鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

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カテゴリ: 07 歴史

「弥生時代」という時代区分の虚しさ

なぜ、「弥生時代」という無意味な命名がかくも長きにわたり学会を支配しているのか分からない。

それは土器の名称に過ぎず、しかも東京本郷の東大の近くの弥生町で最初に発見されたからと言うだけだ。一つの時代を表現するのにこれほどナンセンスな名称はない。

それだけではない。弥生時代という名称にこだわる限り、時代の終わりを特定できないのである。だから概念がまったく異なる古墳の出現という事態をもって、強制終了させるしかないのである。

ところが、この「終わりを画することができない」という事情は、他の多くのパラメーターをもっても解決できない。

例えば稲作文明とか水田文化と言っても、それは現代まで連綿と続いており、終わりを画することはできない。鉄器文化と言ってもその弱点は解決できないのである。

「銅鐸時代」こそが時代を表すキー概念

ところが、銅鐸の流布とその突然の中断こそは時代のはじめと終わりを象徴している。

それは日本における長江人文明の優越の時代と、その終焉を意味しているからである。

鉄を持たない長江人は漢民族に中原を逐われ、逃れた先の朝鮮半島からも北からの民族に逐われ、さらに逃れた先の日本で銅鐸文明を花咲かせたが、それも天孫族に破壊されてしまう。それが弥生時代の本質である。

弥生時代はいかに始まったか

弥生時代を水稲栽培と重ねて、ずいぶん昔まで遡らせる議論がある。前史としての陸稲“栽培”までふくめると、紀元前2千年まで遡らせる意見もある。

しかしそれは晩期縄文時代の存在を否定することになる。陸稲“栽培”は、もしそれが本当だとしても、渡来した長江人によるものではなく、古来から日本に土着した縄文人、によるものである。

Y染色体でいうと、晩期縄文人というのは北からやってきたB系人と朝鮮半島から渡来したC系人(少数派)の混住・混合である。

人口比率から言えば北方系が圧倒的に多いのだが、C系人も西日本を中心に無視し得ない比率を占めている。

この晩期縄文人は朝鮮半島と頻繁に交易し、半島に逃れてきた長江人とも接触した。

そして水田技術を買い、長江人を北九州に招聘した。半島の長江人は北方人の圧迫もある中で多くが九州に移住した。

九州北岸の遺構を見るとそれは紀元前500年ころ(三韓の成立)を一つのエポックとしている。

たしかに弥生時代の始まりにおいて、銅鐸は必ずしも重要な役割を果たしているとは言い難い。

しかしそれも「弥生時代」の本質的特徴をなすのである。


弥生時代前期は長江文明と縄文文化の融合

九州北部への長江人の植民は平和裏に行われ、混住・混血が盛んに行われた。それはおそらく当時の朝鮮半島南部においても同様であったろうと思われる。

なぜそれが可能であったか、それには経済的要因と地政的要因があったと思う。

経済的には長江人の水田耕作と縄文人の採集・漁労生活が住み分け可能で、ウィン・ウィンの関係にあったからだ。地政的には縄文人の側に長江人を受け入れるだけの通交の経験があったからだ。だから受け入れ側の縄文人は長江人を排斥しなかった。

生産性から言えば水田耕作のほうがはるかに高いが、それは労働集約型でもある。食わせる能力から言ってもそのために必要な労働量から言っても、長江人の人口は急速に増加することになる。

かくして、紀元ころには縄文人と長江人の人口は匹敵するようになり、ここに両民族の統合としての“原日本人”が出来上がることになる。

シンボル宗教としての銅鐸信仰

長江人は縄文人の伝統や社会の枠組みを尊重しつつ徐々にその数を増していく。そして平野部では人口の多数派となっていく。その象徴となったのが銅鐸を寄るべとする信仰だった。

銅鐸はもともとカウベルのようなものだったらしい。長江流域の原長江文明において、すでにその存在が確認されている。朝鮮半島でも、彼らが生息していたであろう地域から小型銅鐸が出土している。

縄文人といかに混交しようと数千年の歴史を持つ銅鐸信仰を捨てることはできない。だから長江人(農耕民)が各地で多数派となるにつれ銅鐸信仰は復活し、隆盛していく。

ここからある意味では「真の弥生時代」が始まるのである。

銅鐸文明の発生と興隆の経過については、私の前の記事を参照されたい。

銅鐸の広がりは、水稲栽培と長江人の支配の広がりを意味する。銅鐸は東に行くほど、時代が下るほど大きくなり、聞くものから見るもの変化していく。劇場型宗教への転化と言える。

シャーマニズム集団の侵入

縄文人の信仰は森羅万象への八百万的なアニミズムである。これに対し、銅鐸の音を聞きながら参加者が土地の恵みへの思いを同じくするというユニバーサルな信仰スタイルは、究極的なアニミズムであり、十分にシンボル的である。

同時にシンボル宗教は柔軟であり、原始的なアニミズムとの共存が十分に可能である。

しかし世の中が剣呑になってくると、民衆は抽象的なシンボルに飽き足らず、教祖をもとめるようになる。

それが外来者集団として侵入した場合、情勢は激変することになる。それが「天孫族」集団だ。

彼らはたんなる海賊集団ではなく「十字軍」のいでたちで攻め込んでくる。彼らの使命は邪教撲滅と異教徒の抹殺だ。だから容赦がない。

彼らは九州・出雲を征服した。そして銅鐸を片っ端からぶち壊した。銅鐸文明を破壊した。

これにより弥生時代は終焉を迎え、シャーマニズムの時代としての「古墳時代」が始まっていくのである。

天孫族の2つの系統

青谷上寺地遺跡からはっきりしたのは、紀元150年から200年にかけての「倭国大乱」の時代に出雲で起きた現象が天孫族による銅鐸人(長江人を中核とする弥生人)の駆逐だったということだ。

前後関係から見れば、これを実行したのは同じ天孫系でも九州のアマテラス系(百済起源)とは異なるスサノオ系(新羅起源)だったということになる。

彼らは、その後の数十年の間にアマテラス系に出雲を譲り、越前から大和に入り纏向政権を樹立したことになる。かなり忙しい話だ。妻木晩田を出雲政権とする説とも矛盾する。

この辺については、今後とも銅鐸を手がかりにしながら、現場にあたっていこうと思う。

むきばんだ東方に集団虐殺の跡

教育委員会のサイトには「むきばんだの時代」というページもあって、興味深い記事が見られる。

鳥取県気高郡青谷町の青谷上寺地遺跡で、大量の人骨(約90体以上)が発見されました。
これらの人骨は溝の中に折り重なるように散乱していた。

鋭い武器で刺されたり切られたりした傷跡の残る人骨、女性や10歳ぐらいの子供も含まれていた。

ウィキでは下記のごとく記載されている。

遺跡の東側の溝では弥生時代後期の100人分を超える約5,300点の人骨が見つかったが、うち110点に殺傷痕が見られた。

遺跡状況から、これらの人骨が埋められたのは紀元150~200年の間(弥生時代後期後半)と見られる。

どういう殺され方だったのかの記載はない。

鳥取大学の井上教授によれば、

外傷は背中や左半身に多く、矢じりが突き刺さった骨もあった。このため処刑されたというよりは闘いによるものと推定される。

人骨は溝に捨てられたりしたのでなく、戦闘の後に一カ所に集めて埋葬された後、人為的に掘り起こされた可能性が高い。

ということで、とりあえず妻木晩田は置いておいて、青谷上寺地遺跡に移る。

「あおや かみじち いせき」と読む。2008年に国の史跡に指定されている。

aoya

鳥取と言っても倉吉との中間、「長尾鼻」と書いてあるところの西側である。


鳥取県教育委員会のサイトには、「あおやかみじち」の紹介ページもある。

青谷町は因州和紙の里として知られている風光明媚な地で、お酒などの醸造業も盛んです。

と言うから、そそられる。

遺跡は青谷平野のほぼ中央に位置し、JR青谷駅南側の住宅・工場地や水田の地下に埋もれています。

aoyagaiyo

大変わかりやすい図で、古代には砂州で仕切られた潟湖があり、そこに張り出した沖積地が遺跡の中心だ。何か見たことがある地形だと思ったら、山口の仙崎港と同じ構図だ。

港湾集落だった可能性もあり、古代中国や朝鮮半島製の金属器や、西日本を中心とした国内各地の土器が発見されている。地形の高かったところでは無数の土坑群やピット群が検出、周辺の低湿地部一部水田域が残されている。

