鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

最近日本人のゲノム分析に関する文章に「アイヌ人こそ生粋の縄文人」みたいいな表現が目につく。
Y染色体ハプロはたしかにそれを示しているようにみえる。
しかし、ミトコンドリアDNAだけを見ていれば、到底そのような結論はでてこない。
むしろ「アイヌ人はオホーツク人である」と言うほうが適当かもしれない。
この点について学者の皆さんはニヤッとしたことしかいわない。
しかし、これを歴史の流れの中で見ていけば、次の結論しかでてこないのではないか。
すなわち
①アイヌ人は寒冷期に東北~渡島に下った縄文人、すなわちエミシが再び北上したものである。
②アイヌ人が南下した後の北海道には、北方のオホーツク人、カムチャッカ人が到来し定着した。
③エミシは沿岸部に侵食し、ついで奥地へと分け入った。先住民たるオホーツク人は駆逐されあるいは制圧され、エミシの支配下におかれた。
このような関係においてのみ、Y染色体ハプロにおける縄文系の優越、ミトコンドリアDNAにおけるオホーツク系の優越が説明できる。ともに漁労・採集を事とする生活を営む限り、弥生人(長江人)と縄文人が示したような「異業種間」の共存関係は成立し得なかった。

そう考えたとき、その流れを考古学的に証明できるかどうかが問われてくる。
すなわち
①続縄文時代をになったのは誰か。とくに前期と後期の間の変化をどう捉えるか
②擦文土器の時代を担ったのは誰か。それはアイヌ人の時代との間に文化的断絶があるのかどうか
これらをオホーツク文化の栄枯の流れと読み合わせながら解き明かす必要があるのではないか。

とりあえず、続縄文時代の変遷をメモしておく。
続縄文時代は紀元前5世紀に始まり、紀元6世紀の末まで続く。約千年の期間である。
相対年代としては前半期と後半期に分けられる。
前半 3つの文化が一定の時差をもって出現する。
①恵山文化: 道南から石狩低地帯にかけて展開
②江別太文化: 石狩低地帯文化。恵山文化の後退に伴い出現?。
③道東圏文化: ただしオホーツク文化の影響あり。
後半
江別太文化を基礎に後北文化が出現。東北~北陸地方まで拡大する。

これについての解釈は別記事を起こすこととする。

崇神王朝の後半になると、大和政権は吉備の国を制圧し、さらに出雲に進出する。
最初は貢納の要求から始まったが、ときの支配者であった出雲振根はこれを拒絶した。
この時の経緯が興味深い。
大和政権が使者を送り貢納を要求したとき、振根は九州に行っていて留守だった。そのため振根の弟が対応したのだが、彼は大和政権の圧力に屈してしまう。吉備国を征服した大和政権の力を考えれば当然の対応であったのかもしれない。
しかし九州から戻った振根はこれを聞いて烈火のごとく怒った。そしてその弟を殺してしまう。さすればと大和政権が軍を差し向け、振根を忙殺してしまう。こうして出雲の国も吉備に続いて滅亡することになる。
この「出雲国」はオオクニヌシや大物主が支配していた頃の出雲ではない。彼らから「国を譲られた」側、大御神系の人々の支配する国だった。すなわち九州王朝の属領であったわけだ。
そこに手を出したのだから、大和政権も相当の覚悟であったろうと思う。吉備の国をやっつけるとはわけがちがう。それは出雲の国そのものではなく、その背後にいる九州王朝への反逆であるからだ。
しかし九州王朝は反撃をしなかった。それどころか仲哀の軍が下関まで到達し陣を張っても動かなかった。そして仲哀を九州王朝の都たる博多まで招き入れた。
なぜだろうか。朝鮮半島での高句麗との激しい戦闘に消耗していたのであろうか。




纏向遺跡と箸墓古墳

纏向遺跡が3世紀後半に始まったことについて異論はない。

しかし箸墓古墳が纏向の歴史の初期に作られたものかどうかは、そう話はかんたんではないと思う。

つまりこういうことだ。これまで発掘された範囲ではかなり大規模な、巨大と言ってもいいくらいの遺跡である。かといってそれが都城であったことを示すようなものもない。

印象としては「飯場」なのだ。生活の臭いがない、農業との関わりが感じられない。かといって壮大・美麗な建築物を想像することもできない。

大規模土木工事に駆り出された人々が寝泊まりし、その周囲に工事に必要な物資や、食料が保管されていたという感じが強いのである。

そして3世紀中頃には放棄されてしまう。なぜなら開発すべき対象がなくなってしまったからである。

ただ、そこに都市としての景観が徐々に備わっていくのなら、それはそれとしてわかるのだが、どうもそのような積み上げが感じられない。

箸墓古墳は記紀では倭迹々日百襲姫命の墓所とされている。この姫はシャーマンで、崇神天皇の婆さん筋の人だ。

私は崇神は4世紀前半から半ばくらいの人だと思っているので、もし言い伝えのとおりだとすると、箸墓古墳は西暦300年以降のものでないと都合が悪い。

そしてその古墳は纏向近辺で最後に築かれたものでないと具合がわるいのである。

このあと近辺にめぼしい開拓適地はなくなる。最初は無から有が生み出されるのだから、人口が増えてもそれは賄える。しかし新田開発が止まった途端、人口圧は重圧となって押し寄せてくる。

どこであろうと開拓適地を探して版図を拡大することを迫られることになる。

私は以前は崇神一族は越前からやってきた雇兵集団ではないかと想像していた。

しかし欠史八代が実際にはかなり短い期間のものだったとすれば、神武の率いた武装集団がまだそのまま残っていた可能性もあるのかもしれない。

崇神は若き当主だが、その周囲を叔父や大叔父などが固めていた。彼らは出雲系の中の大物主直系を味方につけ、葛城を中立化させ、河内と山城を制圧した。そこには大和盆地に勝るとも劣らぬ河内湖や小椋の池という開拓適地があった。

ここから崇神王朝の血塗られた征服譚が始まるのであろう。それとともに纏向の開拓基地も忘れられた存在となっていったのであろう。

西暦400年前後というのは、古代史のクロスロードになっている。

1.朝鮮半島における高句麗対4国連合の戦いはその頃最も厳しかった。

4カ国とは百済・新羅・任那・倭国である。この中で倭国をどう性格づけるかが最大の焦点である。

これについては、中国情報が途絶えた時期なだけに、好太王の碑をどう読むかしかないが、

アマテラス系天孫族の出自(高天原))は任那であり、九州はその植民地であったと思う。しかし両者の比重が変わり、すでに魏志倭人伝では別個の国と認識されている。

しかし対馬海峡を挟んで両者の一体意識はずっと後まで残っている。それはノルマンジーに対するイングランドの領土意識と似ている。それが高句麗戦争を招いたのだろうと思う。

2.一方で九州王朝の後背地では畿内を中心に農業革命が起こり、巨大な生産力と急増した人口を背景に大和政権が版図を拡大した。

大和政権は九州王朝の流れを汲む地方政権であったが、やがて本州の西端までその支配下に収めた。その一部は豊後から日向にまで進出する。

大和政権の諸国制圧は、ヤマトタケルの伝説を見ても決して平和的なものではなかった。しかしその農業革命は積極的に受け入れられた可能性がある。

3.崇神系の最後の王であった仲哀はみずから九州王朝の都である博多に乗り込んだ。おそらく彼は臣下の礼を尽くしたと思われるが、朝鮮出兵の要請は拒否した。

その結果仲哀はおそらく暗殺され、その愛妾の神功皇后とその息子を押し立てた九州王朝軍が大和に向かった。

仲哀の息子たちは九州王朝の受け入れを拒否し戦ったが全滅した。征服軍の将軍であった大伴氏が畿内政権の実権を握り、崇神朝のもとで冷や飯を食わされた物部氏と結んで威勢を張った。

御用済みとなった武内宿禰はお払い箱となった。大和盆地に代わって河内湖を囲む一帯が新政権の経済活動の中心となった。そこには九州王朝を通じて鉄器、朝鮮半島の事物が奔流のように流れ込んだ。しかし九州王朝は本格的な植民地経営をする気はない。あくまでも朝鮮戦争のためのロジスティックな後背地の確保だ。だからいずれは破綻するだろうし、実際に破綻した。

これが二つの王朝の出逢いとその顛末だ。

ここまでは確認できるのではないだろうか。

そしてその結果、畿内政権がどのような変貌を遂げるのか。このあたりが見どころだ。これから勉強しなくてはならない。

青銅器時代(the Bronze Age)
三時代区分法
青銅器時代、鉄器時代は先古代の区分として用いられる名称である。
1836年にデンマークの考古学者トムセンが、「北方古代文化入門」を発表。この中で石器時代・青銅器時代・鉄器時代の「三時代区分法」を提示した。
トムセンは、この区分はスカンジナビアとその周辺地域に適用できるとしたが、その後、世界的にこの指標が持ちいられるようになった。
もちろん国家形成の段階と青銅器の導入は一義的に一致するものではなく、導入の時期も地域により異なるが、ユニバーサルな指標として依然有用である。

青銅とは何か
本来、「青銅」は10%前後の錫を含む銅合金の意味である。しかし天然の状態で錫と共存し、「青銅」として採掘される場合もある。
本来の青銅は光沢ある金属で、錫の量が少なければ純銅に近い赤銅色、中等量であれば黄金色、大量の場合は白銀色となる。
「青銅」の名前は、表面が錆びた状態を指している。表面に緑青が形成されるとサビの浸透が防がれ、劣化しない。
硬度は錫の添加量が多いほど上がるが、同時にもろくもなる。

金石併用時代
人類は石器時代から一気に青銅器時代に移行したわけではない。その間に金石併用時代があった。最も多く使われたのが自然銅であったから銅器時代とも言う。
銅は硬度が不足しており、石器を完全に駆逐することはできなかった。
この時代の後半には冶金技術(銅の溶解温度は約1100度)が発生した。これにより自然鉱物だけでなく金属鉱石を精錬するようになり、対象金属が拡大した。
その一つであるスズは、融点が低く、錫石からの精練が容易であるため、早くから実用化された。
そしてスズと銅の同時溶融法で青銅が開発された。

青銅器は何をもたらしたか
生産技術への貢献、軍事力への貢献については別に考察するが、それとは別に以下の波及効果が挙げられる。
持てるものと持たざる者への差別の拡大。農民に並ぶ新たな社会分業(鉱工業、商業)の出現、したがって都市(非農村としての)の出現。原料・製品の確保、あるいは輸送による交通・交易の拡大。祭祀用具の発達による宗教の変容(偶像崇拝・物神崇拝)。
さらに持てる国家の版図拡大も見られた。モンゴルにおいて青銅器時代にコーカソイドの進出が認められたという(松村ら


青銅が鉄に代わった理由
青銅は銅に比べて硬く、研磨や鋳造・圧延などの加工ができる。しかし硬さと強度で鉄に劣る。
何より鉄に比べて採掘可能な量が少なく資源が偏在しており、コストが高い。
青銅は兵士の実戦武装にも各種の農具にも用いられることはなかった。その変革的役割は鉄よりにはるかに劣る(角田文衛)


青銅器時代年表(完全な形で青銅器時代が全うしたのはメソポタミアのみである)

