鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

1517年
春 教皇・レオ10世、サン=ピエトロ大聖堂修築資金を集めるため、「免罪符」の販売を指示。
10月31日 ルター(34)、教会の改革を促す「95箇条の論題」を発表。免罪符について「売る人も買う人も永遠の罪を受ける」と非難。
マルチン・ルター: 1483年に鉱夫の息子として生まれる。ウィッテンベルク大学で神学を教えていた。
1518年
3月 ルター、教皇庁への批判を旺盛に展開。要約はドイツ語に訳され、活版印刷技術により全国に広まる。
4月 ドミニコ会がルター糾弾のキャンペーンを開始。
6月 ルターに対する異端審問が始まる。
10月 ローマ教皇は特使を派遣しルターに出頭をもとめる。ルターはこれを拒否。
1519年
1月 ルター、教皇特使と妥協。双方共に意見を公的に発表しないことで合意(アルテンブルク協定)。事態はこれでいったん沈静化。
6月 ライプツィヒでルターとエックの公開神学論争。ルターはウィクリフやフスの説にも真理があると主張した。ウィクリフとフスは異端として処刑されていた。
19年 神聖ローマ皇帝選挙。カール5世が皇帝に選ばれる。
1520年
6月 教皇、勅書にてルターに破門を警告。
12月 ルターはヴィッテンベルクの公開の場で教皇の回勅を焼き払う。
20年 ルターの門弟ミュンツァーがツウィッカウへ布教に入る。
トマス・ミュンツァー: 「神の国」の建設を訴えるなど、ルターより急進的だった。その後プラハ、ザクセン、アルシュテットなどを流浪する。

1521年
1月5日 教皇庁がルター(38)を正式に破門する。ルター(38)は異端者と宣告される。
4月 神聖ローマ帝国、ヴォルムス国会を招集。ルターの一切の法的権利を剥奪する帝国追放令を発する。
5月3日 ザクセン選帝侯フリードリヒ3世、ルターをヴァルトブルク城にかくまう。
フリードリヒはルターが何者かに誘拐されたように見せかけたと言う。ルターには「騎士ゲオルグ」という偽名が与えられた。
1522年
3月 ルターがザクセン選帝侯の止めるのを押し切り、ウィッテンブルク大学に戻る。この後現地で宗教改革を進める。ルターはヴァルトブルク滞在中に新約聖書を古代ギリシア語から翻訳し、大量に頒布した。
9月 帝国騎士の乱(Ritterkrieg)が始まる。ジッキンゲン(41歳)、フッテン(34歳)らの率いる騎士団が、トリエル大司教兼選帝侯を襲撃。間もなく鎮圧される。
ジッキンゲン: 神聖ローマ帝国で帝国侍従・顧問官を務める幹部。
フッテン: 精神面の指導者。神聖ローマの桂冠詩人に叙せられた人物。
1524年
2月 フランス王フランソワ1世は、北イタリアに進軍。神聖ローマ帝国も大軍を動員し反撃にでる。
2月 軍の不在をついてドイツ国内各地で農民戦争(Bauernkrieg)が始まる。
1525年
北イタリア戦争が終結。神聖ローマ軍が快勝し、フランソワ1世を捕虜にする。
5月15日 神聖ローマの正規軍を投入することで、農民軍は瓦解。農民戦争が終結する。“首謀者”のミュンツァーは拷問の末斬首となる。ルター派は無傷で残る。
1526年
シュパイエルで神聖ローマ帝国議会が開催される。第1時シュパイエル国会と呼ばれる。ヴォルムス国会のルター追放令を凍結。
1527年
ヘッセン伯フィリップがルター派を熱心に支持。ザクセンも引き続きルター派を支持。
フィリップ(23): 市民階級の人々を起用し、一種の啓蒙専制政治を行う。首都マルブルクに最初のルター派大学を設立。
1529年
第2シュパイエル国会、教会改革の中止を指示。6人の諸侯と14の自由都市が良心の自由を求め抗議書(Protest)を提出する。
1531年
1月 シュマルカルデン同盟が結成される。ヘッセン伯フィリップとザクセン選帝侯ヨハン公を軸に、新教派諸侯とマクデブルク、ブレーメン、南ドイツの自由都市が参加。

1546年 
カール5世(46歳)とカトリック派諸侯がシュマルカルデン同盟への武力攻撃を開始。

1547年
4月 ミュールベルクの戦いで皇帝軍が勝利。プロテスタント派のヘッセン伯やザクセン選帝侯は捕虜となる。
1548年 
カール5世、「アウクスブルクの暫定取り決め」を発表。新旧両教会の合同を定める。北部ではほとんど実施されず。
1551年 
モーリッツ・フォン・ザクセンがフランス王の援助を取り付け、ヘッセン伯、ブランデンブルク辺境伯などとともに神聖ローマに反抗。「君主戦争」と呼ばれる。
1552年 
両者が停戦し、パッサウ条約が結ばれる。捕虜となっていたプロテスタント諸侯は解放される。
1555年 
アウクスブルクにて帝国議会。アウクスブルクの宗教和議が成立。ルター派の存在を公式に認め、各諸侯にはカトリックとプロテスタントを選択する権利が認められる。

「キリスト教とローマ帝国」年表

キリスト教の歴史を勉強するうちに、いくつかのことがわかってきた。キリスト教は実態的にはユダヤ教を引き継ぎながら、その本質を否定するところに存在していること。
キリスト教はローマ帝国の弾圧を受けながら、実体的にはローマ帝国の宗教として発展してきたこと。したがって、ローマ帝国の「精神」を象徴していること。
ということで、ローマ帝国の盛衰史とキリスト教の確立過程を重ね合わせながら年表を作成できないだろうかと試して見た。
キリスト教の年表だからネットの世界も情報満載だ。しかし「世界宗教としてのキリスト教発展史」を初期キリスト教成立史と重ね合わそうとすると、意外に余分な情報が多く必要な情報が少ない。そもそもどういう情報を集めたら良いのかさえわからなくなってしまう。
ユダヤ教という一神教を生み出した風土、それが形式主義に堕し、貧困層からは否定されていく経過、イスラエルの地を取り囲む地政学的状況の変化、とりわけギリシャ・ローマ文明の進出、ディアスポラ経済との兼ね合いなどがキリスト教を生み出した諸要因として分析されるべきだろう。
さらにそれが一小民族の民族信仰からユニバーサルな宗教となっていく上での客観的な条件、「共通」の言葉に裏付けられた「共通」な文化の共有とその特質。それが被抑圧階級の進行から支配階級にまで取り込まれていった理由、ローマ帝国が産んだ宗教でありながら、封建世界にも受容可能な形態に変貌し受け継がれていった理由、あまりにも多くの要素がある。

なお西暦に就いてであるが、これは、イエス・キリストが生まれた年の翌年を紀元1年としている。だから誕生日は0年12月ということになる。ただし17世紀以来の申し合わせで紀元0年は置かないことになっており、紀元1年の前の年は紀元前1年である。
西暦は紀元6世紀ころからローマ暦に代わり使われ始めた。現在ではキリストの生年は、紀元6世紀に考えられたより遡ると言われており、紀元前4年と推定されている。

紀元前1世紀
カルタゴ、アレクサンドリアのユダヤ人(ディアスポラ)のユダヤ教への改宗が進む。旧ギリシャ植民地のユダヤ人はギリシャ語を用いたため、ヘレニストと呼ばれる。
63 共和政ローマの将軍のポンペイウスがエルサレムに入城する。ユダヤ地方(イスラエルまたはパレスチナともいう)はローマの支配下に入る。
44 ローマ皇帝カエサルの暗殺
43 ヘロデ、ハスモン朝ユダヤ王国を打倒。カエサルとの協調関係を背景にガラリアの知事に就任
37 ヘロデ、いったん失脚するも、ローマ軍の支援を受け権力を掌握。
34 ヘロデ大王、ローマからユダヤ人の王に任命される。その後政敵を次々と処刑、独裁権力を打ち立てる。
29 オクタビアヌス、アウグストゥスの称号を受けローマ初代皇帝となる。帝政ローマが始まる。
4 ヘロデ大王没。息子のヘロデ・アルケラオスが後継となるが、失政が続き解任される。
4頃 イエスがベツレヘムに降誕する。

紀元1世紀
18 カイファ(カヤパ)大祭司となる(~36年)
26 ポンテオ・ピラトがユダヤ総督となる(~36年)
27 この頃、洗礼者ヨハネが活動を開始する。

キリスト時代のパレスチナ
28 ナザレのイエスはヨハネより洗礼を受け、「良き訪れ」と呼ぶ宣教活動を開始する。ヨハネはまもなく捕らえられ首を切られる。
イエスが布教を開始したのは北部ガラリア地方のナザレだった。ベツレヘムを生地とするのはダビデにちなんだ創作と言われる。なおイエス死後の教団の活動はエルサレムである。
30 イエスがエルサレムのゴルゴタの丘で磔刑になった。以後の記載はルカの使徒言行録による。使徒言行録については後ほど説明。
イエス・キリストの死後、弟子たちはエルサレム教会に結集して信仰を続けた。彼らは後にナザレ派、原始エルサレム教会と呼ばれることになる。初期指導者はペトロとヨハネだった。彼らはイエスの人格的印象、「復活」の立会体験、説かれた数々の言葉を共有するグループを形成した。彼を「神の子」として崇拝し再臨を祈る礼拝がおこなわれた。
32 ヘレニストの幹部ステファノ、サマリアやシリア伝道を展開する中で「神殿偏重」のユダヤ教を批判。ユダヤ議会より異端と指弾され、石打ちの刑で殺される。キリスト教の最初の殉教者となる。弾圧を逃れた信者は共同体をサマリヤ諸地方に拡散。
ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方(救い主)です。クリストスはメシアを示すギリシャ語。イエスもヨシュアのギリシャ語読み。
イエスが布教を開始したのは北部ガラリア地方のナザレだった。ベツレヘムを生地とするのはダビデにちなんだ創作と言われる。
33 聖人パウロの登場。キリスト教の迫害者だったがイエスの幻を見て回心する。その後ローマ帝国内各地で布教活動を行い、多くの書物(書簡)を残す。
パウロはヘブライ語で「サウロ」。ギリシャ読みするとパウロとなる。十二使徒には含められないが、正教会ではパウロを首座使徒と尊称する。
もともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビに学んだ。ギリシャ語にも堪能で、生まれつきのローマ市民権保持者でもあった。
キリスト教が登場すると、当初はユダヤ議会のメンバーとして弾圧する側に回った。ダマスクへの旅の途中で「回心」した。
33 ペンテコステの日。小アジアなどのディアスポラ3,000人がエルサレムに集まり,洗礼を受ける。

