鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 17 国際政治/その他諸国(ほぼアフリカ)

米People's World
(英Morning Starより転載)
April 26, 2023

岐路に立つスーダン: 代理戦争か革命か?

Sudan at a crossroads: Proxy war or revolution?



BY AMEENA AL-RASHID


急速支援部隊(以下RSF)はジャンジャウィードそのもの

4月8日に始まったスーダン軍とRSFとの紛争の本質は、スーダン国民に対する代理戦争である。彼らは大国の支援により富や武器を手に入れている。

それはモハメド・ハムダン・ダグロ将軍(通称:ヘメティ)の率いる急速支援部隊(以下RSF)とスーダン軍内の「国家イスラム戦線」治安委員会の戦争である。後者を率いるのはアブデルファタフ・アブデルラフマン・アル・バーハンである。両者とも、海外の国から支援を受けている。

ヘメティは、スーダン国民向けの演説で、最も洗練された武器を持っていることを公然と自慢した。彼はいう。「安い武器を買っていたわけではない。RSFは最高のものを最高の人から買っているのだ。

RSFは、2004年にダルフールで大量虐殺を行ったとして国連安保理決議1556号で起訴された民兵組織「ジャンジャウィード」“Janjaweed”と同じ組織だ。

それは2019年6月3日にハルツームの軍本部で行われた座り込みで、もう一つの残虐行為を行った民兵と同じである。
しかし、国際社会の記憶は完全に白紙化しているようだ。

RSFは、"ハルツーム・プロセス "に際して、国際社会に復帰する最初の足がかりを得た。それはやがてEUの公認に至る。
取説と同じで読んでもさっぱりわからないが、ジャンジャウィードを使うということは、トランプよりもっとひどいことをする計画ということだろう。

訳注 EU-アフリカの角移住ルート構想(EU-Horn of Africa Migration Route Initiative):アフリカ連合委員会 (AUC) と欧州委員会 (EC)との間で2014年に結ばれた。「不法移民、密入国、人身売買の防止と闘い」を目的とするが、取説と同じで読んでもさっぱりわからない。しかしジャンジャウィードを使うということは、トランプよりもっとひどいことをするつもりということは容易に察しがつく。

それは有り体に言えば、リビアから地中海を渡り、ヨーロッパに向かう移民を阻止する計画だった。それはヘメティを軍事的に支援し、権力、資金を与えるものだった。
RSFはその資金を使い、犯罪や権利侵害を繰り返した。そして国際社会は皆そのことについて沈黙を守った。

ヘメティの最近の同盟国はロシアだ。彼はモスクワに招待され、プーチン大統領と面会した。その直後、ロシアの準軍事組織であるワグナー・グループが派遣された。そして彼を支援し、民兵を訓練した。

2019年に退陣したスーダンの前大統領オマル・アル・バシルも、RSFの温存に手を貸した。彼は在任中にサウジを支援してイエメン戦争に介入した。そしてRSF部隊をイエメンに送り込んだ。
RSFはそこでも犯罪行為を繰り返し、リビアやエリトリアやエチオピアからの難民に暴力を振るった。
そして今、彼らはスーダンで自国民への略奪とテロを始めているのだ。


スーダンはRSFの包囲下にあり、いたるところで人が殺されている

一方のボス、ムスリム同胞団=軍事政権のトップであり、治安委員会のトップであるブルハンは、エジプト、UAE、サウジアラビアを足繁く訪れている。
彼は命令を受けている。それはスーダンから資源を盗み、略奪し、スーダンから金や農産物を密輸することだ。

2019年、ブルハン率いる軍事政権が国家権力を掌握した。彼はRSFを使い、民主化デモを暴力的に取り締まった、同時に彼の私兵集団として「イスラム武装集団」を組織した。

2021年10月、アル・バシルに対する民衆蜂起後の「文民移行」の建前はすべて捨て去られた。
ブルハンは暫定政府を解散させ、文民指導者を逮捕し、ヘメティを右腕として自らの政権を確立した。

それは当時のことであり、今、両者は戦争状態にある。

この度の紛争のきっかけはいろいろあるが、なかでも北部の人民抵抗委員会がスーダンとエジプトの間の貿易を停止させたことが注目に値する。
人民抵抗委員会の闘いは、多くの資源のエジプトによる略奪を阻止した。それはエジプトに深刻な影響を与え、怒らせた。
そしてRSFや軍事政権と同盟国との関係を決定的に破壊した。


"この戦争はスーダンを深く傷つけ、その影響が近隣諸国に波及している"

ヘメティは今、アル・ファシャカ地方でエチオピアに立ち向かっている。そこはエチオピアと係争中の土地で、2020年11月にライバルのブルハンが「解放」した地域でもある。

戦火を交えた2つの軍閥は、誰がスーダンの権力を独占し、誰がスーダンの資源を掌握するかをめぐって競い合っている。
この全面的な争いは、アル・バシル政権下で軍が30年かけて築き上げた経済・金融力をどちらが引き継ぐかの戦いである。

軍部は依然として大企業や銀行、を支配下においており、スーダンの銀行や機関から略奪した資金を確保している。両派はそれらの資源を独占しようと狙っている。

スーダンでは2019年12月に革命が発生した。文民政府への復帰を願う運動は軍閥の
脅威となり、その立場を著しく弱めた。
だから彼らは今、あらゆる手段を使って革命を頓挫させるという使命を共有しているのだ。それは、たとえ自分たちの間で権力争いをしていても、革命を許さず暴力支配を維持するという使命だ。


"スーダンは実は大国で豊かだ。金、鉱物、巨大な農業の可能性など"

スーダンの富は国を建設し、スーダンの人々のために繁栄と発展を生み出すことができるのに、この富はこれまでも、そして今も略奪され続けている。
スーダンの抵抗委員会は、ロシアのワグナーグループが金を密輸している映像、エジプトのトラックが金を出荷している映像も持っています。

ここ数日発表された停戦は、双方にとって時間稼ぎに過ぎない。両陣営とも、国際社会に約束した停戦を守るつもりはない。

とりわけRSFは、スーダン軍の一部と考えられているにもかかわらず、組織的な軍隊ではない。メンバーたちは、戦闘初日から、自分の家で略奪や襲撃を繰り返している。たとえ停戦が一部で機能したとしても、それがどこでも尊重されるわけではない。
両者は互いに譲らず、最後まで戦い続ける状況になりつつある。

国民は深刻な被害を受け始めている。何千人もの人々が家を出て、安全な場所を探している。
この紛争は、追放された政権のイスラム戦線からはぐれた制御不能な民兵、兵隊、軍人による暴動であり、3、4回と続くジェノサイドである。

私たちは今、ハルツームやマラウィなど、民間人の近くの軍事基地が殺人鬼の出撃基地となっている状況を目の当たりにしている。まず一刻も早く、軍隊を都市から排除しなければならない。


"スーダンの人々は戦争の終結を求めている。これは戦争の犬どもの争いだ。"

国民は、戦争に反対する同盟の結成、文民政府の回復、軍隊を兵舎に戻すこと、民兵を解散させることを求めている。
しかし、それは始まりに過ぎない。スーダン革命は挫折したままとなっている。それは継続されなければならない。それは漸進的な発展であり、国民が国の資産と富を管理できるようにする道である。

スーダンの活動家たちは、経済の平和的な発展、国民に奉仕する分厚い公共部門の構築を呼びかけている。
しかし、その道には、多国籍企業、金融資本、国の富に対して利害関係のある人たちがいたるところにたちはだかっている。


「国際社会」はどうすればいいのか

国連は良い役割を担っている。しかし包括的な平和に向けて人々を結集するほどの力はない。それは限定的なものに過ぎず、全般的な効果は十分なものとは言えない。

国連が仲介し、2022年12月に文民政治勢力と軍との間で枠組み合意が締結された。しかしそれは、ヘメティと小さな「解放」軍の利益を追求するものでしかなかった。多くの人々や勢力は排除され、革命が求めた重要な要求は、そこには含まれていなかった。これが、軍事政権がいかなる政府も樹立できなかった理由である。

国連は、すべての人を巻き込むために、スーダンの政治地図を把握する必要がある。その中から、スーダン自身にとって必要な議題を優先しとりあげる。そして革命に貢献したすべての人々による、包括的な合意を築かなければならない。

スーダン共産党はその一翼を形成する。そして党を支持し、急進的な変化を求める無党派の勢力と共同する。この革命は、スーダンの活動家、共産党員、進歩的なグループによって作り上げられた、確固たるスローガンと要求の上に成り立っている。
国際的な連帯勢力は、自国政府にスーダン国民の要求を支持するよう働きかけるべきである。それは国民の権利を守り、国家と国民を守る軍隊を作ることができる、包括的な文民統治を実現することである。

外国勢力は、軍や国内の軍事勢力、民兵部隊への支援をやめるべきである。

この戦争はいずれ終わる。その際には、2つの破壊勢力の運命も尽きるだろう。

スーダンの人々は、もはや他の独裁者や他の国家に寄り添うことはないだろう。自分たちの利益のために国を歪め、人々の権利を踏みにじる人々、同盟関係にはもううんざりしているのだ。

(訳:SS)


アメーナ・アル・ラシード(Ameena al-Rashid)は、スーダン共産党の活動家、政治評論家。Liberation Journalや英国のMorning Starに寄稿している。

もご参照ください




この記事は2021年11月29日 Africa Japan Forum の記事の転載です。

南アとオミクロン株の関連については、非常に不正確に報道されているので、ぜひ拡散してください。

………………………………………………………………………………………………………………………

「パンデミック条約」の討議にも負のインパクトを与える可能性

オミクロン株の登場でパニックに陥る各国の在り方を批判

11月中旬に南部アフリカで判明した変異株について、世界保健機関(WHO)は26日、これを「懸念すべき変異株」(VOC)に分類し、「オミクロン」と命名した。

各国はデルタ株の記憶もあって一斉に南部アフリカ諸国への渡航制限を相次いで発表した。

南アフリカ共和国の国際関係・協力省(外務省)は声明を発表し、新たな変異株の登場に対する各国の姿勢を厳しく批判した。

普段から変異株に注目し、積極的に遺伝子解析を行って、WHOの「国際保健規則」に忠実に透明性をもって世界に通知した南アフリカ共和国が、各国の支援を得られるどころか、国際航空網を断絶される結果となったことは、この「パンデミック条約」に関する議論にも大きな悪影響を与える可能性がある。

南アの専門家も欧州諸国の態度に懸念

WHOの保健緊急プログラムの責任者であるマイケル・ライアン氏は、安易に渡航制限を施行しないように各国に警告した。

そして各国のパニック的な渡航制限の実施を「条件反射的反応」(Knee-jerk reaction)と呼び、批判した。

南ア外務省はライアン氏の発言を引用し、「今回の各国の渡航禁止措置は、先進的なゲノム配列解析を行い、新たな変異株をいち早く検出してきた南アフリカ共和国に処罰を与えるようなものだ」と批判している。

また、今回のゲノム解析を行ったナタール大学感染症対応センターのオリベイラ教授は、「世界は南アとアフリカに支援を与えるべきで、差別したり孤立に追い込んではならない」と述べた。

その上で、「南アフリカ共和国は科学情報についてきわめて透明性を持って対応している。我々は世界を守るために、大規模な差別に痛めつけられる可能性があるにもかかわらず、こうした通知を行っている」と述べた。

WHOが所管する法的拘束力を有する条約には2つあり、そのうち一つが「国際保健規則」である。同規則では、公衆衛生上の懸念ある事態について、アセスメントした後すみやかにWHOに通報することを義務付けている。

今回、WHOの臨時の世界保健総会で検討されるのは、パンデミックに関して、この国際保健規則よりさらに包括的な条約を制定することである。

臨時世界保健総会では、「次のパンデミック」に関する、通知などを含めた備えの話を粛々と行うことになっている。しかし各国のパニック的対応を見た多くの国は、「こうした国際規則上の通報義務を履行しなくなるのではないか」、とオリベイラ氏は懸念する。

南アフリカ共和国は、COVID-19パンデミックが始まった時から、グローバルなCOVID-19対策についてリーダーシップを発揮してきている。南アは、2020年4月に発足した「ACTアクセラレーター」計画の共同議長を務めている。これはワクチン、診断、治療における開発と供給を一体で手掛ける国際的な行動計画である。

また、インドとともに世界貿易機関(WTO)に知的財産権保護免除提案を提出している。これは、まだ実現はしていないものの、各地域で生産能力の拡大プログラムが徐々に広がってきている。

一方、南部アフリカへの渡航制限を行った欧州の先進国は、ワクチンを独占し、南アを含む途上国との間に「ワクチン・アパルトヘイト」ともいうべき格差を生み出した。もしこのギャップがなく、途上国にも公平に医薬品が供給されていれば、「オミクロン株」やデルタ株のような変異は生じなかった可能性がある。

ボツワナでも保健省が声明発表:感染は外国からのミッション

一方、オミクロン株が最初に検出された南部アフリカのボツワナの保健省も、ボツワナにおける同株の展開について声明を出している。

これによると、もともとオミクロン株が最初に検出されたのは、ボツワナ国民ではなく、外交ミッションで訪問した4名の外国人外交官であった。その後、同保健省は濃厚接触者の追跡を行ったが、同株に感染した人はいなかった。


……………………………………………………………………………………………………………………
鈴木(編集者)のブログの下記の記事もご参照ください。






peoplesworld_tag

July 29, 2021 
EILEEN WHITEHEAD
「アメリカ帝国主義は、誰も見ていない間、
“アフリカの角”で何をしているのか」

ammoload
CH53ヘリの.50口径機関銃に弾薬を装填する海兵隊員(ジブチのレモニエ基地)

前文

アフリカで何が起こっているのかというニュースを見つけることはほとんど不可能です。まるで大陸がメディアのレーダーから完全に離れているかのようです、
しかし、そこで起こっていることは全世界に影響を及ぼします。この地域が非常に多くの政治的干渉にさらされている理由を、私達は理解する必要があります。


アフリカの火薬庫「アフリカの角」地域

アフリカの角は、ウガンダ、スーダン、南スーダン、ケニア、エリトリア、ジブチ、エチオピア、ソマリアの8か国で構成されています。

これらの国々は国際的な介入と干渉の犠牲者です。それは、ジブチとエリトリアからソマリアとエチオピアまで、この地域で極端な不安定化を引き起こしています。

20210404ax01S_p
          時事通信より転載

西側の帝国主義者は引き続き独裁者を支援し、民族自決の試みを阻止します。一方、西側の支援を受けた湾岸諸国は、この地域をお互いの覇権をめぐる戦場に変えています。


冷戦終結と単極世界

冷戦の終わりに、米国の中核的権力集団は、覇権的な野心と衝動に駆り立てられて動き始めました。そして、彼らの「指導」の下で機能する単極世界を形作り、自らのもとに統合しようと考えました。

そこには世界をいくつかの勢力圏に分離する計画が含まれていました。これは、厳選されたいくつかの代理人国家、いわゆる「アンカー」によって制御されます。今日蔓延している世界的および地域的危機の主な原因は、この誤ったシステムに帰することができます

そして、アフリカの角に見られる苦痛は、その証明となっています。この地域は地政学的に重要であるため、米国の干渉を受けています。

ジブチ共和国は、紅海のアフリカ側の海岸にあり、エジプトのスエズ運河を経由する重要な航路の南の入り口にあります。この小さな国は、1億1000万人以上の人口を抱えるエチオピア、1500万人以上のソマリア、600万人以上のエリトリアに囲まれています。

世界最小の国の1つですが、ジブチは現在、アフリカのどの国よりも多くの米軍要員を受け入れています。アフリカに派遣されている、およそ4,000人の米軍要員がジブチに集められ、何年もそこに配置されています。

レモニエ基地はアフリカで唯一の恒久的な米軍基地です。それはアルカイダなどの過激派グループに対して、監視・戦闘の重要な前線基地として機能しています。

ここで興味深い事実をお示しします。

米国はスーダンがサウジアラビアに軍隊を提供することに異議を唱えていないのです。スーダン軍はサウジアラビアに手を貸し、イエメンでの殺人行為を支援しています。


アフリカにおける米国の軍事的プレゼンス

ジブチは特に軍事力が集中しているところですが、ジブチだけではありません。米国は事実上すべてのアフリカ諸国で、軍事的存在感を増しています。

2021年6月の米国防総省文書によると、アフリカ大陸のほとんどの国に、少なくとも一定数の現役軍事要員が非恒久的に配置されています。

アフリカにおける米国の戦略は、主にアフリカ諸国の軍事力を装備・充当することです。そして、フランスなどの旧宗主国がそれらの国の安全保障能力を構築し、地域を安定させるのを助けています。

ただしその戦略は十分には機能していないようです。

米軍要員が2番目に多い国はニジェールで、約800人が配置されています。続いて、ジブチの隣国であるソマリアに約400人の米軍要員がおり、カメルーンには100人の米軍要員がいます。


米国の誤った政策の悪しき影響

米国はアフリカに対して本来の戦略に適合しない拙劣な政策を取り続けてきました。それがどんな影響を与えているか、箇条書きにすると

*国家と国民の主権への侵害。

*重大な国際法違反の行動。

*他国の内政への干渉。

*脅迫等の力の論理に基づく行動スタイル。

*地域、国際的な世論を抑え込み、無力化し、米国の影響下に置く。

* その結果起こる不団結を、相互対立と二極化、危機、紛争などを引き起こすことにより混迷へと導く。

*その中で反抗的な勢力の悪魔化、非難、制裁、懲罰を進め、特定の文化的・習慣的規範を押し付ける。

これらのグローバルポリシーに加え、有害な地域および国内政策も追加されます。種族対立、腐敗、原理主義・過激主義、テロなどがその中身です。

私達はいま、「アフリカの角」が、地域としてもそれぞれの国でも、甚大な被害を受けているのを見いだします。


アメリカとNATO軍によるリビア干渉

米国政府の対アフリカ政策は、アフリカの人々に致命的な結果をもたらした歴史を持っています。現在のバイデン政権で主要ポストを占めているうちの何人かは、10年前、米国主導のNATO軍のリビア干渉の共犯者でした。

リビア干渉は、当時の支配者ムアンマル・ガダフィによる虐殺の脅威から「民主化」活動家を保護することを目的とするかのような装いで「合理化」されました。しかし、それは実際にはリビアがアメリカとNATOの戦略的利益に脅威を与えたためでした。

米国とその同盟国は、数千人のリビア人を殺害し、傷つけました。ヒラリー・クリントン国務長官など米国の指導者は、カダフィ殺害の場面を録画したサディスティックなビデオ録画に、特別な満足を感じたといわれます。

米国とEU-NATO諸国は、エチオピア、アフリカの角、その他どこであろうと、アフリカ人の生命に真の懸念など抱いていません。彼らの唯一の関心は、彼らにとっての地政学的利益だけです。


エチオピアにおける米国の地政学的利益

エチオピアとエリトリアでは、地政学的利益は次の三つです。

* 紅海の出口、バブ・エル・マンデブ海峡は世界のエネルギーを確保するために重要なポイントとなっている。ここを確保し、エネルギー問題における決定的な影響力を保持すること。

* この地域における中国の橋頭堡形成に挑戦すること。

* 米国アフリカ軍(AFRICOM)にとって、アフリカに残された唯一の非支配国がエリトリアである。そこから自立権を剥奪し、支配下に置くこと。(エリトリアは鎖国政策をとり、“アフリカの北朝鮮”と言われる)

アフリカは、何世紀にもわたるヨーロッパの植民地支配と、何十年にもわたる米国と西ヨーロッパの新植民地主義のために、未発達なままにおかれ、経済・社会的に不安定化しています。

先進国のプロパガンダが私たちを信じさせようと流している、国民内部の問題や国内的要因のためだけではありません。


米国は直接介入を狙っている。

いまアメリカ帝国主義は、かつてリビアに対してしたように、「アフリカの角」に関して誤情報とニセ情報を広めています。彼らは「アフリカの角」の複雑さ、歴史的背景、政治的現実を悪用し、真の姿を歪曲しようとしています。それは、より直接的な介入のための口実を作成するためです。

アントニー・ブリンケン米国務長官は、2021年5月23日、プレスステートメントで次のように述べています。
ティグレ地方(エチオピア)の危機の解決を妨害する者は、事態の逆転に失敗するだろう。
その場合、彼らは、米国と国際社会からのさらなる反撃を想定しておくべきだ。
私たちは諸国政府に私たちに加わり、ともに行動をとるよう呼びかける。
最近のインタビューでアミナ・ママ教授はこう語っている。

アミナ・ママ: カリフォルニア大学デービス校のジェンダー、セクシュアリティ、女性学プログラムの指揮者。

社会の暴力化、武装闘争、内戦、軍事政権はアフリカにつきものとなっている。それはアフリカにおける民主化、開発、ジェンダーの公正に向けた進歩にとって重大な障害である。
また軍隊組織、言論、慣行のすべてに蔓延する陰謀的世界も、重大な政治的、社会的、文化的、経済的影響を与えている。

必要なのは公正な平和


いまこの地域には公正な平和が必要です。そのためには真の安全保障の条件に基づき地域を非軍事化する戦略をもたなければなりません。そして進歩の文化を発展させる必要があります

これは、現在アフリカ社会に非常に多くのレベルで浸透している軍国主義の破壊的な遺産を変革するための知恵を提供します。

しかしそれは米国の基地が大陸に張り巡らされ、軍事要員が縦横無尽に動き回っている間は不可能でしょう。

……………………………………………………………………………………………………………

この記事は、オーストラリア共産党の機関紙「ザ・ガーディアン」から転載されたものです。

  Scroll.in

Sudan’s coup has put regional security at risk. It’s time for the world to act

Anne L Bartlett      

…………………………………………………………………………………………………………

スーダン 軍事クーデターに至る経過

スーダンのクーデターはおなじみのパターンに従っている。短い期間の民主主義が突然終わり、腐臭を放つ権威主義的な独裁に帰っていく。

ただし、今回はその代償がかつてないほど高くなっている。スーダン本土よりさらに広い地域と東アフリカ地域の安全も危険にさらされている。危険で相容れない利益が解き放たれるだけでなく、国をバラバラにしてしまいかねない緊張が生じている。

2019年、オマル・アル・バシールの国民会議党政権が崩壊した。それは30年間の権威主義的支配を終わらせた。しかし、それはまた、この期間の諸勢力間の力関係が複雑化したことも意味する。その変化は注意深く管理する必要があった。

たしかに平和と正義も危機に瀕しているが、いまもっとも危険なのは国の統一性そのものである。
sudan map



スーダンの国家内で対立する諸勢力

スーダン社会は、イスラム強硬派、国軍、政党と多数の政治グループ、そして武装民兵に分かれていた。それらはすべて、「我こそスーダンの利益を代表している」と主張した。

バシル政権に代わり登場した暫定政府は、能力を超える試練を課せられた。

金融危機のどん底にある国家財政を管理するだけではなく、国家権力の分割協定まで受け入れざるを得なくなった。その結果、政権発足後23ヶ月で破産した。

クーデターにより権力を握った軍は、2023年に選挙が行われるまでの18ヶ月間統治を続け、その後民政移管する予定となっている。

暫定政権が解消されたということは、相争う国内党派や組織が権力の空白状態の中に解き放たれたという恐ろしい事態を意味する。諸党派はみな、自分の権益を守ることに関心を集中させている。それらはスーダンの国境をはるかに超えて広がっており、世界中のいろいろな紛争とつながっている。


イスラム過激派とスーダン

スーダンのイスラム教運動には、バシールの国民会議党の元メンバーが含まれている。しかしそれだけではない。国民会議党には、故ハッサン・アル・トゥラビの系統を継ぐ過激派が含まれている。

トゥラビはスーダンのイスラム原理派のイデオローグであり組織者でもある。その勢力は1983年以来スーダンに浸透しており、スーダンの国策を左右してきた。

彼らは、1991年から1996年にかけてオサマ・ビン・ラーディンを全面支援してきた。スーダンの過激派のもとで、ビン・ラーディンはスーダン国内にアルカイダの基地と実力部隊を建設した

トゥラビは、1998年の大使館爆破事件の責任者であるエジプトのイスラム・ジハード団とも関わり、ヒズボラ、パレスチナ解放機構、その他多数の組織と繋がっている。

スーダンのイスラム主義者は、カタールとトルコの同盟によって支援されてきた。そして、少なくとも今回の革命までは、イランおよびサウジアラビア、そしてアラブ首長国連邦などの湾岸諸国と付かず離れずの関係を続けてきた。

イスラム主義者の多くは、今回の革命後に投獄されたり、隠れたりしてきた。そして今度は、クーデターを主導した「自決評議会」軍人グループによってだまし討ちにあった。


軍事クーデターの指導者

「自決評議会」を支えている軍内実力者は国軍のアブデル・ファッタ・アル・ブルハン将軍(Abdel Fattah al-Burhan)、そして実行役の迅速支援部隊隊長モハメド・ハムダン・「ヘメディ」・ダゴロ(Mohamed Hamdan “Hemedti” Dagolo)のふたりである。

この「評議会派」の二人は、政治的はプラグマチックであり、ともに血塗られた武闘派である。彼らはスーダンの支配をめぐり分裂の危険に悩まされている。

アル・ブルハンはダルフールでの大量虐殺の原因となった軍の立役者と見られている。

ヘメディはダルフールの焦土作戦の最前線にたち中心的役割をになった。ダルフールのジェベルアメールでの違法な金採掘事業にも関わっている。また2019年6月3日におきた「ハルツームの虐殺」の指揮官でもある。

buruhann
         自決評議会議長のブルハン将軍

近年、このグループはエジプト、サウジアラビア、アラブ首長国連邦からの支援を受けている。その少なからぬ理由は、ヘメディがサウジアラビアに依頼されて、イエメンのフーシと戦うために「迅速支援部隊」を派遣したためだ。


軍の力の拠りどころ

国軍内には軍事産業公社やal-Junaidなどの多数の持ち株会社がある。それらは規制されていない金の採掘、建設、石油、航空産業に関わり、他国との武器取引や海外の傭兵収入を通じて得られる違法な収入源を確保している。

収入の多くは政府の財源を迂回して海外の彼らの個人口座に入る。

この収入は、政府が軍事部門を攻撃しようと図ったとき、それを財政的に不可能にする。また秘密資金は、彼らの利益を支援するために、あらゆる場面で活用される。

たとえばハルツームで「レンタルの群衆」を組織する。そして文民政府を攻撃し弱体化させたり、自分たちの要求を代弁させたりする。


文民政府の失敗の原因

このような状況を考えると、文民政府は不可能な課題に直面し、自壊の道をたどったと考えざるを得ない。彼らは、軍閥やその国外の支持者を経済的に打ち負かすことができなかった。

スーダンは重債務国として、財政状態がきわめて悪い状態にある。税収は低く、軍の収入にはアクセスできず、先進国の債務救済はほとんど望めない。

いまスーダンの市民は、軍事評議会に対する勇敢な不服従のキャンペーンを行っている。

彼らには軍の攻撃を押し戻す可能性がある。 しかしそのためには、アル・ブルハンとヘメディを支持する国々に大きな外交圧力をかける必要がある。さらに政府を迂回する違法な収入源を摘発する国際的な調査・行動に記入に注力すべきであろう。


いま緊急に必要なこと

手遅れになる前に行なっておくべきアクションがある。。

軍隊とイスラム主義者とは生来の仲間ではない。しかし何年もの間、軍は過激派の活動を見て見ぬ振りをしてきた。そのことから利益を得てきた。

湾岸諸国およびそれ以遠の諸国には強力なイスラム過激派組織がある。

スーダンのイスラム過激派がそれらのスポンサーと組んで、危険な権力闘争にいどむ可能性はこれまでになく高まっている。政府軍に対抗できるだけの強力な武装が実現すれば、それは「ソマリア型内戦」を招くことになるだろう。

スーダンの民間人、ティグレからの難民、そしてサヘル(サハラ砂漠の南部)一帯の民衆にも影響を与えるだろう。そうなれば、ヨーロッパの国境地帯にふたたびアフリカからの難民があふれかえることになるだろう。

