鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

前の記事でエジンバラ大学が「新哲学」としてニュートン理論を導入し、その影響を受けたスチュアートが「経済学言論」を書いたとあった。

どうもこの辺の経緯がよく分からなくて、ネットをあたってみた。

とりあえず西脇 与作さんのブログに「微積分の背後へ」という記事があった。読んでみたが、ちんぷんかんぷん。とりあえずゴシップ記事的にまとめておく。

ことのはじめはニュートンの秘蔵っ子学者マクローリンがエジンバラ大学に赴任したことにある。

マクローリンは大学の改革を試み、その土台にニュートン理論をすえた。そしてこれを「新哲学」と呼んだ。

バークリのニュートン批判

1734年、これにバークリが噛み付いた。それが『解析家-不誠実な数学者へ向けての論説』(The Analyst: or a Discourse Addressed to an Infidel Mathematician)という論文である。

不誠実な数学者と名指されているのはニュートンその人である。

バークリはどこに噛み付いたか。

ニュートンの微分積分学の基礎には「無限小」といいう概念がある。

ニュートンはこの概念を用いてライプニッツ派(大陸派)と微積分のプライオリティを争っていた。

バークリは「無限小」=ゼロは、帰納的には証明できないと主張した。それは存在論的な誤解にもとづく論理的な誤謬なのだとし、彼岸性を主張した。

バークリは形而上学が数学の限界を定め、それが内包する哲学的問題を明らかにすると述べた。微分積分学は論理的に緻密でなく重大な難点がある。

「それを放置しておいて、教会の教えの非合理性ばかりを批判することができるか」という言い分だった。この男がずるいのは、いつもドローに持ち込めれば勝ちという作戦をとることだ。不可知論者の真骨頂だ。

無限小と無とゼロ

無限大・∞という概念があるのだから「無限小」もあってよい。それはゼロと同じだがゼロとは違う。

バークリの批判は、存在論的なものと論理的なものとの二つに分けることができる。

存在を極限あるいは無限小に帰することは正当化できない。それに相当するものは何も存在しない。

論理的な観点からいえば、「無限」の比較が行われていることである。

また、バークリは物体の存在なしに空間を考えることはできないとして、ニュートンの絶対空間の存在を否定した。

マクローリンとエジンバラ大学

18世紀スコットランドは自然科学の黄金時代だった。

1717年、エディンバラ大学の卒業生たちによって伝説的なランケニアン・クラブが結成された。そこではもっぱら哲学的、宗教的問題が議論された。

ランケニアンという名は、クラブの会合が行われた居酒屋の主人の名前からきている。

その後、人々や医学者たちは正式に哲学協会を発足させる。マクローリンはその中心人物であった。

ランケニアン・クラブにはじまるスコットランド哲学の形成は、クラークの自然神学や、これに対するバークリの批判を検討することから始まった。

マクローリンは無限小は証明を簡略化するためにだけ使用されたと主張した。さらにマクローリンは、極限によるニュートンの証明が「アルキメデスの方法」(帰謬法)の一般化だったとする。

後は面倒なので省略。

近代開始期におけるスコットランドの意味

実は「医師マンロー伝」を執筆中であるが、多分挫折するだろうと、密かに思っている。

その理由は近代開始期よりマンローの出現に至るまでのスコットランドが、なにか宝の山でもあるかのように多くの頭脳を生み出しているからだ。
それに気を取られていると、肝心のマンローの話がちっとも進んでいかない。

スコットランドの歴史への登場、それはまずスミスとスコットランド派の経済学者の著作から始まった。それはスチュアート・ミルの登場をもっていったん終了するのであるが、それはエジンバラ大学医学部の系譜へとつながっていく。

すなわちチャールズ・ダーウィン、コナン・ドイル、そして我らがドクター・マンローである。

イギリスの中でも決して先進地域とは言えないスコットランド、政治・経済的にはイングランドの後塵を拝していたスコットランドが、なぜ今も光り輝くような経済学の古典を生み出したのか、おそらくその精神がエジンバラ医学の骨格を提供しているのではないか。

一応、ウィキから経済的背景をレビューしてみた。

1688年の名誉革命によって、スコットランドはインの支配下に入った。人口で5倍、経済力で38倍の差があった。

1707年 スコットランドはイングランド王国と合同して、グレートブリテンを形成。

それまでスコットランドの伝統的な味方はイングランドではなくフランスだった。知識人は行動の指針をフランスの啓蒙主義に求めた。

1745年 旧王の勢力がスコットランドで反乱。一時はロンドンの北200キロのダービーまで迫る。ジャコバイトの反乱と呼ばれる。
このあとタータンとキルト、バグ・パイプの使用が禁止された。

1760年以降 ヨーロッパの辺境から産業革命の中心地へと変身していく。

製糸や石炭鉱業が盛んになる。ジェームズ・ワットが発明した蒸気機関車は産業革命の中心となる。

スコットランドが経済成長の中心となった理由。
大学・図書館が整備されたこと。
農牧地の囲い込みが大規模に行われ、都市に豊富な労働力をもたらしたこと。
人件費がイングランドより圧倒的に安かったこと。
があげられている(ウィキ)

18世紀スコットランドの学問状況

これは膨大な作業になるだろうと思い、つい怯み続けてきた。

このたび、インターネットで下記の論文に出会い、議論のヒントが多少見えてきた気がする。
とりあえず、読書ノートとしてアップしておく。


出だしの部分は快調なので、そのまま引用させていただく。
十八世紀後半期をもって経済学史上の最も決定的な画期のひとつと見ることができる。
ケネー『経済表範式』(1767)、ジェイムズ・ステュアート『経済の原理』(1767)、アダム・スミス『国富論』(1776)という3つの巨大な経済学体系が、その象徴として聳え立ったからである。
この内、後ろの二つは経済的に後進国であり、政治的にイングランドに従属していたスコットランドの作り上げたものである。
これら「スコットランド歴史学派」は、一つの謎である。
田添が考えるには、

イングランドは、直面する経済・社会問題を次々に認識し、その場その場で対策を樹ててきた。

だがそれでは体系的経済学を発想することさえできない。スミスはそれを「学問研究を全く放棄してしまった」と批判した。

一方、後発のスコットランドは切羽詰った位置に置かれていた。イングランドやフランスのような先進経済に飲み込まれまいとすれば、それに追いつき追いこすことが至上命題であった。

そのためには両国が歩んだコースをたどり、それをセオリー化し、市民社会の形成地図を描き出すこと以外になかった。

このようにして諸範疇を検出し編成する、つまり体系をつくり出すことがスコットランドの使命だったのである。


スチュアートとスミスとマルクス

ここは下世話な話も交えて大変楽しいところであるが、本筋から外れるので省略する。

ごく荒っぽく紹介しておくとスチュアートの著作は歴史的、発生的議論を踏まえておるので大変説得力があるのだが、スミスは彼の議論の曖昧さをついて、要するに重箱の隅をほじくり、取れる揚げ足を取りきってスチュアートを投げ捨てるのに成功した。

その経過を知ったマルクスはスチュアートの歴史的論理を用いてスミスを批判するのだが、結果的には勝手な解釈で議論を混乱させ、しかもなおかつスミスを批判しきれていない、という惨めな状況に陥っている、というのが田添さんの議論のようだ。


スチュアートと「超過利潤」論

田添はスチュアートの理論の内実にも踏み込んでいる。

ステュアートは生産過程を流通から把握するという観点を貫き、利潤範疇に対する内在的な考究を進めた。こうして利潤が流通過程から発生するだけではなく、生産過程にすでに基礎をもつことを明らかにした。

さらにその事をもって、生産過程を中核として近代市民社会が形成される過程を解き明かした。これは重商主義的理解にとどまっていたスミスを凌駕するものである。

スチュアートは有効需要を社会的な発展の原動力として把握した。ステュアートにあっては、賃金が生活資料の価値を規制している。

スチュアートとニュートン

エディンバラ学派については簡単に触れれれているに過ぎない。

ステュアートが学んだエディンバラ大学では18世紀中頃に教育改革が進められた。「新哲学」としてニュートン理論が導入され、それに基づいて教育体系の刷新が進められた。

こうした変革の風はステュアートに強い影響を及ぼした。実証的な歴史過程をふまえた理論的考察が何よりも重視されるようになった。

これ以上については不明である。ニュートンとスコットランド学派については別途検討して見る必要がある。

しかしそれにしても、ここまでふくめて医師マンローを描き出すのはなかなかに大変である。


(4月7日 更新)

我々にとって、たしかに「社会主義の大道」を探ることはだいじなことでしょう。未来社会論というカテゴリーはそれを指しているのだろうと思います。

しかしそれ以上に必要なのは、「社会主義の大道」ではなく「歴史の大道」なのではないでしょうか。
スターリンも見てきて、毛沢東も見てきて、場面によってはそれを反面教師に、それを乗り越える形で、私たちは「社会主義の大道」を学んできました。

ただ綱領(マニフェスト)的見地からみるならば、「社会主義の大道」はもはや主要な問題ではありません。大事なのは、あれこれの路線が社会主義の大道か、それとも脇道とかという「内部論争」ではありません。

大事なのは私たちの目指す「社会主義の大道」が、「歴史の大道」に従っているかどうかです。そのことによって、私たちは社会主義の道が「歴史の大道」であることを主張できるのです。

「歴史の大道」とは何でしょうか。それは20世紀において人類が果たした前進を引き継ぐことです。二つの世界大戦の再現を許さず、平和の道を歩むことです。そして、すべての人間が “人間として平等” であることを認め、人類愛にもとづく世の中を目指すことです。

それが20世紀から引き継ぐべき最大の任務でしょう。

それは世界大戦を引き起こしたものが誰なのかを知ることです。その人類の敵どもが、何を目指して何を行ったのかを知ることです。

同時に、人類の敵と闘い彼らを撃破したのが誰なのかを知り、そのためにどのくらいの血が流されたのかを学ぶことです。

「歴史の大道」は単純に与えられたものではありません。それは私たちに進むべき道として指し示された道なのです。

私たちは「歴史の味方」だった人たちに寄り添い、流された彼らの血を無駄にすることなく、平和と民主主義、人類愛のために戦わなければなりません。これが実践としての「歴史の大道」なのです。

歴史は無謬ではありません。

変革を目指す多くの人たちは、その願いとは別に多くの誤ちを積み重ねてきました。その中には許せない誤ちもあり、甘受せねばならない誤ちもあっただろうと思います。むしろ、正しいものなどなかったという方が正確かもしれません。

肝心なことは、人類は20世紀にどう進歩したのかという視点から流れを見極めていくことです。さまざまな誤りもふくめて、歴史を前進させていく人間の歩みを、全体としてポジティブに受けとめて行くことがだいじなのです。

私たちは審判者ではありません。私たちの仕事は、「社会主義の大道」の視点からあれこれ詮索することにはありません。歴史の審判は歴史がするのです。

メトロノームの針が右に傾いたら反動で左に傾いたら進歩というわけではありません。人間は右足と左足を交互に前に出しながら歴史の歩みを進めていくのです。

だからリアルでしっかりした「20世紀論」を構築し、その上に「21世紀論」と「未来社会」を積み上げなければならないのです。中国批判の上にセメダインで接ぎ木するようなものではありません。

2回めを迎えて、志位さんの綱領改定の講義がますます冴え渡っている。
志位さんの批判の刃は鋭く、快刀乱麻、とどまるところを知らない。
わたしごときオールド・ボルシェビキには、我が身を苛まされる如きマゾヒスティックな快感すら覚える。

今更ながらの話になるが、2000年を迎えるにあたって「来たるべき世紀」の物語は語ったが、20世紀論を語り尽くさなかったことが後悔される。

とくに今回ロシアを旅し、独ソ戦とペテルブルクの包囲戦の実相を知るに及んで、ファシズムというのが20世紀を彩る最大の出来事だったということ、ファシズムとの闘いこそが、民主主義論にヒューマニズムという価値観を付加し、「現代民主主義」の考えを強固にささえていることを実感した。

思えば、20世紀は戦いの世紀だった。本当に数々の戦いがあり、それを世界の民衆は戦い抜いた。そして私達に平和の時代を引き継いでくれた。

ボルシェビズム、スターリン主義、毛沢東主義… いろいろ言われておりそれらに対する批判はまことにもっともなことではある。我々は苦渋を以て「社会主義の失敗」を認めなければならない。

しかし、それにも関わらず、ソ連や中国の人民は多大な犠牲を払って、世界からファシズムを放逐する闘いの先頭に立った。その事を忘れるべきではない。

その事実に思いを致し、その戦いに敬意を払うことは、現下の政策に批判を加えることとはまったく矛盾しない。むしろその敬意こそが、ソ連や中国を批判するうえでだいじな背景となっているのである。



以下は
(広島経済大学研究論集 1987) の摘要である。
2018.07 髙山裕二「ポピュリスムの時代」の情報も追加しました。ただし高山さんの主張には相当異論があります)


かなり辛口の評論になっているが、30年後の今書けば、かなり受け取り方は違ってくるのではないかと思う。今日読んでみると、清家さんが弱点と見ていることが、むしろ非常に新しい視点を展開しているようにも思える。
清家さんは、ルルーが思想家ではなくジャーナリストで、宣伝コピーづくりの名手と評しているように見えるが、たしかに卓見である。しかしかなり水準の高いジャーナリストであったことも間違いないところであろう。

ルルーの思想

1.ソシアリスム(socialisme)の提起

ルルーは宣言する。
私は著述家ではなく信仰者である。その信仰の対象は人類全体 Humaniteである。私はこの信仰を理解し、それに仕えたことを幸福に思う。
ソシアリスム(socialisme)は引力の如き科学的法則である。それは社会的倫理としては協同(アソシエート)である。それは実践としては、多数者階級の物心両面での向上である。

その元になるのは人々の心の繋がり(連帯)であり、生き生きとした日々の暮らし(知情意の備わった営み)であり、それが世代を超えて巡っていくこと(円環の連鎖)である。

2.サン・シモン派への接近

ルルーの評論家としてのスタートは、メッテルニヒ反動のさなかであった。一方でイギリスを起点に産業革命の波が広がり、自由を標榜したブルジョアが革命を裏切り「ブルジョア貴族制」を構築しつつあった。

フランス大革命の共和主義は、カルボナリ党やフリーメーソンを経由してサン・シモン派に流れていった。ルルーもこの流れの中に居た。

サン・シモンの主張
人間による人間の搾取がこれまでの人間関係の基礎だった。これからは協同した人間による自然の開発が進められなければならない。
そのためには、最も数の多い貧困者階級の生活を物心両面から改善すべきである。
理想の社会建設を志向する精神が彼らを惹きつけたと考えられる。


3.サン・シモン派からの離脱

ルルーはジロンド派のコンドルセが唱える「進歩と完全化」を称揚した。そしてコンドルセを引き継ぐサン・シモンに影響されるようになる。

しかしサン・シモンによる「進歩と完全化」は、やがて「宗教」へと収斂していく。「組織は調和的になるほど、宗教的性格を帯びるようになる」のだそうだ。

ルルーはサン・シモンの調和的世界を尊重したが、宗教化は首肯しなかった。絶対者を前提とするかぎり、自由も平等も否定されていく可能性があると見たためである。

彼はサン・シモン派から離れ、「独立評論」誌を立ち上げた。ここから彼の眞面目が発揮されるようになる。

ルルーとサン・シモン派の間にはもう一つの決定的な違いがあった。

サン・シモン派はエリートに指導される社会を構想した。ルルーは共和主義者でありデモクラットであり社会主義者であった。

ブルジョワジーの特権は認めない。ルルーは特権階級の支配の代わりに、代議制政治を「進歩のための必然的道具、不滅の形態」と位置づけた。


4.ルソーとルルー

フランスに社会主義理論が形成されていくのは7月王政下である。何故か?

ナポレオン後の反動政治は、フランス革命を闘った人々にとって耐え難い屈辱であった。さらにフランスにも波及しつつあった産業革命が、多くの貧困層を生み出し、人間の不平等に拍車をかけた。

だから自由・平等の精神は、否応なしに社会主義の色彩を帯びざるを得なかった。これがその理由である。

ルルーは人民主権を唱える点ではルソーの後継者であったが、契約理論は受け入れなかった。彼の立場は一種の全体論であった。
人間一人一人は社会全体の反映である。各人はそのままで人類全体であり、一個の主権である。
そして主権論の立場から、それを否認されたものとしてプロレタリアを位置づける。

ここで有名な言葉「自由・平等・博愛」が飛び出す。
フランス革命と全人類の遺産である,自由・平等・博愛,一言で言えば人民主権がないがしろにされている。
これは「独立評論」の1842年9月号に載せられた「金権政治論」の一部のようである。


5.多数者革命の提案

現在おこなわれているブルジヨワジーとプロレタリアとの闘争は,労働要具を持たない階級とそれを持っている階級との闘争である。
ルルーはこう宣言する。

しかし、ルルーは契約論ではないので、労働者階級の階級闘争という視点には立たない。
彼が念頭に置くのは、労働者階級と言うよりはフランスの3,500万の国民のうちの3,400万人のたたかいである。まさに多数者革命なのである。

彼は、無産階級が政治的権利と経済的権利をもとめて議会の改革と憲法改革に立ち上がるよう訴える。

以降の論考については省略する。


ウィキペディアのルルーに関する記事は簡潔に過ぎ、不当に過小評価している。

ピエール・ルルー(Pierre Leroux)
1797年4月7日 - 1871年4月

ウィキペディアによれば、ルルーは思想家と言うよりは一種のコピーライターで、「三の組」とよばれる基本原理まとめるところに妙技がある。

例えば神におけるそれは「力、知性、愛」、人間におけるそれは「感覚、感情、知識」である。社会経済は家族、国家、財産から成り立っており、という具合に続いていく。

ということで、かなり辛口の評価となっている。
この記事の著者によれば、この評価は Encyclopædia Britannica によっているらしい。

ただこの記事は著しく不十分であり、例えばフランス革命の3つの標語「自由、平等、博愛」の作者であること、社会主義という言葉を、今日の用法で用い始めた人物であることが書かれていない。(初期社会主義 人物と思想

もう少し調べて書いた紹介文が必要であろう。

下記論文が見つかった。この文章からとりあえず年譜を作成する。

広島経済大学研究論集 1987


1797年 パリ郊外に職工の息子として生まれた。父親の死により

1808年 リモナデ、イエ(ソーダ水販売業)の父が死去。

1809年 パリ市の奨学金を得てレンヌのリセに通う。

「ルルーは自らの稼ぎにより家族を支えることを強いられた」とか、「学校を退いて石工として働いた」というのは嘘。
学校に入る前に父は死んでいる。石工(macon)ではなく、フリーメーソンになったという意味。

1814年 リセを卒業。植字工として身を立てる。

1817年 イギリス旅行。進歩的政治に触れ社会改革を志す。熱烈な炭焼党員となる。

炭焼き党(Charbonnerie)はイタリア、フランスを基盤とする革命的秘密結社。フランスでは1820年末時点で 8万人が加盟。

1824年 「le globe」(地球)紙の創刊にたずさわる。

「ル・グローブ」を編集したのはデュボワであった。デュボアはルルーとはリセ時代からの旧友。当時は(師範大学を出てリセ・シヤルルマーニュの教授を勤めていた。ルルーはデュボワの“控えめな共同作業者”であった。

反動的な王制l復古時代に芸術・宗教・政治の自由を鼓吹し、欧州諸国に広く講読された。

1825年 ルルー、サン・シモンと知遇を得る。

1827年 ルルー、「ル・グローブ」に最初の署名記事「ヨーロッパ連合論」を発表。徐々に雑誌の中核の役割を果たすようになる。

1830年 

7月 第二次フランス革命。「ル・グローブ」グループの多数派が新政府支持に乗り換え、雑誌は経営危機に陥る。ルルーは「ル・グローブ」のgerant (発行責任者)となりフィリップ派との合流を拒否。

1831年

1月 「ル・グローブ」はサン=シモン教の準機関誌になる。ルルーとサント=ブーヴは共同声明『無能な自由主義との訣別』を発表。

2月 サン=シモンの教義の普及のためブリユツセル, リエージュ, リヨン,グルノーブルを歴訪。

11月 ルルー、サン・シモン教の教祖アンファンタンと衝突。サンシモン教と断絶。

11月 ルルー、「ル・グローブ」を離れ、「百科評論」に移る。「百科評論」は1819年創刊の自由主義の雑誌出会ったが、サン=シモン教会離反グループの機関誌となる。1835年版まで続く。

1833年 ルルー、レノー と共に『新百科全書』の刊行に着手。「19世紀における人類の知識の一覧表を提供する,哲学,科学,文学,産業辞典」をめざす。

33年 レノーと共に, 『人権協会共和派原理』を発表。

1834年 評論集『個人主義と社会主義』を発行。

1835年 6月 サンド(当時31歳)はサント=ブーヴの紹介でルルーと知り合い、熱烈なルルー賛美者となる。金銭的援助を惜しまなかった。

ショパンとワケアリになりマジョルカ島に渡ったのは38年。

1840年、論文『De l'humanite 』を発表。人道主義哲学に基づくものとされる。

1841年11月 『新百科全書 』が終刊。ルルーはジョルジュ・サンドとともに『独立評論』を創刊する。1年後にルイ・ブランに経営権を引き渡す。

1845年 サンドの援助を得て雑誌「社会評論ープロレタリア問題の平和的解決」を発刊する。

1848年

2月 2月革命が勃発。ルルーは共和制を主張する。

4月 ルルーは立憲議会に立候補するが落選。6月の補欠選挙で選出される。

6月 6月蜂起の直後,ルルーは「勇敢に敗北者の弁護をひきうけた」(コミューン政府の弔文)

49年5月 立法議会選挙。ルルーは再選を果たす。自ら経営する日刊紙『真正共和制』を発行。急進的社会主義者としばしば対立。

1851年12月 ルイ・ボナパルトのクーデターのあとロンドンに亡命。ルイ・プラン、カベらと社会主義雑誌の発行を企画するが果たせず。ジャージー島での農業経営に入る。

1858年 ジャージー島で哲学,政治,文学を扱った雑誌「希 望」を刊行。

1859年 大赦の後帰国するが、政界を事実上引退。マルクスはインターナショナルの中央評議会にルルーを指名。

1871年 4月12日 脳卒中にて死亡。



1.時代遅れになった「科学的社会主義」の表現

「社会主義の大道」論の根拠になっているのは、おそらく「科学的社会主義」論でであろうと思う。

しかし「科学的社会主義」言い方はもはや正確とは言えないと思う。科学的社会主義という言葉は、私の記憶では、第十何回かの共産党大会で打ち出された言葉だろうと思う。それまでは「マルクス主義」とか「マルクス・レーニン主義」と言っていたのを、それでは個人崇拝になってしまうというので言い換えて使うようになったのではないか。

この言葉が生まれた根拠はエンゲルスの書いた「空想から科学へ、社会主義の発展」という入門書から来ているものと思われる。

改称の狙いは社会主義的思想をマルクスの片言隻句に求めるのではなく、その後の理論的成果も組み入れて幅の広い思想として捉えようとするものであった。

しかし昨今のような「野党は共闘」の時代には、かえってその狭さが目立ってしまう。マルクス主義的な社会主義思想を「科学的」と断定することは、それ以外の社会主義を「非科学的」と切り捨てる趣きがある。

だから逆に、「マルクス主義的社会主義」と相対化した言い方のほうが、共闘勢力からすればむしろ自然ではないのかとも思う。「マルクス主義的社会主義」もあれば、「ケインズ左派的社会主義」もあると言った表現である。

