鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

瀬川さんが折りに触れ強調するのが「縦割り交流」である。

これは私が勝手に名付けたものだが、北海道と東北の経済・文化交流には二通りの流れがあるというもので、一つは秋田・津軽と松前・檜山につながる日本海側ルート、もう一つは陸奥(八戸)から恵山・胆振・千歳線地域につながる太平洋ルートである。

とくに後者は、これまで注目されて来なかったが、擦文文化時代にはむしろ主流ではなかったのか、というのが瀬川さんの主張である。

これは考古学的事実の積み上げによって得られた推論ではあるが、歴史学的にも説得力があると思う。

アテルイが日本語で喋っていたのか縄文語だったのかは興味のあるところではあるが、この時点で津軽の人々は間違いなく縄文語で生活していた。津軽は和人化を拒否していたのである。

だから日本海側では秋田と津軽が縄文人と和人の境界だった。朝廷が秋田を事実上放棄して以降は、秋田も縄文人の勢力範囲だった可能性もある。

しかしそのような俊絶的な境界は太平洋側には存在しなかった。

和風化とバイリンガルな世界は徐々に北上し、やがて海を渡って胆振から千歳線領域まで拡大したのではないかと考えられる。

これが西暦900年前後の擦文世界だ。

ところが津軽の縄文人が農耕生活を開始し、富強化することによって状況は一変する。

津軽・出羽の縄文人は日本海沿いに北上し宗谷まで及ぶ縄文語世界を形成する。そして陸奥側への進出を図る。

それがポイヤウンペの英雄譚であったのだろう。

ポイヤウンペをめぐるユーカラは二つのセクションからなる。

一つは海獣の漁場をめぐる争いである。彼はハンターの最前線である浜益で石狩の既得権層と争い、礼文のオホーツク人とも共闘しながら勝利する。

もう一つは、胆振のアイヌ人集団との戦いである。この場合胆振・支笏のアイヌ人は化物とみなされていることだ。

ポイヤウンペはこの戦いでは敗北し、ほうほうの体で逃げ帰ったことになっているが、最終的には勝利したことが示唆される。

大事なことは、このポイヤウンペの戦いが胆振アイヌの本拠地たるべき平取で語り継がれていることだ。平取がこの神話を受け入れたということは、胆振アイヌが日本海アイヌに敗れ、屈服し、その神話を受け入れたと言うことになる。

このことから何が分かるか。

アイヌ人は津軽・出羽縄文人の末裔であるということだ。そして道央に発展しつつあった陸奥関連の縄文文化は、それに従属・吸収されてしまったということだ。
それは考古学的にも確認できる。擦文文化の象徴は深い竪穴住居だ。これは東北北部でも共通して見られた。しかし11世紀になると東北北部に平地住居に代わり、それが11世紀末には北海道にも波及する。ただしその交代は日本海側でのみ出現し、太平洋側で平地化が始まるのはさらに100年ほど遅れる。

諏訪大明神絵詞では、「蝦夷カ千島」には日の本、唐子、渡党の三種が暮らすとされる。日の本は津軽秋田の和人化したエミシであり、渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似て言葉が通じたとあるから、バイリンガル化した縄文人であろう。とすれば唐子は何か。この絵詞が書かれたのは1356年であり、もはオホーツク人とは考えられない。ひょっとすると、これが胆振・千歳の擦文人であったかもしれない。

なお、「東日流外三郡誌」なるものがあるが、内容的にみれば2チャン並みの「偽書」である。

エミシの復活とアイヌ民族の形成

瀬川さんの「アイヌと縄文」がまだ半分残っている。なにか一度読んでしまうと、また読み直す気がしなくなるのだが、整理しておかないと後々困るので、気を取り直して再開する。

瀬川さんの記述で勘所となっているのが、時期としては西暦900年から1100年までの200年間だ。

すでに北海道では後期縄文から擦文時代に入っており、その中にアイヌ文化が育ち始める。

その経過は謎に包まれているが、ことはアイヌのアイデンティに関わるので、ゆるがせには出来ない。

これまでの瀬川さんの所論をまとめると、アイヌ人は多少のオホーツク人の血を混じているとはいえ、基本的には縄文人の流れだ。アイヌ語は縄文語の嫡流だ。

一方、東北のエミシは和人と混血し和風化した縄文人だ。にも関わらず彼らは和人から「異人」とみなされ、その社会形態は暴力的に破壊された。

しかし、エミシ独自の政治形態が消滅するや、彼らは和人として遇されるようになった。

にも関わらず、北海道の縄文人は同化を拒否し、独自の言語を守ることによって“アイヌ人となった”のである。

この差は何なのか、それを生み出したものは何なのか。その謎を解く鍵が9世紀後半にある、というのが瀬川さんの主張である。

Ⅰ 東北エミシの復活と一体化

まず瀬川さんの論建てを紹介する。

1.9世紀後半になると気候が温暖化する。この傾向は出羽(秋田県域)を除く東北全域に見られる。これに伴い東北各地で人口が急増している。

2.とくに津軽(大和朝廷の支配がおよばないエミシの地)で水田、鉄器、塩、窯業(須恵器)が一斉に始まる。これらはエミシの自発的な農耕民化とこれによる富強化を意味する。いわばエミシ・ルネッサンスだ。

3.津軽の自発的成長が顕著になると、北海道にも津軽産の須恵器、鉄器が見られるようになる。コメも出てくる。

つまり、津軽に農耕をこととする縄文(エミシ)文化が勃興し、東北全体に影響力を広げる一方、北海道は自足自給を基礎としつつ、貿易相手として津軽と相対することにより漁労・狩猟生活に特化・発展していく、という経過になる。

その証拠として、瀬川さんは、縄文時代に比較的均等に分布していた集落がいくつかの生産点に集中し、他は無人の野となっていく考古学的事実を上げている。

B 大和朝廷の弱体化

これとは逆に律令国家・大和朝廷の力が弱体化したこともある。
私の勉強したところでは田村麻呂のような軍人はもはや存在しなくなり、政治は内向きとなり摂関政治へと移行する。

各地で俘囚(エミシ)の反乱が相次ぎ、大和朝廷は出羽を放棄するに至る。正面戦を互角に戦える力を得たエミシ豪族らは自らの統治を朝廷に承認させる。

朝廷に代わって、関東で組織された武装集団が東北に介入するようになる。和人支配の弱体化は、征夷大将軍として幕府を開いた源頼朝が、奥州討伐を行う1189年まで続く。

この頃日本国内の勢力分布は東北・関東に偏っていたのである。律令国家のもとでは勇猛な防人として使役された関東の人々が東夷(あずまえびす)として、第一級国民としてみずからを承認させる。

これらの事情が、北海道にアイヌ人国を生む背景となっていったということであろう。


高円寺の古本屋で見つけた写真雑誌。
「1億人の昭和史 10 不許可写真史」というものだ。毎日新聞の発行で昭和52年1月の発行日となっている。
著作権に触れる恐れがあるが、このまま廃棄処分となるのも惜しいので、何枚か転載する。クレームがあれば直ちにおろしますので、よろしく。

解説記事から、長めの引用。
従軍慰安婦が初めて生まれたのは昭和13年1月13日か14日とされているが、はっきりした日時は不明である。
ただ第1号慰安所の場所が上海の楊家宅だったことだけははっきりしている。兵站司令部、すなわち軍がそこで売春所を直轄で開業したのである。
では何故こうしたものを設けたのか。それは日本軍将兵が強姦略奪し放題に進撃していったからだ。
…「日本兵の去ったあと処女なし」と言われ、東京裁判では一人の女性を30人で輪姦した証言もある。
…この日本軍の暴行ぶりは上海や年金の外交機関に通報され、海外に打電された。
…これに困惑した軍最高幹部は、軍が管理する清潔な売春婦を与え、“鎮める”ことを考えた。すなわち“従軍慰安婦”である。
…彼女らの大半が朝鮮から強制的に連れてこられた女性であった。
…従軍慰安婦は兵隊40名につき1名の割で配属され、総数は8万余名だった。
…昭和13年4月から軍直営は好ましくないと、すべて御用商人に経営させることになるが、検診と管理はすべて軍が担当した。
慰安所や従軍慰安婦のことは内地には秘密で、彼女たちの存在が分かる記事も写真もすべて検閲で止められた。
…敗戦後、彼女らの大半は現地でボロ屑のように捨てられた。東南アジアでは、いま年老いた幾人かの元従軍慰安婦が、皿洗いや靴磨きをしているのを見ることがある。


慰安婦4
昭和13年1月に開設された軍直営の慰安所。女性は120名いた。数カ月経って、民営に移管された。

慰安婦5

兵站司令部で考えた慰安所規則。

慰安婦6

朝鮮人女性には性病経験者なく健康体が多かったため歓迎された。このため朝鮮半島から強制的に集めてくるようになった。

慰安婦7
昭和12年12月16日 南京城内中山路にて。撮影した特派員は「避難民に紛れ逃亡を企てた約5~6千名の正規兵」と説明をつけている。捕虜の最後がどうなったかは不明。(後ろの方にはYシャツ・ネクタイ姿などどう見ても一般市民という人々がかなりいる)


