鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

黄河文明を調べていて、変な記事に当たった。

「4大古代文明」は嘘だというのです。

論拠があまりはっきりしないのだが、そもそも4大文明という呼称は20世紀初頭の中国の一革命家が言い出した言葉で、世界では通用しない日本独特の範疇だというのです。

誰がいつから言い始めたのかはどうでも良いのだが、日本においては一つの常識にはなっている。私も何の疑問も感じないで使っていました。

そういうことというのは世の中にはたくさんあります。

そこで、「革命的空文句」が教科書的定義になった根拠、そもそも本当にそうなのか…

調べてみると、たしかに意外とはっきりしないんですね。

それで、4大文明がはたして不適当で時代遅れなのか、ちょっと考えてみました。

「文明」というのが「文化」よりもう少し上で、都市化とか階級化を伴っているのはまぁ常識的に見て、間違っていないでしょう。

それで、考古学的に見て4~3千年前、歴史学的に見て紀元前2~1千年ころで輪切りにしてみると、文字の使用という点ではバッチリ4大文明です。鉄製品の普及・実用という点でもバッチリです。

青銅器の使用、小麦の栽培はもう少し広範に拡大しています。

まぁこの他にもいろいろな指標はあるのでしょうが、誰が言いだしたかの詮索はべつにして、「4大文明論」は結構説得力のあるものではないでしょうか。

少なくとも、それほど目くじら立てるほどのものではないと思います。NHKの肩を持つわけではありませんが、「今ではどこそこも加えて5大文明とか6大文明とか言うべきだ」くらいで済ませておけば済む話でしょう。


夏・商・周に関する年表
これはこれだけ掘っていても大したものは出てこない年表だ。
このあたりの勉強の醍醐味は、一つは黄河文明を史記の世界へつなぐ作業になるだろうし、一つは統一国家を生み出すに至る経済的土台の検討であろう。
日本では縄文と弥生を分ける分水嶺として稲作・水田が重視されている。しかし世界的には石器から青銅器・鉄器への移行が決定的なものとされている。中国は古代黄河文明が連続的に統一国家へと移行していく。しかもその過程で稲作が麦作文明に従属していく。
現在、この分野で「国家的プロジェクト」が組まれ研究が進んでいるという。この成果を学んでいくこと(眉に唾つけつつ)がだいじであろう。
とりあえず「史記」的な意味での歴史を、こういう世界に踏み込む上での「常識」として身につけておくための年表としてあげておく。

BC7000 長江流域に初期稲作が登場。
BC.4000 華北平原および黄河流域に人々が定着。
BC.3000 仰韶文化が起こる。定義は混乱しているが、一応BC4000から2500あたりと見ておく。
BC2300 竜山文化登場。(これも仰韶同様に混乱)
BC.2070? 夏が建国される。陽城に都を構える。二里頭遺跡(推定人口2万人)に一致。
BC.1711 殷(商)が建国される。湯王が諸侯を率いて夏の桀王(酒池肉林)を滅ぼしたとされる。殷は後継王朝の周による呼称。都は亳(商城)に置かれた。考古学的には二里岡に一致。
1400 殷は王位継承の争いにより一時衰退。
1300 盤庚王(第19代)、殷の都を大邑商(殷墟)に遷す。このあと殷は最盛期を迎える。
1071 紂王、妲己を寵愛する
1056 周の文王、殷により幽閉され死没。周の武王、紂王(帝辛)の暴政に対し周を中心とする勢力を結集。
BC.1046 殷周革命。周(西周)が建国される。鎬京(西安)を都とする。
827 宣王が周王朝を復興,中央集権的政策を行う
BC.770 周の幽王が殺される。残党は成周(洛邑)に都を移し東周となる。平王が即位。春秋時代の始まり。諸侯は東周をたてまつり割拠。
707 楚の熊通、王号を冒し、武王と称す
周

679年 管仲を登用した斉の桓公が諸侯と甄で会盟し、覇者を称す。周王より伯(覇者)を賜る。
632年 晋と楚が城濮で戦い、晋が勝つ。文公は覇者となる。
606 北上した楚の荘王、洛陽で周の鼎の軽重を問う。
597 楚の荘王、晋を?に破り、覇者となる
575 晋、楚・鄭を?陵に破る
BC.551 孔子が誕生。老子はその50年ほど前とされる。
546 宋の向戌の提唱で、晋・楚・秦以下13ヵ国間に和平なる。以後、40年間、休戦
535 このころ 孫子(孫武)生まれる
506年 呉軍が楚の首都を陥落させる。
505 越が呉に侵攻。楚は秦軍の救援を得て呉を撃退。
BC.476 韓,魏,趙の三国に敗れた晋が消滅。盟主不在の戦国時代に移行。(一説に453年)

473年 越王勾践が呉王夫差を滅ぼし、覇者となる。
384 秦、殉死を禁止
359 商鞅の変法が実施される。
350 秦が咸陽に遷都,郡県制を施行。農地改革を断行し、度量衡を定める
318 韓,趙,魏,燕,楚の5国が合従し秦を攻めるが、敗れる。
316年 秦が蜀を滅ぼす。
260 秦が趙を長平で破る。白起が趙兵40万を坑殺。
257 秦、趙の都邯鄲を包囲 魏、楚が趙を救う。
230 秦が韓を滅ぼす。以後、趙、魏、楚、燕を相次いで滅ぼす。
BC.221 秦の始皇帝が中国を統一。

1.「イ族」のルーツについて
昨日見たNHKのドキュメンタリー「イ族」はまことに興味深いものであった。
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番組は四川省の山奥(大涼山)に暮らすイ族を成都三星堆遺跡の青銅器文明人の後裔だと断じていたが、もう少し科学的に証明してほしかった。
とにかく顔立ちがあまりにも日本人であることに驚く。かつて雲南・昆明の少数民族や、北ベトナムの少数民族を見た時の驚きをさらに超えるものがある。Y染色体をぜひ調べてほしいものだ。
断崖で隔絶された尾根に沿って、厳しい気候と痩せた土地にしがみつきながら暮らす人々が、意外なまでの技術・文化を持ち、気品を失わずに生活しているのは感激を抱かせる。
日本で言う「平家の落人部落」そのものである。
観光会社風に言えば「東洋のマチュピチュ」だが、マチュピチュよりすごいところが二つある。一つは生活があることで、一つは文字があることだ。
yizoku
中国まるごと百科事典には下記のごとく記されている。
彜族はプライドが高く、人情、信義と義理を重んじ、客を大切にする礼儀正しい民族。来客があると、さっと駆けつけて出迎えの歌を歌いながら酒を勧め、囲炉裏端の上座に座らせる。
また、彜族の男性は女性をののしったり殴ったりしてはいけないという決まりがあり、“立派な男なら妻を殴らない”ということわざもあり、たとえ敵でも女性は殺さない、という掟がある
ただし、これは一部の人々の話で、「涼山イ族自治州」の州都である西昌は人口57万人、イ族をはじめ28の民族が暮らしているそうだ。いろんな少数民族が混住しているので、「これがイ族の特徴だ」と断定はできない。
西昌
              西昌の下町

2.長江人の基礎史実
これまでの私の記事の中で確認してきた事実を並べてみよう。
南方経由でインド方面から東進してきた人々の集団があった。これはY染色体のハプログループで言うとOの1型に属する人々であった。O型人は先着のC型人を押しのけながら中国大陸南部に定着した。ここから派生したO1b人は、長江流域に広がった。O1人からはさらにO2人が派生し北方へと進出した。
長江流域に定住したO1b人は、1万年前ころに稲作栽培と水田農法を獲得した。それは湖北・湖南に始まり、下流および上流へと拡大した。

長江からさらに北方に進出したO2人は黄河を越えたところでC型人との拮抗関係に入った。

モンゴル~満州に先住するC2人は北方ルートで東方に進出してきた人々と思われ、中央アジアとの接触を保っていた。
5千年前、すなわち紀元前3千年というのは北方諸民族にとってエポックであったと思われる。
まず小麦の栽培が、続いて青銅器文明がメソポタミアからもたらされた。
直接の伝承者であるC型人も、それから技術を引き継いだO2人も、生活スタイルを根本的に変えることとなる。
O2人は小麦を栽培する農耕民に姿を変え、南をうかがうようになる。
青銅器に続いて、紀元前2500年ころには鉄器が伝播した。
黄河と長江が接近する中原では、紀元前2千年ころから鉄器を獲得した黄河文明が長江文明を征服・支配する時代が始まった。圧迫された長江人(O1b人)は、O1b1(一部O1b2)が南下した。残りのO1b2は西方及び北方へと拡散した。西に進んだ長江人は四川省三星堆に青銅器の一大文明を築いたが、これもやがて北方人により滅ぼされる。
番組ではイ族がこの「三星堆」人の末裔であることが「最近の研究により判明した」と断定するが、大変魅力的な提起ではあるにせよ、あまりにも大胆だ。率直のところこれには保留せざるを得ない。
下流域の長江人は北方人の支配を逃れ、山東省から朝鮮半島、北九州へと渡り、弥生文化(とりわけ銅鐸文化)を花開かせることになる。
ただし弥生文化の後半は、長江人(銅鐸人)ではなく征服者(天孫族)の文化であるが…

 2016年10月22日 


3.イ族の民俗学的特徴
http://www.gesanmedo.or.jp/uli224.html
もとは蛮族を意味する「夷族」と表記された。
ウィキでは「南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきた」とされているが、この説は否定されつつある。
人は黒イ(武士)と白イに分けられる。黒イは人口の7%。白イがさらに3階層(平民・農奴・奴婢)に分かれるなど複雑な奴隷制度をもつ。
父子連名制によってつながる父系親族集団である。(これらの社会システムは彼らの現状にはまったく似つかわしくない)
言葉は六方言に大別される。互いにほとんど通じない。
彝文字(ロロ文字)と呼ばれる表音文字を持つ。約1000年前に創作されたという。象形文字を母体とする音節文字である。日本の「神代文字」とは違いかなりの量で現存し、使用されている。

4.民族の伝承
格言および祭祀などが、祭文の形で蓄積されている。叙事詩『阿詩瑪』もその一つ。
イ族の祖先は、黄河上流地域をその発祥の地とする。その後南下し、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達した。つまり、秦と同じ征服王朝であった可能性がある。
漢王朝時代には西南夷、三国時代には南蛮と総称され、強勢を誇った。
大涼山一帯の黒イ集団は、中華民国時代になっても支配を強力に維持し、ロロ独立国とさえいわれた。
ただ、今回の「天頂に生きる」の引用している文献は既出のものとは違うのかもしれない。


以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 


山本めゆさんの文章を読んでの感想は、見出しの如くなる。
すなわち「戦時性暴力は暴力支配、とりわけ植民地支配の理不尽さがもたらしたものだ」ということだ。
なぜなら、植民地支配こそは近代世界におけるもっとも持続的・系統的な暴力支配だからだ。
「力の論理」と言うが、力は非論理だ。あまりに抽象的と言えば抽象的だが、逆にこの基本方向を見失ってはならない。
1.戦時性暴力と普遍主義
植民地支配を取り除いて考えると、戦時性暴力はフェミニズムとミリタリズムとの「二項図式」のもとに包摂されてしまう。山本さんが危機感を持つのはここにある。

