鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ:01 国際政治/経済 > A 各国民主運動

各国民主運動

フランスのレジスタンス 年表

2014-05-12 17:22:30

世界の若者たちはいま

2014-05-03 00:58:20

2011年はすごい年だったのだ

2014-04-26 11:21:08

世界の青年はいま

2014-04-17 21:44:14

中国革命年表、一応終了

2014-04-01 22:51:35

柴田誠一 「モスクワと中国革命の指導」を読む

2014-03-29 15:47:49

エジプト共産党の歴史

2012-09-03 17:19:46

パレスチナ共産党

2012-08-20 17:24:17

フランス左翼戦線とは

2012-04-11 14:19:52

6月5日は世界同時行動デー

2012-01-30 17:16:03

西サハラの闘い その3

2012-01-19 17:14:32

西サハラの闘い その2

2012-01-19 17:11:01

韓国の統合進歩党の未来

2012-01-09 00:29:25

ハンガリー事件 二つのターニング・ポイント

2012-01-04 12:56:15

ハンガリー事件 文献

2012-01-02 17:47:36

ハンガリー事件年表 その3

2011-12-31 12:32:38

ハンガリー事件年表 その2

2011-12-31 12:31:04

ハンガリー事件年表 その1

2011-12-28 23:29:54

世界民主勢力の十大ニュース ①

2011-12-21 23:56:23

スペイン統一左翼の歴史 その3

2011-12-21 17:51:17

スペイン統一左翼の歴史 その2

2011-12-21 17:49:50

スペイン統一左翼の歴史 その1

2011-12-21 15:24:31

スペイン統一左翼の勝利に注目

2011-12-19 00:48:55

共産主義再建党の歴史 その3

2011-12-17 14:46:27

共産主義再建党の歴史 その2

2011-12-17 14:45:33

共産主義再建党の歴史 その1

2011-12-17 14:44:10

イタリア共産主義再建党の決議

2011-12-14 17:22:53

85年韓国学生のヴ・ナロード

2011-12-14 00:28:14

どうして光州事件を許したのか

2011-12-12 23:26:54

カリリョ転落劇の顛末

2011-12-12 00:43:38

イタリアと韓国の左翼

2011-12-06 11:00:50

見事成功!

見栄えはあまりよろしくないが、それはいずれそれなりに整形しよう。

それより、このカテゴリー、かなりめちゃくちゃだ。

ヨーロッパ以外の運動については、地域別カテゴリにまとめたほうが良いみたいだ。

他のカテゴリもやっていって、ある程度まとまったところでホームページに移そう。


フランスのレジスタンスに関する文献を探したが、重箱の隅をほじくるような文章ばかりで、「あんたの意見が聞きたいわけじゃない」と怒鳴りたくなるようなものばかりだ。

やっと見つけたのがこれ。おそらく何かの雑誌に掲載されたものだろうと思うが、山崎雅弘さんの文章「栄光のレジスタンス 祖国フランスを解放した不屈の地下組織」が、良くまとまっていて読みやすい。

これを柱にして、そのほかいくつかのファイルから、共産党系のFTPを中心に抜き出してみる。

1940年

5月10日、ドイツ軍が西部戦線で大規模な攻勢を開始。電撃作戦でマジノ線を突破。

6月14日、パリはドイツ軍に無血占領される。ソ連はフランス共産党に非抵抗を指示。各地で非共産党系のゲリラによる散発的な抵抗。

6月16日、徹底抗戦を主張したポール・レイノー内閣が総辞職。後継のペタン元帥がドイツに降伏。ドイツは北部を直轄下に置き、南部にヴィシー政府の設立を許す。

6月17日、ド・ゴール、イギリスにわたりフランス国民に抵抗を呼びかける。

7月10日、国民議会の選挙でペタンが圧倒的勝利。ドイツとのコラボラシオンを訴える。アメリカ、ソ連はヴィシー政権を承認。

10月3日、ヴィシー政権がユダヤ人迫害法を制定。

11月11日、ヴィシー政府、モントワール協定を受諾。ドイツへの物資支援を推進するもの。これに対しパリで学生5千人の抗議デモが展開される。

1941年

5月、ドイツ軍が反抗者を銃殺。これに抗議してド・カレ炭坑で10万人が参加するストライキ。

5月15日、地下のフランス共産党が、独立をめざす「国民戦線」の結成を呼びかける。

6月22日、ドイツがソ連への侵攻を開始。この後、共産党は「義勇兵パルチザン」(Francs Tireurs et Partisans francais: FTP)を組織。大衆的な武力闘争の展開を呼びかける。

FTPは山岳部ゲリラ(Maquis)とともに、ヴィシー政府の管轄地からドイツ軍の占領地域に潜入し破壊活動を開始する。

8月21日、パリの地下鉄駅でレジスタンスがドイツ兵を殺害。以後要人などへのテロが相次ぐ。

10月23日、ドイツ軍、FTPの破壊活動に対する報復として50人(うち共産党員44人)を銃殺。

12月15日、共産党幹部のガブリエル・ペリを含む100人が処刑される。国民の間に憤激が広がる。ペリは共産党中央委員で、「ユマニテ」紙の国際部長。セーヌ・エ・オワーズ県の議員でもあった。

1942年

4月、ヴィシー政権、親ナチのピエール・ラヴァルが首相に就任。ペタンは事実上の引退。これに伴いレジスタンスへの参加者が急速に増加。

9月、ラヴァル政権、南部フランス人をドイツでの強制労働に駆り出す。多くの農民が山に逃げマキに参加。

11月 米英軍が北アフリカに上陸。スターリングラードでの戦闘が激化。

11月、ドイツ軍はヴィシー政権の支配区を占領し、フランス全土を支配下に置く。

1942年末、レジスタンスへの参加者は1年前の1千人から7万人に増加。非共産党系のコンバ、リベラシオン、フラン・ティルールなども勢力を増す。

(ただしこれら3つは南部を基盤とした“闘わない抵抗組織”であった)

1943年

1月、ド・ゴール派のジャン・ムーラン、3つの南部抵抗組織の統合に成功。統一レジスタンス運動(MUR)を結成する。

1月 共産党、ドゴールの「戦うフランス」に正式参加する。

1月、フランス人のナチスト民兵団「ミリス・フランセーズ」が創設。終戦までに3万人のレジスタンス活動家を殺害したと言われる。

1月、ヴィシー政府、新たな強制労働義務(STO)を課す。

2月、スターリングラードの戦い、ドイツ軍の敗北に終わる。フランス占領軍は東部戦線への動員により弱体化。

6月 ムーランがゲシュタポに捕らえられ虐殺される。拷問にあたったのがクラウス・バルビー。

12月 9月からの3ヶ月で、709人のヴィシー政府治安関係者が殺害され、9千件の爆弾事件、600の電車脱線事件が起こる。

1944年

2月、ソ連の指示を受けた共産党・FTPが全国レジスタンス評議会に参加。フランス国内軍(FFI)に編成される。レジスタンス活動家は20万人に達する。

6月6日、ノルマンディー上陸作戦。これに前後して国内で鉄道の破壊工作が600件におよび、ドイツ軍の補給路は寸断される。

(これを描いたのがルネ・クレマンの「鉄路の闘い」で、マキのような山岳ゲリラではなく、組織された鉄道労働者の闘いであったことがわかる。CIAはこの映画にヒントを得て松川、三鷹の事件をデッチあげたのではないか、とひそかに思っている)

6月10日 オラドゥール村の虐殺。

8月 連合軍がプロヴァンスにも上陸。

8月19日、パリで共産党の一斉蜂起が始まる。共産党によるパリ解放を恐れたアイゼンハワー最高司令官は、ドゴールのパリ進攻を許可。

8月25日、ドイツ軍の降伏によりパリが明け渡される。ド・ゴールが凱旋パレードを行う。

9月2日、フランス共和国臨時政府が成立。第一次ドゴール政権がスタートする。

10月28日、レジスタンスに対する武装解除が布告される。ソ連の指示を受けた共産党・FTPはこれに応じる。


ネットを見るとどうも変な文章ばかりが氾濫している。レジスタンスは大したことはなかった、国民はヴィシー政権に満足していた、ヴィシー政権は実は愛国者だった、共産党は国民ではなくソ連のことしか考えていなかった…

そのうちアウシュビッツはなかった、ヒトラーは善人だったと言い出しかねない勢いである。

もちろんさまざまな事実に目を背けず、きちっと相対する立場も必要だが、全体を見失ってはいけない。たとえばフランス共産党の対ソ盲従をもってその闘いを否定することなどだ。

これは我々人間の主体性に関わることである。とにかく三度世界大戦を起こしてはならないのであり、三度原爆を使ってはならないのであり、そのための教訓を我々は歴史から学び取らなければならない。

あれこれと批判する人に、一番欠けているのがその視点である。あなたはいま差し迫るファシズムの危機に抵抗しているだろうか。自分の立場を明確にしているだろうか。

もしそうでないのなら、口を閉じてこの場から立ち去ってくれ。

議論は2チャンなり別の場所ですればよい。

世界の若者たちはいま


4月末に、新入学生を対象にした勉強会をやり、私が講師を務めた。残念ながら新入生の参加はゼロという結果に終わった。

その時に話した中身を文章にまとめてみた。


はじめに

札幌の若手歌人で山田航さんという人がいる。「さよなら バグ・チルドレン」という歌集を出している。

その中から幾つか紹介しよう。

いつだって こころと言葉を結ぶのが 下手だね どうしても固結び

世界ばかりが輝いてゐて この傷が痛いのかどうかすら わからない

たぶん 親の収入超せない僕たちが ペットボトルを補充していく

鳥を放つ。 ぼくらは星を知らざりし犬として 見るだろう 夜空を

打ち切りの漫画のやうに 前向きな言葉を交はし 終電に乗る

地下鉄に轟いたのち すぐ消えた叫びが ずっと気になってゐた

いつも遺書みたいな喋り方をする友人が 遺書を残さず死んだ

雑居ビル同士のすきま 身を潜め 影が溶け合う時刻を待った

若者の情念を見事に切り取っているようにも見える。

しかしそうあってはならないのだ。理由は二つある。

世界は決して貧しくはなっていない。貧富の差が広がっているだけなのだ。若者が苦しむのは理不尽なことなのだ。

もう一つ、若者は決して黙ってはいない。世界で若者たちが行動を起こし始めている。そして理不尽な世界を切り裂き始めている。

その辺りを明らかにしていきたい。

 


相当長くなってしまったので、まとめてホームページの方に移動しました。そちらをご覧ください。
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/global/worldyouthnow.htm


2011年、世界の抗議運動

2011年、世界中で抗議運動が広がった。それはすごい年だったのだ。日本では東北大震災と福島原発事故で、それどころではなかったから、世界の動きを見過ごしていたのかもしれない。

今更ながら、2011年を振り返ってみよう。


2011年1月 チュニジア。青年失業と食料品費上昇で焼身と激しい大衆デモが爆発

2011年2月 レバノンでも政権批判デモ 平等な社会実現など要求

2011年3月 抗議デモ、旧ソ連にも波及 アルメニア首都で1万人超がデモ

2011年2月 ベルギー「政府不在」状態…5000人が抗議デモ

2011年2月 ギリシャで全国規模の24時間スト

2011年2月 クロアチアでも反政府デモ、1000人が警官隊と衝突

2011年2月 イタリアで買春疑惑に抗議。ベルルスコーニ首相辞任求め百万人デモ

2011年2月 バングラデシュのダッカ街頭で、政府改革を求める反政府デモ隊と警官隊が衝突。

2011年2月 インドで数万人デモ 食料高騰と汚職に不満

2011年2月 モロッコで数千人デモ 国王権限の縮小要求

2011年2月 リビア反政府運動で緊張続く。首都の政府庁舎焼かれる

2011年2月 ヨルダンで最大規模のデモ=政治改革求め6000人参加

2011年2月 バーレーン各地でデモ、警察と衝突 死者2人

2011年2月 オマーンでデモ隊が主要港への道路封鎖、死者は6人

2011年2月 米ウィスコンシン州で予算削減策に反対する労組デモ、全米に波及。全米50州で抗議デモ

2011年2月 最低賃金引き上げ求めデモ(ブラジル)

