鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ: 09 社会理論/科学的社会主義

「主体性」は人間の本質ではない

いじめ、過労死、ストレスなどいろいろ並べてくると、人間の主体性という問題がどうしても避けて通れなくなる。そこで「主体性こそ人間の高次脳機能の本質」だという議論が出てくることになる。

しかし生物学的に見て、主体性の形成というのはそんなに高等な作業なのか、というと必ずしもそうではない。

むしろ、動物は大なり小なり主体性を持っている、という方が正確だろう。

そうすると、人間としての人間的な主体性というのは何なのかと、問題を置き換えなければ生産的な議論とはならないのではないか、とふとそう思う。

我々が生き物というとき、それは実際には動物のことである。もし「じゃぁ植物は生き物ではないのか」と問われると、「まぁそれも生き物ではあるな」と答えるが、心の底では「何をアホなこと言っているんだ」と舌打ちすることになる。

しかし食物連鎖を全体として考えてみれば分かるように、動物の例えば1千倍とか1万倍とかのオーダーで植物生命体があるはずだ。理屈から言えば、そういうレベルで生物界のバランスはとれているはずだ。

よく言えば、動物は生命界のエリートであり、悪く言えば寄生虫である。

生化学的に言えば、植物は炭素と水からできている。動物はそれに窒素を加えることでより複雑な構造を作り出している。何よりも大きな違いは、窒素が加わることで能動性が生み出されている。(あくまでも基本的な特徴付けだが)

栄養学的に言えば植物は独立栄養であり、水を分解することで炭水化物を作り、一方でこれをエネルギー源としつつ他方で炭化水素を高級化し体の構成成分ともする。

動物は従属栄養であり、植物の成長に自らの生命を託している。そして動物界の中にも食物連鎖のヒエラルキーを形成する。


動物は生まれながらに2つの世界に身をおくことになる。

一つは植物の世界に従属して、それに寄生しながら自らの生命を維持する世界である。

そしてもう一つは、食物連鎖の中にあってある時は捕らえ食し、ある時は捕食者から逃れ、生きながらえる弱肉強食の世界である。

もちろん、動物も植物も決して優しくはない自然環境の中に暮らすわけだから、全体としては自然の摂理に翻弄されながら一生を送る存在である。

その2つの世界のそれぞれにおいて、その生命体が動物であること、「動く生き物」であることはどのような意味を持つのだろうか。

それはまずもって、「判断」し「行動」することではないか。超短期的に言えば、自分以外のあるものを見たとき逃げるか捕まえるかの判断である。もう少し長期的に見れば、果実をもとめてさまようときに北に行くか南に行くかの判断は自ら下すしかない。ある程度はDNAやエピジェネティックに準備されているにせよ、最後は自己責任という厳しさを伴っている。

動物が群れを作るとき、それはそういう主体性を(部分的に)放棄することを意味する。そのほうが楽だからというのもある。「自由からの闘争」である。しかし今度は社会のしがらみが襲ってくる。ひどい時は「一億玉砕」などと死を強制される。

戦後流行した「主体性論争」はこの経験が下敷きにある。だから「ローン・ウルフ」であれという主張が導き出される。

このような「主体性」は相当屈折した複雑な心理状況を意味するが、それを「人間のみが主体性を持つ」というところまで敷衍してはならない。主体性と社会性(客観性)の関係は、動物がこの世に現れてからのいくつもの弁証法的過程を踏まえて議論しなければならないのである。

「中間層」論を最初に提起したのは、ジェームズ・ミルである。

以前書いた 2016年03月31日 から、『統治論』(An Essay on Government)の紹介の一節を再掲しておく。

 略奪者の抑制が統治の目的: 

欲望の対象の多くが、そして生存の手段でさえ、労働の生産物であるということが考察されるならば、労働を確保する手段がすべての基礎として具備されなければならない。…掠奪を防止しなければならない。その方法は、一定数の人びとが団結し相互に保護し合うことである。必要な権力を少数の人に委任することである。これが政府である。

中間階級の賛美: 

1.中間階級は「文明の被造物」である。それは「生存と品位を安定的に維持でき,しかも大きな富をもつことから生じる悪行と愚行とをしでかすおそれもない」のである。(衣食足りて礼節を知るといったところか)

2.彼らは「自らの時間を自由にすることができ,肉体労働の必要性から解放され,いかなる人の権威にも隷属せず,最も楽しい職業に従事している。

2.その結果「彼らは一つの階級として,人間的享受 の最大量を獲得している。

3.少年と婦人で構成され,町を混乱に陥れる暴徒の無秩序は何を意味するのか。人口のほとんどが富裕な製造業者と貧しい労働者とから構成され、中間階級が極端に少ないからだ。

4.民衆のうち下層部分の意見を形成し,彼等の精神を指導するのは中間階級である。不況下での群衆の無秩序な行動は,むしろその命題の正しさを証明するものだ。

以上の主張から、ミルが「中産階級」をスミスの含意する小ブル「階級」ではなく、中間「階層」として捉えていることが分かる。

「民衆の…精神を指導するのは中間階級である。不況下での群衆の無秩序な行動は,むしろ(逆説的に)その命題の正しさを証明」しているというくだりは、政治感覚として卓越していると思う。

すみません。吉見俊哉さん、どんな人かも知らずに批判していました。

ウィキペディアで肩書だけ見ると専攻の分野しか記載されていません。著書の題名を見ると、周回遅れのポストモダンみたいで正直ゾッとしません。本屋の書棚で背表紙を見ても、食指が動くことはないでしょう。
ところが東洋経済ONLINE の対談記事を見ると、東大の大学改革のコーディネータとしての活躍がメインとなっており(本人は不本意かもしれないが)、むしろそちらでの専門家として評価していくべきだということがわかりました。

もう一つ、主要な問題ではないのですが、吉見さんは最初理科1類に入学され、その後教養学部に移籍されたということで、モロ文系の人ではないということです。

以下、その対談からめぼしいところを拾っておきます。

私は副学長という立場ですが、「組長のパシリ」と自分では言っています。東大は、教育改革を進めるにも、さまざまな学部、研究科と、数多くの調整をしないと全体がまとまらない。だからこそ、誰かが調整役としていくのです…

ここ10年くらいは、大学で研究ができる生活なんて全然していません

という中で書かれたのが2011年の『大学とは何か』(2011年 岩波新書)という本だそうだ。

そういう点では「組織内調整学」の専門家という肩書が最もふさわしいようだ。赤旗での発言も、そのように受け止めるべきかもしれない。

以下は対談での発言から

1.大学は二度目の死に向かいつつある

大学は、中世に誕生して近世に一度死んで、19世紀になってもう一度誕生しています。その19世紀に再生した大学が、今、二度目の死に向かいつつある…

三度目の大学の誕生があるとすれば、それは中世の大学に似たものになるかもしれない。

2.日本の大学が抱える3つの困難

a)数的増加への疑問

終戦時、大学数は50未満であった。現在は800校近くに増えた(16倍)。若者は減りつつあるので、大学卒業者の比率はさらに高くなっている。

世間では、「この規模で高学歴人材を輩出する必要があるか」という疑問がある。

b)大学のグローバルな生き残り競争

大学は世界的にも増えています。アメリカでは4年制だけで2500校。短期も含めれば4000校といわれます。中国でも1600校近くある。

世界全体の大学数は、たぶん1万校以上ある。大学の大競争時代が始まっている。

c)学問の流動化と複雑化

知の仕組みそのものが流動化し複雑化する中で、大学という組織の定義「そもそも大学とは何なのか」が問い返されていると思います。

3.文部省の大学改革が問題を複雑にした

1990年代を通じて、文部省主導で行われた大学改革が問題を複雑化した。

大学院重点化により大学院生の数は数倍増えたが、就職先は増えていない。高学歴の専門家の専門職能が確立していないからだ。

これにより大学院のレベルが低下して来る、という負のスパイラルが起きている。

4.いま、大学の役割は

いま大学はとても重要だと思っているんです。…社会全体が方向性を見失っている中で、厚みのある「知」を身に付けて考え抜く人間 が必要です。

そういう人間をたくさん生み出す上で、大学の役割は大きい。

“厚みのある「知」を身に付けて考え抜く人間”が、その中で議論しながら、可能性や課題、解決法を見つけていくことが求められています。

間違いなく、大学はその基盤になります。

以上が私にとってはだいじなポイントだが、吉見さんはその先を見つめる。

そのために、大学は今のカタチから変わっていくことが不可欠です。問題点は、誰が大学を変えてく力になるのか、“なり手”がいなく、難しいですね。

(ネットで読めるのはここまで)


ということで、たいへん骨太な議論を展開されておられ、傾聴措くあたわざるものがある。

こういう文脈の上で、「文系廃止」問題が語られているのである。

率直に言って大学の抱える困難については理解の外だが、最後の「大学の役割」についての言葉は印象的だ。

細かく言うと3つに分かれる。

A 厚みのある「知」を身につけること

B その「知」を用いてあらゆることを考えぬくこと

C それらの人々が互いに議論すること。

これらの作業によって社会全体に方向性を指し示す

というのが現代知識人(集団)の歴史的使命だ

それを前提とするとき、大学こそがその条件を備えているのではないか、

というのが吉見さんの主張だ。

これはおそらく吉見さんの独自の見解ではないだろう。彼の大学におけるコーディネーター兼ネゴシエーターという役割から考えて、無数の人々との対話から生み出された、「知の役割」に対する見解の最大公約数なのではないか。

この主張の素晴らしいのは、大学を考える前に大学人=知識人の役割を考えていることである。そして知識人を諸個人・専門家ではなく「考えぬく集団的知識人」として把握することである。

