鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

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カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

篠田さんのM7aハプロ論におもう

2019年02月17日 南九州の先史時代 で、蛇足的に付け加えたのだが、やはりもう少し言っておかないと気がすまない。

篠田さんはM7aハプロを使って日本人南方由来論を展開したがっているようだ。

1.ミトコンドリアDNAの方法論的問題

我々は日本人がどこから来たかを巡って議論している。

それは日本人の祖先がどうやって日本にたどり着いたかという問題でもあるが、そうやってたどり着いた人が、どのようにして生き延びて現代までつながってきたかの問題でもある。

後者の問題はゲノムをいじっているだけでは解決できない。だから前者の問題は意味がないと言っているわけではない。
ゲノムだけで分かった気になってはいけないということだ。ゲノム屋さんにはとかくそういうところがある。

もう一つはミトコンドリアDNAは民族の移動を語るには原理的に不向きだということだ。これはY染色体に比べてという相対的なものだ。

この問題は全ゲノム対象の分析においても同じだ。正確といえば正確だが、その分ノイズが入ってくるからむしろ間違いが持ち込まれる危険性もある。

まずはY染色体ハプロがファーストだ。これがもっともシンプルに個体のルーツ、社会グループの傾向と本質を明らかにしてくれる。

ただし、Y染色体には弱点がある。古人骨からの採取がほぼ不可能だということである。この点でミトコンドリアDNAは適応範囲がはるかに広いので有利である。

もう一つは一つの社会グループの男女関係を明らかにしてくれる。

Y染色体が移動するゲノムとすれば、ミトコンドリアDNAは移動したがらないゲノムである。Y染色体が殺し殺されるゲノムとすれば、ミトコンドリアDNAは生き延びるゲノムである。一つの社会グループを構成するY染色体とミトコンドリアには対応関係がある。

これが崩れてきたときは、そのグループに大きな質的変化があたことを示す。その典型が戦争であり、他民族の侵入であり、支配である。

例えばアイヌの男性はほぼ純粋な縄文系であるが、女性の半分はニヴフ系である。つまり3対1の割合で混じったハイブリッドである。

この混血は、縄文人がニヴフの居住地に侵入したことから生じたと判断できる。

これはY染色体を主に、ミトコンドリアを従にして考えれば容易に得られる結論である。

ただY染色体にはサンプル数が少ない、古人骨に遡れないという決定的な欠陥があるため、適用範囲におおきな制限がある。そこはミトコンドリアを上手に組み合わせていく他ないのである。

2.M7aハプロとC1ハプロ

ミトコンドリアDNAのM7aハプロはY染色体のC1ハプロと対応する。

C1の経路はミトコンドリアM7a よりはるかに単純明快である。

C1はアフリカ東部のY染色体アダムから分岐している。AとBはアフリカに残った。CとDは紅海をわたりオマーンにエデンを形成した。その後5万年前ころにともにアジアを目指して出発した。

そのうちでもっとも先陣を切って東アジアに入ったのがC1人であり、その一部は朝鮮半島を経由して4万年前ころに日本にまで到達した。
つまりC1人は現生ホモ・サピエンスの中でもっとも由緒正しい系統のグループである。

それが今なぜ日本にだけいるのか。答えはかんたんで、他が絶滅したからだ。

篠田さんはスンダランドとか島伝いとかいろいろ言うが、そんなのは関係ない。誰もいない大地を、みんなでひたすら東に向かえば、誰かがいつかは日本に着くだろう。それだけの話しだ。

3.ナウマン人のその後

C1・M7a人はナウマンゾウを追って日本に来たものと思われる。以下、便宜上ナウマン人と呼ばせてもらう。

ナウマン人は最終氷期のピーク、2.5万年前まで日本の旧石器人のほぼ全てであった。彼らは九州全土にもまんべんなく分布したが、圧倒的に多かったのは関東平野である。

その関東平野の旧石器人は一旦ほぼ消滅する。理由は今のところわからない。ナウマン象の絶滅、寒冷化による植生の変化、ひょっとすると华山 の噴火などがあったのだろう。

そのかわりに北方からの別の旧石器人が入ってきた。そして彼らが旧石器人→縄文人の主流となっていく。ナウマン人の生き残りは北方からの旧石器人と融合し生き延びた。彼らの罠・落とし穴猟による小動物の確保術は共通化された。

そのときにあっても、南九州のナウマン人は北方人と一体化しなかった。
彼らは種子島、屋久島まで逃げのび、そこで命をつないだ。

やがて最終氷期が終わり、針葉樹林は北方に去り、落葉広葉樹林が広がり、さらに1万年前辺りからそこは照葉樹林帯へと変化していく。

4.ナウマン文化から縄文晩期文化へ

南九州縄文文化は縄文草創期に花開いた後、鬼界カルデラの噴火により消滅する。

以下は妄想である。

海洋民族化していた彼らの一部は北部九州に移動し、北方人の縄文文化と融合して縄文晩期文化へと発展して行った。

さらに北部九州から朝鮮半島南岸へと逆進出し、中国渡来民とともに「葦原中国」の形成に預かった可能性もある。

弥生式土器は、元は南九州縄文人の隆帯文土器の流れを引き継ぐものかもしれない。

隆帯文土器

前置きが未だ長くなりそうなので、年表部分は別扱いとしました。

約3万5千年前 後期旧石器時代初頭 種子島立切(たちきり)遺跡。日本国内最古の調理場跡が発見。礫石器で植物性食物を加工し、炉や礫群で調理をおこなう。

3.1万年前 石蒸し焼きを行った焼土跡・礫群が出土。局部磨製石斧,台形様石器が各地より出土。種子島の大津保畑落とし穴群。
縄文銀座

3.1万年前 後期旧石器時代 最終氷期最寒冷期の直前に姶良カルデラの巨大噴火。
噴出量450 ㎞3の超巨大噴火で、吹き出した火砕流が九州全土を覆い、厚さ最大100mほどのシラス台地(種Ⅳ火山灰層)を形成した。九州の植生は1000年回復しなかったといわれる。(カルデラの噴火時期は文献により相当の違いがある)

26000年前 石刃技法とナイフ形石器が拡大。この頃、北方由来の旧石器人種に交代?

旧石器分布
    旧石器時代の遺跡分布

2.5万年前 最終氷期最寒冷期。(ウルムの表記についてはここを参照のこと)

2.4万年前 姶良カルデラの大爆発・入戸火砕流。(AT火山灰)

2.1万年前 沖縄・港川人の出現。
南九州の早期縄文文化を担った人たちはミトコンドリアDNAのハプログループM7aだった可能性がある(篠田)。またY染色体はC1グループの可能性がある(崎谷)。ということで、港川人と縄文人には血の繋がりなし。
2万年前 帖地遺跡(喜入町)。磨製石器9点。仁田尾遺跡(鹿児島市)の古層よりナイフ形石器。

1.5万年前 細石刃文化が日本列島全体に広がる。

1.5万年前 暖かい黒潮が温暖化とともに日本列島に近づき始める。植生は針葉樹林帯から落葉広葉樹林へと変化。

1.5万年前 旧石器時代末期 上場遺跡(出水)、水迫遺跡(指宿)など。ここまでの旧石器時代末期の各遺跡の年代は相当誤差があり、事実上同一時期として幅を持って見ておいたほうが良い。

1.3万年前 縄文時代草創期第一段階。仁田尾遺跡、加栗山(かくりやま)遺跡、加治屋園(かじやぞの)遺跡、榎崎(えのきさき)遺跡、など。叩き石・麿石を用いた植物食利用、細石刃石器群、大型石斧など。

磨石というのは世界的には新石器の範疇である。日本には新石器時代はなかったとされるがどうなのか。
縄文時代とされるのは、土器が出てくるからであるが、それは「縄文式」土器ではない。本州に縄文式土器が出現するのは1,1万年前以後であり、この間、南九州は隔絶的な進歩を遂げている。

1.2万年前 氷河期が終了し間氷期へ入る。まず種子島、ついで南九州で照葉樹林が現れ、生のまま食べられる木の実も豊富になった。

1.2万年前 縄文時代草創期第二段階。栫ノ原(かこいのはら)遺跡など。縄目文様ではない貝殻文様の土器と木を伐採するための磨製石斧が出現。
栫ノ原遺跡は夏用の定住集落と言われる。煙道付き炉穴と調理跡(石皿・磨石)が有名。

1.15万年前 桜島の大爆発。火山灰層は「薩摩Sz-s」と呼ばれる。これが縄文草創期と縄文早期の境界となる。

1.1万年前 種子島の三角山、奥仁田で隆帯文土器が大量出土。

1.1万年前 東黒土田遺跡(志布志)。どんぐり貯蔵穴の設備、隆帯文土器が出土。

1.1万年 掃除山遺跡で2棟の竪穴住居跡が発見。炉穴、植物食料の製粉具である磨石などが出土する。
鹿児島遺跡地図

9500年前 上野原(4工区)遺跡。日本最古の大規模な集落遺跡。46軒の竪穴式住居。他に加葉山遺跡、前原遺跡など。前平式土器、巨大落とし穴、土偶などを特徴とする。黒曜石は北部九州から移入される。

九州の縄文遺跡で出土する動物の骨は9割以上がイノシシと鹿である。ほかにヤマネコ、狼、カワウソなど小動物である。おそらく住民が食するには不足していたであろう。

9000年前 桜島噴火。このあと上野原3工区遺跡が拓かれる。

9000年前 南九州本土で植生の変化が見られる。それまでの落葉広葉樹から照葉樹林帯へ。

8000年前 縄文早期の中葉 九州北部が東日本の縄文文化の影響圏に入る。

7500年前 縄文早期後半 南日本から竪穴式住居が消失。気候が亜熱帯化したためと言われる。

7500年前 上野原遺跡で 初の壺型土器が作られる。

6300年前 海底火山「鬼界カルデラ」の大噴火。アカホヤとも呼ばれる。噴出量170 ㎞3以上で九州南部の縄文文化は壊滅した(佐原)。日本全土での縄文早期と前期の境界となっている。

南九州の火山
             南九州のカルデラ

葦原中国(あしはらのなかつくに)から豊葦原瑞穂の国へ
高天原グループの態度豹変

天孫降臨に前後してのことだろうが、葦原中国に対する呼称がコロッと変わる。豊葦原瑞穂の国は正確に言うと豊葦原千五百秋瑞穂の国(ちいほあきのみずほのくに)だ。

価値観が180度転換するのだ。

価値観を転換したのは記紀につながる権力者たち、すなわち天孫族(高天原系列)である。けっして葦原中国の住民ではない。
なぜ転換したか? それは他人の土地だったのを自分のものにしたからだ。


葦原中国は蔑称

「葦原」とは海辺に葦が生い茂り、葉がざわざわと無気味にさわぐ未開の湿地を示す。出雲に限定された地名ではない。

日本国の美称とする解説もあるが、もとは美称どころではなく蔑称に近い表現だろう。
この辺の機微を世界大百科事典 第2版の解説がきわめて適切に表現している。
そこは天上界、地下の黄泉国に対する中間の世界、つまり人間界をさす。
そこはまた人間生活の中心地に対する野蛮な周辺部でもあり,死者が住むとされた山や原始林地帯との中間の地でもあった。
そこは荒ぶる「国つ神」が蟠踞する、混沌とした無秩序の世界であった。
つまり、それは天上界が人間界を指す蔑称だった。「葦原中国」は天上界の人間界に対する侮蔑の表現だった。だからこそ天孫たちはそこに干渉し、侵略し、略奪するわけである。

長江からの渡来民が不毛の湿原を美しい稲田に変えた

この地域には紀元前2千年ころから、漁労民族がまばらな集落を形成しながら暮らしていた。後に晩期縄文人となる人々である。人種的由来は今のところ不明である。

そこに山東半島から黄海を越え朝鮮半島に渡った人々が南下してきた。長江流域で稲作文明をになった人々が漢民族に押されるように移動してきたのである。2つのグループの生活テリトリーは競合せず、平和共存が始まった。

これまで不毛としてきた葦原が水田となり辺り一帯が「豊かな瑞穂の国」となった。やがて米作はより環境の適した九州へと広がっていった。


天孫族は美田を奪い、それから褒めそやした

湿原の民を軽蔑していた高天原グループだが、葦原中国の繁栄に注目するようになった。
そしてさまざまな軋轢の末に、葦原中国のすべてを手に入れ支配することとなった。

彼らの心中において貧しい未開の地であった葦原中国は、天孫の統治するにふさわしい五穀豊穣の「水穂国」へと捉え直されるようになる。

なんとも安直な勉強法で、まことに恥ずかしい限りだが、「日本神話・神社まとめ」というホームページにある「日本書紀」の現代語訳を読ませてもらっている。
そんな勉強で一端の口を利くというのもふざけた話で、年寄の妄想と思いながら読んでもらえるとありがたい。

それにしても我ながら驚いた。
日本書紀の記載を一つ一つ読んでいるだけで、まったく通説と異なるストーリーが浮かび上がってくるのだから…

狡猾で冷酷な独裁者としてのアマテラス、夫婦で作り上げた王国をアマテラスに蹂躙されオロオロするばかりのイザナギ、そして高天原王国に敢然と立ち向かい、最後まで抵抗をやめなかった英雄スサノオ…

舞台は小白山中の高天原、大八洲に囲まれたイザナギ・イザナミの豊葦原の国、さらに海を渡り筑紫、宗像、出雲と展開していく。

1.高天原は智異山だ

「高天原は智異山だ」というのが、私の以前からの考えである。智異山という根拠はあまりない。小白山地の何処かだということだ。つまり楽浪郡と三韓の境界ゾーンだ。
時期としては、おそらく紀元前200年から100年の間だろう。この頃衛氏朝鮮が漢の攻撃を受け滅びた。その残党が三韓側に逃げ込んで亡命政権を建てたのではないか。
彼らは朝鮮半島に影響力を拡大し、支配下においた。

2.高天原伝説とイザナギ伝説

神代説話は明らかに2系統ある。一つは高天原説話で、道教(中国北部)につながる垂直思考だ。
もう一つはイザナギ・イザナミのたゆとうて行く海洋系神話だ。
これまで私は高天原が天孫系のルーツで、イザナギ系が在来系のルーツと考えてきたが、それではどうにも説明がつかないほどに2つの説はもつれ合っている。

この2つの系列はともに渡来人のものであり、2つの渡来人の系統が朝鮮半島南部でからみ合い、絡み合った姿のまま日本に渡来したと見るほうが適当ではないかと思えるようになった。

3.大八洲は朝鮮半島南岸地帯

衛氏朝鮮人が峠を越えて大同江を眼下に臨んだとき、そこには晩期縄文人(日本全土に分布する縄文人とは別人種)と長江文明を引き継ぐ米作人が混住していた。この社会を南岸人と呼んでおくことにする。

そこにはオノコロ島、淡路島、その他の大八洲を形成するだけの島嶼が散在していた。そしてそれらの島々に囲繞されるようにして葦原中国が広がっていた。彼らの一部は渡海し、九州北岸に同種の文化を形成しつつあったが、本体はあくまで半島南岸にあった。
大八洲に日本の島々を当てはめるのは基本的には後知恵であり、実際に作業してみれば分かるようにかなり破たんせざるを得ない。

日本神話で日本の国土と思われてきた多くの地域的広がりは、じつは半島南岸を中心としていたのである。何も日本の地理に無理やり当てはめる必要はないのである。

4.葦原中国こそ原日本人のルーツ

これらのストーリーから生まれてくる原日本人像がある。それは対馬海峡を挟んで両岸に展開した「晩期縄文人」という名の海洋民族、そして山東半島→楽浪→大八洲と流浪の旅を続け米作文化をもたらした長江人、これが奇跡的なほどに混ざりあって出来上がったのが、日本人の原像としての「弥生人」だ。

両者のミキシングがこれほどまでに進行した理由は、高天原グループ=天孫族への共同の抵抗ではなかったのだろうか。たしかに天孫族は日本の政治システムを握り民族を支配した。しかし天孫族は日本人のDNAにほとんど影響を与えていない。何よりも驚くのは日本語という言語の形成過程にすらほとんど影響を与えていないということだ。

5.イギリスでも同様の事態が

最近のイギリス人の研究も同様の傾向を示している。イギリス人(イングランド人)はアングロサクソン人を自称してきたが、そのDNA的骨格から言えばアングロサクソンではなくあえて言えば“ケルト人”なのだ。デーン人やノルマン人の血はほとんど混じっていない。

DNAだけが人類のあり方を規定するわけではないが、アングロサクソンのDNAを誇りにしてきたイングランド人にはかなりショックだったろうと思う。




最初に「いくつかの結論」を書いておきます。
1.その昔、朝鮮半島南岸部に海洋民を主体とする社会があった。大八洲と呼ばれる島嶼に囲まれた湿地帯で豊葦原中国と呼ばれた。

2.紀元前1~2世紀に、北方から漢に押し出されるようにして「天孫系」グループが南下してきた。彼らは山城を築きながら葦原系と対峙した。

3.経済的には倭(筑紫など)の植民地を持つ葦原系が豊かであったが、軍事的には漢と接触のある高天原系が圧倒していた。

4.葦原系は首長ウケモチが殺害される事件をきっかけに蜂起し、亡命から戻ったスサノオを司令官に押したて、高天原系と和議に持ち込んだ。

5.高天原系は陰湿な手法でスサノオを放逐し、高額の賠償金をせしめた。スサノオは葦原中国へ下った後、ふたたび倭へと亡命した。

6.高天原系は朝鮮半島南岸のを手中に収め、さらに倭の支配を欲し、数次にわたり攻勢を仕掛けた。スサノオは出雲に拠点を構え、抵抗を続けた。

7.葦原系の最後の拠点であった出雲も高天原系の手に落ちた。これを受けて筑紫の日向にニニギが降臨した。こうして朝鮮海峡を挟んで両側に“ベストミックス”の階級国家が誕生した。

「神代上」全体の構成

「神代上」は天地開闢から始まり、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)が豊葦原中国に降臨するまでの経過だ。

ここに登場する神々には、大きく言って3つの系列がある。

A)造化三神の系列

B)高天原系列

C)イザナギ・豊葦原系列

肝心なことは、豊葦原中国への降臨が「神代上」の最後だということである。
つまりそれより以前の記載は、すべて朝鮮半島での出来事だということである。人名・地名も朝鮮のものである。
なぜなら、日本書紀・古事記は、基本的には朝鮮半島からやってきた高天原系列の征服譚だからである。国内のあれこれの地名に比定した記述は、すべて後世のものと考えるべきである。
征服者は高天原系列の直系であるが、朝鮮南部でイザナギ系と混交して一つの社会を構成し、その後に日本に侵攻したものと考えられる。
日本に先着したイザナギ系の傍流としてスサノオ系、宗像系がある。

なお古事記との異同をチェックしながら読んでいるが、基本的には違いがない。日本書紀が丹念に「一書」(異説)を汲み取っているので、神代に関する限り、わざわざ古事記を参照する必要はなさそうだ。


A)神代七代: 造化三神の系列

北欧的・形而上学的な三位一体が語られ、それらの所与に照応して3人の神が登場する。
想像するに、これは明らかに漢文化の影響を受けた衛氏伝承であろう。しかしこの天地開闢説話は、その後につながらない。
天が先に生まれ、 次に地が固まりました。その後、その中に神が生まれました。国常立尊(クニノトコタチノミコト)、国狹槌尊(クニノサツチノミコト)、豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)の三柱です。
「一書」では、国常立尊に先行する神、可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)が挙げられる。


C) イザナギ・大八州系列

本来であれば、登場順に高天原系列を記述すべきであろう。
しかし高天原系列は相当後の五段になってから、イザナギの後継として本格登場するのである。

それまでは一段における下記の「一書」の記述のみである。
高天原に生まれた神が天御中主尊(アメノミナカヌシ)です。次に高皇産靈尊(タカミムスビ)。次に神皇産靈尊(カミムスビ)です。 

高天原神話が天地開闢神話と無関係に挿入されるのは、高天原が別系統の口伝であることの表現ではないか。なおアマテラスのところに出てくるタカミムスビとの異同は不明。

それで造化三神に始まる神代七代のあと、系譜は途切れる。これに代わり登場するのがイザナギとイザナミである。
神代七代とは関わりのない別系統で、高天原を含めた神代七代が、北方系・大陸系の印象があるのに比し、海洋系(すなわち別人種)の印象が強い。
「一書」で、イザナギとイザナミの二神は高天原に座って、アメノヌボコでかき回すとオノコロ島が出来ました。
とされているが、このあとイザナギと高天原との直接関係を示唆するような記載はない。無理やりくっつけたものであろう。

解説によると、柱の周囲を回って夫婦となるという話はミャオ族にもあるそうだ。南方系・海洋系と言うだけでなく、長江文明系という言い方もできるのかもしれない。

この夫婦は世界中のあらゆるものを生み続けていく。神代七代ってなんだったんだ? と言いたくなるほどの勢いだ。

1.大八洲

二人の作ったうちで最大のものが大八洲ということになる。
大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま)、伊予二名洲、筑紫洲、億岐洲(おき)、佐渡洲、越(こしの)洲、大洲(おおしま)、吉備子洲(きびのこじま)とされる。
流石にこれでは辛いので、古事記は都合よく改作しているが、その分無理筋がバレバレだ。

素直に考えれば「そりゃぁ日本列島とは違うでしょう」ということになる。そもそも当時の人に本州を四海海に囲まれた島と考える能力が果たしてあったのか。

率直に言おう。大八洲は朝鮮半島南岸沖に並ぶ島々の主たるものを列挙したものだ。当然オノコロ島も朝鮮だし高天原も朝鮮だ。
大八洲

2.第五段 イザナミの死とイザナギの冥土巡り

第五段の本論はあの冥土巡りの話である
イザナミは火の神を生んだときに、その火に焼かれて死んでしまいました。 イザナギは火の神を切り刻み、そのピースがみんな神になって行きます。
イザナギはイザナミの跡を追って黄泉の国に入りました。イザナミの体にはウジ虫が這いまわり、膿が噴出していました。 
イザナギは大急ぎで走り去りました。
以下の「一書」は地名が気になるが、とりあえずそのまま。
イザナギは黄泉の国から帰ってくると筑紫の日が当たる小戸橘(オトタチバナ)の檍原(アハギハラ)で禊(ミソギ)をしました。 

B) 高天原系列

第五段の主題は上記にあるのだが、ここには見逃せないテーマがもう一つある。それが高天原系列の天照大神の挿入である。

国生み作業の終盤になってから、イザナミはアマテラス3兄弟を生む。アマテラスは「一書」では大日孁貴(オオヒルメノムチ)で、またの名を天照大神ということになっている。

これは明らかにイザナギ系列の神話に高天原系列が挿入されたものであろう。日本書紀の作者の仕業か、それともその前か? これで三度目だ。

1.天下=葦原中国

イザナミが死んだあと、イザナギが3兄弟に指示する。
天照大神は高天原を治めなさい。 月読尊は蒼海原を治めなさい。 スサノオは天下を治めなさい
天下というのは「葦原中国」を指す。これがよくわからない。固有名詞のようでもあるし、一般名詞のようでもある。
ずっと後代に出雲王朝の領土が葦原中国と呼ばれるが、それは彼らが出雲平野を葦原中国と呼んだだけの話である。

天界が高天原,地上界が葦原中国,地下界が黄泉国という3層の神話的世界構造があるとも書かれている。
黄泉の国までふくめるかは別として、世界が2つに分かれていることは間違いないようだ。そしてイザナギ・イザナミが勤しんだのはこの世である地上界を作ることであった。

であればイザナギが指示したのはスサノオに天下=葦原中国を治めることであっただろう。
しかしスサノオはこの指示を受けなかった。イザナギはスサノオを追放した。やがてイザナギも隠居し、死んだ。

これで話は終わるのである。しかし実はイザナギがスサノオを追放したのには理由があった。


2.アマテラスの葦原中国の簒奪・支配

では統治者を失った葦原中国はどうなっていくのであろうか。
結論から言えば、葦原中国は高天原の支配・収奪する地となったのである。

これは「一書」の世界なので議論としては強引だが、保食神(ウケモチ)殺害説話がその例証となる可能性がある。
以下、少々長い引用になる。
アマテラスは葦原中国の保食神(ウケモチ)の話を聞いた。ツキヨミに様子を伺って来るよう命じた。
ツキヨミは葦原中国に行きウケモチと会い、ウケモチの対応に怒り斬り殺した。
アマテラスはツキヨミを怒り、以後は行動をともにしなくなった。
アマテラスは別の神を送り、人民を生かすための食料を手に入れさせた。

アマテラスは粟・稗・麦・豆は畑の種子としました。稲を初めて植えました。 また養蚕の道が開けました。
つまりアマテラスはツキヨミをそそのかしたあと手のひら返しで排除し、スサノオもいなくなったことから、高天原における唯一者となった。そして同時に葦原中国の支配者ともなったことになる。

アマテラスは葦原中国をたんに略奪するのではなく、産業をになわせ、人民を収奪する立場に至ったのである。(ウケモチは独自の人格ではなく一類型とされるが、アマテラスがのし上がるための契機として特殊性を備えている)

わたしたちはこのような2つの民の関係を、鳥取で見ることができる。それが妻木晩田と青屋上寺地だ。妻木晩田が襲ったとは断言できない。しかし繁栄した青谷上寺地は襲われ、皆殺しにされ、廃墟となった。


3.第六段 「天下」派の逆襲

一連の話はずいぶんきれいごとに書かれているが、高天原派が葦原中国に侵攻し支配権を奪ったことは明白だ。部下に叩かせておいて「まぁまぁ」と止めに入るのはヤクザの親分のルーチンだ。

これから先は私の妄想だが、葦原中国を創設したイザナギとしては、高天原派の跳梁跋扈は面白い話ではない。
一度は後継者に指名したスサノオを追放してまで、高天原勢に譲歩したが、高天原派内の武闘派にスサノオのリザーブである保食神(ウケモチ)を殺され、ついに葦原中国そのものを奪われた。

そこに追放したはずのスサノオが戻ってきた。余談だが、スサノオの居たのは筑紫()らしい。すでに九州北部は天下勢力=葦原中国の重要な植民地となっていて、反抗の拠点と化していたものと思われる。

スサノオが言うには、
わたしは今から(父イザナギの言うとおりに)、根の国に行きます。その前に、高天原に向かい、姉であるアマテラスと会います。それから永遠に根の国に退きます
イザナギはこの申し出を許し、すぐにスサノオは天に向かいました。これってヤクザ映画の世界そのものでしょう。あきらかにスサノオは菅原文太だ。


4.姉弟激突とアマテラスの逆転勝利
アマテラスは、粗暴である弟スサノオが天に昇ってくると聞いて、驚きました。
「きっと私の高天原を奪おうとしている」と考えたアマテラスは重武装でスサノオと対峙した。
アマテラスは高天原系とされ、天神・天津神とされます。一方でスサノオは地祇・国津神系となっています。
対決はゲーム仕立てになっていて、その結果がよくわからないが、とにかく手打ちが行われた。
子供ができて、それを二人で分けたということになっているが、そんなに都合良く産めるわけがない。要するに人質交換協定である。

