鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 30 国内政治(財政含む)


日大がヤクザとズブズブなことより、小指に衝撃 とのコメント

メディアはいまや日大の本丸に押し入ろうとしているが、ここに来てコメンテーターの口がにわかに重くなってきた。
内田監督が本業は日大常任理事で人事権を掌握し、事実上日大No.2だと言われている。ということは内田監督の不祥事に対しけじめをつけるのは日大のトップしかいない。平理事の「学長」が出てきても始まらないのである。
では日大のトップである田中理事長とはどんな人物なのか、どうして前面に出ようとしないのか?

その理由は下記の経過を見れば分かる。

田中英壽の履歴書

1946年12月 青森県五所川原市に生まれる。

1965年、日本大学経済学部に入学。

1968年 学生横綱となる。

1969年、日本大学経済学部経済学科を卒業し、日本大学農獣医学部体育助手兼相撲部コーチに就任。

1969年 アマチュア横綱となる。その後70年、74年にもアマチュア横綱となる。

1980年 現役引退。同年、朝日スポーツ賞受賞。

1983年 日本大学相撲部監督に就任、久島海、舞の海らを育てる。

1999年学校法人日本大学理事に就任。

2000年日本大学保健体育事務局長に昇格。

2001年日本大学校友会本部事務局長に昇格。

2002年学校法人日本大学常務理事に昇格。

2005年日本大学校友会会長に就任。

2005年 田中常務理事と特定業者とのバックリベート問題が浮上。第三者委員会は「謝礼を受け取ったという極めて濃厚な疑いが残る」という中間報告書を提出。理事長と総長が任期満了となったため、曖昧なまま決着。

2008年 学校法人日本大学理事長に選出される。

1994年 JOC理事に就任。後に副会長に昇格。

2012年2月 会員制月刊誌の「ファクタ」が、「日大田中理事長と裏社会」という連載を開始。

2013年2月 読売新聞、「理事長就任後の6年間で約500万円を受注業者から受け取った」との疑惑を報道する。

田中理事長は大学施設の工事を受注している建設会社から、1回あたり10万円前後で50回以上受け取っていた。この会社の受注件数は同期間に約150件、受注総額は20数億円に上っていた。


9月 山口組六代目組長司忍とのツーショット写真が流出。ブルームバーグなど海外メディアに掲載される。国内メディアは「写真の真偽と流出の背景が不明」だとし、公表を控える。

2014年2月 アメリカ大手ニュースサイトが「東京五輪はヤクザオリンピック」と報道。日刊ゲンダイがこれを紹介。(後出)

9月 日大批判の急先鋒だった右翼系の「敬天新聞」社が襲撃される。事件後、各メディアに「六代目の写真と理事長の写真を掲載したら、敬天と同じ目に遭わす」との脅迫。

2015年4月 維新の牧義夫議員が国会でツーショット写真につき質問。文科省は「日大とJOCからそうした関係はないとの報告を受けている」と答弁。また「文科省は(キックバック疑惑について)事実確認をしたのか」との質問に、スポーツ青年局長は、「第三者委員会の調査の結果、工事発注に伴う謝礼ではないということだった」と答弁する。
文科省は「田中続投はありえない」と考えていたが、竹田JOC会長が「偽写真かもしれない」と異議を唱えたため、続投となった(ファクタ)。
2016年4月 危機管理学部が新設。同時に「スポーツ科学部」も新設。亀井静香元議員(元警視総監)の肝いりで、警察官僚の天下り先として作られたと言う。
危機管理学部の教授陣には、元四国管区警察局長や元埼玉県警本部長などが名を連ねる。警察官採用ランキングでは日大が長年トップを続けている。「司直の手」に委ねた途端、この事件は終わりだ。
4月 祝賀パーティーで森喜朗が来賓挨拶。裏事情を明かす。
田中理事長から亀ちゃんに学部を作るにはどうしたらいいかと相談があり、亀ちゃんから「私や国松さんも協力してよ」と言ってきた。多分前半は半ば嘘で、亀井から持ちかけた話であろう。
2016年6月 日大がファクタ出版を名誉毀損で提訴。勝訴する。請求額2億に対し判決は140万円。読売新聞は名誉棄損で訴えられて、継続記事を断念。

2017年9月 田中英壽理事長が4選される。石井進氏(77)を除く全ての常務理事が交代、内田正人(62、人事)ら4氏が常務理事に昇格する。


つまり記者会見には出られないのだ。もしいま記者会見をすれば、かならず上記の写真について質問される。今の雰囲気なら絶対誰かがやる。国際的にもさらされている写真だ。本人は「偽造写真」と言っているようだが、今日の画像技術からは真贋の区別は容易だ。

例の広報部長がすぐ制止に入るだろうが、記者がかざした写真は白日のもとにさらされる。もはや亀井静香も庇い立ては難しかろう。

これはモラトリアムというサイトからの転載だが、元ネタが「日刊ゲンダイ」の 2014年2月13日号 とのことなので、そのつもりで読んでいただきたい。(画面上クリックで拡大)
田中と森
ということで、田中理事長が引責を求められれば、話はJOCにも及ぶ。悪質タックルで始まった話が東京オリンピックまで波及するということ、例によって日本最大の悪役森喜朗が絡んでくるということになりそうな雲行きだ。


には、下記のような情報が書き込まれている。とりあえず流石にそのまま信用する気にはならないが、いずれ取材が激しくなれば、大手メディアでも取り上げるようになるかもしれない。
酒が入ると彼の口癖は「勉強なんて東大に任せておけばいいんだよ。こっちはな、数と喧嘩だったら誰にも負けねえんだ」。
田中は青森県北津軽郡金木町の出身。太宰治と同じところだが、田中の尊敬する人物は、同じ町出身の吉幾三だそうだ。
「山口組の若頭の高山清司親分とは兄弟の盃を交わしている」と堂々と自慢していたこともあるという。

謝罪をしない保守主義
体育会系思想の特徴

暴行学生の記者会見を見て思った。
第一に、「体育会系思想」というのは切り離されたものではなく、右翼思想と密接に結びついていることである。
一つ一つのマナーやエチケットだけでなく、コンプライアンスの捉え方、全人教育への無関心などすべてが保守・右翼の思想に根ざしている。
しかも世界で唯一つ、戦争と弾圧政治の責任を負わずに逃げ通した保守主義、すなわち「日本型保守主義」の酷薄かつ卑劣な伝統を守り抜く特殊な思想である。
相撲協会のときにも強調したが、このひとかたまりの体育会系思想というものに、面と向かって向き合う時が来たのではないか。

体育会系思想の外形的特徴
体育会系思想の最大の外形的特徴は、謝罪をしないことにある。それを可能にしてきたものは、異議申し立て権の否定、外界とを隔てる情報隔壁の構築と強制である。
この特徴の因って来る理由は、日本型保守主義の歴史的特徴にある。
①日本の旧支配層によって形作られた日本型保守主義は、明治維新後の70年、常に日本を戦争と侵略の道へと駆り立てた。
②この70年間を通じて、生命や人権や民衆の暮らしを軽視する思想が日本型保守主義の中核に据えられた。
③戦後のGHQの占領・支配により、この日本型保守主義は政治の表舞台からは排除された。しかしそれをになった人々は罪を問われず罰せられず、生き残った。
④彼らが謝罪もなく、のうのうと生き残り、バブルの時期に戦無派と結びついて勢いを増してきたのを私たちは見てきた。
④今、各界の先頭に立ち始めた戦無派保守主義が日本型保守主義から引き継いだのは、「謝罪をしない」という作風である。「謝罪をしない」ことこそが保守主義の真髄でもあるかのように考えている。

体育会系思想と向き合う今日的意味
いま、体育会系の世界は、日本の社会諸組織にの中で最も遅れた、最も緊急に改革が求められる分野となっている。
体育会系思想と向き合うということは、たんにその思想を批判することではない。なぜなら、彼らの多くは謝罪することを恥と考えており、批判を受け入れるトレランスを持っていないからである。
必要なのは、戦後改革の初めに行ったように、体育会系思想の人的・組織的基盤を剔除することである。
すべての体育会系組織を憲法的枠組み、適法性、基本的人権の基準で再点検し、ガバナンスの改善を求め、応じなければ社会的団体としての承認を取り消し、非社会的団体に指定することである。(フットボール協会にも率直な自己点検がもとめられると思う)
さらに組織幹部の点検を行い、体育・スポーツの精神にふさわしくない人物には反省を求め、従わないものは更迭されなければならない。
スポーツの世界への行政介入は決して好ましいものではない。しかし肉体的接触や危険を伴うような競技団体などでは、最低限の基準を作って適正性を第三者的に評価する作業が行われなければならない。
これはかつての医療においても存在しており、情報公開の流れは自分自身が身をもって体験してきた。その中で二つの核心的事項が確認されている。それが異議申し立て権の無条件の尊重であり、徹底した情報公開の原則である。これがないと、医療への参加とか経営参加などは絵に描いた餅であり、恥部を隠すいちじくの葉でしかない。

日本から最終的に「真空地帯」をなくすこと
我々は子供時代に映画「真空地帯」を見て育った。軍隊とは「むり偏にげんこつ」であり、市井の人々が暴力と脅迫により非人間化していく場所であった。
学生になってからは、「人間の条件」や「軍旗はためくもとに」や「海と毒薬」などで、より徹底して反軍思想を叩き込まれた。我々の反戦・平和思想というのは何よりも反軍思想だったのである。
そしてこの帝国軍隊の思想の残滓が体育会系思想なのである。
これは積み残された戦後改革の一環であり、鬼軍曹と腐敗上官を摘発し、日本型保守主義を廃絶する行いとなるであろう。


2018年03月16日 
「佐川問題ではなく昭恵問題だ」と財務省は考えているはずだ

で、「このラウンドは麻生の首をとって一段落となるかもしれない」と書いた。

しかしメディアは早くも「佐川疲れ」の様相を呈している。このままでは「築地移転」の二の舞にもなりかねない。改ざん問題が麻生の首もとれないで終わるのなら、むしろその方が立憲主義と民主主義にとっては深刻だ。

きっちりと取れるものはとっておこう。

この問題は国税局長が辞任するのなら、財務大臣も連帯責任を取らなければならない、そういう性質の問題だ。「佐川だ、佐川だ!」と叫ぶのは、人としてあまりにも卑怯未練だ。

「政治主導」という言葉は、そういう意味も持っているのではないだろうか。そこに頬っかぶりしてしまう人には「政治主導」を語る権利はないのではないだろうか。

明日は佐川さんの国会証言。そこで以前の記事を再掲する。
2017年07月25日 佐川宣寿氏の「着任インタビュー」で転載した
着任インタビュー」である。
2013年に大阪国税局長に就任した際に、納税協会のインタビューに答えたもの。

我々の使命は、「納税者の自発的な納税義務の履行を適正かつ円滑に実現する」ことであります。租税回避や悪質な脱税を行っている納税者に対しては、毅然として厳正に対処していきます。
そのために、我々は厳正に調査・徴収を行って、公平な課税の把握をしていくとともに、悪質な納税者に対しては厳格な態度で制度上可能なあらゆる手段を使って是正させていくことが必要であります。
我々に与えられた使命を着実に果たしていくためには、何よりも国民の皆様に信頼される組織であることが不可欠であります。
国税職員は、納税者に対して法令の遵守を求めるわけでありますので、職員一人一人が高い倫理観を持って、綱紀の厳正な保持に努め、基本を忠実に守って職務に専念しなければならないと考えています。
座右の銘というものは特にありませんが、仕事をする上では、平常心で誠実に取り組むことが大切だと思っております。なかなかいつもそのとおりにはいかないのですが、心がけるようにしております。

このところ、夜は嫁さんのビデオ鑑賞にお付き合いと書いたが、昼はとなると、朝9時のテレ朝、昼のTBSと釘付けになっている。
“仕事”はまったく手につかない。
森友の話が一気に進んだが、「佐川問題」とは笑止千万だ。
「佐川問題」は突き詰めれば(突き詰めなくても)財務局問題であり、財務省問題だ。そういうことでいいのかね。
基本的には財務省は被害者だ。やばい橋を渡らされ、地雷を踏むことになったが、見返りは一つもない。加害者は誰か?
とりあえず「加害者」として見えているのは安倍首相夫人だ。そういう意味ではこの事件は「昭恵夫人問題」だ。今のところは…
解明が進めば(進むとしての話だが)、昭恵夫人の背後で財務省を動かしたものが見えてくるだろう。財務省を詰める力があるのは経産省だけだ。財務局のどこをどう突けば落ちるか、それは官僚にしか分からない。もっとも、正面からの切り込みはできないから、官邸サイドの裏に回って知恵を貸し手を貸したのだろう。(なぜ昭恵夫人“秘書”が経産省から派遣されていたかは不明)
財務省はどこまでこの屈辱に耐えるのだろうか。
この点で特に気になるのがこの間の麻生財務相の言動だ。佐川叩きに加わるというより、その先頭に立っているのはまったく解せない。長期にわたり財務大臣を勤め今も現職である人間としては、立ち位置という感覚が感じられない。この人には財務省サイドの情報より官邸サイドの情報が注ぎ込まれているのだろうか。
もちろん佐川が麻生財相にはからず、独断でやった可能性はある。大臣は知らないほうが良い場合もある。問題は麻生財相がそういうふくみも念頭に置きつつ、事務方幹部を信頼して動いていたかどうかだろう。
現在権力内部でのねじれの回転軸は、この財務省と財務大臣とのねじれにある。
財務省幹部は「佐川問題ではなく昭恵問題だ」と考えているはずだ。財務省が被害者であることを印象づけたいと考えているはずだ。反撃が必要だとも感じているはずだ。
今後、財務省サイドから麻生追い落としのための情報(「麻生は知っていた」)がリークされてくる可能性もある。公卿集団がどのくらい闘えるかは疑問だが、闘えなければ舐められて終わりだろう。
まだまだ第2ラウンドは終わっていない。
このラウンドは麻生の首をとって一段落となるかもしれない。
その後は加計問題だ。本丸(安倍と経産省)はこちらにいる。

アベノミクスを裏切った安倍首相

アベノミクスの1本目の矢=量的緩和は「成功」したと言うべきであろう。率直に認めるべきだと思う。成功を「」付きにしたのは、日本経済の再生に成功したわけではないからである。
それではアベノミクスの何が成功したのか。そのために何がしわ寄せされたのか、の分析をしてようと思う

1.円高不況と産業空洞化、労働力の過剰流動化
アベノミクス開始時の状況は惨憺たるものであった。
リーマンショック以来、日本は不況と円高に苦しめられていた。
主要な原因は、リーマンショックに先立つ5,6年間、経済成長が企業側に取り込まれるばかりで、内需拡大に向かわなかったためである。

97年ショックから数年間については、たしかにそれなりの理由があった。バブル崩壊のあと企業は軒並み深刻な不良資産を抱えていたからである。

しかしそれは2008年の初頭で基本的には解決した。輸出は引き続き好調で、不良債権や累積債務は急速に解消された。

しかし企業は利益を還元しないまま突っ走った。労働法規は改悪され非正規就業がさらに拡大した。

そこにリーマン・ショックが襲った。企業はさらにガードを固くした。不況下の円高はさらに企業の海外逃避を加速した。

この時期には、財政出動以外に脱出口はなかった。しかし従来型の大型土木建設工事による財政出動はすでに無効となっていた。

今日につながる「出口戦略の欠如」がすでに露呈していたのである。

2.「流動性の罠」を脱出するために

残る手段は赤字国債の発行による内需の拡大しかなかった。しかしこれは財界、財務省、日銀の三位一体となった強力な抵抗の前に実現困難であった。
アベノミクスはそのかわりに金融の量的緩和という奇策に打って出た。日銀券の大量発行というインフレ政策である。
これにより一気に為替相場は、円安に振れた。

輸出企業を中心に円安利益が集中し、庶民の財産価値が大幅に目減りしそれが企業のもとに流れ込んだ。

疲弊した企業は業績を持ち直し、経済成長はプラス方向に向いた。

量的緩和自体は一つの賭けであり、財政基盤の弱体化をもたらす危険があるが、経済成長があればそれは相殺される。

だからスティグリッツも量的緩和そのものは支持したのである。しかしそれは国民に還元されない限り、最悪の結果を招く。

おそらく政策担当者は悪性インフレの出現を恐れたのであろう。だからインフレ・ターゲットを設定したのであろう。

しかしインフレどころか物価の上昇はまったく見られない。なぜか。企業が利益を還元しないからである。

もっとも企業というのはそういうものであり、そこから利益を吐き出させるのは政府の責任である。

政府が「世界一企業に優しい国」を目指すのは、アベノミクスの本来の目的に著しく反している。

持続的な経済成長まで持って行って初めてアベノミクスは成就するものである。このままの状況を放置することは、アベノミクスの成功をスポイルするだけでなく、今後の政策選択幅を著しく毀損する。

とにかくここまでやった以上は、社会保障、地方経済の復活に有効な投資を行い、有効需要を喚起する以外にないのだ。

もしそれをやらないのなら、安倍政権は一刻も早く退陣すべきであろう。

そして野党連合の政権が、第二の矢の実行を担うべきであろう。


佐川宣寿氏の「着任インタビュー」が大変面白い。

2013年に大阪国税局長に就任した際に、納税協会のインタビューに答えたもの。

我々の使命は、「納税者の自発的な納税義務の履行を適正かつ円滑に実現する」ことであります。

租税回避や悪質な脱税を行っている納税者に対しては、毅然として厳正に対処していきます。

そのために、我々は厳正に調査・徴収を行って、公平な課税の把握をしていくとともに、悪質な納税者に対しては厳格な態度で制度上可能なあらゆる手段を使って是正させていくことが必要であります。

我々に与えられた使命を着実に果たしていくためには、何よりも国民の皆様に信頼される組織であることが不可欠であります。

国税職員は、納税者に対して法令の遵守を求めるわけでありますので、職員一人一人が高い倫理観を持って、綱紀の厳正な保持に努め、基本を忠実に守って職務に専念しなければならないと考えています。

座右の銘というものは特にありませんが、仕事をする上では、平常心で誠実に取り組むことが大切だと思っております。なかなかいつもそのとおりにはいかないのですが、心がけるようにしております。

今度のご栄転には次のようなコメントもある。

正義を顧慮することなく 安倍首相のポチに徹した佐川さん!!
栄転おめでとうございます!

あなたこそが 安倍首相の人事権行使の最高の証拠です!(平川勝則氏

基本法では文書保存期間は5年であるものを、勝手に細則を作って1年にし、証拠を隠滅した。

「近畿財務局の管理にかかる公用文書である一連の書類を、不法に廃棄・隠匿するなどし、もって公用文書を毀棄し」(森友事件の告発書)たこと、さらにそのことについて国会で「知らぬ、存ぜぬ」でつっぱり続けたことへの論功行賞だ。

22日付の毎日新聞で、柳田邦男さんが「安倍政権の高慢さ。噴出」という文章を書いている。

一言で言えば「怒っているぞ」という心がひたひたと伝わってくる文章である。

いちいちごもっともである。

この中で以下の一説が面白い。

森友学園への国有地売却をめぐり、答弁に立つ度に「記録がないので経過は分かりません」と、録音テープを再生するかのように全く同じ言葉を繰り返したのは、後に国税庁長官に栄転した財務省の佐川宣寿理財局長だ。

「権力者に仕え、出世コースを歩む高級官僚の精神性」という点で、私はすぐにある人物を想起した。ナチス・ドイツのユダヤ人ホロコーストの責任者だったアイヒマンである。彼はイスラエルの法廷で「私は上官の命令に従っただけだ」と証言し、無罪を主張した。


そのとおりだ。だから私はアイヒマンを認めるハンナ・アーレントを認めることはできない。

下記もご参照ください
出会い系バーの基礎知識

郷原さんの記事で、出会い系バーの実体について下記の文章がしばしば引用されている。
何もそこまでも、と思いつつもやはり気になって読んでしまった。

【前川前文科次官「出会い系バーで貧困調査」報道に必要なのは、事実の検証であり人格評価ではない/『彼女たちの売春』著者・荻上チキさんに聞く】

というページだ。6月2日のアップロードとなっている。
最初に荻上さんの著書の表紙を転載しておく。
出会い系

ものすごく話題が豊富なので、要点をまとめるのに苦労するが、狙いを前川問題に絞る(ように努力する)

1.出会い系バーは「売春」の交渉の場か
間違ってはいませんが一面的です。
出会い系バーは18歳未満は入れません。児童買春はできません。
多くの女性や男性は売買春が目的です。半数以上がワリキリをやっていると思います。
しかし全員ではありません。ご飯に行ったりお茶をしたり、カラオケに行く人もいます。
女性側が「ワリキリやってないです」と断わることもある。
社会科見学的にくるような人、調査や取材に来る人もいますね。
2.出会い系バーは管理売春ではない
出会い系バーは、業者が女性を囲って行われる「管理売春」ではありません。
だから外形的に判断はできません。めぼしいマッチングに恵まれずただ帰ることもあります。店に行った=買売春した、とはなりません。
出会いがあると、トークルームに入り、そこで交渉をします。「売春交渉はやめてください」と書いてありますが、それは警察への言い訳です。
女性は最初のうちは茶飯だけで稼ごうとお店に通うものの、「あの子は茶飯だけだよ」と噂になると声をかけられなくなり、ワリキリます。
3.出会い系バーのメリット
女性にとっては営業努力が軽減できる、誰かがいて安全だなどのメリットがある。
ハウジングプアの女性が1割近くいて、家のない女の子の場合、雨風がしのげます。
「JK見学」系とは、まったく異なる形態のものです。(またJKが出てきた)
4.出会い系バーと貧困の結びつき
女性の全員が貧困とは限りません。ただ、貧困状態にある人は割合的に多いです。
住処の貧困であったり、DV被害者だったりする人が平均よりも多い。
24時以降に居場所がない場合、出会い系バーは選択肢となる。
5.「小遣いを渡す」ということ
ちょっと説明がわかりにくいが、「小遣いを渡す」というのは独特の業界用語らしい。セックスの代価ではない。
昔は忘年会の帰りにタクシーに乗ると、「近くですまないが、二千円上乗せするから」と言って乗せてもらったことがある。
その上乗せ分が「小遣い」に相当するようだ。
6.調査にしては回数が多すぎる?
菅官房長官は「調査だったら1回か2回じゃないですか」という。
本気でやるなら、1、2回で調査は終わりません。それはただの「見物」「見学」です。
ぼくは前川さんを擁護しているのではなく、調査を擁護しているんです。
7.前川さんは清廉潔白だという主張について
良い人アピールも、悪い人アピールも議論の本質ではないでしょう。
だから、読売新聞が「出会い系バー通い」という情報だけで、(前川さんの)説得力を奪おうとしたことに驚きました。

まぁ、とにかくいろいろ勉強になります。前川さんが偉い人だということもよくわかりました。

下記もご参照ください
出会い系バーの基礎知識

検索していくうちにいろいろな文章が引っかかってくる。よく経験するのだが、グーグルの検索は最初の2,3ページは似たような記事が多くて「こんなものか」と思うのだが、それを越えると石混じりの中にところどころ玉が混じっている。