1866年
6月はじめの両軍の布陣
幕府は第一次の時と同じく15万の兵を招集した。それに対し、長州の兵力は4500。
石州では、長州1千人に対して幕府3万。芸州(小瀬川口)では、長州2千人に対し幕府5万。大島でも長州500人ほどに対して幕府は2千人。小倉では、長州1千人に対し幕府2万人だった。(佐賀藩は開戦前より出兵を拒否)
6月5日 幕府軍が長州軍に対し宣戦布告。
6月7日 幕府の軍艦「富士山丸」の周防大島への砲撃が始まる。
6月8日 松山藩兵と幕府軍陸兵部隊が大島に上陸。長州軍は大島をいったん放棄。
6月12日 下関の高杉は、丙寅(へいいん)丸に乗り込み、大島に夜襲をかける。
6月13日 幕府軍の先鋒となる彦根藩部隊が国境に到達。本来先鋒を務めるべき広島藩はこれを辞退していた。

芸州口

山口県ホームページより

広島から来た山陽道は、小方で二つのルートに分かれます。苦の坂口(中津原口)と大竹口です。一つは旧山陽道で、苦の坂を越えて木野村の中津原から小瀬村へ船で渡り関戸を越えて山中を行く道です。もう一つは海岸ルートで、油見・大竹を経て小瀬川下流を渡り和木村から新港を通って岩国に到るものです。征長軍は、大竹口を追手(大手)と定め、彦根井伊家の軍勢を配置。苦の坂口を搦め手とし、越後高田榊原家の軍勢が配置された。

6月14日 芸州口から侵入した彦根藩部隊が小瀬川で長州軍狙撃隊の待ち伏せ攻撃を受け潰走。後続の与板藩兵も撤退する。

6月14日 苦の坂を進んだ高田藩1千の部隊が長州軍の奇襲を受け撤退。そのまま戦線を離脱。
6月15日 第二奇兵隊・浩武隊が大島に上陸奪回s苦戦を開始。
6月16日 長州軍、反攻作戦の開始を決定。
6月16日 長州藩の軍艦が対岸に夜襲をかける。高杉の丙寅丸が田野浦、乙丑(いっちゅう)丸が門司浦を攻撃。乙丑丸には坂本龍馬も乗り込んでいた。
6月16日 石州部隊は盟約に基づき津和野藩を無害通過、一気に浜田藩に入る。
6月17日 高杉軍、門司に渡海攻撃。砲台を破壊して引き揚げる。
6月17日 大島の幕府軍は撤退。長州軍の第二奇兵隊が大島を奪回。
6月18日 益田の銃撃戦。福山藩兵が抵抗するが、圧倒的な火力差の前に敗退。
6月19日 芸州口では彦根藩に代わり前線に出た紀州軍と長州軍との激戦となる。
6月22日 芸州口の長州軍が大野に向け進軍開始。その後決着がつかないまま、にらみ合い状態にはいる。広島藩は長州藩と休戦協定を結び、中立の立場をとる。

7月3日 長州軍、門司に上陸した後、大里(だいり)の小倉藩基地を襲撃。他藩は攻撃に対応せず、小倉藩は孤立。長州軍は大里制圧に成功するが、かなりの犠牲を出したため、ふたたび撤退。
7月15日 益田から浜田に向かう長州軍を紀州藩が迎え撃つ。銃撃戦の末、装備に劣る紀州藩部隊は壊滅。
7月17日 鳥取藩、松江藩が浜田から兵を撤退させる。
7月18日 浜田藩主は城に火を放って松江へと逃亡。

7月20日 徳川家茂が大阪城内で死去。一橋慶喜が将軍職を預かる。慶喜は自ら出陣して巻き返すと宣言。
7月27日 石州部隊を加えた長州軍は、本格的な上陸作戦を開始。800名の兵が大里に結集。その後海側部隊と山側部隊に分かれ小倉を目指す。
7月27日 小倉平野への最後の関門の赤坂口で肥後藩兵と衝突。長州軍は4波にわたる攻撃がことごとく失敗。大きな被害を蒙る。海からの艦砲射撃もあり、長州軍はいったん大里まで下がる。
7月28日 熊本軍、小笠原総督と衝突し、兵を引き揚げる。これを知った久留米藩や柳河藩も一斉に撤兵・帰国。

7月29日 家茂死去の報を受けた小笠原総督は戦線を離脱。富士山丸に乗り大阪に引き揚げる。
8月1日 小倉藩は小倉城に火を放ち、南東部の山岳地帯香春(かわら)に退却。その後半年にわたりゲリラ戦を続ける。
8月4日 小倉城陥落の報を受けた慶喜は休戦に動く。

8月21日 家茂の病死を理由に休戦の勅命が下る。長州戦争の終結。
9月2日 慶喜の意を受けた勝海舟が宮島で長州と会談。停戦合意が成立する。小倉藩との戦闘は翌年はじめまで続く。

第一次長州征討作戦が総督の優柔不断によって流産に終わった後、1965年~66年の間はじれったいような日々が続く。江戸表がどう動いたか、慶喜・容保ラインがどう動いたか、朝廷がどう動いたか、薩摩がどう動いたか、個々の動きは事細かくわかっているが、全体の流れが見えないのである。
百人の歴史家や評論家が百の意見を持ち出すから、知れば知るほど混迷に陥るのである。
とにかく慶喜という蝶がひらひら舞うので、目障りだ。
この部分は第二次長州討伐をめぐる動き以外はすべて捨象して眺めることにする。そのことで権力抗争の骨組みが見えてくる。

1965年(慶応元年)
2月7日 薩摩藩、公武合体論から朝廷のもとでの雄藩連合政権論に転換。大久保、小松が上京し、朝廷側近と相次いで会談。長州藩降伏条件のうち、藩主父子及び五卿の江戸拘引を猶予することを提案。
3月2日 朝廷より幕府に薩摩提案に沿った「お沙汰書」が渡る。
3月16日 諸隊が藩軍として承認される。
3月22日 幕府大目付が大阪に入り、諸藩に毛利父子の江戸勾引をもとめる。広島藩、宇和島藩、大洲藩、龍野藩は協力を断わる。
4月1日 江戸幕府、藩主父子の江戸拘引が行われない場合は将軍が進発すると諸藩へ伝達。尾張藩前藩主の徳川茂徳を先手総督、紀州藩を副総督に任命。
5月13日 桂小五郎が長州に戻り、国政顧問となる。村田蔵六が中心となり近代方式軍隊の編成を開始。
諸隊を整理統合し10隊(奇兵隊・第二奇兵隊・遊撃隊・御楯隊など)編成とする。総督-軍監-小隊長-兵士の位階制度に統一。藩の主力部隊とする。
閏5月16日 将軍家茂は江戸を出発し25日には大阪城に入る。大阪より藩主の来阪を命じるが、長州藩は病気を理由に謝絶。
閏5月16日 将軍家茂は京に入り、長州征討の趣旨を奏上。朝廷は即時進攻を裁可せず。
8月 坂本龍馬の斡旋により、井上・伊藤が長崎でグラバーと面会。薩摩藩の名義でミニエー銃4,300挺、ゲーベル銃3,000挺を購入。
8月18日 大阪の家茂将軍がふたたび長州に督促、本人が病気なら嫡子も可と条件を下げるが、長州はこれも拒否。
9月21日 家茂が京に入り、朝議にて再征勅許を得る。
11月20日 国泰寺で長州藩の使節と幕府側の会談。
12月7日 幕府、31藩に長州征伐の出兵を命じる。

1866年(慶応2年)
1月21日 薩長同盟が結ばれる。薩摩藩代人の坂本竜馬と、長州藩代人の中岡慎太郎(共に土佐藩脱藩)が仲立ちする。
2月7日 幕府老中の小笠原長行が広島に到着。召喚命令を発する。長州藩はこれを拒絶。
3月26日 幕府、改めて長州藩主父子・重臣に広島に出頭するよう命令。
4月14日 大久保利通、薩摩藩は第二次長州討伐への出兵を拒否すると表明。幕府軍の攻め口の一つである萩口は担当藩であった薩摩の撤退により消滅する

なかなか脱がないストリップ嬢の趣である。「太閤は10斗の米を買いかねて、今日も五斗買い(御渡海)明日も五斗買い」という戯れ歌も思い起こさせる。
最後は仕方なくて始めた戦争という感じだ。国泰寺の会議を傍聴した近藤勇も「これじゃ、やったって勝ち目はない。何処かで手打ちするしかないんじゃない?」と報告しているらしい。
幕府はそこまで追い込まれていたのである。

1863年

京都では、尊王攘夷運動がピークを迎える。各地で農民一揆や都市騒擾が多発。幕藩意識が急速に解体。

5月10日 「攘夷決行の日」を機に、長州藩が馬関海峡を封鎖。アメリカ商船を砲撃する。


7月8日 薩英戦争。生麦事件の補償をもとめる英艦隊が鹿児島を攻撃。薩摩は甚大な被害を出しつつも撃退に成功。力の差を痛感した薩摩は、その後イギリスと修好を結び技術導入を進める。

