鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ: 01 国際政治/経済

ワタシが以前書いた記事で

がだいぶ読まれているようだ。
実は大した記事ではない。誰かのレポートをまとめただけのものだ。ただこの記事以外にも10本くらい記事を書いているので、書いた順にまとめて読んでいただけるとありがたい。最初の方とあとの方では認識レベルが違っているので、あとの記事のほうが正確だ。
言いたいのはFATCAとかCRSの具体的内容なのではなく、租税回避(BEPS)が諸国家の破壊行為であり、このまま進めば世界が崩壊しかねない危険な動きなのだということの認識だ。
そしてそれと対決していく決定的な方途としてはFATCAとかCRSの方向しかないということだ。FATCAは結局は米国本位のシステムであり、場合によっては悪用される危険すらある。しかしFATCAがCRSを産んだということは押さえておかなければならない。
一方でそのような経過も踏まえ、他方で依然として死んだわけではない「金融取引税」(トービン税)も踏まえつつ、グローバル社会の生き残りを目指すこの動きを重視していかなければならないと思う。
しかるに、日本国内では(少なくともネット社会レベルでは)、この動きを世界経済の重要な動きとして捉えようという動きはほとんど見られない。
英語でFATCAとかCRSを取り扱う文献が山ほど出現していることと考え合わせると、日本におけるこの無関心ぶりには唖然とする。
私ごとき素人が偉そうなことを言える立場にはないことは重々承知しているが、グーグル検索で私の書いた記事が上位に登場するような事態はできるだけ早く解消していただきたいものである。

1888年 ラッサール派のグループとマルクス派のグループが再統合され、オーストリア社会民主労働党(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs)が結成される。結党時の党員数は15,000人とされる。

1893年 社会民主党と協調する自由労働組合連合が結成される。90年代に急速に発展した産業革命と結びついて勢力を拡大。

1890年代 ウィーン大学の社会主義学生グループが学習サークルを形成。カール・レンナーが指導し、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディング、遅れてバウアーらが参加。オーストリア・マルクス主義の拠点となる。

1897年 総選挙。普通選挙が一部導入された結果、議会に14議席を獲得。

1897年6月 社会民主党が改組。5つの民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織となる。

1907年6月 初の普通平等直接選挙が実施される。社会民主党は87議席を獲得する。

1907年 月刊『闘争』(Der Kampf )が発行を開始。オーストリア社会民主党の理論機関誌となる。バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となる。

1911年 社会民主党のチェコ人組織が分離し、チェコ社会民主党として独立する。

1914年 第一次世界大戦が勃発。V・アドラー、レンナーらの主流派は、「祖国防衛戦争」として戦争遂行政策を支持する。これに対しF.アドラーらの左派は反戦活動を展開。

1914年11月 バウアー、戦争に加わりロシア軍に捕らえられる。シベリアで3年間の捕虜生活を送り、17年9月に捕虜交換によりウィーンに戻る。

1918年4月 バウアー、民族自決権を承認しレンナーら主流派と決別。社会民主党左派に移る。

1918年 ボルシェビズムを唱えるオーストリア共産党が創立。その後一貫して弱小勢力にとどまる。

1918年11月 オーストリア帝国が崩壊し、オーストリア共和国が発足。社会民主党とキリスト教社会党の連立政権が国政を担う。社会民主党右派のレンナーが首相に就任。バウアーが外相となる。

1919年3月 レンナーはグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘。当初は熱心な社会化論者であったが、生産性原理と効率性原理を強調するようになり政権と袂を分かつ。

バウアーはこう評している。「彼は、革命の初期にはボルシェヴィズムに媚を呈し、社会民主党の社会化政策が積極的かつ急進的でないとしてしばしば反対した。しかし、やがて彼は完全に方向転換した」

1919年 バウアー、『社会主義への道―社会化の実践』を発表。政治革命ではなく、産業の社会化=社会革命が未来への道だとする。

1920年 キリスト教社会党との対立が表面化。社会民主党は政権を離脱する。

1920年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。ボリシェヴィキを「専制的社会主義」と批判。全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。

1921年 オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(第二半インターナショナル)が設立、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。

1923年 ウィーン・インターナショナル、第二インターに吸収され消滅。

1923年 党の防衛組織として「防衛同盟」が発足する。

1926年 社会民主党大会、リンツ綱領を採択。「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。

*民主制に依拠して則法的に政権を獲得する
*「破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫として」社会主義の実現を目指そう
ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。

1927年7月 労働者デモと警官隊の衝突事件。この後の弾圧で社会民主党は後退を余儀なくされる。

1933年1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなく共産党に対する大弾圧が始まる。

1934年2月 社会民主党と防衛同盟が蜂起。「2月反乱」と呼ばれる。ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となる。

2月 社会民主党に解散処分がくだされる。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続けた。

 2016年10月08日 南スーダン 年表 が思いもよらず膨らんでしまった。

最初はこれを配って学習会の資料としようと思ったのだが、とてもそんなことをしていたのでは間尺に合わない。

そこで年表をつらつら眺めながら思いついたことを、「南スーダンの歴史 10のポイント」としてレジメ化しようということにした。(結局17になってしまった)

さぁ、毎度のことながら、当日までに間に合うかどうか不安だが始めることにしよう。

1.もともとは牧畜民の氏族社会

少数からなる集団が牧畜生活を送っていた。そのような原始的な共同体は今も残されている。

縄張りをめぐる争いも繰り返されて生きた。

2.北から来た奴隷狩り

18世紀になると、アラブ人がナイル川を遡ってきた。彼らはハルツームを拠点とし、周辺の先住民を捕まえては奴隷として送り出した。

やがてスーダン北部はエジプト王国に併合された。ハルツームのアラブ人はエジプト王国に対抗して自分たちの国を作るが、イギリスの支援を受けたエジプト王国に潰される。

3.南から来たイギリス

その後、19世紀の後半になると、今度はナイルの源ビクトリア湖からイギリスの征服者がやってきた。

イギリスは今の南スーダンを征服したが、領土としての魅力に乏しい地域だったため、エジプトの支配に委ねた。

なぜならエジプト王国そのものがイギリスの属領だったからである。

こうして1898年に「英埃(えいあい)領スーダン」(Anglo-Egyptian Sudan)が成立した。これが南スーダンが国家という枠の中に取り込まれた最初である。

南スーダンは誕生の時から北(アラブ人)と南(イギリス人)の二重支配のもとにあったのである。このことは憶えておいて良い。

4.スーダンの地政学的重要性

英埃領スーダンの成立にはフランスとドイツが絡んでいた。フランスは西アフリカから進出しインド洋への出口を欲していた。イギリスにとってはカイロからケープタウンへのラインを確保することは戦略目標であった。

その交差点にスーダンがあったため、イギリスはスーダンを確保する必要に迫られた。

またドイツはタンガニーカを植民地とし、ルワンダ・ブルンジなど内陸への進出を虎視眈々と狙っていた。

これらの事情は第一次世界大戦を経て大きく変化していく。

5.英領東アフリカの辺境としての南スーダン

ドイツがアフリカから立ち去った後、タンガニーカはイギリス領となり東アフリカのほぼ全てがイギリス領となった。

イギリスは南スーダンをエジプト支配から切り離し、東アフリカの勢力圏に置く方針に切り替えた。

アラブ・イスラーム要素を徹底して排除。部族の法や慣習、固有の言語が重視されるとともに、共通言語として英語の使用が奨励される。エリート層は英語やキリスト教を受け入れ、親ヨーロッパ的になる。

しかしかつての大英帝国の力は失われており、南スーダンは低開発状態で放置された。逆に言えば南スーダンには元通りの平和な環境が生まれたのである。

7.北スーダンでのアラブ民族主義の高揚

第二次大戦の終結とともに民族自決をもとめる運動がアフリカ各地で高揚した。

スーダンでもハルツームのアラブ人を中心に独立運動が広がった。イギリスにはもはやこれを抑えるだけの力はなかったから、ケニア以外の国はほとんど流れに任せる展開となった。

しかし北部の民族主義者は南部に対して苛烈であった。南部でもアラビア語が公用語とされ、北部人が進出し政治・経済の権限を得るようになった。

8.第一次内戦の開始

1956年、スーダンが正式独立した。南スーダンもスーダンに統合された。

スーダン政府は連邦制をとるとしたイギリスとの約束を保護にし、単一国家制度をとった。南スーダンは北の直接支配下に置かれることになった。

スーダンが独立して2年後、軍事クーデターが発生し。スーダンは軍事独裁国家へ移行した。軍事政権は南部への軍事的抑圧を強化。その結果多くの政治家がウガンダに亡命した。

1963年、これらの亡命政治家がスーダン・アフリカ民族同盟(SANU)を創設。連邦制に基づく南スーダンの自治権拡大を主張した。SANUは武装組織「アニャニャ」(Anya Nya)を結成しゲリラ闘争を開始した。

SANUは主導権争いで四分五裂するが、現地のアニャニャは民衆の支持を受け独立を目指す。アニャニャを中心に南部の諸勢力が結集し、「南部スーダン解放運動」(SSLM)が形成される。

9.南北和平の実現

紛争が内戦化し泥沼化しつつあった1969年、北スーダン政権内にクーデターが起きた。

権力を握ったヌメイリ大佐はエジプトのナセルに倣い民族主義左派を標榜した。そして南スーダンとの関係改善に乗り出した。

1972年にヌメイリ政権とSSLMとの間に和解が成立、アジスアベバ協定が結ばれた。

南部は自治を許され、独自の議会と行政機関を持つことになった。将来、南部が住民投票で分離独立する可能性も残された。アニャニャ兵士は政府軍に組み込まれることになった。

10.ヌメイリ政権の反動化

この後約10年にわたり南北スーダンは比較的平穏な関係を続けるのであるが、1983年に入ると突然大荒れの状況に入っていく。

この激変をもたらしたのは北スーダン側の事情である。この間アラブ世界ではナセル主義の退潮が起きた。

第三次中東戦争でのアラブ側の惨敗、ナセルの死とサダトの変質、イラン革命とソ連のアフガン侵攻などでアラブ世界は共通目標を見失った。

追い詰められたヌメイリは非常事態宣言を発動し強圧的な政治に転換した。そこにイスラム原理主義が忍び込んできた。

ヌメイリは国政にイスラム法(シャリーア)を導入、スーダンを「ムスリム・アラブ国家」にすると宣言した。

憲法上の権利は停止された。窃盗に対する切断やアルコール所持に対する公開鞭打ちが日常と化した。南部人と他の非イスラム教徒も、これらの罰を受けさせられた。

南部への弾圧にはもう一つの理由があった。南スーダン北部に石油油田が発見されたのである。

南部の石油資源独占を狙うスーダン政府は、アジスアベバ合意をご破産にし、南部の自治権や将来の分離独立の要求を拒否するに至った。

11.立ち上がる南スーダン人

第2回めの反乱は最初から大規模なものだった。なぜならそれは政府軍内の旧アニャニャ派の反乱として始まったからである。

この反乱を指揮したのはジョン・ガラン、当時ハルツームの幕僚大学の学長であった。

南スーダンの解放運動の性格を語る上で、ガランの経歴紹介は避けて通れない。

ガランは1945年、貧農の子として生まれ、幼少時に孤児となる。第一次スーダン内戦に参加した後、勧められてアイオワ州のグリネル大学で経済学 を修めた。その後タンザニアで研修を続ける一方、大学生アフリカ革命戦線のメンバーとして活動。アニャニャに加わり、第一次内戦を戦った。

内戦終結後はスーダン軍で経歴を積み、フォート・ベニングのア メリカ陸軍米州学校で上級歩兵将校コースを修めた。またこの間にアイオワ州立大学で南部スーダンの農業開発に関する論文で農業経済学修士および博士の学位を得た。

12.SPLAの結成

ガランのもとに立ち上がった南スーダン人は「スーダン人民解放軍」 (SPLA) を結成した。形としては「スーダン人民解放運動」(SPLM)の軍事部門ということになる。

ガランが政治・外交面を担ったのに対し、軍事面を担当したのが現大統領のサルバ・キールである。

南スーダンには60以上の種族が混住する。当初、SPLAの中心となったのは最大の種族であるディンカ人であったが、やがてヌエル人など他種族も結集するようになった。

1985年に入ると、SPLAは勢いを増し南部の大半を支配下におさめた。これをリビア、ウガンダ、エチオピアが支援した。

北スーダン政権内では強硬派と妥協派が抗争を繰り返したが、1989年に強硬派のバシルがクーデターで政権を握ると、イスラム原理派と結びついて南への抑圧を強めた。さらに西部のダルフール地方へも攻撃の手を伸ばした。