「戦時性暴力」という言葉は、ときに驚くほど無難で耳障りの良いものに変貌しうる。それはきわめて普遍主義的フェミニズムに横滑りしやすい性格を備えている。 

「女性はいつも戦争の最大の犠牲者」といった普遍主義的なミリタリズム批判や家父長制批判の中でこれを論じれば、これらの亀裂はふたたび糊塗されてしまう。
これによって見落とされるのは多様な事象と権力との交差である。
等質的かつ情緒的一体感で結ばれた内集団を前提とするなら、それは「蹂躙される我々の女たち」のイメージを通して、外集団に対する憎悪を掻き立てるプロパガンダにやすやすと手を貸してしまうことになる。
申し訳ないが、この裂帛の気合は女性にしか描き出せない世界で、男性はかしこまるほかない。

2.植民地における性暴力と、入植者の受益者責任
山本さんは下記のようにまとめる。
2001年のダーバン会議以降、「植民地主義とそれに関連する歴史的不正義」という認識が定着しつつある。このアジェンダは今後とも追究される必要がある。
「引揚者」の経験をあらためて政治的に位置づけ直すこと、「戦時性暴力」が誰による誰に向けられた暴力なのかを論じるという「挑戦」の必要と意義が確認されなければならない。
植民地主義への抗議という視点が何故だいじかということで、山本さんは植民地統治の「支配責任」と「受益者責任」と言う概念を取り出す。これは前項記事に触れた「植民者」論と関連するが、受益者責任を問うことなしに論理の円環は閉じないということである。
これを山本さんは「安易な普遍化への誘惑に抗していく覚悟」と表現している。

3.「性奴隷」論 ― 朝鮮人従軍慰安婦問題への視座
ここまでの議論からすれば、朝鮮人従軍慰安婦の問題は、戦時性暴力一般ではなく、「日本軍(軍関係者をふくめ)が植民地支配下の朝鮮人女性に加えた戦時性暴力なのだ」と捉えることがだいじなのだ。
この場合、戦時性暴力は終戦時のソ連軍兵士による性暴力とは異なり、計画的・組織的で持続的であるところに特徴がある。
「強姦」は日本の刑法では「暴行・脅迫を用いて男性器を女性器に挿入すること」と定義されている。これでは慰安所を設立・運営することは性犯罪とならない。女性を性奴隷とする行為全体を性犯罪と捉えなければならない。
「性奴隷」化の犯罪としての凶悪性は、偶発的な性暴力よりはるかに高い。

全体を通して、はやりの表現で言えば「キレッキレの論理」が支配する論考である。

ただ、ここまで切りつけ合わないとならない課題なのかは、いささか疑問を感じるところである。

「歴史の真理」はもう少し叙述的に展開されても良いのではないだろうか。

ただ普遍主義的フェミニズムが、反動派の歴史修正のためのレトリックとして利用されることに抗議するときは、イヤと応とを問わず必要となる論理であろう。


以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 


山本めゆさんの論文 
戦時性暴力の再-政治化に向けて―“引揚女性”の性暴力被害を手がかりに を、一応通読した。

相当に歯ごたえのある文章である。

1.クレームに込められた思い

山本さんが「奥底の悲しみ」に対して何故クレームを付けたかが分かってきた。山本さんの願いは、「引揚者」問題を全体として「奥底の悲しみ」の方向に引っ張らないこと、もっと大きな文脈の中で位置づけてほしいということだ。

引用のレベルか盗用のレベルかではなく、「反対」と言っている論文を「賛成」と言う番組のために利用してほしくはないのだ。

問題は、引揚者という範疇の特殊性の問題だ。そして戦時性暴力の具体性の問題だ。

山本さんは、個別の戦時性暴力がどういう性格の戦争(戦闘)の下で生まれたのかを追及しないと二項図式的なジェンダー観に陥ってしまうとし、これを「普遍主義」的フェミニズムと呼ぶ。

そして「奥底の悲しみ」がまさにそういう傾向を内包しているからだ。

2.「引揚者」の特殊性

山本さんの引揚者に対する視線には鋭いものがある。安易な感傷は拒絶される。これについてはもう少しあとで触れることにしよう。

まず、日本近現代史という標本箱に、「引揚者」という存在が、冷厳にピン留めされる。この部分の記述は、それだけでも圧巻である。

a.入植者の結末としての引揚者

「引揚者」はまずなによりも「入植者」であった。

入植者には2つの顔がある。

まず第一に植民地支配の紛れもない受益者であること。

第二に、故郷の日本社会においては余されものであったことである。

b.「住所不定・無職」の民としての引揚者

したがって日本の敗戦と同時に、ソ連の襲来を待つまでもなく、どこにも居場所を失った流氓の民となっていたのである。

つまり、歩であろうと、香車・桂馬であろうと大日本帝国のコマであるということ、させられてなったのではなく、主体的意図をもって参加した、そして最後は捨て駒となったのである。

敗戦と同時に「入植者」の多くは関東軍に置き捨てられ、「棄民」となった。

c.帰還移民としての引揚者

「引揚者」は帰ってくることができた「入植者」である。一言で言えば「帰還移民」である。帰還移民というのは、ひっくるめて言えば、移民に失敗した出戻り移民ということである。

「故国」を一度は捨てた彼らにとって、日本の中にいる場所は本来的にはないのである。

d.引揚者の心性の形成

以上のように引揚者という存在のあいまいさを衝いたあと、山本さんはそのあいまいさがもたらす、不合理な心性をも剔抉する。

繰り返し論じられてきたのは、「彼ら」はその背景いかんにかかわらず、概して植民地支配の資任主体という自覚に乏しいということである。

「彼ら」の経験は反戦思想に接ぎ水され、周到に偽装され、「引き揚げの労苦」として収数される。支配者の地位を追われた植民者という彼らの政治性も首尾よく漂白されてしまう。

3.引揚者伝説をどう読み解くか

ということで、結論としては「引揚者」というのは真っ白な受難の民ではないぞ、ということだ。韓国人慰安婦と同列に見るのは、歴史的視点から言えば正しくはない。
ここで山本さんはインドネシアで日本軍の慰安婦とされたオランダ人女性の証言を引き合いに出す。
彼女たちの祖先は幸福な人生を求めて東南アジアへとやってきた。彼女たちの幸福は植民者としてのそれであった。

彼女たちの身を削るような証言活動に植民者の輪郭を強調するのに疑問を感じる向きもあろうが、…被害者同士が反目しあうという事態を招きかねないからこそ、その被害の責任を問う際には、歴史的文脈を重視しつつも序列化を慎重に回避していく必要がある。

今日のネット状況などから見れば、ずいぶん思い切った発言であり、そこには流れにあえて棹差そうとする山本さんの覚悟が感じられる。

 


私の祖父は明治末年に朝鮮(京城の龍山)におそらくは流れ者として「入植」している。そこで父を始め3人の子が生まれ育った。

父はすでに戦前に朝鮮を離れ静岡に流れ者として移住している。戦後、その父を頼って祖父と兄弟が「引き揚げ」てきた。

わたしも「引揚者」に片足突っ込んでいることになる。おまけに北海道に住んでいる限りは、アイヌ人に対する侵略者ということにもなる。

だから、山本さんの文章を読んでいると、何か叱られているような気分にもなってくる。心して臨まなくてはならないな。

私の 山口放送の「奥底の悲しみ」

という記事に

日本学術振興会特別研究員の山本めゆさんが、自身の研究をこの番組で「盗用」された旨、告白しています。 

というコメントが付けられている。

私の一連の記事の内容は「奥底の悲しみ」という番組そのものより、それで触発された「戦後引き揚げ史の全体像」である。性暴力そのものについては申し訳ないが、主要な関心域ではない。

したがってこのコメントに対して正面から対応するつもりはない。しかし山本めゆさんのクレームについては事実問題として知っておく必要があると考えた。

いろいろ調べた結果、「まずは山本めゆさんの言わんとする所を多くの人に知ってもらうことがいちばん大事なことかな」と考えている。選んだのは以下の論文。

山本めゆ 「戦時性暴力の再-政治化に向けて―“引揚女性”の性暴力被害を手がかりに
日本女性学会学会誌 (2015)

最初に感想を述べさせていただくと、非常に筋の通った立派な考察であると思う。中味はとてつもなく重い。こういうドストエフスキー的な荷物の抱え方はとても私にはできない。

目次は以下のようになっている。

はじめに

Ⅰ. 「引揚げ」を再-政治化する

Ⅱ. 植民地主義史の再審と新たな責任主体

Ⅲ. 普遍主義への誘惑

Ⅳ.  「引揚者」 の経験をいかに読むか

Ⅴ. オランダ人元「慰安婦」の植民者性

VI. 仲介者・協力者・受益者

結びにかえて

今回はこの目次のうち「はじめに」のみ紹介


彼女たちが帰還した引揚港では、引揚援護院の指導のもと性病の治療とともにおびただしい数の中絶手術が実施された。これらの事実は疑いのないものであるが、「特別な注目」に浴さずにきた。

比較的最近になって、へイトスピーチの資源として「引揚げ」という植民地の喪失と帰還史が参照されている。この現象は排外主義の高まりの表現と理解される。

日本軍による性暴力を告発し、被害者への補償と尊厳の回複を姿求する活動の活性化が、「引揚者」 の経験を励起している可能性がある。

基本的にはこの作業は推進すべきものであり、同時に、それをもたらした過去の植民地主義への歴史的検証を伴ってすすめるべきものでもある。

そしてさらに、引き上げ時の性暴力被害の経験が、排外主義的・歴史修正主義的主張の資源となってきたことへの批判的検討、それを許してきた言説的な土壌の点検作業を必要としている。