8月18日(新暦では9月30日) 「八月十八日の政変」が起こる。孝明天皇の意を受けた会津藩と薩摩藩が長州藩及び三条実美ら尊攘派公家(五卿)を京都から追放する。

1864年(元治元年)

6月 池田屋事件。攘夷派志士多数が殺害捕縛される。
7月19日(新暦では8月20日) 蛤御門の変(禁門の変)。会津藩・薩摩藩との衝突で約3万戸が焼失。(この蜂起に対して、桂小五郎、周布政之助、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重論を唱えたと言われる)

7月23日 朝廷、幕府へ対して長州藩主、毛利敬親への追討の勅命を発す。
7月 幕府は尾張藩・越前藩および西国諸藩よりなる征長軍(35藩、総勢15万人)を編成する。征長総督は尾張藩、副総督は越前藩が務める。

7月27日 三田尻(現防府)で毛利藩幹部会議。藩主父子、三支藩藩主、老臣が善後策を協議する。岩国藩の吉川経幹に対外交渉を集中させる。

8月5日 イギリスを中心とする連合国艦隊17隻が下関の砲台を破壊。この後長州藩は武力での攘夷を放棄。海外技術を積極的に導入し軍を近代化する。

8月13日 幕府の戦略が決定。五道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)より藩主父子のいる山口を目指すこととなる。

9月06日 吉川経幹が山口に入る。奇兵隊ら正義派は幕府への武備恭順を迫る。これに対し萩側(俗論派)は謝罪恭順を主張。

9月25日 山口で君前会議。藩主敬親は武備恭順を国是とすると言明。

9月25日 会議終了後に俗論派が君主派要人を襲撃。藩論をひっくり返す。

井上馨(聞多)は襲撃により重傷。その後の弾圧により周布は自殺、清水親知(清太郎)も蟄居となる。俗論派は藩主を取り込む。

9月30日 薩摩藩の密使が岩国に入り、岩国藩(支藩)と交渉開始。

10月15日 奇兵隊を含む諸隊(750人)が山口より長府に移動。五卿を奉じて立てこもる。(五卿は長府の功山寺に逗留していた)

10月21日 薩摩藩(密使)は長州藩の所領安堵のために尽力すると書状で意思表明。独自の降伏条件を示す。

10月22日 大阪城に各軍指導部が集結し軍議を開催。広島の国泰寺に総督府、豊前の小倉城に副総督府を置く。18日に五道より攻撃を開始することとなる。

10月24日 薩摩藩の軍代表、西郷隆盛が総督の尾張藩主徳川慶勝と会談。薩摩藩の和平案を提示する。慶勝はこの提案を受け入れ、西郷を全軍の参謀格に据える。(これにより幕府の戦争突入戦略は事実上反故にされた)

10月24日 高杉晋作が萩より脱走。福岡に潜伏。

11月04日 征長総督の命を受けた西郷が岩国に入る。岩国藩主の吉川経幹と会談。三家老切腹、四参謀斬首、五卿の追放で合意。直ちに執行される。

11月16日 岩国藩主が三家老の首を持参し国泰寺に出頭。事情を知らない幕府大目付は強硬な立場で臨んだが、西郷のとりなしで妥協に応じたとされる。(この辺はかなり眉唾)

11月18日 国泰寺の総督府、山口城破却と五卿追放で矛を収める。小倉の副総督府(越前藩)はこの妥協に不満を表明。

11月23日 西郷、国泰寺から小倉に赴き副総督府を説得。

11月25日 高杉が長府に潜入。諸隊に危機感を煽り挙兵を説く。

12月1日 薩摩藩の密使が五卿と面接。九州の五藩による身柄預かりを提示。五卿側は奇兵隊などとともに戦う姿勢を見せ抵抗。

12月08日 奇兵隊総督の赤禰武人、萩派の説得を受け恭順策を提起。軍監の山縣有朋はこれを拒否。

12月11日 西郷、小倉より長府に赴き諸隊(奇兵隊、遊撃隊、御楯隊など)の慰撫を図る。奇兵隊はこれに応じるが、高杉晋作は反対した。

12月15日 高杉が長府で挙兵。元治の内乱が始まる。力士隊(総督は伊藤俊輔)、遊撃隊(総督は石川小五郎)がこれに従う。間もなく奇兵隊も合流。赤禰は隊を離脱する。

12月27日 征長軍の徳川慶勝総督は解兵令を発する。幕府は不満を表明したが、解兵後のためそれ以上の手立ては取れず。

1865年(元治2年→慶応元年)

1月6日 萩の討伐軍と諸隊が大田街道沿いで激突。

1月16日 10日間にわたる戦闘の末、討伐隊は進撃を断念する。 

1月23日 藩内中立派の斡旋により停戦協定が成立。討伐軍は撤退する。

2月10日 俗論派が中立派要人を暗殺。諸隊の犯行とでっち上げるが、逆に藩内で孤立。

2月14日 俗論派の首領、椋梨藤太が捕縛され、藩は諸隊支配のもとにおかれる。

京都では孝明天皇の信任を得た徳川慶喜(禁裏御守衛総督)、松平容保(京都守護職)、松平定敬(京都所司代・容保の実弟で桑名藩主)のトロイカ体制が権力を握る。江戸の幕閣の意向には全面的に従わず独自の行政を行う。

第二次征長論が幕府と朝廷のあいだで進む。大久保は「至当の筋を得、天下万民ごもっとも」の義を求める。「非義の勅命は勅命に非ず」とし作戦に反対。

明治維新というのは不思議な革命である。

革命という言葉を使ったが、異論もあろうかと思う。

しかしクーデターと言うにははるかに長期かつ大規模である。そして最後には戊辰戦争という国を二分する内戦を経過して初めて成し遂げられた政治権力の交代である。

これが革命でなくして何を革命と呼ぶか。マルクス様にお伺いを立ててもせんのないことだ。

最初から話が横道にそれた。

「明治維新革命」は三段階に分けて語ることができる。最初は攘夷運動だ。これを通じて幕府の権威は大きく揺らぎ、天皇の権威が高まった。しかしこの高揚はイギリスに戦いを挑んだ長州、薩摩の惨敗により幕を閉じる。

第二幕は、京都の動きに目を奪われると複雑だが、軍事的に見れば長州の孤立した戦いの局面だ。それは蛤御門の変から第一次長州戦争、第二次長州戦争と続く。これで負けていたらその後の動きはなかったろう。

第三幕は長州討伐の失敗で権威失墜した幕府が自壊し、戊辰戦争へと追い込まれていく過程で、イギリスの動向も絡んで、かなり陰謀的な様相が強く評価もバラバラだ。

明治維新がなかったら、日本の近代化は10年は遅れていたかもしれないし、逆にもっとスムーズに進んでいたかもしれない。ひょっとすればイギリスの植民地になっていたかもしれない。

しかし肝心なことは、もはや幕藩体制では「明治グローバリゼーション」を乗り切ることはできなかったということである。

これらの内紛を通じてイギリスに「日本には迂闊に手を出さない方がいい」という印象を与えたことであろう。

中国に比べれば日本からのリターンはたかが知れている。しかもやたらと好戦的で事を構えれば相当厄介なことになる、となればとりあえず好きなようにやらせて自壊を待つ、というのが妥当な戦略となる。

ということで、明治維新革命は国内評価においても国際評価においても軍事的動向抜きには語れないのである。

その中でも歴史の変曲点となった第二次長州戦争についてより詳しい分析が必要であろうと思う。

ということで、前置きが長くなったが、第二次長州戦争の年表。色々な呼び名があるが、ここでは長州戦争で統一しておく。

その前に、長州戦争の序曲となった第一次長州征討事件の年表。

第一次長州征討についての感想。
とりあえずウィキから拾っただけなので、ウィキ氏の主観が色濃く投影されていると思う。
まずは第一印象ということで。

1.幕府の圧勝だったはず
蛤御門の乱は江戸幕府にとって、絶好のチャンスであった。
はっきりした敵は攘夷派の志士たち、朝廷内の五卿を中心とする尊皇派、そして軍事集団としての長州藩であった。
中間派として孝明天皇の側近集団、親藩並みの地位をもとめる薩摩藩がいた。
この中間派は蛤御門の乱を機に、反攘夷・反長州へとなびいた。
江戸幕府はこの機を逃さず、長州征討の大号令をかけた。
そして武力で長州藩支配地を占領するつもりでいた。和解するつもりなどないから、長州藩へ厳しい講和条件を出した。
そして御三家筆頭の尾張藩を総督とし、戦争計画を着々と進行させた。

2.薩摩の密かな介入
そこに忍び込んだのが薩摩藩(西郷)で、長州藩に密使を送り込んで妥協の可能性を探り、幕府要求を値切った腹案を総督の下に提案した。
諸藩連合の実現と、外様大名の発言力強化を目指していた薩摩にとっては、幕府独裁体制の強化につながる動きは避けなければならなかったろうと思う。
しかし薩摩藩にどのような思惑があったにせよ、これは抜け駆け行為であり、厳しく言えば通敵行為である。