ダルフール問題については下記を参照のこと。 

ダルフール紛争

13. 両者の妥協と完全独立

90年代に入ると情勢は複雑さを増す。ソ連・東欧の崩壊に伴い、エチオピアでもメンギスツ政権が倒れる。SPLAは後ろ盾を失った。内部分裂が起き、ヌエル人分派によるディンカ人襲撃が相次いだ。マチャルの部隊は単独でハルツームと講和し、北スーダン政府の南部駐留軍司令官に就任する。

いっぽう、イスラム原理主義を強めるバシル政権への国際的な風あたりも強くなった。アメリカはスーダンをテロ支援国家に指定し、97年には経済制裁を開始した。98年にはケニアの米大使館襲撃事件への報復としてスーダンの製薬工場にミサイル攻撃を行った。

こうして2002年にアメリカの調停のもとで、政府とSPLAが和平の枠組みに合意することになる。この合意により、6年後に南部の帰属をめぐる住民投票が約束された。

2005年には南部スーダン自治政府が成立した。初代大統領にガラン、サルバ・キールが副大統領となる。これにより22年間に及ぶ第二次内戦は終結した。

内戦による死者は約250万人、発生した国内避難民は400万人、国外難民は40万人にも上る。

この年、SPLA指導者ガランが就任後わずか半年で、ヘリコプター事故により死亡する。しかし大きな混乱もなくキールがあとを引き継いだ。この時副大統領にマチャルを指名したことが後に禍根を残すことになる。

2010年に行われた大統領選挙では、キールが得票率92.99%という圧倒的大差で再選された。翌年1月、南スーダンで住民投票が行われ、完全独立を望む票が98.8%を占めた。

その年の7月9日、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立し、「南スーダン共和国」が創設された。

14 北からの干渉

北スーダンは決してこの独立を祝福していたわけではない。それどころか南スーダンの弱体化とあわよくば属国化を狙っていた。

ここからは私の個人的見解になるが、

ひとつは国境地帯の黒人・非イスラムの民衆を駆逐することである。

この地域は元々「ナイル・サハラ語」系の黒人の居住地であった。そこに来たからナイル川沿いにアラブ人が進出したのである。したがって川沿いの都市部にアラブ人、それ以外は黒人先住民という住み分けになっているのであり、東西に線を引いて「ここから北はアラブ・イスラムの国」という訳にはいかない。

スーダン側での紛争は北部SPLAの武装反乱だという報道が一般的だが、事実は逆だと思う。それは紛争の結果何が起きたかを見れば明らかだ。結局は数十万の北側居住者が難民となって南に逃げ込んだという事実だ。

もう一つは国境地帯に集中する石油資源を、ひとつでも多く確保するということでもあろう。

南スーダンは北からどんなに野蛮な干渉を受けても、北と対決することはできない。それは石油の輸送ルートと販路を北に握られているからである。

1年間の石油生産停止は、そのことを明らかにした。生産の減退、物不足、物価の騰貴の上に膨大な戦費、そして大量の北からの難民。この危機を凌ぐには当面は北の意のままに従い、石油生産で外貨を手に入れるしかない。

15 キールの内政改革が内戦を呼んだ

2012年9月、キール大統領は北に頭を下げ、とりあえずの平和を実現した。その後、内政の引き締めにかかった。

今井さん(NGO関係者)の講演から引用する。

SPLA 内部には腐敗もあり、ガランを筆頭に幹部の多数が豪邸に住み、豪勢な生活を営んでいた。キールは幹部の多くと異なり、腐敗とは無縁な人物として知られていた。

これがどの程度の真実性を含んでいるのかは判断できないが、マチャルが最も油断のならない人物であることは疑いないであろう。

解任されたマチャルは2013年12月にクーデターを企てた。政権奪取には失敗したものの、根拠地では一定の支配区を確保した。マチャルに呼応して各地で不満分子が反乱を起こした。

スーダンの干渉による国境紛争、石油生産停止、北からの大量難民。これに加え内戦勃発ということで、南スーダン政府は大きな痛手を受けた。

そのすべてにスーダンの影が浮かび上がってくる。

2014年6月には国連安保理も「南スーダンの食糧危機は世界最悪」と発表した。「世界で最も脆弱な国家ランキング」でも、南スーダンは首位となった。

16 気がかりな国連の対応

今年11月の初め、バンギムン事務総長は国連南スーダン派遣団の司令官を更迭した。7月事態のとき国連職員を保護しなかったというのである。

司令官の出身母体であるケニアはこの措置に抗議し、駐留軍全部を撤退させた。

よく分からない。司令官の統括責任を否定するわけではないが、国連南スーダン派遣団が南スーダンの治安を守るためであれば、そのために一番必要な手段を取るのは司令官の務めであるが、「何を置いても国連職員の安全を守れ」というなら、その目的に特化した部隊を別途編成すべきであろう。

バンギムン事務総長は、11月17日には国連安保理あての状況報告を行っている。

治安状況は悪化しており、混沌とした状態。①大規模な残虐行為が発生する非常に現実的な危険がある。②国連の平和維持部隊は大量殺りくを阻止できない。

というのが骨子である。

まっさきに感じるのは、「なぜ?」がないことだ。「なぜ?」がなければ、解決の方向は見いだせない。

もう一つは、政府への支援についてきわめてニュートラルであることだ。パンギムン報告を受けた安保理では、アメリカから武器禁輸の決議案が提出された。アメリカはさらに、和平実現の「元凶」となっている政府指導者らの資産凍結や渡航制限ももとめたという。

これはもう明らかに反政府側にスタンスを置いた発言である。

これでは、国民の98%の支持を受けて成立した政権が野垂れ死にするまで戦闘を続けることにしかならない。

とにかくまずは、南スーダン政府の主体性を尊重することではないか。そして北からの不当な干渉を監視すること、中長期には原油輸出のための南方ルートを確保して、北への依存を終わらせることではないだろうか。

17 自衛隊派遣について

これはもちろん憲法に係る問題であるから、直ちに撤退するというのが当然の選択である。

それとともに、南スーダンの自立と発展のために何が必要なのか、日本にとって何がもとめられているかをじっくり考えることである。

現在の国連やNGOの活動は基本的には緊急避難的なものである。内政にかかわるべきものではない。明らかにやり過ぎと思われるところも見えないではない。

南スーダンにはケニア、ウガンダ、エチオピアをふくむ南側周辺諸国との連帯が必要である。もっとこれらの国の協力を引き出す方向での国際的な見守りが必要であろう。

アフリカにおける人種分布

アフリカの国境はいい加減なものであり、ヨーロッパ諸国の勢力争いの結果として形成されたものである。

ほとんどすべての国が多民族国家・多言語国家であり、これらを全体として理解するには19世紀以前からの自然的分布を知ることが必須である。

自然分布を知る方法として有力なものが、言語系統(自然言語)の分布とY染色体(表現型)による分布である。

人種的な差ではないが、基本的生活スタイルとして牧畜なのか農耕なのかも大きな違いを生んでいる。

サブサハラにおいては北から順にサハラ砂漠、ステップ気候(サヘルあるいはサバンナ)、熱帯雨林というスペクトルがあり、とくにサヘルと熱帯雨林の境界が気候変動に伴って南北に変化する。これが絶えず軋轢を生んできた。

近代に入ると、イスラム教の浸透、白人とアラブ人の奴隷狩り、ヨーロッパ列強による植民地化、東西冷戦下での帰属などが加わり、事態は一層の複雑化を招いている。

上の図はウィキペディアの「アフリカの諸言語」からの転載である。

青がアフロ・アジア系言語、黄色がナイル・サハラ系、オレンジがニグロイド系、緑がコイサンである。

コイサンは最古のアフリカ住民とされY染色体はハプロAをしめす。ピグミーは北日本人と同じB、ネグロイド系はE1型を示す。ナイルサハラ系は多種多様だが、チャドではR系が優越しているようだ。


ナイル上流域の人々

私が一番知りたいのは、ナイル川上流で主として牧畜を営む人々の由来だ。ブラックではあるが、熱帯雨林域のネグロイド語族とは明らかに様相を異にしている。

私にとって典型として思い浮かぶのはケニアの牧畜民、マサイ族(Maasai)だ。またルワンダがドイツの植民地だった時代のとんでもないのっぽの国王(ツチ族)の写真は、いまだにまぶたに焼き付いている。

人種的には、北からのアラブ人、コンゴとタンザニアを結ぶ線より南の純粋なネグロイド(バンツー人)との間にもう一つ人種があって、その三つ巴で理解しないと南スーダン問題は理解できないのではないかと、ふと思っている。

というのは、ディンカ人とヌエル人との係争を見ると、マサイ族の生活スタイルときわめて類似しているからである。

ウィキペディアのマサイ族の記事を引用する。

本来は定住せず、伝統的な牛・羊・ヤギ等の家畜の遊牧で生計を立てる遊牧民であった。

主食は牛乳と牛の生血。牛はマサイ族にとって最も重要な財産である。

それぞれの村ごとに長老がいて物事を決定する原始的な長老制をとる。戦士階級であるモランはこの長老の下に属する。

かつては他部族からの略奪もモランの仕事であったが、現在では行われていない。


遊牧民もネグロイドだ

次に、人種的なところに関わっていこう。

ナイル系の遊牧民は人種的な操作の対象となり易く、地中海人種に属するとされたり、黒人とされたりし、ハム族神話 (hamitic) により「黒人より高貴である」等として植民地支配の際に分断の道具にされた。

しかし、都市に暮らすスーツに身を固めたビジネスマンのマーサイ族は他の部族と見分けることはできない。

ということで、ウィキペディアの記述では、遊牧生活に適応したネグロイドという見解に近い。

たしかに南スーダンの指導者たちの写真を見ると、ネグロイドそのものである。

このウィキの見解についてコメントするだけのものは持っていない。

一応、Y染色体ハプロで、ネグロイドにおけるE1の卓越性に相当する特徴がないことをもって差異とする主張はできるかもしれない。あるいはチャドで卓越するR系の基盤の上に南北からの侵入と混血があって、ナイル・サハラ語圏が形成されたと主張できるかもしれない。

とりあえず、この話はこれで打ち切りにしよう。


言語・文化集団としての「ナイル・サハラ語」人

人種の問題はとりあえず置くとして、最初の図の通り、言語的には明らかに「ナイル・サハラ語人」が存在する。それはニジェール川流域からコンゴにかけて分布するネグロイド語系とは系統を異にしており、両者は歴史を遡って分岐していたことも間違いないようだ。そして東アフリカのかなり広い範囲で「ナイル・サハラ語」系領域をカバーしている。

そういう点では「ナイル・サハラ人」というサブクラスを設定することは、必ずしも人種偏見に基づく「伝説」とはいえないのではないか。


11月17日付のWSJに以下のニュースが掲載された。

無言で帰国する兵士 南スーダンで中国が気付いた大国の代償
習主席の野望がもたらす過酷な現実とは

ニュースの中身は南スーダンに派遣された中国軍PKO部隊の兵士が、戦死したというものだ。

事件の発生そのものは相当前のものである。

報道によると、事件が起きたのは7月10日。中国軍部隊の装甲車両が何者かによる携行式ロケット砲の攻撃を受けた。

この砲撃で兵士が負傷。うち一人は2時間後に死亡、もう一人も翌日死亡した。

首都ジュバで政府軍と反乱部隊による激しい戦争が起きた時の話のようだ。

WSJではこう書いている。

自国を世界の強国にするという習近平国家主席の野望がもたらす過酷な現実に、中国は初めて向き合うことになった。

…国営テレビが放送した映像に国民は衝撃を受けた。そこには、ジュバで攻撃を受けた中国人の兵士たちが、血を流している仲間を助けようと必死になっている姿が映っていた。部隊を派遣することのリスクを理解していた国民はほとんどいなかった。

と、中国の人々にはかなりの衝撃だったようだ。

リーさん葬儀
リーさんの葬儀(WSJより)


しかし今のところ、政府は兵士たちの死を受けて政策を変えたようには見えない。

メディアは反戦・厭戦の世論が起こることを警戒し、一斉に戦士を合理化する論調を流し始めた。

世界平和を守るために中国の兵士は最前線に向かっているのであり、流血と戦争の試練に直面する機会がこれから増えていく。これは中国の大国としての責任であり、中国が新たに大国としての地位についたことの代償だ。

WSJはこれらの論調に対して疑問を投げかけている。

中国が世界の大国になる目的は、いったい何なのか

中国を日本に、習近平を安倍晋三に置き換えれば、これらのシーンは明日の日本そのものではないだろうか。

それにしても、このニュース、日本のメディアで取り上げたのかな?