2011年3月 東北大震災。福島原発のメルトダウン。

2011年5月 スペインのマドリードの広場でオキュパイ闘争が始まる。

2011年8月 チリで学生運動に端を発したゼネストが決行される

2011年8月 リビア反体制派、首都完全制圧。政権移行に着手

2011年8月 イスラエルで30万人デモ 物価高騰で「史上最大規模」

2011年9月 ウジ国王、女性参政権認める…アラブの春受け

2011年9月 ウォール街で抗議デモ、米国にも「アラブの春」をと叫ぶ。その後オキュパイ闘争に発展。

2011年12月 クウェート議会解散、改革要求高まりで

2011年12月 下院選の不正に抗議、ロシア全土に反政府デモ拡大、ソ連崩壊後で最大規模


あと付け的だが、なぜ2011年にビッグイシューが続発したのか。

1.リーマン・ショック後の生活困難が極致に達したから

2.貧富の格差が許せないほどに広がったから

3.人々の要求が反映されない政治システムに怒りが爆発したから、

4.人々の生活の未来が奪われたから

みたいなことが考えられる。

問題はそれらが一向に解決されていないことだ。

したがって、もう一度その大波はやってくる。

今度は、たんなる暴発に終わらないかもしれない。

いまはそれに向け準備する時だ。

そのためにも、2011年という年を総括して置かなければならないだろう。


つけたし

2012年5月 メキシコでメディアに抗議する「YoSoy132」(私は132人目の抗議者)運動。

2013年6月 ブラジルでワールドカップ・インフレに抗議する大規模な抗議運動

2013年6月 トルコのイスタンブールでエルドアン・イスラム政権に対する抗議運動

2013年6月 エジプトでモルシ・イスラム政権に対する抗議運動




来週の土曜日、新入生を相手に講演会を企画しています。

私が基調講演というか、話題提供みたいな形で最初に話することになっています。

一応話は大きく、「世界の青年たちは今」みたいな感じでやることになっています。

今年の新入生は現役なら94年生まれということになります。すでにバブルが崩壊した後の生まれということで、右肩下がりの時代を生きてきたことになります。

まぁ受験競争を勝ち抜いてきたわけですから、エリート意識はそれなりにあるでしょうが、さぁこれからどうするかということになると、甚だ心もとないんじゃないでしょうか。

そういう意味では前向きの話をしていくことが大事だと思うのですが、どこをどうくすぐれば積極性を引き出せるのか、思案のしどころでしょう。

まずはこの20年間、世界の経済はどうなったかということですが、なんだかんだといっても着実に成長しています。リーマン・ショック後の停滞を含めても1.3倍位にはなっています。

世界は豊かになっているのです。

世界がどんどん貧しくなっているのなら、私たちが貧しくなっても不思議はないのですが、世界が豊かになっているのに私たちが貧しくなるのは解せません。

青年の皆さんは萎縮する必要は有りません。

日本もこの20年間大きな成長こそしていませんが、決してマイナスではありません。日本人の年収は70万円減っていますが、これは景気が悪いからではなく、金持ちがかすっているからなのです。

家族の収入が減ると、学生さんの仕送りにはモロに響きます。20年前学生の仕送りは3千円、それが今では一日千円を切っています。

それだけ貧富の差が激しくなっているのです。

これは日本だけの話ではありません。世界中で同じような事態が起きているのです。

例えば、スペインでは青年の半分が失業者です。ギリシャでも似たようなものです。なかでも高学歴の人ほど就職の機会がありません。ギリシャでは卒業生がそっくりそのまま失業者になります。「大学よさようなら、職安よこんにちは」という世界です。

気の利いた人はドイツに流出していきます。そこでドイツ人の下請けで低賃金で過酷な労働を強いられることになります。

それではドイツ人は優雅な暮らしをしているかというと決してそうではありません。外国人と競わされて不安定労働が一般化しています。一部の大手企業の労働者はおこぼれに預かっていますが、全体の賃金は低水準で推移しているのが実情です。

ブログで連載した後、ホームページのほうでだいぶ増補したが、一応形をなしてきたので紹介しておく。

目下の結論

1.毛沢東はライバルではなかった

はっきりしているのは、瑞金政府の成立までは毛沢東は一地方幹部に過ぎなかったということである。

中国革命成立後、毛沢東の活動についてはずいぶん潤色されている。それは根こそぎ剥ぎ取るのが困難なほど歴史に刻み込まれている。

毛沢東の活動を除けば、中国共産党の歴史は向忠発総書記の逮捕・処刑をもっていったん終結している。

その後は西安事件まで、苦難の歴史が続くが、階級闘争の方はその間完全に中断していると見て良いだろう。

2.コミンテルンに振り回された革命

ただその「苦難の期間」は、中国共産党がコミンテルンのいうがままの路線を卒業して独自の解放路線を掴み取るための貴重な期間でもあった。そのことは抑えておかなくてはならない。

中国革命にとって、コミンテルンの意義は功罪相半ばする。というより最初の数年間を除けばコミンテルンこそ害悪の源であったといえる。

この害悪を骨の髄まで感じていたはずの毛沢東だが、革命が成功するやいなや、自らがコミンテルンになったかのように他国(日本)の運動に干渉した。

トロツキーはコミンテルンに対抗して第4インターを作るという形で、同じ間違いを繰り返した。

それもこれも、煎じ詰めればコミンテルンの害悪である。

3.中国革命幹部の3つの世代

およそ10年の中国革命であるが、一応3つの世代に分かれる。

第一世代はマルクス主義を受け入れ、その延長線上にコミンテルンを受け入れたインテリ世代である。日本に留学し日本を通じてマルクス主義に接した人々である。

陳独秀、李大釗が双璧をなす。その他にも多くの人々がいたが、ほとんどはその後転向している。

第二世代は、第一世代を通じてマルクス主義に接し、国共合作期の活動を実質的にになった世代である。北京グループ、上海グループ、地方グループがある。中でも毛沢東の湖南グループが最強であった。これらの中からフランスに留学し、現地で活動に加わった人たちが育っている。

第三世代は、コミンテルンが確立した後モスクワに派遣されたレーニン・スターリン主義者のグループである。日本で言えば「クートベ帰り」に相当する。

4.フランス人脈の重要性

コミンテルンに振り回された中国革命ではあるが、フランス留学の経験を持つグループは、モスクワに対して一定のスタンスを持っていた。

フランス留学といってもお金があって留学したわけではない。勤・工・検といって「勉強もできる」という名目の低賃金労働に駆り出された連中である。

彼らは毛沢東のような土着の革命グループに対しても一定の理解を持ち、コミンテルンの指示を忠実に守りつつもそれに飲み込まれないだけの自主性を持っていた。

彼らが毛沢東と結びつくことにより、中国革命はからくも瓦解を逃れることが出来たと考えられる。

 

 国共合作期の動きをもっとも詳しく適確に展開した論文が下記のものである。

柴田誠一 「モスクワと中国革命の指導

北大スラブ研の「スラヴ研究」(Slavic Studies)に掲載されたもので、なんと1961年の発表だ。

その後、戦前の中国の革命運動については京都大学から共著で浩瀚な論文集が発表されているが、それと比べても出色だ。

ソ連が初めて極東に進出するのはロシア革命から1年余立った1920年の初め頃で、イルクーツクに拠点を構えた。

イルクーツクにはコミンテルンの極東支局が設けられ、日本・朝鮮・中国の解放闘争を指導するようになる。

このなかでは朝鮮への影響が圧倒的に強く、このあたりの経過は「朝鮮戦後史年表-0」に記載している。

中国への影響は限定的で、比較的早期からモスクワが直接乗り出して指導している。

しかし最初に中国に乗り込んだ共産党員ヴォイチンスキーはイルクーツクから上海に派遣された活動家である。

このコミンテルン極東支局というのは、ソ連政府、とくに外務部(外務省)の影響が強く、コミンテルンの名はむしろ隠れ蓑的な意味が強い。

当時はシベリアに侵入した日本軍を始め、ありとあらゆる帝国主義の敵意に囲まれていたから、世界革命の推進というよりはソ連の防衛に役立つか否かが評価の基準となっていた。

その後、孫文と会見したミーチンはモスクワから直接送り込まれた外務部の人物である。そして国共合作で連ソ・容共路線が打ち出されたとき、国民党政府の軍事顧問として送り込まれたボロディンも外務部のラインを通じて動いている。

厄介なのは、彼らがソ連政府外務部の方針に基づいて活動していたにもかかわらず、中国共産党にはコミンテルンの代表のごとくに接して、あれこれと指導したことである。

たしかに初期のコミンテルンには、各国の運動を指導する能力はなかったし、革命の初期においてはそれほど厳密な区別をする必要はなかったのかもしれない。しかし中国で北伐作戦が始まり、それに呼応して各地で農民や労働者の闘争が盛んになると、この矛盾は次第に深刻なものとなっていった。

ソ連政府にとっては、ソ連の隣に国民党が支配する友好的な国家ができればそれで十分であり、高望みする必要はなかった。いずれ熟したりんごが落ちるようにこちらに近づいてくると踏んだのだろうと思う。

しかし中国の人民、中国共産党、それに各国の階級闘争を指導するコミンテルンにすれば、それでは話は済まないのである。この矛盾が27年の蒋介石の反共クーデターを引き金として爆発した。だから中国人民の解放闘争は蒋介石にやられたというより、自らの抱える矛盾によって自爆したのである。

こういう経過が大変良くわかり、その後の路線のジグザグの背景を見るうえでも大変役に立った。

それにしても、これだけの論文が61年に書かれていたということには驚いた。なにせ50年以上も前の執筆なので、その後の研究で相当変更もあると思うが、随時フォローしていきたいと思う。

 読書ノート「エジプト資本主義論争の構図と背景」

パレスチナ共産党の研究と同じく、アジア経済研究所の「東アラブ社会変容の構図」からの抜書き年表である。

長沢栄治教授が執筆している。

20年 エジプト共産党が創立される。初期の指導部メンバーの多くをユダヤ人が占めた。

共産党員2千人のうち、8~9割は外国人、ユダヤ教徒、マロン派、アルメニア人、ギリシャ人だった。

22年2月 エジプト王国が成立。実体としてはイギリスの植民地統制が続く。

40年 ストライキ全面禁止令が発せられる。弾圧の中でエジプト共産党は解体。

42年 エジプト国内の共産主義グループが、「エジプト民族解放運動」(EMLN)と「イスクラ」に再編される。

EMLNの指導者はクリエル、イスクラはシュワルツ、いずれもエジプト人ユダヤ教徒だった。EMLNは党のエジプト化と大衆化を主張。イスクラ系はこれをショーヴィニズムだと批判したという。

43年 エジプトとソ連が国交を樹立。

46年 「労働者・学生民族主義委員会」が結成される。背景に小ブル・知識人層の急進化があったとされる。カイロ大学出身で、英国留学の経験もあるシャーフィイーが指導。

47年5月 EMLNとイスクラが合併。「民主民族解放運動」(ハディトゥー)を結成。

47年 もう一つの共産主義グループ「新しい夜明」が、エジプト人を中核に結成される。極端な秘密主義をとり、名称を次々に変更。繊維労働者を中心に労働運動に影響力を広げる。

48年5月 第一次中東戦争が始まる。戒厳令が施行され、左翼運動は徹底して弾圧される。これまでのユダヤ教徒指導者クリエルとシュワルツは国外に追放され、ハディトゥーは分裂に追い込まれる。

クリエルはソ連に追随してイスラエル承認に賛成する。これに対しシャーフィイーの率いる「革命ブロック」は、反シオニズムの立場を貫く。

49年 フランス留学生サブリ・アブドラ、ファード・モルシを中心にエジプト共産党(旗派)が結成される。国内指導部の壊滅を受け“国際共産主義運動の指示により”結成したとされる。

