カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)
第7章のための準備
「伝播主義」史観について
第6章の追補
アバさんのマンロー論
第3章のうち(1)、(2)節はマンロー書の背景説明なので省略する。
第3節 『先史時代の日本』の構成
“Prehistoric Japan”に見られる「先史観念」を検討する。
(1)「原始文化」
(3)第三の文化としての「青銅器文化」
銅鉾は古墳時代の品と見て良いのだろうか。たしかにこれらが古墳中より出た例は多くない。去れ共他の點より考へて時期に大差なしと見て宜しいのではないか。
彼らにとっては、石器文化と古墳文化とは、その担い手の間に断絶がなければならなかった。日本人が野蛮人の子孫であってはならないからである。
これが明治時代の日本考古学思想にみられる「青銅器時代」否定論の、一つの思想的基盤である。
(4)「青銅器時代」論の意味
日本列島に最初に青銅器文化と鉄器文化を持ち込んだ「戦士集団」、その供給源は明らかに大陸にある。出発点が詳細に特定できないとしても、これらの集団は「原始文化」の担い手であった列島先住民とは明らかに異なる。その集団は、原住民に対して直接の係わりがない異質な人々だ。
これがマンローの考えである。
しかし全体を読み通すと浮かび上がってくるのは、歴史叙述の方法そのものの違いである。
ただし、原始文化においてアイヌは主体的な役割を果たしたであろうが、それは他人種の共存と必ずしも矛盾しない。
中東からの製鉄術の伝播のテンポから考えると、紀元前5世紀ころに日本に到達したのは鉄器ではなく青銅器であったはずだ
(3)マンロー青銅器文化論の矛盾
以下の一文は、これまでの論理展開とは激しく矛盾する。一応書き出しておく。
石器時代からの内発的発展ではないということについては同意するが、「青銅器が初期ヤマト文化だ」とか、「青銅器も鉄器も、基本的にヤマト文化だ」というのは戯言に過ぎない。
青銅器文化の分布は九州や瀬戸内海に面する地域に限られるが、鉄器の普及に伴って侵略者が伊勢・近江まで進み、そこは2000年前まで原始文化との境界線となった。
前の2冊と比較しての最大の特徴は、「石器時代の人民はアイヌだった」という仮説を最も有力な説として主張していることである。
そうすると、「原始文化」の担い手は現在まで生き続けていることになる。そうすると、彼らと征服者の役割を果たす「ヤマト文化」の担い手とは、長い期間共存したことになる。さらに、征服者は無人でない地域に進入してきたことになる。
約3,500ヶ所の遺跡からの金属器の発見例が唯一つだけであること、古墳からは原始文化との共時的な関連を示す証拠が一つも発見されたことがないこと。にもかかわらず原始文化とヤマト文化との併存を主張するのは強引である。
(2)青銅器時代の暗示
ついでに英文抄録も訳出しておきます
ニール・ゴードン・マンロー(1863-1942)は、スコットランドのダンディーで開業医の息子として生まれた。
エディンバラ大学医学部を卒業後すぐに(1888年)、海外航路で船医として働き始めアジア(インド・中国)を旅した。
1891年、横浜に来て、自分のクリニックを設立した。また、日本で考古学研究に携わるようになり、東京人類学会、日本考古学協会の会員になった。
一連の発掘調査の後、マンローは1908年に「先史時代の日本」を出版した。これは、彼自身の調査結果と日本の研究者による考古学的調査に関する深い知識に基づいている。
マンローによれば、「先史時代の日本」は「ヨーロッパの読者に先史時代の日本についての考えを与える試み」だったが、実際には、この本は3番目の包括的で体系的な「解説書」だった。
最初に英語で書かれた日本列島の先史時代の文化であった。
1910年代以降、マンローの関心は主にアイヌ文化、特に精神的および宗教的領域に移った。彼の人生の最後の時期に、彼はアイヌの中に住む北海道二風谷に自宅を建てた。
現在、彼は基本的にアイヌ文化研究者として記憶されている。その一方、彼の考古学者としての主な仕事である「先史考古学日本」は、これまで「不公平」な扱いを受けている。マンローが考えた術語や概念についての誤解は考古学文献も含め頻繁に見られる。
この論文は、マンローが発掘された材料に基づいて定義した包括的スキームと、考古学的文化の概念形成に焦点を当てながら、「先史時代の日本」の内容を分析した。
この文章はPDFファイルで読むことができる。…のだがどうやってたどり着いたのか、憶えていない。
最終的にはここからダウンロードに成功した。
Thank you for joining the Academia.edu community.
Your download, N. G. MUNRO AND ‘PREHISTORIC JAPAN’ (1908) – THE PREHISTORIC CULTURE OF THE JAPANESE ARCHIPELAGO FROM THE POINT OF VIEW OF A SCOTTISH PHYSICIAN by Rafael Abad, is too big to email, but here is a direct download link
テキストファイルには変換できず、「読み取り革命」で変換した。デジタル化で先進を切る北大図書館ですらこの有様だから、まさに「先史時代」である。第6章 人類学研究が絶頂に
第5章 高畠トクとの出会い
第4章 マンロー、人類学にのめり込む
この発掘と、翌年の小田原、三ツ沢の3箇所の発掘は、経済的には大変な出費となった。マンローは個人開業して、膨大な費用を賄おうとした。この病院は1年余りで閉鎖。経営失敗が夫婦不仲の原因となる。
弥生=鉄器史観の見直し
国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月
の読後感です
弥生時代という時代区分を放棄すべき
原史(Protohistoric)時代の提起
先史-原史-有史 の切断と統合
武器 道具 | 石器 | 鉄器 | 有史時代 |
食料獲得 | 狩猟・漁撈・採集 | 水田耕作 | 有史時代 |
統合すると | 石器+狩猟 | 石器+水稲 | 鉄器+水稲 | 有史時代 |
人種的には | YハプロD(+C1) | YハプロD+O1(+C1+N) | YハプロD+O1+O2 | YハプロD+O1+O2 |
(O2は支配者としての北方民族)
慣用的には | 旧石器+縄文 | 弥生前半 | 弥生後半+古墳 | 有史時代 |