今回はこれがそうだ。

「郷原信郎が斬る」というブログの読売新聞は死んだに等しいという記事だ。6月5日付となっている。

相当ごつい文章で、いささか胃もたれがするが、この問題に正面から取り組んでいる。

まず、問題の読売記事の全文が紹介されているが、これが前出の記事とだいぶ違う。

こちらが全文のようなので、あらためて紹介する。

文部科学省による再就職あっせん問題で引責辞任した同省の前川喜平・前次官(62)が在職中、売春や援助交際の交渉の場になっている東京都新宿区歌舞伎町の出会い系バーに、頻繁に出入りしていたことが関係者への取材でわかった。

教育行政のトップとして不適切な行動に対し、批判が上がりそうだ(ア)。

関係者によると、同店では男性客が数千円の料金を払って入店。気に入った女性がいれば、店員を通じて声をかけ、同席する。

女性らは、「割り切り」と称して、売春や援助交際を男性客に持ちかけることが多い。報酬が折り合えば店を出て、ホテルやレンタルルームに向かうこともある(イ)。店は直接、こうした交渉には関与しないとされる(ウ)。

複数の店の関係者によると、前川前次官は、文部科学審議官だった約2年前からこの店に通っていた。平日の午後9時頃にスーツ姿で来店することが多く、店では偽名を使っていた(エ)という。同席した女性と交渉し、連れ立って店外に出たこともあった。店に出入りする女性の一人は「しょっちゅう来ていた時期もあった。値段の交渉をしていた女の子もいるし、私も誘われたことがある」と証言した(オ)。

昨年6月に次官に就いた後も来店していたといい、店の関係者は「2~3年前から週に1回は店に来る常連だったが、昨年末頃から急に来なくなった」と話している。

読売新聞は前川前次官に取材を申し込んだが、取材には応じなかった。

「出会い系バー」や「出会い系喫茶」は売春の温床とも指摘されるが、女性と店の間の雇用関係が不明確なため、摘発は難しいとされる(カ)。売春の客になる行為は売春防止法で禁じられているが、罰則はない(キ)。

前川前次官は1979年、東大法学部を卒業後、旧文部省に入省。小中学校や高校を所管する初等中等教育局長、文部科学審議官などを経て、昨年6月、次官に就任したが、天下りのあっせん問題で1月に引責辞任した。

郷原さんの理論は次のような組み立てになっている。

1.記事の中で直接的事実は二つだけ

記事の中で、前川氏の行為そのものを報じているのは二つに留まる。

それ以外は、出会い系バーの実態等に関する一般論だ。それは「援助交際が目的」と“推認”させようとする伏線になっている。

二つの事実とは

①前川氏が出会い系バーに頻繁に出入りしていたこと。「同席した女性と交渉し、連れ立って店外に出たこともあった」ことである。

②店に出入りする女性の一人の発言。「しょっちゅう来ていた時期もあった。値段の交渉をしていた女の子もいるし、私も誘われたことがある」

ということで①は紛れもない事実だが、それが買春目的であるとする根拠は、②の女性の「値段の交渉をしていた。私も誘われた」という発言のみである。

すなわち、この記事の核心的事実は一女性の発言によってのみ成り立っていることになる。

ただし「何の値段」の交渉をしていたのかは不明瞭である。前川氏に肉体交渉の意図がなかったことは各社の証言に明らかである。

2..どうしてこんな記事が掲載されたのか

読売記事については、二つの可能性が考えられる。

一つは、官邸サイドから情報を入手しただけで、何の取材も行わずに、「関係者証言」をでっち上げた可能性である。

もう一つは、前川氏が「交渉」「値段の交渉」を行っていたという曖昧な表現で誤った「印象」を与えようとした可能性である。なぜなら関係者取材をすれば、前川氏の目的は明らかだからだ。

前者であれば、「関係者証言のねつ造」という重大な問題となる。

後者であれば、曖昧な言葉で事実とは逆の誤った印象を与えるものである。

どちらも、新聞報道として到底許されることではない。

実は、1と2のあいだに長い論証部分がふくまれているのだが、いささか骨っぽくて要約するのは困難である。直接ご一読いただければよろしいかと思う。


下記もご参照ください
出会い系バーの基礎知識

読売新聞の論建てで、気になる点が二つある。

一つは出会い系バーを「汚らわしい」と見るところから議論を出発させているのではないかという懸念である。

もう一つはプライバシーを侵害することについての基準の曖昧さである。

1.売買春は「汚らわしい」から悪いのではない

これまでの議論の中で置き去りにされているが、読売新聞の三段論法の最初におかれているのが、「売買春」=違法という考えの基礎のところである。

売買春が違法であることは言うまでもないのだが、それは「汚らわしい」からではない。

ここに「汚らわしい」という価値基準を持ち込むと、とたんに話は怪しくなる。以前は「娼婦狩り」と称して売春婦(街娼)が牢屋にぶち込まれたこともあった。

途上国では「美観を損ねる」と言ってスラムが壊され、浮浪児が投獄される(「保護」ともいう)事態がしばしば起きている。

2.売春を違法とする根拠

売春を違法とする大本の原理は、女性の人間としての尊厳を保護することにある。

現代において女性の尊厳は二重に損なわれている。一つは愛情の表現(人間性の発露)としての性交渉が商品化されることで、人間の尊厳が損なわれるからであり、一つはそれが性産業による収奪の手段となるからである。

ただし最初の点は時代や社会状況によっても色々なので、厳密な線引は難しい。

したがって外形的には性産業の関与するいわゆる「管理売春」が違法性の対象となる。売春することではなく、売春させることが犯罪となるわけだ。

もちろん性産業の方も色々手は打ってくるわけで、グレーゾーンが幅広く存在する。

いろいろ情報を集めてみると、出会い系バーの営業者は出会いの場所を提供しているにすぎないとも言える。しかし出会い系バーの女性の多くが売春を行っていることは間違いないようだ。

問題は営業者が女性を何らかの形で管理しているかどうかにかかっている。

この点は事実に即して判断するしかない。

これが売春に関する現代的常識であろう。

3.「買春」について

買春の違法性を措定するのは難しい。第一の規定からすれば、女性の尊厳を直接的に侵害する行為であり、容認されるものではない。

しかし線引は困難である。むしろバーの女性を強引に口説いてホテルに行くほうがはるかに犯罪性は高い。

第二の規定からすれば、おそらく買春は売春の幇助ということになるのであろう。

管理売春が違法であるがゆえに、それを幇助することも違法となる。

結局これも「出会い系バー」が管理売春かどうかで決まってくると思われる。

4.プライバシーの権利について

個人の権利の中の重要な柱の一つとして「私事権」がある。プライバシーというと、日本語では個人の秘密を保護する権利ということになっているが、実はもっと広い。

これは他人に迷惑をかけない限り、法律に違反しない限り、自分の好きなように生きる権利である。そしてそれを邪魔されないように保護して貰う権利である。

もっとぶっちゃけて言うと目障りでいる権利であり、目障りであり続ける権利である。

これは「せめて私のことは私の好きにさせて頂戴」という消極的な権利であるが、根源的な要求である。

それはしばしば「良くないこと」であったり、社会規範と衝突するために、社会的バッシングを受ける。

目につくところでは、服装に関する私事権、作法に関する私事権、TPOに関する私事権などがある。

服務規程や校則で実質的に禁止されているものもあるが、これらについては本来違法・違憲性が問われる可能性がある。

新聞ネタでは、ゲイの問題、君が代拒否問題、ゴミ屋敷問題などがある。

本来は私事のはずだが法律で禁止されているものもある。オートバイのヘルメット、運転手のシートベルトは罰金刑である。

私の経験では思想に関する私事権侵害が大きかったが、最近では喫煙に関する私事権が深刻である。

5.読売新聞の三重の過ち

今回の読売新聞の報道は、どこをどう押しても、まごうことなき私事権の侵害である。

当の読売新聞が「報道は公益目的にかなう」と、社会的バッシングであることを宣言しているのだから間違いない。

しかもその根拠は「違法行為が疑われるような店」に出入りしたことであり、違法行為を行ったわけではない。それどころか、女性を救わんとして赴いた可能性が高い。

のであれば、読売新聞は誣告と私事権の侵害という二重の過ちを犯したことになる。

さらにそれが政治権力や公安と結びついた謀略の一環として行われたとすれば、読売新聞は三重の罪に問われることになる。


下記もご参照ください
出会い系バーの基礎知識

昨日行われた前川喜平(前文部事務次官)氏の記者会見で、はっきりさせなければならない問題がある。

前川氏の「出会い系バー」通いを報じた読売新聞の記事について、「個人的には官邸の関与があったと考えている」と指摘したことだ。

前川氏は切羽詰まっている。このままでは「文部事務次官にあるまじき行動」とのそしりを黙認してしまうことになるが、「官邸の関与」まで指弾するとなると、これもまた自身の将来に少なからぬ不利益をもたらす危険がある。

いわば「前門の虎、後門の狼」という状況にあるわけで、前川氏の必死の思いが伝わってくる。

ということで、経過をおさらいしていく。なにせこの手のニュースは消えるのが早い。せっせと情報を集めておくと、きっといつか役に立つ。これがこのブログの真骨頂である。

この事件に関する報道の中ではネットメディアのリテラが出色である。ご参照いただきたい。


1.「出会い系バー」記事への伏線

5月22日の読売新聞の「出会い系バー」記事には伏線がある。

政府と読売新聞との密着ぶりはつとに知られている。それは安倍首相とナベツネの強い関係によってもたらされているが、その関係がこのところさらに強まっている。

4月24日 渡邉恒雄主筆(いわゆるナベツネ)が、安倍首相と都内の高級日本料理店で会食。

5月3日 読売新聞が安倍晋三首相の憲法改正についての単独インタビューを掲載した。この中で、安倍首相は「2020年に新憲法の施行を目指す」と宣言した。

安倍首相は国会で「読売新聞に書いてある。ぜひ熟読していただいてもいい」と発言し、物議を醸した。

5月13日 読売新聞、東京本社編集局長名の記事を掲載。首相の考えを報道することは「国民の関心に応えることであり、本紙の大きな使命」と説明する。

この「使命感」が22日の記事に結びついていると考えるのが自然だろう。

5月15日 「フライデー」誌があるパーティーでのナベツネと安倍首相の仲睦まじいツーショットを撮影している。
nabetunetoabe
2.「前川前次官、出会い系バー通い」の報道

5月17日 朝日新聞、「総理のご意向」などと記した文書文書が存在すると報道。

おそらく前川氏のリークによるものであろう。それは官邸側も気づいた。

5月22日 読売新聞朝刊に記事が掲載される。主見出しは「前川前次官、出会い系バー通い」脇見出しは「文科省在職中、平日夜」

①前川氏は東京・歌舞伎町の出会い系バーに出入りしていた。

②この店は「売春や援助交際の交渉の場になっている」

③店の関係者は、前川氏が女性と店外に出たこともあったと証言した。

この記事の全文を探しているがまだつかめていない。

→見つけました。(あとでわかったが、これは全文ではない)

文部科学省による再就職あっせん問題で引責辞任した同省の前川喜平・前次官(62)が在職中、売春や援助交際の交渉の場になっている東京都新宿区歌舞伎町の出会い系バーに、頻繁に出入りしていたことが関係者への取材でわかった。

教育行政のトップとして不適切な行動に対し、批判が上がりそうだ。

関係者によると、同店では男性客が数千円の料金を払って入店。気に入った女性がいれば、店員を通じて声をかけ、同席する。

女性らは、「割り切り」と称して、売春や援助交際を男性客に持ちかけることが多い。報酬が折り合えば店を出て、ホテルやレンタルルームに向かうこともある。店は直接、こうした交渉には関与しないとされる。

記事の大半が出会い系バーの「いかがわしさ」の説明に当てられるという異例さが、いかにも異常だ。

ということで、最初の要約で書かれている「③店の関係者は、前川氏が女性と店外に出たこともあったと証言した」という段落が見当たらない。

経過から見ると、前川氏のインタビューを察知して、官邸筋・読売集団が先手を打って、前川氏を貶めようとしたことが明白である。恐るべき情報収集力であるが、情報源が問われてくる。

この記事は「小笠原政治の経済ニュースゼミ」というブログから転載させていただいた。

ついでに小笠原さんのコメントも紹介しておく。

善良な一市民が、自分の趣味でどのような店に出入りしていたといって、それが刑法などで禁じられていない以上、誰が責めることができるのでしょう?

出会い系バーで接待されていたわけでもなく、勤務時間中に仕事をさぼって行ったのでもないのに、それを固有名詞を挙げて記事にする理由が分かりません。

考えられるのは、加計学園の例の文書が流出したのは、この前次官がリークしたからと思っているからでしょう。

出会い系のバーに出入りするようなふしだらな男の流す情報が信用するに値するのか、

まさに印象操作。

ズバリなのだが、この時点ではまだ「なぜ前川氏が出会い系バーなどに行ったのか」という理由が語られていない。実はそれがこの話の焦点なのだが。

3.報道への最初の反応

5月25日 民進党の蓮舫代表が記者会見。

①すでに退職した人が、まだ摘発もされていない店舗に出入りしていたことが報じられることへは違和感を覚える。

②時の権力者に不都合なこと、あるいは侮辱をするようなことを言うことによって、きわめてプライベートな情報が、どこからか漏れるというのが事態の本質だ。

③このリスクは相当怖い。ある意味、萎縮効果につながりかねないと思っている。

5月26日 菅義偉官房長官が記者会見。「出会い系バー」問題で記者の質問に答えた。

女性の貧困問題の調査のために、いわゆる出会い系バーに出入りし、かつ、女性に小遣いまで与えたということだが、そこはさすがに強い違和感を覚えた。常識的に言って、教育行政の最高の責任者がそうした店に出入りし小遣いを渡すことは到底考えられない。


ここまでは読売と官邸筋の見事な連携プレーである。前川発言の正当性をチャラにし、無力化させることに見事に成功した。


5月28日 極めつけは系列の読売テレビの「そこまで言って委員会」である。

須田慎一郎がレポート役となっている。なお彼のラジオ番組には安倍首相がみずから出演するほどの親密ぶりである。

行ってきましたよ、私もその歌舞伎町の出会いバー。入場料6000円も取るんですよ。で、前川さんが連れ出したっていう女の子、私も取材しましたよ!

ここで司会の辛坊治郎氏が「で、何ができるの?」と、あきらかに買春を前提としたようなゲスな茶々を入れたのだが、須田氏は声高にこんなことを言い出したのだ。

(ピー音)とか行けるらしいんだけど、私はこういう立場ですから、やっぱり行かなかったんですけどね〜。前川さんは行ったらしい! 行ったらしいよ。

裏取りした。だって(ピー音)ちゃんに聞いたもん。前川前次官と一緒に(ピー音)に行った(ピー音)ちゃんに聞いたもん。

スタジオは大爆笑に包まれた。

これが読売の一番やりたかったことであろう。
しかし「週刊文春」「週刊新潮」「FLASH」など各社が取材したが、前川氏がホテルなどに行ったという裏は取れていない。「(ピー音)ちゃん」は存在していない可能性が高い

このあと、官邸サイドの暴走と読売の下劣な報道に批判が吹き上がる。

5月26日 前川記者会見の翌日、ネットメディアのリテラが、「前川前次官問題で“官邸の謀略丸乗り”の事実が満天下に! 読売新聞の“政権広報紙”ぶりを徹底検証」という記事を掲載した。この記事は必見である。
読売OBの大谷昭宏氏が面白いことを指摘してる。

東京、大阪、西部(福岡)各本社の紙面での扱いが同じだった。これは(各本社の編集部の頭越しに)会社の上層部から指示が出た可能性が高い


4.狂い始めた官邸・読売の筋書き

このえげつない攻撃のさなかに、前川氏が記者会見を行い、重大発言を行ったというのが事態の真相である。そのことが徐々に明らかになっていく。
5月25日 読売報道の3日後、朝日新聞や週刊文春が「行政がゆがめられた」などと証言するインタビューを掲載した。週刊文春は前川氏の独占インタビューを掲載。記者会見の発言内容を詳細に報じる。

本筋の問題はここではあえてとりあげない。

質疑応答の中で出会い系バー問題について質問が出た。
前川氏は(バーに)行ったのは事実と認めたうえで、「女性の貧困を扱う報道番組を見て、話を聞いてみたくなった」と理由を説明した。(具体的にはバーの外で「カウンセリング」的な行動をとっていたことが後日の報道で明らかになっている)

前川氏は続けて、行為の違法性を否定し「個人的行動をなぜあの時点で報じたのか、まったく分からない」と述べた。この時点では、前川氏はボランティアの教師をしていたことは明らかにしなかった。

5月25日 山井和則・民進党国会対策委員長、「前川氏のスキャンダル的なものが首相官邸からリークされ、口封じを官邸がしようとしたのではないかという疑惑が出ている。背筋が凍るような思いがする」と述べる。

では読売新聞は5月26日、前川会見をどう伝えたか。

1面の見出は、「総理の意向文書“存在”と文科前次官」1字空けて「加計学園巡り」である。さらにそのあとに「政府は否定」と付け加える

前川会見は3面でもとりあげられる。ここでの見出しは「政府“法的な問題なし”」、脇見出しは「文科省“忖度の余地なし”」の見出し。

社会面では、会見の中身を使うかたちで、例の「出会い系バー」通いに言及。発言者である前川の人格を問う。

5月31日 萩生田光一官房副長官が国会で、「政府として情報を収集し、マスコミにリークしたという事実はない」と答弁した。読売報道の効果が浸透したと見計らってのことであろう。

しかし彼らの意に反して、周囲の状況はどんどん不利になっていく。
6月1日 週刊文春が「出会い系バー相手女性」と題する記事を掲載。女性がいろいろ親身なあつかいを受けたこと、性交渉などはなかったことを明らかにした。

生活や就職の相談に乗ってもらい、「前川さんに救われた」と話す。この女性は、父と話した上で前川氏のことを話すことにした。

週刊文春はこの「出会い系バー」問題で毎回特集を組んで、読売報道の偽りを暴露する報道を連打し続けた。だいたいこの手の話で週刊誌と全国紙がケンカしたら週刊誌のほうが強いに決まっている。おまけに今度は「正義の味方」だから張り切る。

女性の周囲からの聞き取りも次々に掲載される。

前川氏と3年間で3、40回会った「A子さん」だけでなく、「A子さんから前川氏を紹介された女性」、「前川氏とA子さんが通っていたダーツバーの当時の店員」も、前川氏と女性達との間に売春、援助交際など全くなく、生活や就職等の相談に乗り、小遣いを渡していただけであったことを証言している。

週刊FLASH6月13日号の記事でも、前川氏と「店外交際」した複数の女性を取材し、「お小遣いを渡されただけで、大人のおつき合いはなし」との証言が書かれている。前川派の機関誌となった週刊文春だけでなく、週刊新潮や週刊FLASHが次々と証言を集めたことで、「事実」問題については決着がつく

6月3日 読売新聞サイトから「出会い系通い」の記事が削除された。記事の多くは時間が起てば順次削除されていくのだが、注目記事はこの限りではない。やや早いのではないかという印象は残る。とくに削除した翌日に釈明記事を掲載するのは、仁義に反すると思う。おかげで私はたいそう困っている。

6月3日 読売が釈明記事を掲載した。読売新聞東京本社の原口隆則社会部長の署名入りである。

見出しは2本が並列。1本は「次官時代の不適切な行動」、もう1本が「報道すべき公共の関心事」となっている。

①「不公正な報道であるかのような批判が出ている」とし、記事掲載の目的が批判への回答であることを明示。

②「こうした批判は全く当たらない」とし、批判を全面的に拒否。「独自の取材でウラをつかみ、裏付け取材を行った」と主張。

③その理由として

a. 「違法行為が疑われるような店」に出入りすることは不適切である。「公人の行為として見過ごすことができない」

b. ゆえにそれは「公共の関心事」であり、

c. それを報道することは「公益目的にかなう」

と説明する。

原口部長の論理は、「出会い系通い」の記事が前川氏の社会的バッシングを意図したものであることを明らかにしている。

6月4日 「ワイドナショー」(フジテレビ系)でこの問題を取り上げる。

調査を目的とした出会い系バー通い、という前川氏の説明に対し、松本人志さんは「苦しいなぁ」と感想を述べる。森昌子さんは「(前川氏が妻子持ちであることから)自分のことだけしか考えていない」と批判。泉谷しげるさんは前川氏がボランティアとして貧困家庭の子供に勉強を教えるなどの活動をしていたことをあげ、「志の高い官僚さん」と肯定的な評価を下した。

まぁワイドショーなどどうでもいいけど、フジ・産経系の読売との距離感が意外である。

ついでのついで、

森昌子の発言は前後関係で見ておく必要がある。信頼できる口コミというあまり信頼できないブログの記事が、ワイドショーの顛末を詳しく伝えている。事実関係のみを抜き出してみる。

あるコメンテーターが「JKを買うのは犯罪だけど、JKと付き合った上での性行為は別に悪いことじゃない」と語ったのに対し、森昌子が「女子高生と付き合うなんて許せない。謹慎解くの早すぎ。永遠に謹慎してろ」と発言した。(JKが何なのかは不明)

ゲスト女子高生「私は純愛だったら良いと思う」、森昌子「あなた何言ってるの?そんなの絶対だめ」

てなやり取りがあったあと、前川元事務次官の話に移る。

森昌子「前川氏を攻撃する為にあんな報道を出して子供と奥さんが可哀想」、他コメンテーター「政府のやり方がえぐい」


と続いたあと、くだんの発言に至るのである。

5.メディアの総攻撃

「泉谷しげるさんは前川氏がボランティアとして貧困家庭の子供に勉強を教えるなどの活動をしていたことをあげ」と書かれているが、おそらくどこかに情報があるのだろう。まだ見つけていない。

見つけた。

キッズドア 渡辺由美子 オフィシャルブログ(すべての子どもたちに夢と希望を)

というブログ(5月27日付)である。

ブログそのものを見ていただければ、何も付け加えることはない。

あえて言えば、「隠し玉」などと失礼なことを言ったことをお詫びするしかない。

少々長いので要点を紹介しておく。

最初の数段落はすべて転載する

前川氏は、文部科学省を辞めた後、「キッズドア」で、低所得の子どもたちのためにボランティアをしてくださっていた。

素性を明かさずにボランティア説明会に申し込み、その後、活動にも参加してくださっていた。

現場のスタッフから「この方は前文部科学省事務次官ではないか」という報告は受けていたが、特別扱いを好まない方なのだろう、と推測していた。

説明会や研修でも非常に熱心な態度で、ボランティア活動でも生徒たちに一生懸命に教えてくださったそうだ。

報道との関係で肝心なのは次のところだ。

今回の騒動で「ご迷惑をおかけするから、しばらく伺えなくなります」と連絡くださった。


基本的には、貧困児童教育に対するボランティア活動を隠すつもりでいたのだ。美談仕立てにされるのを嫌ったのだろう。

だから「女性の貧困を扱う報道番組を見て、話を聞いてみたくなった」というトンチンカンな答えをするしかなかったのだ。
渡辺さんは前川氏の気持ちを以下のように忖度している。(これが忖度の正しい使い方)

前川氏が、自分には何の得もなく逆に大きなリスクがあり、さらに自分の家族やお世話になった人たちに迷惑をかけると分かった上で、それでもこの記者会見をしたのは、

「正義はある」

ということを、子どもたちに見せたかったのではないだろうか?