50年5月 戒厳令が解除される。ハディトゥ-各派、労働者前衛(新しい夜明の後身)が活動を展開。

50年 ハディトゥーは軍内の自由将校団との接触を図る。軍内共産党員はイスクラ派に属し、イスラエル承認路線を批判。

52年1月 カイロで焼き討ち暴動事件が起こる。全国で反英闘争が激化。

52年7月 自由将校団による軍事クーデター。ナギーブ将軍を大統領に担ぐ。

8月13日 カフル・ダッワール事件が発生。綿工業都市で労働組合のデモ隊と警官が衝突し、死者を出す。軍事政権はナギーブを冠する上からの労働運動を組織。既存の労働運動を弾圧。指導者2人を処刑する。

8月 ハディトゥ-は政権支持を堅持するが、共産党旗派はファシスト、労働者前衛は軍事独裁と規定し、自由将校団政権を公然と非難する。

52年末 軍事政権は米国との接近を図る。ハディトゥーも政権批判を開始。

53年1月 軍事政権、ムスリム同胞団を除いた旧政党を解体、指導部を一斉逮捕。軍内のハディトゥー支部も解散させられる。

11月 ハディトゥーの呼びかけにムスリム同胞団とワフド党左派が応え、民族民主戦線を結成。軍事政権との対決を試みるが失敗に終わる。

11月 分裂していたハディトゥー5組織が統一し統一共産党を結成。クーデター支持を自己批判し、クーデターの背部にアメリカ帝国主義が存在すると非難。

53年 農村部で共産党への弾圧が強化される。各地でナセルの土地改革に抵抗して流血の衝突。

54年2月 ナセル、ナギーブ打倒の動きを見せる。ムスリム同胞団がナギーブ支持の大デモを展開したため挫折。

2月 ナギーブ政権の主導権を握ったムスリム同胞団とナセルとの矛盾が拡大。ナセルは獄中のハディトゥー指導部との交渉を開始する。ハディトゥー幹部は交渉に応じる姿勢を見せる。

4月 ナセルが、同胞団の抵抗を推し切り首相に就任。

10月 ムスリム同胞団によるナセル暗殺未遂事件発生。

11.14 ナセルはナギーヴ大統領を解任。みずから革命指導評議会議長に就任、ムスリム同胞団に大弾圧を加える。

55年4月 ナセル、バンドン会議に出席。この後積極外交を展開。ハディトゥー獄中指導部はこれを全面支持。

5月 地下の統一共産党、獄中指導部を批判。「人民の支持を得ない孤立した軍事独裁政権は、帝国主義の圧力に屈した」と非難する。

8月 イスラエルがガザ駐在のエジプト軍を撃破。英米両国はナセルの軍事援助要請を拒否。

9月 ナセルは社会主義国チェコとの武器取引に踏み切る。ただし国内での共産主義者への弾圧は継続。

56年1月 新憲法が公布される。ナセルが大統領に就任。これに伴い共産主義者の釈放が始まる。

3月 統一共産党、ナセル政権との和解の方向を打ち出す。

4月 統一共産党幹部ムラード、「52年革命は人民民主革命であり、封建的搾取を廃絶した。現段階においては反帝国主義の課題が提起されており、ナセル政権を頂点とする民主民族戦線を形成しなければならない」とする。

7月 アメリカ、アスワン・ハイダム建設への融資を撤回。ナセルは報復措置としてスエズ運河国有化を宣言。

9月 スエズ戦争が始まる。共産党員はパルチザン闘争に積極的に参加。

57年5月 統一共産党、ナセル政権の5年間を総括。「52年7月から53年1月までは人民の運動と米帝国主義の抗争の時代であり、いったん反動が勝利し、ナセルは人民から離反した。しかしその後の情勢変化の中で、ナセルは民族自立の特徴を持つ新たな段階に進んだ」として、ナセルおよび自らを合理化。

7月 統一共産党にエジプト共産党旗派が合流。

57年 労働者前衛、「労働者・農民エジプト共産党」の名称で公然活動を開始。

58年1月 統一共産党に労農共産党も合流。合同会議ではユダヤ教徒が幹部会から排除され、クリエルを中心とするフランス亡命組織も廃止される。のちにクリエルは除名処分を受ける。

58年2月 アラブ統一をめざすアラブ連合か結成される。シリアとエジプトが合同。

アラブ民族主義と共産党: 共産党は当初、「西欧諸国のような資本主義的発展の基盤が欠如していること、そのイデオロギーが“狂信的な宗教的性格”を帯びていること」から警戒していた。のちにナセルべったりになってからは無条件に礼賛。

7月 イラクでカシムを中心とする民族急進派が政権を握る。イラクとシリアの共産党はこれを支持し、ナセルらのアラブ民族主義と対決。

7月 統一共産党から親イラク派が分裂。「党集団」派を結成。「ナセル革命は独占資本の一手段に過ぎない」とし対決姿勢を明らかにする。

12月 ナセル、ポートサイドでイラクと共産主義を激しく非難する演説。

59年1月 ナセル政権、共産党など左翼勢力に大弾圧を加える。多くの活動家が獄中で拷問死を遂げる。

59年3月 モスル事件。

59年9月 獄中の共産党幹部シャーフィイー、ナセルに対し「アラブ民族主義戦線の統一」を訴える書簡を送る。シャーフィイーは翌年6月に拷問により殺害される。

60年 ナセル、社会主義化を推進。銀行国有化。さらに翌年には主要企業が国有化される。

国有化企業の多くは民族的・宗教的マイノリティーの所有するものだったという。社会主義というより民族的、宗教的な過程であった。

61年 第二次農地改革が実施される。党主流派はふたたびナセルへのすりより姿勢。党集団派は国有化は社会主義を意味するものではないと批判。

61年 「国民憲章」にもとづく新たな単一政治組織「民族連合」が発足。

63年 党主流派、アラブ社会主義連合の政治機関である「社会主義者前衛」への参加を決定。ソ連の指示を受けた旧CPE、労農党系のメンバーも加わる。

64年4月 ナセル政権、フルシチョフの訪問をまえに共産党員600名を釈放。

65年3月 エジプト共産党、自主的解党宣言を発表し、ナセル政権与党に合流する。

4月 党集団派も解党声明。解党に反対する残党が、共産主義前衛の名の下に地下活動を継続。

66年6月 ナセル、「封建制の残滓」に対する攻撃を開始すると演説。農村の有力家族支配の復活阻止を訴える。

67年6月 第三次中東戦争。エジプトは惨敗し、軍内にナセルの社会主義路線への批判が強まる。

70年 ナセルが死亡。サダトが後継者となる。

71年5月 サダトによる「修正」革命。「社会主義者前衛」は反サダト派の牙城と目され解体される。このとき元共産党員500~800名が逮捕される。

73年 アラブ社会主義連合への捜索。左派メンバー90名が追放される。

76年11月 「アラブ社会主義連合」による単一政党体制が廃止され、「エジプト型複数主義」が導入される。革命前からの保守勢力「新ワフド党」、社会主義労働党、ムスリム同胞団の活動が容認される。「アラブ社会主義連合」は解体される。連合内主流派は「統一進歩国民連合」の結成に動く。

78年5月 クリエル、パリで暗殺される。

79年 キャンプ・デービッド合意に基づき、イスラエルとの国交が回復される。

81年10月 サダト大統領が暗殺される。ムバラクが後継者となる。非常事態を発令、この非常事態はムバラク追放まで続く。

85年 サミル・アミンが「アラブ社会の危機」を発表。ムバラク体制に取り込まれた国内左派を厳しく批判。内部的社会変革の優先を説く。

87年 総選挙。合法左派政党「統一進歩国民連合」は得票2.2%に激減し議席を失う。これに対しムスリム同胞団は35議席を獲得。政治的影響力を強める。

 

アジア経済研究所の研究叢書392号で「東アラブ社会変容の構図」という本がある。1990年の発行だからかなり古い。まだ消費税3%の時代である。まだアジ研の住所が市谷になっている。
おかげで、というのもなんだが、4400円の本がただで読める。

長沢栄治先生の編集で、何人かの共著者が執筆したものである。大変浩瀚なもので、読むのに一苦労だが、そのなかでとりわけ興味深いのが、

第一部 委任統治期パレスチナにおける民族問題の展開(臼杵陽)
および
第二部 エジプト資本主義論争の構図と背景(長沢栄治)
である。

第一部は副題が パレスチナ共産党に見る「民族」の位相
であり、パレスチナ共産党を1920年の党創立から43年の最終的分裂に至るまで時系列で追いながら、きわめて特異な状況下でのきわめて特異な路線と、その背景を明らかにしている。
読んでいると、彼らが担わされた課題のあまりの重さに、つい同情してしまう。
逆に言えば、さまざまな弱点はあるにせよ、よくぞここまで国際主義(昔風に言えばレーニン主義)を貫き通せたものだと感動する。

事実のあまりの重さに、いまはコメントすべき言葉が見当たらない。すこしほかの資料も追加した上で、何らかの紹介をして見たい。

とりあえずは、パレスチナ(イスラエル)年表に突っ込んだので、そちらを参照していただきたい。

大統領選挙で左翼戦線が健闘しているとの報道。
①世論調査で15%を獲得。国民戦線のルペンを抜いて3位となった。
②各地での集会に数万から10万を越える支持者を結集している。
③与党だけでなく、野党社会党への不満も結集しつつある。
左翼戦線は左翼党と共産党の選挙連合。

以下は左翼党に関する情報
左翼党は社会党左派が09年に離党し結成した政党。党首(共同議長)はメランション。
サルコジ政権によって改悪された労働条件の回復
大企業・大資産家の支配する政治からの脱却
21世紀型共和制へ「市民蜂起」を! がスローガン

ただ、ヨーロッパではスペイン統一左翼も、イタリア共産主義再建党もあまり景気良くないし(スペインはこのたびの選挙で少し伸びたようだが)…
日本も似たようなものだといわれると、真っ向からは反論できないし…
少し調べてまた書きます。

ポルトアレグレの世界社会フォーラムが6月5日の世界同時行動を呼びかけた。
が、呼びかけは下記のようになっている。

6月下旬にリオで開かれる「国連持続可能な開発会議」に対し、「環境と社会の公正を守る世界大行動」を呼びかける。各国首脳に対し環境保護と社会問題の解決に配慮した新しい経済のあり方を追求するよう圧力をかける。

メインテーマが「地球環境を守る」ということになっているのが、ちょっとピンぼけ感がある。圧力をかければ首脳の態度が変わる、かのような言い方もちょっと気になる。

一言で言えば、相変わらず社会フォーラムは社会フォーラムだなという感じ。私なら「社会の公正と雇用と環境を守る世界行動」とするところだ。

しかし6月世界同時行動の呼びかけは時宜を得ている。なによりも世界社会フォーラムには2003年3月の世界同時行動の実績がある。

エジプト、イタリア、スペイン、アメリカと連鎖して起きた若者の闘いや各国労働運動の復活の動きを、グローバルなものに一体化していく結節点が必要だ。


1981年

3月 アメリカはモロッコに対し1億ドルの軍事援助を開始。アメリカ式訓練を受けたモロッコ軍特殊部隊がアガディールとタンタンに派遣される。部隊は人民解放軍の待ち伏せ攻撃を受け甚大な被害を出す。

6月 第一次の「砂の壁」が完成する。大西洋沿岸から内陸のアルジェリア国境の近くにまで達する全長700キロの長城が姿を現わす。

6.24 アフリカ統一機構の第18回首脳会議(ナイロビ)で、モロッコは西サハラでの住民投票受け入れを宣言。しかしポリサリオ戦線を紛争当事者と認めず、住民投票も「モロッコの主権を確認するためのもの」と主張。

