鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 20 歴史(基本的には日本史)

以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 


山本めゆさんの文章を読んでの感想は、見出しの如くなる。
すなわち「戦時性暴力は暴力支配、とりわけ植民地支配の理不尽さがもたらしたものだ」ということだ。
なぜなら、植民地支配こそは近代世界におけるもっとも持続的・系統的な暴力支配だからだ。
「力の論理」と言うが、力は非論理だ。あまりに抽象的と言えば抽象的だが、逆にこの基本方向を見失ってはならない。
1.戦時性暴力と普遍主義
植民地支配を取り除いて考えると、戦時性暴力はフェミニズムとミリタリズムとの「二項図式」のもとに包摂されてしまう。山本さんが危機感を持つのはここにある。

「戦時性暴力」という言葉は、ときに驚くほど無難で耳障りの良いものに変貌しうる。それはきわめて普遍主義的フェミニズムに横滑りしやすい性格を備えている。 

「女性はいつも戦争の最大の犠牲者」といった普遍主義的なミリタリズム批判や家父長制批判の中でこれを論じれば、これらの亀裂はふたたび糊塗されてしまう。
これによって見落とされるのは多様な事象と権力との交差である。
等質的かつ情緒的一体感で結ばれた内集団を前提とするなら、それは「蹂躙される我々の女たち」のイメージを通して、外集団に対する憎悪を掻き立てるプロパガンダにやすやすと手を貸してしまうことになる。
申し訳ないが、この裂帛の気合は女性にしか描き出せない世界で、男性はかしこまるほかない。

2.植民地における性暴力と、入植者の受益者責任
山本さんは下記のようにまとめる。
2001年のダーバン会議以降、「植民地主義とそれに関連する歴史的不正義」という認識が定着しつつある。このアジェンダは今後とも追究される必要がある。
「引揚者」の経験をあらためて政治的に位置づけ直すこと、「戦時性暴力」が誰による誰に向けられた暴力なのかを論じるという「挑戦」の必要と意義が確認されなければならない。
植民地主義への抗議という視点が何故だいじかということで、山本さんは植民地統治の「支配責任」と「受益者責任」と言う概念を取り出す。これは前項記事に触れた「植民者」論と関連するが、受益者責任を問うことなしに論理の円環は閉じないということである。
これを山本さんは「安易な普遍化への誘惑に抗していく覚悟」と表現している。

3.「性奴隷」論 ― 朝鮮人従軍慰安婦問題への視座
ここまでの議論からすれば、朝鮮人従軍慰安婦の問題は、戦時性暴力一般ではなく、「日本軍(軍関係者をふくめ)が植民地支配下の朝鮮人女性に加えた戦時性暴力なのだ」と捉えることがだいじなのだ。
この場合、戦時性暴力は終戦時のソ連軍兵士による性暴力とは異なり、計画的・組織的で持続的であるところに特徴がある。
「強姦」は日本の刑法では「暴行・脅迫を用いて男性器を女性器に挿入すること」と定義されている。これでは慰安所を設立・運営することは性犯罪とならない。女性を性奴隷とする行為全体を性犯罪と捉えなければならない。
「性奴隷」化の犯罪としての凶悪性は、偶発的な性暴力よりはるかに高い。

全体を通して、はやりの表現で言えば「キレッキレの論理」が支配する論考である。

ただ、ここまで切りつけ合わないとならない課題なのかは、いささか疑問を感じるところである。

「歴史の真理」はもう少し叙述的に展開されても良いのではないだろうか。

ただ普遍主義的フェミニズムが、反動派の歴史修正のためのレトリックとして利用されることに抗議するときは、イヤと応とを問わず必要となる論理であろう。


以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 


山本めゆさんの論文 
戦時性暴力の再-政治化に向けて―“引揚女性”の性暴力被害を手がかりに を、一応通読した。

相当に歯ごたえのある文章である。

1.クレームに込められた思い

山本さんが「奥底の悲しみ」に対して何故クレームを付けたかが分かってきた。山本さんの願いは、「引揚者」問題を全体として「奥底の悲しみ」の方向に引っ張らないこと、もっと大きな文脈の中で位置づけてほしいということだ。

引用のレベルか盗用のレベルかではなく、「反対」と言っている論文を「賛成」と言う番組のために利用してほしくはないのだ。

問題は、引揚者という範疇の特殊性の問題だ。そして戦時性暴力の具体性の問題だ。

山本さんは、個別の戦時性暴力がどういう性格の戦争(戦闘)の下で生まれたのかを追及しないと二項図式的なジェンダー観に陥ってしまうとし、これを「普遍主義」的フェミニズムと呼ぶ。

そして「奥底の悲しみ」がまさにそういう傾向を内包しているからだ。

2.「引揚者」の特殊性

山本さんの引揚者に対する視線には鋭いものがある。安易な感傷は拒絶される。これについてはもう少しあとで触れることにしよう。

まず、日本近現代史という標本箱に、「引揚者」という存在が、冷厳にピン留めされる。この部分の記述は、それだけでも圧巻である。

a.入植者の結末としての引揚者

「引揚者」はまずなによりも「入植者」であった。

入植者には2つの顔がある。

まず第一に植民地支配の紛れもない受益者であること。

第二に、故郷の日本社会においては余されものであったことである。

b.「住所不定・無職」の民としての引揚者

したがって日本の敗戦と同時に、ソ連の襲来を待つまでもなく、どこにも居場所を失った流氓の民となっていたのである。

つまり、歩であろうと、香車・桂馬であろうと大日本帝国のコマであるということ、させられてなったのではなく、主体的意図をもって参加した、そして最後は捨て駒となったのである。

敗戦と同時に「入植者」の多くは関東軍に置き捨てられ、「棄民」となった。

c.帰還移民としての引揚者

「引揚者」は帰ってくることができた「入植者」である。一言で言えば「帰還移民」である。帰還移民というのは、ひっくるめて言えば、移民に失敗した出戻り移民ということである。

「故国」を一度は捨てた彼らにとって、日本の中にいる場所は本来的にはないのである。

d.引揚者の心性の形成

以上のように引揚者という存在のあいまいさを衝いたあと、山本さんはそのあいまいさがもたらす、不合理な心性をも剔抉する。

繰り返し論じられてきたのは、「彼ら」はその背景いかんにかかわらず、概して植民地支配の資任主体という自覚に乏しいということである。

「彼ら」の経験は反戦思想に接ぎ水され、周到に偽装され、「引き揚げの労苦」として収数される。支配者の地位を追われた植民者という彼らの政治性も首尾よく漂白されてしまう。

3.引揚者伝説をどう読み解くか

ということで、結論としては「引揚者」というのは真っ白な受難の民ではないぞ、ということだ。韓国人慰安婦と同列に見るのは、歴史的視点から言えば正しくはない。
ここで山本さんはインドネシアで日本軍の慰安婦とされたオランダ人女性の証言を引き合いに出す。
彼女たちの祖先は幸福な人生を求めて東南アジアへとやってきた。彼女たちの幸福は植民者としてのそれであった。

彼女たちの身を削るような証言活動に植民者の輪郭を強調するのに疑問を感じる向きもあろうが、…被害者同士が反目しあうという事態を招きかねないからこそ、その被害の責任を問う際には、歴史的文脈を重視しつつも序列化を慎重に回避していく必要がある。

今日のネット状況などから見れば、ずいぶん思い切った発言であり、そこには流れにあえて棹差そうとする山本さんの覚悟が感じられる。

 


私の祖父は明治末年に朝鮮(京城の龍山)におそらくは流れ者として「入植」している。そこで父を始め3人の子が生まれ育った。

父はすでに戦前に朝鮮を離れ静岡に流れ者として移住している。戦後、その父を頼って祖父と兄弟が「引き揚げ」てきた。

わたしも「引揚者」に片足突っ込んでいることになる。おまけに北海道に住んでいる限りは、アイヌ人に対する侵略者ということにもなる。

だから、山本さんの文章を読んでいると、何か叱られているような気分にもなってくる。心して臨まなくてはならないな。

私の 山口放送の「奥底の悲しみ」

という記事に

日本学術振興会特別研究員の山本めゆさんが、自身の研究をこの番組で「盗用」された旨、告白しています。 

というコメントが付けられている。

私の一連の記事の内容は「奥底の悲しみ」という番組そのものより、それで触発された「戦後引き揚げ史の全体像」である。性暴力そのものについては申し訳ないが、主要な関心域ではない。

したがってこのコメントに対して正面から対応するつもりはない。しかし山本めゆさんのクレームについては事実問題として知っておく必要があると考えた。

いろいろ調べた結果、「まずは山本めゆさんの言わんとする所を多くの人に知ってもらうことがいちばん大事なことかな」と考えている。選んだのは以下の論文。

山本めゆ 「戦時性暴力の再-政治化に向けて―“引揚女性”の性暴力被害を手がかりに
日本女性学会学会誌 (2015)

最初に感想を述べさせていただくと、非常に筋の通った立派な考察であると思う。中味はとてつもなく重い。こういうドストエフスキー的な荷物の抱え方はとても私にはできない。

目次は以下のようになっている。

はじめに

Ⅰ. 「引揚げ」を再-政治化する

Ⅱ. 植民地主義史の再審と新たな責任主体

Ⅲ. 普遍主義への誘惑

Ⅳ.  「引揚者」 の経験をいかに読むか

Ⅴ. オランダ人元「慰安婦」の植民者性

VI. 仲介者・協力者・受益者

結びにかえて

今回はこの目次のうち「はじめに」のみ紹介


彼女たちが帰還した引揚港では、引揚援護院の指導のもと性病の治療とともにおびただしい数の中絶手術が実施された。これらの事実は疑いのないものであるが、「特別な注目」に浴さずにきた。

比較的最近になって、へイトスピーチの資源として「引揚げ」という植民地の喪失と帰還史が参照されている。この現象は排外主義の高まりの表現と理解される。

日本軍による性暴力を告発し、被害者への補償と尊厳の回複を姿求する活動の活性化が、「引揚者」 の経験を励起している可能性がある。

基本的にはこの作業は推進すべきものであり、同時に、それをもたらした過去の植民地主義への歴史的検証を伴ってすすめるべきものでもある。

そしてさらに、引き上げ時の性暴力被害の経験が、排外主義的・歴史修正主義的主張の資源となってきたことへの批判的検討、それを許してきた言説的な土壌の点検作業を必要としている。

第Ⅰ節ではまず「引揚者」という呼称に注目する。それを通じて、植民地主義の歴史を呼び起こす。

第Ⅱ節では、 慰安婦への補償運動の議論が 戦後日本社会の自画像にいかなる転換を迫っているかを考える。

第Ⅲ節では、女性を一元的に戦争と家父長制の犠牲者とみなすような普遍主義を批判する。そして複数の権力を視野に入れてアプローチする。

第Ⅳ節・第V節では、オランダ人慰安婦を通じ、「植民者に向けられた性暴力」との向き合い方を模索する。

第Ⅵ節では、仲介者・協力者・受託者といったアクターの存在に光を当てる。


まだ本文に取り掛かる前にコメントするのも変なのだが、こちら側の心構えとして、いくつかのポイントを設定して置かなければならないようだ。

第一には、引揚者への性暴力、慰安婦問題に見られる性暴力は、単純なコインの両側ではないという当たり前の事実である。

第二には、フェミニスムの枠に強引に流し込むような総括はいけないということだ。

第三には、植民者の光と影、侵略→敗北・撤退という歴史を彩る事象として見つめなければならないということだ。
うーむ、気が重い。

以下の3つをまとめて載せました。著作権上の問題はないと思います。よろしくご笑覧下さい。

 

 

 

慰安婦問題については、慰安婦はなかった式の議論は論外である。南京事件はなかった式の話と同じである。ポスト・トルースの歴史修正主義と言ってよいのだろうと思う。
ただ以前からアジア女性基金のことは気になっている。そこにはっきりしたハシゴがかかっているのに、韓国側がこれをなかったかのように無視し続けている。
これではどうやっても議論が噛み合わない。
今回、「アジア女性基金とわたしたち」という座談会を読んで、私の抱いていた奇異の念が根拠のないものではないことがわかった。
座談会の参加者は大沼保昭、横田洋三、和田春樹の三人である。いずれもアジア女性基金には主体的に関わっており、慰安婦問題には真剣に心痛められている。
結論として三人が三人とも、「あるNGO」(挺対協)の対応には怒りを抱いているが、そのニュアンスは三者三様である。
その経緯については不明であり、判断は難しいところはある。
ただ挺対協の主たる工作対象が国連の人権問題小委員会であり、ここに情報作戦を繰り返し展開していたこと、そしてつぎ込まれた情報にはかなり不正確なものも混じっていることが分かった。
最強硬派の大沼さんは、基金から手渡されたカネの行方まで及んで挺対協を批判しているが、これについてはあえて触れないでおきたい。
肝心なことは国連人権小委員会の下した事実認識が、事実とどの程度一致しどの程度乖離しているかという問題、もし乖離している部分があるとすれば、それはどのように修正されているのか、またはされていないのかという問題であろう。
「どっちにしても日本が悪いのだから…」と、かしこまっていたのではすまない状況になっていると思う。
おそらくは慰安婦問題に関する国連判断の基準となっているのがマクドゥーガル報告である。
これは国連人権委員会の「差別防止と少数者保護小委員会」(いわゆる人権小委員会)にたいする特別報告者ゲイ・J・マクドウーガルの報告だ。
中核的事実認識は以下のごとくである。
女性たちは…これらのレイプ・センターで毎日数回強制的にレイプされ、厳しい肉体的虐待にさらされ、性病をうつされた。こうした連日の虐待を生き延びた女性はわずか 25%にすぎない。
以下、その違法性の根拠が長々と展開されるが、中核的事実はきわめて情緒的な認識に依っている。“25%”はおそらくデマであろう(荒舩清十郎の個人演説会での話が唯一の根拠である)。
こういう極端な感情的議論は事件の正常な解決のためには百害あって一利ない。戦時性暴力の問題はもう少し奥行きの深いイシューなのだろうと思う。




