結局のところ)いわゆる生産費説であり、ビーバーと鹿の交換事例のような労働価値論とは異なる。
したがって、論理不整合である。
私ならもっと露骨にいう。スミスの自然価格論は労働価値説を騙った、生産コスト=自然価格論でしかない。
せっかく労働価値説を発見しながら、現実の世界に妥協を続けて腰砕けになり、労働価値説の言葉で飾り立てた生産コスト=自然価格論に落ち込んでしまったのだ。


奥山さんの結論

アダム・スミスの労働価値論の思想と論理は、以下のように整理できる。

第1に、スミスにとって最も重要な概念は支配労働にある。
分業と交換の社会では、自分の行った労働そのものではなく、支配労働が価値の尺度になる。

それは、自分が行うべき労働を他人にさせる経済システムである。

第2に、支配労働は、投下労働を前提とした概念である。しかし同時に、投下労働こそが本源的な購買貨幣であり、労働なくして何物も得られないことも自明とされる。

第3に、支配労働は価値の真実の尺度であるが抽象的な概念で、現実の尺度財にはなり得ない。

これに対し貨幣は、それ自身の価値が変動する名目尺度に過ぎないが、多くの人々にとって馴染みやすい自然な尺度である。

第4に、資本の登場によって、資本家は資本量に比例した利潤を求めるようになる。利潤は労働と比例しない要素であるが、価格の構成要素となる。

第5に、こうした社会では、労働は唯一の交換の基準ではなくなる。労働者の付加した価値は、賃金と利潤と地代に分解される。

第6に、スミスにあっては、原料や道具も遡及的に賃金、利潤、地代に分解されるので、自然価格は、いわゆる生産費説(価格=費用価格+平均利潤)

自然価格論は投下労働という意味での労働価値論からの修正(逸脱?)である。

第7に、市場価格は自然価格から乖離するが、需給関係が調整されることによって、市場価格は自然価格に向かって調整される。

私の結論は、目下のところない。難しすぎて、理解も曖昧なので、もうすこし勉強してから。
感想としては、スミスの論理は、少なくとも前半は快調そのもので、非常に勉強になった。
これまでマルクスの独創と思い込んでいたものが、実は(萌芽的にではあるが)スミスによってすべて提示されていることがわかった。
マルクスは古典経済学の創始者としてのアダム・スミスに敬意を払いつつ、その後半の脱線部分を修正し、より首尾一貫としたものにしようと努力した。同時にスミスやリカードゥを投げ捨てたその後の経済学者に対し、その擁護者として立ち向かったということになろうか。

知っている人にはつまらないことでしょうが、私には今まであまりスッキリしていなかったので…

資本論をわかりやすく説明するために、資本というのを資金と言い換えてはどうかなと思ったんです。

「元手」という言葉がある。これは「おカネ」だが、「商売に使えるおカネ」という意味だ。

これがかなり「資本」や「資金」に近い言葉だと思う。

「資」というのはきっと動詞なのだろう。「…に資する」というから「力を与える」みたいな言葉なのかなぁ、それは株であっても預金であっても、換金可能なものだから結局は資金ということになるんではないか、と思ったんですね。

そしたら、全然違っていた。そもそも考え方が全然違っていた。

同じような言葉に「資産」というのがあるが、資本はどうもそちらに近いらしい。

「流動資産」というのに近いらしい。要するに生産の「因」、あるいは「元」をなすものだ。流動しないと「因」にはなれない。

流動資産というのは、資産家がその一部を流動化させているわけだが、それは資産を生産に回そうとしているためである。そうでなければ財産をわざわざ不安定化させる必要はない。

これにたいして「資金」というのは、あくまで、まずもって「カネ」である。流れる力を持つカネと言うより、現に流れているカネそのものである。

というわけで片やストック(資本)であり、片やフロー(資金)である、とも言える。

となんとなくわかった気になるが、「じゃぁ元手というのはどっちなんだい」と聞かれると、たちまちしどろもどろになってしまう。

何かそこには言葉が足りないのである。

「それじゃ、これならどうだ」というのが自己資本という言葉で、会社を経営するのには自己資本と借金が必要だ。両方合わせて運転資金となる。

自己資本というのも変な話で、そもそも他己資本というのはない。それは借金だ。金融機関等からの融資と、有期・有利子の債券発行によるものだ。

つまり、自己資本というのはまさに資本そのものであり、借金であろうと何であろうと、当座自分のために使えるものが資金なのだ、とは考えられないだろうか。

これは貸借対照表の世界になる。資金の方はキャッシュフローの世界になる。

もちろん借金には担保が必要なので、それはいわば固定資産の(書類の上での)強制的な流動化でもある。

株式の話は面倒なので省略。

ということで結論。

① 資本と資金とは違う。

② 資本というのは営利という目的をもつ資産

③ 資金というのは営利のために使えるキャッシュ

③ 資金には自己資本の他に借金もふくまれる。

④ 「元手」は、本人の気持ちとしては自己資本を指すが、客観的には借金もふくめた資金を指している。この気持ちのズレが「連帯保証人」の悲劇を生み出す。

一応、宮川論文は読み終えたが、感想すらも述べることができない。

肝心なことが何一つ分かっていない。

とにかく調べなければならないことが山ほどある。

とりあえずはそれを書き出しておこう。

第8稿について初めて日本で論じたのが、大谷之介さんで、その論文は1984年の発表である。

2014年05月25日 ネットで読める大谷論文一覧 を参照のこと

そして2008年に第2部準備草稿が刊行された。

しかし、大谷さんの論文から30年経った2014年でも、宮川さんの論文を見る限りまだ決着はついていないようだ。


わからない用語集(主にウィキから拾ったもの)

資本の循環 過程論

ウィキでは、資本の循環とは

①資本家が貨幣で商品を購買する購買の段階(これも流通過程)

②資本家が商品を生産する生産過程

③資本家が商品を販売する流通過程

三つの過程を循環するという資本の運動を指す。

と説明されている。

かっこよく書くと次の通り

G(貨幣)─W(商品)…P(生産)…W’─G’

G―W が①、W…P…W' が②、W’―G’ が③に相当する。

うむ、そうか。②と③は問題ないが、①は世間一般から見れば流通過程の一風景ではあっても、資本家にとっては生産過程というか生産準備過程みたいなものだ。

だから①も流通過程だとするウィキの説明は間違い(一面的)なのだ。

これから起業しようとする資本家にとっては会社の看板を掲げた日が創業記念日だ。

「資本論」というのは富の生産を論ずる本なのだから、基本的には資本家の目で論じなければならない。世間(商人)飲めで論じてはいけないのだ。

ただ1回目の投資と再生産の投資とは変わってくるだろうがそのへんはよく分からない。

商品資本の循環図式

別に難しい話ではない。

最初の貨幣の循環過程は①から始まって②,③を経て①に戻る。

これを商品の立場から見ると、まず③から始まり①、②を経て③に戻るだけの話である。

貨幣から始まるのを「形態Ⅰ」、商品から始まるのを「形態Ⅲ」という。生産からだと「形態Ⅱ」ということになる。

ただし詳しく話せば大変なようだ。なぜならそこには生産と次の生産のあいだの継ぎ目部分(生産物と生産物の交換)がふくまれているからだ。

その継ぎ目部分を説明するために、第2部第三章が「商品資本の循環」(形態Ⅲ)にあてられている。

いずれにしてもここまでは「言葉」だけだ。

結局言いたいのは、生産品が別の生産品と交換されそれが生産資本となる「継ぎ目」となるゆえに出てくる特徴だ。

それは①一般流通過程(総流通)の中で、②貨幣(非資本財)を仲立ちとして、③一般的(消費的)売買と混在しながら、④商品対商品として、すなわち剰余価値をふくむものとして相対する。

これを全体として見れば、流通過程が再生産過程の媒介として機能していることになる。


「貨幣=ヴェール」観

この見出しはウィキにはない。

コトバンクに世界大百科事典からの引用がある。

A.スミスからリカードへと,価値論にもとづく分配論の体系化が進むにつれて,貨幣に関する議論は経済システムにとって本質的でないような扱いとなった。

貨幣は単に実物の交換取引を容易にするための手段であり、雇用や生産、消費などの経済行動に影響を与えることはないとされた。

そして実体経済をおおうベールのようなものにすぎないということになった。これを「貨幣ヴェール観」と呼ぶ。(世界大百科事典)

これではさっぱりわからない。

同じコトバンクの「貨幣ベール説」には、以下の説明がある。

貨幣は実物経済のうえにかけたベールのようなものにすぎず,実物経済の動きを円滑にはするが,その本質にはなんの影響を与えるものでもない。

経済現象の本質を明らかにするには貨幣というベールを取去って,実物経済それ自体を分析しなければならないという考え方。

貴金属ないし貨幣こそが富と考えた重商主義に対する反動の強かった古典学派の時代からケインズ革命にいたる頃まで有力な貨幣説であった。 

何という分かりやすい解説! vもmも使わなくても、ちゃんと説明できるのだ。ブリタニカ国際大百科事典からの引用だそうだ。

これはについてはマルクスもその通り考えていたと思う。

そこまで言いながら、貨幣資本が生産資本となっていく「変態」の場面では、実物経済学者たちが貨幣と流通過程にしばられてしまっているという矛盾も、浮き彫りになってくる。

スミスのドグマ

この言葉はウィキにもコトバンクにも出てこない。経済学一般に知られた言葉ではなく、資本論研究者のあいだの「業界用語」のようだ。

宮川さんがアダム・スミスのドグマというのには価値「分解」説と価格「構成」説がふくまれているようだ。

このうち価格構成説については当初よりマルクスは批判的であるが、価値「分解」説については第8稿で初めて克服できたというのが宮川論文のキモである。

これによって初めて再生産論が十全なものとなったということらしいが、いま考えると、とんでもない論文を読んでしまったことになる。


その他、宮川論文には

循環-再生産論

資本循環と一般的商品流通との重層性

生産物の“転態

可変資本-労賃関係把握

個人的消費の循環

貨幣還流法則

資本-収入の相互転化とその把握

資本の費消

などの「術語」が並んでいるが、ネットでこれらの言葉を探すのは困難であり、言葉として熟しているとは言い難い。

業界内部の言葉を「常識」のごとく使われるのには参る。しかしそもそも出処が「業界誌」なのだから文句を言っても仕方ないか。

とりあえず、宮川論文はこれで一旦おしまい。


Ⅳ どこからマルクスの考えが変わったか

やっと最終章までたどり着いた。

「拡大された視野」への転換時点はテキスト文脈上どこであろうか? というようなことだから、ここはあまり難しい話はなさそうだ。

1.旧来の認識層から「分水嶺」へ

文学的な標題だが、「どこから変わり始めたか」という話らしい。

宮川さんはここだと断定している。

第8稿第3篇第19章第2節「アダム・スミス」の4項「A.スミスによる資本と収入」の記述が終わったところ。そして「5.総括」が始まる時点。

ここでマルクスはこう書いている。

ばかげた」価格「構成」説が「よりもっともらしい」価値「分解」説定式から生まれてくる。しかしこの価値「分解」説もまた誤りである。

これを宮川さんは以下のごとく解説する。

価値分解説というのは(生産物の)交換価値のうち、成分 v を労賃に「分解」する操作そのものである。

これがよく分からない。たしかにいきなり労賃が出てくるのはおかしいといえばおかしい。貨幣資本は剰余価値を生む商品である労働力商品と交換されたのであり、貨幣資本という資本形態が労働力という資本形態に“変態”されたのである。

ただ現象的にはたいした違いはなさそうだが…

とにかく、宮川さんは第3篇第19章第2節の第4項と第5項の間に明確な切断面があると強調する。

第19章第2節の「1.」〜「4.」までは,第1稿以来踏襲されてきた価値「分解」説の受容もしくは留保的立場に止まっていた。

しかし同節「5.総括」にいたると,評価の決定的転換が起こる。そして価値「分解」説および資本-収入転化命題にたいする踏み込んだ批判がくだされる。

果たしてこの「分水嶺」がどれほどまでに重要なものなのか、このへんはとりあえず宮川さんの意見を拝聴する他ない。

2 線分分割の比喩

3 編集手入れによる異なった認識層の混交

このあと、エンゲルスの編集がいかにこの切断面を覆い隠したが語られるが、ややこしい話なので省略する。


まとめに代えて

ここから宮川さんはかなり大胆な議論を始める。

ここまでの議論にまったく同感というわけではなので、と言うより良く理解できていないので、御説拝聴にとどまるが。

A. 第8稿は古典派スミス・ドグマ再生産論に対する反逆であり、マルクス独自の再生産論樹立の歩みである

つまり、第8稿以前の再生産論は第8稿に照らし合わせて再構築しなければならないということである。

B. 1861-63年草稿は、ケネー経済表研究とスミス・ドグマ(v+m)の批判的摂取を中核としていた。

C. 資本論第1部刊行のあと着手された第2稿 (1868 - 70 年)では、第1稿の考察を継承しつつ再生産過程の把握を試みた。

それはスミス・ドグマの枠組みに制約されていた。すなわち

①消費手段部門から始まる社会の3大取引

②貨幣ヴェール観に基づく貨幣還流運動で締め括る構想

③それを支える資本-収入転化把握および価値「分解」説の受容と適用

がそれである。

D. 第5稿〜第7稿 (1876 - 1878年) では、第1篇資本循環論の彫琢と仕上げがなされた。

これは古典派スミス・ドグマ再生産論への反逆の準備であった。

資本循環と一般的流通との連繫が「同時重層的」関係として確定された。

これにより貨幣資本や商品資本をめぐる貨幣・商品機能と資本性格とのあいだの区別・関連づけが明瞭になった。

この宮川論文でもっとも力を入れているところである。同時にもっとも難解な部分である。

あらためて読み直してみても核心は良くわからず、挑戦的で無内容な形容詞だけが踊る。

E. 宮川さんの最終的結論ということになるが、スミス・ドグマの否定は第5稿〜第7稿における資本循環論の仕上げと,第8稿における価値「分解」説の決定的払拭という三段跳びでなし遂げれられた。

ただこの論文では、第5稿〜第7稿で資本循環論をゴシゴシやった理由とか、きっかけについては触れられていない。

最後に宮川さんはいろいろな理由を上げて、“混乱の責任を編集者エンゲルスに負わすことはできない”としているが、内容的には間違いなくエンゲルスに負わせている。


Ⅲ 資本循環論の仕上げ

1. 資本-収入転化関係の論点化

2.マルクスの資本-収入転化論への取り組み

3.貨幣を資本にするもの

4.貨幣を資本にするもの 宮川さんの説明

ここまでが前回記事。今回はⅢ章の後半部分。

5.第2稿の再生産論 その限界と混迷

次に第2稿の「再生産論」についての記述だ。

再生産論は資本-収入転化関係論から導き出されるらしい。したがって資本-収入転化関係論が誤っていれば、その誤りが再生産論にも持ち込まれることになる。
ところで、「資本-収入転化関係論」というのが分からない。しかしそこが分かっていないと、この先の議論はさっぱり見えなくなってしまう。
これについての説明はないのだが、前後の文脈から判断すると、資本家が貨幣資本を使って生産のための仕込みを行う過程のようだ。平ったくいえば労働者を雇い、原材料を揃えることだ。
これは購買活動であり流通過程の一部だ。それと同時に生産と次の生産の継ぎ目だ。これがないとピストンの上下運動は回転運動にならない。
ここは資本論の要諦をなすところだけに非常に難しいが、なんとかかじりついていこう。