紀元前3500年 メソポタミア・エジプトで青銅器時代がはじまる。

紀元前3100~2700年 黄河最上流部に馬家窯文化が興隆。青銅器の使用が確認されている。

紀元前3000年 中国で金石併用時代が始まる。実用品を中心に青銅器の流通も始まる。

紀元前2350年 アッカド王サルゴンがメソポタミアを最初に統一。その後、バビロニア、カッシートなどの広域王朝が交代を繰り返す。

紀元前1500年 アナトリア高原にヒッタイト王国が出現。

紀元前1500年 中国で殷・周時代が始まる。この間が中国における青銅器時代とされる。青銅製の武器は春秋戦国時代を通じて主流であった。

紀元前1500年 エジプトでは原料確保が困難だったため、展開不十分のまま鉄器時代へ移行。

紀元前1200年 ヒッタイトが滅亡。製鉄技術がオリエント全域に流出する。これを機に中東での青銅器文化は一気に終焉。

紀元前300年 西方の新興国である秦が、鉄製武器を背景に全国を統一。

紀元前2世紀 本格的に青銅器が日本に流入。鏡・矛・剣・戈の武器、銅鐸、やりがんななど。間もなく鉄器も伝来したため、青銅器は主として祭器として使われ、実用品としての青銅器時代を経過することなく終わる。

長江文明 の流れ
まず長江人がどういう人種なのかを抑えておきたい。
2016年10月22日の一部を再掲しておく

5.O1、O2人とO3人

O3人は現代の漢民族で、他種族を圧倒している。しかし長江文明の担い手はO1、O2人だった。

3つの遺跡から発掘された人骨のY染色体を分析した研究が紹介されている。

龍山文化(黄河文明)

BC2000頃

O3、O3a

長江中流

BC1000頃

O2a、O3

長江下流

BC3000頃

O1a、O2b

年代を見ても、漢民族がO1、O2人を駆逐した様がありありと分かる。


3万年前 ハプログループK2からNOが分岐。南方ルートで東南アジアに進出。

ハプログループOがO1とO2に分かれる。O2はOグループ中最大の人口を持ち、中国北部に特に多い。

(2015年11月にISOGG系統樹が改訂され、旧O1と旧O2は現在はいずれもハプログループO1のaとbとなっており要注意。O2は旧O3)

2万5千年前 ハプログループO1がO1aとO1bに分かれる。O1aは中国南部、台湾先住民に多い。

ということで、長江流域に入り長江文明を作ったのはO1b人だ。O2人(旧分類のO3人)はその間にもっと北へと進んだ。

O1bはやがてO1b1とO1b2に分かれる。

O1b1は東南アジア、中国南部に多い。O1b2が朝鮮半島に渡った長江人と見られ、日本列島、朝鮮半島に多い。

長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、日本列島、山東省、朝鮮半島へ渡った(崎谷)という説得力のある主張がある。

O1b2にはa1aとa1bという2つのサブタイプが見られ、a1bは朝鮮半島にも存在するが、 a1aは日本国内のみである。


続いて、ウィキペディアの年表を転載する。

長江文明年表

上記表を基準としながら、経過を説明する。なお中国先史時代年表の絶対年代は、学術文献もふくめて相当誤差があり、盲信しないこと。

60万年 山西省で頭骨の化石が発掘される(1963年)    
40万年 北京原人(1923年発掘)    
5万年 - 紀元前35,000年 石器時代後期

1万4千~1万2千年 湖南省玉蟾岩(ぎょくせんがん)で稲の籾殻が発見。野生種と栽培種の特徴を、またジャポニカ米とインディカ米の特徴のいずれも併せ持つ。
1万2千年 “栽培された稲”が発見(江西省 仙人洞)。焼畑による陸稲栽培とされる。その後、1.9〜2万年前とみられる土器片280点が発見される。
8千年 湖南省八十垱(だん)に最古級の環濠集落。
7~6千年 湖南省 彭頭山で最古の水稲栽培(散播農法)が確認される。
7~5千年 最初の黄河文明となる裴李崗文化(河南省)。アワなどの雑穀を中心とした定住農業が行われていた。
6~5千年 陝西省に老官台文化。粟作などの畑作農業。
6~5.5千年 河北省に磁山文化。粟作などの畑作農業。
6~5.4千年 遼寧省に興隆窪文化。環濠内部が2万平方mもある大集落。
5~4千年 長江下流域の河姆渡(かぼと)で大量の稲モミ(ジャポニカ)が発見される。高床式建物も確認される。ほぼ同時期に長江河口から杭州にかけて馬家浜(まかほう)文化。
5~3千年 黄河中流域(河南省)に仰韶文化。裴李崗文化と老官台文化が融合したものとされる。農村の階層化も始まる。非常に経過の長い文化で後期には4種の文化を取り入れ発展。(別項を要す)
4~3千年 長江中流域(重慶)に大渓文化。灌漑農法が確立され、住居地が平野部へ移動
3.5~2千年 浙江省に良渚(りょうしょ)文化。貯蔵穴や井戸など安定した定住生活
3~2.5千年 長江中流域に屈家嶺(くつかれい)文化が登場。この頃に長江文明は最盛期となり、分業や階層化も進んだ。
3~2千年 山東省に龍山文化。城壁がある集落の跡
2.5~1.8千年 湖北省 石家河(せっかが) に大規模な都城。黄河流域の部族と抗争したと考えられる。
石家河の終焉をもって長江文明は消滅。(黄帝と神農や蚩尤の対立などの伝説は、黄河文明と長江文明の争いを表しているとされる)
2100     夏王朝が建国される。考古学的には二里頭文化と一致。
歴史的には夏が最も古い。それ以前の三皇五帝(伏義、神農、黄帝、堯・舜)は先史時代とされる。
1700 黄河流域に青銅器が登場。小麦と同じ北方ルートを通じて製造技術が流入した。
1600     夏が滅亡。殷(商)が興る。考古学的には二里岡文化と一致。
1600~1000 四川省に三星堆(さんせいたい)文化。仮面・人像・神樹などの大型青銅器が製造される。(鳥飼行博研究室のサイトを参照のこと
四川の銅鐸
三星堆の銅鐸
四川人頭
三星堆で出土した人面(青銅)

中国まるごと百科事典 > 中国歴史 > 中国各種年表 > 中国先史時代から秦までの年表が内容豊富で素晴らしい。いま読みながら年表に落としているところである。

「古墳は灌漑事業の残土処理にすぎない」というのは、私の「大発見」かと思ったが、調べてみると同じような考えの人がいるということがわかった。

いささかしゅんとしている。

それらの文献を当たってみた。

関東の前期古墳 - 東海大学文学部

著者は北條芳隆(東海大学文学部歴史学科)さん。

まず最初に以下の断りが入る。

私の見解は当面のところほとんど孤立的であり、いわゆる定説とは大きく異なる。

ということで本文へ。

この時代には集団移住や大規模耕地開拓が各地で活発におこなわれた。古墳時代の地域首長は灌漑・農耕技術を携えた開発指導者でもあった。

古市古墳群では古市大溝の掘削年代が5世紀にさかのぼる。遺存条里地割と前方後円墳の主軸方位が一致していることから、古墳群建設には方格地割りにもとづく耕地開発が伴ったことを示す。纏向も同断である。

各地の耕地開拓は、奈良盆地での成功例を基礎に、それを模倣し同形的に拡散させるものでもあった。

考察部分では次の記述が注目される。

弥生時代後期に、各地でどの程度の鉄器が出土するかをみた。一定量の鉄器の出土がある地帯は、確固たる地域社会が成立していたと考えられる。

しかし大型前方後円(方)墳が築かれるのは、むしろ鉄器化の恩恵に浴さず未開発で、「無住の地」が広がっていた場所であった。

倭王権の本拠地である奈良盆地自体、弥生時代までは道具の鉄器化という点でまったくの後進地であった。

このことは、社会経済的な発展段階と古墳の規模との間に照応関係がないことを示唆する。


ということで、私よりはるかに実証的に論じられている。

ほかに随想風の文章が二つある。ちょっと困ったことに内容が酷似しているのだ。

グーグル検索でトップに来るのが 巨大古墳は公共工事の跡!?というブログ記事。越智社長さんの「おちゃめ日記」で2014/07/18 の日付がある。

古墳がいったい何のために作られたのかと言えば、ズバリ「水田開墾のための土木工事のため」だったのではないでしょうか。

昔はダンプカーなんてありませんから、開墾地のすぐ近くに計画的に盛り土することにより廃棄処理をすることになります。その時にちょっとした遊び心が芽生えて、円墳や方墳、八角墳や前方後円墳といったその時の流行に合わせて様々な形状に盛ってみた。これが今の時代まで残り、『古墳』と呼ばれるものになったのではないでしょうか。

…仁徳天皇は広く知られている「竈(かまど)のお話」の天皇というよりも、むしろ「土木天皇」と言ってもいいくらい、民のために広大な土木事業を営んだ天皇、「偉大なプロジェクトリーダー」だったということのようです。

…『古墳』を単純に権力者の墓だとする先入観がそれ以上の思考を停止させているように思います。

次が「ねづさんのひとりごと」というブログの「古墳のお話」という記事(2015年07月10日および2016年03月13日)で細かい所の表現の違いはあるが、骨組みはほぼ同じだ。ねづさんのブログには仁徳天皇陵に関する大切なお話 (2014/10/24) という記事もあり、ほぼ同様の内容となっている。

次に「るいネット」に「“日本の古墳は権力の象徴ではなく、開墾の残土の盛り土であった”は、戦前の常識であった」という記事があるが、これはねづさんの記事のコピペのようだ。

それで4番目に引っかかったのがmixiユーザーさんの「パクリ? 古墳は公共事業である説」という記事で、「一体どちらが元ネタなのか? それともどこかに元ネタがあるのか?」と嘆いている。

私の疑問とそっくり同じ。なまじグーグルで1番と2番で引っかかっちゃうから困るんだよね。

次が「古墳は土石流対策の灌漑施設?」という記事。純丘曜彰 教授博士 大阪芸術大学 哲学教授 という肩書が怪しげだが、ウィキにはしっかり名前が掲載されている。五輪オリンピックのエンブレム問題で「論客」として名を馳せたらしい。

土石流対策への思いはなみなみならぬものがあるが、「だから何さ」という気がしないでもない。肝心なポイントは越智社長さんの言葉に尽くされているようだ。

アイヌ人は北から来たのではなく奥羽地方から進出した毛人ではないか。

なぜ思いついたかというと、ずっと縄文人とアイヌ人のDNAの差について悩んできたからだ。

アイヌ人はY染色体で言うと縄文人と同じD型のハプロをもっていて、その頻度は東北地方以南のどの地域より高い。しかし女系の血統を示すミトコンドリアDNAから見ると、縄文人というよりは明らかに環オホーツク海種族の遺伝子を強く引いている。ニブフなど樺太系ばかりではなく、カムチャッカ系の遺伝子も交えている。

とても縄文人の末裔と呼べるようなものではない。

つまりアイヌ人は縄文人とオホーツク人のハイブリッドということになる。しかも明らかにオホーツク人社会に縄文人が侵入して、有り体に言えば侵略して、男を皆殺しにして、女を娶ってできた人種だということになる。

これまで私は、樺太経由で何波かにわたって北からの移民の集団があり、その最後の集団がアイヌではないかと思っていたが、そのような推測には根拠がないことが分かってきた。