3.徳川慶勝の独断的計画変更
総督はこの提案を受け入れたのみならず、西郷を全軍の参謀格に据えた。
つまり徳川慶勝総督は戦争をしたくなかったのである。そのために当初の目的を曲げてまで、組織規律に逆らってまで戦争回避に動いたのである。
西郷を参謀格に据えるまではかろうじて専権事項といえるが、幕府を代表する幕閣にも、小倉の副総督にも事前に「ホウレンソウ」したとは思えない。

4.自前の軍を持たない江戸幕府の脆弱さ
何よりも不思議なのは、江戸幕府軍が自ら攻撃の先頭に立たなかったことである。
その気になれば、江戸幕府軍単独で長州戦争を戦うことも出来たはずだ。
その代わりに諸藩には戦費を負担させればよい。
もちろん戦争というのはキャンペーンでもあるから、諸藩がこぞって戦争に参加したという形を取ることも大切である。
しかし戦争というのは形でやるものではない。
割当制で戦争をやろうとするなら、諸藩は前を向かずに隣を見る。そこそこお付き合いしましょうということだ。
これが「敵は幾万ありとても、すべて烏合の衆なるぞ」というものだ。


 

またもしつこく、古代史の時代区分についての文句垂れ。
西洋史では石器時代→青銅器時代→鉄器時代である。何故この時代区分が東洋史では用いられないかというと、実用面からの理由であろうと思う。つまり青銅器時代が短すぎるからである。
理由は青銅器も鉄器も中東からの輸入であり、青銅器と鉄器がほとんど間を置かずに入ってきたからである。
紀元前3千年ころにシルクロードを経由して青銅器が入り、その500年ほど後に同じルートで鉄が入ってきた。つまり中東が1500年をかけて青銅器から鉄器への移行を果たしたのに対して、中国はそれを3分の1の期間で済ませてしまったのである。
ところが日本では様相が異なる。
長江人は中国北部に青銅器が入った後も、なおしばらくは石器時代のままであった。青銅器文明が四川省を中心に花を咲かせた頃、中国北部ではすでに鉄器時代に突入していた。
鉄器はおろか青銅器さえ十分に持たないまま、長江下流の民は山東半島→朝鮮半島を経て日本にやってきたのである。
強力な鉄器を持つ中国北方の民が朝鮮半島に進出し日本に影響をあたえるのは紀元前100ないし200年頃、漢が楽浪郡を創設する前後のことだ。
したがって晩期縄文時代との並立期をふくみつつ、日本の青銅器時代は紀元前7世紀ころに始まり、九州北部では紀元前後、その他の地域では銅鐸文明が圧殺される西暦200年ころまで続いたと考えられる。この800年ほどの期間、弥生時代のほぼすべてをふくむ時代を青銅器時代と呼ぶのはきわめて自然だと思う。それは銅鐸の時代と完全に重なる。
銅鐸の時代は、西日本で長江人と縄文人のミックスが進み「日本人」が生まれる過程でもある。そして紀元前後から進出した半島の北方人が鉄製武器により支配の手を伸ばしていく時期でもある。
鳥取の二つの遺跡はその過程を鮮やかに示している。
さてこの青銅器に続く時代であるが、基本的には稲作のフロンティアを拡大していく過程である。そして大和朝廷の全国支配の達成を一つの区切りとして有史時代へと移行していく。
この間に九州北部の倭王朝は没落し、「同盟」関係にあった任那は新羅と百済の支配下に降り、半島とのつながりは絶たれた。
大和の北方人(天孫系)は「日本人」と同化し、ここに“単一民族国家”としての「日本」が登場する。この後、北方のエミシ(縄文人)は大和朝廷との闘いに敗れ同化していくが、北海道に渡った縄文人は現地の後期縄文人と結び、オホーツク人を征服しつつ縄文の文化的・言語的アイデンティティを守ることになるが、それは「別史」である。
そういう時代を「古墳時代」と名付けるのは正しいとはいえない。正しくなくても「弥生」は極めて無意味な命名だから実害はないが、古墳時代は時代に誤った印象を与える有害な命名であるから止めたほうがいい。せめて「土師器・須恵器時代」のほうがまだいい。
なぜなら古墳(前方後円墳)は文化の中心性の象徴ではなく、フロンティア性の証だからである。それは時々の水田耕作の前線に沿って形成されている。沼沢地帯が大規模工事によって水田と化していく過程でそれらは形成され、水田開発が終わると大規模古墳のブームは廃れ、さらに東へ北へと移動していくのである。
地図を見れば分かるように、それは吉備古墳群(児島湾の干拓)、大和古墳群(大和湖の干拓)、河内古墳群(河内湖の干拓)、さきたま古墳群(関東平野の干拓)と続き、宮城北部古川の水田開発をもって時代を終えるのである。詳しくは知らないが濃尾平野や中越平野でも同様なできごとがあったのではないだろうか。

干拓を終えた後には整然と区画された美田が広がり、人が張り付いただろう、米作というのはとにかくめちゃくちゃに労働力を必要とする商売だから、人口は急速に増えたであろう。そしてそれぞれが強国となっていっただろう。
これが日本の政治・経済の重心を九州北部から東に向かって移動させたことは疑いない。それを考古学的に象徴するものは何か。それを私は問うているのだ。





ウィキのポイヤウンペの説明は、どうも正直のところ、ぱっとしない。何か他にないかと探していて見つけたのが下記の文献。

中世日本の北方社会とラッコ皮交易 : アイヌ民族との関わりで (改訂版) 関口明(2013)

いつもお世話になるHUSCAPのデジタル書籍である。この中の第三章がポイヤウンペを取り扱っている。

3.ラッコとユーカラ「虎杖丸の曲」…アイヌ民族の成立との関わりで

A. ユーカラの位置づけ

知里真志保はアイヌの物語文学を下図のように分類した(知里

1973a)。

bunrui

普通ユーカラという場合,「人間のユーカラ」に当たる。これをアイヌ史研究の資料として本格的に位置づけたのが知里である。

知里は1973年、ヤウンクルを擦文人、レプンクルをオホーツク人に見立て、ユーカラは民族的な戦争の物語と解釈した。

榎森進は知里の見解を受け継ぎ、ヤウンクルは,人名の語葉表現上の特質から,一筋の河川を中心に形成された河川共同体のひとびとであるとした。

B. 「虎杖丸の曲」が標準

研究のための一次資料は、平取の鍋沢ワカルパ翁から採録した「虎杖丸の曲…変怪の憑依、恐怖の憑依」である。虎杖と書いてイタドリと読む。山野にはびこる猛々しい雑草である。

これは金田一京助が大正2年に採録したものである。

「虎杖丸の曲」は全9段からなり、ヤウンクル同士の戦い,ヤウンクルとレプンクルの戦いなど様々な戦いが語られている。そのうち5段までがラッコの争奪を主因とした戦いである。

主人公(われ)はポイヤウンペである。

C. 「虎杖丸の曲」の構成

第1段 浜益の「シヌタプカ」の山城に生まれ、兄と姉に育てられた。

第2段 石狩の河口に黄金のラッコが出没する。石狩彦(石狩のボス)は捕獲者を募った。褒美には妹を差し出すとした。他の人は失敗し、最後にポイヤウンベが成功する。しかしポイヤウンペは捕らえたラッコを、石狩彦に渡さずに浜益に持ち帰ってしまう。

これを知った兄はこう予言する。

こうなっては自分たちの郷も無事ではすむまい,さらに昔起こったことと同じようなことが新たに起ころう。必ず戦乱が起こるであろう。

第3段 石狩彦の妹,石狩媛はポイヤウンペに嫁ごうと思ったが、ポイヤウンペは無視した。顔に泥を塗られた石狩彦は、シスタプカ(浜益)に戦いを仕掛けた。「黄金ラッコ戦争」が始まった。

闘いは殺戮戦となった。ポイヤウンペは攻めてきたチュプカ人、レプンシリ人、ポンモシリ人を撃退した。

さらにレプンクル・モシリ(樺太)の味方を得たポイヤウンペは石狩に乗り込み、石狩援やチュプカ媛を斬り殺した。

その後ポイヤウンベは苦難を潜り披け,ついにシヌタプカの山城に生還し,手創を負って寝ていた養兄・養姉・カムイオトプシなどと勝鬨をあげた。

第4段 シヌタプカではポイヤウンペを迎えて祝勝会が開かれた。岩鎧のシララベツン人,金鎧のカネペツ人が奇襲をかけた。シヌタプカの諸々が倒されたが,最後にポイヤウンベがその仇を討つ。ここで初めて虎杖丸と呼ばれる怪刀がその威力を発揮する。

