鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 17 国際政治/その他諸国(ほぼアフリカ)

調子に乗ってセザリア・エボラの歌もYou Tubeにアップしてしまった。
世上はセザリア・エボラばかりが有名になってしまったが、実はセザリア・エボラよりも彼女が歌う歌“モルナ”が良いらしい。実はこのモルナ、白人の持ち込んだ音楽で本国のファドを流れをくんでいる。というか演歌で言う“港町ブルース”だ。
カーボベルデ(緑の岬)は、実は対岸のアフリカ大陸の地名だ。たぶん大陸の西端になるのだろう。その沖合にある島だからカーボベルデ諸島ということになった。
地理的にはアフリカそのものだが、600年前にポルトガル人が植民するまでは無住の地だった。だからカーボベルデはまずもって白人国だったことになる。その後黒人が次々に入ってくるようになって、いい具合に混じり合ったカフェオレのクレオール民族になった。しかし文化的にはいまでもポルトガルっぽいものが主流である。
もう一つ、カーボベルデの話で、カーボベルデ諸島が大西洋に浮かぶ島々であるにもかかわらず雨が降らない土地だということがわかった。
緯度・気候的にはサハラ砂漠の流れなのだという。ポルトガル人が植民していろいろ農業を試したが、とにかく木や草が生えない、作物が実らない。旱魃を繰り返すのだそうだ。
おかげで19世紀末ころから住民が逃げ出して、ブラジルやアメリカなどに移住した。
今ではカーボベルデに住む人々より移住先のコロニーの人口のほうが多いという。後から入った連中だから就業条件は悪い。黒人以下の境遇に陥った人も少なくないようだ。
それで思ったのだが、乾燥しているということは日光が照りつけるということだから、これで太陽光発電をして、海水を真水に変えればいいのではないか。
考えてみれは、それは別にカーボベルデ諸島に限ったことではない。
対岸のカーボベルデ岬、マリ、モーリタニアみんなそういうことになる。
一体そういうプロジェクトはないのだろうか。
ということで、淡水化技術、とくに太陽光発電との結合の現状を勉強することにした。
それは次の記事で…

 2016年10月08日 南スーダン 年表 が思いもよらず膨らんでしまった。

最初はこれを配って学習会の資料としようと思ったのだが、とてもそんなことをしていたのでは間尺に合わない。

そこで年表をつらつら眺めながら思いついたことを、「南スーダンの歴史 10のポイント」としてレジメ化しようということにした。(結局17になってしまった)

さぁ、毎度のことながら、当日までに間に合うかどうか不安だが始めることにしよう。

1.もともとは牧畜民の氏族社会

少数からなる集団が牧畜生活を送っていた。そのような原始的な共同体は今も残されている。

縄張りをめぐる争いも繰り返されて生きた。

2.北から来た奴隷狩り

18世紀になると、アラブ人がナイル川を遡ってきた。彼らはハルツームを拠点とし、周辺の先住民を捕まえては奴隷として送り出した。

やがてスーダン北部はエジプト王国に併合された。ハルツームのアラブ人はエジプト王国に対抗して自分たちの国を作るが、イギリスの支援を受けたエジプト王国に潰される。

3.南から来たイギリス

その後、19世紀の後半になると、今度はナイルの源ビクトリア湖からイギリスの征服者がやってきた。

イギリスは今の南スーダンを征服したが、領土としての魅力に乏しい地域だったため、エジプトの支配に委ねた。

なぜならエジプト王国そのものがイギリスの属領だったからである。

こうして1898年に「英埃(えいあい)領スーダン」(Anglo-Egyptian Sudan)が成立した。これが南スーダンが国家という枠の中に取り込まれた最初である。

南スーダンは誕生の時から北(アラブ人)と南(イギリス人)の二重支配のもとにあったのである。このことは憶えておいて良い。

4.スーダンの地政学的重要性

英埃領スーダンの成立にはフランスとドイツが絡んでいた。フランスは西アフリカから進出しインド洋への出口を欲していた。イギリスにとってはカイロからケープタウンへのラインを確保することは戦略目標であった。

その交差点にスーダンがあったため、イギリスはスーダンを確保する必要に迫られた。

またドイツはタンガニーカを植民地とし、ルワンダ・ブルンジなど内陸への進出を虎視眈々と狙っていた。

これらの事情は第一次世界大戦を経て大きく変化していく。

5.英領東アフリカの辺境としての南スーダン

ドイツがアフリカから立ち去った後、タンガニーカはイギリス領となり東アフリカのほぼ全てがイギリス領となった。

イギリスは南スーダンをエジプト支配から切り離し、東アフリカの勢力圏に置く方針に切り替えた。

アラブ・イスラーム要素を徹底して排除。部族の法や慣習、固有の言語が重視されるとともに、共通言語として英語の使用が奨励される。エリート層は英語やキリスト教を受け入れ、親ヨーロッパ的になる。

しかしかつての大英帝国の力は失われており、南スーダンは低開発状態で放置された。逆に言えば南スーダンには元通りの平和な環境が生まれたのである。

7.北スーダンでのアラブ民族主義の高揚

第二次大戦の終結とともに民族自決をもとめる運動がアフリカ各地で高揚した。

スーダンでもハルツームのアラブ人を中心に独立運動が広がった。イギリスにはもはやこれを抑えるだけの力はなかったから、ケニア以外の国はほとんど流れに任せる展開となった。

しかし北部の民族主義者は南部に対して苛烈であった。南部でもアラビア語が公用語とされ、北部人が進出し政治・経済の権限を得るようになった。

8.第一次内戦の開始

1956年、スーダンが正式独立した。南スーダンもスーダンに統合された。

スーダン政府は連邦制をとるとしたイギリスとの約束を保護にし、単一国家制度をとった。南スーダンは北の直接支配下に置かれることになった。

スーダンが独立して2年後、軍事クーデターが発生し。スーダンは軍事独裁国家へ移行した。軍事政権は南部への軍事的抑圧を強化。その結果多くの政治家がウガンダに亡命した。

1963年、これらの亡命政治家がスーダン・アフリカ民族同盟(SANU)を創設。連邦制に基づく南スーダンの自治権拡大を主張した。SANUは武装組織「アニャニャ」(Anya Nya)を結成しゲリラ闘争を開始した。

SANUは主導権争いで四分五裂するが、現地のアニャニャは民衆の支持を受け独立を目指す。アニャニャを中心に南部の諸勢力が結集し、「南部スーダン解放運動」(SSLM)が形成される。

9.南北和平の実現

紛争が内戦化し泥沼化しつつあった1969年、北スーダン政権内にクーデターが起きた。

権力を握ったヌメイリ大佐はエジプトのナセルに倣い民族主義左派を標榜した。そして南スーダンとの関係改善に乗り出した。

1972年にヌメイリ政権とSSLMとの間に和解が成立、アジスアベバ協定が結ばれた。

南部は自治を許され、独自の議会と行政機関を持つことになった。将来、南部が住民投票で分離独立する可能性も残された。アニャニャ兵士は政府軍に組み込まれることになった。

10.ヌメイリ政権の反動化

この後約10年にわたり南北スーダンは比較的平穏な関係を続けるのであるが、1983年に入ると突然大荒れの状況に入っていく。

この激変をもたらしたのは北スーダン側の事情である。この間アラブ世界ではナセル主義の退潮が起きた。

第三次中東戦争でのアラブ側の惨敗、ナセルの死とサダトの変質、イラン革命とソ連のアフガン侵攻などでアラブ世界は共通目標を見失った。

追い詰められたヌメイリは非常事態宣言を発動し強圧的な政治に転換した。そこにイスラム原理主義が忍び込んできた。

ヌメイリは国政にイスラム法(シャリーア)を導入、スーダンを「ムスリム・アラブ国家」にすると宣言した。

憲法上の権利は停止された。窃盗に対する切断やアルコール所持に対する公開鞭打ちが日常と化した。南部人と他の非イスラム教徒も、これらの罰を受けさせられた。

南部への弾圧にはもう一つの理由があった。南スーダン北部に石油油田が発見されたのである。

南部の石油資源独占を狙うスーダン政府は、アジスアベバ合意をご破産にし、南部の自治権や将来の分離独立の要求を拒否するに至った。

11.立ち上がる南スーダン人

第2回めの反乱は最初から大規模なものだった。なぜならそれは政府軍内の旧アニャニャ派の反乱として始まったからである。

この反乱を指揮したのはジョン・ガラン、当時ハルツームの幕僚大学の学長であった。

南スーダンの解放運動の性格を語る上で、ガランの経歴紹介は避けて通れない。

ガランは1945年、貧農の子として生まれ、幼少時に孤児となる。第一次スーダン内戦に参加した後、勧められてアイオワ州のグリネル大学で経済学 を修めた。その後タンザニアで研修を続ける一方、大学生アフリカ革命戦線のメンバーとして活動。アニャニャに加わり、第一次内戦を戦った。

内戦終結後はスーダン軍で経歴を積み、フォート・ベニングのア メリカ陸軍米州学校で上級歩兵将校コースを修めた。またこの間にアイオワ州立大学で南部スーダンの農業開発に関する論文で農業経済学修士および博士の学位を得た。

12.SPLAの結成

ガランのもとに立ち上がった南スーダン人は「スーダン人民解放軍」 (SPLA) を結成した。形としては「スーダン人民解放運動」(SPLM)の軍事部門ということになる。

ガランが政治・外交面を担ったのに対し、軍事面を担当したのが現大統領のサルバ・キールである。

南スーダンには60以上の種族が混住する。当初、SPLAの中心となったのは最大の種族であるディンカ人であったが、やがてヌエル人など他種族も結集するようになった。

1985年に入ると、SPLAは勢いを増し南部の大半を支配下におさめた。これをリビア、ウガンダ、エチオピアが支援した。

北スーダン政権内では強硬派と妥協派が抗争を繰り返したが、1989年に強硬派のバシルがクーデターで政権を握ると、イスラム原理派と結びついて南への抑圧を強めた。さらに西部のダルフール地方へも攻撃の手を伸ばした。

ダルフール問題については下記を参照のこと。 

ダルフール紛争

13. 両者の妥協と完全独立

90年代に入ると情勢は複雑さを増す。ソ連・東欧の崩壊に伴い、エチオピアでもメンギスツ政権が倒れる。SPLAは後ろ盾を失った。内部分裂が起き、ヌエル人分派によるディンカ人襲撃が相次いだ。マチャルの部隊は単独でハルツームと講和し、北スーダン政府の南部駐留軍司令官に就任する。

いっぽう、イスラム原理主義を強めるバシル政権への国際的な風あたりも強くなった。アメリカはスーダンをテロ支援国家に指定し、97年には経済制裁を開始した。98年にはケニアの米大使館襲撃事件への報復としてスーダンの製薬工場にミサイル攻撃を行った。

こうして2002年にアメリカの調停のもとで、政府とSPLAが和平の枠組みに合意することになる。この合意により、6年後に南部の帰属をめぐる住民投票が約束された。

2005年には南部スーダン自治政府が成立した。初代大統領にガラン、サルバ・キールが副大統領となる。これにより22年間に及ぶ第二次内戦は終結した。

内戦による死者は約250万人、発生した国内避難民は400万人、国外難民は40万人にも上る。

この年、SPLA指導者ガランが就任後わずか半年で、ヘリコプター事故により死亡する。しかし大きな混乱もなくキールがあとを引き継いだ。この時副大統領にマチャルを指名したことが後に禍根を残すことになる。

2010年に行われた大統領選挙では、キールが得票率92.99%という圧倒的大差で再選された。翌年1月、南スーダンで住民投票が行われ、完全独立を望む票が98.8%を占めた。

その年の7月9日、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立し、「南スーダン共和国」が創設された。

14 北からの干渉

北スーダンは決してこの独立を祝福していたわけではない。それどころか南スーダンの弱体化とあわよくば属国化を狙っていた。

ここからは私の個人的見解になるが、

ひとつは国境地帯の黒人・非イスラムの民衆を駆逐することである。

この地域は元々「ナイル・サハラ語」系の黒人の居住地であった。そこに来たからナイル川沿いにアラブ人が進出したのである。したがって川沿いの都市部にアラブ人、それ以外は黒人先住民という住み分けになっているのであり、東西に線を引いて「ここから北はアラブ・イスラムの国」という訳にはいかない。

スーダン側での紛争は北部SPLAの武装反乱だという報道が一般的だが、事実は逆だと思う。それは紛争の結果何が起きたかを見れば明らかだ。結局は数十万の北側居住者が難民となって南に逃げ込んだという事実だ。

もう一つは国境地帯に集中する石油資源を、ひとつでも多く確保するということでもあろう。

南スーダンは北からどんなに野蛮な干渉を受けても、北と対決することはできない。それは石油の輸送ルートと販路を北に握られているからである。

1年間の石油生産停止は、そのことを明らかにした。生産の減退、物不足、物価の騰貴の上に膨大な戦費、そして大量の北からの難民。この危機を凌ぐには当面は北の意のままに従い、石油生産で外貨を手に入れるしかない。

15 キールの内政改革が内戦を呼んだ

2012年9月、キール大統領は北に頭を下げ、とりあえずの平和を実現した。その後、内政の引き締めにかかった。

今井さん(NGO関係者)の講演から引用する。

SPLA 内部には腐敗もあり、ガランを筆頭に幹部の多数が豪邸に住み、豪勢な生活を営んでいた。キールは幹部の多くと異なり、腐敗とは無縁な人物として知られていた。

これがどの程度の真実性を含んでいるのかは判断できないが、マチャルが最も油断のならない人物であることは疑いないであろう。

解任されたマチャルは2013年12月にクーデターを企てた。政権奪取には失敗したものの、根拠地では一定の支配区を確保した。マチャルに呼応して各地で不満分子が反乱を起こした。

スーダンの干渉による国境紛争、石油生産停止、北からの大量難民。これに加え内戦勃発ということで、南スーダン政府は大きな痛手を受けた。

そのすべてにスーダンの影が浮かび上がってくる。

2014年6月には国連安保理も「南スーダンの食糧危機は世界最悪」と発表した。「世界で最も脆弱な国家ランキング」でも、南スーダンは首位となった。

16 気がかりな国連の対応

今年11月の初め、バンギムン事務総長は国連南スーダン派遣団の司令官を更迭した。7月事態のとき国連職員を保護しなかったというのである。

司令官の出身母体であるケニアはこの措置に抗議し、駐留軍全部を撤退させた。

よく分からない。司令官の統括責任を否定するわけではないが、国連南スーダン派遣団が南スーダンの治安を守るためであれば、そのために一番必要な手段を取るのは司令官の務めであるが、「何を置いても国連職員の安全を守れ」というなら、その目的に特化した部隊を別途編成すべきであろう。

バンギムン事務総長は、11月17日には国連安保理あての状況報告を行っている。

治安状況は悪化しており、混沌とした状態。①大規模な残虐行為が発生する非常に現実的な危険がある。②国連の平和維持部隊は大量殺りくを阻止できない。

というのが骨子である。

まっさきに感じるのは、「なぜ?」がないことだ。「なぜ?」がなければ、解決の方向は見いだせない。

もう一つは、政府への支援についてきわめてニュートラルであることだ。パンギムン報告を受けた安保理では、アメリカから武器禁輸の決議案が提出された。アメリカはさらに、和平実現の「元凶」となっている政府指導者らの資産凍結や渡航制限ももとめたという。

これはもう明らかに反政府側にスタンスを置いた発言である。

これでは、国民の98%の支持を受けて成立した政権が野垂れ死にするまで戦闘を続けることにしかならない。

とにかくまずは、南スーダン政府の主体性を尊重することではないか。そして北からの不当な干渉を監視すること、中長期には原油輸出のための南方ルートを確保して、北への依存を終わらせることではないだろうか。

17 自衛隊派遣について

これはもちろん憲法に係る問題であるから、直ちに撤退するというのが当然の選択である。

それとともに、南スーダンの自立と発展のために何が必要なのか、日本にとって何がもとめられているかをじっくり考えることである。

現在の国連やNGOの活動は基本的には緊急避難的なものである。内政にかかわるべきものではない。明らかにやり過ぎと思われるところも見えないではない。

南スーダンにはケニア、ウガンダ、エチオピアをふくむ南側周辺諸国との連帯が必要である。もっとこれらの国の協力を引き出す方向での国際的な見守りが必要であろう。

アフリカにおける人種分布

アフリカの国境はいい加減なものであり、ヨーロッパ諸国の勢力争いの結果として形成されたものである。

ほとんどすべての国が多民族国家・多言語国家であり、これらを全体として理解するには19世紀以前からの自然的分布を知ることが必須である。

自然分布を知る方法として有力なものが、言語系統(自然言語)の分布とY染色体(表現型)による分布である。

人種的な差ではないが、基本的生活スタイルとして牧畜なのか農耕なのかも大きな違いを生んでいる。

サブサハラにおいては北から順にサハラ砂漠、ステップ気候(サヘルあるいはサバンナ)、熱帯雨林というスペクトルがあり、とくにサヘルと熱帯雨林の境界が気候変動に伴って南北に変化する。これが絶えず軋轢を生んできた。

近代に入ると、イスラム教の浸透、白人とアラブ人の奴隷狩り、ヨーロッパ列強による植民地化、東西冷戦下での帰属などが加わり、事態は一層の複雑化を招いている。

上の図はウィキペディアの「アフリカの諸言語」からの転載である。

青がアフロ・アジア系言語、黄色がナイル・サハラ系、オレンジがニグロイド系、緑がコイサンである。

コイサンは最古のアフリカ住民とされY染色体はハプロAをしめす。ピグミーは北日本人と同じB、ネグロイド系はE1型を示す。ナイルサハラ系は多種多様だが、チャドではR系が優越しているようだ。


ナイル上流域の人々

私が一番知りたいのは、ナイル川上流で主として牧畜を営む人々の由来だ。ブラックではあるが、熱帯雨林域のネグロイド語族とは明らかに様相を異にしている。

私にとって典型として思い浮かぶのはケニアの牧畜民、マサイ族(Maasai)だ。またルワンダがドイツの植民地だった時代のとんでもないのっぽの国王(ツチ族)の写真は、いまだにまぶたに焼き付いている。

人種的には、北からのアラブ人、コンゴとタンザニアを結ぶ線より南の純粋なネグロイド(バンツー人)との間にもう一つ人種があって、その三つ巴で理解しないと南スーダン問題は理解できないのではないかと、ふと思っている。

というのは、ディンカ人とヌエル人との係争を見ると、マサイ族の生活スタイルときわめて類似しているからである。

ウィキペディアのマサイ族の記事を引用する。

本来は定住せず、伝統的な牛・羊・ヤギ等の家畜の遊牧で生計を立てる遊牧民であった。

主食は牛乳と牛の生血。牛はマサイ族にとって最も重要な財産である。

それぞれの村ごとに長老がいて物事を決定する原始的な長老制をとる。戦士階級であるモランはこの長老の下に属する。

かつては他部族からの略奪もモランの仕事であったが、現在では行われていない。


遊牧民もネグロイドだ

次に、人種的なところに関わっていこう。

ナイル系の遊牧民は人種的な操作の対象となり易く、地中海人種に属するとされたり、黒人とされたりし、ハム族神話 (hamitic) により「黒人より高貴である」等として植民地支配の際に分断の道具にされた。

しかし、都市に暮らすスーツに身を固めたビジネスマンのマーサイ族は他の部族と見分けることはできない。

ということで、ウィキペディアの記述では、遊牧生活に適応したネグロイドという見解に近い。

たしかに南スーダンの指導者たちの写真を見ると、ネグロイドそのものである。

このウィキの見解についてコメントするだけのものは持っていない。

一応、Y染色体ハプロで、ネグロイドにおけるE1の卓越性に相当する特徴がないことをもって差異とする主張はできるかもしれない。あるいはチャドで卓越するR系の基盤の上に南北からの侵入と混血があって、ナイル・サハラ語圏が形成されたと主張できるかもしれない。

とりあえず、この話はこれで打ち切りにしよう。


言語・文化集団としての「ナイル・サハラ語」人

人種の問題はとりあえず置くとして、最初の図の通り、言語的には明らかに「ナイル・サハラ語人」が存在する。それはニジェール川流域からコンゴにかけて分布するネグロイド語系とは系統を異にしており、両者は歴史を遡って分岐していたことも間違いないようだ。そして東アフリカのかなり広い範囲で「ナイル・サハラ語」系領域をカバーしている。

そういう点では「ナイル・サハラ人」というサブクラスを設定することは、必ずしも人種偏見に基づく「伝説」とはいえないのではないか。


11月17日付のWSJに以下のニュースが掲載された。

無言で帰国する兵士 南スーダンで中国が気付いた大国の代償
習主席の野望がもたらす過酷な現実とは

ニュースの中身は南スーダンに派遣された中国軍PKO部隊の兵士が、戦死したというものだ。

事件の発生そのものは相当前のものである。

報道によると、事件が起きたのは7月10日。中国軍部隊の装甲車両が何者かによる携行式ロケット砲の攻撃を受けた。

この砲撃で兵士が負傷。うち一人は2時間後に死亡、もう一人も翌日死亡した。

首都ジュバで政府軍と反乱部隊による激しい戦争が起きた時の話のようだ。

WSJではこう書いている。

自国を世界の強国にするという習近平国家主席の野望がもたらす過酷な現実に、中国は初めて向き合うことになった。

…国営テレビが放送した映像に国民は衝撃を受けた。そこには、ジュバで攻撃を受けた中国人の兵士たちが、血を流している仲間を助けようと必死になっている姿が映っていた。部隊を派遣することのリスクを理解していた国民はほとんどいなかった。

と、中国の人々にはかなりの衝撃だったようだ。

リーさん葬儀
リーさんの葬儀(WSJより)


しかし今のところ、政府は兵士たちの死を受けて政策を変えたようには見えない。

メディアは反戦・厭戦の世論が起こることを警戒し、一斉に戦士を合理化する論調を流し始めた。

世界平和を守るために中国の兵士は最前線に向かっているのであり、流血と戦争の試練に直面する機会がこれから増えていく。これは中国の大国としての責任であり、中国が新たに大国としての地位についたことの代償だ。

WSJはこれらの論調に対して疑問を投げかけている。

中国が世界の大国になる目的は、いったい何なのか

中国を日本に、習近平を安倍晋三に置き換えれば、これらのシーンは明日の日本そのものではないだろうか。

それにしても、このニュース、日本のメディアで取り上げたのかな?