8月 コジョOAU事務総長はRASDに加盟承認を通告

10月 アルジェリアの軍事支援を受けた西サハラ人民解放軍は国土の90%を解放。モロッコは派遣軍を8万人か ら13万人に増員して対抗。

“首都”ティンドゥフ: 4つの難民キャンプには合わせて約15万人が住み、モロッコ占領下の最も重要な都市名を取ってエル・アイウン、スマラ、アウセルト、ダクラと名付けられている。更に各省庁、キャンプ各地域の管理局、病院や診療室、幼稚園、小学校、女性のための職業学校、婦人団体、菜園、放送局などがある。

81年 劣勢に追い込まれたモロッコは、北部にエルアイウン(首都)・スマラ・ブクラを結ぶ「重要三角地帯」を設定する。人民解放軍はただちに三角地帯の拠点ゲルタ・ゼムールを攻撃し甚大な被害を与える。

1982年

2.22 アジスアベバでOAU外相会議。RASDが出席。モロッコおよび18か国が退席し流会に追い込む。

5.27 ハッサンがワシントンを訪問し軍事援助をもとめる。EUを経由して1億ドルの軍事援助が提供されることとなる。

1983年

6.08 OAU首脳会議、モロッコとポリサリオ戦線を紛争当事者として初めて明記。直接交渉を求める決議を採択。

83年末 ハッサン二世、参謀本部を全面更迭。アメリカ式の装備に切り替える。

1984年

2.27 モーリタニアがRASDの独立を承認。

10月 ポリサリオ戦線、三角地帯の壁を同時攻撃。ズムール・二ランで防御線を突破する。その後は砂の壁を攻めあぐねる。

11月 OAU首脳会議にRASDが正式加盟。モロッコはOAU脱退を宣言する。

1987年

モロッコが建設を進めて来た「砂の壁」が完成。

砂の壁: 国土を東西に隔てる全長2千キロの防衛線。イスラエル軍の協力によって建設された。砂を高さ数メートルに積み上げて作ったもので、その周辺は鉄条網と地雷原で防御されている。

1988年

モロッコとポリサリオの双方が、国連事務総長の和平提案を受諾。

1989年

1月 ポリサリオ上級幹部がマラケシュでハサン2世と秘密会談。モロッコは住民投票の受け入れを了承する。

1990年

6月 包括和平案が国連安保理決議658として採択される。独立かモロッコ統合かを住民投票で選択することが骨子で、OAU枠組み案を踏襲する。

1991年

4月 国際連合の仲介でポリサリオ戦線とモロッコが停戦。モロッコ帰属か独立かを問う住民投票を実施することになる。

8月 国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が創設される。

9月 ポリサリオ戦線とモロッコとの停戦が発効する。

1975年

2月 「統一解放戦線」(FLU)が北部で戦闘を開始。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方に敵対する行動。実態はモロッコ政府軍の一部とされる。

その頃のモロッコは国王ハッサン2世が国防相・参謀総長を兼任していた。ハッサン独裁への軍部の不満は強く、王宮襲撃事件や国王専用機銃撃事件が続いていた。これらの矛盾を国外にそらすことに最大の目的があったとされる。

75年前半 国連現地調査使節団、圧倒的多数のサハラウイが併合ではなく独立を支持と報告。都市部以外のすべてはポリサリオ戦線が支配するにいたる。

75年 カルロス皇太子がエルアイウンを訪問、西サハラの独立をあらゆる方策で保障すると述べる。

10月 国際司法裁判所、モロッコの西サハラ領有権を否定する裁定。ハッサン2世は裁定受け入れを拒否し、「緑の行進」を呼びかける。

判決の要旨: 西サハラとモロッコ、あるいはモーリタニアの間には、歴史上いかなる領土上の主権関係もなかった。スペインによる植民地化の時点では西サハラは「主なき地」ではなかった。

10.31 モロッコ軍8千人が国境を越え軍事占領作戦を展開。(この項真偽不明)

11.06 モロッコは35万人を動員した「緑の行進」を強行。ハッサン2世は「いかなる専制君主といえど も。非武装の35万人に発砲を命じることは出来まい」と扇動。

緑の行進の実態: ①35万人は主催者発表であり実数は不明、②行進団の上空にはモロッコ空軍機が旋回しており、非武装とはいえない、③モロッコ政府軍の別働隊であるFLUがポリサリオ戦線との衝突を繰り返していた、④行進団は国境から12キロの地雷原で反転、そのまま国内に戻った。

11.06 モーリタニアが南部から侵入。2万の軍が南部リオ・デ・オロ地方の中心地ゲラを占領。(この項真偽不明)

11.06 国連決議380号、「行進に参加した全モロッコ人の即時引き上げ」をもとめる。アルジェリア領内に大量の難民が流出。スペイン政府は民間人や兵士の家族に退去を命じる。

11.14 マドリードでスペインとモロッコ、モーリタニアの三国会談。秘密協定で、スペインは西サハラの分割譲渡を認める。燐鉱山は、所有権をモロッコ2、スペイン1の割合で分割することで合意。

11.20 フランコ総統が死去。スペインは西サハラへの関心を完全に失う。

11.25 モロッコ正規軍4000名が国境を越えて侵攻。

11.28 諮問議会「ジェマー」、独立を支持する「ゲルタ・ゼムール宣言」を発する。ジェマーを解散するとともに、ポリサリオ戦線こそが西サハラ唯一の合法的権威であるとする。

「ジェマー」はスペインが開設した現地人の諮問議会。宣言には議員の3分の2のほか、西サハラ選出のスペイン国会議員3人、60人の族長が署名した。

12.10 モーリタニア軍が侵入。スペイン駐留軍基地の撤収跡を確保するためポリサリオ戦線との戦闘が繰り返される。

ポリサリオ戦線はモーリタニア軍の後方基地を襲い、越境してモーリタニア軍拠点を攻撃するなど多彩な攻撃を展開。司令官エル・ワリは神出鬼没の活躍ぶりから「サハラの狼」と呼ばれた。

12月 長老層や旧「サハラ解放軍」兵士らがポリサリオに合流し、「臨時サハラウイ国民評議会」を創設。

1976年

1.12 スペイン軍の最終部隊がダクラから引き揚げる。これに代わりモーリタニア軍がダクラに進駐。

1月 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線は、住民を道連れに奥地への遅延撤退作戦を展開。モロッコ軍がナパーム弾で難民の列を爆撃。

1.21 モロッコ空軍のF5戦闘機がポリサリオ戦線によって撃墜される。対空兵器はアルジェリアから持ち込まれたものであった。

1月末 アルジェリア国営通信、自国軍がモロッコ軍と衝突したと公表する。

2.14 アルジェリア軍、難民の移動完了を見て、西サハラ領内より撤収。

2.26 スペインが最終的に西サハラの領有を放棄。

2.27 アルジェリア領内ティンドゥフに形成された難民キャンプを拠点として「サハラ・アラブ民主共和国」の建国を宣言。

サハラ・アラブ民主共和国: Sahrawi Arab Democratic Republic (SADR) と称される。アルジェリアとリビアが支援に回った。実質的行政機能はアルジェに置かれる。

3.01 アフリカ統一機構、西サハラへの支持を表明。

4.14 モロッコとモーリタニアが西サハラの分割ラインを決定。

6.07 ポリサリオ戦線、モーリタニアの首都ヌアクショットへの急襲作戦。ランドローバーやトラックに分乗した兵士600人がティンドゥフを出発。

6.09 ポリサリオ戦線がヌアクショット市内に突入。一時は大統領官邸付近に迫撃砲弾を撃ち込むが結局は撃退される。ポリサリオ戦線側の戦死者は200人を数え、この闘いでエル・ウワリが戦死。

7月 モロッコのラバトでハッサン二世とモーリタニアのウルド・ダッダ大統領が会談。「相互防衛条約」に調印する。モロッコ軍3千人がモーリタニア支配地域に展開。さらにフランス人の「ジャガール飛行部隊」が制空権を確保する。

8月 ポリサリオ戦線の第3回大会。エル・ウワリに代わりムハメッド・アブデルアジズが書記長に選出される。サハラ人民解放軍(ALPS)を編成する。

8.30 アブデルアジズ、第3代のサハラ・アラブ民主共和国大統領となる。

10月 ポリサリオ戦線が軍事攻勢を再開。ヌアクショットも少人数コマンドによる反復攻撃の対象となる。

1977年

5.01 西サハラ解放軍が「エル・ウアリ作戦」を実施。モーリタニアのゾエラットを攻撃。3週間にわたる戦闘の後占領。

ゾエラットには鉄鉱山があり、モーリタニア経済の心臓部とされる。モーリタニアは戦費増大に加え、資金源の鉄鉱山を叩かれたため経済危機に陥る。

5.01 ゾエラットに駐在していたフランス人6人が人質となる。ポリサリオ戦線は人質と交換にフランス政府の独立承認を要求。のちにフランス共産党の仲介によって解放される。

5.13 モーリタニア、モロッコとの相互防衛協定に調印。モーリタニア領へのモロッコ軍駐留が開始される。

7.03 エル・ウワリ戦死1周年を期して、西サハラ解放軍がヌアクショットを攻撃。攻撃は1週間にわたり続く。

7.20 モロッコ、モーリタニアに600人の増援部隊を派遣。

11月 モーリタニア軍と組んだフランスの「ジャガール」と「ミラージュ」の飛行部隊が進出し、制空権を握る

1978年

6月 モーリタニアのウルド・ダッダ大統領がクーデターにより失脚。

7.12 ポリサリオ戦線はモーリタニアに対する一方的戦闘停止を指示。

8.05 アルジェでポリサリオとモーリタニアの間に停戦協定成立。このあと戦いは西サハラ人民解放軍とモロッコ軍との間に絞られる。人民解放軍はリン鉱山を反復襲撃し操業停止に追い込む。

11月 フランス人飛行部隊が撤退。モロッコ軍はフランス軍の援助を受け反ゲリラ部隊「緊急介入部隊」(DIR)を編成。ゲリラ根絶のため焦土作戦を実施する。

1979年 

1.29 ポリサリオ戦線、「ブーメジエン攻勢」を開始。国境を越えモロッコ国内に侵入。レムサイルの戦闘で勝利し、タンタンを一時占拠。モロッコ軍2個連隊を壊滅に追い込む。(ブーメディエンは当時のアルジェリア大統領)

7月 第17回OAU首脳会議、西サハラにおける自決住民投票を骨子とする決議を採択。サハラ共和国のOAU加盟についても過半数の国が賛同するが、モロッコの脱退の脅しの前に、採択を保留する。

8.05 モーリタニアとポリサリオ戦線が和平協定を締結。モーリタニアは西サハラに対する領有権主張を放棄、相互不可侵と国境の尊重、モーリタニア占領地域のポリサリオへの引き渡しを約す。

8.14 モロッコは和平協定を無効と宣言。モーリタニア占領地域もふくめ西サハラ全土を自国に併合する。

9月 ハバナで開かれた非同盟首脳会議、西サハラからの全占領軍撤退を求める決議を採択。

79年末 ポリサリオ戦線の大攻勢。解放区は西サハラ全体の8割に達する。サハラ・アラブ民主共和国を34カ国が承認する。

79年末 モロッコ軍、制空権確保を中核とするアメリカ式戦術への切り替えを開始する。モロッコ国内に5つの基地を持つアメリカが軍事支援を強める。

モロッコの新戦略: 「国家防衛評議会」を新設し国王の義兄弟アフメド・オスマンが議長に就任。装甲車やジープ、ヘリコプターなどで機動性を高め、対ゲリラ戦機能を強化。砂の壁の構築を柱とする。

12月6日の記事で、イタリアの共産主義再建党と韓国の統合進歩党について紹介した時、「いずれ少し調べた上で紹介する」と書いた覚えがある。そのあとイタリアの共産主義再建党についてはレビューした。ついでにスペンの統一左翼についても調べて紹介した。

韓国については、「来年の総選挙に向け、左派三党が「統合進歩党」を発足させた。昨年6月の地方選での合計得票率は14%で、台風の目となる可能性がある」という赤旗記事を引用した。

同時に、「ここ数年は内部分裂から停滞を繰り返し、民衆の期待を裏切ってきた。とくに韓国の場合は北との関係が背景にあるだけに、再建はむずかしいと思っていた」という感想を述べておいた。


