鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

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カテゴリ:07 歴史 > A 歴史

「百済本紀」(日本書紀に引用された)は時間についての記載が必ずしも正確ではないかもしれない。

というのは、537年の記載で、大伴金村は子の大伴磐(いわ)と狭手彦とを派遣。磐は筑紫にあって国政をとり,狭手彦は渡海して任那を統治し,百済を救ったとされている。

筑紫にあって国政をとった「磐」が磐井である可能性は否定出来ない。

10年前に反乱の末に敗れた逆賊「磐井」に通じる名前を、筑紫にあって国政をとる人間が名乗るだろうか、という問題だ。

もしこれが磐井だとすれば、10年の時差を無視すれば、事態はかなり飲み込めてくる。狭手彦が毛野だ。

狭手彦が半島で命がけで戦っているのに、大伴磐は支援をさぼり、あまつさえ新羅と手を結ぼうとさえする。

ということでチャンチャンバラバラとなれば、話はけっこうわかりやすい。

狭手彦はどうも松浦の一らしい。筑前に王様がいて、筑後の磐井が総理大臣、狭手彦が倭軍の大将という構図だ。

10年の誤差は、日本書紀が同じ記事を何度もコピペしているということで説明可能かもしれない。

大和で、大伴金村が物部に敗れ退陣を迫られたという事件があり、大伴びいきの日本書紀はそれを任那話と結びつけたのかもしれない。

とすれば、日本書紀が「大伴金村」として比定した人物こそが倭国の王だった可能性がある。

此処から先、話があっちこっちに飛ぶのでご勘弁いただきたい。

以前から、マルクスの経済学批判序言の時代区分が気になっていた。

大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。

…この社会構成(近代ブルジョア的生活様式)をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。

アジア的生産様式をめぐっては、古来様々な議論があった。しかし古代(奴隷制)から封建制への移行は「進歩」であったとの認識はあまり問題にされていない。

しかしローマ帝国の偉大な到達段階を知るにつけ、果たしてそれが「進歩」であったのかという点で疑問が残る。

それがたまたまテレビで「ローマ帝国の終焉と西ヨーロッパ」というのをやっていて、ますます気になった。

そこで調べていく内に、「西ヨーロッパといっても先住ケルト人ではなく森のなかから出てきたゲルマン人の作った国」だということが分かりますます謎を深めた。

考えてみたら、学校ではローマ帝国とゲルマン人については教えていたけど、ケルト人はただやっつけられる存在として歯牙にもかけぬ扱いだったと思う。

しかしケルト人とケルト文化って今でもアクチュアルな存在だよね。

いちどケルト人の歴史というのを体系的に学んでおいた方がいいような気がする。

というのが、長~い前置き。


この図はウィキペディアから拾ったもの。この絵を見ただけで、みんな「すご~い」と叫ぶんじゃないだろうか。

ギリシャ文明華やかなりし頃、実はケルト人というのは「ヨーロッパ人」だったんだ。

ケルト人の分布
- 紀元前1500年から紀元前1000年
- 紀元前400年

ただしケルトという名称は自称ではなく、紀元前の時代のギリシア人がアルプスの北側に住む人々をさして、そう呼んだだけである。

ローマ帝国はケルトという総称は使わず、ガリア(今のフランス)、ブリタニア(イギリス)、ヒベルニア(アイルランド)という言いのが普通だった。

そして現在はアイルランドスコットランドウェールズコーンウォルブルターニュなどにその民族と言語が現存している。

ただしこの図についてはイギリスから強い批判が出ていて、ケルト以前に固有の先住文化があったとされる。

ウィキペディアでは次のように記載されている。

(イギリスでは)そもそもケルトという区分け自体を疑問視する声も挙がりつつある。
こうした批判は古代ブリテン史をいわば自国の歴史に書き換えようとする動きとして
フランスなどの学者からは批判に晒されている。
それに対して
イギリスの学者からは古代ケルトを統合欧州の象徴に据える作為だとする反駁がなされるなど、国家間の政治問題と化している感がある。

なかなか、生臭い話になっているようだ。

以下 年表

BC1500 ケルト人がドナウ川やライン川の沿岸の森林地帯に定着。

BC900 ケルト人、ヨーロッパの各地に拡散。ローマ帝国の勃興の直前には、北海から黒海までの広域にわたって分布するようになる。

BC700 鉄器文化を持つケルト人がブリテン諸島に渡来。先住民族を征服し、ブリテン諸島に定住する。

400BC ケルト人がヨーロッパ各地に拡散。Austria, Britain, France,Holland, Belgium, Switzerland, Western Germany, Northern Spain, Turkey, Hungaryなど。

400 BC Brennusの率いるケルト人集団がイタリアに侵入し、略奪行為を働く。

335 BC マケドニアのケルト人、アレクサンダー大王と協定を結ぶ。

323 BC アレクサンダー大王が死亡。ケルト人はギリシャ領内に侵入。

280 BC ケルト人が多くのギリシャの街を略奪。

275 BC ケルト人、トルコのガラティアに国家を建設。

230 BC ギリシャ軍、トルコのケルト人を撃破。

224 BC ローマ人、帝国の版図をケルト人の住むガリア地方に向け拡大。4年間の戦いのすえ、ケルト人は撤退。

191 BC ガウル地方がローマ人の支配下に入る。

58-51 BC ジュリアス・シーザー、ガリア征服戦争の指揮を執る。

55BC シーザー、ブリテン島に侵攻。

39 カラタクス(Caratacus)、ブリテン島のケルト人を率い、ローマ軍と対抗。

43 皇帝クラウディウス(Claudius)、ブリテン島の征服戦争を開始。その後50年ほどのあいだ、戦闘が続く。

45 ケルト人の将軍 Vercingetorix 、ローマ市内を引き回された上処刑される。

60 Boudicca 、ケルト人の反乱を組織するも敗北。この後「イングランド」地方のケルト人はローマ帝国の文明を受け入れるようになる。


資料が皆無に等しく、とりあえずこんなところ。

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