第Ⅰ節ではまず「引揚者」という呼称に注目する。それを通じて、植民地主義の歴史を呼び起こす。

第Ⅱ節では、 慰安婦への補償運動の議論が 戦後日本社会の自画像にいかなる転換を迫っているかを考える。

第Ⅲ節では、女性を一元的に戦争と家父長制の犠牲者とみなすような普遍主義を批判する。そして複数の権力を視野に入れてアプローチする。

第Ⅳ節・第V節では、オランダ人慰安婦を通じ、「植民者に向けられた性暴力」との向き合い方を模索する。

第Ⅵ節では、仲介者・協力者・受託者といったアクターの存在に光を当てる。


まだ本文に取り掛かる前にコメントするのも変なのだが、こちら側の心構えとして、いくつかのポイントを設定して置かなければならないようだ。

第一には、引揚者への性暴力、慰安婦問題に見られる性暴力は、単純なコインの両側ではないという当たり前の事実である。

第二には、フェミニスムの枠に強引に流し込むような総括はいけないということだ。

第三には、植民者の光と影、侵略→敗北・撤退という歴史を彩る事象として見つめなければならないということだ。
うーむ、気が重い。

以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 

慰安婦問題については、慰安婦はなかった式の議論は論外である。南京事件はなかった式の話と同じである。ポスト・トルースの歴史修正主義と言ってよいのだろうと思う。
ただ以前からアジア女性基金のことは気になっている。そこにはっきりしたハシゴがかかっているのに、韓国側がこれをなかったかのように無視し続けている。
これではどうやっても議論が噛み合わない。
今回、「アジア女性基金とわたしたち」という座談会を読んで、私の抱いていた奇異の念が根拠のないものではないことがわかった。
座談会の参加者は大沼保昭、横田洋三、和田春樹の三人である。いずれもアジア女性基金には主体的に関わっており、慰安婦問題には真剣に心痛められている。
結論として三人が三人とも、「あるNGO」(挺対協)の対応には怒りを抱いているが、そのニュアンスは三者三様である。
その経緯については不明であり、判断は難しいところはある。
ただ挺対協の主たる工作対象が国連の人権問題小委員会であり、ここに情報作戦を繰り返し展開していたこと、そしてつぎ込まれた情報にはかなり不正確なものも混じっていることが分かった。
最強硬派の大沼さんは、基金から手渡されたカネの行方まで及んで挺対協を批判しているが、これについてはあえて触れないでおきたい。
肝心なことは国連人権小委員会の下した事実認識が、事実とどの程度一致しどの程度乖離しているかという問題、もし乖離している部分があるとすれば、それはどのように修正されているのか、またはされていないのかという問題であろう。
「どっちにしても日本が悪いのだから…」と、かしこまっていたのではすまない状況になっていると思う。
おそらくは慰安婦問題に関する国連判断の基準となっているのがマクドゥーガル報告である。
これは国連人権委員会の「差別防止と少数者保護小委員会」(いわゆる人権小委員会)にたいする特別報告者ゲイ・J・マクドウーガルの報告だ。
中核的事実認識は以下のごとくである。
女性たちは…これらのレイプ・センターで毎日数回強制的にレイプされ、厳しい肉体的虐待にさらされ、性病をうつされた。こうした連日の虐待を生き延びた女性はわずか 25%にすぎない。
以下、その違法性の根拠が長々と展開されるが、中核的事実はきわめて情緒的な認識に依っている。“25%”はおそらくデマであろう(荒舩清十郎の個人演説会での話が唯一の根拠である)。
こういう極端な感情的議論は事件の正常な解決のためには百害あって一利ない。戦時性暴力の問題はもう少し奥行きの深いイシューなのだろうと思う。




本日の赤旗文化面は「統制された文化」シリーズの第23回。「学校儀式」という文章だ。筆者は有本真紀さんという方、立教大学の先生で「卒業式の歴史学」という著書があるようだ。
本来ならそちらを見なければならないのだろうが、とりあえず失礼させてもらう。
失礼ついでに。有本さんは「歴史学」を伝えたいようだが、こちらは「歴史」のところだけさらわさせてもらうことにする。
1.明治初期
日本に近代学校制度が開始される。最初の「学校儀式」は新年の始業式だけだった。(新年なのか新年度なのか? そもそもなんで4月が新年度なのか)
2.卒業式
1876年(明治9年)に、陸軍戸山学校で卒業式が始まった。翌年には東大、数年後には師範学校や中学校にも拡大する。
どういうわけか、小学校への導入はそれから10年位遅れた(明治20年頃)らしい。
3.唱歌
明治前半期に唱歌を教える風習はなかった。当時の日本人に「みんなで一緒に歌を歌う」という行為は馴染みがなかった。
(この項は、儀式の歴史としてより唱歌の歴史として興味深い。以前にも「故郷を離るる歌」でかじったが、いずれもう一度系統的に勉強してみよう)
4.紀元節と天長節
これが最初の上からの命令に基づく儀式らしい。
1888年(明治21年)、文部省が内命を発した。「国家の祝日に生徒を集めて祝賀式を挙行すること、その式はもっぱら唱歌によるを可とす」というものだ。国家の祝日がいかなるものだったかが、ちょっとこの文章からは判じかねる。
まぁいずれにしても大したものではなさそうだ。
5.教育勅語の発布
1890年(明治23年)に教育勅語が出されると、矢継ぎ早に指令が継ぎ足されて、たちまちのうちに天皇神格化システムが国民を縛り付けることになる。
具体的には翌91年の「小学校祝日大祭日儀式規定」というのが曲者で、御真影への最敬礼・教育勅語奉読・訓話と唱歌斉唱」が事細かに定められた。その2年後には君が代・勅語奉答・1月1日・紀元節など8曲の儀式唱歌が告示されたそうだ。
全国の学校で式次第や振る舞い方までもが画一化し、厳密な指導が行われるようになる。
ここからが大変なことになっていく。巻き尺を持ってスカートの丈を計ったり、君が代の口パクを監視するパラノイアが教育界に跋扈することになる。
時期的には日清・日露へ向けての思想動員と重なるのであろうか。与謝野晶子はこういう教育は受けていなかったから「かたみ(互い)に人の血を流し 獣の道で死」ぬことを拒否したのだ。

ということで、文章の後半は「儀式」が強制化の有効な手段であることが論じられる。そして「儀式の呪縛」からの解放を説くが、「そこまで引っ張るのも何だなぁ…」とちょっと退き気味になる。
いずれにしても貴重なお話をありがとうございます。

「原爆の落ちた日」という本がある。半藤一利さんと湯川豊さんの共著になる本で、PHP文庫の一冊となっている。
この本を読んでいて、驚愕の内容に会った。
「大本営戦争指導日誌」というものがあるらしい。
敗戦時に一部が処分せずに残ったのだろうか。現在も閲覧可能のようである。
その昭和19年6月24日の記録には下記のごとく記されていると言う。
「来月上旬には、サイパン守備隊は玉砕すべし。もはや希望ある戦争指導は遂行し得ず。残るは、一億玉砕による敵の戦意放棄を待つあるのみ」
すなわち陸軍統帥部の中においてすら、戦勝の望みはほとんどなかった。
7月1日の戦争指導日誌はさらに驚くべき内容となっている。
「昭和20年春期頃をめどとする、戦争指導に関する第一案を研究す。判決としては、今後帝国は作戦的に大勢挽回のめどなく、しかもドイツの様相もおおむね帝国と同じく、今後逐次“ジリ貧”におちいるべきをもって、速やかに戦争終結を企図すとの結論に意見一致せり」
つまり作戦本部は昭和19年7月のサイパン玉砕をもって、戦闘は終わったと判断したのである。それにもかかわらず、国民にさらに1年余の無駄な抵抗を強いた。
そしてその1年こそが屠殺の1年であった。フィリピンでの大量戦死。本土の絨毯爆撃、とりわけ焼夷弾による無差別の殺戮、非戦闘船舶への魚雷攻撃、そして沖縄での住民100万を巻き込む大量虐殺。広島・長崎の原爆死、満州での大量棄民、戦災孤児や帰還子女の餓死。
これらのすべてはサイパン玉砕後の1年で起きたことばかりである。
これが日本の戦争犯罪者たちの最悪の所業なのである。

機密戦争日誌」というのは、これまでもいくつかの断片が発行されていたようであるが、決定版となったのは平成20年5月1日発行の錦正社版のようである。
編者は軍事史学会で800ページ2万円というからおいそれと手が出る価格ではない。
まず出版社の告知
変転する戦局に応じて、天皇と政府、陸軍及び海軍が、政治・外交指導を含む総合的な戦争指導について、いかに考え、いかに実行しようとしたか?
日々の克明な足跡がここに明かされる。
「機密戦争日誌」とは、大本営政府連絡会議の事務をも取り扱っていた大本営陸軍部戦争指導班(第二十班)の参謀が昭和十五年六月から昭和二十年八月まで日常の業務を交代で記述した業務日誌。
敗戦にあたり焼却司令が出される中、一人の将校が焼却に忍びなく隠匿するなど、様々な経緯を経て防衛研究所図書館に所蔵され終戦から半世紀を経た平成九年に一般公開された貴重な史料。

ただし、半藤さんが示唆するような軍の最高幹部の意見を集約したものではなく、担当将校の所感が綴られたものである。

軍事史学会会長 の伊藤隆さんの挨拶文によると、
残されているのは大本営陸軍部第二十班(戦争指導班)の業務日誌であるが、その他に各部課でも業務日誌を作成していたと思われる。
しかし第二十班が大本営政府連絡会議の事務をも担当していたという位置から考えて、重要性は高いと判断される。
と、やや控えめの表現になっている。

考えてみると大阪の歴史がよくわかりません。私の念頭には歴史上何回かフアーっと登場して、いつの間にか消えていきます。

難波京、堺と石山本願寺、豊臣秀吉の大阪城、元禄時代の繁栄、幕末・明治初期の沈滞、大正の大大阪時代、戦後の地盤沈下です。これらの歴史的現象はいつも「なぜ」の問題を素通りしていきます。

まず、年表づくりをやりながら、「なぜ」の問題を追求してみたいと思います。

大阪市立図書館の年表が便利なので、これを骨格にしながら膨らませてみたいと思います。

 

 

593(推古元) 厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺を建てる

645(大化元) 都を飛鳥から難波長柄豊崎宮にうつす(前期難波宮)

754(天平勝宝6) 鑑真が難波津に到着する
1467 応仁の乱  細川の拠点となった堺が発展。明との交易も盛んとなる。

1496(明応5) 本願寺8世の蓮如が石山本願寺(実体としては城そのもの)を建立。上町台地に寺内町がつくられる

1532(天文元) 摂河泉で大規模な一向一揆がおきる

1550(天文19) 宣教師ザビエルが堺に上陸する

1580(天正8) 本願寺が織田信長との戦いに敗れ大坂を退去。寺内町は焼失する

1583(天正11) 羽柴秀吉が大坂に入り、本願寺跡地に築城開始。

現在大阪の町になっているところは、上町台地などを別とすれば、戦国時代までは低湿地だったところがほとんどです。秀吉はそこに東横堀川・西横堀川・天満堀川などの水路を掘らせ、水はけをよくするとともに、掘り上げた土で周囲を土盛りさせました。こうして低湿地が、人の住める町にかえられました。平野や久宝寺などから商人らがよびよせられ、現在の大阪の町の原型ができあがっていきました。

1615(元和元) 大坂夏の陣で豊臣氏が亡ぶ。

1619(元和5) 幕府が大坂を直轄領とし、大阪城を再建。城代・町奉行をおく。

江戸時代になると、西のほうの湿地にもたくさんの堀川が掘られ、市街地がさらに広げられていきました。大阪は「水の都」と呼ばれるようになりました。

大阪新田

     江戸時代の新田の開発

1600年台後半 船場、天満地区に三大市場が栄える。
1703(元禄16) 近松門左衛門の曽根崎心中が初演される。「上方文化」の花が咲く。

歌舞伎・浄瑠璃、あるいは落語といった芸能は、最初は京都が盛んでしたが、しだいに大阪に中心が移ってきます。たくさんの町人学者が生まれ私塾が建てられました。

1730(享保15) 堂島の米相場会所が幕府公認となる。現米の受け渡しのない帳簿上の「差金決済取引」が行われる。
堂島の相場が全国の米相場の基準となりました。大阪は「天下の台所」として繁栄するようになりました。多くの大名が中之島などに蔵屋敷をおいて、米や地方の産物を運びこみ、お金にかえていました。

1837(天保8) 元町奉行所与力・大塩平八郎が乱をおこす

大塩は与力をやめて塾をひらき学問を教えていました。天保の大凶作に際し私財をなげうって貧民救済に当たりました。その挙句、「救民(きゅうみん)」を旗じるしに兵をあげました。

