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カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

マイペディアで
別名は伽耶をはじめ加耶,伽倻,加良,駕洛,任那など多数あるが,いずれも同じ国名を異なる漢字で表記しようとしたためである。
と書いているが、なぜが欠落していて、とても説明にはなっていない。「つまりそういうことなんだよ」と言われても、どういうことなのかはわからない。

田中俊明『古代の日本と加耶』2009 日本史リブレット70 山川出版社(ウェブサイト「世界史の窓」からの重複引用)
にこう書いてある。これはなかなか説得力がある。
朝鮮古代史の基本史籍である『三国史記』ではおもに加耶が用いられる。加耶 ka-ya は加羅 ka-ra の r 音が転訛したもので朝鮮語ではよく見られる。
ということで、伽耶(かや)は加羅(から)が10世紀近くを経て、朝鮮語風になまったものと見ることができる(スペイン語の -lla と同じ)。もしこの学説が証明できるのなら、韓国の学者も当時の用法「加羅」を使うべきであろう。

ウィキペディアには、私の一番知りたい疑問「なぜ、日本語文献では加羅が表に出てこないのか、本当に加羅と伽耶は単なる言い換えに過ぎないのか」
についての答えがない。
そこで他の文献もあたってみることにした。

ブリタニカ→コトバンク

『三国志』魏志東夷伝によれば、古代の南朝鮮地方には諸韓国が分立していた。
そのなかで代表的なものは南北2国あり,
南がいわゆる「任那加羅」、または「金官加羅」である。

「広開土王碑」文に登場するのは「任那加羅」である。

532年、金官加羅は新羅に併合された。

北方の代表的な国は「高霊加羅」あるいは単に「加羅」とも呼ばれた。

562年、「高霊加羅」は残存の任那諸国とともに新羅に併合された。これが『日本書紀』でいう「任那の滅亡」である。

これは多くの本に載せられている経過である。しかしどうも、これがスッキリしない。

「または」とか「別名だ」というのだが、本当にそうなのだろうか。加羅=伽耶=任那とそうかんたんに言えるのだろうか。

マイペディア・世界大百科事典

マイペディア・世界大百科事典→コトバンクの表現は、より断定的である。

日本書紀の「任那」は諸小国の総称であるが、任那は本来金海加羅を指す。

以上のごとくであるが、これではまったく納得できない。中国の史書が一度ならず、これだけ明確に二つを使い分けているのに、それについて口をつぐんで、事実上同一視するのは歴史への冒涜とすら言える。

高校の教科書

山川出版社の教科書『詳説日本史』では、「
日本書紀では加耶諸国を任那と呼んでいる」と書いてあるらしい(世界史の窓」からの重複引用)。加羅ではなく伽耶と書いた理由は不明だ。もし加羅の言い換えであれば、これは不正確だ。少なくとも倭の五王のくだりでは任那と加羅はしっかり書き分けられている。


伽耶  または加羅、または加羅諸国

ウィキペディアの記載はわかりにくい。

広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。
洛東江流域を中心として散在していた小国家群。

金石文である広開土王碑文と中国文献で確実な事実を表すと下記の如くなる。

414年 広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初

438年 『宋書』のこの年の条に 「弁辰」が消えて「任那」が登場。

451年 『宋書』のこの年の条に倭王済が「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けられたとの記述。

478年 宋朝が倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授ける。

537年 中国梁国の史書「南齊書」では、「加羅國、三韓種也」とされる。

629年 『梁書』が成立。「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。

660年 『翰苑』が成立。新羅条に「任那」が登場。その註に伝聞として、「加羅と任那は新羅に滅ばされた」とある。

801年 『通典』が成立。新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。

どういう地理関係にあったかは別として、とにかく同時に併存した別個の国だったことは間違いない。

問題は、これだけ存在が確実である「加羅」が日本の文献にほとんど登場しないことである。

加羅と三韓

あまり深読みしてても仕方がないが、「加羅國、三韓種也」とあるのは任那と加羅・秦韓・慕韓とは、すこし国としての扱いが違うのかも知れない。

つまり、任那は百済や新羅と同じ扱いで、加羅は半島南岸にわずかに残った旧三韓の名残りと見ることもできる。

少なくとも中国はそうみていた。とにかくこの基本線を踏み外してはいけない。

高久健二 「楽浪郡と三韓の交易システムの形成」
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報 第6号2012年3月

学習ノート

紀元前2世紀初頭 燕の武将衛満が古朝鮮の準王を退けて衛満朝鮮を建てた。亡命漢人政権であり、前漢王朝の外臣として存続した。

衛氏朝鮮の成立後、青銅器、鋳造鉄器など燕の文物が持ち込まれる。

紀元前150年ころ 半島南部地域は三韓の勢力が残存。原三国時代を形成する。慶尚南道を中心に木棺墓の墳墓群が形成される。

紀元前109年 朝鮮王右渠が漢への入朝を拒む。

紀元前108年 王険城が陥落。漢は朝鮮半島に楽浪・真番・臨屯・玄菟郡の四郡を設置。
遺物の構成から見て古朝鮮=王険城=楽浪郡都=平壌及びその周辺と考えられる。

紀元前100年ころ 原三国地域とくに辰韓(嶺南、現在の慶尚道)で、八達洞遺跡、茶戸里遺跡、良洞里遺跡など。楽浪との交易拡大による。

紀元前45年 郡県の再編成を契機とし
て楽浪郡は発展期を迎える。「楽浪郡初元四年県別戸口簿」 によれば、この頃の楽浪郡の戸数は43,835戸に達する。

三韓諸国の首長層は外臣として取り込まれ、「臣」と自称する。前漢王朝への朝貢は支配者間の格差を拡大する。

紀元前l世紀中葉~後葉 北部九州で前漢鏡が護棺墓に副葬されるようになる。楽浪郡・三韓・倭を結ぷ長距離交易ルートが確立したと考えられる。

紀元後 2 年 『漢書』地理志によれば、楽浪郡の戸数は62,812戸である。

この論文の良いところは、三韓地域を3つに細分したことである。

三韓地図

短距離交易地域
楽浪と近接した距離にある京畿・嶺西地域(現ソウル周辺)である。馬韓との中間地域で、後に百済が興った地域である。

中距離交易地域
日本海側に位置する領域。現江原道。

長距離交易地域
弁韓と辰韓をふくむ地域で、嶺南地域(現慶尚道)と呼ばれた。
洛東江をさかのぼり、倭館からは険阻な小白山脈を越えて、南漢江を下って、京畿地域へと至るルートが想定され、特定の漢式遺物が集中的にもたらされたと考えられる。
なお馬韓地域(全羅道)には、この時期のものとして見るべき遺跡はない。

衝撃的な図を見つけた。
平凡社「韓国歴史地図」という本で、2006年の出版。3800円もする。
この最初の方の図版がこれだ。

朝鮮半島

植生はとりあえず置くとして、1万5千年前までは朝鮮半島は存在しない。おそらく中国大陸の東が裂けて、黄海と渤海湾が形成されたのだろう。
1万年前にはほぼ現在の形が出来上がっている。その後の変化は台湾島の形成とスンダ大陸の消滅くらいだ。
かなり荒っぽい地図だということはわかる。「現在」という図は日本列島やフィリピン諸島が一塊となっている。
しかし朝鮮半島が形成されたのが1万2千年前、西暦でいうと紀元前1万年ということは、本文中にも明記されている。

もしこれが事実なら、これまでの先史時代の評価には相当の検討が必要となる。黄河は現在の黄海をずっと南下し(あるいは淮河の河道を経由して)東シナ海に開いていたのかも知れない。朝鮮半島南部の長江人は渡来したのではなく、もともと定住していたのかも知れない。

とにかく対応する日本側文献を探さなくてはならない。

出雲の国譲りをもう少し突っ込む

目下のところ私の妄想に過ぎないが、イザナギ・伊邪那美の作った大八洲と豊葦原中国はいずれも朝鮮半島南岸地域だと思う。
そこには九州から渡った晩期縄文人が住み着いていた。そこに長江下流域で水稲を栽培していた人々(YハプロO1b)が山東半島から渡ってきた。
彼らは縄文ネットワークを通じて九州 に渡りコロニーを形成し始めた。

衛氏朝鮮残党(遼河人)の南進

紀元前200年ころに漢が進出し楽浪郡を形成した。衛氏朝鮮は滅び残党は南に向かった。
彼ら天孫族は「高天原」により、豊葦原中国を攻略した。彼らが百済や新羅の祖先となる。
やがてスサノオ派が天孫系から分裂した。彼らは支配権争いに敗れ出雲へと逃亡した。
アマテラス派は追討軍を派遣し、日向に上陸した後、スサノオ派の拠点宗像を奪い、さらに東に向かった。

出雲族の大和征服

ここでスサノオ派は出雲を明け渡すのだが、アマテラス派の支配下に入るのではなく、さらに東に向かうことになる。
つまり神武東遷の前に出雲天孫系の「東遷」が先行したのである。
こういう二段跳び、三段跳びができたのは彼らが稲作民ではなく狩猟民であったからだろう。いわゆる「騎馬民族」である。
一方、稲作を営む長江人系には天孫系の支配を甘んじて受けるという選択肢しかなかった。
彼らの信仰は放棄され、そのシンボルであった銅鐸は投棄された。
絶対年代で言えば、国譲りと移動の開始が3世紀前半、すなわち卑弥呼の時代である。そして東征の終了、すなわち大和の制圧が3世紀の後半である。

であれば神武の東征は紀元300年前後のこととなる。
スサノオの子孫はもはや引かなかった。倭国に臣従し神武の支配下に入るふりをしながら政府の実体を離そうとしなかった。そして10代を経て応神天皇系というかたちで支配権を掌握してしまうのである。

朝鮮半島の先史時代の時代区分が難しいのは、おそらく住民の人種的構成が変化するためではないか。
考古学的、遺伝学的に確認しうるような変化があれば、まずそこをメルクマールにしなければならない。
つぎに生活の糧の変化を見ていく必要がある。狩猟生活から狩猟+採集生活への移行が土器(調理及び保存習慣)の出現として表される。
それは半定住生活への移行でもあるから、竪穴式住居の出現としても示される。
それ以前の生活は旧石器時代とされているが、むしろ無土器時代というべきであろう。
長江文明を見ればわかるように、土器が出現し水稲栽培が行われるようになった後も石器そのものは旧石器が主体であった。
少なくとも稲作地帯においては、石器の改良は社会の進歩の主要な指標とはなっていない。

無土器時代(旧石器時代)の始まり

日本に最初に渡来したホモサピエンスはおよそ4万年前、朝鮮半島を経由して入ってきたと思われる。

そもそも出アフリカが6万年前なので、朝鮮半島への進出は6万年前~4万年前となる。

旧人たちの話については、とりあえずは触れないほうが良いと思う。
(旧石器時代の代表的な遺跡は50万年前に遡るとされているらしい)

無土器時代(中石器時代と新石器時代)の終わり

おそらく中石器も新石器も無意味な分類と思うが、韓国の学会の主流となっている。

ウィキペディア<朝鮮の先史時代>ではこう書かれている。

朝鮮の新石器時代(朝鮮語版)は約1万(中石器を含む場合)-8000年前から始まり、新石器時代の主要な指標となるものは、磨製石器と櫛目文土器に代表される土器である。

日本語版ウィキペディアでは、新石器時代を櫛目文土器時代と読み替えているが、これは誤解を招く。

新石器時代は約1万(中石器を含む場合)-8000年前から始まったとされているが、櫛目文土器の出現するのは6千年前以降である。つまりそこには4千年の時差がある。

櫛目文土器時代(第一次遼河文化時代)

最古の櫛目文土器は遼河文明から発見された。6千年前(紀元前4000年)に遼河地域を原郷にしてユーラシア大陸北部に拡大したと言われる。

ところで「朝鮮半島では紀元前4000年以降に初めて現れる」とされているが、瞬時に半島全体に広がったということだろうか。

伝播様式も不明だが、朝鮮先住民がこれを受け入れたか、あるいは遼河文明人が南方に進出したかのいずれかであろう。

何れにしても、縄文土器のように内発的に発生したものではなく、輸入文化に過ぎない。それだけの生活様式の変化が先行していたのかは疑問である。

鬼界カルデラ噴火との時間的関係

約7,300年前の鬼界カルデラ噴火はアカホヤ火山灰を降り積もらせ、九州南部の縄文文化を壊滅に追い込んだ。

問題は、この時点で朝鮮半島は北方の遼河流域に至るまで無土器文化=狩猟生活のレベルにとどまっていたということである。

もし朝鮮海峡を挟んで人や文化の流れがあったとすれば、それはどちらを向いて流れるだろう?、答えは明らかである。

この後、日本側の文化が衰頽し、半島側の文化が急発展したとすれば、櫛目文土器の逆流入はありうるのだろうか。

曽畑土器は縄文前期後半(紀元前4千年~3.5千年)とされ、櫛目紋土器の影響を受けていると言われる。

櫛目文文化が遼河流域から本流のように広がり、土器文化の大先輩である日本まで接近したということになる。まるで推理小説の種明かしだ。

無文土器時代(第二次遼河文化時代)

紀元前1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけて始まった。

農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が形成された。

前期は紀元前850年まで、それから550年頃までを中期とする。大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

中心となったのはこれまでより南方の松菊里文化( ソングンニ)だった。

南部では異なる文化が営まれるようになった。南岸地方で長江文明からの渡来人が水田耕作を開始した。

後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。

無文土器の終末期

終末期(紀元前300年)には鉄器が出現し、青銅器が広範に普及する。

その後紀元前200年ころに衛氏朝鮮が建国され、紀元前100年後には漢により滅ぼされ、楽浪郡となる。この間、そしてその後も、朝鮮半島南部は「韓」として残される。

ということで、韓国の先史時代認識は、基本的に京畿道以北の古朝鮮(南満をふくむ)を念頭に置いていると思われる。三韓、後の任那・伽耶は朝鮮人嫡流とは認めていないフシがある。






韓国考古学の時代区分体系には青銅器時代が設定されており、この時代は新石器時代と鉄器時代の間に位置している。

しかし、その時期区分は充分に設定されていない。

銅鉱山の開発、製錬・合金、鋳造などと関わる証拠がなく、名称が果たして適切なのかが疑問である。

日本の占領時代、先史時代は石器時代と金石併用時代に区分されていた。

60年代はじめ、北朝鮮考古学界は先史時代の分類として新石器時代と青銅器時代、鉄器時代を設定した。これは占領時代の先史体系を否定するためだった。そのために無理やり西洋文明の区分であるトムソン分類を適用したとも言える。

朝鮮の歴史学はきわめてナショナリスティックでイデオロギッシュで、主義主張のためには論理が破綻しても気にしない傾向がある。これもそういう議論の一つだろう。

彼らは支石墓出土遺物の組合せにより青銅器時代と鉄器時代を分けようとした。3つの根拠を上げているが、素人の私からみても相当無理がある。

韓国の学界も北朝鮮考古学を受け入れて青銅器時代を設定した。

その後発掘例が増加するにつれて、青銅器・鉄器時代の区分は深刻な矛盾を抱えるようになった。
土器、青銅器、鉄器のように特定の時代を代表する物質文化要素の交替および変化の時期が一致しないという矛盾である。

もう一つは青銅器そのものが自生的文化ではなく、西方からの輸入文化であるため、地域ごとにかなりの時差があり、絶対年代と連動しないことだ。
社会の発展段階とも照応しない。時代区分の指標としては使いづらい。

今世紀に入ってから、青銅器時代を理解するためには農耕社会の成立過程に注目しなければならないという意見が出始めた。

安在皓は、「青銅器時代は青銅器の使用によって始まったのではなく、農耕集落の移住定着から始まった」という点を明確にし、現在では多くの共感を得ている。

つまり平ったく言えば、定着農耕時代を青銅器時代と言ったって、それで通じるならいいじゃん、ということだ。

まぁ、いいけど、それならいっそ使わないほうがいいよね。

参考までに
「韓国 歴史地図」 2006年 平凡社
から先史時代の概略。韓国教員大学のスタッフの共著になるもの。

BC50万 旧石器時代が始まる。

BC1万~8千 古新石器時代が始まる。事実上中石器時代。原始無文土器などを使用。済州島高山里遺跡

BC8千 新石器文化が始まる。磨製石器・土器を使用。狩猟+採集生活。

BC6千 櫛目文土器使用。一部の地域で農耕開始。鍬・鎌・石犂使用。

BC1千 無文土器の使用が始まる。青銅器時代始まる。

朝鮮半島の先史時代
(ウィキペディアを足がかりに)

4万年前 朝鮮半島に古代人の出現。(50万年前という説っもあるが、朝鮮人の悪い癖であろう)

約3万年前 公州石壮里遺跡がこの頃と推定される。

紀元前8000年頃 旧石器時代が終わり、磨製石器の生産が始められる。(トムソン分類の有効性は疑問。現在は櫛目文→無文時代と土器で分類するのが主流)

紀元前8000年頃 櫛目文草創期が始まる。初期のものを隆起文土器と呼ぶこともある。

紀元前6000年 櫛目文前期が始まる。ただしこの時点では櫛目文土器の出土なし。漁労や狩猟、竪穴式住居が特徴。

紀元前4000年頃 遼河文明から最古の櫛目文土器が発見。
遼河文明圏はY染色体ハプログループNの人種が担っていた。

紀元前4000年頃 喜界カルデラ噴火後に形成された曽畑式土器は櫛目文土器の影響を強く受けているとされる。


紀元前1500年 無文土器が始まる。農耕が始まる。並行して漁労、狩猟、採集が行われた。

紀元前12世紀 箕子朝鮮(平壌)が創始されたと伝えられる。

紀元前850年 無文土器時代が中期(松菊里文化)に入る。朝鮮に青銅器が出現。
この頃から南岸部は、水田耕作など北中部と異なる発展様式をとる。

紀元前550年 無文土器時代が後期に入る。集住が進み、環濠集落や高地性集落が増える。

紀元前300年 無文土器時代が終末を迎える。青銅器が広範囲に普及するとともに鉄器も出現する。

岡村道雄 「日本列島の南と北での縄文文化の成立」 1997年より

抜書き+私流感想です。

II.縄文環境の成立と各地の人類活動

1.列島規模の自然環境の変化に関する概況

1)地形と気候など

1万5千年前 急激に温暖化。海水面は70mの上昇。
宗谷海峡(海深60m)は水没。北海道は大陸・サハリンと隔絶する。
朝鮮海峡が大きく開く。1万3千年前に朝鮮海峡から日本海にむけて対馬暖流の流れ込みが始まる。
まだ瀬戸内海は成立せず、関門海峡も閉鎖状態。
黒潮前線は1万年前には房総沖まで到達。親潮は東北北部に退いた。

感想
つまり、1万5千~1万年前にかけて日本周辺の気候は激変(温暖化)したのだ。
1万9千~1万7千年前の最終氷期から一気に変化した。
温度だけではなく、列島の構造も変化した。これを“晩氷期”という
1.朝鮮海峡は現海面より80メートル低かった。海峡そのものはそれより前からあった可能性があるが、この間に開大し、対馬海流が流れ込むことで容易には越えられない壁となった。
2.朝鮮半島と中国本土との間の広大な平原は水没し、残された朝鮮半島からは人跡が途絶えた。
3.温暖化(湿潤化を伴う)は黒潮の北上と対馬海流の発生によって、紀伊~東海と日本海南岸の2つの方向に進んだ。海流の入らない瀬戸内平原~近畿には冷涼・乾燥の気候帯が残された。関東甲信越以北では依然寒冷気候が支配的であった。


2)植物相

晩氷期からの温暖化によって、日本列島は複雑な自然環境の変化を開始した.

