鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

ふと思いついて、「書いて置かなければ」と書いているがだいぶアルコールも入って、眠気も募ってきている。
思いつきというのは、大阪の繁栄は日本の中国進出を背景としているのではないかということである。
以前、明治維新というのは江戸幕府に対する関西の反攻ではないかと書いたことがあって、粗レがあらゆる面から否定されてしまったという苦い思い出がある。
確かに要所要所で大阪は重要な役割を果たしてはいるのだが、長続きはしない。
元禄の頃、日本永代蔵という状況があって多さから日本の経済の中心ともてはやされた時代があった。近松とか西鶴、落語も上方優位だ。しかしそれは元禄の一刻であって、1800年代に入ると大阪は寂れ江戸は人口百万、世界最大の都市へとのし上がっていく。ところがそういうことは大阪の人は書かないから、いつまでも大阪が経済の中心地だと思ってしまうのである。
それが分かったのは堺市長選挙のときに、堺の勉強をしたからなのだが、明治の末まで大阪は堺の後塵さえ拝しかねないほどの落魄れであった。
それが大正に入ってから見る間に持ち直し、第一次大戦の跡の糸偏景気で一気に日本のマンチェスターに上り詰めたのである。
それを可能にしたのは中国貿易以外に考えられない。そのへんを少し数字で裏付けてみたいと思っている。秘密を解くカギは上海 にあるのではないかと見ている。

加藤哲郎さんの 「イラク戦争から見たゾルゲ事件」講演録 (2005年4月、日露歴史研究センター)

という文章が面白い。思わず「なるほど」とうなづけてしまうところがある。
1.コミンテルンとアメリカ共産党
中国・日本におけるアメリカ共産党の影響力はかなりのものだ。かつて党創立者とされていた片山潜はアメリカ共産党を最初のキャリアとしている。野坂参三も一時期はアメリカを根城に対日工作を行っていた。その他にも多くの実例をあげることができる。
「しかしそこには秘密がある」というのが加藤さんの意見である。
30年代のアメリカ共産党というのは、アメリカ政治のなかでは影響力を持たない泡沫政党でした。しかしコミンテルンの中で、一段と重要な存在になっていました。
それがなぜなのか、そこにゾルゲ問題をあつかううえでの勘どころがある。

2.コミンテルンとフロント組織をつなぐ結節点
加藤さんの判断として、アメリカ共産党はアメリカ労働者・人民の前衛政党としての側面の他に、資本主義体制におけるコミンテルンの“偽装出張所”(情報活動組織)としての側面を持っていたのではないかと考える。
この2つの側面を反映して、党内にも国内活動を主体とするフォスター派と国際活動を主たる活動の場とするブラウダー派に分かれ対立していたと言う。
加藤さんは、とくに汎太平洋労働組合(PPTUS)が、アメリカ共産党の東アジア連帯活動の中核を形成していたこと、それが国共合作崩壊後のコミンテルンの中国工作と完全に同調していたことを強調する。アール・ブラウダー書記長自身、党内の前職はPPTUSの上海駐在代表だった。
アメリカ共産党は、まるで人材派遣業みたいに、モスクワの必要と求めに応じて、党員を送り出しました。世界中どこへ行っても活動できる人材を、アメリカ共産党は、即座に供給することができたのです。
ということで、アメリカ共産党が自国の解放運動に責任を持つ階級政党と言うよりは、海外派遣社員のリクルート組織であった。そうなっていった二つの理由を示す。
一つは、現地で行われるどんな秘密活動にも参加できる、現地人と同じ肌の色のバイリンガルを供給できたからです。
30年代にはアメリカ共産党内に、一般細胞の系列とは別に、16の言語別グループがありました。アメリカ共産党日本人部は200人が組織されていました。
いま一つ、30年代米国共産党指導部はブラウダーら国際派が占めていたことです。国際的な人の派遣はニューヨークの党本部が直接タッチしました。
ということで、ブラウダー書記長が上海での国際活動についてコミンテルンと密接な連絡をとっていた証拠を明らかにしている。
「なぜか」という疑問には直接答えていないが、おそらく蒋介石の寝返り反共化の後、コミンテルンの中国での活動が困難になったからだろう。そのため任務のかなりの部分(とくに人脈作り)をアメリカ共産党に依存したのではないだろうか。
ゾルゲの1933年夏日本入国の際も、米国共産党が活動の詳細について指示をして、バンクーバーから横浜に入っている。
ということで、アメリカ共産党の日本・中国の階級闘争への関与はたんなる国際連帯ではなく、アメリカ共産党がコミンテルンに対して負った国際的任務の一つになっていたのであろう。
これが加藤さんの読みだ。

3.コミンテルンの偽装組織
たしかにそうだ。蒋介石の裏切りにより国共合作が失敗してから後のコミンテルンは、完全な手詰まり状態にあった。このときリベラルな装いで上海の政治シーンに登場した左翼外国人は、なんらかの形でアメリカ共産党(プロフィンテルン)の影響を受けていた。
それは蒋介石の恐怖支配、二度の上海事件と日本支配、そして日本軍による「租界」の閉鎖までかろうじて繋がれていく。
加藤さんは、ゾルゲと尾崎の出会いを “いつ、どのように” 問題に矮小化せずに、大きな文脈の中に捉えるべきだと主張しているのであり、たしかにそれは慧眼である。
その大きな文脈とは、コミンテルン→アメリカ共産党による現地ネットワークの形成であり、尾崎はそこに絡め取られた巨大な獲物であったということである。

4.スメドレー説を目の敵にする必要はない
加藤さんは学者だから、スメドレー説を許せないと考えているかも知れないが、ゾルゲが上海に来たときすでにスメドレーと尾崎は知己の関係にあった。それも相当の関係である。スメドレーが味方に引き込もうとしてもなんの不思議もない。
ゾルゲとスメドレーは同じフランクフルター・ツァイトゥングの特派員である。ただしゾルゲが身分を明かしていたかどうかは不明だが、ともにアメリカ共産党系のルートで動いていたと考えるなら、同志関係であることは気づいていたはずだ。
直でスメドレーが動いたのではなく、いったん情報をPPTUSに上げ、そこの判断でゾルゲに話を持ちかけたのではないだろうか。
そこが納得できれば、誰が動いたか、いつどこで会ったのかはどうでも良いことになる。

尾崎とゾルゲの出会いをいつ、だれがセットしたのか?
この問題はいまだ決着がついていないようだ。

1.加藤哲郎説

ウィキペディアのアグネス・スメドレーの項目は加藤哲郎の説を引用し、他説を否定する。
ゾルゲ裁判の判決では「スメドレーがゾルゲに尾崎秀実を紹介した」とされた。
ただし、実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣されていた鬼頭銀一であった。
尾崎は具体的に供述したがゾルゲが鬼頭銀一とのつながりを強硬に否定したために、最初の紹介者はスメドレーということに調書が統一され、裁判でもこれが採用された。
加藤哲郎の説は、『ゾルゲ事件 覆された神話』という本に記載されているらしい。(平凡社新書 2014年)
記事の脚注を見ると、記載のほとんどが同書によっているようである。ここでは加藤哲郎説と呼んでおく。

2.過大評価?
ウィキペディアのリヒャルト・ゾルゲの項目は、上海時代の記述はかなり粗っぽい。(東京時代は詳しい)
1930年に、ソ連の諜報網を強化と指導を目的として上海に派遣される。
半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つ。
ゾルゲ諜報団の日本人は、尾崎秀実、鬼頭銀一、川合貞吉、水野成、山上正義、船越寿雄であった。
スメドレーは尾崎秀実とゾルゲの橋渡しをしている。実際に二人の出会いに重要な役割を演じたのは、アメリカ共産党から派遣された鬼頭銀一である。
と、どうにでも取れる文章になっている。

3.いったいどっちなのさ?

両論併記なのはウィキペディアの尾崎秀実の項目も同じだが、もっと盛大にやらかしている。
常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。
南京路にある中華料理店の杏花楼で、二人は会った。ゾルゲはコミンテルンの一員であると告げ、協力を求めた。
実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸という運送会社に潜り込んでいた鬼頭銀一である。
鬼頭云々の記述の根拠は、スメドレーの記事と同じく加藤説である。
二人が初めて会ったのが常磐亭で、ゾルゲが打ち明けたのが杏花楼ということになるが、どうもちぐはぐだ。どちらかを採用してもう片方は参考情報として注記するというのが引用者のマナーだろう。

4.良い記事だが…
ウィキペディアにはもう一つ、ゾルゲ諜報団という項目の記事がある。こちらの方をゾルゲの記事にしたいくらい良くまとまった記事だ。
ゾルゲは中立国で連絡員として情報や資金の受け渡しに携わっていた。その合間に労働組合やイギリス共産党の内部事情を探り、兵器工場の稼動状況について報告した。
これが労農赤軍本部第4局局長のヤン・ベルジンの目に止まり、1929年にスカウトされ、本格的に諜報員としての訓練を受けた。
ベルジンは、中国共産党と中国国民党の対立構造、内部事情を調査するためゾルゲを中国に派遣した。
このとき「中国共産党との交渉は持つべからず」、「共産主義活動には従事すべからず」の2点を厳守するよう命じられる。
なおラムゼイは暗号名であり、上海での偽名はフランクフルター・ツァイトゥング特派員「ジョンソン」であった。
ゾルゲはもう一つの偽名、フランクフルト・アム・マインの『地政学雑誌』の特派員「ドクトル・ゾルゲ」を用い、蒋介石や何応欽などとの面識を得た。
ゾルゲは32年まで上海に滞在した後、いったんソ連に戻り、33年9月6日に横浜に上陸する。
以上が上海での活動の概要である。内容豊富である。しかし二人の出会いがいつ、どこでかは明らかにされていない。
なおウィキペディアにはゾルゲ事件という項目もあるが、逮捕劇以降に的を絞った内容。

5.鬼頭銀一という人物
グーグルで検索しても、鬼頭銀一の名を冠したファイルは見当たらないが、関連ファイルはいくつか見つかる。その多くが加藤哲郎論文の紹介である。
まず表題である「覆された神話」とは、誤った「伊藤律スパイ説」のことらしい。とりあえずそのことは保留しておく。
ついで鬼頭という人物が紹介される。
鬼頭銀一は1903年に三重県に生まれ25年にアメリカに渡りそこで共産党に入党、31年に上海で日本の特高に検挙されている。
その後は足を洗い、37年にかけて神戸でゴム製品商をしていた。37年には南洋パラオ・ペリリュー島で雑貨店を始める。
38年に訪ねてきた30歳前後の男に“ゆであずき”の缶詰をすすめられ、間もなく苦悶し息絶えた。遺族は、謀殺ではないかと疑っている。
引用はここまで。
結局わからずじまいだ。

不破倫三について

別にどうって言うことはないのかも知れないが、不破倫三という、不破哲三と似た名前の人がゾルゲ事件に(エピソード的に)登場する。

不破倫三も不破哲三同様に筆名であり、本名は増田豊彦と言う。
ウィキペディアによると、文筆家・ジャーナリストで(1900年5月22日 - 1974年7月11日)のあいだ生きていた。