南スーダンについては、以下の記事をご参照ください


南スーダンの状況を見ていると、どうしても1969年の封鎖解除闘争を思い出してしまう。
前の年に東大闘争が盛り上がって、当初は無党派ラジカルの学生が大学改革を要求して運動に立ち上がった。そのうち全共闘が組織され、急速にセクト化し武闘化していく。それは安田講堂でいったん破産に追い込まれるのだが、「朝日ジャーナル」などの商業メディアにもてはやされた「全共闘運動」は急速に全国に波及していく。
その中のもっとも突出した黒ヘル部隊が数十人で入学式に殴り込み、その後大学本部をバリケード封鎖した。各学部の自治会を網羅した北大学連は封鎖解除を要求して大学本部を取り囲んだのだが、投石やゲバ棒による襲撃で多くのけが人を出す結果となった。我が医学部の藤田委員長も、かざした左腕をゲバ棒でへし折られた。
2ヶ月にわたるにらみ合いの末、北大学連は実力で封鎖解除するとの方針を打ち出した。冷静かつ客観的に見てこの方針が正しかったか否かは未だに分からない。結果論から言えば間違っていたというべきかもしれない。
しかしその頃の我々は怒りにうち震えていた。
国際学連の歌にもあるではないか。「力には正義の、力もて叩き出せ。真実の敵、国を売る犬どもを」
かくして工事現場用のヘルメットと角材で武装した数百の学生が本部を取り囲んだ時、パラパラと学生らが間に走り込んできた。そしてその場に座り込んだかと思うと、「暴力反対」のシュプレヒコールを叫び始めた。
仕方がないので実力行使は中止になり、彼らとの「対話」に移ることになった。
「暴力反対」の学生たちはもちろん封鎖には反対である。しかしそのための「暴力」にも反対である。たしかに「理は通っている」のだ。
しかしそれが結果的に暴力学生の容認になることについては口をつぐむ。こうなると完全に水掛け論だ。
たしかに非暴力主義は正しい。しかし「非暴力的に闘う」姿勢を持たない「非暴力論」は、結果として暴力の容認につながる。そして彼らは暴力学生を評論はするが闘おうとはしなかった。
ここからさきが不思議なのだが、彼らの多くはその後の経過の中で暴力学生の仲間入りしていった。そして封鎖は拡大され、理学部と教育学部を除くほとんどの学部が暴力集団の支配するところとなっていった。
あの時、封鎖を実力解除していたとしても、結局これらの事態は防げなかったかもしれないし、かえって火に油を注ぐ結果となったかもしれない。
しかしトータルとして歴史を見れば、あの無期バリストを機に大学の自治は崩壊し、大学から政治的自由は失われ、文部省の意のままの従順な人づくりの場となったのである。
前置きがずいぶん長くなってしまったが、話は南ソマリアである。
国連だとか人権・人道団体の言い分を聞いていると、どうしてもこの「暴力反対」派の学生のことを思い出してしまうのである。
ある人権団体が「南スーダンはソマリア化してしまった」というのを聞くと、心底腹が立つ。「ソマリア化させたのはお前だろう」
民族の自決権、国家のソヴァレインティの尊重はイロハのイである。国家の反逆者を「暴力反対」の美名のもとに実質的に保護して、結果的に「内乱」を焚き付けているのはあんただ。我々はそれをユーゴでいやというほど見てきた。
たしかに人権は国家を超越するが、人権を最終的に保証するのも国家だ。そういう国家を作りたいからこそ、南スーダンは60年にわたって闘い続けてきた。
あれこれの「国家」へのあれこれの批判は自由だ。しかし「国家」への敬意は最低限の礼儀であり、傍若無人の内政干渉はご法度だ。

「南スーダン」問題を勉強して

以下の記事は、限られた情報に基づく予断がふくまれているので、「そういう見方もできる」のかという程度に考えておいてください。

1.SPLAへの支持は圧倒的である。

どのくらい民主的に選挙が行われているかは分からないが、国会議員のほとんどはSPLAである。永年にわたる解放闘争を戦い抜いたSPLAへの国民の支持は揺るぎない。

勇将がいれば軍は強い。道義があれば軍は強い。民衆の支持があれば軍は強い。マチャルの部隊には武器はあっても士気がない。マチャルの反乱は程なく解決するだろう。

2.キール大統領への支持も厚いと見るべきだろう

キールについて悪い評判はない。腐敗をしていない、温厚だという評価は、この手の指導者としては稀有な資質である。ブッシュからもらったというテンガロンハットはいただけないが、「親米」であることの象徴なのだろう。

彼が有能であるかどうかは不明である。(翻ってガランの優秀さが際立つ)

ただSPLAはキールの党ではない。彼はもともと現場の人である。私が各国の革命運動を研究してきた経験から言うと、数十年の苦難を乗り越えてきたSPLAの幹部集団は相当の高水準で団結し、人民と結びついていると思う。彼らは、少なくとも短期的には大きな間違いはしないと思う。

3.現状は国内の民族対立ではないと思う

闘争が勝利に近づくと独立運動は急速に拡大し、有象無象が飛び込んでくる。しかし国家の建設は一時の熱狂で進められるものではないから、必ずそういう連中とのいざこざが飛び出してくる。

今回の問題もそういう感じがする。彼らが最初から石油の利権を狙っていたことは明らかだ。背後にスーダンがいるかもしれない。年表から見ればコルドファン紛争とマチャルの反乱は一連ととらえられる。

「これでウミを出し切って、国内は固まっていく」という楽観的な見方もできるのではないか。

4.人権屋さんの情報を鵜呑みにしないほうが良い

何人も虐殺されたとか、数十万人が難民化しているとか報道されるが、彼らは60年前から難民なのだ。

長いこと戦争しているから、殺伐としてみんな気が立っている。肝心なことは「時代のベクトル」を見失わないことである。


5.ヌエル族 はあまり品行方正な部族ではない

ヌエル族とディンカ族というが、住む場所も同じで生活スタイルも同じで、どちらも牧畜民だ。農耕民ではない。ケニアのマサイ族を思い起こしてもらうと分かりやすい。ヌエル族が20万人、ディンカ族が100万人くらいのようだ。民族というよりは氏族(クラン)だろう。

ヌエルとディンカ

ライマネ・マガジン(http://raimane.com/world/his/211/)というサイトにヌエル族の紹介がある。

人口は約20万人。隣接する同じナイロート系のディンカ族をしばしば襲撃し,居住範囲をディンカの土地へと拡大しつづけてきた。強奪が成功した暁には、ぶんどった牛の配分をめぐって、今度はヌエル族の内部で、血で血を洗う抗争が繰り広げられます。

…ヌエルはディンカを一方的に略奪してきた。ヌエルは数多くの部族の集合で、ヌエル全体をまとめる人物も制度も存在していない。このためヌエルの政治体制はしばしば「秩序ある無政府状態」とよばれ…

たしかに地図を見ると、ディンカ人社会にヌエルが侵食している様子が一目瞭然だ。

つまり、本来ヌエルの人々というのは近隣から見ると、ロシア人のように「困った連中」なのだと思う。これを予見としてマチャルを評価するのは間違いだとは思うが…

1983年、ディンカ人が主体になってSPLAが結成されると、ディンカ人以外の諸民族もこれに結集した。ヌエル族も協力した。しかしソ連とエチオピアが相次いで倒れSPLAの台所が苦しくなると、離反者が相次ぐことになる。

なかでもヌエル人の分派(SPLAナシル派)は凶暴で、1991年には有名な「ホワイト・アーミー」虐殺事件を起こしている。これはヌエル人兵士が体に虫よけの白石灰を塗ってボルの街を襲撃したもので、ディンカ人2千名を虐殺したとされる。私はこの手の報告は大体10分の1に見積もっているが、それにしても非道である。

「これを機に両民族は血みどろの抗争へと突入する」のだが、ヌエル人には道義も金もないから、やがて下火になっていく。

6.マチャルは糾弾されるべきだと思う

そこで、登場したのがヌエル人政治屋のマチャルで、ナシル派を離れSPLA「統一派」を形成する。この「統一」というのが曲者で、まずSPLAの見解である統一を維持した「新スーダン」路線を否定し、南部スーダン住民の民族自決権が合法であることを宣言した。そしてSPLAを脱退し、手兵を南スーダン防衛軍(SSDF)と称し独自行動を開始した。

このような戦闘的言動にも関わらず、1997年に南スーダンの民族自決を合法化する内容を包括したハルツーム協定が締結されると、いち早くこれに乗っていく。こうしてマチャルは武装闘争派から抜け駆けし、ハルツームの政権に加わった。

マチャルはハルツーム政府の南部スーダン国防軍司令官となり、南部スーダン調整評議会議長兼スーダン共和国大統領補佐官を務めた。しかしスーダン政府の先行きが暗いと見ると、またもや豹変しSPLAと「統一」したのである。

2005年に包括合意が成立し南部スーダン自治政府が成立すると、またもやマチャルはするりと自治政府の副大統領に滑り込んだ。

と、ここまではバルカン政治家の経路を辿って生き延びてきたわけで、ボルの集団虐殺への加担を除けば糾弾されるほどのことはなさそうだ。信用されることはないだろうが。

しかし、彼はハルツーム政府の南部スーダン国防軍司令官だったから、武器は腐るほど持っている。2013年に副大統領を逐われると、軍事行動に打って出た。12月にジュバで反乱を起こした後、翌年の1月には各地で武力行使を行い、主要な油田地帯である北部の国境地帯ユニティ州を制圧した。これが彼一人の策略になるものか、スーダンの手引があったものかは分からない。
彼は独立前にスーダンから派遣された南部軍の司令官であり、武器は豊富にある。短期戦ならかなりやれるだろう。しかし2年とは持たないだろう。旧日本軍と同じだ。

当初政府側の対応は遅れた。「国際監視」という名の干渉を嫌でも念頭に置かなければならなかったからでもあろう。ケニアと同じように、今の南スーダンは残念ながら国際援助なしに生きてはいけない。

国際世論は傲慢にも「民族間対立」という図式を煽り立て、大岡裁きをやろうとした。私はさまざまな国の革命運動でで同じような経過を見ている。

SPLAは実に粘り強く行動したと思う。ニカラグアのサンディニスタを思わせる。主要地域を奪還した上で、「耐え難きを耐え」ふたたびマチャルを政府に迎え入れた。しかし結果はなおひどいことになった。

今年7月末、キール大統領はふたたびマチャルを更迭した。前回と違うのはマチャル派の主力がマチャルとたもとを分かったことだ。マチャルは去ったが組織の幹部タバン・デンは残った。

マチャルは首都ジュバで最後っ屁を放った。270人以上が死亡する戦闘が発生した。戦闘は止まり、マチャル派はジュバを去った。(政府軍が市内で検問しヌエル人を拘束したとの情報がある。これは当然のことと思う。ジュバはバリ人の住む街であり、ディンカ人の街でもヌエル人の街でもないからだ)

もはやマチャルは国内で策動する余地を失い、スーダンに去った。(コンゴに行ったのはスーダン側の配慮であろう)

7.南スーダンは「失敗国家」とはいえない

NGOをふくめ、「南スーダンは失敗国家だ、ソマリア化する」という宣伝が行われている。

しかしニュースを注意深く読む限り、そのような結論は出てこない。

私には、南スーダンの今後が決して平坦な道ではないにせよ、スーダンとの懸案が解決され、進むべき方向がようやく明らかになりつつあるという感じを持つ。

とにかく彼らは60年間も闘い続けてきたのだ。もう少し長期のスパンで情勢判断することも必要なのではないだろうか。

願うらくは「国際機関」がパトロン風を吹かせて、国の進路を誤らせるようなことにならないことだ。ウガンダを見よ、ルワンダを見よ、立派にやっているではないか。


*だからといって自衛隊が南スーダンに居続けて良いと言っているのではない。それとこれとは別問題だ。誤解なきよう。



               「英埃(えいあい)領スーダン」(Anglo-Egyptian Sudan)の時代

1821年 エジプトがスーダン北部(現スーダン)を征服。ナイル流域に植民するとともに黒人先住民の奴隷狩りが行われる。

1877年 イギリスがウガンダより進出し、現南スーダン地域を占領する。この頃、ハルツームを中心とする北部は、エジプト王国の版図の下にあった。

1885年 ムハンマド・アフマドを指導者とするマフディ運動が起こり、北部スーダンに国家を建設。

1898年 マフディ戦争が始まる。イギリスとエジプトの連合軍がマフディ国家を滅ぼす。両者がスーダンの共同統治で合意。「英埃(えいあい)領スーダン」(
Anglo-Egyptian Sudan)の歴史が始まる。実態としては北部をエジプト、南部をイギリスが支配する二重支配であった


1930年 英国当局が南部政策を実施。南部地域は意図的に低開発状態に置かれる。アラブ・イスラーム要素を徹底して排除。部族の法や慣習、固有の言語が重視されるとともに、共通言語として英語の使用が奨励される。エリート層は英語やキリストを受け入れ、親ヨーロッパ的になる。

sudan map

「岐路に立つスーダン」 ―南部独立と和平の狭間で より転載
なおこの今井高樹(JVC スーダン現地代表)さんの報告は大変水準の高いもので、南スーダンをウォッチしていく上で確実な座標軸を提供してくれる。

1947年 「ジュバ会議」が開かれる。南北スーダンの統合が決められた。イギリスは南部のウガンダとの統合を望んでいたが北部勢力に押し切られる。南部でもアラビア語が公用語とされ、北部が権限を得るようになった。

1952年10月 スーダンが自治権を獲得。独立に向け動き始める。ハルツーム政府の北部中心主義に対する南部の不満が広がる。

第一次内戦の時代

1955年 南スーダン南部のエカトリア地方の町ヌザラで、労働者のデモに警察隊が発砲し20人の犠牲者が出た。これをきっかけに南部人の部隊が反乱。第一次スーダン内戦が始まる。

1956年1月 単一国家「スーダン共和国」が独立する。北部主体の新政権が政治的・経済的支配を握る。連邦制を構築するとのイギリスにした約束を反古にし、北部中心主義を制度化したため南部の不満が高まる。

1958年 ハルツームで軍事クーデター。イブラヒム・アブード将軍が政権を掌握した。南部州への軍事的抑圧を強化。南部スーダンの政治家は、ウガンダに亡命。

1963年 ウガンダ亡命中の南部州人が、スーダン・アフリカ民族同盟(Sudan African National Union、SANU)を創設。連邦制に基づく南スーダンの自治権拡大を主張。
その後南部州の政治勢力(亡命組織)は北との関係をめぐり離散集合を繰り返す。
1963年 SANUが武装組織「アニャニャ」
Anya Nyaを結成。赤道州で小規模なゲリラ闘争を開始する。
まもなくアニャニャ戦線は、SANUに対し独自路線を主張するようになる。
周辺国の支援を受け、民衆の支持をかちとる。アニャニャを中心に南部の諸勢力が結集し、「南部スーダン解放運動」(SSLM)を結成。タンザニア留学中のガランもこれに加わる。

ジョン・ガラン・デ・マビオル (John Garang de Mabior, 1945年)ボル近郊の農村で貧農の子として生まれ、幼少時に孤児となる。第一次スーダン内戦に参加した後、勧められてアイオワ州のグリネル大学で経済学 を修めた。その後タンザニアで研修を続ける一方、大学生アフリカ革命戦線のメンバーとして活動。アニャニャに加わり、第一次内戦を戦う。

1969年5月 ハルツームでクーデター。民族主義左派のヌメイリ政権(
Col. Jaafar Muhammad Numeiri)が成立。親ソ容共のナセル路線を選択。南部との関係修復に乗り出す。

1971年 ヌメイリが親米反共路線に切り替え。軍左派によるクーデターが企てられるが失敗に終わる。

1972年2月27日 ヌメイリ政権とアニャニャを中心とする南部スーダン解放運動(SSLM)との間に「アディス・アベバ合意」が成立。南北の内戦はいったん終結する。

アジスアベバ協定: 南部は自治を許され、独自の地域議会と高等行政評議会を設置する。将来の南部の分離独立を問う住民投票も認められる。アニャニャ兵士は政府軍に組み込まれる。しかし財政的には北部への依存状況が続く。

1974年 シェブロンが油田を発見(操業開始は78年)。その多くが南スーダン(ユニティー州)に分布していた。

第二次内戦の時代

1983年3月 ハルツームのヌメイリ政権、原理主義派の「民族イスラム戦線」(NIF)の圧力を受け政策を転換。① 国政にイスラム法(シャリーア)を導入、スーダンを「ムスリム・アラブ国家」にすると宣言。② 南部の石油資源独占を狙い、南部を3つの地域に分割し支配する。③ これに伴い、アジスアベバ合意を事実上破棄。南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を拒否。

4月23日 ヌメイリ政権、非常事態宣言を発動。シャリーアの適用を拡大する。

憲法上で最も保障された権利が停止され、非常時法廷が設置される。窃盗に対する切断やアルコール所持に対する公開鞭打ちが広範に行われた。南部人と他の非イスラム教徒も、これらの罰を受けさせられた。(南部人の多くは伝統的な精霊信仰、一部にキリスト教徒)

5月 南部自治政府のもとに配置された第105大隊の将兵500人が、北への転属を拒否し地方都市ボルに立てこもる。この部隊はもともとアニャニャのゲリラを中核とする組織であり、スーダン軍への編入後は冷遇されていた。

5月 ガランは反乱兵の説得ために派遣されたが反乱側に寝返る。

内戦終結後はスーダン軍で経歴を積み、フォート・ベニングのア メリカ陸軍米州学校で上級歩兵将校コースを修めた。またこの間にアイオワ州立大学で南部スーダンの農業開発に関する論文で農業経済学修士および博士の学位 を得た。帰国後1983年までガランは幕僚大学の学長であった。

7月 反乱勢力がエチオピア領内に結集し、
「スーダン人民解放軍/運動」 (SPLA/M) を結成。ガランが指導者となる。南部最大の民族であるディンカ人を中心に組織され、兵士3千人を擁する。当初の主要メンバーはジョン・ガラン、サルバ・キール・マヤルディ、ウィリアム・ニュオン・バニ、ケルビノ・クアニン・ボルら。

SPLAは”New Sudan” というビジョンを掲げ、南北問題を含む諸問題を、統一スーダンとして解決を目指した。そのため地方分権と南北格差の是正、民主主義の実現を求めた。
当初はディンカ人主体の組織だったが、やがてヌエル人など他種族も結集するようになり、SPLAが内戦の主体となる。南スーダンには他にもザンテ人など60以上の民族が混住する。


キール(
Salva Kiir Mayardiit)がSPLAに参加。キールもガランと同じディンカであるが、多少出自が違うらしい。第一次内戦をアニャニャ戦線の一員として闘い、第二次スーダン内戦では実戦経験の乏しいガランに代わって戦場での指揮をとるようになり、SPLAの参謀長として活躍した。

同じ頃、ヌエル族出身のマチャル(Riek Machar Teny)もSPLAに参加している。

1983年 SPLAがエチオピア(メンギスツ軍事政権)の支援を受け反乱開始。これをソ連が援助。第二次スーダン内戦が始まる。

1984年9月、ヌメイリは非常事態の終了を宣言し、非常時裁判所を閉鎖したが、シャリアの多くを引継ぐ新たな刑法を施行した。

1985年初め、ハルツームは旱魃と飢饉の中、燃料とパンの深刻な不足に見舞われる。南部では戦闘が拡大し、難民が増加。SPLAがリビア、ウガンダ、エチオピアの支援を得て、南部の大半を支配下に治める。

4月の初めに、最初はパンと他の主要製品の値上げによって引き起こされた、大規模なデモがハルツームで起きた。

4月6日 ザハブ将軍が、反ヌメイリのクーデターを起こした。1983年憲法の無効化と、イスラーム国家化の停止、ヌメイリのスーダン社会主義連合の解散を宣言する。しかし、シャリーアの導入を決めた「9月法」と呼ばれる法律は停止されなかった。

1986年4月 選挙が行われ、軍事評議会は公約通り民政移管した。ウンマ党のマフディーを首相とし、民主統一党 (DUP)、民族イスラム戦線(NIF)と、いくつかの南部の政党が連立した。SPLAは選挙への参加を拒否。

5月 ウンマ党政権は SPLA と和平交渉を始めた。その年、SPLA と他の政党のメンバーはエチオピアで会合し、シャリーアの廃止を求めるコカダム宣言に合意していた。

1988年11月 SPLA とDUP(ウンマ党政権の連立与党) は、エジプトとリビアとの軍の協定の廃止、シャリーアの凍結、非常事態の終了、停戦を求める和平案を共同提案した。しかしマフディー首相はこの和平案を拒否し、このためDUPは政権を離脱した。新政権はウンマ党とイスラム原理主義の NIF で構成された。

1989年

2月 スーダン軍軍部はマフディーに南部州との和平を進めるよう最後通告を示した。マフディはあらためてDUP との連立政権を作り、SPLAとDUPとの合意を承認した。

6月30日 主戦派の下級将校が、オマル・アル=バシール大佐をかつぎクーデターを決行。救国革命指導評議会を創設する。バシールが大統領と首相、最高司令官を兼任した。イスラム原理派の「民族イスラム戦線」(NIF) はバシール政権を支持し非イスラム派との戦闘を煽る。

バシール政権は労働組合や政党その他「非宗教」組織を禁止した。その結果、7万8千人の軍人・警察官・行政官が追放された。追放された政治勢力はエリトリアに亡命・結集し多党派連合「国民民主同盟」 (NDA)を結成。国民民主同盟にはSPLAも参加。

1991年


5月 ソ連・東欧の崩壊に伴い、エチオピアでもメンギスツ政権が倒れる。SPLAは後ろ盾を失い分裂した。1.トリット派 ジョン・ガランの率いる主流派、2.バハル・エル=ガザル派 ケルビノ・クアニン・ボルの率いる反主流派、3.ナシル派 ヌエル族を主体としマチャルが率いる。後に統一派を名乗る。
1991年 バシール政権、切断と石打ちを含む残酷な刑を全国的に導入する新刑法を施行する。
11月15日 マチャルの率いる部隊、ジョングレイ州ボルでディンカ族を虐殺する。
1993年 バシール政権がシャリーアによる司法改革を断行。南部の非ムスリムの裁判官を北部へ転任させ、全てムスリムに置換える。またハルツームに住む南部人や非ムスリムをシャリーアに基づき逮捕する。
1993年 スーダンがアメリカにテロ支援国家に指定される。アメリカからの武器輸入は途絶え、シ ェブロン社は操業を停止。油田の権利を格安でスーダン政府に売り渡す。中国が大量の武器を供給し油田開発に乗り出す。
1995年3月に、米国のカーター元大統領の仲介で一時停戦が実現
1996年に、SPLAとエリトリアに拠点を置いた多党派連合国民民主同盟 (NDA) が、政府に対する共闘を開始し、内戦がさらに拡大した。
1997年 アメリカによる経済制裁が開始される。アメリカはスーダン政府に軍事圧力をかけるため、エチオピア、エリトリア、ウガンダを通じてSPLAを支援。これによりSPLA(とジョン・ガラン)は息を吹き返す。
1997年4月 反政府勢力4派と政府が和平協定に調印。統一民主救済戦線 (UDSF) を結成しハルツームに復帰する。SPLAは引き続き敵対関係を続ける。このときマチャルの部隊は単独でハルツームと講和し、南部軍司令官に就任する。

1998年

5月4日、政府とSPLAの代表がケニアのナイロビで約半年ぶりに和平交渉を再開。この間も東南部では戦闘が継続していた。
8月20日 アメリカによるミサイル攻撃で、スーダンの製薬工場が破壊される。アメリカ大使館爆破事件への報復とされる。
1999年 南部のヘグリグ油田とポート・スーダンをつなぐパイプライン敷設が完了、石油輸出を開始する。スーダンは中規模の産油国となる。
1999年 バシール政権、NIFの指導者トゥラビ(
Hassan Al-Turabi)を政権から追放。強硬なイスラーム化政策から修正し、アメリカとの関係改善を試みる。
2001年 
トゥラビ、SPLAと単独交渉し、SPLAの存在を容認。バシールは発表の翌日にトゥラビを逮捕。

2002年

1月 アメリカが特使を派遣し、積極的な調停に乗り出す。これを受けて、スーダン政府とSPLAが、
ケニアのマチャコスで会談。6ヶ月間の停戦に合意。
7月20日、政府とSPLAが
和平の枠組み(Machakos Protocol)に合意。南部の帰属をめぐる住民投票を6年後(2008年)に実施することなどを柱とする。
7月27日 バシール大統領とSPLAのジョン・ガラン最高司令官が、ウガンダのカンパラで初会談。
8月12日 包括的和平合意を目指した交渉が再開される。周辺国で構成された政府間開発機構(IGAD)の和平プロセスが進展。

2003年

ダルフール地方の反政府勢力が武力闘争を開始。 政府からの支援を受けたアラブ系民兵組織ジャンジャウィードが大規模な虐殺と破壊を繰り返す。約 20 万人の死者、約 200 万人の難民・国内避難民が発生

2004 年 11 月 ルンベックでSPLAの会議。キールはガランをはじめ SPLA内部の腐敗について批判。ガランの個人支配についても批判。

今井さんによれば、SPLA 内部には腐敗もあり、ガランを筆頭に幹部の多数が豪邸に住み、豪勢な生活を営んでいた。キールは幹部の多くと異なり、腐敗とは無縁な人物として知られていた。


南北和平交渉と独立への過程
2005年

1月9日 ケニアのナイバシャで、第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意が締結され、南北包括和平合意 (CPA) が実現。合意の主な内容は

