鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

重商主義から重農主義へ

ケネーを中心とする年表

1628年 ウィリアム・ハーヴェイ、血液の体系的循環を発見。それまで、血液は心臓から消費器官までの一方的な流れと考えられえていた。

体液の循環説は、経済が再生産を通じて循環しているというケネーの発想を生んだ。

1694年6月4日  フランソワ・ケネー(François Quesnay)が生まれる。

1700年ころ ルイ14世の絶対王政のもとで、コルベールによって重商主義政策が推し進められる。

1718年 病院での修行の末、外科医を開業。

1737年 外科アカデミーの終身事務局長に任命される。(43歳)

1744年 薬学博士の免状を得て、国王の常勤内科医となる。

1749年 ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の侍医となり、ヴェルサイユ宮殿で働く。宮殿の「中2階」に居住し、そこは革新的な科学者,思想家たちの集まる場となった。

1750年ころ フランスの国家財政が破綻に直面する。
重商主義は貨幣を富の形態として考えていた。商品は富の原資だが富そのものとは考えられていなかった。そのため、貨幣を稼ぐことを唯一の目的とする保護貿易に終始した。このため貿易はゆがみ、国内産業は弱体化し、生産は伸び悩んだ。

1750年ころ ケネーは重商主義批判の立場から、経済学の勉強を始める。(56歳)

ケネーは血液循環と同じように富という血液が心臓から送り出され、また戻ってくるという循環を繰り返すと考えた。そして農業こそが心臓にあたると考えた。

1756年 『百科全書』第6巻に「明証性」と「定額小作農」の2つの記事を執筆。

1758年 ケネー、『経済表』(Tableau économique)を出版。(63歳)

コルベールの重商主義を過度の統制として批判。農業生産を基本とした自由な貿易によって経済を発展させる方針を提起した。自由放任主義・重農主義と呼ばれる。
その際に論証の材料として再生産表を発表した。これは社会を生産階級(農民),地主・支配階級,不生産階級(商工業者)にわけ、階級間の取引を分析することで生産と取得の循環を解明しようとするもの。 

1760年代 重農主義思想に影響されて、「穀物取引の自由」や「土地囲い込み」をもとめる運動が盛り上がる。
この運動は富農、産業資本家の経済的自由を後押ししたが、いっぽうで農民層の没落ももたらした。

1765年 アダム・スミス、パリに1年間滞在する。ケネーや信奉者と面識を持つ。

1774年12月16日 フランソワ・ケネーが亡くなる。80歳。

1774年 「財務総監」のテュルゴーが重農主義に基づくプログラムに着手。貴族たちの抵抗で混乱。

1776年 アダム・スミス、国富論を発表。

「経済表は、文字と貨幣と並んで、国家社会の安定に最も寄与した3つの偉大な発明品の1つである」と紹介

蓄積資本の概念,固定資本と運転資本との区別などもケネーの学問的功績とされる。

1776年 テュルゴー、農村の賦役と都市のギルドを撤廃するよう提案。国王はテュルゴーを解任。



ケネーの言葉(ケネー『経済表』より)

土地が富の唯一の源泉である。そして富を増殖させるのは農業である。そこにこそ、王国の行政の成功が依存している。
主権者と国民は、このことをけっして忘れてはいけない。

農業の振興は富の増加をもたらす。そして人口の増加を保証する。
人間と富が増加すれば、農業は繁栄し、交易は拡張し、工業は活気づく。
それは富の増加を永続させるのである。

「富の源泉」を考えるきっかけ
はるか昔のことだが、高校3年生の世界史の授業で、ケネーの農業表というのを習って感心したことを覚えている。
「おお、世界の富というのはこういうふうに作られるのだ」
ところが、次にアダム・スミスの講義になると、すべての富は労働によって作られるのだというふうに発展される。
これも「なるほど、たしかにそうだ」と思ったが、なんとなく眉唾の感じもあった。
農業は春に種をまくと、秋には麦粒が撒いた量の100倍になった戻ってくる。そこにはたしかに富が増えたという実感がある。
ところが工業というのはたしかに形を変えたりして使い勝手は良くするが、原料(元の富)そのものの量が増えたわけではないよね、というトゲが残るのである。
スミスはケネーの弟子筋に当たるようだが、ケネーがこれを聞いたらどう思うだろうかというのが気になる。
別に封建時代の人間ではないのだが、昔からある士農工商という身分制度が気になって、やはり農業が富の根本で、工は補助的な役割で、商は稼ぎもしないで人を騙して暮らしているみたいな気分があったのかもしれない。

剰余価値説はまずもって労働価値説だ

農業以外は価値創造を認めない人というのがいて、これには二通りあって、一つは神様以外に価値の創造者を認めないというウルトラの人たちだ。価値と人間が呼んでいるものは、人間の欲望が「価値」として結実した幻想に過ぎないことになる。
これはたしかに一理あって、富といえば金銀財宝を思い浮かべる人に対して、そんなものは社会が生み出した幻想なのだ、というのは正論である。

もう一つが、農業は神の恵みを価値に転化できるから富の源泉として認めてもよいが、それ以外は手慰みであって価値を創造しているわけではないというのだ。
しかし職人たちの仕事は明らかに価値を創造している。機を織ったり毛皮を鞣したりするのは、ほとんど農業の延長だ。もし農業が富の源泉であるなら、生活必需品に関する生産労働も同じではないかということになる。

価値とは使用価値であり、労働とはモノづくり労働だ

使用価値でない価値はありえない。剰余価値はモノづくり労働で初めて生まれる。

剰余価値を労働価値説の流れで把握するというのは、労働イコール物質的生産活動と定義することだ。ここを外して階級関係の中でのみ捉えると、話がとたんに見えなくなる。

労働の過程で付加された使用価値、これが剰余価値の原型となる。
これは資本主義的生産システムの中で、引き算として示されるようになる。なぜなら労働力もが商品化されるからだ。そういう“擬制”のなかで示された労働価値なのだ。

物質的生産労働以外の労働は別個に検討されるべきだ

剰余価値概念への批判は、物質的労働以外の労働をもふくませることから生じる。今日ではそういう労働のほうがはるかに多くなっている。
非物質的労働の範囲は運輸・建設などから始まって商業・金融まで広がっている。さらに教育・医療・福祉など以前は専門職とされた分野までもふくまれ、現実の労働運動の主人公となりつつある。

これらの分野における剰余価値→搾取の問題は別個に論じるべきだと思う。

資本論第2部の第8項に至る改訂稿の検討がこれだけ進むと、第3部をそのまま読む気がしなくなる。
第1部で第2版とかフランス語版があってかなり当初の分析とは様相を異にしている。第2部についても発行には至らなかったとはいえ、66年時点での草稿とは相当変わってしまった。

この調子で書き換えが進んでいったとすれば、第3部はどう書き換えられることになったろうか、多くの人の気になるところだろう。マルクスもその期待はひしひしと感じていたに違いないが、非常にそれが気の重い仕事になっていたのだろうと思う。一気に書き下ろすのは勢いで行くのだが、それを改定する仕事は書き下ろしの3倍くらい気を使う仕事になる。だから気力の低下したマルクスは、ロシアの古い農業形態とか、別に急ぐ必要のない仕事に“逃げ込んだ”のではないだろうか。

とりあえず研究者に期待したいのは、もしマルクスが後10年元気だったら、第3部をどう書き換えていただろうかという点にある。誰かが旗振りをしてそういうテーマでシンポジウムでもやってくれるといいと思う。

もう一つは資本論に今一度、哲学的な意義を付与して、要綱マルクス的な展開をしてみるべきではないかということである。とくに消費過程・生活過程・欲望の産出過程を物質的生産過程と照応させて、人間的過程を複線化することである。

この思想的遡り作業は、骨の折れるわりに、評価が定まらない論争的なものになるので、誰もあまり手を出そうとはしないだろう。しかし哲学的にはだいじなところだ。

2018年03月04日  シェリング 年譜 を増補した。

ついでに「弁証法的実在論者」としてのシェリングについての感想

カントからヘーゲルというのがドイツ古典哲学の流れで、フィヒテとシェリングは刺身のツマ扱いになっている。とりわけシェリングの役割はほとんど扱われない。

そもそもシェリングはプレ・ヘーゲルなのだろうか。彼は早熟であったためにフィヒテの後継として登場しているが、実際にはヘーゲルとは年下の同級生の関係にある。

二人とヘルダーリンは1790年代末には共同の理論構築作業を行っていた。ヘーゲルのとりわけ初期著作には、一歩を先行していたシェリングの論及がかなり影響を及ぼしている。

物自体と自我

フィヒテによれば、自然を認識するためには、自我という人間精神が前提となる。
フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。

物自体へのアプローチは可能だ

なぜフィヒテが哲学を認識論として提起したか。それはカントが、物自体を認識不可能なのものと裁断したからである。
カントは人間の認識能力の限界を示して、物自体を認識不可能なのものとし、現象界と叡智界とを厳然と区別した。
だからカントのしもべたるフィヒテの出発点となる問題意識は、物自体の壁を押し広げ、叡智界を拡大することにあった。それはカントが密かに企んでいたことでもあっただろう。

自然はたんなる対象ではない

シェリングの論理も、出発点においてはフィヒテと同じく自我と考えられる。しかし彼はライプツィヒで自然哲学を学んできたために、自然をたんなる認識の対象(非我)としては捉えなくなっている。
非我にも駆動力はあるということだ。「非我も自我の芽を内包している」ということになる。

フィヒテは自然を、意識から「排除すべきもの」と考えていた。シェリングはそれを精神と同一の「実在の原理」において把握しようとした。

勢いの赴くところ、シェリングは絶対我の代わりに自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」を想定した。彼はこれを「同一哲学」と名づけた。ほぼヘーゲルだ。
「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」

それでは、自然と精神とのこの相互転換はどのようにして起こるのか。自然はどのように知として意識に取り込まれるか、自然が精神として内実化される過程はいかなるものか。

「同一」は無様だが「絶対精神」よりはるかに良い

世界を統一的な視点から説明するという問題意識は、ヘーゲルの精神現象学に連なる。ヘーゲルは絶対我の代わりに「絶対精神」の諸事象への展開として考察する。

認識論の動画を逆回しすれば現象論になるというのがシェリングが提示しヘーゲルが引き継いだ論理である。
それは世界を観念の世界から逆立ちして描き出すことになる。
しかしそれは静止画ではなく動画である。その故に機械的唯物論よりはるかにリアルである。

まだ語るべきほどのものを持ち合わせていないが、シェリングの自然哲学の弁証法的な優位性は注目すべきものがあり、誰かエンゲルスの自然弁証法と突き合わせながら展開してくれるのを待ちたい。


内田弘 『資本論』形成史における『哲学の貧困』
(専修大学社会科学年報第47号)

という論文があって、内田さんの難しいものの言い方にいささか辟易しながら読んだのだが、経哲手稿の冒頭に「剰余価値」の初出があるというのに興味が惹かれた。

じつは、剰余価値の初出があまり良くわからなかったのである。

57年草稿にはまだ出てこないと言われていたので、61年草稿(剰余価値学説史)にいたる2年間の空白の時期に発想されたのか、くらいに思っていた。

ところが内田さんによると、この言葉はすでに経哲手稿に出ているというので、多分違った意味合いで使っているのだろうと思う。

すこし内田さんの文章を引用する。
経哲手稿の冒頭は『国富論』第1編後半の賃金・利潤・地代からの抜書である。
マルクスは、スミスのいう「利潤・利子・地代」を全体として抽象=還元するための概念として、その源泉たるという言葉を導出した。
「剰余価値」はパリノートのなかの「スミス『国富論』ノート」に初出している。
とここまでのところは、スミスを読んでいる間に思い浮かんだ思いつきという書き方だ。

ところが、内田さんの議論はさらに進む。
ただし剰余価値という言葉は、マルクスの創案ではない。すでにヘーゲルが、『法=権利の哲学』で、収入諸形態の総称として「剰余価値」を用いている。
そしてマルクスは、ヘーゲルのこの本を熟読したうえで、「ヘーゲル国法論批判」を執筆しているのである。
つまり内田さんによれば、剰余価値という言葉を最初に使ったのはヘーゲルであり、マルクスの頭にこの言葉が引っかかっていて、スミスを読んでいるうちにふとその言葉が思い浮かんだということになるようだ。

さらに内田さんの説明は続く。
ヘーゲルは「剰余価値」を「収入諸形態の総称」というカテゴリーで用いた。しかしマルクスは、そこにとどまらずさらに深い水準に推し進めた。
「剰余価値」という言葉に「諸収入の源泉」という位置づけを与えているのである。
ヘーゲルの「剰余価値」を受け継いだとしても、マルクスはそれで終わる人ではなかった。

と内田さんは結ぶ。目下のところ確かめるすべはない。

下記も同じく1993年の読書ノートで、ヘーゲルの「法の哲学」からの抜書きである。
労働と欲求の関係が見事に描かれており、労働が「陶冶」という観点からも性格づけされている。
これがおそらく「要綱マルクス」のバックボーンだろうと思う。
今回、「資本論形成史」をまとめてみてわかったのだが、「要綱マルクス」から「資本論マルクス」への変貌は、国際労働者協会との関わりが大きいのではないかと思う。
「経済学批判」ではなく、ある種「組合員学校教科書」的な方向への転化が図られたのではないか。経済の仕組みを解き明かすと同時に、それが労働者にとって持つ意味を考えさせるようなニュアンス、まさに「賃金・価格・利潤」的な方向が目指される。
したがって歴史貫通的な人類共通的な課題、哲学的なテーマはとりあえず控えることになった。だから我々はそこのところを補いながら読み込んでいかなければならないのだと思う。
とくに「未来社会論」を語るときに、この発想は必須のものだと思う。

法の哲学 S187

陶冶としての教養とは,その絶対的規定においては解放であり,より高い解放のための労働である.すなわちそれは,倫理のもはや直接的でも自然的でもなくて精神的であるとともに普遍性の形態へと高められた無限に主体的な実体性へ到達するための,絶対的な通過点なのである.

この解放は,個々の主体においては,動作のたんなる主観性や欲望の直接性だけではなく,感情の主観的なうぬぼれや個人的意向のきまぐれをも克服しようとする厳しい労働である.解放がこのような厳しい労働であるということこそ,それが嫌われる理由の一部である.しかし陶冶としての教養のこの労働によってこそ,主観的意志そのものがおのれのうちに客観性を獲得するのであって,この客観性においてのみ,主観的意志はそれなりに理念の現実性たるに値し,理念の現実性たりうるのである.また特殊性は,労働と陶冶によっておのれを作りあげ高め上げて,この普遍性の形式,すなわち悟性的分別を手に入れてしまうからこそ,同時に個別性の真実の対自存在になるのであり,また普遍性を満たす内容とおのれの無限な自己規定とを普遍的にあたえることによって,それ自身が倫理のうちに,無限に対自的に存在する自由な主体性として存在することになるのである.

S189 欲求の体系

特殊性はまず,総じて意志の普遍的な面に対して規定されたものとして,主観的欲求である.この主観的欲求がそれの客体性すなわち満足に達するのは
(α)いまや同じくまた,他の人々の欲求と意志の所有であり産物であるところの外物という手段によってであり,

(β)欲求と満足を媒介するものとしての活動と労働によってである.

食べること,飲むこと,着ることなどのような,一般的欲求とでも呼ぶべきものがある.恣意のこうしたしゅん動は,それ自身のなかから普遍的な諸規定を生みだすのであって,この一見ばらばらで無思想的に見えるものが,おのずから生じる一個の必然性によって支えられるのである.個々での必然的なものを発見することが国家経済学の目的であって,国家経済学は,大量の偶然事に関してもろもろの法則を見出すのである.この関係は一種太陽系にも似たものである.太陽系はいつも肉眼には不規則な運動しかしめさないが,しかしそれのもろもろの法則は,それでもやはり認識されうるのである.

S190 欲求の仕方と満足の仕方

動物の欲求は制限されており,それを満足させる手段および方法の範囲も同様に制限されている.人間もまたこうした依存状態にあるが,それと同時に人間はこの依存状態を越えていくことを実証し,そしておのれの普遍性を実証する.人間がこれを実証するのは,第一には,欲求と手段とを多様化することによってであり,第二には,具体的欲求を個々の部分と側面とに分割すること(労働の分割),および区別すること(社会的分業)によってである.そしてこれらの部分と側面とは,種々の特殊化された,したがってより抽象的な欲求となる.この欲求の立場では,主題は人間とよばれるところの,表象にとっての具体的存在者である.それゆえここではじめて,そしてまた本来ここでのみ,この意味での人間が問題になる.

S192

欲求と手段とは,実在的現存在としては他人に対する存在となる.欲求と手段の充足は他人の欲求と労働によって制約されており,この制約は自他において相互的であるからである.欲求および手段の一性質となるところの抽象化はまた,諸個人のあいだの相互関係の一規定にもなる.承認されているという意味でのこの普遍性が,個別化され抽象化された欲求と満足の方法を,社会的なという意味で具体的な欲求と手段と満足の方法にするところの契機なのである.

私は欲求を満足させる手段を他人から得るのであり,したがって他人の意見にしたがわざるをえない.しかし同時に私は,他人を満足させるための手段を作り出さざるをえない.だから人々は互いに他人のためになるように行動しているのであり,他人とつながりあっているのであって,そのかぎりにおいて,すべて個人的に特殊なものが社会的なものになるのである.

S196 労働の仕方

もろもろの特殊化された欲求を満たすのに適した,同じく特殊化された手段を作成し獲得する媒介作用が労働である.労働は自然によって直接に提供された材料を,これらの多様な目的のために,きわめて多種多様な過程を通して種別化する.だからこの形成は,手段に価値と合目的性をあたえるのであって,その結果,人間が消費においてかかわるのは主に人間の生産物であり,人間が消費においてかかわるのはこうした努力の産物である.

S197

労働によって得られる実践的教養とは,あらたな欲求の産出と仕事一般の習慣,さらにはおのれの行動を,ひとつには材料の本性にしたがって,またひとつにはとくに他人の恣意にしたがって制御することの習慣であり,またこうした訓練によって身についた客観的活動とどこでも通用する技能との習慣である.

S198

ところで労働における普遍的で客観的な面は,それが抽象化していくことにある.この抽象化は手段と欲求との種別化を引き起こすとともに,生産をも同じく種別化して,労働の分割を生み出す.個々人の労働活動はこの分割によっていっそう単純になり,単純になることによって個々人の抽象的労働における技能もいっそう増大する.

同時に技能と手段とのこの抽象化は,他のもろもろの欲求を満足させるための人間の依存関係と相互関係とを余すところなく完成し,これらの関係をまったくの必然性にする.生産活動の抽象化は,労働活動をさらにますます機械的にし,こうしてついに人間を労働活動から解放して機械をして人間の代わりをさせることを可能にする.

S199 資産(VERMOGEN)

万人の依存関係という全面的からみあいのなかに存するこの必然性がいまや,各人にとって普遍的で持続的な資産(VERMOGEN)なのであり.

下の二つは「美学」の抜書きである。

ヘーゲル美学講義 Ⅰ-51

人間はこの自分についての意識を二つのやり方で手に入れる.すなわち理論的には,人間は自分自身を人間の内面において意識する.…人間は実践的活動によって対自的となる.そして人間は外界の事物を変化させ,これに自分の内面の印章をおす.この欲求は芸術作品でみられるような外的な事物の中における自分自身の生産の仕方にいたるまで,ありとあらゆる形の現象にゆきわたっている.

ヘーゲル美学講義 Ⅱ-213

このような影の国がすなわちイデアールであって,そこにすがたを見せる精たちは,直接的存在には興味を失い,物質的生活の必要を免れ,有限の現象に必ずともなう環境への依存性や,あらゆるゆがみやひずみから解放されている.

 

要綱ノート(ページ数は草稿集①のもの)
多分1993年ころのもの。当然、まだウィンドウズではなく、NEC98の互換機で「松」で打ち込んだものです。


P327

「措定された交換価値としての資本に対立する使用価値は労働(力)である」.これはGーWであり,G→Wであるということ.①G→Wとなるところに資本の使用価値がある.②しかもWは現実的には「労働そのもの」である.

「資本家は労働そのものを,すなわち価値をうみだす活動としての生産的活動そのものとしての労働を手に入れる」.ここでは「労働そのもの」は抽象的一般的人間活動として,価値うみ過程からのみ規定されており,具体的な有用性は捨象されている.したがってこの「労働そのもの」はそれ自身資本の生産力となる.

P329

資本の諸要素,それが労働に対して持つ関係にしたがって分解されたもの(生産物,原料,労働用具).(二)資本の特殊化(a)流動資本,(b)固定資本

P339

彼が提供する使用価値(労働力の使用価値)は,(交換の時点では)彼の身体の能力,力能としてのみ存在するに過ぎず,それ以外には定在しない.彼の労働力能(VERMOGEN)が存在する場である一般的実態,つまり彼自身を肉体的に維持するとともに,この一般的実態(彼自身)を変容させてその特殊的力能を伸ばすようにさせるのに必要な,対象化された労働(諸商品の形を取った生活手段)は,この実体(彼自身)のなかに対象化された労働である(として定着する).

P342

(貯蓄金庫の)本来の目的は富ではなくて,いっそう目的にかなった支出配分でしかなく,したがってそれらは,老後とか,それともまた病気,恐慌などがそのあいだにやってきたときに,救貧院や国家や物乞いに厄介をかけないようにするのが目的である.

P350

なんらかの類推によってなにもかも然るべく配列してしまうこうした三文文士的な空語は,それがはじめて口にされるときは才知ゆたかにもみえるだろうし,またそれがもっとも異質なものを同一化すればするほど,ますます才知ゆたかにみえるであろう.だが何度も口にされると,しかも鼻高々と学問的価値をもつ提言として繰り返されると,それはまったくのところ愚かしい.

P351

 「資本家が望んでいるのは,まさに彼(労働者)が彼のひとり分の生命力(LEBENSKRAFT)をできるだけ多く,中断せずに使い切ることでしかない」.①労働力の再生産過程の合理性,したがって労働力修理工場はまさしくそのかぎりのことである.②生命力が労働力として規定されている.

 

P353

所有(関係)の労働(過程)からの分離は,資本と労働(力)とのこの交換の必然的法則(的結果)として現われる.「非資本そのもの」(資本と向き合っているがゆえに)として措定された労働力はつぎのようなものである.①対象化されていない労働(可能性ではあるがまだ発揮はされていない力能).否定的に把握されたそれ(その消費を目的とする観点からの把握).このようなものとしては労働(力)は非原料,非労働用具,非原料生産物であり,あらゆる労働手段と労働対象から,つまり労働(過程)の全客体性から切り離された労働そのものである.それは労働(過程)の実在的現実性のこれらの諸契機からの抽象として存在する生きた労働そのものであり,このような丸裸の存在,あらゆる客体性を欠いた純粋に主体的な労働(力)の存在なのである.

P354

「(労働力は)存在する非価値そのもの(であり),媒介なしに存在する純粋に対象的な使用価値(である)」労働力商品の価値はその生産費によって措定されてはいるが,本質的には価値をもたない使用価値である.それは太陽の光,大地の恵みとおなじように一つの自然力である.

(労働力および労働そのもの)の対象性は,人格から切り離されていない対象性,人格の直接的肉体性と一体化した対象性でしかありえない……それは個人そのものの直接的定在性をはなれては存在しえない対象性なのである.

(二)対象化されていない労働(力),肯定的に把握されたそれ(労働能力の主体的発揮としての労働そのもの).すなわち自分自身にかかってくる否定性(認識の発展と成長).それは対象化されていない,したがって非対象的な,すなわち主体的な,労働そのものの存在である.それは対象としての労働(力)ではなく,活動としての労働(過程)であり,それ自体価値としての労働(力)ではなく,価値の生きた源泉としての労働そのものである.それ(労働力能)は,富が対象的に現実性として存在する資本(現実の富としての資本)に相対して,行為(労働過程)のなかで自己をそのものとして確証する.富の一般的可能性としての一般的富である.(現実的・対象的富と一般的富との対置に注目)

(三)(労働能力の発揮は)資本として措定された貨幣に対するその使用価値として,あれやこれやの労働でなく,労働そのもの(ARBEIT SCHLECHTHIN),抽象的労働であり,労働(過程)の特殊的な規定性に対してはまったく無関心である.

ある規定された(個別の)資本を存立させている特殊的な実体には,もちろん特殊的な労働(過程)としての労働(そのもの)が対応しなければならないが,資本そのもの(総資本)は,その実体の総体性としてあるとともに,その実体のあらゆる特殊性の捨象としてもあって,自己の実体の特殊性に対してはいっさい無関心であるから,(総)資本に対する(総)労働(力)のほうも,主体的には同一の総体性と抽象性とを即自的にもっている..(労働力の抽象性は,資本の抽象性によって規定された歴史的概念でもある)

あらゆる労働(力)の総体(総労働力)が可能的に(総)資本に相対するのであって,とくにどの労働(力)が資本に相対するかは偶然的である.

P355

労働(過程)があらゆる技能的性格を失うにつれて,また労働(そのもの)の特殊的な熟練がますます抽象的なもの,無差別的なものとなり,また労働(そのもの)がますます純粋に抽象的な活動に,純粋に機械的な,したがって無差別的な,その特殊的形態には無関心な活動になるにつれて,つまりたんに形式的な活動,あるいはおなじことであるが,たんに素材的な活動一般となるにつれて(抽象性は歴史的に作られたもの),この経済的関係はますます純粋に,ますます適合的に展開されていくのである.(労働そのもの概念は資本によって練り上げられた概念である)

P356

労働(力)は対象化されたものの諸価値の非存在(即自的には無価値)であって,そのようなものとして,対象化されていないもの(可能態)としての諸価値の存在であり,つまり諸価値の観念的存在なのである.つまり労働(力)は諸価値の可能性であり,また活動(労働そのもの)としては価値措定(労働過程で実現されるべき価値)である.

労働(力)は資本に対してあるばあいには,ただ能力や力能としてのみ身体のうちに存在している,(抽象的な)価値措定活動(労働そのもの)のたんなる抽象的な形態(担い手),たんなる可能性に過ぎない.

しかし(労働力は),資本との接触を通じて現実的な活動(労働過程)に導かれることによって,それは現実的な価値措定的,生産的活動となる.

P357

資本が(商品として)対象化された労働(力)のどんな特殊的諸形態のうちにも存在する貨幣として,対象化されていない,生きている労働(そのもの),過程および行為として存在する労働(そのもの)とともに,(生産)過程に歩み入るかぎりでは……

(そこでは)たんなる形態としての労働(力)のたんなる主体性が止揚され,資本の材料のなかに対象化されなければならない.

活動としての労働(そのもの)とのかかわりにおいては,素材すなわち対象化された労働(そのもの)は,つぎのふたつの関連をもつだけである.まず原材料,すなわち形態のない(自然のままの)素材の関連,目的にそって(生産物としての)形態をあたえる労働(過程)の活動にとってのたんなる材料の関連.つぎに労働用具,すなわちそれ自体(原材料と同じように)対象的である(労働)手段の関連がそれである.

P358

たんなる「生産の行為」(単純な生産過程)を即自的(単純)に考察するばあいには,労働用具や原材料は自然のなかにあらかじめあるものとして現われるだろうから,したがってそれらのものはただ領有されさえすれば,すなわち労働(過程)の対象や手段とされさえすればよいのであって,このことはそれ自体労働の過程ではないのである.したがって生産用具や原材料に対比されるばあいには,生産物は質的に別なものとして現われるのであって,用具を使って素材に対して労働した(特殊な形態で労働力を発揮した)結果として生産物だ,というばかりでなく,それらのものとならんで最初の労働の対象化(一般的形態での労働力の消費)としても生産物なのである.

P359

生産過程そのものによって措定されている唯一の分離(歴史貫通的な分離)は,もともとある分離,対象的な労働(生産物)と生きた労働との区別そのものによって措定された分離,すなわち原材料と労働用具のあいだの分離である.

P360

原材料は労働(過程)によって変えられ,形態をあたえられることによって消費され,また労働用具は,この過程のなかで使用され,使いつくされることによって消費される.他方労働(力)もまた用いられ,運動させられ,こうして労働者の一定の分量の筋肉が消耗させられることによって消費されるのであり,それによって彼は疲れはてる.

労働(力)はただ消費されるだけでなく,同時に(労働そのものという)活動の形態から,(生産物という)静止の形態へ固定化され,物質化される.労働(力)は対象の変化として自分自身の姿態を変え,活動(THATIGKEIT)から存在(SEIN)になる(S-T-S).材料,用具,労働(そのもの)という(労働)過程の三つの契機はすべて合体して中性的結果ー生産物となる……

したがって(労働)過程全体が生産的消費として現われる.すなわち無に終わる(個人的消費あるいは消費的消費)のでもなければ,対象的なもののたんなる主体化(SーT)に終わる(だけ)でもなく,それ自身ふたたびひとつの対象として措定されるような消費(SーTーS)として現われる.(すなわち生産的消費とはSーTーSとW…P…Wの統一)

この消費は素材的なものの単純な消費(消費的消費)ではなく消費(生産のために消費されるべき力能,すなわち労働力)の消費であり,素材的なものを使用するなかで,この使用(W…P…W)を使用する(SーTーS)こと,したがってまた,素材的なもの(三つの契機)の措定である.(これこそが三要素定立の根拠)

(対象に対して)形態をあたえる活動(労働過程)は,対象(的諸条件)を消費するとともに,また自分自身(労働力)を消費するが,しかしそれは(労働)対象(となる生産物)をあらたな対象的形態として措定するためにのみ,あたえられた対象の形態を消費するだけなのである.

P361

第一に労働(力)の領有,労働(力)の資本への合体によって,資本は発酵して過程となる.つまり生産過程となる.貨幣,すなわち労働者に対する処分能力を買う行為は,ここでは過程を導きだすためのたんなる手段として現われ,過程それ自体の契機としては現われない.

