鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)


しばらくそのままにしていた武光誠氏の「蘇我氏の古代史」を手に取った。
相変わらず読み進むことが出来ない。武光という人は蘇我氏を葛城氏の流れと見ている。そして河内王朝にその源流をもとめている。
そしてその根拠を記紀と随伴する残存資料にもとめている。
これだけでもその根拠のあやふやさは明らかなのに、その記述は変に確信じみている。これだけでも近づきたくない人だ。
この人の立論は、①河内王朝正統説、
②「継体王朝は河内王朝の復興」説の組み合わせだ。
たしかに日本書紀を素直に読めばそういう結論になるだろうと思う。

しかしいろいろな前提をつけた上で、部分的な正確さを認めるにしても、前後の揺れ幅があまりに大きいのである。

大和を主舞台とする主役交代は次のような揺れがある。
① 扇状地の小規模な水田耕作を生活手段とする弥生人。人種的には長江系、文化的には銅鐸人。
② 出雲人(新羅系)が弥生人を従える形で侵入。銅鐸文明を破壊し、縄文系文化を追いやり、イザナミ系文化を拡散。
③ 九州王朝の神武系集団が畿内の出雲系政権を征服。高天原系政権を立てる。後続なく欠史8代をへて、崇神王朝(九州+出雲連合政権)へ移行。
④ 仲哀天皇が九州併合を目指して西進するが、現地で謀殺される。大伴・物部連合軍が神功皇后を旗印にし、畿内を制圧。崇神王朝勢力は若狭に逃れる。
⑤ 河内王朝は葛城氏の支援を受け、潅漑・農業を発展させた。しかし飛鳥一帯の豪族の制圧に失敗。内紛により自壊。
⑥ その後無政府状態に移行。近江、若狭を基盤とする旧崇神王朝派と大伴・物部を盟主とする旧河内王朝派が覇権を争う。
⑦ 両派に妥協が成立し、旧崇神派の継体天皇が即位するが、間もなく次々に早世し(理由は不明)、欽明が即位するに及び政体は安定。
⑧ 加羅・安羅・任那の滅亡に伴い半島帰りの戦士が流入。これらを糾合した旧葛城派が蘇我氏を盟主として反乱。物部氏を滅ぼす。
⑨ 旧崇神派と旧葛城派の連立政権は約100年続いた末、旧崇神派の宮廷革命(乙巳の変)により旧崇神派に一本化される。

ただしこの「系譜」はあまりに畿内中心説にとらわれすぎている。これは九州から東への主要ルートが瀬戸内か山陰の日本海岸ルートかの判断が難しいからだ。
我々には神武東征と、神功皇后東征の記憶が強烈なために瀬戸内メジャーのイメージが刷り込まれているが、果たしてどうであろうか?




古川アシノカル: 新冠アイヌの強制移住の足がかりとして

■明治・大正期の新冠は国営牧場の発展とアイヌ先住民の追放がウラオモテの関係になっている。その激動する社会のなかでコマのように回りやがて沈んでいった象徴的人物がいる。アイヌ人で豪農豪商、一大を限りに没落していった古川アシノカルである。
これはネットで集めた情報(主として新冠町史)を時系列で並べ、重複を整理しただけの学習ノートであるが、同種の文献は目にする機会が少ないと思われ、情報提供のつもりで供覧する。

■話の舞台は新冠の二つの字である。一つは滑若である。新冠郡の北東部で、新冠川の上流域にあたる最奥部。明治の初めこの地に住居していたアイヌは、10戸49人、8戸37人の2集団の18戸であった。現在は滑若(ナムワッカ)の地名は用いられず、新冠町若園と称される。(『新冠町史』(1966)より「若園郷土小史」)
日本歴史地名大系 「滑若村」の解説で、明治初年から大正12(1923)までの村。万揃(まんそろえ)村・去童(さるわらんべ)村の北に位置する。あたり、山岳・丘陵地が多く、平地に乏しい郡内で最も遼遠の地である。「東蝦夷地場所大概書」によると、マクマフ村(近代に入り万揃村に含まれた)から新冠川沿いに一里上ったところに「カツクム村 夷人家 四軒」があり、「カツクム村」のさらに一里一八町上流に「シユネナイ村 夷人家 八軒」があった。

もう一つは新冠本町から少し上流に入った姉去(あねさる)という地区である。詳らかではないが、明治25年ころ、滑若のアイヌ住民が新冠牧場の拡張に伴い強制退去となった。彼らに新たに与えられた給与地が姉去であった。そして日清、日露の戦争を経て日本軍の装備が急速に強化される時期に、二度目の新冠牧場の拡張があり、姉去の住民はふたたび退去をもとめられることになった。新たに与えられた土地はいく山を越えた沙流川の支流の山林であった。入植後程なく開拓は失敗し、住民は四散したと伝えられている。現在は姉去という地名はなく、大富に学校後の碑がある
とりあえずはこの2つの地名を念頭に置いてほしい。

アイヌ強制移住前の新冠

1858(安政5年)に松浦武四郎が新冠を訪れている。新冠付近に人家、畑有りと記録されている。武四郎はイカムシ家で船を借りて上流に遡る。途中ナムワッカ(滑若)の畑には稗、粟、蕎麦などが作られていたとある。

明治5年(1872) 開拓使長官黒田清隆は、静内,新冠,沙流3郡にわたる約七万町歩(7万ha・7百平方km)の土地を「新冠牧馬場」として開設することに決定した。付近に生息していた野生の馬2,262頭を集め、軍馬や農耕馬として飼育し始めた。以後昭和22年までの長きにわたり、新冠は延々と牧柵が設置され、数多くの馬を生産・飼育することとなった。

この年の新冠郡(ほぼ現在の新冠町)のアイヌ人は、117戸535人との記録あり。その後農場内で農業に従事したり牧夫として生活するようになった。

明治6年(1873) 新冠牧場、去童(さるわらんべ)に厩舎・監守舎を設置。去童は現朝日地区(姉去付近)。原文にはトキット(去童)と記載されているが、トキットの地名はネット上では見当たらない。

明治7(1874) 黒田の依頼を受けたケブロンが新冠を訪れ、視察。

明治10年、御雇外国人のエドウィン・ダンの設計に基づき本格的な整備が行われ、日高牧馬場となる。牧場内のアイヌの土地は国有地とされ、自由売買は禁止される。これに伴い滑若村のアイヌ10数戸が姉去村及び・万揃村に移住となる。(姉去=去童とすれば符節は合う)

牧場の事務所は静内の美園に設置。新冠川下流の朝日(去童)と高江地区が開放され、開拓者が入植する。高江は新冠市街地。

1882年(明治15年)農商務省の直轄となり、約66平方キロに敷地拡大する「新牧場」が計画された。
牧場全図
山本書より転載。新冠川を挟んで左半分が旧牧場、右半分が新牧場となる。大変見ずらいが新冠川の上流滑若地区が民有牧場の区画となっており、ここがアイヌの保留地→アシノカルの縄張りとなったと考えられる。

明治17年 宮内省に所管が移り、新冠牧馬場と改称。以後、改称のたびに拡張を繰り返した。軍馬の改良、増殖を主要業務とするようになる。

1885年(明治18年)「旧土人救済方法」が策定される。日高地方で「132戸」のアイヌ民族を強制移住・農業強制を計画。
『北海道殖民状況報文_日高国』に記された強制移住計画は以下の通り。①大狩部村ポロセプにから数戸のアイヌ民族を高江のポンセプに強制移住 ②比宇から葉朽と元神部に4戸ずつを強制移住 ③転居先で河岸の給与地を「貸与」し、農業を強制した。(ただし氷山の一角)

明治19年、古川アシノカルという人が滑若に移住する。もと下々方(静内)に店舗を持ち、海産、米穀などの商をしていた。その後新冠郡随一の責産家、アイヌの酋長として名を馳せる。
asinokaru夫妻
             古川アシノカル夫妻

明治20年アシノカル、滑若に牧場を創立する。
■「新冠郡随一の責産家」がなぜこのような僻地に入ったか、それは新冠牧場の創立と関係しているとしか考えられない。当面は牧場建設工事絡みではないか、近辺のアイヌ住民を姉去に移転させたのは、立地条件から見て必ずしも非人道的な強制移住だったとは限らない。

明治21 新冠牧場が宮内庁に移管され、「新冠御料牧場」となる。姉去(現大富)を拠点とし、アイヌに貸与して牧場の仕事に従事させる。この頃アシノカルは姉去に転居し、妻に商店を経営させていた。

明治27年、日清戦争がはじまると、新冠牧場の馬が戦地へ送られた。

明治28年 滑若から萬揃と姉去へ十数戸ほどの強制移住があった。このときアシノカルもともに姉去に移住したかも知れない。その結果、萬揃は元々小集落だったところに移入者を加え、23戸92人にふくれあがった。このため移入者の一部はさらに姉去へ再移動。

明治29年 アシノカル、私費をもって姉去に土人学校「古川教育所」を設置。静内出身で師範学校を出た高月桐松を招いて、授業を開始した。間もなく高月が退職し、30年5月以降は休業した

姉去地図

姉去
旧姉去(現朝日町)地図
小学校の手前を右折して新冠川に掛かる橋が姉去(あねさり)橋。それを渡って右にカーブした一帯が大橋となる。おそらくこのあたりが旧姉去集落と思われる。

明治30年 姉去コタンは再移入者を含め36戸で119人に膨れ上がる。移入者は御料牧場の貸付地を耕して生計を行っていたと言う。アシノカルは牧場の雇員となっていたと思われる。

明治30年の調によれば、アシノカリの、30年頃その地籍は34万0000坪、馬は洋種1、雑種159頭、和種250頭を飼育し、日高にも有数な巨然たる牧場王国を営んでいた。

明治34年(1901)閑院宮が視察に訪れる。アイヌエカシ(長老)が「この地方は我ら祖先の開墾せしものなるをお取上げとなり、為に我らは今日難渋を極めいるを以って、何とぞ返還あらんことを請う」と懇願する。結局この件は「当該エカシの失言」として処理された。長老は他地域に強制移住させられた。

明治35年 廃校となった「古川教育所」に代わり、姉去土人学校の設立が認可される。北海道庁が古川教育所の寄贈を受けて創立。アシノカルは土人学校の創立にも尽力した。

姉去土人学校

明治36年頃、「明治時代の新冠の洋種馬」によれば、泉のアシノカリはロシヤ産オーローフ、ロフトフチンを、高江の堤英一、武田延蔵等も濠洲の払下馬を所持していた。

1903(明治36) 新牧場(静内側)を本場、旧牧場(新冠側)を分場と改称。新冠郡の人口は1042人と報告される。静内村の人口は5330人と報告(明治44年)

おそらく明治30年代の後半 アシノカルは滑若に戻り居を柵えた。セブ沢より笹山に至る直線を基準として、その北部一帯700町歩を領有した。アシノカル一代限りの無償貸与によるものであった。おそらく明治34年のエカシ直訴事件を受けて、「お味方アイヌ」のアシノカルに滑若コタンの「後見人」の地位を与えたのではないかと思われる。

新冠牧場の拡張と姉去アイヌの強制立ち退き

明治40年ころ、軍馬育成の要請に応え、新冠牧場が拡張さる。アシノカルの所有地は牧場経営上障害となるため、その多くが没収される。
没収に当たっては、宮内省主馬頭の藤波男爵が古川邸に来宿し説得。この結果700町歩のうち500町歩を減じられた。さらに残り200町歩も、所謂原始林で良材多く、その他の造材部が伐木をたくましくするに及んで、再び批判の対象となり、平地97町歩を含む100町歩に再減された。

アシノカリはこの広大の地に、私洋両種の馬と豚などの天然放牧をなし、アイヌ男女を雇用した。

当時の黒岩場長の信任も厚く、この時代特に全盛を極めた。かうして古川酋長は牧場に行啓される皇族方にも直々に拝謁を賜った。邸宅も立派で畳8の2室の離れを建築し、宮内省主馬頭藤波言忠、渋谷中将外役人方の宿泊することも度々であった。また度々上京して花魁を連れて帰郷するという豪盛振りであった。

asinokaru集合写真
   明治時代の御料牧場職員の集合写真 右端が古川アシノカル

明治40年 浅川義一が御料牧場姉去貸地管理人として姉去コタンに入地。

明治41年 静内町二十間道路に貴賓客舎(現龍雲閣)が新築される。韓国皇太子、伊藤博文、皇太子(3年後に大正天皇として即位)が相次いで牧場視察。これに対応するため雇用規則が改正され多数を雇入れ。

明治42年頃、滑若村のアシノカル個人が経営する牧場は、総面積254町3歩。内牧場250町5畝9歩、開墾地3町9反歩をもつ大牧場で馬23頭を所有し、毎年馬20頭の生産をあげた。(明治40年の記載とはかなり異なるが、大地主であることには違いない)
アシノカルは馬だけではなく、養豚事業にも進出していた。「滑若のアシノカリ所有の牧場に豚80頭が放牧され、毎年20頭が食肉用に出荷された。脚高豚として札幌附近で珍重された」と記載されている。

明治43年にアシノカリは豪州産サラブレッド、8頭を飼育していた。
つまり、古川アシノカルはサラブレッドで名高い日高の競走馬生産の開祖の一人ということができます。
 
大正3年頃、ナメワッカのアシノカリの豚牧場では年間7000円から1万円位の収入をあげた。これは莫大な収入であった。
豚は放牧してあるので、広大な牧場を自由に運動し、豊當な木の実も彼等の食料となった。舎飼と違って味は最高「日高豚」と称されて、札幌に出荷し、新冠の名声をあげた。汽車も自動車もない時代だけに、輸送だけでも用意でなかった事が想像される(泉沢雅雄談)
注目すべきはこの記録が大正3年頃のことで、古川アシノカルの権勢はこの時代になっても続いていた、明治時代を通して和人とよい関係を維持していたということです。
古川アシノカルは、米作にも貢献しています。「明治から大正にかけて、アシノカリは泉の高岡の沢にかけて水車を設け、うすを16もならべて精米した」と記載されています。恐らくは日高地方の稲作振興にも多大な貢献のあったことがわかります。

姉去のアイヌが平取町の山中に強制移住

1915年(大正4)年 姉去コタン74戸のアイヌが強制立ち退きを迫られる。平取町上貫気別に強制移住になった。

この決定はあまりにも唐突であまりにも道理がなくあまりにもずさんだ。多分現地の事情に疎い道外の官庁筋から出てきた指示ではないかと思われる。紙議員らも、ことの是非よりもまず事実関係を明らかにしたいという態度で臨んでいるようだ。

ここでは榎森進『アイヌ民族の歴史』より引用。
新冠御料牧場が宮内大臣管轄になり、宮内省主馬寮頭の藤波言忠が同牧場を視察した際、姉去村を御料牧場直営の飼料用地と決定した。姉去村のアイヌ全員【70戸、300名】を沙流郡貫気別村上ヌキベツ(現沙流郡平取町字旭)の和人移住給与地だった地に強制移住させた。当時は雑木林に覆われた山中で、耕作可能な地は僅かであった。その為、実際入植した20戸近くのアイヌのうち、耕作地の開墾が成功したのは15戸前後だった。

現地訪問のレポートによると、旧入植者墓地の敷地内に慰霊碑があるそうですが、私は見ていません。「道道71号線沿いで平取町旭地区の旧墓地付近は無人の山林になっており案内板などもありません」とのことです。
https://www.kitakaido.com/isibumi/jyonnan-14.html

碑文
明治大正の馬耕時代及び軍用場生産のため新冠牧場は拡大され御料牧場へと変遷したが大正4(1915)年、姉去コタンを追われ上貫気別に強制移住になった人々の悲しさは凄絶なものがあった。
この郷土の開拓に心血を注ぎ鍬を下ろした先覚者の事績を後世に伝え、諸霊に参列者のみな様と共に鎮魂の誠を捧げます。
平成2年8月 平取町町長 宮田泰郎

昭和8年に上貫気別で移住者の子として生まれた芦澤弘氏が、ウタリ協会の活動家としてアイヌの伝統を伝えていたという。

その後のアシノカル: 収支のアンバランスは年々に嵩って来た上、養子が散財型で勘当され、長男は古川橋附近で溺死し、次男たか造は1女を残して天折。
そして大正14年、アシノカルは72才で死亡。名望を馳せた一家だったが、アシノカルの死後は1代限りの淀によって衰亡していった。
 

付録

■最後までアイヌの誇りとともに
古川アシノカルはすすんで和人と同化した結果としてこれらの栄華を得たと考えてみようと思いましたが、95ページの次の記述は、古川が亡くなるまでアイヌ民族としての誇りを持っていたことを伺わせます。
熊の頭骨: アイヌの祭った神々は沢山あり、地方によっても違っていた。祭壇には二種あり、部落共同の祭りと個人毎の祭壇は別のものとされた。各戸の祭壇は家の東の方3m位の所中央に高い祭壇を作り、ここには最も大切な山の神である熊の頭を中心に、沖の神、部落の守護神、山の獲物の神、流行病の神、水の神などさまざまな神を祭った。
新冠でも明治、大正に渡って豪華を極めたアシノカリは泉に熊や鹿の頭骨を常に数10個、ヤチャカンバの木に掲げて人目を引いた。木はやがて朽ちて地上に頭骨は落ちるが、また新しい木を刺して頭骨をのせる。アシノカリは大正年代に72歳で亡くなったが、頭骨もその後長い間そのままになっていたが、昭和24~5年頃にこれを方つけたとき、地上に積もった骨は馬車で2~30台にもなったという。
この話が興味深いのは、古川アシノカルが亡くなるまでアイヌの伝統を保ち続けていたという事実の他に、戦後の昭和24〜5年まで古川の存在が地域でリスペクトされ、祭壇が守られていたということ、そして発見された膨大な動物の頭骨の量です。
古川アシノカルのことは、たまたま『新冠町史』めくっていたときに目に入ったもので、まったく知りませんでした。試みに榎森進『アイヌ民族の歴史』(2007・送風館)などのアイヌ史関係の書物を見ましたが、まったく紹介されていません。2016年に出た平山裕人『アイヌ地域史資料集』(2016・明石書店)でも触れられていません。研究者は当然知っているはずです。なぜ私たちに知らせようとしないのでしょうか?
明治政府の北海道開拓でアイヌ民族は困窮したことばかりが強調されますが、明治後半から大正にかけての北海道に、古川アシノカルのようにアイヌ民族としてのアイデンティティを保ったまま和人以上の栄華を極めた人物がいたことは、もっと知らされて良いはずです。
古川アシノカルを見ると、これまで私たちが教えられてきたアイヌ民族と和人との歴史は違った見方ができるように思えてきました。北海道開拓史を振り返るうえで、大変興味深い人物なので、今後調査を進め、調べたことを折に触れてご報告します。


■御料牧場の解放と戦後開拓
第二次大戦後、牧場の解放を訴える声が上がった。小作人の人や牧場職員が中心となり、「帰農期成同盟」を組織して解放運動が起こった。かつて牧場経営のためにコタンを追われたアイヌの人たちも運動に加わり、大きな力となった。
昭和21年 静内において全道アイヌ大会が開催される、北海道アイヌ協会の設立を宣言。宮内省などに対し御料牧場の開放を求める。
昭和22年、御料牧場は全面的に解放となり、緊急開拓地として樺太や満州からの引揚者をはじめ、多くの方が入植することとなった。アイヌ人が大富、万世、明和地区などの旧居留地に入植する。

■22年9月 赤旗記事
新冠牧場を訪れた日本共産党の紙智子参院議員と畠山和也元衆院議員が場長と面接。場長は関係書類の国立公文書館への移管を約束した。
滑若村のアイヌは72年、牧場造成に伴い、姉去村と万揃村に強制移住させられ、さらに1916年、姉去村から数十キロ離れた未開墾の上貫気別(かみぬきべつ、現平取町)に2度目の強制移住を強いられました(東北学院大学・榎森進名誉教授『アイヌ民族の歴史』)。
紙氏は「先住民族・アイヌの強制移住や御料牧場の解放運動の歴史文書が適正保管される道が付いた」と評価し、「移管にあたり歴史研究者の協力を得ることや、アイヌ当事者の声を聞くように」と求めました。

2023年5月にはこの調査に基づいて紙参院議員の委員会質問が行われている。You Tubeで質問が視聴できる。「新冠で2度の強制移住」アイヌ迫害 歴史伝えよ
紙氏は「御料牧場の開墾のために強制労働で酷使されたあげく、牧場ができると土地を奪われ逆らうものは家を焼くと脅された。病気になると座して死を待つほかなかった」との証言を紹介し、新冠町史では御料牧場から姉去、さらには上貫別へとアイヌは2度も強制移住を強いられたと指摘。内閣官房の田村公一アイヌ総合政策室次長は「強制移住は承知している。厳粛に受け止める」と答えました。(赤旗2023年5月25日(木)

■ 参考ネット資料
十勝の活性化を考える会「アイヌの強制移住」
https://blog.goo.ne.jp/tokatinokasseikawokangaerukai/e/91132f2a39320a7eaeae1e394bb41565

■ アイヌ遺骨問題に関する関係者インタビュー 木村二三夫氏
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/84785/1/CoSTEP_Report05-02_Narita.pdf

■ 参考図書
山本 融定 「新冠御料牧場史」(みやま書房 1985)


資料: 平取・二風谷 史跡めぐり

Ⅰ. 民族としてのアイヌ人
最終氷期(3万~2万5千年前)に旧石器人が樺太経由で日本に南下してきた。この人々は本州から九州・沖縄まで南下し、各地で狩猟と採集生活を営んだ。大陸の人々との交流の中で細石刃文化や縄文文化が生まれた。
紀元前1千年ころには、平取でも縄文文化が広がっていた(糠平2遺跡)。
紀元前後から日本北部は寒冷期に入り人口は激減し、多くの人たちが海をわたり東北地方に進出した。入れ替わりに樺太在住民族(オホーツク人)が海岸伝いに北海道まで進出した。
5世紀ころからふたたび縄文人の再北上が始まり、一部オホーツク人と混血しながらアイヌ民族(須恵器文化)を形成するようになった。
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この頃から、沙流川流域はアイヌ民族の主要な居留地となった。内陸に発達したのは海岸の霧と冷気を避けるためであろう。それが結果的にはアイヌの固有生活を保持し得た理由ともなったと考えられる。

Ⅱ. 進取の人 平村ペンリウク

平取のアイヌを語る上で欠かせない人物がペンリウクだ。義経神社の鳥居前に佐藤昌介北大学長の記した顕彰碑がある。経時変化で文字が崩れ、よく読めない。資料として書き出しておく。

故ペンリウク翁は氣骨稜々智略にとみ、十勝の同族を征服し、その名遠近に轟き、大いに衆望を聚め、亦良く地方の同族を統率して愛撫を加へ、文字の學ぶべきを説き、學校を設立して子弟の就學を勤む、之を土人教育の嚆矢とす。
官乃ち土人の事一切を翁に委ね、オテナ即ち総酋長を以て之を遇す。
翁曾て判官義經公の神像を此の地に遷祀して其の徳を鑑かにす、是本村義經神社 の濫觴なり。
明治十七年八月、故小松宮彰仁親王殿下本村お成の砌、翁の住宅 に御立寄あらせられ優渥なる御諚を賜はる。誠に無上の光榮と謂ふべく。
翁明 治三十六年十一月二十八日七十一歳にて病を以て歿す。郷黨翁の遺業を追慕し、ここに碑を建て、以て記念となし、長へに英魂を慰めんと欲す。

碑と碑文の評価については土橋芳美さんの「痛みのペンリウク  囚われのアイヌ人骨」に詳しい。

ウィキペディアなどから抜粋した

平村の姓を持つが生粋のアイヌ。生年は1833年、70年を生地平取で生き、1903年(明治36年)平取に没した。

ペンリウクは平取コタンの首長(コタンコロクル)シュロクの長男として生まれ、生まれながらにアイヌ指導者であった。

ペンリウクには相当の資産があったらしい。71歳で亡くなったとき、その遺産は土地や馬を合わせて千円もあったという。

町内の義経神社はペンリウクの寄進により建立、当時はアイヌ人専用の神社だった。かつては神社の鳥居前にペンリウク宅があった。

若いとき、正義感に燃えしばしば北蝦夷地・樺太に渡り、同胞の苦難を救おうとした。

Ⅲ.ペンリウクを頼って多くの外国人が来訪

 1.ウォルター・デニング(Dening

 記録に残された最初のヨーロッパ人はイギリス人宣教師のデニングである。1874年、英国領事館のあった函館に赴任した。1876年(明9年)8月に平取を訪れ、ペンリウクのもとでアイヌ語を学んだ。おそらくその前に函館での出会いがあったのだろう。

ただ、デニングはかなり強引な布教活動もしたらしく。後にペンリウクはこう批判している。「もしあなたを造った神が私たちをも造ったのならば、どうしてあなたはそんなに金持ちで,私たちはこんなに貧乏なのですか」

2.イザベラ・バード

イギリス人旅行家イザベラ・バードが平取に入るのは、デニング訪問の2年後、1878年(明治11年)のことである。彼女はペンリウク宅に4日間滞在した。

このときバードはすでに47歳、決して若くはない。旅行の印象は2年後に一冊の本として発表された。原題は「人跡未踏の路」となっている。それが実感だったのだろう。

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 バードの旅行記にはアイヌについていくつかの記述がある。

通訳兼案内人の日本人伊藤某は「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただの犬です。人間ではありません」と断言しました。しかしバードが接したアイヌはそれとは逆でした。

アイヌは純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対して思いやりがあります。 

3.ジョン・バチェラー

 バード夫人が平取を訪れて間もなく、明治14(1881)年、イギリス人宣教師ジョン・バチェラーが平取を訪問した。彼はペンリウク家に下宿し、アイヌ語を習った。

ペンリウク宅

  ペンリウクの家。現義経神社の鳥居前辺り。


明治14(1881)年には、バチェラーのための新室を建て増した。

 その後彼は、札幌を拠点としつつ道内各所で精力的に活動。明治28(1895)年に平取聖公会を建設した。運営には養女のバチェラー八重子も携わった。教会には診療所や幼稚園も併設された。

彼はたんなる伝道師にとどまらず、アイヌの悲惨な生活を救うため献身的な努力を重ね、生涯をアイヌのために捧げた。この点に関しては間然たるところはない。

ただそれが伝道活動という枠の中で行われたために、慈善の枠を乗り越えてアイヌ民族の解放運動へ進むよう訴える人も出現した。さらに軍国主義が広がって行くに連れ、さまざまな潮流との摩擦で困難を抱えるようになった。
ペンリウクとバチェラー
   ペンリウクとバチェラー(撮影年不明)

 Ⅳ.平取とアイヌの文化運動

 1.平村コタンピラのユーカラ

岩波新書で久保寺逸彦 「アイヌの文学」という本がある。著者は1925年(大正14)に大学を卒業した後、平取に飛び込んでひたすらユーカラの採集に没頭した。1956(昭和31)年に「アイヌ文学序説」として発表された。これが77年に掘り起こされ、関係者の努力によって岩波新書となった。それも絶版となり埋もれていたのが、たまたま北大病院前の古書店で私の目に止まった。

採録の思い出が文中に記されている。

かつて私は、1931(昭和6)年の夏、日高・平取の平村コタンピラという老伝承詩人からユーカラの一つを筆記したことがあった。朝は7時ころから、暗くなるまで、昼飯抜きで書き続けて、5日もかかってやっと書き終えた経験がある。

 コタンピラ

ここではただ一編のみ紹介する

 

「一騎討ちの決闘を叙する」

大地の上に/猛き足踏みを/我に伸ばし

こなたよりも/猛き足踏みを/我伸ばしたり

真っ先に/我を突き来る/矛(ほこ)の陰

我にかぶさり来る/この矛の下を/我前へ屈みて

はたと伏せば/兜の上に/矛すべる音

鏗爾(こうじ。 琴を下に置くとき、コーンとなる音)

彼が矛の下に/我が矛の/目当てをつけ

彼のみづおちを切って/ぐざと突き刺せば

重々しき しわぶき/息 咽せかへりて/くわっと迸(ほとばし)り

彼の鼻より/出づる血は/粒々なして落ちこぼれ

彼の口より/出づる血は/幅広の赤褌を口から吐くよう

新たにまた/彼が我を突き来る/矛先に

我れ身をそぼめ/我が胸の上に/矛をそらしめ

その折に/刀を執る手/我 むずと摑み

足の甲の上を/我 踏みつけ/上の方より 下の方より

我が手許/疾く競へば/うめき苦しむ彼

またさらに/我を衝き来る時

避けんも面倒くさく/突かせをれば

我が鳩尾(みそおち)を切り/我をしたたに刺す

重々しきしはぶき/我がつく息のひまに/くわっと迸り

我が口を/通る血は/幅広の赤褌のごとく

我が勝ち誇れるままを/我に仕返し……

なおこの他、登別ユーカラの伝承者、金成マツも平取聖公会の初期に看護婦ブライアントの助手として勤務したことがある。

2.バチェラー八重子の「若きウタリに」

伊達町のアイヌ豪族向井富蔵の娘、長じてバチェラーの養女となる。イギリスで伝道師の教育を受けた後帰国、平取聖公会で働く。1931年(昭和6年)に歌集『若きウタリに』が出版された。

 batyera-yaeko

たつ瀬なく もだえ亡ぶる 道の外に ウタリ起さむ 正道(まさみち)なきか

灰色の 空を見つむる 瞳より とどめがたなき 涙あふるる

夏ながら 心はさむく ふるうなり ウタリが事を 思い居たれば

しんしんと 更け行く夜半に 我一人 ウタリを思い 泣きておりけり

3.違星北斗

余市の網元の家に生まれる。東京で勉学後、北海道に戻り各地のアイヌの組織化に動く。平取にも短期滞在し、八重子の下、聖公会で働く。過労から結核が悪化し昭和4年はじめ死去。

