鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

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カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

第7章 「先史時代の日本」 その1

この章と次の章は「先史時代の日本」の紹介です。
この章では主に文化の世界伝播に触れた序説について取り扱い、第8章では日本の先史時代について触れます。
この本の間違いや歴史的限界まで書き始めると大変なことになるので、彼の先見性、埋もれてしまった業績について簡単に述べます。

エジプト・メソポタミア文明

紀元前4千年ころエジプトに生まれた高度な文明は、やがてエチオピア、アッシリア、ペルシャへと拡大しました。

建築・芸術と美学は、何世紀にもわたって高度な完成度に達しました。冶金学、特に青銅、銀、金の技術もかなりの水準に達していました。

中でも青銅器の使用な卓越していたことから青銅器文化と呼ばれます。

メソポタミアでは、チグリス・ユーフラテスの間の可耕地を巡って、南方のセム人と北方の印欧語系民族(シュメール、パルティアなど)が絶えず交錯していました。

印欧語系民族は一般に遊牧系で、年単位の南北移動や、時には大陸をまたいでの東西移動は彼らの本質的な生活スタイルでした。

彼らは馬の家畜化、車輪(すなわち馬車)の発明、乗馬術の考案など戦闘に必要な多くの発明を成し遂げました。

中でもヒッタイトはクリミアから黒海をわたりトルコ北部に拠点を形成しました。現地で製鉄法を知った彼らはこれを大規模化し、鉄の兵器の優位性を活かしメソポタミアをを平らげ、エジプトにまで進出しました。

遊牧民による文化の伝播

メソポタミアと同様、北方遊牧民も多民族が時代を織りなしています。彼らは過去から絶えることなく、中央アジアを起点に大陸内部を東西に移動していまし。

彼らには文化を創設するほどの生産力はなかったが、文明を伝達する力を持っていたし、文明間の格差が極大化した時には、それを利用して支配者となることもありました。

アジアの緯度40度から50度の間は、人口の移動、武装遠征、商品の隊商によって、先史時代から絶えず交通があったと言えます。

中国に文明をもたらした内陸交通

中国の初期の入植者は黄河の沖積谷に肥沃な土地を発見しました。農業の重要性は、運河、灌漑、排水、利水の繰り返しにつきます。

入植者は明らかに牧歌的な遊牧民ではなく、土壌の灌漑と栽培の方法に熟練していました。

この部分は明らかに誤りですが、重要な示唆となっています。後に遼河文明が発掘されそれが黄河文明に先行するもので、この文明をになったのが中央アジアの遊牧民だったことがわかりました。

この文明は衰え、漢民族に占領されました。遊牧民は次の天地をもとめ去っていたのかもしれません。

朝鮮半島の歴史とヤマト

紀元前1000年頃、朝鮮半島の北部には古朝鮮が広がっていました。南部には多くの部族がいて小さな王国が割拠していました。

(半島南部に関する記載)
強力な敵との接触時に脱出した人々は、抵抗が最も少ない方向に向かい、占領が黙認された場所に落ち着きました。

先住民は内部の平原を広範に保有し、粗放な農業あるいは放牧を営むのですが、後発組はこれとは競合しませんでした。かれらは河口に近い沖積平野を比較的に限定的に、集約的に使用する農業のスタイルをとったからです。

漢の時代

紀元前350年ころ漢が朝鮮を併合し、半島南側の諸部族を馬韓、弁韓、辰韓に分割・統合しました。

南部に住んでいる人にとっては、海岸から見える対馬の島が魅力的な展望を形成し、海を越えてたっぷりの土地のある日本に引き寄せられました。

秦の時代に鉄器(兵器)が開発され、漢の時代には朝鮮にも導入されました。


日本におけるヤマト族の受け入れ

ヤマト集団が大陸から進出して権力を掌握するまでは、かなりの時間を費やしました。

ヤマト民族は、中東や東アジアからの農業生産システムを受け取とりました。そして農業のより高い生産目標、安定した社会関係を築き、労働システムを支持し調整することで、進歩をもたらす社会関係を発展させました。

最初は海岸沿いの沖積地の小さな帯路のみが支配域で、背後の山には統権が及ばなかったとも考えられます。

具体的に侵略の形をとったと考える必要はありません。しかし他の侵入者との競合、先住民の抵抗などの形で戦いを強いられた可能性はあります。

ヤマトは北の荒れ地にも進出していきました。彼らの背後では先住民が支配者と交流しヤマトの文化を取り入れていきました。



非常に壮大な記述で、日本に類を見ない提起の仕方となっています。

遊牧民族を通じて小麦の栽培、青銅器、そして鉄器が導入され、これを通じて漢民族が発達しました。

それを用いて漢民族が朝鮮半島に進出し、押し出された半島人が鉄器をもって日本に進出し、ヤマト族となった。

ということになりますが、米栽培の技術をもって渡来した民族と、鉄製兵器+騎馬戦法で攻め込んできた民族とは違うでしょう。

そこにマンローはうすうす気づいていますが、突っ張りきれませんでした。時代の限界ですが、逆に言えばその限界の中でよくそこまで至ったなと感心します。

第7章のための準備

この1章だけで「先史時代の日本」を要約するのはとてもできませんが、「マンロー学」への入り口としてお読みいただければ幸いです。

ということで、「先史時代の日本」の要約を書き始めたところだったが、ふとしたことから、すごい論文を見つけてしまった。

それが先日あげた2020年10月23日 アバさんのマンロー論 である。

当時の考古学の状況、到達点など知らない私には「先史時代の日本」の大著は手に余った。

一応、序説を読んだところでその梗概でお茶を濁そうと思ったが、アバさんは全巻を通読した上で、当時の学会の到達状況も見渡しながら評価しているので、いまのところは決定版と行ってよいだろうと思う。

「伝播主義」史観について

ただし、メソポタミアから西域を伝わってさまざまな文化が伝播してきて、それが中国文明を形づくったという壮大な提起は、アバさんからは壮大なほら話として受け止められているようだ。

この話は実は序説部分に展開されており、中国の先史時代に関する相当の知識がないと読み込めないところである。

支石墓(ドルメン)文化の扱い

さらに支石墓(ドルメン)文化の扱いは慎重にやらないと、せっかくの議論を相殺してしまう恐れがある。

この点については、アバさんの議論に付け加えなければならないので、これだけでもうひとつの章(第8章)を追加したいと思う。

第6章の追補

後もう一つ、アバさんの論文の前半には「先史時代の日本」執筆に至るマンローの考古学的活動の経過が記載されていて、そこにはわたしにとっで新しい事実も含まれているので、第6章の修正もしなければならない。

それまで生きていられるかどうか、少々心配になってきた。

下記の文章は
北大史学 第46号 2006年11月30日に掲載された
ラファエル・アバ 「ある英国人が見た日本列島の先史文化ーーN. G. Munroと“Prehistoric Japan” (1908年)」のうち「第3章 Munro著 Prehistoric Japn 」をノートしたものである。


第3章のうち(1)、(2)節はマンロー書の背景説明なので省略する。

第3節 『先史時代の日本』の構成

“Prehistoric Japan”に見られる「先史観念」を検討する。
著書の構成を確認したい。
Munroは先史時代の時代構成を原始文化ヤマト文化との二つの部分に分けた。これは当時の本邦学会における主流に従ったものである。ただしヤマト文化はマンローの造語であり慣用的には「古墳時代」である。

原始文化

原始文化は 本文第1章 “旧石器時代″ から、第8章 ”中間型土器″ までからなる。当時の日本の考古学者は「石器時代」と称していた、現在のいわゆる「縄文文化」が中心となっている

第1章では日本列島の旧石器文化存否問題を提起している。マンローは日本の石器時代(縄文時代)を新石器時代とした上で、無土器時代イコール旧石器時代の可能性についても触れている。この部分は戦後、東北大学の芹沢教室が盛んに引用したとのことである。

第8章では弥生土器(中間型)について述べている。注意しなければならないのは、弥生式土器(中間型)が原始文化の最後に付け加えられる形で記載されていることである。

ヤマト文化

゛ヤマト文化″は第9章Some Bronze Vestiges″から始まり、第15章 “The Prehistoric Races″ までの7章からなる。

実際には第9章では現在でいう弥生文化と青銅器との関連を分析する序論部分となっている。弥生文化が原始時代の最後に位置づけられるのに対し、青銅器文化はヤマト文化の端緒期として位置づけられる。ただしこれは青銅器文化をヤマト文化とは異なる独立の時代としたいとの密かな意思の現れである、アバはそのように読んでいる。

第10章から第13章までは現在でいう古墳文化について述べている。


特論部分

ヤマト文化の各章のなかで14,15章は特論部分となっている。

第14章は「石器時代人民」や「ヤマト人」の宗教論であり、第15章は日本列島の人種・住民論に当たる。


章構成の特徴

こうした構成はMunro自身の創見ではない。当時、既に出版されていた2つの概説書、八木奘三郎『日本考古學』と八木・中澤『日本考古學』の構成を基本的に引き継ぎいでいる。

しかしながら、幾つかの点において変更が行われている。例えば、八木が「器物」という一つの章で括ったのを、Munroは「生活用具」、「武器」、「土器」の三つの章に区分している。

おそらく最も注意すべきことは、「人種論」の章が著書中に示す位置である。八木と八木・中澤の概説書ではこの「人種論」は最初に置かれている。しかしMunroは最後の章に置いた。しかもこれは僅か15頁の短文である。

モンローがこの本を書いた目的は、遺物や遺跡という物質的な所産をヨーロッパ人に紹介することにある。だからあまりここでは「人種論」にあまりこだわりたくなかったのかもしれない。

同じような趣旨のベルツの本 “Zur Vor- und Urgeschichte Japans” では人種論が30ページにわたっている。


第4節 マンローの先史文化観

(1)「原始文化」

Munroは日本列島で発見されていた先史文化の考古資料を全体的にどのように理解していたのか。結論を先にいうと、原始文化は「縄文時代」、ヤマト文化は「古墳時代」に相当する。

原始文化の遺跡は貝塚や住居址であり、そこから出土する打製石器と精巧な磨製石器が特徴的である。また遺跡からは常に土器が出土する。この土器は一般に粗製で、ロクロを用いずに製作された。時には非常に精巧な文様のあるものも見つかる。

当時日本の考古学人類学界では「縄文文化」という用語がなく、「石器時代」と括られていた。これはアメリカのE. S.モースの命名(cord marked pottery)である。

その他、骨角製の道具も見られる。この文化はヨーロッパの新石器時代の文化に相当する。ただしヨーロッパと異なって、これらの遺物はドルメンや横穴墓からは出土しない

また、旧石器文化は、この新石器文化に先行して存在する可能性が認められるが、確実な証拠は得られていない。(マンローは縄文時代を新石器時代と考えている。そして日本に旧石器時代=無土器時代があったかどうかは今後の発見に待つとする)

(2)「ヤマト文化」

ヤマト文化の遺跡は墓室や横穴であり、そこからは剣などの鉄器が主体的に出土する。

ヨーロッパの鉄器時代に相当する。しかしそこには青銅器や金属器の石製模倣品も見られる。それらの中には、大陸から直接にもたらされた舶来品も発見される。

「土器」は石器時代と異なる。材質は硬く、ロクロを用いて製作されている。その文様は単純である。

一般には「ヤマト文化」ではなく「古墳時代」という。「古墳時代」という用語は1890年代の前半から散見されるようになるが、明確な定義を最初に与えたのは、八木奘三郎である。

「吾邦上古の時に當りて人々高大なる墳墓を築造し、以て死者の靈魂を慰せしことあり、予は便宜上當時を目して日本の古墳時代と謂ふ」(八木1896)

しかしマンローは、学界において既に定着していたこれらの用語ではなく、「原始文化」(Premitive Culture)と「ヤマト文化」(Yamato Culture)と言い換えた。

ただこの時代区分は、言葉こそ新しいものの、実態としては八木奘三郎の「石器時代」(先史時代)、「古墳時代」(原史時代)とかわらない。

ではなぜ言い換えたのか? それは、第三の文化、つまり青銅器文化の挿入と絡んでいる。


(3)第三の文化としての「青銅器文化」 

剣、鉾、ヤジリ、銅鐸などの青銅器は、九州や瀬戸内海に面する幾つかの地域でのみ発見される、それは原始文化の分布とも、ヤマト文化の分布とも一致しない。大和文化とは時期的に近接しているにもかかわらず、その墳墓の中に発見された例もない。

このことをマンローは問題にしている。

つまり、「この青銅器は原始文化ともヤマト文化とも異なる、もうひとつの文化に属するのではないか」という可能性である。

現在我々の「常識」からみれば、これは当然の結論だといえるかもしれないが、実際に日本の学者のほとんどが青銅器を「古墳時代」のものとして分類していた当時では、こうした認識は決して一般的ではなかった。

例えば、坪井正五郎は1899年に日本における青銅器時代の存在を完全に否定していた。

八木も「日本考古學」(1902)で銅鉾についてこう語っている。
銅鉾は古墳時代の品と見て良いのだろうか。たしかにこれらが古墳中より出た例は多くない。去れ共他の點より考へて時期に大差なしと見て宜しいのではないか。
そこには政治的な問題が潜んでいた。すなわち、「石器時代の物質的な所産は優等である日本人(天孫民族)と無縁だ」と考える人の存在である。

彼らにとっては、石器文化と古墳文化とは、その担い手の間に断絶がなければならなかった。日本人が野蛮人の子孫であってはならないからである。

これが明治時代の日本考古学思想にみられる「青銅器時代」否定論の、一つの思想的基盤である。


(4)「青銅器時代」論の意味

Munroは「青銅器文化」を、たんなる過渡期あるいは中間的な段階としては理解しなかった。それは「原始文化」と「ヤマト文化」との間の関連性においてのみ論じられるものではない。それは、短いがまったく独立した時代だ。

日本列島に最初に青銅器文化と鉄器文化を持ち込んだ「戦士集団」、その供給源は明らかに大陸にある。出発点が詳細に特定できないとしても、これらの集団は「原始文化」の担い手であった列島先住民とは明らかに異なる。その集団は、原住民に対して直接の係わりがない異質な人々だ。

この中では、まず青銅器文化の担い手が列島に流入した。彼らは先住民と混住し、ある種の内的な変化をたどった。そのあとで、大陸からの新たな影響がおよんだ。すなわち鉄器集団である。第二の集団が進入することによって、日本列島は鉄器化した。

これがマンローの考えである。

つまりMunroがいう「青銅器文化」は、後に称された「弥生時代」や「中間時代」と重なり合うにしても、ピッタリと符合することはないのである。


第5節 マンローの歴史叙述スタイル

上記のごとく、時代編成に即して八木の「日本考古學」とMunroのPrehistoric Japanを比べると、「青銅器文化」の認識に最大の違いがあることがわかる。

しかし全体を読み通すと浮かび上がってくるのは、歴史叙述の方法そのものの違いである。
八木は基本的に、非アイヌ説を唱える坪井正五郎の石器時代人民論を受け入れている。その結果、八木は日本列島で発見されていた考古資料を、「石器時代」(先史時代)と「古墳時代」(原史時代)という二つの時代にわけた。

そして両者の間に完全な切断面を設定した。すなわち石器時代の文化の担い手が絶滅、あるいは列島を去った後、古墳文化の担い手である「天孫人種」があらわれた、としたのである。

こうした図式に対して、Munroは次のように考えた。それはより複雑で、侵入と混血、支配と服従、っどうかを繰り返す複数の段階にわけられる歴史であった。

(1)原始文化 (primitive culture)

紀元前1000年より前、原始文化は主に本州、四国と九州に分布していた。北海道ではその数は少ない。ただし北海道は未開拓地が多く、発見が遅れている可能性も考えられる。

原始文化の担い手は、かつて日本の史書で「エミシ」・「エソ」とよばれていたものである。北海道、樺太と千島列島に居住するアイヌはその子孫であろう。

ただし、原始文化においてアイヌは主体的な役割を果たしたであろうが、それは他人種の共存と必ずしも矛盾しない。

原始文化の年代の広がりは今後調査により大きくなるかもしれない。例えば三ツ沢貝塚の堆積層は、これまで発見された貝塚と比べ際立って厚い。それはそれまでに推定されていた年代よりも、古い年代からのものであることを示唆する。

坪井正五郎が設定し、当時一般に受け入れられていた、3000年という年代よりも古い可能性がある。


(2)青銅器文化

3000年前あるいは2500年前、大陸から戦士集団が日本列島に流入する。彼らの手によって初めて金属器の文化が日本列島に現われた。

なぜMunroは「3000年前あるいは2500年前」という年代を与えたのかは明らかではない。伝播主義的な立場に立っていたMunroは、ユーラシア大陸での文明の全体的な伝播を考慮して、その年代を推定した可能性が高い。

中東からの製鉄術の伝播のテンポから考えると、紀元前5世紀ころに日本に到達したのは鉄器ではなく青銅器であったはずだ

青銅器の分布やその出土状況からは、青銅器の担い手は、鉄器の担い手に先行して列島に進入した可能性が高い。

すなわち、まず青銅器をもつ集団が西日本の一部分に進入した。その後に、大陸からの新たな影響、および新しい集団の進入によって列島に鉄器が広がった。

この推論には2つの根拠がある

一つは青銅器の出土範囲が九州と瀬戸内海に面する地域に限られていることである(銅鐸は大和国までは発見されている)

一つは鉄器文明の担い手の建造したものと思われる古墳からは青銅器は発見されず、多くは土中から発見される。

(3)マンロー青銅器文化論の矛盾

以下の一文は、これまでの論理展開とは激しく矛盾する。一応書き出しておく。

青銅の武器は初期のヤマト文化のものであり、青銅器も鉄器も、基本的にヤマトに付随するものであり、決して石器時代の文化から発展したものではない。

石器時代からの内発的発展ではないということについては同意するが、「青銅器が初期ヤマト文化だ」とか、「青銅器も鉄器も、基本的にヤマト文化だ」というのは戯言に過ぎない。


(4)北方へのヤマト文化の進出

(この項すべて疑問ー私)

青銅器文化の分布は九州や瀬戸内海に面する地域に限られるが、鉄器の普及に伴って侵略者が伊勢・近江まで進み、そこは2000年前まで原始文化との境界線となった。

後に「ヤマト人」はより北へ進み、1~2世紀頃関東地方の征服をほぼ完了し、北方への動きはやがて日本の史書にみられる東北の占領へとつながる、

「ヤマト人」による関東の征服という考え方は、当時の視点からみても、かなり曖昧であり、Munroによる「古事記」、「日本紀」などの史書の解釈である。


(5)「中間土器」(intermediate pottery) 

原始文化の土器(縄文土器)としても、ヤマト文化の土器(土師器・須恵器/祝部土器)としても認識できない素焼きのものを「中間土器」として分類した。これは日本の考古学者が「彌生式土器」と呼んでいるものである

「中間土器」は原始文化とヤマト文化が本土で長い期間共存した証拠であり、おそらくヤマトの征服者の要求に応じるため、原住民の製作者が作ったものであろう。それらはヤマト文化の墳墓から出土する素焼きの土器(土師器)や陶質の土器(須恵器/祝部土器)と共時的に製作された

担い手の問題を別にして、Munroの「中間土器論」は、当時の日本の考古学者の「彌生式土器論」との類似性が高く、根本的にかわらないといってよい。ただしそれは、弥生土器が「石器時代」とも「古墳時代」とも異なる特定の時代をあらわすという考え方を表すわけではない。


第6節 Prehistoric Japanの2つの功績

(1)日本列島先住民とアイヌとの連続性の提起

1950年代以降、芹沢長介らは「旧石器文化存否問題」の提起を高く評価した。ただそれは、部分的な側面にとどまり、縄文以前の無土器文化を補強するための材料とされた。

では、この著書の真価はどこにあるのか。

それは八木著「日本考古學」と八木・中澤共著「日本考古學」に次いで、日本で書かれた第三番目の考古学概説書である。

前の2冊と比較しての最大の特徴は、「石器時代の人民はアイヌだった」という仮説を最も有力な説として主張していることである。

「アイヌ先住民説」は、単純に石器時代の文化の担い手が誰だったのかという問題ではない。それは先史時代の日本列島に開花した文化を全体として把握する上で決定的な意味を持つ。そして包括的なモデルを創る上で、これまでとは大きく異なる帰結を導くだろう。

Munroは、日本列島の先住民が現存する「アイヌ」と直接に繋っていると考えた。

そうすると、「原始文化」の担い手は現在まで生き続けていることになる。そうすると、彼らと征服者の役割を果たす「ヤマト文化」の担い手とは、長い期間共存したことになる。さらに、征服者は無人でない地域に進入してきたことになる。

Munroが考えた全体的なモデルは素晴らしいものだが、弱点もある。

約3,500ヶ所の遺跡からの金属器の発見例が唯一つだけであること、古墳からは原始文化との共時的な関連を示す証拠が一つも発見されたことがないこと。にもかかわらず原始文化とヤマト文化との併存を主張するのは強引である。

れはMunroに限らず、当時石器時代人民=アイヌ説の主張者に共通の弱点であった。

(2)青銅器時代の暗示

マンローのもう一つの功績が、青銅器文化を古墳やヤマト文化に属する事物から分離したことである。分離しきれたわけではないが、青銅器文化という時代認識の提唱は、二項対立的な歴史構成を乗り越えた考え方として評価できる。

しかしながら、この「青銅器文化」は弥生土器との間の相互関係を確証することに到っていない。その結果、青銅器文化は不本意な形でヤマト文化に組み込まれ、二元的な構成からの本質的な解放に成功していない。(むしろ弥生時代という時期区分こそが矛盾をはらんでいるのではないかー私)


ついでに英文抄録も訳出しておきます

ニール・ゴードン・マンロー(1863-1942)は、スコットランドのダンディーで開業医の息子として生まれた。
エディンバラ大学医学部を卒業後すぐに(1888年)、海外航路で船医として働き始めアジア(インド・中国)を旅した。
1891年、横浜に来て、自分のクリニックを設立した。また、日本で考古学研究に携わるようになり、東京人類学会、日本考古学協会の会員になった。
一連の発掘調査の後、マンローは1908年に「先史時代の日本」を出版した。これは、彼自身の調査結果と日本の研究者による考古学的調査に関する深い知識に基づいている。
マンローによれば、「先史時代の日本」は「ヨーロッパの読者に先史時代の日本についての考えを与える試み」だったが、実際には、この本は3番目の包括的で体系的な「解説書」だった。
最初に英語で書かれた日本列島の先史時代の文化であった。
1910年代以降、マンローの関心は主にアイヌ文化、特に精神的および宗教的領域に移った。彼の人生の最後の時期に、彼はアイヌの中に住む北海道二風谷に自宅を建てた。
現在、彼は基本的にアイヌ文化研究者として記憶されている。その一方、彼の考古学者としての主な仕事である「先史考古学日本」は、これまで「不公平」な扱いを受けている。マンローが考えた術語や概念についての誤解は考古学文献も含め頻繁に見られる。
この論文は、マンローが発掘された材料に基づいて定義した包括的スキームと、考古学的文化の概念形成に焦点を当てながら、「先史時代の日本」の内容を分析した。

この文章はPDFファイルで読むことができる。…のだがどうやってたどり着いたのか、憶えていない。
最終的にはここからダウンロードに成功した。

Thank you for joining the Academia.edu community.

