鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

第8章 「先史時代の日本」 その2

前回は世界史から見た日本ということで、『序説」の壮大なパースペクティヴを紹介しましたが、今回は日本論に集中します。実はここのところが一番書きづらくて執筆を躊躇していました。

この章では日本に伝来してきた西方文化がどのように日本の先史時代を形成してきたのかについて触れていきます。

といっても先史時代論そのものを展開するわけではありません。マンローの先史時代論がどのような先見性を持っていたのかを明らかにすることが目的です。

マンローには独特の用語があり、それは彼の独特の史観に基づいています。ここでは一般的な用語に置き換えて説明しますが、独特の用語を用いた理由については、必要に応じて説明していきたいと思います。

先史論の基本的な柱は時代区分論と、先史時代をになった人々が誰かという2つの問題に帰すると言えます。

A. 時代区分論

マンローは先史時代を縄文時代と古墳時代とに分けます。これは当時の日本の考古学会の主流だった考えです。

これは天皇制と神話を受け入れざるを得なかった以上仕方がなかったのかもしれません。

そうすると大森貝塚以来、各地で見つかる縄文遺跡はどうも記紀の時代とは結びつかないのです。

そこで縄文時代の文化は一旦絶滅し、その後現代に日本民族の祖先が朝鮮半島から降臨してきたのではないか、という事になっていました。

マンローは古墳時代を鉄器時代ととらえ直すことによりこの分離論に挑みます。そして鉄器時代の前に短いが重要なもう一つの時代、すなわち青銅器の時代があったのではないかと考えたのです。

そして3つの時代は断絶することなく、相互に重なり合って大和王朝の時代へとつながっていったのではないかと考えたのです。

これは当時教科書となっていた、「日本考古学」(八木奘三郎)の水準をはるかに越えたものでした。

現在縄文から有史時代への歴史区分としては弥生時代・古墳時代となっていますが、これをマンロー風に言えば、紀元前7、8世紀から紀元前1世紀くらいの青銅器時代と、その後の鉄器時代になるでしょう。

これは荒いスケッチに過ぎず、とくにヤマト文化との異同は混乱しています。

アバさんはマンローを「伝播主義」と評しています。メソポタミアから青銅器がやってきて鉄器がやってきて、それが波状的に日本に渡来したという考えは、当時は非常にユニークでした。

アバさんはこう書いています。

青銅器の担い手は、鉄器の担い手に先行して列島に進入した。その後に、大陸からの新たな集団の進入によって列島に鉄器が広がった。
鉄器文明の作った古墳からは青銅器は発見されず、多くは土中から発見される。

ここでは青銅器文化が鉄器文化と重なり、鉄器文化の担い手に押しつぶされたことが示唆されています。

B.先史文化の担い手論

マンローの提起は端的に「石器時代の人民はアイヌだった」というものです。

これは日本のアカデミーへの真っ向からの挑戦でした。同時にヨーロッパに広がっていたアイヌ=コーカソイド説にも衝撃を与えるものでした。

もし縄文人がアイヌだとすれば、遺跡分布から見て、アイヌは北海道から沖縄まであまねく広がっていたことになります。

そこに最初は青銅器人、ついで鉄器人が入ってくれば、程度の差こそあれ、それらは混血し、混血しないものは周縁部にし寄せられたという経過が浮かび上がってきます。

ヤマト政権にとって、このような筋書きは悪夢以外の何物でもありません。

ただマンローにははや見え早とちりの癖があり、縄文土器とアイヌ紋様が似ているから、「アイヌこそ縄文人の子孫」だと無茶を言って、これはひんしゅくを買ったようです。

いかし縄文=アイヌの「極論」は、その後の遺伝子学的な方法で確認されました。アイヌ(とくに男性)は縄文人の血統を強く残す種族であることがあらゆる方法で確認されています。

縄文人が生活する日本列島に最初は青銅器人が入ってきて、西日本では縄文人と混血しました。これが日本人の原基となります。

ついで比較的短期の間に鉄器文化を担う人が入ってきて、現日本人を征服する形で諸国家を形成したという経過です。

まことに素晴らしい先見性ではないでしょうか。


第7章 「先史時代の日本」 その1

この章と次の章は「先史時代の日本」の紹介です。
この章では主に文化の世界伝播に触れた序説について取り扱い、第8章では日本の先史時代について触れます。
この本の間違いや歴史的限界まで書き始めると大変なことになるので、彼の先見性、埋もれてしまった業績について簡単に述べます。

エジプト・メソポタミア文明

紀元前4千年ころエジプトに生まれた高度な文明は、やがてエチオピア、アッシリア、ペルシャへと拡大しました。

建築・芸術と美学は、何世紀にもわたって高度な完成度に達しました。冶金学、特に青銅、銀、金の技術もかなりの水準に達していました。

中でも青銅器の使用な卓越していたことから青銅器文化と呼ばれます。

メソポタミアでは、チグリス・ユーフラテスの間の可耕地を巡って、南方のセム人と北方の印欧語系民族(シュメール、パルティアなど)が絶えず交錯していました。

印欧語系民族は一般に遊牧系で、年単位の南北移動や、時には大陸をまたいでの東西移動は彼らの本質的な生活スタイルでした。

彼らは馬の家畜化、車輪(すなわち馬車)の発明、乗馬術の考案など戦闘に必要な多くの発明を成し遂げました。

中でもヒッタイトはクリミアから黒海をわたりトルコ北部に拠点を形成しました。現地で製鉄法を知った彼らはこれを大規模化し、鉄の兵器の優位性を活かしメソポタミアをを平らげ、エジプトにまで進出しました。

遊牧民による文化の伝播

メソポタミアと同様、北方遊牧民も多民族が時代を織りなしています。彼らは過去から絶えることなく、中央アジアを起点に大陸内部を東西に移動していまし。

彼らには文化を創設するほどの生産力はなかったが、文明を伝達する力を持っていたし、文明間の格差が極大化した時には、それを利用して支配者となることもありました。

アジアの緯度40度から50度の間は、人口の移動、武装遠征、商品の隊商によって、先史時代から絶えず交通があったと言えます。

中国に文明をもたらした内陸交通

中国の初期の入植者は黄河の沖積谷に肥沃な土地を発見しました。農業の重要性は、運河、灌漑、排水、利水の繰り返しにつきます。

入植者は明らかに牧歌的な遊牧民ではなく、土壌の灌漑と栽培の方法に熟練していました。

この部分は明らかに誤りですが、重要な示唆となっています。後に遼河文明が発掘されそれが黄河文明に先行するもので、この文明をになったのが中央アジアの遊牧民だったことがわかりました。

この文明は衰え、漢民族に占領されました。遊牧民は次の天地をもとめ去っていたのかもしれません。

朝鮮半島の歴史とヤマト

紀元前1000年頃、朝鮮半島の北部には古朝鮮が広がっていました。南部には多くの部族がいて小さな王国が割拠していました。

(半島南部に関する記載)
強力な敵との接触時に脱出した人々は、抵抗が最も少ない方向に向かい、占領が黙認された場所に落ち着きました。

先住民は内部の平原を広範に保有し、粗放な農業あるいは放牧を営むのですが、後発組はこれとは競合しませんでした。かれらは河口に近い沖積平野を比較的に限定的に、集約的に使用する農業のスタイルをとったからです。

漢の時代

紀元前350年ころ漢が朝鮮を併合し、半島南側の諸部族を馬韓、弁韓、辰韓に分割・統合しました。

南部に住んでいる人にとっては、海岸から見える対馬の島が魅力的な展望を形成し、海を越えてたっぷりの土地のある日本に引き寄せられました。

秦の時代に鉄器(兵器)が開発され、漢の時代には朝鮮にも導入されました。


日本におけるヤマト族の受け入れ

ヤマト集団が大陸から進出して権力を掌握するまでは、かなりの時間を費やしました。

ヤマト民族は、中東や東アジアからの農業生産システムを受け取とりました。そして農業のより高い生産目標、安定した社会関係を築き、労働システムを支持し調整することで、進歩をもたらす社会関係を発展させました。

最初は海岸沿いの沖積地の小さな帯路のみが支配域で、背後の山には統権が及ばなかったとも考えられます。

具体的に侵略の形をとったと考える必要はありません。しかし他の侵入者との競合、先住民の抵抗などの形で戦いを強いられた可能性はあります。

ヤマトは北の荒れ地にも進出していきました。彼らの背後では先住民が支配者と交流しヤマトの文化を取り入れていきました。



非常に壮大な記述で、日本に類を見ない提起の仕方となっています。

遊牧民族を通じて小麦の栽培、青銅器、そして鉄器が導入され、これを通じて漢民族が発達しました。

それを用いて漢民族が朝鮮半島に進出し、押し出された半島人が鉄器をもって日本に進出し、ヤマト族となった。

ということになりますが、米栽培の技術をもって渡来した民族と、鉄製兵器+騎馬戦法で攻め込んできた民族とは違うでしょう。

そこにマンローはうすうす気づいていますが、突っ張りきれませんでした。時代の限界ですが、逆に言えばその限界の中でよくそこまで至ったなと感心します。

藤尾慎一郎「弥生鉄史観の見直し」
国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月
の読後感です

弥生時代という時代区分を放棄すべき

「弥生=鉄史観の見直し」というより、弥生時代という時代区分を放棄すべきなのではないか。紀元前8世紀から始まった米作り集団の渡来と、紀元前1世紀からの鉄器時代の到来は明らかに違う時代だ。

これに対して、弥生時代末期と古墳時代を分ける違いは量的な問題だけではないか。

厳密な意味では記紀の作成をもって歴史時代の始まりとすべきだが、先史時代の末期は文書がなかったのではなく紛失した可能性が高い。

卑弥呼の時代、好太王石碑、倭の五王、任那滅亡、日出ずる国文書など、他国の史書により確認される事績はほぼ歴史と考えても良い。


原史(Protohistoric)時代の提起

このようにしてサブ時代区分として、紀元200年から700年まで(古墳時代に相当)を歴史の原史(Protohistoric)時代と考えてもよいのかもしれない。

このようにして先史時代と歴史時代をつなぐ接点は、何を基準にして切断するかという問題でもある。

先史時代と歴史時代は原理的には2つにしか切れないのだが、切り方に2種類あるということになる。

したがって切り方によって異なる2つの切り口が生まれ、これによって先史時代は3つの時期に分かれることになる。

そして外国文献を通じて浮かび上がる500年の「原史」時代(基本的には先史時代の晩期)、先史時代と歴史時代を最終的に分かつ記紀・大宝律令(7世紀末)がもう一つの切り口を提供する。


先史-原史-有史 の切断と統合


武器 道具

石器

鉄器

有史時代


食料獲得

狩猟・漁撈・採集

水田耕作

有史時代


統合すると

石器+狩猟

石器+水稲

鉄器+水稲

有史時代


人種的には

YハプロD(+C1)

YハプロD+O1(+C1+N)

YハプロD+O1+O2

YハプロD+O1+O2

(O2は支配者としての北方民族)

慣用的には

旧石器+縄文

弥生前半

弥生後半+古墳

有史時代


ここで鉄器は紀元前100年、漢軍の進駐と楽浪郡の設置に続いて起きている。青銅はそれより100~200年前、これは長江文明由来のハプロO1人が持ち込んだもので、用具と言うよりは銅鐸を始めとする祭祀用品である。日本に青銅器は持ち込まれたが、それは青銅器時代を形成するには至らなかったと考えるべきであろう。

時代の切断も統合も、大局的には大陸→半島からの圧力を受けた在来諸人種の「辺縁化」と見ることができる。
その「辺縁化」は基本的には中央アジアの遊牧民の東漸圧力によるものである。(正確には東西への移動圧)
もう一つの圧力として南方から北上する水稲作りの圧力がある。米作りは労働集約型の農業であり、畑作以上に人造りが欠かせない。この人口圧が気候変動と抗いつつ、平和的に北上を進め、狩猟民族を圧迫していく。
日本列島は終着駅なので、これ以上辺縁化はできず、吸収されるか淘汰されるか、落人化するか、下部構造化する以外の方法はない。それぞれのYハプロがどうなっていったかは想像するしかないが、同じ人種のミトコンドリアDNAとの対比である程度見えてくるものがあるかもしれない。
西の終着駅であるブリテン島やイベリア半島の流れも参考になるであろう。

アバ・デ・ロスサントス
日本近代考古学思想における「先史」の概念に関する研究
一E.S.Morse著『大森介墟古物編』(1879年)から
鳥居龍蔵著『有史以前乃日本』(1918年)まで一

上記文献はオリジナルではなくその要旨である。下記はそのさらなる要約である。
ネットで調べたら、これは平成20年度の北海道大学文学部に提出された博士論文であった。
これが一線級の学者でなく大学院生の博士論文として提出されたものであることにおどろく。このような議論こそ日本の考古学・人類学研究の焦点に据えられるべきではないかと思う。
(現在はスペイン国立セビーリャ大学文献学部所属)


ここでは明治・大正期における「先史」に関する受け止め、「先史」という時代概念の受容過程を考察する。それは考古学史としてあっただけではなく、「先史観」が問われる思想史としてもあった。

従来の日本考古学史研究には2つの系譜がある。

① 資料集成や学史上の基礎的事項(発見・発掘調査・先駆的研究など)の整理を行う第一の系譜
② その時期に展開された考古学研究の実践を、社会・政治・経済等との関係において吟味する第二の系譜(より露骨にいえば皇国史観とのせめぎあいー私)

本論では、発見史・思考史・研究法史の三者の相互関係を整理しながらアプローチする「弁証法的学史論」をとる。

特に重要な主題として、時代概念・その形成過程という先史学の流れを「思想史」という観点から検証する。

すなわち、旧石器時代・繩文時代・弥生時代・古墳時代といった現在使用されている時代概念を前提とせず議論したい。(より露骨にいえば批判的再検討ー私)

第一章 モースの時代

1879年(明治12)に、E.S.Morse著『大森介墟古物編』が出版される。

考古学が欧米の考古学にキャッチアップし、集古の学から先史学へと発展する。

当時の日本社会では三時代法における「石器時代」の考えは比較的すんなりと受け入れられた。
それに対して、「先史」という概念、用語が未だ正しく理解なかった。

翻っていえば、有史時代、あるいは歴史という概念は十分に受け止められなかった。

第二章 三宅米吉の時代

1886年(明治19)に三宅米吉『日本史學提要』が出版された。モースの著書に遅れること7年、ともかく日本側に素地が形成されたことを意味する。

これは三宅というよりは当時形成されつつあった日本の学術集団の受け止めを反映したものであった。

三宅は日本歴史を「神代」から語るのはやめた。
しかし「神代」を先史に取り替えるのではなく、「太古」という独自概念を主張した。つまり有史以前ではあるが先史ではないということだ。

第三章 ハ木奘三郎の時代

1902年(明治35)にハ木奘三郎『日本考古學』が出版された。

八木は坪井正五郎の門下であり、それは東大考古学の到達として捉えられる。(そこには坪井の理論のゴタマゼ性と思いつき性、一言で言えば無思想性が顕になっているー私)

① 先史時代(Prehistoric)、原史時代(Protohistoric) 、歴史時代(Historic) の3区分の導入
19世紀後半の欧米考古学の時代区分法の主流。文字資料の出現を基準とする区分法。
(これ自体は、研究の方法論から見て、たいへん正しい分類だ。ただ歴史は生産史、文化史としてだけではなく軍事史としても見なければならないので、これだけでは不足だー私)

② 「古墳時代」という新たな時代概念を導入した。
(最悪の時代概念である。石器時代を即自的な時空間として成立させた。その結果生じた先史時代と原史時代との論理的間隙を生じ、多くの混乱をもたらしたー私)


第四章 マンローの時代

1908年(明治41)に『Prehistoric Japan』が出版された。

この書物は「先史」という思考空間を論じるうえで、欠くことのできない位置を占める。

マンローは先史時代(石器時代)と原史時代(古墳時代)とを結びつけた。

そして弥生文化(青銅器文化)をヤマト文化の初期段階として位置づけた。それらは当時ようやく認識され始めた時代概念である。

(この本は日本の学界からは無視されている。強烈なアンチテーゼだったと想像される)


第五章 鳥居龍蔵の時代

1918年、鳥居龍蔵『有史以前乃日本』が刊行された。鳥居はマンローとの「ドルメン論争」を通じて「固有日本人」概念を構築した。(鳥居はマンローの提起を正面から受け止めた唯一の日本人学者だったー私)

鳥居の「固有日本人」は弥生文化を担った人々のことである。これにより日本人(大和民族)にも石器時代があったことが確定され、先史時代が科学的議論の対象とされるようになった。

ということで、肝心のところは省略されているが文章の性格上やむを得ないところである。「固有日本人」説についてはウィキ上で次のように書かれている。(鳥居の論考にはこの頃から“ブレ”が目立つようになるー私)

アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族が挙げられる。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきた。

鳥居とマンローとの間には「ドルメン論争」が発生した。これは固有日本人論にとどまらないものがあり、日本の考古学の根幹に関わるいくつかの重要な論点がある。


中央アジアで最大版図を誇ったのは、13世紀に興ったモンゴル帝国である。
モンゴル帝国以前には、女真族の金、契丹族の遼、セルジュークトルコ、ウイグル、突厥、柔然、エフタル、匈奴などが興亡した。
ゲルマン民族の大移動の原因となったフン族の移動は、匈奴の一部がユーラシアを東から西に移動したためだとされている。
5世紀に現在のハンガリー地域を拠点として広い版図を誇ったアッティラ帝国は、フン族の系統だと考えられている。

過去3000年以上にわたり、遊牧民族はシルクロードをかけめぐった。それにともない、征服王朝をたてた勝者のDNAも拡散していった。

2003年に発表された、中央アジアの多数集団のY染色体の調査では、契丹(遼)時代の起源を持つ系統が8%近くに達するとされている。

ウイグル人は東アジア人と西ユーラシア人の中間に位置している。しかし、ウイグル人自身に多様性があり、東に位置するウイグル人はより東アジア人に、西に位置するウイグル人はより西ユーラシア人に近い。

此処から先はややポレミック

まず、東アジア人の祖先集団とシベリアから南下した集団が5500~5000年前(紀元前3千年)に混血した。
O2とC2との混血を指す?

これは、日本列島では縄文時代中期、黄河流域では仰韶文化から龍山文化への移行期にあたる。

西では、5000~3800年前(紀元前4千年)に、西ユーラシア人と南アジア人の混血があった。これはカスピ海・黒海の北部にいたインド・ヨーロッパ語族(印欧系集団)が南下し、イラン(ペルシャ人)とインドに移住していったイベントに対応していると考えられる。
印欧系とセム語系の混血を指す?

そして、シベリア・東アジアの混血集団と、西ユーラシア・南アジアの混血集団が、中央アジアで3800年前ごろにまず混血し、さらに西暦1240年ごろ(蒙古帝国による制覇?)、第二段階の混血が生じたと推定されている。
「中央アジアで3800年前ごろにまず混血」というのはさっぱり実態がわからない。

斎藤流シルクロード論

ユーラシアの東西交流は、遊牧民が誕生するよりもはるか以前からおこなわれてきた。
バイカル湖の南に位置するマルタ遺跡出土の、24000年前の人骨のゲノムは、現代のヨーロッパ人と南北アメリカ原住民の中間だった。
(こういう斎藤氏の言い方が好きでない)

後略

匈奴の歴史 年表

戦国時代

紀元前318年 匈奴は秦を攻撃するが敗退。これを機に秦は国力を強化。
戦国時代の匈奴
             戦国時代の匈奴

紀元前215年 秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させる。さらに長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防ぐ。

紀元前209年 始皇帝の死。単于頭曼は黄河の南に攻め込み、匈奴国を建設。

紀元前209年 頭曼の子冒頓(ぼくとつ)が反乱に成功。父頭曼を殺し単于(王)に即位した。さらに東の東胡と西の月氏を駆逐。巨大王国を建設。

紀元前200年 匈奴は太原に侵入し、晋陽に迫る。漢の劉邦(高祖)は自ら出陣したが惨敗を喫し、以後匈奴への臣属を強いられる。

匈奴最大版図

紀元前180年 匈奴、敦煌の月氏を駆逐し、楼蘭、烏孫、呼掲および西域26国を支配下に収める。月氏残党はサマルカンドに大月氏国を建てる。

紀元前177年 漢が匈奴に反撃。西方進出に集中していた匈奴はこれを容認。

前141年 漢の武帝が即位。漢は河南の地を奪取することに成功。

前121年 漢の総攻撃開始。匈奴は重要拠点である河西回廊を失う。

前119年 漢が漠南の地(内モンゴル)まで侵攻。形勢は完全に逆転し、匈奴が朝貢を行うようになる。

前102年 漢の李広利が西域に遠征。匈奴の西域に対する支配力は低下し、オアシス諸国は漢の支配下に入する。

前80年 匈奴に内紛発生。漢の干渉にあい、戦力は大幅に低下。服属していた丁零や烏丸,鮮卑も離反した。

前60年 匈奴の日逐王が漢に服属する

前31年 匈奴国内が分裂。一時期は5人の単于が並立する。

紀元9年 王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼして新を建国する。王莽の蛮族視政策は西域にも及ぶ。これに反発した西域諸国は、匈奴に従属するようになる。

紀元13年 新は匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させる。匈奴は恭順せず反抗を続ける。

紀元23年 新が滅亡。その後光武帝による後漢が成立する。

紀元46年 匈奴国内で日照りとイナゴの被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡する。匈奴は南北に分裂し、親漢派の南匈奴が北匈奴を撃破。

87年 東胡の生き残りである鮮卑が北匈奴を大破する。北匈奴はその後消滅。南匈奴もその後内紛により自滅。

匈奴の起源は謎となっている。現在のところ、北上する黄色人種(N系)、北方の古いアジア人(C系)、中央アジア遊牧民(QR系)が混合してで形成された集団だとされる。(二重三重にいい加減な定義)

匈奴は遊牧を専らとし、農耕は行っていなかった。しかし連れ去った農耕民奴隷による農業生産が確認されている。匈奴は文字を持たないため、自身の記録を残していない。

戦になれば匈奴の男は皆従軍する。匈奴には馬はかかせない。中国にはズボンはなく、着物風の服装だった。乗馬術を知らず馬車に乗って戦っていた。そのため騎馬戦術に長ける匈奴には勝てなかった。


先程のブログの別記事から

The prehistoric peopling of Southeast Asia | Science

という論文を紹介したものの要約です。早い話がパクリのパクリ。元ネタがScience と書いてあるので読み始めたが、いささか眉唾の記事。

1.C系人は8千年前にラオスからやってきた

東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6つのグループに分類できる。

①ラオスのホアビン文化の古人骨(8千年前)
このゲノム配列は愛知県田原市の縄文人に類似。
②~⑥はいずれも紀元前後より新しいもので、それぞれの地域の現生人との繋がりあり。

ということで、インドから到来したC型人(C1)の6つのグループがラオス近辺で分離し散らばっていたこと、その流れが経路は不明ながら本州まで到達していたことが推測される。

蛇足ながら、彼らがナウマンゾウをもとめて日本にやってきたのなら、ナウマンゾウがそうしたように、朝鮮海峡を渡ってやってきたに違いない。

ただしそれは4万年も前の話で、ラオスのC型人が米作り文明花開く8千年前の長江流域のO1人社会を乗り越えてはるばる日本まで来る理由が思いつかない。

2.C1a1人は紀元前3千年に中国からやってきた

もう一つの話題、日本固有種とされるC1a1が中国側のどこかで分岐し、日本に渡来したという情報もあるが、こちらは論理的に無理がある。何よりも、それが5500年前程度ということでは、辻褄が合わない。

私の考えではナウマンゾウを追って4万年前に朝鮮経由で日本に来たのがC系人だ。中国本土のC1人はすでにO1人に置き換わっているはずだ、と思う。

ブログ主も、そこまで攻撃的にはせずに、5500年前程度の時代に、中国側から日本へ何者かが渡来した可能性に照準を合わせたほうが良いと考えている。

5500年前に長江文明の担い手が朝鮮へ、そして日本へやってくる可能性はないとは言えない。しかしそれが意味のあるほどの量を持って実現したのかというと、やはり否定的にならざるを得ない。

ウィキのハプログループN (Y染色体)に関する記載は承服しがたいものがあるが、一応そのまま紹介する。

Y染色体のハプログループNは、NOグループを親系とし、ハプログループOとは4万年前に分岐した。

そしてユーラシア北部、さらにはシベリアを横断して北欧まで分布を広げている。

現在はユーラシアの極北地帯に分布しているが、これは後から入ってきた人種に圧迫されたためかもしれない。

分布は広範で他系人との混交が目立つ。特に注目されるのが遼河文明の遺跡人骨でN1が60%以上の高頻度で見つかっている。

対となるミトコンドリアDNAハプログループはZ系統である。


次が「知識探偵クエビコ」というかなり専門的なサイト

1.南シベリアのミトコンドリアDNA

記事の前半はC2人の話で、とりあえず飛ばしておく。その次がR人の話で、印欧族と対応するらしい。これも飛ばしていく。

次の話題が、私のテーマと関係ありそうだ。

バイカル湖・アルタイ山脈近くの南シベリアの遺伝子データはY染色体については不足しているので、ミトコンドリアDNAで議論する。

この地域のミトコンドリアは、最初の頃あまり東方要素が強くなく、紀元前1500年あたりから東方要素が増えてくる。

2.C1 人はクロマニヨン人より古い

もう一つ、これはC1人に関する話題で、

C1b系統はオーストラリアにも相当に早い時期に到達していた。C1a系統もヨーロッパの西の端にいて日本にいて、実はアフリカのベルベル人でも見つかってる。二つ合わせたC1系統は、クロマニヨンより古い時代に、かなり世界に拡がってたようだ。

