鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 17 国際政治/その他諸国(ほぼアフリカ)

旗の文化面、佐藤さんの「未来への意志: アフリカ取材から見た日本」という文章がとても良い。


…人が死ぬことは避けられない。しかし、人々の豊かなつながりの中では、個人の死というものは命の断絶ではなく、大きな命の一部として脈々と生き続けるのだ。大きな命を生きる人々は、ともに喜びを分かち合い、悲しみを支えあう。

…死という宿命を背負った人間が生きていくには、たんに物理的に恵まれた環境が必要なだけではなく、その死を受け入れ、大きな生を紡いでいける人々の「つながり」が必要不可欠なのだと信じている。

「大きな生」のなかに生きる個別の命、これは非常に正しい。ただ近代社会にあっては「大きな生」は、自由な個性の実現と引き換えに廃棄されている。それを「貧しさを分かち合う」未開社会に戻すことはできない。個性の「豊かさ」の内に、あらたに能動的な「大きな生」を形成していくしかない。そういうロング・レンジの課題が突きつけられているのだろうと思う。

左前方から照らしているのは夕日だろうか。あまりに表情が美しいので、新聞からコピペしておく。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/c/5c1e7709.jpg


「ルワンダ中央銀行総裁日記」をもう一度読む

学生時代に読んだ記憶がある。すでにマルクスやレーニンをかじっていた時代だったが、印象は鮮烈だった。ある意味で「ガリバー旅行記」であり、最初の読後感もSF的な爽快感だったような気がする。しかしその感じとは別に、合理性を失わない立ち位置の強靭さ、マクロな視野と生データで判断する姿勢、「誰のために?何のために?」という絶えざる問い返しは、何時までも私の脳裏に焼きついて離れなかった。

最近、経済問題の首を突っ込むようになって、いろいろ頭をめぐらせていると、ふとこの本のことが思い浮かぶようになった。あの本はルワンダのことを書いているのではなくて、世界のいろいろの国のことを書いているのではないか。あれは日記の形を取っているが、途上国のさまざまな経験を織り込んだフィクションなのではないか、そういう意味での「ガリバー旅行記」ではないか、そんな気もしてきた。

とくにブラジルの「民主化の歴史」を書いていて、これは結局「ルワンダ」の焼き直しなのではないか、と思うようになり、書棚をかき回したのである。

一晩で読みきった。しかし次の日は1時間も寝過ごして遅刻する羽目になった。

40年後のいま読み直しても、これは名著である。むしろいまだからこそ余計、名著になっている。世界は服部正也氏が主張した方向ではなく、そうなるべきではないと主張した方向へと動いてきた。その結果がかくのごとき有様である。そういう眼でもう一度40年前のスタートラインに戻るのもありうるのかもしれない。

ただ、その間に40年の歳月が流れているので、私の読み方も変わっているかも知れない。以前はこの本の後半部分、農業重視の自力更生路線が魅力的だった。今回はこの部分はいささか自画自賛の趣がないでもない。むしろインパクトを与えるのは前半部分、平価切下げに向けての諸準備とIMFや銀行筋との丁丁発止のやり取りだ。あいまに政府機構の建て直しをやっていく。このあたりはノウハウとしても大いに参考になるところ。

この40年間、世界は大いなる失敗をしでかしてきた。一番大きいのはIMF・世銀を尖兵とするネオリベラリズムの失敗だ。しかもいまだにその失敗は克服されていない。それどころか、失敗だったという認識もいまだ世界に共有されているとは言いがたい。

もうひとつは左翼の側の責任である。グローバリゼーションはネオリベラリズムとイコールではない。これは大方の認識だ。しかしどこまでがグローバリズムの必然として受容すべきか、どの点をネオリベラリズムとして峻拒すべきかの境界は必ずしも明らかではない。当然のことながら、その境界はどういう原理によって引かれるべきなのかも理論構築されてはいない。

モスクワ追従派の共産党の大方は消え去った。そのほとんどは社会民主主義にスタンスを移し、ネオリベラリズムを無原則的に受け入れている。労働者政党は既得権益確保と、独占資本の擁護のあいだを揺れ動いている。ラテンアメリカでも一時はレノバシオニスタ、文字通りの修正主義者が幅を利かせた。しかし21世紀に入ってベネズエラを先頭に各国政府が軒並み左翼化するに及んで、この問題にも一定の結論が出ようとしている。

私にはそれを定式化できるような能力はないが、とりあえずブラジルの闘いの記述を通じて、いささかの示唆は出来たのではないかと考えている。あとはこれらの事実を資本論第三部と結びつけながら整序していく作業が残されている。それは私の仕事ではないが、魅力のある作業ではある。

3月26日にマリで起きた軍事クーデター。理由が分からずにいたが、原因は北部の戦闘が不利な中で、困難な戦いを強いられた軍が反発したもののようだ。
単純な権力争いの図式でないだけに問題はむしろ深刻だ。
なぜ苦戦を強いられているかというと、北部の反乱勢力はカダフィの傭兵あがりで滅茶苦茶強いのだ。しかも敗残兵で気が立っている。
マリの北部は二ジェル川流域のわずかな地帯を除けば全土が砂漠、遊牧民トゥアレグ族の本拠地だ。こういう勇猛な部族に最新鋭の武器を持たせたらどうなるか、とても貧乏国の政府軍の手に負えるものではない。
トゥアレグ族は北部の独立だけを求めており、全土の制圧は狙っていないようだ。正直言って独立認めたほうがよさそうだ。ただし経済的に自足できるような場所ではなさそうだから、経済的な結合は保つほうがよいだろう。
武器の力だけで一時的な支配ができても、それを持ちこたえることは出来ないだろう。弾薬が尽きればそれで彼らの命運も尽きることになる。

