鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

ブックオフで「伽耶」を知れば日本の古代史がわかる」 (ふたばらいふ新書)という本を買ってきた。
1999年の発行であるが、元の単行本は1995年発行。書下ろしの翻訳となっているので、その1年くらい前のものであろう。

著者は高濬煥という人で、経歴には大学教授を歴任とあるが、どうもパッと来ない大学名が続く。

中身は一言で言えば「トンデモ本」である。こういう本を出すから、韓国の歴史学が信用できなくなるのである。日本ではシロウト談義でもこれよりマシだ。みんな好きでやっている人だから、あくまで実事求是だ。変に民族感情を交えたりはしない。

わたしは、本格的な任那史がないか探しているのだが、もう少し日本語で探るしかなさそうだ。

「伽耶」というのは高氏によれば任那のことである。彼は任那という言葉を一切使わない。
なぜかは書かれていない。そのかわりに「任那日本府のウソ」という刺激的な見出しの説がある。それが「任那が存在しない」ことになってしまうようだ。
一応任那と伽耶の用法についてウィキで調べてみた。

三国志の魏書東夷伝倭人条に狗邪韓国の記載あり。現在の慶尚南道金海市付近との見方で一致。また弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説あり。

紀元前300年ころ 金海市付近で弥生土器の仕様が増加。

414年 広開土王碑文。400年条の「任那加羅」が史料初見。

438年 『宋書』の438年条に「任那」が見える。「弁辰」の記載はなし。

451年 宋書倭国伝。倭王済が「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国」の支配を認められる。
秦韓は辰韓12国のうち新羅に属さない諸国、慕韓は馬韓52国のうち百済に属さない国を指す。

478年 倭王武の上表文。「任那・加羅・秦韓・慕韓」が百済・新羅に属さない国々として記載される。

500年ころ 全羅南道に前方後円墳が造設される。百済進出とともに消失。慕韓に一致する地域とされる。

500年ころ この後、日本書紀(おそらく百済本紀からの引用)が質量ともに圧倒的な資料となる。

525年 『梁職貢図』の百済条、百済南方の諸小国を挙げる。任那の記載はない。

532年 金官国が新羅に吸収される。(日本書紀、三国史記にて確認)

562年 任那滅亡。すべて新羅に吸収される。

660年 『翰苑』の新羅条に「任那」の記載あり。「加羅と任那は新羅に滅ばされた」

801年 『通典』の新羅の条に「加羅と任那諸国は新羅に滅ぼされた」との記載あり。

1145年 三国史記が成立。「任那」の記載は本文には見られず。

私も「任那日本府」がずいぶん矛盾した表現だと思っている。日本という呼称はおそらく大和朝廷が発した国書「日いづる国」に基づいているのではないだろうか。7世紀に日本に来た百済の亡命学者が書紀編纂に携わるに及び、便利だからつい使ってしまったのではないかと考えている。
それを否定することが任那を否定(というよりネグレクト)することにはならない。
中国の史書を第一基準とするなら、伽耶という総称はきわめて特殊である。さまざまな史書では圧倒的に加羅・任那である。
ウィキによると、広開土王碑文(414)にある「任那加羅」が史料初見で、537年の南齊書では、「加羅國,三韓種也」と記載。その後の中国史書、『南斉書』、『梁書』などでも「任那加羅」が併記される。清代の『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が見られるという。
こうなると「伽耶」呼称は民族主義的な“意地”によるのではないかと思える。しかし学問は意地でやるものではない。


Korea_375
    韓国教科書の古代朝鮮
任那・加羅、百済、新羅
   日本の教科書の古代朝鮮
著作の最初は
第一部「卑弥呼は伽倻王女、そして神功皇后」
もうたまりません。
次が広開土大王碑文は一部偽造という一文。
1995年時点での韓国の古代史研究水準を示すものなのかもしれないが、それにしてもあまりにもおそまつだ。
この人が韓国古代史研究のトップ水準にある人なのか、その後最近ではこのような根拠抜きの断言は否定されるようになってきているのか、そのへんが知りたいところである。
もう一つ、都合の悪いことは「日帝支配の30年」で資料が失われたという口上だ。具体的に言わないと、それはたんなる逃げ口上にしかならない。


生磐についてもう少し勉強する

生磐についてもう少し勉強すると、違った側面が見えてきました。
まず出典ですが、これは日本書紀の憲宗紀に記載されたものです。

日本神話・神社まとめというサイトの
という箇所にある現代語訳文を転載させてもらいます。
(即位3年)この年、紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)は任那(ミマナ)に越境して立ち寄り、高麗と通いました。
西の三韓(ミツノカラクニ)の王になろうとして、官府(ミヤツカサ)を整え、治めて、神聖(カミ)と自称しました。
任那の左魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たちが策謀して、百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム=地名)で殺しました。 
帯山城(シトロモロノサシ=現在の全羅道北道井邑市の泰仁)を築いて、東道を防いで守りました。
すると粮(カテ=食料)を運ぶ津(ツ=港)が断絶して、軍隊は飢え、苦しみました。
百済の王はとても怒り、領軍(イクサ)の古爾解(コニゲ)と内頭莫古解(ナイトウマクコゲ)たちを派遣して、軍隊を率いて帯山に行き、攻めました。
生磐宿禰(オイワノスクネ)は軍隊を進めて逆に迎え撃ちました。胆気益壮(イキオイマスマスサカリ)で向かうところで敵を皆破りました。一人で敵100人に当たりました。しばらくして、武器は尽き枯れました。
それで事が成らないと分かって、任那へと帰りました。
これにより百済国は佐魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たち300人あまりを殺しました。
あきらかに百済側から見た史実で、百済本紀からのパクリだということが見て取れます。

訳文でも十分意味は伝わりますが、煩雑なため、要点を箇条書きにします。その際、主体を生磐側にスライドさせて記載します

①487年、紀生磐が任那に越境した。
生磐は任那人ではなく倭人であるということだ。そして倭領から任那に入った。
②彼は高麗と通じた。
百済は高句麗と戦い、苦戦していたから、生磐の行為は裏切りと映った。
③生磐は「西の三韓」の王になろうとして、官府を整え、神と自称した。
「西の三韓」が難しいが、素直に読めば旧三韓の西部すなわち馬韓領域ということになる。
百済も新羅ももともと三韓ではなく、三韓に侵入してきた北部勢力である。任那には馬韓(全羅道)を守る権利と義務がある。
倭国は百済が高句麗と戦う限りそれを支持するが、南に進出しようとするならそれと戦う。
④生磐は全羅北道に帯山城を築き、百済の南下を阻止しようと図った。手勢の主力は佐魯・那奇他甲背らの任那軍だった。
⑤これを見た百済は怒り、攻撃を仕掛けた。
守備隊は果敢に戦ったが、最後に破れ任那軍300人が殺され、生磐は倭に逃げ帰った。

この一連の出来事は、昨日の記事の後半にあたります。前半の部分、小弓の死亡から生磐の参戦、子鹿火や韓子との関係悪化までの前半は雄略紀の方に入れられています。

後半を先に読むとこれらの記載の本質がわかります。生磐と戦いこれを追い出した百済の一種の「言い訳」なのです。

日本と喧嘩はできないが任那の支配する全羅道は欲しい、というのが百済の本音です。

ここには書かれていませんが、この後百済は領土を大きく南にシフトして生き返ります。そして任那をつぶし、これを新羅と分け合います。

一方、朝鮮半島における倭国のプレゼンスは著しく衰退し、任那も国土を百済に剥奪されやがて姿を消していくことになります。

結論から言って一連の出来事は日本書紀の作成に関わった百済亡命者が、百済本紀から適宜コピー&ペーストしたものだろうと思われます。雄略天皇はただの借り物に過ぎないでしょう。
ただし倭の五王との関連は不明です。時期的にはかぶっていますが…

ついでに
倭国と任那の関係ですが、基本的には同根の関係と思います。ただしそれは高天原政権の出自だという点でのみ同根であって、長江文明の後裔である弥生人には関係のない話です。
もう一つ、任那の一部である一定の地域は倭王国と直接の関係を持っていたと思われます。つまり倭国の一部が半島南端部にも存在したということです。
なお、瓊瓊杵王国のルーツとしてタカミムスビを想定しましたが、雄略紀にタカミムスビが任那由来であると語られており、高天原=任那説にいっそう確信を持つこととなりました。




紀生磐(きのおいわ)のものがたり

紀生磐という人がいて、日本書紀の中で大活躍します。しかしどう考えてもこれは大和の人ではなく、筑紫君磐井と同じく倭国の歴史の中で動いた人です。

読み方からしてかなりいい加減で、例えばウィキペディアでは紀大磐と書いて「きの おおいわ」と読ませています。
ある方のブログでは紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)となっています。

この記事では面倒なので「生磐」(おいわ)で統一します。

この人は生年も没年も不詳ですが、400年代後半に活躍した人です。

父の名が紀小弓。
この父は雄略天皇の命を受けて朝鮮半島にわたり、新羅との闘いを率いていましたが、戦地で病死してしまいます。
これが465年5月のことです。

まぁ雄略天皇というのは嘘っぱちで、実際は倭の五王のもとで戦いに参加していたのだろうと思います。つまり倭王朝の人です。

三韓および倭国年表
http://shosuzki.blog.jp/archives/63212521.html

を見てもらえばわかりますが、このころ高句麗が南に進出し百済に盛んに侵食し始めます。
この10年後には百済の首都、漢城が陥落してしまいます。百済は国王を殺され、残党は南に逃げて国家の再建を始めます。

話は戻ります。父の死に直面した生磐は、矢も盾もたまらずに百済に向かいます。

ここまではよくある美談を予感させますが、とんでもハップン。
オヤジの威光を笠にきた横暴な振る舞いは指弾の的となってしまいます。

ついには小弓の後任の大将、小鹿火(おかい)を怒らせてしまうまでに至りました。小鹿火は蘇我韓子を唆し生磐暗殺を図りましたが、なんと韓子は返り討ちになってしまいます。

実は小鹿火みずからも、小弓の子ということになっています。つまり兄弟喧嘩をはじめたわけで、これでは戦えません。とばっちりを受けた蘇我韓子こそいい面の皮です。

どうしてこんなだらしない話になってしまったのか、それはそもそもこの戦争があまり大義のないものだったからです。

百済が高句麗に攻め込まれている間、新羅も同じように高句麗の攻撃を受けていました。だから倭国政府は半島にわたり両国を助けて高句麗を追い返したのです。

ところが、その後新羅はその恩を忘れ、どうも態度が大きい。それどころかひょっとして高句麗とつながったのではないかと思わせるような素振りです。

そこで雄略天皇は新羅親征を決意しました。ところが、宗像神社の神託は「行くな」というものでした。雄略天皇は自らの出陣を諦め、小弓ら4人の将軍に指揮を委ねました。

たしかに戦う前からなんとなく嫌な気分ですね。

そんなこんなで生磐は戦線を離れ倭国に戻ってきたのですが、一緒に小鹿火まで戻ってきてしまって、「もうやめた」と戦線離脱してしまいました。

これで当初に雄略天皇が指揮を託した4人の将軍はすべていなくなってしまいました。

諍いの元を作ったのは生磐ですから、彼が行かないわけにはいきません。ということで生磐は二度目のお勤めに出かけます。

ところが任那に赴いた生磐はとんでもないことをはじめます。なんとみずから神聖(かみ)を名乗り、任那王国を作り、高句麗と結んで百済人を攻撃し始めたのです。

時期がよくわからないのですが、475年に百済の首都が陥落したのに合わせて、百済を任那のものにしてしまえと考えたのかもしれません。

百済の側は逆に漢城を失った分を全羅道で取り返せと考えたかもしれません。全羅道はもともと任那の地であり、百済が割譲を迫ったという歴史的経過もたしかにあります。

それはともかく、激怒した百済王は生磐のこもる帯山城に猛攻撃をかけました。激しい戦いの末に任那軍の重臣300人が死亡。生磐は戦闘力を失いました。

結局、大磐は487年に倭国に帰国したそうです。これが後の筑紫君磐井だったりすると、できすぎですね。



2016年07月10日 三韓および倭国年表
を増補しました。
もともと、
2013年01月19日 日本書紀抜きの日本史年表
を増補したものですが、衛氏朝鮮の記事はもう少し膨らませなければならないと思います。(前にどこかに書いたつもりしているのですが見当たりません)

「神武東征」を考える その3 神武東征の絶対年代

神武東征の絶対年代は、考古学的資料から比較的容易に推測できる。
それはおそらく紀元300年を挟む前後50年のことであろう。
最大の根拠は銅鐸文明の突然の消滅である。銅鐸文明を担ったのは弥生人のうち長江文明由来の渡来人である。彼らは紀元前300年ころから銅鐸文明を開始した。それは次第に東漸し紀元150年から200年に近畿で最盛期を迎える。しかしその後急速に衰退し、銅鐸は打ち捨てられる。
これが近畿では紀元200年から250年と推定される。ここを挟んで地理的には西から東へと順に消滅していくのである。
銅鐸文明を抹殺し、征服王朝を打ち立てたのは「にぎはやひ王国」である。
彼らは出雲に最初の拠点を築いた後、いづれかのルートを通って近畿に達した。
とすれば纏向遺跡は「にぎはやひ」時代のものと考えられる。彼らが銅鐸を廃棄し、弥生人にスサノオ信仰を押し付けた後、今度はそこに神武が入ってくることになる。
神武にとって「にぎはやひ王国」の建設はそう遠い昔のことではなかった、と想像される。
そこで紀元300年という数字が出てくる。
となると、神武と前方後円墳の関係ということになるが、端的に言えば、前方後円墳はにぎはやひ王国の築いた文化であろうと思われる。
もともと九州に前方後円墳の伝統はない。それは大和・吉備に始まり九州をふくむ全国へと拡散していくのである。
さらにいえば、それは大規模干拓・灌漑事業の副産物であり、それに王権が便乗したに過ぎないと思う。

「神武東征」を考える その2 にぎはやひ王国

東征の決定

東征の決定に至る経過は以下の通り

瓊瓊杵王国は飽和状態に近づき、国々には君があり村々には長がいて、互いにしのぎを削るようになっていた。
その時、塩土の老翁が「東に美しい土地がある」という話を伝えた。その国は青く美しい山が四方を囲んでいる。そこは天の磐船に乗って天から飛び降った(侵入した)饒速日という者が支配している。

饒速日王国を攻めて、自分たちが瓊瓊杵王国の名のもとに支配しようではないか、というのが呼びかけである。

そこで、この饒速日の位置づけであるが、天から飛び降った(朝鮮半島から渡来攻撃)ことは間違いない。
しかしその“天”は高天原系の天である。なぜなら、本来豊葦原瑞穂の国は高天原政権によって。瓊瓊杵王国に属すべきものとされているからである。

東征の発議は彦火火出見がしたことになっている。彼が45歳になってから言い出し、周囲を説得したということになっている。
このくだりは後付けであろう。強引に読み込めば、それは神武王国(瓊瓊杵王国の一支国)を建国した彦火火出見が、45歳になって、往時を回想しつつ王政を意味づけたというふうにも取れる(しかしこれではあまりにも映画のシナリオ風だ)

これらの読解は日本書紀を基盤としているが、古事記ではより簡潔に語られている。本当のところ、彦火火出見は行って戦ってみるまで、相手がどんな集団なのかわかっていなかったのではないだろうか。

私は以前から、高天原政権は紀元前100年ころに洛東江中流に成立した衛氏朝鮮の残党国家だろうと考えている。
天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神という面々が任那(伽倻)を形成した。後に一部は分裂し慶州方面に別政権(スサノヲ系)を立てた。百済は別系統の北方系(扶余族)と考えている。

その慶州グループが本国においては新羅となり、出雲に渡って別の征服王国を立てたのだろう。そして出雲王国の流れが近畿に入って饒速日王国を立てたのではないだろうか。

なお「にぎはやひ王国」を建設した饒速日と神武に降伏した饒速日が同一人物であるかどうかはわからない。また神武に降伏した饒速日と、神武一族と濃厚な血縁関係を結ぶことになる大事主が同一人物であるかどうかもわからない。
ただ瓊瓊杵と饒速日が同じ言語系統、高天原政権由来ではないかという予感はする。とすれば、饒速日説は神武が東征を根拠付けるために、オオコトヌシを瓊瓊杵の兄弟とされる饒速日に擬した可能性である。




「神武東征」を考える その1 ににぎ王国

すみませんが、この文章は入門書「日本神話.com」を読みながらの感想なので、まったく裏付けのない思いつきノートです。そのうち、裏打ちをしていきたいと思います。

神武の出自 (神武紀)

神武の家系を見るとすこぶるいい加減である。
神武の幼名は彦火火出見(ひこほほでみ)
父方は天照大神の子孫、母方は海神の娘とされる。
おそらく邪馬台国の分家筋で、豊前中津あたりの海賊の長と婚姻関係を結んだという筋書きであろう。
祖父の名前も彦火火出見で俗称が山幸彦、祖母も海神の娘というから実にずさんなでっち上げだ。

結局はっきりしているのは母方が一貫して海神の娘であるということで、つまりは良く言えば水軍の長、悪く言えば海賊の頭目ということだ。
それが家系に色を付けるために、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を載せている。これは「ソンジョそこいらの海賊ではない。もとは清和源氏だぞ」というほどの意味であろう。
 
瓊瓊杵尊を担いだ理由

おそらく神武の父が神武4兄弟を送り出すにあたって、派兵の理由を述べた箇所がある。

これについては後で触れるのだが、実はその前に、瓊瓊杵尊に関するに重要な説明が加えられているのである。

瓊瓊杵尊は豊葦原瑞穂の国を征服するよう命令され派遣された。命令したのは高天原政権で、そこには豊葦原瑞穂の国の全土に対する支配権が認められていた。

重要なのは、瓊瓊杵尊が降臨する前にすでに日本=豊葦原瑞穂の国は存在していたということである。彼は日本を作ったのではなく征服したのである。ということは、豊葦原瑞穂の国は被征服国だったということになる。

豊葦原瑞穂の国と「ににぎ王国」

ついで征服王朝たる「瓊瓊杵王国」の経過が総括される。
「日本の事情がわからなかった瓊瓊杵尊は、まず西の外れの地を治めることにした。その子孫は慶事を重ね、支配を強めた。

以上の経過からわかることは、まず豊葦原瑞穂の国があって、そこに瓊瓊杵が侵入してきて「瓊瓊杵王国」を作った。それは当初は豊葦原瑞穂の国の西側の一部を支配するに過ぎなかったが、徐々にその版図を拡大した。

被征服国である豊葦原瑞穂の国の民は、神武の父、の時代には瓊瓊杵王国の支配を受容していた。

そういう経過があるからこそ、どこぞの馬の骨が瓊瓊杵尊の末裔を推しいただいて、自らの箔付けとするということに政治的意味が生じるのである。


赤旗に「明治150年を考える」シリーズの第8話として「東海大一揆」のことが載っていた。変な記事で、「東海大一揆」の記事なのに見出しのどこにも「東海大一揆」という言葉が出てこない。
著者の茂木陽一さんの造語なのかとも勘ぐってしまう。
1.一揆の時代背景
事件が起きたのは1876年、明治9年の末のことだった。
当時の日本は新政府の方針をめぐり騒然としており、翌年には西南戦争が起きるなど国家の屋台骨が揺れ動いていた。
動揺の原因は国家財政の財源をめぐる困難にあった。明治政府は藩体制と米物納制で成り立っていた財政をやめ、中央集権と金納制に置換しようとした。しかし年貢額相当の税を金で収納させることには相当の無理があり、中央集権制という新システムが未だ脆弱なことから、深刻な税収の減少をもたらした。これを補うにはさらに税率を引き上げるを得ないという悪循環に陥った。
2.どういう一揆だったのか
これに対し、庶民の間からは税額の引き下げを求める声が上がる。全国どこで起きてもよいのだが、この場合は三重県が狼煙を上げる役割をつとめた。
12月18日、一揆が発生した。さいしょは三重県松阪の南郊だったと言う。一揆はまたたく間に三重全県に拡大した。三重というのは天領、紀州藩領、中小の藩領が複雑に入り組んだところで、あまり絶対的な権力が存在しなかった。また戦国時代に織田信長と張り合った長島の真宗土一揆の伝統もある。
21日にははやくも、木曽川を渡り愛知県へ、さらに岐阜県へと広がったと言う。政府は武力鎮圧の方針を出し、翌日には警察や鎮台兵らが出動、わずか1日でこれを鎮圧した。
処罰者は5万人に登ったと言う。
3.一揆の影響
三日坊主というが、この打ち上げ花火のような一瞬の事件は明治初期の政治改革に大きな影響を与えたと言う。
西郷らの反政府の動きとの結びつきを警戒した大久保利通政府は、地租を減租し、大幅減税を行った。また府県に議会を導入することで民衆に発言の機会を与えた。以来、民衆は一揆という決死の蹶起ではなく自由民権運動へと流れていくことになる。
というのがあらすじのようである。

どうも、いまいち様子がわからないが、とりあえず赤旗の記事の紹介ということで。
なお明治初期の篤農運動とも重なるところがあるので、読み合わせていただければ幸甚である。

2014年05月01日

2014年04月15日

2014年04月15日

2014年04月14日



赤旗に載った「東海大一揆」というのが気になって少し調べてみた。
とにかくまったく聞いたことのない事件であるが、その理由は「そう呼ばれたことがない事件」だからだということが分かった。
ウィキペディアでは「伊勢暴動」と書かれている。
ついでに少しウィキペディアの記載を引用しておくと、
1876年(明治9年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆である。受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の騒擾事件となった。
ということで、なかなかの事件ではある。知らなかった私のほうが馬鹿である。
地図を見るとたしかに一部は県境を越え愛知、岐阜まで進出しているが、基本的には三重県中北部に局限した暴動と言うべきであろう。
ただし、暴動そのものの様相は発信元の中部と波及した北部ではかなり異なっている。中部では農民そのものが蜂起したのに対し、北部では暴徒化した群衆による暴動となっていったようである。
何れにせよこれは地租改正反対運動のひとつの表れと見るべきものであろう。
むしろ私にとって興味深いのは、これに対して大久保政府が実質的な減税政策で対応したということである。
これが巨額の歳入欠陥となったのは間違いないだろう。そのような苦しい財政事情のもとで西南戦争が発生し、莫大な戦費を捻出する必要に迫られたとき、大久保はどうしたのだろうか。

土偶の歴史
土偶の概念をすこし整理しておく。
土偶は「縄文的生き方」の象徴と考えられる。
土偶は、人間(特に女性)を模して作られたもので、縄文時代に日本全土で作成された(沖縄を除く)
土偶は時期的にも地域的にも偏りがあり、北方に集中している。これは土偶文化がマンモス人の系統に支えられたものであることを示唆している。

という文章からいくつかのポイントを抜き出しておく。
①土偶の顔
土偶の顔は稚拙というのではなく、意識的に平面化された様式を持っている。それは早期のものから晩期に至るまで一貫している。これは仮面を表すものと思われる。
土偶と同じように土製の仮面が出土する。とくに後期~晩期の東日本に多く出土するようだ。
人間の顔と同じぐらいの大きさで、左右に紐を通すための穴があいているものもある。
②女性シャーマンがモデルか
千葉県さら坊貝塚で、鉢を被せ葬られた人骨が発見されている。
縄文時代中期後葉の中年女性の遺骨で、左腕に、おそらくはシャーマンのシンボルである貝輪をはめている。
③北方文化と女性信仰
女性信仰は農耕社会と結び付けられることが多い。
狩猟・採集社会では男性の脱魂型シャーマンが政治的リーダーも兼ねるのが一般的である。しかし農耕・牧畜社会への移行過程で女性の憑霊型シャーマン(天照大神)が出現する。これは男性の祭司的首長と権力分担する。
④土偶とつながる北方文化
土偶は北部ユーラシアの旧石器時代にみられる、いわゆる「ヴィーナス像」の系譜を受け継いでいる。そこにはなんらかの女神崇拝があった。それは処女ではなく母性の象徴である。


ということで、下の図は国立歴史民俗博物館の10641件のデータに基づいて時代別、地域別分類を行ったものである(縄文と古代文明を探求しよう!より転載)
出土分類2
説明文の中で、
都道府県別では岩手県2152個(21.5%)、長野県1140個(11.4%)、山梨県938個(9.4%)となっています。
と書かれていた。意外だった。
私なりにこの図を読み込むと、
1.草創期より存在しているが、紀元前3千年(中期)になって土偶爆発がもたらされた。
2.震源地は東北と考えられ、この土偶文化を持った人々が一気に関東・中部に広がり、土偶(がらみの)信仰を展開した。
3.紀元前2千年以降(後期)では中部の減少と東北の増多が著明である。日本列島の温暖化により居住域が全体として北方へシフトしたのであろうか。
4.紀元前1千年(晩期)になると北方シフトはさらに進み、東北が全出土の過半数を占めるようになる。
5.この時期にこれまで土偶と無縁だった九州四国での出土が増えるが、これは気候では説明がつかない現象である。
 

1万1,000年前(草創期) 三重県松阪市、滋賀県東近江市で最古の土偶。

紀元前8千~7千年(早期前半) 関東東部に定住生活の始まりと一致して土偶が出現。逆三角形や胴部中程がくびれた土偶。

紀元前6千年(早期後半) 東海地方にまで土偶の分布が広がる。

紀元前5千年(前期) ほぼ同様の場所で板状土偶が発達する。

紀元前4千年(前期後半) 顔の表情豊かな土偶が、東海地方から関東地方までの東日本に出現。

紀元前3千400年(中期初頭) 土偶が大きく立体的になる。デザインも複雑となる。四肢・頭部の表現がはっきりし、土偶自体が自立するようになる。 

紀元前3千年(中期前葉) 長野県棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」が新型土偶の到達点。
棚畑遺跡
       縄文のビーナス(棚畑遺跡出土)

紀元前2700年ころ(中期後半) 長野県坂上遺跡出土の土偶
坂上遺跡
           坂上遺跡出土

紀元前2500年(中期の終わりないし後期の始まり) 一旦土偶は消失。この頃寒気のため人口の減少が見られる。 

紀元前2500年(後期初頭) 九州北部~中部に新たに出現。本州の土偶の延長と見られ、寒冷化に伴い縄文人が水平移動したことを示唆する。 しかし西日本を飛び越えて九州という理由はわからない。

紀元前2千年ころ(後期前半) 宮城から神奈川にかけて広く東日本全体に出土。壊さないタイプの土偶が主体となる。

紀元前1500年(後期後半)青森県風張1遺跡の坐像  
青森県風張1遺跡
      青森県風張1遺跡

紀元前1千年(後期~晩期) 山形土偶やミミズク土偶、遮光器土偶(青森県亀ケ岡のものが有名)など。

紀元前1千年ころ(晩期前半) 九州北部を中心に土偶が大量に見出される。 

紀元前4世紀ころ(晩期後半) 九州北部で水田の普及に伴い土偶が激減。環濠集落が出現する頃には消失する(板付遺跡) 

紀元500年 東北地方では、弥生時代前期まで製作。中期から衰退し、後期には消滅。 


日本人の三層構造は今や常識

細かいところではいろいろあるのだが、日本人が重層的に形成されてきたことは疑いのない事実である。
それは第一に縄文人であり、第二に弥生人であり、第三に天孫族である。
ただし第三の渡来人の呼称、渡来の時期、朝鮮半島の人々との関係はまだ確定はしていない。
しかしこれまで弥生人として一括されてきた渡来人が、あらゆる点から見て異なる出自であることは確認されている。

縄文人の源流 2つの旧石器人

これが基本であるが、最近の考古学的知見からは縄文人が少なくとも2つの出自を持つことが明らかになっている。

最初の渡来人は3万8千年前、南方系のナウマン象を追って朝鮮半島からやってきた。
彼らの足跡は関東甲信越を中心に分布している。ここでは彼らをナウマン人と呼ぶ。

ナウマン象そのものは、30万年前に朝鮮から渡来し、その北限は北海道まで及んでいる。
しかしナウマン人の足跡は青函海峡を越えない。

3万年前ころに寒冷期がやってくる。

南方系のナウマンゾウは絶滅した。それと入れ替わるように北からマンモス象が南下した。そしてマンモスハンターもやってきた。

マンモスは青函海峡を越えなかった。しかしマンモス人は越えた。もっと温かいところを目指した。そしておそらく津軽地方でナウマン人と出会った。

2つの文化のハイブリッドが生まれた。それは縄文文化を生む土台となった。

旧石器人から縄文人へ

寒冷気候が卓越する下で、人口では北からのマンモス人が優越した。DNA的にはおよそ4対1である。
1万2千年前に生まれた縄文土器も北の影響が強いと思われる。

一方、主たる生活の糧である象や大型獣がいなくなる中で、狩猟のスタイルが落とし穴へと変更を迫られた。
狩猟だけに頼らない木の実の採集、小規模な漁業も試みられた。
それはナウマンゾウ絶滅後にナウマン人が手に入れた、生き残りのノウハウである。