南スーダンについては、以下の記事をご参照ください


それはSAMのおかげである。

当時崩壊寸前のシリア政府軍にとって、制空権が最後の頼みの綱であった。それによって反政府軍の根拠を叩くことで、かろうじて軍事力バランスが維持されていた。

しかしその時、反政府軍は地対空ミサイルを手に入れたのである。これでシリア軍機がバタバタと落ち始めた。私はこれで決まったと思った。

しかしSAMの供給は突然途絶えたのである。

それ以後、反政府軍はやられ放題だ。そして大量の難民が発生しそれが西洋諸国に押し寄せ、今日のごとく各国の右翼の台頭を招いているのだ。

なぜSAMの供給が途絶えたのか。

それはSAMの供給国であるトルコの政治状況が変わったからだ。

トルコの国内政治状況については以下の記事に書いた。




トランプを押し上げたティーパーティー

トランプとティーパーティーの関係を取り上げた記事は意外に少ない。

中では

2016/09/23 米保守派ティーパーティー、トランプ氏支持を表明 - WSJ を紹介する。

ティーパーティー運動の有力団体である「ティーパーティー・パトリオッツ」が、トランプのために、激戦州に資源を投入すると発表した。

団体代表の発言

ヒラリー・クリントンはティーパーティーが象徴する全てのことと対立している。一方、ドナルド・トランプはわれわれが核としている価値観を守るために戦うと約束した。われわれはトランプを選ぶ。

上下院で共和党が多数派を占め、トランプがホワイトハウスに入れば、ティーパーティーの政策が法制化される可能性がはるかに高まる。

ただしWSJは「今年5月までは、ティーパーティー系はトランプを冷ややかに受け止めていた」とあるが、地下ではいくつかのティーパーティー系組織が動いていたとの報道もある。いずれにしても9月の正式見解発表よりはるかに前からトランプ支持で動いていたことは確実である。


ところで、日本ではティーパーティーは既に過去のものという見方が広がっていた。冷泉彰彦 トランプ「大統領選撤退」に見るティーパーティーの凋落

しかしブームとしてのティーパーティーは終わっても、思想としてのティーパーティーはその勢力を拡大させていた。

思想としてのティーパーティー

ウィキによればTEA は「もう税金はたくさんだ」(Taxed Enough Already)の頭文字だそうだ。彼らの旗には「俺を踏みつけるな」と書かれてる。

ペイリンをアイドルとする組織から、今ではさまざまな潮流に分かれ、それぞれが運動を積み上げている。ただそれが地方で草の根で展開されていたために見逃されていただけだ。

中西部の町はどこも日本の地方都市と同じだ。職がない。商店街はシャッター通りだ。

労働者はいまやいない。残るのは公務員ばかりだ。だから公務員に非難の眼差しが注がれる。

教師、看護婦、警官、消防士エトセトラだ。

彼らは税金泥棒だ。給料を下げろ、年金を下げろ、組合も政治活動も禁止しろ、病院も学校も民営化しろ、黒人やヒスパニックに対する援助などまっぴらだ…という具合に話は進んでいく。

火事や泥棒などは自分で自衛する。スラムは放っとけばよい。当然、社会保障や医療保険など問題外ということになる。

これは本来大金持ちのリバタリアンの主張だ。弱者は共同体の中で助け合わなければならないのだ。

こうやって金持ちにうまいこと乗せられて、自分で自分の首を絞めているということがわからない、自分が弱者だということがわからなくなってしまっているのだ。

一通り、ニュースとしては出回った。
抜けているのは、トランプ当選を支えた地方の保守原理主義運動の実態である。この運動がかつて基幹産業で栄えた北部にも拡大し、力関係を逆転させてきたという経過だ。
これからいろいろ評価が出てくるだろう。
全体としてトランプ見直し色が強まるだろう。
庶民の声を反映しているのだという捉え方も、運動の視点としてはだいじだと思う。
そこまで切羽詰まってしまった世の中の矛盾の表現だ、という見方も出るかもしれない。
経済、外交、軍事では、公約そのままでは到底やっていけないから、何らかの手直しはされるだろう。
それを見て「トランプも案外常識人だ」などと考える向きも出てくるかもしれない。
しかしそれで評価を見誤ってはいけないと思う。
だからこれからの新政権を見ていく上で、評価の基準をはっきりと定めて置かなければならない。
① 白人優位主義と異人種排斥→民族浄化の動き
② 医療保険と最低賃金制度への攻撃→新自由主義のさらなる徹底
③ 反対派への逆襲→言論の自由への攻撃
とくに③については、地方でこれまでもティーパーティにより反リベラル・反労働者行動が展開されてきた。これがオハイオやウィスコンシンなどから全国に拡大し、一層強化される危険がある。国際ニュースにはなかなか載らないので、注意深く見守る必要がある。

下記の記事をご参照ください
2011年11月14日

2011年11月11日

2011年11月10日


南スーダンの状況を見ていると、どうしても1969年の封鎖解除闘争を思い出してしまう。
前の年に東大闘争が盛り上がって、当初は無党派ラジカルの学生が大学改革を要求して運動に立ち上がった。そのうち全共闘が組織され、急速にセクト化し武闘化していく。それは安田講堂でいったん破産に追い込まれるのだが、「朝日ジャーナル」などの商業メディアにもてはやされた「全共闘運動」は急速に全国に波及していく。
その中のもっとも突出した黒ヘル部隊が数十人で入学式に殴り込み、その後大学本部をバリケード封鎖した。各学部の自治会を網羅した北大学連は封鎖解除を要求して大学本部を取り囲んだのだが、投石やゲバ棒による襲撃で多くのけが人を出す結果となった。我が医学部の藤田委員長も、かざした左腕をゲバ棒でへし折られた。
2ヶ月にわたるにらみ合いの末、北大学連は実力で封鎖解除するとの方針を打ち出した。冷静かつ客観的に見てこの方針が正しかったか否かは未だに分からない。結果論から言えば間違っていたというべきかもしれない。
しかしその頃の我々は怒りにうち震えていた。
国際学連の歌にもあるではないか。「力には正義の、力もて叩き出せ。真実の敵、国を売る犬どもを」
かくして工事現場用のヘルメットと角材で武装した数百の学生が本部を取り囲んだ時、パラパラと学生らが間に走り込んできた。そしてその場に座り込んだかと思うと、「暴力反対」のシュプレヒコールを叫び始めた。
仕方がないので実力行使は中止になり、彼らとの「対話」に移ることになった。
「暴力反対」の学生たちはもちろん封鎖には反対である。しかしそのための「暴力」にも反対である。たしかに「理は通っている」のだ。
しかしそれが結果的に暴力学生の容認になることについては口をつぐむ。こうなると完全に水掛け論だ。
たしかに非暴力主義は正しい。しかし「非暴力的に闘う」姿勢を持たない「非暴力論」は、結果として暴力の容認につながる。そして彼らは暴力学生を評論はするが闘おうとはしなかった。
ここからさきが不思議なのだが、彼らの多くはその後の経過の中で暴力学生の仲間入りしていった。そして封鎖は拡大され、理学部と教育学部を除くほとんどの学部が暴力集団の支配するところとなっていった。
あの時、封鎖を実力解除していたとしても、結局これらの事態は防げなかったかもしれないし、かえって火に油を注ぐ結果となったかもしれない。
しかしトータルとして歴史を見れば、あの無期バリストを機に大学の自治は崩壊し、大学から政治的自由は失われ、文部省の意のままの従順な人づくりの場となったのである。
前置きがずいぶん長くなってしまったが、話は南ソマリアである。
国連だとか人権・人道団体の言い分を聞いていると、どうしてもこの「暴力反対」派の学生のことを思い出してしまうのである。
ある人権団体が「南スーダンはソマリア化してしまった」というのを聞くと、心底腹が立つ。「ソマリア化させたのはお前だろう」
民族の自決権、国家のソヴァレインティの尊重はイロハのイである。国家の反逆者を「暴力反対」の美名のもとに実質的に保護して、結果的に「内乱」を焚き付けているのはあんただ。我々はそれをユーゴでいやというほど見てきた。
たしかに人権は国家を超越するが、人権を最終的に保証するのも国家だ。そういう国家を作りたいからこそ、南スーダンは60年にわたって闘い続けてきた。
あれこれの「国家」へのあれこれの批判は自由だ。しかし「国家」への敬意は最低限の礼儀であり、傍若無人の内政干渉はご法度だ。

中国共産党の歴史は決して毛沢東の歴史ではありません。
むしろ毛沢東は傍流であり、一地方活動家に過ぎませんでした。
共産党の活動が弾圧の中で追い詰められ、瑞金の「解放区」に逃げ込まざるを得なくなったことで、党内の力関係が変わっていったのです。
といっても長征が成功しなければ、上海の党中央も毛沢東の農村ゲリラも共倒れに終わっていたに違いありません。
そういう意味では中国共産党が蒋介石軍の攻撃を受けながらも生きながらえることができた点で、毛沢東の功績(とくに軍事的な功績)は大きいものがあると言っていいでしょう。
これらの経過については「毛沢東のライヴァルたち」という題名で年表を作成しています。このブログで数回に分けて掲載していますが、最終的には一本化してホームページの方に収録しているのでご参照ください。
この年表は増補に増補を重ねてずいぶん膨大なものになっています。「毛沢東のライヴァルたち」と言いながら、実際には辛亥革命から国共合作までが盛り込まれています。ここまで分厚くなると、余分なものを独立させて、別年表を起こしたくなります。
毛沢東のライヴァルたちの活躍は上海を舞台としています。そして31年で事実上は終わっています。彼らの多くは瑞金に逃れ「中央ソヴィエト」に参加しています。しかしそのイニシアチブは程なく失われ、その後は毛沢東の子分となっていきます。
だから瑞金以後は別年表にしなければなりません。そのためには、どう党内の力関係が変わっていったのかを跡付けなければならないし、それは「瑞金・長征年表」みたいな形で総括しなければなりません。
今その作業の真っ最中なので、とりあえずはごたまぜで「毛沢東のライヴァルたち」年表に突っ込んでおきますので、興味ある方はご覧ください。

「南スーダン」問題を勉強して

以下の記事は、限られた情報に基づく予断がふくまれているので、「そういう見方もできる」のかという程度に考えておいてください。

1.SPLAへの支持は圧倒的である。

どのくらい民主的に選挙が行われているかは分からないが、国会議員のほとんどはSPLAである。永年にわたる解放闘争を戦い抜いたSPLAへの国民の支持は揺るぎない。

勇将がいれば軍は強い。道義があれば軍は強い。民衆の支持があれば軍は強い。マチャルの部隊には武器はあっても士気がない。マチャルの反乱は程なく解決するだろう。

2.キール大統領への支持も厚いと見るべきだろう

キールについて悪い評判はない。腐敗をしていない、温厚だという評価は、この手の指導者としては稀有な資質である。ブッシュからもらったというテンガロンハットはいただけないが、「親米」であることの象徴なのだろう。

彼が有能であるかどうかは不明である。(翻ってガランの優秀さが際立つ)

ただSPLAはキールの党ではない。彼はもともと現場の人である。私が各国の革命運動を研究してきた経験から言うと、数十年の苦難を乗り越えてきたSPLAの幹部集団は相当の高水準で団結し、人民と結びついていると思う。彼らは、少なくとも短期的には大きな間違いはしないと思う。

3.現状は国内の民族対立ではないと思う

闘争が勝利に近づくと独立運動は急速に拡大し、有象無象が飛び込んでくる。しかし国家の建設は一時の熱狂で進められるものではないから、必ずそういう連中とのいざこざが飛び出してくる。

今回の問題もそういう感じがする。彼らが最初から石油の利権を狙っていたことは明らかだ。背後にスーダンがいるかもしれない。年表から見ればコルドファン紛争とマチャルの反乱は一連ととらえられる。

「これでウミを出し切って、国内は固まっていく」という楽観的な見方もできるのではないか。

4.人権屋さんの情報を鵜呑みにしないほうが良い

何人も虐殺されたとか、数十万人が難民化しているとか報道されるが、彼らは60年前から難民なのだ。

長いこと戦争しているから、殺伐としてみんな気が立っている。肝心なことは「時代のベクトル」を見失わないことである。


5.ヌエル族 はあまり品行方正な部族ではない

ヌエル族とディンカ族というが、住む場所も同じで生活スタイルも同じで、どちらも牧畜民だ。農耕民ではない。ケニアのマサイ族を思い起こしてもらうと分かりやすい。ヌエル族が20万人、ディンカ族が100万人くらいのようだ。民族というよりは氏族(クラン)だろう。

ヌエルとディンカ

ライマネ・マガジン(http://raimane.com/world/his/211/)というサイトにヌエル族の紹介がある。

人口は約20万人。隣接する同じナイロート系のディンカ族をしばしば襲撃し,居住範囲をディンカの土地へと拡大しつづけてきた。強奪が成功した暁には、ぶんどった牛の配分をめぐって、今度はヌエル族の内部で、血で血を洗う抗争が繰り広げられます。

…ヌエルはディンカを一方的に略奪してきた。ヌエルは数多くの部族の集合で、ヌエル全体をまとめる人物も制度も存在していない。このためヌエルの政治体制はしばしば「秩序ある無政府状態」とよばれ…