Your download, N. G. MUNRO AND ‘PREHISTORIC JAPAN’ (1908) – THE PREHISTORIC CULTURE OF THE JAPANESE ARCHIPELAGO FROM THE POINT OF VIEW OF A SCOTTISH PHYSICIAN by Rafael Abad, is too big to email, but here is a direct download link

テキストファイルには変換できず、「読み取り革命」で変換した。デジタル化で先進を切る北大図書館ですらこの有様だから、まさに「先史時代」である。

第6章 人類学研究が絶頂に

三ツ沢遺跡の発掘を機に東大解剖学教室の小金井良精との知遇を得たことは、マンローにとって大きな足がかりになりました。

マンローは三ツ沢の人骨を “アイノの頭蓋骨” と予想し、小金井に鑑定を依頼しました。彼は合わせて発掘現場を訪れ発見場所の検分も依頼しました。

小金井はこの人骨をアイヌ人に近縁のものと判断しました。

実は、小金井には大きな声ではいえない実績があったのです。彼はアイヌ人の人骨300体を隈なく調査し、日本人と比較・検討しています。そのおかげでアイヌに関する人類学上の権威になったのです。

その結果いくつかのパラメーターで両者間に有意の違いがあることを発見しています。

小金井 アイヌ
    人類学雑誌に掲載された小金井の講演(結論部分)

小金井の証言に自信を得たマンローは、雑誌に人骨の発見状況や頭蓋骨の計測所見を掲載しました。そしていくつかの根拠を元に、この人骨がアイヌ人であると断定します。

ただこの断定は危うさを含んでいました。小金井は①どちらかといえばアイヌに近い、②積極的にアイヌと断定することではない といっているに過ぎないので、マンローの主張を完全に裏付けるものではありません。

またアイヌ先住説については、南方x北方の混合種ではないかとの意見も出されました。

現在ではアイヌのみならず沖縄もふくめ、仁保人の体内には縄文人の血が色濃く残っている事がわかっています。

だから一歩立ち止まればよかったのですが、さらに突き出してしまいます。

東京人類学会雑誌に東京人類学会雑誌に「アイヌ模様と石器時代模様」を発表。縄文土器とアイヌ紋様の類似に注目し、アイヌこそ縄文人の子孫なのだと主張しました。

これは印象論であり、議論の質を低めるものです。こういう議論に入ってしまうと、アイヌを犬ころだと思っている大方の日本人には受け入れられなくなってしまいます。だからこそ小金井は慎重に数字でもってモノを言うようにしていたのです。

これを見た学会主流は、マンローをアマチュア学者と断定し、その主張を無視します。いかにもやりそうな、こすっからい手口です。

ついでマンローは、小金井らと川崎の南加瀬貝塚の発掘調査を行います。発掘遺物の層位的分析に基づいて、マンローは弥生・縄文土器の年代評価を提起しました。

当時はまだ縄文も弥生もへったくれもなく、石器時代と一括されていた時代です。その先見性は群を抜いていたと思います。

日本の学界の無理解ぶりに失望したマンローは、考古学研究の成果をまとめ出版しました。

これが『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)です。

自費出版されたこの本は、長年にわたり、英語での概説書としては唯一のものでした。
だから外国人は日本の先史時代に関してマンローの本を読んで興味と関心を持ってやってくるのに、日本人の研究者はそのことを知らないという、困った状況が続いたことになります。



三ツ沢のような大規模な事業を単独で実行した裏には、潤沢な資金とともに有能な事務方がついたことがありました。

それが高畠トクでした。トクは明治10年生。没落士族の娘でしたが、女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた才媛です。

特派マンローの申し出を受け、トクは秘書兼通訳になりました。1900年ころのことと思われます。このあとの十年は生涯にわたり最高の十年でした。

相次ぐ大規模な発掘調査でマンローは名を挙げ、日本の学界にも積極的に関わるようになります。

その話は一旦置いておいて、肉体的・金銭的には相当疲弊していただろうと思います。

妻アデレは声楽とピアノの得意なお嬢様育ちで、実家は横浜でも屈指の貿易商です。流石に夫婦関係もギクシャクしたものになるかもしれません。

桑原さんの本から引用します。

嫉妬したアデルは、実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。このパーティーにはトクも招待されていた。

というから、トクからの聞き取りでしょう。

このあとマンローはアデレと離婚し、トクと結ばれました。

元気になるに従って、マンローは次第に考古学にのめり込むようになりました。

ここで当時の日本の考古学の状況について少し話しておきましょう。

教科書でもおなじみですが、日本の考古学のはしりとなったのが、アメリカ人教師エドワード・モースによる大森貝塚の発掘でした。

モースについてはいろいろな評価がありますが、そのエネルギッシュな進化論の普及活動で日本の考古学の骨格を作り上げました。(「種の起源」の発表は59年で、モースの活動開始は77年)

まずはそれを評価すべきです。

モースの活躍があったとはいえ、考古学研究の中心はイギリスやドイツ系の学者でした。

最初中心になったのはドイツ人シーボルトでした。大シーボルトの次男で、名も同じだったので小シーボルトと称されていました。

彼らの頭には91年にインドネシアで字発見された「ジャワ原人」のことがあったのではないでしょうか。

それは33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワが発見し、「ジャワ原人」(ピテカントロプス・エレクトゥス)と名付けられました。「第二の原人」探しは考古学者の密かなあこがれであったと思います。

おそらく95年ころから、考古学好きグループの刺激を受けて発掘にのめり込んでいったようです。

はっきりしている記録としては、1904年、マンローとベルツの共同で根岸競馬場付近の「坂の台貝塚」を発掘したことです。このときマンローは41歳。

多分それは今までの発掘とは比較にならない大規模なものだったのでしょう。

岡本孝之さんは次のように書かれています。
この発掘と、翌年の小田原、三ツ沢の3箇所の発掘は、経済的には大変な出費となった。マンローは個人開業して、膨大な費用を賄おうとした。この病院は1年余りで閉鎖。経営失敗が夫婦不仲の原因となる。
翌1905年、今度はマンロー単独で箱根の発掘作業に入りました。そこは早川沿いの河岸段丘で何層かの礫層が露出していました。

そこから旧石器時代の遺物とみられるものを発見しています。旧石器と言っても、日本で言う縄文時代です。

しかしこれらは小手調べに過ぎませんでした。この年の秋、横浜市内三ツ沢の丘陵地帯で縄文遺跡を発見したのです。

そこは宝の山でした。多量の貝層やそれに含まれる縄文土器・石器などが掘り出されました。

それどころではありません。竪穴住居群が発見され、その一つからはこども1体、大人4体の、ほぼ完全な人骨が発掘されたのです。

これだけの大発見の割に、世間的には知られていないというのも不思議です。さらにいえば全くの個人の意志と私財によって成し遂げられたというのも評価されるべきではないでしょうか。


藤尾慎一郎「弥生鉄史観の見直し」
国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月
の読後感です

弥生時代という時代区分を放棄すべき

「弥生=鉄史観の見直し」というより、弥生時代という時代区分を放棄すべきなのではないか。紀元前8世紀から始まった米作り集団の渡来と、紀元前1世紀からの鉄器時代の到来は明らかに違う時代だ。

これに対して、弥生時代末期と古墳時代を分ける違いは量的な問題だけではないか。

厳密な意味では記紀の作成をもって歴史時代の始まりとすべきだが、先史時代の末期は文書がなかったのではなく紛失した可能性が高い。

卑弥呼の時代、好太王石碑、倭の五王、任那滅亡、日出ずる国文書など、他国の史書により確認される事績はほぼ歴史と考えても良い。


原史(Protohistoric)時代の提起

このようにしてサブ時代区分として、紀元200年から700年まで(古墳時代に相当)を歴史の原史(Protohistoric)時代と考えてもよいのかもしれない。

このようにして先史時代と歴史時代をつなぐ接点は、何を基準にして切断するかという問題でもある。

先史時代と歴史時代は原理的には2つにしか切れないのだが、切り方に2種類あるということになる。

したがって切り方によって異なる2つの切り口が生まれ、これによって先史時代は3つの時期に分かれることになる。

そして外国文献を通じて浮かび上がる500年の「原史」時代(基本的には先史時代の晩期)、先史時代と歴史時代を最終的に分かつ記紀・大宝律令(7世紀末)がもう一つの切り口を提供する。


先史-原史-有史 の切断と統合


武器 道具

石器

鉄器

有史時代


食料獲得

狩猟・漁撈・採集

水田耕作

有史時代


統合すると

石器+狩猟

石器+水稲

鉄器+水稲

有史時代


人種的には

YハプロD(+C1)

YハプロD+O1(+C1+N)

YハプロD+O1+O2

YハプロD+O1+O2

(O2は支配者としての北方民族)

慣用的には

旧石器+縄文

弥生前半

弥生後半+古墳

有史時代


ここで鉄器は紀元前100年、漢軍の進駐と楽浪郡の設置に続いて起きている。青銅はそれより100~200年前、これは長江文明由来のハプロO1人が持ち込んだもので、用具と言うよりは銅鐸を始めとする祭祀用品である。日本に青銅器は持ち込まれたが、それは青銅器時代を形成するには至らなかったと考えるべきであろう。

時代の切断も統合も、大局的には大陸→半島からの圧力を受けた在来諸人種の「辺縁化」と見ることができる。
その「辺縁化」は基本的には中央アジアの遊牧民の東漸圧力によるものである。(正確には東西への移動圧)
もう一つの圧力として南方から北上する水稲作りの圧力がある。米作りは労働集約型の農業であり、畑作以上に人造りが欠かせない。この人口圧が気候変動と抗いつつ、平和的に北上を進め、狩猟民族を圧迫していく。
日本列島は終着駅なので、これ以上辺縁化はできず、吸収されるか淘汰されるか、落人化するか、下部構造化する以外の方法はない。それぞれのYハプロがどうなっていったかは想像するしかないが、同じ人種のミトコンドリアDNAとの対比である程度見えてくるものがあるかもしれない。
西の終着駅であるブリテン島やイベリア半島の流れも参考になるであろう。

アバ・デ・ロスサントス
日本近代考古学思想における「先史」の概念に関する研究
一E.S.Morse著『大森介墟古物編』(1879年)から
鳥居龍蔵著『有史以前乃日本』(1918年)まで一

上記文献はオリジナルではなくその要旨である。下記はそのさらなる要約である。
ネットで調べたら、これは平成20年度の北海道大学文学部に提出された博士論文であった。
これが一線級の学者でなく大学院生の博士論文として提出されたものであることにおどろく。このような議論こそ日本の考古学・人類学研究の焦点に据えられるべきではないかと思う。
(現在はスペイン国立セビーリャ大学文献学部所属)


ここでは明治・大正期における「先史」に関する受け止め、「先史」という時代概念の受容過程を考察する。それは考古学史としてあっただけではなく、「先史観」が問われる思想史としてもあった。

従来の日本考古学史研究には2つの系譜がある。

① 資料集成や学史上の基礎的事項(発見・発掘調査・先駆的研究など)の整理を行う第一の系譜
② その時期に展開された考古学研究の実践を、社会・政治・経済等との関係において吟味する第二の系譜(より露骨にいえば皇国史観とのせめぎあいー私)

本論では、発見史・思考史・研究法史の三者の相互関係を整理しながらアプローチする「弁証法的学史論」をとる。

特に重要な主題として、時代概念・その形成過程という先史学の流れを「思想史」という観点から検証する。

すなわち、旧石器時代・繩文時代・弥生時代・古墳時代といった現在使用されている時代概念を前提とせず議論したい。(より露骨にいえば批判的再検討ー私)

第一章 モースの時代

1879年(明治12)に、E.S.Morse著『大森介墟古物編』が出版される。

考古学が欧米の考古学にキャッチアップし、集古の学から先史学へと発展する。

当時の日本社会では三時代法における「石器時代」の考えは比較的すんなりと受け入れられた。
それに対して、「先史」という概念、用語が未だ正しく理解なかった。

翻っていえば、有史時代、あるいは歴史という概念は十分に受け止められなかった。

第二章 三宅米吉の時代

1886年(明治19)に三宅米吉『日本史學提要』が出版された。モースの著書に遅れること7年、ともかく日本側に素地が形成されたことを意味する。

これは三宅というよりは当時形成されつつあった日本の学術集団の受け止めを反映したものであった。

三宅は日本歴史を「神代」から語るのはやめた。
しかし「神代」を先史に取り替えるのではなく、「太古」という独自概念を主張した。つまり有史以前ではあるが先史ではないということだ。

第三章 ハ木奘三郎の時代

1902年(明治35)にハ木奘三郎『日本考古學』が出版された。

八木は坪井正五郎の門下であり、それは東大考古学の到達として捉えられる。(そこには坪井の理論のゴタマゼ性と思いつき性、一言で言えば無思想性が顕になっているー私)

① 先史時代(Prehistoric)、原史時代(Protohistoric) 、歴史時代(Historic) の3区分の導入
19世紀後半の欧米考古学の時代区分法の主流。文字資料の出現を基準とする区分法。
(これ自体は、研究の方法論から見て、たいへん正しい分類だ。ただ歴史は生産史、文化史としてだけではなく軍事史としても見なければならないので、これだけでは不足だー私)

② 「古墳時代」という新たな時代概念を導入した。
(最悪の時代概念である。石器時代を即自的な時空間として成立させた。その結果生じた先史時代と原史時代との論理的間隙を生じ、多くの混乱をもたらしたー私)


第四章 マンローの時代

1908年(明治41)に『Prehistoric Japan』が出版された。

この書物は「先史」という思考空間を論じるうえで、欠くことのできない位置を占める。

マンローは先史時代(石器時代)と原史時代(古墳時代)とを結びつけた。

そして弥生文化(青銅器文化)をヤマト文化の初期段階として位置づけた。それらは当時ようやく認識され始めた時代概念である。

(この本は日本の学界からは無視されている。強烈なアンチテーゼだったと想像される)


第五章 鳥居龍蔵の時代

1918年、鳥居龍蔵『有史以前乃日本』が刊行された。鳥居はマンローとの「ドルメン論争」を通じて「固有日本人」概念を構築した。(鳥居はマンローの提起を正面から受け止めた唯一の日本人学者だったー私)

鳥居の「固有日本人」は弥生文化を担った人々のことである。これにより日本人(大和民族)にも石器時代があったことが確定され、先史時代が科学的議論の対象とされるようになった。

ということで、肝心のところは省略されているが文章の性格上やむを得ないところである。「固有日本人」説についてはウィキ上で次のように書かれている。(鳥居の論考にはこの頃から“ブレ”が目立つようになるー私)

アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族が挙げられる。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきた。

鳥居とマンローとの間には「ドルメン論争」が発生した。これは固有日本人論にとどまらないものがあり、日本の考古学の根幹に関わるいくつかの重要な論点がある。


マンローが横浜に降り立ち、「日本の人」となったのは、1891年5月12日のことのようです。明治で言えば24年。このときのマンローの年齢は28歳でした。

前の章で書いたように、マンローはインドでの生活を断念し香港に拠点を移したのですが、そのことは香港で生活の資を確保するということでした。

記録によると、彼は1890年に香港の汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社に船医として勤務しています。この会社は香港・横浜間の定期航路をもっていて、2週間に1度行き来していたようです。

マンローはこの航路の船医として何度も横浜を訪れました。その間にインドでの体験をまとめた「精神の物質的基本性質とさらなる進化」という論文集を横浜で発行しています。小生未見ですが、一種の哲学論らしいです。この頃は考古学の道は断念し哲学者への道を模索していたのかもしれません。

香港の生活は1年ほど続きましたが、この間に病気がぶり返し、入院が必要となりました。

このとき馴染みのあった横浜での療養を決意したようです。

横浜に降り立ったマンローはそのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。ここは外人専用病院で、医師もイギリス人でした。入院は年余に及んだと言います。

ここからマンローの日本での生活が起ち上がっていくのですが、その生活環境はかなり特異なものでした。

病癒えたマンローはそのままゼネラルホスピタルの院長に就任します。これはおそらく看板院長ということでしょう。エジンバラ大学出身ということになれば日本では相当の肩書きです。当時の東大にもエジンバラ大学出身のお抱え学者がたくさんいました。

イギリスの領事館は1874年まで横浜にあり、当時も旧領事館を中心に、貿易関係者からなる一種の外人租界が出来上がっていました。

マンローはこの外人租界の中で外人の患者だけを診療し、英語だけしゃべって生活していました。租界に住む外人女性と結婚し、家庭を築きました。

とはいえ、外国人社会の中にマンローもそれなりに溶け込んで行きます。とくに東大医学部お雇いの医師でゼネラルホスピタルの顧問でもあったベルツとの親交は大きな影響を与えました。

ベルツは趣味の域を越えた人類学の徒で、帰国後はドイツ人類学界の東洋部長まで務めています。一回り上のベルツは、マンローの良き導き手だったのではないでしょうか。

英語ができる日本人たち、たとえば新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教関係者、岩波茂男、土井晩翠などとの交流もあったようです。




中央アジアで最大版図を誇ったのは、13世紀に興ったモンゴル帝国である。
モンゴル帝国以前には、女真族の金、契丹族の遼、セルジュークトルコ、ウイグル、突厥、柔然、エフタル、匈奴などが興亡した。
ゲルマン民族の大移動の原因となったフン族の移動は、匈奴の一部がユーラシアを東から西に移動したためだとされている。
5世紀に現在のハンガリー地域を拠点として広い版図を誇ったアッティラ帝国は、フン族の系統だと考えられている。

過去3000年以上にわたり、遊牧民族はシルクロードをかけめぐった。それにともない、征服王朝をたてた勝者のDNAも拡散していった。

2003年に発表された、中央アジアの多数集団のY染色体の調査では、契丹(遼)時代の起源を持つ系統が8%近くに達するとされている。

ウイグル人は東アジア人と西ユーラシア人の中間に位置している。しかし、ウイグル人自身に多様性があり、東に位置するウイグル人はより東アジア人に、西に位置するウイグル人はより西ユーラシア人に近い。

此処から先はややポレミック

まず、東アジア人の祖先集団とシベリアから南下した集団が5500~5000年前(紀元前3千年)に混血した。
O2とC2との混血を指す?

これは、日本列島では縄文時代中期、黄河流域では仰韶文化から龍山文化への移行期にあたる。

西では、5000~3800年前(紀元前4千年)に、西ユーラシア人と南アジア人の混血があった。これはカスピ海・黒海の北部にいたインド・ヨーロッパ語族(印欧系集団)が南下し、イラン(ペルシャ人)とインドに移住していったイベントに対応していると考えられる。
印欧系とセム語系の混血を指す?

そして、シベリア・東アジアの混血集団と、西ユーラシア・南アジアの混血集団が、中央アジアで3800年前ごろにまず混血し、さらに西暦1240年ごろ(蒙古帝国による制覇?)、第二段階の混血が生じたと推定されている。
「中央アジアで3800年前ごろにまず混血」というのはさっぱり実態がわからない。

斎藤流シルクロード論

ユーラシアの東西交流は、遊牧民が誕生するよりもはるか以前からおこなわれてきた。
バイカル湖の南に位置するマルタ遺跡出土の、24000年前の人骨のゲノムは、現代のヨーロッパ人と南北アメリカ原住民の中間だった。
(こういう斎藤氏の言い方が好きでない)

後略

匈奴の歴史 年表

戦国時代

紀元前318年 匈奴は秦を攻撃するが敗退。これを機に秦は国力を強化。
戦国時代の匈奴
             戦国時代の匈奴

紀元前215年 秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させる。さらに長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防ぐ。

紀元前209年 始皇帝の死。単于頭曼は黄河の南に攻め込み、匈奴国を建設。

紀元前209年 頭曼の子冒頓(ぼくとつ)が反乱に成功。父頭曼を殺し単于(王)に即位した。さらに東の東胡と西の月氏を駆逐。巨大王国を建設。

紀元前200年 匈奴は太原に侵入し、晋陽に迫る。漢の劉邦(高祖)は自ら出陣したが惨敗を喫し、以後匈奴への臣属を強いられる。

匈奴最大版図

紀元前180年 匈奴、敦煌の月氏を駆逐し、楼蘭、烏孫、呼掲および西域26国を支配下に収める。月氏残党はサマルカンドに大月氏国を建てる。

紀元前177年 漢が匈奴に反撃。西方進出に集中していた匈奴はこれを容認。

前141年 漢の武帝が即位。漢は河南の地を奪取することに成功。

前121年 漢の総攻撃開始。匈奴は重要拠点である河西回廊を失う。

前119年 漢が漠南の地(内モンゴル)まで侵攻。形勢は完全に逆転し、匈奴が朝貢を行うようになる。

前102年 漢の李広利が西域に遠征。匈奴の西域に対する支配力は低下し、オアシス諸国は漢の支配下に入する。

前80年 匈奴に内紛発生。漢の干渉にあい、戦力は大幅に低下。服属していた丁零や烏丸,鮮卑も離反した。

前60年 匈奴の日逐王が漢に服属する

前31年 匈奴国内が分裂。一時期は5人の単于が並立する。

紀元9年 王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼして新を建国する。王莽の蛮族視政策は西域にも及ぶ。これに反発した西域諸国は、匈奴に従属するようになる。

紀元13年 新は匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させる。匈奴は恭順せず反抗を続ける。

紀元23年 新が滅亡。その後光武帝による後漢が成立する。

紀元46年 匈奴国内で日照りとイナゴの被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡する。匈奴は南北に分裂し、親漢派の南匈奴が北匈奴を撃破。

87年 東胡の生き残りである鮮卑が北匈奴を大破する。北匈奴はその後消滅。南匈奴もその後内紛により自滅。

匈奴の起源は謎となっている。現在のところ、北上する黄色人種(N系)、北方の古いアジア人(C系)、中央アジア遊牧民(QR系)が混合してで形成された集団だとされる。(二重三重にいい加減な定義)

匈奴は遊牧を専らとし、農耕は行っていなかった。しかし連れ去った農耕民奴隷による農業生産が確認されている。匈奴は文字を持たないため、自身の記録を残していない。

戦になれば匈奴の男は皆従軍する。匈奴には馬はかかせない。中国にはズボンはなく、着物風の服装だった。乗馬術を知らず馬車に乗って戦っていた。そのため騎馬戦術に長ける匈奴には勝てなかった。

第2章 遍歴の時代 エジンバラから横浜まで

マンローは歴史の話や発掘の話では饒舌ですが、自分のことはあまり語りません。

とくに卒業前後の事情はあやふやです。3つの謎があります。

第一には、病気で学校を休んでいることです。最低でも1年は休んでいます。おそらく結核だったようで、チュニジアで転地療養を行っています。

第二には、きちっとした形で卒業していないことです。日本でもイギリスでも、卒業と医師国家試験とは別になっています。

ところがどうしたわけか、マンローは卒業はしたが医師免許はなかったのです。これだと診療はできません。もしやればモグリということになります。

第三には、第二の疑問とも関連しますが、なぜ卒業と同時に祖国を去ったのでしょうか。1888年、大学を卒業すると同時に、マンローはスコットランドを離れました。25歳のことです。

“マンローは多くのスコットランド人がそうであるように、その放浪癖によって外国旅行を重ねた”(トムリン)という意見もあって、たしかにそうも言えるかと思いますが、はたしてそれだけでしょうか。

それ以来死ぬまで、マンローはたった一度しか、祖国の土を踏んでいません。父親が死のうが母親が死のうがお構いなしです。むしろそちらのほうが気になります。

88年、大学を卒業すると同時に、マンローはスコットランドを離れました。そして外国航路の船医となってインドへ向かいました。

インドでは各地を旅行し発掘調査に関わっています。この間、父ロバートが没していますが、ついに国に戻ることはありませんでした。

さりとてインドでの研究が順調に進んだかというと、そういうわけでもありませんでした。彼はインドの持つ巨大な「混沌」とぶつかり、かなり精神的にまいったようです。

晩年、マンローは最後の妻チヨにインドと香港で見たことを語っています(桑原による)。これをちょっと膨らませて紹介します。

「英国人は傲慢で、インドの人たちを奴隷でも扱うように接していました。それに輪をかけて昔からのカースト制度が人々を苦しめていました。人々は進んだ文明から疎外され、遅れた文明からいじめられていたのです」

このような精神的ストレスに加え、インドの厳しい気候が身体を痛めつけました。おそらくは学生時代に発症した結核が再燃したのだろうと思います。

やがて彼はインドでの研究を断念、香港に移ることにしました。

ここでマンローは別の船会社の船医に就任します。この船会社は香港・横浜間の定期航路を運営していました。したがってマンローは横浜に定着する前に、船医として横浜に何度も寄港していたはずです。

香港に移ったあとも病勢は思わしくなく、マンローは横浜で療養生活に入る道を選びます。これが1891年(明治24)5月のことです。

マンローは横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。その後年余にわたる療養を経て社会復帰します。

彼は横浜に来て病気療養中に「精神の物質的基本性質とさらなる進化」という文章を書いて出版しています。インド滞在中に執筆した哲学に関する覚え書きのようですが、詳細は不明です。

自分の人類学者として生きていく道を模索し、整理していったのではないかと思います。

ようやく病癒えたマンローは、日本永住を決意。2年後には入院していた横浜ゼネラルホスピタルの院長に就任します。この時齢30歳、放浪の前半生に別れを告げることになりました。




第1章 マンローの学生時代

マンローは1863年にエジンバラ近くのダンディーという町で生まれました。明治維新の4年前ということになります。親は開業医で、一族は14世紀まで辿ることができるという名門です。

まぁ田舎ではよくある話です。島崎藤村みたいなもんだと思ってください。

79年にエジンバラ大学医学部に入学しています。学生の頃から考古学・人類学に興味を抱いていたようです。テームズ川流域で石器時代の遺跡の発掘にも参加していたと言われています。

このころ、人類学と民族学(民俗学)、考古学は未だ分化せず一体のものでした。

そんなときに若き学徒に影響を与えた人物といえば、なんと言っても進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンでしょう。

ダーウィンはマンローより54歳年上ですが、結構長生きしているのでかなり時期的にはかぶります。それになんと言ってもエジンバラ大学医学部の大先輩に当たります。

ダーウィンも、親が医師だから医学部に行ったのですが、どうも血を見るのが苦手だったらしく、途中退学してしまいます。そして大好きだった生物学の道に進むことになります。

卒業後はビーグル号に乗って世界一周しました。航海の途中とりわけガラパゴス諸島で珍奇な生物に出会い、それを機に生物が進化することを確信するにいたりました。

彼の発表した「種の起源」は、人間も含めたすべての生物が単純で原始的な生命から発達してきたという衝撃的な主張で、いわば生物学における地動説でした。

マンローにとってはダーウィンの冒険心と行動力、それに事実の示すところに従う大胆で実証的な理論構築の手法が大きな影響を与えたのではないでしょうか。

マンローの著作を流れる実証的な姿勢、大胆な構想力などはいわばエジンバラ学派のスタイルとも言えるでしょう。それがマンローの思想のバックボーンを形成したのではないでしょうか。

人脈ついでにもうひとりの同窓生を上げておきます。それはシャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルです。

エジンバラ大学医学部で3年先輩に当たるので完全にかぶっています。ドイルも進化論を知って無神論者になり、学生時代にモグリの船医をしてケープタウンまで行ったそうです。マラリアになって死ぬ目にあったそうです。こんな命知らずはエジンバラ大学の伝統かもしれません。

大学を出てロンドンで開業したが、あまり流行らないので暇つぶしに書いた探偵小説が大ヒットしてしまいました。ホームズシリーズの第一作が発表されたのが84年のことですから、マンローがテームズ河畔の発掘に加わるなど、考古学に夢中になり始めた頃です。

マンローはホームズの探偵小説を読んでいたのでしょうか。それはわかりませんが、二風谷のマンロー邸の2回の書棚に「緋色の研究」や「バスカービル家の犬」が並んでいたのではないか…、楽しい謎です。

序章 マンローが生まれた国 スコットランド

最初から寄り道ですみません。まずスコットランドの紹介をさせてください。

というのもマンローの行動スタイルや、アイヌに注ぐまなざしは、スコットランドという文化・風土を踏まえて初めて理解できるのではないかと思うからです。

イギリスは大ブリテン島と小ブリテン島からなり、大ブリテン島の3分の2ほどがイングランド、北の3分の1がスコットランドとなっています。

私たちがイギリスと言っている国は、正式には「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」です。

略するときは連合王国(UK)と呼ばれ、これらの地方の総称として使われます。

スコットランドは連合王国とは言うものの、ずっとイングランドの風下に立ってきました。

日本でも東北の縄文人が大和朝廷の支配に組み込まれていきますが、スコットランドも似たような環境にありました。ただ人種や言語・宗教よりは経済。生活水準が大きな違いでした。

その点では、スコットランドは東北というより信州に近いかもしれません。

「イングランドではえん麦は馬の飼料だが、スコットランドでは人間の食料だ」と言われたくらいの差があったのです。

それが18世紀の中頃から急速に事情が変わってきました。アメリカやインド、アジアとの貿易が盛んになり、繊維など輸出を狙った“糸へん産業”が盛んになります。

そしてイギリスは産業革命の時代に突入していきました。

機械制大工業は大量の労働力を求めました。また、原料としての羊毛、動力としての石炭や水力も必要になりました。

そこで目をつけられたのが後進地帯で貧乏国であるスコットランドでした。ほそぼそと粗放農業が営まれていた山野は牧畜地帯となり、そこから多くの過剰人口が吐き出されました。

まさに資本主義のための「根源的蓄積」の舞台となりました。「嵐が丘」の舞台のような荒野に工場が立ち上がり、港へはインドや南米向けの船が出入りし、山からは石炭が運び込まれ、ハイランドから大ぜいの労働者が下ってくる…そんな世界が出現したのです。

スコットランド人ワットの蒸気機関にはニュートン力学がふさわしい教義となりました。スコットランド人哲学者のヒュームは、キリスト教の教えに対して「懐疑論」を提示し、観察と経験に基づく事実を重視しました。「懐疑論」はのちに “恥ずかしがり屋の唯物論” と揶揄されることになります。

スコットランド人経済学者ジェイムズ・スチュアートは利潤がブルジョア的生産過程に基礎をもつことに気づきました。また有効需要が社会発展の原動力だということを突き止めました。

そのゆえに、近代社会が生産過程を中核として形成されると論じました。それはスコットランドにおいて近代工業がどんどん立ち上がっていく姿を前にしての感慨でもありました。