ここで鉄器は紀元前100年、漢軍の進駐と楽浪郡の設置に続いて起きている。青銅はそれより100~200年前、これは長江文明由来のハプロO1人が持ち込んだもので、用具と言うよりは銅鐸を始めとする祭祀用品である。日本に青銅器は持ち込まれたが、それは青銅器時代を形成するには至らなかったと考えるべきであろう。
時代の切断も統合も、大局的には大陸→半島からの圧力を受けた在来諸人種の「辺縁化」と見ることができる。
その「辺縁化」は基本的には中央アジアの遊牧民の東漸圧力によるものである。(正確には東西への移動圧)
もう一つの圧力として南方から北上する水稲作りの圧力がある。米作りは労働集約型の農業であり、畑作以上に人造りが欠かせない。この人口圧が気候変動と抗いつつ、平和的に北上を進め、狩猟民族を圧迫していく。
日本列島は終着駅なので、これ以上辺縁化はできず、吸収されるか淘汰されるか、落人化するか、下部構造化する以外の方法はない。それぞれのYハプロがどうなっていったかは想像するしかないが、同じ人種のミトコンドリアDNAとの対比である程度見えてくるものがあるかもしれない。
西の終着駅であるブリテン島やイベリア半島の流れも参考になるであろう。
日本考古学(とくに時代区分論)の成立過程
ネットで調べたら、これは平成20年度の北海道大学文学部に提出された博士論文であった。
これが一線級の学者でなく大学院生の博士論文として提出されたものであることにおどろく。このような議論こそ日本の考古学・人類学研究の焦点に据えられるべきではないかと思う。
(現在はスペイン国立セビーリャ大学文献学部所属)
ここでは明治・大正期における「先史」に関する受け止め、「先史」という時代概念の受容過程を考察する。それは考古学史としてあっただけではなく、「先史観」が問われる思想史としてもあった。
(この本は日本の学界からは無視されている。強烈なアンチテーゼだったと想像される)
アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族が挙げられる。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきた。
鳥居とマンローとの間には「ドルメン論争」が発生した。これは固有日本人論にとどまらないものがあり、日本の考古学の根幹に関わるいくつかの重要な論点がある。
第3章 マンローは何をしに日本へ
ベルツは趣味の域を越えた人類学の徒で、帰国後はドイツ人類学界の東洋部長まで務めています。一回り上のベルツは、マンローの良き導き手だったのではないでしょうか。
英語ができる日本人たち、たとえば新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教関係者、岩波茂男、土井晩翠などとの交流もあったようです。
斎藤流シルクロード論
匈奴の歴史 年表
戦国時代
紀元前209年 頭曼の子冒頓(ぼくとつ)が反乱に成功。父頭曼を殺し単于(王)に即位した。さらに東の東胡と西の月氏を駆逐。巨大王国を建設。
前60年 匈奴の日逐王が漢に服属する
戦になれば匈奴の男は皆従軍する。匈奴には馬はかかせない。中国にはズボンはなく、着物風の服装だった。乗馬術を知らず馬車に乗って戦っていた。そのため騎馬戦術に長ける匈奴には勝てなかった。
第2章 遍歴の時代
第1章 マンローの学生時代
大学を出てロンドンで開業したが、あまり流行らないので暇つぶしに書いた探偵小説が大ヒットしてしまいました。ホームズシリーズの第一作が発表されたのが84年のことですから、マンローがテームズ河畔の発掘に加わるなど、考古学に夢中になり始めた頃です。
序章 マンローが生まれた国 スコットランド
マンローの「肩書き」
まず即物的に「医師マンロー」というのはいかがかと思ったが、どうも違う。まず真っ先に違うのは、彼が45歳になるまで医者(ドクター・マンロー)ではなかったことである。
それと、彼は職業として医師ではあっても、きわめて訓練の不足した医師だったことである。だから彼はもし伝記を書いてもらえたとしても、医師マンローとは書いてほしくはなかったろうと思う。
そしてここからが問題なのだが、彼は考古学者であり民俗学者であったのかということである。たしかに主観的には考古学者であり民俗学者であった。ただ学者というほどにマンローはプロフェッショナルであったかと言われると、いささか疑問符がついてしまうのである。
彼は調査(フィールドワーク)も研究も発表もすべて自分のお金でやった。だから彼は職業的研究者ではなくてアマチュアなのだ。
だから結局、彼は「好事家」(ディレッタント)という肩書きに落ち着くのかもしれない。なまじ「日本の硬貨」などという本を出しただけに、そういう印象を持たれることをおそれる。
しかし彼の研究手法は半端な道楽ではない。国籍を日本に移し、すべての生活を日本での研究に注ぎ込み、すべての資産をなげうち、2度の災難で、資料の殆どを灰燼に帰しつつも、最後まで研究に打ち込んだ人を道楽者と言ってはいけない。
とすれば、少なくとも伝記を書く人間としては、彼がどういう人間であったかというよりは、彼が何をもとめ何に生涯を捧げたかをもって彼の肩書きとしなければならない。
だから私は彼を「学徒」とし、「先史日本研究者」と規定したい。アイヌ民俗の研究も、先史日本へのタイムトンネルの入り口ととらえていたのではないだろうか。
ただそうやって生涯、“我を通した”わけだから、多少の偏屈であったことは疑いを容れない。堀辰雄が「風立ちぬ」の作中で出会ったマンローもまたマンローであろうと思う。
C系人の日本への渡来をめぐる記事
1.C系人は8千年前にラオスからやってきた
ただしそれは4万年も前の話で、ラオスのC型人が米作り文明花開く8千年前の長江流域のO1人社会を乗り越えてはるばる日本まで来る理由が思いつかない。
2.C1a1人は紀元前3千年に中国からやってきた
ハプロN人 雑感
2.C1 人はクロマニヨン人より古い
3.ヨーロッパ(マジャールとフィンランド)に広がったN人
4.ウィキペディアの批判
こ之ブログはかなり読み応えがあります。N人は極東に遼河文明を築き、西方ではハンガリーやフィンランドまで進出したという、大変行動範囲の広い種族だったようです。多分遊牧民族だったのでしょう。農民ではないからあまり土地には執着しないようです。
移動の手段、交通の手段、異民族との接触、交易の知識等には長けていたはずなので、その木になれば戦争には強かったでしょうが、極度に自然に左右される生活なので、人口=国力の強化維持には弱点を持っていたと思います。
その結果各地で文明が開花するに従い、辺境へと追いやられる結果になっていったのではないでしょうか。
YハプロN系人を挿入することで見えてきた人類史