2.社会主義の淵源は百科全書派にある

そもそも社会主義は人々が思い浮かべた明日の世界像の集大成なのだ。

それと、労働運動や社会実験を廃棄にした考えではなく、もっと哲学的に考え抜いた社会主義の概念、すなわち「人道的社会主義」の考えからもっと学ぶ必要があるのではないか。

社会主義は個人主義や自由主義より劣ったものではなく、それらの弊害に苦しめられた人々から生まれた新しい考えである。

彼らは旧世界にいたずらに反抗するのではなく、それを不正義のシステムとして認識しようとした。そしてそれを克服するための一段高い倫理を考えぬいた。だからそれは現世の掟より新しく、高級で崇高なものなのだ。

空想的であることは悪いことではなく、素敵なことなのだ。人道的であることは弱々しいことではなく、強靭な思想と信念であることを表現している。

客観的に見れば、マルクスの明らかにしたのは、それが夢ではなくしっかりとした根拠を持っているということなのであって、夢が正しいとか間違っているとかいう評論ではない。

ここではマルクスの主張に基づき形成された社会主義イメージを「マルクス派社会主義」としておく。そして19世紀前半を中心に出現した諸思想は、「初期社会主義」として一括する。


3.自由・平等・博愛こそ、社会主義の根幹

エンゲルス以来、空想的社会主義といえばサンシモン、フーリア、オーウェンと相場は決まっているが、どうも私は違うように思う。

社会主義はあれこれのモデルの中にあるのではなく、三次にわたるフランス革命を通じて研ぎ澄まされてきた思想なのだろうと思う。

「社会主義」については、まずそういう押し出しをすることが大事ではないかと感じる。

そういう点で、フランス革命をさらに前に進めようとした思想家の中には、まだまだ注目すべき人がいるのではないかと思う。

ガローディ『近代フランス社会思想史』(1949)では以下のような人々が列挙されている。

①ラムネーのキリスト教的封建的ロマン主義

②ブルードンのブルジョワ的無政府主義。

③その間をただようサン=シモン主義者ピエール・ルルー

④フーリエ主義者ヴイクトル・コンシデラン、

⑤サン=シモン主義からフーリエ主義に移行したコンスタン・ベクール。

⑥ジャコパン民主主義の伝統に立つ共産主義者ラボンヌレー,ラオチエール, ピヨーなど。

⑦19世紀フランスの唯物論的共産主義の代表者であるデザミ、ブランキ

ほとんど聞いたこともないような人物ばかりである。これらの人物像から集合論理として社会主義を探っていく作業が必要だ。それこそが「社会主義の大道」につながる営為ではないかと思う。


4.イギリスとドイツの社会主義

イギリスで思想家として注目するとしたら、それは父ジェイムズ・ミルではないか。「ミル評注」のミルである。

もうひとり、フランス以外で注目しなければならないのはヘーゲルであり、資本主義の成長の必然性とともにその没落をも予想しているのは流石である。


1821年 ヘーゲル、「法の哲学」を発表。

1821年 ジェイムズ・ミル、政治経済学綱要を発表。

1828年 ブオナローティ、『バブーフの、いわゆる平等のための陰謀』を上梓。七月革命の結果に失望した共和主義者の関心を集める。
バブーフは共産主義という言葉を最初に用い、“完全な平等”という意味を込めた。政府機構の奪取と改革を唱えるが、社会システムでは農地分配の改革を求めるにとどまった。

1831年 リヨンで職工の蜂起

1832年 ピエール・ルルー、「socialisme」を「personnalite」の対比語として用いる。
原義としては「社会化論」というニュアンスとされる。ルルーはフランス革命に際して「自由、平等、友愛」の語を普及させた人物である。

1848年

2月 『共産党宣言』が発表される。社会主義の理論に資本主義の分析を加え、科学的に強化する。

フランス 2月革命、ドイツ3月 革命

1862年 第一インターナショナルが設立される。労働組合の奨励や労働時間の短縮、更には土地私有の撤廃などを決議する。

1871年 パリ・コミューン。世界初の社会主義政権が誕生。

1984年 イギリスでフェビアン協会が発足する。

1889年 第二インターナショナルが結成される。議会制民主主義による平和革命の路線は「修正主義」と呼ばれ、暴力革命やプロレタリア独裁を主張する「教条主義」と呼ばれた

1890年 ドイツ総選挙で社会主義労働党が躍進。このあと社会民主党と改称する。

1896年 ベルンシュタイン、議会制民主主義による平和革命の路線を提唱。「修正主義」と呼ばれる。暴力革命やプロレタリア独裁を主張するカウツキーらは「教条主義」と呼ばれた

1914年 第一次世界大戦が勃発。第二インターナショナルは崩壊。

おあつらえ向きの資料がないので、とりあえず暫定版。
しばらく時間がかかるでしょう。実はその前にしなければならないことが二つ、三つあります。

「社会主義の大道」を考えるにあたって

そもそも社会主義とは何なのか一度整理して見る必要がある。

1.社会主義の定義(所有論としての社会主義)

2.社会主義の歴史(空想的社会主義と科学的社会主義)

3.資本主義か社会主義か(社会システムとしての社会主義)

4.自由主義か社会主義か(平等論・博愛論としての社会主義)

5.社会主義と民主主義(政治システムとしての社会主義)

それぞれが大変に重い理論課題ではあるが、社会主義の歴史を見ていく中で、「大道」も含めて、かなり答えは見いだせそうな気もする。

ということで、例によって年表づくり

社会主義の年表へ


多分、これは不破哲三の遺言だろうと思って受けとめる。
発言の冒頭に、日本共産党が成し遂げた最大の理論的貢献をこうまとめた。

1.20世紀論の核心は民族自決にある

20世紀論の核心は植民地国家の独立にあった。民族自決の原則が“世界の構造”の根本となった。

21世紀のさまざまな出来事は、この歴史認識の正しさを見事に実証した。

2.20世紀の構造変化が核兵器禁止条約を生み出した

この間の平和と社会進歩の最大の変化は、核兵器禁止条約の成立である。

それを生み出したのは“世界の構造”の変化であり、具体的にはアジア・アフリカ・ラテンアメリカの国々の独立と自決だ。

3.世界政治の主役は交代した

発達した資本主義国の政府は、世界平和を目指す人類的な意思に背を向けている。恥ずかしながら被爆国日本もその一員だ。

発達した資本主義国が政治的反動に向けて歩んでいるという事実は、世界政治の主役が交代したことをはっきりと示している。そしてこれも、“世界の構造”の変化がもたらしたものなのだ。

(中国問題への言及は省略)

4.発達した資本主義国の役割

では発達した資本主義国には反動的役割しかないのか。そうではない。

世界史的に見れば、遅れた資本主義から社会主義を目指す流れが続いてきた。ますます世界は単一の富裕層グループの支配下に入りつつある。
だから、その矛盾がとりわけ厳しくしわ寄せされる途上国において、今後も社会変革の道へ踏み出す国は、当然ありうる。

しかし旧ソ連や中国の苦闘の経験は、遅れた国からの社会変革の道もまた厳しいものであることを示した。

5.社会主義への道はさまざまだ

資本主義の危機が進行するなかで、資本主義に代わる次の体制として社会主義を目指す動きもさまざまな国で、さまざまな形で起こっている。

そうした運動状況の中で、日本共産党が「発達した資本主義国での社会変革」の運動の最前線に立っているのは間違いない。

6.「大道」の具体的内容

我々にとって「大道」とは、社会変革をめざし、社会発展の段階的任務を確実に成し遂げることである。それはまず何よりも日本における多数者革命の実践である。この大道を確信をもって前進しよう。



7.社会主義への道は当面の課題ではないが不可欠な議論だ

日本の当面する課題は、社会の変革と段階的発展を内容とする多数者革命だ。“社会主義への道”は今日ただいまの当面の課題として追求するものではない。

社会主義への道は日本共産党の独自課題だ。しかし多数者を結集する上でも、日本共産党が目指す社会について多くの人々の理解を得ることは大変重要である。

感想
私は、「冷戦終結論」のスコラ論争に不破さんが終止符を打ったときのことが忘れられない。不破さんは冷戦の本質がアメリカの反共戦略にあったことを指摘し、その本質は変わっていないという点を強調することで、「終結」論者も納得させた。不破さんの言う意味での「冷戦体制」は、まさに今も続いていることを私達は確認しなければならない。

その後このスコラ論争ははいつのまにか表舞台から消えた。

今回も不破さんは、「我々にとって大道だ」という形でまとめようとしている。同時に「道は多様である」ことを確認する。そして「実践的な大道は多数者革命の実現だ」という点を強調している。
「大道」論はこのようにして理解する必要がある。これが「科学的社会主義」というものだ。何も無理やりに「割り切る」必要はないだろうと思う。

下記もご参照ください
日本共産党綱領改定案(不破議長の報告レジメ) 

「価値は主観、価格は客観」か? 岩井さんの天動説

昨日の話の続きだが、この番組はNHKが制作したものだが、柱となっているのは岩井さんの所論だ。ここを分けて議論しなければならないから話は複雑だ。

岩井さんの貨幣論は、結局「価値は主観、価格は客観」という主張に集約される。これはケネーからスミス、マルクスに至る古典経済学を全面否定するものだ。

立論は完全に逆立ちする。価格の集合概念として価値というものが想起しうる。それは集団主観であり、一種のマインドとして扱わなければならない、という結論に至る。

私はこれは天動説への立ち帰りと考える。

「価値」というのが主観だとすると、貨幣の価値は価格の集合を通じて社会心理学的に決まってくることになる。

こうして価値は投下労働量によって決まるというテーゼから完全に決別する。

貨幣論の歴史

アリストテレスの経済についての考えは「政治学」に示されている。
そこでは自由をもたらすものとして、貨幣が称讃されている。

近世に入り、貨幣は可能性の象徴として考えられるようになった。貨幣を媒介にして自由な世界が出現し、欲望は果てしなく広がり、人間は才能を開花させる

このような貨幣についての思想が、はじめての近代思想、重金主義である。

スミスは貨幣の物神化を批判した

貨幣は交換手段に過ぎず、貨幣に富の見せかけを与えているのは社会関係なのだ。

岩井さんはこのあと使い古されたマルクス批判、価格実現の問題を繰り返すが、ここでは省略する。

ただ、売買そのものが二面性を持つことを抑えて置かなければならない。ものが市場で売られるときは、売り手の側からすれば「命がけの跳躍」を迫られるが、買い手の側はそうではない。

購買は生活手段の獲得に過ぎない。しかしその使用が新たな欲望を生み出す。だから、欲望の水準は一義的には消費の水準に規定される。
別に「命がけの跳躍」をするわけではない。それは生産者の勝手である。


貨幣と欲望

貨幣は欲望の対象となる。致富欲が貨幣へと集中するのは、それが不安に基づく欲望だからである。

一方で、貨幣というのは流通してこそ意義を持つ。可能性としての貨幣は全面的な流動性を志向する。

これは議論が振り出しに戻っただけのことだ。貨幣というのは価値の標章であり、価値の裏づけがあるからこそ交換手段としての意義を持つのだ。


すみません。曖昧な記憶を元にした記事のため、誤解等あるかもしれません。特に後半はアルコールが回っています。いずれ岩井さんの文章に目を通した上で、訂正すべきは訂正したいと思います。

年末にNHKで放送された経済番組で「貨幣」を主題とした番組を見た。

NHKの自社制作でそれなりに力が入った番組だ。岩井克人さんという経済学者の論調を柱に構成されて行く。

これがいかにもNHKらしくいいとこ取りしながら、結局何を言いたいのかわからない話で、イライラしながら最後まで見てしまった。

仮想通貨の実験が明らかにしたこと

番組の前1/3はビットコインの話。
これまでの経過は
ホスキンソンが最初に仮想通貨を提唱した。これは貨幣の交換手段としての機能よりも価値の蓄蔵手段としての働きに注目したものだ。
蓄蔵手段であれば、交換はバーチュアルな交換でも良い。その代わり人に盗まれないように保護する機能が重要になる。このため仮想通貨という資産形態は「暗号資産」とも呼ばれる。
② 実際の交換場面で最大の難問は「二重支払い問題」であった。これを克服したのがSatoshi Nakamoto 理論であった。これにより仮想通貨が実用化する可能性が生まれた。(この項、さっぱりわからず)
③ 仮想通貨の位置づけを明瞭にするために、ハイエクの「通貨自由化論」が援用された。
ここでは「仮想通貨は貨幣ではない」という特徴付けが行われた。交換手段でもなく蓄蔵手段ですらもなく、純粋な「資産価値の表象」だとされた。

私が考えるには…
それは結局、蓄蔵ではなく退蔵のための手段だということに行き着く。極度のリバタリアニズムに裏づけされた、闇の中をうごめく蓄蔵貨幣の表象だということになる。
そういう地下金脈を経済の撹乱要因として取り締まるのではなく、事実上容認していくという点では、完璧に退廃的な概念である。
④ 仮想通貨に対する批判はフランスの経済学者ジャン・ティロールが代弁している。
ティロールによれば仮想通貨の欠点は、2つに集約される。
一つは通貨として役に立たないということであり、社会から切り離された存在であるということである。それはカジノのコインのようなものである。形は似ていてもそもそも本質が違う。
これはホスキンソンの提案からも明らかである。
一つは銀行券の役割を破壊する。貨幣が流通手段であり得るのは、致富や蓄蔵の手段でもあるからだ。貨幣が交換のみの手段であればそれはクーポンや、食堂の食券みたいなものになってしまう。
また中銀は貨幣を発行し流通させることで発行益をとり、これにより金融運営を行っているが、貨幣の役割が限定されると経営基盤が脅かされることになる。(ここはなるほど!と唸らせる)

ということで、ここまでは仮想通貨を巡る議論で、それなりにNHKらしく要領よくまとまっている。(的を得ているかどうかは別として)

労働価値説を比定する貨幣論

しかしこの後、延々と岩井克人さんによるマルクス批判が続くのである。それはスミスまで巻き込んで労働価値説の批判に行き着く。

しかも批判はいいとして、「それでお前、何を言いたいんだよ」というのがさっぱり見えてこない。アリストテレスからカントまで巻き込んで講釈を垂れるが、これはウソを付くときの常套手段だ。長年大学教授をやっていると、こういうテクニックばかり上手になる。

とにかく話が長くなるので、ここで一旦記事は切る。

結局、ギリシャ自然哲学の到達点は「非在」ということだ。

非在ということは、2つある。

1.原子論による非在→有関係の乗り越え

一つは諸物の根源は空気だということである。空気というのはなにもないということだから非在であるが、無ではないということだ。

そこにはなにもないようでいて実はある。それが原子だ。

デモクリトスの「原子論」によりギリシャ哲学は非在から有への転換という難問を乗り越えた。

ここから出てくる派生的な見解が、認識の限界と発展だ。

この発展的認識論により相対主義が乗り越えられた。

2.非在・有の相互転移の統一的理解

ヘラクレイトスのすごいのは、アナクシメネスの空気=根源論を解決するために、時間軸の導入によってゼロの概念を生み出し、これにより非在から有が生成されることを説明しようとしたことだ。

実数としてのゼロの概念は、時間軸上においてはごく当然のことだ。すなわち今がゼロであり、未来と過去に向かって正の数直線と負の数直線が伸びていく。

これに対し他のベクトルにはゼロはない。ゼロがあるとしてもそれは相対的なものでしかないし、個別的なものでしかない。

日本橋やオリンポスは、信じる人間にとってのみ中心である。

ところが、今という瞬間をどんどん薄切りにしていくと、だんだん向こうが見えてきて透き通ってくる。

そうして最後は、何もなくなってしまうのではないか、しかしそこには物事が変化していくエネルギーというものが残っているはずだ。それはパンドラの箱の最後に残された“エスペランサ”(希望)だ。

そこでは、非在は希望というエネルギー、すなわち、さまざまな原子のベクトルの集合に転化されているはずだ。

3.非在は証明されなくてはならない

しかしこのような「非在」をめぐるわかりにくい議論は、どこかで終止符が打たれなければならない。

それが物質存在の階層性である。ヘラクレイトスは時間軸の特殊性を強調することで、物質の構造性とリアリティを否定しようとした。

それは頑固な唯物論者の強烈な反撃を呼んだ。そこでデモクリトスが登場し、原子論を提唱することで妥協を図った。モノは消滅しない、しかしそれはアルケーとしての存在の在りようを変える。
原子は単純な妥協ではなかった。

(つづく)



前540年  イオニアのエペソスでヘラクレイトスが生まれる。
宇宙の秩序は、いかなる神も、人も造ったものではない。それは常にあったし、今もあり、これからもあるだろう。
この世界は、対立するものの調和によって「変化しながら成る」ものであり、そこに「在る」ものではない。
「われわれは、存在するとともに、また存在しないのである」

存在を突き詰めていくと「非在」に行き着いてしまう。それは空気という非在でもあり、変動という非在でもある。

したがってアルケーは非在を存在とする「成」のエネルギーである。おそらくそれは熱力学、とくにエントロピーの法則を念頭に置いたものだろう。

火は、絶え間なく揺らぎ、燃え続ける点で「変化」であるが、一定の明るさを保ち続ける点で「不変」である。ロゴスとはこのようなものである。
これは物質存在の「量子性」の表現としての「火であるが、エネルギーと存在の相互転換を示唆する言葉もある。
万物は火の交換物であり、
火は万物の交換物である。

このアルケーの規定は、アナクシメネスの空気=根源論を大きく進めるものであり、エネルギー根源論と確率的存在論に踏み込んだものだ。

プラトンはこれを万物流転論に流し込むことによってイデア論の論拠にしようとするが、それではあまりに狭すぎるように思う。

私がギリシャの自然哲学をまとめて勉強したのには理由がある。
それは前野隆司さんの「脳はなぜ心を作ったのか」という本にたいへん心惹かれたからである。
私のブログを読んでくれている人には分かってもらえると思うが、私は「三脳原基説」を唱えている。
別に独創的な考えではないが、大脳から脳を考える逆立ちした発想に我慢がならないのだ。とりわけマクリーンの「辺縁系」理論にはムカついてしまうのだ。
脳科学者と称する人の妄言にも鳥肌が立つ。あれなら能見正比古の血液型人間学のほうが遥かにマシだ。

脳の進化の歴史ははっきりと教えている。神経管の先端が膨らんで前脳・中脳・後脳を作った。
そのなかで前脳だけが神経内分泌の中枢と結合した。それが視床と視床下部だ。
ここで脳の知覚→運動の連鎖とこれに情動を結びつける「心」の働きが始まった。
だから情動そのものは大脳の発達よりも先行している、とも言える。

ただ「心」は、脳の発達に階層性があるのと同様に階層性がある。ここを知能と結びつけながら、前野さんはかなり掘り下げてた。
だから前野さんの言う「心」は、悟性とか理性とか知性という観念に踏み込んでいる。

だから、こちらにしっかりした「心」の範疇や概念がないと振り回されてしまうなと考えたのである。
哲学に観念論を持ち込み思考をストップする人々との戦いは、むしろ哲学の外の場で争われてきた。この闘いに頭はいらない、必要なのはガッツだけだ。

しかし議論の場に密かに唯名論を持ち込み相対主義の混沌に引きずり込もうとする手合に対しては、厳しい頭脳戦が求められる。
そこで私は、イオニア学派の自然哲学を大づかみにして、自分の座標軸を据えようと考えた。

前野さんのこの本は2003年の出版だ。私は16年前の前野さんに出会ったことになる。そのころの彼はきわめて颯爽としていた。

最近の前野さんの著作を題名から推察すると、もはやその辺の「脳科学者」に成り下がっているようだ。茂木某などの手合にもてはやされて逆上せ上っているのだろうか。日本という国の文化的貧しさの犠牲者かも知れないが、無残である。大変遺憾に思う。


ついで、人名をウィキペディアで追っていくこととする。
彼らの主張は、「ディールス・クランツの断片集」としてまとめられている。

紀元前6世紀  ミレトスのイオニア人社会で自然哲学が興る。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスに代表される。タレスは万物の根源(アルケー)は「水」だと考えたが、アナクシマンドロスは観察不可能で限定できないもの(アペイロン)と考えた。
さらにアナクシメネスは、万物の根源は、濃縮にも希薄にもなれる要素、すなわち「空気」だと定義した。
この辺は、小学校の教室で生徒が次々に手を上げて考えを述べるのに似ている。

略歴をウィキペディアその他から抜き出した。

タレス

紀元前624年頃 - 紀元前546年頃の人。フェニキア人の名門の家系であった。
イオニアに発したミレトス学派の始祖である。
タレス自身の著作は残っておらず、言及した断片から推察する他ない。

彼は万物の根源を水と考えた。
存在する全てのものは水から生成され、やがて水へ回帰していく。万物はDefiniteだが水はUndefiniteである。世界はUndefinite からDehfinaiteされ、やがてUndefinite へと回帰していく。
世界は水からなり、大地は水の上に浮かんでいると考えた。

第一に、「万物の根源は水である」というのは誤りだが、「万物の根源とは何か」という問いを立てたことに功績がある。つまりタレスは最初の回答者ではなく、最初の質問者として意味を持つのだ。

第二に、物質のあり方を、より混沌系で自由度の高いあり方に還元しようとしたことである。固相より液相という還元は非常に本質をついた提起である。ただし液体には形がない。物事を「形あるもの」と考える限り、精霊が宿ることのできない「形なきもの」との往来は素直には頷けないものがあろう。

液相というのは4つの特徴を持つ。
1.可塑性: 「溶けて流れりゃみな同じ」という融通さ
2.相転移の容易さ: 相としての熱エネルギー保持
3.流動性: 流体としての力学エネルギー保持
4.溶媒: 固化だけでなく析出という形で個体の源となる。

これだけでもタレスの水=アルケー論はきわめて優れていて、発展的で多方向的である。

アナクシマンドロス

アナクシマンドロスは紀元前570年頃の人。彼の言葉は断片が伝えられている。
アナクシマンドロスは、万物の根源は「無限なもの」であるとし、それは宇宙に秩序を与えていると説いた。

存在するもの “Da Sein” は時の定めに従って、生成してきたところへ戻り、消滅する。これは必然的である。
万物の根源は「無限なもの」である。そして無限なものの本性は、永遠である。

アナクシマンドロスの言葉は解釈が難しい。一見、タレスからの退歩にすら見える。しかし彼の言う「観察不可能で限定できないもの」(アペイロン)は時間軸そのものを指しているように思える。タレスは事物を空間的自由度を上げることで、事物をより根源的で未定型なものに還元しようとした。

それとおなじように、アナクシマンドロスは事物を時間軸の上において時空的自由度をあげようとしているのではないか。
そして事物を時間微分像(時間軸上の旅人)と描き出すことで、シンボル化とエネルギー付与作業を果たそうとしている。

ただしこれは高度に抽象的な操作になるので、唯名論的な方向にバイアスを受けやすい。それをヘラクレイトスがしっかり受け止めて万物流転につながったとするなら、その意義は大きなものになるのだが…

アナクシメネス

アナクシメネスは万物の根源を「空気」だと考えた。
私たちの魂は空気である。その魂が私たちをしっかりと掌握している。
それと同じように、気息と空気が宇宙全体を包み込んでいるのだ。
これはタレスの二番煎じとしての側面がある。「液体がアルケーなら気体はもっとアルケーだろう」と考えたのだろう。そんなことは少なくとも現代ならすぐに考えつく。