第5段以降は石狩とのラッコ騒動をめぐる話とは別になるということで省略されている。

D. ラッコが石狩に来ることはありえない

関口さんはラッコは寒流系の動物であり、石狩に来ることはありえないとしている。

つまり,ラッコが登場するそれなりの必然性があった。すなわち、どこからかもってきて放たれたということになる。

ポイヤウンペはそれを捕獲し、シヌタプカに持ち帰り、毛皮とした上で飾ったということになる。手っ取り早く言えば、かっぱらったということだ。

以上


なお最後に関口さんはレプンクル・モシリ(樺太)をウィルタ系と解している。しかしこれはいくつもの推論を重ねて出された仮説であり、そのまま受け取ることは出来ない。

まず、ポイヤウンペの時代が絶対年代としてはあまりに漠然としている。阿倍比羅夫が粛慎を退治した頃の話なのか、北海道からオホーツク人が駆逐されていく8~9世紀の話なのか、樺太からアムール河口まで進出していく時代なのかによって、話は変わってくる。

それから、浜益の人には申し訳ないが、ポイヤウンペの闘いをモヨロ民族とアイヌ民族の戦争だと書いた浜益村史の記述には、かなりの疑問符が突きつけられたことになりそうだ。


その後の検索で、英雄叙事詩の比較研究論— 荻原 眞子

という文書を見つけた。「虎杖丸の曲」のほぼ全文が紹介されている。

もう疲れたので内容の紹介早めるが、是非目を通しておいていただきたい。


次が龍学というサイトの「日本の龍神譚…オヤウカムイ」というページ。

アイヌは相争うこともあった。ポイヤウンペが洞爺湖の竜神オヤウカムイを襲う話は両者に確執があったこと、どちらかと言えば日本海側の勢力が攻撃的であったことを示唆している。

ポイヤウンペが洞爺湖に来ると、オヤウカムイという羽の生えた毒蛇がポイヤウンペを苦しめる。ポイヤウンペは滝の神様にかくまってもらうが、オヤウカムイは羽のある蛇六十匹、ただの蛇六十匹をかり集めて攻める。
滝の神は攻め殺され、ポイヤウンペも全身焼けただれて石狩におもむき、トミサンペッ・コンカニヤマ・カニチセ(トミサンペッの黄金山の金の家)に難を逃れた。(龍学より重複引用)

これは日本海アイヌが胆振のアイヌを攻めた話だ。結局撃退され、ポイヤウンペはほうほうの体で浜益に逃げ帰っている。

注意すべきは胆振アイヌが化け物扱いされていることだ。戦う相手を人間扱いしないのは侵略者に共通する心理機転であり、相手がウィルタであろうと同じアイヌであろうと関係ない。

日高でもオヤウカムイに関する言い伝えがあるらしい。

日高から西部の湖に怪物がいた。全身淡黒色で目の縁と口のまわりが赤く、ひどい悪臭があって、これの棲んでいる近くに行っても、またその通った跡を歩いてもその悪臭のために、皮膚がはれたり全身の毛が脱けおちてしまう。うっかり近寄ると焼け死んでしまう。

のだそうだ。したがって、彼らは退治されて当然ということになる。おそらくオヤウカムイの一族は結局は滅ぼされた。滅ぼしたのはオキクルミということになっている。

アイヌの黎明の英雄神オキクルミは、天上の神々に祈り、大みぞれを降らせ、寒さで動けなくなったオヤウカムイを斬った。

オヤウカムイのために、僅かに次のような挿話が残されている。

アプタ(虻田)の酋長の妻が病み、尋常の加持祈祷では験がなく、蛇神を憑神に持つ特別な巫女に頼んだ所、オヤウカムイが神懸かり、託宣を始めた。

ユーカラの語り口は明らかに侵略者の視点に立っている。このユーカラがアイヌ全体の物語となっているということは、胆振~日高の先住アイヌ人が最終的に征服され、その文化を圧殺されたことを意味しているのではないか。

本日は久しぶりの快晴、上着がいらないくらいの暖かさ。気候に誘われてポイヤウンペの故郷、浜益まで出かけてきた。

以前から気になっていたとことで、スリバチ山の現地を見てみたいと思っていた。

行く前にネットで博物館か、せめて資料館みたいなものがないか調べたのだが、現地には皆無。地元の関心の薄さがうかがえた。

山を崩してしまった明治時代の切通というところを通ったが、切通というレベルではなく、山の3分2をアイスクリームをスプーンでそぎ取ったように、見事に削られている。

切り通したというより、残土を何処かにもっていったのではないかと思わせる。

もう一つ意外だったのは、この浜益の川沿いに平野と行ってよいほどの広々とした田園が広がっていることである。これだけの後背地があれば、一つの国ができる。

それにしても浜益町舎の立派なのには驚き呆れた。4階建てで一部は5階まで達している。今は町ではなく、石狩市の支所にすぎない。


本日前項のブログを再見した。いい写真があったので転載させてもらう。

0002751_2M

平野に突き出した三角の山がスリバチ山の名残。雪の積もった割れ目が切り通し。切通しというよりは土砂採取だったのだろうと思える。

0002750_2

これが海側から見たスリバチ山。いずれにしても山砦としては絶好のロケーションだ。

 

もう一度ポイヤウンペについておさらいしておこう。と言うより、以前の記事を書いた後、ネット文献もかなり充実してきており、書き直しが必要になった。

以前の記事とは、この2つである。

そこに書かれていたのはごく簡単な紹介で、ユーカラの英雄の一人ポイヤウンベが浜益を拠点としていたということだった。

それだけならそれで済んだのだが、キタムコさんのページで、浜益には巨大が砦があって、それがポイヤウンペの城だったということ、その城が明治時代の開発で跡形なく壊されてしまった、ということを知るにおよんで俄然興味が湧いたのである。

キタムコさんによると、

この山は明治30年まではシヌタプカと呼ばれ、高さは200メートル。頂上は平地となっており、その広さは200x150メートルにおよんだそうだ。

覇者たるに相応しい城ではないか。


ということで、あらためてユーカラとポイヤウンベのお勉強。

まずはウィキペディア

ユーカラに登場する英雄。表記は、ポンヤウンペ、ポンヤンペとも記される。意味は、「小さい・本土の者」。

ポイヤウンペ伝説には2つの系統がある。一つは超能力を持つ神の一人で、分身の術を使って一度に6人の首を切り落としたと言われる。

もう一つの系統が、我々の聞きたい話しである。

① トミサンベツのシヌタプカの大きな城(チャシ)で生まれた。父は樺太方面に交易に出かけ、そこで亡くなった。このため兄と姉に育てられた。

② 「黄金のラッコ」がいて、皆が欲しがった。石狩・川尻のイシカリ彦は「退治したものには自分の妹と宝を与える」と勇者を募った。

③ 東方の人・ポンチュプカ彦、礼文島の人・レブンシチ彦、小島の人・ポンモシリ彦などがこがねのラッコに挑むがいずれもやられてしまった。

④ ポイヤウンペは苦戦の末、名刀「クツネシリカ」の力を借りて「黄金のラッコ」の退治に成功する。

⑤ 彼はそのままラッコの首をつかみ、天空へと去り、真っ直ぐにシヌタプカの城へと逃げ込んだ。

⑥ このことが原因となって大戦となり、それは繰り返された。ポイヤウンペは何度も危機に見舞われたが、そのたびにさまざまな憑神に守られて勝利した。

⑦ 最後は敵方の女性呪術者がポイヤウンペと結ばれて平和が実現する。

⑧ ポイヤウンペに味方したものは「ヤ・ウン・クル」(丘の人)と総称され、敵側の総称は「レプン・クル」(沖の人)といわれた。(戦闘メカ ザブングルとは関係ないようだ)

ただこれは一つの読解であり、ユーカラの記述そのものではないようだ。

カンナカムイとポイヤウンペの闘い

を読むと、2つのことが分かる

まずポイヤウンペは英雄ではあるが殺人鬼だ。オタサムという村の争奪戦では、敵対国に乗り込んで村人を狂人のように切って切って切りまくっている。

ポイヤウンペは神を恐れず、神と闘い、神を打ちのめしている。すなわち既存の権威を打ち壊している。彼は兄がとりなしに入るまでそれをやめようとしない。

彼はレブンクルが支配する体制の破壊者であったのだろう。だからその凶暴性はヤウンクルからは許されたのである。

第二に、彼の英雄譚は浜益を越えて日高の人にまで語り継がれたということである。日高の人と浜益の人の縦帯を共通の英雄譚として結びつけるとすれば、それはアイヌ民族のオホーツク民族に対する反抗心の表象であったのかもしれない。

ただ、それはオホーツク人に対する逆恨みであるかもしれず、オホーツク人を殺し駆逐する行為を合理化するためのイデオロギーであったのかもしれない。

知里真志保「ユーカラの人々とその生活」では次のように語られている。

この戦争の相手である異民族を一括してユーカラではレプンクル(沖の人)と云うのでありますが,それはつまり「海の彼方の連中」ということ
で, その連中の中には「サンタ」と称していわゆる山丹人が出て来るし, その山丹人の仲間には「ツイマ・サンタ」(Tuyma-Santa)すなわち「遠い・山丹人」と称する中国人も出て来ます。

アイヌ物語 というページがネット上では出色である。ページそのものはリンク切れになっているが、グーグル・キャッシュで読むことができる。

ユーカラにはポイヤウンペ、アイヌラックル、オキクルミ・サマイユンクルなどの英雄が出てくる。いずれもアイヌたちの生活や文化を拓いたものだ。この英雄神たちは半神半人であったり、神であったりさまざまである。