小麦、馬、青銅器、そして鉄を持ち込んだのは。YハプロC人ではなかった。
2.東アジアにおける最初の人類=C人はどのように拡散したか
3.C人を追い出したO人とN人
4.中央アジアの遊牧民が東西文明の伝達者
結局、変更点はN系人の進出を挿入したところにある。N系人というのはおそらく匈奴ではなかったか。そして匈奴のあと中国の北部と西部を支配した突厥もそうではなかったか、とおもう。Yハプロがもし違っていても、そのたぐいの民ということで説明できるのではないだろうか。
これは考えようによっては現在の漢民族に対する先住民としてウィグル人を位置づけることにもなる。
馬と乗馬の歴史年表
乗馬技術が戦争を変えた
私は古来騎馬民族の頃から、遊牧民は馬に乗って草原を疾走しているものだとばかり思っていた。紀元前4千年に馬が家畜化されたという記載は、馬が人に乗られることを受け入れるようになったということだと思っていた。
その発想から、遊牧民の戦闘力の技術的背景として馬・車輪・鉄製武器の3点セットを考えていた。しかし、例えばアレクサンダー大王の部隊ならどうだったのか、チャリオット(一人乗り戦争馬車)であのような大国を作り上げられたであろうか。やはり卓越した乗馬技術を持つ騎兵部隊を縦横無尽に駆使して、風林火山の勢いで世界を征服していったのではないかと想像してしまう。
逆に言うとそれは、軍事組織の戦闘組織と輸送組織への分化をもたらしたのではないかと思う。戦闘は騎兵で、兵站は馬車という二大機能である。
驚くべきことだが、このような軍の機能と戦闘の形態は、第一次世界大戦の直前まで、3千年ものあいだ続いていたのである。
これまで何度となく、20世紀論を考え論及してきたが、3千年続いた戦争を有り様を根底から覆したことこそ、実は20世紀の最大の特徴だったのではないだろうか。
マンロー「先史時代の日本」序説 4
紀元前500年以前の中国の歴史の正確さには、疑問を呈する向きがあるかもしれません。しかし今日まで伝承されている書物は、秦の当時またはそれ以前の時期に存在したものと実質的に差はありません。そのことに疑いはありません。
12.中国の墓制とドルメン
13.メソポタミアと文字文化の拡散
柔らかい粘土の正方形のスタイラスに掻いた楔形の文様、織物や紙に刷毛筆を使用することで奨励される正方形(篆書)文字、いずれの場合も最初は苦労して絵を描いたのが、記号に置き換えることで、「時間の経済」の影響をもたらすことになります。
初期のエジプト人の書体は、シュメール人の書体に非常に類似しています。それはとても印象的です。
フェニキア人が商取引の媒体として文字を所持した事実は示唆に富んでいる。
中国と日本の間には朝鮮半島とすでに述べた狭い海域があります。
マンロー「先史時代の日本」序説 3
* メソポタミア文明がアジア文明の祖先だという割には、解説は淡白だ。メソポタミアの民が中央アジアの民、小アジアの民と交流(多くは非平和的な交流)するなかで、軍事的技術として車輪、馬の利用、銅→鉄の利用がもたらされた。さらに文字、小麦の利用が広がった。
そしてそれらを東西に広めたのが中央アジアの民の伝播力である。
10.中央アジア諸民族
彼らはアジアを東西に歩き回っていました。タルタルのヨーロッパへの侵入も、遊牧民の移動の可能性を示しています。
*メソポタミアと同様多民族が時代を織りなしている。Y染色体ハプロで言えばG系人、N系人、R系人が過去から絶えることなく中央アジアを起点に大陸内部を東西に移動していた。彼らには文化を創設するほどの生産力はなかったが、文明を伝達する力を持っていたし、文明間の格差が極大化した時には、それを利用して支配者となることもあった。
馬と車輪の年表
* 「面倒」でやったことなのだが意外な発見があった。まず、車輪というのはそれだけでは意味のない道具で、まずは「動力」があって、それがどういう動力なのかによって意味合いがまったく変わってくるということだ。実は車輪の技術というのは、ローマ帝国以来、産業革命までずっと凍ったままだった。それが蒸気機関が発達しさらにガソリン機関が発展するに連れ、急速にイノベーションが進んだ。つまり車輪というのは、工学的発想から言えば一種の歯車なのだ。
* もう一つ、これは発見というよりたんなる感想なのだが、車輪の発明はコロの応用ではないのだ。コロの発想からは絶対に車輪の発想は連想されない。車輪の原理の核は車輪ではなく軸受にある。回転するときの摩擦抵抗をどう受け流すかが、技術の肝だ。
おそらくはロクロ回しが発想のきっかけだろうと思う。ロクロの真ん中をドーナッツにして芯棒を通せばそれで一輪車だ。ただしこの発想を実用に変えるには資材の強度が問題になる。それができたところから順に手あげ方式で、各地に車輪が生まれたのではないかと思う。
* 面白かったのは車両という運搬システムが一旦廃れたということだ。その理由が乗馬技術(というより技能と呼ぶべきだろうが)の発達だというのだ。これについては項を改める。
古代の戦車
マンロー「先史時代の日本」序説 2
青銅は武器や道具としては不向きですが、死者への供物としては用い続けられました。それには理由があります。
-9
文化が継続的に発展した可能性を示すいくつかの証拠もありますが、それは包括的なものではありません。
7.鉄はいつ、どこから、どのようにやってきたのか
青銅器と鉄器の文化がどこから始まったか、それらを日本に持ち込んだ軍兵がどこからやってきたのか(なぜならそれらの金属器はまず何よりも兵器であったから)、それらの兵器が大陸のどこから、どのルートでやってきたのか。
ヤマト文化の流入は紀元前1000年から500年の間に始まったと考えられます。それは世界史に見るならば、アジア西部(中東)に起きた鉄器文明が、偏西風のように中国・韓国へ流れ、進歩をもたらした歴史です。
マンロー「先史時代の日本」序説 1
日本列島は東アジアの海岸に沿って、3連の花綵(かさい)のように連なっています。
4. ヤマト時代の遺物
5.支石墓と青銅器時代
ややこしいことに、マンローはこれを後期支石墓時代と呼ぶこともある。その際は前方後円墳も支石墓とみなされるわけだ。
*後期ドルメンは前方後円墳が終わっても続くことになる。これは「プレ記紀時代」の定義であって、ドルメン期の定義ではない。このドルメン観には最後まで悩まされることになる。
支石墓文化を別な面から眺めれば、石器時代と鉄器時代の間、すなわち青銅器時代ということも可能です。青銅器文化が石と鉄の時代の間に日本の南西部に限定して存在したといういくつかの事実があります。
* これも牽強付会の説である。九州西部に限局しているのはまさに日本型支石墓であり、青銅器は当時弥生人の生活圏すべてで発見されている。
