鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

「出雲王朝」の秘密

驚いた。出雲にもう一つ王朝があったのだ。

それがあると、妻木晩田も青谷上寺地も銅剣や銅鐸の山もすべて説明できるのだ。

目下頭は混乱しており、自分の頭の中に構築してきた古代史像をどうひっくり返して、どう整理していったらいいのか、分からなくなっている。猛吹雪の中で方向感を失っているような感じだ。そのめまい感は何故かこころよい。

四隅突出型墳丘墓を象徴とする王国

話は花谷浩さんの「出雲王が君臨した時代」というものだ。

リードがかっこいい。
弥生時代後期の出雲には特異な墳墓が現れる。四隅突出型墳丘墓と呼ばれるそれは、わずか100年弱で消えた王朝の存在を示唆する。
宍道湖の西岸に西谷丘陵という小高い丘があり、そこに4つの四隅突出型墳丘墓が発見された。

四隅突出型といえば妻木晩田(むきばんだ)でおなじみの朝鮮北部由来の墳墓だ。これは明らかに縄文とも弥生とも、さらにスサノオ系とも異なる異人種系のものだ。

2016年12月05日  「むきばんだ」の人々
2016年12月06日  古代出雲のトロイ戦争か
を参照されたい。

出雲地方の古代史の経過

一応の筋書きを書くとこうなる、

まず紀元前1世紀ころ、スサノオが新羅経由で出雲にやってきて、葦原中津国を作り、それはオオクニヌシの頃に最盛期を迎えた。

これは、先住する銅鐸人(長江系渡来民と縄文晩期人の混合)そのものであったか、あるいは高天原系の征服王朝であったか不明である。

ついで紀元前後に、高天原の本隊が九州北部に上陸し、糸島(日向)に降臨した。彼らは宗像を支配下におさめ、出雲に進攻した。

オオクニヌシは出雲を明け渡し、何処へか消えた。その一族のオオモノヌシはおそらくキビを経由して難波方面へと移動した。

その後、出雲はいったん歴史から姿を消す。そして紀元100年ころに青谷上寺地と、おそらくこれを滅ぼした人々のクニ、妻木晩田とが登場する。


四隅突出型墳丘の特異性

4つの四隅突出型墳丘が並んでいるところは、エジプトのピラミッドを想起させるが、同時に阿部3代が眠る平泉中尊寺とも通じるところがある。

建造年代はかなりはっきりしているらしく、紀元150年から270年ころの建造とのことだ。卑弥呼とばっちり重なる時代である。魏志倭人伝で言及されないのはなぜだろう。

おそらく出雲王は妻木晩田の社会に直接つながるものであろう。朝鮮半島東岸、おそらく新羅よりさらに北からやってきたバイキングであろうと思う。

さらに想像をたくましくすれば、1019年に九州北岸に侵攻(入寇)した「刀伊」(とい)と同じ流れではなかろうか。

2018年06月27日 「刀伊」人の九州侵入 を参照されたい。
四隅突出簿の分布
妻木晩田の住民も3世紀の末ころには姿を消す。その後四隅突出型は姿を消すから、おそらく日本からいなくなったのであろう。

振根の戦いとの関連は疑問

後に崇神朝時代に出雲の支配者・振根は大和に敗れ、その属国となる。花谷さんはこのエピソードを出雲王国滅亡に比定するのだが、それは間違いだろう。

それは卑弥呼より100年もあとの話だ。「崇神天皇の在位は3世紀ころとも推定される」というセリフは歴史学者としての常識を疑わせる。


もし出雲王朝が滅亡したとすれば、滅ぼしたのは九州王朝

もう一つ、日本書紀によれば振根は、王と言うよりも九州王朝に忠誠を誓う地方豪族とみたほうがよい。出雲王朝の消失後、出雲に影響力を及ぼしたのは九州王朝であったと見られる。

出雲に北方民が襲来して王国を建てたとするなら、それは出雲を国譲りで自らの領土とした九州王朝にとっては侵略行為だ。当然戦うだろう。

「倭国大いに乱れて…」というのはその戦いだったのか。
つまり出雲王国は倭国により滅ぼされたか、あるいは何らかの理由により自己崩壊したと見るべきかも知れない。

出雲王国は4代限りの「バイキング王国」であった

出雲王国の話は、かつてのイングランドにデーン人などが襲来し支配したのと同じように、日本にもバイキングの時代があったのだと想像させる。

想像をたくましくすると、荒神山などの銅剣や銅鐸は、彼らが先住民から奪って埋蔵したとも考えられる。もし彼らが鉄器で武装していたとすれば、青銅製の武器など祭祀以外になんのユーティリティもない。


大化の改新の謎(天武の謎)

1.なぜ改新であってはいけないのか

私の高校時代、645年の大化の改新というのは日本史の最大のヤマだった。

それがいつの間にか「大化の改新」という呼び方はしなくなった。その代わりに「乙巳の変」と呼ばれるようになっている。

変えた人たちの思いは、それはただのクーデターで、蘇我蝦夷の暗殺事件であって、ちっとも変わってはいないというニュアンスを強調したいのだろうと思う。

しかしその後の経過を見ると、645年を発端とする数十年の変化はたんなるクーデターとしての枠には到底当てはまらないと思う。

革命という言葉を支配階級の変更と捉えるなら、それは革命に当たらないかも知れない。しかし我々はもはや19世紀的な枠組みで革命という言葉を閉じ込める必要はないのではないだろうか。

2.大化の改新を三段階で考える

反唐軍事体制の構築→白村江の敗北と唐軍の進駐→壬申の乱と自決体制、という三段階で捉える必要があるのではないか。

そこに一貫して流れているのは、日本の独立維持という強い意志であり、「反唐ナショナリズム」の思想である。

だから、「乙巳の変」に押し込もうとする考えは、どうも気に食わないのだ。

3.最大の難問は、前半において天武の顔が見えぬこと

2.の考えが成り立つためには、天武(大海人皇子)が大化の改新に最初から関わっていたことが証明されなければならない。

ところが困ったことに、肝心のそのことがさっぱり良くわからないのである。

そもそも日本書紀というのは天武が作らせた史書であり、彼の功績に対する賞賛が芯になって展開されなければならないはずだ。

であれば「乙巳の変」から始まって、百済支援、唐や新羅との対応など彼が中心に座る形でストーリーが展開しなければならないはずだ。

ところが壬申の乱に至るまで、天武は一向に歴史の表舞台に登場しない。まるで表立つのを嫌がっているようにさえ見える。

ここがわからないと、その後の持統や藤原不比等の話もさっぱり見えてこないのである。


4.一応年譜で拾ってみた

生年 不明だが631年説が有力。舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子。中大兄皇子と両親を同じくする弟。

645年6月 20歳で乙巳の変。このとき中大兄皇子は20歳。大海人は年少のため、行動には加わっていない可能性がある。

653年 中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち倭(やまと)に移る。このとき大海人も行動をともにした(日本書紀)
その後、中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。

654年 大海人、胸形君徳善の女、尼子娘との間に最初の子、高市皇子をもうける。

661年 朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫(九州)に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った。大海人は中大兄皇子と那の大津の宮にいたはずである。

664年 大海人皇子、中大兄皇子の命により、冠位二十六階制を宣下。この頃は皇位継承者とみなされていたらしい。

668年 天智の即位に合わせ皇太子となる(出典不祥)。

668年 激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとした。藤原鎌足が取りなした(藤氏家伝)。三者が微妙な関係に入ったことがうかがわれる。

669年 五月条では大皇弟であるが、十月条では東宮太皇弟となる。

671年1月 天智天皇は第一皇子の大友皇子を太政大臣に任命。大海人は完全に継承者コースを外れる。懐風藻では666年とされる。

671年10月 病臥生活に入った天智天皇は、大海人皇子を病床に呼び寄せ後事を託した。大海人はその日のうちに剃髪し、吉野に下った。そのまま、大友皇子が朝廷を主宰した。

671年6月 壬申の乱が始まる。 

673年3月 即位 道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。

673 大海人は天智天皇の皇女の大江皇女を妃にする。

2019年11月24日 「マンロー医師 年譜 (増補版)」

またまた増補しました。

2008年に北海道大学で行われた慶應義塾大学准教授 岡本孝之氏の講演「マンローの考古学研究 ~横浜時代を中心に~」がPDFファイルで読めます。

非常に素晴らしい内容で、とくに桑原本を読んで釈然としなかったところがかなりスッキリしました。
なんとかマンロー像から谷崎文学的な匂いを一掃したいのですが…

ツチグモとクズ

むかしツチグモという人々がいて、短身長躯というから明らかな異人種で、おそらくは先住民。森に住んでいて渡来民とは交わらなかった。

景行天皇が九州 を親征した際に、朝廷軍に絶滅させられたことになっている。

大林太良さんという方の文章からの引用。

クニという言葉は、人間の文化的営為によって馴服された土地を指す。これに対し周囲の野性的世界はツチと呼ばれる。

クニに恭順する先住民は国栖、国巣と呼ばれ保護される。クニに恭順せぬ先住民はツチグモと呼ばれ討伐される。

それが討伐されたのは意外に遅く、九州では景行天皇の時代、おそらく4世紀の中頃に相当する。


ということで、

ツチグモ・クズと呼ばれた人々が縄文人の末裔であることは間違いない。


原弥生人は朝鮮半島で形成された?

そこで問題だが、

いわゆる弥生人というのは長江系の渡来人と縄文人がほぼハーフ&ハーフで混血したものである。この比率はミトコンドリアDNAでも維持されており、両者は征服・被征服の関係にあるのではない。

これは次のことを示唆しないだろうか。すなわち長江系と縄文系は、渡来する前にすでに混住混血を重ねていたのではないかということだ。

それが私の大八洲=金海説だ。紀元前20世紀ころ、喜界カルデラ噴火を生き延びた後期縄文人が、九州から渡海して朝鮮半島の南岸に植民した。

一方そこに山東半島を追われた長江人も合流し、稲作文明を開花させた。そのときに両者は出会い「原弥生人」が形成された

それが紀元前10世紀ころから逆植民が始まり、ほぼ弥生人と共通遺伝子を持つ人々が九州 の北岸に展開するようになった。

もちろん在来の縄文晩期人も大いに交わり、弥生人は縄文色を強くしたが、基本的骨格は変わらなかった。

純縄文人との棲み分け

しかし食料確保の手段、方法などにこだわる既存の縄文人は混住せずに棲み分けした。彼らは森や海岸での採集生活を続けた。

魏志倭人伝の「黥面文身」の異形の人々は、彼らの姿であろう。魏からやってきた人々は、朝鮮半島南部の人々を見て珍奇には思わず、むしろ秦の時代の亡命者と見て共感を抱くほどである。それが九州 に来て、弥生人を見て奇異の念を抱くとは思えない。

逆に言うと、純粋な縄文の暮らしや習慣は、当時でさえも辺縁的な存在になっていたことを示しているのではないか。

高天原の天孫系の来襲とツチグモの駆逐

そこにおそらく紀元前1世紀ころ、朝鮮北部から高天原の天孫族系がやってきた。彼らは半島南岸の弥生人コロニーを征服した後、海を渡り、日本の支配権をも要求するようになった。

彼らは弥生人社会を支配したが、当初は縄文人社会は無視した。しかし人口爆発が起き農地が必要になるに連れ、彼らの土地も収奪の対象となった。

天孫族に従ったものは、土地を割譲するのと引き換えに生業の維持を許された。そうでないものは抹殺された。

おそらくこれが日本人の形成過程の概略であろう。

ドクター・マンローの人生をどう見て、どう描くか

この2ヶ月半ほどはマンローの年譜づくりに夢中だった。
と言っても、年譜はすでに3つほどある。
一つはほぼ唯一と言っていい「マンロー伝」を書き残した桑原千代子の作成したもの。
一つは、残念ながら未完のまま終わった谷万吉らの年譜である。
そしてもう一つが、沙流川歴史館年報に掲載された、詳細な年譜である。この作成には佐倉の歴博が絡んでいるのかも知れないが、詳細は不明だ。
それぞれにソースが異なり、私はそれらを突き合わせた。かなりわからないところもあるが、わからないところが分かったということは前進であろう。
その他、最近になって英国にあってマンローの研究に指導・助言を与えたセリグマンという学者に送った手紙が公開されているようだ。その一部が紹介されている。
一番、彼の思想を知る上で重要と思われる、いくつかの哲学的エッセーがある。目下のところ、その題名を知ることができるのみで、内容が分からない。前後の事情から類推するのみである。

率直に言えば、桑原さんの伝記は史料として貴重なものであるが、マンローという人物を知る上ではかなり不満が残る。

私の目下の感想としては、彼の最大の功績はその晩期にある。まず何よりも“彼がそうやって生きた”ことに我々は感動する。
もちろんその間に文字通り地を這うようにして収集した民俗学的情報は、おそらくアイヌ研究における金字塔となるであろう。
しかし“彼がそうやって生きた”ことの意味が持つ普遍性に比べれば、学術的な意義はかすんでしまうほどだ。

ということで、医者でもある私に最もふさわしい仕事は彼の気持ちを想像しながら、その生きた道を物語ることだろう。

若い頃、「ドクトル・マンボウ航海記」という小説があった。北杜夫の書いたもので、卒業後なんとなく現実逃避みたいにして船医になる。そして世界を漫遊するという設定だった。
マンローは逃避どころか、まっしぐらに人類学の旅に突っ込んでいったので、そのへんは少し違う。しかしスタイルとしては、何となくそれでいいかなと思う。
つまり一人称に近い形でマンローに寄り添い、彼が何かをしたとき実は何をしたかったのかを忖度しならお付き合いするという文体が、マンローを表現するのには最もふさわしいのではないかと思う。

そんなことで、まずは始めて見ますか。


マンローの主張の中で最も議論を読んだのが「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)だ。

これは1917年(大正6)に日本亜細亜協会で講演した中身で。日本の起源問題をイギリスのドルメン文化と関連付けて論じたものだ。

これに対し日本側から鳥居龍蔵、梅原末治などが反論し、かなり大規模な論争になったらしい。

そもそものきっかけは、明治19年に渡瀬荘三郎が後志の「環滞石籬(り)」について東京人類学会報告で発表したことに端を発する。

えらく難しい言葉を作り出したものだが、これは忍路郡忍路村の三笠山にあるストーン・サークルをさしている。

我らがマンローは、この遺跡がえらく気に入ったらしい。明治36年と翌年に二度にわたって現地調査している。

なぜ気に入ったかと言うと、似たようなストーン・ヘンジがイギリスにもあるからである。

マンローはこのストーン・サークルを、石器時代人が夜間に天体観測をした場所であると考えた。イギリスのストーン・ヘンジもそのように考えていたからである。

しかし、この考えには素人目に見てもかなりの無理があろうかと思う。

まず、これらの巨石文化というのはおよそ未開人種の間ではほぼ普遍的に見られるものではないかという疑問である。

だから、それぞれの巨石群の成り立ちや構成を具体的に調査・分析して個別の特徴をもっとあぶり出す必要があるだろう。

つぎにそれらの個別的特徴をふるいにかけていくつかの類型に区分けしていく作業が必要である。

そんなことは、マンローのほうがはるかに良く分かっているはずだ。

むしろマンローは話を面白くするために、話をふっかけたのかとも思える。

日本のストーンサークルは北方型と南方型に分かれる。

南方型のストーンサークルは九州に分布し、渡来系文化と平仄を合わせているようだ。こちらはとりあえず置いておく。

北方型についてだが、これも北方型としてはまとめにくいらしい。

駒井和愛は北海道のストーン・サークルの形態だけを整理して、(1)ストーン・サークル(2)環状列石墓(3)立石構造に分けている。

この内、狭義のストーンサークル(忍路型)について、鳥井龍蔵はツングース族の流れをくむものと考えている。

ただ今日では、縄文人はツングース族より古くから日本列島に分布していたことがはっきりしている。

彼ら旧石器人は、かつて氷河期の頃にマンモスを追って樺太から北海道へと渡ってきた民であるから、ツングースやギリヤークと類似の文化を共有していた可能性はあると思う。マンローの主張の中で最も議論を読んだのが「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)だ。

これは1917年(大正6)に日本亜細亜協会で講演した中身で。日本の起源問題をイギリスのドルメン文化と関連付けて論じたものだ。

これに対し日本側から鳥居龍蔵、梅原末治などが反論し、かなり大規模な論争になったらしい。

そもそものきっかけは、明治19年に渡瀬荘三郎が後志の「環滞石籬(り)」について東京人類学会報告で発表したことに端を発する。

えらく難しい言葉を作り出したものだが、これは忍路郡忍路村の三笠山にあるストーン・サークルをさしている。

我らがマンローは、この遺跡がえらく気に入ったらしい。明治36年と翌年に二度にわたって現地調査している。

なぜ気に入ったかと言うと、似たようなストーン・ヘンジがイギリスにもあるからである。

マンローはこのストーン・サークルを、石器時代人が夜間に天体観測をした場所であると考えた。イギリスのストーン・ヘンジもそのように考えていたからである。

しかし、この考えには素人目に見てもかなりの無理があろうかと思う。

まず、これらの巨石文化というのはおよそ未開人種の間ではほぼ普遍的に見られるものではないかという疑問である。

だから、それぞれの巨石群の成り立ちや構成を具体的に調査・分析して個別の特徴をもっとあぶり出す必要があるだろう。

つぎにそれらの個別的特徴をふるいにかけていくつかの類型に区分けしていく作業が必要である。

そんなことは、マンローのほうがはるかに良く分かっているはずだ。

むしろマンローは話を面白くするために、話をふっかけたのかとも思える。

日本のストーンサークルは北方型と南方型に分かれる。

南方型のストーンサークルは九州に分布し、渡来系文化と平仄を合わせているようだ。こちらはとりあえず置いておく。

北方型についてだが、これも北方型としてはまとめにくいらしい。

駒井和愛は北海道のストーン・サークルの形態だけを整理して、(1)ストーン・サークル(2)環状列石墓(3)立石構造に分けている。

この内、狭義のストーンサークル(忍路型)について、鳥井龍蔵はツングース族の流れをくむものと考えている。

ただ今日では、DNA解析により、縄文人(の祖先となる旧石器人)は、ツングース族より古くから日本列島に分布していたことがはっきりしている。

彼ら旧石器人は、かつて氷河期の頃にマンモスを追って樺太から北海道へと渡ってきた民であるから、ツングースやギリヤークと類似の文化(細石刃文化)を共有していた可能性はあると思う。

一方、東北のストーンサークルを研究してきた大場磐雄は、大湯の例を挙げて祭祀場説を主張した。

これはこれであるのだろう。

何れにせよ「ストーンサークル=なんとか」みたいな決め方をせず、慎重に議論を進めなければならない、というのが現在の議論の趨勢ではないだろうか。


一方、東北のストーンサークルを研究してきた大場磐雄は、大湯の例を挙げて祭祀場説を主張した。

これはこれであるのだろう。

何れにせよ「ストーンサークル=なんとか」みたいな決め方をせず、慎重に議論を進めなければならない、というのが現在の議論の趨勢ではないだろうか。

マンローは時に議論を急ぎすぎるきらいがある。


函館市史のうち

巨石文化

渡島半島のストーン・サークル

函館のストーン・サークル

を参考にしました

旭川博物館の展示物紹介

2ヶ月ほど前に旭川博物館に行ってきた。買ったばかりのファーウェイのスマートフォンが威力を発揮した。
とにかくフォーカス不要、明るさ調整も不要、近くに寄ればパッとマクロになる。
何よりもありがたいのは手ぶれ防止だ。片手どりOKになると、俄然カメラ位置が広く取れるようになる。つま先立ちして手を思い切り伸ばしてカシャッということも可能だ。
展示物の撮影の苦労は、とにかくガラスの映り込み、展示パネルの照り返しをいかに排除するかにある。
函館出土の土偶
            函館出土の土偶(笑顔が素敵だ)
これだけの高機能カメラなら、電話機能もネット機能も何もなくても10万円の価値がある。おそらくカメラ屋さんはバッタバッタと倒産するのではないだろうか。

そんなわけで一部を紹介する。

「アイヌ民族」の成立過程

展示資料の中でも圧倒的なのが「縄文からアイヌへ」と題されたパネルである。
文化圏とヒトの形質を図示したものだが、文化と形質の間に微妙な乖離がある。
この乖離を理論化したのが瀬川史学の精髄だ。(瀬川拓郎さんはこの博物館の前館長)

1.縄文晩期
縄文からアイヌへ1

縄文人による縄文文化が全国を風靡していた。

2.続縄文前期

宮城・山形ラインまでは縄文人社会が続いたが、その南には渡来人と縄文人の混血した弥生人が北上してきていた。

さらに稲作の北限は津軽海峡までやってきていた。これに伴い弥生文化圏も本州北限まで達した。

すなわち形質的には縄文人だが文化的には弥生人という集団が誕生した。

3.続縄文後期

寒波が襲来し、稲作の北限は宮城まで後退した。

北海道まで退いた続縄文文化はふたたび秋田・岩手の南端まで広がった。一方で弥生文化→古墳文化も残されたため、青森・岩手・秋田の3県は両文化の混在地帯となった。

それにも拘らず弥生文化→古墳文化の北上は進み、山形・宮城のほぼ全域が弥生人の支配下に入った。

一方サハリンからはニブフが南下し、海岸沿いにコロニーを形成した。

4.擦文文化成立期
縄文からアイヌへ2

本州中部以南では飛鳥時代の始まりに当たる。
阿倍比羅夫~坂上田村麿の北伐が本格化する。

この時期、境界は最も輻輳したものとなる。最も一貫した傾向は大和朝廷の北進であるが、その勢いはそれほど強くない。これは縄文人が強く抵抗したためかもしれない。

ヒト形質から見ると秋田と岩手南部が弥生系→大和系となり、北海道の北半分はオホーツク文化を担うニブフ人が縄文人と混住した。縄文人は擦文文化をにない、津軽・渡島を中心に分布するようになる。

文化的には、稲作の目立った北進はないが、雑穀(粟)の農耕を開始していた。縄文人の多くは土師器を受容するようになり、弥生文化→大和文化に包摂されるようになる。

5.擦文文化確立期

大和政権で言うと平安時代以降に相当する。
この時期、縄文人は2つに分裂する。
本州に残った縄文人は、稲作を基調とする大和文化を全面的に受け入れ、固有言語を放棄し同化した。

同時に全面的に大和に従属しつつ、そこで培った力を北に向けた。彼らはバイリンガルだったであろう。

そして大和政権の目下の同盟者として、北海道の縄文人に対し優位に立ち、北への進出を加速したのではないか。
アイヌの北方進出
         後段は少し過大評価の感もあるが…
北海道の縄文人はオホーツク人を北海道から駆逐し、縄文語をしゃべる縄文人の土地とした。この過程でオホーツク文化を包摂し、人種的にも混合した。これがアイヌ人である。

DNA的には4分の1(ミトコンドリアDNAの約半分)がオホーツク系と考えられる。本州に残留し大和人と交配した縄文人とは外見上もかなり異なる形質を有するに至った。

6.アイヌ文化成立期

地図は単純化した。形質を問題にしなければ、内地の縄文人は和人となり、北海道の縄文人はアイヌとなった。

アイヌは宗谷海峡を超え樺太南部まで分布した。彼らは狩猟・漁労のかたわら大陸との交易にも乗り出した。

彼らは遅れていたために農業を営まなかったのではなく、狩猟に特化したと考えられる。

7.結論

結論というか、私の感想です。

①アイヌ人は縄文の血を色濃く残す民族である。

②アイヌ人はニブフや千島系の「オホーツク人」の血と文化を受け継いでいる。

③アイヌ人は狩猟・漁撈を生業として特化した民族である。

④アイヌ人は大和人との交流の中で発展した。(しかしそれは従属的なものであった)
助命を乞う蝦夷


下記はバチェラー年譜においてあったものを別記事としてあげたものである。一記事としてはまだ完成しているとは言えないが、素通りするにも痛ましいので記事として起こす。



イサベラ・バードの北海道の旅 とりあえずここに突っ込んでおくが、膨らんでくるようなら別途記事を起こす。「イザベラ・バードの道」を現代に活かす に詳細な論究あり。
「イザベラ・バードはなぜ平取をめざしたのか」では、平取詣での理由が下記のごとく説明されており、納得がいく。

ダーウィンが『種の起源』で進化論を発表した影響で、欧米の人類学者の間で「容貌がまるでヨーロッパ人のようだ」と日本の先住民族アイヌへの関心が高まった。当時英語で表記された地図では北海道の東部や北部は描かれておらず、「平取」が北海道の最深部と思われた。それで桃源郷のように扱われたのではないか。

ただここには書かれていないが、デニング牧師の影響を無視するわけには行かないと思う。

5月 イザベラ・バードが横浜に入る。3週間の準備の後、東北北海道旅行に出発。


8月12日 イザベラ・バードが函館に上陸。聖公会のデニング夫妻の歓迎を受ける。デニングは3年前に平取を訪問しており土地勘はあった。

8月 シーボルトJrが平取を訪問。現地でイザベラと顔を合わす。

8月23日 イザベラ・バード平取に到達。義経神社近くの平取アイヌの首長・平村ペンリウク宅に4日間滞在する。義経神社は二風谷より下流の平取本町にある。当時はアイヌ人専用の神社だったらしい。

通訳兼案内人の日本人伊藤某は「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただの犬です。人間ではありません」と断言した。


9月12日 イザベラ・バード、函館に戻る

バードは、「アイヌは純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対して思いやりがあると賞賛。

またペンリウクが伝道師デニングを批判した言葉も記録している。

もしあなたを造った神が私たちをも造ったのならば、どうしてあなたはそんなに金持ちで,私たちはこんなに貧乏なのですか

また、アイヌの飲酒の習慣についても同情的な眼差しを送っている。

泥酔こそは,彼らの最高の幸福である。「神々のために飲む」と信じる彼らにとって,泥酔状態は神聖なものである。

izaberaha-toryotei

医師マンローについて文献を集めていますが、その経過についての報告です。


1.道庁職員 谷万吉との往復書簡

往復書簡集は
北大に保管されているらしいが、目下アクセスの方法は不明。

最も重要な書簡は36年12月の谷宛書簡
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。
二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密集して住んでいるので調査の能率が上がるというのが一番だが、風景が美しいというのも大きい。それを30年に4ヶ月暮らしてみて実感した。

「(谷が)二谷文次郎氏の案内で,自転車で二風谷のマンロー館を訪ね
たのがマンローとの交際の始まりであり,昭和年()のことである。以
来マンローが次第に苦境に陥って行くのを支え,亡くなるまで,この人ほど惜
しみなく助力し,公私にわたって誠心誠意尽くした人は他にあるまい。マンロ
ーは谷氏を何より力と頼み,頼りにし,誰よりも信頼して心打ち明ける手紙を
何通も書いた」
伸顕「アイヌ民族と2人の英国人」より

なお谷万吉は戦後に「ニール・ゴードン・マンロー博士年譜(未定稿)」 1
という資料を編集しているらしい。

谷 万吉, 小山 政弘∥編 北海道史研究会 1975-1976
『北海道史研究』第9号、第10号 抜萃
ということで、明日もう一度図書館に行ってみようと思う。

後日談: 大麻の道立図書館内「北方資料室」に年譜1,2の別刷りが献呈されています。ただ基本的にはすでに組み込み済みでした。

谷万吉には「二風谷コタンのマンロー先生」『赤れんが』第 48 ~ 50 号(1977 年),第 51・53 号(1978 年)という文章もある。
「赤レンガ」という雑誌は自治労傘下の「全道庁」組合の機関誌かもしれません。これもネットでは探せません。


2.セリグマンとの往復書簡

そのセリグマンとの書簡も残されている。

31年2月に書かれた手紙

アイヌの研究は書籍としてまとめたい。その際の項目は以下のようになるだろう。
①アイヌの家屋について
②アイヌの宗教の特徴
③中心的祭礼としてのイヨマンテ
④妊娠と分娩にまつわる習慣
⑤病気と治療、呪術、薬草など
⑥イム(憑依)とトゥス(シャーマン)と精神分析
⑦踊り

谷への書簡が書かれる1ヶ月前の36年11月にも、セリグマンあての手紙が書かれている。
いま、19章からなる本を構想している。5年前から内容が深化した。序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」が付け加えられた。

38年7月に書かれたセリグマンあての書簡でも、このことは繰り返されている。
「詳細で真実な情報を! というのが私の欲求です」(真実は細部に宿るということか?)

