カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)
古川アシノカル年譜: 新冠アイヌの強制移住の足がかりとして
■明治・大正期の新冠は国営牧場の発展とアイヌ先住民の追放がウラオモテの関係になっている。その激動する社会のなかでコマのように回りやがて沈んでいった象徴的人物がいる。アイヌ人で豪農豪商、一大を限りに没落していった古川アシノカルである。
明治5年(1872) 開拓使長官黒田清隆は、静内,新冠,沙流3郡にわたる約七万町歩(7万ha・7百平方km)の土地を「新冠牧馬場」として開設することに決定した。付近に生息していた野生の馬2,262頭を集め、軍馬や農耕馬として飼育し始めた。以後昭和22年までの長きにわたり、新冠は延々と牧柵が設置され、数多くの馬を生産・飼育することとなった。
この年の新冠郡(ほぼ現在の新冠町)のアイヌ人は、117戸535人との記録あり。その後農場内で農業に従事したり牧夫として生活するようになった。
明治6年(1873) 新冠牧場、去童(さるわらんべ)に厩舎・監守舎を設置。去童は現朝日地区(姉去付近)。原文にはトキット(去童)と記載されているが、トキットの地名はネット上では見当たらない。
明治7(1874) 黒田の依頼を受けたケブロンが新冠を訪れ、視察。
牧場の事務所は静内の美園に設置。新冠川下流の朝日(去童)と高江地区が開放され、開拓者が入植する。高江は新冠市街地。
1882年(明治15年)農商務省の直轄となり、約66平方キロに敷地拡大する「新牧場」が計画された。
山本書より転載。新冠川を挟んで左半分が旧牧場、右半分が新牧場となる。大変見ずらいが新冠川の上流滑若地区が民有牧場の区画となっており、ここがアイヌの保留地→アシノカルの縄張りとなったと考えられる。
明治17年 宮内省に所管が移り、新冠牧馬場と改称。以後、改称のたびに拡張を繰り返した。軍馬の改良、増殖を主要業務とするようになる。
1885年(明治18年)「旧土人救済方法」が策定される。日高地方で「132戸」のアイヌ民族を強制移住・農業強制を計画。
古川アシノカル夫妻
■「新冠郡随一の責産家」がなぜこのような僻地に入ったか、それは新冠牧場の創立と関係しているとしか考えられない。当面は牧場建設工事絡みではないか、近辺のアイヌ住民を姉去に移転させたのは、立地条件から見て必ずしも非人道的な強制移住だったとは限らない。
明治21 新冠牧場が宮内庁に移管され、「新冠御料牧場」となる。姉去(現大富)を拠点とし、アイヌに貸与して牧場の仕事に従事させる。この頃アシノカルは姉去に転居し、妻に商店を経営させていた。
明治28年 滑若から萬揃と姉去へ十数戸ほどの強制移住があった。このときアシノカルもともに姉去に移住したかも知れない。その結果、萬揃は元々小集落だったところに移入者を加え、23戸92人にふくれあがった。このため移入者の一部はさらに姉去へ再移動。
明治29年 アシノカル、私費をもって姉去に土人学校「古川教育所」を設置。静内出身で師範学校を出た高月桐松を招いて、授業を開始した。間もなく高月が退職し、30年5月以降は休業した
旧姉去(現朝日町)地図
小学校の手前を右折して新冠川に掛かる橋が姉去(あねさり)橋。それを渡って右にカーブした一帯が大橋となる。おそらくこのあたりが旧姉去集落と思われる。
明治30年の調によれば、アシノカリの、30年頃その地籍は34万0000坪、馬は洋種1、雑種159頭、和種250頭を飼育し、日高にも有数な巨然たる牧場王国を営んでいた。
明治34年(1901)閑院宮が視察に訪れる。アイヌエカシ(長老)が「この地方は我ら祖先の開墾せしものなるをお取上げとなり、為に我らは今日難渋を極めいるを以って、何とぞ返還あらんことを請う」と懇願する。結局この件は「当該エカシの失言」として処理された。長老は他地域に強制移住させられた。
1903(明治36) 新牧場(静内側)を本場、旧牧場(新冠側)を分場と改称。新冠郡の人口は1042人と報告される。静内村の人口は5330人と報告(明治44年)
新冠牧場の拡張と姉去アイヌの強制立ち退き
明治41年 静内町二十間道路に貴賓客舎(現龍雲閣)が新築される。韓国皇太子、伊藤博文、皇太子(3年後に大正天皇として即位)が相次いで牧場視察。これに対応するため雇用規則が改正され多数を雇入れ。
明治42年頃、滑若村のアシノカル個人が経営する牧場は、総面積254町3歩。内牧場250町5畝9歩、開墾地3町9反歩をもつ大牧場で馬23頭を所有し、毎年馬20頭の生産をあげた。(明治40年の記載とはかなり異なるが、大地主であることには違いない)
姉去のアイヌが平取町の山中に強制移住
1915年(大正4)年 姉去コタン74戸のアイヌが強制立ち退きを迫られる。平取町上貫気別に強制移住になった。
この決定はあまりにも唐突であまりにも道理がなくあまりにもずさんだ。多分現地の事情に疎い道外の官庁筋から出てきた指示ではないかと思われる。紙議員らも、ことの是非よりもまず事実関係を明らかにしたいという態度で臨んでいるようだ。
ここでは榎森進『アイヌ民族の歴史』より引用。
新冠御料牧場が宮内大臣管轄になり、宮内省主馬寮頭の藤波言忠が同牧場を視察した際、姉去村を御料牧場直営の飼料用地と決定した。姉去村のアイヌ全員【70戸、300名】を沙流郡貫気別村上ヌキベツ(現沙流郡平取町字旭)の和人移住給与地だった地に強制移住させた。当時は雑木林に覆われた山中で、耕作可能な地は僅かであった。その為、実際入植した20戸近くのアイヌのうち、耕作地の開墾が成功したのは15戸前後だった。
現地訪問のレポートによると、旧入植者墓地の敷地内に慰霊碑があるそうですが、私は見ていません。「道道71号線沿いで平取町旭地区の旧墓地付近は無人の山林になっており案内板などもありません」とのことです。
https://www.kitakaido.com/isibumi/jyonnan-14.html
その後のアシノカル: 収支のアンバランスは年々に嵩って来た上、養子が散財型で勘当され、長男は古川橋附近で溺死し、次男たか造は1女を残して天折。
昭和21年 静内において全道アイヌ大会が開催される、北海道アイヌ協会の設立を宣言。宮内省などに対し御料牧場の開放を求める。
昭和22年、御料牧場は全面的に解放となり、緊急開拓地として樺太や満州からの引揚者をはじめ、多くの方が入植することとなった。アイヌ人が大富、万世、明和地区などの旧居留地に入植する。
2023年5月にはこの調査に基づいて紙参院議員の委員会質問が行われている。You Tubeで質問が視聴できる。「新冠で2度の強制移住」アイヌ迫害 歴史伝えよ
■ 参考ネット資料
■ アイヌ遺骨問題に関する関係者インタビュー 木村二三夫氏
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/84785/1/CoSTEP_Report05-02_Narita.pdf
山本 融定 「新冠御料牧場史」(みやま書房 1985)
平取・二風谷ツァー 資料
Ⅰ. 民族としてのアイヌ人
最終氷期(3万~2万5千年前)に旧石器人が樺太経由で日本に南下してきた。この人々は本州から九州・沖縄まで南下し、各地で狩猟と採集生活を営んだ。大陸の人々との交流の中で細石刃文化や縄文文化が生まれた。
この頃から、沙流川流域はアイヌ民族の主要な居留地となった。内陸に発達したのは海岸の霧と冷気を避けるためであろう。それが結果的にはアイヌの固有生活を保持し得た理由ともなったと考えられる。
Ⅱ. 進取の人 平村ペンリウク
平取のアイヌを語る上で欠かせない人物がペンリウクだ。義経神社の鳥居前に佐藤昌介北大学長の記した顕彰碑がある。経時変化で文字が崩れ、よく読めない。資料として書き出しておく。
故ペンリウク翁は氣骨稜々智略にとみ、十勝の同族を征服し、その名遠近に轟き、大いに衆望を聚め、亦良く地方の同族を統率して愛撫を加へ、文字の學ぶべきを説き、學校を設立して子弟の就學を勤む、之を土人教育の嚆矢とす。
官乃ち土人の事一切を翁に委ね、オテナ即ち総酋長を以て之を遇す。
翁曾て判官義經公の神像を此の地に遷祀して其の徳を鑑かにす、是本村義經神社 の濫觴なり。
明治十七年八月、故小松宮彰仁親王殿下本村お成の砌、翁の住宅 に御立寄あらせられ優渥なる御諚を賜はる。誠に無上の光榮と謂ふべく。
翁明 治三十六年十一月二十八日七十一歳にて病を以て歿す。郷黨翁の遺業を追慕し、ここに碑を建て、以て記念となし、長へに英魂を慰めんと欲す。
碑と碑文の評価については土橋芳美さんの「痛みのペンリウク 囚われのアイヌ人骨」に詳しい。
ウィキペディアなどから抜粋した
平村の姓を持つが生粋のアイヌ。生年は1833年、70年を生地平取で生き、1903年(明治36年)平取に没した。
ペンリウクは平取コタンの首長(コタンコロクル)シュロクの長男として生まれ、生まれながらにアイヌ指導者であった。
ペンリウクには相当の資産があったらしい。71歳で亡くなったとき、その遺産は土地や馬を合わせて千円もあったという。
町内の義経神社はペンリウクの寄進により建立、当時はアイヌ人専用の神社だった。かつては神社の鳥居前にペンリウク宅があった。
若いとき、正義感に燃えしばしば北蝦夷地・樺太に渡り、同胞の苦難を救おうとした。
Ⅲ.ペンリウクを頼って多くの外国人が来訪
ただ、デニングはかなり強引な布教活動もしたらしく。後にペンリウクはこう批判している。「もしあなたを造った神が私たちをも造ったのならば、どうしてあなたはそんなに金持ちで,私たちはこんなに貧乏なのですか」
2.イザベラ・バード
イギリス人旅行家イザベラ・バードが平取に入るのは、デニング訪問の2年後、1878年(明治11年)のことである。彼女はペンリウク宅に4日間滞在した。
このときバードはすでに47歳、決して若くはない。旅行の印象は2年後に一冊の本として発表された。原題は「人跡未踏の路」となっている。それが実感だったのだろう。
通訳兼案内人の日本人伊藤某は「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただの犬です。人間ではありません」と断言しました。しかしバードが接したアイヌはそれとは逆でした。
アイヌは純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対して思いやりがあります。
3.ジョン・バチェラー
明治14(1881)年には、バチェラーのための新室を建て増した。
彼はたんなる伝道師にとどまらず、アイヌの悲惨な生活を救うため献身的な努力を重ね、生涯をアイヌのために捧げた。この点に関しては間然たるところはない。
ただそれが伝道活動という枠の中で行われたために、慈善の枠を乗り越えてアイヌ民族の解放運動へ進むよう訴える人も出現した。さらに軍国主義が広がって行くに連れ、さまざまな潮流との摩擦で困難を抱えるようになった。
Ⅳ.平取とアイヌの文化運動
岩波新書で久保寺逸彦 「アイヌの文学」という本がある。著者は1925年(大正14)に大学を卒業した後、平取に飛び込んでひたすらユーカラの採集に没頭した。1956(昭和31)年に「アイヌ文学序説」として発表された。これが77年に掘り起こされ、関係者の努力によって岩波新書となった。それも絶版となり埋もれていたのが、たまたま北大病院前の古書店で私の目に止まった。
採録の思い出が文中に記されている。
かつて私は、1931(昭和6)年の夏、日高・平取の平村コタンピラという老伝承詩人からユーカラの一つを筆記したことがあった。朝は7時ころから、暗くなるまで、昼飯抜きで書き続けて、5日もかかってやっと書き終えた経験がある。
ここではただ一編のみ紹介する
「一騎討ちの決闘を叙する」
大地の上に/猛き足踏みを/我に伸ばし
こなたよりも/猛き足踏みを/我伸ばしたり
真っ先に/我を突き来る/矛(ほこ)の陰
我にかぶさり来る/この矛の下を/我前へ屈みて
はたと伏せば/兜の上に/矛すべる音
鏗爾…(こうじ。 琴を下に置くとき、コーンとなる音)
彼が矛の下に/我が矛の/目当てをつけ
彼のみづおちを切って/ぐざと突き刺せば
重々しき しわぶき/息 咽せかへりて/くわっと迸(ほとばし)り
彼の鼻より/出づる血は/粒々なして落ちこぼれ
彼の口より/出づる血は/幅広の赤褌を口から吐くよう
新たにまた/彼が我を突き来る/矛先に
我れ身をそぼめ/我が胸の上に/矛をそらしめ
その折に/刀を執る手/我 むずと摑み
足の甲の上を/我 踏みつけ/上の方より 下の方より
我が手許/疾く競へば/うめき苦しむ彼
またさらに/我を衝き来る時
避けんも面倒くさく/突かせをれば
我が鳩尾(みそおち)を切り/我をしたたに刺す
重々しきしはぶき/我がつく息のひまに/くわっと迸り
我が口を/通る血は/幅広の赤褌のごとく
我が勝ち誇れるままを/我に仕返し……
なおこの他、登別ユーカラの伝承者、金成マツも平取聖公会の初期に看護婦ブライアントの助手として勤務したことがある。
2.バチェラー八重子の「若きウタリに」
伊達町のアイヌ豪族向井富蔵の娘、長じてバチェラーの養女となる。イギリスで伝道師の教育を受けた後帰国、平取聖公会で働く。1931年(昭和6年)に歌集『若きウタリに』が出版された。
たつ瀬なく もだえ亡ぶる 道の外に ウタリ起さむ 正道(まさみち)なきか
灰色の 空を見つむる 瞳より とどめがたなき 涙あふるる
夏ながら 心はさむく ふるうなり ウタリが事を 思い居たれば
しんしんと 更け行く夜半に 我一人 ウタリを思い 泣きておりけり
3.違星北斗
余市の網元の家に生まれる。東京で勉学後、北海道に戻り各地のアイヌの組織化に動く。平取にも短期滞在し、八重子の下、聖公会で働く。過労から結核が悪化し昭和4年はじめ死去。
ここでは日記の最後のページより。
5月8日 兄が熊の肉とフイベを差し入れ。
熊の肉 俺の血になれ 肉になれ 赤いフイベに 塩つけて食う
熊の肉は 本当にうまいよ 内地人 土産話に 食わせたいなあ
あばら家に 風吹き入りて ごみほこり 立つ 其の中に 病みて寝るなり
5月17日
酒飲みが 酒飲む様に 楽しくに こんな薬を飲めないものか
薬など 必要でない 健康な 身体になろう 利け 此の薬
7月18日
続けては 咳する事の苦しさに 坐って居れば 蝿の寄り来る
10月3日
アイヌとして 使命のままに 立つ事を 胸に描いて病気を忘れる
12月28日
此の頃左の肋が痛む。咳も出る。疲れて動かれなくなった。
東京の希望社後藤先生より、お見舞の電報為替。
何か知ら 嬉しいたより来るようだ 我が家めざして配達が来る
平取に 浴場一つ ほしいもの 金があったら たてないものを
の歌が刻まれている。
Ⅴ.二風谷に葬られた医師マンロー
医師ニール・ゴードン・マンローはスコットランド生まれの外科医。エジンバラ大学で学ぶ。卒業後そのまま船に乗り、インド、中国を転々とした後、横浜に腰を落ち着ける。本業はそっちのけで考古学に熱中し、英語で書かれた唯一の考古学書「先史時代の日本」を出版した。
昭和のはじめ、66歳で二風谷のアイヌ居住地区に定住し、民俗学的研究を続けた。その間、アイヌの人々を無料で診療した。
スパイ事件をでっちあげられ獄死した北大生宮沢さんとも交友があり、最晩年には帰化した日本国民でありながら敵性外国人として監視の下に置かれた。
死にあたり、マンローは二風谷の地にアイヌ人と同じようにして葬ってほしいと希望。共同墓地の一角に埋葬されている。
参考: 新冠アイヌの強制移住
日帰りツァーの対象地としては遠すぎるので、今回訪問対象にはならないが、略述しておく。
大正5年に新冠御料牧場拡張のため、先住アイヌは平取村上貫気別地区へ強制移住させられた。強制移住はこれが最初ではなかった。最初の強制移住は明治28(1895)年の滑若村から姉去への移住であった。
地区の有力者であった吉川アシンノカルは御料牧場に奉職するかたわら、自身も牧場や商店を経営していたが、移転を率いた。
「強制移住になった人々の悲しさは凄絶なものがあった」という。
上貫気別地区には記念碑が建てられているらしいが、詳細は不明である。
*後日知ったことであるが、私たちのツァーをガイドしていただいた木村二三夫さんは、まさにこの強制移住を強いられた人々の後裔に当たるということだ。それと知って居ればもう少し話を聞いておきたいところであった。ただ、ご本人のインタビュー記事によると、ご自身がたまたま姉去の慰霊碑の前を車で通りかかって、初めて姉去の所在を知ったということであるから、やはり周りの人がしっかり掘り起こしていかなければならないのは間違いない。
神功紀に垣間見える 百済紀と倭国紀
神功紀 (年表式にまとめたもの)
神功五年春三月七日、新羅王がウレシホツ、モマリシチ、ホラモチらを遣わして朝貢した。この時新羅が差し出した人質コチホツカンは策を講じ新羅帰還を図った。神功は葛城襲津彦を付き添いとし新羅に送ったが、途中で逃げられた。襲津彦は新羅を攻め、何ヶ所がの城を陥したあと還った。連れ帰った捕虜たちは桑原、佐糜、高宮、忍海村の漢人の先祖である。
この3つの事項は私たちの女王、すなわち卑弥呼の事績である。
(日本書紀には記載がないが、魏志倭人伝によると、248年ころ卑弥呼が死亡した。男王をたてるが「国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人」が殺される事態となった。そこで卑弥呼の宗女台与が国政を司ることに成り、国内は安定した)
河内王朝→継体王朝と幻の「百済本紀」
天羽利夫「鳥居龍蔵に関する講演録」ノート
伽耶と加羅と任那 韓国史学界との齟齬を読み解く
伽耶問題は決着済みのはずだが
朝鮮古代史の基本史籍である『三国史記』ではおもに加耶として出てくるが、他に伽耶、加良、伽落、駕洛という表記もある。『三国遺事』ではおもに伽耶であるが、『日本書紀』には主に加羅である。『梁書』には伽羅、『隋書』には迦羅、『続日本紀』には賀羅ともでてくる。このように表記は様々であるが、同じ語の異表記であり、加耶 ka-ya は加羅 ka-ra の r 音が転訛したもので朝鮮語ではよく見られる。つまり、加羅=加耶である。