1.増田豊彦の経歴

1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、設立されたばかりの高松高等商業学校の教授となっている。

1926年、労働農民党結成に参加し調査部長に就任した。1928年に同党が解散すると、ドイツ語文献の翻訳活動に没頭したようだ。
1931年、ベルリンに留学し、1932年、朝日新聞ベルリン特派員に採用され、帰国後に東京朝日新聞に入社する。

1934年、東亜問題調査会に配属され、ここで尾崎秀実と出会うことになる。
ただその後は左翼とは距離をおいたようで、終戦時には軍から委託されたジャワ新聞の社長として現地で終戦を迎えている。
戦後の活動にも取り立てて注目すべきものはない。

2.不破倫三の経歴

不破倫三は増田豊彦が左翼文献を翻訳・発行するにあたって用いた筆名である。由来はかなりはっきりしていて、レーニンの後継者と目されながらスターリンによって粛清されたブハーリンのもじりである。

あまりウィキを見ても判然としないが、翻訳の一覧を見ると、不破の翻訳のほとんどが1927年に集中しており、労農党の調査部長としての仕事をこなしていたものと思われる。

28年にヴァルガの経済学書を出版しているので、この頃から本腰を入れ始めたと思われる。

そのような経過の中で29年にリヒャルト・ゾンテル著「新ドイツ帝国主義」という本を翻訳発表した。ゾンテルというのはゾルゲの筆名である。
本

ドイツ語の原著が発行されたのが28年だから、えらく早い。この本に限らずドイツ語文献の翻訳出版はほとんど同時発表かと思うくらい早い。日本人の食いつきがいかにすごかったかが分かる。

3.ゾルゲとの接点

卒業したばかりで高松高商教授として赴任し、田舎暮らしを強いられた。漱石の坊っちゃんと似ていなくもない境遇だ。
そんなことで4,5年の鬱屈した生活を送ったあと、多分そちらの系統からは足を洗ったのであろう。
1930年ころのベルリンといえば、ドイツ共産党の鼻息がもっとも荒かった頃で、国崎定洞ら日本人学生のグループも活発に活動していたはずだ。
ゾルゲもモスクワを離れベルリンで上海行きの準備としていたのであろう。
しかし、前年まであれ程の翻訳活動をしていた増田が、ウィキで見る限りはまったく音無しとなっている。帰国後は東京で言論人としての活動を続けているが、なにか革新的なアクションを起こしている気配はない。
ゾルゲとは、尾崎秀実という接点があるが、尾崎を介してゾルゲと益田が出会ったという記録は残されていない。ゾルゲとの接触の可能性はあった。しかし、ゾルゲが「新ドイツ帝国主義」の著者リヒャルト・ゾンテルだと気づく可能性は限りなく低かった。
おそらく尾崎でさえ、ゾンテルがゾルゲであることも、同僚の増田が不破であることも知らなかったろうと思われる。

4.不破哲三と不破倫三

不破哲三の本名は上田建二郎である。同じ東大卒ではあるが、二人の間にまったく接点はない。

不破哲三本人は不破倫三の名を意識しているかどうかについて問われ、関係ないと答えている。
これはかなりウソっぽい。戦後、不破哲三が活動を始めた頃、巷間にまともな本はなかった。図書館にはさらになかった。古本屋を回っては戦前の著書を買い揃えるのが日課だった。

古本屋の店先で、絶対に不破哲三は20年前に出版された不破倫三の訳本を見ていたはずだ。

党に入るとみんなペンネームをつけるもので、それで一人前になった気がしたものである。
名前のつけ方はきわめていい加減、本名に似ていなければどうでもよいので、佐藤正とか鈴木一郎みたいにこの上なくありふれた名前をつける人もいれば、香月徹みたいなしゃれた名前にする人もいた(何故か北小路敏は本名)。私は若草薫だったが、これは駅前のパチンコ屋「若草」によるものだ。名字が若草なら名前は薫以外ないだろう、と気に入っていた。
不破さんは前に買った本の訳者のペンネームが気に入って、深い意味もなく拝借したのではなかろうか。

札幌も流石に暑くなり、調べ物をする気がしません。
フラフラと「ネット散歩」をしています。
今回は東京地図研究社のサイトで
というページを見つけました。多分社長さんの趣味のブログではないかと思います。
ざっと紹介していきます。詳しくお知りになりたい方はぜひ本文に回ってください。

1.谷は西日本、沢は東日本
谷状の地形を表す地名には「沢」と「谷」の2通りある。どこが違うかと言うと東と西の違いだ。
1/2.5万地形図に採用されている「沢」「谷」地名を県ごとに集計し、 その比率によって色分けをした。
谷と沢

東日本では「○○沢」が圧倒的に多く、逆に西日本では「○○谷」ばかりだ。
「沢」と「谷」を分ける境は、北アルプスの尾根に沿って引くことができるが、太平洋側では混在帯が存在する。
関東に「谷」の飛び地があることは、弥生人の集団移住があったことを示唆する。
中国以西の地域には「沢」や「谷」の地名がない地域がかなりあり、この地形に対する第三の呼称(渓や峡)があると考えられる。

2.東は縄文、西は弥生
その理由についてはまだ不明な点も多いが、縄文文化の影響を強く残す地域と弥生文化の影響が大きかった地域で 地名に差が出たともいわれる。
縄文文化は、 落葉広葉樹林の多い東日本を中心に発達した。 落葉広葉樹林にはドングリなどの木の実が多く、それが縄文人の主食になった。
また落葉広葉樹林は密林にはならないので、森に入っての猟(漁)がしやすかった。
西日本には照葉樹林(常緑広葉樹林)が広がっており、 密林化して人を寄せ付けない。そのため縄文人の数は東日本に比べはるかに少なかった。

3.弥生人の東方進出で状況は変わった
やがて西日本に稲作とともに弥生人が渡来してきた。彼らは、照葉樹林を切り開いて耕地にしながら、生活圏を広げた。
西日本の縄文人は、少数派として生きるための選択を迫られた。
徐々に弥生人と融合していくか。それとも山奥へと引きこもっていくかである。
一方弥生人にとって、「谷」は危険で近寄りがたい密林であった。


中核的事実は1.であり、2.と3.はその解釈である。
いろいろデータを眺めつつ、いろいろ思いを巡らせてみたが、結局断念した。これ以上分析しても、たいしたものは出てこないと思う。牽強付会になってしまいそうだ。

目からウロコの地名由来 というブログの「谷」と「沢」地名も参考にした。





この絵は四街道市役所のホームページから拝借したものである。
おそらく衛星写真に海抜20~30m位の等高線を重ね合わせたものではないかと思う。
市川=船橋以西はいじってないが、こちらにも同程度の海進があったものと想像される。
香取海
この「地図」を紀元前後の東関東だとすると、次のように言えるだろう。

東関東には鹿島神宮と香取神宮を両端とする巾着型の湾があった。これが香取海である。
これは鹿島側から南に伸びた砂嘴によってせき止められ、潟湖となった。
その時点では、印旛沼、手賀沼を中心に現在の霞ヶ浦・北浦を凌ぐほどの水面があったが、これらは鬼怒川・小貝川の沖積物により徐々に陸地化していった。

これらの陸地は土木技術の開発により新田づくりの対象となる。香取湖は岡山平野、河内湖、大和盆地、巨椋池、琵琶湖南岸、加賀平野につぐ潟湖干拓型モデルの最大のパイロット事業となったであろう。

造田工事には利水が必要で、利水は取水と排水に分かれる。泥状地を水田とするためには、自然利水とはまったくレベルの違う数年がかりの大工事となる。
そのためには一般的共同体ではなく、公費・労力の強制支出をともなう階級的共同体が求められる。
このような共同体を創出できたのは、武装共同を基盤とする天孫族社会のみであった。

初期の天孫族は越後から信濃を経由して群馬に入ってきた。いわゆる毛の君であろう。彼らはさきたま古墳群あたりを拠点にしながら干拓事業に勤しんだのであろう。

二つの可能性がある。彼らは九州王朝の臣下であり、ヤマト王朝の臣下ではなかった可能性がある。
もう一つは彼らは弥生人ではなく、縄文人を直接使役していた可能性がある。銅鐸文明の東端は加賀と遠江を結ぶ線であり、それ以東においては比較的まばらだったかも知れない。

ヤマトタケルの東遷は、さきたまの方角には向かっていない。真間から鹿島川をさかのぼっているのではないかと思わせる。
初期の大和政権の進出先は香取湖から常陸へと向かう。あたかも、さきたまや毛の君を避けているかのようである。
後になってだが防人の動員も常陸に大きく依存しているようである。

梅原猛氏の出雲王朝論
本を買うほどの気もないので、ネットの井沢さんとの対談を読ませてもらうことにした。
週刊ポスト2014年9月19・26日号

Q1 出雲王朝はどのような政権だったか?
A 『記紀』に述べられている神話はヤマト王朝以前に出雲王朝があったことを示している。
出雲王朝の祖先であるスサノオノミコトは、『日本書紀』によれば、朝鮮半島からやってきた。

Q2 出雲王朝はどのような王朝だったか?
A 銅鐸文化です。銅鐸は朝鮮半島の馬鈴が原型である。それが大きくなって銅鐸となった。

Q3 オオクニヌシの役割は?
A スサノオは出雲にやってきて出雲王朝を作った。スサノオの子孫のオオクニヌシノミコトは、近畿に進出して西日本を統一した。

Q4 ヤマト王朝との関係は?
A 西日本を統一した出雲王朝を、神武一族が滅ぼした。彼らは南九州からやって来て、出雲王朝を滅ぼして大和王朝を建てた。

Q5 銅鐸と銅鏡の関係は?
A 出雲王朝の信仰のシンボルは銅鐸であったが、ヤマト王朝においては銅鏡だった。銅鐸は破壊されてから埋められ、存在そのものを消された。それにより出雲王朝の権威は否定された。

Q6 出雲大社が存在するわけ
A ヤマト王朝は出雲王朝を滅ぼした。滅ぼされたものは祟るからそれを鎮魂しなければいけない。

これまで梅原さんの文章は読んだことがない。シロウトの言説をシロウトが読んでもろくなことにはならないと考えたからだ。
Q6はどうでもいい話だが、Q1~Q5までの5点はこちらもそう簡単には引き下がれない問題を含んでいる。


Q1については全面的に同意する。
ただし出雲王朝は九州王朝と同じ天孫族(騎馬民族)の末裔だ。衛氏朝鮮の血を引く扶余系民族(非ツングース系)で、おそらく韓半島南部の「高天原」から新羅方面に向かった支族の流れだろう。本隊は任那から対馬、壱岐と渡り唐津から上陸したのではないか。人種としての同質性は、後に神武と長髄彦との遭遇において証明される。

