鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 32 政治革新(各種の運動課題含む)

テロリストという言い方にはいつも抵抗がある。
善悪は別として少なくとも白色テロと赤色テロ、あるいは黒色テロとは区別する必要がある。白色テロは権力の弾圧の一環であり、いかなる意味においても糾弾の対象である。黒色テロはテロリズム思想の発露であり、無政府主義の一部を形成している。これについては個別に議論しなければならない。赤色テロは本来ありえない概念であるが、実際には存在する。
狭義のテロは、どの形態においては「暗殺」とほぼ同義である。大変グレーゾーンの広い領域であるが、「窮鼠ネコをかむ」行為であることにおいて共通する。問題はそのテロリストが「窮鼠」であったかによる。
いずれにしても、ここまでが本来の古典的なテロの範疇である。それは法治国家においては明確に刑法上の犯罪を構成する。あとはどのくらい情状酌量の余地があるかということだけだ。
かつてテロリストはいくばくかの美意識を持って語られていた。「弱者の英雄」としての側面を持っていた。テロで歴史が変わるものでは決してないが、「及ばずともせめて一太刀」の思いが感じられた。
秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻は、「壮士ひとたび去ってまた還らず」と歌った。2千有余年を経て、未だに英雄である。
兵営の襲撃に失敗したカストロは、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」と叫んだ。
「われは知る、テロリストの かなしき心を」の石川啄木についてはいずれ、もう少し調べてから論及したい。

4つめがいま流行りの「テロもどき」である。
この「テロもどき」には2つの特徴がある。ひとつは命をかけるに値するターゲットがないこと、したがって大義がないことである。大量・無差別で、実行犯の倫理性とか思想性がまったく感じられない。
二つ目にはイサギがない事である。「自爆」テロと言うが、自爆するのはテロリストではなくその手下だ。特攻隊で突っ込んでいったのは特攻の指揮者ではない。女子供を騙しこんで自爆させる卑劣な手口には憎しみしか感じない。口先で何を言おうと、それはただの「臆病な愉快犯」だ。


北九州市議選の結果を見ると、「衆議院小選挙区は原則無党派で」という方向がますます明らかになっていると思う。
北九州
低得票率のため、公明が伸びた。後はちょぼちょぼという結果だが、維新が全滅したのは明るいニュースだ。共産党が4議席減の中で1議席増を勝ち取ったのも大きい。
全体として、政治の流れが変わるような大きな変化はなく、保革ががっぷり四つで力比べという印象を受ける。お互い胸突き八丁だ。
自公対野党共闘は31対18で、これに無所属の多くが全国選挙では保守の側につくとすれば、改憲議席数は依然握られている。
西日本新聞は
共産は改選前に議席のなかった八幡東区で新人が当選し、10議席に伸ばした。次期衆院選で野党共闘を協議している民進に差をつけた形になり、衆院福岡9、10区の候補者一本化調整に影響を与える可能性がある。
と書いているが、そういう問題ではない。
問題は改憲阻止勢力を増やせるか否かにあり、そのために民進党・連合が党派性を我慢できるかどうかにかかっている。そのためには無党派市民勢力の頑張りに期待する他ない。「野党共闘で改憲阻止」の叫びが民進党を包囲する状況をこの数ヶ月で切り開けるかどうか、そのために共産党が無党派市民勢力とどれだけ心を響かせ合えるかが問われていると言えよう。

共産党言葉

「あえて言葉といいたいんですが」という中には、どんな言葉がふくまれているのだろう。

共産党系の活動家が何気なしに使う言葉の中に、庶民感覚で言えば「機微」に触れるような表現はないだろうか。

とくに誰かを批判したり非難したりする言葉に「組合型」の表現とか、「ソ連・中国」風の言葉の残渣が残っていないだろうか。

これは一度、統計にかけて見る必要がありそうだ。

赤旗に出てくる言葉で、市民の間では使われないもの、我々の中でさえもすでに死語となりかけているもの、市民の間でも使われているが、ニュアンスが違うものなど色々ありそうだ。

これらをふるいにかけて見る必要がある。

いまはこれといって思いつかないが、それは私の感覚が麻痺しているせいかもしれない。

統一戦線という言葉

また野党共闘の目標設定でも、例えば「統一戦線」などという言葉は出てこない。中身的には「統一」であってもその言葉は使わない。

中津留・小池対談でも「統一」という言葉はないが、小池さんはしっかりと「統一戦線」の中身を語っている。

考えてみれば、統一戦線=United Front というのは、各々の前線をつなげようという意味だ。それ自体が「共闘」なのである。問題はその共闘の積み上げの中から何が見えてくるかであるが、それについては対話の積み上げしかない。肝心なことは「統一」という言葉に染み付いた共産党エリート感を払拭することである。

もちろん、対話に臨むに当たってはこちらにも意見があるわけで、そこから先はいろいろ言わせていただくことになる。

民主主義という言葉

もう一つの目標である「民主主義」についても、相当理解の内容に差があると思う。普通の市民は「民主主義」についてそれほど特別な意味を付与していない。独裁でなければ民主主義だ。みんなで民主的に決めましょう、というレベルだ。

これに対し共産党は民主主義に特別な意義を課している。二段階連続革命と、人民民主主義概念だ。だから北朝鮮でさえも「人民民主主義共和国」になってしまう。また組織原則にも「民主主義的中央集権制」という言葉がいまだに残っている。

だから、共産党が「民主主義」というと、相手は相当身構える可能性がある。課題として「真の民主主義の実現」を掲げることがあっても(当然だが)、もう少し噛み砕いた、内容を伴った表現にしていくほうが良いかもしれない。(出来るだけということで、民主主義の旗を降ろせとは言わないが)

とりあえず、我々には「国民が主人公の政治」という言葉がある。(以前は「働くものが主人公」といっていたような気もするが)

それに置き換えられるものは置き換えていく、というのも一つの手かもしれない。あるいは「庶民中心主義」という表現もあるだろうか。

自由主義という言葉

逆に「自由主義」という言葉にはこちら側が過剰に反応することが多いが、Liberalism は私たちが今後作っていくであろう社会にとってきわめて重要な柱である。

これについても、はっきりした判断に基づく適切な表現法を身につけるべきであろう。そのことによって 勝手放題主義であるNeo-Liberalism に対する批判もより説得力のあるものとなるだろう。

余談だが、そうなると民医連=民主医療機関連合の「民主」はどう表現したら良いのだろう。「庶民のための」かな、「庶民中心主義に基づく」かな?

本日はたまった赤旗のまとめ読み。相当しんどいぞ。

最初は3日号の小池書記局長と中津留章仁さんという人の対談。中津留さんは43歳、気鋭の劇作家で社会派と呼ばれているようだ。

顔は精悍そのもの(バセドウっぽい)で、ちょっと負けそうだが、言っていることは確かだ。日本にはこういうアラフォーもいるのだ。

対談の中で気に入ったくだり

共産党っていう政党は理念がはっきりしていることが強みですね。それにとてもわかり易い。

…一言いえば、理念に対して現状の矛盾をどうとらえるかですね。矛盾に対する市民の空洞というか、心のよりどころのなさ、これをどう捉えていくのかに関して、もう少し描き込んでもいい、文脈がほしいなという気がします。

この言葉の伏線として、最初の方に次の言葉がある。

人間の苦しみや、機微を描くというのは演劇のすごく良いところです。


以下は私の感想

人間の苦しみを描くというのは、必ずしも演劇でなくても可能だ。一つの表とかグラフの持つ訴求力は何本ものドキュメンタリーに匹敵するものがある。

問題はその後の「機微」だ。中津留さんは「機微」を、苦しみとそれに立ち向かう人間の間に織りなされるいくつものシーンの複合としてとらえる。

だから機微というのは前向きのポジティブな力を持っている。そこをどうすくっていくかというのは芸術の仕事になるのだろうが、政治に携わる場合にもそこは土台にしていくべきだ。

ということを伏線として考えて行くと、

①「大衆の気分」というベタな静的把握ではなく、「機微」の集合体として、ダイナミックでポジティブなものとしてとらえる観点が必要だということ。

②そしてそれが「心のよりどころのなさ」に絡み取られて、にっちもさっちも行かなくなっていること、

③その「心のよりどころのなさ」は政治と現実のギャップ、「空洞」を埋めきれない国民の戸惑いの表現だ。(このあたり小池さんと響き合っている)

④ここを社会変革の展望へと結びつけていくためには、「機微」とをつなぐ「書き込み」が必要であること、

⑤いわばその「書き込み能力」が共産党に問われているのではないか

という、問いかけだ。

非常に鋭い、的を得た提言だと思う。


もう一つのポイントは、いわばその応用問題になる。

それと言葉、あえて言葉といいたいんですが、行き違うことっていっぱいあると思うんです。批判するときにも、相手の正当性をちゃんと理解しておくということがとても重要だと思うんです。

おそらく野党共闘を念頭に置いたものだろうが、

「批判するときにも、相手の正当性をちゃんと理解しておくということ」という発言で、ひょっとして中津留さんはその現場に立ち会わせたのかもしれない。

共闘のさまざまな局面の中には、「あえて言葉といいたいんですが」とあえて言いたくなるような場面があってもおかしくはない。

「相手の正当性」というのは論理の正当性ばかりではない。ネゴというのは個人対個人の対話でもあるわけで、「機微」の正当性も問われなければならないのである。

その際、最初にも述べたように、「機微というのは前向きのポジティブな力を持っている」という認識が土台に座らなければならない。

つまり、中津留さんは「もっと仲良く、礼儀正しくおやんなさい」といっているのではなく、交渉相手が抱いているであろう、「苦しみとそれに立ち向かう人間の間に織りなされるいくつものシーン」を評価しつつ語れと提起しているのではないだろうか。


こういう含みを持つ中津留さんの問いかけに対して、小池さんも感度鋭く反応している。

大会決議案でも「自己改革しなきゃいけない」と強調しています。メッセージの伝え方についても、もっと考えなきゃいけない。

とくに市民と野党の共闘という新しい段階に来て、僕らもいろいろ試されている。

「いろいろと立場の違う、いままでの経緯も違う、そういった人たちとほんとに心を通わせる」ことを、「相手をリスペクトする」ことの真の中身として実践する、

それが、「これからの共闘」、「新しい政治」の重要な土台柱となる。

俗っぽく言わせてもらうと、すり合わせ型共闘から対話型共闘への転換、ともいうべきか。(ちょっと軽すぎるけど) 


先日の新潟県知事選挙についての関係者鼎談は、きわめて面白いものであったが、紙面の性格上あまり舞台裏に触れたものではなかった。

運動層が泉田から米山へと流れたのか、それとも新たな支持層が開拓されたのか

原発を最大の争点として掲げるという判断がどうして決められたのか(米山候補は元来は反原発派ではなかった)

泉田擁立断念から米山担ぎ出しの動き、その仕掛け人は誰だったのか


POST というサイト(元”SEALDs POST”)に

という記事があった。「新潟に新しいリーダーを作る会」の共同代表である磯貝じゅんこさんによるコラムである。


磯貝さんは初めて関わる参院選挙で街宣カーの上に乗り、時には候補者の代わりとなって演説する。時には政党間の接着剤の役目を果たした。

参院選後、現職の泉田知事を応援すべく磯貝さんら市民が「おむすびの会」を立ち上げた。ところが泉田知事が撤退すると発表したことに衝撃を受けた。

県知事選挙の「対立候補」(泉田後継候補)擁立へ直接関わった政党は、7月の参院選にて共闘した政党のうち、社民・共産・せいかつ(自由)の3党と、新社会・みどり・市民でした。

民進や連合についてはそれぞれの事情もあるものと考え、悪いイメージを持つことなく、いつでも受け入れる構えでした。

いろんな人の名前が出ては消えた中、民進党を離党して米山隆一さんが立候補への覚悟を決めてくださいました。

私たちは、選挙戦へとのぞむこととなりました。まず「泉田知事の路線を継承する」という政策を掲げました。

市民運動サイドは、「新潟に新しいリーダーを誕生させる会」を選挙母体とし、市民の会が勝手連となって動くことになりました。

原発再稼働の争点が(急激に)明らかになっていきました。そのなかで、生活に関する政策を訴えることの重要性も感じていきました。「米山県政には明るい希望がある」ということを個々に広げていきました。

「新潟柏崎刈羽原発の再稼働問題」、そして「泉田知事の県政を継承する」というかたちで、争点が明確になりました。

今までの泉田県政を支持していた県民は不安を感じていましたが、(その不安は)一気に希望とへ変わりました。

立地企業を抱えながらも、経済と自分の故郷を天秤にかけた時に何を優先したいのか。立地県である新潟であるからこその結果であったと思います。

ということで、市民の側の論理は「反原発まずありき」ではなかったということが分かる。
そこには「泉田県政の継承」という論理がはさまれている。
ここに注目しなければならない。
おそらく市民運動家の目には、泉田前知事が不条理な形で降ろされたことへの怒りがまずある。なぜ降ろされたか、それは明らかに原発推進勢力の陰謀だ。
だから再稼働反対は、金権で政治を動かそうとするものとの対決のスローガンでもあり、東京の支配に対する地方の自治のスローガンでもあった。
だから、おそらく他の県ではとかく浮き勝ちな「再稼働反対」のスローガンが、新潟では県民の心にすっと入っていたのだろう。沖縄で「米軍基地撤去」のスローガンがオール沖縄の声になるのと同じだ。
同時にこのスローガンで闘うことは、新潟県知事選挙を全国区にしてしまう効果も持つ。だから、連合新潟の思惑を押し切る形で民進党の中央幹部が乗り込んだし、米山派に追い風が吹いたのであろう。
すなわち、「泉田県政の継承」ではなく「再稼働反対」のスローガンを押し出したことが情勢にジャストフィットしたのである。同時にそれが「泉田県政の継承」であるが故に、「原発だけではない」攻撃を有効に切り替えしたのでろう。逆に自公・東電・連合側には泉田県政を乗り越えるだけの政策がないから、「原発だけではない」攻撃は結局、「原発だけ」を狙いとする彼らの本音が明らかになるだけの結果となったと思われる。
「原発反対」と嘘をつき、あげくに最終盤の「県庁赤旗」攻撃の法定ビラは、彼らの無残な政策的・思想的崩壊を天下に晒す結果となった。

なお阿修羅では、悔しさいっぱいの新潟日報の記事が心ゆくまで見れます。新潟日報のサイトではひた隠しにされているお宝記事です。

心がなごむことこの上なしの文章です。


本日の赤旗一面はあまりニュースがなかったのか、「政治考 安倍政権4年」という解説記事。
見出しは「自公・補完勢力追い詰める 野党と市民の協力」というもの。中身は市民連合が1周年を機に開催したシンポジウムの紹介だ。
この中で鹿野文永さんという方の談話が紹介されていて、大変興味深い。鹿野さんは元宮城県町村会長という肩書だから、本籍は保守系の方だろうと思う。
この1年、市民革命的な動きの中で、3つの革命が進んでいる。
一つは、市民の側が政党を動かす180度の転換という意味での政治革命
さらに、「共産党嫌い」の風潮が少なくなり、共産党への親近感が生まれる思想革命
そして選挙も従来の政党組織、後援会、労組中心から自発的な市民の動きが進む、組織革命も始まった。
この流れは大きく逆戻りすることはない
とくに第二のポイントについては、「なるほど、そういう見方もできるのか」と感心しました。まぁ過去の経験から言えば、それほど簡単なものではないとも思うが…

「新潟の共闘」を語る座談会が赤旗に掲載された。

現場の当事者によるきわめて貴重な経験なので、真剣に学ぶ価値がある。

座談会の出席者は参院選で統一候補として勝利し、県知事選でも大いに奮闘した森ゆうこさん。市民連合@新潟の佐々木さん、共産党県委員長の樋渡さんの3人だ。司会を樋渡さんが務めている。

まず参院選についての教訓を森さんが語る。

1.統一候補擁立の重要性

市民連合が働きかけ、共産党が柔軟に対応した。これが統一候補を実現した。

ということで、真の意味の「統一」候補を擁立できたことが重要な勝因だ。これを森さんは

まずだいじな中間の 目標を、みんなで共有 できた

と表現する。

ポイントは、それが中間目標にすぎないということだ。大義名分選挙に終始してきた共産党は、ともすれば統一候補を擁立しただけで有頂天になる。「統一候補で勝つ!」というところまで見通さなければいけない。

そしてそのためには形だけの「統一」ではなく、「勝つぞ」という気持ちを共有することが、中間ポイントとしての獲得目標なのだ。

統一するために統一するのではなく、「勝つ」ために統一する。統一したからには「勝つ」ということだ。

ついで県知事選の話に移る。そこでサラッと言っている言葉がかなりズシっとくる。

知事選でも市民と野党の共闘を確認し合い、米山候補が立候補表明したのは、告示のわずか6日前だった。

ということで「わずか」という言葉は、そこまで出遅れてしまったということではなく、ギリギリまで討議を尽くしたという意味のようだ。そして最大の確認点は、この共闘が野党間の共闘ではなく、市民と野党の共闘 だということだ。

森さんは意外な言葉を語る。

前知事が立候補を断念してから1ヶ月あったので、いろんな準備をする中で、さらに絆と信頼が深まった。

つまり、候補者選びに四苦八苦したのではなく、どう団結するかを徹底的に話し合い、細部に至るまで盤石の体制を作った。その上で担ぐお神輿を決めたということだったのだ。


そこでは勝つための戦略を意思統一することが重要だったし、「それをやれば勝てる」という確信を共有 することが重要だった。

それができたから、

あそこまで一体感のある選挙ができることはめったにないですね

という感慨が引き出せたのだ。


2.初動段階での市民連合の役割は決定的

森さんの後、市民連合の佐々木さんが語る。

彼も最大の勝因として、目標の共有を上げる。

そして共産党の樋渡さんの発言。

一応各勢力の各勢力の役割を述べて敬意を評しているが、言いたいことはこの一点につきる。

勝利の要因は、まず森さんが定数1の選挙で勝つ方法を知っていたことです

相当の衝撃だったようだ。正直に、自分たちはこれまで、定数1の選挙で勝つ方法を知らなかったと告白している。

これでは勝てない。勝てないと分かっている選挙には、よほど奇特な人でないと乗ってこない。ヘタをするとこちらの身内まで持っていかれる。

ただ

共産党としては草の根で頑張らせていただきました。

と言うのは謙遜がすぎる。理論闘争や思想対決など空中戦では、グラムシの言う「集団的知識人」たる共産党は、他者の追随を許さない圧倒的な力を持っているからだ。


3.野党共闘の3つの段階

この後の話はかなり具体的・個別的になってくるので、要点をつかむのは難しいが、いくつか拾っておく。

おそらく第一段階が共闘のあり方で、これは市民連合の佐々木さんがかなり活躍した。

参院選時に全野党と連合も入った連絡調整会議をもうけた。これが共闘が発展する上での大きな組織的支えになった。これは全国的に発信しても良いと思う。

ということで、初動段階での市民連合の役割、とくに民進党・連合まで包み込んでいく上での役割は非常に大きいということが分かった。

第二段階が、候補者選びの段階で、ここが一番厳しい。とくに共産党外しの傾向が民進党・連合から絶えず持ち込まれてくる。このときに連絡調整会議というラウンドテーブル方式を支えに市民連合と民主党・社民党がかなりつっぱらないと、持って行かれるか逃げられるかする。最悪の場合は持ち逃げされる。

ここでは共産党は出る幕がなく、「ここいらが落とし所」と見れば妥協する他ない。

森さんはこう語る。

候補者が決まるまでの産みの苦しみをともに味わったからこそ、絆が深まった。時には言い合うこともあったけれど、仏の樋渡さんが抑えに回っていました。

「産みの苦しみ」を味わったのは市民連合と民主党・社民党であろう。「絆が深まった」のは、市民連合・民主党・社民党と共産党のあいだであろう。(民主党内の野党共闘派もふくむ)

「仏の樋渡さん」は、個人の資質もさることながら、基本的には仏にならざるを得なかったからである。

そして第三段階が、選挙で勝つための行動計画ということになる。ここはそれこそ各団体が、それぞれに持てる力を発揮することになるが、肝心なことは勝つという気構えと、これで勝てるという確信である。これは森さんの最初の言葉だ。

勤務先の江別市で「まんまる新聞」というタウン紙が無料で配られている。紙面の半分以上は広告で、「新聞仕立てにしたチラシ」みたいなものだが、存外市民には人気がある。
その理由は編集者の熱心さにあるようだ。
以下は、この間配られた「まんまる新聞」の一面下、天声人語みたいなコラム。この新聞には「社説」などという気張ったものはないから、けっこう編集者の「ジャーナリスト魂」が顔を覗かせる。

▼あ~あ、当選しちゃったよ。オレ政治やった経験ないし、困っちゃったなあ……
米次期大統領に“仮当選”(12月19日に今回選ばれた選挙人による正式投票で本決定)したドナルド・トランプ氏の心中をこんな思いがよぎったかも知れない。ほとんどのメディア・研究機関が予測していた大本命の前国務長官、ヒラリー・クリントン氏が敗れたアメリカの大統領選挙。この番狂わせの衝撃は世界中を慌てさせた

▼でも、一番慌てたのは当のトランプさんだったなんてことも…。トランプ政権の政策や人事・体制を決める政権移行チームに、長男、長女やその婿、次男など4人ものファミリーが名を連ねるというトンデモぶり。何だかドタバタしている。
旧態依然とした政治勢力とは一線を画して、アメリカを牛耳る支配者層に口出しさせない深謀遠慮なのか、それとも「父ちゃん困った。お前ら来て手伝ってくれ」つて家族を集めたのか。どちらにしても、芸能人めいた家族がぞろぞろ出てくるワイドショー的成り行きに、これが世界一番のアメリカか、とアッケにとられた

▼ヒラリーは、昔は豊かだったのに今は没落してしまった白人中産階級の支持を集めたトランプに敗れたといわれる。1%のスーパーリッチ(超富裕層)が99%の国民を支配しているというアメリカ。ヒラリーも莫大な献金を受けていて、金融会社のひとつ、ゴールドマン・サックス社で「御社からの支援を決して忘れません。どんな時も皆さんの要望を最優先します」などと講演したことが暴露されている。
政治が大資本にカネで買われてしまっている現実。トランプはそれを国民の手に取り戻す、富裕層からの献金も受けていないと言った。政治を買った大資本は人間を軽視し人々への分配を忘れ、利益だけを追って世界中に戦争とテロリズムを引き起こし、貧富の格差を広げた…

▼とはいえ、トランプも成金の大金持ち。白人にはいいが、さまざまに苦しむ人々の味方かと言えば問題が多い。いつ、本性を現すかも知れず、どちらにしても、鬼か蛇か…

なかなかの文章でしょう。
大手メディアの狼狽ぶりや投資家のはしゃぎぶりとはまったく違う、草の根ジャーナリズムの気骨が読み取れるんじゃありませんか。

呉への空襲は映画の通り何回も繰り返し行われている。とくに7月末、広島への原爆投下の直前は執拗で、広島の原爆投下作戦へのカモフラージュだった可能性もある。呉市民にとっては、ほとんど「慣れっこ」になっていた。

呉戦災を記録する会 によると、

1945年

3月19日午前7時20分 アメリカ海軍の第58機動部隊約350機が、呉軍港への空襲。3時間半にわたり波状攻撃。この時港内には大和など戦艦3隻、空母5隻などが停泊していたが、多くは小破ないし軽微にとどまった。

GunkanHaichi319

呉の戦災より転載(大和は2月28日には停泊していたが、この日は広島湾に退避していた)

3月27日 対日「飢餓」作戦が開始。沖縄上陸作戦を前に、海上補給と応援部隊の派遣を阻止するため、下関海峡、呉及び佐世保軍港、広島湾にパラシュート機雷を投下。

5月5日 B-29約120機、隣接地域の広地区海軍工作庁(広工廠)を空襲。

6月22日午前9時30分 162機のB-29が呉軍港内の呉海軍工廠の造兵部(兵器工場)に空襲。1時間余の爆撃により造兵部は壊滅するが、造船部はほぼ無傷で残される。
海軍工廠では勤労動員の学生を含む約10万人が働いており、少なくとも400人以上が犠牲になったが、新聞には「死者1名もなし」と報道された。
隣接する宮原・警固屋地区、また安芸郡音戸町にも爆弾が降り注ぐ。映画ですずと晴美が空襲に遭ったのはこの時のこととされる。