気候の激変、生産・生活の激変、2つの旧石器人グループの出会いにより縄文人が誕生した。

その頃に日本列島はアジア大陸から切り離され孤立化した。
このために日本には独自の人種による独自の文化が発達し始めた。旧石器人はそのまま縄文人へと移行した。

縄文人の全国展開

縄文人の全国展開は、マンモス人が全国進出しつつ現地のナウマン人と混淆し、縄文文化を拡大していく過程であろう。

縄文文化が全国レベルで成立したのは紀元前5千年ころである。ほぼ均質な漁撈・採集・狩猟のスタイルが広がった。
縄文文化の最盛期は3千年に渡り続くが、その後弥生人の渡来までは徐々に衰退していく。

この3千年をどう亜区分していくかは今後の課題であるが、注目されているのは土偶の分布・意味合いの変化である。
これは弥生時代における銅鐸の分布・意味合いの変化と照応する。

晩期縄文人は縄文人か

他在としては渡来した弥生人と共存した縄文人である。しかし「蝦夷の地が最終的に消滅するまでは共存時代だ」と言うのも引っ張り過ぎだろう。

諸研究では紀元前1千年から始まり、わずか300年で弥生時代ということになっている。つまり九州や中国地方の縄文人が渡来人を受容した時代ということになる。

であれば、彼らは後期縄文人である。その中で、その時期にその場所に住んでいて、渡来人を受け入れ、自らも変容した人々、というふうに狭く考えたほうが良い。





宗全以前の山名氏

(煩雑を避けるためできるだけ個人名は省略した)

新田氏一門の義範が上野国山名郷を本貫として山名三郎と名乗った。
源頼朝に従って御家人となり、伊豆の国主に推挙される。

1337年(建武4年) 南北朝時代、山名氏は縁戚の足利尊氏に従い、室町幕府において伯耆国の守護に任じられた。四職家の一つに数えられる。

 室町幕府の重臣は三管領(かんれい)、四職(ししき)と呼ばれた。三管領(かんれい)は斯波氏、細川氏、畠山氏。四職(ししき)は赤松氏、京極氏、一色氏、山名氏が任命される。


全国制覇で戦功を上げた山名氏一族は、丹後・伯耆、紀伊、因幡、丹波・山城・和泉、美作・但馬・備後の守護となり、全国66か国のうち11か国を守ることになる。

1390年(元中7年) 最初の継承紛争。将軍・足利義満の命を得て、惣領の時煕(宗全の父)が放逐される。

1391年(明徳2年) 明徳の乱が発生。将軍義満、時煕を許し惣領に戻す。これに怒った反時煕派が謀反。一時京都を制圧したが、最終的に敗れる。山名氏の守護領地は但馬、伯耆、因幡のみとなる。

応永6年(1399年) 応永の乱が発生。戦功を上げた山名時煕は備後・安芸・石見の3か国の守護職を獲得。

1404年(応永11年) 山名宗全、山名時熙の3男持豊として生まれる。

1428年 時熙が重病になり持豊を後継に指名。6代将軍義教がみずからの側近であった次兄持熙の後継を命令。時熙の病状が回復し後継問題は保留となる。

1430年 細川勝元が生まれる。宗全より26歳の年下。細川氏は畿内、四国、山陽を支配する。

1431年 持豊の次兄持熙、将軍の勘気を受けて廃嫡。このため持豊が後継となることで決着。

1435年 時熙の死。持豊は但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名となる。

1437年 次兄持熙が相続を不満とし備後で挙兵。持豊はこれを鎮圧。


山名宗全の時代
1441年(嘉吉元年)6月24日 播磨・備前・美作守護を勤める赤松氏が第6代将軍義教を殺害。同席した持豊は脱出に成功。

8月 持豊、但馬から赤松領の播磨へ侵攻し反乱を鎮圧。播磨をあわせ5カ国の守護となる。さらに山名一族で石見、美作、伯耆、備前、因幡の守護職を領有する。

1442年 山名持豊、出家して宗全と号す。以後すべて宗全と記載。

1445年 細川勝元が16歳で管領に就任。以後死ぬまで通算23年間も管領職を勤める。

1447年 細川勝元、持豊の養女を正室に迎える。宗全を舅とする関係になる。
そもそも細川氏にとって最大のライバルは同じ管領家の畠山氏だった。畠山に対抗するために山名氏に接近した。

1448年 幕府最大の実力者畠山持国、後継者を弟の畠山持富から庶子・畠山義就に変更。将軍はこの変更を認めるが、細川勝元・山名宗全らは持富を支持する。

1454年 畠山氏で家督をめぐる内紛が起こる。細川勝元は宗全と手を結び、当主持国の実子義就を追放に追い込む。このあと細川・山名連合が幕政の頂点に立つ。

1454年11月 足利義政、赤松氏の再興を認める。山名はこれに猛烈に反対し、将軍の不興を買う。宗全退治を命じられるが、細川勝元の取り成しで一時隠退することで事態を収拾。但馬に隠居となる。

1454年11月 赤松の一族が播摩で山名氏を攻撃。宗全は但馬から出兵して赤松軍を破る。

1458年 宗全、赦免されて再び上洛、幕政に復帰する。

1459年 関東で享徳の乱が発生。斯波氏は総大将に任じられるが動かず。

1460年9月 畠山氏の後継紛争が再燃。将軍義政が一度失脚した実子の義就を復活させる。細川氏はこれをさらに逆転し、政長に家督を与える。

1460年 義就は排除に抗議し嶽山城に一時籠城する。

1462年 山名宗全の次男の是豊、細川氏の引き立てを受け備後・安芸守護に任命される。2年後に山城守護も兼ねる。
この頃から細川氏は宗全に対する警戒心を強め、親子の離間を図るようになる。

1464年 細川勝元、管領を辞し、畠山政長に禅譲。

1465年(寛正6年) 足利義政の正室日野富子、実子の足利義尚を出産。将来の将軍職を望み山名宗全に接近する。義政は弟義視に将軍位の禅譲の意向だったが態度を変更。

1465年 宗全も細川勝元を警戒、畠山義就・斯波義廉らと結託して細川氏の打倒に乗り出す。

1466年(文正1)

9月 文正(ぶんしょう)の政変。将軍の側近が斯波家の相続に介入。さらに足利義視の暗殺を企画したという。宗全と細川は連携し、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる。

12月 山名氏の支援を受けた畠山義就が挙兵し、大和から入京する。宗全は義就を将軍と対面させ、家督につける。その一方で現職管領の畠山政長が追放される。これは宗全の細川氏に対する公然たる挑戦である。

さらに宗全は、将軍家に強要して斯波義廉を越前、尾張、遠江3国の守護職につける。

宗全の横紙破りにより、細川連合と山名連合との対決の様相を呈する。細川連合は足利義視を担ぎ、山名連合は足利義尚を担ぐ。

応仁戦争の時代
1467年(応仁元年)

1月18日 御霊(ごりょう)合戦。宗全に追放された畠山政長が細川氏の支援を受け反乱。戦闘は半日で義就の勝利に終わり、政長は勝元邸に逃げ込む。これを機に応仁の乱が発生。

4月 細川勝元は領地9カ国の兵を京都へ集結させる。宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。宗全は自軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する。東軍は10万を結集。京極氏、赤松氏、武田氏も加わる。西軍は9万を結集。六角氏、一色氏が加わる。

5月26日 「上京の戦い」が始まる。東軍が上京で一斉攻撃。将軍・天皇らを確保する。午後からは西軍が反撃。

8月 周防から上洛した大内氏の軍が西軍に合流。伊予の河野通春ら水軍も動員し西軍が勢いを盛り返す。

10月3日 相国寺の戦い。このあと東軍は劣勢に立たされ洛外で抵抗を続ける。

1468年

7月 足利義政、管領の斯波義廉を解任し、勝元を管領に任命する。

9月 足利義政、義視の排除と実子の義尚擁立に動く。義視は幕府を逃れ西軍に就く。

11月 義視を長とする西幕府が成立。有力守護による合議制の下、義視が発令することとなる。

1469年

4月 西岡の戦い。大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城はほぼ制圧される。この後戦線は膠着し、厭戦気分が広がる。

1470年

2月 大内氏の地元で政弘の叔父教幸が反乱を起こす。

1471年(文明3年)

5月 西軍の主力となっていた朝倉孝景が東軍側に寝返る。これにより西軍不利に繋がる。

1472年

3月 勝元と宗全の双方から和解の動き。すでに当事者能力を失い、周辺の勢力の反対を押しきれず。

5月 宗全は自害を試みる。

1473年

3月18日 西軍司令官の山名宗全(持豊)が病没。享年70歳であった。

5月11日 東軍司令官の細川勝元が病没。

12月 義政が致仕、義尚が将軍となる。畠山政長が管領に就任。

1474年
4月 山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃。
1477年(文明9年)
11月11日 応仁の乱が終結。和睦の結果、義尚が9代将軍を継ぐ。

11月 大内政弘、周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵され撤収。西軍は事実上解体される。



ウィキペディアから「応仁の乱」年表を作成しようとしたが、説明が詳しすぎる。すこし簡単なものからはじめてあらすじを理解した上でウィキに戻ろうと考えている。

作業を始めて2時間のところで、一つヒントが湧いてきた。
この内戦は4筋の戦いがある。
第一に8代将軍足利義政の跡取りをめぐる戦いで、一方が弟の義視、もう一方が実子の義尚である。
第二に足利政権の幹部の勢力争いで、一方が伝統の細川氏、もう一方が新興の山名氏である。
第三に三管領の一つ畠山氏の後継者争いで、一方が養子の畠山政長、もう一方が実子の義就である。
第四は同じく管領の斯波氏の後継者争いで、一方が先代実子の斯波義寛、もう一方が養子の斯波義廉である

応仁の乱というのは一言で言えば複合戦争である。さまざまな流れが1点に集中して、轟音を轟かせなから駆けぬいていく時代である。
この4本筋のうち、どれにどのように比重をおいていくかということで、いかようにも料理される。しかし私達は諸英雄を生み出した応仁という時代を理解しなければならないのではないか。

今のところ私が思い描いているのは、細川・山名戦争主軸論である。戦闘の流れを見つめていると、畠山の闘いが非常にクローズアップされてくるようだが、歴史のトレンドということで言うと、鎌倉以来の古い武家社会に代わって、山名宗全が新しい武家社会のあり方を示しているように思える。
基本的には山名の赤入道は、孤立した闘いをしている。味方と言ってもみな味方に引き入れた連中ばかりだ。
足利政権、管領を頂点とする支配システムを敵に回してさんざん鼻面を引き回している。

どうせ年表を作るのなら、「応仁の乱」年表を作るより「山名宗全年表」を作ったほうがはるかに面白そうだ。

さらに調べていくと、応仁の乱が始まる半年前、1466年の終わり頃にさまざまな流れが一挙に一本化することに気づく。
それを強引にまとめたのは、実は山名宗全である。先ほどの4本筋は宗全のもとで一本化されている。それが5月の内戦開始へとなだれ込んでいくという流れになっている。
ところが、ここまで力を発揮した宗全が、内戦勃発後は後景に霞んでいく。これがよくわからない。
どうも一触即発のところまでは持っていっても、ガチンコまでやる気はなかったのではないかという気がしてくる。
ウィキの応仁の乱の項目にも、山名宗全の項目にもこの「空白の3ヶ月」はあまり触れられていない。もう少し調べるか、あまりに膨大な事実の山並みに少々怖気づいている。

最初に書いたように、国立科学博物館の旧石器時代を担った人間についての記載は気になる。
それとは書いてないが、3万年前くらいを切れ目にして、違う人達が日本人であった可能性がある。
そんなことを何気なく示唆しているように思えたのだ。
それで歴史をすこし詳しく調べてみた(この世界の研究者はタコツボ掘りばかりで、不毛な定義争いを延々と聞かされるのだが…)。
そんな中で、自分なりに時代区分が見えてきた。

1.無人時代
まず無人時代がある。短ければ3万8千年前、長くても3万5千年前には終わる。
今後、居住を示す新証拠がいくつか出てくるにせよ、4万年前を遡ることはないだろう。それ以前のものはすべて嘘っぱちと考えて良い。

2.ナウマンハンターの時代
ナウマンゾウを追って朝鮮半島から渡ってきた人々がいる。なぜ朝鮮か、それはナウマンが南方由来、つまり朝鮮から来たからである。
ただしナウマンが来たのは30万年前だった。そして、どうやって来たのかはミステリーである。
学者は平気で「朝鮮海峡が陸地だったから」という。しかしそれが陸地だった時代、きっと世界は寒冷だったに違いない。
だとすればなぜ南方系の像であるナウマンが寒冷の地・日本へと歩を進めたのか、さらにそれに飽き足らず、北海道にまで渡ったのか。
誰も説明しないし疑問にすら思っていない。

3.マンモスハンターの時代
とにかく、寒冷期が続けば南方由来のナウマンはいずれ生きていけなくなる。そして死に絶える。
そうするとナウマンハンターも生きていけなくなる。ただし人間はナウマンよりもう少し賢いから、なにかかにか生きる手立ては見つけるだろう。
一方、ナウマンのいなくなった大地には北からのマンモスが入り込む。マンモスがやってくれば、マンモスを追って暮らすマンモスハンターもやってくる。
私は昨日までは姶良がどうのこうのとか言ってきたが取り消す。もっとロングスパンの話だ。
3万年前から2万5千年前までの期間、ナウマンとマンモスは落ち目の俳優と売り出しの若手のように日本列島に共存した。もっともナウマンは北海道南部まで生息したが、マンモスが津軽海峡を渡ることはなかった。
いっぽう人間様はどうかといえば、ナウマンハンターは気息奄々だったのにマンモスハンターは意気盛ん。マンモスの生息域を乗り越え、津軽海峡を乗り越えて本州中部まで進出した。

4.プレ縄文人の形成
ナウマンハンターとマンモスハンターの比率はおおよそ1対4だった。基本的にはマンモスハンターがナウマンハンターをM&Aした。
気温の激変のために、やがて日本列島からナウマンもマンモスもいなくなり、二つのギャートルズ・グループは縄文人へとインテグレートしていくことになる。
彼らは「落とし穴猟」という、より高度な技術を開発することでイノシシ・大鹿ハンターとなり、さらに弓矢という飛び道具の開発により自然の支配とみずからの生き残りに成功した。

5.縄文文化は津軽から
最初の縄文土器は1万6千年前の津軽の外の浜だった。それは津軽の生産力が特別優れているからではなく、そこがマンモス人とナウマン人の最初の出会いの場所だったからだと思う。
マンモス人は先着民であるナウマン人から大いに学んだに違いない。そしてその知識は津軽を中心に日本全土に同心円状に広がっていったに違いない。
私はマンモス人をY染色体ハプロのD2系に、ナウマン人を同じくY染色体ハプロのC1系に比定している。どちらも今では日本人(アイヌ人)以外には絶えてしまったグループである。

日本の旧石器文化

春成 秀爾さんが表を使って編年基準を示してくれている。とりあえずこれを使って年表を作成していくことにする。
旧石器

この表を見ても、いかにみんなが勝手に時代区分を作成しているかが分かる。
数字は“XX年前”という意味だ。“14C”を用いた年代測定値を加 速器質量分析(AMS)法により較正したもので、「精度が高くなった」らしい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/40/6/40_6_517/_pdf
 
旧石器時代を前期、中期、後期と分ける分類があるが、国ごとに違っていて、素人を混乱させるだけである。
地質学分類を持ち出す人もいるが、新生代以降については何の役にも立たない。
3つに分ければ十分である。ひとつは土器出現以前の純粋石器時代。ふたつめは縄文土器の出始めの時代。これは細石刃時代とほぼ一致するので、どちらで呼んでもいい。
本質的には細石刃だろうが、有効性という点では縄文草創期であろう。3つ目が本格縄文時代である。

絶対年代で言うと

① 純旧石器時代 一応3万5千年前からということににあるが、もう少しさかのぼっていくだろう。といっても4万年までか。

3期で十分と言いつつ、早くも①を二つの亜期に分ける。すなわち 
A) 温暖期(プレ姶良)と、B) 寒冷期(ポスト姶良)になる。
その境目は2万9千ないし8千年前になる。
自然事象としてはマイナーだが、2つの点で重要である。すなわち、ナウマンゾウと大形鹿がいなくなったことと、縄文人の主役が朝鮮出身者から樺太出身者に変わったこと。である。

② 前縄文期・細石刃時代 土器が確認される最初期が1万6千年前、細石刃が広がるのが1万4千年前と言うから、中をとって1万5千年としてはどうだろうか。
長い重畳期があるので、旧石器人と縄文人は同一民族すなわち主として北から来たD系人と思われる。

③ 本格縄文時代 1万年前から始まるということになっている。前・中・後・晩期と分かれるが、これは別な扱いになる。

飲食店で言うと、① 純喫茶、② 昼は喫茶、夜はスナック、 ③本格縄のれんという分類になる。

なお日本の考古学の世界では①+②を後期旧石器、それより前を前期旧石器と呼ぶらしい。歴史を学ぶものとしては、率直に言ってナンセンスである。



3万5千年前 

気候的には寒冷期が1万4千年前まで続く。

野尻湖時代(広島以北。群馬、長野、千葉など)

大型環状集落と、大型動物(ナウマンゾウやオオツノジカ)を解体するための磨製石斧で特徴づけられる。

これらの大型動物は中期更新世(約43万年前)に中国本土から渡ってきた。当時は温暖であった。

約3万年前  姶良Tn火山の噴火 

この後大型動物の狩りは消滅。ニホンジカ ・イノシシの落とし穴狩りに移る。落とし穴は宮城から鹿児島までの間で発見される。

2万9千年前 岩宿で発見された旧石器はこの頃のものとされる。

2万2千年前 港川人 

現在のところ、①本土の縄文人との類似性はなく、現代オーストラリア・ニューギニア人との類似性が認められる。③先島へは南から、中部圏には九州から渡来した。その時点で
港川人はすでに絶滅していた。


2万年前

地質学的には後期更新世末期  
考古学的には旧石器時代第2期  黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた工具

中国大陸の文化とは似ていず、ヨーロッパの旧石器文化と共通する特徴があり、日本独特と考えられる。

宮城県の薬莱山の文化や座散乱木遺跡がこれに相当する。これらの遺跡では縄文文化への連続性が確認される。

1万6千年前 

太平山元(Ⅰ)遺跡 土器の内側に炭化物が付着、もっとも古い煮炊きの後である。弓矢の使用を示す石鏃も、世界でもっとも古い。

植物食の本格化に合わせ部分的に縄文草創期が開始する(御子柴文化)。

南九州では丸 ノ ミ形磨製石斧や石臼 ・磨石の普及。定住を示唆する竪穴住居もはじまる。

1万4千年前  

シベリアからやってきた細石刃文化。北欧から沿海州そしてアラスカまで広がる。鮭の漁労に関係しており、比較的北方に限られる。

1万年 本格的縄文期(縄文早期)に入る。

紀元前5千年 環状集落と墓地をもつ定住生活に入る。

昨日、東京に行ったついでに上野の科学博物館を訪れた。
折悪しく連休の只中で、しかも昆虫特別展ということで長蛇の列。レストランも喫茶店も売店もとても入れる雰囲気ではない。
子供も多かったが、流石に科学博物館に来る子供といえばそんなに駆け回ったり大声を出すような人間ではない。これには助かった。
まず元気なうちにと思い、日本館の2階日本人の起源の展示を見に行った。意外とこじんまりとしたもので、30分もあればみ終わるほどのスペースだ。
それだけに説明が非常に濃縮されていて結構ズシンと来る。まず旧石器人。
いちばん、感動したのは世田谷の小学校のグランドを垂直に10メートルも掘り下げている展示だ。
関東ローム層というのは火山灰からなる地層だから、噴火の歴史と照らし合わせることによって、かなり絶対年代の同定ができる。しかもその間に温暖期の海進、段丘の形成などアルので気候変動と火山活動の経緯の中で古代人の活動を絡め取れるという優点を持っている。
さて、前置きが長くなったが、この地層の説明には次のように書かれている。
1.関東地方の旧石器時代は3万8千年前に始まった。
2.これは2万年前までまばらに積み上がっている。
3.旧石器時代の遺物は2万年前を過ぎてから密度を増している。
との所見を提示したあと、次のように説明する。
1.3万8千年前に関東にやってきた旧石器人は朝鮮半島由来とおもわれる。
2.これに対して2万年前から増えてきたニューカマーは北方由来の可能性がある。
ということになると、これから先は私の推理になるが、3万8千年前の渡来人はY染色体ハプロで言うC1人ではないかと思われる。そしてあとから来たのが北方由来のD系人ではないかと思う。D系人は氷河期の寒さに押されて南下してきた。二つの旧石器人は融合し共存してやがて縄文人となっていく。
もともとC系人は南方由来であり、それが北方に進出してついにはベーリング海を越えてアメリカへと広がる。これに対しD系人は現在では日本人とアイヌ人だけだからよくわからないが、ウラル・アルタイ経由で東方に進出した可能性もある。
というわけで、2万年以前に日本にいた旧石器人の話は結構気になる話題であった。

これまでD系人=旧石器人で、日本に入ったD系人以外のD系人(D2人)はすべて絶滅した。残ったD系人がそのまま縄文人に横滑りした、と思いこんでいたが、そう簡単な話ではないようだ。
少し関連文献をあたってみたい。

記紀の世界を信じるしかないのだが、相対年代として前後関係が明らかないくつかの大乱がある。
この中には九州王朝のものも紛れ込まされているので注意が必要だが、誰と誰が戦ったのか、誰が勝利したのかは重要だろうと思う。
1.神武の征服
時期はかなり明確に特定できるだろうと思う。卑弥呼より2,3代下った時代の話だ。280年から320年辺りに絞り込まれるのではないだろうか。
神武は九州王朝の組織した東征隊の幹部の一人だ。これに対抗したのは旧出雲系の集団だ。
出自で言えば九州王朝は任那系であり、出雲は新羅系だ。両者とも南朝鮮に存在した高天原をルーツとする天孫文化の後継だ。
神武から8代は九州王朝が権力を握り、その目下の同盟者として出雲系が実権を獲得した。

2.四道将軍によるクーデター
これはかなり細かく書き込まれている。何らかの史実の反映として間違いないだろう。
この崇神朝は武力を持って政権についており、神武王朝を倒したことは間違いない。誰が? 
他にいなければ、それは出雲系ということになる。ただ神武以前に大和に先着していた出雲族ではなく、越前より南下した新羅系の可能性はある。
その後の仲哀の死までの期間が明らかに一つの王朝を指している。東方進出と、吉備・出雲の奪取はこの王朝が強い軍事的ポテンシャルを持っていたことを示している。
ただし景行天皇のくだりは九州王朝からの剽窃であろう。

3.九州王朝による大和支配
これもかなりはっきりしていて、九州を支配しようとした仲哀がだまし討にあった。
仲哀が新羅に行く征かないの話になっているので、九州王朝は高句麗との戦いの最中であろう。
九州に寝返った野見宿禰が仲哀の妾(神功)の子を王に仕立てて、なんば・河内を征服した。
出雲系は反撃したが及ばず、大津まで撤退したあと壊滅した。
河内王朝には在地の大伴・物部がついた。
問題はこの河内王朝をどこまで引っ張るかということで、相当の議論がある。

4.継体の出現と実在王朝への連絡
実在王朝の金石文的確証は飛鳥寺そのものである。
ここから無理のない範囲で尺取り虫風に足を伸ばしていくと、西暦550年位までは足を伸ばせるのではないかと思う。
ここにも記紀のレベルではっきりした武装闘争の経過が残されている。
継体ははっきりしない、長期に渡る王権獲得の戦いが記されているが、肝心なことは王になるための経過ではない。即位して間もなく死んでいることである。そしてその後3代にわたり薄命な天皇が続く。つまり530年から550年までの混乱が問題なのであって、雄略の失脚から530年までは歴史上の空白と考えるべきであろうかと思う。

3と4の間には深く広い溝がある。
ここを埋めるものは3つある。一つは百済本紀である。一つは新羅本紀である。そしてもう一つが記紀である。
ここでは筑紫の君が登場し、蘇我韓子が活躍する。ともに九州王朝の幹部として戦っている。蘇我韓子が直接大和蘇我の祖となったのかどうかは不明だが、蘇我氏の超越的権威の背景となっていることは間違いない。



古本屋で吉田舜さんという方の「古事記は銅鐸を記録していた」という本を見つけ買ってきた。
吉田さんはまったくの市井の研究者で、おそらく退職金の一部をはたいて出版したのではないかと思われる。
中身をパラパラ読み始めたが、30年近くも前の出版で、申し訳ないが少々古い。
一応私なリに整理する。繰り返しが多いので、読み飛ばしていただいても結構です。

1.「銅鐸人」の正体は誰か
A) 銅鐸の使用年代
おそらく紀元前200年前後までは遡る。北九州に始まり徐々に西漸していった。
紀元250から300年位にかなり急速に使用されなくなった。尾張~遠江が最後に使用開始され、最後に中止された地域である。
B) 銅鐸は信仰と関わる用具であった
銅鐸はただ放棄されるのではなく、壊され埋められた。それと同時に銅鐸に関する知識もきっぱりと廃棄させられた。
これは異民族・異文明・異信仰による弾圧と考えられる。
C) 銅鐸人は現在の大和人とは異なる人種
銅鐸人は少なくとも大和王朝につながる人々とは文化的、宗教的に異なる人種である。
彼らは大和人に征服され、服従を強いられ、その文化・信仰を奪われた。ただし殺されたというエビデンスはない。
ここまではガチガチの事実として確認できるだろう。
D) 銅鐸人は稲作を営む青銅器人だ
水田耕作を営んでいる点ではまさに弥生人である。縄文人とも共生し混血していた可能性はあるが、縄文人ではない。
さらに青銅器文明を享受していたことを考えると、彼らが長江文明の流れをくむ渡来人であった可能性は高い。
異なる文明だからこそ破壊されたのである。

2.銅鐸文化を滅ぼした人々
銅鐸の衰退を“ニューカマー”の進出と重ねるなら、彼らは紀元前後に北九州に進出し、さらに200年をかけて山陰地方に拠点を形成しし、紀元300年前後に近畿を、その後の100年で北陸、東海、山陰、山陽を手中におさめたと考えられる。
彼らは朝鮮半島北部からの文化や信仰(天孫信仰)を持ち込んだ。とりあえず天孫族と呼んでおく。
A) 二波にわたる征服
紀元前100年ころに北九州に上陸したのは朝鮮南海岸から来た天孫族で、彼らは北九州を平定した。
おそらく紀元50年から100年の間に東海岸から天孫族の別部隊(新羅)がやってきて出雲から鳥取あたりに上陸した。
B) 新羅→出雲の天孫族の動き
スサノオ系天孫族は出雲から東に勢力を広げ、越前まで勢力を伸ばす一方、山陽に入り河内・大和まで進んだ。
彼らは銅鐸人の国を滅ぼし、逆らうものを殺し、信仰を抑圧し、みずからの文化を押し付けた。
これが纏向王朝で紀元250年ころ、九州王朝における卑弥呼の時代である。
スサノオ系の東方進出と出雲の国譲りとの前後関係はわからない。したがって因果関係もわからない。

以上の点を前提にした議論でないと、どこかに無理が出てくるからその分強引になる。




をご参照ください



下記の記事は、いずれ
2017年10月19日 「大阪と大大阪の歴史 年表」のページとドッキングささます。

時期不明 おそらく5世紀初め 仁徳天皇が難波津に難波高津宮を置く。

593(推古元) 厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺を建てる。飛鳥寺とほぼ前後。

595年ころ 最初の遣隋使が住吉津(難波津)を出発。

645(大化元) 大化の改新。孝徳天皇と中大兄皇子ら、都を飛鳥から難波長柄豊崎宮にうつす(前期難波宮)。蘇我残党の反撃を恐れたためか、あるいは西方との連携に活路を見出そうとしたためか。あるいは西方よりきたる蘇我援軍を迎え撃つためか。