紀伊半島・東海・伊豆半島・房総半島を結ぶ線の南側には照葉樹林帯が、北側には暖温帯落葉広葉樹が分布した。これらは混淆し、クリ帯と呼ばれる豊かな縄文の森を発達させた。
落葉広葉樹林の北側、北陸から東北の日本海側、関東から東北南部の太平洋岸には、冷温帯落葉広葉樹林が広がった。
中部高地から東北南部の山岳、本州の北部、道南から石狩低地には亜寒帯針葉樹林が広がった。
さらにその北側(道北、道東、樺太)には森林ツンドラが拡が広がった。

3)動物相

更新世の末期: 大型哺乳類(マンモス・オオツノジカ・ナウマンゾウ・ヘラジカ・ニホンムカシジカ)が絶滅。短期間に急激な気候変動があり、人類の活発な狩猟による。
マンモスは、日本では1万1千年前、中国で8千年前、イギリスでは1万4千年前に絶滅したとされる。

これに対応して、1万5千年前にシカ・イノシシなど小動物を目標とする道具組成の交代がみられた。落とし穴や槍先形尖頭器、細石器や石鏃などである。

感想
日本の旧石器人は、4万年前に朝鮮半島から渡来した第一波、2万5千年前に樺太方面から渡来した第二波の混合である(人口比では第二波が優勢)。
この旧石器人が人種的特性を変えることなく縄文人へと移行する。その際、気候に合わせて南方型、北方型、中間の北九州型と分かれていくが、旧石器人としての特徴は共通のまま維持された。
この時期、朝鮮半島は無住の地であり、朝鮮半島との交流を念頭に置く必要はない。


2.各地域の自然環境と文化圏

1) 九州南部・四国南岸

1万2千年前 晩氷期の急激な温暖化を受け、日本列島の南部で最初に縄文的な環境が形成されはじめる。最初はコナラ類や暖温帯落葉広葉樹が卓越する。
後氷期(1万年前~現代)になるとシイ属やクスノキ科などの照葉樹林が拡大する。
同様の植生傾向は黒潮の北上により四国・紀伊半島南部、東海地方まで分布した。

1万3千年前 細石刃文化の後半に遺跡が爆発的に増加。無文土器が登場。
1万1千年前  細石器は消滅し、太めの隆帯文土器が特徴となる.
この時期に縄文的な生業・生活の原型が成立した。竪穴住居による半定住生活。

植物性食料の本格的導入: 堅果類の貯蔵穴さらには粉砕や摺り下ろし用の磨石・石皿・凹石、煮沸・アク抜き用の土器、木材の伐採・加工用の各種の磨製石斧などが発達
炉穴の普及は、獣・魚肉の薫製による保存食糧の確保、調理における火の常用を示す。

これら“九州南部縄文”文化が、種子島から四国南岸まで広がる。

2) 九 州 北 部

植生帯の区分では九州南部と異なり、冷温帯落葉広葉樹で、朝鮮半島につながる。

草創期第1段階 大分県の市ノ久保遺跡で細石刃核と無文土器が発見。韓国や北陸との類似が指摘される。
草創期第2段階 隆線文土器、次いで爪形文土器を伴う細石刃文化が数多く発見されている。


感想
櫛目文土器は6千年前に作られた朝鮮半島最初の土器だ。日本ではその5千年も前から土器が作られている。櫛目文土器が曽畑遺跡に持ち込まれていることを文明波及の傍証とする向きがあるが、これは牽強付会だ。むしろ重要なのは土器の使用開始が日本より5千年も遅れていることではないか。


3) 近畿 ・伊勢湾 ・渥美湾沿岸

ほとんど明らかにされていない。
近畿地方や濃尾平野に暖温帯常緑広葉樹(照葉樹)が拡大するのは、7,000~6,000年前まで下る。

4) 東海 東部 ・関東

13,000~12,000年前にトウヒ・マツ・カラマツ属などの亜寒帯の針葉樹林が冷温帯性の落葉広葉樹が優先する森林へと変化した.その後さらに照葉樹林が形成されるようになった。

東京都西部の秋川沿いに多量なサケの骨が発見されている。

10,000年前 温暖化により南関東まで縄文的環境が成立。

5) 中部 ・信 濃川中流域

1万1千年前 北アジアと同様の寒冷気候が継続し、落葉広葉樹とトウヒ属やツガ属などの針葉樹が混交して疎林を形成。
シカ・カモシカ・ツキノワグマとガン・ヒシクイの遺体が発見

隆線文土器は発達せず、爪形文土器や押圧縄文・表裏縄文・多縄文などの縄文系土器が発達。

6) 北 海 道

北海道は晩氷期になっても旧石器時代的な自然環境が継続し、亜寒帯針葉樹が優勢だった。

10,000年前まで北海道はサハリンを経て沿海地方と陸続きであった。この半島づたいにマンモス動物群が到来し、北海道の旧石器時代人の狩猟対象となっていた。

12,000年前にマンモスが絶滅した。この頃からアムール川流域と共通する細石刃製作技法が広がる。

約8,000年前 道南から次第に縄文的環境に移行した。(北海道の記載は若干荒っぽい)

まとめ

縄文草創期は新・古の2段階に分けられる。(隆線文以前と隆線文期)

1万3千~1万2千年前 九州南部の古段階の草創期文化。神子柴系の木葉形石槍や打製石斧。細石刃と最古の土器の共伴は、旧石器人の「本州から九州までの古段階における一般的な様相」と考えられる。

長野の御子柴遺跡に由来する神子柴系石器群は、アムール川流域起源の細石刃文化の流れを汲む。まだ陸続きだった1万3000年前に渡ってきた。
東北日本を経て急速に南下し、中部日本を中心に独自の文化として発達し、九州までにも拡がった。


感想
旧石器時代は三期に分けられることになる。
第一期 4万年前に朝鮮半島由来の旧石器A人が渡来してから、2万5千年前の寒冷期(ウルム)ピークまで。
第二期 2万5千年前に、アムール→樺太を経由して旧石器B人が渡来してから、旧石器A人との混淆・棲み分け。
第三期 1万3千年前、アムール由来の細石刃文化(御子柴)が東北日本を経て日本全土に拡大。この内九州南部に進んだ旧石器B人が温暖化した気候に適応し、無文土器→隆帯文土器を指標とする縄文文化の創始者となる。

南方縄文は6千年前の鬼界カルデラ噴火でいったん絶滅しており、九州北部の縄文文化との関連や連続性については、いまのところ肯定も否定もできない。九州北部の縄文文化が朝鮮半島の影響のもとに成立したとの仮説も、首肯はできない。
東北・北海道の旧石器人が縄文人となるのは、さらに5千年を経てからであり、その間は縄文文化と旧石器時代の併存時代であった。また北方人が生み出した縄文文化は、南方縄文とは独立したものであった可能性が高い。

こんな感じで良いのかな。



情報メディア発信局」というブログがあって、面白い見解を載せています。ただし私と同じで、思いつき的な文章が多くあまり実証的ではありません。
最終結論としては荒唐無稽で、とても受け入れられるものではありません。ただ、部分的にはうなずける推理があり、参考になります。以下紹介させてもらいます。

南九州の縄文人が古代朝鮮王国を作った

A) 西日本にも大規模な縄文文化が形成されていた

鹿児島の上野原遺跡と佐賀の東名(ひがしみょう)遺跡がそれを証明した。

上野原遺跡は約7000年前のアカホヤの大噴火により消滅した。
佐賀の東名遺跡は約7000年前に起こった。すなわち上野原文化が佐賀県佐賀市に移住したとして矛盾はない。

B) 2つの九州 縄文遺跡には重要な共通性がある

地面を掘って食物を保存すると言う習慣が共通している。これは考古学的に見てかなり特異な習慣である。

ただし東名遺跡の位置づけは未確定である。鬼界カルデラ噴火と同じ8千年前の貝塚遺跡で、貯蔵穴・人骨集中地が出土しているが、それ以上の言及は今のところない。

C) 7000年前、朝鮮半島は無人だった

1993年に発行された韓国国立中央博物館の書籍によると、“朝鮮半島は無人だったことが韓国国立中央博物館の文献で明らかになっています” しかし流石にこれは、そのままうのみにはできない。
これについて神旅 仏旅 むすび旅という記事があって
▶半島の歴史は旧石器時代から始まる。しかし、発見された遺跡数は50カ所程度にすぎない
▶その後、紀元前1万年から5千年まで半島から遺跡がなくなる。つまり、考古学上では半島の人々は絶滅した。
▶再び人の痕跡が現れるのは紀元前5千年頃で、これを櫛文土器文化とよぶ。
ということになっているらしい。さらにこの記事は下記のように踏み込む。
韓国での考古学調査の結果明らかになったことは、「韓国人の遠い祖先は、日本の縄文文化をもって無人の朝鮮半島に移り住み3千年の間に北部にまで広がった縄文人だった」ということである。

D) 東名は縄文海進により水没し、彼らは朝鮮に向かった

だんだん話が破天荒になっていきます。

E)百済、高句麗、新羅の振る舞いは宮崎、鹿児島、熊本の県民性に似ている

“それを言っちゃぁおしめぇよ” です。

E) 日向の国が人が住める状態に回復し、彼らは故地に“天孫降臨”した

もはや荒唐無稽の酒飲み話です。オチをつけたがるのは悪い癖です。


いただきたいのは、A)、B)、C)ですが、一番欲しいのは上野原→鬼界カルデラ→東名の連続性です。
とりわけ鬼界カルデラ→曽畑遺跡(熊本)ではなく→東名であることの証明です。


序文
宇土市岩古曽町に所在する曽畑貝塚は、九州縄文時代前期の最も代表的な遺跡である。

曽畑式土器の器形や文様は、朝鮮半島の櫛文土器と類似しているとされる。

昭和61年の低湿地遺跡の調査では、縄文時代前期の貯蔵穴62基が発見された。食料にしていたドングリやそれを入れた編み物製品、瓢箪などが出土している。

遺跡の位置と歴史的・地理的環境

曽畑貝塚は早くも明治23年、若林勝邦らによって学会報告されている。昭和34年には慶応大学考古学民族学研究室を中心に本格的な発掘調査が実施された。

層位的分離で九州縄文時代土器編年の実証事例となっており、下層から押型文土器一轟式土器一曽畑下層一曽畑上層一鐘ケ崎式・市来式土器へと移行する。

近隣の松橋町曲野遺跡では、旧石器時代の包含層が検出されている。
2万2千年前の「AT火山灰」層の下層に、小型のナイフ形石器・台形石器・掻器それに局部磨製石斧を有する石器群が発見されている。

宇土には弥生時代や古墳時代の遺跡も多い。熊本県内64基の前方後円墳のうち、12基が宇土半島基部に集中している。なかでも西岡台遺跡の大環濠、豊富な遺物が出土した向野田古墳が著名である。

曽畑低湿地遺跡の動植物遺体

縄文早期~前期初頭の堆積物からは、ニレ、ケヤキなどの落葉広葉樹林から常緑広葉樹林への推移がみとめられる。これにより冷涼気候から温暖気候への転換期に当たることが示唆された。

その後、約6000年前の縄文前期前半に照葉樹林時代に移行。暖温帯要素のアカガシやシイノキの優占によって特徴づけられる。

本遺跡は貝塚本体から約100m離れ、海辺の海抜約3.5m上に営まれていた。58基を数える貯蔵穴の内容物はイチイガシが殆どであった。

本遺跡出土の大型植物の特徴は、ナラ類ではなくカシ類、なかでも唯一アク抜きを必要としないイチイガシが優先していることにある。

東北日本の縄文時代に多いクリは出土しない。カヤやオニクルミもきわめて少ない。それが西南日本の照葉樹林帯の特徴を示している

弥生前期になると、自然林が破壊され、その跡地にマツの二次林が拡大し、雑草類も増加し始めた。

3体分の人骨が発見された。彼らはすべて縄文時代前期に生きていた。

以下略


この論文集では朝鮮半島の土器とのつながりが強調されているようである。
「曽畑式土器」は九州の縄文時代前期の最も代表的な土器とされるものである。
また、曽畑式土器の器形や文様は朝鮮半島新石器時代の櫛文土器と大変類似していることが指摘され、両国の文化交易を理解するための重要な貝塚とも評価されている。
果たしてそうだろうか?

隣に南九州型縄文文化が先行し、かなりの程度まで発達しているのに、なぜそちらを無視するのであろうか? 

朝鮮半島新石器時代というのは5千年ほど前に始まったものであり、それ以前に朝鮮半島に南九州縄文を超えるような水準の文化は存在していない。むしろ文化的空白期と考えるべき時期である。

6千年前に鬼界カルデラの噴火があり南九州の縄文文化は途絶した(アカホヤ時代)。しかしそれ以前の文化が曽畑を含んで成立していた可能性はないのだろうか。

南九州の縄文土器は本州北部の縄文とは明らかに様式が異なり、無文であった。しかも本州に比べ明らかに先行していた。
これらを考えれば押型文土器一轟式土器へと続く流れの端緒にあるのは南九州縄文と同根の文化であった可能性が高いのではないか。現に曽畑からは2万2千年前の旧石器遺物も発見されているが、これは南九州縄文との一体性を強く示唆する。

やや強引な推理ではあるが、「アカホヤを逃れた南九州縄文が北へ逃れ、曽畑文化を作り、さらに海を渡って朝鮮南部にまで進出した」というような可能性もあるのではないかとも考える。


考古学における気候変動論の検討
-日本列島・朝鮮半島の水稲農耕開始前後を対象として-

徳島大学埋蔵文化財調査室の端野晋平さんによる文章だ。



キーワードは縄文晩期・倭韓地方・水稲・気候・考古学と多彩だ。多彩だが、まさに皆の知りたい勘所だ。特に「倭韓地方」という発想は面白いと思う。

この手の学際的研究は、意外に根文献を探すのが難しくて難航することが多い。ネット時代とはいえ、一次資料は大都市の大図書館で検索しないと入手できない。

まずは徳島の地で、論文にまで仕上げた著者の努力に敬意を評したい。

1.炭素 14 年代が基本

過去の気候変動を暦年代に落としてくための手技としては、炭素 14 年代の較正曲線が最適なものと考えられる。

過去における地球規模での気候変動は、大気中の 14C の増減によって推定できることが知られている。

14C 量が多いほど宇宙線照射量が多く、宇宙線量の増加→雲の増加→太陽熱量の低下→気温の低下という流れをもたらす。
逆に14C が減少傾向にある時期は温暖期に相当することになる。

寒暖を推定するもう一つの方法が「風成砂丘の形成」を考古学的に証明することである。
これは寒冷化に伴う海水準低下→風成砂丘の形成という現象を発見することである。
ただし適用範囲は西日本に限定される。

2.気候学的検討の結果

上記を組み合わせて表示したのが下の図である。

北部九州の気候変化

縦軸は14C濃度であり、横軸が紀元前900~200の時間軸である。
全般にこの時期全体を通じて温暖化に向かいつつあったことがわかる。
その中で小規模な揺り戻しとして2度の寒冷期があったという時間関係だ。

黒川式、夜臼式、板付式、城之越式は九州北部における弥生土器の様式名。

著者により細かい分析がなされているが、要はBC900年から北部九州の急速な温暖化が始まり、700年ころになってそれが弥生文化(黒川式)の発生をもたらしたということだ。

その後300年ほど足踏みがつついた後、紀元前400から再び急激な温暖化が始まり、それとともに板付Ⅱ→城の越へと文化が進展していくという関係になる。

3.二段階渡来説(初期渡来)

以下の二つの段階を設定することができる。

渡来第1段階:
無文土器前期/縄文晩期中葉(黒川式期)
半島南部との交流と渡来人の存在を暗示する
水稲農耕は試行的で一般化しなかった。

渡来第2段階:
無文土器中期/縄文晩期後葉(夜臼式期)
水田遺構、農耕具、磨製石鏃・石剣、壺形土器、支石墓などが出現。

以降はやや夢見がちな論調となるため省略。


寒冷期の絶対年代は研究者ごとに様々で方法論的にも統一されたものではない。
かなりの幅をもたせて第一期:BC900~700、第2期:BC500~350 くらいに捉えておくのが無難であろう。

「二段階渡来説」は著者のオリジナルであろうが、初期渡来のメカニズムを第一期=寒冷プッシュ論、第二期=温暖プッシュ論として提示している。ただし上にも述べたように、寒冷期そのものをそこまで厳密には絶対年代化できないのではないか、という根本的な疑問がある。

火山の噴火とか断層や津波の痕跡など、より直接的な根拠があると同定ははるかに容易なのであろうが…

国際日本文化研究センター 
教授 安田喜憲
長江流域における世界最古の稲作農業」ノート

1.世界最古の土器を作った人々

最終氷期最盛期後半の2万~1万8000年前  世界最古の土器は、いち早く森林環境が拡大した長江中流域の南部で誕生した。「森の民」が、いちはやく土器づくりを開始し、世界にさきがけて定住生活に入った。

2.定住革命から農耕革命へ

稲作は長江中流域で1万年以上前に誕生した。野生イネは完熟するとただちに脱粒してしまう。しかし突然変異で脱粒性を失ったものが発見され育成された。

約8500年前 中流域の彭頭山遺跡は、確実に巨大な稲作農耕集落が存在していたことを示している。

稲作農耕は、ヒツジやヤギなどの家畜を伴ってはいなかった。農民たちはタンパク源を野生動物や魚類にもとめたのである。

麦作農耕の起源は、晩氷期の1万2000年前とされる。

続縄文文化とは続縄文時代に北海道の各地に花開いた文化ということになる。
なにか堂々巡りみたいな規定で、独自性に基づかない規定である。

おそらく前半の恵山文化は、津軽の縄文後期文化の延長と思われ、独自の意義は薄いのではないのか。

したがって続縄文という場合、我々はもっと、続縄文中期~後期の道央低地帯に起きた特異的な文化に焦点をあわせるべきではないかと思う。

国立歴史民俗博物館の高瀬克範さんは「続縄文文化の資源・土地利用」という論文でおおよそ下記のごとく主張されているが、妥当と思われる。


1.縄文後期に共通する特徴は、縄文文化期よりも魚類の重要性が高まる点にある。

2.道央部は続縄文文化期後半期に優勢を示し、外来系の物資入手力が相対的に高かった。サケ科の利用を基軸とした経済が基盤となっていると考えられる。

3.このように比較的定住性の高い集団に隣接して、は広域に移動して物資を運搬する集団が併存していたらしい。

4.東北北部の弥生文化は平野部の稲作地帯と狩猟採集に重きをおく集団が併存していたが、弥生中期の気候激変によりが崩壊し人口が激減した。その結果、現象的には続縄文文化の分布域拡大につながった。

続縄文時代

紀元前500年 本州以南で弥生時代が始まる。陸奥(宮城・山形以北)では米作りと続縄文のハイブリッドとなる。

紀元前3世紀頃 続縄文時代が始まる。基本的には縄文から擦文時代への移行期であり、一括できるかどうかはかなり疑問がある。

続縄文文化は前半と後半、末期に分かれる。

前半期 陸奥につながる恵山式文化と、宇津内式・下田の沢式文化(道北・道東)とが並立して現れた。生活スタイルは縄文時代と共通しているが、漁労と原始的栽培(アワ・キビ・ヒエ・ソバ)の比重が高くなっていることが特徴。

紀元前後 北海道内の続縄文集落で、釣り針など少数ながら鉄製道具が使用されるようになる。

後半期 北海道全体が宇津内式・下田の沢式を引き継ぐ後北式土器に統一される。後北式は江別式とも称される。続縄文文化は樺太南部や陸奥・羽越地方、千島列島まで広がる。

5世紀 続縄文文化とは別に、樺太からオホーツク海沿岸にオホーツク文化が浸透。フゴッペや手宮の刻画もこの頃のもの。

5世紀 集落が海岸沿いから内陸河川周辺に移る。サケの捕獲が生活の主体となる。海を越えてやってきたオホーツク人(粛慎)に海岸地帯を奪われたためかもしれない。

農耕(米作りを含め)が発達しなかったのは、「気候のためだけではなく、サケがあれば百姓などする必要がなかったからだ」、という意見もある。

5 - 6世紀 本州より土師器文化が進出。これが江別式土器と接触する中で北大式土器が出現。

紀元600年ころ 続縄文時代が終わり擦文時代に入る。



時代区分というのは、どうしても先学の基準に従わざるを得ず、無批判に受け入れがちだ。しかしある程度素養を積んでくると、やはりムラムラと反骨心が湧いてくる。やはり根っからのへそ曲がりなのであろう。

縄文→弥生は良いとして古墳時代という時代区分が適切かどうかは以前から疑問に思っていた。そもそも両者を分けるカテゴリーがまったく異種なのが胡散臭い。さらにそれが飛鳥・奈良時代という首都による政治区分になっていくのは、ものさしとしての意味を根本的に疑わせる。尺貫法とメーとる法を混用するがごときである。

まあこれは言葉の問題だが、私は歴史的観点の延長から先史時代も区分すべきだと考えている。つまり人間社会の有機的構成の高度化を尺度に考えるべきだと思う。これはマルクス主義でも唯物史観でもなく、人類史として考える以上当たり前の話である。そのうえで、具体的な手がかりとなる考古学的遺物から、もっとも歴史区分を反映するものを取捨選択して、それを時代のマイルストーンとして採用すべきではないかと考える。

その意味ではトムソンの旧石器・新石器・青銅器・鉄器という区分は発想としては的確なものだと考える。しかし、そのことがトムソン分類の妥当性を支持するわけではない。



私は、人間が生き延びることができるようになった三大発明というものを想定する。それは水の利用手段、火の利用手段、そして狩りの手段である。

この3つを確保することによって、しかも集団として具備することによって、人間は他の動物に対する優位性と相対的安定を獲得できるようになった。

おそらくこれが石器時代という時代の本質的特徴なのだろう。そして3つの生活手段が多様化することで人類社会は飛躍的に発展していくことになる。

ではそれぞれについて見ていくこととしよう。

水の利用というのは貯水と運搬、そして利水(農耕)に尽きる。それについて画期となるのはツボ・カメの使用と灌漑設備だ。前者は縄文式土器と水田耕作を重要なエポックとして押し出すことになる。

火の利用というのは着火や炉の作成などの安定化技術、調理による食材の多様化、金属の精錬技術などが挙げられる。

狩りの手段は実に多様だ。だからたぶん時代区分のメルクマールにはならないだろう。中では鉄が大きな変化をもたらしたものである。狩りは農耕の発達により一旦傍流の活動となるが、その後“マンハント”、すなわち戦争が人間社会のルーチンとなるに従い巨大な発展を遂げていく。火薬の発明、飛行機の発明、核兵器の発明は人類の大量殺戮史の分岐点となっていくだろう。しかし古代の世界ではとりあえず置いといてよい。

新たな時代区分の提唱

もちろん誰も聞いてくれないことを承知の上で、言っておきたい。

まず石器時代だが、これは厳密には無土器時代というべきであろう。これに対抗するのが縄文時代だ。縄文時代も旧石器時代であることは間違いない。中国の長江文明も最後まで石器時代の基盤の上に成立していた。しかし、そのことにどれほどの意味があるのだろうか。

こうして1万年ほど前から土器時代が始まる。これにより旧石器人の生活は飛躍的に発展し、縄文人が形成される。これを縄文時代ということは妥当である。であれば、それとの対比として無土器時代を「旧」石器時代と言うことは、悪くはない。

これについで主要な社会変化をもたらしたのは、農耕文明への移行であろう。これをどう画期として位置づけるかは難しい。難しいから弥生時代としてしまう。これは便宜的であるが有効な設定だと思う。

ただ、これは縄文後期における雑穀栽培の意義を過小評価している可能性がある。稲作のみが農耕ではないことに強く留意すべきであろう。夏・殷・周の中国文明は稲作なしに出現している。それは弥生時代の到来のはるか前のことである。

これ以降には技術学的な画期は、あまり目立たない。明治維新まで、ある意味では万世一系の世界が続いているとも言える。

ただし中国を見ると、大きな変化が矢継ぎ早にあって、それに伴って社会のあり方が何度も根本的変容を受けている。

それが紀元前3千年の小麦栽培、紀元前2千年の青銅器、そして紀元前1.5千年の鉄器である。いずれも内発的、自生的な技術ではなく、おそらくは新疆 回廊を通じたメソポタミアからの流入である。