たしかに地図を見ると、ディンカ人社会にヌエルが侵食している様子が一目瞭然だ。

つまり、本来ヌエルの人々というのは近隣から見ると、ロシア人のように「困った連中」なのだと思う。これを予見としてマチャルを評価するのは間違いだとは思うが…

1983年、ディンカ人が主体になってSPLAが結成されると、ディンカ人以外の諸民族もこれに結集した。ヌエル族も協力した。しかしソ連とエチオピアが相次いで倒れSPLAの台所が苦しくなると、離反者が相次ぐことになる。

なかでもヌエル人の分派(SPLAナシル派)は凶暴で、1991年には有名な「ホワイト・アーミー」虐殺事件を起こしている。これはヌエル人兵士が体に虫よけの白石灰を塗ってボルの街を襲撃したもので、ディンカ人2千名を虐殺したとされる。私はこの手の報告は大体10分の1に見積もっているが、それにしても非道である。

「これを機に両民族は血みどろの抗争へと突入する」のだが、ヌエル人には道義も金もないから、やがて下火になっていく。

6.マチャルは糾弾されるべきだと思う

そこで、登場したのがヌエル人政治屋のマチャルで、ナシル派を離れSPLA「統一派」を形成する。この「統一」というのが曲者で、まずSPLAの見解である統一を維持した「新スーダン」路線を否定し、南部スーダン住民の民族自決権が合法であることを宣言した。そしてSPLAを脱退し、手兵を南スーダン防衛軍(SSDF)と称し独自行動を開始した。

このような戦闘的言動にも関わらず、1997年に南スーダンの民族自決を合法化する内容を包括したハルツーム協定が締結されると、いち早くこれに乗っていく。こうしてマチャルは武装闘争派から抜け駆けし、ハルツームの政権に加わった。

マチャルはハルツーム政府の南部スーダン国防軍司令官となり、南部スーダン調整評議会議長兼スーダン共和国大統領補佐官を務めた。しかしスーダン政府の先行きが暗いと見ると、またもや豹変しSPLAと「統一」したのである。

2005年に包括合意が成立し南部スーダン自治政府が成立すると、またもやマチャルはするりと自治政府の副大統領に滑り込んだ。

と、ここまではバルカン政治家の経路を辿って生き延びてきたわけで、ボルの集団虐殺への加担を除けば糾弾されるほどのことはなさそうだ。信用されることはないだろうが。

しかし、彼はハルツーム政府の南部スーダン国防軍司令官だったから、武器は腐るほど持っている。2013年に副大統領を逐われると、軍事行動に打って出た。12月にジュバで反乱を起こした後、翌年の1月には各地で武力行使を行い、主要な油田地帯である北部の国境地帯ユニティ州を制圧した。これが彼一人の策略になるものか、スーダンの手引があったものかは分からない。
彼は独立前にスーダンから派遣された南部軍の司令官であり、武器は豊富にある。短期戦ならかなりやれるだろう。しかし2年とは持たないだろう。旧日本軍と同じだ。

当初政府側の対応は遅れた。「国際監視」という名の干渉を嫌でも念頭に置かなければならなかったからでもあろう。ケニアと同じように、今の南スーダンは残念ながら国際援助なしに生きてはいけない。

国際世論は傲慢にも「民族間対立」という図式を煽り立て、大岡裁きをやろうとした。私はさまざまな国の革命運動でで同じような経過を見ている。

SPLAは実に粘り強く行動したと思う。ニカラグアのサンディニスタを思わせる。主要地域を奪還した上で、「耐え難きを耐え」ふたたびマチャルを政府に迎え入れた。しかし結果はなおひどいことになった。

今年7月末、キール大統領はふたたびマチャルを更迭した。前回と違うのはマチャル派の主力がマチャルとたもとを分かったことだ。マチャルは去ったが組織の幹部タバン・デンは残った。

マチャルは首都ジュバで最後っ屁を放った。270人以上が死亡する戦闘が発生した。戦闘は止まり、マチャル派はジュバを去った。(政府軍が市内で検問しヌエル人を拘束したとの情報がある。これは当然のことと思う。ジュバはバリ人の住む街であり、ディンカ人の街でもヌエル人の街でもないからだ)

もはやマチャルは国内で策動する余地を失い、スーダンに去った。(コンゴに行ったのはスーダン側の配慮であろう)

7.南スーダンは「失敗国家」とはいえない

NGOをふくめ、「南スーダンは失敗国家だ、ソマリア化する」という宣伝が行われている。

しかしニュースを注意深く読む限り、そのような結論は出てこない。

私には、南スーダンの今後が決して平坦な道ではないにせよ、スーダンとの懸案が解決され、進むべき方向がようやく明らかになりつつあるという感じを持つ。

とにかく彼らは60年間も闘い続けてきたのだ。もう少し長期のスパンで情勢判断することも必要なのではないだろうか。

願うらくは「国際機関」がパトロン風を吹かせて、国の進路を誤らせるようなことにならないことだ。ウガンダを見よ、ルワンダを見よ、立派にやっているではないか。


*だからといって自衛隊が南スーダンに居続けて良いと言っているのではない。それとこれとは別問題だ。誤解なきよう。



               「英埃(えいあい)領スーダン」(Anglo-Egyptian Sudan)の時代

1821年 エジプトがスーダン北部(現スーダン)を征服。ナイル流域に植民するとともに黒人先住民の奴隷狩りが行われる。

1877年 イギリスがウガンダより進出し、現南スーダン地域を占領する。この頃、ハルツームを中心とする北部は、エジプト王国の版図の下にあった。

1885年 ムハンマド・アフマドを指導者とするマフディ運動が起こり、北部スーダンに国家を建設。

1898年 マフディ戦争が始まる。イギリスとエジプトの連合軍がマフディ国家を滅ぼす。両者がスーダンの共同統治で合意。「英埃(えいあい)領スーダン」(
Anglo-Egyptian Sudan)の歴史が始まる。実態としては北部をエジプト、南部をイギリスが支配する二重支配であった


1930年 英国当局が南部政策を実施。南部地域は意図的に低開発状態に置かれる。アラブ・イスラーム要素を徹底して排除。部族の法や慣習、固有の言語が重視されるとともに、共通言語として英語の使用が奨励される。エリート層は英語やキリストを受け入れ、親ヨーロッパ的になる。

sudan map

「岐路に立つスーダン」 ―南部独立と和平の狭間で より転載
なおこの今井高樹(JVC スーダン現地代表)さんの報告は大変水準の高いもので、南スーダンをウォッチしていく上で確実な座標軸を提供してくれる。

1947年 「ジュバ会議」が開かれる。南北スーダンの統合が決められた。イギリスは南部のウガンダとの統合を望んでいたが北部勢力に押し切られる。南部でもアラビア語が公用語とされ、北部が権限を得るようになった。

1952年10月 スーダンが自治権を獲得。独立に向け動き始める。ハルツーム政府の北部中心主義に対する南部の不満が広がる。

第一次内戦の時代

1955年 南スーダン南部のエカトリア地方の町ヌザラで、労働者のデモに警察隊が発砲し20人の犠牲者が出た。これをきっかけに南部人の部隊が反乱。第一次スーダン内戦が始まる。

1956年1月 単一国家「スーダン共和国」が独立する。北部主体の新政権が政治的・経済的支配を握る。連邦制を構築するとのイギリスにした約束を反古にし、北部中心主義を制度化したため南部の不満が高まる。

1958年 ハルツームで軍事クーデター。イブラヒム・アブード将軍が政権を掌握した。南部州への軍事的抑圧を強化。南部スーダンの政治家は、ウガンダに亡命。

1963年 ウガンダ亡命中の南部州人が、スーダン・アフリカ民族同盟(Sudan African National Union、SANU)を創設。連邦制に基づく南スーダンの自治権拡大を主張。
その後南部州の政治勢力(亡命組織)は北との関係をめぐり離散集合を繰り返す。
1963年 SANUが武装組織「アニャニャ」
Anya Nyaを結成。赤道州で小規模なゲリラ闘争を開始する。
まもなくアニャニャ戦線は、SANUに対し独自路線を主張するようになる。
周辺国の支援を受け、民衆の支持をかちとる。アニャニャを中心に南部の諸勢力が結集し、「南部スーダン解放運動」(SSLM)を結成。タンザニア留学中のガランもこれに加わる。

ジョン・ガラン・デ・マビオル (John Garang de Mabior, 1945年)ボル近郊の農村で貧農の子として生まれ、幼少時に孤児となる。第一次スーダン内戦に参加した後、勧められてアイオワ州のグリネル大学で経済学 を修めた。その後タンザニアで研修を続ける一方、大学生アフリカ革命戦線のメンバーとして活動。アニャニャに加わり、第一次内戦を戦う。

1969年5月 ハルツームでクーデター。民族主義左派のヌメイリ政権(
Col. Jaafar Muhammad Numeiri)が成立。親ソ容共のナセル路線を選択。南部との関係修復に乗り出す。

1971年 ヌメイリが親米反共路線に切り替え。軍左派によるクーデターが企てられるが失敗に終わる。

1972年2月27日 ヌメイリ政権とアニャニャを中心とする南部スーダン解放運動(SSLM)との間に「アディス・アベバ合意」が成立。南北の内戦はいったん終結する。

アジスアベバ協定: 南部は自治を許され、独自の地域議会と高等行政評議会を設置する。将来の南部の分離独立を問う住民投票も認められる。アニャニャ兵士は政府軍に組み込まれる。しかし財政的には北部への依存状況が続く。

1974年 シェブロンが油田を発見(操業開始は78年)。その多くが南スーダン(ユニティー州)に分布していた。

第二次内戦の時代

1983年3月 ハルツームのヌメイリ政権、原理主義派の「民族イスラム戦線」(NIF)の圧力を受け政策を転換。① 国政にイスラム法(シャリーア)を導入、スーダンを「ムスリム・アラブ国家」にすると宣言。② 南部の石油資源独占を狙い、南部を3つの地域に分割し支配する。③ これに伴い、アジスアベバ合意を事実上破棄。南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を拒否。

4月23日 ヌメイリ政権、非常事態宣言を発動。シャリーアの適用を拡大する。

憲法上で最も保障された権利が停止され、非常時法廷が設置される。窃盗に対する切断やアルコール所持に対する公開鞭打ちが広範に行われた。南部人と他の非イスラム教徒も、これらの罰を受けさせられた。(南部人の多くは伝統的な精霊信仰、一部にキリスト教徒)

5月 南部自治政府のもとに配置された第105大隊の将兵500人が、北への転属を拒否し地方都市ボルに立てこもる。この部隊はもともとアニャニャのゲリラを中核とする組織であり、スーダン軍への編入後は冷遇されていた。

5月 ガランは反乱兵の説得ために派遣されたが反乱側に寝返る。

内戦終結後はスーダン軍で経歴を積み、フォート・ベニングのア メリカ陸軍米州学校で上級歩兵将校コースを修めた。またこの間にアイオワ州立大学で南部スーダンの農業開発に関する論文で農業経済学修士および博士の学位 を得た。帰国後1983年までガランは幕僚大学の学長であった。

7月 反乱勢力がエチオピア領内に結集し、
「スーダン人民解放軍/運動」 (SPLA/M) を結成。ガランが指導者となる。南部最大の民族であるディンカ人を中心に組織され、兵士3千人を擁する。当初の主要メンバーはジョン・ガラン、サルバ・キール・マヤルディ、ウィリアム・ニュオン・バニ、ケルビノ・クアニン・ボルら。

SPLAは”New Sudan” というビジョンを掲げ、南北問題を含む諸問題を、統一スーダンとして解決を目指した。そのため地方分権と南北格差の是正、民主主義の実現を求めた。
当初はディンカ人主体の組織だったが、やがてヌエル人など他種族も結集するようになり、SPLAが内戦の主体となる。南スーダンには他にもザンテ人など60以上の民族が混住する。


キール(
Salva Kiir Mayardiit)がSPLAに参加。キールもガランと同じディンカであるが、多少出自が違うらしい。第一次内戦をアニャニャ戦線の一員として闘い、第二次スーダン内戦では実戦経験の乏しいガランに代わって戦場での指揮をとるようになり、SPLAの参謀長として活躍した。

同じ頃、ヌエル族出身のマチャル(Riek Machar Teny)もSPLAに参加している。

1983年 SPLAがエチオピア(メンギスツ軍事政権)の支援を受け反乱開始。これをソ連が援助。第二次スーダン内戦が始まる。

1984年9月、ヌメイリは非常事態の終了を宣言し、非常時裁判所を閉鎖したが、シャリアの多くを引継ぐ新たな刑法を施行した。

1985年初め、ハルツームは旱魃と飢饉の中、燃料とパンの深刻な不足に見舞われる。南部では戦闘が拡大し、難民が増加。SPLAがリビア、ウガンダ、エチオピアの支援を得て、南部の大半を支配下に治める。

