鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 17 国際政治/その他諸国(ほぼアフリカ)

トゥアレグ分離闘争の歴史

もともと黒人が大ガーナ王国を立てていたが、11世紀頃になると、交易を目的としてアラブ人が入り込み、やがてベルベル人が支配するようになった。トゥアレグ族はベルベル人の支族である。トゥアレグ族は「砂漠の支配者」と呼ばれるほどの権勢を誇っていた。

13世紀になるとマリ帝国が興隆。その後ソンガイ帝国へと続き、約300年にわたって栄えた。

16世紀にはいると西洋諸国の海上貿易がさかんとなり、内陸部のサハラ交易ルートは衰退した。帝国は崩壊し、小国が乱立するようになった。

1892年にフランスの植民地となり、フランス領スーダンと呼ばれた。

1958年、フランス領内の自治国スーダンとなる。1960年6月にはフランスから独立し、隣国のセネガルと共にマリ連邦を結成した。しかしまもなくセネガルが連邦から離脱し9月にマリ共和国と国名を改めた。モディボ・ケイタ大統領のもとで社会主義政策が推進された。

1962年には第1次トゥアレグ抵抗運動が始まり、2年間にわたり続いた。

1968年、社会主義政策は行きづまり、ムーサ・トラオレのクーデタが発生。その後長い軍事独裁体制に入る。

1973-4年 サハラ砂漠南縁のサヘル地方を大飢饉が襲う。家畜は死に絶え、若者たちはアルジェリアやリビアの大都市に移住。カダフィ政権の下で「イスラム軍」(Islamic Legion)と呼ばれる傭兵部隊に加わる。

カダフィはアフリカ合衆国を唱え、アフリカ諸国の貧しい労働者を迎え入れ、軍事訓練を施すなどしていた。また70年代にはトゥアレグの武装闘争を支持していた。ただし、カダフィはマリ政府そのものにも多額の援助を行っており、カダフィの死後も政府系の建物にはカダフィの肖像が飾られているという。

1979年に民主化運動が成功し、単一政党マリ人民民主同盟が結成された。選挙によって大統領が選出されたが、クーデターが起こりふたたび軍事独裁の時期を迎えた。

1984-5年 サヘル地方を再び旱魃が襲う。トゥアレグ族は度重なる干ばつにより貧困にあえぐようになった。

1990年6月 北部ではトゥアレグ人が分離を目指す武装闘争を開始。リビアがこれを支援。刀剣や古いライフル銃はカラシニコフ銃に、らくだは四輪駆動車へと交換。

91年3月 トゥーレら青年将校がクーデターによりトラオレ独裁政権を打倒。

1991年に暫定政府が発足。複数政党制が導入される。

1992年 憲法を制定。大統領選挙が行われた。トゥーレが大統領に就任。

92年 ニジェールのトゥアレグ人が武装闘争を開始。

1995年 リビアが原油価格の下落で経済破たん。トゥアレグへの援助も杜絶する。トゥアレグ人たちは故郷への帰還を余儀なくされる。

1996年 トゥアレグ人は政府との和解、武装解除に応じる。戦闘員の多くは政府軍などに組み込まれ、トゥアレグの自治権は拡大される。5年間の闘争で死者は数百人、避難民は数千人にのぼる。

2006年5月 トゥアレグ族武装組織、アルジェリア・ニジェール国境付近でマリ政府軍を攻撃。政府軍10人が死亡する。指導者イブラヒム・アグ・バハンガは「5月23日同盟」の結成を宣言し、武装闘争を再開。

2007年2月 ニジェール領内に暮らすトゥアレグ人が「正義のためのニジェール運動」(MNJ)を結成し反政府武装闘争を開始する。背景にトゥアレグ人居住地域のウランの権益。

09年3月 マリのトゥアレグ人武装組織、政府軍兵士20人を拉致する。身柄をMNJの管理下においたと述べるが、MNJ側は報道を否定。

2009年 トゥアレグ族の武装抵抗が終結。

2011年 リビア内戦。トゥアレグ人はカダフィの最も強力な部隊として市民と対決。敗れた後は大量の武器を持ってリビアから脱出。「リビアから千人以上を超えるトゥアレグ人傭兵が、数百台の4輪駆動車に多くの武器を積んで帰ってきた」との報道がある。

10月 アザワド解放国民運動(MNLA)が結成される。蜂起に向けた準備を開始。

2012年

1月17日、MNLAはマリ共和国政府に対する反乱の開始を宣言、「バマコ(マリ共和国の首都)がこの地域を別個の存在と認めない限り継続する」とした。

1月 MNLA、アルカイダと組んで三度目となる武装闘争を開始。アザワド地方と呼ばれる北部三州(gao,toumbouktou,kidal )で作戦を開始する。最大で3000人程度の兵士を有していると推測され、貧弱な武装の政府軍を圧倒。

マリ北部のトゥアレグ族 休戦を宣言

2月 マリ北部キダルで激戦が展開される。北部住民約26万8000人が、マリ国内の他地域や隣国へ避難。

2月22日 キダル郊外のトゥアレグ族キャンプが政府軍の空爆を受ける。女児1人が死亡、11人が負傷。

3.11 MNLA、アルジェリア国境の要衝テッサリトを掌握し砂漠地帯から政府軍を駆逐。

3月 政府軍内部から不満が噴出。軍事クーデターを招く。

3月21日 一部の国軍下士官・兵士らが騒乱を起こし,国営TVラジ オ局を占拠,大統領宮殿を襲撃。

3.22午前4時45分 反乱軍、テレビで声明を発表。「国を守るた めの武器の不足」および政府がテロと戦う上で「無能」だとの理由で行動を起こしたと説明。軍事政権は「国内の統一と領土の保全が再建でき次第ただちに、民主的に選ばれた大統領に権力を回復することを厳粛に約束する」とのべる。

3.22 反乱軍兵士が国家の指揮権の掌握と憲法停止を発表。「民主主義再建・国家復興のための国家委員会(CNRDRE)」を結成する。CNRDREのリーダー、サノゴ大尉は「軍はまともな武器も訓練も受けていない。リビア帰 りで重装備の反政府勢力と戦うのは自殺行為だ」と語る。(朝日新聞=ベリタ)

3月31日 反乱軍を率いるサノゴ大尉、市民の犠牲を避けるためガオでの戦闘停止を決めたと表明。ガオからの撤退を開始。。

4月1日、MNLA、北部ガオ州の州都で政府軍の拠点であるガオを掌握。トンブクトゥへの攻撃を開始。

4.02 MNLA、伝説的な砂漠都市トンブクトゥを掌握したと発表。(同日、アンサル・ディーンもトンブクトゥ制圧を発表している。作戦がガオと同時並行で進められていることから、役割分担があったか、アンサル・ディーンが抜け駆けを行ったものと思われる)

Azawad Tuareg rebellion 2012.svg

4.03 ガオでは、アルジェリア領事らが武装勢力に誘拐された。MNLA報道官は関与を否定し、イスラム過激派勢力の犯行だと述べた。

4.04 al arabiya net は、トンブクトゥをイスラム主義の3人のアミール(いずれもアルジェリア人)が支配していると報じる。記事によると、1日にはトゥアレグ独立運動とイスラム主義者の共同だったが、2日にはイスラム主義者が掌握。町には黒い旗(一般的に イスラム復古主義の過激派が使用)が掲げられ、放送ではシャリーアの適用と女性のベールを着用を求める。

4.06 CNRDRE、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の説得を受け、憲法秩序回復に向けた枠組み合意に署名。トラオレ国会議長が憲法の規定に従って暫定大統領に就任。(ECOWASは、西アフリカ地域15カ国から構成される経済共同体)

4.06 「アザワド解放民族運動」(MNLA)アザワド独立宣言を発表する。首都をガオとする。

宣言の骨子: 1960年のマリ共和国独立にアザワドの意向は反映されていない。…50年以上、マリの悪政によって北部の人々の存在が脅かされてきた。…独立以降幾度となく弾圧されてきた。…北部は完全に解放された。…国際連合憲章第1条と第55条(人民の同権及び自決の原則の尊重)を根拠に独立を宣言する。…隣接する国々の国境を侵さないことを確認する。…国連憲章に完全に従う。

4.06 アンサール・ディーン、MNLAによって出された独立宣言を、発表から数時間後に拒否すると発表。シャリーアに基づく法律をマリ共和国全土に確立させると誓う。

4.06 フランスのロンゲ国防相、「アフリカ諸国に承認されていない一方的な独立宣言は、何の意味も持たない」と述べた。

4.15 トンブクトゥでキリスト教宣教師のスイス人女性が武装集団に誘拐される。

5.06 MNLA、「国際社会の呼びかけに応じ、軍事活動を停止させる」と発表。また地域諸国および国際社会に対して「アザワド住民がマリからのいかなる侵略からも安全を保証されるよう」求める。

5月 「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」(AQIM)がトンブクトゥの聖墓を破壊したと発表する。