Q2については全面的に否定する。
出雲王朝(スサノオ・オオクニヌシ系)は徹底した反銅鐸原理主義者だった。
鳥取中~西部に2つの遺跡がある。ひとつは青谷上寺地(あおやかみじち)、もう一つは妻木晩田(むきばんだ)遺跡だ。2つは紀元0年から200年のあいだ、ほぼ同時に存在した。しかし遺跡のあり方はまったく対照的だ。
青谷上寺地は海に面し広大な田地を擁し、活発な海上交易を営んでいた。そこに暮らす人々は長江文明に端を発する弥生人であり、銅鐸文化を共有していた。妻木晩田は山城を構え戦闘態勢の中に生活していた。彼らの墓(方墳)は明らかに高句麗につながる北方系の特徴を示していた。銅鐸につながる遺物は見当たらない。両者は時代を共通していた。銅鐸文明圏に方形墓文化人戦闘集団が刺さりこんだと見る他ない。
紀元150年ころ、青谷上寺地は突如滅びた。数百体の虐殺された遺体が残された。妻木晩田はその後100年を繁栄のうちに過ごした後、徐々に力を失った。紀元250年ころにはほぼ生活跡が消滅した。山を降りたのである。
この2つの遺跡をどう読み解くかが、日本の前古代史のカギを握っていると私は思う。大胆に推測するなら、妻木晩田に暮らす出雲王朝系民族が青谷上寺地の銅鐸人(弥生人)を武力により支配するようになったのだと思う。
そのさい、天孫族(シャーマニズム)は銅鐸信仰(アニミズム)を危険視し徹底的に排除した。銅鐸に象徴される青銅器文明は、彼らには危険なほどに美しすぎたのである。この宗教弾圧は全国各地で展開され、「倭国大乱」を構成したのではないかとおもわれる。

Q3については一部について同意する。
スサノオは出雲にやってきて出雲王朝を作った。スサノオの子孫のオオクニヌシは九州王朝との戦いに敗れ、出雲を譲りディアスポラとなった。ただし出出雲と国譲りとの前後関係・因果関係は不確かである。別個に発生した可能性もある。
オオクニヌシ、あるいはその子であるオオモノヌシの時代、オデッセイたちは畿内に到達し、前大和王朝(あるいは後期出雲王朝)を建設した。3世紀後半、纏向王朝がこれである。
先住民である銅鐸人は天孫信仰を強制されるが生存は許された。畿内には銅鐸人とともにかなりの縄文人も暮らしており、これらが三層社会を構成した。
オオモノヌシは岡山・播磨を経由して河内・ヤマトに到達したと思われ、その間に児島湾の干拓事業などで大規模造田土木のノウハウを身につけたとみられる。

Q4については基本的に賛成。
神武一族が出雲王朝を滅ぼした。ただし滅ぼしたというのは正確ではない。支配が3階建てになったというだけの話だ。出雲王朝による現地人支配の枠組みはそのまま生き続けた。
現地人というのは弥生人である。それは長江からのディアスポラと縄文人の混血である。後着の天孫族が彼らの人口を上回ることはなかった。
神武系の支配は根付くことなく絶えた。10代目崇神天皇の出現により出雲系が完全復活し、実質的に九州王朝系の支配は絶えたといえる。ではなぜ九州王朝の後継を名乗ったか。それは九州王朝=倭国が桁違いの格上で、従属関係を継続するほうが得策であったからであろう。

Q5は基本的に否定する。
たしかに銅鐸は破壊されてから埋められ、存在そのものを消された。しかし銅鐸は長江文明の流れをくむものであり、出雲王朝は天孫信仰を旨とする集団である。妻木晩田の人々が青谷上寺地の人々を集団虐殺し、銅鐸文明を否定したように、近畿に進出した出雲王朝は銅鐸文明を葬り去った。そして神武のヤマト王朝はそれを引き継いだのである。
弥生人が銅鐸を信仰の対象としたように、銅鏡が1対1の照応関係にあるか否かは議論が必要だろう。銅鏡は中国文明との対応関係で問われなければならない側面がある。また、並行して銅剣の意味付けも必要になるであろう。いずれにせよ肝心なことは、銅鐸が異教の象徴として破壊され放棄されたことである。

ということで、梅原説は、既存の説に対するチャレンジとしては積極的なものがあるし、古代史学への挑戦の一つとしては評価されるものと思う。
ただ、すでにそういうレベルの話はとうに過ぎ去っている。現在の論争はより複雑かつ全体的な論理構築になっていると思われる。

おそらく「尾崎秀実の上海」を描くことは、上海の果たしたダイナミックな役割から見れば、その泡ぶくの一つを描写にするに過ぎないだろう。
それがいかなるところから、いかにして発生したかを書き始めると実施の筋書きの数倍に膨れ上がり、面白くもない物語になってしまうだろう。
それを面白いものにするためには、尾崎自身の行動に対する綿密な調査が必要であろう。その上で要領のいい刈取りとイメージの膨らませが必要であろう。
岩波新書の尾崎秀樹の「上海1930年」はその視点といい、事実の収集者としての資質といい、文句ないものである。
とりあえず、上海の外国人の動きを1930年を中心に前後数年のスパンで拾ってみよう。前提知識として中国人民族主義者や共産主義者の動きに関する知識、上海そのものの政治的・行政的・軍事的変遷についての知識、日本人の進出と侵略の経過についての知識が必要になるので、関係する年表をあたってもらいたい。

1925年(大正14年)
ウィットフォーゲル、「目覚めつつある支那」を発表。日本資本の紡績工場でのストライキより書き起こし、5.30事件を詳細に記録。
尾崎はこれを読んで中国に注目するようになった。
尾崎、東京帝大法学部から経済学部大学院に進学。唯物論研究会に参加し、大森義太郎に学ぶ。

1926年(大正15年)
尾崎、東京の朝日新聞社に入社。草野源吉の偽名で社会主義の研究会を開催。

1927年(昭和2年)
4月 上海に入った蒋介石のクーデター。国共合作が破綻し、左翼に大弾圧が加えられる。
10月 尾崎秀実、希望して東京朝日新聞の学芸部から大阪朝日新聞の支那部へ転勤。転勤後は大原社会問題研究所の「中国革命研究会」(細川嘉六)に顔を出すようになる。
27年 魯迅、上海に移る。
27年 スメドレー、精神的危機を克服。「女ひとり大地を行く」を著す(発行は29年)
27年 夏衍、帰国後中国共産党に参加、左翼文学芸術運動に従事する。

1928年
6月 蒋介石軍が北京を制圧。北伐が完了。北京を支配していた張作霖は満州に引き揚げる。
11月、尾崎秀実、朝日新聞上海通信部に赴任。3年余り上海に妻とともに在住。
12月 スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥング紙の特派員として中国に赴任。シベリア鉄道で満州に入る。
スメドレーはこの時点ですでに強固な共産主義者であり、なんらかのミッションにもとづいて行動していると思われる。フランクフルター・ツァイトゥングは左翼的な新聞で、共産主義者も多く参加していた。コミンテルンの隠れ蓑になっていた側面もある。

スメドレー旧居
スメドレーの住んだ上海のアパート このアパートの2階で住んでいた。大韓民国臨時政府旧址から西に300メートルほど。

エドガー・スノー、コロンビア大学の新聞学科を卒業した後、汽船のデッキボーイとして世界周遊に出る。上海に上陸し居つく。チャイナ・ウィークリー・レビューに就職する。この時点では共産主義とはまったく無縁の人。
スノーの『極東戦線』は大変な名文で、息も継がずに読み進んでしまう。「赤い星」についてはいろいろ意見もあるが、スノーが文章家であることは認めなければならない。

1929年
1月 スメドレー、張学良の支配する満州に3ヶ月間とどまり、日本の武力干渉の状況を記事にする。

5月ころ スメドレー、上海に移り、茅盾、魯迅、宋慶齢(孫文夫人)、蔡元培、林語堂、胡適などと交友を深める。

8月 尾崎、腸チフスに罹患。日本人の経営する病院で2ヶ月の入院生活を送る。

10月 中国革命互助会が結成され、共産党の支援に当たる。魯迅もこれに参加。左連の母体となる。

29年 スメドレーの自伝的小説「女ひとり大地を行く」が刊行される。表紙には美醜を越えた面構えの肖像写真が飾られる。のちに尾崎が邦訳を担当。

11月 自供によれば、尾崎がパレスホテルのロビーでスメドレーに会う。紹介者のワイテマイヤーは左翼系の「時代精神」書店の経営者。実際に「面白い女性がいる」と紹介したのは新聞連合の大形孝平だったが、尾崎はこれを伏せた。

11月 ゾルゲ、モスクワを発ちベルリンに向かう。その後マルセイユに出て日本行の定期航路に乗り込む。そのしばらく前に、自らの判断でコミンテルンから赤軍第4本部(情報部)に転勤している。

29年 中西功、上海の東亜同文書院に入る。中国共産主義青年同盟などに参加。42年にゾルゲ事件関連で死刑を求刑される。

1930年
1月 ゾルゲ、上海に到着。スメドレーと同じくフランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」を名乗る。ゾルゲ・グループを組織したのはスメドレーとされる。

2月15日 中国自由運動大同盟の成立大会が開かれる。魯迅、郁達夫、田漢、夏衍、陶晶孫、鄭伯奇らが指導する。

3月2日 左連が結成される。

7月 李立三の指導する長沙蜂起、南昌蜂起が失敗。この後蒋介石政権の弾圧が強化され、上海での活動は非合法も含め困難となる。

9月17日 フランス租界で魯迅の50歳の記念パーティー。スメドレーは開催に尽力した。初対面ではなかったとされる。

9月 河合貞吉が上海入り。田中忠夫、王学文らと中国問題研究会を組織。尾崎も運営に協力したという。

10月 尾崎によれば、このころ鬼頭銀一が接触を図ってきた。鬼頭はアメリカ共産党員で、太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸の上海支社に潜入していた。

11月 東亜同文書院で学生ストライキ。処分者を出すことなく要求を実現。

1931年 
1月 左連幹部5人が逮捕、虐殺される。尾崎、犠牲者の作品をふくむ「支那小説集 阿Q正伝]の発行に協力。白川次郎の筆名で翻訳を担当。

尾崎が外国人記者クラブでゾルゲと会見。



尾崎によれば調停役は鬼頭銀一であった。ただしゾルゲは明らかにしていない。

ニム・ウェールズ、ジャーナリストを志して上海に渡る。ユタ州の生まれでソルトレークの州立大学卒。政治的には無色。

1932年(昭和7年)
2月末 尾崎、大阪本社の命令により日本に戻り、外報部に勤務。
ゾルゲ、日本に活動の場を移す。職名はアムステルダム・ハンデルス・フラット紙の記者であった。
6月初め 宮城与徳が仲介し、日本に異動したゾルゲと尾崎が再会。尾崎は諜報活動に従事するよう要請を受け承諾する。コード名は「オットー」。
上海で「民権保障同盟」が発足。魯迅、宋慶齢、蔡元培、林語堂、胡適にくわえ、スメドレーも発起人となる。
エドガー・スノーとニム・ウェールズが上海で結婚。