4月の初めに、最初はパンと他の主要製品の値上げによって引き起こされた、大規模なデモがハルツームで起きた。

4月6日 ザハブ将軍が、反ヌメイリのクーデターを起こした。1983年憲法の無効化と、イスラーム国家化の停止、ヌメイリのスーダン社会主義連合の解散を宣言する。しかし、シャリーアの導入を決めた「9月法」と呼ばれる法律は停止されなかった。

1986年4月 選挙が行われ、軍事評議会は公約通り民政移管した。ウンマ党のマフディーを首相とし、民主統一党 (DUP)、民族イスラム戦線(NIF)と、いくつかの南部の政党が連立した。SPLAは選挙への参加を拒否。

5月 ウンマ党政権は SPLA と和平交渉を始めた。その年、SPLA と他の政党のメンバーはエチオピアで会合し、シャリーアの廃止を求めるコカダム宣言に合意していた。

1988年11月 SPLA とDUP(ウンマ党政権の連立与党) は、エジプトとリビアとの軍の協定の廃止、シャリーアの凍結、非常事態の終了、停戦を求める和平案を共同提案した。しかしマフディー首相はこの和平案を拒否し、このためDUPは政権を離脱した。新政権はウンマ党とイスラム原理主義の NIF で構成された。

1989年

2月 スーダン軍軍部はマフディーに南部州との和平を進めるよう最後通告を示した。マフディはあらためてDUP との連立政権を作り、SPLAとDUPとの合意を承認した。

6月30日 主戦派の下級将校が、オマル・アル=バシール大佐をかつぎクーデターを決行。救国革命指導評議会を創設する。バシールが大統領と首相、最高司令官を兼任した。イスラム原理派の「民族イスラム戦線」(NIF) はバシール政権を支持し非イスラム派との戦闘を煽る。

バシール政権は労働組合や政党その他「非宗教」組織を禁止した。その結果、7万8千人の軍人・警察官・行政官が追放された。追放された政治勢力はエリトリアに亡命・結集し多党派連合「国民民主同盟」 (NDA)を結成。国民民主同盟にはSPLAも参加。

1991年


5月 ソ連・東欧の崩壊に伴い、エチオピアでもメンギスツ政権が倒れる。SPLAは後ろ盾を失い分裂した。1.トリット派 ジョン・ガランの率いる主流派、2.バハル・エル=ガザル派 ケルビノ・クアニン・ボルの率いる反主流派、3.ナシル派 ヌエル族を主体としマチャルが率いる。後に統一派を名乗る。
1991年 バシール政権、切断と石打ちを含む残酷な刑を全国的に導入する新刑法を施行する。
11月15日 マチャルの率いる部隊、ジョングレイ州ボルでディンカ族を虐殺する。
1993年 バシール政権がシャリーアによる司法改革を断行。南部の非ムスリムの裁判官を北部へ転任させ、全てムスリムに置換える。またハルツームに住む南部人や非ムスリムをシャリーアに基づき逮捕する。
1993年 スーダンがアメリカにテロ支援国家に指定される。アメリカからの武器輸入は途絶え、シ ェブロン社は操業を停止。油田の権利を格安でスーダン政府に売り渡す。中国が大量の武器を供給し油田開発に乗り出す。
1995年3月に、米国のカーター元大統領の仲介で一時停戦が実現
1996年に、SPLAとエリトリアに拠点を置いた多党派連合国民民主同盟 (NDA) が、政府に対する共闘を開始し、内戦がさらに拡大した。
1997年 アメリカによる経済制裁が開始される。アメリカはスーダン政府に軍事圧力をかけるため、エチオピア、エリトリア、ウガンダを通じてSPLAを支援。これによりSPLA(とジョン・ガラン)は息を吹き返す。
1997年4月 反政府勢力4派と政府が和平協定に調印。統一民主救済戦線 (UDSF) を結成しハルツームに復帰する。SPLAは引き続き敵対関係を続ける。このときマチャルの部隊は単独でハルツームと講和し、南部軍司令官に就任する。

1998年

5月4日、政府とSPLAの代表がケニアのナイロビで約半年ぶりに和平交渉を再開。この間も東南部では戦闘が継続していた。
8月20日 アメリカによるミサイル攻撃で、スーダンの製薬工場が破壊される。アメリカ大使館爆破事件への報復とされる。
1999年 南部のヘグリグ油田とポート・スーダンをつなぐパイプライン敷設が完了、石油輸出を開始する。スーダンは中規模の産油国となる。
1999年 バシール政権、NIFの指導者トゥラビ(
Hassan Al-Turabi)を政権から追放。強硬なイスラーム化政策から修正し、アメリカとの関係改善を試みる。
2001年 
トゥラビ、SPLAと単独交渉し、SPLAの存在を容認。バシールは発表の翌日にトゥラビを逮捕。

2002年

1月 アメリカが特使を派遣し、積極的な調停に乗り出す。これを受けて、スーダン政府とSPLAが、
ケニアのマチャコスで会談。6ヶ月間の停戦に合意。
7月20日、政府とSPLAが
和平の枠組み(Machakos Protocol)に合意。南部の帰属をめぐる住民投票を6年後(2008年)に実施することなどを柱とする。
7月27日 バシール大統領とSPLAのジョン・ガラン最高司令官が、ウガンダのカンパラで初会談。
8月12日 包括的和平合意を目指した交渉が再開される。周辺国で構成された政府間開発機構(IGAD)の和平プロセスが進展。

2003年

ダルフール地方の反政府勢力が武力闘争を開始。 政府からの支援を受けたアラブ系民兵組織ジャンジャウィードが大規模な虐殺と破壊を繰り返す。約 20 万人の死者、約 200 万人の難民・国内避難民が発生

2004 年 11 月 ルンベックでSPLAの会議。キールはガランをはじめ SPLA内部の腐敗について批判。ガランの個人支配についても批判。

今井さんによれば、SPLA 内部には腐敗もあり、ガランを筆頭に幹部の多数が豪邸に住み、豪勢な生活を営んでいた。キールは幹部の多くと異なり、腐敗とは無縁な人物として知られていた。


南北和平交渉と独立への過程
2005年

1月9日 ケニアのナイバシャで、第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意が締結され、南北包括和平合意 (CPA) が実現。合意の主な内容は

1. 自治権を有する南部スーダン政府の成立
2. アル=バシールを大統領、ジョン・ガランを第一副大統領とするスーダン暫定政府の発足
3. 大統領選挙、議会議員選挙の実施(5年後)
4. 南部スーダンの独立を問う住民投票の実施(6年後)
5. 南部の宗教的自由(シャリーアの不適用)
6. 南部スーダンで産出される石油収入の南北原則均等配分


1月9日 南部スーダン自治政府が成立する。初代大統領にジョン・ガランが就任。サルバ・キールが副大統領となる。22 年間に及ぶ内戦は終結。内戦による死者は約250万人、発生した国内避難民は 400 万人、国外難民は 40 万人にも上る。
2月 SPLA、北部軍の拠点であったジュバに入る。臨時首都のルンベクに代わり南部スーダンの恒久的首都と宣言。(ジュバは、21年間にわたりSPLAの包囲を受けながら北部軍が確保し続けた)
7月 新スーダン政府が発足。SPLAのガランが第一副大統領に就任。南スーダンの大幅な自治を認めた新憲法が公布される。
8月11日 ガラン、ウガンダでの会談の帰路、ヘリコプターの墜落により事故死する。北部人と南部人の衝突が相次ぎ、内戦再発の危機を迎える。
9月 キールがスーダン共和国第一副大統領及び南部スーダン自治政府第2代大統領に就任。キールの大統領昇格に伴い、SPLAに復帰したマチャルが副大統領に就任。
10月 
南部スーダン自治政府が発足。SPLAが自治政府の主導権を握る。

脆弱な平和

このあとの記事は、BBCニュースから主として拾っている。

2006年


11月 スーダン政府軍とSPLAがマラカルで衝突。数百人の死者を出す。
2006年 
合同統合任務軍「アフリカの角」が創設される。中国のスーダン進出に対し、米国が軍事的プレゼンスを確保するためとされる。
2007年 SPLA、南北境界紛争とダルフール問題(イスラム教徒民兵)でのハルツーム政府の不誠実を理由に国民統一戦線内閣から離脱。2ヶ月後に復帰。

2008年
5月 産油地域のアビエイ(Abyei)で、南北両軍の戦闘が激化。
6月 バシルとキールの会談。アビエイ問題で国際的調停を仰ぐことで合意。

2009年

6月  国際刑事裁判所(ICC)は、バシール大統領に対して、ダルフールにおける人道に対する罪により逮捕状を発行する。
6月 ハルトゥーム政権が南スーダンの少数民族に武器を渡し内紛を煽っているとの情報が流れる。ハルトゥームはこれを否定。
12月 南北スーダンの指導者が会談。独立を問う国民投票を11年3月に実施することで合意。

2010年

1月20日 
南北の内戦終結5周年を祝う式典が開かれる。これに出席したバシール大統領は、「住民が選択(分離独立を)した場合にはスーダン政府は南部の(完全)独立を承認する」と発言した。

1月 南スーダンで住民投票。完全独立を望む票が圧倒的多数を占める。

2月 ジョングレイ州アビエイで治安部隊と独立派の衝突。100人以上の死者を出す。

3月 南スーダン政府、北によるクーデターの企てがあったと非難。南北対話を停止。

4月 南スーダン自治政府の大統領選挙。キールが得票率92.99%という圧倒的大差で再選される。

南スーダンの完全独立

2011年

1月9日 独立か自治かを問う住民投票が実施。分離独立票が圧倒的多数 (98.83%) を占めた。

5月 北スーダン、アビエイの係争地域を占領。
6月 南北政府、アビエイの係争地域を非軍事化し、エチオピアのPKOに委ねる協定に調印する。
7月9日 スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立し、「南スーダン共和国」(The Republic of South Sudan)になった。SPLMは政権与党となり、SPLAは正規軍(南スーダン軍)に再編成された
7月13日 国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった。
8月 国連、ジョングレイ州で人種間の衝突により少なくとも600人が死亡と発表。
9月 南スーダン政府、ラムシェル(計画のみ)を将来の首都とすると決定。
10月 キール大統領、独立以後最初のハルツーム訪問。懸案を解決するためにいくつかの委員会を設置することで合意。
10月 SPLAがユニティ州のマヨムを攻撃。少なくとも75人の死者を出す。このあと国境地帯で武力衝突が相次ぐ。明らかになったのは氷山の一角とみられる。

11月02日、北スーダン管轄下の南コルドファン州タロディで、スーダン政府軍と「スーダン人民解放運動・北」が激しい戦闘。
「スーダン人民解放運動・北」(SPLM・N)は合意された南北国境より北に住む黒人系住民の武装組織。北スーダン政府の黒人系住民排除の動きに抵抗して組織された。
11月03日 
北スーダンの青ナイル州クルムクで、SPLM・Nの拠点がスーダン政府軍に攻撃される。約2万8700人の難民がエチオピアに脱出。
11月 南スーダン政府、北軍機がユニティ州Yida の難民キャンプを空襲したと非難。北スーダン軍は空襲の事実を否定。


2013年

1月 
スーダン政府との石油に関する交渉が停滞,南スーダンは,原油生産停止を決定
1月 ジョングレイ州で人種抗争のため10万人が難民となる。南スーダン政府はジョングレイ州に非常事態を宣言。
2月 南北スーダン政府、相互不可侵協定に調印。その後パイプラインの使用量をめぐる交渉が決裂し、北スーダンは南からの石油パイプラインを閉鎖。南スーダンはこの結果公務員給与以外の支出の半減を迫られる。
4月 南スーダン軍、数週間にわたる国境紛争の末、北スーダンのコルドファンにあるヘグリグ油田を一時占拠。スーダン国民会議は南スーダンを敵とみなす決議を採択、スーダン軍が南スーダンのベンティウを報復空爆する。国際連合安全保障理事会は、両国に即時停戦を強く求める。
5月 南北両軍がともにアビエイから一方的撤退。
6月 南スーダン、経済的悪化の中で最初の独立1周年式典。
8月 国境地帯のスーダン側で北軍とSPLA-Nとの武力衝突。戦闘地帯から20万人が南スーダンに逃げ込む。
9月 南北大統領がエチオピアで会談。
通商、石油、軍事に関する9つの合意文書に署名。国境に非軍事緩衝地帯を設定すること、石油販売を再開することで合意。アビエイ地域の帰属など領土問題では合意に至らず。

2013年

4月 南北間の厳しい価格交渉の末、原油生産が1年ぶりに再開される。また国境地帯に非武装地帯を作ることでも合意。
5月31日、安倍晋三首相とサルバ・キール・マヤルディ大統領の会談。南スーダンに日本大使館を設置することが決定