1.ポイヤウンペ

ポイヤウンペは両親がおらず、両親以外の人に育てられている。このような生い立ちは英雄たちに共通する。

彼はある日、自分の憑神に両親のかたきの事を知らされ、かたき討に出陣します。

敵討に行く途中に敵であるものとも、敵でないものとも戦いますが、兄や姉の協力を仰ぎ倒していきます。

敵の首領の妹は巫女であり、未来を読んで主人公の味方になります。その後主人公は勝利し、そのまま首領の妹と結婚し、物語は終わりとなります。

ポイヤウンペが使う刀はクトゥネシリカと呼ばれる名刀で、刀に彫りこまれた夏狐の化神、雷神の雌神・雄神、狼神などが憑き神となっており、それらの神獣が現れ持ち主を救います。

とされており、ウィキペディアの説明とはだいぶ異なる。「ファイナル・ファンタジー」の感覚そのままだ。

ただ、深読みにすぎるが、男どもを皆殺しにし、女どもを妻とするという構図は、アイヌ人のY染色体が縄文の色を強く残し、ミトコンドリアDNAがウィルタやカムチャッカの少数民族と共通するという事実と一致しているようにも見える。

2.アイヌラックル

ポイヤウンペはその弱点もふくめ、一番人間臭い英雄であるが、アイヌラックルはもう少し超人的である。

アイヌラックルという名前がそもそも「人間くさい神・人間と変わらぬ神」という意味らしい。

雷神であるカンナカムイとハルニレの木の精霊でもあるチサニキ姫との間の子で、燃えさかる火の中から誕生したという。

彼は神の子でありながら、地上で人間同様に暮した。人間を襲う鹿を退治したり、魔女ウエソヨマを始めとする魔神や悪魔たちを倒し、雷神の力を持った宝剣で暗黒の国を焼き滅ぼした。

しかし晩年は人間たちに嫌気がさし、どこかへと行ってしまった。

これは乃木大将が軍神に祭り上げられた経過と同じではないか。いずれにしても血生臭さがウリの英雄である。世の中が落ち着いてくると居場所がなくなって何処かに引きこもってしまうというのも、そぞろあわれではある。

いずれにしても、アイヌ人には血を血で争うような過去があり、その闘いの中からアイヌ人という民族が誕生したのだということだ。大和・出雲神話とはまったく異なる世界である。

3.オキクルミ・サマイユンクル兄弟

オキクルミは道央~道南、サマイユンクルはサハリン(樺太)南部~道北・道東にかけて活躍した英雄神です。天から降り、人々に農耕や狩猟などの生活の知恵を授けて回りました。

彼らは兄弟とされており、信仰されているところでどちらかが優位に立ち、どちらかが損な役割になっています。

オキクルミは多くの英雄譚と習合していて、オリジナルのキャラが見えにくいようだ。

この神様たちはかなり和人の匂いがする。

なおこのページには、ほかにヌプリコロカムイ、チロンヌプカムイ、コタンコロカムイ、カムイフチ、カンナカムイ、ウバシチロンヌプカムイなどの名前がリンクされているがたどることは出来ない。

朝の頭の冴えているうちに、議論を整理しておこうと思う。

1.日本の紀元ゼロ年は西暦600年だ

疑いのない文字資料や事物で日本国が成立したといえるのは、飛鳥寺の建立と、隋への国書「日出処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙なきや」の堂々たる登場宣言である。

これより以前、欽明天皇の治世以前は、にわかに闇に包まれる。欽明の即位は540年と言われるが、これすらも怪しい。

もう一つ、540年の時点ではいまだに倭王朝は存在している。

三国史記によれば、561年7月 百済、倭国の支援を受け新羅と戦うが、敗北し撤退。このあと任那は滅亡し諸国は新羅の支配下に入る。このあと、三国史記に倭国は登場せず。

これで倭王朝は滅亡し、その勢力は蘇我氏を通じて大和政権に組み込まれていく、というのが大筋ではないかと考えている。

ただいずれにしてもそのような重大な仮定を含むような議論は到底歴史とは成し得ない。結局、大和政権を主軸とする日本国は550年ころからようやく、主体的な「歴史」として扱えうることになる。

それ以前の「日本」像は、街角の監視カメラで捉えられた犯人みたいなもので、生々しいが静止画像にすぎない。

それ以外は、考古学的方法で歴史の過程を積み上げていく他ないのである。もちろん様々な伝承情報もあるが、実証するものがない以上、それは神話の世界、すなわち先史時代なのである。

2.飛鳥時代前の時代区分

そうすると飛鳥時代前の時代区分は、基本的には考古学的知見に依拠することになる。

考古学的時代区分とは何か。世界共通のものとしては新旧の石器時代、青銅器時代、鉄器時代となる。この内新旧の石器時代が先史時代と呼ばれ、青銅器時代以降は文明時代と呼ばれる。

その後文明が拡大してくれば、とくに文字が登場すれば、これらの分類は必要なくなり、したがって用いられなくなる。

これが時代区分の基本的な論理である。

日本では縄文時代は旧石器時代である。弥生時代に新石器時代が到来した。しかし弥生時代の比較的早期に青銅器、そして鉄器が入ってくる。

かくして、弥生時代は新石器時代、青銅器時代、鉄器時代の3つの時代を含み、それらが駆け足でやってきた時代というべきであろう。

3.なぜ世界標準区分を用いないのか

なぜ世界標準区分を用いないのか。それは日本における文明進歩の後進性に基づく。それが世界標準区分のいちじるしい伸び縮みをもたらす。

このままでは旧石器時代が長すぎて、尺度にならない。逆に新石器時代、青銅器時代、鉄器時代が短すぎて、尺度としてはあまりに煩雑になるからだ。

そういう言い訳は成り立ちうる。だから旧石器時代の亜紀として縄文土器に特色づけられた一時代を提唱するのは大いに意味がある。

なお、日本では縄文時代を新石器時代にふくめるのが一般的だが、新石器時代の3つの特徴、磨製石器・土器の使用・農耕の開始のうち土器の使用を除けば、むしろ旧石器時代に入れるべきではないかと思う。(細石刃の出現を指標とし中石器時代とする説もあるらしい)

同じように弥生時代という時代区分も、とくに初期~前期段階では有効な概念だと思う。

それと気持ちの問題もある。縄文時代という時期区分があまりにも堅牢なために、「土器には土器で」対応しようという気持はよく分かる。

しかし、本来は旧石器時代から新石器時代への移行として何ら問題はないはずだ。世界の考古学者ならそう思うだろう。

弥生時代は渡来人が切り開いた文化だ。彼らは専業農家であり、然るがゆえに新石器人だ。水田・稲作という農業の形態は本質ではない。

同時に彼らは初期段階においては金属器を持たずに渡来している。だから新石器人なのでもある。


「弥生土器」(最近は弥生式とは言わないらしい)の相対年代を憶えるのはかなり面倒で、考古学屋さんの独壇場である。

しかも彼らは絶対年代を語ることにはきわめて慎重だから、そして慎重でなくモノを言う人は信用ならないから、こちらで読み解く他ない。

しかし、朝鮮半島で出土した弥生土器を考察する上では必須の知識となる。なぜなら朝鮮の歴史家が基本的に信頼できないからだ。

もう少し向こうが実事求是でやってくれれば、こんな苦労はしなくて済むのだが、何から何まで嘘っぱちだと言うんでは取り付く島がない。

小林分類

近畿地方の弥生土器を第I~第Vの5様式に分けたものがある。戦前に小林さんという人が提唱したものらしいが、現在も基本的には引き継がれている。
絶対年代も念頭に置いて、第I様式の時期を前期、第II~第IV様式の時期を中期、第V様式の時期を後期としている。

これに加え、弥生時代終末期に対応して庄内式、古墳時代前期に対応して布留式土器が提唱されるという極めて煩雑なものだ。

2017年01月27日弥生時代の絶対年代区分

もご参照ください。

しかも、これと絶対年代との照合は学者によってずいぶん違っている。これを指摘したのが安本美典さんで、安本さんが作ったのが下の表である。

近畿分類
              「邪馬台国の会」のサイトより転載

こうなると、こと近畿の弥生土器については、絶対年代はあてにならないと見て良さそうだ。考古学屋さんの独壇場であるということは、恣意がきわめて入りやすい分野だということでもある。


なお、安本さんの文章は徹底的に批判的であり戦闘的である。したがって、いささか読み解くのはしんどい。

弥生土器の時期分類は九州北部をベースに行うべきだ

ただ、そもそもこの時代において近畿は弥生文化の後進地であり発信地ではない。土器の分析をいくらやっても、それが九州や吉備から持ち込まれたという可能性は否定できない。かなり虚しいのだ。

純粋に自らの技術で生み出したといえるのは庄内式と布留式、つまり「古墳時代」の土器のみだ。したがって、近畿の土器の編年は庄内式・布留式土器の出現を除けば部外者にはほとんど意味がない。