朝鮮半島の支石墓
朝鮮・日本の支石墓
文字化けしてコピペができないので、別記事で要点を複写して転載する。
ヒッタイトと鉄の歴史
ヒッタイトと鉄の歴史
ヒッタイトの版図
紀元前 3500年ころ メソポタミアでは紀元前3000年ころの隕鉄性鉄器が発見されている。またアナトリアの王墓からは隕鉄製の短剣が発見されている。
紀元前2000年ころ クリミアの印欧語人が黒海を渡り小アジアに侵入。先住民を制圧しヒッタイト国を建設。
紀元前 1800年ごろ クレタ島の民が、山火事の焼け跡から隕鉄を発見、鉄鉱石を高温で蒸し焼きにする直接製鉄の原理を発見。
紀元前 1700年ごろ クレタ島の技術をヒッタイトが継承し人工鉄製造法を開発。門外不出の国家的な技術とする。(最近の調査で鉄の製造は紀元前20世紀をさかのぼる可能性が指摘)
最初の製法は直接製鉄法: 木炭を低酸素下に熱して、CO→CO2により、混焼した酸化鉄の鉱石を還元する。
紀元前1190 ヒッタイト帝国が「海の民」の侵攻により滅亡。背景に製鉄のための森林乱伐と枯渇。その子孫(タタール人)はインドや中国で製鉄を伝承。
紀元前1000年ころ 製鉄技術が中国,インド,ギリシャへ伝播。
中国で製鉄法が発達。鉄鉱石を溶解する銑鉄の製造( 間接法 )まで進化する。
紀元前 200 年ごろ 青銅器にやや遅れて鉄器が伝来。最初は鉄斧( 錬鉄製 )
紀元前119年 中国で鉄と塩が専売制になる
西暦 400 年ごろ 九州,中国,大和地方で砂鉄を用いた初期の「 たたら吹き 」製鉄が始まる。「 たたら 」は,タタール人が語源。
メソポタミア年表
マンローの所説を理解するための覚え書き。
1.メソポタミアの文明は諸民族間の戦争と、諸民族の共通利害の形成(戦争予防)の文明なのだ。
こういう時代は世界史の中でいまだにない。シュメール人が原基になっているが、それは紀元前2千年、ウル第三王朝の滅亡とともに消滅した。
後はセム人を主体としながら印欧語人がしばしば襲来するという構図だ。印欧語人というのは中央アジア人という意味で、セム人生活圏の北方に居住する人々である。
2.以後は唯武器時代だ。強いものが勝つ弱肉強食の時代である。ただし腕っぷしが強いとか勇敢だとかいうだけでは覇者にはなれない。最後に物を言うのは知恵と情報である。
3.ただし中央アジア人そのものが人種の坩堝みたいなところがあり、古くはヨーロッパで絶滅したG人、その後は東西廻廊(シルクロード)を形成したN系人、印欧語人、などが重畳して「中央アジア人」を形成することになる。
4.肝心なことはグリニッジが世界の標準時になっているように、メソポタミアが世界文明史の標準時になっているということだ。そしてヒッタイトで鉄が実用化された紀元前2千年が、人類史の紀元ゼロ年なのだということだ。
少なくともマンローはそう信じているということだ。
紀元前4000年 ティグリス・ユーフラテス両河下流の沖積平野では人口が増加。神殿を中心とした大村落が数多く成立し、銅や青銅器なども普及。文字が発明された。先住のシュメール人の他、セム語族のアッカド人、アムル人、アッシリア人らが侵入。

紀元前19世紀 アムル人がバビロンを都とする古バビロニア王国を樹立。バビロン第1王朝と呼ばれる。
三種類の時代を描き分けたマンロー
それは日本の先史時代をメソポタミア、アジア北部回廊、中国古代王朝、朝鮮半島と一貫した変化として捉えるために非常に重要な視点を提供しています。
そしてこの世代交代の重要な指標として「ドルメン文化」の考えを突き出しています。しかしながらこの考えはうまくなかったと思います。理由は西欧のドルメンとインドのドルメン、遼河文明、朝鮮の北方式と南方式はそれぞれが起原も発送も異なっているからです。少なくとも朝鮮の北方式と南方式は分けて考えるべきでしょう。
ただマンローがとくに朝鮮半島の南方式(支石墓)を重視したのは大事なポイントです。
マンローは支石墓文化の世界的な共通点として、青銅器時代=鉄器時代の前夜という歴史段階を考えました。それは石器時代と鉄器時代という人類史の二段階の短い移行期であり、とりわけ東アジアでは短縮され、一つの時代としては認識し得ないほど短い場合もあるが、必ず通らなければならないステップだとかんがえたようです。
そしてその考古学的特徴を列挙し、これを先史時代と歴史時代の分岐点として、日本の歴史を考えるよう進めました。
ともすれば陶器の文化、木の文化、稲の文化に目を奪われがちな我々にとって、この世界史的な視点はぜひとも心すべきことです。
この教えは引き継ぐべきではないでしょうか。
中央アジア系人種の横移動
ヨーロッパ先住民・ハプログループG2a

マンローのドルメン論の陥穽
支石墓(ドルメン)ウィキその他の説明
朝鮮半島と大陸はいつまで、どこまで陸続きだったか?

という文献を見つけた。というより以前にも見ている可能性がある。
図を見ると、80メートルの等高線は東シナ海より北に切れ込むが、それでもソウル~山東半島のラインまでにとどまる。これが現在の等高線とすれば、かなり黄河の土砂が等高線を押し上げている可能性はあるが、それでも朝鮮半島と大陸が陸続きだったということになる。
1万年前ころ稲作文明を築き始めた長江流域の人々と、同じDNAを持つ人達が朝鮮半島にいたかも知れない。
西里竜夫「革命の上海で」を読んで
著者は西里竜夫。戦後、長く日本共産党熊本県委員長を務めたらしい。
1977年 日中出版からの発行となっている。

多分、西里さんも中西功さん同様に、戦後は微妙なコースを歩んだのではないか。
38歳で終戦を迎え、釈放された。まもなく日本共産党に入り、40歳で熊本に戻る。同時に熊本県委員長となるが、3年後に委員長を降りている。同じ1950年、中西功(当時共産党選出国会議員)は党中央と対立し除名されている。いわゆる50年問題である。西里も関連していた可能性がある。
50歳で熊本安保共闘の副議長に就任しているが、党における肩書きは不詳である。
以後20年間の経歴は空白となっている。しかし衆議院選挙には毎回出馬、毎回落選を続けているので、日和っている様子はない。そしてこの本を執筆した70歳の時点で、県委員会副委員長となってる。
なおこの本を発表した1977年といえば「文化革命」真っ盛りの頃だ。しかしその話はまったく触れられていない。異様といえば異様だ。
彼はその後さらに10年を生き、80歳で息を引き取っている。
ストーリーはすべて一人称で書かれ、ディテールは異様に詳細だ。日記をつけることなど許されるわけはないので、ややいぶかしさを覚える。
ただ研ぎ澄まされた神経の中で生きた十数年であるので、私ども「ぼーっと生きている」人間には想像もつかないような記憶力が働いているのかも知れない。