ただし、発掘範囲内には住居跡や墓は見つかっておらず、画面下側の小高い地点がそれかもしれない。

いづれにしても典型的な低地型の弥生遺跡で、むきばんだとは対照的である。


むきばんだと青谷との関係を表にすると

妻木晩田と青谷上寺地を重ねて年表化すると、下記の如くなる

紀元前200年ころ(弥生時代前期末) 青谷上寺地の集落形成が始まる。

紀元0年ころ(弥生時代中期後葉) 青谷上寺地の集落が拡大し、大規模な護岸施設が作られ、出土品の量も増える。

紀元0~50年(弥生時代中期末) 妻木晩田遺跡に人々が住みはじめる。

紀元50年ころ(後期初頭) むきばんだの西側丘陵に環壕が形成。東側丘陵に四隅突出型墳墓群が形成される。住居群はそれより東の別の丘陵に形成される(そのほとんどが山の頂や尾根沿いに作られる)。

紀元150~200年(後期後葉) むきばんだ遺跡が最盛期を迎える。住まいの範囲は遺跡全体に広がる。それぞれの部落は3~5棟を1単位とする集団(クラン)を成す。

紀元200年(古墳時代前期初め) 青谷上寺地の集落が「突如として姿を消した」(ウィキ)。実にドラマチックな遺跡である。

紀元200年 この時期をさかいに、妻木晩田のムラは少しずつ衰えていき、古墳時代の初め頃には住まいがほとんど見られなくなる。

という経過だ。


県教育委員会の記述で最も重要なのは、青谷人が銅鐸人であったということだ。

青谷上寺地遺跡から見つかった「祭りのカネ」銅鐸は、小さな破片ですがその特徴から古い形のものと新しい形のものの、二者があることが分かりました。古い形のものは実際に打ち鳴らされた「聞く銅鐸」です。新しい形のものは、1メートルを超えるほど大型化し、にぎやかに飾り立てられた「見る銅鐸」です。

青谷と妻木晩田を素直に考え合わせれば、むきばんだの山城にこもった部族が、青谷の農耕民集落を攻撃し、破壊し、住民を集団虐殺したとも考えられる。あるいは共同の敵に敗れ、妻木晩田の方は落人集落を形成したのかもしれない。そのいづれなのかは、妻木晩田に銅鐸が見つかるかどうかで決まる。

むきばんだは生存競争を生きながらえ、発展し、やがて平地に移り住むようになる。それに伴い元の集落は自然消滅する。

青谷の民は抵抗の末に絶滅するか、逃げ延びて東を目指すか、むきばんだの連中の支配のもとに下ることになる。

こんな経過ではなかろうか。


あたかも古代日本のトロイ戦争が、勝者の側と敗者の側から浮かび上がってきたようだ。

ただし今のところ、これを弥生人(銅鐸人)対天孫族(新羅渡来のスサノオ系)、あるいは九州由来のアマテラス系という文脈に載せるだけの裏付けはない。


今朝の赤旗で「むきばんだ」という遺跡があることを初めて知った。

妻木晩田と書いて「むきばんだ」と読む。巨大な弥生集落跡だそうだ。

まずはウィキから。しかし工事中で、まだ記載は乏しい。

鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡。
遺跡の面積は156ヘクタールにもなり、吉野ヶ里遺跡の5倍にもおよぶ。

こんなに大規模な集落なのに、私が名前も知らなかったのは、私の浅学のためでもあるが、発見が新しいためらしい。

この時期の弥生遺跡というと、どうしても邪馬台国との関連ということになる。それ以上に私にとって興味深いのは、それが銅鐸文明なのか天孫系なのかということだ。

もし天孫系とすれば、それは出雲(スサノオ)系なのか、出雲系を追い出した九州王朝(アマテラス)系なのかということも気になる。

どこにあるのか

グーグル地図ではこの辺だ。米子の東郊外、大山の山麓ということになる。

むきばんだ

鳥取県の教育委員会のサイトに妻木晩田遺跡のページがある。ここの紹介から読み始める。

拡大図

晩田というのは遺跡のある丘陵地帯を地元で「晩田山」と呼び習わしているところからつけられた名前で、谷で区画される6つの丘陵で構成されている。妻木というのは、その中の一つの地区の名称のようだ。遺跡は妻木地区を越えて広がっており、晩田遺跡といったほうが適当ではないかと思うが…

この地図の洞ノ原地区西側丘陵から西方を眺めたのが下の写真で、美保湾越しに米子の市街地と弓ヶ浜半島が遠望される。

Mukibanda_remains_western_hill_at_Donohara_area

発見から遺跡指定に関わる記述は、ここでは省略する。

遺跡の概要

標高100メートルの集落で、環濠をめぐらしていることから、吉野ヶ里と同様に平和的な集落とは言い難い。

ただウィキでは倭国大乱と関係と書いているが、かなり長期にわたり生活が営まれていたので、むしろ弥生後期の集落の一般的特徴といえるのかもしれない。

遺物としては土器、石器、鉄器、破鏡が出土している。大陸性のものも確認されている。

ということだが、これだけではなんとも言えない。

教育委員会のサイトではかなり細部が書き込まれているが、その分、こちらも慎重に読んでいかなければならない。

最近の発掘動向

妻木晩田の最近の状況が下記のニュースで分かる。

2016/7/26 のニュースだ。

見出しは「吉野ケ里の3倍の巨大集落 突然の消滅と「弥生」の謎」というもの。

内容はかなり盛り沢山で、頑張って書いた記事だ。

以下、箇条書きにしていく。

1.大規模な墳丘墓が発見された。仙谷8号墓と仙谷9号墓で、古墳時代前期初頭の築造とみられる。

2.集落はこの墳墓ができた後間もなく、突然消滅した。戦闘があったという証拠は見られない(西暦250年前後と見られる)

この後、古墳屋さんのうんちくが長々と続くがあまり興味はない。

3.すべての集落に「鉄器」が豊富に普及していた

4.鉄器と併存して多くの「有溝石錘」が発見され、この集団が操船技術を持っていたと推定された

以上のことから、妻木晩田の住民は北方→朝鮮半島由来の集団と想定される。私の言う天孫族である。

集落の発生が西暦0年ころまで遡ることから、新羅から渡来したスサノオ系天孫族ではないかと考える。

(銅鐸は絶対に出土しないと確信する)

遺跡の生きていた時代

時期的には弥生時代中期末(西暦1世紀前半)~古墳時代前期(3世紀前半)とされている。大まかに見て、西暦50年から250年の間と想定される。

50年というのは志賀島の金印が発見された頃であり、那国(奴国)を中心とする北九州連合が確立した頃だ。250年というのは魏志倭人伝で、卑弥呼の邪馬台国が魏と通交した年だ。

その間に倭国大乱があり、「出雲の国譲り」があり、銅鐸文明が破壊された。

そして、その20年後くらいに大和盆地に纏向政権が成立している。

西暦50年から250年の間に集落はその姿を変えており、それは考古学的にかなり細かく区分できるようだ。

西暦1世紀前半(弥生時代中期末) 妻木晩田遺跡に人々が住みはじめる。

西暦1世紀中頃(後期初頭) 洞ノ原西側丘陵に環壕形成。洞ノ原東側丘陵に四隅突出型墳墓群が形成される。要するに要塞が形成される。住居群はそれより東の別の丘陵に形成される(そのほとんどが山の頂や尾根沿いに作られる)。

西暦2世紀後半(後期後葉) 遺跡が最盛期を迎える。住まいの範囲は遺跡全体に広がる。それぞれの部落は3~5棟を1単位とする集団(クラン)を成す。

この時期をさかいに、妻木晩田のムラは少しずつ衰えていき、古墳時代の初め頃には住まいがほとんど見られなくなる。

つまり、敵がいなくなってこんな不便なところに暮らす必要がなくなり、平地に降りていったのか、それとも敵に追いやられて逃げていったのか、ということだが、おそらくは前者であろうと想像される。