最近のスーダン危機から何かを学ぶとしたら、国造りというのがいかに困難な課題であるという認識だが、それに代わる案はさらに悪質なものとなる可能性があるということだ。

その悪夢は急速にスーダンに近づいている。問題は、手遅れになる前に、国際社会がそれを防止することができるかどうかにかかっている。

…………………………………………………………………………………………………………………

「大変だ、大変だ!」と八五郎のように叫んでいるが、「大変」な中身が、「ヨーロッパにまたアフリカ人難民が押し寄せるぞ!」というのでは、いささか鼻白む思いだ。

とはいえ、現地の力関係やイスラム過激派との関係など、他で得られない貴重な情報が詰まっている。

いちばん納得したのは、タイやミャンマーなど軍事独裁の裏側はどこも瓜二つの構造だということだ。
ラテンアメリカでは民衆の勢いが強いことから、与野党が立場を変えているが、かつてのタクシン親子、アウンサン・スーチらのことを思い出せば、基本的な政治構造は変わっていないことがわかる。

基盤にある問題は、コロナ・ワクチン接種率5%という、21世紀の「暗黒大陸」の現実だ。ネグレクトにせよ内政干渉にせよ、そこに先進国の影を見ることはきわめて容易だ。

ニューヨークで発行されている「ブラックスター」という黒人誌の記事です。原題は「ギニアのクーデター:無益な大統領から無益な軍事政権へ」となっています。
「良いクーデター」はありませんが、有益なクーデターはある、それが1983年にブルキナファソで起きたクーデターであり、トーマス・サンカラの革新政権だった。わずか4年後にフランスの仕組んだクーデターで政権は打倒され、サンカラは殺されてしまうが、その功績はいまだに不滅である。サンカラ後のアフリカでは、サンカラの政治がすべての政権の有益さのものさしになるだろう。
ということで、「今度のギニアのクーデターに関しては、評価を少し保留しよう」という呼びかけのようです。

GUINEA COUP: WILL USELESS PRESIDENT CONDE BE REPLACED BY USELESS MILITARY?
BLACK STAR NEWS EDITORIAL
SEPTEMBER 06,2021




アルファ・コンデ大統領

アルファ・コンデ(83歳)は無益な(useless)大統領だった。

昨年、彼は憲法を強引に改正し、大統領の任期制限を撤廃した。そして彼が3期目の大統領になれるようにした。彼は、他の多くの政治家がアフリカで行ったように、自身の利益のために憲法を細断し蹂躙した。

いい厄介払いだ。

しかしコンデに代わった陸軍司令官も似たようなものだろう。彼はフランス軍の元外人部隊将士官で、新植民地主義者の訓練を受けた人物である。

クーデターというのは、みな、そうしたものだろうか?
ahurika
サブサハラ諸国

サンカラの精神

1983年、オートボルタのトーマス・サンカラは、クーデターで権力を掌握した後、野心的な変革を試みた。

トーマス・サンカラが権力を握ったのはわずか4年間だった。しかしその間に、彼はアフリカの政治に新たな息吹を注いだ。

サンカラは何百万人ものアフリカ人の希望を取り戻した。サンカラは、権力が正しく用いられれば、アフリカ人の生活を変えることができることを示した。サンカラが権力を握ったわずか4年間で、彼はアフリカの政治に新たな息吹を吹き込んだ。

Thomas-sankara
ウィキペディアより

彼は何百万人ものアフリカ人に希望を取り戻した。サンカラは、政治権力というものが適切に行使されると、アフリカ人の生活を変えることができるのだということを示した。

だが、ギニアの新しい統治者ママディ・ドゥンブヤ(Doumbouya)中佐が同様の道を取るとは考えられない。


サンカラのやったこと

サンカラは国名をブルキナファソ(Burkina Faso)に変更した。それは「立ち上がった人々の国」という意味である

サンカラは腐敗とエリート主義と戦った。

彼は彼自身を含むすべての役人の給料を減らした。彼はメルセデスベンツのような豪華な公用車を禁止した。

彼は地方の自治体を組織し、成人教育を提供し、権力を草の根に移した。彼は人々を動員して何千もの地方の診療所や学校を建設した。

彼は食糧生産を促進し、3年以内に食糧を自給可能にした。彼は、織物・被服産業を手始めとして自国民の産業を促進した。そしてフランスなど植民地勢力への依存を打破することを目指した。

多くの西側の指導者でさえ環境問題を無視していたとき、彼は何百万本もの植樹を促進した。そして彼は、女性を重要なポストに付け、軍隊に採用することによって女性に力を与えた。


サンカラを襲ったクーデター

サンカラを襲ったクーデターは、アフリカではもっともありふれたものだった。

サンカラは1987年10月にクーデターで政権を逐われ殺害された。そのクーデターはフランスの要請に基づき、軍のNo.2のブレーズ・コンパオレ司令官によって実施されたものだった。

サンカラは、フランスが危険すぎると考えた人物であった。なぜなら彼は、アフリカの指導者でさえも人々のために貢献できることを示したからだ。


サンカラを殺したのは誰か

サンカラは、西側の金融資本に異議を唱えたとき、超えてはならないレッドラインを超えた。

1987年7月にアディスアベバでアフリカ統一機構(OAU)の対外債務問題特別会議が開催された。OAUはAUに先行する組織である。

サンカラは会議で発言し、各国指導者に、対外債務を共同して一括放棄するよう訴えた。

彼は、「債務の負担がアフリカ諸国の発展を妨げている」と述べた。そして「返済された債務数十億ドルは、生産的な開発プロジェクトから抜きとられ、外国の貸し手を豊かにするために転用されている」と非難した。

サンカラは、ブルキナファソが単独で債務返済を拒否すれば、私は来年のOAU会議の前に殺されるだろうと警告した。

「彼らは私たち全員を暗殺することはできません」とサンカラは言った。

アフリカの指導者たちは、サンカラの提案に同意してうなずいた。彼が「暗殺されるだろう」と話したとき、彼らは笑った。

しかし、アフリカの敵は笑わなかった。

会議の3か月後、サンカラは殺害された。そしてサンカラの代わりに、フランス植民地主義者の操り人形であるコンパオレが権力を握った。


今度のクーデターの意味

ギニアでの日曜日のクーデターは当然のことだ。コンデ大統領が憲法を改正し、権力への道をブルドーザーで均らして以来、反対と抗議運動が続いていた。

首都コナクリの路上でクーデター賛成派のちょっとした祝賀デモもあったようだ。

しかし新しい軍事支配者が、サンカラのように驚くほどの革命的な改革を導入しない限り、数ヶ月以内に同じ人々が路上に戻るだろう。そしておそらく、軍を権力から排除するよう要求するだろう。

新指導者ドゥムブヤは放送で言った。

「私たちはもはや一人の男に政治を委ねるつもりはありません。私たちは国民に政治を委ねるつもりです」

しかしこれがたんなる言葉のあやなのかどうかは、しばらく時が経てばはっきりする。

アフリカの歩みを変えることができるのは、変革をもたらす気概を持った革命的なクーデターか、あるいは民衆の蜂起だけである。それこそが、西側の永続的な新植民地依存から、自分たちの運命を描こうとする国々への転換をもたらすのだ。


マリ、そしてチャドでも

2020年8月に軍がマリで権力を掌握した。その時、本紙の社説はマリの事件を「無益なクーデター」と呼んだ。

首謀者はアシミ・ゴイタ大佐だった。彼は9か月間、副大統領の地位に甘んじ、民間人と仲良く暮らした。そして2021年5月、この米国で訓練を受けた冒険家は、自分のために全権を掌握し、蜜月を終わらた。

チャドでは、2021年4月19日に軍事独裁者イドリス・デビが暗殺された。その後、軍はフランスの支援を受けて権力を掌握した。

軍はイドリスの息子のモハメット・デビを新しい独裁者に指名した。 しかし彼が長く権力を握る可能性は低い。

訳注: これら4国(ギニア、ブルキナファソ、マリ、チャド)はいずれも旧フランス領植民地であり、今もその強い影響下にある。


新型コロナとアフリカの政治・経済

新型コロナによるパンデミックはアフリカにおける商品の生産と輸出と観光を破壊した。そしてそれによって、すべての国の経済を弱体化させた。それは政治的圧力を高め、より多くの政権が崩壊する可能性をもたらした。

結局、政治家と軍幹部との権力闘争を終わらせることができるのは、アフリカの若者だけだろう。クーデターが発生したマリ、チャド、ギニアでは、若者たちが街頭で抗議していた。

確かに、これらのクーデターの多くは、軍のエリートによる絶望の表現である。彼らは、いつの日か、彼らが革命の奔流によって流されてしまうかと恐れているのだ。

望むらくは、ギニアの軍隊が1983年頃のブルキナファソのように変身して、私たちに「すまない、間違っていた」と謝らせるほどになってほしいものである。

Prensa Latina (Cuba)
Addis Ababa, Aug 28 

エチオピア ティグレ人民解放戦線と交渉すべきではない


map

学識経験者たちが、政府とティグレ人民解放戦線(TPLF)との交渉を停止するようもとめた。
彼らはTPLFを平和への最大の脅威と考えている。

彼らは国際社会の一部とTPLF支持者の主張する「紛争の平和解決」に反対している。そして政府支持のデモを励ましている。

ジンマ大学の保健・衛生学部長であるS.メコンネンはいう。
TPLFとと交渉する理由はありません。それは道徳的に正しくなく、いかなる観点からも受け入れられません。
そのような選択は私たちの国を不安定にだけです。それは結局のところ屈辱的な交渉でしかありません。
ティグレイまで出向いて、相反する利益について議論しても、それはTPLFが国防軍(FDNE)の北部司令部を攻撃するための準備期間を与えるだけです。
「合意」は不公平です。そのような合意は破棄するべきです。
もしそれが「交渉」という名の下に生き残るならば、それは国を滅ぼすことになるでしょう。
アダマ科学技術大学の化学工学部長A.ゴンファはこういう。
議会によってテロリストと宣言された組織と交渉することは、倫理的にも法的にも賢明ではありません。
彼らがこの国を破壊しようと決意していることを示す証拠があります。交渉の提案は煙幕にすぎません。
TPLFとの議論は検討することさえ不可能です。
彼らは日々、民間人を虐殺しています。テロリストとして、みずからを確認している連中との取引はあり得ません。


Tom Lodge


The Conversation
August 6, 2021

The Conversation is a unique collaboration between academics and journalists that in just 10 years has become the world’s leading publisher of research-based news and analysis.

…………………………………………………………………………………………………………………………

この文章は、創立100周年を迎えた南アフリカ共産党が、なぜ闘う民衆の中で高い尊敬を払われてきたか、なぜいまも南アの政治の中で強い影響力を保持しているのかを、強固な労働闘争の伝統と一貫した非差別という二面から簡潔に解説しています。
…………………………………………………………………………………………………………

共産主義者は南アフリカの歴史をどのように形作ったか
党創立100周年を振り返る。

はじめに

最近まで、100歳まで生きることは、それ自体が祝う価値のあるものだった。イギリスでは、新しい百歳以上の人が女王から特別なカードを受け取ります。

同じ生誕100年を迎える共産党が南アフリカで維持されています。
その30万人ほどのメンバーは、シリル・ラマポーザ大統領から100周年を祝福するメッセージをもらえるかも知れません。

でも、彼らは党の長い寿命よりも祝うべきことがたくさんあります。
南アフリカ共産党は、109年の歴史を持つアフリカ民族会議(ANC)に次ぐ、アフリカで2番目に古い政党です。

しかし、共産党という政党としての厳しい生存条件下では、生存し続けたこと自体が成果です。南アフリカの共産主義者は、ライバルや敵よりも長生きしただけではありません。その歴史を見るなら、彼らは南アフリカの歴史を形作ったと胸を張って主張できるだけの成果を持ち合わせているといえます、

その成果は、私の著書「Red Road to Freedom:A History of the South African Communist Party 1921-2021」で概説したとおりです。
Mandela & Slovo
        ネルソン・マンデラとジョー・スロボ


南ア共産党の形成

最初に、彼らは南アフリカの人種的および社会的分裂を克服する政治的連帯活動を開始しました。

それは1921年に党を結成したときからのことで、黒人の南アフリカ人に入党を呼びかけ始めました。

10年後、数千人の黒人が仲間を率いて党に加わりました。それはほとんどの社会生活が、法律だけではななく、慣習によっても人種隔離されていた時代でした。

1948年以降、第二次大戦が終わった後、政府の強制するアパルトヘイトは、異人種間の接触をさらに制限するようになりました。

しかし、そのような閉じ込めはそれ以前はかなり広範でした。

「人種を超えた政治を」という党のコミットメントは、時々多少の揺らぎはありましたが、黒い南ア人人と白い南ア人が政治的目標を共有し、一緒に運動に取り組むことができるという具体的証拠を提供し続けました。

第二次大戦前、1930年代の初頭、白人共産主義者は有罪判決を受け、扇動罪で懲役刑を言い渡されました。なぜなら、共産党が世界大恐慌に立ち向かうために、黒人活動家にも決起を訴えたたためです。

今日南アフリカでは、共産主義者は社会的信頼関係の接合部分を広範囲にわたって占めています。国の政治が非差別的になったぶんだけ、彼らの活躍の分野も広がっています。

第二に、現代の南アフリカには、発展途上国で最も強力な労働運動の1つがあり、それは依然として政府の政策を形作っています。

その歴史的な意味合いは複雑です。職人組合や無政府主義者の運動もあり、共産主義者だけが労働運動の先駆者ではありませんでした。

しかし、1930年代と1940年代には、リトアニア移民のレイ・アレクサンダーのような人々が産業別労働組合を組織しました。それは労働運動の永続的な基盤を構成することになりました。今日の最も強力な労働組合のいくつかは、その系図の始まりを彼女の努力にまでさかのぼることができます。

ポートエリザベス市などの1940年代の共産主義者は大きな成果を上げました。ドライクリーニング労働者のレイモンド・ムラバは、ストライキ運動を孤立させないようにコミュニティで支援するための戦術を作り上げました。それは住民の企業への抗議から始まり、地域全体の闘いにしていく「同盟戦略」を練り上げました。


共産党の社会共同体における影響力

こうした労働運動の指導者と地域活動家の間のこの連合は、これから50年のちまで続くことになりました。そして1994年にアパルトヘイトを終わらせ、国家解放を可能にするのを助けました。

地方レベルでは、1940年代には労働組合員はしばしばコミュニティのリーダーでもあり、共産党に所属していました。

SACP 65
  SACP 65周年ポスター

彼らが最も忙しかった場所、たとえば東ケープ州のポートエリザベス郊外のニューブライトン、イーストランドに沿って分散しているタウンシップ(黒人住宅地)、またはケープタウンのランガでは、共同体指導者と組合活動家の共産主義者は、1950年代の党の非合法時代も組織化と動員を続けました。

ANCは1950年代に最も地方への定着を強め、体系的な存在感を示したのは偶然ではありませんでした。
なぜなら、1950年代のアパルトヘイトに対する「抵抗の10年」の大規模な行動は党のネットワークで培養されたからです。1940年代に共産主義者が最もよく組織された場所に、ANCは大きく根を張ったのです。

党はその他にも解放運動の発展に大きな功績を残しました。アパルトヘイトを押し付ける少数派の支配に対し、ANCが武力闘争を展開した時期があります。

この武力闘争を呼び水にして、1980年代に多くの種類の政治的行動が刺激され発展したのです。それはその時期において、確かに重要であり決定的だったのです。

その時、共産主義者は武力作戦の主要参謀メンバーのほとんどを率い、多くの前線部隊司令官を担いました。その後、夜間学校やその他の訓練施設を通じて、党は南アフリカの政治的指導者の歴代の幹部を育て上げました。

今日のANCは、組織内部での会話において、40年前にアンゴランの合宿で党のコミッサールが採用した専門用語と表現を今でも使用しています。それは何よりも、教育者としての永続的な影響力の証です。

例えばANCが構築しようとしている社会秩序を説明するため、「民族民主主義」の概念がよく使用されますが、この言葉は第二次世界大戦後に東ヨーロッパで発展した資本主義と社会主義の間の移行段階の概念に由来しています。


政治規範の転換における党の先駆的な役割の最後の例:

他のどの南アフリカの政治運動よりも早く、共産党は女性をリーダーシップに導きました。

党が創立100周年に当たり思い出すべき先駆者には、多くの女性が含まれます。
レベッカ・バンティング、ジョシー・ムパマ、モリー・ウォルトン、ドラ・タマナ、ベティ・デュ・トワ、ルース・ファーストたちです。


今日の南ア共産党

今日の南アは三頭立ての馬車に例えられます。統一戦線政党『アフリカ民族会議』(ANC)、南ア共産党、そして南アフリカ労働組合連合(コサツ)です。

共産主義者は、30年近くANC政府で重要な地位を占めてきました。

たとえば、シリル・ラマポーザの最初の内閣で共産党員は、貿易産業や高等教育を含む多くの大臣のポートフォリオに任命されました。他にも大統領職自体や財務省など、他の重要な役職を歴任してきました。党には数十万人のメンバーシップを数えることができます。

彼らはまだ歴史を形作っています。南アフリカの共産主義者は、政府への参加が本当の違いを生むと主張しています。公的雇用プログラムへの取り組みを強化し、工業の再活性化を促し、より良い貿易政策、そして学生への財政援助の増加を進めようとしています。

しかし彼らは、彼らの努力の多くが政治的腐敗と官僚的な非効率性によって帳消しにされていることも認めています。そして、政府の「新自由主義」マクロ経済政策を大幅に変更させることにも失敗したことを認めています。

共産党は、より市場規制を強化し、地元産業への支援と保護を手厚くすること望んでいます。  彼らは、公共サービスから民間企業への「委託」が拡大するのを嫌っています。

彼らは、公職が支援で左右されることを嫌い、それを制限する役割を果たそうと努力しています。当初、彼らはジェイコブ・ズマが大統領に就任しようとした時、彼を批評家から守ろうとした。

2007年ANC総会ではズマがANCの大統領候補になるのを手助けし、その後の大統領選での勝利にも貢献しました。


南ア共産党の未来

SACP

これからも共産主義者は、ANC内およびより広い政治的領域で強力なグループを構成すると思います。

しかし、彼らの支持は本当に重要かどうかはわかりません。党は独自候補者を立てているわけではないし、その支持者は選挙区を支配するものではありません。

ANC独自の内部投票においても共産党の動向は必ずしも支配的なものではありません。また、国や地方自治体の世論調査でも強力な影響力を発揮しているわけではありません。

党の最大の獲得すべき社会集団は、成長を続ける若い失業者です。党の現在の戦略的目的は「社会主義の能力を構築すること」である。

これには、地元産業の促進と公共サービスの提供の強化が含まれます。

このコースをたどることは、その課題の点では、過去に直面したものと同じくらい手ごわいものとなるでしょう。世界市場では、衰退している産業を、一般的に再建することは非常に困難です。特に労働者が権利を持っており、その結果、比較的高給である国では余計そうです。

南アフリカの初期の工業化は、黒人に対する強制労働体制の下で起こりました。そのときから、だんだんと熟練した産業労働力を構築するようになりました。

その間、間違いなく南アフリカの発展と、民衆の闘いの歴史は党とともにありました。

しかし今日、産業雇用は停滞または減少しています。このような状況下では、統一された政治基盤を構築することは非常に困難です。

現代の状況下では、希望と連帯が古い確実性に取って代わる必要があるでしょう。





「ルアンダ動乱」を考える

言いたいことがたくさんありすぎて、ちょっと論旨が散漫だ。

歳のせいも多少はあるかもしれないが、基本的には服部さんの饒舌ぶりに原因があるかと思う。

繰り返しも多いが、おそらく単騎、世界の世論に対決して螳螂之斧をもって立ち向かおうとする気負いと悲壮感のなせる業であろう。小見出しはあえて服部さんに従わず独自に付けてみた。


1.国際メディアが変だ

虐殺はひどいが、それだけではなく「動乱」全体を把握、分析、報道すべきだ。この点で納得できない。

米国東北部エスタブリッシュメントのメディアはひどく公正さが欠けている。日本のメディアには客観的で自主的な判断がない。


2.「動乱」の被害者は誰だ

50万人のツチ人が殺されたというが、ツチ族はルワンダ国民750万人の10%強なので、半数以上が殺されたことになる。これはにわかに信じがたい。

一方、愛国戦線の報復を恐れたフツ族は大量に国外脱出した。国連難民高等弁務官の調査では総数411万、うち隣国に221万とされる。

これらを足したものが、動乱の被害者であることを看過すべきではない。


3.「愛国戦線」(ツチ)は正義の味方か

アメリカのメディアは「愛国戦線が正義の軍であり、フツ族が無条件に悪い」との姿勢をとっている。

しかしそもそも事の起こりは、愛国戦線がウガンダから武力侵攻したことにある。彼らは大統領機撃墜と同時並行でルワンダへの一斉攻撃を開始している。

大統領機撃墜事件の犯人は特定されていないが、携帯型地対空ミサイルはルワンダ軍にはなかった。
そもそも愛国戦線が最大受益者であることは間違いない。

愛国戦線は否定するが、短期間に400万のフツ人が国内外に逃亡したことは、武力による強制があったと考えざるを得ない。

愛国戦線は大統領を暗殺し、一斉攻撃を仕掛け、政治権力を獲得し、国民の過半数を国外に放逐し民族浄化に成功した。

それが、結果的にツチ人大量虐殺の発生により覆い隠された。


4.ツチ族への恐怖には歴史がある

ルワンダは19世紀末までは、少数派のツチ族が支配する王国だった。その後第一次大戦が終わるまでドイツ、ついでベルギーの植民地となった。支配国はツチ族による王政を継続したため、フツ族は二重の支配に苦しめられた。

60年からフツ族の反乱が始まり、国連監視のもとで国民投票が行われれ、共和国として独立することになった。

圧倒的多数派のフツ族が大統領選に勝利したが、ツチ族の一部は繰り返し国外から越境攻撃を繰り返した。

つまりツチ族の支配層は、かつて少数支配者であり、植民地時代には白人の協力者であり、独立後は政権転覆を狙う武装した撹乱者であった。

たしかに、そのたびに国内のツチ族への報復も繰り返された。しかし一般には武装勢力とツチ族市民は区別され、共存関係は保たれた。


5.愛国戦線の「黒幕」はウガンダだ

愛国戦線はウガンダで組織され、兵の訓練、武器の調達もウガンダで行われている。軍の指揮を執るのはウガンダ陸軍の将校である。

アフリカ諸国が加盟する「アフリカ統一機構」はウガンダの行動を憲章違反と非難した。

この共通認識があったから、タンザニア、ザイールなどが軍を派遣し、ベルギーも出兵した。フランスはルワンダの正式要請を受け派兵した。

これがメディアの言う「外国の干渉」の実体である。(ちょっと鵜呑みにはできないが)

これらについて米国メディアは沈黙を守り続けた。


6.愛国戦線による「民主主義」の実体

論理的に考えて、人口の1割しかいない少数派が、武力で政府を転覆して、9割の多数派の半分以上を国外に追い出して作られた政権が民主的であるわけがない。

フツ族はツチ族の多くを虐殺したゆえに、すべての結果を甘受しなければならないのか。


7.フランスへの非難は的外れだ

ルワンダがフランスから装甲車を買ったのは間違いない。それは服部さんが中央銀行総裁だったときからであり、別にフランスの軍事援助という性格のものではない。

むしろ政府軍を遥かに上回る装備をもつ「愛国戦線」の武器の出どころを問題にすべきだろう。なぜならそれば防衛用の装備ではなく攻撃用のものだからである。

誰かがウガンダ政府を経由して愛国戦線に供与したのだから、そこに「大国の影」を見るべきではないか。

8.日本政府が行うべきこと

このあと、日本政府がとるべき態度についても言及が行われているが、今ではすでに問題意識も含めて陳旧化しているので省略する。




かなり重複を省き、整理したつもりだが、それでも「要約」というには長すぎる。

取り上げた内容は、今日でも地域紛争問題に取り組むにあたって重要な示唆を含んでいる。

反省を込めて、もっとも痛感したのは、問題意識を報道の枠を超えて広げることの大事さだ。

ここではルワンダ住民虐殺事件ではなく、「ルワンダ動乱」という枠組みの提示がそれに当たる。

この視座を持たないと、善人があっという間に悪人に仕立て上げられる。

最近なぜか、服部正也「ルワンダ中央銀行総裁日記」が話題になっているようだ。
しかしなぜ話題になっているか、よくわからない。
街に出たついでに本屋に立ち寄ったら、なんと平積みされている。図書カードに1,000円残っていたので買ってしまった。
よく見ると、本そのものは、増補版となっているが2本の小論が足されただけ。しかもその増補版はもう11年も前に増補されたものだ。

結局、今話題になっている理由は、SNSの世界で売れていると言うだけの話のようだ。

というわけで「わざわざ買うほどのものではなかった」と言いつつ、「買ったからには読んでみるか」とはじめたらまたまたハマった。これで3回めである。

2回めを読んだときの感想をブログにアップしている。それが
だ。

それだけなら、それだけの話しなのだが、実は増補部分を読んで、頭を金槌で殴られたような気分である。

この時、すでに増補版は出ていて、服部さんの「抗議の叫び」も発せられていたのだが、そんなことは知る由もなく、初版本を読んで済ましてたのだ。

そしてまさに服部さんが批判する欧米リベラルの眼で、ルワンダを眺め、ツチ族の樹立したカガメ政権をほめ讃えていたのだ。

穴があったら入りたいくらいだ。

今さら書き直しはできない。自己批判を込めて、服部さんの論考の要約をしておきたい。

ベネズエラをめぐる報道で、骨身にしみているはずなのに、欧米メディアの宣伝にやすやすと乗ってしまった自戒を込めて。

もちろん服部さんの主張を10割認めるというものではない。ただ、淡々と要約するだけである。

要約と言っても、かなり長くなりそうなので、一度稿を改めることにする。人間を肩書きで判断してはいけないことを重々承知の上で、服部さんの履歴を書いておく。
1908年の生まれで1930年に東大を卒業し日銀に就職。ラバウルの海軍基地で終戦を迎えた。この時すでに37歳だ。復員後日銀に就職。65年にルワンダに赴任するが、この時57歳。当時の感覚から言えば定年後の御奉公だ。虚心坦懐、明鏡止水の心境であろう。

そして6年の奮闘の後ルワンダを離れたがその後も世銀等で活躍した。

“ルワンダ動乱” は94年、この時服部氏はsでに86歳。普通なら感想をもとめられても断るはずだが、敢然として一文をものされた。敬服の至であるが、それ以上に服部氏がルワンダに注いだ深い熱情がうかがわれ、感慨深いものがある。

のっけから話が長くなった。


先程、「2020年 バッタの大発生」を上げたが、どうも納まりがつかない。
最初は勢い込んで書いたが、「すごいぞ、ひどいぞ」の繰り返しでは続かない。
6月のナショナル・ジオグラフィックでは、東アフリカ諸国の約1300万人がすでに「深刻な食料不安」に陥っているという。深刻な食料不安とは、丸1日何も食べられないか、食料ゼロの状況のことなのだそうだ。
であればもっと緊急援助が求められても良さそうなものだが、どうもそれほどのものではなかった可能性がある。

それと、パキスタン・インドに飛んでいった連中は今頃どうなっているのだろう。あまり話を聞かないところを見ると死に絶えてしまったのだろうか。あれだけ大騒ぎしたメディアはそれなりのけじめをつけてほしいものだ。

9月のバッタ分布

最近の動きは「スプートニク」の通信が詳しい。これによると、エチオピアの状況は3月ころに比べ、とうてい収まっているとはいえない。あのころ予想された被害は、いまでは現実のものとなっている。過去数十年の間に例を見ないような大損害となっている。

ただしこれはいったん収まった後の再飛来によるものらしい。当時一番ひどいと言われたケニアではいまやバッタの姿は見られない。


2020年 バッタの大発生

これは1ヶ月ほど前の日経新聞。コロナ禍の状況について書かれた記事の一節である。

18年にアラビア半島南部で発生したサバクトビバッタが海を渡り世代交代を繰り返しながら20カ国以上に広がり続けている。
ケニアでは過去70年で最悪の事態になった。パキスタンは非常事態を宣言した。6月にはインドにも襲来し、ニューデリー郊外まで迫った。
中央アジアや南米でも別の群れが発生した。
国連食糧農業機関(FAO)は、東アフリカだけで2千万人が食糧危機にさらされるだろうと予測する。