豊富な史実が散りばめられているが、もはや私にいちいち拾い上げるほどの根性はない。
義和団事件の真相
「義和拳」運動の指導者朱紅燈

朱紅燈は山東省泗水の生まれ。本名を朱逢明、天龍と号していました。ただし生地についてはいくつかの異説もあります。

彼の指導の下、茌平の義和拳運動は著しい発展を遂げます。そしてその勢いは地域の村々へと連携を強めていきます。そしてキリスト教会への攻撃はどんどん激しさを増していきました。
現在の中国では義和拳の朱紅燈が義和拳運動の創始者のように扱われ、英雄視されているが、どうも正確ではないようだ。
彼自身は明時代の高臣の子孫と称したらしいが、これはかななり怪しい。
朱紅燈の活躍したのは1899年末まで。このときは未だ騒乱は山東省内に限局されていた。彼らの運動は一種の空気抜きとみなされ、省当局は一定の泳がせ背策をとっていた。それどころか地方では一種の私設警察として庇護していた。
しかし最後にはドイツを始めとする列強の関知するところとなり、省長は更迭、泳がせ政策は弾圧政策へと変更された。
実はここまでは義和団運動の前史みたいなもので、それから飛び散った若者が華北一帯に広がり、西洋排斥運動に転化したあたりから、本格的な義和団運動が始まると見たほうが良い。
いづれにせよ、日本(ネット世界)では正確な情報が意外に伝わっていないことがはっきりしたので、この記事もなにかの役に立つかもしれない。
義和団事件の真相
も参照してください。
ピウスツキの平取現地調査
これだけ短期のバタバタ調査で、それなりの業績をあげたのはおそらくバチェラーの後援の賜物であろう。
もう一つは樺太アイヌという存在である。実は初めて知ったのだが、樺太から稚内、稚内から江別、江別から石狩へと移住を迫られた樺太アイヌは、そのほとんどが疫病のため死別、離散したと憶えていたが、じつは20年ほどしてから樺太に戻ったのだ。当時、樺太は千島との交換条約により全島がロシア領となっていた。したがって彼らは国籍を変えたはずだ。
ピウスツキは最初、島の北部に住むニブフ人の調査にあたったが、主要なフィールドを樺太アイヌに乗り換えた。彼は調査をするだけではなくロシア語教育も行った。酋長の姪を娶るほどの入れ込みであったようだ。
私の個人的感想: 日露戦争前夜に、ピウスツキをふくめたロシアの反政府派の連中が、イギリス人宣教師の援助を得ながらアイヌの調査をした。これにはなにか裏があるのではないか、と疑ってしまいたくなる。
まぁ、話はこのくらいにしておく。
日本考古学の歩みとマンローの位置
マンローの日本人起源論は、平たく言えば「アイヌ先住・渡来人重畳」説である。ここで「アイヌ」と言うのは、今で言えば「縄文人」であろう。
これはブリテン島において、イベリア半島から移住した先住民文化の上にアングロ・サクソンと呼ばれる大陸系が侵入し、混血の度合いに応じた「英国民」を形成した経過に比するものがある。(ただし先住民=ケルトというのは不正確であること。イングランド人はアングロ・サクソンと自称するが、DNA的には先住民の血を濃く残していることを付記しておかなければならない)
なぜマンローは孤高の位置に留まったのか
多くの謎に包まれているが、最大の問題は、彼が終生、日本語を喋れなかったことだ。喋らなくても良い世界の中にいて、そこから出ようとしなかったことだ。
北海道から西南諸島に至るまで縦横無尽に動き回り、多くの人と接触しているが、それはすべて通訳を介してのものだ。
これは彼の個人的習性に関わっていると言わざるを得ない。
飽くなき好奇心と、地球の果てまで赴く行動力は彼の個性を何よりも特徴づけている。しかし、それと対照的に事物への執着と裏腹な人物への無関心が同居している。さらに自らの弱点をさらすことへの病的な臆病さも見え隠れする。
今で言う発達障害だが、こういう人が医者になると、普通はあまりいいことはない。しかし幸いなことにマンローはまずまず如才なく医者稼業を送っていたようだから、弱点を補強するだけの修養は積み重ねていたのだろうと思う。
今回、彼の二大論文である「先史時代の日本」、「アイヌ、伝説と習慣」の一端に触れることで、おおよその射程は定まったように思われる。
考古学の歴史 年表
ウィキには「トムセンの三時代区分法を適用して、日本の遺物を年代配列し叙述」とあるが、どこかはわからない。
1869 小シーボルト(シーボルトの次男)が兄とともに来日。墺外交官業務の傍ら考古学調査を行いう。『考古説略』を発表、「考古学」という言葉を日本で初めて使用する。
小シーボルトは町田久成、蜷川式胤ら古物愛好家とともに古物会を開催。「考古説略」を出版し欧州の考古学を伝える。
1876 ベルツ、東大医学部の教授となる。小シーボルトの影響で骨董品収集を趣味とする。
小シーボルトが第一発見者を争うが、実地研究で先行したモースの功に帰せられる。このあと小シーボルトは考古学の学術活動から手を引く。
1879 モース、ダーウィンの推薦を受け、『ネイチャー』誌に大森貝塚に関する論文を発表。このとき "cord marked pottery"の用語を使用。これが『縄文土器』の語源となった。
モースは考古学の素養はなかったが、講演活動を通じダーウィンの進化論を精力的に紹介した。
1877 帝国大学理科大学動物学科の学生坪井正五郎、同志10名により「人類学の友」を結成。
1886 坪井らにより「東京人類学会」が結成される。機関誌第1号を発表。
1897 ベルツ、樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問。ベルツはマンローとともに横浜の三ツ沢遺跡の発掘にも参加している。
1916 東大の他、京大や東北大でも考古学教室が開かれ、従来とは異なる思潮が競合するようになる。
1932 山内清男、「日本遠古の文化」を発表。縄文は狩猟・漁獲・採集文化であり、弥生は農耕の文化と規定。
1948 登呂遺跡発掘調査をきっかけに日本考古学協会が発足。「文化戦犯」を排し、「自主・民主・平等・互恵・公開の原則に立って、考古学の発展をはかる」と謳う。
1949 アメリカの化学者リビー、二酸化炭素同位体測定法を発明。
1959 近藤義郎、弥生農村を倉庫を共有する「単位集団」<大規模な工事にあたる「農業共同体」の2階層に集団化する。
1970 所沢の砂川遺跡。旧跡時代の遊動型キャンプの遺跡。原石の加工処跡を中心とする放射線型遊動生活が想定される
1982 馬淵久夫、青銅器の鉛含有量測定により、産地の同定を行う。同じ頃、釉薬の鉛成分の分析も一般化。
「アイヌ民族綜合調査」について