ただ問題は、おそらく当時の人は「空気は空っぽだ」と思っていただろうということだ。つまり「無が有の根源」だと主張している理屈になる。
だから論理的には容易い一歩であっても、常識的にはかなり受け入れにくい説ではなかっただろうか。

アナクシメネスは次のように語っている。
空気は物質を持たないもの、すなわち無に近い。
しかしそれは同時に、無限であって豊かであるはずだ。なぜなら私たちはこの空気が流れ出ることによって、生じるにいたるのだから。
そしてそれは絶対に尽きることがない。
三点セットでミレトス派哲学を見る

この3人を含め、古代ギリシャの自然哲学者たちは、素朴な唯物論者であり、人間も自然の一員であると認識していた。

ミレトス以降の自然哲学

ヘラクレイトス 
紀元前540年頃~480年頃

哲学者は「万物の根源とは何か」を探求してきたが、彼はその議論を、「世界とは何か」の問いに発展させた。

ヘラクレイトスは世界は「在る」ものではなく、「成る」ものだと考えた。

世界は対立するものの調和によって、変化しつつ、その時間ごとに「成立」していると主張した。
人は同じ川に2度入ることはできない。なぜなら、われわれは存在するとともに、存在しないからである
「火」は絶えず変化しその姿を変えながら、火としての特質を保持し続ける。したがって「火」は幻ではない。
世界は「永久に生きる火」である。

ヘラクレイトスは弁証法を貫くことで唯物論の立場に身を置いた。

パルメニデス

反自然哲学派のエレア派を代表する哲学者である。紀元前515年頃 南イタリアの植民市に生まれる。エレア派はピタゴラスの「すべてのものの根源は数字である」という流れを汲み、一種の唯名論の立場に立つ。その議論は抽象的で主観的であり、要するに良く分からない。

ヘラクレイトスを批判し「有るものはあくまでも有り、無いものはあくまでも無い」と主張。
なぜなら「存在するものが存在しなくなり、ある存在が他の存在になる」というヘラクレイトスの論理は不可能である。
川は川であり、水が流れていても川は川として変わらず存在している。
のだから。

しかしこれは反論になっていない。なぜならヘラクレイトスの主張の含意を理解していないからだ。

ヘラクレイトスはパルメニディスのような考えを否定しているわけではなく、それを受け入れた上で、「でも中身は変わっているだろう」と言っているのだ。

デモクリトス

紀元前460年頃~370年頃
エーゲ海北岸のトラケアに位置するイオニア人の植民地アブデラに生まれる。この街はペルシャの支配を嫌ったミレトスの人が移住したことで知られる。
最後の自然哲学者で、イオニア哲学の流れをくむ。

ウィキペディアの「デモクリトス」の記事で「イドニア派」という表記があり、多くの日本語文献がこれを踏襲しているようだが、英語にはこのような言葉はない。「イオニア派」の誤植ではないか。

ソクラテスよりも後に生まれているが、その影響は受けていない。

デモクリトスはエレア派の「あるものはどこまでもあり、あらぬものはどこまでもあらぬ」とするドグマと対決する。

彼は、無限の空虚(ケノン)の中に、目には見えない物体が満たされていると考えた。そして「あるもの」として実体のみならず、「空虚」もあるものとして考えることで、実在と認識をめぐるジレンマを克服した。

そして、小さすぎて目に見えず、それ以上分割できない「原子」(アトム)が、空虚の中で運動しながら、世界を成り立たせているのだとした。

あらぬものは、あるものに少しも劣らずある。

これがデモクリトスの結論である。
こうして認識の相対的限界に規定されない、運動や実在の枠組みを原子論として構築する。実に見事である。

デモクリトスのもう一つの理論的前進は、「無意味な必然である原子が、感覚や意識、さらに魂も形成する」という徹底的な実在的価値観だ。

これに何故、なんとも不格好な快楽主義がくっついてしまうのか不思議だが、これについては無視。

5+1で覚えておけば良い

つまりミレトスの御三家と、その衣鉢を継ぐイオニア派のヘラクレイトスとデモクリトスと覚えておけばよい。+1というのはエレア派のパルメニデスで、この人がヘラクレイトスとデモクリトスの間に入ると納まりが良い。




その後調べていくと、外すわけには行かない功績のある哲学者が何人かいる。とりあえず番外として上げておく。

アナクサゴラス Anaxagoras

紀元前500年頃 - 紀元前428年頃

イオニア出身。紀元前480年、アテナイに移り住み、科学精神を持ち込んだ。

物体は限りなく分割されうるとし、この無限に微小な構成要素を「スペルマタ」(種子)と呼んだ。

ごちゃまぜだったスペルマタは「ヌース」によって整理され、秩序ある世界ができあがった。

(ヌースは理性と訳されているが内因と捉えるのが適切であろう)

ヌースが原因となって、原始の混合体は回転を初めた。それはある一点から始まり、遠心作用で拡大した。
(ビッグバン理論を思わせる)

太陽は「灼熱した石(に過ぎない)」であると説き、太陽神アポロンへの不敬罪に問われ、アテネを追放された。


アルケラオス

アナクサゴラスの弟子で、自然学をイオニアからアテナイにもたらした一人である。

最も過激な意見は以下のもの

生物は土から生まれる。最初の人間もそのようにして生まれた

正しいことや醜いことは自然本来にはなく、法律や習慣によって生じる。


アポロニアのディオゲネス

紀元前460年頃の人。トラキアのミレトス人植民地アポロニア出身で、アテネに移った。変人哲学者のディオゲネスとは別人。

アナクシメネスの空気=起源論を引き継ぎさらに強調。すべての物質は、濃縮化と希薄化によって派生したものとする。

また、意識は必然的に空気に宿っていると主張。かなり原子論に接近している。


レウキッポス Leukippos

紀元前440-430年頃 

ミレトスに生まれ、エレアに赴いてパルメニデスに学んだ。

その後デモクリトスの師として原子論を創始した。

1.事物の総体は限りがない

2.宇宙のすべては虚(Kenon)と実(アトム)からなる。

3.アトムは虚に放出され他のアトムと関係する。

4.アトムが集まると渦を生じ、形の似たもの同士が結びつき、物体を生ずる。

レウキッポスの偉いのはイオニア哲学の嫡流でありながら、わざわざエレアに赴いてパルメニデスに学んだことである。
すでにイオニア派の雄アナクサゴラスがアテネに衝撃のデビューを果たし、哲学界を席捲している。ミレトス派の最大の論敵から謙虚に学ぶということはなかなかできることではない。
おそらくパルメニデスのヘラクレイトス批判が相当応えていたのだろう。
こうやってヘラクレイトスを止揚する形で「原子論」を立ち上げたのならば、それはいわばギリシャ古典哲学の粋を集めた理論だったのではないだろうか。
そして、レウキッポス→デモクリトスの原子論がギリシャ古典哲学の最高の到達だとすれば、プラトンの哲学というのは何なのだろうか。それはソフィスト哲学の集大成でしかなかったのではないか。
(すみません。アルコールが入るとつい、だいそれた事を言ってしまいます)


それでウィキペディアで自然哲学の概要をつかんでおきたい。

まずはウィキペディアの「ソクラテス以前の哲学者」の項目

哲学者の多くは、自然と宇宙を自ら思索の対象とした。
彼らは擬人的な神話による説明を排除し、より一般化された非擬人的な説明を求めた。
自然哲学は、宗教から離れ哲学、さらには科学へ至る考え方の転換点となった。

自然哲学は「宇宙はなにから生じるのか」を思索し、次に個別の現象を説明しようとした。
現象については、その現象が生起する原因、現象が生じる機序、その現象を統御する原理が求められた。
その統制原理は「ロゴス」と呼ばれた。
自然現象への問いは、宇宙の究極的構成原理としての原子を仮定するに至った。そして原子の機械論的運動で世界を描像しようとした。

哲学者たちが提示した答えのほとんどは真実とは受け取られなかったが、彼らが答えを求めようとした質問、さらに問いを立て探求するという態度はそのまま受け継がれた。

次が「イオニア学派」の項目

イオニア学派は自然哲学の嚆矢として知られる。
彼らは知覚的な情報を元に、自然・万物の根源である「アルケー」を様々に考察した。

イオニア学派に分類されるのは、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、ヘラクレイトス、アナクサゴラス、アポロニアのディオゲネス、アルケラオス、ヒッポンなどである。

イオニア学派のうちの何人かは「ミレトス学派」と小区分される。

ついで、「ミレトス学派」の項目


紀元前6世紀  ミレトスで自然哲学が興る。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスに代表される。

万物の根源=アルケーを追究することを目的とする。

タレスは万物の根源は「水」だと考えたが、アナクシマンドロスは観察不可能で限定できないもの(アペイロン)と考えた。

さらにアナクシメネスは、万物の根源は、濃縮にも希薄にもなれる要素、すなわち「空気」だと定義した。



ウィキペディアの3つの項目を読んでもさっぱり姿は見てこないが、そういうものなのだろう。

ギリシャ哲学の根っこはソフィストたちの議論の中にあると思って勉強し始めたのだが、どうもそれ以前のミレトスの自然哲学こそが大もとで、議論の論点はすでにそこに出尽くしてるのではないかという気がして、作業が止まってしまった。

そこで、そちらの仕事はとりあえず脇において、ミレトス学派の勉強に取り掛かることにした。

実は、最近「脳はなぜ心を作ったのか」(筑摩書房/2004年)という前野隆司さんの本を読んで、えらく刺激になったのだが、感想があまりに莫大すぎて、どうもまとめようがなくて困っていたところだ。

とりあえずの結論は「哲学しなければいけない」ということだったが、まさにそれがミレトス学派の課題でもある。

そこで、まずこの付近から問題意識を整理していくのが良いかなと思いついた次第である。

「壮大な挫折」に終わるかも知れないが、まずは手を付けてみよう。

まずは背景事実の整理から。

イオニア人とミレトス地方

歴史的/地理的把握
ギリシャ人の南下

世界の歴史まっぷ」というサイトにわかりやすい図があったので転載させていただく。

この絵からわかることは、

1.ハンガリーあたりから北方系の人が南下してきて、ギリシャ半島からエーゲ海に進出し、さらにトルコ(小アジア)の西岸に植民したということだ。

2.南下の波は2回あって、最初が紀元前2千年頃、2度めが紀元前1200年ころだ。最初に南下した人々はギリシャ半島にとどまり、アテネやスパルタなどの都市国家を建設した。
あとから南下した人々は、3つのグループに分かれ、さらに小アジアへと進出した。
しかしこの図からは、彼らが半島を素通りしてエーゲ海へと赴いたのか、それとも例えば半分は半島に残り、残りの半分が進んだのかは分からない。また先住者との関係が友好的だったのか敵対的だったのかも分からない。

3.南下した人々は、おそらく言語的特徴により、3つの地域的グループに分かれた。
エーゲ海の北半分を占めるイオニア人、南半分を占めるドーリア人、またトロイア周辺にはアイオリス人の集団が居住した。
それ以外に、半島の主部には西北方言(アカイア語)をしゃべる雑多な群の人たちが居住していた。
これらのグループの入植順や優劣関係などはこの図からは判定できない。
しかし、良く出来た分かりやすい図である。
ここには掲げないが、もう少し詳しい地図もあって、それではアイオリス人がテーベを中心とするギリシャ半島の主部を支配し、イオニア人の世界にくさびを打ち込む形でトロイアにも進出しているように見える。
想像するに、南下の順はドーリア人、イオニア人、最後に最強のアイオリス人ということではないだろうか。

この点に関して、歴史書の記述はかなり様相を異にしているが、今はその点にはこだわらない。


イオニアとフェニキア人

イオニアはイオニア人が住むからイオニアという身もふたもない話だが、アテネのイオニア人が入植してできたポリス群である。そしてその最大のものがミレトスということになる。

それではイオニア人はなんの軋轢もなしにイオニア地方を手に入れることができたのだろうか?
この辺も、また分からないところである。

そこでまた「世界の歴史まっぷ」のお助けを乞う。
フェニキア人とイオニア

この図でわかることは、

1.第二期のギリシャ人の大移動が終わったあと、連続して地中海各地への進出/植民が始まったこと

2.進出を担ったのは南部、西部へのドーリア人、東部、黒海方面へのイオニア人であり、イタリア半島南部へはアカイア語グループが進出したことである。

3.フェニキア人はすでに制海権を奪われ、寸断されている。ギリシャの卓越した海軍力が伺える。

4.居住地の色分けと進出路の色分けが一致しないのは、解釈のしようがない。他の図を参照する必要がある。

5.この時期にアイオリス人の活動が見られないのは、紀元前1200年頃に起きたとされるトロイ戦争の影響があるのかも知れない。


イオニア人社会におけるミレトスの位置

前11世紀に創建された。最初はクレタ島からの移住者と先住のカーリア人により構成された。

紀元前1千年頃にアテネに征服され、その植民都市となったが、のちにミレトスそのものが80以上の植民地の拠点となった。

前8世紀半ば、イオニアでホメロスの詩編が成立したとされる。

ギリシア語のアルファベットは、前800年頃にフェニキア文字を借りてミレトスでつくられとされている。エジプトやバビロンの数学や自然科学も流入した。

前6世紀 タレスらミレトス学派を生み、文化の中心となる。

前6世紀に隣国リディア、次にペルシアに服従する。

前500年にペルシア帝国に反乱を起こし、前494年にラデー沖の海戦に敗れて陥落。街は徹底的に破壊された。

この後文化・哲学の中心はアテネに移っていく。


なぜミレトスは自然哲学を生んだのか?

ミレトスの三賢人の思想は自然哲学として一括されているが、人類史に引き寄せてみれば、それは「科学哲学」と呼ばれる方がふさわしいと思う。

事物の根源を突き詰めるということは、科学の精神そのものである。
彼らはまさに「科学して」いたのだ。

もう一つは科学が否応なしに持つ批判精神である。それは既存の常識に対する挑戦であるから危険も伴う。

ミレトスは紀元前1千年から500年にかけて世界の交易の中心であり、知識の集結点であり、人種と文明の交差点であり、自由と平等の街であった。

一言で言えば無国籍都市であった。だからコスモポリタンの発想が支配したのだ。
自然哲学の祖タレスはフェニキア人の出自である。

前700年からペルシャに滅ぼされるまでの200年余り、羊毛ばさみ、手碾き臼、ぶどう絞り機、起重機が発明された。

イオニアはすべてのものの発祥の地となった。ギリシャ文字、ホメロスの神話、市場経済、貨幣がそれである。しかしそこには官僚制や常備軍や雇い兵制度はなかった。

ミレトスはギリシャ文字を生み出し、ホメロスを生み出した。そして神話の否定者をも生み出したのである。

イオニア地域の形成の時代

紀元前1050年頃 ギリシャ本土からイオニアへの植民が始まる。

776年 オリンピア競技会が始まる。

750年 ギリシャ各地にゼウス信仰を共有する都市国家が成立。

750年 イオニアから地中海・黒海沿岸への植民が盛んになる。市場経済を基礎とする飛び地型都市社会が次々に出現。

750年頃 ギリシャ語のアルファベットが成立。ギリシャ文字は紀元前800年代にセム語系のフィニキア文字から案出された。

前730年頃 ギリシャ語で書かれたホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』が成立。

前700年頃 詩人ヘシオドス、勤勉な労働を称える『仕事と日』と神々の系統に関する「神統記」を著す。ヘシオドスとホメロスはカルキスにおいて詩を競ったとされる。


自然哲学の開花の時代(前古典期BC657年~508年)

前660年頃 ギリシャ各地で立法者・僭主の時代が始まる。

前639年 ソロンがアテネで生まれる。

前624年 タレースがイオニア地方のミレトスで生まれる。

ミレトスで自然哲学が始まる。宇宙を構成する物質の根源(アルケー)を探求し、それが水であると指摘。タレス自身の著作は残っていない。

621年 アテネでドラコンによる立法が始まる。貴族政治が崩れ始める。

600年頃 アテネで中小農民の債務奴隷化が進行。

紀元前594 メガラとの戦いに勝利したソロンが、アテネの執政官に選ばれる。「ソロンの立法」により民主制の基盤が定まる。制度設計はイオニアに範をとったと言われる。

その後ソロンは後継者ペイシストラトスに対抗しキプロスに追放される。

500年代 ペイシストラトス(もしくはその子のヒッパルコス)が、『イリアス』や『オデュッセイア』を文字に写し、アテネに紹介。今日の形にまとめられたのは紀元前2世紀のアレクサンドリアとされる。

前582年 ピタゴラスが生まれる。万物の根源は数であると主張。移住先のシチリアでピタゴラス教団が設立される。

前561年 イオニアの諸都市、リディアに征服される。

前560 クセノパネスが、イオニアのコロフォンでうまれる。ヘシオドスやホメロスを攻撃したことで知られる。存在するものの構成要素は4つであり、世界は数において無限である。神の本性は全体が知性であり思慮である。魂は気息(プネウマ)である。

前560年 アテネでペイシストラトスの僭主政治が始まる。独裁制のもとで土地の再分配を実施。

前550年頃  ミレトスのヘカタイオスがうまれる。ホメーロスなどの信頼性は認めるものの、神話と歴史的事実とは区別して考えた。

前546年 ペルシャがリディアを併合。イオニアの諸都市もペルシャの支配を受ける。

前544年 ヘラクレイトスが生まれる。「万物は流転する」とし、「万物の根源は火のように絶えず変転し、エネルギーを生み出す」と説く。

前538年 イオニアのサモス島で、ポリュクラテスの僭主政治が始まる。

前507 アテネでクレイステネスの改革。僭主ヒッピアスを追放し貴族階級を解体。全市を10区(デーモス)へと再編成する。さらにオストラシズム(陶片追放)と呼ばれるリコール制度を創設することで独裁の復活を阻止する。民主政のもとで、人間と社会、国家(ポリス)のあり方に哲学的関心が向かう。


イオニア文明の衰退とアテネへの移動(古典期BC490年~404年)

前500年頃 クセノパネスが活躍。

紀元前499年 イオニア諸都市で、ペルシャを後楯とする僭主への反乱が勃発。50年に渡るペルシア戦争が始まる。

前497年 ピタゴラス、異端とされシチリアを追放され死亡。

前494年 イオニアの中心都市ミレトスがペルシャに占領される。多くの哲学者がアテネへと逃れる。

前490年 ペルシャがエーゲ海に進出、ギリシャへの遠征を開始。50年間、4回にわたりギリシア遠征を繰り返す。

前490年 マラトンの戦い。第三階級である農民階級が、鎧や盾などを自弁。重装歩兵団の密集戦術(ファランクス)によってペルシアの騎兵隊を撃破する。

前485年 プロタゴラスがトラキアで生まれる。アテネで授業料を取って弁論術を教授。最初の成功したソフィストとなる。

他にゴルギアス、アルキダマス、プロディコス、ヒッピアス、エウエノスも活躍。
「人間は万物の尺度である」とし、絶対的な真理は存在せず、価値は人間=個人によって異なるという相対主義を主張。

前484年 小アジア南岸のイオニア植民市でヘロドトスが生まれる。

前481年 アテネを盟主とするギリシャ31カ国連合が成立。

前480年 ペルシャが二度目の進攻。テルモピュライの戦いでレオニダス王ら300人のスパルタ兵が壊滅される。

前480年 アテネがサラミスの海戦で勝利。無産階級が三段櫂船(ガレー船)の漕ぎ手として勝利に貢献する。

前479年 プラタイアの戦い。ヘラス同盟軍がペルシャ軍を撃退。このあと大規模な戦闘はなし。

前478年 アテネを盟主とするデロス同盟がペルシャ戦を継続。盟主アテネはギリシャ諸国家内において最盛期を迎える。アテナイの全市民(男子)が民主制のもとで平等の参政権を持ち、雄弁が力の源となる。

アテネはギリシア各地から人びとが集まる。イオニアのアナクサゴラスがアテネに移住。自然哲学を持ち込む。イオニアやシチリアなどからおおくの雄弁家が集まり、弁論の作法を教えるようになる。

前469年 ソクラテスが生まれる。

前460年 デモクリトスが生まれる。最後の自然哲学者として「万物の根源は原子であり、一定の法則によって動いている」と主張。

前5世紀中旬 

前449年 ペルシャ戦争が終結。ペルシャ、ギリシャ支配を断念。カリアスの和約を以ってペルシャ戦争が終わる。

前446年 スパルタとアテネ、「30年の和平条約」を結ぶ。アテネのペリクレスは戦費を私物化し、パルテノン神殿の建設を開始。

前444年 アンティステネスが生まれる。ソクラテスの高弟となる。袖なしの外套のみを纏い質素な生活スタイルで有名。ソクラテスは「外套の隙間から君の自惚れが見える」と非難した。

前440年 ヘロドトスが『歴史』を著す。生涯の内にアテネ、ウクライナ南部、フェニキア、エジプト、バビロニアなどを旅した。

前431年 ペロポネソス戦争が始まる。30年にわたり断続的に続く。アテネは衰亡の道に入る。

430年 疫病が蔓延し、両軍兵力の三分の一が死亡。アテネの指導者ペリクルスも病死する。

評議会にデマゴーグ(煽動的民衆指導者)が出現し、国策が歪むようになる。ソクラテスは「衰退の要因は相対主義を主張するソフィストにある」と批判。

前430年 ソクラテス、ソフィストを相対主義の詭弁家とし、徹底したディアレクティケ(ディベート)によって真理を追求。

プロタゴラス、『神々について』を著す。「神々について私は、あるとも、ないとも、姿形がどのようであるかも、知ることができない。(なぜなら)人間の生が短く、知るには障害が多いから」としアテネから追放される。

ソクラテスの影響を受けたアルキビアデスがアテネの権力を握る。非民主的なやり方で市民の反感を買う。

前423年 アリストファネスは「ソクラテスが最もあくどいソフィストだ」とからかっている。

前421年 スパルタが戦争に勝利。ニキアスの和約を結ぶ。

前415年 第二次アテネ・スパルタ紛争。一旦収まったペロポネソス戦争が再燃。戦いはペルシャの支援をえたスパルタの優位で推移する。この間アテネは同盟都市の多くを失う。

前412年 ディオゲネスが生まれる。アンティステネスの弟子で、ソクラテスの孫弟子に当たる。

前411年 アテネで寡頭派が革命を起こす。「400人支配体制」が成立。

前404年 アテネがスパルタに降伏。ペロポネソス戦争が終結。アテナイにはスパルタの意を汲む「30人僭主政治」が樹立される。

前403年 シチリアのディオニュシオス王が全島支配を実現。

前399年 アテネで内戦の末独裁政権が崩壊し、「民主制」が復活する。

前399年 ソクラテス(70歳)は民衆裁判所で裁判にかけられ殺される。ソクラテスは非民主制であるスパルタを礼賛したという。

「悪法も法である」と言ったとされるが、悪法は、厳密に言えば、法ではない。

前395年 スパルタへの反感が強まる。コリントス戦争が開始。

前387年 プラトン、アカデメイアを創設。「プラトンの名において」イオニア自然哲学との決別を宣言。ディオゲネスはイデアを否定。「私は馬を見るが、“馬なるもの”を見ることは出来ない」と批判する。

前387年 コリントス戦争がアテネ=テーベ連合の勝利に終わる。小アジアやキプロスのポリスはペルシアの支配に入る。その後もギリシャのポリスは内紛を繰り返し衰微していく。

前388年 プラトンがシチリアに渡る。

前356年 マケドニアでアレクサンドロスが生まれる。

前338年 カイロネイアの戦い。マケドニア軍がアテネ=テーベ連合を撃ち破る。


プラトンの思想を眺めていてふと感じたのだが、ソフィストというのはなにか詭弁を弄するやくざ者のように扱われているが、それは違うのではないかということだ。

むしろプラトンは、ソクラテスもふくめたソフィストたちの理論をある意味で集大成したのではないかと考えた。

というのはイデア論の最後に付け加えたパルメニデスの議論が、非常に精緻なものであることに気づいたからだ。

調べてみるとパルメニデスはソクラテスに先行する哲学者であり、その議論はプラトンのイデア論の枠組みには収まりきれない広がりがある。

こういう人々がたくさんいて、それはソクラテスやプラトンにとって心安らぐような仲間ではなかったかも知れないが、そういう星雲状況の中から、それこそ「対話」を通じて、プラトンの著作=イデア論が析出してきたのではないだろうか。

それを思いついたのは、以前勉強した「六師外道」のことを思い出したからだ。


「六師外道」は、釈迦とおよそ同時代にマガダ地方あたりで活躍した6人の思想家たちのことだ。彼らは既存のバラモン教に対する批判者として立ち現れた。

しかし彼らの思想は釈迦によって批判された。

「ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとし、…業を否定した」と。

つまり「六師外道」は素朴なアニミズムに対する否定として登場したが、釈迦は「六師外道」を素朴な唯物論として否定し、あらためて原始宗教を「観念論」として止揚したことになるのかも知れない。

このような「六師外道」と釈迦との関係をソフィストとソクラテス・プラトンとの関係に比定する作業は、なかなか面白そうな課題になるのではないだろうか。

また同じことは春秋戦国の時代についても言えるかも知れない。小国分立状況がこのような思想の百花繚乱をもたらしたのだろうか?