いずれにしてもこの集落の住民たちは、150年以上にわたって周辺の人々と厳しい対峙を続けたことになる。

鬱陶しい作業だが、誰もやってくれないからやるしかない。

さもないと、動物園の動物みたいに、「ゾウはどこに住んでいます、キリンはどこに住んでいます」という事実の列記に過ぎなくなってしまう。

ミトコンドリアDNAのハプロタイプは大きく言ってL系、M系、N系、R系がある。

L系はアフリカにしかいない。Yで言えばA、Bに相当する。

L系からM系とN系が分岐するが、アジアへの渡来はM系が先行するようである。そもそもM系はアジアにしか存在しない。

ということで、まずは大胆な仮定から。M系はY染色体のB、Cに照応する。N系はO系その他に相当すると考える。

もちろん本当はY染色体のC系とD系に照応する、M系の亜型までわかればなお良いのだが、ミトコンドリアDNAの研究はそこまでは行っていないようだ。

もう一つの仮定としては、先住者のいる地域に後発者が入って主流となる場合、男性は後発者が多くでも、女性は先発者の割合が高いだろうということ。逆に先発者のいない無住の地に入ったグループはY染色体とミトコンドリアDNAの一致率が高くなるだろうということだ。

これはスペインが征服した新大陸で確認済みの事実だ。

それで調べてみると、

本土日本人では

M系統が約60% N系統が約15% R系統が約25%となった。

これがアイヌ人では

M系統が70% N系統が25% R系統が5%となった。

沖縄では

M系統が70% N系統が15% R系統が15%となっている。

これで分かるのはM系統がY染色体のD2に照応するのだろうということである。そして後発者を受け入れた側の人々だろうということである。

驚くべきことに山東・遼寧地方、韓国でもM系統(とくにD亜型)が6割を占めていて他者を圧倒していることである。

こうなるとM系統=D2とは言えない。C、D全体をふくめている可能性もある。

分からないのは

①アイヌ人のY亜型がなんだろうということ、北海道にはオホーツク系のC3人しか入っていないから、Y亜型はC3人の女性なのか。だとすれば、なぜY亜型はN系統にふくまれなくてはならないのか。

②本土ではN系統があまりに少ない。O人はN系統に属さないのか。

③C1人が最初の定住者とすれば、C1の女性はかなり高い比率でいるはずだ。それはどこにふくまれるのか。ひょっとするとD4の主体を形成しているのかも。

④さまざまな亜型についてはそのとおりだろうが、M系統とN系統に分ける系統樹は果たして正しいのだろうか。

ということで、とにかくミトコンドリアDNAは解釈が難しく、恣意的になるおそれがある。素人はあまり近づかないほうが身のためだ。

日本への渡来の順番。

メモ代わりに書き留めておく。

1.C1人

おそらく、この人達が最初に日本に入った人たちだろう。北方ルートで中央アジアから入ってきたC系人のうち、先発隊に属する人たちだ。

この人達は朝鮮半島経由で九州に入り、北は青森から南は沖縄まであまねく分布した。津軽海峡は渡っていない。

当然、C1人は満州から朝鮮半島にも分布していたと考えられるが、現在では痕跡を残しておらず、後発のC3人に淘汰されたものと考えられる。

*C1人先着説は、今のところ学説的根拠がない思いつきである。証明のためにはミトコンドリアDNAとの突き合わせが必要である。

2.D2人

そのあと、樺太からD2人が南下してきた。彼らもあまねく日本に分布した。

D2人はC1人を排除せず共存した。その際、C1人の持つ朝鮮半島とのコネクションは活用されたと思われる。

したがってD2人が朝鮮半島という第二のルートを経由して西日本に入ったという仮説は必要ないのである。

人口比率で言えばD2人がC1人を圧倒しているが、女性では先住したC1人の比率が高くなるであろう。ただ、現在のところY染色体のD系とC系の違いに照応するミトコンドリアDNAのサプタイプは同定されていないため、確認はできない。

3.C3人

本州以南で、D2人とC1人の共存体制ができた後、C3人が入ってくる。

C3人は中国北部から蒙古にかけて広く分布しており、武力的に優位であったとも考えられる。

北からはD2人の居住域に侵入する形で、九州からはC1人を駆逐する形で入ってくる。

あまり共存を好まない勢力であったようで(後発人種はどうしてもそうならざるをえないのだが)、C1人は本来一番多いはずの九州から消えている。

したがってC3人女性のミトコンドリアDNAは少数に留まっているはずであるが、これもハプロタイプとしては確認できない。

4.O2b人

最終氷河期が終え、O系人が東方に進出してくる(どちらから?)。彼らは中国北部のC3人を回避しつつ長江流域に拠点を形成する。O1人O2人である。

これに対し後発のO3人(漢民族)は中国北部に進出し、黄河流域を占拠する、彼らはC3人を北に押しやり、長江流域にも進出する。

当時朝鮮半島はC3人の居住するところであったが、南岸地帯にはD1人と共存するC1人が残存していた可能性がある。

O3人の圧力のもと、朝鮮半島に渡ったO2人のうち、O2b人がC1人の庇護のもとに九州へと渡った可能性がある。

これが弥生人であり、D2人との共存関係のもとで、人口を増やしていった。

5.O3人

そして最後に登場するのが漢民族系のO3人である。同じO3でも満州の方から下ってきた連中かもしれない。

定義にもよるのだが、弥生人が水稲栽培を行い弥生式土器を使用した人々だとすれば、O3人は弥生人ではない。

私は「天孫族」と呼んでいる。すでに人が住んでいるところに進出するのだから、進出形態は先住者の抵抗を暴力的に排除する他ない。

したがって、その密度には同心円状の勾配差がある。九州ではD2人、O2b人と比肩するほどの密度があるが、青森ではその6割程度にとどまる。

おそらく漢民族のミトコンドリアDNAの分布とは相当の乖離があるはずだ。

なおHammerらのデータにはN系人の出現も見られるが、技術的な問題もあると見られ、この際は無視する。

16.12.27 コメントを頂いた。とりあえずC1人に関する見解については、を参照されたい 

崎谷満さんの

『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年) 

を通読した。

といっても、前半のハプロタイプについての概説部分のみで、後半は関心が文化、言語、歴史など多岐にわたっており、省略させていただいた。

とても要約できるヴォリュームではないが、感想的にいくつかつまみ食いしておく。

1.Y染色体ハプロタイプは以下のように大別できる

<AB人> アフリカ残留人

<DE人> 最先発人 ただしEのほとんどはアフリカに戻る。北方ルートのみ。C人に押しのけられ、日本とチベットにのみ健在。

<C人>  第二陣。南方、北方ルートの両者を通じて世界のほとんどに拡散。

<FT人> F人からT人まで、第三陣以降のすべて。

直接指摘はされていないが、2.2万年前~1.8万年前の4千年間、最終氷河期最盛期となり、この間は人類の拡散が足踏み状態にあったとされている。
このことから、FT人の拡散はその後のことか?と想像される。

2.ミトコンドリアDNAの大別

<L人> アフリカ残留組

<M人> 比較的古い時期に拡散した群。ハプロタイプでいうとMCDEGQZが相当する。 

<N人> 比較的最近に拡散した群。上記以外のすべてが相当する。ミトコンドリアの系統はどうもいまいちよく分からない。

3.北方系C人と南方系C人

南方系C人はインドから東南アジア、インドネシア、オーストラリア、オセアニアへと拡散した。

東南アジアから北方への進出はなく、インドシナ南部とフィリピンまでにとどまっている。

北方系C人はD人の後を追い東アジアに進出した。D人を駆逐し、中国まで進出。さらに台湾や南方へも拡散している。

4.北方系O人と南方系O人

O人も南方ルートおよび北方ルートで拡散している。東アジアに来たのは北方ルートである。

ここは以前勉強した説とは異なる。以前は南方ルートのO人が北方に向けて拡散したと書いた(英米で流布)が、崎谷さんはこの説に明確に反対だ。

この辺は両者がそれなりに根拠を持って書いているので、素人には判断がつかない。

ただ南方由来説は、O3人(漢民族)のUターンを前提とする不自然さが拭えない。O1、O2人が南方由来でO3人が北方由来とする折衷案も成立しうるが。

5.O1、O2人とO3人

O3人は現代の漢民族で、他種族を圧倒している。しかし長江文明の担い手はO1、O2人だった。

3つの遺跡から発掘された人骨のY染色体を分析した研究が紹介されている。

龍山文化(黄河文明)

