鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 30 国内政治(財政含む)

「森友」問題の中間まとめ

ド迫力の小池質問があって、その後も議会での追及が続いている。一連の疑惑をどう呼ぶかで、いろいろな提案があったが、とりあえずは「森友問題」と いうことで落ち着いたようだ。森友というので最初は「森永の友」かとも思ったが、安倍妻の実家が関係しているわけではなさそうだ。

本日の赤旗3面に中間まとめ的な記事が載ったので、まずはお勉強。

「森友」問題 籠池氏ら招致は不可欠  疑惑次々 解明待ったなし

問題は3つの柱からなっている。

1.政治家の関与が強く疑われる 

2.売却手続きに不適正がある

3.首相夫妻の道義的責任は免れられない

ということで順番に説明。

1.政治家の関与が強く疑われる

鴻池文書で籠池側が政治家の関与を強く、かつ具体的に求めていたことが明らかになった。また政治家との交渉において金銭(札束 or 商品券)が介在していることは当事者が認めている。(普通これを賄賂という)

籠池側のシナリオに沿って事態が動いたことから、政治家の関与が間接的ながら強く疑われる。

安倍首相は「政治家の関与は一切ない」と断言したが、いまやその根拠が問われる。

財務省の佐川理財局長は、「政治家についての問い合わせがあったかといわれれば、そういう可能性もある」と答弁している。これは調査の上事実確認することがもとめられる。

2.売却手続きに不適正がある

A) 国有財産の処分は売却が基本だが、本件では賃貸契約となった。理由は森友側が賃借契約を希望したためとされる。しかしそれは例外が許された理由ではない。

B) 契約が完了し、工事が始まった。そして地下にゴミが見つかった。この時点で契約内容が変更になった。変更内容は賃借を取り消し、売却契約とするものだった。このときゴミ撤去費用が値引きされ、販売価格は当初価格の14%まで引き下げられた。

この問題B)については未解明な部分が多くふくまれている。納得の行く説明はなされていない。この因縁絡みの再契約について文書が残されていないというのも不可解である。

3.首相夫妻の道義的責任は免れられない

経過については詳らかにされていないが、まず昭恵夫人が籠池氏と深く関わっていた。第一安倍政権時代だったとすれば、すでに「私人」とはいえない。安倍氏が一旦退陣していた時期であったとすれば「私人」と扱われるのが妥当であろう(国会議員の妻ではあるが)

籠池氏は安倍首相本人に対して「安倍晋三記念小学校」の建設を持ち掛けた。安倍氏はこれを「断った」と国会答弁しているが、寄付金の申込用紙には「安倍晋三記念小学校」と記載されていた。本当に断ったのか、釈然としないままである。

昭恵夫人は「篭池氏の教育に対する熱き思いに感銘」を受け名誉校長に就任している。安倍首相は「強引な要請で断れなかった」と説明するが、昭恵夫人 の行動は能動的に籠池氏の事業に関わっているとしか考えられない。安倍首相自身も昭恵夫人から相談を受け承認しているはずである。

公人中の公人である安倍首相には「強引な要請で断れなかった」との説明は許されない。

4.それ以外の問題

他の野党やメディアの取材を通じて、以下の問題も浮上している。

A) 森友学園が、国の補助金対象の校舎と体育館の建築費で、大阪府と国側に異なる報告をしていた。

B) 愛知県内の中等教育学校と推薦入学枠の提供で合意がないのにあるとした

C) 雇用予定の教員名簿に別の学校で働く教員の名前を無断で掲載していた

これらについても合わせて追及していく。

早くもネットの世界ではオスプレイの「不時着」に関して話題が花盛りだ。

NHKの最初のニュースは

米軍オスプレイが沖縄県名護市沖に不時着 12月13日 23時38分

というもの。

13日午後9時半ごろ、沖縄県名護市の東およそ1キロの海上で、アメリカ軍の輸送機オスプレイ1機が不時着した。…アメリカ軍のHH60ヘリコプター2機が5人全員を14日午前0時までに救助した

これは防衛省の発表をそのまま伝えたもの。いわば大本営発表だ。この時点では肝心の米軍側の発表がない。

防衛省はアメリカ軍に連絡をとって当時の詳しい状況などを確認しています。

と書いてある。つまり詳しい情報がない中で、防衛省が「不時着」と判断したようだ。

このニュースでは、沖縄県の謝花知事公室長の談話も報道されている。

14日午前0時前、NHKの取材に対して、「沖縄防衛局を通じて一報が入り…」となっている。

つまり、この時点では肝心のアメリカ軍、とくに当事者である沖縄の海兵隊からの発表が皆無だということだ。

これが最大の問題だ。

ではアメリカ軍はいつ、どのように情報を発信しているのか。


発表されたばかりの朝日新聞報道(2016年12月14日11時22分)によれば

13日午後9時50分ごろ、米軍の垂直離着陸機オスプレイが不時着水した、と米軍嘉手納(かでな)基地から第11管区海上保安本部(那覇市)に連絡があった。

その後の連絡については不明である。もちろんプレス・リリースはない。自衛隊にいつ連絡が入ったのかも明らかではない。まさか海上保安庁からの連絡ということはないだろうが。

14日に入ってようやく海兵隊が発表に動く。

琉球新報が海兵隊のリリースを報道している。

在沖米海兵隊報道部は14日午前1時ごろ、リリースを発表。キャンプ・シュワブ沿岸部の浅瀬に「着水」(元の英語は?)した。


在日米軍を統括する司令部からの発表はない。

14日未明、稲田朋美防衛相は「コントロールを失った状況ではなく、パイロットの意思で着水したと聞いている」と話した。

この報道はおそらく下記の行動の後に発せられたものである。

2016年 12月 14日 10:30 ロイター 稲田朋美防衛相は14日午前2時過ぎ、在日米軍のマルティネス司令官に電話で遺憾の意を伝達。その後、記者団に対し、「安全性が確認されるまで、飛行停止を要請した」と語った。

朝日の記者は何を聞いていたのだろう?

琉球新報のカメラマンは2時半ころに現場に到着し、写真を撮影している。

オスプレイ残骸2

名護市安部のリーフに墜落した米軍の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ=14日午前2時43分

その後、国防総省からの発表があった。AFPの報道で、2016年12月14日 04:14 発信地:ワシントンD.C./米国 となっている。

在日米海兵隊の垂直離着陸輸送機オスプレイ1機が「事故」を起こして浅瀬に着陸し、乗員5人が負傷した。…報道官は、事故についての詳細や、同機が墜落したのか否かについては明らかにしなかった。

読売新聞の「着水」は米軍側発表から来てるんですね。たしかに「不時着」に比べれば筋は通っている。「本人がそう言っているんだから、しょうがないでしょう」ということだ。

その立場から見ると、防衛省の「不時着」呼称も不正確だ。報道担当者が流石に「着水」と呼ぶのはためらったということかもしれない。

問題は、実情に合わせて呼称を変更することだ。実情を見れば、米軍(とくに現地の海兵隊)がどう呼んでいるかは関係なくなる。

琉球新報も当初は防衛省にあわせ「不時着」と表現している。

2016年12月13日 23:50 オスプレイ、沖縄近海に不時着

それが現場を見て、写真を取って「墜落」に変更したのである。


結論はこういうことだ。

オスプレイは間違いなく墜落したのだ。

ただ、当初は防衛省の発表に合わせて「不時着」と呼んだ。

午前1時の沖縄海兵隊のリリースは「着水」と呼んだ。(ひでぇ話だが)

琉球新報は当初「不時着」と報道したが、記者が現地に行って「墜落」であることを確認し、呼称を変更した。

そこには思想性とか政治的立場とかは関係ない。

しかし、琉球新報が「墜落」として写真付きで報道した後は、その限りではない。

いまだに「不時着」や「着水」の表現にこだわるのなら、それは意図的報道と言わざるをえない。

外国の報道もクラッシュで統一されている。一番むかつくのは、日本のメディアが英語版ではクラッシュ・ダウンと表記していることである。海兵隊自らもそう言っている。クラッシュ・ダウンというのはどう考えても墜落であり、不時着とか、ましてや着水などという意味はない。