35 バルナバ、ステファノの活動を引き継ぎ、サウロとともにアンチオケでの布教活動を展開。
バルナバはもとヨゼフという名前。バルナバは雄弁家という意味のあだ名だとされる。
キプロ島生まれで、エルサレムに参詣した際、イエスの説教を聞き、農園を売って共同体に加わった。12使徒ではない。
回心したサウロがダマスクからエルサレムに来たとき、バルナバのみが彼を受け入れた。サウロとともにアンチオケでの布教活動を展開。
40 バルナバとサウロ、いったんエルサレムに戻ったあと、ふたたびサウロとともにキプロス・小アジア伝道の旅に出る。(第一回の伝道旅行)サウロは通称をパウロとギリシャ風に改める。このとき従弟ヨハネ・マルコも行をともにする。
第一世紀の地中海世界とパウロの伝道旅行程 より小アジア東部
小アジア東部(画面上を左クリックすれば拡大)
小アジア西部
エーゲ海地域(画面上を左クリックすれば拡大)
44 ユダヤの地を支配したヘロデ王が死去。ローマ帝国の直轄統治となる。
47 エルサレム使徒会議。ペトロに代わりヤコブが教団指導者となる。ヤコブはイエスの兄弟で義人ヤコブと呼ばれた。この会議で異邦人への宣教が公式に認められる(割礼を入信の条件としない)。
ヤコブはイエスの死後に母マリアらとともに入信しており、12使徒ではない。
48 第1回伝道後にバルナバとサウロに方法をめぐり意見の違いが表面化。エルサレム公会議に列席し教皇ペトロの意見を仰ぐ。両者は別行動を取ることとなる。バルナバはヨハネ・マルコと共にキプロ島に赴き、遂にその地に留まる。
49 パウロの2度目の宣教旅行は3年に及ぶ。小アジアのルステラから陸路を取り北西部のトロアスに向かう。
49 皇帝クラウディス、ユダヤ人とキリスト教徒をローマから追放。
50年頃 パウロがピリピ(ギリシャ北部、マケドニア地域)に渡る。途上でコリント人への第1・第2の手紙が書かれる。
53 パウロはいったんギリシャからエルサレムに戻ったあと、「ユダヤ人もギリシャ人も,アジア地区に住むすべての者」をキリスト教化するとし、ただちに3度目の宣教旅行に出る。アンテオケから海路小アジアに入りエフェソスに3年間とどまる。
エフェソスにはアントニウスとクレオパトラが滞在したことがある。
また聖母マリアはエフェソスで使徒ヨハネとともに余生を送ったとされる。これについてはヨハネのところに記載する。
当時のエフェソスは女神アルテミスに捧げられた都市として知られ、土産物(ミニチュアのアルテミス像など)を製作販売する職人たちが多く住んでいた
偶像を否定するパウロは町を逐われエルサレムへと向かった。
54 この頃、バルナバの伝道に従った従兄弟マルコが、マルコ書を書く。最初の福音書と言われる。バルナバの経験が元になっているが、マルコの各方面からの聞き取りも加わっているとされる。
54年 ネロがローマ皇帝に即位。
57 エルサレムに戻ったパウロ、ユダヤ人に訴えられて逮捕される。ローマ市民であるとして皇帝に上訴する。
59  パウロはマルタ島を経由してローマへ護送される。以降ローマで数年を過ごし旺盛な著作活動を展開。
書簡はたくさんあるが、真書として新約聖書におさめられいるのが『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一1と2』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一1』『フィレモンへの手紙』の7篇である。
60 ユダヤ戦争が始まる。発端はユダヤ教神殿の管理をめぐる紛争。ユダヤ急進派がローマ守備隊全員を虐殺する。ローマ軍はエルサレム撤退中にユダヤ軍に惨敗する。
60頃 ルカによる福音書が書かれる。ルカはギリシャ人医師でパウロの第2次宣教旅行,及びに同行した。ルカ伝のギリシア語は極めて美しいもので、且つ語彙も豊かである。パウロの業績以外の内容はマルコ伝の転載が多い。ただしエルサレム滞在時に独自の取材も行っていると言われる。
60 マタイによる福音書もこのころ成立。
マタイは十二使徒の1人。収税人であったがイエスの求めに応じ使徒となる。第一福音書は伝統的にマタイによるものとされているが、今日では複数の文書の複合説が有力である。マルコ書の趣旨に加え、イエスにおいて旧約聖書の預言が成就していることを示すことを目的とする。
61 エルサレムのキリスト教会を指導していたイエスの兄弟ヤコブが殉教する。ヤコブは小ヤコブとも呼ばれ、ユダヤ教共同体でも高く尊敬されていた。このあと“キリスト教本家”筋のエルサレム教団は衰微する。
62 ユダヤ戦争が敗北。エルサレムの陥落から逃れたファリサイ派は、エルサレム西部の町ヤブネ(ヤムニア)にユダヤ教の研究学校を設けテクスト研究を行った。キリスト教と不仲のファリサイ派が主流となったため、ユダヤ教と「キリスト教」への分派が進む。
62 使徒ペテロの名で、小アジアのほぼ全域の人々にあてた手紙が作成される。宛先はパウロの布教したのより広範な地域に及んでいる。
63 ルカ、ルカ伝に続き使徒行伝(使徒言行録)を書く
64 ローマの大火。これを理由として皇帝ネロがキリスト教徒を迫害する。
64頃 カトリック教会ローマ司教ペトロ(ペテロ)の殉教
ペトロはなぜペテロなのか。
Wikiでは「ヘブライ語: שִׁמְעוֹן בַּר־יוֹנָה , Šimʿon bar-Yônā, 古典ギリシア語: Πέτρος, Pétros, 古典ラテン語: Petrus」となっており、ペテロになるいわれはどう見てもなさそうだ。
本名はシモン。ユダヤ人社会では「ケファ」(岩)というあだ名で呼ばれており、岩のギリシャ語読みがペトロということらしい。
ガリラヤ湖で漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。キリストの死後は教団の最高指導者として組織を取りまとめた。
古いのが取り柄の高弟というのがペトロだが、『ペトロ行伝』ではローマへ宣教し、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされ、「クォ・ヴァディス」のセリフ一発で後世に名を残すことになった。
『ペトロの手紙一』と『ペトロの手紙二』を残しているが、真偽については議論が残るようだ。
サン・ピエトロの地下で発見された「遺骨」が、教皇フランシスコにより公開を許可されたことが話題となった。
66 ユダヤ地方のユダヤ人達がローマ帝国に反旗を翻し、第1次ユダヤ戦争が起る。
67 ユダ(イエスの弟)がユダ書を著す。
70 ローマ軍がエルサレムを陥落させ、ユダヤ教のエルサレム神殿が廃墟となる。エルサレム共同体も解体される。市民の犠牲者が100万人に及んだとされる。
70年 エルサレムを中心としていたユダヤ人キリスト者共同体が離散。中心が小アジアのアンテオケの方へ移る。
73年 マサダ要塞の陥落
70年代 ヨハネを除く福音書(マタイ、マルコ、ルカ)が成立。共観福音書と呼ばれる。
80年頃 ルカの福音書の後編として「使徒言行録」が成立。エルサレム(1章 - 5章)、ユダヤとサマリア(6章 - 9章)、全世界(10章 - 28章)という展開で語られる。また12章まではペトロが、13章以降ではパウロが中心に描かれる。
90年 ユダヤ教徒(ファリサイ派)がヤムニア会議で旧約聖書正典を決定。
90年代 動揺するユダヤ人キリスト教徒にあてられたとされる「ヘブライ人への手紙」(ヘブル書)もこの頃作成されたと言われる。
95年頃 ローマ皇帝ドミティアーヌスによるキリスト教迫害。エフェソスの司教だった使徒ヨハネがパトモス島に幽閉される。幽囚中に黙示録を著したとされる。
ヨハネは兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしていてイエスの誘いを受けた。イエスの処刑時もただ一人弟子としてつきそい、12使徒の中でペトロに次ぐNo.2の地位を占める。
ヨハネは、イエスの母マリアを後見しエフェソスに移り住んだ。パウロがエフェソスを追われたのよりあとの話、おそらくエルサレムの破壊に絡む亡命であろう。相当無理のある計算だが、マリアが75ないし80歳、ヨハネが50歳とすれば、ギリギリ年は合う。95年にはマリアはすでに死去、ヨハネは85歳だ。福音書を著したのはパトモス島から釈放された後、弟子プロクロスに口述したとされる。
100年頃 教会生活を規定した指導書「12使徒の教訓」(ディダケー) が定められる。長老、監督制の展開

紀元2世紀
130 バル・コクバによって率いられた第2次ユダヤ戦争が始まる。5年にわたる戦闘の末、敗北に終わる。
135 第2次ユダヤ戦争が終結。ローマ軍によってエルサレムは廃墟とされる。皇帝ハドリアヌスはユダヤ教の絶滅を図る。ユダヤの地はパレスチナと改称される。
135年頃 グノーシス主義が盛んになる。
在来信仰や哲学(新プラトン主義)と習俗したキリスト教の一派。物質と霊の二元論を共通の特徴とする(らしい)。
140年頃 マルキオン、ローマで活動
144年 マルキオンがキリスト教会から破門される。
160年頃 ユスティノスが『トリュフォンとの対話』(ギリシア語でユダヤ人向けに書かれたキリスト教弁証書)を記す。ユスティノスは間もなくローマで殉教
185年頃 ゲルマニアにキリスト教が入る。
197年 テルトゥリアヌスがローマ帝国の迫害に対して法的な観点からキリスト教を弁護した『護教論(「弁証書」)』を記す。
200年頃 エデッサが東シリアのキリスト教の中心地となる。
200 ヘブル書と黙示録を除く「新約聖書」が教会で用いられるようになる。それまでを「原始キリスト教」、それ以降を「初期キリスト教」として区分する。
モルモン教やエホバの証人は原始キリスト教を現代に復興したと称している。
紀元3世紀
3世紀初 ローマのカタコンベ(地下墓地)にキリスト教壁画登場
202年 アレクサンドリアのクレメンスがキリスト教の哲学に対する関係を扱った『ストロマテイス』を記す。
204年 新プラトン主義の創始者プロティノスがエジプトで生まれる。
220年頃 キリスト教がペルシャ、アラビアに浸透
230年頃 オリゲネスが「キリスト教最初の教義学」と言われる『諸原理について』を記す。
250年 ローマ皇帝デキウス、最初の全国的規模のキリスト教大迫害。「皇帝崇拝」を強要。
250年以後 西ゴート族のキリスト教化始まる。
258年 カルタゴの主教キプリアヌス殉教。「神が唯一でありキリストが一人であるように、教会は一つである」と教会ヒエラルキーを強調。
284年 ディオクレティアヌスが皇帝に即位。強力な弾圧政策を再開。
293 ローマ帝国、四分割される(テトラルキア)。
まず東と西に二分割され、それぞれに正副の皇帝が置かれる。副皇帝もそれなりの力を持ち、山口組の若頭みたいな位置づけ。言うことを聞くだけの副ではない。