スサノオは六柱の男神を差し出した。日神は三柱の女神を筑紫に降臨させた。三人合わせて「宗像三女神」である。

日神は3人の出発にあたりこう述べたという。
お前たち三柱の神は天より降臨して天孫を助けなさい。そして天孫によって祀られなさい。
アマテラス、相当のワルである。娘を筑紫まで送った上でエージェントとし、ゆくゆくは筑紫を我がものとするつもりだ。

ともかく人質を相互に確保することで、アマテラス・スサノオの連立政権が成立した。これは実質的にスサノオの勝利だった。
この連立においては、スサノオの息子6人が高天原政権の幹部に入ったことを見てもわかるように、かなりスサノオ側の比重が強化された。

そこでアマテラスは陰湿なデマ作戦で巻き返しを図った。下品なフェイクニュースを撒き散らした。そしてスサノオの人気が地に落ちたところを見計らって、ハンガーストに打って出た。
最後にはストリップのアトラクション付きの反スサノオ集会で客を動員してスサノオ政権の転覆に成功したのである。
これはかなりの勝手読みだが、ベネズエラでの米国と反政府勢力との対決を見ると、「ウンコタレ」と攻撃されるスサノオについ同情してしまうのである。


5.高天原(天孫)系の追撃

高天原チームの逆転勝利が実現した。
八百万の神は話し合って、“独裁者”スサノオの髭を切り、手足の爪を抜いて、追放してしまった。神々はスサノオに、千の台座に乗るほどの宝を提出させた。

確認しておきたい。スサノオには巨大な財があった。それは高天原から収奪したものではない。高天原には自力で獲得したような富はなにひとつない。スサノウの宝はおそらく筑紫の植民地から持参したものであろう。高天原チームはそれを奪い、葦原中国を略奪したのだ。

もう一つ、スサノオはふたたび追放された。どこへ? それは日本をおいて他にない。
第八段本文はこうなっている。
スサノオは自ら天から下って、葦原中国へと落とされた。そして出雲の簸之川(ヒノカワ=肥の川)の川上に降り立ちました。 
なぜ葦原中国からさらに出雲に向かったかについての説明はない。しかし「一書」にはこうある。
スサノオは息子の五十猛神(イソタケルノカミ)を連れて、新羅国に降り、曾尸茂梨(ソシモリ)に辿り着きました。 
スサノオが「この土地に、わたしは居たくない」 と言いました。 それで土で船を作って、それに乗って東に渡り、出雲の簸の川(ヒノカワ)の川上にある鳥上之峯(トリカミノミネ)に辿り着きました。
なぜ、出雲か? それはもはや新羅も筑紫も安住の地ではなくなったからだ。

6.天孫降臨と高天原派の全一支配

実はその前に出雲の国譲りの話があって、スサノオ一族が“出雲の葦原中国”からも駆逐されるのですが、どうも時期的には合いません。ひょっとすると、スサノオは筑紫から出雲までの「葦原中国」の全体を統括していたのかもしれません。
疲れてきたこともあり、とりあえず省略していきます。

葦原中国(おそらく金官伽耶あたりの海洋民社会)を制圧し、さらにその植民地たる対岸の筑紫をも併呑するというのが高天原グループの狙いだろうと思われる。それは葦原中国側の激しい反感を呼び起こす。
彼の地に螢火のように勝手に光る神、及び蠅聲(さばえなす=騒がしい) 邪神が多くいた。また、草木さえもしばしば言語(ものいう)状態であった。
“草木さえもものいう” 状態というのが素敵な表現だ。上から下まで高天原支配を拒否しているというのがよく分かる。倭はポリス連合に対するアテネのような存在であろうか。

アマテラスの息子は正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊という。この人は影の薄い人で覚える必要はないのだが、この人が高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘と結婚して子をもうける。
これが天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)である。面倒なのでニニギとしておく。

タカミムスビはなかなかの策士で、外孫のニニギを葦原中国の君主にしようとはかった。この場合の葦原中国は海の向こう倭の地を指している。
タカミムスビは沢山の神々を集めて、葦原中国の邪神を追い払って、平定したいと呼びかける。倭からスサノオ派を一掃しようということだろう。

提案は認められ、アメノホヒが葦原中国に送られた。しかし3年たっても平定できなかった。アメノホヒの子のタケミクマノウシが送られたが、彼もだめだった。

一書では(古事記も)
アマテラスは天稚彦(アメノワカヒコ)に命令しました。
豊葦原中国はわが子オシホミミが納めるべき土地です。お前がまず行って、平定しなさい。
天稚彦は国津神の娘たちを妻に貰い、八年経っても高天原に報告しなかった。
けっきょく、經津主神(ふつぬし)と武甕槌神(たけみかづち)が出雲を屈服させた。いわゆる国譲りである。相当手こずったということが分かる。

実は私は誤解していたのだが、すでに九州北部の支配権を獲得していた高天原グループが出雲に国譲りを要求したのだと思っていた。日本書紀の記載では、このとき高天原系は倭の地に全く足がかりを持っていなかったことになる。倭の地の全体がスサノオの影響下にあった。ただスサノオは警戒のために出雲に引きこもり、そこに根拠地を形成していたということである。これが史実と適合するかは、他の文章も参照しなくてはならない。

出雲勢力の恭順を見てオシホミミの子、アマテラスの孫であるニニギが倭に赴くことになる。ニニギは天盤座(アマノイワクラ)を出発し、 日向の襲高千穗峯(ソノタカチホノタケ)に降り立った。
そして天稚彦を殺し筑紫を平定した。木乃花咲耶媛のエピソードはニニギの人間性を示す宣伝ネタであろう。それだけ高天原軍は非人間的であったのかもしれない。

なお日向はヒムカと読むようである。下記の文がある。
天津彦彦火瓊瓊杵尊は亡くなりました。筑紫(ツクシ)の日向(ヒムカ)の可愛之山(エノヤマ))のお墓に埋葬されました。
朝鮮半島から降臨したとすると、こちらのほうが感じはつかめる。

いくつかの結論(再掲)

1.その昔、朝鮮半島南岸部に海洋民を主体とする社会があった。大八洲と呼ばれる島嶼に囲まれた湿地帯で豊葦原中国と呼ばれた。

2.紀元前1~2世紀に、北方から漢に押し出されるようにして「天孫系」グループが南下してきた。彼らは飢え、山賊と化し、山城を築きながら葦原系と対峙した。

3.経済的には倭(筑紫など)の植民地を持つ葦原系が豊かであったが、軍事的には漢と接触のある高天原系が圧倒していた。「七人の侍」の野盗集団だ。

4.葦原系は首長ウケモチが殺害される事件をきっかけに蜂起し、亡命から戻ったスサノオを司令官に押したて、高天原系と和議に持ち込んだ。

5.高天原系は陰湿な手法でスサノオを放逐し、高額の賠償金をせしめた。スサノオは葦原中国へ下った後、ふたたび倭へと亡命した。

6.高天原系は朝鮮半島南岸のを手中に収め、さらに倭の支配を欲し、数次にわたり攻勢を仕掛けた。スサノオは出雲に拠点を構え、抵抗を続けた。

7.葦原系の最後の拠点であった出雲も高天原系の手に落ちた。これを受けて筑紫の日向にニニギが降臨した。こうして朝鮮海峡を挟んで両側に“ベストミックス”の階級国家が誕生した。






白滝遺跡

白滝遺跡はいくつかの点できわめて印象的な遺跡である。
第一に、もっとも古いもので2万年を越え、北海道で最古の遺跡である。ほかに2万年をこす遺跡は北海道千歳市の遺跡があるが。これだけの規模ではない。
第二に、ただの集落ではなく黒曜石の生産に特化した鉱山町であり、加工と販売(交換)によって生計を立てていた集落だということである。
北海道というだけでも寒いのに、標高420メートルだからそれだけで4,5度は低い。おまけに2万年前は寒冷期で、今より平均数度は低い。
遺跡が形成された最終氷期の頃の白滝地域は,凍土環境であった。
黒曜石のみを唯一の生活の糧としていたとしか考えられない。
第三に、2万年前から始まり1.2万年前まで生活が営まれたという、きわめて息の長い集落だということだ。
1万年も栄えた町なんて聞いたことがありますか?
私にとって興味深いことは、同時代に関東ローム層から発見された旧石器文化とは異なるのではないかという可能性である。

遺跡(群)の概要

1999考古学雑誌の「白滝遺跡群の発掘調査」という論文が詳しい。ただこの20年間の成果は反映されていない。

白滝地図

白滝遺跡は湧別川の河岸段丘上に位置し、東西約200メートル。

ⅠとⅡの文化層に分けられる。Ⅰが2万~1.5万年、Ⅱが1.5~1.2万年前である。
日本最大の黒曜石の産出地であり、8号沢上流の山中に大規模な露呈がある。

1927年 遠軽町在住の遠間栄治によって発見される。

1940年 河野広道,名取武光らが報告。戦時中のためその後の調査は行われず。

1953年 吉崎昌一の踏査研究により、旧石器時代の遺跡であることが判明。一帯が13の遺跡よりなる「白滝遺跡群」と判定される。

1955年 吉崎・芹沢長介 ・湊正雄らが最初の発掘調査。2メートルの深さから舟底形石器・掻器・彫器・削器・石刃などが見つかる。

1956~58年 北大解剖学教室とミシガン大学による共同総合調査。

1959~61年 白滝団体研究会が地質 ・地形 ・土壌 ・考古学などによる総合的な調査。

1961年 明治大学の調査団が服部台遺跡の発掘調査を行う。

1963年 吉崎らが中心になり 『白滝遺跡の研究 』 を刊行。 遺跡の年代を2万~1万5千年前と同定する。

1985年~ 木材搬出道路工事の際に多数の石器が露出。白滝村教育委員会による発掘調査が行われる。多くの石器が出土する。

1989年 木村英明らのグループがソ連科学 アカデ ミー・シベ リア支部やユジノサハリンスク教育 大学などと共同調査。細石刃石器群の技術体系や旧石器時代の集団関係が明らかになる。

1989年 遺跡群の中心的部分が国の史跡に指定される。(97年に追加指定)

1991年 発掘結果が報告される。石器は460万点、10トンにも及ぶ。

1995年~ 旭川・紋別自動車道工事の際に多数の石器が露出。発掘調査が行われる。752万点、11.8トンの石器が出土する。そのほとんどは旧石器時代に属し、99%以上が黒曜石製である。
(この調査についてはウィキペディアでは触れられていない)

*石器のスタイルについてはよくわからないので触れなかった。

沖縄人の起源については、遺伝子学的には紛れが少ない。おそらく縄文人が九州から島伝いに南下したものと見てよい。
その後さらにかなりの弥生人も後着しているが、その割合は内地に比べ低く、結果として縄文の血統を濃く残している。
これは埴原の二重構造モデル=沖縄人南方由来説とは一番異なる部分であるが、意外にも反論は少ない。
したがって、主要な問題はそれがいつのことなのかということになる。

本日の赤旗には、沖縄で長年人骨研究に携わってきた土井直美さんのインタビューが掲載されていて面白い。

話はかなり長いのだが、端折ると、浦添にある13世紀後半の王墓を発掘したところ100体以上の人骨が見つかったというもの。
以下記事の引用。
一つの橈骨を来る日も来る日もつなぎ合わせる作業を続けた結果、びっくりする顔付きが浮かび上がってきました。
歯が前に突き出して、突顎(とつがく)という顔付きです。本土では鎌倉時代から室町時代に良く見られますが、沖縄では初めて見る顔付きでした。
沖縄では11世紀まで縄文式の生活様式が続いていたが、その後突然石垣を築いて作った巨大な城が出現する。
今回の人骨研究で明らかになったのは、この頃にヤマト人が突然やってきてこの地を占領し、支配したということである。

このことからわかるのは、東北のエミシと同じようにヤマト人の攻撃を受け、同化を余儀なくされた沖縄の歴史である。そして混血種としての沖縄人が形成されたのは11~13世紀のことではないかということである。
ただし遠隔の地のために、DNAの変化を受けるには至らず、縄文風を引き続き残したということになろう。

もう一つこの記事で触れられているのは、沖縄とアイヌの古人骨の比較で、札幌医大との共同研究で、以下のことが明らかになっている。
沖縄の古人骨の顔立ちはアイヌに比べ平坦で、必ずしもよく似ているとは言えません。
というもの。

こちらとしてはDNAが一致していれば見た目はどうでもいいみたいなものだが、昔風の人類学者にはそう言っては済ませられないものがあるようだ。

DNA的に言えば、両者とも縄文人を基盤としていて、片方はこれに4分の1のオホーツク系、若干の弥生系をこんじているが、沖縄系はおそらく4分の1程度の弥生系を混じた構成なのだろうと思う。
それが人相という表現型でどう示されるかということではないか。

「日本人の源流をさぐるーー核DNA解析で見えてきた由来」 斎藤成也(遺伝学研究所教授)

斎藤さんは我が国における核DNA解析の第一人者らしい。肩書きも申し分ない、気鋭の若手学者である。ただその記載には、時に首を傾げる場面がある。以下の部分がそれに当たる。

まずはリード部分のあらすじ
日本人の源流について「二重構造モデル」をさらに発展させる必要がでてきた。
これまで弥生時代以降、渡来人はすくなくとも2種類だったらしいことが、わかりつつある。
この異なり方はとても小さいので、これまでは見つけることができなかった。
九州・四国・本州のヤマト人に「内なる二重構造」が存在しているようなのだ。
そこで登場したのが、三段階渡来モデルだ。弥生時代以降の渡来が、時代も人々の由来も、ふたつにわかれていたとするものだ。
まだ時代も由来もはっきりしないが、弥生時代に水田稲作農耕を日本列島に伝えた人々と、その
あとの古墳時代以降に大陸から渡来した人々が少し異なっていたのかもしれない。
ここまでは言うことはない。なにか新しい発見があったのかと胸躍らせるものがある。

次に引用するのは、縄文人の身体・DNAのヒミツ.  Discovery Japan 9
という文章から日本人の核DNA分岐図の説明
①さまざまなルートでやってきた第一波の渡来民が、海で遮られた後、日本列島に残留。彼らが縄文人と総称される。
②4千~3千年前 縄文後期~弥生早期に朝鮮半島や遼東半島など沿岸域に暮らしていた“海の民”と縄文時代が交流。現ヤマト人の祖先が誕生した。
③第3の渡来民は最後にやってきて水田耕作をもたらした。彼らは沖縄の縄文人と交流し、北海道ではオホーツク人と混血し、アイヌ人となった。
tree
図は悪くないが、説明はおよそひどい。粗悪品だ。核DNAに先行する基礎的な研究をおよそ理解していないと言わざるを得ない。

もし細かくいうのなら、渡来してきたのは二波どころではない。Y染色体ハプロだけ見ても、少なくとも5波ある。現日本人にはつながっていないと思われる港川人など沖縄の旧石器人を除いての話だ。
何度も繰り返すが、明らかにしておきたい。

Y染色体ハプロによる人類の展開史
① 2つの旧石器人→縄文人
「第一波の渡来民」という表現は先行者のいない無人の野に入ってきた人々に使うのはふさわしくないが、とりあえず斎藤さんに従う。
ホモ・サピエンスは発祥の地東アフリカで、少なくとも4つのハプログループ(A,B,C,D)に分かれている。これが6万年前の話。この内AとBはアフリカに残り、CとDがアデンからオマーンへと向かった。
ただしこれらのハプロは、現生人類へとつながっているサピエンスのハプロであり、それより数万年前に人類は出アフリカを果たしている。それらの祖先は現世人に遺伝子を残すことなく絶滅した。
この内、もっとも古い「C系アダムの長男」にあたるのが日本に分布するC1a1である。最も近縁のC1a2(先ヨーロッパ人)との共通祖先は4、5万年前とされる。日本列島ではおおむね5%の頻度だが他には集団形成はなく、済州島とソウル、南満で孤発例が報告されている。おそらくかつては広範囲に生息していたのが押しやられ絶滅したのであろう。
これが4万年ほど前にナウマンゾウを追って朝鮮から日本に入った最初のサピエンスであろう。ただし先程も述べたとおり、その前に入ってきて絶滅したグループがいた可能性は、論理的には否定できない。(崎谷のC1a2論は矛盾が多い)
C1a1人を最初の旧石器人とすれば、第2波となるのが D1b 人だ。かれらがどうやってアジアに来たかはアジアそのものに痕跡がないので想像しようがない。ただ日本に来た時期と経由地ははっきりしていて、2万年前に北海道に姿を現したのが最初だ。彼らの最初の痕跡は黒曜石の採掘現場で、その持続期間はなんと1万年にもわたる。
かれらはマンモスハンターとしてやってきたが、やがて本州(マンモスもナウマン象もいない)にも渡り、全土に分布することになった。
この2つの人種が北韓道から沖縄まで広く分布し、やがて縄文人となっていく。
斎藤さんは、「朝鮮半島や千島列島、台湾や樺太島」などと書かれているが、朝鮮と樺太以外のエビデンスはない。
琉球列島に台湾方面から港川人などが入ってきたことは間違いないが、それは絶滅しており現代日本人にはつながっていない。
千島からの流入はもっと遅く、縄文時代に道東地方にわずかに入ってきた可能性がある。それはアイヌ人ミトコンドリアDNAにかすかに伺われる。
結論を言おう。
縄文人の主たる祖先は4万年前に朝鮮半島からナウマンゾウを追ってきた人々が4分の1,3万年前にシベリアからマンモスを追って北海道に入り、その後全国に分布した人々が4分の3の割で混血したものである。

② 縄文晩期人
これはいわゆる「縄文晩期人」を指すのだろうと思う。
「弥生時代以降、渡来人はすくなくとも2種類だった」というのがこのことだとすると、やや納得がいかない。縄文晩期人は考古学的には渡来人に先立つ存在が確認されているからだ。
縄文晩期人はDNA的には第三の縄文人だろうと思われる。北方由来の縄文人にとって西南日本はそれほど居心地の良いところではない。落葉樹がないから木の実がなく、したがって獣もあまりいない。そこで暮らすためには漁労が必須だったのだろうと思う。彼らが海洋の民になったとしても不思議ではない。
C2a 系という日本固有のハプロがあるが、日本国内での分布がばらついていて、今のところよくわからないので保留しておく。
そもそもは九州北部の縄文人が朝鮮半島にわたり交通したのではないかと、私個人としては想像している。
縄文晩期人が水先案内人となって半島南部の米作民(長江人)を渡来させたのは、ほぼ定説となっている。そんなことも念頭に置きながら、結果の解釈を行うべきであろう。

③ 弥生人
ということで、②を縄文晩期人とすると③は弥生人ということになってしまう。そうすると、図の説明をそのまま受け止めるならば、稲作をもたらした弥生人は「北方東アジア人」という、まことに不都合なことになってしまう。
これは今日の古代史の常識と真っ向から対立する見解である。稲作を持ち込んだ弥生人は直接には朝鮮半島南部の住民であるが、もともとの出自は長江流域であり、おそらくは山東半島から黄海をわたって朝鮮半島に達した長江人(長江文明の担い手の末裔)である。

④ 北方東アジア人(天孫族あるいは騎馬民族)
はこの図にはないが、まさしく「北方東アジア人」の渡来があったはずである。彼らはもともと遼東半島付近に住んでいた漢民族の近縁種族であり、それが徐々に南に押し出され、最後にその一部が朝鮮海峡をわたって日本にやってきたのである。

ということで、斎藤成也さんはどのくらいの思いで決意して、この記事を書いたのか知らないが、このままでは我々のような、年金研究者の袋だたきに会うことになるだろう。


慎重さを欠く篠田謙一氏の主張

最近、篠田謙一氏がテレビでの発言を繰り返している。基本的には正しい内容で、新知見にあふれ、「日本人の起源」論を一歩高めたものであろう。
シロウトが言うのも何だが、全体として大変優れた研究であると思う。

その上で言わせてもらうのだが、いくつかの点で正確さを欠くところがあるように思える。

篠田さんはもともとミトコンドリア(以下M)屋さんである。ミトコンドリアDNAの実証的研究を元に発言されてきた。それがこの10年位で全ゲノム解析が広がるにつれて、ゲノム屋さんのような顔をして登場するようになった。

たしかにゲノムの研究を旺盛に展開しているのだろうし、その分野で現在日本のトップ走者であることも認める。

ただ、全ゲノムでものをいうほどに全ゲノムに関する知見が蓄積しているわけではないので、とりあえずはM と Y の知見を加味しながらやっていくしかないと思う。

しかし篠田さんはM屋として得た知見を、全ゲノム解析の知見であるかのように語っている。少なくともそう受け取らざるを得ない場面がたびたびある。

我々は人類の移動の歴史を跡づけるわけだから、エビデンスが得られる限りにおいてY染色体のハプロをまず優先しなければならない。M は、それがどういう移動だったのかを検討するための二次的因子である。標本数の圧倒的な差を持ってしても、この本質は揺るがしようがない。

例えばの話だが、篠田さんのアイヌ論はM にこだわりすぎた間違いである。Y(男)ではほぼすべてが縄文人で、M(女)では縄文とニヴフのハーフアンドハーフである。これは東北・道南のアイヌが北に進み北海道を征服し、男を殺し女を妻にしたと見ればあたり前である。やがて女性も呼び寄せられて移住したから女性はハーフアンドハーフになったのである。それはアメリカ大陸におけるメスティソやラディーノの形成過程に典型的に示されている。

元がM屋さんである以上、ある程度は仕方がないのではあるが、シロウト相手にゲノム屋としてしゃべるときは、ゲノム屋としてのけじめは守ってもらいたい。

第二に青谷上寺地遺跡の骨であるが、これだけしっかりした標本があるのであれば全ゲノム解析をしているのであろうが、先程も言ったように全ゲノムに関するデータ蓄積がないのだから、それだけで語られても困るのである。

水戸黄門が印籠を出しても、こちらにはそれが本物かどうかはわからない。Y染色体ハプロではどうなのか、M ではどうなのか、それを語りつつ、それが全ゲノムだとどうなるのかを明らかにしてもらわないと困る。

それで青谷の話に戻るが、人骨がほぼすべて渡来系だったということで、それはたしかに驚きだ。

ただ、それは十分に有り得る話なので、青谷が朝鮮半島からの渡来人(あるいは北部九州からの二次渡来)の植民都市だったとすれば、何の矛盾もない。渡来人がみな、縄文人とやりまくって混血したと考えるほうがむしろ不自然なのである。

前にも書いたが青谷のすぐ近くには妻木晩田遺跡があって、青谷とは毛色の違う渡来人がいた。
私の印象では青谷が辰韓系で妻木晩田が高句麗系ではないか、そして妻木晩田系の人が青谷を襲って皆殺しにしたのではないかと思う。

とにかく弥生時代には縄文・渡来・朝鮮系がさまざまに交わって、一つの時代を形成していったのであろう。

M屋さんがあまりしゃしゃり出るのは好ましいとは言えない。古墳屋が日本古代史を仕切るのと同じ愚を繰り返すことになりかねない。言うのならそれなりの節度をもって臨むべきだろう。


というファイルでこの表を見つけた。
Rome
まず、どういう表なのかを説明する。
左側の2列は紀元14年における地域別推定人口。右側の2列は164年の人口だ。

左2列のうちBelochの研究は19世紀末のもので参考値と思ってよい。右2列のうちSchaidelのものは細部に異同はあるが、Frierに対する異説として提示されたもののようだ。
ということで我々シロウトとしては、とりあえずFrierのものだけ覚えておけば良さそうだ。

まず人口の変化
AD14というのは、第二代皇帝ティベリウスの即位した年。キリストが生まれたのが紀元0年だが、実際はそれより4,5年早いらしい。従ってこの頃布教を開始していた可能性もある。
一方AD164というのは5賢帝の一人、第16代のマルクス・アウレリウス皇帝の時代だ。
人口は150年で30%ほど増えている。しかし版図が若干拡大していることも考えると、ほとんど増えていない。むしろ人口の停滞ぶりに驚く。

人口の地域分布
しかしこれを地域別に見ると状況は変わってくる。150年の間にローマ帝国の東半分はほとんど人口は増えていない。
これに対し西部諸州の人口増加は著しく、まんべんなく増えている。この結果、東西の人口差は 1.5 倍まで拡大した。

この間ローマ帝国の東側にはパルティア王国という強国があり、500年にわたり繁栄を続けた。当然両国の間には派遣を巡る紛争が続いたであろう。

その間に多くの人が戦士として死に、占領されたちの住民が奴隷として駆り立てられたろうと思う。
そして、それを嫌う人々が全体として西側に向かい移動したとしても不思議はない。
キリスト教の普及拡大もその流れに乗ったと考えれば、納得がいく。
それに押されるようにして、ガリア・ゲルマニアの人々がイベリア・ブリタニアに進出したのであろう。

帝都ローマの人口増加は際立っている
もう一つ、この表ではわからないのだが、イタリアの中でも帝都ローマの人口増加は際立っているようだ。

紀元前2世紀の間,ローマの人口は15万人から37万5千人ほどに増加し,紀元前1世紀の前半には60万人まで増加した。
奴隷,解放奴隷ならびに外国人を含めると総人口は90~100万人に達した。

どうも我々はゲルマン民族の大移動という言葉に乗せられてきたようだ。ローマ帝国の時代にすでにこれらの国の民族的骨格は作り上げられ、その上に征服者としてのゲルマン・ノルマン・デーン人が君臨しただけのことではないのか。

イギリス人はDNA的にはアングロサクソンではない。ケルト人でもない。

ブリテン島に住む「ケルト人」は大陸にいたケルト人ではないという話は、前にした。
話をややこしくしたのは一部の考古学者なのだが、彼らが「イギリスの先住民族はフランスから来たケルト人だ」という話を撒き散らしたために、それが定説になってしまっていた。
じつは「イギリスのケルト人」の祖先は、イベリア半島北部から海を渡ってきた人々、早い話が「ニセ・ケルト人」なのだ。

それを承知の上で話をわかりやすくするのに、彼らをケルト人と呼ぶことにする。

問題はそんなところではなく、ケルマンやバイキングやノルマン人の血がどのくらい混じっているかということになる。

これも結構、結論は出ていて、イングランド人はアングロサクソンでもデーンでもなくノルマンでもなく、ケルト人なのだ。
ウェールズ・スコットランド・アイルランド人に対して上から目線で「俺たちはアングロ・サクソンだ。アーサー王の末裔だ」と威張ってきたが、何のことはない同じ「ニセ・ケルト」だ。
しかもローマ人にケツを振り、ゲルマンにこびを売り、デーン人やノルマン人につきしたがった「転びケルト」だ。