宮川さんは、第1稿の再生産論にふくまれる問題(誤り)を次の二つにまとめている。

(a)「資本の費消」という不条理きわまる表記

(b)固定vs流動状態という機械的対立での資本・収入規定の認識

まず「資本の費消」について

第2稿第1章では、資本循環について触れられる。ここでマルクスは、資本循環G-Wが一般的商品流通と「絡み合う」ことを明らかにする。

これに続く第2,3章では,流通手段についていくつかの規定をおこなう。そこでは第1稿を引き継いで、スミスらの資本-収入転化把握を受け入れる。

その結果,以下にみるようにひどい混迷に陥った。

「貸し前された£5000の資本は,消費されている。それはもはや実存しない」(第2稿第2章) 

「可変資本として前貸しされた貨幣資本は、労働者たちによって収入の流通手段として投じられる」(第2稿第3章)

つまり資本が転化するところの労賃収入によって、(資本が)費消ないし消尽されてなくなる

ということである。

貨幣形態の固定vs流動状態という機械的対立 について

「貨幣はそれが流通するあいだには機能しつつある流通手段でしかない。貨幣がそれ以外の機能を発揮するのは貨幣が流通していない期間のみである」(第2稿第3章)

宮川さんはこの記述を以下のように批評する。

資本・収入規定と流通手段とが,固定と流動状態という排他的な対立関連で捉えられてしまった。

貨幣通流の感性的動きにとらわれた偏った一面的理解というほかない。

分かるような気もするが、今ひとつスッキリしない説明である。もう少し単純に言えるのではないか。つまり仕入れ活動により貨幣資本は非貨幣資本(労働力商品をふくむ商品資本)に姿を変える。しかし非貨幣資本といえども購入された商品であり、商品としての流動性は持っている。
だから資本(貨幣資本をふくむ)において流動性で分類するのは間違いである。本質的な特徴は、再生産過程においては過去の生産物が資本であるということであろう。
どう表現すればよいのかは、またあとで説明があるだろう。

宮川さんはこれらの誤ちがどこに起因し、どう修正しなければならないかを下記のごとく述べる。

その克服には,古典派の貨幣ヴェール観を払拭し循環-再生産論の視点からの再構成が求められる。

しかしこれが分からない。

貨幣ヴェール観とは何か、循環-再生産論とは何か、「再生産論」一般とどこが違うのか…

宮川さんはさらに言葉を続けるが、ほとんどおまじないにしか聞こえない。

社会の諸資本の種々な規定(不変資本・可変資本,流動資本・固定資本,貨幣資本・商品資本,また貨幣の種々な諸機能など)での独自な自立的循環過程が相互に絡み合い条件付け合いつつどのように進行するか,ならびにこれと絡み合いこれを条件づける収入循環がどのように成就されるか,これらを明らかにする課題が,浮上する。

なんとか読み解くと、再生産論の主題としては

①社会の諸資本の独自な自立的循環過程の全体像

②諸資本の循環過程を規定するものとしての、不変資本・可変資本,流動資本・固定資本,貨幣資本・商品資本,また貨幣の種々な諸機能など

③諸資本の絡み合いと条件付け合い

④資本循環過程への収入循環の関与

などがあげられるらしいが…

たしかに、ここまで行くとこの論文の主題ではないな。

6.資本循環論 第5稿〜第7稿での3つの到達

第1,第2稿での資本循環論の誤りがどう克服されていったか。それがこの説では取り上げられる。

A) 貨幣と貨幣資本との取り違え錯誤の批判

マルクスは資本循環と一般的商品流通とのあいだにある重層性を把握した。

これによって,「貨幣資本」を構成する成分,すなわち「貨幣」と「資本」という二つの要素が、それぞれ独自の性格を持つことが明確に区別された。

そのことから、二つの要素を有機的に関連づけることが可能になったという。そう言われても分からない。

「貨幣機能を資本機能に転化することができるのは,この〔資本・賃労働の階級〕関係の定在である」(第7稿)

宮川さんはこう説明する。

これにより、「貨幣資本」にまつわる「二つの誤解」、すなわち貨幣機能を資本性格に起因させ,またはその逆に資本性格を貨幣機能に由来させる誤りが明らかにされた。

私ならこう書く。

賃労働と資本という社会関係が発生し、この中で貨幣に流通手段だけでなく、価値生み機能という「使用価値」が与えられた。

価値生みの働き(資本契機)をになう限りにおいて、貨幣は貨幣資本となる。(ただしこの表現が正確かどうかは保証の限りではない)

B) 商品資本循環図式の確立

資本と商品流通とを重層的に把握すると,それによって資本循環と個人的消費との絡み合いを適切に組み入れることが可能となる。

重層的、重層的というがどうやれば重層的把握になるのかが明らかにされない。

商品資本循環とは:

商品資本W’が再生産的消費および個人的消費の契機をみいだすことから出発する。

この循環図式においては、商品資本循環を社会的な総資本の運動形態として考察するよう求められる。

ここまではよいがその後のセンテンスが分からない。


こうして形態III (商品資本循環図式)が社会的再生産の考察のための唯一の図式として確定された。

説明はこれで終わりである。

C) 貨幣還流法則の成立

資本循環理解の前進によって貨幣還流運動が法則としてつかみ出された。

ふーん、そうですか

ケネーやマルクス自身の「経済表」の考察の際には,形態的循環を表す還流と通流で描かれる還流とが即自的に一体をなしていたのに対して,資本・収入の形態的循環とそれらを媒介する貨幣の通流運動とが再配置される。

ふーん、そうですか

出発点への貨幣の還流運動は,第8稿第3篇においてはじめて「法則」として示される。

「商品流通の正常な経過のもとでは,流通に貨幣を前貸しする商品生産者の手もとに貨幣が帰ってくる」(第8稿)

これが一般的法則である。

とうことは、資本家は労賃、設備・光熱費、原材料費に加えて、流通にも貨幣を前貸ししているということになるのかな。

ここでは,貨幣の通流が形態的復帰とは切り離された上で,商品流通の正常経過の反映としての貨幣の形態的復帰=還流法則が,単純な商品流通場裏に復元,定着させられている。

再生産過程では,社会的取引の大流れの枠組み(閉鎖体系)のもとで,階級間を媒介する貨幣個片の通流が貨幣の出発点への復帰として,すなわち貨幣還流を描いて現れるという関係として,明確に把握されるのである。

ここもさっぱりわからない。かなり宮川さん、すっ飛ばしている。ほとんど見出しだけの文章だ。まぁ、あとで説明があるのかもしれない。とにかくついていこう。

以上のごとく資本循環論の確立の諸指標を紹介した。

これまでの資本の循環運動は貨幣流通を媒介とせざるを得ない、したがって貨幣流通量に規定されざるをえなかった。

しかし第8稿で示された資本循環論は,このような制約から解き放たれた。

新しい資本循環論は、自立した循環運動としての資本循環の意義と地位を確定した。

これをもって、資本循環論は「再生産論」の範疇の中にしっかりと据えられることになった,

…なんだそうです。

7. 再生産論を資本循環論で基礎づけることの意義

まだこの節は続くのだが、「資本循環論の確立の3つの指標」についての説明が終わったので、新たに節を起こす。

さっぱりわからなかったが、とにかく新たな資本循環論は3つの発見によって完成した。

それでこの資本循環論を使うと再生産論がいかにスッキリするかという話に入る。

まずはマルクスの少々長い引用から。

「生産物の“転態”は生産物の流通を意味する。この流通は、同時に資本の再生産を包括する。

資本の再生産は不変資本、可変資本、固定資本、流動資本、貨幣資本、商品資本への資本の再形成をも包括する。

この生産物の“転態”は、たんなる商品の売買(貨幣による)を前提とはしていない。

重農主義者たちとアダム・スミス以来の自由貿易学派は、商品と商品との転態だけが資本の再生産の前提だとしたが、決してそれにとどまるものではないのである」(第8稿)

このへんでおぼろげながら見えてきたのは、生産物は商品ではないということ、生産物が資本になるためには貨幣を直接の仲立ちとする必要はないということである。

生産物の“転態”といえば、“W’-G”ということになる。ただし資本主義の初期であればW’は商品であり、Gは貨幣ないし貨幣資本ということになっていたのだが、今やその枠に収まるものではなくなった。

だから、再生産と資本の回転の立場から見れば、W’はあくまでも生産物であり、Gは資本ということになる。

“転態”は売買や貨幣が介在してもいいが、なくても十分やっていける。貨幣資本という形態を介在させる必要はないのである。

肝心なことはどういう経路をとったとしても、生産物が最終的に資本になればいい。あえていえば“W'-W"”である。

それでは貨幣資本はどうやって獲得するか、とりあえずであれば蓄蔵貨幣を動員したり、信用を利用するなどいくらでも方法はある。

これらは再生産過程の繰り返しの中では、半ば自明のことであるが、資本循環そのものを単独で取り扱う場合には見過ごされる可能性がある。

その結果、宮川さんの言葉によれば、

資本循環の運動がまさに流通手段(貨幣媒介)や他の資本循環・収入規定などとの絡み合いの関連として問われるときに,これまでの資本循環論の認識の不備や未熟があらわになる。

ということになる。

ということでよろしいでしょうか。
それにしてもマルクスの原文より解説文のほうが難しいというのも困ったものだ。

Ⅲ 資本循環論の仕上げ

例によって、宮川さんの本文に入る前に、私の感想を入れておく。

もう一度、第1稿~第8稿までの執筆年代表を載せる。

第1稿

1864~65年執筆

第2稿

1868~70年執筆

第3稿

1868年執筆

第4稿

1868年執筆

第5稿

1876~80年執筆

第6稿

1876~80年執筆

第7稿

1876~80年執筆

第8稿

1877~81年執筆

執筆時期は3期に分かれている。

第1稿は第2部、第3部をふくみ、資本論第1部の刊行前にすでに書き終えている。

第1部の刊行後に、第2部、第3部の清書稿に取り掛かったものと思われる。

ところが2,3,4稿と修正を加えているうちに、部分的修正では追いつかないことに気づいた。

そこから10年間、資本論には手を加えていない。かなり悪戦苦闘したのであろう。あるいは第1インタナショナルの実践活動のほうが多忙であったのかもしれない。

とにかく、76年になってようやく執筆を再開した。それから5年後、マルクスは資本論を未完成のままこの世を去ることになる。

おそらく、本心では第1部でさえ改訂したかったに違いない。

ということで、宮川さんの本文に戻る。ここでは第5稿〜第7稿(1876 - 1880 年があつかわれる。

この章の見出しを「資本循環論の仕上げ」としたが、もともとの題は「資本循環論の仕上げと貨幣ヴェール観の脱却」となっている。

おそらく、貨幣ヴェール観からの脱却が不十分だったから、貨幣循環論に混乱があったということだろう。

そして古典派の資本-収入転化把握と決別したから、貨幣ヴェール観からの脱却が可能となった(ここは逆かもしれない)

その結果、正しい資本循環論が仕上げられた、と宮川さんは判断したから、このような表題を付けたのではないかと想像する。

まず本論の前に前フリがある。

1870年代後半に,マルクスは最終第8稿に先立ってあるいは並行しながら,第5稿〜第7稿に取り組んだ。

これは第2部第1篇 「資本循環論」の改訂稿に相当する。

ここはマルクス循環-再生産論形成史をみるうえで核心的論点であるから,立ち入ってみておく。

ということで、議論はここからいよいよ本題に入るようだ。思わずゾッとする。ここまででも十分ごちそうさまなのに…

1. 資本-収入転化関係の論点化

まず、読者を怖気づかせるさまざまな脅し文句が並ぶ。

資本-収入転化把握こそは,諸成分の「構成」または「分解」の連関の「経済学」表現にほかならない。

ドグマ命題は古典派の価値論である。

それは同時に,資本(・収入)の循環-再生産論,収入分配論でもある。

それは経済学上もっとも解けがたく輻輳した難問をかたちづくってきたのである。

2.マルクスの資本-収入転化論への取り組み

宮川さんの原文にはないが1節を起こす。

マルクスは早くからこの問題に取り組んできた。

① 1857-58年「経済学批判要綱」

「要綱」においては、それは流動資本の考察の文脈で、再生産の連関問題として登場する。

マルクスは賃金=「給養品」説をもとに、「可変資本と労賃との循環」として考察した。

ここでのマルクスはまさに俗流経済学者そのものである。

② 1861-63年 『剰余価値学説史』

「資本と収入との交換」の分析(ノートIX)において資本と労賃の相互関係についてコメントされている。

「労賃が同時に資本家の流通資本部分として現れる」問題は、蓄積とならぶ「なお解決すべき問題」として留意されている。

③ 資本論草稿の第1,第2稿

これについては前述のごとし

宮川さんはこう述懐している。

このように,マルクスは「経済学批判」研究の始めから晩年とくに最晩年の資本循環-再生産論の仕上げ局面にいたるまで,これらの諸命題につきまとわれそしてそれと格闘し続けた,といって過言でなかろう。

3.貨幣を資本にするもの

これまで、価値分解論と資本-収入転化論との関係が不明なまま進んできたが、どうやらここで解明されそうな雰囲気だ。

そのキーワードが「資本循環の重層的関係」ということらしい。また分からない言葉が出てきた。

第7稿では、まず貨幣資本循環の第1段階(G-W)が解明される。

商品流通の第一過程は、簡単に言えば貨幣資本の生産資本への転化である。

より一般的にいえば、貨幣形態から生産的形態への資本価値の転化である。

それは同時に,資本の自立的循環過程にいたる段階でもある。

貨幣機能を資本機能にするものは,資本の運動のなかでの貨幣機能の一定の役割である。

マルクス独特の持って回った言い方だが、貨幣が資本になるのは貨幣そのものが力を持っているからではない、ということだろうな。

貨幣は自動的に資本になることはできず、資本の運動のなかで他の諸因子と複合して資本になるということだろう。

私が考えるには、これはマルクスが第1部の冒頭で展開した使用価値と交換価値の関係と同じ論理(弁証法)だろうと思う。

厳密に言えば弁証法的論理の特殊形式としての「二項対立」の弁証法である。弁証法のより根本的な原理はエネルギーと存在(定在)との矛盾、時間軸の絶対性と相対性(発展性)との矛盾にある