5.26 MNLAとAQIMとが合同して、独立のイスラム国家を樹立することに合意。

「長年、日本の外交官として中東に深く関与」した人の「中東の窓」というブログに興味深い記事がありました。27日付のal qods al arabi net 紙からの引用だそうです。
アザワド国民解放運動の報道官が、「アルカイダ系のansar al din と合同し、イスラム国家を樹立する」と発表した。
つまり、
AQIM と ansar al din とは同一組織の別称だということになります。そしてガオ州をMNLAが、トンブクトゥ州をAQIM が実効支配しているらしいということです。

5.16 トゥアレグ族武装集団がリビア西南部の町ghadamis を襲撃。住民7名が死亡し、20名以上が負傷。(アルジャジーラによると、彼等はかってカッダーフィ軍に属し、町に居住していたトゥアレグ族で、革命後一時立ち去っていたものが再び戻ってきたもの)

7.05 国連安保理、第2056号決議を全会一致で採択。直ちに敵対行為をやめ,人権・人道状況の回復に努めるようもとめる。さらに、憲法秩序の回復に努力し,マリ領土の一体性を確保するようもとめる。

7月 チャド大統領、「アルカイダはアフリカ全体に対する脅威」とし、国際的介入を求める。

7.29 ECOWAS議長のコートジボアール大統領、マリ共和国への軍事介入を検討。これについてフランスアメリカなどの支持を求める。(仏紙とのインタビュー)


マリ北部の紛争について以前書いたが、その背景についてはかなり認識不足だった。

すこし調べてみたので訂正がてら、すこし事情説明をしておきたい。

まずは、マリという国。とりあえずウィキペディアでお茶を濁す。

フランス領スーダンが独立してマリ共和国を名乗った。かつてこの地にあったマリ帝国の繁栄にあやかって名づけられた。

マリは内陸国であり、地理的には北部のサハラ帯、中部のサヘル帯、南部のスーダン帯に分かれる。国の2/3は砂漠であり人口は希薄。トゥアレグ族遊牧を行っている。南西部は亜熱帯気候である。国土のほぼ中央部を流れるニジェール川流域に人口が集中している。

ニジェール川流域の農業と金とウランの輸出が中心。ウランは日本が独占契約を結んでいる。農業が主要産業だが、灌漑設備が弱く、また砂漠化の影響を受け、収量はきわめて不安定である。

トゥアレグ人の人口は、ニジェール、マリ、アルジェリア、リビア、ブルキナファソンにまたがる200万ヘクタールの土地に100-150万人おされる。多くはニジェール(推定70万人)とマリ(推定30万人)に住む。男性は頭をターバン(シュシュ)、身体をインディゴで染めた真っ青な民族衣装ダラアで覆う。「青い民」と呼ばれるゆえんだ。

階級によって、皮膚の色・生活様式・ラクダの乗り方等が異なる。

イマシュク(貴族)は一般的に白人の様な白い肌と顔立ちで、背が高く青い服を着ている。ターバンの色は氏族・家系、等により様々で、青とは限らない。イムカド(自由民・家来)は貴族とは主従関係にあるが、基本的に自由な身分。黒人の血が混じっており、白い服装である。

…ということで、イスラムの教えからは大夫逸脱ししています。歌舞・音曲もOKらしくて、その音楽は一部でもてはやされているようです。

http://www.youtube.com/watch?v=kB4ZSDUsi_k&feature=related

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案の定マリ北部が地獄の様相を呈して来た。もともと、カダフィの傭兵だった黒人がリビアから逃げ込んできて、自分たちの縄張りを広げてきた。
もともとが殺し屋な上に、リビアでの血みどろの戦闘で人を殺し慣れている。何もないが武器だけは豊富だ。こんな連中にマリの軍隊は勝てっこない。
だから、国土の北半分は当分あきらめるほかないだろう、と今年4月11日の「マリの状況が見えてきた に書いた。

その後、いくつかの変化がある。国軍がクーデターを起こした。戦闘に行きたくないとの意思表示だ。
北部の主も代わっている。最初は一応、マリからの独立を求める現地のトゥアレグ族の「アザワド解放民族運動」ということになっていたが、今では没落して「西アフリカ統一聖戦運動」というイスラム過激派が支配している。さらに「イスラム・マグレブのアルカイダ」を名乗る組織も勢力を拡大しているという。
いわば北部のソマリア化だ。そうでなくても砂漠地帯で厳しいところだが、山賊どもとバッタの大群が束になって押し寄せてきている。バッタについては6月15日の「サハラのバッタ」を参照されたい。

マリ北部から国外へ26万、南部へ17万人が避難したが、さらに460万人が緊急食糧援助を要する状態にある。
いまはともかく、山賊退治よりも住民の避難を急がせ、一人でも多くの人を救うことに専念すべきではなかろうか。
戦略的には、砂の壁による封じ込めが有効だろう。砂漠地帯をジープやらくだで行き来するゲリラ相手には、機動線が通用しない砂の壁の要塞はきわめて手ごわい。それは西サハラの戦いが証明している。

独裁政権の終焉

2002年

12月 モイ大統領、総選挙を前に後継大統領候補にケニヤッタの息子ウフル・ケニヤッタを推す。これに反対するKANU活動家はオディンガを中心に大挙離党。自由民主党を再建する。

12月 キバキとケニア国民連合 (NAK)はKANU政権の継続反対を掲げ自由民主党 (LDP)と選挙協定を締結。国民虹の連合(NARK)を結成する。

12月27日 大統領選挙でキバキが当選。初めての政権交代が実現する。議会においても虹の連合は212議席中、125議席を獲得する。キバキ与党の民主党自体は36議席にとどまる。

キバキは自由民主党との合意に際し、オディンガを首相に据え、大統領権限の多くを移譲する密約を交わしていたという。

2003年

1月 キバキが新大統領に就任。これまで認められていなかったケニア土地自由軍の名誉を回復する。いっぽうでオディンガとの密約を破棄し、大統領の専制体制を継続。オディンガは憲法改正に期待し、政権に加わり、道路・公共事業・住宅相に就任する。

ケニヤ土地自由軍の名誉回復は、我々から見れば当然の話で、どうして賞賛されなかったのか、そちらのほうが不思議だ。ウィキペディアによれば、独立時に政権を握ったのは皆、親植民地派の流れをくむケニア人だったため、解放闘争の担い手と承認されなかったそうだ。
元闘士は一貫して冷遇された。植民地政府によるケニア土地自由軍の非合法化も独立後もいっこうに解除されなかった。

2005年

7月 議会で与党提案の憲法改正案が承認される。首相職権限がほとんど認められないなど大統領権限の強い性格のものであったため、自由民主党は反対を表明。オディンガは閣僚を辞任。改正案に反対する運動を呼びかけ、オレンジ民主運動 (ODM) を結成。キバキ政権との対決姿勢を強める。

11月 憲法改正をめぐる国民投票。与党提案の改正案は否決される。オレンジ民主運動は旧政権党のケニア・アフリカ民族同盟 (KANU)と共に反対運動を担う。

「オレンジ」の名称は、国民投票における賛成票のイラストがバナナ、反対票がオレンジで表されたことに由来する。

11月 国民投票後、オレンジ民主運動からKANUが離れ、さらにオディンガのODMとカロンゾ・ムショカのODM_Kenyaに分裂。(ODM_Kenyaはさらに再分裂し影響力を失う)

大統領選挙と内乱

2007年

12月27日 大統領選挙。キバキ大統領が新たに結成した国家統一党(PNU)と、ライラ・オディンガのODMとの一騎打ちとなる。

12.28 出口調査でオディンガの得票が上回っているとの報道。オディンガが勝利宣言を発する。

12月30日 選挙管理委員会がキバキ大統領の勝利を発表。結果発表と同時に大統領の出身部族キクユ人への暴力が始まる。リフトバレー州では教会に逃げた避難民が教会もろとも焼かれ、30人以上の死者を出す。

2008年

1月3日 ナイロビのウフル公園で、ODMと支持者の抗議行動。一部が警官隊と衝突し暴動へと発展。ODM議員の暗殺事件も相次ぐ。

1.05 キバキ、米国務次官との会談後に連立政権を提案。オディンガはあくまで再選挙をもとめる。ナイロビでは暴動が拡大する。

1.08 オディンガ、抗議行動を中止すると宣言。国際的な調停があれば、和解に応じるとの見解を示す。

1.09 ガーナのクフォー大統領がケニヤ入りしキバキ・オディンガと面談。調停案を提示するがキバキが署名を拒絶。

1.16 ODMが抗議行動を再開。警官による鎮圧で2名の死者を出す。

1.22 アナン国連事務総長がナイロビに入り両派との調停活動を開始。

1.25 オンディンガ、アナン調停案の受け入れを拒否。リフトバレー州ナクルではキクユ人に対する暴力や破壊事件が相次ぎ少なくとも64人が死亡。ナイバシャでは逆にキクユ人が避難民19名を殺害。

2.01 アナンの調停により和解が成立。国家調和推進委員会が樹立される。

2.28 キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立。政治的混乱は収拾される。この間の騒動により少なくとも1000 人が死亡し、国内避難民も一時は30 万人を超えた

4月17日 オディンガが首相に就任。憲法改正に向け作業を開始。

12月 政党法が改正される。それまで160を超えていた政党・政治団体が38に整理される。

2010年8月27日 憲法改正をめぐる国民投票で、賛成票が過半数を超えた。大統領権限の縮小や地方分権、行政のスリム化などが盛り込まれる。

2010年12月 国際刑事裁判所、07年大統領選挙をめぐる暴力事件について、ウフル・ケニヤッタKANU党首、カレンジン族指導者のウィリアム・ルトらが関与していたことを明らかにする。

英政府と連携した独立

1959年12月 非常事態が解除される。再び独立運動が高揚。獄中のケニヤッタの解放を求める。

60年 連邦内独立を認める新憲法が制定される。

61年 初の総選挙が施行される。植民地当局の支持を受けた「ケニア・アフリカ民族同盟」(KANU)が「ケニア・アフリカ民主同盟」(KADU)を破り勝利。

KANUが大部族を中心とする中央集権的国家体制を主張したのに対し、「ケニア・アフリカ民主同盟」(KADU)は少数部族を尊重する連邦制を主張する。…とあるが、五十歩百歩ではなかったろうか?

