鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ:04 国内政治 > A 歴史認識

北海道における中国人の強制労働

まず、数字から明らかにしていかなければならないだろう。日中友好協会北海道連合会の資料から引用する。

1.中国人38,939名が日本に連行され各地の事業所で奴隷労働を強いられた。

2.強制連行は1943年4月から1945年5月にかけて行われ、強制労働は終戦まで行われた。強制連行が5月で終了したのは海上輸送が困難になったためである。

3.中国人の強制労働を行ったのは全国135の事業所であった。北海道では58事業所に16,282名の労働者が配置された。これは全体の42%にあたる。

4.その労働が如何に過酷であったかは死亡率を見れば一目瞭然である。全国では6,821名が死亡した。死亡率は17.5%に達する。このうち北海道では3,047名が死亡、死亡率は18.7%となる。

死亡率20%以上の事業所を上げておく。2015年3月15日 中国人殉難者全道慰霊祭で発表された数字のようである。慰霊祭には道知事はじめ各地の首長が賛同していることから、公式な数字と見て良いだろう。

事業場 連行人数 死亡者数 死亡率
1 北炭・空知天塩 300 136 45.3
7 伊藤・置戸 499 104 20.8
12 地崎・東川 338 88 26
13 三井・芦別 684 245 35.8
14 川口・芦別 600 278 46.3
15 鉄工・美唄 415 91 21.9
17 三井・美唄 597 163 27.3
20 川口・上砂川 299 86 28.8
25 鉄工・神威 391 115 29.4
26 川口・豊里 200 52 26
39 三菱・大夕張 292 84 28.8
40 地崎・大夕張 388 148 38.1
41 鉄工・室蘭 439 127 28.9
42 川口・室蘭 969 309 31.9
43 港運・室蘭第一 147 31 21.1
44 港運・室蘭第二 99 29 29.3
45 港運・室蘭第三 202 67 33.2
47 北炭・平和角田 294 76 25.9

総  計 20,430
実数
16,282
3,047 18.7

かなり死亡率にばらつきはあるので、会社のトップだけの責任ではなく、現場の指揮者も積極的に関わったうえでの数字だと思う。「鬼畜米英」と叫んでいた連中こそが、まさに「鬼畜」であった。
この表につけられたコメントを転載しておく。

太平洋戦争開始後約1年たった1942年11月27日、時の東条内閣は日本国内の重労働に従事する労働力の不足を補うために、中国人を強制連行することを きめました。この方針によって、中国の河北、河南、山東、山西など十数省から一般住民および軍事俘虜が日本に連行され、苛酷な強制労働に従事させられまし た。
 その数は、少なくとも、41,762名と考えられ、このうち乗船した数は38,939名です。
 北海道には、16,282名が、58の事業場に連行され、その配置総数は20,430名です。その内死亡者は3,047名で死亡率は18.7%にも達し ています。これは当時の日本人の死亡率1.631%にくらべると、恐るべき数字であることが分かります。しかもこれは、わずか1年ほどの間のことですか ら、もし戦争が長引いていたら、連行された中国人はおそらく全滅したと思われます。

これは「労働」の名に値しない。「皆殺しの苦役」だ。

巷間、慰安婦問題のみがかまびすしいが、率直に言えば、そちらのほうを大声を上げることによって、これら強制連行と強制労働、事実上の大量虐殺についての事実を覆い隠そうとしているのではないかとさえ思ってしまう。

それは契約に基づく「自由労働」ではなかった。「労働者」は使い捨てのおしめであった。日本の会社側に「労働者」のことを思いやる心は皆無だったことを覚えておこう。


軍部独裁と太平洋戦争突入の関連

昭和の歴史は数多く語られているが、そのほとんどに主語がない。 

歴史を教訓としようとする時、これらの文章は何の意味も持たない。

我々が学ぶべきことは、いかにして日本の国民が無謀な戦争に巻きまれてしまったかであり、なぜそれに抵抗できなかったのかということである。

それは歴史から直接には学べない。なぜなら現在流布されている歴史の殆どは、「仕方がなかった」論で貫かれているからであり、加害者抜きの被害者論で貫かれているからである。

我々はこの歴史の中から、いかにして誰かが国民を無謀な戦争に巻き込んだかを学び取らなければならないし、いかにしてそれに抵抗する力と民主主義・立憲主義を抜き取ったかを知らなければならない。

東条はヒトラーではない。東条は小物である。では永田鉄山か、彼も能吏にすぎない。ではトップの戦犯は誰か。

多分それは山県有朋だろうと思う。彼の作ったシステムの中に太平洋戦争へと突き進む遺伝子のすべてが内包されている。

その四つの柱は1.好戦思想+排外思想、2.民主主義の敵視、3.システムの軽視、4.派閥政治である。ただし4.は思想的柱というよりその結果にすぎないのかもしれない。

永田・東条はその4.を有効に利用して3.を徹底的に押しすすめた。なぜそれが可能になったか。システムが自ら2.を実践し、システムの脆弱性を極度まで推し進めたからである。

はっきりさせておきたいのは、政治トップや官僚たちは単純な被害者ではないということである。彼らがファシズムへの道を掃き清め、最後には自ら墓穴を掘ったのである。

ウィキペディアに「帝国国防方針」という項目があって、日本軍の戦略の変遷が要領よく説明されている。

まず「帝国国防方針」とは何かという説明。

陸海軍の国防の基本戦略を記した文書で、軍事機密とされていた。

第1回めの策定は明治40年に天皇により裁可された。その後大正7年、大正12年、昭和11年の3回にわたり策定されている。

山県構想(明治38年 1905年)

策定のきっかけとなったのは1905年8月、日露戦争の直後に日英同盟の改訂が行われたことである。主要な問題意識は、イギリスとロシアが開戦した場合の日本軍の対処であった。

山県案では仮想敵国はロシア・アメリカ・ドイツ・フランスに設定されていた。

第一次国防方針(明治40年 1907年)

山県有朋の構想を元に田中義一(当時中佐)が陸軍草案を作成した。海軍側もこれに対抗して同様の計画を提出した。

国家目標: 開国進取の国是に則って国権の拡張を図り、国利民福の増進に勤める二点。

国家戦略: 満州及び大韓帝国に扶植した利権と、東南アジア・中国に拡張しつつある民力の発展の擁護と拡張。

国防方針: 東アジアにおいて日本の国家戦略を侵害しようとする国に対して攻勢を取る。満州や韓国の利権を扶植。専守防衛路線は明確に否定される。

仮想敵国は、最終的にはロシア・アメリカ・中国に変更された。

政府は統帥権の独立を盾に関与が拒まれた。政府は軍備増強を拒否することで対抗した。

第二次国防方針(大正7年 1918年)

第一次大戦の動向を取り込むための改正。総力戦思想が持ち込まれた。

欧州の疲弊により、仮想敵はアメリカ、中国、ソ連に改められた。ロシア革命後の混乱によりソ連の比重は下げられた。

統帥権は維持したまま、閣議に計画書を提出して同意を求める。

第三次国防方針(大正12年 1923年)

仮想敵はアメリカ、ソ連、イギリス、中国に改められた。総力戦思想に加え、短期決戦の考えが打ち出された。

これは「敵を海外において撃破して速やかに終結する」という戦法である。

第四次国防方針(昭和11年 1936年)

外交で国家の発展を確保し、有事においては先制主義と短期決戦を軍事ドクトリンとする。このため平時における軍事力の準備が強調される。

ということで、前の記事を全面的に変更しなければならない。

1.ソ連主敵論は、日露戦争以後一貫したものだったというのは間違い。1925年ころから、ソ連の国力増強に合わせて打ち出されたもの。

2.一貫した主潮は東アジアへの進出と、武力干渉であり、中国侵略は対ソ戦略の方便ではない。

3.総力戦と短期決戦思想は本来は整合的なものではないが、接ぎ木される形で打ち出されている。これは日露戦争を僥倖ととらえる冷静さが次第に失われていく経過ではないか。

4.軍は統帥権を振りかざして政治の容喙を拒絶する一方、国家目標・国家戦略にまで踏み込んでおり、当初より軍事独裁の傾向を内包していた。

この基本構造の上に、永田・東条の主戦論が乗っかっていくという経過を理解しておく必要がある。ただしこのウィキペディアの記載では第四次国防方針の記載がほとんどないので、確言はできない。


強いられた国家改変としての明治維新

1.明治維新の内包する二面性

明治維新から太平洋戦争へと進んでいく経過は、一面では明治維新の精神の継承でもあり、一面では明治維新の精神からの逸脱でもある。

つまり明治維新にはそういう二面性が内包されていたということになる。

2.明治維新は外圧による国家の進路変更

明治維新は、実体としては開国であった。国際化とその中での生き残りである。それはある意味で強いられたものであった。外圧(黒船)がなければ、それは明治維新という形態では実現しなかったろう。

「生産力と生産関係」論から明治維新の必然性を説く人もいるが、それは違うと思う。それだけではせいぜいが異なる統治形態の実現に導かれるだけであったろう。

3.国内勢力のみによる国家の権力改変

この闘争の稀有な特徴として、支配層がまっぷたつに割れて、正面から力相撲を行って、その片方が勝利したということがある。

相争う二つの勢力がいずれも国内を基盤とし、外国勢力や買弁資本家の関与なしに戦争を遂行した。

なぜそれが可能だったか?