週刊文春と産経の予想外の反応に続いて、週刊新潮も読売の官邸丸乗りを暴露する記事を掲載し反旗を翻した。

安倍官邸は警察当局などに前川前次官の醜聞情報を集めさせ、友好的なメディアを使って取材させ、彼に報復するとともに口封じに動いたという。事実、前川前次官を貶めようと、取材を進めるメディアがあった。

「あなたが来る2日前から、読売新聞の2人組がここに来ていた」と前川氏は語った。

安倍首相・官邸=ナベツネ=NHK(政治部)のトロイカは、反共メディアからさえも攻撃されるようになった。

6月13日 読売新聞、朝日新聞の取材に「一部報道等の誤った情報に基づいたご批判の声も寄せられていますが、支持する声は数多く届いています」と答える。
6月21日 週刊文春が、読売新聞の読者センターなどに寄せられた意見を集計した内部文書を暴露した。

これは5月30日付の「東京・読者センター週報」というものである。

週刊文春によれば、“出会い系バー”報道以降、加計学園問題で寄せられた意見は2000件に達した。その大半が批判的なものだった。解約に言及した読者の声は300件を超えた。

またこの記事では、“出会い系バー”報道が社内のチェック機関である「適正報道委員会」の審査を通していなかったことも明らかにされる。

まぁ、通せばボツになったでしょうね。そういうヨタ記事が大谷氏に言わせれば「社のトップ筋」から発せられて、ドカンと載ったのだから、いざとなれば社のトップの責任が問われることになるでしょう。

6月25日 前川氏が日本記者クラブで記者会見。

6月25日 リテラ が、前川氏の示唆したコメンテーターの実名を報道。

NHKの黒塗り報道は、安倍首相に忖度する報道局長と、安倍首相にもっとも近い記者と呼ばれる岩田明子が幅を利かせる政治部によって断行されたもの。

コメンテーターとは田崎史郎、「森友学園のとき」のコメンテーターとは田崎と並ぶ御用ジャーナリストである山口敬之をさす。(ただしどちらが性犯罪者であるかは不明)

その後の調べで、山口敬之氏が強姦容疑で告発されていることが判明した。しっかりした複数の証言があって、かなり容疑は濃いようだ。岩田明子氏についてはこちらを。
メディア論の論客である服部孝章さんは。「十分な裏付けなしに、前川氏に違法行為があったかのような印象を与えており、名誉毀損が成立する可能性があると指摘、民事(場合により刑事裁判)での戦いの方向を明確にした。

官邸の逃げ切りも許さないが、読売の逃げ切りも許せない。土下座でもしてもらわないと、こちらの気持ちは収まらない。

この際、前川氏の「出会い系バー」通いの問題について詳らかにしていきたい。たしかに本線は「加計学園問題」ではある。しかしそこから派生した読売記事問題(前川氏のいう「もう一つの問題」)は、「アベ政治」の権力構造の奥底につながる点でむしろこちらが本線ではないかとの印象を持っている。
しかも前川氏の逆襲により権力の強さだった側面(メディア支配と闇の情報収集)が弱点につながっていく可能性を秘めている。

1.読売報道の背景について

会見の重要な柱となったのが「出会い系バー」通いの問題だ。
要旨を箇条書きにすると

①「出会い系バー」通いを報じた読売新聞の記事についてこれはもちろん私としては不愉快な話だ。
② 背後に何があったのかということは、これはきっちりとメディアの関係者の中で検証されるべきだ。
③「個人的には官邸の関与があったと考えている」

とりわけ③の問題は、きわめて重大かつ深刻な内容をふくんでいるので、そう考えるに至った経過をかなり立ち至って説明している。

2.官邸関与の経過

① 事務次官在職中、「出会い系バー」通いについて杉田和博官房副長官(官邸筋)から「そういう場所には行くな」と注意を受けた。
② 5月20日、21日 2回にわたって読売新聞から取材を申し込まれた。これには応じなかった。「正直申し上げて、読売新聞がそんな記事を書くとは思いませんでした」
③ 5月21日 文科省の後輩にあたる幹部から「和泉さん(和泉洋人首相補佐官)が話をしたいと言ったら、応じるつもりがあるか」
と打診があった。これにも応じなかった。

3.NHKの奇怪な動き
「加計文書」をめぐって最初に取材に応じたのはNHKだったが、「その映像はなぜか、放送されないままになっている。いまだに報じられていない」

4.「民放コメンテーター」の不思議
民放に出演するコメンテーターのあり方も言がおよんだ。
「名前を出すことは控えるが、森友問題で官邸を擁護し続けた中には、ご本人の性犯罪が検察、警察にもみ消されたという疑惑を受けている方もいる。警察・検察によって(疑惑が)もみ消されたのではないか」
もちろん、それ以上のえげつない発言はせず、「こういったことを踏まえて考えると、私は今の日本の国の国家権力とメディアの関係については、非常に不安を覚える」と持っていく。

5.国家と民主主義のあり方
最後はこう締めくくられる。
これが私以外にも起きているのとするならば、大変なことだと思います。監視社会化、警察国家化ということが進行していく危険性があるのではないか。
権力が私物化されて、『第4の権力』と言われるメディアまで私物化されたら日本の民主主義は死んでしまうと、その入り口に我々が立っているのではという危機意識を持ちました。

さすが前事務次官、なかなかの「知能犯」である。おそらく西山事件の教訓も踏まえ、プロットA、B、C…とあらゆる筋書きを読み切っているのだろう。何か心理ドラマを見ているような気さえする。

いま書いとかないと忘れてしまうと思うので、とりとめないが書いておくことにする。
朝はNHKテレビで南スーダンの問題をやっていた。現地で長年NGOをやってきた何とかさん、NHKの解説委員、元国連職員という肩書が売り物の某大学教授がコメンテーターを務めていた。内容はかなり不満であった。元国連職員氏は日本外務省の出向みたいな人で、国際貢献と「普通の国」論で押してくる。NHK解説委員は「されど憲法があり…」といかにもの口調。これに対してNGO氏の歯切れが意外に悪い。
ディンガ族となんとか族の対立で情勢は厳しい、だから自衛隊は行くなという話で、後半部分はたしかに正しいのだが、前半の情勢評価部分はのっぺらぼうだ。
政府を形成している解放戦線が、何十年も独立闘争を続けてきた民族の代表で、選挙でも圧倒的な支持を受けているということについての申し立てはない。
政府と対立する党派が、長年スーダン側に立って反独立側で動いてきたことについても言及はない。スーダンが独立後も南スーダンへの干渉を続けていることも、その背後に石油の利権をあさる中国がいることも言及されない。
さらに援助とPKOの軍事圧力を背景に政治に容喙する国連の行き過ぎた干渉、OAUと周辺諸国の排除についても言及しない。
私は事の本質は国連の過剰介入と、PKOの権限逸脱にあると思う。「ルワンダの再現」を危惧する人に対しては、大虐殺の主要な危険は反政府側にあり、副次的には政府の治安機能の弱体化にあると主張したい。
治安維持と平和維持という国連本来の機能から考えれば、一番必要なのは政府機能、とりわけ治安維持機能の強化にあるのではないか。
南スーダンを第二のエチオピア、第二のメンギスツ政権にしてしまうのか否か、それが問われているのだろうと思う。
もう一つは先ほどまで行われた石川文洋さんの講演。講演そのものはやや散漫だったが、質疑応答で「シリア、南スーダンなどの現状をどう思うか」との質問に対し、質問の内容を「シリア、南スーダンなどの人々をどう支援すべきか」と修正した上で、こう答えていた。
日本の人々はシリア、南スーダンなどの人々をさまざまな形で支援すべきだ。そこには自衛隊派遣という選択肢はないだろう。人民同士の連帯には武器は必要ない。具体的にはNGOへの支援という形であるべきだ。私たちがそういう姿勢を示し、具体的に形で表せば、それはシリア、南スーダンなどの人々にも国際機関にも評価される」
たしかにそれが憲法前文にいう国際社会での「名誉ある地位」を示すことだ。

「森友」問題の中間まとめ

ド迫力の小池質問があって、その後も議会での追及が続いている。一連の疑惑をどう呼ぶかで、いろいろな提案があったが、とりあえずは「森友問題」と いうことで落ち着いたようだ。森友というので最初は「森永の友」かとも思ったが、安倍妻の実家が関係しているわけではなさそうだ。

本日の赤旗3面に中間まとめ的な記事が載ったので、まずはお勉強。

「森友」問題 籠池氏ら招致は不可欠  疑惑次々 解明待ったなし

問題は3つの柱からなっている。

1.政治家の関与が強く疑われる 

2.売却手続きに不適正がある

3.首相夫妻の道義的責任は免れられない

ということで順番に説明。

1.政治家の関与が強く疑われる

鴻池文書で籠池側が政治家の関与を強く、かつ具体的に求めていたことが明らかになった。また政治家との交渉において金銭(札束 or 商品券)が介在していることは当事者が認めている。(普通これを賄賂という)

籠池側のシナリオに沿って事態が動いたことから、政治家の関与が間接的ながら強く疑われる。

安倍首相は「政治家の関与は一切ない」と断言したが、いまやその根拠が問われる。

財務省の佐川理財局長は、「政治家についての問い合わせがあったかといわれれば、そういう可能性もある」と答弁している。これは調査の上事実確認することがもとめられる。

2.売却手続きに不適正がある

A) 国有財産の処分は売却が基本だが、本件では賃貸契約となった。理由は森友側が賃借契約を希望したためとされる。しかしそれは例外が許された理由ではない。

B) 契約が完了し、工事が始まった。そして地下にゴミが見つかった。この時点で契約内容が変更になった。変更内容は賃借を取り消し、売却契約とするものだった。このときゴミ撤去費用が値引きされ、販売価格は当初価格の14%まで引き下げられた。

この問題B)については未解明な部分が多くふくまれている。納得の行く説明はなされていない。この因縁絡みの再契約について文書が残されていないというのも不可解である。

3.首相夫妻の道義的責任は免れられない

経過については詳らかにされていないが、まず昭恵夫人が籠池氏と深く関わっていた。第一安倍政権時代だったとすれば、すでに「私人」とはいえない。安倍氏が一旦退陣していた時期であったとすれば「私人」と扱われるのが妥当であろう(国会議員の妻ではあるが)

籠池氏は安倍首相本人に対して「安倍晋三記念小学校」の建設を持ち掛けた。安倍氏はこれを「断った」と国会答弁しているが、寄付金の申込用紙には「安倍晋三記念小学校」と記載されていた。本当に断ったのか、釈然としないままである。

昭恵夫人は「篭池氏の教育に対する熱き思いに感銘」を受け名誉校長に就任している。安倍首相は「強引な要請で断れなかった」と説明するが、昭恵夫人 の行動は能動的に籠池氏の事業に関わっているとしか考えられない。安倍首相自身も昭恵夫人から相談を受け承認しているはずである。

公人中の公人である安倍首相には「強引な要請で断れなかった」との説明は許されない。

4.それ以外の問題

他の野党やメディアの取材を通じて、以下の問題も浮上している。

A) 森友学園が、国の補助金対象の校舎と体育館の建築費で、大阪府と国側に異なる報告をしていた。

B) 愛知県内の中等教育学校と推薦入学枠の提供で合意がないのにあるとした

C) 雇用予定の教員名簿に別の学校で働く教員の名前を無断で掲載していた

これらについても合わせて追及していく。

早くもネットの世界ではオスプレイの「不時着」に関して話題が花盛りだ。

NHKの最初のニュースは

米軍オスプレイが沖縄県名護市沖に不時着 12月13日 23時38分

というもの。

13日午後9時半ごろ、沖縄県名護市の東およそ1キロの海上で、アメリカ軍の輸送機オスプレイ1機が不時着した。…アメリカ軍のHH60ヘリコプター2機が5人全員を14日午前0時までに救助した

これは防衛省の発表をそのまま伝えたもの。いわば大本営発表だ。この時点では肝心の米軍側の発表がない。

防衛省はアメリカ軍に連絡をとって当時の詳しい状況などを確認しています。

と書いてある。つまり詳しい情報がない中で、防衛省が「不時着」と判断したようだ。

このニュースでは、沖縄県の謝花知事公室長の談話も報道されている。

14日午前0時前、NHKの取材に対して、「沖縄防衛局を通じて一報が入り…」となっている。

つまり、この時点では肝心のアメリカ軍、とくに当事者である沖縄の海兵隊からの発表が皆無だということだ。

これが最大の問題だ。

ではアメリカ軍はいつ、どのように情報を発信しているのか。


発表されたばかりの朝日新聞報道(2016年12月14日11時22分)によれば

13日午後9時50分ごろ、米軍の垂直離着陸機オスプレイが不時着水した、と米軍嘉手納(かでな)基地から第11管区海上保安本部(那覇市)に連絡があった。

その後の連絡については不明である。もちろんプレス・リリースはない。自衛隊にいつ連絡が入ったのかも明らかではない。まさか海上保安庁からの連絡ということはないだろうが。

14日に入ってようやく海兵隊が発表に動く。

琉球新報が海兵隊のリリースを報道している。

在沖米海兵隊報道部は14日午前1時ごろ、リリースを発表。キャンプ・シュワブ沿岸部の浅瀬に「着水」(元の英語は?)した。


在日米軍を統括する司令部からの発表はない。

14日未明、稲田朋美防衛相は「コントロールを失った状況ではなく、パイロットの意思で着水したと聞いている」と話した。

この報道はおそらく下記の行動の後に発せられたものである。

2016年 12月 14日 10:30 ロイター 稲田朋美防衛相は14日午前2時過ぎ、在日米軍のマルティネス司令官に電話で遺憾の意を伝達。その後、記者団に対し、「安全性が確認されるまで、飛行停止を要請した」と語った。

朝日の記者は何を聞いていたのだろう?

琉球新報のカメラマンは2時半ころに現場に到着し、写真を撮影している。

オスプレイ残骸2

名護市安部のリーフに墜落した米軍の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ=14日午前2時43分

その後、国防総省からの発表があった。AFPの報道で、2016年12月14日 04:14 発信地:ワシントンD.C./米国 となっている。

在日米海兵隊の垂直離着陸輸送機オスプレイ1機が「事故」を起こして浅瀬に着陸し、乗員5人が負傷した。…報道官は、事故についての詳細や、同機が墜落したのか否かについては明らかにしなかった。

読売新聞の「着水」は米軍側発表から来てるんですね。たしかに「不時着」に比べれば筋は通っている。「本人がそう言っているんだから、しょうがないでしょう」ということだ。

その立場から見ると、防衛省の「不時着」呼称も不正確だ。報道担当者が流石に「着水」と呼ぶのはためらったということかもしれない。

問題は、実情に合わせて呼称を変更することだ。実情を見れば、米軍(とくに現地の海兵隊)がどう呼んでいるかは関係なくなる。

琉球新報も当初は防衛省にあわせ「不時着」と表現している。

2016年12月13日 23:50 オスプレイ、沖縄近海に不時着

それが現場を見て、写真を取って「墜落」に変更したのである。


結論はこういうことだ。

オスプレイは間違いなく墜落したのだ。

ただ、当初は防衛省の発表に合わせて「不時着」と呼んだ。

午前1時の沖縄海兵隊のリリースは「着水」と呼んだ。(ひでぇ話だが)

琉球新報は当初「不時着」と報道したが、記者が現地に行って「墜落」であることを確認し、呼称を変更した。

そこには思想性とか政治的立場とかは関係ない。

しかし、琉球新報が「墜落」として写真付きで報道した後は、その限りではない。

いまだに「不時着」や「着水」の表現にこだわるのなら、それは意図的報道と言わざるをえない。

外国の報道もクラッシュで統一されている。一番むかつくのは、日本のメディアが英語版ではクラッシュ・ダウンと表記していることである。海兵隊自らもそう言っている。クラッシュ・ダウンというのはどう考えても墜落であり、不時着とか、ましてや着水などという意味はない。

Marine Osprey crashes near Okinawa, crew members rescued https://www.marinecorpstimes.com

Osprey crash in Okinawa bound to affect Japan's U.S. military policy ... mainichi.jp/english/

U.S. to ground Osprey after crash injures two in Okinawa:The Asahi ... www.asahi.com/

2ちゃんにこんな投稿があった

日本語だけじゃなく英語まで不自由だったか
壊れればなんでもクラッシュだよ

もしこの「英語の達人」が、入社試験で “Marine Osprey crashes” を「オスプレイが壊れた」と訳せば、ペケではなくても採用はされないと思う。グーグル翻訳を使っていたほうがはるかに良い。


オスプレイ どこが不時着だ。
朝のバタバタ時に時計代わりにテレビを見たら、オスプレイが不時着したそうだ。
全員無事でふたりが怪我で収容された、たらしい。
「ついにやったか」と思って画面を見ていると、「不時着」の現場の映像が流れた。
どこかの海岸近くの海の上だ。
機体は二つに割れて、海中に散乱している。
「墜落じゃん!」
よく全員無事(といってもけが人は出ているが)で助かったと思う。
アナウンサーのセリフが白々しい。
いかにも「ちょっとした手違い」風の言い方だ。
だいたい、ヘリコプターに「不時着」なんて概念が存在するのか。
飛行機ならエンジンが片方止まって片肺着陸とか、足が出なくて胴体着陸とかあるが、ヘリコプターは「アカンとなったら、てんでアカン」でしょう。
これが、NHK会長の言った「政府がシロというものをクロという訳にはいかない」というセリフの中身だろう。
政府がシロといえば、それが間違いでも白と言いはる、それが象徴的に現れた。
これは、NHKが「二度とやりません」と誓った大本営発表の受け売りとおなじだ。
「我が方の損害軽微」と、どこが違うのか。
ただそれがシロでもクロでもなく、「真っ赤なウソ」だと分かるほど鮮明な映像を同時に流したことは、NHKの抵抗と見ることができるのかもしれない。
これを見た国民には、不時着ではなく墜落だということ、それを米軍・政府が不時着だと強弁したこと、それをNHKに押し付けたことが疑問の余地なく明らかとなった。
「米軍・政府はうそをつく」ということが誰の目にも焼き付けられた。
そういう意味では良い報道だった。

自公連合ってこんなものだ。

2014.12.6 の産経ニュース

党首インタビュー 公明・山口代表

質問: 公明党の連立政権での役割は何か。公明党は「ゲタの雪」とも揶揄(やゆ)されるが

答え: 公明党の役割をゲタに例えれば、鼻緒の役目を負っていると思う。鼻緒が切れれば、ゲタは使い物にならない。単なるゲタの雪というのは極めて実態を見ない言い方だ。

漫才のセリフではない。ほかならぬ代表の発言で、しかも泣く子も黙る産経新聞のインタビューだ。

それにしても、たしかに本音ではあろうが、なんとも情けない答えだ。

ゲタなら、使えなくなったら捨てて、新しいのに履き替えれば良い、それだけの話だ。しょせんはゲタでしょう、ということになる。

『戦争するな、憲法守れ』の合言葉のもとに共闘している野党連合とは、だいぶ連合の水準が違う。

ゲタごときに『野合』と言われたくはないのだ(失礼、正確に言えばゲタの鼻緒ですね)。


なお、下駄の雪というのは都々逸の一節なのだそうだ。

「踏まれても 蹴られても ついていきます下駄の雪」

自民党と公明党は、理念で結び付いたわけではないのです。笑止なことに野党共闘は野合だと自民党と公明党が言っていますが、自民党と公明党以上の野合はありません。1994年の自民党の公明党批判を読み返してみれば、「自民党と公明党以上の野合はない」ことがよく分かります。    佐高信

自民・公明連合こそ「野合」の名にふさわしいと思う。あまり資料はないが、ネットから情報を拾って時系列で並べておきたいと思う。

それこそ吐き気を催すような噂話のオンパレードだが、はっきりした根拠のないものは省略する。肝心なのはそこではなく、これらのキャンペーンで創価学会がねじ伏せられ、「野合」させられ、自民党の(と言うより権力の)いうがままの存在となってしまったことだ。ここから「下駄の鼻緒」の歩みが始まる。

公明党歴史
http://www.nippon.com/ja/currents/d00145/?pnum=2 より

1992年(平成4年) 竹下派(経世会)の分裂。小沢派が自民党を出る。

1993年(平成5年) 総選挙で自民党が大敗し過半数割れ。これに代わり細川連立内閣が成立。公明党は小沢新党とともに細川連立政権へ参画する。

10月 自民党、予算委員会で創価学会幹部の証人喚問を求める。

11月 自民党内に「民主政治研究会」が作られ、集中的に創価学会攻撃計画を検討。

選挙の前後から自民党は反創価学会キャンペーンを開始する。

矢野元公明党委員長が文藝春秋に手記を発表。創価学会の脱税を指摘。これに合わせ、渡辺美智雄が、「自民党はかつて国会で法案を通すために創価学会の脱税もみ消しをした」と発言。

1994年(平成6年)

2月 自民党内の勉強会として「憲法20条を考える会」が設立される。細川連立内閣と創価学会の関係を政教一致であると批判。

会長には亀井静香(のちに白川勝彦に交代)、幹事長に島村宜伸、事務局には安倍晋三も加わる。

5月 自民党「憲法20条を考える会」のイニシアチブで「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会」(略称:四月会)が設立される。公明党に批判的な宗教団体や有識者が結集。

設立総会には、自民党の河野洋平総裁・社会党の村山富市委員長・新党さきがけの武村正義代表の3人が出席。
代表幹事に俵孝太郎。宗派としては霊友会、神社本庁、立正佼成会などが加わる。

細川政権のもとで小選挙区比例代表並立制が導入される。自民党もこれに賛成。

7月 細川政権が佐川急便問題で崩壊。これに代わり村山を首班とする自社さ連立政権がスタート。

12月 新進党が創設される。公明党は解散し「公明新党」と「公明」に分党。このうち公明新党が新進党に合流。

1995年(平成7年)

4月の地方選、7月の参議院選挙で自社さ勢力は後退。新進党は参院比例区で第1党となる。

危機感を抱いた自民党は池田大作の証人喚問、池田のレイプ疑惑を追及するなどのキャンペーン。

1996年(平成8年)

1月 自由新報での「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」の連載を開始する。

連載は内藤国男と俵孝太郎が交代で執筆。97年10月まで都合82回にわたる。
「権力の中枢に巣食う宗教家至上主義集団」、「宗教の〝衣〟で隠す悪徳商法」、「使命忘れ沈黙続ける〝大〟新聞」など過激な題の記事が相次いだ。

1月 自社さ政権、首相を社会党の村山から自民党の橋本に交代。

2月 『週刊新潮』が女性信者の手記を掲載。

4月 自由新報、「池田会長の女性信者レイプ疑惑」を4号連続で掲載。池田会長の証人喚問を要求。一般メディアでも相次いで創価学会批判が展開される。

信平裁判: 創価学会北海道婦人部の幹部女性が、3度にわたり池田大作に暴行されたと訴える。率直に言えば眉唾訴訟。

総選挙で自民党が勝利する。選挙に敗れた新進党は権力争いや自民党からの引き抜き工作で混乱。

「信教の自由を守る」会が作成した創価学会批判のビラが、5千万部を超えて配布された。作者は内藤国夫であった。

1997年(平成9年)