商品は流通過程においては交換価値として現れ、生産・生活過程では使用価値として現れる。

それはまず使用価値(グッズ)として現れ、のちに交換価値の衣を身にまとう。

同じように貨幣は流通過程では裏返しの交換価値として現れ、生産・生活の場面では価値生み過程の触媒として現れる。

貨幣は商品と鏡像関係にあり、鏡の国の商品として捉えられる。

それはまず交換価値として現れ、ついで使用価値(価値増殖機能)を身にまとう。それは資本主義的社会関係の中で付与された「具体的有用性」である。

それは逆説的な裏返しの弁証法的関係なのだろう。

このような論理建てが、ある日マルクスの頭にひらめいたのではないだろうか。

ただその時のマルクスには、「そうだ、貨幣の二面性は商品の二面性と同じなんだ」というところまで得心できていない気もする。

4.貨幣を資本にするもの 宮川さんの説明

と私は読んだが、宮川さんは次のように説明する。

このように一般的商品流通と資本循環とのあいだの関連が,同一の過程をめぐる二つの形態の重層的な関係として概括された。

というから、さあ分からない。

「二つの形態の重層的な 関係」と端折ったが、宮川さんはここのところをもっと御大層な言い方で表現している。

異なった形態規定性の―並列的でもなく継起的でもない―同時重層的な( zugleich oder gleichzeitig ) 関係

これだけ並べられると、分かるものまで分からなくなってしまう。

ただ宮川さんの記述は有力な示唆を提供してくれてはいると思う。

このあと、宮川さんの記述はいっそう難解になる。私の評価基準として、記述が難解なところは筆者がよく理解していないところ、というのがある。

だいたいマルクスがそうだ。「要綱」を読んでいてわからないところは、だいたいマルクスが解答を求めようとして悪戦苦闘しているところだ。

と言いつつ、本文に戻ろう。

(こうして)資本の独自な自立的循環と,単純な規定での商品循環とのあいだの,区別と関連づけを見通す道が切り開かれた。

以下、いささか文学的な表現が連ねられる。

感性的な商品交換のもとで、それに担われつつ「同時に」資本独自の自立的な超感性的 循環(変態)を遂行する過程

流通手段(または商品の持ち手転換)を仲立ちとした資本と収入とのそれぞれ独自の循環諸規定が絡み合って進行するという相互依存関係…

これは,古典派の感性的な交換観 ではけっして 把捉されえなかったし,貨幣通流に偏った貨幣ヴェール観では一面的に歪めてみることしかできなかった 関係である。

こうした資本循環の理解の前進によって,資本-収入転化関係に感性的にまとわりついていた 資本循環と商品流通との諸環が解きほぐされ,それらの再構成が可能になる,つまりは資本-収入転化把握からの脱却に,見通しがつくのである。

まぁ、たしかにそういうことでしょうが、これで反対派が説得しうるかどうかは別の話でしょう。


Ⅱ 「価格構成説」評価の転換の真相

あらかじめ断っておく。私は宮川さんの言う「スミスドグマ」を「価格構成説」と置き換えている。

この置き換えがただしいかどうかは分からない。

いちおう、スミスドグマというのを価値分解説→“その逆は逆”という論理→価格構成説という筋立てだと理解して、この論理全体を「価格構成説」と勝手読みしただけである。この読みが正しいか間違っているかは、読み進みながら検討していきたい。

本文に入ろう。

現行版の第2部では、価値「分解」説が厳しく批判されている。ところが第3部ではその原理が受容擁護されている。

だから、『資本論』を順次読みすすめると,第2部で「誤り」と批判されていた命題が,第3部では「正しい」と唐突によみがえることになる。

この不整合は,マルクスの理論発展史をたどることによって氷解する。

1.「価格構成説」評価の転換はいかに起こったか

『資本論』第3部の材料となったのは、1865年執筆の第1稿である。

ここでマルクスは俗流収入論への誘因となった価格「構成」説を徹底批判して退けた。

その一方で,価値「分解」説を「まったく正しい」と評価して積極的に受け入れた。

そして「分解」説を「構成」説批判の後ろ楯として利用した。

しかし、15年後執筆された第8稿では,「分解」説もまた誤りである、という結論に達した。

そして価値分解説と価格構成説からなる「資本-収入転化」論の全体を否定した。

なぜなら、「商品価値は,それ以上のものには分解されず,それ以外のものから成り立ちはしない」からである。

その真意については後ほど触れるそうなので、わからないままで進むことにする。

2.マルクスの評価転換の実証

しばらく理解しがたい言葉が並ぶので自分なりに読み下す。

スミス古典派をはじめ従来の経済学(J.B.セー,シスモンディ,プルードンら)は,資本と労賃収入とのあいだの関連づけをめぐって、共通する理解を示した。

それを宮川さんは「資本-収入転化命題」と呼んでいる。言葉なのでどうでもよいのだが…

その特徴は、「分配関連の貨幣媒介現象を皮相的に写し取ったにすぎない」のだそうだ。

ある者にとって収入であるものは他の者にとっては資本であるという考えは,部分的には正しいが,一般的に提起されるやいなや,まったくの誤りとなる。(第8稿)

のだそうだが、その理由はここでは触れられていない。

このあと論旨が少し跳んでいるが、マルクスは当初、この「資本-収入転化把握」を受け入れている。

宮川さんは、その証拠として

第3部第7篇草稿(すなわち1864~65年執筆の第1稿)で、「資本-収入転化把握」の受容を表出した章句が17箇所みとめられる。

第2稿(第2部第2篇)でも同様の所見が認められる。

と数えている。えらいものだ。

第8稿での批判は、先に引用した如し。

3.エンゲルスによる混乱の助長

また私の感想から入る。

考えてみれば、第1稿をそのまま第2部、第3部にして発刊してしまえばよかったのだ。

そのうえで、「第2部については後年このように書き直している」と断った上で、補巻として発表すべきだったのだ。断絶があるかないかは読んだ人が判断すればよい。

そうすれば、第8稿の線に沿っていずれ第3部も書き直されるはずだっただろうと、誰しも理解できる。

そしてそのことを念頭に置きながら第3部を読み込むことになっただろう。

ということで本文に戻る。

まずは第3篇第19章「対象についての従来の叙述」

ここでなにかエンゲルスは細工をして、古いテキストの中に第8稿を入れこんだり、順序を変えたりしているらしい。

その結果,異なる認識水準層の章句が入れまじり、ジグザグにまだら模様に叙述文脈を形づくることになってしまった。

そしてその後に宮川さんの中間結論が述べられる。

かたちを顕してくるのは,

① 第8稿冒頭まで払拭できずに受け入れてきた古典派の「資本-収入転化把握」との決別であり、

② その批判による価値「分解」説の終局的批判である。

こうしてマルクスは価格「構成」説だけでなく、それを「もっともらしく」支えている価値「分解」説の誤りをも摘出した。

そして価値-再生産論の認識の新しい「拡大した視野」を切り開いた。

ただしこの最後の段落でいう「拡大した視野」は目下不分明である。


宮川 彰 『資本論』第2部について―スミス・ドグマ批判によるマルクス再生産論の形成  2014年

の読書ノート

Japan Sciety of Political Economy の特集論文である。

はじめに

MEGA第Ⅱ部第11巻が2008年に刊行された。ここには第2部準備草稿がふくまれる。

ついで第4.3巻が2012年に刊行された。

これにより未公表だったマルクスの最晩年の資本論 準備草稿が出揃った。

これにより。第2部をめぐる議論が再燃して いる。

本稿では課題を 限定して,『資本論』第2部形成史に絞り込む。

断続説と継承説

マルクスは晩年の十数年間、第2巻に関連して1868-1881年の第2稿から最終第8稿にいたる諸草稿を書き連ねた。

これらの草稿の相互関連については、「断絶・飛躍」ととるか「継承・拡充」ととるかで多くの議論がある。

最初の火付け役は大谷禎之介であった。彼は当該メガ巻 の編集分担責任者であった。

彼は11巻の『解題』を共同執筆しただけでなく、独自の視点で『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡―メガ第II部門第11巻の刊行によせて―』(2009)を発表した。

大谷は

① 2巻補筆の契機は資本循環論もし くは可変資本-労賃関係把握の仕上げであった

② その際、「貨幣=ヴェール」観に基づく貨幣媒介の組入れ処置の克服が課題となった。

③ 資本循環は個人的消費の循環と絡み合い条件づけ合いつつ、独自の自立的循環=再生産過程を繰りひろげるのだが、それはいかにして達成されるのか

が主要な問題意識となったと言う。

そしてその考察の過程で、第2稿から第8稿(再生産論)への飛躍があったと考える。

これは宮川彰、伊藤武ら形成史学者と意見を同じくするものである。

これに対して谷野勝明は「再生産論形成をめぐる諸問題について―第2稿・ 第8稿断絶説批判―」(2011)を発表し、包括的な批判を行った。

その主要な論点は

① 資本-収入の絡み合いの分析が変わっていない

② 再生産論分析基準・貨幣媒介の捉え方に抜 本的な前進がない

③ 第2稿第三章「再生産の実態的諸条件」と第8稿第三章『社会的総資本の再生産と流通」とを比較すると、再生産論の課題の転換があったとはいえない。

以上より、第2稿 から第8稿への連続継承性が存在すると主張した。

この意見には水谷謙治、早川啓造、富塚良三らが賛同している。

 

Ⅰ 問題の所在

1.エンゲルスの編集者「序言」

『資本論』第2部と第3部の材料は,第1稿から第8稿まで8つの草稿である。
 

第1稿

1864~65年執筆

第2稿

1868~70年執筆

第3稿

1868 年執筆

第4稿

1868 年執筆

第5稿

1876~80年執筆

第6稿

1876~80年執筆

第7稿

1876~80年執筆

第8稿

1877~81年執筆

エンゲルスはこの草稿を次のように割り振った。

第2部

第1篇(資本循環) 第4稿と第5,6,7稿

第2篇 第 4 稿と第 2 稿

第3篇(再生産) 第2稿と第8稿

「編集者」エンゲルスは次のように語る

「第3篇は,マルクスにはどうしても書き直しが必要 だと思われた」

そのことを知っているので第8稿を主体としたのである。エンゲルスは、諸知見の吸収があまりにも膨大で、未消化に終わっており、そのために理論展開に齟齬が発生していることを告白している。

2.資本論第2部と第3部との矛盾と不整合

齟齬の理由は執筆年代を見れば明らかである。第2部が書かれたのは3つの時期に分かれる。

第1稿は1864~65年執筆に執筆されている。第1部が書き終わり、自動的に第2部の執筆に入ったのであろう。

1867年に資本論第1部が出版され、いよいよ本格的な執筆に入ったのが68年から70年にかけての第2~4稿であろう。

ところが順調に行っていたはずの第2部出版は突如ストップする。

おそらく、並行して進められていた第3部の執筆が壁にぶち当たり、そこを突破するには第2部から書き直す必要に迫られたためであろう。

いろいろ考えて、第2部から書き直さないと第3部は書けないと悟ったマルクスは、第2部の書き直しに着手する。それが第5~第8稿の草稿となる。

と、ここまでは私の説明。ここから宮川さんの文章に戻る。

3.アダム・スミスの価格「構成」説の否定がきっかけ

宮川さんによれば、流通過程に関するマルクスの考えが転換したのは、スミスの価格「構成」説に対する評価が変わったためである。

この先の話は難しすぎて理解困難であるが、宮川さんの文章を引用しておく。

マルクスは(当初)「スミスのドグマ」をスミス言説に忠実に以下のように定式化した。

「すべての商品の,したがってまた年々の商品生産物の価格は,労賃,利潤,および地代という三つの成分から構成され,またそれら三つの成分に分解される」

しかしマルクスは第8稿において、価値「分解」説は容認するが価格「構成」説は批判している。(らしい)

さらにマルクスは、以下のごとくスミスを批判する。

スミスの価格「構成」説は現象皮相的で 不合理である。 これにくらべて価値「分解」説は“より、もっともらしい”。

スミスの価格「構成」説は価値「分解」説に由来しているが、導出の方法は「その逆は逆」という古典派の「決まり文句」に過ぎない。

これを「資本-収入相互転化」の関係といい、最終的な古典派批判の仕上げの要をなしている。

宮川さんによれば、

マルクスは第1稿および第2稿では価値「分解」説と資本-収入転化把握とを受け入れたが,第8稿では,「まったく誤りである」,とそれを批判した。

そして、この最初の受容と、のちの否定が第2部形成史の歩みの軸線をかたちづくっている。

とし、彼が「断絶」説に立つ所以としている。

「おぉ、大変だ!」とため息が出る。

続きは明日。


資本論第三巻第9章はえらく難しい。えらく難しいというのは記述が難しいだけでなく、そもそもそう言えるかどうかが未確定だからである。結論としては、

社会のすべての生産部門を総体としてみると、生産された諸商品の生産価格の総計は、諸商品の価値の総計に等しい

ということになる。

ただこの断言は、実のところ確証されているとは言い難い。あまりにも多くの変数がありすぎる。

これに流通費・金利などさまざまな費用が上乗せされた上で売買価格になるのだが、剰余価値の視点で大づかみにいえばそう言っても間違いないのかもしれない。

ただ私にはマルクスが重要な事項を忘れているように思える。それは労働者が消費者として立ち現れるまでの時差である。

労働者は原則として前もって賃金を受け取る。そして生産過程に入るのだが、生産過程を送るあいだも労働者は生活過程において消費している。

この消費過程において労働者は発展し、より多くの欲望を持つようになる。

したがって前渡しされた賃金(労働力の価格)以上の欲望を伴って市場に消費者として登場することになる。

したがって、需要と供給の関係においては、つねに需要が供給を上回っていることになる。

したがって市場価格は生産価格をつねに上回るはずだ

問題は市場価格と「諸商品の価値」(交換価値)との関係が、マルクスの文脈上で不分明なことだ。


いずれにしても偉そうなことを言うにはまだ早すぎる。もう少し勉強が必要だ。


「労働力価値内在説」なるもの

ここに至って突然論理が晦渋になる。

晦渋なのは著者自身がこんがらかっているからみたいだ。「金子ハルオ氏とのあいだで論争になっている」とか言っているが、金子先生を前に少々態度がデカい。こんなものは論争でもなんでもない。

櫛田さんは、“労働力商品が労働者の身体と不可分な存在形態をもつ”ことを強調する。

それは、私がかつて批判したある言葉を思い起こさせる。「患者は医療の労働主体でもあり労働手段でもあり労働対象でもある」という三位一体説だ。なぜなら、“患者はその身体と不可分な存在形態をもつ”からだ。