Marine Osprey crashes near Okinawa, crew members rescued https://www.marinecorpstimes.com

Osprey crash in Okinawa bound to affect Japan's U.S. military policy ... mainichi.jp/english/

U.S. to ground Osprey after crash injures two in Okinawa:The Asahi ... www.asahi.com/

2ちゃんにこんな投稿があった

日本語だけじゃなく英語まで不自由だったか
壊れればなんでもクラッシュだよ

もしこの「英語の達人」が、入社試験で “Marine Osprey crashes” を「オスプレイが壊れた」と訳せば、ペケではなくても採用はされないと思う。グーグル翻訳を使っていたほうがはるかに良い。


オスプレイ どこが不時着だ。
朝のバタバタ時に時計代わりにテレビを見たら、オスプレイが不時着したそうだ。
全員無事でふたりが怪我で収容された、たらしい。
「ついにやったか」と思って画面を見ていると、「不時着」の現場の映像が流れた。
どこかの海岸近くの海の上だ。
機体は二つに割れて、海中に散乱している。
「墜落じゃん!」
よく全員無事(といってもけが人は出ているが)で助かったと思う。
アナウンサーのセリフが白々しい。
いかにも「ちょっとした手違い」風の言い方だ。
だいたい、ヘリコプターに「不時着」なんて概念が存在するのか。
飛行機ならエンジンが片方止まって片肺着陸とか、足が出なくて胴体着陸とかあるが、ヘリコプターは「アカンとなったら、てんでアカン」でしょう。
これが、NHK会長の言った「政府がシロというものをクロという訳にはいかない」というセリフの中身だろう。
政府がシロといえば、それが間違いでも白と言いはる、それが象徴的に現れた。
これは、NHKが「二度とやりません」と誓った大本営発表の受け売りとおなじだ。
「我が方の損害軽微」と、どこが違うのか。
ただそれがシロでもクロでもなく、「真っ赤なウソ」だと分かるほど鮮明な映像を同時に流したことは、NHKの抵抗と見ることができるのかもしれない。
これを見た国民には、不時着ではなく墜落だということ、それを米軍・政府が不時着だと強弁したこと、それをNHKに押し付けたことが疑問の余地なく明らかとなった。
「米軍・政府はうそをつく」ということが誰の目にも焼き付けられた。
そういう意味では良い報道だった。

自公連合ってこんなものだ。

2014.12.6 の産経ニュース

党首インタビュー 公明・山口代表

質問: 公明党の連立政権での役割は何か。公明党は「ゲタの雪」とも揶揄(やゆ)されるが

答え: 公明党の役割をゲタに例えれば、鼻緒の役目を負っていると思う。鼻緒が切れれば、ゲタは使い物にならない。単なるゲタの雪というのは極めて実態を見ない言い方だ。

漫才のセリフではない。ほかならぬ代表の発言で、しかも泣く子も黙る産経新聞のインタビューだ。

それにしても、たしかに本音ではあろうが、なんとも情けない答えだ。

ゲタなら、使えなくなったら捨てて、新しいのに履き替えれば良い、それだけの話だ。しょせんはゲタでしょう、ということになる。

『戦争するな、憲法守れ』の合言葉のもとに共闘している野党連合とは、だいぶ連合の水準が違う。

ゲタごときに『野合』と言われたくはないのだ(失礼、正確に言えばゲタの鼻緒ですね)。


なお、下駄の雪というのは都々逸の一節なのだそうだ。

「踏まれても 蹴られても ついていきます下駄の雪」

自民党と公明党は、理念で結び付いたわけではないのです。笑止なことに野党共闘は野合だと自民党と公明党が言っていますが、自民党と公明党以上の野合はありません。1994年の自民党の公明党批判を読み返してみれば、「自民党と公明党以上の野合はない」ことがよく分かります。    佐高信

自民・公明連合こそ「野合」の名にふさわしいと思う。あまり資料はないが、ネットから情報を拾って時系列で並べておきたいと思う。

それこそ吐き気を催すような噂話のオンパレードだが、はっきりした根拠のないものは省略する。肝心なのはそこではなく、これらのキャンペーンで創価学会がねじ伏せられ、「野合」させられ、自民党の(と言うより権力の)いうがままの存在となってしまったことだ。ここから「下駄の鼻緒」の歩みが始まる。

公明党歴史
http://www.nippon.com/ja/currents/d00145/?pnum=2 より

1992年(平成4年) 竹下派(経世会)の分裂。小沢派が自民党を出る。

1993年(平成5年) 総選挙で自民党が大敗し過半数割れ。これに代わり細川連立内閣が成立。公明党は小沢新党とともに細川連立政権へ参画する。

10月 自民党、予算委員会で創価学会幹部の証人喚問を求める。

11月 自民党内に「民主政治研究会」が作られ、集中的に創価学会攻撃計画を検討。

選挙の前後から自民党は反創価学会キャンペーンを開始する。

矢野元公明党委員長が文藝春秋に手記を発表。創価学会の脱税を指摘。これに合わせ、渡辺美智雄が、「自民党はかつて国会で法案を通すために創価学会の脱税もみ消しをした」と発言。

1994年(平成6年)

2月 自民党内の勉強会として「憲法20条を考える会」が設立される。細川連立内閣と創価学会の関係を政教一致であると批判。

会長には亀井静香(のちに白川勝彦に交代)、幹事長に島村宜伸、事務局には安倍晋三も加わる。

5月 自民党「憲法20条を考える会」のイニシアチブで「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会」(略称:四月会)が設立される。公明党に批判的な宗教団体や有識者が結集。

設立総会には、自民党の河野洋平総裁・社会党の村山富市委員長・新党さきがけの武村正義代表の3人が出席。
代表幹事に俵孝太郎。宗派としては霊友会、神社本庁、立正佼成会などが加わる。

細川政権のもとで小選挙区比例代表並立制が導入される。自民党もこれに賛成。

7月 細川政権が佐川急便問題で崩壊。これに代わり村山を首班とする自社さ連立政権がスタート。

12月 新進党が創設される。公明党は解散し「公明新党」と「公明」に分党。このうち公明新党が新進党に合流。

1995年(平成7年)

4月の地方選、7月の参議院選挙で自社さ勢力は後退。新進党は参院比例区で第1党となる。

危機感を抱いた自民党は池田大作の証人喚問、池田のレイプ疑惑を追及するなどのキャンペーン。

1996年(平成8年)

1月 自由新報での「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」の連載を開始する。

連載は内藤国男と俵孝太郎が交代で執筆。97年10月まで都合82回にわたる。
「権力の中枢に巣食う宗教家至上主義集団」、「宗教の〝衣〟で隠す悪徳商法」、「使命忘れ沈黙続ける〝大〟新聞」など過激な題の記事が相次いだ。

1月 自社さ政権、首相を社会党の村山から自民党の橋本に交代。

2月 『週刊新潮』が女性信者の手記を掲載。

4月 自由新報、「池田会長の女性信者レイプ疑惑」を4号連続で掲載。池田会長の証人喚問を要求。一般メディアでも相次いで創価学会批判が展開される。

信平裁判: 創価学会北海道婦人部の幹部女性が、3度にわたり池田大作に暴行されたと訴える。率直に言えば眉唾訴訟。

総選挙で自民党が勝利する。選挙に敗れた新進党は権力争いや自民党からの引き抜き工作で混乱。

「信教の自由を守る」会が作成した創価学会批判のビラが、5千万部を超えて配布された。作者は内藤国夫であった。

1997年(平成9年)