BC2000頃

O3、O3a

長江中流

BC1000頃

O2a、O3

長江下流

BC3000頃

O1a、O2b

年代を見ても、漢民族がO1、O2人を駆逐した様がありありとする。

6.D人は樺太由来と朝鮮半島由来の二流がある

このあたりから、崎田さんの論理が少々荒っぽくなる。

周知の通りアイヌ人と琉球人はD人の要素が非常に強い。そこでもともと日本列島にはあまねくD人が住んでいて、後からO人が入ったために分断されたという考えがある。

これは間違いで、もともとD人は2つのルートで日本に入り、中抜け状態だったというのが崎田さんの主張になる。

その根拠として4点を挙げている。

*ミトコンドリアDNAのハプロタイプが異なっている。琉球のそれは朝鮮半島~九州の流れの上にある。

*細石刃文化はあるが、それを担うべきY染色体のハプロC3は存在しない。

*言語が違う

*T細胞白血病ウィルスの亜型も異なっている

率直に言ってY染色体そのもので勝負していないのが不満である。ミトコンドリアDNAの話は、Y染色体とのペアリングの問題があまりにも複雑であり、混乱を招く。

細石刃文化や言語の話は「学際研究」のいいとこ取りになりかねない。むかしのタミール語論争を想起させる。

結局、崎田さんがこの道に入り込むきっかけとなったT細胞白血病ウィルスの種差がかなり強い印象を与えているのではないかと勘ぐってしまう。

7.二経路論に対する感想

学説としては二経路論は十分に魅力的であるが、それが中抜け論になってくると、次の事実と齟齬を来す可能性はないだろうか。

すなわち、被征服(被同化)民族であるD人が、それにもかかわらず日本人人口の4割以上を占めているという厳然たる事実である。

「学際」的な考えを持ち込まずにDNAレベルだけで考えるとすれば、北方から入ったD人がじわじわと西に向かって進出して、日本列島を覆い尽くした。

西日本や琉球、さらに朝鮮半島には先住者(C1人?)がいて、これを圧倒し通婚した。それがY染色体とミトコンドリアDNAの組み合わせに変則性を与えた、と見るのが素直なのではないだろうか。

『武道論集』という文章があった。

2008年に国際武道大学附属武道・スポーツ科学研究所が発行したもので、ありがたいことにPDFファイルで読める。

目次を見ると、実に総括的な力作で、ただで読むのがもったいないくらいだ。

とりあえず、第二章の章末の剣道歴史年表から始めようか。すべてを転載するのも煩わしいので、項目を絞ることにする。そのかわりウィキなどから解説を拾い、読み物になるようにした。

《剣道歴史年表》

10 世紀後半 反りと鎬(しのぎ)をもつ日本刀が出現。刀の柄が長くなり、「片手持ち」から「両手持ち」へと変わる。

本来、諸刃のものが剣で片刃が刀であるが、日本では諸刃の使用は定着しなかったため、混同が見られる。

平安時代後期から武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達する。通常これ以降の物を日本刀とする。(ウィキ)

平治 1 (1159) 源義経、鞍馬山で鬼一法眼に剣を学んだといわれる。

鬼一法眼は京・鞍馬の陰陽師で、京八流(鞍馬寺の八人の僧に教えた剣法)の祖とされる。剣術の担い手は武士ではなく僧であったといわれる。

弘和 4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。(この記載については

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。(この記載については

15世紀後半 剣術・槍術・柔術などの流派が誕生し始める。

文正 1 (1466) 伊勢の剣客、愛洲移香斎久忠(あいすいこうさい)、各地を流浪の末、日向で陰流を開く。(ウィキによれば移香斎は法名で本名は太郎)

代わった名前だが、これは伊勢の豪族(水軍)愛洲氏の流れをくむ。愛洲氏は遣明貿易にも携わっていた。移香斎も明を始め各地を旅していたという。

1467年 応仁の乱。戦国時代の始まり。弱肉強食と下克上が支配的思想となる。

それまで剣術は武術のひとつに過ぎなかった。
武芸十八般: 弓術・馬術・剣術・短刀術・居合術・槍術・薙刀術・棒術・杖術・柔術・捕縄術・三つ道具・手裏剣術・十手術・鎖鎌術・忍術・水泳術・砲術

大永 2 (1522) 香取神道流の流れをくむ塚原ト伝、新当流を開く。

享禄 2 (1529) 上泉伊勢守、愛洲移香より陰流を授かる。新影流を開く。

天文3年(1543) 鉄砲の伝来。急速に戦闘の主役となる。

鉄砲による先制攻撃と、軽装備の武者による白兵戦が普及。合戦の場における剣術の意味が重視されるようになる。

永禄 8 (1565) 柳生但馬守宗厳、上泉より一国一人印可を授かり、柳生新陰流を創始。

天正 4 (1576) 念流の流れをくむ伊藤一刀斎景久、小野派一刀流を創始。

文禄 3 (1594) 徳川家康、柳生石舟斎・宗矩父子に起請文を差し出す。徳川幕府は小野派一刀流と柳生新陰流を公式流派とする。

寛永 9 (1632) 柳生但馬守宗矩、「兵法家伝書」を著す。

正保 2 (1645) 二刀流の宮本武蔵、「五輪書」を著す。

天和 2 (1682) 伊庭是水軒、心形刀流を開く。

正徳年間(1710 年代) 直心影流の長沼四郎左衛門国郷、防具を工夫改良、面・小手を用いた稽古を始め、これが大いに流行。

宝暦年間(1750 年代)

一刀流の中西忠蔵、防具をさらに改良し、ほぼ現代剣道の防具の原型が完成。竹刀防具を用いた試合剣術を始める。これが「撃剣」と呼ばれるものである。

寛政 4 (1792) 幕府は武芸奨励の令を発布。

文政 5 (1822) 北辰一刀流、千葉周作が神田お玉ヶ池に「玄武館」を開設。他に神道無念流(斎藤弥九郎)の「練兵館」、鏡新明智流(桃井春蔵)の「士学館」が、江戸の三大道場と呼ばれる。

他にも鏡新明智流、神道無念流、心形刀流、天然理心流など、各地で新興の試合稽古重視の流派が隆盛。幕末期の剣術流派の総数は、200以上あった

1848年 黒船来航後、尊王攘夷論や倒幕運動が盛んになる。各地で斬り合いや暗殺が発生し、剣術が最大の隆盛を迎える。

安政 3 (1856) 築地に幕臣とその子弟を対象とする講武所が創設。剣術師範として男谷精一郎(直心影流)が就任。

明治 4 (1871) 廃藩置県、散髪脱刀勝手の令発布。

明治 6 (1873) 江戸幕府の講武所剣術教授方だった榊原鍵吉、剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案。

撃剣興行は浅草左衛門河岸(現浅草橋)で行われ、大成功した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋、久留米、大阪など全国各地に広まった。

明治 7 (1874) 警視庁設置。佐賀の乱。

明治 9 (1876) 廃刀令の公布。剣術は不要なものであるとされ衰退した。

明治 9 (1876) 神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)など不平士族の反乱が相次ぐ。

明治10(1877) 西南の役。警視庁抜刀隊の活躍でこれを鎮圧。剣術が再認識される。

明治12(1879) 警視庁大警視川路利良、「撃剣再興論」を発表。巡査の撃剣稽古が奨励されるようになる。榊原鍵吉ら撃剣興行の剣客たちは警察に登用される。これに伴い撃剣興行は衰退。

明治13(1880) 京都府知事槇村正直、「撃剣無用」の諭達。剣術を稽古する者は国事犯とみなして監禁した。

明治16(1883) 文部省、体操伝習所に対して、「撃剣・柔術の教育上における利害適否」の調査を諮問。

明治17(1884) 体操伝習所は、撃剣・柔術の学校採用は時期尚早との答申を出す。

明治28(1895) 日清戦争による尚武の気風の高まりを受け、大日本武徳会が創立され、武術の復興と普及が図られる。

明治29(1896) 文部省、学校衛生顧問会に「剣術及び柔術の衛生上における利害適否」の調査を諮問。同会議は、15 歳以上の強壮者に対する課外運動としてのみ可と認める。小沢一郎・柴田克己など、第10 帝国議会に「撃剣を各学校の正課に加ふるの件」請願。その後、度々国会への請願は繰り返される。

