忘却と再発見
ルクレティウスの著作自体も長い間埋もれていたが、イタリアの人文学者ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380-1459)が、ドイツの修道院で写本を発見した。これによりルクレティウス並びにエピクロスの業績がふたたび世に出ることになった。
エピクロス主義=快楽主義か?
我々は快楽が目的であると言うが、それは道楽者の快楽や性的な享楽ではない。それは苦しみがなく、魂が平静であることにほかならない。 『メノイケウス宛の手紙』ということで、「快楽」(アタラクシア)だ。エピクロスのいうアタラキシアはエクスタシーどころかむしろ逆の心身ともに平穏な状態だ。むかし最も売れていた精神安定剤はアタラキシンという商品名だった。といってももちろん精神的にニュートラルというのではなく、何らかの充足感を伴う「しっかりした幸せ感」だ。
この人生観は、彼がデモクリトスから受け継いだ「原子論」にもとづく一種の能動的アナーキズムだ。 原子の集合に過ぎない人間が、感情に走ることは無意味である。感覚に基く穏やかな「快楽」(アタラクシア)を求めることを目標とすべきだというのが論旨である。
目的意識的行動があり、自らの力能が発揮され、その結果として何らかの使用価値が生み出され、それを我がものとして獲得し、使用(消費)した結果得られる充足感と心の安静というのが生活の基本的サイクルを構成する。
それは労働→享受→労働力能の再生産という連環の中に生み出される感情ではないかと思う。
この話は拙著「療養権の考察」を執筆時に何回も触れた。これは経済学批判要綱に何度も言及されている。「経済学批判」の第一章、「生産は消費であり、消費は生産である」というところだ。
マルクスは価値と使用価値の二重性に関連して、労働と享受という対になる概念を提示している。今でも経済関係の論文でしばしば混用されているのだが、生産に消費が対応しているように、労働には享受が対応しているのである。
生産は資本と労働の結合であり、労働は労働能力の使用(支出)であり、これに対しヒトは労働の産物(使用価値)を享受するのである。しかも直接にenjoyするのではなく、まずは我がものとし、その上で享受するのである。それは直接的に快楽のために消費されるのではなく、労働能力(正確には労働力能)を培うために消費されるのである。
「要綱」のマルクスは、賢明にもこの生産と消費、労働と享受の二重の弁証法を踏まえていた。しかしミクロ経済の命題の解明の過程で難関を突破するために、人間的諸活動を生産・労働・価値優位の理論に矮小化してしまった。そのために市場問題と価格実現過程で苦しみ、大工業における社会主義的協業関係の成長過程を描き切れずに終わってしまったのである。労働者は資本主義の墓堀人ではなく、(もちろん深刻な矛盾をはらみつつも)次の世界の正統な継承者なのだ。