やはり「身体と不可分な存在形態をもつ労働力商品」というだけでは不十分だろう、奴隷(人間商品)と同じことになってしまう。無理やり身体と勤労能力を切り離して「ケガと弁当は自分持ち」というのが近代労働者の姿ではないだろうか。


以下、面倒なので論点を微細にわたって検討することはしない。結論部分だけ引用する。

① 労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”、その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

② これは経済学として許容される理論化である。

「…し得る」とか「許容される」と言われれば、まぁ仕方ないが…ということになる。

直接の批判にはならないが、このあたりの話題に関して私の考えを述べておきたい。

動物というのは植物と違って、みずから栄養物を作り出すことはできない。

「生きる」というのは、基本的には消費することである。ただし人類は社会を形成することによって、生産することが可能になった。

ただしそのためには働かなくてはならない。最初は生きる時間のほとんどが働くことだったが、だんだん労働時間は短くなった。そして余暇、すなわち「幸せ追求時間」が生まれた。

最初は余暇のほとんどは支配者のものだった。しかし生産力が拡大するにつれて徐々に余暇は普通の人にも広がるようになった。

余暇というのは労働時間以外のすべてではない。そこから睡眠・食事・通勤などが差っ引かれる。これらは純粋な労働力商品の再生産の時間だ。さらに勉強・子育ての時間も広義の労働力商品の再生産のためのものだ。

それ以外の時間が純粋な余暇である。それを純粋な消費活動(消費的消費)だといってもよい。

この労働力商品の再生産をふくまない「純粋な消費活動」から生まれるもの、たとえ量は少くても本質的な生産物は、衝動にとどまらない人間的「欲望」である。それは希望、意欲であったり、愛や情熱であったり、具体的な物欲であったりする。
たしかに余暇を“労働力商品の生産過程”と規定することも経済学的には許容されるかも知れない。

しかしそのようなワルラス均衡的「経済学」のいかに貧しいことか。

申し訳ないが、以後の文章については省略させて頂く。
最初にも書いたように、以下の記述は卓抜である。

労働力商品は消費生活過程というそれ自身の特殊な生産過程を有している。

賃金労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”である。その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

できれば、それを生産対消費、労働対享受、充足対欲望、それらを抱合した「生活過程」という枠組みの中でとらえていただきたい。
そして、大きな人類的活動のサイクルの中で、これらを社会発展史的に特徴づけていただきたいと願っている。かならずや経済学(とりわけ剰余価値論)はそのための不可欠なツールとなるだろうと思う。



論文の目次は下記のようになっている。

1 本稿の課題

2 賃金労働者の消費生活過程における価値法則の作用

(1)賃金変動と労働力商品供給構造の変化

(2)労働力商品への価値法則適用の実体的根拠

3 労働力商品の生産過程と労働力商品価値の実在性

(1)耐久消費財・休日の価値村象化問題

① 耐久消費財の価値村象化

② 休日の価値村象化問題

(1)サービス商品と社会的間接賃金

(2)妻子・高齢者の生活費の価値対象化

この内、「1.本稿の課題」 というのが最初の4ページを占め、問題意識が尽くされているので、そこを読んでみたい。

次に進むかどうかはそこを読んでの感想次第ということにしておく。



まったく段落がないので、こちらで小見出しを付けていく。

1.労働力は人間的諸能力の統合体

まず櫛田さんは「労働力は人間的諸能力の統合体」であると定義する。

そして、二つの特徴を上げる。

A) 人間の身体と不可分な存在形態を有する非有体物であって、物質的財貨とは異なる存在形態を有している。しかしながら、労働力は実在的な範疇である。

B) 労働力は十全なものとして生まれながらに人間に備わっているわけではなく、人間の消費活動をつうじて主体的につくりだされる。

前の記事に書いた私の感想からすると、この定義はもはやアウトである。労働力は人間的諸能力のほんの一部でしかない。

しかしながら、あまりこの問題に拘泥するつもりはない。マルクスは資本論執筆の時点では労働力についてはかなり割り切って考えている。

一言で言えば職務遂行能力(Arbeitskraft)である。決められた仕事を、決められた方法で、決められた時間内に遂行する能力である。資本家がもとめている商品はそれである。

2.消費生活過程は“労働力商品の生産過程”

労働力商品は消費生活過程というそれ自身の特殊な生産過程を有している。

賃金労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”である。その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

この点についてはまったく同感である。

ただし、前段で「労働」の枠組みが人間的諸能力の発揮とイコールになっているので、消費活動が労働力の再生産とイコールになってしまう。

もしそうであれば、ここでいう労働力の再生産過程は、まさに「疎外された労働」とその再生産にすぎない。
人間は食うために働くのであるが、働くために食うのではない。キリストも言うではないか、「人はパンのみにて生きるにあらず」

3.余談: 消費生活過程の最大の生産物は「欲望」

櫛田さんは、労働と享受についての概念を未整理なまま展開するきらいがある。

これは日本のマルクス主義哲学に共通する傾向なのだが、労働の度外れの強調である。例えば芝田進午さんは教育の場には二つの労働があると指摘する。一つは教育労働であり、もう一つは「学習」労働である。そして教育の場とは教育労働と「学習労働」が貼り合わさったものだと主張する。

教育労働はともかくとして、学習することまで労働にふくめるのは明らかな間違いである。

マルクスは労働と享受を2つの人間的活動として対置している。社会的に生産と消費として現れる活動は、諸個人においては労働と享受として現象する。学習は享受する活動なのだ。

享受はただたんに消費するだけではなく、それを喜びとして受け取り、みずからの内的発展・成長の糧とするのである。

単純な享受の過程の中では、欲望は解決され消滅するかのように見えるが、繰り返す営みの中で欲望は多様化し、ゆたかに発展するのである。「豊かさ」とは何よりもまず欲望のゆたかさであり、「豊かな社会」とは欲望に満ち溢れグイグイと成長していく世界なのである。

購買行動を起点とする消費活動は社会的文化活動でもあります。“もの”として凝縮されたエネルギーがその具体的有用性を発揮し、それを生きとし生けるものとしての人間が受け取り、みずからを生物的制約から解放し、より人間的に文化的に発展していくこと、それこそが消費活動です。(2017年02月19日 カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言

これらのことは「経済学批判」に展開されている。「経済学批判」(要綱)は「資本論」の準備稿として軽視される傾向にあるが、経済学の原論的枠組みを確定した重要な文章だ。

まだいいたいことはあるが、このくらいにしておく。


櫛田豊 「労働力商品への価値法則の適用と 労働力価値内在説の展開」 を読みはじめる

森谷尚行先生にそれとなく急かされて、読むはめになった。

まずは題名を見ての第一印象。

正直のところ、のっけからうっとうしい。
1.人間的諸活動と人間的諸能力

経済学的な概念操作としては、労働力も労働力商品も正しいのだが、それら人間まるごとの生活を表現するものではない。

より豊かに、より幸せになろうとする諸活動は、そのすべてが労働の枠にくくれるものではない。そしてそれらの諸活動に対応して養われる人間的諸能力も、労働力の枠にくくれるものではない。

人間的能力のうち勤労能力(戦闘能力と並んで)が取り出され対象とされるのは、社会の誕生、とりわけ階級社会の誕生以来である。
2.人間商品から労働力商品へ

当初、勤労能力はそれが属する諸個人をまるごと含めた「人間商品」(奴隷)として売買された。「労働力」が商品化されるためには、勤労能力をふくめて抽象的なものへの価値付け、数量化が必要である。そのためには、ありとあらゆるものが商品化され莫大な量を持って取引される市場が必要である。

このようなユニバーサルな諸市場、潤沢な通貨供給(とくに新大陸から)、そして経済社会構成体内部での分業の発展の3つを基礎に、産業資本が自立的に登場していくのである。
3.「価値法則の適用」はすでに行われている

前置きが長くなったが、「労働力商品の価値法則の適用」はすでに行われているのである。「人間商品」(奴隷)から労働力商品への転換は、価値法則の適用無くして実現しないと思う。
「価値法則」についての私の理解が不十分かもしれないが、歴史的に考えれば、生産過程に価値法則が適用されたからこそ人間的諸能力から勤労能力が取り出され、労働力として措定され、さらに商品化されると見ても良いのではないか。

浅学ながら、私にはそう思えてしまうのである。

後段の「労働力価値内在説」はよく分からない。おそらく前段の「労働力商品への価値法則の適用」によってもたらされる結論なのだろうが、前段について不承知だから多分読んでもわからないだろう。

最初から分からないだろうと思っている論文を読むのは「いささか辛いな」と考えているところである。


不破さんの文章が赤旗のオンライン版にないか探したが、今のところなさそうだ。やはり日刊「赤旗」を購読せよということか。

ところが、グーグル検索で、ほぼ同じ内容をもっとくわしく説明した文章が見つかった。

2014年7月10日の紙面に掲載された「理論活動教室」第2講「マルクスの読み方」(2) 追跡 マルクス「恐慌の運動論」

という記事である。

読み飛ばしていたようで、そんな記事があったことは記憶しているが、中身には憶えがない。以下、紹介していく。

草稿のなかで65年の恐慌論の転換を知ったときは「衝撃でした」と力を込めた不破さん。何回も草稿を読み返して確かめるうち、「それまでなかなか理解できなかった記述が、発見前の“前史的”部分と発見後の“本史的”部分を分けて読むと、はっきり分かり、理論的発展の裏付けになりました」と語りました。

ということで、不破さんはこれをみずからの“大発見”と自負しているようだ。

マルクスの65年以前の考え

①恐慌の根拠
資本家は、できるだけたくさん利潤を得るために労働者の賃金を抑えようとします。一方、商品の買い手としての労働者にはできるだけ大きな消費者であることを望みます――マルクスはこの矛盾に恐慌の根拠を見ました。

②恐慌の運動論

利潤率が資本主義の発展とともに低下してゆくことは、スミスやリカードウも気がついていました。

マルクスは、利潤率の低下が、「不変資本」の比率が「可変資本」に比べて大きくなることに伴う当然の現象であることを解明しました。

マルクスはこの発見を「恐慌=革命」説と結びつけ、恐慌の反復をこの法則の作用によって説明しようとしました。


マルクスの65年の大発見

マルクスの発見した運動形態は、「流通過程の短縮」と呼ばれるものです。

資本家の商品を消費者ではなく商人資本に販売すると、商品が貨幣に転化される時間が先取りされ、それによって「流通過程が短縮」され、再生産が加速・拡大されるというのです。

これによって、「架空の需要」による生産がすすみ、恐慌が準備されます。

(もう一つは信用制度です)信用制度によって商人資本 は、銀行から貨幣を借り入れて、買った商品を「売ってしまうまえに、自分の購入を繰り返すことができ」、「架空の需要」が拡大されます。

こうして、消費の制限を超えて生産が拡大し、ついには恐慌に至る(のです)

ということで、産業資本家、商人資本、銀行が三位一体となって流通過程を高速度回転させるのが恐慌の原因だということになる。

うーむ、それだけでは「世紀の大発見」と言うにはちょっと物足りないな。やはり剰余価値生産という生産様式がそれらを必然的に帰結するという論証がないと…

うろ覚えだが、大谷さんによると、たしか第3部のこの部分を書いていて、マルクスが何かに気づいたことは間違いないようだ。第3部の清書を一時中断して、第二部の該当部分(流通過程)のところにマルクスは戻っている。
第1部以来、剰余価値説を中核概念としながらこの概念が弁証法的に発展して総過程へとつながっていくはずなのに、いきなり「流通過程の短縮」という外来的な概念が混入してしまった(混入させてしまった)ために、首尾一貫性が途絶してしまう。このままでは「流通過程の短縮」は超時代的なメカニズムになってしまう。このためにマルクスは論理構築過程の再検討を迫られたのではないだろうか。
それにもかかわらず、論理の再構築に向かわせるほどに、このアイデアは強烈だったといえるのかもしれない。

ただ私としては、マルクスが “需要(欲望)の再生産” 過程を一貫して自然成長的なものとしてみていることに無理を感じる。ここが分析されないと、結局二つの命題は接ぎ木状態のままだし、最終的な価格の実現も説明できないのではないかと感じている。ケインズ的、ないし福祉経済学的な知見を資本論の論理の中に繰り入れる作業が必要ではないだろうか。

不破さんの連載が始まった。きっとまた長いだろう。

というのは、本日の4回目に至って、突然、本題が飛び出したからである。連載というのは、前置きが長いといつの間にか真面目に読まなくなる。

こちらもうろたえて数日前の新聞を引っ張り出してみたが、やはりどうということは書かれていなかった。

ひと安心して本日の記事を読む。

連載の名前は「資本論刊行150年に寄せて」、本日の記事名は「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」となっている。

不破さんによれば、恐慌論が初めて展開されたのは1865年のことだと言う。

57年草稿(経済学批判要綱)以来、マルクスは利潤率低下の法則を恐慌の原因としてたが、このときに考えを変えたのだそうだ。不破さんは、恐慌に関するマルクスの「新テーゼ」を次のように説明する。

新展開の眼目は商人資本の役割に注目したところにありました。それが再生産過程を現実の受容から離れた「架空の軌道」に導き、生産と消費の矛盾を恐慌の激発にまで深刻化させるという資本主義独自の運動形態…


不破さんはこの発見を「資本論の転換点とも言える劇的な瞬間でした」とやや大げさな書き方で表している。

言葉通りに信じると、私が読み飛ばしていたところに大発見があって、それを不破さんが掘り出したということになる。

それで、それがどこかというと

資本論草稿の第3部の第18章の一部だそうだ。

あれっ、ここは結構熟読しているところだよなぁ。

不破さんはこう書いている。

特別に恐慌論らしい標題がついているわけではないので、読み過ごされがちのところですが、ここでは商人資本の役割に焦点をあてながら、新しい理論展開の筋道が詳しく説明されています。

資本論全巻の中で、マルクスの恐慌論にせまる唯一の貴重な文章ですから、ぜひ目を通していただきたいと思います。

不破さんによる新説ということなのか、ある程度学者の共通認識となっているところなのか。


ロシア音楽にハマってしまい、ある意味で無駄な1週間が過ぎた。

今週末にはAALAの学習会でサンダース→コービン→フランスという三題噺をしなければならない。

材料は一応は揃っているのだがレシピが出来上がっていない。

と言いつつ、とりあえず気になっているアリストテレスの「4原因」を整理したくなった。

日本語の解説はたくさんあるが、我田引水が多いので、サラリと読んでいくことにする。わからないところはどれを読んでもわからないのが普通だ。

「宿題」を探し出すのが作業目的ということになるだろう。

まずは

“what & why”4つの原因説

という河合昭男さんの解説から

はじめに

アリストテレスは師であるプラトンのイデア論を認めようとしませんでした。鶏は卵から生まれるものであり、鶏のイデアから生まれるなどということはとうてい認められませんでした。

ものの本質は目に見えないイデアの世界にあるのではなく、そのものの中にこそ存在すると彼は考えました。

ということで、のっけから話は難しい。

もちろんアリストテレスのほうが正しいのだが、プラトンも間違っているとはいえない。卵のDNAにはにわとりとなるためのすべての情報が詰め込まれているのだ。

ニワトリの話はさておいて、我々が物事の本質を探っていく時、まずは現象的事実から出発する。武谷三段階説の言うごとく、現象の底には実体(構造)があり、その奥には本質がある。それをイデアと呼んでも差し支えない。

本質というのは、方程式みたいなもので、一種の抽象的な事実だが、それがより深くにあるものの現象形態だったりするわけで、人間の認識というのはそうやってネジをぐるぐると差し込むような形で進んでいく。

これは人間界から見れば認識論の世界である。逆に物事の方から見れば現象論の世界である。同じことだが順序は逆になる。

ただし実在論としては物事の本質はモノそのものから離れることはないわけで、本質が物事そのものから離れることはありえないのである。

こういういくつかの問題がごたまぜにされているのが、プラトンとアリストテレスのすれ違いの原因になっている。

このことはカント(理性批判)によって提起され、フィヒテ(主観論)とヘーゲル(弁証法)によって展開されたものだ。

ただプラトンとアリストテレスの論争を個別問題として考えると、プラトンは本質有を認識論にすり替え、現実性を剥奪してしまっているわけで、アリストテレスの批判は現実性の取り戻しであり、それ自体としては正しい。

次に進もう。

本質はどこにある?