この過程で資本は,総体としては,生きた労働(力)としての自分自身を,対象化された労働であるだけでなく,対象的であるがゆえに,労働(過程)のたんなる対象でもあるものとしての自分自身と関連させるのである.(過程を導きだす手段と,過程そのものの契機のちがい)

P362

資本を,それが労働(過程)からは区別されて最初に現われる面から考察すれば,資本は過程のなかでたんに受動的な定在,たんに対象的定在(原材料および用具)にすぎず,そこでは資本を資本たらしめている形態規定(WーGーW)ーしたがって対自的に存在する社会的関係ーは完全に消え去っている.資本は,その内容の面からのみーつまりただ対象化された労働一般としてのみー過程に入る.

しかし資本が対象化された労働であるということは,労働(過程)にとってはまったくどうでもよいことである.資本が過程に入り込み,加工されるのは,ただ対象としてだけなのであって,対象化された労働としてではない.……それらのものが,それ自体労働(過程)の生産物であり,対象化された労働であるかぎりは,それらは決して過程に入らないのであって,ただ規定された自然的諸性質をもった物質的な実在としてのみ過程に入るのである.これらの自然的諸性質が,それらのものにどのようにして措定されたのかは,それらのものに対する生きた労働(そのもの)の関連にとってはかかわり知るところではない.

P363

他方,労働者との交換によって労働(力)そのものがすでに資本の対象的諸要素のひとつになってしまっているかぎりでは,資本そのものの対象的諸要素からの労働(そのもの)の区別は,たんにひとつの対象的な区別でしかない.すなわち一方の要素は静止(RUHE)の形態にあり,他方の要素は活動(THATIGKEIT)の形態にある.したがって資本は一方では,あらゆる形態関連が消滅している受動的対象としてのみ現われるが,他方では,資本は単純な生産過程として現われ,この単純な生産過程のなかには,資本としての資本が,すなわち自己の(対象化された労働としての)実態とは異なるものとしての資本が入り込むことはないのである.

この面からみれば,資本の過程は,単純な生産過程そのものと一致しており,そこでは過程の形態において資本の資本としての規定が消滅している.

P364

こうして資本の生産過程は,資本の生産過程としては現われずに,生産過程そのものとして現われ,また労働(そのもの)と区別された形では,資本は,原材料と労働用具という素材的規定性においてのみ現われるに過ぎない.

P364

こうして資本の資本の生産過程は,資本の生産過程として現われずに,生産過程そのものとして現われ,また労働(そのもの)と区別された形では,資本は,原材料と労働用具という素材的規定性においてのみ現われるにすぎない.

P366 労働過程と価値増殖過程

(α)労働(力)が資本に合体することによって,資本は生産過程になる.だがさしあたっては,資本は物質的生産過程,生産過程一般となり,その結果資本の生産過程は,物質的生産過程一般と区別されなくなる.資本の形態的規定は完全に消え去っている.

資本がその対象的存在(財貨)を労働(力)と交換したことによって,資本の対象的定在そのものが,対象としての自己(財貨)と,労働(力)としての自己とに二分され,両者の関連が生産過程を,あるいはさらに厳密にいえば(資本の形態規定はそこでは消失しているゆえに)労働過程を形成する.こうして価値に先立って,出発点として(無価値として)措定された労働過程=これはその抽象性,純粋な素材性のゆえに,あらゆる生産過程(資本主義に先行する諸形態をふくめ)に等しく固有なものである=はふたたび資本の内部で,一つの過程として現われ,この過程が資本の素材の内部で進行し,資本の内容を構成するのである.

P367

資本が…素材またはたんなる手段として労働に対する一項として解されるならば,その場合にはまさしく資本は,労働(そのもの)に相対する対象,物質としてしかみなされず,したがってただ受動的なものとしてしか見なされないのだから,資本は生産的ではないといっても誤りではない.

しかし資本は両項(労働力と生産手段)のうちの一項として現われたり,あるいは一つの項それ自体のなかでの再生(労働対象と労働手段)として現われるのでもなく,単純な生産過程そのものとして現われるのであり,この過程がいまや資本の自己運動的内容として現われる.

P372

文明のあらゆる進歩,言い換えるならば社会的生産諸力のあらゆる増大,それに言い方を変えれば,労働そのものの生産諸力のあらゆる増大ーそれは科学,発明,労働(過程)の分割と結合,交通手段の改善,世界市場の創出,機械装置などから生じてくる.

労働(生きた目的にかなった活動としての)の資本への転化は,それが資本家に労働生産物に対する所有権(および労働(過程)に対する支配権)をあたえるかぎり,即自的には資本と労働力との交換の結果である.この転化は,(資本主義的)生産過程そのもののなかではじめて措定される.

資本が生産の基礎をなし,したがって資本が生産者であるところでは,労働そのものは,ただ資本のうちに入りこむものとしてだけ生産的であるに過ぎない(自営業者や自由業者は生産的でない).資本と対立して対自的に労働者という姿をとっている労働(そのもの),つまり資本から切り離されてその直接的規定性のなかにある労働は生産的ではない.労働者の活動としても,この労働は決して生産的にはならない.なぜならそれは単純な形態的にのみ変化する流通過程のなかにだけ入りこむに過ぎないからである(その分業が生産的かどうかが,労働が生産的かどうかを決める).

P374

資本に対して主体として現われるのは労働(力)なのだということ,すなわち労働者はただ労働(力)という規定でのみ現われるに過ぎないのであって,この労働(力)とは労働者自身のことではないのだということ.

P377

(自己増殖過程においては)価値は主体として登場する.労働(そのもの)は,目的にかなった活動であるから,そこで素材的な面から前提されていることは,生産過程においては労働用具がある目的のための手段として実際に使用されたということ,原材料は,化学的な素材転換によるにせよ力学的な変化によるにせよ,それが以前に持っていたよりも高い使用価値を生産物として受け取ったということである.しかしこの側面はそれ自体としてはたんに使用価値にのみ関わるものであるために,いまだに単純な生産過程に属している.

P403

どのようにして資本によって,すなわち現存する諸価値によって剰余価値が労働を媒介として作り出されるのか,ここで彼ら(重農主義者)は(資本の運動の)形態をまったく見落として,単純な生産過程だけを見ている.したがって労働者が労働用具の自然力のおかげで,自分の消費分よりも多くの価値を明らかに生産できるような分野でおこなわれる労働が生産的であると主張することができる.したがって剰余価値は,労働そのものから生じるのではなく,労働によって利用され管理される自然力から生じる.したがって農業だけが唯一の生産的労働である(剰余価値はひとつの物質的生産物で表現されなければならないというのは,A・スミスにもなお現われている未熟な見解である).役者は生産的労働者であるが,それも芝居を生産するかぎりにおいてではなく,彼らの雇主の富を増加させるかぎりにおいてなのである.ところがどんな種類の労働がおこなわれるか,つまりどんな形態で労働が物質化されるのかということは,この関係にとってはまったくどうでもよいことである.他方このことは,後にでてくる諸観点からすればどうでもよいことではない.

P427

つまり労働者は自分の労働能力(ARBEITSFAHIGKEIT)を,つねに一定時間にかぎって,すなわち一定の労働時間にかぎって他人の処分に委ねるのである(労働能力の初出).この場合,労働(力)はその生きた労働力能(VERMOGEN)に対象化された労働時間を表わす.

P456

用具が労働(過程)の用具として用いられ,原材料が労働(過程)の原材料として措定されているという単純な(素材的)関係を通して,すなわちそれらの用具や原材料が労働(そのもの)と接触し,労働(そのもの)の手段および対象として措定されるという単純な過程を通して,それらの用具や原材料は,形態的には保持されないにしても実体的には保持されるのである.そして経済的に見れば,対象化された労働時間(労働時間で計られた価値)がそれらのものの実体なのである.

対象化された労働は,それ自体ふたたび生きた労働(そのもの)の契機として,つまり対象的な材料の形をとった労働(生産物)自身に対する生きた労働(そのもの)の関連として,生きた労働(そのもの)の対象性として措定されているのであるから,それは外的で無関心な形態として,生命なく素材のなかに存在することをやめる.こうして生きた労働(そのもの)が材料のうちに自己を現実化させることによってこの材料そのものを変化させ,したがって労働(過程)の目的によって労働(力)の合目的活動によって規定された変化をもたらす.

P457

労働(そのもの)は生命のある造形的な火であり,生きた(労働)時間による諸物の形成として,(運動であるがゆえに)諸物の無常性,それらの時間性である.

そこでは素材を消費し,素材の形態を使用することが人間の享受となり,素材の変化が素材の使用そのものなのである.

P459

価値増殖過程では,資本の構成諸部分(材料および用具)は,生きた労働(そのもの)にたいして,価値としてではなく生産過程の単純な諸契機として,労働にとっての使用価値として,労働(力)が活動できるための対象的諸条件として,すなわち労働(そのもの)の対象的契機として現われる.

P460

単純な生産過程では,先行した労働(過程)のーそれを通してまた,その労働(過程)が措定されている材料のー質の保持として現われるものが,価値増殖過程ではすでに対象化された労働(そのもの)の分量の保持として現われる.

P461

生産過程では,労働(過程)の対象的な定在的諸契機(用具と材料)からの労働(そのもの)の分離は,止揚されている.資本と賃労働との定在はこの分離にもとづいている.生産過程で現実に生じる分離の止揚ー止揚されなければそもそも労働がおこなわれるわけがないーに対して資本は支払わない.

生産過程そのものにおいて,生きた労働(そのもの)が用具と材料を自己の心にとっての身体とし,それによって(死んだ労働を)死から蘇らせるこの同化作用は,労働(力)が対象をもたず,すなわち直接的な生命力の形でだけ労働者における現実性でありーまた労働材料と用具が対自的に存在するものとして,資本のなかに存在していることと事実上対立している(この点については後でたちかえること).

 

「資本論」成立史 年表

1840年 イェーナ大学に『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』と題した学位論文を提出。

1843年10月 マルクス、パリに亡命。経済学の研究を開始。9冊の『パリ・ノート』として存在。「ミル評注」、「アダム・スミス」評注、「リカード評注」などをふくむ。

8月 「経済学・哲学草稿」を執筆。パリ・ノートの中でも、国民経済学の学習を基礎に、出版を意識して書かれた文章。

8月 パリでエンゲルスと同志関係に入る。最初の共著「聖家族」の執筆を開始。

1845年

2月 「聖家族」を出版。

2月 マルクス一家はパリを離れ、ブリュッセルに移る。滞在中に6冊の『ブリュッセル・ノート』を残す。

年末 マルクスとエンゲルス、青年ヘーゲル派の批判を受け、反論として「ドイツ・イデオロギー」を執筆。

1846年夏 「ドイツ・イデオロギー」を脱稿後、エンゲルスとともにマンチェスター滞在。この間図書館通いして「マンチェスター・ノート」5冊を作成。

1847年 『哲学の貧困』を刊行。

1847年 マルクスら、ロンドンで「共産主義者同盟」結成。

1848年

2月 「共産主義者同盟」の綱領として『共産党宣言』を発表。

4月 ドイツ3月革命を受けケルンに移住。『新ライン新聞-民主主義の機関紙』の発行。

1849年

2月 「新ライン新聞」に『賃労働と資本』を連載。

5月 「新ライン新聞」が発行停止となる。

8月 マルクスはロンドン亡命、たけのこ生活を送る。

1850年 ハンブルクで「新ライン新聞」の再刊を企てるも失敗。エンゲルスはマンチェスターで仕事をして、マルクスを支える。

50年9月 ロンドンで経済学研究を再開。53年までの4年間、経済学を中心に『ロンドン・ノート』24冊を書き上げる。

1851年 
1月に貴金属、貨幣、信用。2月には、ヒュームとロック。3月には、リカードとアダム・スミス。4月には再びリカード。5月にはケアリー、マルサス。6月には価値と富の経済学。7月には工場制度と農業収入。8月には人口、植民。秋には銀行業、農耕法、および技術学(マクレラン)

1856年 義母の死により相当額の遺産を獲得。生活が小康を得る。

1857年 

最初の世界恐慌が発生。マルクスはこれを「ブルジョア経済のあらゆる矛盾の現実的総括および暴力的調整」と見る。

7月 マルクス、「57年-58年草稿」の執筆を開始。 商品・貨幣を論じる最初の経済学論文となる。最初の7冊のノートが『経済学批判要綱』と呼ばれる。「経済学批判序説」がふくまれる。

1859年 『経済学批判、第一分冊』が刊行される。「序文」、「第1章 商品」、「第2章 貨幣または単純流通」からなる。最初に構想していたのは全6編であった。

1861年 ふたたび金繰りが悪化。ドイツのおじを金策に訪れる。

1861年 8月からあらたに23冊のノート「61年-63年草稿」が執筆される。最初は経済学批判の第1部第3章 資本一般から始まるが、途中でプランは変更される。

1862年12月28日 マルクス、手紙で「すでに書いたものを推敲・清書して『資本論 - 経済学批判』として刊行する」と明らかにする。

1963年

7月 マルクス、「61年-63年草稿」の執筆を完了。『資本論草稿集』の第4巻から第9巻に相当し、「剰余価値学説史」が主体を占める。

7月 『資本論』草稿の執筆開始。全4部(3部と学説史)構成に変更された。

8月 第1部執筆が完了。

63年 マルクスの実母が死去。遺産相続で小康を得る。

1964年

夏 第2部をスルーして、第3部
の執筆を開始。

9月 ロンドンで「国際労働者協会」(第一インターナショナル)の設立が宣言された。マルクスが宣言を起草。

1965年

この年の前半 第3部第1稿の執筆を中断し、第2部第1草稿の執筆に取り掛かる。

引き続いて第3部第4章が執筆された。さらに第4章執筆の途中にプランの変更が
行われ,それは第4章(貨幣決済)と第5章(信用機能)に分割された(大谷)

この年の後半 第2部第3草稿執筆を完了。引き続き第3部の残りを執筆。

第4章の執筆途中で後半部分が独立した。前半は第4章(貨幣決済)に集中し、後半は第5章(信用機能)にあてられた(大谷)

マルクスは日中は大英博物館で抜粋を作成し、夜間は最後の地代論三章を執筆した。(結局地代論が最後となる)

12月 『資本論』草稿(学説史を除く)の執筆が完了。

1865年 「賃金鉄則」を批判した国際労働者協会中央評議会での講演、『賃金、価格および利潤』を出版。

1866 国際労働者協会第一回大会(ジュネーヴ)

1866年5月 ロンドンの大銀行の破産の破産をきっかけに恐慌が発生。金融恐慌の色彩を強く帯びる。

1866年 「第1巻」の最終稿執筆に着手。このときマルクスは、第1部と第2部を1冊の本に詰め込むつもりだった。

1866年 エンゲルス宛ての手紙。「原稿は、その現在の形では途方もないもので、…出版できるものではない」

1866年10月 「第1巻」を第1部に限定することとした。第2部は第2巻に回される。さらに第2部への移行部となる「第6章」も除外される。

1867年4月 資本論第1部の原稿がマイスナー書店に手渡される。発行は9月。

1867年7月 第2部第4草稿、第3部補足のための諸草稿に着手。この時点でマルクスは、数カ月のうちに第2巻(第二部と第三部)を刊行できると考えていた。

1868年

国際労働者協会のブリュッセル大会。マルクス主義者とブランキストが手を組み、プルードン主義者を圧倒。

エンゲルスがマルクスの負債をすべて精算する。

1868年12月初旬 第2部第2草稿の執筆を開始(第3,4草稿より後)。

1869年1月 第3部第1章の改訂版の執筆を開始。1871年8月より中断。

1870年

1870年半ば 第2部第2草稿の執筆がほぼ終了するが、印刷には回らなかった。

エンゲルス、マンチェスターからロンドン(マルクスの近所)に転居。

1871年 普仏戦争。フランスの敗戦とパリ・コミューン。マルクスは「フランスにおける内乱」を発表。

1872年 国際労働者協会のハーグ大会。バクーニン派の潜入・マヌーバー戦術によりずたずたになる。

1875年 『ゴータ綱領批判』。発表は1891年。

1875年 第3部第1章の改訂版の執筆を再開。何回か中断したあと、1876年2月以降は第3部には着手せず。

1877年3月末 第2部のための補筆・書き直しを開始。第5,6,7草稿が執筆される。

1880年末 第2部第8草稿の執筆が開始される。第3章の新たな書き直しを試みる。1881年に中断。これが最後となる。

1883年3月14日 マルクス死去 
 

中期マルクスの二つの隘路

佐藤金三郎が内田弘の「要綱」研究にコメントした小文がある。(「中期マルクスとは何か」1987年)

内田の原文が難しいらしく、佐藤もそれにつられて読みにくいものになっている。
佐藤は内田の論文をまとめた上で、「内田は中期マルクスの業績として二つを見出したのではないか」と述べている。
それはマルクスがリカードから相対的剰余価値を学び、会得したということ、アリストテレスから自由時間概念を引き出したことである。
佐藤はどうも内田の見解に対して、とくに自由時間概念についてニュートラルなところがあるようだ。

これらは、研究の成果と言うより、研究の先に立ちはだかる二つの関門であり隘路だったのではないか。

以下は、私の考えるところだが、
相対的剰余価値論は、確かにマルクス経済学の核心を形成しているところであり、恐慌→窮乏化革命を乗り越えていく上での飛躍台になっている。
しかし後年、相対的価値論だけでは進まない問題、価格実現問題が出現するので、よりエレメンタリーな概念の析出が求められるのではないか。
自由時間概念については、これが労働力概念から導き出される関数に過ぎないのではないかという思いを捨て去ることができない。社会的にも、倫理的にも、自由な時間は決してブランクな時間ではない。それを生活過程論と欲望の創出過程論抜きに語っても意味がないと思う。


この論文の「序論」はとても面白い。著者の問題意識がとても共感を呼ぶ。
その上で本論に入っていくのだが、徐々に齟齬が生じてきて、この人にはマルクスの問題意識、権力の本質とか量から質への転換という考えが伝わっていないのではないかと思ってしまう。
ただそれはそれなのであって、序論のところは大いに勉強になるし、一生懸命受け止めてみたいと思う。

初期マルクスから革命家マルクスへ
*『ヘーゲル法哲学批判序説』『ユダヤ人問題によせて』および『経哲草稿』等の、いわゆる初期マルクスにおいては、未だ共産主義への移行が成就されていない。
* それに対し、『ドイツ・イデオロギー』および『哲学の貧困』『共産党宣言』等の1840年代後半の文献においては、共産主義者としての視点から「社会主義」リカード派社会主義やプルードンの社会主義等が批判されている。
中期の組織者マルクス
1848年革命は敗北し、ブランキストの革命論を受け継いだマルクスは挫折する。
1850年代から60年代にかけて、マルクスは“恐慌―内乱―革命”の希望を抱きながら、革命の準備と党派の組織に希望を託すが、予測は何度も裏切られる。

後期の理論家マルクス
後期マルクスにおいては、革命情勢はますます遠ざかり、それに伴って長期の革命構想がもとめられるようになった。
過渡的形態、改良的過程を織り込んだ展望の採用、平和的・非権謀的可能性が追求されるようになり、
これにともなって重大な戦略的・戦術的転換がおこなわれる。
それらは、おそくも1860年代半ばには形成され,パリ・コミューンの深刻な教訓を経過し,『ゴータ綱領批判』(1875)において明確な定式化が与えられた。(最後の段落には異論があるが、とりあえず…)

現代世界は、はるかに進んでいる
現在の世界においては、このようなマルクスの時代とはまったく異なった状況が広がっている。それを荒木さんは次のように説明している。

1.ブランキズムは完全に陳旧化した
マルクスが革命家の出発点においてイメージとしたのはブランキズムである。それは一揆主義そのものである。それは決死の覚悟を帯びた少数の革命家集団が、政府との対決を強行的に突破することを前提としていた。それは少数者による政治権力の簒奪を最優先課題としていた。
一揆主義者による暴力革命、そしてプロレタリア独裁を必然的にともなう革命戦略は、しかしながら中期マルクスにおいてさえ、すでに過去のものとなっている。
エンゲルスは「歴史に照らして,われわれもまた誤っていた。当時のわれわれの見解は一つの幻想であった」と自己批判している(「フランスにおける階級闘争」序文)

2.多数者革命と漸進的な所有制改革
21世紀の今日における主要な革命のイメージは、まず第一に、国民の多数が支持し推進する多数者革命である。第二にそれは立憲革命である。革命は民主的なプロセスを経て合法的・平和的に遂行される。第三にそれは高度福祉型の未来社会を目指す“生活第一”革命に収斂していく。
それは「新しい社会主義」の革命であり、抗しがたい理性の流れである。

3.19世紀型革命像から21世紀型革命像への道のり
上記のごとくマルクスが革命家を目指した最初期の革命像と、21世紀に住む我々が思い描く革命像とははるかに懸隔している。
この論文は革命運動が自らの論理をどう変えてきたのかの道筋を、とくに中期から後期マルクスへの変容を通じて描き出そうとしているのだが、それについては目下の関心領域から外れるので仔細には取り上げないでおく。
一言だけ言っておけば、マルクスとエンゲルスは19世紀末にすでにかなりのところまで進んでいたのであり、ボルシェビズムとスターリニズム、第二次大戦後に民族解放を闘った国々では、そこからかなり遡った場所から革命を開始したのである。


私にとって最も印象深かったのは、21世紀型革命の3つの性格付けである。すなわち多数者革命、立憲革命、生活者革命であり、これらを総称して「新しい社会主義」の革命として提唱することである。

ただし、それが「革命」であるということは19世紀来、通底しているのであって、そこには権力の移動が伴うのである。そしてそれが政治的な範疇における質的変化を持って始まり、社会の全分野に拡散するという特徴を持つことである。
そこには政治的、法的、社会的な“押し付け”が伴わざるを得ない。当然ながらそこには反発力も生じ軋轢も発生する。すなわちそこには運動が熱を発するごとく、「闘争」が発生するのである。

もうひとつは、「私有財産制度の否定」という革命の主要目標の一つが、依然として未確定のまま残されているということである。民医連における所有形態論争というのは、それ自身が「目標」ではないが、人民的共同を持続的に発展させる上での最大(というより最低)の制度的保障だということで決着がついた。
ただ、私有財産の否定だけではどうにもならないのではないか?というのが率直な感想である。株式会社制度も、官僚主義制度も個人所有制の否定の上に成り立っている。もう少し社会の形態ではなく社会の目的に即したパラダイム・シフトが必要なのではないかと思う。

マルクスの晩年の動きが今ひとつ見えなかったので、とりあえず年表化してみた。
資本論の第一部出したのが1867年。それから数年間は、国際労働者協会の会長としての仕事がかなり忙しかったようだ。
それが徐々に活動の場が狭まっていく。とくに普仏戦争とパリ・コミューンへの関与が必ずしも大方の支持を得ることができなかったようだ。
ハーグの大会をもって第1インターは事実上の開店休業に入っていく。ドイツで社会民主党(アイゼナッハ)が勢力を増したときは羽振りも良かったのだが、ゴータ大会でのラサール派との合同の後はドイツ国内でも影が薄くなっていく。
理論活動はその後も展開した。
これに宮川彰さんの作成した資本論第2部草稿の執筆年代太字で重ねておく。
エンゲルスによってまとめられた(ゴチャゴチャにされた?)第2部・第3部草稿の他にも、剰余価値学説史や、ザスーリッチ論文などがあるが、今回は調べ切れていない。あまり一生懸命やっている研究者もいないようだ。

1864 第2部草稿 第1稿執筆(65まで)

1865年1月 第3部「主要原稿」の執筆開始(66年12月まで)

1867 『資本論』第1巻ハンブルグで出版 

1867 普墺戦争。勝利したプロオシアはドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放。プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を樹立する。マルクスはこれを「プロレタリア闘争に有利な展望が開けた」と一定の評価。リープクネヒトとベーベルは帝国議会議員に当選。

1968 資本論第二部第2~第4草稿に着手(第2稿は70年まで、第3,第4稿は年内に執筆完了)

1869年 エンゲルスがマルクスの借金(浪費による)を肩代わりする。4年間で1862ポンドに達した。

1969 ベーベル、リープクネヒトらが非ラサール派の労組を組織し、社会民主労働党(アイゼナハ派)を結成。

1870 普仏戦争が始まる。マルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある」と(私的に)論評。

1870 エンゲルス、家業から解放されロンドンに居住。

1870 第1インター総務委員会第1宣言を書く

1871年

3月 パリコンミューン。『フランスにおける内乱』を執筆。

6月 パリ・コミューン支持に反発したイギリス人グループがインターナショナルから脱退。」

1872年9月 ハーグでインタナショナル大会。マルクスはプルードン派と組んでバクーニン追放に成功。

1873年には肝臓肥大という深刻な診断。鉱泉での湯治を目的にドイツ国内の湯治場を巡る。

1875年2月 ラサール派とアイゼナハ派」(マルクス派)が合同して「ドイツ社会主義労働者党」が結成される。
ゴータ綱領批判(公表は91年): マルクスは「最悪の敵である国家の正当性を受け入れ、小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるとしたもの」とこき下ろす。また「未来の共産主義社会の国家組織にも触れず、“自由な国家”を目標と宣言するのはブルジョワ的理想だ」と批判。
1876年 フィラデルフィアでインタナショナルの最後の大会。解散決議を採択。マルクスの公的生活はこれをもってほぼ終了。

1876年 草稿 第5,6,7稿に着手(いずれも80年に執筆完了)
第2部から書き直さないと第3部は書けないと悟ったマルクスは、第2部の書き直しに着手する。それが第5~第8稿
1877年 草稿 第8稿に着手(81年に執筆完了)

1878 エンゲルス、『反デューリング論』を発表。間もなく抜粋版として「空想から科学へ、社会主義の発展」が発行される。マルクスは第2篇経済学・第10章「批判的歴史から」を執筆。

1878年 チャンネル諸島で湯治。

1881年

3月 ザスーリチへの手紙(ドイツ語版)が出版される。

夏 妻イェニーとともにパリの娘の元を訪問。帰宅後イエニーが死去。

1881年 草稿第8稿を脱稿。その後当初の目的だった第3部の書き直しには着手せず。

1882 この年も旅行を繰り返す。

1883年

3月14日 マルクス、ロンドンの自宅で病死。享年 64 歳。
E・H・カーは
マルクスはインタナショナルのハーグ大会の後も10年余りを生きていたが、その間は大して目立ったことはない。それは老衰の時期であり,不健康と無能力とが増した時期である。
と書いている。それまでの一心不乱の人生に比べれば、それも半分はあたっているのかもしれない。



1885 『資本論第2巻』が発行される。

1886 エンゲルス、『フォイエルバッハ論』

1891 社会民主党『エアフルト綱領』

1894年 『資本論』第 3 巻が出版

1895 年 エンゲルス死去


「未来社会論」 随想

聽濤弘さんの本「200歳のマルクスならどう新しく共産主義を論じるか」の読後感の続きです。

「未来社会論」ときくと、つい私は、大衆社会論とか市民社会論が流行った60年代の議論を思い浮かべてしまいます。

今あまりそういう議論は意味ないんじゃないかという気もするのです。なぜなら、アメリカやイギリスの若者運動が正面から「社会主義」という言葉を掲げて、それが市民権を獲得しようとしているときに、我々の目標を「未来社会」という曖昧な用語に置き換える必要はないのではないかと思うからです。

ということで、社会的正義と福祉が優先される時代・我々の目指すべき社会という意味で「社会主義」論を熱く語るべきかな、と思います。

資本論→賃金・価格・利潤→ゴータ綱領批判のなかに社会主義像はない

実は以前から私はそう思っているのです。

マルクスの中期から後期への一貫した問題意識は、①改良ではなく革命を、②政治闘争で権力を獲得する、③私的所有を否定する、なのだろうと思います。(ただし③は相当揺れがあります)

そして新しい革命の担い手が労働者階級に移行することを確信し、その根拠を産業資本主義の発展そのものの中に捉えようとしたのだろうと思います。

そういう強烈な問題意識のもとに資本論は書かれているわけで、歴史貫通的な人類の進歩との関係で社会主義が論じられているわけではありません。

したがって、「オメェラ、チンタラやってんじゃねぇよ」というゴータ綱領批判の中に、未来社会論を見つけようというのはお門違いなのではないかと思います。

それはマルクスの指導する国際労働者協会が徐々に影響力を失い、いったん幕を閉じる過程でのマルクスの焦りの表現でもあります。そんなにお行儀の良い文章ではないと思います。

もし社会主義社会像を導き出すのであれば、私は「経済学批判序説」に戻らなければならないと思うのです。
消費によって新たに生産の欲望を想像することにおいて、消費は生産の衝動を創り出す。消費は生産者を改めて生産者にする。
 また生産は、「一定の消費の仕方をつくりだすことによって、つぎには消費の刺激を、消費力そのものを、欲望として創造することによて、消費を生産する」
 ここでは、消費という行為が生産を生産たらしめ、生産という行為が、消費を消費たらしめる関係性が、時間を経由して完成されることが示される。
一人ひとりの人間の中に生産力能と消費力能がふくまれています。
消費力能というのは変な言葉だが、“欲望の生産”あるいは“生産力能の生産”という意味での力能です。

資本主義的生産は資本主義的消費を必要とします。それは主体的要求を抱える近代的個人による消費です。

生産と消費は、いわば自転車のペダルを交互に踏むように相補的過程を繰り返します。それによって人は前に進んでいくのです。

資本論は、基本的には経済学の本なので、哲学を平均値に置換している

生産は消費であり消費は生産であるという観点、欲望を持つ諸個人が生産の原点であるという歴史貫通的視点は、資本論の中ではとりあえずは無視されています。
労働力の価値は労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。…一定の国や時代には必要生活手段の平均範囲は与えられている
しかし、労働する諸人格の価値は、そのような生産コストの集合みたいな惨めなものではないはずだと思います。

価値は価格の集合としてのコストではありません。それは使用価値を根っこに踏まえた抽象なのです。もう一つ、価値は交換によって価格に転化するのではありません。それは仮定された価値・価格関係であり、その使用を通じて価値として実現するのであり、その使用価値に対して後出しで確定されていくのです。
その価値は生産→交換→消費(使用)→欲求→再生産への衝動という循環を経て決まっていくのであって、それが諸商品の平均値となっていく中で価格が歴史的に定まっていくのであろうと思います。

この平均値の決定までの歴史貫通的過程は、資本論の中ではジャンプされています。多分、第2部の第二次草稿がそこに相当するのでしょう。下記をお読みください。


弁証法と戦闘的唯物論

最初にマルクス主義に近づいたとき、教えられたのは、「弁証法的唯物論と史的唯物論」であった。
だから、依然として弁証法的唯物論という言葉は脳ミソに焼き付けられている。

これは、結局、世の中の理論は唯物論と観念論に分かれ、これは唯物論が正しい、というのが第一段階。
それから次に、唯物論にも弁証法的唯物論と機械論的唯物論があって、これは弁証法的唯物論が正しい、という二段重ねになっていた。

それで機械論的と呼ばずに形而上学的ということもあったが、機械論と形而上学の違いはよく分からなかった。いまでもよく分からない。

これで、四つ目表ができあがることになる。でもこれって、形而上学そのものじゃァない?