これらのうち鉄器のみが日本に社会変動の要因をもたらしている。だから弥生時代をベタで描くことは納得出来ないのだ。

その画期がいつ頃なのかよく知らないが、政治状況や戦争(大量殺戮)の発生などを考えると紀元前後のことではないかと推量している。

私は紀元550年頃、倭国滅亡と蘇我氏の全権掌握まで続くその時代を「大乱時代」、あるいはいっそ「倭王朝時代」と呼びたいと思う。

以上をまとめるとこうなる。()内が通称である。

1.無土器時代(旧石器時代)

2.土器時代(縄文時代)

3.稲作時代(弥生時代)

4.鉄器時代(大乱時代)

* 新石器時代は日本では存在しない。稲作時代の後半に青銅器(銅鐸など)が入ってきたが実用性はなかった。


両替商(覚え書き)

室町時代末期 両替商の前身が登場する。替銭屋(かえせん)、割符屋(さいふ)などと呼ばれた。

替銭・割符は、銭の代用の役割を果たした手形・証文のこと。対象が米の場合は替米(かえまい)と呼ぶ。後に出現する為替に対し、その先駆的な役割を果たした。

土倉(どそう)は、物品を質草として担保とし、担保に相当する金額の金銭を高利で貸与した。

金山および銀山では、山師の持ち込む金銀地金の精錬、鑑定および売買を行う金屋および銀屋が出現し、金融業務を行った。

1601年(慶長6年)徳川家康、金座および銀座を設立し、慶長小判および慶長丁銀を鋳造させる。

1609年(慶長14年) 幕府は三貨の相場を定める。金一両が銀五十匁とされる。金、銀、銭(銅)の三貨制度が確立。

銭1千文を1貫文という。これが4貫あると金1両、銀50匁となる。ただし交換比率には相当の変動幅があり、時代が降るにつれ銭の価値は下がっていく。

三貨制度のもとで、手数料を徴収して両替を行う商売が登場。

両替商の中から本両替が派生する。金銀両替を中心に、為替、預金、貸付、手形の発行など広範な業務を担った。公金取扱業務にあたるものもあった。

一方、これまでの庶民金融にとどまったものは、脇両替(わきりょうがえ)と呼ばれるようになった。

江戸、大坂、京都の3都の両替商集団が頭角を現す。本両替の多くは大坂に本店を置いた。江戸は脇両替(銭屋)が多かった。

1662年(寛文2年) 大坂町奉行により、天王寺屋五兵衛ら3名が正式に幕府御用を任命される。

1670年 大阪の幕府御用商が増え、「十人両替仲間」を形成する。

1700年(元禄13年) 金一両が銀六十匁となる。ただし一般商取引では変動相場となる。

ここまで調べてきて、どうも三井というのは、江戸幕府が大阪に送り込んだ金融界の尖兵ではないかという感じもする。
その際、斬り込みにあたって、為替制度というのがどのような役割を果たしたのか、もう少し調べてみなくてはならないようだ。

同じサイトの別記事で、「三井の歴史 暖簾印を定め、両替商へ進出」というのがあり、ここに京都進出の経緯が比較的詳しく紹介されている。
しかしなぜか読みにくい内容だ。

少し解説もつけながら紹介する。

1683年、高利が両替業に進出した。

1686年には、京都にも両替店を開いた。

ここからが大事なところだが、
高利は両替店を活用した為替でも商才を発揮、江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方となる。
と書かれている。しかし「両替店を活用した為替」とは何なのかわからない。そもそも両替業とはどんな商売なのだろうか。

為替業が「江戸・大阪間」に限定される形で展開されたこと、為替業者間の競争に江戸の商人が勝利した理由、「幕府の御用為替方」という肩書きがどんな意味を持つのかもわからない。

とりあえず読み進めよう。

1.上方は銀建て、江戸は金建てであったので、仕入れが行われる上方へその代金を送金する江戸では、貨幣相場や為替の動きを注視する必要があった。

ということで、「財」に3つの形態があることがわかる。すなわち米、金、銀である。これらは相互に交換されなければならないが、それは商品取引ではなく「財」同士の取引だから「両替」ということになる。

2.幕府は西日本の直轄領から取れる年貢米や重要産物を大阪で販売して現金に換え、それを江戸へ現金輸送していた。

この仕掛けには3つの無駄がある。コメを大阪で販売するための流通コスト、銀を金に交換する両替コスト、さらに金を江戸に運ぶコストである。

為替業者が間に入ると、第2、第3のコストは消失する。業者の為替手形が決済手段となり「仮想通貨」の役割を果たすからだ。

3.高利は幕府に為替の仕組みを献策した。幕府は大阪御金蔵銀御為替御用を命じた。

それがいかに良案としても、そこには権威と規模(手形の流通量)が必要だ。幕府はそれを勘案して三井に丸投げしたということになる。

4.三井両替店は大阪に江戸両替店を出店させ、幕府の為替御用方としての地位を確立。

こうして事業を成功させた高利は、65歳になって京都へ居を移し、8年後に没した。

彼にとって江戸は勝負の場所であったが、人生双六のあがりは「京」でなくてはならなかったのだろう。

これが、京都と三井をつなげる「絆」である。高利の思いは思いとして、京都の町衆が高利を仲間として受け入れていたかどうか、いささか疑問の残るところではある。

ということで「三井は京都を本拠としていた」というのはほぼウソ。功成り名遂げた三井家の始祖が晩年を過ごした隠居所くらいのところであろう。ただその子孫が京都をフランチャイズにした可能性は否定できないが…

両替の歴史、金本位と銀本位の並立、江戸と大阪の交通・運輸についてはいずれまた調べたいと思う。

テレビで祇園祭の山鉾について特集番組を組んでいた。
見ていて気になったのが、「三井は京都を本拠としていた」という話。
私の記憶では松阪出身の三井某が江戸に出て、「越後屋」の屋号で商売を始めたという話だったように思う。
それが掛売りなし、正札売りのやり方で成功したというような話だったように思う。
ただこれは三井本人の宣伝の匂いもしていて、やはり金貸しが本業ではなかったのか、着物の商いは金貸しという後ろ暗い商売を隠すカモフラージュではなかったのか、とも感じている。
もうひとつは、これは京・大阪の資本に対抗する江戸資本の代表ではないのかという印象もあった。
それが京都を代表する大店と言われると、ずいぶん話が変わってくる。
本当のところはどうなのか? ひょっとして三井自身の宣伝に騙されているのではないか?
少し調べてみることにした。

まずは「三井広報委員会」のサイトから「三井の年表」を探した。

江戸時代初期 三井高俊(三井高利の父)が妻・殊法と松阪で酒・味噌などの商いを始める

元和8年(1622) 三井家の家祖・三井高利誕生

寛永12年(1635) 高利、14歳で松阪を出立、長兄の店に奉公する

慶安2年(1649) 母・殊法の孝養のため松阪に帰郷

延宝元年(1673) 52歳で江戸本町1丁目に三井越後屋呉服店を開く

天和3年(1683) 本町1丁目店を駿河町南側へ移し、その隣に両替店を新設

元禄7年(1694) 高利、73歳で没

宝永7年(1710) 長男・高平が事業統括機関・大元方を設置

書いてあることは簡単。

1.戦国時代末期、三井則兵衛高俊という人物がいた。
彼は武士を捨て町人となり、松阪で質屋や酒・味噌の商いを始めた。俗に言う「伊勢商人」のひとつである。
この店は高俊の父・高安の官位が越後守だったことから「越後殿の酒屋」と呼ばれる。
武士の子である高俊は商いに関心が薄く、家業は実質的に妻の殊法が取り仕切っていた。

2.長男・俊次は早くから江戸へ出て本町4丁目に小間物屋を開店。後に呉服業も手掛けるようになった。4男にあたる高利も、14歳で江戸の店に出て奉公した。

3.高利は故あって松坂に戻るが、52歳で江戸に出て三井越後屋呉服店を開いた。兄の店に対し分家筋ということになる。店は成功し経営は発展。やがてその長男が持株会社を創設し「三井家」を名乗ることになる。

本家筋がどうなったのか、京都の話はどこにいったのか、皆目わからない。

なお越後屋は明治のはじめに独立し、明治26年にはいったん三井呉服店を名乗るが、明治37年に三越百貨店と改称する。ようするに「三越」というのは、このときに三井と越後の頭文字をくっつけたものなのだ。

ここまでが予告編。2つの謎は次回に。

どうも思ったような記事が拾えない。考古学会からはあまり積極的な発言がないようだ。
とりあえずメモ程度に記録しておこう。

約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで現在より海面が130mほども低かったため、東シナ海の大部分は陸地であった。
最終氷期最寒冷期(LGM)でも日本列島とは対馬海峡(最深部240メートル)によって隔てられていた。
LGM

朝鮮半島と九州 の両側で剥片尖頭器が発見されているが、朝鮮半島のもののほうが古く、朝鮮半島から九州 に流れたと考えられる。

BC6000年  満州南部の遼河流域で遼河文明。櫛目文土器などが出土(興隆窪文化)。
遼河文明は黄河文明や長江文明とならぶ古代中国文明と考えられている。ただし文明の担い手は漢民族ではなくハプログループN (Y染色体)系統の民族であったとされる(根拠不明)。

BC6000年頃 縄文海進が進む。海面が今より2-3メートル高かった。朝鮮海峡の拡大により対馬海流が黒潮から分流。

BC6000年 半島南部から隆起文土器が発見されている。隆起文土器は南九州文化の中核であり、鬼界カルデラの噴火のあと隆起文人の移動があったと推定される。

BC5000年頃 長江下流域で最古の稲作(河姆渡文化)。

紀元前4000年ころ 海面上昇により大陸棚の沿岸部は海中に没している。これにより朝鮮半島の独立性が確定する。

紀元前4000年頃 朝鮮半島に櫛目文土器が出現する。(ソウル岩寺洞遺跡)

紀元前1500年頃、遼河流域に夏家店下層文化。支石墓、無文土器や大規模な住居を特徴とする。

紀元前1000年頃 朝鮮半島に無文土器と支石墓が建造される。遼河文化の影響を受けたものと考えられるが、厳密な連続性は確認されていない。

紀元前1000頃 朝鮮半島北部で箕子朝鮮が登場(中国文献上)。首都は王険城 (現在の平壌)

紀元前900ころ 朝鮮半島南部で縄文土器が発見。水田耕作はじまる。

紀元前800ころ 中部で無文土器文化が発展。青銅器も導入される。松菊里文化と呼ばれる。南岸部は様式を異にし、多数の支石墓が造られた。

紀元前700 北九州で縄文水田(菜畑遺跡)

紀元前500年頃 海を越えて半島南西部に米作集団が入植。水稲栽培が開始される。初期の渡来人は「難民」的性格が強かったとされる。

紀元前300年頃 無文土器時代の終末と鉄器の出現。

前195年頃 衛満が箕子朝鮮を滅ぼし衛氏朝鮮を建国する。


満州ブログさんのページでとても面白い記事を見つけた。

1.朝鮮半島の無人時代

朝鮮半島では、旧石器時代と櫛目文土器時代の間に、大きな断絶がある。

12000年~7000年前の間の約5000年間、朝鮮半島では人の住んだ形跡が認められない。

ただし済州島では1万年~7千年前のものとされる高山里遺跡が存在している。この遺跡では南九州縄文の由来とされる隆起文土器や有舌尖頭器が見つかっている。

2.隆起文人(南九州縄文)の朝鮮半島進出

7200年前、鬼界カルデラの噴火のあと、隆起文土器は朝鮮半島の南・東南の沿岸部にも現れる。これが、朝鮮本土の最古の土器である。

同時代の日本列島の土器に比べて様式が古いため、済州島の隆起文人が渡来した可能性が高いとされる。

3.櫛目文人(ウラル系文化)の朝鮮半島進出

6000年前、朝鮮半島の北側から別の土器(櫛目文土器)が伝わり、朝鮮半島全土に広がる。

これはウラル山脈の文化に由来するもので、同じ土器文化はスカンジナビア半島にも広がっている。

一説では、このウラル系人はY染色体のハプロでN型とされている。

4.櫛目文人と隆起文人の融合

おそらく朝鮮半島において櫛目文人と隆起文人の融合があったであろう。

その融合文化(櫛目文の優勢)が九州 に逆輸入されて轟B・曽畑式土器が作られるようになったと考えられる。

この融合をになった人々が、やがて縄文晩期人に移行していくのではないだろうか。

この一連の過程は、Y染色体ハプロのドクトリンから見て、きわめて説得力のある論理である。


曽畑式土器

以下はウィキペディアからのもの

縄文時代前期の曽畑貝塚(熊本県宇土)から出土した土器。

鬼界カルデラ大噴火後に始まった文化とされる。
朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通しており、櫛目文土器の影響を直接受けたものと考えられている。
遺跡そのものは南島系海人族のものであり、櫛目文土器の造り手であるウラル系民族から製法を学んだのではないかとされる。

南九州縄文文化との関連(私の感想)

「南島系」という表現にはかなりの違和感を感じる。

鬼界カルデラ大噴火は約7,300年前とされており、それまでの間に南九州にはかなりの規模で縄文文化が確立していた。この南九州人はもともと日本列島にいた旧石器人の流れの上にあり、寒冷期(2.5万年~2万年前)に南下してこの地域に住み着いたと考えられる。

この文化はほぼ絶滅してしまうのだが、その一部は北九州に移動して本州から浸透してきた縄文文化と合体したと思われる。これに半島系の人々が交わっている可能性もある。そうして縄文晩期人が形成されたのではないか? と目下のところは考えている。

櫛目文土器と縄文式土器

ゲノム解析による日本人論がたくさん出てきている。そのなかで①旧石器人が縄文人になっていく過程、②縄文晩期人の由来、がいろいろ議論になっているようだ。

そこで鍵となるのが、南九州にいち早く開いた“縄文文化”の位置づけだ。彼らを縄文人と呼んでいいのか、それとも朝鮮半島の影響を受けたものなのかという問題がひとつある。

片方では出口問題、鬼界カルデラの噴火で一旦南九州の文化が消滅した後、彼ら(の残党)が北九州に移動した可能性があるのか、もし移動したのだとすれば、彼らが縄文晩期人を形成したのではないかという問題がある。

そこで議論となるのが、南九州人の土器が朝鮮の櫛目文土器ではないかという主張である。

櫛目文土器土器時代は1万年前に始まり、3500年前まで続いたという。その後、無文土器時代へと移行し、これが紀元300年まで続く。

横並びにすれば櫛目文土器が縄文に一致し、無文土器が弥生土器に一致することになる。

しかし東北の縄文式土器も南九州の土器も1万年以上前に始まっており、少なくとも櫛目文土器が縄文に先行しているとは言い難い。

率直に言って、Y染色体やミトコンドリアDNAの理論とも、考古学的年代とも整合しないように思えるが、まずは少し主張(ウィキペディア)に耳を傾けてみよう。

櫛目文時代の亜区分

前期 8000~5500年前

漁労や狩猟が行われた。後半期には大規模な貝塚。竪穴式住居で半定住的生活。

櫛目文土器が出現するのは6000年前からであり、意外に遅い。最古のものは遼河文明から発見されており、北から流入した文化と考えられる。

当時の朝鮮半島に居住していたのはY染色体ハプロのNに相当する。これは縄文人の源流であるナウマン人(C1)、マンモス人(D2)に比べ遅れてアジアに到着した人々である。

中期 5500~4000年前

中心は漁労や狩猟。雑穀などの栽培が始まる。

後期 4000~3500年前

えらく短いが、なにか意味のある区分なのだろうか。

この後、ウィキペディアに問題の記載が出現する。
縄文時代前期に日本列島の九州から南西諸島まで広まった曽畑式土器も、朝鮮の櫛目文土器の影響を強く受けた。
他にも朝鮮半島に起源をもつ「結合式釣り針」や「隆起文土器」、「鋸歯尖頭器・石鋸」など共通する文化要素が見られる。
ということで、曽畑式土器と言われると「なるほどそこから来たか」とおもうが、かなりの変化球ではある。

曽畑式土器については次の記事で触れることにする。

581年 楊堅、隋を建国。文帝を名乗る。

587年 蘇我馬子、河内の物部守屋を滅ぼす。継体天皇以来の物部政権が終わり、蘇我政権に移行。

589年 隋が南朝の陳を平定。中国が統一される。三韓諸国は相次いで隋に遣使する。

595年 高句麗人の慧慈、飛鳥寺建設のため派遣される。

598年 高句麗と靺鞨との抗争。隋は高句麗が国境を侵犯したとし、水陸30万の遠征軍を派遣する。

608年 隋の裴世清が来航。

610年 高句麗人の曇徴が来航。

612年 煬帝、100万以上の大軍を率い高句麗に親征。首都平壌の襲撃まで至ったが、最終的に撃退される。

613年 煬帝、再度高句麗に親征。国内に反乱が発生したため挫折。

614年 煬帝、三度高句麗に親征。逃亡兵が続出した上、国内での反乱が相次いだ。高句麗の王が自ら朝貢する条件で和議。

617年 煬帝、4度目の高句麗遠征を企画。各地で大規模な農民反乱が発生し、実施不能となる。

618年 煬帝が近衛軍団によって殺害され、内乱となる。

内乱を勝ち抜いた李淵が高祖を名乗り、唐を建国する。

621年 三韓諸国が揃って唐に朝貢する。

624年 唐の高祖、高句麗と和睦。高句麗王を遼東郡王、百済王を帯方郡王、新羅王を楽浪郡王に冊封する。

627年 百済が新羅を攻撃。新羅は唐に援助を求めるも援助を得られず。

630年 唐は東突厥を滅ぼし、高句麗を次の目標とする。

631年2月 高句麗は国境沿いに長城を築いて唐からの侵攻に備える。

632年 唐使の高表仁、難波津に到着。大和王朝の無礼に怒り、天皇と会わないまま帰国(旧唐書)

633年

8月 百済、新羅西部に侵入。

635年 新羅、唐より柱国・楽浪郡公・新羅王の爵号を受ける。

641年11月 百済で大規模な政変。義慈王が事件を通じて大幅な王権強化を目指す。

642年 高句麗で淵蓋蘇文が、権力の集中を目論んでクーデター。栄留王を殺害し、宝蔵王を王位につける。

ウィキペディアでは淵蓋蘇文、ブリタニカでは泉蓋蘇文を取る。『日本書紀』では「伊梨柯須弥 」(いりかすみ) 

7月 百済、新羅の伽耶地方の40余城を陥落。新羅は高句麗に救援を求めるが果たせず。

642年末 百済王室でも政変が発生。

643年 高句麗と百済の間で和睦が成立する。

643年 百済、皇子扶余豊璋を廃太子し、倭へ人質として送る。

9月 新羅、唐に救援を求める。唐は支援の条件として善徳女王の廃位をもとめる。

643年 舒明天皇が死に皇極天皇が即位。蘇我入鹿が斑鳩宮を急襲。聖徳太子一族が滅亡。

645年

2月 唐の太宗、10万の軍勢を率い高句麗へ親征。新羅と百済に対し闘いに参加するよう求める。

5月 新羅軍3万が高句麗攻撃に参加。激戦の末に撃退される。

645年 乙巳の変。新政権は難波を王都とし、中央集権体制を強化。

647年 高句麗、唐の第2,第3次攻撃を跳ね返す。 

647年 新羅で親唐・廃位派の?曇(ひどん)が反乱。金?信がこれを鎮圧。

648年 唐が新羅支援を約定する。新羅は官制を唐に合わせ変更、独自の年号を廃し、唐の属国となる。

649年 唐の太宗、高句麗制圧を果たせぬまま死去。これに代わった高宗は、百済と高句麗の安堵と引き換えに新羅との和平を命令する。

651年 左大臣巨勢徳陀、中大兄皇子に新羅征討を進言する。中大兄はこれを採用せず。

655年 高句麗、百済と共に新羅に出兵。33城を奪取する。

658年 唐は新羅の要請を受け高句麗を攻撃するが失敗に終わる。このため最初に南の同盟国百済を攻撃する戦略に切り替え。

660年 唐、水陸合わせ13万の軍勢で百済に侵攻。滅亡させる。

百済の残存勢力が反乱を起こす。これを倭国が支援。

661年 唐が高句麗への攻撃を開始。首都平壌は半年の間包囲されたが、唐軍の撃退に成功。

663年 白村江の戦い。百済軍はこれをもって壊滅。

666年 高句麗軍の指導者、淵蓋蘇文が死亡する。長子男生と、弟の男建・男産が対立。

668年 長子男生は唐に内通し、内部から解体。

668年 高句麗、1ヶ月にわたる平壌包囲戦ののち降伏。

668年 唐は新羅の文武王を大都督とし、平壌に安東都護府、旧百済領に熊津都督府をおき管轄した。

670年 新羅、高句麗からの亡命者を「高句麗王」に封じる。

3月 高句麗遺民軍と新羅軍が平壌を制圧。鴨緑江を渡り唐軍を攻撃する。

671年 新羅は高句麗の使者を倭国に朝貢させることで、安東都護府への対抗姿勢を明らかにする。

671年 新羅は、百済地域の唐軍も攻撃。泗?城など82の城を奪う。

10月 唐の水軍、黄海で新羅水軍に敗れる。

672年

7月 唐軍と靺鞨軍が平壌を占領。

12月 白氷山の戦。高句麗復興軍と新羅軍が唐軍に敗れる。

673年 高句麗復興軍、瓠瀘河の戦闘でも唐軍に敗れ、衰退する。

674年 新羅、旧百済領内に高句麗遺民軍の領地「報徳国」を設定。「報徳王」を据える。唐は新羅征討のため軍を派遣。

1月 唐、新羅が旧百済領を蚕食したことを怒り、文武王の冊封を取り消す。

675年

2月 文武王、唐に謝罪使を派遣し、鶏林州大都督に復帰。

9月 泉城の戦と買肖城の戦で新羅軍が唐軍に勝利。

676年 伎伐浦の戦。新羅が唐軍を破り、旧百済領をふくむ朝鮮半島南部を確保する。唐は、熊津都督府と安東都護府を遼東に移し、朝鮮半島から撤退した。

678年 唐、西方の吐蕃の勢力拡張への対応が必要となり、朝鮮半島への介入を断念。

684年 新羅内の亡命政権が取りつぶされる。

「辰国」への思い

私の日本神話解釈は下記のようなものである。

後に三韓と呼ばれる朝鮮半島南部一帯は、古来小国の集合体であり、「辰」と呼ばれていた。

箕子朝鮮
  地図上では現在の「大韓民国」にほぼ重なる
これは日本神話で「葦原中津国」と呼ばれる広大な湿原地帯と、「大八洲」と呼ばれる島嶼群に相当する地帯であった。