(プラトンは)イデアなるものは目に見える形で取り出すことができないものであると(主張しました)

この点にアリストテレスは納得がいきません。

(アリストテレスは)むしろ「実体が先にあって、それらを基にして人間が頭の中で抽象化して創りだしたものをイデアと呼んでいるにすぎない」と(考えました)

(その方)が自然な考え方である、というのが(アリストテレスの)主張です。

これは最初の論争とは異なるイシューである。にも関わらず同じ「イデア」という言葉を用いることによって議論が混乱してしまっている。

たしかにプラトンの「見える形で取り出すことができないもの」という表現は微妙である。抽象的であることが認識不可能性と同義で語られる可能性があるからだ。

物事の本質は抽象的な形でしか示されない。しかし人間は物事を抽象的な形で把握することもできる。

物事の本質は無限の彼方にあるものではなく、認識し越えることができる。そういうものだ。しかもそれは段階的なものだ。

その諸段階の先はたしかに無限に続いているかもしれないが、モノの持つ現実性から遊離することはない。それは一歩づつ進んでいく我々の認識の進歩の過程から確信できる。

ということで、アリストテレスは正しい。ただしプラトンのイデアを曲解しているきらいが無きにしもあらず。

しかし、プラトンとアリストテレスの議論はあたかも二人が対話しているようで面白い。

デカルトに対するパスカルの批判、ヒュームに対するカントの批判にも同じようなものを感じる。

ものとは?

という長い前置きがあって(私が長くしてるだけだが)、いよいよ本題に入る。

4大原因というのはいかにも羅列的だと思っていたが、河合さんによると、基本的には二つのようだ。

「もの」はその本質である「形相」とその材料である「質料」から成立しているとアリストテレスは考えました。

口幅ったい言い方になるが、これは私が以前提起した「実体論的規定」と「目的論的規定」という物事の二つの側面と重なる。

当然そのものの本質的規定は目的論的内容にあるわけで、それを前提に話を進めなくてはいけない。

それは「民主主義とは何か」論で口を酸っぱくして言ってきたことだ。

ただし、「形相」というのは合目的性そのものではない。この辺は河合さんの解説ではよく分からない。

とりあえず次に進もう。

目的因と始動因

ここからは河合さんの主観がかなり入ってくる。

上の2つは“What”をめぐる規定であるが、物事には“Why”をめぐる規定が必要である、ということで

物事が“そこにある”目的、すなわち目的因

物事が“そこにある”原因、すなわち始動因

の二つが加えられる。

これは“Why”を満足させるための規定だということになる。

哲学者たちは、そもそも「もの」とは何であるかを議論していたわけですがそれは形相と質料です。

多くの哲学者たちが“what”を静的にとらえようとしていたときにアリストテレスはなぜそれがあるか“why”を時間軸で考えたわけです。

と、非常に前向きにとらえている。

しかしそれは違うでしょう。アリストテレスの勇み足と読むべきだろう。

原因も目的も「形相」に内包されたものだ。

ものは我々から離れてものとして自立している。しかし我々との関係においてそれは意味を持たされる。

ヘーゲル流に言えば「ものとして対象化される」のだ。その時初めて「ものとしての時間軸」を与えられ、原因や目的を付与されるのだ。(あえて「意識」という言葉は使わない)

このあとの「情報システムの4原因説」は河合さん独自のもので、本論とは外れるので省略する。


とりあえずの感想としては、

1.4原因説はアリストテレスのプラトンへの反抗として打ち出されたものだ。

2.アリストテレスの一番言いたかったのは、本質内在論だ。それはプラトンの観念論に対する反論であり、その限りにおいて唯物論的である。

3.しかしそこには自己矛盾が多くふくまれている。基本的には「宣言」として読むべきものである。

4.目的論と始動因は言わずもがなの感がある。むしろ意味論としての「形相」論をもっと深めるべきであった。

5.物事にはすべからく内的な能動的な本質があること、それは人間(主体)との関わりにおいて意味を持つこと、この二つがアリストテレスの主張の核心である。

後段については、「事物に対して観照的であってはならない」という議論と直結するだけに、プラトンの反論がほしいところである。

私なら、「結局、客観的なイデアの代わりに人間の主観を対置し、真理を実践と取り替えたただけではないか」と反論するだろう。


民主主義とファシズム、ポピュリズムの関係を議論するときに、アリストテレスの「ポリス国家」論を勉強しないとだめだということがわかり、いつものごとくニワカ勉強です。

グールで「ポリス国家+アリストテレス」と入れても、ウィキには「ポリス」でしか出てきません。

最初にヒットするのが アリストテレス『政治学』を解読する Philosophy Guides というページです。すごく読みやすそうにレイアウトされているので、早速トライします。

なお、著者は平原卓さんという哲学者のようです。

最初のところに、

いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → 「アリストテレス『政治学』を超コンパクトに要約する

とある。

もちろん、いますぐ概要を知りたいから、そちらに回ることにする。

最初にこう書かれている。

アリストテレスの『政治学』をコンパクトにまとめました。

一番大事なのはポリス(国家)の本質論。その他は実践論でやたらに細かいだけなので、ポイントだけ押さえておけば十分です。

とあるから、まことにありがたい。


目的: ポリスの本質を規定すること。

結論: 人間は善を目的因とする存在。ポリスは最高善を目的因とする存在。なのでポリスは人間にとって本質的なもの。

わかりやすい。ただし「(目的)因」というのが分からない。これは後で調べることにする。

ポリスの本質: 

共同体は家族→村落→ポリスと発展する。ポリスは最終的共同体。

ポリスは「市民」から構成される。(「市民」は実質的にはエリート。だからアリストクラシーというのかな?)

ポリスはたんなる生活共同体ではない。なぜならポリスは最高善を目的因とするから。

共和制:

「市民」による共和制が一番良い。

無産者に支配される民主制はだめ。僭主制、寡頭制ももちろんだめ。

徳治ではなく法治:

徳治は「反徳」治になる危険がある。

望ましい生活:

幸福は「よく」行うことにある。ただし、観照や思考のほうが行動的である。


これで終わりだ。

流石にこれではよく分からない。もう少し詳しく見ていく必要がある。

ということで、 アリストテレス『政治学』を解読する に戻ることにする。

1.ポリスの本質

国家は一つの共同体である。

共同体は「よきこと」のために出来ている。

なぜなら、すべての人間は自分がよいと思うことのために活動するからである。

国家(ポリス)すべての共同体を自己のうちに包括するから、最高最上の共同体である。

<平原さんの解説>

どんな事物も何かしらの目的(目的因)をもっている。

なかでもポリスは「最高善」を目指す本性をもっている。なぜなら「よさ」をめがける共同体の最終段階であるからだ。

それは「ただいっしょに生活するため」のものではない。

2.人間はポリス的動物

国家は(まったくの人為ではなくて)自然にもとづく存在の一つである。

また人間は、その自然の本性において国家をもつ(ポリス的)動物である。

人間は、完成されれば動物のうちでも最善のものだだ。

しかし、法律や法的秩序から離れてしまうと、あらゆるもののうち最悪者となる。

これに関して、 「人間はポリス的動物である」の意味は? という文章が別にあるそうだ。あとで見に行こう

3.よき市民とは?

4.正しい国家体制は?

アリストテレスによれば、国家体制には、王制、貴族制、共和制、僭主制、寡頭制、民主制があり、特に最初の3つの体制が正しい。王制、貴族制、共和制のなかでも、大衆が参加する共和制が国家体制のスタンダードだ。

これは「つかみ」の文章から前進はしていない

5.行動的生活

「行動的生活」とは、ポリスの政治に関わる生活のことだ。

アリストテレスは、実際の政治行動よりも「行動を目的とした観照」(テオーリア)のほうが行動的だと主張する。

6.プラトンとアリストテレス

プラトンは「国家」の中で「哲人政治」を主張した。哲学者がポリスの王となって統治するのが最も幸福なのだという。

アリストテレスはこれを否定したといえる。


どうもあまり前進したとは言えない。

まぁとりあえず、先程の文章に行ってみますか。

[Q&A]「人間はポリス的動物である」の意味は?

1.「ポリス的動物」は「社会的動物」ではない

市民国家は、きわめて同質的な人間から構成される市民社会と定式化される。

しかし、アリストテレスは「ポリス=社会」と考えていたわけではありません。

2.4原因説

アリストテレスは、存在するものは必ず素材因、形相因、始動因、目的因という4つの「因」を備えていると考えていました。

素材因  とは、事物がそこから生成するところのもの。

形相因  とは、事物の形相(本質、概念)または原型のこと。

作用因  とは、物事を始動または停止させる第一の始まりのこと。

目的因  とは、物事がそのためにあるところのもの。

これは私の考えだが、

今日では次のように言うことができるだろう。

①事物は存在であると同時に過程であること。

②したがって、全てのものには歴史があり未来があり、

③固有のエネルギーがあること。

しかし当面は目的因 が大事である。それは事物と“私”あるいは“私たち”との関係を規定している。

事物を実体論的にだけではなく、目的論的に捉えることが大事だということだ。

3.ポリスの目的因

家族が集まると村落ができる。それは日々の必要だけに限定されない共同である。同じように村落が集まって国家(ポリス)となる。

村落の生成理由はわれわれが生存するための必要によるものであるが、ポリスの存在理由はわれわれの生活をよくすることにあるのである。

自足性というものは、共同体にとっての一つの目的であるが、それは究極的に善として求められる。

その究極的目的(最高善)は国家において実現されるのである。なぜなら人間の目的因も「善」だからです。

4.政治学の目的

ポリスはそこに住む自由市民がポリス的動物として、徳を積むことめざす。

それを可能とする条件を探すのが政治学である。



とてもわかり易くてよかったが、「本当にこんなものかいな」という疑問も若干よぎる。

ポリス国家というのは、二面性を持つということ。下に対しては寡頭政治であり、上に対しては共和政治だということ。

結果として人は押し出すが、自分は追い出されたくないというところに帰結する。その口実として衆愚政治の危険が持ち出される。

下層階級の声が高まれば、それは引かれ者の小唄となる。

ただし、現代国家の無機質性に対し、「善」の考えを押し出していることは注目に値する。現代政治の抱えるさまざまなジレンマを乗り越えるためには、大なり小なり前向きの倫理観(たんに悪いことをしないというだけにとどまらない)というものが要求される。私はそれを「思想としての民主主義」と呼びたいが…)

ここに「立憲主義」の素材因  としてのヒントが隠されている可能性はある。


「ポピュリズム」について 論点の整理

今回、東京へ行った理由は日本AALAの講演会を聞きに行くためである。とくにベネズエラ大使セイコウ・イシカワの講演が主目的である。

講演は二本立てになっており、最初が「ブラジルとペルーの政権交代から」と題する山崎圭一さんの講義。後半がイシカワ大使の講演であった。

山崎さん(横浜国大教授)の講演は1時間でやるようなレベルのものではなく、かなり消化不良感が残った。とくに少ない講義時間の多くがポピュリズム論に費やされたため、聞きたいことが聞けなかったという心残りがある。

ポピュリズム論が世界中で流行っていることはわかった。

ただ、ポピュリズムという概念自体はきわめて多義的で、最低でもトランプ現象やヨーロッパでの政治的激動を分けておかないと、混乱の元になる。

とりあえず、私は以下のように提案したい。

1.19世紀末の米国におけるポピュリスト・パーティーを始源とし、それに影響を受けたラテンアメリカのポプリスモ運動を一括して古典的ポピュリスムと呼ぶ。

2.トランプ現象に象徴される民衆の漠然とした気分・不満を基調とするいくつかの運動をモダン・ポピュリズムと呼ぶ。

3.モダン・ポピュリズムにおいてはファシズムとの異同の吟味が必要である。すなわち、何故それらをファシズムあるいはネオ・ファシズムと呼ばずポピュリズムと呼ばなければならないのか、それを明らかにしていく実証的な検討が必要である。

最後に、水島によるポピュリズムの分類を下に示す。山崎さんが作図したものである。

21世紀の欧州のポピュリズム(右派)

21世紀のラテンアメリカのポピュリズム(中道~左派)

抑圧型

移民排斥

支配的政治・文化・価値観への挑戦

解放型

財政政策の拡充による貧困対策の拡充

社会・経済開発の促進

これを見るとはっきりするのは、ポピュリズムという概念が、政治的にはほとんど無意味だということである。ただたんに見かけ上のスタイルというに過ぎない。

要するに、21世紀型の下からの変革というのは、大なり小なりポピュリスト的手法を取らざるをえないということを言っているにすぎない。
それが間違いだということは、サンダース旋風、イギリス労働党の躍進で確かめられているのではないか。

それにしても、右も左もごっちゃにしてポピュリストと一括する人々の存在こそが、実は一番の問題なのではないか。「おろかな民衆」とそれに迎合し、それを煽る政治家というのなら、おそらくそのような発想からは何も生まれないだろう。
それは知的エリート主義の形をとる保守・現状維持主義であり、その枠組を破ろうとするものへの嫌悪感と恐怖感である。それは知的エリートの知的退廃の告白でしかない。
トランプが勝利した時、サンダースはこう言った。