アイヌという「民族」が登場するのはそんなに古いことではない。少なくとも紀元前ではない。しかしD型ハプロタイプは遅くとも紀元前3000年ころまでに、日本(とチベット)を除く地域には存在しなくなっている。

北海道で言う擦文土器文化の時代以降に、あらたにD系の集団が北から入ってくることはありえない。

であれば東北・道南の縄文人が全道に拡散してアイヌ民族を形成したとしか考えられない。

紀元0年を中心として前後1千年ほど、日本列島の気候変化は非常に大きなものがあった。これに伴い縄文人生活圏で著しい人口変化があったと考えられる。とくに限界地域である北海道ではその影響は大きかったと考えられるから、北海道における縄文人はほぼ絶滅した可能性もある。

その間隙を埋めるように樺太や千島からオホーツク人が進出し、寒地に適応した独自の文化を形成したと考える。

これから先は推測になるが、阿部比羅夫が戦った「粛慎」はオホーツク人ではないか。戦闘の場所は石狩川の河口付近ではないかと想像している。

秋田の毛人は海岸沿いに北へ進出し、石狩川河口あたりでオホーツク人と勢力争いをしていた。そこに毛人に加勢する形で阿倍比羅夫軍が乗り込んだというのが事の真相であろう。

出羽の毛人はその後も北方への進出を続け、紀元1千年ころにはほぼ北海道の全体を支配下に収め、さらに樺太から黒竜江流域まで版図を広げようとした。彼らは鉄を持っていた。自分で作ったのではなく、大和勢との交易により入手したものだ。石器時代を生きているような種族との戦闘がどういう帰趨をたどるかは火を見るより明らかである。

そのなかで現地民と集簇して形成されたのがアイヌ人だということになる。だとすれば男性が縄文人系、女性がオホーツク人系という遺伝学的特性が矛盾なく説明できるのではないかと思う。

ヤマト王権の成立に至る経過を5期に分けて考える

纏向古墳の発見に伴い、箸墓古墳とプレ箸墓古墳の性格付けが再び議論されるようになっている。

私は、古墳というのは残土処理に副産物くらいに考えている。古墳の大きさは灌漑工事の大きさを示しているにすぎないと思っている。

私には青銅器、鉄器(武器)があれば十分だ。それに灌漑施設の遺構だ。

弥生文明は青銅器時代であり、長江文明の流れをくむ銅鐸文化だ。鉄はない。

それらに先行する縄文人は、元来は青銅器もない。

1.縄文人の時代

大和・河内地方には縄文人(D系)が先住していた。数は少ないとはいえ漁労を中心に集団生活を営んでいた。

晩期縄文時代には半島からの移住者(C系)が入る。彼らは九州北部から瀬戸内海に拡散し、漁労を生業としつつも、海の民として半島と交流しプレ弥生文化を持ち込んだ。

2.弥生人の時代

半島南部に住んでいた長江人は北からの民族に押され九州に移住するようになる。

当初は、晩期縄文人に庇護されながら水稲耕作を拡大する。後には縄文人を数において圧倒するようになる。しかし敵対関係にはなく共生関係を形成した。

ここまではY染色体で説明できる。

文化では縄文文化を圧倒して青銅器文化=銅鐸文化が支配するようになる。

銅鐸文化は発生地である九州から東進するにつれ発達し、大型銅鐸が中国・近畿・東海へと広がった。

3.天孫人の時代

天孫人は満州南部に起源を持つ漢人系の民族である。次第に半島南部へと進出し、晩期縄文人系と長江人系の人々を圧迫し支配するようになった。

彼らはまた、楽浪に進出した漢帝国の軍勢に圧迫され、南方に新天地をもとめるようになった。

この内、小白山付近の「高天原」から一方(アマテラス系)は馬韓経由で九州北部へ進出し、他方(スサノオ系)は辰韓経由で山陰に進出した。

彼らは挙家移民ではなく軍事組織(最初は雇い兵、後に支配者)として日本に渡った。彼らは先住弥生人を排除せず、猟色の対象とした(ヤマトにおける大物主を、あるいは神武を見よ)

これもまたY染色体で説明できる。

4.スサノオ系の大和への進出

紀元前後、アマテラス系(天津神)が九州北部に倭王朝を形成した。そしてスサノオ系への圧力を強めた、スサノオ系(事代主あるいは大物主)は出雲を出て、備前→播磨を経由して、河内・大和→纏向に入った。

備前で大規模新田開発に当たったスサノオ系は、そのノウハウを活かし大和でも灌漑事業にあたった。

それは武力を持って弥生人(銅鐸人)を支配し、使役する形態であった。纏向から銅鐸圏各地の土器が発掘されるのはそのためであろう。

紀元200年から250年にかけて銅鐸が一挙に廃棄されるのも、天孫系信仰の押しつけの表れと見るべきであろう。

これらは考古学的に証明されている。

5.若狭系王朝の成立

纏向に始まり河内・大和を一大王国としたのは事代主を始祖とするスサノオ系であった。葛城と物部の連合といわれるが、纏向には別系統(事代主直系?)の権力があったのかもしれない。

350年ころに纏向王朝は滅び、纏向という「都市」は消滅した。おそらくこれに代わる形で崇神王朝が誕生したと思われる。

崇神王朝の出自が敦賀にあることが各種の史料から推測される。敦賀の勢力の由来は不明であるが、スサノオ系と言うよりは直接新羅からの渡来民であった可能性も否定できない。

敦賀系は尾張、伊勢、近江にも分布しており、崇神王朝最後の仲哀天皇の妻神功皇后も敦賀の出とされる。仲哀の息子も戦いに敗れ敦賀を指して逃走中に大津近くで殺されている。

6世紀に長期の混乱を収めた継体天皇も越前の出身であった。7世紀に東国の民に依拠して天皇家を滅亡させた天武天皇も越前系であった。

補)神武東征

もし実在したとすると、それは纏向王朝が登場する250年から350年の滅亡に至るまでの何処かである。

神武は大和・河内連合王国を征服はしたものの、その説話を除けばなにも形あるものは残していない。天津神系であるにも関わらず、天皇家公認の「古事記」や「日本書紀」は出雲神話の骨格が色濃く残されている。

欠史八代は、妻の出自を見ればわかるように、実体としては葛城政権である。河内の物部は長脛彦の死にも関わらず欠史八代を生き抜いて、最大軍閥に成長する。

要するに大和王朝は、表面だけは倭王朝に恭順しながら、その実はスサノオ系の伝統(隠れ新羅派)を守り抜いているのである。


どうですか、古墳など関係なしにヤマトの古代史は書けるんですよね。この辺は日本古代史の本よりイギリス古代史のほうがよほど参考になります。

半端に時間が余って、他に行くところもなくて本屋に入った。最近は買ってもほとんど読まずに終わるので、よほどでないと買わないのだが、つい一冊買ってしまった。

肩のこらない歴史物の新書で、若井敏明さんという人の書いた「『神話』から読み直す古代天皇史」というもの。

中身には素直に承服する。同感する所も多い。ただ結局は時代比定のところで引っかかってしまう。

若井さんは、「纏向遺跡=崇神王朝の都」というところから始める。ここがどうしても納得いかないのだ。

これでは崇神の8代前に起きた神武東征が説明つかない。

倭国(九州王朝)系の神武が瀬戸内ルートを開拓しつつ東進し、難波津に到達したとき、そこには一つの王国(非倭国系)がすでに存在していたのだ。

その王国は河内湖北岸の淀川河口から紀の川の河口までを支配していた。内陸部では大和盆地の全域を支配していた。

もし纏向が非倭国系天孫族による近畿王国の発祥の地であるとすれば、神武東征はそれから数代を経ての話ということになる。

素直に考えれば、神武東征は西暦300年ころの話で、崇神の登場はさらに8代を経過した時代ということになる。

私は纏向を開いた人たちは出雲・吉備方面から進出した天孫族ではないかと考える。その軍組織の頂点にいたのが長脛彦に代表される物部氏ではないかと想像する。

そして、崇神は350年ころの人で、崇神王朝の最後となる仲哀は西暦400年ころの人ではないかと想像している。彼らは物部系とも神武系とも違う北陸(敦賀)からの進出者ではないだろうか。

崇神朝は版図をおおいに拡大した。その間倭王朝は半島にわたり好太王との戦いに明け暮れていた。

いずれにしても、それは倭国と三韓、高句麗、中国とは無縁の存在であろう。

本日の赤旗文化面。日本古代史が専門の田中史生さんという人が登場する。あまり名前がハマっているので、ペンネームかと思ったがそうではなさそうだ。
67年生まれというから今年で50歳になる。
このたび「国際交易の古代列島」という本を書いて「古代歴史文化賞」大賞を受賞したそうで、それにちなんだインタビュー。
これまでの歴史書とまったく違った切り口で古代史を切り取っている。何か資本論第三部を読んでいるようで面白い。
印象に残ったところだけ引用しておく。
確かに政治は交易が必要とする秩序を与えますが、交易の中で当事者が信頼関係を結ぶと、政治の関与なしで取引できてくる今度はそれが政治秩序の脅威になる。そういう緊張関係があるのです。
権力にとって、非日常の部分、とくに境界部分の管理は重要です。そこに権力を崩壊させるエネルギーと、権力をもとめるエネルギーがあるからです。交易はそういう舞台で展開された人や社会のつながりです。
最後の文が多少尻切れトンボ気味だが、そこまでの論理展開はきわめて面白い。
すこし田中さんの文章を当たってみようかと思う。

ピューリタン革命の経過についてよくまとまった文献があるので紹介しておく。

石井裕二さんの「イングランド・ピューリタン派の『信仰告白』について」という論文。「キリスト教研究」という雑誌の第48巻第1号に掲載されたもののようである。

副題が「『ウェストミンスター信仰告白』、『サヴォイ宣言』、『第二ロンドン信仰告白』の概観」となっており、新教内部でのイデオロギー的な力関係の変化に焦点が合わされている。一番知りたかったところである。

1.3つの告白の主体

『ウェストミンスター信仰告白』は長老派によるもの、『サヴォイ宣言』は独立派(会衆派)によるもの、『第二ロンドン信仰告白』はバプティスト派によるものである。

2.3つの告白の背景

ピューリタン革命は「大内乱」(1642年から49年まで)と「共和国」(1649年から60年まで)に区分される。

A) 大内乱の時代

二つの時期を区分する内乱は二度起きた。

第一次内乱は王党派と議会派の争いであったが、議会派をスコットランドが支援して参戦した。

第一次内乱が議会派+スコットランドの勝利に終わった後、議会派の内部で二つの勢力が対立した。

一つは多数派である長老派であり、スコットランドの支援を受けていた。もう一方は少数派の独立派であり、内戦を闘った議会軍の主力を占めていた。

この対立を見た王党派が長老派を支援して戦闘を開始した。これにより第二次内乱が始まった。長老派が支配するスコットランドは今度は王党派と連合を組んだ。

第二次内乱の結果、議会軍(独立派)が王党派+長老派+スコットランドの連合軍を打ち負かした。

B) 共和国の時代

勝利した独立派と議会軍は、議会から長老派を追放し国王を処刑した。そして「イングランド共和国」を宣言した。

共和国の時代は前半と後半に分かれる。

前半において支配者となったのは独立派を主体とする「残存(ランプ)議会」であった。

53年に議会軍の指導者であったクロムウェルが護国卿となり、残存議会は閉鎖された。ここから後半の時代に入る。

58年にクロムウェルが病死すると、息子のリチャード・クロムウェルが護国卿となるが、混乱はさらに深まった。

そして、議会軍の一部が権力を掌握し、チャールズ二世に政権を譲り渡すことによりピューリタン革命は終焉を迎える。

3.ピューリタンとは何か

ピューリタンの概念と範疇は革命の進行とともに変わっていく。

A) エリザベス王朝期のピューリタン

元々ピューリタンとは、イングランド教会の国教主義を批判するプロテスタントの急進派を指す言葉であった。国教主義批判には絶対主義王政への批判が萌芽的に含まれていた。

エリザベスの死とチューダー王朝の断絶の後、ピューリタンの中には本来の宗教的領域だけではなく政治・社会の全領域にわたり改革を主張する勢力が増大した。

その中にはかなり傾向の違う人々が含まれていた。

宗教的にいえば、その大多数はイングランド国教会にとどまりつつ、その中で長老制の実現を目指した。しかし一部には信仰を貫徹するために国教会を離脱する集団もあった。

彼らはいろいろな名前で呼ばれる。国教会から分かれるということで「分離派」と呼ばれたが、自らは「独立派」と名乗ることもあった。彼らの教会は長老制ではなく会衆制をとったため会衆派とも呼ばれた。