国際社会はカダフィの再現を許すことにつながる新「国家」を承認すべきではない。

ユッスー・ンドゥールが立候補届けを出したが、受理されなかった。支持者署名が不足していたそうだ。
ンドゥールはセネガルの生んだ世界的な歌手。私もCD2,3枚は持っている。これに対しセネガル全土で「もうたくさんだ」抗議行動が巻き起こっている。各地で死者も出ているようだ。
今の大統領ワッドはなんと85歳。それなのに憲法の規定を無視して三選出馬を表明したという。計算すると独立のときは35歳くらい、第一世代がまだがんばっているということになる。しかしンドゥールもけっこうな年のはずだが…

調べたら、まだまだ若い。59年生まれ、52歳だ。『ネルソン・マンデーラ』(1986年)が最初の国際ヒットというからこのときが27歳。息の長い歌手である。
たしかに国際的舞台で進歩的な立場をとり続けている人ではあるが、名声を背景に大統領選挙に乗り出すのは、いささか疑念を持たざるを得ない。
かつてパナマでルベン・プラデスという歌手が立候補してあわやというところまで行ったことがあるが、そのあと政治道楽に飽きたのかあっさりと手を引いた。ハイチはあまりにも政治状況が過酷なので、是非については論評できない。成功を祈るばかりである。

初代大統領サンゴールの統治が80年まで続いたあと、与党社会党は徐々に力を失いワッドの率いる保守系の民主党に代わった。しかしこの政権交代は平和的に行われ、セネガルはこの地域では比較的平和な安定した国家として継続して来た。

いずれにせよ85歳にして再出馬というのは尋常ではない。ンドゥ-ルの出馬に抵抗を感じているのかもしれない。

このニュースに関してのネット情報は日本語ではない。さらに踏み込むべきか悩むところだ。

最初に、「世界政治」の紹介した時嫌な感じがしたんですね。またも泥沼だぞ、と。
案の定でした。

とりあえず、感想めいたことをひとつ、2つ。

①日本における情報量のすごいこと、ほとんど英語文献には手をつけていないのに、これだけの量です。我らが高林先生の「西アフリカ研究室」の情報には圧倒されますが、それだけではなくネット上には多数のすぐれた文献がアップされています。Wikipediaも充実しています。
これだけあると、突き合わせが可能になるので、相当精細な経過が追えます。
参照したネット文献は下記のとおりです。

(西サハラ問題研究室:高林敏之)

35年の占領:西サハラ人の抵抗キャンプをモロッコ治安部隊が弾圧 ...

このビデオはぜひ見るべきです。解説者は本質を見事に捉えています。

ポリサリオ戦線 - Wikipedia

西サハラ - Wikipedia西サハラ問題 - Wikipedia西サハラ

西サハラ:アフリカ大陸基本情報

西サハラ

スペイン領サハラ

モロッコ解放軍

ハラカト・タハリール  

ゼムラ蜂起  

西サハラ (サハラ・アラブ民主共和国) 

ディプロ2006-1 - Inextricable, le conflit du Sahara occidental rebondit 

地誌Wiki - 西サハラ


②「西サハラは東チモールと同じだ」と言われていますが、重要な違いがあります。それはモロッコはインドネシアではないということです。
アメリカはアジア債務危機の際、スハルト政権を見殺しにしました。当時新聞は民衆蜂起が成功したと書きましたが、沖合いには沖縄の海兵隊を満載した第7艦隊が上陸準備していたことには触れませんでした。
一方、「アラブの春」で、本来なら真っ先に倒されなければならないはずのモロッコ王制は、民衆の抗議などどこ吹く風、我が世の春を歌っています。
だいたい「英明な君主」なんていうのは「硬い豆腐」と同じで形容矛盾です。もし英明な君主なら君主制など廃止するはずではありませんか。(丸い豆腐はありますねぇ)
正直いって私も、2009年の「インティファダ」は今回はじめて知りました。ちゃんと赤旗読んでいたはずなんだけどなぁ。

③重要なもう一つの違いはアルジェリアというバックの存在です。アルジェリアがあったからこそ、ここまでやって来れたのですが、この先もこのままで良いとは思えません。
せっかくモロッコから独立してもアルジェリアの属国になってしまったのでは意味がありません。70年代の戦闘を指導した人々ももう60歳台に入るはず、キャンプで生まれた人ももう30歳を越えてきます。90年代末にコロンビアのFARCが社会復帰のチャンスを逃したのも、あまりにも長くゲリラ闘争を続けてきたからです。
とにかく今のままでは闘えないのは事実です。大事なことは闘うことです。人々の生活する現場で人々と共に闘うことです。
トップが筋をつらぬくことと、30万の難民に「帰国して祖国で闘う自由」を与えることは、矛盾しないと思いますが…

④これはちょっとオタクめいた感想になりますが、「砂の壁」の有効性です。これまでゲリラ戦では「戦略村」が最も普遍的な対ゲリラ作戦でした。ベトナムはこれでだいぶ苦労しましたが、トンネル作戦でこれを乗り切りました。
戦略村とトンネル作戦(あるいは塹壕作戦)は朝鮮戦争から最近のメキシコ麻薬戦争まで拮抗してきましたが、これからは万里の長城作戦が復活していくのでしょうか。