トランプ大統領に投票した人々は人種差別主義者、性差別主義者、同性愛憎悪者、嘆かわしい人々だと考える人たちがいる。私はそうした考えに同意しない。なぜなら私はトランプ大統領に投票した人々と一緒にいたからだ。

…有権者のほとんどは、右翼的な主張ではなく、進歩的な主張を持っているのだ。

虐げられた人とともにあることは、神とともにあることだ。そのことをサンダースは雄弁に語っていると思う。

この青年哲学者の「失方向」には暗澹とさせられる。
結局、これはポストモダンの共通の特質なのだろうか。「方向感覚」が失われているのだ。
「方向感覚」というのは時間軸を組み込んだ位置感覚、すなわちベクトル感覚だ。だからそれは「時間間隔」、より長い目で言えば「歴史感覚」に裏打ちされている。(2017年02月09日  2016年05月24日 2014年11月17日 を参照されたい)
戦後の時代には進歩と社会主義を目指す共通のベクトルがあった。それがスターリンの専制により無残にも打ち砕かれた。青年たちはそれに幻滅しつつも、ヒューマニズム・人間的自由という言葉を手がかりに、新たな社会を目指しさまざまに模索した。そこには共有する歴史感覚とともに明確なベクトルが存在した。
しかしスターリンなきスターリニスト体制は、その後も害毒を流し続けた。その結果、ついには進歩的オルタナティブをもとめる動きまでもが、スターリニスト亜流として攻撃されるようになった。その先頭に立ったのが未来社会論であり、構造主義であり、変化球としてのハンナ・アーレントである。
口角泡を飛ばす議論ではなく、「ダサい」というより隠微な攻撃が主流となり、ポストモダンの空虚なきらびやかさと、商業主義が青年を幻惑した。しかしそれも間もなく枯渇し飽きられた。(ポストモダンと言ってもお好み焼きのメニューではない。昔から「近代の超克」などと通底する。最近流行りのポスト・トゥルースとも響き合う)
そこに何が登場したか、ハンナ・アーレントを借り、マルクスとハイエクをミキサーに掛けて、結局は体制に寄り添う貧弱なセコハン文化である。ピラミッドの前のラクダのレンタル業者みたいなものだ。
ラクダの背中に敷くカーペットの柄が今様かどうかが彼らの最大の興味だ。
「書を捨てよ、街に出よう」という呼びかけが必要なのかもしれない。だが「書を捨てた若者」が漂流する「街」にそれがあるかどうかは保証できない。「街に出よう」ではなく、愚直ながら「生産点・生活点、ひっくるめて現場におもむけ」という呼びかけが必要なのかもしれない。
「方向感」はそこにあるだろう。だが、とりあえずは「赤旗を読め」だ。

前の記事で、「風の新兵衛」のことを書いたのは、私の視点を整理しておきたかったためである。

何故そんな気になったかというと、東京に行く飛行機のなかでふと、カバンの中に、この間買ったブックレットが入っているのに気づいたからである。

「遊」ブックレット第10号、「現代日本の公共性と全体主義を考える・・・・ハンナ・アレントから」というワンコイン・ブックレットである。

著者は古賀徹さんという人。題名の「拡散ぶり」にうんざりしつつも、「まぁ、あのハンナ・アレントだから読まなきゃならないな」と思い読み始めた。

著書と言っても素人相手の講義の速記録だから、さほど読みにくいわけではない。しかし話題の拡散ぶりは予想通りである。

ハンナ・アレントについては、以前私なりに一応の決着はつけている。ただそれが自由学校「遊」の演題として登場するとなると、立場を再確認しておかなくてはならないと思う。

前にも書いたのだが、ハンナ・アレントの考察の内容と、彼女の政治的立場はある程度分けて考えておかなければならない。

2013年12月22日 2013年12月22日 2013年12月23日 2013年12月24日 2013年12月24日 2013年12月25日 2015年03月28日 

1.ハンナ・アレントの基本的立場…孤高のアリストクラシー

多くの「ハンナ・アレントもの」の紹介本では、意識的にぼかされているが、彼女の政治的立場は何よりも反ボルシェビズムである。

それはスターリン時代の末期に書き起こされ、スターリン批判の時代を通じて書き継がれた。

それは「善意」に包まれた組織が何故に「悪の組織」へと変貌していくかを考察し、その底に「民主主義」→「衆愚主義」という社会の組織形態を探る。

「衆愚」政治がおろかで狂信的な官僚制を熱心に支えることによって、民主主義の反対物へと転化していく、というお定まりの黒神話である。

おそらく彼女はナチの政権獲得を念頭に置いているのであろうが、そのような「瓢箪から駒」みたいな全体主義ではなく、ナチズムのもっと意図的で組織的な形態として、完成形としてボルシェビズムを描き出すことになる。

これだけでは反共・反民主のウルトラ右翼思想になってしまうので、民主主義という思想のパラダイム変換へと進んでいく。

それから先はとりあえず保留しておくことにするが、とにかく彼女がリベラルな思想の持ち主でないことは確かであり、リベラル派が学ぶべき対象でもない。

どうしてこのような思想が、リベラル派の議論の中に何度も何度も持ち込まれてくるのか、不思議でならない。

2.演者はのっけから挑発する

私がこの講演を聞いていたら、憤然として席を立ったかもしれない。

少し紹介しておく。

「足元から作り出す民主主義」という講座全体のテーマは、ちょっと古風というか、札幌らしいと思います。

札幌は、私が住んでいた20年くらい前ですら、本州の思想状況から15年くらい遅れていると言われていて、そもそも思想的に古風な土地柄でした。

2014年の今日ですら、このテーマから、戦後民主主義の息吹のようなものを依然として感じてしまうわけです。

たしかに講義風景の写真を見ると、受講者はジジイばかりだ。ジジイがジジイと呼ばれても腹は立たないが、このように上から目線でせせら笑われると、猛然とアドレナリンが吹き出してくる。

立場の違いだろうが、我々からすれば、ハンナ・アレントの本質は民主主義と民主主義のために闘う人々への「あざけり」にあるということが、これほどまでに鮮やかに示されたシーンは、滅多にないのではないだろうかと思う。

しかもそう嘲っている本人が、嘲っているという意識なしというのも、いかにもの話だ。
実は我々は学生時代に「戦後民主主義は虚妄だ」と主張する全共闘諸君と論争したことがあり、ずいぶん勉強したものだ。ひたすら「戦後」から「戦前」へと後ずさりしている人から「遅れている」と言われる筋合いはない。

3.あまりに粗雑な「哲学者」

本題は次のようにして始まる。

民主主義の反対は何かというと、さしあたり全体主義だと思います。戦後民主主義は民主主義=善、全体主義=悪としてきた。アレントによればこういう図式は成立しない。

書いてみれば分かるように、「戦後民主主義は民主主義=善、全体主義=悪としてきた」というセンテンスがまったく余分なのだ。

非常に印象操作的な言い方で、アレントが民主主義vs全体主義という図式が成立しないと言っているようにも聞こえるし、民主主義=善、全体主義=悪という図式が成立しないと言っているようにも聞こえるのだ。

しかも「民主主義vs全体主義」という図式は、演者が勝手に仮設しただけのものだ。

つまり演者は肝心なことは一言も喋らずに、戦後民主主義という民主主義を勝手に持ちこんで、それをアレントを口実に俎上に載せたことになる。

ここまでのこの人の心情は、戦後民主主義へのあざけりで一貫しており、まともに批判しようとする気配も、まして評価しようという気配もまったく感じられない。

4.民主主義の反対は、普通は「全体主義」とは言わない

我々が民主主義について学ぶ場合、「民主主義」というのは人類社会の進歩の中で登場した歴史的枠組みだ。

階級社会が誕生して以来、すべての社会は基本的には非民主的だった。皇帝をいただく大国も、諸侯の乱立する戦国社会も、非民主的である点においては共通していた。

ロックの思想的展開、フランス大革命などを通じて、「自由・平等・博愛」の精神が社会の全構成員に承認され、初めて民主国家が成立した。

こうして階級は依然として存在するが、法の下の平等と個人の自由が尊重されるという特殊な、過渡期的性格を帯びた資本主義社会というものが出来上がり、今我々はそういう社会のもとに暮らしていることになる。

これが教科書的な民主主義の内容だ。

したがって、この社会は生まれたばかりの民主主義をめぐり、絶えまない緊張を孕みながら推移している。歴史的概念としての「全体主義」は非民主社会へ引き戻そうと絶えず生まれる逆流の一形態だ。
これが大掴みな民主主義の把握である。

これに対し、「全体主義」の概念は今のところ流動的であり、多分に恣意的に用いられる。社会科学の対象とするには漠然としているのではないだろうか。
我々が「全体主義」と言われてまず思い浮かぶのはファシズム独裁だ。しかしその他にも非民主的な社会形態は様々にある。スターリンの恐怖・専制社会(アレントはこれも全体主義という)、サウジアラビアのような時代錯誤的な専制、北朝鮮のような支配者の神格化その他もろもろだ。

これらを当然の前提とする「老いぼれ聴衆」たちに対して、「さしあたり全体主義」とする演者の軽さが苦々しい。「とりあえずビール」とは次元が違うのである。

5.だったら言うなよ!

演者の「軽さ」は度を越している。

民主主義の反対はさしあたり全体主義だと言っておきながら、すぐその後に「この図式は必ずしも成立しない」と平気で喋る。

だったら言うなよ!
我々のだれも、「民主主義の反対はさしあたり全体主義だ」とは思っていないんだから。
6.もっと民主主義の中身を語れ

演者が想定する民主主義は、たんなる「手続き民主主義」にすぎない。そもそも民主主義というのは「形式」において語るようなものではない。
民主主義とは第一に、自由・平等・博愛を旨とし、人権の無差別性を主張する思想である。第二に、それは人類がついに社会の盲目性を脱却しそれをコントロールするために獲得したツールである。日本人は第二次大戦後の悲惨な状況の中でそれを知り、熱狂的に歓迎した。絶対主義天皇制と軍部の愚劣さを骨身に感じた日本人の目に、民主主義の理想はまばゆいほどに輝いていたのである。
7.「一億総懺悔」への後ずさり

このあと恐ろしくなるほどの戦後民主主義への悪口雑言が並べ立てられる。
もはやコメントする気もしないので、大意の引用だけしておく。
(過ぐる大戦は)独裁者が人々に無理やり強制したという全体主義理解がいまだに信じられています。抵抗する人たちを投獄し、一般の人達を徴兵して悲劇が生じたという戦後民主主義の図式です。
しかしこれは一般大衆を戦犯から除外して免罪する政治的意図によって築かれたものです。その上に戦後民主主義が乗っかった。だから戦後民主主義は徹底的に自己検証することがなかった。
ということで、「一般大衆=戦犯」論とも言うべきトンデモ論が展開される。
思うに、いまの人達は戦後史をまともに勉強していないようだ。
戦後いち早く、政府は一億総懺悔論を出して保身(とくに天皇の)を図った。「みんな悪かったんだ、誰が悪いというわけではなかったんだ」という理屈で居座りを図った。それに対してGHQが真っ向から攻撃して、戦犯を公職から追放した。これに力づけられて、国民の間からも真相究明、戦争責任追及の声が上がった。これが「戦後民主化」である。
しかし冷戦が始まってロイヤル陸軍長官が反共声明を出すと、その声はしぼんでいった。三鷹・松川などの謀略事件が相次ぎ、レッドパージが断行され、共産党が非合法化され、いっぽうで戦犯が次々と復活する。こうして戦後民主化は挫折したかに見えた。
しかしその後の逆コースを日本の国民はある程度は阻止した。そして曲がりなりにも平和国家日本を作り上げてきたのである。これがもう一つの「戦後民主主義」である。我々にとっての戦後民主主義はストックホルム・アピールであり、原水爆禁止であり、砂川であり、勤評であり、安保であった。
最低でもこの2つは分けて論じてほしい。そしてそれらは「虚妄」ではなく歴史的「事実」であったことを認めてほしい。そしてそれは「国民総懺悔イニシアチブ」の拒否から始まったということを認識してほしいのだ。
8.解同思想への横滑り
演者は、さらに「一般民衆も戦犯」論を進めて「排除」の論理を持ち出す。「体制の敵」作りこそが全体主義の本質だというのだ。
演者はそれをクラスのいじめやハンセン病患者の隔離へと結びつけている。それらはいずれも大事な問題ではあるが、ファシズムの階級的本質や独占資本との関係はそこでは捨象されてしまう。
「差別」こそが支配の本質であるとし、人々の「差別意識」をえぐり出すことで物言えぬ雰囲気を作り出し、それによってなにがしかの利権にありつこうとする解同集団の論理に接近する。
ただし、この辺になると論旨がふらついてきて、一体何をいいたいのかわからなくなってくる。

まだまだ「戦後民主主義」への漫罵は続くが、辛抱して読んで下さい。最後の質疑応答が面白い。

ジジイどもが慎み深く逆襲している。「遅れているのはあなたじゃないんですか?」と


滝沢修の「風の新兵衛」

あまり見たことのない「大河ドラマ」だが、奇妙に滝沢修の次のようなセリフだけは憶えている。

「風の新兵衛」は町人でありながら討幕運動に関わっている人物なのだが、「なぜか」と問われる。

いまの世の中をまっとうなものにしたいからでございます。そういう運動がいま目の前にある、それを見過ごすことは出来ません。

もちろんそれがお武家の運動であることは承知しているし、もしその運動が成功しても、また別のお武家さまの世になるやも知れぬ、それも承知しております。

その時は、もう一度考えを改めて、今度は町人も分け隔てなく暮らせるように運動するまでです。なんにもしないのでは、なんにもなりません。

何かをすれば、たとえお武家の運動であっても、その中に次の世の芽が育つのではありませんか。それがいつかは花開く、それを信じたいのです。

もちろん、セリフそのままではない。うろ覚えの記憶を元に私が創作したものである。

変なもので、こんなテレビドラマのただのセリフだが、私にとってはマルクスやレーニンの言葉よりも大事な信条になっている。
ところが、このセリフがいつ頃のなんという大河ドラマのものだったかが思い出せない。

例によってネットで調べてみた。以下のようなことがわかった。

この番組は「三姉妹」という67年に放映された大河ドラマだ。このドラマは視聴率から見れば、ほとんど失敗作と言って良い結果だったらしい。フェミニスト路線の走りだったのだろう。私は、こういう歴史改ざん的フィクションをあまり好まない。
三姉妹が岡田茉莉子、藤村志保、栗原小巻という顔合わせ。前二者については、控えめに言ってテレビ向きの人ではなかった。当時は「コマキスト」という言葉が流行ったくらいの人気だったが、私は「サユリスト」だった(もっと言えば芦川いづみだった)。
出演陣を見ると民芸と俳優座ばかり、左翼総出演だ。民芸でさえ右翼に見えた。