密会ビデオ問題が浮上。創価学会幹部が山口組系暴力団に「亀井静香を黙らせて欲しい」と依頼したとされるが、その『ビデオ』そのものは表には出ていない。

社会党も選挙で後退したことから、自民党は公明党との連立に向け工作を開始。

9月 自民党都連と公明が会談。狛江市、足立区などの共産党首長打倒で共闘していくことで一致。

10月 社会党の連立離脱の動きに合わせ、自民党は「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」の連載を休止。憲法20条を考える会、四月会が活動を停止。

1998年(平成10年)

4月 創価学会、自由新報の「池田レイプ疑惑」報道について、2年後に突如自民党に抗議。自民党はただちに謝罪。

7月 参議院選挙。消費税増税で大敗した自民党は、橋本内閣が総辞職。公明党は新進党と分かれ独自で臨む事を決定。この後新進党は小沢VS反小沢の抗争で勢いを失う。

8月 竹下元首相が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談。創価学会との連携に動く。

11月 分裂していた「公明」と「新党平和」などが合流し、「公明党」を再結成。このとき公明党は「自公連携、自公連立は考えていない」と表明。

11月 自自連立が成立。

11月 自民と公明が手打ち。公明は沖縄知事選で革新支持をうたいながら、密かに自民候補に票を集める。

1999年(平成11年)

6月 小渕首相、公明党との連立への意向を表明する。これを受けた公明党は、党大会において連立政権への加入を決定。

9月 自民党総裁選。公明との連立に反対する加藤、山崎が立候補するが、大差で敗れる。

10月 公明党、小渕内閣との自自連立に正式参加。自自公連立政権が成立する。

2000年(平成12年)

4月 自由党が連立を離脱(扇千景派は政権に留まる)、自公連立政権が成立。

「憲法20条を考える会」が活動を停止。会員の一部が「政教分離を貫く会」を結成。白川勝彦らが代表となる。

2001年

「4月会」が正式解散。


米スタンフォード大学ショレンスタイン・アジア太平洋研究センター副所長

という肩書のダニエル・スナイダーという人だ。

この人はクリスチャン・サイエンス・モニター紙の東京特派員の経験がある知日派だそうだ。

この人の評価は非常に骨太で、政治の底流までふくめ、しっかりとトレンドを見ている。

彼の発言は5つの柱からなっている。

1.日本国民が右傾化していないことの表現

安倍首相の言動に見られるように、日本国民は「劇的に右傾化」していると見られている。

しかし共産党の躍進と、次世代の党(極右)の壊滅を合わせてみると、そうではないことが明確だ。

反対派を脅し、沈黙させる雰囲気の中での躍進の意義は大きい。

2.日本国民は「断固反対」路線を受け入れた

共産党はすべての争点において与党の自民党に強く反対した。にもかかわらず、だからこそ、自民党への抗議を表そうとした多くの人が共産党に投票した。

したがって共産党の躍進は、数字以上の意味を持つ。

3.野党の弱さの反映

有権者は3年間続いた民主党政権にいまも否定的印象を持ち続けている。

そのために自民党以外の選択肢が失われている。戦後最低の投票率は有権者の思いを表している。

有権者は安定志向で自民党に入れるか、自民党への抗議として共産党などに投じるか、棄権するかのいずれかの選択しかない。

4.独自の争点の押し出し

共産党はアベノミクスだけでなく、平和と民主主義の課題を押し出した。他の野党はこれらの争点の打ち出しを回避した。

そしてそれが多くの有権者にとって重要と考えられていることが確認された。

5.共産党が民主党やその他の野党を左に動かす可能性

私は共産党が将来、与党連合の一員としての役割を担う可能性を否定しません。


ということで、スナイダーさんは政治路線に焦点を合わせて分析している。

これは選挙分析の王道だろう。しかし日本ではほとんどおこなわれていない議論だ。


ここまでが再掲部分。

その後の戦争法反対運動の高揚の中で「野党は共闘」の声に後押しされて、いま共闘の動きが急速に盛り上がっている。まさしくその核心部分をスナイダーさんは予言している。


原発は安全性の秤に乗せるには大きすぎる

1.安全性の議論はフェイル・セーフ機能の範囲内で行われるべきだ

原発の安全性はもう少し理屈の問題として詰めておく必要があるのではないか。

安全性という目盛りはたしかにある。論理的にも危険性の逆数として存在しうる。工学的にも多変量の連立方程式として算出しうる。社会的にも利便性と危険性認容の掛け算として想定しうる。

ただその扱える範囲には限界があるのではないか。歴史的にはその範囲は変化してきたし、拡大しつつある。それはフェイル・セーフの技術が発達してきたためである。

逆に言えばフェイル・セーフの機能が完全でなけれれば、あるいはフェイル・セーフ機能をはるかに越えるものには、そもそも安全性の概念は適用できないということになる。

2.社会的安全度という問題

一つの技術なりシステムというものの安全性は危険性の逆数だが、これが社会で汎用されるときには、利便性と秤にかけられる。

しかし実はこれだけではない。社会の多数の人が関われば関わるほど安全性は高度なものが要求されるようになる。

実験的な使用であればかなりのリスクは受忍されるが、多数の人がルーチンに使用するものなら、安全性ははるかに高度のものが要求される。

なぜなら事故が起きた時の影響ははるかに深刻だからである。

つまり利便性と危険性の秤は、その置かれた土台の広範性を念頭に置かなければならないのである。

3.量的・質的な安全性の限界

もう一つは、安全性が破たんした際の影響の深刻度がある。

これは薬の副作用を例にとるとわかりやすいのだが、薬局でもらう薬の説明書には副作用が書いてあるだろう。例えば吐き気などは極めてポピュラーな副作用だが、これはたいていは軽微であるために許容されている。

しかし数は少なくとも死に至るような副作用があれば、薬の使用に関しては厳しい注意が必要となる。

さらに常用量の問題があって、その範囲では安全性が確認されていても、10倍量飲まれたら安全性は保障できない。

つまり質的・量的な危険性は、安全性の秤を吹き飛ばしてしまうのである。

4.結論

原発は危険性と利便性の秤に乗せるには大きすぎる。

大きすぎるということは、物理的な危険性が現代技術の統制力の力を超えていることであり、その社会的影響力が社会システムの枠を大きくはみ出しているということである。

このことから考えれば、原発の安全性をうんぬんすること自体が論理矛盾であり、それは「安全性」の戯画に過ぎない。

肝心なことは、それを今まで認識できなかったことであり、今やっと認識できたということである。

原発に対する60年の認識の歴史は、結局、この認識に達するための歴史であった。

5.これからの原発

私個人としては、人間の力である程度統御が可能なレベルであれば、原子炉を用いた研究は続けるべきであると考える。

もちろん大型であろうと小型であろうと、原子炉の危険性は本質的には変わるものではない。

ただジェット機は墜落すれば数百人の命が失われる危険性を内包しつつ飛び続けているし、船は沈没すれば千人単位の命が危険にさらされる。

現代人は、今のところ、それを必要なリスクとして甘受している。

しかし原発はそのような安全性リスクの目盛りからははるかにスケールアウトしている。なぜ原発のようなビッグなシステムが、なぜろくな安全装置もなしに開発されたか、それはまさに原爆を製造するという目的のためであり、その副産物だからである。

戦争のための武器だから、どうせ人を殺すんだからということで、安全性にはさしたる考慮が払われないままに野放図に大規模化し、それがある日ぬっと娑婆の社会に乗り込んできたのだ。それが原発だ。