本日の赤旗文化面は「統制された文化」シリーズの第23回。「学校儀式」という文章だ。筆者は有本真紀さんという方、立教大学の先生で「卒業式の歴史学」という著書があるようだ。
本来ならそちらを見なければならないのだろうが、とりあえず失礼させてもらう。
失礼ついでに。有本さんは「歴史学」を伝えたいようだが、こちらは「歴史」のところだけさらわさせてもらうことにする。
1.明治初期
日本に近代学校制度が開始される。最初の「学校儀式」は新年の始業式だけだった。(新年なのか新年度なのか? そもそもなんで4月が新年度なのか)
2.卒業式
1876年(明治9年)に、陸軍戸山学校で卒業式が始まった。翌年には東大、数年後には師範学校や中学校にも拡大する。
どういうわけか、小学校への導入はそれから10年位遅れた(明治20年頃)らしい。
3.唱歌
明治前半期に唱歌を教える風習はなかった。当時の日本人に「みんなで一緒に歌を歌う」という行為は馴染みがなかった。
(この項は、儀式の歴史としてより唱歌の歴史として興味深い。以前にも「故郷を離るる歌」でかじったが、いずれもう一度系統的に勉強してみよう)
4.紀元節と天長節
これが最初の上からの命令に基づく儀式らしい。
1888年(明治21年)、文部省が内命を発した。「国家の祝日に生徒を集めて祝賀式を挙行すること、その式はもっぱら唱歌によるを可とす」というものだ。国家の祝日がいかなるものだったかが、ちょっとこの文章からは判じかねる。
まぁいずれにしても大したものではなさそうだ。
5.教育勅語の発布
1890年(明治23年)に教育勅語が出されると、矢継ぎ早に指令が継ぎ足されて、たちまちのうちに天皇神格化システムが国民を縛り付けることになる。
具体的には翌91年の「小学校祝日大祭日儀式規定」というのが曲者で、御真影への最敬礼・教育勅語奉読・訓話と唱歌斉唱」が事細かに定められた。その2年後には君が代・勅語奉答・1月1日・紀元節など8曲の儀式唱歌が告示されたそうだ。
全国の学校で式次第や振る舞い方までもが画一化し、厳密な指導が行われるようになる。
ここからが大変なことになっていく。巻き尺を持ってスカートの丈を計ったり、君が代の口パクを監視するパラノイアが教育界に跋扈することになる。
時期的には日清・日露へ向けての思想動員と重なるのであろうか。与謝野晶子はこういう教育は受けていなかったから「かたみ(互い)に人の血を流し 獣の道で死」ぬことを拒否したのだ。

ということで、文章の後半は「儀式」が強制化の有効な手段であることが論じられる。そして「儀式の呪縛」からの解放を説くが、「そこまで引っ張るのも何だなぁ…」とちょっと退き気味になる。
いずれにしても貴重なお話をありがとうございます。

「原爆の落ちた日」という本がある。半藤一利さんと湯川豊さんの共著になる本で、PHP文庫の一冊となっている。
この本を読んでいて、驚愕の内容に会った。
「大本営戦争指導日誌」というものがあるらしい。
敗戦時に一部が処分せずに残ったのだろうか。現在も閲覧可能のようである。
その昭和19年6月24日の記録には下記のごとく記されていると言う。
「来月上旬には、サイパン守備隊は玉砕すべし。もはや希望ある戦争指導は遂行し得ず。残るは、一億玉砕による敵の戦意放棄を待つあるのみ」
すなわち陸軍統帥部の中においてすら、戦勝の望みはほとんどなかった。
7月1日の戦争指導日誌はさらに驚くべき内容となっている。
「昭和20年春期頃をめどとする、戦争指導に関する第一案を研究す。判決としては、今後帝国は作戦的に大勢挽回のめどなく、しかもドイツの様相もおおむね帝国と同じく、今後逐次“ジリ貧”におちいるべきをもって、速やかに戦争終結を企図すとの結論に意見一致せり」
つまり作戦本部は昭和19年7月のサイパン玉砕をもって、戦闘は終わったと判断したのである。それにもかかわらず、国民にさらに1年余の無駄な抵抗を強いた。
そしてその1年こそが屠殺の1年であった。フィリピンでの大量戦死。本土の絨毯爆撃、とりわけ焼夷弾による無差別の殺戮、非戦闘船舶への魚雷攻撃、そして沖縄での住民100万を巻き込む大量虐殺。広島・長崎の原爆死、満州での大量棄民、戦災孤児や帰還子女の餓死。
これらのすべてはサイパン玉砕後の1年で起きたことばかりである。
これが日本の戦争犯罪者たちの最悪の所業なのである。

機密戦争日誌」というのは、これまでもいくつかの断片が発行されていたようであるが、決定版となったのは平成20年5月1日発行の錦正社版のようである。
編者は軍事史学会で800ページ2万円というからおいそれと手が出る価格ではない。
まず出版社の告知
変転する戦局に応じて、天皇と政府、陸軍及び海軍が、政治・外交指導を含む総合的な戦争指導について、いかに考え、いかに実行しようとしたか?
日々の克明な足跡がここに明かされる。
「機密戦争日誌」とは、大本営政府連絡会議の事務をも取り扱っていた大本営陸軍部戦争指導班(第二十班)の参謀が昭和十五年六月から昭和二十年八月まで日常の業務を交代で記述した業務日誌。
敗戦にあたり焼却司令が出される中、一人の将校が焼却に忍びなく隠匿するなど、様々な経緯を経て防衛研究所図書館に所蔵され終戦から半世紀を経た平成九年に一般公開された貴重な史料。

ただし、半藤さんが示唆するような軍の最高幹部の意見を集約したものではなく、担当将校の所感が綴られたものである。

軍事史学会会長 の伊藤隆さんの挨拶文によると、
残されているのは大本営陸軍部第二十班(戦争指導班)の業務日誌であるが、その他に各部課でも業務日誌を作成していたと思われる。
しかし第二十班が大本営政府連絡会議の事務をも担当していたという位置から考えて、重要性は高いと判断される。
と、やや控えめの表現になっている。

考えてみると大阪の歴史がよくわかりません。私の念頭には歴史上何回かフアーっと登場して、いつの間にか消えていきます。

難波京、堺と石山本願寺、豊臣秀吉の大阪城、元禄時代の繁栄、幕末・明治初期の沈滞、大正の大大阪時代、戦後の地盤沈下です。これらの歴史的現象はいつも「なぜ」の問題を素通りしていきます。

まず、年表づくりをやりながら、「なぜ」の問題を追求してみたいと思います。

大阪市立図書館の年表が便利なので、これを骨格にしながら膨らませてみたいと思います。

 

 

593(推古元) 厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺を建てる

645(大化元) 都を飛鳥から難波長柄豊崎宮にうつす(前期難波宮)

754(天平勝宝6) 鑑真が難波津に到着する
1467 応仁の乱  細川の拠点となった堺が発展。明との交易も盛んとなる。

1496(明応5) 本願寺8世の蓮如が石山本願寺(実体としては城そのもの)を建立。上町台地に寺内町がつくられる

1532(天文元) 摂河泉で大規模な一向一揆がおきる

1550(天文19) 宣教師ザビエルが堺に上陸する

1580(天正8) 本願寺が織田信長との戦いに敗れ大坂を退去。寺内町は焼失する

1583(天正11) 羽柴秀吉が大坂に入り、本願寺跡地に築城開始。

現在大阪の町になっているところは、上町台地などを別とすれば、戦国時代までは低湿地だったところがほとんどです。秀吉はそこに東横堀川・西横堀川・天満堀川などの水路を掘らせ、水はけをよくするとともに、掘り上げた土で周囲を土盛りさせました。こうして低湿地が、人の住める町にかえられました。平野や久宝寺などから商人らがよびよせられ、現在の大阪の町の原型ができあがっていきました。

1615(元和元) 大坂夏の陣で豊臣氏が亡ぶ。

1619(元和5) 幕府が大坂を直轄領とし、大阪城を再建。城代・町奉行をおく。

江戸時代になると、西のほうの湿地にもたくさんの堀川が掘られ、市街地がさらに広げられていきました。大阪は「水の都」と呼ばれるようになりました。

大阪新田

     江戸時代の新田の開発

1600年台後半 船場、天満地区に三大市場が栄える。
1703(元禄16) 近松門左衛門の曽根崎心中が初演される。「上方文化」の花が咲く。

歌舞伎・浄瑠璃、あるいは落語といった芸能は、最初は京都が盛んでしたが、しだいに大阪に中心が移ってきます。たくさんの町人学者が生まれ私塾が建てられました。

1730(享保15) 堂島の米相場会所が幕府公認となる。現米の受け渡しのない帳簿上の「差金決済取引」が行われる。
堂島の相場が全国の米相場の基準となりました。大阪は「天下の台所」として繁栄するようになりました。多くの大名が中之島などに蔵屋敷をおいて、米や地方の産物を運びこみ、お金にかえていました。

1837(天保8) 元町奉行所与力・大塩平八郎が乱をおこす

大塩は与力をやめて塾をひらき学問を教えていました。天保の大凶作に際し私財をなげうって貧民救済に当たりました。その挙句、「救民(きゅうみん)」を旗じるしに兵をあげました。

1838(天保9) 緒方洪庵が適塾をひらく。官制の学問にとらわれない私塾が発展。

1868年(明治元) 大阪が開港場となり川口居留地ができる、舎密局をひらく。

1869年 廃藩置県に伴い、大阪の繁栄のもとであった蔵屋敷が廃止される。豪商の倒産が相次ぎ、大阪は衰退期を迎える。

明治政府は硬貨や大砲の工場を大阪に設けたので、そこから近代的な工業の知識や技術が、大阪に根づいていきました。

1874(明治7) 大阪~神戸間に鉄道開通、大阪府の江之子島庁舎完成

1876 年 堂島の米相場会所が「堂島米穀取引所」と改称され、先物取引を世界に先駆けて開始。

1885(明治18) 大阪初の私鉄が難波~大和川間に開通
1884(明治21) 東京(都部)の人口135万人

1889(明治22) 市町村制がしかれ大阪市ができる。この時の人口は47万人。面積は15平方キロ。

繊維工業がさかんになると、大阪は工業都市として再生し、人口も増え、市街地が広がっていきました。
1895(明治28年)住友銀行が創業。大阪を本拠地として急速に発展、三井・第一・安田・三菱と並ぶ五大銀行となる。

1897(明治30) 大阪市第1次市域拡張、大阪築港起工式。

安治川口と木津川口から沖に向かって総延長10キロメートルの2本の防波堤をつくり、その内側を9メートルの深さにするもので、人工的に築いた港という意味で、「築港(ちっこう)」と呼ばれました。
築港大桟橋

1903(明治36) 大桟橋が完成。第5回内国勧業博覧会がひらかれる、巡航船・市電・民営乗合自動車が営業。

1918(大正7) 米騒動おこる

1920(大正9) 第1回国勢調査、市人口125万人、府人口258万人
1923年(大正12年) 関東大震災が発生。被災者の一部が大阪市など各地に転居。

1925年(大正14年) 第二次市域拡張。周辺の残余44町村全てを編入して大大阪市が成立。東京府東京市を上回り、世界各国の主要都市でも6番目に人口の多い都市となる。
ニューヨーク(597万人)、ロンドン(455万人)、ベルリン(403万人)、シカゴ(310万人)、パリ(290万人)です。この年東京の人口は214万3200人。
1925年 野村財閥の主軸として野村證券が設立される。

1928(昭和3) 大阪商科大学設立
1929 梅田で阪急百貨店が開業。梅田は元は「埋田」、湿地を埋め立てたところであった。

1930年(昭和5) この年の大大阪人口は245万人。世界大恐慌。線維輸出を主体とする大阪の経済は大きな打撃をうける。

1931年(昭和6) 大阪城天守閣再建、中央卸売市場ができる、大阪大学できる

1932年(昭和7年) 東京市は市域拡張(82町村編入)によって35区へ増加。大東京市(面積551平方キロメートル、人口497万人)が誕生。

1933(昭和8) 梅田~心斎橋間に地下鉄ができる

1937(昭和12) 道幅44メートルの御堂筋が完成。11年を要した。

1939 大阪府と東京府の生産額が逆転。以後その差を拡大した。原因は軍需の成長と民需の減少。
県別生産高推移1県別生産高推移sen
     府県別生産額の推移(縦軸は全国比%)
1939年 堂島米穀取引所、戦時統制の強化により廃止される。

1945(昭和20) 空襲で市内の大部分が焼ける、10月の市人口107万人、府人口280万人

焼夷弾攻撃により約21万戸の家が燃え、1万人以上の人が死に、3万5千人あまりの人がケガをしました。

1970(昭和45)  日本万国博覧会が千里丘陵で開かれる

 人口は各資料ごとに相当違う。
1873_

 1920_
前後の数字を見ると、大阪の首位は統計のトリック(とくに東京区部の扱い)によるものの可能性が高いようだ。


三笠の炭鉱について
前回の記事で、三笠には幌内、奔別、幾春別の3つの炭鉱があったと書いたが、少しウィキで調べてみた。
なお三笠という市名だが、明治時代に存在した空知集治監の建物の裏山が奈良の三笠山に見えることから名付けたと言う。最初は三笠山村と言ったらしい。何かがっかりするような話だ。
炭鉱の歴史をざっと見ておく。
1968(明治2)年に幌内で良質な石炭が見つかり、11年後に幌内炭鉱として開業した。さらにその3年後には鉄道が開通した。鉄道は小樽の港までつながり、弁慶号や義経号が走ったのは有名な話である。
86年には幾春別炭鉱も開かれる。昭和5年に住友が奔別で操業を開始した。この炭鉱は明治の時代から小規模炭鉱として開かれていたが、住友が乗り出してきて本格的採掘を始めたもの。

戦後も三笠の鉱山は急拡大を続け、最盛期には人口が6万人を越えた。

もっとも条件の悪かった幾春別炭鉱は、石炭最盛期の昭和32年に早くも廃坑となっている。
65年前後を境にスクラップ化が進み、71年には住友奔別炭鉱が閉山した。
今も残る東洋一の櫓(立坑の深さは735メートルで、櫓の地上高も50メートル)を建ててから、わずか10年後のことだった。
という長い題のページに、内部や近接の写真がアップされている。発表しているのだから許可を貰って中に入ったのだろう。
そこに閉山に至った状況がかんたんに書かれている。何やら想像を絶する大爆発があったようだ。
爆発事故や坑内環境の悪化、そして石炭から石油へというエネルギー転換の波に飲み込まれ、昭和46年に炭鉱は閉山。その後、坑道の密閉作業中にも爆発事故が起こり、5人の尊い命が失われた。

追記
小樽総合デザイン事務局」の記事も見つけました。

下の写真は旧唐松駅に展示されているものだそうです。「奔別」のロゴがついた建物は竪坑櫓というのだそうです。

唐松駅

旧住友奔別炭鉱(そらち炭鉱の記憶アートプロジェクト)

2016.5 奔別炭鉱 2.7k 【空撮】

では動画も見られます。

奔別鉱の経緯については 奔別立坑物語 その一端

が詳しい。

しかし、事故の実態と真相はいまだ不明。

山道を登ったところに奔別の社宅や学校、病院まであったと言うので登ってみたが、その先に人家の有りそうな気配はなかった。
ネットで、そのあたりの景色が映されている。まったくの原野で、所々に人が住んでいたあとがわずかに残されている。結局行かなくて正解だったかもしれない。