韓国の統合進歩党はなかなか難しい。果たしてこれが前進といえるかどうかも分からない。むしろイタリア共産党が左翼民主党と名を変え、さらに旧保守系のキリスト教民主党の一派と結び、民主党へと姿を変えていった経過に似ていなくもない。

むしろ、民主労働党との合併を拒み左翼政党として生き残りをかけた進歩新党の方に何故か共感を覚えてしまうのである。

韓国の民主運動に関してはやたらと情報量が多い。とにかく在日の人がせっせと紹介してくれるので、ちょっとまじめにやると、たちまち情報の山に埋もれてしまう。その中で窒息してしまっては文章を書くひまがない。さりとてこれだけ情報が多いとうかつなことは書けない。

という訳で、ぼちぼち書き始めることにするが、完成させる自信があまりないので、とりあえず結論めいたことから書くことにする。

(1)結局はPDと主体派の闘いだ

今から1年前、社会労働党と進歩新党との再統合の動きが始まった。2つの党はもともと4年前までは一つだった。それが07年12月の大統領選挙で社会労働党が惨敗したことから、その総括をめぐって2つに割れた。

最も重要な違いは北朝鮮の評価である。もともと社会労働党は民主労総という労働団体がスポンサーになって作られたものだ。左翼系人士なら誰でもいらっしゃいというふうな雰囲気がある。そこに学生運動出身の活動家が大挙して流れ込んだ。

学生運動の主流派は、金日成の「主体思想」を奉じる連中だったから、社会労働党の執行部は「自主派」と呼ばれる親北派が握ることになってしまった。

これに対し学生運動の非主流派は民族解放・民衆民主主義革命を唱えたことからピープルズ・デモクラシーの頭文字をとってPDと呼ばれる。

ただ民労党内の「平等派」はPDのみならず、「自主派」に反感を持つ人々の集まりだったから、同床異夢の趣があった。

08年、民労党を飛び出した人々によって進歩新党が作られたが、北朝鮮に対する態度を除けば、民主労働党との違いはなく、「スター政治家」の人気に頼るほかない弱小政党だった。両者とも民主労総の支援を当てにせざるを得ない労組依存の体質を持っていた。

(2)「統一」の背景には民主労総の右傾化がある

民主労総は軍事独裁政権下にあっては非合法であった。御用組合のセンターである韓国労総が公認され、民主労総は地下で活動を進めざるを得なかった。

しかしその中で民主労総は力を蓄え、現代自動車など大手企業の労働運動の主導権を握るようになっていった。そして今では韓国労総をはるかに凌ぐ組織率を誇るまでに至っている。

それとともに、とくに大企業労組においては体制化しつつある。かつて「昔陸軍、今総評」と呼ばれていた頃の大田・岩井ラインを思い出せば分かりやすいかもしれない。

ここからさきは私の勝手読みだが、民主労総としては政権交代可能な野党を作りたいのではないか、労組の幹部がやがて議員になり大臣になれば、労組としても誠に都合が良い。

今回の「統一」は単なる左翼の一本化ではない。民労党は進歩新党との統合だけではなく国民参与党との合併も同時に進行させている。こちらはかつての盧武鉉与党の生き残りグループだ。リベラルではあるが基本的には左翼ではない。

その先に見えるのは、現在の第一野党である民主党に取って代わる政権の受け皿ではないだろうか。

(3)6月新党合意の非常識

私達にとって、東アジアの最大の問題は、間違いなく北朝鮮の核武装問題である。北朝鮮の核武装をやめさせることは東アジアの平和を目指す上で避けて通れない課題である。

さらに科学的社会主義を奉じる左翼政党としては、北朝鮮の三代世襲の問題もゆるがせにできない。天皇家や大王製紙の一族がそういう論理を持っていたとしても、とやかくいうつもりはないが、私達はそういう集団ではないはずである。

そのことを前提にして6月新党合意の文章を読んでいただきたい。

合意内容: ①北朝鮮に対して強まる米国と南韓の圧迫と、北朝鮮の核開発などによる朝鮮半島の軍事的な対決状態を克服し、恒久的な朝鮮半島および東北アジア平和体制を構築する。
②朝鮮半島非核化、従属的韓米同盟体制の解体、駐韓米軍の段階的な撤収、休戦協定の平和協定への交替、南韓の先制的軍備の凍結と南北相互の軍備削減、東北アジア多者安保体制の構築などを積極的に推進する。
③『北の権力継承問題は 国民感情として理解し難く、批判的な立場を明らかにしなければならない』という見解を尊重する。

これでも進歩新党に配慮した表現なのだそうだ。社労党の本意は北の権力継承は間違ってはいないが、いちおう「批判」も承っておきます、ということであり、北朝鮮の核武装は平和体制構築後に韓国側の出方を見ながら決めれば良いことなのだ。

進歩新党が社労党を飛び出した時と何も変わっていない。併合するいわれなどどこにもない。あるとすれば民主労総筋の圧力と進歩新党の幹部党員のオポチュニズムだけだ。

結局、この合意案は9月の進歩新党大会で否決された。指導者風をふかしていた幹部は、党を離れ「統合連帯」を組織し、社労党へと擦り寄っていった。

(4)進歩新党はどうなるか

民労党から進歩新党が分裂した時、進歩新党と運命を共にした人もいるし、組織原則を守りながら民労党にとどまった人もいるだろう。民労党結党時に、これを朝鮮共産党の衣鉢を継ぐ前衛党と受け止めた人も少なくないはずだ。そのどちらが正しいといえる立場にはない。

新党結成と時を同じくして進歩新党は新たな党代表に洪世和(ホン・セファ)を選出した。4290人が投票し、賛成4194、反対68、無効28で98.4%の高い支持を得た。みすず書房の紹介によれば、洪世和の経歴は以下のとおりである。

洪世和: 72年、ソウル大学文理学部在学中に「民主守護宣言文」事件で除籍。その後復学し卒業後、「韓国民主闘争国民委員会」(民主闘委)、「南朝鮮民族解放戦線準備委員会」(南民戦)に加わる。79年10月の南民戦事件によりパリ亡命。02年1月、韓国にもどりハンギョレ新聞社企画委員。
亡命中に書いた『コレアン・ドライバーは、パリで眠らない』は、韓国で大きな反響を呼び起こした。

レイバーネットに洪世和とのロング・インタビューが掲載されているが、正直何を言っているのか分からない。「良い人らしい」ということはわかった。多分みんなこんな印象でしょう。

多分この人に結果を求める人はいないでしょう。「結果オーライ」型の指導者にはもう飽きたということです。もちろん結果も大事ですが、一番は筋をつらぬく党、「正義の味方、真実の友」でしょう。


流れを見てみると、この事件には二つのターニング・ポイントがあるようだ。

一つは、成立したナジ政権と労働者評議会の関係である。23日に動乱が発生してその2日後には全国に評議会が結成され、執権機構が事実上そちらに移動しつつあった。その鍵となる力は労働者評議会にあった。つまり二重権力状態である。

ここと政府との間がうまくいかなかった。ナジが党の既存権力の抵抗を押し切って改革を実行しようとすれば、その背後の力は評議会以外にはありえない。しかし直接、労働者評議会と連携しようとする立場はうかがわれない。

労働者評議会の評価は不明である。おそらく雑多な勢力も紛れ込んでいたことは間違いない。しかし2,3日のうちに全国に執行能力を持つ評議会が組織されたということは、党のアクティブな部分が相当動いたと想定しなければ不可能だ。動乱終結後に労働党員が70万から10万に激減したという数字は、そのことを示唆している。

ナジは53年にも一度首相の座についたが、2年足らずでその座を追われている。そのときの経験が生かされているとは思えない。二度にわたる失敗は彼の指導者としての資質を疑わせるものだ。

もう一つのターニング・ポイントはソ連共産党内部の変化だ。とくにフルシチョフの豹変だ。ソ連の崩壊後内部文書が開示されたことで、いままでの憶測のほとんどは否定された。

基本的には、ソ連の周囲は「攻めろ、攻めろ」の大合唱だった。ミコヤン、スースロフ、ジューコフを中核とする「新路線」派は孤立していた。マレンコフがキャスティング・ヴォートを握っていた。フルシチョフの180度の転換は、10月30日の昼から夜にかけて行われた。最終決断にあたり相談したのはマレンコフ(物分りの良いスターリニスト)だろう。

この間に起きたことは、一つはユーゴのチトーによるナジ政権批判であり、イスラエルと英仏軍によるエジプトへの軍事侵攻である。衝撃度としてはスエズのほうがはるかに大きいが、深刻なのはチトー声明のほうである。

チトー声明の本質は複数政党制批判にある。複数政党制そのものというより、ナジの提唱した政治システムが、社会主義政権を崩壊させ、第二次大戦前のハンガリーに引き戻す危険を訴えたものだ。ミコヤン、スースロフはこの複数政党制提案をふくんでナジ政権支持を打ち出していた。そこには明らかな情報ギャップがある。

フルシチョフはミコヤン、スースロフのハンガリー評価を否定し、チトーの評価を採ったことになる。

そもそも6月にラコシ第一書記を追い出し一定の改革に乗り出したのはミコヤンであった。しかしラコシに代わって第一書記に衝いたのはラコシの腹心のゲレであり、改革などする気はまったくなかった。かつてベリヤが言ったようにハンガリーを支配していたのは数名のユダヤ人党員であり、彼らがマフィアを形成していた。だからハンガリーを「新路線」に載せるためには、彼らをすべて一掃しなければならなかった。(ベリヤは極悪非道の男だが、どういうわけか政策的にはリベラルで、ポグロムのあいだもユダヤ人を庇った)

それが10月23日の事態につながったのだから、ミコヤンの情報収集能力に疑問符がつけられても不思議はない。

このあとフルシチョフはポーランド、ルーマニア、ブルガリアと飛んで、最後にはチトーとさしで徹夜の会談を行った。これらすべての会談にマレンコフが同行した。侵攻作戦はマレンコフが総指揮をとることになった。

作戦を急いだのは29日に始まったスエズ武力侵入の影響があるが、CIAの「自由ヨーロッパ放送」によるソ連との武力対決を煽る大宣伝も影響していたようだ。拠るべき根拠を失って漂流していたハンガリーの民衆にこの放送はかなりの効果を及ぼした可能性がある。

アイクはハンガリー介入の可能性を否定していたから、この武力対決は無責任な扇動だった。

(これでとりあえずハンガリー事件は終わり)

あけましておめでとうございます。またしても冥土の旅の一里塚が巡って来ました。正月早々暗い話で申し訳ございません。

「世界政治」のバックナンバーに目を通していたら、「ハンガリー事件関係日誌」という年表を見つけました。

89年に、当時の政権与党の社会党(共産党)がハンガリー事件の見直しをおなったときに作成した年表です。

見直しといっても、これまで反革命と規定してきたものを革命として評価することになったのだから、価値観の逆転です。

しかし、この時点ではまだ及び腰の所があって、10月23日からの「運命の2週間」に関する記載はかなり抽象的です。

その次の号(89年8月上旬号)にはソ連の「新時代」誌のシンポジウムが掲載されていて、これがめっぽう面白い。フォーミンという人が登場して、当時ソ連駐留軍の政治委員をしていた人で、現場感覚たっぷりに「どこが悪いんだ」とばかりにソ連軍の行動を擁護しています。血刀引っさげた迫力に他の論者がタジタジになっています。

いまさらという気もしますが、ハンガリー事件の受容の問題が日本でも相当あって、組織論の議論では未だにアクチュアルなところもあるので、これを機会に一度おさらいをしておきます。これだけやっておけば、革マルに絡まれても大丈夫でしょう。