内戦の開始

6月 キール大統領、マニべ財務相とアロール外相を罷免。免訴特権も取り上げる。両者には数百万ドル以上の金融スキャンダルがあった。

7月 キール、内閣の全閣僚とSPLAの主要幹部を全て解任する。マチャル副大統領も解任される。SPLA内部の権力争いが背景にあったとされる。

12月14日、首都ジュバにおいて軍の一部と大統領警護隊が衝突。

12月16日 サルバ・キール大統領は、衝突がマチャル前副大統領によるクーデターであったことを公表し、前閣僚を含めた関係者を逮捕。

12月 マチャル派部隊がボルを占拠。他にもいくつかの町がマチャル派の手に落ちる。ユニティ州を防衛していた指揮官がマチャル派に寝返り、北部の国境地帯(油田地帯)がマチャル派の手に落ちる。

12月 ウガンダ軍部隊、南スーダン政府軍の立場に立ち戦闘に参加。


2014年

1月23日 両派間で停戦合意が結ばれる。2月まで数回にわたり停戦合意が成立するが、戦闘はおさまらず。

2月17日 ボルで国連派遣団(UNMISS)の施設が武装グループに襲撃される。避難していた民間人ら少なくとも20人が死亡、70人以上が負傷した。報道では誰がやったかを明らかにしていないが、明らかにマチャル派であろう。

4月 マチャル派が油田地帯の主要な町ベンティウを占拠。200人以上の民間人が殺害され、400人以上が負傷。

6月 国連安保理、南スーダンの食糧危機は世界最悪と発表。4月までに数千人が殺され、避難民は100万人以上にのぼる。さらに500万人が人道援助を必要としている。NGO「平和基金会」が発表した「世界で最も脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となる。

8月 政府間開発機構(IGAD)による調停により、アジスアベバで政府と反政府勢力との和平交渉が始まる。


2015年


2月 6月に予定された総選挙は紛争が続くため中止となる。

3月 反乱軍、ユニセフの要請に応じ少年兵250人を解放。ユニセフの観測によれば、この戦闘で少年兵1万2千名が動員されているという。

8月 キール大統領、国連の圧力に屈し平和提案に応じる。マチャルは副大統領に返り咲く。

8月 キール大統領派とマシャール派が合意。無期限衝突停止宣言や国民統一暫定政府設立などを定める。この間の衝突で5万人が死亡、避難民は230万人以上と推定される。経済はインフレ率295%に達する。


2016年

9月23日 タバン・デン・ガイ第1副大統領が国連総会で演説。情勢は安定しているとし、国連の地域防護部隊の配備に反対を表明。

11月1日 バン・キムン事務総長、7月事態を受け、国連南スーダン派遣団の司令官を更迭。司令官の出身母体であるケニアはこの措置に抗議し、駐留軍全部を撤退させる。

11月17日 AFP バン・キムン事務総長、安保理あての報告。治安状況は悪化しており、混沌とした状態。①大規模な残虐行為が発生する非常に現実的な危険がある。②国連の平和維持部隊は大量殺りくを阻止できない。

11.17 国連安全保障理事会が開かれる。米国は武器禁輸の決議案を提出。和平実現の「元凶」となっている政府指導者らの資産凍結や渡航制限ももとめる。



ずっと気になってはいたが着手しないままになっていた。

内部の力関係はおそらくケニアやルワンダと似たようなものだろうと思っていた。アフリカにおけるナショナリズムの目覚めは1960年ころだ。

この頃から域内先進国の中心部では植民地支配を排撃する運動が、種族や部族を越えた「民族」という求心力のもとで語られるようになった。

しかしそれはあくまでも都市部の知識人や組織労働者などに限られており、それが周辺部まで行き渡るのにはなお数十年の月日を要した。それは今もなお進行中であり、都市部における資本主義的(むしろ商業的と言うべきか)生産システムがいかに発展するかにかかっている。

この歩みを強引に進めようとしていくつかの社会主義的実験が試みられたが、それらはいずれも失敗に終わった。しかし精神としての進歩主義、パン・アフリカニズムはある程度は受け継がれている。

サブサハラの中では、東部の大地溝地帯はむしろ先進地帯に属する。エチオピアからウガンダ・ルワンダへと続くゾーンは比較的人口稠密な高原地帯であり、粗放ながら農業を基盤とする社会が成立していた。

ただし南スーダンはその中では激しく落ち込んだ地帯であり、ナイルの氾濫原が酷暑の中に広がる農業不適地帯である。

そこは北のアラブ世界と南の高原地帯をつなぐ結節点として意義を持っているところだと考えてよいのではないか。
率直に言えば、ネーション・ステートとしての「塊」はそこには感じられない。突き放して言えば、ルアンダ・ブルンジ並みに細切れ国家にならないと、民族国家としてのスタートは切れないのではないか、とさえ思ってしまう。 

そんな感じで、年表づくりに入ってみたい。

1週間いない間に世界は動いていた。

ドイツ銀行の経営危機の報道は目を疑った。それとともにメディアがこの情報をほとんど扱わないことにも驚いた。

ドイツ銀行といえば、以前より素行不良の噂が後を絶たず、いつかは何かが起こるだろうとは思っていたが、まずは状況がよく飲み込めない。

BLOGOSに以下の記事があったので斜め読みしてみる。

My Big Apple NY2016年10月02日 

バロンズ:ドイツ銀行問題は、リーマン・ショックの再来か

という恐ろしい見出し

A) 事件の顛末

1.ドイツ銀行の株価と債券価格は前週に急落した。すでにヘッジファンドはデリバティブの担保として預けていた資産を引き揚げた。

2.急落の原因は、米司法省が住宅ローン担保証券をめぐり140億ドルの和解金支払いをもとめたことだ。

3.ドイツ政府はドイツ銀行を救済しないとの報道が飛び出し、事態は深刻化した。

4.9月30日、ドイツ銀行経営者はヘッジファンドの資金引き揚げを認めた。そのうえで、その懸念には正当性がないと非難した。

5.同じ日、米司法省が和解金を54億ドルへ引き下げ、両者が合意したと報道された。これに市場は反応し、株価と債券価格は値を戻した。

というのが顛末。

B) 事件の背景

しかしその背景を見ると、決してめでたしめでたしではない。

1.ドイツ銀行の時価総額は200億ドルたらずで、身売りが囁かれているツイッターをやや上回る程度だ。

2.ドイツ銀行は60兆ドルものデリバティブを抱える。金融危機が発生すればカウンターバーティーが契約を履行できない恐れがある。

3.簿価の大幅な欠損によって必要な増資が困難となり、バランスシートを支えられない。

4.ドイツ政府は財政健全化を訴えてきただけに、大手銀行の救済には及び腰となるだろう。

C) 事件の波及効果

記事はアメリカと世界金融への影響についても触れている。

1.ヘッジファンドの欧州銀行からの資金引き揚げは、LIBOR(ドル3ヵ月物ロンドン銀行間取引金利)を押し上げるだろう

2.LIBORは米国内のローンの基準金利となり、住宅ローン金利を規定している。住宅建設にブレーキをかけるには十分だ。

3.金融市場に緊張が走れば、FOMC(米連邦公開市場委員会)の利上げペースにもブレーキが掛かるだろう。

D) 事件の裏側

記事は、以上のような背景を踏まえ、司法省が和解金を割り引いたのではないかと見ている。

逆に、140億ドルというのはブラフだったとも考えられる。EUのグーグル提訴への対抗措置だったとの観測もある。

それがヘッジファンドの素早い動きを見て、急激に方針転換した可能性もある。その背景としてはアメリカ大統領選があり、トランプを利するような情勢激変を避けたいとの判断が働いたのかもしれない。

というのがこの記事の骨子。

世界の富豪たち

いつも、行き倒れとか介護疲れとか減免とかしけた話ばかりなので、今回は景気良くドーンとお金持ちの話をしましょう。

最初は金持ちが信長とか秀吉のように見えて、他人ごとながら楽しいのですが、そのうち腹が立ってきます。最後にはこんな世の中変えなきゃいけないと思うようになり、どうしたら金持ちをやっつけられるかと考えるようになってくれればと思います。

Ⅰ.世界の富豪たち

最初にフォーブス誌の今年のランキング。このランキングは個人の資産に加え、公的投資や民間企業への投資、不動産、ヨット、美術品、現金や負債も考慮に入れている。


第1位 ビル・ゲイツ(60)
資産額:750億ドル(8兆5680億円)マイクロソフト/米国

 

第2位 アマンシオ・オルテガ(79)
資産額:670億ドル(7兆6541億円)ZARA/スペイン

 
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第3位 ウォーレン・バフェット(85)
資産額:608億ドル(6兆9458億円)バークシャー・ハサウェイ/米国




第4位 カルロス・スリム・ヘル(76)
資産額:500億ドル(5兆7120億円)アメリカ・モービル(通信事業)/メキシコ

第5位 ジェフ・ベゾス(52)
452億ドル(5兆1636億円)アマゾン/米国

第6位 マーク・ザッカーバーグ(31)
446億ドル(5兆951億円)フェイスブック/米国

第7位 ラリー・エリソン(71)
436億ドル(4兆9808億円)オラクル/米国

第8位 マイケル・ブルームバーグ(74)
400億ドル(4兆5696億円)ブルームバーグ/米国

第9位 チャールズ・コック(80)
396億ドル(4兆5239億円)Koch Industries(複合企業)/米国

第9位 デイビット・コック(75)
396億ドル(4兆5239億円)Koch Industries(複合企業)/米国

ご同慶の至り、と、とりあえずは言っておこう。

Ⅱ.日本の富豪たち

順位名前(漢字)関連資産(億円)
1柳井正ファーストリテイリング(ユニクロ)17,930
2孫正義ソフトバンク16,390
3佐治信忠(一族)サントリー12,870
4滝崎武光キーエンス9,130
5三木谷浩史楽天6,270
6森章森トラスト5,280
7高原慶一朗ユニ・チャーム4,620
8毒島邦雄・秀行三共(SANKYO)4,510
9韓昌祐マルハン4,400
10伊藤雅俊セブン&アイ・ホールディングス4,290

Ⅲ.どれだけ増やしているか

と、ここまでは個人資産なので「ああそうですか」ということにしかならない。羨ましいとは思っても憎たらしいとは思わない。

しかし毎年の収入を見ていくとそうは行かない。オックスファム

このグラフを見ると、なんだかんだと言いつつも2010年まではウィン・ウィンの関係でみんな豊かになっている。それがこの5年間というもの、貧乏人の財産は大幅に目減りする一方、超お金持ちの財産は増え続けている。

つまり62人の連中は貧乏人を食い物にして肥え太っているわけだ。

Ⅳ.日本のお金持ちも同じだ

これは政府御用達、NHKの報道によるものだから間違いない。
資産の増加

アベノミクスの始まる前、2012年の8兆円に対し、15年に14兆円で差し引き6兆円増えたことになる。3年で6兆、毎年平均して2兆円が懐が膨らんだ計算だ。
これは財産(残高)であって収入ではない。収入だと、これに使った分(どのくらい使うんだろう?)がさらに上乗せされる。
これは企業の内部留保じゃありませんよ。まったくの個人資産なんです。 この守銭奴連中から14兆円全額巻き上げたって、日本経済にはなんの影響もないんです。ほっときゃまた溜まってくるんです。

ちなみに2014年に消費税が3%アップされた。これにより消費税収入は5兆円上がった。そして15年度にはさらに2兆円増えた。

合わせて12兆円。その半分が40人の超富裕層のポッポに入ったことになる。
消費税
 

むろん、財務省が耳を揃えて差し出したわけではないが、日本経済全体としてはそういうことになる。日本経済にはそういう「吸い込み構造」があるのだ、というしかない。

あとに残されたのは消費税不況と、デフレと、国民生活の悪化しかない。

財務省の責任ではない、と言われればそれまでだが、それでは国民のお財布のことは誰が考え誰が実行するのであろうか。

民主党の財政幹部で消費税の旗振りをした藤井裕久氏はこう言っていた。

消費税を広く浅く積み上げて、これを社会的弱者のために用いる。そうすれば内需は喚起され、結果として財政再建を成し遂げながら、所得の再配分を実現できることになる。

しかし、社会的弱者のためにそれが用いられることはなかった。藤井氏はそれを非難するが、率直に言ってその保証は何ら取り付けられていなかった。

アベノミクスは逆に経済を金融面から揺り動かすことで景気を回復し、もって弱者に滴り落ちる分配を増やし、内需を拡大しようとした。しかしそれも「吸い込み構造」への対応なく、弱者への再配分の保障なく行われ、結果として膨大な国債と膨大な日銀券を残したのみという結果に陥った。