そしてそのような「集団的知識人」を育成することが、高等教育の目標となる。

彼はその延長線上に“灯台”としての東大をイメージする。

以上のように考えた場合、「文系廃止」という発想がそもそも間違っている。知識人というのはたんなる才能(タレント)の担い手ではないからである。


それから見ると、赤旗の記事は隣の的を狙っているかのように見える。おそらくインタビュアーの力量の問題だろうと思う。

前項の続きになるのだが、中途半端な「文系“遊び”論」は論理建てとしては危険だ。

「遊ぶ」ことをいろいろ考えるのはいいのだが、普通の日本人にとって「遊ぶ」という言葉はあまりポジティブな語感がない。だからどうしても比喩的なものの言い方になってしまう。そうすると結果的には論理的自殺行為になりかねない。

まずはもっと価値中立的な言葉を選びとるべきであろう。

1.「遊び」の外形的・社会的規定

ここではとりあえず、「欲望行動」としておく。いかにも硬いが、とりあえず浮かんでこないので。

すべての行動は究極的には生存するための欲望にもとづいているので、「欲望行動」である。だから遊びは厳密に言えば「辺縁的欲望行動」となるかもしれない。

しかし近代社会では食うために稼ぐ。つまり労働することと余暇を使って自らの欲望を充足するために行動することは、かなり截然と分けられているので、「欲望行動」という概念は、外形的には鮮明である。

したがって、「欲望行動」は「余暇行動」と言い換えることもできる(あくまでも外形的に)。

2.「遊び」の内在的規定

世の中の行動は「生産行動」と「消費行動」にわけられる。「生産行動」も生産の過程でずいぶん原料とか、燃料とか、労働とかを消費しているが、それ以上に生産している。それに対して余暇行動は純粋な消費行動である。

欲望行動は、総じて「金にならない行動」である。なぜなら金を目的としていないからだ。

つまり、仕事以外の行動は、主観的にはどうあれ「遊び」みたいなものである。失業中の人がどんなに社会に貢献しようと、「なにをされていますか?」と問われれば「今は遊んでいます」と答えるほかない。

「文系無駄論」にはこの発想が色濃く潜り込んでいる。「そんなこと言ったって、つまりは遊んでいるんでしょう」という嘲りだ。

3.余暇と欲望行動

余暇行動には広い意味と狭い意味がある。広い意味では労働時間以外のすべての私事だ。掃除・洗濯から買い物、食事までふくまれる。睡眠でさえ余暇行動だ。それは動物的・必然的欲望にもとづいている。

狭い意味では、それらを除いた時間が余暇であり、「欲望行動」の出番だ。そこに初めて個人の欲望が顔を出し、人間として生きている意味が明らかになる。

その意味において、「遊び」は欲望の発露であると同時に、個性や人格の発露でもあり、生きていることの意味でもあるのだ。(「…でもある」というに過ぎないのだが)

欲望には下品な欲望と高級な欲望がある。高級と言っても高額というわけではない。啄木が言うように淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔に違いはないのだ。

4.ヘーゲルとマルクスは欲望行動をどうとらえたか

ヘーゲルは「欲望行動」の中でも高級な欲望行動として「陶冶」を挙げている。自分を成長させていきたいという欲望が人間にはあり、この欲望に基づいて人間というのは学ぶ。たんに学ぶだけではなく、ときには刻苦勉励する。

マルクスはこれを普遍化した。そんなに刻苦勉励しなくても、家に帰ってぐーたらしているだけでも、明日への英気は養われるではないか。そして明日の労働に備えて労働能力を再生産しているではないか。

ということで、「欲望行動」の総体を広い意味での労働能力の生産行動ととらえ、それを日々の行動の積み重ね、「再生産過程」ととらえた。

5.消費過程の論理

マルクスは最終的にこの考えを「あらゆる生産は消費であり、あらゆる消費は生産である」という言葉にまとめた。

そのうえで、彼は近代(彼にとっては現代)資本主義における生産過程の分析を行っていくのだが、それはいまは関係ない。

肝心なことは彼の言葉の後半、「あらゆる消費は生産である」というところにある。ただこれについてマルクスはほとんど展開していない。

そんなことをしているヒマがなかったからだが、生産過程をしっかり分析すれば消費過程は自ずから明らかになると考えていたのではないか、と私は思う。

6.欲望行動の真の意義は欲望の拡大にある

ちょっとややこしくてすみません。

消費過程を突き動かすのは人間の欲望である。人間は消費の対象に対してさまざまな方法で変更を加え、そのことによって生まれるエネルギーを我が物とする。

対象物はなくなったが、それは我が身に同化されたのである。生産過程では我が身の持つ能力が異化され対象物に付加されたのであるが、今度はその逆である。

これは単純な物質的消費過程だが、その繰り返し=営みは「生活過程」を形成する。そこでは労働により失われた労働能力を回復するにとどまらず、人間の能力の向上・発展がもたらされる。つまり人間の能力の拡大再生産が実現するのである。

かなり端折った言い方になるが、拡大再生産された人間の能力は欲望を拡大再生産する。

欲望は実現することで漸減・消滅するのではなく、充足が新たな欲望を生むのである。それが人間の生産活動の最大の動因である。

7.欲望行動の社会的拡大

以上に上げたのは単純な欲望行動の過程だが、これだけでは自然成長に任せるだけの存在でしかない。

近代文明社会は欲望を飛躍的に増加させることによって飛躍を遂げたのである。

これについては到底書ききれるものではないが、早い話、資本論を紙の裏側から読めばいいのである。

商業の発展、貨幣の普及、産業革命などすべての資本主義的生産システムの拡大は資本主義的消費システムの拡大でもあった。

生産の飛躍的増加は消費の飛躍的増加抜きにはありえなかったし、それらを消費し尽くす欲望の拡大と消費の仕方の多様化以外には出現しえなかった。

これらの欲望行動の質的・量的拡大は生活の質の向上をもたらすだけではない。それ自体、「自然の摂理」に反しないかぎりにおいては、人類社会にとって生産的事象である。

「大量生産・大量消費」時代がともすれば悪者扱いされるのだが、モノの大量生産と混同している。

もっと高能率の生産、労働時間の短縮による余暇の拡大、一言で言えば「人に優しい社会、地球にやさしい社会」の実現により、人間にはもっといっぱいやることがあるはずだ。人はアリのように働くのではなく、キリギリスのように歌わなければなららないのだ。

人間の欲望(物質的であると否とを問わず)には限りがない。それどころか、制約がない情況の下では加速度的に拡大する。それは「限界効用論」への決定的な反論でもある。

8.欲望の社会的創出と文系学部の必要性

欲望の社会的創出こそは社会が発展し人類が発達していく上で不可欠の課題である。

欲望の社会的創出のための最大の源泉は「市場」である。そこにはおよそ欲望の対象となりそうなものがすべて突っ込まれる。そしてモノと直接に結びついて需要を喚起するのだ。

しかし市場は多様な機能を持っており、そこにとどまるものではない。いっぽう消費者は完全なる博物学者ではありえない。そこで様々な装置が欲望の創出に関連して特化している。それは広い意味での「メディア」(情報媒体)であり、そのシンクタンクとして情報の意味付けに当たる各種研究機関であり、教育機関である。

それらの欲望創出機能は理系学部の能く成せるところではない。

 

赤旗に吉見俊哉さんという人が登場した。初耳の人だ。

東大の教授で、副学長を務めている。1957年生まれというから、私とはひと回り違う。

専攻が社会学、都市論、メディア論。主著が「都市のドラマトゥルギー」というから、「そっち」系の学者のようだ。日頃共産党とはご縁のない世界の人であろう。

ところが、インタビューには意外とまともで平易な言葉で答えている。

最初に感想から言えば、つまらない。

彼は学問の有用性を二つに分ける。

1.目的遂行的な有用性

まぁこれが普通考える有用性だ。

2.価値創造的な有用性

ここが吉見さんの言いたいところである。

彼の言葉を引用すると

自明とされる価値を反省したり、新たに価値を創造したりする有用性です。

うーむ、分からんなぁ。反省するのと創造するのとは違うし、新たに価値を想像する有用性というのは「そのまんま」だ。

これは、むしろ文系の知が得意とするものです。

そうかねぇ、あなたがそういうだけじゃないの。

(社会の価値観が)変わることは歴史を見れば必ずあります。(かつてはモノ第一主義だったが)、現代はサステイナビリティやレジリエンス、コンビビアリティをデザインしていくことが大切です。
このような価値の転換を促すのが文系の大きな役割です。

そういうのって、ただの流行(ニューモード)じゃないの。横文字がずらずらと並ぶと、むかしあった「モーレツからビューティフルへ」のキャッチコピーを思い出してしまう。

ということで前半はさっぱり面白くもないし役にも立たない。

後半は「遊び」に焦点が移る。

文系の学問は「遊び」だという主張だ。

人類は遊び心を出発点にして、既存の価値を相対化し、新しい価値の創造や転換をやってきました。

…文系の知の根幹にはこの遊戯性があり、それが価値創造の源です。

これも言ってみただけの「ご高説」だ。その限りにおいては「ごもっとも」だが、「そんなものくそくらえ」と言われればそれまでだ。

ここで突如ホイジンガーが持ちだされる。

じつはこのホイジンガーの本、むかし読んだのだ。拙息の誕生にあたり「遊」と命名したが、この由来を構築する作業として読んだので邪念が入っている。この他にカイヨワの「遊びと人間」というのも読んだ。

どちらもつまらなかった。

なるほどホイジンガーをそういう目から見る視点もあるのか、と感心はしたが、「だから何さ」という感じもある。


1.文系は「素養」を磨くところ

私は文系の学問は「素養」だと思っている。素養というのは「教養のちょっと高級なもの」くらいの感じだ。あるいは「ちょっと専門的なもの」という方がよいかもしれない。

「教養」というのは「常識のちょっと高級なもの」くらいの感じだ。そこには「社会人としての常識」とか「大学生の常識」とかいう知識レベルの枠組みではなく、人として生きていく上での叡智、とか物事に向き合う態度とかの倫理的なニュアンスもふくまれると思う。