ここでは日記の最後のページより。

58日 兄が熊の肉とフイベを差し入れ。

熊の肉 俺の血になれ 肉になれ 赤いフイベに 塩つけて食う

熊の肉は 本当にうまいよ 内地人 土産話に 食わせたいなあ

あばら家に 風吹き入りて ごみほこり 立つ 其の中に 病みて寝るなり

517

酒飲みが 酒飲む様に 楽しくに こんな薬を飲めないものか

薬など 必要でない 健康な 身体になろう 利け 此の薬

718

続けては 咳する事の苦しさに 坐って居れば 蝿の寄り来る

103

アイヌとして 使命のままに 立つ事を 胸に描いて病気を忘れる
12
28

此の頃左の肋が痛む。咳も出る。疲れて動かれなくなった。

東京の希望社後藤先生より、お見舞の電報為替。

何か知ら 嬉しいたより来るようだ 我が家めざして配達が来る

 多分ツァー当日は授業中で、見られないと思うが、二風谷小学校の敷地内に歌碑がある

平取に 浴場一つ ほしいもの 金があったら たてないものを

の歌が刻まれている。

Ⅴ.二風谷に葬られた医師マンロー

医師ニール・ゴードン・マンローはスコットランド生まれの外科医。エジンバラ大学で学ぶ。卒業後そのまま船に乗り、インド、中国を転々とした後、横浜に腰を落ち着ける。本業はそっちのけで考古学に熱中し、英語で書かれた唯一の考古学書「先史時代の日本」を出版した。

昭和のはじめ、66歳で二風谷のアイヌ居住地区に定住し、民俗学的研究を続けた。その間、アイヌの人々を無料で診療した。

 マンロー夫妻

 マンロー邸のクリニック入り口でマンローとチヨ夫人(看護婦

  マンローは、母国スコットランドがイングランドに支配されてきた歴史をアイヌの上に重ね合わせ、アイヌを先住民族・被抑圧民族と捉えていた。このことはアイヌを「高貴な野蛮人」の枠内においたバチェラーとの関係決裂に導いた。(後に和解)

スパイ事件をでっちあげられ獄死した北大生宮沢さんとも交友があり、最晩年には帰化した日本国民でありながら敵性外国人として監視の下に置かれた。

死にあたり、マンローは二風谷の地にアイヌ人と同じようにして葬ってほしいと希望。共同墓地の一角に埋葬されている。

iyomante
 
 これは1930年(昭和5)、マンローが制作した記録映画「イヨマンテ」撮影時のスナップ写真である。女性たちの表情がいきいきと捉えられている。

 

 

参考: 新冠アイヌの強制移住

日帰りツァーの対象地としては遠すぎるので、今回訪問対象にはならないが、略述しておく。
大正5年に新冠御料牧場拡張のため、先住アイヌは平取村上貫気別地区へ強制移住させられた。強制移住はこれが最初ではなかった。最初の強制移住は明治
28(1895)年の滑若村から姉去への移住であった。

地区の有力者であった吉川アシンノカルは御料牧場に奉職するかたわら、自身も牧場や商店を経営していたが、移転を率いた。

「強制移住になった人々の悲しさは凄絶なものがあった」という。

上貫気別地区には記念碑が建てられているらしいが、詳細は不明である。

*後日知ったことであるが、私たちのツァーをガイドしていただいた
木村二三夫さんは、まさにこの強制移住を強いられた人々の後裔に当たるということだ。それと知って居ればもう少し話を聞いておきたいところであった。ただ、ご本人のインタビュー記事によると、ご自身がたまたま姉去の慰霊碑の前を車で通りかかって、初めて姉去の所在を知ったということであるから、やはり周りの人がしっかり掘り起こしていかなければならないのは間違いない。

  

日本書紀 神功紀
垣間見える百済紀と倭国紀

日本書紀(飛鳥以前)の原本というのは大まかに言って3本建てです。
一つは神代記ですが、大八洲~豊葦原瑞穂にはじまる説話の多くは出雲神話からの借り物です。ただし開闢以来アマテラスに至る創世記は別系統の高天原伝説で、こちらは北方系のものでしょう。
二つ目は、大和王朝に伝わる皇統記(古事記と同じ基調)と散逸した倭王朝の記録の断片、風土記に残された記録などの国内記録です。そして三つ目が卑弥呼から倭の五王に至る中国・朝鮮との交流録です。この中には百済本紀の断片が数多くふくまれ、これがさまざまな出来事に絶対年代を付けていく手がかりになります。これらの記録からアマルガムを作成した主体は、百済滅亡後に日本に亡命した百済の知識人です。
体裁としては、絶対年代を特定できない皇統紀を、百済本紀で裏打ちして歴史書仕立てにしています。しかしその編集は至上命令で歪められています。一つは神武起源の死守、一つは神功=卑弥呼の無理筋です。今回はこの後者を分に当たりながら、この無理を解きほぐしてみたいと思います。

2つの取っ掛かりがあります。はっきりと絶対年代が表記された事項は百済本紀由来、絶対年代記載がなく伝承風のものは神統紀その他国内発、年代がはっきりしていても天皇の生没、即位年は要注意です日本書紀編集者の創作の可能性があります。その無理の典型が卑弥呼=神功皇后論と倭の五王の河内王朝への比定、そして継体天皇81歳生存論です。


以上、550年頃から後を歴史時代と設定し、それ以前を神統記(現存しない)、出雲神話、百済本紀の混合物と考えます。
その上で百済本紀からのコピペと考えられる記載を年表風に列挙してみたいと思います。底本はいつものごとく
です。
扱う素材は巻第九:神功皇后です。

神功紀 (年表式にまとめたもの)

仲哀2年、気長足姫尊が仲哀のもとに嫁した。(神功皇后)
同九年春二月、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で亡くなられた。「新羅進攻」を勧める神のお告げに従わなかったことが理由とされる。皇后は自ら神主となられた。(古事記ではより直截に神功と武内宿禰による謀殺説をとる)
神功は鴨別を遣わして熊襲を征した。(九州の風土記には景行紀時代の出来事として記録されている。記紀では大和武尊の業績として一括されているが、もともとの大和武尊神話は東国征服に限定されたものではなかったか?)
ついで海をわたり新羅を征伐した。高麗、百済二国の王はこれを見て服従を誓った。(風土記など多くの伝承から記事を組み立てている。九州王朝に神功に比定される人物がいたと思われる。新羅本紀にも何回か倭人に攻め込められたとの記載はある。百済が攻め込まれた形跡はない)
同年12月、皇后は新羅から還られ、応神天皇を筑紫で産まれた。
神功2年年2月、神功は豊浦の殯の宮で天皇の遺骸をおさめて海路より京に向かった。仲哀の本妻の息子たちと戦い、これを殲滅し支配権を獲得した。

この次の記載が出所不明である。
神功五年春三月七日、新羅王がウレシホツ、モマリシチ、ホラモチらを遣わして朝貢した。この時新羅が差し出した人質コチホツカンは策を講じ新羅帰還を図った。神功は葛城襲津彦を付き添いとし新羅に送ったが、途中で逃げられた。襲津彦は新羅を攻め、何ヶ所がの城を陥したあと還った。連れ帰った捕虜たちは桑原、佐糜、高宮、忍海村の漢人の先祖である。
これは風土記の文体ではなく、記紀に近い公式文書の文体である。しかし新羅が書いた文書とは思えず、百済が関与していたとも思えない。ひょっとして「倭国紀」の断片ではないか?
新羅に遠征した女傑「神功」は4世紀中頃の人物と思われる。その後新羅は高句麗の支援を得て、5世紀に入ると、倭国の侮れないライバルとなっている。
かなり裏読みをすると、日本書紀の編者が倭国本紀の断片に葛城の名を潜ませてここに潜り込ませたことになる。かなりの高等戦術であると同時にかなり乱暴な改ざんでもある。
今後AI分析が進めば、百済本紀の文体、日本の公式文書の文体、古事記や風土記など万葉風漢文の判別ができるようになるかも知れない。

神功39年の段はすごい。百済の関連図書を駆使して亡命官僚が書き上げたものであろう。

しかしこれは卑弥呼の話だ。日本書紀の編者は神功を卑弥呼に見立てたがっているようだ。しかしそれはあまりに無理筋だ。新羅侵攻は卑弥呼の仕業ということになってしまう。
一連の記載は魏の明帝の時代にペグがついている。
明帝の景初三年(AD239)六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
40年、魏は建忠校尉梯携らを倭国に遣わした。
43年、倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を派遣した。
この3つの事項は私たちの女王、すなわち卑弥呼の事績である。
46年、倭王は斯摩宿禰を卓淳国に派遣。卓淳の王、末錦旱岐は斯摩宿禰らの存在を百済を通じて知っていた、と返答。百済への仲介を約束する。
47年、百済王は久氐、弥州流、莫古を遣わして朝貢した。皇太后と太子である誉田別尊は、「先王の望んでおられた国の人々が、今やってこられたが在世にならなくて誠に残念」と語った。
49年、倭と百済の交易を新羅が妨害したため、荒田別と鹿我別の軍を宅順に送った。軍は新羅を攻め、比自㶱、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳、加羅の七ヶ国を平定した。西方の古奚津に至り、 南蛮の耽羅(済州島)を亡ぼして百済に与えた。
(日本書紀には記載がないが、魏志倭人伝によると、248年ころ卑弥呼が死亡した。男王をたてるが「国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人」が殺される事態となった。そこで卑弥呼の宗女台与が国政を司ることに成り、国内は安定した)
百済王の肖古と皇子の貴須は、また兵を率いてやってきた。百済軍と倭軍は合流した。
五十一年春、百済王はまた久氐を遣わし朝貢した。朝廷は千熊長彦を、久氐らにつけて百済国に遣わされた。百済王父子は、共に額を地にすりつけ厚情を謝した。
五十五年、百済の肖古王が薨じた。貴須が王となった。
六十ニ年、新羅が朝貢しなかった。その年に襲津彦を遣わして新羅を討たせた。
この時初めて百済記が公式に引用されている。ただし上記に対する異文としての扱いである。
倭国は沙至比跪を派遣したが、新羅に籠絡され、反対に加羅国を討った。国王一族は百済に逃げた。国王の妹が、大和国にやってきて言上した。
66年、266年(晋の武帝の泰初ニ年)、晉の記録に倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したとある。
65年、百済で政変があり、王子の叔父の辰斯が位を奪って王となった。
69年、皇太后が稚桜宮に崩御された。年一百歳。

ここで長い長い神功紀が終わる。これでは子も孫も天皇になれずに終わるだろう。はっきりしているのは、日本書紀の編者はウソと知りつつ絶対年を歪め伝えているということだ。ただウソのつき方には法則性があるはずなので、地雷を踏まないように、できれば地雷を無力化しながら進んでいくことにしたい。

入院中に是非読もうと思って、持ち込んだのが「蘇我氏の古代史」という本。武光誠さんという方が書かれ、平凡社新書から発行されている。
2008年というからだいぶ前の本、古本屋で見つけて400円で買った。
最初の1ページから疑問続出。ちっとも読書が進まず、書き込みが余白では足りず、病院の請求書や処方説明やいろんなものに書き散らしたが、あとで読んでもさっパリ分からない。「旅を病んで、夢は荒野を駆け巡る」の雰囲気だ。

一応話のとっかかりだけでも整理しておきたい。崇神王朝の最後の仲哀が福岡で急死する。とても怪しい死に方だ。仲哀は九州で朝鮮出兵をそそのかされるが、「そんなモノ、わしゃ知らん」と言って蹴っ飛ばした。その直後に香椎で変死した。死体は密かに関門海峡を越え下関まで持ち出された後殯(もがり)にふされている。ところがその嫁さん(神功皇后)は身重の体で朝鮮に自ら出兵し大活躍する。
そして息子たちは1年の準備の後、難波まで進み、仲哀の息子たち、つまりは自分の兄たちを全員殺してしまう。

これは、どう読んでも朝鮮勢力(百済)と組んだ北九州勢力の仲哀暗殺、そして崇神王朝の乗っ取りとしか思えない。これが河内王朝と呼ばれる第三次皇統である。
難波に乗り込んだ河内王朝は大和盆地の西部を支配する葛城氏と組んで旧崇神系と対抗した。
河内王朝の最大の事業は、大和川の開削により河内湖を干拓し大和盆地を凌ぐ大田園地帯へと変ぼうさせたことである。

しかしこのような土木技術と組織づくりのノウハウをもっていたのは崇神系であり、九州人たちは収奪し浪費することしか念頭になかった。こうして河内王朝は自壊し、長い空白時代を経て近江・越前系勢力の台頭を迎える。

個人的感想としては、継体が王朝の創始者であるとして、安閑、宣化はその息子たちではないのか、そして欽明はさらにその息子ではないのかと思っているが、単なる年数合わせに過ぎないかも知れない。
問題は生まれた年ではなく、死んだ年である。つまり継体、安閑、宣化がわずか10年の間に連続死していることである。普通はありえない。何かあったと考えたい。継体天皇のあまりに長い寿命、在位期間を考えるとなおさらのことである。
紀元530年代に朝廷を揺るがすような事件があって、欽明天皇が実現し、欽明王朝とも言うべき飛鳥政権が誕生したと見るべきなのか、と思われるのだ。

しかしこのような話は、記紀を読み解くだけでは埒が明かない。日本書紀を通じてチラチラと見え隠れする、百済本紀の記載をなんとか系統立てて読み起こすほかないと思われる。もちろんそこには新羅、百済、そして任那・加羅の歴史が深く絡んでくる。

とりあえず、雄略紀から始めてみたい。

鳥居龍蔵に関する講演録がある。

北海道大学アイヌ・先住民研究センター
シシリムカサテライト2008年度第1回講座(札幌会場) 講演録
「マンローと鳥居 ―同時代を生きた二人の事績、その活用」
日 時: 2008年6月15日(日)
場 所: 北海道大学 人文・社会科学総合教育研究棟 W202号室
主 催: 北海道大学アイヌ・先住民研究センター
演 題: 鳥居龍蔵の東アジア研究 ‐その足跡と今日的意義‐
講 師: 元徳島県立博物館館長 天羽利夫氏

とある。
リンクは下記のごとし
https://www.cais.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2012/03/toriiryuzo.pdf

若干演題が羊頭狗肉の感があり、マンローについては申し訳程度に触れられている程度だ。おそらく公演会の主催者が北海道大学なので、一応敬意を表したというところであろう。

これだけまとめて鳥居の経歴に触れたのは初めてであり、その行動力にはあらためて感心した。
ただ、行き先を見ると大陸浪人然としていて、本人の意志というより軍部や植民当局の意向が働いている感もある。
例えば
手放しで褒めちぎるというのもちょっと躊躇を覚えるところがある。

奥さんというのがまたすごい人で、旦那より11歳年下だが、夫唱婦随どころではない。
20歳で結婚して、子を設けず、5年後には蒙古カラチン王府女学堂の教師となり単身赴任する。1ヶ月後、 龍蔵も蒙古に赴き、 蒙古カラチン王府男子学堂教授に就く、という具合である。

伽耶と加羅と任那

最近はこの三者のあいだでは伽耶の勢いが盛んで、加羅という呼称は殆ど聞かない。
任那は日本書紀にはっきりと記載された国名であるにも関わらず、なにか使うこと自体が「親日」派の象徴であるかのような扱いだ。

これはあくまでも、古書籍上の呼称の問題なので、本来あまり議論の対象となるはずがないのだが、どうしてなのか。

始まりと終わり

私としては漢により楽浪郡が造設された時点が出発点であるべきで、とくに史記と漢書に記載された事実を議論の出発点とすべきだと思う。いわば紀元零年である。

もう一つのメルクマールが562年の任那滅亡である。これを期に国家としての任那は滅亡し、その主部は新羅に吸収され、残余は百済のものとなった。
この終末の時期に最後の呼称として存在したのは任那であり、加羅も伽耶もすでに存在していない。

歴史(文献)の事実として見ればこれだけの話である。

資料評価の問題

紀元零年はほとんど問題がない。なぜならそれは中国の公式文献を元にした年代措定だからである。対立するような他の文献がないことも、もう一つの理由になる。

しかし滅亡の時期においては絶対的な歴史的(文献的)根拠はない。

第一に、最も客観的な根拠となりうる中国の公式文献がない。なぜなら当時の中国は隋が全土を統一する以前の、政治的混乱の時代だからである。

第二に、成立年代が最も古い日本書紀(紀元700年前後)は、失われた百済本紀を基礎に記述されたものであり、その正確さは百済本紀に依存しているのである。
日本側の歴史的事実との突合せは、皇紀2600年神話との整合という意図に基づく改ざんが顕著である。ゆえに絶対年代に関しては100%偽造である。

第三に、朝鮮側の文献的事情はさらに劣悪で、本格的な史書(現存する)の編纂は紀元1千年まで下ることになる。したがって日本書紀と三国史記を突き合わせながら時系列を編纂していくことになるのだが、それはガラス細工のように脆く、作っては壊されの歴史を繰り返してきた。

とくに第二次大戦後は、朝鮮側史学界に「反日」イデオロギーが持ち込まれ、感情の暴発は学的論争を大いに阻害してきた。
その典型が伽耶・加羅・任那問題である。

伽耶問題は決着済みのはずだが

私の考えるところ、加羅vs伽耶問題は以下の見解でほぼ決着済みの話である。
朝鮮古代史の基本史籍である『三国史記』ではおもに加耶として出てくるが、他に伽耶、加良、伽落、駕洛という表記もある。『三国遺事』ではおもに伽耶であるが、『日本書紀』には主に加羅である。『梁書』には伽羅、『隋書』には迦羅、『続日本紀』には賀羅ともでてくる。このように表記は様々であるが、同じ語の異表記であり、加耶 ka-ya は加羅 ka-ra の r 音が転訛したもので朝鮮語ではよく見られる。つまり、加羅=加耶である。
これは「世界史の窓」というサイトからの引用であるが、この引用そのものが、田中俊明『古代の日本と加耶』(2009 日本史リブレット70 山川出版社)からの引用である。

読めば分かる通り、伽耶は加羅のことであり、その訛である。朝鮮側が頑張るのは理屈に合わない。加羅という国を否定するのは、好太王の碑を否定するのにも似て非合理である。

伽耶一覧

なお、倭の五王の表奏文中、加羅の国号が途中から加えられた経過については、下記のような説明がある。
「任那」はかつての弁韓であり、新羅や百済には属さず、倭の勢力に依存し、独立的な様相を呈していた。…その後、「都督諸軍事」に「加羅」が加号されるが、『南斉書』に建元元年(479年)加羅国王が独自に南斉に朝貢し、その王が「輔国将軍・加羅国王」に封冊されることと関係がある。つまり、高霊加羅の独立的な動きを背景にした称号追加だった。
(ウィキ:「好太王碑」の記事より)
つまり加羅は、当初は任那の一部として認識されていたが、4世紀中頃には自立傾向を強めていたと考えられる。

その際、旧弁韓の東半分が加羅、西半分が任那という棲み分けになっていたのかもしれない。ただし6世紀に入ってからは、任那ともども衰退し、最後は任那の一部として没落することになった、ということになのかもしれない。なお「任那日本府」は日本書紀のみに出現する名称であり、取り扱いは保留すべきである。ただ後期加羅領域内に倭館があることは念頭に置くべきか。

伽耶 地図

    「倭の五王」時代の加羅国。赤丸()が現在の倭館に相当する。

そのように想定すると、韓国史学界が伽耶の呼称にしがみつき、任那をネグレクトする理由が説明つく。分からないのは、日本の研究者の間にも韓国史学の動向に従う人が少なくないことである。もう少しその人がたの言い分を聞いてみたいと思う。

図1 現生ホモサピエンスの展開

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*ホモサピエンスの最初の出アフリカは20万年前に遡る、現生サピエンスの出アフリカまでに数次にわたる出アフリカ→絶滅があったと思われる。残念ながら、いまだにその足跡を示したマップにはお目にかかっていない。
*4.9万年前という日付は、厳密には出アフリカではなく出エデンである。現生ホモサピエンスのDNAにネアンデルタール人のゲノムが混入していることが確認されているが、両者の混交は9万年前ころのテルアビブ近郊とされているので、出アフリカを果たした現生ホモサピエンスはその地(エデン?)に5万年を滞留し、その後一気に拡散を開始したことになる。
*人類の波及の年代については色々書かれているが、個体数が少ない中での誤差なので、あまり深読みしないほうが良い。ただしインド→東南アジア→オーストラリアの流れは一気呵成の感があり、海上を使っての移動拡散が考えられる。これが新幹線で、ほかは支線、さらに日本のようなところは染み出し的波及と考えるとわかりやすい。
*これはむしろ文化人類学的に考えるべきで、片道切符にとどまらない往還型交通が延長していったのではないかと思われる。つまりヒトが人間になったことに人類拡散の最大の要因がったのではないかと考えられる。無論北回りにもルートは伸びていくのであろうが、当時における陸路の困難は想像するに余りある。

図2 旧石器時代前期と後期の気候

古気候
*旧石器時代後期を前半期と後半期に分けることはきわめて重要である。私は前半期と後半期では違う人種の旧石器人が暮らしていたと考える。相対的に温暖な前半期に日本に進出してきた人たちは、後半期の最終氷期最寒冷期には適応できなかった可能性が高い。
*3万年前に最終氷期に突入した日本列島では、先着した第1期ホモ・サピエンスは絶滅かぞれに近い状況に陥った。それに代わり、シベリアから樺太→北海道→本州と南下してきたマンモスハンターの生息地となった。同じ時期に朝鮮半島を経由して別の人種が入ってきた可能性も否定できないが、それが主流となった形跡はない。縄文人のDNAに、南方系もふくめたばらつきが見られるのは、この3万年前の人種交代によって説明できるのではないだろうか。

図3 3つの地理的単位

更新世

*これはあくまで自然地理的領域であり、土器などの文化地理学では北海道から本州中部までほぼ単一の領域とみなすことができる。
*近畿、中国、四国地方の縄文文化については材料不足。むしろ朝鮮半島をふくめ考古学的空白という印象がある。そして弥生時代につながる縄文後期、晩期が検討対象となっている。
*南九州から種子島・屋久島などにかけて出現し7千年前の噴火で突如消失したもう一つの縄文文化の位置づけは未だ不明である。トカラ・ギャップ、ケラマ・ギャップについては初耳なので判断できないが、それほど重要なものなのかという印象。


図4 縄文~弥生~奈良時代 人種の変遷

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*ごく普通の渡来・混血の経過図である。右の図は鎌倉時代の状況である。最大公約数を要領よくまとめているが、それだけにいろいろ突っ込みどころのある図でもある。
*人種構成を大きく変えるほどの数ではないが、原日本人の主流となる弥生期渡来民に続いてBC100年頃に南満系の民族が(おそらく数次にわたり)襲来し、征服王朝を設立している。これはイギリス人がアングロサクソン民族(ゲノム的根拠はない)を名乗るのと同断である。

2022年5月
「縄文人ゲノムから見た
東ユーラシア人類集団の形成史」
太田 博樹
東京大学生物科学専攻
という講義をYou Tubeで閲覧した。
一応、記録しておく

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これは、ホモサピエンスの展開図で、おそらく演者の思いの投影したものだ。困ったことに赤線の展開図が今回の研究では証明されていない。
ゲノム展開については、検体数から行っても圧倒的にY染色体が先行しており、量的にも質的にもゲノムサンプル数が多くないと1対1の比較は無理である。
そこでゲノムやさんの発表は、大量のY染色体データを無視することになる。したがってもし同じ傾向しかでないのであれば、それは無視される。もし違うのであれば「なぜそうなのか?」の理由をつけて提起しなければならない。
最尤法を用いるというが、たった一例で統計的処理が聞いて呆れる。まあ、そうやって作ったのか下の図である。
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最初にも言ったように、この系統樹には北アジア在住人種の出る幕がない。すなわちハプロC2人とD2人だ。Y染色体ハプロの到達の上にゲノムの知見を載せたいのだが、これでは全面的な退歩としか言いようがない。無残である。

ラオスの山奥の先住民と豊橋の縄文人のゲノムが近かったといわれても、そうですかと答える他ない。特に人骨の絶対年代の問題はもう少し数が出てくれないとなんとも言いようがない。
Yハプロの話ばかりで申し訳ないが、おそらく3万年前くらいまではアフリカ以外のサピエンスはハプロC1一色だったと思える。当然その頃の日本の旧石器人もC1だっただろう。最終氷期に合わせて北方からD2人が進出してきたが、C1人が消滅したと考える必要はないだろう。関東平野の旧石器、縄文人が決してD2優位ではないことは、そのことを示唆する。

東アジアを経由しないで東北アジアへ進出した人種は、だから北回りとは言えない。C2、D2はヒマラヤ越え→チベット高原経由で蒙古に達した可能性が強い。
ota05
純粋な意味で北方系というのは、牧畜が始まって中央アジアの牧畜民が東西に振り子のように触れる生活を始めるようになってからである。そして狩猟人たるC2、D2人が追われるように外縁化していったと見るべきであろう。
oota06












クマエはイタリア半島主部に生成された最初のギリシャ植民都市であり、ポンペイの形成史を理解する上で不可欠のものとなっている。
ポンペイ周辺


ここではイタリアの先史時代からクマエの形成、先住民勢力エトルリアとの戦い、滅亡に至る経過を追ってみたい。
これによりローマ帝国の前身がギリシャ人植民者、中部土着勢力、南部土着勢力の三つ巴の中で形成され、最終的にローマ帝国へと集中していく過程が理解できる。

先史時代のイタリア
図 先史時代(鉄器時代)のイタリアの民族分布

先史時代(青銅器)クマエからBC900頃の青銅器時代の「竪穴文化」の人々の集落が発見されている。イタリック族に属する先住民が居住していた。

先史時代(鉄器時代)ナポリ湾一帯のカンパーナ地方はオスキ人の先住地であった。

BC 8c 現ナポリの西方にギリシア植民都市クマエ(Kumai→Cumae)が建設される。イタリア本土で最初のギリシャ植民地となる。街はヴェスビオ火山の噴火によって作成された沿岸の溶岩台地に建設され、城壁により囲まれる。

BC 7c クマエ、カンパニア沿岸のほぼ全域にその支配を確立。ギリシャ文化とエウボア文字を広める。
クマエの戦い

BC526 北方から進出したエトルリア人がクマエに侵入。エトルリアにはほかの先住民も加担。クマエは半島南部のギリシャ人植民者と同盟し抵抗。

BC524 クマエ近郊でギリシャ人とエトルリア+諸族の戦い。ギリシャ人が勝利。

BC505 クマエのアリストデモス将軍が独裁者となる。BC490に貴族によって倒され処刑される。

BC505 クマエ市街とアクロポリスを取り囲む壁が建設される。

BC474 エトルリアがふたたびクマエを攻撃。クマエ沖での海戦。シラクサのギリシャ人の支援を受けたクマエ軍が勝利。その後ギリシャ植民地連合の一員として発展。

BC450 エトルリア人に代わりサムナイト人(Samnites)がクマエへの侵攻を開始。

BC424 サムナイト人がクマエを征服。あわせてカンパニア地方全体を支配する。ギリシャ人は放逐され、先住民オスカン人の住む田舎町となる。

BC343 クマエをふくむサムナイトがローマの支配下に入る。







ポンペイの歴史

napoli & Pompei

ポンペイの街はヴェスビオ火山の噴火によって作成された沿岸の溶岩台地に建設され、城壁により囲まれる。三度にわたり拡張を繰り返した後、火砕流に埋もれた。
AD 79年の8月24日に一瞬にして死の街と化し、その上に厚く火山灰が堆積して地上から姿を消した。日本で言うと倭奴国王の金印の頃である。


図 ポンペイ(Pompei)の拡張史



先史時代(鉄器時代)ナポリ湾一帯のカンパーナ地方はオスキ人の先住地であった。
ポンペイ拡張史






BC91 同盟市戦争(Bellum Sociale)が始まる。ポンペイをふくむカンパニア地方は都市国家ローマとの同盟を破棄し蜂起。

BC89 同盟市戦争が終了。ポンペイはふたたびローマの支配下に入る。その後ポンペイはローマへの貢物の陸揚げ地として発展。

BC20 アウグストゥス時代に水道を始めとする大規模な設備投資がなされる。

AD62 カンパニア地方に地震。ポンペイも被害を受ける。

AD 79 
8月24日 ヴェスヴィオの大噴火。この時点での人口は2万人と推定される。翌日火砕流が発生し、火山灰と軽石が4 ~ 6メートルにわたり覆う。噴火後も街に残った約2千人が地中に埋もれる。


以前、 という記事を書いた。
この記事の中で下記論文を紹介し、リンクを張った。こんな記事を
書いたことすら忘れていたが、ある方からコメントを頂いた。
イェスナー「北太平洋における海洋適応の動物考古学的展望」(国立民族学博物館 2009年)
このリンクが無効だと指摘された。オリジナルのファイルへのリンクではなく、私が自分のコンピュータにダウンロードしたファイルにリンクされていたようだ。これでは読者がリンクを辿ろうとしても不可能だ。
 ..
デーヴィド R. イェスナー