「任那」はかつての弁韓であり、新羅や百済には属さず、倭の勢力に依存し、独立的な様相を呈していた。…その後、「都督諸軍事」に「加羅」が加号されるが、『南斉書』に建元元年(479年)加羅国王が独自に南斉に朝貢し、その王が「輔国将軍・加羅国王」に封冊されることと関係がある。つまり、高霊加羅の独立的な動きを背景にした称号追加だった。(ウィキ:「好太王碑」の記事より)
その際、旧弁韓の東半分が加羅、西半分が任那という棲み分けになっていたのかもしれない。ただし6世紀に入ってからは、任那ともども衰退し、最後は任那の一部として没落することになった、ということになのかもしれない。なお「任那日本府」は日本書紀のみに出現する名称であり、取り扱いは保留すべきである。ただ後期加羅領域内に倭館があることは念頭に置くべきか。
そのように想定すると、韓国史学界が伽耶の呼称にしがみつき、任那をネグレクトする理由が説明つく。分からないのは、日本の研究者の間にも韓国史学の動向に従う人が少なくないことである。もう少しその人がたの言い分を聞いてみたいと思う。
最初の古日本人 いくつかの図
*ホモサピエンスの最初の出アフリカは20万年前に遡る、現生サピエンスの出アフリカまでに数次にわたる出アフリカ→絶滅があったと思われる。残念ながら、いまだにその足跡を示したマップにはお目にかかっていない。
*4.9万年前という日付は、厳密には出アフリカではなく出エデンである。現生ホモサピエンスのDNAにネアンデルタール人のゲノムが混入していることが確認されているが、両者の混交は9万年前ころのテルアビブ近郊とされているので、出アフリカを果たした現生ホモサピエンスはその地(エデン?)に5万年を滞留し、その後一気に拡散を開始したことになる。
*人類の波及の年代については色々書かれているが、個体数が少ない中での誤差なので、あまり深読みしないほうが良い。ただしインド→東南アジア→オーストラリアの流れは一気呵成の感があり、海上を使っての移動拡散が考えられる。これが新幹線で、ほかは支線、さらに日本のようなところは染み出し的波及と考えるとわかりやすい。
*これはむしろ文化人類学的に考えるべきで、片道切符にとどまらない往還型交通が延長していったのではないかと思われる。つまりヒトが人間になったことに人類拡散の最大の要因がったのではないかと考えられる。無論北回りにもルートは伸びていくのであろうが、当時における陸路の困難は想像するに余りある。
図2 旧石器時代前期と後期の気候
*旧石器時代後期を前半期と後半期に分けることはきわめて重要である。私は前半期と後半期では違う人種の旧石器人が暮らしていたと考える。相対的に温暖な前半期に日本に進出してきた人たちは、後半期の最終氷期最寒冷期には適応できなかった可能性が高い。
*3万年前に最終氷期に突入した日本列島では、先着した第1期ホモ・サピエンスは絶滅かぞれに近い状況に陥った。それに代わり、シベリアから樺太→北海道→本州と南下してきたマンモスハンターの生息地となった。同じ時期に朝鮮半島を経由して別の人種が入ってきた可能性も否定できないが、それが主流となった形跡はない。縄文人のDNAに、南方系もふくめたばらつきが見られるのは、この3万年前の人種交代によって説明できるのではないだろうか。
図3 3つの地理的単位
*これはあくまで自然地理的領域であり、土器などの文化地理学では北海道から本州中部までほぼ単一の領域とみなすことができる。
*近畿、中国、四国地方の縄文文化については材料不足。むしろ朝鮮半島をふくめ考古学的空白という印象がある。そして弥生時代につながる縄文後期、晩期が検討対象となっている。
*南九州から種子島・屋久島などにかけて出現し7千年前の噴火で突如消失したもう一つの縄文文化の位置づけは未だ不明である。トカラ・ギャップ、ケラマ・ギャップについては初耳なので判断できないが、それほど重要なものなのかという印象。
図4 縄文~弥生~奈良時代 人種の変遷
*ごく普通の渡来・混血の経過図である。右の図は鎌倉時代の状況である。最大公約数を要領よくまとめているが、それだけにいろいろ突っ込みどころのある図でもある。
*人種構成を大きく変えるほどの数ではないが、原日本人の主流となる弥生期渡来民に続いてBC100年頃に南満系の民族が(おそらく数次にわたり)襲来し、征服王朝を設立している。これはイギリス人がアングロサクソン民族(ゲノム的根拠はない)を名乗るのと同断である。
東ユーラシア人類集団の形成
という講義をYou Tubeで閲覧した。
一応、記録しておく
これは、ホモサピエンスの展開図で、おそらく演者の思いの投影したものだ。困ったことに赤線の展開図が今回の研究では証明されていない。
ゲノム展開については、検体数から行っても圧倒的にY染色体が先行しており、量的にも質的にもゲノムサンプル数が多くないと1対1の比較は無理である。
そこでゲノムやさんの発表は、大量のY染色体データを無視することになる。したがってもし同じ傾向しかでないのであれば、それは無視される。もし違うのであれば「なぜそうなのか?」の理由をつけて提起しなければならない。
最尤法を用いるというが、たった一例で統計的処理が聞いて呆れる。まあ、そうやって作ったのか下の図である。
最初にも言ったように、この系統樹には北アジア在住人種の出る幕がない。すなわちハプロC2人とD2人だ。Y染色体ハプロの到達の上にゲノムの知見を載せたいのだが、これでは全面的な退歩としか言いようがない。無残である。
ラオスの山奥の先住民と豊橋の縄文人のゲノムが近かったといわれても、そうですかと答える他ない。特に人骨の絶対年代の問題はもう少し数が出てくれないとなんとも言いようがない。
Yハプロの話ばかりで申し訳ないが、おそらく3万年前くらいまではアフリカ以外のサピエンスはハプロC1一色だったと思える。当然その頃の日本の旧石器人もC1だっただろう。最終氷期に合わせて北方からD2人が進出してきたが、C1人が消滅したと考える必要はないだろう。関東平野の旧石器、縄文人が決してD2優位ではないことは、そのことを示唆する。
東アジアを経由しないで東北アジアへ進出した人種は、だから北回りとは言えない。C2、D2はヒマラヤ越え→チベット高原経由で蒙古に達した可能性が強い。
純粋な意味で北方系というのは、牧畜が始まって中央アジアの牧畜民が東西に振り子のように触れる生活を始めるようになってからである。そして狩猟人たるC2、D2人が追われるように外縁化していったと見るべきであろう。
クマエの歴史
ここではイタリアの先史時代からクマエの形成、先住民勢力エトルリアとの戦い、滅亡に至る経過を追ってみたい。
これによりローマ帝国の前身がギリシャ人植民者、中部土着勢力、南部土着勢力の三つ巴の中で形成され、最終的にローマ帝国へと集中していく過程が理解できる。
図 先史時代(鉄器時代)のイタリアの民族分布
ポンペイの歴史
AD 79年の8月24日に一瞬にして死の街と化し、その上に厚く火山灰が堆積して地上から姿を消した。日本で言うと倭奴国王の金印の頃である。
北太平洋における縄文海進期の特質
この記事の中で下記論文を紹介し、リンクを張った。こんな記事を書いたことすら忘れていたが、ある方からコメントを頂いた。
イェスナー「北太平洋における海洋適応の動物考古学的展望」(国立民族学博物館 2009年)
このリンクが無効だと指摘された。オリジナルのファイルへのリンクではなく、私が自分のコンピュータにダウンロードしたファイルにリンクされていたようだ。これでは読者がリンクを辿ろうとしても不可能だ。
「ハイわかりました。早速リンクを張り直します」ということでやってみたら、これがどういうわけかうまくいかない。
どうやったのか、どこがうまくいかないかを、下記に箇条書する。
グーグル窓に
イェスナー「北太平洋における海洋適応の動物考古学的展望」(国立民族学博物館 2009年)
と入れて検索にかける。
出てくるのがこの画面。
細かく上げたのは、トップページの上から4番目、ここに私の記事がリストアッブされているからである。私の嗅覚の鋭さを自慢したかっただけの話である。
本題に戻る。
この一覧表の内、上から2番め
そしてサケ : 北太平洋における 海洋適応の動物考古学的展望
という見出しが、お目当てのページへのリンクとなっている。
これをポッつんすると出てくるのがこのページ
のだが、このページのHTTPSが
file:///C:/Users/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%A0%8C/Desktop/SER82_004%20(8).pdf
となっているのだ。
なぜそうなるのかが分からない。1年前なら24時間どっぷりとハマって原因調査に当たるのだが、術後の体と心には難しい。
そこで弱者であることに甘えることにした。すなわちパクリである。
上のトップページを下にスライドさせていくと本文が出てくる。それをズルっとコピーしたのが下のテキストである。著作権はもろに侵害するが、私のリンクが上から4番目に入るほどだから、おそらく誰も知らない宗谷本線の無人駅だろう、と思う。だから拡散による貢献のほうが優先されるだろうというのが、私の勝手読みである。
イェスナー「北太平洋における海洋適応の動物考古学的展望」(国立民族学博物館 2009年)
貝類,アザラシ,そしてサケ
北太平洋における海洋適応の動物考古学的展望
1. はじめに
過去数千年の間,日本・ロシア極東から北米北西海岸に至る太平洋沿岸の自然環境で
は,海洋適応(maritime adaptation)と呼ばれるものが発達してきた。海洋適応とは何か
という議論には今なお論争の余地が残るものの,海洋資源を何らかの方法で利用するこ
とは,アムール河口域・オホーツク海・日本海・日本列島の全域を包摂する,いわゆる
「アムーリア(“Amuria”)」と称される大領域において,まず始められたようである。こ
れ以北の地域(例えば千島列島・カムチャツカ・チュコトカ)からは,(完新世中期以
前に遡る)初期の海洋資源利用の痕跡がほとんど見出されない。しかるに,アラスカ南
部では海洋資源の利用が,約 8,300 年前に比定される最初期の沿海文化に反映されてい
る可能性が指摘される一方で,約 7,000 年前に比定されるコディアック島の初期オー
シャン・ベイ文化には,その痕跡が確実に認められる。アラスカ(そしてアメリカ大陸)
に殖民した最初の住民は一般に北東アジアからの移住者であったと見做されているが,
北太平洋沿岸を横断して見出されるこれら初期の沿海的生活様式は,果たして,海洋適
応を遂げた人たちの移住の結果であろうか,それとも,単にさまざまな海洋的生活様式
の間に出来した収斂に過ぎないのであろうか。もし前者であったとするなら,チュコト
カやカムチャツカでは,両者の中間的時期に比定される沿海文化遺跡がどこに見出され
るのか。また,これらの地域で長い時間をかけて発達してきた海洋資源の利用には,ど
のような類似や差異が認められるのであろうか。
2. 日本列島における海洋適応の発達
モース(E.S. Morse)による大森貝塚の発掘(1879)以来,海洋資源と日本の先史時
代との関係性は自明なものとなった。今や 2,000 件以上が記録されている貝塚(shell
midden)は,先史時代の生業活動やセトルメント・パターンをめぐって詳細な梗概を伝
える,優れたデータベースを形成している。では,これらのデータがわれわれに物語る
ものに,耳を傾けてみよう。
縄文時代は,後期旧石器時代に成立し,中石器時代には定住化への傾斜を強めた多彩
な狩猟採集民的適応の 1 事例であるが,前代からは細石刃技法のような初期技術を継承
していた。溯河魚の利用は縄文時代草創期にまで遡ることができるものの,海棲貝類の
最も早い利用の痕跡は,縄文早期(BP 9500~6500 年頃)に比定される。このような遺跡は,縄文後期に比べると相対的に僅少である―恐らくは,完新世前期に生じた急激な海面上昇の結果であろう。しかしながら,これらの遺跡には,海棲魚類・数種の海棲哺乳動物(とりわけイルカ)・ウミガメ・ウナギ,そして多種多様な貝類の利用を裏付ける重要な証拠が残されている(cf. Workman and McCartney 1998: 364)。これらの資源利用は,流し網用の石錘(stone netsinkers)や単純な回転式離頭銛の使用によっても示されている(山浦 1987)。北海道ではオットセイ(fur seal)・トド(Steller sea lion)・ネズミイルカ(porpoise)などの海棲哺乳動物の狩猟に,より大きな比重が配されていた(Okada
1998; 金子 1986)。
縄文前期海進
縄文時代前期(BP 6500~5700 年頃)までは海洋適応の痕跡を示す遺跡数が日本列島
の全域で著しく増加してくるが,これは恐らく同時期に生じた海進(marine transgression)と関連するであろう(前田 1983; 太田ほか 1990)。海棲魚や海鳥のほかにイル
カや鯨も捕獲されたが,鯨はほぼ間違いなく,積極的に狩るというよりは寧ろ,漂着し
た死骸を採集したものと考えるべきであろう。縄文早期と同様,本州北部や北海道の遺
跡からは,オットセイ・トド・ネズミイルカなどの仔獣骨も含む,海棲哺乳類の骨が著
しく大量に出土している(Yamaura 1998; 新美 1990; Bleed et al. 1989)。これらの海棲哺乳
動物は恐らく,遺跡に見出される離頭型の銛(open socket harpoon)を用いて仕留められ
たものと推測される(Okada 1998)。
縄文中期海進
縄文前期の末葉になると,このような遺跡数の減少を示唆する形跡が認められるが,
恐らくは,気候の寒冷化に共伴したと想定される海退(marine regression)と関連するで
あろう(Imamura 1996: 91)。しかしながら,約500年前後の間に人口は再び増加し始めて,
BP 5000~3900 年頃に比定される縄文中期では最大値を示すに至る(Habu 2002)。縄文
中期の大海進は,この時期に発生した(前田 1983; 太田ほか 1990)。本州では,ネズミ
イルカ・ウミガメの狩猟や海棲魚・貝類の採集に加えて,アザラシ猟が盛んに行われて
いた(Aikens and Higuchi 1982: 157)。北海道にあっては,これらの生業活動に加えて,
水鳥・オットセイ・トド,そして(現在は絶滅した)ニホンアシカ(Japanese sea lion)
なども捕獲していた。ニホンアシカの狩猟では,回転式離頭銛やその他の銛が使用され
た。鯨利用に関する限り,依然として積極的な狩猟というよりは寧ろ,漂着した死骸を
採集していたようである。
縄文文化の南方進出
縄文後期・晩期(BP 3900~2500 年頃)までは,高度に定住的で海陸を包摂する複合
型の狩猟採集民的適応が,日本列島の全域に広まっていたようである。恐らくはヤナ(fish
weirs)の利用が導入された結果として大規模なサケ漁が行われるようになると,海産
食料中に占める貝類の比率は 10%を切るようになった(新美 1990)。また海棲哺乳動物
の狩猟も,恐らくは,イルカや大型魚(例えばマグロやカツオなど)を狭い入り江へ追
い込む漁法の導入とも相俟って,盛況を呈していた(Imamura 1996)。これが,気候の
顕著な寒冷化に伴う今ひとつの強烈な海退と関連していたことを示す重要な証拠がある
。かかる気候の寒冷化は,海水温の低下のみならず,湾内の全面結氷も招来したに違いない。このような氷による海岸部の浸蝕は貝類の採集を困難としたものの,大型海棲哺乳動物の個体群の繁殖には大いに役立ったであろう(Nishimoto 1984)。
本州以南では,海岸部に立地する貝塚がその規模を縮小させ,より広範に拡散する傾向が認められる(Habu 2002)。北海道にあっては,縄文晩期と続縄文期(BP 2500~1500 年頃)の諸文化が,大型の深海魚(例えばオヒョウ)・オットセイ・トド・鯨を重点的に捕獲していた(Nishimoto 1984)。
北海道北部のオホーツク文化
後続する北海道北部のオホーツク文化では,組織的鯨猟の開始が指摘される。主とし
て考古学的に記録された熊送り(bear cult)の痕跡と,同時期に出土する幾つかの人骨
に立脚して,オホーツク文化は,太平洋沿岸の大陸部から移住してきたアイヌの祖先に
比定されるという所説(Ishida 1988)が提唱されている。事実,言語学データに拠るな
らば,日本とサハリンのアイヌ語やアムール河口域に分布するニヴフ(ギリヤーク)語
は,当該地域における原初的言語基層をなしており,のちになって,ツングース・満州
語派に属する沿海地方のウデヘ語やナーナイ(ゴルディ)語を含む,ロシア極東地方の
諸民族の幾つかの言語が,同地域へ楔状に浸透してきた,と想定されている。
狩猟対象の野生動物や貝類のいずれについても,捕獲された個体の若齢化が考古学資
料に反映されるという形で,資源に対する深刻な人口圧が感ぜられ始めた形跡も存在す
る(Koike 1986a; 1986b)。どうやら,気候の寒冷化と資源に対する人口圧の増加は両者
が相俟って,海洋(あるいは陸上)資源のさらなる開発がもはや不可能であった以南の
諸地域において,経済危機を創出したようである。ロシア極東(アムール流域と沿海地
方)から続縄文期の北海道への豚飼育の伝来や,本州への農耕(弥生稲作文化)の到来
は,恐らく,このような経済危機に対する応答(response)であったろう。
3. ロシア極東における初期の海洋文化
沿海地方における海洋適応の発展は近年まで,概ね過去 2,000 年以内に集中する,比