密会ビデオ問題が浮上。創価学会幹部が山口組系暴力団に「亀井静香を黙らせて欲しい」と依頼したとされるが、その『ビデオ』そのものは表には出ていない。

社会党も選挙で後退したことから、自民党は公明党との連立に向け工作を開始。

9月 自民党都連と公明が会談。狛江市、足立区などの共産党首長打倒で共闘していくことで一致。

10月 社会党の連立離脱の動きに合わせ、自民党は「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」の連載を休止。憲法20条を考える会、四月会が活動を停止。

1998年(平成10年)

4月 創価学会、自由新報の「池田レイプ疑惑」報道について、2年後に突如自民党に抗議。自民党はただちに謝罪。

7月 参議院選挙。消費税増税で大敗した自民党は、橋本内閣が総辞職。公明党は新進党と分かれ独自で臨む事を決定。この後新進党は小沢VS反小沢の抗争で勢いを失う。

8月 竹下元首相が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談。創価学会との連携に動く。

11月 分裂していた「公明」と「新党平和」などが合流し、「公明党」を再結成。このとき公明党は「自公連携、自公連立は考えていない」と表明。

11月 自自連立が成立。

11月 自民と公明が手打ち。公明は沖縄知事選で革新支持をうたいながら、密かに自民候補に票を集める。

1999年(平成11年)

6月 小渕首相、公明党との連立への意向を表明する。これを受けた公明党は、党大会において連立政権への加入を決定。

9月 自民党総裁選。公明との連立に反対する加藤、山崎が立候補するが、大差で敗れる。

10月 公明党、小渕内閣との自自連立に正式参加。自自公連立政権が成立する。

2000年(平成12年)

4月 自由党が連立を離脱(扇千景派は政権に留まる)、自公連立政権が成立。

「憲法20条を考える会」が活動を停止。会員の一部が「政教分離を貫く会」を結成。白川勝彦らが代表となる。

2001年

「4月会」が正式解散。


米スタンフォード大学ショレンスタイン・アジア太平洋研究センター副所長

という肩書のダニエル・スナイダーという人だ。

この人はクリスチャン・サイエンス・モニター紙の東京特派員の経験がある知日派だそうだ。

この人の評価は非常に骨太で、政治の底流までふくめ、しっかりとトレンドを見ている。

彼の発言は5つの柱からなっている。

1.日本国民が右傾化していないことの表現

安倍首相の言動に見られるように、日本国民は「劇的に右傾化」していると見られている。

しかし共産党の躍進と、次世代の党(極右)の壊滅を合わせてみると、そうではないことが明確だ。

反対派を脅し、沈黙させる雰囲気の中での躍進の意義は大きい。

2.日本国民は「断固反対」路線を受け入れた

共産党はすべての争点において与党の自民党に強く反対した。にもかかわらず、だからこそ、自民党への抗議を表そうとした多くの人が共産党に投票した。

したがって共産党の躍進は、数字以上の意味を持つ。

3.野党の弱さの反映

有権者は3年間続いた民主党政権にいまも否定的印象を持ち続けている。

そのために自民党以外の選択肢が失われている。戦後最低の投票率は有権者の思いを表している。

有権者は安定志向で自民党に入れるか、自民党への抗議として共産党などに投じるか、棄権するかのいずれかの選択しかない。

4.独自の争点の押し出し

共産党はアベノミクスだけでなく、平和と民主主義の課題を押し出した。他の野党はこれらの争点の打ち出しを回避した。

そしてそれが多くの有権者にとって重要と考えられていることが確認された。

5.共産党が民主党やその他の野党を左に動かす可能性

私は共産党が将来、与党連合の一員としての役割を担う可能性を否定しません。


ということで、スナイダーさんは政治路線に焦点を合わせて分析している。

これは選挙分析の王道だろう。しかし日本ではほとんどおこなわれていない議論だ。


ここまでが再掲部分。

その後の戦争法反対運動の高揚の中で「野党は共闘」の声に後押しされて、いま共闘の動きが急速に盛り上がっている。まさしくその核心部分をスナイダーさんは予言している。


原発は安全性の秤に乗せるには大きすぎる

1.安全性の議論はフェイル・セーフ機能の範囲内で行われるべきだ

原発の安全性はもう少し理屈の問題として詰めておく必要があるのではないか。

安全性という目盛りはたしかにある。論理的にも危険性の逆数として存在しうる。工学的にも多変量の連立方程式として算出しうる。社会的にも利便性と危険性認容の掛け算として想定しうる。

ただその扱える範囲には限界があるのではないか。歴史的にはその範囲は変化してきたし、拡大しつつある。それはフェイル・セーフの技術が発達してきたためである。

逆に言えばフェイル・セーフの機能が完全でなけれれば、あるいはフェイル・セーフ機能をはるかに越えるものには、そもそも安全性の概念は適用できないということになる。

2.社会的安全度という問題

一つの技術なりシステムというものの安全性は危険性の逆数だが、これが社会で汎用されるときには、利便性と秤にかけられる。

しかし実はこれだけではない。社会の多数の人が関われば関わるほど安全性は高度なものが要求されるようになる。

実験的な使用であればかなりのリスクは受忍されるが、多数の人がルーチンに使用するものなら、安全性ははるかに高度のものが要求される。

なぜなら事故が起きた時の影響ははるかに深刻だからである。

つまり利便性と危険性の秤は、その置かれた土台の広範性を念頭に置かなければならないのである。

3.量的・質的な安全性の限界

もう一つは、安全性が破たんした際の影響の深刻度がある。

これは薬の副作用を例にとるとわかりやすいのだが、薬局でもらう薬の説明書には副作用が書いてあるだろう。例えば吐き気などは極めてポピュラーな副作用だが、これはたいていは軽微であるために許容されている。

しかし数は少なくとも死に至るような副作用があれば、薬の使用に関しては厳しい注意が必要となる。

さらに常用量の問題があって、その範囲では安全性が確認されていても、10倍量飲まれたら安全性は保障できない。

つまり質的・量的な危険性は、安全性の秤を吹き飛ばしてしまうのである。

4.結論

原発は危険性と利便性の秤に乗せるには大きすぎる。

大きすぎるということは、物理的な危険性が現代技術の統制力の力を超えていることであり、その社会的影響力が社会システムの枠を大きくはみ出しているということである。

このことから考えれば、原発の安全性をうんぬんすること自体が論理矛盾であり、それは「安全性」の戯画に過ぎない。

肝心なことは、それを今まで認識できなかったことであり、今やっと認識できたということである。

原発に対する60年の認識の歴史は、結局、この認識に達するための歴史であった。

5.これからの原発

私個人としては、人間の力である程度統御が可能なレベルであれば、原子炉を用いた研究は続けるべきであると考える。

もちろん大型であろうと小型であろうと、原子炉の危険性は本質的には変わるものではない。

ただジェット機は墜落すれば数百人の命が失われる危険性を内包しつつ飛び続けているし、船は沈没すれば千人単位の命が危険にさらされる。

現代人は、今のところ、それを必要なリスクとして甘受している。

しかし原発はそのような安全性リスクの目盛りからははるかにスケールアウトしている。なぜ原発のようなビッグなシステムが、なぜろくな安全装置もなしに開発されたか、それはまさに原爆を製造するという目的のためであり、その副産物だからである。

戦争のための武器だから、どうせ人を殺すんだからということで、安全性にはさしたる考慮が払われないままに野放図に大規模化し、それがある日ぬっと娑婆の社会に乗り込んできたのだ。それが原発だ。

思えば不幸な生い立ちの子だ。

しかしこの子には、大きな将来性がある。一度サイズダウンしたうえで、正しく育てることは大事な仕事だろうと思う。


いろいろと、異論もおありでしょう。

私自身、意見変更の可能性もあります。とりあえずの感想としてお聞きください。

伊方原発が廃炉決定。まずは良しとしなければならない。

地図を見ただけでもその非人道性は明らかだ。事故が起きれば佐田岬半島の住民は皆殺しだ。

関連記事を見ていて、見逃せないポイントがあることに気付かされた。

それはヒトの問題だ。

建築後40年たつと、建てた時の人間はいなくなる。何かあったときに技術が継承されていないと、建築当事者には当たり前だったことが、まったく忘れ去られてしまう。

じつは、私の病院でも同じことがあった。同じ部屋にまったく違う電源があって、片方の電源がどこから来ているのかわからなかった。建設時の設計図や施行図を持って来いというが、これがなかなか見つからない。

結局最後は壁を壊しながら電線の先を探っていくことになった。最終的にはとんでもないところからきていることが分かり、しかも普通の差込口からの危うい電源であった。

「誰がこんなことをしたんだ」と怒鳴ったが、もちろんそんなことが分かるわけはない。強いて言えば「40年の年月がそうさせたのだ」と納得するほかない。

放射能による劣化が勿論最大の問題ではあるが。人間の脳みその劣化も頭に入れなければならない。安全性の技術を考える際にはヒューマン・ファクターを念頭に置かなければならない。

これは鉄則である。

どうもWeb レベルではGHQの司法改革に関して適当なレビューが見当たらない。

辛うじて分かったことは、司法改革に先立つ戦争協力者への処分は行われなかったようだということ、GHQの司法改革担当者にはそれにふさわしい権限が与えられていなかったこと、結果として改革の試みは挫折し、司法省が最高裁事務局を通じて生殺与奪の権限を握り続けたことである。

興味の中心は、あれだけ新憲法に一生懸命取り組んだGHQが、なぜ同じ気構えで司法改革を推進しなかったということに尽きる。ここがいまいち分からない。

細野長良ら大審院グループと司法省の長々しいやり取りは、実はどうでもいいことである。GHQの姿勢があやふやであれば、そのようなグループの発言力など無きに等しい。

を増補しての感想

年表を作ってみて分かったのは、昭和23年1月6日のロイヤル陸軍長官の「日本を反共の防波堤に」発言は、明確にマッカーサーの顔に泥を塗る行為として行われたということである。

年の初め、マッカーサーは年頭の辞「日本国民に与う」を発表している。まるで天皇きどりである。

しかしこの間に本国では対日政策の変更が準備されていた。昭和22年3月にトルーマン・ドクトリンが発表され、すでに基本線の変更は確認されていた。

それ以降、外堀は徐々にしかし確実に埋められてきた。とくに公務員の「忠誠テスト」はGHQ民政局のニューディーラーには脅威であったろう。

いつの間にかマッカーサーは裸の王様となっていた。そして国務長官にマーシャル元帥が押し立てられた。それは国務省がマッカーサーに全面対決のポーズをとったことを意味する。裏で動いたのはアチソン次官だったろう。

国務省は日本に「逆コース」を迫るにあたり、陸軍省を表に立てた。マッカーサーを封じ込めるためである。

それがロイヤル長官の談話であり、陸軍省の派遣したストライク調査団であり、仕上げに送られたドレーパー陸軍次官をトップとする調査団である。

マッカーサーは軍人だから上級の命令には逆らえない、というところを突いたわけだ。

怒ったマッカーサーは大統領選挙に立候補するといってみたり、いろいろ策動を巡らせるが、結局は冷戦システムの中に埋没していくことになる。

を増補しての感想

2013年11月03日

のうち、今回はに手を着けました。1946年(昭和21年)の記述です。


我々は戦後をリアル・タイムで過ごしているから、なんとなく知っている雰囲気になっている。

しかし勉強してみると、実は何にも知らないということがよくわかる。

とくに占領軍が何をしたのか、何をしようとしたのかについては何もわかっていない。戦後史年表のほとんどは日本政府が何をしたかで埋め尽くされている。本当の主語はGHQであるにも関わらず、記述上は日本政府のしたことになっている。まさに「皇国史観」である。

しかし実際に日本政府のやったことはGHQの方針に「日本政府」のハンコを押しただけであり、重要な政策決定はすべてGHQの中で行われていた。吉田首相をよいしょするドラマが何度も作られているが、あれは大嘘で、彼はただのマッカーサーの腰ぎんちゃくに過ぎない。外交官なんてものは“ヒラメ人”というか“手のひら人”というか、しょせんそういう人種である。

歴史を本当に、世界史的視野で知ろうと思えば、GHQの政策の決定過程、とりわけアメリカの本国政府との関係で見ていかなくてはならない。日本人には無敵に見えただろうが、GHQは米本国政府の出先機関に過ぎない。マッカーサーとGHQマフィアの光輝くキャリアは、昭和23年初頭のロイヤル陸軍長官の「日本は反共の橋頭保」発言をもって終わっている。

基本的には2年半足らずの短期間、彼らは思いっきり腕を振るった。それができたのについてはマッカーサーという人物の独特のキャラと押しの強さが結構ものを言っている感もある。それは一種の権力の空白であった。本国政府はソ連とどう付き合うのか、ヨーロッパをどうするのかで頭がいっぱいだった。一方ではルーズベルトの長期政権の下で形成されたニューディーラーをどう扱うのかも深刻な選択であった。

終戦の時点でマッカーサーは本国政府よりも右側にいた。しかし昭和23年初頭のロイヤル発言の時点で、本国政府はGHQよりも右に移動していた。

本国政府がニューディーラーをソ連内通者として排除し、マーシャル長官、アチソン次官ら国務省幹部が日本の直接支配を志向するに及んで、GHQの独自の役割は消失した。それは米政府の反共主義のたんなる執行人となった。重要な政策は彼らの頭越しに本国政府が直接取り仕切るようになった。マッカーサーはていの良いお飾りとなった

こういう流れとして、戦後の日本を把握しておく必要がある。

六面体としての憲法9条 脱神話化と再構築 - 京都96条の会

君島東彦さんが96条の会に寄稿した文章のようである。これの第6章が「世界の民衆から9条を見る」という題名になっていて、なかなかの力作である。本人は「迂遠」と度々コメントしているように、文章のテーマからすればかなり長い「蛇足」になっているが、本来別テーマとして語るべきボリュームと内容を伴っている。その要点を抜き出しておく。後段は私の勝手な感想で、君島さんとは関係ない。


1.憲法9条は世界の平和運動が生み出したもの

憲法9条のひとつの源泉は1928年のパリ不戦条約である。これは提案者の名をとって「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれる。

パリ不戦条約を成立させた原動力のひとつは、1920年代米国の平和運動であった。それは「戦争非合法化」運動と特徴づけられている。

2.平和の理念 消極的平和と積極的平和

平和学の認識によれば、平和とは暴力の克服である。

暴力には戦争という直接的暴力と、社会的不正義という構造的暴力がある。

直接的暴力を克服することは消極的平和であり、社会的不正義を克服することは積極的平和である。

平和とはその両方を克服することを意味する。

3.平和的生存権 憲法前文に即して

日本国憲法に即していえば、まず前文第2段落に注目しなければならない。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」

という規定(平和的生存権)は重要である。

(この規定は、日本国民を対象としたものではなく、「全世界の国民」が対象であることに注意すべきだ。「全世界の国民」に保障されるべき権利だからこそ、日本国民にもその権利が付与されるのである。「恐怖と欠乏」は戦争以外の経済的・社会的理由によってももたらされることがあるが、ここでは戦争に起因する「恐怖と欠乏」に限定されるべきであろう、と私は思う)

4.憲法前文と平和的生存権はルーズベルトの決意

この「平和的生存権」の規定は、ルーズヴェルト大統領に由来するものである。それは太平洋戦争の直前1941年に、ルーズベルト大統領の議会あて教書で「4つの自由」として初めて触れられた。そして同じ年の「大西洋憲章」で展開された。

ルーズベルト発言から推し量れるように、憲法前文の、「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」という表現の中には、差し迫った緊迫感がある。そこで語られる「平和」には、消極的平和と積極的平和の両方の意味が含まれていると解される。

5.憲法前文と積極的平和

ついで前文第2段落のもう一つの部分に話が移る。

憲法前文は、世界には「専制、隷従、圧迫、偏狭、恐怖、欠乏」という構造的暴力があること、我々はこの構造的暴力を克服しなければならないとしている。

そして、9条はこの精神を受けて、日本の武力行使を禁止し、日本の軍隊を脱正統化している。つまり憲法9条は直接的暴力を克服しようとする規定である。

6.憲法前文と「共通の安全保障」

さらに、前文第2段落は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べている。これは「安全保障共同体」の形成と、それによる「共通の安全保障」をめざすことを示唆したものである。

日本国憲法の平和主義はこのようにとらえられる。

(この指摘は示唆に富むものであるが、アメリカがそこまで確信を持って日本の安全保障を認めていたかどうかは定かではない。「安全保障共同体による共通の安全保障」が実現するまでの間は、日本が国を守る自衛権を保留するという意見もある)

7.憲法が定める二つの平和規範

憲法が定めている平和規範には2種類ある。第一の類型は国家権力に対する制限ないし禁止規範である。9条はその典型である。これに対し平和的生存権を含む前文第2段落は、日本の平和政策を方向づける積極的政策規範としての性格を持っている。

アジア太平洋戦争という侵略戦争をした日本にとっては、戦争をしないことは何にもまして重要である。しかし、もし自衛隊を海外に派遣しないのであれば、日本の市民と政府は平和のために何をするのか。専制と隷従、圧迫と偏狭、恐怖と欠乏という世界の「構造的暴力」を克服するために、日本の市民と政府は何をするのか。

それが問われる。これは憲法前文の積極的政策規範の具体化の問題である。


感想

日本国憲法の成立におけるルーズベルトの役割

まず憲法押し付け論との関連だが、君島さんは憲法の思想的源流として、アメリカやヨーロッパの平和的運動の潮流を引き出し、その文脈の上に日本国憲法を置こうとする。その意味では外来的思想であることは疑いない。「日本の青い空」を持って国産であるのを主張するのには無理がある。だからそれが外来思想の輸入であることを問題にするよりは、どういう思想を受け継ぐものであるかを明らかにする方が生産的だ。

「憲法前文と第9条は、日本国民が生み出したのでもなく、アメリカが自国の利害を押し付けたのでもなく、大戦間の世界の平和主義の伝統を引き継ぐものとしてみておく必要がある」ということになる。

その上で注目されるのは、ルーズベルトの位置づけだ。君島さんはある意味で日本国憲法が「ルーズベルト憲法」とも言えるのではないかと指摘する。

「4つの自由」というのは寡聞にして知らないが、どうも太平洋戦争=米国の参戦を前にして(欧州大戦はすでに始まっている)国民への決意の促しという側面を持っているのではないか。つまり当面する危機には断固として武力を持って立ち上がろう。その闘いの後、平和が実現するとしたら、それはどういう平和になるのだろうか、国民はそれにどう関わるのだろうか、という観点から読み解かなければならない。

憲法前文を貫く一種の「理想主義」には、差し迫る戦争への危機感、危機と立ち向かい平和を守る決意が秘められている、という見解には深くうなずけるものがある。私は映画「独裁者」におけるチャップリンの名演説を思い出す。あれこそが憲法前文を貫く精神なのかもしれない。

「ニューディーラーの持ち込み」という認識レベルにとどまっていた私にとっては目新しい提起であり、目下のところそれに応えるだけの知識を持ち合わせていない。

君島さんによる平和の定義

君島さんによる平和の定義は日本語的にはかなり厳しい。「平和」は日本語では形容名詞であり動詞ではない。社会的不正義の克服は、普通は民主、平等、公平、公正などの言葉で呼ばれる。ただ、もちろん、平和を周辺概念と関連付けてより広く捉えようという発想や、それをたんなる状況説明の用語ではなく、実践的に捉えようとする視点は重要だろう。

英語と日本語の枠組みの違いは良くある。しかも重要な概念に限ってそれが表出する。例えば英語で自由=フリーダムというのは、「権利」の概念を強く含んでいる。場合によっては権利と訳したほうが通りがいい場合すらある。逆に「自由勝手」のようなニュアンスはあまりない。またヘルスという言葉はたんに健康というのではなく、保健という実践的概念でもあるし、そこに医療も含まれてくる大変多義的な言葉である。一方で技術=テクノロジーという言葉は日本語よりかなり狭い。むしろ「工学」と訳した方がいいかもしれない。

英語のピースが日本語の「平和」とどう重なり合いどうずれているかは、現場で個別に吟味していくしかなさそうだ。

平和の努力には主権の尊重が不可欠だ

「戦争しない」だけで平和を守れるわけではないことは承知である。それに加えて積極的な平和努力が必要なことにも同意する。そして各種のNGOの努力が有効なことにも、国としての平和推進活動の重要性も同意する。

しかしそれだけで平和は守れるだろうか。もしルーズベルトの精神を云々するのであれば、「平和の敵」への断固たる姿勢がもとめられるし、民族主権の尊重が何よりも優先されなければならない。そして「平和の敵」と戦う人々への連帯が検討されなければならない。それは政府の言う「積極平和主義」や「集団的自衛権」と思想的に対決するために、何よりももとめられる視点であろう。

例えば、ウクライナ問題では断固としてウクライナの主権が尊重されなければならないし、その上に打ち立てられた平和こそが尊重されなければならない。イスラム国問題では、そのすべてではないにせよ、イラクへの理不尽な侵攻が発端であったことを常に忘れてはならないのである。

戦後教育制度の根幹となる文書が、「米国教育使節団の報告書」(1946年3月)である。

文部科学省のホームページにその要旨が掲載されているので、勘どころをサラッと紹介する。

経緯: ジョージ・D・ストダード博士を団長とする米国教育界代表27名が1ヶ月の滞在調査の後発表したものである。

本使節団は占領当初の禁止的指令を前提としつつ、「今回は積極的提案をなすことに主要な重点」を置いたものである。

①中央集権の排除

高度に中央集権化された教育制度は、官僚政治にともなう害悪を受ける。教師各自が職務を自由に発展させるためには、地方分権化が必要である。

文部省は各種の学校に対し技術的援助および専門的な助言を与える。一方で、地方の学校に対するその直接の支配力は大いに減少する。

内務省地方官吏の管理行政を排除し、地方の住民を広く教育行政に参画させる。このため一般投票により選出せる教育行政機関(教育委員会)を創設する。

教育委員会は学校の認可・教員の免許状の附与・教科書の選定に関し権限をにぎる。(現在はかかる権限は全部中央の文部省ににぎられている)

②天皇崇拝の排除

学校における勅語の朗読・御真影の奉拝等の式を挙げることは望ましくない。


③教育の目的と内容

広い知識と深い知識は、一冊の認定教科書や型通りの試験では得られない。個々の生徒の学習体験が考慮されるべきだ。

「修身」は服従心の助長に向けられて来た。今後は自由な国民生活のためになるようにすべきだ。平等を促す礼儀作法、民主政治の協調精神、これらはみな広義の修身(公民教育)である。

地理および歴史の教科書は、神話は神話として認めるが、いっそう客観的な見解となるよう書き直す。(以下略)


④学校制度

義務教育を引上げ修業年限を9年に延長する。最初の6年は小学校において、次の3年は創設されるべき「初級中等学校」において修学する。

さらに3年制の「上級中等学校」をも設置する。この学校は授業料は無徴収、男女共学制、進学希望者全部に学習の機会を提供する。


⑤教授法

つめこみ主義、画一主義は改められる。忠孝のような上長への服従に重点を置く教授法は改められる。

思考の独立を尊重し、個性の発展をうながす。民主的公民としての権利と責任とを助長する。


⑥教員養成と教育機関

師範学校は四年制とし、現在の高等師範学校とほとんど同等の水準に再組織されるべきである。高等教育機関はさらに進んだ研究をなしうるような施設を拡充すべきである。

高等教育機関は、その目的を追求するために、あらゆる自由を保有しなくてはならない。高等教育機関における学問的自由の確立は極めて重要である。

諸要件の維持に関しては政府機関に責任がある。その役目以外には、政府機関は統制権を与えられるべきではない。このため現在の文官制度は廃止するべきである。


⑦学生の自由(この文脈では「自由」を「権利」と読み替えたほうが分かりやすい)