当初は炭鉱すべてがだめだというわけではなく、選択的に建設も行われた。筑豊が全部ダメになったあと、坑夫のかなりの部分が北海道へやってきた。「黄色いハンカチ」の主人公もそうやって夕張に流れてきたという設定になっている。
ビルド鉱の一つが最も歴史の古い幌内炭鉱だった。ここでは昭和41年になってから巨大立坑が建てられている。なんと地下1千メートルだ。ここを50人乗りのエレベーターが行き来するのである。(スーパーカミオカンデも地下1千メートル)
その幌内炭鉱も89年に閉山した。すべての炭鉱が姿を消した。


9.28

本日の赤旗で、奔別のホッパーを産業遺産として保存しようという意見が載せられていた。

ちょっと複雑な気分である。

これは一般的な産業遺産ではない。死者を出した大爆発事故の残骸である。

きつい言い方をすれば、爆発リスクを深く考慮せずにヤミクモに掘り進んだ経営者・技術者の失敗の証である。

そして、再建の努力もせず、残骸を棚晒しにしたまま逃げ出した住友の無責任さの証である。

できたときこそ東洋一だったが、間もなく作られた北炭幌内の立坑は、地上高さえ劣るものの深度は上回っている。

肝心なことは、幌内鉱がそれを非勢いかんともし難くなった80年代末まで大過なく運営し、役目をまっとうしたことである。

産業遺産(ヘリテージ)とはそうあるべきものではないだろうか。

人類の愚かさを伝える「負の遺産」として残さなければならないものも世に数多くある。

しかし、奔別鉱の建屋がそれに相当するだろうか。



毎日サンデーの今日このごろですが、本日は好天に誘われて炭鉱町めぐりです。
まずは野幌から夕張鉄道線路の跡地を走る「きらら街道」に入り栗山まで。ここから先が鉄道が見えなくなりますが、栗山を過ぎて南下し由仁の手前、角田というところから左折して山に入っていきます。途中何気なく橋があって、下をいかにも元鉄道らしき細めの道が通っていました。おそらくこれが元夕張鉄道でしょう。ここから先はなかなかの難所で、蒸気機関車がスイッチバックしながら山を登っていったようです。
夕張に行く道路は道道3号線、通称「札夕線」ということで、しっかりと作られています。昔はメインのアクセスだったようですが、今はもっと南側に三川国道という立派な道路ができて夕張川に沿って南夕張につながっています。南夕張からは峠をいくつも越えて日勝峠から道東・十勝平野へと至る大動脈になっています。だから札夕線は夕張へ直接繋がる道路なのに道道のままだということなのでしょうね。
札夕線は富野というところまではダラダラ登りですが、そこからいきなり急坂になります。つづら折りを登り詰めたところにトンネルがあります。まぁ当たり前ですね。
ところが、トンネルを抜けると、そこがいきなり街なのです。なにか異界に飛び込んだようで、これはかなりの衝撃です。
道は間もなくT字路に突き当たります。鹿ノ谷といいます。
鹿ノ谷駅は北海道炭礦汽船の全盛期は、駅周辺の鹿の谷地区は幹部用住居が存在する高級住宅地であり、旧夕張北高校・夕張工業高校に通学する学生で賑わった。
そうです。
夕張の街は夕張川沿いに南北に伸びていてそれを1本の道がつなげています。いわゆる「ふんどし街」です。T字路を左に曲がると、つまり川上に進むと夕張の本町になります。役場や病院(今は診療所)があります。そこからもう少し行くと炭鉱博物館があります。30年位前までは大きな遊園地もあって、けっこう賑わっていました。まぁ今で言えば放漫財政の名残でしょう。
今日はそちらには向かわず右折して南に走りました。
間もなく「黄色いハンカチ」公園の看板があって左折して山に登ります。だらだら坂を登っていく途中に左折すると「黄色いハンカチ」の炭鉱長屋につくのですが、看板を見逃して進んでいきました。
すると大きな日帰り温泉があって、第3セクターの運営のようです。広大な駐車場に車が5,6台。その脇には特養だか老健だかがあって、北海道の田舎ではおなじみの光景です。
ただここが違うのはとんでもない煙突が立っているということ。高さなんと68メートルなんだそうです。この煙突は昭和36年、炭鉱が一番威勢のいいときに建ったそうです。根元の直径が約7メートル、先端も3メートルくらいあるそうです。石炭を精製してコークスを作る工場があったそうですが、いまはそれは影も形もなく、駐車場の片隅にこの煙突だけが残されているのです。元は街のシンボルとして屹立していたものが、今は広場の片隅に巨体を持て余して、「すいませんねぇ」という趣で佇んでいるのがそぞろ哀れを催します。
とにかくこれはすごい産業遺産です。夕張に行ったらとにかくこれだけは見ておいたほうが良いです。
少し道を戻って「黄色いハンカチ」の長屋に向かいました。なかなかいい施設ですが、入場料はちょっとお高い。ただこの施設の維持のために頑張っている人たちの努力を考えると「まぁいいかな」という気もします。
長屋の外見は昔のままですが、一歩中に入るとモダンなギャラリーです。
飾ってあるマツダのファミリアを見ながら、しばし感慨にふけりました。あの映画はけっこう時代をまたいでいるのです。寅さんのような古き良き時代を懐かしみながら作られているのです。あの映画が理想としているのは、映画の時代より10年から20年遡った時代なのです。
昭和52年には、もうすでにバブルの時代に突入していました。ファミリアは買って買えないほどの車ではなかったのです。現にそれから数年後には私の嫁さんがファミリアのXGを買っています。
我が家は嫁さんが貧乏教師の娘なのに贅沢で、私は嫁さんの車の型落ちで乗っていました。結婚したときに嫁さんの親のスバルをもらい、嫁さんがレオーネを買うと私がスバルを運転しました。
「子供を保育所に送り迎えするから」と言っていたのですが、実際に送り迎えしたのは私でした。
スバルが故障ばかりするのでスズキの軽に乗り換え、そのあと中古でダイハツのシャレードに乗っていました。冬の暖房が効かないのには参りました。
つまり車が典型的だったのですが、時代は右肩上がりだったのです。ところが石炭は斜陽だったのです。
いまの若い人はそのへんがわからないから、あれが昭和52年のリアルストーリーだと思ってしまう。そうじゃないんです。あれは戦後30年、人間が少しゆとりを持って人生というものの価値を考え直し始めた時代の精神なんです。
その前には「愛と死をみつめて」のミコとマコの世界がある(なんと吉永小百合のきれいなことか)。「名もなく貧しく美しく」の小林桂樹と高峰秀子の世界があるんです。
たしかにそのように考え直そうとした人間がいた、しかし同じその人間が一方ではけっこうエコノミックアニマルまっしぐらでもあったんです。
まぁそんなことで「黄色いハンカチ」をあとにして国道に戻りました。
第4の見ものが清水沢の飲み屋街です。このあたりには夕張本町とは違う炭鉱がたくさんあったようで、清水沢駅の近くにはたくさんの飲食店があります。三菱大夕張の線路がここに来ていましたから、三菱系の関係者のたまり場だったのかもしれません。
店は全て閉じていて、中には崩れかけたものもありますが、中には「本日定休日」みたいな雰囲気を残す店もあります。まさに廃墟観光の決め技です。かつては夜ともなれば紅灯の巷と化したのでしょうが、今だと夜歩くのにはかなりの度胸が必要かもしれません。
昭和60年頃、私が菊水の病院に勤めていたときには、バスの便が良かったのか清水沢の人が外来に通院していました。その頃はまだ結構鼻息が荒くて、「本町はもう落ち目で、これからは清水沢が夕張の中心だ」みたいなことを言っていましたが、あえなく轟沈したようです。
その清水沢もご覧の有様。いまはもう一つ先の南清水沢が「第二都心」になっています。
それ以上南に行ってもしょうがないので、清水沢から大夕張の方に入りました。夕張には何回か行きましたが、大夕張には行ったことがなくて前から気になっていました。途中、有名な水力発電所跡が見えますが、今回はパスしました。
「時すでに遅し」というのは大夕張もおなじで、北炭系よりさらにひどい。どこもかしこも廃墟と化していました。ただ旧大夕張駅にラッセル車と客車数両が保存展示されているのは嬉しいことでした。誰も監視人などいません。勝手にドアーを開けて乗り込んで、客車の座席に座れるのです。
大夕張の駅からはそびえ立つシュウパロ湖ダムの堰堤が望めます。それを右手に見ながら長ーいシュウパロトンネルを越えると、広々とした人造湖に出ます。湖の向こうは雄大な夕張岳が広がります。
秋雨のシーズンを控えてずいぶん放水したと見えて、かなり干上がっています。湖の中に湖底に沈んだ鉄橋のアーチが半分くらい姿を表しています。あの橋のあたりがかつて殷賑を極めた大夕張の高野炭住が建ち並んでいたあたりでしょう。
あとは湖の西岸を北に進み、三笠に出ました。
三笠と言ってもみんなあまり馴染みがないと思います。結局いくつかの炭鉱町が行政的に束ねられて三笠という名前になっただけで、大きな炭鉱で言うと明治からの幌内炭鉱、住友の奔別炭鉱、それに幾春別炭鉱です。
ここで一番の心残りは奔別炭鉱です。錠がかかった門の向こうには巨大なホッパーと選鉱場、ボタ山などが立ち並んでいます。門の前の地図を見ると正門の脇の道を登っていくと炭住や旧炭鉱病院が軒を連ねる一角があったようですが、今では立入禁止となっています。坂の途中から見下ろすと、建物群の奥行き、巨大さがよくわかります。
いずれここはもう一度訪れてみたいと思います。


1.度肝を抜く生々しさ

1500年前の事件なのに、えらく生々しい。日本書紀は事細かに描いている。

しかし書かれた時点からは50年も経っていない。おそらく関係者の何人かは現存していた状況で書かれたものであろう。

細部の精密さに目を奪われて、「壬申の乱」とは一体何だったのかが、ともすれば見失われ勝ちになる危険がある。

2.本質がまったく語られない記述

形態は内乱だが、本質的にはクーデター、ないし宮廷革命であろう。権力の形態はまったく変わっていない。新たな支配層が登場したわけでもない。

大半の人にはどちらでも良い戦いだ。

かといって、家督争いとか、現政権の不満が本筋だということになならないと思う。

もしそうであれば、権力交代は多少の自由化をもたらすであろうが、実際には権力の極端な集中化と軍事化がこのクーデターの帰結だ。

3.危機感を背景にしたクーデターではないか

統制経済、地方への官僚支配の浸透などはまさに戦時体制を思わせるものだ。

戦争に備えるとはどういうことか。それは唐との対決をおいて他に考えられない。

百済が滅亡し、高句麗が滅亡した。次は日本だという恐怖感はおそらく強烈なものであったに違いない。

そして唐の砲艦外交に屈することになれば、属国化は避けられない。天智の変節、そして大友皇子の弱腰外交は許されない、というのが天武を突き動かした最大の動機ではないか。

4.白村江の評価

多くの著書には白村江の敗北とその後の防衛強化が重税をもたらし人々の不満を高めたという風に書かれているが、はたしてそうであろうか。

例えば、朝廷から反天武の戦争に動員をもとめられた九州の大宰府は、日本防衛に手一杯で兵は割けないと断っている。

「そんなことやっている場合かよ!」という怒りの声が聞こえてきそうだ。

ただしそれが正しかったかは判断の限りではない。


最初に地図を転載します。関ケ原町歴史民俗資料館からのものです。
jinsinnnoran


「飛鳥の扉」さんのページから多くを引用させていただきました。
日付は陰暦表記(のようです)

671年

11月23日 天智、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せる。

11月末? 大海人皇子(以後天武で統一)、大友皇子を皇太子として推挙、天智はこれを受諾。天武は皇太子を辞し出家。吉野に下る。

671年12月7日 天智、近江宮の近隣山科において崩御。大友皇子が跡を継ぐ。このとき天智は46歳、大友皇子は24歳。

672年

5月 天武、「大友が天智の陵墓建設を口実に美濃・尾張の農民を集め武装させている」との情報を入手。さらに吉野攻撃の動きも察知。

このあと天武は反乱を決意。高市皇子,大津皇子の都からの脱出を促す。東国に挙兵を呼びかける。

6月

6月22日 天武、美濃へ3人の使者を送り、①安八磨郡(あはちまのこおり、大垣近郊)の兵を徴発すること、②「不破道」を閉塞することを命じる。3人の使者は、村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつのきみひろ)・和珥部臣君手)(わにべのおみきみて)

6月24日 深夜、20人ほどの従者と女官とともに吉野を脱出。

6月24日 天武軍、伊賀国名張に入り隠駅家を焼き兵を募る。名張郡司は大友の出兵命令を拒否するが、天武軍には加わらず。

6月24日 天武、伊賀に進む。ここで阿拝郡司(あえ 現在の伊賀市北部)が兵約500で戦列に加わる。

6月25日 天武の長男、高市皇子が近江脱出に成功し、積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で合流。加太(かぶと)越えで伊勢の関に入る。

6月25日 伊勢国司の三宅連石床(みやけのむらじいしとこ)が天武軍に参加。500 の兵をもって山道を防ぎ、敵の追撃に備える。高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。

6月26日 天武軍、朝明の郡家を経て桑名(吉野より140キロ)に着く。天武は桑名に本営を構えるが、高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。

6月26日 飛鳥古京の高坂王が天武の謀反を大津京に伝える。朝廷は大混乱に陥る。

6月26日 安八磨郡の多品治(おおのほむじ 太安万侶の父)3千が挙兵。不破の関を封鎖。通過を図った大友軍部隊が美濃軍に拘束される。

安八磨郡は大海人皇子の生計を支えるために設定された封戸であった。
多品治(おおのほむじ)は太安万侶の父にあたる。当時は安八磨郡で封戸を管理する湯沐令であった。


6月26日 大友軍、全国に動員令を発す。東国への使者は美濃軍に妨げれ動けず。筑紫は九州防衛を口実に命令を拒否。

6月27日 尾張の国司小子部連さひち(ちいさこべのむらじ)が挙兵。2万の兵を率い不破に結集。東海道、東山道の支配権獲得に成功。
小子部連は「御陵造営」の名目で朝廷から動員されたのであろう。旧暦6月下旬といえば田植えを終え農家は多少暇になる。それが不破の関で足止めを喰らい、天武側に寝返ったものと思われる。
それにしても美濃の3千に比べ尾張2万は誇大である。戦後の処遇を見てもさほどの働きはしていないと思われる。天武側からすれば中立化できただけでも御の字であったろう。