1838(天保9) 緒方洪庵が適塾をひらく。官制の学問にとらわれない私塾が発展。

1868年(明治元) 大阪が開港場となり川口居留地ができる、舎密局をひらく。

1869年 廃藩置県に伴い、大阪の繁栄のもとであった蔵屋敷が廃止される。豪商の倒産が相次ぎ、大阪は衰退期を迎える。

明治政府は硬貨や大砲の工場を大阪に設けたので、そこから近代的な工業の知識や技術が、大阪に根づいていきました。

1874(明治7) 大阪~神戸間に鉄道開通、大阪府の江之子島庁舎完成

1876 年 堂島の米相場会所が「堂島米穀取引所」と改称され、先物取引を世界に先駆けて開始。

1885(明治18) 大阪初の私鉄が難波~大和川間に開通
1884(明治21) 東京(都部)の人口135万人

1889(明治22) 市町村制がしかれ大阪市ができる。この時の人口は47万人。面積は15平方キロ。

繊維工業がさかんになると、大阪は工業都市として再生し、人口も増え、市街地が広がっていきました。
1895(明治28年)住友銀行が創業。大阪を本拠地として急速に発展、三井・第一・安田・三菱と並ぶ五大銀行となる。

1897(明治30) 大阪市第1次市域拡張、大阪築港起工式。

安治川口と木津川口から沖に向かって総延長10キロメートルの2本の防波堤をつくり、その内側を9メートルの深さにするもので、人工的に築いた港という意味で、「築港(ちっこう)」と呼ばれました。
築港大桟橋

1903(明治36) 大桟橋が完成。第5回内国勧業博覧会がひらかれる、巡航船・市電・民営乗合自動車が営業。

1918(大正7) 米騒動おこる

1920(大正9) 第1回国勢調査、市人口125万人、府人口258万人
1923年(大正12年) 関東大震災が発生。被災者の一部が大阪市など各地に転居。

1925年(大正14年) 第二次市域拡張。周辺の残余44町村全てを編入して大大阪市が成立。東京府東京市を上回り、世界各国の主要都市でも6番目に人口の多い都市となる。
ニューヨーク(597万人)、ロンドン(455万人)、ベルリン(403万人)、シカゴ(310万人)、パリ(290万人)です。この年東京の人口は214万3200人。
1925年 野村財閥の主軸として野村證券が設立される。

1928(昭和3) 大阪商科大学設立
1929 梅田で阪急百貨店が開業。梅田は元は「埋田」、湿地を埋め立てたところであった。

1930年(昭和5) この年の大大阪人口は245万人。世界大恐慌。線維輸出を主体とする大阪の経済は大きな打撃をうける。

1931年(昭和6) 大阪城天守閣再建、中央卸売市場ができる、大阪大学できる

1932年(昭和7年) 東京市は市域拡張(82町村編入)によって35区へ増加。大東京市(面積551平方キロメートル、人口497万人)が誕生。

1933(昭和8) 梅田~心斎橋間に地下鉄ができる

1937(昭和12) 道幅44メートルの御堂筋が完成。11年を要した。

1939 大阪府と東京府の生産額が逆転。以後その差を拡大した。原因は軍需の成長と民需の減少。
県別生産高推移1県別生産高推移sen
     府県別生産額の推移(縦軸は全国比%)
1939年 堂島米穀取引所、戦時統制の強化により廃止される。

1945(昭和20) 空襲で市内の大部分が焼ける、10月の市人口107万人、府人口280万人

焼夷弾攻撃により約21万戸の家が燃え、1万人以上の人が死に、3万5千人あまりの人がケガをしました。

1970(昭和45)  日本万国博覧会が千里丘陵で開かれる

 人口は各資料ごとに相当違う。
1873_

 1920_
前後の数字を見ると、大阪の首位は統計のトリック(とくに東京区部の扱い)によるものの可能性が高いようだ。


三笠の炭鉱について
前回の記事で、三笠には幌内、奔別、幾春別の3つの炭鉱があったと書いたが、少しウィキで調べてみた。
なお三笠という市名だが、明治時代に存在した空知集治監の建物の裏山が奈良の三笠山に見えることから名付けたと言う。最初は三笠山村と言ったらしい。何かがっかりするような話だ。
炭鉱の歴史をざっと見ておく。
1968(明治2)年に幌内で良質な石炭が見つかり、11年後に幌内炭鉱として開業した。さらにその3年後には鉄道が開通した。鉄道は小樽の港までつながり、弁慶号や義経号が走ったのは有名な話である。
86年には幾春別炭鉱も開かれる。昭和5年に住友が奔別で操業を開始した。この炭鉱は明治の時代から小規模炭鉱として開かれていたが、住友が乗り出してきて本格的採掘を始めたもの。

戦後も三笠の鉱山は急拡大を続け、最盛期には人口が6万人を越えた。

もっとも条件の悪かった幾春別炭鉱は、石炭最盛期の昭和32年に早くも廃坑となっている。
65年前後を境にスクラップ化が進み、71年には住友奔別炭鉱が閉山した。
今も残る東洋一の櫓(立坑の深さは735メートルで、櫓の地上高も50メートル)を建ててから、わずか10年後のことだった。
という長い題のページに、内部や近接の写真がアップされている。発表しているのだから許可を貰って中に入ったのだろう。
そこに閉山に至った状況がかんたんに書かれている。何やら想像を絶する大爆発があったようだ。
爆発事故や坑内環境の悪化、そして石炭から石油へというエネルギー転換の波に飲み込まれ、昭和46年に炭鉱は閉山。その後、坑道の密閉作業中にも爆発事故が起こり、5人の尊い命が失われた。

追記
小樽総合デザイン事務局」の記事も見つけました。

下の写真は旧唐松駅に展示されているものだそうです。「奔別」のロゴがついた建物は竪坑櫓というのだそうです。

唐松駅

旧住友奔別炭鉱(そらち炭鉱の記憶アートプロジェクト)

2016.5 奔別炭鉱 2.7k 【空撮】

では動画も見られます。

奔別鉱の経緯については 奔別立坑物語 その一端

が詳しい。

しかし、事故の実態と真相はいまだ不明。

山道を登ったところに奔別の社宅や学校、病院まであったと言うので登ってみたが、その先に人家の有りそうな気配はなかった。
ネットで、そのあたりの景色が映されている。まったくの原野で、所々に人が住んでいたあとがわずかに残されている。結局行かなくて正解だったかもしれない。

当初は炭鉱すべてがだめだというわけではなく、選択的に建設も行われた。筑豊が全部ダメになったあと、坑夫のかなりの部分が北海道へやってきた。「黄色いハンカチ」の主人公もそうやって夕張に流れてきたという設定になっている。
ビルド鉱の一つが最も歴史の古い幌内炭鉱だった。ここでは昭和41年になってから巨大立坑が建てられている。なんと地下1千メートルだ。ここを50人乗りのエレベーターが行き来するのである。(スーパーカミオカンデも地下1千メートル)
その幌内炭鉱も89年に閉山した。すべての炭鉱が姿を消した。