それを遂行するだけの財政基盤が国内に存在したからである。しかしそれだけではない。攘夷の思想が蔓延し、外国人への襲撃や戦闘が相次いだ。

それらは欧米政府にとってカントリー・リスクとなり、干渉をためらわせた可能性がある。

4.明治維新の精神

以上のことから、明治維新の精神は攘夷を内に秘めた開国の思想と結論される。そこには改変を自力で成し遂げた強い誇りと、それを急がせた強い危機感がある。

それはやがて、きわめて軍事色の強い「富国強兵」策となる。しかも、アジア諸邦から抜け出し、列強の仲間入りし、他国を侵略する側に回るという、ひとりよがりな“成り上がり”思想となっていく。

草の根レベルでは、桎梏となっていた幕藩体制から解放されたことで自主的な運動も巻き起こるが、それらは日清・日露と続く戦争の熱狂の中で明治政府に押しつぶされていく。


永田鉄山を勉強するのにネットにあたってみたが、どうもピンぼけの説ばかりだ。
むかし読んだ「失敗の本質」に迫るような分析はない。
ただ「失敗の本質」は軍事戦略の分析だ。外交戦略の分析ではない。
ところが外交戦略となると、松岡洋右や広田弘毅の話に行ってしまう。
外交戦略の本質は、そういうたぐいの話ではない。
中国とどう付き合うか、東アジア全体とどう向き合うのか、そこにどのような世界を形成していくのかというビジョンが鍵を握っている。
その際に、念頭に置かなければならないのは日本の主権の及ぶのは対馬海峡までだということだ。それより以遠には別の民族があり主権がある。それを侵害することには大義がない。ましてや軍事行動などもってのほかだ。それはソ連も同じである。
このような発想は永田はもちろん、軍部の誰も持ち合わせていない。
しかしこのことは、さて置いていこう。
軍事戦略の基本は誰を敵とするかだ。この対抗関係において中間地点の陣取りを決めていくことになる。
どうも色々読んでいくと、陸軍がソ連なのは良いとして、海軍の仮想敵がアメリカと書かれている。ホントかいな。
もしそうだとすると、問題は二つある。ひとつはどうしてこれをすりあわせないのかということだ。これでは最悪の二正面作戦になる。
もう一つは、もし海軍がアメリカを仮想敵としていたなら、それだけでキチガイじみた戦略だということになる。もしそれが脅威であるならば、それを現実の敵にしないことが最大の戦略ではないか。
もっとも、アメリカを仮想敵としていたかどうかは目下のところ定かではないから、これ以上の言及は保留する。
それで、日本軍が全体としてはソ連を仮想敵としていたと仮定しよう。ここからが軍事戦略の本論だ。
中国東北部(旧満州、以下満州と記す)が最前線であることは疑いない。
1.外交もふくめた戦略としてまず挙げなければならないのは、ソ連の政治的包囲だ。ソ連が武力を用いて南下しないように国際環境を整備する必要がある。
それには中国、朝鮮をふくめて東アジアの国々を味方につける必要がある。より軍事的な観点からは戦略上の要衝に硬い楔を打ち込む必要がある。
2.率直にいって当時の現実的状況からは、朝鮮と中国の国境を隔てる鴨緑江、豆満江のラインは生命線と想定されるであろう。さらに攻勢的に戦略を想定するなら、関東州からハルビンに至る満鉄は守るべき権益であろう。ただし後者は「権益」であって領土であってはならない。
列強との協調体制を守るには、それは越えてはならない一線だったはずである。
3.当時のソ連は間違いなく国際的に包囲されていた。したがって、日本は日英同盟を守り、米国との親善を強化する限り、ソ連の脅威など問題にならなかったはずだ。
もちろんソ連はシベリア鉄道を通じての東方進出は国是に近いものがあった。またスターリン以降、東方戦略は飛躍的に強化された。したがって満州の権益をめぐり、さまざまな小競り合いが発生することは容易に予想される。
ただそれは、主要にはソ連対中国の問題として発生するだろうし(日本対中国の問題と同じように)、日本としては蒋介石なり東北軍閥なりを支援すれば良いだけの話である。
したがってソ連脅威論は、机上の空論とまでは行かないが、現実のものではなかったといえる。
であれば、軍のソ連脅威論はむしろためにするための議論ではなかったか、という感じがしてならない。






変な話だが、女性セブンを買いに行った本屋で、ついでに新書巡りをしていたら、川田稔「昭和軍閥の軌跡~永田鉄山の構想とその分岐」(中公新書)というのがあって、何気なしに読み始めたら、これがめっぽう面白い。
まだ30ページほどだが、未知の情報だらけで、ほとんど赤線だらけになってしまった。
とりあえず、ここまでの感想をメモしておく。
永田鉄山には二つの目標があった。まずひとつは対ソ戦を基本とする総力戦思想である。日露戦争はうまくやったが、いずれソ連(ロシアは)必ずもう一度仕掛けてくる。本気のソ連ともう一度戦って勝てる保障はない。とにかく満蒙を生命線として確保しなければならない。これがすべてだ。
もう一つは、陸軍を自らの手に集中するだけではなく、政治も軍に従属させなければならない。要するに総力を上げてソ連の南下を阻止するために、政治システムもふくめて日本が一丸となることだ。
しかし、この大戦略の是非については、また別の話になる。
永田はこのために軍の掌握を図った。この小戦略ははるかに具体的で、はるかに難しいのだが、天性の寝業師、永田はそれを成功させてしまう。ただしそのためにいくつかの重大な代償を払う。
永田らは密かに仲間を募り軍の重要中堅ポストを次々に獲得していく。これは比較的たやすく行われた。ただしその中にはオポチュニストも混じってくるので、どうしても思想は薄まる。もう一つは真崎、林、荒木の三将軍を反長州閥の代表として表に立てたことである。これは勝利のためには有効であったが、軍内を長州閥対反長州閥という矮小化された分裂に導いた。第三に、これらの結果として関東軍が独立権力のように振るまい、中国とことを荒立てるのを阻止できなくなってしまった。国内でも革新派の動きに対して有効な対抗措置をとれなくなってしまった。(ただし永田は懲支論者であった)
まぁこれらは軍内の権力移動には不可避の副産物であり、時間とともに整理されていく性格のものであったろうが、永田にはその時間がなかった。そして永田に代わった東条にはそれだけの器はなかった。ということになろうか。
ドイツの枢軸協定を結び、スターリンと不可侵条約を結ぶ頃には、日本の基本戦略はすっかりおかしくなってしまった。関東軍ばかりでなく、有象無象のオポチュニストが勝手にドンパチをやらかすようになって、陸軍そのものに歯止めがなくなってしまった。陸軍に対する歯止め役であるべき政府や議会はむしろそれを煽る役に回っていった。
それもこれも、結局は永田鉄山が蒔いた種ではある。

と、昨日は書いたが、一晩寝てから考えると、どうも違うと思うようになった。

永田の戦略観はかなり希薄である。結局当時の軍内右派の最大公約数的なものでしかないように思える。

しかもその対中国観は右往左往している。対ソ脅威論だけでは大義はない。中国とともに(あるいは“中国を従えて”でもいいのだが)、アジアをどういう世界にしていくのかというビジョンがなければ、そこに大義は生まれない。