分離派: Separatists
独立派: Independents
会衆派: Congregationalists

B) 長老派 広義のピューリタン

1640年に国王チャールズ1世が議会を招集した。議会は当初、国王の専横を糾弾することで一致していたが、やがて国王の権威尊重をめぐり王党派と議会派とにわかれ対立した。しかし数においては議会派が圧倒していた。

宗教的にいえば、王党派は国教派であり議会派は「広義のピューリタン」であった。しかし必ずしも1対1の対応をしていたわけではない。

42年に内乱が始まると、議会から王党派はいなくなった。

残された議会派は、「ウェストミンスター宗教会議」を招集した。会議は『ウェストミンスター信仰告白』を起草し、議会に提出した。

これが長老派による「広義のピューリタニズム」の宣言となる。その経過については原著を参照されたい(それ自体が大変興味ある内容だ)。

戦闘が激化すると、議会派の中に完全な共和制を主張する急進派が生まれ「独立派」を称した。これに対し主流派は「長老派」と呼ばれるようになった。

C) 独立派 狭義のピューリタン

政治派閥である独立派と、宗教的セクトである独立派(会衆派)は同じではない。それは「独立」の概念がかなり曖昧だからである。

ニューイングランドに移住したピルグリム・ファーザーズなどの会衆派は、独立派の名を忌避した。

独立派には元々の会衆派に加え、グッドウィン、ナイらの聖職者が加わった。彼らは国教会の主教制にも、長老派の教会会規にも反対した。しかし会衆派がイングランド国教会を背教であると糾弾することには同調しなかった。

クロムウェルは戦略上の立場から独立派を支持した。彼は最初は議会派軍から長老派を排除した。そして強い信仰心を持つ独立派の信徒を募って無敵の騎兵軍団を組織した。

ついでクロムウェルは議会にも容喙するようになり、その圧力のもとで長老派は排除された。

D) 独立派内部での会衆派の独走

議会を握った独立派は、『ウェストミンスター信仰告白』に代わる会衆派の信仰告白を欲した。これが『サヴォイ宣言』である。

そして『サヴォイ宣言』への同意が国内における宗教活動を保護する上での条件となるよう求めた。

それがクリアーされれば、礼拝や教会の会規に相違があってもまったく同等に活動が保護され、身分が保証されるとした。

つまり独立派の踏み絵を踏めば、後は自由だというのである。これは社会組織の間ではありうる提起ではあるが、宗派間の対立の解決の手段としては、贔屓目に見ても拙劣である。

石井さんによれば、

クロムウェルは気乗りがしなかった。彼は信条的には独立派を支持してきたが、それ以上にプロテスタントの信仰の多様性を重視していた。とくに長老派と独立派との融和は彼がもっとも心を砕いたところであった。

という。

E) 共和制の崩壊と独立派

石井さんによると

独立派はクロムウェル政府から大きな好意を受けた。かなりの人は政府の手から教育および教会の聖職禄を受け取った。

彼らはその頃になると以前よりも保守的な態度を取り、どんな源泉からも喜んで援助を受け取るようになった。

という。

クロムウェルがなくなり、息子リチャードが護国卿を辞任する頃には、イングランドは絶望的な混乱と財政の急迫に陥った。

共和制が崩壊し王政が復古すると、長老派は国教会派と妥協しながら政治・宗教上の地位を保持し続けた。

独立派は共和国時代の地位と権益を剥奪され、政治的・社会的に没落したが、教会の合法性は保たれた。

しかし1年後に寛容政策は議会によって放棄された。長老派をふくめピューリタン派はすべて公的身分を失い、その活動は非合法化された。


この後の部分は専門的になるので省略するが、本文への注釈にも幾つかの興味深い記述が見られる。一読をおすすめする。

分かったことはこれが清教徒革命であり、まずもって宗教革命であることだ。だから清教徒革命イコール近代化革命というのは、あまりにも「史的唯物論」的にすぎる。

宗教革命であるならば、各宗派が何を考えどう行動したのかをしっかり描くべきだ。ジェントリーとかヨーマンを持ち出しても戦争の説明にはならず、混乱を招くだけだ。

中身を事実に従って吟味していけばこんなに話がこんぐらからなくても済んだのではないだろうか。これはラテンアメリカの歴史を編集したときにも強く感じたことだ。

何か物差しを持ってきて、物差しに合わせて裁断すると、結局肝心なものがするっと抜けてしまう。

「実事求是」、これが歴史を学ぶ上での絶対基準だ。

騎馬民族がやってきた時代

『天孫族』の考えはまだ私の独りよがりにすぎない。学会では、渡来系はすべて弥生系で一括されている。稲作を持ち込んだのも弥生系だし、倭の那の国王も弥生系だし、邪馬台国や卑弥呼も弥生系だし、纏向に大和政権を作ったのも弥生系だ。

しかしそこには二種類の弥生人が区別される。

①Y染色体でも長江系のO1に対して後発漢民族系のO2が区別される。

②青銅器文化に対して鉄器文化は後から持ち込まれた。

③彼らは北方系の天孫信仰を持ち込んだ。銅鐸を信仰の象徴とする長江人には異質のものである。

④彼らは銅鐸信仰を徹底的に排斥した。そのため銅鐸信仰は忽然として消滅した。

⑤彼らは人口の上では少数派にとどまった。O2人はO1人の人口を凌駕することはなかった。彼らは長江人の信仰を破壊したが、生産システムには手を付けなかった。

⑥彼らは天孫族の末裔を僭称する弥生人(出雲人)勢力の前に支配権を譲渡した。この結果、大和朝廷が全国を制覇した。

というのがその論理の筋道だ。

ふと思いついたのだが、これはまさしく江上波夫の言う『騎馬民族』だ。鉄製の強力な武器、騎馬戦という戦闘スタイル、これが天孫族の基本だ。これは長江文明を墨守する弥生人とはあきらかに異なる。

ただ縄文人、弥生人、天孫族という三層構造を確認するためには、天孫族がいつ日本に来たか、その時先行する弥生人とどういう関係にあったのかという点が明らかにされなければならない。

それは間違いなく弥生前期から中期にかけての時代だ。

当たり前だが、彼らは稲作民族ではないから、生産に直接携わるグループとして登場したわけではない。九州北部に出来上がった生産システムに対してはよそ者として登場したに違いない。

そのとき彼らはどういう身なりで登場したのだろう。征服者としてか、押しかけ用心棒なのか、それとも傭兵隊なのか。要するにそれは武士集団ではないのだろうか。

このあたりは両者の力関係によって変わってくると思う。流入者の力が圧倒的に強ければ百済型、あまり大したことがなければ任那型(部族連合)になっていく。

それが日本では、紀元前後に那の国を盟主とする天孫族の諸国連合という形でまとまっていくのではないだろうか。

弥生時代の絶対年代区分

前回に続き、星野さんの論文の学習ノートです。

1.弥生時代の概念

当初は縄文式土器に代わり弥生式土器が優勢になった時代と理解されていた。

しかし水稲栽培が同じ頃から始まったことから、水稲栽培の時代とひとまとめにされた。ところが水稲栽培が弥生式土器の普及よりかなり先行していることが分かり、「水稲栽培+縄文式土器」という移行期を弥生時代早期と呼ぶようになった。

2.前期・中期・後期の区分の根拠

「水稲栽培+弥生式土器」が本来の弥生時代であり、これは前・中・後の三期に分かれる。

本来はC14による絶対年代分類が最も良いのだが、今のところC14の推定はかなりの誤差をふくんでいる。年輪年代法やY染色体ハプロの研究も相対的な判断である。

弥生式土器の形態による編年も基本的には相対年代にとどまるが、出土数がきわめて多いために、ある程度絶対年代の尺度として利用しうる。

というのが星野さんの主張で、以下の表がその根拠となっている

土器編年

やや面倒くさい表だが、要は4人の専門家がだいたい一致しているから使えんるんじゃない?

というものだ。

その上で、星野さんは以下のように提唱している。

弥生前期 紀元前300年~紀元前200年頃
弥生中期 紀元前200年~紀元0年頃(約200年間)
弥生後期 紀元0年~紀元280年頃(約250年間)
古墳時代 紀元280年~ 
(ただし紀元200~280年は「大型古墳+弥生式土器」の移行期)

九州の場合も大差はない。ただ弥生前期に先立つ弥生早期は九州にのみ存在する。

弥生早期を形成したのが渡来系であったことに異議はない。ただしものすごい大量の移民があったという主張は少し保留しておきたい。

一組の夫婦が4人子供を生んで死亡するとすれば、20年で人口は倍になる。狩猟民族では資源との関係で増加には限界があるが、農業では新田さえ開発できればこのねずみ算には制限がない。事実、九州北部には急速な水田面積の増加が見られている。

例えば100人が渡来すれば、100年後には1,000x2の5乗で3,200人となる。200年後には10万人を超える。問題はそれを食わせるだけの可耕地があるかどうかということだが、それを問うなら、むしろそれだけの人が一気に渡来した場合のほうが矛盾は深刻だろう。

田を切り、水を引き、稲を植えて食べられるようになるには2年が必要だ。最初の渡来人は、その間業態の異なる縄文人の支援をあてにできたが、後から渡来した人々は先着グループと争って、経営基盤を確保しなければならない。

そうなるとむしろ自然増をメインに考えたほうが素直ではないだろうか。そして最後にやってきたのが天孫族・C2人であろう。彼らは鉄と馬によって日本を制圧した。

星野盛久さんの「難民がつくった国『邪馬台国』」という文章があって大変良くまとまっている。星野さんという方は在野の研究者らしく、まったく肩書等不明である。

以下紹介させてもらう。

「まえがき」

今まで出尽くした感のある資料をもう一度見直し、整理し、論理的かつ客観的に推論を進めてみることによって、何が見えるのかを明らかにしてみたいと思います。

難民の作った国「邪馬台国」その1 ―弥生人は渡来人だった―

「弥生人の渡来による日本列島の人口増加」

弥生時代を考えるときに、出発点とすべきデータがあります。

(ということで、私も前に引用した小山修三さんの人口分布とその経過が引用される。)

詳細な表が掲載されているが、特徴点を箇条書きにしておく。

1.縄文早期から晩期に至るまで、人口はあきらかに東高西低で、縄文人が北方由来であることを示す。ただし縄文中期に九州に限局した人口の増加があり、朝鮮半島からの一定の人口流入があったことを示す。弥生人を受け入れた九州の縄文晩期人はこれらの人だった(Yハプロで言うC1aかもしれない)

2.縄文人というと東北・北海道を想像するのだが、実際には最大の居住地帯は北関東から信州にかけての一帯であった。しかしこの地帯は縄文後期から晩期にかけて壊滅的な状況を迎える。むしろ東北のほうが持ちこたえているので、寒さだけではないようだ。浅間山の噴火でもあったのか?