9.28

本日の赤旗で、奔別のホッパーを産業遺産として保存しようという意見が載せられていた。

ちょっと複雑な気分である。

これは一般的な産業遺産ではない。死者を出した大爆発事故の残骸である。

きつい言い方をすれば、爆発リスクを深く考慮せずにヤミクモに掘り進んだ経営者・技術者の失敗の証である。

そして、再建の努力もせず、残骸を棚晒しにしたまま逃げ出した住友の無責任さの証である。

できたときこそ東洋一だったが、間もなく作られた北炭幌内の立坑は、地上高さえ劣るものの深度は上回っている。

肝心なことは、幌内鉱がそれを非勢いかんともし難くなった80年代末まで大過なく運営し、役目をまっとうしたことである。

産業遺産(ヘリテージ)とはそうあるべきものではないだろうか。

人類の愚かさを伝える「負の遺産」として残さなければならないものも世に数多くある。

しかし、奔別鉱の建屋がそれに相当するだろうか。



毎日サンデーの今日このごろですが、本日は好天に誘われて炭鉱町めぐりです。
まずは野幌から夕張鉄道線路の跡地を走る「きらら街道」に入り栗山まで。ここから先が鉄道が見えなくなりますが、栗山を過ぎて南下し由仁の手前、角田というところから左折して山に入っていきます。途中何気なく橋があって、下をいかにも元鉄道らしき細めの道が通っていました。おそらくこれが元夕張鉄道でしょう。ここから先はなかなかの難所で、蒸気機関車がスイッチバックしながら山を登っていったようです。
夕張に行く道路は道道3号線、通称「札夕線」ということで、しっかりと作られています。昔はメインのアクセスだったようですが、今はもっと南側に三川国道という立派な道路ができて夕張川に沿って南夕張につながっています。南夕張からは峠をいくつも越えて日勝峠から道東・十勝平野へと至る大動脈になっています。だから札夕線は夕張へ直接繋がる道路なのに道道のままだということなのでしょうね。
札夕線は富野というところまではダラダラ登りですが、そこからいきなり急坂になります。つづら折りを登り詰めたところにトンネルがあります。まぁ当たり前ですね。
ところが、トンネルを抜けると、そこがいきなり街なのです。なにか異界に飛び込んだようで、これはかなりの衝撃です。
道は間もなくT字路に突き当たります。鹿ノ谷といいます。
鹿ノ谷駅は北海道炭礦汽船の全盛期は、駅周辺の鹿の谷地区は幹部用住居が存在する高級住宅地であり、旧夕張北高校・夕張工業高校に通学する学生で賑わった。
そうです。
夕張の街は夕張川沿いに南北に伸びていてそれを1本の道がつなげています。いわゆる「ふんどし街」です。T字路を左に曲がると、つまり川上に進むと夕張の本町になります。役場や病院(今は診療所)があります。そこからもう少し行くと炭鉱博物館があります。30年位前までは大きな遊園地もあって、けっこう賑わっていました。まぁ今で言えば放漫財政の名残でしょう。
今日はそちらには向かわず右折して南に走りました。
間もなく「黄色いハンカチ」公園の看板があって左折して山に登ります。だらだら坂を登っていく途中に左折すると「黄色いハンカチ」の炭鉱長屋につくのですが、看板を見逃して進んでいきました。
すると大きな日帰り温泉があって、第3セクターの運営のようです。広大な駐車場に車が5,6台。その脇には特養だか老健だかがあって、北海道の田舎ではおなじみの光景です。
ただここが違うのはとんでもない煙突が立っているということ。高さなんと68メートルなんだそうです。この煙突は昭和36年、炭鉱が一番威勢のいいときに建ったそうです。根元の直径が約7メートル、先端も3メートルくらいあるそうです。石炭を精製してコークスを作る工場があったそうですが、いまはそれは影も形もなく、駐車場の片隅にこの煙突だけが残されているのです。元は街のシンボルとして屹立していたものが、今は広場の片隅に巨体を持て余して、「すいませんねぇ」という趣で佇んでいるのがそぞろ哀れを催します。
とにかくこれはすごい産業遺産です。夕張に行ったらとにかくこれだけは見ておいたほうが良いです。
少し道を戻って「黄色いハンカチ」の長屋に向かいました。なかなかいい施設ですが、入場料はちょっとお高い。ただこの施設の維持のために頑張っている人たちの努力を考えると「まぁいいかな」という気もします。
長屋の外見は昔のままですが、一歩中に入るとモダンなギャラリーです。
飾ってあるマツダのファミリアを見ながら、しばし感慨にふけりました。あの映画はけっこう時代をまたいでいるのです。寅さんのような古き良き時代を懐かしみながら作られているのです。あの映画が理想としているのは、映画の時代より10年から20年遡った時代なのです。
昭和52年には、もうすでにバブルの時代に突入していました。ファミリアは買って買えないほどの車ではなかったのです。現にそれから数年後には私の嫁さんがファミリアのXGを買っています。
我が家は嫁さんが貧乏教師の娘なのに贅沢で、私は嫁さんの車の型落ちで乗っていました。結婚したときに嫁さんの親のスバルをもらい、嫁さんがレオーネを買うと私がスバルを運転しました。
「子供を保育所に送り迎えするから」と言っていたのですが、実際に送り迎えしたのは私でした。
スバルが故障ばかりするのでスズキの軽に乗り換え、そのあと中古でダイハツのシャレードに乗っていました。冬の暖房が効かないのには参りました。
つまり車が典型的だったのですが、時代は右肩上がりだったのです。ところが石炭は斜陽だったのです。
いまの若い人はそのへんがわからないから、あれが昭和52年のリアルストーリーだと思ってしまう。そうじゃないんです。あれは戦後30年、人間が少しゆとりを持って人生というものの価値を考え直し始めた時代の精神なんです。
その前には「愛と死をみつめて」のミコとマコの世界がある(なんと吉永小百合のきれいなことか)。「名もなく貧しく美しく」の小林桂樹と高峰秀子の世界があるんです。
たしかにそのように考え直そうとした人間がいた、しかし同じその人間が一方ではけっこうエコノミックアニマルまっしぐらでもあったんです。
まぁそんなことで「黄色いハンカチ」をあとにして国道に戻りました。
第4の見ものが清水沢の飲み屋街です。このあたりには夕張本町とは違う炭鉱がたくさんあったようで、清水沢駅の近くにはたくさんの飲食店があります。三菱大夕張の線路がここに来ていましたから、三菱系の関係者のたまり場だったのかもしれません。
店は全て閉じていて、中には崩れかけたものもありますが、中には「本日定休日」みたいな雰囲気を残す店もあります。まさに廃墟観光の決め技です。かつては夜ともなれば紅灯の巷と化したのでしょうが、今だと夜歩くのにはかなりの度胸が必要かもしれません。
昭和60年頃、私が菊水の病院に勤めていたときには、バスの便が良かったのか清水沢の人が外来に通院していました。その頃はまだ結構鼻息が荒くて、「本町はもう落ち目で、これからは清水沢が夕張の中心だ」みたいなことを言っていましたが、あえなく轟沈したようです。
その清水沢もご覧の有様。いまはもう一つ先の南清水沢が「第二都心」になっています。
それ以上南に行ってもしょうがないので、清水沢から大夕張の方に入りました。夕張には何回か行きましたが、大夕張には行ったことがなくて前から気になっていました。途中、有名な水力発電所跡が見えますが、今回はパスしました。
「時すでに遅し」というのは大夕張もおなじで、北炭系よりさらにひどい。どこもかしこも廃墟と化していました。ただ旧大夕張駅にラッセル車と客車数両が保存展示されているのは嬉しいことでした。誰も監視人などいません。勝手にドアーを開けて乗り込んで、客車の座席に座れるのです。
大夕張の駅からはそびえ立つシュウパロ湖ダムの堰堤が望めます。それを右手に見ながら長ーいシュウパロトンネルを越えると、広々とした人造湖に出ます。湖の向こうは雄大な夕張岳が広がります。
秋雨のシーズンを控えてずいぶん放水したと見えて、かなり干上がっています。湖の中に湖底に沈んだ鉄橋のアーチが半分くらい姿を表しています。あの橋のあたりがかつて殷賑を極めた大夕張の高野炭住が建ち並んでいたあたりでしょう。
あとは湖の西岸を北に進み、三笠に出ました。
三笠と言ってもみんなあまり馴染みがないと思います。結局いくつかの炭鉱町が行政的に束ねられて三笠という名前になっただけで、大きな炭鉱で言うと明治からの幌内炭鉱、住友の奔別炭鉱、それに幾春別炭鉱です。
ここで一番の心残りは奔別炭鉱です。錠がかかった門の向こうには巨大なホッパーと選鉱場、ボタ山などが立ち並んでいます。門の前の地図を見ると正門の脇の道を登っていくと炭住や旧炭鉱病院が軒を連ねる一角があったようですが、今では立入禁止となっています。坂の途中から見下ろすと、建物群の奥行き、巨大さがよくわかります。
いずれここはもう一度訪れてみたいと思います。


1.度肝を抜く生々しさ

1500年前の事件なのに、えらく生々しい。日本書紀は事細かに描いている。

しかし書かれた時点からは50年も経っていない。おそらく関係者の何人かは現存していた状況で書かれたものであろう。

細部の精密さに目を奪われて、「壬申の乱」とは一体何だったのかが、ともすれば見失われ勝ちになる危険がある。

2.本質がまったく語られない記述

形態は内乱だが、本質的にはクーデター、ないし宮廷革命であろう。権力の形態はまったく変わっていない。新たな支配層が登場したわけでもない。

大半の人にはどちらでも良い戦いだ。

かといって、家督争いとか、現政権の不満が本筋だということになならないと思う。

もしそうであれば、権力交代は多少の自由化をもたらすであろうが、実際には権力の極端な集中化と軍事化がこのクーデターの帰結だ。

3.危機感を背景にしたクーデターではないか

統制経済、地方への官僚支配の浸透などはまさに戦時体制を思わせるものだ。

戦争に備えるとはどういうことか。それは唐との対決をおいて他に考えられない。

百済が滅亡し、高句麗が滅亡した。次は日本だという恐怖感はおそらく強烈なものであったに違いない。

そして唐の砲艦外交に屈することになれば、属国化は避けられない。天智の変節、そして大友皇子の弱腰外交は許されない、というのが天武を突き動かした最大の動機ではないか。

4.白村江の評価

多くの著書には白村江の敗北とその後の防衛強化が重税をもたらし人々の不満を高めたという風に書かれているが、はたしてそうであろうか。

例えば、朝廷から反天武の戦争に動員をもとめられた九州の大宰府は、日本防衛に手一杯で兵は割けないと断っている。

「そんなことやっている場合かよ!」という怒りの声が聞こえてきそうだ。

ただしそれが正しかったかは判断の限りではない。


最初に地図を転載します。関ケ原町歴史民俗資料館からのものです。
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「飛鳥の扉」さんのページから多くを引用させていただきました。
日付は陰暦表記(のようです)

671年

11月23日 天智、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せる。

11月末? 大海人皇子(以後天武で統一)、大友皇子を皇太子として推挙、天智はこれを受諾。天武は皇太子を辞し出家。吉野に下る。

671年12月7日 天智、近江宮の近隣山科において崩御。大友皇子が跡を継ぐ。このとき天智は46歳、大友皇子は24歳。

672年

5月 天武、「大友が天智の陵墓建設を口実に美濃・尾張の農民を集め武装させている」との情報を入手。さらに吉野攻撃の動きも察知。

このあと天武は反乱を決意。高市皇子,大津皇子の都からの脱出を促す。東国に挙兵を呼びかける。

6月

6月22日 天武、美濃へ3人の使者を送り、①安八磨郡(あはちまのこおり、大垣近郊)の兵を徴発すること、②「不破道」を閉塞することを命じる。3人の使者は、村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつのきみひろ)・和珥部臣君手)(わにべのおみきみて)

6月24日 深夜、20人ほどの従者と女官とともに吉野を脱出。

6月24日 天武軍、伊賀国名張に入り隠駅家を焼き兵を募る。名張郡司は大友の出兵命令を拒否するが、天武軍には加わらず。

6月24日 天武、伊賀に進む。ここで阿拝郡司(あえ 現在の伊賀市北部)が兵約500で戦列に加わる。

6月25日 天武の長男、高市皇子が近江脱出に成功し、積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で合流。加太(かぶと)越えで伊勢の関に入る。

6月25日 伊勢国司の三宅連石床(みやけのむらじいしとこ)が天武軍に参加。500 の兵をもって山道を防ぎ、敵の追撃に備える。高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。

6月26日 天武軍、朝明の郡家を経て桑名(吉野より140キロ)に着く。天武は桑名に本営を構えるが、高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。

6月26日 飛鳥古京の高坂王が天武の謀反を大津京に伝える。朝廷は大混乱に陥る。

6月26日 安八磨郡の多品治(おおのほむじ 太安万侶の父)3千が挙兵。不破の関を封鎖。通過を図った大友軍部隊が美濃軍に拘束される。

安八磨郡は大海人皇子の生計を支えるために設定された封戸であった。
多品治(おおのほむじ)は太安万侶の父にあたる。当時は安八磨郡で封戸を管理する湯沐令であった。


6月26日 大友軍、全国に動員令を発す。東国への使者は美濃軍に妨げれ動けず。筑紫は九州防衛を口実に命令を拒否。

6月27日 尾張の国司小子部連さひち(ちいさこべのむらじ)が挙兵。2万の兵を率い不破に結集。東海道、東山道の支配権獲得に成功。
小子部連は「御陵造営」の名目で朝廷から動員されたのであろう。旧暦6月下旬といえば田植えを終え農家は多少暇になる。それが不破の関で足止めを喰らい、天武側に寝返ったものと思われる。
それにしても美濃の3千に比べ尾張2万は誇大である。戦後の処遇を見てもさほどの働きはしていないと思われる。天武側からすれば中立化できただけでも御の字であったろう。

6月27日 天武、家族を桑名において不破に向かう。野上に行宮(本営)が置かれ、ワザミガハラに前線本部が置かれる。

東国からの関門である不破の関の美濃側(安八磨郡)は天武の所領であった。おそらく天武はこの地理的条件にすべての戦略をかけたと思われる。


6月30日 天武軍は兵数万を確保。伊賀→大和方面軍が出発。軍長は多品治、将軍は紀阿閉麻呂(あへまろ)、三輪子首、置始菟(おきそめのうさぎ)ら。

7月

7月1日 玉倉部(たまくらべ-不破郡関ヶ原町玉)で最初の戦闘。大友側が奇襲を仕掛けたが撃退される。

7月2日 3~4万人からなる天武軍本隊が近江に向け進軍開始。指揮は高市皇子がとる。

7月2日 大伴吹負(ふけい)が倭京(飛鳥)で挙兵。乃楽山(ならやま 奈良市北部)まで進出し陣を構える。

7月2日 朝廷軍が犬上川に進出。不破攻撃を目指す。しかし戦闘をめぐり山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等ら将軍連が内紛。

7月4日? 大和進攻軍の一部が大和・伊勢ルート確保のため伊賀に残留することとなる。多品治が3千の兵とともに萩野(たらの)に駐屯。また伊賀と近江を結ぶ倉歴(くらふ)道の防衛には田中足麻呂があたる。

