ただマンローにははや見え早とちりの癖があり、縄文土器とアイヌ紋様が似ているから、「アイヌこそ縄文人の子孫」だと無茶を言って、これはひんしゅくを買ったようです。
第8章 「先史時代の日本」 その2
ただマンローにははや見え早とちりの癖があり、縄文土器とアイヌ紋様が似ているから、「アイヌこそ縄文人の子孫」だと無茶を言って、これはひんしゅくを買ったようです。
AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。
先史-原史-有史 の切断と統合
武器 道具 | 石器 | 鉄器 | 有史時代 |
食料獲得 | 狩猟・漁撈・採集 | 水田耕作 | 有史時代 |
統合すると | 石器+狩猟 | 石器+水稲 | 鉄器+水稲 | 有史時代 |
人種的には | YハプロD(+C1) | YハプロD+O1(+C1+N) | YハプロD+O1+O2 | YハプロD+O1+O2 |
(O2は支配者としての北方民族)
慣用的には | 旧石器+縄文 | 弥生前半 | 弥生後半+古墳 | 有史時代 |
ここで鉄器は紀元前100年、漢軍の進駐と楽浪郡の設置に続いて起きている。青銅はそれより100~200年前、これは長江文明由来のハプロO1人が持ち込んだもので、用具と言うよりは銅鐸を始めとする祭祀用品である。日本に青銅器は持ち込まれたが、それは青銅器時代を形成するには至らなかったと考えるべきであろう。
時代の切断も統合も、大局的には大陸→半島からの圧力を受けた在来諸人種の「辺縁化」と見ることができる。
その「辺縁化」は基本的には中央アジアの遊牧民の東漸圧力によるものである。(正確には東西への移動圧)
もう一つの圧力として南方から北上する水稲作りの圧力がある。米作りは労働集約型の農業であり、畑作以上に人造りが欠かせない。この人口圧が気候変動と抗いつつ、平和的に北上を進め、狩猟民族を圧迫していく。
日本列島は終着駅なので、これ以上辺縁化はできず、吸収されるか淘汰されるか、落人化するか、下部構造化する以外の方法はない。それぞれのYハプロがどうなっていったかは想像するしかないが、同じ人種のミトコンドリアDNAとの対比である程度見えてくるものがあるかもしれない。
西の終着駅であるブリテン島やイベリア半島の流れも参考になるであろう。
アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族が挙げられる。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきた。
ヒッタイトと鉄の歴史
ヒッタイトの版図
紀元前 3500年ころ メソポタミアでは紀元前3000年ころの隕鉄性鉄器が発見されている。またアナトリアの王墓からは隕鉄製の短剣が発見されている。
紀元前2000年ころ クリミアの印欧語人が黒海を渡り小アジアに侵入。先住民を制圧しヒッタイト国を建設。
紀元前 1800年ごろ クレタ島の民が、山火事の焼け跡から隕鉄を発見、鉄鉱石を高温で蒸し焼きにする直接製鉄の原理を発見。
紀元前 1700年ごろ クレタ島の技術をヒッタイトが継承し人工鉄製造法を開発。門外不出の国家的な技術とする。(最近の調査で鉄の製造は紀元前20世紀をさかのぼる可能性が指摘)
最初の製法は直接製鉄法: 木炭を低酸素下に熱して、CO→CO2により、混焼した酸化鉄の鉱石を還元する。
紀元前1190 ヒッタイト帝国が「海の民」の侵攻により滅亡。背景に製鉄のための森林乱伐と枯渇。その子孫(タタール人)はインドや中国で製鉄を伝承。
紀元前1000年ころ 製鉄技術が中国,インド,ギリシャへ伝播。
中国で製鉄法が発達。鉄鉱石を溶解する銑鉄の製造( 間接法 )まで進化する。
紀元前 200 年ごろ 青銅器にやや遅れて鉄器が伝来。最初は鉄斧( 錬鉄製 )
紀元前119年 中国で鉄と塩が専売制になる
西暦 400 年ごろ 九州,中国,大和地方で砂鉄を用いた初期の「 たたら吹き 」製鉄が始まる。「 たたら 」は,タタール人が語源。
アイヌ民族について幾多の調査研究が行われて来たが、未だアイヌ民族の人種的民族的系統、固有文化の本質は十分に解明されたとはいえない。一方、アイヌ民族固有文化は急速に消滅しつゝある。アイヌ民族は文化的、社会的経済的条件も決して恵まれたものとはいえない。アイヌの福祉政策のためにも、基礎調査が必要である。
理論研究の中央に位置する(と自認する)「文化人類学者」集団が、「北海道諸学者」と一括された「ミンゾク学者」とアイヌの「アイヌ人情報提供者」という周辺化された二重のエージェントを媒介としてアイヌを〈知〉的に搾取・収奪することが「綜合調査」の中心的な構造であった。
「何故アイヌが胴が長いなどと、つまらぬことを云って、シャモと差別するか」「何故つまらぬことをしらべて金もうけするや」「どうして調査するならば、もっと有益な生活の為になるような調査をしないか」立つづけにまくし立てられる。
暗い色調の底に哀愁とロマンティシズムが漂う文体で貫かれた筆致はどこまでも第三者的で、ときに冷笑的と映る場面も少なくない。