1992年

1月 モロッコの異議により住民投票が延期される。スペインが1970年代に住民投票のため作成した住民名簿を基礎とした有権者名簿にたいし、12万人のモロッコ側名簿を加えるよう要求。

1997年

9月 ベーカー元米国務長官、国連事務総長「個人特使」として当事者間仲介。有権者認定作業を再開することで合意(ヒューストン合意)。

1998年

6月 ベーカー提案が暗礁に乗り上げる。

1999年

7月 モロッコ国王ハサン2世死去、ムハンマド6世が即位

2001年

2月 アナン国連事務総長、5年間のモロッコ主権下での自治のあと、独立・自治・モロッコ統合のいずれかを選ぶ住民投票という2段階・三択計画を提案する。ポリサリオ戦線はこれを拒否するが03年には受け入れる。

2002年

11月 ムハンマド6世、テレビ演説で「国連の住民投票計画はもはや有効でなく、住民投票は受け入れられない」と声明。

02年 東チモールが国連投票で独立を実現。

2003年

5月 「西サハラ人民の自決のための和平プラン」が提案される。5年間の暫定自治を経て、独立・自治・モロッコ統合のいずれかを選択するというもの。

7月 ポリサリオ戦線が「和平プラン」を受諾。これを受け、国連安保理が「和平プラン」を支持する決議を採択。

11月 ポリサリオ戦線は、モロッコ人捕虜300人を解放したと発表。捕虜たちの本国帰還は赤十字国際委員会に委ねられる。モロッコ政府は捕虜の存在を認めていなかった。

2004年

4月 モロッコは「和平プラン」を正式に拒否。自治のみが唯一の解決であるとの姿勢を鮮明にし、独立を選択肢に含む住民投票という構想を拒否。

2008年

2月 サハラ・アラブ民主共和国、ティファリティを臨時首都として宣言(正式の首都はラユーン)。

2009年

インティファダの女性指導者アミナトゥ・ハイダー、アメリカで市民の勇気賞(Civil Courage Prize)を受賞。モロッコから帰国を拒否され、カナリア諸島の空港で30日間のハンストを行なう。

2010年

9.21 モロッコ自治領化を主張したポリサリオ監察総監がポリサリオ武装派により誘拐・監禁される。人権団体がいっせいに非難したためまもなく解放。

9月 モロッコ政府、1月以降1360人がティンドゥフを脱走しモロッコに帰還していると報道。

10.13 西サハラ・モロッコ占領地でのインティファーダが始まる。首都ラユーンから15キロ離れた砂漠で「蜂起キャンプ」を設営。経済上の正義の要求を前面に抗議活動を開始する。キャンプへの結集者は瞬く間に拡大し、女性・子供・老人を含め1万人以上が参加する。

10.25 モロッコ占領軍が「蜂起キャンプ」に物資を運ぶ14才の西サハラ人少年を射殺。少年の兄二人をふくむ7人も銃撃され、病院に運ばれる。

10.29 モロッコ内務省、「検問に当たっていたモロッコ兵に向け2台の四輪駆動車が突然発砲してきた。モロッ コ兵は応戦し、14才の少年が死亡、7人が軽傷」と発表。「モロッコ国王に刃向かう国際テロリストの犯罪行為」と非難する。

11.02 現地の人道援助団体、「モロッコ軍が居留区に乱入し活動家を拘束している」とBBCに通報。国際支援をもとめる。

サンフランシスコ大学のズーヌス教授は「デモクラシー・ナウ!」で次のように語っている。
 西サハラの活動は、女性の権利と民主主義を求める非暴力の闘争です。それこそ西洋の国々がアラブに求めたものではないのか? それなのに欧米は専制君主を助けて非暴力の抵抗を弾圧させている。…西サハラの唯一の希望は東チモールで見られたような世界の市民社会が団結した国際連帯運動です。

11.08 モロッコの治安部隊が抗議キャンプを攻撃。アイウンは封鎖され、報道関係者は強制的に国外追放される。

11.11 モロッコ当局、死者は12人、そのうちモロッコ警察が10人と発表。モロッコ国内では事件は報道されず。

11.09 ポリサリオ戦線、サハラ人の死者は11人、723人が負傷、行方不明159人と発表。

西サハラの記事をいろいろ探しているうちに、こんな写真に出会った。

中部地雷問題支援ネットワーク

というページだ。とりあえず写真を転載させていただく。
元々の記事は(CNN 2008.4.2)からのようだ。
https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/2/7/275138d2.jpg

 約30年にわたって内戦状態が続いたアフリカ南西部アンゴラで2日、地雷の被害を受けた女性のミス・コンテストが開催される。まだまだ土中に埋もれてい る地雷の危険性を多くの人々に伝えるために企画されたコンテストで、優勝賞品はカスタムメイドの義足。また、参加者全員が政府の援助を受けられる。

参加者の写真やプロフィールなどは、大会の公式サイト(http://www.miss-landmine.org/)で見ることができるそうだ。

笑えないジョークではあるが、この際は遠慮しないで笑って泣くのが一番だろう。

 結局、全面的に着手してしまいました。意外に日本語資料が多く、読みこなすだけで数日が費やされてしまいました。

日本語版ウィキペディアにはいくつか不正確な記述があるようです。別に論争的なテーマではないので、早めに訂正されるよう期待します。



怖いもので、載せて送ったつもりが送られていませんでした。焦ってバックアップ・ファイルを除いたら、運よく残っていました。ただし、これは最終版ではなく、いくつか重要な事項が抜けています。