3.ヨーロッパ(マジャールとフィンランド)に広がったN人

そして3つ目がヨーロッパのN人だ。

鉄器時代になってすぐの時代、ハンガリーにN人が現れる。ハンガリー語もウラル語族で、マジャール人も元はウラル山脈あたりにいたと言います。フィンランドはNが過半数を超える国です。

4.ウィキペディアの批判

こ之人、ついでに「ウィキペディアのNの項目」も、遼河文明論に関連して批判しています。

Nは日本の周囲のどこを見ても日本よりは高頻度で、普通に各種渡来民にその頻度で含まれていた可能性があります。


こ之ブログはかなり読み応えがあります。N人は極東に遼河文明を築き、西方ではハンガリーやフィンランドまで進出したという、大変行動範囲の広い種族だったようです。多分遊牧民族だったのでしょう。農民ではないからあまり土地には執着しないようです。
移動の手段、交通の手段、異民族との接触、交易の知識等には長けていたはずなので、その木になれば戦争には強かったでしょうが、極度に自然に左右される生活なので、人口=国力の強化維持には弱点を持っていたと思います。
その結果各地で文明が開花するに従い、辺境へと追いやられる結果になっていったのではないでしょうか。








人気記事にランクインした。
あらためて読んでみる。
我ながら、なかなか良い。

しかしY-ハプロの話に入って行くと、今の私の考えとは違う点に気づいた。それはマンローの論文「先史時代の日本」に導かれたものだ。マンローの論文はY染色体などまったくなかった時代に書かれているが、文化の移動と文明の移植を見事に説明している。


1.ハプロN人が文明のメッセンジャー

小麦、馬、青銅器、そして鉄を持ち込んだのは。YハプロC人ではなかった。
それはN人だった。N人は多分1万年くらい前に中央アジアでO人と分離し、北方の草原を西へ、あるいは東へと遊牧するようになった。
西に行ったものはG人を西に押しやった。G人はドルメン文化を形成した人々で、有名なアイスマンもその一人である。
東に行ったものは、ゴビ砂漠を越えて華北一帯に流れ込み、遼河文明を形成した。紀元前3千年ころのことと思われる。


2.東アジアにおける最初の人類=C人はどのように拡散したか

東アジアに先住していたのはC人である。C人は6万年前にインドを経由して東南アジアに進出した。そしてアジア全域に散らばった。

ナウマンゾウを追って日本に到達したのはC1系で、4万年前のことだった。モンゴルからシベリアまで広がっていったのはC2系だった。

D人の経路は不明だが中央アジアから直接、あるいはインドを経由してチベットから中国の西域に達し最終的にはサハリンから日本に達した。途中の経路にはかろうじて痕跡が残されているが、経路を追うほどの密度では存在しない。

C人、D人は現在辺縁的に残存する程度である。


3.C人を追い出したO人とN人

これに対し現在の主流を形成するのは、O人とN人である。

O人はインドシナの山間部を経由して中国南部に入った。そして長江流域に米作の文明を築いた。このとき先住していたC人は南方に押しやられた。

N人は、おそらくそれより少し遅れて陸の東西回路を東進し、C人先住民を北に追いやった。

これが可能だったのは9千ないし7千年前にかけて温暖化が進行し、これに伴い海進と湿潤化も進み、陸の東西回路、いわゆるシルクロードの利用が容易になったためではないか。

N人が構築した河北~南満文化は、不明の理由で衰退していく。これに対し長江まで前進したO人の一派であるO2系が北進し、N人を追いやった。

長江から北に進出したO2系は、N人がもたらした西方文明を受容した。その力で南進。青銅器文化にとどまっていた長江文明(O1系)を制圧し、影響力を華中・華南にまで及ぼすこととなった。


4.中央アジアの遊牧民が東西文明の伝達者

結局、変更点はN系人の進出を挿入したところにある。N系人というのはおそらく匈奴ではなかったか。そして匈奴のあと中国の北部と西部を支配した突厥もそうではなかったか、とおもう。Yハプロがもし違っていても、そのたぐいの民ということで説明できるのではないだろうか。

これがマンローから学んだことをふくめ、達した結論である。(まだまだ変わっていく可能性はあるが)

これは考えようによっては現在の漢民族に対する先住民としてウィグル人を位置づけることにもなる。
習近平政府にとっては、あまり気持ちの良い議論にならないかもしれない。

馬と乗馬の歴史年表

約6000年前 乱獲により激減した馬が、食料源として飼育されるようになる。

家畜化については諸説紛紛だが、役畜化の前に馬具なし家畜としての利用(食料・搾乳)の歴史はあったであろう。しかし反芻胃を持たず、筋肉質の馬は牛よりは低価値である。

紀元前3500年ころ 遊牧民が馬を役畜化。
カザフスタンで発見された馬歯遺跡にハミを利用した痕が発見。

紀元前2400年 メソポタミアで戦争に戦闘用馬車が使用される。

紀元前2000年 メソポタミアで乗馬用の馬が導入される。

紀元前1500年ころ シンタシュタ-ペトロフカ戦争で最初に乗馬兵による戦闘が行われる。

紀元前1400年ころヒッタイトのキックリによって馬術書が書かれる。5枚の粘土板に楔形文字で書かれ、馬の調教・飼養・管理につき書かれている。

紀元前1200年頃 エジプトでは青銅製のハミが使用される。

紀元前9世紀~8世紀 遊牧民スキタイが王国を建設。彼らは馬に乗りつつ遊牧し、中央アジアや現在のロシア南部・ウクライナで帝国を築き上げる。このような遊牧民は「遊牧騎馬民族」と呼ばれる。

紀元前8世紀 馬上のまま戦闘を行う方式が始まる。

紀元前 680 年 この年の古代オリンピックで、戦車競走が始まる。

紀元前400年ころ ギリシアのクセノポンが馬術書を記す。

紀元前3世紀 サルマタイ人がスキタイ王国を滅ぼす。鉄製の鐙とより高度な馬術を持っていた。その後サルマタイ人はローマ帝国の各地に馬術を広めたとされる。

3世紀 魏志倭人伝、「牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない」と記す。

4世紀 古墳に馬の埴輪が副葬される。当時の牛・馬のDNA解析により半島から輸入されたものと判明。

4世紀末ころ 中国大陸より騎馬の風習が伝わる。(高句麗との戦いの最中ということになる。これは「騎馬民族」説に対する真っ向からの挑戦となる。別記事では弥生時代末期とされ、4世紀末には乗馬の習慣が広がるとの記載がある。こちらの方が妥当)

5世紀 フン族が東ヨーロッパに侵入し大帝国を築く。フン族はあぶみ付き馬具を採用し、馬上で弓を扱う。

12世紀 中国で17騎の金(満州)の使節団が北宋の歩兵2千を襲い潰走させる。

13世紀 モンゴル軍の騎馬軍団は乗馬のまま矢を放つ攻撃で世界を席巻したと言われる。

紀元前1千年ころに中央アジアの遊牧民族の間で洗練されたという記事があった。まだ確認をとっていないが、事実とすればこれは重大だ。
私は古来騎馬民族の頃から、遊牧民は馬に乗って草原を疾走しているものだとばかり思っていた。紀元前4千年に馬が家畜化されたという記載は、馬が人に乗られることを受け入れるようになったということだと思っていた。
その発想から、遊牧民の戦闘力の技術的背景として馬・車輪・鉄製武器の3点セットを考えていた。しかし、例えばアレクサンダー大王の部隊ならどうだったのか、チャリオット(一人乗り戦争馬車)であのような大国を作り上げられたであろうか。やはり卓越した乗馬技術を持つ騎兵部隊を縦横無尽に駆使して、風林火山の勢いで世界を征服していったのではないかと想像してしまう。
逆に言うとそれは、軍事組織の戦闘組織と輸送組織への分化をもたらしたのではないかと思う。戦闘は騎兵で、兵站は馬車という二大機能である。

驚くべきことだが、このような軍の機能と戦闘の形態は、第一次世界大戦の直前まで、3千年ものあいだ続いていたのである。

これまで何度となく、20世紀論を考え論及してきたが、3千年続いた戦争を有り様を根底から覆したことこそ、実は20世紀の最大の特徴だったのではないだろうか。


前期記事 「支石墓の謎 墓地に見る日韓交流」
の冒頭講演 「支石墓に見る日韓交流」を抜粋紹介する。

演者は埼玉大学准教授の中村大介さん

1.支石墓とは

日本では弥生文化の開始期に北部九州で突然出現する。ゆえに弥生文化を考える際にきわめて重要なマターである。

2.支石墓の種類

ドサッとコピペする。東アジアだけでも色々な言い方があるということだ。

支石墓の種類

3.東北アジアの支石墓の源流

遼東半島源流説が主流となっている。石棚墓の源流が長江流域だとする主張があるが、明確な根拠はない。

遼東半島では支石墓に先立ち積石墓の例があり、この墓式の流れと考えられる。

支石墓の開始は紀元前15世紀ころ。紀元前6世紀に一気に拡散したと考えられる。

4.朝鮮半島の支石墓

半島南部では一次葬が主要であり、墓は個人用のものと考えられる。したがって形態は類似していても葬制は異なっている。

南部支石墓は2つの亜型に分かれる一つは浅い湖南式、もう一つは深い嶺南式である。

紀元前2世紀にはすでに衰退が始まった。これは鉄器の流入と符節を合わせている。

5.日本列島の支石墓

分布地は島原、糸島、唐津、佐賀に偏在している。この内、糸島が嶺南式でほかは湖南式である。。

6.支石墓に葬られた人

嶺南の支石墓では弥生人に近い半島住民が確認されている。

糸島・唐津の支石墓で発掘された人骨は縄文晩期人の形質的特徴を持つ人骨が確認されている。


ネット上で、支石墓に関する論説は少ないが、下記の記事が参考になる。
平成26年度 東アジア国際ミニシンポ「支石墓の謎 墓地に見る日韓交流」記録
文字化けしてコピペができないので、別記事で要点を複写して転載する。

紀元前1500年頃 遼東半島付近で支石墓が発生。テーブル状形態を示す。

その後 テーブル型支石墓は中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に拡大。

縄文晩期 長崎県大野台・原山に石棚墓群が出現。浙江省の石棚墓群に類似する。屈葬や箱式石棺を伴う。(支石墓としている記事もあるが、石棚墓に近い。行きに支石墓が皆無であることから浙江省から直接渡来した人々によるものではないかとの説もあり)
大野台

紀元前500年頃 朝鮮半島が無文土器時代に入る。

紀元前500年頃 支石墓が朝鮮半島のほぼ全域で造設。約4-6万基とされ、世界の支石墓の半数に相当する。分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。

ユネスコ世界遺産に指定された高敞、和順、江華の800近い支石墓群は、青銅器時代の北方式支石墓とされる。
幽里

紀元前400年頃 朝鮮半島西側の中南部と北部九州に支石の丈が低い支石墓が広がる。天井石が碁盤状を呈するため碁盤石とも呼ばれる。テーブル型との境界は全羅北道付近とされる。


紀元前400年頃 朝鮮半島からの強い影響を受け、碁盤石、蓋石墓が松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広がる。支石墓の地下には土壙(どこう)、石棺、石室、甕棺(かめかん)などが設けられる。

紀元前200年頃 弥生時代中期。墳丘墓出現(吉野ヶ里遺跡)

紀元前後 弥生後期。支石墓内に細型銅剣が副葬されるようになる。須玖遺跡では多量の前漢鏡・銅剣・銅鉾・玉類を出土する

紀元100年ころ 弥生時代終期 日本の支石墓が終焉を迎える。

ヒッタイトと鉄の歴史

ヒッタイト地図
              ヒッタイトの版図

紀元前 3500年ころ メソポタミアでは紀元前3000年ころの隕鉄性鉄器が発見されている。またアナトリアの王墓からは隕鉄製の短剣が発見されている。

紀元前2000年ころ クリミアの印欧語人が黒海を渡り小アジアに侵入。先住民を制圧しヒッタイト国を建設。

紀元前 1800年ごろ クレタ島の民が、山火事の焼け跡から隕鉄を発見、鉄鉱石を高温で蒸し焼きにする直接製鉄の原理を発見。

紀元前 1700年ごろ クレタ島の技術をヒッタイトが継承し人工鉄製造法を開発。門外不出の国家的な技術とする。(最近の調査で鉄の製造は紀元前20世紀をさかのぼる可能性が指摘)

最初の製法は直接製鉄法: 木炭を低酸素下に熱して、CO→CO2により、混焼した酸化鉄の鉱石を還元する。

紀元前1190 ヒッタイト帝国が「海の民」の侵攻により滅亡。背景に製鉄のための森林乱伐と枯渇。その子孫(タタール人)はインドや中国で製鉄を伝承。

紀元前1000年ころ 製鉄技術が中国,インド,ギリシャへ伝播。

中国で製鉄法が発達。鉄鉱石を溶解する銑鉄の製造( 間接法 )まで進化する。

紀元前 200 年ごろ 青銅器にやや遅れて鉄器が伝来。最初は鉄斧( 錬鉄製 )

紀元前119年 中国で鉄と塩が専売制になる


西暦 400 年ごろ 九州,中国,大和地方で砂鉄を用いた初期の「 たたら吹き 」製鉄が始まる。「 たたら 」は,タタール人が語源。



とりあえずあまりかまけている暇はない。
マンローの所説を理解するための覚え書き。

1.メソポタミアの文明は諸民族間の戦争と、諸民族の共通利害の形成(戦争予防)の文明なのだ。
こういう時代は世界史の中でいまだにない。シュメール人が原基になっているが、それは紀元前2千年、ウル第三王朝の滅亡とともに消滅した。
後はセム人を主体としながら印欧語人がしばしば襲来するという構図だ。印欧語人というのは中央アジア人という意味で、セム人生活圏の北方に居住する人々である。

2.以後は唯武器時代だ。強いものが勝つ弱肉強食の時代である。ただし腕っぷしが強いとか勇敢だとかいうだけでは覇者にはなれない。最後に物を言うのは知恵と情報である。

3.ただし中央アジア人そのものが人種の坩堝みたいなところがあり、古くはヨーロッパで絶滅したG人、その後は東西廻廊(シルクロード)を形成したN系人、印欧語人、などが重畳して「中央アジア人」を形成することになる。

4.肝心なことはグリニッジが世界の標準時になっているように、メソポタミアが世界文明史の標準時になっているということだ。そしてヒッタイトで鉄が実用化された紀元前2千年が、人類史の紀元ゼロ年なのだということだ。

少なくともマンローはそう信じているということだ。



紀元前4000年 ティグリス・ユーフラテス両河下流の沖積平野では人口が増加。神殿を中心とした大村落が数多く成立し、銅や青銅器なども普及。文字が発明された。先住のシュメール人の他、セム語族のアッカド人、アムル人、アッシリア人らが侵入。

紀元前3500年 メソポタミア Mesopotamia文明が発生

紀元前3000年 農業や牧畜に直接従事しない神官・戦士・職人・商人などが増え、大村落は都市に発展した。

紀元前2700年 シュメール人が都市文明を建設。ウル・ウルク・ラガシュなど。

紀元前25世紀 ウル第1王朝時代。大規模な治水や灌漑によって農業生産を高め、交易によって必要物資を入手した。都市は周囲を城壁で囲まれ、中心部には神殿。

紀元前24世紀 シュメール人都市の勢力は衰え、北方のセム語系のアッカド人によって征服される。

紀元前24世紀 アッカド人のサルゴン1世、メソポタミアの統一に成功する。さらにシリアや小アジアやアラビアにまで進出。

紀元前23世紀 サルゴン1世の国が東方の山岳民の侵入をうけて滅亡。

紀元前22世紀 シュメール勢力の復興。ウル第3王朝を名乗る。

その後 アムル人がメソポタミアに侵入。アムル人は「西の人」の意味。シリア砂漠に住むセム語系遊牧民。

紀元前20世紀 ウル第3王朝が滅亡する。

紀元前20世紀 印欧語系民族の一支族、中央アジアから移動を開始する。

印欧語族の強さの秘密: 馬を戦闘に使用した。オリエント世界では初めてのことであった。馬に引かせた戦車隊は機動力をいかして先住民をつぎつぎに撃破した。
このためオリエントの各地方の接触が促され、1つの世界としての『古代オリエント』が形成された。
中東BC2千年

紀元前19世紀 アムル人がバビロンを都とする古バビロニア王国を樹立。バビロン第1王朝と呼ばれる。

紀元前19世紀 小アジアのアナトリア高原に印欧語系のヒッタイト人が進出。

紀元前18世紀 古バビロニア王国の第6代王・ハンムラビが、全メソポタミアを統一して中央集権国家に発展。

ハンムラビ王の功績: 
① 運河の大工事をおこなって治水・灌漑を進める。
② シュメール法を継承・集大成したハンムラビ法典を制定する。「目には目を、歯には歯を」の復讐法の原則にもとづく。これにより領内の多民族を統一支配することが可能になる。

紀元前1680 ヒッタイト王国、古バビロニア王国と争ってこれを滅ぼす。

ヒッタイトはバビロニアを破壊・略奪し引き揚げる。メソポタミア南部には印欧語族のカッシート人が入り、バビロン第3王朝を建てる。

紀元前15世紀 印欧語族フルリ人がメソポタミア北部から北シリア一帯にミタンニ王国を形成。

紀元前1430 ヒッタイト新王国が成立。

紀元前1330 ヒッタイト新王国、ミタンニを制圧する。

紀元前1274 ヒッタイト王国、北進してきたエジプト新王国のラメセス2世と、シリアの覇権をめぐって争う。カデシュの戦いで引き分けとなり講和条約を締結。

紀元前13世紀末 東地中海全域を巻き込んだ民族大移動。バルカン方面から大量の民族が侵入する。(海の民の襲来)

紀元前1180 ヒッタイト王国が滅びる。民族大移動が原因とされる。ヒッタイトに独占されていた製鉄技術が、オリエント各地に普及する。

紀元前7世紀 アッシリア、鉄製の武器と騎馬戦術によにより全オリエントの統一に成功。

まもなく新バビロニア・リディア・メディア・エジプトの4大王国に分裂。

紀元前525年 メディア王国の流れをくむアケメネス朝がオリエントを統一

ドルメン同根論は破綻したが

ドルメン同根論は間違いなく破産している。マンローは破産したドルメン論にしがみつくことにより、考古学・人類学の主流から外れてしまった。

しかし同根論の根っこにある北方系人種の横移動の歴史は、必ずしも廃棄されたわけではない。

Yハプロ学説が人類学を席巻する20年前までは、HLA、T細胞白血病、HB抗原など多くの研究で、東アジア人の原基は北方を指していたのだ。

さらに、麦、金属器の渡来は中央アジアからの北方ルートを経由したと考えるのが素直である。


中央アジア系人種の横移動

ヨーロッパ先住民・ハプログループG2a

ドルメンの議論を聞いて初めて知ったのは、西ヨーロッパに先住していたのが非印欧系のハプログループG2aだということであり、彼らの時代は紀元前5000年に始まり3000年まで続いたということである。

ハプロGグループは9,500-30,000年前にコーカサスで誕生した。紀元前5000年に一部がヨーロッパに移動した。当初より農耕技術を持っていた可能性がある。

紀元前3000年ころにはハプログループR1b (Y染色体)に属す印欧語集団に駆逐され、混血することなくほぼ絶滅した。これをもってドルメンの時代も終焉を迎えた。

ハプログループG2aは現在もジョージアを中心にコーカサス地方に分布している。彼らの中央アジアにおける生息域は、現在のトルコ・ウィグル系人種のそれと重なっている。

もう一つの北方系ハプロ集団 N系人

おそらくマンローが混同しているのがハプロN人である。

ハプロN人は、20,000年前~25,000年前に、中央アジアでハプロO人と分岐した。シルクロードを経由し東アジアに達したと見られる。

一部は西方向に横移動しフィンランド人の祖先となっている。

N型人は確実な遼河文明の担い手である。古代中国文明の最初期に属する周王朝が、N系人による国家とする主張もある。私は与しないが。

N型が中央アジアから東進するに際して、先住者であるG型人の風習・伝統を身に着けた可能性があるが、人種として直接の血の繋がりはない。

強いて言えばG型人はコーカサス人であり、N型人はアフガンないしタジク人である。

N型人の過剰な強調には要注意

最近N型人の歴史的意義の強調が目立つ。中には通説の書き換えを迫るような提起もある。

注意しなければならないのは、O型人との関係を見誤らないようにすることだ。

最近の考古学的知見によれば、遼河文明のうち夏家店文化の上・下層の境界、すなわち紀元前1500年頃に遼河文明の担い手がN型人からO2人に交代したようである。

遼河文明の人種的交代が紀元前1500年頃とすれば、紀元前1000年ころに始まる黄河流域の周王朝がそれを遡ることはありえず、遼河文明研究者による引っ張り過ぎだろうと思う。

N型人とO型人はどこで分化したか

ウィキの流れ図では、イルクーツク近辺でNとOが分化したことになっているが、今日の通説としてはOはインド経由でインドシナから華南へと進出したことになっている。亜型(C1,C2)への分化のパターンもそちらのほうが説明しやすい。

ウィキによるNOの流れ図


それに華北~東北地方におけるN型人の現代の分布を見ても、明らかに南から北上したO2人がN系人を駆逐し、周辺部へと追いやっていることが明らかだ。

したがってNO人はイラン~アフガンあたりで分離し、O型は南ルート、N型は北方ルートで東アジアに入ったとするのが考えやすい。

N型人は交易民だった可能性がある

N型人はたんに進出し、征服し、支配する民族ではなかったのではないか。

かなり頻繁に東西方向への移動を繰り返し、西方文化を東アジアにもたらした可能性がある。

蒙古族や満州族、ツングース系は古来より土着していたC型人だが、西域回廊を支配していた夏や匈奴、突厥などはN型人だった可能性がある。

北方ルートを通じて麦栽培、青銅器、鉄器という三大文化が持ち込まれたのは、まさにN型人がルートを押さえ、華北を支配した時代と一致する。

マンローの偉大な示唆

何れにせよ、遺伝子解析などなかった20世紀初頭に、マンローが、横移動する民族、支石墓時代(青銅器)から鉄器時代の移行が民族の交代を伴った可能性、などまで念頭に置いていたことには驚くほかない。

私は素人でこれ以上の言及はできないが、学界各氏のご検討をたまわりたいと思う。

「マンローとドルメン論」に関して面白い論文を発見した。

く物の解釈>学知と精神』という表題で著者は 全成坤さんという方。肩書きは高麗大学日本研究センターのHK研究教授となっている。日本語の文章である。

この論文の主眼は、崔南善という日帝時代の考古学者を紹介するものである。
これによると崔南善は「楽浪文化は朝鮮における最古の最大のものである」とし、個々の用具や様式が個別に日本に渡ったのではなく、一塊の「文化」として渡ったと見るべきだということだ。

そしてその論文でドルメンに言及して鳥居龍蔵の研究とゴードン・マンローの見解を紹介しているのである。

申し訳ないが、そこだけ知りたいので抜書きさせてもらう。

鳥居のドルメン研究のきっかけはマンロー博士の慶応大学での講演「日本人の起源」である。
鳥居によれば、マンローは以下のようにドルメン論を提示した。

①日本にはドルメンが多い。その構造はヨーロッパ、アフリカ、インドのドルメンと同じである。またアフリカ、インド、日本にしろ、さらにヨーロッパにしろ、その原始的記念遺構の出土品はすべて閉じである。
②ドルメンを建築した人種は同ーの起源であって、日本の先史時代文化はヨーロッパからインド、さらにまた中央アジア、蒙古、朝鮮を経て入ってきた。

この論旨は「先史時代の日本」にお手も通底している。

これを見た鳥居は、以下の見解に至っている。
①その名称が示しているように、これはテープルであって、決して部屋ではない。ドルメンと古境をわけて考えるべきだ。
②マンローの「日本人は総じてヨーロッパ人と異なる民族とはみなしえない」という説に同意する。

この日欧同一民族説は、現代の私たちには到底認められるものではない。

鳥居はこの点に配慮して、ヨーロッパからの巨石文化論を受け入れ、人種の移動論を展開しつつ、日本における「異なる」古墳形態が生成されたという立場に立つのである。

しかしこれでは紛糾した議論に風を送るようなもので、なんともひどい様になってしまった。

これがゴードン・マンローの負の側面である。

支石墓(ドルメン)
日本においてそれは卓越した文化を形成したのか?