唐澤一友さんのページにオクスフォード大学の遺伝学研究のデータ(2006)が紹介されている。

イングランドを含め、イギリス諸島の全域において、アングロ・サクソン、ヴァイキング、ノルマン人などの系統は少数派であり、大多数は先住民族の系統である。

母系のDNAは、ほとんどが先住民族の系統である。
父系のDNAは、ある程度ゲルマン系の割合が高いが、やはり先住民族系が圧倒的である。

ストーンヘンジなどの遺跡を遺したブリテン島の先住民族は、イベリア半島北岸やブルターニュ半島付近からやって来た。彼らはケルト人ではない。

彼らは後にケルト人の影響を強く受けるようになったとされる。しかしゲノム上は、「ケルト人」が大陸から大規模に入った痕跡は全くない。

ということで、最新研究においても依然として「ケルト人」問題はニヤッとしているが、原理的にはブリテン人の万世一系ということでめでたしめでたしだ。

2013年に大規模なゲノム研究が行われ、興味深い知見が出ているようだ。いくつかのブログで訳されているが、正直どうも心もとない。
よく調べると、この研究はハーバードの研究でBBCが大々的に取り上げているようだが、かなりガセネタっぽい。BBCも落ちたものだ。

2014年01月22日 ケルト人について





朝鮮人徴用工問題について

私は北海道勤医協の当別診療所に勤務していたときに劉連仁さん(中国人連行労働者)の記念碑を建てる運動に関わったことがある。
そのときに中国人労働者の実情が、朝鮮人労働者の強制連行とは著しく様相を異にしており、決して一緒に論じてはならないと肝に銘じた記憶がある。
そのうえで、朝鮮人労働者の強制連行をタコ部屋労働につながる非人道的労働として糾弾し、今日の外国人労働者の扱いにもつながっていくものとして警鐘を乱打し、「日韓条約」に解消しえない人道犯罪=悪質労働事犯として糾弾すべきものと考えている。

しかもこれが一般的労働事犯ではなく、国家権力が直接関わる「国家的労働事犯」であることを念頭に置くべきだと考える。

以上の前提に立って、少し事実関係を洗い出しておく。



連行労働者の数

戦争中に海をこえて日本に連行され強制労働させられた朝鮮人は約100万人と想定される。

彼らの多くは最初は「労務動員計画」によって「募集」の形式で連行された。やがて戦況悪化に伴い「労務動員計画」は「国民動員計画」となり、「官斡旋」の割当で動員された。
そして最後は徴用令を直接適用して、強権的に日本に連行された。

総数は政府統計で確認されたものが72万4800人いた。これは1939年から終戦までの総計である。そのうち終戦時現在数が36万5400人である。

さらに軍人・軍属として国内各地に連行されたものが明らかな数だけで36万4200人いた。

また朝鮮内で動員されたものは400万人を越えていた。

強制連行され死亡した労働者の数

日本に強制連行された朝鮮人労働者のうち死亡または行方不明の数は6万人。これに軍人・軍属の15万人を加えると20万人以上となる。

強制連行された労働者の労働条件

土建関係、製鋼所でももっともひどい現場が朝鮮人に割り当てられた。かれらの労働条件・生活状態は、奴隷労働と呼ぶにふさわしく、まったく残虐・劣悪を極めたものであった。

朝鮮人労働者の半数近くは、石炭鉱山に配置された。終戦直前には炭鉱労働者総数の3分の1が朝鮮人であった。

宿舎は日本人と区別され、厳重な囲いをつくり、相互のゆききは禁止された。労働時間も長く、平均日収も日本人労働者の半額ていどにすぎなかった。食物も日本人労働者よりずっと悪いものを食べさせられた。
鉱山の運用規則には下記のごとく記された。
病院と連絡し、仮病による欠稼防止、守衛巡回による出勤督励、警察署との協力による逃亡防止に益々意を用うること。集団的不穏行動に備えて部隊組織となすこと…
朝鮮人労働者の反抗
39年から終戦までの6年間で、連行された朝鮮人のうち22万人が逃亡した。朝鮮人労働者の「逃亡の主なる原因は食糧不足、坑内作業の忌避と外部よりの誘惑」であった。

最初の3年間では炭鉱に連行されたもののうち36%が逃亡し、労働者の半数が失われた。
つかまればそれにたいする虐待はひどく、拷問にたえず自殺したり死亡したものも少なくなかった。

中国人に対する虐待はこのような程度ではなく。明らかに最終的には死なせることを前提したものであった。


WASPというのを調べていて、そもそもアングロ・サクソン人という人種なんてあるのだろうかと思って、少し調べてみた。
昨日の夜はそれで過ごしたのだが、今朝になったら見事に消えていた。ワードパッドで書いて、アップしないまま終了してしまったらしい。パソコンを使わないでいると電源が自動で切れてしまう仕様になっているようだ。しようのない話だ。
とりあえずはそれほどの話でもないので、記憶をたどりながら書き記しておく。

最初はベタで「ケルト人」が住んでいた

目下のところ、なぜイングランドに住む人々をアングロ・サクソン人というのかはわからない。
イギリスに文化が育つのは意外に遅い。
ストーンサークルを作った旧石器時代人はどんな生活を送っていたかはほとんどわかっていないようだ。
紀元前5世紀にケルト人が大陸からやってきて農耕文明をはじめたことになっている。ところが、前にも書いたとおり、そもそもケルト人という人種が存在したのかということさえ分かっていない。
古代ギリシャの北方に住んでいて、そこからヨーロッパ大陸を西に向かって拡散し、ドーバー海峡を渡ってきたことになっていたが、どうもそんな連中がいたという事実がないかもしれないということになってきた。最近ではイベリア半島の北部から船に乗って渡ってきたという説が有力らしい。それをいわば空想上の民族である「ケルト人」ということが正しいのかどうかも議論になっているようだ。
まぁとにかく日本で言えば稲作民族が朝鮮半島から渡来したのと時期的にはほぼ一致する。
日本の場合はこれら渡来民族が在来の縄文人と混血して日本人の元型が出来上がったのだが、ブリテン島ではどうだったのか、この辺も良くわからない。
まあとにかく、紀元前後には大小のブリテン島に「ケルト人」が広がった。

ローマ人がやってきた

そこにシーザーの率いるローマ軍がやってきた。ローマ軍は現在のイングランドに当たる領土を占領しほぼ5世紀にわたって支配した。この結果、三種類の人種が形成された。一つは従来型のケルト人であり、ローマの支配の及ばないウェールズ、スコットランド、アイルランドに住み続けた。もう一つはローマの支配下に生きたケルト人であり、ブリトン人と呼ばれた。ローマ人の植民も見られたが、人種構成を変えるほどのものではなかった。

これは紀元前後に天孫系の民族がやってきて、渡来人と縄文人を支配したのと時期的には近似する。時期を一致して洋の東西で似たような人種的三層構造が形成されたことは注目に値する。

ローマ人が去りアングロ人やサクソン人がやってきた

5世紀になるとローマ帝国は衰亡期に入り、東西に分裂した。西ローマはゲルマン民族の人口圧に耐えられずブリテン島経営を蜂起した。
イングランドのブリトン人はみずから国を統治しようとしたが、非力のために雇い兵で権力を維持しようとした。ところが雇った兵隊がクーデターを起こして国を乗っ取ってしまった。

最初に入ってきたのがアングロ人で、これはユトランド半島の付け根のあたりからやってきた。アングロ人の土地というのでイングランドと名付けられたらしい。
次に入ってきたのがサクソン人で、これはハンブルクから上流のエルベ川流域、ドイツでは下ザクセンと呼ばれる地域に住んでいた。もうひとつ(早くも名前は忘れた)は今のデンマークの半島部に住んでいたらしい。

ブリトン人は「浄化」されたのか

現代イギリス人(イングランド人)は自らをアンゴルサクソンと名乗る。では在来のブリトン人の生命はどうなったのだろうか。周辺3カ国に逃げ込んだのだろうか。それとも片っ端から虐殺されたのだろうか。
あるいは先祖がローマ人に従ったように、アングロサクソンにも従って、その支配のもとで生きながらえた可能性はないのだろうか。これはゲノム解析すればかなりはっきり結論が出そうな気がするのだが。

デーン人の侵略とアーサー王伝説

Britain_peoples

アンゴロサクソン人はイングランドに7つの王国を作って暮らすようになる。その中から統一の動きも出てきてやがて統一するのだが、それはデーン人に対する共同の抵抗という意味も持っていた。

そもそも北ドイツに住んでいたアンゴロ・サクソンがどうしてイングランドに入ってきたかというと、じつはもっと北に住むデーン人に追いやられたためでもある。

デーン人はバイキングの一族であり、命知らずの海賊集団である。最初はアンゴロ・サクソンが束になっても勝てなかった。しかし7王国のリーダーであるウェセックス王国のアーサー王がかろうじてデーンの全面支配を食い止めた。

こうしてアングロ・サクソンとデーンの拮抗関係が数世紀にわたり続いた後、両者ともに消耗し尽くした時、ドーバー海峡を挟んだフランス側のノルマン王国が侵略を開始した。

ノルマン王国の支配

ノルマン王国はフランス語とフランス風の統治スタイルをイングランドに持ち込んだ。ノルマン人以外の人種はデーン人もふくめてイングランド人と一括されるようになった。

ノルマンの血統が絶えた後も、フランスの別の王家プランタジネットが支配を続けたから、北フランスのゲルマン人も一定の割合で混じりこんでいる。

したがってイングランド人が自らをアングロサクソンと呼ぶのは不正確と思う。

結論

民族皆殺しが行われない限り、イングランドでは数回の大規模な人種交配が行われている。

まず旧石器時代人とケルト人の混合。ついでケルト人とローマ人の混合。ついでローマ・ブリトン人とアングロサクソン系三人種の混合。ついでアングロサクソン系とデーン系の混合。最後に北フランス系ゲルマン族との混合ということになる。

これがDNAの上にどのように反映しているかは、別文献を当たる必要がありそうだ。

しかし、このようにして形成された「人種」をアングロ・サクソンの名のもとに一括するのは著しく正確さを欠くものと言わざるを得ない。


日本人の起源論との関係

ただこれは実は出発点なのであって、イギリスは日本人の起源を考えるときの最良の対照なのである。

イングランド人というのは、旧石器時代人とケルト人、ローマ人、ゲルマン人、スカンジナビア人、最後にノルマン人という人種の重なりによって形成された民族なのだということである。

なぜか、それはブリテン島というのが日本列島と同じで行き止まりの国だから、逃げ道がないから、重なっていくしかないという事情を抱えているからである。

問題はそれぞれの民族がどの程度の重味を持って重なっていることである。

歴史を単純に重ねるなら、ストーンヘンジを作ったのが縄文人、そこに渡来したケルト人が弥生人、紀元前後にブリテンにやってきて、支配したのがローマ人ということになる。

ただその後2つの国は別の歴史をたどり始めるのであって、日本にはデーン人やノルマン人に相当するような諸種族の重なりは見られない。

この辺はたとえばY染色体DNAとかミトコンドリアDNAとかで別個に情報を集める他ないのである。


継体天皇は混乱の入り口か出口か

1.継体天皇崩御の謎

百済本紀の勉強をしていて、ウィキの別項目が心惹かれた。

記事の名は「継体・欽明朝の内乱」で、安閑-宣化系と仁賢系の対立があったのだという説である。

そもそも継体がどこの馬の骨とも分からぬ出自で、即位の後数十年も摂津から山城をウロウロしていたのだが、それが即位して、亡くなってそれからまた内訌になったのだから、シッチャカメッチャカである。

しかもその間に筑紫の君磐井の乱が起き、任那の国が滅び、大和の地に忽然と蘇我氏が姿を現していくのだから、まったく謎の50年である。

しかも継体天皇の没年には諸説あり、百済本紀には「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」となっているのである。

そこにはミステリー小説も真っ青の「謎」がぎっしりと詰まっている。身震いするほど面白い話題なのだ。

2.雲の切れ間

大和王朝には空白の50年がある。雄略天皇が死んでその跡目争いがゴタゴタして、空位になってしまう。これが西暦500年ころだ。
その後物部と大伴という二大豪族が越前から継体というカイライを探してきて皇位に据えるが、からっきし権威がない。
結局、継体は30年を経て大和入りに成功した。そして名実ともに天皇家を担うようになるのだが、それから1年もしないうちに死んでしまう。
その後二人の天皇が後を継ぐが、いずれも超短期政権で終わってしまう。
さいごに欽明天皇が即位して事態は安定に向かうのだが、とはいえそれにはさらに10年を要する。

というのが経過のあらましだが、何よりもまず継体と欽明とが本当につながっているのか、「継体は断体なのではないか?」というのが疑問である。

3.継体天皇の二つの顔

私は九州倭王朝の存在を信じる人間である。少なくとも6世紀初頭の倭王「武」までは、九州北部を根城とする王国が存続していたと思っている。
それがどこまで引っ張れるのかについては分からない。根拠はない。

それはどこかで終わる。多分任那の滅亡と前後して終わったのだろうと思う。
それに代わって日本を代表する勢力として大和王朝が登場する。それは早くとも、欽明天皇の治世の後半からだろうと思う。より端的に言えば蘇我稲目の登場がメルクマールだと考える。

継体はこの2つの時代の接合部に登場する。彼は2つの顔を持っている。

一つは近畿にあって、王の存在しない混乱の時代を終結させ、安定と成長の時代に導いていく「大和政権の最初の王」としての顔だ。
もう一つは「太子・皇子倶に崩薨」し、混乱の時代に突入する「倭王朝の最後の王」としての顔だ。
それは死に顔から後ろ向きに始まるストーリーとなる。それがこの「継体・欽明朝の内乱」なのだ。

4.継体天皇の表の顔

まずはウィキの記載から入る。
生まれが450年、没年が531年3月10日とされる。81歳という年齢は長過ぎるようにも感じるが、ないとは言えない。ただし450年には“?”がついている。
507年に57歳で即位して、在位は24年間ということになる。数字だけならありえない話ではない。今上陛下の御即位は56歳である。しかし考えにくい数ではある。
出身は越前国高向の豪族で男大迹王を名乗っていた。大伴、物部ら反大和系(河内系)豪族に推戴され即位した。
即位19年後の526年に初めて大和国に入り、都を定めた。531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、同日に崩御した。

これが日本書紀の記載である。

この記載を具体的に解釈してみよう。継体を押し上げた勢力は雄略天皇と河内王朝を支えた勢力であることがわかる。そしてなおかつ、河内王朝(大伴・物部連合)は後継者不在に陥っていことがわかる。
河内王朝の権威は失墜した。大和の勢力は河内に従わず別の権力を打ち立てた。
河内と大和の対立は30年にわたり続いたが、最終的には河内側の勝利に終わった。継体は大和入りして都を開く。
基本的にはこの後、大和盆地を根城に万世一系の血筋が続いていくわけだから、継体という王はとても大切な王ということになる。

5.裏の顔 そのA 古事記の顔

古事記は日本書紀よりひと世代前に稗田阿礼位の口述を筆記して作成したと言われる。二つの資料において継体天皇の記載はかけ離れている。
古事記では、継体天皇は生年485年、没年527年5月26日となっている。(注釈文では4月9日)
古事記と日本書紀との間にはあまりにも露骨な対立が見られる。
同時代の作品であるから、たがいに知らないわけはない。とくに日本書紀の作者は必ず古事記に目を通しているはずである。
であれば、日本書紀側が知っていて、あえて虚偽記載した可能性が高いということになる。

もし古事記に従うなら、話はよほど自然になる。即位は22歳だ。大和に凱旋したのが41歳。その翌年には死んだということになる。
では日本書紀はなぜ、古事記を無視してまで生年を35年も遡らせたのか。

そこには理由があるはずだ。それが百済関係だと思われる。

没年についてはさらにミステリアスだ。527年5月26日というと大和入りしてやっと1年、とうてい安定した支配とは言えない。むしろ4面敵の中で暮らしている感じだ。
もし皇位を禅譲してその日に亡くなったのだとしたら、それが平和的なものだったのかという疑いがきわめて強くなる。
継体は前例のない譲位という形で権力を奪われ、死を余儀なくされたのではないかという疑問が沸かざるを得ない。この疑問に古事記は一切答えていない。

もう一つ、磐井の乱だ。このような状況の中で果たして平定作戦を進めるだろうか。それだけの力が地方豪族連合に過ぎない大和(河内)朝廷にあったろうか。

だから日本書紀はこの年を没年にしたくなかったのだ。そこで後ろにずらせて、大和支配が安定し、禅譲のお膳立てが揃うギリギリの531年まで繰り下げたかったのではないか。日本書紀はご丁寧にも534年という異説まで紹介している。


5.裏の顔 そのB 百済本記の顔

これは本当に継体天皇のことなのか分からない。日本書紀の作者(おそらく百済人)が、「これは年代的に言ったら、継体天皇やろな」と思って書いただけのことだ。だから本文には組み込まずに、注釈として挿入してある。

その文章というのは、「辛亥の年(531年)に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」(日本天皇及太子皇子 倶崩薨)というものである。

ただ、百済の亡命者も経過は知らないから、辛亥年というだけの理由で話を作り上げただけだ。それが60年前であっても後であっても「アッ、そう」だけかもしれない。

もしそれが倭王何某と書かれていたとしても、690年に亡命して大和で外国の正史を編纂している人間にとってどんな意味があるか。大和の天皇と書きなおしても何の不思議もないのではないか。

彼らにとって、大和王朝が由緒正しい倭王朝の末裔ではなく、田舎の豪族連合政権の出自なのだとしても、どうでも良いのである。問題なのは、彼らがその時大和朝廷の食客でしかなかったということである。


6.「辛亥の変」で殺されたのは安康天皇?

ウィキでは、60年前の辛亥年、すなわち471年とする説を紹介している。「この年、大和朝廷では安康天皇が眉輪王に殺害された。混乱に乗じた雄略は兄や従兄弟を殺して大王位に即いた」とされている。
しかしこれは「天皇及太子皇子 倶崩薨」というのとは少し違うし、「雄略を倭王武に比定してバリバリ書きまくっている日本書紀の執筆者が、そのような単純な取り違えをするだろうか?」という、別の疑問が浮上する。


7.継体 531年死亡説を前提とする王権継承説話

話がどうしようもなくこんがらがっているが、もともと古事記をオリジナルと考えれば、「継体A」は527年5月26日に亡くなったのである。

皇位を後継者に譲り、その日に亡くなったというのは日本書紀の説明である。古事記にはそのような説明はない。おそらく磐井の乱も知らず、側近の悪巧みも知らず自然死したのであろう。

その後、安閑・宣化が短期政権を担ったあと、欽明へという流れはもっとも素直な政権論である。

ただ526年に大和を制圧し都を立てて、わずか1年後に亡くなるというのはいかにも唐突だが、そもそも古事記には20年にわたるオデッセイアは描かれていないのだから、そんなことはどうでも良いのだ。

これに対し日本書紀はことさらに生涯をドラマ化し、あえて不審死を匂わせ、さらに百済本記の「531年事件」を重ね合わせ、物語を作り上げている。

いずれにしてもここには、日本書紀が密かに重ね合わせたもうひとりの継体天皇がいる。この「継体B」こそは倭王朝を率い百済と交通し、任那を割譲し、磐井の反乱を乗り切り、31年に政変により打倒され、一家皆殺しにされたのである。

それでは、日本書紀はなぜ生年を35年も遡らせたのだろう。それは継体を倭王「武」に比定したかったためではないだろうか。

いまのところ、邪馬台国大和派の人々は雄略を武に比定している。しかし雄略の即位が絶対年代で450年ころであり、どうも合わない。
『梁書』は502年に倭王武を征東将軍に進号しているのである。そうするとこの時期に日本で天皇でありえた人物は継体しかいない。
そのために九州王朝の王であった「継体B」を大和王朝の継体に当てはめなければならないことになる。

しかしこれは相当の無理がある。倭王武が531年まで生き延びたとは考えにくい。おそらく倭王武の次の王、名無しだがとりあえず「継体B」を名乗る王がいたのではないか。


8.安閑・宣化天皇は倭王朝の最後の王

日本書紀はさまざまな問題をはらみつつも、最終的に欽明へのバトンタッチを認めている。しかし本当にそうだろうか。

欽明天皇は宣化天皇の娘婿でしかない。継体天皇の嫡男となっているがこれは怪しい。しかも彼は安閑・宣化系勢力と明らかに対立している。対立というより並行というほうが正確かもしれない。

しかも彼の近親者や支援者は明らかに大和系で、九州系の香りはない(蘇我稲目は元九州系の可能性があるが)。

この2つのグループの対立は最終的に宣化の崩御により解消された。
しかしもう一つの可能性、継体が死んだとき同時に安閑皇太子、宣化皇子も死んでしまい、それでは格好が悪いと言うので2年づつ生きたことにして欽明へとつないだのかもしれない。
なぜそうしたか、それは彼らを殺した連中にとってそのほうが都合よかったからである。

では誰が倭王朝を滅ぼしたか、最初から明らかにしているようにそれは大和王朝によるものではなかった。おそらくは九州王朝そのものの自壊作用ではなかったかと思う。

以前、それは百済によるものではなかったかと書いたことがある。かなり荒唐無稽な推理ではあるが、成り立たないわけではない。

しかしもっと考えやすいのは任那か、加羅か、金官伽耶あたりにいた和人集団である。

朝鮮海峡を挟んだ倭人集団は結局共倒れになり、その結果半島では新羅に国土を制圧されることになり、九州北部では欽明天皇の率いる大和軍に吸収合併されていくことになる。

日本書紀: 百済三書からの転載が想定される部分
(ウィキを見ていて考えついたこと)

1.百済三書をどう見るべきか

『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』の3書を百済三書という。いずれもすでに失われているが、『日本書紀』への引用として一部が残されている。
なお「百済本紀」は後世に作成され、『三国史記』に収められたものであり、百済三書とは異なる。

日本書紀に引用されている逸文は、近肖古王から威徳王の15代200年にわたる。

絶対年代はわからない。一つの傍証としては三国史記にも同じ文献からの引用と思われる箇所があり、干支の2周分(120年)ずれて一致することが指摘されている。これは本居宣長、那珂通世以来の通説であり、承認してよいのではないかと思う。(ここからは逆に、その120年のずれがいつから解消されているのかも問題になるが…)

内容についても、人物名など明らかに大和朝廷の事情に合わせている場所を除けば、とりあえず史実とみなせるのではないか。

やって見る価値はあると思う。


2.誰が引用したのか

明示的な引用は、『百済記』が5か所、『百済新撰』が3か所、『百済本記』が18か所である。ということは、引用が示唆される場所、参照したと思われる箇所は、はるかに多いことになる。

これだけ大量の引用を行いえたのは、百済から百済三書を携えて亡命して来た百済の御用学者のみである。

大和朝廷に「皇統記」みたいなものがあって、彼らはそこに適宜百済側の資料を突っ込んでいったのではないだろうか。

もしその皇統記が「古事記」に類するものであったとすれば、
「日本書紀」-「古事記」=「百済本記」
みたいな関係が成り立つのだろうか。


上野原遺跡
こんな遺跡あるとは知らなかった。
鹿児島県霧島市国分上野原というのが発見場所だ。「花は霧島、たばこは国分」という歌の文句そのままである。

キャッチフレーズとしてはなかなか難しいのだけれど、十分にユニークな遺跡だ。
ウィキによると、
1、(発見当時において)日本列島で最古の大規模な定住集落跡
2.「縄文文化は東日本で栄えて西日本では低調だった」という常識に疑問を呈する遺跡。
3.弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかった。

霧島というのでいいところは、始終噴火があるということだ。時代同定がきわめて容易であらゆる事物がほぼ絶対年代で示される。9500年前なんてのが造作もなく出てくる。
uenohara2010g
9500年前というのは最後の氷河期が1万5千年前に終わり、温暖化が進み始める時代である。「南だから住めた」時代だったのかもしれない。

その最古層、9500年前のところから竪穴式住居46軒、石蒸調理のための集石遺構が39基、連穴土坑15基、その他の土抗約125基、道の跡2条が確認された。
uenohara064
連穴土坑というのはシカ・イノシシを燻製にする施設らしい。どちらにしても、東北北海道で9,500年前というとちょっと引いてしまう。

ただ、これだけだと、どうして推定300人の人間がここに定住できたのか、の理由が分からない。縄文人の三本柱狩猟、採集、漁撈の可能性はかなり疑問だ。

当時そのままではないにしても、標高260メートルに住みながら漁撈を営んだとは思えない。鹿児島の丘陵地帯に落葉植物がそれほど茂っていたとも思えない。

こいつはどうしたことだ。

それでネットを探していたら、下記のページに行き着いた。

よくみたら前から時々引っかかっているページだ。
2000.9.16(土)にアップされている。音楽が流れるようになっているのが、何故か懐かしい(今は流れないが…)。
当時としては精一杯頑張ったホームページだ。当時出始めの
ADSLでも相当しんどかっただろうと思う。



年表 津軽安藤(安東)家の盛衰

      アイヌ民族の歴史年表 東北エミシの年表 その4 より該当部を抜粋し、
若干の増補を加えたものです。

1185年 奥州藤原家、源頼朝に追われた義経を秘匿。後、頼朝の圧力を受け殺害。

1189年7月 頼朝軍が奥州に侵攻。藤原氏を滅ぼす。泰衡は糠部郡に脱出。出羽方面から夷狄島を目指すが、肥内郡贄柵(現大館市仁井田)で討たれる。

1189 幕府は奥州惣奉行を設置。秀衡の弟藤原秀栄は十三湊藤原氏の継承を許される。

1990年 安藤季信が、津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。季信は安倍氏の末裔で、頼朝の奥州攻めで先導をつとめた安藤小太郎季俊の子。(実体的支配は1217年以降と思われる)

1216年、鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島に追放する。

1191 頼朝軍に従った南部氏の一部が陸奥九戸、糠部へ移住。元の根拠地が甲斐の南部だったために南部藩と名乗ったらしい。本格的な入植は1334年に国代として赴任してからとされる。

安東家が蝦夷管領に

1217年 鎌倉幕府執権・北条義時、陸奥の守を兼任する。

1217年 鎌倉幕府、藤代の安東堯秀(太郎)を津軽外三郡守護に任命。
安東家はあわせて蝦夷管領(蝦夷沙汰代官)にも任命され、「東夷を守護して津軽に住す」役割も担う。
1229年 津軽外三郡守護の安東氏が、十三湊を支配する十三左衛門尉藤原秀直(奥州藤原氏の末裔)を萩野台合戦で破る。藤原秀直は渡島に追放される。

1229年 安東氏が十三湊に移り港湾の整備や街路の建設を行う。北海道からの交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する役割も引き継ぐ。

1246 幕府、陸奥国糠部五戸の地頭代職に甲斐の御家人南部氏を指名。安藤家の支配地は津軽半島一帯の3郡に狭められる。

1250年ころ 安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。

1264年 樺太で骨嵬(くぎ=アイヌ)と蒙古軍が衝突。骨嵬は朝貢を強いられる。

1268年 津軽で仏教の押しつけに反発した蝦夷が蜂起。蝦夷代官の安藤五郎が殺害される。
1.仏教を夷島に持ち込み強制した。
2.元との講和を巡る方針争い
3.蝦夷に対する苛烈な収奪
4.蒙古との衝突による戦費増大 などが原因に挙げられる。

1274年 元軍が北九州に襲来。

1281年 元軍が北九州に二度目の襲来(弘安の役)。

1283年 元、骨嵬に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。

1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は1万以上の兵力を投入。

1295年 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太南西部へ渡り、布教活動を行ったとされる。

1297年 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。(安東氏がアイヌを率いて侵攻したものとされるが証拠はない)