とりあえず載せておきますが、近日中に補充します。

1860年 モロッコ南部のイフニ地方がスペインの植民地となる。イフニは港町ジジ・イフニを中心とする1900平方キロほどの地域で、西サハラからは離れている。

1885年 スペインはボジャドールを南端とする「西サハラ」の保護領化を宣言。それまで西サハラはモロッコ王国の影響下にあったが、支配関係にはなかった。

もともとの住民は黒人であったが、北部から「ベルベル人」が移動してきて多数派となり、その次に13世紀頃に東からやってきた「アラ ブ人」と混淆していった。主に遊牧を営み、みんなひっくるめて「サハラウィ」(サハラの民)と総称される。

1910年 マー・アルアイニン、モロッコを攻撃。マラケシュを占領しフェスに向かうがフランス軍に敗れる。内陸部に逃れスマラの町を建設。

マー・アルアイニン: 本名はモハメッド・ムスタファ・ウーラッド・シェイク・モハメッド・ファデル。マー・ア ルアイニンは「目の水」という意味の通称。モーリタニアから西サハラまで の部族を統率、植民地支配者に対する抵抗の指導者となる。モロッコ攻撃は植民地解放運動へのスルタンの不誠実な対応に抗議するものといわれる。
 マー・アルアイニンは1911年に世を去ったが、息子たちがさらに6年にわたり抵抗運動を続けた。

1912年 モロッコ、スペイン・フランス協定によって保護領となる。「アラウィー朝」王室は存続したが外交権等を剥奪される。

1912年 スペインとフランスの協議により西サハラの境界線が確定。スペインは西サハラにモロッコ南部の保護領タルファヤ地方とイフニ飛び地を加え、スペイン領西アフリカとして再編する。

一説によれば、スペインはモロッコ南部に侵入し、16年にジュビィ岬(Cape Juby)を占領、ビリャ・ベンスを建設。20年にさらにラ・ゲーラを占領し、この地帯を南部保護領とした後、西アフリカに編入したとされる。この前後にビリャ・ベンスはタルファヤと改称され、スペイン領西アフリカの首都とされた様子。

1928年 サンテグジュペリのレポート「リオ・デ・オロ」に拠れば、スペインの植民地支配は海岸線に限定される。この年ラユーンの街が建設される。

1934年 スペイン軍、サハラウィの抵抗を抑える。西サハラはスペイン領サハラと改称。南部のリオ・デ・オロと北部のサギア・エル・ハムラより構成される。

1947年 ブークラーで燐鉱石鉱脈が発見される。

1956年 モロッコがフランスから独立。スペインにも南部支配地イフニ、タルファヤの返還をもとめる。

1957年 

8.11 「サハラ解放軍」が西サハラ北部のリン鉱山の町シジ・イフニで蜂起。イフニ戦争が始まる。スペインはカナリア諸島から落下傘兵連隊を送り、「サハラ解放軍」を退ける。

サハラ解放軍: モロッコの主要政党のひとつイスティクラール党の組織した義勇兵部隊。サハラウィも大挙参加した。

1958年

2月 ハッサン二世、「サハラ解放軍」を再編し、援助を強化する。スペインはフランスの「軍事協力」を得て掃討に乗り出す。

4.01 アングラ・デ・シントラ協定が成立。モロッコはジジ・イフニ周辺のスペイン支配を認め。「サハラ解放軍」への支援を打ち切る代償としてタルファヤとタンタンをふくむ南部保護領の返還を獲得する。

1962年 アルジェリアがフランスから独立。北アフリカにおける民族解放運動のリーダーとなる。

1963年 西サハラ北部ブーカラー (Bou Craa) のリン鉱床の埋蔵量が最大規模の鉱脈であることが明らかとなる。世界の採掘可能燐鉱石の9パーセントに達するとされる。

1965年 西サハラが国連の「独立すべき植民地リスト」に載せられる。翌年にはアフリカ統一機構(OAU)が西サハラの自決権を支持する決議を採択。

1967年 バシリらが中心となり、アイウンに独立を目指す組織が結成される。

1968年 騙されて外人部隊に入隊した日本人2人が砂漠越えの脱走を企てる。3日後には暑さに耐えられなくなって外人部隊駐屯地に引き返し、重営倉(軍隊の懲罰施設)入りとなっ た。

1969年 スペイン、西アフリカの首都となっていたイフニをモロッコに割譲。これに代わりラユーンに総督府がおかれる。

ラユーンは欧米での発音。元々はアラビア語で “al-Aiyun” なのでアル・アイウンが正しい。征服したヨーロッパ人が “Laayoune” と呼び表記した(綴りはスペイン語というよりフランス語ですね)。現地でもラユーンで通用する。東京がトキオになった感じ。
ヨーロッパ語読みは邪道と言われるかもしれないが、それならメヒコ、クーバ、オンドゥラス、ベネスエラ、アルヘンティーナ、チレと呼びますか? 中華民国、朝鮮民主主義人民共和国と呼びますか?