7月2日0時 B29約150機による呉市街地の戦略爆撃。2時間で16万発の焼夷弾を投下。約337ヘクタールが焼失し、12万5千もの人が家を失う。

7月24日~28日 ポツダム宣言受諾を迫る「対日集中作戦」の第一陣として、5日間にわたる呉沖海空戦がはじまる。のべ1845機の艦載機が攻撃に参加。

7月24日 土佐沖の空母から飛び立った艦載機約870機が、呉軍港内艦艇を中心に爆撃。沖縄伊江島のアメリカ陸軍航空軍も参加する。

7月25日 B29・B24約110機が、港内艦艇を爆撃。

7月28日 第38機動部隊約950機が来襲。戦艦3隻が沈没、空母5隻が沈没ないし大破するなど、ほぼ全ての艦が航行不能となる。

7月29日 呉市民の犠牲者は2062人、軍関係者の死者数は不明。

8月6日 広島に原爆投下。

8月8日 福山に大空襲。

呉 空襲の記録

本日は この世界の片隅に  という映画を見てきた。

アニメ映画で、なんというジャンルと言って良いのか分からないが、とにかく戦時中に呉を襲った空襲を背景とする広い意味の反戦映画だ。

日常をたんたんと描くことで、そこに突然割り込んでいる凶暴な力が浮き彫りになる。

しかしその日常たるや、本当の日常ではない。男がどんどん連れ出され、モノがどんどんなくなり、飢えが当たり前となる日常だ。

その「非日常」を日常化し、取り込みながら生活を作り上げていく、そういう生活の最終的帰結として、空襲は必然的だった。

登場人物たちにはもちろんそのような自覚はない。

自覚するのはこの映画を見た観客たちだ。

もう一つ、その日常は我々戦後世代が経験した時代より遥かに豊かな時代なのだ。

生活必需品は確かに欠乏していた。しかし建物は遥かに立派だし、文化は遥かに豊かだった。子供時代「良いもの」といえばすべて戦前製のものだった。

我々が「豊かさ」を実感するようになったのは、我が家にテレビや電話や電気洗濯機が入るようになってからだ。

しかしその頃もまだ、家そのものは戦前に遥かに劣るウサギ小屋だった。

私はこの映画を見て、空襲が日本の何を破壊したのかをもっと分析すべきだろうと考える。と言うか、軍国主義によって破壊された国民生活が、最終的に崖から突き落とされた時、そして都市機能の全てが失われた時、その責任分担をもう少し明らかにしておいたほうが良いのではないかと考えている。

それにしてもこの映画、マット絵の美しさを除くとあまり記憶に残らない映画だな。何か微妙なずれがある。我々には戦無派に伝え残すべきものがもっとありそうだな。

それはなんだろう。あからさまに表に出すのでもなく、誰にというのでもないが、一種の「憤り」かな。


共産党大会決議案の感想

サラリと読んだところでの感想を、思いつくままに書き綴ってみる。

「いままではどうだったかな」と思うくらい、今回は素材提供的な性格の強い議案だ。情勢は反核→反戦・平和→政治→経済→暮らしと並べられ、それぞれの分野での主な出来事が並び、評価が述べられる。

評価については、これまでの闘いの中でかなり理論化された部分もあれば、箇条書き的な部分もある。正直に行って未だ思いつきのレベルを出ていないところ(グローバルな課題解決への5つの提案)もある。

大会決議という性格からして、これまで積み残してきたいくつかの理論的課題、長期戦略などの解決が必要であり、これから大会までの間に熱い議論が展開されることを期待したい。

理論的課題について

1.デモクラシーをもっと打ち出すこと

シールズが「デモクラシーってなんだ」「これだ」とやっていたが、デモクラシーはたんなる手続き問題ではない。「デモクラシー」の思想、あるいは「新しい民主主義」の思想をもっと打ち出す必要があると思う。

それはこれからの「下からの運動」を作り上げていく上でキーワードになると思う。

だから「共産党はデモクラシー(新しい民主主義)をこう考える」という打ち出しが強烈に必要だと思う。そうするとデモクラシーの運動をすすめる上で立憲主義の位置づけも鮮明になるのではないかと思う。

その辺を展開した上で、第1章の最後の段落

立憲主義、民主主義、平和主義を貫く新しい政治、すべての国民の「個人の尊厳」を擁護する新しい日本への道を開こう。

立憲主義、平和主義を貫く「新しい民主主義」の政治、すべての国民の「個人の尊厳」を擁護する新しい日本への道を開こう。

に変更してはどうか。

2.不寛容と力の政策に警鐘を鳴らすこと

国際情勢でいまみんなが一番不安に思っていることは、不寛容の気分が広がっていることである。

もちろん不寛容の気分が広がっている原因は明らかであり、経済格差の拡大と民衆の貧困化である。

それをもたらした多国籍企業との闘いがまず必要だ。TPP反対の闘いもその重要な一つとして位置づけられる。

もう一つは力の政策(先制攻撃症候群)を国際対話と国際連帯の力で封じ込めることだ。そのさい、国家主権の尊重を何よりも重視すべきである。

不寛容の気分と力の政策が結びついたとき、それは恐ろしい破壊力を生じる。支配者は不寛容の気分と力の政策を結びつけようと狙っている。

ただ今日生じている不寛容は、必ずしもファシズムと結びつくものではない。我々は「深部の力」に信頼を置かなければならない。この辺は少し書き込む必要がある。

力の政策反対、多国籍企業の横暴反対の行動が不寛容の気分と結びつくとき、それは革命的な力を発揮する可能性がある。

したがって、今一番もとめられていることは力の政策反対、多国籍企業の横暴反対の運動の展望を、より豊かにかつ具体的に指し示すことではないだろうか。

3.「中間層」の考え方を大いに発展させよう

日本の格差問題を、〝富裕層への富の集中〟、〝中間層の疲弊〟、〝貧困層の拡大〟の三つの視点からとらえると、次の特徴が浮き彫りになる。

というくだりが注目される。

中間層という言葉はオバマが使いだしたことから急速に一般化した。所得分布曲線の中央値あたりにいる人々を指すと思われ、まさにマジョリティーを形成する。

中間層という言葉にかつての「動揺するプチブル階級」のイメージはない。古典的な階級概念は、富裕層が1%にまで減少したために有効性(実践的な)を失った。

中間層概念はこれからの運動に有効だと思う。「新しい民主主義」の担い手として、さらなる概念展開がもとめられる。

4.あらゆる非暴力的手段を使って国を守る

自衛隊に関する方針は、じっくり吟味する必要がある。決議案は誤解を受ける表現を含んでいるので、再検討が必要だろう。

急迫不正の主権侵害や大規模災害など、必要に迫られた場合には、自衛隊を活用することも含めて、あらゆる手段を使って国民の命を守る。

「急迫不正の主権侵害」については相当の議論が必要だろう。字面だけ読んでいくと、「あらゆる手段」とは自衛隊の活用、すなわち戦闘行為もふくまれてしまいかねない。

もちろん「急迫不正の主権侵害」の想定はしなければならないが、安倍首相がやったような「安易な想定」は禁物である。

とりあえず、以上

あの新潟県知事戦からわずか1週間、野党共闘は燃えに燃えて補選も勝ち抜くかと思われたが、そうは問屋が卸さなかった。
しかしよく考えれば東京は連合の最大・最後の拠点だ。民進党都連は悪の巣窟だ。
彼らは負けることに全力を傾けた。負けることによってこそ、彼らの身の安泰が図れるからだ。もし勝ちでもすれば共闘派が一気に力をつけ、民進党を乗っ取ってしまうからもしれないからだ。
過去数回の都知事選挙で東京の民進党の立場はきわめて明らかだ。野党共闘の立場に立ったことなど一度もない。それどころか自民党との連合で民主勢力に対抗する道しか選んだことはない。
これは自民党も同じで、東京都の持つ豊かな財政基盤にしゃぶりつくことしか考えていない。つまりは「都庁たかり」党として、都庁マシーンの歯車のひとつなのだ。
民進党は「連合党」=経団連マシーンでもある。連合がどんな役割を果たしているかは、新潟県知事選で白日のもとに晒されたが、実はその前の参議院選挙でも徹底して野党連合潰しに回っていたのである。それは関西より西では成功した。
民進党の基盤が弱い地域では、なかば公然と野党共闘は否定された。たとえ民進党が一定の基盤を持っているところでも、都道府県の利権がらみのしがらみに絡め取られているところでは同様の現象が起きた。
以前革新勢力が強いと言われていた大都市圏で、意外に野党共闘が伸びないのはこれによるものであろう。
総じて言えば、民進党が野党共闘の側に一方踏み出せないでいるのは、経団連=連合の縛りと各自治体での利権の縛りがあるからだろうといえる。
ここにヒビを入れ、裂け目を広げ民進党の本体をこちらに持ってくるのは容易な仕事ではない。しかし参議院選挙や新潟県知事選挙でも示されたように、決して不可能な仕事ではないのである。
目下野田幹事長を先頭に仕立て、猛烈な反共闘勢力の巻き返しが始まっている。しばらくは強烈な綱引きが続くのであろう。
ただ、権力がいつまでも民進党を自らの下に引き止めておく訳にはいかない。彼らは一度は二大政党制を構築しようとして断念したのである。それが不可能であること、可能であるにしてもきわめて危険なことを悟ったからである。
彼らは民進党を捨てた。民進党は捨てられたことを知っている。真面目な中核党員は、経団連の後ろについて言っても、その先に未来はないことを悟ったはずだ。
我々はもう少し耐えなければならない。野党共闘の側に民進党を持ってこようとする人々を支援しなければならない。同時にその思いを市民集団と共有しなければならない。



反原発知事の当選の意味

これは大谷の165キロ以上の意味がある。なぜなら、勝ったのはファイターズではなく我々だからだ。

米山候補は「反原発」をうたったわけではない。しかしその勝利は柏崎原発を事実上不可能にするほどの力を持っている。

この選挙を「原発再稼働」の是非を問う県民投票にしてしまったのは、自民党だ。

途中から「ヤバイ」と見て、原発隠しに懸命となったが、そもそも再稼働に向けたロードマップの最終仕上げに位置づけた選挙だから、方向転換が効く性格のものではなかった。

そもそも自民党県連に闘う気がない。泉田知事を担いでいたのはほかならぬ自民党県連である。

その県連の幹事長を力づくで引きずり下ろして、「さあ闘え」と言っても無理がある。しかもそのやり口が「謀略」に近い世論操作であるから、とても戦う気にはなれない。

敗北の責任を問われるのは菅官房長官であろう。「電力業界などオール日本で対抗する」という「オール日本体制」は自民党、財界、それに首相官邸なのだろう。

今後菅官房長官の責任を問う形で、首相官邸の横暴に対する批判が吹き出さないとも限らない。

菅官房長官は記者会見で「地方の首長の選挙であって、政府としてコメントは差し控えたい」と語った。そうなんだ。そもそも政府は介入してはいけないんだ。

「今後の国政選挙への影響について「そこは全く考えていない。ないと思っている」と述べたが、ないわけがない。第一、行政担当の官房長官が答えるべき質問ではない。


各界からの反応が報道されている。かなりニュアンスの違いが浮き彫りになっている。

泉田追放→新知事→柏崎再稼働の策動の震源地である経団連の榊原会長は、頭に血が昇ったか、この選挙が原発選挙だったことを公然と明らかにしたうえで、不届き千万な干渉発言を言っている。

新潟県民が選択されたことだが、…原子力発電所はエネルギー政策や地域振興などいろいろな意味で意義がある。東京電力は、しっかり安全対策を行い、そのうえで県民に理解を求めることになると思う。
新しい知事は再稼働に慎重な姿勢だが、冷静な判断をしていただき、原発の安全性が確信できれば稼働の方向で進めてほしい。

ということで、論理もへったくれもないハチャメチャ戦闘継続宣言だ。「必要だ、安全だ」の掛け声ばかりが虚しく響く。後は「アメが欲しいか、ほらやるぞ」でしょ。

ただ、政府・自民党としても原子力ムラの再稼働原理主義者には今後距離を置かざるを得なくなるだろうし、経団連内の力関係にも影響がおよぶ可能性はある。

前の米倉同様、榊原も外様で成り上がりだ。日米同盟路線をゴリゴリと推し進めることで会長の座を確保しているに過ぎない。強面経団連が内外の批判を浴びるようになったとき、彼らの命脈も尽きるだろう。

今度の勝利の一番の意味は、菅官房長官が呼号した「オールニッポン」体制への国民の強烈なカウンターパンチだ。この効果は、これからしばらくのうちにさまざまなひび割れとして出てくるだろう。注目だ。


なお、民進党と連合のひび割れは今に始まったことではないし、それほどの重要性もないが、気持ちのよいものだ。

野田佳彦幹事長は周囲に「(蓮舫氏が)行くと言っても止める」と語っていた(毎日新聞

らしいが、連合から派遣されたお目付け役らしい、いかにもの風景である。

この記事はどうも出処がはっきりしない記事で、記事の内容もほとんど憶測ばかりなので、ためらうが、記事の内容はしっかりしており、執筆者の名も明らかにされている。

一応紹介しておくことにする。

LIERAX というサイトの

新潟県知事“出馬撤回”の真相はやはり再稼働狙う原発ムラの圧力?
新潟日報ではなく官邸が揺さぶり説

という記事。9月14日のアップとなっている。

1.新潟日報の陰謀説

原子力ムラが新潟日報に広告を出し、その見返りに泉田知事の再選を阻止するためにフェリー購入問題を仕掛けてきた

というのが泉田側の見方だ。

2.真相はスキャンダルではないか

新潟日報が08年に原発追及キャンペーンで新聞協会賞を受賞するなど、もともと原発に批判的な報道を展開していること。

原発ムラに利用されて泉田バッシングを仕掛けるとは考えにくい。

永田町では、泉田知事の出馬撤回はフェリー問題とは別の理由があったのではないか、という見方がささやかれている。

昨年くらいから、原発再稼働をもくろむ自民党、官邸、地元財界、東京電力が一体となって、泉田氏に知事選に出馬をさせないように“泉田おろし”に動いていた

「それも、新聞や週刊誌が取材に動いたということでなく、官邸もしくは自民党が6月ごろ、関係者を通じて泉田知事にスキャンダルの存在をほのめかしたのではないか、と言われています」(前出・全国紙政治部記者)

たしかに過去にそういう事例もある。

福島第一原発をめぐっては、プルサーマル導入に強硬に反対していた当時の福島県知事・佐藤栄佐久氏が、東京地検特捜部に収賄容疑であまりに不自然なかたちで逮捕され、司法記者の間でも“明らかな国策逮捕”という声が上がった。

3.メディア包囲網の形成

原発ムラは検察や警察にもネットワークをのばしている。原発に批判的な研究者やメディアへのこれまでのさまざまな圧力を考えれば、今回もこうした工作が行われた可能性は非常に高い。

東京電力は、15 年4月に「東京電力新潟本社」を設立し、東京本社からメディア担当を集結させた。

新潟で放送される民放各社に複数のCMを復活させている。雑誌や広報誌、そして全国紙の新潟県版にも広告を出稿するなど原発マネーをバラまき、“メディア包囲網”を着々と築いている。

泉田氏の出馬撤回で森民夫長岡市長に一本化され、森氏が知事に当選すれば、ほどなく柏崎刈羽原発が再稼働されることになるだろう。原発ムラの巨大な闇の前に我々はなす術がないのだろうか。

と、まぁ、憶測ですな。佐藤栄佐久知事の逮捕事件との類推が柱になっている。しかし、「殺される話」は泉田氏本人が語っているのだから、まんざらありえなくもない。しかしこれも目下のところは憶測にすぎない。

とにかく選挙に勝つことの重要性は、原発の他にもいろいろあるということだ。

次が10月11日付、つまり本日の記事

出処はなんと勇名を馳せた「新潟日報」だ。

見出しは

連合新潟 黒岩氏の会合出席認めず 知事選対応を問題視 

というもの

連合新潟は、民進党県連の黒岩宇洋代表を連合新潟の会合に出席させないことを決めた。

県連が「自主投票」を決めたにもかかわらず、民進党衆院新潟5区総支部長だった米山隆一氏が他の野党3党に擁立されて出馬する事態を問題視した。

新潟日報は残念がっている。

県連の対応次第では、米山氏を民進党主導で擁立できる可能性もあっただけに、県連執行部の不手際が際立つ形となった。

何をおバカなこと言っているんでしょう。この期に及んで。

しかし事態は新潟日報の思いとは逆方向に進行している。

民進党は自主投票ということで、議員が勝手に米山で動き始めた。自主投票だから止められない。だから連合は組織として森支持の旗幟を明らかにした。これって連合内の民進党員にとっては党議違反じゃないのだろうか。

日刊ゲンダイではこう書かれている(日刊ゲンダイですけどね)

なりふり構わぬ慌てっぷりは、野党共闘に砂をかけ、自公と一緒に森氏を支持した連合新潟も同様で、後方支援のはずが、会長自ら応援演説でマイクを握っている。

週明けは「赤旗」のまとめ読みから始まる。

新潟県知事選挙が佳境を迎えたようだ。

志位さんが新潟駅前で応援演説を行っている。

その中で注目されたのが、自民党の新潟県連が「原発の再稼働を求める決議」を上げたという発言だ。

これは大変深刻かつ重大なものであり、事実関係を調べておく必要がある。なぜなら、自民党の森候補は「(再稼働には)毅然とした態度で臨む」、「安全に確信がなければ反対と言う覚悟はある」と言っているからだ。これは完全な食言になる。

もう一つ、これは月曜の一面記事だが

危機感を強めた自民党の二階幹事長は、日本経団連との会合で「電力業界などオール日本で対抗する」と表明。

したとのことである。

これは政府と経団連、電力村(連合もふくむ)が一体となって柏崎再稼働に全力をあげるという宣言である。これも大変深刻な問題だ。

私も大した仕事はできないが、この点で警鐘を鳴らすことくらいはやっておこうと思う。


みんなで決める会」のページに、新聞の切り抜きが転載されてある。

どこの新聞なのか、いつの新聞なのかがわからない、大変困った記事なのだが、一応引用させてもらう。(多分8月中旬、どこかの新聞の新潟地方版)

niigatakenrenn

自民党県連は12日の県連大会で、原子力規制委員会の審査を前提に東京電力柏崎刈羽原発の再稼働を求めていくことを決議した。
再稼働へのスタンスをはっきり示したのは東電福島第1原発事故後初めてだ。

12日の大会では決議案が読み上げられ、異議はなかった。

ベテラン県議は「県連は、原発の再稼働を語らない知事と一線を画しているんだと、国や党本部に対してアピールすることにもなる」と語る。

ただ、所属県議の思いはなお複雑だ。ある県魏は「まだ県連内で意見がまとまっていないのに突然すぎる。党本部と地方では事情が違う」…と危機感を募らせる。

ということで、「自民党新潟県連が組織を上げて再稼働を求めた」というのは紛れもない事実だ。さらに底には、自民党の党本部が決議の採択を押し込んだ事情が見え隠れしている。

で、新潟県連はというと、これも相当厳しい攻撃を受けたようだ。県連大会の10日前という時点で、新潟市議会の自民党が県連に申し入れを行った。内容は1.県知事選で泉田知事を推薦しない、2.星野県連会長は参院選敗北の責任を取り辞任せよ、というものだ。

泉田非推薦の理由は「日本海横断航路」問題で、新潟日報と平仄を合わせている。これが県連大会を念頭に置いた攻撃であることは明らかだ。

森ゆうこ参院議員はこう演説している。

私たちは泉田知事を守り切れなかった。泉田抹殺計画があった。・・・自民党新潟県連幹部に官邸が『まず知事を変えろよ』と迫った。

こうして点と天とを結び合わせていくと、見事な「泉田追い落とし+原発再稼働」の行程表が浮かび上がってくる。そのウラには「オール日本」派の意向が透けて見えるというものだ。

この背景のもとで泉田知事の謎の発言も解釈される。

僕は自殺しませんから!
遺書が残っていても自殺ではない!
命をかけて国・東電と対峙する!
自殺なんて事になったら
絶対に違うので調べてください!


新潟県知事選挙の怪

民進党が新潟県知事選挙で自主投票に回ったそうだ。

理由がさっぱりわからない。候補の米山隆一さんはれっきとした民進党員だ。

それでもって、いったんは米山さんは立候補を断念したか、他の野党や市民勢力からの強い要請を受けて立候補の決意を固めたという。

とにかく戦えば勝てる見込みがある選挙だ。先日の参議院選挙でもそうやって勝利している。つまり民進党は勝つのが嫌だということだ。

さらに記事を読み込んでいくと、民進党県連は棄権という形で事実上自民党候補の当選を欲しているようだ。だから米山さんは離党しての立候補という形になった。

この選挙は民進党が新執行部になって初めての重要な選挙になる。最初から不戦敗と自民党の不戦勝を選択するようでは新執行部の鼎の軽重が問われる。


とにかく情報を収集して見る必要がある。

最初はIWJ independent Web Journalの記事から。

*今回の判断は県連のものだとされている。新執行部は結果としてそれを追認したらしい。

*路線変更の理由は詰まるところは原発のようだ

*民進党執行部の基本は「原発再稼働については、再稼働はしつつ、国も責任を持って避難計画を提示するという中で再稼働を考えていく」というものなのだそうだ。

地方独自の特性もありますし、事情もある。国会の中では、安倍自民党と対峙しながら、各地方においては実情を踏まえながら対応する。

*新執行部は県連の意向を尊重する。東京都知事選では旧執行部が候補を差し替えたが、その路線はとらない。

同じサイトの別の記事 前回統一候補として参議院選挙で当選した森ゆうこさんが語っている。

参院選では野党連携の選対の一体感がすごかった。その選対の強いきずなと一体感で、このたびの知事選に臨む

ということなので、おそらく民進党は割れるだろう。

そもそも泉田知事が任期半ばで辞任した理由がわからない。どうもウラで動く勢力がありそうだ

同じサイトの別の記事 8月末のものである。

新潟県の泉田裕彦知事が8月30日、新潟日報の報道への不満を理由に知事選への出馬取りやめを発表した。

 泉田知事は知事選への出馬を取りやめた理由として、「日本海横断航路問題」(県の第3セクターの船購入トラブルをめぐり、県の関与を追及する新潟日報の報道)を挙げ、「憶測記事や事実に反する報道」と指摘。「このような環境の中では、十分に訴えを県民にお届けすることは難しい」と説明した。

これではさっぱりわからない。泉田さんの説明は辞める理由になっていない。

この記事には続きがある。ただ正直、噂話の域を出ない。一応いくつかの説を挙げておく。

地元紙からの攻撃だけでなく、新潟県内では“泉田包囲網”が出来上がっていた。今月には泉田さんと近い自民党県議が県連会長を辞任している。泉田さんは嫌気が差したようです

*東電は新潟日報に最近全面広告を5回も出しているそうです。一回1000万円とか。知事の撤退が発表されて東京電力の株価が上がっている(テレビ新潟)

*私が引くことで新潟をどうするか、原発にどう向き合うのかという純粋な議論ができる(引退記者会見)

なおこの記者会見での、泉田知事の最後の発言は非常に感動的である。ぜひ全文をお読みいただきたい。(このサイトはそのために紙面を無償公開してくれています)

ということで、泉田さんがやめた理由は薄々見えてきた。

1.まず自民党県連の外堀を埋めた(夏の陣)。それが8月末の県連会長の辞任という形で完了した。

2.その上で泉田知事への直接攻撃を開始した。これは2つのねらいがあって、ひとつはスキャンダルに仕立てることによって泉田の首を取ろうということ、もう一つはこれを争点化することによって原発を背景化しようというものだ。

3.そこで泉田知事は死に体となった自分の首を差し出すことで、攻撃の芽を摘み取り、原発そらしを回避しようとした。

ということになる。

話は前段までだが、いったん文章は閉じる。

ただここまで分かると、東電の圧力がここまで来ているとすれば連合にも同じ圧力がかかっていると見なければならないだろうと思う。




豊洲新市場 共産党が明らかにしたこと

連日テレビで豊洲問題を大々的に扱っている。これ自体は大変良いことで、世論は大きく変わりつつある。

ただテレビを見ていて「ちょっと問題が矮小化されているのではないか」という感じはある。

共産党が明らかにしたことは次の点である。

1.地下空間の区域は新市場全体の面積の3割を越える。「そこだけ使わないで済ます」という逃げを打てる状況ではない。

2.地下空間のある5つの建物のうち4つで地下水が溜まっている。この内、青果棟地下には、強アルカリ性の地下水があり、ヒ素が検出(ただし環境基準以下)

3.地下空間に向けて6箇所の重機搬入口があり、土壌汚染の可能性を想定したものであること。(水位上昇時は盛り土まで汚染される可能性があること)