といっても自分でやるほどのガッツも時間もない。とりあえず、提起だけしておく。

プラトン年譜を、イデア論形成過程を中心にざっくりと

アテナイの人、貴族出身 紀元前427年 - 紀元前347年

どんな人か

ギリシャの孔子と目される。基本は教育者、哲学者。しかし政治への色気を捨てきれなかった。

哲学的には観念論の創設者であり、形而上学・主体論の提示者である。また方法論としての弁証法の創始者である。

プラトンの弁証法

著作の大半は対話篇という形式で、ソクラテスを主要な語り手とする。

一つの連関と他の連関との類比関係を「対話」(問答)の中で明らかにする弁証法という手法を編み出した。

プラトンの弁証法は認識の手段としてのみ位置づけられている。
内在的弁証法、すなわち事物の現象過程や諸概念の運動としては考えられていない。

ただし青年期にヘラクレイトスの自然哲学を学び、その「万物流転」思想に影響を受けているようだ。

彼の書物の性格

彼は先行したソクラテスらの論客(ソフィスト)の考察や見解を集大成した。まさに著作そのものが諸弁証の集大成「文殊の知恵」であろう。

ソクラテスの死がもたらしたもの

紀元前404年、アテネはペロポネソス戦争に敗れる。親スパルタ派30人による独裁政権が樹立される。  

紀元前399年、プラトンが28歳のとき、ソクラテスが独裁政権により死刑宣告。毒杯を仰いで死した。

対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索した。この頃の著作が『ソクラテスの弁明』『クリトン』などである。

したがってプラトンの内面では、絶えず変遷するモノと、一貫して変化しない「本質」との対話が続いたと思われる。

中期 ピタゴラス幾何学の受け入れとイデア論

紀元前388年 39歳で第一次シケリア旅行。2年にわたり滞在し、ピュタゴラス派およびエレア派と交流する。

この頃の著作が『饗宴』などである。彼はピュタゴラスを全面的に受け入れる。しかしそれは悟性的な知恵であり彼の考える弁証法的な知恵と正面衝突せざるを得ない。

そこで彼は感覚を超えた実存としての「イデア」概念を構築する。「物事」に対する「本質」、感性的知覚に対する知性的認識の優位を主張。これでピタゴラスとの折り合いを図る。

感覚的事象からの脱却は、相対主義から抜け出せないソフィストとの決別も意味する。

真理というのはピタゴラス的なものであり、そこに属人性はない。「それはあなたの考えでしょう」という逃げ口上とは決別できるのだ。

一方において真理はピタゴラス的な悟性的な存在ではなく、そこには理由があり、始まりがある。これがイデア概念の中核となっていく。

このあと、プラトンは「真・善・美」といった迷路に踏み込んでいく。

観念論の完成

さらに思惟的世界を感性的世界から分離してしまう。これにより存在論が認識論に吸収・解消される。

なおこの「国家」という書物は、アリストクラシーを説いていてきわめて評判が悪い。あたかもボルシェヴィズムの教科書のように扱われる。

紀元前387年、40歳のプラトンは、アテネに「アカデメイア」を設立。天文学、生物学、数学、政治学、哲学などを教えた。

50歳頃に、イデア論の集大成となる『国家』10巻が完成した。

紀元前367年には、17歳のアリストテレスが入門した。このときすでにプラトンは60歳だ。アリストテレスはプラトンが亡くなるまでの20年間、ここで学業生活を送った。

観念論と主体論の接合

後期にはイデアそのものではなく、「イデアに対する志向」を本質とすることにより、事物より事物への意識を対象とする主体論に傾いた。

これはソクラテスがピタゴラスの自然学を、「自然がそうである由縁が説明されていない」と批判したことへの対応であろう。

その一方で、シケリアの国政にもふたたび関わるようになった。

晩期には、宇宙が神によってイデアを鋳型として作られたという、客観的観念論に収斂していく。

とかく功成り名遂げ、齢を重ねると、体系化志向が強まるらしい。

これは70歳代の『ティマイオス』、『法律』(12巻)に展開されている。

当然、アリストテレスはこの傾向に激しく反発することになる。


ヘーゲルとの関係で、プラトンの「イデア論」との類似性が気になり調べた。

究極の真理としてのイデア

プラトンにおける究極の真理は「イデア」と呼ばれる。

普通英語でいうと、「理想」という意味になるが、「イデア」論と言われるのは「理想」とはちょっと違い、さらに抽象的なものである。わかりやすく言うと「本質論」であり「真実論」である。ヘーゲル風に言えば「絶対知」である。

プラトンは、師ソクラテスがソフィストの相対主義を克服し絶対的な真理の探究を押し進めたことを高く評価した。絶対的な真理を求める哲学は、思弁哲学と呼ばれる。それは「普遍的な真実の世界」を、感性ではなく思弁によって認識しようとする哲学である。

イデアをもとめたきっかけ

師ソクラテスを理不尽な形で失ったプラトンは、民主政治という衆愚政治に代わる「理想の国家」をもとめた。まさにイデオロギー国家だ。

それを思索する上で「理想とはなにか」を解き明かす作業が始まる。最初の手がかりは、「イデアとは、人間には知りえない本当の知の実体である」というソクラテスの教えであった。

独自のイデア論の構築

しかしそこに至るには「因果関係」や「構造論」、「実体論」などいくつかの段階がある。
人間の認識という行為も、知覚から始まり認知、把握、了解、理論化などの段階を踏むことになる。

また裸の「本質」と価値判断や力動をもふくんだ「真実」の違いも論じなければならない。つまり範疇論、認識論、価値論を含んだ論証を行うための学問的方法論が必要となる。

本質論と不可分の認識論: 弁証法

プラトンはその論証方法として、師の対話法を継承、発展させて「弁証法」という論理を組み立てた。

逆証明の過程を導入することで、論理のステージを引き上げ、観察と三段論法にだけ依拠する自然哲学の経験論を批判的に乗り越えた。

このようなプラトンの考えを、弟子のアリストテレスはイデア論として定義した。

存在と非在の弁証法 究極のイデア論

イデア論とは別の地平で、存在と非在の弁証法が語られていて、このくだり新プラトン哲学の典拠になっているようだ。

『パルメニデス』という本に書いてあるらしい。

「存在、非存在、現われること、静、動、等々の全く抽象的な諸規定をプラトンは純粋なイデアとみなした
とあるが、これはソフィスト仲間の論争に対する介入であろう。ヒントにはなるかも知れないが、しっかりした論建てとは思えない。

『ピレボス』という本には以下のような言及もあるらしい。かなり意訳して紹介すると…

真理は対立した物の同一性である。それは現象・悟性・概念・原因(本質)である。
そこにおいて真理は一体性の表現であり、主体性の表現であり、支配力の表現であり、構造の表現である。
 

萩原伸次郎 「恐慌と信用制度の崩壊」より

重金主義への回帰を阻んだもの

マルクスは金融恐慌を金融危機の本質とみなし、「信用主義から重金主義への転化」と呼んだ。

しかしこれは「3つの要因」により乗り越え可能となった。

1.金本位制からの脱却

第一次大戦後の不況において、英国は長期の不況に陥ったが、金本位制の停止→銀行券の大量発行により負の連鎖を断ち切ることに成功した。

2.大規模財政出動と金融緩和

需要の創出により、実体経済のテコ入れを行い、経済成長とインフレにより財政赤字を解消した。

3.不均等発展と新興国からの富の還流

海外投資が新興国の発展を促し、先進国は金融支配を強めた。その一部が還流し先進国を潤した。
金融恐慌時は資金が一気に流出し、新興国は資金不足に苦しんだ。

リーマンショックと1929年大恐慌の違い

1.アメリカと世界は、銀行を救済するのに全力を上げた。無制限に信用を供与し資金を注ぎ込んだ。

2.その結果、世界大恐慌は起きなかった。

3.並行して行われるべき金融改革は引き伸ばされ縮小され、キャンセルされた。

4.供与された資金は死蔵され、実体経済には還流されなかった。

その結果、経済回復は遅延し、失業は高止まりし、新興国経済・金融・財政は破綻した。貧富の差は一層強まった。ドルの支配力は絶対となった。

ヘーゲル 法の哲学 抜書 1

序文


…自然については、哲学はそれをあるがままに認識しなければならない。賢者の石は、自然そのものの中のどこかに隠されている。
それはすなわち、自然がそれ自身において“理性的”であるということである。
だから、知は自然のうちに存在するこの現実的な理性を捉えなければならない。

…哲学とは、理性的なものの根本を見分けることである。そしてそこにある現在的で現実的なものを把握することである。そこに彼岸的なものを打ち立てることではない。

…これに対して倫理的世界たる国家・社会は、理性を内在せず、一つの恣意の世界として偶然に委ねられており、神に見捨てられている。

…法の認識が自然の認識と違うのは、法に対しては考察・批判の精神が勃興してくることだ。もろもろの異なる法律があるということが、それらの法律は絶対的ではないということを示す。

…人間は外的な権威の必然性と力に屈することがありうるが、けっしてそれは自然の必然性に服するのと同じではない。人間は、該当する法が真実かそうでないかを検証する手段を、自分のうちに見出す。

…むかしは既存の法律への尊敬と畏怖が存在していた。しかし今はむきだしの思想が一切の法の頂点に立っている。もろもろの対抗理論がそれに対置され、おのれを“正しくて必然的”なものと見せようとする。

…浅薄な連中は、「学」を思想と概念の展開により規定する代わりに感覚的な印象と偶然の思いつきの上に立てようとする。彼らは国家という建築物を分析するのでなく、「心情、友情、感激」という粥みたいなものに一緒に溶かしてしまおうとする。

…本稿では、国家を哲学として扱う。ということは国家をそれ自身のうちで理性的なものとして概念において把握しようとする。そして、国家という倫理的宇宙がいかに認識されるべきかを考察する。


緒論

第1章

…哲学の対象は理念であって「概念」ではない。いわゆる「概念」は、抽象的な悟性の規定でしかない。
哲学は「概念」という思い込みが、一面的で非真理であることを明らかにする。真の概念は現実性を持ち、哲学に対して現実性を付与する。

…哲学は円環をなしている。最初の哲学は直接的で無媒介である。それはともかく開始されなければならない。それはまだ証明されておらず、成果となっていない。

…法は実定的である。なぜなら法は一つの国家に妥当するという形式を持つからだ。実定的というのは有限で人為的であり、要するに歴史的なものだということである。

…自然法は法と対立し抗争していると考えるのは誤りである。法は自然法の展開されたものである。その展開は一つの国民と一つの時代の性格に依存して行われる。

第4章

…法の地盤は精神的なものである。その開始点は意志である。意志は自由なもの(誰かにとって)であるから、(誰かの)自由が法の実体をなす。(誰かというのは私の挿入)

…法の体系は「実現された自由」の王国である。だから、法は意志という精神が生み出した精神の世界であり、第二の自然と呼ばれる世界である。

…精神はまず第一に知性である。知性は感情から表象を経て思惟へと進んでいく。その際に通過する知性の諸段階は、精神がおのれを意志として生み出す道すじである。実践的な精神にとって、意志は知性の直後に続く真理である。

追加(第4章への)

本筋とは関係なく意志に関係する哲学的叙述が長々と続く。しかしとても示唆に富んでいる。

…自由とは意志の根本規定である。それは重さが物体の根本規定であるのと同様である。
意志は自由なしには空語であり、自由もまた意志として主体として初めて現実的なものとなる。(同様に意志も自由も、誰の意志か、誰にとっての自由かを問わなければならない)

…思惟と意志との区別は理論的態度と実践的態度の区別にほかならない。意志は思惟の特殊なあり方である。意志は思惟が自己を現存在のうちに投企する思惟である。そして自己に意味を付与しようとする衝動としての思惟である。
すなわち理論的思惟にとどまらない、能動的な実践的な思惟なのである。

…表象化は一種の普遍化である。普遍化は思惟なしにありえない。自我は普遍的であり、そこでは個別性や特殊性は無視されている。自我は空虚で無内容である。しかしこの空虚さにおいて活動的である。

以下略(いつもながらヘーゲルの口下手と多弁には辟易とする)


第5章

…意志は純粋な無規定として、すなわち衝動として現れることもある。自由が情熱にまで高められ、内容を持たないときは否定的・破壊的な意志となる。(今で言う原理主義)

追加(第5章への)

…このように「意志」を規定すると、人間の究極的自由が、極めて抽象的にも語りうるということが明らかになる。たとえば人間は、おのれの命を放棄する自由も持っているし行使することもできる。

…この否定的な自由は悟性の自由であり一面的である。悟性には欠陥がある。ある一面的な規定を唯一の至高の規定にまで高めてしまうことである。

…この否定的な自由は、政治的あるいは宗教的活動の狂信者にもっとも具体的に現象する。例えばフランス革命の恐怖政治時代がそうだ。
狂信は一つの抽象的なものを欲する。それは無規定であるがゆえに反区別主義である。どんな分裂も特殊も許さない。


第11章

もろもろの衝動、欲求は即自的に自由な意志である。しかしそれは直接的、自然的な意志である。

衝動、欲求は動物にもあるが、動物は何ら意志を持たない。しかし人間は衝動を自分のものとして、自我のうちに定立している。

したがって、それは意志の理性的本能から来るのだが、まだ理性的な形式の下に置かれているのではない。

第12章

意志は決定という行為によって個別化する。すなわち現実的な意志となる。思惟する理性は意志として意を決し、有限となる。
人間はただ決定することによってのみ現実の中に踏み入る。

何一つ決定しない意志は現実的な意志ではない。それは優柔不断な意志であり、死んだ意志である。

知性はその対象が普遍的であるだけでなく、知的活動自身が普遍的な活動である。

しかし意志においては普遍的な意志が、同時に個別的なものとなる。意志そのものは普遍的だが、“私の意志”として個別的である。

第15章

意志の自由は恣意であるとも言える。世間では、自由とは何でもやりたいことができることだと言われている。しかしそう言う恣意こそ、彼が動物的必然から自由でないことの証明なのである。

現代金融危機とマルクス理論
―マルクスの危機分析は現代に通用するか―

萩原 伸次郎  
『社会システム研究』2009年3月


はじめに(問題意識)

リーマンショックを機に、
マルクスの恐慌論、とりわけ金融恐慌論に論及する。

その際、マルクスの議論から直ちに今日の金融危機分析をおこなうことはできないので、そのための3つの段階的議論を提起する。

 Ⅰ 金融危機分析のために『資本論』から何を抽出するか
(全体に見出し数が少なく、論点が見えにくいので適宜小見出しを入れていく)

A.信用制度の意義

まず第一の論拠は、第3巻第5篇第27章「資本主義的生産における信用の役割」である。ここでの論点をいくつか上げておく。

1.信用制度の3つの意義

信用制度は商業信用を基礎とし、銀行信用に発展する。この過程で①貨幣を節約し、②流通速度を著しく速め、③金貨幣を必要としないシステムをつくりだす。

なお、この後「貨幣などは空虚な観念的な価値に過ぎなくなる」と書き足すが、これは書き過ぎだろう。

2.貨幣の節約がもたらすもの

信用制度は、購買行為と販売行為とを分離することにより貨幣への変態をスルーさせる事が可能になる。その結果、生産・流通の安定をもたらす。

マルクスは猛烈に気分が乗っているから、また余分なことを書く。

「信用は,購買行為と販売行為とを比較的長期間にわたって分離することを許し,それゆえ投機の土台として役立つ」

文章の論建てとしては余分なことだが、これは非常に重要なアイデアである。これについては後で触れることになる。

3.株式制度の登場と投機的性格

マルクスは商業信用→銀行信用の発展の先に株式制度を位置づける。

信用は、個々の資本家に他人の資本を提供する。そこには他人の労働の処分権もふくまれる。

この場合、所有は株式の形態で存在するので、所有の移転は、たんなる取引所投機の結果となる。

4.信用制度の2つの側面

信用制度は、その弾力性によって、過剰生産や過度の投機を受け入れる。再生産過程は信用制度によって極限まで押し広げられる.

こうして信用制度は,生産諸力の物質的発展および世界市場の創出を促進する。

それと同時に,信用は矛盾の暴力的爆発,すなわち恐慌を促進し古い生産様式(すなわち資本主義)の解体を促進する。


B.<架空資本>の形成メカニズム

1.架空資本の意味

信用,とりわけ株式制度は、どのようにして社会を過度な投機活動へと追いやるのだろうか.

その謎を解き明かすのが「架空資本」のカラクリである。

その前に「架空資本」についての用語解説

「架空資本」というのはマルクス主義独特の言い方で、世間では擬制資本(フェイク・キャピタル)という。2つ前の第25章は「信用と架空資本」という表題がつけられている。これは本当は25~35章(第五草稿)全体に付けられた表題ではないかと言われる。

2.架空資本のにないて

貨幣資本の発展につれて,利子生み証券,国債証券,株式などの総量が増加する.

貨幣市場で主役を演じる証券取引業者たちの、貨幣資
本にたいする需要も増加する。その需要に応えるのは商業銀行である.

銀行業者たちは証券取引業の連中に公衆の貨幣資本を大量に用立てるの。こうして賭博一味が増大する。

3.柔軟な信用制度と強硬な通貨制度

1844年恐慌は、銀行が完全兌換制となったのが発端だった。このため市況が活発化し生産が増えると、貨幣に対し相対的過剰となる。

兌換制の下では急速な金融逼迫と金利の上昇をもたらす。信用制度は崩壊し生産・流通業者が甚大な損害を被ることになる。

支払の順番に応じて、各国が次々と金流出を引き起こす。そして経済恐慌へと突入する。

世界経済恐慌は,イギリスを発生源として世界各国へ次々と波及していくのである.

4.恐慌と金融の優位性確立

一方で貸金業者は大成功し富を集中していくことになった。

恐慌はこの寄生階級に,単に産業資本家たちを大量に周期的に破滅させるだけでなく,危険きわまる方法で現実の生産にも干渉する力を与えた。

以後はポスト・マルクス、とりわけケインズの話になっていくので略す。

イギリスの恐慌を中軸とする19世紀経済史

1815年 ワーテルローの戦い。イギリスが世界の覇者として復活。

1815年 穀物法が制定。地主保護が明確となる。

1825年 イギリスで世界最初の恐慌が発生。世界最初の鉄道営業が開始。

1832年 第1回選挙法改正が議会を通過。中産階級と産業資本家が参政権を得る。

1833年 一般工場法が制定される。労働者保護が具体的に動き出す。翌年には救貧法も成立。

1833年 東インド会社が商業活動を停止。重商主義が終焉を迎える。

1836年 イギリスで2回目の恐慌が発生。 

1837年 ヴィクトリア女王が即位。

1838年 参政権を求める労働者がチャーティスト運動を組織。

1840年 アヘン戦争。清朝を下し東アジアの覇権を確立。

1846年 穀物法が廃止される。さらに関税の廃止、航海法の廃止が続き、自由貿易主義に基づく海外発展が進む。地主階級の政治的影響力は失われる。

1847年 イギリスで3回目の恐慌が発生。独仏で連動。

1848年:マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を発行。

1857年 イギリスで4回目の恐慌が発生。独仏米で連動。

1857年 インドでセポイ(傭兵)の乱が発生。

1866年 イギリスで5回目の恐慌が発生。

1873年 イギリスで6回目の恐慌が発生。独仏米で連動。このあと1896年まで世界的な「大不況」が続く。ただしこの22年間の実質 GDP は、アメリカとドイツは2倍、イギリスとフランスも 5 割増大している。

1875年 アメリカ,ドイツが保護主義に戻る。世界輸出に占めるイギリスのシェアは急速に低下する。

1875年 イギリスがスエズ運河会社株を買収。

1877年 インドを植民地化し「インド帝国」を創設。ビクトリアが皇帝を兼任。

1882年 イギリスで7回目の恐慌が発生。フランスは最も深刻な恐慌を経験する。日本でも松方デフレが発生する。

1890年 イギリスで8回目の恐慌が発生。

1900年 イギリスで9回目の恐慌が発生。独仏日で連動。


ということで、経済史の世界ではまるっきりだめ。相対的剰余価値の低下で恐慌のすべてを説明しようという話だ。
1867年以前のマルクスも多分そうだったのだろうと思う。しかしマルクスはそこからもう一つ上に登っている。それが信用の拡大だ。
おそらく、拡大する信用が、イギリスの産業と産業資本家を捕まえ、絞め殺したのだろうと思う。

勃興しつつある「信用市場」をマルクスがどのように描いていたのかを、ざっくりと知りたくて探していたら、下記の文献にぶつかった。

現代金融危機とマルクス理論
―マルクスの危機分析は現代に通用するか―
萩原 伸次郎  
『社会システム研究』 2009年3月

大谷さんたちの論文を読むときの息切れ感がなくて、とても読みやすい。ただこれらの叙述がマルクスの最終到達段階ではないことを念頭に置いておかなければならない。

まず最初の拠り所は、

第3巻第5篇「利子と企業者利得とへの利潤の分裂.利子生み資本」の第27章「資本主義的生産における信用の役割」である。

A 信用は流通過程を加速する。

この中の、<信用による貨幣の節約>という機能に注目ずる。
マルクスは、商業信用が基礎となって銀行信用に発展する際に、貨幣が3通りの仕方で節約されるという。

第1 取引の一大部分において、貨幣が全く必要とされなくなる。
第2 流通手段の流通スピードがアップする。
第3 紙券による金貨幣の代位

この結果、貨幣は(決済時以外には)必要なくなる。

つまり、流通過程を加速させることが信用の核心的意義である。

もう一つ、その派生的意義は(決済と次の決済の間隔が延長することにより)「投機」の隙間を生み出すことである。

B 株式制度は私的所有の一つの止揚である

信用は、個々の資本家に他人の所有にたいする絶対的な処分権を提供する。

しかし、それは無責任と投機を生み出す。

他人の所有にもとづく投機活動は大胆になり、大成功を収めるか、もしくは破産をもたらす。
「小魚たちは鮫たちにのみ込まれ,羊たちは取引所狼たちにのみ込まれる」

C 「資本還元=架空資本の形成」のメカニズム

流通過程の短縮、決済間隔の延長、他人資本の動員は「証券」あればこその働きであり、証券に価値をもたらす。これが貨幣市場の成立する理由である。

商品取引においては商品と貨幣が相対する。同じように貨幣市場においては貨幣と証券が相対する。それはともに貨幣資本の2つの形態である。

証券の価値はどのようなメカニズムで決まっていくか。
貸し出し資本に期待される利子によって決まるのである。

それは基本的には、平均利子率として計算される架空の価値である。
しかし実際には、それ以上に投機的な期待値として値付けされることがある。(というよりむしろそれが通常)