ここに紀元前100年ころ、漢に滅ぼされた衛氏朝鮮の残党が入り込んできた。衛氏も漢民族系の王朝である。

彼らは山城にこもりながら、葦原中津国への襲撃を繰り返し、やがてこれを支配するようになった。

この山城を高天原、ここに進出した人々を天孫族と呼ぶ。

「辰」の人々は対岸の九州にも進出し植民地を形成していた。天孫族は九州に“天降り”し、倭国を形成した。

こうして衛氏朝鮮系の天孫族が、辰の代わりに作ったのが、三韓の国家群であったのだろうと考える。中でも辰の影響を強く残す地域が辰韓と呼ばれるようになった。

その後さらに北方系(ツングース系)の人々が侵入し百済・新羅を立てると、辰韓諸国は任那あるいは伽倻と名乗るようになった。

という経過で考えているので、その主要な舞台である辰への思いは強いのだ。


「辰国」について

ウィキペディアによれば次のような内容が伝承・記録されている。


「辰国」の出典

1.史記

衛氏朝鮮滅亡後の同時代史料。朝鮮伝の中で「真番旁衆国」として書かれている。

言葉としては“真番郡南方に隣接する小国家群”ということになるだろう。

真番郡は漢朝により朝鮮半島に設置された郡である。

史記の異本の一つは「真番旁辰国」とあり、これらの「衆国」が辰国と呼ばれたとも考えられる。

朝鮮支配の中心地である楽浪郡の南方に位置する。後の百済の版図とほぼ一致する。

2.漢書

史記よりほぼ200年経過している。
「真番辰国」と記載されている。
この間に旧真番郡と旁衆国が一体化したものとみられる。

3.三国志と後漢書

3世紀、卑弥呼の時代の書である三国志では、「辰韓は古えの辰国なり」とされる。

後漢書では「韓に三種あり。一に曰馬韓,二に曰辰韓,三に曰弁韓(略)凡そ七十八国(略)皆古之辰国なり」とある。


「辰国」と衛氏朝鮮

紀元前2世紀 衛満が箕子朝鮮を滅ぼして、衛氏朝鮮を建国した。

魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳によると、

衛満の孫の寓居王(衛右渠)が衛氏朝鮮とたもとを分かって族的集團2,000余戸とともに辰国に亡命した。

とある。

ただし「辰国」の解釈には諸説あるようだ。
一番の問題は後漢書の辰国→三韓という記述にありそうだ。

史跡 キウス周堤墓群

縄文時代後期後半(紀元前1,200年頃)に造られた8基からなる大規模な集団墓です。

円形に竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に環状に積み上げます。そうするとドーナツ状の周堤ができます。

直径は最大75m、周堤上面から竪穴底面までは1~5.4mとなっています。竪穴内部には複数の墓穴があります。多くは穴を掘っただけのものですが、立石が伴うものもあります。
周堤墓断面
      2号周堤墓周堤断面(上:2012年、下:1965年6月)
周堤墓というのは、北海道の縄文時代後期後半にみられる特殊な集団墓地です。北海道から本州北部にみられるストーン・サークルが、特殊な発達を遂げたものとみられます。

経過については、大谷敏三「キウス周堤墓群」にまとめられているので要約紹介します。


1901年 河野常吉が最初の調査。アイヌのチャシとして報告。

1917年 阿部正巳が調査。「キウス土城」として報告。アイヌのチャシではないとしつつ、それ以上の検索は行わず。

1919年 鳥居龍蔵、ツングースの遺跡の一例とする。

1930年 「史蹟キウスのチャシ」として史跡名勝天然記念物保護法の仮指定を受ける。

1936年 原田二郎、キウスの「チャシ」居住の痕跡が認められないことからチャシ説を否定。の調査を行う。

1948年 斜里町の朱円栗沢に縄文後期末の円形墓壙が発見される。発掘により縄文土器、漆器、ヒスイなどが発見される。このことからキウスも同様の墓地と判断。調査を担当したのは河野常吉の長男の広道。

1964年 在野研究者の石川徹が北大の大場講師の指導を受け発掘調査を行う。いくつかの墓壙と人骨を発見。

掘削面の研究で樽前c火山灰層(2500年前)より深かった。

1979年 キウスの周堤墓が国指定の史蹟となる。

一つの周堤墓の築造に約3千立方メートルの土砂が運搬されており、25人x123日の労働量になると計算された。
周堤墓全景
        人が立っているところが周堤墓の底面



これは斎藤修さんの 「江戸と大阪」(NTT出版 2002)の読書メモです。
実証的な文章で、読み流すにはやや苦しい。しかし数字には説得力があります。
幕末から明治初期にかけてなぜ大阪が地盤沈下したか、それは東西の力関係にどのような影響を及ぼしたか、という問題は、堺市長選挙以来の私の宿題ですが、まだすっきりとした結論は得られていません。

第5章 江戸と大阪の歴史人口学

江戸と大阪は江戸時代はじめの150年間大きな差異はなかった。

1.武家を除けば、地方からの男性単身赴任者の流入によって人口は支えられてきた。

2.都市自体の人口再生産能力は低く、流入者が減るとき人口は停滞した。

3.都市の死亡率は地方より高かった。中世以降、都市は墓場であリ続けた。そして18世紀以降この傾向はより顕著になった。

4.18世紀初め、江戸の男性は女性の1.7~1.8であった。しかし19世紀初頭にはこの男女差は消失していた。

この傾向に変化が現れたのは、1850年ころ、明治維新の直前である。

変化は特に大阪で顕著であった。大阪の人口は年平均0.3%の比率で減少した。市街からの流入者は減りほぼ出生者のみの人口に落ち着いた。理由は大阪への商品入荷の減少であった。大阪を経由した商品流通が直接江戸に流れるようになったためである。
これに伴って文化でも「文運東漸」が起こり、上方文化の多くが流出した。

同じ時期、江戸では人口は0.1%の微増を続けた。

大阪では、後継者育成システムの劣化もあったと言われる。大阪の商家では古い奉公人制度が残存し、丁稚から手代になって独立するのに30年を要した。
鴻池家の手代の家持ち(独立)時の平均年齢は37歳、三井は39歳であった。これではイノベーティブな人材は育たない。
妻との年齢差は上層では10歳を超える。下層でも7歳に達する。子供の数も0.4人にすぎない。

同じ時期、江戸では奉公人制度は崩壊し、大阪のような手代層は消失していた。雇入れは短期で流動的なものとなった。その結果、流入者数が維持され、産業の拡大に伴う人材養成に応じることができた。(正直のところ、あまり納得はできないが…)

しかし江戸でも人口は停滞した。東京の人口増にドライブがかかるのは明治20年代、松方デフレの収束後のことである。

神武から雄略まで21代の天皇のうち、寿命が明らかになっているものは8人に過ぎない。そのうち100歳を越えるものが6人に及ぶ。
つまり、順序だけが信用できるが、その他は明らかな嘘である。この嘘の付き方に法則性はあるのか、その目的は何だったのか、それらは永遠の謎である。
ただし、そのヒントとして、日本書紀に何度も繰り返し現れる百済本紀がある。作者はこれと皇統紀をなんとか結べつけようとする。我々も別な立場から関連付けようとする。その付近のせめぎあいが日本書紀の醍醐味であろう。

遠藤慶太さんの「六国史」(中公新書)にその一端が触れられているので紹介しておく。

1.日本書紀の応神紀には百済記が引用される。
(百済で)阿華王の即位にさいし倭への礼を欠いた。倭は百済を攻め、“とむたれ・けんなん・ししん・こくな”の東韓の地を奪った。百済は王子“とき”を倭に遣わし国交を修復した。
2.おそらく同内容が三国史記の百済本紀では以下のように記載される。
百済の“あしん”王は倭国に修好し、太子の“てんき”を身代わりとして派遣した。
この出来事が日本書紀では西暦277年とされるが、三国史記では397年の出来事とされる。三国史記ははるかに後代になるものではあるが、嘘をつく理由はない。とすれば400年ころに大和を治めていたのは応神ということになる。

これは2つの点できわめて重要なポイントだ。
一つは、倭王朝と大和の諸王の関係を見る上で起点となるからだ。
私は以前から仲哀の筑紫進出と不自然な死がいつ頃なのかが気になっているのだが、もし400年頃が応神の治世だったとすれば、応神の父である仲哀は、その少し前に那の津まで達し、そこで客死したことになる。
そのとき仲哀が請われたのは新羅出兵であり、百済出兵ではない。仲哀はそれを断り、その直後に不審死した。

もう一つは、多分こちらは大和王朝とは関係のない話だが、広開土王の金石文とほぼ時期的に一致するからだ。
百済が先の誓約に背いて倭と通じた。そこで広開土王が平壌まで南下し、戦いに備えた。
これが399年のことである。

つまりこういうことだ。高句麗は百済を臣従させるなど朝鮮半島全体で覇を唱えていた。倭(と任那)はこれを快く思わず、介入の機会をうかがっていた。
百済の王が交代し、おそらくはそれに伴って内紛が発生した。これをチャンスと見た倭は百済に出兵し領土の一部を奪った。百済は倭に詫びを入れ、人質を送ることで関係を改善した。
それを見た高句麗の広開土王は、百済に謀反の意ありと断じ、兵を平壌まで進めた。
このときたまたま、中国地方を征服した大和の仲哀天皇が勢いを駆って倭王朝の本拠まで達した。倭国は戦闘参加を呼びかけたが仲哀がこれを受け入れなかったので暗殺した。
倭王朝は寝返った武内宿禰に大和の制圧を命じ、応神を押し立てて難波政権を擁立した。旧仲哀勢力は四散した。

つまり高句麗から百済、倭国、大和王朝にいたるまでのあらゆる流れがこの時期に一点に集中しているのだ。

これが、今回の一覧表から抜けてしまった。
あとで探していれることにしておいて、とりあえず高天原、葦原中津国、スサノオの三者の関係を明らかにしておこうと思う。
別に、新発見というわけではなく、日本書紀を素直に読めばこういう読み方もできるよね、という程度のことだ。

高天原の神様というのはアマテラスの前にたしか3代ほどあるのだが、そのまえが良くわからないのである。出自は明らかにされていないが、前後関係からみて「なんとか朝鮮」王国の落人だろうと思われる。中原に秦に続いて漢が成立し、朝鮮半島にも進出してきた。それまで平壌ー京城周辺を支配していた王国は崩壊し、南に向かって落ちのびてきた。
細かいことは省いて、アリラン峠を越えて洛東江を眼下に臨んだとき、これからは異形の民が住まう、ここ葦原中津国を支配して生きていこうと思ったのだろう。
そうやって建設したのが高天原の要塞だ。一方、洛東江から半島南岸にかけては晩期縄文人と長江流域から流れてきた米作農民が混住していた。これを仕切っていたのがイザナギだ。根拠はないが、九州北部からやってきた可能性もある。さらに風呂敷を広げれば、鹿児島から火山の噴火をさけて避難してきた南部縄文人の末裔の可能性もある。
高天原からみた葦原中津国は、直接は朝鮮半島南岸一帯、後に任那となる地域だが、イザナギ一族は対岸の北九州にも大きな植民地を有していた。
スサノオがアマテラスの舎弟で高天原の一族だったのか、イザナギの後継者がそういう身分を与えられたのか、そのへんはわからない。
しかしスサノオはさまざまなフェイクニュースをでっち上げられ、高天原から追放された。彼は葦原中津国からも追放され出雲へと亡命した。そこがあらたに葦原中国と呼ばれるようになった。
高天原一族はやがて九州側の支配権ももとめるようになり、スサノオから取り上げられた。九州北部の統治のためにニニギノミコトが派遣され「天孫降臨」することになる。「日向」は宮崎ではなく玄界灘を挟んで、高天原に向き合っているからヒムカなのだ。
スサノオはこれに応じ、宗像を割譲し、ついで出雲の支配も受け入れた。スサノオの一族は畿内も支配していたが、ここもやがて「神武東征」により奪われることにな。

だいたいこういう流れで理解しておけばよいのではないか。


思い出した。次の3つの記事だ。

2019年02月14日

2019年02月13日

2019年02月11日


「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事 2

修復したけど、肝心の記事は抜けている。後で補完する。


D 米作り農民と、天孫系集団の相次ぐ渡来

1) 高天原の位置づけ

三韓時代以前の朝鮮半島南部
2013-01-03 23:57:19 

馬韓が天孫族の源流か
2016-07-03 23:47:10 
箕氏朝鮮の馬韓占領がもたらしたもの
2016-07-02 23:29:19 
衛氏朝鮮は天孫系の源流ではなさそう

2) 長江人の渡来

縄文人、旧弥生人、新弥生人に分けて考える
2015-11-28 16:13:28 

縄文VS弥生の枠組みは捨てたほうが良い
2013-01-05 21:08:23 

長江文明→弥生人の系譜
2014-05-21 12:01:03 
Y染色体が語る弥生人と縄文人の出会い
2016-06-18 12:32:54 

弥生人、それから支配者たちが来た
2013-01-12 20:01:50 
日本における米作り 年表
2013-01-01 17:03:36 

気温変化が民族構成の変化を推進
2012-12-31 15:05:27 

「弥生革命」があった?
2012-12-29 23:14:54 
弥生人の大量流入はあった
2016-06-17 15:47:45 

弥生人の増加は「民族の大移動」現象なしに説明できる
2016-06-27 23:34:04 

「水田中心史観批判」の批判 読後感
2016-08-29 00:08:14 
「水田中心史観批判」の批判 その2
2016-08-28 23:29:49 
「水田中心史観批判」の批判 その1
2016-08-28 21:00:59 

弥生土器の分類は九州をベースとすべきだ
2017-04-29 20:54:53 
弥生土器の分類は九州をベースとすべきだ
2017-04-28 18:05:51 
菜畑遺跡はさらに縄文を遡る
2016-06-17 13:39:11 
「板付人」に曖昧さは許されない
2016-06-16 23:51:10 
板付Ⅰ式→Ⅱ式はいつのこと?
2016-06-16 20:53:09 


3) 天孫族の侵入

環日本海文化圏
2013-02-07 22:11:42 
古代出雲のトロイ戦争か
2016-12-06 11:38:13 
「むきばんだ」の人々
2016-12-05 17:29:34 

稲荷山鉄剣の意味
2014-05-05 11:15:17 


4) 銅鐸文化の駆逐と高天原信仰の強制

弥生中期における激動
2016-06-27 17:11:26 

BC400の中国製矢尻が岡山で出土
2013-01-25 12:28:30 

銅鐸を手がかりに歴史を読み解く
2016-12-06 23:56:34 
「銅鐸人」のまとめ
2013-02-28 16:41:31 
銅鐸文明ノート 余話
2013-02-17 17:14:22 
銅鐸文明ノート その3
2013-02-13 16:39:01 
銅鐸文明ノート その1
2013-02-11 22:49:36 


K 日本、敗戦と戦後史

1) 敗戦

見たことのない終戦直後の写真
2018-02-15 15:29:56 

生産設備の空襲による消耗
2015-12-28 22:55:51 
戦後前期を評価する
2015-12-27 20:34:12 

戦後経済復興についての「諸説」
2015-12-27 14:00:49 

戦後日本はゼロからの出発ではなかった
2015-12-23 23:56:32 

浮浪児は戦争という理不尽の、理不尽な結末だ
2014-09-29 23:57:54 

「浮浪児」の数と実態
2014-09-29 17:27:58 

戦災孤児と“浮浪児”
2014-09-23 00:00:5
戦災孤児調査の紹介
2014-09-22 17:34:23 
戦後の日本人慰安婦(パンパン)
2017-04-03 12:11:38 

銀座パンパン娘の言い分
2017-04-05 00:34:20 

昭和24年 東京カンカン娘
2015-04-06 00:05:37 

ララとエスター・ローズ女史
2016-11-25 17:27:07 
「ララ」救援活動の経過
2016-11-25 17:13:45 


2)戦後引揚げ

興安丸について
2015-12-23 22:06:13 
氷川丸と高砂丸
2015-12-23 13:00:14 
引揚者の手続き 佐世保市のホームページから
2015-12-22 16:21:42 
仙崎と引揚船
2015-12-21 17:29:13 
山口放送の「奥底の悲しみ」
2015-12-21 13:15:31 

引揚者は戦後の発展にどのように貢献したか
2015-12-26 17:29:21 
引揚者は祖国にどう受け止められたか
2015-12-25 23:20:31 
戦後引揚事業 年表
2015-12-24 23:07:21 
戦後引き揚げを勉強してみて
2015-12-24 17:29:20 
引揚者の無条件美化に対する山本さんの思い
2017-11-22 10:52:46 
山本めゆさんの論文を紹介します
2017-11-20 22:47:30 


3) GHQと戦後改革

ポツダム宣言の本質は「思想の自由」
2013-10-08 22:08:20 

GHQの戦後改革を増補しました
2015-02-09 00:29:32 

五大改革指令に至る流れ
2013-11-20 15:13:23 
GHQの戦後改革 その3
2013-11-03 11:55:31 

GHQの戦後改革 その2
2013-11-03 11:53:31 
GHQの戦後改革 その1
2013-11-03 11:51:21 
マッカーサーとは何だったのか
2013-11-03 11:43:17 

マッカーサー改革はなぜ成功したのか
2016-05-08 16:35:39 
戦後改革の法的体系
2013-10-08 16:00:38 

シャウプ税制と「一体改革」
2011-09-30 09:47:40 
「シャウプ勧告」を勉強した
2011-09-29 17:28:10 
シャウプ税制の臨終 その2
2011-09-29 13:53:49 
シャウプ税制の臨終 その1
2011-09-29 10:44:42 
4) 戦後復興

三笠の3炭鉱の運命
2017-09-27 18:53:04 
夕張・三笠の炭鉱跡を訪ねて
2017-09-27 00:38:26 

太平洋炭鉱の歴史 年表
2017-04-10 19:36:52 

奄美共産党 年表 その4
2013-12-31 13:41:02 
奄美共産党 年表 その3
2013-12-26 13:46:27 
奄美共産党 年表 その2
2013-12-26 13:45:27 
奄美共産党 年表 その1
2013-12-25 17:32:39 


K ヨーロッパの歴史

1) イギリスの歴史 

アングロ・サクソン人ってなんだろう
2018-12-21 14:03:11 

イギリス人はDNA的にはアングロサクソンではない
2018-12-25 21:32:53 

「清教徒革命」論を整理する
2017-01-31 17:16:22 
清教徒革命年表 今後の課題
2017-01-15 15:37:15 
清教徒革命年表
2017-01-14 15:37:30 
ピューリタン革命の勉強を始める
2017-01-14 00:55:35 
ホッブスが面白い
2017-01-13 16:12:53 
ホッブス、ロック関連の年表
2017-01-11 17:21:30 

田中さんのケルト人論を読んで
2017-08-06 16:48:24 

「ケルト人」は存在したことなどない
2017-08-06 15:42:38 

ケルト人について
2014-01-22 22:47:38 

2) その他

ギリシャ神話 成立経過
2018-02-07 12:01:32 

ローマ帝国の人口
2019-01-03 15:38:18 

ローマ帝国とキリスト教
2018-02-22 17:46:15 

プラハの歴史 年表
2018-07-18 18:40:56 

宗教改革 ルターからアウグスブルクまで
2018-03-25 18:44:10 


L 大阪の歴史

大阪と大大阪の歴史 年表
2017-10-19 12:20:15 

大阪 年表 補遺
2018-08-23 16:43:33 

大阪発展のカギは上海 にあり
2018-08-12 00:47:12 


M 上海の歴史

アメリカ共産党と上海
2018-08-07 22:39:00 
尾崎とゾルゲの出会い いつ?
2018-08-07 20:27:06 

不破倫三について
2018-08-05 19:47:31 

尾崎秀実の上海
2018-07-23 13:57:02 

尾崎秀実、「新聞を読むことだ」
2018-07-20 21:38:23 


N 4大文明

インダス文明と4大文明
2018-01-04 16:54:12 
インダス文明 年表
2018-01-04 16:17:45 
西洋人は4大文明を認めない
2018-01-03 15:47:48 
「4大古代文明」はありだと思う
2018-01-03 14:56:00 


H 中世・近世

山名宗全 年表
2018-09-24 12:23:21 
歴史を引っ掻き回した男 山名宗全
2018-09-23 15:46:15 

剣法の極意は殺されつつ殺すこと
2015-04-20 23:56:43 

洞門禅僧と神人化度の説話
2013-07-29 14:22:56 

禅宗が勝ち組になったわけ
2013-07-29 13:40:46 
仏教の宗派の地域分布
2013-07-28 21:01:37 


I 明治維新

1) 維新の群像

明治維新と史的唯物論
2014-10-05 16:34:00 

維新は「連合新国家」の武力転覆だった
2018-11-27 11:21:20 

長州戦争 その5
2017-06-08 18:16:26 
長州戦争 その4
2017-06-07 15:55:19 
長州戦争 その3
2017-06-06 13:26:00 

長州戦争 その2
2017-06-06 14:28:55 
長州戦争 その1
2017-06-06 14:26:51 
時代を切り開く大久保利通の「宣言」
2015-11-25 17:30:02 

大久保利通の足跡
2014-10-05 14:06:53 
大久保利通政権の人脈的特徴
2014-10-03 23:57:44 

大久保は維新の「書記長」
2014-10-23 21:46:43 

何故、大久保利通だったのか
2014-10-01 23:01:38 

明治維新と薩摩藩の戦略
2014-10-07 12:51:40 

江戸幕府と諸藩の軍事力・経済力バランス
2014-10-02 23:38:58 
「上方の江戸に対する勝利」は間違い
2014-10-02 17:29:46 

江戸と上方の経済力バランス
2014-10-02 12:26:56 

堺市長選の分析
2013-09-30 13:37:19 
初代堺県知事 小河一敏について
2013-09-11 12:16:44 
堺県の歴史 年表
2013-09-10 17:26:32
日本髪のあれこれ
2015-11-11 14:02:58 