しかし、「Ainu Creed and Cult」として出版されたとき、この2章はカットされた。マンローがつけた表題「Ainu Past and Present」は採用されずに終わった。
セリグマンの妻で編集者であるブレンダは、テーマの社会的広がりを好まなかった。彼女はこの本を文化的な枠に押し込めておこうとしたと考えられる。

3.容易ならざる手紙

内田さんが紹介した手紙の中にはかなり悲惨なものも混じっている。

38年のセリグマンあての手紙では、生活困窮が訴えられている。アイヌ研究の必需品である撮影用カメラも売却した。相当の値段で売れたらしい。
二風谷の自宅も売却する方向で検討していたようだ。

にも拘らず、「詳細で真実な情報を!」とさらに意気軒昂であったのだ。齢70歳にして何たるど根性か。


4.横浜開港資料館「開港のひろば」


という記事がある。
これにより以下の事実が確定

マンローは1890年にはイギリスの汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社のアンコナ号で船医を務めていた。アンコナ号は、当時香港―横浜間を2週間に1度行き来していた。したがってマンローは、船医として横浜に何度も寄港していたと考えられる。

自著によれば、インド滞在中に執筆したものをまとめて1890年に日本で小冊子を出版した、とある。これがもし性格なら、90年の横浜寄港時に出版に回した可能性がある。

1891年5月12日に香港から到着したオセアニック号の船客の中にDr. Munroの名前あり。

1905年に、マンローが三ツ沢貝塚(神奈川区)を発掘。


5.木村チヨとの三角関係

もう少し詳しい経過が分かった。どうでも良い週刊誌ネタではあるが、「真実は細部に宿る」のだから、ここは我慢。

21年(大正10)7月 それまで毎年避暑に通っていた軽井沢に、「マンロー医院」を開業した。10月までの季節限定で、外国人避暑客を対象とした施設。これに合わせ神戸から木村チヨが引き抜かれ着任した。(誰が引き抜いたのだろう?)

24年(大正13)3月 マンローと木村婦長の恋愛問題に悩んだアデール夫人は、神経衰弱に陥る。かねてフロイトの精神分析に傾倒していたマンローは、アデールを強引にウィーンに赴かせる。

25年(大正14) 「マンロー医院」を母体に「軽井沢サナトリウム」が発足。通年マンローが診療を行う。7~9月は外国人の組織した「軽井沢避暑団」が経営母体となる。

この間に関東大震災が挟まる。

それでどうなるかは、年表の方をご覧うじろ。

6.慶応大学岡本孝之さんの講義

2008年に北海道大学で行われた慶應義塾大学准教授 岡本孝之氏の講演「マンローの考古学研究 ~横浜時代を中心に~」がPDFファイルで読めます。

非常に素晴らしい内容で、とくに桑原本を読んで釈然としなかったところがかなりスッキリしました。
なんとかマンロー像から谷崎文学的な匂いを一掃したいのですが…

なお岡本さんには「横浜のマンロー」岡本孝之 「考古かながわ」2004年12月号
という文章もあります。ネットで参照可能です。


7.桑原千代子『わがマンロー伝-ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』


1983 年に新宿書房から出された単行本で、身近な人が丹念に事実を調べており、その迫力は圧倒的です。しかし贔屓の引き倒し的なところがあり、細かなところで違和感を感じます。

また記載がトリビアルで、発掘調査の内容や意義、数多く書かれた文章についての論究はほとんど見られません。いうなれば「裏から見たマンロー」です。そうなると天邪鬼なもので、どうしても表から見てみたくなるのです。

8.内田順子さんのレポート
昨日、歴史館に二度目の訪問をしまして、素晴らしい資料を見つけました
歴史館年報
内田順子さんという方の講義録「二風谷におけるマンロー: 最新の調査からわかったこと」が載っています。
実は、全20ページもあってその場で読む暇はありませんでした。これから道立図書館で探そうと思っているところです。とても詳しい年表が付録でついていたので、それだけ参考にさせてもらいました。

上記記述の続きです。

本日、内田さんの講義録を閲覧しました。
「沙流川歴史館年報」の第13号です。札幌では、道立図書館に付設した北海道歴史資料室で閲覧が可能です。

講義はもっぱら、映像のデジタル化に伴う諸作業の紹介ですが、自筆書簡からの引用が非常にためになりました。

その主要部分をかなり年譜に取り込みました。結果的にはさらにかなり分厚くなっています。

なおこの「年報」に折込でついていた年表は内田さんの作成したものではなく、この年行われた「マンロー展」に合わせて館が独自に編集・作成したもののようです。

新たな増補分はすべて2019年11月24日 

に突っ込みました。ただすでにご覧の方には二度手間になるかもしれないので、増補分を下記に挙げておきます。


9.ネットで閲覧可能な主な文献


①平成17年度 国立歴史民俗博物館 民俗研究映像「AINU Past and Present-マンローのフィルムから見えてくるもの」:映画フィルムの資料批判的研究に関連する研究ノート    内田順子
PDFファイルのため直リンクは出来ない。検索窓に署名を入れてグーグルしてください。

② 伝統的知識の公開と「社会関係資本」としての活用 UKにあるマンロー書簡の社会ネットワーク分析を中心に
手塚 薫  国立歴史民俗博物館研究報告 第 168 集 2011 年 11 月
これも①と同じ方法で検索してください。

③ 鷹部屋福平はいろんな文献でくそ味噌に批判されているようですが、最晩年のマンローとおそらく英語での交友があり、あとのことを託されるほどの信頼を得ていました。

*鷹部屋福平「毛民青屋集」に基づいた1940年の二風谷村アイヌ集落に見られた建築物の実態
佐久間 学, 羽深 久
*鷹部屋福平の『橋のいろいろ』(1958 年 石崎書店)

これも未見です。図書館で探してみようかと思っています。

ONLINEジャーニー「アイヌと共に生きた男」これはおそらく桑原千代子の本を底本にしたものと思われます。

⑦手塚薫 2010「マンロー・谷往復書簡による社会ネットワークの復元とその活用」『年報 新人文学』7 : 216?263。
これも③と同じ手塚さんの文章です。まだ見つけていません。

⑧ラファエル・アバ 2005「ある外国人が見た日本列島の先史文化:N. G. MunroとPrehistoric Japan(1908年)」『北大史学』46 : 1?24。

英国の偉人の生涯をたどる『Great Britons』 - Onlineジャーニー
これもネットで参照できます。 

とりあえずこんなところです。

シャクシャイン像をめぐる経過

1970年9月15日  静内の真歌公園(シャクシャインのチャシ遺跡)に、立像が建立される。主体は任意団体「シャクシャイン顕彰会」で、有志の寄付により制作された。

彫刻家竹中敏洋がデザインしたもので、強化プラスチック製の立像。高さ3.5mで、杖の先までの長さは4.2mあった。
下の写真は
新ひだかアイヌ協会
より転載。

旧シャクシャイン像
1972年9月20日、結城庄司ら5人がシャクシャイン像の台座に刻まれていた町村金五知事の名を削り取る。犯行には新左翼の太田竜や足立正生・新谷行も加わっていた。

1972年9月30日 児童書「明日に向かって アイヌの人びとは訴える」が発刊される。
松前藩への怒りを表した姿ではなく、「風をはらんだカッコロ(マント)を背に、エクンネクワ(山杖)を右手にかざし、神の祈りを聞くシャクシャインの姿」を表現したものです。
1976年 シャクシャイン顕彰会、維持や管理の問題などから静内町に寄贈。

1988年 北海道ウタリ協会(現在は北海道アイヌ協会)は、「アイヌ新法」制定を政府や各党に求めるための決起集会をここで開催。

2007年 「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択される。これに基づき国連の監視機関から日本政府に新たな改善勧告。

2002年 竹中敏洋が死亡。70歳。像のマザーは残されており、再建は困難ではない。

2010年 修復の手が加わることは一度もなく、損傷が強まる。顕彰会有志が町に修繕を提案。町側の反応無し。

2013年 第67回シャクシャイン法要祭。主催者はアイヌ団結の拠り所としてのシャクシャイン像の意義を強調。

2015年 

12月 新ひだかアイヌ協会(大川会長)が像の建て替えを決定する。ひび割れがひどくなるなど老朽化が理由とされる。協会は、アイヌ新法検討を踏まえ、“穏やかな表情”の新像を発注する。「いまはアイヌ民族と和人が共存する時代になった」としてデザインの変更も視野に入れる。
予算は数千万円程度を見込み、協会をNPO法人化し寄付を募ることとなる。

従来の像の存置を主張するシャクシャイン顕彰会はこれに反対。いったんは旧像を残したまま新像も立てることになる。

2018年

9月20日に新ひだか町は「老朽化が進み、倒壊の恐れがあり危険」として旧像を撤去した。
重機によってバラバラにされた旧像は産廃扱いで最終処分場に送られた(北方ジャーナル)
顕彰会の会長は「取り壊して撤去するぐらいなら、台座から切り離してこちらに渡してほしいと頼んだのですが、町の答えはノーでした」と語る(北方ジャーナル)
9月23日 新しいシャクシャイン像がお披露目された。
新ひだかアイヌ協会の会長が挨拶。「新しい像は、戦いをよびかけるのではなく、平和と共生を祈る姿に変わった。この像がアイヌ民族の象徴だと思う」
北海道アイヌ協会理事長はアイヌ政策を進めている政府に感謝する挨拶。

10月28日 旧像存続を訴えていた顕彰会会員たちがイチャルパ(慰霊の儀式)を行う。

シャクシャイン顕彰会は旧像の撤去を「納得いかない」として、旧像の型枠を用いた独自の再建計画を立てる。町に土地の使用許可を求めているが、国指定の史跡内のため協議は進んでいない。

2019年

9月 新ひだかアイヌ協会の慰霊祭。会長挨拶「シャクシャインは無念の最期を遂げたが、今は共存の時代となった」と強調。

10月20日 旧像前で「静内アイヌ協会」が法要祭。道議や町議ら関係者約50人が出席。

写真家・及川修さんのブログより拝借しました。素晴らしい写真です。見られないままに終わってしまい、惜しいことをしました。
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旧像撤去の経過については下記の記事が詳しい。

平田剛士|2018年11月21日

「北方ジャーナル」新ひだか町発・新しい「アイヌの英傑像」に噴き出す批判【その2】
シャクシャイン像の喪失を生んだ行政の怠慢と責任

ネット上で集められる情報の範囲内だが、次のことが言えるようだ。
1.旧シャクシャイン像は、70年代~80年代のアイヌ民族運動の高揚に際し、一種のシンボルとしての意義が付与されたようだ。
2.それに比例するかのように、静内町側には、旧シャクシャイン像に対し不快感が鬱積していたようだ。撤去に際しての悪意溢れる対応はそのことを示している。
3.しかしシャクシャイン像自体は一種の観光資源でもあり、90年代に入って国際的にもアイヌ問題が注目され、それに対応して政府の「箱もの対応」も強まったことから、見かけ上は尊重する姿勢を取らざるを得なかった。
4.この矛盾が、76年の買取り後の像に対する40年にわたる「ネグレクト」として結果した。像の劣化をもたらした原因は風雨ではなく、一日も早く像が朽ち果てることを待ち望む行政の姿勢であった。
5.そして40年が経ち、像は危険形造物となった。町は建て替えを勧めたのではないか。アイヌ協会を前面に立てて、表面上はNPOを立ち上げ寄付金で賄うことにしつつ、あの不愉快な旧シャクシャイン像を消し去ろうということであろう。(決算報告が残っていれば財源の内訳は判定可能であろう)
6.どちらがイデオロギー的対応かと言うと、間違いなく町の側である。アイヌ民族はシャクシャインの戦いを民族の誇りと考えている。だからそれを顕彰するなと言うのは、きわめてイデオロギー的な対応だ。


2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。


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             晩年のマンロー

1863年

6月16日 スコットランドのダンディー(Dundee)に、開業医ロバートマンローの長男として生まれる。一族はスコットランドでは名家のひとつで、祖先は14世紀まで辿ることが可能。

1865年 イギリスの箱館領事館館員のアイヌ墳墓盗掘事件が発覚。横浜の大使館に居た医師ウィリスの要望に基づくものとの説もある。ウィリスもエジンバラ大学卒業。

1869年 英国大使の要望により、外人患者用用地として山手居留地の一部(1千坪)が有償貸与される。(「横浜市史」では1878年とされる。

1876年 コナン・ドイル、エジンバラ大学医学部に進学

1877年(明治10) アメリカ人生物学者エドワード・モース、横浜から東京に向かう汽車の車窓から大森貝塚を発見。発掘に取り組んだ学生グループから人類学研究者が輩出される。

1879年 

5月 モースが鹿児島に考古学の調査に入る。

79年マンロー、エジンバラ大学医学部に入学。1888年まで10年にわたり在籍。

1882年 エジンバラ大学医学部の先輩ダーウィンが死去。ダーウィンも医学を学ぶが、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗ったといわれる。「種の起源」(進化論)の発表されたのは59年。

1883年 マンロー、考古学・人類学に興味を持ち、テームズ川の河岸段丘で旧石器の発掘作業に加わる。

1886年 チェンバレン、東京大学のお雇い教師として来日。直後よりアイヌに興味を持ち、北海道でバチェラーのもとに一ヶ月程滞在。アイヌの調査やアイヌ語の研究を行う。

1886年 渡瀬庄三郎がコロポックル先住説を展開。これを白井光太郎が批判。

1887年 マンロー、病気療養のため大学を休学。その間チュニジア・イタリアなどを旅行。

2月 坪井正五郎、『東京人類学報告』第12号に『コロボックル北海道に住みしなるべし』を掲載。白井の批判に逐条反論を行う。これに対し小金井良精・マンローらはアイヌ先住説を唱え論争となる。

8月 坪井正五郎、埼玉県吉見の横穴(吉見百穴)を調査。コロポックルが住んでいたと主張。今日では墳墓説で確定したが、坪井は最後まで自説を曲げなかった。

1888年 25歳で大学を卒業。出席日数の不足のため学位(MD)はとれず。「医学士」(MB)および「外科修士」の資格を得る。

88年 スコットランドを離れる。ペニンシュラ&オリエンタル汽船会社と契約し、インド航路の船医となる。
“マンローは多くのスコットランド人がそうであるように、その放浪癖によって外国旅行を重ねた”(トムリン)

88年(明治21) イギリス留学から帰った坪井正五郎、解剖学教室の小金井良精らを中心に東京人類学会設立。翌年には合同で北海道へ調査旅行。小金井はその後も、渡道を繰り返す。

1889年 インド各地を旅行し発掘調査に関わる。父ロバート(56歳)が没するが、国に戻らず。

1890年 マンロー、灼熱のインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船「アンコナ号」(P&O社)の船医になる。
後に妻チヨに当時の模様を語っている。
英国人はインドでも香港 でも現地の人々を激しく差別していた。さらにインド国内のカースト制による激しい階級差別も併存していた。

90年 インド滞在中に執筆した哲学に関するパンフレット「精神の物質的基本性質とさらなる進化」を寄港先の横浜で刊行。
アンコナ号は、当時香港-横浜間を2週間に1度行き来していた。したがってマンローは横浜に定着する前に、船医として横浜に何度も寄港していたと考えられる。

1891年(明治24)

5月12日 病気療養のためP&O汽船会社を辞職。オキシデンタル&オリエンタル汽船会社の「オセアニック号」で渡日。そのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。チヨによれば入院は年余に及んだと言う。

8月 33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワがインドネシアで原始人類の骨を発掘。「ジャワ原人」(ピテカントロプス・エレクトゥス)と名付けられる。

1892年 マンロー、退院した後横浜市内の自宅で開業。(病気治癒後、入院先の横浜ゼネラルホスピタルにそのまま勤務:桑原)

来日後の数年間、マンローの足取りははっきりと掴めていなかったが、岡本らの研究で明らかになってきた。本年譜ではその所説を尊重する。桑原らによる従来説は別記する。

92年 ロシア人研究者シュテルンベルグが『サハリン・ニブフのクマ送り』を報告。イヨマンテはアイヌ古来の伝統ではなく、ニブフ(ギリヤーク)からの引き継ぎではないかと示唆する。

1893 年(明治26) マンロー、一般病院の第8代院長に就任。ただしこれは一般病院の「名誉碑」の記載であり、事実とは異なる可能性が高い。

ゼネラルホスピタルは「総合病院」の意味だが、市民は「一般病院」と呼び習わした。マンローは考古学に熱中し休職多く、前院長がその間引き続き代行したという。

1894年(31歳) 日清戦争に日本軍従軍医師として従軍を志願。外国国籍のため却下。

1895年(33歳) 横浜のドイツ人貿易商「レッツ商会」の娘アデレー・マリー・ジョセフィン・レッツ(19歳)と最初の結婚。

95年(明治28) 日本考古学会創立。マンローはこの頃から日本の遺跡に興味を持ち、勉強を開始したと語っている。

1897年 一般病院の外科担当医師となる。このときベルツが同院顧問医だたことから知り合う。ベルツを通じて発掘研究にふたたび興味を掻き立てられる(岡本)

また新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教関係者、岩波茂男、土井晩翠などとの交流もあったようだ。

6月 長男ロバートが誕生。レッツ家墓碑銘には記載あるが、マンローの戸籍には記載なし。

1898年(明治31) バチェラーの案内で最初の北海道旅行。白老のアイヌ村落を訪問(35歳)

8月 東大医学部教授のベルツが平取に入る。ブライアント看護婦に指導助言を行ったという。

1899年(明治32) 

1月 長男ロバートが死去。

4月 北海道旧土人保護法が制定される。実際にはアイヌ民族同化と資産収奪法であった。

7月 内務省、マンローに「医術開業免状」を交付。日本人の診療も可能となる。

1900年(明治33) 

11月 次男のイアンが誕生。

1900年頃 亜細亜協会主催のマンロー講演会。マンローは講演の中で「貞観(じょうかん)時代」を「テイカン」と誤読した。高畠トクはその誤りを英語で指摘した。直後、マンローは、高畠に秘書兼通訳になってほしいと申し出た。トクは快諾した。

トクは明治10年生で当時23歳。旧柳川藩江戸詰家老高畠由憲・ゆうの次女。実家は明治維新で零落し、横浜で女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた。

1902年 東大の御抱え教師チェンバレン、鶴見で大規模な発掘を行う。マンローと交際があり、影響を与えた可能性がある。

1903年(40歳) 

夏季 小樽市忍路の環状列石など道内各地を調査。(おそらく高畠とくが随行)

冬季 嫉妬したアデルは、実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。このパーティーにはトクも招待されていた。
アデレーは声楽とピアノの得意な令嬢で、発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローとは肌が合わなかった(いずれも桑原)

1904年

2月 日露戦争開始。

3月 マンローとベルツ、共同で根岸競馬場付近の「坂の台貝塚」を発掘。このとき41歳。

この発掘と、翌年の小田原、三ツ沢の3箇所の発掘は、経済的には大変な出費となった。マンローは個人開業して、膨大な費用を賄おうとした。(慶応大岡本孝之氏)
ゼネラルホスピタルの隣接地にメイプルズ・ホテルを開業。病院(サナトリウム)とホテルを兼ねた施設だったが、1年余りで閉鎖。経営失敗が夫婦不仲の原因となる(岡本)

4月 マンロー、ベルツと前後して二風谷を訪問。(谷の年表に記載なし)

9月 研究報告「日本の貨幣」(Coins of Japan)を英国で自費出版。古銭に関する英語入門書として好評を博す。横浜の好事家の集まり「横浜古泉会」が協力。
 
1905 年(明治38)

1月 東京人類学会に自薦入会。この頃学会内では、坪井と小金井らによるコロポックル論争が白熱していた。

2月 日本に帰化。 「満郎」家を創立。国内法上、日本で外国人同士が離婚するのは難しかったための「方便」とされる。

3月 日本人満郎として、アデレーと協議離婚。次男イアンは妻が引き取る(戸籍謄本にて確認)

5月25日 マンローが高畠とくと結婚。このときマンロー42歳、トク28歳。
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  高畠トクと娘 離婚直後のもの

初夏 箱根一帯で発掘作業に入る。早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。旧石器時代の遺物とみられるものを発見。(現在縄文時代と呼ばれている時代は、西欧の時代区分では旧石器時代に属する)

8 ふたたび早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。

秋 三ツ沢の丘陵地帯で縄文遺跡を発見。その後7ヶ月をかけて発掘調査。当時最新式と言われたトレンチ(塹壕)方式を採用。多量の貝層やそれに含まれる縄文土器・石器などを検出する。

桑原によれば、一つの縦穴住居跡よりほぼ完全な人骨群が発掘(こども1体、大人4体)された。マンローはこれを“アイノ頭蓋骨”と予想し、小金井に鑑定を依頼、合わせて発掘現場の検分を依頼する。小金井はこの人骨をアイヌ人に近縁のものと判断。

三ツ沢遺跡はその後も50年にわたり、日本人学者による調査が続けられた。主体は縄文中期から後期、一部弥生時代遺物も見つかっている。
人骨群は一つの住居跡に埋葬されていた。縄文時代の家族をうかがわせる。

12月 長女アヤメ(英名アイリス)が誕生。月数は多少合わない。

マンロー、遺跡発見の功を認められ、「王立アジア協会」の会員に推挙される。

ベルツ、東大での勤務を終えドイツに戻る。56歳

1906年(明治39)

2月 出産直後のトクを伴い、小樽・忍路のストーンサークルを実測調査する。おそらく縄文人骨の関連でアイヌに興味を持ったのだろう。地主の娘白井セイを通訳見習いとして連れ帰る。(セイは堂垣内元道知事の実母)

5月 人類学会の小金井良晴(解剖)がモンローのもとを訪れる。

7月 小金井良精らが、川崎の南加瀬貝塚の発掘調査。マンローもこれに参加。

マンローは一連の発掘報告の中で、層位的分析に基づいて縄文土器と弥生土器に年代的な差があり、縄文土器にも年代差があることを確認。

夏 この後さらに軽井沢古墳の調査を行う。軽井沢は信州ではなく横浜市西区南軽井沢の前方後円墳。

9月 「日本亜細亜協会誌」に、人骨の発見状況、頭蓋骨の計測所見を記載。いくつかの根拠を元にアイヌ人であると断定する。足立文太郎は、発見された人骨が南方x北方の混合種であると主張。

論文「日本の原始文化」(Primitive Culture in Japan)を「日本亜細亜協会誌」(Vol34-Pt2) に発表。南加瀬貝塚などの調査に基づき、弥生土器の年代評価を提起。


1907年 

6月~8月 東京人類学会雑誌に「後石器時代の頭蓋骨」、「アイヌ模様と石器時代模様」を相次いで発表。足立文太郎説に反論するなど旺盛に所説を展開。
マンローは縄文土器とアイヌ紋様の類似に注目し、アイヌこそ縄文人の子孫なのではないかと推定した。学会主流はマンローをアマチュア学者と断定し、その主張を無視した。

1908年(明治41) 

1月 マンロー、考古学研究の成果をまとめ、『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)を横浜で自費出版。長年にわたり、英語での概説書としては唯一のものであった。
先史時代の日本


















































2月 「考古界」誌第6、7篇に「環状石籬と古代建設物の方位」を連載。ストーンサークルについて論じる。イギリスのドルメンに倣い、天体観測施設であると主張。

4月 東大退官後帰国していたベルツが伊藤博文の要請で再び来日。大正天皇(このときは皇太子)の診察を行う。ベルツ、マンローは二人で関西旅行し共同調査を行った(桑原)
実際にはベルツは広島に行き、マンローは京都で分かれて飛鳥の石舞台など大和・河内の古墳を歴訪した(岡本)

5月 権威付けのためにM.D(医学博士)の肩書きが必要と痛感したマンローは、20年ぶりに帰国。母校のエディンバラ大で学位論文審査・口頭試問を受ける。学位論文は「日本のガンーその統計的検討」というほとんどでっち上げの論文だった。

7月 エディンバラ大で学位論文審査に合格。医学博士の学位を授与される(46歳)
その後、エディンバラ博物館の美術民俗学部門から正式な日本通信員に任命される。マンローはその後6年に渡り、アイヌ資料をふくむ考古学資料2000点以上をエディンバラに送り続けた。

7月 東京人類学雑誌268号に「コロポックルについて」が掲載される。坪井のコロボックル説を詳細に批判。石器、土器の使用はアイヌにも共通している。三ツ沢の縄文人骨がアイヌであることは確認された。

8月 ベルリン民族学博物館でトロイ遺跡出土物の計測に当たる。

10月 マンロー、「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。

10月 マンローの考古学研究状況が「Nature」誌に掲載される。


1909年(46歳)

2月 トク夫人と協議離婚。まもなくフランス人女性は帰国。この人を入れるとパートナーは5人。
桑原さんは、とくさんになじるかのような冷たい目を注ぐ。さすがにそれはお門違いでしょう。

ベ平連で有名となった高畠通敏は、トクの義理の孫(養子の子)に当たる。

5月 日本アジア協会例会で、「ヨーロッパの旧石器と日本の遺物」と題して講演。

北海道旅行。東釧路の武佐貝塚を調査し、春採コタンで熊祭を撮影。マンローは件の女性を連れ歩き横浜に戻るとそのまま送り返した(桑原)

1910年(明治43)

5月 日本アジア協会例会で、「いくつかの故物と遺物」(Some Origins and Survivals)と題して講演。

5月 「大逆事件」フレームアップが開始される。

6月 「佐倉義民伝」を見た感激そのままに戯曲「宗五郎、その偉大なる愛」(Sogoro or Greater Love)を自費出版。上演されたかどうかは不明。

8月 日韓併合。

この頃からアイヌが日本の先住民という主張は姿を消し、アイヌ人に関する民俗学的研究に比重が遷る。桑原は、背景に大逆事件があったのではないかと考えている。

1911年(48歳)

1月 「先史時代の日本」第二版を自費出版。エディンバラでも発売される。「いくつかの故物と遺物」を論文として発表。

母死亡。帰国せず。

この頃、生活は極度の混乱。身の回りの世話をする小間使いと運転手を連れて、横浜市内で転々と住所を変える。

1912年(明治45・大正1年)

夏 長野県の2つの遺跡(茂沢、宮平)で調査に従事。

1913年

8月 ベルツがドイツで死去。マンローに考古学研究費として3千円を遺贈する。

12月 東京人類学会の坪井会長がペテルブルクで客死。マンローは「坪井教授の業績」を人類学会雑誌に寄稿。

この年、北海道を大凶作が襲う。

1914年(51歳) 

10月 在日スイス人貿易商で富豪のファヴルブラントの娘アデル(33歳)と3度目の結婚。アデルの母は日本人。
ファブルブラント(James Favre-Brandt)はマンローに対し強い警戒心を持っていたが、すでに1年前から事実婚となっていたため承諾せざるを得なかった。