それにしても、67年だったのかと感慨を抱く。下宿の部屋にはテレビはなかったから、おそらく晩飯を食いに入った食堂で見たのだろう。セツルメントに誘われて、いつの間にかいっぱしの活動家になって入党し、民青の北大全学委員になって運動野の真っ只中にいた。
すねかじりでありながら、親の思いとは真っ向から反対の方向に突き進んでいくのだから、世間並みの言葉(論理)を欲していたのかもしれない。
asikawa

裕次郎映画の時はどうということなかったけど、この映画一発で参りました

そこに大河ドラマのセリフがはまり、芦川いづみの凛とした美しさがハマったのではないか、そうも思えてくる。

2013年03月28日 を増補しました。
赤いウィーンに暮らし、元ハンガリー共産党員で熱烈な活動家である女性を妻としたことで、かなりマルクス主義に接近したこ とは間違いありませんが、中核的な信念としては一種のサンディカリズムに立脚していたように思えます。

私が思うに、この時代のウィーンの左翼は反動派経済学者の「価格転形過程」論にかなり参っていたのではないでしょうか。バウアーもヒルファーディングもこれをうまく突破できていないように思えます。

物質的富というのは具体的有用性においても規定されるし、抽象的な労働生産物としても規定されます。しかしそれはいずれも富の素材的(即自的)規定でしかありません。富は目的として、あるいは手段として対自的にも規定されなければなりません。
富は欲望の物質化(対象化)されたものとして、あらためて措定されなければなりません。マルクスは「経済学批判」では繰り返し欲望の再生産と、物質的富の再生産の照応を語っています。その上で物質的富の源泉について語りますが、それは経済活動という人間的活動の片面でしかありません。

富を消費し、欲望を生産する、もう一つの人間的活動=文化活動がその先に語られなければ、人間的活動の円環は閉じないのです。

マルクスはこの問題を先送りしました。資本論全三部では終わらせられない、もう片側の議論を持ち越しにしました。持ち越しにしただけではなく、ひょっとするといつのまにか等閑視するようになっていたのかもしれません。

「経済学批判」(とくに「要綱」)から「資本論」(とくに「賃金・価格・利潤」)への流れを見ていくと、「労働力」が人間的能力(Arbeits -Vermehrung)の表れとしての労働能力の疎外された姿だという観点が徐々に薄れていくような感じがします。

「価値の価格への転形」は、経済活動として見ただけでは不完全な把握にとどまるでしょう。目下のところ上手く言えないのですが、それは文化活動の開始点としても見ていかなければならないのではないでしょうか。

購買行動を起点とする消費活動は社会的文化活動でもあります。“もの”として凝縮されたエネルギーがその具体的有用性を発揮し、それを生きとし生けるものとしての人間が受け取り、みずからを生物的制約から解放し、より人間的に文化的に発展していくこと、それこそが消費活動です。

この辺がこれからの理論課題なのだろうと思いますが、ポラニーは「多ウクラードの併存」、あるいは「社会の多元性」という形で、形而上学的な乗り切りを図りました。これは一種の問題回避であり「政治的解決」です。

またも思いつきだが、
弁証法の基本矛盾は存在と過程の二重性にあるのだろうと思う。
この時、存在は一時的・相対的なものであり、過程は絶対的なものである。
これはもちろん4次元時空内での話だが。
で、それから先の話だが、虚無主義者は過程の絶対性を強調するあまり、「色即是空」、方丈記の世界に入ってしまう。
ここで一切の論理はストップしてしまう。
しかし存在の相対性は個別の存在の中にあるのであって、その総体としての「全存在」の相対性を否定したことにはならない。それどころか、存在抜きに過程は規定し得ないのである。
ただ存在は純粋な質量の形態では存在し得ず、つねに過程と結びついて、すなわちエネルギーとベクトルをもったものとしてしか存在し得ない。
すなわち存在と過程はエネルギーという形態で結合しているのである。時空の基本的エレメントとしてエネルギーを承認することは存在を承認することとなる。
この認識が客観的観念論と唯物論を分ける分水嶺となるのではないだろうか。
私たちが時間軸をも相対化できる5次元の尺度を持っていれば、この問題は容易に解決できるだろうが、誰かそのような「超アインシュタイン物理学」を展開してくれないだろうか。

現実の存在は個別的・相対的なものであるだけに、存在論は認識論としての側面を持つ。存在をのっぺらぼうの質量としてとらえると不可知論の世界に飛び込むことになる。エネルギーとして、あるいは加速度として質量をとらえることで、(回り道ではあるが)不可知論は克服できる。すなわち存在の発するエネルギーを、将来展望もふくめて人間は感知・受容できるし、そのことによって事物の存在を確信しうるのである。
このことが「唯物論と経験批判論」の前段に書き込まれなければならないのではないか。

連帯精神の二つの源泉: 利他行動と集団協力

先日、「機微」の問題に触れた。人それぞれに想いと行動を結びつけるものとして「機微」というものがあって、そこを互いに掴みながら連帯していくことで、「真の共闘」が形成されるという話だった。

そしてこの「機微」というのは。ことの性格上積極的で能動的なものだから、そこさえつかめばあとは勢いだ、と書いた。

ただこれは連帯精神の一面、「おもんばかり」という作業である。そこには、その前提となる「思いやり」の心が前提となっている。

共闘という作業は「おもんばかり」だけでもけっこう進むだろうと思う。そこにはある程度の共通の思いが存在していて、課題はその思いを探り出すことになるからだ。

しかし共闘は出発点であり、そこから先には砂のような大衆が待ち受けている。我々は砂の一粒一粒を思いやりの心で満たしていかなければならない。

そこで「思いやりの心」だが、実はこれは二つの要素からできている。

ひとつは利他の心であり、もう一つは集団協力の精神である。

この二つの要素は、実はボノボとチンパンジーの比較研究から導き出されたものである。

をご参照いただきたいのだが、実はこれは山本真也(京都大学霊長類研究所ヒト科3種比較研究プロジェクト特定助教)さんの文章チンパンジー・ボノボにみる「徳」の起源の丸写しである。

詳しくはそちらをご覧いただきたいのだが、ボノボにもチンパンジーにも利他行動はある。ただチンパンジー社会では集団協力の傾向が著しく発達しているために、利他行動のほうが見えにくくなっているだけなのだ。

集団協力を中心とする社会関係(群れの掟)の中でも、連帯心とか社会規範は発達する。それは一見利他の心と似ている。しかし、集団という囲い込みを前提とするところに決定的な違いがある。それは本質的に排他的で選別的である。

しかしそれ以前に、自発的で無差別な「利他の心」は生得的に存在するのである。あまり手垢のついた言葉にしたくはないが、エトスとパトスの生物学的説明と言えないでもない。無論この二つは絡みあっている。高次の利他行動は、社会集団の中で習得され、昇華されなければならない。

砂粒に見える人々にも、いわばDNAとして利他的な思いやりの心は潜んでいるのである。それを掘り出して、アパシーという汚れを取り払って、息を吹き返させることが大事なのだ。

これは文学とか芸術とかが担う作業になるのかもしれない。

「考える葦」についての断章

「考える葦」の全文は次のようになっている。(Pensee L200-B347)

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のうちで最も弱いものである。しかしそれは考える葦である。

かれをおしつぶすために,宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でもかれを殺すのに十分である。

だが,たとえ宇宙がかれを押しつぶすとも,人問はかれを殺すものよりも尊いだろう。なぜなら,かれは自分が死ぬことと,宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。

宇宙は何も知らない。

だから,われわれの尊厳のすべては,考えることのなかにある。

われわれはそこから立ちあがらなければならないのであって,われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。

だから,よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

以下は山田さんの読み込みである。

パスカルが人間の弱さを言うとき,モンテーニュが連想されているといわれる。だが人間が「考える葦」にたとえられるとき、人間の人間たる由縁はものを考える点にあると見なされている。パンセのなかにはデカルトにかなり近い定義もある。「自我は私が思考するところに存在する」

これに対して宇宙は無限なる空間であって,人間はその両極を知りえないまま「無限と虚無との,この二つの深淵の中間」に漂っている。その驚異を前にして私は恐れおののく。

(多分これはデカルトにかなり引きずられての発想であろう。今日では「思考」はそれほど根源的なものではないことが明らかになっている。もっとも根源となるのは宇宙に対して抗うことであり、抗いながら個別的同一性を維持することである)

だが宇宙はそうしたことを何も知らない。それは純粋に物理的な空間であって,昔人の考えた宇宙霊魂などではないからである。

「あらゆる物体,すなわち大空,星,大地,その王国などは精神の最も小さいものにもおよばない。精神はそれらすべてと自分自身とを認識するが,物体は何も認識しないからである」

思考(人間)は物体(宇宙)から截然と区別され,明らかに物体に対して優位に立つ。

空間によって,宇宙は私をつつみ一つの点として私をのみこむ。思考によって私は宇宙をつつむ。

(これはデカルトというよりアウグスティヌスの箴言である。このあと、パスカルはデカルトの主体論・認識的理解に接近する)

人間は考えるために創られている。それは彼のすべての価値である。その思考の順序は,自分から,また自分の創造主と自分の目的からはじまる。

(優れているのはここまで、あとは信仰論にへたり込んでいく。なぜパスカルがここで腰砕けになるのかはよくわからない)

研究の出立点とすべきは,物体的延長の世界を分析することではなく,自らの精神や神を考えることである。よく考えることに人間の尊厳と価値とがあり,そこに道徳の根本がある。

とまぁ、こんなところに落ち着いていくのであるが、これに対してデカルトはどうか。これについては山田さんがけちょんけちょんにやっつけている。

デカルトは無限宇宙を眺めても深淵は見ないし,なんの戦慄も覚えない。

かれはパスカルとは違って,自らの生死や世界の不可思議に身を震わせる繊細な精神の持ち主ではない。むしろ,きめの粗い幾何学的精神で人生・世界を割り切って生きる人である。

神によって与えられたこの生を確信をもって歩みたい,死を恐れずに生を愛しながらこの世界を生きたいと思うだけである。完全な道徳は諸学を踏まえた知恵の最終段階であり,仮りの道徳で当座をしのぐのがデカルトの生き方であった。

「そこまで言うか」とも思う。

パスカルの「考える葦」にはもう一つの側面がある。弱き者としての人間である。人間は考える点でたしかに偉大だが,同時に葦であるかぎりは相変わらず弱きものである。

パスカルはパンセの他の場所でこうも言っている。

人間の偉大さは,人間が自分が悲惨であることを知っている点で偉大なのである。樹木は自分が悲惨であることを知らない。したがって悲惨であるのを知るのは悲惨なことであるが,しかし人間が悲惨であるということを認識しているのは偉大なことである

偉大さがいくら強調されても,人間がそれによって悲惨な存在であることをやめるわけではないのである。

さらに言うなら、思考においてさえも人間の弱さは露呈する。考えることはその本性からしてきわめて偉大だが,「考える」といっても戦争をすることや王になることなど,ろくなことを考えないからである。

結局これも信仰の世界に行き着く。愛の秩序によってその矛盾を脱しえるというのである。パスカルは明らかにデカルトを乗り越え、スピノザ的汎神論の世界に踏み込んだ。しかし乗り越えた瞬間にへたり込んで、論理の世界から逃げ出してしまうのである。

(2)神の存在証明

以下略

以前、パスカルのデカルト批判を積極的に受け止めて評価したことがある。

「我思う、故に我有り」なんていうのは、風呂で屁をへってあぶくが破裂して「くせぇ、故に我有り」みたいな話だ。

それに比べれば「人間は考える葦である」なんてのは、かなり「いい感じ」だよね、という乗りである。

しかしこれで済ませていたのではあまりに情けない。情けないが、今さら原著に当たる馬力もない。

ということで、山田弘明さんの「パスカルとデカルト」(名古屋大学文学部研究論集)という解説を読んでお茶を濁すことにした。

 

イントロ

パスカルがデカルトから受けた影響は大きい。この二人は実際に面識があった。

デカルト批判のなかにパスカルの哲学の基本的スタンスが最も明瞭に現れている。

この論文では両者の交渉の事実関係を見たうえで(第一節),パスカルがデカルトに言及したテキストを分析する(第二節)。

そしてデカルト批判の中で「考える葦」と神の存在証明問題を吟味する(第三節)。

1.交渉の事実関係

実際の交渉を示すものとして,(1)父エチェンヌ・パスカルとデカルトとの関係,(2)デカルトのパスカルへの言及,(3)両者の会見,の三点をとりあげる。

(1)エチエンヌ・パスカルとデカルト

まず父エチェンヌ・パスカル(1588-1651)とデカルトとの関係である。息子パスカルは父からデカルトの読み方を教わったとも言える。

エチェンヌは,デカルトとほぼ同世代の人であり,同じ学者仲間であった。クレルモンの税務署長までなったが,元来が実証的な近代精神の持ち主であり,数学や自然学に通じていた。

アプリオリな理論よりも実験を重視する精神は,息子にも受け継がれた。

1638年,エチェンヌはデカルトの『幾何学』を批判したことがある。まもなく紳士としてデカルトと和解したという。

要するに幼いパスカルは,科学的精神の持ち主である父から,デカルトの評判と同時に批判も耳にしていた可能性がある。これがパスカルが抱いた最初のデカルト像である。

(2)デカルトのパスカル評

一方、デカルトは駆け出しの数学少年パスカルをどう評していたであろうか。

1640年、16歳のパスカルは「円錐曲線試論」を発表した。当時オランダにあったデカルトは,はなはだ冷ややかな態度をとった。

パスカル氏の息子の『円錐曲線試論』を受け取りました。半分も読まないうちに,これはデザルグ氏から学んだものだと思いました。

1647年、二人はパリで面会した。デカルトは水銀柱の実験についてパスカルに“サジェッション”を行っている。

しかしその後、この“上から目線のサジェッション”をめぐって両者に齟齬が生じ、関係は気まずいものとなっていく。

デカルトはパスカルから寄贈された新刊『真空に関する新実験』を読んで,「この小冊子を書いた青年は,その頭が少し真空にすぎるのではないか」と椰揄している。

デカルトから見たパスカルは,叩いておくべき生意気な若造というのが率直なところであったかと思われる。

(3)パスカルとデカルトとの会見

両者がパリで実際に会見したことは,二人の交渉の事実関係の最たるものである。しかし会見の中身についてはデカルト側とパスカル側でかなり異なっている。(内容については省略)

 

2.パスカルのデカルト批判

デカルトの影響の大きさを考えると,パスカルがデカルトに直接言及したことは意外に少ない。

言及の内容としては批判的なものが圧倒的に多い。

(1) ノエル神父宛て書簡

デカルトは微細物質説を主張し真空を否定していた。パスカルの真空説はデカルトに真っ向から対立するものであった。

パスカルはノエル神父宛の手紙の中で、デカルトの微細物質説を否定している。

ノエル神父はデカルトの旧師であり,その真空否定説に与していた。パスカルは科学的推論がどうあるべきかを示しながら微細物質説の不合理性を堂々と論じている。

微細物質説は現代の最も高名な,ある自然学者の所論であります。その自然学者は,感知しがたいある物質が宇宙の中にあると主張しています。そのことは神父様もその方の著書の中でお読みになられたと思います。