ところが話はこれで終わらない。唯物論と経験批判論という本が出てきて、唯物論と観念論の対立だけではなく、主観的観念論と客観的観念論があってということになる。

そうすると、議論は豆腐を縦横のほかに上下にも切り分けた8象限のカテゴリーに裁断されることになる。

これはもはやスコラ哲学そのものではないか。

その後、50年を経たいま、私は「弁証法的唯物論」などというパラダイムはまったく信仰していない。それは真面目なキリスト者が三位一体など信じないのと同じだ。

強いて言えば弁証法論者だということになる。それはすべての存在を過程の中にとらえる相対論であるとともに、過程の絶対性をエネルギーとして把握する実体論である。
それは時間軸の絶対性を信じるとともに、時間軸を越えた5次元時空があると信じることである。

これは世界のモデルである。これは立場の違いを越えて人類が普遍的に共有できるモデルだと思う。

ただその上で主体の問題は残る。党派性と言っても良いのだろう。その党派性の拠り所が唯物論なのだろうと思う。
だからレーニンが「戦闘的唯物論の意義について」を語ったとき、彼は正しかったのだろうと思う。

レーニンは戦闘的唯物論者が戦うための武器として弁証法の意義をとらえた。それはすべての知識人が、方法論として共有すべきものだ。

ただそれはもっと研ぎ澄ます必要がある。弁証法はヘーゲルの専売特許ではない。エンゲルスの専売特許でもない。もっと独りよがりでない、客観的で筋肉質な体系が必要なのだ。

それは自然弁証法(シェリング)と、認識の弁証法(フィヒテ)と、弁証法的論理学(ヘーゲル)から構成されるだろう。

いっぽう、唯物論に体系はない。それは戦闘的実践の中で研ぎ澄まされるほかない。そうでなければ、常にさまざまな形の観念論に落ち込んでいく他ないのである。マテリアリスムというのは究極的にはリアリズムである。

結論

弁証法的唯物論などというものはありえない。あるとすれば弁証法的唯物論者、あるいは唯物論的弁証法ということになる。
政治運動に引き寄せていうならば、共産主義的社会主義、唯物論的社会主義ということになるのだろう。
「資本論」は唯物論者でなくても理解できる。しかしそれを実現するのは戦闘的唯物論者、すなわち共産主義者以外にありえないのである。

人間社会の3つの指標

人間社会が健康的であるかどうかを評価する上で、3つの指標があると思う。
ひとつは豊かであることだ。ひとつは民主的であることだ。そしてもう一つは知的であるということだ。
この3番目の知的であることをめぐって、最近さまざまな議論がある。
いうまでもなく、世界の最高指導者の地位に反知性の代表みたいな人が居座っているからだ。
しかもその人物が、この上なく民主的と言われるプロセスを経てそのポストを獲得した。
これは衆愚政治の悪しき典型だろうか。それとも民主主義の過渡的形態なのか。

社会の知的指標としてのリテラシー

社会が知的であるかどうかを判断するスケールとして、リテラシーという言葉がよく使われる。大変使い勝手の良い言葉であるが、よくわからない言葉でもある。

もともとは識字率の意味であり、文盲率の逆数になる。ぶっちゃけた話、非文盲率と言うだけのことだ。多分文盲というのが、差別的なので使わなくなったのだろう。

一種の和製英語としてのリテラシー

もともとは識字率の意味である「リテラシー」であるが、最近の日本では識字率とは別の意味で使われている。

ウィキペディアでは以下のようなリテラシーが列挙されている。

メディア・リテラシー(Media literacy)
コンピューター・リテラシー
情報リテラシー(Information literacy)
視覚リテラシー
ヘルス・リテラシー(Health literacy)
精神リテラシー
金融リテラシー
科学リテラシー
マルチメディア・リテラシー
統計リテラシー
人種リテラシー
文化リテラシー
環境リテラシー

そのほとんどは勢いで作った言葉だろうし、相手を煙に巻くのが目的というのもある。

一体に具体的な単語を雲をつかむような抽象名詞に訳すのは日本人の悪い癖である。(技術とか健康とか医療とか…)

識字率というのは、別名がアルファベチゼーションというくらいで、もともと文字が読める程度までの知識を指す。さほどのものではない。

ただだいじなのは、これが個人的評価ではなく、一つの地域・社会に対する相対評価だということである。

そういう意味では、環境リテラシーなどと抽象的にいうのではなく、「環境に関してイリテレートな社会」とか「リテレートされた社会」と言うような表現をすべきだろうと思う。

社会をリテレートすること

最初に戻るが、民主主義は知性と反しない。別のものである。

もうひとつ無知はなくさなければならない。知性は育てなければならない。無知は無策の結果であり、知性を育てる努力の放棄の結果である。

知性が育てば民主主義は、その分揺るぎないものになる。ただしいかなる場合も立憲主義の精神は死守すべきだ。

これらは当たり前のことである。しかし中には無知な人々をだいじにして、無知なままにとどめておこうとする人がいる。

ラテンアメリカでは親米の国ほど文盲率が高く、自決派の国ほど識字率が高い。ベネズエラも識字率が上がったので、米国は下げたいのであろう。

新藤さんから「キューバ憲法改正の問題点」というレポートを送ってもらった。
新藤さんのホームページでも原文が読めると思うので、興味のある方はそちらに回っていただきたい。

概要を書いておくと、
① 2018年7月に国会が開催され、現行憲法の改正案が出された。現在各種・各級で審議中である。
② 現在の経済モデルは、過剰な中央集権化と、「マクロ経済にかかわる構造的諸問題」を引き起こしている。
③ 経済の4つの中心要素: 社会主義的所有、計画経済、限定的な市場、非国家所有(私有)
④ 「共産主義」の憲法からの削除
⑤ 首相(閣僚評議会議長)の復活。以前はドルティコス大統領・カストロ首相であった。

このうち、私にとって興味深いのは、「共産主義の削除」ということだろう。
それは共産主義をイデオロギーとして捉え、社会主義をシステムとして捉えるという使い分けなのだろうと思う。
つまり社会主義には共産主義・マルクス主義に基づく社会主義もあるし、そうでない社会民主主義的な社会主義もある。
いろんな社会主義があって良いという相対化がそこにはある。
それとともに、社会主義は人類史の進歩の流れを代表する未来志向型システム・モデルなのだという確信とが並列されている。
さらに言えば、社会主義を空想的社会主義と科学的社会主義に分けるような喋り方はもうやめようということにもなる(心の中でそう思っても構わないが)。サンダースの社会主義も立派な社会主義だ。「人間の顔をした社会主義」も、あり得べき社会主義の一形態だ。(ただし、我々はスターリニズムもファシズムも社会主義の仮面をかぶっていたことを忘れてはならない)
社会主義に関するキューバのモデルは、今のところ「経済の4つの中心要素」に示されたやや古めかしいものだ。もちろんこのように4つの要素に分析したということは、それぞれについて批判的検討を加えていくという姿勢の表れでもあるので、今後キューバの「社会主義」イメージは変わっていく可能性が大いにある。

一時、「共産主義と社会主義は同じだ」と言われたこともあったが、それに対するさまざまな言及の中で、使い分けがなされるようになっているようだ。
マルクスはサン・シモンの系列を引くプルードンの社会主義に対して、「それではだめだ、どう資本主義を否定し、どう次の社会を実現するのか、それが問題だ」と主張し共産主義を訴えた。
聽濤さんが示唆するように、マルクスの心の中で、共産主義は「宣言」なのだ。キューバの憲法改正はそれを示しているのではないだろうか。

1809年1月15日 ピエール・ジョゼフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon)が生まれる。父は醸造職人。貧困のため学校を中退、印刷所に校正係として勤める。
このあいだにほぼ独学で知識を身につけたという。

1839年 『日曜礼拝論』を発表する。社会改革思想とされ発禁処分を受けた。

1840年6月 『財産とは何か』が出版される。「財産、それは盗奪である」などの過激な表現が話題になる。(財産でなく所有と訳す場合もある)

資本家は「所有」することで「集合的な力」を搾取している。この体制に貧困の原因がある。これに対し自由で平等な協同は、唯一可能で真実の社会形態である。
資本家による搾取の体制は全面的に廃棄しなければいけない。

プルードンはルソー的な一般意志による法律を、「法律的虚構」とする。特に「所有権」については激しく非難。

1842年1月 第三論文『有産者への警告』がブザンソンの司法官憲に押収され、起訴される。

1844年 マルクスから共産主義通信委員会の通信員となるよう依頼を受けるも保留。
マルクスは「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」と称賛したが、プルードンはマルクスの教条主義や権威主義的な傾向を危惧したという(ウィキ)

1846年『経済的矛盾の体系、または貧困の哲学』を出版。

このころ、ロシアのバクーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論したという(ウィキ)

1846 プルードンの『貧困の哲学』が刊行される。
Proudhon
  クールベの描いたプルードン
社会再編の形態として、コミュニタリアニズム (共同体優位主義) を提唱。貨幣や国家の放棄を呼びかける。

「哲学者」は、「高慢さをひっこめて」「社会こそが理性であること、そして自分の手を働かせることこそが哲学することなのだと、かれのほうが学ばなければならない。

1847 カール・マルクス、『哲学の貧困』を発表。プルードンを徹底的に批判する。

1848年
2月 二月革命。プルードンはテュイルリー宮殿の無血占領に参加。

6月 プルードン、国民議会議員に選出される。『人民の代表』『人民』『人民の声』などの新聞を発刊。

プルードンの主張は反政府派の代表的な理論となる。サンディカリスムや無政府主義への道を開く。

1849年 プルードン、人民銀行の創設を図る。貨幣にかわる「交換券」を発行し、自由主義の競争社会を克服しようとはかる。

1849年 プルードン、ルイ・ボナパルトを「反動の権化」と攻撃し、3年の禁固刑となる。

1851年 プルードン、獄中で『革命の一般理念』などを執筆。

『革命の理念』においてアナーキズムの主張が全面展開される。経済的諸力を組織化し、それをもって経済的形態の社会秩序を目指すべきと主張。アソシエーションが意志に基づく約束であり排除すべきものとする。これにより政府は、非意識的な経済的組織の内に解消されることになる。

1858年 プルードン、『革命の正義と教会の正義』を出版。再び禁固3年を宣告され、ブリュッセルに亡命する。

1863年 特赦にて帰国したプルードン、『連邦主義的原理と革命党再建の必要について』(連合の原理)を執筆。

「社会の指導的な中枢部」を複数化することによって、社会主義と政治的自由の両立を試みる。

1865年1月19日 プルードン、パリ郊外で心臓病により死去。
old proudhon
         高齢期のプルードン
1865 年 マルクス、友人に宛てた書簡でプルードンとの交流を回顧。プルードンはプチブルで、科学的な弁証法を理解できなかったと評価。

婦人参政権を否定し、労働者のストライキ権を認めず犯罪と見做したことはプルードンの弱点と言われる。

聽濤弘「200歳のマルクスなら、どう新しく共産主義を論じるか」という本を入手した。

サラサラと読んでいこうかと思ったが、なかなか面白そうなので、メモを取りながら読んでいくことにする。

「未来社会論を語ること」の重要性

非マルクス主義者は「資本主義の歴史的終焉」を唱えている。しかしマルクス主義者もソ連崩壊後は未来社会を描けなくなっている。

こういう状況の中で(分からないなりに)未来社会論を語ることは重要である。その際に「マルクスが生きていたらどう考えるだろう」という視点が大事だ。
それは20世紀に歪められた社会主義の議論を取っ払うことになる。

ということなので、「マルクスに帰れ」という呼びかけにも聞こえる。ことは個人個人のマルクス観と関わってくる。なかなかしんどい話だ。あまり恣意的にならないように気をつけながら進むことにしよう。

「相対主義」について
聽濤さんは、「究極の真理を一方だけが知っているということは弁証法的にはありえません」という主張を紹介し、「やはり相対主義では社会は変えられない」と結論する。
これは納得できない。
真理は諸個人の間で相対的であるだけでなく、むしろこちらの方が重要なのだが、時の流れの中で相対的なのである。
それを前提として99%以上の確実性と再現性を持てば真実であるとしてよいだろうと思う。真実というのは意味のある事実なので、さらに相対的である。
往々にして混乱するのは事実が知られていない、あるいは隠されている場合である。
もう一つ問題はウソと言い逃れだ。「それはあなたの意見に過ぎない」というのは詭弁だ。後はウソとデマと悪意だ。我々が見抜かなければならないのはそこなのではないか。
マルクスのモットーは「すべてのものは疑いうる」である。これが唯物論者の態度である。

へーゲル弁証法について
ヘーゲル弁証法は物事を「矛盾の統一」と捉え、そこで起こる相克によって新しいものが生まれると説く。絶対真理ではなく相対真理をまずつかみ、それを通して絶対的真理に近づいていこうという論理思考である。
うーむ、微妙に的を外している気がする。「ヘーゲルの」といえばそうかもしれないが、マルクスの弁証法はたんなる論理学ではなく実在のあり方を説明した体系なのではないか。
私はフィヒテ・シェリングの物自体をめぐる議論のなかに弁証法の真骨頂を見ている。
自然弁証法について、最も基本となる矛盾は存在と運動の矛盾である。両者はエネルギーの中に統一体となっている。そこにおいては時間の絶対性が前提とされている。2つの存在の二項対立みたいな話は、それ自体が形而上学である。
もう一つ、運動が存在となるためには熱力学の法則が要求される。これについては目下、必要だという以上のことはよくわからない。

アソシエーション論
「資本主義を克服したあとには、個人の自由な発展が万人の自由な発展に貼るような連合体(アソシエーション)が現れる」でOKというのは何も言っていないに等しい。
これについてはまったくの同感。
ただしアソシエーションというのはたんなる仲良しクラブではなくプルードン主義者への毒をふくんでいることに注意が必要だ。


マルクス未来社会論の原点
聽濤さんはかなりユニークな提案をしている。
共産主義が低い段階で私的所有の廃止を内容としているのに対し、社会主義はそれを成し遂げたあとの自生的な社会形態だと言う。それはマルクスが経哲手稿の中で主張している中身だという。
これは新たな発見なのだろうか。

経哲手稿はまことに難解な書物で、まず誰が言っているのかをはっきりさせていかないと、マルクスが批判していることをマルクスの主張のように受け止めかねない。
哲学に関する手稿
少なくとも三人の主張が並行して進んでいく。すなわちまずヘーゲルの主張、ついでそれに対するフォイエルバッハの批判、そして概ね肯定的にフォイエルバッハを受け止めつつ、ときにマルクスの自説が顔を覗かせる。
ところが話を進めていくうちに、どうもそうではなくなってくる。「あれっ、これってヘーゲルのほうがいいじゃん」みたいになってきて、フォイエルバッハより自分の意見のほうが前面に出てくる。
経済学に関する手稿
こちらは論理構造はそれほど難しくない。ミル評注で獲得した経済学の知識をヘーゲル的論理に基づいて整序しているだけだ。
基本的には青年ヘーゲル派の主張にとどまっていると見ておくべきだと思う。なにせ2月革命の直前だ。世の中不穏な空気に包まれている。時代の空気をいっぱいに吸って「造反有理」の精神で満ち溢れていたと考えるべきだ。
これにサンシモンやオーウェンの社会主義が乗っかっていると見てさほどのズレはなかろうと思う。

当面するライバル プルードン

なぜマルクスがジェームス・ミルを一生懸命勉強したか。それは社会主義者プルードンと論争するためだ。

論争と言ってもパリに出てきたばかりのマルクスにとっては、プルードンはライバルと言うより尊敬すべき先輩だったに違いない。

ただ目指すものの違いは間もなく明らかになった。マルクスは革命をやりたかった。プルードンはもう少し地に足のついた改革をしたかったし、政治権力の打倒は念頭になかった。

もちろんマルクスとて社会主義を否定するものではないが、その前にやることがある。
それが私的所有をめぐる対立として浮き彫りにされた。と言っても浮き彫りにしたのはマルクスで、プルードンからすれば難癖つけられているように思ったかもしれない。

正直言って、マルクスが聽濤さんの言うように主張しているのかどうかはわからない。いろいろな解説書を読んだがそのように読み解いている本を見たことがないので、なんともいいかねる。

ただ下世話にプルードンとの関係を推理すれば、「マルクスの共産主義と社会主義」は、上記のように使い分けられていたのではないかと推測される。

エンゲルスは共産党宣言の序文(1890)で、「1847年には、社会主義はブルジョアの運動を意味し、共産主義は労働者の運動を意味した」と言っている。

まぁ、ぶっちゃけた話、そういうことだ。(ぶっちゃけ過ぎだが…)

共産主義の3つの形態

これは左翼の諸潮流をマルクスなりに整理したものに過ぎない。しかも自派の説明は悲しいまでに思弁的で、端的に言えば無内容である。

次に来る社会のスケッチは否応なしに現世と対比して語られざるを得ない。ところが現世の把握はああまりに観念的で情緒的である。

この現世の把握、過去の時代からの変化を前提にした、「未来社会」の弁証法は、この後もかなり揺れている。というより揺れ続けている。

中でももっとも拙劣で形而上学的なのが「経済学批判序説」の時代区分である。だからスターリン学派に重用されたのであろう。

しかし彼の興味の中心は常に「私的所有の廃棄」にあった。マルクス主義者である以上、未来社会を語るにおいて、ここだけは外せないだろうと思う。

この辺については佐藤金三郎さんの「資本論研究序説」が非常に説得的である。

このあと聽濤さんの文章はプルードンとの関係に移っていく。これは私も以前書いていて、非常に気になるところである。しっかり勉強させてもらおうと思う。



中野徹三他の共著による「スターリン問題研究所説」という本がある。この本のなかに、スターリンの弾圧に関する3つの統計があった。とりあえず引用しておく。

1.フ秘密報告など
党幹部への弾圧を示す一連の統計である。
17回大会で選出された当中央委員及び候補139名のうち、98名すなわち70%が逮捕され銃殺された。(主に1937~1938年)
…票決権または発言権を持つ1966名の代議員のうち1108名が、反革命的犯罪のカドで逮捕された。
メドベージェフはウクライナの共産党組織に関する数字を報告している。ウクライナの党員総数は1934年の45万人余りから、38年の28万人に減った。
ベールヒンの研究によれば、「36年憲法」草案を準備した憲法委員会の委員32名中、21名が弾圧の対象となりそのほとんどが刑死・自死した。

2.ロバート・コンフェクトの「大粛清」研究
表現がロシア文学風で、回りくどい。
弾圧はすでに1920年代末に始まっているのだが、大粛清というのは37年から始まる。
37年1月までは小弾圧だったかと言うと、決してそうではない。
37年1月時点での収監者・収容者はすでに500万人を数えていた。
それから2年間が、いわゆる大粛清の2年である。
この2年の間に新たに逮捕されたものが700万人いた。つまり合計で1200万が収監者・収容者である。
しかし2年後の38年12月、収監者・収容者は900万人にとどまった。つまり差し引き300万人が死亡したことになる。コンフェクトはこのうち処刑されたものが100万人と推計している。釈放者もいた可能性はある。

3.メドヴェージェフの報告
1956年、第20回大会直後の数ヶ月で500万人以上の政治犯が釈放された。
30年代から50年代に及ぶ被逮捕者・被収容者の延べ数は推測不能である。

4.エム・マクスードフの研究
「1918年~1958年におけるソ連の人口喪失」という論文にまとめられている。これはあくまで従来のセンサスを用いた推計である。
人口センサスに平常時の死亡率を掛けて、仮定人口を得た。この数と実際の調査結果の差が、公表されていない大量弾圧による人口喪失とした。
「(対独戦争での)750万人を超す兵士の死、600~800万人と言われる非戦闘員の喪失という膨大な数字がある。しかし900~1100万人の人口喪失は、ファシストの攻撃とは直接関係ない数年間に生じている。これこそスターリンの弾圧による喪失にほかならない」
表現がやや面倒くさいが、要するに
1940~45年の戦時中に750万+800万=1550万が死んだ。しかしその前後(実際は多くがその前だろうが)にも1100万の過剰死があった。これはスターリンが殺したロシア人の数である。
ということだ。
以前、第二次大戦でのロシア側死者の数が多すぎると疑問を呈したことがあったが、この大粛清による死亡もあまりにも多すぎる。
敵であればまだしも理解できるにしても、いわば「昨日の友は今日の敵」である。しかも相手は、殺されるまで「自分は友だ」と思っているのだ。
いまだに飲み込めないものを抱えている。
もうすこし他の資料もあたってみたい。


オウム幹部の集団処刑に関連して、竹内精一さんの談話が赤旗に掲載されている。社会面のトップではあるが、内容的にはその扱いでよいのかという感もある。一面の何処かに囲みで載せるべきではなかったろうか。
もうずいぶん前の事件なので、ちょっと解説を入れておく。
竹内さんは共産党員で、オウムの本部があった富士山麓の上九一色村の村会議員を務めていた。現地で先頭に立って反オウムの運動に取り組んだ。テレビにもしばしば登場したが,共産党議員の肩書きは慎重に避けられた。テレビではずいぶん多くの解説者が登場したが、多くが警察の垂れ流し情報の受け売りで、竹内さんほど適切な評価を下す人はいなかった。

それで、竹内さんの言いたいことは3つある。
1.集団処刑は「事実」隠しではないか
この事件で解き明かされるべき核心的事実は「多くの若者が入信し平気で人を殺す集団になっていったか」である。であれば、処刑は事実隠しになるのではないか。
2.オームの狂気を増長させた一連の責任は問われないのか
処刑後の法相会見では、裁かれるべきものが裁いているという後ろめたさが感じられない。
事件の多くは避けられたはずだ。裁く者の過失は相殺されないのか。処刑を命じる権原は毀損されてはいないだろうか。
3.松本死刑囚以外の人の死刑は正しいのだろうか
「死刑反対」の立場ではなく、やれと命令されて殺った人々に、極刑を与えることが正義に値するのか。戦争中の兵隊と同じで、命令されて敵を殺すことが、悪いことには違いないが、それは果たして極悪者なのだろうか
ここで竹内さんは深刻な告白を行う。
私は戦争に行った最後の世代です。中国で、人としてやらなくてもいいことをやっていました。私は戦争の被害者だが、中国の人民にとっては加害者だ。
あなた達もオウムの被害者かもしれないが、信者としては加害者なんだと伝えてきました
ここで読者は、なるほど竹内さんの生き様にはそういうバックボーンが通っていたんだ、とわかる。
(なおこれは具体的な誰彼の話ではなく、思想の話だと思う)


いま、なにげに教育テレビを見ている。NHKの制作なのか外国から買ったコンテンツなのかよくわからないのだが、AIが進むとホワイトカラー的な仕事がなくなって中間層が貧困化して、社会矛盾が激化するのではないかという番組だ。似たような主張は何度も目にしている。
この主張にはウラがあって、結局は「現状甘受論」と「イノベーションで生き延びろ」とさらなる競争を煽るところに持っていくのだ。
論理の持って行き方は19世紀の産業革命のときと同じだ。基本はジャングルの掟を持ち込む「社会ダーウィン主義」と、これに反対するラダイト(打壊し)という流れの構成になる。AIのところにグローバリゼーションを入れても、金融ビッグバンを入れても後の論理は同じだ。
マルクスはこのような流れに対する批判者として歴史に登場するのだが、その最大の優点は超階級的・超歴史的な視点から生産力論を展開したところにある。
ただしこの生産力理論には2つの異なる基盤がある。一つは「ドイツ・イデオロギー」的な「まず食うことから始めなければならない」という素朴な生産力理論だ。
もう一つは経済学批判序文で展開された徹底的にヘーゲル的な視点、すなわち「消費は欲望の生産である。豊かな欲望こそ社会の生産力だ」に見られる欲望→生産→消費の転換・発展関係だ。
マルクスの理論は常にこの2つの関係を行ったり来たりしながら発展していく。
そしてネオリベに根本的に立ち向かうためには、後者の視点の押し出しが決定的に必要なのだ。
ここはおそらくスティグリッツら有効需要論者とは意見を異にするところがあると思う。大事なのは「需要」ではなく人間的欲望なのであり、欲望の発展こそが人類発展の本質なのだということである。

青空文庫に下記名の文章があった。


まことにありがたい文章である。

文章の由来は少々面倒だが、こういうことだ。

昭和のはじめころ、岩波書店で「カント著作集」というセットを発売した。
その第11巻に『自然哲学原理』が収載された。その翻訳を担当したのが戸坂潤であった。
翻訳が完了したのが1928年(昭和3年)のことであった。戸坂はこの第11巻のために解説を書いた。この解説が脱稿したのが7月のことであった。
文頭あいさつのところに、「読者は「解説」に依頼するべきではないであろう」と書いているが、大きなお世話である。
この『自然哲学原理』をふくむカント著作集・第11巻は翌1929年の7月に発売になっている。
そしてこの解説は、40年後にカント著作集から抜き出され、1966年に戸坂潤全集の第1巻の一部として勁草書房から出版された。
この戸坂潤全集から、青空文庫のボランティアの方が拾い出し、インターネットにアップしてくれたという経過である。
戸坂潤全集の第1巻というのはたしか持っているはずだと思って探してみたらあった。ただしこの文章は巻末付録みたいな扱いで載っているので、気が付かなかった。と偉そうに書いたが、そもそもこの本、ほとんど読んだ形跡がない。多分、古本屋の軒先の均一本で出ていたのを「あぁいたわしや」と買ったのではないかと思う。

カントの先駆者たち 
<ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)>
1646年7月 ザクセンの首都ライプツィヒに生まれる。父はライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツ。
1661年 ニコライ学院を卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、数学や哲学を学ぶ。
1663年6月 哲学の学士論文をライプツィヒ大学に提出。
1664年 哲学の修士論文をライプツィヒ大学に提出。
1666年 ライプニッツ(20歳)、ニュルンベルクのアルトドルフ大学に法学の博士論文を提出。
1673年 庇護者のマインツ選帝侯の死。ライプニッツはパリで求職活動を行う。この間に多くのフランス人学者と交流。
1675年 微積分法を発見する。
1676年 バールーフ・デ・スピノザを訪問。『エチカ』の草稿を提示される。
1676年 30歳。ハノーファー選帝侯の宮廷に仕える。
1700年 54歳。ベルリンに招かれ、ベルリン科学アカデミーの設立に尽力。初代総裁に就任する。ハノーファーからプロイセンに嫁した王妃ゾフィーの招きによるもの。
1704年 ロック思想を批判的に検討する「人間知性新論」を執筆。脱稿直後にロックが亡くなったため発刊中止、出版は死後となる。
1710年 アムステルダムの出版社から『弁神論』を匿名で発表
1714年 『モナドロジー』の草稿を書きあげる。発表は没後となる。
モナド(単子)は単純実体である。表象と欲求とを有する。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはない。神が設けた「予定調和」によって、他のモナドと調和しながら自己を展開する。
1714年 選帝侯妃ゾフィーが死去。息子が即位し同時にイギリス国王を兼任。ライプニッツは家史編纂の閑職に追いやられる。
1716年 70歳。ハノーファーにて死去。その著作の大半は未完で、現在も全集は完結していない。

<クリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff)>
1679年1月 パン屋の息子としてブレスラウに生まれる。
1700年 イェーナ大学で哲学と数学を修める。
1702年 ライプツィヒ大学に移る。
1703年 論文『数学的方法で書かれた一般実践哲学について』を発表。教授資格を得る。この論文をライプニッツに送り高い評価を受ける。
1706年11月(27歳)ライプニッツのの推薦で、ハレ大学の数学・自然学教授となる。
ハレ大学はブランデンブルク選帝侯により創設され、「敬虔主義の牙城」であった。敬虔主義はプロテスタント内の原理派。
1709年 哲学科の教授も兼任。論理学、形而上学、倫理学を教える。 一部の学生が神学や聖書について定義や証明の改善を求めるようになった。このためヴォルフは「神学嫌悪」を引き起こしてると非難される。
1711年 ライプニッツの推薦によってベルリン・アカデミーの会員となる。
1712年 ヴォルフ、最初の体系的著作「ドイツ語による論理学」を発表。
1715年 プロイセン国王から宮廷顧問官(Hofrat)の称号を授与される。
1719年 第2作目の体系書「ドイツ語による形而上学」が刊行される。
ヴォルフの代表作と言われる。第二章は存在論(事物論)、第三章は経験的心理学、第四章は宇宙論(世界論)、第五章は合理的心理学、第六章は自然神学を扱う。 存在論は事物を一般的に考察し、他は特定の対象を弁証する。
1721年 ハレ大学の副学長を退任。記念講演で「中国人の実践哲学について」を語り、孔子を称賛する。
1723年11月(44歳) ヴォルフ、無神論の罪でプロイセンを追放される。プロイセンではヴォルフの哲学を重罰をもって禁止する。
1723年 ヴォルフ、ヘッセン=カッセル方伯の招請を受け、マールブルク大学の哲学科主任教授となる。
1733年6月 パリの王立学術協会の外国人会員に選ばれる。この後、プロシアでのヴォルフの研究はなし崩しに容認される。
1735年 ヴォルフの書籍がハレで刊行される。
1740 年、ヴォルフを追放したフリードリッヒ・ヴィルヘルム一世が死亡。フリードリッヒ二世(大王)が即位。
1740年(61歳) ハレ大学に返り咲く。5年後には学長となる。
1754年4月 死去。

<バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten>
1714年7月 ベルリンで7人兄弟の5男として生誕。父は軍営教会の牧師。
1727年(13歳) 両親が早世し、里子としてハレに移り住む。 12 歳年上の長男ジークムント(のちにハレ大学教授)が指導した。 
1730年(16歳) 飛び級でハレ大学に進む。
このときすでにヴォルフ追放後7年を経過している。彼の教師となったのはヴォルフを追放したランゲであった。
1735年(21歳) 哲学でマギスターの学位を取得。
1735年 論文「詩に関する若干の事柄についての哲学的省察」を発表。教授資格を得る。
この論文で「美学」(aesthetica)の概念を提唱した。 可知的なものは論理学の対象であり、可感的なものは感性の学としての美学の対象である。
1737年 ハレ大学の員外教授となる。
1739年(24 歳) バウムガルテン、『形而上学』を公刊する。
1740年 ハレを去り、フランクフルト・アン・デル・オーデル大学教授。ヴォルフとはすれ違いとなる。
1750年 「美学」(aesthetica)を発表。(未完に終わっている)
1757年 『形而上学』を発表。「エステティカ」の訳語に「美しいものの学」を充てる。

カントとヘーゲルを繋ぐ橋がだいぶ見えてきた。
とくにシェリングの果たした自然哲学での理論的貢献がヒトカタならぬものであったことが実感された。
ただ、その多くがひらめきによるものであり、理論的な詰めが甘かったから、手柄をヘーゲルに横取りされてしまった感がある。
それでも、これまでヘーゲルの弁証法哲学の成果と思い込んでいたことの多くが、実はシェリングの直感に基づいていたということが分かった。
翻って、カントに遡行して行くと、カントが必死になって解き明かそうとしたことの核心が見えてくる。
それは「物自体」概念なのではないだろうか。
以下は作業仮説であって、学習する中でまったく違ったものになるかも知れないが、「予想屋」の工場と思っていてください。
1.カントはライプニッツを批判し、デカルトとヒュームを取り入れて理論を構築したと物の本には書いてある。
これは多分ウソだろう。
理論構築の仕方はどう見てもライプニッツ・ヴォルフのそれだ。じゃがいもと酢キャベツで出来上がっている。
2.モナドを起点に構築されたライプニッツ哲学は、不可知論と主観論によって危機にさらされた。認識論・現象論のダイナミックな過程を念頭に置かなければ体系そのものが崩壊する。
3.そこで一方では「物自体」概念を作って、外界を不可知のものとして遮断し、一方では「理性」概念を作って主観を伴う知性を主体とすることで、物自体への接近を可能にするという道を作った。
というのがあらあらの流れではないかと想像している。

3. シェリング自然哲学からみた人間と自然との関係
「力動的過程あるいは自然学の諸カテゴリーの普遍的演繹」(1800年)より

①可視化の過程
自我はその能動性を、産物を通じて可視的にする。可視化するというのは、時間軸を取り去って3次元の静的世界に構造化することである。
これに対し自然は、その能動性を、産物を通じて可視的にしている。だから自我はそれを構造的に認識することが可能となるのである。
認識の一歩としての視認は、可視的対象を挟んだ自然と主体の分離→結合過程である。
シェリングはその後で「自然の限界において観念論が出現する」と結論する。しかしそれは可視化できない自然が自我の外側に広がっていることを表現しているに過ぎない。それはむしろ実在論であって、それが観念においてしか捉えられないということである。
確率的存在の世界は非在ではない。そこでは物質はエネルギーとして(確率論的に)存在している。
だから、シェリングの立場は、骨の髄まで紛れもなく実在論だ。
②自然過程の頂点における人間の出現
シェリングにおいては、自然過程がその頂点において人間を生み出したのである。
“主体としての自然”は、自己を見るという潜勢的志向を実現するために、自分の有機的部分を人間理性として分離したのである。
ところが超越論的観念論(フィヒテ)は自己意識において成立する“自我”を絶対化する。その場合には“自我”の存立の根拠、すなわち自らと自然との連関が忘却されてしまう。
人間は意識的に「自然から身をもぎ離」そうとする。しかしそれは根底的には「自然自身の志向」なのである。
そこを押さえずに、人間と世界との現実的連関を分断するような観念論は、結局のところ主観的なものに転落する。その絶対性も見せかけのもの、「仮象」となる。
③フィヒテの反発
フィヒテは1801年5月にでシェリング宛に手紙を書いた。この中で「感性の世界すなわち自然は、意識というこの小さな領域の内に存在する」ものでしかないと主張した。
その後フィヒテは極端な汎生命論まで行き着く(1806 年の通俗講義『学者の本質』第二講義)
フィヒテの結論は「絶対的なものは生命であり、生命は絶対的なものである」と語られる。そこでは自然は「死んで自己のうちに閉じこめられ硬直したもの」としてのみ登場する。
自然は、人間的生命を制限し脅かし束縛するものであり、人間的生命によって「廃棄されるべきもの」である。
これに対しシェリングはフィヒテを切り捨てる。
理性的生命による自然の賦活とは、実際は自然の殺害にほかならない。
そこからは「全面的な精神の死」が帰結せざるをえない。
④自然哲学の営み
この節には名文句が並ぶ。“てにをは”をいじるだけでそのまま転載する。
自然哲学は、自然全体がその潜勢的指向を実現して意識にまで高まってくる際の諸段階を跡づける。それは諸段階に残された“記念碑”をたどる作業である。
理性はいっさいの自己創造者としてみずからを誇るが、自分の後には、みずからの存立根拠としての有機体を引きずっている。
人間は自然存在者であるからこそ、主体としての自然そのものから主体としての力を付与され、主体でありうる。主体として、自然にかかわり、自然との相互作用の中で生き、活動できる。


ちょっと感想
えらい難しい内容だが、言葉の使い方にある程度慣れればきわめて説得力のある議論だ。
一番共感するのは、現代物理学や生物学の到達水準によく照合していることだ。

これまでカントがフィヒテからヘーゲルへ発展したと言うことで説明されてきた。
とくにマルクス主義哲学の分野ではそれが主流だった。
ところが勉強してみると、なかなか状況はカンタンではない。それどころか私にはカント→シェリング→ヘーゲルと書きたくなる内容だ。
もう一つは、観念論対唯物論という図式がずっと強調されてきたが、果たしてそうなのだろうかということだ。
むしろ実在論対経験論というか主観論の対抗という側面が主要なのではないかと思う。

シェリングにおける3つの発展
非常に雑駁な感想だが、シェリングには3つの哲学上の発展があったと思う。
それは、自然を自己の根源に据える実在的唯物論の視点、自然と自己を発展の過程のうちにとらえる弁証法の視点、カントの「物自体」の生き生きとした復権と自己との一体化である。
カントが不十分ながらも「物自体」を定式化することによって、宗教と科学精神を分けた。理神論的な曖昧さを残そつつも実在論に向かって大きく踏み出した。
それをフィヒテが、実践概念を持ち込むことによって、ふたたび主観論に引き戻した。
ただしフィヒテの主体論はカントの静的二元論に動きを持ち込み、発展の概念をもたらした。
そしてシェリングがカント的世界にコペルニクス的転回をもたらした。天体が動くのではなく私と私を乗せた大地こそが回転しているのである。
それは、ある意味でカントの「物自体」の復権でもあった。しかも生き生きとした、みずから発展するものとしての自然の復権でもあった。

イマヌエル・カント 年譜
森本誠一さんのサイトその他を参考にさせていただきました。より詳しく知りたい方はそちらにお進みください。

1724年4月 カント、ケーニヒスベルクに生まれる。馬具職人の四男(9人兄弟)であった。
1732年(8歳) ラテン語学校のフリードリヒ学院に進む。この学校は当時プロシアで優勢であったプロテスタント敬虔主義の教育方針をとっていた
1740年(16歳) ケーニヒスベルク大学に入学。当初、神学をこころざす。のちにライプニッツやニュートンの自然学を研究。
1746年(22歳) 父の死去にともない大学を去る。正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったとされる。その後は家庭教師をして生計をたてる。

前「批判」期
1749年(25歳) 卒業論文『活力の真の測定に関する考察』が出版される。『引力斥力論』などニュートン力学や天文学を受容。
1755年(31歳) 最初の論文「天界の一般的自然史と理論」を発表。
銀河系は多くの恒星が重力により集まった円盤状の天体であると推論。さらに太陽系は星雲から生成されたと論証した(カント‐ラプラスの星雲説)。
1755年 ケーニヒスベルク大学哲学部の私講師として採用される。論理学、数学、物理学、形而上学を講義。私講師就職論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』が出版される。
1756年(32歳) 『物理的単子論』をあらわす。公開討議の第1回目の素材となる。これにより教授資格を獲得。(就任したわけではない)
1758年(34歳) ケーニヒスベルクがロシア軍によって占領される(62年まで)。
1762年(38歳) 『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠』を出版。初めて学界の注目をひくが、ウィーンでは禁書扱いになる。
1762年 ルソーの『エミール』が出版される。カントはこの本から強い感銘を受けた。
1764年(40歳) ベルリン・アカデミーの懸賞論文に応募。『自然神学と道徳の諸原則の判明性』が次席に入る。
1764年 『美と崇高の感情に関する考察』を出版。大学側からの詩学教授職への就任要請を辞退する。
1766年(42歳) 『視霊者の夢(形而上学の夢によって解明された)』を出版。ライプニッツの形而上学を否定的に総括。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎない。この世界と別の世界を同時に往することはできない。それは理性の必然的な仮説である。」

「批判」期
1770年(46歳) ケーニヒスベルク大学哲学部論理学・形而上学の正教授に就任。前年よりエアランゲン大学、イェナ大学の招聘を受けたがいづれも辞退。
1770年 就任論文として『可感(感性)界と可想(知性)界の形式と原理』を発表。ルソーの肯定的な人間観に影響を受け、ふたつの領域での人間理性の働きを分析した。この論文の増補改訂の計画が、おその後の『純粋理性批判』の構想に発展した。
1772年(48歳) ポーランド分割にともない、ケーニヒスベルクがプロシアに返還される。その後7千人の軍を含め人口は6万人となり、ドイツ屈指の都市となる。
1776年(52歳) カント、哲学部の学部長に就任。教育学の講義を開講する。
1781年(57歳) 『純粋理性批判』第一版を出版。当初はバークリーの観念論と同一視された。
認識(経験)を感性と悟性(理解)に分け、認識できないものを理念(物自体)とした。悟性は現象の文字化されたもので、直観(時間軸)は失われている。
1783年(59歳) カント、『プロレゴーメナ』(形而上学は可能か)を出版。純粋理性批判にまつわる誤解を解くための解説本と言われる。ヒュームに影響を受けたが、不可知論ではないと強調。
1784年(60歳) 「世界市民的見地における一般史の理念」、「啓蒙とは何かという問いに対する回答」を発表。
1785年 『人倫の形而上学の基礎づけ』を発表。
1786年(62歳) ケーニヒスベルク大学学長に就任。ベルリン・アカデミーの会員に選ばれる。
1787年(63歳) 『純粋理性批判』第二版を出版。
1787年 「実践理性批判」が発表される。当初は『純粋理性批判』再版にあたっての付録として構想されていた。
物自体の秩序を「叡智界」とし、叡智界の因果性の法則を道徳として規定する。この法則に従うことで、「現象界」の純粋理性が実践的に実在化される。
1789年 フランス革命が勃発。その後革命の波及を警戒する政府の勅令により、出版物の検閲が厳しくなる。
1790年(66歳) 三批判最後の著作「判断力批判」が発表される。
判断力は「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」であり、美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種よりなるとされる。

後「批判」期
1791年(67歳) フィヒテが経済的支援を求める。カントは『あらゆる啓示の批判の試み』の出版先の紹介という形で援助する。
1793年 カント、既成宗教への批判をふくむ『単なる理性の限界内における宗教』をあらわす。プロイセン政府は出版を禁止。
1794年 勅書により、宗教に関して公に語ることを禁じられる。カントは「陛下の忠実な臣下として」勅令を甘受すると表明。
1795年(71歳) 『永遠平和のために』を発表。国家にとっての自然状態(戦争状態)を脱して恒久的な平和をもたらすことを訴える。
1797年 『人倫の形而上学』を発表。ロック的な社会契約説を展開する。
1799年(75歳) 「フィヒテの知識学に関する声明」を発表。
1802年(78歳) 認知症が進行。約40年間カントに仕えた召使のマルティン・ランペを解雇する。
1804年2月(80歳) カントが逝去。16日間かけて町中の市民がカントに別れを告げ、数千人以上が葬儀の列に参加した。

より

2. 個別有機体と環境
①環境について
環境という概念は近代の産物である。したがってシェリングの文章には登場しない。しかしシェリングは環境という発想を最初にした人物である。
環境は、主体の内と外を区分する境界領域を意味する。環境は肉体にとって自然の一部ではあるが、訓化された自然、一種の膜である。
②普遍的有機体から個別有機体へ
根源的産出的能動性が単一の肯定的原理として働くこと、それを受容する否定的諸原理が差異性を持つという関係。
「生命と有機体の肯定的原理は、絶対的に一である以上、有機諸組織は本来ただその否定的諸原理によってのみ異なる」
③個別有機体のありよう
自然の個体は、普遍的有機体に同化されず自己を存立しなければならない。
同化されないためには、いっさいを自分に同化しなければならない。有機組織化されないためには自分を有機組織化しなければならない。
この、閉じたシステムとしての有機的物体の内には、外界に抗して均衡を維持するような対立的能動性が働く。
その営為は、たんなる外的刺激に対する反応(因果的受容)ではない。
その行為によって内的なものが外的なものから区分される。その境をなすのが環境(訓化された外界)である。
分かりにくいので噛み砕くと、普遍的有機体というのは環境(自然)と生命主体(個別有機体)をふくんだ全体であり、個別性というのは普遍性への反抗ないし抵抗として存在する。
ただし直接的な抵抗はたちまちのうちに粉砕・吸収されてしまうから、反抗する主体が永らおうとすれば、その周囲に外皮(膜)をまとう必要がある。
生命というのは持続性(持続する反抗)を必要とするからこの環境という外皮は生命にとって必須(特殊な反抗形態としての生命)である。
こう読み解けば、シェリングの自然哲学の素晴らしさが分かってくる。
④個別有機体の発展
個体的有機体は受容と能動性との相互作用、交互限定を通じてみずからを有機組織化する。この二重性を介して外界との交互限定関係も形成される。この二重性は無機的自然の二重性の反映である。
有機的個体は栄養摂取、成長の過程をとおして、二重性としての自分を不断に維持、再生産する。

1. 普遍的有機体 
A) 1797年「自然哲学考」(Ideen)より「序論」

精神としての人間は自然の一部である。
自然とは現実の生きた相互連関が織りなす総体である。
「人間と世界とはたえず接触と相互作用が可能でなければならない。いかなる裂け目もあってはならない。ただそのようにしてのみ、人間は人間になる」

(哲学的)自然状態においては、人間は自分をとり まく世界と一体であった。
「哲学」が誕生すると、人間は外界に対して独立し、自由への道を歩み始める。 だから哲学の基本問題となるのは「外の世界(自然)がどのようにして可能か、どのようにして経験可能か」ということである。

人間の意識性と自由な能動性は、自然との現実的連関を前提とする。
したがって自然は、人間精神と同様に能動的主体でなければならない。自然は精神と同じく、自由な生命的なものとして捉えられる。
この自然という主体は、個別の人間を意識主体たらしめ、その自由を可能にする根拠である。それは自然の内的展開を通して行われるのである。

④精神と自然の絶対的同一性
以上の経過は、精神と自然の絶対的同一性をしめす。すなわち「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然である」というテーゼである。

⑤この絶対的同一性をふくんだものが普遍的有機体である。
それは自分自身で存立し、自分自身を産出し、自己自身を有機組織化する。

⑥自然の根源的産出性は無限な能動性である。
そのため自然の産物も「無形態的」で流動的である。したがってそれが発展するためには無限に阻止されなければならない。 事物は無限に阻止される結果として現象する。

⑦無限に阻止する能動性は、産物として把握された経験的自然である。
(この詳細は展開されない)

⑧二つの能動性の衝突により、根源の能動性は一定の点に収斂するようになる。
この点は繰り返し充実させられ、自分の「領域」を形成する。 これが客体としての自然となる。

B) 普遍的有機体が内包する二つの問題点

これは普遍的有機体としての全体的自然の内部構造の問題である。 第一は、形態的にも質的にも多様な有機体が類としてどのように存立しうるのか。 第二は、普遍的有機体の内部で、個体的有機体と外界をなす物質的自然がどのような関係にあるのか。 これらは以下に述べる第二の課題と大きく関わってくる。

の学習ノートです

はじめに

シェリングは生きた創造的自然という見方を提起した。
それは自然を能動的な主体として捉えた。
そして自然そのものを生成し、形態化する力を備えた主体として把握しようとした。
彼の自然哲学は、その自然の産出過程を描き出そうという試みであった。

シェリングの「主体としての自然」という表現は、ロマン主義的な擬人観ではないかと考えられてきた。
しかし今日では自然を主体として捉える発想は一定の支持を受けるようになっている。

今日、シェリング自然哲学は環境学の立場から3つの点で注目される。
(1)普遍的有機体
前期自然哲学で提示された「精神と自然との根源的同一性」の考えは普遍的有機体という概念を生み出した。
これは「総体としての自然」を一つの有機組織ととらえる考えである。
そして、その中に自我・意識・精神もふくまれる。
(2)個別的有機体
自然が普遍的有機体としてとらえられるとき、その全体的自然のうちで、個別的有機体は規定されるのか。
個別的有機体(例えば人類)は普遍的有機体(環境)の中で、どのようにして存立できるか。
(3)客観的観念論
自然哲学は、主観的なものに一面化された観念論(フィヒテ)に対する批判である。
それは客観的存在の自立性と主観に対する規定性を意味している。
その際に、自我・主観は自然に対してどのように再措定されるのであろうか。

と、ここまでが短い序論。ついで(1)、(2)、(3)について検討に入る。

フリードリヒ・シェリング 年譜
(シェリングの資質はエンゲルスと非常に近い印象を受ける。シェリングは、エンゲルスが初期マルクスに対して果たしたのと似たような役割を、ヘーゲルに対して果たしたのではないだろうか)

1775年 シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling)、ヴュルテンベルク公国にルター派神学者の子として生まれる。
ヴュルテンベルク公国はシュツットガルトを中心とし、神聖ローマ帝国の一部をなす小国である。紆余曲折を経つつ第一次大戦終了まで存在した。
1790年 テュービンゲン神学校に入学。特例により15歳で入学し、5歳年上のヘーゲル、ヘルダーリンと同級・同寮となる。
彼らはルター派正統神学の牙城にいながらフランス革命に熱狂し、進歩と自由を渇望し、思想の道へ進んだ。彼らは新興のカント哲学に集中した。シェリングがとりわけ学んだのはフィヒテとスピノザであった。
1792年 シェリング、「悪の起源について」(修士論文)、『神話について』(1793)を著す。

1794年 神学校を卒業。神職を選ばず、家庭教師をしながら著作に勤しむ。フィヒテの忠実な紹介者、支持者として頭角を現す。
雑誌に『哲学の諸形式』(1794年)、『自我について』(1795年)、『哲学的書簡』などの論文を発表。
1796年 ライプツィヒ大学に移り、3年にわたり自然学の講義を聴講する。自然哲学に傾倒する。「ぼくはスピノザ主義者になった」とヘーゲルに書き送る。

1797年 『イデーン』を発表。「有機体」概念を中核に、自然の哲学的把握と形而上学的根拠付けを行う。
生物学や化学、物理学の最新知見に刺激されたシェリングは、ライプニッツの理論を引き継ぎ、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。(Wikipedia)
1798年 「世界霊について」を発表。ゲーテに認められる。
自然の目標を生命におき、自然の根源を世界霊(宇宙霊)であるとした。自然と精神との最高の統一形態が芸術であるとする。
1798年 イェーナ大学の助教授に就任する(23歳)。この時の哲学教授はフィヒテであり、無神論論争の最中であった。
すでにフィヒテとの見解の相違は明らかだった。フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。
しかし自然科学に触れる中でスピノザ・ライプニッツ主義者となっていたシェリングはそれでは納得出来ない。絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力があると考えた。
1799年 フィヒテがイェーナ大学を辞職。シェリングは哲学の正教授となる。
1800年 シェリング、フィヒテを否定的に受け継ぐ形で『先験的(超越論的)観念論の体系』を発表。ヘーゲルらとの学的交流を基礎とし、絶対者の自己展開の叙述の学として「同一哲学」を提唱した。
自然と精神は絶対者の二つの現象である。主観と客観とは同一であり、自然と精神はその現れである。「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」
1800年 シェリング、ヘーゲルをイェーナ大学の私講師として推挙する。
1800年 ヘーゲル、『フィヒテ哲学とシェリング哲学の差異』を発表。
1801年 シェリング、「私の哲学体系の叙述」を発表。これをフィヒテが批判したことから関係決裂。フィヒテの転居を機に始まったシェリングとの文通が止まる。
自然哲学と超越論的哲学を併置するシェリングに対し、フィヒテは他我を原理的に哲学の対象とはみなさなかった。
1802年 シェリングとヘーゲル、共同で雑誌『哲学批判雑誌』を刊行。主に自然哲学を扱う。
1803年 保守派と対立したシェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去る。シェリングの転居をもって『哲学批判雑誌』は終刊。ヘーゲルとの協力関係も止まる。
1806年 シェリングは不倫相手と結婚し、いったんヴュルツブルクに移った後、ミュンヘンに移住。バイエルン科学アカデミー総裁に就任する(31歳)。
1807年 ヘーゲルの『精神現象学』が刊行される。シェリングの同一哲学が批判される。
シェリングは絶対者を直観によって把握する。ヘーゲルはその無媒介性を批判した。
1809年 ミュンヘンで「人間的自由の本質」を出版。人間的自由についての哲学的考察を発表。
人間の存在根拠たる神には「神のうちの自然」があり、神自身と対立している。自然は、自らを現そうとする神自身にとっての「根底」である。被造物の頂点である人間のなかには、対立は自由の可能性として再び現れる。
1813年 シェリングの妻カロリーネが病死(09年)。ゲーテの紹介で再婚する。
1813年 シェリング、「世界諸世代」を執筆。
1814年 フィヒテがチフスにて急死。ヘーゲルがベルリン大学の後継教授となる。
1820年 シェリング、ベルリンのエアランゲン大学哲学教授となる(45歳)エアランゲン大学にはフィヒテが05年から勤めていた。
1827年 シェリング、ミュンヘン大学創立に伴い哲学教授に就任。バイエルン王太子マクシミリアンの家庭教師を務める。バイエルン王国への貢献をもって貴族に叙せられる。
1831年 ヘーゲルが死亡。
1830年代 シェリング、「積極哲学」を提唱。
消極哲学は "das Was"「あるものがなんであるか」にのみかかわっており、"das Dass"「あるとはどのような事態であるか」について答えていないとする。(ウィキ)
1841年 ベルリン大学哲学教授に就任(66歳)。4年間在職。
ヘーゲル左派の急進的思想に対する防壁となることを期待されたという。
就任講義には、エンゲルス、バクーニン、ブルクハルト、キルケゴールなどの錚々たるメンバーが聴講した。しかしその後の講義は閑散としていたと言う。
1845年 ベルリン大学教授職を辞任。以後公式活動を退く。

1854年 スイスの療養先で死亡。





1762年5月19日 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)、ドレスデン近郊の農家に生まれる。貧困のため修学できず。
1780年 近郊の貴族の援助を受けイェナ大学神学部へと進学する。
1781年 ライプチヒ大学に転学
1788 パトロンの死により学資を失う(26歳)。友人の紹介でスイス・チューリヒで家庭教師の職を得る。この時カント哲学に興味を覚える。
1789年 フランス大革命が発生。フィヒテはこれを熱烈に支持する。
1790年 ライプチヒでカント哲学を個人教授
1791年7月 カントのいるケーニヒスベルクを訪ね、講義を受ける。7月半ばから8月半ばまで、『あらゆる啓示の批判の試み』を執筆しカントに送る。
1792年 『あらゆる啓示の批判の試み』がカントの仲介で出版。実践理性批判を元に宗教概念を論じたもの。多くの人が著者をカントだとみなしたが、7月末にカントは著者がフィヒテであると公表した。
1793年6月 Berlin, Leibzig、Stuttgart, Tubingenを経てチューリヒに到着。
1793年 チューリッヒで『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』、『思想の自由の返還要求』などを発表。この年、知人の娘ヨアンナ=ラーンと結婚。
1794年 イェーナ大学の助教授に就任。『全知識学の基礎』を発表。知識学を提唱。
意識を事物ではなく実践として措定。カント哲学に能動的性格を与える。「自我は根源的に端的に自己自身の存在を措定する」ところから出発して、それが成立するための条件として自然の認識を演繹する。「知識学」というのはWissenschafts のことであり、「諸科学」と訳してもなんの問題もない。「諸知識」は一つの体系であるが、認識過程の諸結果でもある。
1797年 「知識学への第一序論」を著す。「ひとがいかなる哲学を選ぶかは,ひとがいかなる人間であるかによる」が有名。
哲学体系は観念論と独断論の二つだけである。観念論は経験を「自我」から説明する。「物」から説明するのは独断論である。しかし自我の自立性と物の自立性は両立し得ない。ゆえに独断を拒否する限り、我々は観念論に立たざるをえない。
ということで、現状容認の論理(唯物論)に対して、「否定の論理の積み上げ」というラディカルな理屈を持ち込む。
1798年 フィヒテ、知識学の各論となる『全知識学の基礎』を発表。  『学者の使命に関する講義』も発表される。
「普遍的な思考」は共同体が生み出す。この思考は、共同体を存在可能とする基底的な条件を考察する。普遍的思考は共同体を志向するが、共同体が思考の主体とはならず、あくまで諸個人の思考にとどまる。なぜなら共同体は、経験的には常に限定された所与に過ぎないからである。
1799年 「神的世界支配についての我々の信仰の根拠について」を発表。神概念のあり方をめぐり、無神論論争を引き起こす。無神論者のレッテルを貼られ、イエナを去った。
この間、フィヒテは「物自体の考え」を否定、カントが、物自体を認めて、世界を二元論として解釈することを強く批判する。(ただし彼は「カントは二元論みたいなことは言っていない」と主張している)
フィヒテは、二元論者は「物質から精神への、もしくは精神から物質への絶えざる移行、あるいは同じことだが、必然性から自由への絶えざる移行を前提とするような、こうした結合の可能性を証明しなければならない」とし、「自我の実践性」(事行)を理論的認識にまで広げた。これは現象学の漫画化だが、逆説的に弁証法の必然性を示唆しているともいえる。
1799年7月 ベルリンに転居。
1800年 『人間の使命』などを著す。
1801年 「知識学の叙述」を発表。シェリングとの論争を受けて自我概念が後退。絶対知を出発点にして全経験を説明するようになる。ただし絶対者の存在を最初から前提することはせず。
決断を行うとされる個人が、ここでは本来的な知の担い手ではなくなっている。個人の自由もまた「普遍的自由」の内部でのみ成立する
1802年 シェリングとの関係を断絶。
1805年 ベルリンのエアランゲン大学教授に就任。
1806年 『現代の特質』を発表。「絶対者」から存在根拠を出発するようになる。この「神」は自由な道徳的主体の総体であり、「我々」(das Wir)を可能にする根拠となる。
1806年 ベルリンがナポレオン軍に占領され、10月18日ケーニヒスベルクへ避難。
1807年8月 フィヒテ、占領下のベルリンに戻る。12月に『ドイツ国民につぐ』を講演(1808年出版)
1810年 フィヒテ、新設されたベルリン大学の教授に就任。哲学部長に任命される。翌年には学長に就任する。
1813年 「知識学」を発表。「知識学が自己の存在証明をなしうるのは、知識学に帰依する人によってのみ」であるとする。
1814年1月 チフスにて急死。52歳。国内の救援に夫人がボランティア看護婦として参加しチフスに罹患。彼女を看護したフィヒテも感染した。
1814年 フィヒテの後にはヘーゲルがベルリン大学教授として招聘される。