ついで証券の性格規定、貨幣資本との関係においてスケッチ的な考察がなされるが、いまいち明確な規定が与えられているわけではない。やや散漫な例証が続く。

D 貨幣市場と証券取引

素材的富が増えれば、自由に利用できる貨幣資本も増える。その中身も有利子手形、国債・公債・社債など債券、株式などに多様化する。

貨幣資本家階級数も増える。その構成部分は金利生活者たち、銀行業者たち、取引業者などである。しかしその多くは預託者であり、貨幣市場で主役を演じるのは投機取引を行なう証券取引業者たちだ。

金利生活者は銀行業者たちに貨幣資本を預託する。
銀行業者たちは、証券取引業者連中にこれら貨幣資本を大量に用立てる。
こうして賭博師の一味が激増していく。


ということで、マルクスは“貨幣資本の節約”ということで「信用」を特徴づけているが、これは貨幣世界を前提にして見た強引な世界観である。

同じことなのだが、それは貨幣の節約ではなく“使いまわし”である。資本家は貨幣を使い回すことによって貨幣の価値を高めるのである。それが結果として貨幣の節約効果をもたらすのだ。

もう一つの「流通過程の加速」という考えも、原因と結果が逆転している。貨幣資本の介在しない信用取引の世界がますます拡大することが本質であって、その結果として流通過程が加速するのに過ぎないのだ。

そして“貨幣資本の介在しない信用取引の世界”が、ある日突然自立する。それは貨幣量(バーチュアルルだが)が現実の市場の10倍にも達する世界だ。しかしそれは架空の世界だ。

「資本論」が本当に描かなければならなかったのはこの世界だったのかも知れない。しかしマルクスはその素材を残したと言えるのではないか。



「資本論」新版の刊行に寄せて、座談会が掲載されている。
実にグッドタイミングで、萩原伸次郎さんも参加されている。萩原さんは北海道AALAの55周年記念講演会で講師を勤めてもらうことになっている。これでチケット20枚くらいは上乗せできそうだ。

とりあえず、座談会のキモを列挙しておく。

1.第一部は第一版とフランス語版・第3版の異同を詰め、全体としてフランス語版よりに再編集したこと。

2.第2部は商品市場と金融市場の乖離問題を浮き彫りにするよう編集されている。論理構成とは別に執筆時期から言えば、第2部こそがマルクスの理論作業の最終到達点であるから、ここから資本論全体を上向き、下向きにレビューしなければならない。

3.第3部は第2部の後半草稿より以前に書かれたもので、本来は第2部で到達した理論水準に基づいて書き直しが必要なものである。

この辺は、この間の草稿の読み直しによって随分明らかになってきたことである。

私は、この理論がベーム・パヴェルクの「価格形成論」からみた批判への回答になっていると思うし、この点でエンゲルスの解答がまるでトンチンカンであることも証明できるのだと思う。

4.佐藤金三郎さんと中期マルクス

一つ、私が興味を持ったエピソードで、萩原さんが同僚であった佐藤金三郎さんの思い出を語っているところがある。実は佐藤さんの「資本論研究序説」は私が最も興味深く、かつ共感を持って読んだ本の一つである。

佐藤さんは「中期マルクス」と言われる57年草稿、いわゆる「要綱」の検討を通じて、マルクスの思想的ジャンプアップを分析している。

最近考えるにあたっては、佐藤さんのいう「中期マルクス」の主たる営為は、じつはヘーゲルの「法の哲学」の再読み込みではなかったのかと思うようになっている。

当初はヘーゲルを読んでいたの思いつきであったが、アレントを紹介した論文を読んでいて、これはかなり確信に変わりつつある。

4.商品市場・貨幣市場・信用市場

マルクスはこの作業を通じて構築した論理で、一気呵成に資本論まで進んでいった。ただ一気に行ったために論理が荒っぽくなっていた。そのために商業資本の分析のところでケタグリをかけられ、盛大にコケてしまったのではないか。

商品市場のうえにもう一つ乗っかるべきカテゴリーがある。それが金融市場であり信用市場である。それは価格実現という「命がけの跳躍」が、否応無しにもたらしめるものである。
これらの市場は最初は控えめな助言者として現れるが、まもなく鉄の論理の体現者として君臨することになる。その市場の論理は商品市場の論理と完全に一致せず、ますます乖離するようになる。
この市場の介在によって商品市場が引き裂かれていく過程を書き込んでいかないと、資本論は完成しない。

そこで問題は、マルクスがそれをやり遂げたのだろうかという話になる。第二部草稿の読み込みがさらに必要になっていくのであろう。

5.自由時間について

自由時間の議論はおそらくヘーゲルの影響を受けたものである。
カント主義者たるヘーゲルにあって、自由時間はレジャーではない。むしろ自己陶冶の時間である。
ということもあるので、自由時間の問題はもう少し吟味をしておきたいところである。

「資本論」新刊の情報

本日の赤旗に、資本論の新刊が出るとの記事。
9月から刊行が始まり、隔月で12巻が刊行されるということなので、完成は2年後ということになる。
選書版の大きさで、セットで2万4千円くらいになりそうだ(消費税動向による)

1冊あたりにするとほぼ2千円、当節の出版事情を考えれば決して高くはない。

考えてみれば、読みもしないのに長谷部訳の青木文庫版、岡崎次郎の国民文庫版、マルエン全集版、新書版とよくも買ったものだ。何故か向坂版は買っていない。

私は、資本論というのは読破し全体を把握するという本ではないと思っている。
摘み食いでその時々に能力の続く限り読んで、しばらく解説本を読みながら咀嚼して…という経過を積み重ねていくものだろうと思う。

マルクスの本を読むというのは、あの悪文に耐えるという努力を自らに強いることになる。さらに「1エレのリンネル」が空を舞うことになる。







はじめに

弁証法は、近代思想の中にある機械論的思考を克服するものと位置づけられる。
マルクスは、ヘーゲルの弁証法や社会哲学を批判的に継承した。

従来の研究では,ヘーゲルの『論理学』とマルクスの『資本論』との関係を問う研究が多かった。
しかし最近、マルクスの『資本論』はヘーゲルの『法の哲学』との対応においてこそ検討されなければならない、と主張されるようになっている。
この主張の代表がアンドレアス・アルントである。
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Ⅰ 『法の哲学』と『資本論』

ヘーゲルの『法の哲学』は「序論」と「緒論」に続き、第 1 部「抽象法」、第 2 部「道徳」、第 3 部「人倫」(家族,市民社会、国家)からなる。

それに対してマルクスの『資本論』は、第 1 部「資本の生産過程」、第 2 部「資本の流通過程」、第 3 部「資本の総過程」からなっており、1対1の対応関係にはない。

重要なことは、「社会哲学」という理論的レベルで、ヘーゲルからマルクスへの継承・批判の関係を検討することである。

1 .現実世界と理性的原理

a) ミネルヴァのフクロウ

ヘーゲルは「序論」において、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と述べた。
つまりヘーゲルは、「現実世界は理性的な原理によっており、理性的原理を実現しようとする」と主張しているのである。(要するに、「自己発展の論理」に貫かれているということ)

『法の哲学』が考察の対象とする「近代社会」は、宗教革命やフランス革命を経て成熟を迎えた。近代的な法・権利、道徳、人倫(家族・市民社会・国家)が整備された。(すなわちヘーゲルの青年期から熟年期にかけて、激動を経て目前に現出した社会)

このような時代認識を持ったヘーゲルは、哲学が「ミネルヴァのフクロウ」として、近代社会の原理の理論的な集大成を行う必要があると感じた。(時代の子であり、哲学者のトップと自負するヘーゲル自らが…)
「ミネルヴァのフクロウは夕暮れの訪れとともに飛翔を行う」(S. 28)と言うのはそういう意味である。

b) マルクスのヘーゲル「継承」

マルクスはヘーゲル『法の哲学』の批判的検討をとおして、「市民社会」の分析の重要性を学んだ。

マルクスは、近代社会そのものが「富の過剰と貧困の過剰」という矛盾を含んでいると考えた。
近代社会は変革すべきであり、その主体はプロレタリアートであると考えた。

そしてマルクスは「市民社会の解剖学は、経済学に求めなければならない」と考えるようになり、かつてヘーゲルが行ったように経済学批判の研究に打ち込んでゆく。

2 .「抽象法」と「天賦の人権の楽園」

a)人格と所有権

抽象法の第一は所有権である。「人格が物件を支配することが権利として承認される」ことは、近代社会の根幹である。
「物件」には自然物とともに、熟練や知識、学問、能力など精神的なものも含まれる。

所有権はまずもって物件の占有取得である。
所有権はまた、「物件の使用」の権利である。所有者は、物件の価値の所有者でもある。
所有権はさらに物件を譲渡する権利でもある。

抽象法の第二は「契約」である。契約は所有権の移転である。
抽象法の第三は「不法」である。これらについては省略。

b)マルクスの権利論

法的関係は、経済的諸関係がそこに反映する意志関係である。マルクスのヘーゲル批判の要点は、「人格」や「所有権」の根拠が、それらの経済的関係に存在するということにある。

近代の人権宣言とそれに基づく「自由、平等、所有」の権利は、商品交換に関わる経済関係を基礎にしている。
しかし、資本家と労働者との関係は、外観とは異なり自由でも平等でもない。「自由意志契約」のもとで、労働者には長時間労働が強制される。

3 .ヘーゲルとマルクスの家族論


4 .ヘーゲルの市民社会論

a)市民社会の普遍化

市民社会とは、まず第一に「欲求の体系」(System der Bedürfnisse)である。
人々の欲求は無限に多様化し特殊化してゆく。この特殊化した欲求を満足させる手段、およびそれを生産する労働も多様化する。

一方で、労働が普遍的・客観的なものになると、労働は分割され抽象化され単純化する。機械も導入されることになる。

この普遍化された生産と客観化された交換,多様化する消費の体系が市民社会の「普遍的資産」をなす。
市民社会においては、さまざまな欲求をとおして人間の関係が普遍化する。またこの欲求を満たす手段も普遍化する

b)市民社会の分裂

市民社会においては、諸個人の特殊性と社会的連関の普遍性とは分裂している。
普遍的資産に参加する可能性は諸個人の「特殊的資産」であり、不平等である。

この結果、一方に富が蓄積し他方に貧困が蓄積する。
惨めな労働に縛りつけられた階級の、従属と窮乏も増大する。彼らにはさまざまな精神的自由や便益を享受することが不可能になる。

こうして、いかにして貧困を取り除くかという問題が、近代社会の重大問題となる。

c)市民社会はこの問題を解決できない

市民社会は格差の増大、貧困の蓄積、極貧層の増加を解決することはできない。それは原理的に不可能なのである。

富者に負担をかけることは諸個人の自立性の原則に反する。また、貧困者に労働を与えることは生産物の過多を引き起こすからである。(貧困問題の解決は、過少蓄積と過剰循環、過剰生産をもたらす)

これは何を意味するか、

市民社会は富の相対的過剰にもかかわらず、全体としては十分に富んでいないのである。だから貧困の過剰を防止できないのである。

市民社会は矛盾の解決を求めて海外に進出する。その結果は、植民地争奪戦争、植民地の抵抗と独立戦争である。

ヘーゲルは,「市民社会」の矛盾を解決するものとして、「職業団体」さらには「国家」に期待をかける。ここで彼の思考は行き止まりとなる。


5.マルクスの市民社会論

マルクスはヘーゲルが行き詰まったところから出発する。

マルクスは、資本主義的蓄積の一般的法則として、「富の蓄積は貧困の蓄積である」と結論づけた。(すなわち、資本主義的蓄積は貧困の蓄積=貧困層の増大を求めるということになる)

一方でマルクスは、ヘーゲルの「職業団体」に対応するものとして「労働者階級」を位置づける。そして階級闘争を通じて、「自由で平等な生産者たちの協同社会」の実現を目指すという青写真を描いた。

6.ヘーゲルとマルクスの国家論

省略

7.ヘーゲルが語り、マルクスが語らなかったもの

ヘーゲルが『法の哲学』で提起した問題について、マルクスがすべてを論じたわけではない。
マルクスが語らなかった主なものは、自由意志や道徳論、社会政策論である。それらは経済学研究に時間が割かれたため論究できなかったものと推測される。

以下略


この後、論文はアルントの紹介を離れて、ヘーゲル『論理学』とマルクス『資本論』の比較検討に移っていくが、そっちの方はこれまでも論じられてきたことであり、今回は触れないでおく。

牧野論文を読む限り、アルントの最大の功績は、ヘーゲルがマルクスの偉大な先行者であったことを明らかにしたことである。

そこには私的所有、階級社会としての市民社会、格差拡大と貧困化、帝国主義への発展、資本主義の根本的転換の不可避性などマルクス主義の要素の多くがふくまれている。

ただ一つ異なるとすれば、国家の将来的な位置づけであろう。今回、あまりあまり深く読み込まなかったが、いずれそのような問題意識を持って再学習したいと思う。

ヘーゲルの政治経済学の研究 

これは「現代倫理の危機」 牧野広義、藤井政則、尼寺義弘 (文理閣2007年)
の第8章 「ヘーゲルの政治経済学の研究」(尼寺義弘)の読書ノートである。



諸欲求とこれら諸欲求の満足はいかにして実現されるか。それらを律する諸法則とは?

Ⅰ.欲求・労働・享受の理論

労働は土地(自然)と並んで、市民社会の富の源泉である。それは古典経済学の中心概念である。

ホッブス
コモンウェルスの栄養は、生活諸素材の豊かさと分配にある。それらは労働によって生産され加工され輸送され分配される。
神は生活諸資材を惜しみなく与えているのでそれを受け取るために労働と勤勉以外のものは不要である。

ヒューム
この世のものはすべて労働によって取得される。そのような労働の唯一の原因は私たちの情念である。

アダム・スミス
労働はあらゆる事物に対して支払われた最初の「本源的な貨幣」だった。あらゆる富が最初に取得されたのは、金や銀によってではなく労働によってであった。

ヘーゲル
労働は自然が提供する素材を、多様な過程(手段)を通して「特殊化」する。
労働の過程(手段)が多様なのは、特殊化への動機が多様だからである。
この「特殊化」に当たり、労働の過程(手段)には合目的性と価値が付与される。
このとき同時に、(生活の)素材は、主として人間の生産物から構成される素材となる。(法の哲学 第196節)

ヘーゲルはイギリスの政治経済学を取り入れた最初の(ドイツ古典)哲学者であった。
彼の最大の理論的功績は、欲求、労働(生産)、享受(充足)の連関を社会の根本的な連関として剔出したことにある。すなわち人間(諸個人)は欲し、労働し、労働することで享受するのである。

欲求・労働・享受という3つの行動は、主体的・人間的な実践である。
そこでは労働(人間的諸力の発揮)は普遍的契機であり、享受は個別的契機であり、欲求は特殊的契機を形成する。
労働は欲求により具体性を与えられる。労働は欲求と享受という個別行為を全体へと結びつける媒辞となる。

Ⅱ.直観と概念

ほとんどがむだ話。省略。

Ⅲ.道具と機械

…分業が発展すると、労働のスタイルも大きく変化する。

対象に全体として立ち向かっていた労働が分割され、個別労働となり、それらの諸労働は多様性を剥奪される。

かくして労働はより普遍的なものとなり、それと同時に全体性に対し疎遠なものとなる。そしてますます機械的なものとなる。

機械的労働のさらなる機械化は、労働を多様性のないまったく量的なものにする。それは将来的には、労働を機械に置き換え、労働者を分離するだろう。

同時に、労働過程の全体概念が主体の外部に定立されることによって、「道具は機械へと移行する」のである。

この機械化は人間の解放を可能とする基礎をふくんでいる。

これに対し、アダム・スミスはもう少しリアル(悲観的)な見方をしている。

分業は知的な、社会的な、軍事的な美徳を破壊する危険がある。これを防ぐには政府が何らかの労をとる必要があるし、「民衆の教育」が必要となってくる。

Ⅳ.全面的依存の体系

アダム・スミス
分業社会が確立されると、人々は欲望の大部分を交換活動によって満たすことになる。社会は商業社会となる。
商業社会は全面的依存の体系として成立する。そこではすべての個人が市民社会の一員として、「私的人格」を身にまとって行動する。
彼らは互いに無関心で利己的に振る舞っている。

しかし社会には一定の規則があり、経済的な「掟」として諸個人を縛っている。

市民社会の掟

① 市場の掟

剰余生産物の所有者はそれを貨幣化しようとして市場におもむく。しかしこの剰余が販売できる保証はない。
彼の運命は「無縁な力」に依存している。それは剰余物の価値、すなわち総欲求と総剰余の相対関係である。

② 自然価格と市場価格

この点について、アダム・スミスは揺れ動く市場価格の基盤に、しっかりとした自然価格というものを想定する。これが「見えざる手」の実体的な基礎となる。
自然価格は市場価格を通じて発現する。すなわち諸欲求とその充足との「無意識的で盲目的な全体」として現象する。
ヘーゲルはさらに議論を進め、自然価格が剰余の普遍的な性質に媒介されたものであり、かなりの程度で実定可能だと主張する。

普遍的なものはこの「無意識的で盲目的な運命」を把握し統制できるはずであり、そうすべきであると考える。
そして、より積極的に政府が介入すべきだと主張する。

③ 価値と価格、そして貨幣

市民社会において占有は所有となる。社会により財産の神聖不可侵が保証されて、初めて真の「市場」は成立する。

所有権という権利がもののうちに反映されると、物は他の物との間に「同等性」という性質を獲得する。これが「価値」である。

これに対し、所有権を介さない経験的な同等性は「価格」として示される。

市場に持ち込まれた「剰余」は、その所有者を通じて、すべての剰余への可能的な享受と向き合う。
それは市場において、普遍的な欲求の一形態として立ち現れ、貨幣と呼ばれる。

貨幣はそれ自身が必需品であると同時に、すべての必需品の抽象態であり、媒介である。
貨幣の媒介作用を基礎にして商業活動が成立する。

貨幣は普遍的な交換能力であり、その普遍性は「労働の普遍性」に基づいている。したがって貨幣は「労働の媒辞」であり、たんなる一般的な交換手段ではない。


今朝の赤旗の「朝の風」というコラムが、プルードンとマルクスの関係に言及しており、面白い。

朝の風
ただ、過剰なまでのネガティブ・レッテルがいささか興ざめだ。私としては、紋切り型ではなく、もう一つひねりを加えたいところだ。
もう一つ気になるのは、この文章が、マルクスとプルードンがともにヘーゲルの社会観を受け継いでいるということに言及していないことだ。

ヘーゲルはスミスの経済学を学びながら、初めてそれを社会の構造にまで拡大し「市民社会」論にまで膨らませた思想家だ。かれはロックの言う私有財産の神聖をうけとめ、それを公準としながら近代社会が形成されていく過程をイキイキと描き出す。しかし私有財産の神聖が一種のフィクションであることも示唆している。
それにたいして、プルードンは「私有財産は盗みだ」と喝破し、あからさまに私有財産の神聖を否定した。「王様が裸である」ことを暴露したのである。押さえて置かなければならないのは、プルードンはこのテーゼを彼なりのヘーゲル理解の中から生み出したということだ。
これに対して、マルクスは賛意を示した。ただ私有財産制を廃棄するには「ヤイ泥棒め!」といっているだけじゃだめで、「そのからくりを突き止めて首根っこを押さえなければならない」と言っているのではないかと思う。
そのためにまずヘーゲルの「法の哲学」をしっかり読んで、その上でヘーゲルが典拠としたアダム・スミスや父ミルに踏み込んでいくという道を選んだのだろう。

つまり、マルクスVSプルードン論争の謎を解く鍵は、ヘーゲルの「法の哲学」に潜んでいるということだ。

2019年04月19日 『法の哲学』 大目次







2018年12月17日 ヘーゲルの「仕事」論




1.ミンスキーは誰を批判し何を批判するか
東谷さんの本を通じて知り得た限りでは、ミンスキーの論理は意外にプリミティブで、ナイーブとさえ言える。
その論理はケインズを支持するというより、新古典・総合派の批判を主眼としている。そこには経済学というものに対する枠組み概念の違いがある。
ミンスキーにあっては、経済学は市民社会の解剖学だ。それに対して新古典派は市場経済の力学を土台として積み上げられた建築工学だ。ミンスキーはその土台が絶対的なものではないと批判する。

2.金融市場をどう評価するか
私は浅学のため貨幣市場と金融市場と信用市場の違いがわからない。そのため議論に不正確な点があることを予め断っておく。
信用市場はアダム・スミスもヘーゲルも知らなかった概念である。古典派の中でマルクスだけはこの市場が登場するのを目前で体験することができた。そしてこの市場の登場が何を意味するのかを考えることができた。

3.ミンスキーの論点
ミンスキーは「ケインズがこう主張した」と言って、自らの議論を展開している。それらは以下のようにまとめることができる。

① 信用市場は商品市場に付着し、商品市場を急成長させるブースターの役割を果たしてきた。しかしこれは市場に乱高下をもたらすきわめて扱いにくい装置である。

② 信用市場が肥大化すれば、商品市場に不確実性を持ち込み、商品市場が本来持っている「見えざる手」の機能を破壊する危険がある。

③ 新古典派と総合は「見えざる手」を不磨の大典とするという理論的弱点を内包している。彼らは需要と供給のバランスという神話にしがみつき、金融市場の動揺がもたらす商品市場への破壊的効果を無視する。(総合の場合は「タイムラグ」という言い訳に逃げ込む)

④ 金融市場には独自の論理がある。ミンスキーはこれを「投資家のマインド」としてとらえる。マインドは経済というよりは社会的・心理的なものである。それは「集団的マインド」の民主的形成によりコントロール可能なものに転化するかもしれない。

⑤ ミンスキーはここから、「優れた金融社会」の形成という行動目標を導き出す。第二次大戦後の世界が全体として平和・平等・民主の方向で発展したのも、戦前の政治・経済体制への共通の反省があったためと言える。

⑥ ミンスキーの所論には歴史的観点が不足している。金融市場は資本主義の前から存在していた。それが資本主義システムの巨大化に伴って、その一つのバージョンとして、「資本主義的信用市場」としてあらためて登場したことである。なぜ再登場したのか、それは従来型の信用市場とどう違うのかを探求しなければならない。

⑦ 金融市場が資本主義経済のブースターであると同時に撹乱者であり、潜在的可能性としては破壊者であること。それが集団心理に規定されるゆえに、人間集団の民主的形成により次の社会へと向かうための助産婦ともなりうること。これらを全体として統一的に把握しなければならないだろう。

⑧ レーニンは「資本主義には自由主義が照応し、独占資本主義には帝国主義が照応する」といった。ヒルファーディングは「独占資本主義は金融資本の支配する資本主義」だと言った。信用市場の拡大は、時期的にはこれらの時期と一致する。(すみません。あまり正確ではありません)