道東、白糠の町を、アイヌこじきが歩いていた。軍隊服にアカじみた外被、うすい背中に全財産をつめこんだリュックが、軽くゆれている。酒屋から隣りの雑貨屋へ、親指の出た地下タビはよろめいて、年はもう七十才は越しているだろう。写真をとられていることに気づいたらしい。さっと道ばたにかがみこみ、ふり返って、カメラマンをにらみつけた。両手には大きな石が―。財布をとり出すと、敵意をむき出しにした老アイヌの姿勢が、とたんに、ゆるんだ。「モデルだろ、どんな格好すればいいんだ」そして酒くさい息をはきながら、身の上を語った。
大変ありがたい話で、最近は日本書紀も今昔物語もネットで読めてしまう。関係者のご努力に心から感謝する次第です。
というわけで、今回は今昔物語集175「陸奥国の安倍頼時、胡国に行きて空しく返りし語」というもの。
今は昔、と始まるが、これでは困る。解説では11世紀なかばと書いてあるから、およそ1050年ころの話だ。
前九年の役と安倍頼時
ウィキでこの頃の日本を見てみると、平安時代の中期から末期にあたる。唐はすでに滅び北宋の時代だが、北方の諸国が勢いを増している。
東北では10年にわたる前九年の役が戦われている。ウィキによるとこの頃、安倍氏は陸奥国の奥六郡をおさめ、半独立的な勢力を形成していた。彼らは「東夷」として蛮族視されていた。
これを快く思わない朝廷は安倍氏の懲罰を試みた。1051年、朝廷軍と安倍頼時は玉造郡鬼切部で戦った。闘いは息子貞任の率いる安倍軍が勝利し、朝廷は頼時に大赦を与えた。
このあと陸奥守となった源頼義は、安倍氏を挑発して戦争を起こした。1056年のことである。翌年安倍氏は主君頼時を失うが、子貞任が黄海の戦で頼義軍を撃破した。頼義は供回り6騎で命からがら逃れたという。
1062年に再び兵を起こした源頼義は、出羽の俘囚清原氏を味方につけ、今度は安倍氏を圧倒した。しかし朝廷は源頼義を快く思わず、清原氏に奥州の支配権を与えた。
安倍頼時と今昔物語
それで、安倍頼時の氏素性は分かった。それで頼時がなぜ今昔物語に登場するのかと言うと…
頼時は頼義に襲われ命を落とすのであるが、その前にかなり長い雌伏の期間をおいたらしい。そしてそのときに胡国に一時避難したようなのだ。
これは多分一つの解釈に過ぎないと思うが、とにかく1050年代に起きた長い戦争の間に、頼時は北海道まで逃れたことがあったということになる。
今は昔、陸奥国に安倍頼時と云ふ兵(つはもの)ありけり。
その国の奥に夷(えびす)と云ふものありて、…陸奥守をつとめる源頼義を攻めようとしたり…
安倍頼時、その夷と心を同じくしたとの情報ありたり。
源頼義は、安倍頼時を攻めむとしけり。
頼時はこう言った。
「古より今に至るまで、朝廷のせめを蒙る者その数あったが、未だ朝廷に勝ちたる者一人も無し。然れば、我にあやまり無しと思へども、せめを蒙れば、遁るべき方は無い。
しかし、この地の奥の海北の方に、かすかに見渡さるる地があるなり。
其処(そこ)に渡りて、一帯の状況を見て、良さそうな所ならば、渡り住みなむとおもう。
ここにていたづらに命を落とすよりは、我を去りがたく思はむ人をありったけ集めて、かしこに渡り住みなむ」
そこで頼時は
先づ大きなる船一つを調(ととの)えた。それに乗りて行きける人は、 頼時の他に、子の厨河(くりやがは)の二郎貞任(さだたふ)、鳥海(とりうみ)の三郎宗任(むねたふ)、その外の子ども、亦親しく仕へける郎等二十人ばかりなり。
さらに その従者ども、亦食物などする者、取り合はせて五十人ばかり 一つ船に乗りて、暫く食ふべき白米、酒、菓子(このみ)、魚鳥など皆多く入れしたためて、船を出して渡りけり。
その見渡さるる地に行き着きにけり。
遙かに高き巌の岸にて、上は滋(しげ)き山にて登るべき様も無かりけり。
そこで山の根に付きてさし廻ると、左右遙かなる芦原にてありける。大きなる河の港を見付ける。
河は底(そこひ)も知らず、深き沼のやうなる河なり。
人や見ゆると見けれども、人も見えざり。遙かなる芦原にて道踏みたる跡も無し。
人気(ひとけ)のする所やあると、河を上(のぼり)つ。なほ人の気はひも無く同じ様なりければ、三十日さし上りにけり。
その時に怪しく地の響きたり。芦原のはるかに高きに船をさし隠して、葦のひまより見つ。
ここで胡国の騎者が登場する。
胡の人、うち続き数も知らず出で来にけり。千騎ばかりはあらむとぞ見えける。
河の端に皆うち立ちて、聞きも知らぬ言葉どもなれば、何事を云ふとも聞こえず。
歩(かち)なる者どもをば、馬に乗りたる者どもの傍(そば)にひき付けひき付けつつぞ渡りける。
頼時らは考えた
「こんなところまで上るとも、途方も無き所なり。これほど自然(おのづから)事にあひなば極めて益無し。食物の尽きぬ前に、いざ返りなむ」
それよりさし下りて海を渡りて本国に帰りにける。
その後、幾程も経ずして頼時は死にけり。
という物語を、頼時の子の宗任法師が語ったそうだ。
宗任は筑紫に居たそうだから、囚われの身となって流されたのだろう。
やっと、見つけた。「とんでも本」でなく、イデオロギーむき出しでもなく、朝鮮側と日本側の歴史を真面目に照合した文献。ちなみに緒論を書いた李成市さんは名前は朝鮮人だが、日本の学者。
弥生時代後期の出雲には特異な墳墓が現れる。四隅突出型墳丘墓と呼ばれるそれは、わずか100年弱で消えた王朝の存在を示唆する。