それと、前から言っていることだが、近畿には銅鐸文化というものがあり、これが消滅・廃棄されるという考古学的大事件がある。客観的に見て銅鐸文化を破壊し葬り去った勢力があり、それが前方後円墳を建設しているのである。

これを組み込まない編年表づくりは、片端としか言いようがない。

弥生土器の経年変化を見ようとすれば、やはりその発信地である九州北部の時代変化を追うべきであろう。

とくに九州北部ではもう一つの考古学的メルクマールである銅鏡があるので、銅鏡の経年変化と撚り合わせながら絶対年代の検討を行うことが可能である。(近畿で不可能とは言えないが…)

さらに、九州北部においては朝鮮半島南部、とくに任那地域との比較ができるという優位点もある。

だから、まず九州北部で基本となるタイムテーブルを作って、その波及的変化として近畿の弥生式についても検討すべきであろう。


濱田延充さんの「弥生土器様式概念の形成と日本考古学」という文章を読むと、なぜこのような晦渋な議論が延々と続いているかがわかってくる。

考古学界は一種の土器フェティシズムに陥っているようだ。それは言語学でソシュールの解釈「学」がいまだに続いているのと似ている。

有力教授が就職口を握っていて、それに逆らっていては飯の種も発表の機会も閉ざされる。だから戦前からの無意味な分類が100年も生きながらえていくのである。

この閉塞社会を学生・院生・若手研究者が打破しない限り、物言えぬ世界は続くし、第二の旧石器スキャンダルは必発であろう。

「弥生土器」(最近は弥生式とは言わないらしい)の相対年代を憶えるのはかなり面倒で、考古学屋さんの独壇場である。

しかも彼らは絶対年代を語ることにはきわめて慎重だから、そして慎重でなくモノを言う人は信用ならないから、こちらで読み解く他ない。

しかし、朝鮮半島で出土した弥生土器を考察する上では必須の知識となる。なぜなら朝鮮の歴史家が基本的に信頼できないからだ。

もう少し向こうが実事求是でやってくれれば、こんな苦労はしなくて済むのだが、何から何まで嘘っぱちだと言うんでは取り付く島がない。

小林分類

近畿地方の弥生土器を第I~第Vの5様式に分けたものがある。随分前に小林さんという人が提唱したものらしいが、現在も基本的には引き継がれている。
絶対年代も念頭に置いて、第I様式の時期を前期、第II~第IV様式の時期を中期、第V様式の時期を後期としている。

これに加え、弥生時代終末期に対応して庄内式、古墳時代前期に対応して布留式土器が提唱されるという極めて煩雑なものだ。

もご参照ください。

しかも、これと絶対年代との照合は学者によってずいぶん違っている。これを指摘したのが安本美典さんで、安本さんが作ったのが下の表である。

近畿分類
              「邪馬台国の会」のサイトより転載

こうなると、こと近畿の弥生土器については、絶対年代はあてにならないと見て良さそうだ。考古学屋さんの独壇場であるということは、恣意がきわめて入りやすい分野だということでもある。

なお、安本さんの文章は徹底的に批判的であり戦闘的である。したがって、いささか読み解くのはしんどい。

弥生土器の時期分類は九州北部をベースに行うべきだ

ただ、そもそもこの時代において近畿は弥生文化の後進地であり発信地ではない。それが役立つのは近畿に起きた諸事象の相対的前後関係を明らかにすることのみである。

それと、前から言っていることだが、近畿には銅鐸文化というものがあり、これが消滅・廃棄されるという考古学的大事件がある。これを組み込まない編年表づくりは、片端としか言いようがない。

弥生土器の経年変化を見ようとすれば、やはりその発信地である九州北部の時代変化を追うべきであろう。

とくに九州北部ではもう一つの考古学的メルクマールである銅鏡があるので、銅鏡の経年変化と撚り合わせながら絶対年代の検討を行うことが可能である。(近畿で不可能とは言えないが…)

さらに、九州北部においては朝鮮半島南部、とくに任那地域との比較ができるという優位点もある。

だから、まず九州北部で基本となるタイムテーブルを作って、その波及的変化として近畿の弥生式についても検討すべきであろう。

朝鮮半島情勢と日本:  大化の改新と壬申の乱を国際関係で読む

1.7世紀日本の大まかな把握

7世紀は中国に出現した巨大帝国隋・唐が朝鮮支配を狙い、攻撃を仕掛けた時代である。唐は百済を滅亡させ、その5年後に高句麗も崩壊させた。新羅は目下の同盟国としてこれに乗じ、朝鮮半島の盟主となった。

しかし次に狙われるのは新羅である。このことは明白であり、新羅は唐との直接対決を覚悟した。

たまたま唐の北方(東突厥)、西方(吐蕃)でも異民族の蜂起があり、唐はそちらに力を集中するため朝鮮半島の兵力を割かざるを得なくなった。この機に新羅は打って出た。旧百済、旧高句麗勢力もこれを支援、日本も新羅に支持を与えた。結果、唐は朝鮮半島の直接支配を断念した。

この結果、朝鮮半島の主部は新羅が単一支配することとなった。新羅はあらためて唐に臣従の誓いを行い安堵された。

日本は562年に任那を失った後もなお百済との親交を深め、新羅とは冷たい関係にあったが、663年の百済滅亡に関わって大打撃を被ったあとは路線の大転換を図った。

それには事情があった。唐は新羅の反乱に際し日本の対新羅参戦をもとめ、さらに言を左右する日本に対し水軍の派遣をちらつかせたのである。

その中で日本は親新羅・反中国の姿勢を明確にした。

①唐の攻撃の脅威を正面から受け止め、自らの生き残りのために新羅の戦いを支援するという路線である。

②それは同時に専守防衛路線への転換でもあった。旧任那と言わず、旧百済と言わず朝鮮半島への派兵は一切行わない。対馬海峡を国境線としてこちら側にハリネズミの如き防衛線を設営して、ひたすら守りに専念する

これが情勢の激変の中で日本が定めた政治・軍事路線である。

これら2つのオプションは、天武が壬申の乱を経て政権を獲得する中で定式化されたものである。

そして最終的にこの「反帝国主義」の基本路線で一本化するまでのさまざまな動揺が、7世紀日本の政治を規定しているのである。

典型的なのが天智天皇で、

663年に白村江の戦いの戦いに敗れた後、百済駐留の唐軍が大和王朝に使節を送るが、天智は回答を拒否している。そして大規模な国土防衛計画を発動した。

なのに、665年に高宗の勅使が来訪したときは、送唐客使(実質遣唐使)を派遣し、国交回復に乗り出した。668年に高句麗が滅亡すると、天智は遣唐使を派遣し、「高麗を平定したことを賀す」に至る。なおこれは「新唐書」には記載されているが、記紀にはない事実である。

天智が勇猛果断な人物であることは論をまたない。しかし政治の根本を揺るがせにすると、結果として民族自決とマキャベリズム・ミニ覇権主義の狭間を右往左往することになる。

ホーチミンの言葉を今一度思い起こす。これは哲学上の真理ではなく、政治学の根本原理である。

「独立ほど尊いものはない」

* 2.以降は日を改めます。7世紀の経過をより深く知りたい方は、とりあえず7世紀の年表を御覧ください。


安倍武彦 「蘇我氏とその同族についての一考察」(1964)という論文がある。例によって北大の文献だ。

蘇我満智(宿禰)は書紀履中二年条に、平群木蒐宿禰・物部伊百弗大連・円大臣と共に国事をとる(日本書紀 履中2年条)

諸国貢朝年々盈溢し、更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を検校せしめ(古語拾遺 雄略朝)

韓子、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小毘火宿禰を大将軍として新羅を討つ(日本書紀雄略9年条)

大伴金村、物部食鹿火を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣とし…(日本書紀 宣化元年の条)

以上が日本書紀に出てくる万智、韓子、稲目の引用だ。韓子については、この後に先程の朝鮮での戦いが載せられている。安倍さんはしょうもないフォークロアだと一蹴している。


次が星野良作(法政大学) 「蘇我石川両氏系図成立の時期について」という論文。こちらはの星野さんという人の文章だ。

「蘇我石川両氏系図」というのは、続群書類従巻一六七の一巻らしい。ウィキの系図の根拠になっている。

 星野さんは、この系譜が奇異なものだと指摘する。

武内宿禰の後裔氏族を巨細に及んで拾載し、また蘇我氏同族とされる平群・葛城両氏まで立入っておりながら、石川氏については、彼の仕えた天皇の名と達し得た官位名を記すに過ぎない。

「系図」のこの様な外見的特徴は、彼の造作に際しての態度あるいは方針等の在り方に疑いを生じさせる。

ということでるる史料検討を行い。

「系図」の原型は、やはり10~11世紀の交に成り、その後何らかの事情で放置され、14世紀の末頃ふたたび取り出されて補注が施されたのであろう。

と結論づけている。

まぁその辺はこの論文のテーマではあっても、こちらの主目的ではないので、読み飛ばす。


どちらにしても蘇我高麗は登場してこない。「馬の骨」扱いである。満智は「検校」止まりの人で、とうてい王に連なる存在としては扱えない。どうしても我々は韓子を「蘇我家」の血筋の本貫として考えざるをえないのである。