もしそういう大義がないのだとしたら、それはタダの権力亡者でしかない。

たしかに彼はネゴの達人であったかもしれないが、それは本当のネゴシエーションではない。仲間を作って、徒党を組んでその力でしゃにむに頂点を目指すという趣である。

本当のネゴの達人というのは大久保利通の如き裂帛の気合を持つ交渉術に秀でた人物であろう。

おそらく日本は一番悪い時期に一番悪い人物に政治を委ねてしまったのだろうと思う。さしたる東アジアビジョンもなしに、何となく対ソ脅威とか対中国脅威論だけで動く今の政治状況を思い起こさせるはなしである。

ただ、結論を出すにはもう少し情報を仕入れてからにしたい。

日本人として弾劾すべき軍の犯罪

日本人として、軍と日本政府がアジアで行った数々の残虐行為、非人道的行為については我々は謝罪しなければならない。このことは言うまでもないことだ。

しかし平均的大衆のあいだには「なぜいつまでも謝らなければならないのだ」という声が根強くある。

それは軍部と天皇制政府への弾劾の姿勢が弱いからだ。アジアの人民が日本政府を批判すると、何か自分が非難されているような気分になってしまう。それは戦前の政府と我々の分離ができていないからだ。なぜなら我々が軍部と天皇制政府を批判し尽くしていないからだ。

我々にとっても戦前の政府と軍部は許せない存在なのだということを、もう少し具体的に整理して明らかにしておく必要がある。

それを、いくつか箇条書きにしておこう。

1.反戦・非戦論の弾圧(まず民主主義を否定した)

2.文民統制の否定(議会をないがしろにし、政府を脅しつけ、天皇すら欺いた)

3.統帥権の否定(誰の許可も得ず、勝手に戦争を始めた。しかも終わらせられなかった)

3.対米開戦の愚挙の責任(愚挙としか言いようがない。違うか?)

4.玉砕作戦を命令した責任(人の命を預かる指揮官としての究極の無責任)

5.沖縄決戦(民間人の生命に対する無責任。軍人の本懐への究極の背馳)

6.満州棄民(最悪の置き去り、逃亡)

7.本土決戦思想(究極の国民皆殺し路線)

これらを我々、日本人は弾劾したのか? 戦犯として裁いたのか?

日本人は自ら弾劾できなかった。東京裁判について云々する前に、まずこのことを恥じなければならない。

そして、戦争反対・憲法守れの運動の根本をなす歴史認識として、これらの事実を突きつけなければならない。


本日の赤旗に重い記事が載っていた。
ドイツの強制収容所での強制売春問題だ。
中心事実はこうだ。
男性収容者(彼らは収容所内の軍需工場の労働者でもあった)のために、収容所内に売春宿が造られた。
女性専用の収容所から女性が連れて来られた。女性は飢えと疫病のなかで死んでいくか、売春宿で働くかの選択を迫られた。
200人以上が働かされた。
平日は午前8時から午後10時まで、土日は終日働かされた。
男性一人に対して15分間、最大で1日15~16人を相手にした。
「強制収容所の売春宿」の著者ロベルト・ゾンマーさんとのインタビュー。ベルリン駐在の片岡特派員による記事だ。

感想を書くのもはばかられるほどおぞましい話だが、強制収容所の恐ろしいほどの非人間性という枠組みに括られるものであり、慰安婦問題とは別途に語られるべきものだろう。
「売春」という事象に思考が絡み取られてしまうと、事態の本質を見失う恐れがある。一方的戦争(侵略)という不条理な全体の中での、不条理な、非人間的な強制の一つとしての位置づけを忘れないことがもとめられる。

 mototchen さんの文章で、「目からうろこ」の部分があったので紹介します。

商船のほとんどは潜水艦により捕捉・雷撃を受け沈没しています。なぜ捕捉されるのか。

捕捉される側から言うと、捕捉は「会敵」です。

データによると、時と共に会敵率が増加し、1944年8月、9月、10月、1945年2月、3月には、100%を越えている。出航したら必ずアメリカ潜水艦に見つかる訳である。

筆者は、これは偶然とは考えられないといいます。

それは、潜水艦というのが決して無敵の兵器ではないからです。

潜水艦は、見えない兵器とよく言われる。だが、こちらから潜水艦が見えないということは、潜水艦からもこちらが見えないということなのである。

うーむ、たしかにそうです。

第二次世界大戦当時の潜水艦は、敵を見つけるためには、目視かレーダーに頼っていました。

潜望鏡では視界が限られるし、レーダも使えない。このため、敵を探すには、浮上する必要がある。浮上すれば敵からも見える。つまり、敵を見つけるためには、自分も姿を見せざるを得ないのである。

それなら、たしかに、相手を先に見つける確率は五分と五分です。

しかも、地球は丸いので、見える範囲は限られ、背の高い方が遠くまで見通すことができる。これは、目視であろうとレーダーであろうとかわらない。このため、背の低い潜水艦は、策敵という点でそもそもハンディを負っているのである。

ようするに、潜水艦が敵を見つけるということは、そんなに簡単なことではないのです。

そもそも太平洋はとてつもなく広い。遭遇の可能性は天文学的に低い。さらに商船は捕捉されないように走るわけだから、100%という数字は常識はずれです。

なぜか。

それはアメリカの潜水艦が商船の航路を逐一把握していたからです。

アメリカ海軍は、日本海軍から、輸送船団の「船の数、船名から積荷、護衛の仕方のみならず、とるべき航路や、航海中ほぼ毎日の正午の位置」に関する情報まで得ていたのである。

アメリカ軍の司令官は、戦後こう述懐しています。

「ハワイとオーストラリアの参謀らは、護衛船団の航路と正午の位置がわかっていたから、その特定地点に然るべき数の艦艇を直航させるだけでよかった。敵はちゃんとそこにいてくれたのである」

著者は、次のように結んでいます。

「無惨」としか言いようのない話である。日本の輸送船団は、日本海軍によって、熨斗を付けて、アメリカ潜水艦隊に差し出されていたようなもので、殉職した海員(60,331人)、戦死した護衛艦の乗組員(詳細不明)、海没戦死した陸軍の将兵(11万人以上)、水死した軍属を含む便乗者(5万6千人以上)は、日本海軍に殺されたようなものである。

何かため息の出る話です。

この国の兵隊・一般市民は優秀ですが、その分、指導部は無能で、しかも最悪なことに無責任です。

敗戦の時に腹を切った高級軍人が何人いたでしょうか。

戦犯として裁かれたのは不当だと言い募る連中の中に、戦犯であろうとなかろうと、何百万もの命を無駄にした責任をとった人間が何人いるでしょう。

そういう日本人を「美しい」と感じ、「美しい日本を取り戻せ」と叫ぶ輩に、これ以上日本を任せてはいけないと思います。


このところ赤旗を読むヒマがない。読み始めると必ず引っかかってしまうからだ。

昨日は西尾勝さんだったが、今日は、北岡伸一さんの発言が気になって止まらなくなった。

記事は一段で、二面の右下にひっそりと載っているのだが、北岡さんがいよいよ安倍政権との対立を露わにし始めたという点ではかなり注目だ。

まずは記事の紹介。

北岡さんは国際大学の学長だが、安倍首相の諮問機関「戦後70年談話に関する有識者会議」の座長代理という、いわば最強の安倍ブレーンだ。

この北岡さんがシンポジウムで下記のごとく発言した。

侵略して悪い戦争をして、たくさんの中国人を殺してまことに申し訳ないということは、日本の歴史研究者に聞けば99%そう言う。

私は安倍さんに“日本は侵略した”と言ってほしい。

戦後70年経って、“謝罪のほうが談話の中心に来るかどうかがキーだ”というメディアには私は違和感を覚える。

記事はこれだけだ。

私もこれにほぼ同感だ。ひとつは謝罪ということではなく、侵略の事実を認めることがだいじだということだ。何が申し訳ないのかを明らかにした上で謝罪すべきだということだ。