740年 聖武天皇、一時難波京(難波宮)に都を移す。

754(天平勝宝6) 鑑真が難波津に到着する

1467 応仁の乱  細川の拠点となった堺が発展。明との交易も盛んとなる。

1496(明応5) 本願寺8世の蓮如が石山本願寺を建立。上町台地に寺内町がつくられる。

1532(天文元) 摂津・河内・和泉で大規模な一向一揆がおきる。この時期、石山本願寺の防御も飛躍的に増強される。

1550(天文19) 宣教師ザビエルが堺に上陸する

1580(天正8) 石山合戦。本願寺が織田信長との戦いに敗れ大坂を退去。寺内町は焼失する

1583(天正11) 天下を掌握した羽柴秀吉が大坂に入り、本願寺跡地に築城開始。上町台地から大阪平野にかけて城下町が開かれる。

上町台地下の低湿地に東横・西横・天満などの堀川を巡らせる。平野や久宝寺などから商人らがよびよせられ、大阪の原型ができあがる。

1615(元和元) 大坂夏の陣で豊臣氏が亡ぶ。

1619(元和5) 徳川秀忠、大坂を直轄地(天領)とし、大坂城を再建。城代・町奉行をおく。市街は北組・南組・天満組の「大坂三郷」に分けられ、町奉行の管轄のもとにおかれる。

江戸幕府は大坂を海運の要衝の地と定め、大規模なインフラ投資を展開した。河川の改修や堀の開削が行われ、水路が発達。さらに西方にも堀川が作られ開発が進んだ。「大坂は八百八橋、水の都」と呼ばれるようになった。

1600年台後半 船場、天満地区に市場が栄える。諸藩が蔵屋敷を置いた。蔵屋敷へは水路で年貢米が運ばれる。堂島米会所では世界で最初の先物取引が行われた。

経済的背景は二つある。一つは海上輸送を柱とする全国流通体系が出来上がったこと、もう一つは「大名貸」を頂点とするスーパー金融システムが出来上がったことである。この2つはいずれも大阪を中心として形成された。

大阪新田
     江戸時代の新田の開発


1688年 元号としての元禄はこの年から1703年までの15年間。

1703(元禄16) 人形浄瑠璃が隆盛期を迎える。近松門左衛門の曽根崎心中が初演される。

歌舞伎・浄瑠璃などの民衆芸能の中心は、京都から大阪に移る。また町人学者が生まれ、多くの私塾が建てられた。

1703年 関東で元禄地震。20万人が死亡。その4年後には東海地方中心に宝永地震、宝永山の噴火があり2万人以上が亡くなる。

1716年 徳川吉宗が8代目将軍となり、「享保の改革」を開始。元禄文化に終止符。

1730(享保15) 堂島の米相場会所が幕府公認となる。現米の受け渡しのない帳簿上の「差金決済取引」が行われる。

堂島の相場が全国の基準となった。今のロンドンのLIBORと同じだ。大阪は「天下の台所」として繁栄するようになった。多くの大名が蔵屋敷をおいて、米や地方の産物を運びこみ、お金にかえていた。

1837(天保8) 元町奉行所与力・大塩平八郎が乱をおこす

大塩は与力をやめて塾をひらき学問を教えていました。天保の大凶作に際し私財をなげうって貧民救済に当たりました。その挙句、「救民(きゅうみん)」を旗じるしに兵をあげました。

1838(天保9) 長崎から戻った緒方洪庵が適塾をひらく。

洪庵は江戸で4年、長崎で2年蘭学を学んだ(だけ…)。7年してから塾を大規模化。大村益次郎は直弟子で塾頭まで務めたが、福澤諭吉は小便程度。

1866年(慶応2年) 将軍家茂が大阪城に入り、長州戦争を指揮。間もなく家茂は死亡。

1868年(慶応4)1月 鳥羽伏見の戦い。敗れた将軍慶喜は船で江戸に脱出。 

1月 天皇が大坂入り。1年余りにわたり政務を執る。

1869年(明治2)3月 天皇が東京に向かう。大久保利通は大坂遷都を主張したとされる。

版籍奉還に伴い各藩の蔵屋敷が廃止される。「大名貸」の貸し倒れや地租改正により豪商の倒産が相次ぎ、大阪は衰退期を迎える。

1871年(明治4年)2月 造幣寮(造幣局)が開業する。

明治政府は兵器工場や兵学寮などを大阪に設置。これらを基礎に近代工業の知識や技術が広がる。

7月 廃藩置県。

1874(明治7) 大阪~神戸間に鉄道開通、大阪府の江之子島庁舎完成

1875年 大久保、木戸、板垣らが大阪で会談。政権運営について協議を行う。

1876 年 堂島の米相場会所が「堂島米穀取引所」と改称され、先物取引を世界に先駆けて開始。

1877年(明治10) 西南戦争。大阪は政府軍の最大の兵站基地となる。

1885(明治18) 大阪初の私鉄が難波~大和川間に開通

1889(明治22) 市町村制がしかれ大阪府管内の大阪市が創設される(堺も同時に市制施行)。この時の人口は47万人。面積は15平方キロ。一方、東京(都部)の人口は135万人。

1895(明治28年) 日清戦争が勝利に終わる。兵站基地の役割を担った大阪は工業都市として発展するようになり、この頃から「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになる。


1895年 別子銅山会社を基礎に住友銀行が創業。大阪を本拠地として急速に発展、三井・第一・安田・三菱と並ぶ五大銀行となる。

1897(明治30) 大阪市が第1次の市域拡張をおこなう。大阪築港の建設が始まる。

安治川口と木津川口から沖に向かって総延長10キロメートルの2本の防波堤をつくり、築港大桟橋を建設した。

1903(明治36) 大桟橋が完成。第5回内国勧業博覧会がひらかれる、巡航船・市電・民営乗合自動車が営業。

1918(大正7) 米騒動おこる

1920(大正9) 第1回国勢調査、市人口125万人、府人口258万人

1923年(大正12年) 関東大震災が発生。被災者の一部が大阪市など各地に転居。

1923年 大阪松竹座が完成。その後、四ツ橋に文楽座、31年に大阪歌舞伎座が完成。

1925年(大正14年) 第二次市域拡張。周辺の残余44町村全てを編入して大大阪市が成立。東京府東京市を上回り、世界各国の主要都市でも6番目に人口の多い都市となる。

ニューヨーク(597万人)、ロンドン(455万人)、ベルリン(403万人)、シカゴ(310万人)、パリ(290万人)です。この年東京の人口は214万3200人。

1925年 野村財閥の主軸として野村證券が設立される。

1928(昭和3) 大阪商科大学設立

1929 梅田で阪急百貨店が開業。梅田は元は「埋田」、湿地を埋め立てたところであった。

1930年(昭和5) この年の大大阪人口は245万人。世界大恐慌。線維輸出を主体とする大阪の経済は大きな打撃をうける。

1931年(昭和6) 大阪城天守閣再建、中央卸売市場ができる、大阪大学できる

1932年(昭和7年) 東京市は市域拡張(82町村編入)によって35区へ増加。大東京市(面積551平方キロメートル、人口497万人)が誕生。

1933(昭和8) 梅田~心斎橋間に地下鉄ができる

1937(昭和12) 道幅44メートルの御堂筋が完成。11年を要した。

1939 大阪府と東京府の生産額が逆転。以後その差を拡大した。原因は軍需の成長と民需の減少。

県別生産高推移1県別生産高推移sen
     府県別生産額の推移(縦軸は全国比%)


1939年 堂島米穀取引所、戦時統制の強化により廃止される。

1945(昭和20) 大坂空襲。焼夷弾攻撃により約21万戸の家が焼失、1万人以上が死亡、3万5千人が負傷。

10月 市人口は107万人、府人口280万人に激減。

1970(昭和45)  日本万国博覧会が千里丘陵で開かれる。この年泉北ニュータウンが完成。



大変よい本を読むことができた。と言ってもまだ読み始めたばかりなのだが…
題名は
片岡宏二 「弥生時代➖渡来人から倭人社会へ」雄山閣 2006年
というもの
以前から「北九州を語らずして弥生を語ることなかれ」と思っていたので、まことに的確な指摘が続き、心地よい興奮に襲われる。
面白いところを抜書きしていくことにする。

1.朝鮮系縄文人の認識

縄文人は、沖縄までふくめて全国的に均一で、おそらく北から渡ってきた人々(Y染色体ハプログループでいうとD系人)に由来するだろうと思われる。
しかし、朝鮮から縄文時代に渡来した人々(C系人)もかなりの割合でおり(人口の8~10%)、西日本および日本海側では少なからぬ影響を伝えている。
というところまではうすうすと分かっていたが、この本でかなりスッキリしてきた。

2.初期朝鮮系縄文人の遺物

片岡さんによれば朝鮮渡来の縄文人の遺物は少なくとも三種類ある。
① 結合針 これは二種類の骨片を繋ぎ合わせて一つの釣り針にしたものである。これが朝鮮海峡を挟んで両側から出土する。
② 黒曜石: これも海峡を挟んで両側から出土するが、原産地は佐賀県有田町の腰岳という山だそうだ。これが意味するのは、少なくとも縄文時代までは、大陸・半島・日本の関係は双方向性であり、上下関係ではないということだ。
③ 櫛目式土器: ポスト縄文というか縄文晩期というかそのあたりで櫛目式土器が出てきて、縄文土器と併存しているようだ。
これから分かることは、朝鮮系縄文は縄文後期に登場しているが、両者に敵対関係はなくあくまで併存関係だ。

3.朝鮮系縄文人と無文土器

弥生時代に先行する縄文時代後期を生きた人々を、我々は晩期縄文人と呼んできた。
朝鮮系縄文人は、時期的には晩期縄文人と一致する。
とりあえず同一の民と見て話を進めたい。
① 前期
朝鮮系縄文人の痕跡は紀元前1千年(3千年前)ころから出現する。
彼らの生活を象徴する前期無文土器は、半島中部に始まり、その後南に波及し、海を渡り西日本まで広がっている。
ただし日本においては、この無文土器は縄文土器と混在している。
北方系の農耕を営んでいたとみられるが、農耕を主体とするまでに至っていたかどうかは不明。
② 後期
ついで孔列文土器を使用する文化が半島から進入した。この孔列文土器旧型と新型に細分される。
日本における分布は、新型人が南九州(熊本・宮崎)に広く存在し、畑作農業を営んでいた。
一方旧型人は北九州に分布し、米作りを営む渡来人と重なっている可能性がある。
この地理関係は、新型人がまず九州に入り全土に展開。その後旧型人が北九州に入り、新型人を南に追い出したと考えるのが自然であろう。

4.旧型孔列文土器文化は渡来人のもの

紀元前200年から150年にかけて、朝鮮系の人々が急速に増加している。著者はこれを箕子朝鮮の滅亡と結びつけている。
金隈(かねのくま)遺跡の渡来人の墓地(支石墓)から渡来人の遺体136体が発掘された。
これから推計すると、弥生時代中期の福岡平野では、人口の8~9割が渡来人という計算になる。
福岡遺跡からは大量の無文土器が発見されている。その様式は完全な朝鮮式だが、原料の土は日本産である。
したがって同じ孔列文土器であっても、縄文系と弥生系でまったく異なる渡来人だった可能性がある。

かなり初見の事実が展開されており、正直のところ整序しかねている。もう少し同種資料を検索した上でコメントしたい。


ふと思いついて、「書いて置かなければ」と書いているがだいぶアルコールも入って、眠気も募ってきている。
思いつきというのは、大阪の繁栄は日本の中国進出を背景としているのではないかということである。
以前、明治維新というのは江戸幕府に対する関西の反攻ではないかと思いついて書いたことがあったが、それがあらゆる面から否定されてしまった、という苦い思い出がある。

たしかに要所要所で大阪は重要な役割を果たしてはいるのだが、長続きはしない。
元禄の頃、日本永代蔵という状況があって、大阪が日本の経済の中心ともてはやされた時代があった。近松とか西鶴、落語も上方優位だ。しかしそれは元禄の一刻であって、1800年代に入ると大阪は寂れ江戸は人口百万、世界最大の都市へとのし上がっていく。ところがそういうことは大阪の人は書かないから、いつまでも大阪が経済の中心地だと思ってしまうのである。

それが分かったのは堺市長選挙のときに、堺の勉強をしたからなのだが、明治の末まで大阪は堺の後塵さえ拝しかねないほどの落魄れであった。
それが大正に入ってから見る間に持ち直し、第一次大戦の後の糸偏景気で一気に日本のマンチェスターに上り詰め、東京と並び立つほどの勢いになったのである。
それを可能にしたのは中国貿易以外に考えられない。そのへんを少し数字で裏付けてみたいと思っている。秘密を解くカギは上海 にあるのではないかと見ている。

加藤哲郎さんの 「イラク戦争から見たゾルゲ事件」講演録 (2005年4月、日露歴史研究センター)

という文章が面白い。思わず「なるほど」とうなづけてしまうところがある。
1.コミンテルンとアメリカ共産党
中国・日本におけるアメリカ共産党の影響力はかなりのものだ。かつて党創立者とされていた片山潜はアメリカ共産党を最初のキャリアとしている。野坂参三も一時期はアメリカを根城に対日工作を行っていた。その他にも多くの実例をあげることができる。
「しかしそこには秘密がある」というのが加藤さんの意見である。
30年代のアメリカ共産党というのは、アメリカ政治のなかでは影響力を持たない泡沫政党でした。しかしコミンテルンの中で、一段と重要な存在になっていました。
それがなぜなのか、そこにゾルゲ問題をあつかううえでの勘どころがある。

2.コミンテルンとフロント組織をつなぐ結節点
加藤さんの判断として、アメリカ共産党はアメリカ労働者・人民の前衛政党としての側面の他に、資本主義体制におけるコミンテルンの“偽装出張所”(情報活動組織)としての側面を持っていたのではないかと考える。
この2つの側面を反映して、党内にも国内活動を主体とするフォスター派と国際活動を主たる活動の場とするブラウダー派に分かれ対立していたと言う。
加藤さんは、とくに汎太平洋労働組合(PPTUS)が、アメリカ共産党の東アジア連帯活動の中核を形成していたこと、それが国共合作崩壊後のコミンテルンの中国工作と完全に同調していたことを強調する。アール・ブラウダー書記長自身、党内の前職はPPTUSの上海駐在代表だった。
アメリカ共産党は、まるで人材派遣業みたいに、モスクワの必要と求めに応じて、党員を送り出しました。世界中どこへ行っても活動できる人材を、アメリカ共産党は、即座に供給することができたのです。
ということで、アメリカ共産党が自国の解放運動に責任を持つ階級政党と言うよりは、海外派遣社員のリクルート組織であった。そうなっていった二つの理由を示す。
一つは、現地で行われるどんな秘密活動にも参加できる、現地人と同じ肌の色のバイリンガルを供給できたからです。
30年代にはアメリカ共産党内に、一般細胞の系列とは別に、16の言語別グループがありました。アメリカ共産党日本人部は200人が組織されていました。
いま一つ、30年代米国共産党指導部はブラウダーら国際派が占めていたことです。国際的な人の派遣はニューヨークの党本部が直接タッチしました。
ということで、ブラウダー書記長が上海での国際活動についてコミンテルンと密接な連絡をとっていた証拠を明らかにしている。
「なぜか」という疑問には直接答えていないが、おそらく蒋介石の寝返り反共化の後、コミンテルンの中国での活動が困難になったからだろう。そのため任務のかなりの部分(とくに人脈作り)をアメリカ共産党に依存したのではないだろうか。
ゾルゲの1933年夏日本入国の際も、米国共産党が活動の詳細について指示をして、バンクーバーから横浜に入っている。
ということで、アメリカ共産党の日本・中国の階級闘争への関与はたんなる国際連帯ではなく、アメリカ共産党がコミンテルンに対して負った国際的任務の一つになっていたのであろう。
これが加藤さんの読みだ。

3.コミンテルンの偽装組織
たしかにそうだ。蒋介石の裏切りにより国共合作が失敗してから後のコミンテルンは、完全な手詰まり状態にあった。このときリベラルな装いで上海の政治シーンに登場した左翼外国人は、なんらかの形でアメリカ共産党(プロフィンテルン)の影響を受けていた。
それは蒋介石の恐怖支配、二度の上海事件と日本支配、そして日本軍による「租界」の閉鎖までかろうじて繋がれていく。
加藤さんは、ゾルゲと尾崎の出会いを “いつ、どのように” 問題に矮小化せずに、大きな文脈の中に捉えるべきだと主張しているのであり、たしかにそれは慧眼である。
その大きな文脈とは、コミンテルン→アメリカ共産党による現地ネットワークの形成であり、尾崎はそこに絡め取られた巨大な獲物であったということである。

4.スメドレー説を目の敵にする必要はない
加藤さんは学者だから、スメドレー説を許せないと考えているかも知れないが、ゾルゲが上海に来たときすでにスメドレーと尾崎は知己の関係にあった。それも相当の関係である。スメドレーが味方に引き込もうとしてもなんの不思議もない。
ゾルゲとスメドレーは同じフランクフルター・ツァイトゥングの特派員である。ただしゾルゲが身分を明かしていたかどうかは不明だが、ともにアメリカ共産党系のルートで動いていたと考えるなら、同志関係であることは気づいていたはずだ。
直でスメドレーが動いたのではなく、いったん情報をPPTUSに上げ、そこの判断でゾルゲに話を持ちかけたのではないだろうか。
そこが納得できれば、誰が動いたか、いつどこで会ったのかはどうでも良いことになる。

尾崎とゾルゲの出会いをいつ、だれがセットしたのか?
この問題はいまだ決着がついていないようだ。

1.加藤哲郎説

ウィキペディアのアグネス・スメドレーの項目は加藤哲郎の説を引用し、他説を否定する。
ゾルゲ裁判の判決では「スメドレーがゾルゲに尾崎秀実を紹介した」とされた。
ただし、実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣されていた鬼頭銀一であった。
尾崎は具体的に供述したがゾルゲが鬼頭銀一とのつながりを強硬に否定したために、最初の紹介者はスメドレーということに調書が統一され、裁判でもこれが採用された。
加藤哲郎の説は、『ゾルゲ事件 覆された神話』という本に記載されているらしい。(平凡社新書 2014年)
記事の脚注を見ると、記載のほとんどが同書によっているようである。ここでは加藤哲郎説と呼んでおく。

2.過大評価?
ウィキペディアのリヒャルト・ゾルゲの項目は、上海時代の記述はかなり粗っぽい。(東京時代は詳しい)
1930年に、ソ連の諜報網を強化と指導を目的として上海に派遣される。
半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つ。
ゾルゲ諜報団の日本人は、尾崎秀実、鬼頭銀一、川合貞吉、水野成、山上正義、船越寿雄であった。
スメドレーは尾崎秀実とゾルゲの橋渡しをしている。実際に二人の出会いに重要な役割を演じたのは、アメリカ共産党から派遣された鬼頭銀一である。
と、どうにでも取れる文章になっている。

3.いったいどっちなのさ?

両論併記なのはウィキペディアの尾崎秀実の項目も同じだが、もっと盛大にやらかしている。
常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。
南京路にある中華料理店の杏花楼で、二人は会った。ゾルゲはコミンテルンの一員であると告げ、協力を求めた。
実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸という運送会社に潜り込んでいた鬼頭銀一である。
鬼頭云々の記述の根拠は、スメドレーの記事と同じく加藤説である。
二人が初めて会ったのが常磐亭で、ゾルゲが打ち明けたのが杏花楼ということになるが、どうもちぐはぐだ。どちらかを採用してもう片方は参考情報として注記するというのが引用者のマナーだろう。

4.良い記事だが…
ウィキペディアにはもう一つ、ゾルゲ諜報団という項目の記事がある。こちらの方をゾルゲの記事にしたいくらい良くまとまった記事だ。
ゾルゲは中立国で連絡員として情報や資金の受け渡しに携わっていた。その合間に労働組合やイギリス共産党の内部事情を探り、兵器工場の稼動状況について報告した。
これが労農赤軍本部第4局局長のヤン・ベルジンの目に止まり、1929年にスカウトされ、本格的に諜報員としての訓練を受けた。
ベルジンは、中国共産党と中国国民党の対立構造、内部事情を調査するためゾルゲを中国に派遣した。
このとき「中国共産党との交渉は持つべからず」、「共産主義活動には従事すべからず」の2点を厳守するよう命じられる。
なおラムゼイは暗号名であり、上海での偽名はフランクフルター・ツァイトゥング特派員「ジョンソン」であった。
ゾルゲはもう一つの偽名、フランクフルト・アム・マインの『地政学雑誌』の特派員「ドクトル・ゾルゲ」を用い、蒋介石や何応欽などとの面識を得た。
ゾルゲは32年まで上海に滞在した後、いったんソ連に戻り、33年9月6日に横浜に上陸する。
以上が上海での活動の概要である。内容豊富である。しかし二人の出会いがいつ、どこでかは明らかにされていない。
なおウィキペディアにはゾルゲ事件という項目もあるが、逮捕劇以降に的を絞った内容。

5.鬼頭銀一という人物
グーグルで検索しても、鬼頭銀一の名を冠したファイルは見当たらないが、関連ファイルはいくつか見つかる。その多くが加藤哲郎論文の紹介である。
まず表題である「覆された神話」とは、誤った「伊藤律スパイ説」のことらしい。とりあえずそのことは保留しておく。
ついで鬼頭という人物が紹介される。
鬼頭銀一は1903年に三重県に生まれ25年にアメリカに渡りそこで共産党に入党、31年に上海で日本の特高に検挙されている。
その後は足を洗い、37年にかけて神戸でゴム製品商をしていた。37年には南洋パラオ・ペリリュー島で雑貨店を始める。
38年に訪ねてきた30歳前後の男に“ゆであずき”の缶詰をすすめられ、間もなく苦悶し息絶えた。遺族は、謀殺ではないかと疑っている。
引用はここまで。
結局わからずじまいだ。

不破倫三について

別にどうって言うことはないのかも知れないが、不破倫三という、不破哲三と似た名前の人がゾルゲ事件に(エピソード的に)登場する。

不破倫三も不破哲三同様に筆名であり、本名は増田豊彦と言う。
ウィキペディアによると、文筆家・ジャーナリストで(1900年5月22日 - 1974年7月11日)のあいだ生きていた。

1.増田豊彦の経歴

1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、設立されたばかりの高松高等商業学校の教授となっている。

1926年、労働農民党結成に参加し調査部長に就任した。1928年に同党が解散すると、ドイツ語文献の翻訳活動に没頭したようだ。
1931年、ベルリンに留学し、1932年、朝日新聞ベルリン特派員に採用され、帰国後に東京朝日新聞に入社する。

1934年、東亜問題調査会に配属され、ここで尾崎秀実と出会うことになる。
ただその後は左翼とは距離をおいたようで、終戦時には軍から委託されたジャワ新聞の社長として現地で終戦を迎えている。
戦後の活動にも取り立てて注目すべきものはない。

2.不破倫三の経歴

不破倫三は増田豊彦が左翼文献を翻訳・発行するにあたって用いた筆名である。由来はかなりはっきりしていて、レーニンの後継者と目されながらスターリンによって粛清されたブハーリンのもじりである。

あまりウィキを見ても判然としないが、翻訳の一覧を見ると、不破の翻訳のほとんどが1927年に集中しており、労農党の調査部長としての仕事をこなしていたものと思われる。

28年にヴァルガの経済学書を出版しているので、この頃から本腰を入れ始めたと思われる。

そのような経過の中で29年にリヒャルト・ゾンテル著「新ドイツ帝国主義」という本を翻訳発表した。ゾンテルというのはゾルゲの筆名である。
本

ドイツ語の原著が発行されたのが28年だから、えらく早い。この本に限らずドイツ語文献の翻訳出版はほとんど同時発表かと思うくらい早い。日本人の食いつきがいかにすごかったかが分かる。

3.ゾルゲとの接点

卒業したばかりで高松高商教授として赴任し、田舎暮らしを強いられた。漱石の坊っちゃんと似ていなくもない境遇だ。
そんなことで4,5年の鬱屈した生活を送ったあと、多分そちらの系統からは足を洗ったのであろう。
1930年ころのベルリンといえば、ドイツ共産党の鼻息がもっとも荒かった頃で、国崎定洞ら日本人学生のグループも活発に活動していたはずだ。
ゾルゲもモスクワを離れベルリンで上海行きの準備としていたのであろう。
しかし、前年まであれ程の翻訳活動をしていた増田が、ウィキで見る限りはまったく音無しとなっている。帰国後は東京で言論人としての活動を続けているが、なにか革新的なアクションを起こしている気配はない。
ゾルゲとは、尾崎秀実という接点があるが、尾崎を介してゾルゲと益田が出会ったという記録は残されていない。ゾルゲとの接触の可能性はあった。しかし、ゾルゲが「新ドイツ帝国主義」の著者リヒャルト・ゾンテルだと気づく可能性は限りなく低かった。
おそらく尾崎でさえ、ゾンテルがゾルゲであることも、同僚の増田が不破であることも知らなかったろうと思われる。

4.不破哲三と不破倫三

不破哲三の本名は上田建二郎である。同じ東大卒ではあるが、二人の間にまったく接点はない。

不破哲三本人は不破倫三の名を意識しているかどうかについて問われ、関係ないと答えている。
これはかなりウソっぽい。戦後、不破哲三が活動を始めた頃、巷間にまともな本はなかった。図書館にはさらになかった。古本屋を回っては戦前の著書を買い揃えるのが日課だった。

古本屋の店先で、絶対に不破哲三は20年前に出版された不破倫三の訳本を見ていたはずだ。

党に入るとみんなペンネームをつけるもので、それで一人前になった気がしたものである。
名前のつけ方はきわめていい加減、本名に似ていなければどうでもよいので、佐藤正とか鈴木一郎みたいにこの上なくありふれた名前をつける人もいれば、香月徹みたいなしゃれた名前にする人もいた(何故か北小路敏は本名)。私は若草薫だったが、これは駅前のパチンコ屋「若草」によるものだ。名字が若草なら名前は薫以外ないだろう、と気に入っていた。
不破さんは前に買った本の訳者のペンネームが気に入って、深い意味もなく拝借したのではなかろうか。

札幌も流石に暑くなり、調べ物をする気がしません。
フラフラと「ネット散歩」をしています。
今回は東京地図研究社のサイトで
というページを見つけました。多分社長さんの趣味のブログではないかと思います。
ざっと紹介していきます。詳しくお知りになりたい方はぜひ本文に回ってください。

1.谷は西日本、沢は東日本
谷状の地形を表す地名には「沢」と「谷」の2通りある。どこが違うかと言うと東と西の違いだ。
1/2.5万地形図に採用されている「沢」「谷」地名を県ごとに集計し、 その比率によって色分けをした。
谷と沢

東日本では「○○沢」が圧倒的に多く、逆に西日本では「○○谷」ばかりだ。
「沢」と「谷」を分ける境は、北アルプスの尾根に沿って引くことができるが、太平洋側では混在帯が存在する。
関東に「谷」の飛び地があることは、弥生人の集団移住があったことを示唆する。
中国以西の地域には「沢」や「谷」の地名がない地域がかなりあり、この地形に対する第三の呼称(渓や峡)があると考えられる。

2.東は縄文、西は弥生
その理由についてはまだ不明な点も多いが、縄文文化の影響を強く残す地域と弥生文化の影響が大きかった地域で 地名に差が出たともいわれる。
縄文文化は、 落葉広葉樹林の多い東日本を中心に発達した。 落葉広葉樹林にはドングリなどの木の実が多く、それが縄文人の主食になった。
また落葉広葉樹林は密林にはならないので、森に入っての猟(漁)がしやすかった。
西日本には照葉樹林(常緑広葉樹林)が広がっており、 密林化して人を寄せ付けない。そのため縄文人の数は東日本に比べはるかに少なかった。

3.弥生人の東方進出で状況は変わった
やがて西日本に稲作とともに弥生人が渡来してきた。彼らは、照葉樹林を切り開いて耕地にしながら、生活圏を広げた。
西日本の縄文人は、少数派として生きるための選択を迫られた。
徐々に弥生人と融合していくか。それとも山奥へと引きこもっていくかである。
一方弥生人にとって、「谷」は危険で近寄りがたい密林であった。


中核的事実は1.であり、2.と3.はその解釈である。
いろいろデータを眺めつつ、いろいろ思いを巡らせてみたが、結局断念した。これ以上分析しても、たいしたものは出てこないと思う。牽強付会になってしまいそうだ。

目からウロコの地名由来 というブログの「谷」と「沢」地名も参考にした。





この絵は四街道市役所のホームページから拝借したものである。
おそらく衛星写真に海抜20~30m位の等高線を重ね合わせたものではないかと思う。
市川=船橋以西はいじってないが、こちらにも同程度の海進があったものと想像される。
香取海
この「地図」を紀元前後の東関東だとすると、次のように言えるだろう。