この写真は国立民族歴史博物館のHPに掲載されていたもののコピーです。
1930年(昭和5年)の撮影とありますから、おそらくマンローがイヨマンテを撮影したときに、その合間に撮られたスナップかと思います。ひょっとすると撮影者自身がマンローかもしれません。
むかしの写真というとほとんどが緊張してしゃっちょこばっているのですが、この写真はふっと気が抜けたときの自然な表情が見事に切りとられています。

沙流川アイヌ 1930
とても鮮明な画像なので、画面上を左クリックして原寸で見てください。

NHKテレビで中井貴一が案内役を務める中国文明史のシリーズで、良渚文化が取り上げられた。

単独で取り上げられたと言うより夏王朝の源流の一つとしての扱いであったが、私としては長江最下流の文化であり、時期的にも長江文明の晩期に属するものなので、渡来弥生人の最有力候補としてアンテナが反応したのである。

ただその話は少しネタを仕込んだ上で、別に機会に書いてみたい。とりあえずはテレビ放送の流れのとおり、夏という初の国家の性質について考えてみたい。

また禹という傑出した人物が農耕文化の刷新を通じて経済的・文化的影響力を発揮し、全国に影響を及ぼしたという話は興味深かった。

つまり、夏は軍事的に統一国家を形成するのではなく、文化的に統一したということである。

彼の農業改革は水利と水防を結合させたことである。この事により農業システムの中に畑作と水田耕作を結合させた。これがいわゆる「五穀豊穣」路線である。

中国は南の水田地帯と北の畑作地帯から形成される。これをできるだけ混合させることで安全を図る。そのためには水防と水利の同時進行が必要だ。少々効率は悪くても食料安保の視点からは欠かせない路線である。

これは実はヤマトの勢力が前方後円墳=大規模水利事業という複合型シンボル操作により、全国に影響力を広げて行ったのと一脈通じるものがある。

もっとも、前方後円墳=大規模水利事業という経済社会システムは、ヤマト勢力が創出したものではなく、すでに吉備でプロトタイプが構築されていた。それを移入したという方が正確かもしれない。

崇神天皇以降の大和政権はその血なまぐさい侵略主義において突出している。彼らは前方後円墳=大規模水利事業というノウハウを抑えることにより、軍事的経済的王国へと成長を遂げ、国内統一を導いていくことになる。

そういう意味ではヤマト政権は、夏というより殷に近い政権だったのかもしれない。

八木奘三郎「日本考古学」は明治35年(1902)に発刊された日本最初の考古学教科書である。「北海の曠野に棲息するアイヌ」とは言うにも言ったもので、これではまったくヒグマ扱いだが、考古学的な目は確かなようだ。


今や子は我先史人類の細說に入るに先ちて北海の曠野に棲息するアイヌの大略 を述ぶる必要に際會せり、因て以下之が何たるやを說かん。

 アイヌは吾々日本人種と同じく、世界の學者間に於て尤も疑問多き人民なり。去れば、或者は彼を目して蒙古人種に屬せりと云ひ、又他の者は之を指して印度・日耳曼(ゲルマン)人と本源を同じふせりと稱す。

其の外、亞細亞南端の人類中に祖先を有すと說く者在れども、要するに彼らは亜細亜太古の人民にして、僅に我北方の地に共名殘を留めたりとの説、実に近きが如し。

而して石器使用の人民と彼等アイヌとは固と同一種族なりしや否や、換言せば、石器時代の住民はアイヌなりしかとの問題は、世人の毎に発する所なり。故に前條に尋で之が如何を説かざる 可からず。

 我邦の石器使用者を指してアイヌなりと説けるは、舊く徳川時代に在らんか、今其の始めを審にすること能はず。

近く此意見を主張 せしは前東京大學の雇教師 ウイリャム・グリフス 及 び ジョン・ミルンの如き有り。尋で其意見を綴承せるは小金井博士を初めとして世に甚だ多し。

又右は我日本人の祖先が用ひたりと云へるも舊く國學者の著述に見ゆ。而してアイヌにあらず、日本人にあらずとの説は實に新井白石の文中に記せり。然れどもこの説には
(以下OCR不能) 




マンローはこの本を参考にして、自らの知識を加えて英語の「Prehistoric Japan」(1908)を書き上げた。つまり、少なくとも各論的には八木書を下敷きにして作成したものと思われる。
彼独特の古代史観は、むしろ「序論」に色濃く投射されていると見られる。
もっとも、八木は大森貝塚の発掘にあたったモースなどお雇い教師として来日した考古学者(多くはアマチュア)の薫陶を受けており、それらの多くとマンローは知己の間柄でもあった。

この旧石器人とアイヌ人の関係は、その後明らかになってきた事実と、決してかけ離れているわけではない。ただ4万年前に朝鮮から渡ってきた旧石器人(YーハプロC1)と最終氷河期に樺太経由で入ってきた旧石器人(YーハプロD2)がD2優位で混血した「縄文人」が旧石器時代の主人公であったという事がわかるのには、それから100年を要したのだ。

日露戦争の直後、「万世一系」の押しつけが強まった時代に、この考えを貫くのはさほど容易なことではなかったはずである。




こういう書き出しである。
平取のアイヌを語る上で欠かせない人物がペンリウクだ。義経神社の鳥居前に佐藤昌介北大学長の記した顕彰碑がある。
そして顕彰碑の写真を掲げておいたが、その説明はない。理由は経時変化で文字が崩れ、よく読めなかったからである。
そのことは気にはなっていたが、なかなか資料が入手できないでいた。
この度、土橋芳美さんの本を入手できた。
題名は「痛みのペンリウク  囚われのアイヌ人骨」という(草風館 2017年)
ペンリウク

これを読んで、書かれた文章の内容がわかった。
それだけでなく何故この顕彰碑が建てられたのか、言外の意味も含め理解が深まった。
少し引用させていただく。

まずは碑文
平村ペンリウク頌徳碑
正三位勲一等男爵佐藤昌介題
故ペンリウク翁は氣骨稜々智略にとみ、十勝の同族を征服し、その名遠近に 轟き、大いに衆望を聚め、亦良く地方の同族を統率して愛撫を加へ、文字の 學ぶべきを説き、學校を設立して子弟の就學を勤む、之を土人教育の嚆矢とす。
官乃ち土人の事一切を翁に委ね、オテナ即ち総酋長を以て之を遇す。
翁曾て判官義經公の神像を此の地に遷祀して其の徳を鑑かにす、是本村義經神社 の濫觴なり。
明治十七年八月、故小松宮彰仁親王殿下本村お成の砌、翁の住宅 に御立寄あらせられ優渥なる御諚を賜はる。誠に無上の光榮と謂ふべく。
翁明 治三十六年十一月二十八日七十一歳にて病を以て歿す。郷黨翁の遺業を追慕し、ここに碑を建て、以て記念となし、長へに英魂を慰めんと欲す。
昭和九年七月 平取村長 赤根喜四郎

顕彰碑の謎

なぜかは知らぬが、さほどとも思えぬこの碑文を、わざわざ北大総長佐藤昌介が揮毫し、それが顕彰碑に刻まれている。これが逆でもあろうなら分からぬでもないが、どうも違和感を感じざるを得ない。第一、碑文を読んだだけではこのようなご大層な顕彰碑を立てた理由がさっぱりわからない。
さらに顕彰碑の除幕式には、北大医学部解剖学講座の山崎教授が出席し祝辞を述べたという。

変な言い方になるが、当時の気風からすれば、この持ち上げ方は少々気味が悪い。それもそのはず、北大解剖学教室の手によってペンリウクの墓が掘り返され、その遺骨が骨格標本として持ち出さていたからだ。これは大学側からすればたいそう気まずい話で、外国人学者や聖職者とも面識のあるアイヌ人指導者の遺骨が持ち出されたとあっては、帝国大学の名に傷がつくこと必定だ。

顕彰碑が建てられた日を遡ること9ヶ月、昭和8年の10月にペンリウクの墓は掘り返された。遺骨を入手したのは北海道大学医学部解剖学第一講座で責任者は山崎春夫教授。
除幕式に列席した山崎教授は、心のなかでは「ありがとう、骨はもらっちゃったよ」とうそぶいていたに違いない。

その後の遺骨返還を求めるやり取りについては、評価するほどの事実を持ちあわせていない。ただ「平取部落の土人が学術研究のため土中から尊敬するペンリウクの骨格を掘り返し、北大医学部に寄贈した」という報道は、否定しえなものであり、北大側はまずこれを「否定し得ない事実」として受け入れるべきであろうと思う。慰霊碑はある意味で強い状況証拠と見るべきである。

これを大前提として論理を積み上げていくならば、北大側は「寄贈された遺骨」を紛失したことになる。このことも「否定し得ない事実」として受け入れなければならない。ふたつの「否定し得ない」事実は、ある意味で国家機関が関わった問題であり、民族的尊厳に関わる問題であるがゆえに、受容しなければならないであろう。

だいたい宗教的対象である遺骨を、親戚でもない住民が、研究の発展のためにと喜んで差し出すわけなどない。少なくとも大学側からの積極的な要請があったと考えるのが当然である。しかも対象が「土人」であるからこそ、日本人に対してはとうてい考えられないような侮蔑的要請をしたのであろう。

大学側があれこれいうような物的証拠はないが、状況証拠はあれこれと揃っている。そもそも研究倫理に反するような行いをしておきながら、本筋を外れた議論をふっかけて逃げ回るのは、恥の上塗りだと思う。


以前2021年08月16日」を書いた。

その時とった写真の中に、どうでも良いが珍物、というものがあった。

その1

朝日とききょう

何故こんなものを陳列? と思う人もいるかも知れないが
農具や馬橇を見せられるよりは、私にははるかに面白い。

刻みたばこについての余談

戦前の刻みたばこには4種類あり、「はぎ」、「なでしこ」、「みのり」と名付けられていた。他に沖縄専売公社から「しらぎく」という銘柄も発売されていたらしい。戦後になってあらたに「ききょう」が発売になった。「はぎ」、「なでしこ」は発売終了になっている。
1970年代後半に「ききょう」が発売中止になって、刻みたばこはなくなってしまった。やはりないと困る人もいるため、4,5年ほどして「こいき」という銘柄が新たに発売となった。
現在はこのタバコに加えて、タバコ販売業者が海外で作らせて逆輸入するというものもあるようだ。宝船、いろは、黒蜘蛛などというらしい。むかしならさらに調べたところだが、今はそこまでの興味はない。

朝日はけっこう後まであって、学生時代にのんだことがある。うまくはなかった。ききょうは煙管用タバコで私には縁がなかった。
当時すでに静岡ではハイライト独占状態で、年寄の一部がいこいを吸っていた。北海道は貧乏だったせいか安価なタバコが随分遅くまで出回っていた。北大の学生はハイライトが半分、いこい、新生がそれぞれ4分の1というところ。さすがに朝日、バットはいなかったが、田舎のタバコ屋では普通に売ってたように思う。しかし70年を迎える頃にはそれらはわかば、エコーに姿を変えていた。
あの頃は、今から考えると年ごとに豊かになっていたように思う。
民衆の紙、茶チリは白チリになり、まもなくティシュへと姿を変えた。酒はトリスからハイニッカ(ラベルにはヒヒニッカと書いてあった)、そして一気にブラックニッカへと昇格した。洋酒喫茶が流行って、女の子が出入りするようになった。あちこちにラーメン屋ができ、400円もするラーメンを平気で食べるようになった。

その2 畑から掘り出した砲丸鎖
囚人労働_鎖

鉄鎖そのものは珍しくないが、村内の畑から出てきたというのがすごい。どうしてそこに捨てられることになったのだろうと、つい想像をたくましくしてしまう。この辺の道路は囚人道路と行って網走監獄の囚人を使役して作ったらしい。時あたかも平村ペンリウクの活躍した時節だ。

その3 林子平「蝦夷図全図」

もちろん模写だろうが、失礼ながら、こんなところに飾っておくのはもったいないような気がする。
えぞ図_丸瀬布
左クリックで拡大します。

ガラスに光が写り込まないよう頑張ったが、これが限界。絵は左クリックで拡大してご覧いただきたい。天明5年(1785)の作。

北大図書館の北方資料データベースには、林子平「蝦夷図全図」が三点登録されている。
林子平の「蝦夷国全図」は、日本・中国・オランダの資料にもとづく当時としては画期的な北方図であった。ただし、「カラフト島」は山脈に隔てられた大陸の半島とされ、これとは別に「サガリイン」(北樺太)を島として描き加えている。
海路は朱筋で描かれているが、あとは手書き墨書の粗いスケッチ図となっている。「カラフト島」を大陸の半島部として描き、アムール川を「大河ナリ 一名サカリイン 一名エルミ(アルミ)川」と記している。
ほかに蝦夷地全図、蝦夷国之図 、蝦夷図 、蝦夷輿地全図などの異名図も登録されており、当時はよほど人口に膾炙されたもののようである。当然、原図にはない書き込みが見られるものも多くそれ自体にも資料的があるとされる。

これも、今回はここまでとする。林子平と蝦夷図に関しては、下記ページもご覧いただきたい。



最近見つけたサイトがこれ、
道北の釣りと旅」というホームページ。作りは昔風だが、非常に読みやすい。最初は釣行の記録集のつもりで始めたのが、いつのまにか北海道の紀行文集になってしまったのだろう。
さらに今では顧みられることもない、石碑などを丹念に拾い上げながら、過不足のない説明とスナップ写真を添付されている。保存すべき記憶遺産の一つだ。

膨大な内容なので、サイトマップから入る必要がある。ホームページから「碑巡り」を選択する。ズラッとジャンル分けされた表示が壮観である。
この中の「先住民顕彰慰霊碑」という項目がアイヌ関係の慰霊碑である。1~4に分かれ、それぞれに膨大な記念碑が埋め込まれている。ライフワークともいうべき労作で、まことに敬服の至りである。

今回はこの中から、日高、登別アイヌに関する碑を抜き出してみた。詳細を知りたい方は道北の釣りと旅のトップページへ。


チビヤコタン供養塔浦河町 

チビヤコタン供養塔無縁仏となった先祖の霊を弔ってあげようとウタリ協会浦河支部会員が協力し合い募金を集め、フシコウタル(古い亡き同胞)の供養塔を昭和53年11月、杵臼共同墓地に建立した。その2年後の昭和55年には向ヶ丘の共同墓地にチビヤコタン無縁供養塔を建立。昭和57年8月、姉茶共同墓地にフシコウタル供養塔を建立しています。中曽根康弘首相(1982~1987)の日本は単一民族国家であるという国会発言に象徴されるように、アイヌ民族は存在そのものが国家によって否定され囚人、タコ労働者とともに差別の対象にされてきた。地域によっては墓も和人とは差別され、死んでもなを差別は続いたのでした。平成19年の先住民の権利に関する国連宣言に続き、平成20年の衆参両院の国会決議を受け、政府はアイヌ民族を先住民と認めたが国家による差別がなくなったという事ではない。 ◇建立者:ウタリ協会浦河支部  ◇建立年:昭和55年  ◇所在地:浦河町緑町 向ヶ丘共同墓地

英傑シャクシャイン像新ひだか町

英傑シャクシャイン像英傑シャクシャイン像碑文 日本書記によれば、斉明の代(西暦六五〇年代)においてすでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)の郷であった。今から約三〇〇年前、シャクシャインは、ここシペチャリのチャシ城嘴を中心としてコタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。

当時自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力、交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、松前藩政の非道な圧迫と過酷な摂取は日増につのり同族の生活は重大脅威にさらされた。
 茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民族自衛のため止むなく蜂起したが衆寡徹せず戦いに敗れる結果となった。しかし其の志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり此の戦を世に寛文九年エゾの乱と言う。
 いま静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ人類永住の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考するよすがすると共に、父祖先人の開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こして、わが郷土の悠久の平和と彌栄を祈念する。
 一九七〇年九月一五日 シャクシャイン顕彰会 会長神谷与一

ユカルの塔 シャクシャイン像の傍に神器カムイパスイを形取ったと言われているユカルの塔が聳え立っている。 ◇建立年:昭和45年9月15日  ◇建立者:シャクシャイン顕彰会  ◇所在地:新ひだか町静内真歌7  ◇Gmap:Gマップ

シャクシャイン頌徳碑新ひだか町

シャクシャイン頌徳碑碑文
頌徳 まごころと真実、尊敬と信頼、先人の御霊に深く瞑目し、その偉徳を偲ぶ人々の限りない善意と敬虞の願いが呼応しあいこの地真歌の丘に、英傑シャクシャインの雄姿蘇る。一九七一年顕彰の趣意を示す碑文板の完成。翌一九七二年、古式に則りオッチケ(神膳)を台座となし、その前面に、神々の心をたずねる神器カムイパスイを配し、未来・永劫絶えせぬ慰霊の祈りをこめて「ユカルの塔」天空に建つ。

これら一連の事業達成の基は、自ら目覚め、多面に亘る協力を惜しまなかった各位の御芳志の賜であり町内有志はいうに及ばず道内外の地域から、八百有余人にわたる募金の協力を始めとした、幾多の人々の深い御理解と御支援の結晶である。そのひとりひとりの御芳名を、勇者の英姿と共に、後世に残すべく志向してきたところであるが、未来に続くより広汎な善意と御支援にも謝する趣意をもって、頌徳の辞に代え満腔の謝意を顕す次第である。

この意をもって一九七四年当時の生活に必須のニス(臼)とイウタニ(杵)を配し後面の円みには、日輪を象った頌徳板の完成をみ、ひとつの区切りとしたものである。

先人の御霊永遠に安かれ 心ひとつに結ばれた諸賢同胞に栄光あれ

 一九七四年九月二十三日 シャクシャイン顕彰会」


ブログ主のコメント:シャクシャイン像については私も記事を書いているのでご参照いただきたい。2019年11月27日


※碑の前には、ニス(臼)、碑文の両脇にはイウタニ(杵)を配していた。 ◇建立年:昭和49年9月23日  ◇建立者:シャクシャイン顕彰会  ◇所在地:新ひだか町静内真歌7  ◇Gmap:Gマップ


姉去簡易教育所(姉去土人学校)跡新冠町

姉去簡易教育所跡新冠町エコミュージアムの碑のなかで唯一強制移住にかんする碑文
「この地域は昔から多くのアイヌの人たちが住んでいたところです。
明治29年、古川アシンノカルは、アイヌ子弟ののため、私費を投じてこの地に土人学校(古川教育所)を設立し開校しましたが、翌年の5月には教師が退職するなどの理由から休校となりました。
明治36年、旧土人保護法による学校設置に際し、この学校が献納され庁立姉去土人学校(姉去簡易教育所)として開校しました。
しかし大正5年に新冠御料牧場経営の都合によりアイヌの平取村上貫気別地区への強制移住に伴い学校も移転する事になりました。
平成18年11月 新冠町教育委員会(他に姉去簡易教育所の平面図が記されている


※吉川アシンノカルは、滑若(現泉付近)の住民。(安政4年生~大正14年没)
御料牧場に奉職するかたわら、自身も牧場や商店を経営していたが、アイヌ教育の発展に努めた。姉去より上貫気別へ強制移住が行われ、それに伴って学校も上貫気別に移転した、現在の平取町貫気別小学校は姉去からの歴史を受け継いでいる。
北海道は旧土人保護法に基づく簡易教育所を北海道各地に設置、その数は三十一ヶ所にのぼる。 ◇建立年:平成18年11月 ◇建立者:新冠町 ◊所在地:新冠郡新冠町大富  ◇Gmap:
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山川力之碑 日高町

準備中碑文
 アイヌの言魂を語り伝えたシサム 山川力之碑
「せめて魂をエゾ地で眠らせたや」と刻まれている。
山川力氏は「アイヌ民族文化史試論」などの著作で知られる研究者。晩年はアシリ・レラ(日本名、山道康子)氏と共に活動を行っていた。
平成14(2002)年に「山川力氏の碑」を建立、山川氏の遺骨はこの碑の下にはないが、ブルドーザーで掘り返された数多くのアイヌの人々の遺骨の破片が集められ埋葬されている。
アシリ・レラ氏ら有志はこの碑の周辺にアイヌ墓標を立て、かろうじて残された先祖のアイヌ墓標の下に眠る遺骨と共に毎年慰霊祭を行っている。
◇建立年:平成14年 ◇建立者:アシリレラ他有志 ◇所在地:沙流郡日高町福満76番地 (福満墓地)  ◇Gmap:Gマップ
追加コメント: 山川力 1913年山形市生まれ。東京大学文学部英文科卒業。北海道新聞論説主幹、北海道武蔵女子短期大学教授などを経て、現在、著述家。著書に「アイヌ民族文化史への試論」他がある。
山道 康子(やまみち やすこ、
1946年 - ) アイヌの活動家。アイヌ名は『アシリ レラ』(新しい風) 二風谷出身

福満(フクミツ)のアイヌ墓碑日高町

準備中墓標はハシドイの木で、先端が槍型のものは男性、穴アキは女性の墓、墓標をイルラカムイと云い先端にミゾの彫られたのもあったという。
地方によって墓標の木材や形に違いもあった。幕別町で見た男性用墓標は先端が二股でオッカヨクワ、丸い棒状の女性用墓標はメノコクワ、本来は槐(えんじゅ)の墓標というが、実際は石標だった。
アイヌの人々は家族や身近な人が亡くなると土葬し槐(えんじゅ)の墓標を立てた後は決してそこに近づかなかった。槐やハシドイは百年は腐らない木と云われ、その木が朽ちて無くなると故人の魂も天に昇っていくと考えられていた。
福満墓地の戦い
福満の旧墓地では門別町が委託した業者がブルドーザーでアイヌの遺骨を掘り起こし、遺骨は一体5万円で町に引き渡される事になっていた。福満に先祖の墓があるアシリレラ氏は、福満でアイヌの人々の遺骨を発掘する事と墓標を引き抜くことを拒否し、業者の「金儲けの邪魔をするな」「お前も埋めてやる」などの威嚇にも屈せず抵抗を続けた。遠い親戚にあたる祖先の遺骨と墓標は現在もそのままの場所にある。
アシリレラ氏ら有志はそのときブルドーザーが掘り返した遺骨の破片を集め、引き抜かれなかった墓標のそばに木を植え、その根元に遺骨の破片を埋めた。広い北海道で古来より変わらぬアイヌの墓標が有るのはここだけとなった。
◇建立年:要再調査  ◇建立者:要再調査  ◇所在地:沙流郡日高町福満76番地 (福満墓地)  ◇Gmap:Gマップ

旧上貫気別墓地の碑平取町

旧上貫気別墓地碑碑文
平取町は肥沃な大地と豊かな自然に恵まれ、その開創は古く、祖父は昼なお陽光の届かない原生林に挑み上貫気別を開いた。
明治大正の馬耕時代及び軍用場生産のため新冠牧場は拡大され御料牧場へと変遷したが大正4(1915)年、姉去コタンを追われ上貫気別に強制移住になった人々の悲しさは凄絶なものがあった。
この郷土の開拓に心血を注ぎ鍬を下ろした先覚者の事績を後世に伝え、諸霊に参列者のみな様と共に鎮魂の誠を捧げます。
平成2年8月 平取町町長 宮田泰郎
※最初の強制移住は明治28(1895)年の新冠郡滑若村から同郡姉去・万揃への移住であった。2度目は大正4(1915)年に姉去コタンを追われ上貫気別への強制移住となった。
碑文に追われた人々がどういう人々なのか刻まれていないので、この碑からアイヌ民族と云うのが理解出来る人は少ないかもしれません。道道71号線沿いで平取町旭地区の旧墓地付近は無人の山林になっており案内板などもありません。
◇建立年:平成2年  ◇建立者:未確認  ◊所在地:沙流郡平取町旭(旧上貫気別
追加コメント: 
姉去村(あねさる)、万揃村(まんそろえ)、滑若村(なめわか)はいずれも新冠周辺の旧村で、もとはアイヌ人の居住地区。
古川アシノカル
          古川アシノカル

造林殉難者の碑と志登利の碑平取町

準備中造林殉難者の碑:平取町荷負地区にある八幡神社の本殿手前左側に墓碑が二基並んでいる。昭和6年10月26日に造林作業に従事した青年2人が雨と雪のため道を迷い殉難した事を悼んで慰霊碑が建立されたようだ。発起人2人の名が刻まれている。

碑文の中に「希クハ英霊止リテ」とあることから「滅私奉公」の象徴とされていたようだ。
志登利の碑: 荷負村に多くの和人が入りアイヌの生活が脅かされるようになり、それを憂いた志登利は経済力に応じた合理的な生活を指導し、その結果和人に見劣りしない迄に至った。同族の今日があるのは君が父子の賚賜によるとその徳を称えている。
碑文によると亡くなったのは明治43年9月15日で、碑の建立は大正丙寅歳秋8月と考えられるが、碑を建立してから後に碑文を刻んだ可能性もありそうです。この墓碑で気になったのは同族を愛奴人と刻んでいたことです。
◇建立年:建立年不明 ◇建立者:荷負村民一同 ◇所在地:沙流郡平取町荷負78−7 八幡神社  ◇Gmap:Gマップ

祖先代々萬霊無縁の碑平取町

準備中平取本町の平取共同墓地と道をはさんだ西側の小さな空き地に有志による木造の「先祖代々有縁無縁の碑」が建てられたのは昭和44(1969)年、昭和57(1982)年に石碑になった。
昭和52(1977)年の墓地整備条例が公布された時には平取町のアイヌ墓地では遺骨が掘り起こされ、墓標が引き抜かれていたという。平取では学問の為ではなく墓地整備のためにアイヌの人々の遺骨は掘り起こされ、古式なアイヌ民族の墓標は後から入植してきた和人たちの石碑に置き換えられたのだった。
当時アイヌ民族で平取町議員だった宇南山斎氏は、無縁のアイヌの人々の遺骨を一ヶ所にまとめて埋葬し、慰霊碑を建立するために有志を募り、当時の平取町議員で道南バス平取営業所の所長であった佐藤旭氏などが出資したという。
◇建立年:昭和44年  ◇再建年:昭和57年  ◇建立者:未確認  ◇所在地:沙流郡平取町本町 平取共同墓地西脇  ◇Gmap:Gマップ

違星北斗歌碑サブタイトル 地域&マップ

違星北斗歌碑二風谷小学校の敷地内にある歌碑
「沙流川ハ 昨日の雨で水濁り コタンの昔 囁きつゝいく」
「平取に 浴場一つ ほしいもの 金があったら たてないものを」
の2首が刻まれている。
碑文
違星瀧次郎北斗と号す。明治34年余市町に生まる。大正14年西川光次郎を頼り上京 金田一京助の知遇を受く。同15年同族のため働くことを決意し帰道 昭和2年平取に住みウタリ文化の研究。同3年売薬行商を続け乍らコタンを訪ね同族の奮起を促す。同4年病を得て歿す時に29才、生前口語短歌よくし並木凡平に愛せられウタリの啄木と称せらる
二風谷小学校の復旧新築に結集せる校下父兄の協働の成果を記念し、北斗を敬愛する人々これを協賛、歌2首を誌してその志を偲ぶ。
書は金田一京助、制作は田上義也による。 
昭和43年11月5日 違星北斗の会 代表木呂子敏彦」

※怒りよりも絶望感を漂わせた穏やかな和歌でした。違星北斗はバチラー八重子、森竹竹市と並ぶ「アイヌ三大歌人」の一人とも云い、啄木の影響を受けているともいうが、アイヌ民族の生活感情をアイヌ民族自身が歌ったという意味では数少ない歌碑、碑の一部が剥がれ落ちている。
違星北斗レリーフ:
平取町歴史の散歩道に設置されている違星北斗(1902年~1929年)レリーフには「アイヌ民族の歌人で余市町生まれ。歌人・文人を志しながらも、同胞の生活向上のため社会活動に献身し、バチラー幼稚園で働きながら小樽新聞に短歌などの投稿を続けた。
結核のため27歳で早逝。昭和25年に遺歌文集『コタン』が出版された。民族、差別への激しい怒り、絶望感を嘆じる中にも、アイヌとしての自負の心を表出した作品が多い。
◇建立年:昭和43年11月5日  ◇建立者:違星北斗の会  ◇所在地:平取町二風谷 28 ニ風谷小学校敷地内

金成 マツ歴史の散歩道 平取町

金成 マツ平取町百年を記念して作られた「歴史の散歩道」に設置されている9人のなかの碑の1人。金成マツ(1875年~1961年)レリーフより
ユカラの伝承者アイヌ名イメカノ。妹のナミとともに函館にあった伝道師養成の愛隣学校で学んだ後、明治31年に平取聖公会に着任、伝導看護婦ブライアント女子を助けた。
晩年は故郷の登別で暮らしアイヌ伝統文化の記録保存のために尽力。とくに母モナシノウクなどによる口伝のアイヌ文学をローマ字筆記した『金成マツノート』は第一級の史料で、日本語訳・解読の作業が続けられている。『アイヌ神謡集』を著した知里幸恵と北海道大学教授として活躍した言語学者、知里真志保は妹ナミの子どもたちである。」
※2007年に半分以上が手付かずのまま翻訳を終了した。
◇建立年:平成11年10月  ◇建立者:平取町  ◇所在地:沙流郡平取町二風谷 歴史の散歩道 