62年 KANUの要請を受ける形でケニヤッタが9年ぶりに解放される。

1963年12.12 英連邦内で独立。ケニヤッタが初代首相に就任。

1964年 共和制へ移行。ケニア共和国が成立する。初代大統領にケニヤッタが就任。アフリカ社会主義を掲げる。親西側政策を採り、アフリカにおける反共の防波堤として支援を受け、経済成長を遂げる。

66年 オギンガ・オディンガ副大統領(ルオ族)、白人入植者の土地分配政策を巡ってケニヤッタ大統領と対立。ケニヤ人民同盟(KPU)を設立。

反共独裁政権への移行

1969年 政府はKPUの活動を禁止。「事実上の」単一政党国家に移行。オディンガも逮捕される。独立の英雄の一人トム・ムボヤは暗殺される。

1978年8月 ケニヤッタが死去。副大統領ダニエル・アラップ・モイが二代目の大統領となる。その後24年間にわたり独裁政治を続ける。副大統領には政権テクノクラートのトップであるキバキが就任。

アラップ・モイ: 少数民族カレンジン族の出身。反体制派を弾圧し多数を投獄。この間経済は停滞を続けた。自民族を優遇しキクユ族等多数派を冷遇したとも言われる。

1982年6月、ケニアは国会によって一党国家であることを正式に宣言。

1983年9月 一党国家として初の国会選挙。

民主化への胎動

90年 オギンガ・オディンガ、非合法野党として民主主義回復フォーラム(FORD)を結成する(このとき79歳)。

1991年

5月 ケニアの独裁政治に対して西側諸国からの圧力が高まる。モイ大統領は、「植民地主義者は部族でアフリカ人を分断し、いままた舞い戻ってきて今度は複数政党制でアフリカ人をさらに分断しようとしている。複数政党制化を主張する者は、ケニアが混沌と流血に陥ることを望んでいる」と非難。

7月 民主回復フォーラムを中心に民主化を要求する集会・デモが拡大。国際社会に影響を広げる。

11月26日 パリでアフリカ援助国会議が開催される。ケニアの民主化、構造調整計画の遅れを非難、新規援助を停止する。

12月02日 長引く不況と国際社会の圧力を受けたKANU幹部会、憲法の一党条項を無効とし複数政党制の導入を決定。キバキ元副大統領はKANU を離れ、民主党 (DP) を結成する。

1992年

12月 総選挙を目前にして民主主義回復フォーラム(FORD)がケニヤ党とアシリ党に分裂。

12月29日 複数政党制の下での最初の選挙。モイが4選を果たし、その後も実質的なKANUの独裁が続く。二位がアシリ党のケネス・マティバ、キバキが三位、オギンガ・オディンガは4位にとどまる。

アシリ党は、長老政治家オギンガ・オディンガを担ぐことに反発する若手活動家が結成したもの。92年総選挙ではケニヤ党とならぶ31議席を獲得したが、その後路線の動揺と内部争いを繰り返し、凋落する。「アシリ」はスワヒリ語で「元祖」「本家」「オリジナル」の意。

12月 議会選挙でライラ・オディンガがFORDケニヤ党から出馬し、当選する。

オディンガはオギンガ・オディンガの息子でエンジニアであった。東ドイツの大学の出身で、長男の名はフィデル、娘の名はウィニーという、“いかにも”の人。

1996年 FORDケニヤ党が分裂。ライラ・オディンガ派は自由民主党 (LDP)を結成する。

1997年

11月 国会改革、政治的権利が拡大されたことから、政党数が爆発的に増える。キバキが、民主党 (DP) を中心にケニア国民連合 (NAK) を結成、第一野党の地位を確保する。自由民主党(LDP)は第三党の地位を確保。

12月 モイが大統領に再選される。与党KANUは議会で過半数を制することができず、ライラ・オディンガの率いる自由民主党 (LDP) との連立を迫られる。

2001年 ライラ・オディンガ、モイ政権の下でエネルギー相をつとめる。自由民主党 (LDP)は解消され、KANUに吸収される。

ケニア歴史年表 その1

植民地時代以前の経過

紀元前2000年 北アフリカからクシ語系のケニア地域への民族移動。

7、8世紀頃 アラブ人が海岸地域に定住。モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設する。

西暦1000年頃 バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動。今日のケニア国民を形成する民族として定住。

15世紀初め ケニア沿岸部にバンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄える。

1418年頃 明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達。

1498 ヴァスコ・ダ・ガマの来訪。

18世紀 アラブ人の影響力が内陸部にまで及び奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。

1828年 オマーン帝国のスルタン・サイードがモンバサを攻略。

植民地時代の経過

1885 ベルリン会議で、欧州列強がアフリカの分割植民地。ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。スルタンはザンジバルに根拠地を移す。

1888年 イギリス勢が勢力争いに勝利。イギリス領東アフリカとなる。沿岸部は帝国イギリス東アフリカ会社 (IBEA) が統治する。

1895年 イギリス、東アフリカ保護領を設立。モンバサからキスムまでの鉄道建設が開始される。肥沃な高地が白人移住者たちに開放され、内陸部にまでイギリスの影響が及ぶ。

1902年 現在のケニア全域がイギリスの保護領となる。

1903年 鉄道はキスムを越えウガンダまで延びる。

1920年 英領東アフリカの統治が東アフリカ会社を離れ、英国政府の直轄植民地「英領ケニヤ」となる。

独立運動の開始

1921年 ケニア国内最大の部族であるキクユ族のあいだに、キクユ青年協会が設立される。1924年にはキクユ中央協会(KCA)も結成される。

1942年、キクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の独立運動家が秘密裏に結束。種族の壁を越えた民族解放運動が始まる。

植民地時代、キクユ族エンブ族メル族は一括してGEMAと呼ばれ、先住民の中でも軍務につけないなど差別された。イギリスお得意の分断政策である。

1946年 ケニア・アフリカ学生同盟(KASU)が設立される。のちにケニア・アフリカ民族同盟(KANU)に発展。ジョモ・ケニヤッタとトム・ムボヤが指導者となる。

キクユ族の出身。ケニヤッタはペンネームで「ケニヤの光」を意味する。本名はウェ・ンゲンギ。建国の父としてムゼー(おじいさん)とも呼ばれる。

1952年10月 キクユ族を中心とする「ケニア土地自由軍」(KLFA)が武装蜂起。白人農場、警察署、政府軍用地、親植民地派のケニア人を襲撃。「マウマウ団の乱」と呼ばれる。

マウマウはイギリス人による蔑称。語源はいろいろあるが定かでない。キクユ族の貧農を中心に一般の都市労働者や労働組合員によって構成され、最盛期には20万人が所属していた。

10月 植民地政府は非常事態を宣言。イギリス軍正規軍5万人、戦車、爆撃機などが投入された。当局は、ナイロビで2万7千人、農村で107万人の反乱支持者を逮捕してマウマウを山林内に封じ込める。

1953年 ケニヤッタはマウマウの乱を指揮したとして起訴され、7年間の重労働を宣告される。実際には北西の辺境地ロドワーに移送され、保護監察下での執行猶予処置がとられた。

54年 黒人、インド人の議会への参加が認められる。

1956年 マウマウ団の闘いは5年に及ぶが、指導者のデダン・キマジの逮捕により最終的に敗北。キマチは絞首刑に処せられる。

反乱による死者は白人入植者95人、親植民地派とみなされたアフリカ人1920人、マウマウ側は、11503人だった。イギリスは植民地予算の4年分に匹敵する戦費支出を余儀なくされた。

昨日、ケニアに行ってきた人の報告会があったので、ついでにケニアの歴史をすこし調べてみた。とりあえずはほとんど日本語版ウィキペディアの孫引きである。

ケニヤの最大の特質は、その地政学的位置にある。周囲の国の名を挙げただけでも、その重要性が浮き彫りになる。

南スーダンはいまが旬の紛争国だ。エチオピアは20年前に空前の飢餓で有名になった。メンギスツ政権は国民が餓死していても内戦をやめなかった。ソマリアはいまなお国家の体をなしていない。最大の売りが海賊というのはなんとも悲しい話である。ウガンダは昔、怪物大統領アミンで有名になった国だ。その隣が100万人虐殺のルアンダ、コンゴもいまだに内戦が収まる気配がない。