1300年頃 『吾妻鏡』に、強盗や山賊などを捕えて蝦夷が島に流したとの記載。

1300年頃 鎌倉幕府の衰退に伴い、京都とをつなぐ日本海航路の重要性が増す。日本海ルートの拠点、十三湊が急成長。昆布と鮭の交易により財を成す。
十三湊、西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。安藤氏所有の「関東御免」(幕府公認)の津軽船は20隻を数え、若狭や越前まで 蝦夷産の鮭や昆布を運んでいた。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。
1308年、骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。

津軽大乱

1318年 蝦夷への対応をめぐり、惣領の安藤季長(又太郎)と従兄弟の安藤季久(五郎三郎)との間の内紛。実際は蝦夷沙汰職相続を巡る跡目争い。両者が幕府要人に贈賄合戦。

1318 北条高時、称名寺に蝦夷鎮圧を感謝する書状を奉納。

1320年 出羽の蝦夷が蜂起。津軽大乱が始まる。戦いは2年におよぶ。蝦夷代官・安東季長が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に撃退される。

1322年 安藤氏で内紛。季長の退陣を求める従弟の五郎三郎(季久)が対立。岩木川を挟んで季長は西が浜(深浦)に、季久は外が浜(青森市)に拠点を構え対峙する。

1322年 得宗家公文所が仲裁裁定。出羽のエゾ蜂起に対する鎮圧作戦の失敗を咎め、蝦夷管領職を季長から季久に替える。季長は裁定に服さず戦乱は収まらず。裁定役の長崎高資が双方から賄賂を受けたため、かえって紛糾。

1324年 鎌倉幕府、蝦夷降伏を願い祈祷を行う。翌25年にも同様の記載あり。

1325年7月 北条得宗家、安藤季長を蝦夷管領から更迭。これに代わり五郎三郎季久が管領となり、又太郎宗季を名乗る。津軽に戻った季長は、鎌倉幕府の裁定に従わず反乱を起こす。

1326年

3月 鎌倉幕府、あらためて宗季(季久)を蝦夷管領に任命する。陸奥蝦夷の鎮圧のため御内侍所の工藤祐貞を派遣。

7月 工藤祐貞、西が浜の合戦で安藤季長を捕縛し鎌倉に帰還。その後、季長の郎従の安藤季兼が「悪党」を集めて抵抗を続ける。

1327年 鎌倉幕府、宇都宮高貞・小田高知の率いる「蝦夷追討使」軍を再び派遣。安藤季兼軍は西浜で幕府軍を迎え撃ち、小部隊による奇襲戦術で甚大な被害を与える。

1328年 幕府と安藤季兼軍とのあいだに和談が成立。季兼一族に安堵を与える。安藤宗季(季久)は支配地の他に「蝦夷の沙汰」を確保するなど既得権を守る。この事件をきっかけに幕府の権威は大きく失墜する。

東北地方における覇権争い

1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。中身はなにやらさっぱりわからん。

1333年 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。鎮守府将軍には足利尊氏が任じられる。外浜・糠部郡らの北条氏領を与えられ、蝦夷沙汰に着手。

1335 足利尊氏が建武政府に反旗。南朝側は北畠顕家を陸奥守兼鎮守府将軍に指名。曽我・安藤家は足利につき南部らと戦う。

1336 足利尊氏が光明天皇を擁立し室町幕府を創設。安藤家は北朝に与し、室町将軍に直属する御扶持衆となり、津軽合戦奉行(北奥一方検断奉行)を命じられる。

1340年 興国の大津波。颱風により十三の地が壊滅して、住居地・城郭・寺社なども一挙に流失。十三氏は十三の地を捨てて大光寺に移る。

1356 諏訪大明神絵詞が成立。奥州戦争の従軍兵士の見聞を基にしており、信憑性が高いとされる。
絵詞の要旨: エゾ は日の本、唐子、渡党からなる。日の本、唐子は和人と異なり夜叉の如き様相で、獣や魚を主食とし農耕をまったく知らない。言葉はまったく通じない。住むと ころは外国につながっている。一方、渡党は津軽に頻繁に往来し交易を行う。和人と似ていて言葉も何とか通じる。髭や髪が多く、全身に毛が生えている。乗馬の習慣はなく、骨鏃を使った毒矢を用いた。
1361 青森県東部を支配する曽我氏、南部氏との戦いに敗れる。

1368年、元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続く。このため樺太への干渉は霧消する。 

1395 安藤氏、北海の夷賊を平定し、さらなる領地を獲得、再び将軍(日之本将軍)の称号を得る。
西の博多に匹敵する北海交易の中心として西の博多に匹敵するに至る。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。
街は南北約2キロ、東西最大500m。幅4~5mの直線的道路が走り、安藤家の居館跡や板塀で囲われた武家屋敷跡、短冊形で区分けされた町屋、寺院墓地、鍛冶・製銅などの工房、井戸跡などが発見されている。中国製の陶磁器、高麗製の青磁器、京都産と思われる遺物も発見されている。
1395年 安藤盛季の弟鹿季が足利義満の認可を得て秋田湊家を創設。鹿季は南朝側の秋田城介を駆逐し、支配を確立。これ以後、湊家を上の国安藤氏、そして津軽の安藤氏を下の国安藤氏というようになる。

1409 三戸南部氏が津軽に侵入。津軽の西半分は秋田・安東氏、東半分は三戸南部氏、浪岡周辺は浪岡氏が支配する。

1410年 南部守行と秋田湊の鹿季、出羽の刈和野で戦火をまじえる。

津軽の安東家(下の国)の滅亡

1418年 南部藩の攻撃により大光寺城と藤崎城が落城。安藤氏は津軽平原の支配権を失う。

1418 南部氏が上洛、将軍足利義持に金や馬を献上。津軽国司に任ぜられる。

1423年 安藤陸奥守、足利義量の将軍就任に際し馬・鷲羽・海虎(ラッコ)皮等を献上。室町幕府より陸奥守の称号を得る。さらに後柏原天皇から「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の称号を賜る。日本(ひのもと)将軍は北海道の管理職を意味する。

1430年 南部義政が下国十三湊安藤氏を攻略。義政は和睦の申し出を行い、安藤氏と協議するため城内に入ったあと突然攻撃。安藤盛季は敗れて唐川城に逃れる。
本当は十三湊は1340年の津波の後も健在で、このとき南部氏により焼け去ったとの説もある。
1432年 安東盛季と子康季、唐川城と柴崎城であいついで敗れ、海を渡って松前に逃がれる。 これにともない多くの和人が移住。幕府が調停に乗り出す。

この後の経過についてはさまざまな異説があるが、あまり詮索する意味はないようだ。


下記の記事もご参照ください

2018年04月14日 アイヌ史 雑記

本日の赤旗「文芸時評」。

楜沢健さんという人が「乗っ取りの起源を問う」というタイトルで面白い提起をしている。
少し詳しく内容を紹介したい。

今年2018年は明治150年、維新の正統性が今一度問われた年であった。
維新と明治の美化の風習は今も続く。
しかしその本質は正統な国家を横領簒奪した無法な軍事クーデターではなかったのか。
それ以来、道義なき薩長閥に日本は乗っ取られ続けてきた。
征韓論をめぐって下野した西郷が西南戦争を起こし自死するのは、「維新」の矛盾の結果だったのではないか。

翻って考えれば、江戸幕府は大政を奉還し、日本は連合新国家となった。それは国内外に承認された正統な政権であった。
この政権は雄藩の連合であるというその性格、開国推進というその方向を柱としていた。そして隠されたもう一つの性格、天皇中心主義をとらないという特徴を秘めていた。
我々はこの「連合新国家構想」を、その原点に立ち返って考えてみるべきではないか。

ということだ。

この考えの骨子は昨年なくなった葉室麟という小説家の自説によるものだと言う。(別にあえて葉室さんという人を持ち出すまでもないとは思うが…)

たしかに「うーむ」とうならせる議論ではある。ただ正義がいずれにあったかの議論はこれから開始するとして、旧幕府+雄藩連合に正義を行う権力と意志はあったのだろうか。長州戦争と鳥羽伏見で惨敗するようでは烏合の衆・張子の虎と見くびられてもやむを得ない。「力が正義」というのではないが、「色男、金も力もなかりけり」では国の将来を託す訳にはいかない。そんな気もしてしまう。

おそらく当時には「オールジャパン共闘」を望む雰囲気も大いにあったのだろうし、それらを掘り起こす作業も必要なのだろうと思う。少し自分でも探してみたいと思う。



朝、感心して引用した文章を夜になって否定するのもずいぶんいい加減な話だが、明治維新の性格が何も進歩的なものでもなくて、ただの野蛮なクーデターに過ぎなかったという理屈は、やや引かれ者の小唄みたいな感じもしてきた。

あのとき日本にとって必要だったのは、政体の民主制ではなく、近代的軍事力とそれを支える産業力であった。

それは上海を見てきた高杉にも、洋式軍を見よう見まねで作り上げた大村益次郎にも、はっきりと見えていただろう。

この幕藩体制を超えたナショナリズムの高揚、これこそが明治維新という形での権力交代を支えた真の力だろうと思う。

このナショナリズムは、列強の進出という外圧を得て、当時のドイツよりはるかに強力だった。

次に強力な軍事国家の建設という戦略は、絶対主義的政治システム抜きには不可能であった。

パラドキシカルな言い方になるが、一定の民主主義なしには絶対主義は実現し得ない。一方における極端な権力の集中。一方において集中権力のもとでの平等、既得権益の否定が絶対主義、イデオロギー的には「愛国心」を形成する上での絶対条件になる。



日本人の起源を考える
…主としてY染色体ハプロを手がかりとして…

はじめに

1.なぜY染色体ハプロなのか
Y染色体ハプロ以前のさまざまなタイピング
人類移動のトレーサーとしての特異性
ミトコンドリアDNAとの組み合わせ
全ゲノムにおけるホワイトノイズをどう取り除くか
Y染色体ハプロの謎、なぜサンプルが増えないのか

2.Y染色体ハプロによる人類の系統図と移動経路
C系とD系の相互関連
南方ルートと北方ルート
O系のサブタイプの分布はいかに形成されたか

3.日本におけるY染色体ハプロの分布

2つの原日本人: 旧石器人
1.ナウマン人
4万年前に朝鮮半島からナウマンゾウを追ってやってきた。
Y染色体ハプロでいうとC1b系で、現在では日本にしか存在しない故系とみなされる。
北海道以外の全国に均等に分布する。
2018年09月17日 最初の日本人は朝鮮半島からのC1人か

2.マンモス人
2万5千年前にマンモスを追って樺太から北海道へ渡ってきた。マンモスは津軽海峡を渡っていないが、マンモス人は海峡を渡り南進した。マンモス人のY染色体ハプロはD系で、C系と同じく出アフリカのときにすでに形成されていた古いはプロで、現在ではC1系と同じく日本にしか見られない。

3.原日本人から縄文人へ
この2つのハプログループは3対1ないし4対1の割合で混血した。北海道を除きC/D比に地域差がないことから、両者は長期間をかけて平和的に混血を完成させたとみられる。
大動物のハンターであった原日本人たちは、大動物の減少に合わせ、小動物を罠や落とし穴で捉える知能的な狩猟に変わった。
また漁撈が全国で、落葉樹林帯では採集が併用されるようになった。これらが貯蔵・調理用具としての縄文土器の発達を促した。

4.沖縄・先島諸島の人々
港川人その他、南方系とみられる人骨が多数発掘されている。しかし今日の沖縄人のY染色体ハプロには南方由来の要素(C1a系あるいはO1a系)はなく、これらの人類は絶滅したとみられる。

晩期縄文人と渡来人

1.晩期縄文人
紀元前2千年ころから後、九州北部から日本海側に一定の特色を持つ晩期縄文文化が発生している。
晩期縄文人をY染色体ハプロから分けるのは難しい。西日本にわずかに分布するC2系がそれに相当する可能性はある。
その場合はもう一つの縄文人ということになる。
当時の西日本は常緑樹林が広がる地域で、人口密度は疎であった。彼らは漁撈を主たる生活手段とし、海に生きる民であった。明らかに朝鮮半島と交易関係を持ち、陸稲をもたらすなどの足跡を残している。
後期縄文人の最大の歴史的役割は朝鮮半島南部にいた長江文明の流れをくむ人々=渡来人を日本列島に誘導したことである。
同時に渡来人と混血し弥生人を形成したことである。

2.長江人
私は紀元前8世紀ころから渡来してきた人を長江人と呼ぶ。
1万年前から5千年前にかけて長江流域に米作文化を作った人々である。
長江人について語る前に、O系人について語らなければならない。
5万年前ころからアジアにもホモ・サピエンスが浸透し始めた。最初はD系人、その後にC系人が入った。C系人はオーストラリアからシベリアまですべての地域を網羅し、一部はベーリング海峡を渡って北米まで到達した。
D系人は、チベットの山間と日本にわずかに生き延びた。
(新大陸のC系人はいったん絶滅し、1万年前ころ第2波が入り、それが現在の先住民につながる)
2万年前ころから、新たな人類の移動があった。それがN系とO系である。O系人はインドからインドシナを経由して中国大陸に広がった。このうちO1系人は長江流域に広がり、水稲栽培を展開した。O2系人はさらに北進し、華北から南満に展開した。N系人はほぼ同様の動きをしているが少数である。
在来のC系人はモンゴル~北満以北へと圧迫された。
やがて、O2系人はシルクロードを通じて麦栽培と鉄器を獲得し強化された。
長江文明を築いたO1系人は圧迫され、同心円状に拡散した。東側に移動したO1b系人は朝鮮半島南部に移動し、その一部が日本列島へと渡来した。

3.銅鐸人
渡来人と縄文人の混血が弥生人であり、現日本人の骨格をなしているのだが、私はあえてこれを銅鐸人と呼びたい。
なぜなら弥生時代後半にはもう一つの弥生人、すなわち天孫族が流入してくるからだ。
銅鐸人は渡来人と縄文人が平和的に共存(正確には棲み分け)する中で混血していくのだが、天孫族は最初から外在的な征服者として立ち現れる。
銅鐸は長江流域に起源を持ち、青銅器文明を体現している。それは長江文明の西端にあたる四川文明とも照応する。
渡来人の数はそもそもそれほど多くはない。しかしそれはねずみ算的に拡大再生産をしていく。採集民たる縄文人が自然環境に厳しく規定されているのに対し、米作は人手さえあれば収穫は無尽蔵だ。
したがって渡来人の数は等比級数的に増加し、あっという間に縄文人を凌ぐほどに成長する。

4.天孫族
考え方としては江上波夫の騎馬民族説と同じだが、もう少し実態に即して論じたいための命名である。
「新撰姓氏録」でも天照大神などの子孫を「天孫族」としており、私の独創ではない。
倭王朝、出雲王朝、大和王朝はいずれも天孫族により形成された。
彼らは銅鐸人と同じく渡来人であるが、銅鐸信仰とは無縁でこれを強引に廃棄している。
Y染色体ハプロとしては漢民族と同じO2系と思われ、もともとの南朝鮮の種族(おそらくC2系)ではなく、遼東~南満の出自であろう。
もちろんそこから騎馬に乗って直接来たのではない。洛東江流域に拠点を置くO2系集団ではないか。
此処から先は私の当て推量だ。
衛氏朝鮮が紀元前100年ころに漢により滅ぼされた。その残党が帯方郡の南、無主の地に政権を立ち上げた。これが高天原政権だ。その武将の一人瓊瓊杵尊が九州に渡海攻撃(天降り)を仕掛けたのではないか。
彼らは三韓の民が九州に渡って成功しており、金海に交易拠点を建設したのを知っている。とすればこれを支配し、軍資金を獲得して漢相手に反転攻勢をかけるチャンスだと思ってもなんの不思議もない。
天孫族は日本を支配・収奪するためにやってきたのであって、そこに同化しようとは考えていない。したがって、日本の人口構成を変えるほどに子孫を生み育てようとは考えていない。
むしろ血の純潔を保って、原住民と同化しないように心を砕いたはずである。

東北のエミシと北海道のアイヌ

6世紀の末ころまでに、大和朝廷が日本の西半分を支配下に治めたとき、人種構成は次のようになっていた。

国家の頂点を形成するのは、天孫族の武装勢力であった。その下に和人集団が形成された。これは銅鐸信仰を捨て習合した天孫信仰(八百万+天照)をもつ旧渡来集団で、これに旧縄文系がほぼ吸収されつつあった。

一方、関東から北の本州では稲作の導入に伴い、和人文化の選択的受容が続いた。しかしそれは大和朝廷の支配の受け入れとは直接結びつかず、さまざまな抵抗があった。
その結果、縄文人居住地、混住地が帯を形成しそれは次第に北上した。
最終的に、東北には縄文色の濃い和人集団が形成されたが、それは時代とともに混和されつつある。

北海道では和人の入植が気候上の理由から遅れただけでなく、政策的にも制限された。その結果、純粋な縄文人の文化が色濃く残された。
ただし、アイヌ人は7世紀ころから徐々に進出した縄文人で、それまではオホーツク人が居住する土地であった。

東北と道南の縄文人は北海道において「セミ和人」として振る舞い、オホーツク人(粛慎)を圧倒し、女性を娶った。
アイヌ人のY染色体ハプロは縄文人と一致するが、ミトコンドリアDNAはオホーツク人のそれと一致する。これは沖縄人と異なるところである。


その後の人種混合

ということで、日本人というのは、とくに紀元前5世紀から紀元5世紀くらいの1千年間に著しい変容を遂げつつ形成された。
逆にその後は新参者のいない、きわめて安定した人種環境のもとに暮らしており、そのことが人種的閉鎖性を生んでいる可能性もある。

その枠内ではあるが、北海道は最初の百年に著しい人間変動があって、日本の中では珍しく開放的な個人主義が支配している。

東京を中心とする首都圏は、いまもなお人間のるつぼ的な雰囲気が支配している。

神功は倭王朝の女帝だろうと思う。しかも卑弥呼=神功とするために二回り、120年早めている。

まずはともかく神功紀をまとめてみよう

354年 仲哀天皇が香椎宮にて急死(おそらく殺害)。その後政権を担う。

354年 仲哀を暗殺した熊襲(羽白熊鷲と山門のタブラツヒメ)を討伐する。

354年 妊娠したまま対馬経由で朝鮮半島にわたり、新羅の国を攻略する。

354年 新羅から戻り筑紫で応神天皇を出産。

354年 仲哀の遺骸と応神天皇を伴い畿内に戻る。嫡子香坂皇子、忍熊皇子らが反乱を起こすが鎮圧。

355年 仲哀天皇を河内の長野陵に葬る。

357年 新羅、人質として差し出した王子を取り戻す。葛城襲津彦、新羅に到り草羅城を落とす。

366年 斯麻宿禰が卓淳国へ遣使される。卓淳国王は百済が朝貢を望んでいると報告。

367年 百済の倭国宛朝貢団、新羅に朝貢品を奪われる。倭国は新羅に真偽を正す。 

368年 倭国軍が卓淳国に到り、ヒジホ・南カラ・トク・アラ・タラ・トクジュ・カラの七国を平定する。新羅への牽制を行う。千熊長彦はクテイを伴い百済に赴く。

382年 葛城襲津彦に新羅を討たせるが、美女に惑わされて討たず、かえって加羅国を攻撃する。百済の木羅斤資を遣って討たせ、加羅を恢復する。

385年 百済王の死。近親者による王位簒奪。

389年 神功の死。

とを合わせてみよう。

340 百済王は太子を倭国に送って人質とする。

356 奈勿尼師今が新羅国王に即位。新羅の実質上の建国。

369 高句麗、百済を攻める。倭の支援を得た百済は雉壌の戦いで高句麗を撃退。

375 百済の近肖古王、倭国に七枝刀を送る。

377 新羅が前秦に朝貢。新羅の前身が辰韓のひとつ斯盧国であると陳述。

384 百済、東晋から僧侶を迎え仏教導入。

391 倭が渡海し、百残・?・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391 倭国が百済北方まで進出し高句麗と戦う。(好太王の碑文)

391 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

394 倭大王崩御。倭の将軍一部の将兵を残し、帰国する。高句麗は百済を攻め、帯方を奪回。百済を臣下とする。

396 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397 百済は王子を人質として倭に送り通好する。

397 百済王、倭に従わず。倭は百済領土を侵す。百済は王子直支を倭におくり和を講う。

399 新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

400 倭は百済と連合して新羅に侵入。高句麗はこれと対抗し、新羅から倭軍を撃退。

404 倭軍が帯方界に進入するが、高句麗軍の前に多大の犠牲を出し敗退する。(広開土王碑)

というわけで、割符としては合いそうで合わないところがある。思い切って180年ずらすとどうなるだろう。意外と合いそうにも見える。この場合、神功は倭王讃ということになる。

とにかく紀元400年ころに倭王朝と大和王朝の最初のクロスロードがあった。
仲哀はその前にいた。彼は吉備・出雲を支配下に入れた後、長駆筑紫まで攻め込んだ。
彼は新羅など見たことも聞いたことがなかった。そして新羅進攻を拒否し暗殺された。
神功はクロスロードの後にいる。彼女は新羅を知っており、仲哀に新羅侵攻を勧めた。そして仲哀が言うことを聞かないと見るや暗殺した。
彼女は自ら新羅に攻め入り、新羅を制圧し、百済と高麗を屈服させた。

神功は倭王朝のトップとして対高句麗戦に加わったのであろう。そして後の倭の五王に連なっているのであろう。

大和王朝は仲哀以降、継体天皇までの150年は朝鮮問題にはかかわっていない、だから東アジア世界につながるものさしを持っていない。そう私は考えている。

ブックオフで「伽耶」を知れば日本の古代史がわかる」 (ふたばらいふ新書)という本を買ってきた。
1999年の発行であるが、元の単行本は1995年発行。書下ろしの翻訳となっているので、その1年くらい前のものであろう。

著者は高濬煥という人で、経歴には大学教授を歴任とあるが、どうもパッと来ない大学名が続く。

中身は一言で言えば「トンデモ本」である。こういう本を出すから、韓国の歴史学が信用できなくなるのである。日本ではシロウト談義でもこれよりマシだ。みんな好きでやっている人だから、あくまで実事求是だ。変に民族感情を交えたりはしない。

わたしは、本格的な任那史がないか探しているのだが、もう少し日本語で探るしかなさそうだ。

「伽耶」というのは高氏によれば任那のことである。彼は任那という言葉を一切使わない。
なぜかは書かれていない。そのかわりに「任那日本府のウソ」という刺激的な見出しの説がある。それが「任那が存在しない」ことになってしまうようだ。
一応任那と伽耶の用法についてウィキで調べてみた。

三国志の魏書東夷伝倭人条に狗邪韓国の記載あり。現在の慶尚南道金海市付近との見方で一致。また弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説あり。

紀元前300年ころ 金海市付近で弥生土器の仕様が増加。

414年 広開土王碑文。400年条の「任那加羅」が史料初見。

438年 『宋書』の438年条に「任那」が見える。「弁辰」の記載はなし。

451年 宋書倭国伝。倭王済が「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国」の支配を認められる。
秦韓は辰韓12国のうち新羅に属さない諸国、慕韓は馬韓52国のうち百済に属さない国を指す。

478年 倭王武の上表文。「任那・加羅・秦韓・慕韓」が百済・新羅に属さない国々として記載される。

500年ころ 全羅南道に前方後円墳が造設される。百済進出とともに消失。慕韓に一致する地域とされる。

500年ころ この後、日本書紀(おそらく百済本紀からの引用)が質量ともに圧倒的な資料となる。

525年 『梁職貢図』の百済条、百済南方の諸小国を挙げる。任那の記載はない。

532年 金官国が新羅に吸収される。(日本書紀、三国史記にて確認)

562年 任那滅亡。すべて新羅に吸収される。

660年 『翰苑』の新羅条に「任那」の記載あり。「加羅と任那は新羅に滅ばされた」

801年 『通典』の新羅の条に「加羅と任那諸国は新羅に滅ぼされた」との記載あり。

1145年 三国史記が成立。「任那」の記載は本文には見られず。

私も「任那日本府」がずいぶん矛盾した表現だと思っている。日本という呼称はおそらく大和朝廷が発した国書「日いづる国」に基づいているのではないだろうか。7世紀に日本に来た百済の亡命学者が書紀編纂に携わるに及び、便利だからつい使ってしまったのではないかと考えている。
それを否定することが任那を否定(というよりネグレクト)することにはならない。
中国の史書を第一基準とするなら、伽耶という総称はきわめて特殊である。さまざまな史書では圧倒的に加羅・任那である。
ウィキによると、広開土王碑文(414)にある「任那加羅」が史料初見で、537年の南齊書では、「加羅國,三韓種也」と記載。その後の中国史書、『南斉書』、『梁書』などでも「任那加羅」が併記される。清代の『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が見られるという。
こうなると「伽耶」呼称は民族主義的な“意地”によるのではないかと思える。しかし学問は意地でやるものではない。


Korea_375
    韓国教科書の古代朝鮮
任那・加羅、百済、新羅
   日本の教科書の古代朝鮮
著作の最初は
第一部「卑弥呼は伽倻王女、そして神功皇后」
もうたまりません。
次が広開土大王碑文は一部偽造という一文。
1995年時点での韓国の古代史研究水準を示すものなのかもしれないが、それにしてもあまりにもおそまつだ。
この人が韓国古代史研究のトップ水準にある人なのか、その後最近ではこのような根拠抜きの断言は否定されるようになってきているのか、そのへんが知りたいところである。
もう一つ、都合の悪いことは「日帝支配の30年」で資料が失われたという口上だ。具体的に言わないと、それはたんなる逃げ口上にしかならない。


生磐についてもう少し勉強する

生磐についてもう少し勉強すると、違った側面が見えてきました。
まず出典ですが、これは日本書紀の憲宗紀に記載されたものです。

日本神話・神社まとめというサイトの
という箇所にある現代語訳文を転載させてもらいます。
(即位3年)この年、紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)は任那(ミマナ)に越境して立ち寄り、高麗と通いました。
西の三韓(ミツノカラクニ)の王になろうとして、官府(ミヤツカサ)を整え、治めて、神聖(カミ)と自称しました。
任那の左魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たちが策謀して、百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム=地名)で殺しました。 
帯山城(シトロモロノサシ=現在の全羅道北道井邑市の泰仁)を築いて、東道を防いで守りました。
すると粮(カテ=食料)を運ぶ津(ツ=港)が断絶して、軍隊は飢え、苦しみました。
百済の王はとても怒り、領軍(イクサ)の古爾解(コニゲ)と内頭莫古解(ナイトウマクコゲ)たちを派遣して、軍隊を率いて帯山に行き、攻めました。
生磐宿禰(オイワノスクネ)は軍隊を進めて逆に迎え撃ちました。胆気益壮(イキオイマスマスサカリ)で向かうところで敵を皆破りました。一人で敵100人に当たりました。しばらくして、武器は尽き枯れました。
それで事が成らないと分かって、任那へと帰りました。
これにより百済国は佐魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たち300人あまりを殺しました。
あきらかに百済側から見た史実で、百済本紀からのパクリだということが見て取れます。