6月27日 天武、家族を桑名において不破に向かう。野上に行宮(本営)が置かれ、ワザミガハラに前線本部が置かれる。

東国からの関門である不破の関の美濃側(安八磨郡)は天武の所領であった。おそらく天武はこの地理的条件にすべての戦略をかけたと思われる。


6月30日 天武軍は兵数万を確保。伊賀→大和方面軍が出発。軍長は多品治、将軍は紀阿閉麻呂(あへまろ)、三輪子首、置始菟(おきそめのうさぎ)ら。

7月

7月1日 玉倉部(たまくらべ-不破郡関ヶ原町玉)で最初の戦闘。大友側が奇襲を仕掛けたが撃退される。

7月2日 3~4万人からなる天武軍本隊が近江に向け進軍開始。指揮は高市皇子がとる。

7月2日 大伴吹負(ふけい)が倭京(飛鳥)で挙兵。乃楽山(ならやま 奈良市北部)まで進出し陣を構える。

7月2日 朝廷軍が犬上川に進出。不破攻撃を目指す。しかし戦闘をめぐり山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等ら将軍連が内紛。

7月4日? 大和進攻軍の一部が大和・伊勢ルート確保のため伊賀に残留することとなる。多品治が3千の兵とともに萩野(たらの)に駐屯。また伊賀と近江を結ぶ倉歴(くらふ)道の防衛には田中足麻呂があたる。

7月4日 吹負軍の坂本財の部隊が生駒山系の高安城(たかやすのき)を確保。

7月4日 坂本財の部隊が大阪側に進出するが、壹伎史韓国(いきのふひとからくに)の率いる朝廷軍に敗れ飛鳥に撤退。

7月4日 大伴吹負軍、乃楽山(ならやま 奈良市北部)で大野君果安(はたやす)の率いる朝廷軍と激突。惨敗し四散。朝廷軍は一気に飛鳥まで進出する。

7月4日 大伴吹負は落ち延びた先の宇陀で紀阿閉麻呂軍の先鋒、置始菟の部隊1千人と合流。

7月5日 大伴吹負軍、二上山のふもとの当麻(たぎま)で壹伎史韓国の朝廷軍と対戦。2日間の戦闘の上勝利。韓国は軍を離れて逃亡。

7月5日 倉歴の戦い。大友軍の田辺小隅が近江から伊賀への攻勢をかける。夜襲にあった足麻呂部隊は敗走。

7月6日 天武軍を追走した田邊小隅の朝廷軍、「たらの」で多臣品治軍3千人の迎撃を受け敗退。

7月7日 箸墓(はしはか)の戦い。大野君果安の朝廷軍と大伴吹負・置始菟連合軍による最終決戦。朝廷軍は敗走し、大和地方の闘いは終了。

7月8日 村国男依(むらくにのおより)らが率いる天武軍の本隊、息長の横河(米原市内)で朝廷軍を撃破。以後進撃を続ける。

7月9日 村国軍、鳥籠山(とこのやま 彦根)の戦いで勝利。

7月13日 天武軍本隊、安河(現野洲川)の戦いで勝利。

7月17日 天武軍本隊、栗太(くるもと 栗東町)の戦いで勝利。このあと最終決戦に備える。

7月22日 天武軍の西岸部隊、朝廷軍最後の防壁となった三尾城(高島町)を陥落。

7月22日 瀬田橋の戦い。近江朝廷軍が大敗し壊滅。

7月22日 大伴吹負軍、奈良から山を越え大阪へ進出。難波を制圧する。

7月23日 長等山へ敗走した大友皇子は首を吊って自決し、乱は収束。

7月24日 大友の首級が不破(野上)の天武のもとにもたらされる。

8月

8月25日 近江の重臣のうち右大臣中臣金(なかとみのかね)ら8名が死罪となる。

9月8日 天武は不破を出発し飛鳥に向かう。

673年

2月 大海人皇子、飛鳥浄御原宮で即位する。天武天皇から「大王」を「天皇」と呼ぶようになる。皇親(こうしん)政治が行われ、「大君は神にしませば」と神格化が行われる。





AnthropologicAl S cience Vol. 122(3), 131–136, 2014

Overview of genetic variation in the Y chromosome of modern Japanese males

Youichi Satoら、

共同研究ではなく、基本的には徳島大学のスタッフの単独調査のようである。(聖マリアンナも一部参加)

アブストラクトでは以下の問題意識が示される。

However, the data of Y chromosome haplogroup frequencies in modern Japanese males is still limited.

そこで彼らは立ち上がった。

We recruited 2390 males from nine populations in seven cities in mainland Japan and typed their Y chromosome haplogroups.

結論としてはこういうことだ。

modern Japanese males appear to be genetically homogenized in mainland Japan

それはそれでけっこうなことだ。

対象及び方法

日本国内7都市の男性住民2390人を対象とした。

内訳は

college students (S) from

①Nagasaki (n = 300)

②Tokushima (n = 388)

③Kanazawa (n = 298)

④Kawasaki (n = 321)

⑤Sapporo (n = 302)

adult males (A) from

⑥Fukuoka (n = 102)

⑦Osaka (n = 241)

⑧Kanazawa (n = 232)

⑨Sapporo (n = 206)

である。

末梢血サンプルを用いてQIAamp DNA Blood kitにより測定した。

都市間差の判定は pairwise FST values による。

結果及び考察

Japanese males belong to 16 haplogroups (Table 1)

頻度はO2b1 (22.0%), D2a1 (17.4%) D2* (14.7%)の順であった。

we did not detect any marked variability among the populations.

ハプロCの内訳を見たところ、

C1 and C3 displayed frequencies of 6.1% and 4.9%, respectively,

であった。

ハプロC(C1 and C3)は福岡のみにやや多い傾向が見られた。

ハプロD は D1, D2, andD3よりなるが、今回の調査ではD1が0.1% D2が 32.1%でD3は皆無であった。

今回の研究では、the frequency of haplogroup D2* peaked in the Fukuoka and Kawasaki students. だった。

haplogroup D2 males are equally spread throughout Japan.である可能性がある。

ハプロOは非常に細かく変異している。

O2b1 frequency in the Fukuoka adults tended to be higherだった。逆にO3a3c and O3a4 frequencies tended to be lowerだった。そもそも福岡ではハプロOそのものが少ない。

O3a3c and O3a4は福岡成人をのぞいて全国に平均して分布している。ハプロOが九州に多いという以前の報告(Hammerら 2006)は否定される。(沖縄も少ない)

結語

 we did not detect any marked variability in the frequency distribution of Y chromosome haplogroups in mainland Japan,

ミトコンドリアDNAの解析 (Shinoda, 2007; Umetsu et al., 2001)によれば、haplogroup M7の南日本優位、haplogroup N9b の北日本優位が示されている。

男性が全国ほぼ均一であることを考えると、男性の移動がより頻繁であることが推測される。

謝辞

Ministry of Health and Welfare, Japan and the Japan Society for the Promotion of Science

あとは下の図の“メタ解析”というか感想

日本人ハプロ

1.ハプロC

これだけ全国が均質化している中でも、ハプロCの地域差は鮮明である。

北からD2人が入ってきた頃、朝鮮半島からも少数のC人が入ってきて、西部にとどまったことを示していると見て良いだろう。

ただC1、C3の比率はどこでも同様だ。日本固有のC1が最初に、ついで同じ朝鮮半島経由で、いわゆる“ツングース”系のC3人が入ってきたと考えられる。

弥生時代前期に渡来人(長江人)を受け入れた縄文晩期人はこれらC人だったのかもしれない。

北海道の一般成人のC3高値はオホーツク人→アイヌ人の流れかもしれないが、それほどまでの影響があるかと言われると…

北海道民500万のうちアイヌ人はたかだか10万人。2%にとどまる。

2.ハプロD

これまで東日本優位と思われていたが、意外にもまったく地域差を認めなかった。サブタイプに分けても差は見いだせない。今のところどう判断してよいのか分からない。

3.ハプロO

ハプロOはO2系とO3系でまったく意味が違う。

O2は弥生人だ。長江文明を原産とし漢人に逐われて、朝鮮半島そして日本へと渡ってきた人々だ。

九州を除けばそれぞれがほぼ均一に分布しており、偏りは見られない。

O3はいわゆる“騎馬民族”だ。満州南部から南下し、先住民(おそらくC3人およびC3人と共生していたO2人)を支配し、あるいは駆逐し最後に九州北部に到達したのがO3aであろう。

それとは別系統(新羅系)がさみだれ式に山陰地方に到達し、この一族が大和・畿内にまで到達したのではないかと思われる。

なおこれら一連の図で、長崎と福岡にかなりいちじるしい差が見られるが、一方が学生であり他方が一般成人であるところからも、その解釈には慎重さが必要であろう。

とにかくこれで一応のベースとなる数字が出たことになる。その意義は非常に大きいと思う。

あとは人口移動が少ない農村地帯で、三代以上継続して居住している人のデータをコツコツと集積すべきであろう。


全ゲノム解析でもよいのだが、その際にY染色体ハプロのデータは引き出せるので、とにかく数万単位のデータが欲しいものである。


以前から気になっているのだが、Y染色体ハプロの内訳を調べるのに、基礎となるサンプル数があまりにも少ないことが気になっている。

しかも古い。

2005年前後の数年間に調査が行われたきり、その後大規模なデータ集積が行われていない。要するに崎田さんが先駆的にとりあげ分析した時点から、我々は一歩も前進していない。

あたかも「魏志倭人伝」のように同じデータをいろいろいじっているに過ぎない。

赤旗に時々載る遺伝子がらみの記事を見ていると、どうもミトコンドリアDNAの人も頑張っているし、全ゲノム解析の人が「これからは私達に任せて」みたいなでしゃばり方をしている。

しかしこれだけクリアカットに人種の歴史的動きが辿れる指標は他にないのである。全ゲノムはそれはそれとしてやっていけば良いのだが、現段階ではただ情報にホワイトノイズを追加しているに過ぎない。

なんとか文科省でもう少しこの研究に力を入れてもらえないのだろうか。

と、思っていたところ、やはり世間にはそう考える人がいて、データベースづくりをコツコツとやってくれている。

それが“ちべたん さんの「日本とはなんぞや?」というブログだ。

題名だけ聞くとちょっと引いてしまうが、別に「日本会議」の御用達ではない、普通に真面目なサイトである。

この参考文献のところを見てみると、最初の報告からほぼ10年、まったく研究が止まっていることが分かる。

Tajimaらの2004年の論文。

Senguptaらの2006年の論文。対象日本人は23人。

Nonakaらの2007年の論文。対象日本人は263人。

などのきわめて少数例を対象としたプレリミナリな報告に過ぎず、これで日本人の祖先を云々するのは流石にちょっとおこがましい。

ところが2014年に桁外れの多数例を対象にした調査が行われているらしいのだ。

我々は今後はこのデータ(のみ)を対象にして物を言わなかればならないだろう。

いま、このSatoの2014年調査のデータを探しているのだが、英語の報告は探せるのだが、日本語の原著が見つからない。ちべたん さんはきっとそれを読んでいるのだろうが、ブログではリンク先を明らかにしていない。

…と言いつつ日本語の原著を探したが、みごとにない。

仕方がない、英語の原著を読むことにするか。



田中美保さんの論文はかなりの衝撃だった。

以前作成したケルト人の歴史年表(2014年01月22日 ケルト人について)が全面否定されたことになる。もっともそれは私の責任ではないが。

「ケルト人について」は主としてウィキペディアからの知識によって書かれているが、

(イギリスでは)そもそもケルトという区分け自体を疑問視する声も挙がりつつある。

こうした批判は古代ブリテン史をいわば自国の歴史に書き換えようとする動きとしてフランスなどの学者からは批判に晒されている。

それに対してイギリスの学者からは古代ケルトを統合欧州の象徴に据える作為だとする反駁がなされるなど、国家間の政治問題と化している感がある。

と引用している。

ウィキは明らかに「ケルト人存在説」だ。イギリス人がごねているようにみえる。

しかし実情はそんなものではない。Y染色体ハプロタイプが明らかに中央ヨーロッパ由来説を否定しているのだ。
さらに衝撃的なのは、アングロサクソン人を自称するイングランド人さえ、遺伝学的には「ケルト人」なのだということ。アングロサクソンは先住民を虐殺したり駆逐したのではなく、その上に君臨したに過ぎないということになる。

問題は、「Y染色体ハプロタイプ」を信じるか否かにかかってる。私には「もはや勝負はついた」としか思えないが。

なおスペイン北部と聞いてバスクを思い起こす人もいるだろうが、バスクと「ケルト」は明らかに異なる。


この話を知って、私はすぐに縄文人のことを思い起こした。

Y染色体の示すところ、縄文人が北から日本列島に入り、沖縄をふくむ全土に分布したように、「ケルト人」はスペイン北部から海岸沿いに北上しブリテン諸島をふくむ西ヨーロッパの海岸沿いに分布した。

時期は縄文人より遅れ、新石器時代に入ろうとする頃であった。それ以前にそれらの土地に旧石器時代人が先住していたとも言われる。

Y染色体で見る限り中央ヨーロッパ人とは違う人種である。ケルトという人々が

紀元前の時代のギリシア人が、アルプスの北側に住む人々をさして、そう呼んだ

のだとすれば、スペインから北上した人々は、語源的には「ケルト人」ではない。

多分、19世紀の時代の物知りが、ギリシャの古い書物から見つけ出したのであろう、と想像される。

いずれにせよ、非アングロサクソン系の「大西洋型ハプロタイプ」人が紀元前後までは広く居住していて、そこに最初はローマ帝国、ついでゲルマン系の人々が侵入してきたわけだ。

数々の侵入を受けたあとも、「大西洋型ハプロタイプ」は現在に至るまでブリテン諸島人のY染色体の多数派を占めている。

これも縄文人の血が濃く受け継がれる日本と共通するものがある。

イングランドでさえ、64%が「大西洋型ハプロタイプ」であるにもかかわらず、彼らはみずからをアンゴロ・サクソンと信じている。

これは東北縄文人(エミシ)が大和文化に完全に同化して、みずからを生粋の日本人と思っているのと似ている。

そして同化しなかった(しえなかった?)人々がアイルランド人、ウェールズ人、スコットランド人として取り残された。これもアイヌ人の運命と一種似通ったものがある。 

以前にもケルト人の歴史を勉強したが、あまりにも資料が少なく“ポジティブな全体像”を描き出すことはできなかった。

多くの資料は、ギリシャ人に逐われローマ帝国に逐われ、最後はノルマン人に占領され、ブリテン諸島の片隅に逼塞する民としか描かれず、他者にとっての歴史でしかなかった。

今回田中美保さんの論文「アイルランド人の起源をめぐる諸研究と“ケルト”問題」を発見し、その書き出しに大いに期待しノートを作成する。

1.「ケルト人」は創造された人種である

田中さんの問題意識は私にとっては鮮烈であった。

「ケルト」とは実は現代の問題でもある.