学生にとって保証されるべき自由は、その才能に応じてあらゆる水準の高等な研究に進みうる自由である。

このためにはまず財政的援助が与えられなくてはならない。

とくに女子に対し、今ただちに高等教育への進学の自由が与えられるべきである。同時に女子の初等中等教育も改善されなければならない。


一読した印象としては、この報告は戦後の教育民主化の基本を成すものではない

この報告では、公民教育、軍国主義教育については、「すでに解決された」として殆ど触れられていない。

調査団が関心を持っているのは、教育の官僚統制と画一教育である。

調査団はこれに対して具体的対案を提示している。しかし天皇制と軍国主義はとても解決されたとはいえない状況にあった。それが解決されないと官僚統制も解決されないのである。

ただそれは日本の教育システムをよく知ったうえでの発言というよりは、制度いじりとアメリカ風教育スタイルの持ち込みという印象を持たざるをえない。

地方分権というが、日本においては地方こそが封建主義の牙城であり、彼らは戦災によっても被害を受けず力を温存していた。肝心なのは地方の自治ではなく中央集権的官僚機構の破壊だった。GHQがそれをしゃかりきでやっている最中だった。

それがこの報告の弱点であり、そこが旧体制派に利用されたという側面がある。旧体制派は仕掛けを変えることで、心を入れ替えたふりをすることができる。


私は戦後教育の第一世代の経験者として、これらの制度改編の大波を食らったわけだが、率直に言えば、このシステムいじりが無用な混乱と反感を招き、教育民主化の実を失わせていたのではないかと思っている。

しかしこの報告の本質はそこにあるわけではない。「学問の自由」と官僚統制の排除、分権の徹底という点での毅然とした主張こそが中核である。また「自由」を権利として明確化している点にも特徴がある。

したがって政府には「学問の自由」=学問の権利を守る責務がある、ということも明確にしている。

なおこの文章は報告の「要旨」であり、訳文にもいくつか気になるところがある。原文に直接あたっているわけではないので断言はできないが、どうも「薄めた表現」、「婉曲化表現」ではないかと思うところがある。

 

 

軍部の歴史についていろんな文献があるが、どれもこれも大同小異だ。
刀をもらったとか、銀時計だとか、「人情家だった」などの話にはうんざりである。
そのなかで川田稔の著作は出色ではあるが、悲しいかな類書に乏しいため比較検討ができない。
分かってきたことがいくつかある。
1.天皇制
天皇は荒木貞夫と皇道派によって議会と政府を押さえつけるための方便として利用された。それがうまくいったから、皇道派消滅後も軍部はそれを最大限に活用した。
2.昭和天皇はたんなる飾り物ではなかった
一種の戦後神話として、昭和天皇は軍部支配の犠牲者であり、本質的には平和主義者であったとされている。
しかし天皇は犠牲者でもなく平和主義者でもなく、最初は軍部の精神的代表として、のちには「大元帥」として戦争政策を推進した当事者であった。その故に政治的影響力を発揮しえたのである。
昭和天皇の思想的中核はほとんど狂信的とさえいえる反共産主義にある。かなり聡明であったかもしれないが、この反共原理主義が判断にゆがみをもたらしていると思う。
3.永田鉄山は勝負師である
永田鉄山の資質については様々な評価が下されているが、基本的には勝負師だろうと思う。斬った張ったの修羅場が大好きな人間である。戦略あって哲学なし、軍人としては最高かもしれないが、娑婆の世界では梟雄というべきであろう。
4.「強者の論理」に酔いしれて
「昭和陸軍の軌跡」を貫くのは強者の論理である。いったん始まればそれはどんどん研ぎ澄まされていく。国民は弱者であるにもかかわらず、強者の論理に酔いしれてしまった、
草野球で9番ライトさえおぼつかないのに、王・長嶋になった気分で野球評論する。打たれた投手をボロカスにののしる。怪傑黒頭巾がバッタバッタと斬り倒すのを見て胸がすっとしても、斬られた10人が生きられたはずの10の人生、墓標の前に立ち尽くす親や妻、子供には思いを致さないのである。
それが野球フアンのだいご味でもあるのだが、政治の世界では別の論理を打ち立てなくてはならない。野球評論と政治評論では視点をひっくり返さなくてはならない。自らを弱者の一員として位置づけなければならないのである。


永田鉄山と一夕会 年表

 

1921年(大正10年)

10月 ドイツのバーデン・バーデンで欧州派遣中の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三人(陸士16期)が非公式会談。軍の実権を握る長州閥の打破、国家総動員に向けての計画で合意。「バーデン=バーデンの密約」と呼ばれる。1期下の東条英機も参加。

永田鉄山

永田 鉄山 1884年(明治17年)生 1920年(大正9年)に駐スイス大使館付駐在武官となる。

Toshishiro_Obata

小畑 敏四郎 1885年(明治18年)生 1915年(大正4年)、ロシア駐在、第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。参謀本部員を経て、1920年(大正9年)、ロシア大使館付武官。しかし入国できず、ベルリンに滞在。

岡村寧次

岡村 寧次 1884年(明治17年)生 1914年(大正3年)から参謀本部で勤務し、同6年には北京駐在員として中国勤務。

1923年(大正12年) 陸軍を支配していた山県有朋が死亡。軍は引き続き長州閥の田中義一が把握。

1924年(大正13年)田中義一を継いで宇垣一成が陸相に就任。宇垣は岡山出身ながら長州閥の一員とみなされる。

1925年(大正14年) 大戦後不況と関東大震災を受け「宇垣軍縮」が断行される。4個師団約9万人を削減、これを補うため機動力と火力、航空機の強化に乗り出す。

これを機に軍縮・軍制改革の支持派と現状維持派との対立が発生。これが長州派と反長州派の対立と重なる。永田、東条らも当初は反宇垣派に加わる。

1926年(大正15年)

4月 永田鉄山、宇垣陸相の下で国家総動員関係の専門家として中央入り。その後内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に尽力、初代動員課長となる。

永田は第二次大戦が必至と考えた。そこでドイツの経験を踏まえ、資源、機械生産、労働力のすべてを自前で供給できる体制を整えようとした。

1927年(昭和2年)

4月 昭和金融恐慌の中で、田中義一前陸相が首相に就任。治安維持法の改悪、相次ぐ共産党弾圧など最悪の反動内閣とされる。

永田、岡村、小畑を中心に陸士16期~18期メンバーを結集。「二葉会」を結成。会合場所であるフランス料理店二葉亭に由来する。

「二葉会」の後輩にあたる陸士22期~24期が「木曜会」を組織。永田鉄山の腹心にあたる東条が両会の橋渡し役をつとめる。

一夕会
          
ウィキペディアより

1928年(昭和3年)

6月 関東軍参謀の河本大作らが瀋陽近郊で張作霖の乗った列車を爆破。張作霖は死亡する。田中義一首相は日露戦争時に現地で張作霖と親密な関係にあり、北伐で追い落とされつつあった張作霖の保護を考えていたとされる。河本は第9師団預かりとなるが、一夕会には歓迎された。東条は「あなたは英雄だ」と耳打ちしたという。

1929年(昭和4年)

5月 二葉会と木曜会の合同になる一夕会が第一回会合。満州事変の勃発までの2年あまり、毎月一回開かれた。「一夕を楽しむ」ことを趣旨とする。1.陸軍の人事の刷新、2.満州問題の武力解決、3.非長州系三将官(荒木・真崎・林)の擁立を申し合わせる。(反長州といっても実態は反宇垣で、後の党勢は、皇道派が混在)。

6月 関東軍の主任参謀に就任した石原莞爾、「関東軍満蒙領有計画」を立案。軍事力行使による全満州占領を主張する。

石原莞爾

石原 莞爾 明治22年生 昭和3年に関東軍作戦主任参謀となる。

7月 河本大作参謀への処罰を誤った田中首相が辞任。

11月 ウォール街で株価の大暴落。以後世界大恐慌へと波及する。

1930年(昭和5年)

11月 浜口首相が東京駅で狙撃される。

11月 幣原外相、南満鉄道に並行して走る中国側路線の建設を容認する方針を提示。結果的には、一夕会が満州侵攻の決断を下す引き金となる。

1931年(昭和6年)

3月 宇垣陸相を担ぐクーデター計画が発覚する。三月事件と呼ばれる。参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐が民間の右翼勢力と結託しクーデターを企画。最終的に宇垣の同意が得られず未遂に終わる。事件はもみ消され、橋本らは処罰を受けることなく終わる。

3月 参謀本部情報部が「昭和6年情勢判断」を作成。満蒙問題の「根本的解決」の必要を主張する。1.中国主権下での親日政権樹立、2.独立国家建設、3.日本の直接領有、の三つのオプションが示される。

4月 浜口首相が病気辞任。若槻礼次郎が首相に就任。陸相も宇垣から南次郎に交代。参謀総長の金谷範三は留任する。その後宇垣は政治活動を活発化させる。永田鉄山、南次郎陸相の下で陸軍省軍事課長となる。

南次郎1931
         
南 次郎(1931年)

5月 石原、「満蒙問題私見」を作成。「謀略により機会を作成し、軍部主導で国家を強引」することを主張。これにしたがい戦闘準備に入る。

6月 永田鉄山陸軍省軍事課長をトップとする五課長会議、「満蒙問題解決方針の大綱」を作成。「軍事行動のやむなきに至る」ことを想定して、その準備に入るよう主張する。

8.17 「中村大尉事件」が大々的に報道される。参謀本部の派遣したスパイ中村大尉が興安嶺で内偵中に現地兵に殺害された事件。政友会幹部や東京朝日新聞が「国権の発動」を求める。

8月 陸海軍の青年将校と民間右翼が日本青年館で決起大会。軍事主導の政権づくりを目指す。

9月18日 満州事変が勃発。奉天近郊で鉄道爆破事件が起こり、関東軍は中国軍による攻撃として兵を出動させ、翌日のうちに南満州の主要都市を占領。

事件は関東軍の石原、板垣らによる陰謀であった。この作戦を東京の永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、東条英機編制動員課長らが支援した。

9.20 参謀本部の建川作戦部長が現地入りし関東軍幹部と会談。満蒙領有論を退け独立政権樹立を了承させる。

9.24 内閣が事態の「不拡大」声明。日本軍攻撃の正当性を認めつつ、居留民の安全が確保され次第撤退すると明らかにする。金谷参謀総長、満鉄所有地の外側の占領地店より部隊を引き揚げるよう命令。

9.25 7課長会議、金谷参謀総長の命に反し満蒙新政権の樹立を含む「時局対策案」を起案。金谷命令は現地ではうやむやのまま実行されず。

10.08 南・金谷ラインが7課長方針を受け入れ、満蒙新政権を前提とする「時局処理法案」を決定。「幕僚統帥」の先駆けとなる。

10.26 若槻内閣が第二次声明を発表。侵攻部隊の無条件撤退を撤回し、既成事実を容認。

10月 3月事件に続き橋本中佐がクーデターを計画。今度は荒木貞夫中将を担ぐ。橋本は一時拘束されるが、軍法会議は開かれず、橋本は地方連隊に配置換えとなる。

11月 南陸相ら軍中央首脳部、臨時参謀総長委任命令(臨参委命)を発動し関東軍の北満(チチハル)進出を拒否。この後、軍中央は関東軍のハルビン出兵要請、錦州侵攻も認めず。

臨参委命: 参謀総長が出先の軍司令官を直接指揮命令できる権限を天皇から委任されたもの。これにより関東軍司令官は参謀総長の指揮下に入る。

11月 陸軍中央、関東軍の独立国家建設方針を認めず。これにより一夕会は身動きが取れなくなる(川田稔)

12月11日 安達内相の反乱により若槻内閣が総辞職。(川田によれば安達は中野正剛を通じて一夕会と接触した可能性があるとされる) 犬養内閣が成立。陸相には一夕会が支持する荒木貞夫が就任する。

荒木は日本軍を「皇軍」と呼び、政財界など「君側の奸」を排除して親政による国家改造を説いた。その追随者は皇道派と呼ばれる。
対外路線としては「反ソ」を基本とするが、主要な目標は国内改革にあった。

1932年(昭和7年)

1月 荒木陸相、皇族の閑院宮載仁親王を参謀総長にすえ、参謀次長に盟友の真崎甚三郎を充てるなど強引な人事をすすめる。

部課長人事: 一夕会の小畑敏四郎が参謀本部作戦部長に起用される。軍務局長には山岡重厚、永田鉄山が情報部長、山下奉文が軍事課長に就任。宇垣派はすべて陸軍中央要職から排除される。

犬養内閣、満蒙は「逐次一国家たるの実質を具有する様之を誘導す」との、「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定。関東軍のチチハル、ハルビンをふくむ全満州占領方針も承認される。

1933年(昭和8年)

6月 陸軍全幕僚会議。参謀本部の永田鉄山第2部長と小畑敏四郎第3部長が対立。対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。

会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対。
「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と主張。
これに対し荒木陸相は「支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁(ウィキペディア)

8月 小畑敏四郎、参謀本部を去り近衛歩兵第1旅団長に転出。

1934年(昭和9年)

1月23日 荒木陸相が病気辞任。正月の痛飲が原因で肺炎を起こしたとされる。後任に三将軍の一人、林銑十郎が就任。皇道派は大幅な後退を余儀なくされる。

8月 永田鉄山、国府津に腹心を集めカウンター・クーデター計画をを立案。

永田の指導する「経済国策研究会」と右翼団体「昭和神聖会」が、国家改造の上奏請願に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するというもの
ただしウィキは「反永田」で一貫しており、記事出所の信頼性が低い。

永田鉄山、陸軍省軍務局長に就任。

10月 永田鉄山、「国防の本義と其強化の提唱」(陸軍パンフレット)を作成。軍内に配布。軍内統制の強化とともに、陸軍の主張を政治、経済の分野に浸透させ、完全な国防国家を建設するよう提唱する。

11月 陸軍士官学校事件が発生。元老、重臣の襲撃を図った皇道派の村中孝次、磯部浅一らが逮捕される。皇道派はパンフレット「粛軍に関する意見書」を軍部内に配布。永田を統制派の中心として攻撃。

34年 永田鉄山、「朝鮮は今のままでは絶対に収まらない。なるべく早く日本人に悪感情を持たれない形で独立すべきだ」と発言。(出典不明)

1935年(昭和10年)

7月 陸軍人事異動。皇道派の担ぐ真崎教育総監が更迭される。皇道派はこれを永田鉄山の画策と受け止める。

8月19日 永田鉄山、執務中に相沢三郎中佐に斬殺される。「相沢が永田を殺したあと、下の階に降りたら山下奉文がいて、相沢に包帯を巻いていやった」(出典不明)

9月 陸軍内で首脳部交代。林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任。

1936年(昭和11年)

2月 相沢裁判、林前陸相、橋本前陸軍次官、真崎前教育総監を相次いで召喚。林陸相、永田軍務局長に統帥権干犯があったか否かが事件の焦点となる。

2.26 2.26事件が発生。

7.04 相沢裁判は2.26事件以降実質的審理のないまま死刑確定。相沢は銃殺刑に処せられる。

8月 粛軍人事により皇道派の一掃。小畑敏四郎も予備役に編入される。

1937年(昭和12年)

宇垣一成、組閣の大命を受ける。陸軍が拒否したため、流産。4個師団削減を恨まれたものとされる。

1938年(昭和13年) 

東条英機が陸軍次官に就任。2.26事件のときは関東憲兵隊司令官に過ぎなかったが粛軍人事で大躍進する。






 


恥ずかしながら全く不勉強で、昭和8年の陸軍全幕僚会議のことなど知らなかった。

なんとなく、2.26事件や相沢事件のことがあって、皇道派というのがファンキーな連中で、「統制派」というのが多少なりともまともだったのではないかと思っていた。

ところが陸軍全幕僚会議の論議を聞いていると、皇道派の方がはるかにまともで、永田鉄山の理論はとても理論とは言えないほどのハチャメチャぶりだ。どうしてこれが主流になったのかがわからない。もう少し勉強する必要があるが、とりあえずメモっておく。


1933年(昭和8年)6月、参謀本部で対ソ・対中路線をめぐる議論があった。参謀本部の永田鉄山第2部長と小畑敏四郎第3部長が対立の軸となった。

ソ連通の小畑敏四郎が対ソ準備を説いた。これに対し永田鉄山は「対支一撃論」を主張した。

ウィキペディアによると、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対した。
「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と主張した。
これに対し荒木陸相は「支那と戦争すれば英米は黙っていないし、必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。

とあるので、両派の対立というより、ひとり永田鉄山が「トンでも理論」で突っ走っていて、ほかの連中が持て余しているという印象だ。

それなのに、その後の経過を見ると、印象はまるっきり変わってくる。

ウィキペディアでは、この論争が皇道・統制両派確執の発端となったとある。

そして2か月後には、小畑敏四郎は参謀本部を去り近衛歩兵第1旅団長に転出している。その年の末に荒木陸相は更迭され、その後皇道派は追い詰められていく。追い詰められたその先が2.26事件ということになる。


どうも話が変だ。バスストップ事件への対応を見ても、荒木貞夫がまともな常識人打倒はとても思えないが、それでもこの会議での発言は永田鉄山に比べれば、少なくともまだまともだ。


戦前の大手生命保険会社の株主の一覧表。
財閥系生保の戦後の相互会社化 - 日本保険学会から転載しました。

生保の株主
コーポレート・ガヴァナンスもへったくれもない、完全な個人資産です。
このような巨大な寄生虫が慢性的な貧血をもたらし、経済の成長を阻害し、内需の枯渇をもたらし、海外進出を至上命題とし、やがて世界大戦へと導いていったのでしょう。

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)を増補しました。
いくつかの点がわかってきました。
1.内務省の設立は大久保利通のクーデターであった
彼は政府の中に内務省というもう一つの政府を作り、そこに権力を集中することによって維新政府の危機を乗り越えた。
2.西南戦争の終了と彼自身の死によって内務省の存在意義は消失した
にもかかわらずなぜ内務省は存続したのか。軍トップの山県がこのありがたい組織に注目し、その存続を図った。以降内務省は第二の政府として軍トップの意向を反映してきた。
3.内務省は軍の装置として軍の権力維持に役立ってきた
権力機構の維持のための装置であると同時に、政府から半ば独立した権力としての軍部を維持するための装置として役立ってきた。

朝日新聞に「池上彰の新聞ななめ読み」という連載がある。

これの1月29日の「首相動静 安倍氏は誰と食事した?」という記事が秀逸だ。

書き出しはこうだ。

新聞を読み比べていると、新聞が書かない事実が見えてくることがあります。たとえば、安倍首相の行動についてです。

これだけだとよく分からないが、つまり各紙の「首相動静」を読み比べてみたという話だ。具体的には1月21日の夕食をだれと食ったかという内容。


表にまとめるとこうなる

場所

参加者

日経新聞

読売新聞本社(夕食の記載なし)

渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長ら

毎日新聞

会食(場所なし)

渡辺、今井環NHKエンタープライズ社長、評論家の屋山太郎氏ら

読売新聞

読売新聞本社

渡辺、清原武彦産経新聞社相談役、芹川洋一日本経済新聞社論説委員長

朝日新聞

食事(場所なし)

渡辺、今井、清原、芹川、屋山のほか橋本五郎・読売新聞特別編集委員、ジャーナリスト・後藤謙次氏


記事の最後は

朝日新聞の記述によって、会食参加者の顔ぶれが判明しました。記事はこうでなくてはいけません。

と結ばれているが、もちろんそんなことが言いたかったわけではないだろう。

安倍首相との会食に二つの全国紙と唯一の公共放送の幹部、しかも編集幹部がしっぽを振って参加している。しかもそれを隠している。特に日経は論説委員長が出席しているのに、自社報道では伏せている。

池上さんはそこを指摘したかったのだろう。なかなか達者な人だ。カンナ屑みたいにペラペラ燃え上がる私ごときとはできが違う。

まさか論説委員長が同席しているのを社が知らなかったわけではないだろう。芸能人がラブホテルに入るのとはレベルが違う。これについては日経新聞としての見解表明があってしかるべきだろう。

メール・ニュースの飛ばし読み 2

1.厚化粧したワニ

高市早苗総務相の答弁。

放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、電波停止を命じると発言。

放送法4条は放送の自律を守るための倫理規範とされてきたが、高市退陣はこれを行政指導の根拠とした。

私はワニに対して畏怖の念を持っている。一番の理由は人間に対して恐怖心を抱かないことにある。普通ならこれだけ乱獲されれば、人間の姿を見れば隠れようとするものだが、彼らにはそのような気配はとんと見えない。

恐怖心を持たない敵というのは底知れず恐ろしい。弾丸もなしに着剣しただけの三八銃で吶喊攻撃をかける日本兵士にアメリカ兵が抱いた恐怖感と同じである。

高市さんにもそういう無防備ぶり、恐怖感の欠落がうかがえるのがとても怖い。

2.太陽電池が下火に

パナソニックが太陽電池をつくる二色浜工場(大阪府貝塚市)での生産を、今月中に休止する。

太陽光発電が買い取り価格引き下げでペイしなくなったためだ。

私は当然だと思う。少なくとも日本では、太陽光がエネルギー政策の中心に座るとは思えない。あまりにも不安定で小規模だ。

この手の自然エネルギーはオフラインでの貯蔵とペアーで考えなければならない。蓄電池の改善も種々考えられたが、商業化の見込みは今のところ薄い。

最終的には水素化以外にはないと思うが、そのためには相当量の電力発生が前提となる。その原価もただ同然に安いことが条件だ。

最近の原油安では、到底太刀打ちできるような電力資源は現れないのではないか。

むしろ石油や天然ガスからいかに炭酸ガスを出すことなく電力を汲み尽くせるかに努力を傾注すべきだろうと思う。

石油は本来電力となるべきエネルギーを内蔵している。そのエネルギーを酸化・燃焼という過程を通さずに引き出す努力が求められているのだろうと思う。

3.ついでにベストミックスについて

ベストかどうかはわからないが発電のエネルギー源については、組み合わせの発想は必要だと思う。そのさいのキーワードとなるのが①安定性、②可変性(柔軟性)、③コスト、④環境負荷である。

ただその際のカクテルベースに原発を持ってくるのは理屈に合わない。ベースに必要とされるのは安定性と可変性である。この条件を満たすのは火力以外にはない。

原発には安定性はあるが可変性が欠けている。水力は安定性・可変性ともにやや力不足である。ほかの自然エネルギーは両方とも低い。

だから能率だけ考えれば火力だけで十分だ。しかし環境問題を考えれば、できるだけ再生可能な自然エネルギーを利用したい。コスト的にもできるだけ抑えたい。

そのためにどうするかを考えるのが「ベストミックス」論である。そうなれば比較的環境負荷の少ない天然ガスをベースとし、あとはコスト面を考えつつ可能な限りクリーンエネルギーを取り込んでいくというのが戦略になる。