訳文でも十分意味は伝わりますが、煩雑なため、要点を箇条書きにします。その際、主体を生磐側にスライドさせて記載します

①487年、紀生磐が任那に越境した。
生磐は任那人ではなく倭人であるということだ。そして倭領から任那に入った。
②彼は高麗と通じた。
百済は高句麗と戦い、苦戦していたから、生磐の行為は裏切りと映った。
③生磐は「西の三韓」の王になろうとして、官府を整え、神と自称した。
「西の三韓」が難しいが、素直に読めば旧三韓の西部すなわち馬韓領域ということになる。
百済も新羅ももともと三韓ではなく、三韓に侵入してきた北部勢力である。任那には馬韓(全羅道)を守る権利と義務がある。
倭国は百済が高句麗と戦う限りそれを支持するが、南に進出しようとするならそれと戦う。
④生磐は全羅北道に帯山城を築き、百済の南下を阻止しようと図った。手勢の主力は佐魯・那奇他甲背らの任那軍だった。
⑤これを見た百済は怒り、攻撃を仕掛けた。
守備隊は果敢に戦ったが、最後に破れ任那軍300人が殺され、生磐は倭に逃げ帰った。

この一連の出来事は、昨日の記事の後半にあたります。前半の部分、小弓の死亡から生磐の参戦、子鹿火や韓子との関係悪化までの前半は雄略紀の方に入れられています。

後半を先に読むとこれらの記載の本質がわかります。生磐と戦いこれを追い出した百済の一種の「言い訳」なのです。

日本と喧嘩はできないが任那の支配する全羅道は欲しい、というのが百済の本音です。

ここには書かれていませんが、この後百済は領土を大きく南にシフトして生き返ります。そして任那をつぶし、これを新羅と分け合います。

一方、朝鮮半島における倭国のプレゼンスは著しく衰退し、任那も国土を百済に剥奪されやがて姿を消していくことになります。

結論から言って一連の出来事は日本書紀の作成に関わった百済亡命者が、百済本紀から適宜コピー&ペーストしたものだろうと思われます。雄略天皇はただの借り物に過ぎないでしょう。
ただし倭の五王との関連は不明です。時期的にはかぶっていますが…

ついでに
倭国と任那の関係ですが、基本的には同根の関係と思います。ただしそれは高天原政権の出自だという点でのみ同根であって、長江文明の後裔である弥生人には関係のない話です。
もう一つ、任那の一部である一定の地域は倭王国と直接の関係を持っていたと思われます。つまり倭国の一部が半島南端部にも存在したということです。
なお、瓊瓊杵王国のルーツとしてタカミムスビを想定しましたが、雄略紀にタカミムスビが任那由来であると語られており、高天原=任那説にいっそう確信を持つこととなりました。




紀生磐(きのおいわ)のものがたり

紀生磐という人がいて、日本書紀の中で大活躍します。しかしどう考えてもこれは大和の人ではなく、筑紫君磐井と同じく倭国の歴史の中で動いた人です。

読み方からしてかなりいい加減で、例えばウィキペディアでは紀大磐と書いて「きの おおいわ」と読ませています。
ある方のブログでは紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)となっています。

この記事では面倒なので「生磐」(おいわ)で統一します。

この人は生年も没年も不詳ですが、400年代後半に活躍した人です。

父の名が紀小弓。
この父は雄略天皇の命を受けて朝鮮半島にわたり、新羅との闘いを率いていましたが、戦地で病死してしまいます。
これが465年5月のことです。

まぁ雄略天皇というのは嘘っぱちで、実際は倭の五王のもとで戦いに参加していたのだろうと思います。つまり倭王朝の人です。

三韓および倭国年表
http://shosuzki.blog.jp/archives/63212521.html

を見てもらえばわかりますが、このころ高句麗が南に進出し百済に盛んに侵食し始めます。
この10年後には百済の首都、漢城が陥落してしまいます。百済は国王を殺され、残党は南に逃げて国家の再建を始めます。

話は戻ります。父の死に直面した生磐は、矢も盾もたまらずに百済に向かいます。

ここまではよくある美談を予感させますが、とんでもハップン。
オヤジの威光を笠にきた横暴な振る舞いは指弾の的となってしまいます。

ついには小弓の後任の大将、小鹿火(おかい)を怒らせてしまうまでに至りました。小鹿火は蘇我韓子を唆し生磐暗殺を図りましたが、なんと韓子は返り討ちになってしまいます。

実は小鹿火みずからも、小弓の子ということになっています。つまり兄弟喧嘩をはじめたわけで、これでは戦えません。とばっちりを受けた蘇我韓子こそいい面の皮です。

どうしてこんなだらしない話になってしまったのか、それはそもそもこの戦争があまり大義のないものだったからです。

百済が高句麗に攻め込まれている間、新羅も同じように高句麗の攻撃を受けていました。だから倭国政府は半島にわたり両国を助けて高句麗を追い返したのです。

ところが、その後新羅はその恩を忘れ、どうも態度が大きい。それどころかひょっとして高句麗とつながったのではないかと思わせるような素振りです。

そこで雄略天皇は新羅親征を決意しました。ところが、宗像神社の神託は「行くな」というものでした。雄略天皇は自らの出陣を諦め、小弓ら4人の将軍に指揮を委ねました。

たしかに戦う前からなんとなく嫌な気分ですね。

そんなこんなで生磐は戦線を離れ倭国に戻ってきたのですが、一緒に小鹿火まで戻ってきてしまって、「もうやめた」と戦線離脱してしまいました。

これで当初に雄略天皇が指揮を託した4人の将軍はすべていなくなってしまいました。

諍いの元を作ったのは生磐ですから、彼が行かないわけにはいきません。ということで生磐は二度目のお勤めに出かけます。

ところが任那に赴いた生磐はとんでもないことをはじめます。なんとみずから神聖(かみ)を名乗り、任那王国を作り、高句麗と結んで百済人を攻撃し始めたのです。

時期がよくわからないのですが、475年に百済の首都が陥落したのに合わせて、百済を任那のものにしてしまえと考えたのかもしれません。

百済の側は逆に漢城を失った分を全羅道で取り返せと考えたかもしれません。全羅道はもともと任那の地であり、百済が割譲を迫ったという歴史的経過もたしかにあります。

それはともかく、激怒した百済王は生磐のこもる帯山城に猛攻撃をかけました。激しい戦いの末に任那軍の重臣300人が死亡。生磐は戦闘力を失いました。

結局、大磐は487年に倭国に帰国したそうです。これが後の筑紫君磐井だったりすると、できすぎですね。



2016年07月10日 三韓および倭国年表
を増補しました。
もともと、
2013年01月19日 日本書紀抜きの日本史年表
を増補したものですが、衛氏朝鮮の記事はもう少し膨らませなければならないと思います。(前にどこかに書いたつもりしているのですが見当たりません)

「神武東征」を考える その3 神武東征の絶対年代

神武東征の絶対年代は、考古学的資料から比較的容易に推測できる。
それはおそらく紀元300年を挟む前後50年のことであろう。
最大の根拠は銅鐸文明の突然の消滅である。銅鐸文明を担ったのは弥生人のうち長江文明由来の渡来人である。彼らは紀元前300年ころから銅鐸文明を開始した。それは次第に東漸し紀元150年から200年に近畿で最盛期を迎える。しかしその後急速に衰退し、銅鐸は打ち捨てられる。
これが近畿では紀元200年から250年と推定される。ここを挟んで地理的には西から東へと順に消滅していくのである。
銅鐸文明を抹殺し、征服王朝を打ち立てたのは「にぎはやひ王国」である。
彼らは出雲に最初の拠点を築いた後、いづれかのルートを通って近畿に達した。
とすれば纏向遺跡は「にぎはやひ」時代のものと考えられる。彼らが銅鐸を廃棄し、弥生人にスサノオ信仰を押し付けた後、今度はそこに神武が入ってくることになる。
神武にとって「にぎはやひ王国」の建設はそう遠い昔のことではなかった、と想像される。
そこで紀元300年という数字が出てくる。
となると、神武と前方後円墳の関係ということになるが、端的に言えば、前方後円墳はにぎはやひ王国の築いた文化であろうと思われる。
もともと九州に前方後円墳の伝統はない。それは大和・吉備に始まり九州をふくむ全国へと拡散していくのである。
さらにいえば、それは大規模干拓・灌漑事業の副産物であり、それに王権が便乗したに過ぎないと思う。

「神武東征」を考える その2 にぎはやひ王国

東征の決定

東征の決定に至る経過は以下の通り

瓊瓊杵王国は飽和状態に近づき、国々には君があり村々には長がいて、互いにしのぎを削るようになっていた。
その時、塩土の老翁が「東に美しい土地がある」という話を伝えた。その国は青く美しい山が四方を囲んでいる。そこは天の磐船に乗って天から飛び降った(侵入した)饒速日という者が支配している。

饒速日王国を攻めて、自分たちが瓊瓊杵王国の名のもとに支配しようではないか、というのが呼びかけである。

そこで、この饒速日の位置づけであるが、天から飛び降った(朝鮮半島から渡来攻撃)ことは間違いない。
しかしその“天”は高天原系の天である。なぜなら、本来豊葦原瑞穂の国は高天原政権によって。瓊瓊杵王国に属すべきものとされているからである。

東征の発議は彦火火出見がしたことになっている。彼が45歳になってから言い出し、周囲を説得したということになっている。
このくだりは後付けであろう。強引に読み込めば、それは神武王国(瓊瓊杵王国の一支国)を建国した彦火火出見が、45歳になって、往時を回想しつつ王政を意味づけたというふうにも取れる(しかしこれではあまりにも映画のシナリオ風だ)

これらの読解は日本書紀を基盤としているが、古事記ではより簡潔に語られている。本当のところ、彦火火出見は行って戦ってみるまで、相手がどんな集団なのかわかっていなかったのではないだろうか。

私は以前から、高天原政権は紀元前100年ころに洛東江中流に成立した衛氏朝鮮の残党国家だろうと考えている。
天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神という面々が任那(伽倻)を形成した。後に一部は分裂し慶州方面に別政権(スサノヲ系)を立てた。百済は別系統の北方系(扶余族)と考えている。

その慶州グループが本国においては新羅となり、出雲に渡って別の征服王国を立てたのだろう。そして出雲王国の流れが近畿に入って饒速日王国を立てたのではないだろうか。

なお「にぎはやひ王国」を建設した饒速日と神武に降伏した饒速日が同一人物であるかどうかはわからない。また神武に降伏した饒速日と、神武一族と濃厚な血縁関係を結ぶことになる大事主が同一人物であるかどうかもわからない。
ただ瓊瓊杵と饒速日が同じ言語系統、高天原政権由来ではないかという予感はする。とすれば、饒速日説は神武が東征を根拠付けるために、オオコトヌシを瓊瓊杵の兄弟とされる饒速日に擬した可能性である。




「神武東征」を考える その1 ににぎ王国

すみませんが、この文章は入門書「日本神話.com」を読みながらの感想なので、まったく裏付けのない思いつきノートです。そのうち、裏打ちをしていきたいと思います。

神武の出自 (神武紀)

神武の家系を見るとすこぶるいい加減である。
神武の幼名は彦火火出見(ひこほほでみ)
父方は天照大神の子孫、母方は海神の娘とされる。
おそらく邪馬台国の分家筋で、豊前中津あたりの海賊の長と婚姻関係を結んだという筋書きであろう。
祖父の名前も彦火火出見で俗称が山幸彦、祖母も海神の娘というから実にずさんなでっち上げだ。

結局はっきりしているのは母方が一貫して海神の娘であるということで、つまりは良く言えば水軍の長、悪く言えば海賊の頭目ということだ。
それが家系に色を付けるために、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を載せている。これは「ソンジョそこいらの海賊ではない。もとは清和源氏だぞ」というほどの意味であろう。
 
瓊瓊杵尊を担いだ理由

おそらく神武の父が神武4兄弟を送り出すにあたって、派兵の理由を述べた箇所がある。

これについては後で触れるのだが、実はその前に、瓊瓊杵尊に関するに重要な説明が加えられているのである。

瓊瓊杵尊は豊葦原瑞穂の国を征服するよう命令され派遣された。命令したのは高天原政権で、そこには豊葦原瑞穂の国の全土に対する支配権が認められていた。

重要なのは、瓊瓊杵尊が降臨する前にすでに日本=豊葦原瑞穂の国は存在していたということである。彼は日本を作ったのではなく征服したのである。ということは、豊葦原瑞穂の国は被征服国だったということになる。

豊葦原瑞穂の国と「ににぎ王国」

ついで征服王朝たる「瓊瓊杵王国」の経過が総括される。
「日本の事情がわからなかった瓊瓊杵尊は、まず西の外れの地を治めることにした。その子孫は慶事を重ね、支配を強めた。

以上の経過からわかることは、まず豊葦原瑞穂の国があって、そこに瓊瓊杵が侵入してきて「瓊瓊杵王国」を作った。それは当初は豊葦原瑞穂の国の西側の一部を支配するに過ぎなかったが、徐々にその版図を拡大した。

被征服国である豊葦原瑞穂の国の民は、神武の父、の時代には瓊瓊杵王国の支配を受容していた。

そういう経過があるからこそ、どこぞの馬の骨が瓊瓊杵尊の末裔を推しいただいて、自らの箔付けとするということに政治的意味が生じるのである。


赤旗に「明治150年を考える」シリーズの第8話として「東海大一揆」のことが載っていた。変な記事で、「東海大一揆」の記事なのに見出しのどこにも「東海大一揆」という言葉が出てこない。
著者の茂木陽一さんの造語なのかとも勘ぐってしまう。
1.一揆の時代背景
事件が起きたのは1876年、明治9年の末のことだった。
当時の日本は新政府の方針をめぐり騒然としており、翌年には西南戦争が起きるなど国家の屋台骨が揺れ動いていた。
動揺の原因は国家財政の財源をめぐる困難にあった。明治政府は藩体制と米物納制で成り立っていた財政をやめ、中央集権と金納制に置換しようとした。しかし年貢額相当の税を金で収納させることには相当の無理があり、中央集権制という新システムが未だ脆弱なことから、深刻な税収の減少をもたらした。これを補うにはさらに税率を引き上げるを得ないという悪循環に陥った。
2.どういう一揆だったのか
これに対し、庶民の間からは税額の引き下げを求める声が上がる。全国どこで起きてもよいのだが、この場合は三重県が狼煙を上げる役割をつとめた。
12月18日、一揆が発生した。さいしょは三重県松阪の南郊だったと言う。一揆はまたたく間に三重全県に拡大した。三重というのは天領、紀州藩領、中小の藩領が複雑に入り組んだところで、あまり絶対的な権力が存在しなかった。また戦国時代に織田信長と張り合った長島の真宗土一揆の伝統もある。
21日にははやくも、木曽川を渡り愛知県へ、さらに岐阜県へと広がったと言う。政府は武力鎮圧の方針を出し、翌日には警察や鎮台兵らが出動、わずか1日でこれを鎮圧した。
処罰者は5万人に登ったと言う。
3.一揆の影響
三日坊主というが、この打ち上げ花火のような一瞬の事件は明治初期の政治改革に大きな影響を与えたと言う。
西郷らの反政府の動きとの結びつきを警戒した大久保利通政府は、地租を減租し、大幅減税を行った。また府県に議会を導入することで民衆に発言の機会を与えた。以来、民衆は一揆という決死の蹶起ではなく自由民権運動へと流れていくことになる。
というのがあらすじのようである。

どうも、いまいち様子がわからないが、とりあえず赤旗の記事の紹介ということで。
なお明治初期の篤農運動とも重なるところがあるので、読み合わせていただければ幸甚である。

2014年05月01日

2014年04月15日

2014年04月15日

2014年04月14日



赤旗に載った「東海大一揆」というのが気になって少し調べてみた。
とにかくまったく聞いたことのない事件であるが、その理由は「そう呼ばれたことがない事件」だからだということが分かった。
ウィキペディアでは「伊勢暴動」と書かれている。
ついでに少しウィキペディアの記載を引用しておくと、
1876年(明治9年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆である。受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の騒擾事件となった。
ということで、なかなかの事件ではある。知らなかった私のほうが馬鹿である。
地図を見るとたしかに一部は県境を越え愛知、岐阜まで進出しているが、基本的には三重県中北部に局限した暴動と言うべきであろう。
ただし、暴動そのものの様相は発信元の中部と波及した北部ではかなり異なっている。中部では農民そのものが蜂起したのに対し、北部では暴徒化した群衆による暴動となっていったようである。
何れにせよこれは地租改正反対運動のひとつの表れと見るべきものであろう。
むしろ私にとって興味深いのは、これに対して大久保政府が実質的な減税政策で対応したということである。
これが巨額の歳入欠陥となったのは間違いないだろう。そのような苦しい財政事情のもとで西南戦争が発生し、莫大な戦費を捻出する必要に迫られたとき、大久保はどうしたのだろうか。

土偶の歴史
土偶の概念をすこし整理しておく。
土偶は「縄文的生き方」の象徴と考えられる。
土偶は、人間(特に女性)を模して作られたもので、縄文時代に日本全土で作成された(沖縄を除く)
土偶は時期的にも地域的にも偏りがあり、北方に集中している。これは土偶文化がマンモス人の系統に支えられたものであることを示唆している。

という文章からいくつかのポイントを抜き出しておく。
①土偶の顔
土偶の顔は稚拙というのではなく、意識的に平面化された様式を持っている。それは早期のものから晩期に至るまで一貫している。これは仮面を表すものと思われる。
土偶と同じように土製の仮面が出土する。とくに後期~晩期の東日本に多く出土するようだ。
人間の顔と同じぐらいの大きさで、左右に紐を通すための穴があいているものもある。
②女性シャーマンがモデルか
千葉県さら坊貝塚で、鉢を被せ葬られた人骨が発見されている。
縄文時代中期後葉の中年女性の遺骨で、左腕に、おそらくはシャーマンのシンボルである貝輪をはめている。
③北方文化と女性信仰
女性信仰は農耕社会と結び付けられることが多い。
狩猟・採集社会では男性の脱魂型シャーマンが政治的リーダーも兼ねるのが一般的である。しかし農耕・牧畜社会への移行過程で女性の憑霊型シャーマン(天照大神)が出現する。これは男性の祭司的首長と権力分担する。
④土偶とつながる北方文化
土偶は北部ユーラシアの旧石器時代にみられる、いわゆる「ヴィーナス像」の系譜を受け継いでいる。そこにはなんらかの女神崇拝があった。それは処女ではなく母性の象徴である。


ということで、下の図は国立歴史民俗博物館の10641件のデータに基づいて時代別、地域別分類を行ったものである(縄文と古代文明を探求しよう!より転載)
出土分類2
説明文の中で、
都道府県別では岩手県2152個(21.5%)、長野県1140個(11.4%)、山梨県938個(9.4%)となっています。
と書かれていた。意外だった。
私なりにこの図を読み込むと、
1.草創期より存在しているが、紀元前3千年(中期)になって土偶爆発がもたらされた。
2.震源地は東北と考えられ、この土偶文化を持った人々が一気に関東・中部に広がり、土偶(がらみの)信仰を展開した。
3.紀元前2千年以降(後期)では中部の減少と東北の増多が著明である。日本列島の温暖化により居住域が全体として北方へシフトしたのであろうか。
4.紀元前1千年(晩期)になると北方シフトはさらに進み、東北が全出土の過半数を占めるようになる。
5.この時期にこれまで土偶と無縁だった九州四国での出土が増えるが、これは気候では説明がつかない現象である。
 

1万1,000年前(草創期) 三重県松阪市、滋賀県東近江市で最古の土偶。

紀元前8千~7千年(早期前半) 関東東部に定住生活の始まりと一致して土偶が出現。逆三角形や胴部中程がくびれた土偶。

紀元前6千年(早期後半) 東海地方にまで土偶の分布が広がる。

紀元前5千年(前期) ほぼ同様の場所で板状土偶が発達する。

紀元前4千年(前期後半) 顔の表情豊かな土偶が、東海地方から関東地方までの東日本に出現。

紀元前3千400年(中期初頭) 土偶が大きく立体的になる。デザインも複雑となる。四肢・頭部の表現がはっきりし、土偶自体が自立するようになる。 

紀元前3千年(中期前葉) 長野県棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」が新型土偶の到達点。
棚畑遺跡
       縄文のビーナス(棚畑遺跡出土)

紀元前2700年ころ(中期後半) 長野県坂上遺跡出土の土偶
坂上遺跡
           坂上遺跡出土

紀元前2500年(中期の終わりないし後期の始まり) 一旦土偶は消失。この頃寒気のため人口の減少が見られる。 

紀元前2500年(後期初頭) 九州北部~中部に新たに出現。本州の土偶の延長と見られ、寒冷化に伴い縄文人が水平移動したことを示唆する。 しかし西日本を飛び越えて九州という理由はわからない。

紀元前2千年ころ(後期前半) 宮城から神奈川にかけて広く東日本全体に出土。壊さないタイプの土偶が主体となる。

紀元前1500年(後期後半)青森県風張1遺跡の坐像  
青森県風張1遺跡
      青森県風張1遺跡

紀元前1千年(後期~晩期) 山形土偶やミミズク土偶、遮光器土偶(青森県亀ケ岡のものが有名)など。

紀元前1千年ころ(晩期前半) 九州北部を中心に土偶が大量に見出される。 

紀元前4世紀ころ(晩期後半) 九州北部で水田の普及に伴い土偶が激減。環濠集落が出現する頃には消失する(板付遺跡) 

紀元500年 東北地方では、弥生時代前期まで製作。中期から衰退し、後期には消滅。 


日本人の三層構造は今や常識

細かいところではいろいろあるのだが、日本人が重層的に形成されてきたことは疑いのない事実である。
それは第一に縄文人であり、第二に弥生人であり、第三に天孫族である。
ただし第三の渡来人の呼称、渡来の時期、朝鮮半島の人々との関係はまだ確定はしていない。
しかしこれまで弥生人として一括されてきた渡来人が、あらゆる点から見て異なる出自であることは確認されている。

縄文人の源流 2つの旧石器人

これが基本であるが、最近の考古学的知見からは縄文人が少なくとも2つの出自を持つことが明らかになっている。

最初の渡来人は3万8千年前、南方系のナウマン象を追って朝鮮半島からやってきた。
彼らの足跡は関東甲信越を中心に分布している。ここでは彼らをナウマン人と呼ぶ。

ナウマン象そのものは、30万年前に朝鮮から渡来し、その北限は北海道まで及んでいる。
しかしナウマン人の足跡は青函海峡を越えない。

3万年前ころに寒冷期がやってくる。

南方系のナウマンゾウは絶滅した。それと入れ替わるように北からマンモス象が南下した。そしてマンモスハンターもやってきた。

マンモスは青函海峡を越えなかった。しかしマンモス人は越えた。もっと温かいところを目指した。そしておそらく津軽地方でナウマン人と出会った。

2つの文化のハイブリッドが生まれた。それは縄文文化を生む土台となった。

旧石器人から縄文人へ

寒冷気候が卓越する下で、人口では北からのマンモス人が優越した。DNA的にはおよそ4対1である。
1万2千年前に生まれた縄文土器も北の影響が強いと思われる。

一方、主たる生活の糧である象や大型獣がいなくなる中で、狩猟のスタイルが落とし穴へと変更を迫られた。
狩猟だけに頼らない木の実の採集、小規模な漁業も試みられた。
それはナウマンゾウ絶滅後にナウマン人が手に入れた、生き残りのノウハウである。

気候の激変、生産・生活の激変、2つの旧石器人グループの出会いにより縄文人が誕生した。

その頃に日本列島はアジア大陸から切り離され孤立化した。
このために日本には独自の人種による独自の文化が発達し始めた。旧石器人はそのまま縄文人へと移行した。

縄文人の全国展開

縄文人の全国展開は、マンモス人が全国進出しつつ現地のナウマン人と混淆し、縄文文化を拡大していく過程であろう。

縄文文化が全国レベルで成立したのは紀元前5千年ころである。ほぼ均質な漁撈・採集・狩猟のスタイルが広がった。
縄文文化の最盛期は3千年に渡り続くが、その後弥生人の渡来までは徐々に衰退していく。

この3千年をどう亜区分していくかは今後の課題であるが、注目されているのは土偶の分布・意味合いの変化である。
これは弥生時代における銅鐸の分布・意味合いの変化と照応する。

晩期縄文人は縄文人か

他在としては渡来した弥生人と共存した縄文人である。しかし「蝦夷の地が最終的に消滅するまでは共存時代だ」と言うのも引っ張り過ぎだろう。

諸研究では紀元前1千年から始まり、わずか300年で弥生時代ということになっている。つまり九州や中国地方の縄文人が渡来人を受容した時代ということになる。

であれば、彼らは後期縄文人である。その中で、その時期にその場所に住んでいて、渡来人を受け入れ、自らも変容した人々、というふうに狭く考えたほうが良い。





宗全以前の山名氏

(煩雑を避けるためできるだけ個人名は省略した)

新田氏一門の義範が上野国山名郷を本貫として山名三郎と名乗った。
源頼朝に従って御家人となり、伊豆の国主に推挙される。

1337年(建武4年) 南北朝時代、山名氏は縁戚の足利尊氏に従い、室町幕府において伯耆国の守護に任じられた。四職家の一つに数えられる。

 室町幕府の重臣は三管領(かんれい)、四職(ししき)と呼ばれた。三管領(かんれい)は斯波氏、細川氏、畠山氏。四職(ししき)は赤松氏、京極氏、一色氏、山名氏が任命される。


全国制覇で戦功を上げた山名氏一族は、丹後・伯耆、紀伊、因幡、丹波・山城・和泉、美作・但馬・備後の守護となり、全国66か国のうち11か国を守ることになる。

1390年(元中7年) 最初の継承紛争。将軍・足利義満の命を得て、惣領の時煕(宗全の父)が放逐される。

1391年(明徳2年) 明徳の乱が発生。将軍義満、時煕を許し惣領に戻す。これに怒った反時煕派が謀反。一時京都を制圧したが、最終的に敗れる。山名氏の守護領地は但馬、伯耆、因幡のみとなる。

応永6年(1399年) 応永の乱が発生。戦功を上げた山名時煕は備後・安芸・石見の3か国の守護職を獲得。

1404年(応永11年) 山名宗全、山名時熙の3男持豊として生まれる。

1428年 時熙が重病になり持豊を後継に指名。6代将軍義教がみずからの側近であった次兄持熙の後継を命令。時熙の病状が回復し後継問題は保留となる。

1430年 細川勝元が生まれる。宗全より26歳の年下。細川氏は畿内、四国、山陽を支配する。

1431年 持豊の次兄持熙、将軍の勘気を受けて廃嫡。このため持豊が後継となることで決着。

1435年 時熙の死。持豊は但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名となる。

1437年 次兄持熙が相続を不満とし備後で挙兵。持豊はこれを鎮圧。


山名宗全の時代
1441年(嘉吉元年)6月24日 播磨・備前・美作守護を勤める赤松氏が第6代将軍義教を殺害。同席した持豊は脱出に成功。

8月 持豊、但馬から赤松領の播磨へ侵攻し反乱を鎮圧。播磨をあわせ5カ国の守護となる。さらに山名一族で石見、美作、伯耆、備前、因幡の守護職を領有する。

1442年 山名持豊、出家して宗全と号す。以後すべて宗全と記載。

1445年 細川勝元が16歳で管領に就任。以後死ぬまで通算23年間も管領職を勤める。

1447年 細川勝元、持豊の養女を正室に迎える。宗全を舅とする関係になる。
そもそも細川氏にとって最大のライバルは同じ管領家の畠山氏だった。畠山に対抗するために山名氏に接近した。