較的後代に生起した事象であると考えられてきた。オクラドニコフ やアンドレイェフ
によって纏められた初期の研究(Okladnikov 1963, 1965; Andreev 1964)によると,沿海地
方の海岸部を開拓した最古の住民は,豚飼育のみならず海洋資源の開発にも従事した鉄
器時代の人々とされていた。実際には,BP 7700 年と編年されてルドナヤ文化と名付け
られた,海岸部に立地する一連の(土器は包含するも金属器を欠く)「新石器文化」遺
跡群が,沿海地方の北岸一帯に分布することを,われわれは今や承知している。今を去
る 7,900 年前,日本海における低温と強烈な嵐が,海洋適応に基礎を置く諸伝統の発展
を妨げたと想定されている(Korotkii and Pletnev 1988)。あいにく,ルドナヤ文化の遺跡
群では有機物質の保存がひとし並みに不良であるため,遺跡の立地や,漁網用石錘(cobble sinkers)・アザラシの石偶に関する情報を別にすると,海洋的生業活動の性質を立証する術はほとんどなかった(Diakov 1992)。しかるに,沿海地方の南岸における1990 年頃のボイスマン文化の発見を契機として,その情況は変わり始める。就中,ボイスマンⅡ標準遺跡や,ヴラヂヴォストク以南に立地するその他の関連遺跡は,見事に保存された有機物質を共伴する貝塚であって,BP 6500~5000 年頃と年代決定される「前期新石器」文化の記録を提供してくれる(Popov 1996; Popov et al. 1997; Yesner and Popov
2001)。
日本海のロシア側で記録された三次の海進
数多くの古地理学的調査の成果によると,日本海のロシア側で記録された一連の海面
変動曲線(sea level curves)は,日本列島側での記録と酷似しており(Fig. 1),地殻運動
の類似した変遷を示唆している(Voztretsov 1998)。日本におけると同様,沿岸部に立地
する遺跡数の最大値を示す幾つかのピークが,沿海地方の海岸部で幾度か生起した海進
の最盛期と緊密に相関することは今や明白である。端境期に出来したあまたの海進と関
連する遺跡群は,すでに海中に没するか,浸蝕を受けて破壊されてしまった。これら海
面変動曲線が示すところによると,大海進はそれぞれ BP 6000 年頃,BP 3500 年頃,BP
1800 年頃に起きているが,日本列島側で得られた大海進の時期とほぼ符合する。BP
6000 年頃に発生した第 1 次大海進はボイスマン文化の到来と結び付けられ,マルィシェ
ヴォ・ヴォズネショノフカ・カザケヴィチェヴァといったアムール下流域の遺跡で認められる,漁撈活動の隆盛とも関連している(Vasilievsky 1998; Okladnikov and Derevianko
1973)。
余り明確な性格を示さぬ青銅器時代と結び付けられる第 2 次大海進に対して,
恐らく最も強烈だったと見られる第 3 次の大海進は,オクラドニコフのいわゆる鉄器時
代(Okladnikov 1963; 1965)と関連している。
4. ボイスマンⅡ遺跡と沿海地方海岸部における海洋適応の進化
ボイスマン文化の経済は,陸・海棲の多彩な動物種を基盤としていたようで,陸上環
境と海洋環境の双方を集約的に開発していたことを示唆する。ここではまず,ボイスマ
ンⅡ遺跡出土の貝類と魚類の遺残に関する先行研究を略述したうえで,同遺跡から出土
する哺乳動物と鳥類の骨について,やや詳しく検討を加えることにしたい。この検討は,
ボイスマンⅡ遺跡で実施された 3 シーズンの発掘調査に対する自らの観察に基づいてい
る。われわれは目下,動物骨の標本コレクションと比較するなかで,5 シーズンの発掘
調査から得られた動物骨の分析を進めている。2 年後には,これらの動物標本をめぐる
われわれの観察の詳細な報告書を上梓することができるであろう。
ボイスマンⅡ標準遺跡は,沿海地方のヴラヂヴォストクから南西 170 km のリャザノ
フカ河口域,BP 6000 年頃の海進によって冠水したボイスマン湾の突端に立地してい
る。ボイスマンⅡ遺跡の,概ねカキ(oyster shell)で構成される厚さ 1 メートルの貝層
は,BP 6200 年から BP 4800 年にかけて比較的短期間に形成されたものである。その
下層には,ボイスマン文化の草創期にかかわる,貝類を欠如する堆積が見出される。
無貝層から分厚い貝の堆積への突如としての移行は,海進がもたらした塩水環境に由
来するカキの繁殖床(oyster shell beds)の形成と結びついた,貝類の食料利用の開始
を示唆している。
貝類は,明らかにボイスマン文化の古経済の重要な一部であり,恐らくは,カキの繁
殖床に近接するまさにその場所に,居住域が設営された主要な理由のひとつでもあった
ろう。この遺跡から出土した軟体動物(mollusks)は 40 種を数えるものの,潮間帯の泥
濘・沈泥中に棲息する二枚貝(clams)は,確認された貝類のうちで―恐らく 5%以下
という―僅かな部分を占めるに過ぎない。二枚貝は貝塚の至るところで見出されると
はいえ,大量に発見されるのは貝塚の底部に限られるようで,潮間帯はどうやら,今日
よりも遥かに大規模なものだったようである。貝塚出土のその他の貝はカキで構成さ
れ,とりわけ大型のカキ(最大寸法 30 cm)が,隣接する繁殖床で採集されていた。
ボイスマンⅡ遺跡から出土する魚類遺残は,サバ(mackerel)・シタビラメ(sole)・ス
ズキ(perch)といった,広範な種類の近海魚を包摂している。深海魚を利用した形跡
は皆無である。サケ科の魚類(salmonids)の役割も不分明である。これらの魚骨は軟骨
で保存性にも乏しいため,貝塚のなかでは過小評価される恐れもあろう。初秋に遡上してくるサクラマス(Oncorhynchus masou)は今日ですら,明らかに,リャザノフカ流域
における重要な食料源のひとつである。
ボイスマンⅡ遺跡から採集された鳥類の遺残は,95%が海鳥のようである。そのうち
約 50%は水鳥(過半が小型のカモ)で,残りがウ(cormorants)やウミスズメ(alcids)
など,多種多様な海鳥である。絶滅に瀕する短尾鳥アホウドリ(albatross)の遺残も,
今ではボイスマンⅠ・Ⅱの両遺跡から見出されている。かくて,北太平洋地域ではかつ
て広く分布し,大量に捕獲されてきたアホウドリの棲息史に対しても,追加情報がもた
らされることとなった。
しかしながら,われわれの研究にとって最も重要な局面は,ボイスマン前期新石器文
化に対する海棲哺乳動物の重要性を立証することにある。過去には海棲哺乳動物の利用
が,新石器時代にはほとんど知られなかった。ボイスマンⅠ遺跡の出土標本が暫定的に
アザラシと同定された事例が幾つかあったものの,小型アザラシは青銅器時代に,また
大型アザラシ(トド)については鉄器時代から,その利用が開始されたと考えるのが一
般的であった。しかるにボイスマンⅡ遺跡では,掛け値なしに動物遺残の 20%が海棲
哺乳動物であった。その中核をなすゴマフアザラシ(Phoca largha)とゼニガタアザラ
シ(Phoca vitulina)は,出土した海棲哺乳動物遺残の約 70%を占めている。これらは恐
らく,海岸線近辺で狩られたものだろう。ボイスマン湾には今日でもこれらのアザラシ
がやって来るからである。現在では北太平洋の北部に棲息すると見做されている大型獣
のトドも,やはり非常に重要であって,恐らくは沖合の島の群生地(island rookeries)や
餌場(haulouts)で狩られたものと考えられる。これらの哺乳動物はいずれも,ボイス
マン文化の諸遺跡から出土する,回転式離頭銛を含むいずれかの銛で仕留められていた
のであろう。ボイスマン文化の初期には,アザラシ猟がより一層重要であった可能性が
あるという見解も聞かれる。
鯨利用の問題はさらに複雑である。人為的な切断痕を有する―恐らくは道具製作の
ための―大型の鯨骨塊が数点,ボイスマンⅡ遺跡から出土している。とはいえ,鯨肉
の生業経済に対する重要性は未知数である。恐らくは,縄文文化で考察したように,積
極的な狩猟というよりは寧ろ,概ね漂着した死骸を採集していたのであろう。ボイスマ
ンⅡ遺跡の埋葬に伴って発見される大型銛の幾つかは,鯨猟に使用された可能性も考え
られるが,ひょっとすると,単に儀礼的機能を果たしていただけかも知れない。
以上を纏めるなら,ボイスマンⅡ遺跡出土の動物遺残は,半定住的沿海住民による沿
海(littoral)・沖合(offshore)・河川域(riverine)・山麓(piedmont)・山岳(montane)といっ
た,さまざまな自然環境の広範な利用を示唆するものである。
ボイスマン遺跡からは,広範な種類の石製品(打製石器や磨製石器)・骨器・土器が
発見されている。縄文文化やアラスカ南部の諸文化と同様,最初に登場する遺物は細石
刃(microblades)であるが,これは比較的迅速に姿を消した。磨製石器は,ルドナヤ文化やボイスマン文化ばかりでなく,やはり BP 6500 年頃に比定される日本の前期縄文文
化やアラスカ南部のオーシャン・ベイ文化からも発見される点が頗る興味深い。格別
な興味を喚起するのは骨器であって,―片側か両側に逆刺を有し,基部が十字を呈
する銛も含む―様々な様式の銛は,オーシャン・ベイ文化の諸様式を彷彿せしめる
(Fig. 2)。加えて,単純な回転式銛も散発的ながら出土する情況は,ボイスマン文化・
縄文文化でも,オーシャン・ベイ文化の初期遺跡でも共通して認められる。やはり両群
の文化に共通して見出されるのは,漁撈や海獣猟用の合成ヤス(leisters),やや類似す
る釣鉤(fi shhook)の諸様式,そしてまた,日用品として使用された骨製の匙・獣皮縫
製用具(キリや針)・その他の骨器類である。両群の文化の間に見出される最大の相違
点は,ボイスマン文化における土器の存在であるが,これは現地の諸様式に由来するも
のである。土器製作は,アムール流域と日本で頗る早い段階に始められたことは確実で
あるが,アラスカ沿岸部の初期文化には伝来することも,また現地で独自に開発される
こともなかったのである。
チキシェヴァによるボイスマン遺跡出土の 40 体以上の埋葬人骨の分析(Chikisheva
1997)は,これら人骨が(チュクチ・カムチャツカ型やエスキモー・アリュート型を含
む)「ベーリング海モンゴロイド(Bering Sea Mongoloid)」の特徴を具えることを示唆するが,その一方では,アムール流域・沿海地方・サハリン・オホーツク海の領域を包摂
する,北東アジアに現住する古アジア系諸民族(Paleo-Asiatic Peoples)に対して,寧ろ
全般的な類似を示すとも言えよう。とどのつまり,これらの関係性を些かなりとも解明
するためには,これらの骨格から得られる DNA 情報が必要となろう。
5. 南アラスカ海岸部における生業活動の進化
南アラスカの海岸部における海獣狩猟伝統の出現は,アリューシャン列島東部に位置
するアナングラ島とホッグ島で遺跡が見出される約8,500年前であった公算が大である。
ルドナヤ文化の諸遺跡と同様,動物遺残の保存はやはり不良であるものの,遺跡の立地
のみならず,獣脂ランプ用石皿やその他幾つかの遺物からも,海洋的生業活動は推論す
ることができる。後代の諸文化との継承性は,ホッグ島における細石刃の出土によって
示唆される。細石刃は,南アラスカにおける最古の確実な海洋文化であるコディアック
島オーシャン・ベイ文化の,およそ 7000 年前に比定されるその最古層からも出土する
からである。
これら初期遺跡が沿岸部で維持されたことは,南アラスカ一帯に生じた示差的な海面
上昇と間違いなく相関する。遺憾ながら,この地域における完新世全体を通しての海面
変動曲線(sea level curve)の確立は困難であることが判明した。
しかしながら,BP 6000~5000 年頃のアラスカ半島とシュマギン島の領域では完新世
初期に激烈な海進が生じたことを示す,幾つかのデータをウィンスローが報告している
(Winslow 1992)。この年代は日本海のデータと合致する。
オーシャン・ベイ文化初期の生業活動について,われわれは何を知っているだろう
か。コディアック島では(北東部の)チニアック湾に立地するライス・リッジ遺跡から
のみ,保存の良好な動物遺残が出土している。そこでは BP 6000 年頃までに海洋適応が
確立されていた。同遺跡では 6,000 点以上の魚類と 3,200 点もの哺乳動物の遺残が,鳥
や貝類の遺残とともに同定されている。魚類遺残のほぼ 60%はタラ(Pacifi c cod)で,
30%以上がサケ(Pacifi c salmon)であった。哺乳動物ではゼニガタアザラシ(harbor
seal)が約 22%,トド 6%で,ネズミイルカは僅か 1%に過ぎぬが,最大手(63%以上)
はラッコであった。かかる情況は,ラッコと貝類の個体群が繁殖していた「手つかずの
(virgin)」岩場の,開発の始まりと関連するであろう。
アラスカ半島の東部では,「草の生い茂った高台の岬に立地して,シェリコフ海峡の
外海から防御されている」(Clark 1977: 7)タクリ島遺跡が,初期の海洋適応をめぐって
今ひとつの証拠を提供する。同遺跡は貝類が相対的に乏しく,二枚貝(bivalves)8 種と
腹足類(gastropods)6 種に加えて,ヒザラガイ(chitons)やウニ(sea urchins)も出土し
ている。魚類もやはり当初は相対的に少なくて,専らオヒョウ(halibut)や,カレイ目、貝類,アザラシ,そしてサケのその他の魚類が見出されるのみである(Dumond 1977: 104)。広範な種類の海鳥も発見されているが,主力をなすのはアホウドリ・ウ・ウミガラス(murres)・ガチョウであっ
た(Grayson 1969)。海棲哺乳動物の遺残は,ラッコ・ゼニガタアザラシ・ネズミイルカ
がほぼ均等に(それぞれ全体の 25~30%)出土しており,アシカ(約 15%)や(ナガ
スクジラ・セミクジラ等)大型の髭クジラの割合(約 5%,cf. Clark 1977: 51)はやや控
えめである。例えばオールド・カーラック遺跡やラーセン・ベイ遺跡など,オーシャ
ン・ベイ後期遺跡ではネズミイルカの頻度が減じて,タラの重要性が増してくる
(Amorosi 1987)。
オーシャン・ベイ文化がコディアック島やアラスカ半島で発展していた頃(BP
6500~4000 年頃),アリューシャン列島東部ではいわゆる「過渡期文化(Transition
Culture)」が並行して発達した。この時期の遺跡は,ほとんどで有機物の保存が不良で
あるものの,遡河魚の捕獲を示唆する状況証拠は幾つか存在する。すなわち,釣糸漁や
網漁に用いる石錘(cobble sinkers)や,魚を切り捌いたり加工するのに用いた磨製石包
丁ウルー(ulus―三日月型のナイフ)の存在がそれである(Aigner 1983a: 103–104)。
またウムナック島のイダリュウク・ベイ遺跡からは貝類やウニの出土を示す形跡も認め
られ(Aigner 1983b: 113, 119),アナングラ村遺跡でもゼニガタアザラシ猟を示唆する証
拠が見出される(Yesner 1998)。ウナラスカ島のマーガレット・ベイ遺跡最古層も,や
はりこの時期に比定される。ここでもやはり貝類(ムラサキガイ mussel)やウニの利用
の証跡は乏しいが,ゼニガタアザラシ・アシカやタラ・オヒョウの遺残に加えて,鯨の
遺残とおぼしき部分(恐らく,漂着した遺骸の採集結果であろう)も発見されていると
ころから,総じて潮間帯に立地する岩場的環境であったことが窺われる。
アラスカ半島のポート・モーラーに立地するホット・スプリング遺跡の最古層堆積も
また,この時期(BP 5500~4700 年頃)に比定される。これら諸層から出土する動物遺
残は比較的僅少であるものの,少なくともワモンアザラシ(ringed seal)など,幾つか
の動物種の遺残は含まれているようである(Nishimoto 1979)。現地の海面レヴェルが落
ち着きを見せて,海岸段丘が浸蝕を受けた BP 4000 年頃までに,アリューシャン列島の
各地では貝やウニの採集がより広範に行われて,貝塚の形成が始まる。
縄文中期の海水温低下
BP 3500 年頃,日本における縄文中期の海水温低下と時を同じくして,南アラスカで
も同様の現象が発生した。キナイ半島地域で氷河の拡張が観察される 3 時点は,ほぼ
BP 3750~3300 年の範囲に納まる(Fig. 3)。アラスカ半島での氷河拡張もまた BP 3200
年頃に出来し(Mann et al. 1998),アリューシャン列島東部のウムナック島では,それが
BP 3000 年頃に比定される(Black 1976)。
この気候寒冷化は,南アラスカの海岸部に居住する人々に対して深刻な影響をもたら
したようである。マーガレット・ベイ(Margaret Bay)で形成され始める貝塚には,北
極グマ・セイウチ・ワモンアザラシなど,極北種動物の遺残が含まれている。BP3500~3000 年に比定される諸層から出土する哺乳動物の遺残中では,12%がワモンアザラシに帰せられる(Davis 2000)。セイウチや北極グマは,哺乳動物骨の全体に占める割合がそれぞれ 1%に満たぬとはいえ,両者の古気候学的意義は明白である。この時期の寒冷化は,明らかに,冬季の流氷移動域の南下をもたらしたのみならず,一般にはより北方の動物種とされるこれらの哺乳類についても,その個体群の規模を拡大させた。
BP 3500 年頃の気候寒冷化は,ホット・スプリング遺跡における(BP 3900~2950 年