それは一種の体系であり、知識人たるもの、人生の何処かでその「とば口」くらいまでは接近しておくべきだというものだ。

それは人にとって大事な知恵だから、素質がある人がかならず受け継がなければならない。そうでないと人は「専門バカ」や「エコノミック・アニマル」になってしまう。

2.大学が就職の窓口であることが問題

たしかに世界のどこでも大学は就職の窓口となっている。しかしそれは企業の側の勝手だ。大学は本来は(というより当初は)、国の最高学府として「国家のための」人材を育成する機関であった。

だから夏目漱石も滝廉太郎も国費で留学したのだ。

「国家」の概念はその後変遷を遂げたが、少なくとも企業のための機関であったことはなかった。

それが就職の窓口の比重がどんどん重くなって、その結果企業の論理が優先するようになった。これが最大の問題ではないか。


これからは「国民」を視座においた、その知的要求に根ざした「開かれた学府」としての位置づけが必要だろう。
そのことを念頭に置けば、大学の再建は可能だと思う。

3.遊びは理系にも必要だ

「遊びがなければ学問はない」というが、それはむしろ理系の自然科学にこそ当てはまる。

物づくりは現場でやればよい。

大学を職業訓練所か企業の研究所にするのは、大企業の研究開発費を節約するためにしか役立たず、目先の成果によって大学を駄目にする。

繰返すが、遊びは理系・文系を問わずすべての学問に必要だ。

梅川勉さんがなくなった。まぁ私には縁がなかった理論家だが、すこしグーグルをあたってみることにした。

最初に出てくるのが佐久間昇二さんという方のエッセイで、「研究者志望からビジネス界へ」という題。副題は「1950年代前半の経済学部・経営学研究科」となっている。大阪市大の雑誌に寄稿されたものらしい。

佐久間さんは松下電器の副社長、WOWOW社長などを歴任されたビジネスマンだが、昭和25年(1950)に大阪市大の経済学部に入学され、修士ふくめて6年間をそこで「ノンポリ」として過ごしたという体験の持ち主。

当時「アカの巣窟」と言われた大阪市大の内側が切り取られていて面白い。そしてそこに梅川さんも登場するのである。

抜粋、紹介しておく。なお2011年の執筆で、まだ存命の人も多いこともあって多少遠慮はしているとのことだ。


…一回の運動場で学生大会をやっていると、突如警官隊が高い塀を乗り越えて突入してきた。学生は散り、私もゲタを脱ぎ捨てて逃げた。警官に棍棒で殴られてもいた。

…警察に行き、捕らえられた学友の無実を訴えたが相手にしてもらえない。そこに学生運動の幹部がやってきたので、援助をもとめたが、「変に動くと我々が捕まる」と言って行ってしまった。

これがマルクス主義を信奉する急進派の人たちに不信感を抱いた最初の経験であった。

学生大会がよく開かれた。そこには若き気鋭の教官が登場し強烈なメッセージを発した。とくに林直道先生が印象に残る。

…農業経済論のゼミに進んだが、助手の梅川勉先生の存在に違和感を感じた。梅川先生は講座派のバリバリ。ゼミの中でも梅川先生の発言は顔をしかめられることが度々だった。

この頃、共産党は極左冒険主義の路線を突走っていた。大阪市大はその先頭を走っていた。まさにその中に私は在学していたことになる。

梅川先生は山村工作や農村調査について、折りに触れ私達に話しかけられる。私たち普通の学生は良い民間の会社に就職したいと思っているから、そこへ入り込むのは危険と思っている。

もちろん梅川先生は無理強いはされない。しかしそこには我々こそ正しい真理の信奉者であり、それに異を唱えるものはブルジョア的、右翼的立場と位置づけられる。この独善的態度、非科学的態度に私自身はついて行けないものを感じた。

その間の大阪市大の雰囲気は、急進派の学生、上林貞治郎教授、岡本博之教授などを筆頭に若きエリートたちが闊歩し、学究肌の先生たちはそれを静観されているように思われた。

昭和30年、日本共産党は武装闘争方針の放棄を決議した。あわせて全学連は従来の路線から180度の転換を迫られた。

これらの方針転換は大阪市大の中にも大きな影響を及ぼした。大学教員の動揺は一部学生にも強く反応した。それは昭和31年のフルシチョフによるスターリン批判によって極限に達する。

とくに大学院で学ぶ急進派に属する学生の憔悴ぶりはきつかった。同級生の一人は「急な変化に自分と自分の道を見失ってしまう」と受けたショックの大きさを隠さなかった。

後略

パナマ文書のニュースを読んでいて、ふと原発の議論を連想した。
世界経済の発展は今や途方もないメガ・キャピタル生み出した。それは今や諸国家の統制をも振り払い、世界をわがものにしている。
それはますます獣性を帯び、良識とか常識というものからかけ離れてきている。それは「巨大な反知性」とも呼ぶべきものとなっている。
貧富の差を奨励し、社会の差別を奨励し、環境破壊や核汚染を奨励し、猛烈なスピードで移動してはあちこちを破壊している。
メガ・キャピタルは、それこそが人間の自由な本性なのだと主張している。果たしてそうであろうか。
その中で人間は自由を感じているだろうか。その中で大多数の人間はますます不自由を感じているのではないか。いまや人間は、富裕層をもふくめて、メガ・キャピタルの奴隷となりつつあるのではないか。
資本というのは人間の持つエネルギーの塊である。人間活動が活発になればなるほど大きくなるが、それが人間の統制を超えて巨大なものとなった途端、それ自身の論理で暴走し始める。
原爆という人間の生み出した巨大なエネルギーが世界を破滅の危機に追いやり、平和的利用としての原発が人々の安全と環境を脅かす、これは巨大なエネルギーを人間の管理のもとに置くというタガが外れてしまったことから起きている。
しかし巨大なエネルギーを生み出すのも、それを統制のもとに置くのも人間の叡智である。
これまではエネルギーを抑え込むのに二度の世界大戦という悲惨な方法をとってきたが、それは巨大な資本のエネルギーに対抗し、統制する知性の発展の遅れによるものであった。
メガ・キャピタルを抑えるためにはメガ・インテレクトの発展が必要である。巨大な知性は巨大な資本に対抗するために巨大な資本の中から生まれてくるであろう。それは何よりも巨大な資本が生き延びるための死活的要請だからである
それはかつてマルクスが労働者階級を資本主義の墓堀人と呼んだ如く、社会集団として登場してくるだろう。それは政治集団として自らを位置づけ、政治行動を通じてメガ・キャピタルに挑んでいくだろう。私はそれをメガ・インテレクトと呼びたい。

不破哲三さんの「スターリン秘史」が終わった。

衝撃の連続で、一つ読み終わるたびにぐったりする。

問題はこれらの「歴史の真実」をどう受け止めるかだが、私はこれは「歴史の真実」ではなく、「歴史の裏側に隠された事実」と考えるべきだろうと思う。

歴史の真実とは次のようなものだと思う。

1.第一次世界大戦のさなかに「社会主義」体制が登場した。「社会主義」ソ連は列強による世界支配に対するアンチテーゼと受け止められた。しかしそれは当初より社会主義体制ではなかった。

2.社会主義ソ連は、自国を守ることと「社会主義」を守ることとを意識的・無意識的に混同し、多くの共産党員がそれに従った。

3.1930年代に入ってスターリンの誤りは深刻なものとなり、各国の民主運動にも影響を与えずにはおかなかったが、それらはファシズムとの対決を目前にする各国民主勢力には軽視された。

4.戦後もファシストとの闘いを続けた人の間には、ソ連に対する幻想が残った。とくに日本のような敗戦国では、民主主義の「旗頭」であったアメリカやソ連に対する敬意が無条件の賛美となった。とくに戦後反動の中でアメリカに対する幻滅がソ連への希望となった。

5.しかしこれらの民主運動はやがてソ連とも、後には中国とも一線を画すようになり、とくにベトナム人民連帯運動で明らかな独立性を獲得するようになる。その後、原水爆禁止運動や各種の連帯運動で独自性が明らかになっていく。

肝心なことはスターリンが存在した下でも民主運動は発展してきたということであり、スターリンを奉ずる人もその発展に寄与してきたということである。

これは資本主義・帝国主義でも同じことで、はるかに巨大な規模で資本主義者は民主勢力を弾圧し、多くの人を犠牲にしてきた。にも関わらず民主運動は発展してきたし、資本主義を奉じる人もその発展に寄与してきた。

民主勢力はスターリンやスターリン主義者と闘ってきたわけではない。まず何よりも帝国主義勢力や独占資本と闘ってきたのだ。彼は味方陣営に潜り込んで撹乱した裏切り者だ。主敵ではない。もし主敵であれば民主勢力は一撃のもとに倒していただろう。

これ以上「たら・れば」の話をしても仕方ないので、紆余曲折の過程を辿りつつも全体として運動は発展し、認識は進歩してきたという観点がだいじである。

そういうポジティブな流れで考えれば、今回の不破さんの本は共産主義者の認識の発展であり、その結果としてのスターリン主義への最終的な決別の辞と受け取ることができるだろう。

率直に言って、この本はスターリン糾弾を急ぐあまり、民主運動に対するペシミズムが窺われないでもない。あたかも民主勢力や共産主義勢力がスターリンの意のままに動かされていたかのようにも読める。