マンローの「先史時代の日本」はまことに素晴らしい本である。それはマンローの博識と偉大な仕事の結晶であり、シーボルトJrやベルツなど初期文化人の高水準の考察の賜であり、明治期考古学の金字塔と言っても差し支えない。

ただ、ドルメンについてだけは素直に首肯できないところがある。

もちろんドルメン文化が日本にも存在したことは認めるにやぶさかではない。しかし西日本の支石墓と北日本のそれとは、起原も時代も支えた人々もまったく異なるものだろう。

これをドルメンとして一括することは、私としては認められないのである。

この議論は、マンローの日本ドルメン文化論の誤解に基づくものかもしれない。まずはウィキペディアからドルメン論を学んでおきたいと思う。


A.起源
もっとも早い発祥は西ヨーロッパだが、それは起原ということではない
世界各地で独自に発展したと思われる。

①北西ヨーロッパ
紀元前4000年-3000年頃: 新石器時代から金属器時代初期に建造された。

②歴史的背景
農耕の伝播→人口増加→階層分化と関連している。
紀元前3500年頃に巨大な支石墓が激減し、小規模な支石墓へ移行。
紀元前2000年頃、西ヨーロッパの支石墓は消滅。
③消滅の理由
ウィキでは「上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられた」と説明されているが、到底納得できない。
私は石がなくなったためだろうと思う。畑作りに際して巨石を取り除いたのが、畑の開発が「完了」したために材料がなくなったのではないか。

④支石墓の作り手
ヨーロッパにおける支石墓の主な作り手は、ハプログループG2a (Y染色体)とされる。アイスマンがその典型
Haplogrupo_G_(ADN-Y)

⑤遼東~南満の支石墓
紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、中国吉林省方面へ広まった。
巨大な一枚岩を天井石とし、これを複数の板石で支えるテーブル型構造で、北方式と呼ばれる。

⑥朝鮮半島の支石墓
朝鮮半島では世界の支石墓の半数、約4-6万基が存在する。遼東半島より出現は新しい。

南方式と呼ばれる。地表は土盛りで地下に支石構造の埋葬施設を持つ。

紀元前500年頃(水稲作の開始頃)から半島のほぼ全域で建造、特に南西部の全羅南道である。
日本では縄文時代晩期に浙江省様式の支石墓が長崎県に建造される。西北九州から広がることはなく、稲作受容期の弥生時代前期には早くも終焉。
朝・日での担い手はハプログループO1b2 とされる。


斎藤文紀「東シナ海陸棚における最終氷期の海水準」 第四紀研究 1998

東シナ海における最終氷期の海水準を検討した。
koukai

この結果、5万~2万5千年前の海水準は黄海で-80±10m,東シナ海で-0±10mと推定された。
最終氷期最盛期ではさらに低く、最低位海水準は-120±10mと推定された。
現在のような海域が広がりはじめたのは第四紀に入ってからである.
氷期は寒冷と同時に結氷による乾燥気候をもたらしてた。
1万3千年以前、黄河は乾燥によって干上がっていた可能性がある。 


という文献を見つけた。というより以前にも見ている可能性がある。

ちょっと変な文章で、「黄海が形成されたのが第4紀に入ってから」となっているが、第四紀の始まりというのは200万年前のことだ。無理やり読み解くと、黄海は200万年前には出来上がったが、その後の寒冷期には干上がったりを繰り返していたということだ。
そして1万5千年前の最終氷期にはけっこう地続きに近い姿にまでやせ細っていたということになる。
長江文明を築いた人々がそろそろ長江流域に定着していたとしてもおかしくない。それが朝鮮半島一帯にまで進出していた可能性は大いにある。

図を見ると、80メートルの等高線は東シナ海より北に切れ込むが、それでもソウル~山東半島のラインまでにとどまる。これが現在の等高線とすれば、かなり黄河の土砂が等高線を押し上げている可能性はあるが、それでも朝鮮半島と大陸が陸続きだったということになる。
1万年前ころ稲作文明を築き始めた長江流域の人々と、同じDNAを持つ人達が朝鮮半島にいたかも知れない。


「革命の上海で…ある日本人中国共産党員の記録」という本を読んだ。
著者は西里竜夫。戦後、長く日本共産党熊本県委員長を務めたらしい。
1977年 日中出版からの発行となっている。
西里

多分、西里さんも中西功さん同様に、戦後は微妙なコースを歩んだのではないか。

38歳で終戦を迎え、釈放された。まもなく日本共産党に入り、40歳で熊本に戻る。同時に熊本県委員長となるが、3年後に委員長を降りている。同じ1950年、中西功(当時共産党選出国会議員)は党中央と対立し除名されている。いわゆる50年問題である。西里も関連していた可能性がある。

50歳で熊本安保共闘の副議長に就任しているが、党における肩書きは不詳である。
以後20年間の経歴は空白となっている。しかし衆議院選挙には毎回出馬、毎回落選を続けているので、日和っている様子はない。そしてこの本を執筆した70歳の時点で、県委員会副委員長となってる。

なおこの本を発表した1977年といえば「文化革命」真っ盛りの頃だ。しかしその話はまったく触れられていない。異様といえば異様だ。

彼はその後さらに10年を生き、80歳で息を引き取っている。

ストーリーはすべて一人称で書かれ、ディテールは異様に詳細だ。日記をつけることなど許されるわけはないので、ややいぶかしさを覚える。

ただ研ぎ澄まされた神経の中で生きた十数年であるので、私ども「ぼーっと生きている」人間には想像もつかないような記憶力が働いているのかも知れない。

豊富な史実が散りばめられているが、もはや私にいちいち拾い上げるほどの根性はない。



義和団事件の真相

事件の経過を知ろうと思いネットを探したが、さっぱり分からない。

私の予備知識としては、むかし映画で見た「北京の55日」くらいだから、そもそもなんの事件か分からない。太平天国の北京版くらいに思っていたが、ある一つの記事にあたってかなり「目からウロコ」の思いである。

その記事が、コトバンクに掲載された「日本大百科全書」(ニッポニカ)の解説


これにネットから拾ったいくつかの周辺的事実を加え、物語的に仕立ててみた。

1.「義和拳」とはなにか

山東省内に1898年に「義和拳」という秘密結社が結成された。

義和拳そのものは清朝の中期から存在する武術で、武器を持たない民衆の自衛手段として生き延びてきた。

義和拳の売りは、これが白蓮教という信仰と結びついていたことである。

2.白蓮教とはなにか

白蓮教は紀元1100年ころ、南宋に始まった仏教の一派。浄土教系の信仰で半僧半俗で妻帯の教団幹部が男女を分けない集会を催した。

一種の終末思想を持ち、国家や既成教団からも異端視されていた。「最後の審判」では、覚醒した信者だけが救済者の手で救われる。

元末には「紅巾の乱」により元を滅亡させ、明朝を成立させたが、明朝により弾圧された。

その後、白蓮教は秘密結社として生き残り、しばしば反乱を起こしたが、叛徒が白蓮教のレッテルを貼られることもあったようだ。

1796年には清朝の圧政に抗議し、全国で白蓮教徒が「弥勒下生」を唱え反乱。戦いは6年に及び、清朝衰退の原因となる。

その後も、白蓮教はさまざまな分派が秘密結社として活動を続けた。中国における秘密結社の大半は白蓮教に関係している。


3.なぜ義和拳が人気を博したか

白蓮教の流れをくむ義和拳の教えは、「呪文を唱えると神通力を得て刀や鉄砲にも傷つかない」という怪しげなものだった。

こういう教えは、不安な世の中に流布する。

朝鮮の支配権をめぐる日清間の戦争(1894~95)は日本の勝利に終わった。

これを見た列強は侵略の牙をむき出して、一斉に襲いかかった。それは中国を分割の危機にさらした。

それは都市部ばかりではなかった。安い商品の流入などで、農村の経済と農民の生活は破壊されていった。

この状況を敏感に感じ取った義和拳の青年達は、キリスト教の布教活動にターゲットを定めて排外主義キャンペーンを広めた。

彼らは教会を焼き、教徒を暗殺した。

それは特権的な立場から固有の文化や信仰を否定し、西洋文明を押し付けるヨーロッパ人への反感を助長し、とりわけ没落農民の人気を獲得した。


4.清朝政府の態度

このような暴力的で非合理的なキャンペーンが何故広がったか、それは清朝政府の態度にも問題があったからだ。

日清戦争の敗北を機に清朝内部での守旧派と洋務派という対立が顕になった。洋務派は95年の日清のあと一時弱体化した。

これに代わり、清朝正統派の勢力が再び力を盛り返した。そのトップに立ったのが西太后である。

彼らは義和拳を弾圧するのが困難とさとり、逆に利用して列強に対抗しようと試みた。

1899年、義和拳は農村の自衛警察である「団練」に組み込まれ、半ば合法化された。

義和拳は義和団と改称し、「扶清滅洋」(清を助け外国を滅ぼす)という時代錯誤のスローガンを掲げ、排外主義を押し出すようになった。ヤクザが合法右翼に成り上がったようなものだ。

これが河北一帯に義和団をのさばらせることになった最大の理由である。


5.義和団、北京へ、そして全国へ

しかしこのような隠蔽工作が長続きするわけはない。義和団はますます跳ね上がりキリスト教会への暴行は目に余るものになる。

各国外交関係者、とくにドイツ外交団は清国政府に強硬にねじ込んでくる。

このような中で、清朝政府は取締りを約さざるを得なくなった。山東省の巡撫が泳がせ政策の責任を取らされる形で更迭され、代わりに李鴻章の子分で洋務派の袁世凱が任命された。

1899年の末に現地入りした袁世凱は大規模な取締りを開始した。そのおかげで山東省の義和団は沈静化したが、彼らは農村に戻ったわけではない。「団練」の職を失った今、故郷に戻っても働き口はないのだ。

失業した青年はまず河北省に流入した。やがて大運河、京漢鉄道沿いに蔓延するようになった。さらに華北全域、満州、蒙古にもあっというまに拡大した。

こんなに山東省の若者がいるわけはないので、全国の失業青年が一斉に市街部に繰り出してきたのだろう。

義和団員は10代の少年が多く、赤や黄色の布を身体に着け隊伍(たいご)を分けた。

全体的な指導部はなく、町ごとに「壇」という隊を分け、義和団の単位とした。宗教的指導者が壇の責任者をつとめた。少女たちも「紅灯照」という組織をつくり、戦いに参加した。


6.清政府の宣戦布告

とにかくこうやって広がった打壊しの波は、最後に北京の街にまで侵入してきた。

暴徒は外国人や教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った。

これに対し列強は、在留民の生命と資産を保護するため、天津に上陸し北京の軍事制圧を目指した。

義和団の暴走を止めることが出来ず、列強の抗議にも回答できなかった清国政府だが、列強の首都侵攻に我慢することは出来なかった。

そして6月17日、ついに宣戦を布告した。

私は政府の宣戦布告というから、てっきり義和団への宣戦布告だと思った。しかしそうではなくて列強への宣戦布告だった。

理非は別として、彼我の力関係を無視したあまりにも無謀な戦争であり、無知な宮廷内官僚による自殺行為である。


7.「北京の55日」

清政府が宣戦布告すると同時に、列強の代表は各々の公館の中に閉じ込められることとなった。いわゆる「北京の55日」の始まりである。

英、米、独、仏、露、伊、墺、日の8か国は、1万4千名よりなる連合軍を編成。北京の開城に向けて行動を開始した。対決の相手は義和団ではなく清国政府の正規軍であった。

7月、双方の主力が天津で対決するが、清国軍の抵抗は脆弱であった。連合部隊はそのまま北京市内になだれ込み、公使館区域の救出に成功した。西太后と光緒帝は北京を脱出して西安に逃れた。

義和団の若者の多くは残虐にも斬首された。

この事件の後、中国は膨大な賠償金の返済に長く苦しむことになり、植民地化は一層進行した。


8.性格としては「北清事変」というべきだが

事実関係としては、

①清が列強を相手に仕掛けた戦争であり、
②戦争というにはあまりにも短く、
③清国南部はこの戦闘に参加していない

ことから「北清事変」というべきであろう。

「義和団の乱」は北清事変の序章というべきものであるが、義和団「事件」と言うにはかなりの時間経過があり、いくつかの場面の複合でもあるため、「乱」のほうが良いと思う。

また、社会的重要性に焦点を合わせれば、「義和団の乱」として記憶すべきところもあり、入試問題としての憶えやすさも念頭に置けば、「義和団の乱」のままで置くのがベストかと思う。

やはり、この「乱」の主要な側面は、農村の無産青年の思想性と規律性を内包した集団的蜂起だ。



19世紀の末、故郷山東省はドイツの植民地となってしまいました。
キリスト教会が強引な布教活動を行い、
皆、見て見ぬ振りをしていました。
そんなとき、拳法を修行する集団「義和拳」の若者たちが立ち上がったのです。
その中心にいたのが朱紅燈でした。
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朱紅燈は山東省泗水の生まれ。本名を朱逢明、天龍と号していました。ただし生地についてはいくつかの異説もあります。

貧しい家庭に生まれ、長じては「遊民」のような生活を送っていたようです。青年時代には白蓮教の影響を受け布教活動にも参加していました。

故郷が洪水に巻き込まれ、長清県へと移りました。

光緒24年(1898)から医業を始め、併せて拳法の道場も開きました。その拳法は「神拳」、会の名を
「大刀会」と名乗りました。

大刀会の会員は急速に拡大し、会は「山東義和会」を名乗るようになりました。そして朱紅燈は著明な指導者と目されるようになっていきました。

当時、山東省を流れる黄河はしばしば氾濫し、至るところで土砂が畑を覆いました。洪水後は干ばつが襲い、人々は食べて行けず、生活はまことに厳しいものでした。

キリスト教の白人宣教師は、西洋列強の力をカサに来て人々を抑圧しました。こうして民衆とキリスト教会の矛盾はますます激化していきます。

同じ1898年9月、朱紅燈は山東省平原縣に「興清滅洋」(西洋を滅ぼし清を再興しよう!)の大旗を打ち立てます、そして会の名称を「義和拳団」と改称します。

1899年春,朱紅燈は茌平に入り、彼の技を各所で繰り広げ、そこの反キリスト教会運動の指導者となりました。
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彼の指導の下、茌平の義和拳運動は著しい発展を遂げます。そしてその勢いは地域の村々へと連携を強めていきます。そしてキリスト教会への攻撃はどんどん激しさを増していきました。

十月,朱紅燈は隊伍を率いて李莊、起義に入りました。県知事蔣楷の治安部隊を打ち負かし、清国軍に強力なダメージを与えます。

李莊では、人々をせん動し教会を焼き討ちしました。

その後、朱紅燈の率いる義和拳の一行は、長清、禹城、茌平へと転戦しました。そしてこれまで民衆を弾圧してきた教会指導者に懲罰を加えました。

外国の手先となっていた暴力団にも懲罰を加えました。清軍の包囲を破り弾圧をはねのけました。このことが朱紅燈の名をますます高めました。

しかし朱紅燈の進軍は長くは続きませんでした。12月、彼は内紛によって傷を負いました。

彼は山東巡撫により捕らえられ、済南で公開処刑されました。


現在の中国では義和拳の朱紅燈が義和拳運動の創始者のように扱われ、英雄視されているが、どうも正確ではないようだ。

彼自身は明時代の高臣の子孫と称したらしいが、これはかななり怪しい。

朱紅燈の活躍したのは1899年末まで。このときは未だ騒乱は山東省内に限局されていた。彼らの運動は一種の空気抜きとみなされ、省当局は一定の泳がせ背策をとっていた。それどころか地方では一種の私設警察として庇護していた。
しかし最後にはドイツを始めとする列強の関知するところとなり、省長は更迭、泳がせ政策は弾圧政策へと変更された。

実はここまでは義和団運動の前史みたいなもので、それから飛び散った若者が華北一帯に広がり、西洋排斥運動に転化したあたりから、本格的な義和団運動が始まると見たほうが良い。

いづれにせよ、日本(ネット世界)では正確な情報が意外に伝わっていないことがはっきりしたので、この記事もなにかの役に立つかもしれない。

義和団事件の真相
も参照してください。




ピウスツキの巡回展というのを札幌でやっている。

それが分かったのが本日、赤旗道内版にちらっと載ったのを見た。

明日、道AALAで「コロナと人権宣言」で話をしなければならず、最後の追い込みなのだが、展示会の最終日はまさにその明日、25日になっている。

ということで、急いで行ってきた。


ポスターがパネル6面に並んでいる。朝10時には誰も受付におらず、観客もおらず一人で堪能してきた。

もともと5月にやるはずだったものが、コロナで延期になったらしい。私にとっては幸いであった。

展覧会の主催は「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」。
お金をとる方の博物館で私はまだ入ったことはない。
いまどき珍しいが、今回の展示会もすべて撮影禁止である。誰もいないのでとってもわからないが、一応遠慮しておいた。


ピウスツキについて

今回の展覧会は思い切って、ピウスツキが平取に滞在して写真を取りまくったときの記録に集中している。明治の中頃、1週間ほどだけ滞在したときのものだ。

きわめてスッキリした構成だが、わからない人にはわからないだろうと思う。

ピウスツキはポーランド人。当時ポーランドは祖国を失い、ピウスツキは国籍上はロシア人だった。

皇帝暗殺事件に関係したために、シベリアに流刑となり、長いことサハリンで暮らした。

その間に樺太アイヌの女性を娶るなど、現地に溶け込んでいた。とくに蝋管レコードによるユーカラや儀式の音源採集は名高い。

そのピウスツキが平取に来ていた。しかも日露戦争の始まる半年前に。(正確には白老と平取)

このことは私は沙流川博物館の展示で初めて知った。


波乱万丈の生涯

ピウスツキの波乱万丈の生涯については、到底ここで語る余裕はない。

まずは井上紘一氏の力作「ブロニスワフ・ピウスツキ年譜」をご覧頂きたい。必ずや目の回るような臨場感を味わえるであろう。

ただ、この年譜はピウツキの自叙伝に基づいて作成されていると思われ、客観性はどうかと言われると、ちょっと首をひねるところもないではない。函館の停車場で行き倒れのアイヌ人グループを助けたら、それが白老の有力者だったなど言うのは、出来すぎの感がある。

これだけ短期のバタバタ調査で、それなりの業績をあげたのはおそらくバチェラーの後援の賜物であろう。

もう一つは樺太アイヌという存在である。実は初めて知ったのだが、樺太から稚内、稚内から江別、江別から石狩へと移住を迫られた樺太アイヌは、そのほとんどが疫病のため死別、離散したと憶えていたが、じつは20年ほどしてから樺太に戻ったのだ。当時、樺太は千島との交換条約により全島がロシア領となっていた。したがって彼らは国籍を変えたはずだ。

ピウスツキは最初、島の北部に住むニブフ人の調査にあたったが、主要なフィールドを樺太アイヌに乗り換えた。彼は調査をするだけではなくロシア語教育も行った。酋長の姪を娶るほどの入れ込みであったようだ。

私の個人的感想: 日露戦争前夜に、ピウスツキをふくめたロシアの反政府派の連中が、イギリス人宣教師の援助を得ながらアイヌの調査をした。これにはなにか裏があるのではないか、と疑ってしまいたくなる。

まぁ、話はこのくらいにしておく。


日本考古学の歩み

ろくに知りもしないでいうのも何だが、年表づくりしてみて、なにか徒労感に襲われる。

記載すべきことと、省略して良いことの重み付けが、そもそもよく分からない。

なんだかんだ言いながらも、考古学が始まって以来すでに100年は立っているはずだ。その100年、考古学は何をやってきたか、それを考古学者は自ら語ろうとしない。

なぜだろうか?

私はどうも、最初の階段についての統一した認識がないからだと思う。

私は考古学は何よりもまず集古の学だろうと思う。それはまず博物学として始まり、それが分類され、時間軸上に位置づけられていくことが絶対的な実務だ。

もちろんそれには考える過程も含まれている。だからそれだけで考古学と呼んでよいのかも知れない。

しかし日本の考古学は、絶対的な宿命、「日本人はどこから来たのか」という命題を抱えてきた。

これは今から考えてみれば無理な話で、考古学にそんな問題への答えなど出せるわけがないのだ。

この呪いから解き離れたいまは、安んじて博物学に徹していればよいのだ。それは有史時代の考古学と同じ目的意識だ。

ただゲノム解析というのはきわめてラフなスケッチであり、その間隙を埋めながら先史時代を豊かに描き出すかは依然として考古学の役割である。

あまり卑弥呼云々の歴史学的な要請にこだわることなく(経営的にはゆるがせに出来ないが)、淡々と歩みをすすめるべきではないか。

マンローの位置づけについて

このような日本の考古学の発展史からすれば、マンローはその始祖と言ってもよいのではないだろうか。

その根拠は三つある。

一つはまずなんと言ってもその圧倒的な資料数にある。二度の火災でその多くが灰燼に帰したが、それでも国内外の資料数とその多様性は圧倒的である。

第二には、近代的で大規模な発掘手技と、周囲状況や位層解析もふくめた科学的な分類・整理である。三ツ沢と鹿児島の発掘は今日でも圧巻である。

第三には、考古学を博物学にとどまらせず人類の歴史と結びつけて「先史時代の歴史学」と位置づけたことである。

これは「言わざるべきことを言わない」戒めであるとともに、「言うべきを言いきる」ことの大切さを諭しているのだろうと思う。

マンローがただ一人の始祖というわけではない。数人の外国人がマンローの周囲にあって共同したり支援したりの関係にあった。この「マンロー・グループ」は、広く言えば東京・横浜在住のヨーロッパ知識人社会と言ってもよい。

その代表が東大医学部教授のベルツであり、オーストリア大使館のシーボルト(小シーボルト)である。

マンローの「日本先史時代」論は彼らとの交流の中で生まれ、固められたものであろうと思われる。しかし、それはユーラシア大陸を挟んだ対極にあるブリテン島の歴史を知るものの論理であり、その中で少数者として劣位にあったスコットランド人の思いであったろう。

マンローの日本人起源論は、平たく言えば「アイヌ先住・渡来人重畳」説である。ここで「アイヌ」と言うのは、今で言えば「縄文人」であろう。

これはブリテン島において、イベリア半島から移住した先住民文化の上にアングロ・サクソンと呼ばれる大陸系が侵入し、混血の度合いに応じた「英国民」を形成した経過に比するものがある。(ただし先住民=ケルトというのは不正確であること。イングランド人はアングロ・サクソンと自称するが、DNA的には先住民の血を濃く残していることを付記しておかなければならない)

マンローの業績はその俯瞰性や先見性において群を抜くものであった。しかし彼は日本のアカデミーとは隔絶していた。彼の活動の地は横浜に限定され、出版は英語に限られていたから、決して多くの日本人の目に届くものではなかった。

例えばモースのように有能な通訳を抱え、日本人目当てに通俗的な講演会を行っていれば、その影響力は計り知れないものとなったであろう。

なぜマンローは孤高の位置に留まったのか

多くの謎に包まれているが、最大の問題は、彼が終生、日本語を喋れなかったことだ。喋らなくても良い世界の中にいて、そこから出ようとしなかったことだ。
北海道から西南諸島に至るまで縦横無尽に動き回り、多くの人と接触しているが、それはすべて通訳を介してのものだ。

これは彼の個人的習性に関わっていると言わざるを得ない。

飽くなき好奇心と、地球の果てまで赴く行動力は彼の個性を何よりも特徴づけている。しかし、それと対照的に事物への執着と裏腹な人物への無関心が同居している。さらに自らの弱点をさらすことへの病的な臆病さも見え隠れする。

今で言う発達障害だが、こういう人が医者になると、普通はあまりいいことはない。しかし幸いなことにマンローはまずまず如才なく医者稼業を送っていたようだから、弱点を補強するだけの修養は積み重ねていたのだろうと思う。

今回、彼の二大論文である「先史時代の日本」、「アイヌ、伝説と習慣」の一端に触れることで、おおよその射程は定まったように思われる。




考古学には発達史がない?