に比定される)最盛期とも符合する。同遺跡からは,ウニや 10 種の貝類,8 種の魚類
が記録されている(Nishimoto 1979)。出土した 1,900 点もの哺乳動物骨のうちでは,ワ
モンアザラシ(40%)・アゴヒゲアザラシ(18%)・セイウチ(5.5%)を包摂する,氷
絡みの動物種が優勢であった。ゼニガタアザラシ(13%)とオットセイ(6.5%)も今
ひとつの重要な動物種であったが,トドは 1%未満で,ネズミイルカは欠如する。
6. 結 論
最近の考古学や古気象学の研究成果によって,さまざまな海洋適応の発展では,数年
前ですら想定できなかったようなあまたの共通点が,今や北太平洋地域の全域を通じて
明白となっている。以下では,これらの共通点を列挙する。
(1)北太平洋域における海洋適応の開始は,ロシア極東・日本からアラスカ南部にかけ
ての広大な領域で,完新世初期に生起した模様である。しかしながら,海洋適応の
当初の発達は緩慢であり,元来は魚類と貝類に照準が定められて,海棲哺乳動物の
狩猟には副次的関心が向けられたにすぎない。このプロセスの初期段階を示す証拠
は,日本列島で最もよく知られているが,BP 6500 年以降になると,漁撈・貝類の
採集・海獣猟をめぐって,ロシア極東とアラスカ南部からも等しく良好な証拠が得
られている。
(2)海面レヴェルの変動と古気候学的変化―これらの幾つかは明らかに共時的事象
である―は,北太平洋地域における海洋適応の発達に大きな影響を及ぼした。大
海進は明らかに,海洋的生活様式の発達や持続と関連する。格別に重要であるのは
BP 6000 年頃の大海進で,日本の前期縄文文化やロシア極東のボイスマン文化と関
係している。これら両文化は,海洋的生業活動と技術の両面で多くの特徴を共有し,
コディアック島とアラスカ半島におけるオーシャン・ベイ初期文化とも,驚くべき
類似を示している。この時期以降,海棲哺乳動物の狩猟が徐々に重要さを増してい
く。ロシア極東と日本を舞台にして BP 3500~3000 年頃に起きた第 2 次大海進は,
明らかに,海棲哺乳動物の狩猟の発達に影響を与えた気候寒冷化と関連するようで
ある。アラスカでも同じ時点で気候の悪化が生じたらしく,恐らくは,流氷の季節
移動域の南下とも相関するであろう。この結果,セイウチ・ワモンアザラシ・北極
グマのような極北種が,アリューシャン列島東部やアラスカ半島低地部の諸遺跡に
も,出現するようになるのである。
(3)これら並行事象の多くは,海岸部に居住する初期の人間集団間の直接的系統関係に
由来するものであろう。一連の骨格から得られた新しいデータは,アムール河口
域・沿海地方・日本・南アラスカ海岸部を包摂する領域を横断する形で,形質タイ
プの相関関係を究明し始めている。この古アジア的基層は,言語学的類似のみなら
ず形質面での類似によっても,また,BP 8500 年頃までに開始し,BP 6500 年以降
はより顕著となった海獣猟という生業基盤によっても特徴づけられよう。磨製石
斧・ウルー・離頭銛や,片側か両側に逆刺を有し,基部が十字を呈する銛に見られ
るような遺物の諸様式は,単にこの領域の全域で出来した適応的収斂というより,
寧ろ系統的相関関係を示唆するものと考えたい。アムール川以北の中間領域は,そ
のような初期沿海文化の証跡を示さないが,これは,完新世の海進によって失われ
たものと考えられよう。
(4)本稿の射程外であるとはいえ,ロシア極東・日本から南アラスカ海岸部に至る領域
に分布するすべての遺跡に反映されている集約的海洋適応は,かなり複雑な社会政治組織によって特徴づけられる定住的生活様式を支えていたように思われる。それは,遺物・遺構・鄭重な埋葬によって示唆されるだけでなく,北太平洋域のこれら初期海洋文化とも結びつけられるからである。
[英文原稿から岡庭義行訳]
訳者謝辞
本訳文の作成にあたり,専門用語や地名の表記を中心に,以下の先生方にご指導,ご
教示を頂戴しました。岡田淳子先生(北海道東海大学),臼杵勲先生(札幌学院大学),
中田篤先生(北海道立北方民族博物館)。また,著者のイエスナー先生には訳者の初歩
的な問い合わせにもご丁寧に回答して頂きました。諸先生方に心より御礼申し上げます。
1930年(昭和5年)のスナップ写真@平取
夏の農業改革は領土の枠を超えて広がった
八木奘三郎 「アイヌ人と石器人」
マンローはこの本を参考にして、自らの知識を加えて英語の「Prehistoric Japan」(1908)を書き上げた。つまり、少なくとも各論的には八木書を下敷きにして作成したものと思われる。
彼独特の古代史観は、むしろ「序論」に色濃く投射されていると見られる。
もっとも、八木は大森貝塚の発掘にあたったモースなどお雇い教師として来日した考古学者(多くはアマチュア)の薫陶を受けており、それらの多くとマンローは知己の間柄でもあった。
この旧石器人とアイヌ人の関係は、その後明らかになってきた事実と、決してかけ離れているわけではない。ただ4万年前に朝鮮から渡ってきた旧石器人(YーハプロC1)と最終氷河期に樺太経由で入ってきた旧石器人(YーハプロD2)がD2優位で混血した「縄文人」が旧石器時代の主人公であったという事がわかるのには、それから100年を要したのだ。
日露戦争の直後、「万世一系」の押しつけが強まった時代に、この考えを貫くのはさほど容易なことではなかったはずである。
ペンリウク 遺骨と顕彰碑
ペンリウクとヨーロッパ人 という記事を書いた。
平取のアイヌを語る上で欠かせない人物がペンリウクだ。義経神社の鳥居前に佐藤昌介北大学長の記した顕彰碑がある。
そして顕彰碑の写真を掲げておいたが、その説明はない。理由は経時変化で文字が崩れ、よく読めなかったからである。
そのことは気にはなっていたが、なかなか資料が入手できないでいた。
この度、土橋芳美さんの本を入手できた。
題名は「痛みのペンリウク 囚われのアイヌ人骨」という(草風館 2017年)
これを読んで、書かれた文章の内容がわかった。
それだけでなく何故この顕彰碑が建てられたのか、言外の意味も含め理解が深まった。
少し引用させていただく。
まずは碑文
官乃ち土人の事一切を翁に委ね、オテナ即ち総酋長を以て之を遇す。
翁曾て判官義經公の神像を此の地に遷祀して其の徳を鑑かにす、是本村義經神社 の濫觴なり。
明治十七年八月、故小松宮彰仁親王殿下本村お成の砌、翁の住宅 に御立寄あらせられ優渥なる御諚を賜はる。誠に無上の光榮と謂ふべく。
翁明 治三十六年十一月二十八日七十一歳にて病を以て歿す。郷黨翁の遺業を追慕し、ここに碑を建て、以て記念となし、長へに英魂を慰めんと欲す。
昭和九年七月 平取村長 赤根喜四郎
顕彰碑の謎
なぜかは知らぬが、さほどとも思えぬこの碑文を、わざわざ北大総長佐藤昌介が揮毫し、それが顕彰碑に刻まれている。これが逆でもあろうなら分からぬでもないが、どうも違和感を感じざるを得ない。第一、碑文を読んだだけではこのようなご大層な顕彰碑を立てた理由がさっぱりわからない。
さらに顕彰碑の除幕式には、北大医学部解剖学講座の山崎教授が出席し祝辞を述べたという。
変な言い方になるが、当時の気風からすれば、この持ち上げ方は少々気味が悪い。それもそのはず、北大解剖学教室の手によってペンリウクの墓が掘り返され、その遺骨が骨格標本として持ち出さていたからだ。これは大学側からすればたいそう気まずい話で、外国人学者や聖職者とも面識のあるアイヌ人指導者の遺骨が持ち出されたとあっては、帝国大学の名に傷がつくこと必定だ。
顕彰碑が建てられた日を遡ること9ヶ月、昭和8年の10月にペンリウクの墓は掘り返された。遺骨を入手したのは北海道大学医学部解剖学第一講座で責任者は山崎春夫教授。
除幕式に列席した山崎教授は、心のなかでは「ありがとう、骨はもらっちゃったよ」とうそぶいていたに違いない。
その後の遺骨返還を求めるやり取りについては、評価するほどの事実を持ちあわせていない。ただ「平取部落の土人が学術研究のため土中から尊敬するペンリウクの骨格を掘り返し、北大医学部に寄贈した」という報道は、否定しえなものであり、北大側はまずこれを「否定し得ない事実」として受け入れるべきであろうと思う。慰霊碑はある意味で強い状況証拠と見るべきである。
これを大前提として論理を積み上げていくならば、北大側は「寄贈された遺骨」を紛失したことになる。このことも「否定し得ない事実」として受け入れなければならない。ふたつの「否定し得ない」事実は、ある意味で国家機関が関わった問題であり、民族的尊厳に関わる問題であるがゆえに、受容しなければならないであろう。
だいたい宗教的対象である遺骨を、親戚でもない住民が、研究の発展のためにと喜んで差し出すわけなどない。少なくとも大学側からの積極的な要請があったと考えるのが当然である。しかも対象が「土人」であるからこそ、日本人に対してはとうてい考えられないような侮蔑的要請をしたのであろう。
大学側があれこれいうような物的証拠はないが、状況証拠はあれこれと揃っている。そもそも研究倫理に反するような行いをしておきながら、本筋を外れた議論をふっかけて逃げ回るのは、恥の上塗りだと思う。
丸瀬布博物館の珍物
その時とった写真の中に、どうでも良いが珍物、というものがあった。
その1
何故こんなものを陳列? と思う人もいるかも知れないが
農具や馬橇を見せられるよりは、私にははるかに面白い。
刻みたばこについての余談
戦前の刻みたばこには4種類あり、「はぎ」、「なでしこ」、「みのり」と名付けられていた。他に沖縄専売公社から「しらぎく」という銘柄も発売されていたらしい。戦後になってあらたに「ききょう」が発売になった。「はぎ」、「なでしこ」は発売終了になっている。
1970年代後半に「ききょう」が発売中止になって、刻みたばこはなくなってしまった。やはりないと困る人もいるため、4,5年ほどして「こいき」という銘柄が新たに発売となった。
現在はこのタバコに加えて、タバコ販売業者が海外で作らせて逆輸入するというものもあるようだ。宝船、いろは、黒蜘蛛などというらしい。むかしならさらに調べたところだが、今はそこまでの興味はない。
朝日はけっこう後まであって、学生時代にのんだことがある。うまくはなかった。ききょうは煙管用タバコで私には縁がなかった。
当時すでに静岡ではハイライト独占状態で、年寄の一部がいこいを吸っていた。北海道は貧乏だったせいか安価なタバコが随分遅くまで出回っていた。北大の学生はハイライトが半分、いこい、新生がそれぞれ4分の1というところ。さすがに朝日、バットはいなかったが、田舎のタバコ屋では普通に売ってたように思う。しかし70年を迎える頃にはそれらはわかば、エコーに姿を変えていた。
あの頃は、今から考えると年ごとに豊かになっていたように思う。
民衆の紙、茶チリは白チリになり、まもなくティシュへと姿を変えた。酒はトリスからハイニッカ(ラベルにはヒヒニッカと書いてあった)、そして一気にブラックニッカへと昇格した。洋酒喫茶が流行って、女の子が出入りするようになった。あちこちにラーメン屋ができ、400円もするラーメンを平気で食べるようになった。
その2 畑から掘り出した砲丸鎖
鉄鎖そのものは珍しくないが、村内の畑から出てきたというのがすごい。どうしてそこに捨てられることになったのだろうと、つい想像をたくましくしてしまう。この辺の道路は囚人道路と行って網走監獄の囚人を使役して作ったらしい。時あたかも平村ペンリウクの活躍した時節だ。
その3 林子平「蝦夷図全図」
もちろん模写だろうが、失礼ながら、こんなところに飾っておくのはもったいないような気がする。
左クリックで拡大します。
ガラスに光が写り込まないよう頑張ったが、これが限界。絵は左クリックで拡大してご覧いただきたい。天明5年(1785)の作。
北大図書館の北方資料データベースには、林子平「蝦夷図全図」が三点登録されている。
ほかに蝦夷地全図、蝦夷国之図 、蝦夷図 、蝦夷輿地全図などの異名図も登録されており、当時はよほど人口に膾炙されたもののようである。当然、原図にはない書き込みが見られるものも多くそれ自体にも資料的があるとされる。
これも、今回はここまでとする。林子平と蝦夷図に関しては、下記ページもご覧いただきたい。
アイヌ記念碑巡り
「道北の釣りと旅」というホームページ。作りは昔風だが、非常に読みやすい。最初は釣行の記録集のつもりで始めたのが、いつのまにか北海道の紀行文集になってしまったのだろう。
さらに今では顧みられることもない、石碑などを丹念に拾い上げながら、過不足のない説明とスナップ写真を添付されている。保存すべき記憶遺産の一つだ。
膨大な内容なので、サイトマップから入る必要がある。ホームページから「碑巡り」を選択する。ズラッとジャンル分けされた表示が壮観である。
この中の「先住民顕彰慰霊碑」という項目がアイヌ関係の慰霊碑である。1~4に分かれ、それぞれに膨大な記念碑が埋め込まれている。ライフワークともいうべき労作で、まことに敬服の至りである。
今回はこの中から、日高、登別アイヌに関する碑を抜き出してみた。詳細を知りたい方は道北の釣りと旅のトップページへ。
チビヤコタン供養塔浦河町
無縁仏となった先祖の霊を弔ってあげようとウタリ協会浦河支部会員が協力し合い募金を集め、フシコウタル(古い亡き同胞)の供養塔を昭和53年11月、杵臼共同墓地に建立した。その2年後の昭和55年には向ヶ丘の共同墓地にチビヤコタン無縁供養塔を建立。昭和57年8月、姉茶共同墓地にフシコウタル供養塔を建立しています。中曽根康弘首相(1982~1987)の日本は単一民族国家であるという国会発言に象徴されるように、アイヌ民族は存在そのものが国家によって否定され囚人、タコ労働者とともに差別の対象にされてきた。地域によっては墓も和人とは差別され、死んでもなを差別は続いたのでした。平成19年の先住民の権利に関する国連宣言に続き、平成20年の衆参両院の国会決議を受け、政府はアイヌ民族を先住民と認めたが国家による差別がなくなったという事ではない。 ◇建立者:ウタリ協会浦河支部 ◇建立年:昭和55年 ◇所在地:浦河町緑町 向ヶ丘共同墓地
英傑シャクシャイン像新ひだか町
英傑シャクシャイン像碑文 日本書記によれば、斉明の代(西暦六五〇年代)においてすでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)の郷であった。今から約三〇〇年前、シャクシャインは、ここシペチャリのチャシ城嘴を中心としてコタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。
当時自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力、交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、松前藩政の非道な圧迫と過酷な摂取は日増につのり同族の生活は重大脅威にさらされた。
茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民族自衛のため止むなく蜂起したが衆寡徹せず戦いに敗れる結果となった。しかし其の志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり此の戦を世に寛文九年エゾの乱と言う。
いま静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ人類永住の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考するよすがすると共に、父祖先人の開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こして、わが郷土の悠久の平和と彌栄を祈念する。
一九七〇年九月一五日 シャクシャイン顕彰会 会長神谷与一
ユカルの塔 シャクシャイン像の傍に神器カムイパスイを形取ったと言われているユカルの塔が聳え立っている。 ◇建立年:昭和45年9月15日 ◇建立者:シャクシャイン顕彰会 ◇所在地:新ひだか町静内真歌7 ◇Gmap:Gマップ
シャクシャイン頌徳碑新ひだか町
碑文
頌徳 まごころと真実、尊敬と信頼、先人の御霊に深く瞑目し、その偉徳を偲ぶ人々の限りない善意と敬虞の願いが呼応しあいこの地真歌の丘に、英傑シャクシャインの雄姿蘇る。一九七一年顕彰の趣意を示す碑文板の完成。翌一九七二年、古式に則りオッチケ(神膳)を台座となし、その前面に、神々の心をたずねる神器カムイパスイを配し、未来・永劫絶えせぬ慰霊の祈りをこめて「ユカルの塔」天空に建つ。
これら一連の事業達成の基は、自ら目覚め、多面に亘る協力を惜しまなかった各位の御芳志の賜であり町内有志はいうに及ばず道内外の地域から、八百有余人にわたる募金の協力を始めとした、幾多の人々の深い御理解と御支援の結晶である。そのひとりひとりの御芳名を、勇者の英姿と共に、後世に残すべく志向してきたところであるが、未来に続くより広汎な善意と御支援にも謝する趣意をもって、頌徳の辞に代え満腔の謝意を顕す次第である。
この意をもって一九七四年当時の生活に必須のニス(臼)とイウタニ(杵)を配し後面の円みには、日輪を象った頌徳板の完成をみ、ひとつの区切りとしたものである。
先人の御霊永遠に安かれ 心ひとつに結ばれた諸賢同胞に栄光あれ
一九七四年九月二十三日 シャクシャイン顕彰会」
ブログ主のコメント:シャクシャイン像については私も記事を書いているのでご参照いただきたい。2019年11月27日静内のシャクシャイン像をめぐる経過
※碑の前には、ニス(臼)、碑文の両脇にはイウタニ(杵)を配していた。 ◇建立年:昭和49年9月23日 ◇建立者:シャクシャイン顕彰会 ◇所在地:新ひだか町静内真歌7 ◇Gmap:Gマップ
姉去簡易教育所(姉去土人学校)跡新冠町
新冠町エコミュージアムの碑のなかで唯一強制移住にかんする碑文