とりあえず抽象的にしか言えないが、民衆は共産党が思う程まんざらに馬鹿ではないのだ、と思う。

逆に言えば共産党は不破さんが思っているほど利口でもなんでもないのだ。それはみんな表立って言わないだけの話だ。

最後にあえてきつい言葉を使ったのは、ここまでスターリンの過ちを剔抉したのなら、共産党はみんなに向かって「すみませんでした」と頭を下げなければならないということだ。不破さんの「論理」はそれを迫っている。

それが最後の最後まで語られずに終わるのでは、こちらもきつい言葉を使わざるを得ない。一考を乞う。

  

というわけで、気を取り直して、今度はジェームス・ミルの生い立ち。

こちらは靴屋の息子から成り上がり、聖職者の養育を受けながら、無神論者となり、やがてベンサム一家の代貸として人脈を築いていく。そしてイギリス 古典経済学の一本化に一役買う、というなかなか波乱にとんだ人生だ。どうせ自伝を読むなら、こちらのほうが面白そうだが、そういう人には自伝を書くような ヒマも、その気もない。

Web上の文献もJ.S.ミルよりはるかに少ないが、少し探してみる。

まずはウィキペディアに載った彼の肖像画、

ほとんどハゲと言っていいほどの広い額の下にどことなく落ち着きの悪そうな小顔が続いている。

J.S.ミルの年譜で(「ミル親子 年譜」と改題)簡単に紹介してあるので、それに加える形で進む。

靴屋の息子ということだが、母親はステュワート家とも繋がる良家の出、とあるがそんなことがありうるのかと思う。ウィキではそれ以上は分からない。

スコットランド長老派の信仰により育てられたが、天啓も自然宗教もともに斥ける立場をとった。ただしカルヴィニストとしての生活信条はそのまま保持された。
 

18世紀後半のスコットランドはアダム・スミス、デービッド・ヒューム、ジェームズ・ワットらを輩出し、フランスに勝るとも劣らない知的・精神的拠点となっていた。
カルビン派プロテスタントの支配するなかで、国家組織や貴族サロンに支配されない、自由で自立的な「個人」の観念が育っていた。(アーサー・ハーマン)
ヒューム以来の啓蒙主義(産業主義)は、文明の進展が自由の擁護者としての中間階級の増大をもたらすとの認識を共有していた。(フォンタナ)

エディンバラ大学を卒業。牧師となる。議員となった支援者ジョン・スチュワートに附いてロンドンに出る。哲学的急進派と呼ばれる集団を形成する一方、ジャーナリストとして不安定な生活を送る。

1808年 父ミル、「商業擁護論」を発表。「販路説」を打ち出す。これについてはフランスのセーの「経済学概論」からのコピーとする説もある。

スミスの混乱した複雑な体系から、流動資本のみを対象とする資本循環のメカニズムを抽出した。これを「販路説」として純化した。(田中秀臣
穀物騰貴により地主が大儲けすることを批判。これに同感したリカードウが父ミルに接近した。(櫻井毅

1808年 ベンサムと知り合い、その支援を受けるようになる。ベンタム崇拝者として“教義”を広める。

ベンサムは哲学的急進派との出会いを通じて、既存エリートを改革の担い手と見なす考えを放棄し、急進的な議会改革を訴えるようになる。
ベンタムは「ジェームズ・ミルは自分の弟子で,そして,リカードがジェームズ・ミルの弟子だから,リカードは自分の孫弟子だ」と語った。(櫻井毅

1809年 リカードウが最初の経済学論文「銀行券の減価の証拠となる金地金の高騰」を発表。「地金論争」が巻き起こる。

1815年 ナポレオン戦争の影響で穀物の価格が暴落。地主を中心とする議会勢力に打撃を与える。地主は穀物法を盾に価格の高値維持を主張。リカードウは自由貿易政策を進める立場から穀物法に反対。

リカードウ: ユダヤ人の証券仲買人の息子として生れ、独立したあと公債取引等で成功し、イギリスで屈指の証券業者となった。アダム・スミスの『国富論』に接し経済学に興味をもち、1810年ころから論壇に参加する。
リカードウというのは先祖がポルトガルに住んでいたためで、Ricardo を英語読みしたもの(らしい)。

1815年 穀物法が議会を通過。友人ジェームズ・ミルの強い影響の下、パンフレット『穀物の低価格が資本の利潤に及ぼす影響についての試論』をあらわす。

穀物法廃止論者で自由貿易賛成派のリカードウは、保護貿易論者のマルサスと衝突し論争となる。(ただし仲が悪かったわけではなく、リカードウは株の仲介でマルサスに儲けせてやっている)

1815年 父ミル、リカードウあて書簡で政治経済学への専心、議員としての公的活動を要請。(この辺の経過は<講演> リカードの「経済学原理」とその周辺 に詳しい)

今やあなたはご家族全部の幸福を図るに足るだけのお金を作られたのだから、この種の獲物には満足し、これからは他の仕事のために余暇を使ってほしいものです
父ミルはリカードウを“イギリスのケネー”に仕立てようとしていたと言われる。

1817年 リカードウの『経済学および課税の原理』が刊行される。

父ミルの督促: とにかく友達に手紙を送るような気持で,思いついたことをどんどんまとめて書きなさい,書いたら私に送りなさい,私がそれを整理して,うまく書き直すなり,なんなりのことをしてあげましょう。…学校教師の立場であなたに強制します。

1818年 父ミル、『英国領インド史』を出版。これを機縁とし東インド会社に就職。

市民社会一般の研究への“悪くない入門書”と自己評価。
これまで我々が知っているもっとも粗野な状態からもっとも完成された状態にいたるまでの殆どを扱い、そこでの社会秩序の諸原理と諸法則とを暴露する。

1820年 父ミル、『統治論』(An Essay on Government)を発表。主著とされる。自己利益優先の原理を前提としつつ、支配者の権力の濫用を防いで社会の多数者の物質的利益を擁護することを統治の目的とする。

略奪者の抑制が統治の目的: 
欲望の対象の多くが、そして生存の手段でさえ、労働の生産物であるということが考察されるならば、労働を確保する手段がすべての基礎として具備されなければならない。…掠奪を防止しなければならない。その方法は、一定数の人びとが団結し相互に保護し合うことである。必要な権力を少数の人に委任することである。これが政府である。
中間階級の賛美: 
1.中間階級は「文明の被造物」である。それは「生存と品位を安定的に維持でき,しかも大きな富をもつことから生じる悪行と愚行とをしでかすおそれもない」のである。(衣食足りて礼節を知るといったところか)
2.彼らは「自らの時間を自由にすることができ,肉体労働の必要性から解放され,いかなる人の権威にも隷属せず,最も楽しい職業に従事している。
2.その結果「彼らは一つの階級として,人間的享受 の最大量を獲得している」
3.少年と婦人で構成され,町を混乱に陥れる暴徒の無秩序は何を意味するのか。人口のほとんどが富裕な製造業者と貧しい労働者とから構成され、中間階級が極端に少ないからだ。
4.民衆のうち下層部分の意見を形成し,彼等の精神を指導するのは中間階級である。不況下での群衆の無秩序な行動は,むしろその命題の正しさを証明するものだ。
(ミルが中産階級をスミスの含意する小ブル「階級」ではなく。中間「階層」として捉えていることが分かる)

1821年 父ミル、リカードウの「原理」を初心者向けに解説した「経済学要綱」を出版。古典経済派の最初の経済学教科書と言われる。

原題は Elements of Political Economy。「政治経済学の初歩」と訳しているものもある。ただしマカロッチは「あまりに抽象的な性格で、平易でもなくあまり有益でもない」と酷評し ている。理由は、経済学的な説明の中に哲学急進派としての父ミルの見解が紛れ込まされていることから来るとされる。(立川潔


1829年 父ミル、連想心理学の手法を用いた『人間精神の現象の分析』を発行。

1836年 ジェームズ・ミルが死亡。


参考文献

ジェイムズ・ ミルの初期販路説とアダム ・スミス 田中秀臣 著 早稲田経済学研究 38号(1993)

ジェイムズ・ ミルにおける中間階級と議会改革 ジェイムズ ・ ミルにおける中庸な財産と陶冶 立川 潔 著 

西洋経済古書収集ージェームズ・ミル,『経済学要綱』 稀書自慢さんのサイト

 

 

すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

なかなか本題に入れず、またも余分なことを書く。歳のせいで、大仕事に取り組むのがだんだん億劫になってくる。

今日は、「マルクスがパリノートで読んだミルの本が何だったのか」ということについて、心覚えを記しておく。

1844年か45年にマルクスが読んだミルの本はただ一冊。「経済学綱要」という本のフランス語訳である。

この本が書かれたのは1823年とある。フランス語訳がいつ行われたのかは分からない。

それが「ミル評注」のテキストとなり、「経哲手稿」の「疎外された労働」のテキストになっていくのだから、大変重要な本だということになる。

しかし、小沼宗一「J.S.ミルの経済思想」 ではこの本のことには触れられていないのである。つまりJ.S.ミルにとっては大した著作ではないということなのか。


年譜をあらためて振り返ってみよう。

1823年といえば、ミルはまだ17歳。日本で言えば高校2年生だ。

ただしこの人、親父が星一徹で、激しいスパルタ教育を受け、はやくもリカードウの『経済学および課税の原理』とスミスの『国富論』を読破している。

どうしてこういう読み方をしたか。それは父ミルの指示によるものだ。

父ミルはリカードウの親友で、まだ原稿状態の「原理」を読んだ。そして内容に感激して、ためらうリカードウを説き伏せて出版にまで持って行った、そういう人物である(出版は1817年)。

ここから先は想像だが、父ミルはリカードウを説得した情熱と同じ情熱で、刷り上がったばかりの「原理」を息子に読ませたのだろう。ひでぇ親だ。

父ミルは、リカードウを読了したミルに今度はスミスの「国富論」を読むように迫った。おそらくリカードウについての一文を息子にものさせようという魂胆だろう。

それが終わると、父ミルは息子をフランスに送り、バプティスト・セエと面会させた。セエはフランスで高名な功利主義者で、父ミルとも面識があった。当時、セエは「原理」について一定の批判があったようで、リカードウをフランスに紹介しつつ、論争もするという立場にあった。

というわけで、帰国したミルはただちに旺盛な執筆活動を開始するのだが、「経済学要綱」はおそらくそのうちの一篇に違いない。

とは言うものの、その時までに読んだ経済学の著作は数えるほどであろうから、おそらくこの論文はリカードウの解説書であったろうと思われる。前年に亡くなったリカードウの追悼の意味も含まれているだろう。そしてそれがスミスの「国富論」という経済学の王道の上にあることを論証し、ベンサムの功利主義の色合いも織り込んで、セエの批判も受け止めつつ展開されたものであろうと思われる。

父ミルから見ると、これらの糸は手に取るように明らかだ。


ここまで書いたところで、下記のページが見つかった。

稀書自慢 西洋経済古書収集 さんのページの ジェームズ・ミル『経済学要綱』初版 の紹介である。

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下記の如く簡単な説明がついている。

ジェームズ・ミル『経済学要綱』初版

MILL, JAMES , Elements of Political Economy , London, Printed for Baldwin, Cradock and Joy, 1821, pp.xiii+240, 8vo.