ということで、もはや議論の余地はない。
とりあえずメモ書きしておく。
10日分溜まった赤旗の圧力は凄まじい。 

我々は非核戦略を練り直さなければならないかもしれない

今回の日中両党の衝突の最大の問題は、反核運動をめぐる対立の表面化である。

かつての日中両党の対立も、暴力革命の是非とか文化大革命の評価の問題もあったにせよ、もっとも重大な問題はベトナム人民戦争支援のための国際統一戦線をめぐる対立であった。

今回も同じように、国際反核運動の進め方をめぐる対立が基本となっている。我々はまずそこをしっかりと抑えておく必要がある。


中国の核軍事戦略の変化は南シナ海や尖閣紛争に覆い隠されてきたが、いよいよその本態が明らかにされた。

これまで中国は、真意はともあれ反核運動に対立することはなかった。核の先制不使用を宣言し、核廃絶を目指す運動を支持してきた。

東南アジアの非核地帯宣言を支持し、東南アジアで核を用いないことを明らかにしてきた。

今回の中国の態度は、これまでの核をめぐる姿勢に根本的変化が現れていることを象徴している。

これまでもそのような兆しはいくつか見られていた。原水禁世界大会への不参加、広島・長崎の被爆者への冒涜的態度など気がかりな点はあった。

しかしことは「侵略者日本」への反感を口実にした日本の反核運動への敵視だけではなくなった。

今回の出来事は、東アジア諸国の反核への願いを公然と無視する態度に転換したと言わざるをえない。

もはや中国は核廃絶への志向を完全に失った。そして核を通常戦略の中に組み込み、アジア最大の核軍事大国となる道を歩み始めた。

中国が本気で核を使用するとすれば、あるいは核脅迫政策を実行するとすれば、米中同盟のもと、それは明らかにアジア諸国に向けられたものとなる。

プーチンがウクライナで核の使用を考えたのと同じように、中国が南沙諸島に核を持込み、いつでも使用可能な状態に持っていくことがないとはいえない。

あるいは台湾の独立派勢力を懲らしめるために、大陸側に核ミサイルの砲列を並べることがないとはいえない。

それは世界の人民にとってもっとも差し迫った危機となるであろう。

私は2004年9月に北京で開かれた反核医師の会の総会にも参加した。その時、まさかこのような世界が展開されることになろうとは到底予想できなかった。

「クアラルンプール宣言」と日本共産党のとった立場

今朝の赤旗を見て仰天。おっ、善隣会館事件の再現かと見まごう。

日本共産党と中国共産党の事実上の決裂だ。

他のメディアではまったく触れられていないから、とりあえずは赤旗報道を読み込むしかない。

私のような年表オタクには、時刻表的経過があいまいで、率直に言えばきわめて分かりづらい文章だ。「柳条湖」事件ではないがどちらが先に発砲したのかはもう少し続報が出てこないと確定できない。

記事を読みながらジグゾーパズルのように事実を当てはめて行く事になる。総会は2,3,4の三日間行われたので、1日目、2日目、3日目というのと1日づつずれるので注意が必要だ。ここでは1日目、2日目、3日目と記載することにする。


まずは事実経過から

9月2日からクアラルンプールで「アジア政党国際会議」(以下ICAPP)が開かれた。

日本共産党(以下JCP)は以前からこの会議にたいへん力を入れていて、今回も志位委員長が自ら出席し、総会演説を行っている。

そこで会議が総会宣言を発表することになった。


1.総会開始までの経過

総会前から宣言起草委員会が開かれ検討が開始されている。JCPはこの委員会のメンバーではない。委員としては参加していない。ただしこの会議の常連としてこれまで活躍してきた実績がある。

JCP代表団は総会の開始前に、核兵器廃絶、平和の枠組みなど三点について事務局に文書提案していた。この提案は起草委員会に一定の重みを持って受け止められたようだ。

JCP代表団は開会前日(9月1日)の未明、開催地マレーシアの首都クアラルンプールに到着した。たまたまそこしか取れなかったのかもしれないが、異例の到着時刻である。物見遊山ではない。多分ホテルか会場のいずれかに詰めて仕事していたのだろう。

この日の夜、総会参加者を歓迎するレセプションが開かれた。志位委員長らJCP代表団は、ICAPPのホセ・デベネシア、チョ ン・ウィヨン両共同議長らをはじめ、参加者にあいさつし、交流した。

おそらくその席上で、事務局長は「積極的なこの提案に感謝する」と述べた。ここが一つの伏線となる。

想像するに、総会開始の前日までに、起草委員会は第一次草案を完成させた。そこにはJCPの主張する「核兵器禁止条約の国際交渉の開始」(called for a prompt start of negotiations on a nuclear weapons covention) という内容が明記されていた。


2.総会の1日目(9月2日)

ICAPP総会が始まった。会の模様については、「ベトナム・フォトジャーナル」が短く伝えている。

冒頭で、マレーシアのナジブ首相が歓迎のあいさつを行った。

クアン委員長が基調演説を行った。

アジアは安全保障と発展などの面で多くの試練に直面している。各国は、平和、安定、繁栄、領有権紛争の平和的解決、衝突防止、持続的かつ平等な発展のための互恵協力、各国間の発展格差の是正、環境保全、気候変動への対応、各国国民間の友好関係の強化などに対する責任を負う必要がある。

というもので、全体としてはバラ色というより一定の情勢の厳しさをにじませたものであった。

おそらく第一日目の会議開始に前後して、「宣言起草委員会に参加しているある代表団」が、JCP代表団に草案を見せてくれた。

どこの国かは分からないが、それは大したことではない。別に深刻な話ではないから軽い気持ちで見せてくれたのだろう。

ただもちろん非公開の文書を非公然に見せてくれたのだから、証拠はない。あっても証拠能力はない。

ところが、その日、総会参加者に配布された「宣言草案」はそれとはまったく異なるものであった。

表現上の問題としては

1.核問題で、核兵器禁止条約も国連事務総長の提案にもまったく触れていない。

2.領土問題では、領土に関する紛争問題を国際法にしたがって解決するという点がふくまれていない。

という点で不十分なものであった。

さらに聞き捨てならない「非公式情報」として

3.「中国共産党代表団が、日本共産党の提案を採用することに否定的な態度をとっている 」という情報。

4.紛争問題を国際法を基礎として解決することを宣言に書き込むことに、中国共産党代表団が強く反対しているという情報。

が飛び込んできた。

この4点はJCPとして容認出来ないポイントであった。

ただし第3点については、その真意もふくめて、よほどの裏付けが必要な間接情報である。この点については後ほど最大の問題となる。

第4点は、これまでもASEANの会議などで同じような事態があり、コンセンサス会議では一定の妥協も求められるかもしれない。

とりあえずやらなければならないことは明白である。まず文章表現の問題では、1.2.の点について「一次草案」の復活を求めることだ。

これがJCP修正案の提示だ。(内容は重複するので省略)

この修正案はICAPP常任委員会、宣言起草委員会のメンバーになっている各党に手交された。

3.CCPとの2度の会談

最大の問題は言うまでもない。3.の不確かな、しかし深刻な疑念についてCCP側の真意をたしかめることだ。この点においてJCPは果敢に行動したと思う。緒方さんには心から敬意を評したい。

まず緒方さんが修正案を携えてCCP代表団長のところに押しかけた。第一日目の午後の事のようだ。

団長は李軍という人で肩書は中連部の「部長助理」となっている。楊潔篪とサシで話せる人物であることは間違いないだろう。

実は緒方さんは李軍とは面識がある。彼は06年の6月に東京を訪れ緒方さんと「夕食をともにしながら懇談」している。この時の肩書は中連部第二局局長だ。

この頃のCCPはまだとてもよかった。中堅クラスが入れ代わり立ち代わり現れては懇談を積み上げていた。李軍もその一人だったはずだ。

だからか、李軍は完全に逃げ腰た。「過去のことは知らない」、「この問題については議論したくない」と言ったと、緒方さんは書いている。

ここで緒方さんは一旦戻って志位委員長と協議した。そして「問題の重大性を考え、中国共産党に再度の話し合いを提起」した。

李軍はあげくの果ては「あなたは覇権主義だ。自分たちの意見を押し付けている」とまで言い出した。ここまで来ると完全に「泣き」が入っている。

4.1日目夜(9月2日)の宣言起草委員会

事務局長が日本共産党の修正案を議題とした。中国共産党を含めて異論は出ず、全員一致で修正案が受け入れられた。

5.2日目(9月3日)の経過

志位さんの総会演説は2日目の午前に行われた。(私は、今日、本当はその内容を紹介するつもりだったのが、とんでもないことになってしまった)

演説を終えた後、志位委員長は、午後に国営ベルナマ通信の取材を受けた。赤旗報道を読む限り、当り障りのない返答。ベルナマ通信の記者が「包括的な提案で感銘を受けた」と語るのとは対照的だ。

午後に総会参加者に2回目の宣言案(当初案を入れれば3回目)が配布された。この宣言案はJCPの修正案が受け入れられたもので、つまり当初案と同じものであった。

6.3日目(9月4日)の経過

閉会式の前に、3回めの宣言案が新たに配られた。

1.「核兵器禁止条約についての速やかな交渉開始を呼びかけた」の部分が削除。

2.「潘基文国連事務総長が提案しているような、核兵器のない世界」という表現上の換骨奪胎。

閉会式の開始直前、事務局長は「ある国の代表団が強硬に要求してきた。本国の指示だと思う。宣言を採択するためには受け入れるしかなかった」と釈明した。
JCP代表団は以下のように判断した。

1.「核兵器禁止条約のすみやかな交渉開始」は2014年のコロンボ、10年のプノンペンの総会宣言にもふくまれており、「重大な後退」と考えられる。

2.しかも草案からの削除は総会の民主的運営という点から見ても重大な問題をはらむ。(記事では「総会の民主的運営を乱暴に踏みにじるやり方」と最大級の非難を浴びせている)

そこでJCP代表団は、宣言案への「部分的保留」を表明し、その旨の文書を議長団に提出した。同時に「一代表団」=中国共産党代表団への強い抗議を表明した。

7.「保留通告」の意味

JCP代表団は「総会の民主的運営を乱暴に踏みにじ」った事務局への非難は避けている。

その理由は、おそらく事務局のやりかたがコンセンサス方式だからだろう。つまり一党でも反対する党があれば、それは宣言には盛り込まれないということになる。コンセンサスを前提とする限り、事務局は「総会の民主的運営を乱暴に踏みにじ」ったとは言えない。(「宣言」を出さないという選択もあったが)

その代わり、JCP代表団はこの重大な変更が中国共産党(以下CCP)の干渉によるものであることを暴露し、攻撃する。

つまりこの大々的報道の主要な目的は、CCPトップの干渉への非難ということになる。

8.JCP代表団の帰国後の動き

日本共産党の志位和夫委員長ら党代表団は4日午後、成田空港に到着、帰国した。

午後と言っても1時から11時まで幅があるがよく間に合ったものだ。

4日の昼までには会議が終わったらしい。空港までの移動や出国審査などを考えると、それでないと間に合わない。

それから常任幹部会が行われた(はずだ)

それにしても、思いもかけぬ3日間の強行軍、ご苦労さまでした。

9月5日には、記者会見が行われた。志位さんをふくむ代表団員は参加せず、小池書記局長が対応した。

「非常に不当な対応だ。1998年に日中両党間の関係を正常化して以来初めてだ」と強い言葉で中国側を非難した。(ただしこれは時事通信の配信で、赤旗には野党共闘についてのみ言及)

同じ日に志位さんはツィッターに下記のコメントを載せている。

核兵器禁止条約の国際交渉」を盛り込んだ宣言案に対して、総会の民主的運営に反する横暴きわまる方法で削除を強要した中国共産党代表団のふるまいは、まったく道理がなく厳しく批判されねばなりません。

8.日本共産党がケンカする腹を固めた理由

JCP代表団がケンカする腹を固めた理由はCCP代表団が突然態度を変え、強引に草案を書きなおさせるに至った一連の経過であろう。

相手は中国政府や中国軍関係者ではない。CCPそのものである。中連部の意向を代表して参加しているはずのCCP代表団の見解を、一夜にして一変させる権限を持つのは誰か。それは習近平をふくむ党の最高指導部以外にない。

彼らは杭州で20カ国首脳会議を主催しながら、クアラルンプールのかなりマイナーな会議にまで目を光らせ、状況を一気にひっくり返させた。サミット開催中だからこそ、抑えこんだのかもしれない。

なぜこのような会議にまで党のトップがかかわるのか。それはよく分からない。非公式な情報が言うように「JCPの提案を採用」させないことにあるとすれば、かなり容易ならざる事態であることは言うまでもない。

いずれにしても国際連帯に当たる人々にとって、論争のさなかに行われた志位演説の内容を今一度しっかりと把握することが必要だろう。


1844年 パティキュラー・バプテスト派、奴隷問題をめぐり決裂。奴隷制を支持する南部バプテスト信者が分離する。残された北部のグループが「米国バプテスト宣教連合」を組織。(バプテストにはジェネラル派とパティキュラー派があるらしいが良く分からない)

1873(明治6年) 「北部バプテスト」、横浜で布教活動を開始。

1889(明治22年) 「南部バプテスト連盟」(Southern Baptist Convention)が宣教師を派遣。九州を中心とした伝道が始まる。(九州を地盤としたのは北部バプテストとの縄張り協定による)

1895 黒人のバプティスト組織が「全国バプテスト連盟」を結成。

1903年 日本バプティスト西部組合が北九州の若松市で結成されました。

1907年 米国のバプテストの諸教団が合同し「北部バプテスト大会」を開催。「北部バプテスト同盟→米国バプテスト同盟」の母体となる。

1916 宣教師C. K. ドージャーが、福岡に「西南学院」を設立。

1940 西部組合が日本バプテスト東部組合と合同。日本バプテスト基督教団を結成する。

1941 日本バプテスト基督教団は日本基督教団に合同。

1947年4月、E.B.ドージャー宣教師の呼びかけにより、福岡・西南学院教会で「日本バプテスト連盟」結成総会。旧西部組合系の16教会が日本基督教団から離脱して参加。

1958 旧東部組合系教会の一部が、日本基督教団を離れて「日本バプテスト同盟」を結成。教団残留組は教団内の一グループとして「教団新生会」を結成。ともに「北部バプテスト同盟」(現アメリカ・バプテスト同盟)をバックとする。

1962 反ヤスクニ宣言を発表。

1963年 「新生運動」が展開される。福岡を拠点に全国への開拓伝道に取り組む。SBCの牧師・信徒が来日し、伝道協力。

1970年、世界バプテスト大会が東京で開催される。

1970 神学校や各教会において、教会の存在意義・宣教を問う教会闘争が起こりました。靖国神社問題、日韓・在日連帯問題、公害問題、部落問題などに取り組む。

1976年には米国・SBCからの支援を打ち切り、経常費自給化を達成。

1979年に「信仰宣言」を採択。その後“Cooperative Baptist Fellowship”(CBF)との連携を強める。

1992 「日本バプテスト同盟」が「戦争責任に関する悔い改め」を総会で採択し発表。

1988年に「戦争責任に関する信仰宣言」(戦争責任告白)を採択

1995 阪神淡路大震災で、兵庫県内の諸教会が甚大な被害

2002年総会では「平和に関する信仰的宣言」(平和宣言)を採択

2004 南部バプテスト連盟、世界バプテスト連盟からの脱退を正式に決定。

2006 南部バプテスト連盟からの脱退者がCBFを中核に新バプテスト連盟を結成。カーター元大統領らも加わる。

2013年1月現在、全国283の教会、43の伝道所が加盟(九州が75教会)

2016年7月 日本パプテスト連盟理事会声明「なおも希望を持ち続けるために」を発表。参議院選の結果を踏まえ、立憲主義の堅持を訴える。


こうやって、バプティストの歴史を見ていくと、西南学院の宣言はごく自然なものと考えられる。内部事情的に言えば、南部バプティスト連盟との絶縁がかなり効いているように思える。


赤旗の8月15日号に掲載された「西南学院の平和宣言」は大きな反響を呼んでいる。この「宣言」はそもそも4月1日付で発表されたものだが、当時はまったく知られていなかった。

発掘した赤旗は偉い。

文章そのものはそれほど長いものではなく、全文が読めるのでそちらをご参照いただきたい。

と言いつつ、要約を箇条書きにしておく。

宣言の表題は「西南学院創立百周年に当たっての平和宣言―西南学院の戦争責任・戦後責任の告白を踏まえて―」

1.西南学院は、創立百周年を迎え創立者C・K・ドージャーの示した方向を確認する。私たちは、敵対する異質な他者にさえ、しっかりと向き合い、問い合い、愛し合うことこそが人としての普遍的価値であると信じている。

2.西南学院は、先のアジア・太平洋戦争ではこれに加担し、諸外国の人々をはじめ多くの人々に多大な苦しみを与えてしまった。

3.戦後もそのような過去への責任を明らかにせず謝罪してこなかった。天皇の名による侵略戦争によって傷つき、殺された人々の怒り、苦しみ、悲しみを受け止め、「加害責任」を心に刻み込んでこなかった。

4.西南学院は、天皇皇后の御真影の下賜を願い出、「奉安殿」を建設し、宮城遥拝、君が代斉唱を行った。宣教師たちが敵国人として帰米を余儀なくされた時にも、苦悩・悲しみを共有できなかった。体育教育を「軍事教練」の場とし、学院の名で学生を出陣させ、彼らのいのちを死に至らしめ、他国の人々を殺すことを是認した。

5.私たちは、創立百周年のこの時に過去と将来に想いを馳せ、自国本位の価値観を絶対視し、武力・暴力の行使によって人々の尊厳 を抑圧するという過ちを二度と繰り返すことのないよう、今その決意をここに表明します。


ということで、いささかきつい文章だが、これを西南学院のおかれた位置とつき合わせることによって、真意が見えてくる。

西南学院の歴史

1906年(明治39年)にアメリカから「南部バプテスト連盟」の宣教師C.K.ドージャーらが赴任。福岡バプテスト神学校を開校。10年後に西南学院を設立。以後は全国各地のミッション系学校とほぼ同様の経過をたどる。

かつては「南部バプテスト連盟」より多額の補助を受け、宣教師の派遣も受けていた。学院長もこれら宣教師が就任することが通例であった。

西南学院と日本バプテスト連盟との関係は現在も深く、神学部は日本バプテスト連盟の教派神学校としての使命も負っている。

ウィキペディアの「西南学院大学」などには、2000年以降の信仰をめぐる混乱が若干触れられている。

1970年代より、「南部バプテスト連盟」の保守化が進んだ。79年には原理主義者による南部バプテスト連盟占拠が行われた。

元々、南部バプティストは人種差別を内包していた。1939年アトランタで開かれたバプテスト世界同盟大会では、白人と黒人のゲストは異なったホテルを提供され、会場の座席も分けられた。(アメリカ南部バプテスト連盟

この傾向は60年代後半に一定の是正がなされたが、70年代にふたたび保守派が巻き返した。

2000年に、米本国の「南部バプテスト連盟」がキリスト教原理主義に転向し、信仰宣言を改訂した。

「妻は夫に恭しく従うべきだ」と家父長制を強調、女性が牧師になることを制限する文言などを加えた。「連盟」は宣教師に宣言への同意署名を求め、拒否した宣教師は絶縁になった。

またブッシュ・ドクトリンを積極的に支持するなど、政治的右傾化を強めた。

「南部バプテスト連盟」は、2004年には世界バプテスト連盟を離脱するに至った。

この動きが西南学院にも波及し、宣言への署名を拒否した多くの宣教師が解雇され、帰国した。学院長も任期が終わると同時に離日した。

学院にとどまった4人の元宣教師は「南部バプテスト連盟」を離れ、学院の専任教員として採用された。

というような経過を経て、本国の「連盟」とは絶縁しこれまでの方向を一層強化する方針が確立された。「創立者C・K・ドージャーの示した方向」というのはそのことを指す。


ということで、状況としては一知半解なのだ。

結局下記のことが分からなければ、状況は理解できないということが分かった。

1.バプティスト派の由来

2.バプティスト派と南部バプティスト連盟の関係

3.日本におけるバプティスト派の動き

4.日本バプティスト連盟と西南学院の関係

思わぬ深みにハマりそうな予感がする。

 

たしかに言われてみると面白い。「その通り」と叫びたいほどだ。
日本における反米運動の中核をなす人々(私を含めて)は例外なく親米だ。
建国の精神であるメイフラワー号とピューリタニズムに限りない共感を抱く。
アメリカの独立宣言と合衆国憲法を素晴らしいと思う。
アメリカの人々の地域コミュニティ尊重、個人の不羈に我々は大きな敬意を抱く。
その大きな高まりとしてのニューディール精神は戦後日本の、戦後民主主義の旗印であった。
おそらくそれは奇怪な日本型ファシズムの時代でさえも、日本人の憧れの象徴で在り続けた。
日本国憲法への日本国民の支持は、このアメリカ流民主主義への日本国民の憧憬なしには語れないだろう。
そのくらいアメリカの“良質な”民主主義思想は、今上天皇を先頭とする日本人の心を捉えている。それは思い出すさえ不快な戦前日本の非合理主義に対する対決軸を形成しているのだ。
それは日本だけではない。ベトナムが戦後直ちにフランスからの独立を宣言した時、独立宣言の文句はアメリカの独立宣言を引き写しにしたものだった。独立ベトナムほど親米思想の塊みたいな国はなかった。

現代日本の親米派は、これらの思想を毛嫌いしている。そしてこれらの思想と闘った戦前日本の非合理主義を支持し、その復活を狙っている。
戦前非合理主義とは何か。それは中国をはじめとする近隣同胞を力で服従せしめ、なにかといえば武力で解決を図り、コンツェルンのための政治を国のための政治と強弁し、貧富の差を身分の差として国民の全面的な屈服を強い、個人の尊厳などテンから無視する政治だ。
それに反抗するものには国賊の汚名を浴びせ、死罪や拷問などおよそ理不尽なやり方で抑えこむ政治だ。
これらの政治手法はアメリカ流の政治スタイルとは著しく異なる。

今アメリカの支配者たちはその非合理主義者たちを密かに支持している。なぜなら彼らは民主主義の本家であるアメリカでそっくり同じことを繰り返しているからだ。

選挙は人を変える  参議院選挙福島選挙区

1.福島選挙区というところ

福島選挙区というのはずっと二人区であったが、3年前から一人区になった。それまでは自民・民主で議席を分けあってきたが、民主は議席を失った。

今回の選挙では民進党が議席回復を狙う形になった。それを野党共闘が後押しする形である。

民進党の候補は増子輝彦さん。2007年補欠選挙で初当選し、その後2010年の選挙でも当選し、今回は現職として「共食い選挙」を闘うことになった。

福島というのは全国にも珍しい社会党王国で、参議院選挙でもこれまで首位の座を保持してきたが、2013年には民主党の逆風の中で、自民党のマドンナ候補にダブルスコアーで敗れるという屈辱を味わった。

ここではかつて下田京子さんを押し出すなど共産党もかなりの力があり、前回参議院選では、今回比例区で当選した岩渕友さんが8万票近くを獲得している。また社会民主党も3万5千をとっている。逆に言えばこれまで民主党に入れていた人たちがそちらに流れたとも言える。

したがって、福島の民主党にとっては野党協力は至上命題でもあった。

2.増子輝彦という人

この候補は、経過から見れば共産党とともに天をいだくなど考えられなかった人だ。

47年生まれで私より一つ下。早稲田の商学部を出てそのまま参議院議員の秘書となっている。学園紛争などどこ吹く風の人だ。

福島県議会議員を経て90年の総選挙で無所属で当選し自民党に入党。その後所属政党は自民党→新党みらい→新進党→民主党とめまぐるしく変わっている。その間に何回か当選、落選を重ねている。いわゆる政界ジプシーだ。

ただ、東日本大震災と福島原発事故の後は明らかに立ち位置を変えている。参議院の震災復興特別委員長となり、翌年には民主党副代表(原発・復興特命担当)に起用された。

ただこれはたんなる選挙目当てではなく、これまでの積み重ねがある。14年の原子力協定(原発輸出の解禁)承認案には、党議に反して棄権した。これで党の副代表の地位を失った。

それに先立つ2月には、除染廃棄物の最終処分場を、安倍晋三首相の地元である山口県に設置するよう求める方針を作成した。

15年の民主党代表選挙では長妻昭の推薦人に名を連ねている。

いっぽうでマルチ業者の監査役として月20万円の報酬を得ていたというダーティーな側面も報道されている。(ウィキペディア)

3.野党共闘に至る経過

野党共闘を推進したのは「安全保障関連法の廃止を求めるふくしま県市民連合」だった。

市民連合の呼びかけで、5月6日に三党会談がもたれ、①安保関連法廃止、②集団的自衛権の行使を容認する閣議決定の取り消し、③県内全ての原発の廃炉−−などの基本政策を3党が確認し、増子候補一本化で合意した。

しかし民進党内や支持者には、共産との選挙協力についての抵抗感も強い。選対本部長の玄葉光一郎氏も自民党に所属した経歴があり、繰り返し共産党との連携を否定してきた。野党共闘が成立した今も、「福島では共産党からの推薦はありえない」と強調する。

県連の幹部(おそらく玄葉氏)は「各党が主体性を持って独自に考えることになる」と語った。(毎日新聞) 「口出し無用、票だけよこせ」ということだ。

福島方式は必ずしも先進的なものではない。増子氏は民進党のまま統一候補となった。政策協定はなく、統一的な選対本部もなく、共産党の推薦も受けない。共産、社民両党は自主応援にとどまっている。(福島民報河北新報

私の分類で言えば野党共闘の縄文時代である。

4.増子候補の変身?