「この地域は昔から多くのアイヌの人たちが住んでいたところです。
明治29年、古川アシンノカルは、アイヌ子弟ののため、私費を投じてこの地に土人学校(古川教育所)を設立し開校しましたが、翌年の5月には教師が退職するなどの理由から休校となりました。
明治36年、旧土人保護法による学校設置に際し、この学校が献納され庁立姉去土人学校(姉去簡易教育所)として開校しました。
しかし大正5年に新冠御料牧場経営の都合によりアイヌの平取村上貫気別地区への強制移住に伴い学校も移転する事になりました。
平成18年11月 新冠町教育委員会(他に姉去簡易教育所の平面図が記されている)
※吉川アシンノカルは、滑若(現泉付近)の住民。(安政4年生~大正14年没)
御料牧場に奉職するかたわら、自身も牧場や商店を経営していたが、アイヌ教育の発展に努めた。姉去より上貫気別へ強制移住が行われ、それに伴って学校も上貫気別に移転した、現在の平取町貫気別小学校は姉去からの歴史を受け継いでいる。
北海道は旧土人保護法に基づく簡易教育所を北海道各地に設置、その数は三十一ヶ所にのぼる。 ◇建立年:平成18年11月 ◇建立者:新冠町 ◊所在地:新冠郡新冠町大富 ◇Gmap:Gマップ
山川力之碑 日高町
碑文
アイヌの言魂を語り伝えたシサム 山川力之碑
「せめて魂をエゾ地で眠らせたや」と刻まれている。
山川力氏は「アイヌ民族文化史試論」などの著作で知られる研究者。晩年はアシリ・レラ(日本名、山道康子)氏と共に活動を行っていた。
平成14(2002)年に「山川力氏の碑」を建立、山川氏の遺骨はこの碑の下にはないが、ブルドーザーで掘り返された数多くのアイヌの人々の遺骨の破片が集められ埋葬されている。
アシリ・レラ氏ら有志はこの碑の周辺にアイヌ墓標を立て、かろうじて残された先祖のアイヌ墓標の下に眠る遺骨と共に毎年慰霊祭を行っている。
◇建立年:平成14年 ◇建立者:アシリレラ他有志 ◇所在地:沙流郡日高町福満76番地 (福満墓地) ◇Gmap:Gマップ
追加コメント: 山川力 1913年山形市生まれ。東京大学文学部英文科卒業。北海道新聞論説主幹、北海道武蔵女子短期大学教授などを経て、現在、著述家。著書に「アイヌ民族文化史への試論」他がある。
山道 康子(やまみち やすこ、1946年 - ) アイヌの活動家。アイヌ名は『アシリ レラ』(新しい風) 二風谷出身
福満(フクミツ)のアイヌ墓碑日高町
墓標はハシドイの木で、先端が槍型のものは男性、穴アキは女性の墓、墓標をイルラカムイと云い先端にミゾの彫られたのもあったという。
地方によって墓標の木材や形に違いもあった。幕別町で見た男性用墓標は先端が二股でオッカヨクワ、丸い棒状の女性用墓標はメノコクワ、本来は槐(えんじゅ)の墓標というが、実際は石標だった。
アイヌの人々は家族や身近な人が亡くなると土葬し槐(えんじゅ)の墓標を立てた後は決してそこに近づかなかった。槐やハシドイは百年は腐らない木と云われ、その木が朽ちて無くなると故人の魂も天に昇っていくと考えられていた。
福満墓地の戦い
福満の旧墓地では門別町が委託した業者がブルドーザーでアイヌの遺骨を掘り起こし、遺骨は一体5万円で町に引き渡される事になっていた。福満に先祖の墓があるアシリレラ氏は、福満でアイヌの人々の遺骨を発掘する事と墓標を引き抜くことを拒否し、業者の「金儲けの邪魔をするな」「お前も埋めてやる」などの威嚇にも屈せず抵抗を続けた。遠い親戚にあたる祖先の遺骨と墓標は現在もそのままの場所にある。
アシリレラ氏ら有志はそのときブルドーザーが掘り返した遺骨の破片を集め、引き抜かれなかった墓標のそばに木を植え、その根元に遺骨の破片を埋めた。広い北海道で古来より変わらぬアイヌの墓標が有るのはここだけとなった。
◇建立年:要再調査 ◇建立者:要再調査 ◇所在地:沙流郡日高町福満76番地 (福満墓地) ◇Gmap:Gマップ
旧上貫気別墓地の碑平取町
碑文
平取町は肥沃な大地と豊かな自然に恵まれ、その開創は古く、祖父は昼なお陽光の届かない原生林に挑み上貫気別を開いた。
明治大正の馬耕時代及び軍用場生産のため新冠牧場は拡大され御料牧場へと変遷したが大正4(1915)年、姉去コタンを追われ上貫気別に強制移住になった人々の悲しさは凄絶なものがあった。
この郷土の開拓に心血を注ぎ鍬を下ろした先覚者の事績を後世に伝え、諸霊に参列者のみな様と共に鎮魂の誠を捧げます。
平成2年8月 平取町町長 宮田泰郎
※最初の強制移住は明治28(1895)年の新冠郡滑若村から同郡姉去・万揃への移住であった。2度目は大正4(1915)年に姉去コタンを追われ上貫気別への強制移住となった。
碑文に追われた人々がどういう人々なのか刻まれていないので、この碑からアイヌ民族と云うのが理解出来る人は少ないかもしれません。道道71号線沿いで平取町旭地区の旧墓地付近は無人の山林になっており案内板などもありません。
◇建立年:平成2年 ◇建立者:未確認 ◊所在地:沙流郡平取町旭(旧上貫気別)
追加コメント: 姉去村(あねさる)、万揃村(まんそろえ)、滑若村(なめわか)はいずれも新冠周辺の旧村で、もとはアイヌ人の居住地区。
古川アシノカル
造林殉難者の碑と志登利の碑平取町
造林殉難者の碑:平取町荷負地区にある八幡神社の本殿手前左側に墓碑が二基並んでいる。昭和6年10月26日に造林作業に従事した青年2人が雨と雪のため道を迷い殉難した事を悼んで慰霊碑が建立されたようだ。発起人2人の名が刻まれている。
碑文の中に「希クハ英霊止リテ」とあることから「滅私奉公」の象徴とされていたようだ。
志登利の碑: 荷負村に多くの和人が入りアイヌの生活が脅かされるようになり、それを憂いた志登利は経済力に応じた合理的な生活を指導し、その結果和人に見劣りしない迄に至った。同族の今日があるのは君が父子の賚賜によるとその徳を称えている。
碑文によると亡くなったのは明治43年9月15日で、碑の建立は大正丙寅歳秋8月と考えられるが、碑を建立してから後に碑文を刻んだ可能性もありそうです。この墓碑で気になったのは同族を愛奴人と刻んでいたことです。
◇建立年:建立年不明 ◇建立者:荷負村民一同 ◇所在地:沙流郡平取町荷負78−7 八幡神社 ◇Gmap:Gマップ
祖先代々萬霊無縁の碑平取町
平取本町の平取共同墓地と道をはさんだ西側の小さな空き地に有志による木造の「先祖代々有縁無縁の碑」が建てられたのは昭和44(1969)年、昭和57(1982)年に石碑になった。
昭和52(1977)年の墓地整備条例が公布された時には平取町のアイヌ墓地では遺骨が掘り起こされ、墓標が引き抜かれていたという。平取では学問の為ではなく墓地整備のためにアイヌの人々の遺骨は掘り起こされ、古式なアイヌ民族の墓標は後から入植してきた和人たちの石碑に置き換えられたのだった。
当時アイヌ民族で平取町議員だった宇南山斎氏は、無縁のアイヌの人々の遺骨を一ヶ所にまとめて埋葬し、慰霊碑を建立するために有志を募り、当時の平取町議員で道南バス平取営業所の所長であった佐藤旭氏などが出資したという。
◇建立年:昭和44年 ◇再建年:昭和57年 ◇建立者:未確認 ◇所在地:沙流郡平取町本町 平取共同墓地西脇 ◇Gmap:Gマップ
違星北斗歌碑サブタイトル 地域&マップ
二風谷小学校の敷地内にある歌碑
「沙流川ハ 昨日の雨で水濁り コタンの昔 囁きつゝいく」
「平取に 浴場一つ ほしいもの 金があったら たてないものを」
の2首が刻まれている。
碑文:
違星瀧次郎北斗と号す。明治34年余市町に生まる。大正14年西川光次郎を頼り上京 金田一京助の知遇を受く。同15年同族のため働くことを決意し帰道 昭和2年平取に住みウタリ文化の研究。同3年売薬行商を続け乍らコタンを訪ね同族の奮起を促す。同4年病を得て歿す時に29才、生前口語短歌よくし並木凡平に愛せられウタリの啄木と称せらる
二風谷小学校の復旧新築に結集せる校下父兄の協働の成果を記念し、北斗を敬愛する人々これを協賛、歌2首を誌してその志を偲ぶ。
書は金田一京助、制作は田上義也による。
昭和43年11月5日 違星北斗の会 代表木呂子敏彦」
※怒りよりも絶望感を漂わせた穏やかな和歌でした。違星北斗はバチラー八重子、森竹竹市と並ぶ「アイヌ三大歌人」の一人とも云い、啄木の影響を受けているともいうが、アイヌ民族の生活感情をアイヌ民族自身が歌ったという意味では数少ない歌碑、碑の一部が剥がれ落ちている。
違星北斗レリーフ:
平取町歴史の散歩道に設置されている違星北斗(1902年~1929年)レリーフには「アイヌ民族の歌人で余市町生まれ。歌人・文人を志しながらも、同胞の生活向上のため社会活動に献身し、バチラー幼稚園で働きながら小樽新聞に短歌などの投稿を続けた。
結核のため27歳で早逝。昭和25年に遺歌文集『コタン』が出版された。民族、差別への激しい怒り、絶望感を嘆じる中にも、アイヌとしての自負の心を表出した作品が多い。
◇建立年:昭和43年11月5日 ◇建立者:違星北斗の会 ◇所在地:平取町二風谷 28 ニ風谷小学校敷地内
金成 マツ歴史の散歩道 平取町
平取町百年を記念して作られた「歴史の散歩道」に設置されている9人のなかの碑の1人。金成マツ(1875年~1961年)レリーフより
ユカラの伝承者アイヌ名イメカノ。妹のナミとともに函館にあった伝道師養成の愛隣学校で学んだ後、明治31年に平取聖公会に着任、伝導看護婦ブライアント女子を助けた。
晩年は故郷の登別で暮らしアイヌ伝統文化の記録保存のために尽力。とくに母モナシノウクなどによる口伝のアイヌ文学をローマ字筆記した『金成マツノート』は第一級の史料で、日本語訳・解読の作業が続けられている。『アイヌ神謡集』を著した知里幸恵と北海道大学教授として活躍した言語学者、知里真志保は妹ナミの子どもたちである。」
※2007年に半分以上が手付かずのまま翻訳を終了した。
◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:沙流郡平取町二風谷 歴史の散歩道
ブライアント・エディース・メアリー歴史の散歩道 平取町
平取町歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人です。Bryant,Edit Mary(1859年~1934年9レリーフより「明治期に平取で活躍した伝道看護婦。ロンドンの病院で看護婦をしていたが、ジョン・バチラーに頼まれて明治30年平取に来た。義経神社下の「ホスピタル・レスン」で住民の治療に当たりながら、キリスト教を広めるため活動した。
明治31年の沙流川大洪水の際には被災した人達を献身的に世話をして深く信頼される。延べ13年間の滞在期間中、振内に私塾を設けて子弟教育につくしたり、親を亡くした子を養女として育てたりして、慈愛に満ちた精神で住民のために力を注いだ。」
当時はアイヌ子弟の教育は例外なくアイヌ文化の根幹であるアイヌ語を禁止し、アイヌ民族の伝統文化を否定した同化政策であり、人格者と言われアイヌ達の地位向上のため奔走した教育者も、同化政策推進の第一線で働いた人達でした。
そんな中でアイヌ文化を守る仕事は日本人ではなく、外国人の宣教師や医師によって始められたといえます。バチラー司祭、ニール・ゴルドン・マンロー、ブライアント・エディース・メアリーは医療や布教活動にとどまらずアイヌの救済や教育、アイヌ民族の復権と地位向上のための活動が続けられました。
◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:沙流郡平取町二風谷
ニール・ゴルドン・マンロー歴史の散歩道 平取町
平取町歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人です。Nell Gordon Manro M.D(1863年~1942年)
イギリス・スコットランド出身の医師で人類学者。明治25年に来日、横浜ゼネラル・ホスピタル病院長や軽井沢サナトリウム所長を歴任する傍ら、英国王立人類学研究所の通信員として考古学の研究にも従事する。名著「先史時代の日本」など黎明期の日本考古学会に先駆的な業績をのこす。アイヌ研究にも力をいれ「アイヌの信条と文化」他の著作や記録映画を著作する。
昭和5年のイヨマンテ(熊の霊送り儀礼)調査を契機に二風谷永住を決意し昭和7年には自邸(現・マンロー館)を建設。チヨ夫人と共に住民の医療奉仕にも積極的に尽力した。昭和17年他界し二風谷墓地に永眠」
※マンロー博士の私宅(マンロー館)が登録有形文化財となって一般公開(夏期間・事前予約必要)され、記念館敷地内ににマンロー博士顕彰碑と説明板が設置されている。
説明板より「ニール・ゴードン・マンロー博士は、1865年英国スコットランドに生まれ、エジンバラ大学卒業後、明治24(1891)年来日。横浜、軽井沢等の病院で医師として活躍する一方、考古学・人類学・民俗学・地質学等に興味をもち、北海道を含めて、日本各地で先史時代の遺跡発掘に従事し、学会誌等に多くの論文を発表した。明治38(1905)年日本へ帰化。
その後、アイヌ研究に集中し、昭和6(1931)年から1933年にかけて当地、沙流郡平取町二風谷コタンに本邸宅を建築、のち別棟を増築し「マンロー診療所」として開設、結核に苦しんでいたアイヌの人達の無料診察に尽力するとともに、アイヌ研究に没頭したが、昭和17(1942)年4月11日癌性腸閉塞のため当地で没した。
本邸宅は博士の死後、人手に渡り荒廃していたが、当時の英国大使館参事官F・W・Fトムリン氏及びJ・フィゲス氏が土地とともに私費で入手し、旧状に修復の上、昭和41年9月北海道大学に寄贈(土地19.371㎡ 建物283㎡)、以来、同大学文学部付属北方文化研究施設二風谷分室となり、マンロー博士の遺品の一部と同室所蔵の民族資料・図書資料が展示されている。
◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:沙流郡平取町二風谷
和泉 教育発祥の地むかわ町
「教育発祥の地」碑
巨大な自然石の正面に大きく「教育発祥の地」と刻まれた碑があり、その右側の副碑に沿革が刻まれている。
和泉小学校のあしあと(碑文) 明治25年来住した和人によりアイヌの子弟を小石川シラマオクの家に集め、寺子屋式教育がはじめられた。同28年6月中村平八郎、森本イカシモ、紀藤昆次郎、横山武右衛門、川口菊三、各氏等が校下有志の協力を得て公立の新校舎を完成、鵡川尋常小学校累標分校として創立、これが和泉小学校の発祥となる。
同34年累標小学校として独立。同40年10月旧土人保護法による指定校となり、昭和16年4月和泉国民学校と改称、同年18年高等科併置、同22年公立和泉中学校併設、幾多の変遷を経て先人、教育者の不滅の努力により、線八百余名の卒業生を世に送る。
ここに先人、教育者に感謝を捧げ開校百周年を迎えた事を銘記する。出(いで)よ 出(いで)よ大いなる人、この地より 平成7年9月3日 和泉小学校開校100周年記念協賛会」碑は旧和泉小学校校門近くの敷地内にある。同小学校は平成21年3月に閉校となっている。 ◇建立年:平成7年9月3日 ◇建立者:和泉小学校開校100周年記念協賛会 ◊所在地:勇払郡むかわ町穂別和泉110 ◇Gmap:Gマップ
大川原コビザントクの記念碑むかわ町
鵡川でアイヌ民族のリーダ―大川原コビザントクを顕彰する碑が春日地区の春日神社境内にあります。碑文正面上段に「遺芳萬世 胡山額」と刻まれているが、下段の碑文は風化で読解困難。
大川原コビザントク: むかわ町で明治7(1874)年に生まれた。広大な土地を所有し牧場を経営していた。村会議員として35年間、要職を務めた。また民生委員会方面委員など、教育や福祉でも大きな足跡を残している。
昭和26年12月14日 78歳で没するが、鵡川村村会が満場一致で村葬を決めた。碑はその1年9ヶ月後に建立されている。
◇建立年:昭和28年9月 ◇建立者:春日共同牧場組合員 ◇所在地:むかわ町春日nbsp; ◇Gmap:Gマップ
高橋房次先生之像と顕彰碑白老町
碑文: 高橋房次先生は明治15年栃木県下都賀郡間々田町に生れ明治36年東京慈恵医学専門学校を卒業、大正11年庁立白老土人病院院長として赴任しアイヌ人医療は勿論一般村民の衛生思想の普及啓蒙に専念し、尓来全町民に対し貧富の別なく医療費等を度外視し精魂の限りをつくした。白老病院廃止後の昭和13年から高橋医院として引継いで地域医療活動を続けた。
昭和30年9月白老町名誉町民第1号に推された。知里真志保も高橋房次氏を「白老のシュバイツァー」と絶賛している。葬式の時、彼を慕う全町民が参列し、400mの長蛇の列ができるほどだった。
◇建立年:昭和34年11月3日 ◇建立者:高橋房次先生功績顕彰会 ◊所在地:白老郡白老町高砂町2丁目2 ◇Gmap:Gマップ
白老アイヌ碑白老町
旧高橋病院跡地に平成17年に建立された約18屯という巨大な蛇紋岩で出来たアイヌ碑。碑の左横に碑文を刻んだ「副碑」がある。
◇建立年:平成17年8月10日 ◇建立者:白老アイヌ碑建立実行委員会 ◊所在地:白老郡白老町高砂町2丁目2 ◇Gmap:Gマップ
知里真志保之碑登別市
碑には「銀のしずく 降れ降れ まわりに」と刻まれている。
碑文1『知里眞志保略歴 明治42年幌別郡に生る。登別小学校、室蘭中学校、第一高等学校、東大卒業、文学博士、北大教授、東大講師となる。分類アイヌ語辞典そのた数々の不朽の名著が後の世に残った。昭和36年札幌にて没 52歳』
碑文2『彼は登別川のほとりで育ったアイヌ系の腕白な少年であった。長じて天才的な言語学者となり、その名は今に世の畏敬の的である。故郷をしのび海の見える丘に住みたいと云っていたという。有志相はかり、ここハシナウシを選びこの碑を建てた。友人 山田秀三』
※碑は碑文にあるように太平洋と生まれ育った登別川をのぞむ丘に建立したというが、平成8年9月に登別小学校移設されています。
◇建立年:昭和48年6月9日 ◇移転年:平成8年9月 ◇建立者:知里眞志保之碑建立委員会 ◇所在地:登別市登別本町3丁目25番地3 ◇Gmap:Gマップ