マンローは病院を3年間休職し、アデルとともに沖縄・九州 を旅行。鹿児島を中心に各地で発掘調査に携わる。これらはすべて親友の大山柏公爵の手配によるもの。

10 月 マンロー、鹿児島に滞在し発掘調査。垂水市柊原(くぬぎばる)の貝塚から「中間土器」を発見。

この年発行の「現代の横浜」によれば、当時の一般病院の院長はウィラーとなっている。留守中の院長職をウィラー前院長が代行したためである。

この年、第一次世界大戦が始まる。

1915年(大正4)

4月 考古学雑誌に「太古の大和民族と土蜘蛛」を発表。鹿児島での調査活動の成果となる。

マンローは土器の文様を主要な根拠にし、沖縄も含む九州全土の先住民はアイヌであると主張。後に進出した大和民族に追われ、周辺地に居住したことからツチグモと呼ばれるようになったと判断。また大和民族(南方由来)の象徴として中間土器(弥生土器)を特徴づけ、先住民(北方由来)のアイヌ文様と対比する。その他、熊襲や隼人にも先住民族として関心を寄せる。

9月 休暇2年目は北海道東部を訪れる。アデル夫人、写真技師ミッドワールを同伴する。釧路市内・春採のアイヌコタンを訪問し熊送りを体験。記録をとり写真に収める。また近隣(釧路公園付近)の発掘調査に当たる。
①98年、②09年夏と、マンローは3度も春採のイヨマンテを見たことになる。しかし98年はそもそも行っていない、誤記と思う。09年もトクとの離婚直後で行ける可能性は低い。

12月 亜細亜協会副会長に就任。

この年 北海道で冷害→飢饉となる。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛めたという。

1916年 

4月 釧路での体験と記録に基き、亜細亜協会で「イヨマンテ」について講演。英字新聞 The Japan Advertiser に要旨が掲載される。

5月 休暇3年目はふたたび北海道に入る。アデル夫人、写真技師ミッドワールにコック夫妻が同行。今度は白老に2ヶ月ほど滞在。木材倉庫を改造して借り、アイヌの無償診察と並行しながら研究を始める。この間に、研究の比重は考古学から生きた人間をあつかう民族学へと移っていく。

当初の人類学の範疇は大幅に広がり、大まかに言って形質人類学、民族学、考古学へと分かれていく。このうち民族学は民俗学、あるいは文化人類学とも呼ばれるようになる。マンローの当初目的は日本人のアイヌ起源論にあったが、セリグマンは強引に結論づけるよりはアイヌ文化の実証研究を積み重ねるよう勧めた。

1917年(大正6) 

3月 日本亜細亜協会で「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)を講演。日本の起源問題に触れる。これに対し日本側学者(鳥居龍蔵、梅原末治)から反論。(詳細は別記事に)

桑原年譜では、「ドルメン論争で、鳥居らへの反論のため日本的特殊事情に気づき、その後アイヌ研究へと集中していく」と書かれている。

4月 結婚3年後、自宅で結婚披露宴を行う。小金井良精らが招待される。

夏 軽井沢に岳父らとともに避暑に赴く。診療も始める。このあと何年か、軽井沢の医業に集中する。

史料により著述が錯綜するが、現地の証言を元にした桑原の記述が最も一貫している。
これによれば17年が初めての軽井沢避暑体験。岳父と夫妻が現地に滞在する。そのうちに診療もするようになった。はじめは外人タッピングの別荘を借りて診療を開始した。その後、京三度屋裏から萬松軒別館を買い取り、洋風に改造した。そして二、三年後にマンロークリニックとして開業した。

10月 ロシア革命が勃発。

12月 マンローは北海道庁からアイヌの生活実態調査を諮問される。白老での調査をもとに「アイヌに関する諮問」への回答を提出。翌年に公表される。この調査を機会に考古学からアイヌ生活・文化に関心が移行。

道庁はアイヌに関する5つの質問を発している。その中心は「アイヌは高等なる宗教を理解し享益し得るか?」にあった。
マンローの答えは次の通り。アイヌ=コーカシアン説にとどまらない「Dance with Wolves」範疇を打ち出している。
かつてスコットランド高地人は哀れむべき状態にあった。しかしその後、彼らは英国における第一流の学者を輩出した。種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない。
1918年(56歳)

2月 哲学書「生ける者の魂」(Soul in Being)を自費出版。

3月 道庁、マンローの「旧土人に関する調査」上・下を「北海之教育」に掲載。

答申のほぼ全てがアルコール問題。アルコールが貧困、濫費、不衛生、疾患をもたらし、これに外来伝染病(痘瘡、結核、梅毒)が加わる。和人の差別がこれを助長しているとし、禁酒を第一の対策とする。
対策としては、まずもってアイヌへの敬意を持つこと、さらに農地の確保と営農援助などの具体的支援をもとめる。

この年、米騒動が発生、全国に拡大。

1919年

11月 ヨコハマ文芸・音楽協会で講演。演題は「真理は見いだし得るか」

このあたり、「枯淡の境地」に入ったかのごとく見える。

1921年(大正10)

ドイツ大使館侍医に就任。(58歳)

7月 マンロー、外国人避暑客を対象とする「軽井沢国際病院」の兼任を受諾。この病院は以前からあったが、夏季限定の診療所だった。経営母体は外国人が組織した「軽井沢避暑団」という団体。

以下は桑原からの引用。
マンローは院長就任の条件として、優秀な婦長の就任を持ち出した。マンローは神戸クロニクル社長より神戸万国病院の婦長木村チヨを紹介された。

チヨは1885年生まれでこのとき36歳。香川県高松市のべっこう商の娘で、高松の日赤看護婦養成所を首席で卒業した秀才。日露戦争に従軍し宝冠章勲八等を受けた。神戸の万国病院で婦長として働いていたが引き抜かれたという。

21年 京大考古学の浜田、鹿児島での発掘調査から、縄文土器と弥生土器の違いは、時期差によるものであることを証明。開聞岳の噴出物をはさんで上下の関係が決め手となる。

1922年(大正11)

1月 神戸の新聞Japan Weekly Chronicle 社長の怪我を治療。これが契機となり、同紙に、「知性のなぞ」(The Riddle of Mentality)を発表。

9月 内村鑑三がマンロー家を訪問。「多方面にわたる大学者」と賞賛。マンローは内村が交通事故で負傷したとき治療にあたった。

11月 改造社の招待でアインシュタインが来日。マンローは帝国ホテルで会食する。このときアインシュタインの依頼でドイツ大使館勤務のユダヤ系女性を診察する。彼女は精神病の疑いをかけられ解雇の危機にあったが、マンローが謙譲であることを証明し解雇を免れたと言う。 

1923年(大正12)

1月 Japan Weekly Chronicle に、「知性の謎とアインシュタイン」(The Riddle of Mentality And Einstein)を掲載。アインシュタインに献呈する。相対性理論への傾倒ぶりを示す。

6月 最初の夫人アデレーの父レッツが死去(79歳)

夏 金田一京助、二風谷を訪問調査。久保寺逸彦が同行。

8月7日 アデール夫人の父ファブルブラントが大動脈破裂で死去(82歳)。

8月25日 横浜に戻り葬儀を済ませた一家が再び軽井沢へ戻る。

9月1日 関東大震災。軽井沢で働いていたマンローは無事だったが、横浜の自宅は全焼し、機材等は全滅した。図書3千冊、原稿・写真なども灰燼に帰す。

9月2日 万難を乗り越え、横浜に到着。焼失した英領事館の敷地内に建てたテントで、怪我人の手当や防疫に奔走した。

12月 横浜ゼネラルホスピタルを再建。これを機会にマンローは病院を辞し、軽井沢に居を移す。

1924年(大正13) 

1月 マンロー、軽井沢サナトリウム(旧称国際病院)院長に正式就任。7~9月に限っては、外国人の組織した「軽井沢避暑団」が経営母体となる。夏季以外の閑忙期はマンローがテナントとなって開業していた。
軽井沢サナトリウム

3月 ファヴルブラント家は破産。妻の実家の財力をあてに運営していたサナトリウムは大幅な赤字を計上、マンローは多額の負債を抱える。(桑原によればファブルブラントは破産せず、息子が横浜で経営を再開)

貧乏とマンローの浮気の双方に悩んだアデルはヒステリー状態になる。かねてフロイトの精神分析に傾倒していたマンローは、フロイドあて紹介状を持たせアデールをウィーンに赴かせる。


1925年(大正14) 

1927年 モンローの考古学研究動向が英科学雑誌「Nature」に掲載される。

1928年 サナトリウム院長に加藤伝三郎が就任し、マンローは名誉院長に退く。

1929年(昭和4) 社会人類学者で、ロンドン大学教授のセリーグマンが軽井沢を訪問。マンローのアイヌ研究を高く評価し支援を約す。
セリーグマンは、一般化を焦らず、起源や解釈の偏重から脱して正確な事実の記述を行うよう助言。(最も信頼する人間からのきわめて重要な助言だ)

29年 アデール夫人からの音信が絶える。谷宛書簡によれば、この後木村チヨと親密になるとされているが、もっと早くからだろう。

29年 日高・釧路地方のアイヌ遺跡調査のため来道。アイヌに結核が多いことに驚き、研究ばかりでなく救済活動も行うようになった。

1930年 (67歳)

5月 セリーグマン教授自身が推薦者となり、ロックフェラー財団からのアイヌ研究助成金が実現。150ポンドと言うがどのくらいのものか分からない。

11月 マンロー、木村チヨと共に二風谷に滞在。4ヶ月にわたり滞在。ペテゴロウが現地ガイドを務める。

12月25日 イオマンテ(熊祭り)の記録映像を撮影。貝澤正は31年としているが記憶違い。
熊送り

1931年(68歳) 

2月 セリグマンあての手紙。
アイヌの研究は書籍としてまとめたい。その際の章立ては以下のようになるだろう。
①アイヌの家屋について ②アイヌの宗教の特徴 ③中心的祭礼としてのイヨマンテ ④妊娠と分娩にまつわる習慣 ⑤病気と治療、呪術、薬草など ⑥イム(憑依)とトゥス(シャーマン)と精神分析
⑦踊り

7月 二風谷永住を決意。貝沢シランペノより宅地(約5千坪)を購入し登記完了。自宅建築の準備を開始。二風谷を選んだのはバチェラーの勧めだったといわれる。
イソンノアシ
マンローと二風谷の長老イソンノアシ

9月 二風谷を訪れ、翌年1月まで滞在。

31年 バチェラーはイヨマンテの映像を、「残酷野蛮な行事を公開するのは、民族の恥をさらす心ないやり方」と批判。
マンローは下記のように当てこすり。
ある善良な人たちは、アイヌが熊の血を飲むことに批判的です。でも、血の滴る牛肉を食べ生カキをまるごと飲み込むことは何とも思っていません。最高の文化人たちは、血と肝臓でできた腸詰めをおいしいと食しています。(ある宗教では)神の肉と血が、少くなったのでパンとブドウ酒が用いられるようになりました。
そして「バチェラーはアイヌコタンを伝道に歩いているのに、アイヌの精神面について理解しようとしない。アイヌにはアイヌの信仰がある。一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ」と反論。

Youtubeで実物を見ることができます。貴重な映像で残酷とは言えません。膨大な制作費が投じられていることは、画面からも伺えます。 Iyomande: The Ainu Bear Festival

1932 年(昭7) 

4月 長女アヤメがフランス留学。トクの知人のフランス人夫妻に身元を託す。リヨンに絵画と刺繍の勉強に赴く。

6月 邸宅の外側が完成。外から見ると2階建て、中は3階建て。内部の造作は遅れる。邸宅は完成しておらず、借家の方に荷を解く。

8月 ロンドンで第1回国際先史学・原史学開催。マンローは文書参加。「九州の先史時代の遺跡」の原稿を送る。この論文は34年発行の紀要に収録される。

9月 チヨと共に二風谷に移る。本籍を移す。このときマンロー69歳であった。研究の傍ら、衛生思想の普及に努め、無料診察を続ける。

当時結核が猛威をふるい、35戸のコタンから年間27個の柩を出したと言う。子供を加えると死者の数はその3倍に達した。診療は一切無料で貧窮に喘ぐ患家へは米・卵類を与えた。子供達にはチヨ夫人手造りのビスケット(マンロー・クッキー)が配られた。(桑原千代子

10月 乙部の請負人が自殺。このため邸宅の建設が遅れる。

12月16日 二風谷の仮住まい(商店の倉庫)が火事に遭い多くの物を失う。資料・医療器具その他すべてを失う。心痛のあまり狭心症発作で倒れる。「Kimura さんが持ち出した小型のシネカメラ以外に、なにももってくることができませんでした」

1933年(70歳)

1月 マンローの製作した「熊祭り」が英国人類学研究所で初上映。

4月 バチェラー、二風谷のマンローを訪問。

4月 マンロー邸が完成。木村チヨ名義となる。
白い木造3階建て部分は居室、渡り廊下でつながった平屋は診療室だった。22歳年下のチヨ夫人が看護師として手助けした。
「日本語があまりうまくなくてね。奥さんが愛敬のある人で、そばに立って通訳していました」
アイヌ民族について教えを乞おうと、マンローはよくエカシ(長老)のもとに出かけていたという。チヨ夫人と仲むつまじく連れ立って歩いていた。(地元民の談話)
マンロー邸入り口
       マンロー邸入口 この手前がマンロー坂
モンロー邸
            湖側に向いた東側面
5月16日 マンロー、北海道釧路市を訪れ上別保の東釧路貝塚で発掘調査。

5月17日 マンロー、釧路考古学会顧問となる。返礼としてテームズ河畔出土の旧石器を考古学会へ寄贈する。チヨとともに講演を行う。翌日体調不良をきたし、そのまま軽井沢へと直行し入院となる。

6月 日本アジア協会から、二風谷住居火災に対し救援金が贈られる。同時に、多年にわたる研究に対し表彰状が送られる。ドイツ・アジア協会、外人牧師団、軽井沢避暑団からも火災救援金が贈られる。本国の大英学術協会が中心となり救援委員会が設置される。英国の有志からの寄金も到着。

7月 フランスのリヨンに留学中の長女アヤメ(アイリス)、現地で結核を発症。エリオ荘病院で大喀血し死亡。現地滞在は1年3ヶ月にとどまる。遺骨は翌年に戻る。移送したのはギリシャ哲学者瀬川三郎という篤学の士であった。
10_ayame
     アヤメ(アイリス)
7月 療養を終え、そのまま軽井沢で秋まで診療に当たる。その後41年まで、夏季の軽井沢サナトリウムでの仕事(資金稼ぎ)が恒例となる。谷あての手紙では、二風谷での患者は1日2~3名。無料診療費が月平均30~40円かかったとされる。

10月 軽井沢から釧路に移動し、18日をかけて各地を移動。白糠、弟子屈、阿寒、美幌を現地調査。木村チヨ、貝沢善助、若宮カメラマンが同行。
それだけの金があるなら、大家に多少の金は渡すものだろう、と思う。

11月 釧路での調査を終え、二風谷に戻る。

12月 マンロー邸の前庭にアイヌ家屋(チセ)のオープンセットを設営。「カムイノミ」儀式を行い、記録映画に収める。さらに翌年にかけて悪霊払い・病気の平癒祈願の「ウエポタラ」と家の新築祝いの儀礼である「チセイノミ」の記録を行っている。

33年 英国王立人類学研究所の通信員となる。名刺には公式通信員と書かれた。このあと定期に通信が送られている。

1934年 

5 月 セリグマン宛ての手紙。診療のためにひっきりなしに仕事が中断させられると嘆く。原因は研究者の立場を逸脱しているため。
マライーニの述懐: 朝早くからアイヌの病人が五・六人、ときには十人も、邸宅の客まで待ち合わせていた。
マンロー邸は、コタンの人々のサロンとなった。男たちは熊や鹿を射止めた手柄話に花を咲かせ、時にはヤイシヤマ(情歌)を歌った。マンローやチヨを巻き込んでウポポを踊った。2人は結婚式や葬式にも招待され、貴重な風習を体験した。マンローは薬草の使い方、毒矢の扱い、鮭漁の方法などを教えてもらい、ノートに書き写した。
もう一つ、セリグマンあての手紙
8 ヶ月間、ひとことも英語を話していない。Kimura さんとの会話の多くは日本語になります。その結果として、あなた(Seligman)に手紙を書くときは、まるで長らく音信不通だった兄弟と話をしているみたいに、急きたてられるように言葉がほとばしり出るのです。ほっとします!
夏季 軽井沢で診療従事。活動資金を調達。

8月 英字紙に「アイヌの暮らしーいまとむかし」を連載。

9月 「Nature」にマンローのアイヌ研究記事が掲載される。マンローはさらにユーカラをトーキーで撮影しようと企画したが果たせなかった。

1935年 
 
夏季 軽井沢で診療。

8月 「人生と真実、存在の謎」(Life and Truth, Riddle of Existence)を吉川弘文館より発行。

二谷文次郎の紹介を受けた道庁職員の谷万吉が自転車でマンロー邸を訪ねる。当時谷は平取役場に出向していた。以後マンローと家族ぐるみの交際を続けた。
離婚調停や様々な噂の抑圧に努力し、困窮するマンローに食料品を贈るなど、死亡までの困難な数年間を親身に支えた。マンローは谷を何よりの力と頼りにし、心打ち明ける手紙を何通も書いた(小柳伸顕)

マンローは谷あての手紙で32年末の失火事件についてこう書いている。
その男たちは私心からでなくて、私を日本国の敵と思い込んで放火したのだと思う。
ただし、類焼したM家倉庫の弁済責任を逃れるために、放火説を主張しつづけたという説もある。

1936年

3月 久保寺逸彦らが二風谷で4日間にわたり「熊祭り」映画を制作。セットではなく二谷国松家で撮影された。マンローもこれに協力。久保寺は「マンロー邸で二谷さんとのツーショットをマンローに撮ってもらった」と語っており、下図はその時の“ついでの1枚”であろう。
マンローと二谷
夏季 軽井沢で診療に従事。

9月 谷あて書簡。二風谷の自宅及び土地の処分を希望。結局実現はしなかった。

秋 マンローが無許可で病人の治療をおこなっているとの噂が広がる。近隣の医師が流したらしい。これは事実であった。これに対し谷と二谷は診療所開設に努力した。

11月 セリグマンあての手紙
いま、19章からなる本を構想している。5年前から内容が深化した。序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」が付け加えられた。
11月 谷の尽力で、診療所開設届を北海道町に提出。①略歴、②二風谷に居住し、アイヌ研究に専念するに至った動機、③二風谷の医療の状況、無料診療の実態、④平取村のアイヌの健康状況について、社会課より質問があり、谷を通して回答。道庁は診療所を認可する。

12月 谷を通して診療所の開設届を提出。静内・新冠・沙流三郡医師会に加入。

午前中は研究,午後は診療に当てていた。午前三時頃には起き研究資料をタイプしていた。これらの資料はロンドンのセリグマンの元に送られた。雪の日の往診


12月 谷宛書簡。
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。
二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密集して住んでいるので調査の能率が上がるというのが一番だが、風景が美しいというのも大きい。それを30年に4ヶ月暮らしてみて実感した。
1937年(昭和12)

1月 二風谷近くのカンカン沢で住民が石炭塊を発見する。アイヌの人たちと対応を協議する。

1月 二風谷の“マンロー診療所”が正式の営業を開始。
私が見た病気は、結核のあらゆる病型、消化器疾患のほぼ全てが回虫症、トラコーマはほとんどのアイヌ人が感染、膿痂疹や疥癬は貧困層では当然のことである。心臓病、気管支炎、ロイマチス、貧血もかなり多い。梅毒の多くは陳旧性であリ、顕性は少ないる。精神病・ノイローゼも多く、とくに女子に目立つ。(診療所開設届につけられた諮問文)
2月 2.26事件発生。

5月 この月を以ってロックフェラーの研究助成金(2回め)は終了。家計は厳しさを増す。

5月 「“波粒子”理論で人間の生理的過程を説明する」という連載記事を英字紙に発表。おそらく量子力学的説明だろうと思う。

6月23日 アデールと協議離婚成立。最後はスイス領事館への通告のみで終結。アデルは遺産となった3000坪の敷地と豪邸を売り払い、マンローの負債も精算した。

ここでも桑原は徹底してマンローの酷薄ぶりをアピール。アデルからは年に数回便りがあったが、マンローは無視。どうにかして離婚出来ないか、そればかり考えていた。

6月24日 ヘレン・ケラーが札幌を訪問。道庁の仲介にてマンロー夫妻は札幌に出向き面会。その後洞爺湖・有珠方面をめぐり二風谷に戻る。

6月30日 木村チヨと正式に結婚(マンロー74歳、チヨ52歳)。谷は知り合いの弁護士を紹介するなど積極的にかかわる。

7月 この年二風谷にアイヌ家屋調査に入った北大工学部の鷹部屋福平がアぽなし訪問。桑原は敵意に近い反感を顕にしているが、これはチヨの気持ちを反映したものなのか。

7月 論文「アイヌ/むかしといま」が完成。

夏 この年は軽井沢にゆかず、二風谷での研究に専念。マンローは地元民に、二風谷に結核療養所やスケート場を建設する構想を語る。マンロー邸の前の国道の坂道が地元民によりマンロー坂と呼ばれるようになる。

9月 遺言書を書く。

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     マンローと千代

1938年(75歳)

3月 「ヤイクレカラパ/老アイヌの祈りの言葉」を発表(“Man” Vol38 No3)

4月 イタリア人人類学者のフォスコ・マライニイが、日伊交換留学生として北大解剖学の児玉研究室に着任。二風谷に赴きマンローの指導を受けた。(このとき26歳)

4月 英科学雑誌「Nature」にアイヌの結婚式の記事が掲載される。

7月 セリグマンあての書簡 「詳細で真実な情報を! というのが私の欲求です」と、書物への意気込みを語る。いっぽう生活困窮が訴えられている。アイヌ研究の必需品である撮影用カメラも売却した。相当の値段で売れたらしい。二風谷の自宅も売却する方向で検討していたようだ。

夏 この年も軽井沢に赴かず。

9月 報知新聞でマンローの経済的苦境が報道される。北海道庁は救済計画を立てたが実現せず。

10月 不仲だったバチェラーが、姪を伴い二風谷訪問。頬の腫瘍の切除を依頼する。マンローは切除術を施行。これを機に両者は和解。

10月 アイヌ部落で「マンローはスパイだ」とのデマが発生。マンローは警察に調査を依頼。

1939年

1月 日東鉱山の従業員が「マンローはスパイだ」とのデマを流布。マンローは警察に調査依頼。
二谷から谷への手紙。
最近、先生が二風谷でスパイのデマを撒き散らされている。その源は大方奥のシャモの酒売り店の者と思うが、善良なるウタリ内までその口車に乗せられて、失礼なデマを振り撒いている。(「酒売り」は、火事で仲のこじれた、かつての家主だとされる)
2月 マライー二がバチェラーの紹介で二風谷を訪問。安全のため二風谷を離れるよう強く進める。

76歳となったマンロー、自宅・土地を処分して軽井沢に戻ろうと考え各方面に相談。しかし邸宅は平取村長や日高支庁などの配慮にもかかわらず買い手が見つからなかったという。釧路新聞は「コタンを去るアイヌ博士を救え!」と救援活動を呼びかける。

4月 マンローから谷あて書簡。二風谷では道で人に行き交うとき、知らない人は自分を見て顔をしかめたり、嘲っているようなので気が重い。気の毒な病人を往診する以外は全然外出しないようになった。

7月 第二次近衛内閣が成立。

8月 軽井沢で診療。京都の佐伯義男医師が来訪し、考古学・人類学に関する執筆を依頼。これは近衛文麿の援助のもとで日本語で出版する企画であったが、時局の変化により実現せず。

10月 札幌に戻る。北大北方文化研究室で「アイヌの宗教の祈祷・躯疫」講演。医学部解剖学の児玉教授が司会、工学部の鷹部屋教授がマンロー紹介を行う。

10月 二風谷に戻り、永住をあらためて確認。(76歳)

39年 イギリスにおけるマンローの理解者であり、庇護者であったセリーグマン、アフリカで現地調査中に客死。

1940年(77歳)

岩波書店社長の岩波茂雄、マンローの、アイヌ無料診療と人類学への貢献に対し感謝金1千円を贈る。

北大工学部の鷹部屋福平、「毛民青屋集」を著す。この間にマンローの知己を得、58年の『橋のいろいろ』という本の「マンロー先生」という 1 章で回想されている。

先生は旅費を負担し各地のアイヌ古老を呼びよせた。そしてアイヌの風俗習慣は勿論、宗教から天文・数理・彫刻・刺繍・狩猟など細大もらさず聴かれた。それらの話のうち、少なくとも複数のアイヌが一致する言葉のみを著述にうつした。
中でも傑出した役割を果たしたのが二谷国松で、マンローは「私の百科事典」と賞賛していた。
老人達はアイヌ語だが中年以下の人々はほとんど日本語を使うようになり、チヨが東北訛りの強い日本語を英語に通訳してマンローに聞かせた。

1940年の二風谷
    1940年(昭和15)の二風谷集落図 鷹部屋福平の作成したもの
家屋1
家屋2
図3の方は旧土人保護法に基づく資金援助を受けた改良住宅である。手前の坂がマンロー坂と思われる。

夏 軽井沢に出張診療。この夏は特に多忙だった。「月50枚以上のレントゲン撮影、診療時間外の往診、虫垂炎の破裂で上海から担ぎ込まれた子の手当。78歳の男には限界です」と書き記す。
「病院関係者はほとんど日本人になったが、皆親切だ。来年もまたきてくれという」谷あて書簡

軽井沢からの帰り、マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされた。憲兵は殴る蹴るの暴行を加えた。マンローは「日本人! 国籍日本人!」と叫んだ。チヨは「マンローは軽井沢の病院長で、秩父宮さまのテニスのお相手」と訴えた。これを憲兵が確認したことで2人は釈放された。

1941年

1月 血尿が認められるようになり、腰の部分のしこりにも気づく。

5月 北大医学部付属病院を受診し腎臓と前立腺ガンの診断。手術は不可能と宣告される。(78歳)

6月 軽井沢に戻り診療に従事。

10月 診療困難となり二風谷に戻る。チヨ夫人の他に高畠トク、岡田久医師、規久枝嬢が同行。

12月 第二次大戦が勃発。日本国籍を取得していたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉を余儀なくされる。 

12月 診療を断念、臥床するようになる。福地医師が定期診察を行う。

毎夏の軽井沢出張診療の報酬だけで経済を支え、無料診療を続け、春までの食料の他一銭もない極貧の中で生涯を終った。(桑原千代子

12月 札幌で北大生の宮澤弘幸が治維法違反で逮捕される。宮沢と関係のあったマンローへの監視が強化される。

1942年(昭和17年)

1月 健康が優れず、ほぼ病床に伏す(谷の年表)

セリグマンへの手紙: 戦争が始まってから、私の仕事にたいして驚くような豹変振りが続いている。
私が日本国民であること、貧しい人びとに無償で医療を施してきたこと、そして誰にも無害な人物というのがいままでの評判だった。しかし今、そんなことは何の価値もない。