ところが、その後増子候補が共産党との距離を縮めていくことになる。産経新聞の長文記事(5月28日)がその間の事情を明らかにしている。

見出しからして愉快だ。

【参院選・福島】 民進党・増子輝彦氏は元々保守系ではなかったのか? 共産党とすっかり蜜月となり「県内の原発廃炉」を訴えるが…

共産党は増子氏を支援する演説会を開いた。穀田恵二国会対策委員長が約1400人の支援者らに野党共闘の意義を訴えた。

演説会では、恒例の選挙募金を呼びかけた。共産党は政党助成金を受け取らない代わりに、個人に寄付金を募り選挙や政治活動費に充てている。久保田仁福島県委員長によれば、「いつもの2、3倍の選挙募金が集まった」そうだ。

増子氏の事務所開きには、久保田県委員長が「飛び入り」参加し、蜜月関係をアピールした。

産経新聞は

増子氏は原発政策の是非は巧みに避けつつ、野党共闘で合意した「福島県内原発の全基廃炉の実現」のみを訴える。

とし、

増子氏の姿勢は票目当てが先行し、肝心の政策を置き去りにしたままのようにも受け取れる。

と、批判する。産経新聞の焦りが手にとるようだ。

5.増子候補の発言

民の声新聞というブログにはこう記されている。

自民党も、福島を最重点区として位置づけていた。

安倍晋三首相や菅義偉官房長官、小泉進次郎党農林部会長など〝大物〟が続々と応援に駆け付け、公共事業一辺倒の「復興」をアピールした。

「常磐道は約束通り、全面開通した。今度は4車線化に取り組む」、「風評被害を吹っ飛ばす。中通りでつくられたお米を毎日、首相官邸で食べている」…。郡山駅前で、安倍首相はこうアピールした。

白河市内で開かれた集会には、西郷村や矢吹町、天栄村など西白河郡一帯の首長が一堂に会し、道路の拡幅など「復興」を語った。同じような光景は県内の各地で見られた。私には、原発被害など関係なしで、人の不幸でもうけようというたかり集団に見える。

こういう「権力」の利権攻勢を前に、増子候補の腹も決まっていったのではないかと思う。なにせ「配慮」していた相手が、金につられてぞろぞろと行ってしまったのだ。

問題は「野党連合」がどうのこうのではなく、まずもって権力の横暴と対決するしかないという原点なのだ。福島事故を党利党略で悪用する、それに擦り寄る不届きな県民がいる、こんなことを許していいのかという怒りだ。

6月22日の第一声は、原発に対するこれまでの態度に対する異例の「お詫び」から始まった。4党合意をはるかに超えて、原発そのものの批判にまで踏み込んだ。

増子候補はこういう。「基地問題がある沖縄と原発事故災害があった福島は、安倍総理にとって大変なある意味でのアキレス腱ではないか」

また日本の政治の真の争点は、改憲による緊急事態条項の導入であるとし、改憲派による参院議席3分の2を許すなと叫んだ。

もちろんそれなりの計算もあるだろうが、玄葉氏ら民主党県連首脳の度肝を抜いたことであろう。

30日には、福島の中心部で、「市民と野党の合同街宣」が行われた。民進党、社民党、共産党が壇上に並んだ。自民党が連日大物をつぎ込み、「野党は野合」と口汚い攻撃をする中での集会である。

7月1日、最終盤での決起集会での演説は IWJ Independent Web Journal で御覧ください(2/2 の51:30より本人演説が始まる)

帳票日直前になると、あの玄葉氏さえ、「平和などの実現に向け、県民の良識を示す選挙だ」と演説するようになった。

6.とりあえずの感想

野党共闘が偉大だと思うのは、しぶしぶそれに乗った人々をもふくめ、人の心を変える可能性があることだ.

もちろん増子氏の今の心境を内視鏡で覗くことはできないが、発言の内容がぐんぐんと変わっていくのが分かる。

それは、権力がそうさせているという面が強い。権力は金と脅し、アメとムチで市町村にローラーをかけていく。しかもその目的は福島の救済ではなく、「復興」という土建政治の押し付けだ。

かつては自らもその一翼を担ったにせよ、やはり許せない。このやり方には未来がない。

そもそも野党連合そのものが、市民の素朴な怒りの結晶だ。だから怒れば怒るほど、野党連合の趣旨そのものと一致していく。そして最後に勝ったのは、野党連合でも共産党でもなく、なによりも民進党自身に湧きでたその力なのだろうと思う。騎馬戦で勝つには、馬役の3人の力も必要だが、最後に必要なのは、上に乗った武者の戦闘力だ。

それが今回の選挙の結果なのではないか。

今後はこういう面からも野党連合の役割を見つめていく必要があるだろう。


赤旗に、大阪維新の幹部(足立政調会長代行)の発言が載っていた。

ネット番組「アベマプライム」で政党討論の中で飛び出したもの。

市民との共同というが、市民団体じゃない。野党4党が市民と言っているのは3分の1だ。“市民の力を集めて”とか言っているが、全部嘘っぱちだ。

これは、テレビ討論の中で出てきた発言だから、あまり突っついても仕方ないのだが、まず大阪維新の知性の程度が問題だ。

一体、市民というのは何なのか。政治的な扱いとしては、市民とは政党に組織された人以外の全てである。

「無党派」を掲げた運動は、隠しているのでないかぎり、あるいは営利を目的としているのでないかぎり、全て市民運動だ。違うか?

あんた方も、いまは政党・政治団体として組織されているが、もとは市民運動だった。違うか?

これは常識の問題だ。

「3分の1」だったら市民じゃないのか。少数の市民は市民としては認めないのか?

次に「市民団体」の定義だが、無党派の市民といえども、ロビンソン・クルーソーではないのだから必要に応じて、あるいは思想・信条によってさまざまな団体に入る。

それが政党によって組織されたものでなければ市民団体だ。NPOやNGOと同じで、あくまでも外形によって定義されるものだ。それが政治団体として登録すれば政治団体になる。

その目的が原発反対であろうと、戦争反対であろうと関係ない。

もし目的によって、「これは市民ではない。これは市民団体ではない」と定義していけばどうなるか。政党がその定義をしていくなら、市民はそういう団体に入った途端に市民ではなくなってしまう。

違うか?

07/13-18:55 の時事通信の記事には流石に驚いた。

連合は自主投票=民進と対応分かれる【都知事選】

民進党最大の支援団体である連合は、13日の執行委員会で、東京都知事選で特定候補を支援せず、自主投票で臨む方針を正式決定した。

連合東京の岡田啓会長は記者会見で、「1人を選ぶのは困難と判断した」と説明した。 

民進党本部は鳥越氏への推薦を要請したが、岡田会長は要請に応じなかった。

前回選挙でも、民主党が細川護熙元首相を実質支援したのに対し、連合東京は舛添要一氏を支持している。

今回も自公両党が推す増田寛也元総務相が「政策的に近い」として、民進党に「相乗り」を促した。しかし、同党執行部は他の野党と共に鳥越氏を擁立。連合側は民進党と真っ向から対立するのを避けた。

「連合」はここまで崩れているのだ。もはや組合費を反組合活動に使う「泥棒連合」だ。

安東直樹さんのツイッターに下記のような書き込みがあった。

先の東京都知事選で、「脱原発候補は支持できない」として舛添候補への支持を表明した「連合東京」の大野会長(東電労組出身)が退任したとのニュース。

「連合東京」の後任の新会長は「東電労組出身」ではないらしい。

「反共」で凝り固まっていた「連合東京」が今後、変わっていくのか、それとも変わらないのか、今後「連合東京」の展開に注目したいニュースだ。

「連合東京」の新会長は「UAゼンセン」の岡田啓氏とのこと。岡田氏は「京王百貨店労組」の出身。「百貨店」出身の会長は初めてのことのようだ。どんな人物かは未知数。

「連合東京」新会長の岡田啓氏が、どのような手腕を発揮するかまったくわからないが、少なくとも今回の「連合東京」の会長人事で、「民主党東京都連」の現 会長松原仁、現幹事長長島昭久。そして「連合東京」会長が大野博という最悪の「反共トライアングル」の一角が崩れたことは確かなことだ。

ということなので、“まだまし”会長のようだ。下には下があるものだ。

大阪人のアホぶりは異常だ

大阪における改憲派の4議席独占という結果にはさすがに衝撃を受ける。我々の若いころは自民党が4議席独占というと九州の南部や西部くらいだった。これに対して京都は革新を代表し、大阪は多様性を代表した。

いまや大阪は日本における政治反動の最大の拠点となった。かつて大阪は日本経済の原点であったし、文化的にも、東京に対してもう一つの日本像を提示する発信地であった。その大阪と大阪府民の政治精神がここまで劣化したことに背筋の寒くなる思いがする。

大阪の文化は「面白い」ということに最大の価値を置くことによって形作られてきた。「面白い」ということは直感的であり、人間的であり、したがって反権力的であり革新的であった。多少泥臭くても虚飾のない率直さが共感を呼んだ。それが大阪文化の真骨頂であった。

それを支えたのは大阪人の旺盛な食欲であり、好奇心であり、進取の気性であった。与謝野晶子も小松左京もそうやって人々の支持を得た。

それがどんどん地盤沈下し、東京に絡め取られて支店経済化していく中で「面白さ」の有り様は歪められ、薄っぺらなものとなり、から騒ぎの刹那的な「面白さ」に取って代わられるようになった。黒田革新府政の後は西川きよしが国会議員に、横山ノックが府知事に連続当選する。多分「面白い」からであり、府民が「面白い」と思ったからであろう。

そして最後にたどり着いたのがルンペン的なヤクザなギスギスした「面白さ」である。それが維新であり、橋下であり、関西テレビの「そこまで行って委員会」である。朝鮮人をいじめることを面白く感じ、世間の良識に反抗して日の丸を掲げて右翼のふりをすることを面白いと感じ、橋本流の無茶苦茶の論理で府政を引き回すことを「面白い」と感じるようになっていくのである。

トランプにはトランプを支える愚民がいるように、橋下には橋下を支える愚民がいるのだ。

彼らの「面白さ」はきわめてブラックである。強いものには逆らわず、生活保護者や宿なし生活者、老人や女性などの弱いものをいじめることで得られる快感である。そのことで一時、彼らは自らが強者であるかのような幻想を抱くことができ、それが快感につながっているのである。

この「面白さ」は明らかに異常な精神的土壌に根ざす快感である。物事をまじめに正面視することができなくなり、万事が「お笑いネタ」となり、正邪の判断ができなくなっているがゆえの快感である。そして悲惨なことに、そうすることで彼らは自分自身が「お笑いネタ」となっていることに気づけなくなっている。彼らの「ハシズム」は大阪の県境を越えた向こうでは通用しない。「六甲おろし」はトラキチの微笑ましい乱痴気騒ぎ以上のものではないのである。

タイガースとバファローズが両リーグの最下位をひた走るのもそのせいではないか、と思う。 もののあわれを感じる今日このごろである。

毎度のことだが、選挙の評価は一般紙を読んでも分からない(いまだに「商業紙」と書いてしまうスターリン主義が抜けない)。
ということで、火曜日の赤旗を見てから考えることにしている。
一般紙は書かないが、今回の最大のサプライズは、東北地方における野党共闘の圧勝だ。秋田を除いて総なめだ。東北に加えて新潟、長野、山梨…。これらのほとんどは、野党共闘なしには絶対に勝てなかった選挙だ。
もう一つの特徴は、…にも関わらず西日本では不振に終わったことだが、これは参院選挙そのものへの無関心の反映であり、メディアの参院選への無関心の反映という側面もある。
全体としてみれば、流石に勝利とまで強弁はできないが、日本の変革に向けて貴重な反転攻勢の経験だったと言って良いのではないかと思う。

結果として、改憲派の3分の2確保は阻止できなかったわけだが、ある意味で予想されたことではあったので、さほどの驚きはない。
日本の政治の流れで言えば、これが最初の「野党共闘選挙」であり、それが貴重な勝利を獲得したということがキモなのである。
その恩恵は現象的には民進党に回ったが、正確には、それは民進党の「野党共闘」派に回ったと見るべきだろう。
しかし最大の恩恵をうけたのは自覚的市民である。福島原発、機密保護法、そして戦争法反対闘争を通じて運動に参加してきた市民は、「野党共闘は間違っていない。やれば勝てる」という手応えを感じたであろう。同時にそれは、市民グループがひと回りふた回り大きくなり野党共闘を支えなければ、ただの員数合わせに終わるという厳しい結果も突きつけている。
当面の政治課題は東京都知事選であるが、この三つの力、民進党内の「野党共闘」派の前進と、進歩的人士の実践的な能動性、それを支える共産党の本気度がどう相乗効果を発揮するかが、今後の見ものである。
進軍を告げるドラムロールは今もなお鳴り響いている。だから小林節さんよ、ジタバタするな。3割打てれば強打者だ。それがフォア・ザ・チームに徹すれば一気にビッグ・イニングだ。それが政治戦というものだ。
(民主党都連というのは前時代的組合ゴロの支配する腐りきった組織だ。この連中を乗り越えて野党共闘が進むことを期待する。  をご参照ください)

昨日の朝日の記事「野党共闘、距離手探り 1人区、民進と共産の態勢に温度差 参院選」を見ると、野党共闘が実現して行った過程がよく分かる。

1.当初、民進党は共産党と共闘など眼中になかった

それが、最後まで共同が難航した佐賀の例で明らかだ。これが共闘における縄文期の遺跡だ。

県連は共産党との共闘に反対だった。5月になって、ようやく候補が決まったが、共産党との共闘は拒否した。共産党の推薦も拒否した。

面目丸つぶれの共産党は、しかし市民グループの仲介で独自候補を取り下げた。しかし出陣式には、共産関係者は出席せず、祝電などもなかった。

共産党の出馬辞退を辛くも実現した市民団体は、24日に民進、共産議員の揃い立ちの街頭演説を行った。しかしこれについても県連は「あくまで市民連合の呼びかけに応じたもの」と共産党排除の方針を崩していない。

ある意味で、野党共闘はこういう出発点から始まったのだといえる。

2.市民の圧力で、やむを得ず推薦を受けるようになった

これが野党共闘の弥生時代段階でその遺跡が岐阜県である。

岐阜では民進党と連合が肉離れを起こした。民進現職候補を推すことで民進・共産・社民3党が合意し、市民団体を立ち上げた。

ところが連合岐阜が共産党の推薦に反発。告示の間際になって推薦だけは受けることが決まった。しかし選挙運動は連合も加わる選挙対策本部と、共産が参加する市民団体が別々に展開することになった。

連合はいまも、「一緒に選挙をやる県民というだけだ」と共産党を突き放している。

3.推薦を拒否したが、その後選挙協力を受け入れるようになった

山形県選挙区は推薦なしという点では岐阜より遅れていたが、その後の展開の中で岐阜を追い越してしまった、これは古墳時代の遺跡に相当する。

ここでも民進党と連合との肉離れが起きている。4月に民進・社民・共産が選挙協力を確認した。ところが連合山形が「自民支持層からも支持を得ないと勝てない」と言って、共産党の推薦を拒否した。共産党は外からの「全面支援」に留まることを余儀なくされた。

ところが、与党から「野合」との批判が強まったことが逆に野党連携を促した。

公示翌日には民進や共産など野党4党が、24項目の政策確認書を締結するという本格的な共闘に乗り出したのである。

4.民進候補を共産党が推薦し、政策協定を結ぶ

共産党が独自候補を下ろす大義名分を民進党側が与える

民進党は共産党の推薦を受け入れ、県レベルで安保法廃止や安倍政権の打倒などを盛り込んだ政策協定を結んだ。

まだ統一候補には至っていないものの、両者が車の両輪となって選挙運動を展開する仕掛けが実現した。これは律令制時代の遺跡である。

ここから野党共闘の名にふさわしい野党連合の時代が始まっていく。奇しくもそれは「国のまほろば」たる奈良県であった。

5.統一候補を擁立し政策協定を結んで各党が平等の立場で参加する

これが近代の姿である。

それは岩手、山口、熊本などで実現している。とくに熊本での統一候補擁立の経験は全国の「野党は共闘」の動きを大いに励ますものであった。

「野党は共闘」の運動は半年の間にこれだけの行程を駆け抜けたのである。振り替えてみるとすごいものだと思う。

共産党がベタで折れたのではない。民進党以外の政党、市民団体が一丸になって地方の隅々まで「野党は共闘」の風をふかせ、民進党と、とりわけ連合幹部の激しい抵抗を鎮めつつ前進してきたのである。

この経験はいずれぜひ教訓化してほしいものだ。


いつやるか? 今でしょ」の林修さんのブログに

「野合」でいいの?

という記事があった。面白いので抜粋紹介しておく。

林修

…どこぞの宰相殿が、結集した反対勢力を表して

「野合だ」

とかおっしゃったとか。思わず辞書を確認しましたよ。

広辞苑には「男女が婚儀を経ずに通ずること。密かに結びつくこと」とあります。原義は男女が「野原で会合すること」です。ディープでしょ?

いろいろ調べてみると、「バラバラの集団の寄せ集め」といった意味を認めているものもあるにはありましたが、基本的には広辞苑に示されたような意味で用いる言葉です。

飲み屋で愚痴っているときに、思わず口から出てしまったというならともかく、公の場で言う言葉としては、いかがなものでしょうかねえ。もともと、豊かな品性を感じさせる方ではないにしても、さすがにこれはどうでしょう。

これが「烏合」なら、カラスの集まるように規律もなく、統一もなく集まること(広辞苑)であって、特に品の悪い言葉でもありません。

しかし、もし誤用であれば、今度は知性の問題ということになって、いずれにしてもあの方の資質に疑問を感じざるを得ないという結論になってしまいます。(もっとも、そんな結論はとっくに出ているという声も聞こえてきそうですが)


流石に有名人でタレントでもあるので、抑えたタッチで表現している。

もっと露骨に言えば、野原でマグワイ(青カン)することであり、しかも集団で誰かれ構わずやる(乱交)ことだ。

野党共闘=野合論を野党の宣伝として利用するべきだ

自民党はたいへん良い問題提起をしてくれている。

今回の選挙は憲法と戦争法を問う選挙だ。それなのに自民党は憲法など争点ではないと話をそらし、野党共闘は憲法を口実にした野合だと叫ぶ。

ところで「野党連合が野合だ」というのは、「野党は共闘してはいけない」と言いたいからだろう。これに我々が反論するということは、我々に[野党共闘とは何なのか」を説明させてもらうための絶好の機会を与えてくれるものだと思う。

これは大いに「売られた喧嘩を買って」いかなければならない。


ただしそれは、いまの自民党政治をなんとかしたいと思っている人向けの議論だ。(「野合」という下品な罵り言葉の大合唱については、すでに厳しい批判が相次いでいる)

それは「いま自民党は野党連合が野合だと批判していますが、あなたはどう思いますか」という問いかけから始まるべきだろう。

まずは冷静に現状を見るべきだ。与党が圧倒的だ。なんだってできる。現に何だってしている。

誰かが「野党共闘は緊急避難」と言っているが、たしかにそういう面はある。とりあえず憲法改悪という災難を避けるために体育館に集まったとすれば分かりやすい。

私たちをいま支配しているのは、一方では危機感であり、一方では無力感だ。しかし今は危機感が無力感を上回っている。だから、なんとかなるならなんとかしたいと考えている。こういう時は保守も革新もなくおたがい助け合うものだ。そうやって危機感を共有し、無力感を克服するのだ。


これが議論の出発点だろう。

そこから「野党は共闘」という叫びが生まれてきた。なぜならどう考えてもそれ以外に道はないからである。

最初、それは到底実現不可能と考えられてきた。民進党の中にきわめて右翼的な部分がいて、さまざまな形で妨害するだろうと見られていたからである。

それが当初の枠組みとはずいぶん違うとはいえ、選挙協力まで持ち込んでしまった。それは市民(「市民連合」)の圧力以外の何物でもない。

シールズの奥田君はいみじくも、「市民が野党共闘を呼びかけても無理だって言われたけど、でも、できちゃった」と言っている。市民の圧力以外に何かあったろうか。

それがなければ、共産党が土下座して頼み込んだとしても、民進党は首を立てにらなかったろう。なぜなら民進党は共産党と組めば票が減るくらいにしか考えないからだ。それがこれまでの常識でもあったのだ。

民進党右派もそれなりの計算はしたはずだ。そして今回の選挙に限っては、野党連合の枠組みで闘ったほうが票が増えると判断したはずだ。

こうして成立したのが野党連合だ。

だからそれは政党連合であって政党連合ではない。それは野党連合という形を借りた市民連合でもあるのだ。

しかし野党が連合したからといっても、それだけでは勝てるわけがない。そこには勢いが必要だ。今のところまだ、さほどの勢いは感じられない。

自民党から、野党連合は野合だと言われた時は、少々時間はかかっても、上記の経過をるる説明するしかない。

それは巧まずして野党連合の正しい宣伝となる。だから「野党連合は野合だ」と言われたら、「しめた」と思わなくてはいけない。

それにしても自民党は、政権党としてもっと鷹揚に構えていてもいいはずだ。恐れすぎているのか、それともそれが安倍首相のやり方なのか。「野合」という言葉が下品だということさえ知らないのか、吐き気がするくらい下品だ。

まことにありがたいクロニクルがある。中国新聞のヒロシマの記録というページで、1966年11月以降の出来事が細大漏らさず記載されている。
もともとは1970年から始まった第二次碑文論争の足跡を辿ろうと思って探していてヒットしたのだが、内容はそれにとどまらない。読み進めていくうちに実時代を生きているような気分にさせられる。
どちらかと言えば、それまでは例の「碑文」はバカにされていた。
何をピンぼけなことを言っているんだ、アメリカはベトナムで今にも核を使いそうな雰囲気だったし、中国は原爆と水爆の実験を相次いで成功させるし、下田駐米大使は「核武装」論をぶち上げるし、原爆を積んだ飛行機は墜落するし、とにかく「祈って」いる暇などなかった。
そういうなかで右翼が慰霊碑に的を絞って攻撃をかけてきた。虚を衝かれた反核陣営は、ともかくも体制を建て直して慰霊碑の防衛に回った。最初はほとんど「心ならずも」の世界だった。
そして闘いのさなかに原水爆禁止運動の「原点」を慰霊碑の碑文の中に見出していくことになった。碑文そのものが原点というより、「普通の広島市民」の思いが核廃絶運動の原点にあることが確認されていくのである。
とりあえず、中間報告ということで目下の思いを表現させてもらった。
膨大な資料ゆえ、まだ読み切れはいない。本格的なコメントはそれが終わってからの事になりそうだ。


話がどんどんややこしくなっている。読者の皆様にはまことに相済まない状況になっている。

一応これまでの思考経路をおさらいしてみる。

1.「謝罪」議論の胡散臭さ

オバマの広島での演説は素晴らしいものだった。少し文学的にすぎる箇所もあるが、素直に感動した。

ところがマスコミの報道は、やたらとオバマが謝罪するかどうかに話を持って行こうとするので、何か意図的なものがあるのではないかと抵抗を覚えた。

謝ればなお良いが、今回の訪問の評価をそこに持っていくのは間違いで、とにかく来ただけでも良しと考えなければならないと思う。しかも演説の前、ホワイトハウスの報道官が簡単なステートメントに留めると強く釘を差していたから、ほとんど期待していなかったというのが正直なところだった。

しかし、演説はかなりの長時間にわたり、まごころのこもったものであった。「謝罪」こそないが、核廃絶への確固たる姿勢は十分うかがえた。深澤さんの言葉を借りるならば、それは慰霊碑の碑文の精神と響き合ってたように思える。

2.オバマ演説と慰霊碑の碑文

言うまでもなく、慰霊碑の碑文は我が核廃絶を目指す運動をすすめる上での精神的拠り所の一つとなるものである。それは、我が核廃絶の運動(闘いというべきか)をすすめることが何よりもの慰霊となるということである。それは人類史的な意味での我々の「過ち」に対する償いである。

今なお核に固執する勢力がある。その敵をいかに包囲し追い詰めていくかが、今我々に問われている。しかるがゆえに、運動の側には、過去において核兵器を使用した「過ち」をもって未来永劫の敵とはしないという柔軟性が要請されている。そこには「あなた方の犯した罪を、(同じ人類の一員として)私たちも担いましょう」という統一戦線的な発想がある。大事なのは今であり、未来なのだ。

3.鍛えられ強くなった碑文の精神

その後調べていくうちにわかったのだが、この「過ちは二度と繰り返しませぬから」という誓いが当初からそのような高みにあったのかはかなり疑問である。むしろ70年代の右翼による攻撃から碑文を守る運動の中で、それが非核勢力の中核的精神として昇華され、大方の合意となっていったというのが正しいのだろうと思うようになった。

「小異を捨てて大同につく」という言葉がある。原爆の使用責任は決して「小異」ではなく、ゆるがせにできる問題でもない。しかし核兵器の廃絶という人類史的課題に比べれば「小異」といえないことはない。だからこのスローガンは「論理的に正しいか否か」ではなく、「実践的に正しいか否か」という問いに対する答えなのである。

そしてその正しさは、オバマの演説により、部分的には証明されたと見て良いのではないだろうか。

グーグルさんありがとう。「原爆慰霊碑の碑文とオバマ演説 その1」をグーグルで検索して、リンクをクリックすると「その2」が出てくる。ところがリンクの表題の右側についているキャッシュという逆三角を開くと、「その1」が出てきた。
読み返してみると、その後の勉強の結果、手直ししなければならないところがいくつか出てきた。そこで再編集したうえでアップロードすることにする。


Diamond On Line 5月30日付の記事 オバマ広島演説に込められた原爆慰霊碑文の精神

は、慰霊碑の碑文と照らし合わせならオバマ演説を読み解くという、格調の高いものとなっている。筆者は編集長の深澤献さん。

いくつかの演説の断片を引用した後、深澤さんは次のように問題を設定する。

来日前に焦点となっていたことのひとつは、原爆を落とした当事国として謝罪があるかという点だった。演説の中には謝罪を示す言葉はなかったため、いまなおそれを問題視する声もある。

そして、深澤さんは慰霊碑の碑文、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を持ち出す。

そして、この碑文が被爆者に対する最大の謝罪(の誓い)であり、その精神はオバマ演説に引き継がれている、と主張する。

そのうえで、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の誓いが最大の謝罪(の誓い)であることを、歴史的に論証していく。

おそらく、もっとも的確にオバマ演説の本質を引き出した文章のひとつであろうと思う。

本文を読んでもらえばいいだけの話だが、文章が入れ子構造になっていて、慰霊碑の碑文を巡る論争が分からないと、オバマ演説の意義がわからないという仕掛けになっている。

そこで「慰霊碑の碑文」論争について、文章の順に従って説明しておく。


1.慰霊碑の碑文

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」は、英語にするとこうなるそうだ。

Let all the souls here rest in peace; For we shall not repeat the evil.