もうひとりの経済学者アダム・スミスは社会の分業化、商業の国際化に伴い、労働が富を生み、富が自立的増殖することを指摘しました。

こうして二人のスコットランド人がイギリス古典経済学の基礎を打ち立てたのです。

彼らは同時代のフランスの啓蒙主義者に倣って「スコットランド啓蒙主義」と呼ばれています。

「マンロー小伝」を書くにあたってマンローの肩書きをどうしようかと悩んでいる。
まず即物的に「医師マンロー」というのはいかがかと思ったが、どうも違う。まず真っ先に違うのは、彼が45歳になるまで医者(ドクター・マンロー)ではなかったことである。
それと、彼は職業として医師ではあっても、きわめて訓練の不足した医師だったことである。だから彼はもし伝記を書いてもらえたとしても、医師マンローとは書いてほしくはなかったろうと思う。

そしてここからが問題なのだが、彼は考古学者であり民俗学者であったのかということである。たしかに主観的には考古学者であり民俗学者であった。ただ学者というほどにマンローはプロフェッショナルであったかと言われると、いささか疑問符がついてしまうのである。

彼は調査(フィールドワーク)も研究も発表もすべて自分のお金でやった。だから彼は職業的研究者ではなくてアマチュアなのだ。

だから結局、彼は「好事家」(ディレッタント)という肩書きに落ち着くのかもしれない。なまじ「日本の硬貨」などという本を出しただけに、そういう印象を持たれることをおそれる。

しかし彼の研究手法は半端な道楽ではない。国籍を日本に移し、すべての生活を日本での研究に注ぎ込み、すべての資産をなげうち、2度の災難で、資料の殆どを灰燼に帰しつつも、最後まで研究に打ち込んだ人を道楽者と言ってはいけない。

とすれば、少なくとも伝記を書く人間としては、彼がどういう人間であったかというよりは、彼が何をもとめ何に生涯を捧げたかをもって彼の肩書きとしなければならない。

だから私は彼を「学徒」とし、「先史日本研究者」と規定したい。アイヌ民俗の研究も、先史日本へのタイムトンネルの入り口ととらえていたのではないだろうか。

ただそうやって生涯、“我を通した”わけだから、多少の偏屈であったことは疑いを容れない。堀辰雄が「風立ちぬ」の作中で出会ったマンローもまたマンローであろうと思う。



先程のブログの別記事から

The prehistoric peopling of Southeast Asia | Science

という論文を紹介したものの要約です。早い話がパクリのパクリ。元ネタがScience と書いてあるので読み始めたが、いささか眉唾の記事。

1.C系人は8千年前にラオスからやってきた

東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6つのグループに分類できる。

①ラオスのホアビン文化の古人骨(8千年前)
このゲノム配列は愛知県田原市の縄文人に類似。
②~⑥はいずれも紀元前後より新しいもので、それぞれの地域の現生人との繋がりあり。

ということで、インドから到来したC型人(C1)の6つのグループがラオス近辺で分離し散らばっていたこと、その流れが経路は不明ながら本州まで到達していたことが推測される。

蛇足ながら、彼らがナウマンゾウをもとめて日本にやってきたのなら、ナウマンゾウがそうしたように、朝鮮海峡を渡ってやってきたに違いない。

ただしそれは4万年も前の話で、ラオスのC型人が米作り文明花開く8千年前の長江流域のO1人社会を乗り越えてはるばる日本まで来る理由が思いつかない。

2.C1a1人は紀元前3千年に中国からやってきた

もう一つの話題、日本固有種とされるC1a1が中国側のどこかで分岐し、日本に渡来したという情報もあるが、こちらは論理的に無理がある。何よりも、それが5500年前程度ということでは、辻褄が合わない。

私の考えではナウマンゾウを追って4万年前に朝鮮経由で日本に来たのがC系人だ。中国本土のC1人はすでにO1人に置き換わっているはずだ、と思う。

ブログ主も、そこまで攻撃的にはせずに、5500年前程度の時代に、中国側から日本へ何者かが渡来した可能性に照準を合わせたほうが良いと考えている。

5500年前に長江文明の担い手が朝鮮へ、そして日本へやってくる可能性はないとは言えない。しかしそれが意味のあるほどの量を持って実現したのかというと、やはり否定的にならざるを得ない。

ウィキのハプログループN (Y染色体)に関する記載は承服しがたいものがあるが、一応そのまま紹介する。

Y染色体のハプログループNは、NOグループを親系とし、ハプログループOとは4万年前に分岐した。

そしてユーラシア北部、さらにはシベリアを横断して北欧まで分布を広げている。

現在はユーラシアの極北地帯に分布しているが、これは後から入ってきた人種に圧迫されたためかもしれない。

分布は広範で他系人との混交が目立つ。特に注目されるのが遼河文明の遺跡人骨でN1が60%以上の高頻度で見つかっている。

対となるミトコンドリアDNAハプログループはZ系統である。


次が「知識探偵クエビコ」というかなり専門的なサイト

1.南シベリアのミトコンドリアDNA

記事の前半はC2人の話で、とりあえず飛ばしておく。その次がR人の話で、印欧族と対応するらしい。これも飛ばしていく。

次の話題が、私のテーマと関係ありそうだ。

バイカル湖・アルタイ山脈近くの南シベリアの遺伝子データはY染色体については不足しているので、ミトコンドリアDNAで議論する。

この地域のミトコンドリアは、最初の頃あまり東方要素が強くなく、紀元前1500年あたりから東方要素が増えてくる。

2.C1 人はクロマニヨン人より古い

もう一つ、これはC1人に関する話題で、

C1b系統はオーストラリアにも相当に早い時期に到達していた。C1a系統もヨーロッパの西の端にいて日本にいて、実はアフリカのベルベル人でも見つかってる。二つ合わせたC1系統は、クロマニヨンより古い時代に、かなり世界に拡がってたようだ。

3.ヨーロッパ(マジャールとフィンランド)に広がったN人

そして3つ目がヨーロッパのN人だ。

鉄器時代になってすぐの時代、ハンガリーにN人が現れる。ハンガリー語もウラル語族で、マジャール人も元はウラル山脈あたりにいたと言います。フィンランドはNが過半数を超える国です。

4.ウィキペディアの批判

こ之人、ついでに「ウィキペディアのNの項目」も、遼河文明論に関連して批判しています。

Nは日本の周囲のどこを見ても日本よりは高頻度で、普通に各種渡来民にその頻度で含まれていた可能性があります。


こ之ブログはかなり読み応えがあります。N人は極東に遼河文明を築き、西方ではハンガリーやフィンランドまで進出したという、大変行動範囲の広い種族だったようです。多分遊牧民族だったのでしょう。農民ではないからあまり土地には執着しないようです。
移動の手段、交通の手段、異民族との接触、交易の知識等には長けていたはずなので、その木になれば戦争には強かったでしょうが、極度に自然に左右される生活なので、人口=国力の強化維持には弱点を持っていたと思います。
その結果各地で文明が開花するに従い、辺境へと追いやられる結果になっていったのではないでしょうか。








人気記事にランクインした。
あらためて読んでみる。
我ながら、なかなか良い。

しかしY-ハプロの話に入って行くと、今の私の考えとは違う点に気づいた。それはマンローの論文「先史時代の日本」に導かれたものだ。マンローの論文はY染色体などまったくなかった時代に書かれているが、文化の移動と文明の移植を見事に説明している。


1.ハプロN人が文明のメッセンジャー

小麦、馬、青銅器、そして鉄を持ち込んだのは。YハプロC人ではなかった。
それはN人だった。N人は多分1万年くらい前に中央アジアでO人と分離し、北方の草原を西へ、あるいは東へと遊牧するようになった。
西に行ったものはG人を西に押しやった。G人はドルメン文化を形成した人々で、有名なアイスマンもその一人である。
東に行ったものは、ゴビ砂漠を越えて華北一帯に流れ込み、遼河文明を形成した。紀元前3千年ころのことと思われる。


2.東アジアにおける最初の人類=C人はどのように拡散したか

東アジアに先住していたのはC人である。C人は6万年前にインドを経由して東南アジアに進出した。そしてアジア全域に散らばった。

ナウマンゾウを追って日本に到達したのはC1系で、4万年前のことだった。モンゴルからシベリアまで広がっていったのはC2系だった。

D人の経路は不明だが中央アジアから直接、あるいはインドを経由してチベットから中国の西域に達し最終的にはサハリンから日本に達した。途中の経路にはかろうじて痕跡が残されているが、経路を追うほどの密度では存在しない。

C人、D人は現在辺縁的に残存する程度である。


3.C人を追い出したO人とN人

これに対し現在の主流を形成するのは、O人とN人である。

O人はインドシナの山間部を経由して中国南部に入った。そして長江流域に米作の文明を築いた。このとき先住していたC人は南方に押しやられた。

N人は、おそらくそれより少し遅れて陸の東西回路を東進し、C人先住民を北に追いやった。

これが可能だったのは9千ないし7千年前にかけて温暖化が進行し、これに伴い海進と湿潤化も進み、陸の東西回路、いわゆるシルクロードの利用が容易になったためではないか。

N人が構築した河北~南満文化は、不明の理由で衰退していく。これに対し長江まで前進したO人の一派であるO2系が北進し、N人を追いやった。

長江から北に進出したO2系は、N人がもたらした西方文明を受容した。その力で南進。青銅器文化にとどまっていた長江文明(O1系)を制圧し、影響力を華中・華南にまで及ぼすこととなった。


4.中央アジアの遊牧民が東西文明の伝達者

結局、変更点はN系人の進出を挿入したところにある。N系人というのはおそらく匈奴ではなかったか。そして匈奴のあと中国の北部と西部を支配した突厥もそうではなかったか、とおもう。Yハプロがもし違っていても、そのたぐいの民ということで説明できるのではないだろうか。

これがマンローから学んだことをふくめ、達した結論である。(まだまだ変わっていく可能性はあるが)

これは考えようによっては現在の漢民族に対する先住民としてウィグル人を位置づけることにもなる。
習近平政府にとっては、あまり気持ちの良い議論にならないかもしれない。

馬と乗馬の歴史年表

約6000年前 乱獲により激減した馬が、食料源として飼育されるようになる。

家畜化については諸説紛紛だが、役畜化の前に馬具なし家畜としての利用(食料・搾乳)の歴史はあったであろう。しかし反芻胃を持たず、筋肉質の馬は牛よりは低価値である。

紀元前3500年ころ 遊牧民が馬を役畜化。
カザフスタンで発見された馬歯遺跡にハミを利用した痕が発見。

紀元前2400年 メソポタミアで戦争に戦闘用馬車が使用される。

紀元前2000年 メソポタミアで乗馬用の馬が導入される。

紀元前1500年ころ シンタシュタ-ペトロフカ戦争で最初に乗馬兵による戦闘が行われる。

紀元前1400年ころヒッタイトのキックリによって馬術書が書かれる。5枚の粘土板に楔形文字で書かれ、馬の調教・飼養・管理につき書かれている。

紀元前1200年頃 エジプトでは青銅製のハミが使用される。

紀元前9世紀~8世紀 遊牧民スキタイが王国を建設。彼らは馬に乗りつつ遊牧し、中央アジアや現在のロシア南部・ウクライナで帝国を築き上げる。このような遊牧民は「遊牧騎馬民族」と呼ばれる。

紀元前8世紀 馬上のまま戦闘を行う方式が始まる。

紀元前 680 年 この年の古代オリンピックで、戦車競走が始まる。

紀元前400年ころ ギリシアのクセノポンが馬術書を記す。

紀元前3世紀 サルマタイ人がスキタイ王国を滅ぼす。鉄製の鐙とより高度な馬術を持っていた。その後サルマタイ人はローマ帝国の各地に馬術を広めたとされる。

3世紀 魏志倭人伝、「牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない」と記す。

4世紀 古墳に馬の埴輪が副葬される。当時の牛・馬のDNA解析により半島から輸入されたものと判明。

4世紀末ころ 中国大陸より騎馬の風習が伝わる。(高句麗との戦いの最中ということになる。これは「騎馬民族」説に対する真っ向からの挑戦となる。別記事では弥生時代末期とされ、4世紀末には乗馬の習慣が広がるとの記載がある。こちらの方が妥当)

5世紀 フン族が東ヨーロッパに侵入し大帝国を築く。フン族はあぶみ付き馬具を採用し、馬上で弓を扱う。

12世紀 中国で17騎の金(満州)の使節団が北宋の歩兵2千を襲い潰走させる。

13世紀 モンゴル軍の騎馬軍団は乗馬のまま矢を放つ攻撃で世界を席巻したと言われる。

紀元前1千年ころに中央アジアの遊牧民族の間で洗練されたという記事があった。まだ確認をとっていないが、事実とすればこれは重大だ。
私は古来騎馬民族の頃から、遊牧民は馬に乗って草原を疾走しているものだとばかり思っていた。紀元前4千年に馬が家畜化されたという記載は、馬が人に乗られることを受け入れるようになったということだと思っていた。
その発想から、遊牧民の戦闘力の技術的背景として馬・車輪・鉄製武器の3点セットを考えていた。しかし、例えばアレクサンダー大王の部隊ならどうだったのか、チャリオット(一人乗り戦争馬車)であのような大国を作り上げられたであろうか。やはり卓越した乗馬技術を持つ騎兵部隊を縦横無尽に駆使して、風林火山の勢いで世界を征服していったのではないかと想像してしまう。
逆に言うとそれは、軍事組織の戦闘組織と輸送組織への分化をもたらしたのではないかと思う。戦闘は騎兵で、兵站は馬車という二大機能である。

驚くべきことだが、このような軍の機能と戦闘の形態は、第一次世界大戦の直前まで、3千年ものあいだ続いていたのである。

これまで何度となく、20世紀論を考え論及してきたが、3千年続いた戦争を有り様を根底から覆したことこそ、実は20世紀の最大の特徴だったのではないだろうか。


11.中国文明

エジプトやカルデアのように、中国の古代文明は農業の基礎から生まれました。

 土壌を耕して穀物を栽培する技術は、人類を地域に結び付け、社会を創造して、相互奉仕と保護の精神をもたらしました。それは動き回らずに生産する工芸品の開発を可能にし、優れた交換手段を生み出し、これにより余剰商品をもたらし、商業の発展を促します。

農業の拡充のために土地の灌がいや排水、沖積地を埋め立てることで、生産力はさらに拡大しました。人間はこうして彼自身を耕作していったのです。

豊かな実りが彼らの苦労に応じ、食料の不安を和らげたので、多くの趣味や娯楽を満足させる時間を確保しました。

 この豊富さは、中国の初期の入植者が黄河の沖積谷に発見しました。 古代の記録は中国文明の始まりを示しています。

史記で伝えられている神話的な記述では、農業の始まりには奇跡的な物語とありそうもない偉業が織り込まれています。しかし農業の開始こそが文明の始まりであったことをよく示しています。

* その後の中国の古代史研究の発達はめざましく、夏・殷・周の時代まで考古学的に確定され、さらにその前駆者として南満の遼河流域に中央アジア遊牧民の流れをくむ遼河文明が成立していたことまで明らかになっている。
彼らとその子孫が麦、馬、車輪、青銅器、鉄器をもたらしたのは間違いないだろう。


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初期の中国人入植者は明らかに牧歌的な遊牧民ではなく、土壌の灌漑と栽培の方法に熟練していました。

 残念ながら、紀元前213年に秦の始皇帝が焚書を命じたため、ほとんどすべての現存する中国文学が破壊された。そして文学者はすべて生き埋めにされた。これにより、古代の古典は生き残りの数人の学者が口承で伝授するだけのものになりました。



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本の一部が後に発見され、古代の伝統と教えが完全に失われたわけではないということがあきらかになりました。今日では焚書坑儒の影響は小さいものと考えられています。

中国の最も才能のある学者の一人による次の声明は興味深いものです。
紀元前500年以前の中国の歴史の正確さには、疑問を呈する向きがあるかもしれません。
しかし今日まで伝承されている書物は、秦の当時またはそれ以前の時期に存在したものと実質的に差はありません。そのことに疑いはありません。
孔子時代に広まった一般的な中国文化を簡単に紹介します。

それによって、読者がヤマト文化とその発想の源について、より明確な考えを持てるでしょう。

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同様の文化が存在したと仮定すれば、私たちはおそらく間違いではないでしょう

紀元前1000年から紀元前500年にかけて、史記を始めとする古典が記録されました。その中にはもっとむかしの記憶についての記録も残されています。

一方、その後の年代記作者がいくつかの項目を誤って解釈したり、自分たちの時代の文化に合わせて改ざんした可能性もあります。しかし生業の有り様についてはあまりブレはないでしょう。

古代中国人にとっての農業の重要性は、運河、灌漑、排水、利水の繰り返しから集められるかもしれません。

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以下はコインの話 略

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天文学、数学、宗教など 略

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12.中国の墓制とドルメン

墓、洞窟、盛り土の埋葬が行われ、墓も石で造られました。

ドルメンは、1つの巨大な石で覆われた巨石室で、中国では非常にまれです。

それらは世界のどの地域でも一般的というわけではない。輸送の困難は計り知れません。

 2つ以上の大きな石で覆われた支石墓はより一般的であり、多くの小さい石がしばしば使用され、屋根はアーチ型または円錐形になります。

 このようなチャンバーは、構造が安定していないだけでなく、壁を構築する巨石への誘惑が大きくなるため、必然的に破壊されやすくなります。

 中国の農業文明の偉大な時代に、耕作民が古墳を破壊し、根底にあるドルメンを露出させ、これらのほとんどを消滅させたと考えられます。

 いずれにせよ、中国の霊廟などになお現存している小さめの支石墓は、ドルメンの直系の子孫であります。

13.メソポタミアと文字文化の拡散

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これらおよびその他の考察に基づくならば、メソポタミア文明は初期の中国文化の源泉だといえます。そして黄河地域の農業開拓技術は、もともとカスピ海の南岸地方(イラン)から来たという見方が成り立ちます。

現在の中国は西アジアの起源を感じさせませんが、正確な場所を与えるのはおそらく時期尚早です。

 葦や竹で書くことは、バビロン人と初期の中国人の両方に共通でした。

 どちらの場合も、絵文字から表意文字への変更は、筆記材料の違いから生じました。

柔らかい粘土の正方形のスタイラスに掻いた楔形の文様、織物や紙に刷毛筆を使用することで奨励される正方形(篆書)文字、いずれの場合も最初は苦労して絵を描いたのが、記号に置き換えることで、「時間の経済」の影響をもたらすことになります。

エジプトでは、石碑文(例えばロゼッタ石)は保存目的のために制作されあす。石の彫刻は時間がかかるがそれはそれでよい。しかし情報伝達を目的とする書字では象形文字が多用されます。

エジプトでは、教育はカルデアほど一般的ではありませんでしたが、公式の目的以外に、アルファベットの執筆は意外に流行していた可能性があります。その痕跡があります。

初期のエジプト人の書体は、シュメール人の書体に非常に類似しています。それはとても印象的です。

フェニキア人が商取引の媒体として文字を所持した事実は示唆に富んでいる。

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紀元前4000年までさかのぼって、シュメール語の書体は中国の古代の碑文よりも高度でしたが、実際に楔形文字やくさび形の文字が確立したのは紀元前約2500年までくだります。

 このメソポタミア文化を取り巻く草原・ステップでは、原始的な生活形態が後世まで続きました。バビロニアの時代、知識や習慣は外側の部族に向かってゆっくりと広がっていきました。

中国文化の発祥地は、カルデアと共通していたかもしれません。それともかなり外戚だったのかもしれません。


14.ヤマト文化と中国文明

ヤマト陶器固有の特徴と墓の珍しい碑文は、中国の初期のものに似ていますが、基本的な相違点もいくつかあります。

その「書」、天文学、宗教、工芸、特に水路の灌漑システムにおいて、中国の初期の文化は西アジアのそれに類似しています。

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「詩」は「その思いをゆったりと歌い、真剣な想いを表現したもの」と言われています。「舞」も社会の信仰活動では重要な役割を担います。

日本でヤマト時代が登場する前、中国の文明はどういう状況だったのか。それに関するいくつかの情報は、ヤマト文化を考察するときに役立つでしょう。

いくつかの類似する特徴とともに、いくつかの非類似の特徴にも注意する必要があります。

まず、中国からの文化の借用は明らかです。

しかし、日本語との相違、ヤマト神話、独特の習慣など、明らかに中国とは無関係のいくつかの機能が残っています。

古代中国の史書の記述に依拠するなら、ヤマト人の起源に光が当てられるかもしれません。この点については多くの言及が存在します。

ただし紀元前1000年以前の中国の歴史については、書かれたこと自体の真正性については、まだ結論を下すには十分に確立されていません。


15.朝鮮半島の歴史とヤマト
 
* この節に入る前に、この本の出版された1908年(明治41年)を想起していただきたい。翌年には日韓併合がなされ、伊藤博文がハルビンで暗殺される。その後大逆事件へと向かう。そういう微妙なときだけにおそらく日本人なら口をつぐんでいた話題であろう。

中国と日本の間には朝鮮半島とすでに述べた狭い海域があります。

紀元前1000年頃、現在の遼東半島や現代の満州の一部を含む、遼河地帯と大同江の間に古朝鮮が広がっていました。



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半島南部の残りの部分には、多くの部族や小さな王国が住んでいました。

中国の歴史にある、半島の民族に関する記述を文字通りに受け入れずに、
民族学的に観察すると、以下の点で人類社会の原始的な特徴とピッタリ一致しています。

1.竪穴住居。
2.綿、絹、麻については後で説明しますが、衣類は乏しいです。
3.祖先、トラ、木、天体の崇拝。
4.家の放棄、他の場所での新しい居住地の建設。
5.圧力による幼児の頭部の平坦化。
6.同族結婚の禁止。
7.農業の拒否(一部の地域)。

上記に多かれ少なかれ対応する社会の状態、部族の雑多な集まり、そしておそらく中国人からは冒険的で遊牧民の群れと見られ、支配の対象となりました。

 すべてのアジア全体で、敗北の結果は、虐殺、奴隷化、隷従を意味しました。

幸運にも、強力な敵との接触時に脱出した人々は、抵抗が最も少ない方向に向かい、占領が黙認された場所に落ち着きました。


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現代と同じように、アメリカの征服は武器の圧倒的な優位性と、規律と冒険的な精神によって実行されました。

極東の小国朝鮮に入った戦士たちも先住民とたたかって、開拓地を保持するのにほとんど困難がなかったでしょう。

これはおそらく同族社会と近親結婚の禁止によって混合された子孫によって促進されました、

また、先住民は内部の平原を広範に保有し、粗放な農業あるいは放牧を営むのですが、後発組はこれとは競合しませんでした。かれらは河口に近い沖積平野を比較的に限定的に、集約的に使用する農業のスタイルをとったからです。

中国の周王朝の創始者の弟箕子が五千人の信者と朝鮮に移住(または逃亡)したと言われています。箕子は紀元前11世紀初頭に箕子朝鮮を創設しました。

箕子は伝説的な人物で、人々に様々な芸術、医学、占い、そして文学を教えました。

 さらに、大同川の南側の領域が、ツングース系、中央アジア系、中国の長江流域からの入植者によって湿られた可能性があります。

 これらの民が漢王朝の時代まで独立を維持できたならば、彼らはおそらく中国から何も学ぼうとはしなかった。


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紀元前5世紀頃、または少し後、朝鮮の南にある多数の氏族が、それぞれ3つのグループまたは国と呼ばれる国に集められました。馬韓、弁韓、辰韓

 それぞれが国土固有ではない農業、養蚕業、その他の芸術を奨励した中央政府の管理下にあったと考えられています。

 辰韓と弁韓は、山の半島の背骨の西に領土を占めていました。 馬韓は山東半島の向かい側で、さらに南にありました。

 紀元前300年に鉄を生産したと言われていますが、鉄鉱石は長白山の近くで採掘されました。これより1世紀以上前に中国と朝鮮で鉄器として製造されていました。

朝鮮半島は袋小路を形成し、その中に初期のアジア文明の諸勢力が本流のように流れ込んだ。

 当時、武装国「朝鮮王国」は支配下の民衆が脱出しないよう妨害したかもしれませんが、南部に住んでいる人にとっては、海岸から見える対馬の島が魅力的な展望を形成し、海を越えてたっぷりの土地のある日本に引き寄せられました。

 
16.日本におけるヤマト族の受け入れ


ヤマト進出が具体的に侵略の形をとったと考える必要はない。

ヤマト集団が大陸から進出して権力を掌握するまではかなりの時間を費やした。

他の侵入者との競合、先住民の抵抗などの形で戦いを強いられた。

最初は海岸沿いの沖積地の小さな帯路のみが支配域で、背後の山には統権が及ばなかったこと、

等が挙げられます。

ヤマト移民が日本で国家的地位を獲得するには、優れた軍事条件と本土からの補強を持ってしても容易なことではありませんでした。それは種族間の融合とゆっくりとした形成過程を経て初めて成し遂げられたのした。
  
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歴史上どこでも、進んだ国が勝利し、文化水準の低い人々の土地を占有するできごとが見られます。

 エジプト人、ヒッタイト人、カルデア人、中国人、韓国人は進んだ国の範疇に入ります。以前は文化水準の低い人々は「蛮族」と呼ばれていました。

 日本でも最初は平等に、後には差別的に、先住民を扱っています。 この変化はかならず深刻な結果をもたらすでしょう。

先住民はまず最初に強い抗議をもって反対の意思を示します。なぜならそれはアジア本土から大和への文化の強制を意味するからです。

したがって、この文化の押しつけが先住民に受け入れられるためには、長期に渡る緩やかな変化が必要となるのです。


17.ヤマト族支配のもとでの本格的開発

 日本の沖積平野は奥羽の荒地までヤマトを引き寄せましたが、背後の開かれた社会は、石器人が禁止された文化の流入を供給し続けました。

日本の沖積平野にヤマトは引き寄せられ、北の荒れ地にも進出していきました。彼らの背後では先住民が支配者と交流しヤマトの文化を取り入れていきました。

ヤマト民族は、中東や東アジアからの農業生産システムを受け取とりました。そして農業のより高い生産目標、安定した社会関係を築き、労働システムを支持し調整することで、進歩をもたらす社会関係を発展させました。

農業生産と耕作は主として女性の働きによるものでした。それは否応なしに原始的な生活にうち勝つことになりました。

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8.エジプト文明

*かなりくどいが、我慢して聞いてください。これでもずいぶん省略した。

古代からナイル川の沖積層に設立されたエジプト王国は、長らく完璧なアジア風支配を維持しました。

エジプト文明の伝統はエチオピア、アッシリア、ペルシャ、ギリシャ、ローマへと受け継がれていきました。

建築・芸術と美学は、何世紀にもわたって高度な完成度に達しました。それは紀元前1千年ころまでの数千年の間に徐々に高みに到達します。

乾燥した気候と埋葬の慣習により、職人技の成果は他に類を見ないほど保存されています。


-11

その比類なき文明の長さにより、その文化の光が多くの芸術品や工芸品に輝き、思想の発達を与えています。他の国への文化の伝播は、商売を通して、旅行者の観察を通して行われました。