ブライアント・エディース・メアリー歴史の散歩道 平取町

ブライアント・エディース・メアリー 平取町歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人です。Bryant,Edit Mary(1859年~1934年9レリーフより「明治期に平取で活躍した伝道看護婦。ロンドンの病院で看護婦をしていたが、ジョン・バチラーに頼まれて明治30年平取に来た。義経神社下の「ホスピタル・レスン」で住民の治療に当たりながら、キリスト教を広めるため活動した。
明治31年の沙流川大洪水の際には被災した人達を献身的に世話をして深く信頼される。延べ13年間の滞在期間中、振内に私塾を設けて子弟教育につくしたり、親を亡くした子を養女として育てたりして、慈愛に満ちた精神で住民のために力を注いだ。」
当時はアイヌ子弟の教育は例外なくアイヌ文化の根幹であるアイヌ語を禁止し、アイヌ民族の伝統文化を否定した同化政策であり、人格者と言われアイヌ達の地位向上のため奔走した教育者も、同化政策推進の第一線で働いた人達でした。
そんな中でアイヌ文化を守る仕事は日本人ではなく、外国人の宣教師や医師によって始められたといえます。バチラー司祭、ニール・ゴルドン・マンロー、ブライアント・エディース・メアリーは医療や布教活動にとどまらずアイヌの救済や教育、アイヌ民族の復権と地位向上のための活動が続けられました。
◇建立年:平成11年10月  ◇建立者:平取町  ◇所在地:沙流郡平取町二風谷

ニール・ゴルドン・マンロー歴史の散歩道 平取町

ニール・ゴルドン・マンロー平取町歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人です。Nell Gordon Manro M.D(1863年~1942年)
イギリス・スコットランド出身の医師で人類学者。明治25年に来日、横浜ゼネラル・ホスピタル病院長や軽井沢サナトリウム所長を歴任する傍ら、英国王立人類学研究所の通信員として考古学の研究にも従事する。名著「先史時代の日本」など黎明期の日本考古学会に先駆的な業績をのこす。アイヌ研究にも力をいれ「アイヌの信条と文化」他の著作や記録映画を著作する。
昭和5年のイヨマンテ(熊の霊送り儀礼)調査を契機に二風谷永住を決意し昭和7年には自邸(現・マンロー館)を建設。チヨ夫人と共に住民の医療奉仕にも積極的に尽力した。昭和17年他界し二風谷墓地に永眠」
※マンロー博士の私宅(マンロー館)が登録有形文化財となって一般公開(夏期間・事前予約必要)され、記念館敷地内ににマンロー博士顕彰碑と説明板が設置されている。

説明板より「ニール・ゴードン・マンロー博士は、1865年英国スコットランドに生まれ、エジンバラ大学卒業後、明治24(1891)年来日。横浜、軽井沢等の病院で医師として活躍する一方、考古学・人類学・民俗学・地質学等に興味をもち、北海道を含めて、日本各地で先史時代の遺跡発掘に従事し、学会誌等に多くの論文を発表した。明治38(1905)年日本へ帰化。
その後、アイヌ研究に集中し、昭和6(1931)年から1933年にかけて当地、沙流郡平取町二風谷コタンに本邸宅を建築、のち別棟を増築し「マンロー診療所」として開設、結核に苦しんでいたアイヌの人達の無料診察に尽力するとともに、アイヌ研究に没頭したが、昭和17(1942)年4月11日癌性腸閉塞のため当地で没した。
本邸宅は博士の死後、人手に渡り荒廃していたが、当時の英国大使館参事官F・W・Fトムリン氏及びJ・フィゲス氏が土地とともに私費で入手し、旧状に修復の上、昭和41年9月北海道大学に寄贈(土地19.371㎡ 建物283㎡)、以来、同大学文学部付属北方文化研究施設二風谷分室となり、マンロー博士の遺品の一部と同室所蔵の民族資料・図書資料が展示されている。
◇建立年:平成11年10月  ◇建立者:平取町  ◇所在地:沙流郡平取町二風谷



和泉 教育発祥の地むかわ町

和泉 教育発祥の地「教育発祥の地」碑
巨大な自然石の正面に大きく「教育発祥の地」と刻まれた碑があり、その右側の副碑に沿革が刻まれている。
和泉小学校のあしあと(碑文) 明治25年来住した和人によりアイヌの子弟を小石川シラマオクの家に集め、寺子屋式教育がはじめられた。同28年6月中村平八郎、森本イカシモ、紀藤昆次郎、横山武右衛門、川口菊三、各氏等が校下有志の協力を得て公立の新校舎を完成、鵡川尋常小学校累標分校として創立、これが和泉小学校の発祥となる。
同34年累標小学校として独立。同40年10月旧土人保護法による指定校となり、昭和16年4月和泉国民学校と改称、同年18年高等科併置、同22年公立和泉中学校併設、幾多の変遷を経て先人、教育者の不滅の努力により、線八百余名の卒業生を世に送る。
ここに先人、教育者に感謝を捧げ開校百周年を迎えた事を銘記する。出(いで)よ 出(いで)よ大いなる人、この地より 平成7年9月3日 和泉小学校開校100周年記念協賛会」碑は旧和泉小学校校門近くの敷地内にある。同小学校は平成21年3月に閉校となっている。 ◇建立年:平成7年9月3日  ◇建立者:和泉小学校開校100周年記念協賛会  ◊所在地:勇払郡むかわ町穂別和泉110  ◇Gmap:Gマップ


大川原コビザントクの記念碑むかわ町

遺芳萬世碑鵡川でアイヌ民族のリーダ―大川原コビザントクを顕彰する碑が春日地区の春日神社境内にあります。碑文正面上段に「遺芳萬世 胡山額」と刻まれているが、下段の碑文は風化で読解困難。
大川原コビザントク: むかわ町で明治7(1874)年に生まれた。広大な土地を所有し牧場を経営していた。村会議員として35年間、要職を務めた。また民生委員会方面委員など、教育や福祉でも大きな足跡を残している。
昭和26年12月14日 78歳で没するが、鵡川村村会が満場一致で村葬を決めた。碑はその1年9ヶ月後に建立されている。
◇建立年:昭和28年9月  ◇建立者:春日共同牧場組合員  ◇所在地:むかわ町春日nbsp; ◇Gmap:Gマップ

高橋房次先生之像と顕彰碑白老町

高橋房次先生之像と顕彰碑
碑文: 高橋房次先生は明治15年栃木県下都賀郡間々田町に生れ明治36年東京慈恵医学専門学校を卒業、大正11年庁立白老土人病院院長として赴任しアイヌ人医療は勿論一般村民の衛生思想の普及啓蒙に専念し、尓来全町民に対し貧富の別なく医療費等を度外視し精魂の限りをつくした。白老病院廃止後の昭和13年から高橋医院として引継いで地域医療活動を続けた。
昭和30年9月白老町名誉町民第1号に推された。知里真志保も高橋房次氏を「白老のシュバイツァー」と絶賛している。葬式の時、彼を慕う全町民が参列し、400mの長蛇の列ができるほどだった。

◇建立年:昭和34年11月3日  ◇建立者:高橋房次先生功績顕彰会  ◊所在地:白老郡白老町高砂町2丁目2  ◇Gmap:Gマップ

白老アイヌ碑白老町

白老アイヌ碑旧高橋病院跡地に平成17年に建立された約18屯という巨大な蛇紋岩で出来たアイヌ碑。碑の左横に碑文を刻んだ「副碑」がある。
◇建立年:平成17年8月10日 ◇建立者:白老アイヌ碑建立実行委員会 ◊所在地:白老郡白老町高砂町2丁目2  ◇Gmap:Gマップ

知里真志保之碑登別市

知里真志保之碑碑には「銀のしずく 降れ降れ まわりに」と刻まれている。 
碑文1『知里眞志保略歴 明治42年幌別郡に生る。登別小学校、室蘭中学校、第一高等学校、東大卒業、文学博士、北大教授、東大講師となる。分類アイヌ語辞典そのた数々の不朽の名著が後の世に残った。昭和36年札幌にて没 52歳』 
碑文2『彼は登別川のほとりで育ったアイヌ系の腕白な少年であった。長じて天才的な言語学者となり、その名は今に世の畏敬の的である。故郷をしのび海の見える丘に住みたいと云っていたという。有志相はかり、ここハシナウシを選びこの碑を建てた。友人 山田秀三』
※碑は碑文にあるように太平洋と生まれ育った登別川をのぞむ丘に建立したというが、平成8年9月に登別小学校移設されています。
◇建立年:昭和48年6月9日  ◇移転年:平成8年9月  ◇建立者:知里眞志保之碑建立委員会   ◇所在地:登別市登別本町3丁目25番地3  ◇Gmap:Gマップ

知里幸恵をはぐくんだ地登別市

知里真志保をはぐくんだ地登別教育委員会設置の説明板:
知里幸恵は、明治36(1903)年、父・高吉、母・ナミの長女としてこの地に生まれ、7歳のとき、旭川の伯母金成マツのもとに移り住みました。
15歳のとき、言語学者・金田一京助と出会い、のちに上京して、アイヌ民族に伝わるカムイ・ユカラ(神謡)をまとめた『アイヌ神謡集』を著しましたが、持病の心臓病のため、19歳の若さでその短い生涯をを閉じました。幸恵の弟・真志保は…略
◇設置者:登別市教育委員会   ◇登別市登別本町2丁目34番地2  ◇Gmap:Gマップ

萱野茂の生涯 乗仏本願生彼国碑2 中空知コタン跡地入口2 中空知コタン跡地入口3 樺太アイヌの碑2 むかわ アイヌ碑2 知里真志保之碑2 知里真志保をはぐくんだ地2

銀のしずく記念館登別市

銀のしずく記念知里幸恵の姪にあたる横山むつみさんが平成22(2010)年9月にアイヌ民族として初めてカムイユカラ(神謡)を文字化した「アイヌ神謡集」の著者、知里幸恵さんの業績を広く伝えるため、国内外からの寄付を元に知里幸恵さんの生家近くに「知里幸恵 銀のしずく記念館」をオープン。
知里幸恵の遺品、実際に書いた手紙、日記帳、アイヌ語のノートとアイヌ神謡集を展示などの他、知里幸恵の弟で言語学者の知里真志保、ユカラの伝承者・金成マツなどの展示もある。
初代館長は創設者の「横山むつみ」さんでしたが平成28年に逝去され、二代目館長に金崎重彌氏が就任しています。
◇開 館:9時30分~16時30分(入館は16時迄) ◇休館日:火曜日(祝・祭日除く) 年末年始 ◇入館料:大人500円、団体(10名以上)450円 ◇所在地:道◇Gmap:マップコード ◇所在地:登別市登別本町2丁目34   ◇Gmap:Gマップ

愛隣学校跡登別市

愛隣学校跡愛隣学校説明板: 明治19(1886)年箱館から幌別に来住した英国人ジョン・バチェラーが明治21(1888)年4月25日此所に私立相愛学校を開設。日曜学校も併設しキリスト教伝導の拠所とした場所があった。
明治36(1893)年バチエラー夫妻が札幌に転居後、後継の宣教師などにより運営されていたが、昭和9年の暴風で建物も大破し以後解体された。

開拓使が進めた同化政策はアイヌ民族従来の生活手段を奪い、言語や文化的伝統を破壊するものでした。アイヌ民族の人権や文化を守る仕事は外国人の宣教師や医師によって始められた。ジョン・バチェラーは札幌へ転居する明治26年までの間、幌別を中心としてキリスト教の伝道に従事し、ルイザ夫人と召使いパラピタ夫妻及びその養女キンと暮らしていた。ここを拠点にして日高方面へ馬に乗り布教に行っていた。建物はなくかつては設置されていた説明板も今はない。
◇設置年:不明  ◇設置者:登別市  ◇登別市幌別町5丁目2番地  ◇Gmap:Gマップ

ふるさと銀河線りくべつ鉄道公式ホームページ
というサイトに 


という立派な文章があります。

もちろんそこを呼んでいただければ済むのですが、斜陽になってからの長い経過はこの際省略して、とりあえず事実の訂正だけ簡潔に書いておきます。

この線路は根室本線の支線として作られたものではなく、最初から幹線鉄道として計画されたものでした。

1.それは最初「網走線」だった

明治40年(1907)、「北海道鉄道敷設法」にもとづき、網走管内最初の幹線鉄道「網走線」として建設が始められました。
敷設工事は池田から始まり、3年半後には北見との支庁境の陸別まで、その1年後に野付牛まで進みました。そして、大正元年(1912)10月5日には網走までの全路線が開通。これと同時に「網走本線に格上げされました。
今考えても猛スピードだったことがわかります。


網走線・池田~網走間 大正元年(1912)開通当時の路線図
 図 網走線・池田~網走間 大正元年(1912)開通当時の路線図


2.網走本線は一気にローカル化

大正10年(1921)に名寄本線が全線開通すると、北見管内のうちサロマ湖以北の輸送はそちらに移動しました。しかし北見・網走・常呂・斜里といった主要部は、依然として網走本線のサービスエリア内にありました。

昭和7年(1932)に網走本線を取り巻く石北線が全通すると、状況はガラッと変わります。旭川はもとより札幌を経由する旅客はみな、石北線に回ってしまいます。

昭和2年といえば、まだかなりの旅客・貨物扱いは残っていたと思われ、駅名全面省略という粗略な扱いはいかがかと思われるのですが、いかがなものでしょう。真相を知ろうと思えば、名寄本線の経営実績を知る必要がありそうです。


3.網走本線から赤字ローカル線への転落

それでも名前だけは網走本線でしたが、昭和36年(1961)に線路名称の整理が行われ、網走本線は消失。池田・北見間は池北線となりました。
石北線が石北本線に昇格し、北見・網走間の網走本線は石北本線の一部となりました。

それでひっそりと生きて行ければまだ救いもあったのですが、今度は国鉄そのものの存続問題の渦中に巻き込まれることになりますが、それについては又の機会に…

出張のついでに釧路博物館を訪れた。
目的は釧路のチャシや貝塚をふくむ道東アイヌの歴史。目梨アイヌの反乱へとつながる釧路や厚岸でのアイヌ交易、私の研究対象であるN.G.マンローの釧路における足跡。それに以前からの興味の対象、釧路周辺の炭鉱、とくにゴーストタウンとして有名な雄別炭鉱の歴史である。
結果としては失望の連続であった。建物も立地も素晴らしく、展示にもそれなりの金をかけているのに、釧路ならではの展示はほぼ皆無である。良くもこれだけ的を外した展示ができたものだと思う。
おまけに暖房なし、換気満点という環境は早々に観覧の気力を失わせた。
興味をわかせたのは2つだけ。
一つは階段の踊り場スペースに展示されたレリーフ、もう一つが昭和1年製作の道東の鉄道と名所図会である。

アイヌの女像1

ご覧の通り、一枚板に彫り込まれたアイヌの若い女性の見事なレリーフである。ライティングもよく迫力がある。アイヌの顔かと言われるとうーむと唸るが、良ければよいのだと思う。
ただし足元がひどい。復元した丸木舟が重なるし、真下に非常口の電燈というのがまことにぞんざいなあしらいで、情けない。だいいちこれでは非常口が可哀そうだ。

作品に集中しよう。下が上半身の近接像である。

アイヌの女像2


たしかに日本人ともヨーロッパ人とも言えない不思議な顔立ちである。顔立ちはよく見るとかなり過長にデフォルメされている。全体像と比べるとわかるが、下から見上げられることを意識しているのだろう。口もとは観音像のようなアーカイック・スマイルを浮かべている。イメージとしては女神像なのだろうなと思う。
その割には首から下の胴体は豊満に表現されている。目線近くに長い影を落としつつ目に映るので、実像ではこの効果が強調される。ひょっとすると、この場に置かれることを想定して制作されたのかも知れない。

もう一つの見世物が道東地方の「管内要覧」だ。

道東一覧図

管内要覧と言っても釧路近辺の人を相手にしたものらしく、他の地区は「それなりに」という程度だ。さらにすごいのは、管外についてまったく眼中にない事だ。西端の新得駅から先、線路を示す赤線は消失する。その先に狩勝トンネルは存在しない。東端の根室駅には港も描かれず、対岸の国後はない。納沙布の東には歯舞もない。恐るべき自己完結である。

根室本線といくつかの支線が描かれている。札幌側から言うと清水町から東に伸びる川西鉄道、駅名は省略されている。次が帯広駅を出発点とする十勝鉄道。これは箒のように枝分かれしているのでビートを運ぶ貨物船であろう。逆に東北方向に伸びるのが士幌線。当時すでに上士幌まで伸びていた。
次が池北線。当時、野付牛(現北見)は十勝の延長と考えられていたことがわかる。しかし途中に駅名はない。「遠別」という地名だけが駅名であるかのように書き込まれているが、果たして実在するのだろうか? 
*重大な間違いです。文末で訂正します。→文末に書いたのですが、相当長いので次の記事にします。

旧池北線の駅名に遠別はない。いろいろ調べると営林署の支所で、十勝東部森林管理署というのがあり、そのまた支所に宇遠別・鹿山森林事務所という建物がある。住所は足寄郡陸別町字陸別元町となっている。しかしこれだと字(あざ)遠別ではなくウエンベツだ。
釧路からは雄別炭鉱鉄道が延びている。その存在は現在もかなりの人が知っている。別保からは臨港鉄道が伸びている。その一部は最近まで稼働していた。釧網線はこの頃まだ存在せず、東釧路から短い支線が延びていた。

画面の左上に書かれた「著名工場・その他」という欄に「音更飛行場」という記載があります。
これについて調べたところ、「空港探索2:音更飛行場跡地」という記事がまるでテレビドラマであるかのようにめちゃくちゃ面白い。ぜひご一読を。
なお記事の内容は「まぼろしの音更飛行場」という冊子から紹介されたもののようです。これは音更町郷土史研究会副会長の那須敏雄さん(当時)が書かれたもので、2008年の出版です。町立図書館にあるようです。

「遊覧地」の一覧の二番目に載せられた途別温泉について調べると、次のような記載がありました。
町内(幕別町札内)には、現在三カ所の温泉施設があります。その起源は、加藤温泉(明治39年)、黒田温泉(大正元年)による開業であったとされています。場所はJR札内駅から、南方向2kmの位置にあり、途別川に架かる吐月橋を渡った日新坂の登り口に、隣りあわせで営業していました。

こういうことをやっているときりがない。1回閉じます。





百年戦争の略史

いろいろもがいて、最後に泥沼の底の地盤に足がついたのが、百年戦争。まずはいろいろな年表を借りてきて足場を組むことにする。

百年戦争は、厳密には英国とフランスの戦争ではない。フランス(ヴァロワ家)とイングランド・プランタジネット(アンジュー)家の争いである。

気取った言い方をすれば、「争いの中で2つの国が出来上がっていく戦い」である。


1066年 フランス諸侯のノルマンディ公がイングランドを征服。ウィリアム1世・征服王となる。
その後も繰り返しフランス北西部の有力者が海峡を渡りイングランドを征服している。つまりイングランドはフランス王に臣従する諸侯の領地だったとも言える。


「アンジュー帝国」の成立

1154年 アンジュー公ヘンリー2世がイングランド王に即位。時を同じくしてフランス南西、アキテーヌ地方のギュイエンヌ公国の統治権も獲得。彼は基本的にフランスに滞在していた。

言葉の整理:「プランタジネット」はフランスの有力貴族の家系名(ハプスブルクやブルボンと同じ)である。中西部アンジュー公国を支配していた。このためアンジュー公とも呼ばれる。
12世紀中頃の当主だったヘンリー2世が、諸事情によりイングランドの統治権を獲得した。
このためイングランドでは前世と区分するために「プランタジネット朝」時代と呼ぶことになる。

ヘンリー2世はさらに婚姻関係を結ぶことによって、ギュイエンヌ公国の統治権も獲得した。

(アテキーヌとギュイエンヌの使い分けは曖昧であり、イギリス人はアテキーヌ、フランス人はギュイエンヌを好んで使っていたという)

ヘンリー2世及びプランタジネット家は、イングランド王としてフランス王と同格、アンジュー公・ギュイエンヌ公としてフランス王に臣属するという複雑な地位になった。しかもその領土はフランス王をはるかに上回るものとなった。

1150-France
    https://sekainorekisi.com/より (左クリックで拡大)


失地王の時代

1203年 ジョン王(失地王)、プランタジネット家の内部対立によりフランス領土のほとんどを失う。

1215年 フランス王太子ルイ(後に獅子王・ルイ8世)、ロンドンを占領。その後イングランド諸侯がジョン王の息子ヘンリー3世を支持したため撤退。イングランド諸侯はヘンリー3世にマグナカルタを押し付ける。

1294年 フランスとイングランドとの5年戦争。休戦協定によりイングランドはスコットランド、フランスはフランドルを統合。

失地王


フランスの王位継承をめぐる紛争

フランス王、カペー朝が断絶し傍系のヴァロア朝への継承。これに対しイングランド王エドワード3世が異議を唱える。ヴァロア家は異議を拒否した上に、宗主権を行使してギュイエンヌ地方を没収。(エドワード3世の母親はカペー家の直系であり、継承権はあった)



百年戦争の開始

1337年 エドワード3世、ヴァロワ朝へ挑戦状送付。

第1期 (1337年−1360年)

エドワード黒太子の率いるイングランド軍がフランス騎士軍を破り、フランス王ジャン二世を捕縛する。フランスは無政府状態となる。

1347 ヨーロッパ全土に黒死病(ペスト)が大流行し、人口が激減。実際は1300年初頭から、黒死病の流行を前に、すでに人口減少が始まっていたとされる。(佐藤猛)

1360 フランスで内乱が勃発。フランスは敗戦を受け入れ、カレーで講和条約。

第2期 (1369年−1380年)

戦闘が再開。フランスが戦勢を回復、1375年和約が成立した。その後散発的な戦闘が行われたが、1396年に28年間の休戦協定が結ばれた。

第3期 (1413年−1428年) 

フランス王室の内紛とイングランドの介入。正統のオルレアン派とブルゴーニュ派に分かれ戦う。

この時、プランタジネット家からランカスター家に移行していたイングランドのヘンリー5世は、ブルゴーニュ派と同盟を締結し介入。

1420年、イングランドの支配を受け入れるトロア条約が締結される。しかし直後にヘンリー5世が死亡。フランスはふたたび政治的混迷に。

1422年、シャルル7世がオルレアンでフランス王に即位。まもなくイギリス+ブルゴーニュ派に包囲される。聖女ジャンヌ・ダルクが出現し、包囲を解く。以後オルレアン派が優勢となる。

1435年にはブルゴーニュ派が和議に応じ、53年にはイングランドの最後の拠点ボルドーが陥落。ここに百年戦争は終結する。

(ジャンヌ・ダークは砲撃戦を中心に置くことで戦闘スタイルを革新したと言われる。シャルル7世は全土解放後ジャンヌを復権させ、異端宣告を取り消させた)

 



ルネサンス音楽を勉強しようと思ったら、ズブズブの底なし沼。どこから手を付けたらいいか、皆目分からない。

ルネサンス音楽はブルゴーニュ楽派→フランドル楽派という流れ、これにフランス楽派、スペイン楽派、ドイツ楽派が加わり、これがイタリア楽派へと合流していく。

これ自体が巨大かつ複雑な流れで、一朝一夕には語れない。美術・絵画の世界のルネサンスとは相当様相を異にしており、むしろルネサンスと呼ぶよりはホイジンガーのいう「中世の秋」の時代に照応するのではないか。

そのゆえに、中世から近世へという時代の流れを把握しないことには、そのいろはさえもわからないという構造になっている。

……………………………………………………………………………………


そもそも中世とはなにか、それは暗黒時代なのか、そしてルネッサンスは暗黒からの目覚めなのか、このへんは一度歴史観をクレンジングしておかないとならない。

ヨーロッパ中世の時代区分は変遷しているが、神聖ローマ帝国の成立をもって、中世社会の確立とすることに異論はない。

終末(中世の秋)というのは特にないが、十字軍の敗北、東ローマの滅亡、トルコの西進出が主人公交代の契機となったことは間違いない。ペストが終末を促進したことも間違いない。

これに対し「近世の春」は、それぞれにヒーローが存在して比較的わかりやすい。3つの画期ールネサンス、大航海時代、宗教改革をもって近世が始まる。コロンブス、ダビンチとミケランジェロ、そしてルターが歴史を彩る。

中世の概略


410 西ゴート王アラリック、ローマに侵入。西ローマ帝国は南方に逃れる。

ゲルマン人は半農半猟の森の民だったが、フン族の西方進出に伴い玉突き状に押し出された。

452 フン族のアッティラ王がローマに侵入。その後アッティラ王の死によりフン族は解体。

476 西ローマ帝国、傭兵の反乱により滅亡。その後東ゴート族が侵入し建国。

496 クローヴィス、ガリア地方を制圧しフランク王国を形成。

800 フランク王国カール大帝がローマ皇帝に戴冠される。

843 カール大帝に死後、フランク王国は東、西、中部の三王国に分割される。

王国の分割相続は、フランク族の古くからの慣習であった。このため小国が分立。ドイツでは17世紀に300ほど、19世紀にも40カ国を数えた。

862 ロシアに進出したバイキングによりノブゴロド公国が成立。20年後には、その南方にもう一つのバイキング国キエフ公国を建設。

936 フランク1世、東フランク国王に即位。その後教皇の推戴を受け、神聖ローマ帝国の皇帝となる
実体としては単一国家ではなく氏族連合を形成した。

987 パリ伯のカペーが西フランク王国の王に就任。

1016 第二次ゲルマン人大移動。先着ゲルマン人に対する、北欧バイキングによる海賊行為。

デンマーク王クヌート、イングランドに侵攻。支配は短期間に終わる。

1066 ノルマンディー公ウイリアムズのイングランド征服。ウィリアムはバイキングの一族だがカペー朝西フランク王国に臣属していたことことから、イングランドも西フランクの属国となる。

1096-1270 十字軍遠征(全7回)
セルジューク朝トルコがビザンツの小アジア領土を奪ったのがきっかけ。ビザンツはローマ教皇に対し援軍を要請。十字軍が始まる。

1100年ころ  ビンゲンのヒルデガルトが活躍。

1150年 アリエノール・ダキテーヌ、第2回十字軍に参加。その後近親婚を口実にルイ7世と別れ、より近親で11歳年下のアンリ(アンジュー伯・ノルマンディー公)と結婚する。アンリがイングランド王ヘンリー2世として即位したため妃となり、夫と「アンジュー帝国」を共同統治する。

1168 十字軍、イスラムのサラディン軍を前に惨敗。中東におけるキリスト教領の多くが失われる。以後ほとんど成果を生むことなく終了。しかし優れたイスラムの技術が持ち込まれ、ヨーロッパの目覚めとルネサンスの契機となる。

1241 数万のモンゴル大軍がポーランドからハンガリーまで侵入。司令官オゴタイ・ハン病死のため引き返す。

1298 マルコ・ポーロが『東方見聞録』を著す





北海道開拓倶楽部より


より抜粋紹介します。

昭和32(1957)年発行の旧『北見市史』では平村エレコークは酋長エレッコとなっています。エレコークは北見盆地の大恩人として紹介されています。
平村エレコーク

エレコークは幼少時代、伊達紋別に移住した仙台伊達家の下働きに使われたことがあり、文字も解し、なかなか才走った男であり、開拓当初の置戸では名物男男あった。(置戸町史)

平村エレコークは探索が及んでいなかったこの地方で、多くの調査団のガイドを務めたほか、北光社移民団の証言でも紹介したように北海道の暮らしに不案内な移住者を援助指導し、開拓を助けたのでした。

中でも明治34(1901)年、かつてのふるさと銀河戦=かつての池北線の誘致に貢献しました。


1970年代以降、アイヌが日本の北海道侵略の犠牲者であるという言説が盛んに吹聴されるようになってからピタッと語られなったものの、戦前から戦後のオホーツクでよく知られた物語です。

昭和32(1957)年発行の旧『北見市史』からご紹介します。ここではエレコークは酋長エレッコとなっています。

野付牛(現北見市)の開拓を行っていた土佐出身の北光社という団体があった。その代表が帯広まで陳情に行くことになった。

彼らは磁石を頼りに密林をかき分けて進んだが、道に迷ってしまった。

その時随行していた酋長エレッコが谷川を求めて下り、、川の水を手にとって匂いを嗅ぎ、さらに舌なめずりをして歩き出した。

こうして川を下り大河に出て、無事に帯広に到着することができたという。

川の水をなめたのは硫黄臭の有無を確認するためで、それにより阿寒を水源とする流域と十勝川流域を判別したとされる。

エレコークの話はさらに続きがある。

後半生は置戸に移り住み、この地方の〝草分けの人〟となって、置戸の開拓に大きく貢献した。『置戸町史』にはその後のエレコークの暮らし、晩年が紹介されている。

明治19(1886)年以来、北見地方に落ち着いた平沼エレコークは、常呂川一帯に数カ所の小屋を建て、鹿や熊を狩りして暮らしていたが、明治27(1894)年の夏、現在の境野部落愛の川(ペンケシケレベツオッペ)の河口付近の狩小屋で、網走監獄の脱獄囚を撲殺した。