3月 衰弱が進行。岡田医師が応援に入る。

4月はじめ 癌性腹膜炎にて腹水貯留。

4月11日 腸閉塞を併発し死去。79歳。チヨ夫人、高畠トク元夫人、マライーニ、福地医師が臨終に立ち会う。

死亡前、マンローは後事を鷹部屋に委ねた。家屋敷その他は一括売却された形になっている。記念館として保存したいという意向もあったので、チヨ夫人はすべてを預けたのではないか。その際に預けたのか売却したのかという行き違いはあったかも知れない。
一教授の私費で屋敷を維持するのはそもそも不可能だ。しかし当時としてはそれ以外に道はなかった。さらに鷹部屋は戦後まもなく九州大学に移っており責任を取りにくい立場にあった。
鷹部屋がマンローのことを真剣に考えていたことは疑いない。彼は高畠トクとのインタビューも行っている。桑原の高畠情報は基本的には鷹部屋から得ていたようだ。

4月14日 マンローはアイヌ・プリ式の葬儀を希望していた。千代に「アイヌの皆のように葬ってくれるね。土饅頭に名前はいらないよ」と言い残したという。しかし実際は、聖公会平取教会で函館教会前川司祭の進行で行われた。

遺体は遺言に従い火葬された。遺骨の一部は軽井沢に、他は二風谷のトイピラの丘に埋葬された。
全コタンの人々も長い葬列に続いた。住民の一人、貝沢正は「外国人がこれだけしょっちゅう来ている中で、特に我々と関係があるのはマンロー先生です」と語っている。


軽井沢には妻のチヨの手で墓碑が建立される。「医学者兼考古学者 満郎先生墓」と記される。

1946年 イヨマンテのオリジナル・フィルムは、敗戦直後の長崎で米進駐軍用の土産物屋から出てきた。

マンローは邸とアイヌ関係資料の管理を北大の鷹部屋福平に託した。桑原によれば、鷹部屋は生活に窮しマンロー邸を資料ごと売り払った。(桑原は鷹部屋と面識があったが、この件で裏はとっていない。鷹部屋はマンローに深く関わっており、

1946年 アイヌ研究の遺稿はロンドン大学へ送られ、セリグマンの妻で編集者であるブレンダにより「Ainu Creed and Cult」として出版される。マンローがつけた表題「AINU Past and Present」は採用されなかった。後から加えた2章もカットされた。ブレンダは、テーマの社会的広がりを好まなかった。彼女はこの本を文化的な枠に押し込めておこうとしたと考えられる。

1946年 伊福部宗男がマンロー邸で病気療養。この間に長男達が生まれたとされる。同じ建築学関係の鷹部屋が貸していたのであろう。伊福部家は秀才揃いで、宗男の弟がゴジラの昭。

1958 転売を重ねた末、競売にかけられるが買い手はつかず。

1962 ロンドンで「アイヌ:信仰と儀礼」と題する遺稿集が出版される。 

イギリス大使館員のフィゲス、英国文化振興会長のトムリン、競売にかけられたマンロー邸を私費で買い取る。

1965年 戦後転売を重ね、廃屋となっていたマンロー邸が競売に出される。英国大使館の関係者が私費で購入した。

65年 フィゲス、トムソンの訴えに日本人有志も協賛し、「マンロー記念館」設立計画が始まる。地元にも協力会が設立され、主治医の福地医師が会長、二風谷の貝沢正・松太郎が副会長となる。

65年「イヨマンテ」の35mmポジプリントが「発見」される。東京オリンピア映画社が、熊送りの儀礼部分を中心に再編集し、『イヨマンデ 秘境と叙情の大地で』を制作。
映画冒頭
                映画の冒頭
65年 朝日新聞の北海道版にマンロー顕彰運動についての詳細な記事が掲載される。死因等不正確だが、はじめて多くの人に存在を知らせた。

65年末 話は一転。マンロー邸が北大に寄贈されることとなる。三笠宮立ち会いのもとに寄贈式が行われる。

1966年 北海道大学北方文化研究所二風谷分室および文学部二風谷研究室として整備される。
館の管理にかかわった北大事務職員の出村文理は、2006年に「ニール・ゴードン・マンロー博士書誌」を出版。

1969年 伊福部宗男(伊福部昭の兄)が「沙流アイヌの熊祭り」を発表。マンロー没後、邸宅内の資料は鷹部屋福平が管理していたことを明らかにする。貝澤正は、鷹部屋がマンロー館と資料ともども8000円で売り払ったと証言。

1974年 長年にわたり博士を助けたチヨ夫人が死去(89歳)。夫婦で二風谷共同墓地に葬られる。チヨは、マンローの死後も軽井沢で婦長として働き、老後は神戸で送った。
マンロー夫婦の旧墓
           マンロー・チヨ夫妻の旧墓

マンロー夫婦の墓
現在の墓はちょっと…
なお墓碑銘に並ぶ桑原千代子さんはマンローの熱心な紹介者だった。

縄文前期と呼ばれる紀元前5千~6千年頃、満州から沿海州にもかなりの土器文化が認められる。それは熱河省まで及んでいる。
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特徴としては平底であること、網目様文様が施されていることであり、日本の縄文様式と類似している。

しかしこれらの土器文化を担った人々は明らかに日本人と異なる。この頃すでに日本人=縄文人の主体はD2とC1の混血であろうと思われる。

したがって消去法で考えれば、この極東文化の担い手は、今もこの地に住むC2群であろうと思われる。

これらの事実はY染色体ハプロC2群とD2+C1群の相互浸透を強く示唆している。

ただその相互作用が、いかに形成されたのかは不明である。

とくに謎となっているのが、この時期における朝鮮半島の土器文化の「空白」であり、九州南部に1万年前に出現し、鬼界カルデラの噴火を以って消滅した超早期縄文文化の由来である。

この点に関して積極的な意義を持つ論文を見つけた。

イェスナー「北太平洋における海洋適応の動物考古学的展望」(国立民族学博物館 2009年)

この論文によると、紀元前5世紀の環日本海的減少は、海洋適応(maritime adaptation)と言うのだそうだ。

ロシアで「アムーリア」と称される大領域がある。アムール河口域・オホーツク海・日本海・日本列島の全域を包摂する領域で、この領域の自然が「海洋適応」を生み出したらしい。

「海洋適応」は縄文時代前期(BP 6500~5700 年頃)に著しく進んだ。同時期に生じた海進(marine transgression)と関連するであろう。


これは下記記事の増補版である。
2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜

実は、失敗していて、増補版を2017年04月25日の記事に上書きしてしまった。今さら取り返しはつかない。
さらに増補の追加分があるので、それもふくめた増補版を本日付の記事としてアップする。これに伴い“旧増補版”は増補版の表記を消して、2017年04月25日の記事として残すことにする。間違えてそちらに行く人もいるかも知れないので、文章の頭にこの記事へのリンクを貼って置く。



ジョン・バチェラー 年譜



1854年(安政元年)3月20日 イギリス南部のサセックス州アクフィールドに生まれる。11人兄弟の6番目。バチェラー家は、由緒正しい騎士の家系で、父は市長を 3 期も務めた。

1859年 フランス人でカトリック司教メルメ・デ・カッション、函館に4年間滞在した。アイヌコタンを訪ねるとともにアイヌ語小辞典の編集を手がけた。

1865年 アイヌ墳墓盗掘事件。イギリス領事館員3人と日本人雇員により北海道南部の森,八雲の墓から人骨17体が掘り出された。国際的な問題になりイギリスが謝罪、賠償する

1874年5月 英国聖公会海外伝道協会(CMS)、北海道にウォルター・デニング司祭ら2人の宣教師を派遣。デニングはマダガスカルから、もうひとりも東アフリカから転勤となり、函館の教会で働き始める。


1876年(明治9)

6月 デニングが平取アイヌを訪問。現地調査とともにペンリウクからアイヌ語を学ぶ。


1876年 バチェラー、ケンブリッジ大学神学部を卒業。東洋伝道の志を持ち英国聖公会宣教会に入会。香港にある宣教師養成のためのセント・ポール学院に入学。


1877年(明治10年) バチェラー、香港にて勉学中にマラリアに罹患。療養のために横浜に移動。


5月 さらに冷涼な北方の地を勧められ函館に転地。デニング司祭の指導を受け日本語の勉強を始める。


1878(明治11)

3月 バチェラー、函館の町中で偶然アイヌが日本人から非人間的な扱いを受けている現場に出合わせる。アイヌの差別と悲惨な生活の実態を知り、アイヌ民族の伝道を志す。

バチェラーの回想

学生達は「アイヌは本当の人間ではない。人と犬との混血児だ。だから犬や熊のように多毛である。何にも料理しないで生のまま食べる。余り野蛮ですからその中へ行くのは甚だ危険」と語った。


札幌に2ヶ月ほど滞在。開拓使長官黒田清隆とも会見。対雁のアイヌ(デンベ)からアイヌ語を習得。年末には函館に戻る。



イサベラ・バードの北海道の旅(1878年)

とりあえずここに突っ込んでおくが、膨らんでくるようなら別途記事を起こす。「イザベラ・バードの道」を現代に活かす に詳細な論究あり。
「イザベラ・バードはなぜ平取をめざしたのか」では、平取詣での理由が下記のごとく説明されており、納得がいく。

ダーウィンが『種の起源』で進化論を発表した影響で、欧米の人類学者の間で「容貌がまるでヨーロッパ人のようだ」と日本の先住民族アイヌへの関心が高まった。
当時英語で表記された地図では北海道の東部や北部は描かれておらず、「平取」が北海道の最深部と思われた。それで桃源郷のように扱われたのではないか。

ここには書かれていないが、2年前に平取を訪問調査したデニングの影響を無視するわけには行かない。

5月 イザベラ・バードが横浜に入る。3週間の準備の後、東北北海道旅行に出発。


8月12日 イザベラ・バードが函館に上陸。聖公会のデニング夫妻の歓迎を受ける。

8月 シーボルトJrが平取を訪問。現地でイザベラと顔を合わす。

8月23日 イザベラ・バード平取に到達。義経神社近くの平取アイヌの首長・平村ペンリウク宅に4日間滞在する。義経神社は二風谷より下流の平取本町にある。当時はアイヌ人専用の神社だったらしい。

通訳兼案内人の日本人伊藤某は「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただの犬です。人間ではありません」と断言した。

9月12日 イザベラ・バード、函館に戻る

バードは、「アイヌは純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対して思いやりがあると賞賛。

またペンリウクが伝道師デニングを批判した言葉も記録している。

もしあなたを造った神が私たちをも造ったのならば、どうしてあなたはそんなに金持ちで,私たちはこんなに貧乏なのですか

また、アイヌの飲酒の習慣についても同情的な眼差しを送っている。

泥酔こそは,彼らの最高の幸福である。「神々のために飲む」と信じる彼らにとって,泥酔状態は神聖なものである。

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1879年(明治12年) バチェラー、信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。


5月 バチェラー、最初のアイヌコタン訪問。胆振の有珠コタンに3か月滞在。


9月 バチェラー、アイヌの中心地である日高の平取を訪問。平取では、アイヌ長老ペンリウクの下で3ヶ月滞在しアイヌ語を学ぶ。これを契機にアイヌへの布教活動を決意する。平取行きはおそらくイザベラの影響もあったのだろう。

1880年 デニングがバチェラーを伴い平取を訪問。バチェラーに平取での伝道活動を委ねる。


1881年 馬車で札幌経由で平取へ。ペンリウクは自宅の敷地にバチラー専用のチセを建て提供する。半年間滞在し伝道にあたる。

1882年(明治15年) イギリスに一時帰国。5ヶ月滞在し、ケンブリッジなどで再研修を受ける。


1883年(明治16年) デニング、神学上の問題でCMS本部から解任される。聖公会函館教会メンバーが留任要望。バチェラーは勉学を中止し函館に帰任した。


1884年(明治17年)

1月 東京で同僚宣教師の娘ルイザ・アンザレスと結婚した。当時バチェラーが30歳で、ルイザは41歳。

1月 アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介した「蝦夷今昔物語」を出版。著者は<函館英国人バチロル>とされる。アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介する。

アイヌに関して、日本人のための日本語による書物がない。自分が直に見聞きしたことと日本社会の常識の間にずれがある。記述には誤りがあるかも知れないが,それは作り話しではない。

余、窃カニ思フ。彼ヲシテ、培養正シク教育普及セシムレハ、又以テ本邦人ノ如キ才学アル者トナスヘシ…

84年 関西へ講演旅行。その後半年をかけて道内各地を伝道旅行。
バチェラーの足跡

              バチェラーの足跡

84年 バチェラー、長い伝道旅行を終え平取に戻る。この冬に平取で熊送りを体験したと見られる。「これ(絞殺)は残酷で,いまわしく,品位がない。それを正当化するものはなにもない」と記す。

84年 平取で禁酒・断酒運動を進めたが、日本人による排斥運動が強まる。これの影響を受けたアイヌとの関係もこじれ離村を余儀なくされる。


1885年(明治18) 「バチラーのスパイ事件」が発生。


バチェラーがパスポートの更新を求める。時期を同じくしてバチェラーが滞在許可条件を守っていないとの告訴があり、パスポート申請が却下される。却下には3つの理由があったが、それがいずれも不正確な情報に基づくものと判断され、告訴は取り下げられる。

85年 その後、バチェラーは函館を拠点とし全道各地で伝道。

85年 幌別のアイヌ青年カンナリタロウ、聖公会函館教会で受洗。最初のアイヌのキリスト教徒となる。バチェラーにアイヌ語を指導する。


1886年(明治19年)5月、布教活動のため、函館の住居を幌別村(現在の登別市)に移して定住する。ルイザ夫人・養女キンらが同伴。牧場で牛を飼い、農作も展開する。その後6年にわたり、キリスト教伝道やアイヌ語教育を実践。


1887 年(明治20 年) バチェラー、本国の伝道教会から司祭に除され、アイヌ民族の宣教を委ねられる。


1888年(明治21年) 募金を募り、幌別で私塾の愛隣学校(相愛学校)を設立する。キリスト教教育を行なうアイヌ学校への発展を目指す。


1888年(明治21年) 札幌にも『愛隣学校』を開設。アイヌ語の読み書きをローマ字で教える。(その後愛隣学校は道内各地に作られた)

88年 アメリカ人ヒッチコック、平取を訪問しアイヌ調査を行う。この他90年にはイギリス人ランドー、92年にはオーストリア人アドルフ・フィッシャーがアイヌ調査に入る。

1889年 北海道庁の依頼を受け、「蝦和英三対辞書」を発刊。


1890年 バチェラー夫妻、英国に半年間滞在。この間にヨハネ福音書、マルコ福音書などのアイヌ語訳を出版。


1891年


1月 バチェラー、北海道禁酒会の要請に応え札幌に移転。自宅でバイブルクラスと日曜礼拝を始めた。並行してアイヌ伝道を展開した。活動は樺太までおよび、樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタにも布教活動を行う。


91年 平取アイヌとの関係が6年ぶりに修復。平取のキリスト教信者は100名以上に達する。

91年 カトリックも布教活動を活発化。函館司教区長にベルリオーズ司教が着任し、おもに室蘭地方に伝道した。


1892年(明治25年) 札幌聖公会が正式に組織される。バチェラーは伝道の対象を全道各地に拡げていく。樺太アイヌ、ギリヤーク人、オロッコ人も布教の対象となる。


92年 札幌にアイヌを対象とする無料施療病室を開設する。札幌市立病院の関場院長もボランティアとして診療に加わる。遠方から訪れるアイヌの人々で、診療所はいっぱいになったと言われる。

92年 ロシア人研究者シュテルンベルグが『サハリン・ニブフのクマ送り』を報告。イヨマンテはアイヌ古来の伝統ではなく、ニブフ(ギリヤーク)からの引き継ぎではないかと示唆する。

1893年 バチェラーの秘密扱い書簡。

私の蝦夷における16年の経験は、ここでは極度の注意をもって行動しなければならぬことをはっきりと教えてくれました。私のあらゆる行動や行為、言葉がスパイによってマークされています。

1894年 フランスのカトリック教会からベルリオーズとリボーが伝道に入る。(91年の記事との突合せが必要)


1895年(明治28) 

5月 平取と有珠で自費で教会堂を建設した。平取町本町の教会は現在、「バチェラー保育園」として運営を続けている。

1896年 バチェラーの要請に応え、英国聖公会からエディス・ブライアント看護婦が派遣される。約1年半、札幌でアイヌ語を学んだあと、13年間にわたり平取でアイヌの伝道・医療・教育にあたる。


1897年 有珠のアイヌ豪族・向井富蔵の娘・八重子、バチェラーを頼り札幌に出る。「アイヌ・ガールズスクール」に通う。

1898年(明治31) 札幌北3 条西7 丁目(北海道庁裏)に住宅を新築。ここに離日まで住み続ける。

8月 東大医学部教授のベルツが平取に入る。ブライアント看護婦に指導助言を行ったと言う。

98年 マンローも、この年北海道へ初めて旅した。(要確認)

1899年 日本政府はアイヌ民族の同化を目指すようになる。同化推進のために「北海道旧土人保護法」が制定される。この頃からバチェラーは政府に協力するようになる。法律制定過程に協力した可能性もある。

1900年 バチェラー、アイヌ教会での説教をアイヌ語から日本語に切り替える。

00年 ブライアント看護婦、健康を害し一時帰国、01年に平取に戻る。助手を勤めた金成ナミは幌別に戻る。


1903年 大阪で第5回内国勧業博覧会が開催される。バチェラーは学術人類館の展示のために、7人のアイヌを見世物として紹介。
この学術人類館では琉球人、台湾先住民、ジャワ人、トルコ人、マレー人、インド人などが「展示」された。

9月 ピウスツキを団長とするロシア帝室地理協会の調査団が平取を訪問。1ヶ月にわたり滞在。

11月 平取のアイヌ長老ペンリウクが病歿。

1904年

3月 アメリカのセントルイス博覧会。バチェラーは9人のアイヌ人派遣を斡旋。

余市生まれのアイヌ人詩人、違星北斗の歌

 白老のアイヌはまたも見せ物に 博覧会へ行った 咄(アー)! 咄(アー)!

4月 マンローが最初の二風谷訪問。

04年 日露戦争が始まる。バチラーは戦争協力の音楽会を開き、出征兵士を慰問。赤十字社にも寄附金をよせる。

これら一連の方針転換の結果: 聖公会の教会員(道内)は、1903年の 2,595人から19年の 3,392人に増加したのに対し、アイヌ人は 1,157人から 650人に急減した。アイヌ人の構成比は45%だったのが19%にまで落ち込んだ。(小柳)

1906年 バチェラー夫妻、八重子を養子とする。弟の向井山雄にも学資を支援する。


1908年 バチェラー夫妻、八重子とともにシベリア鉄道経由で英国に行く。八重子はカンタベリー大主教から伝道師に任命される。


1912年 バチェラーと八重子、樺太に行き、伝道活動を行う。


1913年 バチェラー、「アイヌ教化団」を組織し、平取にアイヌの保育園を建てる。(アイヌ教化団の経過記載はかなり異同がある)


1914年(大正3年) 札幌にアイヌの子弟を収容する寄宿舎「アイヌ保護学園」を建てる。


1918年 八重子の弟の山雄、立教大学神学部を卒業しバチェラーの後継者となる。


1917年(大正6年) バチェラーに洗礼を授けられたアイヌ人江賀寅三、札幌でアイヌ語辞典の編纂に協力する。

1920 年(大正9 年) アイヌ教化団の後援会を組織。顧問に徳川義親、佐上信一(北海道庁官)、新渡戸稲造が就任。バチラーが理事長となり、理事には宮部金吾、時任一彦など。

新渡戸はアイヌ民族を未開人・野蛮人と呼び、「強い民族がより弱い民族を扱う」と説いた。


1922年(大正11年) 後援会の援助によりアイヌ学園(後のバチェラー学園)が設立される。アイヌ民族に中等教育を受けさせるために、子供たちを札幌に集める。


1923年(大正12年) バチェラーは70歳になり、規定により宣教師を退職した。その後も札幌に留まり、北海道庁の社会課で嘱託として働く。

1923年 聖公会の手により平取幼稚園が創立される。「社会福祉法人聖公会北海道福祉会バチラー保育園」として現存。


1924年 アイヌの青少年育成の為に『バチェラー学園』(寄宿舎)を設立する。有島武郎、新渡戸稲造らが財政支援。

1927年 違星北斗、平取に滞在してバチェラー幼稚園で働く。2年後に死亡(27歳)

日記にこんな歌を残す

五十年伝道されし此のコタン、見るべきものの無きを悲しむ

沙流川は 昨日の雨で 水濁り コタンの昔 ささやきつつゆく

平取に 浴場一つ 欲しいもの 金があったら建てたいものを

1928年 バチラー『ジョン・バチラー自叙伝~我が記憶をたどりて』(文録社)を発表。徳川義親公爵が序文を寄せる。このとき74歳。
バチェラーにはこの他に下記の伝記がある。

ジョン・バチラー遺稿『わが人生の軌跡』北海道出版企画センター 93年

ジョン・バチラー(安田一郎訳)『アイヌの伝承と民族』 青土社 95年

1931年(昭和6年) 新渡戸稲造を会長とする財団法人「バチェラー学園後援会」が出来る。

1934年1月 伝道師 エディス M.ブライアントが死去。

1934年 ペンリウクの「頌徳碑」が義経神社境内に建立される。当時の村長が碑文を揮毫


1936年(昭和11年) 妻ルイザが札幌でなくなる。享年92 歳。遺骨は円山墓地に埋葬される。


1941年(昭和16年)11月 太平洋戦争の直前、バチェラーは敵性外国人として追放させられた(88歳)


1944年 (昭和19年)4月 郷里サセックス州の生家で逝去。91歳であった。



1.素晴らしさ…自叙伝の一節

バチェラー資料を探しているうちに、次の資料に出会った。
 「HOMAS日本語版ニューズレター」という定期版で、「北海道・マサチューセッツ協会」という団体が発行している。道庁の外郭団体のようだ。その64号に「アイヌ民族保護を訴え続けたジョン・バチェラーの生涯と業績」という文章が寄せられている。

その中で、バチラー自叙伝「我が記憶をたどりて 」 (昭和3年10月発行)の一節が引用されている。

とても良いので、みなさんにも紹介しておきたい。
「世界の文化の進歩は、凡ての人が皆生存権を有して居る様に、あらゆる民族もまた民族としての生存権が明らかに認められて参りました。之は当然なことであります。日本人が米国や其の他で、差別的待遇を受けて居ることを聞く時に、ほんとうに嫌な気が致します。日本は、大いにその非を責め、又世界にむかって人類平等主義を主張せなければならないと思ひます。それをなす前に、同国民であるアイヌ族が持って生れた其の生存権まで奪ひ去られ、山から山へ追ひ込められて、予防し得る病気のため地上から滅び行かんとして居る事に注目され、其の開発向上策に誠意を示さるることを希望致します。 


2.歴史的限界…アイヌ人=「コーカソイド」説

大シーボルトの唱えたアイヌ白人(コーカソイド)説は、現代版「高貴な野蛮人」説である。
欧州各国はアイヌ人を原ヨーロッパ人の共通の子孫と考え、調査団や研究者を派遣した。
彼らはアイヌ人が日本人によって不当な仕打ちを受けていると思った。

これはバチェラーのみの見解ではなく、アイヌ人の中に分け入った当時の白人に共通する感情であった。

これは密やかな白人優位観の発露であったと言えるだろう。

3.伝道実践と思想・信仰の自由

もう一つ、これはマンローとの論争を通じて明らかになったことだが、アイヌ人の保護も然ることながら、根本的にはキリスト教の伝道であり、思想・文化の押しつけと紙一重の行動であったことである。

この辺は非常に難しくて、民主主義の思想がキリスト教の教えと深いところで結びついているために、剥離が困難なところがある。

例えば、戦後の食糧危機を救ったのは米国のキリスト教団体の力が大きかったし、平成天皇の教師を勤めた女性は戦闘的平和主義者のクエーカー教徒であった。

ただ原理的にはアイヌ人の思想・信仰の自由と觝触する可能性はあったということである。



堀辰雄の作品「美しい村」に出てくるレエノルズ先生は、明らかにマンローのことだ。
以下、関係部分を引用する。
私はいつもパイプを口から離したことのないレエノルズさんのことを思い出した。そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。
…それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。ある年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者は誰だれ一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼に帰したことなどを話した、
爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。
――それ以来、老医師はその妻子だけをスイスに帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固に一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。(美しい村)
堀は、1930年(昭和5年)10月に喀血し入院している。その後軽井沢の知人のもとで療養生活を送っている。おそらくそのときにマンローの存在を知ったのであろう。交際した形跡はない。
そして「美しい村」を執筆・発表したのは1933年のことだから、すでにマンローが北海道に転居したあとだ。

堀辰雄の心の「黒い奥底」

“憎まれ通し”というのは創作であろう。その証拠としてあげた火事騒動は二風谷での話だ。
だから堀が、ある意味でっち上げまでしてマンローの悪口を言いふらすのは解せない。
70歳近くなって、北海道の山の中のアイヌ部落へ定着して、現地の人達のために尽くそうというのは、決して“頑固に一人きりで看護婦を相手に暮す”ことではない。少なくとも後ろ指を指すような行いではない。

堀がマンローの悪口を書いた40年ほど前、バチェラーは函館の学生の驚くべき言動を次のように書き留めている。
哀れな者を軽蔑する事は人道に外れた事です。学生達はまるで気狂い程傲慢になって信じ難い事、驚くべき事を申した。実に其点 に於て心の悪い青年だと残念に思いました。
『アイヌ民族は本当の人間では無い。人と犬との混血児だ。人間の子孫で無いから犬程、熊程毛がはえているのだ。言葉はあっても極く僅かで悪い言葉ばかりだ。食べる物は皆何にも料理しない。生のまま食べる。又其外の事も余り野蛮ですから、その中へ行く事は甚だ危険な事 だ』と、斯う学生達は言うのでした。
学生というのは当時の知的エリートであり、もっとも革新的な層を形成していたであろうと思われるが、それにしてこの態度だ。平均的日本人のアイヌ観がいか程であったかが想像される。

堀辰雄の女性観

なにかマンローの女性関係が気になっているようだが、「詩人」らしからぬゲスの勘ぐりだ。「看護婦を相手に」というのも、何か見下した物言いだ。
しかも書いた時点で本人たちは健在なのであるから、失礼千万な話ではある。

私の見るところ、マンローはペール・ギュントのようだ。万年青年で、幾分自己中で放浪癖がある。金には無頓着だ。親兄弟にも無関心だ。女性遍歴は、港々で恋をする懲りない性格の証だ。少々羨ましくもある。

これだけモテるというのは、少なくとも表面的には“良い人”だからだろう。二風谷の住民に最後まで敬愛され続けたのも間違いなさそうだ。臨床医としては理想的な性格かも知れない。
このような人物を「倫理的」に否定しようとする堀の心根には、日本のエリートの浅ましさ、おぞましさを感じてしまう。

主として
ONLINEジャーニー「アイヌと共に生きた男」
を参照しました。
この文章は『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊
を底本としているようですが、実物は未見です。

2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。

実は二度目の訪問しまして、素晴らしい資料を見つけました
歴史館年報
内田順子さんという方の講義録が載っています。
じつは全20ページもあってその場で読む暇はありませんでした。これから道立図書館で探そうと思っているところです。とても詳しい年表が付録でついていたので、それだけ参考にさせてもらいました。

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             晩年のマンロー

1863年

6月16日 スコットランドのダンディー(Dundee)に生まれる。マンロー家は名家で父親も外科医。

1879年 エジンバラ大学医学部に入学。

1882年 ダーウィンが死去。ダーウィンもエディンバラ大で医学を学ぶが、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗ったといわれる。

1883年 マンロー、考古学・人類学に興味を持ち、テームズ川で旧石器の発掘作業に加わる。

1887年 病気療養のため大学を休学。その後チュニジア・イタリアなどを旅行。

1888年 25歳で大学を卒業。出席日数の不足のため学位はとれず。

1888年 スコットランドを離れる。P&O汽船会社と契約し、インド航路の船医となる。

1889年 インド各地を旅行し発掘調査に関わる。父ロバート(56歳)が没するが、国に戻らず。

1890年 マンロー、灼熱のインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船「アンコナ号」(P&O汽船会社)の船医になる。

1890年 哲学に関するパンフレット「精神の物質的基本性質とさらなる進化」を横浜で刊行。

1891年(明治24)

5月12日 病気療養のためP&O汽船会社を辞職。オキシデンタル&オリエンタル汽船会社の「オセアニック号」で渡日。そのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。

8月 デュボワがインドネシアで原始人類の骨を発掘。「ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)」と名付けられる。

1893 年(明治26) 入院先の横浜ゼネラルホスピタルにそのまま勤務。第8代病院長となる(30歳)。その後軽井沢サナトリウムなどで働く。この間東大のベルツらと発掘仲間として親交を結んだと言う。

1894年 日清戦争に日本軍軍医として従軍を志願。外国国籍のため却下。

1895年(明治28) 横浜のドイツ人貿易商「レッツ商会」の令嬢アデレー・マリー・ジョセフィン・レッツ(19歳)と最初の結婚。令嬢は、発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローとは肌が合わなかった。

1897年 一般病院外科担当医師として勤務。(34歳)

1898年 バチェラーの案内で北海道に旅する。このとき春採コタンでの熊祭りを映像に収める。
イソンノアシ
マンローと長老イソンノアシ

1899年(明治32) 

長男ロバートが死去。翌年には次男イアンが誕生。

北海道旧土人保護法が制定される。実際には旧土人収奪法であった。

1900年頃 亜細亜協会主催のマンロー講演会。出席した高畠とくは,マンローの日本史についての誤りを指摘する。トクは柳川藩江戸詰家老の次女。明治維新で零落し、横浜で女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた。

1903年 

横浜ゼネラル・ホスピタルを退職し個人開業。さらに発掘作業に打ち込む。当時最新式と言われたトレンチ(塹壕)方式を採用。膨大な費用を私費で賄う。

夏季 小樽市忍路の環状列石など道内各地を調査。この頃から高畠とくとの交際が始まる。

1904年

4月 二風谷を初めて訪問。その後忍路の環状列石を調査。

研究報告「日本の貨幣」(Coins of Japan)を英国で自費出版。

 
1905 年(明治38年)

1月 東京人類学会に自薦入会。

2月 日本に帰化。 「満郎」家を創立。国内法上、外国人同士が離婚するのは難しかったための「方便」とされる。

3月 日本人満郎として、アデレーと協議離婚。次男イアンは妻が引き取る。

5月25日 マンローが高畠とくと結婚。
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  高畠トクと娘 離婚直後のもの

初夏 早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。旧石器とみられるものを発見。

8 軽井沢で遺跡の発掘調査。

秋 横浜市の三ツ沢貝塚を発見し発掘調査。人骨を発掘(こども1体,大人4体)する。

12 長女アヤメ誕生(英名アイリス)


1906年

7月 川崎の南加瀬貝塚の発掘調査に参加。

英国の王立アジア協会会員となる。

1907年 

5月 「後石器時代の頭蓋骨」を発表。

1908年(明治41) 

2月 マンロー、考古学研究の成果をまとめ、『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)を出版。
権威付けのためにPh.dの肩書きが必要と痛感する。

5月 マンローは20年ぶりに帰国し、エディンバラ大で学位論文審査・口頭試問を受ける。

7月 エディンバラ大で学位論文審査に合格。

8月 ベルリン民族学博物館でトロイ遺跡出土物の計測に当たる。

9月 マンロー、「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。

1909年

4月 とく夫人と協議離婚。まもなくフランス人女性は帰国。この人を入れるとパートナーは5人。

エディンバラ大学より医学博士の学位を授与される。(46歳)

夏 釧路で貝塚の調査に当たる。

1910年

6月 戯曲「宗五郎」を自費出版。

1911年

母死亡。帰国せず。

1912年(明治45・大正1年)

夏 長野県の2つの遺跡で調査に従事。

1913年

ベルツがドイツで死去。マンローに考古学研究費として3千円を遺贈する。

1914年(51歳) 

在日スイス人貿易商で富豪のファヴルブラントの娘アデル(28歳)と3度目の結婚。病院を3年間休職。新婚旅行を兼ねて沖縄・九州 を旅行、発掘調査に携わる。

1915年

6月 アデル夫人を同伴して北海道旅行。釧路市内で発掘調査に当たる。
マンローと二谷

12月 「考古学雑誌」に、「太古の大和民族と土蜘蛛」を発表。

日本アジア協会副会長に就任。

1916年 

4月 日本アジア協会で「アイヌの熊祭り」を講演。英字新聞に要旨が掲載される。

5月 夫人らを同伴して白老に滞在。倉庫を改造して無料診療とアイヌ研究に当たる。

(「1915年 北海道で冷害→飢饉。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛め、研究の合間に無料で彼らの診察を始める。研究の比重は、考古学から生きた人間をあつかう人類学へと移る」という記載があったが、翌年の白老での行動を指しているのではないか?)

1917年 

3月 日本アジア協会で「日本ドンメル時代」を講演。日本の起源問題に触れる。これに対し日本側学者から反論。

4月 結婚3年後、自宅で結婚披露宴を行う。

夏 軽井沢に避暑。この年以降恒例となる。現地で診療も始め、旅館を改装してクリニックとする。
軽井沢での肩書きがどうもよくわからない。クリニックの院長なのかサナトリウムの院長なのか?

北海道庁に、「アイヌに関する諮問」への回答を提出。翌年、公表される。

1918年

2月 哲学書「存在の魂」(Soul in Being)を自費出版。

1919年

11月 ヨコハマ文芸・音楽協会で講演。演題は「真理は見いだし得るか」

1921年

ドイツ大使館侍医に就任。

7月 軽井沢でマンロー医院が開院。

1922年

アインシュタインが来日。マンローは帝国ホテルで会食する。 会見を機に神戸の新聞ジャパン・クロニクルに「知性の謎とアインシュタイン」(The Riddle of Mentality And Einstein)を掲載。アインシュタインに献呈する。


1923年(大正12)

6月 最初の夫人アデレーの父レッツが死去(79歳)

8月 アデール夫人の父ファブルブラントが死去(82歳)

9月1日 関東大震災。マンローは軽井沢で働いていて無事だったが、横浜の自宅は全焼し、これまでの資料、機材等は全滅。

9月2日 万難を乗り越え、横浜に到着。医療救済に全力を注ぐ。

12月 横浜ゼネラルホスピタルを再建。

1924年(大正13) 

妻アデルの実家ファブルブラント家が破産。これがもとでアデルは神経衰弱となる。マンローはアデル夫人をヒステリーと判断し、ウィーン大学のフロイドのもとに治療に赴かせる。

マンロー、横浜の仕事を整理し軽井沢に居を移す。軽井沢サナトリウムの院長に就任する(クリニックは閉鎖?)。
軽井沢サナトリウム

婦長の木村チヨは、日赤看護婦養成所を首席で卒業した秀才。神戸の万国病院で婦長として働いたあとサナトリウムに赴任していた。
その後、二人は特別の関係に入り、チヨはマンローを長年無給で支えた。

1924年の出来事に関する記述は、「ニワトリが先か、卵が先か」論争になっており、前後関係が錯綜し、感情も混じえたものとなっています。

1927年 モンローの考古学研究動向が英科学雑誌「Nature 」に掲載される。

1928年 サナトリウム院長に加藤伝三郎が就任し、マンローは名誉院長に退く。

1929年(昭和4) 社会人類学者で、ロンドン大学教授のセリーグマンが軽井沢を訪問。マンローのアイヌ研究を高く評価し支援を約す。

1929年 アデール夫人からの音信が絶える。

1930年 

5月 セリグマンの紹介で、ロックフェラー財団から助成金を獲得。

11月 マンロー、木村チヨと共に二風谷に滞在。4ヶ月の滞在中にイオマンテ(熊祭り)などの記録映像を残す。この映像に対しバチェラーは、「残酷野蛮な行事を公開するのは心ないやり方」と批判。マンローは「一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ」と反論。

Youtubeで実物を見ることができます。貴重な映像で残酷とは言えません。膨大な制作費が投じられていることは、画面からも伺えます。 Iyomande: The Ainu Bear Festival
熊送り

1931年 

7月 二風谷永住を決意。宅地を購入し自宅建築の準備を開始。

9月 二風谷を訪れ、翌年1月まで滞在。

1932 年(昭7) 

4月 長女アヤメがフランス留学。

6月 邸宅の外側が完成。内部の造作は遅れる。新築の邸宅ではなく借家の方に荷を解く。

9月 チヨと共に二風谷に移る。本籍を移す。このときマンロー69歳であった。研究の傍ら、衛生思想の普及に努め、無料診察を続ける。

12月16日 二風谷の仮住まいが火事に遭い多くの物を失う。資料・医療器具その他すべてを失う「Kimura さんが持ち出した小型のシネカメラ以外に、なにももってくることができませんでした」。狭心症発作で倒れる。

1933年

1月 マンローの製作した「熊祭り」が英国人類学研究所で初上映。

4月 バチェラー、二風谷のマンローを訪問。

4月 バチェラー邸が完成。木村チヨ名義となる。

マンロー邸入り口
マンロー邸入口 この手前がマンロー坂
モンロー邸
湖側に向いた東側面
5月 マンロー、釧路考古学会顧問となる。チヨとともに北海道釧路市を訪れ講演を行う。翌日体調不良をきたし、そのまま軽井沢へと向かう。

7月 フランス留学中の長女アヤメ(アイリス)、現地で病死。

10月 軽井沢での療養を終え、ふたたび釧路に向かう。現地アイヌの調査を行う。

12月 自宅前庭にアイヌ家屋のオープンセットを設営。「カムイノミ」儀式を行い、記録映画に収める。

33年 日本アジア協会、ドイツ・アジア協会、軽井沢避暑団、英国の融資から火災救援金が贈られる。


1934年 

マンロー邸の敷地内に撮影用のチセが建てられる。

夏季 軽井沢で診療従事。活動資金を調達。

9月 「Nature」にマンローのアイヌ研究記事が掲載される。マンローはさらにユーカラをトーキーで撮影しようと企画したが果たせなかった。

1935年 
 
夏季 軽井沢で診療。

「人生の真実、存在の謎」を吉川弘文館より発行。

マンロー邸の前の国道の坂道が地元民によりマンロー坂と呼ばれるようになる。


道庁職員の谷万吉が二風谷のマンロー館を訪ねる。以後、死亡までの困難な数年間を親身に支える。

1936年

3月 久保寺逸彦らが二風谷で「熊祭り」映画を制作。マンローもこれに協力。

夏季 軽井沢で診療に従事。

12月 診療所の開設届を提出し、地域医師会に加入。道庁は診療所を認可する。

1937年(昭和12)

1月 二風谷近くのカンカン沢で石炭が発見される。アイヌの人たちと対応協議。

6月23日 アデールと協議離婚成立。アデルは3000坪の敷地と豪邸を売り払い、マンローの負債も精算したという。

6月24日 ヘレン・ケラーが札幌を訪問。マンローは札幌に出向き面会。

6月30日 木村チヨと正式に結婚。(マンロー74歳、チヨ52歳)
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     マンローと千代

1938年

4月 英科学雑誌「Nature」にアイヌ文化研究記事が掲載される。

10月 不仲だったバチェラーが二風谷訪問。頬の腫瘍の切除を依頼する。これを機に両者は和解。

1939年

1月 「マンローはスパイだ」とのデマが流布。マンローは警察に調査依頼。二風谷を離れるよう強く進める。

2月 イタリア人人類学者のマライー二がバチェラーの紹介で二風谷を訪問。安全のため二風谷を離れるよう強く進める。

8月 軽井沢で診療。近衛文麿の援助のもとで日本古代史の論文出版にこぎつける。

10月 二風谷に戻り、永住をあらためて確認。(76歳)

1940年

岩波茂雄より研究助成金1千円を贈られる。

1941年

12月 第二次大戦が勃発。日本国籍を取得していたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉を余儀なくされる。 

1941年

5月 北大病院で前立腺ガンの診断。手術は不可能と宣告される。(78歳)

6月 軽井沢に戻り診療に従事。10月に二風谷に戻る。

12月 診療を断念、臥床するようになる。

12月 札幌で北大生の宮澤弘幸が治維法違反で逮捕される。宮沢と関係のあったマンローへの監視が強化される。

1942年(昭和17年)

4月はじめ 癌性腹膜炎にて腹水貯留。

4月11日 腸閉塞を併発し死去。79歳。チヨ夫人、高畠トク元夫人、マライーニ、福地医師が臨終に立ち会う。

4月14日 自宅で告別式。聖公会の地元牧師が式を執り行う。

遺体は遺言に従い火葬され、二風谷のトイピラの丘に埋葬される。千代に「アイヌの皆のように葬ってくれるね。土饅頭に名前はいらないよ」と言い残したという。
全コタンの人々も長い葬列に続いた。住民の一人、貝沢正は「外国人がこれだけしょっちゅう来ている中で、特に我々と関係があるのはマンロー先生です」と語っている。
マンロー夫婦の旧墓
マンロー・チヨ夫妻の旧墓
軽井沢には妻のチヨの手で分骨の墓碑が建立される。「医学者兼考古学者 満郎先生墓」と記される。

1946年 アイヌ研究の遺稿はロンドン大学へ送られ、『AINU Past and Present』として発表される。

1974年 長年にわたり博士を助けたチヨ夫人が死去。夫婦で二風谷共同墓地に葬られる。
マンロー夫婦の墓
現在の墓はちょっと…

二風谷の展示がすごい

天気があまりに良いので、今年最後と思い遠出した。

高速から日高に入りそこから二風谷に向かった。紅葉が盛りでというか少し見頃を過ぎていて、落葉を敷き詰めた中に楓の紅が強烈な輝きを示していた。

二風谷は以前から気になっていたところで、瀬川拓郎さんは「アイヌ文化の発祥地」とまで言っている。ユーカラの多くもこの地に伝えられたものだ。

明治以降に訪れた外国人の数も異常に多い。いわば研究者のメッカとなっている。

博物館が3つあって、その中で歴史館というのを選んで入場した。理由はただだからである。
そこしか入っていないので他との比較はできないが、良い施設であった。鵡川から幌尻岳までを納めた、5メートルを超える大パノラマは圧巻である。屋上からの眺めも素晴らしいものだった。

二風谷にはかなり金が入っているようだ。ダムとの関係で建設省から入ったか、故萱野議員の政治力で中央からつぎ込んだか、とにかく町立の博物館とは思えない展示だ。

展示は2つの柱からなっている。これには他の展示施設と比べ際立った特色がある。

一つはアイヌの保存していた、あるいは遺跡から掘り出された遺品の数々だ。

立派な大刀や鉄製品、美しい装飾品、それらは日本人の有力者の持ち物に遜色ない。どうも既存のアイヌ観を一旦捨てなければならないようだ。それらの遺品の多くは17世紀後半の樽前山噴火の前のようだ。

しかもその頃は、広範に畑作が行われていた痕跡がある。狩猟・採集生活と言うより農業が生活の基本だったのではないか。ただし本州に輸出するための鳥獣の捕獲は一種の産業として営まれていた可能性がある。それは現金化され、和人の制作した商品と交換された。

この経済的余裕がアイヌ文化の成長をもたらしたのであろう。

もう一つは明治期に二風谷を訪れた外国人の多さである。




幕末期 国学や水戸学の一部や吉田松陰ら、「日本書紀」の記述を牽強付会。日本が朝鮮を支配していたと主張。これを論拠として朝鮮進出を唱える。背景に朝鮮侵略で、欧米からの圧迫の代償を得ようとしたと言われる。

長州藩の桂小五郎(木戸孝允)は征韓論に基づく日朝提携論を唱え、勝海舟に献策。勝は欧米勢力に対抗する日清韓三国の連合を構想した。(木戸は後に反征韓論に転換)

1864年 国王の後見となった大院君は、清を除く他国との通商・交流を禁止する強力な鎖国政策を開始。

1866年

2月 大院君政権が「丙寅教獄」と呼ばれるキリスト教弾圧。フランス人宣教師9人、朝鮮人教徒8000人を殺害。

7月 米国の武装商船ジェネラル・シャーマン号が大同江へ侵入。座礁した際に朝鮮民の攻撃を受け、全員殺害される。

10月 フランス人宣教師殺害に対し報復攻撃。フランス極東艦隊が1ヶ月に渡り江華島を占領、朝鮮軍と戦う。

1867年

1月 八戸事件発生。「八戸順叔」なる香港在住の日本人が、清国広州の新聞に「日本(幕府)は軍備を西洋化し、朝鮮を征討しようとしている」との記事を寄稿。清・朝鮮の疑念を招く。

3月 徳川慶喜がフランス公使ロッシュに、フランス・朝鮮間の調停を依頼する。

7月 老中板倉勝静から対馬藩へ八戸記事を公式に否定するよう命じる。

11月 徳川慶喜、大政を奉還。

1868年

1月(旧暦で慶応3年12月) 王政復古の大号令。錦旗をいただく明治政府が成立。鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと進展。

1月 新政府は対馬藩を介して発足を通告し、国交確立を望む。朝鮮側は国書の受理を拒否。

これまで外交権を代表する徳川将軍と朝鮮国王は彼比対等の礼をとっていたが、国書は清国皇帝の使用する字句である「皇」「勅」などを含んでいた。

4月 江戸開城。

10月 慶応4年から明治元年へと改元。

11月 新政府、対馬藩を通じて国書を送り、王政復古したことを知らせる。この中で新しい印鑑や「左近衛少将」「朝臣」「皇」「勅」などの文言が含まれていたことから、朝鮮政府は受け取りを拒否。

12月 岩倉具視、木戸孝允らが国書受理拒否の事態を受け朝鮮侵略を画策。戊辰戦争に動員された将士を朝鮮侵略に転用するとともに国民の眼を外にそらしたいと考えていた。

1870年(明治3年)

2月 明治政府は特使佐田白茅を釜山に派遣。国交を求めるが拒否される。

4月 佐田白茅は、朝鮮の対応に憤慨し征韓を建白する。「三十大隊を出兵すれば朝鮮を征服できる」とし、参議の木戸孝允が訴えに共鳴。

7月 薩摩藩士の横山安武が、征韓論の非を訴え諫死(切腹)。

12月 岩倉視察団が出発。岩倉・大久保・木戸の三巨頭と伊藤博文らが1年10か月にわたる外遊を行う。「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と批判される。

1872年(明治5年)

1月(明治5年) 対馬旧藩主を朝鮮に派遣し国交を要請。朝鮮はこれを拒否。

5月 対朝鮮交渉は外務省の専管となり、対馬藩の関係は解消される。

8月 外務大丞花房義質が釜山の日本人滞在施設「草梁倭館」に赴き折衝するが不調に終わる。

1872年 大院君の排外鎖国政策がさらに強化される。これに伴い排日の風も強まる。

1873年(明治6年)

伊達宗城が清に派遣され、日清対等の日清修好条規の締結に成功する。朝鮮は再度の国交交渉呼びかけも拒否。

5月 朝鮮が、釜山の日本人滞在施設「草梁倭館」に日本を侮辱した書を掲示。倭館への食糧供給を拒絶する。

6月 閣議で対朝鮮外交問題を議論。板垣退助は居留民を保護するため兵を派遣するよう主張。西郷隆盛は派兵に反対し、まず大使を派遣し直接交渉するよう主張(遣韓論)。

6月 太政大臣三条実美は、閣議を受け、朝鮮出兵と特使派遣を含む原案を作成。西郷は自身が大使として赴くと主張し即時出兵を抑える。これを板垣・大木・後藤・江藤が賛同。

6月 副使大久保利通、が帰国。そのまま閉居となる。

7月 木戸孝允が帰国。原因不明の脳発作のような持病が出現。そのまま閉居となる。

7月 中国出張から戻った外務卿の副島種臣、遣韓大使の派遣に賛成したが大使にはみずからあたることを要望する。

8月17日 閣議で西郷の遣使を決定。事重大に属するので岩倉大使の帰国を待って熟議することとなる。

8月 三条は明治天皇を巻き込んで決行を抑える。三条の意を受けた伊藤博文がフィクサーとなる。

9月23日 岩倉具視,大久保利通らが欧米視察から急遽帰国。西郷派遣案潰しに奔走し始める。

「10月政変」

10月12日 大久保利通が参議に復帰。副島外務卿も参議兼任となる。大久保は厳しい財政状況の中で戦端を開くのは困難とし、西郷と対決する意志を固める。

10月14日 参議会議。岩倉と大久保は、内政改革・国力充実を急務として出兵・遣使に反対。西郷・板垣・江藤・後藤・副島らと論戦となる。大隈,大木は大久保に同調。
三条は「軍備が整っていない」ことを口実にし、征韓論を受け入れつつ、西郷の派遣を遅らせようと図る。これには岩倉・大久保・木戸が反発し、辞職の構えを見せる。

10月18日 三条は病に倒れる。副島・江藤・後藤・大木喬任の四人で行われた閣議は、岩倉を太政大臣摂行とする。

10月20日 明治天皇が三条邸への見舞いを行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任を命じる。大久保利通の差し金によるとされる。

10月22日 西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、朝鮮遣使を発令するよう談判。岩倉は自らが太政大臣摂行となった以上、自分の意見を奏上するとし、事実上遣使を拒否。

10月23日 西郷、参議を辞任し東京を離れる。

10月24日 岩倉は樺太問題が急務であるという趣旨を上奏し、大使派遣の中止案が裁可される。西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を解かれる。大久保・木戸らの辞表も却下される。

10月25日 板垣・江藤・後藤・副島らの辞表が受理される。以降岩倉・大久保政権となる。大久保は内務省への全権集中を図る。

10月25日 西郷らの辞職を受け、の薩摩系官僚・軍人の約600人もが明治政府に辞職を申し出る。

1874年(明治7年)

1月 岩倉が赤坂喰違坂で旧土佐藩士暴徒に襲われる。軽傷を負うが命に別状なし。

1月 板垣、江藤、副島、後藤らが愛国公党を結成し、民選議院設立建白書を政府に提出する。

5月 宮古島島民の遭難を発端として、初の海外出兵となる台湾出兵。この後大久保は右旋回。木戸孝允は出兵に抗議し参議を辞任。木戸は当初征韓論者であったが、外遊後は反征韓論に変わった。

1875年(明治8年) 江華島事件。李氏朝鮮に対して軍艦を派遣。

1875年 日朝修好条規(江華条約)を締結する。朝鮮侵略の突破口。

1876年(明治9年)10月 熊本県で神風連の乱、3日後に「秋月党」の乱が発生。




征韓論の動きは現在の安倍政権の行動ときわめて類似している。

最大の類似点は、朝鮮政府側に落度がないということである。
もっぱら日本政府側が難癖をつけ、それを口実に韓国に口出しし、手出ししようとしていることである。

もう一つの類似点は、日本側の行動の理由が下心があってのものだということだ。初期の木戸孝允らがあけすけに語っているように、それは戊辰戦争後の失業武士や兵士の不満の、イデオロギー的はけ口として期待されている。もちろんそれは成立したての新政府の基盤強化に役立つであろう。
そして三つ目の類似点が、真の敵である中国やロシアなどとの衝突に備えた橋頭堡としての朝鮮半島の確保である。
これらを一言で言えば、軍国主義・帝国主義の強化だ。

大久保も木戸も西郷と変わるところはない。その攻撃性においてまったく一致している。それをいかに実現するかという手法の違いだけだ。
平たくいうと「食われないためには食うしかない」ということで、それが19世紀後半の世界政治の論理だったというほかない。ただ、「朝鮮人民にはまことに相済まないことであった」という反省は持たなければならない。これがないと、いくら未来志向と言っても、そもそも話は始まらない。

藤原仲麻呂 一代記

706年 生まれる。父は藤原不比等の長男で、藤原南家の祖である藤原武智麻呂(むちまろ)。

707年 文武天皇が没し阿閇皇女が即位。元明天皇を名乗る。

708年 越後国に出羽郡を建つ。新羅との朝貢関係が確定。兵力の奥羽地方への進出が本格化する。

712年 太安麻呂『古事記』を編纂。引き続き諸国の『風土記』編集が始まる。

720年 隼人、大隅国守殺害。陸奥蝦夷が按察使を殺害。

720年 「日本書紀」が完成。

724年 元正譲位、首皇子即位。聖武を名乗る。

725年 内舎人(うどねり)として仕官。

729年
2月 長屋王の変。左大臣長屋王が謀反を計画したとされ自殺。光明子立后をめざす藤原四兄弟がしくんだ事件と言われる。

8月 藤原光明子、臣籍でありながら皇后となる。旧長屋王邸が光明の宮になる。天平と改元される。

734年(28歳) 従五位下に叙され、政治キャリアを開始。

735年 藤原四兄弟はこれまでの軍縮路線を排し、新羅に軍事的圧力をかける外交方針に転換。

737年
9月 天然痘の流行。光明皇后の後ろ盾として政権を担っていた武智麻呂が病死。藤原四兄弟が相次いで病死し、藤原南家の勢力は大きく後退する。

737年 藤原南家に代わり、聖武天皇の意向を受けた橘諸兄が政権を握る。唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用される。この年の租・負稲を免ず。

738年
2月 阿倍内親王が立太子する。橘奈良麻呂は次の皇位継承の見通しを立てるため、別の天皇を求める動きを示す。

738年 藤原式家の藤原広嗣、大宰府に任命される。対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざける狙いとされる。

739年 橘諸兄、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小政策を復活。諸国の兵士徴集を停止、郡司数を減らす。

740年
9月 新羅に派遣した使節が追い返される。大宰府の藤原広嗣は挙兵を呼びかける。

9月 聖武天皇は大野東人を大将軍とし、1万7,000人を動員する。広嗣は九州の兵5,000人を率いて応戦。

11月 潜伏していた藤原広嗣の一族が捕らえられ処刑される。

740年 仲麻呂、「藤原広嗣の乱」の後、政界へ進出する。

744年 第二皇子安積親王が難波宮に行啓。途上、脚気になり急死。藤原仲麻呂に毒殺されたという説がある。

745年 聖武天皇、流転の末、都を平城京に戻す。大宰府も復置される。

746年 仲麻呂は従三位となり、官吏の選叙と考課を握る式部卿に就任。この後、仲麻呂は人事異動を行うことで自派勢力を拡大。左大臣橘諸兄の勢力をしのぐようになる。

747年 大養徳国を大倭国に改称。

749年 聖武天皇が譲位。仲麻呂の従兄弟に当たる孝謙天皇が即位する(光明皇后は叔母に当たる)。仲麻呂は紫微中台(皇后宮)の長官となり、光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立される。

752年 大仏開眼供養会。会の後、孝謙天皇は仲麻呂の私邸を暫時御在所とする。

753年 遣唐使の藤原清河、唐朝で新羅と席次を争う。

755年 橘諸兄が朝廷を誹謗したとの密告。諸兄は左大臣を辞す。

756年
5月 長年、諸兄を引き立ててきた聖武天皇が崩御。

756年 大宝律令にかわって養老律令が施行される。唐制の徹底した模倣を図る。開基勝宝・太平元宝・万年通宝を新鋳。

757年
3月 孝謙天皇、聖武上皇の指名した皇太子の道祖王を廃位に追い込み、舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とする。