東関東には鹿島神宮と香取神宮を両端とする巾着型の湾があった。これが香取海である。
これは鹿島側から南に伸びた砂嘴によってせき止められ、潟湖となった。
その時点では、印旛沼、手賀沼を中心に現在の霞ヶ浦・北浦を凌ぐほどの水面があったが、これらは鬼怒川・小貝川の沖積物により徐々に陸地化していった。

これらの陸地は土木技術の開発により新田づくりの対象となる。香取湖は岡山平野、河内湖、大和盆地、巨椋池、琵琶湖南岸、加賀平野につぐ潟湖干拓型モデルの最大のパイロット事業となったであろう。

造田工事には利水が必要で、利水は取水と排水に分かれる。泥状地を水田とするためには、自然利水とはまったくレベルの違う数年がかりの大工事となる。
そのためには一般的共同体ではなく、公費・労力の強制支出をともなう階級的共同体が求められる。
このような共同体を創出できたのは、武装共同を基盤とする天孫族社会のみであった。

初期の天孫族は越後から信濃を経由して群馬に入ってきた。いわゆる毛の君であろう。彼らはさきたま古墳群あたりを拠点にしながら干拓事業に勤しんだのであろう。

二つの可能性がある。彼らは九州王朝の臣下であり、ヤマト王朝の臣下ではなかった可能性がある。
もう一つは彼らは弥生人ではなく、縄文人を直接使役していた可能性がある。銅鐸文明の東端は加賀と遠江を結ぶ線であり、それ以東においては比較的まばらだったかも知れない。

ヤマトタケルの東遷は、さきたまの方角には向かっていない。真間から鹿島川をさかのぼっているのではないかと思わせる。
初期の大和政権の進出先は香取湖から常陸へと向かう。あたかも、さきたまや毛の君を避けているかのようである。
後になってだが防人の動員も常陸に大きく依存しているようである。

梅原猛氏の出雲王朝論
本を買うほどの気もないので、ネットの井沢さんとの対談を読ませてもらうことにした。
週刊ポスト2014年9月19・26日号

Q1 出雲王朝はどのような政権だったか?
A 『記紀』に述べられている神話はヤマト王朝以前に出雲王朝があったことを示している。
出雲王朝の祖先であるスサノオノミコトは、『日本書紀』によれば、朝鮮半島からやってきた。

Q2 出雲王朝はどのような王朝だったか?
A 銅鐸文化です。銅鐸は朝鮮半島の馬鈴が原型である。それが大きくなって銅鐸となった。

Q3 オオクニヌシの役割は?
A スサノオは出雲にやってきて出雲王朝を作った。スサノオの子孫のオオクニヌシノミコトは、近畿に進出して西日本を統一した。

Q4 ヤマト王朝との関係は?
A 西日本を統一した出雲王朝を、神武一族が滅ぼした。彼らは南九州からやって来て、出雲王朝を滅ぼして大和王朝を建てた。

Q5 銅鐸と銅鏡の関係は?
A 出雲王朝の信仰のシンボルは銅鐸であったが、ヤマト王朝においては銅鏡だった。銅鐸は破壊されてから埋められ、存在そのものを消された。それにより出雲王朝の権威は否定された。

Q6 出雲大社が存在するわけ
A ヤマト王朝は出雲王朝を滅ぼした。滅ぼされたものは祟るからそれを鎮魂しなければいけない。

これまで梅原さんの文章は読んだことがない。シロウトの言説をシロウトが読んでもろくなことにはならないと考えたからだ。
Q6はどうでもいい話だが、Q1~Q5までの5点はこちらもそう簡単には引き下がれない問題を含んでいる。


Q1については全面的に同意する。
ただし出雲王朝は九州王朝と同じ天孫族(騎馬民族)の末裔だ。衛氏朝鮮の血を引く扶余系民族(非ツングース系)で、おそらく韓半島南部の「高天原」から新羅方面に向かった支族の流れだろう。本隊は任那から対馬、壱岐と渡り唐津から上陸したのではないか。人種としての同質性は、後に神武と長髄彦との遭遇において証明される。

Q2については全面的に否定する。
出雲王朝(スサノオ・オオクニヌシ系)は徹底した反銅鐸原理主義者だった。
鳥取中~西部に2つの遺跡がある。ひとつは青谷上寺地(あおやかみじち)、もう一つは妻木晩田(むきばんだ)遺跡だ。2つは紀元0年から200年のあいだ、ほぼ同時に存在した。しかし遺跡のあり方はまったく対照的だ。
青谷上寺地は海に面し広大な田地を擁し、活発な海上交易を営んでいた。そこに暮らす人々は長江文明に端を発する弥生人であり、銅鐸文化を共有していた。妻木晩田は山城を構え戦闘態勢の中に生活していた。彼らの墓(方墳)は明らかに高句麗につながる北方系の特徴を示していた。銅鐸につながる遺物は見当たらない。両者は時代を共通していた。銅鐸文明圏に方形墓文化人戦闘集団が刺さりこんだと見る他ない。
紀元150年ころ、青谷上寺地は突如滅びた。数百体の虐殺された遺体が残された。妻木晩田はその後100年を繁栄のうちに過ごした後、徐々に力を失った。紀元250年ころにはほぼ生活跡が消滅した。山を降りたのである。
この2つの遺跡をどう読み解くかが、日本の前古代史のカギを握っていると私は思う。大胆に推測するなら、妻木晩田に暮らす出雲王朝系民族が青谷上寺地の銅鐸人(弥生人)を武力により支配するようになったのだと思う。
そのさい、天孫族(シャーマニズム)は銅鐸信仰(アニミズム)を危険視し徹底的に排除した。銅鐸に象徴される青銅器文明は、彼らには危険なほどに美しすぎたのである。この宗教弾圧は全国各地で展開され、「倭国大乱」を構成したのではないかとおもわれる。

Q3については一部について同意する。
スサノオは出雲にやってきて出雲王朝を作った。スサノオの子孫のオオクニヌシは九州王朝との戦いに敗れ、出雲を譲りディアスポラとなった。ただし出出雲と国譲りとの前後関係・因果関係は不確かである。別個に発生した可能性もある。
オオクニヌシ、あるいはその子であるオオモノヌシの時代、オデッセイたちは畿内に到達し、前大和王朝(あるいは後期出雲王朝)を建設した。3世紀後半、纏向王朝がこれである。
先住民である銅鐸人は天孫信仰を強制されるが生存は許された。畿内には銅鐸人とともにかなりの縄文人も暮らしており、これらが三層社会を構成した。
オオモノヌシは岡山・播磨を経由して河内・ヤマトに到達したと思われ、その間に児島湾の干拓事業などで大規模造田土木のノウハウを身につけたとみられる。

Q4については基本的に賛成。
神武一族が出雲王朝を滅ぼした。ただし滅ぼしたというのは正確ではない。支配が3階建てになったというだけの話だ。出雲王朝による現地人支配の枠組みはそのまま生き続けた。
現地人というのは弥生人である。それは長江からのディアスポラと縄文人の混血である。後着の天孫族が彼らの人口を上回ることはなかった。
神武系の支配は根付くことなく絶えた。10代目崇神天皇の出現により出雲系が完全復活し、実質的に九州王朝系の支配は絶えたといえる。ではなぜ九州王朝の後継を名乗ったか。それは九州王朝=倭国が桁違いの格上で、従属関係を継続するほうが得策であったからであろう。

Q5は基本的に否定する。
たしかに銅鐸は破壊されてから埋められ、存在そのものを消された。しかし銅鐸は長江文明の流れをくむものであり、出雲王朝は天孫信仰を旨とする集団である。妻木晩田の人々が青谷上寺地の人々を集団虐殺し、銅鐸文明を否定したように、近畿に進出した出雲王朝は銅鐸文明を葬り去った。そして神武のヤマト王朝はそれを引き継いだのである。
弥生人が銅鐸を信仰の対象としたように、銅鏡が1対1の照応関係にあるか否かは議論が必要だろう。銅鏡は中国文明との対応関係で問われなければならない側面がある。また、並行して銅剣の意味付けも必要になるであろう。いずれにせよ肝心なことは、銅鐸が異教の象徴として破壊され放棄されたことである。

ということで、梅原説は、既存の説に対するチャレンジとしては積極的なものがあるし、古代史学への挑戦の一つとしては評価されるものと思う。
ただ、すでにそういうレベルの話はとうに過ぎ去っている。現在の論争はより複雑かつ全体的な論理構築になっていると思われる。

おそらく「尾崎秀実の上海」を描くことは、上海の果たしたダイナミックな役割から見れば、その泡ぶくの一つを描写にするに過ぎないだろう。
それがいかなるところから、いかにして発生したかを書き始めると実施の筋書きの数倍に膨れ上がり、面白くもない物語になってしまうだろう。
それを面白いものにするためには、尾崎自身の行動に対する綿密な調査が必要であろう。その上で要領のいい刈取りとイメージの膨らませが必要であろう。
岩波新書の尾崎秀樹の「上海1930年」はその視点といい、事実の収集者としての資質といい、文句ないものである。
とりあえず、上海の外国人の動きを1930年を中心に前後数年のスパンで拾ってみよう。前提知識として中国人民族主義者や共産主義者の動きに関する知識、上海そのものの政治的・行政的・軍事的変遷についての知識、日本人の進出と侵略の経過についての知識が必要になるので、関係する年表をあたってもらいたい。

1925年(大正14年)
ウィットフォーゲル、「目覚めつつある支那」を発表。日本資本の紡績工場でのストライキより書き起こし、5.30事件を詳細に記録。
尾崎はこれを読んで中国に注目するようになった。
尾崎、東京帝大法学部から経済学部大学院に進学。唯物論研究会に参加し、大森義太郎に学ぶ。

1926年(大正15年)
尾崎、東京の朝日新聞社に入社。草野源吉の偽名で社会主義の研究会を開催。

1927年(昭和2年)
4月 上海に入った蒋介石のクーデター。国共合作が破綻し、左翼に大弾圧が加えられる。
10月 尾崎秀実、希望して東京朝日新聞の学芸部から大阪朝日新聞の支那部へ転勤。転勤後は大原社会問題研究所の「中国革命研究会」(細川嘉六)に顔を出すようになる。
27年 魯迅、上海に移る。
27年 スメドレー、精神的危機を克服。「女ひとり大地を行く」を著す(発行は29年)
27年 夏衍、帰国後中国共産党に参加、左翼文学芸術運動に従事する。

1928年
6月 蒋介石軍が北京を制圧。北伐が完了。北京を支配していた張作霖は満州に引き揚げる。
11月、尾崎秀実、朝日新聞上海通信部に赴任。3年余り上海に妻とともに在住。
12月 スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥング紙の特派員として中国に赴任。シベリア鉄道で満州に入る。
スメドレーはこの時点ですでに強固な共産主義者であり、なんらかのミッションにもとづいて行動していると思われる。フランクフルター・ツァイトゥングは左翼的な新聞で、共産主義者も多く参加していた。コミンテルンの隠れ蓑になっていた側面もある。

スメドレー旧居
スメドレーの住んだ上海のアパート このアパートの2階で住んでいた。大韓民国臨時政府旧址から西に300メートルほど。

エドガー・スノー、コロンビア大学の新聞学科を卒業した後、汽船のデッキボーイとして世界周遊に出る。上海に上陸し居つく。チャイナ・ウィークリー・レビューに就職する。この時点では共産主義とはまったく無縁の人。
スノーの『極東戦線』は大変な名文で、息も継がずに読み進んでしまう。「赤い星」についてはいろいろ意見もあるが、スノーが文章家であることは認めなければならない。

1929年
1月 スメドレー、張学良の支配する満州に3ヶ月間とどまり、日本の武力干渉の状況を記事にする。

5月ころ スメドレー、上海に移り、茅盾、魯迅、宋慶齢(孫文夫人)、蔡元培、林語堂、胡適などと交友を深める。

8月 尾崎、腸チフスに罹患。日本人の経営する病院で2ヶ月の入院生活を送る。

10月 中国革命互助会が結成され、共産党の支援に当たる。魯迅もこれに参加。左連の母体となる。

29年 スメドレーの自伝的小説「女ひとり大地を行く」が刊行される。表紙には美醜を越えた面構えの肖像写真が飾られる。のちに尾崎が邦訳を担当。

11月 自供によれば、尾崎がパレスホテルのロビーでスメドレーに会う。紹介者のワイテマイヤーは左翼系の「時代精神」書店の経営者。実際に「面白い女性がいる」と紹介したのは新聞連合の大形孝平だったが、尾崎はこれを伏せた。

11月 ゾルゲ、モスクワを発ちベルリンに向かう。その後マルセイユに出て日本行の定期航路に乗り込む。そのしばらく前に、自らの判断でコミンテルンから赤軍第4本部(情報部)に転勤している。

29年 中西功、上海の東亜同文書院に入る。中国共産主義青年同盟などに参加。42年にゾルゲ事件関連で死刑を求刑される。

1930年
1月 ゾルゲ、上海に到着。スメドレーと同じくフランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」を名乗る。ゾルゲ・グループを組織したのはスメドレーとされる。

2月15日 中国自由運動大同盟の成立大会が開かれる。魯迅、郁達夫、田漢、夏衍、陶晶孫、鄭伯奇らが指導する。

3月2日 左連が結成される。

7月 李立三の指導する長沙蜂起、南昌蜂起が失敗。この後蒋介石政権の弾圧が強化され、上海での活動は非合法も含め困難となる。

9月17日 フランス租界で魯迅の50歳の記念パーティー。スメドレーは開催に尽力した。初対面ではなかったとされる。

9月 河合貞吉が上海入り。田中忠夫、王学文らと中国問題研究会を組織。尾崎も運営に協力したという。

10月 尾崎によれば、このころ鬼頭銀一が接触を図ってきた。鬼頭はアメリカ共産党員で、太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸の上海支社に潜入していた。

11月 東亜同文書院で学生ストライキ。処分者を出すことなく要求を実現。

1931年 
1月 左連幹部5人が逮捕、虐殺される。尾崎、犠牲者の作品をふくむ「支那小説集 阿Q正伝]の発行に協力。白川次郎の筆名で翻訳を担当。

尾崎が外国人記者クラブでゾルゲと会見。



尾崎によれば調停役は鬼頭銀一であった。ただしゾルゲは明らかにしていない。

ニム・ウェールズ、ジャーナリストを志して上海に渡る。ユタ州の生まれでソルトレークの州立大学卒。政治的には無色。

1932年(昭和7年)
2月末 尾崎、大阪本社の命令により日本に戻り、外報部に勤務。
ゾルゲ、日本に活動の場を移す。職名はアムステルダム・ハンデルス・フラット紙の記者であった。
6月初め 宮城与徳が仲介し、日本に異動したゾルゲと尾崎が再会。尾崎は諜報活動に従事するよう要請を受け承諾する。コード名は「オットー」。
上海で「民権保障同盟」が発足。魯迅、宋慶齢、蔡元培、林語堂、胡適にくわえ、スメドレーも発起人となる。
エドガー・スノーとニム・ウェールズが上海で結婚。

1933年
5月 イギリス警察が「上海におけるソ連・スパイリスト」を作成。13人の名前にはスメドレーとゾルゲが記されている。スノーの名はなかったということになる。
9月 ゾルゲ、記者として来日。(このあたり引用文献により事実が錯綜している。この文章は相当怪しい。いずれ整理する)
スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥングからマンチェスター・ガーディアンに転籍。八路軍ゲリラを体当たり取材。『中国紅軍は前進する』『中国人民の運命』『中国は抵抗する』『中国の歌ご
え』などを立て続けに発表。
スメドレーの長征
     長征参加時のスメドレー
転籍の理由がよくわからないが、コミンテルンの統制を外れたのだろうか。

1934年 
10月 尾崎、東京朝日新聞に転じ東亜問題調査会に勤務。
エドガー・スノー夫妻、北京に拠点を移し中国共産党との関係を深める。
ニム
ニム・ウェールズ(本名ヘレン・フォスター・スノー)

1935年
ゾルゲ、いったん離日する。この間モスクワに戻ったらしい。

1936年
5月 ハロルド・J・ティンパーリ、北京から上海に移り、マンチェスター・ガーディアン紙の専従特派員となる。一時南京へ移動するが上海事変拡大に伴い上海に戻る。南京事件でのマギーの写真を広く流布する。

ゾルゲ、オットー独大使の私設情報官に就任。

鹿地亘、獄中転向の後上海に渡る。第二次上海事件を機に上海を脱出。重慶政府内で「日本人民反戦同盟」を結成。

1937年
4月 長谷川テル 中国人留学生と結婚し上海に渡る。その後重慶政府で対日反戦放送にたずさわる。緑川栄子のペンネームを用いた。夫妻の墓地は佳木斯にある。

1938年
カナダ人医師ノーマン・ベチューン、延安で診療活動を開始。ベチューンは臨床医として労働者の貧困に接し、共産党員として社会変革に参加するようになる。

1941年 

ゾルゲ事件が発覚。尾崎も首謀者の一人として逮捕される。

1944年
11月7日、巣鴨拘置所で両名の死刑が執行。


底本を間違えた。尾崎秀樹の「上海1930年」(岩波新書)という本は、まことにつまらない本で、一定程度の知識を持った人間には何の役にも立たない。その歯がゆったらしさにはイライラする他ない。
少し他の文献もあたった上でもう少しマシな年表にしたいと思う。とりあえず、中国共産党関係の歴史は毛沢東とそのライバルたちの年表を見ておいてほしい。


先程パーティーで、「ヒマというのはないものだ、しかし気持ちの余裕はできる」としゃべった。
みんながいまだに忙しくしているのを見て、若干肩身の狭い思いをして、しかしそれほど縮こまる必要もないと思って、酒の勢いでそうしゃべった。
その時、「尾崎秀実は“ヒマというのはないものだ。新聞を真面目に読むとヒマはなくなる”と、そう言っている」と付け足したのだが、さて歳のせいか、いつどうやって秀実が言ったのかが思い出せない。
そこで帰ってきてから本棚とにらめっこしていて見つかった。岩波新書の『上海1930年」という本だ。著者は息子の尾崎秀樹。

実は秀実が言ったのではなく、羽仁五郎の言った言葉で、しかもかなり秀樹の思いのこもった引用で、どこまで秀実がそう考えていたかは定かではない。
ただそれはどうでもいいことで、中身がいいから、私の頭の片隅に覚えていたのであろうと思う。
引用のレベルを越える可能性があるが、ご容赦願いたい。
 一高、東大と一緒だった森五郎は、しばらくハイデルベルク大学へ留学し、帰国後東大の国史科に入り直し、歴史研究にたずさわるようになっていたが、森姓から羽仁姓に変わった直後に尾崎は彼と会う機会があり、近く上海に特派されるという話から、中国へ行ったらどういうふうに勉強したらよいか、友達付き合いの気安さからたずねた。
 すると羽仁五郎は「新聞を読むことだ」という。
「もちろん新聞を読むのは、仕事のうちだから…」
「そうするつもりだくらいではだめだ。よく読めるようにならなくてはいけない」
「よく読めるようになるには、二、三年はかかるよ」
「いや二、三ヶ月でよく読めるようにならなければだめだ」
そういわれても、なかなかうまくいくものではない。尾崎は困って、
「じゃ、どうすればよいだろう」とあらためて聞いた。
「一日のうちで、いちばん頭の働きが良い時に新聞を読むことだ。大学を出た連中は、分厚い本を机の上にのせて読むのに、新聞は食事をしながら読んだりする。あれではだめだ。頭脳の冴えている一番良い時に、分厚い本のかわりに、新聞を机の上に広げ、赤と青の鉛筆を使って、一字一句考え、批判し、それが真実か嘘か見分け、前日の新聞や、これまでに知っている知識とも照らし合わせ、ノートをとりながら研究的に読むことだ。
 新聞を通して何が本当か何がウソかをはっきり考えることだ。日本がどう動くか、中国が世界がどう動いていくか、新聞はそれを動かそうとしているか、生きるか死ぬかの真剣な勉強として新聞を研究するのだ。
 こういうふうに新聞を素材として勉強すれば、二、三ヶ月で新聞がよく読めるようになる。そして、こうやって、新聞を読んで考えたことを、同じように新聞を真剣に読んでいる友だちに話し、彼らの考えを聞き、討論してみることだ。そうすれば世界の動きが次第にはっきり分かり、自分がどうすればよいか、明らかになる」
「一日のうちで」から後ろは、後年、羽仁五郎が書き記した「青年にうったう」という書物の中の言葉だ。尾崎秀樹の冴え渡るシームレスの筆運びに思わず引き込まれる。



プラハの歴史

6世紀後半 スラヴ民族がヴルタヴァ川河畔に定住。

623年 サモ王国の形成(30年ほどで滅亡)

9世紀前半 大モラビア国が成立

9世紀後半 プラハ城が構築される。

906年 マジャール人の侵入により大モラビア国が滅亡。

10世紀頃 ヴィシェフラト城が建てられる。2つの城に挟まれて街が発達する。

973年 キリスト教の司教座が置かれる。その後、度重なる戦渦により荒廃。

1198年 プシェミスル王朝が始まる。ボヘミアが世襲王国となる。

1346年 ボヘミア王カレル1世(ルクセンブルク家)が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となる。

神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸の整備が行われた。

1348年 プラハに中欧最古のカレル大学(プラハ大学)設立。ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市に発展。「黄金のプラハ」と形容される。

1415年 キリスト教改革派の指導者ヤン・フスが火刑にされる。
ヤン・フスは1370年生まれ、貧農出身でありながら学に優れ、プラハ大学の総長となる。穏健な改革派であったが、「贖罪状」販売に反対し政争に巻き込まれた。

1419年7月 ヤン=ジェリフスキーの「プラハ市庁舎での窓外抛擲事件」が発生。ヤンの組織した暴徒が庁舎に乱入し議員を窓から突き落とす。
ヤンはフス派の神父で、下層市民の立場からカトリックを非難し、実力行動を呼びかけた。

1420年2月 ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が「フス派に対する十字軍」を組織。フス派は貴族や庶民が団結し国民軍を作り上げる。
7月 ジシュコフの戦い。ヤン・ジシュカ将軍は、手銃と装甲馬車を用いて十字軍騎士による突撃戦術を殲滅。フス軍はその後も連勝を重ねる。

1431年 対フス派十字軍が襲来。ポーランド王国からフス派義勇兵6千人が支援に入る。西スラヴ民族がドイツ人に対し優位に立つ。

1433年 ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争。ボヘミアの義勇兵7千名が加わる。

1434年 リパニの戦い。フス派内のターボル派(急進派)がウトラキスト(穏健派)によって壊滅させられる。

1436年 バーゼル公会議。フス戦争が終結。

1439年 ポーランドがフス派への弾圧を開始。壊滅に追い込む。
この後半世紀にわたりハプスブルク家とスラブ・プロテスタント系貴族が覇権を争う。

1490年 ポーランド王家から送られたブラジスラフがボヘミア兼ハンガリー国王となる。

1526年 ポーランド、オスマン・トルコに大敗。ハプスブルク家によるチェコ王国の統治が始まる。

16世紀後半 ルドルフ2世の治世。芸術や科学を愛する王の下、プラハはヨーロッパの文化の中心都市となる。

1618年 プラハ城で「プラハ窓外投擲事件」が発生。三十年戦争に発展。

1620年 ビーラー・ホラ(白山)の戦い。チェコ貴族軍は皇帝軍に敗れ全滅。ハプスブルク(ドイツ人かつカトリック)の支配下に入る。

1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲される。

ヴェストファーレン条約が締結され、三十年戦争が終結する。王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減。
チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧を受け、2世紀以上にわたる「暗黒の時代」を迎える。

1781年 ヨーゼフ2世、チェコ人の人身隷属を廃止。しだいにチェコ人の文化的な再生運動が始まる

1848年 

3月 ドイツ2月革命に並行してプラハ市民による独立運動。

5月29日 プラハに仮政府が樹立。スラブ民族会議を開催する。

6月12日 プラハで急進派の暴動が発生。鎮圧されて革命運動は挫折する。

1867 オーストリア・ハンガリー帝国成立。チェコ人は強い不満をもつ。

1914年 第一次世界大戦勃発。独立派のマサリクが西ヨーロッパ亡命し、独立運動を開始。

1918年 第一次世界大戦終結に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が解体。チェコスロヴァキア共和国が成立する。初代大統領にマサリク。

1935年 総選挙。ズデーテン・ドイツ党が第二党に進出し、チェコ人とドイツ人との対立が深まる。

1938年 ミュンヘン会談。英仏伊独首脳はドイツのズデーテン併合で合意。ベネシュ大統領はロンドンへ亡命。

1939年

3月 ドイツ軍によって占領され、チェコスロヴァキアは解体される。

9月1日 第二次世界大戦開始。

1945年5月5日 プラハ蜂起。4日後に解放される。

戦後の動きについては、たぶん膨大になりそうなので、稿を改める。

1968年 プラハの春。

1989年 ビロード革命。共産党政権が崩壊する。

両方とも自家用車で行くしかないところですが、意外とネットでもしっかりした地図がありません。
そこで長雨の合間を縫って、行ってきました。

1.中国人慰霊碑(仁木)
nikitizu
   卍印のところが町営墓地でこの墓地の中に慰霊碑があります
国道5号線を余市方面から南下していくと、仁木の市街に入ります。
やがて、ちょっと見落としてしまうかもしれない信号があります。そこに仁木駅方面左折の標識があります。ここを曲がって1丁ほどで駅に突き当たります。この突き当りを右に(南方向)に曲がって1丁ほど行くと左に踏切があります。このとき右前方には仁木町の役場が見えます。ここで左折して、踏切を渡ってそのまま真っすぐ東に向かいます。
300メートルほど進むと交差点があるので、そこを右に曲がります。曲がらないで直進すると鳥居にぶつかります。これが仁木神社になるようです。右折して200メートルするとまた交差点があるので、今度はそこを左折して山の方に入っていきます。ここが仁木の町営墓地の入口でちょっとした高台になっています。要するに神様と仏さんが隣り合っていることになります。
何回も曲がる道筋で面倒に見えるが、途中にランドマークがあるので迷わないと思う。もちろん自信があれば最少の右左折で行っても構わないです。
墓地の中ほど、朽ちかけた廃屋があり、これが地図の卍印の元になったお寺ではないかと思われます。さらに坂を登っていくと、進行方向左側に下記の写真の塔が見えてきます。これが慰霊碑です。郭沫若の文章が彫られた石碑がありますが、読めません。説明板は見当たりません。
中国人慰霊碑
             中国人慰霊碑(仁木)

2.劉連仁記念碑(当別)
劉連仁tizu
             劉連仁記念碑(当別町)
この記念碑は当別の市街から離れて、かなりわかりにくいところにあります。周辺にこれと言ったランドマークもありません。
多分下記のアプローチが一番わかり易いと思います。
札幌から国道275号線で当別に向かう。この国道は市街に入る直前で右折して月形方面に行ってしまうから、右折せずに真っ直ぐ進みます。この道は橋を渡ると市内中心部になり当別駅で行き止まりになります。
そこまで行かず、橋から2つ目の信号を左に曲がって、そのまま市外まで出てしまいます。
札沼線の踏切を越えてしばらく行くと、田んぼの中を一直線に北進する通りがあるので、そこを右折します。
この道は3キロほどでT字路に突き当たる。ここを左折し西北方向にしばらく走るとやがて山麓に到達し、ふたたび三叉路が現れる。ここをまた左折して、しばらく走る。やがて右側(山側)に記念碑が現れる。地図にでマークしたところです。ほかにものらしいものはないので、「劉連仁記念碑」と書かれた道標を見損なうことはないでしょう。
劉連仁記念碑

2つの丘の間のちょっとした幅の沢になっていて、いかにも隠れ住むには格好の場所とうかがわれる。ここで劉連仁を保護したのが共産党員農民の今野さんだ。その今野さんの息子さんが中心になって記念碑建立を発議した。記念碑は仁木の記念碑がそっけないのに比べ、なかなか芸術的だ。
劉連仁記念碑2
中の空洞を覗き込んでみると丸みを帯びたかなり大きな石球が置かれています。おそらく沢の斜面に壕を掘って住んだ生活を象徴したのでしょう。たしかに言葉に勝る造形だと思います。

どちらもあまり人が訪れることもないのだろうが、やはり説明を書いたプレートがほしいね。これからはひょっとして中国人客が来るかも知れないし…

刀伊(とい)の入寇

すみません。こんなこと、まったく知らなかった。
たしかに高校時代日本史は選択していなかったのだけど、それにしても、名前さえ聞いたことがなかったという不勉強には、ひたすら頭を下げるほかない。

とにかくまずは年表形式で事実をさらっておく。

1019年 刀伊という海賊集団が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した。

というのが中核的事実である。

出典はそのほとんどが『小右記』によるものである。これは藤原実資という朝廷幹部の日記である。この日記に刀伊の襲撃に一部始終が書き込まれているのだが、その情報は太宰府に在任し戦闘を指揮した藤原隆家という人物の作成した報告書の要旨である。