エジプトでの陶器作りは、ろくろを用いて整えられ、、かなりの高温で焼き上げられました。時々艶を出すために釉薬がかけられました。

エジプト人はガラス製造に優れ、知られている限りでは、この芸術の先駆者でした。彼らの宝石のイミテーションは非常に完璧だったので、今でも本当の石とまちがえることがあります。

さまざまな色のデザイン、成形およびカットは非常に並外れたものであり、グレージングとエナメルの技術は他の材料は、早くも第4王朝の頃に完成していました。


-12

冶金学、特に青銅、銀、金の技術もかなりの水準に達していました。

エジプト人は2つの名称の下で金属を分類しました。貴金属—金、エレクトラム(金と銀の合金)、銀。卑金属ー銅、鉄、鉛です。

国内の調理器具や家庭用の小さな器具は、ほとんどが青銅でできていました。青銅は鋳造と同様に鍛造されるようにもなりました。

いっぽう、スズ鉄は戦争の武器のために確保されました、および彫刻家や石工のノミ、斧や小刀の頭、ナイフの刃やのこぎりなどの硬い材料にも使用されました。

以下、エジプト文明の諸技術が延々と述べられるが省略。

-13、-14、

-15

9.メソポタミア文明

ユーフラテス川とチグリスの間の土地は、その驚くべき豊饒から、文化の古さはエジプトの古さではないとしても、その後の文明はおそらく優れていました。

冶金、陶器製造、織物製造の技術は、エジプトの芸術と異なりませんでした。一般的な教育と法的管理では非常に優れていました。

カルデアは、農産物だけでなく、高度な技術を必要とする織物やその他の素材の製造でも有名です。

地中海に近接しているため、古代の商業旅行者であるフェニキア人への物資の供給基地ともなりました。

大胆な海の探検家フェニキア人は、英国がやっと原始的な文化から脱出したころ「海を支配」しました。

地中海に植民地を植え、アジアの海岸に沿って交易の機会を捜しました。

-16

火と太陽の崇拝(拝火教)はメソポタミア全体で、さらに西アジア全体で優勢でした。

亡くなった人々に敬虔な供養がなされただけでなく、エジプトの場合のように、死者はくわ、鎌、くぎ、斧などの道具が副葬されました。

後期バビロニア人とアッシリア人ではセム族の血が主流でしたが、シュメール人とアカシア人の祖先は遺伝子的に言語的に印欧語系でした。

 エジプトとカルデア文明に対抗したヒッタイト、5つの海に進出したパルティア人などのさまざまな後の国家も印欧語系でした。

* メソポタミア文明がアジア文明の祖先だという割には、解説は淡白だ。メソポタミアの民が中央アジアの民、小アジアの民と交流(多くは非平和的な交流)するなかで、軍事的技術として車輪、馬の利用、銅→鉄の利用がもたらされた。さらに文字、小麦の利用が広がった。
そしてそれらを東西に広めたのが中央アジアの民の伝播力である。

-18


10.中央アジア諸民族

中央アジアは遊牧民族の生息地として知られています。トルコ・ウィグル系文化や言語は、セム族やヨーロッパ人から多かれ少なかれ明白に分離しています。

彼らはアジアを東西に歩き回っていました。タルタルのヨーロッパへの侵入も、遊牧民の移動の可能性を示しています。

カスピ海の北部に住む部族は、絶え間ない自然の脅威のなかで暮らしており、彼らの側の移動運動は、古代史の最も確かな事実の1つです。

*メソポタミアと同様多民族が時代を織りなしている。Y染色体ハプロで言えばG系人、N系人、R系人が過去から絶えることなく中央アジアを起点に大陸内部を東西に移動していた。彼らには文化を創設するほどの生産力はなかったが、文明を伝達する力を持っていたし、文明間の格差が極大化した時には、それを利用して支配者となることもあった。

-19

 有史時代の初めから、ユーラシア大陸の東西をつなぐルートとして、海路と陸路の両方が利用されていました。

紀元前500年以前は、海路ではなく陸路が東西アジアの文化伝達に使われていたと考えるのは合理的です。

大まかに言えば、アジアの緯度40度から50度の間は、人口の移動、武装遠征、商品の隊商によって、先史時代から絶えず横断されてきたと言えます。

このあとモンゴル人につての記載は省略




馬と車輪の年表

面倒なのでまとめて表示する。
* 「面倒」でやったことなのだが意外な発見があった。まず、車輪というのはそれだけでは意味のない道具で、まずは「動力」があって、それがどういう動力なのかによって意味合いがまったく変わってくるということだ。実は車輪の技術というのは、ローマ帝国以来、産業革命までずっと凍ったままだった。それが蒸気機関が発達しさらにガソリン機関が発展するに連れ、急速にイノベーションが進んだ。つまり車輪というのは、工学的発想から言えば一種の歯車なのだ。
* もう一つ、これは発見というよりたんなる感想なのだが、車輪の発明はコロの応用ではないのだ。コロの発想からは絶対に車輪の発想は連想されない。車輪の原理の核は車輪ではなく軸受にある。回転するときの摩擦抵抗をどう受け流すかが、技術の肝だ。
おそらくはロクロ回しが発想のきっかけだろうと思う。ロクロの真ん中をドーナッツにして芯棒を通せばそれで一輪車だ。ただしこの発想を実用に変えるには資材の強度が問題になる。それができたところから順に手あげ方式で、各地に車輪が生まれたのではないかと思う。
* 面白かったのは車両という運搬システムが一旦廃れたということだ。その理由が乗馬技術(というより技能と呼ぶべきだろうが)の発達だというのだ。これについては項を改める。


紀元前5千年ころ シュメール(ウバイド期)で最古の車輪が発明される。元々はロクロが発展したもの。

車輪の起源はコロ→+軸受説と、回転体→連結・横置き説がある。気持ちはコロ説だが、技術的にはロクロ説に傾く。工学的にはコロから車輪の発想は生まれない。「繋留コロ」にはまり込むともうアウトだ。

紀元前4000年ごろ 馬が家畜化される。手綱をウマの口でとめるハミが実用化。(牛はすでに紀元前8000年ごろ)

紀元前3700年ごろ カフカース(コーカサス)で荷車などが使われていた痕跡。

紀元前3500年ごろ ポーランド南部で出土した陶器に車輪のある乗り物が描かれる。 

紀元前3千年紀 車輪がインダス文明にまで到達する。

紀元前2000年ごろ カフカース地方でスポークを使った車輪が発明される。車輪が軽量化したことにより、馬車を戦車(チャリオット)として利用可能に。

最初はコロに使う丸太を輪切りにした。その後、板を円板型に貼り合わせたものに発展。

紀元前1700年ごろ アジア系のヒクソス人が馬に引かせた荷車(戦車)でエジプトに攻め込み蹂躙。おそらく小アジアのヒッタイト。

紀元前1600年頃 殷王朝の王墓から戦車が発掘される。車両は馬4頭だてで、車輪はスポークを用いたものであった。

甲骨文字に「車」「軍」という字の原型が見られ、軍は車(戦車)と囲いを示す。

紀元前1200年ごろ 中国で車輪を使った戦車が存在していた。

紀元前1千年紀 ケルト人が戦車の車輪の外側に鉄を巻きつける発明。

紀元前1000年ごろ 中央アジアでウマに直接に騎乗する技術が開発される。これにより騎馬・遊牧という生活形態が、著しく効率化。

紀元前8世紀 アッシリアが弓騎兵を活用して世界帝国に発展する。

紀元前3世紀 秦の始皇帝、戦車を駆使して全土を統一。

以上のごとく車輪発明のギネス争いは、「われこそ一番!」の名乗り争いが続いている。

出土された地域が点在しており、同じ時期に世界各地で考案されたと考えられる。

本家争いは実はどうでも良いので、馬と組み合わせた戦闘技術の柱の一つとして確立されたことに最大の意味がある。

軍事目的の実用が始まったのは紀元前2千年ころ、スポーク付き車輪が発明された頃であろう。

鉄・車輪・馬の三拍子が揃うのも、ほぼこの頃であろう。車輪は戦闘というよりロジスティックスだったのではないか。


古代の戦車httpswww.napac.jpcmsimagespublishchap01.pdf
             古代の戦車

というのも、ベン・ハーのようなチャリオットが戦闘の主役になる日はついに来なかったからである。

一頭の馬を戦闘に使いこなすにはそれに騎乗して戦うのが一番効率的だ。その技術というか技能が確立されたのが紀元前1000年ごろというから、それで古代世界は完成というか終わりだ。

あとはマケドニア帝国からローマ帝国となだれ込み、その後1千年の安定と停滞が訪れる。

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6.日本における民族の交代

古墳で銅製のヤジリが出土することがあります。発見された銅製の矢じりは銅鉾の形に似ています。ヤマト墓の青銅製の矢先は青銅文化の生き残りと思われます。

鉄の剣の導入により、青銅のような弱い金属は淘汰されました。突いたり切ったりするためには弱すぎるからです。しかしヤジリであれば、加工が容易であることは利点となります。だから鉄の導入後も使われ続けました。

青銅は武器や道具としては不向きですが、死者への供物としては用い続けられました。それには理由があります。

ドルメンで石の剣が出土するのは、古墳で青銅のヤジリが出土するのと類似しています。ドルメンの主たちの祖先には、石の剣を振り回した祖先がいたことを暗示しています。ヤマトの古墳から石の剣が欠如しているわけは、ヤマトの先祖が石の剣を使っていなかったからです。

それではヤマトの古墳からどうして銅剣が出てこないか。それはヤマトがやってきたときにはドルメンが(すでに)限られた地域にしか流布していなかったからです。

ドルメン人が鉄製武器の文化より後着したというのはありえない話です。

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青銅の担い手がヤマトの同盟者として日本に来た可能性はあります。しかしそれなら、青銅と鉄の剣が古墳(時代の墓)から見つかるでしょう。

まさに問題は、青銅文化から鉄の文化への連続的進化があったのかどうかということです。この問題は簡単に解決されません。

タイラーらが指摘したように、「文明化は、もともとの住民による自発的な成果ではなく、外国によって生成される傾向がある」のです。

文明は、内発的に発展する場合もあります。しかし劇的発展は移入によってもたらされることのほうが遥かに多いのです。

文化が継続的に発展した可能性を示すいくつかの証拠もありますが、それは包括的なものではありません。

圧倒的な量の遺物が示すのは、ヤマト時代の遺物が大陸から輸入されたものであり、それが日本人の新たな文明を形成したということです。

* つまりマンローは一種の「騎馬民族説」を唱えているのだ。大陸から鉄製の武器で武装した集団が来襲し、石器集団(部分的に青銅化)を支配する。それが大和政権で、ヤマト種族と弥生人との間には明らかに隔絶がある。

当面、確実な結論としては、日本のいくつかの地方で、アジア本土からの新文化の移入によって補強された進歩があったと仮定することです。


7.鉄はいつ、どこから、どのようにやってきたのか

青銅器と鉄器の文化がどこから始まったか、それらを日本に持ち込んだ軍兵がどこからやってきたのか(なぜならそれらの金属器はまず何よりも兵器であったから)、それらの兵器が大陸のどこから、どのルートでやってきたのか。

この大問題は、まだ明確に解決できていません。 これらの重要な問題は、しかしながら、いくつかの検討課題をかかえています。私はそれらの条件の短い要約を与えることを提案します。

ここで、アジア全体の状況をみたうえで、私はヤマト侵攻の時期について考えてみたいと思います。

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ここで説明されている「ヤマト」という言葉は、「ヤマトの国」から取られました。現在の奈良県です。中国の記録では、紀元1世紀以降の古代日本の主権者として記載されています(邪馬台国)

 日本の歴史家や考古学者は、ヤマトを政治的実体としてではなく、「種族」として語っています。それは先住民とは対照的にミカドの国を建国した人々の美称なのです。

 ヤマトという用語は、8世紀初頭の歴史的な時代(奈良時代)まで引き伸ばして使われることががあります。

ヤマト文化の流入は紀元前1000年から500年の間に始まったと考えられます。それは世界史に見るならば、アジア西部(中東)に起きた鉄器文明が、偏西風のように中国・韓国へ流れ、進歩をもたらした歴史です。







以下は、マンロー「先史時代の日本」序説(Preamble)の要約です。北海道立図書館にある原本を底にしています。ただしアメリカの図書館のサイトでは、写真判(PDF)のほかになんとテキスト版で閲覧・ダウンロードできます。

冒頭、マンローはこの本の性格についてこう書いています。

The following work is an attempt to give the European reader some idea of Prehistoric Japan.
A longer preparation would have been desirable but circumstances did not counsel delay.
The result is a sketch rather than a complete picture but it is a faithful sketch so far as it goes.

序説だけでも33ページあり、率直に言って文体は古風、学術論文にしては冗長です。古今東西の固有名詞がならび専門用語も多く、グーグル翻訳は歯が立ちません。

いかにマンローが悪文(主観的には美文?)かを味わっていただきたい。
It is not impossible that this metal, which is less common than iron as a material for arrow-heads, though less liable to disappear through decay, was in special vogue as an appropriate offering to the dead.

文章構成はハチャメチャで、見出しなど一つもありません(見出しは勝手につけたもの)。そして突如として終わるのです。

それにも関わらず翻訳作業をやりきったのは、やはり中身の面白さです。手垢のついた先史時代の日本論とはまったく異なる、世界史的、人類学的パースペクティブが繰り広げられるのは一種の快感です。

“Prehistoric Japan”は先史時代と訳しました。歴史に先立つ時代という意味です。それに対して石器時代(縄文時代をふくむ)は原始時代としました。 あとに出てくる古墳時代マンローのヤマト文化時代は原史(Protohistoric)としました。

誤訳もあろうかと思いますので、変なところは原文に直接あたってください。

私なりの解説は、1ポイント字を小さくして、要約のあいだに挿入していきます。




先史時代の日本 序説

1.日本列島の自然地理

日本列島は東アジアの海岸に沿って、3連の花綵(かさい)のように連なっています。

中央の花綵は、南の九州と四国から北のエゾ・サハリンへと繋がります。この中央曲線と向き合うユーラシア本土は反対側に後退し、日本海を形成しています。

*この中央弧は、今日ではユーラシア大陸東縁の太平洋側へのかい離と考えられている。これに対し千島列島、琉球列島は本来の花綵列島である。マンローの時代はプレート・テクトニクスの考えは生まれていなかった。

中央弧の西端は朝鮮半島に接近し、朝鮮海峡を形成しています。さらに海峡の途中に両方をつなぐように対馬、壱岐などの島が連なっており、晴れた日にはお互いの島影全体が見えます。

日本の北端にあるサハリン島は、エゾとシベリアの間に架かっています。

このように、大陸と日本列島の間の海は、たとえ原始人類であっても行き帰りにほとんど障害を与えませんでした。

北側の花綵曲線は千島列島によって形成され、カムチャッカ半島に到達します。それはオホーツク海の東の境界を示します。

南側の花綵曲線は、台湾(フォルモサ)と接近する琉球諸島で構成され、東シナ海の境界を形成します。フィリピンとも敷石上につながるこの経路を用いれば、マレーシアやポリネシアまでもコミュニケーションが可能でした。

 この北上ルートに沿って、黒潮の流れに支えられて、現在でも区別が可能な2つの人類が先史時代に日本に到達したという強い推測があります。

* 港川人(1967年発見)などは南方由来と考えられるが、縄文以降は台湾と琉球の間は人的交流は見られず。南方からの進出は見られない。遺伝子研究にっよれば、先島諸島までふくめすべて縄文人と考えられる。


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2.日本の原始時代

日本ほど古代文化の名残が豊富な国はほとんどありません。

大陸や朝鮮半島との地理関係は、日本をさまざまな民族的要素と文化の自然な合流点に指定しました。他の地方との間隔は移住の決定的障害とはなりませんでしたが、移住しやすさにはかなりの影響がありました。

* 最初は4万年前、朝鮮からナウマンゾウを追って渡海してきた人々。ついで2万5千年前、最終氷河期の極期に間宮海峡・宗谷海峡からマンモスを追って南下してきた人々がいる。マンモスは青函海峡を渡らなかったがマンモス人は渡り、本州から沖縄まで全国に広がった。彼らがやがて縄文人となる。

言語など伝達情報や手段は明確な区別があります。それは住民に選択的な影響を及ぼします。

先史時代の古代日本にもそれは言えます。初期の文化の類型を簡単な概要で比較しておくことは、後の日本の文明を考えるうえで有用でしょう。

先史時代の考古学は、日本に2つの異なる文化が存在することを明らかにしています。さらに3番目の文化の痕跡も存在しています。ここではそれにも触れておきます。

最初の文化は原始時代(Primitive Ages)の文化です。土に埋め込まれた多くの遺物(貝塚)が残されています。もう一つの文化は、特定の権力者のために構築され、後に発掘された墓室や洞窟(古墳)です。そしてそこから発見される遺物です。後者が土壌から掘り出されることもありますが、それは例外的なことです。

古墳と関連する遺物は先史時代の文化です。それ自体が時間的、空間的に限定された存在です。このため、ある特定の時代の陶器が後の時代の墳墓に副葬する場合を除いて、評価に混乱は起こりません。

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3.縄文文化(貝塚と生活用具)

* マンローの時代、日本の原始時代における無土器文化は実証されず、原始時代(石器時代)は縄文文化から始まると考えられていた。それは九州南部で1万1千年前、東北で1万年前から始まる。

貝塚の文化は原始的な文化です。それは4,000を超える住居と貝殻(廃棄物)を考古学的特徴とするユニットです。金属製品は皆無です。

天然石の存在が特徴で、磨かれ、細かく削りだされたり、荒く削りとられた道具や石器、様々な用途に使用されている天然石の存在が特徴です。

副次的生活道具である土器は、すべての時代や場所について常に存在しています。

* マンローは、縄文式土器の存在は彼らが石器人であることを否定はしない、と考えている。肝心なのは生活用具ではなく生産用具、さらには軍事用具である。

陶器は素焼きです、通常は粗い質感であり、石器や磁器などの固さを備えているわけではありません。この時代ではろくろは使われません。

 それは一般に華美(ornate)で、過剰な装飾が施され、時には非常に手が込んだものである。貝殻と骨の加工品は装飾品である。通常は住居跡で発見されます。

「原始的」という言葉は古い(Ancient)というだけではなく、「始原的」(Prototype)という前向きな意味合いを持っています。

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未開人の特徴は、石器を使用する文化です。これ(縄文時代)を石器時代と呼ぶことは適切です。

燃料以外の木材の使用は、過去3000年までさかのぼります。ひょっとすると木材は、原始人の生活において、文化尺度としての優先権を、加工された石よりも強く主張するかもしれません。

しかし進歩の共通の尺度として、石器は間違いのないものです。そして日本の原始文化を、ヤマト文化と区別する指標となります。


4. ヤマト時代の遺物

ヤマトの遺物には石の武器はありません。ヤマトの墓では、鞘包丁や刀の石の模造品、時には青銅製の矢じりを石で模した複製品が見られます。それは生産用具ではありません。実用というには小さいサイズです。

磨かれた石による不可解な目的の道具、調理器具の小さなモデルが存在します。これらは原始的な文化を意味するものではありません。副葬するにはもったいないというだけの話です。

それらは「石器時代」を意味するものではありません。

 ヤマトにとって「石器時代」は事実上過去のものでした。

ヤマトの墓には青銅の矢じり、銅鐸、銅鏡などがいくつか見られますが、主要な銅の役割は金や銀メッキの土台などでした。

しかし、このヤマト文化の主な特徴は金でも銀でもどうでもなく、鉄でした。長い直線の剣、馬具と他の家具は丁寧に仕上げられ、鋲留めされています。

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陶器は非常に硬質です。 部分的な例外を除いて、すべてろくろで成形されています。 装飾はシンプルで控えめです。

 墓から得られた陶器はおそらく葬式や儀式用に特別に制作されたものです。 この陶器の落ち着いた色合いと装飾、および他の陶器とは異なる仕上げの様式がそのことを示唆しています。


5.支石墓と青銅器時代

ヤマト時代は原史時代(Protohistoric)と呼ばれていますが、日本のドルメン文化が終わったのが、文字で表わされた「歴史」の登場する400年ほど前のことなので、それらを先史時代(Prehistoric)と呼ぶのが正確です。

* ここでマンローの独特な歴史区分に言及して置かなければならない。マンローは日本の人類史を、石器時代と鉄器時代に分ける。これが基本だ。
ついで、石器時代と鉄器時代の間に青銅器を念頭に置いた移行期を設定する。これを支石墓時代(ドルメン期)と呼ぶ。さらに鉄器時代が始まってから文字による歴史の時代に至る期間を、ヤマト時代(先史期)と呼ぶ。
ややこしいことに、マンローはこれを後期支石墓時代と呼ぶこともある。その際は前方後円墳も支石墓とみなされるわけだ。
これにより先史時代は4つの時代・時期に分けられる。
すなわち、
1.石器時代 通常区分では旧石器+縄文が相当する
2.支石墓時代 通常区分では弥生時代に相当する
3.ヤマト時代 通常区分では古墳時代に相当する
4.有史時代 通常区分では奈良時代及びその後現在に至る時代。
ということで、実際上は通念上の区分とあまり変わらないのだが、特徴づけ方が相当変わっている。

6世紀から7世紀の出来事(飛鳥時代)は、8世紀の日本書紀・古事記に書かれた資料があります。しかしそれは日本の長いドルメン期のごく一部に過ぎません。

 葬儀の風習も墓の内容に一定の特徴を与えていますが、初期のドルメンと後のドルメンの内容に大きな違いはありません。

*後期ドルメンは前方後円墳が終わっても続くことになる。これは「プレ記紀時代」の定義であって、ドルメン期の定義ではない。このドルメン観には最後まで悩まされることになる。

 「先史時代」という表現は文章におる歴史の誕生以前、数万年前からの相対的または地域的な意味しか持っていないことは明らかです。

支石墓文化を別な面から眺めれば、石器時代と鉄器時代の間、すなわち青銅器時代ということも可能です。青銅器文化が石と鉄の時代の間に日本の南西部に限定して存在したといういくつかの事実があります。

* これも牽強付会の説である。九州西部に限局しているのはまさに日本型支石墓であり、青銅器は当時弥生人の生活圏すべてで発見されている。

 剣、甲羅、矢じりなどの青銅製の武器は、九州の土壌と内海に面するいくつかの州で発見されています。銅鐸はヤマト周辺とその東方で報告されています。

これらはヤマトの古墳には見られず、石器時代の遺跡にもありません。青銅器が唯一発見されるのが支石墓であり、それはヤマトとは異なる文化に属しているかのように見えます。

支石墓には金属器の代わりにそれを模倣した石器がしばしば見つかります。それは石器時代の人たちが金属器と接触しなかったことを示しているわけではありません。



前期記事 「支石墓の謎 墓地に見る日韓交流」
の冒頭講演 「支石墓に見る日韓交流」を抜粋紹介する。

演者は埼玉大学准教授の中村大介さん

1.支石墓とは

日本では弥生文化の開始期に北部九州で突然出現する。ゆえに弥生文化を考える際にきわめて重要なマターである。

2.支石墓の種類

ドサッとコピペする。東アジアだけでも色々な言い方があるということだ。

支石墓の種類

3.東北アジアの支石墓の源流

遼東半島源流説が主流となっている。石棚墓の源流が長江流域だとする主張があるが、明確な根拠はない。

遼東半島では支石墓に先立ち積石墓の例があり、この墓式の流れと考えられる。

支石墓の開始は紀元前15世紀ころ。紀元前6世紀に一気に拡散したと考えられる。

4.朝鮮半島の支石墓

半島南部では一次葬が主要であり、墓は個人用のものと考えられる。したがって形態は類似していても葬制は異なっている。

南部支石墓は2つの亜型に分かれる一つは浅い湖南式、もう一つは深い嶺南式である。

紀元前2世紀にはすでに衰退が始まった。これは鉄器の流入と符節を合わせている。

5.日本列島の支石墓

分布地は島原、糸島、唐津、佐賀に偏在している。この内、糸島が嶺南式でほかは湖南式である。。

6.支石墓に葬られた人

嶺南の支石墓では弥生人に近い半島住民が確認されている。

糸島・唐津の支石墓で発掘された人骨は縄文晩期人の形質的特徴を持つ人骨が確認されている。


ネット上で、支石墓に関する論説は少ないが、下記の記事が参考になる。
平成26年度 東アジア国際ミニシンポ「支石墓の謎 墓地に見る日韓交流」記録
文字化けしてコピペができないので、別記事で要点を複写して転載する。

紀元前1500年頃 遼東半島付近で支石墓が発生。テーブル状形態を示す。

その後 テーブル型支石墓は中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に拡大。

縄文晩期 長崎県大野台・原山に石棚墓群が出現。浙江省の石棚墓群に類似する。屈葬や箱式石棺を伴う。(支石墓としている記事もあるが、石棚墓に近い。行きに支石墓が皆無であることから浙江省から直接渡来した人々によるものではないかとの説もあり)
大野台

紀元前500年頃 朝鮮半島が無文土器時代に入る。

紀元前500年頃 支石墓が朝鮮半島のほぼ全域で造設。約4-6万基とされ、世界の支石墓の半数に相当する。分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。

ユネスコ世界遺産に指定された高敞、和順、江華の800近い支石墓群は、青銅器時代の北方式支石墓とされる。
幽里

紀元前400年頃 朝鮮半島西側の中南部と北部九州に支石の丈が低い支石墓が広がる。天井石が碁盤状を呈するため碁盤石とも呼ばれる。テーブル型との境界は全羅北道付近とされる。


紀元前400年頃 朝鮮半島からの強い影響を受け、碁盤石、蓋石墓が松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広がる。支石墓の地下には土壙(どこう)、石棺、石室、甕棺(かめかん)などが設けられる。

紀元前200年頃 弥生時代中期。墳丘墓出現(吉野ヶ里遺跡)

紀元前後 弥生後期。支石墓内に細型銅剣が副葬されるようになる。須玖遺跡では多量の前漢鏡・銅剣・銅鉾・玉類を出土する

紀元100年ころ 弥生時代終期 日本の支石墓が終焉を迎える。

ヒッタイトと鉄の歴史

ヒッタイト地図
              ヒッタイトの版図

紀元前 3500年ころ メソポタミアでは紀元前3000年ころの隕鉄性鉄器が発見されている。またアナトリアの王墓からは隕鉄製の短剣が発見されている。

紀元前2000年ころ クリミアの印欧語人が黒海を渡り小アジアに侵入。先住民を制圧しヒッタイト国を建設。

紀元前 1800年ごろ クレタ島の民が、山火事の焼け跡から隕鉄を発見、鉄鉱石を高温で蒸し焼きにする直接製鉄の原理を発見。

紀元前 1700年ごろ クレタ島の技術をヒッタイトが継承し人工鉄製造法を開発。門外不出の国家的な技術とする。(最近の調査で鉄の製造は紀元前20世紀をさかのぼる可能性が指摘)