大変格調の高い、難しい英語で、アメリカ人にはたして分かるのか、とさえ思う。作者は雑賀忠義さんという方。当時の広島大学教授で英文学者。さもありなんと思う。雑賀さんも被爆者だった。

この慰霊碑は1952年(昭和27年)に建てられた。その時に碑文論争が起きている。

1.端的に言えば「なんや、このけったいな文句は」という感想である。筆者の深澤さんも少年時代にそう思ったそうだ。

たしかに自分が「過った」ようにも読めてしまう。「俺はいったい被害者なのか、加害者なのか?」と、碑を前に首を傾げる市民がいたとしても不思議ではない。

2.首を傾げるだけではなく、怒っちゃった市民もいるらしい。

地元紙「中国新聞」には、「原爆投下の米国の責任を明確にせよ」とか、「過ちは繰返させません からとすべきだ」との投書が掲載されたそうだ。

3.浜井市長はこう言っておさめようとした。

誰のせいか詮索するのではなく、こんなひどいことは人間の世界に再びあってはならないのだから、「人類全体」が過ちを繰り返さないということなのだ。

しかしこれはかえって火に油を注いだ。浜井発言は1年前まで日本を占領していた米国に慮ったものとも言われるが、これでは東久邇内閣の「一億総ザンゲ」論へとまっしぐらにつながってしまう。

4.雑賀さんの発言(論争への参加)

この発言はこの記事で初めて知った。そのまま引用する。

広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。
『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。
そんなせせこましい 立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない

いささか感情的とも取れる発言であるが、これには経過がある。

東京裁判でいまや右翼の御用達となったパール判事が広島に来たのだそうだ。そのとき、慰霊碑の前で碑文の内容を聞くや、「原爆を落としたのは日本人でない。落とした者の手はまだ清められていない」と語った。

これが雑賀さんの逆鱗に触れたのだ。「誰のせいだ。俺のせいではない」と議論すること自体がせせこましいと憤ったのだ。

5.論争をまとめてみると

雑賀さんは「恩讐を超えて、核廃絶を目指せ」ということで、それが最大の慰霊(謝罪)なのだと主張している。

ただ、「恩讐を超える」ところだけ強調してしまった嫌いがないとはいえない。「広島市民であると共に世界市民であるわれわれ」を強調するあまりに、「世界市民であるけども、広島市民であるわれわれ」の特殊性を尽くしていないように思う。

原爆の苦しみは8月6日で終わったのではなく、そこから始まったのであり、1952年にはそのただ中にあったのであり、その苦しみ(実相)をもっと突き出さなくてはならなかったのではないか。

6.現在の「碑文」の解釈

現在、広島市は碑文の意味について次のように説明している。なお、著者深澤さんは「広島市の見解は一貫して、慰霊碑建立当時と同じだ」と書いているが、浜井市長の発言よりは明確に前進していると思う。

原爆の犠牲者は、単に一国・一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られています。
碑文の中の『過ち』とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しています
原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓う のは、全世界の人々でなくてはなりません。

これを論争を踏まえて私なりに読み解いてみると、

①原爆の犠牲者の位置づけ

原爆の犠牲者は、いまやヒロシマの犠牲者ではなく日本の犠牲者でもなく、人類最初の原爆による人類最初の犠牲者だ。

原爆の犠牲者は、いまや、そのような高度に抽象的なものとして位置づけられ、祀られるべきだ。

キリストがユダヤ人であるかどうかは問題ではない。キリストの死には「ユダヤ人がローマ人によって殺された」という事実はある。しかしそれが辺縁的事実にすぎないのと同じだ。

②原爆の犠牲者は「過ち」を責めている

「過ち」問題は、ここをしっかり把握すれば、自ずから明らかになる。

むごたらしい死と、同じようにむごい生の末の死は、アメリカではなく人類全体、生き延びてきた私たちを責めている。それは「過ち」だったと。そしてずっとこれからも「過ち」であると。

そして「過ちを繰り返さぬ保障」としての核兵器廃絶を求めている。そのことによって犠牲者は平和(をもとめる人々)のいしずえとなっている。

しかし犠牲者はまだ人類史のいしずえにはなっていない。核兵器が廃絶された世界が実現しないかぎり、彼らは「過ち」を責め続けるだろう。

③謝罪とは核兵器を廃絶すること

謝罪と核兵器の廃絶はイコールではない。しかし核兵器の廃絶に向け決意することは、犠牲者の責めを受け止め謝罪することの重要な一部をなす。

この場合、犠牲者の責めを受け止め続けることが何よりも重要であろう。「辛かったでしょう。分かっていますよ」という声掛けが、「安らかに眠って」もらうための条件だ。

これが慰霊碑の碑文の精神である。

1949年

5月 広島平和記念都市建設法が成立。7月には憲法第95条による初の住民投票を経て公布される。

1951年

2月 平和記念公園に戦災死亡者の碑の建立決定。原爆死亡者の名簿をおさめることなど計画。公式には「広島平和都市記念碑」だが、通称の「原爆死没者慰霊碑」がよく知られる。

慰霊碑のデザインは、イサム・ノグチの案に一旦は内定した。しかし岸田日出刀らが、日系アメリカ人というのを理由に強硬に反対したため、ノグチ案を生かして丹下が再デザインした(ウィキペディア)

1952年

広島市長浜井信三が慰霊碑を発起する。

この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなることを目的とする。

7月22日 慰霊碑の碑文が決定。広島大学教授の雑賀忠義が浜井信三広島市長の依頼を受けて提案、揮毫した。雑賀さんは「言葉も書体も市民感情を表すように努めた」と語る。

中国新聞: 雑賀さんは旧制広高の英語の名物教授で、はげ頭に骨張った顔の、ひょうひょうたる人物。「仙人」とも呼ばれた。教え子で市長室主事だった藤本千万太さんが、碑文に悩む浜井市長に紹介した。
山田風太郎「同日同刻」: 真珠湾攻撃の報道を受けたとき、…朝の授業中の雑賀教授は廊下に飛び出して、頓狂な声で『万歳』を叫んだ。

1952年8月2日、広島市議会で碑文に対する質問。『過ち』は誰が犯したものであるか」について議論となる

浜井市長の答弁: 原爆慰霊碑文の『過ち』とは、戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している。


1952年8月6日 原爆死没者慰霊碑の除幕式。当初はコンクリート製であった。本来設計では慰霊碑をすかしてドームまで見通せるはずが、被爆者のバラックが透かして見通せた。バラック隠しの幕を張って式を挙行した。57902名の名簿が奉納された。
 
浜井市長の挨拶: この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる。

8月10日 『朝日新聞』の「声」欄に投書。最初の異議となる。(ウィキペディアでは中国新聞への投書となっている)その後、中国新聞に碑文に関する数篇の投書が掲載される。

後文については、私は大いに異議がある。『あやまちは繰り返しません』では『過誤は我にあり』ということになろう。これで犠牲者が、安らかに眠れようか。
…戦争の責任をとやかく論議しようとは思わぬが、日本の、広島の当局者がいまなおわけもなく卑屈にみえることを、実に遺憾に思う

8月 浜井市長が反論への見解を表明。「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならない」と、主張する。(これを「過ちを繰り返さない」主体が人類全体であるとする主張であり、現在の広島市の見解に通じる、とする見解がある)

8月 識者の意見が中国新聞に掲載される。

 <作家・堀田善衛氏>「『過ちは繰返しませぬから』。だれがいったい過ちを犯したのか。答はいろいろあるかも知れない。しかしそれにしても、もしこれが いつもいつも被害者にされっ放しの民衆の立場に立った誓いであるならば『過ちは繰返させませんから』でなければならないのではなかろうか」

 <原子物理学者・武谷三男氏>「私は広島の人に、どういう風にして過ちを繰返さず、原爆で死んだ人をやすらかにねむらすことができるかをききたい。私はむしろ『ねむらずに墓の底から叫んで下さい。過ちがくり返されそうです』と書きかえるべきだと思う」(矢内原伊作の意見は略)

11月3日 ラダビノード・パール(Radhabinod Pal 極東国際軍事裁判の判事)が講演のため広島を訪問。

4日の講演: 広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか。
 アメリカ軍人を犠牲にしないためなら、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活 をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか。われわれはこうした手合と人道や平和について語り合いたくはない。

11月5日 パールが広島平和記念公園を訪問。原爆死没者慰霊碑の碑文を通訳を通して読む。パールは碑文を「一億総懺悔」と読み批判する。原爆への恨みを公言できなかった被爆者らは、バールの言葉に共感を持つ。

この碑文に『過ちは再び繰返しませんから』とあるのは、日本人をさしている。それがどんな過ちであるのか私は疑う、ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたものの手はまだ清められていない。
過ちを繰り返さぬということが将来武器をとらぬことを意味するなら、それは非常に立派な決意だ。日本がもし再軍備を願うなら、これは犠牲者の霊をボウトクするものである。これを書いた当事者はもっと明瞭な表現を用いた方がよかったと私は思う。

(パールの発言には以下の部分もあり、これについては首肯できない)

この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。
・・国民がその良心に重い罪の悩みをもっていれば、いかなる国民も進歩、発展はないということをよく記憶せねばならぬ。

11月04日 『中国新聞』に濱井信三広島市長の談話が掲載される。(4日となっているが、5日のパール発言を受けてのものであろう。焦っているから、「地下の英霊」などという言葉が飛び出す)

過去の戦争は明らかに人類の過ちであった。
私は碑の前に建つ人々がだれであろうと『自分に関する限りはあやまちは繰り返さない』という誓いと決意を固めることが将来の平和を築く基礎であると思う。
また現在生きている人たちがそれを実践したとき、はじめて地下の英霊は安らかにに眠ることができるものである。
碑の前に対して「だれの罪である」と個人をつかまえて詮索する必要はないと思う。

11月10日 雑賀教授、パールに抗議文を送る。

『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。

11月11日 雑賀教授が中国新聞に寄稿。(おそらく「抗議文」と同内容)

パル博士の考えは狭量で、そのような立場からは原爆の惨禍は防げない、過ちを繰り返さないと霊前に誓うのは世界市民としての広島市民の気持ちであり、全人類の過去、現在、未来に通じる良心の叫びである。

11月 雑賀教授、広島大学教養部での講義で碑文の内容を説明。

碑文の英訳は「Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil」である。
主語の“We”は「広島市民」であると同時に「全ての人々」であり、「世界市民である人類全体」を意味する。

雑賀、市広報紙に碑文解説を書く。「20世紀文明が犯した最大の過ちは広島の原爆であった」とする。(日付け不明だが、少し頭が冷えてからのものであろう)

57年 雑賀教授は碑文論争から5年後の定年退官の際、「広大新聞」でこう語っている。「全世界よ、全人類よ、日本の方を向いて『右へ倣え』。碑文は全人類への号令である。こんなはっきりしたことが読み取れないのですか。頭が悪いですね」

あらためてオバマ演説を読むと、美辞麗句にとどまらない、含蓄のある言葉が散りばめられていることに驚く。

これは聞く文章ではなく読む文章だ。

1.71年前、人類は人類滅亡の道具をついに手にしてしまった

これは冒頭の文章だ。「原爆=人類滅亡の道具」という定義を、その押しボタンの所有者から聞くことに感慨を覚える。

人類滅亡の道具については、後段でも言及がある。

人類は自滅の道具を手にした特異な種だが、反面、これもまた人類を人類たらしめる特異な資質なのである。

オバマは弁証法を身につけている、と感じる。

2.死者の魂はわれわれに問う。「おまえはいったい何者なのだ、どこへ向かうのだ」

この唐突な表現は、聖書を下敷きにしたものである。

ローマ皇帝のキリスト教徒弾圧に直面し、ローマで布教にあたっていたペテロは街を脱出した。その時ペテロはイエス・キリストとすれ違う。この時ペテロがイエスに問いかけた言葉が「クォ・ヴァディス」(Quo vadis)である(外伝の方)。

キリストはこう答えた。

なんじ(汝)、我が民を見捨てなば、我、ローマに行きて、いま一度十字架にかからん

3.われわれは、だからここに来た

どんなに辛くてもこの街の中心に立って、あの爆弾が落ちてきた瞬間のことを全身全霊を傾けて想像してみなければならない。

おそらく、ここが碑文と響き合うところだ。

現実から目を背けず歴史を直視し、同じ苦しみを繰り返さないため何ができるのかを自らに問う共通の責任がわれわれにはある。

これが雑賀さんの言いたかったことであろう。オバマは雑賀さんの気持ちを体得している。

1945年8月6日の朝の記憶は永久に風化させてはならない。その記憶はわれわれに現状を打破する力を与え、モラルの想像力の殻を破る力、変わる力を与えてくれる。

4.ヒロシマは核戦争時代の夜明けではない

広島と長崎が「核戦争時代の夜明け」として歴史に刻まれる未来なんか要らない。「モラルの目覚めの朝」として歴史に刻まれる未来をともに選んでいきたい

以上のようにオバマ演説を読み解くとき、とりわけ3.の部分は凛として慰霊碑の碑文と響き合っているように思われるがいかがであろうか。


大変だ。「原爆慰霊碑の碑文とオバマ演説 その1」を消してしまった。その2を上書きしてしまったらしい。


オバマの演説は良いのだけど、横にいる男には虫酸が走る。

だからテレビのチャンネルを変えたが、どこも同じ絵だ。

なんでこんな男が傍らに居なくてはならないんだ。

今一度、この男の発言をさらっておこう。

2002年6月2日号の「サンデー毎日」の記事より

安倍氏が小泉内閣の官房副長官だった頃、早稲田大学で「核兵器使用は違憲とは思わない」と発言した。サンデー毎日側は録音テープと写真を元に記事を掲載した。

(大陸間弾道弾を作ってもいいのかと問われて)「大陸間弾道弾はですね、憲法上は問題ではない」、「憲法上は原子爆弾だって問題ではないですからね、憲法上は。小型であればですね」

(それは個人的見解かと念を押されて)「日本に撃ってくるミサイルを撃つということは、これはできます。その時に、戦術核を使うということは昭和35年(1960年)の岸総理答弁で『違憲ではない』という答弁がされています。

この発言はウォール・ストリート・ジャーナルを通じて世界に拡散されている。

知らないのは国営NHK放送しか見ない善良な日本国民のみだ。

おぞましいことこの上なき存在であるにもかかわらず、原爆というのは過去と未来とをつなぐ重要な結節点である。

いま世界ではキリストの生誕日を歴史の結節点としているが、人類の平和的共存という流れで見るのなら、1945年こそが結節点となるべきかも知れない。

平和は血だらけの姿で、「ヒバクシャ」という衣をまとって登場した。

そこから、平和を至上の価値としてとらえる「人類のひとつの時代」が始まった。だから我々はあらゆる逆流に抗して、平和の歩みを進めなければならないのである。

さまざまな議論はあるにしても、まずはそのことを踏まえた上で展開されなければならないと思う。

だからこれまでの人道とか、正義というレベルの議論は物足りなさを感じるのである。

次の評論

オバマ大統領「広島演説」は一大叙事詩だった

という東洋経済(05月30日)の記事。執筆者は岡本 純子という方で、肩書は「コミュニケーションストラテジスト」ということで、コミュニケーションを啓発する仕事らしい。

この記事もオバマ演説をコミュニケーション・テクニック的な見方で切り取っているので、微妙にテーマはずれているが、オバマ演説の本質的な部分をかなりしっかりと捕まえていると思う。

演説の紹介を以下のごとく結ぶ。

広島を「核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地としなければならない」とスピーチを結んだ。

ただし原文はもう少しニュアンスに富んだものだ。

広島と長崎が「核戦争時代の夜明け」として歴史に刻まれる未来なんか要らない。「モラルの目覚めの朝」として歴史に刻まれる未来をともに選んでいきたいと、そう切に願う。(satomi さんの名訳

記事はその後、この演説のライターと目される38歳のベン・ローズ大統領副補佐官(国家安全保障問題担当)の紹介に移っていくが、省略する。


 オバマ演説に対する論評がそろそろ出揃ってきた。
グーグルで検索して、ヒット順にレビューしておきたい。
1.ケート・ハドソンの主張
最初はケート・ハドソンというイギリス人。核軍縮キャンペーン(CND)事務局長と
いう肩書だ。(ハフィントン・ポスト 31日)
見出しは「それでも、謝罪は必要だ」という論争的なもの
まず、オバマ演説を積極的に評価するが、これは前振り。
第一に、原爆は、ただ空から落ちてきたのではなく、アメリカによって民間人の頭
上に落とされた。
第二に、原爆は戦争終結に不可欠ではなかった。
という二つの認識を押し出す。そして、この二つは謝罪の是非を超えた本質的な
事実だとする。ここから議論が組み立てられ始める。
彼女の議論展開は、第二点を中心とする。
そして、「アメリカは日本を舞台に、原爆で地政学上の駆け引きを演じた」との結
論を引き出す。
その故に、「アメリカは謝罪しなければならない」と主張する。
かなり飲み込みにくい議論だ。議論の拠り所に論争的な「事実けーと・はどそn」
がおかれているためである。一番気になるのは、戦争終結に不可欠であったらそ
れは許されることになるのかということである。
「これがリベラルなイギリス人の見方なのかな?」、と思ってしまうところがある。

2.被団協事務局長の「我慢」

朝日新聞デジタル5月26日づけ、貞国さんという記者の署名入りだが、被団協の考えを紹介したもの。

「朝日風」の書き方が鼻につくが、ここは我慢。

A. 被団協は謝罪を求めない。求めたいが我慢する。

B. その理由は、被団協は何よりも核廃絶の前進を求めるからである。

C. 全国から集まった約20人の代表理事の全員が、この判断を認めた。

日本被団協の田中熙巳事務局長は、こう語る。

第一に、親世代は謝罪を強く求めていた。しかし被爆者の平均年齢は80歳を超えた。被爆者が生きていられる年月にも限りがある。焦りがある。

第二に、謝罪を求めれば、米国の世論が反発し、オバマ大統領は訪問できなくなるかもしれない。そういう判断が共有された。

第三に、「責めてばかりでもいけない」という声もある。

第四に、オバマ大統領が被爆地で被爆者の話を聞けば、何をすべきかわかってくれるという確信もある。

そのうえで、「オバマ大統領が核廃絶の道をつくることが、被爆者にとっての謝罪になる」という共通理解に達した。

3.原稿は変更されたのか?

5月10日、ワシントンの記者会見でアーネスト大統領報道官はこう語った。

A. 広島訪問を謝罪と受け止めるのは「間違った解釈だ」と強調した。

B. 平和記念公園でのオバマ演説は、敵国同士が強固な同盟関係を築いた戦後の日米の歩みについて、短い談話を出すのにとどめる。

C. トルーマンは死傷者を考慮に入れつつ、安全保障のために原爆を投下した。オバマ大統領はそう認識している。

D. オバマ大統領が広島を訪問するのは、米国が「核廃絶に向けて世界を主導する特別な責任があると理解している」ためである。

E. これを機会に「核兵器なき世界」の実現や、日米同盟のさらなる深化を目指したい。

これを聞いた世界の人々は、まさかオバマがこのような演説をするとは思わなかったのではないか。

それはオバマにしてみればギリギリの踏み込みだったといえるだろう。

4.英語版2チャンの反応

面白いサイトがあって、アメリカ版2チャンの対話を翻訳してくれている。

その中の5月28日の記事

訳者の見出しは「【広島・米大統領スピーチ】海外「謝罪しやがった・・・」【海外反応】 となっている。


* 民間人が住む二つの都市に投下なんて事自体がオカシイでしょ?
あなた方は常に、「善悪の二択」でしか物事を考えてない
で、常に出される結論は、「合衆国は正しかった」だ・・

* オバマはこう謝るべきだった
「あと二個くらい落とせばよかったのにゴメンね」
Tokyoにも落すべきだったんだよ
中国や韓国、そしてフィリピンに対してやった残虐行為・・・
充分それに値する

これは流石にひどいが、米国が中国や韓国、そしベトナムに対して原爆を使うつもりだったことを、同じ論理で説明できるかな。もう一つ、マッカーサーの親父がフィリピン独立派数万人を虐殺した歴史を知るべきだろう。

* (パールハーバーに関して) あのね、日本が攻撃したのは軍事拠点だよ
一方で合衆国が攻撃したのは、民間人が住む普通の都市・・・
合衆国の上層部は事前に知っていた。しかもその事を教えていなかった・・・(これはイギリス人がアメリカ人を皮肉ったもの)

* そう
謝るべきは日本政府の方
日本国民に対して謝罪するべき (これはある意味正論)

* 原子爆弾の被害は、当時被爆した人の子や孫の世代にまで影響してるんだよ・・・
そんな爆弾を正当化するとか・・・
凄いね、みんな(これはイギリス人)

* 現実として、原子爆弾は一般の民間人の頭上に落されたんだぞ?
お前らはどいつもこいつも、その現実を無視して「良かった」だの「思いやりが有った」だの・・・
なんなんだよ一体#(これもイギリス人)

* 一つだけ確かな事
それはアメリカが無実の市民を大虐殺したという事実
そう、合衆国がやった事は間違いだった(オーストラリア人)

* 一般市民を攻撃した事実
誰もがこの事を忘れちゃってるのスルーしてるのか・・・
殺された人の大部分は女性や幼い子供達だよ
戦争犯罪とは一切関係の無い人々(イギリス人)

* 素敵なスピーチだと思った
彼の言ってる事は正しいよ
我々は、決してこの過ちを繰り返してはいけないんだ
悲惨な思いをしたのは、関係の無い一般国民だけだった(イギリス人)

 

どこの国にもいるネトウヨの発言の中に、まともな反論が紛れこんでいる。

面白いのはアメリカ人がパールハーバーと騒ぐのに、イギリス人がたしなめているということ、しかし共通して言えるのは原爆が未来破壊兵器であること、それを使用したことが「人類に対する罪」であることへの言及が見受けられないことである。

核保有国の論理が市民レベルに浸透していることが窺われる。

 

ハフィントン・ポストのサイトに多くの写真が掲載されているが、その中の1枚は私がこれまで見たことがないものだった。

以下に無断転載する

ヒロシマ俯瞰

キャプションはこうなっている

この写真は1945年7月16日撮影されたものである。最初の原爆実験後の空撮で、ニューメキシコ州トリニティーの実験場が写っている。

付近の住民はオバマのヒロシマ訪問を賞賛した。それと同時に、彼らはオバマに、こちらにも来て欲しいと願っている。なぜなら、ここでも何世代にもわたって子孫がガンや健康障害に悩んでいるからだ。

縮尺がわからないのだが、この写真とヒロシマの写真とを重ねるとどうなるか。中心のへそは何を意味するのか、その外側の黒い円と黒い棘は何を意味するのか、その外側の白身は何を意味するのか、それを知りたい。


オバマ演説は「謝罪論争」への総括的結論

まずオバマの広島訪問について、私の正直な感想をいくつか上げておこう。

1.それは素晴らしいことであった。現職大統領として訪問したこと自体が大きな意義を持っていると思う。

2.演説は少々長ったらしく、少々抽象的なものだった。しかし後からいろいろ考えると、その必然性が見えてきた。

3.横でニヤニヤとする安倍首相の姿はたいへん目障りであった。いつもなら、彼の姿を見ただけでチャンネルを切り替えるのだが、今回はそうも行かず、こみ上げる不快感をこらえるのが辛かった。

4.メディアはアホな韓国人しか映さないから、そして私はまともな韓国人を知っているから、それはメディアのアホさ加減の投影にすぎない。

5.中国には困ったものだ。日本と同じようにアホが政治を仕切っている。王毅外相はこんな人ではないはずだが。

と、ここまでなら酒飲み話で、なんの苦労もなくスラスラと思い浮かぶことだ。

しかし一連の経過の中で、何故か「謝罪問題」が大きく浮かび上がってきた。

そしてメディアは広島に来たオバマが「謝罪」するかどうかに関心を集中させた。日頃これだけ核問題に無関心だった連中が、突然「謝罪」を求めるのはいかにも不自然だ。

なぜか? 誰がそうさせたのか?