「東海大一揆」について
2018-10-23 13:33:58 

2) 明治の諸改革

富岡製糸場を見るもう一つの眼
2014-07-01 16:06:13 
「農談」運動のまとめ
2014-05-01 23:53:15 

農談会運動の意義
2014-04-15 16:34:14 

明治の農業改良運動 年表
2014-04-15 13:58:43 

初めて知った「農談」運動
2014-04-14 12:43:53 
ボアソナードと「連帯保証」
2018-02-18 15:02:27 
「連帯保証」の起源について
2018-02-18 13:07:08 

幕末期のロシア領事館(函館)のはなし
2016-09-11 17:53:19 

日清戦争 年表
2014-06-29 22:46:36 

日露戦争 年表
2014-07-13 00:18:15 
日韓併合条約の実体
2014-07-12 22:17:32 
日清から日露へ 両戦間の経過
2014-07-08 23:37:46 
「アジアを守る」が「日本を守る」に矮小化される過程
2014-07-08 00:38:24 


J 戦前~戦中史

1) 慰安婦・強制労働問題

朝鮮人徴用工への強制労働に関する統計的事実
2018-12-21 22:44:57 

中国人慰霊碑(仁木)と劉連仁記念碑(当別)
2018-07-10 15:49:43 

強制連行を示す証拠があった
2013-06-19 10:21:32 

「慰安婦」制度は存在した
2013-05-17 10:43:02 

慰安婦は売春婦ではない
2013-05-17 09:51:27 

長春旧憲兵隊跡からの発掘資料
2014-05-15 11:59:07 

従軍慰安婦の「不許可写真」
2017-06-15 21:21:20 

漢口特殊慰安所 その規模に驚く
2015-12-04 15:34:37 

慰安婦の高給説はごまかしがある
2013-07-31 23:07:49 

慰安所の確からしい数
2013-04-16 10:55:31 
「従軍慰安婦は問題ではない」か?
2013-07-31 17:25:48 

挺対協の弁護をする必要はない
2017-11-19 21:30:37 

戦前の日本は侵略者である
2013-05-07 11:36:24 

2) 軍が最大の戦争責任

対中侵略と国内政治の流れ 年表
2015-11-10 20:20:54 

戦犯を追跡する 済南事件から満州事変まで
2015-11-10 22:11:15 
戦争を防がなかった責任
2015-11-08 13:03:26 

永田鉄山の評価
2015-08-23 23:41:37 

「東アジア大戦争」と呼ぶべきだろう
2014-07-01 23:39:41 

「満州でやめておけばよかった」のか
2018-01-13 11:08:44 

根底となるのは植民地支配
2017-11-22 11:46:14 

ゴーストップ事件の顛末
2015-11-29 23:20:54 

東南アジアにおける戦争犯罪
2014-07-05 08:39:37 

南京事件と日本軍の捕虜対応
2018-06-02 14:30:38 

南京事件「論争」の経過
2015-12-01 17:07:46 
南京大虐殺の遺産登録はなぜ非難されたか
2015-12-01 13:34:56 

『偕行』加登川氏の謝罪 1985年
2013-12-11 17:40:35 

「戦陣訓」は現場を知らない指導部の押しつけ
2018-01-13 13:18:13 

最悪の置き去り犯は関東軍
2014-04-18 15:58:11 

商船隊全滅の責任は海軍にある
2015-05-06 15:03:04 
戦争になれば民間人も敵だ
2015-05-06 12:34:24 


3) 日米開戦の責任

陸軍秋丸機関の日米経済力分析
2018-06-06 18:41:29 
太平洋戦争から学ぶ 開戦のための3条件
2018-06-05 10:49:43 
東條内閣「国策再検討会議」の顛末
2018-06-03 22:16:33 

日米開戦と軍部
2018-06-03 22:10:25 

「大本営戦争指導日誌」の驚き
2017-11-01 16:01:10 

4) 内務省の責任

なぜ内務省は軍の暴走を後押ししたのか
2015-11-26 22:34:51 
内務省の歴史 年表
2015-11-26 22:05:12 

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)
2015-12-05 15:33:17 

風景写真の正しい撮り方
2014-07-02 16:34:06 

デモクラシーが戦争を招く?
2018-02-05 15:06:35 

エノケンと焼夷弾
2013-12-07 23:10:53 

戦時下の犬猫供出
2018-02-02 22:32:50 

日中歴史共同研究のリンク
2015-12-01 17:28:46 

「学校儀式」はでっち上げられたもの
2017-11-08 11:10:43 


5) 戦死者の数

ソ連の犠牲者数はやはりおかしい
2014-06-15 00:45:07 
ソ連の戦死者数の異常な多さについて
2014-06-14 23:32:22 
戦死者ランキングと太平洋戦争
2014-06-14 11:36:48 
戦死者ランキングを一口解説
2014-06-13 15:03:48 
戦死者数ランキング
2014-06-12 23:22:44 

佳木斯(チャムス)の紹介記事
2014-01-28 15:39:17 
佳木斯医科大学と細菌戦
2014-01-28 10:04:12 

北朝鮮政策 志位さんの解説
2018-04-15 18:16:17 

「包括的軍事指令」について
2018-02-15 11:10:51 

「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事 4

H 東北エミシとアイヌ

1) エミシの制圧

東北エミシの年表 その4
2017-06-23 12:58:36 
東北エミシの年表 その3
2017-06-21 13:05:24 
東北エミシの年表 その2
2017-06-21 12:59:45 
東北エミシの年表 その1
2017-06-21 12:56:22 

年表 津軽安藤(安東)家の盛衰
2018-11-28 16:45:10 
大多鬼丸伝説について
2018-04-04 23:48:41 
福島県人「大多鬼丸」のセリフがすごい
2018-04-02 23:52:52 

ヤマト朝廷が香取をめざした理由
2018-08-01 12:40:39 

ラディーノの視点から見た奥羽エミシ戦争
2017-04-11 14:49:49 

谷は西日本、沢は東日本
2018-08-05 16:38:44 

砂沢遺跡の意味するもの(津軽の弥生時代水田)
2017-04-16 16:29:09 


2) アイヌ人のゲノム

ウィルタ(オロッコ)とニヴフ(ギリヤーク)と“オロチョン”
2017-04-01 22:01:14 

オホーツク人
2017-04-01 21:58:19 
瀬川拓郎さんの縄文・アイヌ論について
2017-03-30 18:00:04 

海部陽介「日本人はどこから来たのか」 感想文
2018-06-09 17:22:11 

アイヌは歴史のはざまで生まれた民族
2017-06-20 17:47:28 
津軽・出羽縄文人の建てた国 北海道アイヌ国
2017-06-20 00:02:52 
エミシ・ルネッサンスとアイヌ民族の形成
2017-06-18 17:42:39 

アイヌ人は縄文人と北方人の混血
2017-01-05 17:39:37 

アイヌ人は奥羽地方から進出した毛人(縄文人)のハイブリッド
2017-03-12 01:24:39 

続縄文人がオホーツク人を征服することでアイヌ文化が生まれた
2017-04-23 23:08:38 

続縄文時代の北海道 経済面から見た4つの特徴
2017-04-16 17:55:57 

アイヌ人は完璧に縄文人だ(ただし男性のみ)
2016-08-28 11:55:58 

北海道の縄文人(続縄文人)は東北まで進出したのか
2017-04-16 19:44:07 

続縄文時代についてのメモ
2017-03-20 21:06:36 

擦文文化論
2017-04-23 16:52:25 

穴居こそ縄文文化の本質的特徴
2017-04-23 23:07:42 
擦文時代ではなく擦文・須恵器併存時代
2017-04-23 20:15:29 

道央低地帯文化の孤立性
2017-03-20 23:07:06 

縄文人は野党共闘だ!
2017-04-16 20:16:54 
3) アイヌの北進

アイヌ史 雑記
2018-04-14 11:54:28 

ジョン・バチェラー 年譜
2017-04-25 13:13:24 

アイヌ民族の歴史年表の改訂を始める
2017-04-24 17:18:07 

「アイヌ民族の歴史年表」 を更新しました
2018-06-24 16:10:33 

アイヌの北限の歴史
2013-06-06 23:29:41 

先アイヌ文化は絶滅した
2011-05-24 22:50:04 

ポイヤウンベの城について
2011-07-07 12:11:42 
ポイヤウンペと骨鬼
2011-07-05 14:35:46 

ポイヤウンペの闘いはアイヌの内戦のようだ
2017-05-18 20:29:43 
日本海アイヌと闘い、滅ぼされたオヤウカムイ
2017-05-18 11:08:26 
ポイヤウンペの城シヌタプカを訪ねる
2017-05-18 09:47:13 
ポイヤウンペに再挑戦
2017-05-18 09:40:19 
元を苦しめたアイヌ
2011-06-30 00:41:12 


4) 日本人の樺太探検

樺太(サハリン)の年表 その2
2015-09-17 20:57:51 
樺太(サハリン)の年表 その1
2015-09-17 20:56:19 

樺太(サハリン)の年表 を二部に分ける
2015-09-17 20:54:50 

最上徳内と間宮林蔵
2015-09-16 00:21:41 
間宮林蔵に関する年表
2015-09-15 22:56:26 

最上徳内に関する年表
2015-09-13 20:37:26 

最上徳内の「国家隠密法」違反
2017-04-24 14:09:09 

間宮図 ここにあります
2018-01-05 09:39:58 

松浦武四郎と樺太 その2
2018-03-27 23:52:06 
松浦武四郎と樺太
2018-03-27 23:08:04 

樺太大泊の過去
2017-01-01 20:50:53 

樺太鳥瞰
2016-12-31 15:02:58 

樺太アイヌに詳しい人はいませんか?
2015-09-08 00:20:37 

E 邪馬台国と「倭王朝」の時代

弥生時代の記事一覧(D)がすっぽり脱落しました。アップしたつもりがアップを完了しないまま(E)を上書きしてしまったようです。元から再検索しなければなりません。
折れそうですが、まぁこれまでも何度もあったことなので綺麗サッパリ諦めましょう。


1) 日本書紀をどう評価するか

記紀をどう評価するか
2015-03-09 12:32:45 

日本書紀を無視すると分かること
2013-01-20 17:32:46 

日本書紀抜きの日本史年表
2013-01-19 23:51:54

百済三書と日本書紀
2014-09-10 13:48:25 

百済本記はものさしとして利用できる
2013-01-05 11:34:32 

日本書紀で百済三書からの転載が想定される部分
2018年12月09日

森博達と音韻分析
2013-01-17 14:44:17 

古代史の“グローバル化”に貢献した外国人
(日本書紀を執筆した中国人)
2013-01-14 22:34:46 

新羅本紀をどう読むか
2013-01-20 21:11:59 

古代史の鍵を握る新羅
2013-01-04 22:43:51 

三韓および倭国年表 増補のお知らせ
2018-11-16 21:14:59 

古代史の時代区分を考える
2017-04-29 20:57:16 

倭国と任那は、英国とノルマンディーの関係
2013-01-20 21:31:33 
卑弥呼を神功皇后に比定した理由
2014-09-17 23:55:15 

神功、180年遅らせたら…
2018-11-22 17:05:05 

三韓征伐は西暦369年前後
2012-12-24 20:19:49 

大和が九州を制圧できたはずがない
2014-09-17 21:15:12 

紀生磐についてもう少し勉強する
2018-11-17 14:02:24 
紀生磐(きのおいわ)のものがたり
2018-11-17 00:32:44 

「刀伊」人の九州侵入
2018-06-27 15:57:15 

2) 景行紀と風土記

「土蜘蛛」 その2 豊後侵攻戦争
2017-04-16 11:40:52 

「土蜘蛛」 その1
2017-04-15 23:14:35 

肥前国風土記の性格について
2017-04-15 13:10:36 

Eテレビの古事記シリーズを見て
2013-09-29 21:05:59 


3) 倭の五王と磐井

武寧王の背後にいた倭国
2015-05-10 15:15:21 

武寧王は決定的な人物の一人だ
2015-05-07 12:02:00 

稲荷山鉄剣の意味
2014-05-05 11:15:17 
毛の君は松浦を支配していた
2015-05-06 23:40:21 
「大伴金村」を名乗らされた人物
2015-03-22 23:58:10
 
大伴磐と筑紫の君磐井は同一人物?
2014-10-09 21:42:01 

近江毛野は近江の人ではない
2014-08-11 17:12:34 

九州王朝を潰したのは百済ではないか
2015-03-02 21:01:09 

筑紫君は物部に騙し討された
2013-01-18 22:51:20 
継体は磐井の乱平定作戦を担ったのか?
2014-08-10 22:45:13 
古代史 空白の半世紀
2014-06-04 13:44:00 

九州王朝は任那滅亡の頃に自壊した
2014-09-18 22:25:11 


F 「神武東征」と初期大和王朝

1) 出雲の国譲りと、畿内への進出

梅原猛氏の出雲王朝論
2018-08-01 08:31:33 

出雲族と大和政権
2016-04-24 11:52:36 

「国譲り」の意味
2014-12-15 11:36:34 

出雲振根は倭国系か
2017-03-19 20:37:34 

倭国大乱から神武東征まで
2014-09-25 15:44:35 
倭国大乱の二つの置き土産
2014-09-18 15:30:14 

2) 纏向遺跡

纏向は大和「古王国」の首都
2014-09-18 12:51:36 

纏向遺跡の歴史研究上の意義
2014-09-15 23:57:46 

纏向の建設者は東瀬戸内地方からの移住民
2017-01-03 23:51:24 

纏向遺跡と箸墓古墳との時代差
2017-03-19 20:14:59 

三角縁神獣鏡は銅鐸を鋳なおして作った
2014-12-14 21:01:50 
大和盆地での権力形成
2014-09-07 21:37:53 
阿蘇ピンク石の畿内への波及
2014-08-15 23:47:30 

国府遺跡 もっと分かることがあるはずだ
2014-12-13 17:03:35 
古墳より生活遺跡を重視したら?
2014-12-13 16:05:05 

葛城は非出雲系天孫族
2014-12-07 23:58:18 


3) 神武東征

ヤマト王権の成立に至る経過を5期に分けて考える
2017-03-04 21:55:34 

大和政治史における4回の暴力革命
2018-09-08 22:50:10 

「神武東征」を考える その3 神武東征の絶対年代
2018-11-14 16:56:53 
「神武東征」を考える その2 にぎはやひ王国
2018-11-13 22:14:13 
「神武東征」を考える その1 ににぎ王国
2018-11-13 10:05:51 

神武東遷を推理する
2012-01-15 23:39:56 

関裕二 「天皇家誕生の謎」を読んで
2016-05-15 22:53:27 


4) 前方後円墳

古墳時代ではなく倭王朝時代と呼ぶべきだ
2014-12-07 22:57:49 

「前方後円墳」至上主義が間違いの元
2014-09-17 20:39:22 
古墳の大きさで力を評価する愚かさ
2014-09-16 22:50:40 

「古墳は灌漑事業の残土処理」はまんざら独断ではなかった
2017-03-12 20:43:31 

巨大古墳は中心性ではなく辺縁性の象徴
2017-06-03 16:12:00 

古代史を墓守学者から取り返せ
2017-01-09 22:05:41 

前方後円墳は大和オリジンとは言えない
2017-01-03 18:07:31 

「前方後円墳主義者」への挑発
2017-01-03 11:32:06 

「前方後円墳原理主義」への反論
2017-01-01 14:27:33 
九州の前方後円墳
2016-12-31 00:40:22 
「前方後円墳人」を跡づける必要がある
2016-12-30 15:21:14 

古墳時代の遺跡の流れ
2014-12-13 23:48:46 
巨大古墳の変遷
2014-12-09 16:36:49 


5) 崇神王朝
纏向=崇神王朝説は納得できない
2017-02-21 23:48:57 

第二次東征(忍熊王の乱)
2016-04-17 00:51:10 
四道将軍について
2016-04-06 17:10:31 
武埴安彦命の反乱を読み解く
2016-04-04 00:08:36 

仲哀天皇の急死事件の日本史における意味
2016-05-15 14:59:13 
気比神宮に祀られた7人
2016-04-24 19:21:17 
敦賀グループがのし上がった理由
2016-04-18 17:16:39 

武内宿祢の裏切り
2016-04-17 22:07:23 

仲哀天皇は新羅など知らなかった
2016-04-17 17:51:13 


6) 大和王朝の全国支配へ

継体天皇は混乱の入り口か出口か
2018-12-10 21:05:40 

継体天皇紀 その2
2016-01-03 22:41:17 

継体天皇紀 その1
2016-01-03 10:30:34 

継体天皇に関して
2014-05-21 15:54:25 

水谷千秋「継体天皇と朝鮮半島の謎」を読んで
2014-09-11 22:58:36 
蘇我稲目の墓の発見の意味
2016-01-02 16:06:19 
蘇我稲目は倭国の末裔?
2016-01-01 10:50:41 
非日常の部分に権力を崩壊させるエネルギーがある
2017-02-01 17:32:21

G ヤマト民族主義政権
(蘇我支配から壬申の乱まで)

1) 「日出処の天子」

隋書、旧・新唐書の読後感
2013-01-21 17:19:26 

ついでに隋書、唐書まで
2013-01-21 14:32:27 

6世紀末の三度の新羅侵攻作戦
2015-03-08 16:53:26 

大和王朝の世界史への登場 とりあえずの感想
2015-03-02 12:14:47 
大和王朝の世界史への登場(7世紀の日本) 年表
2015-03-01 23:47:51 

飛鳥寺は過去への旅の出発点
2015-03-07 20:59:23 

蘇我氏は倭王朝の末裔?
2018-02-09 00:01:18 

蘇我満智について
2017-04-27 14:32:05 

蘇我韓子 その2
2017-04-27 08:48:58 

2) 大化の改新から白村江まで

大化の改新か乙巳の変か
2017-04-26 17:41:50 

大化の改新~壬申の乱年表
2018-02-09 14:12:45 

7世紀の年表を改訂しました
2015-03-05 16:52:28 

3) 壬申の乱

壬申の乱に関する重大な訂正
2015-03-16 23:03:18 

壬申の乱を勉強して
2017-08-08 15:26:01 

壬申の乱 経過表
2017-08-08 00:07:14 

親百済も親新羅もない。あるのは反唐対決のみ
2018-02-08 13:40:00 

天智から天武へ、そして持統へ
2018-02-06 22:49:25 

藤原 不比等と藤原家の再興
2018-02-10 11:48:16 

「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事

下記が本ブログにおける本日現在での、「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事です。2011年5月にこのブログを開始して以来、約8年にわたって書く続けてきたものです。
このジャンルだけで約500本あります。あまりに膨大でリンクを貼ることはできません。ブログの検索窓に記事名を突っ込んで検索してください。

この記事では
A 旧石器人と縄文人、日本人の起源(ゲノム関連)
B 日本人の起源(ゲノム論争)
C 長江文明と黄河文明 4大文明
に関する記事名を掲載しています。


A 旧石器人と縄文人、日本人の起源(ゲノム関連)

「神の手」スキャンダルの経過
2017-01-08 12:48:23 

12万年前の砂原遺跡について
2017-04-25 09:53:08 

古気候学抜きに古生物学は存在しない
2016-09-02 23:43:47 

気温変化が民族構成の変化を推進
2012-12-31 15:05:27 
日本の古代ゾウ
2016-09-03 11:06:42 
ナウマンとマンモスは出自が違う
2016-09-02 23:14:13 

最初の日本人は朝鮮半島からのC1人か
2018-09-17 11:13:59 

マンモス人とナウマン人が混血して縄文人になった
2018-09-18 22:26:08 

日本のギャートルズたち
2018-09-18 20:19:51 

縄文人の主食は海獣肉
2017-04-14 21:47:51 

日本列島の人口変動から歴史を読み解く
2017-01-22 23:23:56 

人類の能力は今の私たちと同じ
2017-01-08 00:27:11 

白滝遺跡について
2019-01-17 19:14:23 

縄文遺跡(北海道内)
2016-08-20 22:44:43 

大船遺跡 ネット探検
2016-08-07 17:01:52 

南九州の先史時代 年表
2019-02-18 11:24:26 

ガチ1万年前、しかも鹿児島! 上野原遺跡
2018-11-28 23:36:53 

栗栽培を基本とする生産様式
2012-12-31 14:33:49 

栗と雑穀
2012-12-29 00:15:08 

「小山修三説」の研究
2012-12-28 23:13:02 

土偶の歴史
2018-09-27 16:10:49 

朝鮮系縄文人と渡来人
(片岡宏二さんが晩期縄文人に言及)
2018-08-17 16:09:51 


B 日本人の起源(ゲノム論争)

最初は赤旗の解説から入ったので、ミトコンドリアDNA一色。途中、2016年からY染色体派に転向している。日付順にみてもらいたい。

本土人は朝鮮人の末裔?
2012-12-26 17:44:18 

原日本人というべきだろう
2012-12-26 16:49:23 

ゲノム解析で判明: 本土人の成り立ち
2012-12-26 12:08:36 

日本人の起源説が覆された
2012-12-25 23:55:31 
分子生物学的解析法の変遷
2012-12-30 22:31:27 
分子人類学の「日本人起源論」史
2012-12-30 21:14:01 
琉球人=縄文人=北方系?
2012-12-30 12:11:05 

日本人の起源は4段階ある
2012-12-29 17:44:42 

「日本人の起源」 まとめのまとめ
2013-01-01 10:38:23 

「『日本人の起源』 まとめのまとめ」 の訂正
2016-06-30 16:22:49 

縄文人、旧弥生人、新弥生人に分けて考える
2015-11-28 16:13:28 
日本人の起源 ミトコンドリアDNAによる分析
2015-11-23 14:18:20 