フィヒテの思想はきわめて魅力的だ。彼はみずからを「観念論」と規定することによって、すべてのしがらみから解き放たれた。世界を中世の千年の眠りから解き放ったフランス革命とはなんだったろうか、まさに呪縛からの解放という精神の所業ではないか。
カントはフィヒテを得て、あたかも翼を得たように感じただろう。時間感覚、浮遊感覚こそがフィヒテのすべてだ。「精神一到、何事かならざらん!」というのが主観的観念論以外の何物であろうか。
フィヒテを考えるのに、偉くなってから(ベルリン時代)の哲学は必要ない。思想家としてはもはや抜け殻である。無神論論争の戦士としてのフィヒテが、我々には必要なのである。
カントの動かない世界に動力を与え、かくして必然性の克服の契機を与えたことである。
フィヒテの最大の貢献は、カントに弁証法を持ち込んだことにあるのであって、持ち込む際の乗り物が主観的観念論だったことは主要な問題ではない。
調和とか必然性というのはキリスト教の世界であり、絶対王政の世界でもあった。その必然性がバスチーユの襲撃に始まり音を立てて崩れつつあったのである。
そこではジャコバンが「必然性」をギロチンにかけていた。ギロチンというのは実に鮮やかな装置で、一瞬にしてルイ16世やマリー・アントワネットの首がコロコロと落ち、血しぶきが飛び散るのである。
これはまさに観念論の世界である。唯物論からこのような勢いは生まれないだろうと、たしかにそう思う。
「はだかの王様」をはだかと見切り、「王様ははだかだ」と叫ぶのは、決して唯物論的な行いではなく観念の転換なのだ。
これは良い観念論だ。
カントがフィヒテとシェリングに分かれ、それをヘーゲルが止揚して…などというのは最悪の観念論だ。
フィヒテ哲学の全体像を求めて -- 知識学の変転とその理由--入江幸男
という文章を参考にさせていただいた。これだけでも結構ごちそうさまだが、もっとすごい文章もある。ただそこまでやっていくと、肝心の時代性が見えなくなる。
私としては1789年のバスチーユをヨーイドンの出発点に、「自由・平等・博愛」の旗印、ジャコバンとダントンとギロチンの世界、そしてナポレオンの登場までのかけっこを見物するのが目的だ。
1790年代の10年間、カントもフィヒテもシェリングもヘーゲルも時代を並走している。さらに言えばゲーテもシラーもベートーベンもお互いの方を見ながら並走している。ドーバー海峡の向こうではアダム・スミスとベンサムとリカードウが走っている。すべてのヨーロッパ人が「想い」としてフランス革命に参加しているのだ。
そういう時代精神をまず受け止めることがだいじだ。
2007年6月30日 日本ディルタイ協会2007年関西研究大会
を参考にさせていただきました。

1.名誉革命とロック

ロックは17世紀のイギリス思想を集大成しただけではなく、それに自然法と社会契約という骨組みを与えた。

一言で言えば、人間には資産(Property)がある。資産を持つのは自然に与えられた権利である。これを社会の中で守るためには相互の契約が必要である。この契約を安定したものとするためには社会による保全が必要であり、このために国家(という社会形態)が設立されている。

これは国家形成の歴史から見れば、ほとんど空論であるが、出来上がった国家を主体的かつ合理的に運営するためには有効な議論である。

ただこれだけであったら、「そういうふうにも言えるね」程度の話であるが、こういう「契約社会国家」を壊すことは、契約で成り立つ社会そのものを壊すことになるのだから許せない、というところに話を持っていくのだから、俄然説得力を帯びてくるのである。

いずれにせよ、これは富裕層の論理であり、契約を旨とするリバタニアン・ビジネスマンの論理である。「必要なときはこちらから頼むから、お願いだから放っといてくれ。あまり目障りなら潰しちゃうよ」という上から目線の話だ。
2.ルソーによるロックの改作と「一般意思」

このままでは貧民が権利を要求する際の論理建てとしては使えない。そこでルソーが頭をひねった。

ルソーも人間は自然権を持つとし、それを守るために社会契約を結んだとする。ただ自然権というのは資産ではなく、「自由と平等」という抽象である。ここにはすり替えがある。

次に社会契約を結ぶのは人間同士ではなく、人間と社会とされる。社会というのは「全人民の団体たる国家」である。その社会には「一般意思」が形成され法律として体系化される。これが自然法であり、人はこの自然法に従わなくてはならない。つまり、政府・国家は一般意志に従わなくてはならないということだ。

ということで、ロックの自然法思想は換骨奪胎され、詭弁もどきの論理展開により、ほとんどその反対物に転化する。

そこには「一般意思」に名を借りた政府乗っ取りの狙いをはらんでおり、ロックの用心棒国家的思想とは様相を異にする「危険な思想」と化している。

唯物論と経験批判論 あらすじ

序論のかわりに

バークレー批判がまず展開される。おそらくあとから付け加えられたのであろう。率直に言えば不必要に長い。

初めての読者は、飛ばしたほうが良い。とにかくまずマッハから取りかかるべきだ。

エンゲルスの引用

「唯物論にとっては自然が第一次的なもので精神は第二次的なものであるが、観念論者にとってはその逆である」

この両者の間にエンゲルスはヒュームとカントを置き、彼らを不可知論者と呼ぶ。そしてその特徴として、世界の完全な認識の可能性を否定する点をあげる。

その後、ヒュームからの長い引用がある。ハックスレーからの重複引用。バークレイのような悪気はないということを言いたいようだ。

後半はディドロによるバークレー批判を紹介して終わる。

たぶんディドロを発見して「これだ!」と思ってこの序論を書いだのだろう。

第一章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その1

第1節 感覚と感覚の複合

この節では経験批判論の代表者と目される人物が紹介される。

まずマッハの所論の紹介と分析から始まる。

中間結論として、マッハは相対主義を唱えるが、相対主義と弁証法の違いを知らないということを示す。

そしてエンゲルスの言葉、「肝臓が胆汁を分泌するのと同じように脳髄は思想を分泌する」という機械的唯物論批判を対置する。

つまり相対主義は機械的唯物論への罰であり、非弁証法的という点においては五十歩百歩だということである。

この指摘は正しいのだが、その後十分に発展されているとは言い難い。

つぎにアベナリウスの批判に移る。

レーニンの当面の論敵であるボグダノフはアベナリウスの影響を受けたらしく、レーニンはこの二人を串刺しにして批判している

マッハ、アベナリウスに続いてイギリスのピアソンとフランスのポアンカレーが紹介される。

第2節 「世界要素の発見」

ついでレーニンはマッハ主義をマルクス主義に持ち込んだ最初の人物としてアドラーをあげる。

ここからレーニンの舌鋒は鋭さを増す。ここから先はもはや党派闘争の世界だ。

アドラー批判は、つまるところ「マッハもアベナリウスもそんなこと言ってないよ」というものだ。

そしてアドラーの「解釈」を受け継いだのがボグダノフだというわけだ。

アドラーの所説は、観念論者ヴントの経験批判論への攻撃にもとづいている。つまりヴントが徹底した観念論の立場から「マッハは唯物論者だ」と非難した言葉を借りてきて、「ほら、マッハは唯物論者だろう」というこずるい論建てをしている。

そこでヴントの所説の検討に入る。

なお、ここでさり気なく触れられている一文は注目に値する。

…しかし、他方、マッハとアベナリウスの当初の観念論が哲学上の文献で一般に認められているのと同じ程度に、経験批判論が後に唯物論の側に方向転換しようとつとめたことも、一般に認められている。

ということで、マッハの最近の著作(「認識と誤謬」1906)を引き合いに出す。そして折衷主義的な記述を引き出す。

第3節 原則的同格と「素朴的実在論」

ここからはアベナリウスの批判に移っていく。

アベナリウスが観念論でありながら折衷的態度を取っているとのべたあと、その後継者でより強硬な観念論者のエヴァルトらに攻撃が向けられる。

この辺は十把一からげだ。

第4節 自然は人間以前に存在したか?

この領域はマッハらにとってとくに苦手な分野である。そこで彼らの「言い訳」を取り上げてネチネチといじめる。

アベナリウスとその弟子のペツォルト、ウィリーが、しばしばカントやフィヒテを引き合いに出すのに応じて、レーニンもこれを批判するが、どちらかと言えば及び腰である。

そしてその後、今度はロシアの社会民主党内のマッハ派を取り上げる。最初がバザロフである。

自党内部の話だけに攻撃の厳しさは一段と増す。

第5節 人間は脳の助けを借りて考えるか?

これも前節とおなじような経験批判論の弱みだ。

これについてはアベナリウスが「イントロイェクツィオン」という詭弁を思いつき、ボグダノフはそれに引っかかった。

しかし、この詭弁は観念論者ヴントによって暴かれた。

ピアソンはこのような詭弁を用いずに、「意識がどこから来るのかなど関係ない」と開き直った。

第6節 マッハとアベナリウスの唯我論について

経験批判論は主観的観念論であり不可知論であり、最後は唯我論に陥る。

これについては「ネイチュア」誌の寄稿論文(ピアソン批判)と物理学者ボルツマンの文章を載せることで批判に替えている。

今日の私達からすれば、なにもバークレーからディドロ、フォイエルバッハを持ち出すまでもなく、これらの批判で十分であろう。

 

第二章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その2

マッハ批判はすでに終わったが、これから先は党内論争になる。

きっかけはマルクス主義理論家プレハノフが、カントの「物自体」を認めた発言をし、これに経験批判論の連中が噛み付いたことから始まっているらしい。

「エンゲルスと違うじゃないか」とやり始めたので、カント-エンゲルス-プレハノフという一連の理論の評価をしなくてはならなくなった、というのが経過のようである。

というより、レーニンがやりたくて始めたケンカのようだ。

その前にちょっと弁護して置かなければならないが、このときエンゲルスの「自然弁証法」は未発表である。だからエンゲルスの主張は部分的にしか取り上げられていない。

ということはレーニンもエンゲルスの主張を全面的に知った上で論戦に参加しているわけではない。

それにカントはネオカント派だって本格的に勉強したことはなかったはずだから、かなりボロは出ると思う。

これが党内向け論争でなく他流試合であったら、ここまで書くことはなかったろうと思う。さすがに恥ずかしい。

第1節 「物自体」、エンゲルスへの攻撃

この章はまず、チェルノフという人物が「物自体」に関してプレハノフを攻撃したことから始まる。ところが、チェルノフは勢い余ったか、「物自体」の把握についてエンゲルス攻撃まで始めた。

エンゲルスは、カントによれば不可認識的な「物自体」を、ひっくり返してすべての認識されていないものは物自体であると主張した。

というのがチェルノフの主張である。

そこで、レーニンは誰かの引用ではなく自分の言葉で長い反論を書いている。

しかしどうも売り言葉に買い言葉で、ポジティブな論証にはなっていない。

マルクスのフォイエルバッハ・テーゼの第二が引用されるが、この場合適切ではない。

これらのテーゼは、まずもって、観照の立場にとどまる唯物論者フォイエルバッハへの痛烈な批判である。

第2節 「超越」について エンゲルスの「改作」

エンゲルスはカントの物自体を少しも否定していない。認識の限界もふくめ承認している。その上で我々の認識限界を広げていくことは可能であり、その可能性は無限であると主張する。

「超越」というのはその時々の認識の限界を超えて、物自体の世界に踏み込むことであり、エンゲルスは科学的な仮説を除いて、原則的にはこれを認めない。そして科学的な立証を要求する。

これらについてレーニンは力説している。ただしさほど説得的ではない。

第3節 フォイエルバッハとディーツゲン 「物自体」の見解

まずフォイエルバッハが取り上げられる。彼が「物自体」を「実在性を伴った抽象体」と定義したことを紹介する。

ディーツゲンについても色々書かれているが、あまり興味ないので省略。

この節の結論。

1907年にはエンゲルスを否認し、1908年には不可知論へとエンゲルスを「修正」しようと試みる…これがロシアのマッハ主義者たちの「最新の実証主義」哲学である。

第4節 客観的真理は存在するか

ここまで行くと、「もうやめておいたほうが良いんじゃないの」と思ってしまう。今ではほとんど「禁句」だ。

むかしスターリン主義の哲学教科書には必ず載っていたが、この言葉には強い違和感を抱いた覚えがある。それこそ形而上学そのものだ。

とにかく第二章に入ってからというもの、レーニンは変調をきたしている。

客観的真理の否定は不可知論であり主観主義である。…自然科学は…その主張が真理であることを、疑うことを許さない。それは唯物論的認識論とは完全に調和する。

これは「すべてのものは疑いうる」とするマルクスのモットーと完全にバッティングする。

ところで、レーニンが引用したヘーゲルの言葉が面白い。

経験論は一般に外的なものを真実なものとし、超感覚的なものを認める場合でも、その認識は不可能であって、我々はひたすら感覚に属するものに頼らなければならない、と考える。
この原則が徹底させられるとき、それは後に人々が唯物論と呼んだものを産んだ。(エンツィクロペディ)

ウム、たしかにそうも言えるな。

第5節 絶対的真理と相対的真理 エンゲルスの「折衷主義」

まず「マルクス主義は永遠の真理というような独断論を許さない」というボグダノフの言が俎上に載せられる

エンゲルスの「反デューリング論」から長い引用が続く。

ついで今度はディーツゲンの主張に対する論駁が始まる。ただしディーツゲンは部分的に誤りを犯した唯物論者として位置づけられる。

正直のところ、レーニンの論理は相対主義者の尻尾をつかめないまま堂々巡りをしている。

問題は即自・対自という弁証法的な相対論(ヘーゲル論理学が一つの見本)と、ただの相対主義の違いだ。弁証法は相対的真理群を通底する法則を読み込む。ただの相対主義は確率論的にしか操作できない。そして確率論は、そこにとどまる限りでは限りなく不可知論に近い。

このへんはエンゲルスの「自然弁証法」を知らなかったレーニンの不幸だ。

第6節 認識論における実践の基準

これは以前から気になっていたところである。

レーニンはフォイエルバッハの第2テーゼをふたたび取り上げる。

真理が人間の思惟に達するかどうかを実践から離れて提起するのはスコラ学である。

そしてこれをエンゲルスの下記の言葉と結びつけることで議論を始めようとする。

不可知論に対する最良の論駁は実践である。

マルクスの言わんとする所は、「真理」とか「思惟」という概念がそもそもスコラ的であることだ。

エンゲルスの言葉は科学的事実を確認するにあたっては、やや雑駁にすぎる。やはり有無を言わせぬ技術に支えられた実験が必要である。マッハの衝撃波は、当時最新鋭の技術である写真を巧妙に用いた有無を言わせぬ証明だった。

ここでレーニンはマッハの言説を取り上げ、フォイエルバッハの言葉により批判する。


第三章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その3

第1節 物質とはなにか? 経験とはなにか?

第三章はボグダノフらとの党内論争を終え、ふたたびマッハ主義者との論争に戻る。

それぞれの節につけられたタイトルは、ひどく大げさである。正確に表すとすれば、例えば「『物質とはなにか?』についての経験批判論者のおしゃべりとその批判」とすべきであろう。

それにしても、「物質とはなにか?」はデかい。物理学の根本問題だ。一つの節であつかうような話ではない。

ただ、マッハ主義者の「物質」論を蹴っ飛ばすにはこのくらいでも十分なのかもしれない。レーニンはそう思ったのだろう。

まずアベナリウスの物質論から入る。彼は物質論を主張していないということが分かった。

次にマッハ。「物質は要素の連関である」

次にピアソン。物質は一定の感官知覚の群れである。

たしかにこれでは論争のしようがない。

レーニンはマッハがしばしば唯物論の側に脱線しているということに注目している。これについては私も同感である。

第2節 「経験」に関するプレハノフの誤り

「経験」というのはずるい言い逃れである。要するに感覚の集合である。そこから何か特別な概念でもあるかのように議論をこしらえていくのが経験批判論のやり口である。

感覚が経験として記憶されるためには、何らかの整理統合装置と記憶装置が必要である。それは感覚からは作り上げることができない。

ここのところをプレはノフは騙されてしまったらしい。

第3節 自然における因果性と必然性

この問題は端的に言えば「自然の弁証法」に関する議論である。

レーニンは個別の経験批判論者に反論はしているが、一貫した論理は持てないでいる。

彼には武器がない。ある場所では「エンゲルスにはこの問題での言及がない」と泣き言を言っている。エンゲルスの「自然弁証法」は、このとき彼の手元にはなかった。

自然科学的な知識が相当ないと書けない。自然の弁証法は、多くの観察と適切な実験から帰納的に導き出されるものだからである。

たとえばダーウィンについて言及していないことはかなりの欠落であろう。

とくにアベナリウスの弟子のペツォルトには悪戦苦闘している。現象の確率論的な扱いこそ彼らのもっとも得意とする分野だからである。

第4節 思惟経済の原理と世界の統一性

前の記事でも書いたが、マッハの「思惟の経済」はなかなか優れた観点である。知覚として溢れるほどの刺激が脳に飛び込んでくる。巨大コンピュータでなければ到底処理できないほどである。

これを人間は知覚の段階で整理し、諸知覚を統合する過程でさらに切り詰める。そして事物をゲシュタルトとして認識し記憶する。それはもはや感覚ではなく知覚でもなく、いわば「心像」とも呼ぶべき表象である。

このように圧縮し表象化する仕組みをマッハは思惟の経済と読んでいる。内容そのものはきわめて「唯物論的」である。

ただ「経済」はいかにもいただけない。物理学者らしく、語法がガサツなのだ。

これは「今月はちょっとピンチなので経済しました」というのと同じで、倹約の意味だ。語源的にはエコノミーというのは節約という意味であるから、それでも間違いではない。

レーニンも「まったく不器用な、気取って滑稽な言葉」と言っているから、ある程度分かってはいるのだろう。

統一性の問題はペツォルトが提起しているようだが、ペツォルトの真意が不明瞭なのでなんとも評価のしようがない。

第5節 空間と時間

まず、レーニンはフォイエルバッハの言葉を掲げる。

空間と時間はたんなる現象の形式ではなく、存在の本質的条件である。

これは19世紀初頭に打ち出された宣言であるが、いまも妥当である。

ただ極微の世界、宇宙の始まりの世界ではこれらの相互関係はぐちゃぐちゃで、いまだ汲みつくされた認識段階にあるとはいえない。

それらはニュートン力学の世界を相対化しているが、否定しているわけではない。それは宇宙・世界の階層性を示している。

その上でエンゲルスの言葉は説得的である。

時間の概念が問題なのではなく、現実の時間が問題なのである。

現実の時間というのは生命誕生、あるいは地球誕生以降の物質的運動について時間軸に沿った認識を現実的前提としなければならないということである。

感覚が全てというなら感覚の生まれたあとの時間と言ってもよい。

第6節 自由と必然性

エンゲルスの「自由とは必然性への洞察」に関して、認識論上の意義に関連して簡潔に触れられている。

ただしこれは、デューリングとの論争の文脈の中で出てきた言葉であり、「自由」そのものの本質的な規定ではない。


あらすじと言いながら、だいぶ長くなってしまった。第二分冊の方は稿を改める。




マッハの良いところ、悪いところ

マッハの良いところは勇敢なことだ。悪いところは乱暴なところだ。

この2つの素質があると、超大作がいくらでも書けてしまう。良くも悪くも分かりやすい。

乱暴だからといってそれほど馬鹿にしたものではない。かなりの点で革新的で、示唆的だ。

惜しむらくは弁証法がない。論理を駆動させるのはマッハで、その対象はみずから動かない。マッハには「もの」をして語らせようという気風がない。


ウィキから言葉を拾っていく。

1.『力学の発達』

ニュートンによる絶対時間、絶対空間などの基本概念には、「形而上学的な要素」が入り込んでいるとして批判した。

「形而上学」というのは彼の決まり文句で、「古臭い、決まりきった既成概念」くらいの意味だ。

彼は時空間には絶対というものはないとし、ニュートン力学の及ばない世界があると主張した。

「マッハの原理」というのは、「物体の慣性力は、全宇宙に存在する他の物質との相互作用によって生じる」とするものである。

これをアインシュタインが、特殊相対性理論の構築への足がかりにしたということで有名になった。ただしヒラメキのためのヒント以上のものではなかったようだ。

要するに「自分が動いていないとすれば宇宙が動いていることになる」ということらしいが、もちろん逆の可能性(地動説)もあるわけで、万事が相対的ではないかという主張らしい。

マッハは「皆さん、はたしてこの世に《絶対》などというのはあるのでしょうか?」と指摘したそうだが、これはマルクスの「すべてのものは疑いうる」というモットーに類似している。

これは至極まっとうな本のようである。松岡さんの紹介によると、第4章第4節の「科学の経済」という一節にこう書いてあるそうだ。

あらゆる科学は、事実を思考の中に模写し、予写することによって、経験とおきかわる、つまり経験を節約するという使命をもつ。

事実を思考の中に模写するとき、私達は決して事実をそのまま模写するようなことはなく、私達にとって重要な側面(ゲシュタルト)だけを模写する。

われわれは模写するときには、いつも抽象しているのだ。

十分すぎるほどに唯物論的(レーニン的な意味で)だし、現代の脳科学の水準から見ても妥当だ。

ただ、ニュートン力学を「力学的物理学」と呼び、それに代えて「現象的物理学」あるいは「物理学的現象学」を構築するべきだと訴えたそうだが、こちらは少々ピント外れだ。

ビッグバン以降、この世はエネルギーで満たされている。それがときどき「現象」として目に見える形で現れる。それだけの話しだ。

彼は「音速の壁」を突破した男として、世の中のあらゆる壁はぶち破れると思い込んだのではないか。

マッハは以上のような論建てのあと、「物理学的現象学」を提起する。それは、物理学から形而上学的カテゴリーを排除し、感性的要素の複合体を対象とするのだそうである。

排除されるカテゴリーには「実体」、「因果」、「絶対運動」(エネルギー)などがふくまれる。(野家啓一

フッサールはマッハの一元論に賛同しつつも、志向性の概念が欠けていることを批判した(両者の間に論争があったらしい)という。

また同様にマッハは、原子論的世界観や「エネルギー保存則」という観念についても批判したそうだ。

思うに「積み上げ方式」の構築的な科学論と対蹠的な位置に立っていたのであろう。

2.認識論への言及

認識論の分野では、『感覚の分析』(1886年)と 『認識と誤謬』(1905年)が代表的著作である。

マッハの認識論の核心は「要素一元論」と呼ばれる。

主-客二元論や物心二元論を捨て、直接的経験へと立ち戻り、そこから再度、知識を構築しなおすべきだというものである。

意識が完全にめざめるやいなや、人間は誰しも、すでに出来あがった世界像を裡に見出します。

それが出来あがったのは当の本人がこれといって意識的に参与するからではありません。

むしろ反対に、人々は自然および文明の賜物として、何かしら直接的に了解されたものとして、出来合いの世界像を受取ります。

これは、「認識の分析」(1894)という解説本の一節らしい。「出来合いの世界像」というのはDNA的、生得的世界像のことか。とすれば、これは正しい。

気持ちとしては意識の形成における「感覚」の役割をもっと大事にしようということであろう。これ自体については大賛成である。人間の高次精神は、元はと言えば感覚的知覚の集合である。

このあとに前記記事の文章が続く。

我々の「世界」は、もともと物的でも心的でもない、中立的な感覚的諸要素(たとえば、色彩、音、感触、等々)から成り立っている。

「物体」や「自我」などというのは本当は何ら「実体」などではない。

因果関係というのも、感覚的諸要素(現象)の関数関係として表現できる。

騎虎の勢いでカントの物自体も吹き飛ばしたことになる。

これを日夜食うか食われるかの生存競争にいそしんでいる生き物はどう受け取るだろうか。天敵の口の中で噛み砕かれる瞬間、「これは感覚の関数関係にすぎないのだ」と納得するのだろうか。

この「感覚」至上の、あえて言えば形而上学的な認識論への突然のジャンプは、流石に世の指弾を浴びたようである。ルートヴィッヒ・ボルツマンやマックス・プランクらがこれを批判したとされる。

3.ウィーン学団への影響

マッハはこのほか心理学、生理学、音楽学などさまざまな分野の研究を行ったそうだ。

各分野に影響を及ぼしたというが、どちらかと言えば学問的というよりカリスマ的な影響力であろう。

そのカリスマとしての最大の「功績」がウィーン学団の結成(1929)であった。

これはウィーン大学のシュリック、ハンス・ハーンを中心とする科学者、哲学者のグループで、論理実証主義を標榜した。

彼らの多くがナチスの台頭に伴い米国に亡命し、以後米国にその考えが広がっていくことになる。

ウィーン学団については「科学的世界把握 ― ウィーン学団」というページが詳しい。詳しいが難解である。


私の感想であるが、

端的に言えばマッハは十分に唯物論的である。少なくともニュートン力学を批判するとき、彼は唯物論者と言ってもいい。

ところが、認識論に足を踏み込んだとき決定的な間違いを犯した。

マッハは、時空の絶対性を前提にしたニュートン力学に本質的な批判を加えたのであるが、それに代えて「感覚」を至上のものとして持ち込んだ。

それは「感覚」という神の復活であり、彼が忌み嫌ったはずの「形而上学」への復帰である。

レーニンが、対立の主要な側面を唯物論VS反唯物論にあると考えたのは正しいのだが、それはマッハが非弁証法的で形而上学的であったからだ。

唯物論の立場というのは、物質の客観的存在を認めるかどうかにとどまるものではない。自然にはエネルギーがあり、運動があり、あえて言えば「発展」があるということを認めるということだ。

一言で言えば「自然の弁証法」を認めることが唯物論の立場である。

マッハは非弁証法的であったがゆえに、すべての存在を「自然の過程」(エネルギーの流れへの抗い)として捉える唯物論の立場に立ちきれず、感覚至上主義へと漂流していってしまったのである。

経験批判論(Empiriokritizismus): 19世紀末,ドイツの哲学者 R.アベナリウスによって唱えられた学説。
「経験内容から個的な主観的なるものを除去していけば,万人にとって普遍的ないわゆる純粋経験が得られる」と主張。主観的経験論に一種の帰納論を接ぎ木したようなもの。
論理実証主義に大きな影響を与えた。

とあるが、実際上彼の著作が世間的な影響を与えたことはない。

結局、「経験批判論」の名を大いに広げたのはエルンスト・マッハであり、マッハ主義として理解するのが妥当である。

マッハは1838年生まれなので、当時すでに還暦であった。40歳にして超音速に関する論文を発表。衝撃波の写真撮影に成功して一躍有名となった。
衝撃波_ウィキより
  衝撃波_ウィキより
物理学者としてすでに功成り名遂げた存在であった。
それがアベナリウスの経験批判論を借りて自説を展開したと見るべきであろう。
以下、ウィキペディアの「マッハ」の項目より
50歳で「力学の発達」、「感覚の分析」を発表、以後、60歳で「熱学の諸原理」、70歳で「認識と誤謬」を発表する。死後には「物理工学の諸原理」が発行された。
いわば「物理で世界を読み解く」みたいな感じで書き飛ばし、これに理数系に弱い哲学者はねじ伏せたられのではないか。

マッハは経験批判論を広げた。「力学の発達」は、ニュートン力学の基本概念(時間,空間,質量)を批判し、“形而上学的性格を剔抉”したといわれる。この本は若年のアインシュタインに影響を与え,特殊相対性理論を準備した。
マッハの哲学上の主著は「感覚の分析」および「認識と誤謬」である。(現在であれば脳科学のテーマである)
世界を究極的に形づくるのは、物理的でも心理的でもない中性的な感性的諸要素である。具体的には色,音,熱,圧等々である。
これら諸要素間の関数的相互依属関係を「思考経済の原則」に従って、できるだけ簡潔かつ完全に記述することが科学の任務である。
いま読めば、きわめて粗雑なデッサンで、酔っぱらいのセリフである。「色,音,熱,圧等々」が「物理的でも心理的でもない」要素などとは、当時の常識から言っても問題外であろう。第一、「心理的でない感性的要素」などどこに存在するというのか。

フッサールの現象学もマッハを引き継いでいるといわれる。要するに彼の毒気にウィーン中の哲学者があてられたのであろう。

世紀末のウィーンはきわめて魅力的である。
19世紀初頭から産業資本主義、それにふさわしい立憲体制が広がった、ドイツでいったん頓挫したあと、プロシアの帝国主義的資本主義が勃興し英仏と肩を並べるに至った。
オーストリアだけは依然として王権支配が続いていた。青年たちのフラストレーションは頂点に達していたと思われる。それがさまざまな(非政治的な)形で噴出してくる。
その50年前に、マルクスはドイツについて同じような状況を感じている。そして遅れた国では哲学革命から始まるのだと語った。それはヘーゲル左派の青年たちを指す。彼らは国の後進性に憤り、激しく糾弾するが、実践を伴わないから著しく観念的である。
それが、第一次大戦が終わりオーストリアが共和制になって、「赤いウィーン」が成立する頃になると、彼らは著しく微温的になり、反動的にさえなり、ナチに抵抗もせずに海外に逃れることになる。
それが半世紀も経ってから、ナチスの迫害のお陰でアメリカに広がり、いまや世界の思想・文化を見る上で不可欠な要素となっている。
もう一つの特徴は異常なまでのユダヤ人の活躍である。この理由は今のところよく分からない。とにかく民族差別が少なかったとは言えるだろう。
「世紀末ウィーン」の勉強は少し後回しにして、マッハの情報収集をもう少しやっておきたい。

私が「唯物論と経験批判論」を「やや古めかしい」と言ったのは、「物質が先か意識が先か」という問題設定がもはやほぼ解決済みのものになってしまっているからである。
「物質」というより自然の流れの中から生命が生まれ、生命活動の中から脳の活動が生まれ、脳の進化によって「意識」が生まれてきたことは、もはや疑いなく確かめられている。
残されたのは、「意識がどこまで物質を認識できるか」という問題なのだが、これは問題の設定そのものがきわめて曖昧だ。この問題に取り掛かる前に、意識とは?、物質とは?、認識とは?という3つの問題を片付ける必要がある。しかもこれは明らかに自然科学の課題であって、哲学の課題ではない。実証的にやっていかなければならない。
それにこれはWhat課題ではなくHow課題である。唯物論というよりむしろ弁証法の問題なのだ。

何かないかと探したら、下記の文章があった。
私の意見  「マルクス・レーニン主義から実践的唯物論への転換の困難さ」   島崎 隆
完全に同意するわけではないが、「唯物論と経験批判論」の評価についてはほぼ当たっていると思われるので、要約を紹介する。


1 問題提起

2 レーニン的唯物論の問題構成

レーニンは「哲学の根本問題」を物質と意識の関係と見た。そしてそれを「認識論上の根本問題」と理解する。

そのかぎりでは,「物質が先か意識が先か」を認識論的問題とみなして,観念論を批判した段階にとどまる。

私(島崎)は唯物論一般の議論を,さらに物質が先か意識が先かという哲学の根本問題を,ただちに認識論的問題とは見ない。 

私は、レーニンがマルクスの唯物論をきちんと押さえていず,唯物論一般のレベルを十分に脱却できていず,その結果マルクスを誤読してしまったとみる。

レーニンが「意識が存在を反映する」という場合は、あくまで認識活動としての「反映」である。だからレーニンは,「反映は近似的に正しい写しでありうる」という。

そして「社会的存在を社会的意識が反映する」というマルクスの命題を、上記の「存在を意識が反映する」という命題に直接につなげる。つまり、哲学的命題が社会に「領域内に限定されて,そこに適用された」(島崎)と考える。



島崎さんは少々わかりにくいものの言い方をする。
レーニンが「意識が存在を反映する」という場合は、あくまで認識活動としての「反映」である。
というのは、ある人間がある存在を認識し、それを意識に取り込めば、意識にその存在が反映されるということだ。
そうするとある人間がある存在をいかに認識したかで認識が変わってくるということになる。
最初は「群盲象を撫でる」が如き状態であったのが、次第に情報が共有化され、認識の方法が洗練されるにつれて正確に認識されるようになり、その結果、人々の意識は存在を正確に反映したものとなる、ということだ。
それは決してある物質が水晶体を通じて網膜上に像を結ぶ、という単純な反映ではない。
それは「意識に存在を反映させる」行為の過程全体を包括したものだ。(かえってわかりにくい?)