はじめに

実はいまだにマンローにハマっていて、とにかくアイヌ研究史の中でマンローが無視されている印象があり、それじゃ考古学の方ではどうなのかと思って調べてみた。

とりあえずの結論としては、マンロー無視は考古学においても同じだということがわかった。

それも驚きの一つではあるが、そもそも日本の考古学には歴史がないということにびっくりした。

まずネットで調べられる範囲で、いろんなキーワードで検索をかけたが、江戸時代の博物学的なものから始まって、貝塚や遺跡が見つかるたびに認識が深まって、先史時代の全容が次第に明らかになっていく…みたいな記載を期待したのだが、今のところ見つけられていない。

昨日は道立図書館に行って検索をかけたのだが、どうもこれと言ったものは見当たらない。

勘ぐると、マンローの名を表に出したくないためにそういう事になっているんでは…とさえ思えてしまう。

マンローは自著に「日本の先史時代」と名付けた。彼の問題意識は鮮明だ。発掘して遺物を見つけ出しては、それらを時系列の中にはめ込んで、「日本の先史時代」を浮かび上がらせることこそが目的なのだ。

無論考古学の内容は他にもある、江戸時代や奈良時代を掘り出し、歴史の内容を豊かにすることも大事なことだ。

しかし、文字のない時代は考古学しか語れない。先史時代は考古学の独占販売なのであり、先史時代を詰めていくことが考古学の最大の目的意識でなくてはならない。

大事なことは考古学的方法ではなく、対象とする時代だ。カッコを付けない考古学は、先史時代(研究)学と呼ぶべきだろう。

考古学は古物を見てものを考える学問だ。だから何を見てどう考えてきたかの歴史が考古学史を形成する。いろいろあって良い学問なのだ。

空がわき道に逸れないようにするためには、学問の歴史を絶えず念頭に置いて考えていかなければならない。

もう一つは、ゲノム解析による日本人の形成過程がかなり明らかになっているので、この道筋に沿って古物を構成していかなければならないということである。

とくにY染色体ハプロの解析は考古学の画期となっており、まさにこれを持って考古学史は有史時代に突入したと言ってよいだろう。

そんなことを念頭に置きながら、雑音のない旧石器と縄文を中心に、年表づくりに取り掛かりたい。当然のことながらマンローとその周囲は大きく取り上げることになる





水戸光圀、古代石碑の記事に従い、栃木県侍塚古墳を発掘。

蒲生君平、古墳を陵墓として崇拝の対象とする。前方後円墳は君平の造語。

木内石亭と弄石社: 石斧や石鏃を古代人の作成したものと判断

1823 大シーボルト、初回の訪日。植物学者として多くの標本を持ち帰る。帰国後に全7巻の『日本』を刊行。
はべらぼうに面白い。一読をおすすめする。
ウィキには「トムセンの三時代区分法を適用して、日本の遺物を年代配列し叙述」とあるが、どこかはわからない。

1869 小シーボルト(シーボルトの次男)が兄とともに来日。墺外交官業務の傍ら考古学調査を行いう。『考古説略』を発表、「考古学」という言葉を日本で初めて使用する。

小シーボルトは町田久成、蜷川式胤ら古物愛好家とともに古物会を開催。「考古説略」を出版し欧州の考古学を伝える。

1876 ベルツ、東大医学部の教授となる。小シーボルトの影響で骨董品収集を趣味とする。

1877 モースが東大の生物学教授となる。偶然車窓から大森貝塚を発見。教室員とともに発掘に取り組む。

小シーボルトが第一発見者を争うが、実地研究で先行したモースの功に帰せられる。このあと小シーボルトは考古学の学術活動から手を引く。

1879 モース、ダーウィンの推薦を受け、『ネイチャー』誌に大森貝塚に関する論文を発表。このとき "cord marked pottery"の用語を使用。これが『縄文土器』の語源となった。

モースは考古学の素養はなかったが、講演活動を通じダーウィンの進化論を精力的に紹介した。

1877 帝国大学理科大学動物学科の学生坪井正五郎、同志10名により「人類学の友」を結成。

1886 坪井らにより「東京人類学会」が結成される。機関誌第1号を発表。

1895 坪井正五郎、通俗誌に「コロボックル風俗考」を発表。石器時代人はアイヌ人に置き換えられたと主張。アイヌ伝承の「コロボックル」を旧石器人と解釈する。

1897 ベルツ、樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問。ベルツはマンローとともに横浜の三ツ沢遺跡の発掘にも参加している。

1916 東大の他、京大や東北大でも考古学教室が開かれ、従来とは異なる思潮が競合するようになる。

1919 史跡名勝・天然記念物保存法が成立。重要遺跡が「史跡」として保存されるようになる。

1925 大山巌の次男大山柏が大山史前学研究所を設立。

1928 広義の人類学(自然人類学、考古学、民族学)に関心をもつ若手研究者により人文研究会が設立される。江上波夫、岡正雄らが参加。

1928 清野謙次、『日本石器時代人研究』を発表。縄文人骨のマススタディにより「超万世一系」論を提唱。

1930 東京帝大の山内、甲野、八幡らは、縄文土器の編年によって縄文人の歴史を探ろうとし、「編年学派」と呼ばれる。出土層の層位に着目し編成。

1932 山内清男、「日本遠古の文化」を発表。縄文は狩猟・漁獲・採集文化であり、弥生は農耕の文化と規定。

1943 小林行雄、弥生土器の型式と様式をカテゴリー化する。

1948 登呂遺跡発掘調査をきっかけに日本考古学協会が発足。「文化戦犯」を排し、「自主・民主・平等・互恵・公開の原則に立って、考古学の発展をはかる」と謳う。

1949 アメリカの化学者リビー、二酸化炭素同位体測定法を発明。

1959 近藤義郎、弥生農村を倉庫を共有する「単位集団」<大規模な工事にあたる「農業共同体」の2階層に集団化する。

1960 坪井清足、縄文時代を生産力の停滞と呪術支配の世界として定式化。マルクス主義の公式を当てはめたものとされる。

1970 所沢の砂川遺跡。旧跡時代の遊動型キャンプの遺跡。原石の加工処跡を中心とする放射線型遊動生活が想定される

1975 下條らにより、磨製石器(弥生時代)の石材研究が一般化。北部九州における石器生産の専業化が明らかになる。

1980 群馬の下触(しもぶれ)牛伏遺跡。旧石器時代・前半期ナイフ形石器群期の遺跡。直径数十メートルの石器ブロックを形成。打ち欠け石器のほか局部磨製石斧も出土。大型哺乳動物の共同狩猟のためのキャンプと考えられる。
後半期ナイフ形石器群期では大型キャンブは消失し、落とし穴による小型獣捕獲(富士山南麓)へと代わっていく。

1981 西田正規、紋切り型縄文観を批判、温暖化に伴う多様化が生活の多様化を生み出したところに縄文時代の特徴を見るべきだと主張。「タコ足的な生業活動」と形容する。

1982 馬淵久夫、青銅器の鉛含有量測定により、産地の同定を行う。同じ頃、釉薬の鉛成分の分析も一般化。

黒曜石の放射性同位元素分析により、産地の同定が行われるようになる。

1992 三内丸山遺跡の発掘が始まる。780軒にもおよぶ住居跡や大型掘立柱建物が存在したと想定される。ここから豊かな縄文のイメージが広がる。

1999 青森県太平山元遺跡の土器、AMSによる再検討で従来より4千年遡る可能性が指摘。
この土器は日本最古とされ、縄文文様はないが縄文土器に比定される。


どうもはっきりしないが、渡辺氏のその後の文献にはマンローに対する言及は見られない。たぶんセリグマン夫人と渡辺氏は絶交状態に入ったのであろう。
しかし二人が絶交するのは構わないが、とばっちりでマンローまで言及なしというのは、いかにも大人げない。同じ道を歩いた先輩への敬意は、多少の見解の違いはあっても形にあらわすべきだろうと思うが。

なんだろうかとネット上を探したが、みな口をつぐんでいる。やっと見つけたのが木名瀬高嗣「アイヌ民族綜合調査」というPDFファイル。

結構長いので要約紹介する。



1.序

1950 年代の北海道で大規模なアイヌ調査が行われた。それは、「アイヌ民族綜合調査」と呼ばれる。

調査目的は下記のごとく示されている。
アイヌ民族について幾多の調査研究が行われて来たが、未だアイヌ民族の人種的民族的系統、固有文化の本質は十分に解明されたとはいえない。
一方、アイヌ民族固有文化は急速に消滅しつゝある。
アイヌ民族は文化的、社会的経済的条件も決して恵まれたものとはいえない。アイヌの福祉政策のためにも、基礎調査が必要である。

2.「アイヌ民族綜合調査」の組織構造

この調査は日本風の「ミンゾク学」(民族学/民俗学)ではなく、英米流の「文化人類学」「社会人類学」という機能主義的な社会理論のもとに行われた。

調査の構成メンバーは「文化人類学」「形質人類学」そして「北海道諸学者」の三者から成り、「沙流アイヌ共同調査報告」はそのうちの前二者による成果である。

その中核を担ったのは、泉靖一と杉浦健一という2 人の人類学者で、戦後の東京大学文化人類学教室の草創期を担った人物として知られる。
彼らは1952 年3 月刊行の『民族学研究』16 巻3・4 号(合併号)に「沙流アイヌ共同調査報告」で研究論文を発表している。

それらはいわば未完の企図にとどまり、学問領域の内部で再検討の対象として顧みられることはなかった。

「 北海道諸学者」(北海道大学を中心とした)

「北海道諸学者」の分担した調査について東大の研究者はまったく期待していない。「速やかにその報告の発表されるのを待っている」と述べるのみである。

新しい理論枠の影響を強く受けるた中央の「文化人類学」者たちは、旧来からの素朴で記述的な方法に基づく個別民族誌の研究にとどまる者たち(金田一京助や高倉新一郎ら)を区別していた。

それらのアイヌ研究者は北海道ばかりでなく全国の学界に分布した。金田一京助門下で東京学芸大学教授であった久保寺逸彦がそれに相当する。

以下は木名瀬さんのキツーイ総括
理論研究の中央に位置する(と自認する)「文化人類学者」集団が、「北海道諸学者」と一括された「ミンゾク学者」とアイヌの「アイヌ人情報提供者」という周辺化された二重のエージェントを媒介としてアイヌを〈知〉的に搾取・収奪することが「綜合調査」の中心的な構造であった。


3.アイヌの激烈な反応

調査の中心を務めた東大の泉靖一は、アイヌから激烈な反応を受けたという。
「何故アイヌが胴が長いなどと、つまらぬことを云って、シャモと差別するか」「何故つまらぬことをしらべて金もうけするや」
「どうして調査するならば、もっと有益な生活の為になるような調査をしないか」立つづけにまくし立てられる。
これが毎日新聞の署名記事(藤野記者)として書かれたのだが、木名瀬氏によればその記事は
暗い色調の底に哀愁とロマンティシズムが漂う文体で貫かれた筆致はどこまでも第三者的で、ときに冷笑的と映る場面も少なくない。

ということで記事が紹介されている。以下その一部
道東、白糠の町を、アイヌこじきが歩いていた。軍隊服にアカじみた外被、うすい背中に全財産をつめこんだリュックが、軽くゆれている。
酒屋から隣りの雑貨屋へ、親指の出た地下タビはよろめいて、年はもう七十才は越しているだろう。
写真をとられていることに気づいたらしい。さっと道ばたにかがみこみ、ふり返って、カメラマンをにらみつけた。両手には大きな石が―。
財布をとり出すと、敵意をむき出しにした老アイヌの姿勢が、とたんに、ゆるんだ。
「モデルだろ、どんな格好すればいいんだ」
そして酒くさい息をはきながら、身の上を語った。
たしかに木名瀬氏のいうとおりだ。「アイヌこじき」の表現には「夜の街」同様ギックリだ。

渡辺氏がこの調査に参加したどうかは分からない。しかし東大人類学教室所属の渡辺氏がマンローへの「細かな異同」として持ち出したのが、この調査に基づくデータであることは間違いなさそうだ。

それにしても マンロー Labyrinth だな。すっかりハマったね。他にやることあるのにね




イントロダクション
渡辺仁

ブリティッシュ・ミュージアムのデジタル図書にこの本があって、一応全部閲覧可能にはなっているらしいのだが、途中でちょん切れている。
しばらく進むと、突然セリグマン女史の注釈が出てきて、「渡辺氏の文書」にはマンローとの原著との間にいくつかの食い違いがあるというくだりへと続く。

そして突然本文の第1章が始まる。

途中欠落があるのか、とにかく不思議な体裁だ。

とにかく切れるところまで、訳を入れておく



THE AINUは北海道、サハリン南部、そして千島列島の先住民です。 彼らは、そのひげを生やした体、ウェーブのかかった髪、長い頭で有名です。

1939年の北海道のアイヌ人口は16万人と推定されており、1854年からおそらくほとんど変化がありません。サハリンと千島(クリル諸島)にはさらに10,000人が散らばっていた可能性があります。

北海道は、本州の本島の北、北緯41度30分から北緯45度3分、東経140〜145度の間に位置する、約30,000平方マイルの島です。北海道の北端はサハリンから約20海里離れており、北東にはクリル諸島がカムチャッカに向かって伸びています。

 北海道の気候は亜寒帯です。年間平均気温は5.2°Cから7.6°Cの間で変動し、11月から5月にかけて雪が長く続きます。島はモミ、トウヒ、シラカバ、オーク、ニレがよく樹木が茂っています。

 川のほとんどは、島の中心を北から南に流れる山脈に沿って流れています。山ではヒグマとシカが見られ、5月から10月までほとんどの川でサケが回流してきます。かつてアイヌは狩猟や釣りを中心に暮らしており、山菜や果実も採集されていました。

アイヌと日本人の接触は長く続いており、さまざまな形をとっています。 1599年以前は、一般の日本人はアイヌとの接触を制限されていました。

 1599年、北海道の南西端(松前)に根拠地を設立した日本人は、徳川幕府から「松前氏」として認められました。彼らは、松前藩の藩領(松前)として、この地域および隣接地域の所有権を与えられました。松前藩域でのアイヌ人の定住は、すでにそこに確立されたものを除いて禁止されました。

日本の民間人はまた松前藩のエリアの外に住むことを禁じられました。松前はアイヌとの独占的貿易権を有し、沿岸に貿易・漁場を設けました。

 彼らは米、米ワイン、タバコ、塩、フライパン、ナイフ、斧、針、糸、漆器、装身具などを、鮭、皮、工芸品、および満州の装身具や衣類などの本土の特定の商品と交換しました。

この間、アイヌは独立を維持しました。

 しかし1799年、北海道のこの地域は、ロシアの商人の侵略から日本の利益を守るために、徳川幕府の直接の支配下に置かれました。

 当時、北海道沖には外国船(オランダ、ロシア、英国、フランス)がよく見られ、北太平洋におけるロシア人の植民地化が活発化していました。徳川政権は、千島列島がロシアの植民地化するのに危機感を持っていました。(1771)。

 商取引の成立を願ってロシアの船が北海道沿岸にやってきました(1779年)。その後、ロシアは代表を日本に送り、外交関係を結ぶことを望んだ(1792年のラクスマンと1804年のレサノフ)。

 交易所は軍事ポストになり、日本人はアイヌ地域に限られた行政組織を設立しましたが、防衛のために必要な場合を除いて、彼らの内政にほとんど干渉しませんでした。貿易は以前と同様に続きました。

1821年、松前は再び領土を管理し、従来の政策を続けた。アイヌはこれらの沿岸の交易所周辺で日本人によって雇われるようになりました。

1854年から1867年にかけて、北海道南西部は再び徳川幕府の直下に置かれました。1868年に島は日本の領土の一部となり、アイヌ文化を大きく変える植民地化の過程が始まりました。

今日、アイヌ語はめったに話されておらず、その後は高齢者のみが話しています。 純血のアイヌはほとんど絶滅しています。 そして伝統的な経済全体が大幅に変更されました。

日本政府は北海道に行政本部を設置した。

アイヌは日本国勢調査の登録簿に含まれ、それらの領土はアイヌと日本の開拓者の両方に土地の区画を許可するために制定された土地法で政府の財産になりました。

アイヌはサケを釣ったり、…


どうもさっぱりよくわからないのだが、セリグマン女史の言い分によると、渡辺氏はこのイントロダクションで、どうも自分の数字や自分の見解をどしどし突っ込んでいるみたいなのだ。
ひょっとすると、渡辺氏はマンローの所説をあまり読まないで、自分の数字を入れたのかも知れない。

こうなると、どちらが正しいかというのではなく、ある本の紹介を頼まれた人間がとる態度としてどうかということになる。

この話は、とりあえずなかったことにしておこう。真相がわかればその時点で書き込みたい。

マンローーについて書かれた最良の日本語文献は桑原さんのドキュメンタリーです。しかしこれはマンローー亡き後の関係者からの聞き書きを集めたものです。
マンローーが日本語もしゃべれないままに50年も日本に居着き、最後は北海道の山の中で敵国人として冷たい目を浴びせられ、生活の糧も奪われ死んでいく過程というのはなかなかわからないところがあります。
その点で、マンローが心を許し頼みとしたイギリス人考古学者セリグマンへの手紙は、その内心を知る上できわめて貴重なものと言えるでしょう。
「アイヌの文化と伝統」はマンローの遺稿集です。これをセリグマンの妻で同じく考古学者だったセリグマンが一冊の本にまとめ上げました。
セリグマンの書いた序文はマンローの手紙の内容を駆使して書かれており、マンローの「アイヌ観」を知る上で最高の文献だろうと思います。ここでは全文をそのまま訳しておきます。
後半は校閲者の渡辺仁に対する反批判のような中身になっていて、どうも前後関係とかがわからないと意味が読み取れません。
渡辺氏は後に東大教授、北大教授を歴任し、この世界のボスになった人です。この後マンローについて言及した様子はなさそうで、彼がマンローを黙殺すれば、学会も黙殺せざるを得なかった可能性があります。もう一つは1950年代前半に東大の文化人類学教室が中心になって「アイヌ民族綜合調査」というのが行われ、既存の「北海道諸学者」の学説が随分批判されたらしい。そこまで関連付けるべきかわからない。とりあえずこの本に収録された渡辺氏の「紹介」を読むことにするか。
若干ややこしくて煩わしいところもあると思いますがご了承ください。



序文  B・Z・セリグマン

NEIL GORDON MUNROは1863年にエジンバラで生まれ、教育を受け、最終学歴として医学を学びました。

卒業直後、彼は極東へ向かいました。最初はインド、その後香港を経て日本へと旅を続けました。

 1893年に横浜の総合病院の院長になり、時々ヨーロッパに戻ったが、その時から死ぬまで日本を我が家としました。(“時々”と書かれているが、1回のみである)

 彼は日本の先史時代に興味を持ち、とりわけアイヌの人々の伝統と暮らしに関心を集中するようになりました。彼は19世紀末からの20年間に、何度もアイヌの人々のもとを訪れています。これまで出版されたアイヌ関係の著作は次のとおりです。

1.「日本の原始文化」 日本アジア協会の連載記事 Vol。 34、1906。
2.「先史時代の日本」 横浜 1908年 エディンバラ 1911年。
3.「ヨーロッパと日本の巨石群に関する考察」 横浜、1909年。
4.「いくつかの巨石群: 起源と遺物」 横浜、1911。
その他の雑誌にアイヌと自然に関するさまざまな記事を載せています。

彼は貴重な先史時代の遺物のコレクションをエジンバラ博物館に提供しました。

二風谷定住への経過

後年、マンローは軽井沢療養所の院長を務めました。その任が解かれ、軽井沢での診療と並行して長期の自由行動が許可されると、夏は軽井沢で働き、それ以外は北海道に長期滞在するようになりました。

その頃から、彼の主な関心は先史時代の考古学的研究から、アイヌ人の生活に関する民俗学的研究に移っていきました。アイヌの生活を見るにつけ、マンローの嘆きは深くなりました。

当時アイヌの人々は、長年の狩猟と食料収集の生活をあきらめ、農業から生計を立てるために働かざるを得なくなりました。彼らは貧しく、アルコールに溺れ、人生への興味を喪失し退化していました。その数も疫病などにより減少していました。

セリグマンとの出会い

1929年に私の夫、故C. G.セリグマン教授(F.R.S.)は日本を訪れました。軽井沢まで出向いてマンローに会いました。そのとき、セリグマンは1923年の大地震で、マンローのアイヌに関するすべてのメモ、標本、写真が失われたことを知って愕然としました。

マンローは自費でアイヌの研究を行ってきましたが、震災で深刻な経済的損失を被り、研究を続けることができなくなっていました。

セリグマンはそれまでの交流の中で、マンローの正確な観察力とアイヌへの知識、アイヌの人々への親密な観点を確信していました。

そこでイングランドに戻ると、セリグマンはマンローが調査を続けることができるように、ロックフェラー財団に研究資金を申請しました。

 1930年に資金が供与されると、マンローはすぐに北海道の沙流川流域の二風谷に小さな家を建て、そこに定住しました。そしてアイヌの生活と伝統について集中的に研究を始めました。

彼の仕事の方法はクリニックを開くことでした。彼の妻は訓練を受けた病院看護師で、多くの患者をこなすことが出来ました。二人はクリニックに群がったすべての人に無料の治療を与えるました。

アイヌの人々はマンロー夫婦を信頼しました。そして待合室でうわさ話、歌、伝説、むかし話をする用になりました。待合室は、そこに来たすべての人のためのオープンハウスとなりました。

マンローは多くの長老(エカシ)と知り合いになりました。マンローは「友」とか「先生」と呼ばれました。エカシはマンローの貴重な情報提供者となりました。

1932年、2番目の不幸がマンローを襲いました。12月のある朝、夜明け前に、マンロー夫婦の自宅兼クリニックである二風谷の茅葺きの住居が焼失しました。

マンロー夫妻は炎から脱出しました。マンローはアイヌの研究メモを保管していたブリキの箱をなんとかして救いました。しかし彼のすべての所持品、彼の本、彼の写真や他の科学資料は焼けてしまいました。

北海道の冬の厳しい寒さは老マンローを痛みつけました。健康は損なわれ、その後遺症は彼を一年者あいだ苦しめ続けました。いつ軽井沢に戻って夏季療養所で仕事をしたのか、また年間を通じて北海道に留まったのかは定かではありません。

しかし、彼は屈しませんでした。

セリグマンはさらなる助成金を申請しました。 1933年にロックフェラー財団はもう一度寄付を行いました。さらに王立協会と英国科学振興協会からも助成が行われました。 日本アジア協会からの支援もありました。

大英協会内のアイヌ研究小委員会が結成され、これには現在、ダリルフォード教授、ラグラン卿、F.S.A。、アーサーD.ウェイリー、C.H.、C.B.E.、F.B.A。が含まれ、私自身が議長を務めています。

1934年、モンローはセリグマンあての手紙で、永遠にアイヌに留まるつもりだと書いています。

この手紙の中で、アイヌに関するさまざまな研究成果が語られています。

彼はアイヌ語で録音し、翻訳しました。数多くの歌と伝説、さまざまな病気の治療のための50の祈りが採集されました。また困難な出産のときのさまざまな治療、そして儀式と悪魔払いの儀式の説明を書き記しています。また、音楽や娯楽についてもメモをとっていました。

村で興味深いセレモニー(多分イヨマンテのこと)が行われたときには、映画を撮影しました。映画の出来栄えに満足しなかったので、2回目のときは、プロの写真家に撮影を依頼しました。そして写真家の指示の下で働いたり、スチール写真を撮ったりする役に回りました。

 マンローはまた妊娠、出産、精神の瞑想、病気の治療に関連する儀式の映画などを撮影しました。儀式の踊り、醸し酒の儀式、そして熊を犠牲に捧げる儀式も撮影されたといいます。

 残念ながらこれらの映画は消失し、最後の一巻だけが英国に届きました。それは 現在、王立人類学研究所が所蔵しており、1933年1月10日から展示されていました。

 最近、ポジティブが元のネガから作成され、1961年9月のアテネの Comité International du Film Ethnographique et Sociologique (文化人類学映像に関する国際委員会)の会議で示されました。

クマの儀式は、すべてのアイヌの儀式の中で最もよく知られています。マンローも何度か目撃しましたが、彼の本のなかではきちっとした説明はされていませんでした。

マンローは、「家の中で行われる祭りはイヨマンテの前半を構成する。それは新築祝いの式典に似ている」と述べ、儀式のために準備されたイナウの写真をセリグマンに送りました。

熊送り(イヨマンテ)のため、熊の子が捕らえられました。熊の子は細心の注意と敬意をもって世話をされ育ちます。熊の子は神の代表として、ときには神(カムイ)自身として扱われました。

適切なサイズに成長すると、檻に入れて育てられたクマは広場に引き出され、儀式的に殺されました。これがイヨマンテの後半部分を構成します。 

マンローはなぜか、アイヌの宗教についての本で、この最も重要な儀式を説明していません。それは重大で不思議な省略のように思われます。

そのため後の出版に際して、私(編者 B.Z.セリグマン)はマンローが映画(イヨマンテを撮影したもの)のために書いたキャプションから作成した説明を追加しました。

アイヌはまた狩により捕らえた熊を殺すときも類似の儀式を行いました。マンローはその儀式も何回か見ていますが、これについて書かれた報告は見当たりません。

この儀式についてはバチェラーが以前手短に説明を加えています。それがヘイスティングスの 『宗教と倫理の百科事典』第1巻に紹介されています。

マンローの最晩年

さて研究発表ですが、さまざまな悪条件により、マンローの予想よりも作業の進行が遅れがちになりました。二風谷の冬の厳しい気候と陸の孤島のような孤独な生活は、彼の健康を著しく損ないました。

マンローは出来上がった原稿の大部分を、1938年頃までにセリグマンに送りました。その間セリグマンは、マンローがなんとか生活できるようにと個人的な資金源からお金を集めました。

それは本の形で章立てて整理されました。しかしそれは完全ではなく、すぐに本にして出版できるほどの準備ができていませんでした、そして熊送りの説明も含まれていませんでした。

これらのポイントについて、マンローとセリグマンの間に手紙のやり取りがあったのですが、それは1941年の日本の世界大戦への参戦によって突然打ち切られてしまいました。