知里幸恵をはぐくんだ地登別市
登別教育委員会設置の説明板:
知里幸恵は、明治36(1903)年、父・高吉、母・ナミの長女としてこの地に生まれ、7歳のとき、旭川の伯母金成マツのもとに移り住みました。
15歳のとき、言語学者・金田一京助と出会い、のちに上京して、アイヌ民族に伝わるカムイ・ユカラ(神謡)をまとめた『アイヌ神謡集』を著しましたが、持病の心臓病のため、19歳の若さでその短い生涯をを閉じました。幸恵の弟・真志保は…略
◇設置者:登別市教育委員会 ◇登別市登別本町2丁目34番地2 ◇Gmap:Gマップ
銀のしずく記念館登別市
知里幸恵の姪にあたる横山むつみさんが平成22(2010)年9月にアイヌ民族として初めてカムイユカラ(神謡)を文字化した「アイヌ神謡集」の著者、知里幸恵さんの業績を広く伝えるため、国内外からの寄付を元に知里幸恵さんの生家近くに「知里幸恵 銀のしずく記念館」をオープン。
知里幸恵の遺品、実際に書いた手紙、日記帳、アイヌ語のノートとアイヌ神謡集を展示などの他、知里幸恵の弟で言語学者の知里真志保、ユカラの伝承者・金成マツなどの展示もある。
初代館長は創設者の「横山むつみ」さんでしたが平成28年に逝去され、二代目館長に金崎重彌氏が就任しています。
◇開 館:9時30分~16時30分(入館は16時迄) ◇休館日:火曜日(祝・祭日除く) 年末年始 ◇入館料:大人500円、団体(10名以上)450円 ◇所在地:道◇Gmap:マップコード ◇所在地:登別市登別本町2丁目34 ◇Gmap:Gマップ
愛隣学校跡登別市
愛隣学校説明板: 明治19(1886)年箱館から幌別に来住した英国人ジョン・バチェラーが明治21(1888)年4月25日此所に私立相愛学校を開設。日曜学校も併設しキリスト教伝導の拠所とした場所があった。
明治36(1893)年バチエラー夫妻が札幌に転居後、後継の宣教師などにより運営されていたが、昭和9年の暴風で建物も大破し以後解体された。
開拓使が進めた同化政策はアイヌ民族従来の生活手段を奪い、言語や文化的伝統を破壊するものでした。アイヌ民族の人権や文化を守る仕事は外国人の宣教師や医師によって始められた。ジョン・バチェラーは札幌へ転居する明治26年までの間、幌別を中心としてキリスト教の伝道に従事し、ルイザ夫人と召使いパラピタ夫妻及びその養女キンと暮らしていた。ここを拠点にして日高方面へ馬に乗り布教に行っていた。建物はなくかつては設置されていた説明板も今はない。
◇設置年:不明 ◇設置者:登別市 ◇登別市幌別町5丁目2番地 ◇Gmap:Gマップ
池北線はかつて網走本線だった
図 網走線・池田~網走間 大正元年(1912)開通当時の路線図
2.網走本線は一気にローカル化
昭和2年といえば、まだかなりの旅客・貨物扱いは残っていたと思われ、駅名全面省略という粗略な扱いはいかがかと思われるのですが、いかがなものでしょう。真相を知ろうと思えば、名寄本線の経営実績を知る必要がありそうです。
3.網走本線から赤字ローカル線への転落
それでひっそりと生きて行ければまだ救いもあったのですが、今度は国鉄そのものの存続問題の渦中に巻き込まれることになりますが、それについては又の機会に…
残念な釧路博物館
目的は釧路のチャシや貝塚をふくむ道東アイヌの歴史。目梨アイヌの反乱へとつながる釧路や厚岸でのアイヌ交易、私の研究対象であるN.G.マンローの釧路における足跡。それに以前からの興味の対象、釧路周辺の炭鉱、とくにゴーストタウンとして有名な雄別炭鉱の歴史である。
結果としては失望の連続であった。建物も立地も素晴らしく、展示にもそれなりの金をかけているのに、釧路ならではの展示はほぼ皆無である。良くもこれだけ的を外した展示ができたものだと思う。
おまけに暖房なし、換気満点という環境は早々に観覧の気力を失わせた。
興味をわかせたのは2つだけ。
一つは階段の踊り場スペースに展示されたレリーフ、もう一つが昭和1年製作の道東の鉄道と名所図会である。
ご覧の通り、一枚板に彫り込まれたアイヌの若い女性の見事なレリーフである。ライティングもよく迫力がある。アイヌの顔かと言われるとうーむと唸るが、良ければよいのだと思う。
ただし足元がひどい。復元した丸木舟が重なるし、真下に非常口の電燈というのがまことにぞんざいなあしらいで、情けない。だいいちこれでは非常口が可哀そうだ。
作品に集中しよう。下が上半身の近接像である。
たしかに日本人ともヨーロッパ人とも言えない不思議な顔立ちである。顔立ちはよく見るとかなり過長にデフォルメされている。全体像と比べるとわかるが、下から見上げられることを意識しているのだろう。口もとは観音像のようなアーカイック・スマイルを浮かべている。イメージとしては女神像なのだろうなと思う。
その割には首から下の胴体は豊満に表現されている。目線近くに長い影を落としつつ目に映るので、実像ではこの効果が強調される。ひょっとすると、この場に置かれることを想定して制作されたのかも知れない。
もう一つの見世物が道東地方の「管内要覧」だ。
管内要覧と言っても釧路近辺の人を相手にしたものらしく、他の地区は「それなりに」という程度だ。さらにすごいのは、管外についてまったく眼中にない事だ。西端の新得駅から先、線路を示す赤線は消失する。その先に狩勝トンネルは存在しない。東端の根室駅には港も描かれず、対岸の国後はない。納沙布の東には歯舞もない。恐るべき自己完結である。
根室本線といくつかの支線が描かれている。札幌側から言うと清水町から東に伸びる川西鉄道、駅名は省略されている。次が帯広駅を出発点とする十勝鉄道。これは箒のように枝分かれしているのでビートを運ぶ貨物船であろう。逆に東北方向に伸びるのが士幌線。当時すでに上士幌まで伸びていた。
次が池北線。当時、野付牛(現北見)は十勝の延長と考えられていたことがわかる。しかし途中に駅名はない。「遠別」という地名だけが駅名であるかのように書き込まれているが、果たして実在するのだろうか?
*重大な間違いです。文末で訂正します。→文末に書いたのですが、相当長いので次の記事にします。
旧池北線の駅名に遠別はない。いろいろ調べると営林署の支所で、十勝東部森林管理署というのがあり、そのまた支所に宇遠別・鹿山森林事務所という建物がある。住所は足寄郡陸別町字陸別元町となっている。しかしこれだと字(あざ)遠別ではなくウエンベツだ。
釧路からは雄別炭鉱鉄道が延びている。その存在は現在もかなりの人が知っている。別保からは臨港鉄道が伸びている。その一部は最近まで稼働していた。釧網線はこの頃まだ存在せず、東釧路から短い支線が延びていた。
画面の左上に書かれた「著名工場・その他」という欄に「音更飛行場」という記載があります。
これについて調べたところ、「空港探索2:音更飛行場跡地」という記事がまるでテレビドラマであるかのようにめちゃくちゃ面白い。ぜひご一読を。
なお記事の内容は「まぼろしの音更飛行場」という冊子から紹介されたもののようです。これは音更町郷土史研究会副会長の那須敏雄さん(当時)が書かれたもので、2008年の出版です。町立図書館にあるようです。
「遊覧地」の一覧の二番目に載せられた途別温泉について調べると、次のような記載がありました。
町内(幕別町札内)には、現在三カ所の温泉施設があります。その起源は、加藤温泉(明治39年)、黒田温泉(大正元年)による開業であったとされています。場所はJR札内駅から、南方向2kmの位置にあり、途別川に架かる吐月橋を渡った日新坂の登り口に、隣りあわせで営業していました。
こういうことをやっているときりがない。1回閉じます。
百年戦争の経過
https://sekainorekisi.com/より (左クリックで拡大)
ヨーロッパ中世の概略
そのゆえに、中世から近世へという時代の流れを把握しないことには、そのいろはさえもわからないという構造になっている。
そもそも中世とはなにか、それは暗黒時代なのか、そしてルネッサンスは暗黒からの目覚めなのか、このへんは一度歴史観をクレンジングしておかないとならない。
実体としては単一国家ではなく氏族連合を形成した。
1100年ころ ビンゲンのヒルデガルトが活躍。
平村エレコークのさまざま
この『炉辺談話』は北光社移民団が入植した明治30年代初期の状況です。開拓使の禁令から十数年が経過していますが、エレツコは禁止された罠で自由にシカ猟を行っています。
平村次二さんの思い出 アイヌとしてのルーツ
元三省堂国語教科書編集者
平村次二
実は、私はアイヌとして生まれ育った完全なアイヌではなく、親父が和人だろうと思います。私は、たった一軒だけのアイヌが住む所、北見の国で生れ育ちました。
「私はアイヌです」ということは、あまり公にしてこなかったことであります。あえてアイヌであることを隠して生きてきたつもりはないですし、それをまた売りものにして生きようとも思いませんでした。
祖母と母のアイヌ語会話は少しは聞いていますが、アイヌ語を全く知らないで日本語で育っております。(中略)
私の名字、「平村」というのは北海道の日高地方に、沙流郡平取村(現在の平取町)があり、私の母方の祖父母がそこで生まれたのが名前の由来です。
平取というのは、あの金田一京助さんの本にも出てきますが、「アイヌの都」といわれた土地でありまして、ピラトリ、ニプタニと、あと幾つかの集落がありました。明治維新によって、北海道が開拓されていくときに名前を付けろといわれて、役人が平取村の「取」を取って「平村」という名前になったということのようです。そんじょそこらにあるような名前ではないですね。あまり聞きなれないので、舌を噛みそうだといわれます。
母方の祖父母というのは、先ごろ初めて調べましたら、「コタンピラ」という家じゃないかといわれております。コタンピラが曾祖父の名前で、この時には日本人名はついていないだろうと思います。その子供であるエレコウクというのも、たぶん名前はついていないだろうけど、つけられた名字が平村です。
私の祖父、エレコウクが、シノアッという女性(この人は二風谷の「貝沢」名だろうと思います)とが駆け落ちして、遠くの町へ行っちゃったと、ロマンチックに考えているのです。この二人が北海道の開拓にだいぶ手を貸して、あちこち野山を歩き回っていたという資料があります。いわゆる開拓の水先案内か何かをやって、道内を回り歩いていたらしいのです。その前は何をしていたか分かりませんが、たぶん狩猟をして山歩きをしていたのだろうと思います。その二人が日高山脈を越えて、かなり離れた北見の国まで行きました。
北海道の開拓に当たって、山歩きをしている祖父母に役人たちは道先案内をさせました。網走から山の中へ入ったところのオケトゥンナイ(置戸)は北見地方ですが、こういう山の中まで道先案内をして、北海道の鉄道の敷延に手を貸していました。北見国常呂郡置戸村という網走より60kmも山の中に入った所の、定住者の第1号だと「置戸町史」には書かれております。置戸へ開拓者として入った人たちの道先案内をしながら、最終的に定住してしまったというのが私の祖父母でした。
そこで生まれた「平村トミ」という私の母が、旧土人保護法という法律で一定の土地の払い下げを受けて、定住したのが北見国常呂郡置戸村で、私もそこで生まれたのです。
母、平村トミは、日本がアメリカに占領された時のように、シャモ、いわゆる日本人がアイヌを征服してくるわけですから、そこで征服された形で結婚しようとしたようなのです。そこに、俗にいう、父無し子として私は生まれたわけです。なにか訳けあって戸籍をつくれなかったようで、母親が私を生んだ時は、40歳ぐらいですから相当遅いですね。父無し子と言っても、父が何者であるかは多少分かるのですが、私は父をいまだに拒否していますから、流れ者といって、親父のことを知らないと言っているのです。「親がないほうが、子は育つ」のだと。
私には、血筋的には兄弟がいるのですが、戸籍としては父無し子で育ってきているわけです。そういう条件のもと、置戸村にアイヌがたった一軒だけあった中で、私は育ちました。兄弟たちも、そこで苦労はしてきたのだろうと思います。一軒だけというのは大変辛いことでもあるのですが、いじめということでは、いじめられる方も集団ではないから楽なのかもしれません。コタンというコタン、平取コタンでも相当のいじめがあったと聞き知っています。私もいじめられたことはあっただろうと思いますが、もう50年も前のことで、すっかり忘れています。「静かな大地」(朝日新聞連載の小説)などに出てくるような形、「あ、犬が来た」というようなのが一般的な子供のいじめ方だと池澤夏樹さんは冷めた形で書いています。こんな形で私もいじめられてきたと思いますが、いじめられたことは忘れました。ただ、非常にひねくれた性格になったことは事実です。あまり明るい人間ではないので、亡くなりました母がいちばん苦労したのはではないかと思っています。私がいちばん尊敬するのは母親で、自分以外に人々はあまり信用せずに私は育ってきたのかなと思っています。
私が生まれたのは昭和9(1934)年ですから、北海道の開拓もそうとう進んでおります。明治以降の北海道の開拓におけるアイヌとシャモ(シサム)の関係についての私の考えをお話ししておきます。シャモというのは沖縄語で言えばヤマトンチュー(日本の人たち)です。日本が北海道を開拓していく過程は、「静かな大地」に実に淡々と書かれている通りかもしれませんが、私はあんなものではなかっただろうと思っています。そこでいちばん大きな問題は、差別の根底に運命があるのだろうと思います。アイヌは文字を持たなかったことによるそうとうな迫害、あるいは人間としてダメになっていくアイヌの姿がたくさん記録として残っております。
私は高等学校を卒業するまで、北海道の置戸村字境野という所で育ちました。昭和9年生まれですから、昭和16(1941)年に国民学校(今の小学校)に入ります。人々が本州から北海道に渡ってくるには何か理由があるわけで、そこに文字を持たない「文明」の低いアイヌがいるということは、「近代化」を急ぐシサムにとって非常に痛めつけやすい人間たちという構図にもなるかと思います。そういう人たちが山奥へ入って来て、集落を形づくっていく歴史を読むといろいろと分かります。山奥ですから、そこの国民学校に入ったときは、1クラス42人ぐらいでした。教育内容は、皆さんもお分かりだろうと思いますが、日本が神の国だったという時代の教育をそのまま受けてきているわけです。昭和16年の国民学校1年生というのは、「ススメススメヘイタイススメ。」で始まる教科書で、軍国少年として育つわけです。それが国民学校時代の学校のあり方で、私も飛行機の絵ばかり書いていたのを記憶しています。
昭和20(1945)年に第二次世界大戦が終わり、私たちは教科書の墨塗りをやらされた世代です。小さな子供ですから、価値観が変わったかどうかはあまり意識しなかったでしょう。昭和22(1947)年に新制中学に切り替わり、新制中学で学ぶのですが、教材も校舎もない所でやることといったら、樺太(サハリン)から引き揚げてきた先生がたの食料作りと校舎造りを学校の授業でやっていた記憶があります。年齢的にいいますと、新制学校制度の一番手を突っ走っていくわけですから、勉強はほとんどしない状態で高等学校へ入ります。昭和25(1950)年に新制高等学校に入学し、これも学区制ができて旧制女学校に入るというような高等学校生活をします。女学校ですから、男性のトイレがないというような校舎に入っていました。
それ以前のことで言いますと、私が国民学校3年生の時に祖母のシノアツが90歳ぐらいで亡くなりました。祖父のエレコウクは、私が物心ついた時にはもういませんでした。平取で亡くなったと聞きます。祖父母たちはアイヌ語を話しておりましたが、それも私の意識にはあまりありません。私の母は文盲で育っており、近代化政策、シャモとの同化政策のためにも、日本語で私を育ててくれたと思います。母はたぶんアイヌ語ができたのだろうと想像しています。今は確かめることができないのですが、日本語とアイヌ語の、いわゆるバイリンガルで生活していたのでしょう。
私が子供の頃はもう鉄道が引かれていましたから、私は母について平取へ行った記憶も何回かあります。学校へ入る前は毎年のように行きましたから、平取のアイヌの生活は子供の頃に見ています。が、記憶としてはあまりありません。平取は義経神社のある所で、義経神社でクマ祭を見た記憶がありますし、沙流川で顔を洗った記憶もあります。家(アイヌのチセ)の間取りも、うろ覚えに覚えてはいますが、平取でのアイヌの生活というのはその程度にしか覚えてはいません。学校教育を受けるようになって、文明という差別のもとで私自身も差別をするような形でアイヌを眺めるようになっていったと思います。だから「私はアイヌです」とは言えなかったのです。
高等学校卒業の前の年に肋膜という病気をやりまして、母親にはたいへんな苦労をかけたと思っております。最初の民主主義教育を受けたのが新制中学・高等学校というところで、勉強はしなかったけれども伸び伸びとしていた記憶はあります。そういう教育や状況の中で、「お前はアイヌ」という目で見られ育ってきており、中学生ですでにそんな状態の中から1日でも早く生地を飛び出したいという気持ちが起こりました。高等学校卒業式の日に東京へ飛び出します。高校3年の時に公務員の初級職に受かっていて、母は公務員になれとしきりに言っていました。もしなっていたら、今は財務局あたりで相当悪いことができただろうと思っていますが、それも拒否して東京へ出て来てしまったのが実状です。そのような生まれ育ちというものを背負っているものですから、田舎にはいたくないと思いました。これも一種、教育されたといいますか、それが運命だ、それが理想なのだという思いで東京へ出て来たのだろうと思いますが、今は反省していますが、もう戻れません。