直訳すれば「政治経済学の要点」ということになる。装丁は立派だが240ページだから、中身は新書版に毛が生えた程度だ。

リカード経済学を初学者向け教科書として執筆したもの。英語で書かれた最初の経済学教科書とされる。

と解説されている。

そういうことなのだ。つまりミルのオリジナリティーはほとんど発揮されておらず、ミルの著作の中での位置は高くない。だから小沼さんはあえて取り上げなかったのかも知れない。

しかし、ミルという立場を離れて、この本を客観的に経済学史の中に位置づければ、英語で書かれた最初の経済学教科書であり、決してあだやおろそかにはできない。しかもリカードを古典経済学のチャンピオンとして押し出す上でも大きな役割を果たした。

だから出版から20年を経てフランスでも人口に膾炙され、マルクスが古典経済学の入門書として選んだのだ、ということになる。

私は1823年(17歳時)の出版と書いたが、これはパリノートの論考に書かれていたのをそのまま引用したものだった。

しかし21年というとさらに若く、わずか15歳の時の著作ということになる。恐るべきことだが、成立の実情はだいぶ違ったもののようだ。

この本の成立事情については、J・S・ミルが『自叙伝』第一章で触れている。

父ミルは息子を引き連れて毎朝に散歩するのが習わしだった。その時に、歩きながら経済学の講義をし、翌日それを文章にして提出させた。

リカードの「原理」についても同じことが行われた。父ミルは、そうやって出来上がったレポートをさらに書き直させ、レポートを蓄積した。それがこの本の素稿となった。

もしそうだとすれば、「英語で書かれた最初の経済学教科書」を作りあげたのは父ミルの功績ということになる。

父ミルの功績としては次のポイントがあげられるだろう。

1.イギリス古典経済学の正規の、最良の後継者としてリカードを掘り起こしたこと

2.それをぺティー、A.スミスにつながる正統派の嫡流としてプロモートしたこと

3.リカードの理論を経済学の標準理論として脚色・整序したこと。マルクス流にいえば俗流化させたこと

4.マルサスからベンサムへとつながる功利主義者に、ブルジョア民主主義派公認の経済理論としての承認を取り付けたこと

15歳の「天才少年」J.S. ミルは、この時点では、父ミルのしつらえた舞台で踊るパペットに過ぎない。(超高機能ではあるが)

なお、希書自慢さんは「リカード経済学の初学者向け教科書」として本書を特色づけ、以下のように説明している。

この本の章立てが示すように内容は、生産(第1章)、分配(第2章)、交換(第3章)、消費(第4章)の4分法である。

森嶋流の区分では、リカードの主著の「経済学の原理」部分が本書1、2、3章と4章の1~3節、そして「課税」の部分が本書の4章の4~17節に該当するといえようか。

ともあれ、この本の出版後20数年を経て、マルクスはそのフランス語訳を手に入れ、これをもとにイギリス古典経済を学び経済の概念を把握した。それがパリ・ノートであり、とりわけミル評注であり、貨幣論を仲立ちとした「疎外された労働」概念であった。

マルクスの評価では、ミルはリカードの理論を体系的な形で叙述した最初の人であった。しかしミルは「リカード学派の解体は彼とともに始まる」(『剰余価値学説史』と手厳しい評価を下された。それもやむを得ないことであったが、紹介者としての宿命だろうと思われる。

この説明については、まったくコメントする立場にない。

すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

とりあえずの感想としてミルとマルクスとを対比してみると、

1.革命家対改良家の違い

ミルはそれなりに進歩的で、資本主義の矛盾も感じていたと思われるが、根本的な矛盾は感じていいない。ヨーロッパの動乱は、産業が隆盛するイギリスにとっては、文字通り対岸の火事であった。

マルクスはまず何よりも革命家であった。48年の革命に自らも参加し数度にわたり勾留され、その後イギリスでの亡命生活に入った。

彼にとっては理論はつまるところ革命のためだ。だから「資本主義の弔いの鐘がなる。収奪者が収奪される」というのは革命家としての願望であり、ほとんど信仰に近い。

ミルにとっては、たとえ忌まわしい側面を持っていたとしても、資本主義的生産システムそのものが自明の前提であるから、マルクスと似たようなことを考えても、その結論は真逆になってくる。

確かに「収奪者が収奪され」ても問題は解決しないわけで、システム構築課題としては、収奪者が収奪できなくなることのほうが本質的であるが…

2.民衆を見る目の違い

ミルは明らかにエリート主義者だ。参政権の拡大を主張したとしても、それは条件付きであり、根本的にはアリストクラシーの信奉者だ。ただこれには時代的制約があり、いまの世の中ならもう少し別の考えを持ったかもしれない。

「衆愚政治」をめぐる懸念は革命家にとって常に悩ましい問題だ。マルクスはこれを「労働者階級」という概念をつくり上げることによって克服しようとした。

そしてそのための土台を、科学技術革命の中に求めようとした。それはかなり説得力のあるものではあったが、結果的にはそれはスターリニズムを生み出してしまった。

この点については、これからも「真の人類の歴史の始まり」を目指す模索の時代が続くと思われる。

それまでの間をどうするか。それには、もう少し虚心坦懐にミルの意見を聞くべきだろう。

ミル親子関連の記事

すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

ジョン・スチュアート・ミル

実は経済学・哲学手稿がまだ終わっていない。

結局、へーゲルの論理学があって、それをフォイエルバッハが批判して、マルクスがそれを受け継ぎながらヘーゲル批判をやっているうちに精神現象学まで遡ってしまい、そのうちに「ヘーゲルのほうが正しいんじゃないか」と思うようになってしまい、そんなこんなの中で書かれた手稿だから、読み解くのがとても難しい。

地の文の中でヘーゲルの主張とフォイエルバッハの批判と、マルクス自身の考えが入り混じって並んでいる。

しかも訳文がきわめて読みにくいと来ているから、「挫折するのも当然だ」といまは開き直っている。

フォイエルバッハの所論は飛ばして、とりあえずヘーゲルの精神現象学をマルクスがどう読み解いたかが知りたいのだが、そのためにはヘーゲルの精神現象学を最低のレベルでも良いので理解しなくてはならない。

ということで精神現象学の解説本を読み漁るうちに討ち死にしたというのが現状だ。

そこで今度は、そちらはいったんあきらめて、ミルの方から攻めてみたいと思う。マルクスはけっこうミルを勉強している。それにもかかわらず、ミルへの評価はケチョンケチョンだ。一体それはなぜだろうかというのが、以前から気にはなっていた。

そこでミルの勉強を始めてみた。たぶんまた挫折するだろうが…

まずは年表から

ミル(John Stuart Mill) には詳細な自伝があるようだ。これだけでも変わった人物だ。

ミルに関する論考は、Web だけでも山ほどあるが、ここでは主として小沼宗一「J.S.ミルの経済思想」を参考とした。

ミルの思想はどうしても父ジェイムズ・ミルとの関係を無視して語ることはできない。そこで父ミルの立志伝から起こすことにした。

さらにミルの思想はどうしてもマルクスと関連付けなければならないし、ヨーロッパを覆った革命の波とも関連付けなければならない。そこで年表に赤字で付け加えることにした。


 

1773年 ジェイムズ・ミル(James Mill)、スコットランドに生まれる。生家は靴屋だったが、スコットランド財務判事のジョン・ステュアート卿にその才能を認められ,エディンバラ大学に学ぶ。

1802年 ジェイムズ・ミル、ロンドンに出て著述業で身を立てる。徹底した民主主義者で,富裕な人々の考え方を嫌悪していたという。

1806年 ロンドンで生まれる。父ミルはJ.S.ミルに徹底的な英才教育を施した。(ミルへの教育は,愛の教育ではなく恐怖の教育であった)

1808年 父ミル、「商業擁護論」を刊行。

1810年 父ミル、ジェレミー・ベンサムの知遇を得、ベンサム邸のとなりに寄寓するようになる。

1817年 父ミル、10年を費やした「英領インド史」を刊行。

1817年 デイヴィド・リカードウ、『経済学および課税の原理』を出版。出版にあたっては父ミルの強い勧めがあったとされる。

1818年 マルクスが誕生

1819年 ミル(13歳)、リカードウの『原理』を読む。引き続きスミスの『国富論』に着手。

1820年 ミル、1年間にわたりフランスに留学。父ミルの友人セイ(Jean Baptist Say, 1767-1832)の家にもしばらく滞在。また社会主義者のサン・シモンとも面会している。