明治35(1902) 大日本武徳会、「武術家優遇例」を定め、範士・教士の制を設ける。

明治38(1905) 大日本武徳会、武術教員養成所を開設。その後、武徳学校・武術専門学校・武道専門学校と改称。

明治39(1906) 大日本武徳会剣術形を制定。

明治44(1911)「中学校令施行規則」一部改正により、撃剣及び柔術が正課として体操科の中に加えられる。

大正 1 (1912) 大日本帝国剣道形が制定される。

大正 2 (1913) 京都帝国大学主催、第1 回全国高等専門学校剣道大会が開催される。このころより、大学主催の剣道大会が盛んに行なわれる。

大正 7 (1918) 武術家優遇例を武道家表彰例と改称。

大正13(1924) 第1 回明治神宮競技大会において、剣道大会も開催。

大正14(1925) 第50 議会において、武道が中学校の必修独立科目として可決される。この後撃剣は「剣道」と呼ばれることになる。

かなり不十分で、視点が絞りきれていない年表ですが、とりあえず載せます。いずれその気になったら増補したいと思います。

下の図は全日本戸山流居合道連盟のページから拝借したものである。見事に人の首が飛んでいる。

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こうしてみると、いまの剣道というのは、剣術の出がらしみたいなものではないかと思えてくる。

たまにテレビで全日本選手権の中継をやっているが、あれを見ているとどちらが勝ったのか素人目には分からない。

もし両者が真剣で立ち会っていれば、両方とも間違いなく死ぬであろう。決闘としては無意味だ。あれならチャンバラごっこのほうがはるかにリアルだ。

それはそれとして、この首切り写真、どう見ても野球のバッティングと同じである。

スポーツ紙によく載るホームランの瞬間とまったく同じで、左足に重心を残しつつ、手首を固めて、刀に載せるように、腰の回転でボールを切っている。

 「さらば故郷」から吉丸の話に移り、それが撃剣術の話になって、どうも話がとりとめなくなっているが、それが酒飲みばなしの面白さというもので、こうなれば行くところまで行こうという勢いになっている。

基本的には剣術・撃剣術・剣道は同じもので、時代によって呼び名が違っているというに過ぎない。

こう言うとその道の人には怒られそうだが、しかしそれらの人たちも実際はこれらを一くるみで語っているから、まんざら間違いとはいえないだろう。


「撃剣術」という言葉はウィキには登場しない。ぽかぽか春庭「撃剣術」

というブログに、詳しい説明があるので紹介する。

「刀で切る技」である剣術に対して、刀剣・木刀・竹刀(しない)で相手をうち、自分を守る武術を撃剣(げきけん)といいます。武術の十四事においては、剣術と撃剣は別々の武術として並べられています。

そしてブログ主は

江戸時代の剣道道場などでも、ふたつはともに刀剣木刀の術として扱われ、剣術家と撃剣家がまったく別種の人とは認識されていなかった

と想像しています。

明治になって、武士の身分がなくなると、各地の道場で稽古を続けてきた武芸者にとって、剣の技は無用のものとなってしまいました。

ということで、榊原鍵吉の撃剣興行の話につながっていく。


剣術と言い剣道と言い、つまりは文化的位置づけの違いである。時代の流れである。

それでは、その流れの中で撃剣術はどう位置づけられるであろうか。

一夜漬けの勉強の結果辿り着いた結論は、撃剣術は元の意を無視して狭義に言えば、見世物としての剣術であり、ご一新と廃刀令で侍が落ち目になっていく時代に始まり、権力に剣術が見直され、やがて教練の対象となり、剣道と名付けられるまでの短期間に用いられた名称であろうということだ。

つまり武士(戦士)の生活の思想的基本としての剣術=人を殺すための技術が無用なものとなり、それが、富国強兵モードの中で、「剣道=哲学を持つ体育」の一つとして復興していくまでの過渡期に、剣術に対して与えられた文化的枠組みと考えられるべきだということだ。

それはまさに明治維新と、軍国主義の興隆という2つの時代の間に生まれた概念だ。そこでは天地が2回ひっくり返っている。

一度目の転倒は言うまでもなく戊辰戦争と、廃刀令、廃藩置県、身分制度の廃止だ。ここで剣術は徹底して否定された。

これに対して二度目の転倒ははっきりしない。幾つかのエポックがある。

一つは西南戦争と抜刀隊の活躍だ。これにより刀剣による闘いの部分的な有用性が再認識された。警視庁が剣術を重視し在野の剣士を召し抱え、剣術の保護・育成に力を注いだ。

もう一つは日清・日露の戦争で勝利したことで、軍国主義が一世を風靡し、その中で「武士道」精神が称揚されるようになった。この中で剣の道が美化され、「大和魂」の中核となった。

これに対し、剣術の中から「美学」を中核として取り出したのが撃剣術となっていくのではないか。それが凝縮したのが「型」であろう。居合術もその一つであろう。戸山流居合術というのは陸軍の戸山学校で教えた「軍刀の使い方」教室みたいなところから発展したらしい。

「型」とはいえ、「こうやれば人を殺せる」という方法を示している点では、むしろ剣道よりも実戦的だ。


ただそれは柔術が講道館柔道となったのとは若干様相を異にし、在野の辺縁的存在にとどまり、剣道はあくまでも警察剣術を中心に発展していく。

こういう流れの中で、撃剣術を考えていくのが妥当ではなかろうかと思う。

陰流と中条流の関係がどうも怪しい。剣術の世界は相互批判の気風があまりないようだ。

むかし、「わさび漬」というのが静岡の名物で、同じような商品を売っているのだが、かたや本家、片や元祖という具合でなんともいい加減なものだった。剣術の世界でも似たようなものなのか。

探していたら下記の文献に巡り合った。

山嵜正美「平法中條流の傅系について」と言うもので、武道学研究という雑誌に掲載されたもの。発表は2006年となっている。武道の長い歴史から見れば最新と言ってもいいかもしれない。

書き出しは

平法中條流の傅系について誤認論述がまり通っている。より厳しい研究が望まれている

と言うものである。具体的には「本朝武芸正傳」という書物の批判のようである。

伝書の記載は数のごとくである。

中条家系

しかし中条長秀は足利幕府の評定衆であり、いくつかの文書に名が残されている。

初見は貞和2年(1346年)足利尊氏の歌会の参加者として名を残す。ただしこのときは藤原長秀を名乗っている。

長秀はたしかに1384年になくなっているが、法名は長興寺殿秋峯元威である。ある著書に「法名は実田源秀」となっているが、これは長秀の裔孫、中条左馬助信之である。

実田源秀こと中条左馬助は、応永33年(1426)に弟子に単傅を授けたことが確認されている。

伝書の人名が混乱したのは、口伝による簡略化のためであろう。

平法中條流に念流の刀術が取り入れられたのは、左馬助の父である中條判官満平であろう。

念流慈恩の京都における弟子の中に中條判官の名が記載されているが、当時都に居住した中条一族のうち判官職にあったのは満平のみである。

ということで、中条長秀はずっと前の人で、当然武家社会の幹部であるからそれなりの兵法は身につけていたであろうが、どちらかと言えば文官として名を残した人物と考えられる。その子孫に当たる中条判官満平が、京都に出向いた慈恩に念流を学び、それを家伝の中条流に取り入れた、ということになる。