5月 橘諸兄の子の奈良麻呂、天武天皇の孫を擁立して反乱を企てるが発覚。443人が処罰される大事件となる。

758年
2月 藤原仲麻呂の意向により問民苦使(もみくし)制度が発足。「民の苦しみを問う」ことを理由とし、動揺する地方情勢の鎮静化を図る。

8月 孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位。仲麻呂の一家は姓に恵美の二字を付け加えられ、仲麻呂は押勝の名を賜与される。

759年 仲麻呂、新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、新羅征伐の準備をはじめる。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画を立案。諸国に常平倉を設置する。

11月 保良宮(ほらのみや)の造営が決まる。平城京の陪都として大津石山に造営を企図。唐の5京や天武天皇以来の複都主義にもとづく構想。新羅出兵に伴い軍事的な備えとしての遷居と言われる。

760年
1月 中麻呂、人臣として史上初の太師(太政大臣)に昇格。

6月 光明皇太后が崩御。後楯を失った仲麻呂にとって打撃となる。

761年
10月 保良宮が完成し、孝謙上皇らが移御する。平城京に対して北京とも呼ばれる。

762年
初め 孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになる。

5月 淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙は平城京に入らず法華寺に住む。孝謙上皇は淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明。

6月 「国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言。道鏡への寵愛を深め、淳仁と押勝に対立するようになる。

763年 孝謙上皇、道鏡を少僧都とする。孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立が深まる。

764年
9月初め 仲麻呂、都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと図る。

9月11日 孝謙上皇、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を回収。仲麻呂は鈴印の回収を図るが、孝謙方に先手を打たれ敗退。

9月11日 仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、地盤となっていた近江国の国衙を目指す。吉備真備の率いる討伐隊が追い、越前方面を制圧。

9月15日 愛発関の突破をはかる中麻呂軍と守備隊が激突。中麻呂軍は敗れ、近江国高島郡三尾まで後退。

9月18日 三尾の城が落ちる。仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだして逃れようとするが、勝野の鬼江で捕らえられて斬首される。(59歳)

10月9日 淳仁は廃位され淡路国に流された。代わって孝謙が重祚する(称徳天皇)。

766年 道鏡が法王となる。

770年 称徳天皇が没。道鏡は下野国に左遷される。

wikiの仲麻呂の記事を中心に、時代背景を書き込んだ。

事実の重み付けはなかなかできないが、今の時代と重ね合わすと、まさにミニ覇権主義の復活と思われる事態が進行していたようだ。

対外政策としては天智政治の復活と言える。つまり中国とは戦わず、新羅に対して臣従を求めるという態度だ。

ただし天智政府は、それを半ば中国から押し付けられた形で選択したのだが、仲麻呂政府はそういう理由とは思えない。むしろナイーブな中国賛美と、朝鮮を統一しすでに日本を上回るような強国となった新羅に対する由緒のない優越感、さらに半島への再侵攻さえも夢見るような攻撃性が見て取れる。

おそらく天武政権以来の権力の集中が強固となり、東北地方への進出がかなりの力の蓄積となったことが、自信になっているのだろう。しかし、8世紀なかばの東アジアの力関係の中で、中国との力関係も不確実な状況の中で、これはあまりにも安易な判断だ。

しかし壬申の乱を包んだ、あの痛いほどの緊迫感はそこにはない。天武の成し遂げたあの大胆な路線転換、すなわちとうと対決してでも日本の独立は守る。そのために仇敵新羅との連盟もいとわない、という決意とは似て非なる夜郎自大である。

それが大方の不信を買った。だからこそ思いもよらぬみじめな自滅に追い込まれたのではないだろうか。


弥生時代年表

2003年に国立歴史民俗博物館の「衝撃と困惑」の研究発表があり、弥生時代の始まりが500 年ほど古くなった。どうでもいいといえばどうでもいいのだが、かなり書き換えが必要となる。
率直に言って、弥生の幕開けがBC1000年とか、板付Ⅱ式や吉野ヶ里がBC700年と言われても相当抵抗がある。さらに新旧の記載が混在するので、入門者は相当困惑するだろう。

Cf: キーリ 「AMS による縄文・弥生時代の年代観」


弥生分類

絶対年

考古学的イベント

歴史

縄文晩期

BC1200年ころ~

黒川式


弥生早期

BC1000年ころ~

水稲作が伝来。
最古の水田(板付遺跡

 

早期前半




早期中葉




早期後半

糸島市曲り田遺跡(縄文晩期)
唐津市
菜畑遺跡、福岡市板付遺跡の夜臼式土器

弥生前期
(Ⅰ期)
前半

BC700年頃

国が出来、環濠集落が造られる
支石墓・甕棺墓
板付II式、遠賀川系土器文化

弥生前期
(Ⅰ期)
中葉


吉野ヶ里遺跡のはじまり

弥生前期
(Ⅰ期)
後半





BC300年頃

燕が東方進出。中原の鉄器文明が拡散する。

弥生中期

BC300年頃

九州北部に細形銅剣と銅矛が伝わる。鉄斧も出現。

 

II~III期・前半 

 

須久Ⅰ、Ⅱ式。
北九州では甕棺墓が流行。

 


BC195


衛満が衛氏朝鮮 を始める
II~III期・中葉
磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡


BC108


衛氏朝鮮が滅ぶ。楽浪・臨屯・玄 菟・真番の4郡を設置
IV期・後半 BC100~

倭に100以上の小国が存在する(漢書-地理志)

 

BC52 和泉市の池上・曽根遺跡が年輪年代法で確定
弥生後期

AD50~



V期前半 西日本から関東にも環濠集落。瀬戸内各地に高地性集落

57
 
 

 

V期中葉

AD100~



 

107
 

 

 

146 - 189
 

 

V期後半

AD200~



 

239
 

 

卑弥呼が朝貢。親魏倭王の称号と金印を授かる

 

247
 

 

邪馬台国狗奴国王卑弥弓呼と戦争。魏は倭に遣使し檄を与える

 

248

 

卑弥呼の死。男王が即位するが国内は混乱。台与が女王となる 

古墳時代

250~

弥生時代終わり、古墳時代へ



250ころ

奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡環濠を持たない。掘立柱住居。

 

266年

 

倭の女王、晋に遣使する

 

300年


 

 



弥生時代後期の青銅祭器の分布から分かること

引き続き「野洲川下流域の弥生遺跡」のページからの紹介である。

弥生後期の図に移ろう。
kouki-symbol
弥生後期も祭器分布の基本構図は変わらない。北部九州の銅矛対近畿東海の銅鐸である。

これに対し出雲から吉備にかけての模様が著しく変化する。

第一に、銅剣文化が消失していることである。出雲の中細形銅剣も吉備の平形銅剣も出土しなくなる。

第二に、銅剣を捨てた銅剣人が、墳墓という独自の文化を作り始めたということである。
中細形銅剣を作った出雲の銅剣人は、四隅突出型墳丘墓を作り始めた。平形銅剣を作った吉備の銅剣人は双方中円墳を作り始めた。

第三に、銅剣人とかぶっていた銅鐸人は姿を消し、東方に後退していることである。まさに妻木晩田遺跡であり、青谷上寺地遺跡である。
この地域においては銅剣人が銅鐸人と争い、それを支配下に収めたのであろう。

第四に、四隅突出型墳丘墓は高句麗など北方由来の墓型であり、これが吉備に入って土盛りの双方中円墳に発展したと見られることである。
これは吉備地方で大規模土木・灌がい工事が始まり余剰土砂が大量に算出されるようになったことを示す。そしてこの双方中円墳が前方後円墳へ発展していくのではないだろうか。

私は3世紀中頃に巻向に出現した天孫族は、この吉備の分家筋の銅剣人ではないかと推測する。

本家筋の銅剣人は日本海岸に東進し越前・越後へと達する。さらに一部は若狭から近江・美濃・尾張へと進出し、一部は信州から上毛へと進出していく。

なお、銅鐸については弥生中期に一旦消滅した後、後期の初めに大型の「見る銅鐸」として復活したという説があり、もしそうなら、中期の銅鐸と後期の銅鐸は同じ流れの存在とは言えなくなる。この問題は今回は保留する。

銅矛についても弥生時代後期の北部九州の信仰のシンボルと言ってよいかは疑問が残る。

少なくとも北部九州においては弥生後期にはすでに完全な鉄器の時代に入っている。だから強さのシンボルであるならそれは鉄剣でなくてはならなかったのではないだろうか。

いずれにしても、基礎知識の不足を痛感する。すこし銅鐸、銅矛について勉強した上でまた発言していきたい。

弥生時代中期の青銅祭器の分布から分かること

野洲川下流域の弥生遺跡 というページに大変面白い図があったので、紹介させてもらう。


この図が弥生時代中期の青銅祭器の分布である。

tyuuki-symbol

弥生時代中期の実年代については、

中期前半の須玖Ⅰ式が前325~前230年,中期後半の須玖Ⅱ式古が前230~前45年という年代幅をもつ

ということなので、BC300~BC50くらい、と想定しておく。特にBC102年の衛氏朝鮮の崩壊と漢の占領、楽浪郡の設置という大事件を間に挟んでいることに注目しなければならない。
とにかくBC50くらいには天孫族の支配がすでに始まり、「倭国、分かれて百余国」の状態に至っていたということだ。

1.3つの青銅文化圏

この図では、興味あることに日本が3つの青銅文化圏に分かれている。

すなわち九州 を中心とする銅矛圏、近畿を中心とする銅鐸圏、そしてその中間の境界部に挿入された銅剣圏だ。それは弥生中期の日本に銅矛人、銅剣人、銅鐸人が併存したことを意味する。

これまで和辻哲郎以降、銅剣vs銅鐸と考えてきたのとはだいぶ話が変わってくる。“重複部”をたんなる境界部として考えるのか、独自の銅剣圏として考えるのかが、問われることになる。


2.銅矛文化は銅鐸文化を押しやる形で侵入した(はずだ)

世間には九州からも銅鐸が見つかったことで、2つの文化圏を分けるのは無意味だと主張する人がいる。私はそれこそナンセンスだと思う。

銅鐸文明が九州にあるのは当然だ。そもそもそれは朝鮮から九州 を経由して西日本へと拡散していたのだから、むしろ九州 にないと困るくらいだ。

むしろ問題は逆に、どうして九州に銅鐸がなくなってしまったのかということだ。それは銅矛を祭器とする人々が後から入ってきて、彼らが銅鐸文化を排除したからだと考えるしかない。

だからこの分布図から、私たちは時間経過を勘定に入れて考えることになる。つまり銅矛人が弥生中期の初めに渡来して、銅鐸文化はそのために東にシフトせざるを得なくなったということだ。

注意すべきは、それが、銅鐸人(長江人)そのものが排斥されたということではなく、銅矛人が支配者になって万世一系思想を流布し、銅鐸文化を排斥したことを意味するということだ。

それは朝鮮半島南部で、高天原の天孫族がイザナミの豊葦原中国・大八洲を制圧し、垂直型信仰に習合したのと同じ方式だ。


3.重複部であるとともに独自の銅剣圏

それともう一つ、2つの文化圏の中間に出現した銅剣文化は、どちらの文化とも異なる「第3の文化」の可能性がある。

この分布図に従うと、島根-高知線で銅矛圏と銅鐸圏はかなりクリアーに分かれている。これは銅矛が進出すればその分銅鐸が退くという関係にあったことを示している。そして大阪湾に銅矛圏が飛び地的に進出している。

それはそれで良いのだが、そういう関係の中に突如、銅剣文化が刺さりこんだ形になっている。これが紀元前後の日本の特徴なのである。

この銅剣地帯は2つに分かれている。出雲を中心とする中細形銅剣と、瀬戸内中部の南北両岸の平形銅剣地帯である。平形銅剣は中細形の発展・派生型と思われる。

この南北2つの銅剣地帯は、とりわけ銅矛地帯を両断する形になっている。

4.銅剣と銅矛はまったく異なる

いろいろあるが、強調しておきたいことは、「銅剣と銅矛とは違うものだ」ということだ。先日国立博物館に行ってみてきたのだが、研究者は銅剣と銅矛を同一視していることがわかった。しかし銅矛のパッションはまったく違う。これは武器ではない。これでは絶対人は殺せない。

まずは一度、銅矛の思想というものを受け止めないとこの話は進まない気がする。



これが弥生時代中期に起きたことなのだ。この時代には大変なことが起きたのだ。

弥生後期の分布図とそれについての感想は、長くなったので新たに稿を起こすことにする。

以前からヤマトに神話はなく、出雲神話からの借り物ではないかと思っていたが、「古代出雲を歩く」(平野芳英 岩波新書)を読んで、ふと感じた。
少し長めに引用させてもらう。
国土として引き寄せてきた最初の土地は、去豆の折絶から西の、支豆支の御埼、すなわち出雲大社のある島根半島の西端の山並である。八穂尓は「八百丹よし」で、たくさんの丹(赤土を杵で突きかためて築くという意味から、築きの枕詞…
 こうして引き寄せてきた支豆支の御埼を、命は出雲の国と石見の国の境にある佐比売山(現、三瓶山)に、引き綱を固定してかためたのである。
ということで、出雲国風土記の現代語訳だが、訳されてもなおかつわからない。

著者の解説によると、去豆の折絶から西の、「支豆支の御崎」は“きずきのみさき”と読む。島根半島西端の「日御碕」(ひのみさき)を指すのだが、風土記では岬の先端だけでなく半島の脊梁山地の西3分の1を含んでいるらしい。

「去豆の折絶」は“こずのおりたえ”と読む。これは「支豆支の御崎」山塊とそれより東部の山塊とを距てる谷筋を指すもののようである。

この手の本はいつも、本筋と関係ないこのような情報に悩まされる。かと言って読み飛ばしていくと、後で本筋も見えなくなってしまうから厄介だ。

本題に戻ろう。

つまり「日御碕」と「支豆支の御崎」とでは、ちょっと範囲が違うのである。いわば「日御碕」は岬であり、一つのポイントなのだ。しかし「支豆支の御崎」は岬を含んだ一つの塊なのだ。
鼻高山
 おそらく鼻高山が「支豆支の御崎」でその東の低地が「去豆の折絶」ではないか

これが国引き神話との関係では重要になる。

「支豆支」は万葉仮名で字そのものに意味はない。“築き” に音を当てただけだそうだ。つまりこの御崎は自然のものではなくて築いたものだということになる。

もちろんそれは神話であって、新羅の御崎を引っ張ってくるなどということはありえない。しかし、とりあえずそれについては争わない。

一番肝心なことは“築く”という所作に該当する枕詞があって、それが「八百丹よし」ということなのだ。

それが、“支豆支の御碕” に一体化していく。いわば島根半島西部の山塊全体の枕詞となっていたtのではないか。


「青丹よし」という言葉の解説にはいろいろなことが書いてあるが、一つ根本的な疑問をスルーしているように思えてならない。水が青いように、丹というのは赤いのである。青い丹があるたかのように言うのは、あまりにも強引ではないか。

ということで私には、「青丹よし」という奈良の都にかかる枕詞は、出雲の国引き神話の「八百丹よし」がなまったものというのが、もっとも自然な解釈ではないかと考えられるのである。

それは、古事記や日本書紀の神話部分の源流が出雲系の渡来人にある、という説を補強するものとなるであろう。つまり近畿地方はまず新羅系天孫族に占領・支配され、その後神武により征服されたものの出雲人が支配する国家という枠組みはそのまま存続したのではないか。


久しぶりにしっかりしたY染色体ハプロの話に出会った。
Y染色体で探る日本人の起源」というブログ記事である。

「0.プロローグと案内」という記事が2016-04-24にアップされているので、記事そのものが新しい。
以下5本の記事が並ぶが、この後は制作中となっており上梓されていない。最終記事が2016-04-25となっているので、このまま中断の可能性もある。

といっても、「0.プロローグと案内」は目次が書かれているだけだ。次の「Y染色体で探る日本人の起源 1.知識編」も取り立ててこれと言った記載はない。

ということで、「2.世界のY染色体」に入る。
最初に、英語版wikipediの展開地図の画像が転載されている。
これに対する著者の批判が加えられる。最大の問題はこの地図が古いということだ。使用されているラベルが以前のものであり、最新の成果が反映されていない。

ここから本論に入る。

世界のY染色体ハプログループ

① 出アフリカ共通祖先から生まれたのがCとFの共通祖先CFと、DとEの共通祖先DEである。
② Dの集団は東に向かった。Cは世界に拡がり、日本人にも少なからずいる。
③ Fはインドのドラヴィダ人にいる。FはGからTまでの共通祖先となっている。
④ G~Jは現存数は少ない。Kはまばらに存在するが、LからTの共通祖先である。この時期は人類にとって試練の時期であったようだ。
⑤ NOになって現存人につながる人口は爆発する。Nは北欧を含むユーラシア北部に多い。数的には中国が最多である。
⑥ Oは東アジアで最大の人口を持つ。
⑦ Rはロシアなど東ヨーロッパとインドに多い。

この辺の記述は崎田さんの本にはなかったものだ。世界はそれなりのスピードで進化しているらしい。
それらは十分推測できるものであった。とくに多くの人種がイルクーツクからシダレヤナギのように落ちかかってくる図は、展開的に見てありえないということが予想された。


日本人のY染色体ハプログループ構成

ついで次の記事に移る。ここでは各論文の合算データを作成している。
日本人Y分布
転載させていただく。気がついたことを列挙すると、

① 北海道のDが多い。予想外にアイヌ系のYが反映しているかも知れない。サンプル数としては十分だが…
② O1b2は長江系でいわゆる弥生人である。2種の別は半島から渡来した順であろうと思う。47zは韓国で少ない。こちらが先着と思われる。O1a、O1b1はコンタミのレベル。(注によると、現在は47zではなくCTS713というらしい)
③ O2は朝鮮半島北部~遼東から降臨した、いわゆる天孫族と思われる。中国地方に多いのは新羅からの渡来、いわゆる出雲系天孫族と思われる。
④ C1a1は4万年前にナウマンゾウを追って朝鮮から渡ってきた旧石器人の末裔だ。アイヌにも韓国にもいない。
⑤ C2はアイヌではオホーツク人を反映する。本州では、朝鮮半島東岸からのいわゆるツングース系の渡来を意味する。

お願い。利用できる日本人のY染色体データの情報求む!

と書いてあるが、本当にそう思う。どうしてこんなに少ないのか。これっぽっちのデータで偉そうに物を言うのは、本当は恥ずかしいことなのだが。

35000年ほど前からいたハプロD集団

このあと、記事はトリビアルな話題にスピンアウトしていく。

とくにD1b系統はほぼ日本限定の存在。このあとDグループの痕跡を求めるが、あまりに煩瑣なDの経路問題は煩わしい。

結論としてはCグループの弟分として広がったと考えるほかない。

であればCがどういう経路をとったかであるが、これは南方系が有力である。

先程の話の続きで言えば、CF、DEのうちEはアフリカに戻り、Fはインドに残り、Cがアジア南方に進出した。おそらくDはCと行動をともにしたと思われる。

それ以上は、目下は不明というほかない。推論には節度が必要である。


氷河期が終わるまでにやってきた人々2 C1

C1に関する議論は行きつ戻りつする。Dに先行していたかも知れないとか、南方系由来かも知れないとか、九州南部の縄文文明の担い手だとか、面白いがとりとめがなく根拠もない。

このあと記事は途切れてしまう。



私の感想 

D人がいつどこからやってきたのかが最大の焦点


ここを外してしまったのでは、話の焦点が合わなくなる。

考古学的に見れば、縄文人の祖先となるD人は、2万5千年前(最終氷期)に間宮海峡→樺太→北海道→本州と南下してきたと考えられる。
それより前のことはわからない。その痕跡は大陸側にはまったくないからである。Y-系統樹からはまったく説明がつかないが、黒曜石や細石刃など、考古学的には論証可能である。

C1人はD人以前に先住していた

ただ、そうだとすると説明が難しくなる問題がいくつかある。

最大の問題は、4万年前に信州~関東平野で大型獣を獲物としていた先住者である。私はこれはC1人だろうと考える。彼らはD人が南下してきた頃に絶滅の危機にあった。長いボトルネックの時代を経て日本人のYハプロに何らかの痕跡を留めるほどの割合で生き延びた。

彼らはどこから来たのかわからないが、朝鮮(当時は半島ではなくユーラシアの東端)から渡来したと考える。

ヨーロッパにもC1人がいると言われるが、CとかDは変異の確率が低い。だから出アフリカから極東まで長い期間C1のまま到着したのであろう。であればエデンからヨーロッパまで同じC1のまま移動したとしてもありえなくはない。(争うつもりはないが)

九州南部の縄文文明をになったのがD人なのか、C1人なのかはとりあえずどうでも良い。もちろん確認できればそれに越したことはないが…

留意すべきは朝鮮半島の形成期である1万5千年~1万年ころに、朝鮮半島が無人の野であったことである。


高天原=朝鮮説の系譜

私が日本書紀を読み解いて高天原・大八洲朝鮮説を書いたが、じつはこの考えは以前からあったもののようだ。

ネット上の文献を拾ってみる。


これはウィキペディアの項目の一つとなっている。
慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。「天津神が住む高天原」と記載されている。

韓国側の主張らしいが、根拠はほぼ語呂合わせレベルである。

2.宮崎からの移住説


これは九州南部の縄文文明が鬼界カルデラ爆発を受けて朝鮮に渡ったというものだ。
可能性としてはありうるのだが、「日向に住んでおられた天皇家のご先祖も朝鮮半島に渡られた」となるとさすがに「見てきたような」話だ。

神話の系統、ハプロタイプなどからは否定される。

3.古田史学
高天原は朝鮮南部にあり、日本に渡洋攻撃を仕掛け、ニニギノミコトが九州北部に“降臨”し出雲を国譲りさせた。
というのがあらすじだ。
ほぼ妥当だと思うが、「芦原中つ国」と高天原とを同一視するのは、合点がいかない。
天つ国を"海人(あま)族"の住んでいる地域と読み込むことにも疑問がある。


ということで、3が最も有力だ。というよりほかは学説の名に値しない。それ以外にも、あまり強い根拠はないが、南部朝鮮説を示す文献はかなりある。
もちろん考古学的な裏付けのない話なので、どうとでも言えるのだが。内地の各地を比定する説に比べれば妥当性は高い。




千秋論文に学ぶ

以前にも造山帯の話は勉強した。
遡行的に議論すると、

1.日本列島は千島列島や沖縄・南西諸島、アリューシャンのような花綵列島ではない。
それはユーラシア大陸の東縁にできた山脈が大陸より分離したことで形成された。
2.日本列島は当初は朝鮮海峡を開口部とする日本半島だった。
この山脈は太平洋プレートの潜り込み→ユーラシア側の盛り上がりでできたのではない。
3.この山脈は南中国大陸が北中国大陸に衝突し潜り込むことによって、その境界線上に形成されたものである。(ということは、上位だから新しいというわけではない)
この境界の上位面上に形成されたのが朝鮮半島の小白山脈である。
4.小白山脈も、日本列島が分離したあとユーラシア大陸の東縁を形成した可能性がある。
その後東シナ海の進出により、日本列島と同様に、独自の半島を形成したのかもしれない

千秋博紀 「超大陸と日本列島の起源」より 地学雑誌 2011


Ⅰ.はじめに

日本列島は海洋内島弧ではなく、大陸縁の造山帯が押し出され、分離したものである。

II.日本列島は南中国大陸に属していた

日本列島の本体は南中国地塊の南縁に由来する。

宇奈月帯が南中国地塊の北端であり、その上位の飛騨帯は、北中国地塊由来である可能性がある。

その上位に隠岐帯、さらにその上位に朝鮮半島が重畳し、これらはいづれも北中国地塊由来である。 

III.日本海の拡大と飛騨・宇奈月帯の移動

わからないので略

IV.超大陸の歴史

1) 超大陸はなぜできたか

これまで地球史を通じて下記の超大陸が出現している。

a)ヌナ(コロンビア)超大陸(18–19 億年前)

b)ロディニア超大陸(6–10 億年前)

c)ゴンドワナ超大陸(3.5–5.4 億年前)

d)パンゲア超大陸(2–3 億年前)

このうち、パンゲアについてはいくつかの批判を経て以下の結論となっている。

地球上のすべての大陸が完全に一つになるという必要性はないし、すべての大陸
が完全に一つになるかどうかは問題ではない。

問題は、それがきわめて偏ったマントル対流様式の存在を示しているということである。

アジアコールドスーパープルームという巨大なマントル下降流が生じた。これは東大平洋の下降流とインド洋東の下降帯がインドネシア近辺で衝突し重複下降する事象である。

2)超大陸はなぜ分裂したか

スーパープルームは一方でマントル上昇流をもたらす。

これにより大陸は分離し膨張し、結果として海水(特にインド洋)の侵入を許すことになる。

XI.議論

日本列島の地史が先カンブリア時代にさかのぼることはわかっている。しかし初期の段階を議論するための情報は乏しい。

日本列島の歴史は 20 億年近く前までさかのぼる。

日本海の誕生はごく最近の 2000 万年前であり、日本列島の地史の 99%以上は中国大陸と一体化した歴史である。

北中国と南中国が衝突したトリアス紀の衝突型造山帯の空間分布の追跡と韓半島への連続性,日本列島への連続性の研究は重要である。



マイペディアで
別名は伽耶をはじめ加耶,伽倻,加良,駕洛,任那など多数あるが,いずれも同じ国名を異なる漢字で表記しようとしたためである。
と書いているが、なぜが欠落していて、とても説明にはなっていない。「つまりそういうことなんだよ」と言われても、どういうことなのかはわからない。

田中俊明『古代の日本と加耶』2009 日本史リブレット70 山川出版社(ウェブサイト「世界史の窓」からの重複引用)
にこう書いてある。これはなかなか説得力がある。
朝鮮古代史の基本史籍である『三国史記』ではおもに加耶が用いられる。加耶 ka-ya は加羅 ka-ra の r 音が転訛したもので朝鮮語ではよく見られる。
ということで、伽耶(かや)は加羅(から)が10世紀近くを経て、朝鮮語風になまったものと見ることができる(スペイン語の -lla と同じ)。もしこの学説が証明できるのなら、韓国の学者も当時の用法「加羅」を使うべきであろう。

ウィキペディアには、私の一番知りたい疑問「なぜ、日本語文献では加羅が表に出てこないのか、本当に加羅と伽耶は単なる言い換えに過ぎないのか」
についての答えがない。
そこで他の文献もあたってみることにした。

ブリタニカ→コトバンク

『三国志』魏志東夷伝によれば、古代の南朝鮮地方には諸韓国が分立していた。
そのなかで代表的なものは南北2国あり,
南がいわゆる「任那加羅」、または「金官加羅」である。

「広開土王碑」文に登場するのは「任那加羅」である。

532年、金官加羅は新羅に併合された。

北方の代表的な国は「高霊加羅」あるいは単に「加羅」とも呼ばれた。

562年、「高霊加羅」は残存の任那諸国とともに新羅に併合された。これが『日本書紀』でいう「任那の滅亡」である。

これは多くの本に載せられている経過である。しかしどうも、これがスッキリしない。

「または」とか「別名だ」というのだが、本当にそうなのだろうか。加羅=伽耶=任那とそうかんたんに言えるのだろうか。

マイペディア・世界大百科事典

マイペディア・世界大百科事典→コトバンクの表現は、より断定的である。

日本書紀の「任那」は諸小国の総称であるが、任那は本来金海加羅を指す。

以上のごとくであるが、これではまったく納得できない。中国の史書が一度ならず、これだけ明確に二つを使い分けているのに、それについて口をつぐんで、事実上同一視するのは歴史への冒涜とすら言える。