1. 自治権を有する南部スーダン政府の成立
2. アル=バシールを大統領、ジョン・ガランを第一副大統領とするスーダン暫定政府の発足
3. 大統領選挙、議会議員選挙の実施(5年後)
4. 南部スーダンの独立を問う住民投票の実施(6年後)
5. 南部の宗教的自由(シャリーアの不適用)
6. 南部スーダンで産出される石油収入の南北原則均等配分


1月9日 南部スーダン自治政府が成立する。初代大統領にジョン・ガランが就任。サルバ・キールが副大統領となる。22 年間に及ぶ内戦は終結。内戦による死者は約250万人、発生した国内避難民は 400 万人、国外難民は 40 万人にも上る。
2月 SPLA、北部軍の拠点であったジュバに入る。臨時首都のルンベクに代わり南部スーダンの恒久的首都と宣言。(ジュバは、21年間にわたりSPLAの包囲を受けながら北部軍が確保し続けた)
7月 新スーダン政府が発足。SPLAのガランが第一副大統領に就任。南スーダンの大幅な自治を認めた新憲法が公布される。
8月11日 ガラン、ウガンダでの会談の帰路、ヘリコプターの墜落により事故死する。北部人と南部人の衝突が相次ぎ、内戦再発の危機を迎える。
9月 キールがスーダン共和国第一副大統領及び南部スーダン自治政府第2代大統領に就任。キールの大統領昇格に伴い、SPLAに復帰したマチャルが副大統領に就任。
10月 
南部スーダン自治政府が発足。SPLAが自治政府の主導権を握る。

脆弱な平和

このあとの記事は、BBCニュースから主として拾っている。

2006年


11月 スーダン政府軍とSPLAがマラカルで衝突。数百人の死者を出す。
2006年 
合同統合任務軍「アフリカの角」が創設される。中国のスーダン進出に対し、米国が軍事的プレゼンスを確保するためとされる。
2007年 SPLA、南北境界紛争とダルフール問題(イスラム教徒民兵)でのハルツーム政府の不誠実を理由に国民統一戦線内閣から離脱。2ヶ月後に復帰。

2008年
5月 産油地域のアビエイ(Abyei)で、南北両軍の戦闘が激化。
6月 バシルとキールの会談。アビエイ問題で国際的調停を仰ぐことで合意。

2009年

6月  国際刑事裁判所(ICC)は、バシール大統領に対して、ダルフールにおける人道に対する罪により逮捕状を発行する。
6月 ハルトゥーム政権が南スーダンの少数民族に武器を渡し内紛を煽っているとの情報が流れる。ハルトゥームはこれを否定。
12月 南北スーダンの指導者が会談。独立を問う国民投票を11年3月に実施することで合意。

2010年

1月20日 
南北の内戦終結5周年を祝う式典が開かれる。これに出席したバシール大統領は、「住民が選択(分離独立を)した場合にはスーダン政府は南部の(完全)独立を承認する」と発言した。

1月 南スーダンで住民投票。完全独立を望む票が圧倒的多数を占める。

2月 ジョングレイ州アビエイで治安部隊と独立派の衝突。100人以上の死者を出す。

3月 南スーダン政府、北によるクーデターの企てがあったと非難。南北対話を停止。

4月 南スーダン自治政府の大統領選挙。キールが得票率92.99%という圧倒的大差で再選される。

南スーダンの完全独立

2011年

1月9日 独立か自治かを問う住民投票が実施。分離独立票が圧倒的多数 (98.83%) を占めた。

5月 北スーダン、アビエイの係争地域を占領。
6月 南北政府、アビエイの係争地域を非軍事化し、エチオピアのPKOに委ねる協定に調印する。
7月9日 スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立し、「南スーダン共和国」(The Republic of South Sudan)になった。SPLMは政権与党となり、SPLAは正規軍(南スーダン軍)に再編成された
7月13日 国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった。
8月 国連、ジョングレイ州で人種間の衝突により少なくとも600人が死亡と発表。
9月 南スーダン政府、ラムシェル(計画のみ)を将来の首都とすると決定。
10月 キール大統領、独立以後最初のハルツーム訪問。懸案を解決するためにいくつかの委員会を設置することで合意。
10月 SPLAがユニティ州のマヨムを攻撃。少なくとも75人の死者を出す。このあと国境地帯で武力衝突が相次ぐ。明らかになったのは氷山の一角とみられる。

11月02日、北スーダン管轄下の南コルドファン州タロディで、スーダン政府軍と「スーダン人民解放運動・北」が激しい戦闘。
「スーダン人民解放運動・北」(SPLM・N)は合意された南北国境より北に住む黒人系住民の武装組織。北スーダン政府の黒人系住民排除の動きに抵抗して組織された。
11月03日 
北スーダンの青ナイル州クルムクで、SPLM・Nの拠点がスーダン政府軍に攻撃される。約2万8700人の難民がエチオピアに脱出。
11月 南スーダン政府、北軍機がユニティ州Yida の難民キャンプを空襲したと非難。北スーダン軍は空襲の事実を否定。


2013年

1月 
スーダン政府との石油に関する交渉が停滞,南スーダンは,原油生産停止を決定
1月 ジョングレイ州で人種抗争のため10万人が難民となる。南スーダン政府はジョングレイ州に非常事態を宣言。
2月 南北スーダン政府、相互不可侵協定に調印。その後パイプラインの使用量をめぐる交渉が決裂し、北スーダンは南からの石油パイプラインを閉鎖。南スーダンはこの結果公務員給与以外の支出の半減を迫られる。
4月 南スーダン軍、数週間にわたる国境紛争の末、北スーダンのコルドファンにあるヘグリグ油田を一時占拠。スーダン国民会議は南スーダンを敵とみなす決議を採択、スーダン軍が南スーダンのベンティウを報復空爆する。国際連合安全保障理事会は、両国に即時停戦を強く求める。
5月 南北両軍がともにアビエイから一方的撤退。
6月 南スーダン、経済的悪化の中で最初の独立1周年式典。
8月 国境地帯のスーダン側で北軍とSPLA-Nとの武力衝突。戦闘地帯から20万人が南スーダンに逃げ込む。
9月 南北大統領がエチオピアで会談。
通商、石油、軍事に関する9つの合意文書に署名。国境に非軍事緩衝地帯を設定すること、石油販売を再開することで合意。アビエイ地域の帰属など領土問題では合意に至らず。

2013年

4月 南北間の厳しい価格交渉の末、原油生産が1年ぶりに再開される。また国境地帯に非武装地帯を作ることでも合意。
5月31日、安倍晋三首相とサルバ・キール・マヤルディ大統領の会談。南スーダンに日本大使館を設置することが決定

内戦の開始

6月 キール大統領、マニべ財務相とアロール外相を罷免。免訴特権も取り上げる。両者には数百万ドル以上の金融スキャンダルがあった。

7月 キール、内閣の全閣僚とSPLAの主要幹部を全て解任する。マチャル副大統領も解任される。SPLA内部の権力争いが背景にあったとされる。

12月14日、首都ジュバにおいて軍の一部と大統領警護隊が衝突。

12月16日 サルバ・キール大統領は、衝突がマチャル前副大統領によるクーデターであったことを公表し、前閣僚を含めた関係者を逮捕。

12月 マチャル派部隊がボルを占拠。他にもいくつかの町がマチャル派の手に落ちる。ユニティ州を防衛していた指揮官がマチャル派に寝返り、北部の国境地帯(油田地帯)がマチャル派の手に落ちる。

12月 ウガンダ軍部隊、南スーダン政府軍の立場に立ち戦闘に参加。


2014年

1月23日 両派間で停戦合意が結ばれる。2月まで数回にわたり停戦合意が成立するが、戦闘はおさまらず。

2月17日 ボルで国連派遣団(UNMISS)の施設が武装グループに襲撃される。避難していた民間人ら少なくとも20人が死亡、70人以上が負傷した。報道では誰がやったかを明らかにしていないが、明らかにマチャル派であろう。

4月 マチャル派が油田地帯の主要な町ベンティウを占拠。200人以上の民間人が殺害され、400人以上が負傷。

6月 国連安保理、南スーダンの食糧危機は世界最悪と発表。4月までに数千人が殺され、避難民は100万人以上にのぼる。さらに500万人が人道援助を必要としている。NGO「平和基金会」が発表した「世界で最も脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となる。

8月 政府間開発機構(IGAD)による調停により、アジスアベバで政府と反政府勢力との和平交渉が始まる。


2015年


2月 6月に予定された総選挙は紛争が続くため中止となる。

3月 反乱軍、ユニセフの要請に応じ少年兵250人を解放。ユニセフの観測によれば、この戦闘で少年兵1万2千名が動員されているという。

8月 キール大統領、国連の圧力に屈し平和提案に応じる。マチャルは副大統領に返り咲く。

8月 キール大統領派とマシャール派が合意。無期限衝突停止宣言や国民統一暫定政府設立などを定める。この間の衝突で5万人が死亡、避難民は230万人以上と推定される。経済はインフレ率295%に達する。


2016年

9月23日 タバン・デン・ガイ第1副大統領が国連総会で演説。情勢は安定しているとし、国連の地域防護部隊の配備に反対を表明。

11月1日 バン・キムン事務総長、7月事態を受け、国連南スーダン派遣団の司令官を更迭。司令官の出身母体であるケニアはこの措置に抗議し、駐留軍全部を撤退させる。

11月17日 AFP バン・キムン事務総長、安保理あての報告。治安状況は悪化しており、混沌とした状態。①大規模な残虐行為が発生する非常に現実的な危険がある。②国連の平和維持部隊は大量殺りくを阻止できない。

11.17 国連安全保障理事会が開かれる。米国は武器禁輸の決議案を提出。和平実現の「元凶」となっている政府指導者らの資産凍結や渡航制限ももとめる。



ずっと気になってはいたが着手しないままになっていた。

内部の力関係はおそらくケニアやルワンダと似たようなものだろうと思っていた。アフリカにおけるナショナリズムの目覚めは1960年ころだ。

この頃から域内先進国の中心部では植民地支配を排撃する運動が、種族や部族を越えた「民族」という求心力のもとで語られるようになった。

しかしそれはあくまでも都市部の知識人や組織労働者などに限られており、それが周辺部まで行き渡るのにはなお数十年の月日を要した。それは今もなお進行中であり、都市部における資本主義的(むしろ商業的と言うべきか)生産システムがいかに発展するかにかかっている。

この歩みを強引に進めようとしていくつかの社会主義的実験が試みられたが、それらはいずれも失敗に終わった。しかし精神としての進歩主義、パン・アフリカニズムはある程度は受け継がれている。

サブサハラの中では、東部の大地溝地帯はむしろ先進地帯に属する。エチオピアからウガンダ・ルワンダへと続くゾーンは比較的人口稠密な高原地帯であり、粗放ながら農業を基盤とする社会が成立していた。

ただし南スーダンはその中では激しく落ち込んだ地帯であり、ナイルの氾濫原が酷暑の中に広がる農業不適地帯である。

そこは北のアラブ世界と南の高原地帯をつなぐ結節点として意義を持っているところだと考えてよいのではないか。
率直に言えば、ネーション・ステートとしての「塊」はそこには感じられない。突き放して言えば、ルアンダ・ブルンジ並みに細切れ国家にならないと、民族国家としてのスタートは切れないのではないか、とさえ思ってしまう。 

そんな感じで、年表づくりに入ってみたい。

中央アフリカ年表ですが、その後だいぶ増補されたので、もうブログで見るのはしんどいと思います。
ホームページの方に移動したのでそちらをご覧ください。
と言いつつまだ上げてなかった。これから上げます。

http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/africa/centralafrica.htm

です。
FFFTPのアップロードはサーバーに反映されるのに4,5分かかるようです。

アナーキーになりついでに

この中央アフリカという国の歴史で、もっとも魅力的な人物はなんといってもボカサであろう。

こういう国では、「民主的」にやってもいいことはひとつもない。

唯一まともな組織は軍隊だけだ。軍は組織で動く。軍には目標がある。何よりも国家の中で唯一国家意識を持った組織だ。

ところが選挙をやると必ず負ける。そして勝ち上がってくるのは部族の代表だったりギャングのボスだったりする。だからこういう国で「民主主義」というのは汚職と腐敗の代名詞だ。

こういう連中が国の金庫を空っぽにするだけならまだ我慢できるが、外国とツルンで莫大な借金を残してドロンする。こうなると国中無茶苦茶だ。何よりも兵隊に給料が払えなくなるから、軍人は我慢ならずクーデターを起こす。

ところが軍人が登場して綱紀を粛清し、国の再建計画を作っても先立つモノがない。軍人はたいていナショナリストだから、多国籍企業にはとんと旨味がない。だから先進国は金を貸さない。

しかたがないから指導者は膝を屈し、「民主主義」を導入して、自らが「腐敗政治家」になったふりをして資金を仰ぐ。

ところが投入された資金は国庫には入らず、多国籍企業の儲けを増やすような事業にばかり投入されるから、貧富の差はますます広がり国民の不満は益々高まる。

ならば企業の国有化を、と画策した途端にCIAや外国情報機関に足をすくわれ、哀れ再クーデターで一巻の終わりという筋書きだ。

もう少し利口な指導者は、黙って多国籍企業のおこぼれに預かり、いのちを永らえる。トップがそうやって変節すれば、下は遠慮なくむさぼるようになる。そしてもっと露骨に権益を金儲けの手段に使おうとする民間政治家を好ましく思うようになる。

そして話はふりだしに戻る、というぐあいだ。

こういう話がいつまで続くか、いつになったら続けられなくなるのか、大変難しい話だ。

中央アフリカ年表を作成しての感想。

中央アフリカの内戦は「新型の戦争」である。難民が反乱を起こしそれが内戦となり、難民軍が勝ってしまったのである。

マリの戦闘は違う。ベルベル人はみずからの故地を守り、生活を守るために戦った。これが内戦の基本構図だ。ただしベルベル人はカダフィの傭兵として闘い、大量の武器を持ち帰った。だから戦闘が複雑になった。これにアルカイダが乗っかってきたから話が複雑になった。

中央アフリカの場合はそれとはまったく異なる。北部から流入した難民が野盗化し、それが反政府勢力に束ねられて政府に立ち向かう構図だ。

しかも難民軍が勝ってしまった。彼らは頭に据えた国内反政府派の指導者たちの首も切ってしまった。そして頭を持たない下半身だけの化け物となって、国中を荒らしまわっている。

これは21世紀が生み出したバケモノだ。




しばらく前に、マラウィの年表を作成したが、2012年までの感想はほとんど同じだ。
ただ、2012年からは突然マリの年表になる。サヘルの問題が前面に出てくる。砂漠の民の襲 来だ。それにムスリム原理派の影がちらつく。

サヘル問題はイナゴの襲来と同じだ。順番に押されて南下してくる。砂漠化の拡大に押されて 遊牧民が南下してくる。彼らの羊は草原を食いつくす。そして彼らは疾風のごとく襲い来たって 、農耕地の定住農民を襲い殺しつくし奪いつくす。
逃れた農民は南下するが、そこにはすでに農民がいて難民を受け入れる余地はない。食うに 困った難民たちはやがて野盗化し凶暴化する。
そこに片手にコーラン、片手にカラシニコフを 抱えた指導者がやってきて、反乱を呼びかける。 そしてやがて血で血を洗う内戦となる。

 短期的にはこのパターンなのだが、実はもう少し長いレンジで見ると逆の流れが見えてくる。
 土地の生産性は遊牧においてはきわめて低い。その中でも灌漑できれば農業ができるところ には定住民が侵食してくる。
 たいていそういうところは遊牧民にとってもだいじな放牧地だから争いが起きるのだが、定住 民の経済力には到底かなわない。おまけに法律がだんだん出来てきて、これも定住民に味方 するから、だんだん追い立てられていくことになる。

 遊牧民は基本的に無政府主義である。「空をとぶ鳥のように、自由に生きる」のだ。国境などク ソ食らえだ。そもそも国だとか所有権などという面倒なものがあるからいけないのだ。 「中央アフリカ」という国が今や存亡の危機に立たされていると大騒ぎしているが、天才バカボ ンじゃないが「それでいいのだ!」ということになる。 たしかに一理あるな。

とりあえず、ネットで日本語の資料をかき集めて、年表の形に整理しました。

申し訳ありませんが、出典は一切記載しておりません(大半はウィキペディア)。ご容赦の程よろしくおねがいします。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/6/8/688b18b3.jpg

1875年 ウバンギ・シャリ地方がエジプトの支配下に入る。

1883年 フランスがウバンギ・シャリ地方に進出。94年にフランス植民地に編入する。

1900年4月22日 フランス軍がウバンギ・シャリのエジプト軍を撃破。

1910年 フランスのウバンギ・シャリ植民地(現中央アフリカ共和国)とガボン植民地、中央コンゴ植民地(現コンゴ共和国・ブラザヴィル)が連邦制を敷き「フランス領赤道アフリカ」となる。

1911年 カメルーンを支配していたドイツが1911年から1914年にかけて西側半分を占領。

1920年代 天然ゴムや綿花のプランテーションが発達。フランス植民地主義者の激しい収奪により人口が減少。「地獄の10年」と呼ばれる。

1927年 ボカサの父が植民地政府により処刑される。彼はゴム採取会社の監視人だったが、徴発された強制労働の従事者を、会社に無断で解放したため罪に問われた。

1949年 バルテレミ・ボガンダが黒アフリカ社会進歩運動(MESAN)を結成。ボガンダはカトリック聖職者で、戦後ウバンギ・シャリを代表してフランス国民議会の議員に選出されていた。(一書に46年、また一書にブラックアフリカ社会労働党との記載)

1959年3月 独立運動の指導者ボガンダ、飛行機事故で死亡。

1958年9月 住民投票によりウバンギ・シャリはフランス共同体内の自治共和国となり、国名を中央アフリカ共和国と改称する。ボガンダは首相に就任。

1959年3月29日、ボガンダは西部のベルベラティの町から首都バンギへと飛行機で戻る途中、飛行機が墜落し、独立を目前にしてこの世を去る。

1960年8月15日 フランスより完全独立。ボガンダの甥ダヴィド・ダッコ (David Dacko) が初代大統領に就任する。ダッコはフランス軍の古参兵で従兄弟のジャン=ベデル・ボカサを招聘し、国軍の参謀総長とし、その編成を委ねる。

1965年12月31日 ジャン=ベデル・ボカサ中佐による軍事クーデター。カウディージョ気質から失政と腐敗を見かねたものとされる。ダッコはボカサの顧問として国内にとどまる。

ボカサは第二次世界大戦勃発の直前にフランス軍に入り、自由フランス軍に参加、41年には軍曹に昇進して各地に転戦、大戦終結後はインドシナ戦争にも従軍した。
 22年間フランス軍に勤務して勲章を15個もらい、最終階級は大尉であった。

1966年1月3日 革命委員会が発足。ボカサが大統領に就任、独裁政治をはじめる。南アフリカ、ソ連、リビアから援助を引き出すなど、独特の外交手腕を持っていたとされる。

1972年 ボカサ大統領、終身大統領を宣言。

1976年12月4日 ボカサ、「中央アフリカ帝国」を宣言。みずから皇帝に即位。「黒いナポレオン」の異名をとる。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/2/b/2b9fad77.jpg

1976年12月7日 パタセが帝国首相となる。北部の出身でボカサの妻の従兄弟にあたる。

1977年12月 国家予算の1/4に相当する約65億円(2000万ドル)をつぎ込んだ戴冠式が行われる。初代皇帝ボカサ一世を称する。

約65億円(2000万ドル)との記載はどう見てもおかしい。現在のレートなら20億円、1ドル360円の頃の話だろうか。(たしかに77年には360円だった)
 別のファイルでは「国家予算の2倍にあたる2500万ドル」との記載あり、これも国家予算12.5億円というのはあまりに安いようだ。

1978年 ボカサ、息子のジャン=ベデル・ジョルジュ皇太子を国外に追放。

1979年1月 ボカサ帝政に反対する小中学生らのデモが発生。ボカサは傭兵を用いて暴力的に鎮圧。100名の小学生をふくめ400人の死者を出す。

デモの引き金となったのは、制服着用を義務化しようとしたことだった。制服は一族の所有する工場や店の製品で、きわめて高価だったという。

1979年4月 フランス、独自の調査でボカサによる子供の殺害を確認。ボカサと断絶。帝政打倒を目指すようになる。

1979年9月 ボカサ、新たなる同盟者を求めリビアのカダフィを訪問。

9月20日 フランスの手引でクーデター。外遊中だったボカサを追放。共和制を復活する。初代大統領のダッコが政権に復帰。新憲法を制定し、複数政党制を導入する。

ボカサを追放するためにフランス軍特殊部隊が行った秘密作戦には、「バラクーダ 」作戦という暗号名がつけられていた。
作戦は夕方に開始された。まず潜入していたSDECE特殊部隊が空港を制圧した(SDECEは現在のDGSEに相当)。次いでC-160が着陸し、ブランシオン=ルージュ大佐の率いる第1海兵歩兵落下傘連隊が戦闘配置についた。さらに計300人以上の兵を乗せた2機の輸送機が到着した。SDECE司令官ベルナール・ドジェンヌ大佐は、待機していたチャドのジャメナ空港から飛び立ち、まもなくバンギに到着した。
それから政府と市内要所の制圧作戦が開始され、午前0時半にはダッコ元大統領が中央アフリカ帝国の崩壊と中央アフリカ共和国の復活を宣言した。
 バラクーダというのは、元々はチャドから出発したドジェンヌ大佐のユニットにつけられた暗号名で、ピューマ・ヘリコプター8機とトランザール輸送機から編成されていた。

1981年3月 複数政党制による大統領選挙が施行される。ダッコが勝利するが、アンジュ・フェリクス・パタセ率いる野党の猛追を受ける。パタセは38%の支持を獲得。バンギにおいてはダッコの得票を上回る。野党は選挙の無効を叫びストライキを繰り返す。

1981年9月1日 国軍参謀総長アンドレ・コリンバによるクーデター発生。コリンバが国家再建軍事委員会議長に就任する。ダッコはカメルーンに亡命。(一書では、「ダッコは社会秩序の回復のためにコリンバに政権を譲った」とされる)

1982年3月 パタセによるクーデター未遂事件が発生。これに連座したボジゼ情報文化相は国外へ逃亡。

1983年 ECCAS(Economic Community of Central African States)が結成される。10カ国から構成される。

1985年 コリンバ、政体を民政に移すと発表。これに備え配下の軍人に民政参加の準備を進める。

1986年11月 国民投票により新憲法採択。コリンバが大統領に選出される。

1986年 ボカサ、フランスの監視から脱出し帰国、捕らえられ死刑の宣告を受けるが、93年には釈放される。96年死亡。

1987年7月 新憲法にもとづく最初の国民議会選挙が実施される。

1989年7月 ボジゼ、ベナン共和国のコトヌーに滞在中、コリンバの要請を受けた官憲に捕らえられ拷問を受ける。

1991年7月 憲法改正により複数政党制が成文化される。これにもとづく政党法が成立。

1991年12月 ボジゼ、放免を受け出獄。政治活動を再開。

1992年10月 大統領・国民議会選挙が実施される。野党に敗れたコリンバは選挙の無効を宣言。

1993年5月15日 未払いの給与支払いを求め大統領警護隊がクーデター。交渉により鎮圧される。

1993年10月22日 再選挙が実施され、コリンバの落選が確定。アンジュ・フェリクス・パタセが大統領に就任する。ボジゼは軍参謀長に就任する.北部出身者の登用にコリンバ派は反発。国内の混乱は収まらず騒乱状態となる。

1996年4月18日 国軍の一部兵士が給与遅配に抗議して反乱を起こす。この後5月、11月にも反乱が発生。

12月1日 旧仏領アフリカ4ヶ国首脳が共同調停に入り停戦合意。停戦合意実施のため、アフリカ6ヶ国で構成されるアフリカ仲介軍(MISAB)が派遣される。

1997年6月 アフリカ仲介軍と反乱派兵士との間で戦闘となる。

1998年4月 国内治安安定のため、国連中央アフリカ共和国使節団(MINURCAT)が結成され、MISAB の活動を引き継ぐ。多国籍軍の駐留のもと行政機構が整備される。