紀元4世紀
301 アルメニア王国がキリスト教を国教とする。当時のアルメニアはローマ帝国の従属国だが、国家の国教としては世界初。
303 東皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教禁圧令を出す。
305年、東西の正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスが揃って退位する。西ではコンスタンティウス・クロルス副皇帝が正帝位を引き継いだ。
306年7月 クロルスはカレドニア(現在のスコットランド)のピクト人に対する遠征の途中で病を発し死去。西方正帝には副帝セウェルスが昇格。コンスタンティウスの子コンスタンティヌス1世が副帝となる。コンスタンティヌスは副帝として支配地ガリアなどの再編強化に当たった。
これから先の記述はキリスト教にとってはほとんどどうでも良いことだが、興味本位でコンスタンティヌスの足跡を探ることにする。
306 この頃、コーモンのアントニウスがエジプトで隠修士を集め、キリスト教最初の修道院を始める。
312 コンスタンティヌス、正帝に反逆。十字架を旗印にしてアルプスを超えイタリア北部に侵入。ミルヴィウス橋(ローマ近郊)の戦いに勝利する。これにより西ローマ帝国の正帝コンスタンティヌス1世となった。
313 ミラノでコンスタンティヌスとリキニウスの両皇帝が会談。連名でミラノ勅令を発する。キリスト教を含む全ての宗教を公認した。
318 父と子の同一性を認めるアタナシウス派と、これを認めないアリウス派の間で論争が起る。
320 リキニウス東方帝、ミラノ勅令を破り、キリスト教徒を迫害。これを非とするコンスタンティヌスが対決。
324 リキニウス東方帝を破ったコンスタンティヌスが、統一ローマ帝国の皇帝に即位。
325 コンスタンティヌス1世によって第1回ニカイア公会議が開かれ、ニカイア信条成立。「父と子の同一性」を主張するアタナシウス派が勝利。アリウス派が異端とされる。
アレクサンドリア教会のアリウスが、「神の子は神にあらず」と主張。これに対し若手のアタナシウスが「神の子は神」と主張。ついでに聖霊も加えて「三位一体」を主張した。部外者から見れば「どちらもあり」だが…
コンスタンティヌスは論争に決着を付けたが、判断の基準はそれぞれの支持者の数だったという(ウィキ)
327 グルジアがキリスト教を国教とする(グルジア正教会)。
330 ローマからビュザンティオンに遷都し、ノウァ・ローマと改称。ビザンティウムはギリシア人の植民都市ビュザンティオンから出発。帝国東方の交易都市として発展した。
ローマは帝国の首都でなくなったため、旧西ローマ帝国における権威をローマ教会が握るようになる。
330 ローマの聖ピエトロ(ペトロ)大聖堂、ビザンチンの聖ソフィア大聖堂が建立される。法律によって日曜日が休日と定められ、クリスマスは国家の祝日となる。
337年 コンスタンティヌス皇帝、サーサーン朝ペルシア討伐の軍を挙げたが、軍旅中に病に倒れる。
350頃 エチオピアがキリスト教を国教とする(コプト教・エチオピア正教会)。
361 皇帝ユリアヌスがローマ古来の宗教の復活を企てる。「背教者ユリアヌス」と呼ばれる。
375 ゲルマン民族の大移動が開始される
381 第1コンスタンティノポリス公会議(第2回世界教会総会議)が開かれ、ニカイア公会議を補則する。


どうも連帯運動に携わる人間からすると、この連帯保証という言葉が気になる。
連帯という言葉はフランスの言葉であって、ドイツにはそのような概念はないだろうと思う。とすればこの言葉はおそらくボアソナードが編纂した旧民法に起源を持つのではないだろうか。
そう思ってネットで色々探してみたけれども、それらしい文章が見つからない。
かろうじて下の文章を見つけた。答えにはなっていないのと、文章がさっぱりわからないのとを承知の上で、抜書きしてみた。

加賀山茂著 『現代民法担保法』(信山社、 2009年)
を松岡久和さんという人が紹介した文章で「民法学のあゆみ」という雑誌の連載の一つらしい。

現行民法はボアソナード旧民法をパンデクテン式に再編したもので、立法上の問題点はポアソナード
民法を改変したところに集中的に生じている。それゆえ、優れた旧民法債権担保編を参照し再認識する
必要がある。
…そもそも、「担保物権」という法令用語はなく、民法は「他の債権者に先立つて自己の債権の弁済を受ける権利を有する」と共通して優先弁済権のみを規定している。
…要するに担保物権という物権は存在せず、担保物権の効力とは、債権の効力の一環として認められて
いる掴取力を民法自体が拡張しているものにすぎない。
…本書は、保証の債務性の否定と担保物権の物権性の否定とによって、債権の掴取カの量的・質的強化という共通項で優先弁済援を統合して理解し、この結合に理論的な支柱を提供する。
…債権者は保証人に債務者の債務を肩代わりして履行するように請求できるが、それは、他人の債務を履行することを請求できるだけで、保証人が負担するのは、別個独立の債務ではなく、あくまで「債務なき責任」である、
…フランスの破産法では債務者が破産し破産免責を受けても保証人の求償権だけは免責されない。そのような規律であれば論理的に問題がないが、わが国の通説は、債務者は求償債務を含めて全責任を免れるのに対して、保証人だけが付従性の利益を受けずに責任を負うとする。
…これでは、付従性のある債務だと,思って契約した保証人の責任を破産法が勝手に独立担保契約に変更することになり、民法に反する。

解説もないので、なんとも心もとない読解になるが
破産法という法律に債務者の義務が書かれていて連帯保証も含まれるらしい。
ここでは債務者の債務を保証人が肩代わりする際に、担保物権の物権性にすり替えられるのは民法の精神に反していると言っているらしい。
何故かと言うと、民法典のうち破産法の基礎となる部分はボアソナード旧民法がかなり残っており、そこに「木に竹を接ぐ」ようにパンデクテン式再編が行われ、矛盾しているらしい。
だから「連帯保証」を声高に言いながら、フランス破産法とは全く異なる各論対応になっているらしいのである。
ただ紹介者の松岡さんは、加賀山さんの意見は決して法学界の主流ではないと強調しているので、いちおう「連帯」という言葉がなぜ民法に紛れ込んだのか、それが連帯の精神とはおよそ逆の方向で使われているのはなぜなのか、そのあたりの参考までに…

ついでに民法の制定過程を年表で
1872年 司法卿江藤新平のもとで民法編纂事業が始まった。江藤は、フランス民法典を翻訳してそれを日本民法典として公布・施行しようとした。ジョルジュ・ブスケが来日し作業をすすめる。
1873年 ギュスターヴ・ボアソナードが来日し、明法寮等でフランス法学を講義した。治罪法(刑事訴訟法典)・旧刑法を起草し、拷問の廃止に尽力した。
当初司法省に雇われたが、その実力が知られると正院法制局、外務省、元老院、陸軍省などからも顧問として用いられた
1876 年 ブスケ、民法仮法則 全94条を作成し帰国。
1878年 大木喬任司法卿、箕作麟祥・牟田口通照に民法典の編纂を進めさせる。フランス民法典を直訳移植したもの。
1880年(明治13年) 大木、民法編纂総裁となりボアソナードを中心とする民法典編纂が開始される。
ボアソナードは、フランス民法を中心として、オランダ民法、イタリア民法などを参考にして、10 年の歳月をかけて日本民法を起草した。
1880 年 2 月 梅謙次郎、東京外国語学校仏語科を首席で卒業。司法省法学校第 2期生に補欠入学。
1885 年 12 月 梅謙次郎、文部省留学生としてフランス・リヨン大学に留学。ボアソナード民法(旧民法)草案を批判的に検討したとされる。
1886 年(明治 19 年)4 月 兄錦之丞、民間に一大病院を作ると計画していた矢先に病死。後には莫大な借金が残り、それはすべて弟謙次郎の身に降りかかってきた。この借金の返済に梅は十数年苦しむ。
1889 年(明治 22 年)7 月 梅謙次郎、首席で博士号を取得した。それからベルリン大学に移る。
1890 年 4 月 ボアソナードの手になる民法が公布された。これを「旧民法」という。1893 年 1 月の施行が予定される。
8 月 梅謙次郎、命を受け帰国。帝国大学大学法科大学教授に任命される。
10月 人事編と財産取得編第 13 章以下が公布。ボアソナードの指導を受け日本人スタッフが起草。
1891 年 梅、大学教授の傍ら農商務省参事官など行政職を併任。
1892 年 民法典論争が巻き起こる。延期派が提起した民法商法施行延期法律案が可決。
旧民法はヨーロッパ的個人主義を旨とし、日本の醇風美俗たる家制度を破壊するとの批判。梅らは断行を主張。
1893 年 
3 月 法典調査会が組織され、そのもとで修正作業がスタート。スタッフは穂積、富井、梅の3名。
9 月29 日逐条審議が始まる。
1895年(明治28年) ボアソナードは民法典の挫折に失望して帰国
1896年 旧民法修正案が第 9 回帝国議会で可決され、同年に公布された。
ドイツ民法典第一草案に倣い、法典全体の体系性を重んじ個別規定に先立って「総則」を置く「パンデクテン方式」をとる。しかし内容は旧民法典からのフランス法の影響が大きい。
1898年7月 「明治民法」全5編が施行される
1899年(明治 32 年) 梅らによリ商法がまとめられる。
1910 年 8 月 25 日 梅、ソウルで法整備作業中に腸チフスとなり死亡。享年 50 歳。