それがこのグラフに示されている中身だ。
 もご参照ください。

中村平八 「ソ連を殺したのは誰か」

の全文がネットで読める。同志社商学 第52巻(2001年3月)というページでPDFになっている。

91年の事態は民衆とは関係のない宮廷革命であった

91年の時点で、ソ連の国家体制と民衆の間に決定的かつ敵対的な矛盾は存在しなかった。

バルト3国を覗く各共和国の民衆の大多数は、最後まで緩やかな連峰国家体制の維持と、改善された社会主義経済の存続を支持していた。

ソ連の民衆は次々に生まれる新党のいかなる党にも積極的関心を示すことはなかった。

ソ連を殺したのはロシア共和国のノメンクラトゥーラのなかの体制転換派(急進改革派)であった。

ソ連の「成功」を再確認する

ソ連は70年間失敗続きであったわけではない。それどころか、初期の40年間は大成功したとさえ言える。

だから、ソ連を批判する際には、まず、なぜソ連が成功したのかを分析し、それがなぜ成功因子を失い、右肩上がりの経済がどのようにして壁にぶつかり、ついに崩壊していったのかを明らかにしなければならない。

まずは経済的成功の場面から。

①スターリンの下でソ連は急速な工業化に成功した。第二次大戦後にはヨーロッパ第一位の工業国に到達した。

②第二次大戦では参戦国中最大の人的物的被害を被ったが、短期間で経済復興し、アメリカに次ぐ経済力(85年GNPでアメリカの55%)に達した。

③平均寿命、栄養摂取量、医療水準、識字率、普通中等教育終了率でソ連は西側先進諸国と肩を並べた。

④失業の恐怖、老後の心配、住宅・教育・医療費負担はなくなった。

これらを生み出したのが計画経済(著者によれば軍事共産主義供給制)であった。しかしそれは恐怖政治と非能率を伴っていた。(ただし非能率といえば、恐慌と失業ほど非能率なものはない)

ソ連型計画経済の特徴

①「不足の経済」の外延化

革命時の絶対貧困と、その後の国内戦のもとで、量産計画が全てであり、需要との照応は必要なかった。

党の独裁体制のもとで、立憲体制を乗り越え、人命まで含めた過度の収奪が可能となった。

②計画経済の負の成果

生産効率や生産物の質は二の次にされ、無駄の体系が作り上げられた。

行政機構の肥大と非能率化、官僚主義と腐敗。

主人公たるべき労働者・農民の疎外。労働資源化。



感想は、この記事の表題通り。不足だったから「不足の経済」が成功し、それが一定程度充足されることにより壁に突き当たる。問題はその次になにをするべきだったのかがはっきりしていないことだ。

60年代始めにリーベルマン構想が打ち出され、利益の出る構造への変革が打ち出されたが、結局うまく行かなかった。

私が思うには、自由な購買者の出現がないと、生産サイドの改革だけではうまく行かないのではないか。

生産の増大は消費の増大を伴う。消費の増大は欲望の増大をもたらす。増大した欲望が実需となり生産を刺激する。

この螺旋形構造が創りあげられないと経済のそれ以上の進展はない。

「不足の経済」のシステムは循環システムになっていないから、この問題に対応できない。利潤の導入は生産側のインセンティブにはなっても消費者には関係ない。

実はここに市場の最大の価値がある、と私は思う。市場の最大の役割、それは需要の創出にある。

なぜなら市場こそは貨幣経済の最大の実現の場だからだ。人々は職場においては奴隷として扱われる。しかし貨幣を持った一生活者として市場に登場したとき、彼は「王様」にだってなれるのである。

したがって市場は人々の「自由な真の需要」を表現する場になるのである。生産者は市場を見て生産を調整するだけでなく、需要を掘り起こし生産拡大に結びつける。

このような需要の拡大が、生産の増大をもたらし経済の発展へと結びつけていくのである。また労働者・農民の自由をもたらし、当局者の全面的圧政の軛からの解放へと繋がる。

市場の真の機能は競争にあるのではないし、需要と供給のバランスにあるのでもない。それは「欲望の見本市」であるところに最大の機能があるとみるべきだ。

この辺は稿を改めてもう少し検討してみたいと思う。


年表づくりという形でバングラデシュの状況を整理してみて、あらためて佐藤宏さんの見解に深く頷くものがある。

とにかく、たった40年前に数百万の人々が殺されたのである。この事実をまずもって私達は深く認識しなければならないだろう。

関係者がまだ生きているから、100万人を殺した血まみれのおぞましい虐殺者たちにも生きていく権利は認めざるを得ないのだから、とりあえず、そのことには蓋をして、バングラデシュは経済的自立への道を歩んでいるのである。

しかし往々にして虐殺者への憎しみは火を噴く。なぜなら、虐殺者たちはいまだ虐殺を反省せず、平然と公職につき、イスラムの名において自らの行動を合理化し続けているのである。

だから、彼らは攻撃されればされるほど原理主義的にならざるをえない。「俺のどこが悪い。イスラムの原理に従って行動しただけだ。やれるものならやってみろ、こちらも容赦しないからな」と開き直ることだ。

だから、バングラデシュの原理主義はイスラム原理主義一般よりさらにカルト的で、後ろ暗いものがある。はっきり言えば、身を隠すために「原理主義者」を装った薄汚いイスラム同胞虐殺者の末裔の集団だ。

しかし彼らをここまでのさばらせた最大の原因は、前与党のBNPにあるのだろう。

現与党のアワミ連盟とBNPの支持率は拮抗している。バングラデシュは小選挙区制だから、1,2%の得票率の差で圧倒的勝利か惨敗かということになる。

そこで、一定の底堅い支持率を持つJI の票は魅力的だ。そこでBNPは悪魔と取引し、JIを認めてしまった。これで死に体だったJIは一気に息を吹き返し、そのコマンド組織であるJMBも力を得たのだ。

もともと、BNPも独立戦争を戦った集団であり、JI に対する反感は強いはずなのだが、それ以上に目の前の票には魅力があったのだ。

こういうのを「野合」というのだろう。

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

一つのベンガルの時代

 8世紀 中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。

12世紀 ヒンドゥー教のセーナ朝にとってかわられた。

16世紀 イスラムが多数派となる。ムガル帝国の下で商工業の中心地へと発展する。

1651 イギリスの東インド会社、コルコタに商館を設け、ベンガル、ビハール内陸部との交易に乗り出す。

1757  プラッシーの戦い。東インド会社がベンガルのナワブ軍に大勝。ベンガルに対する植民地支配が開始される。

1765 イギリスがディワニーと呼ばれる徴税行政権を獲得。その後イギリスはベンガルからインド全域に支配を拡大した。ベンガルはその中心となり「黄金のベンガル」と称された。しかし織物をはじめとする伝統産業は英国の商品により壊滅。

ベンガル人の誇る文豪タゴールの詩「ショナール・バングラ」(黄金のベンガル)が下敷きとなっている。「おぁ黄金のベンガルよ。我は汝(なんじ)を愛す…」という詩は、バングラ・デシュの国歌となっている。

1905年 イギリスはインド人の分断を意図し、ベンガル分割令を発布。ヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルとに分割する。(梅干しを二つに分けるとき、カルカッタという種が入っている方が西ベンガルで、入っていないほうが東ベンガル)

1929年 ムスリム上層農民を基盤とする「全ベンガル・プロジャ党」が結成される。ベンガル人意識が後退し、ムスリムとしての意識が高揚。

1943年 ベンガルで大飢饉。150万~300万人の死者を出す。

1946年8月 コルカタ(旧カルカッタ)暴動。ムスリムとヒンドゥーの衝突で4千人の死者を出す。

東パキスタンの時代

1947年8月 英領インドがインドとパキスタンに分かれ独立。東ベンガルはパキスタンへの参加を決定。パキスタンは「回教徒の清らかな国」を自称した。宗教はインド亜大陸の最高の掟となった。

1949 年 東西パキスタンはベンガル語とウルドゥー語という言語の違い、西パキスタンの政治的優位などから矛盾が拡大。アワミ連盟の前身である「東パキスタン・モスリム・アワミ連盟」が設立される。

1952年2月21日 パキスタン中央政府、ウルドゥ語を公用語に強制。これに抗議するダッカの学生デモに警官が発砲、軍隊が出動し多数の死傷者を出す。後に「犠牲者の日」と呼ばれ、最初の独立への運動とされる。

1955 年 アワミ連盟、政教分離の観点から党名中の「モスリム」を削除する。

1966年 アワミ連盟が6項目綱領を提案。国防・外交・通貨以外を州管轄事項とするよう求める。中央政府はムジブルを「インドと結託した反国家分子」として逮捕。

1970年12月 パキスタンで初めての総選挙。人口に勝る東パキスタンに基盤を有するアワミ連盟が第一党となる(アワミ連盟は東パキスタンで162議席中160議席を獲得)。中央政府は国会を開催せず、アワミ連盟を無視しさまざまな妨害工作。

バングラデシュ独立の闘い

1971年
3月1日 パキスタン中央政府、憲法制定会議の無期延期を発表。
3月2日 ムジブル・ラフマンがパキスタン政府への非協力を宣言。パキスタン中央政府は軍を空輸しアワミ連盟幹部を拘束。ムジブル・ラーマン総裁は西パキスタンに連行される。国家反逆罪に問われ、死刑を求刑される。

3月25日11PM パキスタン軍がダッカ市内の攻撃を開始。大学の構内などで大量殺戮がはじまる。新聞社や警察署なども攻撃され破壊され、数多くのスラムも焼き払われた。

3 月26 日 東パキスタンは独立を宣言。パキスタン軍を離れた東ベンガル部隊、国境警備隊が中心となり、ムクチ・バヒニ軍(バングラ・デシュ解放軍)が形成され、パキスタン軍に対抗する。

東の部隊は東ベンガル連隊6千人のみであった。そのため、当初、解放軍の実質は国境警備隊の1万5千人、武装警察隊の4万5千人が担った。ムクチ・バヒニは終盤では志願兵を含め10万人以上に達した。

4.09 イスラム協会やムスリム連盟などが「平和委員会」を結成。実際は独立解放派の肉体的抹殺を目的とする。イスラム協会は実力部隊として「ラザカル」を創設。その学生は「アル・バタル」を組織。ムスリム連盟は「アル・シャムス」を組織する。

パキスタン軍は各地で大量虐殺を行った。死亡者は9ヶ月で300万人に達する。
ジェノサイドにはバングラデシュに住む少数民族ビハリが手先になった。ビハリは東パキスタン独立時にインドのビハール州から移民したイスラム教徒。非ベンガル系で、何故か西パキスタンと同じウルドゥー語を話す。
パキスタン軍はビハリを武装し、「ラザカル」(民警)という名で呼ばれる現地傭兵とした。ベンガル人を殺したのはこのラザカルだった。ラザカルはベンガル人の捕虜を一人もつくらなかったといわれる。全部殺した、という意味だ。

12月3日 インド政府が東パキスタンの内戦に介入(第三次印パ戦争)。

12月16日 西パキスタンの派遣軍がインド軍に降伏し撤退。東パキスタンは「バングラデシュ」として独立を果たす。

西パキスタン軍は多くの置き土産を残した。狂信的な極右回教徒組織「アル ・バド」は、ダッカ陥落の直前に知識人、学者、ジャーナリストを惨殺した。
また、大量の武器をラザカルの手に残した。解放直後、クチ・バヒニは各地で ビハール人、「ラザカール」、ベンガルトの敵対協力者に「目には目を」式の報復を行なった。ラザカルの残党とビハリは、文字通り必死の戦闘を繰り返したという。 

ムジブルとアワミ連盟の時代

1972年1月 ムジブル、パキスタンから戻り首相に就任。「3年待って欲しい。3年たったら我々はこの国をショナール・バングラ(黄金のベンガル)にするだろう」と呼びかける。

3万7,471人がコラボレータ(パキスタン協力者)として逮捕される。起訴されたのは2千人程度で、実際に有罪となったのは752人だった。

1972年8月 独立戦争におけるゲリラ闘争の指導者として国内闘争を主導したタヘル大佐、「人民の軍隊」を主張し、ナジブル首相に解任される。この後タヘルは地下に潜入,武装活動を続ける。

12月 憲法が公布される。「社会主義」、「民族主義」、「政教分離主義」、「民主主義」を国家の基本原則とする。

1974年

9月 バングラデシュを大洪水が襲う。被災地では3万人が餓死。これまでの経済の疲弊、オイルショックによる不況に拍車がかかる。買占め,売おしみが横行,ダッカ市内の米価は2.6倍となる。

12月 ムジブル・ラーマン、汚職・密輸の蔓延、治安の悪化に対処するため非常事態宣言を公布。

二つのクーデター

1975 年

1 月 ムジブル・ラーマン首相、憲法を改正。議院内閣制から大統領が実権を有する大統領制に変更。大統領の権限を大幅強化、自ら大統領に就任。綱紀粛正の訴えとは逆に身内の重用、大統領親衛隊(ロッキ・バヒニ)の強化などに批判が強まる。