1933年
5月 イギリス警察が「上海におけるソ連・スパイリスト」を作成。13人の名前にはスメドレーとゾルゲが記されている。スノーの名はなかったということになる。
9月 ゾルゲ、記者として来日。(このあたり引用文献により事実が錯綜している。この文章は相当怪しい。いずれ整理する)
スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥングからマンチェスター・ガーディアンに転籍。八路軍ゲリラを体当たり取材。『中国紅軍は前進する』『中国人民の運命』『中国は抵抗する』『中国の歌ご
え』などを立て続けに発表。
スメドレーの長征
     長征参加時のスメドレー
転籍の理由がよくわからないが、コミンテルンの統制を外れたのだろうか。

1934年 
10月 尾崎、東京朝日新聞に転じ東亜問題調査会に勤務。
エドガー・スノー夫妻、北京に拠点を移し中国共産党との関係を深める。
ニム
ニム・ウェールズ(本名ヘレン・フォスター・スノー)

1935年
ゾルゲ、いったん離日する。この間モスクワに戻ったらしい。

1936年
5月 ハロルド・J・ティンパーリ、北京から上海に移り、マンチェスター・ガーディアン紙の専従特派員となる。一時南京へ移動するが上海事変拡大に伴い上海に戻る。南京事件でのマギーの写真を広く流布する。

ゾルゲ、オットー独大使の私設情報官に就任。

鹿地亘、獄中転向の後上海に渡る。第二次上海事件を機に上海を脱出。重慶政府内で「日本人民反戦同盟」を結成。

1937年
4月 長谷川テル 中国人留学生と結婚し上海に渡る。その後重慶政府で対日反戦放送にたずさわる。緑川栄子のペンネームを用いた。夫妻の墓地は佳木斯にある。

1938年
カナダ人医師ノーマン・ベチューン、延安で診療活動を開始。ベチューンは臨床医として労働者の貧困に接し、共産党員として社会変革に参加するようになる。

1941年 

ゾルゲ事件が発覚。尾崎も首謀者の一人として逮捕される。

1944年
11月7日、巣鴨拘置所で両名の死刑が執行。


底本を間違えた。尾崎秀樹の「上海1930年」(岩波新書)という本は、まことにつまらない本で、一定程度の知識を持った人間には何の役にも立たない。その歯がゆったらしさにはイライラする他ない。
少し他の文献もあたった上でもう少しマシな年表にしたいと思う。とりあえず、中国共産党関係の歴史は毛沢東とそのライバルたちの年表を見ておいてほしい。


先程パーティーで、「ヒマというのはないものだ、しかし気持ちの余裕はできる」としゃべった。
みんながいまだに忙しくしているのを見て、若干肩身の狭い思いをして、しかしそれほど縮こまる必要もないと思って、酒の勢いでそうしゃべった。
その時、「尾崎秀実は“ヒマというのはないものだ。新聞を真面目に読むとヒマはなくなる”と、そう言っている」と付け足したのだが、さて歳のせいか、いつどうやって秀実が言ったのかが思い出せない。
そこで帰ってきてから本棚とにらめっこしていて見つかった。岩波新書の『上海1930年」という本だ。著者は息子の尾崎秀樹。

実は秀実が言ったのではなく、羽仁五郎の言った言葉で、しかもかなり秀樹の思いのこもった引用で、どこまで秀実がそう考えていたかは定かではない。
ただそれはどうでもいいことで、中身がいいから、私の頭の片隅に覚えていたのであろうと思う。
引用のレベルを越える可能性があるが、ご容赦願いたい。
 一高、東大と一緒だった森五郎は、しばらくハイデルベルク大学へ留学し、帰国後東大の国史科に入り直し、歴史研究にたずさわるようになっていたが、森姓から羽仁姓に変わった直後に尾崎は彼と会う機会があり、近く上海に特派されるという話から、中国へ行ったらどういうふうに勉強したらよいか、友達付き合いの気安さからたずねた。
 すると羽仁五郎は「新聞を読むことだ」という。
「もちろん新聞を読むのは、仕事のうちだから…」
「そうするつもりだくらいではだめだ。よく読めるようにならなくてはいけない」
「よく読めるようになるには、二、三年はかかるよ」
「いや二、三ヶ月でよく読めるようにならなければだめだ」
そういわれても、なかなかうまくいくものではない。尾崎は困って、
「じゃ、どうすればよいだろう」とあらためて聞いた。
「一日のうちで、いちばん頭の働きが良い時に新聞を読むことだ。大学を出た連中は、分厚い本を机の上にのせて読むのに、新聞は食事をしながら読んだりする。あれではだめだ。頭脳の冴えている一番良い時に、分厚い本のかわりに、新聞を机の上に広げ、赤と青の鉛筆を使って、一字一句考え、批判し、それが真実か嘘か見分け、前日の新聞や、これまでに知っている知識とも照らし合わせ、ノートをとりながら研究的に読むことだ。
 新聞を通して何が本当か何がウソかをはっきり考えることだ。日本がどう動くか、中国が世界がどう動いていくか、新聞はそれを動かそうとしているか、生きるか死ぬかの真剣な勉強として新聞を研究するのだ。
 こういうふうに新聞を素材として勉強すれば、二、三ヶ月で新聞がよく読めるようになる。そして、こうやって、新聞を読んで考えたことを、同じように新聞を真剣に読んでいる友だちに話し、彼らの考えを聞き、討論してみることだ。そうすれば世界の動きが次第にはっきり分かり、自分がどうすればよいか、明らかになる」
「一日のうちで」から後ろは、後年、羽仁五郎が書き記した「青年にうったう」という書物の中の言葉だ。尾崎秀樹の冴え渡るシームレスの筆運びに思わず引き込まれる。



プラハの歴史

6世紀後半 スラヴ民族がヴルタヴァ川河畔に定住。

623年 サモ王国の形成(30年ほどで滅亡)

9世紀前半 大モラビア国が成立

9世紀後半 プラハ城が構築される。

906年 マジャール人の侵入により大モラビア国が滅亡。

10世紀頃 ヴィシェフラト城が建てられる。2つの城に挟まれて街が発達する。

973年 キリスト教の司教座が置かれる。その後、度重なる戦渦により荒廃。

1198年 プシェミスル王朝が始まる。ボヘミアが世襲王国となる。

1346年 ボヘミア王カレル1世(ルクセンブルク家)が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となる。

神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸の整備が行われた。

1348年 プラハに中欧最古のカレル大学(プラハ大学)設立。ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市に発展。「黄金のプラハ」と形容される。

1415年 キリスト教改革派の指導者ヤン・フスが火刑にされる。
ヤン・フスは1370年生まれ、貧農出身でありながら学に優れ、プラハ大学の総長となる。穏健な改革派であったが、「贖罪状」販売に反対し政争に巻き込まれた。

1419年7月 ヤン=ジェリフスキーの「プラハ市庁舎での窓外抛擲事件」が発生。ヤンの組織した暴徒が庁舎に乱入し議員を窓から突き落とす。
ヤンはフス派の神父で、下層市民の立場からカトリックを非難し、実力行動を呼びかけた。

1420年2月 ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が「フス派に対する十字軍」を組織。フス派は貴族や庶民が団結し国民軍を作り上げる。
7月 ジシュコフの戦い。ヤン・ジシュカ将軍は、手銃と装甲馬車を用いて十字軍騎士による突撃戦術を殲滅。フス軍はその後も連勝を重ねる。

1431年 対フス派十字軍が襲来。ポーランド王国からフス派義勇兵6千人が支援に入る。西スラヴ民族がドイツ人に対し優位に立つ。

1433年 ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争。ボヘミアの義勇兵7千名が加わる。

1434年 リパニの戦い。フス派内のターボル派(急進派)がウトラキスト(穏健派)によって壊滅させられる。

1436年 バーゼル公会議。フス戦争が終結。

1439年 ポーランドがフス派への弾圧を開始。壊滅に追い込む。
この後半世紀にわたりハプスブルク家とスラブ・プロテスタント系貴族が覇権を争う。

1490年 ポーランド王家から送られたブラジスラフがボヘミア兼ハンガリー国王となる。

1526年 ポーランド、オスマン・トルコに大敗。ハプスブルク家によるチェコ王国の統治が始まる。

16世紀後半 ルドルフ2世の治世。芸術や科学を愛する王の下、プラハはヨーロッパの文化の中心都市となる。

1618年 プラハ城で「プラハ窓外投擲事件」が発生。三十年戦争に発展。

1620年 ビーラー・ホラ(白山)の戦い。チェコ貴族軍は皇帝軍に敗れ全滅。ハプスブルク(ドイツ人かつカトリック)の支配下に入る。

1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲される。

ヴェストファーレン条約が締結され、三十年戦争が終結する。王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減。
チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧を受け、2世紀以上にわたる「暗黒の時代」を迎える。

1781年 ヨーゼフ2世、チェコ人の人身隷属を廃止。しだいにチェコ人の文化的な再生運動が始まる

1848年 

3月 ドイツ2月革命に並行してプラハ市民による独立運動。

5月29日 プラハに仮政府が樹立。スラブ民族会議を開催する。

6月12日 プラハで急進派の暴動が発生。鎮圧されて革命運動は挫折する。

1867 オーストリア・ハンガリー帝国成立。チェコ人は強い不満をもつ。

1914年 第一次世界大戦勃発。独立派のマサリクが西ヨーロッパ亡命し、独立運動を開始。

1918年 第一次世界大戦終結に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が解体。チェコスロヴァキア共和国が成立する。初代大統領にマサリク。

1935年 総選挙。ズデーテン・ドイツ党が第二党に進出し、チェコ人とドイツ人との対立が深まる。

1938年 ミュンヘン会談。英仏伊独首脳はドイツのズデーテン併合で合意。ベネシュ大統領はロンドンへ亡命。

1939年

3月 ドイツ軍によって占領され、チェコスロヴァキアは解体される。

9月1日 第二次世界大戦開始。

1945年5月5日 プラハ蜂起。4日後に解放される。

戦後の動きについては、たぶん膨大になりそうなので、稿を改める。

1968年 プラハの春。

1989年 ビロード革命。共産党政権が崩壊する。

両方とも自家用車で行くしかないところですが、意外とネットでもしっかりした地図がありません。
そこで長雨の合間を縫って、行ってきました。

1.中国人慰霊碑(仁木)
nikitizu
   卍印のところが町営墓地でこの墓地の中に慰霊碑があります
国道5号線を余市方面から南下していくと、仁木の市街に入ります。
やがて、ちょっと見落としてしまうかもしれない信号があります。そこに仁木駅方面左折の標識があります。ここを曲がって1丁ほどで駅に突き当たります。この突き当りを右に(南方向)に曲がって1丁ほど行くと左に踏切があります。このとき右前方には仁木町の役場が見えます。ここで左折して、踏切を渡ってそのまま真っすぐ東に向かいます。
300メートルほど進むと交差点があるので、そこを右に曲がります。曲がらないで直進すると鳥居にぶつかります。これが仁木神社になるようです。右折して200メートルするとまた交差点があるので、今度はそこを左折して山の方に入っていきます。ここが仁木の町営墓地の入口でちょっとした高台になっています。要するに神様と仏さんが隣り合っていることになります。
何回も曲がる道筋で面倒に見えるが、途中にランドマークがあるので迷わないと思う。もちろん自信があれば最少の右左折で行っても構わないです。
墓地の中ほど、朽ちかけた廃屋があり、これが地図の卍印の元になったお寺ではないかと思われます。さらに坂を登っていくと、進行方向左側に下記の写真の塔が見えてきます。これが慰霊碑です。郭沫若の文章が彫られた石碑がありますが、読めません。説明板は見当たりません。
中国人慰霊碑
             中国人慰霊碑(仁木)