どうも連帯運動に携わる人間からすると、この連帯保証という言葉が気になる。
連帯という言葉はフランスの言葉であって、ドイツにはそのような概念はないだろうと思う。とすればこの言葉はおそらくポアソナードが編纂した旧民法に起源を持つのではないだろうか。
そう思ってネットで色々探してみたけれども、それらしい文章が見つからない。
かろうじて下の文章を見つけた。答えにはなっていないのと、文章がさっぱりわからないのとを承知の上で、抜書きしてみた。

加賀山茂著 『現代民法担保法』(信山社、 2009年)
を松岡久和さんという人が紹介した文章で「民法学のあゆみ」という雑誌の連載の一つらしい。

現行民法はボアソナード旧民法をパンデクテン式に再編したもので、立法上の問題点はポアソナード民法を改変したところに集中的に生じている。それゆえ、優れた旧民法債権担保編を参照し再認識する必要がある。
…そもそも、「担保物権」という法令用語はなく、民法は「他の債権者に先立つて自己の債権の弁済を受ける権利を有する」と共通して優先弁済権のみを規定している。
…要するに担保物権という物権は存在せず、担保物権の効力とは、債権の効力の一環として認められている掴取力を民法自体が拡張しているものにすぎない。
…本書は、保証の債務性の否定と担保物権の物権性の否定とによって、債権の掴取カの量的・質的強化という共通項で優先弁済援を統合して理解し、この結合に理論的な支柱を提供する。
…債権者は保証人に債務者の債務を肩代わりして履行するように請求できるが、それは、他人の債務を履行することを請求できるだけで、保証人が負担するのは、別個独立の債務ではなく、あくまで「債務なき責任」である、
…フランスの破産法では債務者が破産し破産免責を受けても保証人の求償権だけは免責されない。そのような規律であれば論理的に問題がないが、わが国の通説は、債務者は求償債務を含めて全責任を免れるのに対して、保証人だけが付従性の利益を受けずに責任を負うとする。
…これでは、付従性のある債務だと,思って契約した保証人の責任を破産法が勝手に独立担保契約に変更することになり、民法に反する。

解説もないので、なんとも心もとない読解になるが
破産法という法律に債務者の義務が書かれていて連帯保証も含まれるらしい。
ここでは債務者の債務を保証人が肩代わりする際に、担保物権の物権性にすり替えられるのは民法の精神に反していると言っているらしい。
何故かと言うと、民法典のうち破産法の基礎となる部分はボアソナード旧民法がかなり残っており、そこに「木に竹を接ぐ」ようにパンデクテン式再編が行われ、矛盾しているらしい。
だから「連帯保証」を声高に言いながら、フランス破産法とは全く異なる各論対応になっているらしいのである。
ただ紹介者の松岡さんは、加賀山さんの意見は決して法学界の主流ではないと強調しているので、いちおう「連帯」という言葉がなぜ民法に紛れ込んだのか、それが連帯の精神とはおよそ逆の方向で使われているのはなぜなのか、そのあたりの参考までに…




Reports of General MacArthur

MACARTHUR IN JAPAN:  THE OCCUPATION: MILITARY PHASE

という膨大なレポートがあって、そのサプリメントに見たことのない写真が沢山載っている。「終戦」ではなく「敗戦」であることがよく分かる。

すこし紹介しておきたい。(著作権についてクレームがあれば直ちに取り下げます

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マニラでの降伏交渉: 日本代表団がニコルス・フィールドに到着(8月19日)

haisen2
交渉開始前。G-2の通訳との打ち合わせ。

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降伏交渉: 左からCapt. H. Yoshida, Capt. T. Ohmae, Rear Adm. I. Yokoyama, Lt. Gen. T. Kawabe, Mr. Ko. Okazaki

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厚木飛行場に到着した先発隊。日本側はLt. Gen. Seizo Arisue

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ついで、アイケルバーガー大将(右)が到着。中央のヘルメット姿は第11空挺師団のMaj. Gen. J. M. Swing

 
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最後にマッカーサーが到着しアイケルバーガーと挨拶。

 

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ミズーリ号甲板上で降伏文書の調印式。マッカーサーはマイクの後ろに立っていた。
 
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米大使館前庭にて米国国旗の公式掲揚。マッカーサー、アイケルバーガーの他Maj. Gen. Wm. C. Chase、Admiral Wm. F. Halseyら

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呉軍港を視察するアイケルバーガー将軍。左は英連邦軍のロバートソン将軍

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オーストラリア儀仗兵を閲兵するアイケルバーガー。呉には英連邦軍(BCOF)の本部があったらしい。

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満州の捕虜収容所から解放されたウェインライト将軍(左)とパーシバル将軍(右)

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軍捕虜収容所への落下傘による物資補給。日本人が回収し荷降ろししている。8月30日 東京・大森


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二人の米国人捕虜。三年以上にわたり大森収容所に収容されていた。

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日本軍捕虜情報局の田村中将から説明を受ける軍と国際赤十字関係者

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飛行機の下にドラム缶を置き、焼却準備中(京都)

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戦車はダイナマイトで破壊されてからスクラップに回された。

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大阪府高槻の地下弾薬庫に保管された砲弾

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 日本第58軍の武器はLSMに積み込まれ海上投棄された(45年10月)


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佐世保の乾ドックで解体中の軽巡洋艦「伊吹」 47年3月
改鈴谷型重巡洋艦の1番艦として起工され、建造中に航空母艦へ変更されたが、未完成のまま終戦を迎え、1946年(昭和21年)に解体処分された(ウィキペディア)

haisen20
ラバウルから戦友の遺骨を持ち帰り、遺族の元へお返しする

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武装解除と帰国についての連合国指示を受ける日本軍司令官

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横須賀駅から故郷へ

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民間人の帰国 博多受け入れセンター


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禁制品、武器などの持ち物検査

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ソ連地区からの帰国と家族の歓迎

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日本人帰還者の乗船

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大森の松朝食堂に入る帰還者



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帰還船に乗る子どもたち

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ソ連からの帰還者が家族と再会

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家、そして新たな暮らし

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天皇の人間宣言と巡幸

Plate No. 68, Modernized Civil Education, March 1946
アメリカの教育視察団による現地調査。

Plate No. 68, Modernized Civil Education, March 1946
市民教育図書館で自習する若者たち

Plate No. 69, Control of Medical Supplies and Distribution of Army Rations
日本軍の隠匿医薬品がMPにより摘発された。これらは厚生・救恤局に分配された。

Plate No. 69, Control of Medical Supplies and Distribution of Army Rations
アメリカ軍の余剰食料が、枯渇した日本の資源を補うために分配された

Plate No. 79, Police Training Program, 1948
全国自治警察大学校が東京に置かれ講義が施された



ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」には45年9月22日に公表された「降伏後における米国の初期対日方針」の他にもう一つの基本文書があったとされている。
それは統合参謀本部からマッカーサー最高司令官に送付された「包括的軍事指令」である。
ジョン・ダワーはこれを占領軍の基本的指導文書であったとしている。
この文書は45年8月下旬、対日初期方針とほぼ同時にマッカーサー宛に草案段階で送付されていた。そして11月になって長大かつ詳細な文書として完成したという。
しかし48年11月まで機密扱いとされたある。
「指令」に示された占領の目的は「初期方針」より広範で、野心的だった。

ということで、どんなものか調べたいと思ったが、全体像がつかめる資料が見つからない。
ネットでグーグル検索すると
History of the Non-Military Activities of the Occupation of Japan, 1945-1951
という資料が国会図書館にあるそうだ。日本語仮訳として「日本占領の非軍事的活動史(GHQ正史)」と題されている。
実際には資料集のようなもので、すでに占領終了年の1951年中に編纂作業を終え、最終的には序説と54編のモノグラフが、マイクロフィルムの形で調製されている。
国立図書館は、1978年度に米国国立公文書館(NARA)から市販されていたマイクロフィルムを購入した。
これを邦訳したものが『GHQ日本占領史』竹前栄治、中村隆英監修 天川晃、荒敬、竹前栄治、中村隆英、三和良一編 日本図書センター 1996-2000 56冊 として発行されているらしい。
あとはいずれ、もう少し資料アサリをしてから…

藤原 不比等と藤原家の再興

別にここまでやる必要はないかと思ったが、壬申の乱以前の大海人の動きがほとんど記録されておらず、それをもって大したことのない人物だという評価もあるようなので、少し調べておきたい。
そのためには、中大兄、大海人とトロイカ体制で「大化の改新」を推進した中臣が、壬申の乱直前、天智の死の前後にどう動いたかを知っておくべきだろうと思う。
それは客観的には鎌足から不比等にかけて藤原家がどう動いたかでうかがい知ることができるだろう、という「風が吹けば桶屋が儲かる」的論理にもとづく。


614 鎌足が生誕。

鎌足の系譜に触れておく。
南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。
密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、初めは軽皇子に近づき、後に中大兄皇子に接近した。また、蘇我一族内の蘇我倉山田石川麻呂(反入鹿)を味方に引き入れた。乙巳の変後は中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂を切った。

659 不比等、鎌足の次男として生誕。この時鎌足はすでに45歳。

鎌足は男性不妊? 息子は2人しかおらず、長男定恵は乙巳の変の前年644年生まれで15歳の差がある。娘は4人いるが、例えば五百重娘という人物は天武天皇夫人、後に不比等の妻というから、流石に実の娘とは思えない。ということで「不比等御落胤説」も根強い。

670 鎌足が死去。死の直前に天智天皇が見舞う。大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。

671 壬申の乱。中臣(藤原)氏は天智派とみなされ、朝廷の中枢から一掃される。

673 大海人が天武天皇として即位。飛鳥浄御原宮を都とする。

673 不比等、大舎人の登用制度によって出仕。反天武派出身者として下級官人からの出発を余儀なくされた

681 草壁皇子が大津皇子を抑え、皇太子となる。

686 天武が崩御。草壁が事実上の執政となる。大津皇子は処刑される。

689 不比等の名が日本書紀に初出。この時すでに30歳。草壁皇子に仕え、出世したとみられる。

689 草壁皇子が死去(27歳)

697 草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績をしめす。娘の藤原宮子が文武天皇の夫人となる。