1998年11月 MINURCATの支援のもと,国民議会選挙が平穏裡に実施される。

1999年9月 大統領選挙が施行され、パタセ大統領が再選される。

2000年2月 MINURCATが撤退。これに代わり国連平和構築事務所(BONUCA)が設立される。

2001年5月28日 コリンバ派の兵士によるクーデター未遂事件が発生。コリンバはウガンダへと逃亡した。

10月 ボジゼにも関与の疑いがかけられ、軍参謀長の職を解かれる。

2001年10月 フランソワ・ボジゼ(Francois Bozize)元参謀長を支持する部隊が、大統領親衛隊との武力衝突。

11.08 政府軍はリビア軍の支援を得てボジゼの拠点を攻撃。ボジゼは北のチャドに逃れた。

2002年10月25日 ボジゼの勢力が1週間にわたりバンギを攻めたが敗退。

2003年3月15日 ボジゼ、パタセ大統領の外遊中に権力を掌握。自ら「大統領」を宣言し,1995年憲法を停止。「国家暫定評議会」を設立する。チャドのイドリス・デビ大統領や MINURCAT がポジセを支援する。


ここはどうもよくわかりません。選挙で選ばれた大統領をクーデターで追放する行動がなぜ「国際的な支持」を得たのでしょう? ただ、その後の行動を見ると、ポジゼが比較的「民主的」な大統領であった可能性はあります。

2003年9月 ボジゼ暫定政権、「国民対話」を実施。(対話の中身や形式は不明)

2004年12月5日 国民投票で、複数政党制を保障する旧憲法の復活が承認される。


ボジゼ与党の国民集合クワ・ナ・クワ(KNK)、パタセ前大統領の中央アフリカ人民解放運動 (MLPC)、コリンバ元大統領が率いる中央アフリカ民主連合 (RDC) が主要3政党を構成。

2004年 北部オーハムペンド州とオーハム州で、反政府武装勢力「民主復興人民軍」(APRD) が活動を開始。

2005年5月 新憲法にもとづく大統領選挙,国民議会選挙を実施。決選投票では、得票率64.6%を獲得したポジゼが大統領に当選。

2006年 ムスリムのジョトディアが反政府勢力の統一民主勢力連合を結成。ジョトディアは10年間にわたりソ連で教育を受けた人物で、帰国後は外務省の中堅幹部を務めていた。

2006年1月 北東部で反乱勢力が政府軍を攻撃。アムネスティは反撃に出た政府軍、特に大統領警備隊が住民を虐殺したと非難。

2006年10月 反政府武装勢力の活動が活発化する。ビオラなどの街を占拠する事件が頻発し,多数の国内避難民が発生する。

11月 ベナン在留中のジョトディア、ボジゼ大統領の要請を受けたベナン軍により拘束される。

2007年 政府と反政府勢力の間で和平合意が結ばれる。反政府勢力の武装解除と引き換えに、政府は資金援助などを提供するという内容。

2007年 和平合意に基づき、北東部の治安・人道状況改善のため,EU部隊(EUFOR)が派遣される。

2008年2月 ジョトディアが解放される。解放にあたりボジセ政権との和平交渉への参加を約束する。

2009年3月 EU部隊(EUFOR)が任務を終了。国連の「中央アフリカ・チャドミッション」が引き継ぐ。

2010年12月 「中央アフリカ・チャドミッション」も期限切れで撤退となる。

2011年1月 大統領選挙が実施され、ポジゼが再選を果たす。

2012年

9月 ボジゼ大統領の退陣を求める武装勢力がセレカ連合(Seleka)を結成。CPSK、CPJP、UFDRなどの寄り合い所帯。

セレカはサンゴ語で連合・同盟を意味する。セレカ連合を構成する各団体はいずれもイスラム勢力で、指導者ジョトディアもイスラム教徒である。
イスラム教徒は人口の10%ほど。ほとんどは元々の住民ではなく、北方の国から戦火や飢餓を逃れ移り住んだ人々である。
 米下院外交委員会アフリカ問題小委員会での証言によれば、セレカ系民兵の数は推定2万5000人、そのうち9000人はチャド、スーダンなどからの民兵。指導者クラスの中には中東湾岸諸国などでビジネスを営んでいる者もいる。

12月 セレカがバンギに向けての行進を開始する。北部および東部の広域を掌握し、兵力は2万人に達する。

12月 北の隣国チャドは、ボジゼ大統領の要請を受け軍を派遣。セレカの進軍を止めようとはかる。

多分この記述は不正確だと思われる。チャドはイスラム教徒を主体とする国であるが、何よりも中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)の輪番議長国であり、その立場から紛争を避けようと動いたと思われる。
ただ、現場でそれに類似したような動きがあったことは想像に難くない。

12.21 中部アフリカ諸国経済共同体の緊急首脳会議.セレカの武装襲撃を非難。

12月26日 首都バンギ(Bangui)でボジゼ大統領派のデモ。フランス大使館前で暴徒化。

これはよく理由の分からないデモだったらしい。ウィキペディアによれば
 デモ隊は米国大使館前で抗議の座り込みをしていた。そこでは平和を求めるシュプレヒコールのみだったが、フランス大使館前に移動すると、物を投げて建物の窓を壊したり仏国旗を引き下ろしたりした。
デモ隊は、フランスがセレカの勢力拡大を阻止しないことに不満を示した。
参加者の1人は「昔からフランスはすぐにわれわれを見捨ててきた。もうフランスなど必要ない。大使館をたたんで出て行っても構わない」と話した。

12月27日 国連安保理、「平和協定を破壊し、国の安定と国民の安全に脅威を与えた」とし、セレカによる武装襲撃を強く非難する声明を発表。占拠した都市からの撤退を求める。

12月28日 ガボンに駐屯中のフランス兵士180人と、チャドのフランス軍ヘリコプター2基がバンギに到着。

12月30日 中央アフリカ国内のフランス軍兵力は600人に達する。空港に隣接したフランス軍駐留基地に配備され、現地フランス人と外交機関の保護に当たる。

12月30日 アフリカ連合のボニ・ヤイ議長がバンギを訪問し、ポジゼと会談。ポジゼは「反政府武装勢力の連合体セレカと連立政権を樹立し、前提条件なしでセレカと交渉を行う」と言明する。

12月31日 セレカ、バンギから180キロの都市を襲撃し制圧。これまでに少なくとも10の都市を掌握し、ポジゼの辞任を求める。

12月31日 チャドのデビ大統領、中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)の決議を尊重し、直ちに双方が敵対行為をやめることを求める。

声明の内容: バンギから70キロ離れたダマラがレッドラインである。中央アフリカに派遣されたECCASの多国籍部隊は、代価を惜しまずにレッドラインを越える行為を阻止する。

2013年

1月 ガボンのリーブルビルで、中央アフリカ諸国の仲介により、政府とセレカ連合との交渉が合意に達する。戦闘は一時小康状態となる。

リーブルビル合意: ボジゼ大統領のもと、挙国一致で和平プロセスを進めることで合意。大統領の2016年までの任期までの留任,1年以内の国民議会解散と総選挙の実施が定められた。また野党代表を首相とする挙国一致内閣の設立も合意された。

2.03 合意に基づき、野党からチャンガイ首相が選出され挙国一致内閣が成立。セレカからも閣僚が選出される。

3月 セレカ連動、ポジセ政権への攻撃を再開。3月20日を期限とする最後通牒を突き付け戦闘準備を整える。

3月22日 ポジゼ大統領、南アフリカ訪問を切り上げ帰国。

3.23 セレカ、首都バンギに向け進撃を開始。

3.23 フランス軍部隊150人は、バンギのムボコ国際空港を確保する。

3.24 セレカ連合の尖兵が大統領府付近に進出し銃撃戦を展開。ボジゼ大統領は隣国コンゴ民主共和国へと脱出(一説にカメルーン)。

3.24 セレカがバンギ市内を制圧。各所で略奪行為が続く。この間の戦闘で、現地に展開していた南アフリカ兵13人が死亡する。

3.24 アフリカ連合はセレカの首都制圧を非難し、中央アフリカ共和国の加盟資格を停止。加盟国に対し「結束した断固たる行動」を求める声明。

3.25 セレカはミシェル・ジョトディア(Michel Djotodia)を暫定大統領に指名。ジョトディアは議会と各政府機関の解散、憲法の停止を宣言し、3年以内に選挙を実施するまでは「法令」に基づき自身が統治すると発表。チャンガイ首相が政権を担うこととなる。

3.25 フランスの要請を受け国連安保理の緊急協議。クーデターを非難し「追加措置」も辞さないと警告する。

3.25 パン・ギムン国連事務総長、セレカを非難。「深刻な人権侵害の報告もあり深く憂慮する」と声明。

4.12 アントニオ・グテーレス国連難民高等弁務官がコンゴ民主共和国北部の難民キャンプを視察。「およそ3万7000人が中央アフリカから逃れてきた。これらは3月25日のバンギ制圧を機に避難した人々である」と述べる。

4.13 セレカ、バンギで武装解除作戦を展開。旧国軍兵士や市民の抗議に対して発砲。その後反セレカ派の摘発に乗り出す。

4月 ジョトディアはアフリカ連合の要求を受け入れ暫定評議会を設置。暫定評議会の支持を受けあらためて大統領に選出される。

5月2日 この日付の報道では、「コンゴ民主共和国に避難している難民は4万人となり、新たにカメルーンに1024人、チャドに6728人避難」とされる。

中央アフリカはそれまでむしろ難民受入国だった。コンゴ難民とスーダン難民あわせて1万7000人、ダルフール西部地区の内紛での難民が4000人など。これらの難民がセレカの中核を形成した可能性もある。

7月 ジョトディア政権が暫定憲法を公布する。

8月18日 宣誓式が行われ、正式にジョトディアが大統領に就任。

8月 国連安保理、「中央アフリカは完全な無秩序状態に陥りつつある」と警告。

9月13日 セレカ連合が統率力を失い自主解散。メンバーは武装解除を拒否。抗争はやまず、国内が無政府状態に陥る。

元々、反政府勢力の寄り合い所帯であるだけでなく、民兵には約束された賃金が支払われなかったことから、軍規の乱れや離脱が相次いだ。
これに対しジョトディアは正統性を確保のため、セレカの武装解除を打ち出した。これに戦士の多くが反発し、傍若無人の妄動を繰り返すようになった。
ジョトディア自身、もはや武装集団の行動をコントロールできないと認めている。

9月 キリスト教徒はアンチ・バラカと呼ばれる自警団を組織し、セレカ残党と対決。戦闘は宗教間の衝突の様相を呈し、多数の死者を出す。さらにボジゼ前大統領派も独自の武装攻勢を強める。

12月6日付UNHCR発表によれば、避難民は約47万人(国外7万人、国内40万人)に達した。また戦闘ごとに数百名の単位で犠牲者が発生している。

9月 北西部ウハム州でアンチ・バラカによるムスリム住民の虐殺が拡大。元セレカ部隊も反撃し大量虐殺を繰り返す。さらにナナ・マンベレ州、南西部のロバイエ州にも戦火が広がる。

バンギ北方300キロの州都ボッサンゴアには、ウハム州全域から避難民が集まる。カトリック教会には4万人、街の反対側にはムスリム住民4,000人が残留。にらみ合いを続ける。

11月 フランスとアフリカ連合が軍事介入。残存勢力との間で小規模な戦闘が行われる。

12.04 ルモンド紙がフランス軍の作戦計画の概要を報道。仏は安保理決議を待たず、本国からの動員を含め準備を開始する。(作戦名は'SANGRIS'(サングリ)、中央アフリカの森林に生息するエキゾチックな蝶の名を冠したとされる)

主要作戦は、
①首都バンギの防衛。セレカと、キリスト教徒自警団(Anti-Balaka)の間に割って入る。
②北西部のカメルーン、チャドと回廊を確保

12.05 バンギでキリスト教徒によるイスラム教徒の大虐殺。少なくとも300人が死亡(赤十字)する。

12.05 中央アフリカ共和国への軍事介入を認める国連安保理決議が全会一致で採択される。国連憲章第7章に基づき「中央アフリカ支援国際ミッション」(MISCA)が編成されることとなる。さらにMISCAの支援の名目でフランス軍にも権限が付与された。

第7章というのは「強制力による紛争解決」を定めた章。
具体的には、すでに中央アフリカに展開する「中央アフリカ展開多国籍軍」(FOMAC)を国連の下に移行させることとなる。FOMACは中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)により構成され、管轄はアフリカ連合があたる。
作戦期間は12ヶ月。人員は原員の2500名から、3600名に増強される。

12.06 フランスのオランド大統領が記者会見。「事態は非常に恐ろしい状況になっている」とし、①7日夜までに当初の想定よりも400人多い兵士を派遣、②国連に権限を委任する兵員を1600人に増やすと発表。

会見での主な発言内容: 民兵組織が女性をレイプしたり、病院の患者を殺害したりするなど、まるでギャングのような行動をしている。
彼らを武装解除させることが仏軍とアフリカ部隊の任務になるだろう。現在行われている残虐行為や大量虐殺をすぐにやめさせることができると私は信じている。 
長期的には再び国を安定させ、適切な時期に自由で民主的な選挙を実施することが目標となる。

12.06 アフリカ連合(AU)、MISCAの兵員動員目標を当初予定の3600人から6000人に引き上げる。

12.22 バンギでセレカの支持者数千人が、戦闘員の武装解除を進めるフランス軍に抗議するデモ。

12.07 フランスとアフリカ連合が軍事介入。フランス軍200名が西部の都市ブワル(Bouar)に展開。

数か月にわたる暴力にうんざりした住民たちは、ダンスを踊り、警笛を鳴らし、鍋をたたいて大歓迎した。そして部隊に「ありがとう!」「私たちを助けて!」などと声をかけた

 

2014年

1月11日 中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)が緊急首脳会談を開催。.事態打開能力を失ったジョトディア大統領・チャンガイ首相の辞任を勧告。

1.11 ECCASの勧告を受けたジョトディア大統領とチャンガイ首相、混乱の責任を取り辞任する。バンギ市内での暴動はむしろ激しさを増す。

辞任発表後数時間のうちに少なくとも5人が死亡。市内で群衆が店のドアを壊し略奪が相次ぐ。店の多くはイスラム教徒が経営していたもの。略奪を行った者の中には食人行為に及んだ者もいたという。

1.11 ジョトディア、ベナンに亡命。国家移行評議会(CNT)が、国民議会議員の間接投票による暫定大統領選挙を組織することとなる。

1.20 国家移行評議会、暫定大統領としてバンギ市長のカトリーヌ・サンバ・バンザ(現バンギ市長)を選出する。

1956年生まれ。父はカメルーン人、母は中央アフリカ人。バンギで育ち、フランスに留学。情報工学、保険関係法などを学び、1990年、バンギに戻る。アリアンツグループでのポストを経て、保険代理店業を起業する。
2003年、ボジゼによる政変ののち、「国民対話」の共同議長を努める。アムネスティにも加わり、紛争が続いたアフリカ中央部、大湖地方で人権活動に尽力した。
2013年1月にバンギ市長に就任。その2カ月後にセレカ勢力が政権を転覆した。
8歳、3児の母。夫のシリアーク・サンバ・パンザも政治家。コリンガ政権、ボジゼ政権など、複数政権で大臣を歴任している。

1.20 EU外相会議、500名規模のEUFOR部隊派遣を承認する。

1.22 国連安保理で事務総長の派遣した特別代表が中央アフリカの状況を報告。

子供と武力紛争担当のゼルーギは双方の武装勢力に18歳以下の少年兵6千人が加わっていると報告。
紛争下の性的暴力担当のバングーラは、昨年はじめからセレカの4530件以上の性暴力があったと報告。
 「国際人道法が順守されない状況が続けば、最悪の結果になる」と強調した。

1.23 サンバ・バンザの大統領就任式。両派に武装解除と和解を呼びかける。大統領選挙、国民議会選挙の実施を柱とする民主化プロセスの実施を目指す。

1.23 演説の直後にFACA(国軍)兵士が各国の報道陣の目の前でイスラム教徒の男性に襲いかかり惨殺する。(直前の大統領の演説では「国内の治安回復に貢献する兵士を誇りに思う」と語られていた)

1.24 UNOCHAが内戦による被害状況を報告。これまでの犠牲者は約931人、また避難民は約120万人に達する。

1.27 アンドレ・ンザパイェケ首相を首班とする暫定内閣が発足。閣僚には7名の女性、3名のセレカ派、1名のアンチ・バカラ派が含まれる。国防大臣にはテオフィル・ティマンゴア将軍を任命。

2.08 バンギで武装勢力間の衝突。9日までに少なくとも11人が死亡。

1.30 元セレカの武装集団が、バンギの北180キロのシブート(Sibut)を制圧。フランス軍が奪回作戦に乗り出す。

1.30 安全保障理事会、平和維持部隊の活動とEU派遣部隊に武力行使を認める決議を全会一致で採択。



文化面に永原陽子さん(京大教授)の記事が掲載されている。
マンデラが共産党員だったという話だが、これはまったく驚かない。やはりそうだったかという感じ。

それよりも気になったのが下記の記述。

平和的な体制移行のために不可欠であった「和解」の路線は、新自由主義的なグローバル化の中で、貧困層の利益を守る経済政策と両立困難である。

いまやこの国でも黒人の中産階級が出現しているが、最貧層は相変わらず黒人たちである。

労働運動からは、資本家に甘く汚職の絶えないANCへの不満と、そのANCを変えられずにいる共産党へのいらだちの声も強まっている。

喪明けの日には、COSATU傘下の最大の労組である金属労働者組合が、次の選挙でのANC不支持を表明した。


考えてみれば、かつてのジンバブエのムガペと同じ状況だ。厳しいですね。
カンボジアのフン・センくらいノーテンキになれればいいのだろうけど。

マラウィの歴史を学んで感じたのだが、バンダという男、どうも魔術師ではないか。
1896年生まれというのは、正直眉唾である。98年生まれという説もあるが、いずれにせよ10歳くらい鯖を読んでいるとしか思えない。
女性に振られて八つ当たりして、サイモンとガーファンクルの歌を放送禁止にした、という馬鹿馬鹿しい話があるが、この時すでに80歳を超えている。
かつてハイチの歴史を学んだ際、同じようなことがあった。
19世紀半ば、ハイチの支配者はほとんどが80,90の年寄りばかりだった。長老政治であり、呪術の世界である。
そして1955年から15年にわたり独裁政治を敷いたのもドク・デュバリエという医者だった。

まぁ独裁者なのだから何をやっても仕方ないが、度し難い致富欲というのだけはなんとかしてほしい。
朴正熙はカネは残さなかったそうだ。女には目がなかったがカネには淡白だったという。ウソかホントか知らないが…
国の富を吸い上げて死蔵してしまえば、国は貧しくなる一方だ。そうすれば結局みずからの身も痩せ細ることになるのだが、金の亡者というのはそういうことは考えない。ただひたすらに、その本能に従って貯めこむのである。
かつてマルサスは、金持ちの贅沢こそが社会発展の原動力だといった。マルサス嫌いのマルクスもこのことは認めた。
とにかく湯水のように使ってくれ。墓場に持ち込むな。ピラミッドの三つ四つ建ててくれ。アラブの王侯貴族のように贅沢してくれ。ただし軍事力以外の道だ。
ムヒカ大統領には悪いが、消費主義バンザイ、物質文明バンザイだ。

ありました。USBメモリーに残っていました。最終版ではないが、とりあえずこれでお茶を濁しておきます。

全文は、いずれホームページの方にアップロードしようと思います。これを機会に、南部アフリカの年表(南部アフリカ(南アフリカ,ナミビア,アンゴラ,モザンビーク,ジンバブエ,ボツワナ,ザンビア)も南ア、アンゴラ、モザンビークに分けようかと思います。


1971年7月 ザンビアとの関係修復。ザンビアの高級使節団がZombaで事務所を開設することが許される。

1971年 バンダ、終身大統領となる。バンダは規則的に内閣を改造し、政敵の出現を防いだ。20万人以上を裁判もなく収監した。バンダは在任中に少なくとも3億2000万ドルを私財として蓄えた。

1971 マラウイ・ポンドにかわり、クワチャ(kwacha)が公式の通貨になる。1クワチャは、100タンバラに等しい。

1973 9月 バンダ政権、新聞とラジオ放送を統制下に入れる。バンダに批判的な国際報道をシャットアウト。『間違った情報』(国家批判)を外国人に広めることを終身刑とする。

1974年7月 ポルトガル政変(カーネーション革命、あるいはリスボンの春)が起こる。ポルトガル新指導部は、反革命派を支持し、その攻撃基地を提供したとしてマラウィと断交。

1974 バンダ大統領、首都をゾムバ(Zomba)からリロンゲ(Lilongwe)に移転すると発表。ブランタイア(Blantyre)への移動を望んでいた白人植民者の間に動揺が広がる。

1975 1月1日 リロングウェは、公式にマラウイの新しい首都になる。

1978 独立以来最初の議会の選挙。しかし全ての候補はバンダ大統領によって選ばれたMCPのメンバー。バンダは候補資格として英語に堪能であることをもとめた。

1980年4月 9つの南部アフリカ諸国(アンゴラ、ボツワナ、レソト、マラウイ、モザンビーク、スワジランド、タンザニア、ザンビアとジンバブエ)によって、南部アフリカ開発調整会議(SADCC)が設立される。(92年に南部アフリカ開発コミュニティ(SADC)に発展改組)

1980年代初期 サイモン&ガーファンクルの 「いとしのセシリア」をラジオ放送で流すことを禁じた。愛人のセシリア・タマンダ・カザミラとの関係が悪くなり、セシリアに帰ってきてくれるよう懇願する内容の歌詞が気に食わなかったためとされる。

1983 第2回国会選挙。今回も全てMCP候補者で指導者になりそうな人物は注意深く取り除かれる。選挙中に4人の反対活動家が殺される。

1986年7月 モザンビーク政府、反政府ゲリラ「モザンビーク反乱軍」(Renamo)を援助したとしてマラウィを非難。

1986年10月 モザンビークのマシェル大統領が飛行機の墜落事故で死亡。バンダによる陰謀との疑いが高まる。首都マプトのマラウィ大使館は民衆の攻撃を受ける。

南ア政府は、墜落現場で発見された文書を示し、モザンビークとジンバブエによってマラウイに対する陰謀が企てられていたと主張。

1986年12月 マラウイとモザンビークが安全保障合意に調印。対RENAMOで共同することとなる。RENAMOの人質50人がマラウィで解放され、モザンビークに帰還。

1987年2月 バンダ大統領、アパルトヘイト政策を続ける南アフリカとの貿易・政治対話ボイコットをもとめる近隣諸国の要請を拒否。

1987年4月 バンダ大統領、国会を解散する。翌月行われた選挙は、みたびMCP候補が独占する。

1987年6月 バンダが内閣を改造。3人の著名な大臣が解任される。

1987 11月 モザンビーク軍がマラウイの民間航空機を撃ち落とす。10人が死亡。マラウイとモザンビークの間の緊張は高まる。

1988年1月 バンダ大統領は、もう一度議会を解散。

1988年7月 モザンビークのJoaquim Chissano大統領、国際メディアに対し、「RENAMOの基地がマラウィにあるとの報道は正しくない」と語る。

1988 9月 南アフリカのボタ大統領が、マラウイに公式訪問をする。

1988 12月 マラウイとモザンビーク、2年間のモザンビーク内戦中に逃れた65万人の難民の帰還協定に調印。

1990 マラウィをかんばつと不作が襲う。

1990年 代初期 テレビ放送が許される。

1991年 イギリス政府がバンダ大統領の圧制を認めないと表明。

1992年 国内のカトリック教会が離反声明。司教は公的にバンダを有罪と宣告し、抗議のデモ行進を奨励。人権状況を憂慮した多くの援助提供国が、援助を一時停止する。

1993 バンダ大統領が重病となる。バンダは終身大統領をあきらめることに同意する。

1993年年6月14日 国際的圧力を受け、複数政党制移行への国民投票が実施される。3分の2近い得票を得て多党制導入が決定される。

1993年 悪名高い服装制限が解除される。

1994年5月17日 大統領選挙が実施される。統一民主戦線 (UDF)代表のバキリ・ムルジ(南部イスラム系ヤオ族出身)がバンダに圧勝。バンダは政界からの引退を表明(この時実に98歳!)