1448年 幕府最大の実力者畠山持国、後継者を弟の畠山持富から庶子・畠山義就に変更。将軍はこの変更を認めるが、細川勝元・山名宗全らは持富を支持する。

1454年 畠山氏で家督をめぐる内紛が起こる。細川勝元は宗全と手を結び、当主持国の実子義就を追放に追い込む。このあと細川・山名連合が幕政の頂点に立つ。

1454年11月 足利義政、赤松氏の再興を認める。山名はこれに猛烈に反対し、将軍の不興を買う。宗全退治を命じられるが、細川勝元の取り成しで一時隠退することで事態を収拾。但馬に隠居となる。

1454年11月 赤松の一族が播摩で山名氏を攻撃。宗全は但馬から出兵して赤松軍を破る。

1458年 宗全、赦免されて再び上洛、幕政に復帰する。

1459年 関東で享徳の乱が発生。斯波氏は総大将に任じられるが動かず。

1460年9月 畠山氏の後継紛争が再燃。将軍義政が一度失脚した実子の義就を復活させる。細川氏はこれをさらに逆転し、政長に家督を与える。

1460年 義就は排除に抗議し嶽山城に一時籠城する。

1462年 山名宗全の次男の是豊、細川氏の引き立てを受け備後・安芸守護に任命される。2年後に山城守護も兼ねる。
この頃から細川氏は宗全に対する警戒心を強め、親子の離間を図るようになる。

1464年 細川勝元、管領を辞し、畠山政長に禅譲。

1465年(寛正6年) 足利義政の正室日野富子、実子の足利義尚を出産。将来の将軍職を望み山名宗全に接近する。義政は弟義視に将軍位の禅譲の意向だったが態度を変更。

1465年 宗全も細川勝元を警戒、畠山義就・斯波義廉らと結託して細川氏の打倒に乗り出す。

1466年(文正1)

9月 文正(ぶんしょう)の政変。将軍の側近が斯波家の相続に介入。さらに足利義視の暗殺を企画したという。宗全と細川は連携し、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる。

12月 山名氏の支援を受けた畠山義就が挙兵し、大和から入京する。宗全は義就を将軍と対面させ、家督につける。その一方で現職管領の畠山政長が追放される。これは宗全の細川氏に対する公然たる挑戦である。

さらに宗全は、将軍家に強要して斯波義廉を越前、尾張、遠江3国の守護職につける。

宗全の横紙破りにより、細川連合と山名連合との対決の様相を呈する。細川連合は足利義視を担ぎ、山名連合は足利義尚を担ぐ。

応仁戦争の時代
1467年(応仁元年)

1月18日 御霊(ごりょう)合戦。宗全に追放された畠山政長が細川氏の支援を受け反乱。戦闘は半日で義就の勝利に終わり、政長は勝元邸に逃げ込む。これを機に応仁の乱が発生。

4月 細川勝元は領地9カ国の兵を京都へ集結させる。宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。宗全は自軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する。東軍は10万を結集。京極氏、赤松氏、武田氏も加わる。西軍は9万を結集。六角氏、一色氏が加わる。

5月26日 「上京の戦い」が始まる。東軍が上京で一斉攻撃。将軍・天皇らを確保する。午後からは西軍が反撃。

8月 周防から上洛した大内氏の軍が西軍に合流。伊予の河野通春ら水軍も動員し西軍が勢いを盛り返す。

10月3日 相国寺の戦い。このあと東軍は劣勢に立たされ洛外で抵抗を続ける。

1468年

7月 足利義政、管領の斯波義廉を解任し、勝元を管領に任命する。

9月 足利義政、義視の排除と実子の義尚擁立に動く。義視は幕府を逃れ西軍に就く。

11月 義視を長とする西幕府が成立。有力守護による合議制の下、義視が発令することとなる。

1469年

4月 西岡の戦い。大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城はほぼ制圧される。この後戦線は膠着し、厭戦気分が広がる。

1470年

2月 大内氏の地元で政弘の叔父教幸が反乱を起こす。

1471年(文明3年)

5月 西軍の主力となっていた朝倉孝景が東軍側に寝返る。これにより西軍不利に繋がる。

1472年

3月 勝元と宗全の双方から和解の動き。すでに当事者能力を失い、周辺の勢力の反対を押しきれず。

5月 宗全は自害を試みる。

1473年

3月18日 西軍司令官の山名宗全(持豊)が病没。享年70歳であった。

5月11日 東軍司令官の細川勝元が病没。

12月 義政が致仕、義尚が将軍となる。畠山政長が管領に就任。

1474年
4月 山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃。
1477年(文明9年)
11月11日 応仁の乱が終結。和睦の結果、義尚が9代将軍を継ぐ。

11月 大内政弘、周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵され撤収。西軍は事実上解体される。



ウィキペディアから「応仁の乱」年表を作成しようとしたが、説明が詳しすぎる。すこし簡単なものからはじめてあらすじを理解した上でウィキに戻ろうと考えている。

作業を始めて2時間のところで、一つヒントが湧いてきた。
この内戦は4筋の戦いがある。
第一に8代将軍足利義政の跡取りをめぐる戦いで、一方が弟の義視、もう一方が実子の義尚である。
第二に足利政権の幹部の勢力争いで、一方が伝統の細川氏、もう一方が新興の山名氏である。
第三に三管領の一つ畠山氏の後継者争いで、一方が養子の畠山政長、もう一方が実子の義就である。
第四は同じく管領の斯波氏の後継者争いで、一方が先代実子の斯波義寛、もう一方が養子の斯波義廉である

応仁の乱というのは一言で言えば複合戦争である。さまざまな流れが1点に集中して、轟音を轟かせなから駆けぬいていく時代である。
この4本筋のうち、どれにどのように比重をおいていくかということで、いかようにも料理される。しかし私達は諸英雄を生み出した応仁という時代を理解しなければならないのではないか。

今のところ私が思い描いているのは、細川・山名戦争主軸論である。戦闘の流れを見つめていると、畠山の闘いが非常にクローズアップされてくるようだが、歴史のトレンドということで言うと、鎌倉以来の古い武家社会に代わって、山名宗全が新しい武家社会のあり方を示しているように思える。
基本的には山名の赤入道は、孤立した闘いをしている。味方と言ってもみな味方に引き入れた連中ばかりだ。
足利政権、管領を頂点とする支配システムを敵に回してさんざん鼻面を引き回している。

どうせ年表を作るのなら、「応仁の乱」年表を作るより「山名宗全年表」を作ったほうがはるかに面白そうだ。

さらに調べていくと、応仁の乱が始まる半年前、1466年の終わり頃にさまざまな流れが一挙に一本化することに気づく。
それを強引にまとめたのは、実は山名宗全である。先ほどの4本筋は宗全のもとで一本化されている。それが5月の内戦開始へとなだれ込んでいくという流れになっている。
ところが、ここまで力を発揮した宗全が、内戦勃発後は後景に霞んでいく。これがよくわからない。
どうも一触即発のところまでは持っていっても、ガチンコまでやる気はなかったのではないかという気がしてくる。
ウィキの応仁の乱の項目にも、山名宗全の項目にもこの「空白の3ヶ月」はあまり触れられていない。もう少し調べるか、あまりに膨大な事実の山並みに少々怖気づいている。

最初に書いたように、国立科学博物館の旧石器時代を担った人間についての記載は気になる。
それとは書いてないが、3万年前くらいを切れ目にして、違う人達が日本人であった可能性がある。
そんなことを何気なく示唆しているように思えたのだ。
それで歴史をすこし詳しく調べてみた(この世界の研究者はタコツボ掘りばかりで、不毛な定義争いを延々と聞かされるのだが…)。
そんな中で、自分なりに時代区分が見えてきた。

1.無人時代
まず無人時代がある。短ければ3万8千年前、長くても3万5千年前には終わる。
今後、居住を示す新証拠がいくつか出てくるにせよ、4万年前を遡ることはないだろう。それ以前のものはすべて嘘っぱちと考えて良い。

2.ナウマンハンターの時代
ナウマンゾウを追って朝鮮半島から渡ってきた人々がいる。なぜ朝鮮か、それはナウマンが南方由来、つまり朝鮮から来たからである。
ただしナウマンが来たのは30万年前だった。そして、どうやって来たのかはミステリーである。
学者は平気で「朝鮮海峡が陸地だったから」という。しかしそれが陸地だった時代、きっと世界は寒冷だったに違いない。
だとすればなぜ南方系の像であるナウマンが寒冷の地・日本へと歩を進めたのか、さらにそれに飽き足らず、北海道にまで渡ったのか。
誰も説明しないし疑問にすら思っていない。

3.マンモスハンターの時代
とにかく、寒冷期が続けば南方由来のナウマンはいずれ生きていけなくなる。そして死に絶える。
そうするとナウマンハンターも生きていけなくなる。ただし人間はナウマンよりもう少し賢いから、なにかかにか生きる手立ては見つけるだろう。
一方、ナウマンのいなくなった大地には北からのマンモスが入り込む。マンモスがやってくれば、マンモスを追って暮らすマンモスハンターもやってくる。
私は昨日までは姶良がどうのこうのとか言ってきたが取り消す。もっとロングスパンの話だ。
3万年前から2万5千年前までの期間、ナウマンとマンモスは落ち目の俳優と売り出しの若手のように日本列島に共存した。もっともナウマンは北海道南部まで生息したが、マンモスが津軽海峡を渡ることはなかった。
いっぽう人間様はどうかといえば、ナウマンハンターは気息奄々だったのにマンモスハンターは意気盛ん。マンモスの生息域を乗り越え、津軽海峡を乗り越えて本州中部まで進出した。

4.プレ縄文人の形成
ナウマンハンターとマンモスハンターの比率はおおよそ1対4だった。基本的にはマンモスハンターがナウマンハンターをM&Aした。
気温の激変のために、やがて日本列島からナウマンもマンモスもいなくなり、二つのギャートルズ・グループは縄文人へとインテグレートしていくことになる。
彼らは「落とし穴猟」という、より高度な技術を開発することでイノシシ・大鹿ハンターとなり、さらに弓矢という飛び道具の開発により自然の支配とみずからの生き残りに成功した。

5.縄文文化は津軽から
最初の縄文土器は1万6千年前の津軽の外の浜だった。それは津軽の生産力が特別優れているからではなく、そこがマンモス人とナウマン人の最初の出会いの場所だったからだと思う。
マンモス人は先着民であるナウマン人から大いに学んだに違いない。そしてその知識は津軽を中心に日本全土に同心円状に広がっていったに違いない。
私はマンモス人をY染色体ハプロのD2系に、ナウマン人を同じくY染色体ハプロのC1系に比定している。どちらも今では日本人(アイヌ人)以外には絶えてしまったグループである。

日本の旧石器文化

春成 秀爾さんが表を使って編年基準を示してくれている。とりあえずこれを使って年表を作成していくことにする。
旧石器

この表を見ても、いかにみんなが勝手に時代区分を作成しているかが分かる。
数字は“XX年前”という意味だ。“14C”を用いた年代測定値を加 速器質量分析(AMS)法により較正したもので、「精度が高くなった」らしい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/40/6/40_6_517/_pdf
 
旧石器時代を前期、中期、後期と分ける分類があるが、国ごとに違っていて、素人を混乱させるだけである。
地質学分類を持ち出す人もいるが、新生代以降については何の役にも立たない。
3つに分ければ十分である。ひとつは土器出現以前の純粋石器時代。ふたつめは縄文土器の出始めの時代。これは細石刃時代とほぼ一致するので、どちらで呼んでもいい。
本質的には細石刃だろうが、有効性という点では縄文草創期であろう。3つ目が本格縄文時代である。

絶対年代で言うと

① 純旧石器時代 一応3万5千年前からということににあるが、もう少しさかのぼっていくだろう。といっても4万年までか。

3期で十分と言いつつ、早くも①を二つの亜期に分ける。すなわち 
A) 温暖期(プレ姶良)と、B) 寒冷期(ポスト姶良)になる。
その境目は2万9千ないし8千年前になる。
自然事象としてはマイナーだが、2つの点で重要である。すなわち、ナウマンゾウと大形鹿がいなくなったことと、縄文人の主役が朝鮮出身者から樺太出身者に変わったこと。である。

② 前縄文期・細石刃時代 土器が確認される最初期が1万6千年前、細石刃が広がるのが1万4千年前と言うから、中をとって1万5千年としてはどうだろうか。
長い重畳期があるので、旧石器人と縄文人は同一民族すなわち主として北から来たD系人と思われる。

③ 本格縄文時代 1万年前から始まるということになっている。前・中・後・晩期と分かれるが、これは別な扱いになる。

なお日本の考古学の世界では①+②を後期旧石器、それより前を前期旧石器と呼ぶらしい。歴史を学ぶものとしては、率直に言ってナンセンスである。



3万5千年前 寒冷期の開始

このあと寒冷期が1万4千年前まで続く。

野尻湖時代(広島以北。群馬、長野、千葉など)

大型環状集落と、大型動物(ナウマンゾウやオオツノジカ)を解体するための磨製石斧で特徴づけられる。
これらの大型動物は中期更新世(約43万年前)に中国本土から渡ってきた。当時は温暖であった。

約3万年前  姶良Tn火山の噴火 

この後大型動物の狩りは消滅。ニホンジカ ・イノシシの落とし穴狩りに移る。落とし穴は宮城から鹿児島までの間で発見される。

2万9千年前 岩宿で発見された旧石器はこの頃のものとされる。

2万2千年前 港川人 

現在のところ、①本土の縄文人との類似性はなく、現代オーストラリア・ニューギニア人との類似性が認められる。③先島へは南から、中部圏には九州から渡来した。その時点で
港川人はすでに絶滅していた。


2万年前

地質学的には後期更新世末期  
考古学的には旧石器時代第2期  黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた工具

中国大陸の文化とは似ていず、ヨーロッパの旧石器文化と共通する特徴があり、日本独特と考えられる。

宮城県の薬莱山の文化や座散乱木遺跡がこれに相当する。これらの遺跡では縄文文化への連続性が確認される。

1万6千年前 

太平山元(Ⅰ)遺跡 土器の内側に炭化物が付着、もっとも古い煮炊きの後である。弓矢の使用を示す石鏃も、世界でもっとも古い。

植物食の本格化に合わせ部分的に縄文草創期が開始する(御子柴文化)。

南九州では丸 ノ ミ形磨製石斧や石臼 ・磨石の普及。定住を示唆する竪穴住居もはじまる。

1万4千年前  

シベリアからやってきた細石刃文化。北欧から沿海州そしてアラスカまで広がる。鮭の漁労に関係しており、比較的北方に限られる。

1万年 本格的縄文期(縄文早期)に入る。

紀元前5千年 環状集落と墓地をもつ定住生活に入る。

昨日、東京に行ったついでに上野の科学博物館を訪れた。
折悪しく連休の只中で、しかも昆虫特別展ということで長蛇の列。レストランも喫茶店も売店もとても入れる雰囲気ではない。
子供も多かったが、流石に科学博物館に来る子供といえばそんなに駆け回ったり大声を出すような人間ではない。これには助かった。
まず元気なうちにと思い、日本館の2階日本人の起源の展示を見に行った。意外とこじんまりとしたもので、30分もあればみ終わるほどのスペースだ。
それだけに説明が非常に濃縮されていて結構ズシンと来る。まず旧石器人。
いちばん、感動したのは世田谷の小学校のグランドを垂直に10メートルも掘り下げている展示だ。
関東ローム層というのは火山灰からなる地層だから、噴火の歴史と照らし合わせることによって、かなり絶対年代の同定ができる。しかもその間に温暖期の海進、段丘の形成などアルので気候変動と火山活動の経緯の中で古代人の活動を絡め取れるという優点を持っている。
さて、前置きが長くなったが、この地層の説明には次のように書かれている。
1.関東地方の旧石器時代は3万8千年前に始まった。
2.これは2万年前までまばらに積み上がっている。
3.旧石器時代の遺物は2万年前を過ぎてから密度を増している。
との所見を提示したあと、次のように説明する。
1.3万8千年前に関東にやってきた旧石器人は朝鮮半島由来とおもわれる。
2.これに対して2万年前から増えてきたニューカマーは北方由来の可能性がある。
ということになると、これから先は私の推理になるが、3万8千年前の渡来人はY染色体ハプロで言うC1人ではないかと思われる。そしてあとから来たのが北方由来のD系人ではないかと思う。D系人は氷河期の寒さに押されて南下してきた。二つの旧石器人は融合し共存してやがて縄文人となっていく。
もともとC系人は南方由来であり、それが北方に進出してついにはベーリング海を越えてアメリカへと広がる。これに対しD系人は現在では日本人とアイヌ人だけだからよくわからないが、ウラル・アルタイ経由で東方に進出した可能性もある。
というわけで、2万年以前に日本にいた旧石器人の話は結構気になる話題であった。

これまでD系人=旧石器人で、日本に入ったD系人以外のD系人(D2人)はすべて絶滅した。残ったD系人がそのまま縄文人に横滑りした、と思いこんでいたが、そう簡単な話ではないようだ。
少し関連文献をあたってみたい。

記紀の世界を信じるしかないのだが、相対年代として前後関係が明らかないくつかの大乱がある。
この中には九州王朝のものも紛れ込まされているので注意が必要だが、誰と誰が戦ったのか、誰が勝利したのかは重要だろうと思う。
1.神武の征服
時期はかなり明確に特定できるだろうと思う。卑弥呼より2,3代下った時代の話だ。280年から320年辺りに絞り込まれるのではないだろうか。
神武は九州王朝の組織した東征隊の幹部の一人だ。これに対抗したのは旧出雲系の集団だ。
出自で言えば九州王朝は任那系であり、出雲は新羅系だ。両者とも南朝鮮に存在した高天原をルーツとする天孫文化の後継だ。
神武から8代は九州王朝が権力を握り、その目下の同盟者として出雲系が実権を獲得した。

2.四道将軍によるクーデター
これはかなり細かく書き込まれている。何らかの史実の反映として間違いないだろう。
この崇神朝は武力を持って政権についており、神武王朝を倒したことは間違いない。誰が? 
他にいなければ、それは出雲系ということになる。ただ神武以前に大和に先着していた出雲族ではなく、越前より南下した新羅系の可能性はある。
その後の仲哀の死までの期間が明らかに一つの王朝を指している。東方進出と、吉備・出雲の奪取はこの王朝が強い軍事的ポテンシャルを持っていたことを示している。
ただし景行天皇のくだりは九州王朝からの剽窃であろう。

3.九州王朝による大和支配
これもかなりはっきりしていて、九州を支配しようとした仲哀がだまし討にあった。
仲哀が新羅に行く征かないの話になっているので、九州王朝は高句麗との戦いの最中であろう。
九州に寝返った野見宿禰が仲哀の妾(神功)の子を王に仕立てて、なんば・河内を征服した。
出雲系は反撃したが及ばず、大津まで撤退したあと壊滅した。
河内王朝には在地の大伴・物部がついた。
問題はこの河内王朝をどこまで引っ張るかということで、相当の議論がある。

4.継体の出現と実在王朝への連絡
実在王朝の金石文的確証は飛鳥寺そのものである。
ここから無理のない範囲で尺取り虫風に足を伸ばしていくと、西暦550年位までは足を伸ばせるのではないかと思う。
ここにも記紀のレベルではっきりした武装闘争の経過が残されている。
継体ははっきりしない、長期に渡る王権獲得の戦いが記されているが、肝心なことは王になるための経過ではない。即位して間もなく死んでいることである。そしてその後3代にわたり薄命な天皇が続く。つまり530年から550年までの混乱が問題なのであって、雄略の失脚から530年までは歴史上の空白と考えるべきであろうかと思う。

3と4の間には深く広い溝がある。
ここを埋めるものは3つある。一つは百済本紀である。一つは新羅本紀である。そしてもう一つが記紀である。
ここでは筑紫の君が登場し、蘇我韓子が活躍する。ともに九州王朝の幹部として戦っている。蘇我韓子が直接大和蘇我の祖となったのかどうかは不明だが、蘇我氏の超越的権威の背景となっていることは間違いない。



古本屋で吉田舜さんという方の「古事記は銅鐸を記録していた」という本を見つけ買ってきた。
吉田さんはまったくの市井の研究者で、おそらく退職金の一部をはたいて出版したのではないかと思われる。
中身をパラパラ読み始めたが、30年近くも前の出版で、申し訳ないが少々古い。
一応私なリに整理する。繰り返しが多いので、読み飛ばしていただいても結構です。

1.「銅鐸人」の正体は誰か
A) 銅鐸の使用年代
おそらく紀元前200年前後までは遡る。北九州に始まり徐々に西漸していった。
紀元250から300年位にかなり急速に使用されなくなった。尾張~遠江が最後に使用開始され、最後に中止された地域である。
B) 銅鐸は信仰と関わる用具であった
銅鐸はただ放棄されるのではなく、壊され埋められた。それと同時に銅鐸に関する知識もきっぱりと廃棄させられた。
これは異民族・異文明・異信仰による弾圧と考えられる。
C) 銅鐸人は現在の大和人とは異なる人種
銅鐸人は少なくとも大和王朝につながる人々とは文化的、宗教的に異なる人種である。
彼らは大和人に征服され、服従を強いられ、その文化・信仰を奪われた。ただし殺されたというエビデンスはない。
ここまではガチガチの事実として確認できるだろう。
D) 銅鐸人は稲作を営む青銅器人だ
水田耕作を営んでいる点ではまさに弥生人である。縄文人とも共生し混血していた可能性はあるが、縄文人ではない。
さらに青銅器文明を享受していたことを考えると、彼らが長江文明の流れをくむ渡来人であった可能性は高い。
異なる文明だからこそ破壊されたのである。

2.銅鐸文化を滅ぼした人々
銅鐸の衰退を“ニューカマー”の進出と重ねるなら、彼らは紀元前後に北九州に進出し、さらに200年をかけて山陰地方に拠点を形成しし、紀元300年前後に近畿を、その後の100年で北陸、東海、山陰、山陽を手中におさめたと考えられる。
彼らは朝鮮半島北部からの文化や信仰(天孫信仰)を持ち込んだ。とりあえず天孫族と呼んでおく。
A) 二波にわたる征服
紀元前100年ころに北九州に上陸したのは朝鮮南海岸から来た天孫族で、彼らは北九州を平定した。
おそらく紀元50年から100年の間に東海岸から天孫族の別部隊(新羅)がやってきて出雲から鳥取あたりに上陸した。
B) 新羅→出雲の天孫族の動き
スサノオ系天孫族は出雲から東に勢力を広げ、越前まで勢力を伸ばす一方、山陽に入り河内・大和まで進んだ。
彼らは銅鐸人の国を滅ぼし、逆らうものを殺し、信仰を抑圧し、みずからの文化を押し付けた。
これが纏向王朝で紀元250年ころ、九州王朝における卑弥呼の時代である。
スサノオ系の東方進出と出雲の国譲りとの前後関係はわからない。したがって因果関係もわからない。

以上の点を前提にした議論でないと、どこかに無理が出てくるからその分強引になる。




をご参照ください



下記の記事は、いずれ
2017年10月19日 「大阪と大大阪の歴史 年表」のページとドッキングささます。

時期不明 おそらく5世紀初め 仁徳天皇が難波津に難波高津宮を置く。

593(推古元) 厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺を建てる。飛鳥寺とほぼ前後。

595年ころ 最初の遣隋使が住吉津(難波津)を出発。

645(大化元) 大化の改新。孝徳天皇と中大兄皇子ら、都を飛鳥から難波長柄豊崎宮にうつす(前期難波宮)。蘇我残党の反撃を恐れたためか、あるいは西方との連携に活路を見出そうとしたためか。あるいは西方よりきたる蘇我援軍を迎え撃つためか。

740年 聖武天皇、一時難波京(難波宮)に都を移す。

754(天平勝宝6) 鑑真が難波津に到着する

1467 応仁の乱  細川の拠点となった堺が発展。明との交易も盛んとなる。

1496(明応5) 本願寺8世の蓮如が石山本願寺を建立。上町台地に寺内町がつくられる。

1532(天文元) 摂津・河内・和泉で大規模な一向一揆がおきる。この時期、石山本願寺の防御も飛躍的に増強される。

1550(天文19) 宣教師ザビエルが堺に上陸する

1580(天正8) 石山合戦。本願寺が織田信長との戦いに敗れ大坂を退去。寺内町は焼失する

1583(天正11) 天下を掌握した羽柴秀吉が大坂に入り、本願寺跡地に築城開始。上町台地から大阪平野にかけて城下町が開かれる。

上町台地下の低湿地に東横・西横・天満などの堀川を巡らせる。平野や久宝寺などから商人らがよびよせられ、大阪の原型ができあがる。

1615(元和元) 大坂夏の陣で豊臣氏が亡ぶ。

1619(元和5) 徳川秀忠、大坂を直轄地(天領)とし、大坂城を再建。城代・町奉行をおく。市街は北組・南組・天満組の「大坂三郷」に分けられ、町奉行の管轄のもとにおかれる。

江戸幕府は大坂を海運の要衝の地と定め、大規模なインフラ投資を展開した。河川の改修や堀の開削が行われ、水路が発達。さらに西方にも堀川が作られ開発が進んだ。「大坂は八百八橋、水の都」と呼ばれるようになった。

1600年台後半 船場、天満地区に市場が栄える。諸藩が蔵屋敷を置いた。蔵屋敷へは水路で年貢米が運ばれる。堂島米会所では世界で最初の先物取引が行われた。

経済的背景は二つある。一つは海上輸送を柱とする全国流通体系が出来上がったこと、もう一つは「大名貸」を頂点とするスーパー金融システムが出来上がったことである。この2つはいずれも大阪を中心として形成された。

大阪新田
     江戸時代の新田の開発


1688年 元号としての元禄はこの年から1703年までの15年間。

1703(元禄16) 人形浄瑠璃が隆盛期を迎える。近松門左衛門の曽根崎心中が初演される。

歌舞伎・浄瑠璃などの民衆芸能の中心は、京都から大阪に移る。また町人学者が生まれ、多くの私塾が建てられた。

1703年 関東で元禄地震。20万人が死亡。その4年後には東海地方中心に宝永地震、宝永山の噴火があり2万人以上が亡くなる。

1716年 徳川吉宗が8代目将軍となり、「享保の改革」を開始。元禄文化に終止符。

1730(享保15) 堂島の米相場会所が幕府公認となる。現米の受け渡しのない帳簿上の「差金決済取引」が行われる。

堂島の相場が全国の基準となった。今のロンドンのLIBORと同じだ。大阪は「天下の台所」として繁栄するようになった。多くの大名が蔵屋敷をおいて、米や地方の産物を運びこみ、お金にかえていた。