最初の製法は直接製鉄法: 木炭を低酸素下に熱して、CO→CO2により、混焼した酸化鉄の鉱石を還元する。

紀元前1190 ヒッタイト帝国が「海の民」の侵攻により滅亡。背景に製鉄のための森林乱伐と枯渇。その子孫(タタール人)はインドや中国で製鉄を伝承。

紀元前1000年ころ 製鉄技術が中国,インド,ギリシャへ伝播。

中国で製鉄法が発達。鉄鉱石を溶解する銑鉄の製造( 間接法 )まで進化する。

紀元前 200 年ごろ 青銅器にやや遅れて鉄器が伝来。最初は鉄斧( 錬鉄製 )

紀元前119年 中国で鉄と塩が専売制になる


西暦 400 年ごろ 九州,中国,大和地方で砂鉄を用いた初期の「 たたら吹き 」製鉄が始まる。「 たたら 」は,タタール人が語源。



とりあえずあまりかまけている暇はない。
マンローの所説を理解するための覚え書き。

1.メソポタミアの文明は諸民族間の戦争と、諸民族の共通利害の形成(戦争予防)の文明なのだ。
こういう時代は世界史の中でいまだにない。シュメール人が原基になっているが、それは紀元前2千年、ウル第三王朝の滅亡とともに消滅した。
後はセム人を主体としながら印欧語人がしばしば襲来するという構図だ。印欧語人というのは中央アジア人という意味で、セム人生活圏の北方に居住する人々である。

2.以後は唯武器時代だ。強いものが勝つ弱肉強食の時代である。ただし腕っぷしが強いとか勇敢だとかいうだけでは覇者にはなれない。最後に物を言うのは知恵と情報である。

3.ただし中央アジア人そのものが人種の坩堝みたいなところがあり、古くはヨーロッパで絶滅したG人、その後は東西廻廊(シルクロード)を形成したN系人、印欧語人、などが重畳して「中央アジア人」を形成することになる。

4.肝心なことはグリニッジが世界の標準時になっているように、メソポタミアが世界文明史の標準時になっているということだ。そしてヒッタイトで鉄が実用化された紀元前2千年が、人類史の紀元ゼロ年なのだということだ。

少なくともマンローはそう信じているということだ。



紀元前4000年 ティグリス・ユーフラテス両河下流の沖積平野では人口が増加。神殿を中心とした大村落が数多く成立し、銅や青銅器なども普及。文字が発明された。先住のシュメール人の他、セム語族のアッカド人、アムル人、アッシリア人らが侵入。

紀元前3500年 メソポタミア Mesopotamia文明が発生

紀元前3000年 農業や牧畜に直接従事しない神官・戦士・職人・商人などが増え、大村落は都市に発展した。

紀元前2700年 シュメール人が都市文明を建設。ウル・ウルク・ラガシュなど。

紀元前25世紀 ウル第1王朝時代。大規模な治水や灌漑によって農業生産を高め、交易によって必要物資を入手した。都市は周囲を城壁で囲まれ、中心部には神殿。

紀元前24世紀 シュメール人都市の勢力は衰え、北方のセム語系のアッカド人によって征服される。

紀元前24世紀 アッカド人のサルゴン1世、メソポタミアの統一に成功する。さらにシリアや小アジアやアラビアにまで進出。

紀元前23世紀 サルゴン1世の国が東方の山岳民の侵入をうけて滅亡。

紀元前22世紀 シュメール勢力の復興。ウル第3王朝を名乗る。

その後 アムル人がメソポタミアに侵入。アムル人は「西の人」の意味。シリア砂漠に住むセム語系遊牧民。

紀元前20世紀 ウル第3王朝が滅亡する。

紀元前20世紀 印欧語系民族の一支族、中央アジアから移動を開始する。

印欧語族の強さの秘密: 馬を戦闘に使用した。オリエント世界では初めてのことであった。馬に引かせた戦車隊は機動力をいかして先住民をつぎつぎに撃破した。
このためオリエントの各地方の接触が促され、1つの世界としての『古代オリエント』が形成された。
中東BC2千年

紀元前19世紀 アムル人がバビロンを都とする古バビロニア王国を樹立。バビロン第1王朝と呼ばれる。

紀元前19世紀 小アジアのアナトリア高原に印欧語系のヒッタイト人が進出。

紀元前18世紀 古バビロニア王国の第6代王・ハンムラビが、全メソポタミアを統一して中央集権国家に発展。

ハンムラビ王の功績: 
① 運河の大工事をおこなって治水・灌漑を進める。
② シュメール法を継承・集大成したハンムラビ法典を制定する。「目には目を、歯には歯を」の復讐法の原則にもとづく。これにより領内の多民族を統一支配することが可能になる。

紀元前1680 ヒッタイト王国、古バビロニア王国と争ってこれを滅ぼす。

ヒッタイトはバビロニアを破壊・略奪し引き揚げる。メソポタミア南部には印欧語族のカッシート人が入り、バビロン第3王朝を建てる。

紀元前15世紀 印欧語族フルリ人がメソポタミア北部から北シリア一帯にミタンニ王国を形成。

紀元前1430 ヒッタイト新王国が成立。

紀元前1330 ヒッタイト新王国、ミタンニを制圧する。

紀元前1274 ヒッタイト王国、北進してきたエジプト新王国のラメセス2世と、シリアの覇権をめぐって争う。カデシュの戦いで引き分けとなり講和条約を締結。

紀元前13世紀末 東地中海全域を巻き込んだ民族大移動。バルカン方面から大量の民族が侵入する。(海の民の襲来)

紀元前1180 ヒッタイト王国が滅びる。民族大移動が原因とされる。ヒッタイトに独占されていた製鉄技術が、オリエント各地に普及する。

紀元前7世紀 アッシリア、鉄製の武器と騎馬戦術によにより全オリエントの統一に成功。

まもなく新バビロニア・リディア・メディア・エジプトの4大王国に分裂。

紀元前525年 メディア王国の流れをくむアケメネス朝がオリエントを統一

マンローは縄文・弥生という時代区分を用いずに、先史時代の日本を描き分けています。
それは日本の先史時代をメソポタミア、アジア北部回廊、中国古代王朝、朝鮮半島と一貫した変化として捉えるために非常に重要な視点を提供しています。
そしてこの世代交代の重要な指標として「ドルメン文化」の考えを突き出しています。しかしながらこの考えはうまくなかったと思います。理由は西欧のドルメンとインドのドルメン、遼河文明、朝鮮の北方式と南方式はそれぞれが起原も発送も異なっているからです。少なくとも朝鮮の北方式と南方式は分けて考えるべきでしょう。

ただマンローがとくに朝鮮半島の南方式(支石墓)を重視したのは大事なポイントです。
マンローは支石墓文化の世界的な共通点として、青銅器時代=鉄器時代の前夜という歴史段階を考えました。それは石器時代と鉄器時代という人類史の二段階の短い移行期であり、とりわけ東アジアでは短縮され、一つの時代としては認識し得ないほど短い場合もあるが、必ず通らなければならないステップだとかんがえたようです。

そしてその考古学的特徴を列挙し、これを先史時代と歴史時代の分岐点として、日本の歴史を考えるよう進めました。
ともすれば陶器の文化、木の文化、稲の文化に目を奪われがちな我々にとって、この世界史的な視点はぜひとも心すべきことです。

この教えは引き継ぐべきではないでしょうか。

ドルメン同根論は破綻したが

ドルメン同根論は間違いなく破産している。マンローは破産したドルメン論にしがみつくことにより、考古学・人類学の主流から外れてしまった。

しかし同根論の根っこにある北方系人種の横移動の歴史は、必ずしも廃棄されたわけではない。

Yハプロ学説が人類学を席巻する20年前までは、HLA、T細胞白血病、HB抗原など多くの研究で、東アジア人の原基は北方を指していたのだ。

さらに、麦、金属器の渡来は中央アジアからの北方ルートを経由したと考えるのが素直である。


中央アジア系人種の横移動

ヨーロッパ先住民・ハプログループG2a

ドルメンの議論を聞いて初めて知ったのは、西ヨーロッパに先住していたのが非印欧系のハプログループG2aだということであり、彼らの時代は紀元前5000年に始まり3000年まで続いたということである。

ハプロGグループは9,500-30,000年前にコーカサスで誕生した。紀元前5000年に一部がヨーロッパに移動した。当初より農耕技術を持っていた可能性がある。

紀元前3000年ころにはハプログループR1b (Y染色体)に属す印欧語集団に駆逐され、混血することなくほぼ絶滅した。これをもってドルメンの時代も終焉を迎えた。

ハプログループG2aは現在もジョージアを中心にコーカサス地方に分布している。彼らの中央アジアにおける生息域は、現在のトルコ・ウィグル系人種のそれと重なっている。

もう一つの北方系ハプロ集団 N系人

おそらくマンローが混同しているのがハプロN人である。

ハプロN人は、20,000年前~25,000年前に、中央アジアでハプロO人と分岐した。シルクロードを経由し東アジアに達したと見られる。

一部は西方向に横移動しフィンランド人の祖先となっている。

N型人は確実な遼河文明の担い手である。古代中国文明の最初期に属する周王朝が、N系人による国家とする主張もある。私は与しないが。

N型が中央アジアから東進するに際して、先住者であるG型人の風習・伝統を身に着けた可能性があるが、人種として直接の血の繋がりはない。

強いて言えばG型人はコーカサス人であり、N型人はアフガンないしタジク人である。

N型人の過剰な強調には要注意

最近N型人の歴史的意義の強調が目立つ。中には通説の書き換えを迫るような提起もある。

注意しなければならないのは、O型人との関係を見誤らないようにすることだ。

最近の考古学的知見によれば、遼河文明のうち夏家店文化の上・下層の境界、すなわち紀元前1500年頃に遼河文明の担い手がN型人からO2人に交代したようである。

遼河文明の人種的交代が紀元前1500年頃とすれば、紀元前1000年ころに始まる黄河流域の周王朝がそれを遡ることはありえず、遼河文明研究者による引っ張り過ぎだろうと思う。

N型人とO型人はどこで分化したか

ウィキの流れ図では、イルクーツク近辺でNとOが分化したことになっているが、今日の通説としてはOはインド経由でインドシナから華南へと進出したことになっている。亜型(C1,C2)への分化のパターンもそちらのほうが説明しやすい。

ウィキによるNOの流れ図


それに華北~東北地方におけるN型人の現代の分布を見ても、明らかに南から北上したO2人がN系人を駆逐し、周辺部へと追いやっていることが明らかだ。

したがってNO人はイラン~アフガンあたりで分離し、O型は南ルート、N型は北方ルートで東アジアに入ったとするのが考えやすい。

N型人は交易民だった可能性がある

N型人はたんに進出し、征服し、支配する民族ではなかったのではないか。

かなり頻繁に東西方向への移動を繰り返し、西方文化を東アジアにもたらした可能性がある。

蒙古族や満州族、ツングース系は古来より土着していたC型人だが、西域回廊を支配していた夏や匈奴、突厥などはN型人だった可能性がある。

北方ルートを通じて麦栽培、青銅器、鉄器という三大文化が持ち込まれたのは、まさにN型人がルートを押さえ、華北を支配した時代と一致する。

マンローの偉大な示唆

何れにせよ、遺伝子解析などなかった20世紀初頭に、マンローが、横移動する民族、支石墓時代(青銅器)から鉄器時代の移行が民族の交代を伴った可能性、などまで念頭に置いていたことには驚くほかない。

私は素人でこれ以上の言及はできないが、学界各氏のご検討をたまわりたいと思う。

「マンローとドルメン論」に関して面白い論文を発見した。

く物の解釈>学知と精神』という表題で著者は 全成坤さんという方。肩書きは高麗大学日本研究センターのHK研究教授となっている。日本語の文章である。

この論文の主眼は、崔南善という日帝時代の考古学者を紹介するものである。
これによると崔南善は「楽浪文化は朝鮮における最古の最大のものである」とし、個々の用具や様式が個別に日本に渡ったのではなく、一塊の「文化」として渡ったと見るべきだということだ。

そしてその論文でドルメンに言及して鳥居龍蔵の研究とゴードン・マンローの見解を紹介しているのである。

申し訳ないが、そこだけ知りたいので抜書きさせてもらう。

鳥居のドルメン研究のきっかけはマンロー博士の慶応大学での講演「日本人の起源」である。
鳥居によれば、マンローは以下のようにドルメン論を提示した。

①日本にはドルメンが多い。その構造はヨーロッパ、アフリカ、インドのドルメンと同じである。またアフリカ、インド、日本にしろ、さらにヨーロッパにしろ、その原始的記念遺構の出土品はすべて閉じである。
②ドルメンを建築した人種は同ーの起源であって、日本の先史時代文化はヨーロッパからインド、さらにまた中央アジア、蒙古、朝鮮を経て入ってきた。

この論旨は「先史時代の日本」にお手も通底している。

これを見た鳥居は、以下の見解に至っている。
①その名称が示しているように、これはテープルであって、決して部屋ではない。ドルメンと古境をわけて考えるべきだ。
②マンローの「日本人は総じてヨーロッパ人と異なる民族とはみなしえない」という説に同意する。

この日欧同一民族説は、現代の私たちには到底認められるものではない。

鳥居はこの点に配慮して、ヨーロッパからの巨石文化論を受け入れ、人種の移動論を展開しつつ、日本における「異なる」古墳形態が生成されたという立場に立つのである。

しかしこれでは紛糾した議論に風を送るようなもので、なんともひどい様になってしまった。

これがゴードン・マンローの負の側面である。

支石墓(ドルメン)
日本においてそれは卓越した文化を形成したのか?

マンローの「先史時代の日本」はまことに素晴らしい本である。それはマンローの博識と偉大な仕事の結晶であり、シーボルトJrやベルツなど初期文化人の高水準の考察の賜であり、明治期考古学の金字塔と言っても差し支えない。

ただ、ドルメンについてだけは素直に首肯できないところがある。

もちろんドルメン文化が日本にも存在したことは認めるにやぶさかではない。しかし西日本の支石墓と北日本のそれとは、起原も時代も支えた人々もまったく異なるものだろう。

これをドルメンとして一括することは、私としては認められないのである。

この議論は、マンローの日本ドルメン文化論の誤解に基づくものかもしれない。まずはウィキペディアからドルメン論を学んでおきたいと思う。


A.起源
もっとも早い発祥は西ヨーロッパだが、それは起原ということではない
世界各地で独自に発展したと思われる。

①北西ヨーロッパ
紀元前4000年-3000年頃: 新石器時代から金属器時代初期に建造された。

②歴史的背景
農耕の伝播→人口増加→階層分化と関連している。
紀元前3500年頃に巨大な支石墓が激減し、小規模な支石墓へ移行。
紀元前2000年頃、西ヨーロッパの支石墓は消滅。
③消滅の理由
ウィキでは「上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられた」と説明されているが、到底納得できない。
私は石がなくなったためだろうと思う。畑作りに際して巨石を取り除いたのが、畑の開発が「完了」したために材料がなくなったのではないか。

④支石墓の作り手
ヨーロッパにおける支石墓の主な作り手は、ハプログループG2a (Y染色体)とされる。アイスマンがその典型
Haplogrupo_G_(ADN-Y)

⑤遼東~南満の支石墓
紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、中国吉林省方面へ広まった。
巨大な一枚岩を天井石とし、これを複数の板石で支えるテーブル型構造で、北方式と呼ばれる。

⑥朝鮮半島の支石墓
朝鮮半島では世界の支石墓の半数、約4-6万基が存在する。遼東半島より出現は新しい。

南方式と呼ばれる。地表は土盛りで地下に支石構造の埋葬施設を持つ。

紀元前500年頃(水稲作の開始頃)から半島のほぼ全域で建造、特に南西部の全羅南道である。
日本では縄文時代晩期に浙江省様式の支石墓が長崎県に建造される。西北九州から広がることはなく、稲作受容期の弥生時代前期には早くも終焉。
朝・日での担い手はハプログループO1b2 とされる。


斎藤文紀「東シナ海陸棚における最終氷期の海水準」 第四紀研究 1998

東シナ海における最終氷期の海水準を検討した。
koukai

この結果、5万~2万5千年前の海水準は黄海で-80±10m,東シナ海で-0±10mと推定された。
最終氷期最盛期ではさらに低く、最低位海水準は-120±10mと推定された。
現在のような海域が広がりはじめたのは第四紀に入ってからである.
氷期は寒冷と同時に結氷による乾燥気候をもたらしてた。
1万3千年以前、黄河は乾燥によって干上がっていた可能性がある。 


という文献を見つけた。というより以前にも見ている可能性がある。
図を見ると、80メートルの等高線は東シナ海より北に切れ込むが、それでもソウル~山東半島のラインまでにとどまる。これが現在の等高線とすれば、かなり黄河の土砂が等高線を押し上げている可能性はあるが、それでも朝鮮半島と大陸が陸続きだったということになる。
1万年前ころ稲作文明を築き始めた長江流域の人々と、同じDNAを持つ人達が朝鮮半島にいたかも知れない。


「革命の上海で…ある日本人中国共産党員の記録」という本を読んだ。
著者は西里竜夫。戦後、長く日本共産党熊本県委員長を務めたらしい。
1977年 日中出版からの発行となっている。
西里

多分、西里さんも中西功さん同様に、戦後は微妙なコースを歩んだのではないか。

38歳で終戦を迎え、釈放された。まもなく日本共産党に入り、40歳で熊本に戻る。同時に熊本県委員長となるが、3年後に委員長を降りている。同じ1950年、中西功(当時共産党選出国会議員)は党中央と対立し除名されている。いわゆる50年問題である。西里も関連していた可能性がある。

50歳で熊本安保共闘の副議長に就任しているが、党における肩書きは不詳である。
以後20年間の経歴は空白となっている。しかし衆議院選挙には毎回出馬、毎回落選を続けているので、日和っている様子はない。そしてこの本を執筆した70歳の時点で、県委員会副委員長となってる。

なおこの本を発表した1977年といえば「文化革命」真っ盛りの頃だ。しかしその話はまったく触れられていない。異様といえば異様だ。

彼はその後さらに10年を生き、80歳で息を引き取っている。

ストーリーはすべて一人称で書かれ、ディテールは異様に詳細だ。日記をつけることなど許されるわけはないので、ややいぶかしさを覚える。

ただ研ぎ澄まされた神経の中で生きた十数年であるので、私ども「ぼーっと生きている」人間には想像もつかないような記憶力が働いているのかも知れない。

豊富な史実が散りばめられているが、もはや私にいちいち拾い上げるほどの根性はない。



義和団事件の真相

事件の経過を知ろうと思いネットを探したが、さっぱり分からない。

私の予備知識としては、むかし映画で見た「北京の55日」くらいだから、そもそもなんの事件か分からない。太平天国の北京版くらいに思っていたが、ある一つの記事にあたってかなり「目からウロコ」の思いである。

その記事が、コトバンクに掲載された「日本大百科全書」(ニッポニカ)の解説


これにネットから拾ったいくつかの周辺的事実を加え、物語的に仕立ててみた。

1.「義和拳」とはなにか

山東省内に1898年に「義和拳」という秘密結社が結成された。

義和拳そのものは清朝の中期から存在する武術で、武器を持たない民衆の自衛手段として生き延びてきた。

義和拳の売りは、これが白蓮教という信仰と結びついていたことである。

2.白蓮教とはなにか

白蓮教は紀元1100年ころ、南宋に始まった仏教の一派。浄土教系の信仰で半僧半俗で妻帯の教団幹部が男女を分けない集会を催した。

一種の終末思想を持ち、国家や既成教団からも異端視されていた。「最後の審判」では、覚醒した信者だけが救済者の手で救われる。

元末には「紅巾の乱」により元を滅亡させ、明朝を成立させたが、明朝により弾圧された。

その後、白蓮教は秘密結社として生き残り、しばしば反乱を起こしたが、叛徒が白蓮教のレッテルを貼られることもあったようだ。

1796年には清朝の圧政に抗議し、全国で白蓮教徒が「弥勒下生」を唱え反乱。戦いは6年に及び、清朝衰退の原因となる。

その後も、白蓮教はさまざまな分派が秘密結社として活動を続けた。中国における秘密結社の大半は白蓮教に関係している。


3.なぜ義和拳が人気を博したか

白蓮教の流れをくむ義和拳の教えは、「呪文を唱えると神通力を得て刀や鉄砲にも傷つかない」という怪しげなものだった。

こういう教えは、不安な世の中に流布する。

朝鮮の支配権をめぐる日清間の戦争(1894~95)は日本の勝利に終わった。

これを見た列強は侵略の牙をむき出して、一斉に襲いかかった。それは中国を分割の危機にさらした。

それは都市部ばかりではなかった。安い商品の流入などで、農村の経済と農民の生活は破壊されていった。

この状況を敏感に感じ取った義和拳の青年達は、キリスト教の布教活動にターゲットを定めて排外主義キャンペーンを広めた。

彼らは教会を焼き、教徒を暗殺した。

それは特権的な立場から固有の文化や信仰を否定し、西洋文明を押し付けるヨーロッパ人への反感を助長し、とりわけ没落農民の人気を獲得した。


4.清朝政府の態度

このような暴力的で非合理的なキャンペーンが何故広がったか、それは清朝政府の態度にも問題があったからだ。

日清戦争の敗北を機に清朝内部での守旧派と洋務派という対立が顕になった。洋務派は95年の日清のあと一時弱体化した。

これに代わり、清朝正統派の勢力が再び力を盛り返した。そのトップに立ったのが西太后である。

彼らは義和拳を弾圧するのが困難とさとり、逆に利用して列強に対抗しようと試みた。

1899年、義和拳は農村の自衛警察である「団練」に組み込まれ、半ば合法化された。

義和拳は義和団と改称し、「扶清滅洋」(清を助け外国を滅ぼす)という時代錯誤のスローガンを掲げ、排外主義を押し出すようになった。ヤクザが合法右翼に成り上がったようなものだ。

これが河北一帯に義和団をのさばらせることになった最大の理由である。


5.義和団、北京へ、そして全国へ

しかしこのような隠蔽工作が長続きするわけはない。義和団はますます跳ね上がりキリスト教会への暴行は目に余るものになる。

各国外交関係者、とくにドイツ外交団は清国政府に強硬にねじ込んでくる。

このような中で、清朝政府は取締りを約さざるを得なくなった。山東省の巡撫が泳がせ政策の責任を取らされる形で更迭され、代わりに李鴻章の子分で洋務派の袁世凱が任命された。

1899年の末に現地入りした袁世凱は大規模な取締りを開始した。そのおかげで山東省の義和団は沈静化したが、彼らは農村に戻ったわけではない。「団練」の職を失った今、故郷に戻っても働き口はないのだ。

失業した青年はまず河北省に流入した。やがて大運河、京漢鉄道沿いに蔓延するようになった。さらに華北全域、満州、蒙古にもあっというまに拡大した。

こんなに山東省の若者がいるわけはないので、全国の失業青年が一斉に市街部に繰り出してきたのだろう。

義和団員は10代の少年が多く、赤や黄色の布を身体に着け隊伍(たいご)を分けた。

全体的な指導部はなく、町ごとに「壇」という隊を分け、義和団の単位とした。宗教的指導者が壇の責任者をつとめた。少女たちも「紅灯照」という組織をつくり、戦いに参加した。


6.清政府の宣戦布告

とにかくこうやって広がった打壊しの波は、最後に北京の街にまで侵入してきた。

暴徒は外国人や教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った。

これに対し列強は、在留民の生命と資産を保護するため、天津に上陸し北京の軍事制圧を目指した。

義和団の暴走を止めることが出来ず、列強の抗議にも回答できなかった清国政府だが、列強の首都侵攻に我慢することは出来なかった。

そして6月17日、ついに宣戦を布告した。

私は政府の宣戦布告というから、てっきり義和団への宣戦布告だと思った。しかしそうではなくて列強への宣戦布告だった。

理非は別として、彼我の力関係を無視したあまりにも無謀な戦争であり、無知な宮廷内官僚による自殺行為である。


7.「北京の55日」

清政府が宣戦布告すると同時に、列強の代表は各々の公館の中に閉じ込められることとなった。いわゆる「北京の55日」の始まりである。

英、米、独、仏、露、伊、墺、日の8か国は、1万4千名よりなる連合軍を編成。北京の開城に向けて行動を開始した。対決の相手は義和団ではなく清国政府の正規軍であった。

7月、双方の主力が天津で対決するが、清国軍の抵抗は脆弱であった。連合部隊はそのまま北京市内になだれ込み、公使館区域の救出に成功した。西太后と光緒帝は北京を脱出して西安に逃れた。

義和団の若者の多くは残虐にも斬首された。

この事件の後、中国は膨大な賠償金の返済に長く苦しむことになり、植民地化は一層進行した。


8.性格としては「北清事変」というべきだが

事実関係としては、

①清が列強を相手に仕掛けた戦争であり、
②戦争というにはあまりにも短く、
③清国南部はこの戦闘に参加していない

ことから「北清事変」というべきであろう。

「義和団の乱」は北清事変の序章というべきものであるが、義和団「事件」と言うにはかなりの時間経過があり、いくつかの場面の複合でもあるため、「乱」のほうが良いと思う。

また、社会的重要性に焦点を合わせれば、「義和団の乱」として記憶すべきところもあり、入試問題としての憶えやすさも念頭に置けば、「義和団の乱」のままで置くのがベストかと思う。

やはり、この「乱」の主要な側面は、農村の無産青年の思想性と規律性を内包した集団的蜂起だ。



19世紀の末、故郷山東省はドイツの植民地となってしまいました。
キリスト教会が強引な布教活動を行い、
皆、見て見ぬ振りをしていました。
そんなとき、拳法を修行する集団「義和拳」の若者たちが立ち上がったのです。
その中心にいたのが朱紅燈でした。
posuta-
朱紅燈は山東省泗水の生まれ。本名を朱逢明、天龍と号していました。ただし生地についてはいくつかの異説もあります。