3.弥生時代に入って第一次の人口爆発が起きるのだが、これは東日本と西日本では様相が異なっている。関東を中心とした人口増加はある意味では元の勢いを取り戻したということであり、縄文中期に戻った形である。しかし近畿と九州では明らかに人口爆発が起きている。

4.とりわけ近畿の人口増加には注目しなくてはならない。すでに弥生時代において九州の人口を凌駕している。この2つは水稲栽培という点では共通しているが、九州はすでに鉄器時代に入っており、近畿では依然として青銅器時代である。近畿は私の考えでは銅鐸人の生活圏であったと思う。

5.弥生時代日本には九州生活圏(天孫系)、近畿生活圏(長江系)、関東生活圏(縄文系)が鼎立しており、人口ということで見れば、それらは拮抗していた。

6.青銅器から鉄器へという移行の時代として弥生時代をとらえるならば、西暦ゼロ年よりちょっと前までが青銅器時代、弥生後半が九州=鉄器、近畿=青銅器という並立時代。そして鉄器文化が近畿と関東を併合するに及んで、弥生時代が終了するというつかみ方になるのではないか。

7.たしかに九州勢は戦争に強かったから勝利し支配することになったのだが、人口に示される生産力はむしろ近畿のほうが強力であった。武器の優越は次第に失われ、近畿勢が政治的支配権も獲得するようになる。

8.古墳時代(星野さんはあえて土師器時代と称している)に起きた第二次人口爆発は、弥生期の三者鼎立体制を近畿中心体制に置き換えていく。近畿が唯一のビッグパワーとなり、関東に信州をあわせた勢力がかろうじてこれに拮抗する。九州は関東や中国地方にすら抜かれ斜陽の道を歩むことになる。

9.古墳時代の人口爆発は水田耕作のみでは説明できない。水田そのものは弥生期の第一次人口爆発を説明するものでしかない。近畿を中心とした人口爆発は、干拓や排水工事による新田開発抜きに説明つかない。その最初の舞台が大和湖であり河内湖であった。これにより水田面積は一気に増え、それに応じて人口も急増したのである。

10.大規模土木工事による耕地の拡大は水田のみにとどまらなかった。関東平野の中央部に存在した巨大な湿地帯も、同様の方法で耕地に変えられた。これが関東における人口爆発の理由であろう。それは関東平野の主人公(支配者)を縄文人から弥生人に変えた可能性がある。

11.このような経済バランスの変化にも関わらず、九州王朝はかなりのちまで軍事的優位を保ち続けていたと思う。ケンカは絶対ケンカ慣れしているやつが強いのである。九州は鉄器における優位を保ち続けただけでなく、朝鮮半島における北方勢力との闘いで絶えず戦闘技術を高め続けてきた。天孫系の分家を権力の頂点にいただく近畿の田舎者にはなかなか手強い相手である。

12.しかしそのような軍事的優位は自然に縮まってくる。すでに倭の5王の時代には政権交代が差し迫っていた可能性がある。そして西暦500年から550年の間に倭王朝は滅び、権力は次第に大和朝廷へと移っていったのではないだろうか。

(11と12はオミキが入ったための蛇足)

清教徒革命年表 今後の課題

そもそもはパスカルをもう少し勉強しようと思っていたところに、彼の思想にイギリス哲学の影響がないのだろうかと疑問をもって、それじゃ同時代人をと思ってホッブスに手を付けたところ、哲学者としては大したことはないが、リヴァイアサン一発で人権思想の礎を築いたというアイデアマンだということがわかった。

そこで彼の人生を眺めてみると、彼自身が清教徒革命を体現した人物であり、リヴァイアサンが清教徒革命の真髄をすくい取っているからこそ、それが近代政治の礎となったということがわかった。

ということは、清教徒革命を近代政治の曙として勉強しないとならないなということになって、この作業をはじめたわけだ。

1日もあれば片付くと思っていたが、どっこい数日を費やしてしまった。しかも残された課題は山のようにある。

以下列挙していく。

1.なぜスコットランド王がイングランドの後継者に選ばれたのか。選んだのは誰か。

2.火薬陰謀事件(06年)で浮き彫りになった、カトリックとの緊張関係はどう推移していくのか。バチカンはイギリスに干渉しなかったのか。

3.スペインの無敵艦隊を破ったイギリスは、この時点でヨーロッパの覇者になっていたのか。欧州列強の力関係は、この時点でどうだったのか。

4.イングランドとスコットランドは同君連合とされるが、それは対等の関係だったのか。従属関係にあったのか。

5.王権神授説の由来。なぜジェームスはこれを09年の時点で強調したのか。おそらく王権がイングランド国内で軽視されていたからだろうが、ジェームズを王位につけたフィクサーたちは王権神授説をどのように捉えていたのだろうか。

6.ベーコンの話は気になるが、シェークスピアとの関係も含めいずれ考えよう。

7.30年戦争は、「ドイツ農民戦争」もふくめて気になるテーマだ。これもいずれ検討しなければならない。ただイギリスは蚊帳の外だったのだろうか。

8.ピルグリム・ファーザーズは迫害を逃れたと言うが、それほどか弱い存在だったピューリタンがなぜ20年後に天下を取るのか、この変化がわからない。これがわからないと清教徒革命がわからないというくらいの大問題だ。

9.議会が国王に抗議するということは、国民の過半が反国王ということか。その何割くらいがピューリタンか、国教会の信徒はどうだったのか。

10.ジェームズ、チャールズはともにスコットランド出身であり、かれらはスコットランドにおいてはカルヴィン派を容認していたはずだ。どうしてイングランドの国教会を押し付けるのか。

11.スコットランドは国王と戦争し、勝ったあともチャールズを国王とし続けたのか。そうだとすれば、スコットランドにとって国王の地位はどういうものだったのか。

12.国教会の態度が分からないが、一貫して国王を支持したのか。

13.王党派の態度がわからない。途中までは議会派と行動をともにしており、単純なチャールズ派ではないと思うが、なぜ国王を支持したのかを明らかにしなければならない。

14.王党派は貴族と特権商人というが、議会派の主流である長老派も貴族・大商人の代表と書かれている。貴族・大商人の政治的、宗教的色分けはどうなっていたのか。

15.ジェントリーとヨーマンというのがよくわからない。彼らがなぜピューリタンだったのかもわからない。

16.ピューリタンは歌舞音曲を禁じたと言うが、みずからもそういう生活を送っていたのだろうか。シェークスピア以来の芸術家たちは王党派に走ったのだろうか。

17.スコットランドと議会派が東部連合軍を作ったというが、その効果はあったのだろうか。スコットランド側の思惑は何だったのだろうか。

18.クロムウェルは軍内から長老派を排除したと言うが、それはいかにして可能だったのか。それはスコットランドとの同盟に悪影響を及ぼさなかったのだろうか。

19.内戦中に生まれたレベラーズはまことに興味深い組織だ。片手間で済む話ではなさそうなので、クエーカーとも絡めて別の機会に。

20.第二次内乱を起こしたのは誰か、指導者は誰か。国教会はどう動いたか。

21.チャールズ2世はどのようにしてスコットランドに入ったのか。スコットランド政府はこれを受け入れたのか。長老派はどのような態度をとったのか。

22.ミルトンについての記述が1行だけある。もう少し膨らませなければならない。

23.真正水平派・ディガーズも同様。もう少し文献を探す必要あり。

24.クロムウェルはかつての盟友である議会のピューリタン独立派とも衝突し、これを追放した。どこが違っていたのか、どこが気に入らなかったのか。

25.イングランドに併合されたスコットランドの政体はどのようになったのか。たんなるイングランドの一地方なのか。スコットランドの王党派や長老派はどのような扱いになったのか。

26.こんな時にスペインと戦争を始めている。国内はメチャメチャだと言うのに一体どういうつもりなのだ。

27.55年の国王は反乱の内容がわからない。だいたいこのあたりから、文献の量がめっきり減ってくる。清教徒革命がどうして崩壊していくのかを知るのにはだいじなところなのだが。

28.リチャードの護国卿就任にいたる経過、および辞任に至る経過が目下不明。

29.チャールズ2世のドーヴァー上陸は共和側の将軍がお膳立てして行われたようであるが、その詳細は不明。

とまぁ、こんなことを考えながら作業をしていくのだから、情報が増えるに従って、作業スピードはそれに反比例するかのように落ちていく。

もう2、3日は作業を続行してみたいと思う。


革命前期

1603 女王エリザベス1世が亡くなる。処女王として世継ぎを残さなかった。このためヘンリー7世以来続いていたテューダー朝が断絶する。

1603 スコットランド王ジェームズ6世が後継者として迎えられ、イングランド王ジェームズ1世として即位。スチュアート王朝が始まる。イングランドとスコットランドは同君連合となる。

1605 火薬陰謀事件が発生。カトリック教徒の貴族がウェストミンスターの爆破を計画。政府はカトリック教徒抑圧令(06年)を制定し、弾圧に当たる。

ジェームズはメアリ(エリザベスに処刑されたスコットランド女王)の息子でカトリック信者であったが、イングランド国王に即位するにあたり、国教会を尊重する立場を明らかにした。陰謀団はこれに憤激し、国王と政府幹部らを吹き飛ばそうとしたとされる。

1609 ジェームス1世が議会で演説し、王権神授説を主張。

発言の裏にはいろんなことが考えられる。外様として6年我慢していたのが、ようやく権力を発揮し始めた。王権を主張するために議会まで行って訴えなければならないほどに、王権は弱かった。「これからはあんたがたの指図を受けないよ」という宣言

1616    国王の側近だったフランシス・ベーコンが追放される。議会は王へ抗議文

1618 大陸で三十年戦争始まる

1620年 政府と国教会によるピューリタンへの攻撃が強まる。ピルグリム・ファーザーズ、迫害を逃れ新大陸に渡る。

国教会の教義は新教に近いが、カトリック的な形式が残されている。カルヴィン派はこの形式を新教にふさわしいものにしようとした。広義にはカルヴィン派はすべて清教徒である。そのなかで穏健派(長老派)は国教会内での改革を目指した。独立派は国教会からの独立を目指した。狭義には独立派を指して清教徒という。
ピューリタンというのは“ピュアな人”の意味だが、元の使われ方は「頑固者」を指す俗語のようである。同じように、オランダではカルヴィン主義者は「ゴイセン」(乞銭)と自称している。