縄文人は単一種族なのか
2016-06-17 22:25:56 

もう一つおまけに「南回り説」
2016-08-15 20:32:02 

最後はハプログループ O
2016-08-15 16:59:35 
スティーヴン・オッペンハイマー どんな人か
2016-08-15 09:27:27 
「C1a1先着説」を提唱する
2016-08-14 23:22:19 
ハプログループC と日本人
2016-08-14 20:04:30 
Y染色体による人類の展開史
2016-08-13 12:43:41 
分子人類学の「日本人起源論」 増補版
2016-08-12 16:19:32 
Y染色体とミトコンドリア染色体
2016-08-11 22:53:47 
Y 染色体から見た縄文人
2016-08-11 22:48:40 

日本への渡来の順番
2016-10-23 13:45:23 

Y染色体とミトコンドリアDNAの相互関係
2016-10-23 16:23:39 

崎谷満さんの「Y-オロジー」を勉強する
2016-10-22 19:34:19 

ミトコンドリアDNA 篠田さんの総説
2017-01-06 17:51:16 

佐藤陽一さんらのY染色体ハプロ調査の概要
2017-08-07 13:28:36 
Y染色体ハプロの大規模調査
2017-08-06 23:45:10 

日本人の三層構造は今や常識
2018-09-27 11:31:09 

日本人の起源を考える
2018-11-23 19:39:23 

斎藤成也さんの粗雑な議論
2019-01-12 20:14:27 

慎重さを欠く篠田謙一氏の主張
2019-01-08 23:00:42 
沖縄人はいつ形成されたか
2019-01-13 14:24:31 

篠田さんのM7aハプロ論におもう
2019-02-19 12:49:58 

ミトコンドリア・イブは人類誕生15万年後の人
2016-08-15 19:42:12 
ジェノグラフィック・プロジェクトに期待
2016-08-15 18:00:03

A型は「エデンの東」を目指す (弥生人は血液型A、縄文人はBである)
2012-12-30 22:40:01 



C 長江文明と黄河文明 4大文明

夏・商・周に関する年表
2018-01-03 10:04:49 

龍山文化はハイブリッドである
2013-03-25 15:36:33 
仰韶文化が竜山文化を導入することで夏が誕生した
2013-03-25 10:18:17 
夏は長江系国家か
2013-03-24 20:15:09 
夏はミャオ族を征服して建国された
2013-03-24 17:32:33 
最初の中原の覇者 夏の歴史
2013-03-24 14:23:13 

小麦の中国伝来はいつ?
2016-08-22 20:38:32 

小麦のほうが優れているのかも
2016-07-03 01:08:25 
「イ族」のルーツについて
2017-12-11 13:24:51 

古代史のクロスロードが西暦400年ころにあった (高句麗対4国連合など
2017-03-16 22:37:07 

青銅器時代を学ぶ
2017-03-15 16:46:06 
長江文明 の流れ
2017-03-14 16:51:33 

随分前に下記の記事を書いた。書いたことも忘れていて、なんのことかと読み直してみた。


言いたいことは「日本人に特異的にA型が多いのは、A型だから日本に集まったのではないかと思ったのである」ということで、なかなかの着想だ。

ただ、変なのは、「縄文人はA型は少なかったようだから、A型頻度を上げているのはもっぱら弥生人である」と書いているところだ。

わざわざ古畑の「A型」分布説を取り上げているが、この調査でA型が多いのは東北地方だ。つまり縄文色の強いところだ。

これだけで、この「大胆な仮説」は自己破産する。

しかし、事実として、日本人にA型が多いことも事実で、地域分布としては東北に偏っている(古畑による)とされる。

とすれば「縄文人はA型は少なかった」というのが怪しいことになる。

調べれば分かることなのだから調べてみよう。

キラリというページに親切に数字が取り上げられている。

予想はかなり違っていた。というより真逆だった。

血液型 弥生人はA、縄文人はB

まず事実として、日本人にA型の頻度が高いことは確認できた。しかしそれほどではない。

世界での比率は、O型が約45%、A型が40%、B型が11%、AB型が4%である。日本では、A型の割合が約4割、O型の割合が約3割、B型の割合が約2割、AB型の割合が約1割である。

結論として日本はA型特異国ではない。ポルトガル、フランスは半分がA型である。

ただし、最大の特徴はA型ではなく、B型が多いことである。それに引きずられる形でAB型の頻度も高くなっている。

ただしB型の頻度にだけ注目すれば、もっと高い国もたくさんある。インドは4割がB型だ。ハンガリーやイラン、パキスタンも日本と同じ3割を占める。

次に血液型の国内分布である。

A型の人口が多い都道府県は、徳島、福岡、愛媛、島根、鳥取である。それに対して、青森、岩手、沖縄は、A型の割合が少ない。

つまり間違っていたのは古畑の報告で、私の記事が正しかったのだ。

むしろ注目すべきは、国際平均の2倍に達するB型頻度で、いったい誰がBを押し上げているかというと、秋田、青森、長野、岩手、栃木で、特に秋田がすごい。

篠田さんのM7aハプロ論におもう

2019年02月17日 南九州の先史時代 で、蛇足的に付け加えたのだが、やはりもう少し言っておかないと気がすまない。

篠田さんはM7aハプロを使って日本人南方由来論を展開したがっているようだ。

1.ミトコンドリアDNAの方法論的問題

我々は日本人がどこから来たかを巡って議論している。

それは日本人の祖先がどうやって日本にたどり着いたかという問題でもあるが、そうやってたどり着いた人が、どのようにして生き延びて現代までつながってきたかの問題でもある。

後者の問題はゲノムをいじっているだけでは解決できない。だから前者の問題は意味がないと言っているわけではない。
ゲノムだけで分かった気になってはいけないということだ。ゲノム屋さんにはとかくそういうところがある。

もう一つはミトコンドリアDNAは民族の移動を語るには原理的に不向きだということだ。これはY染色体に比べてという相対的なものだ。

この問題は全ゲノム対象の分析においても同じだ。正確といえば正確だが、その分ノイズが入ってくるからむしろ間違いが持ち込まれる危険性もある。

まずはY染色体ハプロがファーストだ。これがもっともシンプルに個体のルーツ、社会グループの傾向と本質を明らかにしてくれる。

ただし、Y染色体には弱点がある。古人骨からの採取がほぼ不可能だということである。この点でミトコンドリアDNAは適応範囲がはるかに広いので有利である。

もう一つは一つの社会グループの男女関係を明らかにしてくれる。

Y染色体が移動するゲノムとすれば、ミトコンドリアDNAは移動したがらないゲノムである。Y染色体が殺し殺されるゲノムとすれば、ミトコンドリアDNAは生き延びるゲノムである。一つの社会グループを構成するY染色体とミトコンドリアには対応関係がある。

これが崩れてきたときは、そのグループに大きな質的変化があたことを示す。その典型が戦争であり、他民族の侵入であり、支配である。

例えばアイヌの男性はほぼ純粋な縄文系であるが、女性の半分はニヴフ系である。つまり3対1の割合で混じったハイブリッドである。

この混血は、縄文人がニヴフの居住地に侵入したことから生じたと判断できる。

これはY染色体を主に、ミトコンドリアを従にして考えれば容易に得られる結論である。

ただY染色体にはサンプル数が少ない、古人骨に遡れないという決定的な欠陥があるため、適用範囲におおきな制限がある。そこはミトコンドリアを上手に組み合わせていく他ないのである。

2.M7aハプロとC1ハプロ

ミトコンドリアDNAのM7aハプロはY染色体のC1ハプロと対応する。

C1の経路はミトコンドリアM7a よりはるかに単純明快である。

C1はアフリカ東部のY染色体アダムから分岐している。AとBはアフリカに残った。CとDは紅海をわたりオマーンにエデンを形成した。その後5万年前ころにともにアジアを目指して出発した。

そのうちでもっとも先陣を切って東アジアに入ったのがC1人であり、その一部は朝鮮半島を経由して4万年前ころに日本にまで到達した。
つまりC1人は現生ホモ・サピエンスの中でもっとも由緒正しい系統のグループである。

それが今なぜ日本にだけいるのか。答えはかんたんで、他が絶滅したからだ。

篠田さんはスンダランドとか島伝いとかいろいろ言うが、そんなのは関係ない。誰もいない大地を、みんなでひたすら東に向かえば、誰かがいつかは日本に着くだろう。それだけの話しだ。

3.ナウマン人のその後

C1・M7a人はナウマンゾウを追って日本に来たものと思われる。以下、便宜上ナウマン人と呼ばせてもらう。

ナウマン人は最終氷期のピーク、2.5万年前まで日本の旧石器人のほぼ全てであった。彼らは九州全土にもまんべんなく分布したが、圧倒的に多かったのは関東平野である。

その関東平野の旧石器人は一旦ほぼ消滅する。理由は今のところわからない。ナウマン象の絶滅、寒冷化による植生の変化、ひょっとすると华山 の噴火などがあったのだろう。

そのかわりに北方からの別の旧石器人が入ってきた。そして彼らが旧石器人→縄文人の主流となっていく。ナウマン人の生き残りは北方からの旧石器人と融合し生き延びた。彼らの罠・落とし穴猟による小動物の確保術は共通化された。

そのときにあっても、南九州のナウマン人は北方人と一体化しなかった。
彼らは種子島、屋久島まで逃げのび、そこで命をつないだ。

やがて最終氷期が終わり、針葉樹林は北方に去り、落葉広葉樹林が広がり、さらに1万年前辺りからそこは照葉樹林帯へと変化していく。

4.ナウマン文化から縄文晩期文化へ

南九州縄文文化は縄文草創期に花開いた後、鬼界カルデラの噴火により消滅する。

以下は妄想である。

海洋民族化していた彼らの一部は北部九州に移動し、北方人の縄文文化と融合して縄文晩期文化へと発展して行った。

さらに北部九州から朝鮮半島南岸へと逆進出し、中国渡来民とともに「葦原中国」の形成に預かった可能性もある。

弥生式土器は、元は南九州縄文人の隆帯文土器の流れを引き継ぐものかもしれない。

隆帯文土器

前置きが未だ長くなりそうなので、年表部分は別扱いとしました。

約3万5千年前 後期旧石器時代初頭 種子島立切(たちきり)遺跡。日本国内最古の調理場跡が発見。礫石器で植物性食物を加工し、炉や礫群で調理をおこなう。

3.1万年前 石蒸し焼きを行った焼土跡・礫群が出土。局部磨製石斧,台形様石器が各地より出土。種子島の大津保畑落とし穴群。
縄文銀座

3.1万年前 後期旧石器時代 最終氷期最寒冷期の直前に姶良カルデラの巨大噴火。
噴出量450 ㎞3の超巨大噴火で、吹き出した火砕流が九州全土を覆い、厚さ最大100mほどのシラス台地(種Ⅳ火山灰層)を形成した。九州の植生は1000年回復しなかったといわれる。(カルデラの噴火時期は文献により相当の違いがある)

26000年前 石刃技法とナイフ形石器が拡大。この頃、北方由来の旧石器人種に交代?

旧石器分布
    旧石器時代の遺跡分布

2.5万年前 最終氷期最寒冷期。(ウルムの表記についてはここを参照のこと)

2.4万年前 姶良カルデラの大爆発・入戸火砕流。(AT火山灰)

2.1万年前 沖縄・港川人の出現。
南九州の早期縄文文化を担った人たちはミトコンドリアDNAのハプログループM7aだった可能性がある(篠田)。またY染色体はC1グループの可能性がある(崎谷)。ということで、港川人と縄文人には血の繋がりなし。
2万年前 帖地遺跡(喜入町)。磨製石器9点。仁田尾遺跡(鹿児島市)の古層よりナイフ形石器。

1.5万年前 細石刃文化が日本列島全体に広がる。

1.5万年前 暖かい黒潮が温暖化とともに日本列島に近づき始める。植生は針葉樹林帯から落葉広葉樹林へと変化。

1.5万年前 旧石器時代末期 上場遺跡(出水)、水迫遺跡(指宿)など。ここまでの旧石器時代末期の各遺跡の年代は相当誤差があり、事実上同一時期として幅を持って見ておいたほうが良い。

1.3万年前 縄文時代草創期第一段階。仁田尾遺跡、加栗山(かくりやま)遺跡、加治屋園(かじやぞの)遺跡、榎崎(えのきさき)遺跡、など。叩き石・麿石を用いた植物食利用、細石刃石器群、大型石斧など。

磨石というのは世界的には新石器の範疇である。日本には新石器時代はなかったとされるがどうなのか。
縄文時代とされるのは、土器が出てくるからであるが、それは「縄文式」土器ではない。本州に縄文式土器が出現するのは1,1万年前以後であり、この間、南九州は隔絶的な進歩を遂げている。

1.2万年前 氷河期が終了し間氷期へ入る。まず種子島、ついで南九州で照葉樹林が現れ、生のまま食べられる木の実も豊富になった。

1.2万年前 縄文時代草創期第二段階。栫ノ原(かこいのはら)遺跡など。縄目文様ではない貝殻文様の土器と木を伐採するための磨製石斧が出現。
栫ノ原遺跡は夏用の定住集落と言われる。煙道付き炉穴と調理跡(石皿・磨石)が有名。

1.15万年前 桜島の大爆発。火山灰層は「薩摩Sz-s」と呼ばれる。これが縄文草創期と縄文早期の境界となる。

1.1万年前 種子島の三角山、奥仁田で隆帯文土器が大量出土。

1.1万年前 東黒土田遺跡(志布志)。どんぐり貯蔵穴の設備、隆帯文土器が出土。

1.1万年 掃除山遺跡で2棟の竪穴住居跡が発見。炉穴、植物食料の製粉具である磨石などが出土する。
鹿児島遺跡地図

9500年前 上野原(4工区)遺跡。日本最古の大規模な集落遺跡。46軒の竪穴式住居。他に加葉山遺跡、前原遺跡など。前平式土器、巨大落とし穴、土偶などを特徴とする。黒曜石は北部九州から移入される。

九州の縄文遺跡で出土する動物の骨は9割以上がイノシシと鹿である。ほかにヤマネコ、狼、カワウソなど小動物である。おそらく住民が食するには不足していたであろう。

9000年前 桜島噴火。このあと上野原3工区遺跡が拓かれる。

9000年前 南九州本土で植生の変化が見られる。それまでの落葉広葉樹から照葉樹林帯へ。

8000年前 縄文早期の中葉 九州北部が東日本の縄文文化の影響圏に入る。

7500年前 縄文早期後半 南日本から竪穴式住居が消失。気候が亜熱帯化したためと言われる。

7500年前 上野原遺跡で 初の壺型土器が作られる。

6300年前 海底火山「鬼界カルデラ」の大噴火。アカホヤとも呼ばれる。噴出量170 ㎞3以上で九州南部の縄文文化は壊滅した(佐原)。日本全土での縄文早期と前期の境界となっている。

南九州の火山
             南九州のカルデラ

南九州の旧石器~早期縄文時代

以前、鹿児島県の上野原遺跡について書いたことがあった。
我が国で最も古い集落遺跡で、九州でも最大級のものだというのが謳い文句で、脇見出しで、「東日本中心の縄文史観に一石」みたいなことが書かれていた。
一応記事は紹介したのだが、なんとなく喉に引っかかる感じで、素直に受け入れるというところまでは行かなかった。

それとともに上野原遺跡がどちらかといえば観光プロパーで取り上げられ、かえってその核心的意義を外してしまっているのではないかと危惧していた。

ところが調べるにつれ、南九州の縄文というのはすごいなということがわかってきた。
下記は種子島における旧石器時代から縄文草創期にかけての遺跡の一覧である。これだけ見ても種子島が日本創生におけるひとつの生誕地であることがわかる。ことほど左様に南日本の歴史上の意義は大きい。

遺跡一覧

この度、南日本新聞社が発行した「発掘!! 上野原遺跡」(平成9年)を読んで、かなりそのもやもやがスッキリした。それだけでなく、鹿児島でこの間に発見された縄文遺跡群が歴史を書き変える程の意義を持っていることを知り、驚かされた。
なかなか手に入りにくい本だと思うが、ネット古書店などで探してみてほしい。

1.南日本文化は日本列島が氷河期を抜け出すにあたって日本最初の人類文化の夜明けを告げた。

日本の旧石器時代は、確認しうる限り4万年ほど前から始まった。それから2万年の間、旧石器人は語るほどの文化を持ちえなかった。
2万年前の遠軽の黒曜石採掘をもって、人類と呼べるほどの歴史遺産をようやく残すようになった。
そんな縄文時代草創期において、南九州は全国に先駆けて、旧石器時代の寒冷乾燥気候から温暖湿潤な気候に変化した。このような生活環境の変化は、南九州に独特な文化をもたらした。

2.南日本文化は本土縄文文化とは異なる発達を遂げ、従来考えられていた草創期縄文文化の枠を超えていた。

それらは縄文時代草創期から早期にかけて,日本列島の他地域より先駆けて、植物質食料に依拠する生活様式を形成した。

3.南日本文化は度重なる火山活動の被害をくぐり抜けてきたが、7千年前の鬼界カルデラの噴火をもって基本的に消滅した。しかしそれは伏流水となって九州北部の縄文晩期文化に引き継がれた可能性がある。

これらの特徴を捉えるならば南日本の先史文化を「縄文時代」と括ることにそもそも無理があるのではないかとも思えてくる。

なお付言すれば、南九州では桜島などの大噴火による火山灰の堆積が、絶対年代研究に重要な手がかりを与えている。
M7a
      篠田さんによるM7aハプロの分布図
もう一つ、これはゲノム屋さんの風呂敷の範囲内の話だが、日本における2つの原縄文人である北方系と南方系(わたしの命名ではマンモス人とナウマン人)の関連についてもいくつかの示唆を与えてくれている。ただしM7a分布の読み方については篠田さんの意見には賛同できない。

ということで、縄文史学は、鹿児島の遺跡群の発掘以前と以後でまったく姿を変えたのである。少なくとも私の認識は一変した。


前置きのつもりが長くなってしまったので

は別記事としました。

葦原中国(あしはらのなかつくに)から豊葦原瑞穂の国へ
高天原グループの態度豹変

天孫降臨に前後してのことだろうが、葦原中国に対する呼称がコロッと変わる。豊葦原瑞穂の国は正確に言うと豊葦原千五百秋瑞穂の国(ちいほあきのみずほのくに)だ。

価値観が180度転換するのだ。

価値観を転換したのは記紀につながる権力者たち、すなわち天孫族(高天原系列)である。けっして葦原中国の住民ではない。
なぜ転換したか? それは他人の土地だったのを自分のものにしたからだ。


葦原中国は蔑称

「葦原」とは海辺に葦が生い茂り、葉がざわざわと無気味にさわぐ未開の湿地を示す。出雲に限定された地名ではない。

日本国の美称とする解説もあるが、もとは美称どころではなく蔑称に近い表現だろう。
この辺の機微を世界大百科事典 第2版の解説がきわめて適切に表現している。
そこは天上界、地下の黄泉国に対する中間の世界、つまり人間界をさす。
そこはまた人間生活の中心地に対する野蛮な周辺部でもあり,死者が住むとされた山や原始林地帯との中間の地でもあった。
そこは荒ぶる「国つ神」が蟠踞する、混沌とした無秩序の世界であった。
つまり、それは天上界が人間界を指す蔑称だった。「葦原中国」は天上界の人間界に対する侮蔑の表現だった。だからこそ天孫たちはそこに干渉し、侵略し、略奪するわけである。

長江からの渡来民が不毛の湿原を美しい稲田に変えた

この地域には紀元前2千年ころから、漁労民族がまばらな集落を形成しながら暮らしていた。後に晩期縄文人となる人々である。人種的由来は今のところ不明である。

そこに山東半島から黄海を越え朝鮮半島に渡った人々が南下してきた。長江流域で稲作文明をになった人々が漢民族に押されるように移動してきたのである。2つのグループの生活テリトリーは競合せず、平和共存が始まった。

これまで不毛としてきた葦原が水田となり辺り一帯が「豊かな瑞穂の国」となった。やがて米作はより環境の適した九州へと広がっていった。


天孫族は美田を奪い、それから褒めそやした

湿原の民を軽蔑していた高天原グループだが、葦原中国の繁栄に注目するようになった。
そしてさまざまな軋轢の末に、葦原中国のすべてを手に入れ支配することとなった。

彼らの心中において貧しい未開の地であった葦原中国は、天孫の統治するにふさわしい五穀豊穣の「水穂国」へと捉え直されるようになる。

なんとも安直な勉強法で、まことに恥ずかしい限りだが、「日本神話・神社まとめ」というホームページにある「日本書紀」の現代語訳を読ませてもらっている。
そんな勉強で一端の口を利くというのもふざけた話で、年寄の妄想と思いながら読んでもらえるとありがたい。

それにしても我ながら驚いた。
日本書紀の記載を一つ一つ読んでいるだけで、まったく通説と異なるストーリーが浮かび上がってくるのだから…

狡猾で冷酷な独裁者としてのアマテラス、夫婦で作り上げた王国をアマテラスに蹂躙されオロオロするばかりのイザナギ、そして高天原王国に敢然と立ち向かい、最後まで抵抗をやめなかった英雄スサノオ…

舞台は小白山中の高天原、大八洲に囲まれたイザナギ・イザナミの豊葦原の国、さらに海を渡り筑紫、宗像、出雲と展開していく。

1.高天原は智異山だ

「高天原は智異山だ」というのが、私の以前からの考えである。智異山という根拠はあまりない。小白山地の何処かだということだ。つまり楽浪郡と三韓の境界ゾーンだ。
時期としては、おそらく紀元前200年から100年の間だろう。この頃衛氏朝鮮が漢の攻撃を受け滅びた。その残党が三韓側に逃げ込んで亡命政権を建てたのではないか。
彼らは朝鮮半島に影響力を拡大し、支配下においた。

2.高天原伝説とイザナギ伝説

神代説話は明らかに2系統ある。一つは高天原説話で、道教(中国北部)につながる垂直思考だ。
もう一つはイザナギ・イザナミのたゆとうて行く海洋系神話だ。
これまで私は高天原が天孫系のルーツで、イザナギ系が在来系のルーツと考えてきたが、それではどうにも説明がつかないほどに2つの説はもつれ合っている。