69年 北部スマラの聖職者ムハンマド・バシリ、秘密結社「ハラカト・タハリール」(解放運動)を結成。正式には「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放運動」とされる。

サギア・エル・ハムラはアラビア語で「赤 い運河」を意味する。州都ラユーンを水路が横切っていることから名付けられた。西サハラの北1/3をなす。リオ・デ・オロはスペイン語で「黄金の川」の意味。国の南部2/3を成す。州都ダクラに川が走っていたことから名付けられたという。

1970年

6.17 ハラカト・タハリールがラユーンのスペイン総督に対しサハラの独立と公正な扱いをもとめる請願デモ。市内ゼムラ地区で警察との衝突とな り、外人部隊が出動。少なくとも11人が死亡し、多数が負傷、数百名が逮捕される。指導者バシリは数日後に逮捕されたあと消息を絶つ。

1971年 モロッコ軍内に、ハッサン二世の統治への不満が高まる。ムハンマド・アバドゥ大佐がクーデタを試み、72年には国王専用のボーイング機が狙撃されるなどテロの標的になったが、ハッサン二世は奇跡的に生還した。

1972年

5月 「統一と解放のための戦線」(FLU)を名乗る武装組織が西サハラに侵入。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方を相手に戦闘を開始。実体としてはモロッコ軍の一部とされる。

1973年

5.10 モーリタニア領のアイン・ベンティリで、スペインからの独立を目指すポリサリオ戦線が結成される。

ポリサリオ戦線: Frente Popular de Liberación de Saguía el Hamra y o de Oro の頭文字をとったもの。正式には「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放人民戦線」となる。
 
モロッコの大学に留学するサハラウイ学生を中心に結成され、エル・ウアリ・ムスタファ・サイードが書記長に就任、アブデルアジズらが指導。

5.20 ポリサリオ戦線、エル・ハンガでスペイン軍部隊と最初の交戦。わずか7名のゲリラでスペイン兵16名に勝利。

73 モロッコ、アルジェリア、モーリタニアの3国首脳会談、西サハラの「自決」を求める。

73年 スペイン政府は、内政自治計画を声明。西アフリカを「海外県」とし、現地議会「ジェマー」を開設。本国議会にも3人の議員を送る。親スペイン政党「サハラウイ国民統一党」(PUNS)が結成される。

1974年

7月 スペインの独裁者フランコ総統が病に倒れる。このあと軟化したスペイン政府は国連の監視下において西サハラでの住民投票を行う方向を打ち出す。

74年 スペイン植民地当局が、住民投票の権利を有する西サハラ住民の名簿を作成。この時点では西サハラの登録人口は5万人しかいなかった。

74 モロッコは西サハラの独立を選択肢とする住民投票を拒否。「大モロッコ主義」を唱えて西アフリカの領有権を主張する。

大モロッコ主義: 16世紀以降にモロッコが支配してきた地域はみな現在のモロッコ王国に統合されるべきであるとの考えで、西アフリカだけでなくモーリタニアの全域・マリの北西部・アルジェリア西部までをも含んでいた。


西サハラポリサリオ戦線の戦い

西サハラの闘い その3

西サハラの闘い その2



1981年

3月 アメリカはモロッコに対し1億ドルの軍事援助を開始。アメリカ式訓練を受けたモロッコ軍特殊部隊がアガディールとタンタンに派遣される。部隊は人民解放軍の待ち伏せ攻撃を受け甚大な被害を出す。

6月 第一次の「砂の壁」が完成する。大西洋沿岸から内陸のアルジェリア国境の近くにまで達する全長700キロの長城が姿を現わす。

6.24 アフリカ統一機構の第18回首脳会議(ナイロビ)で、モロッコは西サハラでの住民投票受け入れを宣言。しかしポリサリオ戦線を紛争当事者と認めず、住民投票も「モロッコの主権を確認するためのもの」と主張。

8月 コジョOAU事務総長はRASDに加盟承認を通告

10月 アルジェリアの軍事支援を受けた西サハラ人民解放軍は国土の90%を解放。モロッコは派遣軍を8万人か ら13万人に増員して対抗。

“首都”ティンドゥフ: 4つの難民キャンプには合わせて約15万人が住み、モロッコ占領下の最も重要な都市名を取ってエル・アイウン、スマラ、アウセルト、ダクラと名付けられている。更に各省庁、キャンプ各地域の管理局、病院や診療室、幼稚園、小学校、女性のための職業学校、婦人団体、菜園、放送局などがある。

81年 劣勢に追い込まれたモロッコは、北部にエルアイウン(首都)・スマラ・ブクラを結ぶ「重要三角地帯」を設定する。人民解放軍はただちに三角地帯の拠点ゲルタ・ゼムールを攻撃し甚大な被害を与える。

1982年

2.22 アジスアベバでOAU外相会議。RASDが出席。モロッコおよび18か国が退席し流会に追い込む。

5.27 ハッサンがワシントンを訪問し軍事援助をもとめる。EUを経由して1億ドルの軍事援助が提供されることとなる。

1983年

6.08 OAU首脳会議、モロッコとポリサリオ戦線を紛争当事者として初めて明記。直接交渉を求める決議を採択。

83年末 ハッサン二世、参謀本部を全面更迭。アメリカ式の装備に切り替える。

1984年

2.27 モーリタニアがRASDの独立を承認。

10月 ポリサリオ戦線、三角地帯の壁を同時攻撃。ズムール・二ランで防御線を突破する。その後は砂の壁を攻めあぐねる。

11月 OAU首脳会議にRASDが正式加盟。モロッコはOAU脱退を宣言する。

1987年

モロッコが建設を進めて来た「砂の壁」が完成。

砂の壁: 国土を東西に隔てる全長2千キロの防衛線。イスラエル軍の協力によって建設された。砂を高さ数メートルに積み上げて作ったもので、その周辺は鉄条網と地雷原で防御されている。