1823年 ミル、東インド会社に就職。

1824年 ベンサムの出資により「哲学的急進派」の機関誌『ウェストミンスター・レヴュー』が創刊される。功利主義と民主主義に基づく議会改革運動。

「哲学的急進派」の理論的基礎の一つがマルサスの人口原理である。ミルは誌上で人口制限政策を主張した。

1826年 ミル(20歳)、ベンサム主義に対する深刻な懐疑を抱く。「幸福は目的ではなく、何かの目的を追求する中に見出される」と考えるようになる。

ミルはワーズワースの詩を読んでロマン主義に傾斜。幸福-感情に彩られた思想の状態を会得したとされる。

1833年 ベンサムの死後1年を機に「ベンサムの哲学」を発表。

ベンサムは「人類は幸福衝動という刺激によって支配されている」と考えた。しかしそれは、実際に人類を動かしている多様な刺激の一部にすぎない。
またベンサムは「その目的のためには冷酷で思慮深い計算家である」と考えている。それは人類が実際にそうであるよりも、はるかに誇張されている。

1833年 ジョン・テイラー夫人のハリエットと恋愛関係(不倫?)に陥る。半公認の三角関係は1849年まで続く。

1833年 ミル、『ジュリスト』誌上に「公共財団と教会財産」を発表。社会的害悪の主要な源泉は,無知と教養の欠如であるとし、政府による教育の充実を提唱する。

1842年 マルクス、ライン地方の『ライン新聞』に参加。革命家としての生涯に踏み出す。

1843年 「論理学体系」(A System of Logic)を発表。帰納法によって発見された経験法則を、再度現象の予測に適用して、法則の真理性を確認するという逆演繹法を確立した。

1844年 Essays on Some Unsettled Questions of Political Economy, を発表。マルクスが読んだのはこの本か?

1848年 マルクス、「共産党宣言」を発表。フランスで二月革命、次いでドイツで三月革命。

1849年 ロンドンに入り以後40年をロンドンで亡命者として暮らす。

1848年 「経済学原理」を発表。正式のタイトルは「政治経済学の諸原理」(The Principles of Political Economy: with some of their applications to social philosophy)である。

リカード以来の古典派経済学のフレームワークに従い、「豊かな先進国」イギリスの社会問題に対して、具体的で実現可能な処方箋を書く。
自由放任政策を支持する一方、ロバート・オウエンなどの影響を受けて社会主義的な色合いを持つ。これは折衷主義として、マルクスの激しい批判にさらされる。

1850年 雑誌に「黒人問題」を寄稿。

1851年 ミル、ハリエットと結婚。逆に母や弟妹とは不和になり、二人で別居することになる。

1858年 長年勤めた東インド会社が廃止となる。退社を機に夫婦で南仏旅行。旅行中にハリエットが急逝。

1859年 「自由論」(On Liberty)を発表。(これについては別途検討)

多数者の専制批判: ①たった一人の反対意見が真理かもしれない。②支配的意見は反対意見との論争によって、その合理的根拠が理解できる。③反対意見の中にも真理の一部分が含まれている(常にではないが)

1861年 ミル、『代議制統治論』を公刊。下層階級が選挙権をもつことに反対。教養人に複数投票権を与えることを主張する。

1863年 「功利主義」(Utilitarianism)を発表。

1864年 第一インターナショナル(国際労働者協会)結成。マルクスが指導者となる。

1865年 ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下院議員となる。約4年間の議員生活を送る。ミルは、労働者階級の選挙権、女性参政権を国会に提案。

政治的ポジションは急進的なリベラルであった。アイルランドの負担軽減、婦人参政権、普通選挙制などを主張。ジャマイカ事件で黒人反乱を擁護した。

1866年 資本論第一巻が発行される。

1869年 「女性の解放」(The Subjection of Women)を発表。

1870年 ミル、土地保有改革協会を設立。資本主義的な土地改革を打ち出す。国営・公営農業については認めず。

1871年 普仏戦争→パリコミューン。マルクスが「フランスにおける内乱」を執筆。

1873年 滞在中の南フランスで病死。

1873年 義娘ヘレン・テイラーにより「ミル自伝」が発表される。


ということで、ミルの人となりがほんわかと見えてきた。

1.まず驚くのは、父ミルの広範な人脈である。マルクスが資本論草稿の中で苦闘した相手の名前が、綺羅星のごとく並ぶ。

彼らは一つの星雲を形成していたのだ。そして、学会では進歩派として位置づけられていたのだ。そして父ミルが、かなりその接着剤の役割をなしていたようだ。

2.ミルの関心領域はマルクスのそれと著しく近接している。おそらくマルクスはイギリス滞在中つねにミルを意識していたはずだ。にも関わらず、マルクスは経哲手稿・ミル評注以降徹底的に無視している。まともな理論家として扱っていない。

 3.マルクス主義の分野では、ミルを折衷主義者とするレッテル貼りがもっぱらである。それには二つ理由がありそうだ。ひとつは彼自身がベンサムとワズワースとカントのアマルガムであるということ、もう一つはそれれを融合して新たな思想の地平を作るに至ってはいないということだ。

4.おそらくそれには理由がある。父ミルと違い、彼は党派に属さず孤高を貫いている。それではやはり結局は、人畜無害な評論家にしかなれない。しかしそのことと、彼の政治・経済理論が無力であるかどうかは別の話である。

ミル親子関連の記事

広井良典さんの「定常型社会」(岩波新書)という本ほど、何回も挫折する本も珍しい。

パラパラと読む分にはなかなか面白いのだが、身を入れて読もうとするとたちまち字面が負えなくなる。

なにか話が変な方向に行ってしまうのである。「おいおい、ちょっと待てよ。そこから先は道が違うんじゃないの」ということだ。

そして彼が何かしらの定式めいたものを打ち出す頃にはすっかり白けてしまうのだ。

結局彼の言う定常社会というのは停滞社会のことだ。「停滞しても安定した社会」というのが彼の理想社会、というと言いすぎかもしれないが、少なくとも「モデル社会」だ。

私は以前「平和な中規模国家」というイメージを提起したことがるが、それとは似て非なるものがあるようだ。

私はいまだにマルクスの言うように「現代社会は真の人間史が始まるトバ口の社会だ」と信じているから、とにかく宗派が違うのである。

広井さんの言葉をつなげていくと、昔の「主婦と生活」の特集にあった「やりくり上手で幸せな家庭を」という記事を思い出してしまう。

「資源は有限だ」という前提で「欲望も無限ではない」とか「高望みしなければ人間幸せ気分になれる」というお説教がつい思い出されてしまうのである。

この手の話は必ず天井論を前提にしている。

1.資源には天井がある。

2.環境には天井がある。

3.人間の欲望には天井がある。

これらのうちのどれか、あるいはそれらの組み合わせで議論を立ててくる。

古くはローマクラブの提言、最近では温暖化、国内限定バージョンでは飽食社会論などがそれである。

それらは大抵が善意の提言であり、儲け主義への警告であるから、積極的な意義を持っている。ただ、それを絶対化されたり生活信条化されると、ついていけなくなる。相容れないものを感じてしまうのである。

世界史的、あるはもっと振りかぶって人類史的には、人間は資源に天井がないこと、欲望にも天井がないことを証明してきたではないか。

と言っても、人類の歴史はたかだか数万年に過ぎず、その中でもしばしば絶滅の危機を乗り越えてきたので、これから先も絶滅の危機はやってくると考えておいたほうが良いのだが。

とにかく「天井論者」に言っておきたいのは、簡単に世の中を数値化して論じないで欲しいということだ。

世の中常に反省と積み上げで出来ている。環境が悪化すれば改善するし、エネルギーが不足すれば省エネ技術が発展する。技術が飽和すればそこに革命的が技術が登場する。

問題なのは社会の無政府性が社会進歩を妨げ、場合によっては社会を破壊してしまうことだ。そのことも世界史的に見れば極めて明瞭な事実だ。ローマ帝国が崩壊したように、大英帝国が没落したように、アメリカの世紀もいずれ終わりを遂げるかもしれない。しかしそれは人類の叡智が終わりを告げたわけではない。むしろ発展していったからこそ、古い入れ物が間尺に合わなくなっていったのである。


「盲、蛇に怖じず」(すみません、差別用語です)で「GDEはナンセンス」と書いたが、まんざら間違っていたわけではなさそうだ。
こんなページがあったので紹介しておく。リンクしようとしたら、間違えて元ページ閉じちゃった。すみません。無断借用になります。

GDEという言い方は、誤解を招く概念ですので使わないようになっていますが、これをGDP(支出側)と読み替えて考えてみますね。

先ほどの式では、

①生産 + 貿易差益 - 在庫品増加 = 国内総供給

国内総需要 = 最終消費支出 + 中間消費 + 総資本形成

ですから、少し書き換えて、

③生産 - 中間消費 = 最終消費支出 + 総資本形成 + 在庫品増加 + 貿易差益

となります。

一国全体では中間消費と中間投入は等しいですから、これの左辺がGDP(生産側)、右辺がGDP(支出側)です。

GDEだと『国内総支出』になってしまい、国内における総需要に見えてしまいます。

が、実際に意味しているのは「国内生産された付加価値に対する支出」ですから、総需要とは異なる概念です。

これでは、用語があまり適切とは言えませんので、2012年基準改定からこの言い方はしていません。

なんだそうだ。
の式が、私の提示した式ですね。ついでに国内総需要の式も提示してくれているので、三つ目の問題も一応解決。

それにしても、経理屋さんや統計屋さんの議論にはあまり加わりたくない。バランスシートの枠の中しか見ず、バランスシートで世の中がわかると思い込んでいる。貸借対照表の左と右がピタリと符合することに無上の喜びを感じる。これはフェティッシュな信心の世界だ。