しかし二人が絶交するのは構わないが、とばっちりでマンローまで言及なしというのは、いかにも大人げない。同じ道を歩いた先輩への敬意は、多少の見解の違いはあっても形にあらわすべきだろうと思うが。
なんだろうかとネット上を探したが、みな口をつぐんでいる。やっと見つけたのが木名瀬高嗣「アイヌ民族綜合調査」というPDFファイル。
結構長いので要約紹介する。
アイヌ民族について幾多の調査研究が行われて来たが、未だアイヌ民族の人種的民族的系統、固有文化の本質は十分に解明されたとはいえない。一方、アイヌ民族固有文化は急速に消滅しつゝある。アイヌ民族は文化的、社会的経済的条件も決して恵まれたものとはいえない。アイヌの福祉政策のためにも、基礎調査が必要である。
以下は木名瀬さんのキツーイ総括
理論研究の中央に位置する(と自認する)「文化人類学者」集団が、「北海道諸学者」と一括された「ミンゾク学者」とアイヌの「アイヌ人情報提供者」という周辺化された二重のエージェントを媒介としてアイヌを〈知〉的に搾取・収奪することが「綜合調査」の中心的な構造であった。
3.アイヌの激烈な反応
「何故アイヌが胴が長いなどと、つまらぬことを云って、シャモと差別するか」「何故つまらぬことをしらべて金もうけするや」「どうして調査するならば、もっと有益な生活の為になるような調査をしないか」立つづけにまくし立てられる。
暗い色調の底に哀愁とロマンティシズムが漂う文体で貫かれた筆致はどこまでも第三者的で、ときに冷笑的と映る場面も少なくない。
道東、白糠の町を、アイヌこじきが歩いていた。軍隊服にアカじみた外被、うすい背中に全財産をつめこんだリュックが、軽くゆれている。酒屋から隣りの雑貨屋へ、親指の出た地下タビはよろめいて、年はもう七十才は越しているだろう。写真をとられていることに気づいたらしい。さっと道ばたにかがみこみ、ふり返って、カメラマンをにらみつけた。両手には大きな石が―。財布をとり出すと、敵意をむき出しにした老アイヌの姿勢が、とたんに、ゆるんだ。「モデルだろ、どんな格好すればいいんだ」そして酒くさい息をはきながら、身の上を語った。
渡辺氏がこの調査に参加したどうかは分からない。しかし東大人類学教室所属の渡辺氏がマンローへの「細かな異同」として持ち出したのが、この調査に基づくデータであることは間違いなさそうだ。
それにしても マンロー Labyrinth だな。すっかりハマったね。他にやることあるのにね
渡辺仁氏「アイヌの信仰と宗教儀式」へのイントロダクション
ブリティッシュ・ミュージアムのデジタル図書にこの本があって、一応全部閲覧可能にはなっているらしいのだが、途中でちょん切れている。
しばらく進むと、突然セリグマン女史の注釈が出てきて、「渡辺氏の文書」にはマンローとの原著との間にいくつかの食い違いがあるというくだりへと続く。
そして突然本文の第1章が始まる。
途中欠落があるのか、とにかく不思議な体裁だ。
とにかく切れるところまで、訳を入れておく
THE AINUは北海道、サハリン南部、そして千島列島の先住民です。 彼らは、そのひげを生やした体、ウェーブのかかった髪、長い頭で有名です。
どうもさっぱりよくわからないのだが、セリグマン女史の言い分によると、渡辺氏はこのイントロダクションで、どうも自分の数字や自分の見解をどしどし突っ込んでいるみたいなのだ。
ひょっとすると、渡辺氏はマンローの所説をあまり読まないで、自分の数字を入れたのかも知れない。
こうなると、どちらが正しいかというのではなく、ある本の紹介を頼まれた人間がとる態度としてどうかということになる。
この話は、とりあえずなかったことにしておこう。真相がわかればその時点で書き込みたい。
「アイヌの信仰と宗教儀式」への序文
マンローーが日本語もしゃべれないままに50年も日本に居着き、最後は北海道の山の中で敵国人として冷たい目を浴びせられ、生活の糧も奪われ死んでいく過程というのはなかなかわからないところがあります。
その点で、マンローが心を許し頼みとしたイギリス人考古学者セリグマンへの手紙は、その内心を知る上できわめて貴重なものと言えるでしょう。
「アイヌの文化と伝統」はマンローの遺稿集です。これをセリグマンの妻で同じく考古学者だったセリグマンが一冊の本にまとめ上げました。
セリグマンの書いた序文はマンローの手紙の内容を駆使して書かれており、マンローの「アイヌ観」を知る上で最高の文献だろうと思います。ここでは全文をそのまま訳しておきます。
後半は校閲者の渡辺仁に対する反批判のような中身になっていて、どうも前後関係とかがわからないと意味が読み取れません。
渡辺氏は後に東大教授、北大教授を歴任し、この世界のボスになった人です。この後マンローについて言及した様子はなさそうで、彼がマンローを黙殺すれば、学会も黙殺せざるを得なかった可能性があります。もう一つは1950年代前半に東大の文化人類学教室が中心になって「アイヌ民族綜合調査」というのが行われ、既存の「北海道諸学者」の学説が随分批判されたらしい。そこまで関連付けるべきかわからない。とりあえずこの本に収録された渡辺氏の「紹介」を読むことにするか。
若干ややこしくて煩わしいところもあると思いますがご了承ください。
二風谷定住への経過
セリグマンとの出会い
彼はアイヌ語で録音し、翻訳しました。数多くの歌と伝説、さまざまな病気の治療のための50の祈りが採集されました。また困難な出産のときのさまざまな治療、そして儀式と悪魔払いの儀式の説明を書き記しています。また、音楽や娯楽についてもメモをとっていました。
村で興味深いセレモニー(多分イヨマンテのこと)が行われたときには、映画を撮影しました。映画の出来栄えに満足しなかったので、2回目のときは、プロの写真家に撮影を依頼しました。そして写真家の指示の下で働いたり、スチール写真を撮ったりする役に回りました。
適切なサイズに成長すると、檻に入れて育てられたクマは広場に引き出され、儀式的に殺されました。これがイヨマンテの後半部分を構成します。
マンローはなぜか、アイヌの宗教についての本で、この最も重要な儀式を説明していません。それは重大で不思議な省略のように思われます。
この儀式についてはバチェラーが以前手短に説明を加えています。それがヘイスティングスの 『宗教と倫理の百科事典』第1巻に紹介されています。
それは本の形で章立てて整理されました。しかしそれは完全ではなく、すぐに本にして出版できるほどの準備ができていませんでした、そして熊送りの説明も含まれていませんでした。
マンロー夫人と “貞操帯”
マンローはその手紙で彼女のことに何度も言及していました。その文面から、妻はマンローの診療の仕事を仕切り、家計を維持し、マンローの健康を守ってきたことがわかります。それだけでなく、彼女はアイヌ民俗の研究においても貴重なはたらきをしてきました。