ところが、最近は一向にバッタのニュースを聞かない。どうなったのだろうか。

日経の少し前の記事から、順を追ってみよう。

最初は2月4日、カイロの特派員の署名記事。

アフリカ東部で大量のバッタが発生した。1月以降、エチオピアやソマリアで大量発生し、隣接するケニアにも広がった。

現地では農薬を散布しているが、追いついていない。エチオピアでは大群が空を覆い、旅客機が緊急着陸を余儀なくされた。

1月30日、国連食糧農業機関(FAO)は過去70年で最悪の被害となり、1200万人ほどが食糧危機の状態にあると指摘した。

バッタの凄さ:
バッタは自らの体重分の農作物や牧草を毎日消費する。食料確保のため、1億匹ほどの大群が1平方キロにひろがり、約150キロメートルを移動する。
この群れは1日で3万5千人分の食料を食べ尽くす。

大発生の原因:
インド洋西部の海水温度の上昇が、東アフリカの温暖化をもたらし、バッタの大量発生を招いたとされる。
これは「インド洋ダイポールモード現象」と呼ばれる。

農業被害の重大性:
ケニア、エチオピアなど東アフリカの最近の経済成長は3%台が続いてきた。
いずれも農業生産がGDPの3,4割を占める農業国である。農産物は主要な輸出品となっており、減産の影響は各方面に及ぶ可能性がある。

次が3月3日の記事で、こちらはニューデリーの特派員の報告
カイロからの初報よりは格段に詳細である。
見出しは
バッタ大量発生、農作物の被害拡大
アフリカ東部から南西アジアへ波及

まず被害の現状:
ケニアでは1000億~2000億匹のバッタが約2400平方キロメートルの範囲で農作物を襲っている。バッタはタンザニアや南スーダンにも飛来。
東アフリカ全体で約1200万人が食糧危機に陥っている。

インド・パキスタンにおける大発生の予感:
FAOによると、パキスタンとインドの国境に近い地域では2019年8月ごろからバッタの大群が飛来した。そのうち100億匹ほどが現在もとどまり大発生のチャンスをうかがっている。
6月までにバッタの数が500倍に増える恐れがある

大発生の要因:
気象要因としては、東アフリカの温暖化のみならず、砂漠地帯への多雨の影響があるとしている。
これにより繁殖環境が整えられ、繁殖期間が長くなった事が上げられる。

3月13日には、日経と連携するナショナル・ジオグラフィックの科学的解説記事が掲載されている。これは2020年2月25日付のナショナル ジオグラフィック ニュース に載せられた記事の翻訳である。

バッタ大発生の気象学的要因

今年大発生したバッタは、正式にはサバクトビバッタという。乾燥した地域に生息していて、大雨が降って植物が繁茂すると大発生する。

海面温度の上昇は嵐のエネルギーを高め、サイクロンの発生頻度を増やす。

東アフリカとアラビア半島では、過去2年間でサイクロンに複数回見舞われるなど、異常に雨の多い天気が続いた。これが引き金となっているのであろう。

これらの台風の犯人が「インド洋ダイポールモード現象」といわれ、インド洋の東西で海水温の差が生じる現象である。早い話が大平洋におけるエル・ニーニョとラ・ニーニャのインド洋版だと思えばよい。オーストラリア東部の森林火災とも関連する。

バッタ大発生をもたらしたいくつかの偶然

大量発生のきっかけは2018年5月のサイクロン「メクヌ」だった。これがアラビア半島南部のルブアルハリ砂漠に雨を降らせ、砂丘の間に多くの一時的な湖が出現した。ここで最初の大発生が起きた。

サバクトビバッタの寿命は約3カ月で、その間に繁殖する。繁殖の条件がよければ、次の世代のバッタは20倍にも増える。

2018年のサイクロンによって、生息するバッタはざっと8000倍に増えた。

その後アラビアで再砂漠化が進むと、バッタの群れは移動を始めた。2019年の夏までに、それは紅海を飛び越えてエチオピアとソマリアに渡った。

そこにもう一つの不運が重なった。2019年10月に東アフリカの広い範囲で激しい雨が降り、季節外れのサイクロンが上陸したのだ。

またバッタの上陸地点となったイエメンとソマリアでは駆虫剤を散布するだけのお金がなく、バッタの為すがままとなった。

破竹の進撃
図を転載しようと思ったが、著作権を侵害しそうなのでリンク先のみ掲げておく。とても良い図です。


バッタの群れは繁殖を続けながら南に向かった。2020年の1月にはケニアで過去70年で最悪の規模の蝗害が発生した。

ジブチとエリトリアでも蝗害が始まり、2月9日にはウガンダ北東部とタンザニア北部にバッタが到達した。

今後の対策

FAOが国際社会に対し、蝗害に苦しむ5カ国のバッタの駆除と農民・牧畜民の援助のために7600万ドル(約85億円)の緊急支援を呼びかけた。

その後の日経記事はほとんど会員限定記事で読めない。

6月5日にはふたたびナショナル・ジオグラフィックの記事「コロナと同じ深刻さ バッタ禍の第2波が招く食糧危機」

FAOによれば、エチオピア、ケニア、ソマリア、ジブチ、エリトリアの約1300万人がすでに「深刻な食料不安」に陥っているという。深刻な食料不安とは、丸1日何も食べられないか、食料ゼロの状況のことだ。

後はバッタの駆除がいかに難しいかの話。要は高速かつ長距離の移動を行うこと、不安定な風向き次第で常に行先を変えることである。


6月29日はインド発の記事

バッタ大群が、パキスタンと国境を接する西部ラジャスタン州から入り、インド首都郊外にせまる。
地元テレビは、大量のバッタが高層マンションの壁面に張り付き、大群の襲来で空が薄暗くなったと伝えた。

バッタの群れは、27日には首都ニューデリー郊外に到達し、なおも近隣の州へと移動を続けている。


7月6日の「日経ビジネス」

西アフリカのモーリタニアなどでサバクトビバッタの研究を行う国際農林水産業研究センター研究員の前野浩太郎氏へのインタビューとなっている。

冒頭部分だけ読める。

バッタは普段はおとなしい「孤独相」という状態にあります。それが、大量に発生して他の個体とぶつかり合うなどして刺激を受けると、活発に行動する「群生相」という状態に変化し、大群となって各地に農業被害をもたらすのです。

この後記事はピタッと止まる。

9月2日付日経新聞 「世界で害虫被害多発、穀物相場の火種」といかにも日経らしい見出し

国連食糧農業機関(FAO)によれば、4200万人が食糧危機に直面する。南米や中国でも別のバッタが大量発生。中国ではガの被害も懸念される。

その後は読めず。この記事を最後に日経の紙面からバッタの話はバタッと途切れる。

ネットで見つけた最近の記事はなんとスプートニク

10月21日付の記事で「エチオピアで四半世紀ぶりの蝗害 深刻な食糧危機に

エチオピアでは今年1月以降、推定20万ヘクタールの耕地が被害を受けた。この蝗害は過去25年間で最悪のもの。

世界銀行は、バッタの襲来は今年、アフリカ東部やイエメンに85億ドルの損害を与えると予想している。




日本のどこかにロイターの言う事なら何でも正しいと信じている人がいるようだ。私はどうもへそ曲がりで、ロイターの言うことは信用ならないと考えている。
セーシェルのニュースもその一つだ。

独立以来初 セーシェル大統領選挙で野党派が勝利

ということで、あたかも独裁勢力に対して民主派が勝利したような扱いだ。しかし実際には左派勢力の統一戦線政府が保守派の政党に敗れたということなのだ。

なにも難しいことを調べなくても良い。ウィキペディアの日本語版をみれば、ちゃんとこう書いてある。

1794年にはイギリス海軍が占領し、1814年にはパリ条約によってセーシェルはモーリシャスとともにイギリス領となった。1872年には民政総督府が置かれ、1903年にはモーリシャスから分離して単独の植民地となった。

1948年には立法評議会選挙が実施されるなど、政治的自治は徐々に拡大していった。1964年にセーシェル独立派のフランス=アルベール・ルネが社会主義政党のセーシェル人民統一党を、イギリス領残留派のジェイムス・マンチャムが保守政党のセーシェル民主党を組織した。

1976年6月29日にイギリスから独立し、民主党のマンチャムが大統領に、人民統一党のルネが首相に就任した。(この後人民統一等は何度も党名を変えている)

しかし翌1977年にルネがクーデターでマンチャムを追放して実権を握り、一党独裁制を敷いた。人民統一党は1978年にセーシェル人民進歩戦線と改称し、1979年には憲法を改正して正式に一党独裁となった.

数度にわたってクーデター未遂が起きるが、観光開発により経済は成長を続けた。

1991年に入ると民主化運動が盛んとなった。1993年には民主的な新憲法が発布された。同年、複数政党による民主選挙が行われた。人民進歩戦線は経済成長を評価されて33議席中25議席を獲得した。

2016年の議会選挙で野党のセーシェル国民連合が議席の過半数を獲得し、人民党のダニー・フォール大統領とのねじれが生じた。

2020年10月には野党連合が大統領選挙、議会総選挙ともに勝利し、43年ぶりの政権交代が実現した。

セーシェル政府のガバナンス(統治能力)は良好であり、アフリカ有数の政府の質を誇る。
(photo1)Japan-Seychelles Summit Meeting
Japan-Seychelles Summit Meeting 
August 31, 2019


ということで独立直後の16年は「独裁」が続いたもののの、それは反独立派との対立と考えられる。その証拠に、16年後の選挙では人民進歩戦線が圧勝している。

その後も「民主主義」のもとで政府・与党は良好なガバナンスを誇ってきた。

おそらく20年以上を経て、住民の間に一種の飽きが出てきた可能性はある。もう少し経過を見ていく必要はありそうだ。


南アフリカとコロナ

南アフリカとコロナに関する記事を4本上げました。









基礎知識がないままに手当たりしだいにノートしたので、どうにもまとまりが付きません。

とりあえず、しばらく冷却期間を置くことにしたいと思います。


アフリカ日本協議会 -Africa Japan Forum-   

以下はあるセミナー報告の紹介である。報告そのものがアップロードされているので、興味のある方はそちらにお越しいただきたい。

はじめに

アフリカでのCOVID-19の状況や対策に関する報道は増えている。しかし中には現実を反映していないものもある。

とくに、4月30日のNHK BS1国際報道2020「南アフリカ・学校まで略奪〜新型コロナで社会崩壊寸前」の報道内容に対しては看過し難い誤りがある。

アフリカ日本協議会の有志会員は、「先入観に基づく報道によってつくられた誤解を解くこと」をもとめた。

このような経過により、緊急Zoomセミナー「新型コロナ:南アフリカの皆さんの報告&報道問題を考える」が企画された。

5月6日、このセミナーは日本と南アフリカ共和国をむすんで行われた。

1.南アにおけるコロナ感染の現状

南アフリカでは新型コロナのPCR検査を累計27万9379件行っています。

(これは5月6日現在の数字。同じ日、日本は26万0190件)

最近は1日1万件以上のペースで実施し、感染者の早期発見・早期隔離により、感染拡大のスピードを抑えようとしている。

南アのコロナ感染者は7572人(5月5日現在)でアフリカで最も多い。しかしこれは積極的に検査を実施しているためでもある。


2.先進的な南アフリカのコロナ対策

3月15日、ラマポーザ大統領は世界に先駆けて国家災害宣言を出した。

3月26日、全国ロックダウンに踏み切った。当初予定では3週間だったが4月末まで延長された。

5月1日からは外出制限や経済活動の制限が一部緩和された。しかし国境封鎖は継続した。

飲食店の営業はデリバリーのみ、酒類やたばこの販売は禁止された。

ロックダウン開始後も感染者は増加しているが、増加スピードは抑制されており、オーバーシュートは見られていない。


3.なぜ南アで先進的な取り組みができたのか

南アフリカのロックダウンはまだ死者が1人も出ていない段階で決定されました。貧困層が多い国内事情の下では、感染が急拡大すると対応が困難になると見込まれたためだ。

結果として早期のロックダウン開始が感染拡大のスピードを抑えました。これはWHOからも高く評価されている。

また日本のLINEにあたる「ヘルスアラート」というシステムを用いて、市民への正確な情報提供を行った。これはWHOがそのまま採用している。

このあと演者をふくめたディスカッションに入った。以下はその主な発言。

吉村さん

4/30のNHK国際報道は、アフリカへの偏見に基づいたセンセーショナルで、きわめて無責任な内容だ。

南アフリカ政府は新型コロナについて積極的に検査を行い、しっかりと情報公開も行っている。

ロックダウンについての大統領のスピーチは、人びとから強く支持されている。

市井の人びとのあいだには、この危機を乗り切るための人種を越えた連帯が生まれている。

高達さん

南アフリカの経済格差は世界一。若年層を中心に失業は深刻で、貧困層が多い。

しかし酒屋の強盗の映像を、食べるものに困った人々が食料品店を襲ったかのように切り取り報じるのは問題だ。スーパーマーケットは開いていて、食料品は問題なく買うことができる。

青木さん

ラマポーザ大統領は、まだ国内で死者が一人も出ていない段階でロックダウンを決断した。この決断は人種ゃ党派をこえて支持されている。

地域にはもともと、犯罪発生、停電や断水の情報を共有するためのコミュニティ・グループが存在した。それがいま地域共助のための組織になりつつある。

フロア発言

必ずしも現実の状況を踏まえない報道が散見される。その背景にはメディアの構造的な問題がある。

紛争や暴力といったアフリカのステレオタイプに沿った記事やストーリーのほうがデスクに受け入れられやすいという事情があるのだろう。

最後に

メディアの情報発信担当者は、先入観や偏見に基づいたネガティブな観点を引き継いでいます。その観点からの報道は、すでに日本の視聴者に一方ならぬ誤解を与えています。

現実に基づいた、バイアスの少ない情報を伝えていく努力をすることが大事ですが、それと同時に闘いが必要です。

ネガティブな情報に偏ったり、特定の意図をもって情報を都合よく歪曲するような報道があった場合に、これをただしていくことがとても大事です。

現場にいる人間としては、この観点をゆるがせにしないことが必要です。

今回の座談会では、このことが確認されました。


ということで、天下のNHK相手に「撃ちてし止まん」というのが小気味好い。

なおより詳細に事実関係に触れられている下記の文章も参照されたい。

NHK BS1国際報道(2020年4月30日放送分)への抗議



以下は、南アフリカで暮らす日本人男性が感じた、NHK “コロナ略奪” 報道への違和感
という記事からの抜粋

これは7月5日付でYahoo News に投稿されたもので、ノンフィクションライターの井上理津子さんによるレポート。ただし抜粋部分は井上さんが現地で観光ガイドをしている高達さんの発言。

4月30日に、NHK BS1で「南アフリカ・学校まで略奪~新型コロナで社会崩壊寸前」というニュースが流れた。

私は未見

南アフリカ・学校まで略奪〜新型コロナで社会崩壊寸前

5週間のロックダウンを続ける南アフリカでは、その期限を30日に迎えるが、感染者が予想以上に増えていて、延長が検討されている。しかし、経済的な打撃は特に貧困層に顕著に表れている。貧しい黒人が暮らす地区では、収入が途絶えた人々による略奪が続き、その対象が商店から学校へと移っている。悪質なことに、証拠を隠滅するために放火され、200近い学校が破壊された。


という番組抜粋がまだ消えずに残っていた。


現地で観光ガイドをしている高達さんは憤る。

その内容がひどかったんです。スーパー併設の酒屋に黒人の男たちが押し入り略奪した。さらに居合わせた人たちも次々と酒を盗んだ。テレビはそう伝えた上で、「それは人々がロックダウンによって食べるものにも困ったからだ」と印象づけた。インチキ報道でした

男たちはギャングです。彼らが酒売り場に押し入ったのは盗んで転売するのためです。ロックダウン以前からそういった “闇商売” は横行している。そこに居合わせた人たちが、鬱憤晴らしに便乗しただけです。むしろロックダウンしてからのほうが犯罪は減っているのというのが事実です。

ちょうど日本で “ロックダウンしないのか” という声が上がっていたころでしょ? このにゅーすは “ロックダウンするとこうなる” と歪曲して伝えた、NHKの日本政府への忖度報道だったのでしょう。

実際には、南ア政府はずいぶん迅速に動きました。第一次コロナの時期から、子どもや高齢者、障害者への社会手当を半年間増額するなどの手を打ちました。さらに、従来は社会手当の対象外だった18歳から59歳の人たちへの手当を導入するなどの手を打ちました。

もちろんうまくいっていない点もあるが、それは他国も同様です。だから国民の間には政府のコロナ政策を支持する向きが多いのです。


同様の疑念は朝日新聞Globeも表明している

という6月18日付の記事

表現は少しおとなしいが、多量の毒をふくませている。筆者は白戸圭一さん。立命館大学の教授である。

「国際報道2020」は、国際報道における「事実」と「現実」の関係を考える貴重なケーススタディーだったように思う。

番組は、南アを取り上げ、ロックダウンによって貧困層が困窮し、略奪が多発していると伝えた。

映像では大勢の住民が商店を略奪する様子を捉えた映像などが流された。

こうした事実を並べることで、ロックダウンへの不満が強いと示し、「経済活動の再開に踏み切らざるを得なかった」南アの「現実」を伝えた。

と書いた上で、もうひとりの南ア居住者の反論を引用している。

それが吉村峰子さんの発言「事実誤認、途上国への蔑視、差別があまりにも露骨」という文章だ。これは放送直後の5月3日に自分のブログに掲載されている。

さらに5月6日には「アフリカ日本協議会」という市民団体がオンラインセミナーを開催し、吉村さんを含む4人が番組への批判を表明した。

共通する批判点はこのようなものだ。
*南ア政府の感染対策は極めて積極的で計画的だ。
*国民の多くは大統領の感染対策を支持している
*番組では南アの対策が破綻した事になっており、事実と背馳する

それは個別の事実の真偽に対する疑念ではなく、事実の組み合わせによって作られた全体的印象に対する違和感である。

6月5日、東京外国語大学現代アフリカ地域研究センターがオンラインセミナー「コロナ禍とアフリカ」を開催した。

この中の発言から拾うと、

NHKの番組の放映前の4月13~18日のヨハネスブルク大学による世論調査で、ラマポーザ大統領の仕事ぶりに対する国民の支持が73%に達していた。評価しない国民はわずか4%しかいなかった。


これは「国民の不満を前に、大統領の感染対策が瓦解した」という基調で制作されたNHKの番組とは相当趣を異にしている。

5月31日時点で日本の新型コロナ感染者数は1万6851人。これに対し南アは、人口が日本の約半分の5800万人なのに3万967人で、日本より多い。

しかし、同じ時日本のPCR検査数が29万436件だったのに対し、南アは72万5125件だった。南アでは、病院だけでなく、防護服に身を固めた医療チームが車で住宅地を訪問してPCR検査をしていたのである。

これらのことは番組では紹介されなかった。

番組制作者による取捨選択の過程でそぎ落とされた事実は膨大に存在する。

伝えられなかった事実に着目しなければ、制作者が選択した「事実」に基づく「現実」の範囲内でしかアフリカを見ることができなくなってしまうのである。


蛇足になるが、かくいう私もNHKのニュースに影響された一人だ。
 
なにか変だと思いつつも、日本語の情報がなかなか手に入らない状況で気をもんでいた。南アといえば日本AALAの友好国であり、まずはその国が公式に打ち出している情報を正面から受け止めて、そのうえでメディアの投げてくるクセ球をしっかりと受け止めつつ、日本国内の多くの人々に発信していくという姿勢が必要だろう。

我々はメディア組織ではない。メディアでさえも情報の取捨に関しては誠意が必要なのだから、ひど梅諸国との連帯を謳う組織が、いい加減な情報に踊らされてはならないだろう。


とりあえずネットで集められる限りで、アフリカにおける感染状況とその特徴を探ってみた。南アに関しては南ア政府の英語版サイトから拾っている。



アフリカ大陸のコロナ感染者数


アフリカの新型コロナ感染者は、まもなく100 万人に達する。

2月14日にアフリカ初の感染者がエジプトで確認された。その後、感染者数が10万人を超えるのに100日間、30万人を超えるのにそれから30日間、50万人を超えるのに16日間とすごい勢いで増加している。

まさに感染爆発ともいえる状況だ。

しかし実は、これらの数は当てにならない。アフリカ大陸は13億の人口を抱えるが、人口が約半分のラテンアメリカでは、感染者300万人、単純な感染者数で6倍、人口あたりの感染者数は12倍となる。

誰が見てもそんなはずはないので、アフリカ大陸では人口100万人当たり4200件の検査しか行われていない。同じ時期、アジアでは7650件、欧州では7万4255件のPCR検査が行われた。

つまりアフリカの患者数が少ないのは、感染が少ないのではなく検査が少ないからだ。それはアフリカの貧しさの象徴だ。


「タンザニアのレポート」

タンザニアのマグフリ大統領は、コロナから国が守られるよう、全国的に3日間の祈りを捧げることを呼びかけた。キューブリックの映画を見るようなシュールな世界である。大統領がこんなお手上げをしていてはいけない。

タンザニアは人口5500万人。東アフリカ地域でもっとも大きく、もっとも人口が多く、もっとも医療が遅れた国だ。WHOは、この国の流行状況についてほとんど情報がないと言っている。

お祈りから1カ月も経たないうちに、マグフリ大統領は新型コロナに対する勝利を宣言した。そして自国への観光を再開し外国人観光客の誘致を呼びかけた。多分コロナ感染者以外の観光客は行かないだろうが。

そして5月初めからは全国レベルの患者数・死亡者数を公表することをやめてしまった。


ただこれには同情すべき理由もある。海外から輸入された検査キットは欠陥品であり、ヤギから採取したサンプルでも陽性反応が出たという。

タンザニア以外ではもっと悪い


データの不足はアフリカ諸国の多くに共通する。公式数値だけ見るとアフリカの大半では新型コロナ禍を免れているようだが、もっと悪いのは確実だ。


政府が感染症の拡大を認めたがらない、あるいは崩壊した医療システムが検証にさらされるのを嫌がる場合もある。若年層が多いこともあり、死者は欧米諸国に比べて少ないが、日本の感染者数と同様であてにはならない。

一部の政府は、たとえ資金援助を受ける機会を逸することになろうとも、感染率に関する情報が表面化することを防ごうとしている。

ブルンジではWHO当局者が対コロナ措置の不十分性を指摘したところ、WHOの駐在員3人が説明なしに国外退去処分となった。その後、ンクルンジザ大統領が死亡、大統領夫人はケニヤに救急搬送された。現地では死因はコロナではないかと囁かれている。

赤道ギニアでは政府が、「WHOは感染者数を水増ししている」と非難し、駐在員の更迭をもとめ、感染データの提供を阻んでいる。

また、貧困と紛争によって疲弊し、調査を行う財力がない国もある。検査キットが致命的に不足し、大規模な検査、監視、接触追跡を実施するには、あまりにも医療システムが疲弊している。


アフリカ全土では人口千人あたり病床数が2ベッド未満しかない。住居内に手洗い場を持ち石鹸のある家庭は人口の約3割とされる。

それでもエイズに比べてましなのは、それが銃とレイプによる感染拡大ではないことだ。とはいえ、ブルキナファソ、ニジェール、マリなどではイスラム原理主義武装勢力や民族主義武装勢力が広範囲で活動しており、地方での調査は不可能となっている。


南アフリカの状況

南アフリカはアメリカ、ブラジル、ロシア、インドに続き、5番目に感染者の多い国となっている。アフリカの感染者100万人のうち50万人が南アフリカに集中している。

PCR検査が不十分にしか実施されておらず、感染者数は50万人よりはるかに多いと考えられている。6月初めの時点では、未処理の検体が6万3000件以上も積み残されていた。それでももちろんアフリカにおいては圧倒的な検査能力だ。

3月には世界的にもいち早く都市封鎖を実行したが、急速な経済悪化と失業者増加に耐えられず、6月には都市部の封鎖を緩和した。

その後7月に再び感染者が増え、ロックダウンを再開した。医療従事者は疲弊し、医療システムは崩壊寸前にある。

7月末、WHOで緊急事態対応を統括するマイケル・ライアンは、南アの現状は今後、アフリカ大陸全体に広がる事態の前兆だと語った。


南アを取り巻く南部13カ国が、極端な天気と新型コロナの影響で、危機に陥っている。約4500万人が飢餓の脅威に直面しており、このうち840万人の子どもが深刻な栄養不良にひんしている。

困ったことにアフリカ・飢餓と来てもまったく危機感が沸かなくなっている我々がいる。


経済マクロ

7月はじめ「アフリカ開発銀行」が2020年の経済見通しを発表した。

大陸全体の経済成長率はマイナス1.7%と予測された。

特に南ア(マイナス6.3%)、ナイジェリア(マイナス4.4%)など主要国の落ち込みが顕著である。

南アのドル建て信用スプレッド(5年物)はコロナ以前の2倍近い約3%に高止まりしている。

国民生活への打撃

新型コロナの影響で南アフリカの大部分の学校が休校となっており、約2000万人の子どもが給食を受けられずにいる。このため一部の子どもたちは、栄養を十分に摂取できないでいる。


都市部の低所得者の困難はより深刻だ。正規の仕事がないため屋台や日雇いなどの非正規雇用で生計を立てているが、政府の閉鎖措置のため、賃金を稼いで生活するのが難しくなっている。



南アフリカの苦しみに、心添わせよう

本日の新聞で南アに関する記事が、写真入りで大きく取り上げられている。

どんな内容なのかは、見出しだけ列挙すれば大方見当がつくだろう。

“残忍取締り” ネットに記録
都市封鎖下 南ア警察・軍に批判
人権団体がサイト設立
殴打されて死亡

これについては何も言うまい。ただ出所が例によってロイターであることだけ付け加えておく。

私はこの場に南ア大統領のメッセージ(要約)を掲載して対抗したい。


  Cyril Ramaphosa 大統領

最初のメッセージは3月18日に全国に向け発信されたものである。

親愛なる友人の皆さん

世界は、未曾有の規模の緊急事態に直面しています。コロナウイルスの蔓延は驚くほど迅速かつ広範囲です。

それは境界を知らず、老若男女を問わず、先進国と発展途上国を問わず蔓延しています。 

私は昨日、国民非常事態を宣言しました。これにより緊急時の迅速で効果的な対応システムを構築しようとしています。

避けられない経済的影響が出るでしょう。輸出入の減少、観光客の減少、失業の増大などです。


1.緊急対策

多くの緊急対策が実施されます。

危険度の高い国からの入国禁止、多人数の集まりは禁止、学校の休校、港の全面閉鎖など

社会的距離の確保、頻繁に手洗い、咳やくしゃみじのエチケットをれいこうします。

これらの措置は懲罰的ではなく、公共の安全を徹底する課題です。

2.私たちの心構え

幸運は努力と準備を好むと言ったのはルイ・パスツールでした。南アフリカは準備されています。私たちの科学者と疫学者は世界クラスです。

現時点で最大の危険の1つは、無知と誤った情報です。

ソーシャルメディアでは、偽の未確認のニュースの拡散をやめるべきです。これはすでに緊張した国民の気分を悪化させるでしょう。

他の国々で見られた偏見の表現に屈服してはなりません。偏見はすべての人々に影響を与えるウイルスです。 

感染者や、帰国者への思いやりの翼を広げましょう。困っている人やもっとも貧しい人たちを助けましょう。

「寛容と敬意」は、私たちを人として定義している徳です。私たちは、その価値に忠実であり続けます。 

私たちは決意と目的を持って、断固として行動します。我々は克服しなければならない。なぜなら私たちは南アフリカ人だからです。


次のメッセージは8月1日、「コロナウイルスの国内対応について」と題した大統領のメッセージである。

1.感染の現状について

今日の時点で、南アフリカはコロナウイルスの50万人以上の確認例を記録しました。342,461人が既に回復しており、現在152,676件が今も治療中です。

過去2か月間で感染が急速に増加しました。その後、東西ケープ州、ハウテン州で安定して来ているようです。

残念ながら症例数は世界で5番目となっています。一方死亡数は8,153人、致死率は1.6%に留まり、世界平均よりも大幅に低くなっています。
(ただし実際の死者数はこの数値を超えていると思われる)