2.劉連仁記念碑(当別)
劉連仁tizu
             劉連仁記念碑(当別町)
この記念碑は当別の市街から離れて、かなりわかりにくいところにあります。周辺にこれと言ったランドマークもありません。
多分下記のアプローチが一番わかり易いと思います。
札幌から国道275号線で当別に向かう。この国道は市街に入る直前で右折して月形方面に行ってしまうから、右折せずに真っ直ぐ進みます。この道は橋を渡ると市内中心部になり当別駅で行き止まりになります。
そこまで行かず、橋から2つ目の信号を左に曲がって、そのまま市外まで出てしまいます。
札沼線の踏切を越えてしばらく行くと、田んぼの中を一直線に北進する通りがあるので、そこを右折します。
この道は3キロほどでT字路に突き当たる。ここを左折し西北方向にしばらく走るとやがて山麓に到達し、ふたたび三叉路が現れる。ここをまた左折して、しばらく走る。やがて右側(山側)に記念碑が現れる。地図にでマークしたところです。ほかにものらしいものはないので、「劉連仁記念碑」と書かれた道標を見損なうことはないでしょう。
劉連仁記念碑

2つの丘の間のちょっとした幅の沢になっていて、いかにも隠れ住むには格好の場所とうかがわれる。ここで劉連仁を保護したのが共産党員農民の今野さんだ。その今野さんの息子さんが中心になって記念碑建立を発議した。記念碑は仁木の記念碑がそっけないのに比べ、なかなか芸術的だ。
劉連仁記念碑2
中の空洞を覗き込んでみると丸みを帯びたかなり大きな石球が置かれています。おそらく沢の斜面に壕を掘って住んだ生活を象徴したのでしょう。たしかに言葉に勝る造形だと思います。

どちらもあまり人が訪れることもないのだろうが、やはり説明を書いたプレートがほしいね。これからはひょっとして中国人客が来るかも知れないし…

刀伊(とい)の入寇

すみません。こんなこと、まったく知らなかった。
たしかに高校時代日本史は選択していなかったのだけど、それにしても、名前さえ聞いたことがなかったという不勉強には、ひたすら頭を下げるほかない。

とにかくまずは年表形式で事実をさらっておく。

1019年 刀伊という海賊集団が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した。

というのが中核的事実である。

出典はそのほとんどが『小右記』によるものである。これは藤原実資という朝廷幹部の日記である。この日記に刀伊の襲撃に一部始終が書き込まれているのだが、その情報は太宰府に在任し戦闘を指揮した藤原隆家という人物の作成した報告書の要旨である。

資料的には裏付けの取りにくい事件であるが、話としてはすなおで無理がなく、ありうる事件だろうと思う。
第一に、当時、高麗と遼(契丹)は戦争関係にあった。女真族は渤海湾沿いに居住し契丹と臣属関係にあった。反高麗の立場から陽動作戦を志向することはあり得た。
第二に、高麗は新羅の後継国であり、日本にとっては馴染みの国である。女真族との見分けは対馬や壱岐の住民にとっては容易なことである。
第三に、一国の軍隊の行動と海賊の行為の差は明白であり、刀伊の行動が野蛮人のそれであることも明白である。

年表ではこれよりもう少しさかのぼって、刀伊を生み出した朝鮮半島の政治情勢を探っていこうと思う。

「とうい」はもともと中国語の「東夷」であり、本体は満洲に住む女真族とされる。これが高麗語に取り込まれ、さらにこの「とい」に日本で文字をてたときに刀伊と表現されたという(Wikipedia)




10世紀 満州のツングース系民族、女真の名が文献に登場。多くの部族に分かれ、国家としては統一されなかった。
当初より遼(契丹)に従っており、中国化の度合いによって熟女真と生女真の2大集団に分かれる。926年 契丹が渤海に侵入し東丹国を立てる。このあと渤海の国域に女真族が進出。(定安国→後渤海国の話は省略)
契丹
           wikipedia より
936年 高麗が、新羅を倒して半島を統一。

993年 契丹が高麗に侵攻。高麗は宋とは断交し、契丹に朝貢することになる。和議の条件として鴨緑江以南の女真族居住地を高麗のものとすることが認められる。

994年 高麗が女真を排除し江東6州(現在の平安北道領域)を占領。(なぜここに女真族がいたかは不明)

1004年 契丹(遼)、北宋の朝貢を受けるようになる。中央アジアまで勢力を伸ばす。

1005年 女真による高麗沿岸部への海賊活動が始まる。

1009年 高麗の内紛。これに契丹が介入し、首都開京を占領。

1018年 契丹、江東6州の割譲を求め高麗侵入。高麗軍はこれを撃退する。

1018年 女真海賊、鬱陵島(于山国)を襲い滅亡に追い込む。海賊は高麗水軍に追われ南下したものとみられる。

1019年

この頃、新羅や高麗の海賊が頻繁に九州を襲っていた。

3月 刀伊、50余隻の船に乗り込んだ約3,000人で対馬海峡をわたる。
賊船の大きさは10~20メートル。一艘の船に漕手が30~40人。乗船員数は30~60人。

3月27日 刀伊が対馬に上陸。島の各地で殺人や放火を繰り返す。国司の対馬守遠晴は脱出し大宰府に逃れる。
対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人。銀の鉱山が焼き払われた。

4月 刀伊、壱岐を襲撃。国司の壱岐守藤原理忠の部隊と対決し撃滅。

山野を駆け巡り、牛馬家畜を食い荒らし、人家を焼き、穀物を奪った。捕らえた老人子供は殺し、壮年は船に追い込んだ。
殺害された者365名、拉致された者1,289名。残りとどまった住民が35名に過ぎなかったとされる。

4月7日 襲撃の報を受けた太宰府の権帥藤原隆家は、各所に防衛線を敷く。兵の実体としては九州武士団の連合軍であった。(隆家は反道長派の大物で、大宰府に身を引いていたと言われる)

4月8日 刀伊、九州本土の怡土郡、志麻郡、早良郡を襲う。(福岡市西部から糸島市にかけての地域)防衛隊の反撃にあい、いったん能古島に引き揚げる

4月9日 刀伊、早朝に上陸し筥崎宮の警固所を襲撃。隆家軍本隊の前に撃退される。

4月10日 強風と波浪により海賊の動きが止まる。この間に隆家軍は軍勢を強化。

4月11日 刀伊、三度上陸し博多を攻撃。隆家軍の前に生き残り二人を残し全滅。残存部隊は博多攻撃を断念し撤退。

4月13日 刀伊、肥前国松浦郡を襲う。前肥前介の源知(松浦党の祖)軍が捕虜一人を残し殲滅。

4月17日 朝廷に刀伊襲撃の報が届く。朝廷は厳戒態勢を発令する。

4月 刀伊、日本から撤退したあと、高麗沿岸各地を襲撃。最終的には高麗の水軍に撃滅される。刀伊に拉致された日本人約300人(うち対馬出身者が270名)が高麗に保護され日本に戻る。

6月29日 大宰府が勲功者リストを提出。朝廷は勲功を与える必要なしという判断を下す。

承平・天慶の乱への対応に追われていた朝廷は、魏駅進入の危険に対して何ら具体的な対応を行わなかった。藤原隆家らにも何ら恩賞を与えなかった

7月7日 対馬判官代長嶺諸近、高麗に密入国し情報収集。日本襲撃が刀伊によるものであることが判明。

9月 高麗虜人送使が保護した日本人270人を送り届ける。大宰府はその労をねぎらい、黄金300両を贈った。

1115年 阿骨打、女真の統一を進め金を建国。遼から自立する。やがて金は、遼と北宋を滅ぼし中国の北半分を支配するに至る。

1125年 金が宋と結び遼を挟撃。遼は滅亡し多くが金に取り込まれる。

1220年頃 日本海側沿岸部の女真族集団集落、モンゴル帝国軍によって陥落する。

アイヌ民族の歴史年表 を更新しました。
今回の更新は中路正恒「古代東北と王権 日本書紀の語る蝦夷」(講談社現代新書)から引用した材料です。
年表の最古層を形成しています。量はあまり多くありません。年代も含め史実と思しき部分のみ採用しています。
まだ東北蝦夷の年表と分離できていません。ほぼほぼ紀元1千年くらいまでは東北蝦夷の話と思ってください。
  


「日本人はどこから来たのか」
海部陽介著 文藝春秋社 2016年

この手の本としてはきわめて新しい。ほとんどの本が2003~2005年に集中して出版されて、その後はほとんど新たなものが出てこない。
そういう意味では干天の慈雨的なありがたみを感じる。
文章はきわめて明快で割り切った書き方になっている。分かりやすいといえば分かりやすいのだが、「そこまで言って委員会」的な雰囲気も漂う。
とくにY染色体ハプロについてまったく触れられないのは奇妙な感じがする。この分野の蓄積がこの15年間、まったく止まっているのも気がかりである。

問題意識は日本人だけでなく、アジア人がどこから来たのかにあるという。
とくに欧米での通説が南方由来説一辺倒になっていて、ゲノム分析以前の日本での研究蓄積が示す北方由来説を無視することに異議を唱えている。

第二には、4万8千年~4万5千年前にペルシャ湾岸から西方、北方、東方へ一斉に人々が進出したというビッグバン説と、それに1万年遅れで日本をふくむ東アジアへの人口進出があったという説とを一連のセットとして見る考えだ。

これについては同感である。

さらに2万年前ころにおそらく南方から漢民族や長江人につながる人々が進出したこと、その中でより北方に進出した漢民族が長江人を駆逐し中原を支配したこと、追われた長江人が日本に逃れ縄文人と混血して日本人を形成したこともおそらく同感できるのではないか。

次に日本人の3つの源流ということだが、海部さんが力を入れていると思われる南方ルートは、港川人などが現代沖縄人とつながっている根拠が乏しいので、現時点では「かつて住んでいた人」という扱いになるのではないか。