例によって年表形式です。

主なソースは以下のとおりです。

小島亮『ハンガリー事件と日本』

盛田常夫 ハンガリーからのメッセージ

ウィキペディア 「ハンガリー動乱」

「先駆」

軽くすまそうと思って、日本語文献だけで年表を作ったが、やはり物足りない。1990年以降の発掘資料が反映されていないのではないか、という思いがつのる。 いったいに日本語の文献は思いが強く押し出され、その割には裏付けに乏しい。
日本語文献を読んで疑問に思ったことの答えが、正邪は別として、英語版ウィキペディアには載っている。何よりも資料が新しいのがよい。

そこで結局英語資料にも手をつけてしまった。

⑤ウィキペディア英語版

⑥米国会図書館の各国紹介

National Security Archive

から拾っています。⑦がお勧めです。これでかなり全体像が見えてきたようです。

11月1日

11.01 カダル第一書記、ハンガリー社会主義労働者党結成のための準備委員会メンバーを発表。

11.01 カダール、アンドロポフと会見。そのままモスクワに飛ぶ。

11.01 ナジ首相、ソ連大使アンドロポフと会見。ソ連軍の即時撤退に関する交渉を開始したいとのハンガリー政府の意向を伝える。またソ連軍の不穏な動きについて説明を求める。アンドロポフは侵攻を否定した。

11.01 午後4時 閣議が開催される。ソ連介入の国際法上の根拠を封じるため、ワルシャワ条約からの脱退と、ハンガリーの中立国化を決定。ハマーショルド国連事務総長に通告した。この決定はカダル第一書記の了承を得ていたとされる。(時間経過から見て、これはソ連軍介入の根拠にはなっていない)

11.01 フルシチョフ、中国に戻る劉少奇代表団を空港まで送り、車中でソ連の決断を説明する。

11.01 フルシチョフ、マレンコフ、モロトフらからなるソ連共産党代表団、ポーランドとの国境の町ブレストに飛び、ゴムウカと会談。軍事制圧作戦の了解を求める。

11.01 フルシチョフとマレンコフは、ルーマニアの首都ブカレストに飛ぶ。ルーマニア首脳とブカレストに滞在していたチェコのノヴォトニ第一書記から了解を取り付ける。これらの国は、民主化の自国への波及とハンガリーのファシストの復活を恐れていた。

11.01 CIAの運営する自由ヨーロッパ放送、さらなる暴動を扇動し、西側の支援が間近に迫っていると励まし、ソ連軍との戦い方についての戦術指導を与える。(アイゼンハワーはすでに不介入を決めていたので、これは無責任な煽り行為)

 

11月2日

11.02 ナジ政権の改造新内閣が発足。共産主義者は閣内少数派に転落する。

11.02 ソ連軍の撤退とリンチの応酬の終息により、ブダペスト市内の平穏化は進み、店舗営業も再開されはじめる。

11.02 フルシチョフ、ブルガリアに飛ぶ。ブルガリアと指導部と会談。

11.02 クレムリンでソ連共産党政治局会議が開かれる。

チトーとの会談のため不在のフルシチョフに代わり、ブルガーニンが議長を務める。
ハンガリー後継者をめぐり議論となる。ハンガリーの事情に詳しいミコヤンとスースロフがカダールを推したのに対し、反フルシチョフ派のカガノヴィッチ、モロトフ、ノヴォシロフは、ミュニッヒを擁立すべきと主張する。

11.02 午後7時、フルシチョフ、ユーゴのブリオニ島に到着。ブリオニ島はアドリア海に浮かぶ小島で、チトーの静養地。

11.02 フルシチョフ、マレンコフとチトーがハンガリー情勢について協議。会談は3日早朝まで及ぶ。

ソ連側はナジに代えてミュニッヒを首班とする臨時政府構想を提示した。ティトーは「現在ハンガリーで誠実なものを代表しているのはカダルである」と述べ、カーダールを首班とする労農臨時政府の樹立を主張した。

 

11月3日

11.03 ソ連共産党政治局会議が再開される。午後にモスクワに戻ったフルシチョフはすぐに会議に加わり、チトーとの会談内容を報告。これによりカダル擁立が決まる。介入作戦の本部長にはマレンコフが指名される。

11.03 ナジ政府、ソ連軍撤退問題についてソ連側と交渉開始。パル・マレーテル国防相がブダペスト近郊テケルのソ連軍司令部に赴く。

11.03 午後9時30分 ソ連軍のブダペスト包囲が完了。ハンガリー東部はソ連軍の制圧下に入る。

11.03 午後12時 ソ連軍、パル・マレーテル国防相ら代表団を拘束。

 

11月4日 第二次介入

午前3時 戦車および機械化師団などソ連軍21個師団が市内に突入。戦車2500両、装甲車1000両、歩兵15万人の大部隊。(最近の開示文書によれば、実際は31,550人、戦車は1,130台だった)

午前4時 ラジオで、「革命労農政府が樹立され、反撃を開始した」との声明が流される。

午前4時25分 ソ連軍、ドナウ川を渡りブダ中心部に入り戦闘を開始。ゲリラを対象とする市街戦を想定した虱潰しの無差別破壊作戦をとる。ハンガリー軍部隊は抗戦体制に入る。

午前5時20分 ナジが最後の演説。放送時間は35秒。「我が軍は戦っている。政府は存在している」と述べる。

午前6時 カダール、モスクワから首都東南100キロのソルノーク空港に到着。革命労農政府樹立を発表。「反革命分子の暴行をやめさせなければならない」とうったえ、新政府への協力を呼びかける。その後ソ連の戦車に乗って、ブダペストに入る。

午前8時 市民の防衛組織は街頭から消失。一斉に地下に潜る。

11.04 ナジ・イムレはユーゴ大使館に避難。ミンズセンティ枢機卿はアメリカ大使館に避難。

11.04 ブダペスト郊外のレアーニィファルにある社会主義労働者党の幹部用保養施設に、ソ連共産党の最高司令部が設置された。マレンコフ政治局員が最高司令官となり、中央委員会書記のスースロフとアリストフが側近として配置された。ソ連共産党の意向はこの本部からカダールに伝えられた。

(ほとんどの文献で、このあとの数日は空白になっている)

11.07 市内の抵抗は“Pockets of resistance”を残すのみとなる。

11.08 カダルが革命労農政府首相兼社会主義労働者党第一書記となる。

11.10 市の南部労働者地区で抵抗を続けた労働者評議会や学生・知識人たちが、占領軍と直接交渉により休戦に応じる。

11.10 ソ連共産党政治局、ナジ・グループの存続をいかなる形でも許さない方針を決める。

カーダールは①ナジ・イムレが首相辞任と政府消滅を認めれば国外亡命を容認する、②グループから新政府の協力者を受け入れる、という線で考えていたとされる。ユーゴスラヴィア政府もカダール路線での解決を望んでいた。

11.11 チトーの演説。「スターリン主義者の支配に対する正当な反逆が、ナジ政権の無能と不決断、反動勢力による主導権掌握により反社会主義的・反ソ的な運動に転化したため、再度の介入が不可避になった」と述べ、ソ連の軍事介入を支持する。

11.16 ソ連共産党、ナジ・グループをユーゴに亡命させずに粛清する方針をカーダールに伝える。

11.16 ハンガリー学生同盟内に勤労青年同盟系の活動家がなだれ込み、主導権を掌握する。

11.22 ユーゴ大使館に逃げ込んだナジ・イムレは、ソ連の策略によって大使館を出たところをら致される。他のナジ・グループ員も軍事学校内のKGB本部へ連行され、そこからルーマニアへ移送された。

 

56年12月

12.02 社会主義労働者党、ラーコシとゲレーの「教条主義」とともに、ナジの「修正主義」を非難。カダールは事前にレアーニィファルの占領本部で報告内容の概要を提示し、マレンコフの了承を取り付けたとされる。

カダール報告: 「動乱」を三期に分ける。
第一期(10月23日から30日まで)は「反革命分子が現状の不満を訴える労働者大衆の正当な要求を、自らの目的のために利用しようとした時期」 
第二期(10月31日から11月4日まで)は反革命が勢いづいた時期で、共産党組織、国家保安局、警察が襲撃され、多数が殺害された。
第三期(11月4日以後)は、反革命を鎮圧する時期。

12.02 暫定中央委員会総会の決議。「事件の中で立ち上がった大衆の圧倒的多数は、その目的、意図、感情の点で反革命ではなかった。しかし武装蜂起の基本性格は反革命であった」と事件の性格を規定する。党員数は80万人から10万人に激減。

12月 マレンコフの占領本部が撤収。アンドロポフ大使を頂点とする現地スタッフに委ねられる。

 

1957年

57年1月

1.17 Nepszabadsag 紙、中央統計局の犠牲者推計を掲載。

犠牲者推計: ブダペスト市街の戦闘で死亡した市民は1969名、各種医療施設に運ばれた負傷者は17000名に上る。また、地方の犠牲者は300名に及ぶ。さらに、ハンガリーの軍・警察の犠牲者は423名に上り、このうち内務省管轄組織の犠牲者が155名で、そのほとんどが保安局に属する者である。
ソ連軍の被害も大きく、669名の死亡、51名の行方不明、1986名の負傷者で、ソ連軍の死亡者のほとんどはブダペスト第8区および第9区における市街戦での犠牲者である

1月 カダールが新政府を組織

1月 フルシチョフはハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、チェコスロバキアとの5ヵ国共産党会議を開催。周恩来とのモスクワ会談にカーダールを呼んで三者会談。

1月 中国共産党代表団がハンガリーを訪問し、「反革命」にたいする国際的連帯を謳う。

 

3月 カダール、モスクワを訪問しソ連共産党・政府との協議をおこなう。ソ連はカダールに信任を与え、ラーコシ一派のハンガリー帰還を認めないと決定。

57年半ば 武力抵抗は終わる。ウィキペディアによれば、ハンガリー側では死者が17000人に上り、ソビエト側も1900人の犠牲者を出した。国連の「ハンガリー問題報告」では戦闘による死者3千人とされる。

57年半ば 動乱勃発時からオーストリア国境が開放され、20万人が国外亡命した。

6.17 マレンコフ、ブルガーニンらがモロトフら旧スターリン派と結託、ソ連共産党政治局会議でフルシチョフ解任決議を提案する。政治局員の多数がこれに賛成する中、ミコヤン、スースロフ、キリチェンコが反対し、議決権をもたないブレジネフとジュコフも反対に回った。

7.04 ソ連共産党中央委員会、マレンコフ、モロトフ、カガノヴィッチを除名し、ヴォロシロフとブルガーニンを政治局員から格下げする。

8.21 社会主義労働者党政治局、ナジ・グループに対する処罰を決定。「ナジ、ロションツィ、ドナート、ギメシュ、マリーテル、スィラージ、キライには最も重い刑を科し、その他の者については罪状と改悛に応じて罰する」決議を採択。

12.21 社会主義労働者党の中央委員会が開かれる。内務省に登録されている反革命分子リストには120万人が記載されていることが報告された。カーダールは20万人まで削減するよう指示する。

 

1958年

2.05 ナジ・グループ裁判が開始される。翌日、訴追準備の不足という理由で裁判が中止される。

2.26 学生同盟、農村青年組織などが勤労青年同盟を改組した共産青年同盟に一本化される。

5月末 カダール、政治局会議で裁判再開を決定した。

6.15 最高裁判決、ナジのほかマレーテル国務相、ミクローシュ・ギメシ(ジャーナリスト)に死刑宣告がくだる。シャーンドル・コパーチ警察長官らに12~15年の刑が宣告される。ティルディは懲役6年の判決。

6.16 ナジが絞首刑に処せられる。

6.17 ナジ・イムレの処刑発表される。

11.16 動乱後初の総選挙

 

1959年

59年末 ここまでに200余名の動乱参加者が死刑判決を受け、即刻処刑された。他にも動乱参加者の逮捕・起訴が相次いだ。

1962年

8.19 ラーコシとゲレーを党から除名。

11.20 社会主義労働者党第八回大会開催。社会主義の基礎建設完了を宣言。

1963年

4.22 宥和特赦令が発布される。56年動乱参加者4千名に対する大赦。

 