脱獄囚はエレコを殺害しようとして、逆にエレコに藁打ち木槌で撲殺されてしまった。エレコは警察署長より感状をもらって大いに面目をほどこしたという。

明治29(1896)年、一旦北見に引き上げ、31年には家族をつれて境野、パンケシケレベオツペ川入口附近に居を定めた。これが置戸町定住者の第一号である。

大正10(1921)年頃、故郷の日高に帰り、81才でなくなったと書かれている。

取材メモをそのまま記事にしたようで、ざつぜんとした感じもありますが、それだけリアル感が伝わってきます。

孫の次二さんが、控えめに語るエレコーク像とは違って、いきいきと跳ね回っている感じです。

もう一つのエレコークの話も紹介します。
こちらは
「昭和29年 古老炉辺談話 北光社移民団の生き証人が語る開拓の真実」という題名で、こちらも「北海道開拓クラブ」の1ページを構成しています

「北光社移民団の生き証人たちの証言ということで、苛酷な豪雪極寒の地を南国土佐の入植者が生き抜くのにアイヌの指導と手助けのあった」ことが語られますが、当時北見盆地周辺にはアイヌもほとんどおらず、アイヌというのはエレコーク一家のことを指すのだろうと思います。

明治30年、原生林の続くクンネップ原野に入植した北光社移民団は極貧生活を余儀なくされた。

そうしたなかで鹿や兎などの獣肉は貴重な蛋白源でした。入植当初の北光社移民団はこれを捕獲する方法も分からず、アイヌを訪ねて肉を分けて貰っていました。アイヌも喜んで分け与えました。

酋長エレツコの住居は境野の山麓の小川のるばにあった。アイヌコタンは少牛を中心に居を構え、野をかけ巡っては狩りをし、鮭鱒の上る頃ともなれば今の上常呂小学校の近くの小川のあたりに陣を取って待っていた。

日高のアイヌ夫婦が鹿72頭をとって雪に埋めた。1頭分三円であったので酋長の家をシャモ(和人)がかわるがわる訪れた。

エレツコ貧長の家でヒエご飯をともにしたシャモ(和人)一家は、1頭分ずつ背負って来ては隨分たべた。

編者は次のように訝っている。

この『炉辺談話』は北光社移民団が入植した明治30年代初期の状況です。開拓使の禁令から十数年が経過していますが、エレツコは禁止された罠で自由にシカ猟を行っています。

エレツコはブシの毒草の汁を十勝石につけて皮にささる程度で獲物を射って狩をした。獲物は毒のききめでしびれて死んでしょう。

兎(うさぎ)も沢山いて、幾時間もたたぬうちに持てないほど獲れる。

エレツコはロープで魚のアゴからアゴへ通してつないで鮭や鱒を川に泳がせておいた。人々に獲っては売り、獲っては売った。

酋長は猟のある日は幾日も戻ってこない。木の上に頭を付けて一つだけ持って帰るのである。肉は雪に埋めておいて後で燻製にし、一年中の食料にするのである。

エレツコはナマ皮にくるくるとくる包まって凍らないように身を包み、雪の中に横になり、疲れ切ったのかかすぐ高いびきをたてて寝てしょう。雪の積もる日はどこにいるやら判らなくなるが、やがて雪がもくもくと動くと起きあがってくるのである。

冬鹿をとるときは鹿の角で作った笛と吹いて鹿を呼ぶ。そして村田銃で打つのである。
エレコークと熊狩


これで「アイヌの文学」に出てくるコタンピラ、「北見盆地の大恩人・平村エレコーク」に登場するエレコークと、自活する女性平村トミ、そして現代に生きる平村次二という4代に渡る一家の流れが見えてきたことになる。

エレツコはナマ皮にくるくるとくる包まって凍らないように身を包み、雪の中に横になり、疲れ切ったのかかすぐ高いびきをたてて寝てしょう。雪の積もる日はどこにいるやら判らなくなるが、やがて雪がもくもくと動くと起きあがってくるのである。

冬鹿をとるときは鹿の角で作った笛と吹いて鹿を呼ぶ。そして村田銃で打つのである。




国語教科書編集者としての私のルーツ

元三省堂国語教科書編集者

平村次二

以下は、国語教科書編集者としての講演の中から、アイヌとしてのルーツに関する部分を抄出したものである。


実は、私はアイヌとして生まれ育った完全なアイヌではなく、親父が和人だろうと思います。私は、たった一軒だけのアイヌが住む所、北見の国で生れ育ちました。

「私はアイヌです」ということは、あまり公にしてこなかったことであります。あえてアイヌであることを隠して生きてきたつもりはないですし、それをまた売りものにして生きようとも思いませんでした。

祖母と母のアイヌ語会話は少しは聞いていますが、アイヌ語を全く知らないで日本語で育っております。(中略)

私の名字、「平村」というのは北海道の日高地方に、沙流郡平取村(現在の平取町)があり、私の母方の祖父母がそこで生まれたのが名前の由来です。

平取というのは、あの金田一京助さんの本にも出てきますが、「アイヌの都」といわれた土地でありまして、ピラトリ、ニプタニと、あと幾つかの集落がありました。明治維新によって、北海道が開拓されていくときに名前を付けろといわれて、役人が平取村の「取」を取って「平村」という名前になったということのようです。そんじょそこらにあるような名前ではないですね。あまり聞きなれないので、舌を噛みそうだといわれます。

母方の祖父母というのは、先ごろ初めて調べましたら、「コタンピラ」という家じゃないかといわれております。コタンピラが曾祖父の名前で、この時には日本人名はついていないだろうと思います。その子供であるエレコウクというのも、たぶん名前はついていないだろうけど、つけられた名字が平村です。

私の祖父、エレコウクが、シノアッという女性(この人は二風谷の「貝沢」名だろうと思います)とが駆け落ちして、遠くの町へ行っちゃったと、ロマンチックに考えているのです。この二人が北海道の開拓にだいぶ手を貸して、あちこち野山を歩き回っていたという資料があります。いわゆる開拓の水先案内か何かをやって、道内を回り歩いていたらしいのです。その前は何をしていたか分かりませんが、たぶん狩猟をして山歩きをしていたのだろうと思います。その二人が日高山脈を越えて、かなり離れた北見の国まで行きました。

北海道の開拓に当たって、山歩きをしている祖父母に役人たちは道先案内をさせました。網走から山の中へ入ったところのオケトゥンナイ(置戸)は北見地方ですが、こういう山の中まで道先案内をして、北海道の鉄道の敷延に手を貸していました。北見国常呂郡置戸村という網走より60kmも山の中に入った所の、定住者の第1号だと「置戸町史」には書かれております。置戸へ開拓者として入った人たちの道先案内をしながら、最終的に定住してしまったというのが私の祖父母でした。

そこで生まれた「平村トミ」という私の母が、旧土人保護法という法律で一定の土地の払い下げを受けて、定住したのが北見国常呂郡置戸村で、私もそこで生まれたのです。

母、平村トミは、日本がアメリカに占領された時のように、シャモ、いわゆる日本人がアイヌを征服してくるわけですから、そこで征服された形で結婚しようとしたようなのです。そこに、俗にいう、父無し子として私は生まれたわけです。なにか訳けあって戸籍をつくれなかったようで、母親が私を生んだ時は、40歳ぐらいですから相当遅いですね。父無し子と言っても、父が何者であるかは多少分かるのですが、私は父をいまだに拒否していますから、流れ者といって、親父のことを知らないと言っているのです。「親がないほうが、子は育つ」のだと。


私には、血筋的には兄弟がいるのですが、戸籍としては父無し子で育ってきているわけです。そういう条件のもと、置戸村にアイヌがたった一軒だけあった中で、私は育ちました。兄弟たちも、そこで苦労はしてきたのだろうと思います。一軒だけというのは大変辛いことでもあるのですが、いじめということでは、いじめられる方も集団ではないから楽なのかもしれません。コタンというコタン、平取コタンでも相当のいじめがあったと聞き知っています。私もいじめられたことはあっただろうと思いますが、もう50年も前のことで、すっかり忘れています。「静かな大地」(朝日新聞連載の小説)などに出てくるような形、「あ、犬が来た」というようなのが一般的な子供のいじめ方だと池澤夏樹さんは冷めた形で書いています。こんな形で私もいじめられてきたと思いますが、いじめられたことは忘れました。ただ、非常にひねくれた性格になったことは事実です。あまり明るい人間ではないので、亡くなりました母がいちばん苦労したのはではないかと思っています。私がいちばん尊敬するのは母親で、自分以外に人々はあまり信用せずに私は育ってきたのかなと思っています。

私が生まれたのは昭和9(1934)年ですから、北海道の開拓もそうとう進んでおります。明治以降の北海道の開拓におけるアイヌとシャモ(シサム)の関係についての私の考えをお話ししておきます。シャモというのは沖縄語で言えばヤマトンチュー(日本の人たち)です。日本が北海道を開拓していく過程は、「静かな大地」に実に淡々と書かれている通りかもしれませんが、私はあんなものではなかっただろうと思っています。そこでいちばん大きな問題は、差別の根底に運命があるのだろうと思います。アイヌは文字を持たなかったことによるそうとうな迫害、あるいは人間としてダメになっていくアイヌの姿がたくさん記録として残っております。

私は高等学校を卒業するまで、北海道の置戸村字境野という所で育ちました。昭和9年生まれですから、昭和16(1941)年に国民学校(今の小学校)に入ります。人々が本州から北海道に渡ってくるには何か理由があるわけで、そこに文字を持たない「文明」の低いアイヌがいるということは、「近代化」を急ぐシサムにとって非常に痛めつけやすい人間たちという構図にもなるかと思います。そういう人たちが山奥へ入って来て、集落を形づくっていく歴史を読むといろいろと分かります。山奥ですから、そこの国民学校に入ったときは、1クラス42人ぐらいでした。教育内容は、皆さんもお分かりだろうと思いますが、日本が神の国だったという時代の教育をそのまま受けてきているわけです。昭和16年の国民学校1年生というのは、「ススメススメヘイタイススメ。」で始まる教科書で、軍国少年として育つわけです。それが国民学校時代の学校のあり方で、私も飛行機の絵ばかり書いていたのを記憶しています。

昭和20(1945)年に第二次世界大戦が終わり、私たちは教科書の墨塗りをやらされた世代です。小さな子供ですから、価値観が変わったかどうかはあまり意識しなかったでしょう。昭和22(1947)年に新制中学に切り替わり、新制中学で学ぶのですが、教材も校舎もない所でやることといったら、樺太(サハリン)から引き揚げてきた先生がたの食料作りと校舎造りを学校の授業でやっていた記憶があります。年齢的にいいますと、新制学校制度の一番手を突っ走っていくわけですから、勉強はほとんどしない状態で高等学校へ入ります。昭和25(1950)年に新制高等学校に入学し、これも学区制ができて旧制女学校に入るというような高等学校生活をします。女学校ですから、男性のトイレがないというような校舎に入っていました。

それ以前のことで言いますと、私が国民学校3年生の時に祖母のシノアツが90歳ぐらいで亡くなりました。祖父のエレコウクは、私が物心ついた時にはもういませんでした。平取で亡くなったと聞きます。祖父母たちはアイヌ語を話しておりましたが、それも私の意識にはあまりありません。私の母は文盲で育っており、近代化政策、シャモとの同化政策のためにも、日本語で私を育ててくれたと思います。母はたぶんアイヌ語ができたのだろうと想像しています。今は確かめることができないのですが、日本語とアイヌ語の、いわゆるバイリンガルで生活していたのでしょう。

私が子供の頃はもう鉄道が引かれていましたから、私は母について平取へ行った記憶も何回かあります。学校へ入る前は毎年のように行きましたから、平取のアイヌの生活は子供の頃に見ています。が、記憶としてはあまりありません。平取は義経神社のある所で、義経神社でクマ祭を見た記憶がありますし、沙流川で顔を洗った記憶もあります。家(アイヌのチセ)の間取りも、うろ覚えに覚えてはいますが、平取でのアイヌの生活というのはその程度にしか覚えてはいません。学校教育を受けるようになって、文明という差別のもとで私自身も差別をするような形でアイヌを眺めるようになっていったと思います。だから「私はアイヌです」とは言えなかったのです。

高等学校卒業の前の年に肋膜という病気をやりまして、母親にはたいへんな苦労をかけたと思っております。最初の民主主義教育を受けたのが新制中学・高等学校というところで、勉強はしなかったけれども伸び伸びとしていた記憶はあります。そういう教育や状況の中で、「お前はアイヌ」という目で見られ育ってきており、中学生ですでにそんな状態の中から1日でも早く生地を飛び出したいという気持ちが起こりました。高等学校卒業式の日に東京へ飛び出します。高校3年の時に公務員の初級職に受かっていて、母は公務員になれとしきりに言っていました。もしなっていたら、今は財務局あたりで相当悪いことができただろうと思っていますが、それも拒否して東京へ出て来てしまったのが実状です。そのような生まれ育ちというものを背負っているものですから、田舎にはいたくないと思いました。これも一種、教育されたといいますか、それが運命だ、それが理想なのだという思いで東京へ出て来たのだろうと思いますが、今は反省していますが、もう戻れません。

東京へ出てきて1年浪人した時は、あの山之口獏氏(詩人)のような沖縄を飛び出した時の状況ではなかっただろうかと重ね合わせます。幸いに姉が東京にいたものですからそこへ転がり込んで、高校3年の時に肋膜を患ったという訳けで1年間浪人しました。その翌年に、犬の散歩をしている時にきれいな学校があったのでここへ入ってみようと思い、当時はだれでも入れた大学へ願書を出して入ってしまったというのが、大学へのきっかけです。

大学では、文章の鍛錬ばかりやる新聞学科というところにいたものですから、時間は自由に取れてアルバイトばかりしていました。結局、何も勉強しないまま大学を出てしまうのですが、その間、人間ですから悩むわけですね。アイヌで父なしっ子、この先の就職はどうなるのか、結婚はと、全くお先真っ暗でした。実は、中学校の頃から先生になりたいという気持ちはあったので、先生になろうとして教職課程を取っていました。教育実習に行った時、自分自身の人間性のなさに愕然としました。私が100点取れなければ、生徒も100点取れるわけがないと思って、先生の道は諦めてごろごろしておりました。

卒業の時、三省堂で小学百科事典を売るため、卒業生を見込んだ形でアルバイトを募集していました。就職への悩みを持ちながらそのアルバイトをしている間に、アルバイトから臨時、臨時から社員という形で、うまい具合に三省堂にもぐり込めたというのが実状です。当時、出版社などは、こうしたもぐり込み方もありました。社員になる時は、いちおう試験をやって受かったという形でもありました。

それと同時に、会社の中で大きな動きがあって、私は新聞学科というところを卒業したことになっているものですから、国語の教科書編集へ配属されたというわけです。

ここまで私の育ち方を話しましたので、私の物の見方、考え方をある程度分かっていただけたかなと思います。

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面白い話だったので、つい長々と引用してしまった。

肝心なことはこの平村さんの曽祖父が、あのユーカラ伝承者のコタンピラだということだ。まったくそのことに触れていないので、平村さんがご存知ではない可能性がある。




久保寺逸彦 「アイヌの文学」より
一騎討ちの決闘を叙する常套句


大地の上に/猛き足踏みを/我に伸ばし
こなたよりも/猛き足踏みを/我伸ばしたり
真っ先に/我を突き来る/矛(ほこ)の陰

我にかぶさり来る/この矛の下を/我前へ屈みて
はたと伏せば/兜の上に/矛すべる音

鏗爾…(こうじ。 琴を下に置くとき、コーンとなる音

彼が矛の下に/我が矛の/目当てをつけ
彼のみづおちを切って/ぐざと突き刺せば
重々しき しわぶき/息 咽せかへりて/くわっと迸(ほとばし)り

彼の鼻より/出づる血は/粒々なして落ちこぼれ
彼の口より/出づる血は/幅広の赤褌を口から吐くよう

新たにまた/彼が我を突き来る/矛先に
我れ身をそぼめ/我が胸の上に/矛をそらしめ

その折に/刀を執る手/我 むずと摑み
足の甲の上を/我 踏みつけ/上の方より 下の方より
我が手許/疾く競へば/うめき苦しむ彼

またさらに/我を衝き来る時
避けんも面倒くさく/突かせをれば
我が鳩尾(みそおち)を切り/我をしたたに刺す

重々しきしはぶき/我がつく息のひまに/くわっと迸り
我が口を/通る血は/幅広の赤褌のごとく
我が勝ち誇れるままを/我に仕返し……

…………………………………………………………………………………………………………

まことに凄まじいリアルさで、読み終わって目をつむると、胸の上を滑っていく刃、眼前に迫る相手の顔と口、そして降りかかる血しぶきが五感を通じて共有される。
それがあるから、「避けんも面倒くさく/突かせをれば」という離人・離肉の感覚乖離が、「死ぬ瞬間」の感覚をあまりにも生々しく追体験させる。

久保寺さんは、このユーカラの一節を「常套句」効果と呼ぶ。
初めて聞く身にとっては、「ゴルゴ13」顔負けの擬音語・擬態語満載だが、決闘の最中にセリフなんかないのだから当たり前。
耐えられないほどに五感が揺さぶられるフレーズであるが、これが常套句として耳になじんでいくと、おそらく一種の快感を感じるようになるのであろう。不協和音を交えた音楽を聞くようなものだ。

それはユーカラが「語る文学、聞く文学」であることを納得させるわざでもある。くれぐれもアイヌの老人の昔ばなしと侮ってはいけない。

ここでちょっと本の解説。といっても巻末解説の受け売り。

久保寺さんは1902年(明治35)、北海道の生まれ。25年(大正14)に大学卒業。以後、生涯をかけてユーカラ研究に打ち込んだ。主なフィールドは最初が平取、後に樺太であった。
私の研究したマンロー医師が二風谷で暮らしたのが30年から42年の間だから、かなり時期は被っており、相互の影響はあったと思われる。マンローが関わった二風谷のイヨマンテにも加わっていたのではないだろうか。

学的業績は論文としてまとめられ、1956(昭和31)年に「アイヌ文学序説」として東京学芸大学研究報告に発表収録された。これが77年に掘り起こされ、関係者の努力によって岩波新書となり、我々の目にも触れることとなった。それも絶版となり埋もれていたのが、たまたま北大病院前の古書店で私の目に止まったということだ。

この一節については、文中に採録の思い出が記されている。
かつて私は、1931(昭和6)年の夏、日高・平取の平村コタンピラという老伝承詩人からユーカラの一つを筆記したことがあった。
朝は7時ころから、暗くなるまで、昼飯抜きで書き続けて、5日もかかってやっと書き終えた経験がある。
平村の姓を名乗っているので、ペンリウクと同じ家系かもしれない。平取本村の方の人でペンリウクよりは一回り下の世代であろう。

コタンピラ

日経新聞の19日号、土曜だから読書面がある。紹介欄から面白そうなものを探す。

本日は、安倍雅史「謎の海洋王国 ディルムン」(中央公論)


シュメル文明とディルムン

むかしシュメル人は、バスラのあたりに最初の普遍的都市文明を形成した。
彼らの文明は銅の上に成り立っており、その銅はオマーンの銅山から採掘され、ディルムンを経由してシュメル地方に運ばれた。BC3千年ころのことだ。

ディルムンはペルシャ湾西岸に浮かぶ島、現在のバハレーンに当たる。

銅を買いに来たシュメルの商人たちはディルムンを楽園と思っていたらしい。メソポタミアの「大洪水伝説」にも、神々から不死の王に与えられた楽園、ディルムンが登場する。

砂漠の民アモリの血を引くディルムン

ディルムンは墓の街である。BC2300~1700年ころのディルムンには7万5千もの墳墓が作られた。不死の王の楽園には合わないが、「死後には死はない。案外そうかな」とも思う。

阿部雅史氏はこのような墳墓群が、シリア砂漠に点々と広がっていることに注目した。そしてそれら墳墓群を造ったのが、当時の砂漠の民アモリ人であったと推測する。

彼らはBC2300年ころ、大挙して砂漠からディルムンへと移動した。と、安倍氏は推測する。


バビロン王朝を建てたのもアモリ

実はアモリ人がシリア砂漠からメソポタミアへと移動を始めたのは、それよりずっと前のことだった。

アモリはシリア砂漠で羊を追う遊牧民であった。彼らはメソポタミア文明に引き寄せられ、BC3千年紀の後半に散発的な侵入を繰り返した。

そしてBC2千年頃からシュメルが衰退すると、侵入を本格化した。バビロンなど有力都市がアモリ人の手によって建設された。「ハンムラビ法典」で知られるハンムラビ王もアモリ人である。


ディルムンの栄華と没落

安倍氏の著述の白眉は、まさにこのバビロン王朝の繁栄が、おなじアモリ人の都市ディルムンの衰退を招いたというところにある。

年代が錯綜するので、前後関係を整理しなければならない。

当初、BC3千年ころに、現バスラ近郊にシュメル文明が起きた。それはいわゆる青銅器文明であり、銅鉱石は現オマーンから採掘され、現カタールのディルムンを経由して運び込まれた。

このディルムンに遊牧民のアモリ人が入り込んだ。BC3千から2千間の何処かである。

彼らは船を操って海洋交易を独占するという大転換を行った。そして2千年から1700年前ころにかけて大繁栄を遂げた。

それと同じBC2千年ころ、同じアモリ人がメソポタミアに侵入しバビロンなどの都市文明を築き上げた。

バビロンのハンムラビは、やがてメソポタミアを統一し、地中海へのアクセスを開拓した。これによりもう一つの銅の産地キプロス島との交通が実現した。

キプロスの銅がメソポタミア南部に流れ込んだ。オマーンの銅はキプロスとの競争に破れ、売れなくなった。そしてその中継港だったディルムンもやがて寂れてく。

こうしてBC1700年ころ、すっかりディルムンは歴史から姿を消した。


結論

砂漠の民アモリ人は、ティグリス・ユーフラテス河畔に発達したメソポタミア文明に吸い寄せられるように砂漠から姿を現した。

それは最初はシュネル文明に付属するかのように活動し、その発達した一部となるまでに発展した。

そののちにメソポタミア文明を自ら担うまでに発展した。しかしそれによりアモリ人の創設したディルムンもまた、イノベーションの大波に洗い流されて行ったのである。

ということで、もう少し他の文章も読み合わせた上で、実像に迫ってみたいと思う。

弥生時代をもたらした朝鮮南部文化 その2
李昌煕 「紀元前1千年紀の韓日関係」 より


2.紀元前10世紀~紀元前後の朝鮮南部と西日本

前述の土器変遷を基礎にして、両者の関係史を総括する。

水田耕作の開始

半島南部ではすでに紀元前11世紀に水田稲作が行われていた(蔚山の玉硯遺跡)
西日本でも、最古の水田跡は紀元前10世紀にさかのぼる。

紀元前10世紀~前5世紀(弥生時代早期~前期後半)

稲作文化複合体が日本列島に拡散する。その背景には大規模な稲作民の大規模な集団移動があった。

紀元前4~紀元前3世紀(弥生前期末~中期前半)

重要なポイントは、粘土帯土器文化は弥生文化とは明らかに異質だということである。(ということは第一次渡来民とは明らかに異なる文化だということ)

したがって、粘土帯土器が日本で見つかれば、それは明らかに朝鮮産のものだということになる。

以下の文はきわめて重要)新来の円形粘土帯土器を使う人は、韓半島の在来の文化だった青銅器時代中期の松菊里タイプの土器を使う人々が暮らしている平地ではなく、給料や台地の上など、遺跡の立地を違えて位置した。(高天原と豊葦原の関係)
しかも分離されていても、お互いに見える位置に住居を建設した。(双方可視圏

新規渡来民は鋳造鉄器や青銅器の製造技術を持ち、その生活スタイルを保持したまま招かれて日本にやってきたと思われる。あるいは北方からの亡命者として逃れてきた可能性も考えなければならない。

これらの渡来民は弥生人と同化し、粘土帯土器は弥生土器と折衷され吸収された。


紀元前2世紀~後1世紀

この時期になると、朝鮮半島の土器は
円形粘土帯土器から三角形粘土帯に変化した。

このあたりから半島情勢に激変が生じるようだ。というのも半島からの土器流入が極端に減少するのだ。
土器編年対照図


3.紀元前1千年紀を4段階に分ける

A)第一段階 前10~前5世紀

*水田稲作文化の伝播
*生計型移住
*西日本各地に拡散

水田稲作文化の松菊里類型の文化複合体が、九州北部に拡散する。
いろいろな理由が挙げられるが、基本的には新天地をもとめての「生計型移住
(この用語は適当ではない。プッシュ型ないし逃散型というべきではないか)

前9世紀

100年ほど後に、農耕社会の成立を示す環濠集落の出現。戦闘が始まり有力者が出現。
その後250年の間に水田稲作文化は玄界灘沿岸一帯に拡大、在来の縄文晩期人文化と融合。(玉突き状拡散と言われる)

紀元前8世紀末には水田文化が高知平野、鳥取平野にまで達する。紀元前7世紀には神戸付近でも水田耕作が始まる。

この辺は時代的には早すぎる印象。そもそも既存資料の読み込みに基づく、李さんの判断にすぎない。結局、第2段階がいつから始まるかの問題に帰結する。


B)第ニ段階 前4~前3世紀

多くの円形粘土帯土器人が日本列島に移住。これとともに鉄器(鋳鉄)も移入。並行して青銅の国産化が実現。

鉄器は半島から九州へ玉突き移住したのではない。むしろ遼東(燕)から半島をジャンプして直輸入された可能性もある。(鉄器を用いる北方人の侵入?)