4.ミンスキーと未来社会
ミンスキーは金融市場の問題と独占資本の支配を結びつけて論じてはいない。しかし両者が本質的な結合状態にあるのなら、その未来社会は「優れた金融社会の形成」という課題設定だけでは不十分で、権力の有りようをふくむ政治変革のプログラム規定、平たく言えば「社会主義革命」論が必要になるだろう。

下記もお読みください
ミンスキーの金融論が説得的だ

ミンスキーの金融論

ミンスキー(Hyman Philip Minsky 1919~1996)はサミュエルソンとほぼ同じ時代を生きた。同じようにユダヤ人移民の家庭にうまれ、同じころシカゴ大学で数学と経済学を学び、ケインズの影響を受けた。

サミュエルソンが新古典とケインズを合体させる「新古典総合」というイカサマ的手法で有名になった一方、ミンスキーは「ケインズは新古典にあらず」としてサミュエルソンを攻撃し続けたらしい。

東谷さんの「経済学者の栄光と敗北」(朝日新聞 2013年)を読むと、ミンスキーが資本主義の本質を深く剔っていることが想像される。

ちょっと抜書きしておく。

* 「資本主義は本質的に不確実なものであり、その主要な不安定要素は金融にある」 これがケインズの最大のメッセージだ。

* 「金融が経済を不安定にする」という主張は、ミンスキー・モーメントと呼ばれ、リーマンショック→世界金融危機を解く鍵として注目されている。

* 62年の株価下落を大恐慌と比較・分析して次の特徴を引き出した。民間企業の負債が少なく、動員可能な流動資産ストックが大きかった。とくに政府の財政規模がはるかに大型化していたことが最大の特徴であった。

* アメリカ・ケインジアンは、金融市場と商品市場を同一平面において総所得(交点)を確定する。(ヒックス・ハンセン・モデル)
これでは金融市場は需要の関数でしかなくなる。資産選択の問題や投資要因の独自性は捨象される。また労働市場との関連も引き出せない。

* 新古典派総合(サミュエルソン)はさらにひどい。ケインズ理論の核心は労働市場が総需要の関数だということなのだが、新古典派の実質賃金→労働市場が蒸し返され、肉離れを起こしている。フリードマンのマネタリズムも概念構成としては同類だ。

ここでちょっと項をあらためる。労働市場の問題についてもう少し詳しく、ミンスキーのサミュエルソン批判を取り上げたい。

労働市場論でのサミュエルソン批判

* ケインズの考える需要・雇用論は、総需要が雇用量を決定するということだ。そこでは新古典派の賃金→雇用論は拒否されている。したがって両者の雇用量には差が生じる。
 
* サミュエルソンはこの差を本質的なものではなく、「タイムラグ」だと主張する。これが「短期ではケインズ、長期では新古典派」ということだ。(サミュエルソンは新古典派を意図的に古典派と混同している)

* 「困ったときだけケインズさん」というのは、あまりにもノーテンキではないか。これはとても困った理論だとミンスキーは主張する。

もういちど、ミンスキーの主張に戻る。

* ミンスキーは、この差はタイムラグではなく、もっと概念的に異なる理由により生じていると考える。ミンスキーはそれを「不確実性」の概念と名付けている。

* もう一度書いておくが、ヒックス・ハンセン・モデルは金融市場を事実上、需要の関数として従属させている。しかしミンスキーは資産選択の問題や投資要因に対して、独立したはるかに重要な意義を与えている。

不確実性の概念

* そして、それらを決定する要因が「不確実性の概念」なのだ。端的に言えばマインドの問題だ。それは同時に金融市場の独立性の主張でもある。

* このマインドが介在すると、金融市場は自発的に“不安定化”(不連続化)し、景気刺激の引き金がたとえ政策的な完全雇用であっても、雇用が需要を呼び、需要→雇用の爆発をもたらす。

* なお、巷間もてはやされる「ミンスキー・モーメント」というアイデアは、すでに「信用市場の循環」としてマルクスも指摘していることであり、ミンスキー本人にとってはどうでも良いことである。



高柳良治さんの文章からちょっと引用させてもらう。

へ一ゲルは「精神現象学」で、独特の「ロビンソン物語」を展開している。
そこでの行論はこういうことになる。

欲求(Begierde)は対象を完全に消費し尽くし、それによる混じりけない自己感情を自分の手に残す。

この満足は、それ自身としては消え去るものにすぎない。なぜならそこには何もモノとしては残らないからである。

これに対し労働は形成する。労働している人にとって労働の対象は自立性をもっているから、労働は対象に永続的な形式を与えることになる。

このとき労働する人の(目的)意識は自分の外に出て対象に入り永続する。このとき、労働する人は自分自身が自立した存在であることを実感する。

この後は高柳さんの解釈。
たんたる欲求の満足はその場かぎりで消失してゆく。
しかし労働は形成する.しかもこの形成は二面的である。
一方で、労働対象は労働によって今までの形式を否定される。そしてその代りに新しい形式(価値)を獲得する.

と同時に、人間は労働によって、自然のまま衝動的な生から脱け出すのである。
人間は労働において自立した対象の中に入り込まなければならない。その過程で対象に対する認識が深められ、習熟し、能力が高められるからである。
ルカーチが言うように、人類の発展、原始状態からの社会化は、労働によってのみ可能となる。

文章ではこのあと道具・手段と理性の狡知が語られるが、私は従来の見解に対して異論がある。いずれ、もう少しシラフのときに書くことにする。

新古典派にはこのような人類史的視点はない。一輪車の曲乗りで、転ばないような方程式を作ることを経済学の本流と考えれいる。


ヘーゲルの「前期」とは、1807年に『精神現象学』が刊行されるまでの時期を指す。精神現象学はヘーゲルのシェリングとの決別の辞であった。
前期からさらに初期を分けることもありだ。その境界はフランクフルト行きかイエナ行きか、そのへんが難しい。しかしそれはいずれにせよシェリングとの出会いと別れを以って区切られることになるだろう。
そんな経過を追求すべく足取りを追ってみる。


1770年8月27日 ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)、シュツットガルトに生誕。生地シュトゥットガルトは当時ヴェルテンベルク公国の首都であり、父ヘーゲルは公国の官僚であった。

1778年 小学校2年でシェイクスピア全集を読破。ヘーゲルの才能を愛した学校の教師が、独語訳全集をプレセントしたという。ゲーテやシラーは好まなかったとされる。

1781年 カントの『純粋理性批判』が発表される。

1785年 歴史や法律、道徳などを広く学び、ノートするようになる。

ヘーゲルの心を捉えたのはギリシア悲劇や歴史書であったという。世界における避けがたい矛盾と分裂、そして闘争を主題とする学問路線を形成する基盤となった。

1786年(16歳) 王立カール学院に入学。ギリシア・ローマ古典文化、歴史を学ぶ。


「学生時代」

1788年

9月 カール学院を卒業。卒業にあたり「トルコ人における芸術と学問の萎縮について」と題して講演。

10月 チュービンゲン大学哲学部に入学。この大学はドイツ南西部におけるルター派正統主義の代表的学府であった。哲学部ではキリスト教史に関する研究の傍ら、ギリシア文化に加えてカント哲学を学ぶ。またフランス啓蒙主義の影響を受ける。

またシュティフトの神学院で寮生活をしながら、同級生ヘルダーリンと親密な交友関係を築く。

ヘルダーリンは初期のグループを主導していた。「ヘン・カイ・パン」を唱え、「美的プラトン主義」の弁証法を主張した。ヘンカイパンは「一にして全」という意味で、万能の神は自分の内にすべての要素を備えているという神秘的汎神論。

1788年 カントが『実践理性批判』を公刊、理性に基づく道徳の体系を明示。意志の自由と人格の尊厳を主軸とした道徳理論を提示する。

1789年

7月 フランス革命が勃発。

8月 フランス革命派が人権宣言を発する。

9月 卒業生のニートハンマーが大学を訪れ、学生らと懇談。フランス革命の情報を伝える。ヘーゲルは熱烈に革命を支持しルソーに心酔した。(ニートハンマーはかなり有名な教育哲学者で、ヒューマニズムという言葉を最初に使い始めた人。最後まで残ったヘーゲルの友人)

11月 チュービンゲン公が大学を視察。学生への観察を強化するよう指示する。



1790年(20歳)

9月 哲学部教師にカント主義者のディーツが赴任。この年カントの『判断力批判』が公刊される。美と生物の合目的性を主張。
ヘルダーリンはカントに傾倒。ヘーゲルはカント哲学とキリスト教の両立を試みる。ただヘーゲルは、悟性(神学的宗教)は生きた宗教(主観的宗教)をとらえることができないという実感を持ち続けた。

10月 15才のシェリングが哲学部に入学。2級下でかつ5歳下の仲間ということになる。卒業も2年遅く95年9月まで在学。

11月 ヘーゲル、哲学部を修了し神学部にうつる。

冬 ヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングを含む10人が、神学院2階の大部屋で共同生活を送るようになる。部屋は一種の秘密結社となり、フランス革命についての禁書を読みあった(ルカーチ)

1791年

11月 オイゲン公が神学院を視察。学内規律について立腹したという。

1792年

夏 進学院内にも政治クラブが結成される。フランスの新聞を教材に討論を重ねる。ヘーゲルは最も熱心な革命支持者であった。このころ草稿群「民族宗教とキリスト教」の執筆を開始。ルソーの影響を強く受け、宗教は公的で社会的な現象とみなされ、「民族精神」とのかかわりから考察される。

ヘーゲルはキリスト教を「客体的私的宗教」と呼び批判。客体的とは押し付けられたという意味、私的とは俗物的ということ。

1793年

6月 ヘーゲルら、チュービンゲン郊外の牧草地に「自由の木」を植樹。シェリングは「ラ・マルセイエーズ」を独語訳。

夏 カントの『たんなる理性の限界内の宗教』が出版される。これまでルソー派だったヘーゲルは、これを読み抜粋を作るなど、強い影響を受ける。

「ベルン時代」

1793年(23歳)

9月 チュービンゲン神学校を卒業。牧師補の資格を取得したが、キリスト教に対する批判を強め、牧師にはならなかった。

10月 スイスの首都ベルンにシュタイガー家の家庭教師として赴く。草稿群「民族宗教とキリスト教」(第17~26篇)の執筆を継続(94年まで)。

1794年

6月 ジャコバン党のロベスピエール、「最高存在の祭典」を開催。ルソー主義に基づく国家宗教の樹立浸透を図る。

7月 テルミドールの反動。ヘーゲルは恐怖政治期のフランスに批判的な立場を強める。

94年後半 「民族宗教とキリスト教」の後半の執筆が始まる。カントの実践理性の視点からキリスト教批判が展開される。「民族宗教」の試みは事実上放棄される。

94年末 ヘルダーリンやシェリングと文通を通じて交流を再開する。

94年9月 シェリング、神学校を卒業。フィヒテの忠実な紹介者、支持者として頭角を現す。

12月 ヘーゲルからシェリングあての手紙。「ロベスピエールの奴らの破廉恥極まる所業」が裁判で暴かれたと伝える。

1795年

1月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「神の国よ、来たれ!われわれは、何もせずに手をこまねいていてはなりません。・・・ 理性と自由はいまだにわれわれの合言葉だし、われわれの一致点は見えざる教会だからです」

2月 シェリング、「哲学一般の形式の可能性」を執筆。ヘーゲルにも送付する。
シェリングのヘーゲルへの手紙「ともかく人格神という正統派の神概念は我々には存在しない。ぼくはこの間、スピノザ主義者になった」とし、キリストとの関わりを断ち切れないヘーゲルを強烈に批判。

4月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「カントの体系とその最高の完成から、ドイツに革命が起こることを、僕は期待する」

5月 「イエスの生涯」の執筆に取りかかる。シェリングの批判を受け、“神性とは実践理性(カント)を行使すること”という結論に到達する。

7月 「イエスの生涯」を完成。引き続き「キリスト教の既成性」の執筆にとりかかる。

7月末 シェリング、『自我について』、『哲学書簡』などを発表し、ヘーゲルにも送付する。

7月末 ヘルダーリンが母校を訪れ、シェリングと面談。シェリングからフィヒテを勧められ、研究に着手。

8月末 ヘーゲル、シェリングあての手紙で、自らの孤独な境遇を訴える。

11月 「キリスト教の既成性」がほぼ完成。カントの「実践理性の要請論」の立場は理性の無力の告白に他ならないとし、道徳論の「定言命法」が持つ「既成性」を見るようになる。

既成性はPositivitaet の訳。実定性とも訳すが余計わからない。前向きという意味ではなく「既成政党」の既成。“形骸化”に近いネガティブな言葉。

11月 シェリング、チュービンゲン大学を卒業。「キリスト教の実定性」の執筆に取りかかる。(ヘーゲルの「キリスト教の既成性」との内容的関連は不明)

1796年

1月 ヘルダーリン、大学時代の盟友だったシンクレアの紹介で、フランクフルトで家庭教師の職を得る。

4月 シェリング、家庭教師の職を得、ライプツィヒに転居。ライプツィヒ大学で、3年にわたり自然学の講義を聴講する。

夏 「キリスト教の既成性」を脱稿。

宗教は、本来自由から生まれるべき道徳法則を、我々の外にある存在から与えられたものとして提示している。このような既成的宗教は人間の道徳的自立性の廃棄を意味する。

秋 ベルンの家庭教師の職を辞し、生地シュツットガルトに戻る。軽度のうつ状態に陥る。


「フランクフルト時代」(政治の時代)

1797年

1月 ヘルダーリンの誘いで、フランクフルトに移動。馬市商人ゴーゲル家で家庭教師の職に就く。

4月 ヘルダーリン、「ヒュペーリンオン」第一部を発表。

4月 シェリングが『自然哲学へのイデーン』を発表。ライプツィヒ大学での自然科学の知識を元にして、「有機体」概念を中核に、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。

ヘーゲルはこれを、「シェリングの客観的観念論は、カント・フィヒテの自由の観念論から脱皮し、宇宙を神的力の自然的活動として把握したもの」と評価する。

冬 イェーナ大学哲学部助教授だったニートハンマーがシェリングの招聘を計画。

1998年

4月『カル親書注解』を匿名で刊行。ベルン時代に書かれたもの。カルはベルン出身の民権派弁護士でベルン政府の抑圧を受けていた。

夏 ヘーゲル、カントの「人倫の形而上学」を研究。これに基づいて「キリスト教の精神とその運命」の執筆を開始。「カントと離婚してキリスト教と婚姻」したとされる。(執筆時期には諸説あり)

カントは「分離するという悟性の本性、決して満たされることのない理性の果てしのない努力、思惟の分裂、世界観の超越性」などの化身と、三行半を突きつけられるに至る。義務道徳は、むしろ道徳的自律を妨げる宗教の律法に比せられるようになる。

10月 シェリング、イェーナ大学哲学部の助教授に就任する。このときの教授はフィヒテだったが、無神論論争に巻き込まれていた。

シェリングは、絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力があるとし、フィヒテの顔を立てつつ自説を展開。

1799年

1月 父の死により遺産を相続。

2月 スチュアートの「国民経済学」(独訳)の読書ノートを作成。(5月まで)

イギリス国民経済学の研究から、1.労働が共同生活を歴史的に形成する。2.労働手段(道具や機械)が人間と自然を媒介する。3.言語が人間と人間を媒介する。4.分業と機械化は全一な人間性を分裂させる。などの規定が抽出される。

11月 ブリュメールのクーデター。ナポレオンが権力を握る。

7月 フィヒテは論争に破れイエナ大学を去る。シェリングが教授となる。

1800年(30歳)

9月 シェリング、フィヒテを否定的に受け継ぐ形で『先験的観念論の体系』を発表。「同一哲学」を提唱する。

「産出的な自然」の概念を基礎に、精神と自然との絶対的な同一性を原理とする。超越的な絶対者の自己展開を叙述する学として定式化。

9月 ヘーゲル、この頃「1800年の体系断片」を記述。

11月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。仕事と研究のための機会を依頼。同時に自己の思索の体系化を目指す意気込みを語る。二人は、ヘルダーリンのロマン主義より強固な論理を求めることで一致したと言われる


「イエナ時代」

1801年

1月 ヘーゲル、シェリングに招かれイエナ大学の私講師となる。共同研究をおこないカントとフィヒテを批判。「哲学的」協業を開始したといわれる。

5月 シェリング、「私の哲学体系の叙述」を発表。自然と精神との連続性を強調して、自然は眠れる精神であり、精神は目覚めた自然であるとする。これをフィヒテが批判したことから関係決裂。

10月 ヘーゲル、「フィヒテとシェリングとの哲学体系の差異」を発表。フィヒテのいう絶対的自由は抽象的・無規定的だとし、人格同士の共同は自由の制限ではなく自由の拡張であると主張。

「存在は非存在の中へ生成される。有限なものは無限なものの中へ生成される。哲学の課題は、それらの過程を生として定立するところにある」(このくだりは法の哲学の冒頭でも使われている)

1802年

1月 シェリングとヘーゲル、共同で「哲学批判雑誌」第一巻第一分冊を刊行。主なヘーゲル論文に「哲学的批判一般の本質」、「常識は哲学を如何に解するか」、「懐疑論の哲学に対する関係」、など。

3月 第一巻第二分冊が刊行される。

7月 第二巻第一分冊が刊行される。ヘーゲルの「信と知」が掲載される。

「信と知」において、カント,ヤコービ,フイヒテの三者は「反省哲学」の下に一括され、二元論的世界観を批判される。
二人は反省哲学を、「有限なものを絶対化し、その結果、無限なものとの対立を絶対化し、その結果、無限なものを認識不可能として彼岸に置きざりにする」と非難。

1803年

5月 保守派と対立したシェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去りヴュルツブルグへと移る。シェリングの転居をもって『哲学批判雑誌』は終刊。翌年、ニートハンマーもヴュルツブルグへと移る。

冬 「思弁哲学体系」の草稿が完成する。

直観と概念の相互包摂を通して、理念(イデー)が展開される。ヘーゲル弁証法の第一論理。絶対者の運動は、実体的統一から対立・差別を通じて再統一に至る。ヘーゲル弁証法の第二論理。

1804年

冬 「思弁哲学(論理学・形而上学)・自然哲学・精神哲学」の草稿が完成。

1805年

2月 ヘーゲル、ゲーテ(イェナ大学のパトロン)への陳情が奏功し、私講師から助教授(員外教授)に任じられる。シェリングとの立場の違いが次第に明らかになる。

5月 シェリング、ミュンヘンに移住し学士院会員となる。

12月 アウステルリッツの戦い。ナポレオンが神聖ローマ帝国軍を撃破。

1806年

2月 『精神現象学』が出版社に回る。歴史意識を概念的に把握することを主題とする。シェリングを厳しく批判する内容となる。(この本が世に出る過程には幅があるようだ。後ほど調べる)

正式題名は“「学の体系」第一部に基づき、精神現象学を序文とする思弁哲学(論理学および形而上学)、自然哲学、および精神哲学、哲学史”という超長ったらしいもの。ヘーゲルは自著紹介で、これは第一巻であり「精神現象学」と呼ばれるもの。このあと第二巻「思弁的哲学としての論理学と、残りの哲学の2部門自然の学と精神の学徒の体系を含む」と告知している。

7月 西南ドイツ諸国がライン連邦を結成、神聖ローマ帝国からの脱退を宣言。間もなく皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国は消滅。

9月 ヘーゲル、イェーナ大学での実質的な最終講義。

10月13日 イエナ会戦。プロイセン王国がナポレオンに敗北。イエナは占領されイエナ大学は閉鎖される。ヘーゲルは行進中のナポレオンを目撃。「馬上の世界精神」と評する。

10月 ヘーゲルは職を失う。(形式的には1808年まで所属)

11月 バンベルクに避難して「精神現象学」の最終校正を行う。

1807年

1月 ヘーゲル、シェリングに手紙を送りバイエルンでの就職斡旋をもとめる。

3月 ヘーゲル、日刊バンベルク新聞記者となり赴任。

4月 精神現象学(正式には「学の体系・第一部:精神の現象学」)が上梓される。「序言」でシェリングを闇討ち批判する一節。

シェリングの「同一性の哲学」は、絶対者を直観によって把握し、これを始源に置く。ヘーゲルはこれを以って「全ての牛が黒くなる闇夜に、ピストルから発射されでもしたかのように、直接的に、いきなり絶対知から始める」と嘲弄。動因としての主観を強調する。

11月 シェリングより抗議の書簡。返答をもとめるがヘーゲルは無視。このあとヘーゲルとシェリングの文通は終了。

ヘーゲルが批判したのはおそらくシェリングと言うよりスピノザだったのだろう。ただしヘーゲルのスピノザ理解度が問われるという側面もある。

「ニュルンベルク時代」

1808年(38歳)

5月 バイエルンの教育監となったニートハンマーが、ニュルンベルクのギムナジウムの校長の職を斡旋。

11月 バンベルク新聞編集者を辞任。ニュルンヘルクのメランヒトン高等学校の教授兼校長として赴任。上級クラスで哲学的予備学と数学、中級クラスで論理学を教える。



参考資料



上妻 精 他 「ヘーゲル 法の哲学」(有斐閣新書) 

武田趙二郎 「若きヘーゲルの地平」〈行路社)

現代思想「総特集=ヘーゲル」青土社 1978

シェリングについては下記の記事を参照のこと

2018年03月04日  シェリング 年譜
2018年12月21日  「弁証法的実在論者」としてのシェリング

「倒立振子」というのをテレビでやっていて、要するに腰高な物体をいかにして自力直立させるか、そのための制御系は以下にあるべきかという研究分野だ。

つまり私たちがホウキやモノサシを手のひらで立たせ続けるための「運動法則」だ。
常識的に考えて、これは知覚系と計算系と運動系の3つのモジュールからなるだろうとわかる。

そしてこの計算系が、「ミクロ経済学」の範疇と一致することがわかる。

わかると同時に、「これを経済学の肝だ」と合弁することがいかにバカバカしいものであるかということがわかる。

根本的には、「バランスをとることになんの意味があるか」という話だ。それはバランスよく経済が成長していくための制御系に過ぎない。

根本的なことは成長することだ。人間にも自然にも無限の可能性があると信じることだ。

乗り物を展示した設計者が、「この乗り物の胆はここにあります」といってオートジャイロのところに連れて行ったら、発狂したのではないかと思われるだろう。

もちろん部品やエレメントには重要性において差があることも間違いない。

しかし、それを認めたとしても、オートジャイロの重要性を認めたとしても、そのことでエンジンや翼の重要性を軽んじる発想にはやばいものを感じる。少なくともこのようなバランス感覚の欠けた設計者の作った乗り物には乗りたくはない。


ヘーゲル 『法の哲学』(Grundlinien der Philosophie des Rechts)  1821年

本格的に取り組むことにした。
と言っても原文を直接当たるのではない。ネット上の文献を当たりながら、目次に沿って小分けして、つまみ食い的に陣地を広げていこうという作戦である。
視力が落ちてきて、長いこと活字を読むのが辛くなったことが一番の理由。本に横線を引いて、そこを後でタイプして電子ファイル化するのが面倒だということもある。
なによりも老い先短い状況で、できるだけ広く・浅く・要領よく知識を吸収したいということだ。

まずこのページが出発点。
ウィキペディアの目次をリンク集にして、ここから網を張っていこうという作戦だ。
以下が「大目次」でそれぞれのパートに移動する。それぞれのパートが大きくなるようなら、それぞれに小目次を置くことになる。
数字はページ数ではなく§(セクション・サイン)をさす。ドイツ語ではパラグラフ・ツァイヘンというらしい。日本語では「段落」が相当する。