1994年5月21日 バキリ・ムルジ(Bakili Muluzi)が大統領に就任。直ちに政治犯を解放し言論の自由を確立する。

1995 バンダ、1983年に4人の反対政治家の殺害を支持したとして告訴されるが無罪となる。

1997年11月25日 バンダ、南アフリカ共和国の病院で肺炎のため死去。101歳であったと言われる。マラウィは国葬を行う。

1997年 女性活動家バンダ「持続可能な飢餓撲滅のためのアフリカ賞」を受賞。

1999年6月15日 ムルジ大統領が民主同盟とマラウイ会議党の候補を破り再選される。

選挙後の大規模暴動: 北部のキリスト教徒は選挙結果に抗議し、ムルジの出身部族であり、イスラム教徒であるヤオ族へのテロを行う。200箇所近いモスクが放火の被害を受ける。

 

マラウィ年表を4分割してアップしたが、3が消えてしまった。
このブローチというツール、非常に気分屋で、アップの際に勝手に消したり、載ったはずが消えていたりと勝手な動きをする。
ホームページとの関連でただになっているので使っているが、そろそろ乗り換えたほうが良いのかとも思っている。
たしかに私ほどのヘビーユーザーはそういないだろうが。

ということで、慌ててパソコンを探してみたが、元データはもう消去してしまったようだ。投げっぷりの良さがいつも災いしている。
どうしようか、そこまでしてやるほどのトピックでもないしなぁ…

ただ日本語で読めるマラウィの歴史としては貴重だろうから、また翻訳から起こすか。

2000年 世界銀行、マラウイの対外債務の50%をキャンセルすると発表。

2002年 バキリ・ムルジ、大統領任期に関する憲法改正を試みるが、市民の反対により失敗。

2002年2月末 食糧不足による災害事態を宣言。500名以上が餓死する。政府は誤った処置と腐敗を通して危機を悪化させたとして非難される。
 

マラウイで必要な食糧は年間約247万トン。それに対して、国内で生産された食糧は177万トン、備蓄食糧3万トンとなり絶対的な不足。
AIDSが働き手の命を奪い、肥料投入を行わないため地力が低下、民間業者の参入を奨励することで価格の不安定化を招いている。
さらにIMFは備蓄食糧を売却し債務を返済するよう要求した(IMFは備蓄食糧の全売却を要求したという事実はなく、16.5万トンから6万トンに減らすよう要求したにすぎないと弁明)。
売却された備蓄食糧を買い取った民間業者(政治家所有)は値段をつりあげ、暴利をむさぼった。(
小林 由季さんのブログ)

2002年9月 マラウィ中心部とモザンビークのNacalaの港を結ぶ鉄道が20年ぶりに再開され、インド洋へのアクセスが拡充する。

2004年5月20日 総選挙が施行される。バキリ・ムルジの後継者でUDFのビング・ワ・ムタリカ(Bingu wa Mutharika)が大統領に就任。議会ではマラウイ会議党が第一党となる。

2005年1月 UDF幹部3人が反逆罪で逮捕される。Mutharika.大統領との会談へ銃を持ち込んだとされる。その後3人は恩赦を与えられる。

2005年2月5日 政治腐敗をめぐって追い詰められたムタリカは、統一民主戦線を離党し、新たに民主進歩党を結成する。ムタリカは「UDFが反腐敗キャンペーンに敵意を示したため」と説明する。

2005年6月 Mutharika大統領は、UDFのムタリカ弾劾運動の抑えこみに成功。

2005 11月 マラウィ政府、旱魃により500万人が食物援助を必要としていると発表。

2006 4月 Cassim Chilumpha副大統領が反逆罪で逮捕される。

2006 7月 前大統領Bakili Muluzi、贈収賄容疑で逮捕される。

2006 10月 アメリカの歌手マドンナ、論争の末にマラウィ人幼児の養育権を獲得。

2007 5月 マラウイ、昨年度の豊作を背景にトウモロコシ40万トンをジンバブエに輸出。

2008 1月 マラウイ、台湾との国交を断絶し中国との国交樹立。

2008 5月 ムタリカ、前公安責任者をふくむ数人を逮捕。ムルシ前大統領に従いムタリカ追放を計ったとされる。

2009年5月19日 総選挙。ムタリカが3分の2近い支持を得て再選された。与党の民主進歩党も過半数を単独で獲得。副大統領にはジョイス・バンダ(女性)が就任。

2010年3月 ムタリカ大統領、14人乗りの政府専用ジェット機を購入。購入費用は1326万ドル、維持管理費や保険などで年間30万ドルとされる。ムタリカは議会の承認をえないまま購入を決定。英国は、援助金を440万ドル削減することで応える。

2010 5月 反ホモセクシャル法に基づき、ゲイのカップルに有罪判決。国際的非難が高まる。

マラウィでは、成人の10%がHIV に感染していると推測されており、新規HIV感染者数は毎年約7万人に上っている。世界エイズ・結核・マラリア対策基金が資金援助することにより成り立っている。

2010 10月 マラウイとモザンビーク海岸を接続する新しい水路をめぐり、モザンビークとの外交論争。モザンビークは 新ルートに最初のはしけを投入する。

2011 5月 政府、英国大使を追放。理由は大使の発した「ムタリカ大統領はますます独裁化している」との外交電文が漏洩したためとされる。

2011年6月 ムタリカ政権、パン、肉、ミルク、乳製品を対象とした16.5%の付加価値税を導入する。メイズ価格は昨年2倍に高騰する。

7月 マラウィ全土で空前規模の反ムタリカ抗議運動が起こる。当局の弾圧により21人(BBCによれば19人)が死亡、275人が逮捕される。バンダ副大統領は抗議運動を支持し、ムタリカと離反。

7月 英国は「経済政策の失策を繰り返し、人権保護を軽視している」としてマラウィ政府を非難。マラウイ向けの全ての援助を停止する。

9月 ムタリカ、バンダ副大統領を与党から追放。政権からも排除。バンダは人民党を立ち上げる一方で選挙を経て選ばれた副大統領の職は保持し続ける。

2012年4月7日 ビング・ワ・ムタリカが心臓発作で死亡。副大統領のジョイス・バンダ(人民党)が大統領に昇格する。

バンダは、これまでのキャリアの大半を女性の権利と経済的エンパワーメントの向上のために尽力してきたとされる。

4月 バンダの大統領就任式。「復讐などおこなっている時ではない。マラウィは一つの国として前に進まなければならない」と語る。大統領の給与を30%減額、閣僚用のベンツ35台を売却する方針を明らかにする。

4月 英国は、ムタリカ政権の任期中に凍結されていた金銭的な支援を解禁した。

5月 マラウイ政府、14人乗りの政府専用ジェット機を売却し、代金1500万ドルをトウモコロシやマメ科の穀物などの購入費として充当すると発表。

5月 バンダ大統領、IMFの要請に沿い、通貨クワチャ(kwacha)の1/3減価に踏み切る。国内で恐慌買いを引き起こす。

5月 バンダ大統領は、米国歌手マドンナとの会見を拒否。

バンダの言い分: 「親切とはそもそも無償で、匿名で行われるものだ。それが無償でもなく、黙って行われるものでないのなら、それは何か別のものだ。一番近いものは脅迫だろう」と語る。一説ではマドンナがバンダの妹を解雇したことに対する意趣返しともいわれる。

2012 10月 マラウィ、タンザニアとの国境係争地帯の解決をAUに要請。この地帯は石油と天然ガスが豊富に埋蔵されている。

2013年3月 故ムタリカ大統領の弟ピーター・ムタリカら12名、ジョイス・バナの大統領就任を妨害したとして反逆罪で告訴される。

主として

 African History About.com

による。

 BBC News - Malawi profile

ウィキペディア 「マラウィの歴史」も参照した。

小林 由季さんのブログが飢餓と貧困の原因をわかりやすく解説してくれている。

 

 

1929 African National Churchが設立される。

1934年2月24日 Bingu wa Mutharika (後の大統領)が生まれる。

1944 民族主義者がニアサランド・アフリカ会議を創設。最初の国民議会を開く。植民地の最初の政治運動になる。

1951年 英国政府は、南ローデシア植民地主義者の主張を受け、Nyasalandと南北ローデシアを結合する計画を発表する。三つの地域が連邦を形成する。3つの植民地の大多数のアフリカ人は連邦化に反対。白人の自由主義者も行動を共にする。

1953年8月1日 シレ高原のチョロ地区で連邦化に抗議する暴動が起こる。

10月23日 ニアサランド、既存の南北ローデシア連邦に組み込まれローデシア‐ニアサランド連邦共和国(中央アフリカ連邦)となる。連邦は、1963年まで続く。3つの地域で民族主義者が立ち上がり抵抗を続ける。

1958年7月29日 Nyasaland African Congress (NAC)のバンダ博士が帰国。Nyasaland独立運動のリーダーに就任する。南北ローデシアとの連邦を拒否し、独立をもとめる。彼は、『黒人のメシア』として有名になる。

Hastings Kamuzu Banda 公式には1896年生まれ。ニアサランドで初等教育を3年間受け、南ローデシア、南アフリカなどで働きながら中等教育を受ける。教会の援助を受けてイギリスに留学。スコットランドで医学教育を受け、テネシー州ナッシュビルのMeharry Medical Collegeで学位を取得。1945年にはロンドンで開業した。ロンドンの医院ではエンクルマやケニヤッタとの交友関係を築いた。

1959年3月3日 アフリカ会議と英国当局の支持者の間で暴力的な抗議が発生。非常事態が宣言され、アフリカ会議党は非合法化される。バンダを含む反対リーダーは逮捕される。

9月 ニアサランド・アフリカ会議、マラウィ会議党 (MCP) と改称。バンダは北ローデシアのグウェロ刑務所に勾留されたまま党を指導。

1960年4月 バンダが出獄。「連邦」の憲法改革に関するロンドン会議に招致される。

1961年7月 英国当局は、納税アフリカ人にフランチャイズを与え、新しい立法議会をつくる行政改革に同意する。

1961年8月 立法議会選挙。バンダのマラウィ会議党 (MCP)は、投票の94%を獲得する。

1962年11月 ロンドンで第2回目の憲法協議会。英政府はニヤサランドに自治権を与えることに同意。

1963年1月 Nyasalandは自主的な自治政府を認められる。

1963年2月1日 自治政府が発足。バンダが首相に就任。

1963年5月 自治領政府、新たな憲法を発布。完全な自治権の獲得を目指す。

1963年12月31日 ローデシア‐ニアサランド連邦共和国が解散。ニヤサランドは連邦から完全分離。

1964年7月6日 マラウイは英連邦の一国として独立を成し遂げる。直前の総選挙ではマラウイ会議党以外の出馬が無かったため、事実上の一党制でスタート。バンダが総督に代わり国家元首となる。バンダは首都を Zombaに移転。

1964年9月 バンダ、外相、内相、教育相をふくむ5人の閣僚を排除。彼らは政府へのアフリカ人登用が少ないとし、バンダを批判した。

1964年 年末までにバンダは400人以上の反対活動家を逮捕する。

1965年2月 Fort Johnson が最近解雇された大臣を支持するグループによって急襲される。襲撃隊は政府軍によって撃退される。反乱部隊と元大臣たちは国外に逃げる。

1966年7月6日 マラウイ、英連邦を離れマラウィ会議党の単一政党国家「マラウィ共和国」に移行。バンダは共和国の大統領になる。反対グループは禁止され、リーダーたちは拘留される。マラウイでの人権状況に対し国際的な非難が高まる。

1967年9月 バンダ政府は南アフリカとの外交関係を樹立。 南アフリカの白人の少数党内閣を許すなという近隣のアフリカ諸国による呼びかけは無視される。

1967年10月 Yatuta Chisza前内相、反乱部隊を率い国内に侵入。反乱は破られChiszaは殺される。マラウィ会議党は民兵組織であるYoung Pioneers を結成し国内弾圧にあたる。

1968年9月 南アフリカに励まされて、バンダはモザンビーク、タンザニア、ザンビアとのあいだで境界紛争を開始する。彼はニアサ湖の全てとSongue川の北方地域の領有権を主張。

1968年 バンダ(この時すでに72歳)、独裁色を強め、度外れの人民抑圧を開始。
 

バンダは、常に自身を"終身大統領ングワジ・ヘイスティングズ・カムズ・バンダ博士閣下"]と呼称させた。全ての商業ビルにはバンダの公式写真を壁に掛けることが要求され、その他のポスターや時計、絵画など一切のものを、バンダの写真より上部に設置することが禁止された。
国民の服装を制限。女性に対しては太ももを隠すように指導し、ズボンの着用を禁じる。長髪の男性は反大統領を意味するとし、逮捕後、強制的に髪を切る。
インド人はゲットーに押し込められた。バンダ大統領を非難する発言は厳しく禁じられ、これを破ったものは多くが追放や投獄された。マラウイ社会主義者同盟の指導者アッタチ・ムパカチは暗殺された。(ウィキペディア)

1970年5月 南アフリカのフォルスター大統領がマラウイを友好訪問。

1970 バンダが終身大統領になるのを許す憲法改正が行われる。1970年から始まったマラウイ会議党の一党支配によって支配を強化。


http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/0/8/08984db1.jpg

http://www.astrophotoclub.com/kurita.htm

200-500頃 バンツー族が西方コンゴ地域から進出してサン人を駆逐する。鉄器、陶器、農耕を持ち込む。ニアサ湖(マラウイ湖)の岸に沿って植民。Karonga地区のMwabulamo鉄器類は南アフリカのいくつかのスタイルと類似し、鉄器の開発を象徴する。Mwabulamo陶器は、広縁・無装飾である。鉄製の皿はNkope地区で生産された。

1100頃 Kapeni 陶器の出現。Nkopeより薄い木の葉文様の装飾付き。

1480頃 マラウィ湖南西部にいくつかのバンツー系小国からなるマラヴィ同盟(Maravi Confederacy)が成立。地域を支配し始める。

マラヴィ同盟は最盛期には現代のザンビアとモザンビークの大部分をふくむ大帝国となった。Maravi領域の周辺には、より小さい王国群が存在した。

17世紀 最初のヨーロッパ人としてポルトガル人がマラヴィ沿岸部(現モザンビーク北部)に到達。取引ポスト場を開発する。

1780-1850 奴隷売買が大規模に増加した。東海岸在住のアラブ人が先導。

1830年頃 マラヴィ帝国が衰退。ズールー系のヌゴニ族が南アフリカ方面から進出。ヤオ族が東から進出。ともに南部に定着。北方からはNgonde族が進出。

1850頃 メイズ、自生の穀物(もろこし)に代わり主食となる。メイズは安定した作物として、16世紀にポルトガルの入植者によって導入された。

1850年 スコットランドの宣教師デビッド・リビングストン、ザンベジ川流域を探検。ビクトリア滝を発見。

1859 リビングストン、二回目の宣教旅行でマラヴィに入る。彼は内戦で荒れ果てた地域を発見している。これは奴隷獲得戦争を指すと思われる。Livingstonia の町の名は彼にちなんだもの。

1860 Yao移住者のMakanjila 国、ニアサ湖の南端に沿った強大な王国に育つ。スワヒリ語圏の海岸地帯に拡大し、特に象牙と奴隷取引を支配する。ヤオ族はイスラム教とスワヒリ文化を受容する。

1866-73 リビングストンは第3回目の探検。ニアサ湖湖の南端を旅行する。すでにこの地域は宣教師、ヨーロッパの商人と探検家に開かれていた。

1875 スコットランド自由教会が最初の伝道基地を建設。その後Karonga地区は英国人によって発達した。地元のNgonde族は、アラブ奴隷商人と闘っていた。

1877 Livingstoniaの「中央アフリカ伝導社」(後にAfrican Lakes Company)が、海岸地帯への交易リンクを立ち上げ、奴隷狩りの抑制を図る。グラスゴー(スコットランド)の本部はJohn and Frederick Moirにより運営され、ザンベジ川流域とNyasa湖畔に交易場を展開した。

1885 ベルリン会議で、ドイツのBismark首相はNyasalandの支配権を取り下げる。

1887-95 Karongaのアラブ人は、奴隷売買を抑制する英国当局に抵抗。

1889 英国と地元首長の間で保護条約が署名される。シレ(Shire)「高原保護領」が設定される。後にDistrict Protectorateと改称。

1891年 ポルトガルとイギリスの間に英葡紛争(Anglo-Portuguese Crisis)

1891年2月1日 現在のマラウイ地域が「ニアサランドおよび付属地区保護領」(Nyasaland and District Protectorate)となる。ヘンリー・ハミルトン・ジョンソンが総督となる。Blantyre が経済センターとなり、シレ高原は行政センターとして開発される。

1893 ニアサランド保護領が、「英領中央アフリカ保護領」(British Central Africa Protectorate)に改称。

イギリスの植民地経営策: コーヒーを商品作物として紹介し、ヨーロッパの移民に低価格で土地を提供し、プランテーションを開発した。
アフリカ人は徴税対象となり、支払いのためプランテーションで年に数ヶ月を働くことを『奨励される』

1898 ヘンリー・ハミルトン・ジョンソンの率いる軍隊が、マラウイ西部のヌゴニ族とザンビアの北東部を征服する。

1901 ドイツと英国は、ドイツ領東アフリカとルワンダ、ブルンディ、Nyasalandとの境界線について同意する。ドイツ領東アフリカは後に英領Tanganyikaとなり、現在はタンザニアとして独立している。

1903 英国政府の推計で 6,000人以上のアフリカ人がマラウィ南方地域に仕事をもとめて流入。

1907 英領中央アフリカ保護領、ニアサランド(Nyasaland)と改称。ニアサとはヤオ族の言葉で湖を指す。

1908 Blantyreとヘラルド港を結ぶ鉄道が完成。南アフリカのオランダ改革派教会からの宣教師、ローマカトリックの白人神父が教会を建設。

1912 Levi Mumba、North Nyasa Associatiを設立。民族主義的な理想を推進する。

1914 第一次世界大戦が始まる。Nyasalandのアフリカ人、英国に徴兵され、東アフリカでドイツ軍と戦う。

1915年1月23日 ジョン・チレンブエ、200人の支持者とともに英国の支配に対する反抗を開始する。

最も残忍なプランテーション所有者ウィリアム・ジャーヴィス・リビングストンは、彼の妻と子供たちの前で斬首され、教会前広場でさらし首にされた。

1915年2月3日 Chilembwe、黒人警官によって射殺される。抵抗は終了。副官は逮捕されて、絞首刑に処される。

John Chilembweはアメリカのヴァージニア神学校で学んだ後にニヤサランドへ帰国し、バプティスト教会の牧師を務めていた。ヨーロッパ人同士の争いへアフリカ人が巻き込まれることに疑問を抱いたチレンブウェは、部族の壁を越えて叛乱を行った。1月15日は"ジョン・チレンブウェの日"としてマラウイの祝日となっている。

民主主義の発展

カガメ政権は、経済成長を背景に民主主義的制度を拡充して行きました。99年には国民和解委員会と国民事件委員会が設置され、ツチとフツの和解に向けた制度づくりが前進しました。女性の権利が飛躍的に拡大されました。遺産相続制度が改革され、女性の遺産相続が認められるようになりました。2010年には女性議員が全体の過半数を占めるようになります。これは世界ではじめての経験でした。

03年には大統 領の直接選挙制を柱とする新憲法が制定され、8月の選挙でカガメが大統領に選出されました。政府の規律は高い水準で維持されており、世銀は「世界ガバナンス指標」の汚職対策分野で、ルワンダを中・東部アフリカでトップと評価しています。

社会開発も大きく前進しました。初等教育就学率は95%に達し、修了率も55%に伸びています。予防接種率は98%と、サブサハラ・アフリカで最高水準に達しています。

フランスとの確執

06年11月、フランスの裁判所は、ハバリャマナ元大統領らの殺害容疑でカガメ大統領に対する逮捕状を発行しました。これは世界の世論を憤激させました。逮捕したいのはフランス政府でしょう。ルワンダ政府はフランスと断交しただけでなく、これまで対外関係から配慮していたフランスへの積年の恨みを爆発させます。

ルアンダ政府の調査委員会、①フランス政府はジェノサイドの準備が行われていたのを察知していた、②フツ民兵組織の訓練を行ってジェノサイドに加担した、③フランス軍の兵士自身も暗殺に直接関与した、と非難する長文のレポートを発表しました。ルワンダを断罪するはずが、今やフランスが被告席に立たされる羽目になりました。

2010年2月にはサルコジ大統領がルワンダを訪問しました。彼は前政権への支持について「大きな判断の誤りがあった」ことを認めることになリました。

ルワンダ、最近の動向

いい数字もあれば悪い数字もあります。ただ全体としてすごい前向きなのは、大使館のホームページを見れば一目瞭然です。いろんな国の大使館のホームページを見ましたが、これだけ日本語で充実したページを作っているのはルワンダしかありません。

その大使館のホームページによれば、2012年はGDP8.6パーセントの成長を記録し64億ドルとなりました。ただし、輸入は輸出額の3倍となっており、経済の脆弱性は依然克服されたとはいえません。国家歳入の約5割が外国からの援助資金によって占められ、累積債務は10億ドル近くに達するなど、援助なしでは立ち行かない状況は続いています。

 

 

国際援助による経済の回復

私はよく知らないのですが、お茶も紅茶も原料は同じで、そのまま蒸せば緑茶になり、発酵させると紅茶(Black Tea)になるようです。放っとけば実がなるコーヒーに比べると、お茶は茶畑作りから始まって加工まで結構手間がかかるようで、ある程度の資本がないと経営できないようです。コーヒーは中小零細のフツ人が携わっていて、内戦前の4割程度まで減少してしまったのですが、それに代わって茶の大規模農園が発達しました。(ただしコーヒーも、高級豆生産の戦略が奏効し、10年にはふたたび最大輸出品目となっています)

98年は、経済回復が軌道に乗った年となりました。国際社会は大量虐殺を許した後ろめたさもあったのか、積極的な援助を行いました。3月にはクリントン大統領がルワンダを訪問。「ルワンダに対し適切な対応を行わなかった」と謝罪しています。

IMFは90年に続いて二度目の構造調整プログラムを組みますが、前回の破壊的プログラムに比べれば、はるかに成長重視型の姿勢をとるようになりました。とくに農村部の過剰人口を都市で吸収するための意欲的プログラムが組み込まれるようになりました。

これらが円滑に進行したのは亡命していたツチ系の知識人が帰国し、受け皿となったことが大いに力を発揮したためです。政府も彼らを歓迎しその力に依拠しました。こうして98年のGDP成長率は13%を記録し、内戦前の水準にまで回復しました。

治安の回復と経済再建の進行を見た人々は大挙して帰国するようになります。内戦時代に海外へ脱出したツチ族200万人近くが戻りました。その後も経済成長は7%前後を維持、09年には重債務貧困国の枠組みから脱出するに至ります。こうしてルワンダは「アフリカの奇跡」とまで呼ばれるようになります。

国内復興の開始

白を黒と言いくるめるような国際キャンペーンにもかかわらず、ゆっくりと、しかし着実にルワンダの復興は進んでいきます。ルワンダ政府は報復やリンチを禁止し、難民に帰還を呼びかけます。その一方で国際機関に対しジェノサイドの告発を行います。国連安全保障理事会は、ルワンダ新政府の要請を受けて、ジェノサイドや非人道行為を行った者を訴追・処罰するためのルワンダ国際戦犯法廷を設置しました。

大きく情勢が切り替わったのは96年のことです。3月にはUNAMIRが解散し、ルワンダ新政権に復興の課題が全面的に委ねられるようになりました。緊急人道支援から復興開発援助への切り替えが始まりました。