悪いことをした会社が記者会見をやって、土下座して謝ったりしているが、そういうことではないのだ。謝るべきは「世間をお騒がせした」ことではない。形ではなく中身だ。

そのうえで大事なことは、戦後70年、日本が平和に徹してきたことだ。誇りを持っていい。そこをもっと強調すべきと思う。

その上でこれからも平和の思想を貫いていくことを明確にすること、これが最重要ポイントだ。これが今の日本人の大多数の心持ちではないか。

北岡さんはそういうことを言っているのだろう。勘ぐれば、「観測気球」かもしれないが、この際詮索はしないでおこう。

集団自衛権論者でもある北岡氏は、過ぐる戦争を侵略と規定することにより、今後の中国の膨張主義に対し、日本が「民族の自衛権」を発動する根拠が成立すると考えているようだ。

*2013年07月23日

もご参照ください。

植村さん励ます会に参加しました。その時に配られたタイムテーブルがあります。

A4裏表に、かなり細かく経過が記載されていますが、ちょっと読みにくいので、事実問題に絞って、端折って転載します。

と言いつつ、やはり書き足したくなるので、ネットから情報を拾って追加。

1.記事の掲載の経過

植村隆さんは1958年生まれ、1982年に朝日新聞に入社している。

1991年8月、当時朝日新聞の大阪本社勤務だった植村さんは、ソウル支局から慰安婦の一人(金学順さん)が体験を証言したという情報を得た。上村さんはソウルで取材の上、署名入り記事を掲載した。同じ記事は翌日全国版にも掲載された。この時は金さんは匿名であった。

記事によれば、「韓国挺身隊問題対策協議会」が、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した、とされる。
植村さんは延世大留学の経験があり、韓国語も堪能だったことから、取材を担当することになったものと思われる(本人談)。
妻は韓国人だが、この時点では無関係。したがって義母とも無関係。

数日して、今度は金学順さんが名乗り出て記者会見を行った。そのあと北海道新聞が金学順さんとの単独インタビューを行い。報道した。金学順さんは日本政府の提訴に踏み切った。

これ以上の取材は無理だと思い、大阪へ帰ったのです。しかし数日後、金学順さんが名前を出すことを決意した。それを北海道新聞にスクープされてしまったんです(本人談)

2.その後の植村さんの足どり

その後、植村さんは大阪本社からテヘラン支局、ソウル特派員、外報部などを歴任し、2009年から北海道報道センターで勤務した。1992年以降、朝鮮人慰安婦に関する記事はまったく書いていない。

そして朝日新聞勤務を続けながら、2012年からは北星学園大学の非常勤講師に就任している。

13年12月には、神戸松蔭女子学院大学に公募採用された。この時専任教授として雇用契約を結び、引っ越しの準備に入った。朝日新聞は退社の予定であった。

3.週刊文春による攻撃開始

集中攻撃は14年の1月末に始まった。

1992年から、西岡力氏は記事の「事実誤認」を指摘(文藝春秋)していたが、98年ころから「事実誤認」ではなく「捏造」と呼ぶようになったという。呼び変えの根拠は目下不明。(提訴状による)
西岡氏は、「植村が強制連行と書いたから捏造だ」というが「連行」としか書いてない。“強制”は西岡氏の捏造だ。(本人談)

週刊文春の2月6日号に植村さんを攻撃する記事が掲載された。見出しは「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」というもので、当初より“捏造”のレッテル貼りが行われていた。

報道の直後から松蔭には植村さんの解任をもとめるメールなどが殺到した。これを嫌った松蔭は植村さんに就任辞退を求め、話し合いの結果、3月に契約は解除された。メールに脅迫的内容があったどうかは不明。

その後、捏造攻撃には櫻井よしこ氏も加わった。彼女は各誌に論文を掲載し、さらに自らのホームページに転載。捏造との批判を繰り返した。

「櫻井よしこ植村隆と吉田清治にガチキレ!!朝日慰安婦問題でほえまくる!! 」というyoutubeがあったが、残念ながら現在は閲覧不能となっている。

4.北星への攻撃

5月初めころから、北星に植村さんの解雇をもとめるメール、電話などが本格化した。右翼は北星を次の標的とすることで意思統一したようだ。5月末には最初の脅迫文も届けられる。

週刊文春の8月14日号が植村追い出しキャンペーンの第二弾。見出しは「慰安婦火付け役、朝日新聞記者は、お嬢様大学クビで北の大地へ」とさらにえげつなさをアップした。ほぼ同時にyoutubeにも大学との問答を録音したファイルがアップされた。これは「はだしのゲン」問題で松江の教育委員会を脅した在特会のやり口(威力業務妨害)と瓜二つである。

これを機に、北星への電話やメールによる攻撃は一気にヒートアップした。

高校生の娘の顔写真がネットにさらされ、「反日活動で稼いだカネで贅沢三昧に育ったのだろう。自殺するまで追い込むしかない」と書かれた。長男と同じクラスの同姓の子まで顔写真がさらされた。週刊誌の記者が自宅に張り付いて盗撮したり、近所に聞き込みをかけた。(本人談)

そしてついに爆弾騒動が持ち上がるのである。

9月12日、北星へ電話があった。「まだ勤務しているのか。爆弾を仕掛けてやるからな」という内容で、どこからどう見ても立派に犯罪である。

ほぼ時を同じくして、帝塚山学院大学にも脅迫状が届いた。松蔭、北星に続く第三の標的である。この大学にも朝日新聞の記者だった人がいて教授を務めていた。「止めさせないと爆破する」との脅迫を受けた教授は、その日の内に辞職した。

10月には桜井氏が週刊新潮で植村叩きの挙句に、大学攻撃を焚きつけるかのような相当際どい表現に踏み込んでいる。

年配の人なら、およそ全員が両者は別物と知っていたはずだ(“はずだ”ではすまない。捏造というからには証明しなければならない)
女子挺身隊と慰安婦を結びつける虚偽の記事を書いた植村氏は…捏造報道の訂正も説明もせず頬被りを続ける…。
教壇に立たせ学生に教えさせることが、一体、大学教育のあるべき姿か…

とりあえず、上げておく。

議論のキーポイントは、年配の人なら、およそ全員が両者は別物と知っていたはずだ  というところにある。

韓国では年配の人は挺身隊イコール慰安婦と考えていたから、救援組織が「挺対協」と名乗ったのではないか?

これは誤用か否かの分かれ目だ。誤用であった言葉が慣用となり、辞書にも載るようになるというのは良くあることだ。韓国で慣用されていたのなら、誤用ではなくなる。

しかしそれは捏造か否かの分かれ目ではない。

1.挺身隊と慰安婦はそもそも別物である。

2.しかし当時の韓国では慰安婦を挺身隊と呼ぶのが一般的だった。これは世をはばかるための方便だったのかもしれない。

3.それを広義で「誤用」ととったとしても、そのことについて記者に責任はない。まして「捏造」という根拠にはならない。

4.吉田論文と結びつけるのは牽強付会であり、植村さんが吉田論文を批判していた事実と著しく背反する。

ということで、どうやら“誤認逮捕”に近い様相を呈している。右翼の諸君は相当逆ねじを食らわされることになりそうだ。

それにしても、一般市民を相手に、“誤認逮捕”であろうと“便乗攻撃”であろうと、やりたい放題のやり得で、やられる方はやられ放題の泣き寝入りというのは、法治国家としてあるまじきことだろう。

これでは文化大革命のときの紅衛兵と同じではないか。「守旧派だ!」と叫べば何でも許される状況が日本で再現されようとしている。立法・行政サイドの無作為が問われるきわめて深刻な事態だ。


以下のメールが来たので、ブログ上に公開しておきます。

北星大学への「植村隆元朝日新聞記者解雇要求」について NHKで報道されるとの情報が来ました。 「言論の自由」「ジャーナリズムの良心への圧殺」が問われる事態だと思い お伝えいたします。
 記者が書いた記事の内容が問われ、家族も含めネット上で攻撃され 高校生の娘さんの顔写真まで載せられ「自殺に追い込め」などの攻撃がされるなどの非道な攻撃は 決して許されるものではないと感じています。
 
 11月中旬 植村さんの講演会に参加しました。私自身よく知らなかったのですが、植村さんはいわゆる「吉田証言」には全く関与しておりません。
 また問題となった1990年代の植村氏の「従軍慰安婦」記事の内容に 「女子挺身隊」と書いてあったことを読売新聞などは攻撃材料として挙げて いますが、「従軍慰安婦」とされた最初の女性が名乗り出た当時は 読売新聞やその他の新聞も 当時韓国で使う「女子挺身隊」の言葉が「従軍慰安婦」と同義 の言葉として使われていたため新聞紙上でもそのまま使っていました。読売新聞自身 当時同義で使っていたことを 読売新聞紙上で小さな扱いで当時同義とし て使っていたことも お詫び訂正しています。