国民総資産(gross national stock) の勉強

国民総資産は9294兆円(平成25年度末)とされ、米国に続き世界第2位となっている。今年の日本ハムのように、ソフトバンクにはとうてい及ばないが、他球団との関係では“ぶっちぎりの2位”となっている。

この国民総資産から総負債を差し引いたものを「国富」(正味資産)というのだそうだ。日本の「国富」は概ね3千兆円前後(対外純資産込み)で推移している。ということは金融資産=負債が6千兆円あるということになる。

人口1億とすると一人あたり3千万円ということか。ただしここに家計・企業・金融・公共の各部門がふくまれる。家計の総資産はこの内の1/3程度とされる。

「国富」は統計上は

1.生産資産である「在庫」、

2.「有形固定資産(住宅・建物、構築物、機械・設備、耐久消費財など)」、

3.「無形固定資産(コンピュータソフトウェア)」、

4.「非生産資産(土地、地下資源、漁場など)」

5.「対外純資産」

などからなる。金融資産はここにはふくまれない。

無形の文化資本などは勘定に入らない。


しかし、資産というのはあの貸借対照表の絡みで計上されるものであり、分かりにくいというより飲み込みにくいものだ。

竹中正治さんの記事(15年1月)から

NHKが「国民資産が前の年より7.2%増えて9294兆6000億円となった」と報道した。竹中さんはこれに噛みつく。

誰かの金融資産は別の誰かの負債であるから、国内での金融資産・負債は相殺してゼロになる。

株が上がっても、国債が大量に発行されても、それは貸し借りの関係が拡大しただけで、国富は増えない。

一国にとって意味があるのは、相殺されることのない非金融資産(主に土地と建物・設備など)と対外的な純資産(対外資産ー対外負債)だけだ。

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ということで会計学的にはすっきりするかもしれないが、これでは生産を引っ張り富を生み出す流動資産はすっぽり抜け落ちてしまう。簿価ばっかりの抜け殻のような指標になってしまう。

金融資産は、すべて貸し倒れになってしまえばチャラだが、実際にそんなことはありえないだろう。逆に、パブルで高騰した不動産(含み資産)がぺしゃんこになってしまう場合もある。

竹中さんには申し訳ないが、上図のイメージを踏まえたうえで、金融資産も含めた「国内総資産」を指標としていくことになるのではないか。



経済マクロの指標を「身体測定」の論理で考える

いくら経済の教科書を読んでも分からない。経済マクロの指標(ファンダメンタルズ)とは何かということだ。あれもある、これもあると並べ立てるだけでそこに論理的整合性はない。さらに経済マクロは財政マクロ、金融マクロなどと細分化される。

なにとなにをマクロ指標とするかで流派があるようにさえ見える。

そこで素人なりに考えてみた。わかりやすくするために、「身体測定」の論理を用いる。

1.身体測定

身体測定というのは、むかし小学校の頃やっていたもっとも単純な健康診断法である。基本的には身長と体重である。場合によっては座高と胸囲が加わった。短足の私は座高が嫌いだった。座高と健康の間に何の関係があるのか! 俳優やモデルになるわけでもないのに、胴長・短足で何が悪い!

おそらく意味があるのは平均値からの偏差であろうが、実際には大きいほうが良いと考えられた。「健康優良児」という表彰制度があって、昔で言えば甲種合格ということになる。

とにかくこれが一番プリミティブな健康診断である。ものすごく多くの仮定条件がつくので、それだけで決定的なことは言えないにしても、やはりまっさきに掲げるべきマクロ指標であろう。

身長・体重に相当するものは何であろうか。それは総資産であろう。資産と言っても色々あるが、とりあえずネットで総資産とくるめておく。

2.経年変化

身体測定は毎年やって経時変化を見ることによって、大きな意味を持っていくことになる。体は黙っていても成長していく。翌年の身体測定ではほぼ必ずすべての指標が増加している。この増加率が問題なのだ。

この増加は何によってもたらされたか。基本的には食べ物である。食べ物の栄養の内、半分が排出される。残りの半分が体に取り込まれ、その何割かは体を動かす動力として使われ、何割かは古くなった体成分と置き換えられる。すなわち消費される。そして残りの(多分1%くらい)成分が成長に用いられる。

この食い物の生産が国内総生産(GDP:Gross Domestic Product)にあたる。

3.ちょっと付け足し 「国内総支出」というナンセンス

これに対して国内総支出(GDE:Gross Domestic Expenditure)というのがある。排出分と消費分を合わせたものだとすれば、排出分が完全に再利用された場合、かつ総資産がゼロ成長の場合はGDP=GDEとなる。

ただ、ちょっとおかしいのは、食い物の生産には原料や材料が必要なのだが、それは総資産から振り向けられるほかない。だからGDPの分だけ総資産は目減りしているはずである。とすれば総支出と総生産が等しいとすれば、総資産は減っていくのではないか。

支出を生産的消費に向けられる部分と純粋に消費される部分に分けると、生産的消費への支出と生産額がイコールの関係になって、純粋消費分はそれでは埋めきれないのではないか。そう考えると生産分は消費分を上回っていると見るべきだろう。「支出」と「消費」という言葉の異同については注意が必要だ。

多分、国内総支出(GDE:Gross Domestic Expenditure)というのはいわば後知恵で、あまり意味のない統計数字だろう。我々の基本的関心は「売りと買い」にはない。欲しいのはその背後にある「生産と消費」である。「国内総消費」の数字(おそらくは剰余価値と照応)が独立して必要になるだろう。

三面等価:早わかりみたいなページを見ると、Y=C+I+G+(EX-IM) と御大層な式が掲げられている。Y(生産)はC(消費)の他にI(投資)、G(税金)、貿易収支が入りますよということだ。
この式を知っているかいないかが,間違った経済理解(一般常識)に進むか,本物の「経済学」に進むかの,分岐点なのです
しかし私に言わせれば、これは家計簿みたいなもので、「いろいろと金はかかるんですよ」と出口論を語っているにすぎない。
この式をもっと正確に書くなら
Y=Y'(生産経費)+I+G+(EX-IM)と書くべきだろう。
Y'を左に移せば
Y-Y'=I+G+(EX-IM)となる。
Y-Y'というのは生産活動により付加された価値だ。

4.食べれば大きくなる

GDPというのは生産活動に回る資産の割合でもある。成長期には驚くほどガツガツと食べる。エンゲル係数もこれに比例して上がることになる。

戦争中は金の指輪からお寺の鐘まで供出して兵器の生産に集中した。守るべき国民資産を削ってまで生産に回せばたしかに生産は上がる。

したがって、GDPは国民収奪の度合いを示す指標でもある。(正確には総資産に対する総生産の割合)

もちろん国や資本家に手持ち資産があれば、そちらを使えばいいのだが、新興国ではしばしば手持ち資産がないから、庶民の資産をひったくることになる。

ラテンアメリカ諸国の経済を分析するときにしばしばこの問題にぶつかる。GDPを収奪強度の指標としてみなければならない場面がしばしばある。

5.突然ですが、心臓突然死のお話

最近の発育曲線は知りませんが、30年ほど前は中学3年から高校1年生にかけてが危険な時期でした。

男子ではいろいろ不整脈が出る時期です。女子では生理不順、貧血、めまいなどが頻発します。

私はこう説明していました。急速に体は大きくなるが内臓は着実にしか成長しないので、ギャップが生じてしまう。そのしわ寄せが心臓に集中する。それは軽自動車のエンジンで大型トラックを動かしているようなものだと。

今では、もう少し心臓独自の事情が関与しているのではないかと思うようになっていますが、人に説得するにはきわめて有効な「仮説」であります。

GDP悪者論ではない。ただGDPを見るときには、その国の資本主義の歴史的発達段階、理論的には「総生産/総資産」の観点が必要だということを言いたかったのです。

6.とりあえずのまとめ

以上から、マクロ中のマクロというのは次のようなものであることが分かった。

国内総資産

国内総需要

国内総生産

国内総消費(生産的消費+純粋消費)

それらがどう関係するかというと、

①国内総資産から原資が抜き出され、生産に充てられる。

②原資(資本)は生産過程で消費され、それを上回る富(国内総生産)としてリターンされる。

③国内総生産から生産的消費分を国内総資産に戻す。残りの富が国民生活の糧として純粋消費されるが、一部は使わずに総資産に付け加えられる。

④増加した総資産の一部は生産のための原資として再利用される。そのための原資は生産が繰り返される度に増えていく。

⑤しかし元手が増えても自動的に生産が拡大するわけではない。総資産からどのくらいの資本が引き出されるかは、国内総需要、とくに純粋消費を目的とする需要によって規定される。

⑥生産の拡大は需要の拡大(欲望の増大)を必須条件とする。したがってGDP成長率は需要の拡大を間接的に示す指標である。

ここを把握するか否かが,間違った経済理解(一般常識)に進むか,本物の「経済学」に進むかの,分岐点なのです

これらがわかると、後はそれぞれを割ったりかけたりすれば出てくるものばかりである。

しかし国内総生産を除けばはっきりした数字では出てこない。だから貯蓄残高とか設備投資残高など出てくる数字を使って近似的に求めることになる。

それを称してマクロ経済学と言っているのではないだろうか。

間違っていたらごめんなさい。


その前のルイ・ボナパルトの治世ですが、これもボナパルティズムという規定が先走っています。今日の我々としては、初期ブルジョア支配の一亜型、ポピュリスト独裁制の亜型として見るべきでしょう。ラテンアメリカの政治史を見ると、この型の独裁制がずいぶんと出てきます。