同時にあらゆるエネルギーについて、燃焼ではなく水素化が目指されなければならない。

これがエネルギーのベストミックス戦略の基本である。

どこから見ても原発や石炭火発はお呼びでない。

4.マイナス金利の損得勘定

マイナス金利というのはどう考えても不合理な状況だ。

たとえば私が銀行から金を借りる。私の信用次第だが、1千万借りることができたとしよう。それをそのまま自宅の金庫にしまっておく。

金利がマイナス1%とすれば1年後に返すときは990万返せばよいことになる。

これで私は10万儲けたことになる。それではその10万円はどこから出てきたのか。借金の貸し手からである。

これは主として民間銀行対日銀の取引であるから、日銀が損したことになる。では日銀の損は誰が埋めるのか、それは国民だ。

儲かるのは銀行に信用のある大金持ち、損をするのは国家に金を吸い取られる庶民ということになる。貧富の格差はますます広がるというのが結論だ。

これが基本だが、その経路にいろいろアヤが着いているからわかりにくい。そこをわかりやすく説明してくれる記事があった。

5.日興証券の記事

SMBC日興証券が、マイナス金利でだれが得してだれが損するかを試算した。

家計は預金金利が下がって利息収入が357億円減るが、住宅ローンの金利負担が1805億円減るため、差し引き2172億円のプラス。

銀行は、日銀に預ける預金が400億円の減収、貸し出しから得られる収入が3830億円減る。だが預金に支払う利息が減り、国債の売却益が8781億円に膨らむため、差し引き84億円のプラス。

これらを足した8081億円が日銀の損失となる。しかし日銀はこの損失を国家への納入金減額で埋め合わせするため、それは国民負担増となって跳ね返る。

何かわけのわからない金のまわり方だが、出口は単純かつすっきりしている。ローンを組んだ人の懐にローンなど関係ない庶民の懐から金が回り込むだけの話だ。

かくして、話は4.マイナス金利の損得勘定 へと戻っていくことになる。

東京大空襲 新たな事実

新たなニュースというと語弊がある。私が知らなかっただけだ。

本日の赤旗文化面 山部昌彦さんという方の寄稿「空襲被害 実証的研究をさらに」である。山部さんは東京大空襲・戦災資料センターの主任研究員を努めておられる方だ。

ここではとりあえず従来説の変更を箇条書きにしておく

1.空襲のやり方

まず目標地域の中心に大きな焼夷弾を落とす。これによって大火災が起きる。次の飛行機はそれを目印として目標地区全体に焼夷弾を落とす。これが短時間に大量に行われるために、住民は逃げ場を失う。

「目標地域の周囲にまず巨大な火の壁を作り、避難路を断った上で中心部を焼いた」という従来説は誤り。

2.空襲による死者数

日本国内で一般空襲(原爆以外の空襲)による民間人死者は約20万3千人である。これは空襲の行われた800以上の市町村の記録の集計による数字である。

死者50~60万人という従来説は過大であり誤りである。

3.初期消火の強制が大量死を招いた

1937年(昭和12年)に防空法が制定された。これにより国民は消火活動を法的に強制された。このため多くの人が逃げ遅れた。

官設消防は一般住宅には無関心で、軍需工場や皇居の防衛に特化していた。

東京下町大空襲の被害は極力隠された。市民はアメリカ軍が撒くビラから情報を得て判断した。

東京下町大空襲の後、初期消火体制は崩壊した。山の手大空襲の時は市民は初期消火をしないで逃げるようになった。

山辺さんは以下の結論を引き出している。

必ずしも正確ではない空襲像が今なお語り継がれています。

史料や体験記に対して、厳密な史料批判にもとづく実証的な研究が必要です。

空襲の実相を誇張せず、隠さずに明らかにすることによって、運動を進展させていきたいと思います。


「死者60万」などと言い続けていると、そのうちアメリカから「東京大空襲はなかった」と言われかねない。

このように事実解明が進んでいくと、「アメリカはひどい」と考えていた中身が、実はかなり「日本政府のひどさ」に起因していることが明らかになりそうだ。

この辺は沖縄戦の実相の究明とも似た経過だ。

たまったメールニュースを一気読み(と行きたいところ)

思い出すのは子供のころの大掃除。畳の下に敷いたDDTまみれの新聞紙につい読みふけってしまう。

1.マイナス金利、白川総裁時就任の4人反対

これは金融政策決定会合の話。

賛成派は、「金融政策の信認を保つ」ためにマイナス金利導入を主張した。一方、反対派は、マイナス金利が金融機関の収益に悪影響を与えるなどの副作用を強調。「危機時の対応策として温存すべきだ」などと導入のタイミングにも異論を示した。

「金融政策の信認を保つ」ためとは「よくもそこまで言ってくれたね」という感じだが、「異論」派にも大義はない。だから迫力もない。

それにしても安倍首相の強烈な人事断行には感服する。「常人」にはできない荒業だ。

2.石炭火力新設を容認…環境相、温室ガス削減条件に

経産省が石炭火発を推進、これに環境省が折れたという話だ。あほらしい。

3.トヨタ、国内工場を全面停止

不景気で車が売れなくなったので操短をかけたという話。下請けはえらい被害らしい。

「4半期主義」の限界ではないか。このままだとそのうち国内生産ゼロになる。

4.北朝鮮ミサイル 地球周回軌道に2物体…米が確認

ということは、北朝鮮は間違いなく「衛星を打ち上げた」ということだ。「長距離弾道ミサイルではなく人工衛星の打ち上げだ」という北朝鮮の言い分は正しかったことになる。

それが慰めになるわけではないが、こちらも「人工衛星を口実とする弾道ミサイルだ」という言い方はやめたらどうか。

議論は「核兵器」に絞るべきだろう。

5.シャープ 台湾企業への身売り決定

それはどうでもいいことだ。肝心なことは官民ファンドの産業革新機構が敗北したことだ。

経過を見ると、産業革新機構の本気度に?が5つくらいつく。何を考えているのかわからない。こんなものを官民一体で作るのは税金の無駄遣いだろう。

シャープというのは今の日本の電機会社の中でもっとも「日本的」な企業だ。それが台湾の企業への身売りを決めたのは、日本がいかに「日本的」でなくなっているのかを象徴している。

毎日新聞は次のように産業革新機構を批判している。

国が出資の大部分を占める投資ファンド主導の再建案は、機動性に欠ける上に国民負担がふくらむというリスクもあり、必ずしも今の時代にそぐわない。また、国主導の業界再編に組み込まれる形では事実上の解体につながり、シャープ一体として再建に取り組むことができない。

要するに、経産省はアメリカ商務省の日本支局であり、日本国をつぶす元凶だと言っているわけだ。その意見には大賛成だ。

6.米屋と質屋は三代続かぬ

毎日の「余禄」から。貧乏人にうらみを買う商売は長く続かないという意味だそうだ。

しかし三代先ではこちらの身が持たない。何とか一代限りとしたいものだ。

ビキニ被爆による健康被害の状況をまとめてみた。

最初は年表に書き込んでいたが、あまりにも量が膨大で、年表が読みにくくなってしまった。そこで別文章の形にする。

データのほとんどは山下正寿さんらにより収集されたものであり、詳細については原著を参照していただければ幸甚である。なおデータの多くは80年代半ばのものであり、その後の追跡が期待される。(原水協通信 「ビキニ事件」の内部被ばくと「福島原発被災」のこれから)

1.第五福竜丸

焼津港所属のマグロ漁船。

3月1日午前4時頃 ビキニ東方160キロにおいて操業中に爆発に遭遇。ここはアメリカが設定した危険水域の外であったが、爆発の威力が予想以上に強かったために影響を受ける形となった。

久保山さんの談話: それから3時間すると粉のような灰が船体一面に降りかかった。その晩から調子が悪くなりメシも喰えない状態で、無理に酒を呑んでもまったく酔えなかった。
 2日目あたりから幾分頭の痛い人も出てきた。3日目には灰のかかった皮膚が日焼けしたように黒ずみ、10日くらい経ってから水ぶくれの症状になった。

3月14日に帰港。乗組員全員が「急性放射症」と診断され、都内に搬送されて入院となる。増田三二郎さん(28)と山本忠司さん(28)が東京大学で診察を受けた結果、原子病と確認される。

9月23日に久保山愛吉さんが死亡。日本人医師団は死因を「放射能症」と発表。米政府は「放射線が直接の原因ではない」とし、謝罪せず(現在まで)。

直接死因は急性肝機能障害であった。同様の肝障害は他の乗組員17名にも発生した。その多くは注射や輸血などで医原性にウィルス感染したと考えられる。
乗組員23人の追跡調査では、半数以上が50歳前後で若年死、その多くはガンであった。(正確な数字は確認中)

2004年に放医研の明石らが第五福竜丸被爆者の追跡調査の結果を発表。

12名が死亡。肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名。肝疾患が多くを占めるのが特徴。生存者の多くも肝機能障害があり、肝炎ウィルス検査では、A, B, C型とも陽性率が異常に高かった。(多くが医原性であることを示唆)

2.第二幸成丸

高知県室戸港船籍のマグロ船で192トン。2月24日に神奈川県浦賀を出航。ビキニ東方1000キロの海域で17日間の操業。この間に3回の核実験があった。

3月27日に第2回目の核実験で被爆。“雪”(死の灰)を浴びる。

4月15日に操業を終え築地に入る。検査で、船体から4000カウント、船員からも数百~千数百カウントが計測された。これは当時の基準上限の2,3倍に当たる。魚はそのまま処分された。

乗組員20人(保険登録者のみ)を追跡すると生存者7人、病死12人(ガン4人、心臓発作4人など)、不明者1人であった。病死者は70代前半2人、後の9人は40~60代であった。

3.第13光栄丸

4月5日、操業を終え、神奈川県三崎港に入る。船員中に白血球減少症患者が3人発生。約50トンのマグロは洋上放棄される。

4.新生丸

19人の乗組員が保険登録されており、死亡者は14人、生存者2人、不明者3人。

宿毛市の漁村から同じ船に乗り継いだ7人をグループとして追跡した。このグループは1957年に第8達美丸に乗船し、クリスマス島の核実験にもう一度遭遇している。7人中、生存者は1人であり、病死6人(ガン4人、心臓発作2人)、50代が3人であった。生存者の1人も心臓近くの血管と胃の手術をしている。

5.第5海福丸

4月7日帰港時に汚染マグロ340本が海洋放棄された。乗組員の判明者18人中9人が病死(ガン5人)し、生存者もリンパ腺ガン、結核、胃潰瘍などで手術をしている。

6.沖縄のマグロ船(2隻、船名不明)

乗組員68人を追跡。うち、17人が40―50代で死亡していた。死因が分かったのは12人。11人がガンだった。(沖縄の高校教師による自主調査)

7.高知県の被爆船員の追跡

1987年時点での数字。

消息が判明した本県の漁船員187人のうち40人が病死。その約2割が40―60代の「若い死」だった。被ばく者がなりやすい癌、心臓まひ、白血病で亡くなった人は24人もいた。(高知新聞)

放医研の明石らの調査でもわかるように、第五福竜丸の船員の死亡には、輸血の影響がかなりあることがわかる。

このバックグラウンドを除くと被爆の影響はかなり抑えられることになる。早死・ガン死の傾向は、おそらくは大半が無治療・無観察であった他の漁船のほうが正確に表れているであろう。

その点では、最後に高知新聞の紹介で載せた数字(約40年後のフォロー)が大まかな傾向となろう。消耗率は40÷180×100=22%である。

87年時点での30歳男性の平均余命(50%死亡)が47歳であるから、この数字は必ずしも高いものではない。その2割が70歳未満の死というのも必ずしも驚くほどのものではない。もう少しハイリスク・グループに絞って検討すべきかもしれない。

新しいパソコンが到着して、ネット接続に手間取り、さらにメールのアクセスを再開するのに時間がかかって、久しぶりに受信トレイを開けたら、なんと350通の未読メール。
ほとんどが迷惑メールなのだが、それでも100通以上の読むべきメールが積みあがっている。
とくに朝日や毎日のニュースメールは膨大で気が重くなる。
とりあえずそれは後回しにして、個人メールで返事が必要なものを片付けていこうと思っている。

と言いつつ最初の毎日のニュースメールが引っかかってしまった。

【毎日新聞9日朝刊編集長のこだわり(前田浩智)】

 ルールに従わず、指摘すれば逆ギレし、自分は間違っていないと開き直る。こんな人が近所にいれば、引っ越しを考えるかもしれません。でも、国は引っ越せません。北朝鮮は隣人であり続けます。町内会(国連)で注意したら、また意固地になるでしょう。厄介です。
と書いてある。
ずいぶん思い切ったことを言うと思ったら北朝鮮批判だった。
実は最初は阿部首相のことを批判していると思って読んでいたのである。
さすがにそこまでは言えないよね。思っていてもーー

ビキニ核実験 被爆年表 増補版

昨年の今頃、ビキニ年表を作成したが、今回新しい情報もあり、増補しようと試みた。ところが増補すべき情報が意外に多く(ということは前回の年表がかなり不十分だったということ)、新たに増補版として、もう一度アップすることにする。

ビキニ被爆者の調査で分かったことは

1.高い死亡率(年間消耗率)

2.比較的若年での死亡率の高さ

3.ガン死亡の比率が高いこと

これは、私が以前調べた「暁(あかつき)部隊被爆者の健康調査」の結果とも一致している。

なお、ロンゲラップなどマーシャル諸島の島民被爆については、いずれ別の機会に掘り下げてみたい。

古い方の年表に行く人もいるかも知れないので、そちらにはリンクを貼っておく。



1946年

7.01 アメリカ軍が太平洋の島での核実験を開始。58年7月までにビキニ環礁やエニウェトク環礁で計67回の核実験を行う。

8.05 ルイ・レアール(フランスのデザイナー)、「周囲に破壊的威力を与える水着」を「ビキニ」と名づけ発表。(こちらのリンクのほうがはるかに興味深い)

1950年 朝鮮戦争が始まる。マッカーサー総司令官は本国政府に対し原爆の使用許可を求める。

1952年 アメリカ、マーシャル諸島の西端エニウェトク環礁において初の水爆実験。アイビー作戦と呼ばれる。

マーシャル諸島は太平洋中西部に位置し、29の環礁と五つの珊瑚島からなる。人口は約5万人のミニ国家。

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               核兵器と核実験③ より転載

1953年 ソ連、水爆実験に成功。

1954年

54年3月1日

午前3時42分 アメリカ軍、ビキニ環礁で水爆実験をおこなう(キャッスル作戦)。最初の水爆は「ブラボー」(15メガトン)。この日を皮切りに、5月まで計6回、計48メガトンの核実験が行われた。

アメリカ軍は水素爆弾の威力を4~8メガトンと見積もっていたが、実際の威力は15メガトンに達した。実験を行なった島は消え去り、深さ120m、直径1.8kmのクレーターが出来た。


250px-Castle_Bravo_Blast
             Castle Bravo

動画は下記で
Castle Bravo Nuclear Test 

午前4時頃 ビキニ東方160キロにおいて、焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」は、操業中に爆発に遭遇。アメリカが設定した危険水域の外であった。

久保山さん(無線長 当時40歳)の談話: 水平線上にかかった雲の向こう側から太陽が昇る時のような明るい現象が3分ぐらい続いた。約10分後、爆弾が破裂したような鈍い音も聞いた。

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75年、夢の島で廃船を待つ第五福竜丸。意外に大きく、長さ34メートル、140トン。船体だけで5メートル。マストの先端までだと15メートルある(高知新聞)。
 

午前7時 「第五福竜丸」の乗組員23名全員が放射性降下物に被曝。延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受ける。

3.01 室戸船籍の第七大丸もビキニ近くで操業中、真っ赤な閃光ときのこ雲に遭遇。「死の灰」も浴びた。

3.01 第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していた。放射性降下物を浴びた漁船は数百隻、被爆者は2万人を越えるとされる。

水産庁によれば被曝船は延べ855隻とされる。うち1/3が高知県の船籍だった(高知新聞)


3.01 漁船の乗組員の他に、ロンゲラップ島民86名、ウトリック島民157名が被爆。ロンゲリック島で実験を観測していたアメリカ兵28名も被曝した。

ビキニから180km離れたロンゲラップ島民は避難させられずに、激しい衝撃波と爆風、そして放射能を含んだサンゴの粉が島中に降り積もった。やがて激しい嘔吐、皮膚の炎症、脱毛などの急性放射能障害が島民を襲った。マーシャル諸島(ビキニ水爆実験)

54年3月

3.14 第五福竜丸が操業を終え、母港焼津に帰港。乗組員全員が「急性放射症」と診断され、都内に搬送されて入院。

3.16 『読売新聞』朝刊一面で第五福竜丸の被爆が報道される。

「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」、「23名が原爆病」、「太平洋ビキニ環礁付近で、焼津の第五福竜丸が原子爆弾らしいものに遭遇した」、「水爆か」などと伝えられた。(竹峰誠一郎「ビキニ水爆被災から50周年 核実験場とされたマーシャル諸島の今」より転載)

3月16日 船員で中重傷の増田三二郎さん(28)と山本忠司さん(28)が東京大学で診察を受けた結果、原子病と確認される。

3月17日 「原爆マグロ」の報道により、仲買相場が半値にまで下がる。(高知新聞によれば6月には魚価は5分の1以下まで下がったという)

3月27日 シリーズ2回目の核実験。ロメオが爆発。

3月27日 核実験海域よりはるか東方で操業中の室戸船籍の第二幸成丸、“雪”(死の灰)を浴びる。このフォールアウトは2回目の実験により発生したものとされる。

第2幸成丸は高知県室戸港所属のマグロ船で192トン。故崎山秀雄船長の漁業日誌により詳細な航路が明らかになっている。幸成丸は2月24日に神奈川県浦賀を出航。ビキニ東方1000キロの海域で17日間の操業。この間に、3回の核実験があった。

3.18 水産庁は塩釜、築地、三崎、焼津、清水の5港を「遠洋漁業陸揚げ港」に指定。水揚げされたマグロすべてに放射能検査を義務づける。

3.31 水産庁が検査結果を発表。アメリカ水産庁の予測した危険水域の外でも、第13光栄丸・明神丸など漁船の多くに、相当量の死の灰が降り注いだ事を明らかにする。

3.26 「第五福竜丸事件 善後措置に関する打ち合わせ会」が第1回目の会合。この「打ち合わせ会」は安藤国務大臣を筆頭とし、外務、大蔵、農林、厚生など各省次官で構成された。記録には極秘の印が押されるなど、最高機密レベルの会であった。

3月 各地で水揚げされた魚に放射能が発見される。検査は船体とマグロについて行われ、人体の検査記録は除外されていた。

3月の核実験直後は、放射能に汚染されたマグロの部位は内臓やエラであったが、8月以降になると肉や骨からも放射能が検知されるようになり、特に半減期が30年と長いストロンチウム90などに汚染。「ビキニ事件の内部被ばくと福島原発被災のこれから」(山下生寿)より

54年4月

4.05 三崎に入港した第13光栄丸が高度の放射能汚染。船員中に白血球減少症患者が3人発生。約50トンのマグロは洋上放棄される。

4.06 三回目で、シリーズ中最大規模の「クイン」(110メガトン)の爆発実験が、予定通り行われる。

4月15日 第二幸成丸、操業を終え築地に入る。検査で、船体から4000カウント、船員からも数百~千数百カウントが計測された。これは当時の基準上限の2,3倍に当たる。魚はそのまま処分された。

4.17 カウント100以上の放射能が確認されたマグロは不合格に認定されることになる。7万トンのマグロが放棄される。(一説では約486トン)

4.22 米国家安全保障会議の「作戦調整委員会」 (OCB)、「水爆への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」を起草。事件のもみ消しを図る。

1.日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする。
2.放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、病理解剖や死因の発表については日米共同で行う。
3.(そのような事態への)準備も含め、非常事態対策案を練る

4月26日 第4回目の核実験(ユニオン)が実行される。

4月 降雨中より放射能が検出されたとの報道

54年5月

5月5日 第5回目の核実験(ヤンキー)が実施される。

5.06 「打ち合わせ会」が第10回目の会合。第五福竜丸の他、第13光栄丸など17隻の被害船が実名であげられる。損害について米側に補償を求めることで合意。

5月09日 原水爆禁止署名運動の杉並協議会が発足し、署名運動が全国に拡大する。

5月14日 第6回目の核実験(ネクター)。一連の核実験は予定通り完了。

5月16日 全国でビキニ水爆実験の影響による放射能雨が計測される。

5月末 6回にわたる水爆実験が終了。

5月26日 調査船・俊鶻丸(しゅんこつ)が、水産庁顧問団から派遣された三宅泰雄ら科学者22人を乗せ、現場海域で第1次調査。ビキニ環礁150キロのところに最大汚染水域を発見。

海水の放射線量は7千カウントをこえ、水しぶきを浴びるだけでも危険という状態だった。プランクトンは1万カウント、魚はかつおの肝臓で4万8千 カウントと汚染されていた。汚染海水は、深さ100メートル、幅約10キロから100キロのベルト状になってゆっくり西方に流れていた。
ビキニ事件の内部被ばくと福島原発被災のこれから」(山下生寿)より

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俊鶻丸の研究者たち NHK静岡「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸」より

54年6月

6.08 「打ち合わせ会」の第13回会合。水産庁が「水揚げマグロの検査で41隻の漁船が魚の廃棄処分を受けた」ことを報告する。またリン鉱石運搬船の「神通川丸」で放射能症が疑われるケースが発生し、大阪船員病院に入院したことも明らかにされる。

8.06 「打ち合わせ会」の第16回会合。被害船の数が100隻を超えたことが明らかにされる。「先に内払いを行った33隻以降、116隻の漁獲物を廃棄した漁船の損害…」と記されているが、「内払い」の方法、金額については不明。

9月23日 久保山愛吉さん(無線長)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と言い遺して死亡。日本人医師団は死因を「放射能症」と発表。米政府は「放射線が直接の原因ではない」とし、謝罪せず(現在まで)。

直接死因は急性肝機能障害であった。同様の肝障害は他の乗組員17名にも発生した。その多くは注射や輸血などで医原性にウィルス感染したと考えられる。
乗組員23人の追跡調査では、半数以上が50死前後で若年死、その多くはガンであった。(正確な数字は確認中)

12月26日 鳩山内閣が成立。年内いっぱいでマグロの放射能検査を打ち切る。アメリカ原子力委員会の主張を受け入れたものとされる。

54年 この年映画「ゴジラ」が公開される。ゴジラは水爆実験が産んだ放射線を吐く怪物として設定される。

エード・メモアール: 水産庁や海上保安庁は放射能被害にあった船の被災状況を仔細に調査した。内容は船名、乗組員の数、 トン数、出港から帰港までの日付ごとの移動経路、人体・船体などの放射能測定値、漁獲物の放射能値など。これは外務省から「エード・メモアール」というレ ポートとして逐一アメリカ大使に渡されていた。

1955年

1月 「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」確約を与え、慰謝料として、200万ドル(当時約7億2000万円)が支払われた。第五福竜丸被災者への「好意による見舞金」の他、廃棄したマグロ、魚価下落分の補償などに充てらたという。