2.我々の払ってきた努力

過去数か月にわたって、私たちは前例のないリソースの動員を行ってきました。

すべての州で病院が再編成され、監視システムが整えられました。医療従事者がトレーニングされ、大量の保護具が用意されました。

しかし感染の広がりはそれをはるかに越えていきました。


3.南アのもつ対応力の効果的再配分

これから1ヶ月の間に、国内で生産された2万台の非侵襲的人工呼吸器を配置します。

スタッフのための感染防御具の不足と物流の不具合を解決します。

もっとも緊急の課題として、労働者の懸念と不満に真剣に対応します。

また法執行機関に、物資の調達における汚職および不正行為に関する調査を優先するよう動きます。


4.個人および集団の不法な行動の予防

目の前の医療システムを維持するために、いくつかの措置が取られなければなりません。私たちは、質の高いケアをおこなう多くの病院を誇りに思うべきです。

気持ちが荒んでいるために、酒を飲んで略奪したり医療施設などを襲撃するケースが頻発しました。

アルコールの販売を停止したことで、これらのケースは大幅に減少しました。これからも破壊行動が起こる可能性はあります。警戒を続けなければなりません。

マスクを正しく着用し、他の人から2メートルの距離を保ち、定期的に手を洗うことを守ってください。

私はすべての南アフリカ人に、これらの最も困難な時代に強くて堅実であり続けることを求めます。


どちらも南アの現実の一面を切り取っているのかも知れないが、現地を経験した人の視点はどうなのか、伺いたいところである。ひょっとしてベネズエラのように、どちらから見るかでまるっきり景色が違うのかも知れない。


1. アフリカにおけるコロナの罹患状況

アフリカでのコロナの流行拡大の速度は意外に遅い。

5月26日時点のアフリカ全土の感染者数は推定で約12万人、死者数は約3500人で、欧米に比べると圧倒的に少ない。

アフリカ各国の感染者数を見てみると、南アフリカが2万4千人、エジプト(1万7967人)やアルジェリア(8503人)、ナイジェリア(8068人)、モロッコ(7556人)、ガーナ(6964人)、カメルーン(5044人)で多くなっており、この7カ国で全体の感染判明者の約67%を占めている。

一方、感染判明者が100人に満たない国も10カ国ある。

2.疾病統計はほとんど当てにならない

しかし、感染者数はまったく当てにならない。

英BBCによると、千人当たりの検査数はチャドが0・1件、マリ0・17件。アフリカ最多の2億人近い人口を抱えるナイジェリアも0・23件だ。

タンザニアでは、政府による感染者数の発表が1カ月近くされていない。

3.感染の広がりが遅い理由

アフリカで感染の広がりが遅い理由には3つある。

第一にコロナ関連疾患は上流階級の病気だからである。コロナは飛行機に乗ってやってくる。
ほとんどの人には縁のない世界だ。

第二に、アフリカ諸国の平均年齢はべらぼうに若い。だから感染しても不顕性で収まってしまう可能性がある。

第三に、アフリカ諸国の多くにはまともな検査体制はないから、統計数字には意味がない。PCRをサンプリングで施行して、推計する以外にない。

4.ロックダウンは有害無益

こういう国で、ドラスティックな封じ込め作戦を取ることは不必要で有害である。

コロナについてのリテラシーを拡大すること。収容施設をしっかりとること、マスク・手洗いの励行、三密対策の実行が必要だろう。

すみません。参考記事が少ないため、あらっぽい文章になってしまいました。

2019/8/26付 日本経済新聞の「経済教室 コラム」という記事に、「アフリカ開発会議の課題」という記事が載った。大塚啓二郎さんという人の書いたものである。
副題は「工業化成功、カイゼンが鍵」となっているがこちらは省略する。

要するにアフリカの問題は次のような点にある。と、ある意味バッサリ切り捨てているのだが、一応それなりに説得力はあるので紹介はしておく。

サブサハラの21世紀の発展は2つの期に分けることができる。
①2010年まで
この間GDPは+5%をキープした。しかし人口が+3%のため、一人あたり成長は+3%にとどまった。
②2010年以後
GDP成長率は徐々に低下。最近ではマイナス成長となっている。

経済停滞の原因は工業化の失敗にある。製造業の比率は10%を前後して停滞している。
農業は雇用の受け皿とならず、農村は過剰人口を生み出す。
その結果農村を押し出された若者は、都市での低劣なサービス産業に入るしかない。

先進国の支援はインフラ整備に集中しているが、まったく役に立たず、壮大なゴミと化している。
開発経済学は間違っている。それは起業家の不足と経営の非効率性を無視あるいは軽視したことである。

後はカイゼンの我田引水的宣伝が延々と続く。


違うでしょう。
「先進国の支援はインフラ整備に集中」したというが、それは間違いではなくて、それ自体が目的だったんでしょう。

「対外援助」を食い物にする重厚長大産業と、経産マフィアがつるんでやってきたことでしょう。
だから「カイゼン」なんかでそれを改善しようというのは筋違いも甚だしい。

「ヒモ付きでなく真水の支援を重視し、支援の現場の声を優先し、経産省の干渉を排除する政策を取っていれば、いまごろ日本は援助大国になれたはずだ! 」と、連帯運動家としては思う。



流石に日経の記事はいただけないなと思っていた所、
2019.08.29 朝日新聞Globe に
という記事があった。著者は白戸圭一さんという人だ

数年前から目立ち始めた新しい「アフリカの伝え方」がある。それは、アフリカにおける中間層の増大を強調し、消費市場としての明るい未来を訴える論調である。

その根拠はアフリカ開発銀行(AfDB)が2011年に刊行した報告書である。

しかしこの報告は「1日当たり消費額」という胡散臭い数字に基づいている。
①貧困層 2ドル未満
②流動層 2~4ドル未満
③下位中間層 4~10ドル未満
④上位中間層 10~20ドル未満
⑤富裕層 20ドル以上
というのが分類で、これだけでもウッとくるが、さらに②流動層もふくめて「中間層」と定義する。
そうすると「アフリカには2010年時点で約3億2600万人の中間層が存在する」という結論が導き出される。総人口の実に3割以上である。

物価水準の違いがあるにせよ、これは「悪い冗談」に近い。

世界銀行は、1人1日当たり消費額1.9ドル未満の人々を、「衣食住や健康面で限界に直面している極度貧困層」と定義している。

白戸さんがILOのデータを使って分析した所、中間層の絶対数こそ増加したものの、貧困層が圧倒的多数を占める階層構成に変化はみられない、という結論であった。

最後に、白戸さんは現地にスタートアップ企業を立ち上げた長谷川将士さんの意見を引用している。

「経済指標を用いる場合は適切に、尚且つ適用する国の社会背景まで理解して用いなければ、誤解するリスクは跳ね上がるだろう」

ようするに現状ではまだまだ、珠盤づくでやれるような貿易は期待できない。しかしその国の発展を真剣に考えれば。支援だけではないビジネス的な展開もありうる、ということだろう。

調子に乗ってセザリア・エボラの歌もYou Tubeにアップしてしまった。
世上はセザリア・エボラばかりが有名になってしまったが、実はセザリア・エボラよりも彼女が歌う歌“モルナ”が良いらしい。実はこのモルナ、白人の持ち込んだ音楽で本国のファドを流れをくんでいる。というか演歌で言う“港町ブルース”だ。
カーボベルデ(緑の岬)は、実は対岸のアフリカ大陸の地名だ。たぶん大陸の西端になるのだろう。その沖合にある島だからカーボベルデ諸島ということになった。
地理的にはアフリカそのものだが、600年前にポルトガル人が植民するまでは無住の地だった。だからカーボベルデはまずもって白人国だったことになる。その後黒人が次々に入ってくるようになって、いい具合に混じり合ったカフェオレのクレオール民族になった。しかし文化的にはいまでもポルトガルっぽいものが主流である。
もう一つ、カーボベルデの話で、カーボベルデ諸島が大西洋に浮かぶ島々であるにもかかわらず雨が降らない土地だということがわかった。
緯度・気候的にはサハラ砂漠の流れなのだという。ポルトガル人が植民していろいろ農業を試したが、とにかく木や草が生えない、作物が実らない。旱魃を繰り返すのだそうだ。
おかげで19世紀末ころから住民が逃げ出して、ブラジルやアメリカなどに移住した。
今ではカーボベルデに住む人々より移住先のコロニーの人口のほうが多いという。後から入った連中だから就業条件は悪い。黒人以下の境遇に陥った人も少なくないようだ。
それで思ったのだが、乾燥しているということは日光が照りつけるということだから、これで太陽光発電をして、海水を真水に変えればいいのではないか。
考えてみれは、それは別にカーボベルデ諸島に限ったことではない。
対岸のカーボベルデ岬、マリ、モーリタニアみんなそういうことになる。
一体そういうプロジェクトはないのだろうか。
ということで、淡水化技術、とくに太陽光発電との結合の現状を勉強することにした。
それは次の記事で…

 2016年10月08日 南スーダン 年表 が思いもよらず膨らんでしまった。

最初はこれを配って学習会の資料としようと思ったのだが、とてもそんなことをしていたのでは間尺に合わない。

そこで年表をつらつら眺めながら思いついたことを、「南スーダンの歴史 10のポイント」としてレジメ化しようということにした。(結局17になってしまった)

さぁ、毎度のことながら、当日までに間に合うかどうか不安だが始めることにしよう。

1.もともとは牧畜民の氏族社会

少数からなる集団が牧畜生活を送っていた。そのような原始的な共同体は今も残されている。

縄張りをめぐる争いも繰り返されて生きた。

2.北から来た奴隷狩り

18世紀になると、アラブ人がナイル川を遡ってきた。彼らはハルツームを拠点とし、周辺の先住民を捕まえては奴隷として送り出した。

やがてスーダン北部はエジプト王国に併合された。ハルツームのアラブ人はエジプト王国に対抗して自分たちの国を作るが、イギリスの支援を受けたエジプト王国に潰される。

3.南から来たイギリス

その後、19世紀の後半になると、今度はナイルの源ビクトリア湖からイギリスの征服者がやってきた。

イギリスは今の南スーダンを征服したが、領土としての魅力に乏しい地域だったため、エジプトの支配に委ねた。

なぜならエジプト王国そのものがイギリスの属領だったからである。

こうして1898年に「英埃(えいあい)領スーダン」(Anglo-Egyptian Sudan)が成立した。これが南スーダンが国家という枠の中に取り込まれた最初である。

南スーダンは誕生の時から北(アラブ人)と南(イギリス人)の二重支配のもとにあったのである。このことは憶えておいて良い。

4.スーダンの地政学的重要性

英埃領スーダンの成立にはフランスとドイツが絡んでいた。フランスは西アフリカから進出しインド洋への出口を欲していた。イギリスにとってはカイロからケープタウンへのラインを確保することは戦略目標であった。

その交差点にスーダンがあったため、イギリスはスーダンを確保する必要に迫られた。

またドイツはタンガニーカを植民地とし、ルワンダ・ブルンジなど内陸への進出を虎視眈々と狙っていた。

これらの事情は第一次世界大戦を経て大きく変化していく。

5.英領東アフリカの辺境としての南スーダン

ドイツがアフリカから立ち去った後、タンガニーカはイギリス領となり東アフリカのほぼ全てがイギリス領となった。

イギリスは南スーダンをエジプト支配から切り離し、東アフリカの勢力圏に置く方針に切り替えた。

アラブ・イスラーム要素を徹底して排除。部族の法や慣習、固有の言語が重視されるとともに、共通言語として英語の使用が奨励される。エリート層は英語やキリスト教を受け入れ、親ヨーロッパ的になる。

しかしかつての大英帝国の力は失われており、南スーダンは低開発状態で放置された。逆に言えば南スーダンには元通りの平和な環境が生まれたのである。

7.北スーダンでのアラブ民族主義の高揚

第二次大戦の終結とともに民族自決をもとめる運動がアフリカ各地で高揚した。

スーダンでもハルツームのアラブ人を中心に独立運動が広がった。イギリスにはもはやこれを抑えるだけの力はなかったから、ケニア以外の国はほとんど流れに任せる展開となった。

しかし北部の民族主義者は南部に対して苛烈であった。南部でもアラビア語が公用語とされ、北部人が進出し政治・経済の権限を得るようになった。

8.第一次内戦の開始

1956年、スーダンが正式独立した。南スーダンもスーダンに統合された。

スーダン政府は連邦制をとるとしたイギリスとの約束を保護にし、単一国家制度をとった。南スーダンは北の直接支配下に置かれることになった。

スーダンが独立して2年後、軍事クーデターが発生し。スーダンは軍事独裁国家へ移行した。軍事政権は南部への軍事的抑圧を強化。その結果多くの政治家がウガンダに亡命した。

1963年、これらの亡命政治家がスーダン・アフリカ民族同盟(SANU)を創設。連邦制に基づく南スーダンの自治権拡大を主張した。SANUは武装組織「アニャニャ」(Anya Nya)を結成しゲリラ闘争を開始した。

SANUは主導権争いで四分五裂するが、現地のアニャニャは民衆の支持を受け独立を目指す。アニャニャを中心に南部の諸勢力が結集し、「南部スーダン解放運動」(SSLM)が形成される。

9.南北和平の実現

紛争が内戦化し泥沼化しつつあった1969年、北スーダン政権内にクーデターが起きた。

権力を握ったヌメイリ大佐はエジプトのナセルに倣い民族主義左派を標榜した。そして南スーダンとの関係改善に乗り出した。

1972年にヌメイリ政権とSSLMとの間に和解が成立、アジスアベバ協定が結ばれた。

南部は自治を許され、独自の議会と行政機関を持つことになった。将来、南部が住民投票で分離独立する可能性も残された。アニャニャ兵士は政府軍に組み込まれることになった。

10.ヌメイリ政権の反動化

この後約10年にわたり南北スーダンは比較的平穏な関係を続けるのであるが、1983年に入ると突然大荒れの状況に入っていく。

この激変をもたらしたのは北スーダン側の事情である。この間アラブ世界ではナセル主義の退潮が起きた。

第三次中東戦争でのアラブ側の惨敗、ナセルの死とサダトの変質、イラン革命とソ連のアフガン侵攻などでアラブ世界は共通目標を見失った。

追い詰められたヌメイリは非常事態宣言を発動し強圧的な政治に転換した。そこにイスラム原理主義が忍び込んできた。

ヌメイリは国政にイスラム法(シャリーア)を導入、スーダンを「ムスリム・アラブ国家」にすると宣言した。

憲法上の権利は停止された。窃盗に対する切断やアルコール所持に対する公開鞭打ちが日常と化した。南部人と他の非イスラム教徒も、これらの罰を受けさせられた。

南部への弾圧にはもう一つの理由があった。南スーダン北部に石油油田が発見されたのである。

南部の石油資源独占を狙うスーダン政府は、アジスアベバ合意をご破産にし、南部の自治権や将来の分離独立の要求を拒否するに至った。

11.立ち上がる南スーダン人

第2回めの反乱は最初から大規模なものだった。なぜならそれは政府軍内の旧アニャニャ派の反乱として始まったからである。

この反乱を指揮したのはジョン・ガラン、当時ハルツームの幕僚大学の学長であった。

南スーダンの解放運動の性格を語る上で、ガランの経歴紹介は避けて通れない。

ガランは1945年、貧農の子として生まれ、幼少時に孤児となる。第一次スーダン内戦に参加した後、勧められてアイオワ州のグリネル大学で経済学 を修めた。その後タンザニアで研修を続ける一方、大学生アフリカ革命戦線のメンバーとして活動。アニャニャに加わり、第一次内戦を戦った。

内戦終結後はスーダン軍で経歴を積み、フォート・ベニングのア メリカ陸軍米州学校で上級歩兵将校コースを修めた。またこの間にアイオワ州立大学で南部スーダンの農業開発に関する論文で農業経済学修士および博士の学位を得た。

12.SPLAの結成

ガランのもとに立ち上がった南スーダン人は「スーダン人民解放軍」 (SPLA) を結成した。形としては「スーダン人民解放運動」(SPLM)の軍事部門ということになる。

ガランが政治・外交面を担ったのに対し、軍事面を担当したのが現大統領のサルバ・キールである。

南スーダンには60以上の種族が混住する。当初、SPLAの中心となったのは最大の種族であるディンカ人であったが、やがてヌエル人など他種族も結集するようになった。

1985年に入ると、SPLAは勢いを増し南部の大半を支配下におさめた。これをリビア、ウガンダ、エチオピアが支援した。

北スーダン政権内では強硬派と妥協派が抗争を繰り返したが、1989年に強硬派のバシルがクーデターで政権を握ると、イスラム原理派と結びついて南への抑圧を強めた。さらに西部のダルフール地方へも攻撃の手を伸ばした。

ダルフール問題については下記を参照のこと。 

ダルフール紛争

13. 両者の妥協と完全独立

90年代に入ると情勢は複雑さを増す。ソ連・東欧の崩壊に伴い、エチオピアでもメンギスツ政権が倒れる。SPLAは後ろ盾を失った。内部分裂が起き、ヌエル人分派によるディンカ人襲撃が相次いだ。マチャルの部隊は単独でハルツームと講和し、北スーダン政府の南部駐留軍司令官に就任する。

いっぽう、イスラム原理主義を強めるバシル政権への国際的な風あたりも強くなった。アメリカはスーダンをテロ支援国家に指定し、97年には経済制裁を開始した。98年にはケニアの米大使館襲撃事件への報復としてスーダンの製薬工場にミサイル攻撃を行った。

こうして2002年にアメリカの調停のもとで、政府とSPLAが和平の枠組みに合意することになる。この合意により、6年後に南部の帰属をめぐる住民投票が約束された。

2005年には南部スーダン自治政府が成立した。初代大統領にガラン、サルバ・キールが副大統領となる。これにより22年間に及ぶ第二次内戦は終結した。

内戦による死者は約250万人、発生した国内避難民は400万人、国外難民は40万人にも上る。

この年、SPLA指導者ガランが就任後わずか半年で、ヘリコプター事故により死亡する。しかし大きな混乱もなくキールがあとを引き継いだ。この時副大統領にマチャルを指名したことが後に禍根を残すことになる。

2010年に行われた大統領選挙では、キールが得票率92.99%という圧倒的大差で再選された。翌年1月、南スーダンで住民投票が行われ、完全独立を望む票が98.8%を占めた。

その年の7月9日、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立し、「南スーダン共和国」が創設された。

14 北からの干渉

北スーダンは決してこの独立を祝福していたわけではない。それどころか南スーダンの弱体化とあわよくば属国化を狙っていた。

ここからは私の個人的見解になるが、

ひとつは国境地帯の黒人・非イスラムの民衆を駆逐することである。

この地域は元々「ナイル・サハラ語」系の黒人の居住地であった。そこに来たからナイル川沿いにアラブ人が進出したのである。したがって川沿いの都市部にアラブ人、それ以外は黒人先住民という住み分けになっているのであり、東西に線を引いて「ここから北はアラブ・イスラムの国」という訳にはいかない。

スーダン側での紛争は北部SPLAの武装反乱だという報道が一般的だが、事実は逆だと思う。それは紛争の結果何が起きたかを見れば明らかだ。結局は数十万の北側居住者が難民となって南に逃げ込んだという事実だ。

もう一つは国境地帯に集中する石油資源を、ひとつでも多く確保するということでもあろう。

南スーダンは北からどんなに野蛮な干渉を受けても、北と対決することはできない。それは石油の輸送ルートと販路を北に握られているからである。

1年間の石油生産停止は、そのことを明らかにした。生産の減退、物不足、物価の騰貴の上に膨大な戦費、そして大量の北からの難民。この危機を凌ぐには当面は北の意のままに従い、石油生産で外貨を手に入れるしかない。

15 キールの内政改革が内戦を呼んだ

2012年9月、キール大統領は北に頭を下げ、とりあえずの平和を実現した。その後、内政の引き締めにかかった。

今井さん(NGO関係者)の講演から引用する。

SPLA 内部には腐敗もあり、ガランを筆頭に幹部の多数が豪邸に住み、豪勢な生活を営んでいた。キールは幹部の多くと異なり、腐敗とは無縁な人物として知られていた。

これがどの程度の真実性を含んでいるのかは判断できないが、マチャルが最も油断のならない人物であることは疑いないであろう。

解任されたマチャルは2013年12月にクーデターを企てた。政権奪取には失敗したものの、根拠地では一定の支配区を確保した。マチャルに呼応して各地で不満分子が反乱を起こした。

スーダンの干渉による国境紛争、石油生産停止、北からの大量難民。これに加え内戦勃発ということで、南スーダン政府は大きな痛手を受けた。

そのすべてにスーダンの影が浮かび上がってくる。

2014年6月には国連安保理も「南スーダンの食糧危機は世界最悪」と発表した。「世界で最も脆弱な国家ランキング」でも、南スーダンは首位となった。

16 気がかりな国連の対応

今年11月の初め、バンギムン事務総長は国連南スーダン派遣団の司令官を更迭した。7月事態のとき国連職員を保護しなかったというのである。

司令官の出身母体であるケニアはこの措置に抗議し、駐留軍全部を撤退させた。

よく分からない。司令官の統括責任を否定するわけではないが、国連南スーダン派遣団が南スーダンの治安を守るためであれば、そのために一番必要な手段を取るのは司令官の務めであるが、「何を置いても国連職員の安全を守れ」というなら、その目的に特化した部隊を別途編成すべきであろう。

バンギムン事務総長は、11月17日には国連安保理あての状況報告を行っている。

治安状況は悪化しており、混沌とした状態。①大規模な残虐行為が発生する非常に現実的な危険がある。②国連の平和維持部隊は大量殺りくを阻止できない。

というのが骨子である。

まっさきに感じるのは、「なぜ?」がないことだ。「なぜ?」がなければ、解決の方向は見いだせない。

もう一つは、政府への支援についてきわめてニュートラルであることだ。パンギムン報告を受けた安保理では、アメリカから武器禁輸の決議案が提出された。アメリカはさらに、和平実現の「元凶」となっている政府指導者らの資産凍結や渡航制限ももとめたという。

これはもう明らかに反政府側にスタンスを置いた発言である。

これでは、国民の98%の支持を受けて成立した政権が野垂れ死にするまで戦闘を続けることにしかならない。

とにかくまずは、南スーダン政府の主体性を尊重することではないか。そして北からの不当な干渉を監視すること、中長期には原油輸出のための南方ルートを確保して、北への依存を終わらせることではないだろうか。

17 自衛隊派遣について

これはもちろん憲法に係る問題であるから、直ちに撤退するというのが当然の選択である。

それとともに、南スーダンの自立と発展のために何が必要なのか、日本にとって何がもとめられているかをじっくり考えることである。

現在の国連やNGOの活動は基本的には緊急避難的なものである。内政にかかわるべきものではない。明らかにやり過ぎと思われるところも見えないではない。

南スーダンにはケニア、ウガンダ、エチオピアをふくむ南側周辺諸国との連帯が必要である。もっとこれらの国の協力を引き出す方向での国際的な見守りが必要であろう。

アフリカにおける人種分布

アフリカの国境はいい加減なものであり、ヨーロッパ諸国の勢力争いの結果として形成されたものである。

ほとんどすべての国が多民族国家・多言語国家であり、これらを全体として理解するには19世紀以前からの自然的分布を知ることが必須である。

自然分布を知る方法として有力なものが、言語系統(自然言語)の分布とY染色体(表現型)による分布である。

人種的な差ではないが、基本的生活スタイルとして牧畜なのか農耕なのかも大きな違いを生んでいる。

サブサハラにおいては北から順にサハラ砂漠、ステップ気候(サヘルあるいはサバンナ)、熱帯雨林というスペクトルがあり、とくにサヘルと熱帯雨林の境界が気候変動に伴って南北に変化する。これが絶えず軋轢を生んできた。

近代に入ると、イスラム教の浸透、白人とアラブ人の奴隷狩り、ヨーロッパ列強による植民地化、東西冷戦下での帰属などが加わり、事態は一層の複雑化を招いている。

上の図はウィキペディアの「アフリカの諸言語」からの転載である。

青がアフロ・アジア系言語、黄色がナイル・サハラ系、オレンジがニグロイド系、緑がコイサンである。

コイサンは最古のアフリカ住民とされY染色体はハプロAをしめす。ピグミーは北日本人と同じB、ネグロイド系はE1型を示す。ナイルサハラ系は多種多様だが、チャドではR系が優越しているようだ。


ナイル上流域の人々

私が一番知りたいのは、ナイル川上流で主として牧畜を営む人々の由来だ。ブラックではあるが、熱帯雨林域のネグロイド語族とは明らかに様相を異にしている。

私にとって典型として思い浮かぶのはケニアの牧畜民、マサイ族(Maasai)だ。またルワンダがドイツの植民地だった時代のとんでもないのっぽの国王(ツチ族)の写真は、いまだにまぶたに焼き付いている。

人種的には、北からのアラブ人、コンゴとタンザニアを結ぶ線より南の純粋なネグロイド(バンツー人)との間にもう一つ人種があって、その三つ巴で理解しないと南スーダン問題は理解できないのではないかと、ふと思っている。

というのは、ディンカ人とヌエル人との係争を見ると、マサイ族の生活スタイルときわめて類似しているからである。

ウィキペディアのマサイ族の記事を引用する。

本来は定住せず、伝統的な牛・羊・ヤギ等の家畜の遊牧で生計を立てる遊牧民であった。

主食は牛乳と牛の生血。牛はマサイ族にとって最も重要な財産である。

それぞれの村ごとに長老がいて物事を決定する原始的な長老制をとる。戦士階級であるモランはこの長老の下に属する。

かつては他部族からの略奪もモランの仕事であったが、現在では行われていない。


遊牧民もネグロイドだ

次に、人種的なところに関わっていこう。

ナイル系の遊牧民は人種的な操作の対象となり易く、地中海人種に属するとされたり、黒人とされたりし、ハム族神話 (hamitic) により「黒人より高貴である」等として植民地支配の際に分断の道具にされた。

しかし、都市に暮らすスーツに身を固めたビジネスマンのマーサイ族は他の部族と見分けることはできない。

ということで、ウィキペディアの記述では、遊牧生活に適応したネグロイドという見解に近い。

たしかに南スーダンの指導者たちの写真を見ると、ネグロイドそのものである。

このウィキの見解についてコメントするだけのものは持っていない。

一応、Y染色体ハプロで、ネグロイドにおけるE1の卓越性に相当する特徴がないことをもって差異とする主張はできるかもしれない。あるいはチャドで卓越するR系の基盤の上に南北からの侵入と混血があって、ナイル・サハラ語圏が形成されたと主張できるかもしれない。

とりあえず、この話はこれで打ち切りにしよう。


言語・文化集団としての「ナイル・サハラ語」人

人種の問題はとりあえず置くとして、最初の図の通り、言語的には明らかに「ナイル・サハラ語人」が存在する。それはニジェール川流域からコンゴにかけて分布するネグロイド語系とは系統を異にしており、両者は歴史を遡って分岐していたことも間違いないようだ。そして東アフリカのかなり広い範囲で「ナイル・サハラ語」系領域をカバーしている。

そういう点では「ナイル・サハラ人」というサブクラスを設定することは、必ずしも人種偏見に基づく「伝説」とはいえないのではないか。


11月17日付のWSJに以下のニュースが掲載された。

無言で帰国する兵士 南スーダンで中国が気付いた大国の代償
習主席の野望がもたらす過酷な現実とは

ニュースの中身は南スーダンに派遣された中国軍PKO部隊の兵士が、戦死したというものだ。

事件の発生そのものは相当前のものである。

報道によると、事件が起きたのは7月10日。中国軍部隊の装甲車両が何者かによる携行式ロケット砲の攻撃を受けた。

この砲撃で兵士が負傷。うち一人は2時間後に死亡、もう一人も翌日死亡した。

首都ジュバで政府軍と反乱部隊による激しい戦争が起きた時の話のようだ。

WSJではこう書いている。

自国を世界の強国にするという習近平国家主席の野望がもたらす過酷な現実に、中国は初めて向き合うことになった。

…国営テレビが放送した映像に国民は衝撃を受けた。そこには、ジュバで攻撃を受けた中国人の兵士たちが、血を流している仲間を助けようと必死になっている姿が映っていた。部隊を派遣することのリスクを理解していた国民はほとんどいなかった。

と、中国の人々にはかなりの衝撃だったようだ。

リーさん葬儀
リーさんの葬儀(WSJより)


しかし今のところ、政府は兵士たちの死を受けて政策を変えたようには見えない。

メディアは反戦・厭戦の世論が起こることを警戒し、一斉に戦士を合理化する論調を流し始めた。

世界平和を守るために中国の兵士は最前線に向かっているのであり、流血と戦争の試練に直面する機会がこれから増えていく。これは中国の大国としての責任であり、中国が新たに大国としての地位についたことの代償だ。

WSJはこれらの論調に対して疑問を投げかけている。

中国が世界の大国になる目的は、いったい何なのか

中国を日本に、習近平を安倍晋三に置き換えれば、これらのシーンは明日の日本そのものではないだろうか。

それにしても、このニュース、日本のメディアで取り上げたのかな?