高校の教科書

山川出版社の教科書『詳説日本史』では、「
日本書紀では加耶諸国を任那と呼んでいる」と書いてあるらしい(世界史の窓」からの重複引用)。加羅ではなく伽耶と書いた理由は不明だ。もし加羅の言い換えであれば、これは不正確だ。少なくとも倭の五王のくだりでは任那と加羅はしっかり書き分けられている。


伽耶  または加羅、または加羅諸国

ウィキペディアの記載はわかりにくい。

広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。
洛東江流域を中心として散在していた小国家群。

金石文である広開土王碑文と中国文献で確実な事実を表すと下記の如くなる。

414年 広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初

438年 『宋書』のこの年の条に 「弁辰」が消えて「任那」が登場。

451年 『宋書』のこの年の条に倭王済が「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けられたとの記述。

478年 宋朝が倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授ける。

537年 中国梁国の史書「南齊書」では、「加羅國、三韓種也」とされる。

629年 『梁書』が成立。「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。

660年 『翰苑』が成立。新羅条に「任那」が登場。その註に伝聞として、「加羅と任那は新羅に滅ばされた」とある。

801年 『通典』が成立。新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。

どういう地理関係にあったかは別として、とにかく同時に併存した別個の国だったことは間違いない。

問題は、これだけ存在が確実である「加羅」が日本の文献にほとんど登場しないことである。

加羅と三韓

あまり深読みしてても仕方がないが、「加羅國、三韓種也」とあるのは任那と加羅・秦韓・慕韓とは、すこし国としての扱いが違うのかも知れない。

つまり、任那は百済や新羅と同じ扱いで、加羅は半島南岸にわずかに残った旧三韓の名残りと見ることもできる。

少なくとも中国はそうみていた。とにかくこの基本線を踏み外してはいけない。

高久健二 「楽浪郡と三韓の交易システムの形成」
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報 第6号2012年3月

学習ノート

紀元前2世紀初頭 燕の武将衛満が古朝鮮の準王を退けて衛満朝鮮を建てた。亡命漢人政権であり、前漢王朝の外臣として存続した。

衛氏朝鮮の成立後、青銅器、鋳造鉄器など燕の文物が持ち込まれる。

紀元前150年ころ 半島南部地域は三韓の勢力が残存。原三国時代を形成する。慶尚南道を中心に木棺墓の墳墓群が形成される。

紀元前109年 朝鮮王右渠が漢への入朝を拒む。

紀元前108年 王険城が陥落。漢は朝鮮半島に楽浪・真番・臨屯・玄菟郡の四郡を設置。
遺物の構成から見て古朝鮮=王険城=楽浪郡都=平壌及びその周辺と考えられる。

紀元前100年ころ 原三国地域とくに辰韓(嶺南、現在の慶尚道)で、八達洞遺跡、茶戸里遺跡、良洞里遺跡など。楽浪との交易拡大による。

紀元前45年 郡県の再編成を契機とし
て楽浪郡は発展期を迎える。「楽浪郡初元四年県別戸口簿」 によれば、この頃の楽浪郡の戸数は43,835戸に達する。

三韓諸国の首長層は外臣として取り込まれ、「臣」と自称する。前漢王朝への朝貢は支配者間の格差を拡大する。

紀元前l世紀中葉~後葉 北部九州で前漢鏡が護棺墓に副葬されるようになる。楽浪郡・三韓・倭を結ぷ長距離交易ルートが確立したと考えられる。

紀元後 2 年 『漢書』地理志によれば、楽浪郡の戸数は62,812戸である。

この論文の良いところは、三韓地域を3つに細分したことである。

三韓地図

短距離交易地域
楽浪と近接した距離にある京畿・嶺西地域(現ソウル周辺)である。馬韓との中間地域で、後に百済が興った地域である。

中距離交易地域
日本海側に位置する領域。現江原道。

長距離交易地域
弁韓と辰韓をふくむ地域で、嶺南地域(現慶尚道)と呼ばれた。
洛東江をさかのぼり、倭館からは険阻な小白山脈を越えて、南漢江を下って、京畿地域へと至るルートが想定され、特定の漢式遺物が集中的にもたらされたと考えられる。
なお馬韓地域(全羅道)には、この時期のものとして見るべき遺跡はない。

衝撃的な図を見つけた。
平凡社「韓国歴史地図」という本で、2006年の出版。3800円もする。
この最初の方の図版がこれだ。

朝鮮半島

植生はとりあえず置くとして、1万5千年前までは朝鮮半島は存在しない。おそらく中国大陸の東が裂けて、黄海と渤海湾が形成されたのだろう。
1万年前にはほぼ現在の形が出来上がっている。その後の変化は台湾島の形成とスンダ大陸の消滅くらいだ。
かなり荒っぽい地図だということはわかる。「現在」という図は日本列島やフィリピン諸島が一塊となっている。
しかし朝鮮半島が形成されたのが1万2千年前、西暦でいうと紀元前1万年ということは、本文中にも明記されている。

もしこれが事実なら、これまでの先史時代の評価には相当の検討が必要となる。黄河は現在の黄海をずっと南下し(あるいは淮河の河道を経由して)東シナ海に開いていたのかも知れない。朝鮮半島南部の長江人は渡来したのではなく、もともと定住していたのかも知れない。

とにかく対応する日本側文献を探さなくてはならない。

出雲の国譲りをもう少し突っ込む

目下のところ私の妄想に過ぎないが、イザナギ・伊邪那美の作った大八洲と豊葦原中国はいずれも朝鮮半島南岸地域だと思う。
そこには九州から渡った晩期縄文人が住み着いていた。そこに長江下流域で水稲を栽培していた人々(YハプロO1b)が山東半島から渡ってきた。
彼らは縄文ネットワークを通じて九州 に渡りコロニーを形成し始めた。

衛氏朝鮮残党(遼河人)の南進

紀元前200年ころに漢が進出し楽浪郡を形成した。衛氏朝鮮は滅び残党は南に向かった。
彼ら天孫族は「高天原」により、豊葦原中国を攻略した。彼らが百済や新羅の祖先となる。
やがてスサノオ派が天孫系から分裂した。彼らは支配権争いに敗れ出雲へと逃亡した。
アマテラス派は追討軍を派遣し、日向に上陸した後、スサノオ派の拠点宗像を奪い、さらに東に向かった。

出雲族の大和征服

ここでスサノオ派は出雲を明け渡すのだが、アマテラス派の支配下に入るのではなく、さらに東に向かうことになる。
つまり神武東遷の前に出雲天孫系の「東遷」が先行したのである。
こういう二段跳び、三段跳びができたのは彼らが稲作民ではなく狩猟民であったからだろう。いわゆる「騎馬民族」である。
一方、稲作を営む長江人系には天孫系の支配を甘んじて受けるという選択肢しかなかった。
彼らの信仰は放棄され、そのシンボルであった銅鐸は投棄された。
絶対年代で言えば、国譲りと移動の開始が3世紀前半、すなわち卑弥呼の時代である。そして東征の終了、すなわち大和の制圧が3世紀の後半である。

であれば神武の東征は紀元300年前後のこととなる。
スサノオの子孫はもはや引かなかった。倭国に臣従し神武の支配下に入るふりをしながら政府の実体を離そうとしなかった。そして10代を経て応神天皇系というかたちで支配権を掌握してしまうのである。

朝鮮半島の先史時代の時代区分が難しいのは、おそらく住民の人種的構成が変化するためではないか。
考古学的、遺伝学的に確認しうるような変化があれば、まずそこをメルクマールにしなければならない。
つぎに生活の糧の変化を見ていく必要がある。狩猟生活から狩猟+採集生活への移行が土器(調理及び保存習慣)の出現として表される。
それは半定住生活への移行でもあるから、竪穴式住居の出現としても示される。
それ以前の生活は旧石器時代とされているが、むしろ無土器時代というべきであろう。
長江文明を見ればわかるように、土器が出現し水稲栽培が行われるようになった後も石器そのものは旧石器が主体であった。
少なくとも稲作地帯においては、石器の改良は社会の進歩の主要な指標とはなっていない。

無土器時代(旧石器時代)の始まり

日本に最初に渡来したホモサピエンスはおよそ4万年前、朝鮮半島を経由して入ってきたと思われる。

そもそも出アフリカが6万年前なので、朝鮮半島への進出は6万年前~4万年前となる。

旧人たちの話については、とりあえずは触れないほうが良いと思う。
(旧石器時代の代表的な遺跡は50万年前に遡るとされているらしい)

無土器時代(中石器時代と新石器時代)の終わり

おそらく中石器も新石器も無意味な分類と思うが、韓国の学会の主流となっている。

ウィキペディア<朝鮮の先史時代>ではこう書かれている。

朝鮮の新石器時代(朝鮮語版)は約1万(中石器を含む場合)-8000年前から始まり、新石器時代の主要な指標となるものは、磨製石器と櫛目文土器に代表される土器である。

日本語版ウィキペディアでは、新石器時代を櫛目文土器時代と読み替えているが、これは誤解を招く。

新石器時代は約1万(中石器を含む場合)-8000年前から始まったとされているが、櫛目文土器の出現するのは6千年前以降である。つまりそこには4千年の時差がある。

櫛目文土器時代(第一次遼河文化時代)

最古の櫛目文土器は遼河文明から発見された。6千年前(紀元前4000年)に遼河地域を原郷にしてユーラシア大陸北部に拡大したと言われる。

ところで「朝鮮半島では紀元前4000年以降に初めて現れる」とされているが、瞬時に半島全体に広がったということだろうか。

伝播様式も不明だが、朝鮮先住民がこれを受け入れたか、あるいは遼河文明人が南方に進出したかのいずれかであろう。

何れにしても、縄文土器のように内発的に発生したものではなく、輸入文化に過ぎない。それだけの生活様式の変化が先行していたのかは疑問である。

鬼界カルデラ噴火との時間的関係

約7,300年前の鬼界カルデラ噴火はアカホヤ火山灰を降り積もらせ、九州南部の縄文文化を壊滅に追い込んだ。

問題は、この時点で朝鮮半島は北方の遼河流域に至るまで無土器文化=狩猟生活のレベルにとどまっていたということである。

もし朝鮮海峡を挟んで人や文化の流れがあったとすれば、それはどちらを向いて流れるだろう?、答えは明らかである。

この後、日本側の文化が衰頽し、半島側の文化が急発展したとすれば、櫛目文土器の逆流入はありうるのだろうか。

曽畑土器は縄文前期後半(紀元前4千年~3.5千年)とされ、櫛目紋土器の影響を受けていると言われる。

櫛目文文化が遼河流域から本流のように広がり、土器文化の大先輩である日本まで接近したということになる。まるで推理小説の種明かしだ。

無文土器時代(第二次遼河文化時代)

紀元前1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけて始まった。

農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が形成された。

前期は紀元前850年まで、それから550年頃までを中期とする。大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

中心となったのはこれまでより南方の松菊里文化( ソングンニ)だった。

南部では異なる文化が営まれるようになった。南岸地方で長江文明からの渡来人が水田耕作を開始した。

後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。

無文土器の終末期

終末期(紀元前300年)には鉄器が出現し、青銅器が広範に普及する。

その後紀元前200年ころに衛氏朝鮮が建国され、紀元前100年後には漢により滅ぼされ、楽浪郡となる。この間、そしてその後も、朝鮮半島南部は「韓」として残される。

ということで、韓国の先史時代認識は、基本的に京畿道以北の古朝鮮(南満をふくむ)を念頭に置いていると思われる。三韓、後の任那・伽耶は朝鮮人嫡流とは認めていないフシがある。






韓国考古学の時代区分体系には青銅器時代が設定されており、この時代は新石器時代と鉄器時代の間に位置している。

しかし、その時期区分は充分に設定されていない。

銅鉱山の開発、製錬・合金、鋳造などと関わる証拠がなく、名称が果たして適切なのかが疑問である。

日本の占領時代、先史時代は石器時代と金石併用時代に区分されていた。

60年代はじめ、北朝鮮考古学界は先史時代の分類として新石器時代と青銅器時代、鉄器時代を設定した。これは占領時代の先史体系を否定するためだった。そのために無理やり西洋文明の区分であるトムソン分類を適用したとも言える。

朝鮮の歴史学はきわめてナショナリスティックでイデオロギッシュで、主義主張のためには論理が破綻しても気にしない傾向がある。これもそういう議論の一つだろう。

彼らは支石墓出土遺物の組合せにより青銅器時代と鉄器時代を分けようとした。3つの根拠を上げているが、素人の私からみても相当無理がある。

韓国の学界も北朝鮮考古学を受け入れて青銅器時代を設定した。

その後発掘例が増加するにつれて、青銅器・鉄器時代の区分は深刻な矛盾を抱えるようになった。
土器、青銅器、鉄器のように特定の時代を代表する物質文化要素の交替および変化の時期が一致しないという矛盾である。

もう一つは青銅器そのものが自生的文化ではなく、西方からの輸入文化であるため、地域ごとにかなりの時差があり、絶対年代と連動しないことだ。
社会の発展段階とも照応しない。時代区分の指標としては使いづらい。

今世紀に入ってから、青銅器時代を理解するためには農耕社会の成立過程に注目しなければならないという意見が出始めた。

安在皓は、「青銅器時代は青銅器の使用によって始まったのではなく、農耕集落の移住定着から始まった」という点を明確にし、現在では多くの共感を得ている。

つまり平ったく言えば、定着農耕時代を青銅器時代と言ったって、それで通じるならいいじゃん、ということだ。

まぁ、いいけど、それならいっそ使わないほうがいいよね。

参考までに
「韓国 歴史地図」 2006年 平凡社
から先史時代の概略。韓国教員大学のスタッフの共著になるもの。

BC50万 旧石器時代が始まる。

BC1万~8千 古新石器時代が始まる。事実上中石器時代。原始無文土器などを使用。済州島高山里遺跡

BC8千 新石器文化が始まる。磨製石器・土器を使用。狩猟+採集生活。

BC6千 櫛目文土器使用。一部の地域で農耕開始。鍬・鎌・石犂使用。

BC1千 無文土器の使用が始まる。青銅器時代始まる。

朝鮮半島の先史時代
(ウィキペディアを足がかりに)

4万年前 朝鮮半島に古代人の出現。(50万年前という説っもあるが、朝鮮人の悪い癖であろう)

約3万年前 公州石壮里遺跡がこの頃と推定される。

紀元前8000年頃 旧石器時代が終わり、磨製石器の生産が始められる。(トムソン分類の有効性は疑問。現在は櫛目文→無文時代と土器で分類するのが主流)

紀元前8000年頃 櫛目文草創期が始まる。初期のものを隆起文土器と呼ぶこともある。

紀元前6000年 櫛目文前期が始まる。ただしこの時点では櫛目文土器の出土なし。漁労や狩猟、竪穴式住居が特徴。

紀元前4000年頃 遼河文明から最古の櫛目文土器が発見。
遼河文明圏はY染色体ハプログループNの人種が担っていた。

紀元前4000年頃 喜界カルデラ噴火後に形成された曽畑式土器は櫛目文土器の影響を強く受けているとされる。


紀元前1500年 無文土器が始まる。農耕が始まる。並行して漁労、狩猟、採集が行われた。

紀元前12世紀 箕子朝鮮(平壌)が創始されたと伝えられる。

紀元前850年 無文土器時代が中期(松菊里文化)に入る。朝鮮に青銅器が出現。
この頃から南岸部は、水田耕作など北中部と異なる発展様式をとる。

紀元前550年 無文土器時代が後期に入る。集住が進み、環濠集落や高地性集落が増える。

紀元前300年 無文土器時代が終末を迎える。青銅器が広範囲に普及するとともに鉄器も出現する。

岡村道雄 「日本列島の南と北での縄文文化の成立」 1997年より

抜書き+私流感想です。

II.縄文環境の成立と各地の人類活動

1.列島規模の自然環境の変化に関する概況

1)地形と気候など

1万5千年前 急激に温暖化。海水面は70mの上昇。
宗谷海峡(海深60m)は水没。北海道は大陸・サハリンと隔絶する。
朝鮮海峡が大きく開く。1万3千年前に朝鮮海峡から日本海にむけて対馬暖流の流れ込みが始まる。
まだ瀬戸内海は成立せず、関門海峡も閉鎖状態。
黒潮前線は1万年前には房総沖まで到達。親潮は東北北部に退いた。

感想
つまり、1万5千~1万年前にかけて日本周辺の気候は激変(温暖化)したのだ。
1万9千~1万7千年前の最終氷期から一気に変化した。
温度だけではなく、列島の構造も変化した。これを“晩氷期”という
1.朝鮮海峡は現海面より80メートル低かった。海峡そのものはそれより前からあった可能性があるが、この間に開大し、対馬海流が流れ込むことで容易には越えられない壁となった。
2.朝鮮半島と中国本土との間の広大な平原は水没し、残された朝鮮半島からは人跡が途絶えた。
3.温暖化(湿潤化を伴う)は黒潮の北上と対馬海流の発生によって、紀伊~東海と日本海南岸の2つの方向に進んだ。海流の入らない瀬戸内平原~近畿には冷涼・乾燥の気候帯が残された。関東甲信越以北では依然寒冷気候が支配的であった。


2)植物相

晩氷期からの温暖化によって、日本列島は複雑な自然環境の変化を開始した.

紀伊半島・東海・伊豆半島・房総半島を結ぶ線の南側には照葉樹林帯が、北側には暖温帯落葉広葉樹が分布した。これらは混淆し、クリ帯と呼ばれる豊かな縄文の森を発達させた。
落葉広葉樹林の北側、北陸から東北の日本海側、関東から東北南部の太平洋岸には、冷温帯落葉広葉樹林が広がった。
中部高地から東北南部の山岳、本州の北部、道南から石狩低地には亜寒帯針葉樹林が広がった。
さらにその北側(道北、道東、樺太)には森林ツンドラが拡が広がった。

3)動物相

更新世の末期: 大型哺乳類(マンモス・オオツノジカ・ナウマンゾウ・ヘラジカ・ニホンムカシジカ)が絶滅。短期間に急激な気候変動があり、人類の活発な狩猟による。
マンモスは、日本では1万1千年前、中国で8千年前、イギリスでは1万4千年前に絶滅したとされる。

これに対応して、1万5千年前にシカ・イノシシなど小動物を目標とする道具組成の交代がみられた。落とし穴や槍先形尖頭器、細石器や石鏃などである。

感想
日本の旧石器人は、4万年前に朝鮮半島から渡来した第一波、2万5千年前に樺太方面から渡来した第二波の混合である(人口比では第二波が優勢)。
この旧石器人が人種的特性を変えることなく縄文人へと移行する。その際、気候に合わせて南方型、北方型、中間の北九州型と分かれていくが、旧石器人としての特徴は共通のまま維持された。
この時期、朝鮮半島は無住の地であり、朝鮮半島との交流を念頭に置く必要はない。


2.各地域の自然環境と文化圏

1) 九州南部・四国南岸

1万2千年前 晩氷期の急激な温暖化を受け、日本列島の南部で最初に縄文的な環境が形成されはじめる。最初はコナラ類や暖温帯落葉広葉樹が卓越する。
後氷期(1万年前~現代)になるとシイ属やクスノキ科などの照葉樹林が拡大する。
同様の植生傾向は黒潮の北上により四国・紀伊半島南部、東海地方まで分布した。

1万3千年前 細石刃文化の後半に遺跡が爆発的に増加。無文土器が登場。
1万1千年前  細石器は消滅し、太めの隆帯文土器が特徴となる.
この時期に縄文的な生業・生活の原型が成立した。竪穴住居による半定住生活。

植物性食料の本格的導入: 堅果類の貯蔵穴さらには粉砕や摺り下ろし用の磨石・石皿・凹石、煮沸・アク抜き用の土器、木材の伐採・加工用の各種の磨製石斧などが発達
炉穴の普及は、獣・魚肉の薫製による保存食糧の確保、調理における火の常用を示す。

これら“九州南部縄文”文化が、種子島から四国南岸まで広がる。

2) 九 州 北 部

植生帯の区分では九州南部と異なり、冷温帯落葉広葉樹で、朝鮮半島につながる。

草創期第1段階 大分県の市ノ久保遺跡で細石刃核と無文土器が発見。韓国や北陸との類似が指摘される。
草創期第2段階 隆線文土器、次いで爪形文土器を伴う細石刃文化が数多く発見されている。


感想
櫛目文土器は6千年前に作られた朝鮮半島最初の土器だ。日本ではその5千年も前から土器が作られている。櫛目文土器が曽畑遺跡に持ち込まれていることを文明波及の傍証とする向きがあるが、これは牽強付会だ。むしろ重要なのは土器の使用開始が日本より5千年も遅れていることではないか。


3) 近畿 ・伊勢湾 ・渥美湾沿岸

ほとんど明らかにされていない。
近畿地方や濃尾平野に暖温帯常緑広葉樹(照葉樹)が拡大するのは、7,000~6,000年前まで下る。

4) 東海 東部 ・関東

13,000~12,000年前にトウヒ・マツ・カラマツ属などの亜寒帯の針葉樹林が冷温帯性の落葉広葉樹が優先する森林へと変化した.その後さらに照葉樹林が形成されるようになった。

東京都西部の秋川沿いに多量なサケの骨が発見されている。

10,000年前 温暖化により南関東まで縄文的環境が成立。

5) 中部 ・信 濃川中流域

1万1千年前 北アジアと同様の寒冷気候が継続し、落葉広葉樹とトウヒ属やツガ属などの針葉樹が混交して疎林を形成。
シカ・カモシカ・ツキノワグマとガン・ヒシクイの遺体が発見

隆線文土器は発達せず、爪形文土器や押圧縄文・表裏縄文・多縄文などの縄文系土器が発達。

6) 北 海 道

北海道は晩氷期になっても旧石器時代的な自然環境が継続し、亜寒帯針葉樹が優勢だった。

10,000年前まで北海道はサハリンを経て沿海地方と陸続きであった。この半島づたいにマンモス動物群が到来し、北海道の旧石器時代人の狩猟対象となっていた。

12,000年前にマンモスが絶滅した。この頃からアムール川流域と共通する細石刃製作技法が広がる。

約8,000年前 道南から次第に縄文的環境に移行した。(北海道の記載は若干荒っぽい)

まとめ

縄文草創期は新・古の2段階に分けられる。(隆線文以前と隆線文期)

1万3千~1万2千年前 九州南部の古段階の草創期文化。神子柴系の木葉形石槍や打製石斧。細石刃と最古の土器の共伴は、旧石器人の「本州から九州までの古段階における一般的な様相」と考えられる。

長野の御子柴遺跡に由来する神子柴系石器群は、アムール川流域起源の細石刃文化の流れを汲む。まだ陸続きだった1万3000年前に渡ってきた。
東北日本を経て急速に南下し、中部日本を中心に独自の文化として発達し、九州までにも拡がった。


感想
旧石器時代は三期に分けられることになる。
第一期 4万年前に朝鮮半島由来の旧石器A人が渡来してから、2万5千年前の寒冷期(ウルム)ピークまで。
第二期 2万5千年前に、アムール→樺太を経由して旧石器B人が渡来してから、旧石器A人との混淆・棲み分け。
第三期 1万3千年前、アムール由来の細石刃文化(御子柴)が東北日本を経て日本全土に拡大。この内九州南部に進んだ旧石器B人が温暖化した気候に適応し、無文土器→隆帯文土器を指標とする縄文文化の創始者となる。

南方縄文は6千年前の鬼界カルデラ噴火でいったん絶滅しており、九州北部の縄文文化との関連や連続性については、いまのところ肯定も否定もできない。九州北部の縄文文化が朝鮮半島の影響のもとに成立したとの仮説も、首肯はできない。
東北・北海道の旧石器人が縄文人となるのは、さらに5千年を経てからであり、その間は縄文文化と旧石器時代の併存時代であった。また北方人が生み出した縄文文化は、南方縄文とは独立したものであった可能性が高い。

こんな感じで良いのかな。



情報メディア発信局」というブログがあって、面白い見解を載せています。ただし私と同じで、思いつき的な文章が多くあまり実証的ではありません。
最終結論としては荒唐無稽で、とても受け入れられるものではありません。ただ、部分的にはうなずける推理があり、参考になります。以下紹介させてもらいます。

南九州の縄文人が古代朝鮮王国を作った

A) 西日本にも大規模な縄文文化が形成されていた

鹿児島の上野原遺跡と佐賀の東名(ひがしみょう)遺跡がそれを証明した。

上野原遺跡は約7000年前のアカホヤの大噴火により消滅した。
佐賀の東名遺跡は約7000年前に起こった。すなわち上野原文化が佐賀県佐賀市に移住したとして矛盾はない。

B) 2つの九州 縄文遺跡には重要な共通性がある

地面を掘って食物を保存すると言う習慣が共通している。これは考古学的に見てかなり特異な習慣である。

ただし東名遺跡の位置づけは未確定である。鬼界カルデラ噴火と同じ8千年前の貝塚遺跡で、貯蔵穴・人骨集中地が出土しているが、それ以上の言及は今のところない。

C) 7000年前、朝鮮半島は無人だった

1993年に発行された韓国国立中央博物館の書籍によると、“朝鮮半島は無人だったことが韓国国立中央博物館の文献で明らかになっています” しかし流石にこれは、そのままうのみにはできない。
これについて神旅 仏旅 むすび旅という記事があって
▶半島の歴史は旧石器時代から始まる。しかし、発見された遺跡数は50カ所程度にすぎない
▶その後、紀元前1万年から5千年まで半島から遺跡がなくなる。つまり、考古学上では半島の人々は絶滅した。
▶再び人の痕跡が現れるのは紀元前5千年頃で、これを櫛文土器文化とよぶ。
ということになっているらしい。さらにこの記事は下記のように踏み込む。
韓国での考古学調査の結果明らかになったことは、「韓国人の遠い祖先は、日本の縄文文化をもって無人の朝鮮半島に移り住み3千年の間に北部にまで広がった縄文人だった」ということである。

D) 東名は縄文海進により水没し、彼らは朝鮮に向かった

だんだん話が破天荒になっていきます。

E)百済、高句麗、新羅の振る舞いは宮崎、鹿児島、熊本の県民性に似ている

“それを言っちゃぁおしめぇよ” です。

E) 日向の国が人が住める状態に回復し、彼らは故地に“天孫降臨”した

もはや荒唐無稽の酒飲み話です。オチをつけたがるのは悪い癖です。


いただきたいのは、A)、B)、C)ですが、一番欲しいのは上野原→鬼界カルデラ→東名の連続性です。
とりわけ鬼界カルデラ→曽畑遺跡(熊本)ではなく→東名であることの証明です。


序文
宇土市岩古曽町に所在する曽畑貝塚は、九州縄文時代前期の最も代表的な遺跡である。

曽畑式土器の器形や文様は、朝鮮半島の櫛文土器と類似しているとされる。

昭和61年の低湿地遺跡の調査では、縄文時代前期の貯蔵穴62基が発見された。食料にしていたドングリやそれを入れた編み物製品、瓢箪などが出土している。

遺跡の位置と歴史的・地理的環境

曽畑貝塚は早くも明治23年、若林勝邦らによって学会報告されている。昭和34年には慶応大学考古学民族学研究室を中心に本格的な発掘調査が実施された。

層位的分離で九州縄文時代土器編年の実証事例となっており、下層から押型文土器一轟式土器一曽畑下層一曽畑上層一鐘ケ崎式・市来式土器へと移行する。

近隣の松橋町曲野遺跡では、旧石器時代の包含層が検出されている。
2万2千年前の「AT火山灰」層の下層に、小型のナイフ形石器・台形石器・掻器それに局部磨製石斧を有する石器群が発見されている。

宇土には弥生時代や古墳時代の遺跡も多い。熊本県内64基の前方後円墳のうち、12基が宇土半島基部に集中している。なかでも西岡台遺跡の大環濠、豊富な遺物が出土した向野田古墳が著名である。

曽畑低湿地遺跡の動植物遺体

縄文早期~前期初頭の堆積物からは、ニレ、ケヤキなどの落葉広葉樹林から常緑広葉樹林への推移がみとめられる。これにより冷涼気候から温暖気候への転換期に当たることが示唆された。

その後、約6000年前の縄文前期前半に照葉樹林時代に移行。暖温帯要素のアカガシやシイノキの優占によって特徴づけられる。

本遺跡は貝塚本体から約100m離れ、海辺の海抜約3.5m上に営まれていた。58基を数える貯蔵穴の内容物はイチイガシが殆どであった。

本遺跡出土の大型植物の特徴は、ナラ類ではなくカシ類、なかでも唯一アク抜きを必要としないイチイガシが優先していることにある。

東北日本の縄文時代に多いクリは出土しない。カヤやオニクルミもきわめて少ない。それが西南日本の照葉樹林帯の特徴を示している

弥生前期になると、自然林が破壊され、その跡地にマツの二次林が拡大し、雑草類も増加し始めた。

3体分の人骨が発見された。彼らはすべて縄文時代前期に生きていた。

以下略


この論文集では朝鮮半島の土器とのつながりが強調されているようである。
「曽畑式土器」は九州の縄文時代前期の最も代表的な土器とされるものである。
また、曽畑式土器の器形や文様は朝鮮半島新石器時代の櫛文土器と大変類似していることが指摘され、両国の文化交易を理解するための重要な貝塚とも評価されている。
果たしてそうだろうか?