1837(天保8) 元町奉行所与力・大塩平八郎が乱をおこす

大塩は与力をやめて塾をひらき学問を教えていました。天保の大凶作に際し私財をなげうって貧民救済に当たりました。その挙句、「救民(きゅうみん)」を旗じるしに兵をあげました。

1838(天保9) 長崎から戻った緒方洪庵が適塾をひらく。

洪庵は江戸で4年、長崎で2年蘭学を学んだ(だけ…)。7年してから塾を大規模化。大村益次郎は直弟子で塾頭まで務めたが、福澤諭吉は小便程度。

1866年(慶応2年) 将軍家茂が大阪城に入り、長州戦争を指揮。間もなく家茂は死亡。

1868年(慶応4)1月 鳥羽伏見の戦い。敗れた将軍慶喜は船で江戸に脱出。 

1月 天皇が大坂入り。1年余りにわたり政務を執る。

1869年(明治2)3月 天皇が東京に向かう。大久保利通は大坂遷都を主張したとされる。

版籍奉還に伴い各藩の蔵屋敷が廃止される。「大名貸」の貸し倒れや地租改正により豪商の倒産が相次ぎ、大阪は衰退期を迎える。

1871年(明治4年)2月 造幣寮(造幣局)が開業する。

明治政府は兵器工場や兵学寮などを大阪に設置。これらを基礎に近代工業の知識や技術が広がる。

7月 廃藩置県。

1874(明治7) 大阪~神戸間に鉄道開通、大阪府の江之子島庁舎完成

1875年 大久保、木戸、板垣らが大阪で会談。政権運営について協議を行う。

1876 年 堂島の米相場会所が「堂島米穀取引所」と改称され、先物取引を世界に先駆けて開始。

1877年(明治10) 西南戦争。大阪は政府軍の最大の兵站基地となる。

1885(明治18) 大阪初の私鉄が難波~大和川間に開通

1889(明治22) 市町村制がしかれ大阪府管内の大阪市が創設される(堺も同時に市制施行)。この時の人口は47万人。面積は15平方キロ。一方、東京(都部)の人口は135万人。

1895(明治28年) 日清戦争が勝利に終わる。兵站基地の役割を担った大阪は工業都市として発展するようになり、この頃から「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになる。


1895年 別子銅山会社を基礎に住友銀行が創業。大阪を本拠地として急速に発展、三井・第一・安田・三菱と並ぶ五大銀行となる。

1897(明治30) 大阪市が第1次の市域拡張をおこなう。大阪築港の建設が始まる。

安治川口と木津川口から沖に向かって総延長10キロメートルの2本の防波堤をつくり、築港大桟橋を建設した。

1903(明治36) 大桟橋が完成。第5回内国勧業博覧会がひらかれる、巡航船・市電・民営乗合自動車が営業。

1918(大正7) 米騒動おこる

1920(大正9) 第1回国勢調査、市人口125万人、府人口258万人

1923年(大正12年) 関東大震災が発生。被災者の一部が大阪市など各地に転居。

1923年 大阪松竹座が完成。その後、四ツ橋に文楽座、31年に大阪歌舞伎座が完成。

1925年(大正14年) 第二次市域拡張。周辺の残余44町村全てを編入して大大阪市が成立。東京府東京市を上回り、世界各国の主要都市でも6番目に人口の多い都市となる。

ニューヨーク(597万人)、ロンドン(455万人)、ベルリン(403万人)、シカゴ(310万人)、パリ(290万人)です。この年東京の人口は214万3200人。

1925年 野村財閥の主軸として野村證券が設立される。

1928(昭和3) 大阪商科大学設立

1929 梅田で阪急百貨店が開業。梅田は元は「埋田」、湿地を埋め立てたところであった。

1930年(昭和5) この年の大大阪人口は245万人。世界大恐慌。線維輸出を主体とする大阪の経済は大きな打撃をうける。

1931年(昭和6) 大阪城天守閣再建、中央卸売市場ができる、大阪大学できる

1932年(昭和7年) 東京市は市域拡張(82町村編入)によって35区へ増加。大東京市(面積551平方キロメートル、人口497万人)が誕生。

1933(昭和8) 梅田~心斎橋間に地下鉄ができる

1937(昭和12) 道幅44メートルの御堂筋が完成。11年を要した。

1939 大阪府と東京府の生産額が逆転。以後その差を拡大した。原因は軍需の成長と民需の減少。

県別生産高推移1県別生産高推移sen
     府県別生産額の推移(縦軸は全国比%)


1939年 堂島米穀取引所、戦時統制の強化により廃止される。

1945(昭和20) 大坂空襲。焼夷弾攻撃により約21万戸の家が焼失、1万人以上が死亡、3万5千人が負傷。

10月 市人口は107万人、府人口280万人に激減。

1970(昭和45)  日本万国博覧会が千里丘陵で開かれる。この年泉北ニュータウンが完成。



大変よい本を読むことができた。と言ってもまだ読み始めたばかりなのだが…
題名は
片岡宏二 「弥生時代➖渡来人から倭人社会へ」雄山閣 2006年
というもの
以前から「北九州を語らずして弥生を語ることなかれ」と思っていたので、まことに的確な指摘が続き、心地よい興奮に襲われる。
面白いところを抜書きしていくことにする。

1.朝鮮系縄文人の認識

縄文人は、沖縄までふくめて全国的に均一で、おそらく北から渡ってきた人々(Y染色体ハプログループでいうとD系人)に由来するだろうと思われる。
しかし、朝鮮から縄文時代に渡来した人々(C系人)もかなりの割合でおり(人口の8~10%)、西日本および日本海側では少なからぬ影響を伝えている。
というところまではうすうすと分かっていたが、この本でかなりスッキリしてきた。

2.初期朝鮮系縄文人の遺物

片岡さんによれば朝鮮渡来の縄文人の遺物は少なくとも三種類ある。
① 結合針 これは二種類の骨片を繋ぎ合わせて一つの釣り針にしたものである。これが朝鮮海峡を挟んで両側から出土する。
② 黒曜石: これも海峡を挟んで両側から出土するが、原産地は佐賀県有田町の腰岳という山だそうだ。これが意味するのは、少なくとも縄文時代までは、大陸・半島・日本の関係は双方向性であり、上下関係ではないということだ。
③ 櫛目式土器: ポスト縄文というか縄文晩期というかそのあたりで櫛目式土器が出てきて、縄文土器と併存しているようだ。
これから分かることは、朝鮮系縄文は縄文後期に登場しているが、両者に敵対関係はなくあくまで併存関係だ。

3.朝鮮系縄文人と無文土器

弥生時代に先行する縄文時代後期を生きた人々を、我々は晩期縄文人と呼んできた。
朝鮮系縄文人は、時期的には晩期縄文人と一致する。
とりあえず同一の民と見て話を進めたい。
① 前期
朝鮮系縄文人の痕跡は紀元前1千年(3千年前)ころから出現する。
彼らの生活を象徴する前期無文土器は、半島中部に始まり、その後南に波及し、海を渡り西日本まで広がっている。
ただし日本においては、この無文土器は縄文土器と混在している。
北方系の農耕を営んでいたとみられるが、農耕を主体とするまでに至っていたかどうかは不明。
② 後期
ついで孔列文土器を使用する文化が半島から進入した。この孔列文土器旧型と新型に細分される。
日本における分布は、新型人が南九州(熊本・宮崎)に広く存在し、畑作農業を営んでいた。
一方旧型人は北九州に分布し、米作りを営む渡来人と重なっている可能性がある。
この地理関係は、新型人がまず九州に入り全土に展開。その後旧型人が北九州に入り、新型人を南に追い出したと考えるのが自然であろう。

4.旧型孔列文土器文化は渡来人のもの

紀元前200年から150年にかけて、朝鮮系の人々が急速に増加している。著者はこれを箕子朝鮮の滅亡と結びつけている。
金隈(かねのくま)遺跡の渡来人の墓地(支石墓)から渡来人の遺体136体が発掘された。
これから推計すると、弥生時代中期の福岡平野では、人口の8~9割が渡来人という計算になる。
福岡遺跡からは大量の無文土器が発見されている。その様式は完全な朝鮮式だが、原料の土は日本産である。
したがって同じ孔列文土器であっても、縄文系と弥生系でまったく異なる渡来人だった可能性がある。

かなり初見の事実が展開されており、正直のところ整序しかねている。もう少し同種資料を検索した上でコメントしたい。


ふと思いついて、「書いて置かなければ」と書いているがだいぶアルコールも入って、眠気も募ってきている。
思いつきというのは、大阪の繁栄は日本の中国進出を背景としているのではないかということである。
以前、明治維新というのは江戸幕府に対する関西の反攻ではないかと思いついて書いたことがあったが、それがあらゆる面から否定されてしまった、という苦い思い出がある。

たしかに要所要所で大阪は重要な役割を果たしてはいるのだが、長続きはしない。
元禄の頃、日本永代蔵という状況があって、大阪が日本の経済の中心ともてはやされた時代があった。近松とか西鶴、落語も上方優位だ。しかしそれは元禄の一刻であって、1800年代に入ると大阪は寂れ江戸は人口百万、世界最大の都市へとのし上がっていく。ところがそういうことは大阪の人は書かないから、いつまでも大阪が経済の中心地だと思ってしまうのである。

それが分かったのは堺市長選挙のときに、堺の勉強をしたからなのだが、明治の末まで大阪は堺の後塵さえ拝しかねないほどの落魄れであった。
それが大正に入ってから見る間に持ち直し、第一次大戦の後の糸偏景気で一気に日本のマンチェスターに上り詰め、東京と並び立つほどの勢いになったのである。
それを可能にしたのは中国貿易以外に考えられない。そのへんを少し数字で裏付けてみたいと思っている。秘密を解くカギは上海 にあるのではないかと見ている。

加藤哲郎さんの 「イラク戦争から見たゾルゲ事件」講演録 (2005年4月、日露歴史研究センター)

という文章が面白い。思わず「なるほど」とうなづけてしまうところがある。
1.コミンテルンとアメリカ共産党
中国・日本におけるアメリカ共産党の影響力はかなりのものだ。かつて党創立者とされていた片山潜はアメリカ共産党を最初のキャリアとしている。野坂参三も一時期はアメリカを根城に対日工作を行っていた。その他にも多くの実例をあげることができる。
「しかしそこには秘密がある」というのが加藤さんの意見である。
30年代のアメリカ共産党というのは、アメリカ政治のなかでは影響力を持たない泡沫政党でした。しかしコミンテルンの中で、一段と重要な存在になっていました。
それがなぜなのか、そこにゾルゲ問題をあつかううえでの勘どころがある。

2.コミンテルンとフロント組織をつなぐ結節点
加藤さんの判断として、アメリカ共産党はアメリカ労働者・人民の前衛政党としての側面の他に、資本主義体制におけるコミンテルンの“偽装出張所”(情報活動組織)としての側面を持っていたのではないかと考える。
この2つの側面を反映して、党内にも国内活動を主体とするフォスター派と国際活動を主たる活動の場とするブラウダー派に分かれ対立していたと言う。
加藤さんは、とくに汎太平洋労働組合(PPTUS)が、アメリカ共産党の東アジア連帯活動の中核を形成していたこと、それが国共合作崩壊後のコミンテルンの中国工作と完全に同調していたことを強調する。アール・ブラウダー書記長自身、党内の前職はPPTUSの上海駐在代表だった。
アメリカ共産党は、まるで人材派遣業みたいに、モスクワの必要と求めに応じて、党員を送り出しました。世界中どこへ行っても活動できる人材を、アメリカ共産党は、即座に供給することができたのです。
ということで、アメリカ共産党が自国の解放運動に責任を持つ階級政党と言うよりは、海外派遣社員のリクルート組織であった。そうなっていった二つの理由を示す。
一つは、現地で行われるどんな秘密活動にも参加できる、現地人と同じ肌の色のバイリンガルを供給できたからです。
30年代にはアメリカ共産党内に、一般細胞の系列とは別に、16の言語別グループがありました。アメリカ共産党日本人部は200人が組織されていました。
いま一つ、30年代米国共産党指導部はブラウダーら国際派が占めていたことです。国際的な人の派遣はニューヨークの党本部が直接タッチしました。
ということで、ブラウダー書記長が上海での国際活動についてコミンテルンと密接な連絡をとっていた証拠を明らかにしている。
「なぜか」という疑問には直接答えていないが、おそらく蒋介石の寝返り反共化の後、コミンテルンの中国での活動が困難になったからだろう。そのため任務のかなりの部分(とくに人脈作り)をアメリカ共産党に依存したのではないだろうか。
ゾルゲの1933年夏日本入国の際も、米国共産党が活動の詳細について指示をして、バンクーバーから横浜に入っている。
ということで、アメリカ共産党の日本・中国の階級闘争への関与はたんなる国際連帯ではなく、アメリカ共産党がコミンテルンに対して負った国際的任務の一つになっていたのであろう。
これが加藤さんの読みだ。

3.コミンテルンの偽装組織
たしかにそうだ。蒋介石の裏切りにより国共合作が失敗してから後のコミンテルンは、完全な手詰まり状態にあった。このときリベラルな装いで上海の政治シーンに登場した左翼外国人は、なんらかの形でアメリカ共産党(プロフィンテルン)の影響を受けていた。
それは蒋介石の恐怖支配、二度の上海事件と日本支配、そして日本軍による「租界」の閉鎖までかろうじて繋がれていく。
加藤さんは、ゾルゲと尾崎の出会いを “いつ、どのように” 問題に矮小化せずに、大きな文脈の中に捉えるべきだと主張しているのであり、たしかにそれは慧眼である。
その大きな文脈とは、コミンテルン→アメリカ共産党による現地ネットワークの形成であり、尾崎はそこに絡め取られた巨大な獲物であったということである。

4.スメドレー説を目の敵にする必要はない
加藤さんは学者だから、スメドレー説を許せないと考えているかも知れないが、ゾルゲが上海に来たときすでにスメドレーと尾崎は知己の関係にあった。それも相当の関係である。スメドレーが味方に引き込もうとしてもなんの不思議もない。
ゾルゲとスメドレーは同じフランクフルター・ツァイトゥングの特派員である。ただしゾルゲが身分を明かしていたかどうかは不明だが、ともにアメリカ共産党系のルートで動いていたと考えるなら、同志関係であることは気づいていたはずだ。
直でスメドレーが動いたのではなく、いったん情報をPPTUSに上げ、そこの判断でゾルゲに話を持ちかけたのではないだろうか。
そこが納得できれば、誰が動いたか、いつどこで会ったのかはどうでも良いことになる。

尾崎とゾルゲの出会いをいつ、だれがセットしたのか?
この問題はいまだ決着がついていないようだ。

1.加藤哲郎説

ウィキペディアのアグネス・スメドレーの項目は加藤哲郎の説を引用し、他説を否定する。
ゾルゲ裁判の判決では「スメドレーがゾルゲに尾崎秀実を紹介した」とされた。
ただし、実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣されていた鬼頭銀一であった。
尾崎は具体的に供述したがゾルゲが鬼頭銀一とのつながりを強硬に否定したために、最初の紹介者はスメドレーということに調書が統一され、裁判でもこれが採用された。
加藤哲郎の説は、『ゾルゲ事件 覆された神話』という本に記載されているらしい。(平凡社新書 2014年)
記事の脚注を見ると、記載のほとんどが同書によっているようである。ここでは加藤哲郎説と呼んでおく。

2.過大評価?
ウィキペディアのリヒャルト・ゾルゲの項目は、上海時代の記述はかなり粗っぽい。(東京時代は詳しい)
1930年に、ソ連の諜報網を強化と指導を目的として上海に派遣される。
半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つ。
ゾルゲ諜報団の日本人は、尾崎秀実、鬼頭銀一、川合貞吉、水野成、山上正義、船越寿雄であった。
スメドレーは尾崎秀実とゾルゲの橋渡しをしている。実際に二人の出会いに重要な役割を演じたのは、アメリカ共産党から派遣された鬼頭銀一である。
と、どうにでも取れる文章になっている。

3.いったいどっちなのさ?

両論併記なのはウィキペディアの尾崎秀実の項目も同じだが、もっと盛大にやらかしている。
常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。
南京路にある中華料理店の杏花楼で、二人は会った。ゾルゲはコミンテルンの一員であると告げ、協力を求めた。
実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸という運送会社に潜り込んでいた鬼頭銀一である。
鬼頭云々の記述の根拠は、スメドレーの記事と同じく加藤説である。
二人が初めて会ったのが常磐亭で、ゾルゲが打ち明けたのが杏花楼ということになるが、どうもちぐはぐだ。どちらかを採用してもう片方は参考情報として注記するというのが引用者のマナーだろう。

4.良い記事だが…
ウィキペディアにはもう一つ、ゾルゲ諜報団という項目の記事がある。こちらの方をゾルゲの記事にしたいくらい良くまとまった記事だ。
ゾルゲは中立国で連絡員として情報や資金の受け渡しに携わっていた。その合間に労働組合やイギリス共産党の内部事情を探り、兵器工場の稼動状況について報告した。
これが労農赤軍本部第4局局長のヤン・ベルジンの目に止まり、1929年にスカウトされ、本格的に諜報員としての訓練を受けた。
ベルジンは、中国共産党と中国国民党の対立構造、内部事情を調査するためゾルゲを中国に派遣した。
このとき「中国共産党との交渉は持つべからず」、「共産主義活動には従事すべからず」の2点を厳守するよう命じられる。
なおラムゼイは暗号名であり、上海での偽名はフランクフルター・ツァイトゥング特派員「ジョンソン」であった。
ゾルゲはもう一つの偽名、フランクフルト・アム・マインの『地政学雑誌』の特派員「ドクトル・ゾルゲ」を用い、蒋介石や何応欽などとの面識を得た。
ゾルゲは32年まで上海に滞在した後、いったんソ連に戻り、33年9月6日に横浜に上陸する。
以上が上海での活動の概要である。内容豊富である。しかし二人の出会いがいつ、どこでかは明らかにされていない。
なおウィキペディアにはゾルゲ事件という項目もあるが、逮捕劇以降に的を絞った内容。

5.鬼頭銀一という人物
グーグルで検索しても、鬼頭銀一の名を冠したファイルは見当たらないが、関連ファイルはいくつか見つかる。その多くが加藤哲郎論文の紹介である。
まず表題である「覆された神話」とは、誤った「伊藤律スパイ説」のことらしい。とりあえずそのことは保留しておく。
ついで鬼頭という人物が紹介される。
鬼頭銀一は1903年に三重県に生まれ25年にアメリカに渡りそこで共産党に入党、31年に上海で日本の特高に検挙されている。
その後は足を洗い、37年にかけて神戸でゴム製品商をしていた。37年には南洋パラオ・ペリリュー島で雑貨店を始める。
38年に訪ねてきた30歳前後の男に“ゆであずき”の缶詰をすすめられ、間もなく苦悶し息絶えた。遺族は、謀殺ではないかと疑っている。
引用はここまで。
結局わからずじまいだ。

不破倫三について

別にどうって言うことはないのかも知れないが、不破倫三という、不破哲三と似た名前の人がゾルゲ事件に(エピソード的に)登場する。

不破倫三も不破哲三同様に筆名であり、本名は増田豊彦と言う。
ウィキペディアによると、文筆家・ジャーナリストで(1900年5月22日 - 1974年7月11日)のあいだ生きていた。

1.増田豊彦の経歴

1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、設立されたばかりの高松高等商業学校の教授となっている。

1926年、労働農民党結成に参加し調査部長に就任した。1928年に同党が解散すると、ドイツ語文献の翻訳活動に没頭したようだ。
1931年、ベルリンに留学し、1932年、朝日新聞ベルリン特派員に採用され、帰国後に東京朝日新聞に入社する。

1934年、東亜問題調査会に配属され、ここで尾崎秀実と出会うことになる。
ただその後は左翼とは距離をおいたようで、終戦時には軍から委託されたジャワ新聞の社長として現地で終戦を迎えている。
戦後の活動にも取り立てて注目すべきものはない。

2.不破倫三の経歴

不破倫三は増田豊彦が左翼文献を翻訳・発行するにあたって用いた筆名である。由来はかなりはっきりしていて、レーニンの後継者と目されながらスターリンによって粛清されたブハーリンのもじりである。

あまりウィキを見ても判然としないが、翻訳の一覧を見ると、不破の翻訳のほとんどが1927年に集中しており、労農党の調査部長としての仕事をこなしていたものと思われる。

28年にヴァルガの経済学書を出版しているので、この頃から本腰を入れ始めたと思われる。

そのような経過の中で29年にリヒャルト・ゾンテル著「新ドイツ帝国主義」という本を翻訳発表した。ゾンテルというのはゾルゲの筆名である。
本

ドイツ語の原著が発行されたのが28年だから、えらく早い。この本に限らずドイツ語文献の翻訳出版はほとんど同時発表かと思うくらい早い。日本人の食いつきがいかにすごかったかが分かる。

3.ゾルゲとの接点

卒業したばかりで高松高商教授として赴任し、田舎暮らしを強いられた。漱石の坊っちゃんと似ていなくもない境遇だ。
そんなことで4,5年の鬱屈した生活を送ったあと、多分そちらの系統からは足を洗ったのであろう。
1930年ころのベルリンといえば、ドイツ共産党の鼻息がもっとも荒かった頃で、国崎定洞ら日本人学生のグループも活発に活動していたはずだ。
ゾルゲもモスクワを離れベルリンで上海行きの準備としていたのであろう。
しかし、前年まであれ程の翻訳活動をしていた増田が、ウィキで見る限りはまったく音無しとなっている。帰国後は東京で言論人としての活動を続けているが、なにか革新的なアクションを起こしている気配はない。
ゾルゲとは、尾崎秀実という接点があるが、尾崎を介してゾルゲと益田が出会ったという記録は残されていない。ゾルゲとの接触の可能性はあった。しかし、ゾルゲが「新ドイツ帝国主義」の著者リヒャルト・ゾンテルだと気づく可能性は限りなく低かった。
おそらく尾崎でさえ、ゾンテルがゾルゲであることも、同僚の増田が不破であることも知らなかったろうと思われる。

4.不破哲三と不破倫三

不破哲三の本名は上田建二郎である。同じ東大卒ではあるが、二人の間にまったく接点はない。

不破哲三本人は不破倫三の名を意識しているかどうかについて問われ、関係ないと答えている。
これはかなりウソっぽい。戦後、不破哲三が活動を始めた頃、巷間にまともな本はなかった。図書館にはさらになかった。古本屋を回っては戦前の著書を買い揃えるのが日課だった。

古本屋の店先で、絶対に不破哲三は20年前に出版された不破倫三の訳本を見ていたはずだ。

党に入るとみんなペンネームをつけるもので、それで一人前になった気がしたものである。
名前のつけ方はきわめていい加減、本名に似ていなければどうでもよいので、佐藤正とか鈴木一郎みたいにこの上なくありふれた名前をつける人もいれば、香月徹みたいなしゃれた名前にする人もいた(何故か北小路敏は本名)。私は若草薫だったが、これは駅前のパチンコ屋「若草」によるものだ。名字が若草なら名前は薫以外ないだろう、と気に入っていた。
不破さんは前に買った本の訳者のペンネームが気に入って、深い意味もなく拝借したのではなかろうか。

札幌も流石に暑くなり、調べ物をする気がしません。
フラフラと「ネット散歩」をしています。
今回は東京地図研究社のサイトで
というページを見つけました。多分社長さんの趣味のブログではないかと思います。
ざっと紹介していきます。詳しくお知りになりたい方はぜひ本文に回ってください。

1.谷は西日本、沢は東日本
谷状の地形を表す地名には「沢」と「谷」の2通りある。どこが違うかと言うと東と西の違いだ。
1/2.5万地形図に採用されている「沢」「谷」地名を県ごとに集計し、 その比率によって色分けをした。
谷と沢

東日本では「○○沢」が圧倒的に多く、逆に西日本では「○○谷」ばかりだ。
「沢」と「谷」を分ける境は、北アルプスの尾根に沿って引くことができるが、太平洋側では混在帯が存在する。
関東に「谷」の飛び地があることは、弥生人の集団移住があったことを示唆する。
中国以西の地域には「沢」や「谷」の地名がない地域がかなりあり、この地形に対する第三の呼称(渓や峡)があると考えられる。

2.東は縄文、西は弥生
その理由についてはまだ不明な点も多いが、縄文文化の影響を強く残す地域と弥生文化の影響が大きかった地域で 地名に差が出たともいわれる。
縄文文化は、 落葉広葉樹林の多い東日本を中心に発達した。 落葉広葉樹林にはドングリなどの木の実が多く、それが縄文人の主食になった。
また落葉広葉樹林は密林にはならないので、森に入っての猟(漁)がしやすかった。
西日本には照葉樹林(常緑広葉樹林)が広がっており、 密林化して人を寄せ付けない。そのため縄文人の数は東日本に比べはるかに少なかった。

3.弥生人の東方進出で状況は変わった
やがて西日本に稲作とともに弥生人が渡来してきた。彼らは、照葉樹林を切り開いて耕地にしながら、生活圏を広げた。
西日本の縄文人は、少数派として生きるための選択を迫られた。
徐々に弥生人と融合していくか。それとも山奥へと引きこもっていくかである。
一方弥生人にとって、「谷」は危険で近寄りがたい密林であった。


中核的事実は1.であり、2.と3.はその解釈である。
いろいろデータを眺めつつ、いろいろ思いを巡らせてみたが、結局断念した。これ以上分析しても、たいしたものは出てこないと思う。牽強付会になってしまいそうだ。

目からウロコの地名由来 というブログの「谷」と「沢」地名も参考にした。





この絵は四街道市役所のホームページから拝借したものである。
おそらく衛星写真に海抜20~30m位の等高線を重ね合わせたものではないかと思う。
市川=船橋以西はいじってないが、こちらにも同程度の海進があったものと想像される。
香取海
この「地図」を紀元前後の東関東だとすると、次のように言えるだろう。

東関東には鹿島神宮と香取神宮を両端とする巾着型の湾があった。これが香取海である。
これは鹿島側から南に伸びた砂嘴によってせき止められ、潟湖となった。
その時点では、印旛沼、手賀沼を中心に現在の霞ヶ浦・北浦を凌ぐほどの水面があったが、これらは鬼怒川・小貝川の沖積物により徐々に陸地化していった。

これらの陸地は土木技術の開発により新田づくりの対象となる。香取湖は岡山平野、河内湖、大和盆地、巨椋池、琵琶湖南岸、加賀平野につぐ潟湖干拓型モデルの最大のパイロット事業となったであろう。

造田工事には利水が必要で、利水は取水と排水に分かれる。泥状地を水田とするためには、自然利水とはまったくレベルの違う数年がかりの大工事となる。
そのためには一般的共同体ではなく、公費・労力の強制支出をともなう階級的共同体が求められる。
このような共同体を創出できたのは、武装共同を基盤とする天孫族社会のみであった。

初期の天孫族は越後から信濃を経由して群馬に入ってきた。いわゆる毛の君であろう。彼らはさきたま古墳群あたりを拠点にしながら干拓事業に勤しんだのであろう。

二つの可能性がある。彼らは九州王朝の臣下であり、ヤマト王朝の臣下ではなかった可能性がある。
もう一つは彼らは弥生人ではなく、縄文人を直接使役していた可能性がある。銅鐸文明の東端は加賀と遠江を結ぶ線であり、それ以東においては比較的まばらだったかも知れない。