10月にはコンゴ内戦が始まりました。国際支援で食いつないでいた難民キャンプ=フツ過激派基地は、ルワンダ軍、ブルンジ軍、およびコンゴ反政府軍の攻撃対象となりました。同じ時期、タンザニアに逃れていた難民にも退去命令が出されました。これに呼応して、ルワンダ政権も戦争犯罪者であるかいなかの判断を保留して、難民の帰還を無制限に認めるようになりました。

これで一気に難民の帰還が加速されることになります。

フランス軍の出動

この頃になってフランス軍が「トルコ石作戦」と称して出動してきます。NAMIRの動員が遅れていた安保理の要請を受けたものでした。フランス軍の行動も不可解なものでした。虐殺を止めるよりも虐殺部隊のコンゴへの脱出を手助けすることに目標を置いているかのようにも見えます。

フランス軍の作った回廊を抜けて多くのフツ人が国外に逃れます。彼らはコンゴ領内のゴマに巨大難民キャンプを形成します。5千名に達したUNAMIRも、主として難民キャンプの治安維持を担うようになります。

国際ニュースにはあたかもRPFが虐殺を行い、それを逃れた人々がゴマに集まっているかのように報道されました。「国境なき医師団」が活躍し、国際支援の多くがルワンダ国内ではなくゴマの虐殺者集団に集中して行きました。

ポル・ポト派のタイ領内キャンプが難民キャンプとして国際支援を受けたカンボジアの事態の再現です。さぞかしRPFは歯ぎしりしていたことでしょう。

ルワンダ愛国戦線の全国制覇

4月7日、事態の容易ならざることを知ったRPFは、全軍に対してキガリへの進軍を命じました。すでに軍としての統制もモラルも失っていた政府軍は、RPFの前に崩壊していきます。7月4日には首都キガリがRPFの手に落ちます。そして16日には政府軍の最終拠点であったルヘンゲリが陥落。18日にはPRFカガメ司令官が戦争終結を宣言するに至ります。

ここまでに総人口約730万人中、100万人が殺害されました。さらに25万人から50万人の成人女性や少女が強姦されました。周辺国には約210万人が流出しました。国内では貧困層の比率が78%に達しました。

7月19日、新政府の樹立が宣言され、フツ穏健派のビジムングが大統領に就任します。カガメは副大統領兼国防相のポストに就きました。新政府はただちに出身部族を示す身分証明書を廃止しました。

政府軍と民兵はタンザニア方面とコンゴ方面に逃亡していきます。

国連の不思議な対応

大量虐殺に対する国連の対応はぶれまくりました。ぶれた理由を一概に非難はできません。とにかくそういう時代だったんだというほかないのかもしれません。何が正しくて何が間違っているのかを誰も言えない時代ではありました。

とくにソマリアでのアメリカ特殊部隊隊員の虐殺と、それに続くクリントンのソマリア撤退命令は、「世界の正義を誰が守るのか」という疑問を抱かせるものでした。

ベルギーは隊員10名の虐殺を受け国連軍からの撤退を決めました。安保理はベルギー軍の撤退を受け、軍事要員を270名に縮小しました。一番増強しなければならないときに撤退命令を出したのですから、現場は大混乱します。ある意味でそれが100万人大虐殺を招いた最大の原因とも言えます。

5月に入ると現地の状況が大変なことになっていることが分かってきました。安保理はUNAMIRを再増員することを決め、各国に計5,500名の軍事要員派遣を求めましたが、時すでに遅しです。もう殺されるべき人の殆どは殺されていました。

大虐殺作戦のあらまし

すでに3月から大虐殺事件が始まっていたにせよ、そのピークは4月6日の事件以後のことです。

4月5日、タンザニアで東アフリカ各国首脳の会談が行われました。会議を終えたルワンダの大統領は政府専用機でルワンダに戻りました。飛行機が着陸しようと高度を下げた時、突然地対空ミサイルが発射され、飛行機は撃墜されました。大統領は即死しました。あらゆる状況から見て、フツ人過激派組織による犯行であることは疑いの余地がありません。

過激派の放送局は、「ベルギーの平和維持軍が撃墜した」とのキャンペーンを開始しました。そして翌日には首相も殺害します。この時、首相の警護にあたっていた国連PKOのベルギー軍部隊の10名も襲われ、拷問の末虐殺されます。

それから先は無政府状態となり、過激派による政敵虐殺が相次ぎました。民兵部隊は大虐殺作戦を一気に展開しました。9日にはギコンド多数の児童が教会に集められ、国連監視団の面前で虐殺されました。15日には東部の町ニャルブイエでツチや穏健派フツ2万人が境界に集められた後、虐殺されました。虐殺にはカトリック教会司祭も関与したといわれます。

こうして政府軍、民兵組織(インテラハムウェ)と暴徒化したフツ民間人が、ツチと穏健派フツに対するジェノサイドを展開。4月だけで少なくとも20万人以上の犠牲者を出しました。国連の平和維持軍本部さえも攻撃の対象となります。

なお、「蒙昧無知な一般の住民がラジオの煽動によってマチェーテやクワなどで隣人のツチを虐殺した」というイメージは不適切です。「国家権力側による非常に周到な準備が行われ、前半6週間に犠牲者の80%が殺害されるという、極めて高い効率で虐殺が行われていることは明らかだ」と、ウィキペディアは主張しています。

大虐殺への序曲

フツ人の憎悪に火をつけたのはまたしてもブルンディでした。93年にツチ人の軍部が民族和解を打ち出し、フツ人を首班とする政権が誕生しました。しかし93年10月、その政府を軍内強硬派がぶち壊し、ふたたびツチ人支配体制を復活させたのです。

これに抗議するフツ人との間で凄惨な殺し合いが始まりました。約3万人のツチ、約2万人のフツが殺されました。30万人のフツが国境を越え、ルワンダへ逃げ出しました。逃げ出しただけならいいのですが、避難先のルワンダで、今度は反ツチ感情を煽る役を果たしたのです。

共和国防衛同盟は彼らを利用し、民兵組織「インテラハムウェ」を作り上げます。民兵の数は3万人に達しました。そして組織的なツチ抹殺のシナリオを実行に移し始めます。

彼らに武器を与えたのはフランスとベルギーでした。どのくらいそれぞれの政府の中枢部が事態を理解していたかは定かではありません。しかし4000万トンの小火器がベルギー経由でポーランドからルワンダへ流れ込んだこと、それを止めようとする動きがなかったことは間違いないようです。彼らはRPFをアメリカの尖兵と考えていました。そしてアメリカに対抗して旧植民地の既得権益を守ることを最優先に考えていました。

CIAはそれらのすべてを知っていました。そして94年はじめには「最悪のシナリオだと50万人が死ぬ」と予測しています。もちろんクリントン大統領も知っていたはずです。

94年3月、大虐殺作戦が始まりました。キガリ南方のブゲセラでラジオに扇動されたフツ人がツチ数百人を虐殺します。そして大統領殺害事件へとつながっていくのです。

ルワンダ内戦の始まり

80年代に入るとコーヒーの国際価格が暴落しました。従来のコーヒー輸出国に加え、新興国が争ってコーヒー生産に参加したための値崩れです。ネスレなどの多国籍企業はこれを見て徹底的に買い叩きました。「コーヒー飢餓」が世界中で出現し、農民がバタバタと倒れていきました。

ルワンダも例外ではありません。コーヒー栽培というのは零細農民でも気軽に手が出せる商売ですが、逆にダメになった時は悲惨です。当然政治に対する不満も募ります。政府も債務に追い立てられ、内部矛盾も深まります。そこへ持ってきてIMFが厳格な構造調整プログラムを押し付けたので、国内はめちゃくちゃになります。

90年10月、RPFが侵攻作戦を開始しました。ウガンダ国境地帯に橋頭堡を確保しますが、RPF側も後が続かず膠着状態に入ります。事態は最悪です。しかも人口は増え続け、92年には750万人に達しました。人口密度はアフリカで最高となります。

2年後の92年7月、ルワンダ政府とRPFの間で停戦協定が結ばれました。とにかく戦闘をやめないことには国が持たなくなってくたのです。そして翌93年8月にはタンザニアのアルーシャにおいて和平協定が結ばれました。これはRPF部隊の国軍への編入、ツチ人の政治的権利の保証などを織り込んだもので、周辺国や国連が後押しして成立したものでした。

国連はこの和平協定を実現するために安保理決議を採択しました。決議に基づき、国連ルワンダ支援団(UNAMIR)が派遣され、監視に当たることになりました。しかしこの協定はフツ人強硬派の怒りを呼び起こしました。彼らは共和国防衛同盟(CDR)を結成しツチへの憎悪を煽るようになります。

ルワンダ愛国戦線(RPF)の結成

ルワンダを逃れたツチ人が向かったのはウガンダでした。しかしそこでは難民キャンプに押し込められ、自由な活動はできなかったのです。

当時ウガンダを支配していたのは、イディ・アミンという将軍でした。アミンという人物は我々の世代にはちょっと名の通った「奇人・変人」でした。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシング、ヘビー級チャンピオンという経歴の持ち主。イギリス軍のコックから成り上がり、クーデターで左派政権を打倒した後、国民30万人を虐殺したと言われます。「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」、「人食い大統領」などの異名を頂いています。

79年になるとアミン独裁政権はムセベニの率いる「国民抵抗運動」により打倒されてしまいます。実はこのムセベニの部隊にかなり多くのツチ人が参加していました。ツチなくして勝利はなかったくらいの活躍でした。それは同じ時期に闘われたレバノン内戦でのパレスチナ人の活躍を思い起こさせます。

ポール・カガメもその一人で、彼は物心ついた頃からの難民キャンプ育ちです。ムセベニのウガンダ民族解放軍(UNLA)で頭角を現し、ムセベニの片腕と呼ばれるほどの地位まで上り詰めます。しかし所詮は外人部隊であり、アミン追放後はだんだん厄介者扱いされるようになります。

やはり祖国に帰るほかない、と思い始めるのも当然でしょう。彼らは80年に創設された国家統一ルワンダ人同盟を母体にゲリラ部隊「ルワンダ愛国戦線」 (RPF)を結成します。87年のことです。RPFは装備にあたりアメリカの援助を求めました。これは相当思い切った決断です。ルワンダは旧ベルギー領ですが、実質的な宗主国はフランスです。いっぽう亡命先のウガンダはイギリス領ということで、アメリカとは何の関係もありません。

カガメアメリカにわたり、陸軍指揮幕僚大学で軍事訓練を受けました。そして内戦が始まると、RPF最高司令官として戦闘の指揮をとるようになります。

厄介な隣人ブルンディ

ルワンダとブルンディは双子の兄弟みたいな関係です。同じ国であっても不思議はないほどです。ともにベルギーの支配のもとに少数派のツチ人がフツを抑えつける形で政権を維持していました。同時に独立しましたが、ルワンダにはフツの政権が、ブルンディにはツチの政権が誕生しました。ところがルワンダでフツがツチを抑圧した以上に、ブルンディではツチが暴力的支配を強めました。そこから逃れたフツはルワンダでツチいじめに回りました。

ところがルワンダを追い出されたツチはブルンディには行かずにウガンダやケニヤに亡命しました。ルワンダのツチ人にとってもブルンディは暮らしやすい所ではなかったようです。

ルワンダのフツ人政府にとっても事情は同じです。ブルンディで何か起こるたびに反ツチ的雰囲気が蔓延し、ルワンダの国内事情も悪化します。より融和的な政権は、より強硬な勢力に交代していきます。

73年にクーデターが起こり、カイバンダは放逐され、ハビャリマナが大統領に就任しました。ハビャリマナは反ツチ姿勢を強化し、ツチ人60万人が国外生活を強いられる事になりました。

ルアンダ・ウルンディ王国の時代

第一次世界大戦以前はいいでしょう。

第一次大戦後に宗主国が変わり、統治体制が新たに編成されたことが、94年内戦へと結びつく遠因となっているので、そこだけは押さえておいたほうが良いと思います。

ドイツ領東アフリカは、ウガンダとルワンダ+ブルンディに分割されました。東側のウガンダはケニアと接しているためにイギリス領になりました。西側は「ルアンダ・ウルンディ」国として一括され、コンゴを支配するベルギーの委任統治下に置かれました。

ベルギーはツチ人ムタラ・ルダヒグワ国王(ムワミ)にすえ、王制を敷くことになりました。ルダヒグワムタラ3世を名乗り、ベルギーのカイライとなりました。

ベルギーは国内における直接の目下としてツチを利用し、多数派のフツを支配させたのです。ここで2つの点を押さえておく必要があります。

ツチはエチオピア人やケニアのマサイと同じく鼻筋の通った顔で、フツは団子っ鼻です。しかし2つの人種は長いこと混血しているので程度問題です。より本質的な違いは、フツは定着農耕民で、ツチは遊牧民だということです。そしてツチはフツの社会に後から入り込んできた人々だということです。

もう一つ、2つの種族は長い間に混交して、一つの言語、ひとつの文化を形成しているということです。宗教的にもカトリックが多数を占めるということで相違はありません。これは欧州列強によって人為的に国境が引かれたアフリカ諸国の間では珍しいことであり、むしろ単民族国家と呼ぶべきだろうと思います。

ベルギーはそういう社会に身分制を引き込みました。士農工商のうち士族にツチを、農民にフツをあてたのです。これから話がややこしくなっていくわけです。

すごく単純化すると、会社の会長は外国人、現地会社の社長と役職員はツチ、労働者がフツというわけです。

ルワンダ共和国成立の経過

話は一気に下って1960年、「ゴールデン60’s」というわけでアフリカの植民地が一斉に独立し、民族主義の波がルワンダにも押し寄せてきます。こういう場合、普通はフツ人エリートのなかから反乱するものが現れて、フツ人を糾合しつつ独立闘争に立ち上がるとしたものですが、ルワンダではそうならなかった。カイライといえども我が君主、守らなくてはという意向が強く働いたようです。

しびれを切らせたフツがまず蜂起します。これが60年11月、「万霊節の騒乱」と呼ばれる暴動です。フツの指導者がツチに捕らえられ暴行を受けた、さらには殺されたという噂が広がるにつれ、大騒ぎになりました。フツ人の暴行が始まり、多くのツチ人が殺されました。多くのツチが暴行を恐れて国外に逃避しました。

この暴動には変なところがあります。支配者であるツチがどうして国外逃亡しなければならないのか、そのへんがどうも良く分かりません。例えば隣のブルンジもツチが少数支配していた国ですが、ここではフツ人が1人殺すと、10人殺すという形で支配を維持しました。

もちろんルワンダでも報復はかなり大規模にやられたようですが、それでもツチ人のかなりの数が亡命したという事実は残ります。

もう一つの変なところは、ベルギーがフツ人支持に回ったというところです。ベルギーから派遣された弁務官ロジスト大佐はフツを利するためにさまざまな行動をとったようです。そもそもルワンダ王国の機構はフツ人多数派を支配し制御するためのマシーンであるはずです。それを自ら壊しに回るというのは、どう考えても変です。

これから先は私の想像ですが、王国政府内のツチ人に反植民地主義と独立の動きがあり、その動きを阻止するためにフツ人をけしかけたのではないかという気がして仕方がありません。これは決して突拍子もないアイデアではなく、隣のコンゴでルムンバ政権を打倒するためにベルギー政府がとったさまざまな手練手管を知っているからです。

ところで、コンゴは正確に言うとベルギー領ではありませんでした。ベルギー政府ではなくベルギー王レオポルトと王室の私有財産でした。ベルギー王室はコンゴの最大の株主であり、地主であるに過ぎません。実際の経営はフランスに任されていました。

その後の動きはこうです。

暴動の陰にベルギーがあると見た国王キゲリ5世は、ベルギーに抗議し独立の動きをみせます。この動きを受けたベルギー当局は、クーデターにより王制を打倒します。そして国民投票により共和制を樹立します。つまりフツ族の反乱は当初からベルギーの差し金と見たほうがスッキリ理解出来ます。

事情を知らない西側諸国なら、民衆を弾圧する封建的な王制よりは民主的な共和制のほうが優れていると見るでしょう。それがベルギーのやり口なわけです。そもそも王制を押し付けたのはベルギー王室なんですけどね。

 

というわけで、今や目障りとなったツチを追い出して、フツに政権を与える。どうせフツになんか運営できっこないから、名目だけ独立を与えてもフランスやベルギーの思うままに操れるだろうと踏んだのでした。

割りを食ったツチ人は、多くの人が殺され、あるいは「ディアスポラ」として国外逃亡を余儀なくされました。服部正也さんの「ルワンダ銀行総裁日記」に出てくるグレゴワール・カイバンダ大統領は随分善人に描かれていますが、彼の治世のもとでも多くのツチが迫害されていたことは忘れてはいけないでしょう。

ルワンダ問題のおさらい

(この文章は15年も前に書いたものです。道AALAの2000年総会で報告した文章の一部です。倉庫の隅に眠っていたのを掘り出しました。その後の15年の動きについてもそのうちフォローしてみたいと思います)

 ルワンダ内戦での死者はツチ族が100万人,人口800万の約半数が国外へ脱出しました.あらたに政権を握ったルワンダ愛国戦線(RPF)は,フツ族の帰順を呼びかけ,ツチ族兵士へ民間人に対する報復を禁じました.96年 にはフツ族民間人を殺害した兵士千名以上が逮捕されています.

 しかし,ツチ族虐殺は旧軍兵士のみがおこなったわけではありません.「民 間人」の多くも「隣人殺し」に参加しています.すでに50万人以上のフツ人が,大虐殺に加担したとして逮捕されています.虐殺にかかわった人間の数は,お そらく百万を下らないでしょう.ほんとうに恐ろしいのは,殺された人の数よりも殺した側の人間の多さです.この集団的狂気は,法や政治の枠をはるかに越えたものです.従って報復と処刑との境界はかなりあいまいなものにならざるを得ません.

 ここでルワンダの歴史を簡単におさらいしておきましょう.ビクトリア湖からタンガニーカ湖にかけての大地溝地帯は,人類発祥の地として知られています.もともと「ピグミー族」として知られるトゥワ人が住んでいましたが,11世紀頃,バンツー系農耕民のフツ人がこの地に入りました.その後15世紀には,ケニアのマサヤ族と類縁のツチ族がこの地に侵入し,王国を形成します.

 1890年,ウガンダに侵入したドイツは,ウガンダ・ルワンダ・ブルンジの三国を併せドイツ領東アフリカとして支配しました.第一次大戦でのドイツの敗北に伴い,ルワンダ・ブルンジはベルギーの委任統治領となります.こうして1961年の独立までに,白人・ツチ族カイライ政権・フツ族民衆という三層構造が形成されていきました.

 独立運動を担ったのはフツ族農民でした.独立と同時にツチ族政権は倒され,フツ族のカイバンダ大統領が選出されました.この際にもフツ族による大量虐殺があり,20万人のツチ族が国外に逃れています.

  余談になりますが,この頃の日本では「アフリカ・ブーム」でした.渥美清の映画でケニアの大草原が紹介されたり,伊谷純一郎氏の「ゴリラとピグミーの森 で」が出版されたりして,当時高校生の私は人類学者にあこがれたものでした.なかでも印象に残ったのが,中公新書で出された「ルワンダ中央銀行総裁日記」で,当時の新興アフリカ諸国の背伸びした急進的な政策に何となくそぐわないものを感じていた私には,すかっとした爽快感を残す名著でした.

  この本のなかで印象的だったのは,ルワンダの民衆の温和さです.カイバンダ大統領もどこの国とも敢えてことを構えず,平和に暮らしたいと考えていました. そしてツチ族が政権を握る隣のブルンジとも仲良くやっていきたいと述べていました.(30年も前の話しなので記憶は定かではありませんが)

 ルワンダが,というよりアフリカ大陸全体が長期の景気後退に入ったのは,70年代からです.この頃から,何もかにも悪くなりました.人々の気持ちも殺伐としてきました.

 72年に隣国ブルンジで,ツチ族政権が15万人のフツ人を虐殺するという事件が起こりました.これに伴いルワンダでも両民族の対立が激化します.そして軍隊がクーデターを起こし,フツ族のハビャリマナ将軍が大統領に就任します.

 ハビャリマナは94年に飛行機事故で死亡するまで,20年余りにわたって独裁を続け,ツチ族への抑圧を強めました.国外に逃れたツチ族はルワ ンダ愛国戦線(FRP)を結成しました。この組織はフツ族の反独裁派も加わりルワンダの反政府勢力を統合したものでした.ルワンダはもともと一つの王国と して統合されており,フツ系であろうとツチ系住民であろうとルワンダ人であったのです.ここは他のアフリカ諸国の内戦とは違うところです.

 愛国戦線は90年からルワンダ領内に進攻して武装闘争を開始しますが,フツ人穏健派も独裁体制を批判し,ハビャリマナと対立するようになります.そして93年には和平が成立し,民主化へ向けて一歩を踏み出そうとしていたのです.

 その時またも,隣のブルンジで,ツチ族によるフツ族への攻撃が始まりました.ルワンダの軍内外の極右派は,これを利用して独裁政権の維持を図りました.

そして大量虐殺

 94年4月,ハビャリマナ大統領を乗せた航空機が撃墜されました.軍部はこれを愛国戦線の仕業とし,ただちに攻撃を開始しました.真相は不明ですが,当時の愛国戦線側にはハビャリマナを殺すことで得するものは何もありませんでした.

 この闘いは,あっけないものでした.戦闘開始後,まもなく政府軍は総崩れに陥り,三ヶ月後には首都を逃げ出します.愛国戦線はなおも軍を追いつめ,国外に放逐してしまいます.

 問題はその後のことです.政府軍とともになんと200万人以上のフツ族が国外に脱出したのです.一体どうしたことかと,世界が注目しました.まもなく,逃げるには逃げるなりの理由があったことがはっきりしてきました.フツ族がツチ族百万人を虐殺していたのです.

 国際対応もおかしなものでした.ルワンダの国家再建に協力し,難民の帰還に努力すべきなのに,ひたすら難民キャンプの惨状ばかりを報道し,そこに援助を集中させたのです.

 カンボジアの時もそうでしたが,国外に亡命した人たちの救援に多くの国際団体が参加しました.援助総額は10億ドルを越えるといいます.しかし,結果としてこの「人道支援」はフツ族の旧軍兵士を力づけ,ふたたび内戦を始める手助けとなったことも間違いありません.

 もし人道支援をおこなうとすれば,難民キャンプよりはルワンダ本国の受け入れ体制強化に重点を置くべきではなかったでしょうか?

 難民キャンプへの援助が,結果として内戦を長引かせ,さらに犠牲者を増やしたのは,かつてのポルポトの教訓が生かされていないと言えます.

ブルンジの内戦

 ルワンダと瓜二つの人口構成で,なぜ別の国になったのかは分かりませんが,フツとツチの対立は,ルワンダよりはるかに強烈で,支配者であるツチの抑圧的姿勢も強烈です.

 62年の独立後わずか4年で、ブルンジは早くも軍事独裁政権に移行しました.72年にはフツ族が反乱を起こし,ツチ人1万人を殺害しました.ツチ族政権は,その報復として10万人虐殺で応えました.

 87年,ようやく民族和解を目指す政権が成立し,この政権の下に初の大統領選挙が行われました.ところが,選挙を実施したツチ族中心の政権が敗れてしまいます.代わりに大統領に就任したのはフツ族のヌダダイエでした.

 これを不服とするツチ族の一派は,ただちにクーデターを敢行.ヌダダイエを処刑してしまいます.その後はおさだまりの内戦です.この内戦でさらに25万人の人が殺されました.

 1996年,軍部はブヨヤをふたたび大統領に指名.和平への道を探ろうとしています.しかしツチ族が政権に固執し,多数派のフツ族を武力により支配する姿勢を続ける限り,真の和平への道は遠いといわざるを得ないでしょう.