これら国家に対応するための拠点がすべてケニアに置かれている。国連や欧州諸国にとってケニアは民主主義の防波堤でなければならない。今やナイロビは世界有数の国際都市だ。国際機関のマフィアが「援助村」を形成している。

こうした「産業構造」が、きわめて外圧に弱い政治構造を作り出している。下品な表現をするなら、「援交」漬けの「パンパン国家」である。日本と似ていなくもない。

感想としては、西側の優等生といわれてきたこの国が、内実としてはさまざまな問題を引きずっていて、真の民主化が急がれているということである。

しかもその民主化は、先進国の要求するような近代化ではなく、財の均等な配分と内発的発展を可能にするような政治・経済システムの確立である。

同時に、国内経済は奇形的で不均一ではあるが、それなりの発展を遂げており、そこそこの内需もあり、国民の経済統合が進んでいるということである。

したがって、多民族国家であるにもかかわらず国民統合は進んでおり、国を分断するような内戦に至る危険性は低いと思われる。2007年の大統領選挙をめぐる紛争は、ぎゃくにそのことを証明したものとも考えられる。

日本語の情報は、この2,3年間についてほとんどない。本当は英語情報に行かなければならないのだが、この暑さが邪魔をする。


こういう数字が並ぶ情報は、メモしておかないとアウトなので、とりあえず書き留めておく。
FAOが6月4日明らかにした警報。
①今年1月、リビア南西部のガトで群生バッタの発生を確認した。
②その後この地域で雨が降り、5月までに群生が拡大した。
③影響地域はアルジェリアの4万ヘクタール、リビアの2万ヘクタールに拡大し、一部がニジェール北部に飛来している。

バッタ大群は1平方キロから数百平方キロまで多様。1平方キロあたり4千万から8千万匹の成虫で構成される。
体重2グラムの成虫は、一日に体重と同じ量の食物を摂取する。
1平方キロあたり5千万匹の密度で、100平方キロの群生バッタなら、
2x5千万x100=1万トンを消費することになる。

ちなみに象の一日当たり消費量は100キログラム、ラクダは40キログラム、人間は400グラムとされている。


人間はそんなに少ないかな?
「日に三合の飯を食い」というから、米だけで400グラムになってしまうが、実際はせいぜいその半分だろう。しかしそれと同じくらいのおかずを食べているが…


旗の文化面、佐藤さんの「未来への意志: アフリカ取材から見た日本」という文章がとても良い。


…人が死ぬことは避けられない。しかし、人々の豊かなつながりの中では、個人の死というものは命の断絶ではなく、大きな命の一部として脈々と生き続けるのだ。大きな命を生きる人々は、ともに喜びを分かち合い、悲しみを支えあう。

…死という宿命を背負った人間が生きていくには、たんに物理的に恵まれた環境が必要なだけではなく、その死を受け入れ、大きな生を紡いでいける人々の「つながり」が必要不可欠なのだと信じている。

「大きな生」のなかに生きる個別の命、これは非常に正しい。ただ近代社会にあっては「大きな生」は、自由な個性の実現と引き換えに廃棄されている。それを「貧しさを分かち合う」未開社会に戻すことはできない。個性の「豊かさ」の内に、あらたに能動的な「大きな生」を形成していくしかない。そういうロング・レンジの課題が突きつけられているのだろうと思う。

左前方から照らしているのは夕日だろうか。あまりに表情が美しいので、新聞からコピペしておく。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/c/5c1e7709.jpg


「ルワンダ中央銀行総裁日記」をもう一度読む

学生時代に読んだ記憶がある。すでにマルクスやレーニンをかじっていた時代だったが、印象は鮮烈だった。ある意味で「ガリバー旅行記」であり、最初の読後感もSF的な爽快感だったような気がする。しかしその感じとは別に、合理性を失わない立ち位置の強靭さ、マクロな視野と生データで判断する姿勢、「誰のために?何のために?」という絶えざる問い返しは、何時までも私の脳裏に焼きついて離れなかった。

最近、経済問題の首を突っ込むようになって、いろいろ頭をめぐらせていると、ふとこの本のことが思い浮かぶようになった。あの本はルワンダのことを書いているのではなくて、世界のいろいろの国のことを書いているのではないか。あれは日記の形を取っているが、途上国のさまざまな経験を織り込んだフィクションなのではないか、そういう意味での「ガリバー旅行記」ではないか、そんな気もしてきた。

とくにブラジルの「民主化の歴史」を書いていて、これは結局「ルワンダ」の焼き直しなのではないか、と思うようになり、書棚をかき回したのである。

一晩で読みきった。しかし次の日は1時間も寝過ごして遅刻する羽目になった。

40年後のいま読み直しても、これは名著である。むしろいまだからこそ余計、名著になっている。世界は服部正也氏が主張した方向ではなく、そうなるべきではないと主張した方向へと動いてきた。その結果がかくのごとき有様である。そういう眼でもう一度40年前のスタートラインに戻るのもありうるのかもしれない。

ただ、その間に40年の歳月が流れているので、私の読み方も変わっているかも知れない。以前はこの本の後半部分、農業重視の自力更生路線が魅力的だった。今回はこの部分はいささか自画自賛の趣がないでもない。むしろインパクトを与えるのは前半部分、平価切下げに向けての諸準備とIMFや銀行筋との丁丁発止のやり取りだ。あいまに政府機構の建て直しをやっていく。このあたりはノウハウとしても大いに参考になるところ。

この40年間、世界は大いなる失敗をしでかしてきた。一番大きいのはIMF・世銀を尖兵とするネオリベラリズムの失敗だ。しかもいまだにその失敗は克服されていない。それどころか、失敗だったという認識もいまだ世界に共有されているとは言いがたい。

もうひとつは左翼の側の責任である。グローバリゼーションはネオリベラリズムとイコールではない。これは大方の認識だ。しかしどこまでがグローバリズムの必然として受容すべきか、どの点をネオリベラリズムとして峻拒すべきかの境界は必ずしも明らかではない。当然のことながら、その境界はどういう原理によって引かれるべきなのかも理論構築されてはいない。

モスクワ追従派の共産党の大方は消え去った。そのほとんどは社会民主主義にスタンスを移し、ネオリベラリズムを無原則的に受け入れている。労働者政党は既得権益確保と、独占資本の擁護のあいだを揺れ動いている。ラテンアメリカでも一時はレノバシオニスタ、文字通りの修正主義者が幅を利かせた。しかし21世紀に入ってベネズエラを先頭に各国政府が軒並み左翼化するに及んで、この問題にも一定の結論が出ようとしている。

私にはそれを定式化できるような能力はないが、とりあえずブラジルの闘いの記述を通じて、いささかの示唆は出来たのではないかと考えている。あとはこれらの事実を資本論第三部と結びつけながら整序していく作業が残されている。それは私の仕事ではないが、魅力のある作業ではある。

3月26日にマリで起きた軍事クーデター。理由が分からずにいたが、原因は北部の戦闘が不利な中で、困難な戦いを強いられた軍が反発したもののようだ。
単純な権力争いの図式でないだけに問題はむしろ深刻だ。
なぜ苦戦を強いられているかというと、北部の反乱勢力はカダフィの傭兵あがりで滅茶苦茶強いのだ。しかも敗残兵で気が立っている。
マリの北部は二ジェル川流域のわずかな地帯を除けば全土が砂漠、遊牧民トゥアレグ族の本拠地だ。こういう勇猛な部族に最新鋭の武器を持たせたらどうなるか、とても貧乏国の政府軍の手に負えるものではない。
トゥアレグ族は北部の独立だけを求めており、全土の制圧は狙っていないようだ。正直言って独立認めたほうがよさそうだ。ただし経済的に自足できるような場所ではなさそうだから、経済的な結合は保つほうがよいだろう。
武器の力だけで一時的な支配ができても、それを持ちこたえることは出来ないだろう。弾薬が尽きればそれで彼らの命運も尽きることになる。

国際社会はカダフィの再現を許すことにつながる新「国家」を承認すべきではない。

ユッスー・ンドゥールが立候補届けを出したが、受理されなかった。支持者署名が不足していたそうだ。
ンドゥールはセネガルの生んだ世界的な歌手。私もCD2,3枚は持っている。これに対しセネガル全土で「もうたくさんだ」抗議行動が巻き起こっている。各地で死者も出ているようだ。
今の大統領ワッドはなんと85歳。それなのに憲法の規定を無視して三選出馬を表明したという。計算すると独立のときは35歳くらい、第一世代がまだがんばっているということになる。しかしンドゥールもけっこうな年のはずだが…