1621 下院がジェームズ1世への「大抗議」を決議。  

1623 「独占大条令」が議会で成立。エリザベス女王以来の「独占特許」が原則禁止される。実際にはその後も横行したようである。

1625 ジェームズ1世が死去。チャールズ1世が後継者として即位。

1626    チャールス1世、歳入確保のため船舶税を新設、強制公債を発行。

船舶税: 沿岸を襲う海賊と戦うための資金とされる。無意味となった「休眠税」を復活させたもの。ジョン・ハムデン議員は公然と支払いを拒否した。
1628    議会開催、「権利の請願」を採択し国王に提出。
権利の請願: エドワード=コーク議員が中心となり起草。コモン・ロー(慣習法)の尊重、議会の同意を得ない課税や上納金、不法な逮捕・投獄などを止めるようもとめる。その法的拠りどころとして1215年のマグナ・カルタをあげる。
1629 チャールズ1世、「権利の請願」を拒否、議会を解散する。議会は解散にあたり「権利の3箇条」を決議。
チャールズ1世はこのあと議会なしで専制政治を行った。国王の側近のカンタベリー大主教ロードとストラフォード伯の二人が実際の政治にあたったので、この間をロード=ストラフォード体制ともいう。
国教会の教義が強制されてピューリタンは弾圧され、トン税・ポンド税などの関税、船舶税などが拡大された。
1634 清教徒の政治家ウィリアム・プリン、国王夫妻を中傷したとして耳そぎの刑を科せられる。37年にはもう片方の耳も削がれる。その後収監され長期議会の際に釈放。

1637年 チャールズ、スコットランドに主教制度と国教会の祈祷書・儀式を強制する。当時のスコットランドは長老派(プレスビテリアン)が国教となっていた。長老派はエジンバラで国民盟約を結び対抗。

スコットランド国王はカトリックだったが、1567年に国王の不始末が元で政変が起こり、ジェームズが即位した。この時カルヴァン派(長老派)が国教と定められた。

1638 ハムデンを被告とする「船舶税」裁判。「いかなる法律よりも国王の意志がまさる」との判決。
1638 ロンドンの商人ジョン・リルバーン(後のレベラーズ指導者)、チャールズの宗教政策を批判する文書を配布し、投獄される。

1639 第一次主教戦争が発生。スコットランド長老派、教会総会で監督制度廃止を決議し反乱を起こす。両軍はベリックで対峙したが、不利を察知したイングランド軍が闘わずして撤退。

1640年

4 チャールズ1世、スコットランド戦争の費用を捻出するため11年ぶりに議会を開催。議員の多くが戦費のための課税に反対。このため議論は紛糾し、合意が得られないまま3週間で解散。短期議会と呼ばれる。この後チャールズ1世はアイルランド議会(カトリック)からわずかばかりの戦費を調達。

8月28日 第二次主教戦争。ニューバーンの戦いで両軍が激突、スコットランド盟約軍の圧勝に終わる。イングランドはノーサンバーランド・ダラム両州の割譲、および1日あたり850ポンドの駐留軍維持費を支払うことで和解。

11月 賠償金財源の確保のため、ふたたび議会を招集。会期が長期にわたったため長期議会と呼ばれる。議会は冒頭、「大諫奏」(大抗議書)を提出。

議会では翌年にかけて国王を追い込むさまざまな決議が上げられた。①独占(エリザベス女王時代・チャールズ1世が特権的商人に独占権を乱発していた)を禁止する。独占に関わっている議員を追放する。②議会の同意のないトン税・ポンド税は廃止、船舶税は不法とされる。③三年に一度は議会を開催しなければならないと定めた「3年議会法」、④暴威をふるっていた星室庁および高等宗務官裁判所を廃止する。これらはほぼ全会一致で採択された。

1641年

5月 ストラフォード伯(Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford)が処刑される。元議会派でありながら国王の右腕となり、辣腕を振るった。

10 アイルランドで反乱勃発。カトリックが蜂起してアイルランド・カトリック同盟政権を樹立。プロテスタントのイングランド人入植者数千人を殺害する。その後イングランドとの交渉は難航。

10 アイルランドの反乱が伝えられると、議会ではチャールズが反乱を口実に国王専制を企んでいるという見方が広がる。議会内改革派はよりいっそうの改革を推進するために、国王の悪政を列挙した「大諫議書」を議会に提出する。

「大諫議書」をめぐっては意見がわかれた。王党派が反対に回ったため11票差での可決であった。これを機に議会は王党派と議会派に分裂する。

王党派は爵位貴族や特権商人、ジェントリ保守派などで構成。イギリス国教派が多くを占めた。地域的にはヨークを中心とするイングランドの北部・西部。議会派は大部分のジェントリ(爵位を持たない地方領主)やヨーマン(豪農)、商工業者などで構成。多くはピューリタンであった。ロンドンを中心に東部や南部に支持基盤を持つ。

ただし、王党派といっても「チャールズいのち」というわけではない。むしろかなり怒っている。国王に縛りをかけるさまざまな決議にはすべて賛成している。王党派といっても、カルヴィン派の進出への恐れから消極的に支持しているにすぎないのではないか。


 革命・内戦期

1642年

1月 議会が分裂しているとみたチャールズ1世は、自ら兵を率いて議場に赴き、ジョン・ピムら議会の指導者5人の引き渡しを要求する。議会はこれを拒否する。

1月 チャールズは北部の王党派拠点ヨークに向かい、戦闘準備に取りかかった。これを見た議会は「民兵条例」を採択して軍事権を掌握する。

7月10日 第一次イングランド内戦が勃発。国王派(騎士党)がノッティンガムで挙兵、Siege of Hull で最初の干戈が交えられた。戦闘は各州内部で入り乱れて戦われた。初期は正規軍を中核とする王党派が有利であった。

騎士党と円頂党: 議会派(円頂党ともいう)と王党派(騎士党とも言う)の違いは必ずしも明確ではない。議会派にはピューリタンが多く、国王派には国教徒が多かった。しかし階級的にはジェントリ層が二分されており、単純に階級対立とは言えない。また中間派も多かった。

8月10日 ポーツマス包囲戦。議会派が砦を陥れて勝利した

9月23日 パウィック橋の戦い。騎士たちの活躍により王党派が勝利する。ここまでは一進一退の攻防

議会派の中心は当初は長老派であった。貴族・大商人を代表する長老派は、スコットランドと手を結び、国教会に対して長老主義の教会組織を全国に広げる戦略をとった。
しかし戦闘の展開とともに独立派が台頭してきた。地主や裕福なジェントリの代表たる独立派は、教会は聖職者のものでなく独立した平信徒によって運営されるべきであると主張した。また軍隊の力を背景に国王との徹底対決を主張した。
10月 エッジヒルの戦い。王党派優位のうちに終わり、議会派軍は多大な出血を余儀なくされる。このあと国王軍はロンドン攻略をいったん断念。オックスフォードに本拠をおき北部・西部を抑え、議会軍はロンドンを拠点に南部・東部を支持基盤とした。

ジェントリーの一員、オリバー・クロムウェルは議会軍の練度の低さを痛感。「酒場の給仕や職人の軍隊で上流人士の騎士たちと戦を続けることは難しい」と悟る。私費を投じて熱列信仰者による騎兵部隊「鉄騎隊」(Ironside)を組織・訓練した。
11月 Battle of Aylesbury、Battle of Brentford、Battle of Turnham Green が相次ぐ。
1642年 ピューリタンの訴えによりロンドン中の劇場が閉鎖される。クリスマスのお祝いの禁止など、庶民の娯楽がいっさい禁じられる。

1643年

1月 Battle of Braddock Down、Battle of Leeds。

3月 First Battle of Middlewich、Battle of Hopton Heath、Battle of Seacroft Moor。

4月 Battle of Camp Hill、Siege of Reading、Battle of Sourton Down。

5月 Battle of Stratton

6月 Battle of Chalgrove Field

6月30日 アドウォルトン・ムーアの戦い。フェアファクス軍が敗走するなど、議会軍の弱体さが際立つ。

7月 Battle of Lansdowne、Battle of Roundway Down、Storming of Bristol、Battle of Gainsborough

8月 グロスター包囲戦

9月3日 ロンドン近郊に迫りくる王党派軍を前に、イングランド議会派がスコットランド盟約派と同盟。議会軍の他にスコットランドの支援を受けた東部連合軍(ジェントリー部隊の連合体)が成立。クロムウェルの部隊もここに所属。

9月 Battle of Aldbourne Chase、第一次ニューバリーの戦い

10月 Siege of Hull、Battle of Heptonstall

10月11日 クロムウェルの「鉄騎隊」がウィンスビーの戦いで王党派軍に一矢を報いる。

11月 Battle of Olney Bridge、Siege of Basing House

12月 議会派の指導者ジョン・ピムが末期ガンで死去。

12月 Battle of Alton、Second Battle of Middlewich

43年 ウェストミンスター教会会議が開かれる。国教会を長老教会体制に改革する計画が進む。

1644年

44年 スコットランド盟約派軍が、チャールズの軍との内戦 (Scottish Civil War) を開始。

7月 マーストン・ムーアの戦い。議会軍にスコットランド盟約軍、東部連合軍を加え、王党軍本拠地のヨーク近郊で戦闘となる。クロムウェル鉄騎兵の奮戦で議会派が勝利するが、王党派はなお主力を温存。

1645年

2月 「ニューモデル・アーミー」条例が成立。議会派軍の指揮権を握ったクロムウェル、議会軍司令部から長老派を追放し、軍全体を新型軍に改組する。

6月 ネーズビーの決戦。クロムウェルの率いる「新型軍」が王党派軍を壊滅に追い込む。敗れたチャールズはスコットランドに亡命。これにより第一次イングランド内戦は事実上終結する。

内戦勢力図。黄色は議会派、赤は王党派。
左上:1642年、右上:1643年、左下:1644年、右下:1645年。

English_civil_war_map_1642_to_1645
45年 内戦勝利後の展望、とくに議会派軍の扱いをめぐり、議会派内の相違が明らかになる。

軍から排除された長老派は、国王派と立憲君主制により妥協を図ろうとした。これに対し独立派は共和制に移行するよう主張した。
45年 議会派勢力内に第三の潮流「水平派」(レベラーズ)が台頭する。彼らの主要な政治基盤は議会派軍の下級兵士内にあり、ロンドンの手工業者・職人層を中心に組織されていた。宗義よりも財産権・参政権を強く求めた。指導者はジョン・リルバーン。

1646年

3月 王党派の本拠地オックスフォードが陥落。ついで国王軍最後の拠点チェスターも陥落。チャールズはスコットランドに逃れる。

5 スコットランド内戦、長老派の勝利に終わる。チャールズ1世は長老派軍に投降する。息子のチャールズ2世は母と弟ジェームズと共にフランスに亡命。その後48年に義弟のウィレム2世を頼ってオランダのハーグに移ったが、翌年初めに共和政府と親交を結ぶオランダ連邦議会の圧力で、フランスへ戻る。

1647年

1月 スコットランド軍、チャールズ1世,イングランドの議会軍に引き渡す。チャールズ1世はそのまま幽閉される。

47年 軍の全権を握ったクロムウェル、議会改正法を提出。王制に制限をかける。議会内で長老派と独立派との派閥抗争が深まる。

秋 「パトニー討論」が行われる。水平派が、人民主権の共和国構想を柱とする憲法草案(「人民協定」)を作成。水兵派は議会に足場を持たないため草案を軍幹部に提出する。クロムウェルの右腕(娘婿)ヘンリ・アイアトンとのあいだに激しい討論が行われる。