南スーダンについては、以下の記事をご参照ください


南スーダンの状況を見ていると、どうしても1969年の封鎖解除闘争を思い出してしまう。
前の年に東大闘争が盛り上がって、当初は無党派ラジカルの学生が大学改革を要求して運動に立ち上がった。そのうち全共闘が組織され、急速にセクト化し武闘化していく。それは安田講堂でいったん破産に追い込まれるのだが、「朝日ジャーナル」などの商業メディアにもてはやされた「全共闘運動」は急速に全国に波及していく。
その中のもっとも突出した黒ヘル部隊が数十人で入学式に殴り込み、その後大学本部をバリケード封鎖した。各学部の自治会を網羅した北大学連は封鎖解除を要求して大学本部を取り囲んだのだが、投石やゲバ棒による襲撃で多くのけが人を出す結果となった。我が医学部の藤田委員長も、かざした左腕をゲバ棒でへし折られた。
2ヶ月にわたるにらみ合いの末、北大学連は実力で封鎖解除するとの方針を打ち出した。冷静かつ客観的に見てこの方針が正しかったか否かは未だに分からない。結果論から言えば間違っていたというべきかもしれない。
しかしその頃の我々は怒りにうち震えていた。
国際学連の歌にもあるではないか。「力には正義の、力もて叩き出せ。真実の敵、国を売る犬どもを」
かくして工事現場用のヘルメットと角材で武装した数百の学生が本部を取り囲んだ時、パラパラと学生らが間に走り込んできた。そしてその場に座り込んだかと思うと、「暴力反対」のシュプレヒコールを叫び始めた。
仕方がないので実力行使は中止になり、彼らとの「対話」に移ることになった。
「暴力反対」の学生たちはもちろん封鎖には反対である。しかしそのための「暴力」にも反対である。たしかに「理は通っている」のだ。
しかしそれが結果的に暴力学生の容認になることについては口をつぐむ。こうなると完全に水掛け論だ。
たしかに非暴力主義は正しい。しかし「非暴力的に闘う」姿勢を持たない「非暴力論」は、結果として暴力の容認につながる。そして彼らは暴力学生を評論はするが闘おうとはしなかった。
ここからさきが不思議なのだが、彼らの多くはその後の経過の中で暴力学生の仲間入りしていった。そして封鎖は拡大され、理学部と教育学部を除くほとんどの学部が暴力集団の支配するところとなっていった。
あの時、封鎖を実力解除していたとしても、結局これらの事態は防げなかったかもしれないし、かえって火に油を注ぐ結果となったかもしれない。
しかしトータルとして歴史を見れば、あの無期バリストを機に大学の自治は崩壊し、大学から政治的自由は失われ、文部省の意のままの従順な人づくりの場となったのである。
前置きがずいぶん長くなってしまったが、話は南ソマリアである。
国連だとか人権・人道団体の言い分を聞いていると、どうしてもこの「暴力反対」派の学生のことを思い出してしまうのである。
ある人権団体が「南スーダンはソマリア化してしまった」というのを聞くと、心底腹が立つ。「ソマリア化させたのはお前だろう」
民族の自決権、国家のソヴァレインティの尊重はイロハのイである。国家の反逆者を「暴力反対」の美名のもとに実質的に保護して、結果的に「内乱」を焚き付けているのはあんただ。我々はそれをユーゴでいやというほど見てきた。
たしかに人権は国家を超越するが、人権を最終的に保証するのも国家だ。そういう国家を作りたいからこそ、南スーダンは60年にわたって闘い続けてきた。
あれこれの「国家」へのあれこれの批判は自由だ。しかし「国家」への敬意は最低限の礼儀であり、傍若無人の内政干渉はご法度だ。

「南スーダン」問題を勉強して

以下の記事は、限られた情報に基づく予断がふくまれているので、「そういう見方もできる」のかという程度に考えておいてください。

1.SPLAへの支持は圧倒的である。

どのくらい民主的に選挙が行われているかは分からないが、国会議員のほとんどはSPLAである。永年にわたる解放闘争を戦い抜いたSPLAへの国民の支持は揺るぎない。

勇将がいれば軍は強い。道義があれば軍は強い。民衆の支持があれば軍は強い。マチャルの部隊には武器はあっても士気がない。マチャルの反乱は程なく解決するだろう。

2.キール大統領への支持も厚いと見るべきだろう

キールについて悪い評判はない。腐敗をしていない、温厚だという評価は、この手の指導者としては稀有な資質である。ブッシュからもらったというテンガロンハットはいただけないが、「親米」であることの象徴なのだろう。

彼が有能であるかどうかは不明である。(翻ってガランの優秀さが際立つ)

ただSPLAはキールの党ではない。彼はもともと現場の人である。私が各国の革命運動を研究してきた経験から言うと、数十年の苦難を乗り越えてきたSPLAの幹部集団は相当の高水準で団結し、人民と結びついていると思う。彼らは、少なくとも短期的には大きな間違いはしないと思う。

3.現状は国内の民族対立ではないと思う

闘争が勝利に近づくと独立運動は急速に拡大し、有象無象が飛び込んでくる。しかし国家の建設は一時の熱狂で進められるものではないから、必ずそういう連中とのいざこざが飛び出してくる。

今回の問題もそういう感じがする。彼らが最初から石油の利権を狙っていたことは明らかだ。背後にスーダンがいるかもしれない。年表から見ればコルドファン紛争とマチャルの反乱は一連ととらえられる。

「これでウミを出し切って、国内は固まっていく」という楽観的な見方もできるのではないか。

4.人権屋さんの情報を鵜呑みにしないほうが良い

何人も虐殺されたとか、数十万人が難民化しているとか報道されるが、彼らは60年前から難民なのだ。

長いこと戦争しているから、殺伐としてみんな気が立っている。肝心なことは「時代のベクトル」を見失わないことである。


5.ヌエル族 はあまり品行方正な部族ではない

ヌエル族とディンカ族というが、住む場所も同じで生活スタイルも同じで、どちらも牧畜民だ。農耕民ではない。ケニアのマサイ族を思い起こしてもらうと分かりやすい。ヌエル族が20万人、ディンカ族が100万人くらいのようだ。民族というよりは氏族(クラン)だろう。

ヌエルとディンカ

ライマネ・マガジン(http://raimane.com/world/his/211/)というサイトにヌエル族の紹介がある。

人口は約20万人。隣接する同じナイロート系のディンカ族をしばしば襲撃し,居住範囲をディンカの土地へと拡大しつづけてきた。強奪が成功した暁には、ぶんどった牛の配分をめぐって、今度はヌエル族の内部で、血で血を洗う抗争が繰り広げられます。

…ヌエルはディンカを一方的に略奪してきた。ヌエルは数多くの部族の集合で、ヌエル全体をまとめる人物も制度も存在していない。このためヌエルの政治体制はしばしば「秩序ある無政府状態」とよばれ…

たしかに地図を見ると、ディンカ人社会にヌエルが侵食している様子が一目瞭然だ。

つまり、本来ヌエルの人々というのは近隣から見ると、ロシア人のように「困った連中」なのだと思う。これを予見としてマチャルを評価するのは間違いだとは思うが…

1983年、ディンカ人が主体になってSPLAが結成されると、ディンカ人以外の諸民族もこれに結集した。ヌエル族も協力した。しかしソ連とエチオピアが相次いで倒れSPLAの台所が苦しくなると、離反者が相次ぐことになる。

なかでもヌエル人の分派(SPLAナシル派)は凶暴で、1991年には有名な「ホワイト・アーミー」虐殺事件を起こしている。これはヌエル人兵士が体に虫よけの白石灰を塗ってボルの街を襲撃したもので、ディンカ人2千名を虐殺したとされる。私はこの手の報告は大体10分の1に見積もっているが、それにしても非道である。

「これを機に両民族は血みどろの抗争へと突入する」のだが、ヌエル人には道義も金もないから、やがて下火になっていく。

6.マチャルは糾弾されるべきだと思う

そこで、登場したのがヌエル人政治屋のマチャルで、ナシル派を離れSPLA「統一派」を形成する。この「統一」というのが曲者で、まずSPLAの見解である統一を維持した「新スーダン」路線を否定し、南部スーダン住民の民族自決権が合法であることを宣言した。そしてSPLAを脱退し、手兵を南スーダン防衛軍(SSDF)と称し独自行動を開始した。

このような戦闘的言動にも関わらず、1997年に南スーダンの民族自決を合法化する内容を包括したハルツーム協定が締結されると、いち早くこれに乗っていく。こうしてマチャルは武装闘争派から抜け駆けし、ハルツームの政権に加わった。

マチャルはハルツーム政府の南部スーダン国防軍司令官となり、南部スーダン調整評議会議長兼スーダン共和国大統領補佐官を務めた。しかしスーダン政府の先行きが暗いと見ると、またもや豹変しSPLAと「統一」したのである。

2005年に包括合意が成立し南部スーダン自治政府が成立すると、またもやマチャルはするりと自治政府の副大統領に滑り込んだ。

と、ここまではバルカン政治家の経路を辿って生き延びてきたわけで、ボルの集団虐殺への加担を除けば糾弾されるほどのことはなさそうだ。信用されることはないだろうが。

しかし、彼はハルツーム政府の南部スーダン国防軍司令官だったから、武器は腐るほど持っている。2013年に副大統領を逐われると、軍事行動に打って出た。12月にジュバで反乱を起こした後、翌年の1月には各地で武力行使を行い、主要な油田地帯である北部の国境地帯ユニティ州を制圧した。これが彼一人の策略になるものか、スーダンの手引があったものかは分からない。
彼は独立前にスーダンから派遣された南部軍の司令官であり、武器は豊富にある。短期戦ならかなりやれるだろう。しかし2年とは持たないだろう。旧日本軍と同じだ。

当初政府側の対応は遅れた。「国際監視」という名の干渉を嫌でも念頭に置かなければならなかったからでもあろう。ケニアと同じように、今の南スーダンは残念ながら国際援助なしに生きてはいけない。

国際世論は傲慢にも「民族間対立」という図式を煽り立て、大岡裁きをやろうとした。私はさまざまな国の革命運動でで同じような経過を見ている。

SPLAは実に粘り強く行動したと思う。ニカラグアのサンディニスタを思わせる。主要地域を奪還した上で、「耐え難きを耐え」ふたたびマチャルを政府に迎え入れた。しかし結果はなおひどいことになった。

今年7月末、キール大統領はふたたびマチャルを更迭した。前回と違うのはマチャル派の主力がマチャルとたもとを分かったことだ。マチャルは去ったが組織の幹部タバン・デンは残った。

マチャルは首都ジュバで最後っ屁を放った。270人以上が死亡する戦闘が発生した。戦闘は止まり、マチャル派はジュバを去った。(政府軍が市内で検問しヌエル人を拘束したとの情報がある。これは当然のことと思う。ジュバはバリ人の住む街であり、ディンカ人の街でもヌエル人の街でもないからだ)

もはやマチャルは国内で策動する余地を失い、スーダンに去った。(コンゴに行ったのはスーダン側の配慮であろう)

7.南スーダンは「失敗国家」とはいえない

NGOをふくめ、「南スーダンは失敗国家だ、ソマリア化する」という宣伝が行われている。

しかしニュースを注意深く読む限り、そのような結論は出てこない。

私には、南スーダンの今後が決して平坦な道ではないにせよ、スーダンとの懸案が解決され、進むべき方向がようやく明らかになりつつあるという感じを持つ。

とにかく彼らは60年間も闘い続けてきたのだ。もう少し長期のスパンで情勢判断することも必要なのではないだろうか。

願うらくは「国際機関」がパトロン風を吹かせて、国の進路を誤らせるようなことにならないことだ。ウガンダを見よ、ルワンダを見よ、立派にやっているではないか。


*だからといって自衛隊が南スーダンに居続けて良いと言っているのではない。それとこれとは別問題だ。誤解なきよう。



               「英埃(えいあい)領スーダン」(Anglo-Egyptian Sudan)の時代

1821年 エジプトがスーダン北部(現スーダン)を征服。ナイル流域に植民するとともに黒人先住民の奴隷狩りが行われる。

1877年 イギリスがウガンダより進出し、現南スーダン地域を占領する。この頃、ハルツームを中心とする北部は、エジプト王国の版図の下にあった。

1885年 ムハンマド・アフマドを指導者とするマフディ運動が起こり、北部スーダンに国家を建設。

1898年 マフディ戦争が始まる。イギリスとエジプトの連合軍がマフディ国家を滅ぼす。両者がスーダンの共同統治で合意。「英埃(えいあい)領スーダン」(
Anglo-Egyptian Sudan)の歴史が始まる。実態としては北部をエジプト、南部をイギリスが支配する二重支配であった


1930年 英国当局が南部政策を実施。南部地域は意図的に低開発状態に置かれる。アラブ・イスラーム要素を徹底して排除。部族の法や慣習、固有の言語が重視されるとともに、共通言語として英語の使用が奨励される。エリート層は英語やキリストを受け入れ、親ヨーロッパ的になる。

sudan map

「岐路に立つスーダン」 ―南部独立と和平の狭間で より転載
なおこの今井高樹(JVC スーダン現地代表)さんの報告は大変水準の高いもので、南スーダンをウォッチしていく上で確実な座標軸を提供してくれる。

1947年 「ジュバ会議」が開かれる。南北スーダンの統合が決められた。イギリスは南部のウガンダとの統合を望んでいたが北部勢力に押し切られる。南部でもアラビア語が公用語とされ、北部が権限を得るようになった。

1952年10月 スーダンが自治権を獲得。独立に向け動き始める。ハルツーム政府の北部中心主義に対する南部の不満が広がる。

第一次内戦の時代

1955年 南スーダン南部のエカトリア地方の町ヌザラで、労働者のデモに警察隊が発砲し20人の犠牲者が出た。これをきっかけに南部人の部隊が反乱。第一次スーダン内戦が始まる。

1956年1月 単一国家「スーダン共和国」が独立する。北部主体の新政権が政治的・経済的支配を握る。連邦制を構築するとのイギリスにした約束を反古にし、北部中心主義を制度化したため南部の不満が高まる。

1958年 ハルツームで軍事クーデター。イブラヒム・アブード将軍が政権を掌握した。南部州への軍事的抑圧を強化。南部スーダンの政治家は、ウガンダに亡命。

1963年 ウガンダ亡命中の南部州人が、スーダン・アフリカ民族同盟(Sudan African National Union、SANU)を創設。連邦制に基づく南スーダンの自治権拡大を主張。
その後南部州の政治勢力(亡命組織)は北との関係をめぐり離散集合を繰り返す。
1963年 SANUが武装組織「アニャニャ」
Anya Nyaを結成。赤道州で小規模なゲリラ闘争を開始する。
まもなくアニャニャ戦線は、SANUに対し独自路線を主張するようになる。
周辺国の支援を受け、民衆の支持をかちとる。アニャニャを中心に南部の諸勢力が結集し、「南部スーダン解放運動」(SSLM)を結成。タンザニア留学中のガランもこれに加わる。

ジョン・ガラン・デ・マビオル (John Garang de Mabior, 1945年)ボル近郊の農村で貧農の子として生まれ、幼少時に孤児となる。第一次スーダン内戦に参加した後、勧められてアイオワ州のグリネル大学で経済学 を修めた。その後タンザニアで研修を続ける一方、大学生アフリカ革命戦線のメンバーとして活動。アニャニャに加わり、第一次内戦を戦う。

1969年5月 ハルツームでクーデター。民族主義左派のヌメイリ政権(
Col. Jaafar Muhammad Numeiri)が成立。親ソ容共のナセル路線を選択。南部との関係修復に乗り出す。

1971年 ヌメイリが親米反共路線に切り替え。軍左派によるクーデターが企てられるが失敗に終わる。

1972年2月27日 ヌメイリ政権とアニャニャを中心とする南部スーダン解放運動(SSLM)との間に「アディス・アベバ合意」が成立。南北の内戦はいったん終結する。

アジスアベバ協定: 南部は自治を許され、独自の地域議会と高等行政評議会を設置する。将来の南部の分離独立を問う住民投票も認められる。アニャニャ兵士は政府軍に組み込まれる。しかし財政的には北部への依存状況が続く。

1974年 シェブロンが油田を発見(操業開始は78年)。その多くが南スーダン(ユニティー州)に分布していた。

第二次内戦の時代

1983年3月 ハルツームのヌメイリ政権、原理主義派の「民族イスラム戦線」(NIF)の圧力を受け政策を転換。① 国政にイスラム法(シャリーア)を導入、スーダンを「ムスリム・アラブ国家」にすると宣言。② 南部の石油資源独占を狙い、南部を3つの地域に分割し支配する。③ これに伴い、アジスアベバ合意を事実上破棄。南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を拒否。

4月23日 ヌメイリ政権、非常事態宣言を発動。シャリーアの適用を拡大する。

憲法上で最も保障された権利が停止され、非常時法廷が設置される。窃盗に対する切断やアルコール所持に対する公開鞭打ちが広範に行われた。南部人と他の非イスラム教徒も、これらの罰を受けさせられた。(南部人の多くは伝統的な精霊信仰、一部にキリスト教徒)

5月 南部自治政府のもとに配置された第105大隊の将兵500人が、北への転属を拒否し地方都市ボルに立てこもる。この部隊はもともとアニャニャのゲリラを中核とする組織であり、スーダン軍への編入後は冷遇されていた。

5月 ガランは反乱兵の説得ために派遣されたが反乱側に寝返る。

内戦終結後はスーダン軍で経歴を積み、フォート・ベニングのア メリカ陸軍米州学校で上級歩兵将校コースを修めた。またこの間にアイオワ州立大学で南部スーダンの農業開発に関する論文で農業経済学修士および博士の学位 を得た。帰国後1983年までガランは幕僚大学の学長であった。

7月 反乱勢力がエチオピア領内に結集し、
「スーダン人民解放軍/運動」 (SPLA/M) を結成。ガランが指導者となる。南部最大の民族であるディンカ人を中心に組織され、兵士3千人を擁する。当初の主要メンバーはジョン・ガラン、サルバ・キール・マヤルディ、ウィリアム・ニュオン・バニ、ケルビノ・クアニン・ボルら。

SPLAは”New Sudan” というビジョンを掲げ、南北問題を含む諸問題を、統一スーダンとして解決を目指した。そのため地方分権と南北格差の是正、民主主義の実現を求めた。
当初はディンカ人主体の組織だったが、やがてヌエル人など他種族も結集するようになり、SPLAが内戦の主体となる。南スーダンには他にもザンテ人など60以上の民族が混住する。


キール(
Salva Kiir Mayardiit)がSPLAに参加。キールもガランと同じディンカであるが、多少出自が違うらしい。第一次内戦をアニャニャ戦線の一員として闘い、第二次スーダン内戦では実戦経験の乏しいガランに代わって戦場での指揮をとるようになり、SPLAの参謀長として活躍した。

同じ頃、ヌエル族出身のマチャル(Riek Machar Teny)もSPLAに参加している。

1983年 SPLAがエチオピア(メンギスツ軍事政権)の支援を受け反乱開始。これをソ連が援助。第二次スーダン内戦が始まる。

1984年9月、ヌメイリは非常事態の終了を宣言し、非常時裁判所を閉鎖したが、シャリアの多くを引継ぐ新たな刑法を施行した。

1985年初め、ハルツームは旱魃と飢饉の中、燃料とパンの深刻な不足に見舞われる。南部では戦闘が拡大し、難民が増加。SPLAがリビア、ウガンダ、エチオピアの支援を得て、南部の大半を支配下に治める。

4月の初めに、最初はパンと他の主要製品の値上げによって引き起こされた、大規模なデモがハルツームで起きた。

4月6日 ザハブ将軍が、反ヌメイリのクーデターを起こした。1983年憲法の無効化と、イスラーム国家化の停止、ヌメイリのスーダン社会主義連合の解散を宣言する。しかし、シャリーアの導入を決めた「9月法」と呼ばれる法律は停止されなかった。

1986年4月 選挙が行われ、軍事評議会は公約通り民政移管した。ウンマ党のマフディーを首相とし、民主統一党 (DUP)、民族イスラム戦線(NIF)と、いくつかの南部の政党が連立した。SPLAは選挙への参加を拒否。

5月 ウンマ党政権は SPLA と和平交渉を始めた。その年、SPLA と他の政党のメンバーはエチオピアで会合し、シャリーアの廃止を求めるコカダム宣言に合意していた。

1988年11月 SPLA とDUP(ウンマ党政権の連立与党) は、エジプトとリビアとの軍の協定の廃止、シャリーアの凍結、非常事態の終了、停戦を求める和平案を共同提案した。しかしマフディー首相はこの和平案を拒否し、このためDUPは政権を離脱した。新政権はウンマ党とイスラム原理主義の NIF で構成された。

1989年

2月 スーダン軍軍部はマフディーに南部州との和平を進めるよう最後通告を示した。マフディはあらためてDUP との連立政権を作り、SPLAとDUPとの合意を承認した。

6月30日 主戦派の下級将校が、オマル・アル=バシール大佐をかつぎクーデターを決行。救国革命指導評議会を創設する。バシールが大統領と首相、最高司令官を兼任した。イスラム原理派の「民族イスラム戦線」(NIF) はバシール政権を支持し非イスラム派との戦闘を煽る。

バシール政権は労働組合や政党その他「非宗教」組織を禁止した。その結果、7万8千人の軍人・警察官・行政官が追放された。追放された政治勢力はエリトリアに亡命・結集し多党派連合「国民民主同盟」 (NDA)を結成。国民民主同盟にはSPLAも参加。

1991年


5月 ソ連・東欧の崩壊に伴い、エチオピアでもメンギスツ政権が倒れる。SPLAは後ろ盾を失い分裂した。1.トリット派 ジョン・ガランの率いる主流派、2.バハル・エル=ガザル派 ケルビノ・クアニン・ボルの率いる反主流派、3.ナシル派 ヌエル族を主体としマチャルが率いる。後に統一派を名乗る。
1991年 バシール政権、切断と石打ちを含む残酷な刑を全国的に導入する新刑法を施行する。
11月15日 マチャルの率いる部隊、ジョングレイ州ボルでディンカ族を虐殺する。
1993年 バシール政権がシャリーアによる司法改革を断行。南部の非ムスリムの裁判官を北部へ転任させ、全てムスリムに置換える。またハルツームに住む南部人や非ムスリムをシャリーアに基づき逮捕する。
1993年 スーダンがアメリカにテロ支援国家に指定される。アメリカからの武器輸入は途絶え、シ ェブロン社は操業を停止。油田の権利を格安でスーダン政府に売り渡す。中国が大量の武器を供給し油田開発に乗り出す。
1995年3月に、米国のカーター元大統領の仲介で一時停戦が実現
1996年に、SPLAとエリトリアに拠点を置いた多党派連合国民民主同盟 (NDA) が、政府に対する共闘を開始し、内戦がさらに拡大した。
1997年 アメリカによる経済制裁が開始される。アメリカはスーダン政府に軍事圧力をかけるため、エチオピア、エリトリア、ウガンダを通じてSPLAを支援。これによりSPLA(とジョン・ガラン)は息を吹き返す。
1997年4月 反政府勢力4派と政府が和平協定に調印。統一民主救済戦線 (UDSF) を結成しハルツームに復帰する。SPLAは引き続き敵対関係を続ける。このときマチャルの部隊は単独でハルツームと講和し、南部軍司令官に就任する。

1998年

5月4日、政府とSPLAの代表がケニアのナイロビで約半年ぶりに和平交渉を再開。この間も東南部では戦闘が継続していた。
8月20日 アメリカによるミサイル攻撃で、スーダンの製薬工場が破壊される。アメリカ大使館爆破事件への報復とされる。
1999年 南部のヘグリグ油田とポート・スーダンをつなぐパイプライン敷設が完了、石油輸出を開始する。スーダンは中規模の産油国となる。
1999年 バシール政権、NIFの指導者トゥラビ(
Hassan Al-Turabi)を政権から追放。強硬なイスラーム化政策から修正し、アメリカとの関係改善を試みる。
2001年 
トゥラビ、SPLAと単独交渉し、SPLAの存在を容認。バシールは発表の翌日にトゥラビを逮捕。

2002年

1月 アメリカが特使を派遣し、積極的な調停に乗り出す。これを受けて、スーダン政府とSPLAが、
ケニアのマチャコスで会談。6ヶ月間の停戦に合意。
7月20日、政府とSPLAが
和平の枠組み(Machakos Protocol)に合意。南部の帰属をめぐる住民投票を6年後(2008年)に実施することなどを柱とする。
7月27日 バシール大統領とSPLAのジョン・ガラン最高司令官が、ウガンダのカンパラで初会談。
8月12日 包括的和平合意を目指した交渉が再開される。周辺国で構成された政府間開発機構(IGAD)の和平プロセスが進展。

2003年

ダルフール地方の反政府勢力が武力闘争を開始。 政府からの支援を受けたアラブ系民兵組織ジャンジャウィードが大規模な虐殺と破壊を繰り返す。約 20 万人の死者、約 200 万人の難民・国内避難民が発生

2004 年 11 月 ルンベックでSPLAの会議。キールはガランをはじめ SPLA内部の腐敗について批判。ガランの個人支配についても批判。

今井さんによれば、SPLA 内部には腐敗もあり、ガランを筆頭に幹部の多数が豪邸に住み、豪勢な生活を営んでいた。キールは幹部の多くと異なり、腐敗とは無縁な人物として知られていた。


南北和平交渉と独立への過程
2005年

1月9日 ケニアのナイバシャで、第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意が締結され、南北包括和平合意 (CPA) が実現。合意の主な内容は

1. 自治権を有する南部スーダン政府の成立
2. アル=バシールを大統領、ジョン・ガランを第一副大統領とするスーダン暫定政府の発足
3. 大統領選挙、議会議員選挙の実施(5年後)
4. 南部スーダンの独立を問う住民投票の実施(6年後)
5. 南部の宗教的自由(シャリーアの不適用)
6. 南部スーダンで産出される石油収入の南北原則均等配分


1月9日 南部スーダン自治政府が成立する。初代大統領にジョン・ガランが就任。サルバ・キールが副大統領となる。22 年間に及ぶ内戦は終結。内戦による死者は約250万人、発生した国内避難民は 400 万人、国外難民は 40 万人にも上る。
2月 SPLA、北部軍の拠点であったジュバに入る。臨時首都のルンベクに代わり南部スーダンの恒久的首都と宣言。(ジュバは、21年間にわたりSPLAの包囲を受けながら北部軍が確保し続けた)
7月 新スーダン政府が発足。SPLAのガランが第一副大統領に就任。南スーダンの大幅な自治を認めた新憲法が公布される。
8月11日 ガラン、ウガンダでの会談の帰路、ヘリコプターの墜落により事故死する。北部人と南部人の衝突が相次ぎ、内戦再発の危機を迎える。
9月 キールがスーダン共和国第一副大統領及び南部スーダン自治政府第2代大統領に就任。キールの大統領昇格に伴い、SPLAに復帰したマチャルが副大統領に就任。
10月 
南部スーダン自治政府が発足。SPLAが自治政府の主導権を握る。