1988年

モロッコとポリサリオの双方が、国連事務総長の和平提案を受諾。

1989年

1月 ポリサリオ上級幹部がマラケシュでハサン2世と秘密会談。モロッコは住民投票の受け入れを了承する。

1990年

6月 包括和平案が国連安保理決議658として採択される。独立かモロッコ統合かを住民投票で選択することが骨子で、OAU枠組み案を踏襲する。

1991年

4月 国際連合の仲介でポリサリオ戦線とモロッコが停戦。モロッコ帰属か独立かを問う住民投票を実施することになる。

8月 国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が創設される。

9月 ポリサリオ戦線とモロッコとの停戦が発効する。

1975年

2月 「統一解放戦線」(FLU)が北部で戦闘を開始。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方に敵対する行動。実態はモロッコ政府軍の一部とされる。

その頃のモロッコは国王ハッサン2世が国防相・参謀総長を兼任していた。ハッサン独裁への軍部の不満は強く、王宮襲撃事件や国王専用機銃撃事件が続いていた。これらの矛盾を国外にそらすことに最大の目的があったとされる。

75年前半 国連現地調査使節団、圧倒的多数のサハラウイが併合ではなく独立を支持と報告。都市部以外のすべてはポリサリオ戦線が支配するにいたる。

75年 カルロス皇太子がエルアイウンを訪問、西サハラの独立をあらゆる方策で保障すると述べる。

10月 国際司法裁判所、モロッコの西サハラ領有権を否定する裁定。ハッサン2世は裁定受け入れを拒否し、「緑の行進」を呼びかける。

判決の要旨: 西サハラとモロッコ、あるいはモーリタニアの間には、歴史上いかなる領土上の主権関係もなかった。スペインによる植民地化の時点では西サハラは「主なき地」ではなかった。

10.31 モロッコ軍8千人が国境を越え軍事占領作戦を展開。(この項真偽不明)

11.06 モロッコは35万人を動員した「緑の行進」を強行。ハッサン2世は「いかなる専制君主といえど も。非武装の35万人に発砲を命じることは出来まい」と扇動。

緑の行進の実態: ①35万人は主催者発表であり実数は不明、②行進団の上空にはモロッコ空軍機が旋回しており、非武装とはいえない、③モロッコ政府軍の別働隊であるFLUがポリサリオ戦線との衝突を繰り返していた、④行進団は国境から12キロの地雷原で反転、そのまま国内に戻った。

11.06 モーリタニアが南部から侵入。2万の軍が南部リオ・デ・オロ地方の中心地ゲラを占領。(この項真偽不明)

11.06 国連決議380号、「行進に参加した全モロッコ人の即時引き上げ」をもとめる。アルジェリア領内に大量の難民が流出。スペイン政府は民間人や兵士の家族に退去を命じる。

11.14 マドリードでスペインとモロッコ、モーリタニアの三国会談。秘密協定で、スペインは西サハラの分割譲渡を認める。燐鉱山は、所有権をモロッコ2、スペイン1の割合で分割することで合意。

11.20 フランコ総統が死去。スペインは西サハラへの関心を完全に失う。

11.25 モロッコ正規軍4000名が国境を越えて侵攻。

11.28 諮問議会「ジェマー」、独立を支持する「ゲルタ・ゼムール宣言」を発する。ジェマーを解散するとともに、ポリサリオ戦線こそが西サハラ唯一の合法的権威であるとする。

「ジェマー」はスペインが開設した現地人の諮問議会。宣言には議員の3分の2のほか、西サハラ選出のスペイン国会議員3人、60人の族長が署名した。

12.10 モーリタニア軍が侵入。スペイン駐留軍基地の撤収跡を確保するためポリサリオ戦線との戦闘が繰り返される。

ポリサリオ戦線はモーリタニア軍の後方基地を襲い、越境してモーリタニア軍拠点を攻撃するなど多彩な攻撃を展開。司令官エル・ワリは神出鬼没の活躍ぶりから「サハラの狼」と呼ばれた。

12月 長老層や旧「サハラ解放軍」兵士らがポリサリオに合流し、「臨時サハラウイ国民評議会」を創設。

1976年

1.12 スペイン軍の最終部隊がダクラから引き揚げる。これに代わりモーリタニア軍がダクラに進駐。

1月 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線は、住民を道連れに奥地への遅延撤退作戦を展開。モロッコ軍がナパーム弾で難民の列を爆撃。

1.21 モロッコ空軍のF5戦闘機がポリサリオ戦線によって撃墜される。対空兵器はアルジェリアから持ち込まれたものであった。

1月末 アルジェリア国営通信、自国軍がモロッコ軍と衝突したと公表する。

2.14 アルジェリア軍、難民の移動完了を見て、西サハラ領内より撤収。

2.26 スペインが最終的に西サハラの領有を放棄。

2.27 アルジェリア領内ティンドゥフに形成された難民キャンプを拠点として「サハラ・アラブ民主共和国」の建国を宣言。

サハラ・アラブ民主共和国: Sahrawi Arab Democratic Republic (SADR) と称される。アルジェリアとリビアが支援に回った。実質的行政機能はアルジェに置かれる。