この論文は、さらに、冨田と中条流の関係にも触れ、冨田は中条流を引き継いだものの、冨田流を起こしたわけではないということも明らかにしているが、詳細は略す。

最後の結論は大変厳しい。

冨田流は存在しない。後世の御伝となる元凶は「本朝武芸正傳」の富田流との誤認記述である。

ということで、年表についての疑問が氷解した。

慈恩と念流

剣道年表に疑問があり調べてみた。疑問を生じた項目は以下の通り。

弘和 4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。

第一の疑問は念流の流れを引くと言われる中条兵庫助が足利義満の剣道師範になったのが、念流創始より20年も前になっていること。「剣道師範」という表現も怪しい。

第二の疑問は、信州の長福寺となっているが、鎌倉だとする別記事があること。

どうでもいいことだが、行きがかり上こだわってしまった。そこでウィキで慈恩と中条を調べることにする。

まずは念阿弥慈恩について

慈恩は1350年の生まれ。南北朝時代の人である。これで行くと念流を創始したのは58歳のことになる。ありえないわけではないが、不自然な感はある。

奥州相馬の生まれ。俗名は相馬四郎。新田義貞に仕えていた父が殺された。総門に入った慈恩は敵討ちを目指して剣の修業を積んだと言う。とんだ坊主だ。

各地を武者修行した後、念流を編み出した。これには多くの異名があるが省略。

慈恩はいったん還俗して相馬に戻り、奥州で父の仇を取った。それからふたたび出家して念阿弥慈恩を名乗った。

諸国をめぐり剣法を指南した後、1408年に信州波合村に長福寺を建立、念大和尚と称した。没年は不明である。

ということで、鎌倉や京都で弟子を取って念流を伝授したらしい。1408年は慈恩の隠退した年で、信州は隠居地なのである。波合村というのは相当の僻地で、隠遁のような生活だったのではないか。そこでの最後の弟子が樋口某と称する地元の豪族で、樋口は後上州に移り馬庭念流と称したようである。

慈恩の門人たち

慈恩には板東8名、京6名、計14名の優れた門弟があったとし、「十四哲」と称される。

その中に念首座流、中条流、富田流、陰流などの開祖がふくまれる。

ついで中条兵庫助長秀について

この人は慈恩とは逆に生年不明で没年、1384年のみ明らかである。

ウィキによれば、たしかに

念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人となる。

となっている。

中条が死んだ年、慈恩はまだ34歳だから、本当に中条を教えたのだろうかと疑問が湧く。ひょっとすると年上の弟子だった可能性もある。

三川の挙母(現トヨタ市)の城主であり、かなりのインテリである。

どちらかと言えば太刀筋がどうのこうのというより、剣術に哲学を導入したことが功績なのかもしれない。

彼の武術の体系は兵法ではなく「平法」と称される。

平らかに一生事なきを以って第一とする也。戦を好むは道にあらず。止事(やむこと)を得ず時の太刀の手たるべき也。

ということで、平たく言えば護身術なのだが、これを「夢想剣」と名付けるセンスは只者ではない。

「足利義満の剣術指南役を務めた剣豪」ということになっているが、彼は同時に室町幕府の評定衆でもあり、また歌人としても名を馳せたということだ。

何か大河ドラマの主人公にでもなりそうな人だ。

ウィキ以外のファイル

しかし以上のウィキの記載では、二人の接点が生まれてこないし、陰流と中条流の関係も見えてこない。

こだわりついでに、もう少し他の文献も当たってみる。

葛飾杖道会のページには、下記の記載がある。

中条兵庫助長秀は代々剣術の家に生れ、鎌倉の評定衆であり、足利義満に召されてその師範となった。鎌倉寿福寺の僧慈音という者について剣道を修めた

というかなり異なる記載がある。「鎌倉の評定衆」は明らかに間違いで、鎌倉幕府はとうに崩壊している。それにしても困ったものだ。

マイペディアの記載はひどい

応仁のころ中条兵庫之助長秀が鎌倉地福寺の僧慈恩に刀槍の術を学び,中条流を創始した。

100年ずれている。

答えは次の記事中条長秀は慈恩と無関係で。

函館日ロ交流史研究会という組織があって、そのサイトが面白い。

内容がやたらと豊富なので、抜粋しながら紹介する。

最初は2016年3月 7日の記事「―ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業、函館開催をふりかえる―」というもの。著者は長谷部一弘さんという方。

と言っても、ゴシケヴィッチという人は1814年生まれだから、一昨年の記念事業を振り返っていることになるらしい。

ゴシケヴィッチは帝政ロシア時代の外交官。函館で初代駐日ロシア領事となった人だそうだ。

経歴を簡単に書いておく。

彼はベラルーシの生まれ。父はロシア正教の司祭だった。ミンスク神学校からサンクトペテルブルクの神学アカデミーに進み、卒業後は北京宣教団に加わり10年間活動した。この時の功績で「聖スタニスラフ勲章」を受章している。つまり半分宣教師のような存在だったようだ。

1858年 から1865年までの約7年間函館に滞在したという。

帰国、引退後は故郷で「日本語の語源」の研究を続けたらしい。

ここから

初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチの時代(1858年-1865年)

が始まる。

1855年に日露和親条約が締結された。領事館を設置することとなり、函館が選ばれた。

ロシアが「函館」に着目した理由はいくつか考えられる。まず、当時のロシアの極東政策で、沿海州のニコラエフスクが拠点となっていたことがある。

対岸の不凍港である函館は、休養・載炭・食糧調達・越冬に不可欠な寄港地と考えられていた。

さらに、サハリンのドゥーエで産出された石炭の貯蔵倉庫を函館に置き外国に売ることも重視された。当時サハリンの帰属は未解決で、外交努力が不可欠であった。

1858(安政5)年11月5日、ゴシケーヴィチ領事は軍艦ジキット号で函館に入港した。外交団は領事家族、書記官、医師夫妻、海軍士官、司祭、下男4人、下女2人の計15名で構成されていた。

函館のロシア領事館は、東京にロシア公使館が開設(1872年)されるまでの間、日本で唯一のロシアの外交窓口だった。

ロシア領事館は、「北の地の文明開化」の推進に寄与した。

ロシア病院ではロシア人のみならず日本人の患者も無料で治療した。また写真術、西洋医学、造船技術など日本人が欲する西 洋の先進的な技術を日本人に伝授した。

キリスト教解禁前だったが、教会関係者はロシア語の普及に努めた。ロシア語教本『ろしやのいろは』が作成され各方面に配られた。

幕末開港期の日本は攘夷運動が激しかった。1859年、横浜でモフェットロシア海軍少尉ら3名が日本人によって殺傷されている。

「大勢の警護隊なしではヨーロッパ人はほとんど外出できなかったが、函館では市外のかなり遠方にまで安心して旅行できる」と言われていた。

後に、ロシアのゴルチャコフ外相は「箱館にロシア領事館が開設されてからの7年間、現地 との関係は最も満足すべき状況にあった」と総括している。

「韓国歴史地図」という本がある。
平凡社の出版で、初版が2006年、第3刷が2008年とあるから、多分7,8年前に買ったものだろう。なんと低下3800円。
当時は朝鮮現代史年表の作成に夢中だったから、それに入れるために読んだ記憶はある。
最近になって古代史にハマったからそれとの関連でも使った。
それで本日は、午睡にはいろうかというときに寝返りを打ったら目の前に飛び込んできた。
なんとなく眺めながら眠くなるのを待ったが、それどころではなくなった。
やっぱり変なのである。
この本はそもそも韓国の教科書で、韓国教員大学歴史教育科の教授連の共同執筆になるものである。きわめて権威性の高いものなのだ。
それにしてはあまりに恣意的だ。加羅の代わりに「伽耶」だ。任那の文字は一度も出て来ない。とにかく時系列を無視してチョモン(征服者・圧制者の一人)が飛び出してきて、その次にはなんの脈絡もなく百済建国や新羅の統一がフィーチャーされて、伽耶はひたすらその引き立て役に回っている。
それはそれで良いのだ。歴史を国威・民族意識発揚の道具に使おうとそれは勝手なのだが、都合の悪い事実を無視して議論を構築する限り、それは歴史の捏造なのだ。
それがあからさまであればあるほど、私としては韓国の研究を信用しなくなる。それだけのことだ。
周辺的事実の確認のためには、韓国の歴史研究の成果をおおいに取り込もうと思うが、肝心な事については韓国歴史学者の議論を信用してはならない。残念ながらそれがいまの韓国歴史学に対する評価である。
北朝鮮についてはほとんど信用出来ない。歴史学というのは厳しいところがあって、ひとつでも意識的に嘘をつけば、その人は全否定されてしまう。態度の使い分けがしにくい分野なのである。