思えば不幸な生い立ちの子だ。

しかしこの子には、大きな将来性がある。一度サイズダウンしたうえで、正しく育てることは大事な仕事だろうと思う。


いろいろと、異論もおありでしょう。

私自身、意見変更の可能性もあります。とりあえずの感想としてお聞きください。

伊方原発が廃炉決定。まずは良しとしなければならない。

地図を見ただけでもその非人道性は明らかだ。事故が起きれば佐田岬半島の住民は皆殺しだ。

関連記事を見ていて、見逃せないポイントがあることに気付かされた。

それはヒトの問題だ。

建築後40年たつと、建てた時の人間はいなくなる。何かあったときに技術が継承されていないと、建築当事者には当たり前だったことが、まったく忘れ去られてしまう。

じつは、私の病院でも同じことがあった。同じ部屋にまったく違う電源があって、片方の電源がどこから来ているのかわからなかった。建設時の設計図や施行図を持って来いというが、これがなかなか見つからない。

結局最後は壁を壊しながら電線の先を探っていくことになった。最終的にはとんでもないところからきていることが分かり、しかも普通の差込口からの危うい電源であった。

「誰がこんなことをしたんだ」と怒鳴ったが、もちろんそんなことが分かるわけはない。強いて言えば「40年の年月がそうさせたのだ」と納得するほかない。

放射能による劣化が勿論最大の問題ではあるが。人間の脳みその劣化も頭に入れなければならない。安全性の技術を考える際にはヒューマン・ファクターを念頭に置かなければならない。

これは鉄則である。

どうもWeb レベルではGHQの司法改革に関して適当なレビューが見当たらない。

辛うじて分かったことは、司法改革に先立つ戦争協力者への処分は行われなかったようだということ、GHQの司法改革担当者にはそれにふさわしい権限が与えられていなかったこと、結果として改革の試みは挫折し、司法省が最高裁事務局を通じて生殺与奪の権限を握り続けたことである。

興味の中心は、あれだけ新憲法に一生懸命取り組んだGHQが、なぜ同じ気構えで司法改革を推進しなかったということに尽きる。ここがいまいち分からない。

細野長良ら大審院グループと司法省の長々しいやり取りは、実はどうでもいいことである。GHQの姿勢があやふやであれば、そのようなグループの発言力など無きに等しい。

を増補しての感想

年表を作ってみて分かったのは、昭和23年1月6日のロイヤル陸軍長官の「日本を反共の防波堤に」発言は、明確にマッカーサーの顔に泥を塗る行為として行われたということである。

年の初め、マッカーサーは年頭の辞「日本国民に与う」を発表している。まるで天皇きどりである。

しかしこの間に本国では対日政策の変更が準備されていた。昭和22年3月にトルーマン・ドクトリンが発表され、すでに基本線の変更は確認されていた。

それ以降、外堀は徐々にしかし確実に埋められてきた。とくに公務員の「忠誠テスト」はGHQ民政局のニューディーラーには脅威であったろう。

いつの間にかマッカーサーは裸の王様となっていた。そして国務長官にマーシャル元帥が押し立てられた。それは国務省がマッカーサーに全面対決のポーズをとったことを意味する。裏で動いたのはアチソン次官だったろう。

国務省は日本に「逆コース」を迫るにあたり、陸軍省を表に立てた。マッカーサーを封じ込めるためである。

それがロイヤル長官の談話であり、陸軍省の派遣したストライク調査団であり、仕上げに送られたドレーパー陸軍次官をトップとする調査団である。

マッカーサーは軍人だから上級の命令には逆らえない、というところを突いたわけだ。

怒ったマッカーサーは大統領選挙に立候補するといってみたり、いろいろ策動を巡らせるが、結局は冷戦システムの中に埋没していくことになる。

を増補しての感想

2013年11月03日

のうち、今回はに手を着けました。1946年(昭和21年)の記述です。


我々は戦後をリアル・タイムで過ごしているから、なんとなく知っている雰囲気になっている。

しかし勉強してみると、実は何にも知らないということがよくわかる。

とくに占領軍が何をしたのか、何をしようとしたのかについては何もわかっていない。戦後史年表のほとんどは日本政府が何をしたかで埋め尽くされている。本当の主語はGHQであるにも関わらず、記述上は日本政府のしたことになっている。まさに「皇国史観」である。

しかし実際に日本政府のやったことはGHQの方針に「日本政府」のハンコを押しただけであり、重要な政策決定はすべてGHQの中で行われていた。吉田首相をよいしょするドラマが何度も作られているが、あれは大嘘で、彼はただのマッカーサーの腰ぎんちゃくに過ぎない。外交官なんてものは“ヒラメ人”というか“手のひら人”というか、しょせんそういう人種である。

歴史を本当に、世界史的視野で知ろうと思えば、GHQの政策の決定過程、とりわけアメリカの本国政府との関係で見ていかなくてはならない。日本人には無敵に見えただろうが、GHQは米本国政府の出先機関に過ぎない。マッカーサーとGHQマフィアの光輝くキャリアは、昭和23年初頭のロイヤル陸軍長官の「日本は反共の橋頭保」発言をもって終わっている。

基本的には2年半足らずの短期間、彼らは思いっきり腕を振るった。それができたのについてはマッカーサーという人物の独特のキャラと押しの強さが結構ものを言っている感もある。それは一種の権力の空白であった。本国政府はソ連とどう付き合うのか、ヨーロッパをどうするのかで頭がいっぱいだった。一方ではルーズベルトの長期政権の下で形成されたニューディーラーをどう扱うのかも深刻な選択であった。

終戦の時点でマッカーサーは本国政府よりも右側にいた。しかし昭和23年初頭のロイヤル発言の時点で、本国政府はGHQよりも右に移動していた。

本国政府がニューディーラーをソ連内通者として排除し、マーシャル長官、アチソン次官ら国務省幹部が日本の直接支配を志向するに及んで、GHQの独自の役割は消失した。それは米政府の反共主義のたんなる執行人となった。重要な政策は彼らの頭越しに本国政府が直接取り仕切るようになった。マッカーサーはていの良いお飾りとなった

こういう流れとして、戦後の日本を把握しておく必要がある。

六面体としての憲法9条 脱神話化と再構築 - 京都96条の会

君島東彦さんが96条の会に寄稿した文章のようである。これの第6章が「世界の民衆から9条を見る」という題名になっていて、なかなかの力作である。本人は「迂遠」と度々コメントしているように、文章のテーマからすればかなり長い「蛇足」になっているが、本来別テーマとして語るべきボリュームと内容を伴っている。その要点を抜き出しておく。後段は私の勝手な感想で、君島さんとは関係ない。


1.憲法9条は世界の平和運動が生み出したもの

憲法9条のひとつの源泉は1928年のパリ不戦条約である。これは提案者の名をとって「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれる。

パリ不戦条約を成立させた原動力のひとつは、1920年代米国の平和運動であった。それは「戦争非合法化」運動と特徴づけられている。

2.平和の理念 消極的平和と積極的平和

平和学の認識によれば、平和とは暴力の克服である。

暴力には戦争という直接的暴力と、社会的不正義という構造的暴力がある。

直接的暴力を克服することは消極的平和であり、社会的不正義を克服することは積極的平和である。

平和とはその両方を克服することを意味する。

3.平和的生存権 憲法前文に即して

日本国憲法に即していえば、まず前文第2段落に注目しなければならない。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」

という規定(平和的生存権)は重要である。

(この規定は、日本国民を対象としたものではなく、「全世界の国民」が対象であることに注意すべきだ。「全世界の国民」に保障されるべき権利だからこそ、日本国民にもその権利が付与されるのである。「恐怖と欠乏」は戦争以外の経済的・社会的理由によってももたらされることがあるが、ここでは戦争に起因する「恐怖と欠乏」に限定されるべきであろう、と私は思う)

4.憲法前文と平和的生存権はルーズベルトの決意

この「平和的生存権」の規定は、ルーズヴェルト大統領に由来するものである。それは太平洋戦争の直前1941年に、ルーズベルト大統領の議会あて教書で「4つの自由」として初めて触れられた。そして同じ年の「大西洋憲章」で展開された。