貧しい家庭に生まれ、長じては「遊民」のような生活を送っていたようです。青年時代には白蓮教の影響を受け布教活動にも参加していました。

故郷が洪水に巻き込まれ、長清県へと移りました。

光緒24年(1898)から医業を始め、併せて拳法の道場も開きました。その拳法は「神拳」、会の名を
「大刀会」と名乗りました。

大刀会の会員は急速に拡大し、会は「山東義和会」を名乗るようになりました。そして朱紅燈は著明な指導者と目されるようになっていきました。

当時、山東省を流れる黄河はしばしば氾濫し、至るところで土砂が畑を覆いました。洪水後は干ばつが襲い、人々は食べて行けず、生活はまことに厳しいものでした。

キリスト教の白人宣教師は、西洋列強の力をカサに来て人々を抑圧しました。こうして民衆とキリスト教会の矛盾はますます激化していきます。

同じ1898年9月、朱紅燈は山東省平原縣に「興清滅洋」(西洋を滅ぼし清を再興しよう!)の大旗を打ち立てます、そして会の名称を「義和拳団」と改称します。

1899年春,朱紅燈は茌平に入り、彼の技を各所で繰り広げ、そこの反キリスト教会運動の指導者となりました。
shukoutou
彼の指導の下、茌平の義和拳運動は著しい発展を遂げます。そしてその勢いは地域の村々へと連携を強めていきます。そしてキリスト教会への攻撃はどんどん激しさを増していきました。

十月,朱紅燈は隊伍を率いて李莊、起義に入りました。県知事蔣楷の治安部隊を打ち負かし、清国軍に強力なダメージを与えます。

李莊では、人々をせん動し教会を焼き討ちしました。

その後、朱紅燈の率いる義和拳の一行は、長清、禹城、茌平へと転戦しました。そしてこれまで民衆を弾圧してきた教会指導者に懲罰を加えました。

外国の手先となっていた暴力団にも懲罰を加えました。清軍の包囲を破り弾圧をはねのけました。このことが朱紅燈の名をますます高めました。

しかし朱紅燈の進軍は長くは続きませんでした。12月、彼は内紛によって傷を負いました。

彼は山東巡撫により捕らえられ、済南で公開処刑されました。


現在の中国では義和拳の朱紅燈が義和拳運動の創始者のように扱われ、英雄視されているが、どうも正確ではないようだ。

彼自身は明時代の高臣の子孫と称したらしいが、これはかななり怪しい。

朱紅燈の活躍したのは1899年末まで。このときは未だ騒乱は山東省内に限局されていた。彼らの運動は一種の空気抜きとみなされ、省当局は一定の泳がせ背策をとっていた。それどころか地方では一種の私設警察として庇護していた。
しかし最後にはドイツを始めとする列強の関知するところとなり、省長は更迭、泳がせ政策は弾圧政策へと変更された。

実はここまでは義和団運動の前史みたいなもので、それから飛び散った若者が華北一帯に広がり、西洋排斥運動に転化したあたりから、本格的な義和団運動が始まると見たほうが良い。

いづれにせよ、日本(ネット世界)では正確な情報が意外に伝わっていないことがはっきりしたので、この記事もなにかの役に立つかもしれない。

義和団事件の真相
も参照してください。




ピウスツキの巡回展というのを札幌でやっている。

それが分かったのが本日、赤旗道内版にちらっと載ったのを見た。

明日、道AALAで「コロナと人権宣言」で話をしなければならず、最後の追い込みなのだが、展示会の最終日はまさにその明日、25日になっている。

ということで、急いで行ってきた。


ポスターがパネル6面に並んでいる。朝10時には誰も受付におらず、観客もおらず一人で堪能してきた。

もともと5月にやるはずだったものが、コロナで延期になったらしい。私にとっては幸いであった。

展覧会の主催は「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」。
お金をとる方の博物館で私はまだ入ったことはない。
いまどき珍しいが、今回の展示会もすべて撮影禁止である。誰もいないのでとってもわからないが、一応遠慮しておいた。


ピウスツキについて

今回の展覧会は思い切って、ピウスツキが平取に滞在して写真を取りまくったときの記録に集中している。明治の中頃、1週間ほどだけ滞在したときのものだ。

きわめてスッキリした構成だが、わからない人にはわからないだろうと思う。

ピウスツキはポーランド人。当時ポーランドは祖国を失い、ピウスツキは国籍上はロシア人だった。

皇帝暗殺事件に関係したために、シベリアに流刑となり、長いことサハリンで暮らした。

その間に樺太アイヌの女性を娶るなど、現地に溶け込んでいた。とくに蝋管レコードによるユーカラや儀式の音源採集は名高い。

そのピウスツキが平取に来ていた。しかも日露戦争の始まる半年前に。(正確には白老と平取)

このことは私は沙流川博物館の展示で初めて知った。


波乱万丈の生涯

ピウスツキの波乱万丈の生涯については、到底ここで語る余裕はない。

まずは井上紘一氏の力作「ブロニスワフ・ピウスツキ年譜」をご覧頂きたい。必ずや目の回るような臨場感を味わえるであろう。

ただ、この年譜はピウツキの自叙伝に基づいて作成されていると思われ、客観性はどうかと言われると、ちょっと首をひねるところもないではない。函館の停車場で行き倒れのアイヌ人グループを助けたら、それが白老の有力者だったなど言うのは、出来すぎの感がある。

これだけ短期のバタバタ調査で、それなりの業績をあげたのはおそらくバチェラーの後援の賜物であろう。

もう一つは樺太アイヌという存在である。実は初めて知ったのだが、樺太から稚内、稚内から江別、江別から石狩へと移住を迫られた樺太アイヌは、そのほとんどが疫病のため死別、離散したと憶えていたが、じつは20年ほどしてから樺太に戻ったのだ。当時、樺太は千島との交換条約により全島がロシア領となっていた。したがって彼らは国籍を変えたはずだ。

ピウスツキは最初、島の北部に住むニブフ人の調査にあたったが、主要なフィールドを樺太アイヌに乗り換えた。彼は調査をするだけではなくロシア語教育も行った。酋長の姪を娶るほどの入れ込みであったようだ。

私の個人的感想: 日露戦争前夜に、ピウスツキをふくめたロシアの反政府派の連中が、イギリス人宣教師の援助を得ながらアイヌの調査をした。これにはなにか裏があるのではないか、と疑ってしまいたくなる。

まぁ、話はこのくらいにしておく。


日本考古学の歩み

ろくに知りもしないでいうのも何だが、年表づくりしてみて、なにか徒労感に襲われる。

記載すべきことと、省略して良いことの重み付けが、そもそもよく分からない。

なんだかんだ言いながらも、考古学が始まって以来すでに100年は立っているはずだ。その100年、考古学は何をやってきたか、それを考古学者は自ら語ろうとしない。

なぜだろうか?

私はどうも、最初の階段についての統一した認識がないからだと思う。

私は考古学は何よりもまず集古の学だろうと思う。それはまず博物学として始まり、それが分類され、時間軸上に位置づけられていくことが絶対的な実務だ。

もちろんそれには考える過程も含まれている。だからそれだけで考古学と呼んでよいのかも知れない。

しかし日本の考古学は、絶対的な宿命、「日本人はどこから来たのか」という命題を抱えてきた。

これは今から考えてみれば無理な話で、考古学にそんな問題への答えなど出せるわけがないのだ。

この呪いから解き離れたいまは、安んじて博物学に徹していればよいのだ。それは有史時代の考古学と同じ目的意識だ。

ただゲノム解析というのはきわめてラフなスケッチであり、その間隙を埋めながら先史時代を豊かに描き出すかは依然として考古学の役割である。

あまり卑弥呼云々の歴史学的な要請にこだわることなく(経営的にはゆるがせに出来ないが)、淡々と歩みをすすめるべきではないか。

マンローの位置づけについて

このような日本の考古学の発展史からすれば、マンローはその始祖と言ってもよいのではないだろうか。

その根拠は三つある。

一つはまずなんと言ってもその圧倒的な資料数にある。二度の火災でその多くが灰燼に帰したが、それでも国内外の資料数とその多様性は圧倒的である。

第二には、近代的で大規模な発掘手技と、周囲状況や位層解析もふくめた科学的な分類・整理である。三ツ沢と鹿児島の発掘は今日でも圧巻である。

第三には、考古学を博物学にとどまらせず人類の歴史と結びつけて「先史時代の歴史学」と位置づけたことである。

これは「言わざるべきことを言わない」戒めであるとともに、「言うべきを言いきる」ことの大切さを諭しているのだろうと思う。

マンローがただ一人の始祖というわけではない。数人の外国人がマンローの周囲にあって共同したり支援したりの関係にあった。この「マンロー・グループ」は、広く言えば東京・横浜在住のヨーロッパ知識人社会と言ってもよい。

その代表が東大医学部教授のベルツであり、オーストリア大使館のシーボルト(小シーボルト)である。

マンローの「日本先史時代」論は彼らとの交流の中で生まれ、固められたものであろうと思われる。しかし、それはユーラシア大陸を挟んだ対極にあるブリテン島の歴史を知るものの論理であり、その中で少数者として劣位にあったスコットランド人の思いであったろう。

マンローの日本人起源論は、平たく言えば「アイヌ先住・渡来人重畳」説である。ここで「アイヌ」と言うのは、今で言えば「縄文人」であろう。

これはブリテン島において、イベリア半島から移住した先住民文化の上にアングロ・サクソンと呼ばれる大陸系が侵入し、混血の度合いに応じた「英国民」を形成した経過に比するものがある。(ただし先住民=ケルトというのは不正確であること。イングランド人はアングロ・サクソンと自称するが、DNA的には先住民の血を濃く残していることを付記しておかなければならない)

マンローの業績はその俯瞰性や先見性において群を抜くものであった。しかし彼は日本のアカデミーとは隔絶していた。彼の活動の地は横浜に限定され、出版は英語に限られていたから、決して多くの日本人の目に届くものではなかった。

例えばモースのように有能な通訳を抱え、日本人目当てに通俗的な講演会を行っていれば、その影響力は計り知れないものとなったであろう。

なぜマンローは孤高の位置に留まったのか

多くの謎に包まれているが、最大の問題は、彼が終生、日本語を喋れなかったことだ。喋らなくても良い世界の中にいて、そこから出ようとしなかったことだ。
北海道から西南諸島に至るまで縦横無尽に動き回り、多くの人と接触しているが、それはすべて通訳を介してのものだ。

これは彼の個人的習性に関わっていると言わざるを得ない。

飽くなき好奇心と、地球の果てまで赴く行動力は彼の個性を何よりも特徴づけている。しかし、それと対照的に事物への執着と裏腹な人物への無関心が同居している。さらに自らの弱点をさらすことへの病的な臆病さも見え隠れする。

今で言う発達障害だが、こういう人が医者になると、普通はあまりいいことはない。しかし幸いなことにマンローはまずまず如才なく医者稼業を送っていたようだから、弱点を補強するだけの修養は積み重ねていたのだろうと思う。

今回、彼の二大論文である「先史時代の日本」、「アイヌ、伝説と習慣」の一端に触れることで、おおよその射程は定まったように思われる。




考古学には発達史がない?

はじめに

実はいまだにマンローにハマっていて、とにかくアイヌ研究史の中でマンローが無視されている印象があり、それじゃ考古学の方ではどうなのかと思って調べてみた。

とりあえずの結論としては、マンロー無視は考古学においても同じだということがわかった。

それも驚きの一つではあるが、そもそも日本の考古学には歴史がないということにびっくりした。

まずネットで調べられる範囲で、いろんなキーワードで検索をかけたが、江戸時代の博物学的なものから始まって、貝塚や遺跡が見つかるたびに認識が深まって、先史時代の全容が次第に明らかになっていく…みたいな記載を期待したのだが、今のところ見つけられていない。

昨日は道立図書館に行って検索をかけたのだが、どうもこれと言ったものは見当たらない。

勘ぐると、マンローの名を表に出したくないためにそういう事になっているんでは…とさえ思えてしまう。

マンローは自著に「日本の先史時代」と名付けた。彼の問題意識は鮮明だ。発掘して遺物を見つけ出しては、それらを時系列の中にはめ込んで、「日本の先史時代」を浮かび上がらせることこそが目的なのだ。

無論考古学の内容は他にもある、江戸時代や奈良時代を掘り出し、歴史の内容を豊かにすることも大事なことだ。

しかし、文字のない時代は考古学しか語れない。先史時代は考古学の独占販売なのであり、先史時代を詰めていくことが考古学の最大の目的意識でなくてはならない。

大事なことは考古学的方法ではなく、対象とする時代だ。カッコを付けない考古学は、先史時代(研究)学と呼ぶべきだろう。

考古学は古物を見てものを考える学問だ。だから何を見てどう考えてきたかの歴史が考古学史を形成する。いろいろあって良い学問なのだ。

空がわき道に逸れないようにするためには、学問の歴史を絶えず念頭に置いて考えていかなければならない。

もう一つは、ゲノム解析による日本人の形成過程がかなり明らかになっているので、この道筋に沿って古物を構成していかなければならないということである。

とくにY染色体ハプロの解析は考古学の画期となっており、まさにこれを持って考古学史は有史時代に突入したと言ってよいだろう。

そんなことを念頭に置きながら、雑音のない旧石器と縄文を中心に、年表づくりに取り掛かりたい。当然のことながらマンローとその周囲は大きく取り上げることになる





水戸光圀、古代石碑の記事に従い、栃木県侍塚古墳を発掘。

蒲生君平、古墳を陵墓として崇拝の対象とする。前方後円墳は君平の造語。

木内石亭と弄石社: 石斧や石鏃を古代人の作成したものと判断

1823 大シーボルト、初回の訪日。植物学者として多くの標本を持ち帰る。帰国後に全7巻の『日本』を刊行。
はべらぼうに面白い。一読をおすすめする。
ウィキには「トムセンの三時代区分法を適用して、日本の遺物を年代配列し叙述」とあるが、どこかはわからない。

1869 小シーボルト(シーボルトの次男)が兄とともに来日。墺外交官業務の傍ら考古学調査を行いう。『考古説略』を発表、「考古学」という言葉を日本で初めて使用する。

小シーボルトは町田久成、蜷川式胤ら古物愛好家とともに古物会を開催。「考古説略」を出版し欧州の考古学を伝える。

1876 ベルツ、東大医学部の教授となる。小シーボルトの影響で骨董品収集を趣味とする。

1877 モースが東大の生物学教授となる。偶然車窓から大森貝塚を発見。教室員とともに発掘に取り組む。

小シーボルトが第一発見者を争うが、実地研究で先行したモースの功に帰せられる。このあと小シーボルトは考古学の学術活動から手を引く。

1879 モース、ダーウィンの推薦を受け、『ネイチャー』誌に大森貝塚に関する論文を発表。このとき "cord marked pottery"の用語を使用。これが『縄文土器』の語源となった。

モースは考古学の素養はなかったが、講演活動を通じダーウィンの進化論を精力的に紹介した。

1877 帝国大学理科大学動物学科の学生坪井正五郎、同志10名により「人類学の友」を結成。

1886 坪井らにより「東京人類学会」が結成される。機関誌第1号を発表。

1895 坪井正五郎、通俗誌に「コロボックル風俗考」を発表。石器時代人はアイヌ人に置き換えられたと主張。アイヌ伝承の「コロボックル」を旧石器人と解釈する。

1897 ベルツ、樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問。ベルツはマンローとともに横浜の三ツ沢遺跡の発掘にも参加している。

1916 東大の他、京大や東北大でも考古学教室が開かれ、従来とは異なる思潮が競合するようになる。

1919 史跡名勝・天然記念物保存法が成立。重要遺跡が「史跡」として保存されるようになる。

1925 大山巌の次男大山柏が大山史前学研究所を設立。

1928 広義の人類学(自然人類学、考古学、民族学)に関心をもつ若手研究者により人文研究会が設立される。江上波夫、岡正雄らが参加。

1928 清野謙次、『日本石器時代人研究』を発表。縄文人骨のマススタディにより「超万世一系」論を提唱。

1930 東京帝大の山内、甲野、八幡らは、縄文土器の編年によって縄文人の歴史を探ろうとし、「編年学派」と呼ばれる。出土層の層位に着目し編成。

1932 山内清男、「日本遠古の文化」を発表。縄文は狩猟・漁獲・採集文化であり、弥生は農耕の文化と規定。

1943 小林行雄、弥生土器の型式と様式をカテゴリー化する。

1948 登呂遺跡発掘調査をきっかけに日本考古学協会が発足。「文化戦犯」を排し、「自主・民主・平等・互恵・公開の原則に立って、考古学の発展をはかる」と謳う。

1949 アメリカの化学者リビー、二酸化炭素同位体測定法を発明。

1959 近藤義郎、弥生農村を倉庫を共有する「単位集団」<大規模な工事にあたる「農業共同体」の2階層に集団化する。

1960 坪井清足、縄文時代を生産力の停滞と呪術支配の世界として定式化。マルクス主義の公式を当てはめたものとされる。

1970 所沢の砂川遺跡。旧跡時代の遊動型キャンプの遺跡。原石の加工処跡を中心とする放射線型遊動生活が想定される

1975 下條らにより、磨製石器(弥生時代)の石材研究が一般化。北部九州における石器生産の専業化が明らかになる。

1980 群馬の下触(しもぶれ)牛伏遺跡。旧石器時代・前半期ナイフ形石器群期の遺跡。直径数十メートルの石器ブロックを形成。打ち欠け石器のほか局部磨製石斧も出土。大型哺乳動物の共同狩猟のためのキャンプと考えられる。
後半期ナイフ形石器群期では大型キャンブは消失し、落とし穴による小型獣捕獲(富士山南麓)へと代わっていく。

1981 西田正規、紋切り型縄文観を批判、温暖化に伴う多様化が生活の多様化を生み出したところに縄文時代の特徴を見るべきだと主張。「タコ足的な生業活動」と形容する。

1982 馬淵久夫、青銅器の鉛含有量測定により、産地の同定を行う。同じ頃、釉薬の鉛成分の分析も一般化。

黒曜石の放射性同位元素分析により、産地の同定が行われるようになる。

1992 三内丸山遺跡の発掘が始まる。780軒にもおよぶ住居跡や大型掘立柱建物が存在したと想定される。ここから豊かな縄文のイメージが広がる。

1999 青森県太平山元遺跡の土器、AMSによる再検討で従来より4千年遡る可能性が指摘。
この土器は日本最古とされ、縄文文様はないが縄文土器に比定される。


どうもはっきりしないが、渡辺氏のその後の文献にはマンローに対する言及は見られない。たぶんセリグマン夫人と渡辺氏は絶交状態に入ったのであろう。
しかし二人が絶交するのは構わないが、とばっちりでマンローまで言及なしというのは、いかにも大人げない。同じ道を歩いた先輩への敬意は、多少の見解の違いはあっても形にあらわすべきだろうと思うが。

なんだろうかとネット上を探したが、みな口をつぐんでいる。やっと見つけたのが木名瀬高嗣「アイヌ民族綜合調査」というPDFファイル。

結構長いので要約紹介する。



1.序

1950 年代の北海道で大規模なアイヌ調査が行われた。それは、「アイヌ民族綜合調査」と呼ばれる。

調査目的は下記のごとく示されている。
アイヌ民族について幾多の調査研究が行われて来たが、未だアイヌ民族の人種的民族的系統、固有文化の本質は十分に解明されたとはいえない。
一方、アイヌ民族固有文化は急速に消滅しつゝある。
アイヌ民族は文化的、社会的経済的条件も決して恵まれたものとはいえない。アイヌの福祉政策のためにも、基礎調査が必要である。

2.「アイヌ民族綜合調査」の組織構造

この調査は日本風の「ミンゾク学」(民族学/民俗学)ではなく、英米流の「文化人類学」「社会人類学」という機能主義的な社会理論のもとに行われた。

調査の構成メンバーは「文化人類学」「形質人類学」そして「北海道諸学者」の三者から成り、「沙流アイヌ共同調査報告」はそのうちの前二者による成果である。

その中核を担ったのは、泉靖一と杉浦健一という2 人の人類学者で、戦後の東京大学文化人類学教室の草創期を担った人物として知られる。
彼らは1952 年3 月刊行の『民族学研究』16 巻3・4 号(合併号)に「沙流アイヌ共同調査報告」で研究論文を発表している。

それらはいわば未完の企図にとどまり、学問領域の内部で再検討の対象として顧みられることはなかった。

「 北海道諸学者」(北海道大学を中心とした)

「北海道諸学者」の分担した調査について東大の研究者はまったく期待していない。「速やかにその報告の発表されるのを待っている」と述べるのみである。

新しい理論枠の影響を強く受けるた中央の「文化人類学」者たちは、旧来からの素朴で記述的な方法に基づく個別民族誌の研究にとどまる者たち(金田一京助や高倉新一郎ら)を区別していた。

それらのアイヌ研究者は北海道ばかりでなく全国の学界に分布した。金田一京助門下で東京学芸大学教授であった久保寺逸彦がそれに相当する。

以下は木名瀬さんのキツーイ総括
理論研究の中央に位置する(と自認する)「文化人類学者」集団が、「北海道諸学者」と一括された「ミンゾク学者」とアイヌの「アイヌ人情報提供者」という周辺化された二重のエージェントを媒介としてアイヌを〈知〉的に搾取・収奪することが「綜合調査」の中心的な構造であった。


3.アイヌの激烈な反応

調査の中心を務めた東大の泉靖一は、アイヌから激烈な反応を受けたという。
「何故アイヌが胴が長いなどと、つまらぬことを云って、シャモと差別するか」「何故つまらぬことをしらべて金もうけするや」
「どうして調査するならば、もっと有益な生活の為になるような調査をしないか」立つづけにまくし立てられる。
これが毎日新聞の署名記事(藤野記者)として書かれたのだが、木名瀬氏によればその記事は
暗い色調の底に哀愁とロマンティシズムが漂う文体で貫かれた筆致はどこまでも第三者的で、ときに冷笑的と映る場面も少なくない。

ということで記事が紹介されている。以下その一部
道東、白糠の町を、アイヌこじきが歩いていた。軍隊服にアカじみた外被、うすい背中に全財産をつめこんだリュックが、軽くゆれている。
酒屋から隣りの雑貨屋へ、親指の出た地下タビはよろめいて、年はもう七十才は越しているだろう。
写真をとられていることに気づいたらしい。さっと道ばたにかがみこみ、ふり返って、カメラマンをにらみつけた。両手には大きな石が―。
財布をとり出すと、敵意をむき出しにした老アイヌの姿勢が、とたんに、ゆるんだ。
「モデルだろ、どんな格好すればいいんだ」
そして酒くさい息をはきながら、身の上を語った。
たしかに木名瀬氏のいうとおりだ。「アイヌこじき」の表現には「夜の街」同様ギックリだ。

渡辺氏がこの調査に参加したどうかは分からない。しかし東大人類学教室所属の渡辺氏がマンローへの「細かな異同」として持ち出したのが、この調査に基づくデータであることは間違いなさそうだ。

それにしても マンロー Labyrinth だな。すっかりハマったね。他にやることあるのにね




イントロダクション
渡辺仁

ブリティッシュ・ミュージアムのデジタル図書にこの本があって、一応全部閲覧可能にはなっているらしいのだが、途中でちょん切れている。
しばらく進むと、突然セリグマン女史の注釈が出てきて、「渡辺氏の文書」にはマンローとの原著との間にいくつかの食い違いがあるというくだりへと続く。

そして突然本文の第1章が始まる。

途中欠落があるのか、とにかく不思議な体裁だ。

とにかく切れるところまで、訳を入れておく



THE AINUは北海道、サハリン南部、そして千島列島の先住民です。 彼らは、そのひげを生やした体、ウェーブのかかった髪、長い頭で有名です。

1939年の北海道のアイヌ人口は16万人と推定されており、1854年からおそらくほとんど変化がありません。サハリンと千島(クリル諸島)にはさらに10,000人が散らばっていた可能性があります。

北海道は、本州の本島の北、北緯41度30分から北緯45度3分、東経140〜145度の間に位置する、約30,000平方マイルの島です。北海道の北端はサハリンから約20海里離れており、北東にはクリル諸島がカムチャッカに向かって伸びています。

 北海道の気候は亜寒帯です。年間平均気温は5.2°Cから7.6°Cの間で変動し、11月から5月にかけて雪が長く続きます。島はモミ、トウヒ、シラカバ、オーク、ニレがよく樹木が茂っています。

 川のほとんどは、島の中心を北から南に流れる山脈に沿って流れています。山ではヒグマとシカが見られ、5月から10月までほとんどの川でサケが回流してきます。かつてアイヌは狩猟や釣りを中心に暮らしており、山菜や果実も採集されていました。

アイヌと日本人の接触は長く続いており、さまざまな形をとっています。 1599年以前は、一般の日本人はアイヌとの接触を制限されていました。

 1599年、北海道の南西端(松前)に根拠地を設立した日本人は、徳川幕府から「松前氏」として認められました。彼らは、松前藩の藩領(松前)として、この地域および隣接地域の所有権を与えられました。松前藩域でのアイヌ人の定住は、すでにそこに確立されたものを除いて禁止されました。

日本の民間人はまた松前藩のエリアの外に住むことを禁じられました。松前はアイヌとの独占的貿易権を有し、沿岸に貿易・漁場を設けました。

 彼らは米、米ワイン、タバコ、塩、フライパン、ナイフ、斧、針、糸、漆器、装身具などを、鮭、皮、工芸品、および満州の装身具や衣類などの本土の特定の商品と交換しました。

この間、アイヌは独立を維持しました。

 しかし1799年、北海道のこの地域は、ロシアの商人の侵略から日本の利益を守るために、徳川幕府の直接の支配下に置かれました。

 当時、北海道沖には外国船(オランダ、ロシア、英国、フランス)がよく見られ、北太平洋におけるロシア人の植民地化が活発化していました。徳川政権は、千島列島がロシアの植民地化するのに危機感を持っていました。(1771)。

 商取引の成立を願ってロシアの船が北海道沿岸にやってきました(1779年)。その後、ロシアは代表を日本に送り、外交関係を結ぶことを望んだ(1792年のラクスマンと1804年のレサノフ)。

 交易所は軍事ポストになり、日本人はアイヌ地域に限られた行政組織を設立しましたが、防衛のために必要な場合を除いて、彼らの内政にほとんど干渉しませんでした。貿易は以前と同様に続きました。

1821年、松前は再び領土を管理し、従来の政策を続けた。アイヌはこれらの沿岸の交易所周辺で日本人によって雇われるようになりました。

1854年から1867年にかけて、北海道南西部は再び徳川幕府の直下に置かれました。1868年に島は日本の領土の一部となり、アイヌ文化を大きく変える植民地化の過程が始まりました。

今日、アイヌ語はめったに話されておらず、その後は高齢者のみが話しています。 純血のアイヌはほとんど絶滅しています。 そして伝統的な経済全体が大幅に変更されました。

日本政府は北海道に行政本部を設置した。

アイヌは日本国勢調査の登録簿に含まれ、それらの領土はアイヌと日本の開拓者の両方に土地の区画を許可するために制定された土地法で政府の財産になりました。

アイヌはサケを釣ったり、…


どうもさっぱりよくわからないのだが、セリグマン女史の言い分によると、渡辺氏はこのイントロダクションで、どうも自分の数字や自分の見解をどしどし突っ込んでいるみたいなのだ。
ひょっとすると、渡辺氏はマンローの所説をあまり読まないで、自分の数字を入れたのかも知れない。