7月4日 吹負軍の坂本財の部隊が生駒山系の高安城(たかやすのき)を確保。

7月4日 坂本財の部隊が大阪側に進出するが、壹伎史韓国(いきのふひとからくに)の率いる朝廷軍に敗れ飛鳥に撤退。

7月4日 大伴吹負軍、乃楽山(ならやま 奈良市北部)で大野君果安(はたやす)の率いる朝廷軍と激突。惨敗し四散。朝廷軍は一気に飛鳥まで進出する。

7月4日 大伴吹負は落ち延びた先の宇陀で紀阿閉麻呂軍の先鋒、置始菟の部隊1千人と合流。

7月5日 大伴吹負軍、二上山のふもとの当麻(たぎま)で壹伎史韓国の朝廷軍と対戦。2日間の戦闘の上勝利。韓国は軍を離れて逃亡。

7月5日 倉歴の戦い。大友軍の田辺小隅が近江から伊賀への攻勢をかける。夜襲にあった足麻呂部隊は敗走。

7月6日 天武軍を追走した田邊小隅の朝廷軍、「たらの」で多臣品治軍3千人の迎撃を受け敗退。

7月7日 箸墓(はしはか)の戦い。大野君果安の朝廷軍と大伴吹負・置始菟連合軍による最終決戦。朝廷軍は敗走し、大和地方の闘いは終了。

7月8日 村国男依(むらくにのおより)らが率いる天武軍の本隊、息長の横河(米原市内)で朝廷軍を撃破。以後進撃を続ける。

7月9日 村国軍、鳥籠山(とこのやま 彦根)の戦いで勝利。

7月13日 天武軍本隊、安河(現野洲川)の戦いで勝利。

7月17日 天武軍本隊、栗太(くるもと 栗東町)の戦いで勝利。このあと最終決戦に備える。

7月22日 天武軍の西岸部隊、朝廷軍最後の防壁となった三尾城(高島町)を陥落。

7月22日 瀬田橋の戦い。近江朝廷軍が大敗し壊滅。

7月22日 大伴吹負軍、奈良から山を越え大阪へ進出。難波を制圧する。

7月23日 長等山へ敗走した大友皇子は首を吊って自決し、乱は収束。

7月24日 大友の首級が不破(野上)の天武のもとにもたらされる。

8月

8月25日 近江の重臣のうち右大臣中臣金(なかとみのかね)ら8名が死罪となる。

9月8日 天武は不破を出発し飛鳥に向かう。

673年

2月 大海人皇子、飛鳥浄御原宮で即位する。天武天皇から「大王」を「天皇」と呼ぶようになる。皇親(こうしん)政治が行われ、「大君は神にしませば」と神格化が行われる。





AnthropologicAl S cience Vol. 122(3), 131–136, 2014

Overview of genetic variation in the Y chromosome of modern Japanese males

Youichi Satoら、

共同研究ではなく、基本的には徳島大学のスタッフの単独調査のようである。(聖マリアンナも一部参加)

アブストラクトでは以下の問題意識が示される。

However, the data of Y chromosome haplogroup frequencies in modern Japanese males is still limited.

そこで彼らは立ち上がった。

We recruited 2390 males from nine populations in seven cities in mainland Japan and typed their Y chromosome haplogroups.

結論としてはこういうことだ。

modern Japanese males appear to be genetically homogenized in mainland Japan

それはそれでけっこうなことだ。

対象及び方法

日本国内7都市の男性住民2390人を対象とした。

内訳は

college students (S) from

①Nagasaki (n = 300)

②Tokushima (n = 388)

③Kanazawa (n = 298)

④Kawasaki (n = 321)

⑤Sapporo (n = 302)

adult males (A) from

⑥Fukuoka (n = 102)

⑦Osaka (n = 241)

⑧Kanazawa (n = 232)

⑨Sapporo (n = 206)

である。

末梢血サンプルを用いてQIAamp DNA Blood kitにより測定した。

都市間差の判定は pairwise FST values による。

結果及び考察

Japanese males belong to 16 haplogroups (Table 1)

頻度はO2b1 (22.0%), D2a1 (17.4%) D2* (14.7%)の順であった。

we did not detect any marked variability among the populations.

ハプロCの内訳を見たところ、

C1 and C3 displayed frequencies of 6.1% and 4.9%, respectively,

であった。

ハプロC(C1 and C3)は福岡のみにやや多い傾向が見られた。

ハプロD は D1, D2, andD3よりなるが、今回の調査ではD1が0.1% D2が 32.1%でD3は皆無であった。

今回の研究では、the frequency of haplogroup D2* peaked in the Fukuoka and Kawasaki students. だった。

haplogroup D2 males are equally spread throughout Japan.である可能性がある。

ハプロOは非常に細かく変異している。

O2b1 frequency in the Fukuoka adults tended to be higherだった。逆にO3a3c and O3a4 frequencies tended to be lowerだった。そもそも福岡ではハプロOそのものが少ない。

O3a3c and O3a4は福岡成人をのぞいて全国に平均して分布している。ハプロOが九州に多いという以前の報告(Hammerら 2006)は否定される。(沖縄も少ない)

結語

 we did not detect any marked variability in the frequency distribution of Y chromosome haplogroups in mainland Japan,

ミトコンドリアDNAの解析 (Shinoda, 2007; Umetsu et al., 2001)によれば、haplogroup M7の南日本優位、haplogroup N9b の北日本優位が示されている。

男性が全国ほぼ均一であることを考えると、男性の移動がより頻繁であることが推測される。

謝辞

Ministry of Health and Welfare, Japan and the Japan Society for the Promotion of Science

あとは下の図の“メタ解析”というか感想

日本人ハプロ

1.ハプロC

これだけ全国が均質化している中でも、ハプロCの地域差は鮮明である。

北からD2人が入ってきた頃、朝鮮半島からも少数のC人が入ってきて、西部にとどまったことを示していると見て良いだろう。

ただC1、C3の比率はどこでも同様だ。日本固有のC1が最初に、ついで同じ朝鮮半島経由で、いわゆる“ツングース”系のC3人が入ってきたと考えられる。

弥生時代前期に渡来人(長江人)を受け入れた縄文晩期人はこれらC人だったのかもしれない。

北海道の一般成人のC3高値はオホーツク人→アイヌ人の流れかもしれないが、それほどまでの影響があるかと言われると…

北海道民500万のうちアイヌ人はたかだか10万人。2%にとどまる。

2.ハプロD

これまで東日本優位と思われていたが、意外にもまったく地域差を認めなかった。サブタイプに分けても差は見いだせない。今のところどう判断してよいのか分からない。

3.ハプロO

ハプロOはO2系とO3系でまったく意味が違う。

O2は弥生人だ。長江文明を原産とし漢人に逐われて、朝鮮半島そして日本へと渡ってきた人々だ。

九州を除けばそれぞれがほぼ均一に分布しており、偏りは見られない。

O3はいわゆる“騎馬民族”だ。満州南部から南下し、先住民(おそらくC3人およびC3人と共生していたO2人)を支配し、あるいは駆逐し最後に九州北部に到達したのがO3aであろう。

それとは別系統(新羅系)がさみだれ式に山陰地方に到達し、この一族が大和・畿内にまで到達したのではないかと思われる。

なおこれら一連の図で、長崎と福岡にかなりいちじるしい差が見られるが、一方が学生であり他方が一般成人であるところからも、その解釈には慎重さが必要であろう。

とにかくこれで一応のベースとなる数字が出たことになる。その意義は非常に大きいと思う。

あとは人口移動が少ない農村地帯で、三代以上継続して居住している人のデータをコツコツと集積すべきであろう。


全ゲノム解析でもよいのだが、その際にY染色体ハプロのデータは引き出せるので、とにかく数万単位のデータが欲しいものである。


以前から気になっているのだが、Y染色体ハプロの内訳を調べるのに、基礎となるサンプル数があまりにも少ないことが気になっている。

しかも古い。

2005年前後の数年間に調査が行われたきり、その後大規模なデータ集積が行われていない。要するに崎田さんが先駆的にとりあげ分析した時点から、我々は一歩も前進していない。

あたかも「魏志倭人伝」のように同じデータをいろいろいじっているに過ぎない。

赤旗に時々載る遺伝子がらみの記事を見ていると、どうもミトコンドリアDNAの人も頑張っているし、全ゲノム解析の人が「これからは私達に任せて」みたいなでしゃばり方をしている。

しかしこれだけクリアカットに人種の歴史的動きが辿れる指標は他にないのである。全ゲノムはそれはそれとしてやっていけば良いのだが、現段階ではただ情報にホワイトノイズを追加しているに過ぎない。

なんとか文科省でもう少しこの研究に力を入れてもらえないのだろうか。

と、思っていたところ、やはり世間にはそう考える人がいて、データベースづくりをコツコツとやってくれている。

それが“ちべたん さんの「日本とはなんぞや?」というブログだ。

題名だけ聞くとちょっと引いてしまうが、別に「日本会議」の御用達ではない、普通に真面目なサイトである。

この参考文献のところを見てみると、最初の報告からほぼ10年、まったく研究が止まっていることが分かる。

Tajimaらの2004年の論文。

Senguptaらの2006年の論文。対象日本人は23人。

Nonakaらの2007年の論文。対象日本人は263人。

などのきわめて少数例を対象としたプレリミナリな報告に過ぎず、これで日本人の祖先を云々するのは流石にちょっとおこがましい。

ところが2014年に桁外れの多数例を対象にした調査が行われているらしいのだ。

我々は今後はこのデータ(のみ)を対象にして物を言わなかればならないだろう。

いま、このSatoの2014年調査のデータを探しているのだが、英語の報告は探せるのだが、日本語の原著が見つからない。ちべたん さんはきっとそれを読んでいるのだろうが、ブログではリンク先を明らかにしていない。

…と言いつつ日本語の原著を探したが、みごとにない。

仕方がない、英語の原著を読むことにするか。



田中美保さんの論文はかなりの衝撃だった。

以前作成したケルト人の歴史年表(2014年01月22日 ケルト人について)が全面否定されたことになる。もっともそれは私の責任ではないが。

「ケルト人について」は主としてウィキペディアからの知識によって書かれているが、

(イギリスでは)そもそもケルトという区分け自体を疑問視する声も挙がりつつある。

こうした批判は古代ブリテン史をいわば自国の歴史に書き換えようとする動きとしてフランスなどの学者からは批判に晒されている。

それに対してイギリスの学者からは古代ケルトを統合欧州の象徴に据える作為だとする反駁がなされるなど、国家間の政治問題と化している感がある。

と引用している。

ウィキは明らかに「ケルト人存在説」だ。イギリス人がごねているようにみえる。

しかし実情はそんなものではない。Y染色体ハプロタイプが明らかに中央ヨーロッパ由来説を否定しているのだ。
さらに衝撃的なのは、アングロサクソン人を自称するイングランド人さえ、遺伝学的には「ケルト人」なのだということ。アングロサクソンは先住民を虐殺したり駆逐したのではなく、その上に君臨したに過ぎないということになる。

問題は、「Y染色体ハプロタイプ」を信じるか否かにかかってる。私には「もはや勝負はついた」としか思えないが。

なおスペイン北部と聞いてバスクを思い起こす人もいるだろうが、バスクと「ケルト」は明らかに異なる。


この話を知って、私はすぐに縄文人のことを思い起こした。

Y染色体の示すところ、縄文人が北から日本列島に入り、沖縄をふくむ全土に分布したように、「ケルト人」はスペイン北部から海岸沿いに北上しブリテン諸島をふくむ西ヨーロッパの海岸沿いに分布した。