82年6月 「56年6月協議会」の25周年記念シンポでベレツ・ヤーノシュ党書記がハンガリー事件に関する報告。多くの新事実が明らかにされる。

1989年2月 ハンガリー社会主義労働者党が総括文書「四十年間に関する報告」を発表。動乱の評価を修正。「ナジはハンガリー史において重要な人物であり、国家救済のために闘い、スターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した」とする。

1989年3月 ナジの遺体発掘と再埋葬。

 

 

1956年

56年2月

2.14 ソ連共産党第20回大会。秘密会議でフルシチョフがスターリン批判演説。

2月 ラーコシ第一書記、ハンガリー勤労者党代表として大会参加。

56年3月

3.17 勤労党内のペテーフィ・サークルが最初の集会開催。当初は文学・芸術クラブだったが、スターリン批判後、ナジの復職などを要求する拠点的役割を担う。ペティーフィは1848年革命の英雄。

3.27 ラーコシ書記長、ラィク・ラースロー元外相の裁判は「挑発」であったと認める。

56年4月

4.17 コミンフォルム解散

56年5月

5.18 ハンガリー勤労者党ブダペスト市委員会活動者会議でラーコシが演説。そのなかで個人崇拝に彼自身も責任の一端があることを初めて認める。

56年6月

6.07 ソ連共産党幹部会員ミハイル・スースロフがハンガリー訪問。

6.26 トリアッティがイタリア共産党中央委員会総会でスターリン批判に関する報告。スターリンによる党と国家の「官僚主義化」が、1928年の第1次5ヶ年計画期に発生したと指摘。「プロレタリア独裁の再検討」を求める。

6.28 ポーランドのポズナニ市ジスポ工場で発生したノルマ増加反対のストが、市民全体をまきこむ抗議運動に発展。治安当局との市街戦が始まる。数十人の死者を出すが、ポーランド統一労働者党の改革派が結集し、事態を終息させる。

6.30 党機関紙に公然たる指導部批判が掲載される。作家協会と学生組織はラコシの解任と逮捕をもとめる。中央委員会はペトフィ・サークルを解散させ、知識人を党から追放。

6月 ソ連とユーゴが関係修復に動く。チトーがモスクワを訪問。

56年7月

7.17 ポズナニ事件に危機感を抱いたソ連指導部は、アナスタス・ミコヤン幹部会員をブダペストに派遣、ラーコシの解任に動く。

7.18 勤労者党中央委員会総会、ラーコシを第一書記から解任する。しかし後任にはラーコシの腹心で第二書記のゲレー・エルネー(Gerő)が昇格。

(ウィキペディアによれば、ミコヤンはラーコシに対し、「病気の治療のため」という名目で、ソ連への出国を命じた。彼は余生をキルギス共和国で過ごした)

56年10月

10.04 ナジ・イムレ、勤労者党中央委員会に手紙を書き、復党を要請する。

10.06 ライク・ラースローおよびその他の共産党指導者の葬儀。30万人の市民が参列する。

10.13 ナジ・イムレが復党をはたす。

10.15 ゲレー第一書記を団長とするハンガリー勤労者党代表団がユーゴスラビア訪問。チトーと会談をおこなう。

10.16 セゲド市(ハンガリー第二の都市)で大学生同盟(MEFESZ)を再建。反共右翼学生の拠点となる。

10.19 ポーランドで権力の交代。長らく獄中にあった改革派のゴムルカを党第一書記に任命する。

10.21 ポーランド統一労働者党中央委員会総会、ゴムウカを第一書記に選出する。ポズナニ暴動は反革命的暴動ではなく、勤労者の正当な不満の表明と宣言

10.22 ブダペストの工科大学で学生集会が開かれる。ソ連軍の撤退、ナジ・イムレの首相への任命、複数政党参加の総選挙、言論と出版の自由、政治囚の釈放など16項目の要求を採択。

10.22 プダペスト工科大学と建築大学の無党派学生が、23日にポーランドとの連帯デモを行うと発表。

10月23日

10.23 午後 約2万の群衆がベム広場に集まる。作家組合の議長ペーテル・ヴェレスが、ポーランドとの連帯を訴える「宣言」を読み上げる。次いでハンガリー国旗から共産党をかたどった真ん中の紋章部分が切り取られる。

(一説では参加者約20万人とされるが、ここでは英語版ウィキペディアにしたがう)

(ベレツ・ヤーノシュによれば、集会では国旗から紋章が切り取られ、赤旗を掲げることが禁止される)

10.23 午後 群衆はデモ行進を開始。ドナウ川を渡り国会議事堂を包囲する集会に合流する。

(日本語ウィキペディアでは、“ゲレーの退陣を求めて学生たちがブダペストをデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった”とある)

10.23 午後6時 国会議事堂を取り囲む群衆は2万人以上に膨れ上がる。スローガンは自由選挙、民族独立、そしてナジ復帰であった。

午後8時 ゲレのラジオ演説。民衆の政治要求を全面的に拒否し、デモ隊を「挑発者」と罵倒する。

午後9時30分 群衆の一部はブダペスト放送局に集結。市民の要求を放送するよう求める。放送局を守るAVH兵士は群衆に無差別発砲。死傷者が多数出る。

AVH兵支援に送られた兵士は群衆につく。軍の兵器庫から銃が奪われ民衆に手渡される。事態はハンガリー軍の一部を巻き込む市街戦に進展する。

午後9時30分 群衆の一部はスターリンの銅像(9メートル)を取り壊し始める。

10.23夜 (フォーミンによると、ヘゲドゥシュ首相がアンドロポフ大使にソ連軍出動を要請。1時間半後にソ連国防相から駐留軍のレシェンコ司令官に出動命令がくだされる)

10.23深夜 ゲレは勤労者党中央委員会総会を緊急招集する。ナジ・イムレを首相職に復職させるいっぽう、ソ連軍介入を要請する決定。「アメとムチ」で事態収拾をねらう。ヘゲドゥシュ首相は副首相に横滑りする。

10.23深夜 ナジ、ソ連の軍事介入を要請する文書への署名を拒否。これに代わりヘゲドゥシュ副首相が署名する。

10月24日

午前2時 ソ連軍の第一次介入が始まる。ソ連軍戦車がブダペスト市内に侵入する。歩兵なし戦車隊のみの行動で、本来は威嚇目的の作戦と思われる。

正午 ソ連軍戦車が議事堂周囲に配備される。武装した民衆は放送局を占拠。街頭にバリケードを構築して対抗。ソ連軍戦車数台を鹵獲する。一説によれば、一定数のソ連軍戦車がハンガリー民衆側に寝返り、ハンガリー治安当局との戦闘に加わったといわれる。

10.24午後 市内各所でソ連軍戦車隊との戦闘が始まる。ハンガリー軍は中立を宣言、一部は民衆側に合流した。ソ連軍は、市内の建物を無差別砲撃する戦術をとり、民衆側はゲリラ戦術で応戦。

10.24 アンドロポフの要請を受けたイムレ・ナジが群衆に向けた演説。政治改革の開始を宣言し、暴力の終了を呼びかける。

10.24 群衆が刑務所を襲い、Mindszenty 枢機卿らを解放。秘密警察要員にリンチを加える。

10.24 学生は多くの政府関係施設や区域を占拠し、自分たちで決めた政策や方針を実施しはじめた。多くの工場に「労働者評議会」が結成されてゼネスト状態に入った。

10.24 ユーゴスラビア、ソ連の軍事介入を厳しく批判する声明を発表。

10.24 ソ連共産党政治局、ポーランドとハンガリーの政治状況について議論。モロトフは軍事介入を主張。フルシチョフとジューコフ元帥は自体を思想闘争と見るべきではないとして、干渉に反対。政治局はミコヤンとスースロフを再度ブダペストに派遣することで合意。

10.24 ブダペストのソビエト軍は戦闘を停止した。


10月25日

「人の数ほど多様な56年が存在する」と、56年動乱で死刑判決を受けたグンツ元大統領は語っている。10月25日はその典型である。

25日 国会前広場の集会に約700人が集まった。周囲のビル屋上のAVH兵士は群衆に向け発砲。広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。ソ連軍は動かず、一部はAVHに銃口を向ける。

25日 ウィキペディアによれば、最も激しい戦闘はコルビン劇場のあるコルビン広場で起こった。(民衆は火炎瓶を用いてソビエト軍部隊に抵抗したとあるが、ソ連軍は戦闘を停止していたのではないか)

10.25 József Dudás の率いる民兵隊400人がソ連支持者やAVH要員への襲撃・殺害行動を開始する。その後の1週間で少なくとも労働者党員213人が殺される。

10.25 全国各地に革命評議会が設立される。27日までにすべての地方政府の権能を掌握。

10.25 労働者・下部党員は、各工場内に「労働者評議会」を結成。工場幹部を放逐して自主管理を宣言した。

10.25夜 全国レベルの労働者評議会と国民評議会が組織され、ゼネストを呼びかけた。(ウィキペディアによると、大衆はワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫った)

10.25 ハンガリー勤労者党中央委貝会総会、ナジ・イムレを首相に選出。ナジは戒厳令を取り下げ、AVHの解体を指示。教会の名士たちを含む多くの政治囚たちを釈放する。

10.25 ナジがラジオ演説。「まもなく国民議会を招集する。この議会で私は包括的な、根拠のある改革プログラムを明らかにする」と述べる。(レオニードフ論文によると、ナジはこの時点で、「武力行動を革命と認めよ」との要請を拒否したとされる)


10月26日

10.26 ハンガリー勤労者党中央委員会総会、ゲレーを第一書記から解任。新第一書記にカダル・ヤーノシュを選出。Gerő とAndrás Hegedüs 前首相はソ連大使アンドロポフの指示を受け、ソ連に向け飛び立つ。

10.26 労働者評議会はゼネストに突入。労働者評議会の要求はソ連軍の撤退、党の経済問題への干渉排除、ワルシャワ条約の再交渉であった。

10.26 ナジ首相、ファシスト(矢十字党)を除外したすべての旧党派(小地主党・農民党など)員を入閣させ「民族戦線政府」を結成すると発表。同時にソ連軍の撤退を要請する。

 

10月27日

10.27 ナジが組閣を終え演説。「広範な民主的大衆運動」を訴える。政府閣僚には数名の非党員がふくまれる。またAVHの解体、単一政党制の破棄を提案する。

10.27夜 (ウィキペディアによると、ミコヤンとナジとの会談が行われ、その結果ソビエト軍の撤退が宣言された=ミコヤン報告)。

 

10月28日

10.28 ハンガリー勤労者党中央委員会が声明を発表。これまでの政治局と書記局を解散し、6名から成る幹部会に党指導を委任。

10.28 民族戦線政府が結成される。ハンガリーは事実上、複数政党制に復帰

10.28 ナジは全党派に停戦命令を発する。蜂起を民族民主運動と規定、評議会を合法的なものと認める。反徒への大赦、ハンガリー旧国章の復活、AVO解散、蜂起参加者をふくむ新たな軍と警察の設立を発表する。

10.28 一説によれば、“ポーランドの「ゴムルカ」的役割を期待していたソ連は、この複数政党化時に、ナジを見放しはじめた”とされる。勤労党が少数野党化することは目に見えていたからである。(今となっては憶測にすぎないことが明らかである。そもそもナジが複数政党制そのものについて言及したのは30日ではないか)


 10月29日

10.29 (ウィキペディアによると、この日警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成された)

10.29 ハンガリー全国の代表がナジに面会を求め、さらなる自由化を訴える。(これが労働評議会との正規の会見であれば、重要な情報だが…)

10.29 スエズ動乱がはじまる。イギリス・イスラエル・フランス軍がエジプト領内に武力侵攻。

10.29 (鹿島正裕『ハンガリー現代史』ではこの日、ソ連指導部、第二次介入とナジ政権の打倒を決定とあるが、誤りであることが実証されている)

 

10月30日

30日午前9時頃 ベム広場の学生が共産党系活動家に対し集団リンチを開始。

10.30 暴徒が党のブダペスト市委員会を襲撃。(ウィキペディアによると、建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが次々と民衆により射殺された。その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らがリンチされた挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態になった)