ルーズベルト発言から推し量れるように、憲法前文の、「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」という表現の中には、差し迫った緊迫感がある。そこで語られる「平和」には、消極的平和と積極的平和の両方の意味が含まれていると解される。

5.憲法前文と積極的平和

ついで前文第2段落のもう一つの部分に話が移る。

憲法前文は、世界には「専制、隷従、圧迫、偏狭、恐怖、欠乏」という構造的暴力があること、我々はこの構造的暴力を克服しなければならないとしている。

そして、9条はこの精神を受けて、日本の武力行使を禁止し、日本の軍隊を脱正統化している。つまり憲法9条は直接的暴力を克服しようとする規定である。

6.憲法前文と「共通の安全保障」

さらに、前文第2段落は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べている。これは「安全保障共同体」の形成と、それによる「共通の安全保障」をめざすことを示唆したものである。

日本国憲法の平和主義はこのようにとらえられる。

(この指摘は示唆に富むものであるが、アメリカがそこまで確信を持って日本の安全保障を認めていたかどうかは定かではない。「安全保障共同体による共通の安全保障」が実現するまでの間は、日本が国を守る自衛権を保留するという意見もある)

7.憲法が定める二つの平和規範

憲法が定めている平和規範には2種類ある。第一の類型は国家権力に対する制限ないし禁止規範である。9条はその典型である。これに対し平和的生存権を含む前文第2段落は、日本の平和政策を方向づける積極的政策規範としての性格を持っている。

アジア太平洋戦争という侵略戦争をした日本にとっては、戦争をしないことは何にもまして重要である。しかし、もし自衛隊を海外に派遣しないのであれば、日本の市民と政府は平和のために何をするのか。専制と隷従、圧迫と偏狭、恐怖と欠乏という世界の「構造的暴力」を克服するために、日本の市民と政府は何をするのか。

それが問われる。これは憲法前文の積極的政策規範の具体化の問題である。


感想

日本国憲法の成立におけるルーズベルトの役割

まず憲法押し付け論との関連だが、君島さんは憲法の思想的源流として、アメリカやヨーロッパの平和的運動の潮流を引き出し、その文脈の上に日本国憲法を置こうとする。その意味では外来的思想であることは疑いない。「日本の青い空」を持って国産であるのを主張するのには無理がある。だからそれが外来思想の輸入であることを問題にするよりは、どういう思想を受け継ぐものであるかを明らかにする方が生産的だ。

「憲法前文と第9条は、日本国民が生み出したのでもなく、アメリカが自国の利害を押し付けたのでもなく、大戦間の世界の平和主義の伝統を引き継ぐものとしてみておく必要がある」ということになる。

その上で注目されるのは、ルーズベルトの位置づけだ。君島さんはある意味で日本国憲法が「ルーズベルト憲法」とも言えるのではないかと指摘する。

「4つの自由」というのは寡聞にして知らないが、どうも太平洋戦争=米国の参戦を前にして(欧州大戦はすでに始まっている)国民への決意の促しという側面を持っているのではないか。つまり当面する危機には断固として武力を持って立ち上がろう。その闘いの後、平和が実現するとしたら、それはどういう平和になるのだろうか、国民はそれにどう関わるのだろうか、という観点から読み解かなければならない。

憲法前文を貫く一種の「理想主義」には、差し迫る戦争への危機感、危機と立ち向かい平和を守る決意が秘められている、という見解には深くうなずけるものがある。私は映画「独裁者」におけるチャップリンの名演説を思い出す。あれこそが憲法前文を貫く精神なのかもしれない。

「ニューディーラーの持ち込み」という認識レベルにとどまっていた私にとっては目新しい提起であり、目下のところそれに応えるだけの知識を持ち合わせていない。

君島さんによる平和の定義

君島さんによる平和の定義は日本語的にはかなり厳しい。「平和」は日本語では形容名詞であり動詞ではない。社会的不正義の克服は、普通は民主、平等、公平、公正などの言葉で呼ばれる。ただ、もちろん、平和を周辺概念と関連付けてより広く捉えようという発想や、それをたんなる状況説明の用語ではなく、実践的に捉えようとする視点は重要だろう。

英語と日本語の枠組みの違いは良くある。しかも重要な概念に限ってそれが表出する。例えば英語で自由=フリーダムというのは、「権利」の概念を強く含んでいる。場合によっては権利と訳したほうが通りがいい場合すらある。逆に「自由勝手」のようなニュアンスはあまりない。またヘルスという言葉はたんに健康というのではなく、保健という実践的概念でもあるし、そこに医療も含まれてくる大変多義的な言葉である。一方で技術=テクノロジーという言葉は日本語よりかなり狭い。むしろ「工学」と訳した方がいいかもしれない。

英語のピースが日本語の「平和」とどう重なり合いどうずれているかは、現場で個別に吟味していくしかなさそうだ。

平和の努力には主権の尊重が不可欠だ

「戦争しない」だけで平和を守れるわけではないことは承知である。それに加えて積極的な平和努力が必要なことにも同意する。そして各種のNGOの努力が有効なことにも、国としての平和推進活動の重要性も同意する。

しかしそれだけで平和は守れるだろうか。もしルーズベルトの精神を云々するのであれば、「平和の敵」への断固たる姿勢がもとめられるし、民族主権の尊重が何よりも優先されなければならない。そして「平和の敵」と戦う人々への連帯が検討されなければならない。それは政府の言う「積極平和主義」や「集団的自衛権」と思想的に対決するために、何よりももとめられる視点であろう。

例えば、ウクライナ問題では断固としてウクライナの主権が尊重されなければならないし、その上に打ち立てられた平和こそが尊重されなければならない。イスラム国問題では、そのすべてではないにせよ、イラクへの理不尽な侵攻が発端であったことを常に忘れてはならないのである。

戦後教育制度の根幹となる文書が、「米国教育使節団の報告書」(1946年3月)である。

文部科学省のホームページにその要旨が掲載されているので、勘どころをサラッと紹介する。

経緯: ジョージ・D・ストダード博士を団長とする米国教育界代表27名が1ヶ月の滞在調査の後発表したものである。

本使節団は占領当初の禁止的指令を前提としつつ、「今回は積極的提案をなすことに主要な重点」を置いたものである。

①中央集権の排除

高度に中央集権化された教育制度は、官僚政治にともなう害悪を受ける。教師各自が職務を自由に発展させるためには、地方分権化が必要である。

文部省は各種の学校に対し技術的援助および専門的な助言を与える。一方で、地方の学校に対するその直接の支配力は大いに減少する。

内務省地方官吏の管理行政を排除し、地方の住民を広く教育行政に参画させる。このため一般投票により選出せる教育行政機関(教育委員会)を創設する。

教育委員会は学校の認可・教員の免許状の附与・教科書の選定に関し権限をにぎる。(現在はかかる権限は全部中央の文部省ににぎられている)

②天皇崇拝の排除

学校における勅語の朗読・御真影の奉拝等の式を挙げることは望ましくない。


③教育の目的と内容

広い知識と深い知識は、一冊の認定教科書や型通りの試験では得られない。個々の生徒の学習体験が考慮されるべきだ。

「修身」は服従心の助長に向けられて来た。今後は自由な国民生活のためになるようにすべきだ。平等を促す礼儀作法、民主政治の協調精神、これらはみな広義の修身(公民教育)である。

地理および歴史の教科書は、神話は神話として認めるが、いっそう客観的な見解となるよう書き直す。(以下略)