C)第三段階 前2~紀元前後

技術格差の減少により、半島からの生計型移民は消滅する。
九州では石器が完全に鉄器に置き換わる。九州からの発信が増え、交易は双方向となる。交流は最盛期(九州側の爆買い)を迎える。半島南岸に弥生人の三拠点(蔚山、金海、泗州)が形成される。
弥生人は楽浪郡を通じて漢とも連絡を取ろうとする(国際社会の一員化)。


D)第四段階 紀元前後~後3世紀

交易拠点のうち蔚山、泗州が衰退し、金海に集中。
出身地方交易から官製交易(独占交易)への変化があったのではないか。
弥生人の半島進出が急減・消滅。交易の内容も、権力者の権威付け的な宝物に偏る。

以上、全書版で40ページの割にはたいそう煩雑な構成で、読むのに3日かかった。しかし内容は実証的で問題意識も鮮明で、3日間を費やしたのは無駄ではなかったと感じている。

少し私なりに消化してみたいと思う。


はじめに

李昌煕 「紀元前1千年紀の韓日関係」は、朝鮮で先行した金属器文化や農耕文化にょって弥生文化を説明するべきだ、と考えてきた私にとって旱天の慈雨にも等しい文章である。

この論文は下記の論集の一つの章として書かれたものである。
「再考! 縄文と弥生ー日本先史文化の再構築」(吉川弘文館 2019年)より

ここまで弥生時代の先駆としての古代朝鮮史が無視されてきたのは、率直に言って韓国考古学、古代史学の怠慢とイデオロギー的硬直ぶりにある。もちろんそれを口実に、朝鮮半島南部の本格的研究をサボってきた日本の考古学も責任大である。



李さんは現職が釜山大学教授となっているが、文章を読んだ感じでは在日の方で、考古学の素養は日本で学んだ方ではないかと想像する。「韓国世界」によくある、挑むような反日と、ギラギラしたミニ中華思想はなく、実事即是の精神が貫かれている。


1.韓国、紀元前1千年紀の時代区分

考古学における分類は、「先史-原史ー歴史時代」と規定される。これは、トムセン分類の「石器ー青銅器ー鉄器時代」にほぼ照応すると考えられる。

しかし実際には
先史=旧石器、新石器、青銅器 原史=初期鉄器時代 歴史=三国時代
とする「ご都合主義」傾向があり、定まっていない。(これは韓国よりも日本の皇国史観のほうがはるかに滑稽である)

A 暦年代による分類

近年、AMS-炭素14 年代測定法の導入によって、ようやく客観的な議論ができるようになった。これによると、青銅器時代の開始は従来より数百年遡ることとなった。




B 青銅器時代の、土器による亜分類

BC1千年を境に有文土器(櫛目文土器)から無文土器に移行する。日本における縄文土器→弥生土器とつながるものがある。これは青銅器の導入時期とも照応する。
ただし縄文人→弥生人という担い手の交代があったか否かは不明。
韓国土器の年代

①無文土器の細分類

無文土器の細分類は、炭素14年代方と組み合わせることによって、暦年と照応可能になった。

しかし日本の弥生式土器との類推から考えられた、これまでの年代より数百年も遡ることから、根本的な再検討に入っている。

②青銅器時代早期(BC1400~)

最古のスタイルは突帯文土器(美沙里)と呼ばれる。この頃から韓半島で本格的な畑作が始まっているので、収穫物の貯蔵に使用されたものと思われる。
このスタイルは400年ほど続く。類似の突帯文土器が弥生早期の福岡平野から発見されている。

③青銅器時代前期(BC1200~)

複合文土器が出現する。この頃から水田耕作も始まる。

④青銅器時代中期(BC900~)

松菊里式土器が主流となる。
この頃から環濠集落が登場。階級社会へ移行しつつあると考えられる。
日本では板付Ⅰ式甕が相当する。


C 鉄器時代 

武器 道具

石器

鉄器

有史時代

 

食料獲得

狩猟・漁撈・採集

水田耕作

有史時代

 

統合すると

石器+狩猟

石器+水稲

鉄器+水稲

有史時代

 

人種的には

YハプロD(+C1

YハプロDO1(C1N)

YハプロDO1O2

YハプロDO1O2

O2は支配者としての北方民族)

慣用的には

旧石器+縄文

弥生前半

弥生後半+古墳

有史時代

 

鉄器の導入・開発については議論百出で、炭素14年代も無力である。

著者は交差年代法を考慮に入れ、戦国系鋳造鉄斧は前400~300の間に導入されたものと推定している。

この頃に流入した土器は円形粘土帯土器と呼ばれ、日本では弥生前期末(板付Ⅱ)に相当する。


BC1千年から0年までの1千年を一つの時代として捉えている。日朝関係に的を絞れば、非常にわかりやすい時代区分ではあるが、それは日本の考古学にとっては重大な問題を突きつけている。

なぜならそれは弥生時代のど真ん中を切断しているからである。

なぜ日本の考古学は紀元0年に時代の境界を置かないのか。とくにそれは鉄器時代の到来を視野に置かない時代区分であり、先史時代と原史時代という古代史のもっとも重要な分岐点を無視しており、国際的には異端そのものである。

もう一つ、日本の考古学は弥生時代をなんの根拠もなく後に引っ張り、それを古墳時代へと接続させている。

古墳時代とはなにか、それは有り体に言えば前方後円墳時代である。時代を前後に分かつような象徴的なものは何一つない。せいぜいあるといえば、おそらく天皇制度の前身となるような地方権力が大和川沿いに形成されたことくらいだ。

つまり万世一系の天皇の国としての歴史を描き出すために、このような時代区分が創出されたのではないか。




2.青銅器・鉄器文化の波及

紀元前11世紀(縄文晩期)

西日本各地から朝鮮半島系の突帯文土器などが出土しており、交流の存在は確実である。イネ科の植物や石庖丁が発見されているが、水田の遺構はない。

前10世紀後半 松菊里文化の拡散 日本列島に水田稲作文化を伝えたのは松菊里の人々である。彼らは玄界灘に面した九州北部の縄文晩期人であった。

この異なる人種からなる両岸地域に、共通の農具、武具、土器が見られる。さらに住居、環濠集落、支石墓などの社会資産にも共通性が見られる。

当時、弥生人の姿は未だ見られない。弥生人骨の出現は紀元前7世紀(弥生前期中頃)まで下る。 



朝鮮土器渡来図


青銅器時代中期

この頃に流入した土器は円形粘土帯土器と呼ばれ、日本では弥生前期末(板付Ⅱ)に相当する。

青銅器時代後期

紀元前4世紀後半。日本では弥生中期初頭にあたる。

この時期に青銅器の国内製造が始まり、青銅器を副葬する墳墓も見られるようになる。

その後、弥生時代中期の中頃から後期にかけておよそ100年間、朝鮮半島から一切の無文土器が出土しない空白の100年間が存在する。


鉄器時代

鉄器時代に照応する土器は、三角形粘土帯土器とよばれる。
日本では弥生時代中期後半から後期後半にかけて出土するが、量は多くない。

朝鮮半島の弥生土器

半島南岸にいくつか、弥生土器が集中して発見される場所がある。この時期は西日本で鍛造鉄器が出土し始める時期と一致する。

土器は紀元前2世紀~紀元前後(弥生中期から後期)にかけてのもので、日本から鉄鉱石を採取するために人間が送り込まれたものである。

これらの土器は弥生後期後半には消滅する。それは日本からの人間の流入が絶えたためである。すなわち日本国内での鉄の獲得が可能になったためである。





道立図書館で面白い本を見つけた。

西秋良宏 編「アフリカからアジアへ…現生人類はどう拡散したか」2020年 朝日新聞

である。

とにかく新しいこと、この上ない。私が知らなかったこと、曖昧にしか理解していなかったことが明確に書かれている。明確に書くのを嫌っているかのような中橋孝博さんの哲学趣味とは大違いである。しかも共著であるから、叙述レベルにムラがない。書いてあることがほとんどファクトとして受け取れる。霧が晴れて視界が一気に広がったような快感を覚える。図表も美しい(ただし冒頭のカラー写真はなくもがな)。

こういう本は、自分で年表形式にして並べていくのが一番整理できる。それで始めたが、流石に固有名詞が多すぎる。外国の推理小説を読み始めたときみたいで年寄りには辛い。少し枝葉を刈りながら拾っていくことにした。



30~20万年前 アフリカでホモ・サピエンス(以下HS)が誕生。(北アフリカのジェベル・イルード遺跡、南アフリカのフロリス・パッド遺跡)

19万年前 HSが第一次出アフリカを果たす。東アフリカ、西アジア(レヴァント地方ミスリア遺跡)でもHS化石が発見される。
HS最古化石

最古級HS化石の見つかった遺跡群の分布であるが、憶えておきたい地名はここにはなく、4つの地名が固まっている場所、レヴァント地方という名前だ。アラビア半島南部のドファールは、HSのアジア進出の起点となるポイントなので、この名前も念頭に置いておこう。

13万年前 西アジアの気候が湿潤性となるこの湿潤期は7万年前まで続く。

10万年前 死海周辺のスフー、カフゼー洞窟から十数個のHS人骨化石。
HSとネアンデルタールの共生
上に行くほど時代が新しくなることに注意。HSの第一次進出、NTの逆進出、HSの第二次進出という構図は紀元前後から10世紀にかけての奥羽地方でも見られた。

7.5万年前 レヴァントのHS生活圏にネアンデルタール人(以下NT)が進出。北方のNTが寒冷化の影響を受けて南下してきたものと思われる。これに対し、レヴァントのHS化石は一時減少するが、消滅はせず。

この時期のHSの骨DNAでは、NTとの交雑が見られる。さらにヨーロッパの後期NTにもHSのゲノムが確認されている。

遺物の種類(中部旧石器)にはほとんど差がなく、ほぼ同様の生活をしていたと見られる。したがって、個体数と資源量の関係次第では敵対関係になる可能性もある。

HSとNTの配置

この図の説明は、「説明」どころかかえって不要な情報で混乱させる。明らかなことはHSがナイル河口からレヴァントへ進出した時、その北方に先住していたのがNTという歴史的経過だ。生活様式も類似していたとなれば、そうそう友好的であったとも思えない。そう思ってみると、この図は両軍の対戦図のようにも見えてくる。またHSがレヴァントではなくアデンからドファール方面へと進出を図った理由も分かる気がする。

5万年前 
地球規模の寒冷・乾燥化が起こる。これをもとに、
①西アジアでNTが消滅。これに代わるようにしてふたたびHSが進出。 ②この頃からHSが急速にアジア、ヨーロッパに拡大。
この時HSは上部旧石器時代に移行。打ち欠き石器による石刃を利用するようになる。小石刃を使った狩猟道具の開発が、小動物対象に移行しつつあった狩りの成果を拡大し、それが間接的にNT人の生活を圧迫したのではないかという説もある、



ここで、Y染色体ハプロとの関係について整理しておきたい。

アフリカでホモ・サピエンス(以下HS)が誕生したのが、30~20万年前とされる。そこからすぐに分岐が始まっているものと考えるべきであろう。彼の名をYハプロα、もしくはHSアダムとしよう。それから間もない19万年前に出アフリカを果たしたものがいる。彼のYハプロがベータだったりガンマだった利しても問題ない。彼をトップとするHSグループは間違いなく絶滅しているからだ。

Y-DNA_tree
                   Y-DNAの系統樹

現存HSの最古の分岐は7~8万年前アフリカで起きたハプロAからのハプロBT、ついで起きたBTからのCTの分岐である。この最初のCTが出アフリカHSの共通祖先、すなわちユーラシア・アダムとなる。
このCTの分岐・発生の年代から見て、第二次HS拡散の担い手がハプロCTであることは確実だろう。また縄文人の主体となるハプロD1がCFよりやや遅れてハプロCFを後追いしたこともほぼ間違いないだろう。ハプロFはF1F2F3 に分かれるが、その子系統すなわちハプロG~Rが現生人類の大多数を占めている。



ここまでは随分スッキリした議論が展開されてきたにもかかわらず、5万年前を越えて現代に近づくととたんに五里霧中の状態となる。

北回り、南回りの議論さえも未だになんの決着もついていない。4万年前以前にすでに日本にまで到達しているHSだが、その到達経路も、誰が来たのかも、まったく確たる証拠が示せていないのが現状のようだ。

要するに、青空のもと富士山の頂上(出アフリカ)は澄み渡り視界良好だが、途中に厚い雲海と広大無限な樹海が広がっていて、どこをどう辿って行けば頂上に行きつくことができるのか、それがわからない状態なのだ。

論考はさらに中国の原人、旧人をふくめた人類史へと移動していく。こちらも新知見がいっぱいだが、実際のところは、真偽もふくめて未確定の状態だ。これについてはいずれまた機会があれば勉強してみたい。
 


二種類の「弥生人」についての実証的検討

中橋孝博さんの人骨比較に学ぶ


前記の記事では、「人骨分析など過去のもので、DNAの前には無力だ」と書いて、中橋さんを「化石」だとこき下ろしたのですが、間違いでした。

筑紫野市教育委員会のパンフに載せられた中橋さんの随筆「北部九州の弥生人ー渡来人とその末裔」がとても示唆的です。

要旨を紹介します。

縄文時代の人骨は数千体発見されている。彼らは背が低くいかつい顔立ちをしていた。

それが弥生時代になると、長身でひどい面長で、のっぺりとした顔つきになる。

この弥生人の顔立ちは、朝鮮半島や中国大陸の同時代人にそっくりだ。つまり彼らは大陸からやってきた人々だった可能性が高い。

と、ここまではとくにコメントもないが、「顔立ち」で日本人の起源を追求するという方法の限界を感じてしまう。

ところが、その後に驚愕の事実が明かされる。

筑紫野市一帯から出土する弥生人骨は、こうした渡来系弥生人の中でも、特にその特徴が際立っている。

先年発掘の終わった隈・西小田遺跡からは400体をこす人骨が出土しましたが、彼らは近隣の弥生人に比べ、さらに面長で背も高かったことが分かった。

と、ここまでは快調なのですが、

骨の特徴からして渡来系の遺伝子がもっとも濃厚に入り込んでいる可能性がある。

と、横滑りしてしまうのです。どうして「もう一つの弥生人系列」の可能性を指摘できなかったのでしょう。

別の記事「戦いに敗れたムラ (2012/05/18)」では次のように記載されています。

出土した人骨は、両遺跡ともに高顔・高身長の渡来系弥生人の特徴が際立っており、成人の平均身長は隈・西小田遺跡の場合、男が163.5cm、女が152.4cmにも上るという。

今後ゲノム解析に移行するとのことで、その結果がどうなっているのか知りたいところです。この記事が2004年のものらしいので、すでに結果はででているはずですが。

この記事は、もう一つの注目すべき所見を明らかにしています。

この頃の筑紫野一致はかなり騒然とした社会状況だった。隈・西小田遺跡の第3地点からは、首を切られた遺骨や首だけの埋葬例、さらには頭を割られたり全身に傷を受けた人骨が集中して出土している。

ということで、隈・西小田遺跡の住人は、それまでの弥生人を弥生Aとするなら、弥生Bとも言える人々で、別人種の可能性があるということではないでしょうか。

そこで隈・西小田遺跡について別の記事を検索してみることにしました。

黄河の流れの歴史
「地質ニュース476」(1994年)


黄河河道

黄河の流れは図のごとく(きれいな図ではないが)変遷してきた。

過去4千年の流路は大きく4つの時期に分けられる。

1.紀元前2278年~紀元1128年
→渤海

2.1128年~1546年
→主として黄海(江蘇)、一部は渤海

3.1546年~1855年
→黄海

4.1855年~現在
→渤海

土砂堆積の歴史

200BC 黄河は大河(Dahe)と呼ばれ、水清き河だった。洪水も少なかった。

その頃の黄土地帯は自然の植生の森林を伴う草原であった。

その後、漢の時代に農地化によって土砂流出と侵食が進んだ。

60AD 匈奴が黄土地帯を支配するようになった。遊牧民である匈奴は黄土地帯を再度草原化した。このため水はふたたび清くなった。 

600AD 黄土地帯はふたたび漢民族が支配するようになり農地化された。森林・牧草地帯は53%から3%に減少し、河の水は黄濁した。


中橋孝博「倭人への道ー人骨の謎を追って」という本がある。吉川弘文館から「歴史文化ライブラリー」の一環として2015年に発行されたものである。

この書き出しにすっかりハマってしまい、何度も読み返している。

著者は骨から先史時代の日本人祖先を探ろうとする人類学者であり、いわば「時代遅れの、過去の人」である。(本人はそのような風潮にいたくご立腹であるが)

なので、これまでは鼻も引っ掛けなかったのだが、この文章を見て考え直した。

以下、引用する
今からおよそ2千年ほど前、極東の小さな島に、当時の中国から「倭人」と称される人々が百余国に分かれて住んでいた。
現代とは比べるべくもない稚拙な通信・交通手段しかなかった時代、おそらくはまともな地図すらなかった時代に彼らは海を渡り、漢王朝の役所が置かれた楽浪郡へ定期的に朝貢していた。
中国の正史(漢書地理志)にわずか19文字で書かれたこの話は、日本の地に、多大な危険を犯し、多くの財貨を費やしてまで大陸の王朝と交渉を持とうとする人々が住んでいたこと、そして当時からすでにそうした使節を海外に派遣するような組織が日本列島に存在し、派遣せざるを得ないような国々の関係が生まれていたということを伝えている。
歴史上ここに初めて登場する「倭人」はどのような人々だったのだろうか。もちろん彼ら「倭人」が日本列島の最初の住人ではないし、この人々に当時の日本列島の住人を代表させるわけにも行かない。
後の有名な「魏志倭人伝」の記述からも伺えるように、倭国に敵対する勢力が未だ各地に残っていた時代の話である。
とはいえ、その後現代へとつながる歴史を振り返れば、彼ら「倭人」が我々現代日本人へとつながる祖先(あるいは重要な要素)であることはほぼ間違いない。
ここまでの文章には一点の曇りもなく、「倭人」の本質的特徴を短い文章の中に示し切ってる。まことに名文というほかない。

私の解釈

日本の中に「国家らしきもの」ができたのは、紀元前50年を前後として±50年ということになるだろう。
この「国らしきもの」の特徴はいくつかある。まず第一に三韓とほぼ同等か、それに準じる国際的地位を持っていたことである。少なくとも漢からはそのように認識されていた。第二にそれは三韓の一部から移民した人々が作り出した国家である。だから漢に対する臣従もなんの抵抗もなく実施された。なぜなら彼らは日本に渡る前にすでに臣従していたからである。第三にそれは日本列島の先住民を支配する征服者国家である。漢帝国に臣従する国家であれば、当然先住民に対して臣従を求めるであろう。そして支配の仕方は本質的に権威主義的だったはずである。その際に漢との主従関係が大いに役立ったに違いない。

これらの本質的特徴を、著者は簡潔に要を得た叙述で明らかにしている。

この一節が示している極北、それは倭国史は魏志倭人伝ではなく、漢書から出発しなければならない、というあまりにも当然の事実だ。この点において私は中橋さんと思いをともにする。

ただし賛辞はここまでだ。

その後に展開されるのは、単純化された三位一体論だ。

すなわち「弥生人=渡来人=倭人」説だ。これは朝鮮半島南部における先住民(おそらく初期弥生人と同根)と、北支南満から南下した北方系集団の関係を無視する見解だ。

前者が後者に征服され同化される、朝鮮半島での数百年の経過は、必ずそこに反映されているはずだ。朝鮮半島南部においては、馬韓・弁韓・辰韓の在地国家が紀元後まもなく消滅し、北方系国家の百済・新羅に置き換えられる。

では馬韓・弁韓・辰韓が純粋な弥生人国家であったかと言うと、どうもそうとは言い切れないのである。たとえば衛氏朝鮮が北方系民族に敗れた時、多くの残党が船に乗り馬韓を目指したという記述がある。もし衛氏朝鮮の末裔が三韓地方に散って国家を建てたのなら、人口構成で弥生人優位だったとしても、もはやそのことをもって弥生人国家だとは言えない。

それを知るためには、朝鮮半島における考古学的知見の、「非イデオロギー」的な集積が待たれる。

先史時代のヨーロッパ人と
Y染色体ハプロ

はじめに

イギリスで巨石文化を作り上げた人々に名前がついていない。とりあえず巨石人と書いたが、ビーカー人、ケルト人、ブリトン人との接続がよくわからない。

今日では先史時代人類学の基本となっているY染色体ハプロによってあとづけることにする。


最初のサピエンスはハプロC1a2人

ヨーロッパに到達した最初のホモ・サピエンスは、アフリカ以外のすべての世界と同じくY染色体ハプロCであった。その中でも最初の分岐に近いハプログループC1a2 である。C1a1-M8とされる日本最初の渡来人と近縁関係にある。

4万年前に始まったオーリニャック文化の担い手と考えられ、ハプロ Iが渡来するまでは、ヨーロッパ人類の主流であった。
C_migration


アルメニアで生まれたハプロ I人

Y染色体ハプロ I は、4万年前に現在のアルメニア付近で発生した。下位系統の分岐は3万年前に始まっており、この頃から小アジア・コーカサス方面へ展開を始めたと考えられる。

32,000-22,000年前にヨーロッパに至り、コンゲモーゼ文化などをになったとされる。


クロマニョン人は I 2a人

13,000年前のクロマニョン人がスイスで出土され、ハプログループ I 2aであることが明らかとなった。このことからクロマニョン人は I 2a人と考えられる。

最近のゲノム解析により、ハプログループIは碧眼遺伝子の担い手であったとされる。また高身長との関連性も示唆されている。


農耕と巨石文明をもたらしたハプロG2a人

ハプロ I人(クロマニョン人)は狩猟採集民だが、その後にハプロG2a人がやってきて、農耕と巨石文明をもたらした。

ハプログループG はハプログループFの子系統で、1~2万年前にジョージア付近で発生した。非印欧系集団と考えられる。

ハプログループG2aはGから分離した後、紀元前5000年ころからヨーロッパに移住した。彼らは新石器文化と農耕技術を備え、ハプロ I 2a人を巻き込んで文明をもたらした。紀元前5000年~紀元前3000年のヨーロッパの人骨の多くはハプログループG2aである。

現在もコーカサスとカザフスタンで最多頻度を示しているが、ヨーロッパではまれな存在となっており、後続人種に駆逐された可能性がある。


アイスマンはG2a

1991年にアルプス山中で発見された約5,300年前の凍結ミイラ・アイスマンはG2a2a1bだった。

あまりにも急激なG2a人の衰亡は、彼らに対するジェノサイド攻撃があったことを示唆する。


ハプログループRの出現

ハプロRはハプロPから分岐した。その出現は2万~2.5万年前とされ、ハプログループG とほぼ同時期の分岐の可能性がある。

Haplogroup_P_of_Y-DNA
図 ハプロPの拡散と分岐

親系のハプロP が非常に奇妙な移動を行っており、おそらく未確定なものと思われる。

中央アジアに到達したハプロP人がハプロRに分岐し、その後も東西に移動拡散を繰り返している。

おそらくは半ば狩猟、半ば遊牧の生活を送っていたのではないか。


R1b人の武力進出

R1系統は最終氷河期の後に拡散を開始た。一部がインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに進出(R1a)、残りが西欧・南欧に進出(R1b)した。

R1b人は青銅器文明(武器)を伴って西ヨーロッパまで分布を広げた。今日のバスク人やケルト系民族に80%以上の高頻度に存在する。

Haplogroup_R1b_(Y-DNA)

ただイギリスで実際にG2a人を駆逐したビーカー人とケルト人は異なっていると見られ、なお検討を要する。

イギリス先史時代 年表

最近、イギリス(ブリテン島)の先史時代が、Y染色体ハプロの研究によって随分明らかになた。イギリス人の人種概念は、それまでとは様変わりしたようだ。

それでもなお多くの謎が残されていて、ここ最近では顔の復元を機に一段とイギリス人起源論論争が盛んになっているようだ。

巨石人→ケルト人→ローマ帝国領→アングロサクソン という旧来の古代史が今ではどう変わっているのか、とくにケルト人概念がどのように変遷しているのかを探ってみたい。

資料
1.ウィキ:ブリテンの先史時代
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-114_1.html
https://world-note.com/britons/
https://www.shigeru1985yorkshire.com/taho-england-contents.html


原人・旧人の時代

100万年前? ホモ・エレクトスの進出。骨・石器が発見されている。

50万年前 ホモ・ハイデルベルゲンシスが進出。マンモス・ハンターの生活を送っていた。化石や石器が発見されている。
Acheul
ハイデルベルク人のものと見られるハンド・アックス

40万年前 極度の寒さによりブリテンから人類が消滅。その後間氷期の間、わずかに旧人の進出が見られる時代が続く。

25万年前 最古の人骨化石。ケント州のスウォンズコームより出土されたもの。

6万年前 ネアンデルタール人がブリテン南部に進出。
ネアンデルタール人
       4万年前のネアンデルタール人女性

ホモ・サピエンス時代の開始

3万年前 ホモ・サピエンスがブリテンに進出。さらに1万年さかのぼり、末期ネアンデルタール人と共存していたとの説もある。

1万5千年前 最終氷河期の末期、温暖化が始まり、落葉樹がブリテン島を覆うようになる。「チェダーマン」に属する中石器時代人が、ヨーロッパからブリテン島に移住。
チェダーマン
約1万年前の人骨「チェダーマン」の再現。明るい青色の目、わずかにカールした髪、そして黒い肌を持っていた

8500年前 海進が進み、ヨーロッパ大陸からブリテン島が分離。住民は大陸と分離。この狩猟採集民のY染色体はハプロIとされる。


この後、西暦表記に変更。

紀元前5000年 「新石器革命」が始まる。狩猟・採集から、農耕・牧畜に移行。牛・豚を飼育し、小麦・大麦を栽培。

この新石器人は、地中海からイベリア半島から来たと考えられ、「イベリア人」と称されることもある。(文献4)
新石器人と「チェダーマン」に代表される中石器人との繋がりは不詳。

紀元前3000年 「巨石文化」が広がる。ドルメン(支石墓)やクロムレック(環状列石)が各地に建てられる。

巨石文化の担い手は不明。ここでは「巨石人」としておく。同様の巨石文化は中央~西欧に見られる。Y染色体ハプロ G2a、ミトコンドリアDNAは現代ヨーロッパ人の11%と一致する。
WhiteHoakWoman
新石器人(5600年前の女性)「ホワイトホークウーマン」(ブライトン出)

紀元前2600年頃 ビーカー人が大陸から流入し銅器・青銅器をもたらす。彼らの金属器が鐘(ビーカー)形をしていたためビーカー人と名付けられた。

ビーカー人は印欧語系種族で、当初は鋳物師、最初は交易商人として各地を渡渉し、後に定着した。
Beakerculture
土器のツボがビーカーに類似することからビーカー人と呼ぶ

紀元前2000頃 巨石人がビーカー人の影響を受けウェセックス文化が始まる。大規模なストーンヘンジが建設される。いくつかの巨大列柱を立てた後、巨石人は歴史から消失する。

紀元前10世紀 ヨーロッパ各地でケルト人社会が形成される。鉄製武器と戦闘馬車という強力な装備を持ち、交易活動を営んだ。

紀元前9世紀 ケルト系民族のブリテン島進出がはじまる。各地にケルト系の部族国家が成立。

*近年、遺伝子研究に基づきケルト人をイベリア半島起源とする説が出ている。

紀元前75年 ケルト人の一族ベルガエ人が南イギリスに進出し国家を建設。

紀元前55年 カエサルがブリテン島に侵入。ベルガエ人に撃退される。この時「ガリア戦記」にブリトン人と記載される。

紀元後43年 クラウディウス1世がブリトン人を征服。ケルト系住民の上にローマ人が支配層として君臨する。

5世紀 ローマ帝国はブリタニアを放棄。ゲルマン人が相次いで侵入。



ヒロシマ船舶司令部の24時間

以下は佐伯文郎「広島市戦災処理の概要」から堀川惠子さんがまとめたものを、その梗概という形で紹介したものである。
堀川さんの原著は、今年7月発行された「暁の宇品…陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」(講談社)というものだ。
なかなかしんどい読み物だが、この本を書いた経過が、はるかにしんどいものなので、文句は言えない。

佐伯司令官
佐伯文郎船舶司令官

午前8時15分 広島市中心部上空で原爆が爆発。爆心に位置した中国軍管区司令部、広島駅近くの第2総軍司令部などの軍中枢は、瞬時に機能を失う。
第2総軍司令官畑俊六は奇跡的に死を免たが、指揮を執る部隊は壊滅していた。

午前8時20分 爆心から4キロ離れた宇品の船舶司令部では、佐伯司令官が指揮をとり、篠原参謀らを偵察に出す。

篠原隊は中心部から2.3キロの御幸橋まで進むが、そこから先はすべての建物が倒壊して進めず。
篠原隊は御幸橋を渡らず、北方に迂回。数百メートル先の富士見橋から市内に入る。多発する火災の中を徒歩で市役所前まで到達。
さらに北上し、軍管区司令部まで1キロ足らずの地点まで進むが、火炎はますます盛んとなる。火災が神谷町方面まで燃え続いていることを確認し、進行を断念。退却に入る。
救難部隊の展開方向
救難・救援部隊の展開方向

各偵察隊が船舶司令部に帰投。宇品の部隊のみが唯一の機能兵力であることが確認される。

午前8時50分 佐伯司令官は全力を上げて救援活動に注力するよう指令。途絶した陸上交通にかわり船舶の最大限活用を促す。

以下は、佐伯文郎「広島市戦災処理の概要」による。

最初の指示概要は以下の通り
1.消火艇が出動。京橋川両岸の消火活動を開始。
2.救難艇が出動。京橋川を朔江し救難活動を展開、患者を似島に護送する。
3.深刻な被害を受けた千田町(比治山)の船舶通信補充隊に対し救援活動。
4.宇品への火災波及に備え、破壊消防を準備。
5.幸の浦の特幹隊は現場待機とする。

午前9時30分 偵察活動により、元安川東岸にも火災が広がっていることが確認される。
これに対し、
1.消火艇2隻が出動。元安川を朔江し、赤十字病院周辺を中心に消火活動。
2.救難艇3隻が出動。患者の救難にあたる。

午前10時 船舶司令部で高級参謀会議。これが米国の新型爆弾によるものであり、原子爆弾であろうとの認識で一致。
陸軍大臣と参謀総長あてに下記を出信。
「B29、4機広島に来襲し、原子爆弾一を投下。広島市大部壊滅す」
御幸橋
有名な御幸橋の写真

京橋川の火災、東岸から西岸に拡大。
1.船舶衛生隊が出動し傷者を救護、船舶練習部から救護班を編成し、衛生隊を支援。広島船舶隊がさらに傷者を似島に後送。
2.野戦船舶本廠から100名を選抜し、専売局付近で破壊消防に当たらせる。(船舶司令部を保全するためか?)
3.エンジン付きはしけ4隻を元安川南大橋付近に出動し、救難活動。

午前11時30分 佐伯船舶司令官、隷下部隊に、平常業務を中止し救護に入るよう指示

午前11時30分 似島収容所の救護が繁忙となったため、第10教育隊より100名を増派。

午前12時 比治山北側地区に火災が拡大。海上防衛隊の消火艇隊の一部が猿猴川を遡上し、当該部の消火にあたる。

昼前までに、江田島の㋹特幹隊も救護・消火作戦への参加を命じられ、大発・特攻艇で進出する。

昼前後 宇品の凱旋館大広間は被爆者の一時収容所となる。収容者数は1千から2千へと達する。
凱旋館が満杯となった後、傷者は逐次舟艇で、似島、金輪、坂、鯛生、小屋浦、楽々園方面に後送される。

午後1時30分 佐伯船舶司令官、電報班を除く全司令部員に常務を停止し救護に専念するよう指示。

午後 指示の内容は救護救援から、補給任務(防疫給水、衣食配布、炊き出し)など多岐にわたるようになる。
補給路が限られるため、指揮系統の分散は不可能。このため佐伯司令官が頻回に指示を出し、各隊に電報で伝達される。

午後4時50分 船舶倉庫より食糧・衣類を放出。宇品方面及び己斐方面の2方面より都心に波及せしむ。

夕方、偵察将校が第2総軍と接触。軍はほぼ壊滅状態にあったが、幕僚と連絡がついた。総軍命令を受け隷下に入る。
これに基づき、あらためて警備並びに戦災処理の任につく。

夕方、佐伯司令官は第2総軍の指名を受け「広島警備担任司令官」に着任。船舶部隊に加え、広島近隣の陸軍全部隊を配下に入れる。

佐伯の指示で広島市内を東、中、西の3地区に分け、それぞれを船舶兵団、船舶練習部、野戦船舶本廠に受け持たせる。

各地区は佐伯の司令を待つことなく、現場の状況に応じて独自に判断させることとした。

夕方、佐伯は新任務を追加。
1. 救護・警備の6つの重点地区を定める。
2. 当初は傷病者・難民の対応を、ついで交通路の確保、ついで保安・警備の確保。
3. 現体制を維持しつつ、翌日昼までに逐次、新配備に移行する。