資料的には裏付けの取りにくい事件であるが、話としてはすなおで無理がなく、ありうる事件だろうと思う。
第一に、当時、高麗と遼(契丹)は戦争関係にあった。女真族は渤海湾沿いに居住し契丹と臣属関係にあった。反高麗の立場から陽動作戦を志向することはあり得た。
第二に、高麗は新羅の後継国であり、日本にとっては馴染みの国である。女真族との見分けは対馬や壱岐の住民にとっては容易なことである。
第三に、一国の軍隊の行動と海賊の行為の差は明白であり、刀伊の行動が野蛮人のそれであることも明白である。

年表ではこれよりもう少しさかのぼって、刀伊を生み出した朝鮮半島の政治情勢を探っていこうと思う。

「とうい」はもともと中国語の「東夷」であり、本体は満洲に住む女真族とされる。これが高麗語に取り込まれ、さらにこの「とい」に日本で文字をてたときに刀伊と表現されたという(Wikipedia)




10世紀 満州のツングース系民族、女真の名が文献に登場。多くの部族に分かれ、国家としては統一されなかった。
当初より遼(契丹)に従っており、中国化の度合いによって熟女真と生女真の2大集団に分かれる。926年 契丹が渤海に侵入し東丹国を立てる。このあと渤海の国域に女真族が進出。(定安国→後渤海国の話は省略)
契丹
           wikipedia より
936年 高麗が、新羅を倒して半島を統一。

993年 契丹が高麗に侵攻。高麗は宋とは断交し、契丹に朝貢することになる。和議の条件として鴨緑江以南の女真族居住地を高麗のものとすることが認められる。

994年 高麗が女真を排除し江東6州(現在の平安北道領域)を占領。(なぜここに女真族がいたかは不明)

1004年 契丹(遼)、北宋の朝貢を受けるようになる。中央アジアまで勢力を伸ばす。

1005年 女真による高麗沿岸部への海賊活動が始まる。

1009年 高麗の内紛。これに契丹が介入し、首都開京を占領。

1018年 契丹、江東6州の割譲を求め高麗侵入。高麗軍はこれを撃退する。

1018年 女真海賊、鬱陵島(于山国)を襲い滅亡に追い込む。海賊は高麗水軍に追われ南下したものとみられる。

1019年

この頃、新羅や高麗の海賊が頻繁に九州を襲っていた。

3月 刀伊、50余隻の船に乗り込んだ約3,000人で対馬海峡をわたる。
賊船の大きさは10~20メートル。一艘の船に漕手が30~40人。乗船員数は30~60人。

3月27日 刀伊が対馬に上陸。島の各地で殺人や放火を繰り返す。国司の対馬守遠晴は脱出し大宰府に逃れる。
対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人。銀の鉱山が焼き払われた。

4月 刀伊、壱岐を襲撃。国司の壱岐守藤原理忠の部隊と対決し撃滅。

山野を駆け巡り、牛馬家畜を食い荒らし、人家を焼き、穀物を奪った。捕らえた老人子供は殺し、壮年は船に追い込んだ。
殺害された者365名、拉致された者1,289名。残りとどまった住民が35名に過ぎなかったとされる。

4月7日 襲撃の報を受けた太宰府の権帥藤原隆家は、各所に防衛線を敷く。兵の実体としては九州武士団の連合軍であった。(隆家は反道長派の大物で、大宰府に身を引いていたと言われる)

4月8日 刀伊、九州本土の怡土郡、志麻郡、早良郡を襲う。(福岡市西部から糸島市にかけての地域)防衛隊の反撃にあい、いったん能古島に引き揚げる

4月9日 刀伊、早朝に上陸し筥崎宮の警固所を襲撃。隆家軍本隊の前に撃退される。

4月10日 強風と波浪により海賊の動きが止まる。この間に隆家軍は軍勢を強化。

4月11日 刀伊、三度上陸し博多を攻撃。隆家軍の前に生き残り二人を残し全滅。残存部隊は博多攻撃を断念し撤退。

4月13日 刀伊、肥前国松浦郡を襲う。前肥前介の源知(松浦党の祖)軍が捕虜一人を残し殲滅。

4月17日 朝廷に刀伊襲撃の報が届く。朝廷は厳戒態勢を発令する。

4月 刀伊、日本から撤退したあと、高麗沿岸各地を襲撃。最終的には高麗の水軍に撃滅される。刀伊に拉致された日本人約300人(うち対馬出身者が270名)が高麗に保護され日本に戻る。

6月29日 大宰府が勲功者リストを提出。朝廷は勲功を与える必要なしという判断を下す。

承平・天慶の乱への対応に追われていた朝廷は、魏駅進入の危険に対して何ら具体的な対応を行わなかった。藤原隆家らにも何ら恩賞を与えなかった

7月7日 対馬判官代長嶺諸近、高麗に密入国し情報収集。日本襲撃が刀伊によるものであることが判明。

9月 高麗虜人送使が保護した日本人270人を送り届ける。大宰府はその労をねぎらい、黄金300両を贈った。

1115年 阿骨打、女真の統一を進め金を建国。遼から自立する。やがて金は、遼と北宋を滅ぼし中国の北半分を支配するに至る。

1125年 金が宋と結び遼を挟撃。遼は滅亡し多くが金に取り込まれる。

1220年頃 日本海側沿岸部の女真族集団集落、モンゴル帝国軍によって陥落する。

アイヌ民族の歴史年表 を更新しました。
今回の更新は中路正恒「古代東北と王権 日本書紀の語る蝦夷」(講談社現代新書)から引用した材料です。
年表の最古層を形成しています。量はあまり多くありません。年代も含め史実と思しき部分のみ採用しています。
まだ東北蝦夷の年表と分離できていません。ほぼほぼ紀元1千年くらいまでは東北蝦夷の話と思ってください。
  


「日本人はどこから来たのか」
海部陽介著 文藝春秋社 2016年

この手の本としてはきわめて新しい。ほとんどの本が2003~2005年に集中して出版されて、その後はほとんど新たなものが出てこない。
そういう意味では干天の慈雨的なありがたみを感じる。
文章はきわめて明快で割り切った書き方になっている。分かりやすいといえば分かりやすいのだが、「そこまで言って委員会」的な雰囲気も漂う。
とくにY染色体ハプロについてまったく触れられないのは奇妙な感じがする。この分野の蓄積がこの15年間、まったく止まっているのも気がかりである。

問題意識は日本人だけでなく、アジア人がどこから来たのかにあるという。
とくに欧米での通説が南方由来説一辺倒になっていて、ゲノム分析以前の日本での研究蓄積が示す北方由来説を無視することに異議を唱えている。

第二には、4万8千年~4万5千年前にペルシャ湾岸から西方、北方、東方へ一斉に人々が進出したというビッグバン説と、それに1万年遅れで日本をふくむ東アジアへの人口進出があったという説とを一連のセットとして見る考えだ。

これについては同感である。

さらに2万年前ころにおそらく南方から漢民族や長江人につながる人々が進出したこと、その中でより北方に進出した漢民族が長江人を駆逐し中原を支配したこと、追われた長江人が日本に逃れ縄文人と混血して日本人を形成したこともおそらく同感できるのではないか。

次に日本人の3つの源流ということだが、海部さんが力を入れていると思われる南方ルートは、港川人などが現代沖縄人とつながっている根拠が乏しいので、現時点では「かつて住んでいた人」という扱いになるのではないか。

海部さんの説では最初に列島入りしたのは朝鮮半島経由の人々で、3万8千年前。そのあと北から入ってきたということになっているが根拠は不明。

3ルート

ツングース系(YハプロのC1系)の人々が対馬海峡を越えて西日本と日本海沿いに分布したことは間違いないのだが、それが樺太経由の縄文人(D2系)に先んじていたかどうかはわからない。

海部さんの本では根拠が示されていないと思う。


陸軍秋丸機関による経済研究の結論」 牧野邦昭(摂南大学)

1.秋丸機関の結成
太平洋戦争前、「陸軍秋丸機関」と呼ばれた組織が存在した。正式名称は「陸軍省戦争経済研究班」である。

陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐を中心に組織された。

ノモンハン事件での敗戦をきっかけに、英米との戦争の経済的分析と研究を進めることを目的とした。

運営にあたったのは秋丸次朗主計中佐である。東京帝国大学経済学部に聴講生として派遣された陸軍主計官が主体となった。

秋丸中佐はブレーンとして経済学者を集め、「仮想敵国の経済戦力を詳細に分析・総合すると共に、わが方の経済的持久度を見極め」ることを目標とした。

学者グループの中心となったのは有沢広巳で、他に武村忠雄、中山伊知郎、宮川実などが集められた。

有沢や中山らにとって秋丸機関での研究は戦後に大きく役に立つものとなった。


2.秋丸機関の活動 

1940 年冬、参謀本部は 1941 年春季の対英米開戦を想定した物的国力の検討を要求した。

1941年1月、陸軍省整備局戦備課は秋丸機関の研究をもとに、

「短期戦でかつ対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は可能である。しかしその後の国力は弾発力を欠き、大なる危険を伴う」と回答する。

6月6日には秋丸機関や三菱経済研究所の研究をもとに「対南方施策要綱」を策定。「綜合国防力ヲ拡充」することを目的とする。

7月に入って陸軍首脳への説明会が逐次開かれた。報告書は『英米合作経済抗戦力調査』と題されている。
『其一』、『其二』に分かれ、前者はマクロ経済分析、後者は対外関係、地理的条件、人口、各種資源、交通力や輸入力、経済構造と戦争準備、生活資料自給力、軍事費負担力、消費規正与件などの各論となっている。


3.秋丸機関の出した結論 

①アメリカの生産能力

米国の石油供給は英国の不足を補つて尚ほ余りある。
軍事物資全体で見ても、一年後にはイギリスの供給を賄い、さらに第三国向けに80億ドルの供給余力を獲得する。

②イギリスの戦闘力
イギリスは海上輸送力が致命的弱点となり「抗戦力ハ急激ニ低下スヘキコト必定」とされる。
またアメリカを速かに対独戦へ追い込み、経済力を消耗させるのも有効である。

③ドイツの戦闘力
この部分は非常に面白いので、後ほど改めて紹介する。

4.秋丸機関の歴史的性格
秋丸機関の結論は国策に沿ったものであり、進歩的性格はまったくない。
秋丸機関の研究は目的合理性を徹底的に追求するものであったが、戦争という目的そのものを疑う存在ではなかった。

5.ドイツの戦闘力

判決一

独逸の経済抗戦力は四二年より次第に低下する。
ナチス政権誕生時には多くの失業者と豊富な在庫品が存在し、企業の操業率は低かったが、…遊休生産力を活用したことで生産力は急速に拡充し、完全雇用に達し生産
力は増強されなくなった。
現在は過去の生産による軍需品ストックに頼っているが、来年からは枯渇し、経済抗戦力は低下せざるを得ない。

判決二

独逸は今後対英米長期戦に耐え得る為にはソ連の生産力を利用することが絶対に必要である。
従つて独軍部が予定する如く、対ソ戦が二ヶ月間位の短期
戦で終了し、直ちにソ連の生産力利用が可能となることが求められる。
もしそれが叶わずに長期戦となり、その利用が短期間になし得ざるならば、今次大戦の運命もおのずから決定される。
対ソ戦は徒に独逸の経済抗戦力消耗を来たし、来年度以後低下せんとする抗戦力は、一層加速度的に低下する。
その結果、、対英米長期戦遂行が全く不可能となり、世界新秩序建設の希望は失はれる。

「判決三

もしソ連生産力の利用に成功したとしても、未だそれだけでは自給態勢が完成するものではない。
南阿への進出と東亜貿易の再開、維持を必要とす。



日米開戦に至る経過を日大のアメフト騒動と重ね合わせながら考えている。
暴力が発生し容認されるには3つの段階が必要だと思う。
①まず最初は、民主主義の否定。異論の封殺による批判の自由の喪失である。
②ついで、権力構造が変質する。リテラシーが低下し人脈支配がはびこる。
③そして最後に、歯止めを失った権力者が暴走し、暴力へと国民を導く。

①異論の封殺による批判の自由の喪失
おそらく1933年が画期となろう。多喜二の虐殺に始まり宮本顕治ら共産党の幹部がほぼ一網打尽になった。その後もリベラル派の人々による抵抗は続くが、罰せられないテロにより容赦なく潰された。
②軍(統制派)の唯我独尊化
多少なりとも自由な発言は36年の2・26事件で不可能となった。軍の統制派が戒厳令のもとに参謀本部独裁体制を敷いた。永田戦略は中国進出であったから、戦線は停止するどころか一層拡大した。天皇の名のもとに権力を握ったゆえに、皇道派を上回る「皇道派」となった。
③軍の狂気化と常識派の壊滅
39年9月の欧州大戦勃発、三国同盟などありつつも常識派(民主派でもなければリベラル派でもない)が2年にわたり対米非戦の線を死守した。しかしその間に軍部の「狂気化」はますます進行し、誰にも手がつけられなくなった。そして8月の南部仏印進駐とアメリカの石油禁輸が引き金となり、9月御前会議での「国家の狂気化」に結びついた。狂気化過程での海軍の跳ね上がりは火に油を注いだが、火元ではない。
④常識派の最後の抵抗
10月、東條新政権での9月決定の見直しは、常識派の最後の抵抗(天皇の意向を背にした可能性がある)であったが完璧にスルーされた。ハル・ノートはその結果であり原因ではない。最後の可能性があったとすれば東條による粛軍であったろうが、東條自身の思想からは到底考えられない。
⑤日米戦争回避の3条件
中国人民からは到底認められるものではないにせよ、蒋介石政権は満州国を容認した。欧米列強も黙認の方向へ動いていた。ノモンハン後のソ連との関係が残ったが、満州は戦争の火種とはならなかったであろう。
しかし上海事変から南京政府に至る過程は、列強にとって看過しがたいものであった。したがって中支からの日本軍の撤退、重慶政府の承認は日本にとって避けがたいものであった。
南部仏印進駐に至ってはまさに狂気の沙汰である。援蒋ルートの遮断という理屈はもはやない。ここにいたり、日本の戦略は一変し暴走を始めた。
海を超えインドネシアに進出しその石油を確保するのが狙いということは猿でもわかる。その際打倒すべき敵はオランダということになる。これは南シナ海を挟んだフィリピンを領土とするアメリカにとって決して対岸の火事ではない。
したがって緊急度順に並べて
①南部仏印撤退(これはほぼ無条件)
②中国本土(満州を除く)からの撤退(少なくとも撤退の意思と時刻表の提示)
③重慶政府との交渉開始(南京政府との“統合”をふくめ)
はどうしても決断しなければならないのである。


文献を探していて、面白いサイトにぶつかった。
その中の一編「第34回 日米開戦へ ハル・ノート」と題されている。


もちろん原著にあたってもらえべよいのだが、このページのなかの一部、
東條内閣が発足して、「国策再検討会議」が開かれたというくだりに興味がそそられる。
この会議は「大本営政府連絡会議」という形で10月23日から30日までぶっ通しで開かれたらしい。
ここは別途紹介する価値があると思い、引用させていただく次第である。

1.なぜ会議が組織されたか
東條は開戦派の一員と目されていた。木戸は東條に組閣させるにあたり、9月6日の御前会議の再考を促した。そしてそれが天皇の意向によるものであることを強調した。
いわば「毒をもって毒を制する」以外に日米開戦の回避策はないと考えたようである。

2.会議の始まり
第1回会議(23日)
永野(海軍軍令部総長)は「海軍は1時間当たり400トンの油を無為に消費している。検討会議は簡単明瞭に」と発言。
杉山元(陸軍参謀総長)も「4日も5日も、研究ばかりして費や
せない。今すぐ前進しなければならない」と語った。
ここで東條が統帥部を抑える発言。「統帥部が急いでいるのはわかるが、政府はもっと慎重に、責任ある態度で決定したい。統帥部はこれに反対するのか」

これで会議は本題に入っていくことになる。

3.会議の最初は欧州戦局の見通し
6月の独ソ戦勃発当時の判断は楽観的すぎた。修正が必要だ。
との提起があり「欧州戦線は当初見込みより長期戦になる。独軍の英本土上陸作戦も当分は行われないだろう」と修正された。
しかし「独軍優勢」は変わらず「ドイツ不敗」とされた。

4.日本の石油受給の判断
まず石油受給見通し。
石油貯蔵量は840万トンに達している。
海軍が作戦行動をすると2年間でストックを使い切る見通し。
それに対する対策がひどい。思わずため息が出る。
「スマトラ、ボルネオの蘭印油田地帯を確保する以外に対策はない。それには即時開戦するしかない」
これはかっぱらい・強盗の論理だ。論理破綻を破綻とも思わないほどに愚昧化している。

5.悲惨な輸送力見通し
ついで企画院が輸送力に関する報告を行った。
民需用として最低300万トンの船舶があれば、供給量を確保出来る。
船舶消耗を年間100万トンから80万トンと推定する場合、60万トンの造船能力があれば、300万トン保有は維持可能だ。
緒戦の確実な戦果を活用すれば、座て相手方の圧迫に耐えるのに比べ有利と確信する。
海軍はこれに勝る楽観的見通しを述べた。
船舶消耗は1年目で70万トン、2年目60万トン、3年目40万トン、これに対し造船能力は各40万、60万、80万トンと増加、ゆえに「戦争に耐える国力の維持は可能」なのだそうだ。
「米国は潜水艦を大量に建造して広範囲に活動するだろうから、戦争が進むに連れて被害は増えていくと思われるが…」
「米潜水艦に対しては、十分手当の方法を考えているから心配はない」東郷もそれ以上追及の方法もなく、そのままとなった。
実際には戦争1年目から130万トンが消耗、2年目には179万トン、3年目には378万トンに達した。
南方の石油は1700万トン採掘したが、内地に輸送できたのは550万トンにとどまった。
この実績は、実は海軍自身が予測していたものだ。
10月6日の陸海軍局部長会議で、海軍軍令部の福留作戦部長はつぎのようにかたっている。
南方作戦二自信ナシ。船舶ノ消耗ニツキ戦争第1年度ハ140万トン撃沈サレ、戦争第3年ニハ民需用船舶皆無トナル。自信ナシ。

6.東郷外相の感想
東郷が驚いたのは正確な統計資料の不足。作戦上のことも兵力量など一切秘密。仮定の上に立って検討を進めることになり、それも軍部から「大丈夫」と言われれば反論する材料もなく、沈黙するしかなかった。

危機管理では「マイナス情報重視」が鉄則だが、主観的な数字や甘い判断が混在したのではないか。
精神主義的な開戦論が幅をきかし、物的国力は真剣な論議にはならなかった

日米開戦と軍部

右翼系の人が日米開戦論を書くと、かならずこの3点が引っかかる。
開戦に至るプロセスを詳細に見ても、人の顔が見えてこない。いつ、誰が、どういう理由で、何を目的として開戦を決めたのかは、いまだに不明のままだ。
第一は戦争に突入した理由をあれこれ並べ立てるが、それらの理由によってメリカとの戦争を始めた理由を合理化できるのか、ここが最後までウヤムヤなのだ。
それらは戦争に至った言い訳にしか聞こえず、戦争をやってはならない理由にしか聞こえない。
もう一つは、誰それは実は戦争回避派であったというのが延々と続くが、それじゃ開戦を推進したのは誰かと言うと、これもまた最後までウヤムヤなのだ。
三番目には東京裁判が間違いだというのはルル述べられるが、東京裁判が間違いだとして、それでは日本を悲惨な戦争に追いやった責任は誰がとるべきなのか、この点についてもさっぱりわからない。
やはり自分なりに事実を点検していかないとだめだなと思っている。
それにはあまり長いスパンは必要なく、昭和16年の初頭からで十分ではないかと思う。
それと、陸軍の動きを中心に据えない議論は参考にすべきではない。戦争に突っ込んでいく先頭に立ったのが陸軍であるのは間違いないからだ。
どうも余分なトリビアル情報が多すぎる。しかも「こちらが正しければあちらが間違い」と言うような情報が飛び交っている。それなのに軍の大本営や参謀本部、陸軍省で何がどう決まっていったのかはさっぱりわからない。思ったより手強い仕事になりそうだ。


昭和16年における日本経済
1940年の実質GDPは、日本が2017億ドルで、米国は9308億ドル。特に軍事力に直結する粗鋼生産量は日本の685万トンに対し、米国は約9倍の6076万トン
石油 日米比

主要輸出品は生糸だったが、96%が米国向けだった。代わりに輸入した米国産綿花を織物などに仕立て、英領インドやオーストラリアなどに輸出。その利益を重工業化に必要な機械類、鉄鋼などの購入に充てていた。

2月11日  野村吉三郎元外相が駐米大使として着任。近衛首相は野村大使を中心に日米交渉に動く。
日本案は
①三国同盟にもとづく参戦はドイツが米国に攻撃された場合のみ
②中国が満州国を承認すれば日本軍は撤退
③米国の仲介による日中和平の実現
アメリカ側は『内政不干渉・領土主権尊重・市場経済の機会均等・現状維持』のハル四原則を示したと言う
4月12日 松岡外相とスターリンとの会談が実現。日ソ不可侵条約の締結。
二正面作戦を避けたいソ連と、南進のために二正面作戦を避けたい日本との奇妙な妥協といわれる。
4月16日 日米諒解案が作られる。この前提でアメリカが日華関係の斡旋に乗り出すとされる。
1.日華協定による日本軍の中国撤退、2.中国の満州国承認、3.蒋政権と汪政権合体を骨子とする。アメリカ国内の論調は諒解案よりはるかに厳しいものだった。
4月 松岡外相、三国同盟の堅持を表明。日米諒解案を批判。(批判の論調は正しいものだった)
5月 「国防保安法」が施行される。政府の発表以外は報道することができなくなる。
5月 ABCD包囲網が完成。
まず英米豪の間に太平洋共同防衛諒解が成立(AB網)。ついでこの協定に蘭印(D)が加わり、英米は、豪州と中国に飛行機を譲渡する。
5月 海軍、「米英の全面(石油)禁輸を受けた場合、半年以内に南方武力行使を行わなければ燃料の関係上戦争遂行ができなくなる」と主張。

6月 ドイツがソ連領内に侵攻。天皇は三国同盟を廃棄し日米交渉に重点を移すよう指示。木戸幸一内大臣はこれを無視したと言う。

6月 駐米大使館付武官補佐官の岩畔豪雄(現役大佐)が帰国、各界に警告活動を展開する。
日米の物的戦力は、以下の比率で明らかです。
鋼鉄は1対20、石炭は1対10、石油1対500、電力は1対6、アルミ1対6、工業労働力1対5、飛行機生産力1対5、自動車生産力1対450であります。もし日米が戦えば大和魂をふるっても勝てる見込みはありません。

7月2日 御前会議。「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を承認。援蒋ルート遮断、自存自衛のための南方進出、結果としての英米戦の覚悟、独ソ戦不介入と対ソ武力発動準備が決定される。

7月28日 南部仏印への無血進駐を実施。米領フィリピンが航空機の射程に入る。米英の対日感情は一挙に悪化。

8月1日 アメリカ、日本の在米資産を凍結し、対日石油輸出を全面禁止。イギリスとオランダも同調。
日本軍は米国が南部仏印支柱を黙認するだろうと観測していたという。
ただし40年7月の軍令部研究報告では、仏印を占領すれば米国が石油禁輸で応じ、日本が蘭印の油田を制圧しようとすれば日米は戦争に突入すると予測していた。(角田順)
8月 首相直属の「総力戦研究所」が、「国力的に開戦は不可能、開戦すれば日本は必敗」との結論に達する。「総力戦研究所」の報告について、東條陸相は「実際の戦争では…意外裡なことが勝利につながっていく」と反論。

8月 陸軍省の戦争経済研究班が日米決戦に関して研究報告(林千勝による)。
1)極東の米英蘭根拠地を攻撃。 2)援蒋ルートを攻撃、支配し、蒋政権を屈服させる。 3)まず英国の屈服を図る。の三段階戦略を打ち出す。
米国とは極力戦わず、戦闘となれば日本近海にひきつけて行う(だからハワイ攻撃などはしない)

9月6日 御前会議。海軍側から提示された「帝国国策遂行方針」をたたき台とした議論となり、「要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と両論併記。天皇は外交優先主義を支持する。
天皇「どのくらいで作戦を完遂するのか?」
杉山「太平洋方面は3ヶ月の見込みでございます」
天皇「支那事変のとき2ヶ月程度で片付くと申したのに、まだ終わっていないではないか」
杉山「支那は奥地が広うございまして…」
天皇「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか」(近衛日記)
10月2日 アメリカ国務省、近衛首相の提案した日米首脳会談を拒否。
10月13日 野村大使が情勢報告。「アメリカは4原則で突っ張るだろう。交渉の一般的見通しは悲観的だ」
10月14日 陸軍の武藤軍務局長、「海軍が本当に戦争を欲しないのなら陸軍も考える」とし、海軍に下駄を預ける。
10月14日 近衛・東条会談。東条陸相は「9月6日の御前会議を御破算にするなら、陸海軍を抑えるために皇室が首班を担うべき」と主張。東久邇宮内閣論を唱える。
10月16日 近衛内閣は総辞職。近衛は対中撤兵による交渉を図ったが、陸軍大臣東條は一切の撤兵オプションを拒否。国策要綱に基づく開戦を主張。
10月16日 木戸内大臣が東条陸相と会談。木戸は「海軍が自重の方針で一致しなければ皇室は出ない。和平で一致するなら皇室は出る必要がない」と主張。(要は逃げたということ)
10月17日 後継首班推薦のための重臣会議。木戸は「海軍は戦争に乗り気でないため9月6日の御前会議決定は白紙還元」と述べる。そして開戦を主張して来た東条陸相に首相をやらせることで情勢を切り開くという奇策を打ち出す。
10月18日 大命降下。木戸の推挙を受け、後継の東條内閣が成立。外相には交渉派の東郷茂徳を起用。
東郷には「内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考究を加うる」ように、陸海両相に対しては「9月6日の御前会議の決定を情勢に合わせ再検討せよ」との天皇の意思が伝えられる。
10月18日 東條が首相に就任。承詔必謹の精神で即時開戦決意を翻し9月6日御前会議の決定を覆す。
陸軍省・参謀本部の主戦論を抑えるために陸相を兼務し、さらに右翼クーデターに備えて、内相も兼務する。外相には反枢軸派の東郷茂徳をあてる。