マンロー夫人と “貞操帯

戦後、私(セリグマン)はイギリス領事館から「マンローが1942年4月に亡くなった」という知らせを受け取りました。そのあとマンローの妻の住所はわからないままでした。

マンローはその手紙で彼女のことに何度も言及していました。その文面から、妻はマンローの診療の仕事を仕切り、家計を維持し、マンローの健康を守ってきたことがわかります。それだけでなく、彼女はアイヌ民俗の研究においても貴重なはたらきをしてきました。

長老はマンローに、女性が服の下に身に着けていた秘密の貞操帯(ウプショロクッ)によって魔法の力を行使できると言っていました。

(ウプショロクッは結婚した女性が下着を締める飾り紐で、強いられたものというより、女性の誇りを象徴する意味を持つ)

マンロー夫人はアイヌの女性たちにエカシの言葉を伝え、女性は自信を感じるようになりました。そのおかげで、マンローはこの主題を追究できました。そしてウプショロクッがアイヌの社会組織で重要な役割を果たしていることを発見できたのです。

マンロー夫人はアイヌの女性5人に、自分のウプショロクッの正確なコピーを織るよう依頼しました。そして出来上がったウプショロクッはのちに大英博物館に与えられることになりました。


マンローの研究態度

アイヌの習慣に関するマンローの記事が、メディアにたくさん掲載されたのは1934年のことです。彼は秘密のガードルが母系相伝することを報告しました。さらにそれらの持つ魔法の力、共同体における意味と重みについて言及しました。

マンローがアイヌ文化について本を書く目的は、アイヌの人々の慣習を注意深く観察し、報告するだけではありません、それは世界全体、特に日本人にアイヌの生き方を提示し訴えることでした。

アイヌの文化には考慮に値する価値があり、彼らは不条理な迷信だけを信じている未開の民ではありません。

 マンローはこの見解を一貫して強調しました、アイヌ人には、不合理に見えるかもしれない信念や儀式があります。それを記録するとき、彼はヨーロッパの民俗習慣と比較し共通点を見出すために苦労しました。

 実際、彼の未発表の記事の1つに発表の機会が与えられたため、彼はこの本をアイヌに対する「寛容の嘆願」にすることを意図していました。

もちろん、いまこの本を読んでいる読者にとって、そのような嘆願は不要です。だからそのような「奴隷の言葉」は省略されています。

マンローの関心は、北海道南部の沙流渓谷の二風谷でとどまるものではありません。彼は地区の情報提供者と協力し、道北の北見を何度か訪問しています。彼はサハリンにも調査に行くつもりでしたが、それはできませんでした。

彼の主な情報提供者は、アイヌの伝承にまだ精通している年配の男性と女性でした。

もしマンローの努力がなかったら、その知識の大部分は彼らと共に消えたでしょう。なぜなら、古い生活様式は日本(内地)の影響力が増大する下で急速に姿を消し、新しい生活条件では古い儀式、信念、伝説は無視されたからです。

彼の情報提供者は、もう誰も生きているとは思えません。

マンローーはたくさんの素晴らしい写真を送ってきました。その写真とオリジナルの原稿はすべて王立人類学研究所に寄託されています。多くがこの本に掲載されています。しかし残念なことに、英国に届いたのは写真だけであり、ネガをたどることはできませんでした。

何が渡辺氏との見解の違いを生み出したか

戦争中の出版は不可能でした。終戦の後、改めて出版への模索が始まりましたが、原稿を校訂できる有能な人物を見つけることが大変困難でした。

幸運なことに私たちは、ロンドン大学に留学していたすでにさんとめぐりあうことができました。

 彼は東京大学人類学部人文研究所の講師で、東京アイヌ合同研究委員会の研究委員でもありました。彼には1950年から1952年までの4回にわたる現地フィールドワークの経験がありました。このため彼の援助は非常にありがたいものでした。

原稿についての一般的なコメントに加えて、彼は自分の経験と日本語およびその他の情報源から得た脚注を追加し、この本の歴史的意義についての紹介を書きました。

渡辺氏はマンローが準備した論文を閲読しましたが、他の記事や材料は見ていません。

彼は多くの細部にわたる違いや誤りを指摘し、マンローの主要な解釈の一つを批判しました。これらの訂正、追加情報は、すべて脚注に組み込まれています。

私は事実問題での違いを検討する際には、いくつかの条件を考慮する必要があるとかんがえます。

すでに述べたように、マンローーは20世紀前半の数十年にアイヌの住む地域を訪問し、1930年からはそこに住み、12年後に二風谷で亡くなるまで、そこは彼の家になりました。

1930年代ですでに、若い世代は古い慣習を守っていませんでした。彼の信頼できる情報提供者はすべて高齢者でした。彼の情報は、長老との話し合いのなかで知った出来事に補足され、基づいていました。

1950年代に東京共同研究委員会と渡辺氏が調査を行ったとき、宗教的思想は、すでに生きている信念というよりも、神学のシステムとして理解されていたかもしれません。
これが解釈の主な違いのいくつかの理由になっているでしょう。

事実の違いに関して、マンローは二風谷地区と他の信頼できる地区を参照したと指摘しました。彼は地区ごとのバリエーションの存在を予測していました。

「霊返し」の儀式

渡辺氏との解釈上の主な違いは、植物の精神的本質に関するものです。

 マンローは、シランバカムイという植物の神があり、すべての植物はシランバカムイからラマト(精神または魂)を枝分かれさせていると述べています。

木にもラマトがあります。木の種類によっては、他の種類よりも霊的な力が強いため、より神聖であり価値があります。

渡辺氏は、すべての植物は「霊の化身であり、すべての獣、鳥、魚、昆虫はカムイ族の霊である」と述べています。「カムイの国では霊は人間の形をしていて、人間として生きる」が、アイヌの村を訪れると「木や草などに変装」するのだそうです。

マンローによれば、この本で「霊返し」と訳した式典は、化身と霊を引き離し霊をカムイの地に帰すことです。

渡辺氏によると、野菜で作られた捧げものは、しらんばカムイという単一神ではなく、それぞれの植物の霊からその美徳を引き出しているといいます。

動物の世界に関しては、解釈の違いはそれほど大きくありません。

アイヌはすべての動物がカムイであると信じてはいないと考えています。しかし同じ種のなかに良い動物と悪い動物がいることを示唆しています、そしてこれはクマ、ヘビ、キツネとスズメバチで特に注目されます。

悪い動物からの保護は、カムイ族の首長に訴えることによって得ることができます。なぜなら良い首長は自分の悪い部下を抑制することができるからです。


アイヌ語の発音と語尾音について

主に口唇、口蓋、および口蓋音に関して、渡辺氏との違いも発生します。

マンローーはそれらをb、d、g(シランバ、イオマンデ、オンガミ)として、渡辺氏はp、t、kとして音訳します。 私はマンローのスペルを保持しました。一貫性を保つために渡辺氏のスペルを変更する必要がありました。

この決定を支持するために、私は二風谷(ニブダニ)がマンローが住んでいた村の公式の住所であることに言及しておきます。

アイヌ語の完全な歴史的・文化的記述とアイヌ語の構造を説明することは、マンローの目的の一つでした。彼はそれをアイヌの過去と現在と呼びました。

しかし、マンローが残した材料を検討した後、私たちの委員会は、「アイヌの過去と現在」まで語るには不足していると判断しました。そしてこの本には、「儀式と信仰、そしてアイヌの日常生活への影響」に限定して扱うのが最善であるという結論に達しました。

 マンロー本来の意図を反映するためには、ノートからラグラン卿が編集した「アイヌの家の建設」に関する記事、それに狩猟技術、織物、その他の活動に関するノートが、やがて全面公開されることが望まれます。

この本の章別構成について

第1章、第2章、第3章、第4章、第5章、および第11章は、マンローの書いたとおりに掲載されます。

第 6、7、8、9、10章では、マンローが書いたいくつかの個別の記事に含まれる文章、彼のオリジナル作品に散在する情報、および多数のメモを整理したもの、さらにCGセリグマンへの手紙から抜粋し編集したものです。これら貴重な資料は、私が知る限り、いまだかつて公開されていないものばかりです。

 マンローーは祖先崇拝、母性、愛国心などについて観察した中身の重要性を理解してなかったかも知れません。それは私も最初は同じだったようです。

私は社会的組織に関する第12章を作成しました。マンロー自身の仕事から、祖先崇拝、母性、愛国心などを抜き出し、戦後に現場で働いていた日本人作家の情報も付け加えました。これによりシークレットガードルに関するマンローの情報についてもより広い視野から科学的に追跡できるでしょう。

 読者は、第2章、第3章、および第4章が大変かもしれません。カムイ、イナウはアイヌにとって非常に重要であり、注意深い説明と写真はマンローの誠実さへのオマージュです。

これらの章を読み飛ばしたいと思ったら、飛ばして構いません。後で間違いなく興味が生じるでしょう。これらの章は参照としても使用できます。


マンロー夫人との接触

英大使館員だったヒュー・ギブ氏の努力により、1959年10月にマンロー夫人と連絡をとることができました。彼女は夫のアイヌ研究がようやく出版されることを知って喜こびました。

彼女の証言により、オットマンローの死の際にフォスコ・マライーニが二風谷にいたこと、マンローが彼にタイプ手稿がいっぱい入ったリュックサックを託したことが明らかになりました。

私は出版社を介してマライーニに手紙を送りました。マンローの手紙で言及されていた未発表資料、貴重な映画がようやく見つかるのではないかと期待を膨らませました。

6か月後、彼はリュックサックを持ってロンドンのわたしのところまで来てくれました。しかし残念ながら、中身は作成した本のカーボンコピーと、付録Iとして本に付け加えたいくつかの伝説とメモだけでした。

謝辞

私は英国協会の委員会のすべてのメンバーに感謝します:

マンローの本のオリジナルの活字書を読み、渡辺氏に援助を与えてくれたフォルデ教授に。

アイヌ語と日本語の単語のスペルと翻訳をチェックしてくれたArthur Waleyに。

特にラグラン卿は、この作品の改訂と再編において、より簡潔にするために努力していただきました。  彼はまた、インデックスを作成してくれました。

アイヌに関する最新の書誌を紹介してくれたワシントン州議会図書館のW. H.ギルバート氏に感謝します。王立人類学研究所の司書であるカークパトリックさんには、このリストを確認していただきました。この本の主題に直接関係する作品のみを含めることにしました。

B. Z. S.

London, 1962



を大幅加筆した。
 
「日本のがん」の紹介はこの文章に突っ込むのは、かなり無理があるが、当座のしのぎということで我慢しておく。読者の皆さんはここは飛ばしてよい。

ブログ主からの一言

多分、留学生の研究発表みたいな論文だろうと思う。それにしてはよくまとまっており、勉強になるところもある。結局日本人の研究者がいかに勉強していないかということだろう。

私注を入れるうちにいつの間にか当初の量の数倍に膨れ上がってしまった。いずれターナーの文章に示唆を受けた私のオリジナルとして発表していくことになろうかと思う。

少なくとも日本で考古学を志そうとするなら、マンローの学問的足跡を確認せずに自らの立ち位置を定めることは出来ないのではないか。

ニール・ゴードン・マンロー 「アイヌの信仰と宗教儀式」(英文)

目次

序文 B.Z.SELIGMAN

解題 H.WATANABE

上記2論文は、稿を改めて抄訳を記載する。

I. 基本概念
Ⅱ. カムイ
III.イナウ
IV . Effigies
V .Hearth and  Home
VI . House-building  rites
VII . The  House-warming  Ceremony (Chisei  Nomi )
VIII 。 The  Feast  of  all  souls  or  Falling tears
 (Shinurapa )
IX 。 Exorcism (Uepotara)
X .Various  rites
XI . Death  and  Burial
XII . Social  organization この章は SELIGMAN による



以下本文

I.基本概念

アイヌの宗教に特微的な基本概念は次の3つである。
すなわち、ramat, kamui, inau である。

ramat は人々の魂である。kamui は神々である。inau は神への捧げものである。それはカムイに提供され、彼ら自身もラマトとしての性格を持つ。

これらの8つのカムイを超えて至高のカムイが存在する。それは天空と関連するカムイである。アイヌは彼らをPase-Kamui と呼んでいる。

天空と関連するパセ・カムイの長はKando-koro Kamui, すなわち“天の所有者”と呼ばれる。
しかしKando-koro Kamuiは唯一神ではなく、Pase-Kamui の中の一員に過ぎない。

Ⅱ. カムイ

kamui は次の8つに分類される。
 (1) 存在の遠い,伝統的なkamui
 (2) 身近な信頼しうるkamui
 (3) 従属的なkamui
 (4) 獣の姿をしたkamui
 (5) spirit を助けるkamui と個人的なkamui
 (6)有害な,悪意のあるkamui
 (7 )流行病のkamui
 (8 )言うに言われぬほど恐しいもの。

第Ⅰ章では(1)遠くに存在する至高のパセカムイについて論じた。

第Ⅱ章ではそれ以外のカムイについて論じる。それらは一族の祭るカムイであったり、獣に化身したカムイであったりする。いたずら好きで悪さをするカムイ。お守り、アイコン的なカムイ。さらには疫病神のカムイまでいる。貧乏神がいないのは貧富のない社会だったからだろうか。

これらのカムイを生き生きと紹介するマンローは、鬼太郎らを紹介する水木しげるのような趣きがある。

III.イナウ

第三章ではイナウについて論じる。
イナウは超人間的力を持ち, 人間とカムイとの間の媒介者となる。

イナウにはさまざまなタイプがある。マンローはイナウを形態別に分類し,説明している。
イナウに彫刻されたekashi 、itokpa ,ikubashui などの「印」について述べている。また,戸外でのイナウの正しい並べ方も説明している。

Ⅳ. 木偶(EFFIGIES)

形態は大体inau に似ているが、カムイ を表した像とされる。シュトゥ・イナウカムイと呼ばれ別扱いで尊重される。

Ⅴ. 囲炉裏と家

礼拝の場所としての家,屋根,絶対に汚すことの許されない炉,席順,器物の配置,宝物,pu、便所について記述される。

風水みたいなものでしょうか。

VI.  家を新築するときのみそぎ

「家を暖める儀式」(エピル)と言われ囲炉裏にくべる新しい火を作る。 日本では上棟式に当たるのか。
聖なる醸し酒が醸造され、パーセ・カムイに捧げられた後、客に振る舞われる。聖なる醸し酒の重要性が強調されるいっぽう、酒を飲むときのエチケットが述べられる。むかしからアイヌには酒癖の悪いのがいたのだろう。

VII. 上棟式の続き (CHISEI NOMI)

悪霊を追い払うために屋根に矢が放たれる。

世帯主が賓客と儀式的交礼を交わした後、家の神聖な窓が開けられ、窓の外のカムイへの祈りが捧げられる。

VIII. すべての魂の饗宴(シヌラパ)

ここから饗宴が最高潮に入る。ここでの主役は女性である。女性は戸外に出て、東窓の外の広場に集まり、ヌサと戸口の霊への挨拶を行う。
先祖の霊への呼びかけを女性が行い、女性によるダンスが始まる。このとき戸外に儀式用の座席がしつらえられる。(実はこのへんから私の役は怪しげである。雰囲気だけ味わっていただきたい)

IX. 厄祓い (UEPOTARA)

厄払いには多くの種類があり、目的ごとに方法はことなる。ほとんど私の力では翻訳不能。

X. さまざまな儀式

厄払いだけでなく狩猟や漁業などの幸運を祈る儀式もある。これも詳細は省略する。

XI. 死と葬儀

死と葬儀はさまざまな哲学を内にふくむだけに、多様かつ複雑である。死後の世界も善人と悪人では異なってくるので、交通整理が必要である。とりあえず葬式の次第のみ箇条書しておく。
  体からラマトの別離と出発。死体の処理。
親族の順序・主な会葬者。
別れの挨拶。お悔やみ。
葬儀での行動・葬式の食べ物
埋葬の準備。埋葬儀式。墓柱の儀式。
妊婦の死体の儀式。
水とブラッシングによる会葬者の浄化。  
などなど
マンローは葬儀屋の社長のごとく書き連ねる。


XII. 社会組織の編成

第Ⅻ章はマンローの英国における庇護者であったC.G.Seligmanの未亡人B.Z.Seligman(彼女自身も民俗学者)が、手紙や遺稿を編集しながら自説を構築したもの。母系社会と父系社会の混交した様式が見られるとしている。


“Medicine in Japan and Scotland : Dr. N. G. Munro” TURNER, Roderick J. 東邦大学 2014

ブログ主からの一言

多分、留学生の研究発表みたいな論文だろうと思う。それにしてはよくまとまっており、勉強になるところもある。結局日本人の研究者がいかに勉強していないかということだろう。

私注を入れるうちにいつの間にか当初の量の数倍に膨れ上がってしまった。いずれターナーの文章に示唆を受けた私のオリジナルとして発表していくことになろうかと思う。

少なくとも日本で考古学を志そうとするなら、マンローの学問的足跡を確認せずに自らの立ち位置を定めることは出来ないのではないか。



あらすじ

マンローはアイヌの人々を無料で治療した医師として知られています。しかし彼の功績はそれだけでありません。

彼の日本での生活のほとんどは、考古学的・人類学的研究、各地での発掘作業と遺物の収集、晩年のアイヌ文化の客観的で厳格な記録に当てられました。
その中でも最も重要な学問的貢献は、アイヌの遺産の文書・記録化と保存にあったと言えるでしょう。

マンローは1888年にエジンバラ大学で医学の学位を取得しました。その後、インド・香港を経由して日本に定着。医師としての活動の傍ら、生涯を通じて日本で研究を続けた。

他にもアイヌに携わった英国人は、イギリス聖公会のジョン・バチェラー牧師などたくさんます。しかし彼が治療した何千人ものアイヌ人の患者にとって、マンローほど大切な人はいないでしょう。

しかしマンローの名は日本でもスコットランドでもあまり知られていないままです。


序章 生い立ち

ニール・ゴードン・マンローは、1863年6月16日、スコットランドのロッキーで生まれました。父は現地の開業医だったロバート・ゴードン・マンロー、そして母親はマーガレット・プリングル・マンローでした。

ニールはキンロスの学校に通いました。彼の家族は1882年にラトに引っ越しました。
1879年、彼はエジンバラ大学の医学部に入学しました。

入学して3年目、彼は深刻な肺感染症(おそらく結核)になり、チュニジアに移住して療養生活を送りました。

このためか、彼は医学部を遅れて卒業し、医学博士の学位を取らないままインドへの旅に出るのです。



この目的地が考古学への関心を引き起こしたのか、それとも主題への既存の関心が場所を選択する要因になったのかは、未解決のままです。

(注: 彼は学生の頃からすでに考古学に興味を持ちテームズ河畔の遺跡発掘に参加したりしています。療養先のチュニジアでも発掘に手を染めていました)

1888年に大学を卒業した後の3年間はほとんど記録がなく、私たちはほとんど知ることができません。ただしその足どりについては、乗船名簿や宿泊記録などいくつかの記録が残っています。

ビクトリア朝の理想とスコットランド人の冒険心に従って、彼は行動したと思います。
(注: スコットランドは自然環境が厳しく多くの若者は国外を目指しました。その中でエジンバラ大学医学部の先輩ダーウィンの活躍は、マンローにとって大いなる刺激だったと思われます)

彼はしばらくの間、P&Oフェリーラインで働いていましたが、この間は確かにインドに航海していました。彼が1891年5月に日本の横浜に到着したのは香港経由でした。
(注: 彼はインド航路を運行する海運会社に船医として採用され、インドに渡っています。そこでも発掘活動を行いましたが、健康を害し香港に移動。今度は横浜航路の船医となりました。その間も病気が悪化し、横浜の横浜総合病院に入院しました。退院後もそのまま外人病院に雇われ、横浜に居着いてしまいました。その後、彼は父親の死にも帰国することなく、1942年の彼の死までずっと日本から出ることはありませんでした)

彼は1898年に横浜総合病院で医師として働き始めました。共同でこの病院を設立したことも記録に残っています。1899年に彼は日本で医療免許を与えられました。

(注: この病院の院長になったことはありますが、設立したのは個人開業のクリニックです。総合病院の設立は維新直後のことです)

1898年に彼は、アイヌの本拠地である巨大な北の島である北海道を初めて訪れました。

 1905年にマンローは帰化し日本人になりました。カタカナっでマンローとしましたが、その後漢字で「満郎」と名乗るようになりました。

興味深いことに、Munroの以前の当て字は「卍樓」でした。ただしマンロ自身の書簡や他の学者によるこの変更への言及はありません。
卍(マンジ)は、ヒンズー教、仏教、ジャイナ教に関連する古代の宗教的シンボルです。
しかし第二次世界大戦前にナチスが、(ハーケンクロイツ)を党章として採用してからは使わなくなったようです。

一度だけ日本を離れ、帰国したことがありました。1909年にエジンバラで医学博士号を取得するためです。
(注: 医学士の免許はあるため診療は可能でした。ただ考古学の論文を発表するにあたって医学博士の肩書きはあったほうが幅が効いたようです。結局、マンローは1909年になって「日本におけるガン」と題する学位論文を作成。エジンバラに戻って学位審査を通過し博士号を受けることになります)


女たらしのマンロー

スコットランド人は、女性を追いかけることについて「積極的」であると考えられています。女たらしで有名なスコットランド人にトーマス・グラバーがいます。長崎のグラバー邸の主です。
プッチーニのオペラ「マダムバタフライ」は、グラバーの妻ツルをモデルにしたと言われます。(諸説あり)

マンローも艶福家で、4人の妻と結婚しています。他にヨーロッパ旅行中に知り合ったフランス人女性がいますが、日本に来てすぐに別れたようです。

1895年、マンローは最初の妻であるアデル・レッツと結婚しました。アデレは横浜のドイツ人商社の社長令嬢でした。

二人の間には2人の息子がいました。弟のロバートは1902年に亡くなりました。ロバートへの肉親の情が1908年出版の「日本のコイン」に示されています。
アデル・レッツも1905年に亡くなっています。

その年、文郎は高畠トクと結婚しました。
(注: 暴き立てるのも気が引けるが、マンローは高畑トクと結婚したくてアデルと離縁したのだ。国際結婚では離婚が難しいため、日本に帰化したのだ)

そのトクとも1909年に離婚したが、二人の間には娘のアイリス/あやめがいました。

1914年、今度はスイス商社の令嬢(母は日本人)アデーレ・ファーブルブランドと結婚しましたが、1937年に離婚しました。そして4人目の妻、木村チヨと結婚しました。

チヨは看護師として軽井沢のクリニックでマンローの医療を手伝う中で結ばれることになりました。1942年にマンローが死んだときは最後を看取りました。彼らには子供がなく、1974年に彼女は亡くなりました。いまは同じお墓に葬られています。


マンローと考古学

考古学はおそらく日本でのマンローの作業で、最もよく文書化・記録化された領域です。彼日本中の何百もの発掘調査を監督ました。いくつかの遺跡では乞われて参加しました、

縄文時代やその後の工芸品を何千と集めました。そして人類学的パラダイムに基づいてそれらを整理しました。そして日本の先住民としてアイヌの優位を確立しました。

(注: 正確にはアイヌ人ではなく縄文人です。アイヌ人は北海道に暮らした縄文人で、いくらかのオホーツク人の血統を伝えたものです。日本人は、主として半島からの渡来人と縄文人が交わって形成されたとされます)

私たちにとって特に興味深いものは、日本の考古学におけるマンローの役割に関連することです。

マンローの最も注目すべき発掘には、横浜近郊の三ツ沢、大森、根岸があります。彼はその他に北海道での遺跡発掘、神奈川県箱根、鹿児島県でも調査を行っています。(注: 軽井沢は長野ではなく川崎の遺跡である)

彼の初期の考古学の仕事は「先史時代の日本」(1908年、1911年再版)で集大成されました。彼のもっとも重要な理論的貢献は日本における先史時代のアイヌとの関係を明らかにしたことです。

マンロー以前には、日本列島の最初の定住者をめぐる議論は、アイヌとは何の関係もありませんでした。マンローが最初にそれを主張したのです。

日本の先住民族はアイヌ人(縄文人)でした。彼らは日本列島全般にわたって生息し、南は琉球諸島から北は樺太島(現在はロシア領サハリン島)まで分布していました。
それは現代日本人の祖先ともつながっていました。

アイヌ(縄文人)は本州北部で比較的に密度高く暮らしていました。北海道だけでなく、特に青森でもおおくの縄文遺跡が見られます。
(注: 南西日本では常緑樹地帯で山のみのりは少なく、比較的に漁撈生活に特化していった可能性があります)

マンローの蒐集品

悲劇的なことに、マンローは二度の災難で本、資料、発掘品、手紙のほとんどを失いました。

経済的に余裕のない人々への無料のヘルスケアは、彼の人生の継続的なテーマでした。

最初は1923年の関東大震災です。横浜の自宅は多くのコレクションもろとも全焼しました。当時軽井沢にいたマンローは直ちに横浜に戻り、資料喪失のショックに耐え被災者の治療にあたりました。経済的に余裕のない人々への無料のヘルスケアを施すことは、マンローが生涯一貫して追求したテーマでした。