見舞金は第五福竜丸だけに支払われ、一人当たり200万円に達した。他の漁船からのやっかみがあり、乗組員は仕事を離れざるを得なくなった。

8月 広島で第1回原水禁世界大会が開かれる。原水爆実験反対署名は3200万筆に及ぶ。

55年末 原水爆実験反対署名、全世界で6億7千万人に達する。ノーベル賞受賞らが連名で、ラッセル・アインシュタイン宣言を発表。

人類と核兵器の危機的な関係を直視し、東西の立場を超えて人類の生存の問題として共に核兵器廃絶に踏み出すことを訴える。

1956年

 旧厚生省、延べ556隻の漁船の被ばく状況調査を元に、「(第五)福竜丸以外には、特に放射能症を認められる事実のないことが明らかとなった」と通知。

5月 俊こつ丸による第2次調査。海水汚染は北赤道海域の面まで拡散。魚体内には1954年の水爆実験時の放射能が残留していた。

1957年 ロンゲラップ島に安全宣言が出される。住民の多くが食物摂取により重大な内部被曝を浴びる。

1958年

7月8日 アメリカ、マーシャル諸島で核実験。ビキニ南東1440キロで1リットル当たり毎分400カウント(マグロの廃棄基準は100カウント以上)の放射線を観測。

7月14日 海上保安庁測量船「拓洋」がビキニ西方でスコールに遭遇。雨水中には1リットル当たり毎分10万カウントの放射線を含んでいた。帰国後の血液検査で、乗組員の白血球数低下が見られた。

7月 この頃、室戸船籍の第八達美丸が被爆。

岡本清美さん(乗組員・故人): 皆ではえ縄を揚げていたら突然、大明かりになった。空を見ると赤い火というか、太陽のような丸い玉があった。1、2時間後にスコールが降った。(日時・場所は特定できず。岡本さんは54年にも被爆している)

1960年

8月 高知県幡多郡宿毛の藤井節弥さん(当時27歳)が「原爆症」を苦にして自殺。藤井さんは長崎の被爆者で漁船の乗組員としてビキニでも被爆。

藤井さんが遺した詩: じつと目を閉じ/我が遠きふるさとの磯辺/父母の面影を思い起こさむ/ただいたづらにそれのみ/いたづらにそれのみ/さざなみの泡立つ海へ歩みゆく/さながら自殺する如くにぞ

1962年

アメリカ、イギリスはビキニなど太平洋中西部で92回もの核実験を行った。その威力は、広島に落とされた原爆の六千数百発分に相当する。

1963年 大気圏内核実験が停止される。地下核実験などはその後も続く。またフランスは条約を無視し、66年にムルロア環礁で大気圏内核実験を実施。

1968年 ビキニ環礁、放射能除去作業の結果帰島可能となったと判断。旧島民140人の帰島が許される。10年後に放射線障害が多発したため再離島。住民は食糧難のもと、アメリカ政府からの生活保障費で生活を続けている。

1971年 「被爆26周年原水禁世界大会」(原水禁系)に2人のミクロネシア代表が参加。マーシャル諸島の島民被爆が明らかになる。

1976年

東京都江東区の「夢の島」で廃船を待つ第五福竜丸が発見される。関係者の尽力により、第五福竜丸展示館に永久展示されることになる。

1977年

2月 第二幸成丸の乗組員だった寺尾良一さんが吐血した後急死。40歳前後と推定される。(食道)静脈瘤の破裂の診断。(* 食道静脈瘤破裂は肝硬変末期の合併症)

1985年

4月 幡多地域の教師たち(幡多高校教師の山下正寿さんら)が戦後40年の節目として、県内在住の広島、長崎被爆者の調査。この過程で。水爆実験の被爆者の存在に突き当たる。

発掘のきっかけは、藤井節弥さんの母からの聞き取りだった。母は幡多郡大方町に住んでいた。(高知新聞)

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藤井節弥さんの母の証言に耳を傾ける高校教師ら(1985年、宿毛市内)

7月 「幡多高校生ゼミナール」ビキニで被ばくした乗組員300人を聞き取り調査。

当時の室戸小型船主組合長だった崎山秀雄さんの証言が口火になり、次々に証言が集まった。(高知新聞)
崎山さんは第二幸成丸の船長としてビキニで核実験に遭遇した人。

9月 「幡多高校生ゼミナール」の報告を受けて、高知県ビキニ被災調査団が結成される。森清一郎さんを団長に、医師や大学研究者など約50人が参加する。

30年を経過して多くの人が死亡。第2幸成丸は20人中生存者7名、新生丸は19人の乗組員が保険登録されており、死亡者は14人、生存者2人、不明者3人。第5海福丸は18人中9人が病死(ガン5人)。

1985年 いったん島に戻ったロンゲラップ島民に放射能障害が多発。島民は200km離れたクワジェレン環礁のメジャット島に脱出する。

1986年 高知県ビキニ被災調査団が、自主的な健康診断を実施。

1986年 「マーシャル諸島共和国政府」が独立。米国との間に自由連合協定を締結。第三者組織による放射能の影響調査を開始する。95年に報告書が提出されるが、米国政府はこれを承認せず。

1987年

2月 調査団は高知市で「ビキニ水爆実験被災シンポジウム・高知」を開催。約1年半かけて追跡した船員の健康実態を報告。

消息が判明した本県の漁船員187人のうち40人が病死。その約2割が40―60代の「若い死」だった。被ばく者がなりやすい癌、心臓まひ、白血病で亡くなった人は24人もいた。(高知新聞)

高知の調査を知った沖縄の高校教師らが、独自の調査活動を開始。

沖縄の2隻のマグロ船の乗組員68人を追跡。うち、17人が40―50代で死亡していた。死因が分かったのは12人。11人がガンだった。

1998年 国際原子力機関(IAEA)、マーシャル諸島共和国政府の依頼を受け放射能調査。本環礁に定住しそこで得られる食料を摂ると年間15mSvに達すると推定され「早くとも2052年まで永住には適さない」と結論。

2004年 放医研の明石らが第五福竜丸被爆者の追跡調査の結果を発表。

同年までに12名が死亡。肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名。肝疾患が多くを占めるのが特徴。
生存者の多くも肝機能障害があり、肝炎ウィルス検査では、A, B, C型とも陽性率が異常に高かった。

2010年 ビキニ環礁が「負の世界遺産」に指定される。ミクロネシア連邦は憲法前文に「世界はひとつの島なのだ」を掲げる。

2013年

3月 外務省が資料の一部を開示。国内向けには「ない」としながら、米国に渡していたことが明らかになる。

2014年

9月 厚生労働省からビキニで被爆した他の船体や船員にかんする文書が見つかる。市民団体の情報公開請求に対し、厚生労働省が開示。

第五福竜丸以外に473隻が検査を受けた。毎分100カウント以上(最高988カウント)の放射線が乗組員から検出された船は10隻あった。

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厚労省開示文書

2015年

2月 水産庁、被爆漁船に関する文書を発見し提出。水産庁はこれまで日本漁船の被爆記録の存在を否定し続けてきた。

2016年

2月 1954年のビキニなどの核実験で被爆した元船員らが、「労災」として船員保険の適用を求め、全国健康保険協会高知支部に集団申請する。

すでに第五福竜丸の船員23名には船員保険が適用されている。

 

ビキニデーを前に、赤旗が意欲的な連載を組んでいる。

去年の今頃は、紙智子議員が「被害を受けた漁船の総数は実に1423隻に及んだ」ことを明らかにさせた。

その時に、私も年表を始めとしていくつかの記事を上げた。

感想ではいくつかのポイントを上げておいた。

1.ビキニの水爆による被爆は「被曝」と書くべきではない。まさにそれは被爆そのものであった。

2.少なくとも結果論としては、米軍は水素爆弾により久保山さんを殺したことになる。

3.第五福竜丸を偶発的な事故のように見せかけつつ、その後さらに5発の水爆を爆発させた。この行為は悪意(殺意)としか言いようがない。

今回はまず、去年の年表に増補し、改訂版として掲載しょうと思う。その後どうなるかは成り行き次第。

 

北海道における中国人の強制労働

まず、数字から明らかにしていかなければならないだろう。日中友好協会北海道連合会の資料から引用する。

1.中国人38,939名が日本に連行され各地の事業所で奴隷労働を強いられた。

2.強制連行は1943年4月から1945年5月にかけて行われ、強制労働は終戦まで行われた。強制連行が5月で終了したのは海上輸送が困難になったためである。

3.中国人の強制労働を行ったのは全国135の事業所であった。北海道では58事業所に16,282名の労働者が配置された。これは全体の42%にあたる。

4.その労働が如何に過酷であったかは死亡率を見れば一目瞭然である。全国では6,821名が死亡した。死亡率は17.5%に達する。このうち北海道では3,047名が死亡、死亡率は18.7%となる。

死亡率20%以上の事業所を上げておく。2015年3月15日 中国人殉難者全道慰霊祭で発表された数字のようである。慰霊祭には道知事はじめ各地の首長が賛同していることから、公式な数字と見て良いだろう。

事業場 連行人数 死亡者数 死亡率
1 北炭・空知天塩 300 136 45.3
7 伊藤・置戸 499 104 20.8
12 地崎・東川 338 88 26
13 三井・芦別 684 245 35.8
14 川口・芦別 600 278 46.3
15 鉄工・美唄 415 91 21.9
17 三井・美唄 597 163 27.3
20 川口・上砂川 299 86 28.8
25 鉄工・神威 391 115 29.4
26 川口・豊里 200 52 26
39 三菱・大夕張 292 84 28.8
40 地崎・大夕張 388 148 38.1
41 鉄工・室蘭 439 127 28.9
42 川口・室蘭 969 309 31.9
43 港運・室蘭第一 147 31 21.1
44 港運・室蘭第二 99 29 29.3
45 港運・室蘭第三 202 67 33.2
47 北炭・平和角田 294 76 25.9

総  計 20,430
実数
16,282
3,047 18.7

かなり死亡率にばらつきはあるので、会社のトップだけの責任ではなく、現場の指揮者も積極的に関わったうえでの数字だと思う。「鬼畜米英」と叫んでいた連中こそが、まさに「鬼畜」であった。
この表につけられたコメントを転載しておく。

太平洋戦争開始後約1年たった1942年11月27日、時の東条内閣は日本国内の重労働に従事する労働力の不足を補うために、中国人を強制連行することを きめました。この方針によって、中国の河北、河南、山東、山西など十数省から一般住民および軍事俘虜が日本に連行され、苛酷な強制労働に従事させられまし た。
 その数は、少なくとも、41,762名と考えられ、このうち乗船した数は38,939名です。
 北海道には、16,282名が、58の事業場に連行され、その配置総数は20,430名です。その内死亡者は3,047名で死亡率は18.7%にも達し ています。これは当時の日本人の死亡率1.631%にくらべると、恐るべき数字であることが分かります。しかもこれは、わずか1年ほどの間のことですか ら、もし戦争が長引いていたら、連行された中国人はおそらく全滅したと思われます。

これは「労働」の名に値しない。「皆殺しの苦役」だ。

巷間、慰安婦問題のみがかまびすしいが、率直に言えば、そちらのほうを大声を上げることによって、これら強制連行と強制労働、事実上の大量虐殺についての事実を覆い隠そうとしているのではないかとさえ思ってしまう。

それは契約に基づく「自由労働」ではなかった。「労働者」は使い捨てのおしめであった。日本の会社側に「労働者」のことを思いやる心は皆無だったことを覚えておこう。


1942年

1月 連合国共同宣言調印。これに基づき米国政府内に「戦後対外政策に関する諮問委員会」が発足。

11月 国務省特別調査部極東班で日本戦後処理案の研究開始。

44年

1月 国務省内に戦後計画委員会(PWC)設置。

11月 国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が第1回会合。

45年

2月 三省調整委員会極東小委員会(SFE)第1回会合。

6月5日 トルーマン、極東諮問委員会(FEAC)付託条項を承認。

6月11日 三省調整委員会の作業グループが「初期対日方針に関する原案」を作成。

8月18日 トルーマン、「日本の敗北後における本土占領軍の国家的構成」を承認。日本の分割占領を回避する。

8月23日 米政府、英の対日管理理事会設置要求を拒否。単独占領の意向を明らかにする。

8月29日 陸軍省、「初期対日方針」をマッカーサーに通達。

8月31日 国務・陸・海軍長官、修正「初期対日方針」を承認。

9月6日 トルーマン、「初期対日方針」を承認。最高司令官の権限に関してマッカーサーに通達。(マッカーサーの“越権”への警告か?)

9月9日 マッカーサー、日本管理方針に関する声明。間接統治をとること、自由主義を助長することなど。

9月13日 マッカーサー、近衛元首相の訪問を受ける。

9月15日 マッカーサー、東久邇宮の訪問を受ける。これらの訪問を通じてマッカーサーが次第に政権中枢を直接掌握するようになる。

9月16日 マッカーサー詣でに反対する重光外相は罷免される。後任の吉田外相がマッカーサーにとりいって行く。

9月22日 国務省、「初期対日方針」を発表。マッカーサーへの牽制か。

9月29日 天皇のマッカーサー訪問時の写真が各紙に掲載される。

9月29日 GHQ、戦時諸法令の廃止を指令。

10.02 GHQ内に総司令部(SCAP)設置。民政局など幕僚部9局が新たに設けられる。

10.04 政治顧問アチソン、国務省に対し、憲法改正問題に関する指示を要請する。

10.08 アチソン、近衛と接触し憲法改正の柱を示唆する。

10.17 アチソン、国務省より、憲法改正の基本的事項のアウトラインにつき訓令を受領。

10.21 近衛、外国マスコミに対し、GHQへの憲法草案提出および天皇の退位問題に言及。GHQの不興を買う。

国会図書館の「日本国憲法の誕生」詳細年表より


前の記事が未完になってしまったのは、布告第1号をめぐる事実経過が曖昧なためである。

とくに布告第1号が発表されたのか、未発表・未執行のまま終わってしまったのかという問題。マッカーサー、重光葵の関係をめぐる事実が曖昧なので、少し調べることにした。


ネットで当たると、まずウィキペディアの「三布告」の項目が上がってくる。

内容を少し紹介しておく。

最初の定義のところから、記述があいまいだが、

1945年(昭和20年)9月2日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から出された日本占領政策の最初の布告である。日本国民に直接布告される予定であったもので、GHQによって、占領下の日本に軍政を直接敷くことを目的とした…

までは良いのだが、そのあとが良く分からない。混乱したことだけは間違いなさそう。

分からないままに本文に進む。ここも事実がとりとめなく記載されており、時系列で整理しながら進むことにする。


1944年12月 それまで関係官庁で検討されていた日本占領方針が、国務・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)で統合されることになる。

5.07 太平洋戦線の陸軍部隊の総司令官ダグラス・マッカーサーが、将来の日本における占領統治の最高責任者に決定する。

8.07 「ブラックリスト作戦」案が最終決定される。「日本の突然の崩壊や降伏に備え」たものとされる。(誰によって?どのレベルで?)

しかし終戦間際の時点で、アメリカ政府自体が占領方針に関しては確定していなかった。

終戦からマッカーサー到着までの交渉。

日本政府の渉外委員会(有末精三委員長)が米国との交渉にあたった。大蔵省は委員会を通じて日本円の引き続く使用を要請した。

というところまでが、混乱の背景の説明。以後は9月2日以降の経過。

9月2日、降伏文書調印式。

午後4時過ぎ リチャード・マーシャル副参謀長(占領政策担当)、終戦連絡事務局横浜事務局に対し、1.連合国軍がいずれは東京に進駐すること、2.翌日午前10時に「三布告」を発表すること、を通告。(この時点でGHQは横浜にあった)

深夜 横浜事務局からの報告を受けた内閣は、岡崎勝男外務官を急派。マーシャルとの交渉に入る。交渉の結果、とりあえず3日の「三布告」発表は延期となる。(マーシャルではなく、その上級にあたるサザランド参謀長という文献もある)

9月3日

午前10時半 重光外相がGHQに入りマッカーサーとの会談を開始する。会談の内容説明は省略。結論としては、日本政府の意向を受け布告発令は中止され、軍政の施行も中止された。


つまり、「三布告」は反故にされたということであり、それはマッカーサーの判断(独断的)であったということだ。

「布告の真意」のくだりは、「解釈」が目立つため省略。

「三布告」がどのレベルで作成されたもので、マッカーサーが反故にして良い性格のものであったのか、この辺が分からない。もう少し遡って検討しなければならないだろう。

そもそも、「三布告」のセットが存在したのかどうかもはっきりしない。他の文献では布告第1号とされ、その内容は軍政施行のみとされている。

以上の記述はおおうね下記2著に依拠しているもののようである。

河原匡喜 『マッカーサーが来た日 8月15日からの20日間』 光人社NF文庫、2005年

増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』 中公新書、2009年


年表を作成してみての感想については、以前にも書きましたが、今回の補遺作業を通じて感じたのは、

1.終戦直後の改革が旧大日本帝国政府の官僚との激しい闘争過程であり、それを遂行したのはアメリカの本国政府だということ。まさに右翼勢力がいうとおり、改革は押し付けられたのです。

2.そこには人民も民衆もほとんど登場しません。当初はほとんど茫然自失状態であったのではないでしょうか。しかし翌年あたりから民衆の声が上がるようになりました。それらは改革を熱狂的に支持するものでした。

3.マッカーサーは本国政府の意向を薄めていた。

この問題については少し詳しく触れておきたいと思います。


A)軍政を中止したのはマッカーサー

マッカーサーは当初から宥和的な態度を強く押し出しています。全土を軍政下に置くという初期方針を旧政府機構の存続に切り替えたのはマッカーサーの判断です。

9月2日に東京湾のミズーリ号艦上で降伏協定の調印式が行われました。これにあわせ占領軍は歴史的な指令第1号を発します。この指令の核心は日本全土(沖縄・樺太を除く)を軍政下に置くということです。しかしこのことは翌日あっさりと覆されました。重光外相の要請を受けたマッカーサーが判断したといわれます。重光葵というのは記録映画でシルクハットをかぶった足の不自由な人です。


現 場で対応するために場面によっては柔軟な対応が迫られるというのはよくあることです。しかし相手はただの官僚ではありません。侵略戦争を遂行し中国人など 数百万の人を死に追いやり、国民を徹底的に弾圧し、言論を封殺し、挙句の果てに兵士、民間人を犠牲にした戦争責任者であり、要するに人民の敵だったわけで す。マッカーサーがそこをしっかり抑えていたか、たぶんに疑問が残ります。

この時点で、本国政府から直接の異議はありませんでした。マッカーサーの基本的任務は日本軍の武装解除と全土の制圧にあったわけなので、それが最も犠牲少なく迅速にできる方法を選択するのは現場の裁量です。

しかし、そのときマッカーサーの真意について本国政府が懸念を抱いたとしても不思議ではありません。

マッ カーサーをできるだけ善意に解釈してみましょう。彼は絶対的な悪の主役は軍部だと考えました。政・財・官の勢力は決して無垢の人々ではないが、改心させる ことはできると考えました。だから彼らを軍部と引き離し自立させることによって、民主化は到達可能と考えたのではないでしょうか。

この基本戦略はドイツやイタリアには通用するものだったかもしれません。しかし日本はヨーロッパの国とは成り立ちが異なっていました。この国は日清・日露戦争以来ずっと侵略戦争を戦い続けてきた国なのです。いわば戦争で飯を食ってきた骨がらみの戦争国家でした。

だ から、もうひとつ根っこまで迫って改革しない限り、同じような国家がまた育ってきます。本国政府の特に知日派は、そこをはっきりとつかんでいたのだろうと 思います。その根っこというのは封建的地主制度、独占資本主義制度です。これらが国家制度と癒着し、その接着剤として天皇が君臨するという絶対主義政治体 制です。

B)天皇、近衛元首相との会見もマッカーサーの判断

マッカーサーは旧支配層との接触を次々に拡大していきます。9月末には天皇との会見、さらに10月4日には近衛元首相を呼び、憲法改正の作業を要請するに至ります。さすがに本国ではマッカーサーの基本方針からの逸脱を批判する声が強まりました。

こ れらの批判をかわすためにマッカーサーは天皇との会見における例の写真を大々的に広めたのではないでしょうか。この写真の絵柄は大変矛盾したものを含んで います。まず第一印象としてはマッカーサーの大変失礼な態度です。どこの国でも一国の元首と会うのにこのようなぶしつけな態度を取ることはありえません。 しかもわざわざこの一枚を選んで発表したのは、マッカーサーの本国向けのジェスチャーと見るべきではないでしょうか。

大事なことはこの写真ではなく、マッカーサーが日本の元首として天皇を遇したということです。「マッカーサーの逸脱きわまれり」と米政府が判断してもおかしくはないと思います。

C)暗黒政治の継続がアメリカ国内に露見した

そこへ持ってきて、一人の政治犯の獄死事件が発生しました。リベラルな傾向を持つ哲学者三木清です。三木清がなくなったのは9月末でしたが、当初はそれほど騒がれたわけではありません。

しかしこの報せを受けたGHQでは、日本政府への強い不信が起こりました。

特に山崎巌内相の発言は唖然とするものでした。

思想取り締まりの秘密警察は現在なほ活動を続けていおり、反皇室的宣伝をおこなふ共産主義 者は容赦なく逮捕する。また政府転覆を企むものの逮捕も続ける。共産党員である者は拘禁を続ける。政府形体の変革とくに天皇制廃止を主張するものはすべて 共産主義者であると考へ、治安維持法によって逮捕される。

これが国内向け発言ならともかく、なんとアメリカ軍機関紙「星条旗」紙に掲載されたのです。GHQはこの発言を聞いて頭に血が上りました。「日本政府は占領軍をなめているのではないか」ということでしょう。

GHQ には多くの米国務省系のスタッフが参加していました。そのボス格だったのがジョージ・アチソンです。(このアチソンは後に国務長官となったディーン・アチ ソンとは別人で、戦前からの中国通外交官)。アチソンは9月7日にGHQ政治顧問として赴任しました。バーンズ国務長官はマッカーサー監視の役割を期待し たとされています。(未完)



9.02 指令第1号。日本軍部隊の敵対行為の即時停止。無条件降伏の実施並びに完全な武装解除、軍事工業解体、日本全土への軍政施行を柱とする。

9.03 米国日本全土での軍政施行計画を中止。重光外相の要請を受けたマッカーサーが判断したとされる。

9.03 GHQ、指令第2号発令。在外日本軍の迅速な秩序ある復員を行うよう要求。

9.08 連合軍が東京への駐留を開始。

9.10 マッカーサー、間接統治に基づき日本を管理すると発表。自由主義の助長を促す。

9.10 GHQ、大本営の廃止に関するメモ。

9.11 GHQ、東条英機ら39名の戦犯容疑者の逮捕を指令。東条は自殺を図るが失敗。

9.16 GHQ、新聞及び通信社に対する統制を廃止する。

9.20 連合軍倍賞委員会のポーレー米代表、日本が現物での賠償を行うよう主張。

9.20 GHQ、朝鮮向け石炭輸出を指令。戦後最初の対外輸出となる。

9.21 米政府、マッカーサーに対し財閥の解体方針を指令。

9.21 GHQ、プレスコードを指令。

9.22 GHQ、初期対日方針を発表。

9.22 GHQ、指令第3号を発令。①日本政府に必需品の公正な分配を確保するため厳重な割当制度を実施するよう指示。②一切の必需品生産、その生産に必要な商品を最大限生産する。③武器・弾薬・航空機などの生産禁止。④GHQの認めたものを除く輸出入を禁止。