かれは,その存在が感覚では証明できないことを以ってその存在を信じるよりも,むしろその存在を否定する方により一層の正当性があると断ずる。

パスカルにとって,デカルトはまずこうした点で批判すべき対象であったのである。

(2)「説得術について」

私の基礎学力の問題かもしれないが、このあたりからにわかに村上さんの論旨が読み取りにくくなってくる。

パスカルは「説得術について」という文章を残している。そこでパスカルは一つの言葉を引用する。

「物質は本来,いかにしても思考することができない」

これはパスカルの言葉ではない。1200年前に聖アウグスティヌスが語った言葉である。

このアウグスティヌスの原理と,「わたしは考える,ゆえにわたしは存在する」というデカルトの原理とは,同じ論理の裏返しではないか、というのがパスカルの受け止めである。

第一に、「物質は本来,いかにしても思考することができない」というのは、「物質はその本質において非精神的なものとして措定されている」からである。

ただし、そのものズバリの表現はデカルトの文章にはない。

第二に、パスカルは「わたしは考える,ゆえにわたしは存在する」という命題について、独特の読み方をする。すなわち「わたしの存在を主張するよりも,わたしの本性が考える点にあることを示している」と読む。

難しい言い方だが、「人間には精神(わたし)という“非延長的なもの”があり、その精神(わたし)が考える。したがって考えるということはわたしの個別性を証明する行為である」ということになろうか。

物体の非思考性と精神の非延長性と,この二つが表裏一体をなしてデカルト的二元論を成立させている。そして思考の重要性についてはパスカルも深く賛同している。「考える葦」がまさにそうである。

ここで村上さんは第一命題(アウグスティヌス)の存在を知らなかったデカルトの狼狽ぶりを描いている。

デカルトは,「コギト・エルゴ・スム」がアウグスティヌスの言明に類似していることを知らなかった。さまざまな人からそれを指摘されたデカルトは、図書館で『神の国』を読み,なんとか違いを示そうと考えた。

自分はアウグスティヌスとは違って,考える私か非物質的な実体であって物体とはまったく異なることを言いたかった

というのがデカルトの弁明である。要するに,かれはスコラ的知識の欠如を暴露している。この「事件」をパスカルは下敷きにしているのである。

そろそろ村上さんのとりとめのない無駄話に苛ついてきた。

(4)「パンセ」

『パンセ』においてデカルトの名が登場するのは六つの断章である。いずれも短いフラングメントであって真意を知るのは難しい。

デカルト。大づかみにこう言うべきである。「これは形状と運動とから成っている」と。だが,それがどういう形や運動であるかを説明するのは無益であり,不確実であり,困難である。

村上さんの解釈では、「物体が形状と運動からなっていることは事実だが、物体(自然)は機械ではない。そこには神が必要だ」と主張していることになる。

それはそれとして事実だろうが、パスカルが「神」として持ち出しているのは、もう少し具体的なもの、客観的な「存在理由」ではないだろうか。

だから下記の村上さんの解釈には違和感を覚える。

信仰の問題をぬきにした自然学は,人間の魂の救済に役立だないがゆえに無益であり,真の知識にならないがゆえに不確実である。また無限な宇宙の探究は,有限な人間の及ぶところではないがゆえに困難である。そして「あらゆる哲学」(自然学・形而上学・道徳)は,それが信仰を拠り所としないかぎり学ぶに値しない

パスカルのデカルト批判は,このテーマの下に一貫している。

ここまでの議論を見る限り、明らかにデカルトは形而上学的で、いわば原理主義である。そしてそれはコギトという主観に収斂していく。これに対してパスカルは事実をありのままにとらえ、ますもって受け入れよと言っている。そして事実とは叙述的にしか定義できないと主張している。もちろんそのような諸事実の積み上げと推理によりそれらは真理となっていくし、実験によって動かし難く確証されていくのであるが。

そしてそのような対象的世界、所与としての自然こそがパスカルのいう「神」なのではないか。だからパスカルは「神」の名において「唯物論」を語っているともいえる。マルクス風に言えば「客観的観念論」ということになる。

村上さんはこの言葉をめぐる解釈をるる説明している。しかしあまりにもうっとうしいので、とりあえず飛ばしていくことにする。

ただパスカルは、宗教者としての自分についても語っており、「神」は理神論的レベルに留まるものではない。これは心の内面の問題である。

機械論的自然の原点に神を置き,自然の薀奥を究めてよしとするのは,理性の驕りであり「空しい好奇心」である。数学や自然学などは魂の救済に関して無益であり,全力を傾注すべきものではない。

「主体性」は人間の本質ではない

いじめ、過労死、ストレスなどいろいろ並べてくると、人間の主体性という問題がどうしても避けて通れなくなる。そこで「主体性こそ人間の高次脳機能の本質」だという議論が出てくることになる。

しかし生物学的に見て、主体性の形成というのはそんなに高等な作業なのか、というと必ずしもそうではない。

むしろ、動物は大なり小なり主体性を持っている、という方が正確だろう。

そうすると、人間としての人間的な主体性というのは何なのかと、問題を置き換えなければ生産的な議論とはならないのではないか、とふとそう思う。

我々が生き物というとき、それは実際には動物のことである。もし「じゃぁ植物は生き物ではないのか」と問われると、「まぁそれも生き物ではあるな」と答えるが、心の底では「何をアホなこと言っているんだ」と舌打ちすることになる。

しかし食物連鎖を全体として考えてみれば分かるように、動物の例えば1千倍とか1万倍とかのオーダーで植物生命体があるはずだ。理屈から言えば、そういうレベルで生物界のバランスはとれているはずだ。

よく言えば、動物は生命界のエリートであり、悪く言えば寄生虫である。

生化学的に言えば、植物は炭素と水からできている。動物はそれに窒素を加えることでより複雑な構造を作り出している。何よりも大きな違いは、窒素が加わることで能動性が生み出されている。(あくまでも基本的な特徴付けだが)

栄養学的に言えば植物は独立栄養であり、水を分解することで炭水化物を作り、一方でこれをエネルギー源としつつ他方で炭化水素を高級化し体の構成成分ともする。

動物は従属栄養であり、植物の成長に自らの生命を託している。そして動物界の中にも食物連鎖のヒエラルキーを形成する。


動物は生まれながらに2つの世界に身をおくことになる。

一つは植物の世界に従属して、それに寄生しながら自らの生命を維持する世界である。

そしてもう一つは、食物連鎖の中にあってある時は捕らえ食し、ある時は捕食者から逃れ、生きながらえる弱肉強食の世界である。

もちろん、動物も植物も決して優しくはない自然環境の中に暮らすわけだから、全体としては自然の摂理に翻弄されながら一生を送る存在である。

その2つの世界のそれぞれにおいて、その生命体が動物であること、「動く生き物」であることはどのような意味を持つのだろうか。

それはまずもって、「判断」し「行動」することではないか。超短期的に言えば、自分以外のあるものを見たとき逃げるか捕まえるかの判断である。もう少し長期的に見れば、果実をもとめてさまようときに北に行くか南に行くかの判断は自ら下すしかない。ある程度はDNAやエピジェネティックに準備されているにせよ、最後は自己責任という厳しさを伴っている。

動物が群れを作るとき、それはそういう主体性を(部分的に)放棄することを意味する。そのほうが楽だからというのもある。「自由からの闘争」である。しかし今度は社会のしがらみが襲ってくる。ひどい時は「一億玉砕」などと死を強制される。

戦後流行した「主体性論争」はこの経験が下敷きにある。だから「ローン・ウルフ」であれという主張が導き出される。

このような「主体性」は相当屈折した複雑な心理状況を意味するが、それを「人間のみが主体性を持つ」というところまで敷衍してはならない。主体性と社会性(客観性)の関係は、動物がこの世に現れてからのいくつもの弁証法的過程を踏まえて議論しなければならないのである。

「中間層」論を最初に提起したのは、ジェームズ・ミルである。

以前書いた 2016年03月31日 から、『統治論』(An Essay on Government)の紹介の一節を再掲しておく。

 略奪者の抑制が統治の目的: 

欲望の対象の多くが、そして生存の手段でさえ、労働の生産物であるということが考察されるならば、労働を確保する手段がすべての基礎として具備されなければならない。…掠奪を防止しなければならない。その方法は、一定数の人びとが団結し相互に保護し合うことである。必要な権力を少数の人に委任することである。これが政府である。

中間階級の賛美: 

1.中間階級は「文明の被造物」である。それは「生存と品位を安定的に維持でき,しかも大きな富をもつことから生じる悪行と愚行とをしでかすおそれもない」のである。(衣食足りて礼節を知るといったところか)

2.彼らは「自らの時間を自由にすることができ,肉体労働の必要性から解放され,いかなる人の権威にも隷属せず,最も楽しい職業に従事している。

2.その結果「彼らは一つの階級として,人間的享受 の最大量を獲得している。

3.少年と婦人で構成され,町を混乱に陥れる暴徒の無秩序は何を意味するのか。人口のほとんどが富裕な製造業者と貧しい労働者とから構成され、中間階級が極端に少ないからだ。

4.民衆のうち下層部分の意見を形成し,彼等の精神を指導するのは中間階級である。不況下での群衆の無秩序な行動は,むしろその命題の正しさを証明するものだ。

以上の主張から、ミルが「中産階級」をスミスの含意する小ブル「階級」ではなく、中間「階層」として捉えていることが分かる。

「民衆の…精神を指導するのは中間階級である。不況下での群衆の無秩序な行動は,むしろ(逆説的に)その命題の正しさを証明」しているというくだりは、政治感覚として卓越していると思う。

すみません。吉見俊哉さん、どんな人かも知らずに批判していました。

ウィキペディアで肩書だけ見ると専攻の分野しか記載されていません。著書の題名を見ると、周回遅れのポストモダンみたいで正直ゾッとしません。本屋の書棚で背表紙を見ても、食指が動くことはないでしょう。
ところが東洋経済ONLINE の対談記事を見ると、東大の大学改革のコーディネータとしての活躍がメインとなっており(本人は不本意かもしれないが)、むしろそちらでの専門家として評価していくべきだということがわかりました。

もう一つ、主要な問題ではないのですが、吉見さんは最初理科1類に入学され、その後教養学部に移籍されたということで、モロ文系の人ではないということです。

以下、その対談からめぼしいところを拾っておきます。

私は副学長という立場ですが、「組長のパシリ」と自分では言っています。東大は、教育改革を進めるにも、さまざまな学部、研究科と、数多くの調整をしないと全体がまとまらない。だからこそ、誰かが調整役としていくのです…

ここ10年くらいは、大学で研究ができる生活なんて全然していません

という中で書かれたのが2011年の『大学とは何か』(2011年 岩波新書)という本だそうだ。

そういう点では「組織内調整学」の専門家という肩書が最もふさわしいようだ。赤旗での発言も、そのように受け止めるべきかもしれない。

以下は対談での発言から

1.大学は二度目の死に向かいつつある

大学は、中世に誕生して近世に一度死んで、19世紀になってもう一度誕生しています。その19世紀に再生した大学が、今、二度目の死に向かいつつある…

三度目の大学の誕生があるとすれば、それは中世の大学に似たものになるかもしれない。

2.日本の大学が抱える3つの困難

a)数的増加への疑問

終戦時、大学数は50未満であった。現在は800校近くに増えた(16倍)。若者は減りつつあるので、大学卒業者の比率はさらに高くなっている。

世間では、「この規模で高学歴人材を輩出する必要があるか」という疑問がある。

b)大学のグローバルな生き残り競争

大学は世界的にも増えています。アメリカでは4年制だけで2500校。短期も含めれば4000校といわれます。中国でも1600校近くある。

世界全体の大学数は、たぶん1万校以上ある。大学の大競争時代が始まっている。

c)学問の流動化と複雑化

知の仕組みそのものが流動化し複雑化する中で、大学という組織の定義「そもそも大学とは何なのか」が問い返されていると思います。

3.文部省の大学改革が問題を複雑にした

1990年代を通じて、文部省主導で行われた大学改革が問題を複雑化した。

大学院重点化により大学院生の数は数倍増えたが、就職先は増えていない。高学歴の専門家の専門職能が確立していないからだ。

これにより大学院のレベルが低下して来る、という負のスパイラルが起きている。

4.いま、大学の役割は

いま大学はとても重要だと思っているんです。…社会全体が方向性を見失っている中で、厚みのある「知」を身に付けて考え抜く人間 が必要です。

そういう人間をたくさん生み出す上で、大学の役割は大きい。

“厚みのある「知」を身に付けて考え抜く人間”が、その中で議論しながら、可能性や課題、解決法を見つけていくことが求められています。

間違いなく、大学はその基盤になります。

以上が私にとってはだいじなポイントだが、吉見さんはその先を見つめる。

そのために、大学は今のカタチから変わっていくことが不可欠です。問題点は、誰が大学を変えてく力になるのか、“なり手”がいなく、難しいですね。

(ネットで読めるのはここまで)


ということで、たいへん骨太な議論を展開されておられ、傾聴措くあたわざるものがある。

こういう文脈の上で、「文系廃止」問題が語られているのである。

率直に言って大学の抱える困難については理解の外だが、最後の「大学の役割」についての言葉は印象的だ。

細かく言うと3つに分かれる。

A 厚みのある「知」を身につけること

B その「知」を用いてあらゆることを考えぬくこと

C それらの人々が互いに議論すること。

これらの作業によって社会全体に方向性を指し示す

というのが現代知識人(集団)の歴史的使命だ

それを前提とするとき、大学こそがその条件を備えているのではないか、

というのが吉見さんの主張だ。

これはおそらく吉見さんの独自の見解ではないだろう。彼の大学におけるコーディネーター兼ネゴシエーターという役割から考えて、無数の人々との対話から生み出された、「知の役割」に対する見解の最大公約数なのではないか。

この主張の素晴らしいのは、大学を考える前に大学人=知識人の役割を考えていることである。そして知識人を諸個人・専門家ではなく「考えぬく集団的知識人」として把握することである。

そしてそのような「集団的知識人」を育成することが、高等教育の目標となる。

彼はその延長線上に“灯台”としての東大をイメージする。

以上のように考えた場合、「文系廃止」という発想がそもそも間違っている。知識人というのはたんなる才能(タレント)の担い手ではないからである。


それから見ると、赤旗の記事は隣の的を狙っているかのように見える。おそらくインタビュアーの力量の問題だろうと思う。

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