698 藤原の称号が不比等の子孫のみに限定して使用されることとなる。これ以外の中臣系は元の姓である中臣朝臣姓にもどされ、政務への関与を禁止される。

720 不比等が死去。61歳。

それにしても、なんともつまらない話ばかりだ。なんだかんだと平和だったんですね。

我ながら7世紀の日本年表はよく整理されたものと思うが、その分、国内状況はかなり端折ってある。これに国内状況を書き込んでいくと、かえって分かりにくくなるだろう。

壬申の乱の経過表はちんまりとまとまってしまっていて、これを大化の改新まで広げると年表としてのまとまりが失われてしまう。

そこで、大化の改新から壬申の乱まで、すなわち中大兄時代を中大兄を中心に跡づける年表が必要だろうということになった。

ただしこの手の年表は既存のもので十分な気もする。そもそも、日本書紀くらいしが原資料はないのだから、あまり御大層なものにはしないで、自分の心覚えとして作成しておくことにする。



621 聖徳太子が死亡。それ以前から政治的影響力を失い、斑鳩に隠棲していたとされる。

626年 蘇我馬子が亡くなる。家督を継いだのが、蘇我蝦夷。

628年  推古天皇が没する。聖徳太子の息子である山背大兄が有力後継者となる。

蘇我蝦夷は山背大兄の有力パトロンである境部摩理勢を殺害し、舒明天皇(田村皇子)を即位させる。

630 犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を中心とした第1回の遣唐使が派遣される。
643 蘇我蝦夷は大臣の位を息子の入鹿へ譲渡。
643 蘇我入鹿、山背大兄王の一族を滅亡に追い込む。

644.1 法興寺の鞠の会で鎌足が中大兄に接近。みずから立案した入鹿暗殺計画を打ち明けたという。
644 中臣鎌足、蘇我入鹿打倒の工作を開始。まず皇極の実兄にあたる軽皇子に接近したと言われる。

645.6.12 「乙巳の変」が発生。蘇我倉山田石川麻呂を巻き込んだ中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を斬殺。中大兄がまっさきに切りかかったとされる。

6.13 中大兄の一隊が蘇我本家を襲撃。蘇我蝦夷を滅ぼす。

6.14 皇極天皇、中大兄への譲位を発議。鎌足の提言を容れた中大兄は即位を固辞し、軽皇子を推挙したという。(流石に血だらけの天皇は景色が悪い)

6.14 皇極天皇、古人大兄への皇位継承を打診。古人はただちに飛鳥寺に入り出家。即位の意志なきことを明らかにする。(古人の母は蘇我系)

6.14 皇極天皇、軽皇子へ譲位。軽皇子は孝徳天皇を名乗る。
9月 吉野にこもった古人大兄に謀反の疑い。中大兄は兵を派遣し誅す。
12月 孝徳天皇、難波長柄豊崎宮に遷都。難波京は空前の規模であったが、この時点で難波京は未完成だった。

646.1 難波京に遷都した孝徳天皇、「改新之詔」4か条を発する。

649.3 蘇我倉山田石川麻呂に謀反の疑い。石川麻呂は難波から脱出するが、飛鳥の山田寺で自害。石川麻呂は中大兄の岳父に当たり、乙巳の変を支持した。
650年 豊璋が難波京に人質(賓客)として滞在していた記録あり。

653 中大兄、難波を廃し倭京に戻るよう提言。孝徳はこれを認めず。中大兄は孝徳の皇后を含む一族を引き連れ飛鳥の行宮に転居。

654.10 孝徳天皇が難波宮で死去。

655.1 皇極上皇が重祚して斉明天皇となる。斉明天皇は飛鳥周辺で盛んに土木工事を行い、「狂心」(たぶれごころ)と噂されたという。

655 大和朝廷の命を受けた阿倍比羅夫が北方遠征。

658.11 有間皇子の「謀反」事件が発生。

660 百済、唐軍の攻撃を受け滅亡。百済軍の鬼室福信が百済再興を目指し反乱開始。倭国に援軍を要請。
661年
1月 斉明天皇と中大兄ら、難波を出航、筑紫に向かう。

7月 斉明天皇、筑紫の朝倉で薨去。中大兄による称制に入る。長津宮に入り海外の軍政を統括。(朝倉も長津も場所不明)

7月 唐の蘇定方将軍、高句麗の首都平壌に迫る。

662.5 百済の皇太子で人質となっていた豊璋が百済に戻る。長津宮に駐留中の中大兄は位階を与え、5千の軍、軍船170艘とともに百済に送る。豊璋は鬼室福信と合流し、百済王に推戴される。

663年
8月 白村江の戦い。百済・我々の連合軍が完敗。百済王豊章は船に乗り高麗へ逃げ去る。
9月 百済の州柔城は始めて唐 に降る。百済の名は今 日に絶える。 佐平の余自信・達率木素貴子・谷那晋首・憶禮福留ら、弓禮城に至り船を発し日本へ向か う。
663 白村江敗北の報を受けた中大兄、西日本各地に無数の山城を構築し、唐の来襲に備える。
664 豊璋の子善光、百済王を名乗り難波に居を構える。

665年
2月 天智の命にて、百済の百姓男女400人余を近江の神前郡に住まわせる。 

8月 百済亡命者の達率答体春初が城を長門国に築く。達率憶濃福留・達率四比福夫は筑紫国で大野及び橡の二城を築く。対馬や大宰府の水城(みずき)、防人の配備、長門・屋嶋・岡山など瀬戸内海各地の朝鮮式山城の造築が行われた。

不明月 唐の使節・劉徳高が来朝。服従を迫る。このとき劉に対応した鎌足は「大友皇子の天皇後継を願っており、姻戚関係を結びたい」と語ったとされる。劉徳高は大友皇子を高く評価したという
12月 劉徳高が帰国。
666年 是冬 、百済 の男女 二千餘 人が東国に移住。

667.3 中大兄、大津宮を造営。政治拠点を移す。旧百済官僚が大津に結集。

668.1 中大兄が即位。天智天皇を名乗る。

668 唐と新羅の連合軍、倭国を攻めず高句麗攻撃に回る。
669年

10月 中臣鎌足が逝去。中臣一族の中枢は藤原の姓を賜る。
669 佐平餘自信・佐平鬼室集斯等、男女七百餘人を以て近江国蒲生郡に遷す。

669 高句麗が滅びる。
670年

1月 佐平・鬼室福信の縁者である鬼室集斯は位を授けられ、近江国蒲生郡に封される。

豊璋王の弟・善光、百済王の称号を与えられ、朝廷に仕える。善光子孫の敬福は、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した。

670 唐が朝鮮半島全体の支配に乗り出す。新羅は高句麗の残党とむすび唐軍の駆逐に着手。
670 天智が遣唐使を送る。唐が倭国を討伐するとの風聞を確かめる為に、唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている
670 庚午年籍とよばれる大がかりな戸籍が完成する。

671年
1月 天智天皇が即位。(「大友皇子を太政大臣に任じる」とあるがこれがいつのことかはわからない)
9月 天智天皇が病に倒れる。
10月 天智、病に臥す。以て痛む こと甚だし。死を覚悟する。勅して大海皇子を喚び、「朕、疾甚だ し。後事を以て汝に属ける」

大海人は「請う、皇位を奉じて大后に付属せしめよ。大友王をして諸政を奉宣せしめよ。臣は天皇のために出家して修道せむ」と応える。天皇、これを許して袈裟を送る。

10月 大海人は武装解除の上、僅かな手勢とともに吉野に移る。
東宮、即吉野に入る。或る人の曰く、「虎に翼を着けて放すな り」 
11月 対馬国司、筑紫の太宰府に唐の使者、郭務棕からの伝言を伝える。郭務棕は47隻の船で600人を率い対馬に到着。白村江の倭軍捕虜1400名を返還すると伝えてきた。(669年にも同様の記載があるが、重複か)

12月 天智、近江宮の近隣山科において崩御。享年46歳。大友皇子(24歳)が執政となる。「太子は天性明悟、博く古を雅愛する」と評価される(懐風藻)

672年
3月 近江政権、筑紫にて待機中の郭務棕に天智の崩御を報せる。
5月末 郭務棕が筑紫を離れ朝鮮半島にもどる.大和王朝側から甲冑や弓矢、布、綿などが贈られたという。

壬申の乱
結局分けるのが面倒なので、一つにしてしまいました。それでも正味30年です。この時間を生き抜いたのは大海人ただ一人です。いかにこの時間が濃密だったのかがわかります。