東京へ出てきて1年浪人した時は、あの山之口獏氏(詩人)のような沖縄を飛び出した時の状況ではなかっただろうかと重ね合わせます。幸いに姉が東京にいたものですからそこへ転がり込んで、高校3年の時に肋膜を患ったという訳けで1年間浪人しました。その翌年に、犬の散歩をしている時にきれいな学校があったのでここへ入ってみようと思い、当時はだれでも入れた大学へ願書を出して入ってしまったというのが、大学へのきっかけです。
大学では、文章の鍛錬ばかりやる新聞学科というところにいたものですから、時間は自由に取れてアルバイトばかりしていました。結局、何も勉強しないまま大学を出てしまうのですが、その間、人間ですから悩むわけですね。アイヌで父なしっ子、この先の就職はどうなるのか、結婚はと、全くお先真っ暗でした。実は、中学校の頃から先生になりたいという気持ちはあったので、先生になろうとして教職課程を取っていました。教育実習に行った時、自分自身の人間性のなさに愕然としました。私が100点取れなければ、生徒も100点取れるわけがないと思って、先生の道は諦めてごろごろしておりました。
卒業の時、三省堂で小学百科事典を売るため、卒業生を見込んだ形でアルバイトを募集していました。就職への悩みを持ちながらそのアルバイトをしている間に、アルバイトから臨時、臨時から社員という形で、うまい具合に三省堂にもぐり込めたというのが実状です。当時、出版社などは、こうしたもぐり込み方もありました。社員になる時は、いちおう試験をやって受かったという形でもありました。
それと同時に、会社の中で大きな動きがあって、私は新聞学科というところを卒業したことになっているものですから、国語の教科書編集へ配属されたというわけです。
ここまで私の育ち方を話しましたので、私の物の見方、考え方をある程度分かっていただけたかなと思います。
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面白い話だったので、つい長々と引用してしまった。
肝心なことはこの平村さんの曽祖父が、あのユーカラ伝承者のコタンピラだということだ。まったくそのことに触れていないので、平村さんがご存知ではない可能性がある。
ユーカラより「一騎討ちの決闘を叙する」
大地の上に/猛き足踏みを/我に伸ばし
耐えられないほどに五感が揺さぶられるフレーズであるが、これが常套句として耳になじんでいくと、おそらく一種の快感を感じるようになるのであろう。不協和音を交えた音楽を聞くようなものだ。
学的業績は論文としてまとめられ、1956(昭和31)年に「アイヌ文学序説」として東京学芸大学研究報告に発表収録された。これが77年に掘り起こされ、関係者の努力によって岩波新書となり、我々の目にも触れることとなった。それも絶版となり埋もれていたのが、たまたま北大病院前の古書店で私の目に止まったということだ。
かつて私は、1931(昭和6)年の夏、日高・平取の平村コタンピラという老伝承詩人からユーカラの一つを筆記したことがあった。朝は7時ころから、暗くなるまで、昼飯抜きで書き続けて、5日もかかってやっと書き終えた経験がある。
「謎の海洋王国 ディルムン」の紹介
弥生時代をもたらした朝鮮南部文化 その2
前9世紀
100年ほど後に、農耕社会の成立を示す環濠集落の出現。戦闘が始まり有力者が出現。
この辺は時代的には早すぎる印象。そもそも既存資料の読み込みに基づく、李さんの判断にすぎない。結局、第2段階がいつから始まるかの問題に帰結する。
弥生時代をもたらした朝鮮南部文化 その1
李昌煕 「紀元前1千年紀の韓日関係」は、朝鮮で先行した金属器文化や農耕文化にょって弥生文化を説明するべきだ、と考えてきた私にとって旱天の慈雨にも等しい文章である。
李さんは現職が釜山大学教授となっているが、文章を読んだ感じでは在日の方で、考古学の素養は日本で学んだ方ではないかと想像する。「韓国世界」によくある、挑むような反日と、ギラギラしたミニ中華思想はなく、実事即是の精神が貫かれている。
複合文土器が出現する。この頃から水田耕作も始まる。
松菊里式土器が主流となる。
武器 道具 |
石器 |
鉄器 |
有史時代 |
|
||||||||||
食料獲得 |
狩猟・漁撈・採集 |
水田耕作 |
有史時代 |
|
||||||||||
統合すると |
石器+狩猟 |
石器+水稲 |
鉄器+水稲 |
有史時代 |
|
|||||||||
人種的には |
YハプロD(+C1) |
YハプロD+O1(+C1+N) |
YハプロD+O1+O2 |
YハプロD+O1+O2 |
||||||||||
(O2は支配者としての北方民族)
慣用的には |
旧石器+縄文 |
弥生前半 |
弥生後半+古墳 |
有史時代 |
鉄器の導入・開発については議論百出で、炭素14年代も無力である。
この頃に流入した土器は円形粘土帯土器と呼ばれ、日本では弥生前期末(板付Ⅱ)に相当する。
BC1千年から0年までの1千年を一つの時代として捉えている。日朝関係に的を絞れば、非常にわかりやすい時代区分ではあるが、それは日本の考古学にとっては重大な問題を突きつけている。
なぜならそれは弥生時代のど真ん中を切断しているからである。
なぜ日本の考古学は紀元0年に時代の境界を置かないのか。とくにそれは鉄器時代の到来を視野に置かない時代区分であり、先史時代と原史時代という古代史のもっとも重要な分岐点を無視しており、国際的には異端そのものである。
もう一つ、日本の考古学は弥生時代をなんの根拠もなく後に引っ張り、それを古墳時代へと接続させている。
古墳時代とはなにか、それは有り体に言えば前方後円墳時代である。時代を前後に分かつような象徴的なものは何一つない。せいぜいあるといえば、おそらく天皇制度の前身となるような地方権力が大和川沿いに形成されたことくらいだ。
つまり万世一系の天皇の国としての歴史を描き出すために、このような時代区分が創出されたのではないか。
西日本各地から朝鮮半島系の突帯文土器などが出土しており、交流の存在は確実である。イネ科の植物や石庖丁が発見されているが、水田の遺構はない。
ホモサピエンス 最新の「出アフリカ記」
である。
とにかく新しいこと、この上ない。私が知らなかったこと、曖昧にしか理解していなかったことが明確に書かれている。明確に書くのを嫌っているかのような中橋孝博さんの哲学趣味とは大違いである。しかも共著であるから、叙述レベルにムラがない。書いてあることがほとんどファクトとして受け取れる。霧が晴れて視界が一気に広がったような快感を覚える。図表も美しい(ただし冒頭のカラー写真はなくもがな)。
こういう本は、自分で年表形式にして並べていくのが一番整理できる。それで始めたが、流石に固有名詞が多すぎる。外国の推理小説を読み始めたときみたいで年寄りには辛い。少し枝葉を刈りながら拾っていくことにした。
5万年前
ここで、Y染色体ハプロとの関係について整理しておきたい。
アフリカでホモ・サピエンス(以下HS)が誕生したのが、30~20万年前とされる。そこからすぐに分岐が始まっているものと考えるべきであろう。彼の名をYハプロα、もしくはHSアダムとしよう。それから間もない19万年前に出アフリカを果たしたものがいる。彼のYハプロがベータだったりガンマだった利しても問題ない。彼をトップとするHSグループは間違いなく絶滅しているからだ。
Y-DNAの系統樹
現存HSの最古の分岐は7~8万年前アフリカで起きたハプロAからのハプロBT、ついで起きたBTからのCTの分岐である。この最初のCTが出アフリカHSの共通祖先、すなわちユーラシア・アダムとなる。
このCTの分岐・発生の年代から見て、第二次HS拡散の担い手がハプロCTであることは確実だろう。また縄文人の主体となるハプロD1がCFよりやや遅れてハプロCFを後追いしたこともほぼ間違いないだろう。ハプロFはF1F2F3 に分かれるが、その子系統すなわちハプロG~Rが現生人類の大多数を占めている。
ここまでは随分スッキリした議論が展開されてきたにもかかわらず、5万年前を越えて現代に近づくととたんに五里霧中の状態となる。
北回り、南回りの議論さえも未だになんの決着もついていない。4万年前以前にすでに日本にまで到達しているHSだが、その到達経路も、誰が来たのかも、まったく確たる証拠が示せていないのが現状のようだ。
要するに、青空のもと富士山の頂上(出アフリカ)は澄み渡り視界良好だが、途中に厚い雲海と広大無限な樹海が広がっていて、どこをどう辿って行けば頂上に行きつくことができるのか、それがわからない状態なのだ。
論考はさらに中国の原人、旧人をふくめた人類史へと移動していく。こちらも新知見がいっぱいだが、実際のところは、真偽もふくめて未確定の状態だ。これについてはいずれまた機会があれば勉強してみたい。
「弥生B人」の人骨所見
黄河の流れの歴史
中橋孝博「倭人への道」の書き出し
この書き出しにすっかりハマってしまい、何度も読み返している。
今からおよそ2千年ほど前、極東の小さな島に、当時の中国から「倭人」と称される人々が百余国に分かれて住んでいた。現代とは比べるべくもない稚拙な通信・交通手段しかなかった時代、おそらくはまともな地図すらなかった時代に彼らは海を渡り、漢王朝の役所が置かれた楽浪郡へ定期的に朝貢していた。中国の正史(漢書地理志)にわずか19文字で書かれたこの話は、日本の地に、多大な危険を犯し、多くの財貨を費やしてまで大陸の王朝と交渉を持とうとする人々が住んでいたこと、そして当時からすでにそうした使節を海外に派遣するような組織が日本列島に存在し、派遣せざるを得ないような国々の関係が生まれていたということを伝えている。歴史上ここに初めて登場する「倭人」はどのような人々だったのだろうか。もちろん彼ら「倭人」が日本列島の最初の住人ではないし、この人々に当時の日本列島の住人を代表させるわけにも行かない。後の有名な「魏志倭人伝」の記述からも伺えるように、倭国に敵対する勢力が未だ各地に残っていた時代の話である。とはいえ、その後現代へとつながる歴史を振り返れば、彼ら「倭人」が我々現代日本人へとつながる祖先(あるいは重要な要素)であることはほぼ間違いない。
私の解釈
この「国らしきもの」の特徴はいくつかある。まず第一に三韓とほぼ同等か、それに準じる国際的地位を持っていたことである。少なくとも漢からはそのように認識されていた。第二にそれは三韓の一部から移民した人々が作り出した国家である。だから漢に対する臣従もなんの抵抗もなく実施された。なぜなら彼らは日本に渡る前にすでに臣従していたからである。第三にそれは日本列島の先住民を支配する征服者国家である。漢帝国に臣従する国家であれば、当然先住民に対して臣従を求めるであろう。そして支配の仕方は本質的に権威主義的だったはずである。その際に漢との主従関係が大いに役立ったに違いない。
これらの本質的特徴を、著者は簡潔に要を得た叙述で明らかにしている。
この一節が示している極北、それは倭国史は魏志倭人伝ではなく、漢書から出発しなければならない、というあまりにも当然の事実だ。この点において私は中橋さんと思いをともにする。
ただし賛辞はここまでだ。
では馬韓・弁韓・辰韓が純粋な弥生人国家であったかと言うと、どうもそうとは言い切れないのである。たとえば衛氏朝鮮が北方系民族に敗れた時、多くの残党が船に乗り馬韓を目指したという記述がある。もし衛氏朝鮮の末裔が三韓地方に散って国家を建てたのなら、人口構成で弥生人優位だったとしても、もはやそのことをもって弥生人国家だとは言えない。
それを知るためには、朝鮮半島における考古学的知見の、「非イデオロギー」的な集積が待たれる。
Y染色体ハプロでみる西欧人種の変遷
イギリス先史時代 年表
40万年前 極度の寒さによりブリテンから人類が消滅。その後間氷期の間、わずかに旧人の進出が見られる時代が続く。
土器のツボがビーカーに類似することからビーカー人と呼ぶ
ヒロシマ船舶司令部の24時間
世界の歴史で最初の原子爆弾が投下され、爆発したその日に、その場所に、「何よりも人の道から外れたものであるがゆえに、許せないものだ」と喝破した最初のひとがいた、ということを、私たちは記憶に留めておくべきだ。
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ここから下は、「中国新聞」に掲載された被爆直後の救護活動の時刻表である。ヒロシマ新聞というネット紙からの再転載だが、このサイトは現在は消失している。
かなり補い合う情報もあるので、再掲する。
元記事は 暁部隊に関する情報
より転載。午前9時ころ、宇品の船舶練習部から中心部方面をとった写真である。おそらく2,3キロ位のところまで煙(二次火災)に包まれており、それから先は見えない。
直後 船舶司令部は、佐伯文郎司令官の指示で第二総軍、県庁、市役所などに電話連絡を試みる。いずれも不通のため、兵士を各方面に偵察に出す。
午前8時50分 消火艇、救護艇を川から市中心部へ派遣。あわせ救護、消火活動に各部隊を振り分ける。(宇品には全国から徴用された民間船が集結していた)午前9時 被災者が船舶司令部に集まり始める。当初は被害を受けてない軍医二人、衛生兵三人、看護婦五人が治療に当たる。
殆んどが全身火傷で、すすだらけで黒ずんだ顔。髪の毛や衣服はぼろぼろに焼けちぎれ、肌は焼けただれたり火ぶくれになっていた。皮膚はたれ下がり、又、皮膚や肉片が衣服にくっついていた。担架に乗せようとすると皮膚がずるりと剥けて、手のほどこしようがなかった。 …火傷臭と死臭の漂う収容所内で何度も遺体の搬出をおこなった。船で似島(検疫所)へ移された。 |
午前11時 佐伯司令官、中国地方の各基地に対し、「敵の新型爆弾が広島市に投下さる。各基地は全力を挙げて復旧救援に従事せよ」との指令を発出。
午前12時 江田島・幸の浦基地の部隊(船舶練習部第十教育隊)が宇品に到着。そのまま市内に進出し救援作業に当たる(この部隊は特攻隊で、ボートで敵船に突っ込む訓練をしていた。
を見よ)午前12時 千田町の広島電鉄本社に指揮所を設置。負傷者の救護にあたる。宇品では対応できないと判断した司令部は、対岸の似島検疫所へ船による輸送を始める。(金輪島へも多くの負傷者が運ばれている)
午後1時 宇品地区の水道が減水。幸の浦基地より衛生濾水器を輸送し、水を確保。罹災者に乾パン、作業着、蜜柑缶詰などを配給する。
午後2時 この時点までに収容した負傷者は1300人。その後も後を絶たず。
夕方 船舶教育隊(石塚隊)が紙屋町、八丁堀のあいだの屍体発掘作業。
7日、船舶司令部の佐伯司令官が「広島警備本部」として市内の救援活動や警備活動の指揮をとることとなり県庁・県防空本部を指揮下に入れる。
ペンリウクとヨーロッパ人
平取のアイヌを語る上で欠かせない人物がペンリウクだ。義経神社の鳥居前に佐藤昌介北大学長の記した顕彰碑がある。
ヨーロッパ人との接触は樺太であったかもしれない。またおそらく樺太との往来は函館を経由してのものであろうから、函館に何らかのアジトはあったと思われる。
小シーボルトは帝大医学部のベルツ教授を介してマンロー医師とも交友があり、このグループが黎明期の日本考古学研究を開拓したと言っても過言ではない。
北日本旅行の印象は帰国の2年後に一冊の本として発表された。
明治30年頃の物価と、今の物価を比べると、今の物価は当時の3800倍ぐらいです。つまり明治時代の1円は、今の3800円ぐらいに相当することになります。
ホモサピエンスの出アフリカが大幅に遡る
この種の報道はこれまでも繰り返されてきたが、今回の報道を機に一度整理しておきたい。
ネタはこの記事
「アフリカからアラビアへ…人類40万年前から進出」赤旗9月2日
間宮利夫記者の署名入り記事で、「ネーチャー」誌の記事の紹介だ。
これまで出アフリカしたサピエンスは、ジブチから海を渡りオマーン方面に移動したとされてきた。
しかしこれは現生人類につながるアダムとイブたちの祖先であり、それ以前にも何度か出アフリカを試み挫折(=絶滅)してきた歴史があるだろうと思われてきた。
今回その証拠が見つかったという話で、初めての話ではないが、有無を言わせぬ証拠が発見されたという点で意義がある。つまらないことだが、ドイツのマックス・プランク研究所の研究であるということも信憑性を増している。
場所はサウジ北部の高地、人っ子一人住まないネフド砂漠のど真ん中だ。その中のハル・アメイシャン4号というポイント。
ここには数えて6回の湖水形成期があったそうだ。そしてそのうち5回の地層面から旧石器が出土している。
石器は前期旧石器時代の握斧、中期の剥片器など多彩で、それぞれの石器に歴史的連続性はなく、それぞれの時期のアフリカ在住サピエンスと一致している。また発見された動物の化石もアフリカのそれと対応していた。
すなわち5回の住人はすべて別の種類で、そのたびにアフリカからやって来たということになる。湖水形成期に定着しては、乾燥期に離散・絶滅するという経過を繰り返したのだろう。
その最古が40万年前のもので、これまでの定説を大きく遡ることになる。
ここまでがネイチャー誌の紹介で、この後は間宮記者のうんちくになる。
出アフリカが現生人類のそれをはるかに遡る可能性が、最近相次いで発表されている。
1.イスラエルで発見されたホモ・サピエンスの人骨が17万7千年前とされた。
2.中国で発見されたホモ・サピエンスの歯が8万~12万年前とされた。
3.モロッコで発見されたホモ・サピエンスの人骨が30万年前とされた。
ただ問題はもう一つあって、ネアンデルタール人など旧人が、旧石器に近い石器を使用していた可能性が否定できない、というか、かなり有り得る話だということだ。
この辺はもう少し研究の進展を待たなければならないようだ。
参考(ウィキペディア)
ネアンデルタール人の技術は非常に洗練されていた。火を起こしたり、炉を作ったり、毛布やポンチョに似た簡単な衣服を作ったり、機織りをしたり、地中海を航海したり、薬草を利用したり、怪我の治療をしたり、食べ物を保存したり、ロースト、煮沸、燻製などの調理の能力が含まれている。