いろいろ知らなかったことがありますが、ことは無実かどうかではないと思います。
この際、慰安婦問題を「無かったことにはさせないぞ」という一点で、「朝日党」になるべきでしょう。


以下のメールが送られてきた。及ばずながら、私も賛同人に登録した。読者の皆さんにも賛同を呼びかける。


北星学園大学を応援する「負けるな北星!の会」(略称マケルナ会)賛同人のお願い

                                 マケルナ会準備会一同                 
すでに新聞で報じられているとおり、北海道札幌市の私立北星学園大学に5月以降、
非常勤講師を務めている元朝日新聞記者、植村隆さんの解雇を求め、「辞めさせないと爆破する」との脅迫状が複数回届き、抗議の電話、メールも大量にきています。
これに対し、大学が脅しに屈しないよう、応援する意味を込めた「負けるな北星!の会」(略称マケルナ会)が10月6日、発足することになりました。
会では今後、大学への申し入れや署名活動などで、大学に応援メッセージを届けていく予定です。

呼びかけ人には、作家の池澤夏樹さん、思想家の内田樹さん、山口二郎北大名誉教授、小森陽一東大教授、姜尚中・聖学院大学学長、香山リカさん、小林節慶応大名誉教授らが名前を連ねています。賛同人には、元自民党幹事長の野中広務さん、上田文雄札幌市長らが加わっています。急速に増え、2日時点で、呼びかけ人、賛同人であわせて200人近くになっています。

植村さんは23年前、元日本軍慰安婦の韓国人女性の本格的な体験談を記事にした方です。慰安婦の問題で意見があるなら、匿名の脅しではなく、正々堂々と議論をすればいいことです。
植村さんの奥様は韓国人です。高校生の娘さんは、匿名のネットの書き込みで、実名と顔写真をさらされ、
人種差別的表現で「死ね」と脅されています。大学への脅迫や、こうした人権侵害は社会を萎縮させ、学問、言論の自由を脅かします。

その中で、勇気ある市民、学者や弁護士のみなさんが立ち上がり、会に実名で名前を連ねました。
会発足の記者会見は、6日午後2時から、東京と、札幌で同時に行います。

賛同人になっていただける方は、

    ①名前
    ②肩書き(現職、元職、主婦など)
    ③都道府県(道内なら市町村)
    ④名前公表の可否
    ⑥メールアドレス
    ⑦電話番号

を記し、会のメルアド 
makerunakai@yahoo.co.jp まで御連絡ください。

また、抗議メールに対抗し、北星学園大学を支援するため、大学ホームページ 
http://www.hokusei.ac.jp/ 
から、メールを送る呼び掛けも行っています。民主主義を守るため、どうかご協力ください。

大学は、植村さんの次年度の契約更新を躊躇し始めています。北星学園大学を孤立させないよう、
みなさまのお力をお貸しください。

時節柄あまり良い例えではないので気が引けるが、「歴史を偽造するものは誰か」を読んだ感想。
可愛い女の子がいて、近所に変質者がいたとする。
この子をとっ捕まえて、嫌がるのを無理やり車に押し込んで連れ去る。これは立派な誘拐だ。
しかしキャンデーをあげて、「もっと欲しかったらついておいで」と騙して連れ去ったら、これは誘拐ではないのか?
確かに誘拐という行為は、強制を伴うわけで、連れ去る行為において誘拐行為であったか否かも問題にはなる。しかしそれは事の本質ではない。誘拐の本質は監禁にある。もっと言えば監禁して慰みものにしようという邪悪な意志にある。
もし少女誘拐事件で裁判になったらこういうことになるだろう。
暴力的に連れ去ったのではなく、自発的についてきたのだとしたら、それは情状酌量の余地を残すだろう。しかし誘拐罪という罪名はそれによって消え去ることはないだろう。

それでは下記のような事例はどのように判断されるだろうか。
「帰宅する途中、釜山駅近くの路地で日本人と朝鮮人の男性二人に呼び止められ、『倉敷の軍服工場にお金を稼ぎに行かないか。』と言われ、承諾もしないうちに、船に押し乗せられてラバウルに連行された」
「『日本人の紹介するいい働き口がある』と聞いて行ったところ、日本人と朝鮮人に、芙江から京城、天津を経て〈中国各地の慰安所に〉連れて行かれた」
「日本人と朝鮮人が来て、『日本の工場に働きに行けば、1年もすれば嫁入り支度もできる。』と持ちかけられ、断ったものの、強制的にラングーンに連れて行かれ、慰安所に入れられ〈た〉」
「日本人と朝鮮人の青年から『金儲(もう)けができる仕事があるからついてこないか。』と誘われて、これに応じたところ、釜山から船と汽車で上海まで連れ て行かれ、窓のない三〇ぐらいの小さな部屋に区切られた『陸軍部隊慰安所』という看板が掲げられた長屋の一室に入れられた」
これらはすべて強制連行と認定されている。  広島高裁判決(2001年3月29日)

ついでに下品な話。むかし学生時代、こういうヒソヒソ話があった。「強姦するとき、ハンカチ1枚下に敷いてあれば和姦で、強姦にはならない」
「まさか?」と言わせるための「都市伝説」だが、もし、まじめに考えている人がいるとすれば、それはほとんどキ印である。それが世間の常識ではないだろうか。

“歴史を偽造するものは誰か―「河野談話」否定論と日本軍「慰安婦」問題の核心”

という長大論文が出た。思わず身を引きかけるが、やはり読んだ上で中身を紹介しなければならないだろう。

要するに「吉田証言」問題と、これを利用した大キャンペーンへの反撃である。基本線は前の志位論文と変わりはない。

その前に、参考までに、これまでの歴史認識をめぐる原稿を表示しておく。

             

1904年(明治37年)

2月04日 日本、対露開戦を決定(緊急御前会議)

1月23日 韓国、日ロ開戦の際は中立の立場をとると声明。

04年2月

2月04日 緊急御前会議が開かれ、対露開戦を決定。

2月06日 小村外相が、ロシア公使に国交断絶を通告。栗野公使がロシア政府に国交断絶を通告。

2月06日 聯合艦隊(第一艦隊、第二艦隊)が佐世保を出港。旅順に向かう。

2月08日 陸軍第12師団(小倉)の一部が仁川港に上陸。

2月08日 第一艦隊の駆逐艦数隻が旅順口を夜襲攻撃。港外に停泊していたロシア艦艇数隻に損傷を与えた。

2月09日 仁川沖で上陸部隊の護衛にあたった第二艦隊第4戦隊が、仁川港停泊中のロシア艦を攻撃。巡洋艦ヴァリャーグほか1隻を自沈に追い込む。

2月09日 連合艦隊主力が旅順港外のロシア艦隊に砲撃。双方被弾を受け戦闘終了。その後連合艦隊は旅順港を離脱し、牙山湾に向かう。

2月10日 日本、ロシアに対し宣戦布告を行う 日露戦争勃発。清は中立の立場をとる。詔勅に曰く、「韓国の存亡は実に帝国安危の繋がるところ」と。

2月11日 日本軍上陸部隊がソウル市内に入る。一部はそのまま北上し、平壌の確保を目指す。

2月11日 日本、大本営を宮中に設置

2月17日 日本、ロンドン市場での英貨公債募集を閣議決定。当時の国家予算2億5千万円。その6倍の戦費が予想される。

2月23日  林公使、高宗に日韓議定書を強制。開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動が可能となる。

第一条 …東洋の平和を確立するため、大韓帝国政府は大日本帝国を確信し、施設の改善に関しその忠告を容るること。
第四条 …大韓帝国の…領土の保全に危険ある場合は、日本はすみやかに臨機応変の措置をとるべし。而して大韓帝国政府は…十分便宜を与うること。日本は…軍略上必要な地点を使用するを得ること。