そして二度目は1932年、定住準備のため北海道の二風谷で借りていた家が焼失したときです。こうして日本国内に彼が集めていた資料はほぼなくなりました。

幸いにも、彼は1894年から少しづつ、考古学的資料をスコットランドに送り始めていました。このような努力のおかげで、スコットランド国立博物館にはマンローの集めたかなり大量のコレクションがあります。


マンローの医学研究の水準

マンロの死亡診断書には、1942年に79歳で癌で死亡したと記載されています。

彼は1882年に結核に罹患し、療養を余儀なくされました。彼はチュニジアに転地し、1年間の療養生活を送りました。その後彼は医学博士の学位を取らないまま医療を続けました。1909年になってやっとエジンバラ大学から学位を取得したのです。

彼の博士論文は「日本のがん」と題されています。タイプ原稿で30ページにもわたる長大論文で卒論というより「総論」の趣があります。審査にあたった教授たちはさぞ辟易としたことでしょう。

論文ではまず、日本の死亡統計が1899年以来に始まったことを明らかにしています。つまりこの論文のわずか10年前のことだということです。

医学校の出身者は20,592人。これに対し医師補が15,046人で医学レベルがきわめて低い。このため統計の信頼度は相当低い。

その事もあって、死因統計では「不明死」が多い。例えば1904年の統計では不明死が11%を占める。2位以下からが病名のついた病死となっている。

死因の上位を占めるのは脳溢血や脳軟化など脳血管疾患。感染症では脳膜炎、胃腸炎が多い。マンローはこの中から「近代疾患」としての結核とガンに注目する。

イギリスの近代統計からは次のことがわかっている。近代工業の発展に伴い人口の大都市集中が進む。これに伴い労働者の間に結核が蔓延する。結核は多臓器を犯すが、医学の進歩に従いこれらが結核菌の感染によるものであることが明らかになる。これらが相まって結核の全死因に対する割合が増える。しかし結核の蔓延はやがて正しい療養や予防の普及により減少するようになる。そしてこれに代わって癌による死亡が増えてくる。

ここでマンローは、日本における結核の有病率と発生率に関する広範なデータを検索し、都道府県別の結核とがんによる死亡を比較した。

その上で統計に関して考察を加えています。たとえば、肉を食べるという新たに広まった習慣にもかかわらず、横浜の胃がんによる死亡率は1908年には10万人あたり44.4人と低いのです。

それなのに奈良県は、10万人あたり92.8人という「驚異的な」ガン死亡率がある。つまり日本人のがん発生の機序は英国人とは異なるということを示しています。

マンローは奈良県のガンの高発生率が胃がんによるものであり、それが主として山林労働者の食習慣にあることを推測し、「癌の外因性は、生体組織への機械的、熱的または化学的攻撃であることが明確に確立されているようだ」と結論づけています。

これは現代の医師や研究者にとって単純化しているかもしれませんが、細胞の病理学と生物遺伝学について深く理解している読者にとって興味深い提起です。

マンローは最新の医学をよく勉強していたようです。論文では「酵素・毒素・芽球・形成性」などの近代医学用語もしばしば用いられています。

イギリスではまた男性の癌が急速な増加を示していますが、日本でそれを証明することはできません。女性のがん死亡率が男性を上回っているというのも興味深い事実です。


マンローの理論活動

マンローは考古学研究、アイヌの生活についての民族学的研究で多くの業績を残しています。また学位論文「日本におけるガン」や「日本の古銭」の研究なども水準の高いものです。

その他にも多くの哲学的論文を新聞に寄稿したり、アイネシュタインが訪日したときは相対性理論についての解説を掲載したりしています。これらは英文で書かれ、残念ながらまだ閲覧していません。マンローは深い知的推論の能力を持ち、きわめて抽象的な概念に関して理解力を持っていたようですが、その水準は未知のもののようです。

マンローは最後まで日本語の読み書きも、会話さえ出来ませんでした。このため日本の学者との交流もきわめて限られていて、日本語での文献はほぼゼロ、身の回りの雑事を描いたルポに限定されています。

マンローは深い知的推論と抽象的な概念の理解の能力を持っていました、

彼の日常の活動は特に抽象的なというよりは肉体的であるという事実にもかかわらず、すなわち、彼の患者の治療と考古学的発掘でした。マンローが行った厳密で詳細かつ影響力のある調査の多くは、彼の「予備」の時間(つまり、非稼働時間)に行われたものです。

さらに、マンローや彼の業績の特定の部分に関する作品はたくさんありますが、私の知る限り、本や他の一般的な参考資料はほとんどありません


二風谷での研究活動

マンローと4人目の妻チヨさんは、1930年以降最後の12年間を北海道二風谷で過ごしました。しかし北海道の生活は初めてではありません。以前から何度も北海道を訪れ、アイヌ民族の研究に熱情を燃やしました。

彼はアイヌの人々の文化、言語、民間伝承、伝統、工芸品を考古学的に忠実に文書として記録していました。その間、アイヌの人々に軽費または無料の医療を施しました。

彼は1923年の関東大震災の後、軽井沢療養所で患者を治療するようになりました。これは夏の間、避暑客用に開放され、外国人コミュニティに人気がありました。

マンローは1930年には院長に就任しています。二風谷に居を定めた後も夏の間は軽井沢で診療を行い、そのお金で二風谷のための生活資金や住民のための治療資金を賄っていたようです。


まとめ

マンローは多くの側面を持つ水準の高い知識人です。ここではその多くを簡潔さのために割愛しましたが、もっとも脚光を浴びているアイヌとの彼の関係だけでも、いくつかの日本語のドキュメンタリー、本、展示会の主題となっています。

ここでは非常に初歩的な紹介を死、興味を持つ材料を提供できれば幸いです。そして、マンローへの興味の幅がさらに広がることを期待します。

何千ものマンローが2度の被災で失われました。しかし1923年と1932年の個人の手紙、データ、加工品、資料などがまだ大量に眠っています。

マンローが行った調査は厳密で詳細かつ影響力のあるものでした。しかしそれらはかれの「余暇」を使っておこなわれたものです。だから発表を前提に行われたものではありません。

さらに、マンローの業績の特定の部分に関する研究はたくさんありますが、私の知る限り、彼の生き方や業績を総合的に暑かった書籍はほとんどありません。

これは、スコットランドと日本の歴史に興味のあるすべての人にとって、とても不幸なことです。

マンローが愛し、共に暮らすようになったアイヌの人々に対するマンローの医療は、

アイヌ人々がいまもマンロー博士を忘れず、尊敬し続けている理由はたくさんあると思います。ともに暮らし医療奉仕を行ったことは、その理由の1つにすぎないと思います。

そして将来、両国の研究者は、マンローという人物について思いを同じくし、より深い理解を深めるでしょう。


マンロー「先史時代の日本」梗概

“Prehistoric Japan”, by Neil Gordon Munro 1908, 1st Edition
ph1 munro_1908_cvr

本文 705 pp. 折りたたみ多色マップと421のイラスト

Examples of Illustrations

Figure 395 - Wood Cut, Color Added
Figure 395
見たことのないイラストである。埴輪のようにも見えるが木彫とあり、どこかの寺の陳列物なのか。

Figure 391 Fiigures on an Ancient Bow
Figure 391
これも初見の図であるが、なぜ古代の弓か、分かる人はご教示願いたい。

Figure 400 Biwa
Figure 400

このような見事な美術品が当時はかんたんに入手できたのだろうか。

Contents

序文
A. 無土器時代
第1章 旧石器時代
B. 縄文時代(新石器)
第2章 新石器時代の遺跡
第3章 居住地
第4章 道具と道具
第5章 武器
第6章 陶芸
第7章 食事、服装、社会関係
C. 弥生時代(中級土器時代)
第8章 中級陶器
第9章 いくつかのブロンズの痕跡
D. 大和時代
第10章 大和遺跡と墓地
第11章 大和金属と石の遺物
第12章 大和焼
第13章 大和社会生活と人間関係
第14章 宗教
第15章 先史時代を担った人種
(A.~D.の大時代区分は鈴木の挿入したもの)

奥付(Colofon) 
munro_1908_colofon


この文章は
Pitt Rivers Museum Photograph and Manuscript Collections
のうち
のページを抄訳したものです。

ちょっと感想を。
多少間違っているかもしれませんが、マンローは日本の先史時代を初めて体系づけた人です。彼は先史時代を旧石器時代(打ち欠き石器)、新石器時代(縄文時代)、中間期(弥生時代)、ヤマト時代と区分しました。
そしてそれらの時代の実在を、石器、土器、金属器などで実証し、地層により前後付けました。
第二にドルメンを太古のものとして位置づけ、各地の石造物を一括し系統づけ、その世界史的意味を探りました。
第三にアイヌを日本人の源流の一つとして位置づけ、先史時代にはアイヌがあまねく日本列島に存在したこと、これと渡来民の交流の中に日本人が生まれたと考えました。現存のアイヌ人はこの流れに合流しなかった人々だと考えました。
これらの考えは当時にあって群を抜くものだと思いますが、いかがでしょうか。
ここに彼が発掘したものを見ると、驚くものばかりです。頭飾りやテラコッタなど、日本製のものとしては見たことがありません。間違いなく重文級のものでしょう。
これまでのマンロー関連資料といえば、桑原さんの本をふくめ周辺情報が多く、彼の業績に迫るものは乏しいのです。これからさらに英文資料と格闘を続けることになりそうです。



マンローの紹介

ニール・ゴードン・マンロー(1863年〜1942年)はスコットランド人の医師でした。卒業後、インド・香港を経て日本に定着。1893年から横浜総合病院の病院長を務めました。

マンローは医師の職務以上に、考古学者として尊敬されるべき存在になりました。なかでも横浜市内の三沢貝塚の発掘でその名を知られています(1905–6)

マンローは考古学調査の成果を集大成し、「先史時代の日本」(1908)を出版しています。それは重要かつ影響力のあるものです。

晩年は北海道に住み、二風谷のアイヌコタンにクリニックを開設し、終生を捧げました。

彼は先住民文化の断固たる支持者として活動しました。彼は今でも「アイヌの友人」として愛情を込めて記憶されています。

マンローのコレクションは、スコットランド国立博物館、北海道博物館、大英博物館、ピットリバーズミュージアムなど、さまざまな機関が所蔵しています。

ここで見られる写真はすべて、ニール・ゴードン・マンローが1905年頃撮影したもので、最近発表されたものです。

 Philip Grover:「レンズが捉えた幕末・明治の日本: オックスフォード大学所蔵写真より」(東京:山川出版社、2017)。

この本は、オックスフォード大学のピットリバース博物館の歴史的なコレクションを利用し、日本の初期の写真に関する文学への貴重な情報を追加・提供しています。

著者のフィリップ。グローバーは、博物館の学芸員です。主に明治時代(1868〜1912)に焦点を当て、コレクションのハイライトを紹介します。

これらの重要な資料は初めて海外の視聴者に提供されたものです。

写真1 「日本(先史時代)」というラベルの付いた、深い溝と水路のパターンが刻まれた大きな石の拡大図。
写真1


写真2 平らな風景の中央に見られる大きな(先史時代の)彫刻が施された岩。地元では「カエルの石」と名付けられています。奈良県飛鳥。
写真2

写真3 遺跡として知られている、大和時代の墓地とされるドルメンの入り口。
写真はニール・ゴードン・マンロー。 日本。 1905年頃。
写真3

写真4 マンロー(中央)と日本の同僚(左)が石舞台古墳というドルメンの上に立っている。 奈良県島の庄。 1905年頃(1911年まで)。
写真4

写真5 ニールゴードンマンロによって発掘された陶器の置物。 縄文時代。 横浜市内の住宅地から。
 1905年頃。
写真5

写真6 マンローが発見した「壺」と名付けられた背の高い壺。 やきもの文化としてヤマト文化に属する。1905年頃(1908年まで)。
写真6 

写真7 マンローによって発見された金属製の工芸品。キャプションに「頭飾りの装飾」があり、左側に「型から分離されていない青銅の矢じり」があり、「ヤマト文化」というラベルが付いています。
1905年頃(1908年まで)。
写真7

写真8 ニールゴードンマンローによって発掘されたテラコッタの花瓶。
写真はニール・ゴードン・マンロー。 日本。 1905年頃(1908年まで)。
写真8

写真9 枝と藁で作られたエタ小屋、または屋根のあるピット住居。建設中に撮影したもの。
撮影はマンロー。 日本。 1905年頃(1908年まで)。
写真9

写真10 アイヌの建物、おそらくは店舗で、背後には他のいくつかの建物が見えています。
撮影はマンロー。 北海道。 1905年頃。
写真10


写真11 路上で人力車を置き、その横に人力車の人(車夫)が立っています。撮影はマンロー。1905年頃。
写真11

参考文献

Neil Gordon Munro 「アイヌ:クリードアンドカルト」 B. Z.セリグマン編(ロンドン、1962年)。

ニール・ゴードン・マンロー 「先史時代の日本」(横浜、1908)。

「N. G.マンローと日本考古学:横浜を掘った英国人 N. G.マンローと日本の考古学](横浜、2013年)

「海を渡ったアイヌの工芸:英国人医師マンローのコレクションから<マンロー・コレクションにみるアイヌの技と精神>」(札幌、2002)

ジェーン・ウィルキンソン、「ゴードン・マンロー:日本の考古学と人類学におけるベンチャーズ」、イアン・ニッシュ(編)、イギリスと日本:伝記の肖像(Folkestone、1994)、pp。218–237。 




氷河時代とはなにか

不勉強で、いまだに氷河時代とはなんぞやということが分かっていない。

なぜかと言うと、
①氷河時代の時代区分と地質学的時代区分がかぶっているからである。
②おまけに若いとき習った洪積世・沖積世の言葉が使われなくなり、
③それに代わる言葉が更新世・完新世とえらく難しい言葉になっているからだ。
④さらにこれらを総括する「第四紀」という言葉の定義が、およそ場当たり的なのだ。
知識を整理するには、以上の点を頭においておいたほうが良い。

1.氷河時代(ice age)

地球が誕生して以来、いくつもの氷河時代があった。代表的なものが次の5つである。

ヒューロニアン氷河時代: 約22億年前
クライオジェニアン: 8億5000万年前
アンデス-サハラ氷河時代: 4億6000万年前
カルー氷河時代: 3億6000万年前
第四紀氷河時代: 約258万年前

我々が生きているのは、第四紀氷河時代の間氷期の一つである。

第四紀氷河時代というのは、“第四紀のあいだに起きた氷河時代”の意味である。

それは約260万年前に始まった。ホモ・エレクトゥスがアフリカで誕生した頃である。*

* 第四紀は「人類の時代」と定義されている。より古い原人が発見されると、第四紀の始まる年代もさかのぼる。かつては181万年前以降を第四紀としていたが、現在は258.8万年前からとされるようになった。

2.氷期(glacial period)

氷河時代はいつも寒いわけではない。寒い寒い氷河期とそれほどでもない間氷期に分かれる。

それはミランコビッチ・サイクルと呼ばれる。4万~10万年の周期で交代し、地球の公転軌道の周期的変化と合致する。

第4紀氷河時代は6回の氷期と6回の間氷期からなる。

約7万年前に地球は最終氷期(ヴュルム氷期)に入った。

この時期は出アフリカを果たしたホモ・サピエンスがユーラシア各地に拡散していく時期と一致するため、非常に重要である。


3.最終氷期

約4万年前に、温暖・湿潤期があり現在よりも湿潤であったとされる。

2万数千年前に最寒冷期が襲来し、2千年ほど続いた。
世界で氷床化と乾燥化・砂漠化が進んだ。海水が蒸発して降雪し陸上の氷となったため、海面が約120メートルも低下した。

北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きとなり、東シナ海の大部分も陸地となった。
北海道では永久凍土や氷河が発達し、針葉樹林は西日本まで南下した。


4.後氷期・完新世

最終氷期(ヴュルム氷期)は約11,700年前に終了した。

地球は最後(最新)の間氷期に入った。それは特別に後氷期と呼ばれ、地質学的には完新世と一致する。完新世はかつては沖積世と呼ばれた。


5.これをホモ属に近づけてみると

① 260万年前、第四紀氷河時代が始まった。第4紀は地質学的な更新世と一致する。
このころホモ属からエレクトゥスが分離した。

② 160年前、何回目かの間氷期にエレクトゥスは出アフリカを果たした。彼らがジャワ原人や北京原人という地域集団を形成した。*1

③ 60万年前頃、エレクトゥス同様の経過でハイデルベルク人が発生し主としてヨーロッパに拡散した。

④ 15万年前、ネアンデルタール人がハイデルベルク人の居住区に一致して出現している。*2

⑤ 同じ頃、アフリカにホモサピエンスが登場した。

⑥ 8万年前、最終氷期の開始に前後してホモ・サピエンスは出アフリカを果たした。

*1 ドマニシ原人はエレクトゥスに先行した種という説もある。

*2 ネアンデルタール人は、ハイデルベルク人の子孫とする説もある。

地質学者はきわめて扱いに困る人種である。
一つの事物にいくつもの名称をつけ、いくつもの分類を並立することに痛痒を感じていない。
氷河時代の特徴をいくつも羅列するが、それが本質的なものか、偶発的なものなのかの区別をしない。
地質学の分類の決定的な境目は第四紀だが、第三紀があるわけではない。第四紀は正式名称だが、第三紀・第三系は非公式な用語である。

第四紀とそれ以前を分ける基準は「人類の時代」と定義されているそうだ(日本第四紀学会)。こんないい加減な区分は聞いたことがない。



西遼河文明
            左クリックで拡大(1が西遼河文明)
1.西遼河文明について

西遼河渓谷は、黄河や長江と並ぶ中国文明の発祥地である。

この文明をになった人々については様々な議論がある。

今日この地域に居住する人々をY染色体ハプログループで分類すると、最も一般的なのがO系で、約60%である。これについでC3系の24%、さらにN系が8.5%存在する。

2.最初に西遼河文明をになったのはウラル人

「いかにも」という結果だが、これが掘り出された先史時代人を調べると随分違っている。父系は主として N1(xN1a、N1c)であり、すべてのサンプルの約63%を占めた。

N系人は中央アジアの草原から東西帯状に広がる分布を成しており、その東端に相当すると思われる。

それは新石器時代以前のサンプルで、89%と圧倒的な比重を占め、時代が下るとともに徐々に減少した。

2.中国の漢民族がN系人を駆逐

新石器時代から青銅器時代への移行中に、黄河文明の地帯から西遼河渓谷への人の移動があり、彼らが農業技術を持ち込んだ。

このあと漢民族(O系人)がN1人を凌駕するようになった。

3.青銅器時代後期の文化変容

西遼河渓谷を支配するようになった漢民族だが、その後の気候の変化に反応し、ユーラシアの草原のスタイルに変換し、主に畜産を実践した。

C3系の人々が入り込み、人口の4分の1を占めた。その結果、彼らの生活様式が支配的になったのであろう。

C3系の人々の94%がヤクート族である。


朝鮮半島は中国大陸と同じく中国地塊に属する安定大陸(安定陸塊)で、先カンブリア時代には原型が出来上がっていた。

「新人類」のアフリカ大陸での出現は20万年前で、その一部が「出アフリカ」を果たし世界中に広がったのが、6万年前と考えられる。

一方、日本の関東平野などで旧石器が発見されるのが約4万年前であることから、あいだをとって約5万年前ころではないだろうか。

光州市近辺の石壮里遺跡の最古層から、旧石器時代初期の特徴を特徴を持つ遺物が発見されており、これが朝鮮最古とされている。

朝鮮史では旧石器時代の後、中石器、新石器と分かたれるが、実質的な内容を含まない(すみません。これはきわめて主観的な断定です)

実質的な文明は6千年前(BC4000)の櫛目文土器をもって始まると考えられる。従ってそこまでの時代は人類の空白時代と言える。あえて時代区分をするなら、旧石器時代で括ってよいのではないかと考える。

最初の櫛目文土器は遼河文明から発見されている。遼河文明の担い手はウラル系民族(ハプログループN)であった。

櫛目文土器は半島全域に広がった。しかしこの文明の担い手がウラル系民族であったわけではない。では誰か? もう少し勉強する必要がある。

ついで、3500年前から同じ遼河地域で無文土器の時代が始まる。「ついで」というがむしろ「少し遅れて」とか、「ほぼ同時に」というべきであろう。

多分起源も、担い手の人種も異なっていたと考えるべきでであろう。しかし韓国史学会にはそのような流れはなさそうだ。

崎谷は無文土器文明の担い手を長江人としているが、無理がある。漢民族の流れと考えるのが素直であろう。

中期無文土器時代は遼河地域ではなく、半島中部で発達した。代表となる松菊里文化は、紀元前850年から550年頃に栄えた。

後期に入ると青銅器、終末期の使用が認められるようになる。水田耕作の形跡はなく、北方系由来であることを支持する。

大変ありがたい話で、最近は日本書紀も今昔物語もネットで読めてしまう。関係者のご努力に心から感謝する次第です。

というわけで、今回は今昔物語集175「陸奥国の安倍頼時、胡国に行きて空しく返りし語というもの。

今は昔、と始まるが、これでは困る。解説では11世紀なかばと書いてあるから、およそ1050年ころの話だ。

前九年の役と安倍頼時

ウィキでこの頃の日本を見てみると、平安時代の中期から末期にあたる。唐はすでに滅び北宋の時代だが、北方の諸国が勢いを増している。

東北では10年にわたる前九年の役が戦われている。ウィキによるとこの頃、安倍氏は陸奥国の奥六郡をおさめ、半独立的な勢力を形成していた。彼らは「東夷」として蛮族視されていた。

これを快く思わない朝廷は安倍氏の懲罰を試みた。1051年、朝廷軍と安倍頼時は玉造郡鬼切部で戦った。闘いは息子貞任の率いる安倍軍が勝利し、朝廷は頼時に大赦を与えた。

このあと陸奥守となった源頼義は、安倍氏を挑発して戦争を起こした。1056年のことである。翌年安倍氏は主君頼時を失うが、子貞任が黄海の戦で頼義軍を撃破した。頼義は供回り6騎で命からがら逃れたという。

1062年に再び兵を起こした源頼義は、出羽の俘囚清原氏を味方につけ、今度は安倍氏を圧倒した。しかし朝廷は源頼義を快く思わず、清原氏に奥州の支配権を与えた。

安倍頼時と今昔物語

それで、安倍頼時の氏素性は分かった。それで頼時がなぜ今昔物語に登場するのかと言うと…

頼時は頼義に襲われ命を落とすのであるが、その前にかなり長い雌伏の期間をおいたらしい。そしてそのときに胡国に一時避難したようなのだ。

これは多分一つの解釈に過ぎないと思うが、とにかく1050年代に起きた長い戦争の間に、頼時は北海道まで逃れたことがあったということになる。



前置きはこのくらいにして

巻第三十一 第十一 「陸奥国の安倍頼時、胡国に行きて空しく返りし語」

今は昔、陸奥国に安倍頼時と云ふ兵(つはもの)ありけり。

その国の奥に夷(えびす)と云ふものありて、…陸奥守をつとめる源頼義を攻めようとしたり…

安倍頼時、その夷と心を同じくしたとの情報ありたり。

源頼義は、安倍頼時を攻めむとしけり。

頼時はこう言った。

「古より今に至るまで、朝廷のせめを蒙る者その数あったが、未だ朝廷に勝ちたる者一人も無し。然れば、我にあやまり無しと思へども、せめを蒙れば、遁るべき方は無い。

しかし、この地の奥の海北の方に、かすかに見渡さるる地があるなり。

其処(そこ)に渡りて、一帯の状況を見て、良さそうな所ならば、渡り住みなむとおもう。

ここにていたづらに命を落とすよりは、我を去りがたく思はむ人をありったけ集めて、かしこに渡り住みなむ」

そこで頼時は

先づ大きなる船一つを調(ととの)えた。それに乗りて行きける人は、 頼時の他に、子の厨河(くりやがは)の二郎貞任(さだたふ)、鳥海(とりうみ)の三郎宗任(むねたふ)、その外の子ども、亦親しく仕へける郎等二十人ばかりなり。

さらに その従者ども、亦食物などする者、取り合はせて五十人ばかり 一つ船に乗りて、暫く食ふべき白米、酒、菓子(このみ)、魚鳥など皆多く入れしたためて、船を出して渡りけり。

その見渡さるる地に行き着きにけり。

遙かに高き巌の岸にて、上は滋(しげ)き山にて登るべき様も無かりけり。
そこで
山の根に付きてさし廻ると、左右遙かなる芦原にてありける。大きなる河の港を見付ける。

河は底(そこひ)も知らず、深き沼のやうなる河なり。
人や見ゆると見けれども、人も見えざり。遙かなる芦原にて道踏みたる跡も無し。


人気(ひとけ)のする所やあると、河を上(のぼり)つ。なほ人の気はひも無く同じ様なりければ、三十日さし上りにけり。

その時に怪しく地の響きたり。芦原のはるかに高きに船をさし隠して、葦のひまより見つ。

ここで胡国の騎者が登場する。

胡の人、うち続き数も知らず出で来にけり。千騎ばかりはあらむとぞ見えける。
河の端に皆うち立ちて、聞きも知らぬ言葉どもなれば、何事を云ふとも聞こえず。

 