9.22 GHQ、財政金融情報の全面的提出を指令。GHQによる全面的把握を図る。

9.24 GHQ、賃金統制の維持、物資の公正配給、輸出入許可制を指示。

9.26 GHQ、経済統制の必要を強調。日本政府はこれを受け軍需工場の民需転換処理を開始。

10.01 人口調査実施。樺太・沖縄を除く内地総人口は7200万人であった。

10.03 GHQ、外国向け金融・産業・商業上の通信を禁止。

10.03 GHQ、生活必需品のうち緊急物資以外のものの価格統制・配給の撤廃方針を表明。

10.04 GHQ、政治的・公民的及び宗教的自由の制限の除去に関する覚書を発表。

10.04 厚生省、推計失業者477万人と発表。

10.06 特別高等警察制度が廃止される。

10.09 GHQ、必需物資の輸入に関する覚書を発表。

10.11 マッカーサーが幣原首相と会談。人権確保のための5大改革をつきつける。

10.15 GHQ、クレーマー経済科学局長が財閥解体の目的に関する見解を発表。

全体主義的独占力を持つ経済勢力の破砕により、日本の軍国主義的再建の基礎を喪失させ、財閥が戦時中に得た巨額の不当利得を吐出させて、戦争が何人にとっても有利な事業ではないことを感銘させる。
実施にあたっては日本政府に拠る自発的改組を期待する。

10.15 治安維持法・治安警察法が廃止される。

10.18 GHQ、輸出入品の全面的許可制を指令。

10.20 GHQ、主要金融機関または企業の解体・清算に関する覚書。

財閥資産の恣意的処分を防止し、解体・清算を統制する。
このため、三井・三菱など15財閥に、その事業内容・資産構成などの報告書を提出するよう指令。

 10.25 GHQ、外交及び領事機関の財産及び文書の移管方に関する覚書を発す。外交機能を全面的に停止し、全外交機関の財産引き渡しを指令する。

10.26 日本政府、GHQni食糧450万トンの輸入を要請。

10.27 トルーマン大統領が外交政策12項目を発表。①米国の安全保障体制の確立、②国際平和機構の必要、③西欧民主主義の擁護と育成、④民主主義の脅威の排除、5自由通商主義の回復を柱とする。

10.30 ワシントンで極東諮問委員会開催。ソ連代表は不参加。

11.01 「日本占領及び管理のための連合国軍最高司令官」(すなわちマッカーサー)に対する降伏後における初期の基本的指令。「初期対日方針」(9月)の民主化措置の再確認。また最高司令官は日本の経済的復興・強化、生活水準の維持に対して何らの責任もおわないことが明示される。

 11.02 GHQ、15財閥の資産凍結を指令。財閥解体の処理方針決定までに資本構成をいじられることを防ぐ措置。

11.03 三菱財閥の首脳が総退陣。

11.06 GHQ、持株会社の解体に関する覚書を発表。日本政府の立案した三井、三菱、住友、安田の4大財閥の解体計画を承認。即日実行を指示する。

11.08 ポーレーを議長とする米賠償委員会、日本国内の資産調査を開始。日本の平和的経済に必要な物を確保しつつ、経済の非軍事化を急ぐ。

11.14 ソ連、日本管理機構問題に拒否権を主張。

11.17 GHQ、荒木貞夫、白鳥敏夫ら10名の逮捕を命じる覚書。

11.18 GHQ、商業航空及び民間航空の廃止に関する覚書。

11.24 GHQ、食糧・綿花・石油、塩の政府輸入を許可。

11.30 GHQ、日銀券発行に許可制を導入。

12.02 GHQ、広田弘毅ほか8名に戦争犯罪人容疑で逮捕命令。

12.02 GHQ、賃金・物価の統制を維持するよう指令。

12.02 臨時国民登録を施行。失業者数は319万人と発表。

12.06 GHQ、近衛文麿以下9名の逮捕を命令。

12.06 GHQ、石炭増産に関する覚書を発表。石炭危機に対し警告を発す。

12.07 米賠償委員会、トルーマンあての勧告。工業施設の撤去、移動案を答申。

12.08 松本烝治国務相、憲法改正について①天皇統治権の維持、②議会の権限拡大、国務大臣の責任強化、国民の自由・権利強化の4原則を発表。

12.08 GHQ、制限会社の規制に関する覚書を発表。GHQの指定した制限会社において一切の資産処分を禁止する。(制限会社とは18財閥の本社及び300以上の子会社を指す)

12.09 GHQ、農地改革に関する覚書。今後の農地改革の方向を明示し、農民解放及び農地改革案を提出するよう政府に指令。また農業協同組合の奨励策を作成するよう指令。

12.16 GHQ、政府に予算編成を指令。GHQの許可を得たうえで国会に回すよう指示。

12.16 近衛文麿が服毒自殺。

12.17 婦人参政権を認めた新選挙法が成立。

12.18 農地調整法改正法案が成立。日本政府が独自に作成したもので、第一次農地改革法と呼ばれる。自作農の創設、小作料の金納化、農地委員会の刷新などをふくむ。地主制度の根幹には触れず。

12.19 マッカーサーが管下部隊に訓令。連合軍の日本占領の基本目的を再確認したもの。①天皇と日本政府は国民統御の一手段、②日本の過去の誤謬を是正し、「世界において尊敬される地位を回復する」ためにその機会を付与する。

12.21 GHQ、占領政策に関し声明。日本民主化指令は一段落した。今後は教育と指導を主たる業務となすと表明。

12.21 米商務省、対日民間貿易の禁止期間をさらに6ヶ月延長すると発表。

12.22 労働組合法が公布される。(施行は翌年3月)

12.27 モスクワで米英ソ三国外相会議。極東諮問委員会に代わり極東委員会対日理事会を設置することが決まる。これは連合国最高司令官の諮問機関とされる。

年表作成に当たり、内山書店の「内山完造・内山書店略年譜」を参考にさせていただきました。


1885年(明治18) 内山、岡山県に生まれる。高等小学校を中退、京都・大阪で丁稚奉公を勤める。以後27歳まで商家の店員として働く。

1913年(大正2) キリスト教に入信し、牧師の紹介で「大学目薬」の営業・販売員として上海に渡る(28歳)。

1917年(大正6) 妻の内山美喜、キリスト教関係の本を日本から輸入するため、自宅の庭先に小店を開く。

1920年(大正9) 上海YMCAの夏期講座を開設。世話役となる。内地から毎年知名人を招く。

1921年(大正10) 中国共産党が上海で第1回党大会を開催。この時の党員数は全国で50名余。

1924年(大正13) 妻の始めた書店を拡大し、自宅の向かいに「内山書店」を開く。書店は文化人のサロンとして日中文化人交流の窓口となる。「文芸漫談会」が生まれ機関誌『万華鏡』を発行する。

1925年(大正14) 上海でゼネスト。日系紡績工場で日本人職員が中国人労働者を射殺。上海総工会の呼びかけたゼネストに20万人が参加。都市機能は1ヶ月間麻痺状態に陥る。

1926年(昭和1年) この年、内山は41歳となる。(非常に数えやすい)

1927年(昭和2) 共産党の指導する総工会が蜂起に成功。軍閥政権を追い出す。この後上海に入った蒋介石軍は「上海特別市臨時政府」を壊滅に追い込む。

1927年(昭和2) 広東から移った魯迅が内山書店を訪問。10年後の魯迅の死まで交流が続く。

魯迅は「蒋介石の乱暴にとても堪えられないで脱出して」来た。魯迅は上海で「師弟として同行しておった許広平女史と遂に結婚」した。
魯迅さんは私のところへ、ほとんど毎日来てました。…午前中勉強して、大体二時か三時ごろ…ぼくのところへ寄る。しばらく漫談して帰っていくわけです。…「魯迅さん」(青空文庫)より

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魯迅と内山完造(1933年夏)

1928年(昭和3) 内山、日本亡命を図る郭沫若を援助。

1928年 蒋介石の国民党軍が北京の軍閥政府を倒し中国統一を達成。日本は山東出兵、張作霖爆殺などで干渉。

この後、上海は国民党政府の事実上の首都として驚異的な発展を遂げる。人口は300万人(東京・大阪は200万人)、消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。(石川)

1929年 施高塔(スコット)路(後に「北四川路と改称)底に「内山書店」を移転する。

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北四川路
 1930年代上海の四川路

1930年(昭和5) 上海で「左翼作家連盟」(左聯)が結成される。魯迅も中心幹部として非妥協的な論争を展開。

1930年(昭和5) 左翼の進出を恐れる蒋介石軍は上海で活動家弾圧を本格化する。上海市内の共産党組織はほぼ壊滅。

1931年(昭和6) 国民党特務による左連作家6人の虐殺事件が発生。内山は危険の迫った魯迅を庇護(内山は魯迅を四度匿ったとされる

魯迅に逮捕状が出たので、ぼくは心配して…無理から匿れさせた。花園荘という…アパート…の小使部屋をあけて魯迅親子三人をかくしたのです(「魯迅さん」)

1931年(昭和6) 満州事変勃発。日本国内に関東軍支持の大合唱。中国では日本非難の大合唱。

1931年 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟(以下民権同盟)を結成。愛国民主抗日と国共合作支持の立場を鮮明にする。国民党の特務統治に反対し政治犯の釈放や言論の自由を求める。

1932年(昭和7) 第1次上海事変勃発。日本人僧侶への襲撃事件を口実にして、日本軍陸戦隊が上海付近を軍事占領する。関東軍の板垣大佐が起こした謀略事件。

1932年 内山は魯迅親子・周建人夫妻を庇護する。この頃から日中双方の側から"スパイ"呼ばわりされるようになる。

内山は魯迅を日本文士に売り込むことで、身の安全を確保しようとしたと思われる。内山の紹介で魯迅と面識をえた日本人は、長谷川如是閑、金子光晴、室伏高信、鈴木大拙、横光利一、林芙美子、武者小路実篤、岩波茂雄ら多数にのぼる。

1933年(昭和8) 民権同盟幹部の楊杏仏、蒋介石の私兵集団により暗殺される。同盟は活動停止に追い込まれる。

1934年(昭和9) 宋慶令ら2000人の著名人が「中国人民対日作戦基本綱領」発表。すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴える。

魯迅と完造
 在千爱里避难与内山完造等时合影 1934年8月29日摄于上海内山完造寓所前

1935年(昭和10) 内山、最初の著書「生ける支那の姿」を発表。魯迅が序文を付す。

1935年(昭和10) 梅津・何応欣協定。国民党は政府機関・軍の華北撤退に合意。

1936年(昭和11) 西安事件。張学良が蒋介石を監禁する。

1936年(昭和11) モスクワの共産党指導部、中国左翼作家連盟の解散と中国文芸家協会の結成を指示。これに対し上海の魯迅らは「中国文芸工作者宣言」を発し、「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンを提起。上海文化界は激しい論戦に巻き込まれる。

1936年(昭和11) 魯迅が死去。宋慶齢、蔡元培、スメドレーらとともに内山完造も委員に選ばる。埋葬式で、完造は追悼演説を行なう(式辞は蔡元培
大変な苦痛で、籐の寝椅子にもたれて、それでもまだ煙草をもっている。呼吸をみていると吐くばかりで吸う力がない。
石井政吉というドクターが…すぐに見に行ってくれた。そして酸素吸入をし…ながら、十九日の夜明けまでもって、亡くなったのです。(これは心臓喘息であろう)

1936年 上海の文芸界は、魯迅の死を機に「団結と自由の宣言」を出し、統一を実現する。

1937年(昭和12) 盧溝橋事件、第二次上海事変が勃発。南京大虐殺事件が発生。国民政府は武漢に移る。蒋介石、第二次国共合作に踏み切る。日本に避難した内山は東京で4日間の拘束を受ける。

1938年(昭和13) 日本軍、3ヶ月にわたる徐州作戦。武漢三鎮占領。共同租界がある上海に難民が殺到する。

1938年(昭和13) 日中全面戦争下にもかかわらず内山書店は発展、上海の各所に支店を開く。

虹口(ホンキュー): 黄浦江沿いにある上海大厦(旧ブロードウェイマンション)から北四川路沿いに北に上って魯迅公園(旧虹口公園)の辺りまでの一帯を指す。一時は10万人を超える日本人が住んでいたという。

1939年 中国軍、南支で春季反撃作戦。戦線は膠着状態に入る。アメリカは日米通商航海条約を破棄。中国支援と対日経済制裁を強める。

1939年(昭和14) ドイツ、対ソ不可侵条約締結。ポーランドに侵攻。英仏、ドイツに宣戦。

1940年(昭和15) 八路軍が、山西から河北にかけて一斉攻撃。日本軍は報復として三光作戦を展開。住民を大量虐殺。

1941年(昭和16) 太平洋戦争勃発。直後に魯迅未亡人許広平女史が上海日本憲兵隊本部に連行される。内山は救出に尽力。

1945年(昭和20) 日本の敗戦、内山書店は接収される。(60歳)

1947年(昭和22) 内山は中国永住を決断。自宅で古本屋を開業。まもなく国民党により強制帰国命令。

1948年(昭和23) 1年半にわたり、北海道から九州までの"中国漫談全国行脚"を行なう。

1949年(昭和24) 中華人民共和国が成立。

1950年 新たに設立された日中友好協会の理事長に就任(会長は松本治一郎)

1951年(昭和26) サンフランシスコ条約締結。台湾政府を正当と認めたことから日中関係は戦争未終結・国交未回復が続く。内山は日中友好協会理事長として単独講和反対運動を推進。

1953年(昭和28) 在華邦人引揚げ打合せ代表団の一員として渡中。共同コミュニケ調印により、日本人3万の帰国の道が開かれる。

1959年 地方巡回講演の激務がたたり病床に伏す。北京へ病気療養に赴くが、レセプションの最中に脳溢血のため死亡。外国人に対しては異例の国葬級の儀式が、中国対外文化協会によって行われた(吉備路文学館


経過を見れば分かるように、内山完造は明治の気骨を背負った「本屋のおやじ」であり、例えは悪いかもしれないが、「一代の侠客」だ。基本は「窮鳥懐に入らずんば」の世界だ。だから魯迅は心許したのだろう。
キリスト教がバックボーンにあるとはいえ、あまり思想的なものを持ち合わせているとは思えない。日中友好協会の理事長を勤めるには少々荷が勝ちすぎていると思う。
そのことを考えると、その任務をあえて引き受けて、60すぎの老体に鞭打って全国を行脚する姿には頭がさがる。そこには何かしら柳原白蓮の姿と重なるところがある。
…なにか足りないなと思ったら、上海のミニ状況が足りないようだ。
明日その辺りを補充しようと思う。

やっと買ったCDを一通り聴き終えたので、この間たまった仕事に再着手する。

と言っても別に義務というわけではなく、あちこちに飛んで行くのが悪い癖だ。

基本的には飽きっぽい性格なので、せいぜい2,3日で片付くような話題にばかり偏ってしまう。

今回もご多分に漏れず、日中友好協会のパンフレットを読み始めたら、内山完造のことが気になり始めた。今回はじめて知ったのだが、内山は日中友好協会の初代理事長だったそうだ。

内山といえば、上海の内山書店の店主である。あのすべてが暗黒の時代に何か意味のある活動をしていた数少ない日本人の一人だ。

ということは初期の日中友好協会の活動には内山の“好み”が反映されている可能性がある。

全国レベルでの友好協会の結成が1950年10月、中華人民共和国の成立1周年記念日である。

それは朝鮮戦争がもっとも激しく戦われていた頃であり、日本共産党の活動が禁止され、新たな闘争の方向をめぐり大混乱に陥っていた時期である。

だから日中友好運動の北海道での展開は、3年後の53年と随分遅れる。しかも道段階での組織が遅れ、中央直属の形で小樽支部がまず結成される。(ほぼ同時期から札幌支部も活動していたと思われる)

その間、内山は北海道の組織結成を目指し、二度にわたり講演活動を展開している。講演会の回数は総計34ヶ所に及んでいる。ついで54年には大山郁夫夫妻が22ヶ所で講演している。3年間に56回も全土各地で講演すれば大抵の組織はできるでしょう。

もちろん組織も裏で動いたとは思うが、こういう無党派知識人が初期の日中友好運動を引っ張っていったことは念頭に置いておいて良いだろうと思う。

北海道の友好運動はほとんどが強制労働の犠牲者の供養だ。いわば祈り(贖罪をふくめて)の活動として友好運動はスタートしている。

最初の大掛かりな行事は「中国人俘虜殉難者慰霊」であった。これには東本願寺が全面的に動いている。

以上のことを念頭に置いたうえで、日中友好運動に至る内山完造の歩みを追ってみよう。

押し付けられるのが嫌だからといって、とんがる必要はない

最近はNHKのニュースは見ないようにしている。というより、NHKのニュースが始まると慌ててチャンネルを切り替えてしまう。

なぜか。安倍晋三の顔を見たくないからだ。押し付けがましいのに甘ったれた、あの声を聞きたくないからだ。

本当に生理的に受け付けないのだ。同じ世に生きて同じ空気を吸っているということが我慢できないのだ。

最初の頃はここまでひどくなかったが、最近は本当に過敏症になってしまったようだ。「虫酸が走る」というのだろう。

その安倍晋三におもねって、安倍の御用放送と化したNHKが日本の右転換を煽るのが許せないのだ。


ところで、こんな安倍首相の支持率が未だに50%近くあるのだという。

街を車で走っていると、安倍首相の顔をでかでかと掲げた自民党のポスターが目につく。安倍首相を本気で愛している人が世の中にはたくさんいるのだということが分かる。何か日本人が嫌いになりそうだ。


本当に世の中にはがっくり来るようなことがたくさんある。東京都知事選挙でも、あの石原慎太郎が最後まで圧倒的な支持を獲得し続けた。あれって一体何だったんだろう。

大阪では横山ノックが3選も4選もしたし、いまでも橋下が圧倒的に影響力を持っている。アメリカではトランプという金持ちのアホがアホであるがゆえに大方の人気を博している。

福島であれだけ苦労したのに、川内や高浜では再稼働を歓迎している。

一体何なのだ、この世の中は。


結局、見て見ぬふりの「事なかれ主義」なのだろう。

私も事なかれ主義においては人後に落ちるものではないが、日清・日露から50年続いた戦争の時代には戻りたくない。

せめてでも、「賛成する」とは言わない。「支持する」とは言わない。ましてや石原慎太郎や安倍晋三に清き一票を入れることは間違ってもない。なぜなら彼らは「横紙破り」だからだ。


「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのは、気持ちとしては同感するところがある。それは “お上への反抗” という側面も持つ。しかし安易にやってはいけないことだ。それを許容していくと社会が壊れてしまう。

「同感はしても歩道にとどまる」のが健全な理性だろう。


たとえその結果、少数派にとどまったとしてもだ。

ひょっとして、これが「立憲主義」なのかな?

川内に続いて高浜が再稼働(しかもプルサーマル!)、さらに伊方とどんどん進んでいく。

これらの動きで注目されるのは、再稼働がまったく無言のうちに進んで行っていることだ。

以前なら電力会社側が声高に電力の危機を騒いだものだったが、最近はまったく音無し。ある意味不気味な話だ。

福島の後、大企業側はNHKを動員して、電力が危ないと繰り返した。また電力料金が跳ね上がると脅した。

それが最近ではとんと聞かれないから、庶民の側では原発を再稼働する理由がさっぱりわからない。電力会社の都合としか受け取れないのだ。

福島以前、原発の宣伝は基本的には3本柱だった。安定供給、安全、安価という3つの「アン」である。

原発事故そのものが安全神話の崩壊を意味した。東大教授たちは大方の非難を浴び公の舞台から姿を消した。

さらに残る二つがひっくり返されていったのが福島以降の経過だ。とくに電力不足のキャンペーンは異常なものだった。

しかしこれはすでにクリアされた。もう「電気が足りなくなる」の嘘は通用しなくなった。それと同時に原発再開を前提に火発の再稼働を怠ってきた各電力会社も、火発へのシフトを開始した。

残る問題がコスト問題であった。

コスト問題というのは3つのフィクションの上に成り立っている。

ひとつは人命コスト、国土汚染コストなどのリスク対応コストが排除されたうえでコスト計算を行うというフィクションである。

ふたつ目は「核のゴミ」の廃棄・処理コストがゼロとして計算されるというフィクションである。

三つ目は電源開発などの名目による国税投下がコストから排除されるというフィクションである。これらは本来、電力会社がコストとして負担すべきものであった。

ただ、あえてそれらのフィクションを受け入れたうえで、攻撃的なコスト論争が行われ、液化ガスとの比較優位はほぼ否定された。

残された唯一の問題が、原油・天然ガス輸入増に伴う貿易赤字であったが、円安を上回る原油価格の低下により、この問題も自然解決してしまった。

つまり、電力会社には拠るべき再稼働の理由がなくなってしまったのである。


ネットを探してみると、経団連御用達の「ウェッジ」誌が再稼働推進論を打ち出している。

2015年08月18日(Tue)  川内原発の再稼働が必要な4つの理由  再稼働がもたらすリスクとベネフィット 

これを読みながら反論しようかと思ったが、読んでいるうちにアホらしくなったので止める。

一応リンクはかけておくので、目を通しておくほうが良いでしょう。


1月31日 日曜日 昼から日本中国友好協会 道連の新年会があって出席しました。

正直言って高齢者中心の集会で、69歳の私が若手代表みたいな感じで、なかなか辛いものがありました。そこで「60年史」をいただきまして、何か紹介して置かなければならないと思い、読ませていただいているところです。

日本の中国との友好運動は、当然の事ながら文革開始以前、文革から関係回復まで、回復以降の運動と3期に分かれます。そして真の困難はいままさにこの時期にやってきているといえます。というか、いまその存在意義が深刻に問われているのだろうと思います。

日本AALAも東アジアの平和の同盟作りを目指し署名活動に取り組んでおり、日中友好協会、日朝協会などと協力しながら人民レベルの友好連帯を促進すべく活動しようと考えています。おそらく今後はこういった枠組みで友好・連帯運動が発展していくのではないかと考えています。

その際、中国との友好関係についてはその特殊性を見ておかなくてはなりません。それは仁木町に立てられた碑文にもあるように、たんなる友好ではなく「不再戦友好」でなくてはならないからです。鑑みるに、文革期以降は事実上中国との友好関係は断絶していました。それにもかかわらず30年以上にわたり日中友好協会が活発な活動を続けてきたのは、まさに不再戦の活動のゆえです。

この教訓はきわめて貴重だと思います。それは東アジアの友好運動がたんなる友好ではなく、「平和・友好・不再戦」を掲げた運動でなくてはならないことを示しているからです。

「社会主義国」との友好は複雑な局面を含んでいますが、私たちは「不再戦」を共通の土台に据えて、その先に「平和・友好」を掲げることで、路線の正確さをみずからに課していくことができるのではないでしょうか。

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