「謝罪」問題では数年前にこういう事件があった。

オバマは大統領就任後の2009年に初来日した。当初、オバマは広島を訪問し原爆投下に対して謝罪するつもりで、その可能性を打診してきた。

ルース駐日大使を通じて打診を受けた藪中外務事務次官は、これを断った。断った理由が「時期尚早」というのだから分からない。

察するに、日本政府が原爆にとんと無関心で知らんぷりをしていたから、オバマにそんなことされると立場がなくなる、ということではなかっただろうか。

そういえば、日本政府が原爆投下をもたらしてしまったことについて「謝罪」したとは聞いてないなぁ。

これがウィキリークスで暴露されてしまったのだ。

the idea of President Obama visiting Hiroshima to apologize for the atomic bombing during World War II is a "non-starter." it is premature to include such program

これが藪中発言の骨子だ。

この時の首相は安倍ではなく麻生だ。しかし安倍晋三がオバマの広島訪問を快く思っていないことは明らかだろう。それでいてちゃっかりパフォーマンスとしては利用する、その心根は見上げたものだ。

おぉ嫌だ。こうやって書いているだけでも身震いがする。


となれば、「謝罪要求」が日本政府側から出たとは考えにくい。

では、それは広島市民の要求だったのか?

オバマ訪問の直前に共同通信が実施した被爆者へのアンケートで、謝罪することをもとめたのは16%だった。78%は謝罪は不要と答えている。

もちろん被爆後70年を超えて、今も8人に1人が謝罪を求めているという事実は重い。残りの7人にもその気持は投影されていると見るべきだろう。

しかし肝心なのはそこではない。「三度許すまじ」の気持ちを理解し共有してもらうことだ。だから「謝罪」云々で袂を分かつような事にはなってほしくないのだ。だから涙を呑み、恨みを含んでいるのだ。

原爆碑の銘文はこうなっている。「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」

これについては当時からいろいろな議論があった。「あやまちを犯したのは自分たちなのか?」

絶対にそうではない!

しかしあやまちを繰り返さぬ責任、繰り返させない責任はある。死者に対して生残ったものにはその責任がある。そう読むべきだということで決着は付いている。

そのことで広島市民は死者に対して「謝罪」しているのである。

そして、その「凛とした思い」を日本政府、アメリカ政府、全世界の人々に共有して欲しいのである。

そこにオバマ演説は応えている。それが演説が長くなり抽象的になった理由なのだ、そう思う。

The Four Freedoms(1941) Franklin D. Roosevelt

1.前置き 「すべての国の権利への敬意」が土台

国内問題について…と全く同じように、国際問題に関する我が国の政策は、大小を問わずすべての国の権利と尊厳(the rights and dignity)に対する decent respect に基づいている。

そして道義的な正義(the justice of morality)は、最後には勝たなくてはならないし、必ず勝つだろう

2.「人類の普遍的な自由」

第1は、世界のあらゆる場所での言論と表現の自由(freedom of speech and expression)である。

第2は、世界のあらゆる場所で、すべての個人がそれぞれの方法で、神を礼拝する自由である。

第3は、欠乏からの自由(freedom from want)である。それは、世界的な観点で言えば次のような経済的合意を意味する。(直訳では、“世界語に訳すなら、次のような経済的理解を意味する”)、

すなわち、あらゆる国で、その住民のために健全で平和時の生活を保障することである。

第4は、恐怖からの自由(freedom from fear)である。それは世界的な観点で言えば、世界規模で軍備を削減することを意味する。

一つのポイントまで削減すべきだ。すなわち、いかなる国も、いかなる隣人に対しても、武力攻撃の行動を起こす立場をとらなくなる、そういうポイントまでだ。それも全面的なやり方でだ。

3.独裁者たちと4つの自由

独裁者たちは爆弾の衝撃によって専制政治の新秩序を作り上げようとしている。4つの自由はそのまさに対極にある。

われわれが追求する世界秩序は、自由な諸国が友好的な文明的社会の中で力を合わせる協力関係なのである。

それは道義をわきまえた秩序である。

それは千年先の幻想ではない。われわれの時代と、この世代のうちに実現可能な形の世界である。

4.米国の歴史と革命

米国の歴史は永続的な平和革命である。そこには強制収容所も、逃走を阻む溝もなかった。

米国は、その運命を、何百万人もの自由な男女の手と頭と心に託してきた。そして、神の導きの下で、「自由」に信頼を託してきた。

5.自由とは何か

自由とは、あらゆる場所で人権が至上であること( the supremacy of human rights )を意味する。

そうした人権を獲得し維持しようと苦闘する人々に、われわれは支援の手を差し伸べる。

我々の強さは、我々がこの目的のもとに団結していることにある。

アメリカンセンターJAPAN ホームページより)

Yuko's Blog 「アメリカ ウォッチ」に親切な解説があるので紹介する。

 米国憲法改正第一条には、「言論の自由」と「信仰の自由」が謳われている。ルーズベルトはこれに第3,第4の自由を加えたものである。

freedom from want とは、人権および国際的権利として、すべての国民は社会的および文化的側面から適度な生活水準を維持する権利があることを強調したものである。(とあるが、これを「欲することの自由」とは、まぁその通りではあるが、流石に意訳が過ぎよう)

最後の恐怖のない自由とは、この戦争は世界が平和と自由のために戦っていることを米国民に知らせる意図があったと思われる。

この文章から、4つというのはレトリックであって、要するに2つの自由であることがわかる。

欠乏からの自由というのは、「生存権」のことである。恐怖からの自由というのは「平和的生存権」のことであるが、もっと差し迫っていて、いわば「平和のために闘う権利」ともいうべき色合いを帯びていることがわかる。

どう闘うかは、この時点ではまだ示唆的なものにとどまっているといえる。

この二つは、「自由」ではなく「権利」として憲法前文に生かされている。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」


私にはこの2つの「…からの自由」が、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」と響き合っているような気がする。

何がどう響き合っているのか、あるいはいないのかはわからない。

フロムはフランクフルトの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。ナチスが政権を取るのと前後して、アメリカに亡命した。

そして、1941年、アメリカが参戦する直前に「自由からの逃走」が刊行された。

時期的には完全にかぶっており、おそらくフロムはルーズベルトの「恐怖からの自由」を聞きながら、そしておそらくはそれに共鳴しながら、論文を書いたのだろうと思う。

学生時代には一生懸命読んだが良く分からなかった。いまになると、分からないのが当然なんだということが分かった。

そもそもルーズベルトの「恐怖からの自由」というのが持ってまわった表現で、「平和への自由」というところを英語の慣用的表現に合わせて逆説的に言っただけの話だ。

要は「平和的生存権」の主張そのものだ。しかも「平和的生存権」一般にとどまらず、「平和のために闘う権利」まで踏み込んで言及したものだ。

だから言論人は、ルーズベルトの呼びかけに応えて、「平和のための闘争を放棄するな。最後まで闘え!」と呼びかけるべきなのだ。文明論などやっている陽気ではないのだ。

そういう文脈で見ると、フロムの文章は情けないほど状況に立ち遅れている。“フロイド魔術用語”への置き換えを除けば理論的寄与は無きに等しい。

戦後フロムらの新フロイド学派がもてはやされたのは、サルトルの実存主義と同じで、スターリン主義の同伴者として位置づけられたからに他ならない。

スターリン主義が地に堕ちた以上、彼らも同じ運命をたどる他ないだろう。

「ニューディール物語」と題しましたが、最初は「大暴落からニューディール 年表」を作成した感想を書くつもりでした。
そのうちに、ズルズルと事実に引っ張られて、「歴史」もどきのものになってしまいました。その割には出典が明らかでなく、筋書きも論争点に着目したゴツゴツとしたものになっています。
もう少し、初めての人にも分かりやすものにしていくつもりです。一番言いたいことは、ニューディールを運動として、民衆と進歩的政権の実践と認識の過程として捉えるべきだということです。
そうすれば、私たちのいまの運動を考えていく上で、ニューディール運動は大きな教訓を与えてくれるだろうと思います。

1.29年の大暴落(Great Crash)

私たちは、教科書的知識として世界大恐慌(Great Depression)を知っています。

しかし、1929年10月にウォール・ストリートで起きた株価の大暴落がどうやって世界大恐慌に結びついていったのかは意外に知らないのではないでしょうか。

それを知るためには、まず大暴落はそれとして別個に理解したほうが良いとおもいます。

2008年に我々が経験したリーマン・ショックと同じで、一応、破滅的な株価暴落とその後現在まで続く長期不況の2つは分けて考えるべきでしょう。

うんと単純化して言えば、大暴落そのものは、生産過剰が証券バブルとなりそれが弾けただけの話で、規模は大きいがある意味では単純な暴落でした。

それが投資家のパニック的な資金の回収によりヨーロッパの金融恐慌をもたらし、世界規模に広がっていきました。これもリーマン・ショックと似ています。

アメリカが風邪を引けば他の国は肺炎になる。これも同じです。

しかしそこから先が少し違っています。リーマン・ショックではアメリカをふくむ各国政府がいち早く財政出動して、金融システムの保護に回りました。

しかしその時のフーバー政権はアクセルを踏まずに逆噴射をかけました。「機長、何をするんですか!」の世界です。

引き締め策は3つの柱からなっていました。高金利・高関税・財政均衡策です。お役所で言えば連銀、商務省、財務省の三役揃い踏みです。とくに金融引き締めは致命的効果をもたらしました。これにより、お膝元の国内金融システムも壊滅的打撃を受けてしまいます。

これでアメリカ経済は失速し、ハードランディングし、長い不況期に突入するのです。


2.大暴落から世界大恐慌へ

その辺りをもう少し詳しく見ておきましょう。

ヨーロッパはなんとか1年半を持ちこたえました。その頃はまだヨーロッパはアメリカに対抗出来るだけの力を持っていたのです。

しかし31年5月になって、ついにオーストリアとドイツが破綻しました。第一次大戦後のベルサイユ体制の歪みが、戦敗国にしわ寄せされたと言われます。

ベルサイユ体制は表面的には、法外な賠償金要求などフランスの身勝手な動きが目立つのですが、所詮は貧乏人同士のいがみ合いです。

ベルサイユ・システムの本当の流れは、ドイツ・オーストリアが賠償金を支払い、それを受けたイギリス、フランスが戦費の借金としてアメリカに支払う。それをアメリカがドイツに投資するという三角形を作っていました。

それが破綻したのは、独・墺への主要投資国であり、随一の資産国であるアメリカが無意味な引き締め策を続けたことにあります。だから独・墺が破綻するとたちまち、英仏が金繰りに窮し、こうして金融恐慌が全欧州に拡散してしまったのです。

この経過には当時世界各国が採用していた「金本位制」のシステム破綻が絡んでいるのですが、そのあたりは省略します。

ひとことで言うと、世界大恐慌は、欧州発の金融恐慌(もともとは大暴落の余波だが)とアメリカ国内の金融恐慌がシンクロして発生したことになります。


3.大恐慌がもたらしたもの

こうして31年後半から32年末までの1年半、地獄のような状況がやって来ます。

32年度末の実体経済を示す数字が、カタストロフィーの深刻さを如実に示しています。

GDPは1919年から45%減少しました。工業生産は平均で1/3以上低落し、基幹産業の生産は半分以下に落ち込みました。農産物価格も半分以下に落ち込みました。

失業者は1200万人、不完全就業者が数百万人、合計で1700万人に足しました。失業率は25%、労働可能者の4人に一人が失業状態に陥りました。就業者の平均賃金も半分にまで減りました。

6千近い銀行が破産。最終的には1万を超える銀行が破産状態に陥ります。株価は80%以上下落し、それが回復するのは戦後まで持ち越されました

この大恐慌で最も苦しめられたのは失業者です。そのほとんどは、大恐慌が生み出した29年以降の新規失業者でした。

次に、農産物価格の低下と旱魃に苦しめられ、家屋敷を抵当に取られ流浪の民となった多くの農民がいます。かれらも失業者の仲間に加わりました。

南部の黒人小作農(シェアクロッパーといば聞こえはいいが、実態は掘っ立て小屋をあてがわれただけの農場奴隷)たちも、不景気を理由に農場を追い出され、あてもなしに五大湖周辺の工業地帯へと向かい、失業者の大群に加わりましました。

さらにヨーロッパからも多くの移民がやって来ます。彼らはそのまま社会の底辺に沈み、アメリカ国内の失業者群に加わって行きました。

ここまでは労働者・貧困者のレベルだが、31年に世界大恐慌の色彩が強まると、それでは済まなくなり、中間層にも影響が及び始めます。

まず銀行がどんどん潰れ始めます。最初は足腰の弱い地方銀行からで、そのうち都市部の銀行もやられるようになりました。31年だけで2千以上の銀行が倒産しました.32年にはさらに8千の銀行が潰れました。

信金とか相互銀行みたいなところが潰れると、小商いの店や企業が連鎖して潰れていきます。そのうち地方では老舗と言われる会社も同じ運命をたどることになります。

そうなれば地方を支えていた草の根中間層がごっそりといなくなり、そこに膨大な失業者群が生まれます。この年失業者は一気に800万に増えました。

だが、これはアメリカ国内の“風邪ひき”の数字であり、ヨーロッパやラテンアメリカの“肺炎”の方の数字は含まれていません。

こうしてみれば、ある意味では第2次世界大戦は、この時すでに運命づけられていたとも言えます。極言すれば、第2次世界大戦の最大の原因はフーヴァー政権にあったとさえ言えるでしょう。


4.ルーズベルトを押し上げた民の怒り

早くも30年の5月には125万人が参加する労働者・失業者の全国統一行動が起きています.これらの運動の中から「全国失業者協議会」が結成され発展していきます。

やがて貧困問題が深刻になると、闘争形態も激しさを増していきます。デモも「飢餓行進」を銘うって行われるようになります。

「飢餓行進」の代表者はフーバーに面会を求めるが拒否されました。「汝ら臣民、飢えて死ね」ということです。世間の情勢はどんどん厳しさを増し、発する言葉も剣呑なものになってくる。

32年に入ると、ついに死者も出るようになってきました。(南部の黒人の間では古くからあたりまえのことであったが)

3月にはデトロイトで職を求めるデモ隊3000人に対して警官が発砲し,4人が死亡しました.

7月には復員軍人2万5千人がデモ行進。引き続いてワシントンでの座り込みに入りました。「17年(第一次大戦)には英雄、32年には浮浪者」というのが彼らの抗議スローガンでした。

この座り込み行動に対し軍隊が出動し、強制解散させました。この行動は流血の惨事をもたらし、多くの死者を出しています。フーバーの承認なく発砲を命じたのが、ときの参謀総長ダグラス・マッカーサーだったというのは記憶しておいてよいでしょう。

忘れてならないのは、まずもってニューディールが、そうやって追い詰められた民衆の怒りの表現であり、その必然的な方向づけとしてあったという歴史的事実です。

ネオリベの人々は、ことあるごとに「ニューディールが実際のところはなんの役にも立たなかった」とか言って批判しますが、ここまで追い込んだのは当時のネオリベ信奉者たるフーバーと共和党政権であったことを忘れてはなりません。

ニューディールは当時の世相を反映して、政策的には多義的です。なかにはファシスト的色彩を帯びているものさえあります。その一つ一つを切り離して是非を云々しても始まりません。

それが全体として、民衆の怒りを反映し、民衆の願いにそって、民衆ための政治を目指すものであったことが重要なのです。

経済理論というのは、究極的には最大多数の幸福を追求するためにあり、そのための社会実践を補強するためにあります。「市場経済の原理」を守るためにあるのではありません。

これは近代資本主義理論の始祖であるベンサムとジェームズ・ミルの教えでもあります。


5.中継ぎエースとしてのルーズベルト

フーバー政権への嫌悪感は頂点に達しました。もはや一触即発です。

ルーズベルトは、こういう雰囲気の中で体制側の中継ぎエースとして登場しました。

すみませんが、ここで「中継ぎエース」について語らせてもらいます。それまで好調に飛ばしていた先発投手が、勝利投手の権利を目前にして突然、フォアボールを出して崩れ始め、あれよあれよというまに1点差まで追いつめられ、得点圏に走者を残したまま降板、というのが中継ぎ投手の出番です。

中継ぎ投手の役目はまず打者の目先を変えることにあります。先発が力投型なら変化球、軟投型なら豪速球ということになります。

どちらにしてもその目的は目前の危機をしのぐことです。味方は中継ぎ投手に全てを託し、その一球、一球を見守る他ありません。

かと言って、味方は救援投手に全幅の信頼をおいているわけではありません。やはり不動のエースというのはダルとかマー君のような先発投手です。

ルーズベルトの位置づけはまさに体制側の救援投手でした。彼は本質的にはまったく体制側の人であるし、その政策も「ニューディール」というスローガンも含めて曖昧でした。

しかし期待された役割とは別に、彼にははっきりした目標と計画がありました。それは体制側と反体制側の勝ち負けなどとは次元の違うものでした。

彼は市場経済のシステムそのものを変更しようとしたのです。いわゆる修正資本主義ということになります。

その計画は見かけ上はかなりファシストに近いものでした。

ではファシストとFDRはどこが似ていて、どこが違うのか。

似ているのは国家機能を大きく拡大して、政府のイニシアチブにより経済を立て直そうという考えです。

第二には、当座の財政赤字は覚悟の上で政府投資を拡大し、これによる景気回復を図ろうという積極財政策です。

違うのは、経済民主主義と福祉経済の方向に進むのか、大資本の収益確保で生産を軌道に乗せる方向なのか、というところにあります。

アベノミクスで言えば、第三の矢の方向性の問題です。

FDRは経済民主主義という進歩の方向で、資本主義のあり方そのものを変えるところまで見通していました。(おそらく漠然とですが)

これに対してファシストは、せいぜいが農本主義的な後ろ向きのユートピア止まりです。結局大資本本位のシステムを維持することになるから、過剰生産の問題は解決できないし、より深刻にするだけです。

ルーズベルトは政治的民主主義を視座において、それを実現し安定的に運用しうる経済システムの実現を構想しています。

もう一つのファシストとの違いは、リベラリズム(訳しにくいが進歩的自由主義くらいか)です。南部へ行くとほとんど「コミー」(アカ)と同義語です。

英語をやった人ならわかると思いますが、“フリーダム”というのはたんに束縛を受けないという意味の「自由」ではありません。むしろ「権利」と訳したほうがふさわしい場合が多々あります。

かくも生きづらい時代において、原理的権利としての「生きる自由」を尊重することは、そのまま民衆の生存権を尊重することに繋がるのです。

無論、政治家としてのルーズベルトは海千山千のタフな人物です。ただその素性、生い立ち、人脈、政界歴を通じて、民衆を代表する政治家としての構えを形成していたと見るべきでしょう。

ちなみにルーズベルトの祖先はユダヤ系オランダ人の移民です。ルーズベルト一族のセオドア・ルーズベルトはアメリカのキューバ、パナマ侵略の先頭に立った「帝国主義者」ですが、後年には反トラストを奉じ独占資本と対抗した経歴を持っています。(遠縁ではあるが、FDRの妻エレノアの義父役を勤めるなど親しい関係にあった)

彼の訴えたモットーが「スクエア・ディール」でした。訳しにくい言葉ですが、「公正な分前」というか、民衆の取り分を主張したものでした。言葉の上では「ニューディール」にもつながっているように思えます。

basic ideas: conservation of natural resources, control of corporations, and consumer protection.
These three demands are often referred to as the "three C's" of Roosevelt's Square Deal. (Wikipedia)

FDRもハイチ侵略の片棒を担いだ経歴を持っていますが、小児麻痺を患って一度政界を引退したあとは、リベラル派の代表としてニューヨーク知事に復活しています。


6.ニューディールの鮮やかな登場

33年3月4日、ルーズベルトは大統領に就任しました。その1ヶ月前、銀行倒産はついに1万件を超えました。待ったなしの状況です。

彼はそれまでの曖昧な見せかけを突如かなぐり捨てて、次々と革新的な政策を打ち出していきます。

それらはいずれも資本主義の延命を「大義」として打ち出されたものでした。しかしその内容は相当吟味されていて、見せかけの資本主義擁護とは逆に資本主義の改造を目指す施策が忍び込まれていたのです。

就任式の2日後に最初の爆弾発表がありました。議会が招集されるまでの4日間、すべての銀行の営業を停止させたのです。

彼はこれをバンクホリデーと言いました。物は言いようです。もともとアメリカでバンクホリデーというのは祝日のことです。銀行が休みだから、商売も休みになる、ということで祝日が発生したということです。

休業命令ということは、結局預金引き出しの禁止にほかなりません。祝日どころではありません。当然パニックが予想されます。ルーズベルトはいきなり地雷原に突っ込んだのです。

もちろん4日後には銀行を再開しなければならない。実はそのための手立てはうってありました。3月9日の議会開会の冒頭、彼は緊急銀行救済法を提出し、銀行破綻を食い止める姿勢を明確にしました。

この法案は数時間という超スピードで議会を通過し成立しました。

見事な腕前です。

おそらく練りに練った議会運営計画だったのでしょう。提案した法案の多くがこのやり方で議会を通過していきました。

こうして3ヶ月あまりにわたる議会で多くの議案が成立しました。「百日議会」と呼ばれる所以です。成立した法案の集合が「ニューディール政策」です(第一次ニューディールと呼ばれる)。

残念ながら、この辺りの経過を詳しく記した日本語文献はネット上では見つかませんでした。

諸文献から察するに、大多数の資本家はこれを歓迎したようです。モルガンやロックフェラーなどの超巨大資本は、依然としてフーバー式の放任政策、財政均衡政策に固執していたが、ルーズベルトの政策に表立って反対はしませんでした。

政府は彼らのポケットに手を突っ込んだわけではないからです。しかし、後に、労働者が直接彼らのポケットに手を突っ込むようになります。それはニューディールのちょっとした波及効果でした。

先程も述べましたが、ニューディールは本質的には資本主義の延命策であり、資本家階級の擁護策です。それをチープガバメントでやるかビッグ・ガバメントでやるかという違いです。

貧困者を犠牲にすることなく、しかもチープ・ガバメントでやろうとすれば、革命によって「収奪者を収奪する」(マルクス)しかないのですが、それはとりあえずおいておきましょう。