歩(かち)なる者どもをば、馬に乗りたる者どもの傍(そば)にひき付けひき付けつつぞ渡りける。


頼時らは考えた


「こんなところまで上るとも、途方も無き所なり。これほど自然(おのづから)事にあひなば極めて益無し。食物の尽きぬ前に、いざ返りなむ」


それよりさし下りて海を渡りて本国に帰りにける。
その後、幾程も経ずして頼時は死にけり。


という物語を、頼時の子の宗任法師が語ったそうだ。

宗任は筑紫に居たそうだから、囚われの身となって流されたのだろう。



どうも流石にそのまま信じる気にもなれない。人跡未踏の果てしなき湿原地帯であれば、到底1千騎の騎馬部隊とその数倍の徒士の集団を養えるはずがない。

北上川は大河であり、これにまさるような河は石狩川しかない。

ありうる想定とすれば、蒙古の大軍が樺太から北海道まで進出し、アイヌと相まみえたということになるが、蒙古側にその文書的情報があるとは聞かない。

緋縅の赤がきわめて鮮烈な名場面である。黒沢明の映画を見るようである。平家物語のように琵琶法師によって歌い継がらたものではないだろうか。

おそらく騎馬部隊の話は宗任法師が子供時代に見た朝廷軍の記憶であろう。北上河畔には広大な湿地帯が広がっていただろう。それは父が殺され、自らも俘囚となる恐ろしい体験だったろう。

ただ宗任は貞任の弟で鬼切部の戦いにも参加したベテランだから、朝廷軍は恐ろしいだけの幼児体験ではない。此のへんはよくわからないところだ。







李成市(り・そんしと読む。早稲田大学文学学術院)

李さんはなかなか慎重な人で、簡単に尻尾を掴まれるようなものの言い方はしない。あくまでもその専門分野でのエキスパートとして、その矩は越えないように努力してるようだ。
それでも十分にその説は魅力的である、


1. 東アジア世界論における漢字の伝播と受容

西嶋定生は、漢字を媒介に、中国に起源する儒教、漢訳仏教、律令を受容した地域を「東アジア文化圏」と名づけた。

西嶋によれば、東アジアは政治的には「冊封体制」としてシステム化された。この二本柱によって「東アジア世界」が形成された。

しかしながらこの論理は成り立ち得ない。いかにその理由を述べる。

2.東アジア文化圏における例外としての新羅

6世紀以降の新羅は漢字を受容していた。それは中国の冊封を受ける以前からであった。これは「東アジア政治システム」からでは説明できない。

さらに言えば、新羅は純粋な漢文(正格漢文)ではなく「変体漢文」とよばれる新羅的な様式を用いていた。

それは新羅言葉を文字として表現するために、漢字を用いる試みである。それは漢字文化であっても、漢文文化ではない。

このような傾向は法制、儒教、仏教の受容にも同じように見られる。

3.韓国と日本の木簡

現在日本の木簡は、37 万点の出土がある。
中国で木簡が大量に使用されたのは秦漢時代である。日本で使われ始めたのが7世紀なかば、大化の改新ころからなので、長い間隔がある。

最近韓国での木簡出土が増えており、その内容が日本のそれと酷似していることが分かってきた。このため日本木簡の源流を韓国に求めるようになってきた。

問題は、このような類縁関係を生み出した要因である。

百済・新羅木簡の出現は、日本木簡に比べ1世紀ほど先行している。この文字化の流れがどこからどこへ流れているかは、おのずから明らかであろう。

「古代日本と古代朝鮮の文字文化交流」の学習ノートを作ろうと思ったが、途中でやめた。

そもそも冒頭論文の李成市「概説 古代日朝文化交流史」をパラパラとめくってみて、これは面白そうだと買ったのが、家に帰ったらおもしろいのは概説だけだったという笑い話だ。

前記記事では意気込んで、
やっと、見つけた。
「とんでも本」でなく、イデオロギーむき出しでもなく、朝鮮側と日本側の歴史を真面目に照合した文献。ちなみに緒論を書いた李成市さんは名前は朝鮮人だが、日本の学者。
と書いた手前、李成市さんの文章だけはちょっと説明しておく。日本の学者というのは在日韓国人の研究者で、日本で学問的素養を積んだという意味である。

はじめに

古代における日朝関係は多元的・並行的である。
日朝関係というより朝鮮三国+倭の4か国関係史と考えたほうが良いのかもしれない。
その際、任那・伽耶の扱いが微妙になるが、事実に即して慎重に議論していくことにする。

というのが李さんの所論、大いに同感である。

1.百済と倭国の交流

高句麗が漢城に都を構え南進してきた。
漢城付近に住む人々が、高句麗の南進に対抗するために百済国を形成した。

漢城というのが曰く有りげだ。平壌というなら旧楽浪郡であり漢人と交わった現地人が住んでいたはずだ。その時漢城付近が楽浪の一部だったか、帯方郡だったのかは微妙だ。

2.高句麗と倭国との交流

好太王の頃は倭と南朝鮮の覇を争ったが、6世紀の中頃には落ち目になって、新羅に漢城(ソウル)を奪われている。

おそらく百済と反新羅連合を組み、百済のよしみで倭国にも使節を派遣していたのだろう。ただしそれは倭王朝がすでに消滅し大和王朝が倭国の支配権をにぎったのちである。

この他多くの高句麗人が聖徳太子の元を訪ねた
とされている。聖徳太子は百済とつながる蘇我氏と対抗しようとしたと言われる。
経路は不明だが、日本海側領土の大半はすでに新羅に制圧されていることから、反新羅連合を組んだ百済からであろう。

3.新羅と倭国との交流

591年に新羅が倭典(倭国との外交機関)を設置したという記載があるが、その後はすべて白村江以降の話になる。

その姿は、憎々しいほどに余裕たっぷりである。表向きは日本を立ててはいるが、任那を滅亡させ白村江でも日本軍を壊滅させ、唐の大軍を撃退した新羅の実力は揺るぎないものがある。

それに引き換え、日本は君臣の礼を強要したり、駄々をこねて使節を追い返したり、やることがガキである。いまの首相に似ていなくもない。

とりあえず、いまの私の関心域からは外れるので、内容は省略する。

以下は私の感想だが、

一つは、多元的・並行的に加え、重層的であるということも付け加えたほうがいいのではないか。

半島では古朝鮮族が基本的には駆逐され、消滅している。おそらく南部では日本人に近い遺伝子組成の人々がいて、それが三韓の消失に時をあわせて、記憶の底に沈んでいったのではないか。

それに代わり、中国東北部に出自を持つ人々が多数を占めるようになった。

三韓→三国時代→新羅という半島南部の政治過程は、その民族移動過程の上に乗っかっているのではないだろうか。


やっと、見つけた。
「とんでも本」でなく、イデオロギーむき出しでもなく、朝鮮側と日本側の歴史を真面目に照合した文献。ちなみに緒論を書いた李成市さんは名前は朝鮮人だが、日本の学者。


古代日本と古代朝鮮の文字文化交流」という題で歴博のシンポの記録のようだ。

とりあえず下記年表に追補する形でファクトを拾っていくことにする。


これは下記記事の増補版となっている

ただし、「抜き」とはいっても日本書紀に対応する事実があるものは、注記の形で載せている。


BC108 前漢の武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪、真番、臨屯、玄菟の4郡を東北に置く。

BC82 前漢、行政区画を変更。真番郡を楽浪郡に併合、臨屯郡は廃止。臨屯郡も事実上廃止され、吉林省方面に改めて設置。その後遼東郡に吸収される。

0年頃 楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来りて献見す。各々が楽浪郡と通交。(後漢書)

25 後漢の光武帝が即位する。

30 漢の支配力が弱体化する。中国人系の豪族が楽浪郡で反乱、半年以上にわたり占拠。

49 倭・韓が漢王朝に朝貢。(この「倭」は文脈から見て朝鮮南部の国との説あり)

57 倭の奴国、後漢の光武帝より「漢委奴国王」の金印を賜る。

107 倭国王帥升、後漢の安帝に生口160人を献上。

132 高句麗、遼東郡で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害。

168前後 倭国の大乱(後漢の桓霊間とされる。桓帝から霊帝への交代が168年)。

189頃 80年の戦乱の末、和平が成立。卑弥呼が擁立される。(霊帝の治世は189年までであり、それを降ることはない)

204 遼東太守公孫度、後漢の放棄した楽浪郡に進出。その南方に帯方郡を開設。「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」と布告する。公孫度は元は嶺東玄菟郡の太守であった。

 楽浪郡が平壌を中心とした平安南道にあたることはほぼ確定。帯方郡は前漢時代の真番郡に相当し、開城を中心とする黄海道一帯を指すとされる。

220 曹操の子曹丕、魏を興す。遼東太守は魏へ恭順。

234年 百済が帯方郡南方に国家形成。(三国史記で、百済の古爾王が即位したとの記載あり)

 当初の根拠地はソウル周辺と考えられる。公孫淵からは自立した一国家としては認められていない。百済の支配者はもとは扶余(高句麗北方)からの流れ者だった。

237 遼東太守の公孫淵、独立を宣言。燕王を自称する。帯方郡も楽浪郡も燕に属する。

237 新羅本紀に倭女王卑弥呼が新羅に遣使したとの記載あり。

238 魏が高句麗の支援を得て遼東の燕を滅ぼす。公孫淵は斬首に処せられる。魏はさらに海路南進し、楽浪・帯方の両郡を魏の直轄地とする。倭と韓(東濊・韓族)は帯方郡に服属する。

239 卑弥呼が魏(帯方郡)に朝貢使の難升米を派遣。難升米はさらに洛陽まで派遣される。卑弥呼には「親魏倭王」(倭の親魏派の王)の称号が贈られる。

240 帯方郡太守、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送る。

244 卑弥呼、二度目の朝貢。大夫伊聲耆、掖邪狗らが魏に赴く。

245 帯方郡太守、嶺東へ遠征して東濊を討つ。これに伴い、嶺東地方一帯の管轄権が一括して楽浪郡に移動。帯方郡が所管していた辰韓八国が楽浪郡へ編入される。

245 これに抗議する辰韓が反乱。帯方郡太守を誅するが、反乱は敗北に終わる。
(このとき生じた環日本海地域の“反魏感情”は、親魏を公称する馬韓・倭国との関係にも影響を及ぼしたかもしれない)

247 帯方郡太守、倭の使者の載斯烏越から狗奴国との交戦の報告を受ける。太守自ら上洛して官の決裁を仰ぐ。魏朝政府は帯方郡所属の武官、張政を邪馬台国に派遣し、少帝の詔書と黄幢を渡す。

248 卑弥呼が没する。倭国再び乱れ、台与を女王となす。張政は台与を励ます。台与は即位当時13歳とされる。(張政は狗奴国の撃退、卑弥呼の死、後継男王の失敗、台与の就任のすべてにかかわったことになる)
248 国中遂に定まる。壱與は張政らの還るを送らしむ。さらに張政に掖邪狗らの使者を同行させ朝貢。

265 魏の禅譲を受け晋(西晋)が起こる。

266 晋に倭の壹与が朝貢。この後、倭王讃による朝貢(413)まで中国の史書から倭国の記載は消失する。(この朝貢は日本書紀に神功皇后の挙?として示されている)

274 晋、平州5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を設置。

300 晋王朝、内紛から混迷状態に入る。混乱に乗じて匈奴が洛陽を占領。

313 高句麗が楽浪郡を占領。これに伴い帯方郡も崩壊(晋派の政権そのものは400年頃まで存続)。
三国時代地図

316 五胡十六国時代が開始。記録のない「謎の4世紀」へ。

317 江南地方に晋(東晋)が再建される。

340 百済王は太子を倭国に送って人質とする。

346 近肖古王が即位。新羅と同盟し、高句麗と戦う。

356 奈勿尼師今が新羅国王に即位。新羅の実質上の建国。

369 高句麗、百済を攻める。倭の支援を得た百済は雉壌城(黄海南道白川郡)へ進駐した高句麗兵を急襲。5000の首級を挙げる。

371年 近肖古王の率いる百済軍、高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させる。

372年 百済は東晋に朝貢。鎮東将軍・領楽浪郡太守に柵封される。

375 百済、「七支刀」を作成し、倭王に贈与する。これが石上神宮に伝存するものである。

古事記には応神天皇の時代に百済の照古王が和邇吉師を貢上。和邇吉師は論語十巻と千字文一巻を持参したとされる。

377 新羅が前秦に朝貢。新羅の前身が辰韓のひとつ斯盧国であると陳述。

384 百済、東晋から僧侶を迎え仏教導入。

391 倭が渡海し、百残・?・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391 倭国が百済北方まで進出し高句麗と戦う。(好太王の碑文)

391 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

394 倭大王崩御。倭の将軍一部の将兵を残し、帰国する。高句麗は百済を攻め、帯方を奪回。百済を臣下とする。

396 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397 百済は王子を人質として倭に送り通好する。

397 百済王、倭に従わず。倭は百済領土を侵す。百済は王子直支を倭におくり和を講う。

399 新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

400 倭は百済と連合して新羅に侵入。高句麗はこれと対抗し、新羅から倭軍を撃退。

404 倭軍が帯方界に進入するが、高句麗軍の前に多大の犠牲を出し敗退する。(広開土王碑)

405 百済王死去。倭国で人質となっていた王子が帰国し即位。

406 後燕王、自ら遼東に侵攻したが、勝てずに帰った。

413 広開土王が死去。

413年 東晋は高句麗王を「高句麗王・楽浪郡公」に封じる。

413年 高句麗・倭国および西南夷の銅頭大師が、東晋(安帝)に貢物を献ずる(普書)。南史倭国伝では倭王讃が使いを遣わして、朝貢したとされる。

414 倭、百済に援軍を送り、高句麗に侵攻す。(広開土王の碑文)

416 百済王、東晋に使者をおくり、「使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」の称号を下付さる。

420 東晋の政権禅譲を受け、宋が興こる。南北朝時代開始。

420 高句麗が宋に朝貢し「征東大将軍」、百済も朝貢し「鎮東大将軍」を下付される。

421 倭王讃、宋に遣使、武帝より「安東将軍倭国王」の位を除授される (『宋書』倭国伝)

425 倭王讃、司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。

427 高句麗、平壌へ遷都。王都を大城山城に定める。百済に圧力をかける。

428 倭国、50人からなる使節団を百済に派遣。(三史)

429 百済王、妹の新斉都媛(池津媛)貢進する(日本書紀応神紀)

430 倭国、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(『宋書』文帝紀)

435 高句麗、(宋ではなく)北魏に入貢する。

438 倭王讃が没し、弟の珍が即位。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。

438 4月 宋文帝、倭王珍を安東将軍倭国王とする(珍の自称を認めず)。倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に任命することは許される。(こちらは『宋書』倭国伝あるいは夷蛮伝となっているが詳細不明)

439 北方民族の鮮卑が華北を統一。北魏を建てる。

443 倭王済が即位。宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』倭国伝)

450 高句麗、新羅を攻撃。

451 倭王済、宋に朝貢。朝鮮半島における失地の回復を所望する。「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・倭国王」と加号される。

451年7月 宋の文帝、倭国からの朝貢に対し、「安東将軍」から「安東大将軍」への進号を認可。さらに一行23人に対し軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)

460 倭国、宋の孝武帝に遣使して貢物を献ずる。

462 百済武寧王、九州の島で生誕。(この記事は日本書紀にも記載)

462 倭王済没し世子興たつ。興、宋に朝貢。宋の孝武帝、済の世子の興を(格下げして?)安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)

471 稲荷山鉄剣がこの年作成される。(辛亥年)

472 百済、北魏に入貢し、高句麗に対する帥を乞う。

475 高句麗が百済の首都、漢城を占領。蓋鹵王を殺害。百済はいったん滅亡。その残党は公州の熊津まで後退し、新たに都とする。

477 百済で佐平、解仇が反乱。文周王を殺して三斤王を擁立。翌年にはさらに三斤王に対しても反乱を起こすが失敗、鎮圧される。

477 倭国、宋に遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)。
これより先、倭王興没。弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭国伝)日本書紀ではこの2年後に雄略は没している。

478 後継者の武が、宋の順帝に遣使。
「昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し寧所にいとまあらず」の書き出しの上表文を送る。自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。
上表文では朝貢が滞った理由として①高句麗が百済を攻めるために朝貢路が確保できない。②高句麗との戦闘準備中に父済と兄興が急死した、ことをあげている。

478 順帝、「持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭王」の称号を賜る。(百済を含むか否かについては諸説あり)

479 宋の政権禅譲を受け、南斉が起こる。

479 倭王「武」南斉建国を祝って使いを遣わす。南斉の高帝は倭王武を安東大将軍から鎮東大将軍に進める。(『南斉書』倭国伝)

481 高句麗軍がさらに南進。百済・伽耶・新羅の連合軍は泥川の闘いで撃退する。

487 紀生磐(きのおおいわ)宿禰、任那で高句麗に通じて三韓の王になろうとする(憲宗紀)

491 高句麗軍、新羅に攻めこむ。百済は新羅に加勢して高句麗軍を撃退。

496 伽耶が新羅に白雉を送る。

498 百済が済州島(耽羅)を支配下に入れる。(これは日本書紀では継体2年とされる)

501 百済、新羅に対する警戒を強め、国境に柵を設ける。

502 武寧王が百済に戻り即位する。新羅を一大国と認め、連携して高句麗に対抗する戦略をとる。

502 南朝に斉に代わり梁が成立。北魏の混乱・衰退に乗じて華北に進攻。

502 倭王武、梁王朝樹立にともない朝貢。鎮東大将軍から征東大将軍に進号される。(『梁書』武帝紀)。伽耶諸国の荷知王も梁に遣使。

502 百済の武寧王も梁に朝貢。梁の「支持」を背景に伽耶諸国への進出を図る。

502 倭国、百済の「要請」を容れ、任那4国を割譲(百済本紀に基づく記述とされる)。

503 麻立干、智証王を名乗り新羅を正式国名とする。

503 伴跛(はへ)国、百済の一地方を奪取。伴跛は任那の一国であり、4国の百済割譲を肯んじなかったとみられる。

505 伴跛国、倭国と敵対し戦火を交えるに至る。

505 新羅の第一次対外膨張が始まる。海岸沿いに北上。

513 百済より倭国へ五経博士が来る。五経博士は3年間の交番制で、段楊爾、漢高安茂らが来日する。後に五経の他、医、易、暦などの博士に拡大。

517 近江毛野臣の軍が派遣される。(継体21年の事項。継体初年を497と仮定した場合)

521 新羅が百済に伴われ、梁に初の遣使。

522 新羅が伽耶を影響下に置く。新羅貴族の娘が伽耶国王に嫁す。

523 新羅の法興王、南方の支配域を巡行。伽耶国王はこれに出向き拝謁。

524 新羅、北方の蔚珍(悉直国)を併呑し悉直州を置く。(金石文あり)

新羅の膨張

532 金官国(金官伽耶)が新羅に投降。

538 百済の聖明王、都を熊津から泗沘(扶余)に移す。「周書」、百済に僧尼・寺塔甚だ多しと伝える。

538 仏教公伝の年とされる。552年説もある。

552 高句麗、これまでの大城山城に代え、長安城の築城を決定。新羅の進出に備えたものとされる。

553 新羅、漢山地域(高句麗が百済より奪った地域)を奪取。新州を置く。556年にも百済、伽耶の領土を侵食。

553 日本書紀によれば、倭国が百済に馬、船、弓箭を贈り、卜書、薬物の送付を要請。

554 百済と加良が新羅の管山城を攻撃するが敗退。百済の聖王が戦死する。

554 倭国、百済救援のため新羅に出兵する。

561 新羅、安羅の波斯に築城し、倭軍と対決の構え。

562 大伽耶国が新羅に滅ぼされる。伽耶諸国全域を新羅が征服。

564 新羅、北斉に遣使し冊封される。

568 新羅、東海岸を北上。現咸鏡南道まで版図を拡大。

586 高句麗が大城山城に代え長安城に遷都する。

589 隋が中国を統一。

591 新羅に倭典(倭国との外交機関)が設置される。

595 高句麗の嬰陽王、僧慧慈を日本に派遣。慧慈は20年にわたり聖徳太子に近侍した。
冠位十二階は高句麗の制度を輸入したものと言われる。




征韓論の思想的背景

征韓論の動きは現在の安倍政権の行動ときわめて類似している。

① 朝鮮側に落ち度はない
最大の類似点は、朝鮮政府側に、少なくとも武力干渉を受けるような落ち度はまったくないということである。
もっぱら日本政府側が難癖をつけ、それを口実に韓国に口出しし、手出ししようとしていることである。

② 日本側には下心がある
もう一つの類似点は、日本側の行動の理由が下心があってのものだということだ。朝鮮のためとか東アジアのためとかいうのはおためごかしに過ぎない。
初期の木戸孝允らがあけすけに語っているように、それは戊辰戦争後の失業武士や兵士の不満の、イデオロギー的はけ口として期待されている。もちろんそれは成立したての新政府の基盤強化に役立つであろう。

③ 朝鮮は橋頭堡
そして三つ目の類似点が、真の敵である中国やロシアなどとの衝突に備えた橋頭堡としての朝鮮半島の確保である。
これらを一言で言えば、軍国主義・帝国主義の強化だ。

④ 帝国主義時代の世界政治の論理
大久保も木戸も西郷と変わるところはない。その攻撃性においてまったく一致している。それをいかに実現するかという手法の違いだけだ。
平たくいうと「食われないためには食うしかない」ということで、それが19世紀後半の世界政治の論理だったというほかない。ただ、「朝鮮人民にはまことに相済まないことであった」という反省は持たなければならない。これがないと、いくら未来志向と言っても、そもそも話は始まらない。


をご参照ください。

1.忽然と消滅した四突墓人

というわけで、「虎は死して皮を残す」と言うが、彼らは皮しか残さなかった。

もし彼らが朝鮮半島から来たのだとすれば、上陸後の経路は異様である。彼らは天孫族が九州に上陸したのと同じく、紀元前2世紀ころに島根県浜田近辺の海岸に上陸(漂着?)した。

天孫族が先住民と戦いそれを支配下におさめたのとは異なり、彼らは何かを恐れるかのように一目散に山に入って行った。そして安芸の山中で山賊のような暮らしを始めた。

そもそも文化生活にあまりなじまなかった集団であったのかも知れない。それが島根の山中で砂鉄を見つけ鉄器を装備したのかも知れない。こうして彼らは150年の眠りから覚め、ムキバンダでもう一つの四突墓文化を開かせた。

2.四突墓文化の一貫説には無理がある

当初は三次→むきばんだ集団移住説を考えてみたが、多分無理だろう。
紀元前150年ころに三次で開花した草創期の四突墓文化と、紀元50年ころからむきばんだで始まった四突墓との間に連続性はあるのかと言われると、あまりに長過ぎる。
そこには200年もの時差があり、むしろ第一波はそれで絶滅し、第二波として渡来した人々がむきばんだに拠点を形成したのではないかという気がする。
三次とむきばんだを連続事象とし、突然の強大化を説明するためには、出雲山中でのたたら製鉄の展開が前提とならなければならないが、考古学的にはそれは6世紀のこととされている、そのような可能性は低いようだ。

3.最大の足跡は青銅器文明の破壊

荒神山にはあらゆる銅製品が埋められ、放棄されている。私はこれは四突墓人集団によるしわざと見ている。

彼らは鉄器文明のもとで育ったまったくの異文化人だったから、青銅器は祭祀道具にしか見えなかった。だから彼らは青銅器信仰を拒否し、実用性ゼロの青銅器を惜しげもなく捨てた。それが銅鐸であろうと、銅剣であろうと、銅鉾であろうと、それはどうでも良かった。

4.スサノオ一族との時間的関係

私はこれまで、銅製品を埋めたのはスサノオ一族、すなわち天孫系出雲族と考えていた。実は彼らは3世紀はじめに大和に入ったとき、銅鐸を廃棄しているのである。

ただご承知のように銅鐸信仰と銅剣・銅矛信仰とは同一ではない。銅剣・銅矛信仰はむしろ天孫族の信仰であった可能性もある。

スサノオ一族はたしかに長江系の渡来人やそれと縄文が混血した弥生人とは異なる。しかし天孫系はそれなりに青銅器文明を受け入れていた形跡がある。
九州では銅鐸の普及はないが銅剣・銅矛はそれなりに普及していた。少なくとも天孫系はそれを排除していなかった。

四突墓を特徴とする征服者集団、銅鐸であろうと銅剣であろうと、要するに青銅器を媒介する信仰へのあからさまな敵意、青銅宗教を抹殺する強い意志があったと見られる征服者集団は、天孫族・出雲系とは異なると見なければならない。

もう一つは、伝承の範囲内でしかないのだが、天孫族・出雲系は高天原系に国を譲ったのであり、山から飛び出してきた異形の衆に滅ぼされたわけではないということだ。
すると、この2つのエピソードの間には時差がある。しかも国譲りが先行しているという関係になる。