1648年

48年 第2次内乱。議会軍の分裂に乗じて国王軍の残存勢力が反乱を起こす。長老派は動揺的態度を繰り返す。独立派は水平派(レベラーズ)と和解して反革命軍に対抗。

48年 長老派を支援するスコットランド軍、チャールス奪回のため侵入。

48年 プレストンの戦い。議会軍が反革命軍に勝利。

12月 「プライドの追放」事件。議会派軍プライド大佐が議会に入る。議会内の長老派を追放し、独立派だけで構成する「残部(ランプ)議会」を形成。クロムウェルはプライドの行動を支持した。一方スコットランドは長老派の弾圧に怒り、王党派を支持するようになる。

1649年

1月 独立派、チャールズ1世を処刑。国王はむしろ「殉教者」として讃えられ、裁判委員は後に「国王殺し」とよばれた。有力ジェントリは独立派から離れる。

それは将来展望もなく、まず国王殺しから始まった。1月4日下院のみの決議で「国王チャールズ1世処刑のための最高裁判所」が設置された。裁判委員は135名が任命されたが、多くは就任を拒否し実際には60名程度に留まった。
20日から裁判が開始された。国王は「議会とそれに代表される国民に反逆し不正な戦いをしかけた」とされ、「専制君主、反逆者、殺人者であり、国家に対する公敵」であると論難された。
27日、死刑の判決文が作成され、57名の委員が署名した。30日、チャールズ1世はホワイトホール宮殿外の処刑台で、衆人環視のもと断首刑に処せられた。
2月 革命の主導権を握った独立派は、革命の成果の独占を図ろうとした。水平派との同盟を解消し、さらに弾圧に転じた。
3月 独立派議会、君主制の廃止と貴族院の廃止を宣言。

廃止の理由: ①王という職は不必要であり、負担の多いものであり、人民の自由、安全および公けの利益に有害である。②貴族院(上院)も「人民に無用有害」である。
5月 バーフォードの闘い。給料の未払いを理由に従軍を拒否した水平派が反乱。ただちに鎮圧された。指導者リルバーンらは逮捕された。リルバーンは後に政治から離れ、クウェーカー教徒として信仰の道に入る。
5月 残部議会派、共和政府(コモンウェルス)の成立を宣言。国政は一院制の議会と、41名からなる国務会議(大半が議員を兼ねた)が統治することになる。

イギリスの人民はここに共和国、自由国家となる。今後、この国は最高権威すなわち議会によって、王や貴族院なしに統治される。
8月 共和政府のクロムウェル軍、アイルランドに侵攻。11年にわたる アイルランド同盟の支配に終止符を打つ。遠征軍は宗教的な使命感から、、「緑の島を荒れ地に変えた」といわれるほどの残虐行為を重ねた。

49年 ミルトンは国王処刑を非難する出版に対抗して、革命による国王処刑の正統性を弁護する論陣を張ったという。

49年 水平派に替わって「真正水平派」が登場する。ジェラルド・ウィンスタンリーが指導。新政府はこれらの人々を弾圧した。

土地を勝手に掘る人たちという意味で「ディガーズ」とも呼ばれた。

主要な基盤は零細農民で、私有財産制を否定し、土地の共同所有と共同耕作を提唱した。さらに社会改革の徹底、土地の共同所有、男女の法律・教育上の絶対的平等を求めた。この社会主義的な変革要求は、保守化したジェントリたちに危険思想として拒絶された。


1650年

2月5日 スコットランドの長老派政府は、チャールズ2世をスコットランド王として推戴すると宣言。

6月 チャールズ1世の子、チャールズ2世が亡命先のパリからスコットランドに入り即位を宣言。イングランド反抗を目論む。長老派も反イングランド感情からこれを支持する。

6月 イングランド議会はただちにスコットランド進撃を決議。

7月 クロムウェルを総司令官とするイングランド軍1万6千人がスコットランドに侵入

9月 ダンバーの戦い。クロムウェル軍がスコットランド軍を撃破。スコットランド軍の戦死3000、捕虜1万人。このあとクロムウェルはイングランドに戻る。

1651年

1月 チャールズ2世、パース近郊のスコーンで戴冠式を挙行。

9月 クロムウェル軍が再び出動。ウースターで国王軍を殲滅。チャールズは樹上で一夜を過ごした後、フランスに亡命。このあとクロムウェル軍はスコットランドを征服する。

10月 共和政府、スコットランド併合を宣言。

10月 共和国政府はライバル関係にあったオランダを中継貿易から締め出す航海法を制定。オランダ船の出入を禁止し、アジアからの富を満載してくるオランダ船を襲撃し始めた。


クロムウェル独裁期

1652年

5月 第1次英蘭戦争が始まる。2年後にイギリスの勝利に終わる。

5月 共和政府軍、アイルランド平定を完了。教会領の分配が開始される。

1653年

4月 クロムウェル、「残部議会」の解散を要求。クロムウェルは軍隊を率いて議会に乗り込む。この後、クロムウェルの意向に沿った改革が進行。

7月 軍が推薦した議員による「指名議会」が成立。軍が一枚岩でないのを反映して議会も一枚岩ではなかった。議会はジェントリの権益を保護する「コモンロー」をめぐり、廃止派、存続派、中間派に分かれた。

指名議会は別名ベアボーン議会とも称される。ベアボーンは下層階級出身の商人。ベアボーンが議員となったため、残部議会が指名議会を非難するときの格好の標的となった。
議会は王政への復帰を意図してクロムウェルに王位の提供を申し出たが、軍隊が強く反対したため、クロムウェルも断念せざるを得なかった。

53年 指名議会、アイルランドとスコットランドの独立議会を禁止。イングランド議会に議席を与えられたが、定数は不当に少なく抑えられる。

12月 軍隊幹部により「統治章典」が作成される。イギリス初の成文憲法となる。国家元首の地位を護国卿(Lord Protector)と定める。実体としては軍将校とピューリタン急進派の独裁だった。

全国を12の軍管区に分けて統治、軍政官を置いて地方行政を担当させた。多くが成り上がり軍政官で、支持基盤を欠いていたため、地方行政は混乱する。

農民の貧困の最大の原因となったジェントリーによる「囲い込み」(エンクロージャー)は、むしろこの時期に進行する。


1654年

4月 オランダと講和。第一次英蘭戦争が終了。

4月 スコットランドはイングランドに吸収され、合邦が宣言された。

54年 英西戦争が始まる。共和政府軍がダンケルクを占領。

54年 イングランド共和国とオランダがウェストミンスター条約を締結、オラニエ=ナッサウ家(オレンジ公)のチャールズ2世への援助を断つ。

54年 フランスもイングランド共和国に近付いたため、チャールズはドイツのケルンに亡命。

1655年

3月 国王派の反乱が起きる。反体制勢力への取り締り強化

55年 指名議会で急進派が勢力を拡大。コモンロー廃止の方向が強まる。クロムウェルは議会を解散し独裁を敷く。

1656年

9月 クロムウェル。第二議会を招集

56年 チャールズ2世、スペインと同盟を結び、スペイン領ネーデルラントに宮廷を構える。最初はブリュージュ、その後ブリュッセル。

1657年

3月 議会は政治安定のため、王政復活を試みる。 「謙虚な請願と勧告」と称する統治章典の改正案を提出。クロムウェルは国王就任にまんざらではなかったらしいが、軍部の反対により構想は挫折。

6月 統治章典の改正。クロムウェルの後継者指名権、貴族院復活などをふくむ新体制(実際に復活したのは60年)。

1658年

58年 クロムウェル,護国卿体制下の第二議会を解散

9月3日 クロムウェル、インフルエンザで死亡。享年59歳。息子のリチャードが護国卿に就任。父親の腹心であったジョン・サーローが彼を補佐するが、すでにタガが外れた共和制の存続は絶望的となる。

1659年

5月 リチャード、強権政治を試みるが議会の反発を前に、辞任に追い込まれる。この後元首不在の状況が続く。

リチャードは、オリバーの3男(2人の兄はすでに死亡)。護国卿となったのが32歳で、実戦の経験もなく人を束ねる器量もなかった。その後王政が復古するとフランスに亡命。政界に関わらず余生を送る。
5月 ニューモデル軍の長老派は残部議会を再招集。この後、議会が影響力を拡大し軍の権威は失墜していく。

10月 残部議会、軍内強硬派ランバート将軍を罷免。翌日ランバートが議会を閉鎖し権力を掌握する。

12月 スコットランド方面軍司令官ジョージ・マンク、ロンドンでランバートと会談。議会の招集を要求する。ランバートがこれを拒否したことから話し合いは物別れに終わる。


1660年

1月 マンク、ランバートの独走を許さず、イングランドに兵を進める。ランバート軍は戦わずに敗走。ランバートは捕らえられる。

2月 スコットランド軍およびイングランド軍総司令官となったマンクの統率の下、長老派もふくめた「長期議会」が再開される。一方でチャールズ2世と連絡を取り、王政復古の道を探る。

4月 王党派も含めた仮議会が招集される。これとともに貴族院が復活。

4月4日 チャールズ2世がブリュッセルからオランダに移り、「ブレダ宣言」を発表。革命中の言動に対する大赦。信仰の自由,革命中に購入された土地財産への保証,軍隊の未払い給与の支払いを約した。諸改革はそのまま引き継がれることとなり、スコットランドとアイルランドに独立議会の再開を保証する。

4月25日 マンクの組織した仮議会が開かれる。王党派が多数を占める。

5月1日 仮議会、「ブレダ宣言」を受けチャールズを正式な君主として認める。これを受けたモンクはチャールズ2世を王位に迎えると発表。共和政府内に反対の声なし。

5月29日 チャールズ2世がロンドンに入る。民衆は熱狂的な歓迎。


クロムウェルは反逆者として墓を暴かれ、さらし首にされる。その妻子も処刑された。ほかに30名の革命首謀者が死刑となる。マンクはアルベマール公・大将軍に就任。

長期議会の初期に可決された改革立法の多くはそのまま認められ、イギリスの国制のなかに定着する。

革命中に王党派から没収された土地は、ほとんどそのままとなる。革命の恩恵を被ったジェントリが、毛織物などのマニュファクチュア経営,炭鉱などを展開。近代イギリス社会の担い手となる。


 

ホッブスの背景となった清教徒革命(Puritan Revolution)について勉強しなければならない。本当に知らないことばかりだ。受験のときは世界史とっているはずなのになぁ。



いろいろサイト巡りをしている間に、これはかなり長期に渡るものだということが分かった。

エリザベス女王の死後、スコットランドのジェームス王が王位を継承したとことから始まり、1640年の王位簒奪とその後の内戦、クロムウェルの権力掌握と独裁への移行、そしてクロムウェルの死と政権の崩壊、王政復帰へという実に60年にわたる「革命」なのだ。

したがって、そこで何が「革命的に変わったか」がよく分からない。それをめぐってさまざまな議論が展開されている。間違いないのは、この清教徒革命とその時代というのが「近代世界の夜明け」を告げているということだ。


そのような「本質論」を横において、政治形態の面からだけ眺めると、それはフランス大革命から(もう少し遡ればルイ14世の死から)、ワーテルローの戦いまでのフランス大革命と比較できるのではないだろうか。とすれば名誉革命は1830年の「7月革命」ということになる。