最近ではルワンダの大量虐殺の陰で、フランスの果たした役割が明らかになっています。この頃私の感じた疑問がかなり解明されてきています。

今回、フランス軍のマリ侵攻を知ったとき、また第二のルアンダが起きるのではないかと心配しました。

ルワンダの歴史は、以下のページで包括的に述べてあります。

ルワンダ史 大虐殺を乗り越えて  大虐殺を挟んだルワンダの歴史。


また同じことが起こりつつある。
民衆の支持が全くない現政権が権力にしがみつき、反抗する民衆を武力で押さえつけようとする構図は前回と同じだ。
ケニアの経済規模は東アフリカで最大だが、その多くは海外から東アフリカへの国際援助を前提にして成り立っている。援助漬け国家でもある。
だからこの国の最大の産業は汚職である。
西をコンゴ、西北にはルアンダ、北には南北スーダン、東にソマリアと紛争国に取り囲まれているこの国は、東アフリカ最大の武器供給地帯であり、それに軍自らが絡んでいることは想像に難くない。
政治家と軍が悪事でつるんでいて、それを養うだけの経済基盤があれば、その権力が揺らぐことはないだろう。
悲観的な見方になるが、国内経済がもう少し発展しない限り、武器を売る代わりに石鹸を売り、中国製品よりさらに低価格のタオルを売れるようにならない限り、当分この状況は変わらないだろう。

もし西側諸国にやることがあるとすれば、アフリカへの援助はAUに窓口一本化することだろう。
旧宗主国が個別に対応するのは、試され済みの悪手だ。


やはり、反論が出てきた。これはイスラム系通信社の“Cii”の発信したもの

“Cii Broadcasting is a global Islamic media brand”と称している。

2013年1月28日

南アフリカのエブラヒム外務次官は、フランスのマリ軍事介入に対する南アフリカ政府の姿勢を明らかにした。

「ジェイコブ・ズマ大統領は、南アフリカがフランスを支持するとは決して言っていない。西アフリカ諸国における紛争に対してフランスが軍事介入するのは、認められることではない」

これは、金曜日に放送された番組「国際展望」でCii の質問に答えた発言である。

「我々が実際に言ったことは、我々が国連安保理決議を支持するということだ。つまり過激派勢力の進出を抑えるために、アフリカ人の指導する兵力が、マリに関与するということだ」

エブラヒムの発言は、一部メディアの報道をフォローするものである。南アフリカは2011年に、コートジボアールにおけるフランスの軍事行動を非難しているが、一部報道は「今回の発言は、南アフリカが態度を360度転換したサインだ」としている。

「我々はマリを援助することはAUの責任であると言った。しかし種々の事情により、マリ政府は、直接フランスからの軍事援助を求めた」

質疑応答では、「反乱軍によってトンブクトゥの歴史遺産が破壊されつつある。南アフリカはマリに軍を派遣する意志があるのか」との質問があった。

イブラヒムは「ジェイコブ・ズマ大統領は補給作戦に関して“前向きに考える”だろう」と答えた。

「政治的不安定がサヘルの危機を増悪している。すでに干ばつの影響を受けている地域に居住者と難民が押し寄せている。南アフリカ政府はマリ政府の要請に基づき包括的人道援助の法案を作成中である」

と締めくくった。


南アとしては辛いところだ。
原則的には認められるものではない。
しかし、いまAUにイスラム過激派を食い止める力はない。
だからマリはフランスに直接介入を要請した。
それに対して我々が反対を唱える立場にはない、という苦渋の発言だ。
そもそもズマ大統領へのインタビューは、リビアへの国際介入が正しかったかどうかというテーマのものであり、マリ介入問題は事のついでに触れられたという性格のものだ。
AFPは若干ルール違反をしていることになるだろう。



AFP・時事の配信。
南アのズマ大統領は、フランス放送局とのインタビューで、フランス軍のマリ介入を支持した。
理由について問われると、「マリ軍にイスラム過激派を止める力はない」と突き放し、「他に選択肢はなかった」と現実的な判断を強調 した。

以下英文

Zuma however backed the French-led intervention to oust Islamists in Mali, praising French President Francois Hollande for consulting African leaders before deploying troops.

"We supported that because there was no other alternative," he said, pointing out that the Malian army had no ability to stop the insurgents.


時事は記事をちょっと潤色しており、赤旗はこれをそのまま掲載しているが、フランスのメディアの行った会見をフランスの通信社が配信しているので、「ハイそうですか」とはならない。

たしかにトンブクトゥの「原理派」組織が、マリ全土の制圧を狙い動いていたことは間違いないようだ。AUにそれを食い止める力がないだけに、ぎりぎりの判断としてフランスの介入やむなしとなるかもしれない。
しかし、フランスはマリ南部だけを守って満足するとは思えない。目的はサヘルのウラン鉱確保にある。したがってマリ政府はトゥアレグ人勢力との全面対決に追い込まれることになる。これはマリ政府にとって決して良い選択ではない。

この数ヶ月間、マリ政府及びAUとトゥアレグ人勢力との対話はどうなっていたのか、何よりもそこが疑問である。

アルジェリア、なんとなく以前からノドにひっかかっている話題だ。

とにかくアルジェリアといえば「アルジェの戦い」だ。
白黒の映画で主人公の青年が、カスバの中のアジトで、迫り来るフランス軍を待ち受ける、凄まじい緊迫感だけが記憶に残っている。
それは確実な死であり、我が身が虫けらと化す一瞬である。

それしか憶えていない。

多分カミユと記憶が二重になっているのではないか。世界が遠くなっていくようなめまいと、吐き気を伴わない嘔吐、カスバの生活の臭いと硝煙の臭い、そして吐物と傷口から滲み出す血の匂い。それすらも感覚から遠ざかっていく。

その後図書館で、フランス軍に拷問されレイプされた少女の手記を読んだ覚えがある。

とにかくそれでアルジェリアのイメージが形成された。かなり特異な過程だろう。

ベンベラのイメージは、ニュース映画の一こましかない。

ついでアルジェリアが登場するのは、ブーメディエンの統治下に第三世界の旗手としてである。たしか流産しかけた非同盟首脳会議をひろって、なんとか開催にこぎつけた時、アルジェリアは輝いていた記憶がある。

(この後書いていた文章が、一瞬にして消えました。今夜はもうやめときます)

サヘル地帯(Wikipediaより)

サヘル地帯は様々な紛争を抱えており、いまや世界の火薬庫となっている

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/3/5327a6f5.jpg

思いつくままにあげてみても、スーダンのダルフール・南スーダン問題、チャド戦争、ナイジェリア北部での宗派対立、モーリタニアとセネガルの国境紛争、マリ・ブルキナファソ・ニジェールでのトゥアレグ人の抵抗などがあげられる。

これらの紛争はいずれも60年代後半に起源を持ち、旧宗主国フランスやリビアのカダフィの介入が問題を複雑化し、40年を越える長期の紛争となっている。

紛争が長期化する要因は、サヘル地帯の自然上の、あるいは文明上の特殊性にも規定されている側面がある。

私は過去に、ダルフール・南スーダンの問題も勉強してみたが、マリとの驚くほどの共通性を見出した。

サヘル地帯はサハラ砂漠とサバンナ層、さらに熱帯雨林地帯へと続く中間層をなす。基本的にはステップ地帯であるが、サバンナ地帯との境界は多様で、一部は定着型農業地帯となる。

サヘル地帯は人種的にもアラブ系と黒人系の境界をなす。アラブ系(ベルベル人)はステップ地帯での牧畜産業を担い、黒人は亜サバンナ地帯での定着型農業を担う。

この地域では一般に乾燥化が進行していると言われ、それはとりわけ牧畜に携わるアラブ系住民にとって厳しいものとなる。

一方で、灌漑農業が発達すれば亜サバンナ地帯は有力な農業地帯となる。それは黒人住民の進出をもたらす。それは同時に固定資本の発生を意味するから、黒人内部での階級分化をももたらす。

端的に言えば、黒人層には明日があるのに、アラブ系にとっては明日はないのである。

トンブクトゥと南スーダンの北部国境地帯は、これらの矛盾のすべてが集中して表現されているところであろう。

日本には「サヘルの森」とか「緑のサヘル」などというNPOがあるようだ。それらのホームページを訪ねてみて感じたのだが、支援の対象はどうも黒人定着農民が中心のようだ。国際的にも「国境なき医師団」などNGOは、黒人側からの情報発信が中心となっている。

これだと今回のトゥアレグ人の蜂起はなかなか説明しにくいのではないか。どうも何かあるとひたすら、黒人が犠牲者でアラブ人の側が悪者になっしまうのだが、ことはそう簡単ではないように思える。


牧畜民の生活は漁民と似ている。海はたしかに広大ではあるが、魚が集まる漁場というのは、その中でも限られている。そういう“漁場”を大切にしながら、牧畜民は長年生活してきた。

その漁場は、農業をやるのにも最適のところだから、農民が進出してくる。農業は牧畜に比べればはるかに生産性が高いから、合理的ではあるのだが、牧畜民にとってはまことに不合理である。

諫早湾を海として守るか、干拓して水田とするかという議論とも似ている。一般的な経済合理性では語れない性格を持っている。

しかし、牧畜民にとっては草場を守るのは、まさしく命がけの戦いなのだ。ここのところは理解しておく必要がある。

さらに人種とか文明が異なるのだから、余計慎重でなければならないと思う。Nation は国家とも民族とも訳すが、かなり厄介なものである。

ベルベル人は過去において黒人狩りをして、奴隷として売り飛ばした歴史を持っている。それだけに非妥協的にならざるをえない。これはきっちりと歴史的に総括しなければならない。


アルジェリアでイスラム原理派による大量誘拐事件が発生した。おそらく直接の引き金となったのはフランス軍のマリ進駐と武力介入であろう。

ポイントは3つほどある。

1.この“原理派”グループは、もともと“アフガン聖戦”に参加したアルジェリアの若者たちで、帰国後はアルジェリア各地で血に飢えた凶獣となって、無差別テロを繰り返した。最終的には国内のイスラム原理派からも放逐され、アルカイーダにしがみついて生き延びてきた。いわば“片手に剣、片手にカラシニコフ”という狂気の集団である。(狂気の裏にはそれなりの計算があるのだろうが)

2.マリの北部からアルジェリア南部にかけてはトゥアレグという砂漠地帯で、勇猛をもって鳴るベルベル人のふるさとである。若者たちはカダフィの用心棒としてリビア反革命を戦ったが、敗れ、職を失い、トゥアレグに戻ってきた。マリ南部の黒人政権の風下に入るのを快しとせず、反乱を起こした。そしてトンブクトゥ以北および以東を支配下においた。

3.この機に乗じた原理派崩れのグループはトンブクトゥを支配下に置くことに成功した。彼らはサヘルを実効支配するベルベル人とは無関係で、おそらく彼らにとってもありがた迷惑な助っ人だろう。

このへんの経過については下記にかなり詳しく解説した。

2012.8.26 マリとトゥアレグ

コピペでグーグルの検索窓に突っ込んでくれれば、行けます。

その後の経過だが、原理派には武力以外の統治手段はない。キャラバンで砂漠を往来する通商などはるか昔の話だ。頼るべき闇経済も存在しない。いずれ自壊するだろうと見ていた。


フランス軍が出張ってきた理由はよくわからない。武力干渉はテロを呼ぶ、これは試され済みの教訓だ。ルワンダのようにならなければ良いが、と心配している。

不思議なのは、フランスの対外侵略が左翼政権の時に起きていること。ベトナム然り、ルワンダ然りだ。マリもその轍を踏むことになるのか?

トゥアレグ地方の自然環境はルワンダよりはるかに過酷だ。現に飢饉とイナゴの大群が迫っている。戦闘が再開され、生産活動が止まれば、たちまち死人の山が築かれるだろう。


現時点での感想的評価
①トゥアレグ人のマリ政府に対する感情には複雑なものがある。
彼らはベルベル人の一支族であり、地中海のセム系人からはさげすまれる一方、黒人をさげすんでいた。彼らは黒人を奴隷として扱い、奴隷売買を積極的にになってきた。彼らの階級社会は白人の貴族階級、有色の下僕階級、黒人の奴隷階級からなっており、現在奴隷階級は廃止されたが、意識の中にそれは残っていると思われる。
②トゥアレグは貧困化し、辺境の民と化しつつある。
マリという国家の中で、かつて奴隷とさげすんだ黒人に支配されている。頻回に起こる旱魃のために彼らは家畜を失い困窮化し、国外に職を求める流浪の民と化している。しかしかつてのトゥアレグは貿易で栄え、高い文化を持ち、財宝に満ち溢れていた。望郷の念と懐旧の念は彼らの民族感情をゆがんだ形で燃え立たせている。
③独立路線の先に未来はない。
たとえ有り余る武力で独立を達成したとしても、経済的には自立は不可能である。弾丸は撃ち尽くせばそれで終わり。補充する金もない。可能性としてはふたつ。一つは"領土"内に金かウランの大鉱脈が見つかること、もう一つはマリやその他の隣国を侵略し支配することである。これは墓穴を掘るようなものだ。昔なら「社会主義」かなんかの看板を掲げてソ連・中国の援助を当てにすることもできたかもしれないが、今日ではせいぜいがアルカイダだ。(ロシアは昔の癖で鼻を突っ込みたがっているようだが)
④高度な自治の実現が落しどころだ。
落し所は、従来以上に高度な自治権の獲得だろう。たしかに黒人が支配するマリ政権とは水と油だし、同化せよとの要求は過酷だ。国境は欧州列強が勝手に引いたもので、そもそも不自然であることはまちがいない。しかしそれは目下のところ甘受するほかないのである。
マリ政府は民主主義の名の下に、民族政党や宗教政党を否定してきたが、これは改めなければならない。トゥアレグ人は一人一票を厳密に適用すれば、少数民族としてのアイデンティティーを失ってしまう。国境が人為的なものである以上、それを甘受するしかない以上、少数民族の自治を最大限に保障することで、それを補償するしかないのである。
⑤アルカイダとの絶縁が先決問題だ。
そのような方向を目指すなら、まずアルカイダへの態度を明確にすべきだ。トゥアレグは「敵の敵は味方」と思っているようだが、アルカイダはトァアレグにとっても敵だ。まずトゥアレグの社会・生活様式はイスラム原理主義にとって許されない。第二に彼らの目標は北部の独立ではなくマリという国家の乗っ取りであり、国際テロ活動の拠点化なのだ。第三に、アルカイダは"トゥアレグ政権"の指揮の下に入る気など毛頭ないことだ。それどころか組織そのものを乗っ取ろうと狙っている。
アルジェリアのアルカイダは敵に対する容赦のなさで名を知られている。市民に対する無差別大量虐殺も辞さないとびっきりのワルだ。その冷酷さについては、20年ほど前に北海道AALAで報告したことがある。とりあえず、ウィキペディアを参照していただきたい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%A3%85%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%9B%86%E5%9B%A3
もっともカダフィ傭兵としてのトゥアレグも相当ひどかったが…

トゥアレグ分離闘争の歴史

もともと黒人が大ガーナ王国を立てていたが、11世紀頃になると、交易を目的としてアラブ人が入り込み、やがてベルベル人が支配するようになった。トゥアレグ族はベルベル人の支族である。トゥアレグ族は「砂漠の支配者」と呼ばれるほどの権勢を誇っていた。

13世紀になるとマリ帝国が興隆。その後ソンガイ帝国へと続き、約300年にわたって栄えた。

16世紀にはいると西洋諸国の海上貿易がさかんとなり、内陸部のサハラ交易ルートは衰退した。帝国は崩壊し、小国が乱立するようになった。

1892年にフランスの植民地となり、フランス領スーダンと呼ばれた。

1958年、フランス領内の自治国スーダンとなる。1960年6月にはフランスから独立し、隣国のセネガルと共にマリ連邦を結成した。しかしまもなくセネガルが連邦から離脱し9月にマリ共和国と国名を改めた。モディボ・ケイタ大統領のもとで社会主義政策が推進された。

1962年には第1次トゥアレグ抵抗運動が始まり、2年間にわたり続いた。

1968年、社会主義政策は行きづまり、ムーサ・トラオレのクーデタが発生。その後長い軍事独裁体制に入る。

1973-4年 サハラ砂漠南縁のサヘル地方を大飢饉が襲う。家畜は死に絶え、若者たちはアルジェリアやリビアの大都市に移住。カダフィ政権の下で「イスラム軍」(Islamic Legion)と呼ばれる傭兵部隊に加わる。

カダフィはアフリカ合衆国を唱え、アフリカ諸国の貧しい労働者を迎え入れ、軍事訓練を施すなどしていた。また70年代にはトゥアレグの武装闘争を支持していた。ただし、カダフィはマリ政府そのものにも多額の援助を行っており、カダフィの死後も政府系の建物にはカダフィの肖像が飾られているという。

1979年に民主化運動が成功し、単一政党マリ人民民主同盟が結成された。選挙によって大統領が選出されたが、クーデターが起こりふたたび軍事独裁の時期を迎えた。

1984-5年 サヘル地方を再び旱魃が襲う。トゥアレグ族は度重なる干ばつにより貧困にあえぐようになった。

1990年6月 北部ではトゥアレグ人が分離を目指す武装闘争を開始。リビアがこれを支援。刀剣や古いライフル銃はカラシニコフ銃に、らくだは四輪駆動車へと交換。

91年3月 トゥーレら青年将校がクーデターによりトラオレ独裁政権を打倒。

1991年に暫定政府が発足。複数政党制が導入される。

1992年 憲法を制定。大統領選挙が行われた。トゥーレが大統領に就任。

92年 ニジェールのトゥアレグ人が武装闘争を開始。

1995年 リビアが原油価格の下落で経済破たん。トゥアレグへの援助も杜絶する。トゥアレグ人たちは故郷への帰還を余儀なくされる。

1996年 トゥアレグ人は政府との和解、武装解除に応じる。戦闘員の多くは政府軍などに組み込まれ、トゥアレグの自治権は拡大される。5年間の闘争で死者は数百人、避難民は数千人にのぼる。

2006年5月 トゥアレグ族武装組織、アルジェリア・ニジェール国境付近でマリ政府軍を攻撃。政府軍10人が死亡する。指導者イブラヒム・アグ・バハンガは「5月23日同盟」の結成を宣言し、武装闘争を再開。

2007年2月 ニジェール領内に暮らすトゥアレグ人が「正義のためのニジェール運動」(MNJ)を結成し反政府武装闘争を開始する。背景にトゥアレグ人居住地域のウランの権益。

09年3月 マリのトゥアレグ人武装組織、政府軍兵士20人を拉致する。身柄をMNJの管理下においたと述べるが、MNJ側は報道を否定。

2009年 トゥアレグ族の武装抵抗が終結。

2011年 リビア内戦。トゥアレグ人はカダフィの最も強力な部隊として市民と対決。敗れた後は大量の武器を持ってリビアから脱出。「リビアから千人以上を超えるトゥアレグ人傭兵が、数百台の4輪駆動車に多くの武器を積んで帰ってきた」との報道がある。

10月 アザワド解放国民運動(MNLA)が結成される。蜂起に向けた準備を開始。

2012年

1月17日、MNLAはマリ共和国政府に対する反乱の開始を宣言、「バマコ(マリ共和国の首都)がこの地域を別個の存在と認めない限り継続する」とした。

1月 MNLA、アルカイダと組んで三度目となる武装闘争を開始。アザワド地方と呼ばれる北部三州(gao,toumbouktou,kidal )で作戦を開始する。最大で3000人程度の兵士を有していると推測され、貧弱な武装の政府軍を圧倒。

マリ北部のトゥアレグ族 休戦を宣言

2月 マリ北部キダルで激戦が展開される。北部住民約26万8000人が、マリ国内の他地域や隣国へ避難。

2月22日 キダル郊外のトゥアレグ族キャンプが政府軍の空爆を受ける。女児1人が死亡、11人が負傷。

3.11 MNLA、アルジェリア国境の要衝テッサリトを掌握し砂漠地帯から政府軍を駆逐。

3月 政府軍内部から不満が噴出。軍事クーデターを招く。

3月21日 一部の国軍下士官・兵士らが騒乱を起こし,国営TVラジ オ局を占拠,大統領宮殿を襲撃。

3.22午前4時45分 反乱軍、テレビで声明を発表。「国を守るた めの武器の不足」および政府がテロと戦う上で「無能」だとの理由で行動を起こしたと説明。軍事政権は「国内の統一と領土の保全が再建でき次第ただちに、民主的に選ばれた大統領に権力を回復することを厳粛に約束する」とのべる。

3.22 反乱軍兵士が国家の指揮権の掌握と憲法停止を発表。「民主主義再建・国家復興のための国家委員会(CNRDRE)」を結成する。CNRDREのリーダー、サノゴ大尉は「軍はまともな武器も訓練も受けていない。リビア帰 りで重装備の反政府勢力と戦うのは自殺行為だ」と語る。(朝日新聞=ベリタ)

3月31日 反乱軍を率いるサノゴ大尉、市民の犠牲を避けるためガオでの戦闘停止を決めたと表明。ガオからの撤退を開始。。

4月1日、MNLA、北部ガオ州の州都で政府軍の拠点であるガオを掌握。トンブクトゥへの攻撃を開始。

4.02 MNLA、伝説的な砂漠都市トンブクトゥを掌握したと発表。(同日、アンサル・ディーンもトンブクトゥ制圧を発表している。作戦がガオと同時並行で進められていることから、役割分担があったか、アンサル・ディーンが抜け駆けを行ったものと思われる)

Azawad Tuareg rebellion 2012.svg

4.03 ガオでは、アルジェリア領事らが武装勢力に誘拐された。MNLA報道官は関与を否定し、イスラム過激派勢力の犯行だと述べた。

4.04 al arabiya net は、トンブクトゥをイスラム主義の3人のアミール(いずれもアルジェリア人)が支配していると報じる。記事によると、1日にはトゥアレグ独立運動とイスラム主義者の共同だったが、2日にはイスラム主義者が掌握。町には黒い旗(一般的に イスラム復古主義の過激派が使用)が掲げられ、放送ではシャリーアの適用と女性のベールを着用を求める。

4.06 CNRDRE、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の説得を受け、憲法秩序回復に向けた枠組み合意に署名。トラオレ国会議長が憲法の規定に従って暫定大統領に就任。(ECOWASは、西アフリカ地域15カ国から構成される経済共同体)

4.06 「アザワド解放民族運動」(MNLA)アザワド独立宣言を発表する。首都をガオとする。

宣言の骨子: 1960年のマリ共和国独立にアザワドの意向は反映されていない。…50年以上、マリの悪政によって北部の人々の存在が脅かされてきた。…独立以降幾度となく弾圧されてきた。…北部は完全に解放された。…国際連合憲章第1条と第55条(人民の同権及び自決の原則の尊重)を根拠に独立を宣言する。…隣接する国々の国境を侵さないことを確認する。…国連憲章に完全に従う。

4.06 アンサール・ディーン、MNLAによって出された独立宣言を、発表から数時間後に拒否すると発表。シャリーアに基づく法律をマリ共和国全土に確立させると誓う。

4.06 フランスのロンゲ国防相、「アフリカ諸国に承認されていない一方的な独立宣言は、何の意味も持たない」と述べた。

4.15 トンブクトゥでキリスト教宣教師のスイス人女性が武装集団に誘拐される。

5.06 MNLA、「国際社会の呼びかけに応じ、軍事活動を停止させる」と発表。また地域諸国および国際社会に対して「アザワド住民がマリからのいかなる侵略からも安全を保証されるよう」求める。

5月 「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」(AQIM)がトンブクトゥの聖墓を破壊したと発表する。

5.26 MNLAとAQIMとが合同して、独立のイスラム国家を樹立することに合意。

「長年、日本の外交官として中東に深く関与」した人の「中東の窓」というブログに興味深い記事がありました。27日付のal qods al arabi net 紙からの引用だそうです。
アザワド国民解放運動の報道官が、「アルカイダ系のansar al din と合同し、イスラム国家を樹立する」と発表した。
つまり、
AQIM と ansar al din とは同一組織の別称だということになります。そしてガオ州をMNLAが、トンブクトゥ州をAQIM が実効支配しているらしいということです。

5.16 トゥアレグ族武装集団がリビア西南部の町ghadamis を襲撃。住民7名が死亡し、20名以上が負傷。(アルジャジーラによると、彼等はかってカッダーフィ軍に属し、町に居住していたトゥアレグ族で、革命後一時立ち去っていたものが再び戻ってきたもの)