5.九州の倭王朝支配が復活

武器の優位性のみを背景にして、青谷上寺地の人々を皆殺しにした殺し屋集団は、鉄器の普及が進むと優位性を失い、紀元250年を最後にして忽然と姿を消した。

墓地を除けばなんの跡形も残さなかった。それに代わるように九州の倭王朝がまた戻ってきて、何事もなかったように統治を続けた。もともとここは九州王朝の支配地だった。彼らは出雲族を駆逐し九州から山陰までを支配下に収めたのだ。


4.天皇家という旧出雲族の支配が復活

そして、100年後に、出雲は東からやってきた大和軍に破れ、服従するようになった。

出雲の征服は日本書紀では崇神天皇の時代だが、古事記では景行天皇の時代に「倭建命」が出雲建を殺したという記述と重複している。いずれにしても4世紀中頃のことと推量される。

注目されるのは、当時出雲を仕切っていた出雲振根は筑紫王朝に臣従する人物であるということだ。しかもこの頃、出雲において大和が九州の力は拮抗し、徐々に大和優位に傾きつつあったということになる。

これはなんとも不思議な因縁で、大和軍は神武の末裔と言いながら、実体は大物主の流れをくむ旧出雲系であった。それが旧出雲系を駆逐した倭王朝系の勢力を屈服させたことになる。例えば物部という氏族は、元は浜田の物部神社あたりの豪族であったのだろう。


さて、ということで
いよいよ四隅突出型墳丘墓だ。面倒なので四突墓と略す。

1.四突墓とは何なのか

ウィキの定義から始めよう

弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制である。日本海側を中心に約90基が確認されている。
四突墓歴史
            左クリックで拡大します

弥生中期後半 広島県の三次盆地の四突墓が最も古い例とされる。

前方後円墳に先行し、弥生後期後葉には美作・備後の北部地域に拡大した。少し遅れ能登半島などで造られている。

同じ四突墓でも山陰と福井~富山では様式に違いがあり、渡来した種族や時期に多少の異同があったかも知れない。

吉備の楯築墳丘墓はほぼ同時期に存在したと想定される。埋葬施設も楯築墳丘墓と同じような構造の木槨墓となっている。
四突墓の分布2
             四突墓の分布
副葬の土器は吉備、山陰東部や北陸南部のものが大量に混入している。特徴的なのは、弥生時代に吉備で作られた特殊器台が多くを占めることだ。

2.誰が建てたのか

ヤマト王権以前に成立した王権(出雲王権)を想定する説もある。

四隅突出型墳丘墓の原型は高句麗にあるとの見解が主流である。高句麗に押し出された朝鮮半島東岸(北方系)の人々が半島伝いに南下し、出雲に到来した可能性が強い。

弥生後期には出雲の西と東に大きな四突墓が集中しており、そこに大きな政治勢力があったと推定されている。

西谷墳墓群を中心とする四突墓は、古墳時代に入ると止まり、これに代わり東部安來の方墳が発達する。

安来市には大型の方墳が集中しているが、これは四突墓の延長線上の様式とされている。


3.弥生時代の区分と四突墓


BC100-AD50頃 Ⅳ期(弥生中期後半) 広島の三次盆地を中心に初期の四突墓が出現し始める。

AD50-180頃 Ⅴ期1,2(後期前半) 伯耆・因幡に建設地が移動する。

妻木晩田の洞の原遺跡が出現(2号墓)。伯耆地方に拡大
規模も少しずつ大きなものが造られるようになり、突出部も急速に発達していった。

AD180-AD250頃 Ⅴ期3~4(後期後半)
分布の中心は出雲に移る。北陸地方などにも広がる。
墳丘の一層の大型化。
西谷3号墓では、吉備や北近畿の土器も大量に備えられる。

このあとⅥ期に入ると北陸にも広がる。
さらに古墳前期には東北にも四突墓が造営される。
しかし山陰では、四隅突出型墳丘墓は、まったく造られなくなる。



藤ノ木古墳の不思議

とにかく不思議だ。2つの不思議が重なっている。大和の権力がなぜ突然にこのような富を手に入れたか、そしてもう一つは考古学者や歴史学者がなぜこの不思議にメスを入れようとしないのかということだ。

ふつう常識的に考えれば、このような究極の富の退蔵はしない。子孫が有効活用の道を考えるかあるいは血なまぐさい分捕り合いになるはずだ。

私は、これは海賊の船長が人知れず金銀財宝を隠しおおすお話に比較するしかないと思う。つまりこれらの財宝はどこかで誰からか強奪したとしか考えられないのである。

とすれば、これだけの財宝を持つ王国がどこかに存在して、それがある時期に崩壊して、略奪のままにさらされたということである。

それはいつのことだろうか。藤ノ木古墳の建造は6世紀後半とされる。その根拠は少し勉強しないとならないが、とりあえずはそのまま受け入れよう。

6世紀後半といえば、年数では550年から600年である。この間に任那が滅び、倭王朝も完全に姿を失った。そして歴史的には空白の50年が始まる。

しかし日本はこの50年でガラッと姿を変える。舞台が暗転していきなり次の場へと姿を変える、というより日本がその姿を表すのだ。

この時代の日本(大和)は荒々しい。文字もなく歴史もない。あるのは有り余るほどの富だけである。いわば略奪バブルだ。

黄金や碧玉はそれ自体が富である。しかし象徴としての富でもある。未開人にとってはたんに美しいと言うだけの存在だ。だからそのまま埋めてしまってもなんにも惜しくはないのだ。

継体天皇から安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇と訳の分からない天皇が相次ぐ。そして飛鳥時代に入り一気に文化の時代に移っていくのである。それが暗黒の中の富の移動と並行して進んでいく。

この時代の主役は間違いなく蘇我一族なのだが、この連中の出自がさっぱり分からない。

はっきりしているのは、九州王朝の余りある富を大和に持ち込んだのが蘇我であるということだ。
どうやって? 強奪して? 火事場泥棒で? それとも蘇我そのものが九州王朝の末裔なのか。

とにかく九州王朝の遺産がごっそりと大和に移った。その分け前をめぐり、蘇我・斑鳩という勝ち組と物部・大伴らの既成勢力との間に闘いがあった。

それは蘇我・斑鳩の圧勝に終わった。蘇我はそもそも飛鳥の馬の骨だったが、九州王朝の威光も背後につけ斑鳩とつるむことで圧倒的な政治力を手に入れた。

これが5世紀後半の政治状況だったのではないだろうか。

宗像大社

宗像神社、厳島神社などの総本社である。
伊勢神宮、出雲大社と並び、貴の称号を持つ。

沖ノ島からは縄文時代からの遺物が発見されている。

1.海北道中の守護

釜山・宗像間の海路は「海北道中」と呼ばれ、これを守護するのが神社の最大の勤めであった。
そもそも「海北道中」はどのようにして形成されたのか。
時期的に見ればそれは天孫族の手によるものではない。天孫族が朝鮮半島南部に進出するのは、早くとも紀元前500年、衛氏朝鮮の時代である。
紀元前3世紀になると、衛氏朝鮮が漢により滅ぼされ、残党がさらに南に逃げ込むことで、百済ができ、馬韓など三韓地方北部に華北系民族が進出してきた。

このころすでに渡来系民族は大量に海をわたり、北九州に米作文明を伝えている。その渡来民によって「海北道中」は開拓されたのだ。沖ノ島から縄文時代からの遺物が発見されるのはそのためだ。

2.海北道中は天孫族に奪われた。

天照大神と素戔嗚尊の誓約の際、天照大神が素戔嗚の剣を噛み砕き、プッと吹き出した破片から生まれたのが宗像三女神である。

そもそもなぜ誓約を交わしたか。それはスサノオのイザナギに対する裏切りの密約である。

この説話は何を意味しているか。渡来民の開拓した「海北道中」は天孫族により武力で奪われた。渡来民は天孫族に武力で支配されるようになった。そのことを意味するのだ。

高天原に陣取る天孫族が北方系の由来であるのに対し、イザナギ系は縄文晩期人で海洋系である。彼らは朝鮮海峡を挟んで両岸の地域「大八洲」を建設した。

同じ頃、長江領域からやってきた米作民は朝鮮半島南岸に定着し、米作を始めた。彼らの国は「豊葦原中国」と呼ばれた。北方から来た騎馬民族には「豊葦原」など悪夢でしかない。

3.スサノオはイザナギを裏切った

スサノオはイザナギの息子であるというのが素性である。

高天原のアマテラスとの血縁は怪しい。

スサノオは日本への海路「海北道中」を防衛する役を担っていたが、スサノオはイザナギに逆らい、イザナギはスサノオを追放した。スサノオは高天原に逃げ込んだ。

山川・大地は大いに震動し、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと疑った。しかしスサノオは、アマテラスに手を組もう、九州をイザナギの支配から脱却させ天孫族の支配下に置こうと持ちかけた。

スサノオの邪心を疑った天照は、その本心を確かめるために“ウケイ”する。結構怪しげな儀式で、スサノオの剣を口で噛み砕くという鬼のような仕業だ。

そうしてその破片に命を与えて3人の女神にした。娘を人質に差し出させたということかも知れない。3人には天孫が下るに際して3つの島で守護せよと命じた。

途中経過はブラックボックスだからわからないけど、スサノオに監視をつけたのだと思うと話は結びつく。

彼は「海北道中」を天孫族に売り渡し、その論功行賞で高天原への仲間入りを許された。しかし色々難癖をつけられて、最後には失楽園の憂き目にあった。

4.スサノオは出雲に第二の葦原中津国を建設した

高天原の天孫族は朝鮮半島の支配権と「海北道中」の制海権を獲得した。

スサノオにはあまりいいことはなかった。裏切り者の末路をたどったスサノオは高天原を追放され、新羅から日本へと落ち延びていく。

スサノオ一族は未開拓だった出雲に植民し、第二の葦原中津国の建設を図った。


5.天孫降臨と宗像神社の新たな役割

宗像は出雲との間で前線基地となった。天照大神の命で降臨したニニギノミコトを奉じ助けるというのが宗像神社の新たな使命となった。

「古事記」によれば、この三柱の神は、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であった(ウィキペディア)

三宮の位置

これが天孫族の守り神になったのは後付けであろう。その際肝心なことはスサノオの剣を砕いて宗像に神を祀ったということにある。


昨日国立博物館に行き、「出雲と大和」特別展を見てきた。
新型肺炎で中国人は少ないし、今日は一日中雨で夕方から雪になるというので、客は少ないだろうと思っていったが、「期待」とは異なっていた。

開館と同時くらいの入場だったので、さすがに最初はゆったりとしていたが、途中からどんどん増えてきた。

見ごたえは十分すぎるほどで、最後は足がくたくたになり一階の休憩室でぐったりとしていた。


私のテーマは2つあって、一つは従来からの疑問。銅鐸系弥生人と天孫系弥生人との関係だ。いわゆる国譲り神話と重なる。

もう一つは四隅突出型墳墓を作った、もう一つの渡来人の運命だ。この人々は遺跡としてしっかりとその足跡を残しているのだが、なぜか日本書紀にはまったく姿を表さない。

最大の謎は青銅器製品を埋めたのは誰かということだ。これまではスサノオを祖とする新羅系の天孫族が襲来し、青銅器文化を全否定するためにこれらを山に捨てたのだろうと思っていた。

それはどうも違うのではないか。第一波から第X波までの数次の渡来人があって、それらを受け止めつつ日本人が形成されていくのではないか、と思えるようになった。

3.

これまで墳墓の亜型の一つと思っていた四隅突出型墳墓が、一つの種族、一つの王朝の象徴として捉えなければならないこと、それもかなり明確に時代付けられた期間の存在であることを知ったのは、この展覧会からである。

展覧会と言うよりも、それを紹介する雑誌「時空旅人」の二〇二〇年1月号(発売は去年の11月末)からである。

これで出雲の時間関係は、相対的には次のような7期に細分されることが明らかになった。

①縄文人の世界
BC200頃?
②渡来人(長江人+晩期縄文人)の九州からの進出
紀元前後
③スサノオ(天孫系新羅流)の出雲進出
AD100頃
④国譲りと天孫系百済流による国土統一
AD150頃
⑤「四隅突出」人の出雲進出と支配
AD250頃
⑥「四隅突出」人の消滅と、天孫系百済流による支配の復活
AD350年ころ
⑦崇神王朝による出雲の征服。関門海峡以東の大和王国支配

これに考古学上のイベントを重ね合わせ、絶対年代に紐付けしなくてはならない。

4.

②期の始まりは、水田耕作の跡とか弥生式土器の出現などでかなりクリアーに同定できると思う。

③期は、より厳密に考えられなければならない。スサノオ、さらにその祖となるイザナギが果たして高天原系なのかが簡単には決められないからである。

アマテラスが高天原系であるとすれば、イザナギからの流れは大八州系とも考えられる。

この大八洲は前にも書いたように出雲でも九州でもなく朝鮮半島南岸であり、そこに住んでいたのは海洋民族としての晩期縄文人と中国から流れ着いた長江人の混合体だと考えている。

スサノオの性格だが、これは土着化した天孫族の家系ではないかと思っている。しかしこれはなんの根拠もない。

しかし、百済系の天孫族と異なり渡来人とは親和性があり、北九州の、とくに那の国より東方の日本海岸沿いに出雲まで広がっていったのではないだろうか。

④の時期は決められないが、少なくとも⑤とは異なり、⑤より前の出来事であったと考えられる。

⑥は、はっきりとは決められないが、そのあと九州王朝の支配が復活したことは間違いない。なぜなら、崇神王朝が出雲後を奪い取ったことは間違いないし、その時の出雲支配者が九州王朝からの派遣であったことも日本書紀に明示されているからだ。

「出雲王朝」の秘密

驚いた。出雲にもう一つ王朝があったのだ。

それがあると、妻木晩田も青谷上寺地も銅剣や銅鐸の山もすべて説明できるのだ。

目下頭は混乱しており、自分の頭の中に構築してきた古代史像をどうひっくり返して、どう整理していったらいいのか、分からなくなっている。猛吹雪の中で方向感を失っているような感じだ。そのめまい感は何故かこころよい。

四隅突出型墳丘墓を象徴とする王国

話は花谷浩さんの「出雲王が君臨した時代」というものだ。

リードがかっこいい。
弥生時代後期の出雲には特異な墳墓が現れる。四隅突出型墳丘墓と呼ばれるそれは、わずか100年弱で消えた王朝の存在を示唆する。
宍道湖の西岸に西谷丘陵という小高い丘があり、そこに4つの四隅突出型墳丘墓が発見された。

四隅突出型といえば妻木晩田(むきばんだ)でおなじみの朝鮮北部由来の墳墓だ。これは明らかに縄文とも弥生とも、さらにスサノオ系とも異なる異人種系のものだ。

2016年12月05日  「むきばんだ」の人々
2016年12月06日  古代出雲のトロイ戦争か
を参照されたい。

出雲地方の古代史の経過

一応の筋書きを書くとこうなる、

まず紀元前1世紀ころ、スサノオが新羅経由で出雲にやってきて、葦原中津国を作り、それはオオクニヌシの頃に最盛期を迎えた。

これは、先住する銅鐸人(長江系渡来民と縄文晩期人の混合)そのものであったか、あるいは高天原系の征服王朝であったか不明である。

ついで紀元前後に、高天原の本隊が九州北部に上陸し、糸島(日向)に降臨した。彼らは宗像を支配下におさめ、出雲に進攻した。

オオクニヌシは出雲を明け渡し、何処へか消えた。その一族のオオモノヌシはおそらくキビを経由して難波方面へと移動した。

その後、出雲はいったん歴史から姿を消す。そして紀元100年ころに青谷上寺地と、おそらくこれを滅ぼした人々のクニ、妻木晩田とが登場する。


四隅突出型墳丘の特異性

4つの四隅突出型墳丘が並んでいるところは、エジプトのピラミッドを想起させるが、同時に阿部3代が眠る平泉中尊寺とも通じるところがある。

建造年代はかなりはっきりしているらしく、紀元150年から270年ころの建造とのことだ。卑弥呼とばっちり重なる時代である。魏志倭人伝で言及されないのはなぜだろう。

おそらく出雲王は妻木晩田の社会に直接つながるものであろう。朝鮮半島東岸、おそらく新羅よりさらに北からやってきたバイキングであろうと思う。

さらに想像をたくましくすれば、1019年に九州北岸に侵攻(入寇)した「刀伊」(とい)と同じ流れではなかろうか。

2018年06月27日 「刀伊」人の九州侵入 を参照されたい。
四隅突出簿の分布
妻木晩田の住民も3世紀の末ころには姿を消す。その後四隅突出型は姿を消すから、おそらく日本からいなくなったのであろう。

振根の戦いとの関連は疑問

後に崇神朝時代に出雲の支配者・振根は大和に敗れ、その属国となる。花谷さんはこのエピソードを出雲王国滅亡に比定するのだが、それは間違いだろう。

それは卑弥呼より100年もあとの話だ。「崇神天皇の在位は3世紀ころとも推定される」というセリフは歴史学者としての常識を疑わせる。


もし出雲王朝が滅亡したとすれば、滅ぼしたのは九州王朝

もう一つ、日本書紀によれば振根は、王と言うよりも九州王朝に忠誠を誓う地方豪族とみたほうがよい。出雲王朝の消失後、出雲に影響力を及ぼしたのは九州王朝であったと見られる。

出雲に北方民が襲来して王国を建てたとするなら、それは出雲を国譲りで自らの領土とした九州王朝にとっては侵略行為だ。当然戦うだろう。

「倭国大いに乱れて…」というのはその戦いだったのか。
つまり出雲王国は倭国により滅ぼされたか、あるいは何らかの理由により自己崩壊したと見るべきかも知れない。

出雲王国は4代限りの「バイキング王国」であった

出雲王国の話は、かつてのイングランドにデーン人などが襲来し支配したのと同じように、日本にもバイキングの時代があったのだと想像させる。

想像をたくましくすると、荒神山などの銅剣や銅鐸は、彼らが先住民から奪って埋蔵したとも考えられる。もし彼らが鉄器で武装していたとすれば、青銅製の武器など祭祀以外になんのユーティリティもない。


大化の改新の謎(天武の謎)

1.なぜ改新であってはいけないのか

私の高校時代、645年の大化の改新というのは日本史の最大のヤマだった。

それがいつの間にか「大化の改新」という呼び方はしなくなった。その代わりに「乙巳の変」と呼ばれるようになっている。

変えた人たちの思いは、それはただのクーデターで、蘇我蝦夷の暗殺事件であって、ちっとも変わってはいないというニュアンスを強調したいのだろうと思う。

しかしその後の経過を見ると、645年を発端とする数十年の変化はたんなるクーデターとしての枠には到底当てはまらないと思う。

革命という言葉を支配階級の変更と捉えるなら、それは革命に当たらないかも知れない。しかし我々はもはや19世紀的な枠組みで革命という言葉を閉じ込める必要はないのではないだろうか。

2.大化の改新を三段階で考える

反唐軍事体制の構築→白村江の敗北と唐軍の進駐→壬申の乱と自決体制、という三段階で捉える必要があるのではないか。

そこに一貫して流れているのは、日本の独立維持という強い意志であり、「反唐ナショナリズム」の思想である。

だから、「乙巳の変」に押し込もうとする考えは、どうも気に食わないのだ。

3.最大の難問は、前半において天武の顔が見えぬこと

2.の考えが成り立つためには、天武(大海人皇子)が大化の改新に最初から関わっていたことが証明されなければならない。

ところが困ったことに、肝心のそのことがさっぱり良くわからないのである。

そもそも日本書紀というのは天武が作らせた史書であり、彼の功績に対する賞賛が芯になって展開されなければならないはずだ。

であれば「乙巳の変」から始まって、百済支援、唐や新羅との対応など彼が中心に座る形でストーリーが展開しなければならないはずだ。

ところが壬申の乱に至るまで、天武は一向に歴史の表舞台に登場しない。まるで表立つのを嫌がっているようにさえ見える。

ここがわからないと、その後の持統や藤原不比等の話もさっぱり見えてこないのである。


4.一応年譜で拾ってみた

生年 不明だが631年説が有力。舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子。中大兄皇子と両親を同じくする弟。

645年6月 20歳で乙巳の変。このとき中大兄皇子は20歳。大海人は年少のため、行動には加わっていない可能性がある。

653年 中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち倭(やまと)に移る。このとき大海人も行動をともにした(日本書紀)
その後、中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。

654年 大海人、胸形君徳善の女、尼子娘との間に最初の子、高市皇子をもうける。

661年 朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫(九州)に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った。大海人は中大兄皇子と那の大津の宮にいたはずである。

664年 大海人皇子、中大兄皇子の命により、冠位二十六階制を宣下。この頃は皇位継承者とみなされていたらしい。

668年 天智の即位に合わせ皇太子となる(出典不祥)。

668年 激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとした。藤原鎌足が取りなした(藤氏家伝)。三者が微妙な関係に入ったことがうかがわれる。

669年 五月条では大皇弟であるが、十月条では東宮太皇弟となる。

671年1月 天智天皇は第一皇子の大友皇子を太政大臣に任命。大海人は完全に継承者コースを外れる。懐風藻では666年とされる。

671年10月 病臥生活に入った天智天皇は、大海人皇子を病床に呼び寄せ後事を託した。大海人はその日のうちに剃髪し、吉野に下った。そのまま、大友皇子が朝廷を主宰した。

671年6月 壬申の乱が始まる。 

673年3月 即位 道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。

673 大海人は天智天皇の皇女の大江皇女を妃にする。

2019年11月24日 「マンロー医師 年譜 (増補版)」

またまた増補しました。

2008年に北海道大学で行われた慶應義塾大学准教授 岡本孝之氏の講演「マンローの考古学研究 ~横浜時代を中心に~」がPDFファイルで読めます。

非常に素晴らしい内容で、とくに桑原本を読んで釈然としなかったところがかなりスッキリしました。
なんとかマンロー像から谷崎文学的な匂いを一掃したいのですが…

ツチグモとクズ

むかしツチグモという人々がいて、短身長躯というから明らかな異人種で、おそらくは先住民。森に住んでいて渡来民とは交わらなかった。

景行天皇が九州 を親征した際に、朝廷軍に絶滅させられたことになっている。

大林太良さんという方の文章からの引用。

クニという言葉は、人間の文化的営為によって馴服された土地を指す。これに対し周囲の野性的世界はツチと呼ばれる。

クニに恭順する先住民は国栖、国巣と呼ばれ保護される。クニに恭順せぬ先住民はツチグモと呼ばれ討伐される。

それが討伐されたのは意外に遅く、九州では景行天皇の時代、おそらく4世紀の中頃に相当する。


ということで、

ツチグモ・クズと呼ばれた人々が縄文人の末裔であることは間違いない。


原弥生人は朝鮮半島で形成された?

そこで問題だが、

いわゆる弥生人というのは長江系の渡来人と縄文人がほぼハーフ&ハーフで混血したものである。この比率はミトコンドリアDNAでも維持されており、両者は征服・被征服の関係にあるのではない。

これは次のことを示唆しないだろうか。すなわち長江系と縄文系は、渡来する前にすでに混住混血を重ねていたのではないかということだ。

それが私の大八洲=金海説だ。紀元前20世紀ころ、喜界カルデラ噴火を生き延びた後期縄文人が、九州から渡海して朝鮮半島の南岸に植民した。

一方そこに山東半島を追われた長江人も合流し、稲作文明を開花させた。そのときに両者は出会い「原弥生人」が形成された

それが紀元前10世紀ころから逆植民が始まり、ほぼ弥生人と共通遺伝子を持つ人々が九州 の北岸に展開するようになった。

もちろん在来の縄文晩期人も大いに交わり、弥生人は縄文色を強くしたが、基本的骨格は変わらなかった。

純縄文人との棲み分け

しかし食料確保の手段、方法などにこだわる既存の縄文人は混住せずに棲み分けした。彼らは森や海岸での採集生活を続けた。

魏志倭人伝の「黥面文身」の異形の人々は、彼らの姿であろう。魏からやってきた人々は、朝鮮半島南部の人々を見て珍奇には思わず、むしろ秦の時代の亡命者と見て共感を抱くほどである。それが九州 に来て、弥生人を見て奇異の念を抱くとは思えない。

逆に言うと、純粋な縄文の暮らしや習慣は、当時でさえも辺縁的な存在になっていたことを示しているのではないか。

高天原の天孫系の来襲とツチグモの駆逐

そこにおそらく紀元前1世紀ころ、朝鮮北部から高天原の天孫族系がやってきた。彼らは半島南岸の弥生人コロニーを征服した後、海を渡り、日本の支配権をも要求するようになった。

彼らは弥生人社会を支配したが、当初は縄文人社会は無視した。しかし人口爆発が起き農地が必要になるに連れ、彼らの土地も収奪の対象となった。

天孫族に従ったものは、土地を割譲するのと引き換えに生業の維持を許された。そうでないものは抹殺された。

おそらくこれが日本人の形成過程の概略であろう。

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