この2つの系列はともに渡来人のものであり、2つの渡来人の系統が朝鮮半島南部でからみ合い、絡み合った姿のまま日本に渡来したと見るほうが適当ではないかと思えるようになった。

3.大八洲は朝鮮半島南岸地帯

衛氏朝鮮人が峠を越えて大同江を眼下に臨んだとき、そこには晩期縄文人(日本全土に分布する縄文人とは別人種)と長江文明を引き継ぐ米作人が混住していた。この社会を南岸人と呼んでおくことにする。

そこにはオノコロ島、淡路島、その他の大八洲を形成するだけの島嶼が散在していた。そしてそれらの島々に囲繞されるようにして葦原中国が広がっていた。彼らの一部は渡海し、九州北岸に同種の文化を形成しつつあったが、本体はあくまで半島南岸にあった。
大八洲に日本の島々を当てはめるのは基本的には後知恵であり、実際に作業してみれば分かるようにかなり破たんせざるを得ない。

日本神話で日本の国土と思われてきた多くの地域的広がりは、じつは半島南岸を中心としていたのである。何も日本の地理に無理やり当てはめる必要はないのである。

4.葦原中国こそ原日本人のルーツ

これらのストーリーから生まれてくる原日本人像がある。それは対馬海峡を挟んで両岸に展開した「晩期縄文人」という名の海洋民族、そして山東半島→楽浪→大八洲と流浪の旅を続け米作文化をもたらした長江人、これが奇跡的なほどに混ざりあって出来上がったのが、日本人の原像としての「弥生人」だ。

両者のミキシングがこれほどまでに進行した理由は、高天原グループ=天孫族への共同の抵抗ではなかったのだろうか。たしかに天孫族は日本の政治システムを握り民族を支配した。しかし天孫族は日本人のDNAにほとんど影響を与えていない。何よりも驚くのは日本語という言語の形成過程にすらほとんど影響を与えていないということだ。

5.イギリスでも同様の事態が

最近のイギリス人の研究も同様の傾向を示している。イギリス人(イングランド人)はアングロサクソン人を自称してきたが、そのDNA的骨格から言えばアングロサクソンではなくあえて言えば“ケルト人”なのだ。デーン人やノルマン人の血はほとんど混じっていない。

DNAだけが人類のあり方を規定するわけではないが、アングロサクソンのDNAを誇りにしてきたイングランド人にはかなりショックだったろうと思う。




最初に「いくつかの結論」を書いておきます。
1.その昔、朝鮮半島南岸部に海洋民を主体とする社会があった。大八洲と呼ばれる島嶼に囲まれた湿地帯で豊葦原中国と呼ばれた。

2.紀元前1~2世紀に、北方から漢に押し出されるようにして「天孫系」グループが南下してきた。彼らは山城を築きながら葦原系と対峙した。

3.経済的には倭(筑紫など)の植民地を持つ葦原系が豊かであったが、軍事的には漢と接触のある高天原系が圧倒していた。

4.葦原系は首長ウケモチが殺害される事件をきっかけに蜂起し、亡命から戻ったスサノオを司令官に押したて、高天原系と和議に持ち込んだ。

5.高天原系は陰湿な手法でスサノオを放逐し、高額の賠償金をせしめた。スサノオは葦原中国へ下った後、ふたたび倭へと亡命した。

6.高天原系は朝鮮半島南岸のを手中に収め、さらに倭の支配を欲し、数次にわたり攻勢を仕掛けた。スサノオは出雲に拠点を構え、抵抗を続けた。

7.葦原系の最後の拠点であった出雲も高天原系の手に落ちた。これを受けて筑紫の日向にニニギが降臨した。こうして朝鮮海峡を挟んで両側に“ベストミックス”の階級国家が誕生した。

「神代上」全体の構成

「神代上」は天地開闢から始まり、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)が豊葦原中国に降臨するまでの経過だ。

ここに登場する神々には、大きく言って3つの系列がある。

A)造化三神の系列

B)高天原系列

C)イザナギ・豊葦原系列

肝心なことは、豊葦原中国への降臨が「神代上」の最後だということである。
つまりそれより以前の記載は、すべて朝鮮半島での出来事だということである。人名・地名も朝鮮のものである。
なぜなら、日本書紀・古事記は、基本的には朝鮮半島からやってきた高天原系列の征服譚だからである。国内のあれこれの地名に比定した記述は、すべて後世のものと考えるべきである。
征服者は高天原系列の直系であるが、朝鮮南部でイザナギ系と混交して一つの社会を構成し、その後に日本に侵攻したものと考えられる。
日本に先着したイザナギ系の傍流としてスサノオ系、宗像系がある。

なお古事記との異同をチェックしながら読んでいるが、基本的には違いがない。日本書紀が丹念に「一書」(異説)を汲み取っているので、神代に関する限り、わざわざ古事記を参照する必要はなさそうだ。


A)神代七代: 造化三神の系列

北欧的・形而上学的な三位一体が語られ、それらの所与に照応して3人の神が登場する。
想像するに、これは明らかに漢文化の影響を受けた衛氏伝承であろう。しかしこの天地開闢説話は、その後につながらない。
天が先に生まれ、 次に地が固まりました。その後、その中に神が生まれました。国常立尊(クニノトコタチノミコト)、国狹槌尊(クニノサツチノミコト)、豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)の三柱です。
「一書」では、国常立尊に先行する神、可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)が挙げられる。


C) イザナギ・大八州系列

本来であれば、登場順に高天原系列を記述すべきであろう。
しかし高天原系列は相当後の五段になってから、イザナギの後継として本格登場するのである。

それまでは一段における下記の「一書」の記述のみである。
高天原に生まれた神が天御中主尊(アメノミナカヌシ)です。次に高皇産靈尊(タカミムスビ)。次に神皇産靈尊(カミムスビ)です。 

高天原神話が天地開闢神話と無関係に挿入されるのは、高天原が別系統の口伝であることの表現ではないか。なおアマテラスのところに出てくるタカミムスビとの異同は不明。

それで造化三神に始まる神代七代のあと、系譜は途切れる。これに代わり登場するのがイザナギとイザナミである。
神代七代とは関わりのない別系統で、高天原を含めた神代七代が、北方系・大陸系の印象があるのに比し、海洋系(すなわち別人種)の印象が強い。
「一書」で、イザナギとイザナミの二神は高天原に座って、アメノヌボコでかき回すとオノコロ島が出来ました。
とされているが、このあとイザナギと高天原との直接関係を示唆するような記載はない。無理やりくっつけたものであろう。

解説によると、柱の周囲を回って夫婦となるという話はミャオ族にもあるそうだ。南方系・海洋系と言うだけでなく、長江文明系という言い方もできるのかもしれない。

この夫婦は世界中のあらゆるものを生み続けていく。神代七代ってなんだったんだ? と言いたくなるほどの勢いだ。

1.大八洲

二人の作ったうちで最大のものが大八洲ということになる。
大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま)、伊予二名洲、筑紫洲、億岐洲(おき)、佐渡洲、越(こしの)洲、大洲(おおしま)、吉備子洲(きびのこじま)とされる。
流石にこれでは辛いので、古事記は都合よく改作しているが、その分無理筋がバレバレだ。

素直に考えれば「そりゃぁ日本列島とは違うでしょう」ということになる。そもそも当時の人に本州を四海海に囲まれた島と考える能力が果たしてあったのか。

率直に言おう。大八洲は朝鮮半島南岸沖に並ぶ島々の主たるものを列挙したものだ。当然オノコロ島も朝鮮だし高天原も朝鮮だ。
大八洲

2.第五段 イザナミの死とイザナギの冥土巡り

第五段の本論はあの冥土巡りの話である
イザナミは火の神を生んだときに、その火に焼かれて死んでしまいました。 イザナギは火の神を切り刻み、そのピースがみんな神になって行きます。
イザナギはイザナミの跡を追って黄泉の国に入りました。イザナミの体にはウジ虫が這いまわり、膿が噴出していました。 
イザナギは大急ぎで走り去りました。
以下の「一書」は地名が気になるが、とりあえずそのまま。
イザナギは黄泉の国から帰ってくると筑紫の日が当たる小戸橘(オトタチバナ)の檍原(アハギハラ)で禊(ミソギ)をしました。 

B) 高天原系列

第五段の主題は上記にあるのだが、ここには見逃せないテーマがもう一つある。それが高天原系列の天照大神の挿入である。

国生み作業の終盤になってから、イザナミはアマテラス3兄弟を生む。アマテラスは「一書」では大日孁貴(オオヒルメノムチ)で、またの名を天照大神ということになっている。

これは明らかにイザナギ系列の神話に高天原系列が挿入されたものであろう。日本書紀の作者の仕業か、それともその前か? これで三度目だ。

1.天下=葦原中国

イザナミが死んだあと、イザナギが3兄弟に指示する。
天照大神は高天原を治めなさい。 月読尊は蒼海原を治めなさい。 スサノオは天下を治めなさい
天下というのは「葦原中国」を指す。これがよくわからない。固有名詞のようでもあるし、一般名詞のようでもある。
ずっと後代に出雲王朝の領土が葦原中国と呼ばれるが、それは彼らが出雲平野を葦原中国と呼んだだけの話である。

天界が高天原,地上界が葦原中国,地下界が黄泉国という3層の神話的世界構造があるとも書かれている。
黄泉の国までふくめるかは別として、世界が2つに分かれていることは間違いないようだ。そしてイザナギ・イザナミが勤しんだのはこの世である地上界を作ることであった。

であればイザナギが指示したのはスサノオに天下=葦原中国を治めることであっただろう。
しかしスサノオはこの指示を受けなかった。イザナギはスサノオを追放した。やがてイザナギも隠居し、死んだ。

これで話は終わるのである。しかし実はイザナギがスサノオを追放したのには理由があった。


2.アマテラスの葦原中国の簒奪・支配

では統治者を失った葦原中国はどうなっていくのであろうか。
結論から言えば、葦原中国は高天原の支配・収奪する地となったのである。

これは「一書」の世界なので議論としては強引だが、保食神(ウケモチ)殺害説話がその例証となる可能性がある。
以下、少々長い引用になる。
アマテラスは葦原中国の保食神(ウケモチ)の話を聞いた。ツキヨミに様子を伺って来るよう命じた。
ツキヨミは葦原中国に行きウケモチと会い、ウケモチの対応に怒り斬り殺した。
アマテラスはツキヨミを怒り、以後は行動をともにしなくなった。
アマテラスは別の神を送り、人民を生かすための食料を手に入れさせた。

アマテラスは粟・稗・麦・豆は畑の種子としました。稲を初めて植えました。 また養蚕の道が開けました。
つまりアマテラスはツキヨミをそそのかしたあと手のひら返しで排除し、スサノオもいなくなったことから、高天原における唯一者となった。そして同時に葦原中国の支配者ともなったことになる。

アマテラスは葦原中国をたんに略奪するのではなく、産業をになわせ、人民を収奪する立場に至ったのである。(ウケモチは独自の人格ではなく一類型とされるが、アマテラスがのし上がるための契機として特殊性を備えている)

わたしたちはこのような2つの民の関係を、鳥取で見ることができる。それが妻木晩田と青屋上寺地だ。妻木晩田が襲ったとは断言できない。しかし繁栄した青谷上寺地は襲われ、皆殺しにされ、廃墟となった。


3.第六段 「天下」派の逆襲

一連の話はずいぶんきれいごとに書かれているが、高天原派が葦原中国に侵攻し支配権を奪ったことは明白だ。部下に叩かせておいて「まぁまぁ」と止めに入るのはヤクザの親分のルーチンだ。

これから先は私の妄想だが、葦原中国を創設したイザナギとしては、高天原派の跳梁跋扈は面白い話ではない。
一度は後継者に指名したスサノオを追放してまで、高天原勢に譲歩したが、高天原派内の武闘派にスサノオのリザーブである保食神(ウケモチ)を殺され、ついに葦原中国そのものを奪われた。

そこに追放したはずのスサノオが戻ってきた。余談だが、スサノオの居たのは筑紫()らしい。すでに九州北部は天下勢力=葦原中国の重要な植民地となっていて、反抗の拠点と化していたものと思われる。

スサノオが言うには、
わたしは今から(父イザナギの言うとおりに)、根の国に行きます。その前に、高天原に向かい、姉であるアマテラスと会います。それから永遠に根の国に退きます
イザナギはこの申し出を許し、すぐにスサノオは天に向かいました。これってヤクザ映画の世界そのものでしょう。あきらかにスサノオは菅原文太だ。


4.姉弟激突とアマテラスの逆転勝利
アマテラスは、粗暴である弟スサノオが天に昇ってくると聞いて、驚きました。
「きっと私の高天原を奪おうとしている」と考えたアマテラスは重武装でスサノオと対峙した。
アマテラスは高天原系とされ、天神・天津神とされます。一方でスサノオは地祇・国津神系となっています。
対決はゲーム仕立てになっていて、その結果がよくわからないが、とにかく手打ちが行われた。
子供ができて、それを二人で分けたということになっているが、そんなに都合良く産めるわけがない。要するに人質交換協定である。

スサノオは六柱の男神を差し出した。日神は三柱の女神を筑紫に降臨させた。三人合わせて「宗像三女神」である。

日神は3人の出発にあたりこう述べたという。
お前たち三柱の神は天より降臨して天孫を助けなさい。そして天孫によって祀られなさい。
アマテラス、相当のワルである。娘を筑紫まで送った上でエージェントとし、ゆくゆくは筑紫を我がものとするつもりだ。

ともかく人質を相互に確保することで、アマテラス・スサノオの連立政権が成立した。これは実質的にスサノオの勝利だった。
この連立においては、スサノオの息子6人が高天原政権の幹部に入ったことを見てもわかるように、かなりスサノオ側の比重が強化された。

そこでアマテラスは陰湿なデマ作戦で巻き返しを図った。下品なフェイクニュースを撒き散らした。そしてスサノオの人気が地に落ちたところを見計らって、ハンガーストに打って出た。
最後にはストリップのアトラクション付きの反スサノオ集会で客を動員してスサノオ政権の転覆に成功したのである。
これはかなりの勝手読みだが、ベネズエラでの米国と反政府勢力との対決を見ると、「ウンコタレ」と攻撃されるスサノオについ同情してしまうのである。


5.高天原(天孫)系の追撃

高天原チームの逆転勝利が実現した。
八百万の神は話し合って、“独裁者”スサノオの髭を切り、手足の爪を抜いて、追放してしまった。神々はスサノオに、千の台座に乗るほどの宝を提出させた。

確認しておきたい。スサノオには巨大な財があった。それは高天原から収奪したものではない。高天原には自力で獲得したような富はなにひとつない。スサノウの宝はおそらく筑紫の植民地から持参したものであろう。高天原チームはそれを奪い、葦原中国を略奪したのだ。

もう一つ、スサノオはふたたび追放された。どこへ? それは日本をおいて他にない。
第八段本文はこうなっている。
スサノオは自ら天から下って、葦原中国へと落とされた。そして出雲の簸之川(ヒノカワ=肥の川)の川上に降り立ちました。 
なぜ葦原中国からさらに出雲に向かったかについての説明はない。しかし「一書」にはこうある。
スサノオは息子の五十猛神(イソタケルノカミ)を連れて、新羅国に降り、曾尸茂梨(ソシモリ)に辿り着きました。 
スサノオが「この土地に、わたしは居たくない」 と言いました。 それで土で船を作って、それに乗って東に渡り、出雲の簸の川(ヒノカワ)の川上にある鳥上之峯(トリカミノミネ)に辿り着きました。
なぜ、出雲か? それはもはや新羅も筑紫も安住の地ではなくなったからだ。

6.天孫降臨と高天原派の全一支配

実はその前に出雲の国譲りの話があって、スサノオ一族が“出雲の葦原中国”からも駆逐されるのですが、どうも時期的には合いません。ひょっとすると、スサノオは筑紫から出雲までの「葦原中国」の全体を統括していたのかもしれません。
疲れてきたこともあり、とりあえず省略していきます。

葦原中国(おそらく金官伽耶あたりの海洋民社会)を制圧し、さらにその植民地たる対岸の筑紫をも併呑するというのが高天原グループの狙いだろうと思われる。それは葦原中国側の激しい反感を呼び起こす。
彼の地に螢火のように勝手に光る神、及び蠅聲(さばえなす=騒がしい) 邪神が多くいた。また、草木さえもしばしば言語(ものいう)状態であった。
“草木さえもものいう” 状態というのが素敵な表現だ。上から下まで高天原支配を拒否しているというのがよく分かる。倭はポリス連合に対するアテネのような存在であろうか。

アマテラスの息子は正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊という。この人は影の薄い人で覚える必要はないのだが、この人が高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘と結婚して子をもうける。
これが天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)である。面倒なのでニニギとしておく。

タカミムスビはなかなかの策士で、外孫のニニギを葦原中国の君主にしようとはかった。この場合の葦原中国は海の向こう倭の地を指している。
タカミムスビは沢山の神々を集めて、葦原中国の邪神を追い払って、平定したいと呼びかける。倭からスサノオ派を一掃しようということだろう。

提案は認められ、アメノホヒが葦原中国に送られた。しかし3年たっても平定できなかった。アメノホヒの子のタケミクマノウシが送られたが、彼もだめだった。

一書では(古事記も)
アマテラスは天稚彦(アメノワカヒコ)に命令しました。
豊葦原中国はわが子オシホミミが納めるべき土地です。お前がまず行って、平定しなさい。
天稚彦は国津神の娘たちを妻に貰い、八年経っても高天原に報告しなかった。
けっきょく、經津主神(ふつぬし)と武甕槌神(たけみかづち)が出雲を屈服させた。いわゆる国譲りである。相当手こずったということが分かる。

実は私は誤解していたのだが、すでに九州北部の支配権を獲得していた高天原グループが出雲に国譲りを要求したのだと思っていた。日本書紀の記載では、このとき高天原系は倭の地に全く足がかりを持っていなかったことになる。倭の地の全体がスサノオの影響下にあった。ただスサノオは警戒のために出雲に引きこもり、そこに根拠地を形成していたということである。これが史実と適合するかは、他の文章も参照しなくてはならない。

出雲勢力の恭順を見てオシホミミの子、アマテラスの孫であるニニギが倭に赴くことになる。ニニギは天盤座(アマノイワクラ)を出発し、 日向の襲高千穗峯(ソノタカチホノタケ)に降り立った。
そして天稚彦を殺し筑紫を平定した。木乃花咲耶媛のエピソードはニニギの人間性を示す宣伝ネタであろう。それだけ高天原軍は非人間的であったのかもしれない。

なお日向はヒムカと読むようである。下記の文がある。
天津彦彦火瓊瓊杵尊は亡くなりました。筑紫(ツクシ)の日向(ヒムカ)の可愛之山(エノヤマ))のお墓に埋葬されました。
朝鮮半島から降臨したとすると、こちらのほうが感じはつかめる。

いくつかの結論(再掲)

1.その昔、朝鮮半島南岸部に海洋民を主体とする社会があった。大八洲と呼ばれる島嶼に囲まれた湿地帯で豊葦原中国と呼ばれた。

2.紀元前1~2世紀に、北方から漢に押し出されるようにして「天孫系」グループが南下してきた。彼らは飢え、山賊と化し、山城を築きながら葦原系と対峙した。

3.経済的には倭(筑紫など)の植民地を持つ葦原系が豊かであったが、軍事的には漢と接触のある高天原系が圧倒していた。「七人の侍」の野盗集団だ。

4.葦原系は首長ウケモチが殺害される事件をきっかけに蜂起し、亡命から戻ったスサノオを司令官に押したて、高天原系と和議に持ち込んだ。

5.高天原系は陰湿な手法でスサノオを放逐し、高額の賠償金をせしめた。スサノオは葦原中国へ下った後、ふたたび倭へと亡命した。

6.高天原系は朝鮮半島南岸のを手中に収め、さらに倭の支配を欲し、数次にわたり攻勢を仕掛けた。スサノオは出雲に拠点を構え、抵抗を続けた。

7.葦原系の最後の拠点であった出雲も高天原系の手に落ちた。これを受けて筑紫の日向にニニギが降臨した。こうして朝鮮海峡を挟んで両側に“ベストミックス”の階級国家が誕生した。






白滝遺跡

白滝遺跡はいくつかの点できわめて印象的な遺跡である。
第一に、もっとも古いもので2万年を越え、北海道で最古の遺跡である。ほかに2万年をこす遺跡は北海道千歳市の遺跡があるが。これだけの規模ではない。
第二に、ただの集落ではなく黒曜石の生産に特化した鉱山町であり、加工と販売(交換)によって生計を立てていた集落だということである。
北海道というだけでも寒いのに、標高420メートルだからそれだけで4,5度は低い。おまけに2万年前は寒冷期で、今より平均数度は低い。
遺跡が形成された最終氷期の頃の白滝地域は,凍土環境であった。
黒曜石のみを唯一の生活の糧としていたとしか考えられない。
第三に、2万年前から始まり1.2万年前まで生活が営まれたという、きわめて息の長い集落だということだ。
1万年も栄えた町なんて聞いたことがありますか?
私にとって興味深いことは、同時代に関東ローム層から発見された旧石器文化とは異なるのではないかという可能性である。