(ウプショロクッは結婚した女性が下着を締める飾り紐で、強いられたものというより、女性の誇りを象徴する意味を持つ)
マンローの研究態度
マンローがアイヌ文化について本を書く目的は、アイヌの人々の慣習を注意深く観察し、報告するだけではありません、それは世界全体、特に日本人にアイヌの生き方を提示し訴えることでした。
「霊返し」の儀式
アイヌ語の発音と語尾音について
アイヌ語の完全な歴史的・文化的記述とアイヌ語の構造を説明することは、マンローの目的の一つでした。彼はそれをアイヌの過去と現在と呼びました。
この本の章別構成について
マンローーは祖先崇拝、母性、愛国心などについて観察した中身の重要性を理解してなかったかも知れません。それは私も最初は同じだったようです。
マンロー夫人との接触
謝辞
ターナー「マンローと日本、スコットランド」を大幅加筆
を大幅加筆した。
「日本のがん」の紹介はこの文章に突っ込むのは、かなり無理があるが、当座のしのぎということで我慢しておく。読者の皆さんはここは飛ばしてよい。
ブログ主からの一言
多分、留学生の研究発表みたいな論文だろうと思う。それにしてはよくまとまっており、勉強になるところもある。結局日本人の研究者がいかに勉強していないかということだろう。
私注を入れるうちにいつの間にか当初の量の数倍に膨れ上がってしまった。いずれターナーの文章に示唆を受けた私のオリジナルとして発表していくことになろうかと思う。
少なくとも日本で考古学を志そうとするなら、マンローの学問的足跡を確認せずに自らの立ち位置を定めることは出来ないのではないか。
マンロー「アイヌの信仰と宗教儀式」の概要
序文 B.Z.SELIGMAN
解題 H.WATANABE
上記2論文は、稿を改めて抄訳を記載する。
I.基本概念
第Ⅰ章では(1)遠くに存在する至高のパセカムイについて論じた。
これらのカムイを生き生きと紹介するマンローは、鬼太郎らを紹介する水木しげるのような趣きがある。
風水みたいなものでしょうか。
聖なる醸し酒が醸造され、パーセ・カムイに捧げられた後、客に振る舞われる。聖なる醸し酒の重要性が強調されるいっぽう、酒を飲むときのエチケットが述べられる。むかしからアイヌには酒癖の悪いのがいたのだろう。
VII. 上棟式の続き (CHISEI NOMI)
悪霊を追い払うために屋根に矢が放たれる。
世帯主が賓客と儀式的交礼を交わした後、家の神聖な窓が開けられ、窓の外のカムイへの祈りが捧げられる。
VIII. すべての魂の饗宴(シヌラパ)
ここから饗宴が最高潮に入る。ここでの主役は女性である。女性は戸外に出て、東窓の外の広場に集まり、ヌサと戸口の霊への挨拶を行う。
先祖の霊への呼びかけを女性が行い、女性によるダンスが始まる。このとき戸外に儀式用の座席がしつらえられる。(実はこのへんから私の役は怪しげである。雰囲気だけ味わっていただきたい)
IX. 厄祓い (UEPOTARA)
厄払いには多くの種類があり、目的ごとに方法はことなる。ほとんど私の力では翻訳不能。
X. さまざまな儀式
厄払いだけでなく狩猟や漁業などの幸運を祈る儀式もある。これも詳細は省略する。
XI. 死と葬儀
死と葬儀はさまざまな哲学を内にふくむだけに、多様かつ複雑である。死後の世界も善人と悪人では異なってくるので、交通整理が必要である。とりあえず葬式の次第のみ箇条書しておく。
親族の順序・主な会葬者。
別れの挨拶。お悔やみ。
葬儀での行動・葬式の食べ物
埋葬の準備。埋葬儀式。墓柱の儀式。
などなど
マンローは葬儀屋の社長のごとく書き連ねる。
XII. 社会組織の編成
第Ⅻ章はマンローの英国における庇護者であったC.G.Seligmanの未亡人B.Z.Seligman(彼女自身も民俗学者)が、手紙や遺稿を編集しながら自説を構築したもの。母系社会と父系社会の混交した様式が見られるとしている。
ターナー「マンローと日本、スコットランド」の抄訳
多分、留学生の研究発表みたいな論文だろうと思う。それにしてはよくまとまっており、勉強になるところもある。結局日本人の研究者がいかに勉強していないかということだろう。
私注を入れるうちにいつの間にか当初の量の数倍に膨れ上がってしまった。いずれターナーの文章に示唆を受けた私のオリジナルとして発表していくことになろうかと思う。
少なくとも日本で考古学を志そうとするなら、マンローの学問的足跡を確認せずに自らの立ち位置を定めることは出来ないのではないか。
あらすじ
マンローはアイヌの人々を無料で治療した医師として知られています。しかし彼の功績はそれだけでありません。
1879年、彼はエジンバラ大学の医学部に入学しました。
このためか、彼は医学部を遅れて卒業し、医学博士の学位を取らないままインドへの旅に出るのです。
(注: 彼は学生の頃からすでに考古学に興味を持ちテームズ河畔の遺跡発掘に参加したりしています。療養先のチュニジアでも発掘に手を染めていました)
(注: スコットランドは自然環境が厳しく多くの若者は国外を目指しました。その中でエジンバラ大学医学部の先輩ダーウィンの活躍は、マンローにとって大いなる刺激だったと思われます)
(注: 彼はインド航路を運行する海運会社に船医として採用され、インドに渡っています。そこでも発掘活動を行いましたが、健康を害し香港に移動。今度は横浜航路の船医となりました。その間も病気が悪化し、横浜の横浜総合病院に入院しました。退院後もそのまま外人病院に雇われ、横浜に居着いてしまいました。その後、彼は父親の死にも帰国することなく、1942年の彼の死までずっと日本から出ることはありませんでした)
彼は1898年に横浜総合病院で医師として働き始めました。共同でこの病院を設立したことも記録に残っています。1899年に彼は日本で医療免許を与えられました。
(注: この病院の院長になったことはありますが、設立したのは個人開業のクリニックです。総合病院の設立は維新直後のことです)
(注: 医学士の免許はあるため診療は可能でした。ただ考古学の論文を発表するにあたって医学博士の肩書きはあったほうが幅が効いたようです。結局、マンローは1909年になって「日本におけるガン」と題する学位論文を作成。エジンバラに戻って学位審査を通過し博士号を受けることになります)
プッチーニのオペラ「マダムバタフライ」は、グラバーの妻ツルをモデルにしたと言われます。(諸説あり)
1895年、マンローは最初の妻であるアデル・レッツと結婚しました。アデレは横浜のドイツ人商社の社長令嬢でした。