3 マルクス的唯物論の問題構成

これは,マルクスの「唯物論」とは基本的に異なる。マルクスは,「唯物論一般の立場は世界と人間をとらえるうえで不十分であり,それは観念論と同位対立に陥り,それを超えられない」と主張する。

フォイエルバッハ・テーゼの第一テーゼは、次のような構成になっている。

①従来の唯物論(フォイエルバッハ)の主要欠陥は,現実的対象がただ直観や認識の形式のもとでのみとらえられており,活動的な実践の産物として主体的に把握されていない。

②その活動的側面は,かえって観念論(ヘーゲル)によって展開されたが,しかし抽象的にしか展開されなかった。

その後マルクスは、従来の唯物論を超える新しい唯物論を提起し,それによってヘーゲルらドイツのイデオローグたち全体を克服しようとした。

このあと島崎さんは独特の「実践的唯物論」の展開に至るが、ここでは省略。ただレーニン批判としては、哲学的認識論と社会的構造とはレベルが違うだろうということに帰着する。

ヘーゲルは理念や精神から物質的なものを導き出そうとする。唯物論者であるはずのフォイエルバッハですら,愛というような観念を切り札としてもち出し,そこで観念論へ転倒する。

総じて宗教・道徳・哲学において,現実社会の発生源から切り離されて,何か究極の「真理」がそれ自体で自立して存在しうるかのように考えることは,すべて観念論である。

観念論が蔓延するのはなぜだろうか。マルクスはそこに,複雑な隠蔽関係や理念の「自立化」の現象を発見する。マルクスはまさに宗教を要請せざるをえない人間社会の悲惨さを暴露し,宗教を「阿片」と呼んだ。


4 実践的唯物論の現代性

こうしてマルクスが強調しようとしたのは、(社会的)意識を規定するのは(社会的)存在なのだということである。それは領域の単なる限定ではなく,むしろ根源的なものである。

ひとびとが抱く意識・観念は本人の自覚的意識にかかわらずすべて社会の産物であり,むしろ社会批判のなかで社会現象として説明されなければならない。

では科学的認識の位置づけはどうなるのか。

問題は二つある。

まず、科学の典型たる自然科学とはそもそも何かが問われる。これについては,「産業がなかったら,どうして自然科学などありえようか」とまず発問するのがマルクスである。つまり産業と交易のなかの実践的産物としてそれをとらえることである。

もう一つは、科学的認識とはいかにして可能かという問いである。これについては、認識一般ではなく、科学的・合理的という「意識」が問われなければならない。それが近代でいかにして発生したのかが、まず問われるべきである。

以上のごとく、マルクスの認識論は単純な科学重視の科学論ではない。弁証法を機軸としてヘーゲルを唯物論化した認識批判としてとらえられるべきである。逆に科学の絶対視は「科学主義・科学信仰」として批判されるべきである。


付言1 西欧マルクス主義への批判

現代の西欧マルクス主義は人間中心で主体的な側面をひたすら強調する。しかし人間社会も「自然存在」を大前提としており、自然進化のなかで発生したものである。

人間社会は人間と自然のあいだの質料転換(物質代謝)を必須の生存条件とする。自然弁証法の現代的意義は重視されねばならない。エンゲルス評価の二面性のきちんとした把握もふくめ、「自然の弁証法」の復権がもとめられている。



これには私も大賛成だ。以前シュミットのエンゲルス批判を読んで、「人間の独善化」には到底納得できないと思った。
エンゲルスそのものではないにせよ、自然・少なくとも生物界には弁証法があって、これが弁証法的唯物論の礎なのだと思う。
それは「自然の摂理」に対する「抗い」、ときには「叛乱」を本質としている。もちろん行き過ぎた「擬人化」も危険だが…




付言2 意識は「自然存在」と直結していない

ありのままの自然が意識に反映されるというというのは、没社会的・没歴史的な自然哲学である。

それこそは、フォイエルバッハにたいしてマルクスが批判したものである。たしかに自然は大前提ではあるが、意識にとってはすでに社会による実践的産物へと転化されている。いかなる自然観をもつかは、実は社会的・文化的背景の問題を抜きにしては語れないのである。


付言3 70年代理論活動の思い出

日本でもマルクス主義(弁証法を含む)は,かつて実に多くの知識人・文化人に影響を与え,社会の変革を願う大衆の学習するところともなった。それは社会科学や哲学の領域のみでなく,自然科学はもとより数学,体育などの分野にまで浸透した。だが不幸にして,そこで浸透したマルクス主義とは,上述のマルクス・レーニン主義であった。

1970年代以後,マルクス・レーニン主義(スターリン主義)の批判的検討が進んだ。だがそれは,マルクスに関心をもつ哲学研究者以外にはほとんど浸透せず,そのうち社会主義崩壊のなかでマルクス主義哲学は全般的に関心をもたれなくなった。

真理は発見されたときには,もはや見向かれなくなったというのが現実であった。

マルクス・レーニン主義が第一の誤りであったとすれば,マルクス主義哲学それ自身の放棄は第二の誤りである。


私も拙著「療養権の考察」発表において同じ思いを抱いた。マルクス主義がルネッサンスを迎えたとき、世間的にはマルクス主義の時代は過ぎ去っていた。
みな古文書を眺める目で私の本を見る。







1.「モノから情報へ」は誤り

「モノの時代は終わった。これからは情報の時代だ」と言われる。

身の回りの社会は、たしかに現象的にはそう見える。

しかし、この主張は、それらの情報自体がモノの生産を前提としでいるということを看過している。

というより、利潤率の点で魅力を失ったモノの生産は低賃金従属国に任せて、情報=技術・流通を先進国が独占するという構造を背後に隠している。

(医療・介護をふくめサービス労働を「生産労働」に組み込みたがる論者への素晴らしいプレゼントだ)

2.出産は「女性の生物学的悲劇」

100万年以上もむかしのアフリカのある晴れた日、二本足で立ってみたサルが、両手を使うことを知った。

それから、ヒトの脳とその容れ物は次第に大きくなった。その一方、二本足で立ったがゆえに母親の山道は狭まって、ほかの哺乳動物のように胎内で胎児が十分に育つことは不可能になった。

もしそうすれば、ヒトの母親は難産で死んでしまう。

気の遠くなるような長い生物学的淘汰を経て、未熟のまま子を早産できるような体質を備えたヒト属だけが生き延びられるようになる。

こうして「女性の生物学的悲劇」(ネミーロフ)が始まる。

母親はこの未熟な子を一人前にするのに長い間育児に拘束されるようになる。

以下の本論は若干、時代に制約されて月並みなものになっていくが、この書き出しの2つのエピソードは秀逸で、その筆力も相まっていまも十分に魅力的である。


うかつなことに、「独習指定文献」制度が廃止されたことは知らなかった。いかに不まじめな党員であるかがバレてしまった。

ウィキによると、2004年、「常に変動する政治情勢に対応するため、固定的な独習指定文献制度は時代に合わなくなった」とし、廃止されたのだそうだ。もう13年になる。

廃止直前、2001年ころの独習指定文献は下記のごとし。

初級

『日本共産党第22回大会決定』

『日本共産党綱領』

『日本共産党規約』

『自由と民主主義の宣言』

レーニン『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』

マルクス『賃金、価格および利潤』

エンゲルス『空想から科学への社会主義の発展』

『日本共産党第20回大会での党綱領の一部改定についての提案、報告、結語』

宮本顕治『党建設の基本方向』(新日本出版社)

不破哲三『綱領路線の今日的発展』(新日本出版社)

中・上級

レーニン『カール・マルクス』

エンゲルス『ルードウィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』

マルクス『ゴータ綱領批判』

エンゲルス『反デューリング論』

レーニン『唯物論と経験批判論』

マルクス『資本論』

レーニン『資本主義の最高の段階としての帝国主義』

『日本共産党の70年』(新日本出版社)

宮本顕治『党史論』(新日本出版社)

不破哲三『スターリンと大国主義』(新日本新書)

不破哲三『ソ連・中国・北朝鮮――三つの覇権主義』(新日本出版社)

『日本共産党と宗教問題』(新日本文庫)

けっこう読んでない文献が多いなぁ。


私選、独習指定文献

1.ヘーゲル法哲学批判序説

若々しいマルクスの行動宣言で出発点だ。どうしても押さえておきたい。

2.経済学・哲学手稿

「疎外された労働」のところは趣旨としては分かりやすい。「ミル評注」も、ミルの理論も紹介しながら参考程度につけてやるといい。

第三草稿も面白いが、うんと枝葉を落として、うんと背景説明しないとわかりにくい。中・上級に。

3.ドイツ・イデオロギー

人間は食うために生活していること、食うために生活する人間が社会を作ると、どういう社会になるのか、これが良く分かる。

後ろの方の面倒なところはいらない。

4.哲学の貧困

ものすごく読みにくい本だが、プルードン(的なもの)への批判は、この先どうしても押さえて置かなければならない。マルクスは、初めはプルードンとケンカするために経済学を勉強したのだろうと思う。「ドイツ・イデオロギー」の後半部分、「聖家族」をふくめて「偽左翼」経済学への視点を鍛えるべきであろう。
背景説明をふくむ抜粋本があればいいのだが。中・上級に入れる。

5.共産党宣言

これを抜かすなんて信じられない。搾取というのが社会の最大の問題なんだ。

6.賃労働と資本

入門書として読むならこれしかない。これだけ読んでくれれば他は要らないくらいだ。足りないところは必要に応じて補えばいい。

「賃金・価格・利潤」は解説すると余計わかりにくくなるから、やめた方がいい。大事なことはアダム・スミス以来の経済学の決まり事を憶えることだ。

7.フォイエルバッハ論

分かり易いが、たくさんウソが混じっている。それをやり始めると難しくなる。ヘーゲルにはあえて触れないこと。

ほかにエンゲルスの著作、たとえば「家族」、「自然弁証法」、「空想から科学」は副読本扱いにして、指定文献には入れないほうがいい。マンガにすると若い人がとっつきやすいだろう。

8.ザスーリッチへの手紙

「未来社会」論に関して組合主義者が必ず持ち出してくるので、勉強はして置かなければならない。「経済学批判序説」の時代区分はあまりにも雑駁で、「あんなこと言わなきゃよかった」とマルクスは反省していたのだろう。全部読む必要はサラサラないので、抜粋本があると良い。中・上級

9.帝国主義論

レーニンといえばこれしかない。「国家と革命」も「唯物論と経験批判論」も要らない。ただ「何をなすべきか」は、いろいろ問題はあっても「面白いから読め」と勧めたい。

「金融資本を中心とする独占体」という概念は、グローバル化のもとでは大きく変質しているが、不均等発展の理論はいまなおホットだ。

10.極左日和見主義者の中傷と挑発

平和革命をリアリズムに基づいて説得する文書だ。日本共産党が初めて最初から最後まで自分の頭で考えて作った文書で、私には未だに理念的出発点だ。我々は「4.30論文」と言っていたが、東京の人は「4.29論文」と呼んでいる。それがちょっと悔しい。
袴田里見が講演に来て漫画チックな解説をした。岡正芳さんの講義はボソボソとして分かりにくかった。下司さんの発言は見当違い。米原さんが一番スッキリしていた。まぁ自分で読むのが一番だ。

11.現綱領関連文書

不破さんの貴重な置き土産。「冷戦終結論」で一触即発の雰囲気になったときに、不破さんが鮮やかな切り口で事態を収拾したことは忘れられない。とはいえ不破さんの語り口のスマートさに惑わされず、現綱領を自分のものにする必要がある。


マルクス主義というのは、哲学的にはヘーゲルの伝統を継ぐ弁証法論者であると宣言することであり、経済学的にはアダム・スミスとリカードの伝統を継ぐ労働価値説の陣営に立つことである。
運動的には、おそらくはフランス大革命における急進派(百科全書派)の主張を引き継ぐことではないだろうか。サン・シモンやオーウェンはそこからの派生であると思う。
あれこれの「社会主義」的な試みではなく、自由・平等・博愛の三位一体たる「民主主義の精神」の継承者としてみずからを位置づけるべきであろう。
ついでながら
「科学的社会主義」という言葉は心がけとしては正しい。しかし論争の相手が「非科学的」とは限らない。受け取る側に傲慢だと思われる可能性もある。
科学的であろうとすれば唯我独尊ではありえない。内心では確信しつつも、他人との関係では節度を保った使用法が必要である。

何気なく本棚の一冊を手に取った。
有斐閣新書「マルクス…著作と思想」という入門書だ。1982年の初版で私のもっているのは第4刷、85年の発行となっている。非共産党系マルクス主義者の集団著作だ。
おそらく「療養権の考察」を書いていた頃に買った本だ。かなり読み込んだ形跡があるが、「考察」の参考文献一覧には入っていない。独自的意味はないと判断したのだろう。多少「忖度」したかもしれない。
しかし冒頭の望月清司さんの文章はいま読んでもなかなか良いものだ。
考えてみると原光雄さん、三浦つとむさんから始まって、ずいぶん「異端」の文章に影響を受けている。
人間的諸活動を労働過程と享受・発展過程、社会的活動を生産活動と生活過程の統一として考えるのは中野徹三さんの影響だし、受苦と欲望を人間的発展の二つの動因と考えるのはルカーチの影響だ。

当時、私の積み重ねた「学習」の目的は、客観的には「共産主義読本」をいかに合理的に読み解くかということにあった。感想的結論として、「共産主義読本」は度し難い「スターリン的・非レーニン的文書」だと判断した。大きな声では言わなかったが、批判的に読むべきだということを示唆した。

70年代後半から80年代前半にかけては、そういう批判を許容する時代の雰囲気もあった。そのあと理不尽な反動がやって来て、理論課題が組織問題であるかのように攻撃され、かなりの人が「民主的軍国主義者」の犠牲になった。丸山真男が突如攻撃され、古在由重が除名され、「冷戦は終わっていない」と宣言された。
誰かが同志Mの認知症につけ込んだのだろう。

もちろん「異端」を自認する人の多くは「反スタ・スターリニスト」である。かつての北海道AALAの幹部であった中野徹三さんが、いまも進歩的な政治的役割を果たしているとは思えない。しかし本業のところでは傾聴すべきかなりの意見があることも事実であろう。

の抜書(コピペ+私感)である。元ネタがお手軽というわけでは決してない。

Ⅰ リカードの「価値論」の意味

リカードは、スミス価値論の継承者である。彼はスミスの労働価値論を受け継ぎながら、そこにふくまれる曖昧さを排し、それをいっそう純化させた。そして、労働価値論を駆使して、「生産物の諸階級への分配に関する法則」を解明した。

リカードのスミス批判の意義は、個人がどんなにあがいても貫徹する経済の客観的法則を提示するという点にある。

スミスの命題には、個人の行動結果から類推して、それを経済全体の結果であるかのように見なすところがある。しかし経済法則を客観的に適用すれば逆の結果になる。

そこをリカードは示したのである。

という岡さんのコメント。スミス研究者から見れば、いささかカチンとくる叙述となっているかも知れない。


Ⅱ リカードはスミスから何を受け継いだのか

リカードがスミスから受け継いだのは『労働価値説』である。

リカードは、「原理」の中でスミスの所説のポイントを引用し、コメントしている。

1.交換価値(価値)と使用価値(効用)

価値が二つの側面を持っていることについて、リカードは完全に同意している。

スミスからの引用

「価値という言葉には、2つの異なる意味がある。それは、ある時はある特定の物の効用を表現し、またある時はこの物の所有がもたらす他の財貨の購買力を表現する。一方を使用価値 、他方を交換価値と呼ぶことができる」

「最大の使用価値をもつ物が、交換価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある。これに反して、最大の交換価値をもつ物が、使用価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある」

後段の引用は「水とダイヤモンド」の挿話へと続くところである。

リカードのコメント

したがって、こう言える。

効用(使用価値)は交換価値を持つための必要条件ではあるが、効用は交換価値の尺度ではない。

ということで、話を労働の交換価値に絞ることを宣言する。

2.労働は交換価値の源となる

交換価値というのは「ある物の所有がもたらす他の財貨の購買力」であるから、その購買力の源は何かということになる。

スミスからの引用(ちょっと長い)

「あらゆる物の真の価格は、それを獲得する際の苦労と手数とである。それを欲する人に真に費やさせる物である。

ではそれをすでに取得していて、それをなにか別の物と交換したいと思っている人にとっては、それの値打ちとはなんだろうか。

それは交換によって節約することができ、他の人々に負わせることができる苦労と手数とである」

「未開の状態での相互交換に際して、物の取得に必要な労働量の多寡は、交換のルールを与える唯一の事情である。

一頭のビーバーを仕止めるのに費やされる労働が、一頭の鹿を仕止めるのに費やされる労働の二倍だとする。

そうすると一頭のビーバーは、当然二頭の鹿と交換されることになる」

この2つとも前回の奥山論文で紹介されているおなじみのところである。

スミスはここで一つの定式を打ち出す。
「商品にふくまれる労働量がその交換価値を規定するのである。

だとすれば、労働量の増加は必ず商品の価値を上昇させる。逆に、労働量の減少は必ずその価値を低下させるにちがいない」

リカードからのコメントはとくにない。ここまでの論理(投下労働=価値)について、リカードは全面的に受け止めたとみられる。

Ⅲ リカードはスミスの何を批判したのか

ところが、このあとスミスは価値標準について違う考えを持ち出す。

物の価値は、「それと交換される労働量」あるいは「それが市場で支配する労働量」によっても決まると言ったのである。

「何が“あるいは”だ。ぜんぜん違うじゃないか」とリカードは噛みついた。

リカードは「支配労働」論を認めなかった。そして「ここにスミスの混乱がある」と指摘したのである。

リカードはスミスの混乱の理由を、投下労働論を「初期未開の状態」に限定したことに求めた。「初期未開の状態」に通じることなら発達した社会にもそれは通じるはずだ、というのである。


1. 労働以外の生産手段の価値

ここからあとは、奥山さんの解説とだいぶ話が違ってくる。とりあえずそのまま紹介する。

私感: 労働以外の生産手段の価値についてはスミスにあっては曖昧であった。それらも「労働している」かのような擬人表現が見られる。生産と労働を混同した「労働」原理主義である。これは大地と日光が農作物を育て価値を生み出すという、重農主義の影響もあったのではないか。

リカードはスミスの「労働」原理主義に込められたすり替えを見逃しはしなかった。

ここにリカードは「時間差」というか「経時的観点」を持ち込んだ。リカードは言う。
労働と並んで使用される材料や器具や機械もまた、財貨の価値に貢献する。

それは、それらの材料や器具や機械の生産において投下された労働の量に応じてである。材料や器具や機械は過去の労働の産物である限りにおいて価値にふくまれる。

こうして、過去の労働を持ち込む形で、材料や器具や機械を労働価値説に取り込むことができたのである。

私感: 生産過程においては原材料は「使用価値」として加わるのであって、価格実現過程の話と混同してはいけないと思う。価格実現の話も、その前にまず剰余価値の配分の話を片付けてから取り掛からないとならないと思う。これらはいずれもう少し勉強した上で語ってみたい

② 地代や企業主の才覚の評価

スミスが主張した「労働原理主義」はリカードにおいても受け入れられたのである。ただし「支配労働」の否定という形をとってであるが。

スミスが“苦し紛れに”考えだした「支配労働」は、生産手段が過去からの労働の蓄積であるという考えをすれば、そんなものまでごたまぜにしておばけみたいな労働形態を考える必要はなくなる。

そうなると、支配労働のもう一つの要素である地代や企業主の才覚の評価が問題になる。

これについては、リカードはもう一つの素晴らしいアイデアを考えついた。それは「差額地代論」という理論である。
肥沃な土地は稀少である。だから肥沃でない土地も耕作せざるを得ない。
肥沃でない土地では、同じ量の穀物を生産するのに、より多くの労働の投入が必要となる。
穀物の価格は、最も劣った土地での投下労働量によって決まる。
なぜなら、穀物の価格がそれよりも低いと、最劣等の土地での農業は赤字になり、生産が続けられなくなるからである。
逆に、優等地の穀物は労働量(すなわち価値)を超える交換価値を市場において獲得することになる。したがって、優等地での生産は超過利潤を生む。

その結果、農業経営者間の競争が優良な土地にプレミアムを生むことになる。これが差額地代となる。
地代は農地の豊かさの証明ではなく、農地の相対的な貧しさの反映なのである。
それはマルクス流にいえば、労働の節約による「相対的剰余価値」の変形となる。
これがリカードの地代理論(差額地代論)である。

それではスミスはどう考えていたかというと、

農業では、自然(地力など)や家畜が人間と並んで労働をしていると考えた。そしてそれらが、人間の労働と同様に価値を生み出すと考えた。

そのゆえに、それらをふくめた“労働”の価値として地代が生じると考えた。

この素朴なアニミズムが「支配労働」説のオリジンであったのかもしれない。
リカードは差額地代論を練り上げることで、「支配労働」説の神話的根拠を突き崩したといえるだろう。

さらにいえば、リカードの差額地代論はケネーの農本主義的再生産表の根拠にも侵食しているといえる。

私感: 「差額地代論」はあまりにも鮮やかな一本背負いであるが、それだけに論理だけに寄り掛かるモロさも内蔵している。
これは一口で言えば、“マイナスの労働価値”である。肥沃な土地は生産物をより少ない労働で獲得することができる。この「労働の節約」分がいわゆる超過利潤となり、地代の源泉となるというのである。
ただしこれは究極のところ肥沃でない土地での労働によりあがなわれるので、労働価値の直接の反映ではない。
またそれは生産・分配過程の外で行われるものであり、別途論じるべきものではないだろうか。
リカードはそのあたりにまで考えが回っていなかった可能性がある。

このようにして、リカードはスミスの論理を使ってスミスの「支配労働」を否定した。

これにより原材料や生産手段が価値論に組み込まれ、同時に地代は価値の構成部分からは排除されたことになる。

Ⅳ 労働価値説に基づいた分配理論

ここから先は、スミスの継承というよりリカードが独自に開拓した理論となっていく。

スミスの論理を投下資本オンリー説で再構築していくと、価値はどのように分配されるか。

リカードはこれを賃金、利潤、地代に分けた。これはスミスの価値分解説を踏襲したものである。

賃金はまずもって生存賃金である。それは労働者の生存と再生産を可能にするために必要な生活物資の価値に等しい。

利潤は生産物の価値から、労働の賃金と他の生産手段の価値とを差し引いた残りである。これが資本家階級の所得となる。


リカードは利潤と賃金がトレード・オフの関係にあると提起している。

そして資本主義が発展すると、利潤率は低下する。

これは以下のようなメカニズムで説明されている。

資本が蓄積され、人口が増えると、穀物需要が増える。

それは耕作限界の拡大をもたらす。つまり、肥沃さの劣った土地が生産に引き入れられる。それは穀物の価値の騰貴をもたらし、それが優等地での地代を生む。穀物価値の上昇は、賃金を上昇させ、利潤を低下させる。

利潤がゼロになったとき、資本蓄積は止まり、人口も定常状態に達する。このとき、利潤はゼロ、賃金は相変わらず生存水準で、地代は最大になっている。これがリカードの描く分配の動学である。

私感: これが本当だったら、人類はとうの昔に破滅していたはずで、どこかに誤りがある。
リカードの差額地代論は、地代を賃金・利潤と同一カテゴリーに置くべきでないことを示唆している。また価値と交換価値のより厳密な使い分けを求めていると思う。

リカードの忠実な使徒だったマルクスはこの問題で悩んだ。

搾取者に弔いの鐘はならなかったし、搾取者が搾取される革命も起きなかった。

この結果を見て、マルクスはリカードを離れ、独自の道を模索するようになった。

これについてはまた別な文献で勉強しなければならない。

多少お神酒が入ったところで、もう一度アダム・スミスを語る。

アダム・スミスは画期的な労働価値説を打ち出しながら、「支配労働」というゴミ箱的概念を持ち込むことで、最終的には月並みな「生産費説」(価格=費用価格+平均利潤)に落ち着いてしまった。

労働価値説は生産費説を飾るちょっとおしゃれな彩りにしか過ぎなくなってしまった。

その背景には、①なんでも労働価値という「原理主義」、②これを背景にした「支配労働」論、③「支配労働」論を背景にした「自然価格」論(労働価値=すべてのコスト)という論理上の三段跳び(というか三段落ち)があった。

ところで「支配労働」は、利潤の源泉を労働に求めつつ、利潤と賃金の矛盾をなんとか説明しようとしたところから生まれたトリッキーな議論ではないか。

なぜなら搾取(人為的)を前提とする「自然」価格などあり得ようがないからである。

もう一つは、比較的小さな問題だが、地代まで労働の産物としてふくんでしまったことである。だれでも「流石にそれはないでしょう」ということになる。

ここでリカードゥが立ちはだかった。支配労働なんてくそくらえだ、と。

地代については「差額地代論」で整理がついた。それは利潤論へもつながる論理であり、支配労働論への痛烈な一撃だった。

それでスミスが覆い隠そうとした利潤と賃金の矛盾が、あからさまになってしまった。利潤というのは資本家が生産→販売という過程に紛れ込ませた「詐取」なのではないか、ということになる。

という展開になるのではないかと思うが、まずは勉強だ。

で、勉強は明日だ。もう頭は回らない。アルコールだけが回る。

奥山忠信 「労働価値論の思想と論理-アダム・スミスの遺産」政策科学学会年報 第4号

前項の宮川論文では、議論の前提となるスミスの理論についてさっぱりわからず、読解に大苦労した。
この論文はマル経のものではないが、その分、マルクスの小難しい表現に悩む必要がないだけ読みやすいだろう、と期待して読むことにする。
見出しは、原文の目次を無視して私が勝手につけたものである。
需要曲線と供給曲線における限界効用理論と限界費用曲線に関する問題を考え直すために、アダム・スミスの考察を中心に、古典派労働価値論の意義を再確認する。
ということなので、「古典派労働価値論の意義」のところを読めば、後半の「需要曲線と供給曲線における限界効用理論と限界費用曲線に関する問題」は読まなくて良いだろうと、ずる賢い発想。

Ⅰ はじめに 労働価値論の見直し
主流派の経済学は、伝統的に需要・供給曲線を書くところから始まる。そして需要曲線の右下がりの理由を「限界効用逓減の法則」に置く。
しかし仮に限界効用の逓減が正しいと仮定しても、これは消費の特定の場面での話であって、生産過程をふくめて経済活動全体を見渡したものではない。

アダム・スミスやマルクスの経済学に登場する資本家の行動はこのような限界理論とは異なる。
古典派経済学では、市場価格は需給関係で変動するが、自然価格は一定である。需要曲線がどのようにシフトしても、生産費によって自然価格は規定される。
資本は、価格が上がったから供給量を増やすのではなく、利潤量や利潤率を基準に供給量を増減したり、他部門に移動したりする。
だから自然価格は供給量や需要量とは無関係に一定である。(まぁ、相対的には影響を受けにくいということでしょう)
労働価値論は、現在の経済学においては異端派である。
しかし、本稿は、今日の経済学の説く価値論に強い疑問を持っている。
実体経済を考慮すると、むしろ、労働価値論や生産費説をベースとした古典派の価値論の方が現実性を持っているのではないか、と考える。
良いですね、この滑り出し。

アダム・スミスの労働価値論は、1776年に刊行された『国富論』に展開されている。
これまでスミス価値論は投下労働と支配労働の関係、価値分解説と価値構成説の関係で混乱しており評価に耐えないとされてきたが、いま、一定の再検討が求められているのではないか。

Ⅱ アダム・スミスの労働価値論 概要
1.重商主義者とスミス 労働価値論の出発点
スミス価値論を理解するためには分業論を知らなくてはならない。スミスはいう。
分業社会では、人々は商人的な性格を帯びる。相互に利己心を刺激つつ、互いに自分の欲するものを獲得する。だから交換は人間の本性に根差しているということができる。
(論旨とは無関係だが、この記載は利己心を人間の本性とする点でほとんどナンセンスだ。利己心は自己防衛本能とはまったく異なる。利他心と同様に歴史的なものだ)
もともと交換には相互需要の不一致という困難がつきまとう。この困難を解決するために、人々に広く受け入れられる商品を手元に保有しておく必要がある。
それが貨幣である。
この場合、手元に置く貨幣は富として蓄えられているわけではない。
それは購買手段として用いるために、一時的に手元で保存された価値なのである。
このあたりちょっと複雑だが、
スミスは重商主義者のように、富(自己目的としての致富)としての価値保存機能を説いているわけではない。
しかし、貨幣が流通手段(交換の道具)として機能するためには、少なくとも一時的には手元に置いておく必要があることを認めている。その限りでは価値保存機能(マインドもふくめて)も残されているといえる。
スミスは貨幣を、商業社会=文明国の普遍的な「商業の道具」と定義する。そこには、貨幣を「富」とする重商主義に対する批判の意味がある。
スミスにとっての富は、貨幣ではなく労働生産物である。
このあと、奥山さんの記載でちょっとわかりにくい一節がある。
スミスはリカードゥから貨幣数量論だとして批判されているが、それは誤解である。貨幣数量論はヒュームの主張したものであり、スミスはこれを批判している。
ヒュームら貨幣数量論者は、中南米から流入する金銀の増加が貨幣量の増加をもたらしたと説くが、スミスは支配労働の下落による貨幣価値の下落が物価を上げた、と説く。
これは何よりも明確な貨幣数量説批判になっている。
貨幣数量論についてはいずれ機会があれば検討することにする。支配労働については後で触れることにして、次に進む。