価格を安定させ生産の再活性化に結びつけていくためには、当面生産調整が必要です。それを貧困者に押し付けることなく実施するか、強権的に(すなわち大資本家本位)にやるかの違いです。

後者は生産調整がリストラを呼び、さらに多数の失業者をもたらします。前者をとろうとすれば、必然的に財政出動と国家による調整(国有化もふくめた)、すなわちビッグ・ガバメントが求められることになります。

ここまでは理の当然です。ニューディールは必然だったのです。フリードマンの後知恵的批判は、2つのことを示しているにすぎません。すなわち、ニューディールはやり足りなかったということ、国際協調なしにアメリカの都合だけで行われたということです。


6.NIRA 成立のための前措置

第一次ニューディールの中核は全国産業復興法(NIRA・National Industrial Recovery Act) にあります。

「百日議会」は実に巧みに仕組まれていて、最初は抵抗の少ないもの、即効性が期待できるものから始まり、徐々に政府による生産調整という本丸に近づいていくようになっています。

その辺りを簡単にレビューしておきましょう。

まずは緊急銀行救済法ですが、これは見事に奏功しました。3月末には銀行の4分の3が営業を再開し、10億ドルの通貨がふたたび市場に流通し始めました。

ただケチを付けるわけではないが、株価は前年8月には底を打っており(最高時のわずか1割強ではあるが)、放っておいてもいずれ残った銀行は復興する傾向にはありました。

3月10日には「経済法」が成立しました。これは連邦政府公務員の給与をカットし、退役兵恩給を最大15%減額するというものです。なんでそれが「経済法」なのだ。

ニューディールの精神とは合わないが、ニューディールというものが、そもそもゴッタ煮だということを示しています。(ただ上級公務員の退職金や恩給は、とくに途上国においては法外です。私が大統領でもやります)

4月には「金没収法」が成立しました。これも法の実体と似合わない名称で、中身としては金とドルとの交換を停止するというものです。これで実質的には金本位制が破棄されたことになります。

5月には農業調整法が成立しました。これは農家の保護が趣旨ですが、そのために政府の主導で生産調整を行うというもので、反トラスト法に抵触する可能性はあります。

「農家を保護して何が悪い」という開き直りで、ある意味でNIRAを通すための予行演習ともなっています。

農業調整法についてはちょっと語りたいのですが、本題から外れるので、とりあえず次に進みます。

6月には銀行法(グラス・スティーガル法)が制定されました。主たる内容は連邦預金保険公社(FDIC)の設立にありますが、いくつかの爆薬がひそめられていました。銀行業務と証券業務の分離投機の規制条項や持株会社による銀行所有の禁止条項です。(詳しくは関連記事をご参照ください)

ネオリベにとっては長年目の敵となった法律で、90年代に破棄されています。その結果がリーマン・ブラザーズの悲劇となったことは、記憶に新しいところです。

こうして資本家や農園主へのサービスを積み重ねながら、少しづつ政府介入の領域を拡大させ、議員の抵抗が減ったところでNIRAが提出されることになります。


7.NIRAの成立

全国産業復興法(NIRA・National Industrial Recovery Act)は、この法律の説明だけでも一つの記事になるくらい、様々な評価がなされる法律です。ここでは簡単な説明にとどめます。

「アメリカ史上最も重要な法律の一つ」と言われますが、実際には短命で37年には「違憲」との判決を受け失効してしまいます。その代わりに新たに制定されたのがワグナー法ですが、この話は後で。

①この法律の表向きの趣旨は、過当競争を避けるために連邦政府が関連団体に協定を結ばせることです。いわば官製トラストであり、ニューカマーの排除をもたらす可能性があります。連邦大陪審の判断のごとく、違憲の疑いもあります。

②具体的な方法としては「工業と農業に“公正な競争”を作り出すために、種々の産業で価格・労働規約を取り決める」ことです。結果として過剰生産に陥っていた各企業の利潤が確保されることになります。

③ここまでは資本家にとって“美味しい”ものです。そもそもこの法律は元は資本家たちの提起したものであり、ムソリーニの「組合国家」を下敷きにしたものとされています。

④法律の謳い文句は、「企業の安定により労働者の賃金の適正化と生活安定を果たし、国民の購買力を回復させる」ことです。そうすれば社会の安定化、ひいてはストライキや大衆闘争の抑制を図ることもできます。

⑤官製トラスト(談合)は資本家の狙いです。そのためのお題目として「労働者の生活安定」をうたうことには異存はありません。これをルーズベルト政権は(結果的に)巧妙に利用したといえるでしょう。

⑥政権はこれだけの“撒き餌”をしたうえで、「労働者の生活安定」のための手段として、労働者の団結権、団体交渉権という毒針を忍び込ませました。それはどさくさ紛れに法律の柱の一つとなりました。

8 ニューディール連合の形成

ここまでルーズベルトは実にうまくやったといえます。議会操縦術といい、その手腕はなみなみならぬものがあったといえるでしょう。

激しい階級対立の中で旗幟を明確にせず、本心を出さないクレバーな政治手法をとっていたとも言えます。

しかしそういう手法でやれるのはここまでです。あとは反改革派との力勝負になります。そうなるとルーズベルトは誰に依拠するのか問われることになります。

その答えがニューディール連合でした。ニューディールを政策的に担ったのはリベラル経済学者で、「ニュー・リベラリスト」と呼ばれます。ケインズだけではなくイギリスの福祉経済学、アメリカのヴェブレンの流れをくむ広範な人脈です。

(ヴェブレン自身は福祉国家論の立場ですが、改良運動に積極的ではありませんでした。ニューディールに主として関わったのはJ.R.コモンズ、A.H.ハンセンら制度学派左派と言われています)

これに比べると、政界にはさほど有力な足がかりはありませんでした。大衆運動がそれを補いました。悪く言えばポピュリスト政権です。

中でも最大の柱が勃興しつつあった産業別の労働運動です。

それまでの労働運動は職人組合的(ギルド)な色合いを強く残していましたが、 労働界に膨大な未熟練労働者、非正規労働者が流れ込んでくると、彼らの要求を受け止めきれなくなりました。

未熟練労働者が主流を形成するようになると、もはやその職種を問うことはなくなります。彼らは熟練労働者の運動(AFL)とは切り離され、単純労働者として産業別組合(CIO)に組織されるようになります。

そこでNIRAで承認された労働者の団結権が生きてきます。労働者には団結する権利があり、団結して闘う権利があります。

技能を持たない単純労働者にとっては、労働組合に入りそこで闘うことこそが、職を確保し生活を守る唯一の合法的な手段となります。

33年末までの半年間でストライキは3倍化しました。組合数も飛躍的に増加しました。しかしこれは口開けに過ぎませんでした。

34年に入ると労働運動が爆発します。7月には西海岸で船員・港湾労働者13万人が立ち上がりました。サンフランシスコでは全市が4日間のゼネストに立ち上がります。

9月には繊維労働者の全国ストが打たれました。敗れはしたものの南部東海岸を中心に50万人が参加する大闘争となりました。

ミネアポリスでは「チームスター」と呼ばれるトラック運転手の組合がストライキに入りました。彼らは州知事の戒厳令まで発しての弾圧を打ち破り、勝利しました。

自作農は農業調整法によって窮地を救われました。農家の総収入はニューディールの3年間で5割増しとなった。その後、農家はルーズベルトの堅い支持基盤となっていきます。

黒人運動もニューディール連合の力強い担い手となりました。黒人はもともとリンカーン以来の伝統を引き継いで共和党支持であったが、ルーズベルトの政策に共鳴して民主党支持に回ります。

階層別の組織も大いに発展しました。とりわけルーズベルト夫人エレノアの指導する婦人組織、平和組織は「ファシズムとの闘い」を呼号し、ニューディール運動のリベラルな性格を一層強めました。


9 保守派の台頭と第二次ニューディール

強大化する政府機能と労働者よりの姿勢に対して、巨大独占資本は危機感を抱くようになりました。

これらの動きは34年の議会中間選挙を前にして一本化します。

モルガン,デュポンらウォール街の巨頭は「アメリカ自由連盟」を結成し、FDRとニューディール政策への反対を明確にした。この連盟にはUSスティール、GM、ATTなどアメリカの巨大資本が網羅されました。さらに、ハーストなど主要メディアもこれに追随しました。

これによりアメリカの政治地図はニューディールをめぐって反対派と賛成派に二分されることになりました。

しかしルーズベルト派は貧困者救済の実績に物を言わせ、中間選挙で共和党・自由連盟・大手メディアの連合勢力を一蹴しました。この時点ではニューディール反対派もまだ手探りの状態だったのです。

35年になると、今度は司法が反改革に乗り出しました。連邦大陪審が、全国産業復興法・農業調整法などに対し「公正競争を阻害しカルテルを容認している」として違憲の判決を下したのです。

自由競争を阻害する国家による生産調整というのは、確かにニューディール派の弱点の一つではありました。しかしそれはニューディール派と反改革派の真の分岐点ではありません。

真の争点は大企業の身勝手と横暴を許すのか、勤労市民・中間層の生活擁護を優先するのかという点にありました。というより、論戦を通じて真の争点が明らかになってきたというべきでしょう。

ルーズベルトは対抗手段をすでに考えていました。すでにNIRAの性格は著しく変わってきています。いまや産業保護の意味は後景に退きました。それに代わってNIRAは労働運動の最大の根拠法となっていました。

であれば、ということで、NIRAの無効化を受け入れる代わりに、より労働者保護の色彩の強い新たな法律が提起されることになりました。それが7月に成立した「全国労働関係法」(ワグナー法)です。

ワグナー法では新たに不当労働行為の排除が盛り込まれました。これはすごい法律で、いまの日本の労働基準法より遥かに上をいくものです。(ウィキペディアの記載はむちゃくちゃで、ナチの賛美に終わっています。ワグナー法と労働基準法の関連についてはいずれ勉強しなければならないでしょう)

この法律に基づいて会社側のでっち上げた御用組合は違法化され、解散させられました。会社側のスパイ行為やブラックリストの作成も違法とされ、不当に解雇された組合指導者の職場復帰が進みました。

このとき議会を通過したのはワグナー法だけではありません。中でも目玉とされたのが、依然として数百万に及んでいた失業者対策事業です。そのために公共事業促進局(WPA)が設立されました

大独占グループが嫌うもう一つの法案、すなわち社会保障法です。これにより内容はともかくとして老齢年金、失業保険などがスタートすることになりました。

証券取引をめぐる不正を取り締まる「証券取引委員会」(SEC)が設置されたのもこの頃のことです。初代委員長にはJFケネディの父が就任しました。こいつが稀代の悪党で、少し語りたいのですが、いまは遠慮しておきます。(それでなくても余談が多すぎる)

これらの方針を含めて、ルーズベルトは「第二次ニューディール」と称し、議会運営を「第2の百日間」と位置づけました。

ルーズベルトはこうして、NIRAの失効を機にニューディールをさらに民衆側に立って展開するようになったのです。

それと同時に、今後ルーズベルトの前に立ちはだかるであろう司法権力と真っ向から闘う姿勢を示しました。

FDRは語ります。「米国の司法制度は幾多の病弊を暴露して居る。もし大々的な司法改革が行われないならば、司法部の権限から憲法までの根本的改正を考慮しなければならない」

これを「司法への恫喝」と考えてはなりません。両者の力関係を考えれば、当時のルーズベルト大統領に「睨み殺す」ほどの力はありません。それどころか、司法の方は明確な権力を持っていました。「違憲」の名で法案を潰し、最終的には政権を潰すだけの権力を持っています。

だからこれは鍔迫り合いの「権力闘争」と呼ぶべきものです。

だからといって、あまり居丈高にやるのもお勧めはできませんが。


10 「王党派」との対決

36年の大統領選挙では両者の対決は一層明確となりました。ルーズベルトが選挙にあたって掲げたのは「ウォール街の経済的王党派を打破する」とのスローガンでした。ここで彼は独占資本との対決の意思を明確にしました。

ルーズベルトは、これまでの曖昧な見せかけを捨て、ある意味で自らの退路を断ったということになります。そして労働者、勤労市民、失業者、農民、黒人の味方として、ウォール街の王党派の敵としてみずからを位置づけることになったのです。

大統領選挙は、マスコミの8割が共和党ランドン候補を支持するという厳しい状況での闘いとなりました。しかしフタを開けてみるとルーズベルトは歴代最多得票率で再選を果たす結果となりました。

(最近5回の選挙で勝者を正確に予測した「リテラリー・ダイジェスト」誌は、ランドンが勝利すると宣言した。…読者は共和党支持者が多かった ウィキペディア)

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    青色がルーズベルト、赤色がランドン (ウィキペディアより)

開始後4年を経たこの時点で、ニューディールは完全に国民(大金持ちを除く)の間に定着したといえるでしょう。


11 ルーズベルトも人の子

見事再選を勝ち取ったルーズベルトですが、36年度の決算を見てビビります。米国の債務残高がGDP比40%に達っしたのです。

今時、GDP比40%なんてちょろいものだが、なにせ今まで誰もやったことのないことをやって、ここまで債務を膨らませると、周りがうるさい。とくに連銀筋が大声でわめき始めます(日本は15年度で248%)

世論調査では国民の3分の2が、これ以上放漫財政を続けることに反対と答えるようになります。

そこでつい、負けてしまったのです。政府は財政支出の削減に動き、FRBは預金準備率を上げる、それもなんと2倍です。ここから「ルーズベルト不況」が始まります。

実質GDPは11%も下がりました。失業率は4%上昇しました。失業者数は1千万を越えたままで推移するようになります。静かにルーズベルトへの失望が広がっていきます。

バーナンキが当時いたらなんというでしょうか。怒りのあまり発狂してしまうのではないでしょうか。

パブル後不況の底入れは、本当の底入れではありません。公共投資によってマインドが持ち直したとしても、隠れ不良資産は山のようにあります。日本の97年不況の最大の教訓です。(アベノミクスもそうなる可能性が大いにあります)

共和党はこう言って攻撃した。「ルーズベルトは労働者のストライキを煽っている。このために生産性が低下して不況を招いた。このままではアメリカが潰れてしまう」

最初にも書いたようにニューディールは間違っていたのでもなく、効果がなかったわけでもない。投下資金量が少なすぎ、期間が短すぎたのです。

しかしニューディールというのは、とにかく世界で初めての、当時としては破天荒な政策です。まずは前向きに評価すべきではないでしょうか。

38年に入って、ルーズベルトは弱気の虫を振り払いました。「国民の購買力を上げること」で「経済を上向かせること」が政府の責任であると主張するようになりました。

そしてふたたび拡大財政に転じます。

しかしその効果を見る期間は与えられていませんでした。ファシズムの脅威が眼前に現れてきたからです。


12 ニューディールから戦時経済へ

39年の年頭、ルーズベルトは演説の中で中立法の廃止,軍備の拡大,全体主義国家への反対,ニューディール政策の「緩和」を打出しました.

「緩和」といえば聞こえはいいが、要するに民生費を削って軍事費につぎ込むということです。

しかしニューディール政策のもう一つの側面、政府の大規模な財政出動と政府による経済統制の強化という意味では、ルーズベルトの意思は(不幸な形で)引き継がれたとも言えます。

9月にドイツ軍とソ連軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦の火蓋が切って落とされました。

この時点でルーズベルトは腹を固めました。「すべてを反ファシズムのために!」です。(国内は固まっていなかった。これまで反ファシズムを強固に主張してきた左翼は、奇妙なことに中立を主張した)

しかし、パリが陥落し、ロンドンが連日空襲にさらされるようになると、アメリカが「民主主義の兵器廠」となることに表向き反対を唱える人はいなくなります。

戦争準備の中で、ルーズベルトは慣例を破って三期目の大統領に選出されました。

41年初頭の第3期目の大統領就任にあたっての「4つの自由」演説はきわめて格調高いものです。

言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由という4つの自由(権利)を挙げ、これを守ることが民主主義を守ることだとして反ファシズムの立場を明確にしました。

この立場が、日本国憲法の基調をなしていると言ってもよいと思います。我々が学ばなければならない必読文献だと思います。(いずれ紹介します)

結局、ある意味でニューディールの真価が試されるはずだった2期目の任期は、前半は政策の失敗とそのあと始末で終わり、後半はニューディールは事実上放棄され、戦時経済へと移行していってしまいました。

しかしニューディールの中で形成されたルーズベルト連合は、第二次世界大戦を通じて生き続け、戦後のアメリカの骨格となっていきました。

それを壊したのがネオリベであり、その壊れる現場を我々は目の当たりにしてきたのです。


ということで、一応お話は終わり。ここまで読み通してくださった方に感謝します。

5月4日 一応書き換えを終わりました。まだまだ書き足りないところがたくさんありますが、それは「ニューディール運動史 外伝」の形で別途加えていきたいと思います。


恐慌の歴史を勉強していて分かったのだが、恐慌の引き金になるのが農産物価格の下落だ。
最初の恐慌はクリミア戦争の終了後に起きたそうだ。それまで兵隊に送るためにせっせと食糧を増産していて、価格も高値で推移していたが、この需要がいきなりなくなった。
このために農産物価格が暴落して、農村の購買力が低下した。
これが内需の減少につながったということだ。まあ、そればかりではないだろうが…
1929年の世界恐慌へと繋がる株価の大暴落も、農業の生産過剰がひとつの原因だという。
TPPの場合生産が過剰になるわけではないが、外国農産物が入る分、市場価格は間違いなく低下するだろう。
農村が崩壊すれば、内需は一気に縮小する。農業王国北海道の住民は仕事をもとめ、生まれた土地を離れ、流氓の旅に出ることになるだろう。
それを上回って工業製品の生産・輸出が増加すれば、日本全体としての計算上はトントンだが、いまの大企業にそれは期待できない。国外生産を増やすだけだろう。
どうやっても計算が合わないような気がする。

それが恐慌に結びつかなければよいのだが…

1929年

9.03 ダウ平均株価、5年間で5倍に高騰し381ドルの高値に達する。

10.24 「暗黒の木曜日」 ウォール・ストリートで株価の大暴落(Great Crash)が始まる。モルガン銀行、チェイス国定銀行、国定ニューヨーク・シティバンク社が協調して買い支えに動く。

10.28 「暗黒の月曜日」 ダウ工業株平均は13%下落し株価は崩壊する。

10.29 「悲劇の火曜日」(Tragedy Tuesday) 約1,600万株が取引され価総額140億ドルが消し飛ぶ。株価は9月の約半分に暴落。1週間の損失は300億ドル(米国の年間予算の10倍)に達する。 投資家の資金回収により金融機関や企業が倒産し、その数は4500社に及ぶ。

大恐慌をめぐる数字は、資料によって異なっています。問題は何時までを大恐慌ととるかであり、株価暴落の直接的影響なの か、その後の欧州諸国の動揺、それに対する米国の対応によりもたらされたものまで含めるか、すなわち33年3月のルーズベルトの大統領就任直前までの3年 4ヶ月を含めるかで、相当中身は変わってきます。

1930年

3.06 共産党と労働組合統一同盟(TUUL)の指導で労働者・失業者の全国統一行動.125万人が参加し空前のもりあがり.

5 ケインズ、「The Industrial Crisis 」を発表。

大恐慌を 1.一次産品の国際価格の急速かつ大幅な下落,2.不動産や株式などの実物資産の価格暴落、3.資本主義経済の支柱である金融銀行信用システムの機能不全 という複合的危機と指摘。その原因を「世界的な投資不足により資本財の生産が減少したこと」と分析。各国が一致して公共投資を行い、長期債券市場の信頼を 回復させることを訴える。

あらゆる点で最も効果的な救済策は, 三大債権国の中央銀行が国際的な長期債券市場への信頼を回復させるために,一致して大胆な計画に参加することであろう。これは世界各国における起業や事業活動を復活させ,物価と利潤を回復させるのに役立つであろう

6月 スムート・ホーリー関税法(Smoot-Hawley Tariff Act)が成立。国内産業の保護のため高関税政策をとる。他の国も報復関税で対抗した結果、アメリカの輸出入は半分以下に落ち込む。

フーバー大統領は均衡財政主義にしばられ、結果的に増税や金融引き締めに動いた。この結果、銀行経営が危機に陥り市中への資金供給が枯渇した。

7 TUULのよびかけでシカゴで全国失業者協議会結成.「仕事か賃金を」のスローガンをかかげ大躍進.

30年 エンパイア・ステートビルが完成。映画「キング・コング」の封切りは32年。

1931年

5月 ケインズがアメリカを訪問し講演。三つの不況対策を挙げる。

①資金の貸手と借手の双方の確信の回復を図ること、②政府の直接的な支援により投資を促進すること、③長期利子率の引下げと買いオペを実施すること。

景気の回復とともに物価も必然的に正常水準に戻ってくる。それが貯蓄と投資の均衡の実現である。下落した物価水準のもとで均衡を回復しようとするデフレ容認派は間違っている。

5.11 オーストリア最大の銀行クレディット・アンシュタルトの破綻。ドイツオーストリアでは、アメリカ資本による復興を目指していたため、大不況によって資本が引き上げられると、資金不足により企業や銀行が次々に倒産

6月 米国の銀行危機が農村部の中小銀行から都市部に拡大。シカゴ、ロサンゼルス、ニューヨークで銀行閉鎖が相次ぐ。銀行貸付が停止状態となり, 銀行組織による民間経済への融資機能が麻痺。

6月 深刻なヨーロッパの状況を認識したアメリカは、フーヴァー=モラトリアムを行う。ドイツ経済を立て直すため、一年間戦債や賠償の支払いを猶予.議会の承認は12月にずれ込む。

7.13 ドイツのダナート銀行が閉鎖。大統領令ですべての銀行が閉鎖される。

米国には金が流入していたが、FRBは国内のマネーサプライを増やそうとしなかった。このためマネーサプライが減少し続けた。ヨーロッパ諸国は金の流出を抑えるために金利を引き上げ、これが不況に拍車をかけた。

7月 南部の綿作小作農(シェアクロッパー)が農園からの追いだしに抗議して激しい闘争を組織。黒人指導者ラルフ・グレイが虐殺される。

7 失業者,ワシントンで飢餓行進. フーヴァー大統領は代表者との会見を拒否する.このとき失業者が800万人を超す.

9.11 英国は金本位制を離脱して変動相場制に移行,チープマネー政策を採用。同時に英連邦を高関税で囲い込む。ポンドの対ドル為替レートは3か月で3割低下する。

英国のドイツへの短期貸付が焦げ付いたため、ポンドへの信認が大きく低下。フランスなどへの短期資金(とくに金)の流出が加速する。

9 通貨激変に直面した各国は金買いに走り、これに対抗するため連邦準備銀行は公定歩合を大幅引き上げ。

10 不況下の金利引き上げにより銀行恐慌が発生し,全国に拡大.この年だけで2千以上の銀行が倒産.

10.11 シカゴ連邦裁判所,アル・カポネに対し,所得税脱税で懲役11年,罰金5万ドルの判決.

1932年

3.07 ミシガン州のフォード自動車工場で,職を求めるデモ隊3000人に対して警官が発砲し,4人が死亡.

5.29 復員兵による「恩給行進」が始まる。「17年(第一次大戦)には英雄、32年には浮浪者」と抗議する。

6月 ドイツの賠償金支払猶予をめぐるローザンヌ会議。賠償金減額で合意するが、米議会の同意を得られないまま流産。交渉に失望したドイツではヴェルサイユ体制の打破を訴えるナチスが躍進。

7.02 ニューヨーク州の改革派知事として実績を上げたルーズベルトが、民主党の大統領候補に指名される。「三つのR - 救済、回復および改革」と「ニューディール」(新規まき直し)を掲げる。

7.08 ダウ工業株平均が底値をつける。最高値の1割まで下落する。その後22年間、大暴落前の株価に回復せず。

7月 退役軍人のボーナス行進がワシトンに到着.2万5千人が籠城作戦を展開。D.マッカーサーの指揮する軍がこれを実力排除。籠城参加者に2人の死者を出す(ワシントンの戦闘)。

11.08 大統領選。再選を狙うフーバーを打ち破り、フランクリン・ルーズベルトが圧勝.フーバーと共和党への嫌悪感が主要な勝因であった。

FDRの公約そのものは財政健全化、均衡予算、健全通貨など一般的な公約に停まる。一方で、「忘れられた人々」について言及し、漠然と「ニューディール」を提唱した。

11月 共産党は全国で10万票余りを獲得。移民者を中心に党員数も1万8千に達する。学生運動や労働運動を中心に影響力を拡大。リチャード・ホフスタッターやダニエル・ベルらユダヤ系学生が共産青年同盟に結集。

12月 全国農民救済協議会が設立される。恐慌発生以来、農民の所得は半減し、全国で100万の農民が借金の返済不能となり担保権強制執行を強いられる。

32年 南部の経済は崩壊。シェアクロッパー(黒人小作農)が自動車工場への就職を期待して北部に向かう。

以下に大恐慌の影響を著す数字を列挙する。文献により数字の異同はある。

①基幹産業の生産は半分以下、農産物価格も半分以下に落ち込む。6千近い銀行が破産。平均賃金は50%低下、失業者は1700万人、非正規労働者が数百万人に達する。
②GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した

1933年

1.05 憲法修正第22条が成立。アルコールの製造と販売を禁止した修正第18条を撤回する。

1 ナチス,政権をとる.直後に国会焼き討ち事件をでっち上げ、共産党を弾圧。

2.14 ミシガン州で全銀行が営業停止.銀行恐慌が激しさを増す。

2.15 マイアミで,大統領就任式直前のルーズベルトが狙撃される(無事).同席していたシカゴ市長アントン・サーマックは死亡.