海部さんの説では最初に列島入りしたのは朝鮮半島経由の人々で、3万8千年前。そのあと北から入ってきたということになっているが根拠は不明。

3ルート

ツングース系(YハプロのC1系)の人々が対馬海峡を越えて西日本と日本海沿いに分布したことは間違いないのだが、それが樺太経由の縄文人(D2系)に先んじていたかどうかはわからない。

海部さんの本では根拠が示されていないと思う。


陸軍秋丸機関による経済研究の結論」 牧野邦昭(摂南大学)

1.秋丸機関の結成
太平洋戦争前、「陸軍秋丸機関」と呼ばれた組織が存在した。正式名称は「陸軍省戦争経済研究班」である。

陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐を中心に組織された。

ノモンハン事件での敗戦をきっかけに、英米との戦争の経済的分析と研究を進めることを目的とした。

運営にあたったのは秋丸次朗主計中佐である。東京帝国大学経済学部に聴講生として派遣された陸軍主計官が主体となった。

秋丸中佐はブレーンとして経済学者を集め、「仮想敵国の経済戦力を詳細に分析・総合すると共に、わが方の経済的持久度を見極め」ることを目標とした。

学者グループの中心となったのは有沢広巳で、他に武村忠雄、中山伊知郎、宮川実などが集められた。

有沢や中山らにとって秋丸機関での研究は戦後に大きく役に立つものとなった。


2.秋丸機関の活動 

1940 年冬、参謀本部は 1941 年春季の対英米開戦を想定した物的国力の検討を要求した。

1941年1月、陸軍省整備局戦備課は秋丸機関の研究をもとに、

「短期戦でかつ対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は可能である。しかしその後の国力は弾発力を欠き、大なる危険を伴う」と回答する。

6月6日には秋丸機関や三菱経済研究所の研究をもとに「対南方施策要綱」を策定。「綜合国防力ヲ拡充」することを目的とする。

7月に入って陸軍首脳への説明会が逐次開かれた。報告書は『英米合作経済抗戦力調査』と題されている。
『其一』、『其二』に分かれ、前者はマクロ経済分析、後者は対外関係、地理的条件、人口、各種資源、交通力や輸入力、経済構造と戦争準備、生活資料自給力、軍事費負担力、消費規正与件などの各論となっている。


3.秋丸機関の出した結論 

①アメリカの生産能力

米国の石油供給は英国の不足を補つて尚ほ余りある。
軍事物資全体で見ても、一年後にはイギリスの供給を賄い、さらに第三国向けに80億ドルの供給余力を獲得する。

②イギリスの戦闘力
イギリスは海上輸送力が致命的弱点となり「抗戦力ハ急激ニ低下スヘキコト必定」とされる。
またアメリカを速かに対独戦へ追い込み、経済力を消耗させるのも有効である。

③ドイツの戦闘力
この部分は非常に面白いので、後ほど改めて紹介する。

4.秋丸機関の歴史的性格
秋丸機関の結論は国策に沿ったものであり、進歩的性格はまったくない。
秋丸機関の研究は目的合理性を徹底的に追求するものであったが、戦争という目的そのものを疑う存在ではなかった。

5.ドイツの戦闘力

判決一

独逸の経済抗戦力は四二年より次第に低下する。
ナチス政権誕生時には多くの失業者と豊富な在庫品が存在し、企業の操業率は低かったが、…遊休生産力を活用したことで生産力は急速に拡充し、完全雇用に達し生産
力は増強されなくなった。
現在は過去の生産による軍需品ストックに頼っているが、来年からは枯渇し、経済抗戦力は低下せざるを得ない。

判決二

独逸は今後対英米長期戦に耐え得る為にはソ連の生産力を利用することが絶対に必要である。
従つて独軍部が予定する如く、対ソ戦が二ヶ月間位の短期
戦で終了し、直ちにソ連の生産力利用が可能となることが求められる。
もしそれが叶わずに長期戦となり、その利用が短期間になし得ざるならば、今次大戦の運命もおのずから決定される。
対ソ戦は徒に独逸の経済抗戦力消耗を来たし、来年度以後低下せんとする抗戦力は、一層加速度的に低下する。
その結果、、対英米長期戦遂行が全く不可能となり、世界新秩序建設の希望は失はれる。

「判決三

もしソ連生産力の利用に成功したとしても、未だそれだけでは自給態勢が完成するものではない。
南阿への進出と東亜貿易の再開、維持を必要とす。



日米開戦に至る経過を日大のアメフト騒動と重ね合わせながら考えている。
暴力が発生し容認されるには3つの段階が必要だと思う。
①まず最初は、民主主義の否定。異論の封殺による批判の自由の喪失である。
②ついで、権力構造が変質する。リテラシーが低下し人脈支配がはびこる。
③そして最後に、歯止めを失った権力者が暴走し、暴力へと国民を導く。

①異論の封殺による批判の自由の喪失
おそらく1933年が画期となろう。多喜二の虐殺に始まり宮本顕治ら共産党の幹部がほぼ一網打尽になった。その後もリベラル派の人々による抵抗は続くが、罰せられないテロにより容赦なく潰された。
②軍(統制派)の唯我独尊化
多少なりとも自由な発言は36年の2・26事件で不可能となった。軍の統制派が戒厳令のもとに参謀本部独裁体制を敷いた。永田戦略は中国進出であったから、戦線は停止するどころか一層拡大した。天皇の名のもとに権力を握ったゆえに、皇道派を上回る「皇道派」となった。
③軍の狂気化と常識派の壊滅
39年9月の欧州大戦勃発、三国同盟などありつつも常識派(民主派でもなければリベラル派でもない)が2年にわたり対米非戦の線を死守した。しかしその間に軍部の「狂気化」はますます進行し、誰にも手がつけられなくなった。そして8月の南部仏印進駐とアメリカの石油禁輸が引き金となり、9月御前会議での「国家の狂気化」に結びついた。狂気化過程での海軍の跳ね上がりは火に油を注いだが、火元ではない。
④常識派の最後の抵抗
10月、東條新政権での9月決定の見直しは、常識派の最後の抵抗(天皇の意向を背にした可能性がある)であったが完璧にスルーされた。ハル・ノートはその結果であり原因ではない。最後の可能性があったとすれば東條による粛軍であったろうが、東條自身の思想からは到底考えられない。
⑤日米戦争回避の3条件
中国人民からは到底認められるものではないにせよ、蒋介石政権は満州国を容認した。欧米列強も黙認の方向へ動いていた。ノモンハン後のソ連との関係が残ったが、満州は戦争の火種とはならなかったであろう。
しかし上海事変から南京政府に至る過程は、列強にとって看過しがたいものであった。したがって中支からの日本軍の撤退、重慶政府の承認は日本にとって避けがたいものであった。
南部仏印進駐に至ってはまさに狂気の沙汰である。援蒋ルートの遮断という理屈はもはやない。ここにいたり、日本の戦略は一変し暴走を始めた。
海を超えインドネシアに進出しその石油を確保するのが狙いということは猿でもわかる。その際打倒すべき敵はオランダということになる。これは南シナ海を挟んだフィリピンを領土とするアメリカにとって決して対岸の火事ではない。
したがって緊急度順に並べて
①南部仏印撤退(これはほぼ無条件)
②中国本土(満州を除く)からの撤退(少なくとも撤退の意思と時刻表の提示)
③重慶政府との交渉開始(南京政府との“統合”をふくめ)
はどうしても決断しなければならないのである。


文献を探していて、面白いサイトにぶつかった。
その中の一編「第34回 日米開戦へ ハル・ノート」と題されている。


もちろん原著にあたってもらえべよいのだが、このページのなかの一部、
東條内閣が発足して、「国策再検討会議」が開かれたというくだりに興味がそそられる。
この会議は「大本営政府連絡会議」という形で10月23日から30日までぶっ通しで開かれたらしい。
ここは別途紹介する価値があると思い、引用させていただく次第である。

1.なぜ会議が組織されたか
東條は開戦派の一員と目されていた。木戸は東條に組閣させるにあたり、9月6日の御前会議の再考を促した。そしてそれが天皇の意向によるものであることを強調した。
いわば「毒をもって毒を制する」以外に日米開戦の回避策はないと考えたようである。

2.会議の始まり
第1回会議(23日)
永野(海軍軍令部総長)は「海軍は1時間当たり400トンの油を無為に消費している。検討会議は簡単明瞭に」と発言。
杉山元(陸軍参謀総長)も「4日も5日も、研究ばかりして費や
せない。今すぐ前進しなければならない」と語った。
ここで東條が統帥部を抑える発言。「統帥部が急いでいるのはわかるが、政府はもっと慎重に、責任ある態度で決定したい。統帥部はこれに反対するのか」

これで会議は本題に入っていくことになる。

3.会議の最初は欧州戦局の見通し
6月の独ソ戦勃発当時の判断は楽観的すぎた。修正が必要だ。
との提起があり「欧州戦線は当初見込みより長期戦になる。独軍の英本土上陸作戦も当分は行われないだろう」と修正された。
しかし「独軍優勢」は変わらず「ドイツ不敗」とされた。

4.日本の石油受給の判断
まず石油受給見通し。
石油貯蔵量は840万トンに達している。
海軍が作戦行動をすると2年間でストックを使い切る見通し。
それに対する対策がひどい。思わずため息が出る。
「スマトラ、ボルネオの蘭印油田地帯を確保する以外に対策はない。それには即時開戦するしかない」
これはかっぱらい・強盗の論理だ。論理破綻を破綻とも思わないほどに愚昧化している。

5.悲惨な輸送力見通し
ついで企画院が輸送力に関する報告を行った。
民需用として最低300万トンの船舶があれば、供給量を確保出来る。
船舶消耗を年間100万トンから80万トンと推定する場合、60万トンの造船能力があれば、300万トン保有は維持可能だ。
緒戦の確実な戦果を活用すれば、座て相手方の圧迫に耐えるのに比べ有利と確信する。
海軍はこれに勝る楽観的見通しを述べた。
船舶消耗は1年目で70万トン、2年目60万トン、3年目40万トン、これに対し造船能力は各40万、60万、80万トンと増加、ゆえに「戦争に耐える国力の維持は可能」なのだそうだ。
「米国は潜水艦を大量に建造して広範囲に活動するだろうから、戦争が進むに連れて被害は増えていくと思われるが…」
「米潜水艦に対しては、十分手当の方法を考えているから心配はない」東郷もそれ以上追及の方法もなく、そのままとなった。
実際には戦争1年目から130万トンが消耗、2年目には179万トン、3年目には378万トンに達した。
南方の石油は1700万トン採掘したが、内地に輸送できたのは550万トンにとどまった。
この実績は、実は海軍自身が予測していたものだ。
10月6日の陸海軍局部長会議で、海軍軍令部の福留作戦部長はつぎのようにかたっている。
南方作戦二自信ナシ。船舶ノ消耗ニツキ戦争第1年度ハ140万トン撃沈サレ、戦争第3年ニハ民需用船舶皆無トナル。自信ナシ。