時期は縄文人より遅れ、新石器時代に入ろうとする頃であった。それ以前にそれらの土地に旧石器時代人が先住していたとも言われる。

Y染色体で見る限り中央ヨーロッパ人とは違う人種である。ケルトという人々が

紀元前の時代のギリシア人が、アルプスの北側に住む人々をさして、そう呼んだ

のだとすれば、スペインから北上した人々は、語源的には「ケルト人」ではない。

多分、19世紀の時代の物知りが、ギリシャの古い書物から見つけ出したのであろう、と想像される。

いずれにせよ、非アングロサクソン系の「大西洋型ハプロタイプ」人が紀元前後までは広く居住していて、そこに最初はローマ帝国、ついでゲルマン系の人々が侵入してきたわけだ。

数々の侵入を受けたあとも、「大西洋型ハプロタイプ」は現在に至るまでブリテン諸島人のY染色体の多数派を占めている。

これも縄文人の血が濃く受け継がれる日本と共通するものがある。

イングランドでさえ、64%が「大西洋型ハプロタイプ」であるにもかかわらず、彼らはみずからをアンゴロ・サクソンと信じている。

これは東北縄文人(エミシ)が大和文化に完全に同化して、みずからを生粋の日本人と思っているのと似ている。

そして同化しなかった(しえなかった?)人々がアイルランド人、ウェールズ人、スコットランド人として取り残された。これもアイヌ人の運命と一種似通ったものがある。 

以前にもケルト人の歴史を勉強したが、あまりにも資料が少なく“ポジティブな全体像”を描き出すことはできなかった。

多くの資料は、ギリシャ人に逐われローマ帝国に逐われ、最後はノルマン人に占領され、ブリテン諸島の片隅に逼塞する民としか描かれず、他者にとっての歴史でしかなかった。

今回田中美保さんの論文「アイルランド人の起源をめぐる諸研究と“ケルト”問題」を発見し、その書き出しに大いに期待しノートを作成する。

1.「ケルト人」は創造された人種である

田中さんの問題意識は私にとっては鮮烈であった。

「ケルト」とは実は現代の問題でもある.

アイルランド, スコットランド,ウェールズ,コーンウォール,ブルター ニュなどは,本来,非英語圏・非フランス語圏であり,イ ングランドないしブリテンやフランスといった大国に支 配されてきた歴史をもつ.
当然,彼ら固有の文化も言語も 否定されてきた.それゆえ,言語や文化の復興・振興の名 のもとにこれらの地域が集い,その際,「ケルト」という 看板が付けられるという事情もある。

このような「ケルト」神話は,近代に,各地域のナショナリズムの高揚などの影響を受けて創造されたものである.

しかし,その「ケルト」観が,歴史的事実として誤用されてきたのである.

…いまだに商業ベースでは「ケルト」という言葉が踊っている.経済効果があるからか,「ケルト」神話はなかなか消えないのである.

…本稿では,とくに分子遺伝学者たちの研究に注目しつつ,アイルランド人の起源について考えていきたい.

ということで、「そもそもケルト人という言い方が間違いである」と断言している。

2.分子遺伝学者たちの研究

(1) ブライアン・サイクスの研究

サイクスの研究は,①アイルランド人、②スコットランド人とピクト人、③ウェールズ人、④イングランド人とサクソン人・デーン人・ヴァイキング・ノルマン人に分けて,それぞれの歴史やDNAについて論じている.

アイルランドの男性の圧倒的多数は「大西洋型ハプロタイプ」と呼ばれるY染色体を持っている。

「大西洋型ハプロタイプ」の比率は、アイルランドで80~95%、スコットランドが72.9%,ウェールズが83.2%,イングランドでさえ64%を占める。

さらにスペインのバスク地方やガリシア地方でも見られる。

サイクスは,ミトコンドリアDNAなども合わせて検討し、次のような結論を出している.

中央ヨーロッパからアイルランドやブリテン諸島への大規模な移住の証拠は何もない。ゲノムのレベルでは,アイルラ ンド人は中央ヨーロッパの人々との特別に近い類似性は ない。

いわゆる「島のケルト人」と「大陸のケルト人」とは遺伝学的に見て無関係である。

これは従来のケルト由来説の否定である。
それまでは、中央ヨーロッパの いわゆる「ケルト人」の中心地から鉄器時代に大量の移住 があったとされていた。

「大西洋型ハプロタイプ」の人々の大部分は,農耕が始まった頃にイベリア半島から移住した。

このとき、ブリテン諸島にはヨーロッパ大陸から来ていた中石器時代(約1万1500年前~約6000年前)の人たちが先住していた。
(2)その他の研究

重複する部分や曖昧な論争部分を避けて、付加的事実をあげておく。

「大西洋型ハプロタイプ」の人々は、新石器時代(約6000年前~約4000年前)にイベリア半島北部から大西洋側に沿ってブリテンとア イルランドに入植した。(スティーヴン・オッペンハイマー)

つまり、「ケルト人」を鉄器時代に中央ヨーロッパから渡来した人衆と定義するならば、そのような「ケルト人」は実際には存在しなかったということになる。

したがって、ブリテン諸島人の骨格をなす「大西洋型ハプロタイプ」の人々は、「ケルト人」ではない、ということになる。


ただ、その上で「大西洋型ハプロタイプ」人を「ケルト人」と称することにしようという人(例えばサックス)もいる。

3.アイルランド人研究者の発言

(3) P・マロリー『アイルランド人の起源』2013年

アイルランド人自身による研究の代表としてマロリーを上げる。

マロリーによれば、アイルランド島が今日の形や大きさになったのは,1万2 千年前から1万年前で非常に遅い。アイル ランドはユーラシアで最も人の定住が遅かった地の一つ である。

ア イルランドの多くの起源がブリテンにある。最初の入植者はスコットランド,マン島,ウェ ールズなどであろう。

11世紀後半にアイルランドで編纂された 起 源 伝説 『ア イル ラン ド来 寇の 書』はアイルランド人自身による起源伝説である.

物語では、最後にアイルランドに来寇したとさ れるのが,「スペインのミール(Míl Espáinne)」である.

多くの研究者がスペイン由来説の傍証としてこの物語を上げるが、肝心のマロリーは、中世アイルランド の学者たちによって,古典研究にもとづいて創造されたも のであり,決して「記憶」によるものではないと主張している。

同じように分子遺伝学的所見に対しても、「未だ不確実なもの」として批判的なスタンスを取っている。



すでにこの時点で、エミシの用法はなくなっている。津軽・北海道をふくめエゾで統一されており、アイヌ語を喋るアイヌ人と考えて良いだろう。ただし津軽のエゾが狩猟・採集民族であったかどうかは疑問である。


安藤家の歴史

骨嵬と元との戦争

1216年、鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島に追放する。

1217年 鎌倉幕府、藤代の安東堯秀(五郎)を津軽外三郡守護に任命。あわせて「東夷を守護して津軽に住す」蝦夷管領に任命する。安東家が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する仕組み。安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。

1229 安藤堯秀が十三湊を支配する十三左衛門尉藤原秀直(奥州藤原氏の末裔)を萩野台合戦で破る。藤原秀直は渡島に追放され、安東氏が十三湊に移り港湾の整備や街路の建設を行う。

1246 幕府、陸奥国糠部五戸の地頭代職に甲斐の御家人南部氏を指名。安藤家の支配地は津軽半島一帯の3郡に狭められる。

1264年 樺太で骨嵬(くぎ・くい)が吉烈迷(ぎれみ)を攻撃。吉烈迷は蒙古に救援を求める。3千の蒙古軍が骨嵬を攻撃し樺太を占領。骨嵬は蒙古への朝貢を約束。骨嵬は樺太アイヌ、吉烈迷はギリヤーク(ニブフ)人と言われる。

1268年 津軽で仏教の押しつけに反発した蝦夷が蜂起。蝦夷代官の安藤五郎が殺害される。背景には蝦夷に対する苛烈な収奪があったとされる。樺太での蒙古との衝突が戦費増大をもたらした可能性もある。

1274年 元軍が北九州に襲来(文永の役・弘安の役)。

1281年 元軍が北九州に二度目の襲来(弘安の役)。

1283年 元、骨嵬に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。

1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は1万以上の兵力を投入。

1295年 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太南西部へ渡り、布教活動を行ったとされる。

1297年 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。(安東氏がアイヌを率いて侵攻したものとされるが証拠はない)

津軽大乱

1300年頃 鎌倉幕府の衰退に伴い、京都とをつなぐ日本海航路の重要性が増す。日本海ルートの拠点、十三湊が急成長。昆布と鮭の交易により財を成す。

1308年、骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。

1318年 津軽大乱が発生。惣領の安藤季長(又太郎)と従兄弟の安藤季久(五郎三郎)との間の内紛。蝦夷沙汰職相続を巡る争いが続く。両者が幕府要人に贈賄合戦。

1320年 出羽の蝦夷が蜂起。戦いは2年におよぶ。蝦夷代官・安東季長が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に撃退される。

1322年、津軽大乱が始まる。両軍は岩木川を挟んで外が浜(青森市)と西が浜(現深浦)に対峙する。

1322年 得宗家公文所が仲裁裁定。出羽のエゾ蜂起に対する鎮圧作戦の失敗を咎め、蝦夷代官職を季長から季久に替える。季長は裁定に服さず戦乱は収まらず。

1326年、鎌倉幕府、陸奥蝦夷の鎮圧のため工藤祐貞を派遣 。西が浜の合戦で安藤季長を捕える。季長郎従の季兼は「悪党」を集めて抵抗を続ける。

1327年 鎌倉幕府、「蝦夷追討使」軍を再び派遣。安藤季兼軍は西浜で幕府軍を迎え撃ち、小部隊による奇襲戦術で甚大な被害を与える。

1328年 幕府と安藤季兼軍とのあいだに和談が成立。季兼一族に安堵を与える。安藤季久は支配地の他に「蝦夷の沙汰」を確保するなど既得権を守る。幕府の権威は大きく失墜する。

1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。十三湊の下の国安東氏(宗家)と大光寺城に拠点を置く上の国安東氏(分家)に分かれる。

1333年 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。北畠顕家が奥州に下向。このあと安藤家は新政府(朝廷)側に与し旧勢力側と対峙。

(このへんよくわからないので、調べて書き足します。あまり本筋とは関係ないのだが…)

1335年、足利尊氏が建武政府に反旗。南北朝の対立がはじまる。曽我・安藤家は足利につき南部師行・政長・成田泰二と戦う。

1336 足利尊氏が光明天皇を擁立、北朝を掌握する。安藤家は北朝方(足利尊氏)に与し、津軽合戦奉行(北奥一方検断奉行)を命じられる。

1356年、「諏訪大明神絵詞」のなかでアイヌのことに言及。

1368年、元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。 

1395 安藤氏、北海の夷賊を平定しさらなる領地を獲得、再び将軍(日之本将軍)の称号を得る。

1400年頃 政権の交代に伴い、十三湊が全盛期を迎える。

西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来した。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。街は南北約2キロ、東西最大500m。幅4~5mの直線的道路が走り、安藤家の居館跡や板塀で囲われた武家屋敷跡、短冊形で区分けされた町屋、寺院墓地、鍛冶・製銅などの工房、井戸跡などが発見されている。中国製の陶磁器、高麗製の青磁器、京都産と思われる遺物も発見されている。