672年
6月中旬 朝廷が大海人の征討作戦を準備中との情報が吉野に入る。
①近江朝廷は美濃・尾張の国司に 「山陵 (天智天皇の墓)を造るために人を集めよ」と言い、集まった人々に兵器を持たせている。②大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,さらに吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする。
このあと天武は反乱を決意。高市皇子,大津皇子の大津京からの脱出を促す。東国に挙兵を呼びかける。東国(美濃,尾張,三河から甲斐,信濃)の兵を集める
6月22日 村国連男依ら3人の武将を美濃国の安人磨郡に急派。①安八磨郡(あはちまのこおり、大垣近郊)の兵を徴発すること、②「不破道」を閉塞することを命じる。
東国からの関門である不破の関の美濃側(安八磨郡)は天武の所領であった。おそらく天武はこの地理的条件にすべての戦略をかけたと思われる。
6月24日
6月24日深夜 大海人皇子は子の草壁皇子,忍壁皇子,鵜野讃良皇女(持統天皇)や数人の舎人らで20人ほど,そして侍女たち10数人を連れ吉野宮を出る。
6月24日 天武の部隊が伊賀国名張に入り隠駅家を焼く。兵を募る。名張郡司は近江政府の出兵命令を拒否するが、天武軍には加わらず。
6月24日 天武、伊賀に進む。ここで阿拝(あえ)郡司が兵約500で戦列に加わる。
6月24日 天武の長男、高市皇子(19歳)が近江脱出に成功し、甲賀を越えて伊賀を目指す。
6月25日
6月25日 天武の部隊、大和街道に入り積殖(つみえ、伊賀市柘植)で高市皇子と合流。加太(かぶと)峠を越え伊勢に入る(現在は伊賀も伊勢も三重県)。
6月25日 伊勢国司の三宅連石床(いしとこ)が天武軍に参加。500 の兵をもって山道を防ぎ、敵の追撃に備える。
6月26日
6月26日 飛鳥古京の高坂王が天武の謀反を大津京に伝える。朝廷は大混乱に陥る。
6月26日 大津朝廷が全国に動員令を発す。東国への使者は美濃軍に妨げれ動けず。筑紫は九州防衛を口実に命令を拒否。
6月26日 安八磨郡の多品治の率いる3千人が挙兵。不破の関を封鎖。通過を図った大友軍部隊が美濃軍に拘束される。
安八磨郡は大海人皇子の生計を支えるために設定された封戸であった。多品治はおおのほむじと読む。太安万侶の父にあたる。封戸を管理する湯沐令であった。
6月26日 天武軍、三重郡家→朝明(あさけ)郡を経て桑名郡家に着く。天武は桑名に本営を構えるが、高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。
6月26日 村国連男依が美濃郡部隊の司令官となる。高市皇子が到着し不破関の近くに前線本部を置く。東海や東山も軍を発す。
6月27日
6月27日 大海人皇子、高市皇子の要請を受け、不破に向かう。皇后、草壁皇子,忍壁皇子は桑名に残る。不破の近くの野上で、尾張氏の私邸を借りて行宮とする。
6月27日 高市皇子を総大将とする前線本部は和(わざみ)に置かれ、東国(美濃・尾張・三河・甲斐・信濃方面)からの兵数万が集結する。
尾張の国司小子部連(ちいさこべのむらじ)が2万を動員したことが特筆されているが、やや過大と思われる。
小子部連は「御陵造営」の名目で朝廷から動員されたのであろう。旧暦6月下旬といえば田植えを終え農家は多少暇になる。それが不破の関で足止めを喰らい、天武側に寝返ったものと思われる。
それにしても美濃の3千に比べ尾張2万は誇大である。戦後の処遇を見てもさほどの働きはしていないと思われる。天武側からすれば東海道、東山道が中立化できただけでも御の字であったろう。
6月30日 朝廷軍は山部王を大将,蘇我臣果安(はたやす),巨勢臣比等(ひと)を副将とし、犬上川(現彦根市)まで進出。先発隊が不破の北を迂回し、大海人軍第2軍の背後から攻撃する作戦。
6月30日 大海人軍の伊賀→大和方面軍が出発。軍長は多品治、将軍は紀阿閉麻呂(あへまろ)、三輪子首、置始菟(おきそめのうさぎ)ら。甲賀と伊賀を結ぶ倉歴(くらふ)道に進出。萩野(たらの)を確保し、鹿深(かふか)道から水口にも進出を図る。
この軍伊勢から積殖に入ったのだろうが、そこから大和街道へ向かわず大津に出ようとしている。倉歴道と鹿深道は同じ道。
大津京以前の東海道は、都があった飛鳥を出発し、伊賀名張から伊賀盆地を北上し、柘植を経て、東国へと向かっていた。これが柘植で分岐し鹿深(甲賀)を経て草津に出て東山道と合流し大津に向かうようになった。これが倉歴道(くらふのみち)である。この道は大津京の廃都とともに一旦廃れることになる。
7月1日 玉倉部(不破郡関ヶ原町玉)で最初の戦闘。大友側が奇襲を仕掛けたが撃退される。
7月2日 戦闘開始(日時が錯綜するのは、二次資料の不正確な引用のため)
7月2日 3~4万人からなる天武軍本隊が近江に向け進軍開始。指揮は高市皇子がとる。大津攻略を目指す近江方面軍で、その一部は琵琶湖北岸から西岸に回る。
7月2日 大伴一族が倭京(飛鳥)で挙兵。大伴吹負(ふけい)と大伴馬来田(まぐた)の兄弟を大将とする。その後大伴軍は京都都の県境・乃楽山(ならやま)まで進出し陣を構える。
7月2日 朝廷軍が犬上川に進出。不破攻撃を目指す。しかし戦闘をめぐり山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等ら将軍連が内紛。二人の副将が離反。
7月4日 
7月4日 大伴軍が乃楽山で大野君果安(はたやす)の率いる朝廷軍と激突。戦闘は膠着。別隊(坂本財隊)が生駒山系の高安城(たかやすのき)を確保。朝廷軍は米倉に火をつけて逃げる。
7月4日 大海人軍の伊賀→大和方面軍は結局、一部が大和街道確保のため伊賀に残留し、残りがならぬ向かうこととなる。多品治が3千の兵とともに萩野(たらの)に駐屯。倉歴道の防衛には田中足麻呂があたる。
7月5日
7月5日 坂本財の部隊が大阪側に進出するが、壹伎史韓国(いきのふひとからくに)の率いる朝廷軍に敗れ飛鳥に撤退。(亡命百済人の部隊なら、めちゃ強いだろう)
7月5日 大伴吹負軍、乃楽山で惨敗し四散。朝廷軍は一気に飛鳥まで進出する。
7月5日 大伴吹負は落ち延びた先の宇陀(大和街道)で紀阿閉麻呂軍の先鋒、置始菟(おきそめのうさぎ)の部隊1千人と合流。
7月5日 倉歴の夜戦。朝廷軍の田邊小隅が近江から伊賀への攻勢をかける。夜襲にあった足麻呂部隊は敗走。
7月6日
7月6日 大海人の大和合同軍、二上山のふもとの当麻(たぎま)で壹伎史韓国のひきいる朝廷軍と2日間の戦闘の上勝利。韓国は軍を離れて逃亡。
7月6日 天武軍を追走した田邊小隅の朝廷軍、萩野(たらの)で多臣品治軍3千人の迎撃を受け敗退。
7月7日
7月7日 箸墓(はしはか)の戦い。大野君果安の朝廷軍と大伴吹負・置始菟連合軍による最終決戦。朝廷軍は敗走し、大和地方の闘いは終了。
7月7日 息長横河(おきながのよこかわ)の戦い。現米原市醒ヶ井付近の息長で、村国男依(おより)らの軍が朝廷軍を破る。以後進撃を続ける。
7月9日 鳥籠山(とこのやま)の戦い。現彦根市大堀山で村国男依の軍が朝廷軍を破る。
7月13日 大海人軍が敗走する朝廷軍を追撃。安河(現野洲川)で撃破。
17日 さらに栗太(くるもと 現栗東町)の戦いで朝廷軍を破る。このあと最終決戦に備える。
7月22日 瀬田唐橋の決戦。朝廷軍は総崩れとなる。
7月22日 天武軍の北回り部隊、朝廷軍最後の防壁となった琵琶湖西岸の三尾城(高島町)を陥落。
7月22日 大伴吹負軍、奈良から山を越え大阪へ進出。難波を制圧する。
7月23日 長等山へ敗走した大友皇子、「走 (にげ)て入る所無 し。乃ち還りて山前 (やまさき)に隠れ、自ら縊る」
7月24日 大友の首級が不破(野上)の天武のもとにもたらされる。
8月25日 近江の重臣のうち右大臣中臣金(なかとみのかね)ら8名が死罪となる。
9月8日 大海人は不破を出発し飛鳥に向かう。
9月15日 大海人皇子はもと蘇我氏の邸宅の跡に建てられた嶋宮に入る。
673年
2月 大海人皇子は飛鳥浄御原宮にはいり、天武天皇として即位する。新羅から金承元が使節として派遣される。
上級役人を皇族で固める皇親(こうしん)政治を開始。「大君は神にしませば」と神格化が行われる。同時に官僚制の見直しで才能を重視した昇進制度の整備。
675年 新羅、王子忠元を派遣。天武天皇は遣唐使は一切行わず、新羅からの使が来朝するようになった。倭国から新羅への使も頻繁に派遣された。その数は天武治世だけで14回に上る。
677年 唐と新羅の戦争状態が終結。

681年
681年 天武の子の舎人親王が中心となって古事記が編集される。
3 日本書紀の編纂作業が始まる。完成までに約40年を要す。

684年 「八草の姓」が定められる。

686年9月 天武天皇が死去。草壁皇子と鵜野讃良皇女が全権を掌握。皇位継承のライバル大津皇子を謀反の容疑で処刑する

689年 鵜野讃良皇女が飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を発する。

690年 持統天皇、飛鳥浄御原で即位。

694年 藤原京に遷都。

697年 持統天皇が上皇となり、草壁皇子の子軽皇子(文武天皇)に譲位。

701年 大宝律令が制定される。二官八省体制がスタート。

702年 持統天皇が崩御。この年遣唐使が30年ぶりに再開される。

707 讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部信太形見(こせべのかたみ)らが虜囚生活を終え帰還

以前から思っていたのだが、中大兄と中臣の蘇我親子に対するテロは、明らかにヤマト王権を守るという明確な目的を持っていた。
1.蘇我一族と蘇我稲目の家系は別物
なんと言ったらいいのか「蘇我氏」は大和政権の一部を形成しているのだが、本質的に「非ヤマト」勢力なのである。しかも倉山田の蘇我とか身内としての蘇我氏もいるので、蘇我と名が付けば全部が「非ヤマト」ではなく、飛鳥に広がる蘇我一族の中で、蘇我稲目に始まる系統のみが「非ヤマト」なのだ。稲目一族は本来の地方豪族の蘇我ではなく、宿借り蘇我なのだ。
分かり易いが不正確な言い方をさせてもらうと、在日の金さんや李さんが金田とか新井とかを名乗るようなものだ。
蘇我稲目一族もかなり血まみれの経過でトップに上り詰めているが、そろそろ露骨なヤクザ路線でなくても権力を保持できるだけのプレステージを獲得しかけていた。
蘇我稲目一族虐殺事件は、明らかに主役・中大兄の激しい殺意に基づいているが、それは預言者中臣に焚き付けられたものであり、被害者意識とジハード観に裏付けられている。
これほどに激しい焦燥感はどこから生じるのであろうか。それは蘇我稲目一家が九州の倭王朝の流れをくんでいるからではないだろうか。
例えば葛城や大伴がたまたま姻戚関係でのさばったとしても、大和政権が乗っ取られ断絶するというほどの危機感は持たないだろう。中臣らが蘇我氏に対して感じる危機感というのは何か異質なものを感じてしまうのである。
彼らが九州王朝の流れをくんでいるという積極的根拠は何もない。しかし、蘇我氏がただの飛鳥の田舎豪族ではないという状況証拠はかなりある。そこを結びつけるものがない。それは蘇我本家の焼き討ちにより焼失したのではないか。