3.01 アフリカ統一機構、西サハラへの支持を表明。

4.14 モロッコとモーリタニアが西サハラの分割ラインを決定。

6.07 ポリサリオ戦線、モーリタニアの首都ヌアクショットへの急襲作戦。ランドローバーやトラックに分乗した兵士600人がティンドゥフを出発。

6.09 ポリサリオ戦線がヌアクショット市内に突入。一時は大統領官邸付近に迫撃砲弾を撃ち込むが結局は撃退される。ポリサリオ戦線側の戦死者は200人を数え、この闘いでエル・ウワリが戦死。

7月 モロッコのラバトでハッサン二世とモーリタニアのウルド・ダッダ大統領が会談。「相互防衛条約」に調印する。モロッコ軍3千人がモーリタニア支配地域に展開。さらにフランス人の「ジャガール飛行部隊」が制空権を確保する。

8月 ポリサリオ戦線の第3回大会。エル・ウワリに代わりムハメッド・アブデルアジズが書記長に選出される。サハラ人民解放軍(ALPS)を編成する。

8.30 アブデルアジズ、第3代のサハラ・アラブ民主共和国大統領となる。

10月 ポリサリオ戦線が軍事攻勢を再開。ヌアクショットも少人数コマンドによる反復攻撃の対象となる。

1977年

5.01 西サハラ解放軍が「エル・ウアリ作戦」を実施。モーリタニアのゾエラットを攻撃。3週間にわたる戦闘の後占領。

ゾエラットには鉄鉱山があり、モーリタニア経済の心臓部とされる。モーリタニアは戦費増大に加え、資金源の鉄鉱山を叩かれたため経済危機に陥る。

5.01 ゾエラットに駐在していたフランス人6人が人質となる。ポリサリオ戦線は人質と交換にフランス政府の独立承認を要求。のちにフランス共産党の仲介によって解放される。

5.13 モーリタニア、モロッコとの相互防衛協定に調印。モーリタニア領へのモロッコ軍駐留が開始される。

7.03 エル・ウワリ戦死1周年を期して、西サハラ解放軍がヌアクショットを攻撃。攻撃は1週間にわたり続く。

7.20 モロッコ、モーリタニアに600人の増援部隊を派遣。

11月 モーリタニア軍と組んだフランスの「ジャガール」と「ミラージュ」の飛行部隊が進出し、制空権を握る

1978年

6月 モーリタニアのウルド・ダッダ大統領がクーデターにより失脚。

7.12 ポリサリオ戦線はモーリタニアに対する一方的戦闘停止を指示。

8.05 アルジェでポリサリオとモーリタニアの間に停戦協定成立。このあと戦いは西サハラ人民解放軍とモロッコ軍との間に絞られる。人民解放軍はリン鉱山を反復襲撃し操業停止に追い込む。

11月 フランス人飛行部隊が撤退。モロッコ軍はフランス軍の援助を受け反ゲリラ部隊「緊急介入部隊」(DIR)を編成。ゲリラ根絶のため焦土作戦を実施する。

1979年 

1.29 ポリサリオ戦線、「ブーメジエン攻勢」を開始。国境を越えモロッコ国内に侵入。レムサイルの戦闘で勝利し、タンタンを一時占拠。モロッコ軍2個連隊を壊滅に追い込む。(ブーメディエンは当時のアルジェリア大統領)

7月 第17回OAU首脳会議、西サハラにおける自決住民投票を骨子とする決議を採択。サハラ共和国のOAU加盟についても過半数の国が賛同するが、モロッコの脱退の脅しの前に、採択を保留する。

8.05 モーリタニアとポリサリオ戦線が和平協定を締結。モーリタニアは西サハラに対する領有権主張を放棄、相互不可侵と国境の尊重、モーリタニア占領地域のポリサリオへの引き渡しを約す。

8.14 モロッコは和平協定を無効と宣言。モーリタニア占領地域もふくめ西サハラ全土を自国に併合する。

9月 ハバナで開かれた非同盟首脳会議、西サハラからの全占領軍撤退を求める決議を採択。

79年末 ポリサリオ戦線の大攻勢。解放区は西サハラ全体の8割に達する。サハラ・アラブ民主共和国を34カ国が承認する。

79年末 モロッコ軍、制空権確保を中核とするアメリカ式戦術への切り替えを開始する。モロッコ国内に5つの基地を持つアメリカが軍事支援を強める。

モロッコの新戦略: 「国家防衛評議会」を新設し国王の義兄弟アフメド・オスマンが議長に就任。装甲車やジープ、ヘリコプターなどで機動性を高め、対ゲリラ戦機能を強化。砂の壁の構築を柱とする。

 サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)のたたかい

だいぶ古い「世界政治」(1987年4月下旬号)に紹介記事があった。いずれ役に立つかもしれないので紹介しておく。

1975年10月31日、「緑の行進」の美名のもとにモロッコ軍8千人が国境を越え侵入。

11.06 モーリタニアが南部から侵入。2万の軍勢が南部リオ・デ・オロ地方の中心地ゲラを占領。

11月 マドリードで三国間協定が調印される。

75年 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線が抵抗闘争を開始する。解放軍は敵軍の後方基地を襲い、越境してモーリタニア軍拠点を攻撃するなど追い詰める。