2月24日  ロシア旅順艦隊は正面決戦を避け旅順港に待機。日本軍は第1次旅順口閉塞作戦を展開。輸送船5隻を沈めようとするが、湾口に至る前に沈没。

04年3月

3月06日 日本艦隊、ウラジオストック港を砲撃

3月11日 日韓議定書を受け、韓国駐剳(ちゅうさつ)軍司令部が設置される。

3月11日 平壌の外港の鎮南浦に近衛師団と第2師団が上陸を開始。

3月27日 第2次旅順口閉塞作戦。いずれの船も目標到達前に撃沈される。この作戦で広瀬武夫少佐が戦死。

3月29日 鎮南浦の上陸作戦が完了。陸路北上した第12師団と合流し、第1軍(黒木司令官)を編制。

04年4月

4月13日 海軍、旅順港の機雷封鎖を試みる。旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスク、触雷により撃沈。ロシア太平洋艦隊のマカロフ司令官が戦死。

4月25日 ロシアのウラジオストク巡洋艦隊が元山を砲撃。さらに通商破壊戦を展開。輸送艦金州丸を撃沈。

4月26日 第一軍、鴨緑江渡河作戦を開始。

04年5月

5月01日 鴨緑江会戦。日本第1軍がソ連軍東部兵団の拠点の九連城を占領。

5月03日 第3次旅順口閉塞作戦。結局、閉塞作戦は失敗に終わる。

5月05日 第二軍(奥司令官)が遼東半島西岸の塩大墺に上陸。大連確保を目指し金州城・南山へ向かう。

5月15日 ロンドン・ニューヨークで外債募集開始。

日銀副総裁の高橋是清は、ロンドンで500万ポンドの外債発行に成功。さらにニューヨークの金融街からも500万ポンドの外債引き受けと追加融資を獲得。

5月15日 旅順攻撃に参加した戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈。巡洋艦「春日」が「吉野」に衝突。「吉野」が沈没する。

5月18日 韓露間のすべての協約が破棄される。

5月19日 独立第10師団、大狐山に上陸。後に第4軍として拡大再編される。

5月25日 第二軍、金州城への攻撃を開始。

5月26日 金州城を占領。引き続き南山陣地への攻撃を開始。塹壕戦で守るロシア軍により死傷者4,000の損害を受ける。ロシア軍は弾を撃ちつくし退却。

5月30日 第二軍、大連を占領。

5月31日 海軍の封鎖失敗を受け、旅順攻撃を主任務とする第3軍が編成される。乃木希典中将が司令官に任命される。

04年6月

6月08日 第3軍司令部が大連に到着。第2軍の第一、第十一師団を加え編成を完了。

6月13日 日本第2軍が北進を開始。ロシアも旅順救援のため4万の兵力を南下させる。

旅順孤立を受け、ロシア極東総督アレクセーエフと満州軍司令官クロパトキンとが対立。クロパトキンは全軍を遼陽付近に集中して日本軍を迎え撃つ方針だったが、アレクセーエフの旅順救援の主張に応じ、軍の一部を南下させた。

6月15日 南下したロシア軍と第二軍(3万3千)が得利寺で対決。陣地戦に入ろうとしたロシア軍に対し、日本軍が両翼からの回り込みに成功。ロシア軍はこれを見て撤退。

6月15日 ロシアのウラジオ艦隊が対馬海峡で輸送船常陸丸、和泉丸を撃沈する。

6月20日  日本の満州軍総司令部が編成される。総司令官は大山巌元帥、総参謀長は児玉源太郎大将。なお海軍をふくめた日本軍の参謀総長は山縣有朋。

6月23日  日本艦隊、第三軍と呼応して、ロシア艦隊と旅順港外で交戦

6月 明石元二郎大佐、大使館付武官として情報活動をはじめる。革命運動への支援工作を進める。

04年7月

7月26日  日本第3軍、旅順攻撃を開始

04年8月

8月07日 第3軍が旅順要塞の前面に広がる大狐山と小狐山のロシア軍陣地を砲撃。これに呼応して海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始。

8月08日 日本軍が元山に上陸。ウラジオから派遣されたロシア軍陸軍部隊を駆逐。

8月10日 黄海海戦。補給路を絶たれたロシア旅順艦隊は旅順を出港。ウラジオストクに向かおうとする。港外の日本連合艦隊との間で砲撃戦が開始。ロシア艦隊は旗艦「ツエザレウィチ」が被弾するなど、大きな損害を受けて旅順へ引き返す。

8月12日 ウラジオストックのロシア艦隊が旅順救援のため出港。

8月14日 蔚山沖海戦。日本第2艦隊が蔚山沖でウラジオストック艦隊3隻の捕捉に成功。1隻が航行不能となり、2隻はウラジオ港に引き返す。

8月19日   第3軍が第1回旅順総攻撃を開始。死傷者1万5千人の大損害を受け失敗。

8月21日 旅順で歩兵部隊の突撃攻撃が繰り返されるが、いずれも大量の犠牲を出し敗退。

8月22日 第1次日韓協約の調印。韓国政府の主要部門に日本人顧問が置かれる。これにより外交権が事実上奪われる。

8月24日 第1,2,4軍からなる満州軍が遼陽に迫る。

8月24日 ロシア、バルチック艦隊の派遣を決定。

8月26日 遼陽会戦が始まる。日本軍13万、ロシア軍約22万が激突。第2軍、第4軍が正面、第1軍が右側面を攻撃。正面は首山堡でロシア軍の強力な反撃を受け停滞。

8月31日 第1軍が右側面からの進出に成功。遼陽東北の饅頭山を確保。ロシア軍の退路を絶つ構え。

04年9月

9月04日 ロシア軍(クロパトキン司令官)は無傷で奉天方面へ撤退。橘中佐の奮戦が大宣伝される。

9月15日 元山を出発した日本軍1個師団と1個旅団が咸興を占領。

9月19日  第2回旅順総攻撃。203高地以外の作戦目標をほぼ達成。

04年10月

10月09日 沙河会戦。クロパトキン軍が反撃したため沙河の線でにらみ合いとなる。

10月15日 バルチック艦隊(ロジェストヴェンスキー司令官)が日本に向け出港。

11月26日   第3回旅順総攻撃が開始される。203高地の攻略は児玉源太郎が指揮。

12月04日 203高地の占領を達成。その後も東北方面への攻撃を続行。

12月31日 第4回旅順総攻撃を開始。

 

1905年(明治38年)

05年1月

1月02日 東北方面の防衛線を突破して望台を占領。これを受けてロシア軍のステッセル司令官は降伏。ここまでで日本軍は6万の死者を出す。

1月05日 乃木、ステッセルの両将軍、水師営で会見

1月22日 血の日曜日事件が発生。生活苦の打開・立憲政治の実施・日露戦争の即時停止などを求めてデモ行進していた民衆に対して軍が発砲。第1次ロシア革命が勃発する。

1月25日 満州のロシア軍、援軍を受け反撃に出る。日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で激戦となるが、戦線突破できず。

1月28日 ロシア軍、黒溝台からの撤退を指示。

1月29日 平民新聞、廃刊に追い込まれる。

2月21日 奉天会戦が始まる。旅順の戦いを終えた第3軍が満州戦線に参加。奉天に向け進軍開始。ロシアは予備を投入し抵抗。左翼の第3軍に攻撃が集中。

05年3月

3月10日 クロパトキン司令官が奉天撤退。満州軍が奉天を占領。ロシア軍のヒットアンドアウェイ戦法の前に満州軍は満身創痍となる。

3月 ロシア軍は昌図・開原の線に新たな防御線を設定。バルチック艦隊の到着を待つ。

05年4月

4月21日 日本、講和条約大綱を閣議決定

05年5月

5月01日 日本、樺太上陸作戦を準備(第13師団担当)

5月27日 日本海海戦。バルチック艦隊は艦艇のほとんどを失い、司令長官が捕虜になる。日本の喪失艦は水雷艇3隻にとどまる。

05年6月

6月01日 日本の高平公使、ルーズヴェルト大統領に日露講和の斡旋を希望

6月09日 ルーズヴェルト大統領、正式に日露両国に講和を勧告

6月12日 ロシア、講和勧告を受諾。

6月14日 戦艦ポチョムキン号の反乱が発生。ロシア第一次革命が拡大。

05年7月

7月03日 小村寿太郎外相、高平小五郎駐米公使を講和全権委員に任命

7月07日 日本の第13師団、南樺太に上陸

7月24日 日本軍、北樺太に上陸を開始

7月29日 米陸軍のエドワード・タフト長官が訪日し桂首相と会談。極東における両国の勢力範囲を定めた桂-タフト覚書が成立。米国のフィリピン領有と朝鮮における日本の特殊権益を承認。