6.東郷外相の感想
東郷が驚いたのは正確な統計資料の不足。作戦上のことも兵力量など一切秘密。仮定の上に立って検討を進めることになり、それも軍部から「大丈夫」と言われれば反論する材料もなく、沈黙するしかなかった。

危機管理では「マイナス情報重視」が鉄則だが、主観的な数字や甘い判断が混在したのではないか。
精神主義的な開戦論が幅をきかし、物的国力は真剣な論議にはならなかった

日米開戦と軍部

右翼系の人が日米開戦論を書くと、かならずこの3点が引っかかる。
開戦に至るプロセスを詳細に見ても、人の顔が見えてこない。いつ、誰が、どういう理由で、何を目的として開戦を決めたのかは、いまだに不明のままだ。
第一は戦争に突入した理由をあれこれ並べ立てるが、それらの理由によってメリカとの戦争を始めた理由を合理化できるのか、ここが最後までウヤムヤなのだ。
それらは戦争に至った言い訳にしか聞こえず、戦争をやってはならない理由にしか聞こえない。
もう一つは、誰それは実は戦争回避派であったというのが延々と続くが、それじゃ開戦を推進したのは誰かと言うと、これもまた最後までウヤムヤなのだ。
三番目には東京裁判が間違いだというのはルル述べられるが、東京裁判が間違いだとして、それでは日本を悲惨な戦争に追いやった責任は誰がとるべきなのか、この点についてもさっぱりわからない。
やはり自分なりに事実を点検していかないとだめだなと思っている。
それにはあまり長いスパンは必要なく、昭和16年の初頭からで十分ではないかと思う。
それと、陸軍の動きを中心に据えない議論は参考にすべきではない。戦争に突っ込んでいく先頭に立ったのが陸軍であるのは間違いないからだ。
どうも余分なトリビアル情報が多すぎる。しかも「こちらが正しければあちらが間違い」と言うような情報が飛び交っている。それなのに軍の大本営や参謀本部、陸軍省で何がどう決まっていったのかはさっぱりわからない。思ったより手強い仕事になりそうだ。


昭和16年における日本経済
1940年の実質GDPは、日本が2017億ドルで、米国は9308億ドル。特に軍事力に直結する粗鋼生産量は日本の685万トンに対し、米国は約9倍の6076万トン
石油 日米比

主要輸出品は生糸だったが、96%が米国向けだった。代わりに輸入した米国産綿花を織物などに仕立て、英領インドやオーストラリアなどに輸出。その利益を重工業化に必要な機械類、鉄鋼などの購入に充てていた。

2月11日  野村吉三郎元外相が駐米大使として着任。近衛首相は野村大使を中心に日米交渉に動く。
日本案は
①三国同盟にもとづく参戦はドイツが米国に攻撃された場合のみ
②中国が満州国を承認すれば日本軍は撤退
③米国の仲介による日中和平の実現
アメリカ側は『内政不干渉・領土主権尊重・市場経済の機会均等・現状維持』のハル四原則を示したと言う
4月12日 松岡外相とスターリンとの会談が実現。日ソ不可侵条約の締結。
二正面作戦を避けたいソ連と、南進のために二正面作戦を避けたい日本との奇妙な妥協といわれる。
4月16日 日米諒解案が作られる。この前提でアメリカが日華関係の斡旋に乗り出すとされる。
1.日華協定による日本軍の中国撤退、2.中国の満州国承認、3.蒋政権と汪政権合体を骨子とする。アメリカ国内の論調は諒解案よりはるかに厳しいものだった。
4月 松岡外相、三国同盟の堅持を表明。日米諒解案を批判。(批判の論調は正しいものだった)
5月 「国防保安法」が施行される。政府の発表以外は報道することができなくなる。
5月 ABCD包囲網が完成。
まず英米豪の間に太平洋共同防衛諒解が成立(AB網)。ついでこの協定に蘭印(D)が加わり、英米は、豪州と中国に飛行機を譲渡する。
5月 海軍、「米英の全面(石油)禁輸を受けた場合、半年以内に南方武力行使を行わなければ燃料の関係上戦争遂行ができなくなる」と主張。

6月 ドイツがソ連領内に侵攻。天皇は三国同盟を廃棄し日米交渉に重点を移すよう指示。木戸幸一内大臣はこれを無視したと言う。

6月 駐米大使館付武官補佐官の岩畔豪雄(現役大佐)が帰国、各界に警告活動を展開する。
日米の物的戦力は、以下の比率で明らかです。
鋼鉄は1対20、石炭は1対10、石油1対500、電力は1対6、アルミ1対6、工業労働力1対5、飛行機生産力1対5、自動車生産力1対450であります。もし日米が戦えば大和魂をふるっても勝てる見込みはありません。

7月2日 御前会議。「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を承認。援蒋ルート遮断、自存自衛のための南方進出、結果としての英米戦の覚悟、独ソ戦不介入と対ソ武力発動準備が決定される。

7月28日 南部仏印への無血進駐を実施。米領フィリピンが航空機の射程に入る。米英の対日感情は一挙に悪化。

8月1日 アメリカ、日本の在米資産を凍結し、対日石油輸出を全面禁止。イギリスとオランダも同調。
日本軍は米国が南部仏印支柱を黙認するだろうと観測していたという。
ただし40年7月の軍令部研究報告では、仏印を占領すれば米国が石油禁輸で応じ、日本が蘭印の油田を制圧しようとすれば日米は戦争に突入すると予測していた。(角田順)
8月 首相直属の「総力戦研究所」が、「国力的に開戦は不可能、開戦すれば日本は必敗」との結論に達する。「総力戦研究所」の報告について、東條陸相は「実際の戦争では…意外裡なことが勝利につながっていく」と反論。

8月 陸軍省の戦争経済研究班が日米決戦に関して研究報告(林千勝による)。
1)極東の米英蘭根拠地を攻撃。 2)援蒋ルートを攻撃、支配し、蒋政権を屈服させる。 3)まず英国の屈服を図る。の三段階戦略を打ち出す。
米国とは極力戦わず、戦闘となれば日本近海にひきつけて行う(だからハワイ攻撃などはしない)

9月6日 御前会議。海軍側から提示された「帝国国策遂行方針」をたたき台とした議論となり、「要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と両論併記。天皇は外交優先主義を支持する。
天皇「どのくらいで作戦を完遂するのか?」
杉山「太平洋方面は3ヶ月の見込みでございます」
天皇「支那事変のとき2ヶ月程度で片付くと申したのに、まだ終わっていないではないか」
杉山「支那は奥地が広うございまして…」
天皇「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか」(近衛日記)
10月2日 アメリカ国務省、近衛首相の提案した日米首脳会談を拒否。
10月13日 野村大使が情勢報告。「アメリカは4原則で突っ張るだろう。交渉の一般的見通しは悲観的だ」
10月14日 陸軍の武藤軍務局長、「海軍が本当に戦争を欲しないのなら陸軍も考える」とし、海軍に下駄を預ける。
10月14日 近衛・東条会談。東条陸相は「9月6日の御前会議を御破算にするなら、陸海軍を抑えるために皇室が首班を担うべき」と主張。東久邇宮内閣論を唱える。
10月16日 近衛内閣は総辞職。近衛は対中撤兵による交渉を図ったが、陸軍大臣東條は一切の撤兵オプションを拒否。国策要綱に基づく開戦を主張。
10月16日 木戸内大臣が東条陸相と会談。木戸は「海軍が自重の方針で一致しなければ皇室は出ない。和平で一致するなら皇室は出る必要がない」と主張。(要は逃げたということ)
10月17日 後継首班推薦のための重臣会議。木戸は「海軍は戦争に乗り気でないため9月6日の御前会議決定は白紙還元」と述べる。そして開戦を主張して来た東条陸相に首相をやらせることで情勢を切り開くという奇策を打ち出す。
10月18日 大命降下。木戸の推挙を受け、後継の東條内閣が成立。外相には交渉派の東郷茂徳を起用。
東郷には「内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考究を加うる」ように、陸海両相に対しては「9月6日の御前会議の決定を情勢に合わせ再検討せよ」との天皇の意思が伝えられる。
10月18日 東條が首相に就任。承詔必謹の精神で即時開戦決意を翻し9月6日御前会議の決定を覆す。
陸軍省・参謀本部の主戦論を抑えるために陸相を兼務し、さらに右翼クーデターに備えて、内相も兼務する。外相には反枢軸派の東郷茂徳をあてる。

10月22日 軍省局長会議で武藤軍務局長が発言。北支・蒙彊の駐兵維持は絶対に譲れないとする。また海軍軍令部の永野総長は「9月御前会議決定を変更する余地はない」と語る。
10月23日 各省統帥部に11項目の検討項目を示し、国策再検討を指示。これを受けて大本営政府連絡会議が1週間連続でひらかれる。(詳細は東條内閣「国策再検討会議」の顛末で)
初日の会議では次のような発言があった。永野修身は「海軍は1時間当たり400トンの油を無為に消費している。検討会議は簡単明瞭に」杉山元は「研究ばかりして費やせない。今すぐ前進しなければならない」
塚田参謀次長が嶋田海相を「黙れ」と叱りつける場面もあった(杉山元のメモ)
11月5日 御前会議。英米蘭戦を決意する。外交は12月1日零時までとし、武力発動の時期を12月初頭と定める「帝国国策遂行要領」が決定される。
11月5日 東郷、野村らによる最後の外交努力が始まる。東条首相、杉山総長、塚田参謀次長、武藤軍務局長は、「支那を条件に加える”案は検討に値せず」と拒否。
11月6日 南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令される。
11月13日 野村大使の現状報告。
戦争に対する準備は着々と進め居れり。原則を譲り妥協する位ならば寧ろ戦争を辞せざる覚悟である。
対独戦には若干の異論あるが、太平洋戦には反対少なきゆえ、この方面より参戦することも充分あり得べし。
11月15日 大本営政府連絡会議、「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」を決定する。イギリスを経済封鎖等により屈伏させ、イギリスにアメリカを誘導させて講和に持ち込むとする。
11月17日 東郷外相が国会演説。「太平洋の平和を維持せんがために日米会談を継続するに決定、交渉の成立に向けて最善の努力」と述べる。
東郷は以下の腹案を持っていたとされる。 ①中国駐兵5年以内に全部撤兵する ②通商自由の原則を中国にも適用する ③南部仏印から撤兵する
11月20日 大本営政府連絡会議は、作戦対象となる南方諸国について「南方占領地行政実施要領」を決定。重要国防資源の急速獲得のため軍政を敷くこととなる。
11月20日 東郷外相、仏印撤退と石油供給再開を交換条件とする「最終案」を送付。野村、来栖の両大使がアメリカ国防省にて手交。
11月22日 ハルが乙案に対する暫定協定案を提示。英国、中国、豪州、オランダの各国大使と協議。
「南方進出の停止を約束すれば、経済制裁を緩め、日中戦争の解決には干渉しない」とする。有効期間は3ヶ月とする。これは日本の戦争突入必死と見たアメリカが時間稼ぎのためにダミー提案したとみられる。
11月24日 ハル提案に蒋介石政府が猛反発。取り消しを求める。
11月26日 海軍、真珠湾攻撃部隊に出動命令。
11月26日、1万トン級の10~13隻の日本輸送船団が台湾南方を通過中、米軍機により目撃される。
11月26日 ハル国務長官、4原則に従った「ハル・ノート」を通知。4月16日の日米諒解案にさかのぼって否認したもの。
①多角的不可侵条約の提案 ②仏印の領土主権尊重 ③日本の中国及び仏印からの全面撤兵 の代わりに
④通商条約再締結のための交渉の開始 ⑤日本の資産凍結を解除 ⑥為替レート安定に関する協定締結
⑦太平洋地域における平和維持を提供するというもの。
後に極東裁判時にバール判事は“モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えるほどのもの”と表現するが、それほどではない。
11月26日 日本側はハル・ノートを「最後通牒」として受け取る。ただしハル・ノートには「極秘、暫定かつ拘束力が無い」と記されていた。
参謀本部は、満州放棄を認めれば「日本の対ソ、対米国防体制も根本的に崩壊する」と反発。ただし中国からの撤退に「満州」がふくまれるかについては不明。
11月26日 マーシャル参謀総長は、サンフランシスコ、マニラ、ハワイ、カリブ海の各司令部に日本の奇襲攻撃を警告。
もし敵対行動を避けることが出来なければ米国は日本が最初の明白な行動に出ることを希望している。
敵対行動が発生した場合はレインボー第五修正計画に基き任務を遂行されたい。
11月27日 ハル・ノートの提示を知った東条首相は、もしこれを受け入れれば一時小康を得るかも知れないが、それは重症患者に対するモルヒネの小康でしかないと語る。
11.30 海軍内ではまだ和平派が高松宮を通じて工作していたが、嶋田海相と永野軍令部総長はすでに開戦準備を開始していた。
12月1日 御前会議、12月8日の開戦を最終決定する。