 

蘇我韓子(そがのからこ)の戦いぶりが日本書紀に示されている。

4人の将軍は朝鮮半島へ渡り、新羅王を一時敗走させるほど奮戦した。紀小弓は渡海後間もなく戦死する。代わりに小弓の息子紀大磐が参戦する。

この紀大磐が大変困った人物だった。

かれは父の兵馬を引きつぐに飽き足らず、戦闘の指導権を求めた。そして小鹿火宿禰の兵馬と船官を配下に収めようとして、小鹿火宿禰と対立した。

小鹿火宿禰は韓子に、大磐が韓子の兵馬も奪うつもりであると警告した。状況を知った韓子も大磐と対立するようになった。倭軍の内紛を知った百済の王は、二人の仲を保とうと調停に乗り出した。

百済の王は大磐と韓子を(任那と)百済との国境まで呼び出した。二人はなぜか連れ立って、会見場所の国境に向かった。

その道中、河にさしかかり馬に水を飲ませたところで、韓子が大磐を後ろから弓で射た。しかし矢は大磐の馬の鞍に当たり、大磐に傷を与えることはなかった。

射撃を受けた大磐がとっさに射返したところ、その矢が韓子に当たった。韓子は落馬して河でおぼれ死んだ。

ということで、たいへん冴えない結末に終わっている。

しかしこの記事は大変重要な内容をふくんでいる。

1.465年3月という記載

ここまでしっかりした絶対年代の特定は、大和政権のよく成しうるものではない。河内王朝の天皇家の記述ははるかにおおらかで大雑把なものだ。

直接の出典は百済本紀ではないだろうか。ただし稲目の年齢を考えれば、465年という年はもう一回り降るのではないか。すなわち525年である。

歴史的に見て、465年当時の新羅には百済に対抗するほどの力はない。新羅が三強の一角を占めるのはようやく500年すぎ(智証王・法興王)からである。

そうするとこれは百済の武寧王の死、筑紫の君磐井の乱、継体天皇の即位と死という波乱の時代に直接つながる事件となる。

平仄は全てあってくるのである。

2.朝鮮出兵を命じたのは倭王武か?

この事件を525年とすると、倭王武(日本書紀では雄略に比定)が存命だったとは考えにくい。

倭王武は、かなり長期政権だった。最初の遣使が478年、最後が502年である。中国側文書で確認できるだけで24年だ。

逆に465年とすると、最初の遣使を遡ること13年前に、朝鮮侵攻を指示する立場にあったかどうか、これはかなりの疑問である。

3.4人の将軍

彼らは「四道将軍」と同じく、おそらく王族に属する人物であろう。なかでも紀小弓の軍が最精鋭であったようだ。

彼らは勇猛に戦ったが、紀小弓が戦死するにおよんで、内部に不団結が生まれた。おそらく戦線が膠着し、ロジスティックが齟齬をきたしたのではないか。

4.紀大磐は九州王朝の意向を反映していた

紀大磐はトップリーダーの後継者として、九州王朝の意向を担って着任したと思われる。

したがって兵器、兵糧で優位に立つと同時に、お上をバックにした権威を持って着任したことになる。

彼の主張は戦線の統一と自らの最高司令権だった。だが残りの三人の将軍は面白くない。自分の息子のような若造に命を預けろというのだ。

そこで韓子が大磐の暗殺を企むのだが、返り討ちにあってしまう。

5.韓子死後の国内外情勢

それで倭軍が統一され勢いを盛り返すのなら良いのだが、その後の状況を見るとどうもそうはならない。盟友たるべき百済も、武寧王の死後とんと勢いがない。

倭王朝は兵力の逐次投入という軍事上最悪の事態に追い込まれる。

そして明けて526年 新羅が南加羅を占領した。これに対し倭国は全国に動員をかけ、渡海攻撃の準備に入る。

このとき筑紫の君磐井は「新羅と通じ」、渡海攻撃に反対した。「新羅と通じた」かどうかは問題ではない。おそらく「もう戦争はやめよう」と言っただけだろうと思う。しかしそれは主戦派から言えば「利敵行為」そのものだ。

こうして527年、筑紫の君磐井の乱が発生する。多分乱を起こしたのは磐井の方ではなく主戦派の連中だったろう。

筑紫と言っても主たる勢力範囲は今の筑後だろうと思う。戦争が始まれば一方的に食糧基地として徴発される立場の地域だ。

6.蘇我高麗はどうしただろうか

韓子は戦団の司令官として朝鮮半島に出向し、そのまま死んでしまったわけだから、比較的若くして亡くなったのだろうと思う。

つまり490年代の生まれと思われる。これに対し、稲目は生年不詳(一説に506年)で没年が570年だ。享年64歳ということになる。

よく分からないが、20で娘をもうけ40で娘を天皇家に嫁がせ、権力を得て生涯を終えたというなら、この歳数はまぁ妥当なところではないだろうか。

そうすると、高麗が入り込む余地が無い。とすれば、三人のうちどれかは親子ではなく兄弟だったのではないかという推察が浮かんでくる。

ただこれは韓子の死を勝手に60年間降らせた上での推察だから、推察というよりは妄想に近い。あまり深みにはまらないようにしなければならない。

1.大化の改新か乙巳の変か

最近の日本史の教科書には、大化の改新という言葉はない。乙巳の変という呼び方に統一されつつある。

その場合は、本格的な改革は壬申の乱に勝利した天武によって行われたというニュアンスが強く打ち出されているようである。

以前書いたように、私は天智・天武というのはタッグを組んで蘇我を滅ぼしたのだろうと思うし、それは壬申の乱の直前まで一貫していたと思う。

そして、天智の周囲が天武を排斥しようとしたとき、天武は天智の考えを引き継いで反乱を起こしたと考える。その理由は対百済・新羅というよりは対唐関係にあり、難波津にとどまって強談判を迫る唐の使節との対応にあったと思う。

2.今までの教科書では対唐強硬主義が説明できない

大和政権には百済との浅からぬつながりはある。しかし朝鮮南部の利権に関しては関係ない。

今はなき九州王朝には経緯はあったにせよ、それは過ぎた話だ。新羅とも基本的な敵対関係はない。

とすれば船・兵を送ってまで朝鮮の戦いに介入したのはなぜか、それは唐が侵略してきたからである。新羅は唐に服従したからこそ問題になるのであって、そうでなければ新羅と百済がどう戦おうと、どちらが勝とうと関係ない話なのだ。

大和政府が防人を動員し、北九州海岸の防御を固めたのも、唐が攻めてくるという恐怖感のなせる業であったろう。

3.天武はポスト天智政権に怒ったのだ

となれば、唐の使節が難波津に押しかけて、対新羅同盟を迫ったとき、どうすべきかという選択はあまりにも明白なはずだ。

それなのに、天智天皇の周囲は唐の使節を恐れ何も出来ないまま固まってしまった。

これでは、百済を抑えた唐がその勢いで日本にも屈従を強いるのは明らかだ。

だから天武は対唐自主路線を主張したのだ。

以上のように考えてくると、大化の改新から白村江の戦い、そして壬申の乱という流れは、対中国路線を巡る対立という図式で説明できる部分があるのではないか。

以上のような視点から大化の改新前後の状況を見直してみたい。

4.過去記事について

去年の今ごろ、私は壬申の乱絡みで3つの記事を書いている。これが今回の勉強の出発点だ。

最初が 7世紀の年表で、これは一度書いた後3月に増補している。

この時点では、まず勉強という程度で、深く考えていたわけではなかった。

増補の作業を終えた時点で書いたのが、 2015年03月16日 であり、これは天智・天武一体説ともいうべき視点の打ち出しだ。

そしてその後、 2016年05月15日 で、さらに考えが変わった、というか深まった。

5.天智・天武路線の本質

天智・天武路線というのが何かといえば、それは一言で言えば中国主敵論である。そのための「国家動員・統制計画」として大化の改新が位置づけられる。

なぜなら、朝鮮半島で起こった事態の本質は中国による百済支配であったからだ。新羅は戦いの場面で唐と結託することにより生き残りを図ったに過ぎない。

だから唐の力が強大であればあるほど、次に狙われるのが日本であるのは明白だった。

だから、日本は命をかけて国を守らなければならない、というのは天武の思いであった。しかるにポスト天智政権は右往左往するばかりで、ひょっとすると主戦派の天武を売ることで生き残ろうとするかもしれない。

というのが天武の反乱の動機であろう。

6.いわゆる「2つの戦線」での闘い

同時に、政府部内には対中国恭順派の他に、依然として百済再興派や新羅主敵派も根強い。多くの百済からの亡命者を抱えて、その傾向は一層強まる。

「この連中は戦いの妨げになる。もうそういうレベルではないのだ。百済や任那はもう忘れろ、新羅を敵に回すな、新羅を味方にしろ」、というのが正しい戦略だ。

ということで、天武の基本戦略は対中戦争準備論にもとづく新羅との同盟、返す刀で「百済・任那マフィア切り」ということではなかったのか。



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