隣に南九州型縄文文化が先行し、かなりの程度まで発達しているのに、なぜそちらを無視するのであろうか? 

朝鮮半島新石器時代というのは5千年ほど前に始まったものであり、それ以前に朝鮮半島に南九州縄文を超えるような水準の文化は存在していない。むしろ文化的空白期と考えるべき時期である。

6千年前に鬼界カルデラの噴火があり南九州の縄文文化は途絶した(アカホヤ時代)。しかしそれ以前の文化が曽畑を含んで成立していた可能性はないのだろうか。

南九州の縄文土器は本州北部の縄文とは明らかに様式が異なり、無文であった。しかも本州に比べ明らかに先行していた。
これらを考えれば押型文土器一轟式土器へと続く流れの端緒にあるのは南九州縄文と同根の文化であった可能性が高いのではないか。現に曽畑からは2万2千年前の旧石器遺物も発見されているが、これは南九州縄文との一体性を強く示唆する。

やや強引な推理ではあるが、「アカホヤを逃れた南九州縄文が北へ逃れ、曽畑文化を作り、さらに海を渡って朝鮮南部にまで進出した」というような可能性もあるのではないかとも考える。


考古学における気候変動論の検討
-日本列島・朝鮮半島の水稲農耕開始前後を対象として-

徳島大学埋蔵文化財調査室の端野晋平さんによる文章だ。



キーワードは縄文晩期・倭韓地方・水稲・気候・考古学と多彩だ。多彩だが、まさに皆の知りたい勘所だ。特に「倭韓地方」という発想は面白いと思う。

この手の学際的研究は、意外に根文献を探すのが難しくて難航することが多い。ネット時代とはいえ、一次資料は大都市の大図書館で検索しないと入手できない。

まずは徳島の地で、論文にまで仕上げた著者の努力に敬意を評したい。

1.炭素 14 年代が基本

過去の気候変動を暦年代に落としてくための手技としては、炭素 14 年代の較正曲線が最適なものと考えられる。

過去における地球規模での気候変動は、大気中の 14C の増減によって推定できることが知られている。

14C 量が多いほど宇宙線照射量が多く、宇宙線量の増加→雲の増加→太陽熱量の低下→気温の低下という流れをもたらす。
逆に14C が減少傾向にある時期は温暖期に相当することになる。

寒暖を推定するもう一つの方法が「風成砂丘の形成」を考古学的に証明することである。
これは寒冷化に伴う海水準低下→風成砂丘の形成という現象を発見することである。
ただし適用範囲は西日本に限定される。

2.気候学的検討の結果

上記を組み合わせて表示したのが下の図である。

北部九州の気候変化

縦軸は14C濃度であり、横軸が紀元前900~200の時間軸である。
全般にこの時期全体を通じて温暖化に向かいつつあったことがわかる。
その中で小規模な揺り戻しとして2度の寒冷期があったという時間関係だ。

黒川式、夜臼式、板付式、城之越式は九州北部における弥生土器の様式名。

著者により細かい分析がなされているが、要はBC900年から北部九州の急速な温暖化が始まり、700年ころになってそれが弥生文化(黒川式)の発生をもたらしたということだ。

その後300年ほど足踏みがつついた後、紀元前400から再び急激な温暖化が始まり、それとともに板付Ⅱ→城の越へと文化が進展していくという関係になる。

3.二段階渡来説(初期渡来)

以下の二つの段階を設定することができる。

渡来第1段階:
無文土器前期/縄文晩期中葉(黒川式期)
半島南部との交流と渡来人の存在を暗示する
水稲農耕は試行的で一般化しなかった。

渡来第2段階:
無文土器中期/縄文晩期後葉(夜臼式期)
水田遺構、農耕具、磨製石鏃・石剣、壺形土器、支石墓などが出現。

以降はやや夢見がちな論調となるため省略。


寒冷期の絶対年代は研究者ごとに様々で方法論的にも統一されたものではない。
かなりの幅をもたせて第一期:BC900~700、第2期:BC500~350 くらいに捉えておくのが無難であろう。

「二段階渡来説」は著者のオリジナルであろうが、初期渡来のメカニズムを第一期=寒冷プッシュ論、第二期=温暖プッシュ論として提示している。ただし上にも述べたように、寒冷期そのものをそこまで厳密には絶対年代化できないのではないか、という根本的な疑問がある。

火山の噴火とか断層や津波の痕跡など、より直接的な根拠があると同定ははるかに容易なのであろうが…

国際日本文化研究センター 
教授 安田喜憲
長江流域における世界最古の稲作農業」ノート

1.世界最古の土器を作った人々

最終氷期最盛期後半の2万~1万8000年前  世界最古の土器は、いち早く森林環境が拡大した長江中流域の南部で誕生した。「森の民」が、いちはやく土器づくりを開始し、世界にさきがけて定住生活に入った。

2.定住革命から農耕革命へ

稲作は長江中流域で1万年以上前に誕生した。野生イネは完熟するとただちに脱粒してしまう。しかし突然変異で脱粒性を失ったものが発見され育成された。

約8500年前 中流域の彭頭山遺跡は、確実に巨大な稲作農耕集落が存在していたことを示している。

稲作農耕は、ヒツジやヤギなどの家畜を伴ってはいなかった。農民たちはタンパク源を野生動物や魚類にもとめたのである。

麦作農耕の起源は、晩氷期の1万2000年前とされる。

続縄文文化とは続縄文時代に北海道の各地に花開いた文化ということになる。
なにか堂々巡りみたいな規定で、独自性に基づかない規定である。

おそらく前半の恵山文化は、津軽の縄文後期文化の延長と思われ、独自の意義は薄いのではないのか。

したがって続縄文という場合、我々はもっと、続縄文中期~後期の道央低地帯に起きた特異的な文化に焦点をあわせるべきではないかと思う。

国立歴史民俗博物館の高瀬克範さんは「続縄文文化の資源・土地利用」という論文でおおよそ下記のごとく主張されているが、妥当と思われる。


1.縄文後期に共通する特徴は、縄文文化期よりも魚類の重要性が高まる点にある。

2.道央部は続縄文文化期後半期に優勢を示し、外来系の物資入手力が相対的に高かった。サケ科の利用を基軸とした経済が基盤となっていると考えられる。

3.このように比較的定住性の高い集団に隣接して、は広域に移動して物資を運搬する集団が併存していたらしい。

4.東北北部の弥生文化は平野部の稲作地帯と狩猟採集に重きをおく集団が併存していたが、弥生中期の気候激変によりが崩壊し人口が激減した。その結果、現象的には続縄文文化の分布域拡大につながった。

続縄文時代

紀元前500年 本州以南で弥生時代が始まる。陸奥(宮城・山形以北)では米作りと続縄文のハイブリッドとなる。

紀元前3世紀頃 続縄文時代が始まる。基本的には縄文から擦文時代への移行期であり、一括できるかどうかはかなり疑問がある。

続縄文文化は前半と後半、末期に分かれる。

前半期 陸奥につながる恵山式文化と、宇津内式・下田の沢式文化(道北・道東)とが並立して現れた。生活スタイルは縄文時代と共通しているが、漁労と原始的栽培(アワ・キビ・ヒエ・ソバ)の比重が高くなっていることが特徴。

紀元前後 北海道内の続縄文集落で、釣り針など少数ながら鉄製道具が使用されるようになる。

後半期 北海道全体が宇津内式・下田の沢式を引き継ぐ後北式土器に統一される。後北式は江別式とも称される。続縄文文化は樺太南部や陸奥・羽越地方、千島列島まで広がる。

5世紀 続縄文文化とは別に、樺太からオホーツク海沿岸にオホーツク文化が浸透。フゴッペや手宮の刻画もこの頃のもの。

5世紀 集落が海岸沿いから内陸河川周辺に移る。サケの捕獲が生活の主体となる。海を越えてやってきたオホーツク人(粛慎)に海岸地帯を奪われたためかもしれない。

農耕(米作りを含め)が発達しなかったのは、「気候のためだけではなく、サケがあれば百姓などする必要がなかったからだ」、という意見もある。

5 - 6世紀 本州より土師器文化が進出。これが江別式土器と接触する中で北大式土器が出現。

紀元600年ころ 続縄文時代が終わり擦文時代に入る。



時代区分というのは、どうしても先学の基準に従わざるを得ず、無批判に受け入れがちだ。しかしある程度素養を積んでくると、やはりムラムラと反骨心が湧いてくる。やはり根っからのへそ曲がりなのであろう。

縄文→弥生は良いとして古墳時代という時代区分が適切かどうかは以前から疑問に思っていた。そもそも両者を分けるカテゴリーがまったく異種なのが胡散臭い。さらにそれが飛鳥・奈良時代という首都による政治区分になっていくのは、ものさしとしての意味を根本的に疑わせる。尺貫法とメーとる法を混用するがごときである。

まあこれは言葉の問題だが、私は歴史的観点の延長から先史時代も区分すべきだと考えている。つまり人間社会の有機的構成の高度化を尺度に考えるべきだと思う。これはマルクス主義でも唯物史観でもなく、人類史として考える以上当たり前の話である。そのうえで、具体的な手がかりとなる考古学的遺物から、もっとも歴史区分を反映するものを取捨選択して、それを時代のマイルストーンとして採用すべきではないかと考える。

その意味ではトムソンの旧石器・新石器・青銅器・鉄器という区分は発想としては的確なものだと考える。しかし、そのことがトムソン分類の妥当性を支持するわけではない。



私は、人間が生き延びることができるようになった三大発明というものを想定する。それは水の利用手段、火の利用手段、そして狩りの手段である。

この3つを確保することによって、しかも集団として具備することによって、人間は他の動物に対する優位性と相対的安定を獲得できるようになった。

おそらくこれが石器時代という時代の本質的特徴なのだろう。そして3つの生活手段が多様化することで人類社会は飛躍的に発展していくことになる。

ではそれぞれについて見ていくこととしよう。

水の利用というのは貯水と運搬、そして利水(農耕)に尽きる。それについて画期となるのはツボ・カメの使用と灌漑設備だ。前者は縄文式土器と水田耕作を重要なエポックとして押し出すことになる。

火の利用というのは着火や炉の作成などの安定化技術、調理による食材の多様化、金属の精錬技術などが挙げられる。

狩りの手段は実に多様だ。だからたぶん時代区分のメルクマールにはならないだろう。中では鉄が大きな変化をもたらしたものである。狩りは農耕の発達により一旦傍流の活動となるが、その後“マンハント”、すなわち戦争が人間社会のルーチンとなるに従い巨大な発展を遂げていく。火薬の発明、飛行機の発明、核兵器の発明は人類の大量殺戮史の分岐点となっていくだろう。しかし古代の世界ではとりあえず置いといてよい。

新たな時代区分の提唱

もちろん誰も聞いてくれないことを承知の上で、言っておきたい。

まず石器時代だが、これは厳密には無土器時代というべきであろう。これに対抗するのが縄文時代だ。縄文時代も旧石器時代であることは間違いない。中国の長江文明も最後まで石器時代の基盤の上に成立していた。しかし、そのことにどれほどの意味があるのだろうか。

こうして1万年ほど前から土器時代が始まる。これにより旧石器人の生活は飛躍的に発展し、縄文人が形成される。これを縄文時代ということは妥当である。であれば、それとの対比として無土器時代を「旧」石器時代と言うことは、悪くはない。

これについで主要な社会変化をもたらしたのは、農耕文明への移行であろう。これをどう画期として位置づけるかは難しい。難しいから弥生時代としてしまう。これは便宜的であるが有効な設定だと思う。

ただ、これは縄文後期における雑穀栽培の意義を過小評価している可能性がある。稲作のみが農耕ではないことに強く留意すべきであろう。夏・殷・周の中国文明は稲作なしに出現している。それは弥生時代の到来のはるか前のことである。

これ以降には技術学的な画期は、あまり目立たない。明治維新まで、ある意味では万世一系の世界が続いているとも言える。

ただし中国を見ると、大きな変化が矢継ぎ早にあって、それに伴って社会のあり方が何度も根本的変容を受けている。

それが紀元前3千年の小麦栽培、紀元前2千年の青銅器、そして紀元前1.5千年の鉄器である。いずれも内発的、自生的な技術ではなく、おそらくは新疆 回廊を通じたメソポタミアからの流入である。

これらのうち鉄器のみが日本に社会変動の要因をもたらしている。だから弥生時代をベタで描くことは納得出来ないのだ。

その画期がいつ頃なのかよく知らないが、政治状況や戦争(大量殺戮)の発生などを考えると紀元前後のことではないかと推量している。

私は紀元550年頃、倭国滅亡と蘇我氏の全権掌握まで続くその時代を「大乱時代」、あるいはいっそ「倭王朝時代」と呼びたいと思う。

以上をまとめるとこうなる。()内が通称である。

1.無土器時代(旧石器時代)

2.土器時代(縄文時代)

3.稲作時代(弥生時代)

4.鉄器時代(大乱時代)

* 新石器時代は日本では存在しない。稲作時代の後半に青銅器(銅鐸など)が入ってきたが実用性はなかった。


両替商(覚え書き)

室町時代末期 両替商の前身が登場する。替銭屋(かえせん)、割符屋(さいふ)などと呼ばれた。

替銭・割符は、銭の代用の役割を果たした手形・証文のこと。対象が米の場合は替米(かえまい)と呼ぶ。後に出現する為替に対し、その先駆的な役割を果たした。

土倉(どそう)は、物品を質草として担保とし、担保に相当する金額の金銭を高利で貸与した。

金山および銀山では、山師の持ち込む金銀地金の精錬、鑑定および売買を行う金屋および銀屋が出現し、金融業務を行った。

1601年(慶長6年)徳川家康、金座および銀座を設立し、慶長小判および慶長丁銀を鋳造させる。

1609年(慶長14年) 幕府は三貨の相場を定める。金一両が銀五十匁とされる。金、銀、銭(銅)の三貨制度が確立。

銭1千文を1貫文という。これが4貫あると金1両、銀50匁となる。ただし交換比率には相当の変動幅があり、時代が降るにつれ銭の価値は下がっていく。

三貨制度のもとで、手数料を徴収して両替を行う商売が登場。

両替商の中から本両替が派生する。金銀両替を中心に、為替、預金、貸付、手形の発行など広範な業務を担った。公金取扱業務にあたるものもあった。

一方、これまでの庶民金融にとどまったものは、脇両替(わきりょうがえ)と呼ばれるようになった。

江戸、大坂、京都の3都の両替商集団が頭角を現す。本両替の多くは大坂に本店を置いた。江戸は脇両替(銭屋)が多かった。

1662年(寛文2年) 大坂町奉行により、天王寺屋五兵衛ら3名が正式に幕府御用を任命される。

1670年 大阪の幕府御用商が増え、「十人両替仲間」を形成する。

1700年(元禄13年) 金一両が銀六十匁となる。ただし一般商取引では変動相場となる。

ここまで調べてきて、どうも三井というのは、江戸幕府が大阪に送り込んだ金融界の尖兵ではないかという感じもする。
その際、斬り込みにあたって、為替制度というのがどのような役割を果たしたのか、もう少し調べてみなくてはならないようだ。

同じサイトの別記事で、「三井の歴史 暖簾印を定め、両替商へ進出」というのがあり、ここに京都進出の経緯が比較的詳しく紹介されている。
しかしなぜか読みにくい内容だ。

少し解説もつけながら紹介する。

1683年、高利が両替業に進出した。

1686年には、京都にも両替店を開いた。

ここからが大事なところだが、
高利は両替店を活用した為替でも商才を発揮、江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方となる。
と書かれている。しかし「両替店を活用した為替」とは何なのかわからない。そもそも両替業とはどんな商売なのだろうか。

為替業が「江戸・大阪間」に限定される形で展開されたこと、為替業者間の競争に江戸の商人が勝利した理由、「幕府の御用為替方」という肩書きがどんな意味を持つのかもわからない。

とりあえず読み進めよう。

1.上方は銀建て、江戸は金建てであったので、仕入れが行われる上方へその代金を送金する江戸では、貨幣相場や為替の動きを注視する必要があった。

ということで、「財」に3つの形態があることがわかる。すなわち米、金、銀である。これらは相互に交換されなければならないが、それは商品取引ではなく「財」同士の取引だから「両替」ということになる。

2.幕府は西日本の直轄領から取れる年貢米や重要産物を大阪で販売して現金に換え、それを江戸へ現金輸送していた。

この仕掛けには3つの無駄がある。コメを大阪で販売するための流通コスト、銀を金に交換する両替コスト、さらに金を江戸に運ぶコストである。

為替業者が間に入ると、第2、第3のコストは消失する。業者の為替手形が決済手段となり「仮想通貨」の役割を果たすからだ。

3.高利は幕府に為替の仕組みを献策した。幕府は大阪御金蔵銀御為替御用を命じた。

それがいかに良案としても、そこには権威と規模(手形の流通量)が必要だ。幕府はそれを勘案して三井に丸投げしたということになる。

4.三井両替店は大阪に江戸両替店を出店させ、幕府の為替御用方としての地位を確立。

こうして事業を成功させた高利は、65歳になって京都へ居を移し、8年後に没した。

彼にとって江戸は勝負の場所であったが、人生双六のあがりは「京」でなくてはならなかったのだろう。

これが、京都と三井をつなげる「絆」である。高利の思いは思いとして、京都の町衆が高利を仲間として受け入れていたかどうか、いささか疑問の残るところではある。

ということで「三井は京都を本拠としていた」というのはほぼウソ。功成り名遂げた三井家の始祖が晩年を過ごした隠居所くらいのところであろう。ただその子孫が京都をフランチャイズにした可能性は否定できないが…

両替の歴史、金本位と銀本位の並立、江戸と大阪の交通・運輸についてはいずれまた調べたいと思う。

テレビで祇園祭の山鉾について特集番組を組んでいた。
見ていて気になったのが、「三井は京都を本拠としていた」という話。
私の記憶では松阪出身の三井某が江戸に出て、「越後屋」の屋号で商売を始めたという話だったように思う。
それが掛売りなし、正札売りのやり方で成功したというような話だったように思う。
ただこれは三井本人の宣伝の匂いもしていて、やはり金貸しが本業ではなかったのか、着物の商いは金貸しという後ろ暗い商売を隠すカモフラージュではなかったのか、とも感じている。
もうひとつは、これは京・大阪の資本に対抗する江戸資本の代表ではないのかという印象もあった。
それが京都を代表する大店と言われると、ずいぶん話が変わってくる。
本当のところはどうなのか? ひょっとして三井自身の宣伝に騙されているのではないか?
少し調べてみることにした。

まずは「三井広報委員会」のサイトから「三井の年表」を探した。

江戸時代初期 三井高俊(三井高利の父)が妻・殊法と松阪で酒・味噌などの商いを始める

元和8年(1622) 三井家の家祖・三井高利誕生

寛永12年(1635) 高利、14歳で松阪を出立、長兄の店に奉公する

慶安2年(1649) 母・殊法の孝養のため松阪に帰郷

延宝元年(1673) 52歳で江戸本町1丁目に三井越後屋呉服店を開く

天和3年(1683) 本町1丁目店を駿河町南側へ移し、その隣に両替店を新設

元禄7年(1694) 高利、73歳で没

宝永7年(1710) 長男・高平が事業統括機関・大元方を設置

書いてあることは簡単。

1.戦国時代末期、三井則兵衛高俊という人物がいた。
彼は武士を捨て町人となり、松阪で質屋や酒・味噌の商いを始めた。俗に言う「伊勢商人」のひとつである。
この店は高俊の父・高安の官位が越後守だったことから「越後殿の酒屋」と呼ばれる。
武士の子である高俊は商いに関心が薄く、家業は実質的に妻の殊法が取り仕切っていた。

2.長男・俊次は早くから江戸へ出て本町4丁目に小間物屋を開店。後に呉服業も手掛けるようになった。4男にあたる高利も、14歳で江戸の店に出て奉公した。

3.高利は故あって松坂に戻るが、52歳で江戸に出て三井越後屋呉服店を開いた。兄の店に対し分家筋ということになる。店は成功し経営は発展。やがてその長男が持株会社を創設し「三井家」を名乗ることになる。

本家筋がどうなったのか、京都の話はどこにいったのか、皆目わからない。

なお越後屋は明治のはじめに独立し、明治26年にはいったん三井呉服店を名乗るが、明治37年に三越百貨店と改称する。ようするに「三越」というのは、このときに三井と越後の頭文字をくっつけたものなのだ。

ここまでが予告編。2つの謎は次回に。

どうも思ったような記事が拾えない。考古学会からはあまり積極的な発言がないようだ。
とりあえずメモ程度に記録しておこう。

約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで現在より海面が130mほども低かったため、東シナ海の大部分は陸地であった。
最終氷期最寒冷期(LGM)でも日本列島とは対馬海峡(最深部240メートル)によって隔てられていた。
LGM

朝鮮半島と九州 の両側で剥片尖頭器が発見されているが、朝鮮半島のもののほうが古く、朝鮮半島から九州 に流れたと考えられる。

BC6000年  満州南部の遼河流域で遼河文明。櫛目文土器などが出土(興隆窪文化)。
遼河文明は黄河文明や長江文明とならぶ古代中国文明と考えられている。ただし文明の担い手は漢民族ではなくハプログループN (Y染色体)系統の民族であったとされる(根拠不明)。

BC6000年頃 縄文海進が進む。海面が今より2-3メートル高かった。朝鮮海峡の拡大により対馬海流が黒潮から分流。

BC6000年 半島南部から隆起文土器が発見されている。隆起文土器は南九州文化の中核であり、鬼界カルデラの噴火のあと隆起文人の移動があったと推定される。

BC5000年頃 長江下流域で最古の稲作(河姆渡文化)。

紀元前4000年ころ 海面上昇により大陸棚の沿岸部は海中に没している。これにより朝鮮半島の独立性が確定する。

紀元前4000年頃 朝鮮半島に櫛目文土器が出現する。(ソウル岩寺洞遺跡)

紀元前1500年頃、遼河流域に夏家店下層文化。支石墓、無文土器や大規模な住居を特徴とする。

紀元前1000年頃 朝鮮半島に無文土器と支石墓が建造される。遼河文化の影響を受けたものと考えられるが、厳密な連続性は確認されていない。

紀元前1000頃 朝鮮半島北部で箕子朝鮮が登場(中国文献上)。首都は王険城 (現在の平壌)

紀元前900ころ 朝鮮半島南部で縄文土器が発見。水田耕作はじまる。

紀元前800ころ 中部で無文土器文化が発展。青銅器も導入される。松菊里文化と呼ばれる。南岸部は様式を異にし、多数の支石墓が造られた。

紀元前700 北九州で縄文水田(菜畑遺跡)

紀元前500年頃 海を越えて半島南西部に米作集団が入植。水稲栽培が開始される。初期の渡来人は「難民」的性格が強かったとされる。

紀元前300年頃 無文土器時代の終末と鉄器の出現。

前195年頃 衛満が箕子朝鮮を滅ぼし衛氏朝鮮を建国する。


満州ブログさんのページでとても面白い記事を見つけた。

1.朝鮮半島の無人時代

朝鮮半島では、旧石器時代と櫛目文土器時代の間に、大きな断絶がある。

12000年~7000年前の間の約5000年間、朝鮮半島では人の住んだ形跡が認められない。

ただし済州島では1万年~7千年前のものとされる高山里遺跡が存在している。この遺跡では南九州縄文の由来とされる隆起文土器や有舌尖頭器が見つかっている。

2.隆起文人(南九州縄文)の朝鮮半島進出

7200年前、鬼界カルデラの噴火のあと、隆起文土器は朝鮮半島の南・東南の沿岸部にも現れる。これが、朝鮮本土の最古の土器である。

同時代の日本列島の土器に比べて様式が古いため、済州島の隆起文人が渡来した可能性が高いとされる。

3.櫛目文人(ウラル系文化)の朝鮮半島進出

6000年前、朝鮮半島の北側から別の土器(櫛目文土器)が伝わり、朝鮮半島全土に広がる。

これはウラル山脈の文化に由来するもので、同じ土器文化はスカンジナビア半島にも広がっている。

一説では、このウラル系人はY染色体のハプロでN型とされている。

4.櫛目文人と隆起文人の融合

おそらく朝鮮半島において櫛目文人と隆起文人の融合があったであろう。

その融合文化(櫛目文の優勢)が九州 に逆輸入されて轟B・曽畑式土器が作られるようになったと考えられる。

この融合をになった人々が、やがて縄文晩期人に移行していくのではないだろうか。

この一連の過程は、Y染色体ハプロのドクトリンから見て、きわめて説得力のある論理である。


曽畑式土器

以下はウィキペディアからのもの

縄文時代前期の曽畑貝塚(熊本県宇土)から出土した土器。

鬼界カルデラ大噴火後に始まった文化とされる。
朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通しており、櫛目文土器の影響を直接受けたものと考えられている。
遺跡そのものは南島系海人族のものであり、櫛目文土器の造り手であるウラル系民族から製法を学んだのではないかとされる。

南九州縄文文化との関連(私の感想)

「南島系」という表現にはかなりの違和感を感じる。

鬼界カルデラ大噴火は約7,300年前とされており、それまでの間に南九州にはかなりの規模で縄文文化が確立していた。この南九州人はもともと日本列島にいた旧石器人の流れの上にあり、寒冷期(2.5万年~2万年前)に南下してこの地域に住み着いたと考えられる。

この文化はほぼ絶滅してしまうのだが、その一部は北九州に移動して本州から浸透してきた縄文文化と合体したと思われる。これに半島系の人々が交わっている可能性もある。そうして縄文晩期人が形成されたのではないか? と目下のところは考えている。

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