アイルランド, スコットランド,ウェールズ,コーンウォール,ブルター ニュなどは,本来,非英語圏・非フランス語圏であり,イ ングランドないしブリテンやフランスといった大国に支 配されてきた歴史をもつ.
当然,彼ら固有の文化も言語も 否定されてきた.それゆえ,言語や文化の復興・振興の名 のもとにこれらの地域が集い,その際,「ケルト」という 看板が付けられるという事情もある。

このような「ケルト」神話は,近代に,各地域のナショナリズムの高揚などの影響を受けて創造されたものである.

しかし,その「ケルト」観が,歴史的事実として誤用されてきたのである.

…いまだに商業ベースでは「ケルト」という言葉が踊っている.経済効果があるからか,「ケルト」神話はなかなか消えないのである.

…本稿では,とくに分子遺伝学者たちの研究に注目しつつ,アイルランド人の起源について考えていきたい.

ということで、「そもそもケルト人という言い方が間違いである」と断言している。

2.分子遺伝学者たちの研究

(1) ブライアン・サイクスの研究

サイクスの研究は,①アイルランド人、②スコットランド人とピクト人、③ウェールズ人、④イングランド人とサクソン人・デーン人・ヴァイキング・ノルマン人に分けて,それぞれの歴史やDNAについて論じている.

アイルランドの男性の圧倒的多数は「大西洋型ハプロタイプ」と呼ばれるY染色体を持っている。

「大西洋型ハプロタイプ」の比率は、アイルランドで80~95%、スコットランドが72.9%,ウェールズが83.2%,イングランドでさえ64%を占める。

さらにスペインのバスク地方やガリシア地方でも見られる。

サイクスは,ミトコンドリアDNAなども合わせて検討し、次のような結論を出している.

中央ヨーロッパからアイルランドやブリテン諸島への大規模な移住の証拠は何もない。ゲノムのレベルでは,アイルラ ンド人は中央ヨーロッパの人々との特別に近い類似性は ない。

いわゆる「島のケルト人」と「大陸のケルト人」とは遺伝学的に見て無関係である。

これは従来のケルト由来説の否定である。
それまでは、中央ヨーロッパの いわゆる「ケルト人」の中心地から鉄器時代に大量の移住 があったとされていた。

「大西洋型ハプロタイプ」の人々の大部分は,農耕が始まった頃にイベリア半島から移住した。

このとき、ブリテン諸島にはヨーロッパ大陸から来ていた中石器時代(約1万1500年前~約6000年前)の人たちが先住していた。
(2)その他の研究

重複する部分や曖昧な論争部分を避けて、付加的事実をあげておく。

「大西洋型ハプロタイプ」の人々は、新石器時代(約6000年前~約4000年前)にイベリア半島北部から大西洋側に沿ってブリテンとア イルランドに入植した。(スティーヴン・オッペンハイマー)

つまり、「ケルト人」を鉄器時代に中央ヨーロッパから渡来した人衆と定義するならば、そのような「ケルト人」は実際には存在しなかったということになる。

したがって、ブリテン諸島人の骨格をなす「大西洋型ハプロタイプ」の人々は、「ケルト人」ではない、ということになる。


ただ、その上で「大西洋型ハプロタイプ」人を「ケルト人」と称することにしようという人(例えばサックス)もいる。

3.アイルランド人研究者の発言

(3) P・マロリー『アイルランド人の起源』2013年

アイルランド人自身による研究の代表としてマロリーを上げる。

マロリーによれば、アイルランド島が今日の形や大きさになったのは,1万2 千年前から1万年前で非常に遅い。アイル ランドはユーラシアで最も人の定住が遅かった地の一つ である。

ア イルランドの多くの起源がブリテンにある。最初の入植者はスコットランド,マン島,ウェ ールズなどであろう。

11世紀後半にアイルランドで編纂された 起 源 伝説 『ア イル ラン ド来 寇の 書』はアイルランド人自身による起源伝説である.

物語では、最後にアイルランドに来寇したとさ れるのが,「スペインのミール(Míl Espáinne)」である.

多くの研究者がスペイン由来説の傍証としてこの物語を上げるが、肝心のマロリーは、中世アイルランド の学者たちによって,古典研究にもとづいて創造されたも のであり,決して「記憶」によるものではないと主張している。

同じように分子遺伝学的所見に対しても、「未だ不確実なもの」として批判的なスタンスを取っている。



すでにこの時点で、エミシの用法はなくなっている。津軽・北海道をふくめエゾで統一されており、アイヌ語を喋るアイヌ人と考えて良いだろう。ただし津軽のエゾが狩猟・採集民族であったかどうかは疑問である。


安藤家の歴史

骨嵬と元との戦争

1216年、鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島に追放する。

1217年 鎌倉幕府、藤代の安東堯秀(五郎)を津軽外三郡守護に任命。あわせて「東夷を守護して津軽に住す」蝦夷管領に任命する。安東家が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する仕組み。安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。

1229 安藤堯秀が十三湊を支配する十三左衛門尉藤原秀直(奥州藤原氏の末裔)を萩野台合戦で破る。藤原秀直は渡島に追放され、安東氏が十三湊に移り港湾の整備や街路の建設を行う。

1246 幕府、陸奥国糠部五戸の地頭代職に甲斐の御家人南部氏を指名。安藤家の支配地は津軽半島一帯の3郡に狭められる。

1264年 樺太で骨嵬(くぎ・くい)が吉烈迷(ぎれみ)を攻撃。吉烈迷は蒙古に救援を求める。3千の蒙古軍が骨嵬を攻撃し樺太を占領。骨嵬は蒙古への朝貢を約束。骨嵬は樺太アイヌ、吉烈迷はギリヤーク(ニブフ)人と言われる。

1268年 津軽で仏教の押しつけに反発した蝦夷が蜂起。蝦夷代官の安藤五郎が殺害される。背景には蝦夷に対する苛烈な収奪があったとされる。樺太での蒙古との衝突が戦費増大をもたらした可能性もある。

1274年 元軍が北九州に襲来(文永の役・弘安の役)。

1281年 元軍が北九州に二度目の襲来(弘安の役)。

1283年 元、骨嵬に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。

1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は1万以上の兵力を投入。

1295年 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太南西部へ渡り、布教活動を行ったとされる。

1297年 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。(安東氏がアイヌを率いて侵攻したものとされるが証拠はない)

津軽大乱

1300年頃 鎌倉幕府の衰退に伴い、京都とをつなぐ日本海航路の重要性が増す。日本海ルートの拠点、十三湊が急成長。昆布と鮭の交易により財を成す。

1308年、骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。

1318年 津軽大乱が発生。惣領の安藤季長(又太郎)と従兄弟の安藤季久(五郎三郎)との間の内紛。蝦夷沙汰職相続を巡る争いが続く。両者が幕府要人に贈賄合戦。

1320年 出羽の蝦夷が蜂起。戦いは2年におよぶ。蝦夷代官・安東季長が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に撃退される。

1322年、津軽大乱が始まる。両軍は岩木川を挟んで外が浜(青森市)と西が浜(現深浦)に対峙する。

1322年 得宗家公文所が仲裁裁定。出羽のエゾ蜂起に対する鎮圧作戦の失敗を咎め、蝦夷代官職を季長から季久に替える。季長は裁定に服さず戦乱は収まらず。

1326年、鎌倉幕府、陸奥蝦夷の鎮圧のため工藤祐貞を派遣 。西が浜の合戦で安藤季長を捕える。季長郎従の季兼は「悪党」を集めて抵抗を続ける。

1327年 鎌倉幕府、「蝦夷追討使」軍を再び派遣。安藤季兼軍は西浜で幕府軍を迎え撃ち、小部隊による奇襲戦術で甚大な被害を与える。

1328年 幕府と安藤季兼軍とのあいだに和談が成立。季兼一族に安堵を与える。安藤季久は支配地の他に「蝦夷の沙汰」を確保するなど既得権を守る。幕府の権威は大きく失墜する。

1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。十三湊の下の国安東氏(宗家)と大光寺城に拠点を置く上の国安東氏(分家)に分かれる。

1333年 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。北畠顕家が奥州に下向。このあと安藤家は新政府(朝廷)側に与し旧勢力側と対峙。

(このへんよくわからないので、調べて書き足します。あまり本筋とは関係ないのだが…)

1335年、足利尊氏が建武政府に反旗。南北朝の対立がはじまる。曽我・安藤家は足利につき南部師行・政長・成田泰二と戦う。

1336 足利尊氏が光明天皇を擁立、北朝を掌握する。安藤家は北朝方(足利尊氏)に与し、津軽合戦奉行(北奥一方検断奉行)を命じられる。

1356年、「諏訪大明神絵詞」のなかでアイヌのことに言及。

1368年、元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。 

1395 安藤氏、北海の夷賊を平定しさらなる領地を獲得、再び将軍(日之本将軍)の称号を得る。

1400年頃 政権の交代に伴い、十三湊が全盛期を迎える。

西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来した。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。街は南北約2キロ、東西最大500m。幅4~5mの直線的道路が走り、安藤家の居館跡や板塀で囲われた武家屋敷跡、短冊形で区分けされた町屋、寺院墓地、鍛冶・製銅などの工房、井戸跡などが発見されている。中国製の陶磁器、高麗製の青磁器、京都産と思われる遺物も発見されている。

室町幕府が成立。北朝=足利側についた安藤氏は、鎌倉府や奥州探題を飛び越えて室町将軍に直属する(御扶持衆)。

1409 三戸南部氏が津軽に侵入。津軽の西半分は秋田・安東氏、東半分は三戸南部氏、浪岡周辺は浪岡氏が支配する。

1418 南部氏が上洛、将軍足利義持に金や馬を献上。津軽国司に任ぜられる。

1423 安藤陸奥守、足利義量の将軍就任に際し馬・鷲羽・海虎皮等を献上。室町幕府より陸奥守の称号を得る。さらに後柏原天皇から「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の称号を賜る。日本(ひのもと)将軍は北海道の管理職を意味する。

1432 安藤盛季・康季、南部氏に敗れ蝦夷島に撤退、幕府が調停に乗り出す

1442 安藤盛季・康季、南部義政に敗れ、十三湊を追われ再び蝦夷島に渡る

1452 安藤義季、南部勢に攻められ自害 安藤氏嫡流の断絶

 

前九年後三年の役

前九年の役

1000年頃 安倍忠頼、衣川以北の陸奥国奥六郡に半独立的な勢力を形成。

1050年 多賀城の国司、陸奥守藤原登任は朝廷に安倍氏討伐をもとめる。安倍頼良(忠頼の孫)は役務を怠り、税金も納めず、衣川を越えて南に支配を拡げようとしていたと非難される。

1051年 前九年の役が始まる。藤原登任、数千の兵を陸奥国奥六郡に派遣。秋田城介の平繁成も国司軍に加勢する。

11月 玉造郡鬼切部(おにきりべ)で朝廷軍と安倍軍が衝突。安倍頼良の圧勝に終わる。官軍は散を乱して壊走。大和朝廷は藤原登任を解任し、河内源氏の源頼義を陸奥守に任命。

1052年 朝廷、上東門院の病気快癒祈願の為に大赦をおこなう。安倍頼良は朝廷に逆らった罪を赦される。

1052年 源頼義が陸奥に着任。安倍頼良は、頼義と同音であることを遠慮して名を頼時と改める。

1053年 源頼義、陸奥守のまま鎮守府将軍を兼任。鎮守府の場所は不明だが、奥六郡に境を接する衣川あたりと思われる。

1056年2月 阿久利川事件が発生する。源頼義の支隊を安倍貞任(頼時の嫡子)が攻撃したとされる。ふたたび戦闘が再開される。

1056年 安倍頼時の女婿でありながら源頼義の重臣であった藤原経清は、頼義の粛清を恐れ安倍側に寝返る。

藤原経清の話はややこしいが大事なので、ここにまとめて書いておく。
経清は安倍氏と同じ俘囚の身分で、朝廷に協力し亘理の権大夫の官名を受けていた。藤原の名は下総からの流人の流れを引いているためとされる。
妻は安倍頼時の娘であり、息子が清衡である。自らは厨川で朝廷軍に捕らえられ斬罪となるが、妻は安倍氏に代わる清原氏に嫁し、清衡は清原家養子となった。これは前九年の役が最終的には安倍氏と清原氏の出来レースであったためである。
清衡は後三年の役で源義家に就き、清原家の権力を一身に集めた。その上で、実父の藤原の家名を復活させ、奥州藤原氏の始祖となった。

1057年
5月 源頼義、安倍富忠ら津軽の俘囚と結び、頼時軍の挟撃を図る。頼時は津軽説得に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け横死。安部貞任が後継者となる。

11月 源頼義、兵隊1800余りを率いて国府より出撃。北上川沿いに北上。貞任は川崎柵(現一関市)に4000名の兵を集め待機。

11月 川崎の柵近くの黄海(きのみ)で両軍が衝突。頼義軍は寡兵の上に食料不足で惨敗。戦死者は数百人に達する。源頼義・義家父子はわずか7騎になって、貞任軍の重囲に陥るが、かろうじて隙をついて脱出

1062年春 源頼義の陸奥守の任期が切れる。高階経重が着任したが、郡司らは経重に従わなかったため、再び頼義が陸奥守に任ぜられる。

7月 源頼義、出羽国仙北(秋田県)の狄賊の清原光頼を味方に引き入れ、安倍一族に再挑戦。朝廷側の兵力はおよそ1万人と推定され、うち源頼義の軍は3千人ほどであった。

8月 頼義軍、小松の柵の戦いで安倍軍に大勝。さらに北上。衣川柵、鳥海柵を撃破する。

9月17日 安倍氏の最後の拠点、厨川柵、嫗戸柵(いずれも盛岡市内)が陥落する。安倍貞任の遺児高星は津軽藤代に逃れて安東太郎と称する。

今昔物語集』第31巻第11「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」の説話は、筑紫に流された貞任の弟宗任が語った物語とされる。誰かが行ったことは間違いないが、頼時本人ではなかったと思われる。

1063年 源頼義は伊予守に転じ、源頼俊が陸奥守後任となる。奥六郡は清原氏に与えられる。1065年 「衣曾別嶋」(えぞのわけしま)の荒夷(あらえびす)と、閉伊7村の山徒が反乱。源頼俊の命を受けた清原貞衡が制圧に向かう。延久蝦夷合戦と呼ばれる。