1.「古事記が親新羅で日本書紀が親百済」という伝説
これも例によって読書途中の備忘録なので、飛ばしてもらって結構ですが…
関裕二「古事記と壬申の乱」というPHP新書の一冊。
途中までふむふむと言いながら読んできたが、いきなり発狂した。
古事記が親新羅で日本書紀が親百済だというのだ。
これを大前提にしながら、荒唐無稽な話へと突き進んでいく。
「えっ、そんな話なんかあったっけ」と思いながらネットを探してみたが、結局関さんという人が拡散した情報絡みの記事ばかりだ。
2.「古事記はニュートラルだ」というべき
大体、古事記と日本書紀の成立過程から考えれば、古事記が新羅っぽくなるのも、日本書紀が百済っぽくなるのも当たり前の話だ。
話題がかぶるのは仕方ないにしても、古事記は基本的にはギリシャ神話の世界だし、日本書紀は史記の世界だ。そして古事記は出雲神話を相当取り込んでいて、新羅から出雲へと渡ったスサノオを始祖とする系列の神話が大量に紛れ込んでいる。
これに対し、日本書紀の制作には百済から亡命してきた知識人が深く関わっており、百済本紀の内容も大量に紛れ込んでいる。百済が新羅に対して反感を抱くのは歴史的に見て当然のことである。
さらに言えば、大倭国というのは任那と筑紫・肥前を抱合する倭人国家であり、任那を滅亡させ併合した新羅に対するルサンチマンは倭国も共有している。大和政権固有の伝承を中核とする古事記は、これらに対して関わりは薄い。
これらを以て親百済とか親新羅とか言っても仕方がない話だ。
3.古事記は百済滅亡への関心は薄い
古事記の外交的立場を云々するなら、大化の改新以降の出来事の記載について評価していくしかないと思う。しかしそのあたりを書いた記事は、古事記にはほとんどない。
天智が親百済で、天武が親新羅というのもすなおには納得出来ない。
率直に言えば大和朝廷にとっては百済だろうが新羅だろうが、どうでも良い話だ。問題は中国だ。
中国(唐)は百済に攻め入りこれを滅ぼした。日本は百済を支援して闘ったが敗れた。このとき新羅は唐と結び日本軍を撃破し、百済を滅亡へと追いやったのであるから、どう考えても敵である。
それは天智にも天武にも中臣鎌足にしてもおなじことである。
そして中国は日本に服従を迫り、使者が難波まで来て待機していた。そういう中で壬申の乱が起きたのである。
このあと情勢は一転する、唐は日本を後回しにして高句麗の征服へと向かった。とりあえず国難は遠ざかった。そこへ持ってきて新羅が唐に離反し朝鮮半島からの追い出しを図ったのである。
そうなれば新羅への態度は一変する。日本にとって、新羅は最大最強の敵である唐と闘う同盟国となるのである。
4.独立ほど尊いものはない
だから唐を我が国最大の脅威として立ち向かうことが国策であるとすれば、新羅と闘ったことも、後に同盟国となったのも至極当然の対応であり、天智、天武、持統の個性や、国内事情など何の関係もない。
ただしあるとすれば、難波までやってきて屈服を迫る唐に対して従うか、あくまで闘うかの選択はあったのだ。その選択をしないままに天智は死んでしまった。(あるいはしたのかもしれない)
そして壬申の乱に勝利した天武は屈服の道を選ばずに済ました。
これが基本的な道筋である。
この基本線を踏み外した「解釈」は、まったく説得力を持たない「勝手読み」にすぎない。

我がブログを振り返ると、2年前にも関さんの本を読んでいた。
その時の感想が
非常に面白かったが、疲れる本でもある。
基本的には「言いたい放題」の本だが、示唆に富む部分もたくさんある。
と書いてある。
2年経ってたまたまおなじ関さんの本を読んで、同じ感想を持つこととなった。関裕二さんの指摘は個々の事例については非常に面白いのであるが、「反中国」が緊急かつ決定的な国是であったという時代背景を絶対に外してはならないのである。このことを強調しておこうと思う。

ギリシャ神話 年表的理解

紀元前15世紀 ギリシャ本土にミケーネ語(文字)を持つミュケーナイ文化が登場。

紀元前15世紀 ギリシャ神話が口承形式で草創

紀元前9世紀~8世紀 ホメーロスの二大英雄叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』が作られたといわれる。

紀元前8世紀 フェニキア文字を元に古代ギリシア文字が生まれる。(ミュケーナイ時代にすでに線文字Bが存在していたが、暗黒時代においてこの文字の記憶は失われた)

紀元前8世紀 詩人ヘーシオドス、『神統記』をあらわす。神々や英雄たちの関係や秩序を体系化し、神話を文字の形で記録に留める。

紀元前5世紀 ギリシャ古典文学の時代。古典悲劇、古典喜劇、歴史など

紀元前4世紀 アケメネス朝ペルシャと三次にわたるペルシャ戦争。アテナイの権威が高まる。

紀元前4世紀 プラトーン、ホメーロスと英雄叙事詩を批判。ポリスより追放すべきと主張。アリストテレスもほら話と批判。

紀元前3世紀 カリマコス(カルリマコス)、アレキサンドリア図書館の図書目録を完成。膨大な記録をもとにギリシャ神話を肉付けする。

紀元前2世紀 アテーナイの文献学者アポロドーロス、『ビブリオテーケー』(ギリシア神話文庫)を編纂。(下の記事と矛盾)

紀元1世紀 アポロドーロスの『ギリシャ神話』(3巻16章+摘要7章)が作成される。紀元前5世紀以前の古典ギリシアの筆者の文献を復元し、ヘレニズム化した神話と一線を画する。

遠山美都男さんの「天智と持統」という本にハマっている。
講談社現代新書で2010年の発行となっている。
新書なのだがけっこうおもったるい本で、1日で半分しか進んでいない。
そこまでの感想なのだが、おもったるい理由は日本書紀の天智紀の通説をひっくり返すのが主題だからである。さらに言えば、そのひっくり返し方が新資料を持ち出すのではなく、読み方をひっくり返すやり方だから、「うーむ…」とうなりながらの理解になっていくからである。
こうやってこれまでの説を打ち破りながら「もう一つの天智天皇像」を構築していくのだが、半分読んだところまでの感想としてはあまり説得力はない。
率直のところわかったのは、天智が殺人鬼だということだ。最初に入鹿と馬子を殺し、ついで自分より上位の皇位継承者を殺し、叔父をカイライに仕立てて難波に王朝を建てるが、叔父が気に食わないと放り出して明日香に帰って別のカイライを建てる。叔父の息子(有間皇子)が反乱を企てると、一族郎党皆殺しだ。
なぜそうなったのか。
有間皇子をそそのかした蘇我赤兄臣という人物が「三つの過失」にまとめている。
1.巨大な倉庫を建て、人民から搾取した財をそこに集積したこと
2.長大な運河を掘削し、その工事にあたる人民のために公糧を無駄遣いしたこと
3.船に石を載せて運び、それを丘のように積み上げたこと
これは蘇我赤兄臣が見た658年における状況である。そして有間皇子が天智に反乱するようそそのかす上での根拠である。
天智が孝徳とたもとを分かって大和(倭京)に戻ったのは654年のことであるから、その後の4年間の天智の治世に対する評価である。
であれば、なぜ天智が大和に戻ったか、なぜ土木工事に集中したのか。それは650年から654年ころに起きた情勢の変化に起因しているとみる他ない。そしてなおかつ、その情勢の変化に対する判断において、孝徳と決定的な乖離を生んだと考える他ない。
天智(おそらく天武も)はこのとき、1.もはや難波にいるべきではない、2.国土防衛の工事をあらゆる犠牲を払ってでも行うべきだ、と決断したのではあるまいか。

ここまでの記事に天武(大海人)の名は全く出てこない。それはおそらく彼が天智と完全に一体となって行動しているからであろう。私は以前から、天武こそ天智路線の正統な継承者だと考えている。他の連中が日和ったから天武が立ち上がったのだろうと思う。
この辺を、明日の後半部分で確かめていきたいと思う。

なお、大海人の名が壬申の乱の直前まで出てこないのは、これらの活動に参加していなかったからだとする意見があるが、これは違うと思う。

「藤氏家伝」によれば、とある宴席で、大海人が床に槍を突き刺し、激怒した中大兄が剣を抜いた。鎌足が間を取り持ち、ことなきを得た。(関裕二氏による)


藤氏家伝と言うのは中臣→藤原家の家伝である。だからこのエピソードは鎌足の自慢話だろうが、立場を変えてみてみると、三者はそれほどまでに一心同体の深い関係にあったということだ。だからいちいち実弟・大海人の名をあげる必要はなかったのだろうと思う。


「昭和陸海軍の失敗」(文藝春秋)という本があって、下記のような興味深いくだりがあった。

福田 誤解を恐れずに言えば、この時点で日本の陸軍は「デモクラシーの軍隊」になった。東条英機は岩手、永田鉄山は長野の出身です。…長州閥という地縁、血縁的な関係ではなく、陸士や陸大で好成績を上げたエリートたちが中心になる、ある意味できわめて民主的な形で運営されるようになった。
戸部 「昭和の軍隊のパラドックス」といえるかもしれません。軍隊は出身が民主的にななると政治的になる、…平民出身の将校ほど天皇を持ち出して、独善的にあらぬ方向へ進んでいくようだ。 

ということで、どうもこれはデモクラシーと呼べるようなものではないのだが、それに対するうまい呼び方がない。
似たようなことは歴史上のさまざまな場面で経験することがあり、どうもその評価には手を焼く。「衆愚政治」とバッサリ切り捨てても仕方ないし、ソクラテスのようにみずから毒を飲んで命を断つのも間違いなのだが、これをどう評価しどのように対応するのか。
ここにリベラリズムとかあるいは立憲主義とかいう概念が外挿されるのだろうが…

この本に基づいて 
2016年03月19日
永田鉄山と一夕会 年表
を増補しました。

特集「調査報告・戦時下の犬猫供出」
と言うのは私も初めて聞いた。北海道の人が随分研究しているらしい。昭和15年にはもう国会で議論されている。
いやらしいのはこれが草の根運動として提起され、これを地方権力が支援するという形をとっていることだ。支援すると言っても中味は煽りだ、最後はノルマで強制するのだ。
いずれにしても、「そこまで行ったらもうおしまいだろう」という常識がもう働くなっている事がわかる。常識がどうこうというよりもはや狂気の世界だ。「それはひどいことだ」という感覚がなくなっている。戦争というのは「狂気の社会化」だということがよく分かる。
聞きたい話ではないが、聞いておかなければならない話だ。よくまとまった良い番組だ。