もしこの比較が正しいとすれば、イギリスはフランスに150年先んじていることになる。本当にそうなのか、それには社会的・経済的土台、なかんづく生産力のレベルを検討してみなければならないだろう。


ということで、清教徒革命を①革命前期、②革命・内戦期、③クロムウェル独裁期の3つに大分けした上で、流れを記載していきたい。(と言っても、とりあえずはコピペの年表づくり)

ホッブスを学んで

学んでというのはウソで、表面をさらっと舐めただけだが、かなり高校時代の世界史で習ったのとは感じが違う。

ホッブスという人の実像はかなり進歩的でリベラルな人だ。君主制を主張したからというのは、当時の実情で見て判断しなければならない。

これからの勉強だが、クロムウェルと清教徒革命とは実際に暮らしていた人々にとってはかなり迷惑な革命だった可能性がある。

なんとなく私にとってはロシア革命とスターリンを連想するのである。

いわゆる「社会主義体制」が崩壊したいま、そこに残っているのは「ブルジョア独裁」のシステムである。

それは「社会主義体制」が成立する前から存在し、いまもそのまま存続している。現代社会が「資本家階級による階級制度」であるという事の本質は変わっていない。

ホッブスのときはピューリタンが支配する共和制が登場し、それに異を唱えるということは王政への復古につながることを覚悟しなければならないわけだ。

ホッブスが本質的には進歩派でありながらも、復古派として活動せざるを得なかったのは歴史の制約であろう。

もちろん、そこには民主主義というもう一つの政治的尺度がある。それは人民の自然権に基盤をおいた原理的に平等な世俗的な社会原則である。

ホッブスは共和派対王権派という対立構図の中で、より根底的な枠組みを提示している。民主主義(法の下での平等)が貫徹していれば、その形式が共和制であっても立憲君主制であっても、それは二義的なものだ。

スターリニズムが荒れ狂う社会のもとでは、資本主義への「回帰」が進歩的なスローガンであったように、クロムウェル独裁政治のもとでは王政復古が進歩的であった可能性もある。

これは当事者の立場に立たないとわからない状況であろう。

他のマイナーな話題にも触れておこう。

高齢者の活躍というと日本ではしばしば伊能忠敬が話題になる。50歳で隠居した後江戸に出て測量を学び、その後の23年間日本地図の作成に没頭した。

ホッブスはというと、一時ベーコンの助手を務めたものの、50歳ころまでは貴族の家庭教師で糊口を凌ぐ生活ぶりで、世間的には無名の人であった。

50歳で自然権を前提とする契約社会論を表して、ようやく名を挙げるが、それは逆に苦難の始まりでもあった。

清教徒に脅されてフランスに亡命し、家庭教師の道を見つけるがこれが後の国王になるという幸運に恵まれた。

しかし当面の暮らしにとっては、それは必ずしも幸運とはいえなかった。

63歳で満を持して発表した「リヴァイアサン」は大当たりを取った。まぁ表紙を見れば分かるようにいかにも対手向きだ。しかしこの書物は共和派からも王党派からも指弾され、フランスでの亡命生活も不可能になった。

その年、必死の思い出クロムウェルに詫びを入れてイギリスに戻る。それから10年間、クロムウェルがどういう思いで生活したかは定かではない。

10年後、クロムウェル政府は崩壊し、王政復古が実現する。フランス時代の教え子であるチャールズ2世が即位する。

とは言ってもホッブスの居心地は決して心地よいものではなかったろう。なにせクロムウェルの軍門に降って、チャールズの下を逃げ出した身だ。しかも「リヴァイアサン」は王党派内の守旧派グループにはすこぶる評判が良くない。

しかしチャールズはホッブスを許し顧問官のポストを与えた。これが73歳である。

ふつうなら後は悠々自適の生活を送ろうというものだが。ホッブスはその後も書きまくる。というより色んな人に論争をふっかけているらしい。

王党派も堪忍袋が切れたのか、議会で「リヴァイアサン」を禁書にするという決議を採決してしまう。

もう一度、ここでチャールズが登場してホッブスを救う。お陰で禁書処分は免れたが、チャールズからきついお灸をすえられ、政治的発言は止めざるを得なくなる。これが80歳のことだ。

その後は文芸論などを書いて暮らし、90歳にして一生を終えることになる。

どうも20年から30年この人の活動期は後ろにずれている。これから見れば私などまだまだ若造だ。

ホッブス、ロック関連の年表

すみません。不勉強で知らなかったのですが、デカルト・パスカルとホッブス・ロック、それにスピノザが同時代人であることを知りませんでした。

どちらかと言うとデカルトやスピノザは哲学畑で登場するのに対し、イギリスの2人は「社会思想史」というわけのわからない学問の方で登場します。

しかし、ホッブスは1640年にパリへ、ロックは83年にオランダに亡命するなど、両者には明らかに交流があったと思われます。

どちらがより多く影響を与えたか。それは言うまでもなくホッブス・ロックの方でしょう。彼らは革命を闘い、歴史の最前線にいたからです。

ところがその辺が、これまでの知識ではまったく浮かび上がってきません。

少し調べてみます。

ヒュームとルソー・百科全書派については別の機会に回します。ベーコンはとても面白そうですが、こちらもいずれ。


1588 .トマス・ホッブス(Thomas Hobbes)、聖職者の子として生まれる(-1679)

1588 スペイン無敵艦隊がイギリス海軍に敗北。

1600 イギリスが東インド会社を設立。

1603 日本で江戸幕府が成立。

1605 フランシス・ベーコン(44歳)、「学問の進歩」を発表。

1607 オックスフォード大学を卒業。貴族の家庭教師となる。アリストテレス学派の修辞をきらったという。

1610 ホッブス、貴族のヨーロッパ旅行に随行し最初のヨーロッパ遊学に出る。

1618 欧州で30年戦争が勃発(-48)

1620 ピルグリム・ファーザーズ、プリマス上陸

1620 ベーコン(59歳)。『ノヴム・オルガヌム』(新機関)を発表。「知は力なり」と主張。スコラ哲学を排し実験による研究を重視した。このため経験哲学の祖と呼ばれる。

1620  ホッブス32歳。ベーコンの助手として彼の口述筆記をしたり、著作をラテン語に訳したりする。

1621 ベーコンは大法官(最高裁長官)だったが収賄で失脚。ロンドン塔に一時幽閉される。その後官界を引退。

1625 オランダのグロティウスが「戦争と平和の法」を発表。

1626 ベーコン、鶏の冷凍実験中の発熱が元で死亡(65歳)

1629 ホップズが2度目の大陸旅行でユークリッド幾何学に出会う。

1630 二度目のヨーロッパ遊学(42歳)。ユークリッドの『幾何学』に惹かれたという。

1632 ロック生誕(-1704)。ホッブスとは44歳異なる。

1633 ガリレオ・ガリレイ、68歳で地動説を唱え異端裁判で有罪判決。

1636 ホッブス、ガリレオの理論に共鳴。48歳でガリレオを訪問する。「物体の自然状態は運動にあり、止めなければずっと動き続ける」とする考えを社会に当てはめようとする。実際はベーコンの影響下に経験論的政治学の確立を図ろうとしたものであろう。

ホッブスは事物の第一原理を「運動」(motion)に求め、人間の心の数々の運動の中で特に「死によってのみ消滅する永久不断の意欲」であり、人間の自己保存の衝動に結びつく「力への意欲」に着目した。

1637 デカルト『方法序説』を発表。この頃すでにデカルトは物理学者として名を成していた。ホッブスはデカルトの著作にも触れている。

1640 ホップズ、52歳にして「法学要論」を著す。動く物体としての人間が相互に影響を及ぼす中で、社会が形成されていると主張。王権神授説に対し人民の「自然権」を提唱。人民の委譲を受けた君主が国家を守護するという社会契約説を提唱。

美濃部達吉の「天皇機関説」みたいなもので、王党派からは無神論者であるとされ、共和派からは専制政治擁護者と見られた。

1641 徳川家光による鎖国体制確立。清とオランダのみに門戸が開かれる。

1642 イギリスで内乱(クロムウェル)が勃発。ホッブス、政情不安の中で絶対王政の支持者とみなされ、フランスへ亡命。

ホッブスはもともと王党派的な考え方を持っていたが、クロムウェルによる政治を目にしてからは、政治的なアナーキーに対する憎悪感をいっそう強めた。

1642 ホッブス、『市民論 De Cive』を匿名で発表。ダイナミックな人間の相互作用が、政治力学に与える結果を提示しようと試みる。

1645 イングランド王太子(のちのチャールズ2世)パリに亡命。ホッブズが彼の数学教師となる

1647 ホッブズ、イングランド国教会の洗礼を受ける

1648 30年戟争が終結。ウェストフアリア条約が結ばれる。神聖ローマ帝国の事実上の解体とスイス、オランダの独立。

1649 クロムウェル、チャールズ1世を処刑、共和制を宣言する。10年間にわたる独裁。

1651 「リヴァイアサン」を発刊。

リヴァイアサンの内容については他文献を参照のこと。ただし主権者の意志にただひとつの留保を加えたことを銘記すべきだ。それは「人間の自己保存はあらゆるものに優先する。主権者が自分たちの安全を脅かすような場合には、それに抵抗する権利がある」という考えだ

リヴァイアサン初版の表紙: 巨人リヴァイアサンの体は無数の人間からできている。絵には描かれていないが、リヴァイアサンに対抗するもう一つの怪物がある。それは万人の相争う自然状態をもたらす「ビヒーモス」という存在である。
ビヒーモスの出現による国家の崩壊をふせぐためにはリヴァイアサンを強くする必要があるというのがホッブスの主張だ。

リヴァイアサン

1651 ホッブス63歳、大赦を受けクロムウェル支配下のイギリスに戻る。リヴァイアサンの無神論とカトリック攻撃がフランス政府を怒らせたため居づらくなったとされる。

1655 さまざまな論争を手がける中で 『物体論 De Corpore』、 『自由、必然、偶然に関する諸問題』、『人間論 De Hormine』などを出版する。

1660 王政復古。チャールズ二世はホッブス72歳を相談役に据える。

1661 ルイ14世の親政開始。

1661 ニュートン、19歳で万有引力の法則を提唱。

1662 ロンドン王立協会が設立される。『哲学会報』を刊行。

1663年 スピノザ、『デカルトの哲学原理』

1666 下院、「リヴァイアサン」を発禁処分にするよう決議。チャールズ二世の拒否権発動により実現せず。この後、ホッブスの言論活動は抑制される。

1670 パスカルの論集「パンセ」が発表される。

1670年 スピノザ『神学・政治論』。

1674 スピノザ、『エチカ」

1679 ホッブス、91歳で死亡。

1681 ホップズ『哲学者と法学徒との対話』、死後に発行される。

1683 ロック、ジェームズ2世の王位継承に反対し、51歳でオランダに亡命。

1688 イギリスで名誉革命が勃発。王権の優位を覆す。

1688 ロックがイギリスに帰国。

1689 イギリスで権利章典が制定される。

1689 ロック『統治二論」。社会契約説にもとづく市民社会の政治原則として、人民の抵抗権・革命権を唱える。

1690 ロック『人間悟性論」を著す。ニュートン原理に基づきイギリス経験論哲学を整理する。

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