衣曾別嶋は青森から下北あたりを指すといわれるが、下北と関係の深い胆振・千歳のエミシが加勢に来たとしても不思議はない。ただ渡党ほど強くはなかっただろう。荒夷は縄文語を話すエミシを指すのではないだろうか。

1070年 清原氏が閉伊7村を制圧。清原貞衡は鎮守府将軍に任ぜられ、陸奥も支配することになる。建郡が行われ、久慈郡、糠部郡などが置かれた。同時に陸奥鎮守府と出羽秋田城に分かれていた東夷成敗権が鎮守府に一本化された。

いずれにしても肝心なことは、和風化したエミシが初めて同胞に向かって刃を向けたということである。当初はおなじ和人化エミシである安倍一族に刃が向けられ、ついで朝廷にまつろわぬエミシにまでそれがおよんだことになる。その後清原氏が空中分解するのは当然のことであろう。しかし「大和政権の走狗」としての伝統は松前氏にまで受け継がれることになる。


後三年の役

1083年 源頼義の嫡男の源義家が陸奥守を拝命し、着任。

頼義・義家の親子は悶着を起こすのをこととしてるようにみえる。きっと多賀城・鎮守府内の好戦派集団に担がれて、その気になったのだろう。しかし朝廷にこれを抑える力はないから、実質的に関東軍化している。

1083年 清原家の相続をめぐり内紛。後三年の役が始まる。

1086年 源義家、分裂した一方に味方し、出羽に侵攻する。沼柵(横手市)の戦いに敗れ撤退。

1087年12月 義家軍がふたたび出羽に侵攻。金沢柵(横手市金沢)の戦いに勝利する。これにより後三年の役が終結。

朝廷はこれを頼家の私戦と判断。戦費の支払いを拒否し、義家の陸奥守職を解任する。義家は自らの裁量で私財をもって将士に恩賞したため、関東における源氏の名声を高める結果となった。

平泉王権の栄華

1087年 義家についた清原清衡は、実父藤原経清に従い藤原姓を名乗る。奥州藤原氏の統治が始まる。清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を続け、信頼を勝ち取る。

義家がいなくなっても多賀城・鎮守府内の好戦派は残り、再戦の機会をうかがっている。これに対抗するには、多賀城の頭越しに朝廷と直接関係を結ぶしかないと考えたのだろう。錦の御旗を失った多賀城は凋落し、平泉王国は絶頂の時を迎える。

1094 藤原清衡、平泉より外ヶ浜(現青森市)につながる「奥の大道」を整備する。また津軽に立郡が行われ、大和朝廷の直括支配下に編入される。

もちろん主目的はロジスティックスだろうが、この道を通って蝦夷の産品が持ち込まれ、それが京都の公家への鼻薬になれば、黙認されるであろう。
かくして京の街には大量の蝦夷産品が流れ込み、ブームを形成した。

1099年 藤原清衡、盛岡より南進し平泉を開府。

1110 この頃成立した「今昔物語」に「今昔、陸奥の国に阿部頼時という兵ありけり。その国の奥にエゾというものあり」と記載。「エゾ」の初出とされる。陸奥の奥はツカロ(津軽)と呼ばれる。

1111 出羽国で反乱。守護源光国は任務を放棄。このころ、鎮守府将軍の藤原基頼、北国の凶賊を討つという。

1124年 清衡によって中尊寺金色堂が建立される。平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となる。

1126年、藤原氏(清衡)の支配が津軽にも及ぶ(推定)。外の浜まで一町ごとに笠卒都婆を建てる

1131 藤原氏はアイヌの物産を京に運ぶことで財を成す。京都の朝廷は清衡を「獄長」と表現。「奥六郡」における「俘囚の長」としての扱いを貫く。

1143 琵琶の袋としてエゾ錦が用いられるなど、エゾとの交易が文献上で確認されるようになる。

和人化したエミシは日本人として認識されるようになる。これに対し津軽・北海道のエミシは依然として異人とみなされ、エゾと呼ばれるようになる。

1150 藤原親隆、歌の中に「えそがすむつかろ」(蝦夷が住む津軽)と表現。

1153 平泉政権の二代藤原基衡、年貢としてアザラシの皮5枚ほかを上納する。北海道まで交易・支配が及んでいたことが示唆される。その後秀衡の時には鎮守府将軍・陸奥の守に任官される。その兵は奥羽17万騎と称される。

奥州藤原氏の滅亡

1185年 奥州藤原家、源頼朝に追われた義経を秘匿。後、頼朝の圧力を受け殺害。

1189年7月 頼朝軍が奥州に侵攻。藤原氏を滅ぼす。泰衡は糠部郡に脱出。出羽方面から夷狄島を目指すが、肥内郡贄柵(現大館市仁井田)で討たれる。秀衡の弟藤原秀栄は十三湊藤原氏の継承を許される。
1189 幕府は奥州惣奉行を設置。御家人(東国武士)を旧藤原領に配置し奥州の支配を強化。一方で朝廷の多賀城国府も存続し、出羽国内陸部では旧来の在地豪族が勢力を保持。東国武士と在地勢力の軋轢が強まる。

1189年12月 安平の郎党で八郎潟の豪族だった大河兼任が反乱。

1190年1月 大河、津軽に入り鎌倉軍を撃破したあと平泉を奪還。藤原氏の残党を配下に加えて一万騎に達する。

3月 大河軍、栗原郡一迫で鎌倉軍と対決するが、壊滅的打撃を受け敗走。兼任は敗死。

1190年 安藤季信が、津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。季信は安倍氏の末裔で、頼朝の奥州攻めで先導をつとめた安藤小太郎季俊子。(実体的支配は1217年以降と思われる)

鎌倉幕府は、経済的収奪はしっかりしたが、朝廷とは異なり人種的偏見は見られない。時代が変わったためであろうか、彼らも縄文の血を色濃く受け継いでいたためであろうか。

1191 頼朝軍の代官南部氏が、甲斐の南部から陸奥九戸、糠部へ移住。



第一次エミシ戦争

エミシによる最初の抵抗

720年 渡島津軽の津の司の諸君鞍男(もろのきみくらお)ら6人を靺鞨に派遣し、その風俗を観察させる。(渤海国のことか?)

720年(養老4年)9月 蝦夷(えみし)の叛乱。按察使の上毛野朝臣広人が殺される。持節征夷将軍と鎮狄将軍が率いる征討軍が出動。

721年4月 征討軍、蝦夷を1400人余り、斬首・捕虜にし都に帰還。

721年 出羽の国が陸奥按察使の管轄下に置かれる。

724年3月(神亀元年) 海道の蝦夷が反乱。陸奥大橡(国司の三等官)の佐伯宿祢児屋麻呂(こやまろ)を殺害する。勢力範囲は気仙・桃生地方や牡鹿地方とされる。

724年 朝廷は藤原宇合(うまかい)を持節大将軍に任命。関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。

724年 大野東人(あずまひと)により陸奥鎮所が設営される。東人は鎮守将軍(東北地方の最高責任者)として、郡山に駐在していたものと思われる(石碑によって確認される)。陸奥鎮所はのちに多賀柵と改名される。

724年 出羽の蝦狄の叛乱。小野朝臣牛養が鎮狄将軍として派遣される。

725年 陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人配す。この後和人に抵抗する蝦夷が数千人規模で諸国に配流される。

727年 渤海より最初の使者が派遣される。出羽の海岸に漂着。蝦夷に殺害されるが生存者8名が聖武天皇との会見。その後200年にわたり使者を交流する。

733年 大野東人、出羽地方の本格的平定に乗り出す。蝦夷との境界となる出羽柵が、山形庄内地方から秋田村高清水岡(現秋田市)に移設される(続日本紀)。

736年 朝廷は、出羽平定作戦を承認。藤原不比等の息子である藤原麻呂を持節大使に任命。関東6国から騎兵1千人が配備されるなど大規模な征討軍を編成する。

736年 陸奥の国では出羽出陣後の保安のために色麻柵、新田柵、牡鹿柵などが造営される。また田夷で遠田郡領の遠田君雄人(とおだのきみおひと)を海道に、帰服の狄である和賀君計安塁(けあるい)を山道に派遣し、住民慰撫を計る。

737年早春 大野東人がみずから大軍を率い、多賀城を出発。日本海側の出羽柵(秋田)にいたるルート確立を目指す。騎兵196人、鎮兵499人、陸奥の国の兵5千人、帰服した蝦夷249人の陣容。

737年早春 出羽討伐軍、奥羽山脈を越え大室駅(現在の尾花沢近く?)に至る。ここで出羽国守の田辺難破の軍と合流。田辺軍は兵500人、帰服した蝦夷140人の陣容。

737年春 討伐軍、雄勝峠(有屋峠?)を越え比羅保許(ひらほこ)山まで進出するが、蝦夷が反撃の姿勢を示したため撤退を決断。出羽の国司が撤退を勧め、討伐軍がこれを受け入れたことになっている。

740年 大野東人、九州の藤原広嗣の乱に際し持節大将軍として出兵。

大規模な砂金鉱の発見

749年 百済王敬福が涌谷町の黄金山で黄金を発見。その後陸奥の国に複数の金山が発見される。朝廷は「多賀郡よりも北の地方からは、税金として黄金を納める」よう命令。

750年 大和朝廷、桃生柵・雄勝柵などの城柵をあいついで設置。桃生柵は現在の桃生郡河北町飯野。

757年 藤原恵美朝臣朝獦が陸奥の守に就任。

757年 桃生柵でさらに本格的な築城が始まる。

760年 雄勝城(おかちのき)が藤原朝獦(朝狩)により確立。没官奴233人・女卑277人が雄勝の柵戸として送られる(現横手市雄物川町)。雄勝城の後身である払田柵の規模は多賀城を遥かに凌ぐとされる。

760年 出羽柵は秋田城へと改変される。

762年 多賀城の大改修が始まる。「不孝・不恭・不友・不順の者」が数千の規模で捕えられ、陸奥に送り込まれる。

767年 伊治城の建設が完了する。伊治は現在の栗原郡築館町。

東北大戦争(38年戦争)

宇漢迷公(ウカンメノキミ)・宇屈波宇(ウクハウ)の反乱

770年(宝亀元年) 海道の蝦夷の宇漢迷公(ウカンメノキミ)宇屈波宇(ウクハウ)、桃生城下を逃亡し賊地にこもる。大和朝廷への朝貢を停止。呼び出しに応じず、城柵を襲うと宣言。「賊地」は登米郡遠山村とされる。

772年 下野国から「課役」を逃れるため、農民870人が陸奥へ逃げ込む。

774 宇屈波宇が反乱。蝦夷・俘囚を結集し桃生城を攻略。

774年 大和朝廷の大伴駿河麻呂、二万の軍勢を率いて東北に侵攻。遠山村(登米郡)を攻撃。東北地方全土を巻き込む「38年戦争」が始まる。

776年 大伴駿河麻呂、海道を制圧しさらに山道に進出。出羽国志波(岩手県紫波郡)で蝦夷軍と対決。蝦夷軍は一時これを押し返すが、駿河麻呂は陸奥軍三千人を動員してこれを撃破。胆沢(水沢市付近)までを確保する。(岩手県は陸奥ではなく出羽に属していたようです)

776年 出羽国の俘囚358人が、大宰管内と讃岐國に配流される。うち78人が諸司と参議に献上され、賤の身分におとされる。

778年 出羽の蝦夷が大和朝廷軍を打ち破る。朝廷軍は俘囚から編成した俘軍を編制し蝦夷軍と対抗。俘囚の長で陸奥国上治郡の大領、伊治公呰麻呂(いじのきみ・あざまろ)が伊治柵の司令官となる。

780(宝亀11) 呰麻呂が蜂起。伊治柵の参議で陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)らを殺害。さらに多賀城を略奪し焼き落とす。同僚の道嶋大楯(みちしまのおおだて)からの差別や、城作の造営への地域住民の酷使への反感から決起したといわれる。

780年 朝廷は藤原継縄(つぐただ)を征東大使に、大伴益立・ 紀古佐美(紀広純のいとこ)を征東副使とする討伐隊を編制。数万の兵力で多賀城を奪回するが、伊治公呰麻呂は1年にわたり抵抗を続ける。主な指導者として伊佐西古、諸絞、八十嶋、乙代らの名が残されている。

780年 反乱は出羽地方の蝦夷へも拡大。朝廷は出羽鎮狄将軍に阿倍家麻呂を任命。出羽国司に渡嶋蝦夷への饗応を指示する。

784 大伴家持、征東将軍として陸奥に派遣される。高齢の為にまもなく死亡。

アテルイの奮戦

786 桓武天皇、蝦夷征伐と東北平定を命じる。

788年7月 桓武天皇、紀古佐美を征夷大将軍に任命。東海・東山・板東から兵員を集める。日高見国のえみしは、胆沢の大墓公阿弖流為(たものきみ・あてるい)と磐具公母礼(いわぐのきみ・もれい)を指導者として防衛体制を固める。

789年3月 5万の大軍を与えられた紀古佐美は、多賀城を出発。エミシの集落14村・家800戸を焼き払いながら侵攻。アテルイは遅滞攻撃をかけながら徐々に後退。(以下は紀古佐美の報告にもとづいた「続日本紀」の記載による)

3月 紀古佐美軍、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯。賊軍の激しい抵抗の前に前進を阻まれる。

5月末 紀古佐美軍、桓武天皇の叱責を受けて行動を再開。中軍と後軍の4千人が北上川西岸の三ヶ所の駐屯地から、川を渡って東岸を進む。

5月末 中軍と後軍は、「賊帥夷、阿弖流爲居」を過ぎたところでアテルイ軍約300人を見て交戦を開始。アテルイ軍を追いながら巣伏村に至る。

5月末 アテルイ軍、巣伏村で渡河を試みた前軍を撃退。前線に800人の増援部隊を送り込む一方、後方の東山に400名を送り、紀古佐美軍の退路を断つ。

5月末 朝廷軍は急襲にあい惨敗。部隊の半分が死傷。このうち別将の丈部善理ら戦死者25人・矢にあたったもの245人・河で溺死したもの1036人・河を泳ぎ逃げたもの1217人とされる。アテルイ側の兵力はわずか1500名、戦死者は89人だったとされる。

9月19日 帰京した紀古佐美は喚問され、征夷大将軍の位を剥奪される。

791年7月 大伴弟麻呂が征夷大使に任命される。百済王俊哲、坂上田村麻呂ら4人が征夷副使となる。侵攻に備え10万の大軍が編制され、26万石の食料が準備される。(この年と794年の2回征討作戦があったとは考えにくいので、とりあえずあいまいに書いておきます)

792年 征東大使大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂に率いられた第二次征東軍が侵攻。十万余に及ぶ兵力で攻撃をかけるが制圧に失敗。(794年の攻勢との異同は不明)