10月22日 軍省局長会議で武藤軍務局長が発言。北支・蒙彊の駐兵維持は絶対に譲れないとする。また海軍軍令部の永野総長は「9月御前会議決定を変更する余地はない」と語る。
10月23日 各省統帥部に11項目の検討項目を示し、国策再検討を指示。これを受けて大本営政府連絡会議が1週間連続でひらかれる。(詳細は東條内閣「国策再検討会議」の顛末で)
初日の会議では次のような発言があった。永野修身は「海軍は1時間当たり400トンの油を無為に消費している。検討会議は簡単明瞭に」杉山元は「研究ばかりして費やせない。今すぐ前進しなければならない」
塚田参謀次長が嶋田海相を「黙れ」と叱りつける場面もあった(杉山元のメモ)
11月5日 御前会議。英米蘭戦を決意する。外交は12月1日零時までとし、武力発動の時期を12月初頭と定める「帝国国策遂行要領」が決定される。
11月5日 東郷、野村らによる最後の外交努力が始まる。東条首相、杉山総長、塚田参謀次長、武藤軍務局長は、「支那を条件に加える”案は検討に値せず」と拒否。
11月6日 南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令される。
11月13日 野村大使の現状報告。
戦争に対する準備は着々と進め居れり。原則を譲り妥協する位ならば寧ろ戦争を辞せざる覚悟である。
対独戦には若干の異論あるが、太平洋戦には反対少なきゆえ、この方面より参戦することも充分あり得べし。
11月15日 大本営政府連絡会議、「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」を決定する。イギリスを経済封鎖等により屈伏させ、イギリスにアメリカを誘導させて講和に持ち込むとする。
11月17日 東郷外相が国会演説。「太平洋の平和を維持せんがために日米会談を継続するに決定、交渉の成立に向けて最善の努力」と述べる。
東郷は以下の腹案を持っていたとされる。 ①中国駐兵5年以内に全部撤兵する ②通商自由の原則を中国にも適用する ③南部仏印から撤兵する
11月20日 大本営政府連絡会議は、作戦対象となる南方諸国について「南方占領地行政実施要領」を決定。重要国防資源の急速獲得のため軍政を敷くこととなる。
11月20日 東郷外相、仏印撤退と石油供給再開を交換条件とする「最終案」を送付。野村、来栖の両大使がアメリカ国防省にて手交。
11月22日 ハルが乙案に対する暫定協定案を提示。英国、中国、豪州、オランダの各国大使と協議。
「南方進出の停止を約束すれば、経済制裁を緩め、日中戦争の解決には干渉しない」とする。有効期間は3ヶ月とする。これは日本の戦争突入必死と見たアメリカが時間稼ぎのためにダミー提案したとみられる。
11月24日 ハル提案に蒋介石政府が猛反発。取り消しを求める。
11月26日 海軍、真珠湾攻撃部隊に出動命令。
11月26日、1万トン級の10~13隻の日本輸送船団が台湾南方を通過中、米軍機により目撃される。
11月26日 ハル国務長官、4原則に従った「ハル・ノート」を通知。4月16日の日米諒解案にさかのぼって否認したもの。
①多角的不可侵条約の提案 ②仏印の領土主権尊重 ③日本の中国及び仏印からの全面撤兵 の代わりに
④通商条約再締結のための交渉の開始 ⑤日本の資産凍結を解除 ⑥為替レート安定に関する協定締結
⑦太平洋地域における平和維持を提供するというもの。
後に極東裁判時にバール判事は“モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えるほどのもの”と表現するが、それほどではない。
11月26日 日本側はハル・ノートを「最後通牒」として受け取る。ただしハル・ノートには「極秘、暫定かつ拘束力が無い」と記されていた。
参謀本部は、満州放棄を認めれば「日本の対ソ、対米国防体制も根本的に崩壊する」と反発。ただし中国からの撤退に「満州」がふくまれるかについては不明。
11月26日 マーシャル参謀総長は、サンフランシスコ、マニラ、ハワイ、カリブ海の各司令部に日本の奇襲攻撃を警告。
もし敵対行動を避けることが出来なければ米国は日本が最初の明白な行動に出ることを希望している。
敵対行動が発生した場合はレインボー第五修正計画に基き任務を遂行されたい。
11月27日 ハル・ノートの提示を知った東条首相は、もしこれを受け入れれば一時小康を得るかも知れないが、それは重症患者に対するモルヒネの小康でしかないと語る。
11.30 海軍内ではまだ和平派が高松宮を通じて工作していたが、嶋田海相と永野軍令部総長はすでに開戦準備を開始していた。
12月1日 御前会議、12月8日の開戦を最終決定する。


この論文は戦時下の日本軍の捕虜対応を総括的に扱ったものであるが、この中に日支事変のさいの捕虜対応についても触れられていて、これが南京事件を招く要因の一つではないかと思えた。
とりあえず関連箇所のみ紹介しておく。

1 「俘虜」観のゆれ
日本軍の捕虜取扱方針は当初より矛盾したものであった。その最大の理由は日本軍に捕虜という概念は存在していないということである。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、敗残の将兵に自死を迫るものであった。
それにもかかわらず諸外国と国際的戦争を行うようになると、近代戦のルールを守るように迫られる。それは本来、日本軍内部にも捕虜という選択肢を導入すべきものとなるはずであったが、その方向には動かなかった。

2.捕虜の取り扱いをめぐる国際法
捕虜の取扱いに関する国際条約には陸戦条約(ハーグ条約)と俘虜待遇条約(ジュネーブ条約)という2つのものがあった。
陸戦条約は捕虜の取り扱いのみならず、戦争のルールを包括的・概略的に述べたものである。ジュネーブ条約は捕虜の取扱についてより詳細な内容をもち、前者を補完するものと位置づけられる。
後者は
日本は両条約に署名したが、俘虜待遇条約の批准は軍部の反対によって見送られた

3.俘虜待遇条約は批准されなかった
ハーグ陸戦条約は国内において批准されたが、俘虜待遇条約は調印はされたが、批准はされなかった。これは軍部からの強い反対によるものであった。
批准反対の理由は次の4つである。
①日本軍では、捕虜にならないよう教育しているため、日本人捕虜は発生しない。だから日本だけが捕虜を待遇する負担を負うことになる。
②敵国の航空機は帰還を考えずに日本を空襲できるから、攻撃距離が2倍になる。
③捕虜が立会人なしに外部の者と面談すれば、何でも話せ、軍事情報が漏れる恐れもある。
④俘虜待遇条約よりも日本軍の懲罰規定のほうが厳格なので、日本軍の罰則を軽減しなければならず、軍紀が緩む恐れがある。

4.俘虜待遇条約(ジュネーブ条約)はどう扱われたか
1942年 1 月 29 日米国、太平洋戦争が始まって間もなく、英国など交戦相手国から、ジュネーブ条約の扱いについて問い合わせがあった。
日本政府はこれについて「批准しないが準用する」という方針をうちだした。そして俘虜待遇条約を「準用」(apply mutatis mutandis)すると回答した。また赤十字条約についても「嚴重ニ遵守」すると回答している。
交戦相手国はこの「準用」回答を、事実上の適用と解した。しかし日本の受け止めは相当異なっていた。
(この後論文は、とくにフィリピンにおける大量の米軍捕虜の発生を機に、日本軍の捕虜取り扱いがジュネーブ条約から乖離していく経過の分析に入っていくが、ここでは省略する)

5.「準用」の例外としての支那事変
支那事変においては、ジュネーブ条約は「準用」どころか完全に無視されている。なぜなら日本は支那事変は国際法に言う戦争ではないと考えていたからである。したがって、陸戦条約は適応されず、国際法を無視した対応が行われた。
この方針は中国軍将兵に対する酷薄な対応をもたらした。
東京裁判時の武藤章(当時、参謀本部第1部第3課長)の証言によれば、陸軍では「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ、俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」された。
つまり、陸軍は「戦争ではないのだから陸戦条約には従わず、捕虜そのものを捕らない」という方針を採用した。したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった。

6.南京事件をもたらした「捕虜非適用」
南京事件では、内輪に見積もっても数万の中国人が殺されている。その多くが民間人に紛れ込んだ中華民国軍の敗残兵、ないしそれと誤認された中国人市民である。
これが一番問題になるのは、敗残兵が投降して捕虜となる道はなかったのかということであろう。国際的に見てこれは明らかに日中両国間の戦争であり、そこには捕虜取り扱いをふくめた戦時ルールが適用、せめて準用されるべきである。
武藤章の言う「捕虜非適用」が「皆殺し」方針なのか、「宣誓解放」方針なのかは判然としないが、「戦陣訓」の敵将兵への適用と見るなら結論は明らかだ。日清戦争時に旅順市内でも、索敵を理由として同様の大量虐殺が発生しており、日本軍の傾向からは偶発的事件とは言えない。
中国各地での戦闘の中で、実際には中国人捕虜はいたし、収容施設も存在した。また現地軍が一定の取扱い規則を定めている事実もある。
しかしこのプリンシプルは動かないのである。ゆえに南京虐殺は「捕虜非適用」の論理の必然的帰結だと見ることができる。


小泉保「縄文語の発見」(1998年 青土社)という本があって、私は見ていないのだが、その紹介がいくつかある。

「縄文人の言語が発展して日本語が成立した」と言うのがそもそもの趣旨であるとすれば、納得しにくい議論ではある。
ただ実際に小泉さんがそう言っているのかは不明だ。

DNA検証の示すところによれば、朝鮮半島から弥生人が進出し、彼らは稲作とともに弥生語を持ち込んだ。縄文人は弥生人を受け入れ、弥生語を自らの言葉とした。
この大筋は基本的には受け入れられているように見える。

アクセント論を前面に立てるのは妥当

いろいろ問題の多い著作ではあるが、アクセント論を言語比較の基盤に置くのは説得力がある。
前項の「言語島」でも触れたが、先住言語の中でアクセントがいちばん最後まで残る特徴と考えられるからである。

ウィキペディアによれば、小泉さんは

一型アクセントこそが縄文語に由来する古いアクセントであり、京阪式アクセントが弥生語に相当すると考える。
そして東京式アクセントは一型アクセントと弥生語のアクセントの接触により形成されたと考える。

弥生語の受容過程という視点では、僭越ながら、前項での私の推理と大筋一致している。(だから正しいとは限らないが)

ただし私の考えでは弥生語を持ち込んだ渡来人と、上方方言を強いた渡来人は時期が違うので、別に考えるべきではないかと思う。

「弥生語の発見」を考える
簡単に私の考えを書いておく。
1.2万年前に日本にD2人が渡来した。日本での人口分布から考えて、おそらく北方からの進出であろう。
2.彼らはそのまま土着し琉球・先島諸島まで展開した。彼らは最後まで旧石器時代人であったが、同時に縄文人でもあった。
3.縄文人が話していたのはアイヌ語であろう。アイヌ以外の縄文人は縄文語を放棄し、弥生語に同化しているている。
4.紀元前2千年ころに朝鮮半島からC1人が渡来した。「縄文晩期人」というのはC1人を指していると思われる。彼らは日本人の約1割を占めている。彼らは長崎から秋田までの海岸沿いに分布し、一部は瀬戸内海に入り徳島まで進出している。基本的には海洋の民であり、朝鮮海峡を挟んで両側に展開した。
まったく根拠はないのだが、流れから見て彼らの母語はツングース系の古朝鮮語であろう。D2人の語る縄文語とはほとんど無縁だったのではないか。
5.紀元前2千年~1千年ころの西日本は人口希薄で、採取すべき果実の少ない常緑樹地帯であったと思われる。
C1人は初期から陸稲など穀物栽培を試みている。それらは朝鮮半島からの輸入であったろう。
6.紀元前500年ころから、O1b人が朝鮮海峡をわたり北九州に登場する。その源流は長江流域にあり、紀元前8千年ころから水田耕作を基盤とする長江文明を形成した人々である。私は長江人と呼んでいる。
7.彼らは北九州でC1人と共存しながら初期弥生文化を形成した。紀元前200年、漢の楽浪郡支配に関連して朝鮮半島南部に激変が起こり、大量の長江人が日本へ流入した。(この紀元前200年の人口爆発は未確認です)
8.O1b人はC1人を席巻し、たちまちのうちに近畿から東海、北陸へと広がった。D2人の生活域は基本的にはO1b人と競合しなかったので共存が維持された。D2人は沖縄をふくめて弥生語化した。青銅器文化が始まり、銅鐸が集団の象徴となった。これが日本語の第一次受容である。
9.小泉さんが「縄文語」と呼んでいるのは、おそらくこの第1次弥生語であろうと思う。「一型アクセント」を基調とするこの弥生語は、長江語をベースとし、古朝鮮語(ツングース系)を加えているであろう。
10.紀元前後に、最後の渡来人であるO2人が進出してくる。高天原神話によって立つ南満由来の民族だ。高天原は小白山脈のあたりと想像される。金印の倭那国王やその後の難升米が征服者だったのかどうかは分からない。とにかく彼らが紀元150年ころには西日本を支配するようになる。
このO2人が弥生語を持ち込んだ可能性はある。しかし漢人、南満人の系統であるO2人が元々の地で語っていた言葉と、日本語のあいだには著しい違いがある。
11.経過はよくわからないのだが、6世紀の後半には大和政権が確立する。彼らの言葉がやがて上方言葉として全国に広がっていくことになる。そのさい周辺部がこれを受容していく過程にはいろいろなものがあって、これが多彩な方言を生み出していったのだろう。

前記事で、今ひとつ訴えの中身がピンと来ないでいたが、本日の新聞に志位さん本人のインタビュー記事が掲載された。
ウラオモテ2面をフルに使った、相当詳しい記事である。
早速読み込むこととする。

まず見出しの目次を作って全体の流れを把握する。

質問1 なぜいま、こういう要請を行ったのでしょうか
答 平和的解決へ歴史的チャンス

第1節 「一体的に進める」とは?
答 非核化と地域の平和体制づくり

この節は3つの項からなる。
第1項は「要請文」の基本的視点
第2項は「05年共同説明」の位置づけ
第3項は拉致問題解決の道すじ

第2節 「段階的に進める」とは?
答 相互不信を解消しつつ前進

この節も3つの項からなっている
第1項は基本的なロードマップ
第2項は経済制裁の継続
第3項が「行動対行動」の積み上げ

第3節 過去の教訓を冷静に
という題名で、全面的な総括というわけではない。
とかく議論の的となる二つの問題に絞って評価を加えている。
第1項は「約束を裏切ったのは?」とだいされ、実際にはアメリカが約束を破ったことを明らかにしている。
第2項は「対話は時間稼ぎ?」という題名で、これも事実との乖離を示している。

第4節 要請への各国の反応は?
答 賛同の声が上がる

この後構成が複雑になっているので私のところで整理する。

第1項 安倍首相の反応
第2項 トランプ政権も複眼で
第3項 提案が実れば情勢は一変する
この第3項で「北東アジア平和協力構想」との長期的関連も明らかにされる。

要請文が6日に発表され、10日もたってから解説インタビューが発表されるというのは、おそらく相当急いで要請が行われたのではないだろうか。
要請文もやや分かりにくいところがあり、現場から問い合わせなどもあったかも知れない。

アイヌ・エミシ歴史年表 補遺分

すこし雑然とした資料が溜まったので、ホームページの年表に整頓することにする。

増補分だけとりあえず並べておく。

1.違星北斗と“アイヌ”

まず、余市生まれの夭折文学者である違星北斗の文章の引用。

「アイヌ! とただ一言が何よりの侮辱となって忿怒に燃ゆ。
…耳朶を破って心臓に高鳴る言葉が“アイヌ”である。言葉どころか“アイヌ”と書かれた文字にさえハッと驚いて見とがめる」 違星北斗文集『コタン』

アイヌという言葉をわたしは躊躇なく使っているが、これは昭和40年ころから、アイヌ人みずからがこの呼称を積極的に用いるようになってからである。それまでアイヌ人の団体はみずからを“ウタリ”と称していた。

その頃のテレビドラマで『コタンの口笛』という番組があった。民族差別を背景にした悲恋の物語だったように記憶している。題名がまさに隠喩で、現在ならなんの躊躇もなく『アイヌの口笛』としていただろう。

“アイヌ”は声を潜めて使う言葉だった。

わたしは学生時代に何年か穂別のアイヌ人集落に地域活動に入ったことがある。
若手農民は『アイヌ、アイヌ』と意識的に言葉を発していたが、多くの住民は寡黙であった。小学生はあんなにも無邪気なのに中学3年になると突然寡黙になる。

若い世代の人がアイヌ文化に係る場合は、そのことは念頭に置いておいたほうが良いだろう。


2.アイヌと農業の問題はよく分からない

基本的には狩猟と漁猟で生計を立てていたとされるが、一方では畑作・定住もかなりすすんでいたとされる。まあ両方とも正しいのだろうが、もう少し定量的な評価が欲しい。時代的・地域的な差も明らかにしないと、言いっぱなしになる。

現在北海道に暮らしている人間として、どうして農業ができなかったのかが不思議である。

たしかに北海道の冬の寒さは格別である。しかし夏の日射しが農業を拒否しているようにはとても思えない。何年かに1回の冷害は覚悟せざるを得ないだろうが、芋や麦などの雑穀を混裁することでかなりリスクはカバーできるはずだ。

アジアでもヨーロッパでもそうやって農業の北限は拡大してきたはずなのだが。


3.アイヌが農業に向かわなかったのは、人口圧がかからなかったからではないか

21世紀は人類の人口増にストップがかかる世紀になるかもしれない。

少子・高齢化と言うが、本質は少子化である。その結果として高齢化がもたらされるが、それは一刻の逆転現象である。やがて全体的な人口減となって終わる。

話を戻す。人口増は食料増を必要とする。土地資源は有限であるから、食料増は土地の生産性増加を除いてありえない。

したがって民族が繁栄するときそれは土地への定着と農耕・牧畜の発展を前提とする。

どうもどちらが原因でどちらが結果かはっきりしないのだが、アイヌ民族はそもそも衰退から滅亡への動きをたどっていたのではないか。

それも和人の冷酷非道な収奪の犠牲と言うよりは、もう少し内発的な原因があるのではないかと思えてくる。

10世紀から11世紀にかけてアイヌは一番勢いがよく、北韓道からオホーツク人を駆逐し、さらに樺太まで進出し、間宮海峡を越えて蒙古=元帝国と干戈を交えた。

それを裏付けるだけの大規模な集落遺跡が北海道宗谷郡猿払村やオホーツク海岸沿いに見つかっている。

それが、何らかの原因で凋落傾向に入った。人口は自然減を繰り返すから農業をやる必然性は失われる。

という図式が描かれるかも知れない。

問題はそれが病気や災害などによる自然減なのか、出稼ぎが故郷に戻るように青森や秋田に移っていったものなのかだ。実はどうもそんな気がする。

これまでのDNAに関する研究成果をまとめると次のように言える。

1.奥羽地方の原日本人は渡来人と縄文人のハーフだ。

2.アイヌ人は縄文人とオホーツク人のハーフだ。ただしこれは特殊なハーフで、基本的には男性が縄文人で女性がオホーツク人だ。奥羽人にはこのような男女差は見当たらない。

1.2.から言えるのは、

1.オホーツク人の住む北海道に縄文人がやってきて征服した。

2.オホーツク人は駆逐されたが、女性の一部は縄文人と結ばれ、残留した。

ユーカラではしばしばヤウンクル(内陸の人)とレブンクル(沖の人)の戦いが描かれる。ヤウンクルはレブンクルに戦いを挑み、勝利の暁には女性を引き連れて凱旋した。

3.やがて縄文人征服者の多くは奥羽に戻り、オホーツク人と結婚し、現地に生活基盤を形成したものが北海道に残った。

ただしこれは江戸時代中期までの話で、コシャマインの戦いあたりを境に、和人がアイヌの生活基盤をメチャクチャにしていく歴史が始まる。

という感じで見ることはできないだろうか。

私は長いことラテンアメリカの歴史を勉強してきたが、先住民が急速に絶滅していく経過を、白人の直接的な虐待・虐殺にもとめる議論は「黒い伝説」と呼ばれ、いまや否定されている。

ヒューマンな立場は歴史を学ぶ上で必須のものであるが、それが非科学的な独断であってはならないこともまた事実である。

712 出羽国が成立。渡島エミシも管轄下におかれる。

801 類聚三代格、出羽狄との毛皮取替を禁じる。

878 日本三代実録で出羽秋田の俘囚大反乱「元慶の乱」

879年1月 渡島の夷首103人が同族3千人を率い渡り来る。

950 岩手郡が設置される。井澤郡以北が奥6郡として一括されエミシの族長である安倍氏が郡長に任命される。これより奥はエミシの地として残される。

800 仙北三郡(雄勝、平鹿、山本)が成立。俘囚主の清原氏に委ねられる。


前九年・後三年の役を通じ、清原・安倍氏の衰退。藤原による奥羽統一。エミシの居住地は津軽北部を除き消滅。


 


 大多鬼丸伝説について

はじめに

福島にこのような伝説があることは、初めて知った。

中路正恒「古代東北と王権」(講談社現代新書 2001)という本にちらっと紹介されている。すこし引用しておこう。

…そしてそうした森のなかに時として洞窟がある。例えば福島県滝根町の「鬼穴」と呼ばれる洞窟。それは大滝根山の山中にあり、かつて国家に抗して闘った人々(大多鬼丸ら)がそれに拠ったとされる、長さ80メートルほどの相当に広い洞窟だが、その入口は高さ80センチほどのもので、中に広い空間があるようには見えない。そしてこの「鬼穴」自体が奥でさらに大滝根洞とつながり、、さらにあぶくま洞にもつながっていて、その全体が総延長2600メートルを超える複雑な経路の束を作っているのである。…アメリカ軍に対してベトコン(南ベトナム解放民族戦線)が掘ったきわめて精巧な地下の洞穴は、それ自体が一種の兵器になっていたが、森のなかの洞窟も、多数の入り口を備え、多数の秘密の道を中継している場合には、戦術上きわめて有効な装置となるであろう。

この行り、あまり本論と関係ないのだが、なにかしら著者の大多鬼丸への思い入れが伝わってくる。ということで、「ひとつ曲がり角間違えて」行ってみることにした。

まず鬼穴について

おきらく・ごくらくCaving というサイトに鬼穴の説明がある。

鬼穴は、大滝根山の中腹に口を開けています。 間口は、120cmと小さめですが、横穴の内部には八畳敷と呼ばれるホールがあり、その先は、 つるべ落としと呼ばれる くねくねと落ちる竪穴で下層のあぶくま洞につながっています。

阿武隈洞の現在の流入口は、鬼穴への道を林道まで下り、そこから藪をこいだ先にある大滝根のドリーネ。 ここに、鉄策で囲われた、大滝根洞の入り口があり、ここを入っていくと、阿武隈洞の探検コースと接続します。

鬼穴

大滝根川を北に向かって下っていくと、鬼五郎、早稲川などの部落が続く。ついでながら、入水鍾乳洞の方はもっとすごいらしい。文字通り入水しながら進むようだ。

大多鬼丸 Who?

次いで「大多鬼丸」についてネットで調べてみた。

率直に言えば、大多鬼丸の戦いにアテルイの闘いほどの真実性はない。たんなるフォルクロアに過ぎないとさえ言える。

おそらくは福島県の中通り地域をさすらう門付け(琵琶法師)がそれぞれに脚色し、地名を織り込んでリアルさをもたらしたのであろう。古くからの言い伝えではあるが、物語であるがゆえに、その内容はさまざまなバリアントをふくめ実にいきいきと語られている。

そして、この大多鬼丸伝承は、謡曲「田村」において芸術の高処にまで昇華されていくのである。

情報はあまりに多く、話がとりとめなく広がる危険もあるが、できるだけ拾い上げながら話を進めていきたい。

大多鬼丸の生いたち

最初に言っておきたいのだが、大多鬼丸が生きたのは、実は田村麻呂より一世代前ではないだろうか。オリジナルな筋立ては、おそらくヤマトタケルの時代から東北地方で繰り返されてきた征服譚の一つであろう。

大和朝廷の北進とエミシの抵抗という全体の流れから言えば、福島が陸奥であった時代、福島で大規模な抵抗があった時代は、田村麻呂の時代より前だと思う。それは田村麻呂のメインの功績であるアテルイとの戦いをさかのぼり、多賀城の闘いをさかのぼるものであったと考えられる。

これについては、後で、詳しく触れる。

大多鬼丸というのは大和朝廷の勢力と対決するようになってからで、それまでは滝根地域のボスという意味で滝根丸と名乗っていたらしい。

滝根地域というのは相当の山間部だが、もともとの出生地は郡山西田町の鬼生田(おにうだ)といわれる。現在も鬼生田という地名は残っている。一説では地獄田(じごくだ)とも言われる。
oniuda
郡山にほど近い開けた土地である。大滝根はここよりはるかに東磐越東線を行ったところである

 桓武天皇の時代、地獄田という所で一人の男の子が生まれました。その子は七歳のころになると、五尺もある立派な身体の持ち主となりました。生来凶暴にて、墓を暴いて死人を食ったり暴力を振るうようになりました。そこで親も恐れてその子を殺そうと考えるようになったのです(親もなかなか怖い)。

子どもはそれを察知すると家出をしました。何年か後、その子は大滝根に住んで滝根丸と名乗り、手下を大勢率いては旅人や村を襲っていました。

村人たちは滝根丸のことを「あいつは鬼のように恐ろしい」と噂しました。また滝根丸も自分のことを「俺は鬼だ」と言って益々悪いことをするようになりました。

このように鬼が生まれたということから鬼生田という地名になったのです。

ということで、鬼生田の地元では家出した不良少年の成れの果てという扱い、悪い話ばかりのようだ。しかしそれなら、いっそ名をはばかれば良いものを、と思ってしまう。

じつは田村麻呂が生まれたのも西田町(旧宮田村)となっている。ひょっとして二人の幼少期キャラは伝承の中でかぶっているのかも知れない。

滝根方面に伝わる伝承では、そんな野盗の首領というのではなく、行政の長として手腕をふるっていたように描かれている。

onimaru
 こちらはポジティブなイメージ

滝根丸は陸奥国の田村郡七里ヶ沢付近をおさめていた。

七里が沢は現在の小野町に当たる。小野町は田村郡の一部で、磐城へとつながる街道筋に伸びる。磐越東線の沿線でもある。

街の東に山並が迫り、これを大越峠で越えると、大滝根部落に出る。大滝根は大滝根川の源流地帯であり、阿武隈山地最高峰の大滝根山(霧島山)の山麓地帯でもある。

大滝根

小野町のホームページから引用する。

小野郷の地名は倭名抄にある。以前は「七里ヶ沢」とよばれていたことが分かっている。

桓武天皇の御世のこと。征夷大将軍として朝廷の命を受けた坂上田村麻呂の東征後、小野篁が救民撫育使として着任したと言う。ほかに小野六郷という呼称も残っている。

ということで、きわめてイデオロギッシュな地名だということになる。

大多鬼丸の戦い

西暦800年頃に朝廷は臣従と朝貢をもとめた。大多鬼丸はこれを拒否し、朝廷と対立するに至った。大多鬼丸は霧島山(現在の大滝根山)に白金城を構え朝廷と争う姿勢を見せた。

以下は赤津四郎のこもった鬼ヶ城についての記述だが、この赤津というのは大多鬼丸と同一人物であろうかと思われる。(ネットでの検索不能)

この城には鬼穴という大きな岩窟があった。その下に蝦夷窟と呼ばれる十三の岩窟が南向きに開けていた。そのそれぞれが七~八人を収容したという。そこから麓の谷に向けて両側には数個の蝦夷穴が並んで街路のようであった。
kbiduka
仙台平の大多鬼丸の首塚
朝廷は征夷大将軍であった坂上田村麻呂を送り込み、両者の間に戦闘が展開された。大多鬼丸は洞窟を縦横に用いてゲリラ戦を展開したが、最後に追い詰められ、大越の「鬼穴」(達谷窟)で自害した。近くの仙台平という高地は大多鬼丸の首塚と言われ、立派な塑像がそびえ立っている。

鬼五郎・幡五郎兄弟の戦い

これには後日談があり、大多鬼丸の部下の鬼五郎・幡五郎兄弟が、根拠地たる早稲川で引き続き抵抗を続けたと言う。やがて兄の鬼五郎も戦に倒れるが、幡五郎が遺志を継ぎ、村を守ったと伝えられる。

この地には今も鬼五郎渓谷という地名が残る。あるサイトには以下のように書かれている。

鬼五郎渓谷は阿武隈川の支流である大滝根川の源流部に位置する。田村市大越町早稲川に大越登山口への入口がある。ここから沢側へ続く踏み跡が鬼五郎渓谷である。


説話(フォルクロア)としての大多鬼丸ものがたり

基本的な筋立てはそのままに、異なる視点からの説話が次々と付け加えられ、いつの間にか大多鬼丸と坂上田村麻呂と言う二人の英雄の生い立ち、たがいの言い分まで含めた一大物語になっている。

それらの説話が桐屋号さんのブログに集中的に掲載されている。これが、一種の『神話の誕生』の過程が伺えまことに面白い。以下しばらくは、このブログからの引用を中心に話を組み立てていく。

異説あれこれ

1.大多鬼丸を征伐したのは田村麻呂か?

実は田村麻呂が大多鬼丸と闘ったというのは、史実と比べて少々無理がある。

桓武天皇の延暦二十年、千島大多鬼丸の残党が霧島山(大滝根山)の岩谷にこもり悪行を重ねていたので、田村麻呂将軍が征討にやってきました。

となっているが、これは801年の話だ。

私が以前作成した東北エミシ年表をご参照いただきたいが、

同じ801年2月に坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、日高見国攻略作戦を開始した。4万の軍が胆沢のアテルイ軍を破る。アテルイとモレイは度重なる物量作戦により弱体化。

9月 坂上田村麿、「遠く閉伊村を極めて」夷賊を討伏したと報告。

802年1月 田村麻呂、アテルイの本拠地に胆沢城を造築。多賀城から鎮守府を遷す。住民を追放した土地に、関東・甲信越から4000人が胆沢城下に送り込まれ、柵戸(きのへ)として警備にあたる。

4月15日 アテルイとモレ、生命の安全を条件とし、500余人を率いて田村麻呂に降伏。二人は平安京に連行される(日本紀略)。

803年 陸奥国(岩手県北部)に志波城造営。ただしこれにはみずからは出陣していない。

ということで、福島などでじっくりもぐら叩きなどしている暇などないのだ。

2.実は父苅田麻呂ではなかったか?