76年3月 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線は、住民を道連れに奥地への遅延撤退作戦を展開。

6月にはヌアクショット市内にポリサリオ戦線が攻め入るが、多数の死傷者を出して撤退。

76年7月 モロッコのラバトでハッサン二世とモーリタニアのウルド・ダッダ大統領が会談。「相互防衛条約」に調印する。モロッコ軍3千人がモーリタニア支配地域に展開。さらにフランス人の「ジャガール飛行部隊」が制空権を確保する。

76年9月 ポリサリオ戦線が第3回大会を開催。サハラ人民解放軍(ALPS)を編成し全面攻勢を開始する。ヌアクショットも反復攻撃の対象となる。

77年11月 モーリタニア軍と組んだフランスの「ジャガール」と「ミラージュ」の飛行部隊が進出し、制空権を握る

78年6月 モーリタニアのウルド・ダッダ大統領がクーデターにより失脚。ポリサリオ戦線はモーリタニアに対する一方的戦闘停止を指示。このあと戦いは西サハラ人民解放軍とモロッコ軍との間に絞られる。

78年11月 フランス人飛行部隊が撤退。モロッコ軍はフランス軍の援助を受け反ゲリラ部隊「緊急介入部隊」(DIR)を編成。ゲリラ根絶のため焦土作戦を実施する。

78年12月 ポリサリオ戦線、「ブーメジエン攻勢」を開始。レムサイル、タンタンの戦闘で勝利しモロッコ軍2個連隊を壊滅に追い込む。

79年6月9日 ポリサリオ戦線の指導者サイードが戦死。

79年 モーリタニア新政権とポリサリオ戦線が平和条約に調印する。

79年末 モロッコ軍、制空権確保を中核とするアメリカ式戦術への切り替えを開始する。モロッコ国内に5つの基地を持つアメリカが軍事支援を強める。

81年3月 アメリカ式訓練を受けた特殊部隊がアガディールとタンタンに派遣される。部隊は人民解放軍の待ち伏せ攻撃を受け甚大な被害を出す。

81年10月 アルジェリアの軍事支援を受けた西サハラ人民解放軍は国土の90%を解放。

81年 劣勢に追い込まれたモロッコは、北部にエルアイウン・スマラ・ブクラを結ぶ「重要三角地帯」を設定し、全長2千キロの防衛線により要塞化する。アメリカは1億ドルの軍事援助を開始。人民解放軍はただちに三角地帯の拠点ゲルタ・ゼムールを攻撃し甚大な被害を与える。モロッコは派遣軍を8万人から13万人に増員して対抗。

83年末 ハッサン二世、参謀本部を全面更迭。アメリカ式の装備に切り替える。

84.10.13 ポリサリオ戦線、三角地帯の壁を同時攻撃。ズムール・二ランで防御線を突破する。

85年12月 ポリサリオ戦線の第6回大会。防衛壁突破のための戦略を協議。

世界政治 89年9月下旬号
モザンビークの政権党FRELIMOの第4回党大会に出席した赤旗特派員の報告。日本語で読める資料としては貴重なものだ。とくにこの当時、レナモというニカラグアのコントラみたいな組織が盛んに破壊活動をやっていた時期で、緊迫感が伝わる。

南アの支援を受けたレナモの兵力は2万人に達した。彼らは対話を拒否し、無差別大量虐殺を繰り返している。

10万人が破壊・テロ分子によって殺害。国民1500万のうち国外難民70万、国内難民170万人、550万人が食糧援助の必要な状況にあるとする。

しかしその中でも党員が6年間に倍増し20万人に達したとされている。



ついでに
世界政治 90年3月下旬号 「マンデラ氏の南ア大統領あて文書」も良い。

89年7月04日 ボタ大統領,拘禁中のマンデラと会見.秘密裏にケープタウンの大統領官邸に入ったマンデラと懇談.ただしこの時点で,ボタはすでにレームダックとなっていた.このときマンデラが提出した文書は広く流布され、ANCの公式文書として扱われた。とくに共産党との関係について詳説している。
 

ANCと南ア共産党との協力は1920年代にさかのぼる。協力は常に人種的抑圧と公正な社会を求める闘争に厳しく限定されてきた。
ANCの構成員の中にさえ、一度ならずこの協力に反対し、ANCから共産党員を追放しようと欲した人がいた。その中には大きな尊敬を集め、影響力を持っていた人もいた。これらの行動に固執したものたちは、最後には追放されるか、絶望して脱退して行った。
実際それは我々に自殺を迫るものである。信義を重んじる人間が共通の敵の依頼によって生涯の友を見捨て、なお人民の間で一定の信頼を保持しようとできるだろうか。誰がこのような裏切り者の自由の闘士を信用するだろうか。



すこし暇があったので、むかしの「世界政治」を引っ張り出している。
当時あまりまじめに読んだ記憶がないのだが、84年の12月上旬号に「ジンバブエ・アフリカ民族同盟第2回大会報告」という記事がある。
ムガペが報告したジンバブエ解放闘争史で、かなり面白い。今日ではムガペは決して運動の本流ではなく、中国とのパイプの太さでのし上った人物と考えられるが、当時は独立の英雄としてもてはやされていた。
年表に組み込みながら、これまでの事実とつき合わせていくのはなかなか面白い。
大きな図書館に行けば閲覧可能かもしれない。とりあえずは私の南部アフリカ年表をご参照ください。


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