金輪島などの基地で炊き出しが始まり、市内進出部隊に食糧が届けられる。

8月7日朝

布告「広島市民ニ告ク」が市内重点地区に張り出される。

今回の事態は米軍の、人道上許すべからざる特殊爆弾によるものだ、
佐伯船舶司令官が広島警備担任司令官に任ぜられたこと、
闘魂を振起し、戦災復旧への協力を望む。


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ここまでが、堀川さんの本から拾い上げた、「船舶司令部の24時間」である。

当時の軍部の発想からは到底考えられないような、迅速果敢な行動が次々に積み上げられていったことはまことに興味深い。

堀川さんも指摘しているとおり、いわば佐伯氏の手記にもなっていることから、客観性が問題となるところもある。

堀川さんは、佐伯の行動の蓋然性を関東大震災後の机上演習にもとめている。おそらくそれは正解であろう。デザスター時の対応が頭に叩き込まれていた可能性がある。

ただ、それがすべてで、そこにはパッションの問題はなかったのだろうか、

というので、私は8月7日の朝、市内各所に張り出された司令官布告の文章が気になる。

人道上許すべからざる特殊爆弾」による被害という一文である。もしこれが、間違いなく7日の朝に出した「布告」の文章だとするのなら、この指摘はきわめて新鮮である。

軍隊の発想から抜け出している。と言うより、それどころではなく、時代を突き抜けている発想だとしか言いようがない。

世界の歴史で最初の原子爆弾が投下され、爆発したその日に、その場所に、「何よりも人の道から外れたものであるがゆえに、許せないものだ」と喝破した最初のひとがいた、ということを、私たちは記憶に留めておくべきだ。

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ここから下は、「中国新聞」に掲載された被爆直後の救護活動の時刻表である。ヒロシマ新聞というネット紙からの再転載だが、このサイトは現在は消失している。
かなり補い合う情報もあるので、再掲する。

元記事は 

宇品から見た中心部
ヒロシマ新聞より転載。午前9時ころ、宇品の船舶練習部から中心部方面をとった写真である。おそらく2,3キロ位のところまで煙(二次火災)に包まれており、それから先は見えない。

直後 船舶司令部は、佐伯文郎司令官の指示で第二総軍、県庁、市役所などに電話連絡を試みる。いずれも不通のため、兵士を各方面に偵察に出す。

午前8時50分 消火艇、救護艇を川から市中心部へ派遣。あわせ救護、消火活動に各部隊を振り分ける。(宇品には全国から徴用された民間船が集結していた)

午前9時 被災者が船舶司令部に集まり始める。当初は被害を受けてない軍医二人、衛生兵三人、看護婦五人が治療に当たる。

殆んどが全身火傷で、すすだらけで黒ずんだ顔。髪の毛や衣服はぼろぼろに焼けちぎれ、肌は焼けただれたり火ぶくれになっていた。皮膚はたれ下がり、又、皮膚や肉片が衣服にくっついていた。担架に乗せようとすると皮膚がずるりと剥けて、手のほどこしようがなかった。
…火傷臭と死臭の漂う収容所内で何度も遺体の搬出をおこなった。船で似島(検疫所)へ移された。

午前11時 佐伯司令官、中国地方の各基地に対し、「敵の新型爆弾が広島市に投下さる。各基地は全力を挙げて復旧救援に従事せよ」との指令を発出。

午前12時 江田島・幸の浦基地の部隊(船舶練習部第十教育隊)が宇品に到着。そのまま市内に進出し救援作業に当たる(この部隊は特攻隊で、ボートで敵船に突っ込む訓練をしていた。マルレ艇を見よ)

午前12時 千田町の広島電鉄本社に指揮所を設置。負傷者の救護にあたる。宇品では対応できないと判断した司令部は、対岸の似島検疫所へ船による輸送を始める。(金輪島へも多くの負傷者が運ばれている)

午後1時 宇品地区の水道が減水。幸の浦基地より衛生濾水器を輸送し、水を確保。罹災者に乾パン、作業着、蜜柑缶詰などを配給する。

午後2時 この時点までに収容した負傷者は1300人。その後も後を絶たず。

夕方 船舶教育隊(石塚隊)が紙屋町、八丁堀のあいだの屍体発掘作業。

7日、船舶司令部の佐伯司令官が「広島警備本部」として市内の救援活動や警備活動の指揮をとることとなり県庁・県防空本部を指揮下に入れる。


ペンリウクとヨーロッパ人

平取のアイヌを語る上で欠かせない人物がペンリウクだ。義経神社の鳥居前に佐藤昌介北大学長の記した顕彰碑がある。

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まずはwikiの記述から入る。

平村の日本姓を持つが生粋のアイヌ。生年は1833年、70年を生地平取で生き、1903年(明治36年)平取に没した。

ペンリウクは平取コタンの首長(コタンコロクル)シュロクの長男として生まれ、生まれながらにアイヌ指導者であった。

若いとき、正義感に燃えしばしば北蝦夷地・樺太に渡り、同胞の苦難を救おうとした。

このことから指導者としての自覚、民族意識、多言語、外交術など、一言で言えば国際感覚に長けていたことが伺われる。

ヨーロッパ人との接触は樺太であったかもしれない。またおそらく樺太との往来は函館を経由してのものであろうから、函館に何らかのアジトはあったと思われる。


1.ウォルター・デニング(Dening)

記録に残された最初のヨーロッパ人はイギリス人宣教師のデニングである。

デニングは英国聖公会宣教協会に属し、長崎に赴任したあと北海道に渡った。

1874年(明治7年)、函館で伝道活動を始め、平取、札幌でも伝道した。

霊魂不滅に異を唱えたため解任され、その後慶應義塾、東京師範学校などの英語教師となり、ジャパン・ガゼットなどの報道活動にも携わった。


2.ペンリウクの思惑?

デニングが平取に入ったのは1876年8月のことで、ペンリウクのもとでアイヌ語を学んだという。

おそらくペンリウクの人となりがデニングに強烈な印象を与え、それが在日ヨーロッパ人社会にも広がったのだろう。

「高貴な野蛮人」観、あるいは「コーカソイド」説が最初のデニングとの出会い時からあるようにも思えるが、デニングにこの点についての記述はない。

さらに想像をたくましくすれば、外国事情にも通じたペンリウクがヨーロッパ人の力を借りようと試みたかもしれない。

私はつい、ニューヨーク・タイムズのマシューズ記者を山中のゲリラ基地に招き入れた、カストロのエピソードを思い出してしまうのだが、どうであろうか。


3.イザベラ・バード(Isabella L. Bird)

その間接的な根拠となるのがバード夫人の平取訪問である

イギリス人旅行家イザベラ・バードが平取に入るのは、デニング訪問の2年後、1878年(明治11年)のことである。

このときバードはすでに47歳、決して若くはない。若いときから旅好きで、アメリカやカナダを旅していた。

1876年、英国に戻った御雇外国人のコリン・マクヴェインの知己を得て、日本の情報を知り、周囲の警告を押し切って来日した。

バード夫人はあくまでも「旅行家」である。当時の交通事情を考えれば「探検家」と言っても良いくらいだ。

バードは在日中に2つの大旅行を行なっている、その最初が6月から9月にかけての北日本旅行、もう一つが10月からの関西旅行である。

関西旅行は名所旧跡巡りだったり、文人墨客との出会いだったりするのだが、平取を最終目的地とする北日本旅行は、とくに北海道に関しては、松浦美四郎もかくやと思わせる何行であったに違いない。

それまでアイヌはもとより、日本についてさえほとんど予備知識を持たずに乗り込んできた外国人旅行者が、訪問先に平取を選んだのには、いったいどういう理由だったのだろう。

おそらくそれはデニング→マクヴェインを介した情報なのではないかと思う。


4.バードの"Unbeaten Tracks in Japan"

実はバードの平取訪問と交錯する形で、もうひとりの外国人の訪問があったようだ。それが大シーボルトの息子の小シーボルト。明治初期に外交公館の使節員として在日した。国内では大森貝塚の米国人モースがすっかり有名になってしまったが、実は本格的に日本で考古学の研究を開始したのは少シーボルトだ。

小シーボルトは帝大医学部のベルツ教授を介してマンロー医師とも交友があり、このグループが黎明期の日本考古学研究を開拓したと言っても過言ではない。

北日本旅行の印象は帰国の2年後に一冊の本として発表された。
邦題は「日本奥地紀行」となっているが、原題は「人跡未踏の路」となっておりさらに“奥地感”満載である。

バードはその後も旺盛に旅行を繰り返したが、興味の中心は日本より李朝朝鮮の方面に移っていく。

ちなみにバードの生年・没年はペンリウクときわめて近接しており、性別を超えてなにか共感するものがあたのではないかと密かに想像する。


5.ジョン・バチェラー

イギリスで「日本奥地紀行」が発行された翌年、イギリス人宣教師ジョン・バチェラーが平取を訪問し、長期滞在している。

かれはペンリウク家に下宿しペンリウクからアイヌ語を習った。

wikiによると、実はペンリウクには相当の資産があったらしい。71歳で亡くなったとき、その遺産は土地や馬を合わせて千円もあったという。
1280px-平村ペンリウク翁
中央で座っているのがペンリウク

man@bowというサイトに「明治時代の1円の価値」というページがある。
明治30年頃の物価と、今の物価を比べると、今の物価は当時の3800倍ぐらいです。つまり明治時代の1円は、今の3800円ぐらいに相当することになります。
ということは400万円? これでは葬式代で消えてしまう。

ただし、このサイトでは当時の貧富の差は甚だしく、庶民感覚では2万円くらいに相当するようだ。

としても5千万円だから金持ちと言うにはちょっと気が引ける。

バチェラーに関する紹介は他にたくさんあるので省略して、ペンリウクとの関係に絞っていくこととする。

本日はこのへんで

ホモサピエンスの出アフリカが大幅に遡った。
この種の報道はこれまでも繰り返されてきたが、今回の報道を機に一度整理しておきたい。
ネタはこの記事
「アフリカからアラビアへ…人類40万年前から進出」赤旗9月2日 
間宮利夫記者の署名入り記事で、「ネーチャー」誌の記事の紹介だ。

これまで出アフリカしたサピエンスは、ジブチから海を渡りオマーン方面に移動したとされてきた。
しかしこれは現生人類につながるアダムとイブたちの祖先であり、それ以前にも何度か出アフリカを試み挫折(=絶滅)してきた歴史があるだろうと思われてきた。

今回その証拠が見つかったという話で、初めての話ではないが、有無を言わせぬ証拠が発見されたという点で意義がある。つまらないことだが、ドイツのマックス・プランク研究所の研究であるということも信憑性を増している。
HSapiens

場所はサウジ北部の高地、人っ子一人住まないネフド砂漠のど真ん中だ。その中のハル・アメイシャン4号というポイント。
ここには数えて6回の湖水形成期があったそうだ。そしてそのうち5回の地層面から旧石器が出土している。
石器は前期旧石器時代の握斧、中期の剥片器など多彩で、それぞれの石器に歴史的連続性はなく、それぞれの時期のアフリカ在住サピエンスと一致している。また発見された動物の化石もアフリカのそれと対応していた。
石器

すなわち5回の住人はすべて別の種類で、そのたびにアフリカからやって来たということになる。湖水形成期に定着しては、乾燥期に離散・絶滅するという経過を繰り返したのだろう。

その最古が40万年前のもので、これまでの定説を大きく遡ることになる。

ここまでがネイチャー誌の紹介で、この後は間宮記者のうんちくになる。

出アフリカが現生人類のそれをはるかに遡る可能性が、最近相次いで発表されている。

1.イスラエルで発見されたホモ・サピエンスの人骨が17万7千年前とされた。
2.中国で発見されたホモ・サピエンスの歯が8万~12万年前とされた。
3.モロッコで発見されたホモ・サピエンスの人骨が30万年前とされた。

ただ問題はもう一つあって、ネアンデルタール人など旧人が、旧石器に近い石器を使用していた可能性が否定できない、というか、かなり有り得る話だということだ。
この辺はもう少し研究の進展を待たなければならないようだ。

参考(ウィキペディア)

ネアンデルタール人の技術は非常に洗練されていた。火を起こしたり炉を作ったり毛布やポンチョに似た簡単な衣服を作ったり、機織りをしたり、地中海を航海したり、薬草を利用したり、怪我の治療をしたり、食べ物を保存したり、ロースト、煮沸、燻製などの調理の能力が含まれている
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  ネアンデルタール人の石器(ウィキペディア)

松前城と寺町(寺社群)

松前の寺町は松前城に隣接して、その北側(山側)に位置する。

松前そのものが今ではすっかり寂れて、城下町の面影も港町の面影もほとんど消え去っている中で、唯一栄華の残り香を漂わせている。
それが逆にうら悲しさを感じさせ、廃墟寸前「いまこそ最後の一瞬」という感じで迫ってくる。

いくつかのHPに説明がつけられているので、それを参考にしながら説明したい。


松前と松前藩と松前城の形成の経過

松前古図
松前古図

もともと松前城の構築はさほど古いものではない。

松前藩が藩発足以来の拠点としていたのは、福山館という館であった。福山と松前の関係はちょっとややこしいのだが、平ったく言えば福山は松前の旧称だ。福山館の城下町が松前藩の藩都として発展する中で、街そのものも松前と称するようになった。

1807年、幕府は松前をふくむ蝦夷全島を直轄とし、北方防衛を強化した。松前藩はその任に対し力不足とされ、200年来の領地を召し上げられ、福島県梁川に移封された。

1821年、ロシアの干渉が弱まったのを受け松前藩は再び松前に戻り、蝦夷地の管理を任されることになった。しかしその施政方針は旧態依然たるものだった。

1850年ころになると、ペリーの黒船を皮切りに列強の進出が強まった。そこで江戸幕府に命じられて、藩は福山館を、城の形式を備えた松前城として拡充強化したわけである。

城の建築開始は1849年、完成は1855年のことである。


寺町の形成

寺町の形成はそれよりはるかに先んじている。寺町を開設した看板があったのでそれに沿って紹介する。

松前藩が成立したのは、徳川家康の認可を得た1600年前後だ。当時は松前城東北1キロほどの大館に居していたが、より海に近い福山館に移動した。事実経過があいまいだが、領地というほどのものを持たない松前藩は、その政庁に対し「城」という名称を使うことを許されなかったという説もある。

大館から移設された寺院もあり、その後開基した寺もあり、江戸時代には15寺を超えたそうだ。


旧幕府軍との攻防戦

戊辰戦争の折り、旧幕府軍は土方歳三を指揮官に、彰義隊、陸軍隊、額兵隊、新撰組ら700名で松前攻略軍を編成し、攻撃を開始した。

まず11月1日に海軍による砲撃が行われたが、これに対しては砲撃で対抗、いったんは撃退に成功した。

ついで5日には海軍の援護下に土方の陸戦隊が城攻めを開始した。

これに対する守備隊はわずか100名足らず。半日ほどの戦闘の後、藩兵は城、寺、さらに民家にも火を放ち逃げ去った。「御用火」と称し街の4分の3が焼失したとされる。これにより寺社群にも甚大な被害が生まれた。

翌明治2年4月、松前藩兵を先鋒とした新政府軍が江差付近に上陸。上ノ国方面から海岸線沿いに南下し城下に侵入。旧幕府軍は函館方面に撤退した。


戦い済んで、日が暮れて

この攻防で、本丸御殿は焼失した。天守閣といくつかの櫓が残された。資金源を奪われ、敗軍同然の状態に陥った松前藩は、城内建物の銅瓦をはぎ取って売却し、運用資金に充当した。

その後北海道の支配者となった「開拓使」は、焼け残った御殿を解体し古材を売却した。石垣は崩され、波止場の置き石に利用された。


なぜ寺院群が残されているのか

城が跡形もなくなっているのに、寺院群が比較的原型を保っているのには理由がある。


「松前の寺町」にはこう書かれている。
新政府側についた松前藩側は城下に火を放って逃走。
寺町の各寺にも火を放つことを強要しましたが、一部の住職はこれを受け流し、火を放つのを自重。
こうして寺町のみが往時の城下の風情をとどめているのです。
もともと寺と言っても、城の一部と考えられ、城郭の山側を守る要塞群として捉えられる。多分、寺社側は松前藩の行く末を見切っていたのではないだろうか、と想像する。

とはいえ、維新後は松前そのものの没落により多くが閉山し、残る寺院もうら寂しいものとなっている。

以下、写真に簡単な説明を加えていきたい。


寺町の中心

ここが寺町の中心地で、城の本丸の西北の方角。寺はこの標識に書かれた法源寺、法幢寺、龍雲院、光善寺、あと本丸を挟んで東側に阿吽寺の5つである。

寺センター


1.龍雲院

2代藩主・松前公広の正室は京から輿入れした「大納言大炊御門資賢の娘」が、夭死した長男のために建立した寺。

本堂、庫裏、惣門、鐘楼、土蔵が国の重文となっている。

いずれも1840年代の建設で、もっとも江戸時代の面影を留めていると言われる。


2.光善寺

龍雲院とほぼ同時期の開寺とされる。

入り口の階段を登ってすぐが山門、そこから木立の中を進むと仁王門。仁王門はは1752年の建設と言われる。残念ながら細かいところがかなり傷んでいるが、欄間の浮き彫りはなかなかのもの。

血脈桜は北陸から移植されたものだそうだ。血脈桜と読むのだそうだ。根っこは道内の木で、首を切り落としたあとに移植してある。樹齢は280年くらいで、仁王門と同じである。

3.法幢寺

寺社群の中でも、もっとも由緒正しい寺である。松前家墓地に隣接した寺で、1546年に松前城の前の大館から移設されたもの。

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欅の大木に囲まれた山門は、松前藩主菩提所にふさわしく荘厳なものだが、本堂は箱館戦争で焼かれ、明治以降に再建されたもの。


4.法源寺

寺町通りを挟んで法幢寺の隣に位置する寺。この寺の山門が国の重要文化財となっている。

宝幢寺と相並ぶのは、初代藩主の菩提所の故である。これも同じく大館からの移設である。

1650年ころの造設とされ、北海道の社寺建築としては最古。ただし本堂は、法幢寺と同じく戦火に焼かれた。

「限界寺院」である。本堂まで長い参道が続き、脇に数多くの墓石が並ぶが、手入れがわるく倒壊、損壊した墓石が散乱する。国や道の認定を受けているとはいえ、過疎の町にこれだけの遺構は荷が重いであろう。

悲しみの松前町

2021年7月末の住基台帳で6,526人。もはや「村」レベルに近い。驚くべきはその減少速度で、2015年国勢調査では7,337人だから、単純計算で811人(11%)減少している。あと36年でゼロになる計算だ。

雑誌「解放」について


『解放』(大正期の綜合雑誌)目次(一) : 大正八年六月創刊号より同一〇年三月号までの分
著者 本間 洋子
雑誌名 日本文學誌要 巻 1 ページ 44-61
発行年 1957-12-01

およびウィキペディアなどから編集した。



1919年(大正8)5月 大鐙閣(だいとうかく)から創刊された。この時代、第一次世界大戦直後のデモクラシー思潮が風靡した。この中で革新的傾向な傾向を示したのが、黎明会=東大新人会、マルクス主義者、無政府主義者の潮流であった。

『解放』は黎明会の機関誌的役割を持った総合雑誌として発行された。黎明会は吉野作造・福田徳三・大山郁夫らを中心とする社会科学研究者の集団として位置づけられている。創刊号の発行部数は3万部に達した。

実際の編集には黎明会と近い新人会の赤松克麿・佐野学・宮崎龍介らが参加したとされる。新人会は東大学生を中心とした左翼サークルでロシア革命の1年後に結成された。

ウィキペディア(麻生久の項目)によると、『解放』文化集団のオーガナイザーは麻生久だったらしい。
吉野作造らを担いで大正デモクラシーの啓蒙組織である「黎明会」を創設し、新渡戸稲造・大山郁夫・小泉信三・与謝野晶子ら錚々たる知識人・文化人を参加させた。また東大新人会にも先輩グループとして参加している。
『改造』や『中央公論』など既存の総合雑誌とは一線を画し、労働問題、社会問題での実践が重視され、社会主義的傾向が強かった。

『解放』は創刊号巻頭に無署名の「解放宣言」を掲載。「宣言」は軍国主義や専制主義など各種の圧迫から全人類の諸階層を解放することを創刊目的に掲げた。


創刊後の経過 第一次『解放』時代

黎明会、新人会の会員が執筆したほか、荒畑寒村、堺利彦、山川均、山川菊栄などの社会主義者も毎号のように登場した。さらに無政府主義の石川三四郎も加わった。

総合雑誌として、文芸や創作欄も取り上げられ、初期プロレタリア文学系の創作・評論が主流となった。主な書き手として、小川未明、宇野浩二、宮地嘉六らが活躍した。一時は『中央公論』・『改造』と総合雑誌のシェアを競うにいたった

1920年(大正9年)6月 赤松ら第一次新人会メンバーは左派労働運動に関わるようになる。この号から麻生久、山名義鶴らが結成した解放社によって編集部が担われることになった。赤松は第一次共産党に加入し中央委員に就任するが、検挙され獄中転向

1923年(大正11)9月 関東大震災が発生。出版元の大鐙閣が全焼して事実上倒産。このために、直前に出された1923年9月号をもって実質上の廃刊となった。ここまでの3年半を第一次『解放』という。

このあと、本間洋子の論文には「1924年(大正13年)5月 半年の休刊の後、『解放』誌が再刊された」とあるが、これはどうも怪しい。。

ウィキに詳しい経過が載せられているが、正直のところ大鐙閣が潰れたあと、誌名を勝手に僭称している感もある。

1925年10月 山崎今朝弥という『社会主義研究』の編集者が、総合雑誌化する形で誌名を変更し「解放」を名乗ったもののようである。一応、編集同人をかき集め、石川三四郎・新居格・小川未明・赤松克麿・麻生久ら13名を同人としている。

この第二次『解放」の実態は不明な点が多く、執筆陣も大幅に入れ替わり、谷口善太郎・水谷長三郎・片山哲・三輪寿壮・高津正道・阪本勝・河野密らが新たに迎えられた。

とくに文芸欄で急進化の傾向が著明で、葉山嘉樹・林房雄・村山知義・平林たい子・山内房吉・青野季吉が活躍し、プロレタリア文学の一大拠点となった。

一方で既存の大家がほぼ姿を消したことから人気はガタ落ちし、発行継続が困難となっていった。後半には定期刊行誌の体裁をなしていなかったようである。

山崎は1927年4月号をもって従来を形態での慣行継続を断念し、同人誌に代えたという。

最終的には32~33年(昭和7~8)ごろに廃刊となったようだが、正確な時期は不明のままとなっている。逆に言えばよくそこまで持ったものだと感心する。


本間洋子氏が調べた初期の『解放』誌の目次が閲覧できる。


これを見ると、吉野作造はお飾り的存在で、主調をなしているのは福田徳三であることが伺える。

これが第3号になると福田が消え佐野学や森戸辰男、高畠素之が巻頭論文の執筆に当たる
ようになる。

1920年(大正9年)9月 創刊号以来音信がなかった福田徳三が三号にわたり巻頭論文『マルキシズムとしてのボルシェビズムを連載している。福田徳三がロシア革命をいかに評価していたかはとても興味あるところである。

1921年 その後山川夫妻や堺利彦、荒畑寒村らの古い社会主義者がが紙面の主要部分を固める。

何か衝き動かされるように北海道を旅している。
旅するといっても、ひたすら車を運転して一人さまようのだ。
そんな旅の途中で、たとえば北見紋別の小料理屋で、唐牛健太郎が漁船に乗り組んでいた頃に、行きつけだった時の写真、そのあと浜美枝がお忍びで来たときの手紙などを見せてもらった。
今日のお披露目は、丸瀬布町の博物館で見つけた「前衛」。

前衛復刊8号

なんでこんなものが麗々しく飾ってあるのか、さっぱりわからない。北海道人ですら丸瀬布というのがどんな街なのか知らない。そもそもそんな街があること自体知らない。北海道に勢いがある時分は丸瀬布町だったが、いまでは遠軽町の字でしかない。
そんな山間の寒村に1946年7月1日に、たしかに「前衛」の読者がいたのだ。しかも学校の先生とかのよそ者ではなく、博物館に蔵書を寄付してガラス張りの展示場に飾らせるほどの有力者の読者がいたのだ。

どうだい、すごいだろう。第1巻8号と書いてあるが、ただの第一巻ではない「復刊第一巻」なのだ。
この号では共産党の憲法草案が発表されているらしい。

平澤三郎という名前は聞いたことがない。誰かのペンネームだろうか。

まぁとにかくこんなところで「前衛」に出会うとはなんともおかしな話だ。北海道という土地柄が独特なものだることを示しているようだ。内地の田舎では、よもやこんなことはあるまい。

そしてその横にはこんな雑誌も展示されていた。


大正8年解放

見当もつかない雑誌だが、多分28年後に前衛を買ったのと同一人物だろう。丸瀬布にそんな物好きが何人も居るわけはない。
その28年間が日本にとってどういう時代だったかを考えるとき、ほど遠からぬ網走に12年にわたって宮本顕治が閉じ込められていたという時代を思いやる時、なにかジーンとまぶたに滲みてしまう。

奇襲作戦をかければ、当座は勝利する。卑劣な奇襲はヤマトタケル以来の日本軍のお家芸。
しかしいずれ化けの皮ははがれる。
後に残るのは勝てる見込みのない相手に、道理なき戦いを挑み、敵味方合わせ数百万の命を奪った国家首脳の愚かさだ。それを忖度し国民を叱咤したのが、資本家、官僚、マスコミだ。

BSワールドニュースは休止した。2チャンネルでも見られない。「熱狂」という情報統制が世間を覆い尽くす。

社会は80年で劣化するのか。明治維新から80年で戦争、それから80年でコロナ。きっかけは何でも良いのかもしれない。
…………………………………………………………………………………………………………

あの頃、大きな戦闘作戦に勝利すると、路面電車に電飾を灯し祝ったそうだ。町内会にも奉祝行進の動員がかかったそうだ。

それに悪乗りして大本営が、負けているのに「勝っている、安全安全」と嘘っぱちを垂れ流す。「ばれない嘘は嘘ではない」というわけだ。
神州不滅
           神州不滅の碑(鹿児島)

二年もすると化けの皮が剥がれ、日本中火の海だ。若者がバタバタと倒れていき、未来が失われる。哀れなのは、この期に及んでも国民が「神州不滅」と信じ続けることだ。

これが五輪組織委員長の予言した「ハルマゲドン」だ。あぁ東条よ、牟田口よ。

私のだらしない性格のために、「マンロー医師 年譜」と称する記事が複数存在する。
しかもどれが底本なのかが自分でも分からなくなっている。
今回調べたところ、下記のバージョンが有ることが分かった。

 goo Blog

 ① ニール・ゴードン・マンロー 年譜

2021-03-17 19:12:21 | マンロー

文字数=6647(全角文字数=5538、半角文字数=1109)
 

② マンロー医師 年譜 (増補版)

2021-03-17 18:31:15 | マンロー

~1924年まで

文字数=11451(全角文字数=10113、半角文字数=1338)
 

③ 年譜 後編
1925年~ (マンロー医師 年譜 (増補版)とセット)

文字数=9929(全角文字数=9054、半角文字数=875)
 


Lavedoor Blog

2019年11月24日
④ マンロー医師 年譜 (増補版)
文字数=21384(全角文字数=19184、半角文字数=2200)

2019年10月26日

⑤ ニール・ゴードン・マンロー 年譜

文字数=6596(全角文字数=5510、半角文字数=1086)


文字数は

文字数・バイト数計算

というオンライン・アプリを使って調べたもの。

これで、
Lavedoor の2019年11月24日の記事
マンロー医師 年譜 (増補版)
が基本だということが分かった。
これを2021年3月17日にGooに移植し、その際に上・下2篇に分け、しかも題名を変えなかったため、他の人には同一記事の文才だということが分からない。
当然、2019年11月24日以降も記事に増補している可能性はあり、それは2021年3月17日まではLivedoor記事に反映されているはずだ。
問題は、それで3月17日以降、Gooの記事に増補しているかどうかなのだが、文字数計算で見る限り手は加えていないようだ。
ということで、






かくのごとき有様となったのは、日本史、アイヌ氏、マンロー関連記事をGooに移植しようと考えたためのもの。

結果的にはこれが大失敗だった。

Livedoor と Goo は当然違う会社の違うソフトだから、使い方が違う。
最大の問題は、写真や図表の転居がかんたんではないということだ。

実はその後、かんたんにLivedoor の無料ブログが開設できることが分かった。現在すでに3本のブログを立ち上げている。この3本のブログはすべて同じアカウントでログインできるので、ほぼ瞬間移動が可能だ。記事・図表・写真の移動も不自由なく行える。

そこで
④ マンロー医師 年譜 (増補版)
のみを残し、ほかは破棄することとする。

Goo Blog はこのさい破壊消失させることとし、
あらたにLivedoor Blogを使って、「鈴木頌の歴史ブログ」(仮称)を立ち上げ、そこに収容する。
それまでのあいだは、当面マンロー医師 年譜 (増補版)
http://shosuzki.blog.jp/archives/81566213.html
を底本とする。