脆弱な平和

このあとの記事は、BBCニュースから主として拾っている。

2006年


11月 スーダン政府軍とSPLAがマラカルで衝突。数百人の死者を出す。
2006年 
合同統合任務軍「アフリカの角」が創設される。中国のスーダン進出に対し、米国が軍事的プレゼンスを確保するためとされる。
2007年 SPLA、南北境界紛争とダルフール問題(イスラム教徒民兵)でのハルツーム政府の不誠実を理由に国民統一戦線内閣から離脱。2ヶ月後に復帰。

2008年
5月 産油地域のアビエイ(Abyei)で、南北両軍の戦闘が激化。
6月 バシルとキールの会談。アビエイ問題で国際的調停を仰ぐことで合意。

2009年

6月  国際刑事裁判所(ICC)は、バシール大統領に対して、ダルフールにおける人道に対する罪により逮捕状を発行する。
6月 ハルトゥーム政権が南スーダンの少数民族に武器を渡し内紛を煽っているとの情報が流れる。ハルトゥームはこれを否定。
12月 南北スーダンの指導者が会談。独立を問う国民投票を11年3月に実施することで合意。

2010年

1月20日 
南北の内戦終結5周年を祝う式典が開かれる。これに出席したバシール大統領は、「住民が選択(分離独立を)した場合にはスーダン政府は南部の(完全)独立を承認する」と発言した。

1月 南スーダンで住民投票。完全独立を望む票が圧倒的多数を占める。

2月 ジョングレイ州アビエイで治安部隊と独立派の衝突。100人以上の死者を出す。

3月 南スーダン政府、北によるクーデターの企てがあったと非難。南北対話を停止。

4月 南スーダン自治政府の大統領選挙。キールが得票率92.99%という圧倒的大差で再選される。

南スーダンの完全独立

2011年

1月9日 独立か自治かを問う住民投票が実施。分離独立票が圧倒的多数 (98.83%) を占めた。

5月 北スーダン、アビエイの係争地域を占領。
6月 南北政府、アビエイの係争地域を非軍事化し、エチオピアのPKOに委ねる協定に調印する。
7月9日 スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立し、「南スーダン共和国」(The Republic of South Sudan)になった。SPLMは政権与党となり、SPLAは正規軍(南スーダン軍)に再編成された
7月13日 国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった。
8月 国連、ジョングレイ州で人種間の衝突により少なくとも600人が死亡と発表。
9月 南スーダン政府、ラムシェル(計画のみ)を将来の首都とすると決定。
10月 キール大統領、独立以後最初のハルツーム訪問。懸案を解決するためにいくつかの委員会を設置することで合意。
10月 SPLAがユニティ州のマヨムを攻撃。少なくとも75人の死者を出す。このあと国境地帯で武力衝突が相次ぐ。明らかになったのは氷山の一角とみられる。

11月02日、北スーダン管轄下の南コルドファン州タロディで、スーダン政府軍と「スーダン人民解放運動・北」が激しい戦闘。
「スーダン人民解放運動・北」(SPLM・N)は合意された南北国境より北に住む黒人系住民の武装組織。北スーダン政府の黒人系住民排除の動きに抵抗して組織された。
11月03日 
北スーダンの青ナイル州クルムクで、SPLM・Nの拠点がスーダン政府軍に攻撃される。約2万8700人の難民がエチオピアに脱出。
11月 南スーダン政府、北軍機がユニティ州Yida の難民キャンプを空襲したと非難。北スーダン軍は空襲の事実を否定。


2013年

1月 
スーダン政府との石油に関する交渉が停滞,南スーダンは,原油生産停止を決定
1月 ジョングレイ州で人種抗争のため10万人が難民となる。南スーダン政府はジョングレイ州に非常事態を宣言。
2月 南北スーダン政府、相互不可侵協定に調印。その後パイプラインの使用量をめぐる交渉が決裂し、北スーダンは南からの石油パイプラインを閉鎖。南スーダンはこの結果公務員給与以外の支出の半減を迫られる。
4月 南スーダン軍、数週間にわたる国境紛争の末、北スーダンのコルドファンにあるヘグリグ油田を一時占拠。スーダン国民会議は南スーダンを敵とみなす決議を採択、スーダン軍が南スーダンのベンティウを報復空爆する。国際連合安全保障理事会は、両国に即時停戦を強く求める。
5月 南北両軍がともにアビエイから一方的撤退。
6月 南スーダン、経済的悪化の中で最初の独立1周年式典。
8月 国境地帯のスーダン側で北軍とSPLA-Nとの武力衝突。戦闘地帯から20万人が南スーダンに逃げ込む。
9月 南北大統領がエチオピアで会談。
通商、石油、軍事に関する9つの合意文書に署名。国境に非軍事緩衝地帯を設定すること、石油販売を再開することで合意。アビエイ地域の帰属など領土問題では合意に至らず。

2013年

4月 南北間の厳しい価格交渉の末、原油生産が1年ぶりに再開される。また国境地帯に非武装地帯を作ることでも合意。
5月31日、安倍晋三首相とサルバ・キール・マヤルディ大統領の会談。南スーダンに日本大使館を設置することが決定

内戦の開始

6月 キール大統領、マニべ財務相とアロール外相を罷免。免訴特権も取り上げる。両者には数百万ドル以上の金融スキャンダルがあった。

7月 キール、内閣の全閣僚とSPLAの主要幹部を全て解任する。マチャル副大統領も解任される。SPLA内部の権力争いが背景にあったとされる。

12月14日、首都ジュバにおいて軍の一部と大統領警護隊が衝突。

12月16日 サルバ・キール大統領は、衝突がマチャル前副大統領によるクーデターであったことを公表し、前閣僚を含めた関係者を逮捕。

12月 マチャル派部隊がボルを占拠。他にもいくつかの町がマチャル派の手に落ちる。ユニティ州を防衛していた指揮官がマチャル派に寝返り、北部の国境地帯(油田地帯)がマチャル派の手に落ちる。

12月 ウガンダ軍部隊、南スーダン政府軍の立場に立ち戦闘に参加。


2014年

1月23日 両派間で停戦合意が結ばれる。2月まで数回にわたり停戦合意が成立するが、戦闘はおさまらず。

2月17日 ボルで国連派遣団(UNMISS)の施設が武装グループに襲撃される。避難していた民間人ら少なくとも20人が死亡、70人以上が負傷した。報道では誰がやったかを明らかにしていないが、明らかにマチャル派であろう。

4月 マチャル派が油田地帯の主要な町ベンティウを占拠。200人以上の民間人が殺害され、400人以上が負傷。

6月 国連安保理、南スーダンの食糧危機は世界最悪と発表。4月までに数千人が殺され、避難民は100万人以上にのぼる。さらに500万人が人道援助を必要としている。NGO「平和基金会」が発表した「世界で最も脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となる。

8月 政府間開発機構(IGAD)による調停により、アジスアベバで政府と反政府勢力との和平交渉が始まる。


2015年


2月 6月に予定された総選挙は紛争が続くため中止となる。

3月 反乱軍、ユニセフの要請に応じ少年兵250人を解放。ユニセフの観測によれば、この戦闘で少年兵1万2千名が動員されているという。

8月 キール大統領、国連の圧力に屈し平和提案に応じる。マチャルは副大統領に返り咲く。

8月 キール大統領派とマシャール派が合意。無期限衝突停止宣言や国民統一暫定政府設立などを定める。この間の衝突で5万人が死亡、避難民は230万人以上と推定される。経済はインフレ率295%に達する。


2016年

9月23日 タバン・デン・ガイ第1副大統領が国連総会で演説。情勢は安定しているとし、国連の地域防護部隊の配備に反対を表明。

11月1日 バン・キムン事務総長、7月事態を受け、国連南スーダン派遣団の司令官を更迭。司令官の出身母体であるケニアはこの措置に抗議し、駐留軍全部を撤退させる。

11月17日 AFP バン・キムン事務総長、安保理あての報告。治安状況は悪化しており、混沌とした状態。①大規模な残虐行為が発生する非常に現実的な危険がある。②国連の平和維持部隊は大量殺りくを阻止できない。

11.17 国連安全保障理事会が開かれる。米国は武器禁輸の決議案を提出。和平実現の「元凶」となっている政府指導者らの資産凍結や渡航制限ももとめる。



ずっと気になってはいたが着手しないままになっていた。

内部の力関係はおそらくケニアやルワンダと似たようなものだろうと思っていた。アフリカにおけるナショナリズムの目覚めは1960年ころだ。

この頃から域内先進国の中心部では植民地支配を排撃する運動が、種族や部族を越えた「民族」という求心力のもとで語られるようになった。

しかしそれはあくまでも都市部の知識人や組織労働者などに限られており、それが周辺部まで行き渡るのにはなお数十年の月日を要した。それは今もなお進行中であり、都市部における資本主義的(むしろ商業的と言うべきか)生産システムがいかに発展するかにかかっている。

この歩みを強引に進めようとしていくつかの社会主義的実験が試みられたが、それらはいずれも失敗に終わった。しかし精神としての進歩主義、パン・アフリカニズムはある程度は受け継がれている。

サブサハラの中では、東部の大地溝地帯はむしろ先進地帯に属する。エチオピアからウガンダ・ルワンダへと続くゾーンは比較的人口稠密な高原地帯であり、粗放ながら農業を基盤とする社会が成立していた。

ただし南スーダンはその中では激しく落ち込んだ地帯であり、ナイルの氾濫原が酷暑の中に広がる農業不適地帯である。

そこは北のアラブ世界と南の高原地帯をつなぐ結節点として意義を持っているところだと考えてよいのではないか。
率直に言えば、ネーション・ステートとしての「塊」はそこには感じられない。突き放して言えば、ルアンダ・ブルンジ並みに細切れ国家にならないと、民族国家としてのスタートは切れないのではないか、とさえ思ってしまう。 

そんな感じで、年表づくりに入ってみたい。

中央アフリカ年表ですが、その後だいぶ増補されたので、もうブログで見るのはしんどいと思います。
ホームページの方に移動したのでそちらをご覧ください。
と言いつつまだ上げてなかった。これから上げます。

http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/africa/centralafrica.htm

です。
FFFTPのアップロードはサーバーに反映されるのに4,5分かかるようです。

アナーキーになりついでに

この中央アフリカという国の歴史で、もっとも魅力的な人物はなんといってもボカサであろう。

こういう国では、「民主的」にやってもいいことはひとつもない。

唯一まともな組織は軍隊だけだ。軍は組織で動く。軍には目標がある。何よりも国家の中で唯一国家意識を持った組織だ。

ところが選挙をやると必ず負ける。そして勝ち上がってくるのは部族の代表だったりギャングのボスだったりする。だからこういう国で「民主主義」というのは汚職と腐敗の代名詞だ。

こういう連中が国の金庫を空っぽにするだけならまだ我慢できるが、外国とツルンで莫大な借金を残してドロンする。こうなると国中無茶苦茶だ。何よりも兵隊に給料が払えなくなるから、軍人は我慢ならずクーデターを起こす。

ところが軍人が登場して綱紀を粛清し、国の再建計画を作っても先立つモノがない。軍人はたいていナショナリストだから、多国籍企業にはとんと旨味がない。だから先進国は金を貸さない。

しかたがないから指導者は膝を屈し、「民主主義」を導入して、自らが「腐敗政治家」になったふりをして資金を仰ぐ。

ところが投入された資金は国庫には入らず、多国籍企業の儲けを増やすような事業にばかり投入されるから、貧富の差はますます広がり国民の不満は益々高まる。

ならば企業の国有化を、と画策した途端にCIAや外国情報機関に足をすくわれ、哀れ再クーデターで一巻の終わりという筋書きだ。

もう少し利口な指導者は、黙って多国籍企業のおこぼれに預かり、いのちを永らえる。トップがそうやって変節すれば、下は遠慮なくむさぼるようになる。そしてもっと露骨に権益を金儲けの手段に使おうとする民間政治家を好ましく思うようになる。

そして話はふりだしに戻る、というぐあいだ。

こういう話がいつまで続くか、いつになったら続けられなくなるのか、大変難しい話だ。

中央アフリカ年表を作成しての感想。

中央アフリカの内戦は「新型の戦争」である。難民が反乱を起こしそれが内戦となり、難民軍が勝ってしまったのである。

マリの戦闘は違う。ベルベル人はみずからの故地を守り、生活を守るために戦った。これが内戦の基本構図だ。ただしベルベル人はカダフィの傭兵として闘い、大量の武器を持ち帰った。だから戦闘が複雑になった。これにアルカイダが乗っかってきたから話が複雑になった。

中央アフリカの場合はそれとはまったく異なる。北部から流入した難民が野盗化し、それが反政府勢力に束ねられて政府に立ち向かう構図だ。

しかも難民軍が勝ってしまった。彼らは頭に据えた国内反政府派の指導者たちの首も切ってしまった。そして頭を持たない下半身だけの化け物となって、国中を荒らしまわっている。

これは21世紀が生み出したバケモノだ。




しばらく前に、マラウィの年表を作成したが、2012年までの感想はほとんど同じだ。
ただ、2012年からは突然マリの年表になる。サヘルの問題が前面に出てくる。砂漠の民の襲 来だ。それにムスリム原理派の影がちらつく。

サヘル問題はイナゴの襲来と同じだ。順番に押されて南下してくる。砂漠化の拡大に押されて 遊牧民が南下してくる。彼らの羊は草原を食いつくす。そして彼らは疾風のごとく襲い来たって 、農耕地の定住農民を襲い殺しつくし奪いつくす。
逃れた農民は南下するが、そこにはすでに農民がいて難民を受け入れる余地はない。食うに 困った難民たちはやがて野盗化し凶暴化する。
そこに片手にコーラン、片手にカラシニコフを 抱えた指導者がやってきて、反乱を呼びかける。 そしてやがて血で血を洗う内戦となる。

 短期的にはこのパターンなのだが、実はもう少し長いレンジで見ると逆の流れが見えてくる。
 土地の生産性は遊牧においてはきわめて低い。その中でも灌漑できれば農業ができるところ には定住民が侵食してくる。
 たいていそういうところは遊牧民にとってもだいじな放牧地だから争いが起きるのだが、定住 民の経済力には到底かなわない。おまけに法律がだんだん出来てきて、これも定住民に味方 するから、だんだん追い立てられていくことになる。

 遊牧民は基本的に無政府主義である。「空をとぶ鳥のように、自由に生きる」のだ。国境などク ソ食らえだ。そもそも国だとか所有権などという面倒なものがあるからいけないのだ。 「中央アフリカ」という国が今や存亡の危機に立たされていると大騒ぎしているが、天才バカボ ンじゃないが「それでいいのだ!」ということになる。 たしかに一理あるな。

とりあえず、ネットで日本語の資料をかき集めて、年表の形に整理しました。

申し訳ありませんが、出典は一切記載しておりません(大半はウィキペディア)。ご容赦の程よろしくおねがいします。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/6/8/688b18b3.jpg

1875年 ウバンギ・シャリ地方がエジプトの支配下に入る。

1883年 フランスがウバンギ・シャリ地方に進出。94年にフランス植民地に編入する。

1900年4月22日 フランス軍がウバンギ・シャリのエジプト軍を撃破。

1910年 フランスのウバンギ・シャリ植民地(現中央アフリカ共和国)とガボン植民地、中央コンゴ植民地(現コンゴ共和国・ブラザヴィル)が連邦制を敷き「フランス領赤道アフリカ」となる。

1911年 カメルーンを支配していたドイツが1911年から1914年にかけて西側半分を占領。

1920年代 天然ゴムや綿花のプランテーションが発達。フランス植民地主義者の激しい収奪により人口が減少。「地獄の10年」と呼ばれる。

1927年 ボカサの父が植民地政府により処刑される。彼はゴム採取会社の監視人だったが、徴発された強制労働の従事者を、会社に無断で解放したため罪に問われた。

1949年 バルテレミ・ボガンダが黒アフリカ社会進歩運動(MESAN)を結成。ボガンダはカトリック聖職者で、戦後ウバンギ・シャリを代表してフランス国民議会の議員に選出されていた。(一書に46年、また一書にブラックアフリカ社会労働党との記載)

1959年3月 独立運動の指導者ボガンダ、飛行機事故で死亡。

1958年9月 住民投票によりウバンギ・シャリはフランス共同体内の自治共和国となり、国名を中央アフリカ共和国と改称する。ボガンダは首相に就任。

1959年3月29日、ボガンダは西部のベルベラティの町から首都バンギへと飛行機で戻る途中、飛行機が墜落し、独立を目前にしてこの世を去る。

1960年8月15日 フランスより完全独立。ボガンダの甥ダヴィド・ダッコ (David Dacko) が初代大統領に就任する。ダッコはフランス軍の古参兵で従兄弟のジャン=ベデル・ボカサを招聘し、国軍の参謀総長とし、その編成を委ねる。

1965年12月31日 ジャン=ベデル・ボカサ中佐による軍事クーデター。カウディージョ気質から失政と腐敗を見かねたものとされる。ダッコはボカサの顧問として国内にとどまる。

ボカサは第二次世界大戦勃発の直前にフランス軍に入り、自由フランス軍に参加、41年には軍曹に昇進して各地に転戦、大戦終結後はインドシナ戦争にも従軍した。
 22年間フランス軍に勤務して勲章を15個もらい、最終階級は大尉であった。

1966年1月3日 革命委員会が発足。ボカサが大統領に就任、独裁政治をはじめる。南アフリカ、ソ連、リビアから援助を引き出すなど、独特の外交手腕を持っていたとされる。

1972年 ボカサ大統領、終身大統領を宣言。

1976年12月4日 ボカサ、「中央アフリカ帝国」を宣言。みずから皇帝に即位。「黒いナポレオン」の異名をとる。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/2/b/2b9fad77.jpg

1976年12月7日 パタセが帝国首相となる。北部の出身でボカサの妻の従兄弟にあたる。

1977年12月 国家予算の1/4に相当する約65億円(2000万ドル)をつぎ込んだ戴冠式が行われる。初代皇帝ボカサ一世を称する。

約65億円(2000万ドル)との記載はどう見てもおかしい。現在のレートなら20億円、1ドル360円の頃の話だろうか。(たしかに77年には360円だった)
 別のファイルでは「国家予算の2倍にあたる2500万ドル」との記載あり、これも国家予算12.5億円というのはあまりに安いようだ。

1978年 ボカサ、息子のジャン=ベデル・ジョルジュ皇太子を国外に追放。

1979年1月 ボカサ帝政に反対する小中学生らのデモが発生。ボカサは傭兵を用いて暴力的に鎮圧。100名の小学生をふくめ400人の死者を出す。

デモの引き金となったのは、制服着用を義務化しようとしたことだった。制服は一族の所有する工場や店の製品で、きわめて高価だったという。

1979年4月 フランス、独自の調査でボカサによる子供の殺害を確認。ボカサと断絶。帝政打倒を目指すようになる。

1979年9月 ボカサ、新たなる同盟者を求めリビアのカダフィを訪問。

9月20日 フランスの手引でクーデター。外遊中だったボカサを追放。共和制を復活する。初代大統領のダッコが政権に復帰。新憲法を制定し、複数政党制を導入する。

ボカサを追放するためにフランス軍特殊部隊が行った秘密作戦には、「バラクーダ 」作戦という暗号名がつけられていた。
作戦は夕方に開始された。まず潜入していたSDECE特殊部隊が空港を制圧した(SDECEは現在のDGSEに相当)。次いでC-160が着陸し、ブランシオン=ルージュ大佐の率いる第1海兵歩兵落下傘連隊が戦闘配置についた。さらに計300人以上の兵を乗せた2機の輸送機が到着した。SDECE司令官ベルナール・ドジェンヌ大佐は、待機していたチャドのジャメナ空港から飛び立ち、まもなくバンギに到着した。
それから政府と市内要所の制圧作戦が開始され、午前0時半にはダッコ元大統領が中央アフリカ帝国の崩壊と中央アフリカ共和国の復活を宣言した。
 バラクーダというのは、元々はチャドから出発したドジェンヌ大佐のユニットにつけられた暗号名で、ピューマ・ヘリコプター8機とトランザール輸送機から編成されていた。

1981年3月 複数政党制による大統領選挙が施行される。ダッコが勝利するが、アンジュ・フェリクス・パタセ率いる野党の猛追を受ける。パタセは38%の支持を獲得。バンギにおいてはダッコの得票を上回る。野党は選挙の無効を叫びストライキを繰り返す。

1981年9月1日 国軍参謀総長アンドレ・コリンバによるクーデター発生。コリンバが国家再建軍事委員会議長に就任する。ダッコはカメルーンに亡命。(一書では、「ダッコは社会秩序の回復のためにコリンバに政権を譲った」とされる)

1982年3月 パタセによるクーデター未遂事件が発生。これに連座したボジゼ情報文化相は国外へ逃亡。

1983年 ECCAS(Economic Community of Central African States)が結成される。10カ国から構成される。

1985年 コリンバ、政体を民政に移すと発表。これに備え配下の軍人に民政参加の準備を進める。

1986年11月 国民投票により新憲法採択。コリンバが大統領に選出される。

1986年 ボカサ、フランスの監視から脱出し帰国、捕らえられ死刑の宣告を受けるが、93年には釈放される。96年死亡。

1987年7月 新憲法にもとづく最初の国民議会選挙が実施される。

1989年7月 ボジゼ、ベナン共和国のコトヌーに滞在中、コリンバの要請を受けた官憲に捕らえられ拷問を受ける。

1991年7月 憲法改正により複数政党制が成文化される。これにもとづく政党法が成立。

1991年12月 ボジゼ、放免を受け出獄。政治活動を再開。

1992年10月 大統領・国民議会選挙が実施される。野党に敗れたコリンバは選挙の無効を宣言。

1993年5月15日 未払いの給与支払いを求め大統領警護隊がクーデター。交渉により鎮圧される。

1993年10月22日 再選挙が実施され、コリンバの落選が確定。アンジュ・フェリクス・パタセが大統領に就任する。ボジゼは軍参謀長に就任する.北部出身者の登用にコリンバ派は反発。国内の混乱は収まらず騒乱状態となる。

1996年4月18日 国軍の一部兵士が給与遅配に抗議して反乱を起こす。この後5月、11月にも反乱が発生。

12月1日 旧仏領アフリカ4ヶ国首脳が共同調停に入り停戦合意。停戦合意実施のため、アフリカ6ヶ国で構成されるアフリカ仲介軍(MISAB)が派遣される。

1997年6月 アフリカ仲介軍と反乱派兵士との間で戦闘となる。

1998年4月 国内治安安定のため、国連中央アフリカ共和国使節団(MINURCAT)が結成され、MISAB の活動を引き継ぐ。多国籍軍の駐留のもと行政機構が整備される。

1998年11月 MINURCATの支援のもと,国民議会選挙が平穏裡に実施される。

1999年9月 大統領選挙が施行され、パタセ大統領が再選される。

2000年2月 MINURCATが撤退。これに代わり国連平和構築事務所(BONUCA)が設立される。

2001年5月28日 コリンバ派の兵士によるクーデター未遂事件が発生。コリンバはウガンダへと逃亡した。

10月 ボジゼにも関与の疑いがかけられ、軍参謀長の職を解かれる。

2001年10月 フランソワ・ボジゼ(Francois Bozize)元参謀長を支持する部隊が、大統領親衛隊との武力衝突。

11.08 政府軍はリビア軍の支援を得てボジゼの拠点を攻撃。ボジゼは北のチャドに逃れた。

2002年10月25日 ボジゼの勢力が1週間にわたりバンギを攻めたが敗退。

2003年3月15日 ボジゼ、パタセ大統領の外遊中に権力を掌握。自ら「大統領」を宣言し,1995年憲法を停止。「国家暫定評議会」を設立する。チャドのイドリス・デビ大統領や MINURCAT がポジセを支援する。


ここはどうもよくわかりません。選挙で選ばれた大統領をクーデターで追放する行動がなぜ「国際的な支持」を得たのでしょう? ただ、その後の行動を見ると、ポジゼが比較的「民主的」な大統領であった可能性はあります。

2003年9月 ボジゼ暫定政権、「国民対話」を実施。(対話の中身や形式は不明)

2004年12月5日 国民投票で、複数政党制を保障する旧憲法の復活が承認される。


ボジゼ与党の国民集合クワ・ナ・クワ(KNK)、パタセ前大統領の中央アフリカ人民解放運動 (MLPC)、コリンバ元大統領が率いる中央アフリカ民主連合 (RDC) が主要3政党を構成。

2004年 北部オーハムペンド州とオーハム州で、反政府武装勢力「民主復興人民軍」(APRD) が活動を開始。

2005年5月 新憲法にもとづく大統領選挙,国民議会選挙を実施。決選投票では、得票率64.6%を獲得したポジゼが大統領に当選。

2006年 ムスリムのジョトディアが反政府勢力の統一民主勢力連合を結成。ジョトディアは10年間にわたりソ連で教育を受けた人物で、帰国後は外務省の中堅幹部を務めていた。

2006年1月 北東部で反乱勢力が政府軍を攻撃。アムネスティは反撃に出た政府軍、特に大統領警備隊が住民を虐殺したと非難。

2006年10月 反政府武装勢力の活動が活発化する。ビオラなどの街を占拠する事件が頻発し,多数の国内避難民が発生する。

11月 ベナン在留中のジョトディア、ボジゼ大統領の要請を受けたベナン軍により拘束される。

2007年 政府と反政府勢力の間で和平合意が結ばれる。反政府勢力の武装解除と引き換えに、政府は資金援助などを提供するという内容。

2007年 和平合意に基づき、北東部の治安・人道状況改善のため,EU部隊(EUFOR)が派遣される。

2008年2月 ジョトディアが解放される。解放にあたりボジセ政権との和平交渉への参加を約束する。

2009年3月 EU部隊(EUFOR)が任務を終了。国連の「中央アフリカ・チャドミッション」が引き継ぐ。

2010年12月 「中央アフリカ・チャドミッション」も期限切れで撤退となる。

2011年1月 大統領選挙が実施され、ポジゼが再選を果たす。

2012年

9月 ボジゼ大統領の退陣を求める武装勢力がセレカ連合(Seleka)を結成。CPSK、CPJP、UFDRなどの寄り合い所帯。

セレカはサンゴ語で連合・同盟を意味する。セレカ連合を構成する各団体はいずれもイスラム勢力で、指導者ジョトディアもイスラム教徒である。
イスラム教徒は人口の10%ほど。ほとんどは元々の住民ではなく、北方の国から戦火や飢餓を逃れ移り住んだ人々である。
 米下院外交委員会アフリカ問題小委員会での証言によれば、セレカ系民兵の数は推定2万5000人、そのうち9000人はチャド、スーダンなどからの民兵。指導者クラスの中には中東湾岸諸国などでビジネスを営んでいる者もいる。

12月 セレカがバンギに向けての行進を開始する。北部および東部の広域を掌握し、兵力は2万人に達する。

12月 北の隣国チャドは、ボジゼ大統領の要請を受け軍を派遣。セレカの進軍を止めようとはかる。

多分この記述は不正確だと思われる。チャドはイスラム教徒を主体とする国であるが、何よりも中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)の輪番議長国であり、その立場から紛争を避けようと動いたと思われる。
ただ、現場でそれに類似したような動きがあったことは想像に難くない。

12.21 中部アフリカ諸国経済共同体の緊急首脳会議.セレカの武装襲撃を非難。

12月26日 首都バンギ(Bangui)でボジゼ大統領派のデモ。フランス大使館前で暴徒化。

これはよく理由の分からないデモだったらしい。ウィキペディアによれば
 デモ隊は米国大使館前で抗議の座り込みをしていた。そこでは平和を求めるシュプレヒコールのみだったが、フランス大使館前に移動すると、物を投げて建物の窓を壊したり仏国旗を引き下ろしたりした。
デモ隊は、フランスがセレカの勢力拡大を阻止しないことに不満を示した。
参加者の1人は「昔からフランスはすぐにわれわれを見捨ててきた。もうフランスなど必要ない。大使館をたたんで出て行っても構わない」と話した。