伝説の中には田村麻呂の父苅田麻呂をあてる説がある。郡山市史によれば、苅田麻呂は蝦夷征伐のため大熊に乗ってこの地にやってきたとされる。

苅田麻呂は川を渡り熊渡に着き、そこを屯田(みやけだ)とした。これが後の世に御代田と改められた。川には大熊川の名が付けられた。これが後にアウクマ川となった。

といういかにも風の牽強付会説話だが、このようにして父・苅田麻呂が福島を征服していなければ、田村麻呂はとてもアテルイと戦えなかったのではないかとも思う。

田村地区ではもっと膨らませた、ほとんど別のストーリーが展開される。

国見山に大武丸という東夷の酋長が反乱を起こしたので、坂上苅田麻呂が直宣を受けて征伐に来ました。

ただこの苅田麻呂に前後して似たような征服譚が併起している。たとえば征夷大将軍の藤原小黒丸がいる。小黒丸は郡山近辺でエミシと戦いかなり苦戦しているが、780年に三穂田の高幡山の宇奈己呂和気神社のご利益で勝利したという説話が残っている。

ところがこれと真っ向から対立する記録もあって、781年に陸奥出羽按察使として藤原小黒麿を下向させたが勝利できなかった。このため782年には大伴家持を按察使兼鎮守府将軍とした。家持も当初はかばかしい戦果が得られず、同じ高旗山に祈願して勝利できたという。


3.田村麻呂は苅田麻呂の御落胤か

間もなく苅田麻呂は大武丸を征伐し、都に帰って行った。この間に現地妻の阿口陀媛が妊娠したのである。阿口陀媛は高野郡(今の田村地域南部と石川郡北部)に住んでいた橋本光忠の娘だという。

阿口陀媛は熊渡の室家山童生寺で、玉のような男の子を生みました。このお寺は宮田村(郡山市西田町宮田)にあったようです。

阿口陀媛は木賊田の産清水で産湯を使わせ、徳定の抱上坂で赤子を抱き上げました。子は鶴子丸と名付けられました。

しかし育児に困った阿口陀媛は、赤子を田の畦に捨ててしまいました。

普通は御落胤というのは地元で大切に育てるものだが、一体どういうことか。

やがてコインロッカーベイビーの鶴子丸は成人し、父苅田麿を頼り都に上った。

苅田麻呂の邸前に着いた時、邸内から外れ矢が飛んできました。鶴子丸は、持っていた自分の矢を投げ返しました。その矢は矢音高く飛び上がり、邸内にいた苅田麻呂の前に突き刺さったのです。

怪しんだ苅田麻呂は表を尋ねさせました。そこにいた小童に訳を聞き、息子だと知りました。それからは、鶴子丸は生地の名にちなんで田村麻呂と名付けられ、父のもとで育ちました。

(桐屋号さんのブログより)

という話がある。

これは田村市の田村地域での伝承のようである。長めに引用したが、このご都合主義のシュールさがいかにも民話としての「真実性」を帯びて輝いている。

4.悪路王は別人?

「悪路王」の話というのが岩手県の方にある。はほとんど大多鬼丸と重なる。やっつけたのが田村麻呂であるのも同じである。時代的にも変わらない。しかし大多鬼丸は福島であり、悪路王は平泉である。

岩手県が洞窟が多いのは有名である。しかしこれはどちらかが正しければどちらかが間違いということになる。ただ大多鬼丸が1世代さかのぼるとすれば、両立は不可能ではない。

印象としては、大多鬼丸がまずあって、悪路王はTPOを変えて誰かが着せ替え人形で創作したのではないか。悪路王は1189年の「吾妻鏡」が初出であり、義経征伐に赴いた頼朝が道中で捕虜から聞いた話として記録されている。

捕虜いわく「ここは田谷の窟といいます。田村麿や利仁らの将軍が帝の命を受けて蝦夷討伐に赴いたとき、賊の主である悪路王や赤頭らが砦を構えていた岩屋です」

ということで、大多鬼丸の説話への摩り寄せが行われている可能性が強いと思う。それだけ大多鬼丸の話は人口に膾炙していたのではないだろうか。

大多鬼丸と謡曲「田村」

そう思うのは、実は謡曲「田村」(古浄瑠璃)が、まさに大多鬼丸と田村麻呂が主人公として登場する作品だからである。

ここでは「日本を覆さんが為 数千の眷属、引き具し」伊勢の鈴鹿山に天下った大竹丸と、坂上田村麻呂の死闘が繰り広げられる。




福島に伝わる大多鬼丸の反乱の伝説が、実はなかなか面白い。
史実としてはかなり怪しいのであるが、地元に「鬼」である大多鬼丸を支持する言い伝えが根強く残っていて、むしろ大和朝廷側を圧倒しているのである。
東北の征服者としての田村麻呂伝説と言うのは各地に残されていて、ねぶた祭のお御輿も田村麻呂が定番ではあるが、田村麻呂にやられた野蛮人の末裔こそが東北人なのだから、心の底では頷けないものがあるのであろう。
大多鬼丸伝説も田村麻呂に根っこでは収斂できない部分があってそれがいろいろな形で残っているのだろうと思う。
その典型が、実は、謡曲「田村」ではないかと思う。とりあえず書いておく。
田村麻呂に引きずられて時代設定が狂うというのは、実は謡曲「田村」(古浄瑠璃)そのものでもある。ここでは「日本を覆さんが為 数千の眷属、引き具し」伊勢の鈴鹿山に天下った大竹丸と、坂上田村麻呂の死闘が繰り広げられる。ここでは蝦夷の悪路王大竹丸が、異形異類の眷属の長として鈴鹿に登場するのである。だから大多鬼丸が鬼穴で死なずに紀州に逃げたという荒唐無稽も登場するのであろう。
実はこの「田村」といいう謡曲、なかなか面白いのである。
蝦夷の悪路王大竹丸は、「面の色は極めて白く、髪は猩々の血にてもみ朱を染めたる如くにて、牙は銀の鉾を植え並べたるに等しく…」と表現されている。いわば白人系で茶髪なのだ。
大竹丸はなかなか狡猾である。自分が表に立つのではなく、田村麻呂に並ぶと噂される武将惟憲を前面にたて、田村麻呂との闘いを朝廷軍内部の混乱に仕立てようとするのだ。
田村麻呂と大竹丸との対話はじつに意味深長である。田村麻呂が、「愚かなり、愚かなり、人の国へ、理不尽に乱れ入り、悪逆をなす……」と大竹丸を非難するのに対し、大竹丸が返して言うことには、
「人の国とは、心得ず、日本は我々が国なるに」なのに、天照る神が大竹丸らとの誓約を破り、この国に仏法を盛んに広めた。それがゆえに、「国を召し返さん」としておのれの臣下である眷属を都に遣わしたのだと。
その理非もさる事ながら、大和朝廷の総司令官を前に対等に張り合う大竹丸の姿勢がなんとも小気味よく清々しいではないか。あまつさえ「日本は我々が国なるに」というセリフはまさに相手(大和)を売国奴扱いしている。これぞ今まさに経団連と真向対決する福島人の魂ではないか。

下記のWebページに松浦武四郎の樺太文書が紹介されている。
ここから抜粋、引用させて頂く。

樺太については、松浦武四郎著「近世蝦夷人物誌」に詳しく述べられている。しかし難しくて解読が困難であるので、更科源蔵・吉田豊共訳による「アイヌ人物誌」より抜粋してみたい。

松浦武四郎の時代、和人は樺太を北蝦夷と呼んでいた。
樺太(カラフト)というのはアイヌ人の呼び方である。カラフトとは唐(カラ)人の意味である。
唐人というのは外人の総称であり、中国人というわけではない。
全国樺太連盟のページでは、樺太の語源はアイヌ語で、カムイ(神)、カラ(造る)、プト(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)と記されている。松浦武四郎説は現在は否定されているが、当時の和人がそう解釈していた可能性はある。
カラフトのうち、ロシア人はよく赤い衣服を着ているので赤人(アカフト)と呼ばれる。
むかしアイヌは樺太には住んでいず、山丹人とウィルタの世界だった。
山丹人というのは間宮海峡の両側に住むニブフ族のことで、そのむかしは粛慎(オホーツク人)として北海道北部まで住んでいたのが、次第にアイヌに追いやられたものとされる。
山丹人が蝦夷地に来て大陸産の品物を持ちこみ、カワウソ、狐、黄テンの毛皮などと交易した。
その後、アイヌが樺太に進出するようになった。1809年(文化6年)から松前藩はアイヌの居住区を北蝦夷と呼ぶよう指示した。(それまでは北海道と一括して蝦夷地)
北蝦夷を樺太と呼ぶようになったのは明治になってからで、北海道と同じく松浦武四郎の提案による。

松浦による樺太地図(松浦武四郎記念館  蔵
樺太北部
樺太南部

ということで、長い前振りが終わって、ここから
梅木孝昭「サハリン 松浦武四郎の道を歩く」(道新選書 1997)のノートを開始する。
かなり細かい地図が必要になるが、順次紹介していきたい。

余談だが、松浦のアイヌよりの姿勢がしばしば強調されているが、私の印象としてはむしろ松前藩の悪政と人権無視に対する怒りがまず最初ではないかと思う。
それは津における最初の師、平松楽斎の影響があったと思う。平松は多彩な能力を持ち、民衆の立場に立った知識人であった。大塩平八郎とも接触を持っていたようだ。
松浦の遍歴の時代は天保の大飢饉が日本中を襲った時代だ。それに対して、従来型の武士ではない民衆指向性と科学精神を併せ持った人材が各地に輩出した時代でもある。
おそらくその一部は維新運動の志士ともなったであろうが、それよりもっと広範に草莽の士として分散していたのではないだろうか。松浦は彼のヴィルヘルム・マイスターの時代を経て各地でその息吹きに触れたのではないだろうか。
そういう全国レベルでの人の上に立つものの誠意に引き換え、松前藩のおさめる蝦夷地はあまりにひどかった。人間のクズ共がいかにもクズらしく利を貪っていた。それが許せなかったのが最大の理由であろうと思う。
だから、松浦の抗議とか運動とかの根は意外に浅い。場面場面では闘っているように見えても、意外と権力そのものとの闘いにはなっていかない。全国を歩き回る執念に比べれば、それはずいぶんと淡白なものであった。

もう一つ、松浦という人がスーパーマンであることにまったく異論はないのだが、若干話をふくらませる傾向がある人物であることも疑いなさそうで、まぁ悪気はないのだからいちいち目くじら立てる必要はないのだが、すべてを史実と断じるのではなく一種の「ドキュメンタリ」として見ておくのが良いと思う。ということは、もし客観的事実と合わない記述があれば、そこは一種の創作と判断すべきだろうということだ。

2015年09月16日 


松浦武四郎と樺太
これまで最上徳内と間宮林蔵による樺太探検を勉強してきたが、ここまでやっておいて松浦武四郎の探検を触れないのは片手落ちであろう。
松浦の樺太をふくむ蝦夷地探検は全6回に及ぶが、そのうち2回、樺太まで足を伸ばしている。
これらについて詳しくレビューしているのが梅木孝昭さんの「サハリン 松浦武四郎の道を歩く」である。
梅木さんはたんなる回顧の旅ではなく、ほとんど松浦武四郎に匹敵するような探検を試みている。
この本は1997年に道新選書の一冊として発行されている。
この本をもとに例によって年表化してみたい。といっても松浦武四郎の日誌は微に入り細に渡るので、メリハリをつけなければなるまい。それは作業しながらおいおい考えることにする。
まず、松浦武四郎の全体像を知るために彼の年譜もあわせて載せておく。(記述の多くを松浦武四郎記念館資料による)。印象としてはこの年表記載がもっとも正確であり、梅木さんの年表には若干の潤色があるかも知れない。
なお樺太全体の年表については私の作成した下記の年表をご参照いただきたい

1818年3月 伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて出生。父親は紀州藩地士で庄屋を営む豪農であった。
出生地は須川村となっているが、なかなか探すのは難しい。
伊勢国一志郡は松坂と津に挟まれた農村地帯であるが、江戸時代は紀州藩と津藩の所領が混在していた。
ウィキペディアで調べると、須川村という村名はない。紀州藩領として森須川村というのがあり、これが明治7年に改称して小野江村となっている。改称の理由は不明だが合併とか分割とかではない。
ただし小野江村はその後、肥留村、西肥留村、舞出村、甚目村などを併合している。
昭和30年の第一次合併の際に、小野江村は米ノ庄村・天白村・鵲村と合併し三雲村を形成した。これにより小野江は三雲村内の字名となった。
平成17年の第二次大合併により、三雲町(旧三雲村)は松阪市と合併し、消失した。
大正13年の三重県地図が参照できる。
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1818年 この年伊能忠敬が死亡。
1824年 真学寺で読み書きを習う。(真学寺は曹洞宗の寺で、今も真覚寺として現存している)
1831年(13歳) 津藩平松楽斎の塾で学ぶ。平松は藩校を創設した学者。本草学に秀で、天保飢饉に際し「救荒粥」を案出。ほとんど餓死者をださなかった。神明流剣術の遣い手でもあり、大塩平八郎とも交流があった。
天保の大飢饉: 1833年に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化、全国で100万人以上の死者を出した。
1833年 手紙を残して突然家出。江戸で篆刻を学ぶが、見つかり連れ戻される。その後も「遊歴の志ざし止まず」(この項は脚色されているかも)
1834年(16歳) 京都、大阪で見聞。その後北陸・東北の諸国をめぐる。
1835年 江戸に戻り、水野忠邦邸に奉公。その後思いあって出家(真言宗)し文桂を名乗る。(長崎で出家したときに文珪と名乗ったという記載もある)
1836年 ふたたび諸国巡歴。瀬戸内海周辺をめぐり周防に達する。
武四郎は篆刻により旅費を稼いでいた。「是に於て発奮し自ら一本の鉄筆と一冊の印譜とを懐に瓢然として浪華の街に下り…」と述べている。
1837年 九州にわたり諸国を遍歴。入国の取締りが厳しい薩摩には曹洞宗の僧形となって入っている。
1837年 天保飢饉の影響が広がる。大塩平八郎の乱が発生。大阪では毎日約200人を超える餓死者。
1838年(20歳) 長崎で大病を患う。これを機に禅僧となり文桂と名乗る。九州の見聞を記した「西海雑志」を著す。
1839年 平戸の田助在曲村の宝曲寺の住職となる。天桂寺も兼務。この年五島列島を旅する。
平戸は松浦武四郎の祖先とされる松浦水軍の発祥の地であり、平戸定着への思いはあったとみられる。
1843年(25歳) 平戸村木引(粉引)免の千光寺に移転。
9月 田助のいか釣り船に便乗して壱岐・対馬に渡り、朝鮮入りを目指す。半月後に「其国禁の厳しければ行くことも難く」断念する。
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 松浦市 福島町 伊万里市 佐々町 武雄市 有田町 新上五島町 ... - 西肥バス
1843年 平戸光明寺(真宗の名門)の了縁に師事。詩歌・画を学ぶ。
1843年 長崎でロシア(赤蝦夷)南下の危機を知り、一転蝦夷地を目指す。
1844年(27歳)
2月 伊勢で父母の供養をすませたあと還俗。伊勢神宮に参拝して蝦夷地へ向かう。
9月 津軽半島の港町鯵ケ沢に到着。便が得られず天候悪化のため年内の渡海を断念。仙台藩領唐仁村に達し、そこで越年する。
1845年
1月 いったん江戸に戻り、準備作業。
4月 鯵ケ沢に着き、江差の商人の持舟に便乗。待望の蝦夷地入りを果たす。
4月 江差に人別を入れて身分証明を得、箱舘の商人和賀屋孫兵衛の手代という名目で、東蝦夷地に向かう。海岸線沿いに根室(歯舞諸島および知床岬)までを往復。
10月 箱舘にもどる。
1846年(29歳)
2回目1846
4月10日 第2回調査に向け江差を出発。樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行。名は雲平、法被姿の草履取りとして付き従う。
5月17日 宗谷港に到着。
5月25日 風待ちの後、西ノトロ岬南端の白主を目指すが、「出し風」が強くベシトモナイ(菱苦)まで流される。このため徒歩にて白主にたどり着く。
閏5月1日 白主を出発しアニワ湾内の久春古丹に達する。
番人らが三、四十人おり役人も六人ほど詰めている。アイヌの戸数は二十戸ほど。春二シンで賑わっており、アイヌの漁夫が千人ほども集められていた。
閏5月20日 久春古丹からチベサニ(長浜)に行き、ワワイ(和愛)・チベサの湖を経由して半島の付け根を横断、東海岸のトンナイチャ(富内)に出る。東海岸を北上し、マーヌイ(真縫)の南隣のシララオロ(白浦)へ着いた。
ここまでの通過地名を列挙しておくと、
クシュンコタン→トウブチ(遠淵)→シラリウトル→トンナイチャ(富内)→オチョホカ(落帆)→イヌヌシナイ→ヲショヱコン→ナイフツ(栄浜)→オタサン(小田寒)→マトマナイ(真苫)→シララオロ
白浦にはノテカリマという「全島を統率する」長老(エカシ)が住んでいた。滞在中、たまたまオロッコ人とタライカ人総勢十八人が四艘の船で挨拶にやってきた。
閏5月28日 シララオ口から西海岸クシュナイ(久春内)ヘ出た。これより南に戻る。
ここからの通過地名を列挙しておくと、
シララオロ→マーヌイ(真縫)→山越えで西海岸へ→クシュンナイ(久春内)→ナヨロ(名寄)→ノタシャム(野田寒)→ヒロチタラントマリ(広地)→トコンボ→モイレトマリ→ショウニ→ベシトモナイ(菱苦)→シラヌシ
6月28日 シラヌシに戻る。
7月16日 宗谷へ渡る。この後松浦武四郎は単独で、宗谷-知床岬間のオホーツク海岸を往復。利尻・礼文に渡る。
9月 江差へ帰着する。
1847年 箱館に滞在。松前藩の内情を探る。
1849年(32歳) 第3回目の蝦夷地調査。船で国後島、択捉島に渡り調査。ここまで3回の調査はすべて個人の意志によるもの。
1849年 わが国初の北海道図として「蝦夷大概図」を発行。
1850年 「初航蝦夷日誌」全12冊・「再航蝦夷日誌」全14冊・「三航蝦夷日誌」全8冊が完成。
1854年(安政元年) 日米、日露などの和親条約が締結される。
1854年(安政2年) 宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。翌年には箱館奉行所支配組頭が宗谷場所を引き継ぐ。
1854年 蝦夷、樺太、千島の地図を作成し幕府に提出。松前藩は松浦を幕府のスパイと見て活動を妨害する。
1855年(38歳) 江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢される。(正式官名は蝦夷地受け取り渡差図役頭取)
1856年 (39歳) 第4回目の調査。向山源太夫(箱館奉行支配組頭)を隊長とする調査隊の一行に加わる。
4回目1856
3月 箱館を出発。西海岸を北上する。
5月22日 宗谷を出帆し白主に上陸。
前回北限のマーヌイからさらに北上。カシホ、マグンコタン(浜馬郡譚)、シルトル(知取)、トマリケシ(泊岸)、ナヨロを経てタライカ湖畔のシリマヲカ(敷香)に至る。マーヌイまで 引返して西岸の久春内に出たあと、ライチシカまで北上しその後白主に帰還。
8月7日 白主を出帆して宗谷に帰着。その後知床に周り箱館に戻る。

1857年(安政4年)
4月 第5回目の調査 石狩川や天塩川を河口から上流部まで遡る調査。
8月 箱館に戻る。
1857年 松浦武四郎、「蝦夷山川地理取調方」となり「東西蝦夷山川地理取り調べ日誌」を作成。
1858年 (41歳) 
第6回目の調査。蝦夷地のほぼすべての海岸線と日高地方の河川、十勝、道東地域の内陸部の調査
三回の調査をもとに「東西蝦夷山川地理取調図」を出版。探検の体験をもとに、アイヌ民族の人口が激減していることを憂い、アイヌの命と文化を守ることを訴える。
1859年 安政の大獄。知己の吉田松陰、頼三樹三郎らが死刑となる。
1861年 「後方羊蹄日誌」・「石狩日誌」・「久摺日誌」・「十勝日誌」があいついで出版される。
1869年 開拓判官となり、蝦夷地を「北海道」(当初は「北加伊道」)と命名した。
1888年 東京の自宅で脳溢血により死去。

1517年
春 教皇・レオ10世、サン=ピエトロ大聖堂修築資金を集めるため、「免罪符」の販売を指示。
10月31日 ルター(34)、教会の改革を促す「95箇条の論題」を発表。免罪符について「売る人も買う人も永遠の罪を受ける」と非難。
マルチン・ルター: 1483年に鉱夫の息子として生まれる。ウィッテンベルク大学で神学を教えていた。
1518年
3月 ルター、教皇庁への批判を旺盛に展開。要約はドイツ語に訳され、活版印刷技術により全国に広まる。
4月 ドミニコ会がルター糾弾のキャンペーンを開始。
6月 ルターに対する異端審問が始まる。
10月 ローマ教皇は特使を派遣しルターに出頭をもとめる。ルターはこれを拒否。
1519年
1月 ルター、教皇特使と妥協。双方共に意見を公的に発表しないことで合意(アルテンブルク協定)。事態はこれでいったん沈静化。
6月 ライプツィヒでルターとエックの公開神学論争。ルターはウィクリフやフスの説にも真理があると主張した。ウィクリフとフスは異端として処刑されていた。
19年 神聖ローマ皇帝選挙。カール5世が皇帝に選ばれる。
1520年
6月 教皇、勅書にてルターに破門を警告。
12月 ルターはヴィッテンベルクの公開の場で教皇の回勅を焼き払う。
20年 ルターの門弟ミュンツァーがツウィッカウへ布教に入る。
トマス・ミュンツァー: 「神の国」の建設を訴えるなど、ルターより急進的だった。その後プラハ、ザクセン、アルシュテットなどを流浪する。

1521年
1月5日 教皇庁がルター(38)を正式に破門する。ルター(38)は異端者と宣告される。
4月 神聖ローマ帝国、ヴォルムス国会を招集。ルターの一切の法的権利を剥奪する帝国追放令を発する。
5月3日 ザクセン選帝侯フリードリヒ3世、ルターをヴァルトブルク城にかくまう。
フリードリヒはルターが何者かに誘拐されたように見せかけたと言う。ルターには「騎士ゲオルグ」という偽名が与えられた。
1522年
3月 ルターがザクセン選帝侯の止めるのを押し切り、ウィッテンブルク大学に戻る。この後現地で宗教改革を進める。ルターはヴァルトブルク滞在中に新約聖書を古代ギリシア語から翻訳し、大量に頒布した。
9月 帝国騎士の乱(Ritterkrieg)が始まる。ジッキンゲン(41歳)、フッテン(34歳)らの率いる騎士団が、トリエル大司教兼選帝侯を襲撃。間もなく鎮圧される。
ジッキンゲン: 神聖ローマ帝国で帝国侍従・顧問官を務める幹部。
フッテン: 精神面の指導者。神聖ローマの桂冠詩人に叙せられた人物。
1524年
2月 フランス王フランソワ1世は、北イタリアに進軍。神聖ローマ帝国も大軍を動員し反撃にでる。
2月 軍の不在をついてドイツ国内各地で農民戦争(Bauernkrieg)が始まる。
1525年
北イタリア戦争が終結。神聖ローマ軍が快勝し、フランソワ1世を捕虜にする。
5月15日 神聖ローマの正規軍を投入することで、農民軍は瓦解。農民戦争が終結する。“首謀者”のミュンツァーは拷問の末斬首となる。ルター派は無傷で残る。
1526年
シュパイエルで神聖ローマ帝国議会が開催される。第1時シュパイエル国会と呼ばれる。ヴォルムス国会のルター追放令を凍結。
1527年
ヘッセン伯フィリップがルター派を熱心に支持。ザクセンも引き続きルター派を支持。
フィリップ(23): 市民階級の人々を起用し、一種の啓蒙専制政治を行う。首都マルブルクに最初のルター派大学を設立。
1529年
第2シュパイエル国会、教会改革の中止を指示。6人の諸侯と14の自由都市が良心の自由を求め抗議書(Protest)を提出する。
1531年
1月 シュマルカルデン同盟が結成される。ヘッセン伯フィリップとザクセン選帝侯ヨハン公を軸に、新教派諸侯とマクデブルク、ブレーメン、南ドイツの自由都市が参加。

1546年 
カール5世(46歳)とカトリック派諸侯がシュマルカルデン同盟への武力攻撃を開始。

1547年
4月 ミュールベルクの戦いで皇帝軍が勝利。プロテスタント派のヘッセン伯やザクセン選帝侯は捕虜となる。
1548年 
カール5世、「アウクスブルクの暫定取り決め」を発表。新旧両教会の合同を定める。北部ではほとんど実施されず。
1551年 
モーリッツ・フォン・ザクセンがフランス王の援助を取り付け、ヘッセン伯、ブランデンブルク辺境伯などとともに神聖ローマに反抗。「君主戦争」と呼ばれる。
1552年 
両者が停戦し、パッサウ条約が結ばれる。捕虜となっていたプロテスタント諸侯は解放される。
1555年 
アウクスブルクにて帝国議会。アウクスブルクの宗教和議が成立。ルター派の存在を公式に認め、各諸侯にはカトリックとプロテスタントを選択する権利が認められる。

「キリスト教とローマ帝国」年表

キリスト教の歴史を勉強するうちに、いくつかのことがわかってきた。キリスト教は実態的にはユダヤ教を引き継ぎながら、その本質を否定するところに存在していること。
キリスト教はローマ帝国の弾圧を受けながら、実体的にはローマ帝国の宗教として発展してきたこと。したがって、ローマ帝国の「精神」を象徴していること。
ということで、ローマ帝国の盛衰史とキリスト教の確立過程を重ね合わせながら年表を作成できないだろうかと試して見た。
キリスト教の年表だからネットの世界も情報満載だ。しかし「世界宗教としてのキリスト教発展史」を初期キリスト教成立史と重ね合わそうとすると、意外に余分な情報が多く必要な情報が少ない。そもそもどういう情報を集めたら良いのかさえわからなくなってしまう。
ユダヤ教という一神教を生み出した風土、それが形式主義に堕し、貧困層からは否定されていく経過、イスラエルの地を取り囲む地政学的状況の変化、とりわけギリシャ・ローマ文明の進出、ディアスポラ経済との兼ね合いなどがキリスト教を生み出した諸要因として分析されるべきだろう。
さらにそれが一小民族の民族信仰からユニバーサルな宗教となっていく上での客観的な条件、「共通」の言葉に裏付けられた「共通」な文化の共有とその特質。それが被抑圧階級の進行から支配階級にまで取り込まれていった理由、ローマ帝国が産んだ宗教でありながら、封建世界にも受容可能な形態に変貌し受け継がれていった理由、あまりにも多くの要素がある。

なお西暦に就いてであるが、これは、イエス・キリストが生まれた年の翌年を紀元1年としている。だから誕生日は0年12月ということになる。ただし17世紀以来の申し合わせで紀元0年は置かないことになっており、紀元1年の前の年は紀元前1年である。
西暦は紀元6世紀ころからローマ暦に代わり使われ始めた。現在ではキリストの生年は、紀元6世紀に考えられたより遡ると言われており、紀元前4年と推定されている。

紀元前1世紀
カルタゴ、アレクサンドリアのユダヤ人(ディアスポラ)のユダヤ教への改宗が進む。旧ギリシャ植民地のユダヤ人はギリシャ語を用いたため、ヘレニストと呼ばれる。
63 共和政ローマの将軍のポンペイウスがエルサレムに入城する。ユダヤ地方(イスラエルまたはパレスチナともいう)はローマの支配下に入る。
44 ローマ皇帝カエサルの暗殺
43 ヘロデ、ハスモン朝ユダヤ王国を打倒。カエサルとの協調関係を背景にガラリアの知事に就任
37 ヘロデ、いったん失脚するも、ローマ軍の支援を受け権力を掌握。
34 ヘロデ大王、ローマからユダヤ人の王に任命される。その後政敵を次々と処刑、独裁権力を打ち立てる。
29 オクタビアヌス、アウグストゥスの称号を受けローマ初代皇帝となる。帝政ローマが始まる。
4 ヘロデ大王没。息子のヘロデ・アルケラオスが後継となるが、失政が続き解任される。
4頃 イエスがベツレヘムに降誕する。