この論文は戦時下の日本軍の捕虜対応を総括的に扱ったものであるが、この中に日支事変のさいの捕虜対応についても触れられていて、これが南京事件を招く要因の一つではないかと思えた。
とりあえず関連箇所のみ紹介しておく。

1 「俘虜」観のゆれ
日本軍の捕虜取扱方針は当初より矛盾したものであった。その最大の理由は日本軍に捕虜という概念は存在していないということである。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、敗残の将兵に自死を迫るものであった。
それにもかかわらず諸外国と国際的戦争を行うようになると、近代戦のルールを守るように迫られる。それは本来、日本軍内部にも捕虜という選択肢を導入すべきものとなるはずであったが、その方向には動かなかった。

2.捕虜の取り扱いをめぐる国際法
捕虜の取扱いに関する国際条約には陸戦条約(ハーグ条約)と俘虜待遇条約(ジュネーブ条約)という2つのものがあった。
陸戦条約は捕虜の取り扱いのみならず、戦争のルールを包括的・概略的に述べたものである。ジュネーブ条約は捕虜の取扱についてより詳細な内容をもち、前者を補完するものと位置づけられる。
後者は
日本は両条約に署名したが、俘虜待遇条約の批准は軍部の反対によって見送られた

3.俘虜待遇条約は批准されなかった
ハーグ陸戦条約は国内において批准されたが、俘虜待遇条約は調印はされたが、批准はされなかった。これは軍部からの強い反対によるものであった。
批准反対の理由は次の4つである。
①日本軍では、捕虜にならないよう教育しているため、日本人捕虜は発生しない。だから日本だけが捕虜を待遇する負担を負うことになる。
②敵国の航空機は帰還を考えずに日本を空襲できるから、攻撃距離が2倍になる。
③捕虜が立会人なしに外部の者と面談すれば、何でも話せ、軍事情報が漏れる恐れもある。
④俘虜待遇条約よりも日本軍の懲罰規定のほうが厳格なので、日本軍の罰則を軽減しなければならず、軍紀が緩む恐れがある。

4.俘虜待遇条約(ジュネーブ条約)はどう扱われたか
1942年 1 月 29 日米国、太平洋戦争が始まって間もなく、英国など交戦相手国から、ジュネーブ条約の扱いについて問い合わせがあった。
日本政府はこれについて「批准しないが準用する」という方針をうちだした。そして俘虜待遇条約を「準用」(apply mutatis mutandis)すると回答した。また赤十字条約についても「嚴重ニ遵守」すると回答している。
交戦相手国はこの「準用」回答を、事実上の適用と解した。しかし日本の受け止めは相当異なっていた。
(この後論文は、とくにフィリピンにおける大量の米軍捕虜の発生を機に、日本軍の捕虜取り扱いがジュネーブ条約から乖離していく経過の分析に入っていくが、ここでは省略する)

5.「準用」の例外としての支那事変
支那事変においては、ジュネーブ条約は「準用」どころか完全に無視されている。なぜなら日本は支那事変は国際法に言う戦争ではないと考えていたからである。したがって、陸戦条約は適応されず、国際法を無視した対応が行われた。
この方針は中国軍将兵に対する酷薄な対応をもたらした。
東京裁判時の武藤章(当時、参謀本部第1部第3課長)の証言によれば、陸軍では「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ、俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」された。
つまり、陸軍は「戦争ではないのだから陸戦条約には従わず、捕虜そのものを捕らない」という方針を採用した。したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった。

6.南京事件をもたらした「捕虜非適用」
南京事件では、内輪に見積もっても数万の中国人が殺されている。その多くが民間人に紛れ込んだ中華民国軍の敗残兵、ないしそれと誤認された中国人市民である。
これが一番問題になるのは、敗残兵が投降して捕虜となる道はなかったのかということであろう。国際的に見てこれは明らかに日中両国間の戦争であり、そこには捕虜取り扱いをふくめた戦時ルールが適用、せめて準用されるべきである。
武藤章の言う「捕虜非適用」が「皆殺し」方針なのか、「宣誓解放」方針なのかは判然としないが、「戦陣訓」の敵将兵への適用と見るなら結論は明らかだ。日清戦争時に旅順市内でも、索敵を理由として同様の大量虐殺が発生しており、日本軍の傾向からは偶発的事件とは言えない。
中国各地での戦闘の中で、実際には中国人捕虜はいたし、収容施設も存在した。また現地軍が一定の取扱い規則を定めている事実もある。
しかしこのプリンシプルは動かないのである。ゆえに南京虐殺は「捕虜非適用」の論理の必然的帰結だと見ることができる。


小泉保「縄文語の発見」(1998年 青土社)という本があって、私は見ていないのだが、その紹介がいくつかある。

「縄文人の言語が発展して日本語が成立した」と言うのがそもそもの趣旨であるとすれば、納得しにくい議論ではある。
ただ実際に小泉さんがそう言っているのかは不明だ。

DNA検証の示すところによれば、朝鮮半島から弥生人が進出し、彼らは稲作とともに弥生語を持ち込んだ。縄文人は弥生人を受け入れ、弥生語を自らの言葉とした。
この大筋は基本的には受け入れられているように見える。

アクセント論を前面に立てるのは妥当

いろいろ問題の多い著作ではあるが、アクセント論を言語比較の基盤に置くのは説得力がある。
前項の「言語島」でも触れたが、先住言語の中でアクセントがいちばん最後まで残る特徴と考えられるからである。

ウィキペディアによれば、小泉さんは

一型アクセントこそが縄文語に由来する古いアクセントであり、京阪式アクセントが弥生語に相当すると考える。
そして東京式アクセントは一型アクセントと弥生語のアクセントの接触により形成されたと考える。

弥生語の受容過程という視点では、僭越ながら、前項での私の推理と大筋一致している。(だから正しいとは限らないが)

ただし私の考えでは弥生語を持ち込んだ渡来人と、上方方言を強いた渡来人は時期が違うので、別に考えるべきではないかと思う。

「弥生語の発見」を考える
簡単に私の考えを書いておく。
1.2万年前に日本にD2人が渡来した。日本での人口分布から考えて、おそらく北方からの進出であろう。
2.彼らはそのまま土着し琉球・先島諸島まで展開した。彼らは最後まで旧石器時代人であったが、同時に縄文人でもあった。
3.縄文人が話していたのはアイヌ語であろう。アイヌ以外の縄文人は縄文語を放棄し、弥生語に同化しているている。
4.紀元前2千年ころに朝鮮半島からC1人が渡来した。「縄文晩期人」というのはC1人を指していると思われる。彼らは日本人の約1割を占めている。彼らは長崎から秋田までの海岸沿いに分布し、一部は瀬戸内海に入り徳島まで進出している。基本的には海洋の民であり、朝鮮海峡を挟んで両側に展開した。
まったく根拠はないのだが、流れから見て彼らの母語はツングース系の古朝鮮語であろう。D2人の語る縄文語とはほとんど無縁だったのではないか。
5.紀元前2千年~1千年ころの西日本は人口希薄で、採取すべき果実の少ない常緑樹地帯であったと思われる。
C1人は初期から陸稲など穀物栽培を試みている。それらは朝鮮半島からの輸入であったろう。
6.紀元前500年ころから、O1b人が朝鮮海峡をわたり北九州に登場する。その源流は長江流域にあり、紀元前8千年ころから水田耕作を基盤とする長江文明を形成した人々である。私は長江人と呼んでいる。
7.彼らは北九州でC1人と共存しながら初期弥生文化を形成した。紀元前200年、漢の楽浪郡支配に関連して朝鮮半島南部に激変が起こり、大量の長江人が日本へ流入した。(この紀元前200年の人口爆発は未確認です)
8.O1b人はC1人を席巻し、たちまちのうちに近畿から東海、北陸へと広がった。D2人の生活域は基本的にはO1b人と競合しなかったので共存が維持された。D2人は沖縄をふくめて弥生語化した。青銅器文化が始まり、銅鐸が集団の象徴となった。これが日本語の第一次受容である。
9.小泉さんが「縄文語」と呼んでいるのは、おそらくこの第1次弥生語であろうと思う。「一型アクセント」を基調とするこの弥生語は、長江語をベースとし、古朝鮮語(ツングース系)を加えているであろう。
10.紀元前後に、最後の渡来人であるO2人が進出してくる。高天原神話によって立つ南満由来の民族だ。高天原は小白山脈のあたりと想像される。金印の倭那国王やその後の難升米が征服者だったのかどうかは分からない。とにかく彼らが紀元150年ころには西日本を支配するようになる。
このO2人が弥生語を持ち込んだ可能性はある。しかし漢人、南満人の系統であるO2人が元々の地で語っていた言葉と、日本語のあいだには著しい違いがある。
11.経過はよくわからないのだが、6世紀の後半には大和政権が確立する。彼らの言葉がやがて上方言葉として全国に広がっていくことになる。そのさい周辺部がこれを受容していく過程にはいろいろなものがあって、これが多彩な方言を生み出していったのだろう。

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