12月27日 国連安保理、「平和協定を破壊し、国の安定と国民の安全に脅威を与えた」とし、セレカによる武装襲撃を強く非難する声明を発表。占拠した都市からの撤退を求める。

12月28日 ガボンに駐屯中のフランス兵士180人と、チャドのフランス軍ヘリコプター2基がバンギに到着。

12月30日 中央アフリカ国内のフランス軍兵力は600人に達する。空港に隣接したフランス軍駐留基地に配備され、現地フランス人と外交機関の保護に当たる。

12月30日 アフリカ連合のボニ・ヤイ議長がバンギを訪問し、ポジゼと会談。ポジゼは「反政府武装勢力の連合体セレカと連立政権を樹立し、前提条件なしでセレカと交渉を行う」と言明する。

12月31日 セレカ、バンギから180キロの都市を襲撃し制圧。これまでに少なくとも10の都市を掌握し、ポジゼの辞任を求める。

12月31日 チャドのデビ大統領、中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)の決議を尊重し、直ちに双方が敵対行為をやめることを求める。

声明の内容: バンギから70キロ離れたダマラがレッドラインである。中央アフリカに派遣されたECCASの多国籍部隊は、代価を惜しまずにレッドラインを越える行為を阻止する。

2013年

1月 ガボンのリーブルビルで、中央アフリカ諸国の仲介により、政府とセレカ連合との交渉が合意に達する。戦闘は一時小康状態となる。

リーブルビル合意: ボジゼ大統領のもと、挙国一致で和平プロセスを進めることで合意。大統領の2016年までの任期までの留任,1年以内の国民議会解散と総選挙の実施が定められた。また野党代表を首相とする挙国一致内閣の設立も合意された。

2.03 合意に基づき、野党からチャンガイ首相が選出され挙国一致内閣が成立。セレカからも閣僚が選出される。

3月 セレカ連動、ポジセ政権への攻撃を再開。3月20日を期限とする最後通牒を突き付け戦闘準備を整える。

3月22日 ポジゼ大統領、南アフリカ訪問を切り上げ帰国。

3.23 セレカ、首都バンギに向け進撃を開始。

3.23 フランス軍部隊150人は、バンギのムボコ国際空港を確保する。

3.24 セレカ連合の尖兵が大統領府付近に進出し銃撃戦を展開。ボジゼ大統領は隣国コンゴ民主共和国へと脱出(一説にカメルーン)。

3.24 セレカがバンギ市内を制圧。各所で略奪行為が続く。この間の戦闘で、現地に展開していた南アフリカ兵13人が死亡する。

3.24 アフリカ連合はセレカの首都制圧を非難し、中央アフリカ共和国の加盟資格を停止。加盟国に対し「結束した断固たる行動」を求める声明。

3.25 セレカはミシェル・ジョトディア(Michel Djotodia)を暫定大統領に指名。ジョトディアは議会と各政府機関の解散、憲法の停止を宣言し、3年以内に選挙を実施するまでは「法令」に基づき自身が統治すると発表。チャンガイ首相が政権を担うこととなる。

3.25 フランスの要請を受け国連安保理の緊急協議。クーデターを非難し「追加措置」も辞さないと警告する。

3.25 パン・ギムン国連事務総長、セレカを非難。「深刻な人権侵害の報告もあり深く憂慮する」と声明。

4.12 アントニオ・グテーレス国連難民高等弁務官がコンゴ民主共和国北部の難民キャンプを視察。「およそ3万7000人が中央アフリカから逃れてきた。これらは3月25日のバンギ制圧を機に避難した人々である」と述べる。

4.13 セレカ、バンギで武装解除作戦を展開。旧国軍兵士や市民の抗議に対して発砲。その後反セレカ派の摘発に乗り出す。

4月 ジョトディアはアフリカ連合の要求を受け入れ暫定評議会を設置。暫定評議会の支持を受けあらためて大統領に選出される。

5月2日 この日付の報道では、「コンゴ民主共和国に避難している難民は4万人となり、新たにカメルーンに1024人、チャドに6728人避難」とされる。

中央アフリカはそれまでむしろ難民受入国だった。コンゴ難民とスーダン難民あわせて1万7000人、ダルフール西部地区の内紛での難民が4000人など。これらの難民がセレカの中核を形成した可能性もある。

7月 ジョトディア政権が暫定憲法を公布する。

8月18日 宣誓式が行われ、正式にジョトディアが大統領に就任。

8月 国連安保理、「中央アフリカは完全な無秩序状態に陥りつつある」と警告。

9月13日 セレカ連合が統率力を失い自主解散。メンバーは武装解除を拒否。抗争はやまず、国内が無政府状態に陥る。

元々、反政府勢力の寄り合い所帯であるだけでなく、民兵には約束された賃金が支払われなかったことから、軍規の乱れや離脱が相次いだ。
これに対しジョトディアは正統性を確保のため、セレカの武装解除を打ち出した。これに戦士の多くが反発し、傍若無人の妄動を繰り返すようになった。
ジョトディア自身、もはや武装集団の行動をコントロールできないと認めている。

9月 キリスト教徒はアンチ・バラカと呼ばれる自警団を組織し、セレカ残党と対決。戦闘は宗教間の衝突の様相を呈し、多数の死者を出す。さらにボジゼ前大統領派も独自の武装攻勢を強める。

12月6日付UNHCR発表によれば、避難民は約47万人(国外7万人、国内40万人)に達した。また戦闘ごとに数百名の単位で犠牲者が発生している。

9月 北西部ウハム州でアンチ・バラカによるムスリム住民の虐殺が拡大。元セレカ部隊も反撃し大量虐殺を繰り返す。さらにナナ・マンベレ州、南西部のロバイエ州にも戦火が広がる。

バンギ北方300キロの州都ボッサンゴアには、ウハム州全域から避難民が集まる。カトリック教会には4万人、街の反対側にはムスリム住民4,000人が残留。にらみ合いを続ける。

11月 フランスとアフリカ連合が軍事介入。残存勢力との間で小規模な戦闘が行われる。

12.04 ルモンド紙がフランス軍の作戦計画の概要を報道。仏は安保理決議を待たず、本国からの動員を含め準備を開始する。(作戦名は'SANGRIS'(サングリ)、中央アフリカの森林に生息するエキゾチックな蝶の名を冠したとされる)

主要作戦は、
①首都バンギの防衛。セレカと、キリスト教徒自警団(Anti-Balaka)の間に割って入る。
②北西部のカメルーン、チャドと回廊を確保

12.05 バンギでキリスト教徒によるイスラム教徒の大虐殺。少なくとも300人が死亡(赤十字)する。

12.05 中央アフリカ共和国への軍事介入を認める国連安保理決議が全会一致で採択される。国連憲章第7章に基づき「中央アフリカ支援国際ミッション」(MISCA)が編成されることとなる。さらにMISCAの支援の名目でフランス軍にも権限が付与された。

第7章というのは「強制力による紛争解決」を定めた章。
具体的には、すでに中央アフリカに展開する「中央アフリカ展開多国籍軍」(FOMAC)を国連の下に移行させることとなる。FOMACは中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)により構成され、管轄はアフリカ連合があたる。
作戦期間は12ヶ月。人員は原員の2500名から、3600名に増強される。

12.06 フランスのオランド大統領が記者会見。「事態は非常に恐ろしい状況になっている」とし、①7日夜までに当初の想定よりも400人多い兵士を派遣、②国連に権限を委任する兵員を1600人に増やすと発表。

会見での主な発言内容: 民兵組織が女性をレイプしたり、病院の患者を殺害したりするなど、まるでギャングのような行動をしている。
彼らを武装解除させることが仏軍とアフリカ部隊の任務になるだろう。現在行われている残虐行為や大量虐殺をすぐにやめさせることができると私は信じている。 
長期的には再び国を安定させ、適切な時期に自由で民主的な選挙を実施することが目標となる。

12.06 アフリカ連合(AU)、MISCAの兵員動員目標を当初予定の3600人から6000人に引き上げる。

12.22 バンギでセレカの支持者数千人が、戦闘員の武装解除を進めるフランス軍に抗議するデモ。

12.07 フランスとアフリカ連合が軍事介入。フランス軍200名が西部の都市ブワル(Bouar)に展開。

数か月にわたる暴力にうんざりした住民たちは、ダンスを踊り、警笛を鳴らし、鍋をたたいて大歓迎した。そして部隊に「ありがとう!」「私たちを助けて!」などと声をかけた

 

2014年

1月11日 中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)が緊急首脳会談を開催。.事態打開能力を失ったジョトディア大統領・チャンガイ首相の辞任を勧告。

1.11 ECCASの勧告を受けたジョトディア大統領とチャンガイ首相、混乱の責任を取り辞任する。バンギ市内での暴動はむしろ激しさを増す。

辞任発表後数時間のうちに少なくとも5人が死亡。市内で群衆が店のドアを壊し略奪が相次ぐ。店の多くはイスラム教徒が経営していたもの。略奪を行った者の中には食人行為に及んだ者もいたという。

1.11 ジョトディア、ベナンに亡命。国家移行評議会(CNT)が、国民議会議員の間接投票による暫定大統領選挙を組織することとなる。

1.20 国家移行評議会、暫定大統領としてバンギ市長のカトリーヌ・サンバ・バンザ(現バンギ市長)を選出する。

1956年生まれ。父はカメルーン人、母は中央アフリカ人。バンギで育ち、フランスに留学。情報工学、保険関係法などを学び、1990年、バンギに戻る。アリアンツグループでのポストを経て、保険代理店業を起業する。
2003年、ボジゼによる政変ののち、「国民対話」の共同議長を努める。アムネスティにも加わり、紛争が続いたアフリカ中央部、大湖地方で人権活動に尽力した。
2013年1月にバンギ市長に就任。その2カ月後にセレカ勢力が政権を転覆した。
8歳、3児の母。夫のシリアーク・サンバ・パンザも政治家。コリンガ政権、ボジゼ政権など、複数政権で大臣を歴任している。

1.20 EU外相会議、500名規模のEUFOR部隊派遣を承認する。

1.22 国連安保理で事務総長の派遣した特別代表が中央アフリカの状況を報告。

子供と武力紛争担当のゼルーギは双方の武装勢力に18歳以下の少年兵6千人が加わっていると報告。
紛争下の性的暴力担当のバングーラは、昨年はじめからセレカの4530件以上の性暴力があったと報告。
 「国際人道法が順守されない状況が続けば、最悪の結果になる」と強調した。

1.23 サンバ・バンザの大統領就任式。両派に武装解除と和解を呼びかける。大統領選挙、国民議会選挙の実施を柱とする民主化プロセスの実施を目指す。

1.23 演説の直後にFACA(国軍)兵士が各国の報道陣の目の前でイスラム教徒の男性に襲いかかり惨殺する。(直前の大統領の演説では「国内の治安回復に貢献する兵士を誇りに思う」と語られていた)

1.24 UNOCHAが内戦による被害状況を報告。これまでの犠牲者は約931人、また避難民は約120万人に達する。

1.27 アンドレ・ンザパイェケ首相を首班とする暫定内閣が発足。閣僚には7名の女性、3名のセレカ派、1名のアンチ・バカラ派が含まれる。国防大臣にはテオフィル・ティマンゴア将軍を任命。

2.08 バンギで武装勢力間の衝突。9日までに少なくとも11人が死亡。

1.30 元セレカの武装集団が、バンギの北180キロのシブート(Sibut)を制圧。フランス軍が奪回作戦に乗り出す。

1.30 安全保障理事会、平和維持部隊の活動とEU派遣部隊に武力行使を認める決議を全会一致で採択。



文化面に永原陽子さん(京大教授)の記事が掲載されている。
マンデラが共産党員だったという話だが、これはまったく驚かない。やはりそうだったかという感じ。

それよりも気になったのが下記の記述。

平和的な体制移行のために不可欠であった「和解」の路線は、新自由主義的なグローバル化の中で、貧困層の利益を守る経済政策と両立困難である。

いまやこの国でも黒人の中産階級が出現しているが、最貧層は相変わらず黒人たちである。

労働運動からは、資本家に甘く汚職の絶えないANCへの不満と、そのANCを変えられずにいる共産党へのいらだちの声も強まっている。

喪明けの日には、COSATU傘下の最大の労組である金属労働者組合が、次の選挙でのANC不支持を表明した。


考えてみれば、かつてのジンバブエのムガペと同じ状況だ。厳しいですね。
カンボジアのフン・センくらいノーテンキになれればいいのだろうけど。

マラウィの歴史を学んで感じたのだが、バンダという男、どうも魔術師ではないか。
1896年生まれというのは、正直眉唾である。98年生まれという説もあるが、いずれにせよ10歳くらい鯖を読んでいるとしか思えない。
女性に振られて八つ当たりして、サイモンとガーファンクルの歌を放送禁止にした、という馬鹿馬鹿しい話があるが、この時すでに80歳を超えている。
かつてハイチの歴史を学んだ際、同じようなことがあった。
19世紀半ば、ハイチの支配者はほとんどが80,90の年寄りばかりだった。長老政治であり、呪術の世界である。
そして1955年から15年にわたり独裁政治を敷いたのもドク・デュバリエという医者だった。

まぁ独裁者なのだから何をやっても仕方ないが、度し難い致富欲というのだけはなんとかしてほしい。
朴正熙はカネは残さなかったそうだ。女には目がなかったがカネには淡白だったという。ウソかホントか知らないが…
国の富を吸い上げて死蔵してしまえば、国は貧しくなる一方だ。そうすれば結局みずからの身も痩せ細ることになるのだが、金の亡者というのはそういうことは考えない。ただひたすらに、その本能に従って貯めこむのである。
かつてマルサスは、金持ちの贅沢こそが社会発展の原動力だといった。マルサス嫌いのマルクスもこのことは認めた。
とにかく湯水のように使ってくれ。墓場に持ち込むな。ピラミッドの三つ四つ建ててくれ。アラブの王侯貴族のように贅沢してくれ。ただし軍事力以外の道だ。
ムヒカ大統領には悪いが、消費主義バンザイ、物質文明バンザイだ。

ありました。USBメモリーに残っていました。最終版ではないが、とりあえずこれでお茶を濁しておきます。

全文は、いずれホームページの方にアップロードしようと思います。これを機会に、南部アフリカの年表(南部アフリカ(南アフリカ,ナミビア,アンゴラ,モザンビーク,ジンバブエ,ボツワナ,ザンビア)も南ア、アンゴラ、モザンビークに分けようかと思います。


1971年7月 ザンビアとの関係修復。ザンビアの高級使節団がZombaで事務所を開設することが許される。

1971年 バンダ、終身大統領となる。バンダは規則的に内閣を改造し、政敵の出現を防いだ。20万人以上を裁判もなく収監した。バンダは在任中に少なくとも3億2000万ドルを私財として蓄えた。

1971 マラウイ・ポンドにかわり、クワチャ(kwacha)が公式の通貨になる。1クワチャは、100タンバラに等しい。

1973 9月 バンダ政権、新聞とラジオ放送を統制下に入れる。バンダに批判的な国際報道をシャットアウト。『間違った情報』(国家批判)を外国人に広めることを終身刑とする。

1974年7月 ポルトガル政変(カーネーション革命、あるいはリスボンの春)が起こる。ポルトガル新指導部は、反革命派を支持し、その攻撃基地を提供したとしてマラウィと断交。

1974 バンダ大統領、首都をゾムバ(Zomba)からリロンゲ(Lilongwe)に移転すると発表。ブランタイア(Blantyre)への移動を望んでいた白人植民者の間に動揺が広がる。

1975 1月1日 リロングウェは、公式にマラウイの新しい首都になる。

1978 独立以来最初の議会の選挙。しかし全ての候補はバンダ大統領によって選ばれたMCPのメンバー。バンダは候補資格として英語に堪能であることをもとめた。

1980年4月 9つの南部アフリカ諸国(アンゴラ、ボツワナ、レソト、マラウイ、モザンビーク、スワジランド、タンザニア、ザンビアとジンバブエ)によって、南部アフリカ開発調整会議(SADCC)が設立される。(92年に南部アフリカ開発コミュニティ(SADC)に発展改組)

1980年代初期 サイモン&ガーファンクルの 「いとしのセシリア」をラジオ放送で流すことを禁じた。愛人のセシリア・タマンダ・カザミラとの関係が悪くなり、セシリアに帰ってきてくれるよう懇願する内容の歌詞が気に食わなかったためとされる。

1983 第2回国会選挙。今回も全てMCP候補者で指導者になりそうな人物は注意深く取り除かれる。選挙中に4人の反対活動家が殺される。

1986年7月 モザンビーク政府、反政府ゲリラ「モザンビーク反乱軍」(Renamo)を援助したとしてマラウィを非難。

1986年10月 モザンビークのマシェル大統領が飛行機の墜落事故で死亡。バンダによる陰謀との疑いが高まる。首都マプトのマラウィ大使館は民衆の攻撃を受ける。

南ア政府は、墜落現場で発見された文書を示し、モザンビークとジンバブエによってマラウイに対する陰謀が企てられていたと主張。

1986年12月 マラウイとモザンビークが安全保障合意に調印。対RENAMOで共同することとなる。RENAMOの人質50人がマラウィで解放され、モザンビークに帰還。

1987年2月 バンダ大統領、アパルトヘイト政策を続ける南アフリカとの貿易・政治対話ボイコットをもとめる近隣諸国の要請を拒否。

1987年4月 バンダ大統領、国会を解散する。翌月行われた選挙は、みたびMCP候補が独占する。

1987年6月 バンダが内閣を改造。3人の著名な大臣が解任される。

1987 11月 モザンビーク軍がマラウイの民間航空機を撃ち落とす。10人が死亡。マラウイとモザンビークの間の緊張は高まる。

1988年1月 バンダ大統領は、もう一度議会を解散。

1988年7月 モザンビークのJoaquim Chissano大統領、国際メディアに対し、「RENAMOの基地がマラウィにあるとの報道は正しくない」と語る。

1988 9月 南アフリカのボタ大統領が、マラウイに公式訪問をする。

1988 12月 マラウイとモザンビーク、2年間のモザンビーク内戦中に逃れた65万人の難民の帰還協定に調印。

1990 マラウィをかんばつと不作が襲う。

1990年 代初期 テレビ放送が許される。

1991年 イギリス政府がバンダ大統領の圧制を認めないと表明。

1992年 国内のカトリック教会が離反声明。司教は公的にバンダを有罪と宣告し、抗議のデモ行進を奨励。人権状況を憂慮した多くの援助提供国が、援助を一時停止する。

1993 バンダ大統領が重病となる。バンダは終身大統領をあきらめることに同意する。

1993年年6月14日 国際的圧力を受け、複数政党制移行への国民投票が実施される。3分の2近い得票を得て多党制導入が決定される。

1993年 悪名高い服装制限が解除される。

1994年5月17日 大統領選挙が実施される。統一民主戦線 (UDF)代表のバキリ・ムルジ(南部イスラム系ヤオ族出身)がバンダに圧勝。バンダは政界からの引退を表明(この時実に98歳!)

1994年5月21日 バキリ・ムルジ(Bakili Muluzi)が大統領に就任。直ちに政治犯を解放し言論の自由を確立する。

1995 バンダ、1983年に4人の反対政治家の殺害を支持したとして告訴されるが無罪となる。

1997年11月25日 バンダ、南アフリカ共和国の病院で肺炎のため死去。101歳であったと言われる。マラウィは国葬を行う。

1997年 女性活動家バンダ「持続可能な飢餓撲滅のためのアフリカ賞」を受賞。

1999年6月15日 ムルジ大統領が民主同盟とマラウイ会議党の候補を破り再選される。

選挙後の大規模暴動: 北部のキリスト教徒は選挙結果に抗議し、ムルジの出身部族であり、イスラム教徒であるヤオ族へのテロを行う。200箇所近いモスクが放火の被害を受ける。

 

マラウィ年表を4分割してアップしたが、3が消えてしまった。
このブローチというツール、非常に気分屋で、アップの際に勝手に消したり、載ったはずが消えていたりと勝手な動きをする。
ホームページとの関連でただになっているので使っているが、そろそろ乗り換えたほうが良いのかとも思っている。
たしかに私ほどのヘビーユーザーはそういないだろうが。

ということで、慌ててパソコンを探してみたが、元データはもう消去してしまったようだ。投げっぷりの良さがいつも災いしている。
どうしようか、そこまでしてやるほどのトピックでもないしなぁ…

ただ日本語で読めるマラウィの歴史としては貴重だろうから、また翻訳から起こすか。

2000年 世界銀行、マラウイの対外債務の50%をキャンセルすると発表。

2002年 バキリ・ムルジ、大統領任期に関する憲法改正を試みるが、市民の反対により失敗。

2002年2月末 食糧不足による災害事態を宣言。500名以上が餓死する。政府は誤った処置と腐敗を通して危機を悪化させたとして非難される。
 

マラウイで必要な食糧は年間約247万トン。それに対して、国内で生産された食糧は177万トン、備蓄食糧3万トンとなり絶対的な不足。
AIDSが働き手の命を奪い、肥料投入を行わないため地力が低下、民間業者の参入を奨励することで価格の不安定化を招いている。
さらにIMFは備蓄食糧を売却し債務を返済するよう要求した(IMFは備蓄食糧の全売却を要求したという事実はなく、16.5万トンから6万トンに減らすよう要求したにすぎないと弁明)。
売却された備蓄食糧を買い取った民間業者(政治家所有)は値段をつりあげ、暴利をむさぼった。(
小林 由季さんのブログ)

2002年9月 マラウィ中心部とモザンビークのNacalaの港を結ぶ鉄道が20年ぶりに再開され、インド洋へのアクセスが拡充する。

2004年5月20日 総選挙が施行される。バキリ・ムルジの後継者でUDFのビング・ワ・ムタリカ(Bingu wa Mutharika)が大統領に就任。議会ではマラウイ会議党が第一党となる。

2005年1月 UDF幹部3人が反逆罪で逮捕される。Mutharika.大統領との会談へ銃を持ち込んだとされる。その後3人は恩赦を与えられる。

2005年2月5日 政治腐敗をめぐって追い詰められたムタリカは、統一民主戦線を離党し、新たに民主進歩党を結成する。ムタリカは「UDFが反腐敗キャンペーンに敵意を示したため」と説明する。

2005年6月 Mutharika大統領は、UDFのムタリカ弾劾運動の抑えこみに成功。

2005 11月 マラウィ政府、旱魃により500万人が食物援助を必要としていると発表。

2006 4月 Cassim Chilumpha副大統領が反逆罪で逮捕される。

2006 7月 前大統領Bakili Muluzi、贈収賄容疑で逮捕される。

2006 10月 アメリカの歌手マドンナ、論争の末にマラウィ人幼児の養育権を獲得。

2007 5月 マラウイ、昨年度の豊作を背景にトウモロコシ40万トンをジンバブエに輸出。

2008 1月 マラウイ、台湾との国交を断絶し中国との国交樹立。

2008 5月 ムタリカ、前公安責任者をふくむ数人を逮捕。ムルシ前大統領に従いムタリカ追放を計ったとされる。

2009年5月19日 総選挙。ムタリカが3分の2近い支持を得て再選された。与党の民主進歩党も過半数を単独で獲得。副大統領にはジョイス・バンダ(女性)が就任。

2010年3月 ムタリカ大統領、14人乗りの政府専用ジェット機を購入。購入費用は1326万ドル、維持管理費や保険などで年間30万ドルとされる。ムタリカは議会の承認をえないまま購入を決定。英国は、援助金を440万ドル削減することで応える。

2010 5月 反ホモセクシャル法に基づき、ゲイのカップルに有罪判決。国際的非難が高まる。

マラウィでは、成人の10%がHIV に感染していると推測されており、新規HIV感染者数は毎年約7万人に上っている。世界エイズ・結核・マラリア対策基金が資金援助することにより成り立っている。

2010 10月 マラウイとモザンビーク海岸を接続する新しい水路をめぐり、モザンビークとの外交論争。モザンビークは 新ルートに最初のはしけを投入する。

2011 5月 政府、英国大使を追放。理由は大使の発した「ムタリカ大統領はますます独裁化している」との外交電文が漏洩したためとされる。

2011年6月 ムタリカ政権、パン、肉、ミルク、乳製品を対象とした16.5%の付加価値税を導入する。メイズ価格は昨年2倍に高騰する。

7月 マラウィ全土で空前規模の反ムタリカ抗議運動が起こる。当局の弾圧により21人(BBCによれば19人)が死亡、275人が逮捕される。バンダ副大統領は抗議運動を支持し、ムタリカと離反。

7月 英国は「経済政策の失策を繰り返し、人権保護を軽視している」としてマラウィ政府を非難。マラウイ向けの全ての援助を停止する。

9月 ムタリカ、バンダ副大統領を与党から追放。政権からも排除。バンダは人民党を立ち上げる一方で選挙を経て選ばれた副大統領の職は保持し続ける。

2012年4月7日 ビング・ワ・ムタリカが心臓発作で死亡。副大統領のジョイス・バンダ(人民党)が大統領に昇格する。

バンダは、これまでのキャリアの大半を女性の権利と経済的エンパワーメントの向上のために尽力してきたとされる。

4月 バンダの大統領就任式。「復讐などおこなっている時ではない。マラウィは一つの国として前に進まなければならない」と語る。大統領の給与を30%減額、閣僚用のベンツ35台を売却する方針を明らかにする。

4月 英国は、ムタリカ政権の任期中に凍結されていた金銭的な支援を解禁した。

5月 マラウイ政府、14人乗りの政府専用ジェット機を売却し、代金1500万ドルをトウモコロシやマメ科の穀物などの購入費として充当すると発表。

5月 バンダ大統領、IMFの要請に沿い、通貨クワチャ(kwacha)の1/3減価に踏み切る。国内で恐慌買いを引き起こす。

5月 バンダ大統領は、米国歌手マドンナとの会見を拒否。

バンダの言い分: 「親切とはそもそも無償で、匿名で行われるものだ。それが無償でもなく、黙って行われるものでないのなら、それは何か別のものだ。一番近いものは脅迫だろう」と語る。一説ではマドンナがバンダの妹を解雇したことに対する意趣返しともいわれる。

2012 10月 マラウィ、タンザニアとの国境係争地帯の解決をAUに要請。この地帯は石油と天然ガスが豊富に埋蔵されている。

2013年3月 故ムタリカ大統領の弟ピーター・ムタリカら12名、ジョイス・バナの大統領就任を妨害したとして反逆罪で告訴される。

主として

 African History About.com

による。

 BBC News - Malawi profile

ウィキペディア 「マラウィの歴史」も参照した。

小林 由季さんのブログが飢餓と貧困の原因をわかりやすく解説してくれている。

 

 

1929 African National Churchが設立される。

1934年2月24日 Bingu wa Mutharika (後の大統領)が生まれる。

1944 民族主義者がニアサランド・アフリカ会議を創設。最初の国民議会を開く。植民地の最初の政治運動になる。

1951年 英国政府は、南ローデシア植民地主義者の主張を受け、Nyasalandと南北ローデシアを結合する計画を発表する。三つの地域が連邦を形成する。3つの植民地の大多数のアフリカ人は連邦化に反対。白人の自由主義者も行動を共にする。

1953年8月1日 シレ高原のチョロ地区で連邦化に抗議する暴動が起こる。

10月23日 ニアサランド、既存の南北ローデシア連邦に組み込まれローデシア‐ニアサランド連邦共和国(中央アフリカ連邦)となる。連邦は、1963年まで続く。3つの地域で民族主義者が立ち上がり抵抗を続ける。

1958年7月29日 Nyasaland African Congress (NAC)のバンダ博士が帰国。Nyasaland独立運動のリーダーに就任する。南北ローデシアとの連邦を拒否し、独立をもとめる。彼は、『黒人のメシア』として有名になる。