7月31日 樺太のロシア軍が降伏

05年8月

8月10日 アメリカのポーツマスで、日露講和会議がはじまる。日本は樺太の割譲、遼東半島の割譲、朝鮮の支配権、賠償金を要求。ロシア側はこれらを全面拒否。

8月12日 第2回日英同盟協約調印。

8月23日 日本、南樺太の割譲と12億円の賠償金をもとめる。ロシアは賠償金について全面拒否。

05年9月

9月01日 咸鏡道の日本軍、ロシア国境の豆満江河畔に達する。

9月05日 日露講和条約調印。日本は賠償金を断念。領土(南樺太)、権益(朝鮮)要求を認めさせる。

犠牲者の数字を見る限りはとても勝利とはいえない。ロシア側の被害は戦死者2万5331人、負傷者:6127人、病死:1万1170人。これに対し日本側は総動員数107万人。うち戦死者4万7152人、負傷者:1万1424人、病死:2万1802人であった(一説では死傷者21万人)。逆に言えば見事な外交上の勝利であったとも言える。

9月05日 日比谷焼打事件。3万人の講和反対集会。一部が暴徒化し警察、新聞社のほか米大使館にも襲撃。

9月06日 東京市、および東京府の5郡に戒厳令

05年10月

10月15日 日露講和条約の批准通告・発効

10月16日 日本、日露講和条約を公布、さらに平和回復の詔勅を下す

10月30日 ニコライ2世が、立憲政体の採用と国会の開設を約束。ロシア第一次革命は収束に向かう。

05年11月

11月17日 講和条約を背景に、第2次日韓協約(乙巳保護条約)が調印される。この条約に署名した韓国政府閣僚は乙巳五賊と呼ばれる。

第一条: 日本は…今後韓国の外交に関する関係を管理指揮する。第二条: 韓国は今後日本の仲介によらずして国際的条約もしくは約束をなさざることを約す。

05年12月

12月21日 第1次桂太郎内閣総辞職

12月22日 満州に関する日清条約調印

1907年 帝国国防方針が決定される。第二次日露戦争を想定し、平時25師団、戦時59師団の計画。朝鮮軍の増強が焦点となる。

この後の経過は韓国戦後史年表 0へと続く

 

 

一般にウィキペディアの朝鮮・韓国史に関する記載は嫌韓・右翼の色彩が強い。しかし「日韓併合条約」の項目はあまりにひどい。そこに書かれているのは併合合法論擁護の記載のみだ。条約の正文すら記載されていない。

2ちゃんねる風に言えば、「スレ違い」もいいところだ。どうしてクレームがつかないのか不思議だ。

とりあえず、他のページから転載しておく。中身を読めばいかにひどい条約であるかは一目瞭然だ。

韓国併合に関する条約

(1910.8.22調印、8.29公布)

1.日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下は、両国間の特殊にして親密なる関係を顧ひ、相互の幸福を増進し、東洋の平和を永久に確保せむことを欲し、

2.此の目的を達せむが為には、韓国を日本帝国に併合するに如かざることを確信し、

3.茲に両国間に併合条約を締結することに決し、

4.之が為、日本国皇帝陛下は統監子爵寺内正毅を、韓国皇帝陛下は内閣総理大臣李完用を、各其の全権委員に任命せり。

5.因て右全権委員は合同協議の上左の諸条を協定せり

ここまでが前文。「、。」と濁点、番号、段落は私が付けたもの。
肝心なことは、日本と韓国の合併ではなく、日本が韓国を吸収合併し、我がものとするということだ。

第1条 韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を、完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す

第2条 日本国皇帝陛下は、前条に掲けたる譲与を受諾し、且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す

第3条 日本国皇帝陛下は、韓国皇帝陛下・太皇帝陛下・皇太子殿下並、其の后妃及後裔をして、各其の地位に応し相当なる尊称・威厳及名誉を享有せしめ、且之を保持するに十分なる歳費を供給すべきことを約す

第4条 日本国皇帝陛下は、前条以外の韓国皇族及其の後裔に対し、各相当の名誉及待遇を享有せしめ、且之を維持するに必要なる資金を供与することを約す

第5条 日本国皇帝陛下は、勲功ある韓人にして、特に表彰を為すを適当なりと認めたる者に対し、栄爵を授け、且恩金を与ふべし

第6条 日本国政府は、前記併合の結果として、全然韓国の施設を担任し、同地に施行する法規を遵守する韓人の身体及財産に対し、十分なる保護を与へ、且其の福利の増進を図るべし

第7条 日本国政府は、誠意忠実に新制度を尊重する韓人にして、相当の資格ある者を、事情の許す限り韓国に於ける帝国官吏に登用すべし

第8条 本条約は日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものにして、公布の日より之を施行す

 右証拠として両全権委員は本条約に記名調印するものなり

明治43年8月22日 統監子爵    寺内正毅

隆煕4年8月22日 内閣総理大臣  李完用 


第1条だけあればほかはどうでもよい。

なぜなら、具体的な内容はすでに数次の日韓協定などですべて完了しているからだ。

その代わり、第一条は見るからに異様な条文だ。これでもかというくらい「全部、一切、完全、永久」と1行の中に詰め込んでいる。これだけでも異例さが際立つ。

企業の吸収合併と見れば話はわかりやすい。株式の取得も終了し、役員もすでに要所に送り込み、残るのは旧会社の看板を引き下ろすだけだ。

つまりこの条約は、旧会社の存続への動きや抵抗の可能性を完膚なきまでに押し潰すための条約だといえる。

あとは旧会社の役員・社員もおとなしく言うとおりにしていれば、それなりに処遇しますよということだ。

ただし、書かれていないが、それゆえに重要なことがある。それは韓人を日本人として平等に処遇するとは一言も書いていないことだ。

韓人であるということは、合併した親会社の正社員ではなく2級国民でしかないということだ。しかも例外もなく、永久的に2級国民だということだ。

有史以来の朝鮮民族の正統性、日朝の関係を見れば無礼という他ない。

なお、「合法・無効論」はまったくつまらない議論である。「悪法も法である」という意味では合法であったし、40年近く実効性を保ち続けたわけだから、有効であったことも間違いない。

それは治安維持法や「満州国」が「合法」で「有効」であったのと同じ意味でしかない。


1896年(明治29年)

2月09日 朝鮮政府内の親露派が朝鮮皇帝の高宗を確保し、ロシア公使館に移す(露館播遷)。

2月11日 親露派のクーデターが成功。王室内の親日派が全滅し、日本は政治的に大きく後退。

3月 造船奨励法、航海奨励法公布。各種増税法公布。

3月31日台湾総督府条例公布により、軍政から再び民政に移行

4月1日 大本営の解散

4月20日 日本勧業銀行法・農工銀行法など公布

5月01日 小村外相がソウルでロシア公使と第一次日ロ議定書(小村・ウェーバー協定)を交換。日ロ両軍が“居留民保護のため”ソウル、釜山、元山に兵員を配置することで合意。

6月03日 李鴻章、ロシアと対日共同防衛の密約を結ぶ。ロシアは満州を縦断してウラジオに至る東清鉄道の敷設権を獲得。

6月09日 ニコライ二世の戴冠式に出席した山県特派大使、露外相ロバノフと朝鮮問題第二次議定書(山県ロバノフ協定)に調印。朝鮮への対等な権益、朝鮮警察・軍への不干渉で合意。

7月21日 日清通商航海条約(不平等条約)締結。

7月 李氏朝鮮でも英米露仏などに鉱山採掘権、鉄道敷設権などが供与される。

10月12日 李氏朝鮮の高宗、ロシア公使館から王宮に帰り、皇帝として即位。国号を大韓帝国と改称する。ロシアの要求により、イギリス人海関税務司を解任し、ロシア人アレクセーエフを登用。

11.14 ドイツ軍艦、膠州湾を占領

12月15日 ロシア軍艦、旅順入港 

 

1897年(明治30年)

10月12日 朝鮮国、国号を大韓帝国に改称。朝鮮国王も大韓皇帝となる。

 

1898年(明治31年)