調べたら、まだまだ若い。59年生まれ、52歳だ。『ネルソン・マンデーラ』(1986年)が最初の国際ヒットというからこのときが27歳。息の長い歌手である。
たしかに国際的舞台で進歩的な立場をとり続けている人ではあるが、名声を背景に大統領選挙に乗り出すのは、いささか疑念を持たざるを得ない。
かつてパナマでルベン・プラデスという歌手が立候補してあわやというところまで行ったことがあるが、そのあと政治道楽に飽きたのかあっさりと手を引いた。ハイチはあまりにも政治状況が過酷なので、是非については論評できない。成功を祈るばかりである。

初代大統領サンゴールの統治が80年まで続いたあと、与党社会党は徐々に力を失いワッドの率いる保守系の民主党に代わった。しかしこの政権交代は平和的に行われ、セネガルはこの地域では比較的平和な安定した国家として継続して来た。

いずれにせよ85歳にして再出馬というのは尋常ではない。ンドゥ-ルの出馬に抵抗を感じているのかもしれない。

このニュースに関してのネット情報は日本語ではない。さらに踏み込むべきか悩むところだ。

最初に、「世界政治」の紹介した時嫌な感じがしたんですね。またも泥沼だぞ、と。
案の定でした。

とりあえず、感想めいたことをひとつ、2つ。

①日本における情報量のすごいこと、ほとんど英語文献には手をつけていないのに、これだけの量です。我らが高林先生の「西アフリカ研究室」の情報には圧倒されますが、それだけではなくネット上には多数のすぐれた文献がアップされています。Wikipediaも充実しています。
これだけあると、突き合わせが可能になるので、相当精細な経過が追えます。
参照したネット文献は下記のとおりです。

(西サハラ問題研究室:高林敏之)

35年の占領:西サハラ人の抵抗キャンプをモロッコ治安部隊が弾圧 ...

このビデオはぜひ見るべきです。解説者は本質を見事に捉えています。

ポリサリオ戦線 - Wikipedia

西サハラ - Wikipedia西サハラ問題 - Wikipedia西サハラ

西サハラ:アフリカ大陸基本情報

西サハラ

スペイン領サハラ

モロッコ解放軍

ハラカト・タハリール  

ゼムラ蜂起  

西サハラ (サハラ・アラブ民主共和国) 

ディプロ2006-1 - Inextricable, le conflit du Sahara occidental rebondit 

地誌Wiki - 西サハラ


②「西サハラは東チモールと同じだ」と言われていますが、重要な違いがあります。それはモロッコはインドネシアではないということです。
アメリカはアジア債務危機の際、スハルト政権を見殺しにしました。当時新聞は民衆蜂起が成功したと書きましたが、沖合いには沖縄の海兵隊を満載した第7艦隊が上陸準備していたことには触れませんでした。
一方、「アラブの春」で、本来なら真っ先に倒されなければならないはずのモロッコ王制は、民衆の抗議などどこ吹く風、我が世の春を歌っています。
だいたい「英明な君主」なんていうのは「硬い豆腐」と同じで形容矛盾です。もし英明な君主なら君主制など廃止するはずではありませんか。(丸い豆腐はありますねぇ)
正直いって私も、2009年の「インティファダ」は今回はじめて知りました。ちゃんと赤旗読んでいたはずなんだけどなぁ。

③重要なもう一つの違いはアルジェリアというバックの存在です。アルジェリアがあったからこそ、ここまでやって来れたのですが、この先もこのままで良いとは思えません。
せっかくモロッコから独立してもアルジェリアの属国になってしまったのでは意味がありません。70年代の戦闘を指導した人々ももう60歳台に入るはず、キャンプで生まれた人ももう30歳を越えてきます。90年代末にコロンビアのFARCが社会復帰のチャンスを逃したのも、あまりにも長くゲリラ闘争を続けてきたからです。
とにかく今のままでは闘えないのは事実です。大事なことは闘うことです。人々の生活する現場で人々と共に闘うことです。
トップが筋をつらぬくことと、30万の難民に「帰国して祖国で闘う自由」を与えることは、矛盾しないと思いますが…

④これはちょっとオタクめいた感想になりますが、「砂の壁」の有効性です。これまでゲリラ戦では「戦略村」が最も普遍的な対ゲリラ作戦でした。ベトナムはこれでだいぶ苦労しましたが、トンネル作戦でこれを乗り切りました。
戦略村とトンネル作戦(あるいは塹壕作戦)は朝鮮戦争から最近のメキシコ麻薬戦争まで拮抗してきましたが、これからは万里の長城作戦が復活していくのでしょうか。

1992年

1月 モロッコの異議により住民投票が延期される。スペインが1970年代に住民投票のため作成した住民名簿を基礎とした有権者名簿にたいし、12万人のモロッコ側名簿を加えるよう要求。

1997年

9月 ベーカー元米国務長官、国連事務総長「個人特使」として当事者間仲介。有権者認定作業を再開することで合意(ヒューストン合意)。

1998年

6月 ベーカー提案が暗礁に乗り上げる。

1999年

7月 モロッコ国王ハサン2世死去、ムハンマド6世が即位

2001年

2月 アナン国連事務総長、5年間のモロッコ主権下での自治のあと、独立・自治・モロッコ統合のいずれかを選ぶ住民投票という2段階・三択計画を提案する。ポリサリオ戦線はこれを拒否するが03年には受け入れる。

2002年

11月 ムハンマド6世、テレビ演説で「国連の住民投票計画はもはや有効でなく、住民投票は受け入れられない」と声明。

02年 東チモールが国連投票で独立を実現。

2003年

5月 「西サハラ人民の自決のための和平プラン」が提案される。5年間の暫定自治を経て、独立・自治・モロッコ統合のいずれかを選択するというもの。

7月 ポリサリオ戦線が「和平プラン」を受諾。これを受け、国連安保理が「和平プラン」を支持する決議を採択。

11月 ポリサリオ戦線は、モロッコ人捕虜300人を解放したと発表。捕虜たちの本国帰還は赤十字国際委員会に委ねられる。モロッコ政府は捕虜の存在を認めていなかった。

2004年

4月 モロッコは「和平プラン」を正式に拒否。自治のみが唯一の解決であるとの姿勢を鮮明にし、独立を選択肢に含む住民投票という構想を拒否。

2008年

2月 サハラ・アラブ民主共和国、ティファリティを臨時首都として宣言(正式の首都はラユーン)。

2009年

インティファダの女性指導者アミナトゥ・ハイダー、アメリカで市民の勇気賞(Civil Courage Prize)を受賞。モロッコから帰国を拒否され、カナリア諸島の空港で30日間のハンストを行なう。

2010年

9.21 モロッコ自治領化を主張したポリサリオ監察総監がポリサリオ武装派により誘拐・監禁される。人権団体がいっせいに非難したためまもなく解放。

9月 モロッコ政府、1月以降1360人がティンドゥフを脱走しモロッコに帰還していると報道。

10.13 西サハラ・モロッコ占領地でのインティファーダが始まる。首都ラユーンから15キロ離れた砂漠で「蜂起キャンプ」を設営。経済上の正義の要求を前面に抗議活動を開始する。キャンプへの結集者は瞬く間に拡大し、女性・子供・老人を含め1万人以上が参加する。

10.25 モロッコ占領軍が「蜂起キャンプ」に物資を運ぶ14才の西サハラ人少年を射殺。少年の兄二人をふくむ7人も銃撃され、病院に運ばれる。

10.29 モロッコ内務省、「検問に当たっていたモロッコ兵に向け2台の四輪駆動車が突然発砲してきた。モロッ コ兵は応戦し、14才の少年が死亡、7人が軽傷」と発表。「モロッコ国王に刃向かう国際テロリストの犯罪行為」と非難する。

11.02 現地の人道援助団体、「モロッコ軍が居留区に乱入し活動家を拘束している」とBBCに通報。国際支援をもとめる。

サンフランシスコ大学のズーヌス教授は「デモクラシー・ナウ!」で次のように語っている。
 西サハラの活動は、女性の権利と民主主義を求める非暴力の闘争です。それこそ西洋の国々がアラブに求めたものではないのか? それなのに欧米は専制君主を助けて非暴力の抵抗を弾圧させている。…西サハラの唯一の希望は東チモールで見られたような世界の市民社会が団結した国際連帯運動です。

11.08 モロッコの治安部隊が抗議キャンプを攻撃。アイウンは封鎖され、報道関係者は強制的に国外追放される。

11.11 モロッコ当局、死者は12人、そのうちモロッコ警察が10人と発表。モロッコ国内では事件は報道されず。

11.09 ポリサリオ戦線、サハラ人の死者は11人、723人が負傷、行方不明159人と発表。

西サハラの記事をいろいろ探しているうちに、こんな写真に出会った。

中部地雷問題支援ネットワーク

というページだ。とりあえず写真を転載させていただく。
元々の記事は(CNN 2008.4.2)からのようだ。
https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/2/7/275138d2.jpg

 約30年にわたって内戦状態が続いたアフリカ南西部アンゴラで2日、地雷の被害を受けた女性のミス・コンテストが開催される。まだまだ土中に埋もれてい る地雷の危険性を多くの人々に伝えるために企画されたコンテストで、優勝賞品はカスタムメイドの義足。また、参加者全員が政府の援助を受けられる。