室町幕府が成立。北朝=足利側についた安藤氏は、鎌倉府や奥州探題を飛び越えて室町将軍に直属する(御扶持衆)。

1409 三戸南部氏が津軽に侵入。津軽の西半分は秋田・安東氏、東半分は三戸南部氏、浪岡周辺は浪岡氏が支配する。

1418 南部氏が上洛、将軍足利義持に金や馬を献上。津軽国司に任ぜられる。

1423 安藤陸奥守、足利義量の将軍就任に際し馬・鷲羽・海虎皮等を献上。室町幕府より陸奥守の称号を得る。さらに後柏原天皇から「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の称号を賜る。日本(ひのもと)将軍は北海道の管理職を意味する。

1432 安藤盛季・康季、南部氏に敗れ蝦夷島に撤退、幕府が調停に乗り出す

1442 安藤盛季・康季、南部義政に敗れ、十三湊を追われ再び蝦夷島に渡る

1452 安藤義季、南部勢に攻められ自害 安藤氏嫡流の断絶

 

前九年後三年の役

前九年の役

1000年頃 安倍忠頼、衣川以北の陸奥国奥六郡に半独立的な勢力を形成。

1050年 多賀城の国司、陸奥守藤原登任は朝廷に安倍氏討伐をもとめる。安倍頼良(忠頼の孫)は役務を怠り、税金も納めず、衣川を越えて南に支配を拡げようとしていたと非難される。

1051年 前九年の役が始まる。藤原登任、数千の兵を陸奥国奥六郡に派遣。秋田城介の平繁成も国司軍に加勢する。

11月 玉造郡鬼切部(おにきりべ)で朝廷軍と安倍軍が衝突。安倍頼良の圧勝に終わる。官軍は散を乱して壊走。大和朝廷は藤原登任を解任し、河内源氏の源頼義を陸奥守に任命。

1052年 朝廷、上東門院の病気快癒祈願の為に大赦をおこなう。安倍頼良は朝廷に逆らった罪を赦される。

1052年 源頼義が陸奥に着任。安倍頼良は、頼義と同音であることを遠慮して名を頼時と改める。

1053年 源頼義、陸奥守のまま鎮守府将軍を兼任。鎮守府の場所は不明だが、奥六郡に境を接する衣川あたりと思われる。

1056年2月 阿久利川事件が発生する。源頼義の支隊を安倍貞任(頼時の嫡子)が攻撃したとされる。ふたたび戦闘が再開される。

1056年 安倍頼時の女婿でありながら源頼義の重臣であった藤原経清は、頼義の粛清を恐れ安倍側に寝返る。

藤原経清の話はややこしいが大事なので、ここにまとめて書いておく。
経清は安倍氏と同じ俘囚の身分で、朝廷に協力し亘理の権大夫の官名を受けていた。藤原の名は下総からの流人の流れを引いているためとされる。
妻は安倍頼時の娘であり、息子が清衡である。自らは厨川で朝廷軍に捕らえられ斬罪となるが、妻は安倍氏に代わる清原氏に嫁し、清衡は清原家養子となった。これは前九年の役が最終的には安倍氏と清原氏の出来レースであったためである。
清衡は後三年の役で源義家に就き、清原家の権力を一身に集めた。その上で、実父の藤原の家名を復活させ、奥州藤原氏の始祖となった。

1057年
5月 源頼義、安倍富忠ら津軽の俘囚と結び、頼時軍の挟撃を図る。頼時は津軽説得に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け横死。安部貞任が後継者となる。

11月 源頼義、兵隊1800余りを率いて国府より出撃。北上川沿いに北上。貞任は川崎柵(現一関市)に4000名の兵を集め待機。

11月 川崎の柵近くの黄海(きのみ)で両軍が衝突。頼義軍は寡兵の上に食料不足で惨敗。戦死者は数百人に達する。源頼義・義家父子はわずか7騎になって、貞任軍の重囲に陥るが、かろうじて隙をついて脱出

1062年春 源頼義の陸奥守の任期が切れる。高階経重が着任したが、郡司らは経重に従わなかったため、再び頼義が陸奥守に任ぜられる。

7月 源頼義、出羽国仙北(秋田県)の狄賊の清原光頼を味方に引き入れ、安倍一族に再挑戦。朝廷側の兵力はおよそ1万人と推定され、うち源頼義の軍は3千人ほどであった。

8月 頼義軍、小松の柵の戦いで安倍軍に大勝。さらに北上。衣川柵、鳥海柵を撃破する。

9月17日 安倍氏の最後の拠点、厨川柵、嫗戸柵(いずれも盛岡市内)が陥落する。安倍貞任の遺児高星は津軽藤代に逃れて安東太郎と称する。

今昔物語集』第31巻第11「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」の説話は、筑紫に流された貞任の弟宗任が語った物語とされる。誰かが行ったことは間違いないが、頼時本人ではなかったと思われる。

1063年 源頼義は伊予守に転じ、源頼俊が陸奥守後任となる。奥六郡は清原氏に与えられる。1065年 「衣曾別嶋」(えぞのわけしま)の荒夷(あらえびす)と、閉伊7村の山徒が反乱。源頼俊の命を受けた清原貞衡が制圧に向かう。延久蝦夷合戦と呼ばれる。

衣曾別嶋は青森から下北あたりを指すといわれるが、下北と関係の深い胆振・千歳のエミシが加勢に来たとしても不思議はない。ただ渡党ほど強くはなかっただろう。荒夷は縄文語を話すエミシを指すのではないだろうか。

1070年 清原氏が閉伊7村を制圧。清原貞衡は鎮守府将軍に任ぜられ、陸奥も支配することになる。建郡が行われ、久慈郡、糠部郡などが置かれた。同時に陸奥鎮守府と出羽秋田城に分かれていた東夷成敗権が鎮守府に一本化された。

いずれにしても肝心なことは、和風化したエミシが初めて同胞に向かって刃を向けたということである。当初はおなじ和人化エミシである安倍一族に刃が向けられ、ついで朝廷にまつろわぬエミシにまでそれがおよんだことになる。その後清原氏が空中分解するのは当然のことであろう。しかし「大和政権の走狗」としての伝統は松前氏にまで受け継がれることになる。


後三年の役

1083年 源頼義の嫡男の源義家が陸奥守を拝命し、着任。

頼義・義家の親子は悶着を起こすのをこととしてるようにみえる。きっと多賀城・鎮守府内の好戦派集団に担がれて、その気になったのだろう。しかし朝廷にこれを抑える力はないから、実質的に関東軍化している。

1083年 清原家の相続をめぐり内紛。後三年の役が始まる。

1086年 源義家、分裂した一方に味方し、出羽に侵攻する。沼柵(横手市)の戦いに敗れ撤退。

1087年12月 義家軍がふたたび出羽に侵攻。金沢柵(横手市金沢)の戦いに勝利する。これにより後三年の役が終結。

朝廷はこれを頼家の私戦と判断。戦費の支払いを拒否し、義家の陸奥守職を解任する。義家は自らの裁量で私財をもって将士に恩賞したため、関東における源氏の名声を高める結果となった。

平泉王権の栄華

1087年 義家についた清原清衡は、実父藤原経清に従い藤原姓を名乗る。奥州藤原氏の統治が始まる。清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を続け、信頼を勝ち取る。

義家がいなくなっても多賀城・鎮守府内の好戦派は残り、再戦の機会をうかがっている。これに対抗するには、多賀城の頭越しに朝廷と直接関係を結ぶしかないと考えたのだろう。錦の御旗を失った多賀城は凋落し、平泉王国は絶頂の時を迎える。

1094 藤原清衡、平泉より外ヶ浜(現青森市)につながる「奥の大道」を整備する。また津軽に立郡が行われ、大和朝廷の直括支配下に編入される。

もちろん主目的はロジスティックスだろうが、この道を通って蝦夷の産品が持ち込まれ、それが京都の公家への鼻薬になれば、黙認されるであろう。
かくして京の街には大量の蝦夷産品が流れ込み、ブームを形成した。

1099年 藤原清衡、盛岡より南進し平泉を開府。

1110 この頃成立した「今昔物語」に「今昔、陸奥の国に阿部頼時という兵ありけり。その国の奥にエゾというものあり」と記載。「エゾ」の初出とされる。陸奥の奥はツカロ(津軽)と呼ばれる。

1111 出羽国で反乱。守護源光国は任務を放棄。このころ、鎮守府将軍の藤原基頼、北国の凶賊を討つという。

1124年 清衡によって中尊寺金色堂が建立される。平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となる。

1126年、藤原氏(清衡)の支配が津軽にも及ぶ(推定)。外の浜まで一町ごとに笠卒都婆を建てる

1131 藤原氏はアイヌの物産を京に運ぶことで財を成す。京都の朝廷は清衡を「獄長」と表現。「奥六郡」における「俘囚の長」としての扱いを貫く。

1143 琵琶の袋としてエゾ錦が用いられるなど、エゾとの交易が文献上で確認されるようになる。

和人化したエミシは日本人として認識されるようになる。これに対し津軽・北海道のエミシは依然として異人とみなされ、エゾと呼ばれるようになる。

1150 藤原親隆、歌の中に「えそがすむつかろ」(蝦夷が住む津軽)と表現。

1153 平泉政権の二代藤原基衡、年貢としてアザラシの皮5枚ほかを上納する。北海道まで交易・支配が及んでいたことが示唆される。その後秀衡の時には鎮守府将軍・陸奥の守に任官される。その兵は奥羽17万騎と称される。

奥州藤原氏の滅亡

1185年 奥州藤原家、源頼朝に追われた義経を秘匿。後、頼朝の圧力を受け殺害。

1189年7月 頼朝軍が奥州に侵攻。藤原氏を滅ぼす。泰衡は糠部郡に脱出。出羽方面から夷狄島を目指すが、肥内郡贄柵(現大館市仁井田)で討たれる。秀衡の弟藤原秀栄は十三湊藤原氏の継承を許される。
1189 幕府は奥州惣奉行を設置。御家人(東国武士)を旧藤原領に配置し奥州の支配を強化。一方で朝廷の多賀城国府も存続し、出羽国内陸部では旧来の在地豪族が勢力を保持。東国武士と在地勢力の軋轢が強まる。

1189年12月 安平の郎党で八郎潟の豪族だった大河兼任が反乱。

1190年1月 大河、津軽に入り鎌倉軍を撃破したあと平泉を奪還。藤原氏の残党を配下に加えて一万騎に達する。

3月 大河軍、栗原郡一迫で鎌倉軍と対決するが、壊滅的打撃を受け敗走。兼任は敗死。

1190年 安藤季信が、津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。季信は安倍氏の末裔で、頼朝の奥州攻めで先導をつとめた安藤小太郎季俊子。(実体的支配は1217年以降と思われる)

鎌倉幕府は、経済的収奪はしっかりしたが、朝廷とは異なり人種的偏見は見られない。時代が変わったためであろうか、彼らも縄文の血を色濃く受け継いでいたためであろうか。

1191 頼朝軍の代官南部氏が、甲斐の南部から陸奥九戸、糠部へ移住。


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