10.30 勤労者党幹部会は勤労者党の解散と社会主義労働党への再編、および複数政党の復活を全会一致で決定。地方評議会の活動を公式に承認。ナジ政府はこれを「自治的・民主的な地方組織」として政府への支援を求める。

ナジ・イムレの国民向け演説: ハンガリーの兄弟の皆さん、愛国者の皆さん、祖国に忠実な市民の皆さん。革命の成果を擁護しようではないか。全力を上げて秩序を守り、平静を取り戻そう。我が祖国でこれ以上の内乱が続かないようにしようではないか。 

10.30 政府は公式に一党制を否定する。民族戦線政府に参加した諸党派を公認。

10.30 ソ連共産党政治局、ハンガリー新政府を除去しないことを決定。ジューコフ元帥は、「我々はブダペストから引き揚げるべきだ。必要ならばハンガリー全土から」と述べる。

10.30 ソ連政府が声明を発表。

ソ連と他の社会主義国間の友好・協力を発展・強化するための宣言: 社会主義諸国間に存在していたかつての誤りや一面性を認めるとともに、ハンガリー大衆の運動の中には正当な要求があることを認める。
「ソ連政府はハンガリー人民共和国政府やその他のワルシャワ条約加盟国と、ハンガリー領内のソ連軍駐留問題について話し合う用意がある」とする一方、反革命勢力がこれらの要求に乗じて反革命を進めていると警告。反革命との断絶を呼びかける。(公式発表は31日か)

10.30 ソ連共産党のミコヤンとスースロフかブダペスト再訪。ソ連政府声明を伝達。ナジは中立政策は長期の目標であること、この問題に関してはクレムリン指導者との議論を行いたいと述べる。(ただし学生や一部評議会指導者はワルシャワ条約からの即時離脱を主張していた)

10.30 ミコヤンはナジとの会談を経て、ハンガリー軍に統制を任せるべきとモスクワに報告。これを受けて、ソビエト軍撤退が開始された

10.30 ソ連軍のブダペスト撤退がはじまる。市内を撤収したソ連軍は、郊外の空港・ハンガリー軍基地を包囲する体制に入る。

10.30 ユーゴのチトー、ナジ政権が複数政党制を容認し、コシュート紋章(ハンガリー王国の紋章)の使用を許可したことを厳しく非難。複数政党制はユーゴスラビア体制の否定をも意味し、コシュート紋章は大ハンガリーの野望とも結びついているためとされる。

10.30 劉少奇を団長とする中国代表団がモスクワを訪問。ハンガリー問題について意見を交わす。劉少奇は「反革命が事態を支配している」とし、より断固とした行動をとることを求める。

 

10月31日

10.31 ソ連政府の声明がプラウダ紙に掲載される。アレン・ダレスCIA長官はこれを「ミラクル」と呼んだ。

10.31 ブダペスト滞在のミコヤンらは、反ソビエト活動の活発化をモスクワに報告。

10.31 フルシチョフはチトー大統領との会談で軍事介入の可能性に言及。

10.31 ソ連共産党幹部会、前日までの不介入方針を変更し、第2回目の軍事介入に踏み切る。

解禁文書による会議の経過http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB76/doc6.pdf: フルシチョフは「過日(28日)の結論は再検討されなければならない。ソ連軍はハンガリーからもブダペストからも撤退してはならない。逆にソ連はハンガリーの秩序回復のイニシアチブをとるべきである」と語った。
彼はその理由としてハンガリー共産党政府の弱体をあげたが、むしろその論点は、ソ連帝国の名誉を守ることに置かれていた。「今日はエジプト、そして次はハンガリーだ」
奇妙なことに、彼は正常化過程にナジを含める可能性も否定しなかった。採決で侵攻案に反対したのはサブロフ副首相のみであった。(ミコヤンとスースロフはブダペスト滞在中)

10.31 ソ連軍は、ブダペスト再攻撃に向け移動を開始。ソ連本国の大増援部隊が東ハンガリーに結集しはじめる。

10.31 回顧録によれば、ハンガリーから戻って真相を知ったミコヤンは、フルシチョフの自宅に押しかけて、自らの自殺をほのめかして派兵の撤回を求めたという。

10.31 ナジ、ソ連軍の機甲師団が国境を越えたことを知る。

ハンガリー事件年表

1945年

2月 第二次大戦で枢軸側についたハンガリーの敗北。ハンガリーはソ連の占領下に置かれる。

2月 ソ連占領直後の政府指導者は親ナチス派のダールノキ・ミクローシュ・ベーラだった。治安警察は親ナチス派のホルティ・ミクローシュ以下のメンバーがそのまま残存した。

2月 ソ連に亡命していたラーコシ・マーチャーシュがハンガリー共産党の書記長に選出される。「スターリンの最も優秀なハンガリーの弟子」を自称する。

9月 「解放」後最初の国政選挙。独立小農業者党が大勝しティルディ・ゾルタンが首相となった。(マジャール語では日本語と同じく人名の最初が苗字、後が名前)

1946年

2月 ハンガリー共和国が樹立される。ティルディが大統領に選出される。ティルディの後任の首相はフェレンツ・ナジが務める。

46年 通貨のペンゲーが暴落してハイパーインフレーションがおこる。

1947年

47年 パリ条約。ハンガリーはソ連、チェコスロバキア、ユーゴスラビアに対して30億ドルの戦争賠償を払う義務を負わされ、さらに赤軍の駐屯費も負担することとなった。これは、当時の国内総生産の2割程度に相当する。

47年 マーシャル・プランが導入される。ポーランドとチェコの共産党政権は加入を検討。

9月 スターリン、東欧の漸進的改革を放棄しコミンフォルムを創建。東欧諸国の直接支配を強化する。

10月 ソ連軍を後盾とする共産党がクーデター。ラーコシの率いるハンガリー共産党が全権を握る。小農業者党のディンニェーシュ・ラヨシュが首相の座に留まる。

47年 ハンガリーの非共産主義政治家、新たな連合政権に協力するか国外に亡命するかの選択を迫られる。

1948年

6月 ハンガリー共産党は社会民主党を吸収してハンガリー勤労者党(Magyar Dologozok Part)となる。小農業者党は、勤労者党の率いる人民解放戦線に吸収された。

12月 カトリック教会の国内最高位 Jozsef Mindszenty 枢機卿が逮捕され、終身刑を言い渡される。

48年 「社会主義への独自の道」を主張するユーゴがコミンフォルムから除名される。

1949年

5月 現職の外務大臣で共産党政治局員のライク・ラースローが、スパイ容疑で逮捕される。ライクはチトーと同じく「独自の道」を提唱していた。

8.10 新憲法が公布され、国名をハンガリー人民共和国と改める。

10月 ライク・ラースローが処刑される。

12月 労働者の99%が国家公務員となる。農村では強制集団化、農産物の強制供出が進められた。

49年 国家警察(AVO)がハンガリー国家保安局(AVH)と改称。7千人以上を捕らえ、見せ物裁判(Koncepcios per)にかけた。対抗勢力をサラミを薄切りするように徐々に抹殺していく、「サラミ戦術」と呼ばれる。

49年 ソ連との間に経済相互援助協定が締結される。ソ連はハンガリーに恒久的基地を配置する。

1950年

50年 粛清の嵐が吹きすさぶ。社会民主党出身のサカシッチ最高幹部会議長の逮捕(1950年4月)、リース法務大臣の虐殺(1950年9月)、保安警察幹部のスーチ兄弟の虐殺(1950年10月)が続いた。

1951年

4.21 党政治局員および内務大臣カダール、スパイ容疑で逮捕される。カダールは清廉潔白な身ではなく、ライク処刑や社会民主党幹部処刑においてはみずからも重要な役割を担ったといわれる。

1952年

8月 ラーコシ書記長、ハンガリー首相を兼任することとなる。

1953年

3.05 ソ連共産党書記長スターリンが死去。

3.14 ソ連共産党、首相にマレンコフ、第一書記にフルシチョフを選出する。


6.13 モスクワでハンガリー勤労者党とソ連共産党政治局の会談。ソ連側参加者はマレンコフ、モロトフ、フルシチョフ、ミコヤン、カガノビッチ、ベリヤだった。

6月 会談の席上、ベリヤ第一副首相はユダヤ人をハンガリーの最高指導者にすえたとラコシを叱責した。そしてラコシが「ハンガリーのユダヤ王」になろうとしていると非難した。そして労働環境の改善や言論の自由を要求。ナジを首相に指名するよう促した(人種差別発言のように聞こえるが、実際、党の中心幹部はラコシを含めユダヤ人で固められていたのである)

6.15 ソ連、ユーゴスラビアと外交関係を復活。

6.17 東ベルリン暴動が発生。これに危機感を抱いたソ連共産党指導部は事件の責任者としてベリヤを追放。東欧諸国のスターリニスト体制の調整に乗り出す。

6.27 ハンガリー勤労者党中央委員会総会。勤労人民の利益を無視した行き過ぎた工業化と、農業の強制集団化の誤りを指摘する。さらに集団指導の欠如と個人崇拝の責任がラーコシらにあると名指しで非難。新首相にナジ・イムレを選出する。しかしラーコシは第一書記に留任することに成功。

ウィキペディアによれば、ラーコシらはみずからの誤りが暴露されないよう画策した。その結果、総会決議は公表されなかった。

7.04 国会でナジが首相に選出される。ナジはまず政治犯を釈放。一方でラコシがテロを支配手段としていたと攻撃、この発言は党機関紙で発表された。

7月 ナジによる「新路線」がスタート。農業集団化は過度の重工業化を中止、軽工業・食品工業への重点移行などを打ち出す。

12月 集団農場の農民は半分に減少。しかし農業生産は激減する。ラーコシ派党官僚のサボタージュによるものとされる。

1954年 

5.22 ハンガリーとユーゴスラビアのあいだに通商関係復活。

5.24 ハンガリー勤労者党第3回大会。第一書記にラーコシを再選する。

10.23 ハンガリー愛国人民戦線創立大会。ナジ首相が演説。

1955年

2.08 マレンコフ首相が辞任し新首相にブルガーニンが就任。フルシチョフ第一書記が主導権を掌握する。

3.02 勤労者党中央委員会総会。ナジ・イムレを右翼日和見主義者と非難。

4.14 勤労者党中央委員会総会。ナジ・イムレを政治局と中央委員会から追放する。

4.18 国会がナジ首相を解任。新首相にヘゲドゥシュ・アンドラーシュを選出。背景に経済「新路線」の失敗。

5.14 NATOに対抗するワルシャワ条約機構が成立。

5.26 フルシチョフ第一書記を団長とするソ連共産党代表団がユーゴスラビアを訪問し関係修復を図る。ベオグラード宣言を発表。それぞれの国が独自の社会主義への道を追求する権利を持つとされる。

12.03 勤労者党、ナジ・イムレを除名。ラーコシが完全復活する。

今年も押し迫りました。いろいろ十大ニュースが登場すると思いますが、ここでは世界民主勢力にとっての十大ニュースを勝手にまとめてみました。

ついでに、それぞれについての過去記事をリストアップしておきます。

今年2011年は「青年の年」でした。キーワードは“オルタナティブ”(展望/革新)です。この30年世界の民主勢力はネオリベラリズムと戦い、ようやく勝利の兆しが見えてきました。

まだオルタナティブというほどのものではありませんが、十大ニュースをじっくりと分析してみると、いくつかのキーワードが浮かんできそうな感じがします。

1 世界が原発廃止に動く

2 アメリカのオキュパイ運動

3 青年たちによるアラブ革命

4 南欧諸国の抗議 欧州左翼の再生

5 金融規制法の動き 富裕税創設の動き

6 UNASURからラテンアメリカ・カリブ諸国連合へ

7 南米の学生運動

8 ASEANの力で南シナ海の平和確保

9 NTBTの活性化

10 ITOの復権と新国際経済秩序

番外 イラク戦争の終結


今回は

1 世界が原発廃止に動く

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