3.「国富論」第4章での予告的紹介
貨幣を論じた『国富論』第4章は貨幣論であるが、その最後に、第5章以降の価値論がざっと紹介される。
労働生産物の交換には自然のルールがあり、それが商品の相対的価値あるいは交換価値を決定する。こ
の法則の研究が必要だという。
それはマルクスがスミスを乗り越えつつ目指したものでもある。
① スミスの労働価値論における「自然のルール」
スミスは価値を2つの意味に分ける。
第1に使用価値(value in use)であり、第2に交換価値(value in exchange)である。
使用価値とは、使用に際しての有用性(utility)である。
これに対し交換価値というのは、財の所有を譲渡して他の財を購入する力である。
この辺は資本論の最初のところですね。しかし交換価値の規定はなかなか難しい。難しいということは、曖昧さをふくんでいるということにもつながる。
② いわゆる「水とダイヤモンド」問題
水ほど有用なものはないのに交換価値を持たず、ダイヤモンドは使用価値を持たないのに高い交換価値を持つ。
それはなぜか。
ダイヤモンドの美しさが価値を持つのではない。その使用価値が特殊な故に、人々が獲得するための困難を厭わない、ということに裏づけられている。
希少性や審美性は、より多くの労働に裏づけられて、高い価値を持つのである。
宝石は装飾品としてのほかは何の役にも立たない。その「美しさ」と言う値打ちは、その希少性によって、つまり鉱山から取得する時の困難さと費用によって定まる。
この辺はもう少し言い換えてみよう。
希少性について: ダイヤモンドは希少であるが故に価値を持つわけではない。希少であるが故に、より多くの労働に値するから価値を持つ。
審美性について: ダイヤモンドが使用価値を持たない、ということの意味は、衣食住のレベルの人間生活には役に立たない、という意味である。
美しさの持つ使用価値を否定していたわけではない。
この辺は、人間的欲望(の高次化)との関係で語るとより中身が豊富になりそうだ。

4.「国富論」第5章 生産物の価格について
次が第5章の価値論である。ここから少し話が難しくなってくる。
第5章のタイトルは以下の通り
「商品の真の価格と名目価格について、すなわちその労働による価格と貨幣による価格について」
つまり商品の「真の価格」は労働によって決められるが、それが貨幣で示されたのが名目価格ということであろう。
① 労働の量が価格の根本
スミスは生産につぎ込まれた労働の量が価格の根本だと言っているのである。
「世界のすべての富がもともと購買されたのは、金や銀によってではなく、労働によってである。
したがって、労働能力を所有する人が、労働と交換に何か新しいもの(商品)を得ようとする時、彼の労働量は購買できる価値と正確に等しいのである」
スミスはこれで、商品の不変の価値尺度をめぐる論争に確固とした方向性を与えた。
② 労働の多様性をどう処理するか
スミスは労働の多様性についても、時間、強度、難易度などは社会的な平均労働に還元できるとした。それは「市場での交渉や取引」によって、大まかながら調整されるのである。
その根拠となったのが「分業の進展による労働の単純化」である。
ここまではまったくその通りで、すばらしい。
5.投下労働と支配労働
ここから投下労働と支配労働の話が始まる。投下労働についてはまったく問題ないが、支配労働というところからおかしくなってくる。
とにかく読み進もう。
分業の進展により単純化された労働は、商品を生産するのに必要な労働である。これを投下労働という。
「あらゆるものの実質価格は、それを獲得するための労苦である」
俗っぽく言えば、労働の負担(cost)が実質価格(real price)なのである。

スミスの労働にはもう一つのカテゴリーがある。それが支配労働である。
支配労働は、分業と交換の社会において特別な意味を持つという。それは労働に何をもたらすか。
スミスはそれを自分の労働の節約として根拠付ける。なぜなら、労働は苦痛であるばかりではなく、安楽や幸福の放棄でもあるからである。
「彼自身の労働を節約でき、また他人に課すことができる労苦」
とされる。
これはどう考えても不適切なカテゴリーだ。マルクス流にいえば労働ではなく「搾取」だ。
スミスはあらゆるものを「労苦」の成果と考える。ある意味では正しいのだが、言い過ぎだ。
彼は生産手段も原料も地代さえも先人の「労苦」の賜物と考える。だからそれを利用することは他人の労働の成果を「支配」することになるのだ。
ここまで行くと、さすがに常識はずれの「労働」原理主義だ。ただ奥山さんの解説がやや舌足らずになっている可能性もある。
ただ、「労働は苦痛であるばかりではなく、安楽や幸福の放棄でもある」という主張は示唆に富むところがある。おいおい検討しなければならない。
とりあえず、支配労働については保留して先に進む。

6.貨幣がなぜ必要なのか
このようにして購買と販売は、等量労働の交換に帰結する。スミスは労働を「本源的な購買貨幣」と呼ぶ。
それでは、労働という真実尺度があるにもかかわらず、貨幣がなぜ必要なのか。
貨幣という名目尺度が必要となる理由をスミスは次のように説明する。
第1に、「異なる労働の比を尺度するのは困難である」からである。
たしかに労働の交換は理屈では分かるが、社会的平均労働を個別の交換に当てはめるのは難しい。
第2に、商品は労働と交換されるよりは、商品と交換されることが多いこと。
奥山さんは次のようなコメントを加えている。
それに商品や貨幣は手でつかめるわかりやすい対象物であるが、「労働」というのは抽象的概念であり、自然で明白だとは言えないのである。
たしかに常識的には正しいことだ。ただあまりにも常識的というか、皮相な捉え方ではないかとも思える。

Ⅲ 労働価値論と支配労働説
1.価値分解説と価値構成説
いよいよここから価値分解説と価値構成説の問題に入る。
まず、奥山さんによる定義から
価値分解説: 価値分解説とは、商品の価値は労働によって作られ、労働によって作られた価値が、賃金、利潤、地代に分解される、とする見解である。
価値構成説: 価値構成説とは、商品価値は、賃金、利潤、地代の合計によって成り立つ、とする見解である。
見ての通り、基本となるのは価値分解説であり、価値構成説は「逆もまた真なり」という若干安易な論理である。
ただ後の議論では、価値構成ではなく価格構成説となっているので、かなりややこしくなる。

2.「支配労働」概念の挿入
スミスの「国富論」の「第6章 商品の価格の構成部分について」の説明を見てみよう。
まず、初期未開の社会におけるビーバーと鹿の交換事例が例示される。
ビーバーを捕獲するのに鹿を捕獲する際の2倍の労働が費やされるとすれば、1頭のーバーは2頭の鹿と交換される。
この場合、交換に参加した狩人たちの労働は純粋な投下労働である。
次に資本家の登場する世界、すなわち資本主義社会である。
そこでは労働だけが唯一の交換の事情ではなくなる。資本家の監督や指揮が、労働者の労働に付け加えられる。したがって、利潤は労働の量には比例しない。
これに加えて、地代が賃金と利潤に続く第3の構成要素となる。
これが価格構成論である。
価格のさまざまな構成要素のすべての実質的な価値は、それらがおのおの購買あるいは支配することのできる労働量によって測られる
とスミスは述べる。
ここから迷走が始まる。「価値」を構成するのは投下労働ではなく、支配労働だというのである。
支配労働とは何か。
価格の中の労働(投下労働)だけではなく、土地の部分、利潤の部分も労働の結果としてみなければならないということだ。「購買できる労働」というのは設備や原材料のことだ。「支配できる労働」というのは労働者を賃金以上に働かせること、つまり他人の労働の「搾取」だ。
これらの要素も、遡及すれば賃金と利潤と地代に分解されるからだ。

3.スミスのドグマ
これがマルクスの言う「スミスのドグマ」だ。
『資本論』、第2部第3篇第19章第2節「アダム・スミス」にこのことが記載されている。
マルクスは「 v+m のドグマ」と批判している。
(スミスにおいては)生産手段部分が消えて、賃金部分(可変資本 v)と剰余価値(m)だけが商品価格になってしまう
と皮肉っている。(あくまでも皮肉である)
ドグマとは独断ということだが、それなりの根拠を持っているので「原理主義」あるいは「暴走」という方が適当だろう。
スミスはここから支配労働の枠を無限に広げていくわけだが、もともとは、この支配労働と投下労働との差分が利潤になるという理屈を持ち出すための概念だと考えてよいのだろう。
いずれにしてもかなり無理があることは間違いない。
奥山さんは支配労働についてわかりやすく例示している。
例えば、労働者が1日に10時間労働して、10個のパンを作ったとする。この内、労働者は8個のパンを消費すれば1日の生活が成り立つとしよう。
8個のパンの投下労働時間は8時間である。資本家は、8時間労働のパンに相当する賃金で、労働者の10時間の労働を支配したことになる。
10時間から8時間を引いた2時間部分が余剰であり、これが利潤の源泉となる。
このスミス独特の剰余労働論と、その根拠となる支配労働の否定(リカードゥ)のジレンマの中からマルクスの剰余価値論が生まれてきたといえる。

3.価値構成説の問題点
① リカードゥの価値構成説批判
価値構成論の論理の危うさは、リカードゥに厳しく衝かれることになる。それが「賃金・利潤相反説」である。
そもそもリカードゥは支配労働を認めず、労働価値論を投下労働価値説で一貫させた。
その場合、賃金が上がれば、商品の価格が自動的に上がることになる。
価値分解論を正しいとすれば、賃金と利潤と地代のうち地代は不変であるから、賃金が上がれば利潤は減ることになる。
これはつまるところ労働価値論からの乖離ではないか、というのである。
② リカードウの『経済学および課税の原理』
第1章は、「価値について」と題されている。
その第1節のタイトルは、次のようなものである。ずいぶんと長い。
「商品の価値、すなわち、この商品と交換される何か他の商品の分量は、その生産に必要な労働の相対量に依存するのであって、その労働に対して支払われる報酬の多少には依存しない。」
むずかしいが重要な提起である。こういうのが続くと、当方の頭はたちまち豆腐状態になる。
私なりに解説してみる。
報酬というのはスミス風に言えば投下労働であるが、結局これは貨幣化された過去の労働であろう。
報酬の「過去」がどうであっても、この度の生産には関係のない話である。あくまでもこの度の生産に投下された「投下労働」が価値を決めるのだ。
であれば、賃金も利潤も、「労働量によって決定された価値量をどう振り分けるか」という事後の問題でしかない。
賃金や利潤の変化が商品の価値を変えることはないのである。
価格は短期的には別問題だが、長期的には価値法則に従わざるをえないだろう。というのがリカードゥの見解である。
③ マルクスの見解
たしかにこの賃金・利潤相反説は、我々にとって大いなるジレンマである。
マルクスはこれを拡大再生産により切り抜けようとした。
仮に賃金が上がり、商品あたりの利潤率が下がったとしよう。しかしその場合でも、商品の販売量が増えれば利潤量は上がり賃金増をカバーできる。
もちろん販売量が増えなければこの論理は通用しないから、危うさをふくんでいることは間違いない。

Ⅳ 市場価格を規定する自然価格
むずかしい話もいよいよ終わりに近づいた。しかしこれまでの疑問点を足がかりにして理論が積み上げられていくから,ますます話がこんがらがってしまう。
奥山さんはこの章を以下のごとく要約する。
『国富論』の「第7章商品の自然価格と市場価格」の章は、市場価格による商品価格の現実的な動きと、それが収斂する重心としての自然価格が説明されている。
そのあと、いきなりわかりにくい言葉が並ぶ。
スミスは、賃金と利潤と地代のそれぞれに、需給の均衡状態を示す自然率があることを説く。そして、この自然率の合計を商品の自然価格と呼んだ。
しかしスミスの場合、原料や道具などの生産手段の価値は、賃金・利潤・地代に遡及的に解消されるので、この3要素の合計としての自然価格は、費用価格に利潤を加えた生産価格である。
市場価格は、供給量と有効需要の割合によって決まり、日々変動することが説かれる。
まぁ、一つの章を5,6行の文章にまとめること自体がそもそも無理なので、多少のわかりにくさはやむを得ない。「イヤなら原文を読め」と怒られてしまう。
とにかく私なりに読み解いてみよう。
スミスはここに来るまでに、2回危ない橋を渡っている。
最初は労働価値論における「労働原理主義」だ。最初に投下された資本以外はすべて労働の産物だ。だから設備も原材料もすべて労働に算入されてしまう。第二には、それらをひっくるめて「支配労働」という概念に集約してしまう。
その上で、支配労働にくくられた賃金、利潤、地代を今度は分解して、それぞれに価格付け(コスト算定)を行う。その合計が「商品の自然価格」というわけである。
したがって、スミスの言う商品の自然価格は、投下労働を真の労働と考える人にとっては実に奇怪なものとなる。
奥山さんが言うように
この自然価格論は、(結局のところ)いわゆる生産費説であり、ビーバーと鹿の交換事例のような労働価値論とは異なる。
したがって、論理不整合である。
私ならもっと露骨にいう。スミスの自然価格論は労働価値説を騙った、生産コスト=自然価格論でしかない。
せっかく労働価値説を発見しながら、現実の世界に妥協を続けて腰砕けになり、労働価値説の言葉で飾り立てた生産コスト=自然価格論に落ち込んでしまったのだ。


奥山さんの結論

アダム・スミスの労働価値論の思想と論理は、以下のように整理できる。

第1に、スミスにとって最も重要な概念は支配労働にある。
分業と交換の社会では、自分の行った労働そのものではなく、支配労働が価値の尺度になる。

それは、自分が行うべき労働を他人にさせる経済システムである。

第2に、支配労働は、投下労働を前提とした概念である。しかし同時に、投下労働こそが本源的な購買貨幣であり、労働なくして何物も得られないことも自明とされる。

第3に、支配労働は価値の真実の尺度であるが抽象的な概念で、現実の尺度財にはなり得ない。

これに対し貨幣は、それ自身の価値が変動する名目尺度に過ぎないが、多くの人々にとって馴染みやすい自然な尺度である。

第4に、資本の登場によって、資本家は資本量に比例した利潤を求めるようになる。利潤は労働と比例しない要素であるが、価格の構成要素となる。

第5に、こうした社会では、労働は唯一の交換の基準ではなくなる。労働者の付加した価値は、賃金と利潤と地代に分解される。

第6に、スミスにあっては、原料や道具も遡及的に賃金、利潤、地代に分解されるので、自然価格は、いわゆる生産費説(価格=費用価格+平均利潤)

自然価格論は投下労働という意味での労働価値論からの修正(逸脱?)である。

第7に、市場価格は自然価格から乖離するが、需給関係が調整されることによって、市場価格は自然価格に向かって調整される。

私の結論は、目下のところない。難しすぎて、理解も曖昧なので、もうすこし勉強してから。
感想としては、スミスの論理は、少なくとも前半は快調そのもので、非常に勉強になった。
これまでマルクスの独創と思い込んでいたものが、実は(萌芽的にではあるが)スミスによってすべて提示されていることがわかった。
マルクスは古典経済学の創始者としてのアダム・スミスに敬意を払いつつ、その後半の脱線部分を修正し、より首尾一貫としたものにしようと努力した。同時にスミスやリカードゥを投げ捨てたその後の経済学者に対し、その擁護者として立ち向かったということになろうか。

知っている人にはつまらないことでしょうが、私には今まであまりスッキリしていなかったので…

資本論をわかりやすく説明するために、資本というのを資金と言い換えてはどうかなと思ったんです。

「元手」という言葉がある。これは「おカネ」だが、「商売に使えるおカネ」という意味だ。

これがかなり「資本」や「資金」に近い言葉だと思う。

「資」というのはきっと動詞なのだろう。「…に資する」というから「力を与える」みたいな言葉なのかなぁ、それは株であっても預金であっても、換金可能なものだから結局は資金ということになるんではないか、と思ったんですね。

そしたら、全然違っていた。そもそも考え方が全然違っていた。

同じような言葉に「資産」というのがあるが、資本はどうもそちらに近いらしい。

「流動資産」というのに近いらしい。要するに生産の「因」、あるいは「元」をなすものだ。流動しないと「因」にはなれない。

流動資産というのは、資産家がその一部を流動化させているわけだが、それは資産を生産に回そうとしているためである。そうでなければ財産をわざわざ不安定化させる必要はない。

これにたいして「資金」というのは、あくまで、まずもって「カネ」である。流れる力を持つカネと言うより、現に流れているカネそのものである。

というわけで片やストック(資本)であり、片やフロー(資金)である、とも言える。

となんとなくわかった気になるが、「じゃぁ元手というのはどっちなんだい」と聞かれると、たちまちしどろもどろになってしまう。

何かそこには言葉が足りないのである。

「それじゃ、これならどうだ」というのが自己資本という言葉で、会社を経営するのには自己資本と借金が必要だ。両方合わせて運転資金となる。

自己資本というのも変な話で、そもそも他己資本というのはない。それは借金だ。金融機関等からの融資と、有期・有利子の債券発行によるものだ。

つまり、自己資本というのはまさに資本そのものであり、借金であろうと何であろうと、当座自分のために使えるものが資金なのだ、とは考えられないだろうか。

これは貸借対照表の世界になる。資金の方はキャッシュフローの世界になる。

もちろん借金には担保が必要なので、それはいわば固定資産の(書類の上での)強制的な流動化でもある。

株式の話は面倒なので省略。

ということで結論。

① 資本と資金とは違う。

② 資本というのは営利という目的をもつ資産

③ 資金というのは営利のために使えるキャッシュ

③ 資金には自己資本の他に借金もふくまれる。

④ 「元手」は、本人の気持ちとしては自己資本を指すが、客観的には借金もふくめた資金を指している。この気持ちのズレが「連帯保証人」の悲劇を生み出す。

一応、宮川論文は読み終えたが、感想すらも述べることができない。

肝心なことが何一つ分かっていない。

とにかく調べなければならないことが山ほどある。

とりあえずはそれを書き出しておこう。

第8稿について初めて日本で論じたのが、大谷之介さんで、その論文は1984年の発表である。

2014年05月25日 ネットで読める大谷論文一覧 を参照のこと

そして2008年に第2部準備草稿が刊行された。

しかし、大谷さんの論文から30年経った2014年でも、宮川さんの論文を見る限りまだ決着はついていないようだ。


わからない用語集(主にウィキから拾ったもの)

資本の循環 過程論

ウィキでは、資本の循環とは

①資本家が貨幣で商品を購買する購買の段階(これも流通過程)

②資本家が商品を生産する生産過程

③資本家が商品を販売する流通過程

三つの過程を循環するという資本の運動を指す。

と説明されている。

かっこよく書くと次の通り

G(貨幣)─W(商品)…P(生産)…W’─G’

G―W が①、W…P…W' が②、W’―G’ が③に相当する。

うむ、そうか。②と③は問題ないが、①は世間一般から見れば流通過程の一風景ではあっても、資本家にとっては生産過程というか生産準備過程みたいなものだ。

だから①も流通過程だとするウィキの説明は間違い(一面的)なのだ。

これから起業しようとする資本家にとっては会社の看板を掲げた日が創業記念日だ。

「資本論」というのは富の生産を論ずる本なのだから、基本的には資本家の目で論じなければならない。世間(商人)飲めで論じてはいけないのだ。

ただ1回目の投資と再生産の投資とは変わってくるだろうがそのへんはよく分からない。

商品資本の循環図式

別に難しい話ではない。

最初の貨幣の循環過程は①から始まって②,③を経て①に戻る。

これを商品の立場から見ると、まず③から始まり①、②を経て③に戻るだけの話である。

貨幣から始まるのを「形態Ⅰ」、商品から始まるのを「形態Ⅲ」という。生産からだと「形態Ⅱ」ということになる。

ただし詳しく話せば大変なようだ。なぜならそこには生産と次の生産のあいだの継ぎ目部分(生産物と生産物の交換)がふくまれているからだ。

その継ぎ目部分を説明するために、第2部第三章が「商品資本の循環」(形態Ⅲ)にあてられている。

いずれにしてもここまでは「言葉」だけだ。

結局言いたいのは、生産品が別の生産品と交換されそれが生産資本となる「継ぎ目」となるゆえに出てくる特徴だ。

それは①一般流通過程(総流通)の中で、②貨幣(非資本財)を仲立ちとして、③一般的(消費的)売買と混在しながら、④商品対商品として、すなわち剰余価値をふくむものとして相対する。

これを全体として見れば、流通過程が再生産過程の媒介として機能していることになる。


「貨幣=ヴェール」観

この見出しはウィキにはない。

コトバンクに世界大百科事典からの引用がある。

A.スミスからリカードへと,価値論にもとづく分配論の体系化が進むにつれて,貨幣に関する議論は経済システムにとって本質的でないような扱いとなった。

貨幣は単に実物の交換取引を容易にするための手段であり、雇用や生産、消費などの経済行動に影響を与えることはないとされた。

そして実体経済をおおうベールのようなものにすぎないということになった。これを「貨幣ヴェール観」と呼ぶ。(世界大百科事典)

これではさっぱりわからない。

同じコトバンクの「貨幣ベール説」には、以下の説明がある。

貨幣は実物経済のうえにかけたベールのようなものにすぎず,実物経済の動きを円滑にはするが,その本質にはなんの影響を与えるものでもない。

経済現象の本質を明らかにするには貨幣というベールを取去って,実物経済それ自体を分析しなければならないという考え方。

貴金属ないし貨幣こそが富と考えた重商主義に対する反動の強かった古典学派の時代からケインズ革命にいたる頃まで有力な貨幣説であった。 

何という分かりやすい解説! vもmも使わなくても、ちゃんと説明できるのだ。ブリタニカ国際大百科事典からの引用だそうだ。

これはについてはマルクスもその通り考えていたと思う。

そこまで言いながら、貨幣資本が生産資本となっていく「変態」の場面では、実物経済学者たちが貨幣と流通過程にしばられてしまっているという矛盾も、浮き彫りになってくる。

スミスのドグマ

この言葉はウィキにもコトバンクにも出てこない。経済学一般に知られた言葉ではなく、資本論研究者のあいだの「業界用語」のようだ。

宮川さんがアダム・スミスのドグマというのには価値「分解」説と価格「構成」説がふくまれているようだ。

このうち価格構成説については当初よりマルクスは批判的であるが、価値「分解」説については第8稿で初めて克服できたというのが宮川論文のキモである。

これによって初めて再生産論が十全なものとなったということらしいが、いま考えると、とんでもない論文を読んでしまったことになる。


その他、宮川論文には

循環-再生産論

資本循環と一般的商品流通との重層性

生産物の“転態

可変資本-労賃関係把握

個人的消費の循環

貨幣還流法則

資本-収入の相互転化とその把握

資本の費消

などの「術語」が並んでいるが、ネットでこれらの言葉を探すのは困難であり、言葉として熟しているとは言い難い。

業界内部の言葉を「常識」のごとく使われるのには参る。しかしそもそも出処が「業界誌」なのだから文句を言っても仕方ないか。

とりあえず、宮川論文はこれで一旦おしまい。


Ⅳ どこからマルクスの考えが変わったか

やっと最終章までたどり着いた。

「拡大された視野」への転換時点はテキスト文脈上どこであろうか? というようなことだから、ここはあまり難しい話はなさそうだ。

1.旧来の認識層から「分水嶺」へ

文学的な標題だが、「どこから変わり始めたか」という話らしい。

宮川さんはここだと断定している。

第8稿第3篇第19章第2節「アダム・スミス」の4項「A.スミスによる資本と収入」の記述が終わったところ。そして「5.総括」が始まる時点。

ここでマルクスはこう書いている。

ばかげた」価格「構成」説が「よりもっともらしい」価値「分解」説定式から生まれてくる。しかしこの価値「分解」説もまた誤りである。

これを宮川さんは以下のごとく解説する。

価値分解説というのは(生産物の)交換価値のうち、成分 v を労賃に「分解」する操作そのものである。

これがよく分からない。たしかにいきなり労賃が出てくるのはおかしいといえばおかしい。貨幣資本は剰余価値を生む商品である労働力商品と交換されたのであり、貨幣資本という資本形態が労働力という資本形態に“変態”されたのである。

ただ現象的にはたいした違いはなさそうだが…

とにかく、宮川さんは第3篇第19章第2節の第4項と第5項の間に明確な切断面があると強調する。

第19章第2節の「1.」〜「4.」までは,第1稿以来踏襲されてきた価値「分解」説の受容もしくは留保的立場に止まっていた。

しかし同節「5.総括」にいたると,評価の決定的転換が起こる。そして価値「分解」説および資本-収入転化命題にたいする踏み込んだ批判がくだされる。

果たしてこの「分水嶺」がどれほどまでに重要なものなのか、このへんはとりあえず宮川さんの意見を拝聴する他ない。

2 線分分割の比喩

3 編集手入れによる異なった認識層の混交

このあと、エンゲルスの編集がいかにこの切断面を覆い隠したが語られるが、ややこしい話なので省略する。


まとめに代えて

ここから宮川さんはかなり大胆な議論を始める。

ここまでの議論にまったく同感というわけではなので、と言うより良く理解できていないので、御説拝聴にとどまるが。

A. 第8稿は古典派スミス・ドグマ再生産論に対する反逆であり、マルクス独自の再生産論樹立の歩みである

つまり、第8稿以前の再生産論は第8稿に照らし合わせて再構築しなければならないということである。

B. 1861-63年草稿は、ケネー経済表研究とスミス・ドグマ(v+m)の批判的摂取を中核としていた。

C. 資本論第1部刊行のあと着手された第2稿 (1868 - 70 年)では、第1稿の考察を継承しつつ再生産過程の把握を試みた。

それはスミス・ドグマの枠組みに制約されていた。すなわち

①消費手段部門から始まる社会の3大取引

②貨幣ヴェール観に基づく貨幣還流運動で締め括る構想

③それを支える資本-収入転化把握および価値「分解」説の受容と適用

がそれである。

D. 第5稿〜第7稿 (1876 - 1878年) では、第1篇資本循環論の彫琢と仕上げがなされた。

これは古典派スミス・ドグマ再生産論への反逆の準備であった。

資本循環と一般的流通との連繫が「同時重層的」関係として確定された。

これにより貨幣資本や商品資本をめぐる貨幣・商品機能と資本性格とのあいだの区別・関連づけが明瞭になった。

この宮川論文でもっとも力を入れているところである。同時にもっとも難解な部分である。

あらためて読み直してみても核心は良くわからず、挑戦的で無内容な形容詞だけが踊る。

E. 宮川さんの最終的結論ということになるが、スミス・ドグマの否定は第5稿〜第7稿における資本循環論の仕上げと,第8稿における価値「分解」説の決定的払拭という三段跳びでなし遂げれられた。

ただこの論文では、第5稿〜第7稿で資本循環論をゴシゴシやった理由とか、きっかけについては触れられていない。

最後に宮川さんはいろいろな理由を上げて、“混乱の責任を編集者エンゲルスに負わすことはできない”としているが、内容的には間違いなくエンゲルスに負わせている。


Ⅲ 資本循環論の仕上げ

1. 資本-収入転化関係の論点化

2.マルクスの資本-収入転化論への取り組み

3.貨幣を資本にするもの

4.貨幣を資本にするもの 宮川さんの説明

ここまでが前回記事。今回はⅢ章の後半部分。

5.第2稿の再生産論 その限界と混迷

次に第2稿の「再生産論」についての記述だ。

再生産論は資本-収入転化関係論から導き出されるらしい。したがって資本-収入転化関係論が誤っていれば、その誤りが再生産論にも持ち込まれることになる。
ところで、「資本-収入転化関係論」というのが分からない。しかしそこが分かっていないと、この先の議論はさっぱり見えなくなってしまう。
これについての説明はないのだが、前後の文脈から判断すると、資本家が貨幣資本を使って生産のための仕込みを行う過程のようだ。平ったくいえば労働者を雇い、原材料を揃えることだ。
これは購買活動であり流通過程の一部だ。それと同時に生産と次の生産の継ぎ目だ。これがないとピストンの上下運動は回転運動にならない。
ここは資本論の要諦をなすところだけに非常に難しいが、なんとかかじりついていこう。


宮川さんは、第1稿の再生産論にふくまれる問題(誤り)を次の二つにまとめている。

(a)「資本の費消」という不条理きわまる表記

(b)固定vs流動状態という機械的対立での資本・収入規定の認識

まず「資本の費消」について

第2稿第1章では、資本循環について触れられる。ここでマルクスは、資本循環G-Wが一般的商品流通と「絡み合う」ことを明らかにする。

これに続く第2,3章では,流通手段についていくつかの規定をおこなう。そこでは第1稿を引き継いで、スミスらの資本-収入転化把握を受け入れる。

その結果,以下にみるようにひどい混迷に陥った。

「貸し前された£5000の資本は,消費されている。それはもはや実存しない」(第2稿第2章) 

「可変資本として前貸しされた貨幣資本は、労働者たちによって収入の流通手段として投じられる」(第2稿第3章)

つまり資本が転化するところの労賃収入によって、(資本が)費消ないし消尽されてなくなる

ということである。

貨幣形態の固定vs流動状態という機械的対立 について

「貨幣はそれが流通するあいだには機能しつつある流通手段でしかない。貨幣がそれ以外の機能を発揮するのは貨幣が流通していない期間のみである」(第2稿第3章)