遺跡(群)の概要

1999考古学雑誌の「白滝遺跡群の発掘調査」という論文が詳しい。ただこの20年間の成果は反映されていない。

白滝地図

白滝遺跡は湧別川の河岸段丘上に位置し、東西約200メートル。

ⅠとⅡの文化層に分けられる。Ⅰが2万~1.5万年、Ⅱが1.5~1.2万年前である。
日本最大の黒曜石の産出地であり、8号沢上流の山中に大規模な露呈がある。

1927年 遠軽町在住の遠間栄治によって発見される。

1940年 河野広道,名取武光らが報告。戦時中のためその後の調査は行われず。

1953年 吉崎昌一の踏査研究により、旧石器時代の遺跡であることが判明。一帯が13の遺跡よりなる「白滝遺跡群」と判定される。

1955年 吉崎・芹沢長介 ・湊正雄らが最初の発掘調査。2メートルの深さから舟底形石器・掻器・彫器・削器・石刃などが見つかる。

1956~58年 北大解剖学教室とミシガン大学による共同総合調査。

1959~61年 白滝団体研究会が地質 ・地形 ・土壌 ・考古学などによる総合的な調査。

1961年 明治大学の調査団が服部台遺跡の発掘調査を行う。

1963年 吉崎らが中心になり 『白滝遺跡の研究 』 を刊行。 遺跡の年代を2万~1万5千年前と同定する。

1985年~ 木材搬出道路工事の際に多数の石器が露出。白滝村教育委員会による発掘調査が行われる。多くの石器が出土する。

1989年 木村英明らのグループがソ連科学 アカデ ミー・シベ リア支部やユジノサハリンスク教育 大学などと共同調査。細石刃石器群の技術体系や旧石器時代の集団関係が明らかになる。

1989年 遺跡群の中心的部分が国の史跡に指定される。(97年に追加指定)

1991年 発掘結果が報告される。石器は460万点、10トンにも及ぶ。

1995年~ 旭川・紋別自動車道工事の際に多数の石器が露出。発掘調査が行われる。752万点、11.8トンの石器が出土する。そのほとんどは旧石器時代に属し、99%以上が黒曜石製である。
(この調査についてはウィキペディアでは触れられていない)

*石器のスタイルについてはよくわからないので触れなかった。

沖縄人の起源については、遺伝子学的には紛れが少ない。おそらく縄文人が九州から島伝いに南下したものと見てよい。
その後さらにかなりの弥生人も後着しているが、その割合は内地に比べ低く、結果として縄文の血統を濃く残している。
これは埴原の二重構造モデル=沖縄人南方由来説とは一番異なる部分であるが、意外にも反論は少ない。
したがって、主要な問題はそれがいつのことなのかということになる。

本日の赤旗には、沖縄で長年人骨研究に携わってきた土井直美さんのインタビューが掲載されていて面白い。

話はかなり長いのだが、端折ると、浦添にある13世紀後半の王墓を発掘したところ100体以上の人骨が見つかったというもの。
以下記事の引用。
一つの橈骨を来る日も来る日もつなぎ合わせる作業を続けた結果、びっくりする顔付きが浮かび上がってきました。
歯が前に突き出して、突顎(とつがく)という顔付きです。本土では鎌倉時代から室町時代に良く見られますが、沖縄では初めて見る顔付きでした。
沖縄では11世紀まで縄文式の生活様式が続いていたが、その後突然石垣を築いて作った巨大な城が出現する。
今回の人骨研究で明らかになったのは、この頃にヤマト人が突然やってきてこの地を占領し、支配したということである。

このことからわかるのは、東北のエミシと同じようにヤマト人の攻撃を受け、同化を余儀なくされた沖縄の歴史である。そして混血種としての沖縄人が形成されたのは11~13世紀のことではないかということである。
ただし遠隔の地のために、DNAの変化を受けるには至らず、縄文風を引き続き残したということになろう。

もう一つこの記事で触れられているのは、沖縄とアイヌの古人骨の比較で、札幌医大との共同研究で、以下のことが明らかになっている。
沖縄の古人骨の顔立ちはアイヌに比べ平坦で、必ずしもよく似ているとは言えません。
というもの。

こちらとしてはDNAが一致していれば見た目はどうでもいいみたいなものだが、昔風の人類学者にはそう言っては済ませられないものがあるようだ。

DNA的に言えば、両者とも縄文人を基盤としていて、片方はこれに4分の1のオホーツク系、若干の弥生系をこんじているが、沖縄系はおそらく4分の1程度の弥生系を混じた構成なのだろうと思う。
それが人相という表現型でどう示されるかということではないか。

「日本人の源流をさぐるーー核DNA解析で見えてきた由来」 斎藤成也(遺伝学研究所教授)

斎藤さんは我が国における核DNA解析の第一人者らしい。肩書きも申し分ない、気鋭の若手学者である。ただその記載には、時に首を傾げる場面がある。以下の部分がそれに当たる。

まずはリード部分のあらすじ
日本人の源流について「二重構造モデル」をさらに発展させる必要がでてきた。
これまで弥生時代以降、渡来人はすくなくとも2種類だったらしいことが、わかりつつある。
この異なり方はとても小さいので、これまでは見つけることができなかった。
九州・四国・本州のヤマト人に「内なる二重構造」が存在しているようなのだ。
そこで登場したのが、三段階渡来モデルだ。弥生時代以降の渡来が、時代も人々の由来も、ふたつにわかれていたとするものだ。
まだ時代も由来もはっきりしないが、弥生時代に水田稲作農耕を日本列島に伝えた人々と、その
あとの古墳時代以降に大陸から渡来した人々が少し異なっていたのかもしれない。
ここまでは言うことはない。なにか新しい発見があったのかと胸躍らせるものがある。

次に引用するのは、縄文人の身体・DNAのヒミツ.  Discovery Japan 9
という文章から日本人の核DNA分岐図の説明
①さまざまなルートでやってきた第一波の渡来民が、海で遮られた後、日本列島に残留。彼らが縄文人と総称される。
②4千~3千年前 縄文後期~弥生早期に朝鮮半島や遼東半島など沿岸域に暮らしていた“海の民”と縄文時代が交流。現ヤマト人の祖先が誕生した。
③第3の渡来民は最後にやってきて水田耕作をもたらした。彼らは沖縄の縄文人と交流し、北海道ではオホーツク人と混血し、アイヌ人となった。
tree
図は悪くないが、説明はおよそひどい。粗悪品だ。核DNAに先行する基礎的な研究をおよそ理解していないと言わざるを得ない。

もし細かくいうのなら、渡来してきたのは二波どころではない。Y染色体ハプロだけ見ても、少なくとも5波ある。現日本人にはつながっていないと思われる港川人など沖縄の旧石器人を除いての話だ。
何度も繰り返すが、明らかにしておきたい。

Y染色体ハプロによる人類の展開史
① 2つの旧石器人→縄文人
「第一波の渡来民」という表現は先行者のいない無人の野に入ってきた人々に使うのはふさわしくないが、とりあえず斎藤さんに従う。
ホモ・サピエンスは発祥の地東アフリカで、少なくとも4つのハプログループ(A,B,C,D)に分かれている。これが6万年前の話。この内AとBはアフリカに残り、CとDがアデンからオマーンへと向かった。
ただしこれらのハプロは、現生人類へとつながっているサピエンスのハプロであり、それより数万年前に人類は出アフリカを果たしている。それらの祖先は現世人に遺伝子を残すことなく絶滅した。
この内、もっとも古い「C系アダムの長男」にあたるのが日本に分布するC1a1である。最も近縁のC1a2(先ヨーロッパ人)との共通祖先は4、5万年前とされる。日本列島ではおおむね5%の頻度だが他には集団形成はなく、済州島とソウル、南満で孤発例が報告されている。おそらくかつては広範囲に生息していたのが押しやられ絶滅したのであろう。
これが4万年ほど前にナウマンゾウを追って朝鮮から日本に入った最初のサピエンスであろう。ただし先程も述べたとおり、その前に入ってきて絶滅したグループがいた可能性は、論理的には否定できない。(崎谷のC1a2論は矛盾が多い)
C1a1人を最初の旧石器人とすれば、第2波となるのが D1b 人だ。かれらがどうやってアジアに来たかはアジアそのものに痕跡がないので想像しようがない。ただ日本に来た時期と経由地ははっきりしていて、2万年前に北海道に姿を現したのが最初だ。彼らの最初の痕跡は黒曜石の採掘現場で、その持続期間はなんと1万年にもわたる。
かれらはマンモスハンターとしてやってきたが、やがて本州(マンモスもナウマン象もいない)にも渡り、全土に分布することになった。
この2つの人種が北韓道から沖縄まで広く分布し、やがて縄文人となっていく。
斎藤さんは、「朝鮮半島や千島列島、台湾や樺太島」などと書かれているが、朝鮮と樺太以外のエビデンスはない。
琉球列島に台湾方面から港川人などが入ってきたことは間違いないが、それは絶滅しており現代日本人にはつながっていない。
千島からの流入はもっと遅く、縄文時代に道東地方にわずかに入ってきた可能性がある。それはアイヌ人ミトコンドリアDNAにかすかに伺われる。
結論を言おう。
縄文人の主たる祖先は4万年前に朝鮮半島からナウマンゾウを追ってきた人々が4分の1,3万年前にシベリアからマンモスを追って北海道に入り、その後全国に分布した人々が4分の3の割で混血したものである。

② 縄文晩期人
これはいわゆる「縄文晩期人」を指すのだろうと思う。
「弥生時代以降、渡来人はすくなくとも2種類だった」というのがこのことだとすると、やや納得がいかない。縄文晩期人は考古学的には渡来人に先立つ存在が確認されているからだ。
縄文晩期人はDNA的には第三の縄文人だろうと思われる。北方由来の縄文人にとって西南日本はそれほど居心地の良いところではない。落葉樹がないから木の実がなく、したがって獣もあまりいない。そこで暮らすためには漁労が必須だったのだろうと思う。彼らが海洋の民になったとしても不思議ではない。
C2a 系という日本固有のハプロがあるが、日本国内での分布がばらついていて、今のところよくわからないので保留しておく。
そもそもは九州北部の縄文人が朝鮮半島にわたり交通したのではないかと、私個人としては想像している。
縄文晩期人が水先案内人となって半島南部の米作民(長江人)を渡来させたのは、ほぼ定説となっている。そんなことも念頭に置きながら、結果の解釈を行うべきであろう。

③ 弥生人
ということで、②を縄文晩期人とすると③は弥生人ということになってしまう。そうすると、図の説明をそのまま受け止めるならば、稲作をもたらした弥生人は「北方東アジア人」という、まことに不都合なことになってしまう。
これは今日の古代史の常識と真っ向から対立する見解である。稲作を持ち込んだ弥生人は直接には朝鮮半島南部の住民であるが、もともとの出自は長江流域であり、おそらくは山東半島から黄海をわたって朝鮮半島に達した長江人(長江文明の担い手の末裔)である。

④ 北方東アジア人(天孫族あるいは騎馬民族)
はこの図にはないが、まさしく「北方東アジア人」の渡来があったはずである。彼らはもともと遼東半島付近に住んでいた漢民族の近縁種族であり、それが徐々に南に押し出され、最後にその一部が朝鮮海峡をわたって日本にやってきたのである。

ということで、斎藤成也さんはどのくらいの思いで決意して、この記事を書いたのか知らないが、このままでは我々のような、年金研究者の袋だたきに会うことになるだろう。


慎重さを欠く篠田謙一氏の主張

最近、篠田謙一氏がテレビでの発言を繰り返している。基本的には正しい内容で、新知見にあふれ、「日本人の起源」論を一歩高めたものであろう。
シロウトが言うのも何だが、全体として大変優れた研究であると思う。

その上で言わせてもらうのだが、いくつかの点で正確さを欠くところがあるように思える。

篠田さんはもともとミトコンドリア(以下M)屋さんである。ミトコンドリアDNAの実証的研究を元に発言されてきた。それがこの10年位で全ゲノム解析が広がるにつれて、ゲノム屋さんのような顔をして登場するようになった。

たしかにゲノムの研究を旺盛に展開しているのだろうし、その分野で現在日本のトップ走者であることも認める。

ただ、全ゲノムでものをいうほどに全ゲノムに関する知見が蓄積しているわけではないので、とりあえずはM と Y の知見を加味しながらやっていくしかないと思う。

しかし篠田さんはM屋として得た知見を、全ゲノム解析の知見であるかのように語っている。少なくともそう受け取らざるを得ない場面がたびたびある。

我々は人類の移動の歴史を跡づけるわけだから、エビデンスが得られる限りにおいてY染色体のハプロをまず優先しなければならない。M は、それがどういう移動だったのかを検討するための二次的因子である。標本数の圧倒的な差を持ってしても、この本質は揺るがしようがない。

例えばの話だが、篠田さんのアイヌ論はM にこだわりすぎた間違いである。Y(男)ではほぼすべてが縄文人で、M(女)では縄文とニヴフのハーフアンドハーフである。これは東北・道南のアイヌが北に進み北海道を征服し、男を殺し女を妻にしたと見ればあたり前である。やがて女性も呼び寄せられて移住したから女性はハーフアンドハーフになったのである。それはアメリカ大陸におけるメスティソやラディーノの形成過程に典型的に示されている。

元がM屋さんである以上、ある程度は仕方がないのではあるが、シロウト相手にゲノム屋としてしゃべるときは、ゲノム屋としてのけじめは守ってもらいたい。

第二に青谷上寺地遺跡の骨であるが、これだけしっかりした標本があるのであれば全ゲノム解析をしているのであろうが、先程も言ったように全ゲノムに関するデータ蓄積がないのだから、それだけで語られても困るのである。

水戸黄門が印籠を出しても、こちらにはそれが本物かどうかはわからない。Y染色体ハプロではどうなのか、M ではどうなのか、それを語りつつ、それが全ゲノムだとどうなるのかを明らかにしてもらわないと困る。

それで青谷の話に戻るが、人骨がほぼすべて渡来系だったということで、それはたしかに驚きだ。

ただ、それは十分に有り得る話なので、青谷が朝鮮半島からの渡来人(あるいは北部九州からの二次渡来)の植民都市だったとすれば、何の矛盾もない。渡来人がみな、縄文人とやりまくって混血したと考えるほうがむしろ不自然なのである。

前にも書いたが青谷のすぐ近くには妻木晩田遺跡があって、青谷とは毛色の違う渡来人がいた。
私の印象では青谷が辰韓系で妻木晩田が高句麗系ではないか、そして妻木晩田系の人が青谷を襲って皆殺しにしたのではないかと思う。

とにかく弥生時代には縄文・渡来・朝鮮系がさまざまに交わって、一つの時代を形成していったのであろう。

M屋さんがあまりしゃしゃり出るのは好ましいとは言えない。古墳屋が日本古代史を仕切るのと同じ愚を繰り返すことになりかねない。言うのならそれなりの節度をもって臨むべきだろう。


というファイルでこの表を見つけた。
Rome
まず、どういう表なのかを説明する。
左側の2列は紀元14年における地域別推定人口。右側の2列は164年の人口だ。

左2列のうちBelochの研究は19世紀末のもので参考値と思ってよい。右2列のうちSchaidelのものは細部に異同はあるが、Frierに対する異説として提示されたもののようだ。
ということで我々シロウトとしては、とりあえずFrierのものだけ覚えておけば良さそうだ。

まず人口の変化
AD14というのは、第二代皇帝ティベリウスの即位した年。キリストが生まれたのが紀元0年だが、実際はそれより4,5年早いらしい。従ってこの頃布教を開始していた可能性もある。
一方AD164というのは5賢帝の一人、第16代のマルクス・アウレリウス皇帝の時代だ。
人口は150年で30%ほど増えている。しかし版図が若干拡大していることも考えると、ほとんど増えていない。むしろ人口の停滞ぶりに驚く。

人口の地域分布
しかしこれを地域別に見ると状況は変わってくる。150年の間にローマ帝国の東半分はほとんど人口は増えていない。
これに対し西部諸州の人口増加は著しく、まんべんなく増えている。この結果、東西の人口差は 1.5 倍まで拡大した。

この間ローマ帝国の東側にはパルティア王国という強国があり、500年にわたり繁栄を続けた。当然両国の間には派遣を巡る紛争が続いたであろう。

その間に多くの人が戦士として死に、占領されたちの住民が奴隷として駆り立てられたろうと思う。
そして、それを嫌う人々が全体として西側に向かい移動したとしても不思議はない。
キリスト教の普及拡大もその流れに乗ったと考えれば、納得がいく。
それに押されるようにして、ガリア・ゲルマニアの人々がイベリア・ブリタニアに進出したのであろう。

帝都ローマの人口増加は際立っている
もう一つ、この表ではわからないのだが、イタリアの中でも帝都ローマの人口増加は際立っているようだ。

紀元前2世紀の間,ローマの人口は15万人から37万5千人ほどに増加し,紀元前1世紀の前半には60万人まで増加した。
奴隷,解放奴隷ならびに外国人を含めると総人口は90~100万人に達した。

どうも我々はゲルマン民族の大移動という言葉に乗せられてきたようだ。ローマ帝国の時代にすでにこれらの国の民族的骨格は作り上げられ、その上に征服者としてのゲルマン・ノルマン・デーン人が君臨しただけのことではないのか。

イギリス人はDNA的にはアングロサクソンではない。ケルト人でもない。

ブリテン島に住む「ケルト人」は大陸にいたケルト人ではないという話は、前にした。
話をややこしくしたのは一部の考古学者なのだが、彼らが「イギリスの先住民族はフランスから来たケルト人だ」という話を撒き散らしたために、それが定説になってしまっていた。
じつは「イギリスのケルト人」の祖先は、イベリア半島北部から海を渡ってきた人々、早い話が「ニセ・ケルト人」なのだ。

それを承知の上で話をわかりやすくするのに、彼らをケルト人と呼ぶことにする。

問題はそんなところではなく、ケルマンやバイキングやノルマン人の血がどのくらい混じっているかということになる。

これも結構、結論は出ていて、イングランド人はアングロサクソンでもデーンでもなくノルマンでもなく、ケルト人なのだ。
ウェールズ・スコットランド・アイルランド人に対して上から目線で「俺たちはアングロ・サクソンだ。アーサー王の末裔だ」と威張ってきたが、何のことはない同じ「ニセ・ケルト」だ。
しかもローマ人にケツを振り、ゲルマンにこびを売り、デーン人やノルマン人につきしたがった「転びケルト」だ。




唐澤一友さんのページにオクスフォード大学の遺伝学研究のデータ(2006)が紹介されている。

イングランドを含め、イギリス諸島の全域において、アングロ・サクソン、ヴァイキング、ノルマン人などの系統は少数派であり、大多数は先住民族の系統である。

母系のDNAは、ほとんどが先住民族の系統である。
父系のDNAは、ある程度ゲルマン系の割合が高いが、やはり先住民族系が圧倒的である。

ストーンヘンジなどの遺跡を遺したブリテン島の先住民族は、イベリア半島北岸やブルターニュ半島付近からやって来た。彼らはケルト人ではない。

彼らは後にケルト人の影響を強く受けるようになったとされる。しかしゲノム上は、「ケルト人」が大陸から大規模に入った痕跡は全くない。

ということで、最新研究においても依然として「ケルト人」問題はニヤッとしているが、原理的にはブリテン人の万世一系ということでめでたしめでたしだ。

2013年に大規模なゲノム研究が行われ、興味深い知見が出ているようだ。いくつかのブログで訳されているが、正直どうも心もとない。
よく調べると、この研究はハーバードの研究でBBCが大々的に取り上げているようだが、かなりガセネタっぽい。BBCも落ちたものだ。

2014年01月22日 ケルト人について





朝鮮人徴用工問題について

私は北海道勤医協の当別診療所に勤務していたときに劉連仁さん(中国人連行労働者)の記念碑を建てる運動に関わったことがある。
そのときに中国人労働者の実情が、朝鮮人労働者の強制連行とは著しく様相を異にしており、決して一緒に論じてはならないと肝に銘じた記憶がある。
そのうえで、朝鮮人労働者の強制連行をタコ部屋労働につながる非人道的労働として糾弾し、今日の外国人労働者の扱いにもつながっていくものとして警鐘を乱打し、「日韓条約」に解消しえない人道犯罪=悪質労働事犯として糾弾すべきものと考えている。

しかもこれが一般的労働事犯ではなく、国家権力が直接関わる「国家的労働事犯」であることを念頭に置くべきだと考える。

以上の前提に立って、少し事実関係を洗い出しておく。



連行労働者の数

戦争中に海をこえて日本に連行され強制労働させられた朝鮮人は約100万人と想定される。

彼らの多くは最初は「労務動員計画」によって「募集」の形式で連行された。やがて戦況悪化に伴い「労務動員計画」は「国民動員計画」となり、「官斡旋」の割当で動員された。
そして最後は徴用令を直接適用して、強権的に日本に連行された。

総数は政府統計で確認されたものが72万4800人いた。これは1939年から終戦までの総計である。そのうち終戦時現在数が36万5400人である。

さらに軍人・軍属として国内各地に連行されたものが明らかな数だけで36万4200人いた。

また朝鮮内で動員されたものは400万人を越えていた。

強制連行され死亡した労働者の数

日本に強制連行された朝鮮人労働者のうち死亡または行方不明の数は6万人。これに軍人・軍属の15万人を加えると20万人以上となる。

強制連行された労働者の労働条件

土建関係、製鋼所でももっともひどい現場が朝鮮人に割り当てられた。かれらの労働条件・生活状態は、奴隷労働と呼ぶにふさわしく、まったく残虐・劣悪を極めたものであった。

朝鮮人労働者の半数近くは、石炭鉱山に配置された。終戦直前には炭鉱労働者総数の3分の1が朝鮮人であった。

宿舎は日本人と区別され、厳重な囲いをつくり、相互のゆききは禁止された。労働時間も長く、平均日収も日本人労働者の半額ていどにすぎなかった。食物も日本人労働者よりずっと悪いものを食べさせられた。
鉱山の運用規則には下記のごとく記された。
病院と連絡し、仮病による欠稼防止、守衛巡回による出勤督励、警察署との協力による逃亡防止に益々意を用うること。集団的不穏行動に備えて部隊組織となすこと…
朝鮮人労働者の反抗
39年から終戦までの6年間で、連行された朝鮮人のうち22万人が逃亡した。朝鮮人労働者の「逃亡の主なる原因は食糧不足、坑内作業の忌避と外部よりの誘惑」であった。

最初の3年間では炭鉱に連行されたもののうち36%が逃亡し、労働者の半数が失われた。
つかまればそれにたいする虐待はひどく、拷問にたえず自殺したり死亡したものも少なくなかった。

中国人に対する虐待はこのような程度ではなく。明らかに最終的には死なせることを前提したものであった。


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