(注: 暴き立てるのも気が引けるが、マンローは高畑トクと結婚したくてアデルと離縁したのだ。国際結婚では離婚が難しいため、日本に帰化したのだ)
(注: 正確にはアイヌ人ではなく縄文人です。アイヌ人は北海道に暮らした縄文人で、いくらかのオホーツク人の血統を伝えたものです。日本人は、主として半島からの渡来人と縄文人が交わって形成されたとされます)
マンロー以前には、日本列島の最初の定住者をめぐる議論は、アイヌとは何の関係もありませんでした。マンローが最初にそれを主張したのです。
それは現代日本人の祖先ともつながっていました。
(注: 南西日本では常緑樹地帯で山のみのりは少なく、比較的に漁撈生活に特化していった可能性があります)
最初は1923年の関東大震災です。横浜の自宅は多くのコレクションもろとも全焼しました。当時軽井沢にいたマンローは直ちに横浜に戻り、資料喪失のショックに耐え被災者の治療にあたりました。経済的に余裕のない人々への無料のヘルスケアを施すことは、マンローが生涯一貫して追求したテーマでした。
論文ではまず、日本の死亡統計が1899年以来に始まったことを明らかにしています。つまりこの論文のわずか10年前のことだということです。
死因の上位を占めるのは脳溢血や脳軟化など脳血管疾患。感染症では脳膜炎、胃腸炎が多い。マンローはこの中から「近代疾患」としての結核とガンに注目する。
ここでマンローは、日本における結核の有病率と発生率に関する広範なデータを検索し、都道府県別の結核とがんによる死亡を比較した。
その上で統計に関して考察を加えています。たとえば、肉を食べるという新たに広まった習慣にもかかわらず、横浜の胃がんによる死亡率は1908年には10万人あたり44.4人と低いのです。
それなのに奈良県は、10万人あたり92.8人という「驚異的な」ガン死亡率がある。つまり日本人のがん発生の機序は英国人とは異なるということを示しています。
マンローは奈良県のガンの高発生率が胃がんによるものであり、それが主として山林労働者の食習慣にあることを推測し、「癌の外因性は、生体組織への機械的、熱的または化学的攻撃であることが明確に確立されているようだ」と結論づけています。
これは現代の医師や研究者にとって単純化しているかもしれませんが、細胞の病理学と生物遺伝学について深く理解している読者にとって興味深い提起です。
マンローは最新の医学をよく勉強していたようです。論文では「酵素・毒素・芽球・形成性」などの近代医学用語もしばしば用いられています。
マンローは考古学研究、アイヌの生活についての民族学的研究で多くの業績を残しています。また学位論文「日本におけるガン」や「日本の古銭」の研究なども水準の高いものです。
その他にも多くの哲学的論文を新聞に寄稿したり、アイネシュタインが訪日したときは相対性理論についての解説を掲載したりしています。これらは英文で書かれ、残念ながらまだ閲覧していません。マンローは深い知的推論の能力を持ち、きわめて抽象的な概念に関して理解力を持っていたようですが、その水準は未知のもののようです。
マンローは最後まで日本語の読み書きも、会話さえ出来ませんでした。このため日本の学者との交流もきわめて限られていて、日本語での文献はほぼゼロ、身の回りの雑事を描いたルポに限定されています。
マンローと4人目の妻チヨさんは、1930年以降最後の12年間を北海道二風谷で過ごしました。しかし北海道の生活は初めてではありません。以前から何度も北海道を訪れ、アイヌ民族の研究に熱情を燃やしました。
彼はアイヌの人々の文化、言語、民間伝承、伝統、工芸品を考古学的に忠実に文書として記録していました。その間、アイヌの人々に軽費または無料の医療を施しました。
彼は1923年の関東大震災の後、軽井沢療養所で患者を治療するようになりました。これは夏の間、避暑客用に開放され、外国人コミュニティに人気がありました。
マンローは1930年には院長に就任しています。二風谷に居を定めた後も夏の間は軽井沢で診療を行い、そのお金で二風谷のための生活資金や住民のための治療資金を賄っていたようです。
まとめ
何千ものマンローが2度の被災で失われました。しかし1923年と1932年の個人の手紙、データ、加工品、資料などがまだ大量に眠っています。
アイヌ人々がいまもマンロー博士を忘れず、尊敬し続けている理由はたくさんあると思います。ともに暮らし医療奉仕を行ったことは、その理由の1つにすぎないと思います。
そして将来、両国の研究者は、マンローという人物について思いを同じくし、より深い理解を深めるでしょう。
マンロー「先史時代の日本」梗概


見たことのないイラストである。埴輪のようにも見えるが木彫とあり、どこかの寺の陳列物なのか。
マンローの考古学関連の写真
Pitt Rivers Museum Photograph and Manuscript Collections
のうち
ちょっと感想を。
多少間違っているかもしれませんが、マンローは日本の先史時代を初めて体系づけた人です。彼は先史時代を旧石器時代(打ち欠き石器)、新石器時代(縄文時代)、中間期(弥生時代)、ヤマト時代と区分しました。
そしてそれらの時代の実在を、石器、土器、金属器などで実証し、地層により前後付けました。
第二にドルメンを太古のものとして位置づけ、各地の石造物を一括し系統づけ、その世界史的意味を探りました。
第三にアイヌを日本人の源流の一つとして位置づけ、先史時代にはアイヌがあまねく日本列島に存在したこと、これと渡来民の交流の中に日本人が生まれたと考えました。現存のアイヌ人はこの流れに合流しなかった人々だと考えました。
これらの考えは当時にあって群を抜くものだと思いますが、いかがでしょうか。
ここに彼が発掘したものを見ると、驚くものばかりです。頭飾りやテラコッタなど、日本製のものとしては見たことがありません。間違いなく重文級のものでしょう。
これまでのマンロー関連資料といえば、桑原さんの本をふくめ周辺情報が多く、彼の業績に迫るものは乏しいのです。これからさらに英文資料と格闘を続けることになりそうです。
マンローの紹介



参考文献
氷河時代と氷期
地質学者はきわめて扱いに困る人種である。
一つの事物にいくつもの名称をつけ、いくつもの分類を並立することに痛痒を感じていない。
氷河時代の特徴をいくつも羅列するが、それが本質的なものか、偶発的なものなのかの区別をしない。
地質学の分類の決定的な境目は第四紀だが、第三紀があるわけではない。第四紀は正式名称だが、第三紀・第三系は非公式な用語である。
第四紀とそれ以前を分ける基準は「人類の時代」と定義されているそうだ(日本第四紀学会)。こんないい加減な区分は聞いたことがない。