宮川さんはこの記述を以下のように批評する。

資本・収入規定と流通手段とが,固定と流動状態という排他的な対立関連で捉えられてしまった。

貨幣通流の感性的動きにとらわれた偏った一面的理解というほかない。

分かるような気もするが、今ひとつスッキリしない説明である。もう少し単純に言えるのではないか。つまり仕入れ活動により貨幣資本は非貨幣資本(労働力商品をふくむ商品資本)に姿を変える。しかし非貨幣資本といえども購入された商品であり、商品としての流動性は持っている。
だから資本(貨幣資本をふくむ)において流動性で分類するのは間違いである。本質的な特徴は、再生産過程においては過去の生産物が資本であるということであろう。
どう表現すればよいのかは、またあとで説明があるだろう。

宮川さんはこれらの誤ちがどこに起因し、どう修正しなければならないかを下記のごとく述べる。

その克服には,古典派の貨幣ヴェール観を払拭し循環-再生産論の視点からの再構成が求められる。

しかしこれが分からない。

貨幣ヴェール観とは何か、循環-再生産論とは何か、「再生産論」一般とどこが違うのか…

宮川さんはさらに言葉を続けるが、ほとんどおまじないにしか聞こえない。

社会の諸資本の種々な規定(不変資本・可変資本,流動資本・固定資本,貨幣資本・商品資本,また貨幣の種々な諸機能など)での独自な自立的循環過程が相互に絡み合い条件付け合いつつどのように進行するか,ならびにこれと絡み合いこれを条件づける収入循環がどのように成就されるか,これらを明らかにする課題が,浮上する。

なんとか読み解くと、再生産論の主題としては

①社会の諸資本の独自な自立的循環過程の全体像

②諸資本の循環過程を規定するものとしての、不変資本・可変資本,流動資本・固定資本,貨幣資本・商品資本,また貨幣の種々な諸機能など

③諸資本の絡み合いと条件付け合い

④資本循環過程への収入循環の関与

などがあげられるらしいが…

たしかに、ここまで行くとこの論文の主題ではないな。

6.資本循環論 第5稿〜第7稿での3つの到達

第1,第2稿での資本循環論の誤りがどう克服されていったか。それがこの説では取り上げられる。

A) 貨幣と貨幣資本との取り違え錯誤の批判

マルクスは資本循環と一般的商品流通とのあいだにある重層性を把握した。

これによって,「貨幣資本」を構成する成分,すなわち「貨幣」と「資本」という二つの要素が、それぞれ独自の性格を持つことが明確に区別された。

そのことから、二つの要素を有機的に関連づけることが可能になったという。そう言われても分からない。

「貨幣機能を資本機能に転化することができるのは,この〔資本・賃労働の階級〕関係の定在である」(第7稿)

宮川さんはこう説明する。

これにより、「貨幣資本」にまつわる「二つの誤解」、すなわち貨幣機能を資本性格に起因させ,またはその逆に資本性格を貨幣機能に由来させる誤りが明らかにされた。

私ならこう書く。

賃労働と資本という社会関係が発生し、この中で貨幣に流通手段だけでなく、価値生み機能という「使用価値」が与えられた。

価値生みの働き(資本契機)をになう限りにおいて、貨幣は貨幣資本となる。(ただしこの表現が正確かどうかは保証の限りではない)

B) 商品資本循環図式の確立

資本と商品流通とを重層的に把握すると,それによって資本循環と個人的消費との絡み合いを適切に組み入れることが可能となる。

重層的、重層的というがどうやれば重層的把握になるのかが明らかにされない。

商品資本循環とは:

商品資本W’が再生産的消費および個人的消費の契機をみいだすことから出発する。

この循環図式においては、商品資本循環を社会的な総資本の運動形態として考察するよう求められる。

ここまではよいがその後のセンテンスが分からない。


こうして形態III (商品資本循環図式)が社会的再生産の考察のための唯一の図式として確定された。

説明はこれで終わりである。

C) 貨幣還流法則の成立

資本循環理解の前進によって貨幣還流運動が法則としてつかみ出された。

ふーん、そうですか

ケネーやマルクス自身の「経済表」の考察の際には,形態的循環を表す還流と通流で描かれる還流とが即自的に一体をなしていたのに対して,資本・収入の形態的循環とそれらを媒介する貨幣の通流運動とが再配置される。

ふーん、そうですか

出発点への貨幣の還流運動は,第8稿第3篇においてはじめて「法則」として示される。

「商品流通の正常な経過のもとでは,流通に貨幣を前貸しする商品生産者の手もとに貨幣が帰ってくる」(第8稿)

これが一般的法則である。

とうことは、資本家は労賃、設備・光熱費、原材料費に加えて、流通にも貨幣を前貸ししているということになるのかな。

ここでは,貨幣の通流が形態的復帰とは切り離された上で,商品流通の正常経過の反映としての貨幣の形態的復帰=還流法則が,単純な商品流通場裏に復元,定着させられている。

再生産過程では,社会的取引の大流れの枠組み(閉鎖体系)のもとで,階級間を媒介する貨幣個片の通流が貨幣の出発点への復帰として,すなわち貨幣還流を描いて現れるという関係として,明確に把握されるのである。

ここもさっぱりわからない。かなり宮川さん、すっ飛ばしている。ほとんど見出しだけの文章だ。まぁ、あとで説明があるのかもしれない。とにかくついていこう。

以上のごとく資本循環論の確立の諸指標を紹介した。

これまでの資本の循環運動は貨幣流通を媒介とせざるを得ない、したがって貨幣流通量に規定されざるをえなかった。

しかし第8稿で示された資本循環論は,このような制約から解き放たれた。

新しい資本循環論は、自立した循環運動としての資本循環の意義と地位を確定した。

これをもって、資本循環論は「再生産論」の範疇の中にしっかりと据えられることになった,

…なんだそうです。

7. 再生産論を資本循環論で基礎づけることの意義

まだこの節は続くのだが、「資本循環論の確立の3つの指標」についての説明が終わったので、新たに節を起こす。

さっぱりわからなかったが、とにかく新たな資本循環論は3つの発見によって完成した。

それでこの資本循環論を使うと再生産論がいかにスッキリするかという話に入る。

まずはマルクスの少々長い引用から。

「生産物の“転態”は生産物の流通を意味する。この流通は、同時に資本の再生産を包括する。

資本の再生産は不変資本、可変資本、固定資本、流動資本、貨幣資本、商品資本への資本の再形成をも包括する。

この生産物の“転態”は、たんなる商品の売買(貨幣による)を前提とはしていない。

重農主義者たちとアダム・スミス以来の自由貿易学派は、商品と商品との転態だけが資本の再生産の前提だとしたが、決してそれにとどまるものではないのである」(第8稿)

このへんでおぼろげながら見えてきたのは、生産物は商品ではないということ、生産物が資本になるためには貨幣を直接の仲立ちとする必要はないということである。

生産物の“転態”といえば、“W’-G”ということになる。ただし資本主義の初期であればW’は商品であり、Gは貨幣ないし貨幣資本ということになっていたのだが、今やその枠に収まるものではなくなった。

だから、再生産と資本の回転の立場から見れば、W’はあくまでも生産物であり、Gは資本ということになる。

“転態”は売買や貨幣が介在してもいいが、なくても十分やっていける。貨幣資本という形態を介在させる必要はないのである。

肝心なことはどういう経路をとったとしても、生産物が最終的に資本になればいい。あえていえば“W'-W"”である。

それでは貨幣資本はどうやって獲得するか、とりあえずであれば蓄蔵貨幣を動員したり、信用を利用するなどいくらでも方法はある。

これらは再生産過程の繰り返しの中では、半ば自明のことであるが、資本循環そのものを単独で取り扱う場合には見過ごされる可能性がある。

その結果、宮川さんの言葉によれば、

資本循環の運動がまさに流通手段(貨幣媒介)や他の資本循環・収入規定などとの絡み合いの関連として問われるときに,これまでの資本循環論の認識の不備や未熟があらわになる。

ということになる。

ということでよろしいでしょうか。
それにしてもマルクスの原文より解説文のほうが難しいというのも困ったものだ。

Ⅲ 資本循環論の仕上げ

例によって、宮川さんの本文に入る前に、私の感想を入れておく。

もう一度、第1稿~第8稿までの執筆年代表を載せる。

第1稿

1864~65年執筆

第2稿

1868~70年執筆

第3稿

1868年執筆

第4稿

1868年執筆

第5稿

1876~80年執筆

第6稿

1876~80年執筆

第7稿

1876~80年執筆

第8稿

1877~81年執筆

執筆時期は3期に分かれている。

第1稿は第2部、第3部をふくみ、資本論第1部の刊行前にすでに書き終えている。

第1部の刊行後に、第2部、第3部の清書稿に取り掛かったものと思われる。

ところが2,3,4稿と修正を加えているうちに、部分的修正では追いつかないことに気づいた。

そこから10年間、資本論には手を加えていない。かなり悪戦苦闘したのであろう。あるいは第1インタナショナルの実践活動のほうが多忙であったのかもしれない。

とにかく、76年になってようやく執筆を再開した。それから5年後、マルクスは資本論を未完成のままこの世を去ることになる。

おそらく、本心では第1部でさえ改訂したかったに違いない。

ということで、宮川さんの本文に戻る。ここでは第5稿〜第7稿(1876 - 1880 年があつかわれる。

この章の見出しを「資本循環論の仕上げ」としたが、もともとの題は「資本循環論の仕上げと貨幣ヴェール観の脱却」となっている。

おそらく、貨幣ヴェール観からの脱却が不十分だったから、貨幣循環論に混乱があったということだろう。

そして古典派の資本-収入転化把握と決別したから、貨幣ヴェール観からの脱却が可能となった(ここは逆かもしれない)

その結果、正しい資本循環論が仕上げられた、と宮川さんは判断したから、このような表題を付けたのではないかと想像する。

まず本論の前に前フリがある。

1870年代後半に,マルクスは最終第8稿に先立ってあるいは並行しながら,第5稿〜第7稿に取り組んだ。

これは第2部第1篇 「資本循環論」の改訂稿に相当する。

ここはマルクス循環-再生産論形成史をみるうえで核心的論点であるから,立ち入ってみておく。

ということで、議論はここからいよいよ本題に入るようだ。思わずゾッとする。ここまででも十分ごちそうさまなのに…

1. 資本-収入転化関係の論点化

まず、読者を怖気づかせるさまざまな脅し文句が並ぶ。

資本-収入転化把握こそは,諸成分の「構成」または「分解」の連関の「経済学」表現にほかならない。

ドグマ命題は古典派の価値論である。

それは同時に,資本(・収入)の循環-再生産論,収入分配論でもある。

それは経済学上もっとも解けがたく輻輳した難問をかたちづくってきたのである。

2.マルクスの資本-収入転化論への取り組み

宮川さんの原文にはないが1節を起こす。

マルクスは早くからこの問題に取り組んできた。

① 1857-58年「経済学批判要綱」

「要綱」においては、それは流動資本の考察の文脈で、再生産の連関問題として登場する。

マルクスは賃金=「給養品」説をもとに、「可変資本と労賃との循環」として考察した。

ここでのマルクスはまさに俗流経済学者そのものである。

② 1861-63年 『剰余価値学説史』

「資本と収入との交換」の分析(ノートIX)において資本と労賃の相互関係についてコメントされている。

「労賃が同時に資本家の流通資本部分として現れる」問題は、蓄積とならぶ「なお解決すべき問題」として留意されている。

③ 資本論草稿の第1,第2稿

これについては前述のごとし

宮川さんはこう述懐している。

このように,マルクスは「経済学批判」研究の始めから晩年とくに最晩年の資本循環-再生産論の仕上げ局面にいたるまで,これらの諸命題につきまとわれそしてそれと格闘し続けた,といって過言でなかろう。

3.貨幣を資本にするもの

これまで、価値分解論と資本-収入転化論との関係が不明なまま進んできたが、どうやらここで解明されそうな雰囲気だ。

そのキーワードが「資本循環の重層的関係」ということらしい。また分からない言葉が出てきた。

第7稿では、まず貨幣資本循環の第1段階(G-W)が解明される。

商品流通の第一過程は、簡単に言えば貨幣資本の生産資本への転化である。

より一般的にいえば、貨幣形態から生産的形態への資本価値の転化である。

それは同時に,資本の自立的循環過程にいたる段階でもある。

貨幣機能を資本機能にするものは,資本の運動のなかでの貨幣機能の一定の役割である。

マルクス独特の持って回った言い方だが、貨幣が資本になるのは貨幣そのものが力を持っているからではない、ということだろうな。

貨幣は自動的に資本になることはできず、資本の運動のなかで他の諸因子と複合して資本になるということだろう。

私が考えるには、これはマルクスが第1部の冒頭で展開した使用価値と交換価値の関係と同じ論理(弁証法)だろうと思う。

厳密に言えば弁証法的論理の特殊形式としての「二項対立」の弁証法である。弁証法のより根本的な原理はエネルギーと存在(定在)との矛盾、時間軸の絶対性と相対性(発展性)との矛盾にある

商品は流通過程においては交換価値として現れ、生産・生活過程では使用価値として現れる。

それはまず使用価値(グッズ)として現れ、のちに交換価値の衣を身にまとう。

同じように貨幣は流通過程では裏返しの交換価値として現れ、生産・生活の場面では価値生み過程の触媒として現れる。

貨幣は商品と鏡像関係にあり、鏡の国の商品として捉えられる。

それはまず交換価値として現れ、ついで使用価値(価値増殖機能)を身にまとう。それは資本主義的社会関係の中で付与された「具体的有用性」である。

それは逆説的な裏返しの弁証法的関係なのだろう。

このような論理建てが、ある日マルクスの頭にひらめいたのではないだろうか。

ただその時のマルクスには、「そうだ、貨幣の二面性は商品の二面性と同じなんだ」というところまで得心できていない気もする。

4.貨幣を資本にするもの 宮川さんの説明

と私は読んだが、宮川さんは次のように説明する。

このように一般的商品流通と資本循環とのあいだの関連が,同一の過程をめぐる二つの形態の重層的な関係として概括された。

というから、さあ分からない。

「二つの形態の重層的な 関係」と端折ったが、宮川さんはここのところをもっと御大層な言い方で表現している。

異なった形態規定性の―並列的でもなく継起的でもない―同時重層的な( zugleich oder gleichzeitig ) 関係

これだけ並べられると、分かるものまで分からなくなってしまう。

ただ宮川さんの記述は有力な示唆を提供してくれてはいると思う。

このあと、宮川さんの記述はいっそう難解になる。私の評価基準として、記述が難解なところは筆者がよく理解していないところ、というのがある。

だいたいマルクスがそうだ。「要綱」を読んでいてわからないところは、だいたいマルクスが解答を求めようとして悪戦苦闘しているところだ。

と言いつつ、本文に戻ろう。

(こうして)資本の独自な自立的循環と,単純な規定での商品循環とのあいだの,区別と関連づけを見通す道が切り開かれた。

以下、いささか文学的な表現が連ねられる。

感性的な商品交換のもとで、それに担われつつ「同時に」資本独自の自立的な超感性的 循環(変態)を遂行する過程

流通手段(または商品の持ち手転換)を仲立ちとした資本と収入とのそれぞれ独自の循環諸規定が絡み合って進行するという相互依存関係…

これは,古典派の感性的な交換観 ではけっして 把捉されえなかったし,貨幣通流に偏った貨幣ヴェール観では一面的に歪めてみることしかできなかった 関係である。

こうした資本循環の理解の前進によって,資本-収入転化関係に感性的にまとわりついていた 資本循環と商品流通との諸環が解きほぐされ,それらの再構成が可能になる,つまりは資本-収入転化把握からの脱却に,見通しがつくのである。

まぁ、たしかにそういうことでしょうが、これで反対派が説得しうるかどうかは別の話でしょう。


Ⅱ 「価格構成説」評価の転換の真相

あらかじめ断っておく。私は宮川さんの言う「スミスドグマ」を「価格構成説」と置き換えている。

この置き換えがただしいかどうかは分からない。

いちおう、スミスドグマというのを価値分解説→“その逆は逆”という論理→価格構成説という筋立てだと理解して、この論理全体を「価格構成説」と勝手読みしただけである。この読みが正しいか間違っているかは、読み進みながら検討していきたい。

本文に入ろう。

現行版の第2部では、価値「分解」説が厳しく批判されている。ところが第3部ではその原理が受容擁護されている。

だから、『資本論』を順次読みすすめると,第2部で「誤り」と批判されていた命題が,第3部では「正しい」と唐突によみがえることになる。

この不整合は,マルクスの理論発展史をたどることによって氷解する。

1.「価格構成説」評価の転換はいかに起こったか

『資本論』第3部の材料となったのは、1865年執筆の第1稿である。

ここでマルクスは俗流収入論への誘因となった価格「構成」説を徹底批判して退けた。

その一方で,価値「分解」説を「まったく正しい」と評価して積極的に受け入れた。

そして「分解」説を「構成」説批判の後ろ楯として利用した。

しかし、15年後執筆された第8稿では,「分解」説もまた誤りである、という結論に達した。

そして価値分解説と価格構成説からなる「資本-収入転化」論の全体を否定した。

なぜなら、「商品価値は,それ以上のものには分解されず,それ以外のものから成り立ちはしない」からである。

その真意については後ほど触れるそうなので、わからないままで進むことにする。

2.マルクスの評価転換の実証

しばらく理解しがたい言葉が並ぶので自分なりに読み下す。

スミス古典派をはじめ従来の経済学(J.B.セー,シスモンディ,プルードンら)は,資本と労賃収入とのあいだの関連づけをめぐって、共通する理解を示した。

それを宮川さんは「資本-収入転化命題」と呼んでいる。言葉なのでどうでもよいのだが…

その特徴は、「分配関連の貨幣媒介現象を皮相的に写し取ったにすぎない」のだそうだ。

ある者にとって収入であるものは他の者にとっては資本であるという考えは,部分的には正しいが,一般的に提起されるやいなや,まったくの誤りとなる。(第8稿)

のだそうだが、その理由はここでは触れられていない。

このあと論旨が少し跳んでいるが、マルクスは当初、この「資本-収入転化把握」を受け入れている。

宮川さんは、その証拠として

第3部第7篇草稿(すなわち1864~65年執筆の第1稿)で、「資本-収入転化把握」の受容を表出した章句が17箇所みとめられる。

第2稿(第2部第2篇)でも同様の所見が認められる。

と数えている。えらいものだ。

第8稿での批判は、先に引用した如し。

3.エンゲルスによる混乱の助長

また私の感想から入る。

考えてみれば、第1稿をそのまま第2部、第3部にして発刊してしまえばよかったのだ。

そのうえで、「第2部については後年このように書き直している」と断った上で、補巻として発表すべきだったのだ。断絶があるかないかは読んだ人が判断すればよい。

そうすれば、第8稿の線に沿っていずれ第3部も書き直されるはずだっただろうと、誰しも理解できる。

そしてそのことを念頭に置きながら第3部を読み込むことになっただろう。

ということで本文に戻る。

まずは第3篇第19章「対象についての従来の叙述」

ここでなにかエンゲルスは細工をして、古いテキストの中に第8稿を入れこんだり、順序を変えたりしているらしい。

その結果,異なる認識水準層の章句が入れまじり、ジグザグにまだら模様に叙述文脈を形づくることになってしまった。

そしてその後に宮川さんの中間結論が述べられる。

かたちを顕してくるのは,

① 第8稿冒頭まで払拭できずに受け入れてきた古典派の「資本-収入転化把握」との決別であり、

② その批判による価値「分解」説の終局的批判である。

こうしてマルクスは価格「構成」説だけでなく、それを「もっともらしく」支えている価値「分解」説の誤りをも摘出した。

そして価値-再生産論の認識の新しい「拡大した視野」を切り開いた。

ただしこの最後の段落でいう「拡大した視野」は目下不分明である。


宮川 彰 『資本論』第2部について―スミス・ドグマ批判によるマルクス再生産論の形成  2014年

の読書ノート

Japan Sciety of Political Economy の特集論文である。

はじめに

MEGA第Ⅱ部第11巻が2008年に刊行された。ここには第2部準備草稿がふくまれる。

ついで第4.3巻が2012年に刊行された。

これにより未公表だったマルクスの最晩年の資本論 準備草稿が出揃った。

これにより。第2部をめぐる議論が再燃して いる。

本稿では課題を 限定して,『資本論』第2部形成史に絞り込む。

断続説と継承説

マルクスは晩年の十数年間、第2巻に関連して1868-1881年の第2稿から最終第8稿にいたる諸草稿を書き連ねた。

これらの草稿の相互関連については、「断絶・飛躍」ととるか「継承・拡充」ととるかで多くの議論がある。

最初の火付け役は大谷禎之介であった。彼は当該メガ巻 の編集分担責任者であった。

彼は11巻の『解題』を共同執筆しただけでなく、独自の視点で『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡―メガ第II部門第11巻の刊行によせて―』(2009)を発表した。

大谷は

① 2巻補筆の契機は資本循環論もし くは可変資本-労賃関係把握の仕上げであった

② その際、「貨幣=ヴェール」観に基づく貨幣媒介の組入れ処置の克服が課題となった。

③ 資本循環は個人的消費の循環と絡み合い条件づけ合いつつ、独自の自立的循環=再生産過程を繰りひろげるのだが、それはいかにして達成されるのか

が主要な問題意識となったと言う。

そしてその考察の過程で、第2稿から第8稿(再生産論)への飛躍があったと考える。

これは宮川彰、伊藤武ら形成史学者と意見を同じくするものである。

これに対して谷野勝明は「再生産論形成をめぐる諸問題について―第2稿・ 第8稿断絶説批判―」(2011)を発表し、包括的な批判を行った。

その主要な論点は

① 資本-収入の絡み合いの分析が変わっていない

② 再生産論分析基準・貨幣媒介の捉え方に抜 本的な前進がない

③ 第2稿第三章「再生産の実態的諸条件」と第8稿第三章『社会的総資本の再生産と流通」とを比較すると、再生産論の課題の転換があったとはいえない。

以上より、第2稿 から第8稿への連続継承性が存在すると主張した。

この意見には水谷謙治、早川啓造、富塚良三らが賛同している。

 

Ⅰ 問題の所在

1.エンゲルスの編集者「序言」

『資本論』第2部と第3部の材料は,第1稿から第8稿まで8つの草稿である。
 

第1稿

1864~65年執筆

第2稿

1868~70年執筆

第3稿

1868 年執筆

第4稿

1868 年執筆

第5稿

1876~80年執筆

第6稿

1876~80年執筆

第7稿

1876~80年執筆

第8稿

1877~81年執筆

エンゲルスはこの草稿を次のように割り振った。

第2部

第1篇(資本循環) 第4稿と第5,6,7稿

第2篇 第 4 稿と第 2 稿

第3篇(再生産) 第2稿と第8稿

「編集者」エンゲルスは次のように語る

「第3篇は,マルクスにはどうしても書き直しが必要 だと思われた」

そのことを知っているので第8稿を主体としたのである。エンゲルスは、諸知見の吸収があまりにも膨大で、未消化に終わっており、そのために理論展開に齟齬が発生していることを告白している。

2.資本論第2部と第3部との矛盾と不整合

齟齬の理由は執筆年代を見れば明らかである。第2部が書かれたのは3つの時期に分かれる。

第1稿は1864~65年執筆に執筆されている。第1部が書き終わり、自動的に第2部の執筆に入ったのであろう。

1867年に資本論第1部が出版され、いよいよ本格的な執筆に入ったのが68年から70年にかけての第2~4稿であろう。

ところが順調に行っていたはずの第2部出版は突如ストップする。

おそらく、並行して進められていた第3部の執筆が壁にぶち当たり、そこを突破するには第2部から書き直す必要に迫られたためであろう。

いろいろ考えて、第2部から書き直さないと第3部は書けないと悟ったマルクスは、第2部の書き直しに着手する。それが第5~第8稿の草稿となる。

と、ここまでは私の説明。ここから宮川さんの文章に戻る。

3.アダム・スミスの価格「構成」説の否定がきっかけ

宮川さんによれば、流通過程に関するマルクスの考えが転換したのは、スミスの価格「構成」説に対する評価が変わったためである。

この先の話は難しすぎて理解困難であるが、宮川さんの文章を引用しておく。

マルクスは(当初)「スミスのドグマ」をスミス言説に忠実に以下のように定式化した。

「すべての商品の,したがってまた年々の商品生産物の価格は,労賃,利潤,および地代という三つの成分から構成され,またそれら三つの成分に分解される」

しかしマルクスは第8稿において、価値「分解」説は容認するが価格「構成」説は批判している。(らしい)

さらにマルクスは、以下のごとくスミスを批判する。

スミスの価格「構成」説は現象皮相的で 不合理である。 これにくらべて価値「分解」説は“より、もっともらしい”。

スミスの価格「構成」説は価値「分解」説に由来しているが、導出の方法は「その逆は逆」という古典派の「決まり文句」に過ぎない。

これを「資本-収入相互転化」の関係といい、最終的な古典派批判の仕上げの要をなしている。

宮川さんによれば、

マルクスは第1稿および第2稿では価値「分解」説と資本-収入転化把握とを受け入れたが,第8稿では,「まったく誤りである」,とそれを批判した。

そして、この最初の受容と、のちの否定が第2部形成史の歩みの軸線をかたちづくっている。

とし、彼が「断絶」説に立つ所以としている。

「おぉ、大変だ!」とため息が出る。

続きは明日。


資本論第三巻第9章はえらく難しい。えらく難しいというのは記述が難しいだけでなく、そもそもそう言えるかどうかが未確定だからである。結論としては、

社会のすべての生産部門を総体としてみると、生産された諸商品の生産価格の総計は、諸商品の価値の総計に等しい

ということになる。

ただこの断言は、実のところ確証されているとは言い難い。あまりにも多くの変数がありすぎる。

これに流通費・金利などさまざまな費用が上乗せされた上で売買価格になるのだが、剰余価値の視点で大づかみにいえばそう言っても間違いないのかもしれない。

ただ私にはマルクスが重要な事項を忘れているように思える。それは労働者が消費者として立ち現れるまでの時差である。

労働者は原則として前もって賃金を受け取る。そして生産過程に入るのだが、生産過程を送るあいだも労働者は生活過程において消費している。

この消費過程において労働者は発展し、より多くの欲望を持つようになる。

したがって前渡しされた賃金(労働力の価格)以上の欲望を伴って市場に消費者として登場することになる。

したがって、需要と供給の関係においては、つねに需要が供給を上回っていることになる。

したがって市場価格は生産価格をつねに上回るはずだ

問題は市場価格と「諸商品の価値」(交換価値)との関係が、マルクスの文脈上で不分明なことだ。


いずれにしても偉そうなことを言うにはまだ早すぎる。もう少し勉強が必要だ。


「労働力価値内在説」なるもの

ここに至って突然論理が晦渋になる。

晦渋なのは著者自身がこんがらかっているからみたいだ。「金子ハルオ氏とのあいだで論争になっている」とか言っているが、金子先生を前に少々態度がデカい。こんなものは論争でもなんでもない。

櫛田さんは、“労働力商品が労働者の身体と不可分な存在形態をもつ”ことを強調する。

それは、私がかつて批判したある言葉を思い起こさせる。「患者は医療の労働主体でもあり労働手段でもあり労働対象でもある」という三位一体説だ。なぜなら、“患者はその身体と不可分な存在形態をもつ”からだ。

やはり「身体と不可分な存在形態をもつ労働力商品」というだけでは不十分だろう、奴隷(人間商品)と同じことになってしまう。無理やり身体と勤労能力を切り離して「ケガと弁当は自分持ち」というのが近代労働者の姿ではないだろうか。


以下、面倒なので論点を微細にわたって検討することはしない。結論部分だけ引用する。

① 労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”、その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

② これは経済学として許容される理論化である。

「…し得る」とか「許容される」と言われれば、まぁ仕方ないが…ということになる。

直接の批判にはならないが、このあたりの話題に関して私の考えを述べておきたい。

動物というのは植物と違って、みずから栄養物を作り出すことはできない。

「生きる」というのは、基本的には消費することである。ただし人類は社会を形成することによって、生産することが可能になった。

ただしそのためには働かなくてはならない。最初は生きる時間のほとんどが働くことだったが、だんだん労働時間は短くなった。そして余暇、すなわち「幸せ追求時間」が生まれた。

最初は余暇のほとんどは支配者のものだった。しかし生産力が拡大するにつれて徐々に余暇は普通の人にも広がるようになった。

余暇というのは労働時間以外のすべてではない。そこから睡眠・食事・通勤などが差っ引かれる。これらは純粋な労働力商品の再生産の時間だ。さらに勉強・子育ての時間も広義の労働力商品の再生産のためのものだ。

それ以外の時間が純粋な余暇である。それを純粋な消費活動(消費的消費)だといってもよい。

この労働力商品の再生産をふくまない「純粋な消費活動」から生まれるもの、たとえ量は少くても本質的な生産物は、衝動にとどまらない人間的「欲望」である。それは希望、意欲であったり、愛や情熱であったり、具体的な物欲であったりする。
たしかに余暇を“労働力商品の生産過程”と規定することも経済学的には許容されるかも知れない。

しかしそのようなワルラス均衡的「経済学」のいかに貧しいことか。

申し訳ないが、以後の文章については省略させて頂く。
最初にも書いたように、以下の記述は卓抜である。

労働力商品は消費生活過程というそれ自身の特殊な生産過程を有している。

賃金労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”である。その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

できれば、それを生産対消費、労働対享受、充足対欲望、それらを抱合した「生活過程」という枠組みの中でとらえていただきたい。
そして、大きな人類的活動のサイクルの中で、これらを社会発展史的に特徴づけていただきたいと願っている。かならずや経済学(とりわけ剰余価値論)はそのための不可欠なツールとなるだろうと思う。



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