④学校制度

義務教育を引上げ修業年限を9年に延長する。最初の6年は小学校において、次の3年は創設されるべき「初級中等学校」において修学する。

さらに3年制の「上級中等学校」をも設置する。この学校は授業料は無徴収、男女共学制、進学希望者全部に学習の機会を提供する。


⑤教授法

つめこみ主義、画一主義は改められる。忠孝のような上長への服従に重点を置く教授法は改められる。

思考の独立を尊重し、個性の発展をうながす。民主的公民としての権利と責任とを助長する。


⑥教員養成と教育機関

師範学校は四年制とし、現在の高等師範学校とほとんど同等の水準に再組織されるべきである。高等教育機関はさらに進んだ研究をなしうるような施設を拡充すべきである。

高等教育機関は、その目的を追求するために、あらゆる自由を保有しなくてはならない。高等教育機関における学問的自由の確立は極めて重要である。

諸要件の維持に関しては政府機関に責任がある。その役目以外には、政府機関は統制権を与えられるべきではない。このため現在の文官制度は廃止するべきである。


⑦学生の自由(この文脈では「自由」を「権利」と読み替えたほうが分かりやすい)

学生にとって保証されるべき自由は、その才能に応じてあらゆる水準の高等な研究に進みうる自由である。

このためにはまず財政的援助が与えられなくてはならない。

とくに女子に対し、今ただちに高等教育への進学の自由が与えられるべきである。同時に女子の初等中等教育も改善されなければならない。


一読した印象としては、この報告は戦後の教育民主化の基本を成すものではない

この報告では、公民教育、軍国主義教育については、「すでに解決された」として殆ど触れられていない。

調査団が関心を持っているのは、教育の官僚統制と画一教育である。

調査団はこれに対して具体的対案を提示している。しかし天皇制と軍国主義はとても解決されたとはいえない状況にあった。それが解決されないと官僚統制も解決されないのである。

ただそれは日本の教育システムをよく知ったうえでの発言というよりは、制度いじりとアメリカ風教育スタイルの持ち込みという印象を持たざるをえない。

地方分権というが、日本においては地方こそが封建主義の牙城であり、彼らは戦災によっても被害を受けず力を温存していた。肝心なのは地方の自治ではなく中央集権的官僚機構の破壊だった。GHQがそれをしゃかりきでやっている最中だった。

それがこの報告の弱点であり、そこが旧体制派に利用されたという側面がある。旧体制派は仕掛けを変えることで、心を入れ替えたふりをすることができる。


私は戦後教育の第一世代の経験者として、これらの制度改編の大波を食らったわけだが、率直に言えば、このシステムいじりが無用な混乱と反感を招き、教育民主化の実を失わせていたのではないかと思っている。

しかしこの報告の本質はそこにあるわけではない。「学問の自由」と官僚統制の排除、分権の徹底という点での毅然とした主張こそが中核である。また「自由」を権利として明確化している点にも特徴がある。

したがって政府には「学問の自由」=学問の権利を守る責務がある、ということも明確にしている。

なおこの文章は報告の「要旨」であり、訳文にもいくつか気になるところがある。原文に直接あたっているわけではないので断言はできないが、どうも「薄めた表現」、「婉曲化表現」ではないかと思うところがある。

 

 

軍部の歴史についていろんな文献があるが、どれもこれも大同小異だ。
刀をもらったとか、銀時計だとか、「人情家だった」などの話にはうんざりである。
そのなかで川田稔の著作は出色ではあるが、悲しいかな類書に乏しいため比較検討ができない。
分かってきたことがいくつかある。
1.天皇制
天皇は荒木貞夫と皇道派によって議会と政府を押さえつけるための方便として利用された。それがうまくいったから、皇道派消滅後も軍部はそれを最大限に活用した。
2.昭和天皇はたんなる飾り物ではなかった
一種の戦後神話として、昭和天皇は軍部支配の犠牲者であり、本質的には平和主義者であったとされている。
しかし天皇は犠牲者でもなく平和主義者でもなく、最初は軍部の精神的代表として、のちには「大元帥」として戦争政策を推進した当事者であった。その故に政治的影響力を発揮しえたのである。
昭和天皇の思想的中核はほとんど狂信的とさえいえる反共産主義にある。かなり聡明であったかもしれないが、この反共原理主義が判断にゆがみをもたらしていると思う。
3.永田鉄山は勝負師である
永田鉄山の資質については様々な評価が下されているが、基本的には勝負師だろうと思う。斬った張ったの修羅場が大好きな人間である。戦略あって哲学なし、軍人としては最高かもしれないが、娑婆の世界では梟雄というべきであろう。
4.「強者の論理」に酔いしれて
「昭和陸軍の軌跡」を貫くのは強者の論理である。いったん始まればそれはどんどん研ぎ澄まされていく。国民は弱者であるにもかかわらず、強者の論理に酔いしれてしまった、
草野球で9番ライトさえおぼつかないのに、王・長嶋になった気分で野球評論する。打たれた投手をボロカスにののしる。怪傑黒頭巾がバッタバッタと斬り倒すのを見て胸がすっとしても、斬られた10人が生きられたはずの10の人生、墓標の前に立ち尽くす親や妻、子供には思いを致さないのである。
それが野球フアンのだいご味でもあるのだが、政治の世界では別の論理を打ち立てなくてはならない。野球評論と政治評論では視点をひっくり返さなくてはならない。自らを弱者の一員として位置づけなければならないのである。


永田鉄山と一夕会 年表

1921年(大正10年)

10月 ドイツのバーデン・バーデンで欧州派遣中の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三人(陸士同期)が非公式会談。軍の実権を握る長州閥の打破、国家総動員に向けての計画で合意。「バーデン=バーデンの密約」と呼ばれる。1期下の東条英機も参加。

永田鉄山

永田 鉄山 1884年(明治17年)生 1920年(大正9年)に駐スイス大使館付駐在武官となる。

Toshishiro_Obata

小畑 敏四郎 1885年(明治18年)生 1915年(大正4年)、ロシア駐在、第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。参謀本部員を経て、1920年(大正9年)、ロシア大使館付武官。しかし入国できず、ベルリンに滞在。

岡村寧次

岡村 寧次 1884年(明治17年)生 1914年(大正3年)から参謀本部で勤務し、同6年には北京駐在員として中国勤務。

1923年(大正12年) 陸軍を支配していた山県有朋が死亡。軍は引き続き長州閥の田中義一が把握。

1924年(大正13年)

宇垣一成が陸相に就任。軍縮という名の近代化を遂行。4個師団約9万人を削減し、機動力と火力、航空機の強化に乗り出す。

1926年(大正15年)

4月 永田鉄山、宇垣陸相の下で国家総動員関係の専門家として中央入り。その後内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に尽力、初代動員課長となる。

永田は第二次大戦が必至と考えた。そこでドイツの経験を踏まえ、資源、機械生産、労働力のすべてを自前で供給できる体制を整えようとした。

1927年(昭和2年)

永田、岡村、小畑を中心に陸士16期~18期メンバーを結集。「二葉会」を結成。会合場所であるフランス料理店二葉亭に由来する。

「二葉会」の後輩にあたる陸士22期~24期が「木曜会」を組織。永田鉄山の腹心にあたる東条が両会の橋渡し役をつとめる。

一夕会
          
ウィキペディアより

1929年(昭和4年)

5月 二葉会と木曜会の合同になる一夕会が第一回会合。1.陸軍の人事の刷新、2.満州問題の武力解決、3.非長州系三将官(荒木・真崎・林)の擁立を申し合わせる。(反長州といっても実態は反宇垣であった)

6月 関東軍の石原、「関東軍満蒙領有計画」を立案。軍事力行使による全満州染料を主張する。

石原莞爾

石原 莞爾 明治22年生 昭和3年に関東軍作戦主任参謀となる。

11月 ウォール街で株価の大暴落。以後世界大恐慌へと波及する。

1930年(昭和5年)

永田鉄山、南次郎陸相の下で陸軍省軍事課長となる。

11月 浜口首相が東京駅で狙撃される。

11月 幣原外相、南満鉄道に並行して走る中国側路線の建設を容認する方針を提示。結果的には、一夕会が満州侵攻の決断を下す引き金となる。

1931年(昭和6年)