学習の順序だが、段落が全部で360あり、この中の比重としては
第一部第一章「所有」が40、第三部第二章「市民社会」が70段落、第三章「国家」A国内公法が70段落となっており、ここが重点となっているものと思われる。

この内、経済が直接関係するのは、原論部分での「所有」問題、労働と欲求を扱う「A 欲求の体系」である。
まずはこのあたりから手を付けることにしたい。私の本はみっしりと赤線と書き込みで埋まっている。しかし、そのようなことをしたことさえも全く思い出せない。


大目次

序文と緒論
- 自由の原理論 1~33

第1部 - 抽象法 34~104
第1章 - 所有 41~71
A 占有取得 54~58
B 物件の使用 59~64
C 自分のものの外化、ないしは所有の放棄 65~70
   所有から契約への移行-自由は「所有」という形を取る
第2章 - 契約 72~81
第3章 - 不法 82~104
A 無邪気な不法 84~86
B 詐欺 87~89
C 強制と犯罪 90~103
   権利ないし法から道徳への移行-「人格」の相互承認が自由の基礎

第2部 - 道徳-意志が普遍的な正しさ(自由)を求める 105~141
第1章 - 企図と責任   115~118
第2章 - 意図と福祉 119~128
第3章 - 善と良心-偽善とイロニー 129~140
   道徳から倫理への移行-制度として実質化した自由

第3部 - 倫理 142~360
第1章 - 家族 158~181
A 婚姻 161~169
B 家族の資産 170~172
C 子どもの教育と家族の解体 173~180
  家族から市民社会への移行

第2章 - 市民社会 182~256
A 欲求の体系 189~208
  a 欲求の仕方と満足の仕方 190~195
  b 労働の仕方 196~198
  c 資産 199~208
B 司法活動 209~229
  a 法律としての法 211~214
  b 法律の現存在 215~218
  c 裁判 219~229
C 福祉行政と職業団体 230~256
  a 福祉行政 231~249
  b 職業団体 250~256
第3章 - 国家 257~360
A 国内公法 260~329
  Ⅰ それ自身としての国家体制 272~320
a 君主権 275~286
b 統治権 287~297
c 立法権 298~320
  Ⅱ 対外主権 321~329
B 国際公法 330~340
C 世界史 341~360

解題 ざっくりと紹介。

生前に出版された最後のヘーゲルの著作である。
“読みやすい理由”: ヘーゲルが直接執筆した文章ではなく、死後に受講生が編集したもの。

ヘーゲル自身によれば、『法の哲学』の主題は「自由」である。
国家と社会を哲学の立場から論ずるということは、それらを「人間とはいかなるものか」という所にまで引きつけて検討することである。

常識(客観的精神)は家族や市民社会、国家などの“自由な人間”の行為により生み出される。それは抽象法、道徳性、人倫の三つの段階に区分される。
人倫はまた家族、市民社会、国家の三段階に区分される。
①家族: 愛情による集団統一の段階
②市民社会: 諸個人の欲望の体系に基づく労働の体系。(「欲望」は市場においてもたらされる)
③国家: 
a.立法権や執行権、君主権を用いて欲望の体系を包摂する。
b.市民社会の利己性を監視し、普遍性を現実化させる
c.対外的には、普遍性ではなく自国の特殊性を実現する

この「解題」はとりあえずこのままここにおいておく。長くなるようなら整理するか、移動させる。
これまでバラバラ書いてきたメモ書きは、いずれ整理統合する。

『法の哲学』の権利論とマルクス

はじめに

「理性的なものは現実的であり,現実的なものは理性的である」(S. 24)
近代社会の成熟という「夕暮れ」においてこそ,哲学は「ミネルヴァのフクロウ」として,近代社会の原理の理論的な集大成を行うために,「飛翔」を始める。

マルクスは,近代社会そのものが,ヘーゲルも指摘した「富の過剰と貧困の過剰」などの矛盾を含んでいる以上,それを変革しなければならないと考える。

この解放の頭脳は哲学であり,心臓はプロレタリアートである」

マルクスは,『法の哲学』の批判的検討をとおして,「市民社会」の分析の重要性を学んだ。

そしてマルクスは,かつてヘーゲル自身が古典派経済学の研究を行ったように,「市民社会の解剖学は,経済学に求めなければならない」と考えた。

重要なことは,『法の哲学』「序論」で表明された「社会哲学」という理論的レベルで,ヘーゲルからマルクスへの継承・批判の関係を検討することである。

A 「法の哲学」の権利論

1 .所有権

第 1 部 「抽象法」で近代的な人間(人格)の権利が論じられる。
第一の権利は所有権である。それは人格が物件を支配する権利である。
物件には,自己の身体も含めた自然物とともに,熟練や知識,学問,能力など精神的なものも含まれる。
所有権の主体は個別的な人格であるから,所有は「私的所有」である。
所有権は次の2つを意味する。
(A)物件の占有取得(Besitzname)である。それは身体による獲得,労働による形成,標識付けなどによって実現される。
(B)「物件の使用」である。所有権とは,物件の部分的使用ではなく,全範囲の使用の権利である。

価値(Wert): 個々の物件には特有の有用性がある。その中にある普遍性(共通の尺度)が物件の価値である。
物件の価値は貨幣によっても表現される。物件の所有者は,物件の使用者であるとともに,その価値の所有者でもある。

「物件の譲渡」: 物件は譲渡されるが、人格と自己意識の本質的な普遍性は,譲渡されない。

人格性の放棄: 奴隷,農奴などでは人格が放棄されている。労働においても,全時間と全生産物を譲渡するならば,それは人格性を他人の所有にしてしまうことになる。

2.契約

抽象法の第二は「契約」である。契約は相互に他者を人格として,かつ所有者として承認し合うことから始まる。
契約においては異なる物件が相互に交換される。その物件の価値は互いに等しい。

3.不法(Unrecht)

不法には3つの種類がある。すなわち罪なき不法、詐欺、犯罪である。

3-B マルクスによる「法の哲学」批判

マルクスが問題にするのは法そのものではなく、法の根拠としての経済的関係である。

契約という関係は,法律的に発展していない社会にあっても、両者のあいだの意志関係である。そこには経済的諸関係が反映する。

マルクスは,ヘーゲルの言葉を引用する(67節)

もしも私が,労働を通じて費消した私の時間と、労働を通じて生み出した私の生産物を外に譲渡した場合,私はそれらの実体,私の普遍的な活動,私の人格性の発露を,他人の所有にゆだねることになろう。

これは労働を労働時間に換算するという点で、マルクスがヘーゲルの考えを明確に継承したことを示す。

肝心なことはマルクスがヘーゲルの先に進まざるを得なかったことである。

現実には資本家と労働者との関係は自由でも平等でもなかった。

「自由意志契約」のもとで,労働者には長時間労働が強制される。そこで「自由な意志関係」に基づく労働時間を法律によって制限するために「工場法」が必要になった。

マルクスは「『譲ることのできない人権』のはでな目録に代わって,法律によって制限された労働時間というマグナ・カルタが登場する」と述べた。

4.人倫(Sittlichkeit)

5.市民社会論
ヘーゲルの市民社会論は「人倫」の第二部で扱われる。
市民社会では諸個人が相互に独立した特殊的・具体的人格として関係し合う。

諸個人は「欲求のかたまり」として,利己的目的を満足させるための経済活動を行う。

その中で,諸個人はおのずから社会関係を形成する。市民社会はこのような「全面的依存の体系」であり、個人の利己主義と社会的連関は分裂する。

これを克服するためには、個々人が学び教養を形成しなければならない。

学び(Bildung)の主題は
①自己の特殊な目的の実現は,普遍的な社会的連関によって媒介されていること
②自己の行動を普遍的な連関に適合させ,その一環としなければならないこと
である。

市民社会は2つの側面を持つ。

それは第一に欲求の体系である。
市民社会においては,人々の欲求は無限に多様化していく。これを満足させる手段を作り出すために、労働も多様化する。
これらの労働が固定的なものになるにつれて、労働が分割される。
分業によって労働が単純化されると、その技能も生産性も増大する。さらに人間の代わりに機械も導入される。
これらの生産・交換・消費の体系が、市民社会の「普遍的資産」をなす。
だれもがこの普遍的資産に参加できるわけではない。それは各人の資本と技能、すなわち「特殊資産」(端的に言えばおカネ)によって条件づけられる。
おカネと技能と労働の種類によって身分(Standが生じる。

それは第二に司法の体系である。それは「法律」であり,「裁判」である。
それは第三に行政の体系である。犯罪の
取り締まり,公益事業,生活必需品の価格指定,教育,貧困対策などを行う。
しかしこれらは第一の体系を補完し維持するためのものでしかない。

そのため,市民社会は富と貧困の矛盾を露呈させる。

a) 市民社会においては,一面においては,富の蓄積が増大する。社会関係が拡大し、欲求を満たす手段が拡大するからである。

しかし他面において,貧困が増大する。なぜなら富の蓄積とは富の不平等化だからである。
ヘーゲルはいう。
特殊的な労働の個別化と制限が増大し,このことによって,このような労働に縛りつけられた階級の従属と窮乏も増大する。そしてこのことは,その他のさまざまな自由,とりわけ市民社会の精神的便益を感受し享受することが不可能になることと結びついている。

こうして市民社会は,一方で「賤民(Pobel)」の
出現を引き起こし,他方で極度の富を少数者の手中に集中させる。
いかにして貧困を取り除くかという問題が,とりわけ近代社会を動かし苦しめている重大問題である。

しかし市民社会はこの問題を解決できない。
なぜなら富者に負担をかけることは市民社会における諸個人の自立性の原則に反するからである。

ヘーゲルは言う。
市民社会は富の過剰にもかかわらず,十分には富んでいない。
市民社会は貧困の過剰と賤民の出現を防止するほどに十分な資産をもっていない。
市民社会は発達するにつれて、そのことを暴露するようになる。
ここでいう「資産」とは,単なる財貨ではなく,「普
遍的資産」としての生産・流通・消費のシステムのことである。
残念ながら、ヘーゲルの市民社会論はここで止まる。その後のハプスブルクであったりプロイセンだったりする「国民国家」への期待は見事に裏切られていく。ただヘーゲルはそれすらも必然的は発展過程とみていたかもしれない。


5-B マルクスの市民社会論
『資本論』はマルクスの独自の「市民社会」論となっている。
a. マルクスは,ヘーゲルが問題にした「富と貧困」の
問題は,資本の労働搾取に基づくものと論を進める。

b. 「富の蓄積は貧困の蓄積である」と議論を進める。(私が思うには、マルクスは労働市場と商品市場との根本的な差異を指摘したのである。かなりどぎつく不正確な表現であるが…)

c. マルクスは,ヘーゲルの「職業団体」に対応するものとして,「労働組合」や「協同組合」を位置づける。


私たちはこれまで、マルクスがヘーゲルの弁証法を唯物論的に改造し、史的唯物論を打ち立て、古典派経済学の成果を引き継いで社会主義革命の理論を打ち立てたのだと考えてきた。

しかしそれは間違いではないが、不正確なのではないか。そんな気がしてきている。

彼の資本論にけるアイデア、とくに歴史的な視点、社会経済学的な視点はかなりの程度においてヘーゲルの市民社会論を直接引き継いだものであるように思われる。

古典派経済学の教科書を書くのに、リカードの見解だけを並べて、アダム・スミスの議論はリカードの意見に包摂されているからと省略することがあるだろうか。むしろ、アダム・スミスの論建てを最初に提示してこれにリカードらがどう追加・修正を加えていったという展開にするのが普通であろう。

その発想でいくなら、「ドイツ古典経済学」の教科書は、ヘーゲルがイギリス古典経済学から何をどう学び、どのように立論を展開したのかが、まず論ぜられるべきであろう。その後にマルクスの修正が加えられるべきであろう。

弁証法論理学がヘーゲルから引き継いだものの主体と考えてきたが、考えてみるとそれは付け足しだったかもしれない。
(57年草稿の頃はかなり論理学も読んでいたようだが)

マルクスがヘーゲルから引き継いだ最大のものは、実は「革命家」としての情熱だったのではないか。ヘーゲルは度し難い観念論者であると同時に、最もアクティブな立場を貫いた革命家であった。それが法の哲学のいたる所からほとばしり出ている。

見田石介さんはヘーゲルが観念論者であるにも拘らず唯物論的な発想で多くのことを語るために、論旨がわかりにくくなっていると嘆いているが、そうではないと思う。
彼は革命家である限りにおいて唯物論的たらざるを得なかったのであろうと思う。

私たちは今後の理論的スタンスを
「アダム・スミス党ヘーゲル派マルクス・グループ」と定め直さなければならない。

なぜヘーゲルか

このところヘーゲル絡みの話題が続いているので、読者の方々は「なぜいまさらヘーゲルか」と訝しんでおられるかもしれない。

実は、事の発端はケインズにあるのであって、根井さんの「ケインズ革命の群像」(中公新書)という本が面白くて読んでいたら、厚生経済学」に突き当たった。

経緯は省略するが、ケインズもビグーもマーシャルの新古典派を引き継いでいるが、かなり毛色が違う。

厚生経済学は一方で進歩的な色合いを込めつつも、実際の理論は数字ばかりでさっぱりわからず。言うこととやることがこれだけ違う学問も珍しい、不思議な学問だ。

結局、ミーゼスやハイエクも含めて、需給曲線と市場原理主義で価値論を無視する新古典派は、一括してポイ捨てするほかないと思うようになった。

スミスが「諸国民の富」を書いたとき、経済の研究対象は「富」と定められたはずだ。富を考察の対象から外した学問が経済学であるはずがない。それはたかだか「市場経済学」だ。

ということで、スミス→ミル→リカード→マルサス→セー→マルクスとつながる古典派をもう一度押し入れから掘り出して、ホコリを払って再吟味するべきではないかと思う。シュンペーターは準会員だ。

それで考えているうちに、「いきなり→マルクスだろうか?」と考えるようになった。

つまりそこにはカッコ付きかもしれないが、ヘーゲルが入るのではないかと思ったのである。

なぜそう思ったのかには理由がある。

以前「療養権の考察」を書いたときに、ヘーゲルの「仕事」概念が知りたくて「法の哲学」を読んだことがある。

なかなか目からウロコが多くて、すごく感心した。

それで、あとから「経済学批判要綱」に行くと、ヘーゲルの仕事概念を下敷きにした労働力能論や、欲望の拡大再生産論があったりして、あぁかなり「法の哲学」を読み込んだなぁと感じたことがある。

それと、我が身に合わせて言うのもなんだが、マルクスはどれほどヘーゲルを読み込んだのかという素朴な疑問もある。ドイツ語の原文でも難しいのは同じだろう。大抵は耳学問ですませたのではないかと勘ぐってしまう。

ただし「法哲学」だけはノートもとってガッチリと読み込んだ。「批判」も書ききっている。だからマルクスにとってヘーゲルのイメージは「法哲学」だったのではないか。

だから、マルクスがヘーゲルから経済学についてヒントを得たとしたら、それは法の哲学だったろうと思う。

ということで、マルクスとヘーゲルの関係については一つの研究対象となるのだが、私の考えているのはそこにはない。

もちろんヘーゲルは古典派経済学をそれほど本腰を入れて研究したわけではないだろう。また法の哲学はあくまで法の哲学であって経済の哲学ではない。

しかしそれにもかかわらず、ヘーゲルには独特のひらめきがあるし、古典派経済学に重要な寄与を成し遂げているのではないかと想像する。

もっと言ってしまえば、ヘーゲルはドイツ古典哲学とイギリス古典経済学を結合させた最初に人物として評価されるべきである。このような文脈で言えば、マルクスは経済哲学の分野の二代目に過ぎない。
ヘーゲルは初代らしく闊達に資本主義(市民社会)を語る。彼は資本主義社会の根っこをなす商品社会・市民社会のエッセンスを、ある意味マルクスよりより全面的に網羅しているのではないか。

また当初よりマルクスが特別力点をおいている所有の問題ではヘーゲル法哲学との取っ組み合いの中で独自の視点を形成していったと思われるので、この点についても両者の視点の違いと共通性を考察する必要があるだろうと思う。

いずれにしても、ヘーゲルを古典派経済学の山並みの一つのピーク、とりわけ経済哲学の一つの頂点として改めて見直す必要があるのではないか、というのが私の意見である。



という論文にドイツのアルントという人の説が紹介されている。
これぞ私のもとめていたものだ!

とりあえず、リード部分を紹介しておく。

マルクスの経済学批判の構想(プラン)は,1.「資本」から始まり,2.「土地所有」,3.「賃労働」,4.「国家」,5.「国際貿易」,を経て,6.「世界市場」に至る。

これは,ヘーゲルの「市民社会」から「国家」に至る『法の哲学』に対応するものである。
したがって,マルクスの『資本論』はヘーゲルの『法の哲学』との対応においてこそ,検討されなければならない。

それに対して,ヘーゲルの『論理学』とマルクスの『資本論』は(これまで強い影響が指摘されてきたが)、理論のレベルが異なり,マルクスの『資本論』からヘーゲルの『論理学』を批判的に乗り越えた「論理学」を見出すことはできない。

ヘーゲルの『論理学』ではなく、『法の哲学』とマルクスの『資本論』との対応について検討するべきである

と、アルントは主張する。

角田修一 書評
「見田石介著作集 第1巻 ヘーゲル論理学と社会科学」(1977年)

見田石介は
「ヘーゲル弁証法の神秘的な観念論の外皮というものは、それを一皮むけばそこに正しい弁証法が現れてくると言った表面的なものではない」
と言った。
そんなにかんたんなものではないからこそ、彼の哲学は難解なのだ。
見田石介は
「マルクスの方法を理解するのに、ヘーゲルの言葉や流儀を当てはめようというのは間違いであり、『資本論』にそれらを適用しようと試みるなどというのはまったく非科学的な態度である」
と述べている。

へーゲルの観念論たる本質はどこにあるのか。どこを最も警戒しなげればならないのか。
見田石介は
「要するにヘーゲルは、人間の思考過程を現実の過程と同一視した。へーゲルの思考概念は、現実の世界を生みだす真の実在になってしまっている」
にも拘らず、ヘーゲルにはまた、客観的内容を一定反映した「唯物論的な要素」がある。
そこには人間の認識の限界を説く経験論や、認識を主観の世界に閉じ込めるカント主義とは異なるヘーゲルの科学主義がある。
ヘーゲルの難解さの原因は、このような二面的立場の混在にある。

へ-ゲル弁証法の合理的な核心
見田石介は
「否定という形式のもとでの発展」が、へ-ゲル弁証法の合理的な核心だとする。
それは第一に事物の変化が、それぞれの事物の自己運動だということである。それは現状否定という形で運動する
第二には、事物の変化が発展だということである。それは単純な否定ではない。古いものは新しいもののモーメントとなり、新しいものはより豊かな一つの全体となる。
第三は、諾事物の変化はたがいに連関(因縁)を持っているということである。それは必然的でありユニバーサルである。

へ-ゲル弁証法の革新性

へーゲルの論理学は従来の論理学(形式論理学)に対してどこが新しいのか。

見田石介は
第一に、へーゲルは「弁証法」を持ち込んだこと。弁証法とは上記の3つを柱とするもの。
第二に、感覚的な直接的な認識から本質へと向かう「探求の過程」を示し、既存の論理的な諸カテゴリーを位置付けたこと。
第三に、最も基礎的な概念から出発して、直接的な認識にすすむ「叙述の過程」を示したこと。
第四に、概念や推理の形式のみを取りあっかう形式論理学でなく、「思考」が論理をとらえる過程を対象とした。(ヘーゲルの「思考」は自然過程の裏返しであることに注意)
第五に、「普遍」についての新しい考え方を提起したこと。(内容略)
をヘーゲルの論理学の発展への寄与とした。それはへーゲル論理学のうちの肯定的側面としてマルクスに受げつがれた部分でもある。

一方でヘーゲルの論理学は根本的(致命的?)な欠陥を持っている。

見田石介は
へーゲルの方法は、
①叙述的方法: 現実の事物の原理としての概念から具体的なものを展開する方法
②演繹的方法: 抽象的な要素から具体的なものを総合する方法
③歴史的方法: 探求の過程に沿った方法
の3つを区別できなくなっている。結局①の方法に集約させてしまう。
哲学史の歩みに照応した認識の深まりの歴史的過程も、実際に事物を分析し総合して行く合理的な認識過程も、すべて萌芽としての根本概念からの発生的展開という衣を着せられてしまう。
へーゲル自身、論理学の中で分析と総合をおこないながら、これに概念の自已展開という移式を無理にあてはめるのである。
これがへーゲルのいう「絶対的方法」の根本的欠陥である。

と書いた。

「1968年7月11日クーゲルマンあての手紙」

榎原均さんのページを使わせていただきました。すなおに尊敬に値する経歴の持ち主です。


社会的総労働の配分論としての商品論

世の中にはいろいろな欲望があり、それぞれが一定の量を持っています
それらのいろいろな欲望量に対応して、いろいろなものが生産されます。
それらの生産物が生産されるためには、いろいろな社会的総労働が必要となります。
それらの生産物、さらにそのための労働については、いろいろな“量的に規定された量”がもとめられるでしょう。

これは子どもでもわかることです。

このように一定の割合で社会的労働を分割することは、いつの世の中でも必要です。

もちろん社会のあり方によってその現象様式は変りうるのですが、労働の社会的分割そのものは必ず必要です。それはけっして社会的生産の特定の形態によって廃棄されうるものではありません。
(どうも社会的分割というのは分業ではなく、いわば「社会的協業」ともいうべき共同作業を指すようだ)

自然法則はけっして廃棄されうるものではありません。
歴史の移り変わりとともに変化するのは、それらの諸法則が貫かれる形態だけです。
その歴史的形態の一つが交換価値です。

なぜ交換価値が特殊なものなのか。それはある種の社会的生産の形態に伴って発生するからです。

それはどういう社会か。
それは「社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会」です。
つまりそれは、生きた人間同士の関係が、労働生産物の交換を通じて実現される社会です。
しかも生きた人間は生産を個人的に行い、生産物を私的に交換するのです。それが主要な社会関係となっているような社会形態は商品社会と呼ばれます。

交換価値は、商品社会という社会形態での労働分割形態の(量的な)表現なのです。


ここまでが本文。榎原さんは話をわかりやすくするために、ロビンソン・クルーソーの挿話を付け加えている。

ここで自然法則とされている労働の社会的分割に関して、マルクスは「ロビンソン物語」を念頭に置いていると思われる。

ロビンソンには生産的な仕事がいろいろとある。彼は、それらの仕事が自分の身体活動の、したがって人間的労働のちがった形態にすぎないことを知っている。

彼は、必要に迫られている。生活のために彼のさまざまな仕事時間を正確に割り振らなければならない。どの仕事をより長く、どれをより短くするかは、目的とした有用効果の達成のために自ずから定まる。経験が彼にこのことを教える。『第一篇 商品と貨幣 第一章 商品 第四節 商品の物神的性格とその秘密』

ここで明らかなように、ロビンソンの労働配分は、一方における欲求、他方における必要労働時間を勘案して決められる。
この場合、商品も交換もないのだから交換価値も抽象的労働も存在しない。欲求量と労働量とは、ロビンソンの内部において一致している(せざるを得ない)。