ロッキ・バヒニ(国家安全保障部隊)はアワミ連盟内の急進派約6,000人を殺害、ほぼ同数を逮捕、拷問したとされる。

1月 東ベンガル・プロ レタリア党(ナクサライト)の委員長シラジ・シクダルが逮捕される。タヘル大佐の人民革命軍と共同行動をとっていた。

8月 7人の少佐(いずれもムクチ・ビハニ出身)による反乱計画が実施される。ファルーク・ラーマン少佐(戦車連隊大隊長)は自分が首謀者だったと主張している。CIAが裏で策動したとも言われる。

15日未明 約300人の兵士と戦車・装甲車などが大統領親衛隊(ロッキ・バヒニ)司令部を攻撃。同時に別部隊がムジブル一族の邸宅を襲い、皆殺しにする。

午前5時30分 反乱軍のダリム少佐(前ダッカ守備隊長)がバングラデシュ放送を通じ演説。「ムジブル大統領は殺害され,新大統領に就任したアーメド前商相の指揮の下に,軍が権力を握った」と発表,同時に全土に戒厳令を発布。

午前10時30分 アーメド前商相が放送を行ない,大統領就任を告げる。前政権の腐敗を強調。

8月20日 アーメド大統領声明。腐敗政治家・官僚を一掃。単一政党BAKSALの解散、大統領親衛隊ロッキ・バヒ二の解散、価格統制の廃止、銃・弾薬の回収を行う。

9月9日 アーメード政権,「国防軍に関する政府の見解」を発表,その中で,「過去3年半の国防軍に対する無視・軽視を考え,政府は独立戦争を戦った人々を相応しい,名誉ある地位につけること」を明らかにする。

9月 青年将校らは大統領官邸内に陣取り,中央コントロールセンターを通して軍の支配を図る。ジアウルら陸軍首脳部は青年将校に原隊復帰を命じるが無視される。

11月3日 アワミ派のムシャラフ准将による対抗クーデター勃発。ムシャラフ・クーデターの背後には、既得権益の確保を狙うインドが存在していたとされる。

11月3日午前2時 カリド・ムシャラフ将軍に率いられたダッカ駐屯第46歩兵旅団3大隊が大統領官邸を包囲,放送局を占拠した。青年将校の身柄引渡し,ジアウル陸軍総参謀長の解任,権力の引渡しを要求する。

午後10時 政府と反乱部隊が合意。政府側は青年将校とその家族29人の国外退去,ジアウル陸軍総参謀長の解任とムシャラフ准将の少将昇格・陸軍総参謀長就任,アーメド大統領の辞任を受け入れる。

ジアウル将軍は兵営内に監禁される。青年将校らは行きがけの駄賃に前副大統領、前首相、前蔵相、前工業相を殺害。

11月4日 前政権幹部4人を失ったことから、ムシャラフ派の権力構築が難航。急拠計画を変更,軍革命評議会を結成して,軍政を敷くこととなる。カリルル・ラーマン軍統合総参謀長はムシャラフの就任要請を拒否。

カリルル・ラーマンはパキスタンから帰国した正規軍グループを代表する人物。軍内パキスタン派は一連の事態に対して一貫して中立を保った。

11月5日 人民革命軍がダッカに出現。兵営内で大量の反軍ビラをまくなど宣伝行動。

上級将校が「自己の利己的・野心的権力欲」のためにクーデターを繰りかえし,下級兵士を利用収奪しているとして,兵士 たちに対してムシャラフ派将校の指令に従わず,「人民の軍隊」のために彼等の上級将校と闘争するよう呼びかけた。

11月5日 人民革命軍に呼応した下級兵士たちは「12項目要求」を掲げ, 各地の軍隊内部で将校との闘争を開始する。

12項目要求: 給与の引上げを含む経済的諸要求,政治犯の釈放,汚職,腐敗分子の財産没収,将官と兵士の差別撤廃,将校当番制度の廃止など。さらに軍を支配階級のためのものから人民に奉仕する軍とする。そのために真の革命的兵士により中央革命軍事会議を設置、軍最高司令官もこれに従えというものであった。

11月7日 民族社会党(JSD)に属する左翼軍人グループが決起。「セポイの革命」と呼ばれる。

独立達成後、「ムクチ・バヒニ」の左翼は民族社会党(JSD)に結集し、その軍事組織であるPRA・RSOとして活動した。これらは「人民革命軍」と呼ばれ、アブ・タヘル大佐(退役)に指導されていた。
セポイの乱については、いずれ稿を改めて紹介する。

1時30分 「人民革命軍」が監禁されていたジアウルを救出。1時間余の交戦の末,ムシャラフ少将ら34人を殺害する。

4時30分 放送局を占拠した兵士は、「セポイの革命によりムシャラフ派が追放され,ジアウル・ラーマンが陸軍総参謀長に復帰,戒厳令総司令官に就任した」と放送。

5時 ジアウルが放送演説。「陸海空軍,BDR,警察その他多くの人々の要請により,わたしが暫定的に戒厳令総司令官についた」と発表する。

夜 アーメド前大統領がテレビ演説。「バングラデシュの独立と主権を守るための兵士たちの比類なき革命に心から感謝する」と述べる。

人民革命軍はジアウルを通して「軍の革命的改組」をはかろうとした。ジアウル革命軍事会議の設置に反対し、サエム大統領を戒厳令総司令官とし,三軍総参謀長・文民による諮問委員会の設置を提案。両者の押し合いが続く。

兵営内では将官と下級兵士のきびしい対立。ダッカだけで40人以上の将官が殺される。

7日夜 ムシャラフ派に擁立されたサエム大統領は,自ら戒厳令総司令官に就任すると共に,三軍総参謀長を戒厳令副司令官に任命した。

8日 サエム大統領、国会の解散 と閣僚の解任,総選挙の1977年2月までの実施を発表。

11月9日 JSDと人民革命軍がダッカで集会を開こうとするが、ジアウルは実力で阻止。このあと軍内統制を強化する。

11月11日夜 ジアウルが全国放送で演説。①現政権はいかなる政党にも関与しない中立暫定政権である,②軍は国民の間に不安と不満をつくり出す動きと対決する,③軍の最大課題は軍人の利益と福祉を守り,国軍を近代的で有能な軍隊にすることである,とのべる。

15日 戒厳令規則が改定。軍・BDR・警察の名を騙り,反国家的活動を教唆・煽動したものは厳罰に処すと発表。

11月25日 タヘルとJSD指導者たちは反国家的活動を行なったとの理由で再逮捕される。

11月26日 サエム大統領、民間から4人の諮問委員を任命,三軍参謀長と共に諮問委員会を創設。事実上の軍政に移行。

11月25日 軍統制派は、アブ・タヘル大佐らセポイの革命指導者を半国家活動の容疑で逮捕。タヘルが死刑、その他も重刑に処せられる。

12月28日 軍統合総参謀長のポストを廃止。カリルル・ラーマン統合参謀長の事実上の解任となる。

ジアウルの時代

1976年

1月 ジアウル、陸軍の再編・強化に着手。4個師団を9個師団編成とする。兵力はパキスタン帰還兵約1万人を含め,約3万5000人に達する。

4月30日 空軍総参謀長のタワブ少将が解任され、国外に追放される。タワブは回教徒指導者を使って各地で大規模な「祈りの集会」を開かせる一方、8月クーデターの首謀者ファルーク大佐を国内に導き入れた。

タワブはバングラデシュ回教共和国への改名、パキスタンとの連邦制を主張。ファルークはジアウルへの反乱を呼びかけた

11月 サエム大統領、総選挙の無期延期を発表。戒厳令総司令官の任務をジアウルに移譲する。これにより軍政が継続されることとなる。

11月29日 ジアウルが戒厳令司令官に就任し、実権を掌握。

12月 ジアウル・ラーマンが全国放送で演説。民族主義,自力更生,国民参加の3つの基本原理を掲げる。民主主義・社会主義については触れず。

1977 年4 月 サエムに代わり、ジアウル・ラーマンが大統領に就任。憲法を改正し「政教分離主義」が削除される。さらに憲法冒頭に「恵み深く慈悲に溢れた神の名にお いて」とのコーランの文言が追加される。さらに独立戦争中に大量虐殺を繰り返したJI の政治活動再開が認められる。

1978年4月 ジアウル大統領、民政移行に備えバングラデシュ民族主義党(BNP)を設立。資本主義化政策をとる。

1979年 議会選。BNPが、議席の3分の2を獲得する。戒厳令が解除される。

1981 年5 月 ジアウル、軍人グループにより暗殺される。夫人のカレダ・ジアがBNP党首に就任。

エルシャドの時代

1982 年3 月 エルシャド陸軍参謀長が無血クーデター。戒厳令司令官となる。

1983年12月 エルシャド、大統領に就任。エルシャドは2年後に議会制に戻すと誓約したが守られなかった。

1986 年1月 エルシャド大統領、権力の受け皿として国民党(JP)を設立。(現在は3派に分裂し弱体化)

1987年  パキスタン協力者たちの軍政下での復権を描いた『71年の殺人者と手先たちの消息』が刊行され、1 年間で1 万部売れる。

1988 年5月 憲法改正によりイスラム教は国家宗教とされた。

1990年12月 エルシャド政権、民主化運動の高揚の中で退陣を迫られる。軍事政権の時代が終わる。

バングラデシュ民族主義党 (BNP)の時代

1991年2月 総選挙。ジアウル派のバングラデシュ民族主義党 (BNP) が民間実業家、退役軍人などの支持を集めアワミ連盟 (AL) を破る。ジアウル未亡人のカレダ・ジアが初の女性首相に就任。

7月 憲法改正。大統領による独裁を防ぐため、再び議院内閣制に復帰する。

95年2月 総選挙の実施(野党はボイコット)。カレダ・ジア政権の再発足。

3月 憲法改正により、暫定選挙管理内閣制度を導入。BNP政権は直ちに退陣。

6月 やり直し総選挙でアワミ連盟が勝利。ムジブル・ラーマンの長女シェイフ・ハシナが首相に就任。

2001年10月 第3回総選挙。バングラデシュ民族主義党(BNP)はイスラム協会(JI)、国民党(ナジウル・フィロズ派)、イスラム統一連合(IOJ)と4党連立を組み政権を握る。

2003年,JMBのアジトで爆発事件が発生し,大量の爆発物などが発見される。

2004 年4月 チッタゴンの国営肥料工場にて、AK47 ライフル銃690 丁、手榴弾25,020 個、銃弾180万発をなどトラック10 台分の武器が押収される。

8 月 アワミ連盟事務所前での集会に手榴弾。20名が死亡。この他アワミ連盟への襲撃が相次ぐ。

2005年8月 JMBが非合法化される。JMBはダッカを含む63県で爆弾テロを実行。

2006年 軍が政治介入。BNP・JI 政権を退陣させ、選挙管理内閣に移行。

2007年3月,JMBの指導者及びナンバー2を含む最高幹部6人が,2005年の爆弾テロで死刑を執行される。


アワミ連盟の時代

2008年12月 総選挙でアワミ連盟などからなる「大連合」が300議席中262議席を獲得し圧勝。ハシナがふたたび首相に選出される。BNPを中心とする4党連合は、汚職への批判などから大惨敗を喫し32議席に激減。

2010年5月 再建されたJMB指導部がふたたび摘発される。

2013年 ハシナ政権、JI の独立時の戦争犯罪への追及を開始。

1月21日、パキスタン兵による残虐行為に加担した罪で、JIのアブル・カラム・アザド、デルワール・ホサイン・サイディ、アブドルカデル・モラーに死刑判決。

2月 判決を支持する人々がダッカ中心部の広場で座り込み。まもなく中心人物が暗殺される。

4月6日 JIが組織した20万人のデモ。「政府も無神論者の仲間だ」と主張し、厳格なイスラム法に基づく憲法改正などを要求。JIと連立するBNPはJI支持の態度を表明。

7月 高裁、JI の選挙管理委員会への登録を違法とする。この間、イスラム主義者らと警察との衝突などにより約500人が死亡し、数千人が逮捕される。

12月 モラーが処刑される。

モッラは民兵を率い、学者や医師、作家やジャーナリストを殺害した。レイプや350人以上の非武装の民間人の集団虐殺も指揮した。その残虐行為の大半が行われた地名から「ミルプールの虐殺者」と呼ばれていた。

2016年

5月 JI幹部モティウル・ラーマン・ニザミが処刑される。

6月 ハシナ政権によるJI の取り締まり作戦。武装グループや野党関係者らを合わせ計1万1千人を一斉に逮捕。背景にイスラム過激派による相次ぐテロ事件(宗教的マイノリティ、無神論者、世俗主義者、与党幹部などへの襲撃)





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