参加者の写真やプロフィールなどは、大会の公式サイト(http://www.miss-landmine.org/)で見ることができるそうだ。

笑えないジョークではあるが、この際は遠慮しないで笑って泣くのが一番だろう。

 結局、全面的に着手してしまいました。意外に日本語資料が多く、読みこなすだけで数日が費やされてしまいました。

日本語版ウィキペディアにはいくつか不正確な記述があるようです。別に論争的なテーマではないので、早めに訂正されるよう期待します。



怖いもので、載せて送ったつもりが送られていませんでした。焦ってバックアップ・ファイルを除いたら、運よく残っていました。ただし、これは最終版ではなく、いくつか重要な事項が抜けています。

とりあえず載せておきますが、近日中に補充します。

1860年 モロッコ南部のイフニ地方がスペインの植民地となる。イフニは港町ジジ・イフニを中心とする1900平方キロほどの地域で、西サハラからは離れている。

1885年 スペインはボジャドールを南端とする「西サハラ」の保護領化を宣言。それまで西サハラはモロッコ王国の影響下にあったが、支配関係にはなかった。

もともとの住民は黒人であったが、北部から「ベルベル人」が移動してきて多数派となり、その次に13世紀頃に東からやってきた「アラ ブ人」と混淆していった。主に遊牧を営み、みんなひっくるめて「サハラウィ」(サハラの民)と総称される。

1910年 マー・アルアイニン、モロッコを攻撃。マラケシュを占領しフェスに向かうがフランス軍に敗れる。内陸部に逃れスマラの町を建設。

マー・アルアイニン: 本名はモハメッド・ムスタファ・ウーラッド・シェイク・モハメッド・ファデル。マー・ア ルアイニンは「目の水」という意味の通称。モーリタニアから西サハラまで の部族を統率、植民地支配者に対する抵抗の指導者となる。モロッコ攻撃は植民地解放運動へのスルタンの不誠実な対応に抗議するものといわれる。
 マー・アルアイニンは1911年に世を去ったが、息子たちがさらに6年にわたり抵抗運動を続けた。

1912年 モロッコ、スペイン・フランス協定によって保護領となる。「アラウィー朝」王室は存続したが外交権等を剥奪される。

1912年 スペインとフランスの協議により西サハラの境界線が確定。スペインは西サハラにモロッコ南部の保護領タルファヤ地方とイフニ飛び地を加え、スペイン領西アフリカとして再編する。

一説によれば、スペインはモロッコ南部に侵入し、16年にジュビィ岬(Cape Juby)を占領、ビリャ・ベンスを建設。20年にさらにラ・ゲーラを占領し、この地帯を南部保護領とした後、西アフリカに編入したとされる。この前後にビリャ・ベンスはタルファヤと改称され、スペイン領西アフリカの首都とされた様子。

1928年 サンテグジュペリのレポート「リオ・デ・オロ」に拠れば、スペインの植民地支配は海岸線に限定される。この年ラユーンの街が建設される。

1934年 スペイン軍、サハラウィの抵抗を抑える。西サハラはスペイン領サハラと改称。南部のリオ・デ・オロと北部のサギア・エル・ハムラより構成される。

1947年 ブークラーで燐鉱石鉱脈が発見される。

1956年 モロッコがフランスから独立。スペインにも南部支配地イフニ、タルファヤの返還をもとめる。

1957年 

8.11 「サハラ解放軍」が西サハラ北部のリン鉱山の町シジ・イフニで蜂起。イフニ戦争が始まる。スペインはカナリア諸島から落下傘兵連隊を送り、「サハラ解放軍」を退ける。

サハラ解放軍: モロッコの主要政党のひとつイスティクラール党の組織した義勇兵部隊。サハラウィも大挙参加した。

1958年

2月 ハッサン二世、「サハラ解放軍」を再編し、援助を強化する。スペインはフランスの「軍事協力」を得て掃討に乗り出す。

4.01 アングラ・デ・シントラ協定が成立。モロッコはジジ・イフニ周辺のスペイン支配を認め。「サハラ解放軍」への支援を打ち切る代償としてタルファヤとタンタンをふくむ南部保護領の返還を獲得する。

1962年 アルジェリアがフランスから独立。北アフリカにおける民族解放運動のリーダーとなる。

1963年 西サハラ北部ブーカラー (Bou Craa) のリン鉱床の埋蔵量が最大規模の鉱脈であることが明らかとなる。世界の採掘可能燐鉱石の9パーセントに達するとされる。

1965年 西サハラが国連の「独立すべき植民地リスト」に載せられる。翌年にはアフリカ統一機構(OAU)が西サハラの自決権を支持する決議を採択。

1967年 バシリらが中心となり、アイウンに独立を目指す組織が結成される。

1968年 騙されて外人部隊に入隊した日本人2人が砂漠越えの脱走を企てる。3日後には暑さに耐えられなくなって外人部隊駐屯地に引き返し、重営倉(軍隊の懲罰施設)入りとなっ た。

1969年 スペイン、西アフリカの首都となっていたイフニをモロッコに割譲。これに代わりラユーンに総督府がおかれる。

ラユーンは欧米での発音。元々はアラビア語で “al-Aiyun” なのでアル・アイウンが正しい。征服したヨーロッパ人が “Laayoune” と呼び表記した(綴りはスペイン語というよりフランス語ですね)。現地でもラユーンで通用する。東京がトキオになった感じ。
ヨーロッパ語読みは邪道と言われるかもしれないが、それならメヒコ、クーバ、オンドゥラス、ベネスエラ、アルヘンティーナ、チレと呼びますか? 中華民国、朝鮮民主主義人民共和国と呼びますか?

69年 北部スマラの聖職者ムハンマド・バシリ、秘密結社「ハラカト・タハリール」(解放運動)を結成。正式には「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放運動」とされる。

サギア・エル・ハムラはアラビア語で「赤 い運河」を意味する。州都ラユーンを水路が横切っていることから名付けられた。西サハラの北1/3をなす。リオ・デ・オロはスペイン語で「黄金の川」の意味。国の南部2/3を成す。州都ダクラに川が走っていたことから名付けられたという。

1970年

6.17 ハラカト・タハリールがラユーンのスペイン総督に対しサハラの独立と公正な扱いをもとめる請願デモ。市内ゼムラ地区で警察との衝突とな り、外人部隊が出動。少なくとも11人が死亡し、多数が負傷、数百名が逮捕される。指導者バシリは数日後に逮捕されたあと消息を絶つ。

1971年 モロッコ軍内に、ハッサン二世の統治への不満が高まる。ムハンマド・アバドゥ大佐がクーデタを試み、72年には国王専用のボーイング機が狙撃されるなどテロの標的になったが、ハッサン二世は奇跡的に生還した。

1972年

5月 「統一と解放のための戦線」(FLU)を名乗る武装組織が西サハラに侵入。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方を相手に戦闘を開始。実体としてはモロッコ軍の一部とされる。

1973年

5.10 モーリタニア領のアイン・ベンティリで、スペインからの独立を目指すポリサリオ戦線が結成される。

ポリサリオ戦線: Frente Popular de Liberación de Saguía el Hamra y o de Oro の頭文字をとったもの。正式には「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放人民戦線」となる。
 
モロッコの大学に留学するサハラウイ学生を中心に結成され、エル・ウアリ・ムスタファ・サイードが書記長に就任、アブデルアジズらが指導。

5.20 ポリサリオ戦線、エル・ハンガでスペイン軍部隊と最初の交戦。わずか7名のゲリラでスペイン兵16名に勝利。

73 モロッコ、アルジェリア、モーリタニアの3国首脳会談、西サハラの「自決」を求める。

73年 スペイン政府は、内政自治計画を声明。西アフリカを「海外県」とし、現地議会「ジェマー」を開設。本国議会にも3人の議員を送る。親スペイン政党「サハラウイ国民統一党」(PUNS)が結成される。

1974年

7月 スペインの独裁者フランコ総統が病に倒れる。このあと軟化したスペイン政府は国連の監視下において西サハラでの住民投票を行う方向を打ち出す。

74年 スペイン植民地当局が、住民投票の権利を有する西サハラ住民の名簿を作成。この時点では西サハラの登録人口は5万人しかいなかった。

74 モロッコは西サハラの独立を選択肢とする住民投票を拒否。「大モロッコ主義」を唱えて西アフリカの領有権を主張する。

大モロッコ主義: 16世紀以降にモロッコが支配してきた地域はみな現在のモロッコ王国に統合されるべきであるとの考えで、西アフリカだけでなくモーリタニアの全域・マリの北西部・アルジェリア西部までをも含んでいた。


西サハラポリサリオ戦線の戦い

西サハラの闘い その3

西サハラの闘い その2



1981年

3月 アメリカはモロッコに対し1億ドルの軍事援助を開始。アメリカ式訓練を受けたモロッコ軍特殊部隊がアガディールとタンタンに派遣される。部隊は人民解放軍の待ち伏せ攻撃を受け甚大な被害を出す。