ロビンソンの次に「農民家族の素朴な家父長的な勤労」が考察される。
家庭内で農耕、牧畜、裁縫などが自然発生的に分業される。それらは、商品生産と同じように機能する。しかし個人の労働は共同的労働力の器官としてのみ作用する。
家族という共同体内部では、日々の必要量、個々の労働を担う成員の能力が前もって明らかになっている。それが労働の社会化のを成立させる柱となっている。

まえがき 工藤さんの言いたいこと

1.価値の二重性とアリストテレス
商品の価値には使用価値と交換価値という二重性がある。これはマルクスが「経済学批判」で再三強調しているように、アリストテレスが発見したものである。
2.ヘーゲルはアリストテレスを引き継いでいる。
ヘーゲルの「哲学史」はアリストテレスの影響を受けている。
3.マルクスはヘーゲル論理学の受容
マルクスはヘーゲルをそのまま引き継いでいるわけではない。
マルクスはヘーゲルの自己展開の論理を発生論的推論に置き換えている。
また展開過程を歴史的に追試することにより確認しながら進んでいる。
この2つの“逆立ち”修正操作により、ヘーゲルの論理の持つ観念論的弱点が克服され、荒唐無稽さが払拭された。そしてヘーゲルの論理学の真髄が引き出された。

資本論・商品論とヘーゲル

(1)商品分析の4つの段階
資本論第一部冒頭の「商品の分析」では次のような論理展開が行われている
第一段階: 商品が二重の価値を持つことの説明。すなわち使用価値と交換価値。
第二段階: 交換価値の本質は労働の作り出した「価値」である。
第三段階: 商品の二重の価値を労働が作り出すのだから、労働も二重性を帯びていることになる。それは具体的有用労働と一般的抽象労働である
第四段階: 市場においては、商品と商品が等価として対置される。それは人間的労働が等価の関係として対置されることである。(ということは、人間的欲望が対応しているということでもある)
このような論理展開はヘーゲルの論理学を元にしている。

(2)ヘーゲルの3つの論理
この4つの段階は、ヘーゲルの「大論理学」に示された3つの論理の応用である。その3つの論理とは
① 「分析的認識」(大論理学の「概念論」と関係)
② 「反省的思考」(大論理学の「本質論」と関係)
③ 「判断」(大論理学の「概念論」と関係)
以下、この3つの論理について詳説する。

第一の論理 分析
分析の視点は商品認識の4つの段階に共通して現れる。
ヘーゲルの考える分析の方法: 分析は何度も繰り返し掘り下げる。
① 素材を論理の塊として再構築する。素材は直観の塊であり、これを論理の塊として抽象化する。
② 認識は進展であり、区別の展開である。視点を据え、要素に分解し、要素の集合として特徴づける。
③ 進展は区別の展開の繰り返しである。区別された抽象をふたたび具体化し、さらに区別する。

第二の論理 反省
① あらゆる存在は、「媒介」されて存在する。存在を知ることは「媒介」を理解することである。
② 存在を媒介との統一として把握することを、「反省された思考」という。
③ 大論理学の「有論」では、まず物事はその直接態において捉えられる。その際に、物事の奥に隠されたものを「本質」という。
④ 物事の本質を探るためには反省が必要。

この付近から相当、腹がむず痒くなってきた。この人はヘーゲルが分かっていない。
ヘーゲルは“Reflexion”と言っているので、反省ではなく反照だろう。鏡に写った影だ。フィルムに落とした風景だ。
ヘーゲルというのはいったいに言葉の使い方が乱暴な人で、そのうえに訳語がずれてくるから、何を言っているかわからないところがたくさんある。ヘーゲルの本を読むコツは、わからないところは飛ばすことだ。ツァー会社の宣伝ではないが「ヘーゲル、5日間の旅」だ。大丈夫、彼はまた同じことを繰り返す。

第三の論理 判断
判断とは物事が存在する必然性についての理解である。
ヘーゲルの唱える判断には2つの特徴がある。
① 概念内に措定された規定性(なんやこりゃ?)
② 判断のプロセスは思考の上行過程と呼ばれる。
③ そこではまず定有の判断が行われ、ついで反省の判断、そして必然性の判断が続き、最後に概念が判断される。
この定有→反省→必然性→概念という4つの判断過程を踏むことによって新しい概念が作られる。

多分ここで言いたいのは、現象→実体→本質という武谷の三段階説と同じことだ。しかし武谷モデルのほうがはるかにスッキリしている。ここで高齢学習者である私の学習エネルギーはがくんと落ちる
ここで私は本を閉じた。

なお「分析」にかかわる記述でちょっと脈絡なく、クーゲルマンへの手紙が紹介されている。
これは分析の視点の一つとして、「概念を歴史と発展の視点から捉える」というマルクスの立場を示したものだ。

この手紙は資本論第一部の発行後1年経ってから書かれたもので、分配問題について重要な言及がある。

工藤さんによれば、
① 社会の欲望量には社会的総労働が対応する。その個別の分配割合は社会的に規定される。社会的に規定されるというのは、市場的であると否とを問わない。
② 社会的配分の仕方は生産形態によって規定されない。それ自体が自然法則であり、それをなくすことはできない。
③ 労働生産物が私的に交換される社会、すなわち商品社会では、社会的配分は交換価値を通じて貫徹される。
ということで、面白そうな話題だが、詳細不明である。あとで調べてみよう。

マルクスは所有の問題、労働の問題でヘーゲルを引き継いでいる。それはおもに「法哲学」を通じてのことになる。ところがヘーゲルのこれらの議論は、アダム・スミスを読んで得た知識に基づいているらしい。
ということで、マルクスは経済学の概念形成にあたって、特に初期においてはスミス→ヘーゲル経由で仕込んでいるのではないかという気がする。

そんな日々の中で、たまたま「マルクス資本論とアリストテレス・ヘーゲル」という本が見つかった。パラパラと目を通す。
工藤晃さんの書いた本で2011年、新日本出版社の発行だ。
私の目下の関心とぴったりだと思って読み始めたのだが、どうも車線違いのようだ。

工藤さんは資本論の論理がヘーゲルの大論理学と重なっていることを強調したいらしい。そのうえで、マルクスが援用するヘーゲルの現象(認識)過程論がアリストテレスに淵源を持つことを強調する。

ただしアリストテレスのことなどは、当座どうでも良いことなので、少々煩わしい。

工藤さんの問題意識は、むかし読んだ見田石介さんの「資本論の方法」につながるものではないだろうか。正直の所、この年になってヘーゲル論理学を深めようという気はない。またマルクスにそれほど肩入れしたり、忠義立てしようとも思ってはいない。

むしろヘーゲルが直接イギリス経済学に触れてそれを摂取しているのだが、それをどう解釈すべきかが一つ、もう一つはそれをマルクスはどう受け止めているかというのが一つである。

一応、最初の数ページだけメモしておくことにする。



この間読んだ文献で、マルクスの真髄は労働価値説よりも私的所有の廃棄にあるのではないか、と書かれていて気になっていた。

そこで、所有の問題をロックからヘーゲルと引っ張ってきて、市民社会の根底に据え、それを覆すことを革命論の中核に据えた、という議論が本当に正しいのかを少しかじってみたい。

ヘーゲルの「法の哲学」第41節

「人格が(法的な)理念として成立するためには、自分の周囲にある「自由圏」を自分に与えなくてはならない。

持って回った言い方だが、自分の周囲の「自由圏」を自分のものになってはじめて人格が成立する、つまり人格というのは「自分+自分の所有する自由圏」ということになる。

したがって、「所有」とは自由の最初の現実化であり、自由の最初の実在性である。


「法の哲学」第42節

自由圏は本質的に外界であるが、人格に取り込まれることにより、「物件」と呼ばれるようになる。そしてそれは法律的な関係の中に立つ。

人格は発展し、自由圏は拡大する。したがって人権のもたらす物件は増大する。


第43節 交換可能な物件

物件の中には2つのものが含まれる。ひとつは人格と分かちがたく結びついた生命や肉体、天賦の才能といった物件である。

この他に第二の物件もある。それは人格が意志を以って、自らの能力によって生み出した所産である。

これら第二の物件は、外的な自然の諸物件と同じように契約や売買の対象とすることができる。

ただし人格の支配のものに置くことができない自然対象、太陽や星などは物件とはなりえない。

第44節 物件に対する所有権

外面的に見れば、物件はいかなる自己目的も持たない。これを所有に結びつけるのは、人格の意志である。

物件とはあるものを物件にしようとする意志の産物でしかない。

ここでヘーゲルの物件論は一旦無内容になる。

第45節 占有と所有

所有一般は誰かのものにすることであるが、占有は私のものにするということである。

所有は状況であるが占有は行為であり意志である。

占有が所有となるためには、それが合法的に行われた上で、社会全体から承認されなければならない。

所有を指すドイツ語

ヘーゲルはDas Eigentum を用いている。所有ではなく財産と訳されることもあるが能力という意味を含むので資産というべきである。

46節 私的所有の必然性

所有という形で私の意志は客観的なものとなる。自然は人の意思を受け入れ、この時所有は私的所有という性格を帯びる。

ずいぶん持って回った言い方だが、ヘーゲルは観念論者の宿命として、いかに述語に主語を持たせないかに気を使う。

ロックは私有財産を労働から基礎づけた。
ルソーは私有財産を技術の発展から基礎づけた。
ヘーゲルは“個別的な意志の排他性” から私的所有の必然性を基礎づけた。

ヘーゲルは、ここでは社会関係の枠組みを無視して議論している。しかし政治家ヘーゲルは、後の段で、「国家という理性的な有機体」に対しては、共有や公的所有を認めている。


47節 生命と肉体への権利

私は私の精神と肉体を所有する。それは他の物件を人格として所有するのと同じである。

動物も彼らの霊魂により自分を占有している。しかしそれは意志による占有ではないから、権利による所有ではない。彼らは自分の生命に関するいかなる権利も持っていない。

肉体はただの現存在であるかぎり精神的なものではない。それが精神の器官となり手段となれば、それは自由で意志的である私の一部となる。そのような肉体に加えられた暴力は私に加えられた暴力である。

だから何やちゅうねん。

49節 財の平等

具体的な人間は、個人として、各自異なった欲求や目的を持ち、能力や機会も異なっている。結果として財の占有には偏りが出る。

抽象的な同一性に固執する平等論は空虚である。

しかし生計は占有の概念とは別に語らなければならない。生計は抽象法の範疇ではなく、「市民社会に属する問題」である。

「効用」を考える

1.「効用」と使用価値

新古典派の代名詞は「効用」である。「効用」そして「限界効用」は古典派にはない概念だ。

新古典派にあっては価格の源となるのが効用だ。

効用(utility)というのは商品に付帯する性質である。“Goods”の持つ “Worth”であろう。

それは古典派における「使用価値」(value in use)とかなり重複する概念だ。古典派にあって取引というのは基本的には等価であるから、価値(商品に含まれた労働量)によって決まる。

しかし価格は価値によって決まるのではない。売れるものは売れて、場合によってはプレミアが付く。逆に売れなければ割引するが、最悪投げ売りするほかない。

古典派によれば、価格と価値は個別にブレることはあっても一つの市場全体としてはバランスが取れることになっているので。総価格と総価値はイコールになるはずだと言われる。だがそうだろうか。

もう少しいろいろな事情を取り込みながら、価格の決定過程を具体的に探っていくべきではないだろうか。

そう言われると「たしかにそれはそうだよね」という気持ちにならないでもない。

しかし具体的な算定法になると、「完全競争市場」という信じられないほどの単純化と大胆な仮定の連続で、それで出てくる数字に有効性があるとは思えない。

私としては、「長期的には価格は価値を反映する」ことを前提にして、どんなものが価格実現過程を撹乱するかを列挙し、それらに重み付けするのが一番現実的なように思える。

そういう点では、新古典の分析手法を基本的に受容できないのである。

2.心理学的範疇としての「効用」

効用というのは“もの”に即してみれば、その具体的有用性である。ただ人間側から効用を見れば、それはむしろ心理的な欲望を充足させる度合いである。

そして、新古典派ではこちらの意味合いの方が強そうだ。欲望が強ければ満足量も増えるし満足度も高まる。逆に何度も使っていれば飽きてくる可能性もある。

しかし欲望充足の程度というのはあまりにも多変量的であり、その評価についてはほぼ絶望的であろうと思われる。基数的効用とか序数的効用というが、それは結局、供給量を増加させたときの市場の反応だ。
たしかに「効用」が評価されれば需要は高まり、それは二次的に供給量として反映されるであろうが、原因と結果が堂々巡りする同義反復のような気がする。

3.「効用」と欲望の関係

「効用」というのはおそらく欲望との関係でもたらされる関数であろうと思う。欲望のないところに「効用」は生じないが、ひょっとすると使用価値がゼロであっても「効用」は生じる可能性がある。

欲望は生産とどのような関係にあるか。欲望はモノなしには生じない。それはモノを消費することで生まれる。すなわち欲望はモノそのものではないが、モノと同様に生産されるのである。

欲望の生まれる可能性は無限に存在する。つまり一般的欲望は無限大である。しかし具体的な欲望(例えば需要)は物質に依存するので、時・場所・場合により変わってくる。

4.欲望より見た市場

生存要求に基づく欲望は直接的であるが、生産力が上昇すれば社会的・間接的要求の比重が高くなる。その内容も多彩になるため、需要供給曲線に表すこと自体が無意味になるのではないか。

市場の意義は商取引よりも需要喚起、欲望の掘り起こし機能が主要なものとなる。

実需に基づく市場においては、商品需給と労働力需給がほぼパラレルに動くものと思われるが、欲望が多様化し需要構造が複雑化するようになると、両者にズレが見られるようになる。また信用制度が発達するとキャッシュフローの時間差が激しくなり、市場を揺さぶるようになる。

このような状況になっても「市場原理主義」を貫くのか、さまざまな代替案を組み合わせるのか、真剣に考えなければならない時代になっている。
新古典派経済学がそのままで進めないことは明らかである。


1943年、センのふるさとベンガル州で大飢饉が起きた。この飢饉は200万人を超える餓死者を出した。当時9歳のセン(Amartya Sen)はこれに衝撃を受けたという。

長じたセンは、イギリスで新古典派経済学の研究に入る。ただ新古典派にとどまることはできず、独自の領域を開いてきた。

彼の新古典派に対する最大の不満は、きわめて多様であるはずの欲望を一元的な「効用」概念に収斂してきたことだ。

そこでセンは,「効用」の評価をより多様な方向に拡大し、多様性を許容するアプローチの方法を考え出した。(それは樹によって魚をもとめることになるのだが)

ウィキペディアによればセンの提案は以下のごとくまとめられる。

1.経済学は倫理学と工学から派生していると主張。前者を「モチベーションの倫理」、後者を「それを達成するための手段」とする。

2.途上国の購買力と飢餓の関係を、市場競争における市場の失敗によって説明。飢えを回避しようとする政府が欠如していることの影響を強調。

3.経済学は数字だけを扱うのではなく、「共感性・関わり合い・利他性」(コミットメント)を重視すべきだ。

4.経済成長が達成されるためには、経済改革にたいして教育と国民の健康における改善などが先行しなければならない。それによって国民の潜在能力が確保されなければならない。

5.潜在能力(ケイパビリティ)とは、「人が善い人生を生きるために、どのような行動をとりたいのか」を考え実行する能力群である。

6.人間開発指数(HDI:Human Development Index)はそのための具体的指標だ。しかし平均寿命・教育・国民所得は手段であって、目的そのものではない。

私の感想だが、

センはアダム・スミスとマルクスを愛読していたというが、人間の労働にもっと確固とした価値を置くべきではなかったのか。

かなり苦労して新古典経済学を進歩的な思想と結合させようとしてるが、結局厚生経済学にとどまる限り、樹によって魚をもとめるようなものであろう。

センは良くも悪しくも「厚生経済学」の広告塔であろうと思われる。だからその理論的背景を詮索するよりも、彼の言わんとする所を素直に受け止めることがだいじなのではないかと思う。




最初の見出しは「ルディー和子さんの 『経済の不都合な話』を読む」だったが、変える。ルディーさんの「話」をネタに私がオダを上げているだけで、ルディーさんがそう言っているように書いているのはほぼウソです。まことに申し訳ございません。
でもけっこう同感してくれるのではないか、とひそかに心中思っています。


ルディー和子さんの 「経済の不都合な話」が面白い。
とりわけ腹を抱えてしまうのがこの部分

第3章 科学になりたかった経済学
・経営学やマーケティングに理論などない 
・教科書どおりにインフレにならない理由 
・「日銀の約束」など誰も信用しない 
・経済学者はおろかなのか、それとも… 
・物理学への憧憬 
・定職につけなかった経済学の祖 
・経済学は厳正科学になりたかった 
・「合理的経済人」が感情の産物という皮肉 
・ノーベル経済学賞が逃れられない後ろめたさ 
・「美しい数式」と絵画や音楽の不思議な共通点 
・数式に魅せられ人間社会を誤認する

ルディーさんはまず、ジェボンズ、メンガー、ワルラスら新古典派に共通する議論の特徴をこうまとめる。
労働量が価値を決めるのではなく、顧客の満足度が価値を決めるという「逆転の発想」
労働価値説の否定でなく、価格形成過程からの排除という「けたぐり」による、古典派経済学のちゃぶ台返し。
価格形成論の除外により、労働者と労働過程を経済学の関心圏外に置くこと。
ついで今度はフィクションの積み重ね。「おとぎ話」を数式化することで真実らしく見せる詐欺的手口。
「顧客の満足度」を微分していくとどうなるか。

財の消費で得る満足感、これを効用と呼ぶ。その一単位(しかも最後の消費)を限界効用と呼ぶ。
これが財の価値を決める。したがって価格を決める。

つまり新古典派は「快感」を定量化するという無茶をやって、それを世の中の事象を測定する上での物差しにしようとするわけだ。

「今のはこんなに気持ちよかったから、これを1万円ということにして、世の中決めていきましょう」という話だ。下品な例えで申し訳ないが…

ついで今度はその「限界効用」をさまざまな条件をつけて積分してみようということになる。つまり、一度干して干魚にしたものを、もう一度お湯で戻して食おうという話だ。

困るのはあらゆるパラメーターが「快感」の関数になってしまうことだ。科学的な様相を呈すれば呈するほど、この極端な主観性による歪みがひどくなる。

ルディーさんは、新古典派がここまでのさばってしまったのはシュンペーターのせいだという。
数学が苦手だったことで有名なシュンペーターがワルラスを天まで持ち上げたのは皮肉だが、かといってシュンペーターにそこまでの責任があるかというと、それはちょっとかわいそうだろう。

新古典派が生き延びたのは、他ならぬケインズとサムエルソンのおかげである。シュンペーターの発想はケインズとは正反対で、ほぼ正統的な古典派だ。

ルディーさんも、高校の微積分でずっこけた「文化系」の人らしいから、シュンペーターとは相見互いだ。他人事ではない。

1.「経済学」という言葉の範疇

何度も引用するのだが、三木清が「心理学」を批判したことがある。

以前の心理學は心理批評の學であつた。それは藝術批評などといふ批評の意味における心理批評を目的としてゐた。
人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評價することによつてこれを秩序附けるといふのが心理學の仕事であつた。この仕事において哲學者は文學者と同じであつた。
…かやうな價値批評としての心理學が自然科學的方法に基く心理學によつて破壞されてしまった。

2013年11月09日 三木清「幸福について」を参照されたい。

ようするに、心理学という言葉の剽窃であり、しかも厚かましくも商標登録してしまったみたいな感じである。

どうも新古典派の経済学にも同じ匂いが感じられてならない。

2.「経済学」の研究対象

言うまでもなく近代経済学というのはケネーの再生産表に始まり、スミスによる重商主義からの脱皮、労働価値説と進む中で、「価値論」を中心に展開してきた。

それはリカード、マルクスへと連なっていくわけで、マルクスが政治的に異端であるから異端というわけではなくまさしく経済学の王道なのだ。それはいまでもそうだと思う。

これに対し、新古典派と称されるいくつかの潮流がいずれも需要・供給関係を中軸とする市場メカニズムの探求に集中・特化してきた。

それは流通過程の一局面であるが、決定的に重要な局面でもある。そこで生産者は「命がけの跳躍」をしなければならない。

ただ個別の跳躍は、全体の流れの中では必然的過程として理解される。

それは鮎が瀬を跳び上がって上流に進むのに似て、まさにミクロな行為だ。

3.マル経は近経の一部分になるべきか

たとえ、百歩譲って、新古典派のミクロ経済学を経済学の主流だと認めるとしても、それは経済の諸分野の中の一つだと言うことを主張したい。

「価値論」を中心的関心領域とする「制度経済学」は市場中心志向の「経済学」とは別の分野の学問として独立した扱いを必要としている。

この「価値」志向型経済学は、マル経の閉鎖性のゆえに統一したアイデンティティを持たずに過ごしてきた。

スミスやリカードは「資本論」を書くための踏み台扱いされてはならない。マルクスが最晩年に苦闘した第二部草稿は、まさにスミスとの思想的取っ組み合いだ。

だれかが、一度スミスからマルクスに至るレビューを行い「古典派ミクロ」経済学の骨格を再構築してほしいと思う。

おそらく、「剰余価値学説史」を通読することで、見えてくるものがあるのではないかと思うが…

アメリカにおけるケインズ受容

1935年秋 ロバート・ブライス(カナダ人でケンブリッジに留学)、ハーバード大学で「一般理論」の紹介を開始。

1936年1月 「一般理論」が公刊される。米国へは2ヶ月後に流入。

米国では「一般理論」のうち有効需要論が集中的に取り上げられた。

1937年 ミネソタ大学のハンセンがハーバードに赴任。当初は保守派であったが、まもなくケイインジアンに転向。

ハーバードはケインズ派の牙城となり、サムエルソン、ガルブレイズ、ハリスなどが輩出する。

1948年 サムエルソン経済学が出版される。
不完全雇用時にはケインズ主義的介入を行うべきであるが、ひとたび完全雇用に達すれば新古典派理論がその真価を発揮する
崩れた新古典派のミクロ環境は、インフレターゲットをもつ金融緩和と財政出動によって回復しうるとした。これを「新古典派総合」と名付けた。政策メカニズムはそのとおりだが、これって学問ですか? 
 なにか発想が違う。反省がないような気がするが…

異端派のガルブレイズ、「計画化体制」概念を提起。これは千社程度の大企業が国家と固く結合した体制で、企業は国家の一翼となり、国家は計画化体制の道具となっている。(要するに昔の国独資)

1958年 ガルブレイズ、「豊かな社会」を発表。私的な欲求と公的な必要との不均衡を問題にする。
貧しい社会には誘惑がないし、公共サービスを厳格にすることができる。しかし豊かな社会はそうは行かないのだ。
そこでは消費欲望を満足させる過程自体によって消費欲望が作り出される。それは依存(Addiction) をもたらす。
1971年12月 J.ロビンソン、アメリカ経済学会で「経済学の第二の危機」と題して講演。
アメリカのケインジアンは、「財政赤字は無害だ」とし、産軍複合体がそれを利用するままに任せた。雇用問題は解決されたが、「なんのための雇用か」問題は解決されていない。
分配問題は経済の問題ではない。それは不平等の容認。放置すればインフレが発生し自由主義の慣行を掘り崩していく。
格調高いが、「分配」は経済ではないというのは逃げだ。

シュンペーター 需要の拡大を先頭に置くことへの批判(批判にはなっていないが)
経済における革新は消費者の側から自発的に現れるものではない。むしろ新たな欲望が生産の側から教え込まれることが普通である。従って革新のイニシアチブは生産の側にある。

1977 ガルブレイズ「不確実性の時代」を出版。

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