ネアンデルタール人の石器(ウィキペディア)
松前城と寺町(寺社群)
松前古図
もともと松前城の構築はさほど古いものではない。
寺町の形成
新政府側についた松前藩側は城下に火を放って逃走。寺町の各寺にも火を放つことを強要しましたが、一部の住職はこれを受け流し、火を放つのを自重。こうして寺町のみが往時の城下の風情をとどめているのです。
「限界寺院」である。本堂まで長い参道が続き、脇に数多くの墓石が並ぶが、手入れがわるく倒壊、損壊した墓石が散乱する。国や道の認定を受けているとはいえ、過疎の町にこれだけの遺構は荷が重いであろう。
悲しみの松前町
雑誌「解放」について
『解放』(大正期の綜合雑誌)目次(一) : 大正八年六月創刊号より同一〇年三月号までの分
著者 本間 洋子
雑誌名 日本文學誌要 巻 1 ページ 44-61
発行年 1957-12-01
およびウィキペディアなどから編集した。
1919年(大正8)5月 大鐙閣(だいとうかく)から創刊された。この時代、第一次世界大戦直後のデモクラシー思潮が風靡した。この中で革新的傾向な傾向を示したのが、黎明会=東大新人会、マルクス主義者、無政府主義者の潮流であった。
『解放』は黎明会の機関誌的役割を持った総合雑誌として発行された。黎明会は吉野作造・福田徳三・大山郁夫らを中心とする社会科学研究者の集団として位置づけられている。創刊号の発行部数は3万部に達した。
実際の編集には黎明会と近い新人会の赤松克麿・佐野学・宮崎龍介らが参加したとされる。新人会は東大学生を中心とした左翼サークルでロシア革命の1年後に結成された。
ウィキペディア(麻生久の項目)によると、『解放』文化集団のオーガナイザーは麻生久だったらしい。
吉野作造らを担いで大正デモクラシーの啓蒙組織である「黎明会」を創設し、新渡戸稲造・大山郁夫・小泉信三・与謝野晶子ら錚々たる知識人・文化人を参加させた。また東大新人会にも先輩グループとして参加している。
『解放』は創刊号巻頭に無署名の「解放宣言」を掲載。「宣言」は軍国主義や専制主義など各種の圧迫から全人類の諸階層を解放することを創刊目的に掲げた。
創刊後の経過 第一次『解放』時代
ウィキに詳しい経過が載せられているが、正直のところ大鐙閣が潰れたあと、誌名を勝手に僭称している感もある。
1925年10月 山崎今朝弥という『社会主義研究』の編集者が、総合雑誌化する形で誌名を変更し「解放」を名乗ったもののようである。一応、編集同人をかき集め、石川三四郎・新居格・小川未明・赤松克麿・麻生久ら13名を同人としている。
とくに文芸欄で急進化の傾向が著明で、葉山嘉樹・林房雄・村山知義・平林たい子・山内房吉・青野季吉が活躍し、プロレタリア文学の一大拠点となった。
一方で既存の大家がほぼ姿を消したことから人気はガタ落ちし、発行継続が困難となっていった。後半には定期刊行誌の体裁をなしていなかったようである。
山崎は1927年4月号をもって従来を形態での慣行継続を断念し、同人誌に代えたという。
丸瀬布で見つけた「前衛」
旅するといっても、ひたすら車を運転して一人さまようのだ。
そんな旅の途中で、たとえば北見紋別の小料理屋で、唐牛健太郎が漁船に乗り組んでいた頃に、行きつけだった時の写真、そのあと浜美枝がお忍びで来たときの手紙などを見せてもらった。
今日のお披露目は、丸瀬布町の博物館で見つけた「前衛」。
なんでこんなものが麗々しく飾ってあるのか、さっぱりわからない。北海道人ですら丸瀬布というのがどんな街なのか知らない。そもそもそんな街があること自体知らない。北海道に勢いがある時分は丸瀬布町だったが、いまでは遠軽町の字でしかない。
そんな山間の寒村に1946年7月1日に、たしかに「前衛」の読者がいたのだ。しかも学校の先生とかのよそ者ではなく、博物館に蔵書を寄付してガラス張りの展示場に飾らせるほどの有力者の読者がいたのだ。
どうだい、すごいだろう。第1巻8号と書いてあるが、ただの第一巻ではない「復刊第一巻」なのだ。
この号では共産党の憲法草案が発表されているらしい。
平澤三郎という名前は聞いたことがない。誰かのペンネームだろうか。
まぁとにかくこんなところで「前衛」に出会うとはなんともおかしな話だ。北海道という土地柄が独特なものだることを示しているようだ。内地の田舎では、よもやこんなことはあるまい。
そしてその横にはこんな雑誌も展示されていた。
見当もつかない雑誌だが、多分28年後に前衛を買ったのと同一人物だろう。丸瀬布にそんな物好きが何人も居るわけはない。
その28年間が日本にとってどういう時代だったかを考えるとき、ほど遠からぬ網走に12年にわたって宮本顕治が閉じ込められていたという時代を思いやる時、なにかジーンとまぶたに滲みてしまう。
シンガポール陥落の花電車
しかしいずれ化けの皮ははがれる。
後に残るのは勝てる見込みのない相手に、道理なき戦いを挑み、敵味方合わせ数百万の命を奪った国家首脳の愚かさだ。それを忖度し国民を叱咤したのが、資本家、官僚、マスコミだ。
BSワールドニュースは休止した。2チャンネルでも見られない。「熱狂」という情報統制が世間を覆い尽くす。
社会は80年で劣化するのか。明治維新から80年で戦争、それから80年でコロナ。きっかけは何でも良いのかもしれない。
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あの頃、大きな戦闘作戦に勝利すると、路面電車に電飾を灯し祝ったそうだ。町内会にも奉祝行進の動員がかかったそうだ。
それに悪乗りして大本営が、負けているのに「勝っている、安全安全」と嘘っぱちを垂れ流す。「ばれない嘘は嘘ではない」というわけだ。
神州不滅の碑(鹿児島)
二年もすると化けの皮が剥がれ、日本中火の海だ。若者がバタバタと倒れていき、未来が失われる。哀れなのは、この期に及んでも国民が「神州不滅」と信じ続けることだ。
これが五輪組織委員長の予言した「ハルマゲドン」だ。あぁ東条よ、牟田口よ。
「マンロー医師 年譜」の底本を確定する。
しかもどれが底本なのかが自分でも分からなくなっている。
今回調べたところ、下記のバージョンが有ることが分かった。
文字数はの
文字数・バイト数計算
というオンライン・アプリを使って調べたもの。
これで、
これを2021年3月17日にGooに移植し、その際に上・下2篇に分け、しかも題名を変えなかったため、他の人には同一記事の文才だということが分からない。
当然、2019年11月24日以降も記事に増補している可能性はあり、それは2021年3月17日まではLivedoor記事に反映されているはずだ。
問題は、それで3月17日以降、Gooの記事に増補しているかどうかなのだが、文字数計算で見る限り手は加えていないようだ。
ということで、
かくのごとき有様となったのは、日本史、アイヌ氏、マンロー関連記事をGooに移植しようと考えたためのもの。
結果的にはこれが大失敗だった。
Livedoor と Goo は当然違う会社の違うソフトだから、使い方が違う。
最大の問題は、写真や図表の転居がかんたんではないということだ。
実はその後、かんたんにLivedoor の無料ブログが開設できることが分かった。現在すでに3本のブログを立ち上げている。この3本のブログはすべて同じアカウントでログインできるので、ほぼ瞬間移動が可能だ。記事・図表・写真の移動も不自由なく行える。
そこで
④ マンロー医師 年譜 (増補版)
のみを残し、ほかは破棄することとする。
Goo Blog はこのさい破壊消失させることとし、
あらたにLivedoor Blogを使って、「鈴木頌の歴史ブログ」(仮称)を立ち上げ、そこに収容する。
それまでのあいだは、当面④ マンロー医師 年譜 (増補版)
http://shosuzki.blog.jp/archives/81566213.html
を底本とする。
原島さんが語る「アイヌの話」
原島さんはアイヌの出身で、北海道AALAの古参会員です。私と同じ頃に北海道勤医協に入って、一緒に仕事をしていました。その後共産党の道委員会で少数民族問題を担当していました。
今回は「少数民族懇談会事務局長」としてお話してもらったのですが、ちょっとまだ講演の全貌がまとめきれていません。
そこで今回は、赤旗道内版に掲載された「アイヌモシリ(人間が住む大地)から」という連載記事のコピーを紹介します。記事は全4回で2019年10月に掲載されたものです。
アイヌ問題は
アイヌの土地を和人が奪った
アイヌを和人が差別した
和人がアイヌの尊厳を踏みにじり、同化を迫った
などの問題がありますが、
一番の問題は、明治維新まではアイヌ人のものとされてきた土地を日本政府が奪ったことにあります。
そして先住民であるアイヌ人の「先住権」を反古にしたことにあります。
国際法的に確認されたこの権利を改めて確認し、「旧土人保護法」の精神を捨て去り、その上で共生の道を図ることが、ロードマップのもっとも基本的な道すじです。
差別意識の清算については、あらゆる機会を捉えて粘り強く連帯意識の向上を図ることが求められることになるでしょう。
ABO血液型のB型はC1ハプロ?
血液型 弥生人はA、縄文人はB
以上は、
血液型 弥生人はA、縄文人はB
のコピーである。
話が尻切れトンボになっているので補足する。
弥生人がAなのは良いとして、縄文人がBというのは正確ではない、というより嘘だ。
もし縄文人がBなら、縄文人の代表である沖縄やアイヌはもろにBでなければならない。しかしそのような特徴はない。
つまり、Bは弥生人でもなく、縄文人でもない、「第3の原日本人」の特徴である可能性がある。
その分布地域は秋田、青森、長野、岩手、栃木だ。つまり本州の東北端から北関東・信越あたりの日本海側ということになる。これはY染色体ハプロで言うC1グループ(仮にナウマン人と呼ぶ)の多い地域と一致する。
C1グループの由来についてはいろいろな説があるが、私は東アジアに最も早く到達したホモ・サピエンスの末裔で、5万年前にインドからインドシナに進出し各地に拡散したと考えている。
日本には4.5万年前に朝鮮海峡をわたって上陸し、ナウマンゾウを追って関東から羽越地方まで進出した。氷河期のもとで人口は激減したが絶滅はせず、2.5万年前ころ北から到来したD2グループ(仮に黒曜人と呼ぶ。後の縄文人)と混淆し吸収された。
今日でもC1グループは日本人の5~10%を構成していると言われ、彼らが高いB型血液型を持っていたとすれば、話は合う。
これに対して縄文人のABO血液型に関する特徴は少ない。特徴が少ないというのが特徴とも言える。「青森、岩手、沖縄ではA型の割合が少ない」というのが、まさにそれを指しているのかもしれない。
米の生産高の歴史的推計
大変面白いのだが、受け売りの受け売りである。「半歩遅れの読書術」という連載コラム。
直接の受け売り人はテレビでおなじみの磯田道史さん、原著は高島正憲「経済成長の日本史」である。
「経済成長」と銘を打ってはいるが、実質は米生産の成長史だ。工業、商業は難しいので「あとはそこから類推を」ということになる。
以下、結論だけメモしておく。
米生産量(玄米換算)
奈良時代(730年ころ)は総生産量600万石前後、一人あたり生産量は1.4石前後。
平安時代(1000年ころ) 、一人あたり生産量は2.2石前後。成長率は43%。
鎌倉末期(1300年ころ) 800万石前後、一人あたり生産量は2.0石前後。成長率は-9%
江戸前期(1600年前後) 、一人あたり生産量は2.5石前後。成長率は25%
江戸後期(1800年前後) 、一人あたり生産量は3.0石前後。成長率は20%
明治初期(1870年前後) 、一人あたり生産量は3.7石前後。成長率は23%
まぁこの表を眺めるだけでもいろんな感想が浮かんで来る。
1.平安初期までは順調に生産力が増えていて、300年足らずで1.5倍という高度成長時代が続く。実感としては「平安バブル」だったのではないかと思う。
2.その後、鎌倉末期まで生産量は下がり続ける。注目されるのは奈良時代に比べて一人あたり生産量は43%増えているのに、生産量は33%しか増えていない点である。これは単純に見て米生産以外の理由(例えば地震・疫病など)による人口減と判断される。その理由がわからない。
3.本格的な農業の離陸は19世紀に入ってから開始されたことが分かる。例えば大阪湾の干拓事業なおを見ても、江戸時代初期からかなり進んでいるにも関わらず、農業生産性の向上に結びついていないことが分かる。それがなぜ19世紀を迎えて大きく発展し始めたか、その辺が知りたいものである。
4.この表からは読みにくいのだが、鎌倉末期の米生産の低下は寒冷化によるものとされている。とすれば、その影響は東北地方にとって一層シビアなものとなっているだろうが、そのへんのエビデンスがどうなっているのかはよく分からない。
5.室町から戦国時代には、寒冷化による米生産性低下は低湿地向け赤米(大唐米)の普及により相殺、克服されたと書かれている。イノベーションによる生産力増加は、地域格差を激化させ、人々の移動を激しくさせた可能性がある。あえて言えばそれが戦国時代の背景となっている可能性がある。
以前から、明治維新を成し遂げた力に関連して、江戸時代における東西の経済力比較とその推移が気になっていた。そういう観点からもう少し検討してみたいと思う。
夏・商・周に関する年表 増補版
春秋・戦国時代: 覇権を規定した鉄製兵器
馬韓南部の前方後円墳
感想
1.慕韓、秦韓は倭の創作
慕韓、秦韓を倭の五王の創作だと言い切ったことには度肝を抜かれた。しかし言われてみると確かにそうかも知れない。
五王のしんがりを務める武はたしかに複雑な側面を持つ。それまでの4王が霧の中の人物であるのに比べると、この王の周辺事実の多さは圧倒的だ。
百済の皇太子を人質に取り百済に対して優越性を保持し、新羅に対しても睨みを効かせ、しばしば武力干渉を行う。一方では、彼を最後に中国への遣使が途絶えるなど重大な内部問題を内に抱えていた。
6世紀のはじめ(おそらく死後)、百済の領土要求に屈し、任那の重要部分を割譲している。おそらくこれが遠因となり筑紫君磐井の乱を起こしている。
2.好太王碑では任那と加羅は別物
高句麗は紀元400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
好太王の碑にそう書かれており、これを信用しない限り議論は進まない。
これを素直に解釈すれば旧三韓のうち弁韓と辰韓が新羅・加羅・安羅の三国に再編成されたと見るのが自然であろう。そして馬韓は任那へと再編されたと考えられる。
洛東江バルジのやや南方の慶尚南道咸安郡伽倻邑というところで大規模な遺跡が発掘され、安羅の都ではないかと言われている。ただ韓国の命名はきわめて恣意的で、すべて伽耶連合の属国として強引にくくろうとする。任那は任那伽耶で、安羅は安羅伽耶である。いつまでこの絶望的な反日の歪みが続くのであろう。
加羅と伽耶の異同は不明だが、好太王碑に伽耶の記載がない以上、伽耶は加羅の後の時代による別称だと考える。これについてはなんとなく同意がある。
3.馬韓南部の前方後円墳の意味
私は以前から主張してきたのだが、前方後円墳はぼた山なのではないか。とくに地面を鏡のごとく水平にならし水の流れを整える水田づくりには膨大な残土が出る。それを丸く積み上げれば巨大な土饅頭となる。それを墓にするのは支配者にとって一石二鳥だ。
だからそれは文化の中心ではなく、周辺部の水はけの悪い新田開発地帯にドカドカと建てられる。いくら大きくてもそれほどの価値はない。廃坑のボタ山がいくら大きくても大した価値がないのと同じだ。
同じことが全羅南道の不便な湿地帯にも言えないだろうか? と密かに思っている。
古墳時代という時代区分は、どうも面白くない。もしヤマトの勢力が最強の力を握った時代だとするなら、ヤマト時代と呼ぶ米ではないか。マンローがいみじくも述べたように…
夏・商・周に関する年表 増補版
こちらはその増補版
戦乱の600年
鉄器時代への突入と西の辺境「秦」の強大化
日本人が「伽耶」と呼ぶ必要はない
これに対し日本語版ウィキは、伽耶を加羅に置き換えて論じている。逆に韓国史学界は「加羅を伽耶に」置き換えて論じているようだ。
しかもこれに任那をくっつけて、伽耶=加羅=任那の三位一体説まで進んでしまうので、我々シロウトには甚だ居心地が悪い。
唯一、清代に編纂された『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が用いられている
教科書的な説明
『三国史記』ではおもに加耶(かや)として出てくるが、他に伽耶、加良、伽落、駕洛という表記もある。『梁書』には伽羅、『隋書』には迦羅と表記される。加耶 ka-ya は加羅 ka-ra の r 音が転訛したもので、朝鮮語ではよく見られる。
「加羅を伽耶と呼ぶべきではない」という意見は、本来は韓国の中から湧いてきて然るべきだろうと思う。それが祖先に対する敬意ではないだろうか。
任那は本来はニンナと呼ばれていたものがなまったもの。広開土王碑には「任那加羅」と書かれており、加羅の中の一国を指す。
六朝政権における「倭の五王」の位置づけ
倭の五王の歴史的事実は六朝時代の史書群の中にしかない。その史書群は日本書紀の作者たちも読んでいた。日本書紀の作者たちの情報入手先は、百済に持ち込まれ蓄えられた情報(百済本紀をふくめ)を介してのものである可能性が高い。
六朝政権の根本的利害
このような南北対立の地政学的構図を念頭に置くなら、六朝側の根本的要求は朝鮮半島での北方勢力の南方進出を阻止することに尽きる。黄海越しに柔らかい脇腹を突っ突かれるのはまっぴら御免被りたいところだ。
その観点からすれば最も重要な同盟者は百済であり、倭国はその強力な支援者として評価されるのだ。おそらく20年ほど前、高句麗の好太王が攻め込んだ時代に、倭が百済と新羅の支援者として出兵したことを六朝政権は忘れていなかったのではないか。
六朝時代と五胡十六国時代の経過