紀元1世紀
18 カイファ(カヤパ)大祭司となる(~36年)
26 ポンテオ・ピラトがユダヤ総督となる(~36年)
27 この頃、洗礼者ヨハネが活動を開始する。

キリスト時代のパレスチナ
28 ナザレのイエスはヨハネより洗礼を受け、「良き訪れ」と呼ぶ宣教活動を開始する。ヨハネはまもなく捕らえられ首を切られる。
イエスが布教を開始したのは北部ガラリア地方のナザレだった。ベツレヘムを生地とするのはダビデにちなんだ創作と言われる。なおイエス死後の教団の活動はエルサレムである。
30 イエスがエルサレムのゴルゴタの丘で磔刑になった。以後の記載はルカの使徒言行録による。使徒言行録については後ほど説明。
イエス・キリストの死後、弟子たちはエルサレム教会に結集して信仰を続けた。彼らは後にナザレ派、原始エルサレム教会と呼ばれることになる。初期指導者はペトロとヨハネだった。彼らはイエスの人格的印象、「復活」の立会体験、説かれた数々の言葉を共有するグループを形成した。彼を「神の子」として崇拝し再臨を祈る礼拝がおこなわれた。
32 ヘレニストの幹部ステファノ、サマリアやシリア伝道を展開する中で「神殿偏重」のユダヤ教を批判。ユダヤ議会より異端と指弾され、石打ちの刑で殺される。キリスト教の最初の殉教者となる。弾圧を逃れた信者は共同体をサマリヤ諸地方に拡散。
ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方(救い主)です。クリストスはメシアを示すギリシャ語。イエスもヨシュアのギリシャ語読み。
イエスが布教を開始したのは北部ガラリア地方のナザレだった。ベツレヘムを生地とするのはダビデにちなんだ創作と言われる。
33 聖人パウロの登場。キリスト教の迫害者だったがイエスの幻を見て回心する。その後ローマ帝国内各地で布教活動を行い、多くの書物(書簡)を残す。
パウロはヘブライ語で「サウロ」。ギリシャ読みするとパウロとなる。十二使徒には含められないが、正教会ではパウロを首座使徒と尊称する。
もともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビに学んだ。ギリシャ語にも堪能で、生まれつきのローマ市民権保持者でもあった。
キリスト教が登場すると、当初はユダヤ議会のメンバーとして弾圧する側に回った。ダマスクへの旅の途中で「回心」した。
33 ペンテコステの日。小アジアなどのディアスポラ3,000人がエルサレムに集まり,洗礼を受ける。

35 バルナバ、ステファノの活動を引き継ぎ、サウロとともにアンチオケでの布教活動を展開。
バルナバはもとヨゼフという名前。バルナバは雄弁家という意味のあだ名だとされる。
キプロ島生まれで、エルサレムに参詣した際、イエスの説教を聞き、農園を売って共同体に加わった。12使徒ではない。
回心したサウロがダマスクからエルサレムに来たとき、バルナバのみが彼を受け入れた。サウロとともにアンチオケでの布教活動を展開。
40 バルナバとサウロ、いったんエルサレムに戻ったあと、ふたたびサウロとともにキプロス・小アジア伝道の旅に出る。(第一回の伝道旅行)サウロは通称をパウロとギリシャ風に改める。このとき従弟ヨハネ・マルコも行をともにする。
第一世紀の地中海世界とパウロの伝道旅行程 より小アジア東部
小アジア東部(画面上を左クリックすれば拡大)
小アジア西部
エーゲ海地域(画面上を左クリックすれば拡大)
44 ユダヤの地を支配したヘロデ王が死去。ローマ帝国の直轄統治となる。
47 エルサレム使徒会議。ペトロに代わりヤコブが教団指導者となる。ヤコブはイエスの兄弟で義人ヤコブと呼ばれた。この会議で異邦人への宣教が公式に認められる(割礼を入信の条件としない)。
ヤコブはイエスの死後に母マリアらとともに入信しており、12使徒ではない。
48 第1回伝道後にバルナバとサウロに方法をめぐり意見の違いが表面化。エルサレム公会議に列席し教皇ペトロの意見を仰ぐ。両者は別行動を取ることとなる。バルナバはヨハネ・マルコと共にキプロ島に赴き、遂にその地に留まる。
49 パウロの2度目の宣教旅行は3年に及ぶ。小アジアのルステラから陸路を取り北西部のトロアスに向かう。
49 皇帝クラウディス、ユダヤ人とキリスト教徒をローマから追放。
50年頃 パウロがピリピ(ギリシャ北部、マケドニア地域)に渡る。途上でコリント人への第1・第2の手紙が書かれる。
53 パウロはいったんギリシャからエルサレムに戻ったあと、「ユダヤ人もギリシャ人も,アジア地区に住むすべての者」をキリスト教化するとし、ただちに3度目の宣教旅行に出る。アンテオケから海路小アジアに入りエフェソスに3年間とどまる。
エフェソスにはアントニウスとクレオパトラが滞在したことがある。
また聖母マリアはエフェソスで使徒ヨハネとともに余生を送ったとされる。これについてはヨハネのところに記載する。
当時のエフェソスは女神アルテミスに捧げられた都市として知られ、土産物(ミニチュアのアルテミス像など)を製作販売する職人たちが多く住んでいた
偶像を否定するパウロは町を逐われエルサレムへと向かった。
54 この頃、バルナバの伝道に従った従兄弟マルコが、マルコ書を書く。最初の福音書と言われる。バルナバの経験が元になっているが、マルコの各方面からの聞き取りも加わっているとされる。
54年 ネロがローマ皇帝に即位。
57 エルサレムに戻ったパウロ、ユダヤ人に訴えられて逮捕される。ローマ市民であるとして皇帝に上訴する。
59  パウロはマルタ島を経由してローマへ護送される。以降ローマで数年を過ごし旺盛な著作活動を展開。
書簡はたくさんあるが、真書として新約聖書におさめられいるのが『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一1と2』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一1』『フィレモンへの手紙』の7篇である。
60 ユダヤ戦争が始まる。発端はユダヤ教神殿の管理をめぐる紛争。ユダヤ急進派がローマ守備隊全員を虐殺する。ローマ軍はエルサレム撤退中にユダヤ軍に惨敗する。
60頃 ルカによる福音書が書かれる。ルカはギリシャ人医師でパウロの第2次宣教旅行,及びに同行した。ルカ伝のギリシア語は極めて美しいもので、且つ語彙も豊かである。パウロの業績以外の内容はマルコ伝の転載が多い。ただしエルサレム滞在時に独自の取材も行っていると言われる。
60 マタイによる福音書もこのころ成立。
マタイは十二使徒の1人。収税人であったがイエスの求めに応じ使徒となる。第一福音書は伝統的にマタイによるものとされているが、今日では複数の文書の複合説が有力である。マルコ書の趣旨に加え、イエスにおいて旧約聖書の預言が成就していることを示すことを目的とする。
61 エルサレムのキリスト教会を指導していたイエスの兄弟ヤコブが殉教する。ヤコブは小ヤコブとも呼ばれ、ユダヤ教共同体でも高く尊敬されていた。このあと“キリスト教本家”筋のエルサレム教団は衰微する。
62 ユダヤ戦争が敗北。エルサレムの陥落から逃れたファリサイ派は、エルサレム西部の町ヤブネ(ヤムニア)にユダヤ教の研究学校を設けテクスト研究を行った。キリスト教と不仲のファリサイ派が主流となったため、ユダヤ教と「キリスト教」への分派が進む。
62 使徒ペテロの名で、小アジアのほぼ全域の人々にあてた手紙が作成される。宛先はパウロの布教したのより広範な地域に及んでいる。
63 ルカ、ルカ伝に続き使徒行伝(使徒言行録)を書く
64 ローマの大火。これを理由として皇帝ネロがキリスト教徒を迫害する。
64頃 カトリック教会ローマ司教ペトロ(ペテロ)の殉教
ペトロはなぜペテロなのか。
Wikiでは「ヘブライ語: שִׁמְעוֹן בַּר־יוֹנָה , Šimʿon bar-Yônā, 古典ギリシア語: Πέτρος, Pétros, 古典ラテン語: Petrus」となっており、ペテロになるいわれはどう見てもなさそうだ。
本名はシモン。ユダヤ人社会では「ケファ」(岩)というあだ名で呼ばれており、岩のギリシャ語読みがペトロということらしい。
ガリラヤ湖で漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。キリストの死後は教団の最高指導者として組織を取りまとめた。
古いのが取り柄の高弟というのがペトロだが、『ペトロ行伝』ではローマへ宣教し、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされ、「クォ・ヴァディス」のセリフ一発で後世に名を残すことになった。
『ペトロの手紙一』と『ペトロの手紙二』を残しているが、真偽については議論が残るようだ。
サン・ピエトロの地下で発見された「遺骨」が、教皇フランシスコにより公開を許可されたことが話題となった。
66 ユダヤ地方のユダヤ人達がローマ帝国に反旗を翻し、第1次ユダヤ戦争が起る。
67 ユダ(イエスの弟)がユダ書を著す。
70 ローマ軍がエルサレムを陥落させ、ユダヤ教のエルサレム神殿が廃墟となる。エルサレム共同体も解体される。市民の犠牲者が100万人に及んだとされる。
70年 エルサレムを中心としていたユダヤ人キリスト者共同体が離散。中心が小アジアのアンテオケの方へ移る。
73年 マサダ要塞の陥落
70年代 ヨハネを除く福音書(マタイ、マルコ、ルカ)が成立。共観福音書と呼ばれる。
80年頃 ルカの福音書の後編として「使徒言行録」が成立。エルサレム(1章 - 5章)、ユダヤとサマリア(6章 - 9章)、全世界(10章 - 28章)という展開で語られる。また12章まではペトロが、13章以降ではパウロが中心に描かれる。
90年 ユダヤ教徒(ファリサイ派)がヤムニア会議で旧約聖書正典を決定。
90年代 動揺するユダヤ人キリスト教徒にあてられたとされる「ヘブライ人への手紙」(ヘブル書)もこの頃作成されたと言われる。
95年頃 ローマ皇帝ドミティアーヌスによるキリスト教迫害。エフェソスの司教だった使徒ヨハネがパトモス島に幽閉される。幽囚中に黙示録を著したとされる。
ヨハネは兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしていてイエスの誘いを受けた。イエスの処刑時もただ一人弟子としてつきそい、12使徒の中でペトロに次ぐNo.2の地位を占める。
ヨハネは、イエスの母マリアを後見しエフェソスに移り住んだ。パウロがエフェソスを追われたのよりあとの話、おそらくエルサレムの破壊に絡む亡命であろう。相当無理のある計算だが、マリアが75ないし80歳、ヨハネが50歳とすれば、ギリギリ年は合う。95年にはマリアはすでに死去、ヨハネは85歳だ。福音書を著したのはパトモス島から釈放された後、弟子プロクロスに口述したとされる。
100年頃 教会生活を規定した指導書「12使徒の教訓」(ディダケー) が定められる。長老、監督制の展開

紀元2世紀
130 バル・コクバによって率いられた第2次ユダヤ戦争が始まる。5年にわたる戦闘の末、敗北に終わる。
135 第2次ユダヤ戦争が終結。ローマ軍によってエルサレムは廃墟とされる。皇帝ハドリアヌスはユダヤ教の絶滅を図る。ユダヤの地はパレスチナと改称される。
135年頃 グノーシス主義が盛んになる。
在来信仰や哲学(新プラトン主義)と習俗したキリスト教の一派。物質と霊の二元論を共通の特徴とする(らしい)。
140年頃 マルキオン、ローマで活動
144年 マルキオンがキリスト教会から破門される。
160年頃 ユスティノスが『トリュフォンとの対話』(ギリシア語でユダヤ人向けに書かれたキリスト教弁証書)を記す。ユスティノスは間もなくローマで殉教
185年頃 ゲルマニアにキリスト教が入る。
197年 テルトゥリアヌスがローマ帝国の迫害に対して法的な観点からキリスト教を弁護した『護教論(「弁証書」)』を記す。
200年頃 エデッサが東シリアのキリスト教の中心地となる。
200 ヘブル書と黙示録を除く「新約聖書」が教会で用いられるようになる。それまでを「原始キリスト教」、それ以降を「初期キリスト教」として区分する。
モルモン教やエホバの証人は原始キリスト教を現代に復興したと称している。
紀元3世紀
3世紀初 ローマのカタコンベ(地下墓地)にキリスト教壁画登場
202年 アレクサンドリアのクレメンスがキリスト教の哲学に対する関係を扱った『ストロマテイス』を記す。
204年 新プラトン主義の創始者プロティノスがエジプトで生まれる。
220年頃 キリスト教がペルシャ、アラビアに浸透
230年頃 オリゲネスが「キリスト教最初の教義学」と言われる『諸原理について』を記す。
250年 ローマ皇帝デキウス、最初の全国的規模のキリスト教大迫害。「皇帝崇拝」を強要。
250年以後 西ゴート族のキリスト教化始まる。
258年 カルタゴの主教キプリアヌス殉教。「神が唯一でありキリストが一人であるように、教会は一つである」と教会ヒエラルキーを強調。
284年 ディオクレティアヌスが皇帝に即位。強力な弾圧政策を再開。
293 ローマ帝国、四分割される(テトラルキア)。
まず東と西に二分割され、それぞれに正副の皇帝が置かれる。副皇帝もそれなりの力を持ち、山口組の若頭みたいな位置づけ。言うことを聞くだけの副ではない。

紀元4世紀
301 アルメニア王国がキリスト教を国教とする。当時のアルメニアはローマ帝国の従属国だが、国家の国教としては世界初。
303 東皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教禁圧令を出す。
305年、東西の正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスが揃って退位する。西ではコンスタンティウス・クロルス副皇帝が正帝位を引き継いだ。
306年7月 クロルスはカレドニア(現在のスコットランド)のピクト人に対する遠征の途中で病を発し死去。西方正帝には副帝セウェルスが昇格。コンスタンティウスの子コンスタンティヌス1世が副帝となる。コンスタンティヌスは副帝として支配地ガリアなどの再編強化に当たった。
これから先の記述はキリスト教にとってはほとんどどうでも良いことだが、興味本位でコンスタンティヌスの足跡を探ることにする。
306 この頃、コーモンのアントニウスがエジプトで隠修士を集め、キリスト教最初の修道院を始める。
312 コンスタンティヌス、正帝に反逆。十字架を旗印にしてアルプスを超えイタリア北部に侵入。ミルヴィウス橋(ローマ近郊)の戦いに勝利する。これにより西ローマ帝国の正帝コンスタンティヌス1世となった。
313 ミラノでコンスタンティヌスとリキニウスの両皇帝が会談。連名でミラノ勅令を発する。キリスト教を含む全ての宗教を公認した。
318 父と子の同一性を認めるアタナシウス派と、これを認めないアリウス派の間で論争が起る。
320 リキニウス東方帝、ミラノ勅令を破り、キリスト教徒を迫害。これを非とするコンスタンティヌスが対決。
324 リキニウス東方帝を破ったコンスタンティヌスが、統一ローマ帝国の皇帝に即位。
325 コンスタンティヌス1世によって第1回ニカイア公会議が開かれ、ニカイア信条成立。「父と子の同一性」を主張するアタナシウス派が勝利。アリウス派が異端とされる。
アレクサンドリア教会のアリウスが、「神の子は神にあらず」と主張。これに対し若手のアタナシウスが「神の子は神」と主張。ついでに聖霊も加えて「三位一体」を主張した。部外者から見れば「どちらもあり」だが…
コンスタンティヌスは論争に決着を付けたが、判断の基準はそれぞれの支持者の数だったという(ウィキ)
327 グルジアがキリスト教を国教とする(グルジア正教会)。
330 ローマからビュザンティオンに遷都し、ノウァ・ローマと改称。ビザンティウムはギリシア人の植民都市ビュザンティオンから出発。帝国東方の交易都市として発展した。
ローマは帝国の首都でなくなったため、旧西ローマ帝国における権威をローマ教会が握るようになる。
330 ローマの聖ピエトロ(ペトロ)大聖堂、ビザンチンの聖ソフィア大聖堂が建立される。法律によって日曜日が休日と定められ、クリスマスは国家の祝日となる。
337年 コンスタンティヌス皇帝、サーサーン朝ペルシア討伐の軍を挙げたが、軍旅中に病に倒れる。
350頃 エチオピアがキリスト教を国教とする(コプト教・エチオピア正教会)。
361 皇帝ユリアヌスがローマ古来の宗教の復活を企てる。「背教者ユリアヌス」と呼ばれる。
375 ゲルマン民族の大移動が開始される
381 第1コンスタンティノポリス公会議(第2回世界教会総会議)が開かれ、ニカイア公会議を補則する。


どうも連帯運動に携わる人間からすると、この連帯保証という言葉が気になる。
連帯という言葉はフランスの言葉であって、ドイツにはそのような概念はないだろうと思う。とすればこの言葉はおそらくボアソナードが編纂した旧民法に起源を持つのではないだろうか。
そう思ってネットで色々探してみたけれども、それらしい文章が見つからない。
かろうじて下の文章を見つけた。答えにはなっていないのと、文章がさっぱりわからないのとを承知の上で、抜書きしてみた。

加賀山茂著 『現代民法担保法』(信山社、 2009年)
を松岡久和さんという人が紹介した文章で「民法学のあゆみ」という雑誌の連載の一つらしい。

現行民法はボアソナード旧民法をパンデクテン式に再編したもので、立法上の問題点はポアソナード
民法を改変したところに集中的に生じている。それゆえ、優れた旧民法債権担保編を参照し再認識する
必要がある。
…そもそも、「担保物権」という法令用語はなく、民法は「他の債権者に先立つて自己の債権の弁済を受ける権利を有する」と共通して優先弁済権のみを規定している。
…要するに担保物権という物権は存在せず、担保物権の効力とは、債権の効力の一環として認められて
いる掴取力を民法自体が拡張しているものにすぎない。
…本書は、保証の債務性の否定と担保物権の物権性の否定とによって、債権の掴取カの量的・質的強化という共通項で優先弁済援を統合して理解し、この結合に理論的な支柱を提供する。
…債権者は保証人に債務者の債務を肩代わりして履行するように請求できるが、それは、他人の債務を履行することを請求できるだけで、保証人が負担するのは、別個独立の債務ではなく、あくまで「債務なき責任」である、
…フランスの破産法では債務者が破産し破産免責を受けても保証人の求償権だけは免責されない。そのような規律であれば論理的に問題がないが、わが国の通説は、債務者は求償債務を含めて全責任を免れるのに対して、保証人だけが付従性の利益を受けずに責任を負うとする。
…これでは、付従性のある債務だと,思って契約した保証人の責任を破産法が勝手に独立担保契約に変更することになり、民法に反する。

解説もないので、なんとも心もとない読解になるが
破産法という法律に債務者の義務が書かれていて連帯保証も含まれるらしい。
ここでは債務者の債務を保証人が肩代わりする際に、担保物権の物権性にすり替えられるのは民法の精神に反していると言っているらしい。
何故かと言うと、民法典のうち破産法の基礎となる部分はボアソナード旧民法がかなり残っており、そこに「木に竹を接ぐ」ようにパンデクテン式再編が行われ、矛盾しているらしい。
だから「連帯保証」を声高に言いながら、フランス破産法とは全く異なる各論対応になっているらしいのである。
ただ紹介者の松岡さんは、加賀山さんの意見は決して法学界の主流ではないと強調しているので、いちおう「連帯」という言葉がなぜ民法に紛れ込んだのか、それが連帯の精神とはおよそ逆の方向で使われているのはなぜなのか、そのあたりの参考までに…

ついでに民法の制定過程を年表で
1872年 司法卿江藤新平のもとで民法編纂事業が始まった。江藤は、フランス民法典を翻訳してそれを日本民法典として公布・施行しようとした。ジョルジュ・ブスケが来日し作業をすすめる。
1873年 ギュスターヴ・ボアソナードが来日し、明法寮等でフランス法学を講義した。治罪法(刑事訴訟法典)・旧刑法を起草し、拷問の廃止に尽力した。
当初司法省に雇われたが、その実力が知られると正院法制局、外務省、元老院、陸軍省などからも顧問として用いられた
1876 年 ブスケ、民法仮法則 全94条を作成し帰国。
1878年 大木喬任司法卿、箕作麟祥・牟田口通照に民法典の編纂を進めさせる。フランス民法典を直訳移植したもの。
1880年(明治13年) 大木、民法編纂総裁となりボアソナードを中心とする民法典編纂が開始される。
ボアソナードは、フランス民法を中心として、オランダ民法、イタリア民法などを参考にして、10 年の歳月をかけて日本民法を起草した。
1880 年 2 月 梅謙次郎、東京外国語学校仏語科を首席で卒業。司法省法学校第 2期生に補欠入学。
1885 年 12 月 梅謙次郎、文部省留学生としてフランス・リヨン大学に留学。ボアソナード民法(旧民法)草案を批判的に検討したとされる。
1886 年(明治 19 年)4 月 兄錦之丞、民間に一大病院を作ると計画していた矢先に病死。後には莫大な借金が残り、それはすべて弟謙次郎の身に降りかかってきた。この借金の返済に梅は十数年苦しむ。
1889 年(明治 22 年)7 月 梅謙次郎、首席で博士号を取得した。それからベルリン大学に移る。
1890 年 4 月 ボアソナードの手になる民法が公布された。これを「旧民法」という。1893 年 1 月の施行が予定される。
8 月 梅謙次郎、命を受け帰国。帝国大学大学法科大学教授に任命される。
10月 人事編と財産取得編第 13 章以下が公布。ボアソナードの指導を受け日本人スタッフが起草。
1891 年 梅、大学教授の傍ら農商務省参事官など行政職を併任。
1892 年 民法典論争が巻き起こる。延期派が提起した民法商法施行延期法律案が可決。
旧民法はヨーロッパ的個人主義を旨とし、日本の醇風美俗たる家制度を破壊するとの批判。梅らは断行を主張。
1893 年 
3 月 法典調査会が組織され、そのもとで修正作業がスタート。スタッフは穂積、富井、梅の3名。
9 月29 日逐条審議が始まる。
1895年(明治28年) ボアソナードは民法典の挫折に失望して帰国
1896年 旧民法修正案が第 9 回帝国議会で可決され、同年に公布された。
ドイツ民法典第一草案に倣い、法典全体の体系性を重んじ個別規定に先立って「総則」を置く「パンデクテン方式」をとる。しかし内容は旧民法典からのフランス法の影響が大きい。
1898年7月 「明治民法」全5編が施行される
1899年(明治 32 年) 梅らによリ商法がまとめられる。
1910 年 8 月 25 日 梅、ソウルで法整備作業中に腸チフスとなり死亡。享年 50 歳。

どうも連帯運動に携わる人間からすると、この連帯保証という言葉が気になる。
連帯という言葉はフランスの言葉であって、ドイツにはそのような概念はないだろうと思う。とすればこの言葉はおそらくポアソナードが編纂した旧民法に起源を持つのではないだろうか。
そう思ってネットで色々探してみたけれども、それらしい文章が見つからない。
かろうじて下の文章を見つけた。答えにはなっていないのと、文章がさっぱりわからないのとを承知の上で、抜書きしてみた。

加賀山茂著 『現代民法担保法』(信山社、 2009年)
を松岡久和さんという人が紹介した文章で「民法学のあゆみ」という雑誌の連載の一つらしい。

現行民法はボアソナード旧民法をパンデクテン式に再編したもので、立法上の問題点はポアソナード民法を改変したところに集中的に生じている。それゆえ、優れた旧民法債権担保編を参照し再認識する必要がある。
…そもそも、「担保物権」という法令用語はなく、民法は「他の債権者に先立つて自己の債権の弁済を受ける権利を有する」と共通して優先弁済権のみを規定している。
…要するに担保物権という物権は存在せず、担保物権の効力とは、債権の効力の一環として認められている掴取力を民法自体が拡張しているものにすぎない。
…本書は、保証の債務性の否定と担保物権の物権性の否定とによって、債権の掴取カの量的・質的強化という共通項で優先弁済援を統合して理解し、この結合に理論的な支柱を提供する。
…債権者は保証人に債務者の債務を肩代わりして履行するように請求できるが、それは、他人の債務を履行することを請求できるだけで、保証人が負担するのは、別個独立の債務ではなく、あくまで「債務なき責任」である、
…フランスの破産法では債務者が破産し破産免責を受けても保証人の求償権だけは免責されない。そのような規律であれば論理的に問題がないが、わが国の通説は、債務者は求償債務を含めて全責任を免れるのに対して、保証人だけが付従性の利益を受けずに責任を負うとする。
…これでは、付従性のある債務だと,思って契約した保証人の責任を破産法が勝手に独立担保契約に変更することになり、民法に反する。

解説もないので、なんとも心もとない読解になるが
破産法という法律に債務者の義務が書かれていて連帯保証も含まれるらしい。
ここでは債務者の債務を保証人が肩代わりする際に、担保物権の物権性にすり替えられるのは民法の精神に反していると言っているらしい。
何故かと言うと、民法典のうち破産法の基礎となる部分はボアソナード旧民法がかなり残っており、そこに「木に竹を接ぐ」ようにパンデクテン式再編が行われ、矛盾しているらしい。
だから「連帯保証」を声高に言いながら、フランス破産法とは全く異なる各論対応になっているらしいのである。
ただ紹介者の松岡さんは、加賀山さんの意見は決して法学界の主流ではないと強調しているので、いちおう「連帯」という言葉がなぜ民法に紛れ込んだのか、それが連帯の精神とはおよそ逆の方向で使われているのはなぜなのか、そのあたりの参考までに…




Reports of General MacArthur

MACARTHUR IN JAPAN:  THE OCCUPATION: MILITARY PHASE

という膨大なレポートがあって、そのサプリメントに見たことのない写真が沢山載っている。「終戦」ではなく「敗戦」であることがよく分かる。

すこし紹介しておきたい。(著作権についてクレームがあれば直ちに取り下げます

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マニラでの降伏交渉: 日本代表団がニコルス・フィールドに到着(8月19日)

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交渉開始前。G-2の通訳との打ち合わせ。

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降伏交渉: 左からCapt. H. Yoshida, Capt. T. Ohmae, Rear Adm. I. Yokoyama, Lt. Gen. T. Kawabe, Mr. Ko. Okazaki

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厚木飛行場に到着した先発隊。日本側はLt. Gen. Seizo Arisue

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ついで、アイケルバーガー大将(右)が到着。中央のヘルメット姿は第11空挺師団のMaj. Gen. J. M. Swing

 
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最後にマッカーサーが到着しアイケルバーガーと挨拶。

 

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ミズーリ号甲板上で降伏文書の調印式。マッカーサーはマイクの後ろに立っていた。
 
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米大使館前庭にて米国国旗の公式掲揚。マッカーサー、アイケルバーガーの他Maj. Gen. Wm. C. Chase、Admiral Wm. F. Halseyら

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呉軍港を視察するアイケルバーガー将軍。左は英連邦軍のロバートソン将軍

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オーストラリア儀仗兵を閲兵するアイケルバーガー。呉には英連邦軍(BCOF)の本部があったらしい。

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満州の捕虜収容所から解放されたウェインライト将軍(左)とパーシバル将軍(右)

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軍捕虜収容所への落下傘による物資補給。日本人が回収し荷降ろししている。8月30日 東京・大森


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二人の米国人捕虜。三年以上にわたり大森収容所に収容されていた。

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日本軍捕虜情報局の田村中将から説明を受ける軍と国際赤十字関係者

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飛行機の下にドラム缶を置き、焼却準備中(京都)

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戦車はダイナマイトで破壊されてからスクラップに回された。

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大阪府高槻の地下弾薬庫に保管された砲弾

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 日本第58軍の武器はLSMに積み込まれ海上投棄された(45年10月)


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佐世保の乾ドックで解体中の軽巡洋艦「伊吹」 47年3月
改鈴谷型重巡洋艦の1番艦として起工され、建造中に航空母艦へ変更されたが、未完成のまま終戦を迎え、1946年(昭和21年)に解体処分された(ウィキペディア)

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ラバウルから戦友の遺骨を持ち帰り、遺族の元へお返しする

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武装解除と帰国についての連合国指示を受ける日本軍司令官

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横須賀駅から故郷へ

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民間人の帰国 博多受け入れセンター


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禁制品、武器などの持ち物検査

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ソ連地区からの帰国と家族の歓迎

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日本人帰還者の乗船

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大森の松朝食堂に入る帰還者



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帰還船に乗る子どもたち

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ソ連からの帰還者が家族と再会

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家、そして新たな暮らし

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天皇の人間宣言と巡幸

Plate No. 68, Modernized Civil Education, March 1946
アメリカの教育視察団による現地調査。

Plate No. 68, Modernized Civil Education, March 1946
市民教育図書館で自習する若者たち

Plate No. 69, Control of Medical Supplies and Distribution of Army Rations
日本軍の隠匿医薬品がMPにより摘発された。これらは厚生・救恤局に分配された。

Plate No. 69, Control of Medical Supplies and Distribution of Army Rations
アメリカ軍の余剰食料が、枯渇した日本の資源を補うために分配された

Plate No. 79, Police Training Program, 1948
全国自治警察大学校が東京に置かれ講義が施された



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