こうなると、どちらが正しいかというのではなく、ある本の紹介を頼まれた人間がとる態度としてどうかということになる。

この話は、とりあえずなかったことにしておこう。真相がわかればその時点で書き込みたい。

マンローーについて書かれた最良の日本語文献は桑原さんのドキュメンタリーです。しかしこれはマンローー亡き後の関係者からの聞き書きを集めたものです。
マンローーが日本語もしゃべれないままに50年も日本に居着き、最後は北海道の山の中で敵国人として冷たい目を浴びせられ、生活の糧も奪われ死んでいく過程というのはなかなかわからないところがあります。
その点で、マンローが心を許し頼みとしたイギリス人考古学者セリグマンへの手紙は、その内心を知る上できわめて貴重なものと言えるでしょう。
「アイヌの文化と伝統」はマンローの遺稿集です。これをセリグマンの妻で同じく考古学者だったセリグマンが一冊の本にまとめ上げました。
セリグマンの書いた序文はマンローの手紙の内容を駆使して書かれており、マンローの「アイヌ観」を知る上で最高の文献だろうと思います。ここでは全文をそのまま訳しておきます。
後半は校閲者の渡辺仁に対する反批判のような中身になっていて、どうも前後関係とかがわからないと意味が読み取れません。
渡辺氏は後に東大教授、北大教授を歴任し、この世界のボスになった人です。この後マンローについて言及した様子はなさそうで、彼がマンローを黙殺すれば、学会も黙殺せざるを得なかった可能性があります。もう一つは1950年代前半に東大の文化人類学教室が中心になって「アイヌ民族綜合調査」というのが行われ、既存の「北海道諸学者」の学説が随分批判されたらしい。そこまで関連付けるべきかわからない。とりあえずこの本に収録された渡辺氏の「紹介」を読むことにするか。
若干ややこしくて煩わしいところもあると思いますがご了承ください。



序文  B・Z・セリグマン

NEIL GORDON MUNROは1863年にエジンバラで生まれ、教育を受け、最終学歴として医学を学びました。

卒業直後、彼は極東へ向かいました。最初はインド、その後香港を経て日本へと旅を続けました。

 1893年に横浜の総合病院の院長になり、時々ヨーロッパに戻ったが、その時から死ぬまで日本を我が家としました。(“時々”と書かれているが、1回のみである)

 彼は日本の先史時代に興味を持ち、とりわけアイヌの人々の伝統と暮らしに関心を集中するようになりました。彼は19世紀末からの20年間に、何度もアイヌの人々のもとを訪れています。これまで出版されたアイヌ関係の著作は次のとおりです。

1.「日本の原始文化」 日本アジア協会の連載記事 Vol。 34、1906。
2.「先史時代の日本」 横浜 1908年 エディンバラ 1911年。
3.「ヨーロッパと日本の巨石群に関する考察」 横浜、1909年。
4.「いくつかの巨石群: 起源と遺物」 横浜、1911。
その他の雑誌にアイヌと自然に関するさまざまな記事を載せています。

彼は貴重な先史時代の遺物のコレクションをエジンバラ博物館に提供しました。

二風谷定住への経過

後年、マンローは軽井沢療養所の院長を務めました。その任が解かれ、軽井沢での診療と並行して長期の自由行動が許可されると、夏は軽井沢で働き、それ以外は北海道に長期滞在するようになりました。

その頃から、彼の主な関心は先史時代の考古学的研究から、アイヌ人の生活に関する民俗学的研究に移っていきました。アイヌの生活を見るにつけ、マンローの嘆きは深くなりました。

当時アイヌの人々は、長年の狩猟と食料収集の生活をあきらめ、農業から生計を立てるために働かざるを得なくなりました。彼らは貧しく、アルコールに溺れ、人生への興味を喪失し退化していました。その数も疫病などにより減少していました。

セリグマンとの出会い

1929年に私の夫、故C. G.セリグマン教授(F.R.S.)は日本を訪れました。軽井沢まで出向いてマンローに会いました。そのとき、セリグマンは1923年の大地震で、マンローのアイヌに関するすべてのメモ、標本、写真が失われたことを知って愕然としました。

マンローは自費でアイヌの研究を行ってきましたが、震災で深刻な経済的損失を被り、研究を続けることができなくなっていました。

セリグマンはそれまでの交流の中で、マンローの正確な観察力とアイヌへの知識、アイヌの人々への親密な観点を確信していました。

そこでイングランドに戻ると、セリグマンはマンローが調査を続けることができるように、ロックフェラー財団に研究資金を申請しました。

 1930年に資金が供与されると、マンローはすぐに北海道の沙流川流域の二風谷に小さな家を建て、そこに定住しました。そしてアイヌの生活と伝統について集中的に研究を始めました。

彼の仕事の方法はクリニックを開くことでした。彼の妻は訓練を受けた病院看護師で、多くの患者をこなすことが出来ました。二人はクリニックに群がったすべての人に無料の治療を与えるました。

アイヌの人々はマンロー夫婦を信頼しました。そして待合室でうわさ話、歌、伝説、むかし話をする用になりました。待合室は、そこに来たすべての人のためのオープンハウスとなりました。

マンローは多くの長老(エカシ)と知り合いになりました。マンローは「友」とか「先生」と呼ばれました。エカシはマンローの貴重な情報提供者となりました。

1932年、2番目の不幸がマンローを襲いました。12月のある朝、夜明け前に、マンロー夫婦の自宅兼クリニックである二風谷の茅葺きの住居が焼失しました。

マンロー夫妻は炎から脱出しました。マンローはアイヌの研究メモを保管していたブリキの箱をなんとかして救いました。しかし彼のすべての所持品、彼の本、彼の写真や他の科学資料は焼けてしまいました。

北海道の冬の厳しい寒さは老マンローを痛みつけました。健康は損なわれ、その後遺症は彼を一年者あいだ苦しめ続けました。いつ軽井沢に戻って夏季療養所で仕事をしたのか、また年間を通じて北海道に留まったのかは定かではありません。

しかし、彼は屈しませんでした。

セリグマンはさらなる助成金を申請しました。 1933年にロックフェラー財団はもう一度寄付を行いました。さらに王立協会と英国科学振興協会からも助成が行われました。 日本アジア協会からの支援もありました。

大英協会内のアイヌ研究小委員会が結成され、これには現在、ダリルフォード教授、ラグラン卿、F.S.A。、アーサーD.ウェイリー、C.H.、C.B.E.、F.B.A。が含まれ、私自身が議長を務めています。

1934年、モンローはセリグマンあての手紙で、永遠にアイヌに留まるつもりだと書いています。

この手紙の中で、アイヌに関するさまざまな研究成果が語られています。

彼はアイヌ語で録音し、翻訳しました。数多くの歌と伝説、さまざまな病気の治療のための50の祈りが採集されました。また困難な出産のときのさまざまな治療、そして儀式と悪魔払いの儀式の説明を書き記しています。また、音楽や娯楽についてもメモをとっていました。

村で興味深いセレモニー(多分イヨマンテのこと)が行われたときには、映画を撮影しました。映画の出来栄えに満足しなかったので、2回目のときは、プロの写真家に撮影を依頼しました。そして写真家の指示の下で働いたり、スチール写真を撮ったりする役に回りました。

 マンローはまた妊娠、出産、精神の瞑想、病気の治療に関連する儀式の映画などを撮影しました。儀式の踊り、醸し酒の儀式、そして熊を犠牲に捧げる儀式も撮影されたといいます。

 残念ながらこれらの映画は消失し、最後の一巻だけが英国に届きました。それは 現在、王立人類学研究所が所蔵しており、1933年1月10日から展示されていました。

 最近、ポジティブが元のネガから作成され、1961年9月のアテネの Comité International du Film Ethnographique et Sociologique (文化人類学映像に関する国際委員会)の会議で示されました。

クマの儀式は、すべてのアイヌの儀式の中で最もよく知られています。マンローも何度か目撃しましたが、彼の本のなかではきちっとした説明はされていませんでした。

マンローは、「家の中で行われる祭りはイヨマンテの前半を構成する。それは新築祝いの式典に似ている」と述べ、儀式のために準備されたイナウの写真をセリグマンに送りました。

熊送り(イヨマンテ)のため、熊の子が捕らえられました。熊の子は細心の注意と敬意をもって世話をされ育ちます。熊の子は神の代表として、ときには神(カムイ)自身として扱われました。

適切なサイズに成長すると、檻に入れて育てられたクマは広場に引き出され、儀式的に殺されました。これがイヨマンテの後半部分を構成します。 

マンローはなぜか、アイヌの宗教についての本で、この最も重要な儀式を説明していません。それは重大で不思議な省略のように思われます。

そのため後の出版に際して、私(編者 B.Z.セリグマン)はマンローが映画(イヨマンテを撮影したもの)のために書いたキャプションから作成した説明を追加しました。

アイヌはまた狩により捕らえた熊を殺すときも類似の儀式を行いました。マンローはその儀式も何回か見ていますが、これについて書かれた報告は見当たりません。

この儀式についてはバチェラーが以前手短に説明を加えています。それがヘイスティングスの 『宗教と倫理の百科事典』第1巻に紹介されています。

マンローの最晩年

さて研究発表ですが、さまざまな悪条件により、マンローの予想よりも作業の進行が遅れがちになりました。二風谷の冬の厳しい気候と陸の孤島のような孤独な生活は、彼の健康を著しく損ないました。

マンローは出来上がった原稿の大部分を、1938年頃までにセリグマンに送りました。その間セリグマンは、マンローがなんとか生活できるようにと個人的な資金源からお金を集めました。

それは本の形で章立てて整理されました。しかしそれは完全ではなく、すぐに本にして出版できるほどの準備ができていませんでした、そして熊送りの説明も含まれていませんでした。

これらのポイントについて、マンローとセリグマンの間に手紙のやり取りがあったのですが、それは1941年の日本の世界大戦への参戦によって突然打ち切られてしまいました。


マンロー夫人と “貞操帯

戦後、私(セリグマン)はイギリス領事館から「マンローが1942年4月に亡くなった」という知らせを受け取りました。そのあとマンローの妻の住所はわからないままでした。

マンローはその手紙で彼女のことに何度も言及していました。その文面から、妻はマンローの診療の仕事を仕切り、家計を維持し、マンローの健康を守ってきたことがわかります。それだけでなく、彼女はアイヌ民俗の研究においても貴重なはたらきをしてきました。

長老はマンローに、女性が服の下に身に着けていた秘密の貞操帯(ウプショロクッ)によって魔法の力を行使できると言っていました。

(ウプショロクッは結婚した女性が下着を締める飾り紐で、強いられたものというより、女性の誇りを象徴する意味を持つ)

マンロー夫人はアイヌの女性たちにエカシの言葉を伝え、女性は自信を感じるようになりました。そのおかげで、マンローはこの主題を追究できました。そしてウプショロクッがアイヌの社会組織で重要な役割を果たしていることを発見できたのです。

マンロー夫人はアイヌの女性5人に、自分のウプショロクッの正確なコピーを織るよう依頼しました。そして出来上がったウプショロクッはのちに大英博物館に与えられることになりました。


マンローの研究態度

アイヌの習慣に関するマンローの記事が、メディアにたくさん掲載されたのは1934年のことです。彼は秘密のガードルが母系相伝することを報告しました。さらにそれらの持つ魔法の力、共同体における意味と重みについて言及しました。

マンローがアイヌ文化について本を書く目的は、アイヌの人々の慣習を注意深く観察し、報告するだけではありません、それは世界全体、特に日本人にアイヌの生き方を提示し訴えることでした。

アイヌの文化には考慮に値する価値があり、彼らは不条理な迷信だけを信じている未開の民ではありません。

 マンローはこの見解を一貫して強調しました、アイヌ人には、不合理に見えるかもしれない信念や儀式があります。それを記録するとき、彼はヨーロッパの民俗習慣と比較し共通点を見出すために苦労しました。

 実際、彼の未発表の記事の1つに発表の機会が与えられたため、彼はこの本をアイヌに対する「寛容の嘆願」にすることを意図していました。

もちろん、いまこの本を読んでいる読者にとって、そのような嘆願は不要です。だからそのような「奴隷の言葉」は省略されています。

マンローの関心は、北海道南部の沙流渓谷の二風谷でとどまるものではありません。彼は地区の情報提供者と協力し、道北の北見を何度か訪問しています。彼はサハリンにも調査に行くつもりでしたが、それはできませんでした。

彼の主な情報提供者は、アイヌの伝承にまだ精通している年配の男性と女性でした。

もしマンローの努力がなかったら、その知識の大部分は彼らと共に消えたでしょう。なぜなら、古い生活様式は日本(内地)の影響力が増大する下で急速に姿を消し、新しい生活条件では古い儀式、信念、伝説は無視されたからです。

彼の情報提供者は、もう誰も生きているとは思えません。

マンローーはたくさんの素晴らしい写真を送ってきました。その写真とオリジナルの原稿はすべて王立人類学研究所に寄託されています。多くがこの本に掲載されています。しかし残念なことに、英国に届いたのは写真だけであり、ネガをたどることはできませんでした。

何が渡辺氏との見解の違いを生み出したか

戦争中の出版は不可能でした。終戦の後、改めて出版への模索が始まりましたが、原稿を校訂できる有能な人物を見つけることが大変困難でした。

幸運なことに私たちは、ロンドン大学に留学していたすでにさんとめぐりあうことができました。

 彼は東京大学人類学部人文研究所の講師で、東京アイヌ合同研究委員会の研究委員でもありました。彼には1950年から1952年までの4回にわたる現地フィールドワークの経験がありました。このため彼の援助は非常にありがたいものでした。

原稿についての一般的なコメントに加えて、彼は自分の経験と日本語およびその他の情報源から得た脚注を追加し、この本の歴史的意義についての紹介を書きました。

渡辺氏はマンローが準備した論文を閲読しましたが、他の記事や材料は見ていません。

彼は多くの細部にわたる違いや誤りを指摘し、マンローの主要な解釈の一つを批判しました。これらの訂正、追加情報は、すべて脚注に組み込まれています。

私は事実問題での違いを検討する際には、いくつかの条件を考慮する必要があるとかんがえます。

すでに述べたように、マンローーは20世紀前半の数十年にアイヌの住む地域を訪問し、1930年からはそこに住み、12年後に二風谷で亡くなるまで、そこは彼の家になりました。

1930年代ですでに、若い世代は古い慣習を守っていませんでした。彼の信頼できる情報提供者はすべて高齢者でした。彼の情報は、長老との話し合いのなかで知った出来事に補足され、基づいていました。

1950年代に東京共同研究委員会と渡辺氏が調査を行ったとき、宗教的思想は、すでに生きている信念というよりも、神学のシステムとして理解されていたかもしれません。
これが解釈の主な違いのいくつかの理由になっているでしょう。

事実の違いに関して、マンローは二風谷地区と他の信頼できる地区を参照したと指摘しました。彼は地区ごとのバリエーションの存在を予測していました。

「霊返し」の儀式

渡辺氏との解釈上の主な違いは、植物の精神的本質に関するものです。

 マンローは、シランバカムイという植物の神があり、すべての植物はシランバカムイからラマト(精神または魂)を枝分かれさせていると述べています。

木にもラマトがあります。木の種類によっては、他の種類よりも霊的な力が強いため、より神聖であり価値があります。

渡辺氏は、すべての植物は「霊の化身であり、すべての獣、鳥、魚、昆虫はカムイ族の霊である」と述べています。「カムイの国では霊は人間の形をしていて、人間として生きる」が、アイヌの村を訪れると「木や草などに変装」するのだそうです。

マンローによれば、この本で「霊返し」と訳した式典は、化身と霊を引き離し霊をカムイの地に帰すことです。

渡辺氏によると、野菜で作られた捧げものは、しらんばカムイという単一神ではなく、それぞれの植物の霊からその美徳を引き出しているといいます。

動物の世界に関しては、解釈の違いはそれほど大きくありません。

アイヌはすべての動物がカムイであると信じてはいないと考えています。しかし同じ種のなかに良い動物と悪い動物がいることを示唆しています、そしてこれはクマ、ヘビ、キツネとスズメバチで特に注目されます。

悪い動物からの保護は、カムイ族の首長に訴えることによって得ることができます。なぜなら良い首長は自分の悪い部下を抑制することができるからです。


アイヌ語の発音と語尾音について

主に口唇、口蓋、および口蓋音に関して、渡辺氏との違いも発生します。

マンローーはそれらをb、d、g(シランバ、イオマンデ、オンガミ)として、渡辺氏はp、t、kとして音訳します。 私はマンローのスペルを保持しました。一貫性を保つために渡辺氏のスペルを変更する必要がありました。

この決定を支持するために、私は二風谷(ニブダニ)がマンローが住んでいた村の公式の住所であることに言及しておきます。

アイヌ語の完全な歴史的・文化的記述とアイヌ語の構造を説明することは、マンローの目的の一つでした。彼はそれをアイヌの過去と現在と呼びました。

しかし、マンローが残した材料を検討した後、私たちの委員会は、「アイヌの過去と現在」まで語るには不足していると判断しました。そしてこの本には、「儀式と信仰、そしてアイヌの日常生活への影響」に限定して扱うのが最善であるという結論に達しました。

 マンロー本来の意図を反映するためには、ノートからラグラン卿が編集した「アイヌの家の建設」に関する記事、それに狩猟技術、織物、その他の活動に関するノートが、やがて全面公開されることが望まれます。

この本の章別構成について

第1章、第2章、第3章、第4章、第5章、および第11章は、マンローの書いたとおりに掲載されます。

第 6、7、8、9、10章では、マンローが書いたいくつかの個別の記事に含まれる文章、彼のオリジナル作品に散在する情報、および多数のメモを整理したもの、さらにCGセリグマンへの手紙から抜粋し編集したものです。これら貴重な資料は、私が知る限り、いまだかつて公開されていないものばかりです。

 マンローーは祖先崇拝、母性、愛国心などについて観察した中身の重要性を理解してなかったかも知れません。それは私も最初は同じだったようです。

私は社会的組織に関する第12章を作成しました。マンロー自身の仕事から、祖先崇拝、母性、愛国心などを抜き出し、戦後に現場で働いていた日本人作家の情報も付け加えました。これによりシークレットガードルに関するマンローの情報についてもより広い視野から科学的に追跡できるでしょう。

 読者は、第2章、第3章、および第4章が大変かもしれません。カムイ、イナウはアイヌにとって非常に重要であり、注意深い説明と写真はマンローの誠実さへのオマージュです。

これらの章を読み飛ばしたいと思ったら、飛ばして構いません。後で間違いなく興味が生じるでしょう。これらの章は参照としても使用できます。


マンロー夫人との接触

英大使館員だったヒュー・ギブ氏の努力により、1959年10月にマンロー夫人と連絡をとることができました。彼女は夫のアイヌ研究がようやく出版されることを知って喜こびました。

彼女の証言により、オットマンローの死の際にフォスコ・マライーニが二風谷にいたこと、マンローが彼にタイプ手稿がいっぱい入ったリュックサックを託したことが明らかになりました。

私は出版社を介してマライーニに手紙を送りました。マンローの手紙で言及されていた未発表資料、貴重な映画がようやく見つかるのではないかと期待を膨らませました。

6か月後、彼はリュックサックを持ってロンドンのわたしのところまで来てくれました。しかし残念ながら、中身は作成した本のカーボンコピーと、付録Iとして本に付け加えたいくつかの伝説とメモだけでした。

謝辞

私は英国協会の委員会のすべてのメンバーに感謝します:

マンローの本のオリジナルの活字書を読み、渡辺氏に援助を与えてくれたフォルデ教授に。

アイヌ語と日本語の単語のスペルと翻訳をチェックしてくれたArthur Waleyに。

特にラグラン卿は、この作品の改訂と再編において、より簡潔にするために努力していただきました。  彼はまた、インデックスを作成してくれました。

アイヌに関する最新の書誌を紹介してくれたワシントン州議会図書館のW. H.ギルバート氏に感謝します。王立人類学研究所の司書であるカークパトリックさんには、このリストを確認していただきました。この本の主題に直接関係する作品のみを含めることにしました。

B. Z. S.

London, 1962



を大幅加筆した。
 
「日本のがん」の紹介はこの文章に突っ込むのは、かなり無理があるが、当座のしのぎということで我慢しておく。読者の皆さんはここは飛ばしてよい。

ブログ主からの一言

多分、留学生の研究発表みたいな論文だろうと思う。それにしてはよくまとまっており、勉強になるところもある。結局日本人の研究者がいかに勉強していないかということだろう。

私注を入れるうちにいつの間にか当初の量の数倍に膨れ上がってしまった。いずれターナーの文章に示唆を受けた私のオリジナルとして発表していくことになろうかと思う。

少なくとも日本で考古学を志そうとするなら、マンローの学問的足跡を確認せずに自らの立ち位置を定めることは出来ないのではないか。

ニール・ゴードン・マンロー 「アイヌの信仰と宗教儀式」(英文)

目次

序文 B.Z.SELIGMAN

解題 H.WATANABE

上記2論文は、稿を改めて抄訳を記載する。

I. 基本概念
Ⅱ. カムイ
III.イナウ
IV . Effigies
V .Hearth and  Home
VI . House-building  rites
VII . The  House-warming  Ceremony (Chisei  Nomi )
VIII 。 The  Feast  of  all  souls  or  Falling tears
 (Shinurapa )
IX 。 Exorcism (Uepotara)
X .Various  rites
XI . Death  and  Burial
XII . Social  organization この章は SELIGMAN による



以下本文

I.基本概念

アイヌの宗教に特微的な基本概念は次の3つである。
すなわち、ramat, kamui, inau である。

ramat は人々の魂である。kamui は神々である。inau は神への捧げものである。それはカムイに提供され、彼ら自身もラマトとしての性格を持つ。

これらの8つのカムイを超えて至高のカムイが存在する。それは天空と関連するカムイである。アイヌは彼らをPase-Kamui と呼んでいる。

天空と関連するパセ・カムイの長はKando-koro Kamui, すなわち“天の所有者”と呼ばれる。
しかしKando-koro Kamuiは唯一神ではなく、Pase-Kamui の中の一員に過ぎない。

Ⅱ. カムイ

kamui は次の8つに分類される。
 (1) 存在の遠い,伝統的なkamui
 (2) 身近な信頼しうるkamui
 (3) 従属的なkamui
 (4) 獣の姿をしたkamui
 (5) spirit を助けるkamui と個人的なkamui
 (6)有害な,悪意のあるkamui
 (7 )流行病のkamui
 (8 )言うに言われぬほど恐しいもの。

第Ⅰ章では(1)遠くに存在する至高のパセカムイについて論じた。

第Ⅱ章ではそれ以外のカムイについて論じる。それらは一族の祭るカムイであったり、獣に化身したカムイであったりする。いたずら好きで悪さをするカムイ。お守り、アイコン的なカムイ。さらには疫病神のカムイまでいる。貧乏神がいないのは貧富のない社会だったからだろうか。

これらのカムイを生き生きと紹介するマンローは、鬼太郎らを紹介する水木しげるのような趣きがある。

III.イナウ

第三章ではイナウについて論じる。
イナウは超人間的力を持ち, 人間とカムイとの間の媒介者となる。

イナウにはさまざまなタイプがある。マンローはイナウを形態別に分類し,説明している。
イナウに彫刻されたekashi 、itokpa ,ikubashui などの「印」について述べている。また,戸外でのイナウの正しい並べ方も説明している。

Ⅳ. 木偶(EFFIGIES)

形態は大体inau に似ているが、カムイ を表した像とされる。シュトゥ・イナウカムイと呼ばれ別扱いで尊重される。

Ⅴ. 囲炉裏と家

礼拝の場所としての家,屋根,絶対に汚すことの許されない炉,席順,器物の配置,宝物,pu、便所について記述される。

風水みたいなものでしょうか。

VI.  家を新築するときのみそぎ

「家を暖める儀式」(エピル)と言われ囲炉裏にくべる新しい火を作る。 日本では上棟式に当たるのか。
聖なる醸し酒が醸造され、パーセ・カムイに捧げられた後、客に振る舞われる。聖なる醸し酒の重要性が強調されるいっぽう、酒を飲むときのエチケットが述べられる。むかしからアイヌには酒癖の悪いのがいたのだろう。

VII. 上棟式の続き (CHISEI NOMI)

悪霊を追い払うために屋根に矢が放たれる。

世帯主が賓客と儀式的交礼を交わした後、家の神聖な窓が開けられ、窓の外のカムイへの祈りが捧げられる。

VIII. すべての魂の饗宴(シヌラパ)

ここから饗宴が最高潮に入る。ここでの主役は女性である。女性は戸外に出て、東窓の外の広場に集まり、ヌサと戸口の霊への挨拶を行う。
先祖の霊への呼びかけを女性が行い、女性によるダンスが始まる。このとき戸外に儀式用の座席がしつらえられる。(実はこのへんから私の役は怪しげである。雰囲気だけ味わっていただきたい)

IX. 厄祓い (UEPOTARA)

厄払いには多くの種類があり、目的ごとに方法はことなる。ほとんど私の力では翻訳不能。

X. さまざまな儀式

厄払いだけでなく狩猟や漁業などの幸運を祈る儀式もある。これも詳細は省略する。

XI. 死と葬儀

死と葬儀はさまざまな哲学を内にふくむだけに、多様かつ複雑である。死後の世界も善人と悪人では異なってくるので、交通整理が必要である。とりあえず葬式の次第のみ箇条書しておく。
  体からラマトの別離と出発。死体の処理。
親族の順序・主な会葬者。
別れの挨拶。お悔やみ。
葬儀での行動・葬式の食べ物
埋葬の準備。埋葬儀式。墓柱の儀式。
妊婦の死体の儀式。
水とブラッシングによる会葬者の浄化。  
などなど
マンローは葬儀屋の社長のごとく書き連ねる。


XII. 社会組織の編成

第Ⅻ章はマンローの英国における庇護者であったC.G.Seligmanの未亡人B.Z.Seligman(彼女自身も民俗学者)が、手紙や遺稿を編集しながら自説を構築したもの。母系社会と父系社会の混交した様式が見られるとしている。


“Medicine in Japan and Scotland : Dr. N. G. Munro” TURNER, Roderick J. 東邦大学 2014

ブログ主からの一言

多分、留学生の研究発表みたいな論文だろうと思う。それにしてはよくまとまっており、勉強になるところもある。結局日本人の研究者がいかに勉強していないかということだろう。

私注を入れるうちにいつの間にか当初の量の数倍に膨れ上がってしまった。いずれターナーの文章に示唆を受けた私のオリジナルとして発表していくことになろうかと思う。

少なくとも日本で考古学を志そうとするなら、マンローの学問的足跡を確認せずに自らの立ち位置を定めることは出来ないのではないか。



あらすじ

マンローはアイヌの人々を無料で治療した医師として知られています。しかし彼の功績はそれだけでありません。

彼の日本での生活のほとんどは、考古学的・人類学的研究、各地での発掘作業と遺物の収集、晩年のアイヌ文化の客観的で厳格な記録に当てられました。
その中でも最も重要な学問的貢献は、アイヌの遺産の文書・記録化と保存にあったと言えるでしょう。