7.05 国連安保理、第2056号決議を全会一致で採択。直ちに敵対行為をやめ,人権・人道状況の回復に努めるようもとめる。さらに、憲法秩序の回復に努力し,マリ領土の一体性を確保するようもとめる。

7月 チャド大統領、「アルカイダはアフリカ全体に対する脅威」とし、国際的介入を求める。

7.29 ECOWAS議長のコートジボアール大統領、マリ共和国への軍事介入を検討。これについてフランスアメリカなどの支持を求める。(仏紙とのインタビュー)


マリ北部の紛争について以前書いたが、その背景についてはかなり認識不足だった。

すこし調べてみたので訂正がてら、すこし事情説明をしておきたい。

まずは、マリという国。とりあえずウィキペディアでお茶を濁す。

フランス領スーダンが独立してマリ共和国を名乗った。かつてこの地にあったマリ帝国の繁栄にあやかって名づけられた。

マリは内陸国であり、地理的には北部のサハラ帯、中部のサヘル帯、南部のスーダン帯に分かれる。国の2/3は砂漠であり人口は希薄。トゥアレグ族遊牧を行っている。南西部は亜熱帯気候である。国土のほぼ中央部を流れるニジェール川流域に人口が集中している。

ニジェール川流域の農業と金とウランの輸出が中心。ウランは日本が独占契約を結んでいる。農業が主要産業だが、灌漑設備が弱く、また砂漠化の影響を受け、収量はきわめて不安定である。

トゥアレグ人の人口は、ニジェール、マリ、アルジェリア、リビア、ブルキナファソンにまたがる200万ヘクタールの土地に100-150万人おされる。多くはニジェール(推定70万人)とマリ(推定30万人)に住む。男性は頭をターバン(シュシュ)、身体をインディゴで染めた真っ青な民族衣装ダラアで覆う。「青い民」と呼ばれるゆえんだ。

階級によって、皮膚の色・生活様式・ラクダの乗り方等が異なる。

イマシュク(貴族)は一般的に白人の様な白い肌と顔立ちで、背が高く青い服を着ている。ターバンの色は氏族・家系、等により様々で、青とは限らない。イムカド(自由民・家来)は貴族とは主従関係にあるが、基本的に自由な身分。黒人の血が混じっており、白い服装である。

…ということで、イスラムの教えからは大夫逸脱ししています。歌舞・音曲もOKらしくて、その音楽は一部でもてはやされているようです。

http://www.youtube.com/watch?v=kB4ZSDUsi_k&feature=related

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案の定マリ北部が地獄の様相を呈して来た。もともと、カダフィの傭兵だった黒人がリビアから逃げ込んできて、自分たちの縄張りを広げてきた。
もともとが殺し屋な上に、リビアでの血みどろの戦闘で人を殺し慣れている。何もないが武器だけは豊富だ。こんな連中にマリの軍隊は勝てっこない。
だから、国土の北半分は当分あきらめるほかないだろう、と今年4月11日の「マリの状況が見えてきた に書いた。

その後、いくつかの変化がある。国軍がクーデターを起こした。戦闘に行きたくないとの意思表示だ。
北部の主も代わっている。最初は一応、マリからの独立を求める現地のトゥアレグ族の「アザワド解放民族運動」ということになっていたが、今では没落して「西アフリカ統一聖戦運動」というイスラム過激派が支配している。さらに「イスラム・マグレブのアルカイダ」を名乗る組織も勢力を拡大しているという。
いわば北部のソマリア化だ。そうでなくても砂漠地帯で厳しいところだが、山賊どもとバッタの大群が束になって押し寄せてきている。バッタについては6月15日の「サハラのバッタ」を参照されたい。

マリ北部から国外へ26万、南部へ17万人が避難したが、さらに460万人が緊急食糧援助を要する状態にある。
いまはともかく、山賊退治よりも住民の避難を急がせ、一人でも多くの人を救うことに専念すべきではなかろうか。
戦略的には、砂の壁による封じ込めが有効だろう。砂漠地帯をジープやらくだで行き来するゲリラ相手には、機動線が通用しない砂の壁の要塞はきわめて手ごわい。それは西サハラの戦いが証明している。

独裁政権の終焉

2002年

12月 モイ大統領、総選挙を前に後継大統領候補にケニヤッタの息子ウフル・ケニヤッタを推す。これに反対するKANU活動家はオディンガを中心に大挙離党。自由民主党を再建する。

12月 キバキとケニア国民連合 (NAK)はKANU政権の継続反対を掲げ自由民主党 (LDP)と選挙協定を締結。国民虹の連合(NARK)を結成する。

12月27日 大統領選挙でキバキが当選。初めての政権交代が実現する。議会においても虹の連合は212議席中、125議席を獲得する。キバキ与党の民主党自体は36議席にとどまる。

キバキは自由民主党との合意に際し、オディンガを首相に据え、大統領権限の多くを移譲する密約を交わしていたという。

2003年

1月 キバキが新大統領に就任。これまで認められていなかったケニア土地自由軍の名誉を回復する。いっぽうでオディンガとの密約を破棄し、大統領の専制体制を継続。オディンガは憲法改正に期待し、政権に加わり、道路・公共事業・住宅相に就任する。

ケニヤ土地自由軍の名誉回復は、我々から見れば当然の話で、どうして賞賛されなかったのか、そちらのほうが不思議だ。ウィキペディアによれば、独立時に政権を握ったのは皆、親植民地派の流れをくむケニア人だったため、解放闘争の担い手と承認されなかったそうだ。
元闘士は一貫して冷遇された。植民地政府によるケニア土地自由軍の非合法化も独立後もいっこうに解除されなかった。

2005年

7月 議会で与党提案の憲法改正案が承認される。首相職権限がほとんど認められないなど大統領権限の強い性格のものであったため、自由民主党は反対を表明。オディンガは閣僚を辞任。改正案に反対する運動を呼びかけ、オレンジ民主運動 (ODM) を結成。キバキ政権との対決姿勢を強める。

11月 憲法改正をめぐる国民投票。与党提案の改正案は否決される。オレンジ民主運動は旧政権党のケニア・アフリカ民族同盟 (KANU)と共に反対運動を担う。

「オレンジ」の名称は、国民投票における賛成票のイラストがバナナ、反対票がオレンジで表されたことに由来する。

11月 国民投票後、オレンジ民主運動からKANUが離れ、さらにオディンガのODMとカロンゾ・ムショカのODM_Kenyaに分裂。(ODM_Kenyaはさらに再分裂し影響力を失う)

大統領選挙と内乱

2007年

12月27日 大統領選挙。キバキ大統領が新たに結成した国家統一党(PNU)と、ライラ・オディンガのODMとの一騎打ちとなる。

12.28 出口調査でオディンガの得票が上回っているとの報道。オディンガが勝利宣言を発する。

12月30日 選挙管理委員会がキバキ大統領の勝利を発表。結果発表と同時に大統領の出身部族キクユ人への暴力が始まる。リフトバレー州では教会に逃げた避難民が教会もろとも焼かれ、30人以上の死者を出す。

2008年

1月3日 ナイロビのウフル公園で、ODMと支持者の抗議行動。一部が警官隊と衝突し暴動へと発展。ODM議員の暗殺事件も相次ぐ。

1.05 キバキ、米国務次官との会談後に連立政権を提案。オディンガはあくまで再選挙をもとめる。ナイロビでは暴動が拡大する。

1.08 オディンガ、抗議行動を中止すると宣言。国際的な調停があれば、和解に応じるとの見解を示す。

1.09 ガーナのクフォー大統領がケニヤ入りしキバキ・オディンガと面談。調停案を提示するがキバキが署名を拒絶。

1.16 ODMが抗議行動を再開。警官による鎮圧で2名の死者を出す。

1.22 アナン国連事務総長がナイロビに入り両派との調停活動を開始。

1.25 オンディンガ、アナン調停案の受け入れを拒否。リフトバレー州ナクルではキクユ人に対する暴力や破壊事件が相次ぎ少なくとも64人が死亡。ナイバシャでは逆にキクユ人が避難民19名を殺害。

2.01 アナンの調停により和解が成立。国家調和推進委員会が樹立される。

2.28 キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立。政治的混乱は収拾される。この間の騒動により少なくとも1000 人が死亡し、国内避難民も一時は30 万人を超えた

4月17日 オディンガが首相に就任。憲法改正に向け作業を開始。

12月 政党法が改正される。それまで160を超えていた政党・政治団体が38に整理される。

2010年8月27日 憲法改正をめぐる国民投票で、賛成票が過半数を超えた。大統領権限の縮小や地方分権、行政のスリム化などが盛り込まれる。

2010年12月 国際刑事裁判所、07年大統領選挙をめぐる暴力事件について、ウフル・ケニヤッタKANU党首、カレンジン族指導者のウィリアム・ルトらが関与していたことを明らかにする。

英政府と連携した独立

1959年12月 非常事態が解除される。再び独立運動が高揚。獄中のケニヤッタの解放を求める。

60年 連邦内独立を認める新憲法が制定される。

61年 初の総選挙が施行される。植民地当局の支持を受けた「ケニア・アフリカ民族同盟」(KANU)が「ケニア・アフリカ民主同盟」(KADU)を破り勝利。

KANUが大部族を中心とする中央集権的国家体制を主張したのに対し、「ケニア・アフリカ民主同盟」(KADU)は少数部族を尊重する連邦制を主張する。…とあるが、五十歩百歩ではなかったろうか?

62年 KANUの要請を受ける形でケニヤッタが9年ぶりに解放される。

1963年12.12 英連邦内で独立。ケニヤッタが初代首相に就任。

1964年 共和制へ移行。ケニア共和国が成立する。初代大統領にケニヤッタが就任。アフリカ社会主義を掲げる。親西側政策を採り、アフリカにおける反共の防波堤として支援を受け、経済成長を遂げる。

66年 オギンガ・オディンガ副大統領(ルオ族)、白人入植者の土地分配政策を巡ってケニヤッタ大統領と対立。ケニヤ人民同盟(KPU)を設立。

反共独裁政権への移行

1969年 政府はKPUの活動を禁止。「事実上の」単一政党国家に移行。オディンガも逮捕される。独立の英雄の一人トム・ムボヤは暗殺される。

1978年8月 ケニヤッタが死去。副大統領ダニエル・アラップ・モイが二代目の大統領となる。その後24年間にわたり独裁政治を続ける。副大統領には政権テクノクラートのトップであるキバキが就任。

アラップ・モイ: 少数民族カレンジン族の出身。反体制派を弾圧し多数を投獄。この間経済は停滞を続けた。自民族を優遇しキクユ族等多数派を冷遇したとも言われる。

1982年6月、ケニアは国会によって一党国家であることを正式に宣言。

1983年9月 一党国家として初の国会選挙。

民主化への胎動

90年 オギンガ・オディンガ、非合法野党として民主主義回復フォーラム(FORD)を結成する(このとき79歳)。

1991年

5月 ケニアの独裁政治に対して西側諸国からの圧力が高まる。モイ大統領は、「植民地主義者は部族でアフリカ人を分断し、いままた舞い戻ってきて今度は複数政党制でアフリカ人をさらに分断しようとしている。複数政党制化を主張する者は、ケニアが混沌と流血に陥ることを望んでいる」と非難。

7月 民主回復フォーラムを中心に民主化を要求する集会・デモが拡大。国際社会に影響を広げる。

11月26日 パリでアフリカ援助国会議が開催される。ケニアの民主化、構造調整計画の遅れを非難、新規援助を停止する。

12月02日 長引く不況と国際社会の圧力を受けたKANU幹部会、憲法の一党条項を無効とし複数政党制の導入を決定。キバキ元副大統領はKANU を離れ、民主党 (DP) を結成する。

1992年

12月 総選挙を目前にして民主主義回復フォーラム(FORD)がケニヤ党とアシリ党に分裂。

12月29日 複数政党制の下での最初の選挙。モイが4選を果たし、その後も実質的なKANUの独裁が続く。二位がアシリ党のケネス・マティバ、キバキが三位、オギンガ・オディンガは4位にとどまる。

アシリ党は、長老政治家オギンガ・オディンガを担ぐことに反発する若手活動家が結成したもの。92年総選挙ではケニヤ党とならぶ31議席を獲得したが、その後路線の動揺と内部争いを繰り返し、凋落する。「アシリ」はスワヒリ語で「元祖」「本家」「オリジナル」の意。

12月 議会選挙でライラ・オディンガがFORDケニヤ党から出馬し、当選する。

オディンガはオギンガ・オディンガの息子でエンジニアであった。東ドイツの大学の出身で、長男の名はフィデル、娘の名はウィニーという、“いかにも”の人。

1996年 FORDケニヤ党が分裂。ライラ・オディンガ派は自由民主党 (LDP)を結成する。

1997年

11月 国会改革、政治的権利が拡大されたことから、政党数が爆発的に増える。キバキが、民主党 (DP) を中心にケニア国民連合 (NAK) を結成、第一野党の地位を確保する。自由民主党(LDP)は第三党の地位を確保。

12月 モイが大統領に再選される。与党KANUは議会で過半数を制することができず、ライラ・オディンガの率いる自由民主党 (LDP) との連立を迫られる。

2001年 ライラ・オディンガ、モイ政権の下でエネルギー相をつとめる。自由民主党 (LDP)は解消され、KANUに吸収される。

ケニア歴史年表 その1

植民地時代以前の経過

紀元前2000年 北アフリカからクシ語系のケニア地域への民族移動。

7、8世紀頃 アラブ人が海岸地域に定住。モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設する。

西暦1000年頃 バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動。今日のケニア国民を形成する民族として定住。

15世紀初め ケニア沿岸部にバンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄える。

1418年頃 明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達。

1498 ヴァスコ・ダ・ガマの来訪。

18世紀 アラブ人の影響力が内陸部にまで及び奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。

1828年 オマーン帝国のスルタン・サイードがモンバサを攻略。

植民地時代の経過

1885 ベルリン会議で、欧州列強がアフリカの分割植民地。ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。スルタンはザンジバルに根拠地を移す。

1888年 イギリス勢が勢力争いに勝利。イギリス領東アフリカとなる。沿岸部は帝国イギリス東アフリカ会社 (IBEA) が統治する。

1895年 イギリス、東アフリカ保護領を設立。モンバサからキスムまでの鉄道建設が開始される。肥沃な高地が白人移住者たちに開放され、内陸部にまでイギリスの影響が及ぶ。

1902年 現在のケニア全域がイギリスの保護領となる。

1903年 鉄道はキスムを越えウガンダまで延びる。

1920年 英領東アフリカの統治が東アフリカ会社を離れ、英国政府の直轄植民地「英領ケニヤ」となる。

独立運動の開始

1921年 ケニア国内最大の部族であるキクユ族のあいだに、キクユ青年協会が設立される。1924年にはキクユ中央協会(KCA)も結成される。

1942年、キクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の独立運動家が秘密裏に結束。種族の壁を越えた民族解放運動が始まる。

植民地時代、キクユ族エンブ族メル族は一括してGEMAと呼ばれ、先住民の中でも軍務につけないなど差別された。イギリスお得意の分断政策である。

1946年 ケニア・アフリカ学生同盟(KASU)が設立される。のちにケニア・アフリカ民族同盟(KANU)に発展。ジョモ・ケニヤッタとトム・ムボヤが指導者となる。

キクユ族の出身。ケニヤッタはペンネームで「ケニヤの光」を意味する。本名はウェ・ンゲンギ。建国の父としてムゼー(おじいさん)とも呼ばれる。

1952年10月 キクユ族を中心とする「ケニア土地自由軍」(KLFA)が武装蜂起。白人農場、警察署、政府軍用地、親植民地派のケニア人を襲撃。「マウマウ団の乱」と呼ばれる。

マウマウはイギリス人による蔑称。語源はいろいろあるが定かでない。キクユ族の貧農を中心に一般の都市労働者や労働組合員によって構成され、最盛期には20万人が所属していた。

10月 植民地政府は非常事態を宣言。イギリス軍正規軍5万人、戦車、爆撃機などが投入された。当局は、ナイロビで2万7千人、農村で107万人の反乱支持者を逮捕してマウマウを山林内に封じ込める。

1953年 ケニヤッタはマウマウの乱を指揮したとして起訴され、7年間の重労働を宣告される。実際には北西の辺境地ロドワーに移送され、保護監察下での執行猶予処置がとられた。

54年 黒人、インド人の議会への参加が認められる。

1956年 マウマウ団の闘いは5年に及ぶが、指導者のデダン・キマジの逮捕により最終的に敗北。キマチは絞首刑に処せられる。

反乱による死者は白人入植者95人、親植民地派とみなされたアフリカ人1920人、マウマウ側は、11503人だった。イギリスは植民地予算の4年分に匹敵する戦費支出を余儀なくされた。

昨日、ケニアに行ってきた人の報告会があったので、ついでにケニアの歴史をすこし調べてみた。とりあえずはほとんど日本語版ウィキペディアの孫引きである。

ケニヤの最大の特質は、その地政学的位置にある。周囲の国の名を挙げただけでも、その重要性が浮き彫りになる。

南スーダンはいまが旬の紛争国だ。エチオピアは20年前に空前の飢餓で有名になった。メンギスツ政権は国民が餓死していても内戦をやめなかった。ソマリアはいまなお国家の体をなしていない。最大の売りが海賊というのはなんとも悲しい話である。ウガンダは昔、怪物大統領アミンで有名になった国だ。その隣が100万人虐殺のルアンダ、コンゴもいまだに内戦が収まる気配がない。

これら国家に対応するための拠点がすべてケニアに置かれている。国連や欧州諸国にとってケニアは民主主義の防波堤でなければならない。今やナイロビは世界有数の国際都市だ。国際機関のマフィアが「援助村」を形成している。

こうした「産業構造」が、きわめて外圧に弱い政治構造を作り出している。下品な表現をするなら、「援交」漬けの「パンパン国家」である。日本と似ていなくもない。

感想としては、西側の優等生といわれてきたこの国が、内実としてはさまざまな問題を引きずっていて、真の民主化が急がれているということである。

しかもその民主化は、先進国の要求するような近代化ではなく、財の均等な配分と内発的発展を可能にするような政治・経済システムの確立である。

同時に、国内経済は奇形的で不均一ではあるが、それなりの発展を遂げており、そこそこの内需もあり、国民の経済統合が進んでいるということである。

したがって、多民族国家であるにもかかわらず国民統合は進んでおり、国を分断するような内戦に至る危険性は低いと思われる。2007年の大統領選挙をめぐる紛争は、ぎゃくにそのことを証明したものとも考えられる。

日本語の情報は、この2,3年間についてほとんどない。本当は英語情報に行かなければならないのだが、この暑さが邪魔をする。


こういう数字が並ぶ情報は、メモしておかないとアウトなので、とりあえず書き留めておく。
FAOが6月4日明らかにした警報。
①今年1月、リビア南西部のガトで群生バッタの発生を確認した。
②その後この地域で雨が降り、5月までに群生が拡大した。
③影響地域はアルジェリアの4万ヘクタール、リビアの2万ヘクタールに拡大し、一部がニジェール北部に飛来している。

バッタ大群は1平方キロから数百平方キロまで多様。1平方キロあたり4千万から8千万匹の成虫で構成される。
体重2グラムの成虫は、一日に体重と同じ量の食物を摂取する。
1平方キロあたり5千万匹の密度で、100平方キロの群生バッタなら、
2x5千万x100=1万トンを消費することになる。

ちなみに象の一日当たり消費量は100キログラム、ラクダは40キログラム、人間は400グラムとされている。


人間はそんなに少ないかな?
「日に三合の飯を食い」というから、米だけで400グラムになってしまうが、実際はせいぜいその半分だろう。しかしそれと同じくらいのおかずを食べているが…


旗の文化面、佐藤さんの「未来への意志: アフリカ取材から見た日本」という文章がとても良い。


…人が死ぬことは避けられない。しかし、人々の豊かなつながりの中では、個人の死というものは命の断絶ではなく、大きな命の一部として脈々と生き続けるのだ。大きな命を生きる人々は、ともに喜びを分かち合い、悲しみを支えあう。

…死という宿命を背負った人間が生きていくには、たんに物理的に恵まれた環境が必要なだけではなく、その死を受け入れ、大きな生を紡いでいける人々の「つながり」が必要不可欠なのだと信じている。

「大きな生」のなかに生きる個別の命、これは非常に正しい。ただ近代社会にあっては「大きな生」は、自由な個性の実現と引き換えに廃棄されている。それを「貧しさを分かち合う」未開社会に戻すことはできない。個性の「豊かさ」の内に、あらたに能動的な「大きな生」を形成していくしかない。そういうロング・レンジの課題が突きつけられているのだろうと思う。

左前方から照らしているのは夕日だろうか。あまりに表情が美しいので、新聞からコピペしておく。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/c/5c1e7709.jpg


「ルワンダ中央銀行総裁日記」をもう一度読む

学生時代に読んだ記憶がある。すでにマルクスやレーニンをかじっていた時代だったが、印象は鮮烈だった。ある意味で「ガリバー旅行記」であり、最初の読後感もSF的な爽快感だったような気がする。しかしその感じとは別に、合理性を失わない立ち位置の強靭さ、マクロな視野と生データで判断する姿勢、「誰のために?何のために?」という絶えざる問い返しは、何時までも私の脳裏に焼きついて離れなかった。

最近、経済問題の首を突っ込むようになって、いろいろ頭をめぐらせていると、ふとこの本のことが思い浮かぶようになった。あの本はルワンダのことを書いているのではなくて、世界のいろいろの国のことを書いているのではないか。あれは日記の形を取っているが、途上国のさまざまな経験を織り込んだフィクションなのではないか、そういう意味での「ガリバー旅行記」ではないか、そんな気もしてきた。

とくにブラジルの「民主化の歴史」を書いていて、これは結局「ルワンダ」の焼き直しなのではないか、と思うようになり、書棚をかき回したのである。

一晩で読みきった。しかし次の日は1時間も寝過ごして遅刻する羽目になった。

40年後のいま読み直しても、これは名著である。むしろいまだからこそ余計、名著になっている。世界は服部正也氏が主張した方向ではなく、そうなるべきではないと主張した方向へと動いてきた。その結果がかくのごとき有様である。そういう眼でもう一度40年前のスタートラインに戻るのもありうるのかもしれない。

ただ、その間に40年の歳月が流れているので、私の読み方も変わっているかも知れない。以前はこの本の後半部分、農業重視の自力更生路線が魅力的だった。今回はこの部分はいささか自画自賛の趣がないでもない。むしろインパクトを与えるのは前半部分、平価切下げに向けての諸準備とIMFや銀行筋との丁丁発止のやり取りだ。あいまに政府機構の建て直しをやっていく。このあたりはノウハウとしても大いに参考になるところ。

この40年間、世界は大いなる失敗をしでかしてきた。一番大きいのはIMF・世銀を尖兵とするネオリベラリズムの失敗だ。しかもいまだにその失敗は克服されていない。それどころか、失敗だったという認識もいまだ世界に共有されているとは言いがたい。

もうひとつは左翼の側の責任である。グローバリゼーションはネオリベラリズムとイコールではない。これは大方の認識だ。しかしどこまでがグローバリズムの必然として受容すべきか、どの点をネオリベラリズムとして峻拒すべきかの境界は必ずしも明らかではない。当然のことながら、その境界はどういう原理によって引かれるべきなのかも理論構築されてはいない。

モスクワ追従派の共産党の大方は消え去った。そのほとんどは社会民主主義にスタンスを移し、ネオリベラリズムを無原則的に受け入れている。労働者政党は既得権益確保と、独占資本の擁護のあいだを揺れ動いている。ラテンアメリカでも一時はレノバシオニスタ、文字通りの修正主義者が幅を利かせた。しかし21世紀に入ってベネズエラを先頭に各国政府が軒並み左翼化するに及んで、この問題にも一定の結論が出ようとしている。

私にはそれを定式化できるような能力はないが、とりあえずブラジルの闘いの記述を通じて、いささかの示唆は出来たのではないかと考えている。あとはこれらの事実を資本論第三部と結びつけながら整序していく作業が残されている。それは私の仕事ではないが、魅力のある作業ではある。

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