3月27日、北海道AALAの事務所でとても素敵な勉強会がありました。原島則夫さんによる「アイヌの話」です。
原島さんはアイヌの出身で、北海道AALAの古参会員です。私と同じ頃に北海道勤医協に入って、一緒に仕事をしていました。その後共産党の道委員会で少数民族問題を担当していました。
今回は「少数民族懇談会事務局長」としてお話してもらったのですが、ちょっとまだ講演の全貌がまとめきれていません。
そこで今回は、赤旗道内版に掲載された「アイヌモシリ(人間が住む大地)から」という連載記事のコピーを紹介します。記事は全4回で2019年10月に掲載されたものです。

hara

harasima2
harasima3
harasima4
アイヌ問題は
アイヌの土地を和人が奪った
アイヌを和人が差別した
和人がアイヌの尊厳を踏みにじり、同化を迫った
などの問題がありますが、
一番の問題は、明治維新まではアイヌ人のものとされてきた土地を日本政府が奪ったことにあります。
そして先住民であるアイヌ人の「先住権」を反古にしたことにあります。

国際法的に確認されたこの権利を改めて確認し、「旧土人保護法」の精神を捨て去り、その上で共生の道を図ることが、ロードマップのもっとも基本的な道すじです。

差別意識の清算については、あらゆる機会を捉えて粘り強く連帯意識の向上を図ることが求められることになるでしょう。


随分前に下記の記事を書いた。書いたことも忘れていて、なんのことかと読み直してみた。


言いたいことは「日本人に特異的にA型が多いのは、A型だから日本に集まったのではないかと思ったのである」ということで、なかなかの着想だ。

ただ、変なのは、「縄文人はA型は少なかったようだから、A型頻度を上げているのはもっぱら弥生人である」と書いているところだ。

わざわざ古畑の「A型」分布説を取り上げているが、この調査でA型が多いのは東北地方だ。つまり縄文色の強いところだ。

これだけで、この「大胆な仮説」は自己破産する。

しかし、事実として、日本人にA型が多いことも事実で、地域分布としては東北に偏っている(古畑による)とされる。

とすれば「縄文人はA型は少なかった」というのが怪しいことになる。

調べれば分かることなのだから調べてみよう。

キラリというページに親切に数字が取り上げられている。

予想はかなり違っていた。というより真逆だった。

血液型 弥生人はA、縄文人はB

まず事実として、日本人にA型の頻度が高いことは確認できた。しかしそれほどではない。

世界での比率は、O型が約45%、A型が40%、B型が11%、AB型が4%である。日本では、A型の割合が約4割、O型の割合が約3割、B型の割合が約2割、AB型の割合が約1割である。

結論として日本はA型特異国ではない。ポルトガル、フランスは半分がA型である。

ただし、最大の特徴はA型ではなく、B型が多いことである。それに引きずられる形でAB型の頻度も高くなっている。

ただしB型の頻度にだけ注目すれば、もっと高い国もたくさんある。インドは4割がB型だ。ハンガリーやイラン、パキスタンも日本と同じ3割を占める。

次に血液型の国内分布である。

A型の人口が多い都道府県は、徳島、福岡、愛媛、島根、鳥取である。それに対して、青森、岩手、沖縄は、A型の割合が少ない。

つまり間違っていたのは古畑の報告で、私の記事が正しかったのだ。

むしろ注目すべきは、国際平均の2倍に達するB型頻度で、いったい誰がBを押し上げているかというと、秋田、青森、長野、岩手、栃木で、特に秋田がすごい。


以上は、

のコピーである。

話が尻切れトンボになっているので補足する。

弥生人がAなのは良いとして、縄文人がBというのは正確ではない、というより嘘だ。
もし縄文人がBなら、縄文人の代表である沖縄やアイヌはもろにBでなければならない。しかしそのような特徴はない。

つまり、Bは弥生人でもなく、縄文人でもない、「第3の原日本人」の特徴である可能性がある。

その分布地域は秋田、青森、長野、岩手、栃木だ。つまり本州の東北端から北関東・信越あたりの日本海側ということになる。これはY染色体ハプロで言うC1グループ(仮にナウマン人と呼ぶ)の多い地域と一致する。

C1グループの由来についてはいろいろな説があるが、私は東アジアに最も早く到達したホモ・サピエンスの末裔で、5万年前にインドからインドシナに進出し各地に拡散したと考えている。

日本には4.5万年前に朝鮮海峡をわたって上陸し、ナウマンゾウを追って関東から羽越地方まで進出した。氷河期のもとで人口は激減したが絶滅はせず、2.5万年前ころ北から到来したD2グループ(仮に黒曜人と呼ぶ。後の縄文人)と混淆し吸収された。

今日でもC1グループは日本人の5~10%を構成していると言われ、彼らが高いB型血液型を持っていたとすれば、話は合う。

これに対して縄文人のABO血液型に関する特徴は少ない。特徴が少ないというのが特徴とも言える。「青森、岩手、沖縄ではA型の割合が少ない」というのが、まさにそれを指しているのかもしれない。

日経(2月13日)の書評面。
大変面白いのだが、受け売りの受け売りである。「半歩遅れの読書術」という連載コラム。
直接の受け売り人はテレビでおなじみの磯田道史さん、原著は高島正憲「経済成長の日本史」である。
「経済成長」と銘を打ってはいるが、実質は米生産の成長史だ。工業、商業は難しいので「あとはそこから類推を」ということになる。
以下、結論だけメモしておく。

米生産量(玄米換算)
奈良時代(730年ころ)は総生産量600万石前後、一人あたり生産量は1.4石前後。
平安時代(1000年ころ)      、一人あたり生産量は2.2石前後。成長率は43%。
鎌倉末期(1300年ころ) 800万石前後、一人あたり生産量は2.0石前後。成長率は-9%
江戸前期(1600年前後)      、一人あたり生産量は2.5石前後。成長率は25% 
江戸後期(1800年前後)      、一人あたり生産量は3.0石前後。成長率は20%
明治初期(1870年前後)      、一人あたり生産量は3.7石前後。成長率は23%

まぁこの表を眺めるだけでもいろんな感想が浮かんで来る。
1.平安初期までは順調に生産力が増えていて、300年足らずで1.5倍という高度成長時代が続く。実感としては「平安バブル」だったのではないかと思う。
2.その後、鎌倉末期まで生産量は下がり続ける。注目されるのは奈良時代に比べて一人あたり生産量は43%増えているのに、生産量は33%しか増えていない点である。これは単純に見て米生産以外の理由(例えば地震・疫病など)による人口減と判断される。その理由がわからない。
3.本格的な農業の離陸は19世紀に入ってから開始されたことが分かる。例えば大阪湾の干拓事業なおを見ても、江戸時代初期からかなり進んでいるにも関わらず、農業生産性の向上に結びついていないことが分かる。それがなぜ19世紀を迎えて大きく発展し始めたか、その辺が知りたいものである。
4.この表からは読みにくいのだが、鎌倉末期の米生産の低下は寒冷化によるものとされている。とすれば、その影響は東北地方にとって一層シビアなものとなっているだろうが、そのへんのエビデンスがどうなっているのかはよく分からない。
5.室町から戦国時代には、寒冷化による米生産性低下は低湿地向け赤米(大唐米)の普及により相殺、克服されたと書かれている。イノベーションによる生産力増加は、地域格差を激化させ、人々の移動を激しくさせた可能性がある。あえて言えばそれが戦国時代の背景となっている可能性がある。
以前から、明治維新を成し遂げた力に関連して、江戸時代における東西の経済力比較とその推移が気になっていた。そういう観点からもう少し検討してみたいと思う。


こちらはその増補版。写真は持ってきていないので、古い方も見てもらえるとありがたいです。


三大文化(遼河文明、黄河文明、長江文明)の始まり

BC7000 長江流域に初期稲作が登場。
BC6200 遼河流域で最初の文化、興隆窪文化が栄える。
BC4800年 華北平原および黄河流域に人々が定着。黄河文明の先駆けとして、陝西省から河南省にかけて仰韶文化が発祥。貧富の差がみられ、社会の分業・階層化が進んだ。河南龍山文化に引き継がれる。
BC4700 遼河流域で紅山文化が栄える。風水や龍の信仰は遼河文明が黄河文明に影響を与えたものとされる。

黃河文化の突出
BC4300年 黄河下流に大汶口文化が発生。山東龍山文化に引き継がれる。
BC3000年 龍山文化の前期が開始。
BC3000年 長江中流域でミャオ族による屈家嶺文化が始まる。下流域では良渚文化が主役となる。
中原・陜西龍山文化と山東龍山文化に分かれている。
中原・陜西では、城壁を備えた都市が出現する。最大のものは陝西の陶寺遺跡。
山東龍山文化は山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖遺跡を中心とする。
BC2600 後期竜山文化登場。黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化である。青銅器が使用され始めている。

黃河文化(華夏民族)の南方進出
BC2500頃 華夏民族が南方に進出。「涿鹿の戦い」に勝利し、蚩尤民族を駆逐。蚩尤民族はミャオ族と黎族に分裂し、ミャオ族は四散した。
BC2500年 長江中流域の屈家嶺文化が衰退。上流の湖南で石家河文化が始まる。
BC2000年 龍山文化の末期 人口は激減し、遺物も貧しくなる。(500年にわたる暗黒期)

夏の建国と二里頭文化: 五穀の栽培と農耕文化への移行
BC1920 黄河が大洪水。このときに禹が土木、治水を率い功績を上げたことから王位に就いたとされる。
BC1900年 史書によれば夏が建国され、初代の禹から末代の桀まで471年間続く。龍山文化集団の流れをくむ遊牧民族的な父系集団。陽城に都を構える。
BC1900年 河南省洛陽市二里頭村を中心に、推定人口2万人に達する巨大な遺跡が建設される。炭素14法で殷に先立つことが判明。『史書』に伝わる夏に相当すると見られる。
二里頭遺跡は4層からなり、1期と2期が夏王朝のものとされる。粟、黍、小麦、大豆、水稲の五穀を栽培していた。最盛期の人口は2万人以上と推定される。青銅器はない。
BC1700年頃 二里頭遺跡の3期と4期からは青銅器工房と宮殿が発見され、殷時代の遺跡とされる。
メソポタミアではBC4000年より前に青銅器時代に入っているが、中国に青銅器が入ったのはBC1600ころ、夏の時代の末期である。

殷(商)による夏の滅亡: 青銅器兵器時代の到来
BC1600年 商の湯王が諸侯を率いて夏の桀王を滅ぼしたとされる。夏の遺跡では夏人の毀損された遺骨と殷(商)の青銅の武器が多量に出土する。
BC1600 殷(商)が建国される。殷は後継王朝の周による呼称。都は亳(商城)に置かれた。考古学的には河南省鄭州市の二里岡遺跡に一致。先行する二里頭文化に影響を受け、青銅器を大々的に使用する中国最初の文化となる。
BC.1400 殷は王位継承の争いにより一時衰退。
BC.1300 後期殷王朝を隆盛に導いた盤庚王(第19代)、殷の都を河南省安陽市の大邑商(殷墟)に遷す。このあと殷は最盛期を迎える。

殷(商)から周の時代へ: 中原の統一と絶対王政
BC.1071 紂王、妲己を寵愛する
BC.1056 周の文王、殷により幽閉され死没。周の武王、紂王(帝辛)の暴政に対し周を中心とする勢力を結集。
BC.1046 殷周革命。周(西周)が建国される。鎬京(西安)を都とする。
BC.827 宣王が周王朝を復興,中央集権的政策を行う。

春秋・戦国時代: 覇権を規定した鉄製兵器
BC.770 周の幽王が殺される。残党は成周(洛邑)に都を移し東周となる。平王が即位。春秋時代の始まり。諸侯は東周をたてまつり割拠。
BC.551 孔子が誕生。これに前後して老子、孫子が誕生する。
BC.476 晋が消滅。盟主不在の戦国時代に移行。
BC.473年 越王勾践が呉王夫差を滅ぼし、長江流域の覇者となる。
BC400頃 鉄器の時代に入る。鉄製武器をいち早く取り入れた秦が勢力を拡大。BC.230 秦が韓を滅ぼす。以後、趙、魏、楚、燕を相次いで滅ぼす。
BC.221 秦の始皇帝が中国を統一。漢人が長江人を駆逐して長江流域に定住。

社会知性開発研究センター/古代東ユーラシア研究センター/年報第4号
のサイトに「鼎談」という記事があった。   2091_0004_07.pdf   (1.55MB) 


2017 年 7 月 15 日に古代東ユーラシア研究センター主催の「渡来民に関するシンポジウム」が行われ、武末純一、亀田修一、土生田純之の3人が講演した。
その後、三人による「鼎談」があって、細大漏らさず文字起こしされている。

少々、忌憚のなさすぎる会話がかわされる。ゴシップ風味、楽屋落ち風のネタも有り、シロウトには少々読みにくい。だが、それだけに大迫力で外野席には面白い。

その鼎談の最後の方、土生田さんが百済の前方後円墳について、以下のように自説を語っている。

少々長めに引用する。小見出しは私がつけたもの。

百済の前方後円墳

① 誰が建てたもの?

これはおもに「倭系官僚説」と、「在地首長説」というのがあります。私は「在地首長説」を支持します。

② 倭系官僚という人々がいた

当時の百済の官僚のなかで有名な人に日羅がいます。

そのお父さんがいまでいう熊本県八代方面の人で、向こうへいって現地の奥さんを娶って、その子どもが日羅です。ですから、いま風にいえばハーフです。

③ 日本名と百済名の複合名

百済の官僚を見ていくと、日羅をはじめ、日本名と現地の名前とが合わさった「複合名」がたくさん出現する時期があります。たとえば物部の○○というぐあいです。6 世紀後半にたくさん出てきます。

④ 複合名の隆盛と前方後円墳は時期が合わない

しかし倭系官僚が活躍するのは 6 世紀後半ですが、前方後円墳はだいたい 6 世紀前半です。時代が合いません。ただし否定はできません。

⑤ 前方後円墳は百済ではない

これに対し、私は在地首長説を主張しています。と言っても当時は在地の首長だけれども、そのあと完全に百済に編入されます。

(百済はもとはソウルを中心とする国だったのが高句麗に圧迫され南下を繰り返した。南下に際し旧馬韓の諸国を版図に入れ、倭に任那の宗主権放棄を迫った)

つまり百済からみて未だ十分に支配できていない南端の僻地になるのです。


⑥ 秦韓、慕韓は倭の五王のねつ造

あの辺り(馬韓南部の地域)は、日本の倭の五王が秦韓、慕韓などいろいろな国を捏造したところです。

そして倭は馬韓を変形して慕韓と名付けました。そこはまだ百済にまだ完全に併合されていない地域でした。

それは同時に、前代における馬韓の中心地でもなく、その周辺地域にあったということも意味します。


⑦ 日本の前方後円墳との違い

そういう地域の人が百済の迫りくる危機
に対して身の危険を感じて、日本ともつながっているというふうに示したと私は考えています。

実際に古墳の様子を見るとだいぶん違いますので、(倭系官僚が直接建設したのではないと思われます)



⑧ 一代限りで終わった前方後円墳

(百済の前方後円墳は)光州市の月桂洞1- 2 号墳を除くと全部一代しかありません。

そのあとは完全に陵山里式という百済の中枢の石室になったりします。

(これに対し、地方の有力者は百済の官僚機構に取り込まれ、その結果複合名の官僚が増えたのではないかと考えられる)



感想

1.慕韓、秦韓は倭の創作

慕韓、秦韓を倭の五王の創作だと言い切ったことには度肝を抜かれた。しかし言われてみると確かにそうかも知れない。

五王のしんがりを務める武はたしかに複雑な側面を持つ。それまでの4王が霧の中の人物であるのに比べると、この王の周辺事実の多さは圧倒的だ。

百済の皇太子を人質に取り百済に対して優越性を保持し、新羅に対しても睨みを効かせ、しばしば武力干渉を行う。一方では、彼を最後に中国への遣使が途絶えるなど重大な内部問題を内に抱えていた。

6世紀のはじめ(おそらく死後)、百済の領土要求に屈し、任那の重要部分を割譲している。おそらくこれが遠因となり筑紫君磐井の乱を起こしている。

2.好太王碑では任那と加羅は別物

高句麗は紀元400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。倭軍が退却したので、これを追って任那加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

好太王の碑にそう書かれており、これを信用しない限り議論は進まない。

これを素直に解釈すれば旧三韓のうち弁韓と辰韓が新羅・加羅・安羅の三国に再編成されたと見るのが自然であろう。そして馬韓は任那へと再編されたと考えられる。

洛東江バルジのやや南方の慶尚南道咸安郡伽倻邑というところで大規模な遺跡が発掘され、安羅の都ではないかと言われている。ただ韓国の命名はきわめて恣意的で、すべて伽耶連合の属国として強引にくくろうとする。任那は任那伽耶で、安羅は安羅伽耶である。いつまでこの絶望的な反日の歪みが続くのであろう。

加羅と伽耶の異同は不明だが、好太王碑に伽耶の記載がない以上、伽耶は加羅の後の時代による別称だと考える。これについてはなんとなく同意がある。

3.馬韓南部の前方後円墳の意味

私は以前から主張してきたのだが、前方後円墳はぼた山なのではないか。とくに地面を鏡のごとく水平にならし水の流れを整える水田づくりには膨大な残土が出る。それを丸く積み上げれば巨大な土饅頭となる。それを墓にするのは支配者にとって一石二鳥だ。

だからそれは文化の中心ではなく、周辺部の水はけの悪い新田開発地帯にドカドカと建てられる。いくら大きくてもそれほどの価値はない。廃坑のボタ山がいくら大きくても大した価値がないのと同じだ。

同じことが全羅南道の不便な湿地帯にも言えないだろうか? と密かに思っている。

古墳時代という時代区分は、どうも面白くない。もしヤマトの勢力が最強の力を握った時代だとするなら、ヤマト時代と呼ぶ米ではないか。マンローがいみじくも述べたように…





以前あげた年表がある

こちらはその増補版

三大文化の始まり
BC7000 長江流域に初期稲作が登場。
BC6200 遼河流域で最初の文化、興隆窪文化が栄える。
BC4800年 華北平原および黄河流域に人々が定着。黄河文明の先駆けとして、陝西省から河南省にかけて仰韶文化が発祥。貧富の差がみられ、社会の分業・階層化が進んだ。河南龍山文化に引き継がれる。
BC4700 遼河流域で紅山文化が栄える。風水や龍の信仰は遼河文明が黄河文明に影響を与えたものとされる。

黃河文化の突出
BC4300年 黄河下流に大汶口文化が発生。山東龍山文化に引き継がれる。
BC3000年 龍山文化の前期が開始。
BC3000年 長江中流域でミャオ族による屈家嶺文化が始まる。下流域では良渚文化が主役となる。
中原・陜西龍山文化と山東龍山文化に分かれている。
中原・陜西では、城壁を備えた都市が出現する。最大のものは陝西の陶寺遺跡。
山東龍山文化は山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖遺跡を中心とする。
BC2600 後期竜山文化登場。黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化である。青銅器が使用され始めている。

黃河文化(華夏民族)の南方進出
BC2500頃 華夏民族が南方に進出。「涿鹿の戦い」に勝利し、蚩尤民族を駆逐。蚩尤民族はミャオ族と黎族に分裂し、ミャオ族は四散した。
BC2500年 長江中流域の屈家嶺文化が衰退。上流の湖南で石家河文化が始まる。
BC2000年 龍山文化の末期 人口は激減し、遺物も貧しくなる。(500年にわたる暗黒期)

夏の建国と二里頭文化: 五穀の栽培と農耕文化への移行
BC1920 黄河が大洪水。このときに禹が土木、治水を率い功績を上げたことから王位に就いたとされる。
BC1900年 史書によれば夏が建国され、初代の禹から末代の桀まで471年間続く。龍山文化集団の流れをくむ遊牧民族的な父系集団。陽城に都を構える。
BC1900年 河南省洛陽市二里頭村を中心に、推定人口2万人に達する巨大な遺跡が建設される。炭素14法で殷に先立つことが判明。『史書』に伝わる夏に相当すると見られる。
二里頭遺跡は4層からなり、1期と2期が夏王朝のものとされる。粟、黍、小麦、大豆、水稲の五穀を栽培していた。最盛期の人口は2万人以上と推定される。青銅器はない。
BC1700年頃 二里頭遺跡の3期と4期からは青銅器工房と宮殿が発見され、殷時代の遺跡とされる。
メソポタミアではBC4000年より前に青銅器時代に入っているが、中国に青銅器が入ったのはBC1600ころ、夏の時代の末期である。

殷(商)による夏の滅亡: 青銅器兵器時代の到来
BC1600年 商の湯王が諸侯を率いて夏の桀王を滅ぼしたとされる。夏の遺跡では夏人の毀損された遺骨と殷(商)の青銅の武器が多量に出土する。
BC1600 殷(商)が建国される。殷は後継王朝の周による呼称。都は亳(商城)に置かれた。考古学的には河南省鄭州市の二里岡遺跡に一致。先行する二里頭文化に影響を受け、青銅器を大々的に使用する中国最初の文化となる。
BC.1400 殷は王位継承の争いにより一時衰退。
BC.1300 後期殷王朝を隆盛に導いた盤庚王(第19代)、殷の都を河南省安陽市の大邑商(殷墟)に遷す。このあと殷は最盛期を迎える。

殷(商)から周の時代へ: 中原の統一と絶対王政
BC.1071 紂王、妲己を寵愛する
BC.1056 周の文王、殷により幽閉され死没。周の武王、紂王(帝辛)の暴政に対し周を中心とする勢力を結集。
BC.1046 殷周革命。周(西周)が建国される。鎬京(西安)を都とする。
BC.827 宣王が周王朝を復興,中央集権的政策を行う。

戦乱の600年
BC.770 周の幽王が殺される。残党は成周(洛邑)に都を移し東周となる。平王が即位。春秋時代の始まり。諸侯は東周をたてまつり割拠。
BC.551 孔子が誕生。これに前後して老子、孫子が誕生する。
BC.476 晋が消滅。盟主不在の戦国時代に移行。
BC.473年 越王勾践が呉王夫差を滅ぼし、長江流域の覇者となる。

鉄器時代への突入と西の辺境「秦」の強大化
BC400頃 鉄器の時代に入る。鉄製武器をいち早く取り入れた秦が勢力を拡大。BC.230 秦が韓を滅ぼす。以後、趙、魏、楚、燕を相次いで滅ぼす。
BC.221 秦の始皇帝が中国を統一。漢人が長江人を駆逐して長江流域に定住。

「伽耶国」の文献的根拠

韓国の文書には必ず「伽耶国」が登場する。

これに対し日本語版ウィキは、伽耶を加羅に置き換えて論じている。逆に韓国史学界は「加羅を伽耶に」置き換えて論じているようだ。

これは学者のやり方ではない。

しかもこれに任那をくっつけて、伽耶=加羅=任那の三位一体説まで進んでしまうので、我々シロウトには甚だ居心地が悪い。

どうもわからないのだが、中国の史書ではどうなっているのか、調べてみなければならない。果たして同一視してよいのか、同一視するならどちらに一本化すべきなのか、よくわからない。

中国史書における「伽耶」

ウィキによれば
唯一、清代に編纂された『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が用いられている
となっている。

ということなので、これは「伽耶」説にとってかなり具合の悪い話だ。ただ最初にも触れたように日本語版ウィキにはかなりバイアスがかかっている可能性もあるので、少し慎重に検討するべきだろう。

この後ウィキは古代朝鮮における「伽耶連盟説」を主張しているが、ここでも韓国史学界がなぜ伽耶の名称を用いるのかの説明を行わない。

また伽耶連盟説の文献的根拠についても説明がない。

教科書的な説明

世界史の窓」という教育者向けの解説サイトに、「新羅と百済に挟まれた半島の南端」についての解説がある。

これも同じく「伽耶=加羅=任那の三位一体説」に立っているが、説明はもう少し親切だ。

少し長く引用する。
『三国史記』ではおもに加耶(かや)として出てくるが、他に伽耶、加良、伽落、駕洛という表記もある。『梁書』には伽羅、『隋書』には迦羅と表記される。
加耶 ka-ya は加羅 ka-ra の r 音が転訛したもので、朝鮮語ではよく見られる。
もしこのとおりだとすれば…

これでかなり経過がはっきりしてきた。正式には加羅なので、科学的な議論の際は加羅と書くべきだ。カヤはカラの訛りなのであって正式な呼称ではない。

たしかに三国史記では伽耶と記載されており、すでに一般名として市民権を得ていることは間違いない。しかしそれは加羅の滅亡から1千年も経ってからの書であり、呼称である。

「加羅を伽耶と呼ぶべきではない」という意見は、本来は韓国の中から湧いてきて然るべきだろうと思う。それが祖先に対する敬意ではないだろうか。

少なくとも「伽耶」という呼称は、国際的な学術交流に際しては避けるべきではないか。まして日本がそれに従う所以はない、と私は思う。

任那の同一視について

同じサイトでの説明は下記の通り。
任那は本来はニンナと呼ばれていたものがなまったもの。広開土王碑には「任那加羅」と書かれており、加羅の中の一国を指す。
さらに続けて、加羅諸国の一つ「金官国」の別称と書かれているが、相当乱暴な説明だ。任那加羅と続け書きされているから「加羅の任那」だというのは到底説得力がない。「任那と加羅」と読んでいけない理由はまったくない。

もし任那がたんなる金官国の別称なら、「金官国」と改めるべきであるが、私にはそうは思えない。

「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓国諸軍事 安東大将軍 倭王」との宋書の記載は、安易な解釈を許さない。

韓や唐を「から」と呼んだのは日本人独特の通称であり、本来の意味とは異なる。私は「韓国」や「唐帝国」をカラと呼べと韓国の人に強要するつもりはない。


六朝時代における南北対立

倭の五王の歴史的事実は六朝時代の史書群の中にしかない。その史書群は日本書紀の作者たちも読んでいた。日本書紀の作者たちの情報入手先は、百済に持ち込まれ蓄えられた情報(百済本紀をふくめ)を介してのものである可能性が高い。
いろいろな憶測はできるにしても、五王の情報を跡づけるには六朝時代の史書群を読み込み、この時代の朝鮮半島がどう動いていたのかを探るしかない。
その際の最大のキーポイントは中国本土と朝鮮半島を南北に隔てる深い境界線である。見方を逆にすれば、中国南部と朝鮮半島南部をつなぐ「海上の太い帯」の存在である。
中国大陸北部は五胡十六国の時代であり、目は北や西の内陸地方に向いていた。北部を統一に導いた北魏も西域とつながる鮮卑人の国であった。朝鮮半島北部も南満人国家である高句麗が支配していた。
南朝鮮(倭国も含む)の諸国は、敵国高句麗を通過してまで北魏とつながる関心もなければ利益もなかった。
したがって倭は南朝に対して、南朝鮮の諸国とひとやまいくらの存在として存在していて、その中の盟主(の一つ)的存在であったと言える。

六朝政権の根本的利害

このような南北対立の地政学的構図を念頭に置くなら、六朝側の根本的要求は朝鮮半島での北方勢力の南方進出を阻止することに尽きる。黄海越しに柔らかい脇腹を突っ突かれるのはまっぴら御免被りたいところだ。

その観点からすれば最も重要な同盟者は百済であり、倭国はその強力な支援者として評価されるのだ。おそらく20年ほど前、高句麗の好太王が攻め込んだ時代に、倭が百済と新羅の支援者として出兵したことを六朝政権は忘れていなかったのではないか。



六朝時代と五胡十六国時代の経過

三国時代の呉が滅亡した後、呉の支配域に継起した諸国の総称。

222年 呉が魏より独立。建康(建業)に都をおく。魏、蜀が並び立つ三国時代の開始。

265年 黄河流域の魏が滅亡し、晉の支配が始まる。

280年 晉の攻撃を受け、呉が滅亡。晉が全土を統一。

317年 晉が北方民族に敗れ滅亡。黄河流域では五胡十六国時代の戦乱期に入る。(五胡は匈奴、鮮卑、羯、氐、羌)

317年 晉の残党が長江流域に逃れ、東晋が成立。(それまでの晉は、通常、西晋と呼ばれる)

386年 黄河領域を鮮卑出身の北魏が統一。五胡十六国時代が終わる。統一の完遂は442年まで降る

413年 倭王讃が東晋に遣使。その後477年までに少なくとも9回が確認される。

420年 内紛により東晋が滅亡。宋の時代に入る。これ以降中国は南北朝時代に入る。

449年 北魏軍が宋に侵入。国土は荒廃し、国力は低下。その後内紛が続く。

477年 (宋書))倭国が宋に遣使。

478年 (宋書)順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に除す。武の確実な遣使はこれが最後となる。

479年 宋が滅亡。斉の時代に入る。

479年 (南斉書)太祖高帝、武の将軍号を「鎮東大将軍」に進めた。

502年 斉が滅亡。梁の時代に入る。この後の数十年、南朝は最盛期を迎え、北魏をしばしば打ち破る。

502年 (梁書本紀)武が「征東将軍」に進号された。この後、倭王朝と南朝との関係は途絶える。

534年 北魏が分裂。東魏、西魏となる。

549年 梁で内紛。武帝が死亡し、梁は実質的に崩壊。

557年 梁が滅亡。その後1年にわたり王不在が続く。

558年 最後の王朝、陳が始まる。

577年 西魏の後身北周が、東魏の後身北斉を倒し中国北部を統一。

581年 隋の楊堅が北周を引き継ぎ隋を起こす。

589年 最後の王朝、陳が滅亡。隋が中国全土を統一。六朝文化が終焉を迎える。

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