6月 第一次の「砂の壁」が完成する。大西洋沿岸から内陸のアルジェリア国境の近くにまで達する全長700キロの長城が姿を現わす。

6.24 アフリカ統一機構の第18回首脳会議(ナイロビ)で、モロッコは西サハラでの住民投票受け入れを宣言。しかしポリサリオ戦線を紛争当事者と認めず、住民投票も「モロッコの主権を確認するためのもの」と主張。

8月 コジョOAU事務総長はRASDに加盟承認を通告

10月 アルジェリアの軍事支援を受けた西サハラ人民解放軍は国土の90%を解放。モロッコは派遣軍を8万人か ら13万人に増員して対抗。

“首都”ティンドゥフ: 4つの難民キャンプには合わせて約15万人が住み、モロッコ占領下の最も重要な都市名を取ってエル・アイウン、スマラ、アウセルト、ダクラと名付けられている。更に各省庁、キャンプ各地域の管理局、病院や診療室、幼稚園、小学校、女性のための職業学校、婦人団体、菜園、放送局などがある。

81年 劣勢に追い込まれたモロッコは、北部にエルアイウン(首都)・スマラ・ブクラを結ぶ「重要三角地帯」を設定する。人民解放軍はただちに三角地帯の拠点ゲルタ・ゼムールを攻撃し甚大な被害を与える。

1982年

2.22 アジスアベバでOAU外相会議。RASDが出席。モロッコおよび18か国が退席し流会に追い込む。

5.27 ハッサンがワシントンを訪問し軍事援助をもとめる。EUを経由して1億ドルの軍事援助が提供されることとなる。

1983年

6.08 OAU首脳会議、モロッコとポリサリオ戦線を紛争当事者として初めて明記。直接交渉を求める決議を採択。

83年末 ハッサン二世、参謀本部を全面更迭。アメリカ式の装備に切り替える。

1984年

2.27 モーリタニアがRASDの独立を承認。

10月 ポリサリオ戦線、三角地帯の壁を同時攻撃。ズムール・二ランで防御線を突破する。その後は砂の壁を攻めあぐねる。

11月 OAU首脳会議にRASDが正式加盟。モロッコはOAU脱退を宣言する。

1987年

モロッコが建設を進めて来た「砂の壁」が完成。

砂の壁: 国土を東西に隔てる全長2千キロの防衛線。イスラエル軍の協力によって建設された。砂を高さ数メートルに積み上げて作ったもので、その周辺は鉄条網と地雷原で防御されている。

1988年

モロッコとポリサリオの双方が、国連事務総長の和平提案を受諾。

1989年

1月 ポリサリオ上級幹部がマラケシュでハサン2世と秘密会談。モロッコは住民投票の受け入れを了承する。

1990年

6月 包括和平案が国連安保理決議658として採択される。独立かモロッコ統合かを住民投票で選択することが骨子で、OAU枠組み案を踏襲する。

1991年

4月 国際連合の仲介でポリサリオ戦線とモロッコが停戦。モロッコ帰属か独立かを問う住民投票を実施することになる。

8月 国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が創設される。

9月 ポリサリオ戦線とモロッコとの停戦が発効する。

1975年

2月 「統一解放戦線」(FLU)が北部で戦闘を開始。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方に敵対する行動。実態はモロッコ政府軍の一部とされる。

その頃のモロッコは国王ハッサン2世が国防相・参謀総長を兼任していた。ハッサン独裁への軍部の不満は強く、王宮襲撃事件や国王専用機銃撃事件が続いていた。これらの矛盾を国外にそらすことに最大の目的があったとされる。

75年前半 国連現地調査使節団、圧倒的多数のサハラウイが併合ではなく独立を支持と報告。都市部以外のすべてはポリサリオ戦線が支配するにいたる。

75年 カルロス皇太子がエルアイウンを訪問、西サハラの独立をあらゆる方策で保障すると述べる。

10月 国際司法裁判所、モロッコの西サハラ領有権を否定する裁定。ハッサン2世は裁定受け入れを拒否し、「緑の行進」を呼びかける。

判決の要旨: 西サハラとモロッコ、あるいはモーリタニアの間には、歴史上いかなる領土上の主権関係もなかった。スペインによる植民地化の時点では西サハラは「主なき地」ではなかった。

10.31 モロッコ軍8千人が国境を越え軍事占領作戦を展開。(この項真偽不明)

11.06 モロッコは35万人を動員した「緑の行進」を強行。ハッサン2世は「いかなる専制君主といえど も。非武装の35万人に発砲を命じることは出来まい」と扇動。

緑の行進の実態: ①35万人は主催者発表であり実数は不明、②行進団の上空にはモロッコ空軍機が旋回しており、非武装とはいえない、③モロッコ政府軍の別働隊であるFLUがポリサリオ戦線との衝突を繰り返していた、④行進団は国境から12キロの地雷原で反転、そのまま国内に戻った。

11.06 モーリタニアが南部から侵入。2万の軍が南部リオ・デ・オロ地方の中心地ゲラを占領。(この項真偽不明)

11.06 国連決議380号、「行進に参加した全モロッコ人の即時引き上げ」をもとめる。アルジェリア領内に大量の難民が流出。スペイン政府は民間人や兵士の家族に退去を命じる。

11.14 マドリードでスペインとモロッコ、モーリタニアの三国会談。秘密協定で、スペインは西サハラの分割譲渡を認める。燐鉱山は、所有権をモロッコ2、スペイン1の割合で分割することで合意。

11.20 フランコ総統が死去。スペインは西サハラへの関心を完全に失う。

11.25 モロッコ正規軍4000名が国境を越えて侵攻。

11.28 諮問議会「ジェマー」、独立を支持する「ゲルタ・ゼムール宣言」を発する。ジェマーを解散するとともに、ポリサリオ戦線こそが西サハラ唯一の合法的権威であるとする。

「ジェマー」はスペインが開設した現地人の諮問議会。宣言には議員の3分の2のほか、西サハラ選出のスペイン国会議員3人、60人の族長が署名した。

12.10 モーリタニア軍が侵入。スペイン駐留軍基地の撤収跡を確保するためポリサリオ戦線との戦闘が繰り返される。

ポリサリオ戦線はモーリタニア軍の後方基地を襲い、越境してモーリタニア軍拠点を攻撃するなど多彩な攻撃を展開。司令官エル・ワリは神出鬼没の活躍ぶりから「サハラの狼」と呼ばれた。

12月 長老層や旧「サハラ解放軍」兵士らがポリサリオに合流し、「臨時サハラウイ国民評議会」を創設。

1976年

1.12 スペイン軍の最終部隊がダクラから引き揚げる。これに代わりモーリタニア軍がダクラに進駐。

1月 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線は、住民を道連れに奥地への遅延撤退作戦を展開。モロッコ軍がナパーム弾で難民の列を爆撃。

1.21 モロッコ空軍のF5戦闘機がポリサリオ戦線によって撃墜される。対空兵器はアルジェリアから持ち込まれたものであった。

1月末 アルジェリア国営通信、自国軍がモロッコ軍と衝突したと公表する。

2.14 アルジェリア軍、難民の移動完了を見て、西サハラ領内より撤収。

2.26 スペインが最終的に西サハラの領有を放棄。

2.27 アルジェリア領内ティンドゥフに形成された難民キャンプを拠点として「サハラ・アラブ民主共和国」の建国を宣言。

サハラ・アラブ民主共和国: Sahrawi Arab Democratic Republic (SADR) と称される。アルジェリアとリビアが支援に回った。実質的行政機能はアルジェに置かれる。

3.01 アフリカ統一機構、西サハラへの支持を表明。

4.14 モロッコとモーリタニアが西サハラの分割ラインを決定。

6.07 ポリサリオ戦線、モーリタニアの首都ヌアクショットへの急襲作戦。ランドローバーやトラックに分乗した兵士600人がティンドゥフを出発。

6.09 ポリサリオ戦線がヌアクショット市内に突入。一時は大統領官邸付近に迫撃砲弾を撃ち込むが結局は撃退される。ポリサリオ戦線側の戦死者は200人を数え、この闘いでエル・ウワリが戦死。

7月 モロッコのラバトでハッサン二世とモーリタニアのウルド・ダッダ大統領が会談。「相互防衛条約」に調印する。モロッコ軍3千人がモーリタニア支配地域に展開。さらにフランス人の「ジャガール飛行部隊」が制空権を確保する。

8月 ポリサリオ戦線の第3回大会。エル・ウワリに代わりムハメッド・アブデルアジズが書記長に選出される。サハラ人民解放軍(ALPS)を編成する。

8.30 アブデルアジズ、第3代のサハラ・アラブ民主共和国大統領となる。

10月 ポリサリオ戦線が軍事攻勢を再開。ヌアクショットも少人数コマンドによる反復攻撃の対象となる。

1977年

5.01 西サハラ解放軍が「エル・ウアリ作戦」を実施。モーリタニアのゾエラットを攻撃。3週間にわたる戦闘の後占領。

ゾエラットには鉄鉱山があり、モーリタニア経済の心臓部とされる。モーリタニアは戦費増大に加え、資金源の鉄鉱山を叩かれたため経済危機に陥る。

5.01 ゾエラットに駐在していたフランス人6人が人質となる。ポリサリオ戦線は人質と交換にフランス政府の独立承認を要求。のちにフランス共産党の仲介によって解放される。