��日本のゾウ��

ナショジオのサイトにある富田幸光さんという人のインタビュー記事を読む。富田さんは国立科学博物館の研究部長。

第1回 日本に野生のゾウやサイがいた頃

第2回 実はゾウの楽園だった日本列島

1.ゴンフォテリウムとステゴロフォドン化石が各地で出土している。「多島海」時代の1800万年から1600万年前に生存していたとされる。

ゴンフォテリウム系は約2300万年から2000万年前にアフリカで出現し、ユーラシアとアフリカが接合した後、世界に拡散している。

その後、1千万年間生物化石のない無生物時代が続く。

2.ツダンスキーゾウ(ステゴドン)

アジア大陸に広く存在し、600万年前に日本にも渡来した。ステゴドンの系統に属し、日本で独自の進化を遂げた。(日本が大陸と切り離された可能性がある)

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この間に徐々に小型化していく。初期のミエゾウは肩高が4メートルなのに対し後期のアケボノゾウは2メートルに縮小し、70万年前に絶滅する。

3.ムカシマンモス

110万年前に渡来。(大陸とのルートが再開された)

アケボノゾウと共存するが、70万年前に、ともに絶滅する。

4.トウヨウゾウ

60万年ぐらい前に渡来するが10万年ほどで絶滅。ミエゾウやアケボノゾウと同じステゴドン系だが、大陸でも化石が出るため、新たに渡来したものとされる。

南方系のゾウで、当時は間氷期の中でも特に暖かかったために進出できたとされる。(暖かいということは海進期だということで、そのときに陸続きというのが飲み込めない)

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5.ナウマンゾウ

34万年前に渡来。2万年前に絶滅。

これらの象はいずれも朝鮮半島経由とされる。

この他に樺太経由でマンモスも入ってきている。

ということで、ナウマン以前の流れが簡潔明快にまとめられていてありがたい。話が日本列島形成まで遡るのはスケール壮大だ。「えっ、そこで地学と結びついちゃうの」とびっくりする。

日本列島の形成過程を勉強したのはもう随分前の話だから、忘れてしまったが、冨田さんは大陸の横滑り説をとっているようだ。それもわずか2千万年前、そろそろ霊長類登場の頃だ。

ただし冨田さんは地学者ではない。この説の当否についてはいずれまたチェックしなければならない。

2012年09月27日

 


ナウマンとマンモスとの違いを調べている内に、もっと本質的な問題にぶち当たった。

結局アジアゾウが北進して寒地適応してナウマンになった。生息域はマンモスとかぶっていて、北海道では共生していた可能性もある。

日本列島は寒冷期には間宮海峡ばかりでなく朝鮮半島とも陸続きだった可能性がある。そうでないと南から来たナウマン象が日本に渡来するアクセスが説明できない。

でも、それって半端な寒冷期じゃないでしょう。そんな寒冷期で、日本列島で生物が暮らしていくことなど到底できないはずだ。

寒さだけではない。海面がそこまで後退したなら、氷河期は当然、ものすごい乾燥期だ。陸地のほとんどは砂漠化することになる。

そんなところでマンモスだろうがナウマンだろうが、暮らしていけるわけがない。

どうも古生物学者の言うことって、いまいち信用出来ない。

ナウマン象と縄文人

不勉強で、縄文人の祖先となる旧石器時代人(ハプロD人)はマンモスハンターとして移動するうちに、陸続きだった樺太を経由して日本列島に入ったと決めてかかっていた。

しかし彼らの獲物がナウマン象だったとしたら、必ずしも北からの進入ではなく朝鮮半島から入った可能性もあるのかな、と考えるようになった。

そこで少し調べてみた。

ウィキペディアの「ナウマン象」の項目。

現生のアジアゾウと近縁で、やや小型である。寒冷な気候に適応するため、皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていた。

大陸からも発掘例があるが、主たる居住域は日本列島だったらしい。

ということは、シベリアから南下したというよりも、朝鮮半島から渡来した可能性が高い。そしてその過程で寒冷地仕様にモデルチェンジした可能性が高い。

見た目は小型マンモスでも出自は南方系ということになる。

50万年以上前から生息し、2万年前ころから衰退し、1万5千年ころには絶滅したらしい。寒冷気候に過剰適応してしまったために、日本列島の温暖化に耐えられなかったのかもしれない。旧石器時代人がとりつくした可能性もある。

北海道にはマンモスもナウマン象も生息していた。ただし時期にはずれがあって、ナウマン象が10万年前前くらいに先住し、3万年前にはマンモスと置き換わったとされる。

ウィキペディアの記載にはやや不明瞭な部分もあるため、他の文献もあたってみることにする。

 

胸のすくような小気味良い論文である。
著者の言いたいことは、「考古学屋さんも今やノンポリでいてはダメなんだよ」ということであろう。
「全共闘」みたいな連中が考古学の都合の良い所だけ切り取って我田引水の議論を展開していて、「勝手にやっていて頂戴」と知らんぷりしていたら、いつの間にか身内にまでそういう「理論」にかぶれる奴が出てきて、連中の思想に合わせて考古学の体系をひん曲げてしまうようになった。
そこでその誤ちを正そうと思うのだが、なにせ相手は科学ではなく情緒(科学的装いを凝らしたデマ)で攻めてくるから、たちが悪い。
著者は真っ向勝負で反撃しているが、イスラム原理主義者に「イスラムの原理」を教え込もうとするのと同じで、かなり絶望的なこころみだ。ただ間違いなく反論のための基本線は提示されているから、後はそれにどれだけ肉づけいていくかの問題だろう。
多分、この論文の趣旨ではないのだろうが、事の性質上触れている部分がかなり面白い。
それは天武以来の律令国家体制がコメ栽培文化と生産力の発展の上に乗っかっているのではなく、むしろその文化の危機によって登場してきた強権的な権力だということだ。
とくにコメが寒冷に弱いということで、その北限地帯が否応なしに畑作に取り組まざるを得なかったということ。逆に新技術としての畑作が急速に発展した結果、農業前線の北進が進み、それが陸奥の縄文人との闘いを引き起こし
という経過が非常に歴史の弁証法を感じさせる。

さて、ここからが本論部分だ。思えばずいぶん長い前置きだ。

❹……………「水田中心史観批判」の問題点②               

―考古学の研究成果をめぐる諸問題

(1)栽培植物種子の分析方法に関する問題点

現在では,厳密な方法に基づく信頼性の高い栽培植物種子のデータが蓄積されてきている。

しかしながら,その一方で,依然,問題のある分析方法や,確実性が担保されない資料に基づく議論が繰り返されている。

コンタミネーションの危険性がきわめて高いと判断される事例を平然と集めて分析している例が後を絶たない。

と、著者は本気で怒っている。

(2)確実性の高い資料に基づく縄文文化・弥生文化の栽培植物の変遷

縄文時代に栽培されていた可能性のある植物はイヌビエ(縄文ヒエ),ダイズ属(ツルマメ),アズキ亜属,アサ,エゴマ(シソ属),ヒョウタン,アブラナ属,ゴボウなどである。クリを中心とする堅果類も人為的な管理が行われていた可能性がある。

マメ類がメジャーフードになっていたとする意見もあるが、それは嘘だ。(本文はもう少し上品に言っているが同じことだ)

「批判」者たちはイネ科の穀類栽培が定説になっているかのように語ってきたが、それは嘘だ。

中部地方の縄文時代晩期後葉の土器からは,多数のアワやキビ圧痕と,わずかなコメやオオムギの圧痕が検出されているが,これももっと後の時代だ。

弥生文化の水田稲作技術とアワ・キビ畠作技術は,北部九州地域の弥生文化成立期あるいは揺籃期に,ほぼ同時に朝鮮半島南部からもたらされた可能性が高い。

北部九州地域では刻目突帯文土器の夜臼式期から,近畿・中国では概ね遠賀川式土器が展開する時期から,急速にコメが食料の主体になっていく。関東では,弥生時代中期において,コメが他のイネ科穀類を圧倒する