Hastings Kamuzu Banda 公式には1896年生まれ。ニアサランドで初等教育を3年間受け、南ローデシア、南アフリカなどで働きながら中等教育を受ける。教会の援助を受けてイギリスに留学。スコットランドで医学教育を受け、テネシー州ナッシュビルのMeharry Medical Collegeで学位を取得。1945年にはロンドンで開業した。ロンドンの医院ではエンクルマやケニヤッタとの交友関係を築いた。

1959年3月3日 アフリカ会議と英国当局の支持者の間で暴力的な抗議が発生。非常事態が宣言され、アフリカ会議党は非合法化される。バンダを含む反対リーダーは逮捕される。

9月 ニアサランド・アフリカ会議、マラウィ会議党 (MCP) と改称。バンダは北ローデシアのグウェロ刑務所に勾留されたまま党を指導。

1960年4月 バンダが出獄。「連邦」の憲法改革に関するロンドン会議に招致される。

1961年7月 英国当局は、納税アフリカ人にフランチャイズを与え、新しい立法議会をつくる行政改革に同意する。

1961年8月 立法議会選挙。バンダのマラウィ会議党 (MCP)は、投票の94%を獲得する。

1962年11月 ロンドンで第2回目の憲法協議会。英政府はニヤサランドに自治権を与えることに同意。

1963年1月 Nyasalandは自主的な自治政府を認められる。

1963年2月1日 自治政府が発足。バンダが首相に就任。

1963年5月 自治領政府、新たな憲法を発布。完全な自治権の獲得を目指す。

1963年12月31日 ローデシア‐ニアサランド連邦共和国が解散。ニヤサランドは連邦から完全分離。

1964年7月6日 マラウイは英連邦の一国として独立を成し遂げる。直前の総選挙ではマラウイ会議党以外の出馬が無かったため、事実上の一党制でスタート。バンダが総督に代わり国家元首となる。バンダは首都を Zombaに移転。

1964年9月 バンダ、外相、内相、教育相をふくむ5人の閣僚を排除。彼らは政府へのアフリカ人登用が少ないとし、バンダを批判した。

1964年 年末までにバンダは400人以上の反対活動家を逮捕する。

1965年2月 Fort Johnson が最近解雇された大臣を支持するグループによって急襲される。襲撃隊は政府軍によって撃退される。反乱部隊と元大臣たちは国外に逃げる。

1966年7月6日 マラウイ、英連邦を離れマラウィ会議党の単一政党国家「マラウィ共和国」に移行。バンダは共和国の大統領になる。反対グループは禁止され、リーダーたちは拘留される。マラウイでの人権状況に対し国際的な非難が高まる。

1967年9月 バンダ政府は南アフリカとの外交関係を樹立。 南アフリカの白人の少数党内閣を許すなという近隣のアフリカ諸国による呼びかけは無視される。

1967年10月 Yatuta Chisza前内相、反乱部隊を率い国内に侵入。反乱は破られChiszaは殺される。マラウィ会議党は民兵組織であるYoung Pioneers を結成し国内弾圧にあたる。

1968年9月 南アフリカに励まされて、バンダはモザンビーク、タンザニア、ザンビアとのあいだで境界紛争を開始する。彼はニアサ湖の全てとSongue川の北方地域の領有権を主張。

1968年 バンダ(この時すでに72歳)、独裁色を強め、度外れの人民抑圧を開始。
 

バンダは、常に自身を"終身大統領ングワジ・ヘイスティングズ・カムズ・バンダ博士閣下"]と呼称させた。全ての商業ビルにはバンダの公式写真を壁に掛けることが要求され、その他のポスターや時計、絵画など一切のものを、バンダの写真より上部に設置することが禁止された。
国民の服装を制限。女性に対しては太ももを隠すように指導し、ズボンの着用を禁じる。長髪の男性は反大統領を意味するとし、逮捕後、強制的に髪を切る。
インド人はゲットーに押し込められた。バンダ大統領を非難する発言は厳しく禁じられ、これを破ったものは多くが追放や投獄された。マラウイ社会主義者同盟の指導者アッタチ・ムパカチは暗殺された。(ウィキペディア)

1970年5月 南アフリカのフォルスター大統領がマラウイを友好訪問。

1970 バンダが終身大統領になるのを許す憲法改正が行われる。1970年から始まったマラウイ会議党の一党支配によって支配を強化。


https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/0/8/08984db1.jpg

http://www.astrophotoclub.com/kurita.htm

200-500頃 バンツー族が西方コンゴ地域から進出してサン人を駆逐する。鉄器、陶器、農耕を持ち込む。ニアサ湖(マラウイ湖)の岸に沿って植民。Karonga地区のMwabulamo鉄器類は南アフリカのいくつかのスタイルと類似し、鉄器の開発を象徴する。Mwabulamo陶器は、広縁・無装飾である。鉄製の皿はNkope地区で生産された。

1100頃 Kapeni 陶器の出現。Nkopeより薄い木の葉文様の装飾付き。

1480頃 マラウィ湖南西部にいくつかのバンツー系小国からなるマラヴィ同盟(Maravi Confederacy)が成立。地域を支配し始める。

マラヴィ同盟は最盛期には現代のザンビアとモザンビークの大部分をふくむ大帝国となった。Maravi領域の周辺には、より小さい王国群が存在した。

17世紀 最初のヨーロッパ人としてポルトガル人がマラヴィ沿岸部(現モザンビーク北部)に到達。取引ポスト場を開発する。

1780-1850 奴隷売買が大規模に増加した。東海岸在住のアラブ人が先導。

1830年頃 マラヴィ帝国が衰退。ズールー系のヌゴニ族が南アフリカ方面から進出。ヤオ族が東から進出。ともに南部に定着。北方からはNgonde族が進出。

1850頃 メイズ、自生の穀物(もろこし)に代わり主食となる。メイズは安定した作物として、16世紀にポルトガルの入植者によって導入された。

1850年 スコットランドの宣教師デビッド・リビングストン、ザンベジ川流域を探検。ビクトリア滝を発見。

1859 リビングストン、二回目の宣教旅行でマラヴィに入る。彼は内戦で荒れ果てた地域を発見している。これは奴隷獲得戦争を指すと思われる。Livingstonia の町の名は彼にちなんだもの。

1860 Yao移住者のMakanjila 国、ニアサ湖の南端に沿った強大な王国に育つ。スワヒリ語圏の海岸地帯に拡大し、特に象牙と奴隷取引を支配する。ヤオ族はイスラム教とスワヒリ文化を受容する。

1866-73 リビングストンは第3回目の探検。ニアサ湖湖の南端を旅行する。すでにこの地域は宣教師、ヨーロッパの商人と探検家に開かれていた。

1875 スコットランド自由教会が最初の伝道基地を建設。その後Karonga地区は英国人によって発達した。地元のNgonde族は、アラブ奴隷商人と闘っていた。

1877 Livingstoniaの「中央アフリカ伝導社」(後にAfrican Lakes Company)が、海岸地帯への交易リンクを立ち上げ、奴隷狩りの抑制を図る。グラスゴー(スコットランド)の本部はJohn and Frederick Moirにより運営され、ザンベジ川流域とNyasa湖畔に交易場を展開した。

1885 ベルリン会議で、ドイツのBismark首相はNyasalandの支配権を取り下げる。

1887-95 Karongaのアラブ人は、奴隷売買を抑制する英国当局に抵抗。

1889 英国と地元首長の間で保護条約が署名される。シレ(Shire)「高原保護領」が設定される。後にDistrict Protectorateと改称。

1891年 ポルトガルとイギリスの間に英葡紛争(Anglo-Portuguese Crisis)

1891年2月1日 現在のマラウイ地域が「ニアサランドおよび付属地区保護領」(Nyasaland and District Protectorate)となる。ヘンリー・ハミルトン・ジョンソンが総督となる。Blantyre が経済センターとなり、シレ高原は行政センターとして開発される。

1893 ニアサランド保護領が、「英領中央アフリカ保護領」(British Central Africa Protectorate)に改称。

イギリスの植民地経営策: コーヒーを商品作物として紹介し、ヨーロッパの移民に低価格で土地を提供し、プランテーションを開発した。
アフリカ人は徴税対象となり、支払いのためプランテーションで年に数ヶ月を働くことを『奨励される』

1898 ヘンリー・ハミルトン・ジョンソンの率いる軍隊が、マラウイ西部のヌゴニ族とザンビアの北東部を征服する。

1901 ドイツと英国は、ドイツ領東アフリカとルワンダ、ブルンディ、Nyasalandとの境界線について同意する。ドイツ領東アフリカは後に英領Tanganyikaとなり、現在はタンザニアとして独立している。

1903 英国政府の推計で 6,000人以上のアフリカ人がマラウィ南方地域に仕事をもとめて流入。

1907 英領中央アフリカ保護領、ニアサランド(Nyasaland)と改称。ニアサとはヤオ族の言葉で湖を指す。

1908 Blantyreとヘラルド港を結ぶ鉄道が完成。南アフリカのオランダ改革派教会からの宣教師、ローマカトリックの白人神父が教会を建設。

1912 Levi Mumba、North Nyasa Associatiを設立。民族主義的な理想を推進する。

1914 第一次世界大戦が始まる。Nyasalandのアフリカ人、英国に徴兵され、東アフリカでドイツ軍と戦う。

1915年1月23日 ジョン・チレンブエ、200人の支持者とともに英国の支配に対する反抗を開始する。

最も残忍なプランテーション所有者ウィリアム・ジャーヴィス・リビングストンは、彼の妻と子供たちの前で斬首され、教会前広場でさらし首にされた。

1915年2月3日 Chilembwe、黒人警官によって射殺される。抵抗は終了。副官は逮捕されて、絞首刑に処される。

John Chilembweはアメリカのヴァージニア神学校で学んだ後にニヤサランドへ帰国し、バプティスト教会の牧師を務めていた。ヨーロッパ人同士の争いへアフリカ人が巻き込まれることに疑問を抱いたチレンブウェは、部族の壁を越えて叛乱を行った。1月15日は"ジョン・チレンブウェの日"としてマラウイの祝日となっている。

民主主義の発展

カガメ政権は、経済成長を背景に民主主義的制度を拡充して行きました。99年には国民和解委員会と国民事件委員会が設置され、ツチとフツの和解に向けた制度づくりが前進しました。女性の権利が飛躍的に拡大されました。遺産相続制度が改革され、女性の遺産相続が認められるようになりました。2010年には女性議員が全体の過半数を占めるようになります。これは世界ではじめての経験でした。

03年には大統 領の直接選挙制を柱とする新憲法が制定され、8月の選挙でカガメが大統領に選出されました。政府の規律は高い水準で維持されており、世銀は「世界ガバナンス指標」の汚職対策分野で、ルワンダを中・東部アフリカでトップと評価しています。

社会開発も大きく前進しました。初等教育就学率は95%に達し、修了率も55%に伸びています。予防接種率は98%と、サブサハラ・アフリカで最高水準に達しています。

フランスとの確執

06年11月、フランスの裁判所は、ハバリャマナ元大統領らの殺害容疑でカガメ大統領に対する逮捕状を発行しました。これは世界の世論を憤激させました。逮捕したいのはフランス政府でしょう。ルワンダ政府はフランスと断交しただけでなく、これまで対外関係から配慮していたフランスへの積年の恨みを爆発させます。

ルアンダ政府の調査委員会、①フランス政府はジェノサイドの準備が行われていたのを察知していた、②フツ民兵組織の訓練を行ってジェノサイドに加担した、③フランス軍の兵士自身も暗殺に直接関与した、と非難する長文のレポートを発表しました。ルワンダを断罪するはずが、今やフランスが被告席に立たされる羽目になりました。

2010年2月にはサルコジ大統領がルワンダを訪問しました。彼は前政権への支持について「大きな判断の誤りがあった」ことを認めることになリました。

ルワンダ、最近の動向

いい数字もあれば悪い数字もあります。ただ全体としてすごい前向きなのは、大使館のホームページを見れば一目瞭然です。いろんな国の大使館のホームページを見ましたが、これだけ日本語で充実したページを作っているのはルワンダしかありません。

その大使館のホームページによれば、2012年はGDP8.6パーセントの成長を記録し64億ドルとなりました。ただし、輸入は輸出額の3倍となっており、経済の脆弱性は依然克服されたとはいえません。国家歳入の約5割が外国からの援助資金によって占められ、累積債務は10億ドル近くに達するなど、援助なしでは立ち行かない状況は続いています。

 

 

国際援助による経済の回復

私はよく知らないのですが、お茶も紅茶も原料は同じで、そのまま蒸せば緑茶になり、発酵させると紅茶(Black Tea)になるようです。放っとけば実がなるコーヒーに比べると、お茶は茶畑作りから始まって加工まで結構手間がかかるようで、ある程度の資本がないと経営できないようです。コーヒーは中小零細のフツ人が携わっていて、内戦前の4割程度まで減少してしまったのですが、それに代わって茶の大規模農園が発達しました。(ただしコーヒーも、高級豆生産の戦略が奏効し、10年にはふたたび最大輸出品目となっています)

98年は、経済回復が軌道に乗った年となりました。国際社会は大量虐殺を許した後ろめたさもあったのか、積極的な援助を行いました。3月にはクリントン大統領がルワンダを訪問。「ルワンダに対し適切な対応を行わなかった」と謝罪しています。

IMFは90年に続いて二度目の構造調整プログラムを組みますが、前回の破壊的プログラムに比べれば、はるかに成長重視型の姿勢をとるようになりました。とくに農村部の過剰人口を都市で吸収するための意欲的プログラムが組み込まれるようになりました。

これらが円滑に進行したのは亡命していたツチ系の知識人が帰国し、受け皿となったことが大いに力を発揮したためです。政府も彼らを歓迎しその力に依拠しました。こうして98年のGDP成長率は13%を記録し、内戦前の水準にまで回復しました。

治安の回復と経済再建の進行を見た人々は大挙して帰国するようになります。内戦時代に海外へ脱出したツチ族200万人近くが戻りました。その後も経済成長は7%前後を維持、09年には重債務貧困国の枠組みから脱出するに至ります。こうしてルワンダは「アフリカの奇跡」とまで呼ばれるようになります。

国内復興の開始

白を黒と言いくるめるような国際キャンペーンにもかかわらず、ゆっくりと、しかし着実にルワンダの復興は進んでいきます。ルワンダ政府は報復やリンチを禁止し、難民に帰還を呼びかけます。その一方で国際機関に対しジェノサイドの告発を行います。国連安全保障理事会は、ルワンダ新政府の要請を受けて、ジェノサイドや非人道行為を行った者を訴追・処罰するためのルワンダ国際戦犯法廷を設置しました。

大きく情勢が切り替わったのは96年のことです。3月にはUNAMIRが解散し、ルワンダ新政権に復興の課題が全面的に委ねられるようになりました。緊急人道支援から復興開発援助への切り替えが始まりました。

10月にはコンゴ内戦が始まりました。国際支援で食いつないでいた難民キャンプ=フツ過激派基地は、ルワンダ軍、ブルンジ軍、およびコンゴ反政府軍の攻撃対象となりました。同じ時期、タンザニアに逃れていた難民にも退去命令が出されました。これに呼応して、ルワンダ政権も戦争犯罪者であるかいなかの判断を保留して、難民の帰還を無制限に認めるようになりました。

これで一気に難民の帰還が加速されることになります。

フランス軍の出動

この頃になってフランス軍が「トルコ石作戦」と称して出動してきます。NAMIRの動員が遅れていた安保理の要請を受けたものでした。フランス軍の行動も不可解なものでした。虐殺を止めるよりも虐殺部隊のコンゴへの脱出を手助けすることに目標を置いているかのようにも見えます。

フランス軍の作った回廊を抜けて多くのフツ人が国外に逃れます。彼らはコンゴ領内のゴマに巨大難民キャンプを形成します。5千名に達したUNAMIRも、主として難民キャンプの治安維持を担うようになります。

国際ニュースにはあたかもRPFが虐殺を行い、それを逃れた人々がゴマに集まっているかのように報道されました。「国境なき医師団」が活躍し、国際支援の多くがルワンダ国内ではなくゴマの虐殺者集団に集中して行きました。

ポル・ポト派のタイ領内キャンプが難民キャンプとして国際支援を受けたカンボジアの事態の再現です。さぞかしRPFは歯ぎしりしていたことでしょう。

ルワンダ愛国戦線の全国制覇

4月7日、事態の容易ならざることを知ったRPFは、全軍に対してキガリへの進軍を命じました。すでに軍としての統制もモラルも失っていた政府軍は、RPFの前に崩壊していきます。7月4日には首都キガリがRPFの手に落ちます。そして16日には政府軍の最終拠点であったルヘンゲリが陥落。18日にはPRFカガメ司令官が戦争終結を宣言するに至ります。

ここまでに総人口約730万人中、100万人が殺害されました。さらに25万人から50万人の成人女性や少女が強姦されました。周辺国には約210万人が流出しました。国内では貧困層の比率が78%に達しました。

7月19日、新政府の樹立が宣言され、フツ穏健派のビジムングが大統領に就任します。カガメは副大統領兼国防相のポストに就きました。新政府はただちに出身部族を示す身分証明書を廃止しました。

政府軍と民兵はタンザニア方面とコンゴ方面に逃亡していきます。

国連の不思議な対応

大量虐殺に対する国連の対応はぶれまくりました。ぶれた理由を一概に非難はできません。とにかくそういう時代だったんだというほかないのかもしれません。何が正しくて何が間違っているのかを誰も言えない時代ではありました。

とくにソマリアでのアメリカ特殊部隊隊員の虐殺と、それに続くクリントンのソマリア撤退命令は、「世界の正義を誰が守るのか」という疑問を抱かせるものでした。

ベルギーは隊員10名の虐殺を受け国連軍からの撤退を決めました。安保理はベルギー軍の撤退を受け、軍事要員を270名に縮小しました。一番増強しなければならないときに撤退命令を出したのですから、現場は大混乱します。ある意味でそれが100万人大虐殺を招いた最大の原因とも言えます。

5月に入ると現地の状況が大変なことになっていることが分かってきました。安保理はUNAMIRを再増員することを決め、各国に計5,500名の軍事要員派遣を求めましたが、時すでに遅しです。もう殺されるべき人の殆どは殺されていました。

大虐殺作戦のあらまし

すでに3月から大虐殺事件が始まっていたにせよ、そのピークは4月6日の事件以後のことです。

4月5日、タンザニアで東アフリカ各国首脳の会談が行われました。会議を終えたルワンダの大統領は政府専用機でルワンダに戻りました。飛行機が着陸しようと高度を下げた時、突然地対空ミサイルが発射され、飛行機は撃墜されました。大統領は即死しました。あらゆる状況から見て、フツ人過激派組織による犯行であることは疑いの余地がありません。

過激派の放送局は、「ベルギーの平和維持軍が撃墜した」とのキャンペーンを開始しました。そして翌日には首相も殺害します。この時、首相の警護にあたっていた国連PKOのベルギー軍部隊の10名も襲われ、拷問の末虐殺されます。

それから先は無政府状態となり、過激派による政敵虐殺が相次ぎました。民兵部隊は大虐殺作戦を一気に展開しました。9日にはギコンド多数の児童が教会に集められ、国連監視団の面前で虐殺されました。15日には東部の町ニャルブイエでツチや穏健派フツ2万人が境界に集められた後、虐殺されました。虐殺にはカトリック教会司祭も関与したといわれます。

こうして政府軍、民兵組織(インテラハムウェ)と暴徒化したフツ民間人が、ツチと穏健派フツに対するジェノサイドを展開。4月だけで少なくとも20万人以上の犠牲者を出しました。国連の平和維持軍本部さえも攻撃の対象となります。

なお、「蒙昧無知な一般の住民がラジオの煽動によってマチェーテやクワなどで隣人のツチを虐殺した」というイメージは不適切です。「国家権力側による非常に周到な準備が行われ、前半6週間に犠牲者の80%が殺害されるという、極めて高い効率で虐殺が行われていることは明らかだ」と、ウィキペディアは主張しています。

大虐殺への序曲

フツ人の憎悪に火をつけたのはまたしてもブルンディでした。93年にツチ人の軍部が民族和解を打ち出し、フツ人を首班とする政権が誕生しました。しかし93年10月、その政府を軍内強硬派がぶち壊し、ふたたびツチ人支配体制を復活させたのです。

これに抗議するフツ人との間で凄惨な殺し合いが始まりました。約3万人のツチ、約2万人のフツが殺されました。30万人のフツが国境を越え、ルワンダへ逃げ出しました。逃げ出しただけならいいのですが、避難先のルワンダで、今度は反ツチ感情を煽る役を果たしたのです。

共和国防衛同盟は彼らを利用し、民兵組織「インテラハムウェ」を作り上げます。民兵の数は3万人に達しました。そして組織的なツチ抹殺のシナリオを実行に移し始めます。

彼らに武器を与えたのはフランスとベルギーでした。どのくらいそれぞれの政府の中枢部が事態を理解していたかは定かではありません。しかし4000万トンの小火器がベルギー経由でポーランドからルワンダへ流れ込んだこと、それを止めようとする動きがなかったことは間違いないようです。彼らはRPFをアメリカの尖兵と考えていました。そしてアメリカに対抗して旧植民地の既得権益を守ることを最優先に考えていました。

CIAはそれらのすべてを知っていました。そして94年はじめには「最悪のシナリオだと50万人が死ぬ」と予測しています。もちろんクリントン大統領も知っていたはずです。

94年3月、大虐殺作戦が始まりました。キガリ南方のブゲセラでラジオに扇動されたフツ人がツチ数百人を虐殺します。そして大統領殺害事件へとつながっていくのです。

ルワンダ内戦の始まり

80年代に入るとコーヒーの国際価格が暴落しました。従来のコーヒー輸出国に加え、新興国が争ってコーヒー生産に参加したための値崩れです。ネスレなどの多国籍企業はこれを見て徹底的に買い叩きました。「コーヒー飢餓」が世界中で出現し、農民がバタバタと倒れていきました。

ルワンダも例外ではありません。コーヒー栽培というのは零細農民でも気軽に手が出せる商売ですが、逆にダメになった時は悲惨です。当然政治に対する不満も募ります。政府も債務に追い立てられ、内部矛盾も深まります。そこへ持ってきてIMFが厳格な構造調整プログラムを押し付けたので、国内はめちゃくちゃになります。

90年10月、RPFが侵攻作戦を開始しました。ウガンダ国境地帯に橋頭堡を確保しますが、RPF側も後が続かず膠着状態に入ります。事態は最悪です。しかも人口は増え続け、92年には750万人に達しました。人口密度はアフリカで最高となります。

2年後の92年7月、ルワンダ政府とRPFの間で停戦協定が結ばれました。とにかく戦闘をやめないことには国が持たなくなってくたのです。そして翌93年8月にはタンザニアのアルーシャにおいて和平協定が結ばれました。これはRPF部隊の国軍への編入、ツチ人の政治的権利の保証などを織り込んだもので、周辺国や国連が後押しして成立したものでした。

国連はこの和平協定を実現するために安保理決議を採択しました。決議に基づき、国連ルワンダ支援団(UNAMIR)が派遣され、監視に当たることになりました。しかしこの協定はフツ人強硬派の怒りを呼び起こしました。彼らは共和国防衛同盟(CDR)を結成しツチへの憎悪を煽るようになります。

ルワンダ愛国戦線(RPF)の結成

ルワンダを逃れたツチ人が向かったのはウガンダでした。しかしそこでは難民キャンプに押し込められ、自由な活動はできなかったのです。

当時ウガンダを支配していたのは、イディ・アミンという将軍でした。アミンという人物は我々の世代にはちょっと名の通った「奇人・変人」でした。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシング、ヘビー級チャンピオンという経歴の持ち主。イギリス軍のコックから成り上がり、クーデターで左派政権を打倒した後、国民30万人を虐殺したと言われます。「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」、「人食い大統領」などの異名を頂いています。

79年になるとアミン独裁政権はムセベニの率いる「国民抵抗運動」により打倒されてしまいます。実はこのムセベニの部隊にかなり多くのツチ人が参加していました。ツチなくして勝利はなかったくらいの活躍でした。それは同じ時期に闘われたレバノン内戦でのパレスチナ人の活躍を思い起こさせます。

ポール・カガメもその一人で、彼は物心ついた頃からの難民キャンプ育ちです。ムセベニのウガンダ民族解放軍(UNLA)で頭角を現し、ムセベニの片腕と呼ばれるほどの地位まで上り詰めます。しかし所詮は外人部隊であり、アミン追放後はだんだん厄介者扱いされるようになります。

やはり祖国に帰るほかない、と思い始めるのも当然でしょう。彼らは80年に創設された国家統一ルワンダ人同盟を母体にゲリラ部隊「ルワンダ愛国戦線」 (RPF)を結成します。87年のことです。RPFは装備にあたりアメリカの援助を求めました。これは相当思い切った決断です。ルワンダは旧ベルギー領ですが、実質的な宗主国はフランスです。いっぽう亡命先のウガンダはイギリス領ということで、アメリカとは何の関係もありません。

カガメアメリカにわたり、陸軍指揮幕僚大学で軍事訓練を受けました。そして内戦が始まると、RPF最高司令官として戦闘の指揮をとるようになります。

厄介な隣人ブルンディ

ルワンダとブルンディは双子の兄弟みたいな関係です。同じ国であっても不思議はないほどです。ともにベルギーの支配のもとに少数派のツチ人がフツを抑えつける形で政権を維持していました。同時に独立しましたが、ルワンダにはフツの政権が、ブルンディにはツチの政権が誕生しました。ところがルワンダでフツがツチを抑圧した以上に、ブルンディではツチが暴力的支配を強めました。そこから逃れたフツはルワンダでツチいじめに回りました。

ところがルワンダを追い出されたツチはブルンディには行かずにウガンダやケニヤに亡命しました。ルワンダのツチ人にとってもブルンディは暮らしやすい所ではなかったようです。

ルワンダのフツ人政府にとっても事情は同じです。ブルンディで何か起こるたびに反ツチ的雰囲気が蔓延し、ルワンダの国内事情も悪化します。より融和的な政権は、より強硬な勢力に交代していきます。

73年にクーデターが起こり、カイバンダは放逐され、ハビャリマナが大統領に就任しました。ハビャリマナは反ツチ姿勢を強化し、ツチ人60万人が国外生活を強いられる事になりました。

ルアンダ・ウルンディ王国の時代

第一次世界大戦以前はいいでしょう。

第一次大戦後に宗主国が変わり、統治体制が新たに編成されたことが、94年内戦へと結びつく遠因となっているので、そこだけは押さえておいたほうが良いと思います。

ドイツ領東アフリカは、ウガンダとルワンダ+ブルンディに分割されました。東側のウガンダはケニアと接しているためにイギリス領になりました。西側は「ルアンダ・ウルンディ」国として一括され、コンゴを支配するベルギーの委任統治下に置かれました。

ベルギーはツチ人ムタラ・ルダヒグワ国王(ムワミ)にすえ、王制を敷くことになりました。ルダヒグワムタラ3世を名乗り、ベルギーのカイライとなりました。

ベルギーは国内における直接の目下としてツチを利用し、多数派のフツを支配させたのです。ここで2つの点を押さえておく必要があります。

ツチはエチオピア人やケニアのマサイと同じく鼻筋の通った顔で、フツは団子っ鼻です。しかし2つの人種は長いこと混血しているので程度問題です。より本質的な違いは、フツは定着農耕民で、ツチは遊牧民だということです。そしてツチはフツの社会に後から入り込んできた人々だということです。

もう一つ、2つの種族は長い間に混交して、一つの言語、ひとつの文化を形成しているということです。宗教的にもカトリックが多数を占めるということで相違はありません。これは欧州列強によって人為的に国境が引かれたアフリカ諸国の間では珍しいことであり、むしろ単民族国家と呼ぶべきだろうと思います。

ベルギーはそういう社会に身分制を引き込みました。士農工商のうち士族にツチを、農民にフツをあてたのです。これから話がややこしくなっていくわけです。

すごく単純化すると、会社の会長は外国人、現地会社の社長と役職員はツチ、労働者がフツというわけです。

↑このページのトップヘ