3月 宇垣陸相を担ぐクーデター計画が発覚する。三月事件と呼ばれる。最終的に宇垣の同意が得られず未遂に終わる。

3月 参謀本部情報部が「昭和6年情勢判断」を作成。満蒙問題の「根本的解決」の必要を主張する。1.中国主権下での親日政権樹立、2.独立国家建設、3.日本の直接領有、の三つのオプションが示される。

4月 浜口首相が病気辞任。若槻礼次郎が首相に就任。陸相も宇垣から南次郎に交代。参謀総長の金谷範三は留任する。

南次郎1931
         
南 次郎(1931年)

5月 石原、「満蒙問題私見」を作成。「謀略により機会を作成し、軍部主導で国家を強引」することを主張。これにしたがい戦闘準備に入る。

6月 永田鉄山陸軍省軍事課長をトップとする五課長会議、「満蒙問題解決方針の大綱」を作成。「軍事行動のやむなきに至る」ことを想定して、その準備に入るよう主張する。

8.17 「中村大尉事件」が大々的に報道される。参謀本部の派遣したスパイ中村大尉が興安嶺で内偵中に現地兵に殺害された事件。政友会幹部や東京朝日新聞が「国権の発動」を求める。

9月18日 満州事変が勃発。奉天近郊で鉄道爆破事件が起こり、関東軍は中国軍による攻撃として兵を出動させ、翌日のうちに南満州の主要都市を占領。

事件は関東軍の石原、板垣らによる陰謀であった。この作戦を東京の永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、東条英機編制動員課長らが支援した。

9.20 参謀本部の建川作戦部長が現地入りし関東軍幹部と会談。満蒙領有論を退け独立政権樹立を了承させる。

9.24 内閣が事態の「不拡大」声明。日本軍攻撃の正当性を認めつつ、居留民の安全が確保され次第撤退すると明らかにする。金谷参謀総長、満鉄所有地の外側の占領地店より部隊を引き揚げるよう命令。

9.25 7課長会議、金谷参謀総長の命に反し満蒙新政権の樹立を含む「時局対策案」を起案。金谷命令は現地ではうやむやのまま実行されず。

10.08 南・金谷ラインが7課長方針を受け入れ、満蒙新政権を前提とする「時局処理法案」を決定。

10.26 若槻内閣が第二次声明を発表。侵攻部隊の無条件撤退を撤回し、既成事実を容認。

11月 南陸相ら軍中央首脳部、臨時参謀総長委任命令(臨参委命)を発動し関東軍の北満(チチハル)進出を拒否。この後、軍中央は関東軍のハルビン出兵要請、錦州侵攻も認めず。

臨参委命: 参謀総長が出先の軍司令官を直接指揮命令できる権限を天皇から委任されたもの。これにより関東軍司令官は参謀総長の指揮下に入る。

11月 陸軍中央、関東軍の独立国家建設方針を認めず。これにより一夕会は身動きが取れなくなる(川田稔)

12月11日 安達内相の反乱により若槻内閣が総辞職。(川田によれば安達は中野正剛を通じて一夕会と接触した可能性があるとされる)

犬養内閣が成立。陸相には一夕会が支持する荒木貞夫が就任する。

荒木は日本軍を「皇軍」と呼び、政財界など「君側の奸」を排除して親政による国家改造を説いた。その追随者は皇道派と呼ばれる。
対外路線としては「反ソ」を基本とするが、主要な目標は国内改革にあった。

1932年(昭和7年)

1月 荒木陸相、皇族の閑院宮載仁親王を参謀総長にすえ、参謀次長に盟友の真崎甚三郎を充てる。

部課長人事: 一夕会の小畑敏四郎、荒木陸相の下で参謀本部作戦部長に起用される。軍務局長には山岡重厚、永田鉄山が情報部長、山下奉文が軍事課長に就任。 
宇垣派はすべて陸軍中央要職から排除される。

犬養内閣、満蒙は「逐次一国家たるの実質を具有する様之を誘導す」との、「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定。関東軍のチチハル、ハルビンをふくむ全満州占領方針も承認される。

1933年(昭和8年)

6月 陸軍全幕僚会議。参謀本部の永田鉄山第2部長と小畑敏四郎第3部長が対立。対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。

会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対。
「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と主張。
これに対し荒木陸相は「支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁(ウィキペディア)

8月 小畑敏四郎、参謀本部を去り近衛歩兵第1旅団長に転出。

1934年(昭和9年)

1月23日 荒木陸相が病気辞任。後任に林銑十郎。皇道派は大幅な後退を余儀なくされる。

8月 永田鉄山、国府津に腹心を集めカウンター・クーデター計画をを立案。

永田の指導する「経済国策研究会」と右翼団体「昭和神聖会」が、国家改造の上奏請願に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するというもの
ただしウィキは「反永田」で一貫しており、記事出所の信頼性が低い。

永田鉄山、陸軍省軍務局長に就任。

10月 永田鉄山、「国防の本義と其強化の提唱」(陸軍パンフレット)を作成。軍内に配布。軍内統制の強化とともに、陸軍の主張を政治、経済の分野に浸透させ、完全な国防国家を建設するよう提唱する。

11月 陸軍士官学校事件が発生。元老、重臣の襲撃を図った皇道派の村中孝次、磯部浅一らが逮捕される。皇道派はパンフレット「粛軍に関する意見書」を軍部内に配布。永田を統制派の中心として攻撃。

1935年(昭和10年)

7月 陸軍人事異動。皇道派の担ぐ真崎教育総監が更迭される。皇道派はこれを永田鉄山の画策と受け止める。

8月19日 永田鉄山、執務中に相沢三郎中佐に斬殺される。

9月 陸軍内で首脳部交代。林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任。

1936年(昭和11年)

2月 相沢裁判、林前陸相、橋本前陸軍次官、真崎前教育総監を相次いで召喚。林陸相、永田軍務局長に統帥権干犯があったか否かが事件の焦点となる。

2.26 2.26事件が発生。

7.04 相沢裁判は2.26事件以降実質的審理のないまま死刑確定。相沢は銃殺刑に処せられる。

8月 粛軍人事により皇道派の一掃。小畑敏四郎も予備役に編入される。

 

恥ずかしながら全く不勉強で、昭和8年の陸軍全幕僚会議のことなど知らなかった。

なんとなく、2.26事件や相沢事件のことがあって、皇道派というのがファンキーな連中で、「統制派」というのが多少なりともまともだったのではないかと思っていた。

ところが陸軍全幕僚会議の論議を聞いていると、皇道派の方がはるかにまともで、永田鉄山の理論はとても理論とは言えないほどのハチャメチャぶりだ。どうしてこれが主流になったのかがわからない。もう少し勉強する必要があるが、とりあえずメモっておく。


1933年(昭和8年)6月、参謀本部で対ソ・対中路線をめぐる議論があった。参謀本部の永田鉄山第2部長と小畑敏四郎第3部長が対立の軸となった。

ソ連通の小畑敏四郎が対ソ準備を説いた。これに対し永田鉄山は「対支一撃論」を主張した。

ウィキペディアによると、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対した。
「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と主張した。
これに対し荒木陸相は「支那と戦争すれば英米は黙っていないし、必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。

とあるので、両派の対立というより、ひとり永田鉄山が「トンでも理論」で突っ走っていて、ほかの連中が持て余しているという印象だ。

それなのに、その後の経過を見ると、印象はまるっきり変わってくる。

ウィキペディアでは、この論争が皇道・統制両派確執の発端となったとある。

そして2か月後には、小畑敏四郎は参謀本部を去り近衛歩兵第1旅団長に転出している。その年の末に荒木陸相は更迭され、その後皇道派は追い詰められていく。追い詰められたその先が2.26事件ということになる。


どうも話が変だ。バスストップ事件への対応を見ても、荒木貞夫がまともな常識人打倒はとても思えないが、それでもこの会議での発言は永田鉄山に比べれば、少なくともまだまともだ。