アワ・キビはいずれの地域でもいずれの時期でも穀物栽培の主流となることはなかった。

オオムギ,コムギに関しては,そのほとんどが発掘前後の混入である。ムギ類は弥生文化においてほとんど定着しなかった。

(3)「水田中心史観批判」における縄文文化・弥生文化の農耕のイメージとの齟齬

著者は「批判者」にさらに追い打ちをかける。

当たり前のことであるが,仮に問題のある資料が100 あろうと1000 あろうと,決して「確実」にはならないし,確実性の高い1つの資料にも遠く及ばない。

不確実な資料の「可能性」にかけるのではなく,潔く議論から除外するのが責任ある科学的な態度であろう。

こうした主張をされる方々には,是非ともその根拠を明確に示していただきたい。

(朝鮮半島の)櫛目文土器文化でイネ科穀類が生産されていたことは間違いない。

しかし種子の存在=農耕技術の存在ではない。いたずらに諸分野の「水田中心史観批判」を過熱させることがないよう,冷静な評価を行っていくことが考古学者の努めだろう。

(4)前方後円墳時代~古代における農耕技術の展開をめぐる問題

前方後円墳時代では,中期以降コメ以外のイネ科穀類が増加する傾向がある。

この時期は渡来集団による新しい技術の導入が進んだ時期であり,深耕を可能にするU字形鋤鍬刃先や,牛馬飼養と組み合わさった畠作技術が定着した。

関東地方を中心に,水田に不適な丘陵や台地で集落遺跡が増加する。そこに畑作技術が導入されたことは間違いない。

紀元700年から800年代には寒冷化が進行し、飢饉があいついだと思われ、それが畑作の拡大を後押ししたと考えられる。

結論

律令国家は,水田中心の生業の起点ではなく,むしろ古代・中世以降の多様な生業の展開の起点,あるいは発展期として評価すべきだ。

安藤広道『「水田中心史観批判」の功罪

というレビューが面白い。入り組んだ題名であるが、これまでの主流的歴史観が「水田中心主義」だったこと、それを批判する形で雑穀栽培に光を当てようというのが「水田中心史観批判」という流れとして台頭したこと、しかし「それにもいろいろ問題があるぞ」という反批判も出ている。それがこの文章だ。

内容を要約紹介しておく。

[論文要旨]

「水田中心史観批判」(以下「批判」)は,過去四半世紀における日本史学のひとつのトレンドであった。

その論点は,もともとの日本文化を複数の文化の複合体とし,律令期以降に水田中心の価値体系に一本化されたというものだ。

しかしその土台となった縄文文化や弥生文化の農耕をめぐる研究成果がかなり怪しいということが分かってきた。

「水田中心史観批判」が構築してきた歴史は,抜本的な見直しが必要であることが明らかになった。

1.問題の所在

「批判」は1970 年前後から活発になった。まず文化人類学と日本民俗学において水田稲作中心の歴史や「文化」の解釈に対する問題提起が活発化した。

具体的には「畑作文化」や「照葉樹林文化」「ナラ林文化」などだ。

それだけなら勝手にレッテル貼りしていれば良いだけのお気楽な世界だが、縄文「文化」と弥生「文化」のところまで話が進むと、「ちょっと待て」ということになる。

「批判」は多様であるが以下の点で共通している。

*「稲作文化」と,縄文文化以来の畑作を含む多様な「(畑作)文化」を対立的構図で捉える。

*水田稲作が中心となる現象を,律令期以降の国家権力との関係で理解する。

「批判」の問題点は2つある。ひとつは「文化」の概念をめぐる問題であり、もう一つは考古学の研究成果との関係である。

考古学の方にも「批判」に呼応した動きがあった。ひとつはプラント・オパール分析による縄文期のイネを含む穀類生産の確認であり、もう一つは弥生期の水田稲作の比重の下方修正である。

しかし実は縄文のイネについては、考古学的に見て確実な証拠は見つかっていないのである。

縄文文化の農耕技術をめぐっては,現在までのところクリやマメ類,イヌビエなどのいくつかの植物に栽培されていた可能性が認められるに過ぎない。

中略

(3)「考古学的文化」の概念と縄文文化・弥生文化の枠組み

先史時代における時間軸・空間軸の設定は,型式による編年体系によってのみ可能となる。

それは地域的な「考古学的文化」の設定のみならず,縄文文化・縄文時代,弥生文化・弥生時代といった大きな枠組みにおいても同様である。

「日本列島」というアプリオリな地域区分は不要なだけでなく,排除すべきものとなる。

型式は,生物の種とは異なり,時間軸に連鎖する型式の系統と,空間軸に連鎖する型式相互の関係性のなかで存在する。

形式には画期(時間的断絶)と境界(空間的断絶)がある。それは相対的なものであるから、「歴史観」次第で変化する可能性がある。

縄文時代はほぼ純粋に考古学的な学的構造の中で構築されている。しかし弥生時代については必ずしも考古学的構造のみに基づいて構築されているわけではない。

しかし弥生時代を縄文時代と比較するのであれば、同じ方法(純粋に考古学的な学的構造)で規定しなければならない。

弥生時代の考古学的規定

弥生時代の考古学的構築は、純粋に土器の様式にもとづいて行われる。その際縄文式土器がどう変化するかは二義的である。

1.弥生時代の始まり

縄文土器の系統の一部に,弥生式文化を反映した何らかの変化が認められた時点。

2.弥生式文化の拡大

1.で端緒として見られた変化が各地で継起的に生じることで、弥生式文化の拡散が確認される。

3.弥生時代に終点はない

なぜなら縄文が弥生に変わったように、別の土器の時代に移行したわけではないからだ。

4.弥生文化はより細分化されるべきだ

弥生時代には、縄文文化には見られなかったほどの急激な社会的,経済的,文化的変化が生じていた。

これを弥生の一言で括るには無理がある。弥生文化を複数の「考古学的文化」に分割する必要性がある。

例えば、型式学的研究の厚い蓄積のある青銅器を時代区分の物差しに使うことは十分可能である。

長くなるので、ここで一旦切ります。

昨日、北海道立埋蔵文化財センターというところに行ってきました。

ほとんど隠れ家的な場所で、探すのに苦労しました。その代わり環境は素晴らしく、建物の裏がそのまま野幌原生林の遊歩道になっています。入館せずにそのまま原生林の散歩に行ってしまいたい気分です。

1時間ちょっとの見学でしたが、入館者は他に一組のみ、完全な貸切状態でした。入館料はなんとただ。美麗なパンフレットもただ。テータという広報誌を10号分せしめてきました。

黒曜石の展示が大変充実していて、黒曜石については日本一じゃないかと思いました。遺物の展示の方も充実しているのですが、あくまで考古館ということで、歴史を知るためにはちょっと説明が不足しているようです。その代わり開架の図書室があってかなり多くの書籍が参照できます。

百年記念塔の方に開拓博物館、野幌よりに道立図書館があるので、はしごするつもりで行けば充実した週末が送れるでしょう。

とりあえずの感想

1.アイヌ人は縄文人だ

1万年前の旧石器人、2千年前までの縄文人、そして擦文人、アイヌ人との間に欠落や断絶はまるでない。基本的な生活スタイルはまったく同じように見える。もしアイヌ人が縄文の世界に迷い込んだとしても、そのまま「お隣さん」として暮らしていけるのはないかと思えるくらいだ。

今までいろいろ論争があったし、私も一時はアイヌ人は縄文人ではなくポスト縄文人だと思っていたこともあったが、Y染色体の研究でアイヌ人が縄文人そのものだということが分かった。発掘された展示物をずっと見ていって、それが心から納得できる。

2.縄文人は農業を知らなかった

出土品をずっと眺めてみて、ついに穀物栽培の形跡を認めることができなかった。これは相当きついことではないか。魚貝とくるみやクリ、時々鹿という食糧構成はおよそ不安定だ。これではヒグマの暮らしと大同小異だ。とくに冬場の暮らしは冬眠でもしなければ到底立ちゆかない。

アイヌの場合は、おそらく和人との交易が生活の確保に結びついていたろうと思われるし、多少の農業も行われていたのかもしれない。しかし縄文人にはそのような農耕を営む隣人はいなかった。

定住し人口が増えれば、やがて周囲の資源は枯渇する。そうしてある日、冬の寒波とシケ続きの日が続けば人々はバタバタと死んでいく。残された人は消耗を上回る勢いで繁殖に勤しんだのだろうか。

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