私の注目するのは、このようなオポチュニスト政権のもとに資本主義政治における基本潮流が出揃って、横一線で張り合うという稀有の状況が出現した時代だというところにあります。なぜならフランスは当時世界で1,2を争う産業大国であるにもかかわらず、欧州最大の農業国でもあったからです。
そして、さすがにフランス大革命の第一世代は消えたとはいえ、いまだに40年前の7月革命、22年前の2月革命を闘った人々がバリバリの現役だということです。いまの日本を考えて見れば、60年安保はすでに55年前、70年安保・沖縄もすでに45年前です。プルードン、ブランキが未だ健在のところにマルクスとバクーニンが割り込んでくるのですから熾烈なレギュラー争いとなるのも当然でしょう。


宮内さんの論文を私なりにまとめてみます。


1.おおまかな布陣

第二帝政の初期の反政府運動は、少数の反動的な「ブルボン王朝派 」のほか、立憲王政主義の「オルレアン派 」、それより左寄りだが保守的なブルジョア「自由派 」、急進的なブルジョア「共和派 」に区別されていた。自由派は第二帝政を承認し、せいぜい議会の権限強化で満足していた。これにたいして共和派はジャコバン主義の継承者を自認し、「民主主義的で社会的な共和国」の基盤の拡大を志向していた。しかしその運動目標は所有関係の根本的改革をめざすものではなく、運動の進め方も議会中心主義となる。これらの政党は第二共和制下の主要政党であったが、ナポレオン三世のクーデタ前後に国外追放になっていた。これらの人々が恩赦で次々帰国しはじめていた。

2.共和派の分裂

1860年代に入ると、ブルジョア「共和派 」は分裂した。「急進派 」、「ネオ・ジャコバン派 」、「ブランキ派 」が並立状態になる。このうち、「急進派 」は1848年の2月革命で主要な役割を演じたが、第二帝政下においては自由派に接近していた。しかし帝政末期にいたると、急進主義の原点に戻ろうとする、より若い世代が登場してきた。「ネオ・ジャコバン派 」は、共和派のうち、より非妥協的で、大衆運動を重視する傾向のグループである。「政治改革は手段であり、社会改革が目的である」と主張する。メンバーの経歴、信条は多彩であった。裏を返せば、言論を主にする統一性のない人々の集合であった。のちにパリ・コミューン議会の多数派を占める。

3.ブランキ派の台頭

ブランキ派 」は社会主義者であり、革命家のオーギュスト・ブランキを中心にした秘密結社である。彼は1830年代から革命運動に加わっており、生涯の大半を牢獄でおくった。1865年にもはや60歳にもなるこの老人は、脱獄してベルギーへ亡命した。ブランキの周辺に、若い世代の心酔者が集まって、1867年にブランキストの秘密結社が再建された。組織の中核は、少数の学生、知識人で構成され、同調者は、1868年末に800人にのぼった。ブランキ派は、行動を重視する組織集団であり、規律と統制、大衆運動における献身的行動において、最もまとまった集団であった。ブランキ派とネオ・ジャコバン派は、のちに、パリ・コンミューンの議会多数派を構成する。

4.労働者の勢力拡大

これに加えて、1860年頃から労働者の意識が次第に変貌しつつあった。ジャコバンではなくサン・キュロットの伝統を引き継ぐ労働運動が高まってきた。…全国的に賃上げ闘争や労働時間短縮のためのストライキが頻発した。1863年の総選挙のときには、労働者の候補者リストが提出された。…その後もますます労働者による反政府運動の力が増してきた。そして、その政治代表として第一インターナショナル・フランス支部(1865年創立)が登場してきた。この中には純粋プルードン主義者と革命的集産主義者派があり、後者が主導権を握りつつあった。

5.労働運動の分岐

プルードン派 」は労働者を議会へおくりこむのではなく、既存の国家機関である議会から離れて、社会組織のなかの変革を、コンミューン連合として発展させようとした。そして「政治」を消滅させ、有機的な調和をもつ社会を思い描いた。

マロン、ヴァルランらマルクスの影響を受けた「革命的集産主義者派 」は、政治革命を通じて生産手段の共有制にもとづく平等社会の実現をめざした。一方で、プルードンの連合主義の影響を受け継いで、一切の革命独裁と政治権力には反対した。彼らはバクーニンの無政府主義にも強い影響を受けていた。


これが、パリ・コミューン直前の政治布陣です。なかなかに複雑でしょう。このほかにサン・シモン主義者やフーリエ主義者などの集団もありました。

エンゲルスは「空想から社会主義へ」の中で、ことさらにプルードンを無視していますが、根本的な思想は別として、社会主義のイメージの中にはかなりプルードン主義のアイデアが紛れ込んでいると見たほうが良いのではないでしょうか。

そしてマルクス主義の社会主義観はむしろパリ・コミューンの後のバクーニンらとの論争を通じて鍛えられていくと見るべきではないでしょうか。


年をとって、奥歯の根っこが、とくに虫歯というわけでもないのにグラグラし始める。要するに人体組織のいたるところが萎縮し始める。こっちは話が佳 境に入っているのに、まだラストオーダーも頼んでいないのに、店の奥のほうでは仕舞い支度を始めて、お皿のガチャガチャ言う音がイヤに耳につく年頃となり ました。

そういう年頃になって、不意にパリ・コミューンのことが気になって、調べてみると、それはそれで面白いのは面白いのだけど、ずいぶん買いかぶっていたのだなとわかってきました。レーニンはここからロシア革命のモデルを引き出したのだけれど、それはとんでもない間違いだと思い始めています。

事実は初老期に入ったマルクスが一過性に発狂して、若い気を出したということでしょう。パトスとしては良く分かりますが、それだけの話しです。ゲバラを革命のモデルにしてはいけません。むしろこうやってはいけないという見本として記憶に留めるべきでしょう。

赤旗文化面のトップに大々的にオーウェルの「1984年」の紹介が載せられた。
及び腰の賛辞が並べられていて、正直のところきわめて座り心地が悪い。
原因ははっきりしている。我が日本共産党がかつてスターリニズムを奉じていたことへの自己批判がないからである。
もちろん我々は当事者ではないから、オーウェルに向かって「心からのお詫び」を述べる必要はない。
スペイン人民戦争における政治的諸潮流には、そのそれぞれにそれなりの問題もあったし、そのなかで頑張りもした。いまはまず歴史として虚心坦懐に評価していくほかないことである。
「フランスにおける内乱」の諸規定と同じく、それを今日における闘いの指針とするのはナンセンスである。
爺さんがファシストだった、しかし孫は共産党になった、ということはありうるわけで、そのさいに孫が爺さんの悪行について「心からお詫びする」必要はない。
ただ国家・政府というのは否応なしに継続性を持つわけだから、爺さんの代にやったことでも責任は取らなければならない。
政党というのは国家や政府ではないから、なかなか微妙な位置にはある。
ただ創立90年とかいう伝統を誇りにしてそれを全面に打ち出すのなら、かつてスターリニズムを信奉していた事実は公然と認め、はっきりと自己批判すべきだろう。
そうすれば、奥歯に挟まったものがとれて、この文章ははるかに読みやすくなる。率直に言えばこの「1984年」という本にも色々問題点はあるのだ。
まぁ、とりあえず、次の党大会に向けての第一歩というところか。

「フランスにおける内乱」という文章は、マルクスにしては珍しくスラスラと読める。
なぜなら継起する事態と同時並行で描かれているからだ。彼には国際労働者協会(第一インター)を通じて山のような情報が集まってきていた。それを取捨選択して彼なりに料理して間髪をいれずに発表したわけだ。
しかもそれを「私の本です」というよりは、「第一インターの見解です」みたいな形で出しているわけだから、「資本論」のように考えぬかれた書物ではない。
彼の見解の中で唯一確実なのは、「革命は出来合いの国家機構をそのまま用いることはできない」というものだ。
ただそれも、「国家機構を粉砕せよ」とか「プロレタリアの独裁」というふうに先鋭化することではない。まだ、彼の中では未分化なまま提起しているだけなのだ。うんと一般化すると、「新しい酒には新しい皮袋が必要」ということになる。
人類の生産力が一段とアップする際においては、それに適合するもう一回り大きいガタイが必要なのだ。そのための「脱皮」の作業が革命の意義なのだろう。

第二にこの本は、分析という点では、コミューンよりもむしろそれが打倒したボナパルティズムに精彩を発揮しているということである。資本主義は一方ではブルジョア民主主義を生むが、他方ではその奇形としてのボナパルティスムを生む。現在の政治情勢を見る上でもそれはきわめて有用なツールである。有用なだけに乱用は危険であるが…

もう一つ、コミューンにおいては労働者派が主体ではない。職人や手工業者を基盤とするプルードン主義や、小ブルの陰謀家なども動いたが、少なくとも最初にことを起こしたのは「本土決戦派」だ。ただそれらの威勢のいいだけの連中は、いざ決戦となると縮こまるか逃げ出すかしてしまったから、最後に残った労働者が割りを食ったというのが経過だろう。
3月末のコミューンと4月末のコミューンは明らかにその性格を変えているから、これらをひとっからげにして美化したりクサしたりするのは理屈に合わない。
ただ当事者たるマルクスにとっては、そんなことは言っていられない。とにかく一所懸命肩入れするほかなかったのである。
これらの一連の経過は、私には「光州事件」を思い起こさせる。その瞬間、参加者はみな聖人であったろう。戦い終わった後は、死者に鞭打つことはできないから、純粋な(マキャベリ的な、あるいはクラウゼビッツ的な)政治分析ではありえなかったと思う。
そのことを悪いと言っているのではない。だれだってそうしたろう。しかしだからといって、この文章をその後の世界革命の導きの書とすることはできないだろう。
それはたとえば、ロバート・リードの「世界を揺るがせた10日間」を読んで、革命の真髄を分かったつもりになるのとおなしではないか。
とりとめないが、とりあえず感想まで。

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