792年 斯波村の蝦夷の胆沢公阿奴志己らが朝廷に帰順。伊治村の俘に遮られて王化に帰することが出来ないので、これと闘って陸路を開きたいと申し出る。

794年4月 朝廷軍10万が日高見へ侵攻開始。蝦夷側は75の村を焼かれ、馬85匹を奪われた。朝廷軍は首457級を上げ1501人を捕虜とする。アテルイは攻撃をしのぎ生き延びる。

6月 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を征すと報告。

11月 大伴弟麻呂が帰京して戦果を奏上。

795年11月 渤海の国使が蝦夷の志理波村に漂着。現地で略奪されるが出羽国の出先に保護される。志理波村は余市のシリパ岬周辺とみられる。

796年 この年だけで関東一円を中心に、9000人の諸国民が伊治城下の旧蝦夷領に入植。おそらく日高見侵攻作戦の参加者が褒賞として与えられたものと思われる。

日高見国の滅亡

797年11月 蝦夷征伐で戦功を上げた田村麻呂が征夷大将軍に任命される。田村麻呂は各族長に対する「懐柔工作」によって抵抗力を削ぐ。
800年頃 奥州から青森(外ヶ浜)に通じる交易路がこの頃に開かれたとされる。

801年2月 征夷大将軍坂上田村麻呂、第三回目の日高見国攻略作戦。4万の軍が胆沢のアテルイ軍を破る。アテルイとモレイは度重なる物量作戦により弱体化。

801年9月 坂上田村麿、「遠く閉伊村を極めて」夷賊を討伏したと報告。

802年1月 田村麻呂、アテルイの本拠地に胆沢城を造築。多賀城から鎮守府を遷す。住民を追放した土地に、関東・甲信越から4000人が胆沢城下におくり込まれ、柵戸(きのへ)として警備にあたる。

4月15日 アテルイとモレ、生命の安全を条件とし、500余人を率いて田村麻呂に降伏。二人は平安京に連行される(日本紀略)。

7月10日 アテルイとモレ、田村麻呂に従って平安京に入る。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるよう提言する。

8月13日 朝廷、「蝦夷は野生獣心、裏切って定まりない」とし、アテルイとモレを河内国杜山で斬刑に処す。(写本により椙山、植山、杜山との記載があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない)

征夷作戦の中止へ

802年 律令政府は三次にわたる戦役で捕虜となった蝦夷を、夷俘として各地に移配する。風俗習慣に慣れていないという理由で田租の納入を免除されるなど一定の配慮。

802年6月 朝廷の出羽太政官、渡島蝦夷との私交易を禁止。熊やアシカの皮の品質確保を狙ったものとされる。

803年3月 坂上田村麻呂、造志波(しわ)城使に任じられ、造設にあたる。志波城は北上盆地のほぼ北端に位置し、それから北は奥深い山林となる。

804年 第4次の征夷作戦が計画される。目標は岩手県の北から青森県にかけて。坂上田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられる。板東・陸奥7カ国に動員令がだされ、兵糧が小田郡中山柵に運び込まれる。

805年12月 桓武天皇の御前で「天下徳政」相論。北進継続を主張する菅野眞道に対し、藤原緒嗣は「方今、天下の苦しむ所、軍事と造作なり。この 両方の事を停(とど)めれば百姓安んぜん」と主張。帝は藤原緒嗣の意見を採り、第4次の征夷作戦が中止になる。「衆の推服する所のもの一人を撰び之が長と せよ」との触れが出される。

度重なる大規模出兵にもかかわらず、エミシの抵抗が収まらないことから、朝廷のトップにまで厭戦気分が広がったものと思われる。

805年 播磨国に配されたアイヌ人俘囚が反抗。吉弥侯部兼麻呂・吉弥侯部色雄ら十人が、「野心を改めず、しばしば朝憲に背く」ため、遠島に流される。

806年 近江國の夷俘の六百册人が大宰府に派遣され防人となる。「平民と同じくするなかれ」とされ、一段低い身分を押し付けられる。

809年 藤原緒嗣、東山道顴察使に加えて陸奥出羽按察使に任命され多賀国府に赴任。緒嗣は三度に渡って「自分の任ではない」と辞退したという。

811年(弘仁2年)の平定作戦

2月5日 文室(ふんや 文屋とも書く)綿麻呂、紫波城より北方の爾薩体(にさったい)、弊伊(へい)の2村の蝦夷を攻撃することを上申。「出羽国の夷が邑良志閇村を攻撃。同村の降俘の代表、吉弥侯部都留岐が国府に救援を要請」したとされる。

綿麻呂は810年の薬子(くすこ)の変に巻き込まれ幽囚の身となるが、坂上田村麻呂の助命嘆願により救われ、藤原緒嗣に代わる陸奥・出羽按察使に任命される。

4月17日 綿麻呂は征夷将軍に任ぜられる。2万5千の兵力を要請するが、実際には1万人足らずにとどまる。現地の俘囚の同盟軍を加え2万の軍を編制。爾薩体、弊伊、都母の村を侵略。

10月13日 文室綿麻呂の38年戦争終結宣言。戦功が認められ征夷将軍に任命される。陸奥國の公民の内、征夷の戦いに参加した者に対しては調庸(税金または使役)を免除。

812年 陸奥国胆澤に鎮守府を設置。和我(和賀)・稗縫(稗貫)・斯波(紫波) の三郡を設置。占領地を律令政府の行政区画に組み入れる。盛岡には志波城を移転した徳丹城を建設。

エミシ虜囚の反乱

813年5月13日  陸奥で止波須可牟多知(トヒスカムタチ)の反乱。トヒスカムタチは帰順した蝦夷で吉弥侯部の姓を持つ。綿麻呂がふたたび征夷将軍に任ぜられる。津軽の狄俘の反乱に備え胆沢・徳丹城に糒や塩を備蓄させる。

津軽は常に容易ならざる敵として認識されている。津軽に朝廷の手がおよばなかったのは、遠隔であったからではないようだ。一番美味しい北海道都の取引を考えれば、むしろ喉から手が出るほど欲しかったのが津軽であったろう。

814年 出雲国意宇でエミシ俘囚の乱。この反乱で米が奪われたため、神門三郡の未納稲は十六万束になる。甲斐國でエミシ俘囚の乱。賊首とされた吉弥侯部井出麿ら男女13人が伊豆に流される。

815年 文室綿麻呂、按察使を離任し京に戻る。これに代わり、小野岑守が陸奥守に任ぜられる。

最後のタカ派が更迭されることにより、朝廷は守りの体制に入った。これは戦略としては最悪である。俘囚が次々に殺害されていることが知られれば、前線基地は怒りと恨みの中に取り残されることになる。
任務を果たした後は、停戦に持ち込み撤退すべきであろう。

815年 小野篁、父・岑守に従って陸奥国へ下る。その詩に「反覆は単干(匈奴の王)の性にして、辺城いまだ兵を解かず」と、従軍のきびしさを託す。(827年作成の「経国集」に掲載)

830年 大地震により秋田城が損壊。

847年 日向国の記録に「俘囚死に尽くし、存するもの少なし」との記載。

848年 上総国でエミシ俘囚の乱。丸子廻毛らが反乱。まもなく当局により57人が捕らえられ処刑される。

エミシによる反撃の開始

反乱のきざし

855年 陸奥国の奥地で俘囚が互いに殺傷しあったため、非常に備えるために援助の兵2千人を発し、さらに近くの城の兵1千人を選んで危急に備える。

当初は、朝廷側が再攻撃のための口実かと考えたが、力関係から言えば逆のようだ。抑圧された側の反撃はまず恭順派の排除から始まるわけで、それが内紛と見えたのだろう。内紛としか捉えられなかった情報収集能力が問われる。

875年 渡島の荒狄(あらえびす)が水軍80隻で秋田・飽海(酒田)地方に襲来、百姓21名を殺害。

これは重要な内容をふくんでいる。百姓というのは和人入植者であり、稲作最前線が秋田まで到達していることを意味する。
百姓に対する攻撃は、和人・農民を敵とする考えに基づく行動である。その考えが渡島までふくめたエミシ共通のものとなっていることが分かる。
渡島から80隻が船団を組んで来襲した事実は、エミシ側の並々ならぬ動員力を物語る。
北海道のエミシは「渡党」と呼ばれ、この頃はオホーツク人と海上覇権をめぐる争いの只中にあったから、戦闘は慣れたものでっただろう。

875年 下総国でエミシ俘囚の乱。「官寺を焼き討ちし、良民を殺戮」する。 朝廷は「官兵を発して以って鋒鋭を止め」よう指示。さらに武蔵・上總・常陸・下野の国に各三百人の兵を派遣するよう命じる。まもなく反乱は鎮圧され、 100人以上が処刑される。朝廷は行過ぎた弾圧を批判。

元慶の反乱

878年(元慶2年)

東北地方に飢饉。出羽の国では苛政に対し不満が高まる。

2月 元慶の乱が発生。秋田の蝦夷が反乱。秋田城を攻める。出羽国守の藤原興世は城を捨てて逃げ走る。城司の良岑近は「身を脱れて草莽(く さむら)の間に伏し竄(かく)れ」たという。逆徒(げきと)は蟻のごとくに聚り、兵営や要塞を囲み、城と周辺の民家に火を放つ。

3月 朝廷は陸奥国に出羽を救援するよう指令。陸奥の守は精騎千人歩兵二千人を編制し、藤原梶長を押領使とする軍を派遣。

4月 陸奥の軍勢と出羽軍2千が、秋田川のほとりに達する。このとき霧にまぎれて、賊徒千余人が早船で奇襲攻撃。同時に数百人が背後より攻める。官軍は狼狽して散じ走った。
 

戦闘の顛末: この戦闘で500余人が殺され虜となる。逃げ道では互いに踏み敷かれて、死するもの数え切れず。軍実甲冑は悉くに鹵獲される。
文室有房(副官)は瀕死の重傷を負い、小野春泉(副官)は死せる人の中に潜伏してかろうじて死を免れる。藤原梶長は深草の間に隠れ、5日間も飲まず食わずに送り、賊去りし後、徒歩で陸奥まで逃れた。

5月 陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に任命。小野春風を朝廷軍指令官とする。陸奥・上野・下野に動員をかけ、4000人の兵で秋田に入る。陸奥権介の坂上当道(坂上田村麻呂の曾孫)も討伐軍に加わる。(一説に孫の坂上好蔭)

5月 秋田の北東12か村が反乱。秋田城が急襲され、朝廷軍は大敗。食料・軍備を奪われる。「賊虜強く盛にして、官軍頻に敗れ、城或は守を失ひて群隊陥没」する。

6月 小野春風の率いる陸奥=俘囚の軍、反乱集団の多くを懐柔することに成功。「夷虜は叩頭拝謝し、態度を改めて幕府に帰命」する。その証として、帰順を拒否する首長二人の首を斬って献上する。秋田城を包囲して攻撃。反乱軍2000人が逃亡。

12月 鹿角の反乱軍300余人が降伏。元慶の乱が終結。

879年1月 渡島の蝦夷の首103人が3千人を率いて秋田城に詣でた。朝廷はこれを歓迎する(日本三代実録)。この頃のものとみられる夷の印入りの土師器の杯が札幌、余市から出土している。

渡島蝦夷の態度がいまいちはっきりしない。津軽・出羽のエミシを飛び越え、中央政権とチョクで交易を望んだのか、津軽・出羽と連携して武力を誇示すべく大軍団を組んだのか。
いずれにしても渡島蝦夷の強さが際立つ印象的な場面である。彼らは札幌、余市までも勢力範囲とし、これを秋田まで船上輸送する力を持っていた。朝廷はこれを「歓迎」せざるを得なかった。少なくとも北海道については一目置いたことになる。
なお津軽についても同様の扱いとなっている。出羽国司は「津軽の夷俘は、その党多種にして幾千人なるを知らず、天性勇壮にして常に習戦を事とす。もし逆賊に招かば、その鋒当り難し」と報告している。(901年の「三代実録」に記載)かなりビビっていることが分かる。

883年 上総国市原郡で俘囚の乱。40人あまりの集団が「官物を盗み取り、 人民を殺略。民家を焼き、山中に逃げ入」る。当局は「国内の兵千人で追討」する許可をもとめる。朝廷は「群盗の罪を懼れて逃鼠した」に過ぎず、人夫による 捜索・逮捕で十分であるとし、国当局の申請を棄却する。

883年 結局、俘囚は全員が処刑される。太政官は討伐隊の戦功をたたえつつも、①渠魁を滅ぼし、梟性を悛めることがあれば務めて撫育せよ。②事態が急変したのでなければ、律令に勘據し太政官に上奏せよ、と注文。

893年 出羽でふたたび反乱が発生。国司は中央には「出羽の俘囚と渡島の狄との戦い」が発生したと報告。城塞を固めて万一に備える。
900年 この頃から津軽で製鉄・須恵器の生産が盛んとなる。製品は主として北海道に持ち込まれる。津軽では人口が激増。逆に出羽以南では人口が激減する。出羽のエミシが大量に津軽へ移入した可能性あり。北海道でも松前から桧山一帯に津軽型文化の遺跡が急増する。

900年 この頃から陸奥国奥六郡の俘囚長、安倍氏が力をつける。厨川柵(現盛岡市)を築く。

939年 天慶の乱

4月 出羽国で、俘囚による反乱。秋田城軍と合戦。天慶の乱と呼ばれる。

938年に朝鮮の白頭山が噴火し、世界的な冷害をもたらした。

5月6日 賊徒が秋田郡に到来し、官舎を占拠し官稲を掠め取り、百姓の財物を焼き亡くす。朝廷は陸奥の守に鎮圧を指示。

6月 平将門の謀反。平将門が兵1万3千人を引き連れて陸奥・出羽を襲撃するとのうわさが流れる。将門の父良将は征夷大将軍として陸奥国に出征している。
940年2月 将門追討の官符を受けた平貞盛、下野の豪族藤原秀郷を味方につけ平将門軍を破る。

関東武士集団は対エミシ強硬派を代表していた。それは直接彼らの利権(入植)にも絡んでいた。彼らには朝廷の弱腰が我慢できなかったのであろう。このあと、東北の争いは関東武士とエミシとの争いに様相を変えていく。