5.13 モーリタニア、モロッコとの相互防衛協定に調印。モーリタニア領へのモロッコ軍駐留が開始される。

7.03 エル・ウワリ戦死1周年を期して、西サハラ解放軍がヌアクショットを攻撃。攻撃は1週間にわたり続く。

7.20 モロッコ、モーリタニアに600人の増援部隊を派遣。

11月 モーリタニア軍と組んだフランスの「ジャガール」と「ミラージュ」の飛行部隊が進出し、制空権を握る

1978年

6月 モーリタニアのウルド・ダッダ大統領がクーデターにより失脚。

7.12 ポリサリオ戦線はモーリタニアに対する一方的戦闘停止を指示。

8.05 アルジェでポリサリオとモーリタニアの間に停戦協定成立。このあと戦いは西サハラ人民解放軍とモロッコ軍との間に絞られる。人民解放軍はリン鉱山を反復襲撃し操業停止に追い込む。

11月 フランス人飛行部隊が撤退。モロッコ軍はフランス軍の援助を受け反ゲリラ部隊「緊急介入部隊」(DIR)を編成。ゲリラ根絶のため焦土作戦を実施する。

1979年 

1.29 ポリサリオ戦線、「ブーメジエン攻勢」を開始。国境を越えモロッコ国内に侵入。レムサイルの戦闘で勝利し、タンタンを一時占拠。モロッコ軍2個連隊を壊滅に追い込む。(ブーメディエンは当時のアルジェリア大統領)

7月 第17回OAU首脳会議、西サハラにおける自決住民投票を骨子とする決議を採択。サハラ共和国のOAU加盟についても過半数の国が賛同するが、モロッコの脱退の脅しの前に、採択を保留する。

8.05 モーリタニアとポリサリオ戦線が和平協定を締結。モーリタニアは西サハラに対する領有権主張を放棄、相互不可侵と国境の尊重、モーリタニア占領地域のポリサリオへの引き渡しを約す。

8.14 モロッコは和平協定を無効と宣言。モーリタニア占領地域もふくめ西サハラ全土を自国に併合する。

9月 ハバナで開かれた非同盟首脳会議、西サハラからの全占領軍撤退を求める決議を採択。

79年末 ポリサリオ戦線の大攻勢。解放区は西サハラ全体の8割に達する。サハラ・アラブ民主共和国を34カ国が承認する。

79年末 モロッコ軍、制空権確保を中核とするアメリカ式戦術への切り替えを開始する。モロッコ国内に5つの基地を持つアメリカが軍事支援を強める。

モロッコの新戦略: 「国家防衛評議会」を新設し国王の義兄弟アフメド・オスマンが議長に就任。装甲車やジープ、ヘリコプターなどで機動性を高め、対ゲリラ戦機能を強化。砂の壁の構築を柱とする。

 サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)のたたかい

だいぶ古い「世界政治」(1987年4月下旬号)に紹介記事があった。いずれ役に立つかもしれないので紹介しておく。

1975年10月31日、「緑の行進」の美名のもとにモロッコ軍8千人が国境を越え侵入。

11.06 モーリタニアが南部から侵入。2万の軍勢が南部リオ・デ・オロ地方の中心地ゲラを占領。

11月 マドリードで三国間協定が調印される。

75年 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線が抵抗闘争を開始する。解放軍は敵軍の後方基地を襲い、越境してモーリタニア軍拠点を攻撃するなど追い詰める。

76年3月 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線は、住民を道連れに奥地への遅延撤退作戦を展開。

6月にはヌアクショット市内にポリサリオ戦線が攻め入るが、多数の死傷者を出して撤退。

76年7月 モロッコのラバトでハッサン二世とモーリタニアのウルド・ダッダ大統領が会談。「相互防衛条約」に調印する。モロッコ軍3千人がモーリタニア支配地域に展開。さらにフランス人の「ジャガール飛行部隊」が制空権を確保する。

76年9月 ポリサリオ戦線が第3回大会を開催。サハラ人民解放軍(ALPS)を編成し全面攻勢を開始する。ヌアクショットも反復攻撃の対象となる。

77年11月 モーリタニア軍と組んだフランスの「ジャガール」と「ミラージュ」の飛行部隊が進出し、制空権を握る

78年6月 モーリタニアのウルド・ダッダ大統領がクーデターにより失脚。ポリサリオ戦線はモーリタニアに対する一方的戦闘停止を指示。このあと戦いは西サハラ人民解放軍とモロッコ軍との間に絞られる。

78年11月 フランス人飛行部隊が撤退。モロッコ軍はフランス軍の援助を受け反ゲリラ部隊「緊急介入部隊」(DIR)を編成。ゲリラ根絶のため焦土作戦を実施する。

78年12月 ポリサリオ戦線、「ブーメジエン攻勢」を開始。レムサイル、タンタンの戦闘で勝利しモロッコ軍2個連隊を壊滅に追い込む。

79年6月9日 ポリサリオ戦線の指導者サイードが戦死。

79年 モーリタニア新政権とポリサリオ戦線が平和条約に調印する。

79年末 モロッコ軍、制空権確保を中核とするアメリカ式戦術への切り替えを開始する。モロッコ国内に5つの基地を持つアメリカが軍事支援を強める。

81年3月 アメリカ式訓練を受けた特殊部隊がアガディールとタンタンに派遣される。部隊は人民解放軍の待ち伏せ攻撃を受け甚大な被害を出す。

81年10月 アルジェリアの軍事支援を受けた西サハラ人民解放軍は国土の90%を解放。

81年 劣勢に追い込まれたモロッコは、北部にエルアイウン・スマラ・ブクラを結ぶ「重要三角地帯」を設定し、全長2千キロの防衛線により要塞化する。アメリカは1億ドルの軍事援助を開始。人民解放軍はただちに三角地帯の拠点ゲルタ・ゼムールを攻撃し甚大な被害を与える。モロッコは派遣軍を8万人から13万人に増員して対抗。

83年末 ハッサン二世、参謀本部を全面更迭。アメリカ式の装備に切り替える。

84.10.13 ポリサリオ戦線、三角地帯の壁を同時攻撃。ズムール・二ランで防御線を突破する。

85年12月 ポリサリオ戦線の第6回大会。防衛壁突破のための戦略を協議。

世界政治 89年9月下旬号
モザンビークの政権党FRELIMOの第4回党大会に出席した赤旗特派員の報告。日本語で読める資料としては貴重なものだ。とくにこの当時、レナモというニカラグアのコントラみたいな組織が盛んに破壊活動をやっていた時期で、緊迫感が伝わる。

南アの支援を受けたレナモの兵力は2万人に達した。彼らは対話を拒否し、無差別大量虐殺を繰り返している。

10万人が破壊・テロ分子によって殺害。国民1500万のうち国外難民70万、国内難民170万人、550万人が食糧援助の必要な状況にあるとする。

しかしその中でも党員が6年間に倍増し20万人に達したとされている。



ついでに
世界政治 90年3月下旬号 「マンデラ氏の南ア大統領あて文書」も良い。

89年7月04日 ボタ大統領,拘禁中のマンデラと会見.秘密裏にケープタウンの大統領官邸に入ったマンデラと懇談.ただしこの時点で,ボタはすでにレームダックとなっていた.このときマンデラが提出した文書は広く流布され、ANCの公式文書として扱われた。とくに共産党との関係について詳説している。
 

ANCと南ア共産党との協力は1920年代にさかのぼる。協力は常に人種的抑圧と公正な社会を求める闘争に厳しく限定されてきた。
ANCの構成員の中にさえ、一度ならずこの協力に反対し、ANCから共産党員を追放しようと欲した人がいた。その中には大きな尊敬を集め、影響力を持っていた人もいた。これらの行動に固執したものたちは、最後には追放されるか、絶望して脱退して行った。
実際それは我々に自殺を迫るものである。信義を重んじる人間が共通の敵の依頼によって生涯の友を見捨て、なお人民の間で一定の信頼を保持しようとできるだろうか。誰がこのような裏切り者の自由の闘士を信用するだろうか。



すこし暇があったので、むかしの「世界政治」を引っ張り出している。
当時あまりまじめに読んだ記憶がないのだが、84年の12月上旬号に「ジンバブエ・アフリカ民族同盟第2回大会報告」という記事がある。
ムガペが報告したジンバブエ解放闘争史で、かなり面白い。今日ではムガペは決して運動の本流ではなく、中国とのパイプの太さでのし上った人物と考えられるが、当時は独立の英雄としてもてはやされていた。
年表に組み込みながら、これまでの事実とつき合わせていくのはなかなか面白い。
大きな図書館に行けば閲覧可能かもしれない。とりあえずは私の南部アフリカ年表をご参照ください。


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