丹羽さんの文章はフィリピンからの生還者の証言をめぐり、にわかに厳しさを増す。
フィリピンでは全軍の8割が死没した。もし日本兵が山に逃げ込む前に降伏していれば、ここまで悲惨な目に遭う人は少なかっただろう。
それは戦陣訓のためだ。
戦陣訓は東条英機が士気高揚と軍記維持のために全陸軍に通達した訓諭にすぎない。東条が作って押し付けたものが彼らの精神に刻み込まれ、その行動を縛った。
大本営は現場を知らないままに、いかなる変更も許さなかった。現場を知ろうともしなかった指導部のために、それは悲惨なものとなった。
最後に丹羽さんはこう語りかける。
虜囚となっても生き抜き、今日の日本を築き上げた戦争証言者の人々に、私は敬意と賞賛をおぼえずにはいられない。
これはだいじなポイントで、私達はなくなった犠牲者だけに非戦を誓うのではなく、戦争を生き抜き、戦後70年を生き抜いてきた人々に対し、彼らが築き上げた平和を守り抜くと誓わなくてはならないのだろう。

それにしても、このところ保守リベラルの水脈が噴き上がっている感がある。誰か政治評論家でも哲学者でも、ジャーナリストでもいいから、これらの人たちを一括りにして、包括的な分析を行う必要があるのではないか。これはかなり急ぐ作業だ。なぜなら今後の政治の展開次第では野党共闘というだけでは間に合わなくなるかもしれないからだ。
さらにいうなら、反動右翼と闘うよりもはるかに砂漠の砂のようにアノミー化した青年層を覚醒させる作業が、絶望的に目前に積み上がっているからだ。


しばらく、丹羽さんの本の抜書を行う。

国家経営と企業経営という章は、まずある証言の引用から始まる。

「満州でやめておけばよかったのだ」(シベリア抑留者)

丹羽さんはこの言葉にある点では共感し、ある点では否定する。

理屈上はたしかにそのとおりだし、現に止めようと主張した人もいた。

「しかし本当のところは、もうその時にはやめられなかったのだ」と、丹羽さんは考える。

企業経営で言えば、不採算事業に多額の投資をし、その事業を延命させるために企業本体の経営を危うくしていったといえる。

これが丹羽さんの総括的評価だ。それは自分の経営上の経験に照らして、「実感」として述べられている。

経営的に見れば、犯してはならない誤ちも、政治の世界では「勢い」でやってしまうことがある。

だから施政者(行政)には「勢い」に流されない慎重さがもとめられるし、意思決定の仕組み(立法)には立憲的なフィードバックが求められるのだ。

間宮林蔵が樺太北部からアムール下流部にかけて探検したときに作成した絵図が見られます。
場所はここです。
札幌市立中央図書館のサイト

とりあえずコピーの一部を載せます。
R0012216
間宮海峡に至る樺太西岸北部の地名が記載されています。途中からアイヌ地名→ニヴフ地名となっているようです。
画面クリックすると拡大します。
下記もご覧ください。

インダス文明を検討する上で肝心なことは、メソポタミアと並ぶ “The Cradle of Civilization” の名に値するか否かである。これが派生的なものであるとすれば、「4大文明説は崩壊する」というか、かなり条件的なものになる。
インダス文明の発展の構造はかなり跛行的で、植民地的進出の匂いが強い。メソポアミアからの人口圧力を受けての開発の可能性が捨てきれない。
例えば「肥沃な半月」から西方に向かったクレタ・イオニアなどとの類似性が見て取れる。
インダス文明の都市は、試行錯誤の跡がない。高度に洗練された高島平的な人工都市が突如として出現し、軍艦島のように忽然と無人化する。自力で造ったにしては不自然である。(永井俊哉ドットコム)
いっぽう、「ニッポニカ大百科事典」の記述は下記のごとくなっている。
インダス文明がどのように興起したのかは、文明の構造同様、不明な点が多い。かつてはメソポタミアないしはイランからの影響が重視されたこともあったが、なんらかの影響が西方から及んだことは否定できないにせよ、インダス川流域そのものにおいて独自の文明への胎動があったことは確かで…
このあたりの評価が一番の問題となるが、もしインダス文明が自生的な文明とは言えないとすると、発生学的な見地で見る限り、揺籃の地には加えにくくなる。
むしろ、文明の程度は低くても自生という観点を強調するのなら、メゾアメリカとアンデスを加えるべきだということになる。
しかし“大”という言葉にこだわるならば、4大文明という呼称は「旧大陸」という条件付きではあるが、依然として有力であろう。

自生性をきわめて厳密に解釈してインダス文明をオミットするなら、黄河文明もやや複雑な事情を生じる。黄河文明の所以である小麦栽培、青銅器、鉄器はいずれもメソポタミヤ=西域由来と考えられるからである。ただその場合でも、黄河文明は、ほぼ完璧な自生文明である長江文明と西域文明とのハイブリッドということになり、自生性はインダス文明よりは遥かに強い。
このあたりの評価はかなりの議論となるであろう。

そんなあたりも念頭に置くとするなら、「4大文明」説にあまり目くじら立てる必要はないのではないかと思う。もしそこで突っ張るなら、世界史の発祥の地はメソポタミア、メキシコ、ペルーということになってしまうが、そういう定義がはたしてどれほどの役にたつのやら、結局は自己満足に終わるのではないだろうか。

インダス文明 年表
インダス地図
     日本大百科全書(ニッポニカ より
メヘルガル文化
これはインダス文明に先行する小文化圏であるが、文明とは程遠い。
7000 初期食料生産期が始まる。メヘルガルⅠ期とも呼ばれる。土器をともなわない新石器時代である。文字群の解析などから、ドラヴィダ人が文明を担ったとされる。
インダス川流域の西方のバルーチスターン山地で、農耕文化が発掘されている。小麦・大麦の栽培も行う半定住生活、羊・山羊・牛の飼育が行われていた。
5500 領域形成期に移行。メヘルガルII期とも呼ばれる。土器をともなう新石器時代である。
4800 メヘルガルIII期が始まる。石器に併行して銅器が使用される。
3500 メヘルガルⅣ期が始まる。
3500 中東地帯でヒプシサーマル期(相対的温暖)が終焉。北緯35度以南の地域が寒冷化し乾燥化する。人々は大河流域に集中するようになる。この結果メソポタミア文明が出現したとされる。
3500 この頃から、遺跡分布が西部のバルチスタン山地からインダス川西岸に移動し始める。
イラン高原東部のドラヴィダ人がインド北西部に移住したとの意見がある。
ハラッパー文化の始まり

アーリー
             アーリー
3300 パンジャーブ地方のラーヴィー川河岸で初期ハラッパー文化が始まる。
ほぼ同じ時期にラージャスターン地方のガッガル・ハークラー川河岸でカーリバンガン文化が始まる。
3000 西方のバルーチスターン山地で、イラン高地の諸文化の影響が波及。
2800 ハラッパーでラーヴィー期に代わりコト・ディジ文化が始まる。遺跡の南東部などに集落は拡大し、周壁が築かれるようになる。
2600 メヘルガルⅦ期。イラン高地の陸路による交易が衰退。集落が放棄され無人の野となる。
狭義のインダス文明の始まり
マチュア
             マチュア

2600 ハラッパーで領域形成期が終わり、統合期(盛期)に移行。統合期はハラッパーⅢ期とも呼ばれ、A,B,Cの3小期に分かれる。狭義のインダス文明はこの統合期を指す。
2500 海岸沿いのクッリ文化が繁栄。このあとインダス文明と西方文明とは、主として海路を経由して交渉をもつ。
2500 モヘンジョダロが形成される。最大で4万人が居住。
2350 ハラッパーで生成期(ⅢA)を終え、最盛期(ⅢB)に入る。
2350 メソポタミアの文書で、インダス文明との大規模な交易が記録される。
2300 インダス川流域でも寒冷化と乾燥化が進んだという。
1900 ハラッパーⅢ期が終了。ハラッパーの最大時人口は推定8万人。
1800 インダス文明が最盛期を終え、衰退期に入る。インダス川の流路が移動したためとされる。メソポタミアとの交易も途切れる。
1800 モヘンジョダロが急速に衰退。洪水のためと思われる。
1700 ヴェーダ期が始まる。ハラッパー文化の拠点となった都市を墓地とする文化とされる。
1700 カティアワール以南に新たな文化域が登場。後期インダス文明からインド中西部の銅器文明へ文化が継承された。

ポスト
             ポスト
3枚の写真は時期ごとに遺跡をドットしたもの。アフガンの山から降りてきた人々がインダス流域に展開し、やがてパンジャブへと去っていった経過が良く分かる。日本焚火学会のページより転載。
アーリヤ族の侵入(侵攻ではない)
1500 300年にわたりインド・アーリヤ族の侵入が繰り返されたとされる。
都市遺跡の屋外部分から人間の遺体が見つかっていないので、その前に住民自身が都市を見捨てたと判断される。
1000 アーリア人が肥沃なガンジス川流域へ進出し、稲作を開始、定住生活を始めると共に、階層社会を形成した。
1000 インドに鉄器文明が到達。
1000 ヴェーダのあいだに新たな宗教が登場。後のバラモン教やヒンドゥー教の原型となる。
インダス編年表
       日本大百科全書(ニッポニカ より


先程のもう一つ引っかかったところがあって、4大文明というのは世界では通用しないということだった。

そこで調べてみたところ、こちらの方はどうも間違いがなさそうだ。

ではどこが食い違うのか。それはこの図だ。(画面上左クリックで拡大)
Cradle
英語版ウィキの「文明の発祥」という項目に掲載されている。

「肥沃な半月」での文明の発祥が紀元前35世紀(5500年前))、インダスが33世紀、これに対し中国は18世紀まで下る。一方アンデスの文明は32世紀にはすでに生じていることになっている。

著者は「都市化」を文明の指標としているようだが、どうにも飲み込みにくい議論である。

ただ、文章を読み込んでいくと、結局、ヨーロッパ人にとって人類文明の発祥地はただひとつ、「肥沃な三日月」であることが分かる。

もちろんはっきりとは言わないが、「インダス文明も中国文明も結局、メソポタミアのお流れじゃないの」という感じがありありだ。そのオリジナリティには疑問の眼差しが注がれ、「それなら南北アメリカのほうがオリジナリティという意味ではスッキリしている」という話になる。

だから「どうしても中国を入れたいのなら、南北アメリカも入れるということで行きましょう」という話だ。

インダス文明は勉強していないので分からないが、黄河文明は小麦栽培、青銅器、鉄器などはすべて西域からの移入だ。それは確かだ。

それ以前はむしろ長江文明の影響のほうが強い。そういう点では黄河文明にオリジナリティをもとめるのはおかしい。

肝心なのは紀元前10~15世紀に世界のトップランナーに仲間入りし、その後一貫してトップランナーの地位を守り抜いていることだ。


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