947年 陸奥国の狄坂丸の一党が鎮守府の使者並茂を殺害。

950年 この頃、鹿角経由で奥州と津軽(油川)を結ぶ奥の大道が作られる。また安代で分岐して糠部に向かう「馬の道」も形成される。

久しぶりにアイヌ年表を見て、東北エミシの歴史が思ったほど書き込まれていないことに気づいた。

たしかかなり勉強したつもりだったが、年表化しなかったのか、あるいは他の年表にしまいこんだんか定かでない。いずれにしても死んだ子の歳を数えても始まらない。

どうせ暇なのだから、東北エミシの年表を作ってみようかと思う。終わりは十三湊の安東氏拠点の陥落だ。結構ドラマチックである。ただし南部氏を駆逐した津軽氏がエミシ系でなかったという保証はないので、状況次第によってはそこまで降るかもしれない。

アイヌ年表ではアイヌとして一括したが、“若気の至り”だったかもしれない。とりあえず東北の縄文人を「エミシ」の名で一括したい。当然そこには和人化したエミシと、縄文文化(言語をふくむ)を保持するエミシがあるが、律令国家の側から見れば程度の差こそあれ毛人・夷狄として一括されていた。

わたしもその分類に従うことにしたい。

 

阿倍比羅夫による蝦夷地域への遠征

「蝦夷」は初期においては東北の毛人(縄文人)を指した。蘇我蝦夷のエミシである。東北地方の聘定が一段落すると、津軽・陸奥に残存する縄文人を指す言葉となり、そこも和風化すると北海道の縄文人を指す言葉となった。この場合は蝦夷と読むようになる。

比羅夫以前の蝦夷

400年頃 東北北部に続縄文文化が広がる。

年代不詳400年ころ? 日本書紀の景行天皇条。「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と記される。

関東甲信越地方は縄文時代にもっとも人口稠密な地域であった。この縄文人が「熟夷」として大和勢力に服属するのは400年前後のことと思われる。したがって日高見は関東より北、すなわち東北地方であろう。

年代不詳450年頃? 田道将軍、蝦夷(エミシ)の為に敗られて、伊寺水門(イシノミナト)に死(ミマカリ)ぬ(『日本書紀』巻十一仁徳天皇の条)

488年 中国の史書「宋書」、478年に送られた倭王武の上奏文に触れる。倭王武はこの上奏文のなかで、「東は毛人55国を征し」たと述べる。また「旧唐書」では、「東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと」 述べる。大山は箱根を指すといわれる。

544年 日本書紀の記事に粛慎(あしはせ)が佐渡島に来着し、漁撈を営んだとの記載あり。
581年 蝦夷が辺境で反乱を起こす。その首長綾糟らが朝廷に服する。

586年 蘇我蝦夷が誕生。東国に住む「えみし」の名は強者の象徴であったとされる。神武東征記にも「愛瀰詩」の名で登場する。
637年 蝦夷が反乱し。上毛野の形名将軍が討伐する。

645年 大化の改新。道奥国が置かれ、東国国司が派遣される。

647年 大和朝廷、日本海側の海岸線沿いに渟足柵(ぬたり)を造営する。渟足は現在の新潟市阿賀野川河口付近。

648年 渟足柵に続いて磐船柵(いわふね)が造られる。磐船は新潟県村上市岩船。「蝦夷に備え、越と信濃の民を選んではじめて柵戸を置く」(日本書紀)またその後の10年のあいだに、都岐沙羅柵(つきさら)が設置されている。都岐沙羅は念球ヶ関説、最上川河口説、秋田県南部説などがある。

649年 高志(北陸)の豪族である阿倍氏の当主、内麻呂が死亡。傍系の引田系の阿倍比羅夫が後を引き継ぐ。引田臣比羅夫は越(高志)国の国司に任じられ、北方警護の責任者となる。

650年頃 評、国が設定され、陸奥の国が置かれる。

650年ころ 唐の史料に、流鬼(オホーツク人?)が黒テンの毛皮を献上したとの記載あり。

655年 難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応する。北蝦夷は出羽、東蝦夷は陸奥を指すとされる。-『日本書紀』斉明天皇元年柵養蝦夷と津軽蝦夷を叙位。

阿倍比羅夫の遠征

658年(斉明4年)4月 第一回目の北征。軍船180隻を率い日本海を北上。

658年 齶田浦(あぎたのうら)(飽田)に達する。当地の蝦夷の首長の恩荷(オガ)を恭順させる。小乙上(せうおつじやう)の位を授け、渟代(ヌシロ)と津軽(ツカル)の郡領に任命。津軽郡大領・少領に冠位・武具を授ける。

658年 陸奥の蝦夷を連れて有間浜に至り、渡島蝦夷(わたりしまのえみし)を招集して饗応する。有間浜は①深浦から鰺ヶ沢付近、②岩木川の河口、十三湖中島付近説がある。

658年7月 ツカル・ヌシロの蝦夷200余人が、飛鳥の朝廷に朝貢。

658年11月 阿倍比羅夫、渡島蝦夷の北方に住む粛慎(ミシハセ)を討ち帰還。熊二頭とクマの皮70枚を献上。(日本書紀 斉明天皇4年)

粛慎に関しては諸説あり。読み方もミセハシ、アシハセ、ミシハセなどまちまち。南下したオホーツク人(現ウィルタ人)であろうと思われる。

659年3月 二回目の北征。飽田・渟代・ツカルを制圧。これら三郡のほか胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷20人を集めて饗応。

659年 その後肉入籠(シシリコ)に渡る。先住民の勧めにしたがい、後方羊蹄(しりべし)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いたとの記述。(58年と59年の北征は、同じ出来事を別々の原典から取った可能性もあるとされる)

659年 日本書紀では「ある本にいわく」として、この年も粛慎と戦い、捕虜49人を連れ帰ったとする。

659年 中国の史書「新唐書」の「通典」、日本から「使者与蝦夷(夷)人偕朝」と述べる。このとき使者は、「蝦夷(エミシ)には都加留(つがる)・アラ蝦夷(あらえみし)、そして熟蝦夷(にぎえみし)の三種類の蝦夷がいる」と説明したという。

遠い順に並べたとすれば津軽が縄文語を話すエミシで、アラエミシが出羽と陸奥のエミシ(おそらくバイリンガル)であり、ニギエミシは関東甲信越の先住民であったと想像される。ニギエミシは倭王武の時代に征服された「東は毛人を征すること五十五国」の人々であり、この頃にはほぼ和人化されていると思われる。

659年 日本書紀ではこれに対応して、遣唐使が「道奥の蝦夷(エミシ)の男女2人を唐の天子(当時は高宗の時代)に貢した」とある。

660年3月 三回目の北方遠征。200艘の船で日本海を北上。大河のほとりで、渡島(ワタリシマ)の蝦夷の要請を受け粛慎と戦い、これを殲滅する。

海の畔に渡嶋の蝦夷一千余の集落があり、そこに粛慎の船団が攻撃して来る。阿倍比羅夫は絹や武器などを差し出し、相手の出方を探る。粛慎からは長老が出てきて、それらのものをいったん拾い上げるが、そのまま返し、和睦の意思がないことを示す。
その後粛慎は
弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立てこもる。比羅夫はもう一度「和を請う」たあと攻撃を開始。激戦の末、粛慎は敗れ、自分の妻子を殺したのち降伏する。比羅夫の側でも能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が戦死。

5月 阿倍比羅夫、朝廷に粛慎など50人を献上。

瀬川さんは弊賂弁嶋を奥尻としている。青苗にオホーツク人の遺跡があることから、この説は説得力がある。この際、大河は瀬棚に注ぐ後志利別川に比定される。

大和長征の北進が一時停滞

660年 百済、唐=新羅連合軍の攻撃を受け滅亡。朝廷は北方進出を中断し、すべての水軍を百済復興に振り向ける。

661年 阿倍比羅夫、百済救援軍の後将軍に任じられる。

663年 阿倍比羅夫、新羅征討軍の後将軍に任じられる。ほぼ同じ頃、筑紫大宰府帥にも任命される。

663年 日本水軍、白村江の戦いで唐・新羅連合軍の水軍に惨敗。壊滅状態となる。このあと、船団を組んでの蝦夷征伐はなくなる。

668年(天智7年) 天智天皇が即位する。

672年 壬申の乱。北方への進出は一時停滞。

689年 優嗜曇柵(うきたみ)が設置される。優嗜曇柵は米沢盆地のある置賜郡。同じ頃仙台市郡山にも柵が形成された。

696年 大和朝廷、渡島蝦夷の伊奈理武志(イナリムシ)、粛慎の志良守叡草(シラスエソウ)らに錦、斧などを送る。(日本書紀 持統天皇10年)

698年 靺鞨の一族である震国が唐朝の冊封を受け、渤海国と称する。一説では高句麗の末裔で豆満江流域を中心に交易国家を建設。

7世紀末 陸奥国から石城国と石背国(福島県の浜通と中通)が分立。陸奥の国は仙台平野と大崎平野だけからなる小国となる。仙台市南部の第二期郡山官衙遺跡は寺院を付設し、多賀城建設までのあいだの旧国府と目される。

和人の東北地方への本格的進出

越から出羽への陸上進出

700年頃 大臣武内宿禰の東国巡視の報告(日本書紀)。「東の夷の中、日高見国がある。男女ともに入れ墨をし、勇敢である。土地は肥沃で広大である。征服してとるべき」である。現在の仙台平野から北上川流域に広がっていたと思われる。

700年 越後北部に石船柵(イワフネ)を造営。越後國は出羽郡の新設を申請し、北方進出策を強める。(岩船の柵はすでに648年に建設されており、出羽の柵の間違いではないか。709年に「諸国に命じ、兵器を出羽柵へ運搬」したとの記載があり、出羽の柵の建設はそれより以前ということになり、年代的には符合する)

701年 大宝律令が制定される。

708年 越後の国の一部として新たに出羽郡が造られる。出羽郡以北は日本海側もふくめすべて陸奥の国の管轄。

709年3月 朝廷、陸奥への進出を本格化。鎮東将軍に巨勢(コセ)朝臣麻呂を任命。遠江、駿河、甲斐、信濃、上野から兵士を徴発し派遣。

709年 蝦夷の越後侵入に対し征討のため、征越後蝦夷将軍に佐伯宿禰石湯(イワユ)を任命。越前、越中、越後、佐渡の4国から100艘の 船を徴発。船団は最上川河口まで進み、ここに拠点として出羽柵(イデハノキ)を造設。「陸奥・越後二国の蝦夷は、野心ありて馴れ難」いとされ、大規模な反 乱があったことが示唆される。

710年 都が飛鳥から平城京に遷される。

712年 越後の国出羽郡、陸奥ノ國から最上・置賜の二郡を分割・併合し出羽の国が設立される。渡嶋(蝦夷が島)は出羽国の管轄となる。このあと、太平洋側(海道)のエミシは蝦夷、日本海側(北道)のエミシは蝦狄と表記されるようになる。(ただしそれほど厳密な使い分けはしていない)

これについて太政官は、「國を建て、領土を拡げることは武功として貴ぶ所である。官軍は雷のように撃ち、北道の凶賊蝦狄(エミシ)は霧のように消えた。狄部は晏然(アンゼン)になり、皇民はもう憂えることはない」とし、これを承認。

713年 古川を中心とする大崎平野に丹取郡が置かれる。玉造の柵が造設される。玉造の柵は現在の古川市名生館(みょうだて)遺跡と目される。

714年 尾張・上野・信濃・越後の国の民200戸が、出羽柵にはいる。このあと諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。移住は総計で3千戸におよんだ。

715年 陸奥の蝦夷、邑良志別君宇蘇弥奈と須賀君古麻比留の要請により、香河村(不明)と閇村(宮古市付近)に郡家を立てる。

718年 陸奥の南部を分割し、常陸国菊多から亘理までの海岸沿いを石城国、会津をふくめ白河から信夫郡までを石背国とする。

18年 渡度島蝦夷87人が大和朝廷に馬千匹を贈る。(信じがたい!)

720 渡嶋津軽津司諸鞍男らを靺鞨国に派遣

780 出羽国司に渡嶋蝦夷への饗応を指示

これまで勉強してきて、アイヌ民族観がかなり変わりました。
1.縄文人がアイヌ人と日本人(和人化)に分岐した

非常に誤解を招く言い方ではありますが、アイヌ人というのは案外日本人なのではないかということです。

雑駁に言えば、日本人というのは縄文人と渡来人のハイブリッドです。

アイヌ民族は渡来民と混血しなかった縄文人ということになります。

日本人=混血民+渡来民+縄文人と広く捉えれば、アイヌ人も日本人の範疇に入ることになります。琉球人が琉球民族ではなく日本人であるなら、同じ論理が適用されても不思議ではありません。
2.アイヌ人は縄文語を母語とする縄文人

ではどこが決定的に違うのか。言語です。日本語は基本的に渡来人の母語です。そして琉球言葉も完全に日本語です。

琉球弁がさっぱりわからないのは、薩摩弁や津軽弁がさっぱりわからないのと同じです。なのに同じ日本語だと分かるのは、書けば理解できるからです。

アイヌ民族の謎は、尽きるところ言語をめぐる謎です。

何故北海道のエミシは縄文語を使い続けたのかということです。

東北のエミシとの対比で言えば、なぜ縄文語を母語とし続けることが出来たのかというふうに言い換えることも可能でしょう。
3.なぜ縄文語が残ったのか

最大の理由は、和人が青函海峡を越えて北進しなかったことでしょう。幕末にかなりの武士団や、入植団が北海道に入りましたが、そのほとんどは寒さに耐えきれず撤退します。

また日本人は基本的に農耕民族ですから、農業(稲作)が不適な場所では生活できません。

もっと直接的な理由は、東北北部のエミシ勢力の衰退です。安倍氏の滅亡、安東氏の衰退により、本州とのパイプ(血の繋がり)が切断されてしまいます。

とりわけエゾ宗主である安東氏(日の本)の衰退は、権力関係の空白をもたらしたのだろうと思います。もっと津軽エミシの圧力が強力にかかり続ければ、北海道にも和人化の波が押し寄せたのではないでしょうか。

その前に安東氏の支配下で、津軽エミシそのものの脱エミシ・和人化が進んでいます。縄文語に変わり日本語が母語となり、安東氏は「和人」として北海道のエミシ(渡党)に相対するようになります。

4.東北(津軽・出羽・陸奥)を知らないとアイヌは分からない

こうやっていくつもの事象が重なったことから、北海道のエミシ+自生的縄文人は独自の文化を形成するようになったのではないでしょうか。そのエポックとしてコシャマインの戦いをあげても良いのかもしれません。
とりあえず、アイヌは松前藩との力関係において、和人化せずに済んだとも言えるし、和人化しそこねたと言えなくもありません。

その和人化強制が明治維新を機に一気に進んだために、多くの軋轢が生まれたのはご承知のとおりです。
いずれにしても、北海道の中だけで見るのではなく、「東北北部と一体となった動きの中で、アイヌ民族の形成過程を見ていかなければならない」ことだけは間違いなさそうです。


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