3月27日 ロシアは清国から大連・旅順の租借権と、ハルビン-大連間の鉄道敷設権を獲得。ドイツが膠州湾の租借権、膠済鉄道敷設権、鉱山採掘権を獲得。

4月25日 西・ローゼン協定。朝鮮において日露が政治的に対等であることを確認。

9月21日 戊戌(ぼじゅつ)政変

98年 イギリスが九龍半島と威海衛(威海)を租借。

 

1899年(明治32年)

3月 中国山東省で義和団が蜂起。「扶清滅洋」を唱え、急速に勢力を拡大。

9月06日 米西戦争が終了。フィリピンを併合したアメリカは、ジョン・ヘイ国務長官が門戸開放宣言を発表。

99年 フランスが広州湾を租借。

1900年(明治33年)

6月20日 義和団、北京の各国領事館を包囲。北清事変と呼ばれる。清の西太后は義和団を支持し、各国に宣戦布告する。

7月 米・英・仏・ロ・日など8カ国が共同出兵。ロシアは混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置く。

1901年(明治34年)

9月07日 清国、義和団事件の最終議定書に調印。

10月08日 林董(はやし・ただす)駐英公使、イギリスと同盟交渉開始。イギリスは、ロシアの南下に危機感を持ち、「栄光ある孤立」外交を転換。

12月02日 伊藤博文、ロシア外相と日露協定について交渉を開始

12月06日 伊藤博文、日露協定を先決とし、日英同盟締結の延期を桂首相に勧告する。

政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続いた。

12月23日 伊藤博文、ロシア外相に日露協定交渉打ち切りを通告

1902年(明治35年)

1月30日 第1回日英同盟協約が調印される。日本が二国以上と戦う時は、イギリスの参戦を義務づける。日露が戦った場合、清が参戦すれば英国も参戦するということになり、清は動けなくなる。

4月08日 ロシアと清の間で満州還付条約調印。3段階の撤兵計画が確認される。

4月21日 桂太郎首相・小村寿太郎外相・伊藤博文・山県有朋、京都で対ロシア方針を協議。

山縣の別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による会談。記録類によればむしろ伊藤の慎重論が優勢であったとされる(ウィキペディア)

6月14日北京駐在の各国公使、義和団事件の賠償金についての配分議定書に調印

 

1903年(明治36年)

2月7日 ロシア、満州からの第2次撤兵を中止。実質的領土化を図る。

4月18日 ロシアは満州還付条約を履行せず。撤兵の交換条件として7項目要求を持ち出す。清は要求を拒否。

5月 ロシア軍、鴨緑江を越えて大韓帝国領内の龍嚴浦に、軍事根拠地の建設を開始。

6月30日 内村鑑三、万朝報で非戦論を展開。

内村の非戦論はちょっとピンぼけのところがある。内村は、日清戦争は結局「利欲のための戦争」であったとする。その結果、「朝鮮の独立は却て弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、東洋全体を危殆の地位にまで持ち来つた」と非難している。結局何をもって戦争反対の理由としているかが分からない。

7月23日 林董駐イギリス公使、日露交渉開始についてイギリスの諒解を求める。

8月12日 ロシア、旅順に極東総督府を設置。

8月12日 栗野慎一郎駐ロシア公使、ロシア政府に、6ヵ条の日露協商基礎条項提出。中国東北部・朝鮮半島に関する交渉開始

日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかしロシア側では主戦論が優勢であった(ウィキペディア)

8月29日 戦争回避論をとなえたウィッテが大蔵大臣を更迭される。

10月03日 ロシア、日本の提出した日露協商基礎条項を拒絶、対案を提出。小村外相とローゼン駐日ロシア公使との交渉開始

ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。朝鮮の側から見ればじつに勝手なものである。

10月08日 日米が歩調をあわせ、清との追加通商条約。安東、大東溝の開港と奉天の開市を認めさせる。

10月28日 ロシアが奉天を武力占領。清の軍を城外に退去させる。

11月15日 万朝社を退社した幸徳秋水、堺利彦らが「平民新聞」を発刊。唯一の反戦派新聞となる。内村鑑三も退社するが、平民新聞には加わらず。

12月28日 聯合艦隊が編成される。東郷平八郎が司令長官に就任。

12月30日 日本、戦争が勃発した際の清国・大韓帝国に対する方針を閣議で決定

 

日清戦争と日露戦争 イデオロギーの違い
もちろん本質的にはどちらも侵略戦争であったことに変わりはない。
しかし日清戦争はわかりやすい。
日本政府は決して日清戦争が自衛戦争だとは言っていない。
明白に朝鮮に対する介入戦争であった。西郷隆盛と同じ論理である。
そのイデオロギーとは、アジアが清のように進むか、日本のように進むかという選択を朝鮮に迫るものであった。
ヨーロッパ列強の模倣を必然的なものとし、それを朝鮮に押し付けようとするものでもあった。
しかしそのために王室内派閥の中でもっとも保守的で頑迷固陋な派閥を持ち上げるというのは歴史の皮肉であったのかもしれない。
井上馨と大院君の会話はそういう文脈で読むと極めて面白い。井上馨にはミコヤンみたいなところがある。
清の路線を続ければ、アジアはやがて滅びるという強い危機感が、日本の側にはあった。それは確かだろう。



「東京裁判」でグーグル検索をかけると、ネット右翼の花盛りである。

東京裁判で何が明らかにされどんな罪が断罪されたのかはさっぱりわからない。

やっとひとつまともな論文を発見したので紹介する。

「東京裁判における日本の東南アジア占領問題: 検察側立証を中心に」という題名で、梶居佳広さんという方の書かれたものである。立命館の客員研究員という肩書になっている。

なにしろ、うかつなことは書けないからどうしても物言いが慎重になる。そのせいかどうか分からないが、かなり読みにくい文章である。

 

はじめに

東京裁判とは「真珠湾への道」を究明し,そこに至るまでの責任者を処罰した裁判といえる。

同時に侵攻した地域で日本軍が何をしたかについても,「BC 級戦争犯罪」ととして一定程度追及している。

本稿は東京裁判『速記録』を手掛かりに、東南アジアの人々に関わって発生した諸問題を整理・検討する。

Ⅰ.東京裁判における東南アジア問題の概観

⑴ 起訴状

46年5月3日、東京裁判で起訴状が朗読された。

起訴状は、

1.日本の利益のために被征服国民の人的経済的資源を搾取し,公私の財産を掠奪し,

2.都市村落に対し軍事上の必要以上濫りに破壊を加え,

3.無力な一般民衆に対し大量虐殺,掠奪,凌辱,拷問その他の野蛮なる残虐行為を加え、

と指摘している。

⑵ 審理

検察側立証で論及されたのは

第5部 「仏印に対する侵略」,

第8部 「太平洋戦争」中の「和蘭に対する侵略」,

第9部 「戦争法規違反,残虐行為(BC 級戦争犯罪)」

においてである。

なお中国大陸における中国人への残虐行為は第3部 「支那事変」段階で扱われている。

⑶ 判決

「BC 級戦争犯罪」で起訴された24被告の内,有罪の判定が下されたのは10被告(土肥原賢二,畑俊六,広田弘毅,板垣征四郎,木村兵太郎,小磯国昭,松井石根,武藤章,重光葵,東条英機)に止まり,他は証拠不十分で無罪となった。

海軍の岡敬純と嶋田繁太郎,元外相の東郷茂徳各被告らは嫌疑不十分で「BC 級戦争犯罪」については無罪判定を受けている。

一方で武藤,木村被告がフィリピン,ビルマにおける虐殺・虐待,東条被告が捕虜抑留への虐待全般,土肥原被告,板垣被告はマレー,ジャワ,スマトラ,ボルネオにおける捕虜・抑留者虐待により有罪と宣告され、死刑に処せられている。

南京虐殺事件の広田・松井両被告とあわせ,東京裁判で死刑を宣告された7 被告は全員「BC 級戦争犯罪」で有罪となっていた。

これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するとの批判に配慮し,「BC 級戦争犯罪」を重視した結果である。

「日本無罪論」として著名なパル判事(インド)は,「(中央の)指導者はなんら刑事責任を負うものでなく」,個人の行為を国際法で裁くべきでないと主張して全被告無罪と判定した。

ただし日本がアジア各地で行った残虐行為そのものは否定していない。

またベルナール判事(フランス)も、閣僚或いは軍の指揮官という地位に就いていただけの理由によって現地で発生した戦争犯罪に関する刑事責任を機械的に課すのは不当と主張している。

 

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