戦前の大手生命保険会社の株主の一覧表。
財閥系生保の戦後の相互会社化 - 日本保険学会から転載しました。

生保の株主
コーポレート・ガヴァナンスもへったくれもない、完全な個人資産です。
このような巨大な寄生虫が慢性的な貧血をもたらし、経済の成長を阻害し、内需の枯渇をもたらし、海外進出を至上命題とし、やがて世界大戦へと導いていったのでしょう。

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)を増補しました。
いくつかの点がわかってきました。
1.内務省の設立は大久保利通のクーデターであった
彼は政府の中に内務省というもう一つの政府を作り、そこに権力を集中することによって維新政府の危機を乗り越えた。
2.西南戦争の終了と彼自身の死によって内務省の存在意義は消失した
にもかかわらずなぜ内務省は存続したのか。軍トップの山県がこのありがたい組織に注目し、その存続を図った。以降内務省は第二の政府として軍トップの意向を反映してきた。
3.内務省は軍の装置として軍の権力維持に役立ってきた
権力機構の維持のための装置であると同時に、政府から半ば独立した権力としての軍部を維持するための装置として役立ってきた。

朝日新聞に「池上彰の新聞ななめ読み」という連載がある。

これの1月29日の「首相動静 安倍氏は誰と食事した?」という記事が秀逸だ。

書き出しはこうだ。

新聞を読み比べていると、新聞が書かない事実が見えてくることがあります。たとえば、安倍首相の行動についてです。

これだけだとよく分からないが、つまり各紙の「首相動静」を読み比べてみたという話だ。具体的には1月21日の夕食をだれと食ったかという内容。


表にまとめるとこうなる

場所

参加者

日経新聞

読売新聞本社(夕食の記載なし)

渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長ら

毎日新聞

会食(場所なし)

渡辺、今井環NHKエンタープライズ社長、評論家の屋山太郎氏ら

読売新聞

読売新聞本社

渡辺、清原武彦産経新聞社相談役、芹川洋一日本経済新聞社論説委員長

朝日新聞

食事(場所なし)

渡辺、今井、清原、芹川、屋山のほか橋本五郎・読売新聞特別編集委員、ジャーナリスト・後藤謙次氏


記事の最後は

朝日新聞の記述によって、会食参加者の顔ぶれが判明しました。記事はこうでなくてはいけません。

と結ばれているが、もちろんそんなことが言いたかったわけではないだろう。

安倍首相との会食に二つの全国紙と唯一の公共放送の幹部、しかも編集幹部がしっぽを振って参加している。しかもそれを隠している。特に日経は論説委員長が出席しているのに、自社報道では伏せている。

池上さんはそこを指摘したかったのだろう。なかなか達者な人だ。カンナ屑みたいにペラペラ燃え上がる私ごときとはできが違う。

まさか論説委員長が同席しているのを社が知らなかったわけではないだろう。芸能人がラブホテルに入るのとはレベルが違う。これについては日経新聞としての見解表明があってしかるべきだろう。

メール・ニュースの飛ばし読み 2

1.厚化粧したワニ

高市早苗総務相の答弁。

放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、電波停止を命じると発言。

放送法4条は放送の自律を守るための倫理規範とされてきたが、高市退陣はこれを行政指導の根拠とした。

私はワニに対して畏怖の念を持っている。一番の理由は人間に対して恐怖心を抱かないことにある。普通ならこれだけ乱獲されれば、人間の姿を見れば隠れようとするものだが、彼らにはそのような気配はとんと見えない。

恐怖心を持たない敵というのは底知れず恐ろしい。弾丸もなしに着剣しただけの三八銃で吶喊攻撃をかける日本兵士にアメリカ兵が抱いた恐怖感と同じである。

高市さんにもそういう無防備ぶり、恐怖感の欠落がうかがえるのがとても怖い。

2.太陽電池が下火に

パナソニックが太陽電池をつくる二色浜工場(大阪府貝塚市)での生産を、今月中に休止する。

太陽光発電が買い取り価格引き下げでペイしなくなったためだ。

私は当然だと思う。少なくとも日本では、太陽光がエネルギー政策の中心に座るとは思えない。あまりにも不安定で小規模だ。

この手の自然エネルギーはオフラインでの貯蔵とペアーで考えなければならない。蓄電池の改善も種々考えられたが、商業化の見込みは今のところ薄い。

最終的には水素化以外にはないと思うが、そのためには相当量の電力発生が前提となる。その原価もただ同然に安いことが条件だ。

最近の原油安では、到底太刀打ちできるような電力資源は現れないのではないか。

むしろ石油や天然ガスからいかに炭酸ガスを出すことなく電力を汲み尽くせるかに努力を傾注すべきだろうと思う。

石油は本来電力となるべきエネルギーを内蔵している。そのエネルギーを酸化・燃焼という過程を通さずに引き出す努力が求められているのだろうと思う。

3.ついでにベストミックスについて

ベストかどうかはわからないが発電のエネルギー源については、組み合わせの発想は必要だと思う。そのさいのキーワードとなるのが①安定性、②可変性(柔軟性)、③コスト、④環境負荷である。

ただその際のカクテルベースに原発を持ってくるのは理屈に合わない。ベースに必要とされるのは安定性と可変性である。この条件を満たすのは火力以外にはない。

原発には安定性はあるが可変性が欠けている。水力は安定性・可変性ともにやや力不足である。ほかの自然エネルギーは両方とも低い。

だから能率だけ考えれば火力だけで十分だ。しかし環境問題を考えれば、できるだけ再生可能な自然エネルギーを利用したい。コスト的にもできるだけ抑えたい。

そのためにどうするかを考えるのが「ベストミックス」論である。そうなれば比較的環境負荷の少ない天然ガスをベースとし、あとはコスト面を考えつつ可能な限りクリーンエネルギーを取り込んでいくというのが戦略になる。

同時にあらゆるエネルギーについて、燃焼ではなく水素化が目指されなければならない。

これがエネルギーのベストミックス戦略の基本である。

どこから見ても原発や石炭火発はお呼びでない。

4.マイナス金利の損得勘定

マイナス金利というのはどう考えても不合理な状況だ。

たとえば私が銀行から金を借りる。私の信用次第だが、1千万借りることができたとしよう。それをそのまま自宅の金庫にしまっておく。

金利がマイナス1%とすれば1年後に返すときは990万返せばよいことになる。

これで私は10万儲けたことになる。それではその10万円はどこから出てきたのか。借金の貸し手からである。

これは主として民間銀行対日銀の取引であるから、日銀が損したことになる。では日銀の損は誰が埋めるのか、それは国民だ。

儲かるのは銀行に信用のある大金持ち、損をするのは国家に金を吸い取られる庶民ということになる。貧富の格差はますます広がるというのが結論だ。

これが基本だが、その経路にいろいろアヤが着いているからわかりにくい。そこをわかりやすく説明してくれる記事があった。

5.日興証券の記事

SMBC日興証券が、マイナス金利でだれが得してだれが損するかを試算した。

家計は預金金利が下がって利息収入が357億円減るが、住宅ローンの金利負担が1805億円減るため、差し引き2172億円のプラス。

銀行は、日銀に預ける預金が400億円の減収、貸し出しから得られる収入が3830億円減る。だが預金に支払う利息が減り、国債の売却益が8781億円に膨らむため、差し引き84億円のプラス。

これらを足した8081億円が日銀の損失となる。しかし日銀はこの損失を国家への納入金減額で埋め合わせするため、それは国民負担増となって跳ね返る。

何かわけのわからない金のまわり方だが、出口は単純かつすっきりしている。ローンを組んだ人の懐にローンなど関係ない庶民の懐から金が回り込むだけの話だ。

かくして、話は4.マイナス金利の損得勘定 へと戻っていくことになる。

↑このページのトップヘ