ヤマトタケルの東遷は、さきたまの方角には向かっていない。真間から鹿島川をさかのぼっているのではないかと思わせる。
初期の大和政権の進出先は香取湖から常陸へと向かう。あたかも、さきたまや毛の君を避けているかのようである。
後になってだが防人の動員も常陸に大きく依存しているようである。

梅原猛氏の出雲王朝論
本を買うほどの気もないので、ネットの井沢さんとの対談を読ませてもらうことにした。
週刊ポスト2014年9月19・26日号

Q1 出雲王朝はどのような政権だったか?
A 『記紀』に述べられている神話はヤマト王朝以前に出雲王朝があったことを示している。
出雲王朝の祖先であるスサノオノミコトは、『日本書紀』によれば、朝鮮半島からやってきた。

Q2 出雲王朝はどのような王朝だったか?
A 銅鐸文化です。銅鐸は朝鮮半島の馬鈴が原型である。それが大きくなって銅鐸となった。

Q3 オオクニヌシの役割は?
A スサノオは出雲にやってきて出雲王朝を作った。スサノオの子孫のオオクニヌシノミコトは、近畿に進出して西日本を統一した。

Q4 ヤマト王朝との関係は?
A 西日本を統一した出雲王朝を、神武一族が滅ぼした。彼らは南九州からやって来て、出雲王朝を滅ぼして大和王朝を建てた。

Q5 銅鐸と銅鏡の関係は?
A 出雲王朝の信仰のシンボルは銅鐸であったが、ヤマト王朝においては銅鏡だった。銅鐸は破壊されてから埋められ、存在そのものを消された。それにより出雲王朝の権威は否定された。

Q6 出雲大社が存在するわけ
A ヤマト王朝は出雲王朝を滅ぼした。滅ぼされたものは祟るからそれを鎮魂しなければいけない。

これまで梅原さんの文章は読んだことがない。シロウトの言説をシロウトが読んでもろくなことにはならないと考えたからだ。
Q6はどうでもいい話だが、Q1~Q5までの5点はこちらもそう簡単には引き下がれない問題を含んでいる。


Q1については全面的に同意する。
ただし出雲王朝は九州王朝と同じ天孫族(騎馬民族)の末裔だ。衛氏朝鮮の血を引く扶余系民族(非ツングース系)で、おそらく韓半島南部の「高天原」から新羅方面に向かった支族の流れだろう。本隊は任那から対馬、壱岐と渡り唐津から上陸したのではないか。人種としての同質性は、後に神武と長髄彦との遭遇において証明される。

Q2については全面的に否定する。
出雲王朝(スサノオ・オオクニヌシ系)は徹底した反銅鐸原理主義者だった。
鳥取中~西部に2つの遺跡がある。ひとつは青谷上寺地(あおやかみじち)、もう一つは妻木晩田(むきばんだ)遺跡だ。2つは紀元0年から200年のあいだ、ほぼ同時に存在した。しかし遺跡のあり方はまったく対照的だ。
青谷上寺地は海に面し広大な田地を擁し、活発な海上交易を営んでいた。そこに暮らす人々は長江文明に端を発する弥生人であり、銅鐸文化を共有していた。妻木晩田は山城を構え戦闘態勢の中に生活していた。彼らの墓(方墳)は明らかに高句麗につながる北方系の特徴を示していた。銅鐸につながる遺物は見当たらない。両者は時代を共通していた。銅鐸文明圏に方形墓文化人戦闘集団が刺さりこんだと見る他ない。
紀元150年ころ、青谷上寺地は突如滅びた。数百体の虐殺された遺体が残された。妻木晩田はその後100年を繁栄のうちに過ごした後、徐々に力を失った。紀元250年ころにはほぼ生活跡が消滅した。山を降りたのである。
この2つの遺跡をどう読み解くかが、日本の前古代史のカギを握っていると私は思う。大胆に推測するなら、妻木晩田に暮らす出雲王朝系民族が青谷上寺地の銅鐸人(弥生人)を武力により支配するようになったのだと思う。
そのさい、天孫族(シャーマニズム)は銅鐸信仰(アニミズム)を危険視し徹底的に排除した。銅鐸に象徴される青銅器文明は、彼らには危険なほどに美しすぎたのである。この宗教弾圧は全国各地で展開され、「倭国大乱」を構成したのではないかとおもわれる。

Q3については一部について同意する。
スサノオは出雲にやってきて出雲王朝を作った。スサノオの子孫のオオクニヌシは九州王朝との戦いに敗れ、出雲を譲りディアスポラとなった。ただし出出雲と国譲りとの前後関係・因果関係は不確かである。別個に発生した可能性もある。
オオクニヌシ、あるいはその子であるオオモノヌシの時代、オデッセイたちは畿内に到達し、前大和王朝(あるいは後期出雲王朝)を建設した。3世紀後半、纏向王朝がこれである。
先住民である銅鐸人は天孫信仰を強制されるが生存は許された。畿内には銅鐸人とともにかなりの縄文人も暮らしており、これらが三層社会を構成した。
オオモノヌシは岡山・播磨を経由して河内・ヤマトに到達したと思われ、その間に児島湾の干拓事業などで大規模造田土木のノウハウを身につけたとみられる。

Q4については基本的に賛成。
神武一族が出雲王朝を滅ぼした。ただし滅ぼしたというのは正確ではない。支配が3階建てになったというだけの話だ。出雲王朝による現地人支配の枠組みはそのまま生き続けた。
現地人というのは弥生人である。それは長江からのディアスポラと縄文人の混血である。後着の天孫族が彼らの人口を上回ることはなかった。
神武系の支配は根付くことなく絶えた。10代目崇神天皇の出現により出雲系が完全復活し、実質的に九州王朝系の支配は絶えたといえる。ではなぜ九州王朝の後継を名乗ったか。それは九州王朝=倭国が桁違いの格上で、従属関係を継続するほうが得策であったからであろう。

Q5は基本的に否定する。
たしかに銅鐸は破壊されてから埋められ、存在そのものを消された。しかし銅鐸は長江文明の流れをくむものであり、出雲王朝は天孫信仰を旨とする集団である。妻木晩田の人々が青谷上寺地の人々を集団虐殺し、銅鐸文明を否定したように、近畿に進出した出雲王朝は銅鐸文明を葬り去った。そして神武のヤマト王朝はそれを引き継いだのである。
弥生人が銅鐸を信仰の対象としたように、銅鏡が1対1の照応関係にあるか否かは議論が必要だろう。銅鏡は中国文明との対応関係で問われなければならない側面がある。また、並行して銅剣の意味付けも必要になるであろう。いずれにせよ肝心なことは、銅鐸が異教の象徴として破壊され放棄されたことである。

ということで、梅原説は、既存の説に対するチャレンジとしては積極的なものがあるし、古代史学への挑戦の一つとしては評価されるものと思う。
ただ、すでにそういうレベルの話はとうに過ぎ去っている。現在の論争はより複雑かつ全体的な論理構築になっていると思われる。

おそらく「尾崎秀実の上海」を描くことは、上海の果たしたダイナミックな役割から見れば、その泡ぶくの一つを描写にするに過ぎないだろう。
それがいかなるところから、いかにして発生したかを書き始めると実施の筋書きの数倍に膨れ上がり、面白くもない物語になってしまうだろう。
それを面白いものにするためには、尾崎自身の行動に対する綿密な調査が必要であろう。その上で要領のいい刈取りとイメージの膨らませが必要であろう。
岩波新書の尾崎秀樹の「上海1930年」はその視点といい、事実の収集者としての資質といい、文句ないものである。
とりあえず、上海の外国人の動きを1930年を中心に前後数年のスパンで拾ってみよう。前提知識として中国人民族主義者や共産主義者の動きに関する知識、上海そのものの政治的・行政的・軍事的変遷についての知識、日本人の進出と侵略の経過についての知識が必要になるので、関係する年表をあたってもらいたい。

1925年(大正14年)
ウィットフォーゲル、「目覚めつつある支那」を発表。日本資本の紡績工場でのストライキより書き起こし、5.30事件を詳細に記録。
尾崎はこれを読んで中国に注目するようになった。
尾崎、東京帝大法学部から経済学部大学院に進学。唯物論研究会に参加し、大森義太郎に学ぶ。

1926年(大正15年)
尾崎、東京の朝日新聞社に入社。草野源吉の偽名で社会主義の研究会を開催。

1927年(昭和2年)
4月 上海に入った蒋介石のクーデター。国共合作が破綻し、左翼に大弾圧が加えられる。
10月 尾崎秀実、希望して東京朝日新聞の学芸部から大阪朝日新聞の支那部へ転勤。転勤後は大原社会問題研究所の「中国革命研究会」(細川嘉六)に顔を出すようになる。
27年 魯迅、上海に移る。
27年 スメドレー、精神的危機を克服。「女ひとり大地を行く」を著す(発行は29年)
27年 夏衍、帰国後中国共産党に参加、左翼文学芸術運動に従事する。

1928年
6月 蒋介石軍が北京を制圧。北伐が完了。北京を支配していた張作霖は満州に引き揚げる。
11月、尾崎秀実、朝日新聞上海通信部に赴任。3年余り上海に妻とともに在住。
12月 スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥング紙の特派員として中国に赴任。シベリア鉄道で満州に入る。
スメドレーはこの時点ですでに強固な共産主義者であり、なんらかのミッションにもとづいて行動していると思われる。フランクフルター・ツァイトゥングは左翼的な新聞で、共産主義者も多く参加していた。コミンテルンの隠れ蓑になっていた側面もある。

スメドレー旧居
スメドレーの住んだ上海のアパート このアパートの2階で住んでいた。大韓民国臨時政府旧址から西に300メートルほど。

エドガー・スノー、コロンビア大学の新聞学科を卒業した後、汽船のデッキボーイとして世界周遊に出る。上海に上陸し居つく。チャイナ・ウィークリー・レビューに就職する。この時点では共産主義とはまったく無縁の人。
スノーの『極東戦線』は大変な名文で、息も継がずに読み進んでしまう。「赤い星」についてはいろいろ意見もあるが、スノーが文章家であることは認めなければならない。

1929年
1月 スメドレー、張学良の支配する満州に3ヶ月間とどまり、日本の武力干渉の状況を記事にする。

5月ころ スメドレー、上海に移り、茅盾、魯迅、宋慶齢(孫文夫人)、蔡元培、林語堂、胡適などと交友を深める。

8月 尾崎、腸チフスに罹患。日本人の経営する病院で2ヶ月の入院生活を送る。

10月 中国革命互助会が結成され、共産党の支援に当たる。魯迅もこれに参加。左連の母体となる。

29年 スメドレーの自伝的小説「女ひとり大地を行く」が刊行される。表紙には美醜を越えた面構えの肖像写真が飾られる。のちに尾崎が邦訳を担当。

11月 自供によれば、尾崎がパレスホテルのロビーでスメドレーに会う。紹介者のワイテマイヤーは左翼系の「時代精神」書店の経営者。実際に「面白い女性がいる」と紹介したのは新聞連合の大形孝平だったが、尾崎はこれを伏せた。

11月 ゾルゲ、モスクワを発ちベルリンに向かう。その後マルセイユに出て日本行の定期航路に乗り込む。そのしばらく前に、自らの判断でコミンテルンから赤軍第4本部(情報部)に転勤している。

29年 中西功、上海の東亜同文書院に入る。中国共産主義青年同盟などに参加。42年にゾルゲ事件関連で死刑を求刑される。

1930年
1月 ゾルゲ、上海に到着。スメドレーと同じくフランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」を名乗る。ゾルゲ・グループを組織したのはスメドレーとされる。

2月15日 中国自由運動大同盟の成立大会が開かれる。魯迅、郁達夫、田漢、夏衍、陶晶孫、鄭伯奇らが指導する。

3月2日 左連が結成される。

7月 李立三の指導する長沙蜂起、南昌蜂起が失敗。この後蒋介石政権の弾圧が強化され、上海での活動は非合法も含め困難となる。

9月17日 フランス租界で魯迅の50歳の記念パーティー。スメドレーは開催に尽力した。初対面ではなかったとされる。

9月 河合貞吉が上海入り。田中忠夫、王学文らと中国問題研究会を組織。尾崎も運営に協力したという。

10月 尾崎によれば、このころ鬼頭銀一が接触を図ってきた。鬼頭はアメリカ共産党員で、太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸の上海支社に潜入していた。

11月 東亜同文書院で学生ストライキ。処分者を出すことなく要求を実現。

1931年 
1月 左連幹部5人が逮捕、虐殺される。尾崎、犠牲者の作品をふくむ「支那小説集 阿Q正伝]の発行に協力。白川次郎の筆名で翻訳を担当。

尾崎が外国人記者クラブでゾルゲと会見。



尾崎によれば調停役は鬼頭銀一であった。ただしゾルゲは明らかにしていない。

ニム・ウェールズ、ジャーナリストを志して上海に渡る。ユタ州の生まれでソルトレークの州立大学卒。政治的には無色。

1932年(昭和7年)
2月末 尾崎、大阪本社の命令により日本に戻り、外報部に勤務。
ゾルゲ、日本に活動の場を移す。職名はアムステルダム・ハンデルス・フラット紙の記者であった。
6月初め 宮城与徳が仲介し、日本に異動したゾルゲと尾崎が再会。尾崎は諜報活動に従事するよう要請を受け承諾する。コード名は「オットー」。
上海で「民権保障同盟」が発足。魯迅、宋慶齢、蔡元培、林語堂、胡適にくわえ、スメドレーも発起人となる。
エドガー・スノーとニム・ウェールズが上海で結婚。

1933年
5月 イギリス警察が「上海におけるソ連・スパイリスト」を作成。13人の名前にはスメドレーとゾルゲが記されている。スノーの名はなかったということになる。
9月 ゾルゲ、記者として来日。(このあたり引用文献により事実が錯綜している。この文章は相当怪しい。いずれ整理する)
スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥングからマンチェスター・ガーディアンに転籍。八路軍ゲリラを体当たり取材。『中国紅軍は前進する』『中国人民の運命』『中国は抵抗する』『中国の歌ご
え』などを立て続けに発表。
スメドレーの長征
     長征参加時のスメドレー
転籍の理由がよくわからないが、コミンテルンの統制を外れたのだろうか。

1934年 
10月 尾崎、東京朝日新聞に転じ東亜問題調査会に勤務。
エドガー・スノー夫妻、北京に拠点を移し中国共産党との関係を深める。
ニム
ニム・ウェールズ(本名ヘレン・フォスター・スノー)

1935年
ゾルゲ、いったん離日する。この間モスクワに戻ったらしい。

1936年
5月 ハロルド・J・ティンパーリ、北京から上海に移り、マンチェスター・ガーディアン紙の専従特派員となる。一時南京へ移動するが上海事変拡大に伴い上海に戻る。南京事件でのマギーの写真を広く流布する。

ゾルゲ、オットー独大使の私設情報官に就任。

鹿地亘、獄中転向の後上海に渡る。第二次上海事件を機に上海を脱出。重慶政府内で「日本人民反戦同盟」を結成。

1937年
4月 長谷川テル 中国人留学生と結婚し上海に渡る。その後重慶政府で対日反戦放送にたずさわる。緑川栄子のペンネームを用いた。夫妻の墓地は佳木斯にある。

1938年
カナダ人医師ノーマン・ベチューン、延安で診療活動を開始。ベチューンは臨床医として労働者の貧困に接し、共産党員として社会変革に参加するようになる。

1941年 

ゾルゲ事件が発覚。尾崎も首謀者の一人として逮捕される。

1944年
11月7日、巣鴨拘置所で両名の死刑が執行。


底本を間違えた。尾崎秀樹の「上海1930年」(岩波新書)という本は、まことにつまらない本で、一定程度の知識を持った人間には何の役にも立たない。その歯がゆったらしさにはイライラする他ない。
少し他の文献もあたった上でもう少しマシな年表にしたいと思う。とりあえず、中国共産党関係の歴史は毛沢東とそのライバルたちの年表を見ておいてほしい。


先程パーティーで、「ヒマというのはないものだ、しかし気持ちの余裕はできる」としゃべった。
みんながいまだに忙しくしているのを見て、若干肩身の狭い思いをして、しかしそれほど縮こまる必要もないと思って、酒の勢いでそうしゃべった。
その時、「尾崎秀実は“ヒマというのはないものだ。新聞を真面目に読むとヒマはなくなる”と、そう言っている」と付け足したのだが、さて歳のせいか、いつどうやって秀実が言ったのかが思い出せない。
そこで帰ってきてから本棚とにらめっこしていて見つかった。岩波新書の『上海1930年」という本だ。著者は息子の尾崎秀樹。

実は秀実が言ったのではなく、羽仁五郎の言った言葉で、しかもかなり秀樹の思いのこもった引用で、どこまで秀実がそう考えていたかは定かではない。
ただそれはどうでもいいことで、中身がいいから、私の頭の片隅に覚えていたのであろうと思う。
引用のレベルを越える可能性があるが、ご容赦願いたい。
 一高、東大と一緒だった森五郎は、しばらくハイデルベルク大学へ留学し、帰国後東大の国史科に入り直し、歴史研究にたずさわるようになっていたが、森姓から羽仁姓に変わった直後に尾崎は彼と会う機会があり、近く上海に特派されるという話から、中国へ行ったらどういうふうに勉強したらよいか、友達付き合いの気安さからたずねた。
 すると羽仁五郎は「新聞を読むことだ」という。
「もちろん新聞を読むのは、仕事のうちだから…」
「そうするつもりだくらいではだめだ。よく読めるようにならなくてはいけない」
「よく読めるようになるには、二、三年はかかるよ」
「いや二、三ヶ月でよく読めるようにならなければだめだ」
そういわれても、なかなかうまくいくものではない。尾崎は困って、
「じゃ、どうすればよいだろう」とあらためて聞いた。
「一日のうちで、いちばん頭の働きが良い時に新聞を読むことだ。大学を出た連中は、分厚い本を机の上にのせて読むのに、新聞は食事をしながら読んだりする。あれではだめだ。頭脳の冴えている一番良い時に、分厚い本のかわりに、新聞を机の上に広げ、赤と青の鉛筆を使って、一字一句考え、批判し、それが真実か嘘か見分け、前日の新聞や、これまでに知っている知識とも照らし合わせ、ノートをとりながら研究的に読むことだ。
 新聞を通して何が本当か何がウソかをはっきり考えることだ。日本がどう動くか、中国が世界がどう動いていくか、新聞はそれを動かそうとしているか、生きるか死ぬかの真剣な勉強として新聞を研究するのだ。
 こういうふうに新聞を素材として勉強すれば、二、三ヶ月で新聞がよく読めるようになる。そして、こうやって、新聞を読んで考えたことを、同じように新聞を真剣に読んでいる友だちに話し、彼らの考えを聞き、討論してみることだ。そうすれば世界の動きが次第にはっきり分かり、自分がどうすればよいか、明らかになる」
「一日のうちで」から後ろは、後年、羽仁五郎が書き記した「青年にうったう」という書物の中の言葉だ。尾崎秀樹の冴え渡るシームレスの筆運びに思わず引き込まれる。



プラハの歴史

6世紀後半 スラヴ民族がヴルタヴァ川河畔に定住。

623年 サモ王国の形成(30年ほどで滅亡)

9世紀前半 大モラビア国が成立

9世紀後半 プラハ城が構築される。

906年 マジャール人の侵入により大モラビア国が滅亡。

10世紀頃 ヴィシェフラト城が建てられる。2つの城に挟まれて街が発達する。

973年 キリスト教の司教座が置かれる。その後、度重なる戦渦により荒廃。

1198年 プシェミスル王朝が始まる。ボヘミアが世襲王国となる。

1346年 ボヘミア王カレル1世(ルクセンブルク家)が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となる。

神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸の整備が行われた。

1348年 プラハに中欧最古のカレル大学(プラハ大学)設立。ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市に発展。「黄金のプラハ」と形容される。

1415年 キリスト教改革派の指導者ヤン・フスが火刑にされる。
ヤン・フスは1370年生まれ、貧農出身でありながら学に優れ、プラハ大学の総長となる。穏健な改革派であったが、「贖罪状」販売に反対し政争に巻き込まれた。

1419年7月 ヤン=ジェリフスキーの「プラハ市庁舎での窓外抛擲事件」が発生。ヤンの組織した暴徒が庁舎に乱入し議員を窓から突き落とす。
ヤンはフス派の神父で、下層市民の立場からカトリックを非難し、実力行動を呼びかけた。

1420年2月 ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が「フス派に対する十字軍」を組織。フス派は貴族や庶民が団結し国民軍を作り上げる。
7月 ジシュコフの戦い。ヤン・ジシュカ将軍は、手銃と装甲馬車を用いて十字軍騎士による突撃戦術を殲滅。フス軍はその後も連勝を重ねる。

1431年 対フス派十字軍が襲来。ポーランド王国からフス派義勇兵6千人が支援に入る。西スラヴ民族がドイツ人に対し優位に立つ。

1433年 ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争。ボヘミアの義勇兵7千名が加わる。

1434年 リパニの戦い。フス派内のターボル派(急進派)がウトラキスト(穏健派)によって壊滅させられる。

1436年 バーゼル公会議。フス戦争が終結。

1439年 ポーランドがフス派への弾圧を開始。壊滅に追い込む。
この後半世紀にわたりハプスブルク家とスラブ・プロテスタント系貴族が覇権を争う。

1490年 ポーランド王家から送られたブラジスラフがボヘミア兼ハンガリー国王となる。

1526年 ポーランド、オスマン・トルコに大敗。ハプスブルク家によるチェコ王国の統治が始まる。

16世紀後半 ルドルフ2世の治世。芸術や科学を愛する王の下、プラハはヨーロッパの文化の中心都市となる。

1618年 プラハ城で「プラハ窓外投擲事件」が発生。三十年戦争に発展。

1620年 ビーラー・ホラ(白山)の戦い。チェコ貴族軍は皇帝軍に敗れ全滅。ハプスブルク(ドイツ人かつカトリック)の支配下に入る。

1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲される。

ヴェストファーレン条約が締結され、三十年戦争が終結する。王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減。
チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧を受け、2世紀以上にわたる「暗黒の時代」を迎える。

1781年 ヨーゼフ2世、チェコ人の人身隷属を廃止。しだいにチェコ人の文化的な再生運動が始まる

1848年 

3月 ドイツ2月革命に並行してプラハ市民による独立運動。

5月29日 プラハに仮政府が樹立。スラブ民族会議を開催する。

6月12日 プラハで急進派の暴動が発生。鎮圧されて革命運動は挫折する。

1867 オーストリア・ハンガリー帝国成立。チェコ人は強い不満をもつ。

1914年 第一次世界大戦勃発。独立派のマサリクが西ヨーロッパ亡命し、独立運動を開始。

1918年 第一次世界大戦終結に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が解体。チェコスロヴァキア共和国が成立する。初代大統領にマサリク。

1935年 総選挙。ズデーテン・ドイツ党が第二党に進出し、チェコ人とドイツ人との対立が深まる。

1938年 ミュンヘン会談。英仏伊独首脳はドイツのズデーテン併合で合意。ベネシュ大統領はロンドンへ亡命。

1939年

3月 ドイツ軍によって占領され、チェコスロヴァキアは解体される。

9月1日 第二次世界大戦開始。

1945年5月5日 プラハ蜂起。4日後に解放される。

戦後の動きについては、たぶん膨大になりそうなので、稿を改める。

1968年 プラハの春。

1989年 ビロード革命。共産党政権が崩壊する。

両方とも自家用車で行くしかないところですが、意外とネットでもしっかりした地図がありません。
そこで長雨の合間を縫って、行ってきました。

1.中国人慰霊碑(仁木)
nikitizu
   卍印のところが町営墓地でこの墓地の中に慰霊碑があります
国道5号線を余市方面から南下していくと、仁木の市街に入ります。
やがて、ちょっと見落としてしまうかもしれない信号があります。そこに仁木駅方面左折の標識があります。ここを曲がって1丁ほどで駅に突き当たります。この突き当りを右に(南方向)に曲がって1丁ほど行くと左に踏切があります。このとき右前方には仁木町の役場が見えます。ここで左折して、踏切を渡ってそのまま真っすぐ東に向かいます。
300メートルほど進むと交差点があるので、そこを右に曲がります。曲がらないで直進すると鳥居にぶつかります。これが仁木神社になるようです。右折して200メートルするとまた交差点があるので、今度はそこを左折して山の方に入っていきます。ここが仁木の町営墓地の入口でちょっとした高台になっています。要するに神様と仏さんが隣り合っていることになります。
何回も曲がる道筋で面倒に見えるが、途中にランドマークがあるので迷わないと思う。もちろん自信があれば最少の右左折で行っても構わないです。
墓地の中ほど、朽ちかけた廃屋があり、これが地図の卍印の元になったお寺ではないかと思われます。さらに坂を登っていくと、進行方向左側に下記の写真の塔が見えてきます。これが慰霊碑です。郭沫若の文章が彫られた石碑がありますが、読めません。説明板は見当たりません。
中国人慰霊碑
             中国人慰霊碑(仁木)

2.劉連仁記念碑(当別)
劉連仁tizu
             劉連仁記念碑(当別町)
この記念碑は当別の市街から離れて、かなりわかりにくいところにあります。周辺にこれと言ったランドマークもありません。
多分下記のアプローチが一番わかり易いと思います。
札幌から国道275号線で当別に向かう。この国道は市街に入る直前で右折して月形方面に行ってしまうから、右折せずに真っ直ぐ進みます。この道は橋を渡ると市内中心部になり当別駅で行き止まりになります。
そこまで行かず、橋から2つ目の信号を左に曲がって、そのまま市外まで出てしまいます。
札沼線の踏切を越えてしばらく行くと、田んぼの中を一直線に北進する通りがあるので、そこを右折します。
この道は3キロほどでT字路に突き当たる。ここを左折し西北方向にしばらく走るとやがて山麓に到達し、ふたたび三叉路が現れる。ここをまた左折して、しばらく走る。やがて右側(山側)に記念碑が現れる。地図にでマークしたところです。ほかにものらしいものはないので、「劉連仁記念碑」と書かれた道標を見損なうことはないでしょう。
劉連仁記念碑

2つの丘の間のちょっとした幅の沢になっていて、いかにも隠れ住むには格好の場所とうかがわれる。ここで劉連仁を保護したのが共産党員農民の今野さんだ。その今野さんの息子さんが中心になって記念碑建立を発議した。記念碑は仁木の記念碑がそっけないのに比べ、なかなか芸術的だ。
劉連仁記念碑2
中の空洞を覗き込んでみると丸みを帯びたかなり大きな石球が置かれています。おそらく沢の斜面に壕を掘って住んだ生活を象徴したのでしょう。たしかに言葉に勝る造形だと思います。

どちらもあまり人が訪れることもないのだろうが、やはり説明を書いたプレートがほしいね。これからはひょっとして中国人客が来るかも知れないし…

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