3.04 ルーズベルト,第32代大統領に就任.デモやストが先鋭化、国内は激動、資本家・政治家はパニックに陥る。

3.06 ルーズベルト、連邦議会特別会期が招集されるまでの4日間はアメリカの全ての銀行を閉鎖すると発表。

この措置は恐慌を起こすことなく実施された。なぜなら①多くの州は既に銀行を閉鎖させていた。これまでに閉鎖された銀行は1万行近くに及ぶ。②「バンク・ホリデー」と表現することで衝撃が緩和された。③連邦政府が銀行破綻を食い止める姿勢を示したからである。

3.09 「百日議会」が開始。ルーズベルト大統領は議会に緊急銀行救済法を提案。大銀行の連鎖破産を防止することを目的とする。数時間の審議で可決成立する。

政府が一定額までの預金の払い戻し(ペイオフ)を保証すると同時に、①財務省が全ての銀行を監査、②不安定な大銀行を連邦政府が支援、③危機の銀行を再編の柱からなる。

3.09 FDRは緊急銀行救済法に引き続き、膨大な数の法案を提出。ニューディール政策がスタート.

ニューディールは、全体として二つの大目的を持っていた。ひとつは迫りくる革命の危機を切り抜けること、もう一つはそのために連邦政府に権限を集中させることである。
後者の手法が新しいものであり、修正資本主義政策とも言われる。伝統的な自由・放任ではなく、ケインズ学説に依拠して政府が介入・統制し、資本主義システムを正そうとした。

政策は8つの柱に整理される。①銀行制度の再建、②企業の救済、③民間資本の投資促進、④レフレによる物価回復、⑤農業の過剰生産を抑制、⑥抵当権執行の抑制、⑦公共事業による雇用の確保、⑧失業者の救済(ただし最低限)

3.10 ルーズベルトは10億ドルの赤字に直面しているとして、議会に経済法を提案。連邦政府公務員の給与をカットし、退役兵恩給を最大15%減額する。これにより連邦予算の均衡を図る。財界向けのアピールと言われる。

3月末 銀行の4分の3が営業再開。10億ドルの通貨がふたたび市場に流通し始める。

4.19 金没収法が制定される。金本位制を破棄し、金とドルとの交換を停止する.

5月 農業調整法(AAA=Agricultural Adiustment Act)が成立。農務長官ヘンリー・A・ウォレスの願望を反映したものとされる。

農業生産の調整を図るために、農地の作付面積を制限したり、過剰農作物を政府が買い取る計画。助成金と生産量統制によって農業従事者の所得の安定化が図られ、購買力が回復した。農家の総収入はニューディールの3年間で5割増しとなる。

5月 証券取引委員会(SEC)が創設される。株式市場を監視し、預金保険制度を含む銀行制度の改革に乗り出す。

初代SEC委員長はJFKの父ジョセフ・P・ケネディ。FDRは稀代の悪玉を登用した理由を「オオカミを捕らえるためにオオカミを使う。彼なら取引のからくりを何でも知っている」と述べた。

5月 民間資源保存局 (CCC)、公共事業監督局 (CWA)、連邦緊急救済局 (FERA)が創設される。失業者を救済する一連の手段として機能する。テネシー川流域開発公社 (TVA)もこの施策の一部。

6月 銀行法(Banking Act of 1933)が成立。第2グラス・スティーガル法と呼ばれる。①銀行と証券(投資銀行)の分離。②連邦預金保険公社の設立、を柱とする。また頭金無しで株式を購入することが禁止される。

6.13 ニューディールの中核となる全国産業復興法(NIRA=National Industrial Recovery Act) が議会を通過する。初めて労働者の団結権が法的に承認されたことから、「アメリカ史上最も重要な法律の一つ」とされる。

法案成立の経過(かなり長い):
1.表向きの趣旨は過当競争を避けるために連邦政府が関連団体に協定を結ばせることである。いわばニューカマーの排除をもたらす官製トラストであり、連邦大陪審の判断のごとく、違憲の疑いもある。
2.法律の目的は「工業と農業に“公正な競争”を作り出すために、種々の産業で価格・労働規約を取り決める」ことにある。結果として過剰生産に陥っていた各企業の利潤が確保される。
3.元は資本家たちの提起したものであり、ムソリーニの「組合国家」を下敷きにしたものとされる。
4.もう一つの狙いは、企業の安定により労働者の賃金の適正化と生活安定を果たし、国民の購買力を回復させることである。さらにそれを通じて社会の安定、ストライキや大衆闘争の抑制を図ることである。
5.官製トラストは資本家の狙いであり、そのためのお題目として「労働者の生活安定」をうたうことには異存はなかった。これをルーズベルト政権は(結果的に)巧妙に利用したといえる。
6.政権は「労働者の生活安定」のための手段として、労働者の団結権、団体交渉権を持ち込んだ。それはどさくさ紛れに法律の柱の一つとなった。

6月 全国復興局(NRA)が創設される。その統制のもとに団結権(組合結成権)と団交権が承認される。その後実際の運動は「妥協点」を大幅に乗り越えていく。

10.13 AFLが,ナチスの労働運動弾圧に抗議してドイツ製品のボイコット運動を開始.

10.17 アインシュタイン(ユダヤ系)がナチスの迫害でアメリカに移住.

11.17 アメリカがソ連を承認.

12.05 禁酒法を廃止する。

12月 NIRA成立後、組合数は飛躍的に増加。これに伴い労働争議参加者も90万人に達する(前年比3倍)。

33年 グレートプレーンで3年にわたる大旱魃(30年に始まる。41年まで旱魃は続いた)。大恐慌とも重なり、多くの農夫が土地を手離し、さらに西海岸へと「大脱出」(エクソダス)を行う。

1934

1.24 ルーズベルト大統領が,ラテン・アメリカへの善隣外交声明.ラテンアメリカへの武力干渉を停止するとともに,プラット修正条項の廃棄,パナマ,ドミニカへの干渉権の放棄,ハイチからの撤退,メキシコ駐兵権の放棄を決定.

1.31 米政府,平価切り下げの方針を発表.

7 サンフランシスコで船員・港湾労働者13万人が立ち上がる。サンフランシスコ全市を4日間のゼネストに追い込む。闘いを通じて共産党の影響力が拡大。

8.15 ニューディール政策に反対するモルガン,デュポンらウォール街の巨頭がアメリカ自由連盟を結成.USスティール、GM、ATTなどアメリカの巨大資本を網羅。ルーズベルトのニューディールを激しく攻撃。

8月 ルーズベルトの肝煎でアメリカ青年会議が結成される。左翼組織からYMCA、ユダヤ人青年同盟まで幅広い組織が結集。当初ヒトラー・ユーゲントの手法が持ち込まれようとしたが、これらの傾向は排除される。

9 TUUL,AFLとの組織合体の方針を提起.40万人の組合員がAFLへ一斉加入.AFLは職能別組合に加入できない労働者を,産業別に組織する方針を打出す.

9月 AFLの指導する全国繊維ストライキ。11州の労働者50万人が参加するが敗北に終わる。

10.01 シカゴで反戦,反ファシズムの全米大会.

10 サウスカロライナを中心とした南部海岸部で,11州32万人の参加する織物工場労働者のゼネスト.死者13人を出して終結.

11.06 議会の中間選挙。メディア・自由連盟の反ルーズベルトキャンペーンの中、民主党が共和党に圧勝。

11.23 ナチスの排外的・好戦的政策に警戒が強まる。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに2万人が集まって大反戦集会.

34年 この年、ストライキ参加者は150万人に達し史上最大規模となる。

34年 ミネアポリス・チームスター(トラック運転手の組合)のストライキが勝利する。一時は州知事が戒厳令を宣言するが、最終的には労働者の権利を認める法律が成立。

34年 この年、歳出予算はGDP比10%を超えた。これはフーバー政権時の3倍にあたる。

1935年

1.04 ルーズベルト大統領が年頭教書で第2次ニューディールを提起.

1月 連邦大陪審が、全国産業復興法・農業調整法などに対し「公正競争を阻害しカルテルを容認している」として違憲の判決。

2.07 ルーズベルトは「コート・パッキング」計画を発表。保守派の牛耳る連邦大陪審に対抗して、判事構成の変更に着手する。

ルーズベルト発言: 米国の司法制度は幾多の病弊を暴露して居る。もし大々的な司法改革が行われないならば、司法部の権限から憲法までの根本的改正を考慮しなければならない。

3.19 ニューヨークで,万引きで捕まった黒人に警官が乱暴したことから人種暴動が勃発し,3人が死亡.

4月 第2次ニューディールの目玉として公共事業促進局(WPA)が設立される。これにより失業者対策事業が前進する。

5月 「第二の百日間」議会がスタート。全国労働関係法(ワグナー法)が提出される。違憲とされた全国産業復興法より、さらに明確に団結権が保障される。

7.05 全国産業復興法に替わるものとしてワグナー法が成立.労働者の権利保護がさらに強化される。

8月 社会保障法を制定。老齢年金、失業保険などが設けられる。

7 コミンテルン第7回大会,人民戦線路線を決定.以後共産党は急速に社会ファシズム路線を修正.

8.31 米議会,中立法を採択.

9.08 ヒューイ・ロング上院議員,ルイジアナ州バートン・ルージュの州議事堂で射殺される

ヒューイ・ロングは民主党の急進派であった。28年から4年間ルイジアナ州知事、その後上院議員となる。1932年の大統領選挙ではFDRを支持。その後「富の分配」を提唱し、FDRと決裂。来るべき大統領選ではルーズベルトの最大の対抗馬といわれた。

11.9 ジョン・ルイスら,アメリカ労働総同盟(AFL)内に産別労働組合会議(CIO)を結成.熟練工中心の従来型AFLに対し、未熟練労働者、黒人労働者などを組織。

産業別委員会はAFL左派を形成。組織員数は100万人に達する。末端には共産党の影響を受けた活動家が結集,CIOの5分の1が共産党の影響下にはいる.

1936年

2月 全米黒人会議(National Nigro Conference)が設立される。585組織120万人を結集。黒人諸組織はリンカーン以来の共和党支持を断ち、民主党支持に回る。

8.07 スペイン人民戦争開始.米政府はスペイン内戦に干渉しないとの声明.

8 大企業と結託したAFL指導部,CIO幹部ジョン・ルイスらを除名.

10.30 海運労働者4万人が西海岸の全ての港湾でゼネスト.カリフォルニア各地で,メキシコ人を主体とする農業労働者のストあいつぐ.

11.03 大統領選挙。ルーズベルトは「ウォール街の経済的王党派を打破する」とのスローガンを掲げ、歴代最多得票率で再選を果たす。マスコミの8割は共和党を支持。

12.01 ルーズベルト,ブエノスアイレス米州特別会議で,西半球の共同防衛を提案.反ファシズムに一歩踏み込む。

36年 米国の債務残高はGDP比40%に達する。これにビビったルーズベルトは、財政支出の削減に動く。FRBはインフレを警戒し、預金準備率を2倍に引き上げ、金融引き締めを図る。

1937年

1.06 アメリカがスペインへの武器の輸出を禁止.劣勢であった共和派軍に大きな打撃となる。

1月 スペイン人民戦争に参加するため、アメリカ人義勇兵3千名が組織される。リンカーン大隊、その後ワシントン大隊が編成される。その半数が戦死した。

1 ゼネラル・モータースで5万人の労働者がスト入り.バリケードを作り工場に立てこもる。44日間の工場占拠闘争のすえ勝利.産別労働運動は一気に拡大.引き続きクライスラーの工場占拠ストも勝利。

3.01 USスチールが団体交渉権と週40時間労働を認める労働協約を締結。

4.22 ニューヨークの第4回平和デモに過去最高の人数の市民が参加.

5月 もう一つの自動車メーカー、フォードのリバールージュ工場でも籠城スト。会社の組織した暴力団が自動車労働者組合のオーガナイザー数人を叩き出す。(41年には山猫ストで勝利し、組合を承認させる)

7月 第二次上海事変。日中戦争が始まる。

10月 FDRが、隔離演説(Quarantine Speech)を行う。

世界に無秩序という疫病が広がっている。警告もなく、正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が殺戮されている。疫病の流行から共同体を守るために、平和を愛好する諸国民の共同行動が必要だ。それによって病人を隔離するべきだ。

12月 再び不況が襲う。「ルーズベルト不況」と呼ばれる。予算均衡の立場から財政支出を大幅削減。この結果、軍備拡大策をとるまで1年余りにわたり続く。
 

ルーズベルト不況: 連邦予算を均衡させようとしたルーズベルトの拙速策の結果とされる。実質GDPは11%下がり失業率は4%上昇。失業者数は1千万を越えたままで推移。保守派は大規模ストライキによる労働組合の攻撃によって生じたと攻撃。

37年 南部黒人青年会議(SNYC),リッチモンドで結成大会.自由と平等,正義と人権をかかげ活動を開始.

1938年

4月 ルーズベルト、「国民の購買力を上げること」で「経済を上向かせること」が政府の責任であると主張。ふたたび拡大財政に転じる。

5.26 下院,非米活動調査委員会(ダイス委員会)を設置.親ファシストに対する統制を名目としたニューディール派への攻撃を開始する。これまでに共産党員は7万人に増加.

10月 連邦議会の中間選挙。共和党の勝利に終わる。民主党内保守派とつるんで、ニューディール政策の骨抜きにかかる。

10月 国務省声明。国際連盟の決議に沿って、中華民国における日本の行為をパリ不戦条約違反だと名指し批判。

11.18 産業別組合会議(CIO)がアメリカ労働同盟から独立.ニューディールと集団保障政策を支持すると宣言。

38年 

1939年

1.04 ルーズベルト大統領が中立法を廃止し,軍備拡大,反全体主義国家,ニューディール政策緩和を打出す.

4.01 スペイン内戦、フランコ派の勝利に終わる。米政府,フランコ政権を承認.

4.15 ルーズベルト大統領がヒトラーとムッソリーニに親書を送って戦争拡大防止を要請する.しかし提案は拒否される.

4.30 米国でテレビの普及が本格化。ニューヨークで開かれた万国博覧会の開会式がテレビで実況中継される。

8.02 アインシュタイン,ルーズベルト大統領に,ナチス・ドイツに先駆けて原爆を開発するよう進言する書簡.

8 スターリン,ヒトラーと不可侵条約を締結.共産党に対する不信広がる.ユダヤ系を中心に1万人以上の活動家が党を去る.

9.01 ドイツ軍,ポーランド侵攻開始.第二次世界大戦勃発.スターリンの指示を受けた共産党は、第二次大戦を「世界制覇を目指す帝国主義国家間の戦争」と規定,米国の中立を訴える.

1940年

4.22 ナチス・ドイツ軍が西部戦線を開く。英・仏連合軍がトロンヘイム北方でドイツ軍と交戦.

5.16 ルーズベルト大統領,ナチスに対抗するため年間5万機の飛行機生産と9億ドルの非常支出を求める.

6.14 ナチス,パリを占領.

6.27 ルーズベルト大統領,パリ陥落にともない国家緊急事態を宣言.

9.03 米英防衛協定が調印.

9.05 シカゴで孤立主義者が大集会を開き,中立を主張してルーズベルト大統領の対英援助を批判.

9.16 選抜徴兵制が公布される.

10.14 ルーズベルトレインボー計画(陸海軍統合戦争計画)を承認.

11.06 ルーズベルト,第3期目の大統領に就任.

12.29 ルーズベルト,「民主主義の兵器廠」となると演説

12月 この年末の時点でCIOは組合員数400万にまで発展。

1941年

1.07 ルーズベルトが3期目の大統領就任に当たり、「4つの自由」演説。言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由を挙げ、反ファシズムの立場を明確にする。

3月 武器貸与法が成立。イギリス、ソ連などへの武器援助が本格化する。武器生産の活発化により工業生産が回復。

5.27 アメリカが国家非常事態宣言.「アメリカ政府を暴力によって破壊転覆することの教唆と宣伝」を犯罪とするスミス法を制定.

6 ナチス,「不可侵条約」を破りソ連侵攻(バルバロサ作戦)を開始.共産党は一夜にして方針を180度転換.「国家的団結」の名の下に軍需生産に協力.

8.1 石油の対日輸出を全面禁止.

8.01 ソ連への援助を規定した米ソ協定調印. 計107億ドルの武器・経済援助が行われることとなる.

8.12 ルーズベルト大統領とチャーチル首相が大西洋憲章に合意.ファシズムとの対決とする戦争目的を宣言。

12.08 真珠湾攻撃.FDRは対日宣戦を布告。この後米国は第二次大戦へ参戦。

12.11 ドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告.

 

 

 

 

立ち上がるって、とても苦しいことなんだ、ということが分かる。

我々の世代のように、周りが「闘わなくっちゃ」という雰囲気の中で立ち上がるのとはレベルが違うのだ。

それもふくめてこのメッセージには力があって、感動させる。

それが、「市民連合応援団 “民主主義ってなんだ?” リレートーク」での、シールズの奥田愛基さんの訴えだ。

昨年、私が私のままデモにかかわったように、
私のまま選挙にかかわりたい。
私のために政治があるからだ。

これは、私たちへのメッセージだろう。私はこう受け止める。

あなたもあなたのままデモにかかわった。
だからあなたにも、あなたのまま選挙にかかわって欲しい。
あなたのまま選挙にかかわるほどに
あなたに変わって欲しい

私は愛田さんほどに、自分を自分の前にさらけ出し、自分に厳しくあることはできそうもないが、それに感動し、それを支持することはできる。

山口でも統一候補が決まっだうようだ。
纐纈さんが「老骨に鞭打って」出馬するようだ。頭のさがる思いである。
これに関連して防府在住の那須正幹さんの談話が寄せられている。那須さんは児童文学作家で、代表作が「ズッコケ三人組」という作品。
「ズッコケ三人組」の画像検索結果
(漫画ではなく高級読み物で、読み出すとハマるらしい)
この中で、気に入ったフレーズがある。
過去の戦争の時もそうでしたが、あの時なぜ反対しなかったのか、という時があります。それが今回の選挙ではないでしょうか
とても良いのだが、若者に受けるにはもうひとひねりしたい。
「なぜ今、戦争に反対することに反対するのか」
ではどうだろうか。
今度の選挙は、つまるところ「戦争反対選挙」だ。選挙の先に戦争反対があるのではなく、戦争反対運動の上に野党連合が作られ、その上に選挙があるのだ。
戦争反対勢力への中傷(野合だとか共産党だとか)は、つまるところ、戦争反対への反対を意味する。
しかも“戦争反対に反対”する理由にすらなっていない。それは「電信柱が高いから、郵便ポストが赤いからダメ」と言っているようなもので、無関係ないちゃもんに過ぎない。
そこで那須さんのセリフが出てくる。「それで、あなたは、あの時、なぜ戦争に反対しなかったのか」

私の勤務する老健施設は江別市にある。車で数分のところに町村牧場がある。その隣が、故町村議員の邸宅だ。
したがって、いま全国話題の衆議院補欠選挙のどまんなかだ。今朝は正体不明の反共謀略ビラが一斉配布された。
早くも終盤並みの激しさとなっている。ということは、彼らはすでにそこまで追い込まれているということだ。本来、この手の怪文書は禁じ手であり、彼らにとって逆風ともなりかねない。
無所属で出馬した市民と野党の統一候補、池田まきさんは、ルックスも良くなかなかの候補だ。ガチガチの町村地盤といえども、苦戦は必死だろう。

そんな中で共産党が中央委員会を開き、参議院選挙の方針を打ち出した。非常に練られた文章だろうが、その分、長い。
現下の状況は、政治構造の変化をじっくり分析するところにはない。争点を鮮明にし、正確で端的なスローガンを掲げるところにある。
中央委員会決定を元にして、幹部会がより簡潔で鮮烈なアピールを出すよう期待したい。

3つの争点が打ち出されている。このまとめについては何も言うことはない。言うことはないが、もう少し分かりやすくしてもらいたい。

私ならこう見出しをつける。
1.平和を守るか、止めるのか
2.アベ流政治、止めさせるのか許すのか
3.今の憲法、守るのか昔に戻すのか

この中で1.と3.についてはこれまでに十分明らかにされてきた。
しかし2.は必ずしも整理され尽くしたとは言いがたい。
安倍政権打倒ではなく、安倍政権の政治スタイルを認めるか否かということだ。安倍政権の経済運営スタイルをアベノミクスというなら、アベノティクスというかアベノポリティクスというか、つまり安倍晋三個人の資質や安倍政権の個々の政策ではなく、その手法と権力の存在の仕方に遡って拒否するということだ。
こういうタイプの政治手法の可否を問うということになる。

私個人として、古今東西の首相の中でこれだけ嫌いな人物はいない。その傲慢さと幼稚さには虫酸が走る。テレビでその姿を見ただけで、その声を聞いただけでチャンネルを切り替える。だから最近はNHKニュースを見たことがない。
多分おなじ思いの日本国民は相当いるのではないか。

しかしその傲慢さと幼稚さは、安倍晋三個人のものではない。日本の権力構造が傲慢化し幼稚化していることの象徴として安倍晋三がいるのである。それはこの間、ほとほと痛感してきた。日本の権力構造が深刻な制度疲労を起こしているのだ。

「これじゃぁ、流石にイカンでしょう」という声が全国に広がっていると思う。それを今回の中央委員会は「立憲主義の擁護」という言葉で括っている。ただし、この言葉で国民感情を括りきれるか、もう少し吟味が必要な気がするが、時間もないことだし、とりあえずこれでやってみよう。
「必要は発明の母」だ。そのうちもう少し解説抜きで誰でも分かる、ピッタリとした決まり言葉が浮かんでくるだろう。




どうもWeb レベルではGHQの司法改革に関して適当なレビューが見当たらない。

辛うじて分かったことは、司法改革に先立つ戦争協力者への処分は行われなかったようだということ、GHQの司法改革担当者にはそれにふさわしい権限が与えられていなかったこと、結果として改革の試みは挫折し、司法省が最高裁事務局を通じて生殺与奪の権限を握り続けたことである。

興味の中心は、あれだけ新憲法に一生懸命取り組んだGHQが、なぜ同じ気構えで司法改革を推進しなかったということに尽きる。ここがいまいち分からない。

細野長良ら大審院グループと司法省の長々しいやり取りは、実はどうでもいいことである。GHQの姿勢があやふやであれば、そのようなグループの発言力など無きに等しい。

を増補しての感想

年表を作ってみて分かったのは、昭和23年1月6日のロイヤル陸軍長官の「日本を反共の防波堤に」発言は、明確にマッカーサーの顔に泥を塗る行為として行われたということである。

年の初め、マッカーサーは年頭の辞「日本国民に与う」を発表している。まるで天皇きどりである。

しかしこの間に本国では対日政策の変更が準備されていた。昭和22年3月にトルーマン・ドクトリンが発表され、すでに基本線の変更は確認されていた。

それ以降、外堀は徐々にしかし確実に埋められてきた。とくに公務員の「忠誠テスト」はGHQ民政局のニューディーラーには脅威であったろう。

いつの間にかマッカーサーは裸の王様となっていた。そして国務長官にマーシャル元帥が押し立てられた。それは国務省がマッカーサーに全面対決のポーズをとったことを意味する。裏で動いたのはアチソン次官だったろう。

国務省は日本に「逆コース」を迫るにあたり、陸軍省を表に立てた。マッカーサーを封じ込めるためである。

それがロイヤル長官の談話であり、陸軍省の派遣したストライク調査団であり、仕上げに送られたドレーパー陸軍次官をトップとする調査団である。

マッカーサーは軍人だから上級の命令には逆らえない、というところを突いたわけだ。

怒ったマッカーサーは大統領選挙に立候補するといってみたり、いろいろ策動を巡らせるが、結局は冷戦システムの中に埋没していくことになる。

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