マンローは1888年にエジンバラ大学で医学の学位を取得しました。その後、インド・香港を経由して日本に定着。医師としての活動の傍ら、生涯を通じて日本で研究を続けた。

他にもアイヌに携わった英国人は、イギリス聖公会のジョン・バチェラー牧師などたくさんます。しかし彼が治療した何千人ものアイヌ人の患者にとって、マンローほど大切な人はいないでしょう。

しかしマンローの名は日本でもスコットランドでもあまり知られていないままです。


序章 生い立ち

ニール・ゴードン・マンローは、1863年6月16日、スコットランドのロッキーで生まれました。父は現地の開業医だったロバート・ゴードン・マンロー、そして母親はマーガレット・プリングル・マンローでした。

ニールはキンロスの学校に通いました。彼の家族は1882年にラトに引っ越しました。
1879年、彼はエジンバラ大学の医学部に入学しました。

入学して3年目、彼は深刻な肺感染症(おそらく結核)になり、チュニジアに移住して療養生活を送りました。

このためか、彼は医学部を遅れて卒業し、医学博士の学位を取らないままインドへの旅に出るのです。



この目的地が考古学への関心を引き起こしたのか、それとも主題への既存の関心が場所を選択する要因になったのかは、未解決のままです。

(注: 彼は学生の頃からすでに考古学に興味を持ちテームズ河畔の遺跡発掘に参加したりしています。療養先のチュニジアでも発掘に手を染めていました)

1888年に大学を卒業した後の3年間はほとんど記録がなく、私たちはほとんど知ることができません。ただしその足どりについては、乗船名簿や宿泊記録などいくつかの記録が残っています。

ビクトリア朝の理想とスコットランド人の冒険心に従って、彼は行動したと思います。
(注: スコットランドは自然環境が厳しく多くの若者は国外を目指しました。その中でエジンバラ大学医学部の先輩ダーウィンの活躍は、マンローにとって大いなる刺激だったと思われます)

彼はしばらくの間、P&Oフェリーラインで働いていましたが、この間は確かにインドに航海していました。彼が1891年5月に日本の横浜に到着したのは香港経由でした。
(注: 彼はインド航路を運行する海運会社に船医として採用され、インドに渡っています。そこでも発掘活動を行いましたが、健康を害し香港に移動。今度は横浜航路の船医となりました。その間も病気が悪化し、横浜の横浜総合病院に入院しました。退院後もそのまま外人病院に雇われ、横浜に居着いてしまいました。その後、彼は父親の死にも帰国することなく、1942年の彼の死までずっと日本から出ることはありませんでした)

彼は1898年に横浜総合病院で医師として働き始めました。共同でこの病院を設立したことも記録に残っています。1899年に彼は日本で医療免許を与えられました。

(注: この病院の院長になったことはありますが、設立したのは個人開業のクリニックです。総合病院の設立は維新直後のことです)

1898年に彼は、アイヌの本拠地である巨大な北の島である北海道を初めて訪れました。

 1905年にマンローは帰化し日本人になりました。カタカナっでマンローとしましたが、その後漢字で「満郎」と名乗るようになりました。

興味深いことに、Munroの以前の当て字は「卍樓」でした。ただしマンロ自身の書簡や他の学者によるこの変更への言及はありません。
卍(マンジ)は、ヒンズー教、仏教、ジャイナ教に関連する古代の宗教的シンボルです。
しかし第二次世界大戦前にナチスが、(ハーケンクロイツ)を党章として採用してからは使わなくなったようです。

一度だけ日本を離れ、帰国したことがありました。1909年にエジンバラで医学博士号を取得するためです。
(注: 医学士の免許はあるため診療は可能でした。ただ考古学の論文を発表するにあたって医学博士の肩書きはあったほうが幅が効いたようです。結局、マンローは1909年になって「日本におけるガン」と題する学位論文を作成。エジンバラに戻って学位審査を通過し博士号を受けることになります)


女たらしのマンロー

スコットランド人は、女性を追いかけることについて「積極的」であると考えられています。女たらしで有名なスコットランド人にトーマス・グラバーがいます。長崎のグラバー邸の主です。
プッチーニのオペラ「マダムバタフライ」は、グラバーの妻ツルをモデルにしたと言われます。(諸説あり)

マンローも艶福家で、4人の妻と結婚しています。他にヨーロッパ旅行中に知り合ったフランス人女性がいますが、日本に来てすぐに別れたようです。

1895年、マンローは最初の妻であるアデル・レッツと結婚しました。アデレは横浜のドイツ人商社の社長令嬢でした。

二人の間には2人の息子がいました。弟のロバートは1902年に亡くなりました。ロバートへの肉親の情が1908年出版の「日本のコイン」に示されています。
アデル・レッツも1905年に亡くなっています。

その年、文郎は高畠トクと結婚しました。
(注: 暴き立てるのも気が引けるが、マンローは高畑トクと結婚したくてアデルと離縁したのだ。国際結婚では離婚が難しいため、日本に帰化したのだ)

そのトクとも1909年に離婚したが、二人の間には娘のアイリス/あやめがいました。

1914年、今度はスイス商社の令嬢(母は日本人)アデーレ・ファーブルブランドと結婚しましたが、1937年に離婚しました。そして4人目の妻、木村チヨと結婚しました。

チヨは看護師として軽井沢のクリニックでマンローの医療を手伝う中で結ばれることになりました。1942年にマンローが死んだときは最後を看取りました。彼らには子供がなく、1974年に彼女は亡くなりました。いまは同じお墓に葬られています。


マンローと考古学

考古学はおそらく日本でのマンローの作業で、最もよく文書化・記録化された領域です。彼日本中の何百もの発掘調査を監督ました。いくつかの遺跡では乞われて参加しました、

縄文時代やその後の工芸品を何千と集めました。そして人類学的パラダイムに基づいてそれらを整理しました。そして日本の先住民としてアイヌの優位を確立しました。

(注: 正確にはアイヌ人ではなく縄文人です。アイヌ人は北海道に暮らした縄文人で、いくらかのオホーツク人の血統を伝えたものです。日本人は、主として半島からの渡来人と縄文人が交わって形成されたとされます)

私たちにとって特に興味深いものは、日本の考古学におけるマンローの役割に関連することです。

マンローの最も注目すべき発掘には、横浜近郊の三ツ沢、大森、根岸があります。彼はその他に北海道での遺跡発掘、神奈川県箱根、鹿児島県でも調査を行っています。(注: 軽井沢は長野ではなく川崎の遺跡である)

彼の初期の考古学の仕事は「先史時代の日本」(1908年、1911年再版)で集大成されました。彼のもっとも重要な理論的貢献は日本における先史時代のアイヌとの関係を明らかにしたことです。

マンロー以前には、日本列島の最初の定住者をめぐる議論は、アイヌとは何の関係もありませんでした。マンローが最初にそれを主張したのです。

日本の先住民族はアイヌ人(縄文人)でした。彼らは日本列島全般にわたって生息し、南は琉球諸島から北は樺太島(現在はロシア領サハリン島)まで分布していました。
それは現代日本人の祖先ともつながっていました。

アイヌ(縄文人)は本州北部で比較的に密度高く暮らしていました。北海道だけでなく、特に青森でもおおくの縄文遺跡が見られます。
(注: 南西日本では常緑樹地帯で山のみのりは少なく、比較的に漁撈生活に特化していった可能性があります)

マンローの蒐集品

悲劇的なことに、マンローは二度の災難で本、資料、発掘品、手紙のほとんどを失いました。

経済的に余裕のない人々への無料のヘルスケアは、彼の人生の継続的なテーマでした。

最初は1923年の関東大震災です。横浜の自宅は多くのコレクションもろとも全焼しました。当時軽井沢にいたマンローは直ちに横浜に戻り、資料喪失のショックに耐え被災者の治療にあたりました。経済的に余裕のない人々への無料のヘルスケアを施すことは、マンローが生涯一貫して追求したテーマでした。

そして二度目は1932年、定住準備のため北海道の二風谷で借りていた家が焼失したときです。こうして日本国内に彼が集めていた資料はほぼなくなりました。

幸いにも、彼は1894年から少しづつ、考古学的資料をスコットランドに送り始めていました。このような努力のおかげで、スコットランド国立博物館にはマンローの集めたかなり大量のコレクションがあります。


マンローの医学研究の水準

マンロの死亡診断書には、1942年に79歳で癌で死亡したと記載されています。

彼は1882年に結核に罹患し、療養を余儀なくされました。彼はチュニジアに転地し、1年間の療養生活を送りました。その後彼は医学博士の学位を取らないまま医療を続けました。1909年になってやっとエジンバラ大学から学位を取得したのです。

彼の博士論文は「日本のがん」と題されています。タイプ原稿で30ページにもわたる長大論文で卒論というより「総論」の趣があります。審査にあたった教授たちはさぞ辟易としたことでしょう。

論文ではまず、日本の死亡統計が1899年以来に始まったことを明らかにしています。つまりこの論文のわずか10年前のことだということです。

医学校の出身者は20,592人。これに対し医師補が15,046人で医学レベルがきわめて低い。このため統計の信頼度は相当低い。

その事もあって、死因統計では「不明死」が多い。例えば1904年の統計では不明死が11%を占める。2位以下からが病名のついた病死となっている。

死因の上位を占めるのは脳溢血や脳軟化など脳血管疾患。感染症では脳膜炎、胃腸炎が多い。マンローはこの中から「近代疾患」としての結核とガンに注目する。

イギリスの近代統計からは次のことがわかっている。近代工業の発展に伴い人口の大都市集中が進む。これに伴い労働者の間に結核が蔓延する。結核は多臓器を犯すが、医学の進歩に従いこれらが結核菌の感染によるものであることが明らかになる。これらが相まって結核の全死因に対する割合が増える。しかし結核の蔓延はやがて正しい療養や予防の普及により減少するようになる。そしてこれに代わって癌による死亡が増えてくる。

ここでマンローは、日本における結核の有病率と発生率に関する広範なデータを検索し、都道府県別の結核とがんによる死亡を比較した。

その上で統計に関して考察を加えています。たとえば、肉を食べるという新たに広まった習慣にもかかわらず、横浜の胃がんによる死亡率は1908年には10万人あたり44.4人と低いのです。

それなのに奈良県は、10万人あたり92.8人という「驚異的な」ガン死亡率がある。つまり日本人のがん発生の機序は英国人とは異なるということを示しています。

マンローは奈良県のガンの高発生率が胃がんによるものであり、それが主として山林労働者の食習慣にあることを推測し、「癌の外因性は、生体組織への機械的、熱的または化学的攻撃であることが明確に確立されているようだ」と結論づけています。

これは現代の医師や研究者にとって単純化しているかもしれませんが、細胞の病理学と生物遺伝学について深く理解している読者にとって興味深い提起です。

マンローは最新の医学をよく勉強していたようです。論文では「酵素・毒素・芽球・形成性」などの近代医学用語もしばしば用いられています。

イギリスではまた男性の癌が急速な増加を示していますが、日本でそれを証明することはできません。女性のがん死亡率が男性を上回っているというのも興味深い事実です。


マンローの理論活動

マンローは考古学研究、アイヌの生活についての民族学的研究で多くの業績を残しています。また学位論文「日本におけるガン」や「日本の古銭」の研究なども水準の高いものです。

その他にも多くの哲学的論文を新聞に寄稿したり、アイネシュタインが訪日したときは相対性理論についての解説を掲載したりしています。これらは英文で書かれ、残念ながらまだ閲覧していません。マンローは深い知的推論の能力を持ち、きわめて抽象的な概念に関して理解力を持っていたようですが、その水準は未知のもののようです。

マンローは最後まで日本語の読み書きも、会話さえ出来ませんでした。このため日本の学者との交流もきわめて限られていて、日本語での文献はほぼゼロ、身の回りの雑事を描いたルポに限定されています。

マンローは深い知的推論と抽象的な概念の理解の能力を持っていました、

彼の日常の活動は特に抽象的なというよりは肉体的であるという事実にもかかわらず、すなわち、彼の患者の治療と考古学的発掘でした。マンローが行った厳密で詳細かつ影響力のある調査の多くは、彼の「予備」の時間(つまり、非稼働時間)に行われたものです。

さらに、マンローや彼の業績の特定の部分に関する作品はたくさんありますが、私の知る限り、本や他の一般的な参考資料はほとんどありません


二風谷での研究活動

マンローと4人目の妻チヨさんは、1930年以降最後の12年間を北海道二風谷で過ごしました。しかし北海道の生活は初めてではありません。以前から何度も北海道を訪れ、アイヌ民族の研究に熱情を燃やしました。

彼はアイヌの人々の文化、言語、民間伝承、伝統、工芸品を考古学的に忠実に文書として記録していました。その間、アイヌの人々に軽費または無料の医療を施しました。

彼は1923年の関東大震災の後、軽井沢療養所で患者を治療するようになりました。これは夏の間、避暑客用に開放され、外国人コミュニティに人気がありました。

マンローは1930年には院長に就任しています。二風谷に居を定めた後も夏の間は軽井沢で診療を行い、そのお金で二風谷のための生活資金や住民のための治療資金を賄っていたようです。


まとめ

マンローは多くの側面を持つ水準の高い知識人です。ここではその多くを簡潔さのために割愛しましたが、もっとも脚光を浴びているアイヌとの彼の関係だけでも、いくつかの日本語のドキュメンタリー、本、展示会の主題となっています。

ここでは非常に初歩的な紹介を死、興味を持つ材料を提供できれば幸いです。そして、マンローへの興味の幅がさらに広がることを期待します。

何千ものマンローが2度の被災で失われました。しかし1923年と1932年の個人の手紙、データ、加工品、資料などがまだ大量に眠っています。

マンローが行った調査は厳密で詳細かつ影響力のあるものでした。しかしそれらはかれの「余暇」を使っておこなわれたものです。だから発表を前提に行われたものではありません。

さらに、マンローの業績の特定の部分に関する研究はたくさんありますが、私の知る限り、彼の生き方や業績を総合的に暑かった書籍はほとんどありません。

これは、スコットランドと日本の歴史に興味のあるすべての人にとって、とても不幸なことです。

マンローが愛し、共に暮らすようになったアイヌの人々に対するマンローの医療は、

アイヌ人々がいまもマンロー博士を忘れず、尊敬し続けている理由はたくさんあると思います。ともに暮らし医療奉仕を行ったことは、その理由の1つにすぎないと思います。

そして将来、両国の研究者は、マンローという人物について思いを同じくし、より深い理解を深めるでしょう。


マンロー「先史時代の日本」梗概

“Prehistoric Japan”, by Neil Gordon Munro 1908, 1st Edition
ph1 munro_1908_cvr

本文 705 pp. 折りたたみ多色マップと421のイラスト

Examples of Illustrations

Figure 395 - Wood Cut, Color Added
Figure 395
見たことのないイラストである。埴輪のようにも見えるが木彫とあり、どこかの寺の陳列物なのか。

Figure 391 Fiigures on an Ancient Bow
Figure 391
これも初見の図であるが、なぜ古代の弓か、分かる人はご教示願いたい。

Figure 400 Biwa
Figure 400

このような見事な美術品が当時はかんたんに入手できたのだろうか。

Contents

序文
A. 無土器時代
第1章 旧石器時代
B. 縄文時代(新石器)
第2章 新石器時代の遺跡
第3章 居住地
第4章 道具と道具
第5章 武器
第6章 陶芸
第7章 食事、服装、社会関係
C. 弥生時代(中級土器時代)
第8章 中級陶器
第9章 いくつかのブロンズの痕跡
D. 大和時代
第10章 大和遺跡と墓地
第11章 大和金属と石の遺物
第12章 大和焼
第13章 大和社会生活と人間関係
第14章 宗教
第15章 先史時代を担った人種
(A.~D.の大時代区分は鈴木の挿入したもの)

奥付(Colofon) 
munro_1908_colofon


この文章は
Pitt Rivers Museum Photograph and Manuscript Collections
のうち
のページを抄訳したものです。

ちょっと感想を。
多少間違っているかもしれませんが、マンローは日本の先史時代を初めて体系づけた人です。彼は先史時代を旧石器時代(打ち欠き石器)、新石器時代(縄文時代)、中間期(弥生時代)、ヤマト時代と区分しました。
そしてそれらの時代の実在を、石器、土器、金属器などで実証し、地層により前後付けました。
第二にドルメンを太古のものとして位置づけ、各地の石造物を一括し系統づけ、その世界史的意味を探りました。
第三にアイヌを日本人の源流の一つとして位置づけ、先史時代にはアイヌがあまねく日本列島に存在したこと、これと渡来民の交流の中に日本人が生まれたと考えました。現存のアイヌ人はこの流れに合流しなかった人々だと考えました。
これらの考えは当時にあって群を抜くものだと思いますが、いかがでしょうか。
ここに彼が発掘したものを見ると、驚くものばかりです。頭飾りやテラコッタなど、日本製のものとしては見たことがありません。間違いなく重文級のものでしょう。
これまでのマンロー関連資料といえば、桑原さんの本をふくめ周辺情報が多く、彼の業績に迫るものは乏しいのです。これからさらに英文資料と格闘を続けることになりそうです。



マンローの紹介

ニール・ゴードン・マンロー(1863年〜1942年)はスコットランド人の医師でした。卒業後、インド・香港を経て日本に定着。1893年から横浜総合病院の病院長を務めました。

マンローは医師の職務以上に、考古学者として尊敬されるべき存在になりました。なかでも横浜市内の三沢貝塚の発掘でその名を知られています(1905–6)

マンローは考古学調査の成果を集大成し、「先史時代の日本」(1908)を出版しています。それは重要かつ影響力のあるものです。

晩年は北海道に住み、二風谷のアイヌコタンにクリニックを開設し、終生を捧げました。

彼は先住民文化の断固たる支持者として活動しました。彼は今でも「アイヌの友人」として愛情を込めて記憶されています。

マンローのコレクションは、スコットランド国立博物館、北海道博物館、大英博物館、ピットリバーズミュージアムなど、さまざまな機関が所蔵しています。

ここで見られる写真はすべて、ニール・ゴードン・マンローが1905年頃撮影したもので、最近発表されたものです。

 Philip Grover:「レンズが捉えた幕末・明治の日本: オックスフォード大学所蔵写真より」(東京:山川出版社、2017)。

この本は、オックスフォード大学のピットリバース博物館の歴史的なコレクションを利用し、日本の初期の写真に関する文学への貴重な情報を追加・提供しています。

著者のフィリップ。グローバーは、博物館の学芸員です。主に明治時代(1868〜1912)に焦点を当て、コレクションのハイライトを紹介します。

これらの重要な資料は初めて海外の視聴者に提供されたものです。

写真1 「日本(先史時代)」というラベルの付いた、深い溝と水路のパターンが刻まれた大きな石の拡大図。
写真1


写真2 平らな風景の中央に見られる大きな(先史時代の)彫刻が施された岩。地元では「カエルの石」と名付けられています。奈良県飛鳥。
写真2

写真3 遺跡として知られている、大和時代の墓地とされるドルメンの入り口。
写真はニール・ゴードン・マンロー。 日本。 1905年頃。
写真3

写真4 マンロー(中央)と日本の同僚(左)が石舞台古墳というドルメンの上に立っている。 奈良県島の庄。 1905年頃(1911年まで)。
写真4

写真5 ニールゴードンマンロによって発掘された陶器の置物。 縄文時代。 横浜市内の住宅地から。
 1905年頃。
写真5

写真6 マンローが発見した「壺」と名付けられた背の高い壺。 やきもの文化としてヤマト文化に属する。1905年頃(1908年まで)。
写真6 

写真7 マンローによって発見された金属製の工芸品。キャプションに「頭飾りの装飾」があり、左側に「型から分離されていない青銅の矢じり」があり、「ヤマト文化」というラベルが付いています。
1905年頃(1908年まで)。
写真7

写真8 ニールゴードンマンローによって発掘されたテラコッタの花瓶。
写真はニール・ゴードン・マンロー。 日本。 1905年頃(1908年まで)。
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写真9 枝と藁で作られたエタ小屋、または屋根のあるピット住居。建設中に撮影したもの。
撮影はマンロー。 日本。 1905年頃(1908年まで)。
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写真10 アイヌの建物、おそらくは店舗で、背後には他のいくつかの建物が見えています。
撮影はマンロー。 北海道。 1905年頃。
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写真11 路上で人力車を置き、その横に人力車の人(車夫)が立っています。撮影はマンロー。1905年頃。
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参考文献

Neil Gordon Munro 「アイヌ:クリードアンドカルト」 B. Z.セリグマン編(ロンドン、1962年)。

ニール・ゴードン・マンロー 「先史時代の日本」(横浜、1908)。

「N. G.マンローと日本考古学:横浜を掘った英国人 N. G.マンローと日本の考古学](横浜、2013年)

「海を渡ったアイヌの工芸:英国人医師マンローのコレクションから<マンロー・コレクションにみるアイヌの技と精神>」(札幌、2002)

ジェーン・ウィルキンソン、「ゴードン・マンロー:日本の考古学と人類学におけるベンチャーズ」、イアン・ニッシュ(編)、イギリスと日本:伝記の肖像(Folkestone、1994)、pp。218–237。 




氷河時代とはなにか

不勉強で、いまだに氷河時代とはなんぞやということが分かっていない。

なぜかと言うと、
①氷河時代の時代区分と地質学的時代区分がかぶっているからである。
②おまけに若いとき習った洪積世・沖積世の言葉が使われなくなり、
③それに代わる言葉が更新世・完新世とえらく難しい言葉になっているからだ。
④さらにこれらを総括する「第四紀」という言葉の定義が、およそ場当たり的なのだ。
知識を整理するには、以上の点を頭においておいたほうが良い。

1.氷河時代(ice age)

地球が誕生して以来、いくつもの氷河時代があった。代表的なものが次の5つである。

ヒューロニアン氷河時代: 約22億年前
クライオジェニアン: 8億5000万年前
アンデス-サハラ氷河時代: 4億6000万年前
カルー氷河時代: 3億6000万年前
第四紀氷河時代: 約258万年前

我々が生きているのは、第四紀氷河時代の間氷期の一つである。

第四紀氷河時代というのは、“第四紀のあいだに起きた氷河時代”の意味である。

それは約260万年前に始まった。ホモ・エレクトゥスがアフリカで誕生した頃である。*

* 第四紀は「人類の時代」と定義されている。より古い原人が発見されると、第四紀の始まる年代もさかのぼる。かつては181万年前以降を第四紀としていたが、現在は258.8万年前からとされるようになった。

2.氷期(glacial period)

氷河時代はいつも寒いわけではない。寒い寒い氷河期とそれほどでもない間氷期に分かれる。

それはミランコビッチ・サイクルと呼ばれる。4万~10万年の周期で交代し、地球の公転軌道の周期的変化と合致する。

第4紀氷河時代は6回の氷期と6回の間氷期からなる。

約7万年前に地球は最終氷期(ヴュルム氷期)に入った。

この時期は出アフリカを果たしたホモ・サピエンスがユーラシア各地に拡散していく時期と一致するため、非常に重要である。


3.最終氷期

約4万年前に、温暖・湿潤期があり現在よりも湿潤であったとされる。

2万数千年前に最寒冷期が襲来し、2千年ほど続いた。
世界で氷床化と乾燥化・砂漠化が進んだ。海水が蒸発して降雪し陸上の氷となったため、海面が約120メートルも低下した。

北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きとなり、東シナ海の大部分も陸地となった。
北海道では永久凍土や氷河が発達し、針葉樹林は西日本まで南下した。


4.後氷期・完新世

最終氷期(ヴュルム氷期)は約11,700年前に終了した。

地球は最後(最新)の間氷期に入った。それは特別に後氷期と呼ばれ、地質学的には完新世と一致する。完新世はかつては沖積世と呼ばれた。


5.これをホモ属に近づけてみると

① 260万年前、第四紀氷河時代が始まった。第4紀は地質学的な更新世と一致する。
このころホモ属からエレクトゥスが分離した。

② 160年前、何回目かの間氷期にエレクトゥスは出アフリカを果たした。彼らがジャワ原人や北京原人という地域集団を形成した。*1

③ 60万年前頃、エレクトゥス同様の経過でハイデルベルク人が発生し主としてヨーロッパに拡散した。

④ 15万年前、ネアンデルタール人がハイデルベルク人の居住区に一致して出現している。*2

⑤ 同じ頃、アフリカにホモサピエンスが登場した。

⑥ 8万年前、最終氷期の開始に前後してホモ・サピエンスは出アフリカを果たした。

*1 ドマニシ原人はエレクトゥスに先行した種という説もある。

*2 ネアンデルタール人は、ハイデルベルク人の子孫とする説もある。

地質学者はきわめて扱いに困る人種である。
一つの事物にいくつもの名称をつけ、いくつもの分類を並立することに痛痒を感じていない。
氷河時代の特徴をいくつも羅列するが、それが本質的なものか、偶発的なものなのかの区別をしない。
地質学の分類の決定的な境目は第四紀だが、第三紀があるわけではない。第四紀は正式名称だが、第三紀・第三系は非公式な用語である。

第四紀とそれ以前を分ける基準は「人類の時代」と定義されているそうだ(日本第四紀学会)。こんないい加減な区分は聞いたことがない。



西遼河文明
            左クリックで拡大(1が西遼河文明)
1.西遼河文明について

西遼河渓谷は、黄河や長江と並ぶ中国文明の発祥地である。

この文明をになった人々については様々な議論がある。

今日この地域に居住する人々をY染色体ハプログループで分類すると、最も一般的なのがO系で、約60%である。これについでC3系の24%、さらにN系が8.5%存在する。

2.最初に西遼河文明をになったのはウラル人

「いかにも」という結果だが、これが掘り出された先史時代人を調べると随分違っている。父系は主として N1(xN1a、N1c)であり、すべてのサンプルの約63%を占めた。

N系人は中央アジアの草原から東西帯状に広がる分布を成しており、その東端に相当すると思われる。

それは新石器時代以前のサンプルで、89%と圧倒的な比重を占め、時代が下るとともに徐々に減少した。

2.中国の漢民族がN系人を駆逐

新石器時代から青銅器時代への移行中に、黄河文明の地帯から西遼河渓谷への人の移動があり、彼らが農業技術を持ち込んだ。

このあと漢民族(O系人)がN1人を凌駕するようになった。

3.青銅器時代後期の文化変容

西遼河渓谷を支配するようになった漢民族だが、その後の気候の変化に反応し、ユーラシアの草原のスタイルに変換し、主に畜産を実践した。

C3系の人々が入り込み、人口の4分の1を占めた。その結果、彼らの生活様式が支配的になったのであろう。

C3系の人々の94%がヤクート族である。

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