第一次碑文論争
「もう過ちは繰り返しませぬから」の碑文に対する批判と再批判。そしてそれを「一億総懺悔」の思想の延長線上には置かなかった広島市民。そこには未来志向と、密かな加害者意識と、主体者であり続ける決意が含意されている。
ひとびとの深い悲しみと静かな決意と叡智に、あらためて胸打たれる思いである。外形的な論争に終わるのではなく、広島と思いをともにすることがだいじであろう。
AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。
私の国防論は学問よりも私の体験ー特攻隊が飛び立っていく基地で、絶望的な物量さと技術差に直面しながら、日本をどうしたら守れるか、国を守るとはどういうことかを考えた34年前ーと不可分に関係している。
ヒトラーはイギリスの弱腰が続くと考え、ポーランド侵攻もズデーデン併合に続くブラフの内と高をくくっていたが、それはイギリスの決意、姿勢、戦争遂行能力の読み違えであった。チャーチルはフランスをいざない、アメリカに事実上の参戦を促し、フランコに中立を強制し、スターリンにさえ秋波を送った。イギリスが開戦を決意した時点で、すでにイギリスと連合勢力の勝利は決していたのである。
本土戦(沖縄戦)は海外占領地での戦いとは、その意義も戦い方も違っている。住民がすべて日本人だということだ。日本固有の領土で、 将兵が全員玉砕することは、正しい処置の仕方とはいえない。首脳部 以外の者は、軍服を脱いで一般市民の中にまぎれこんで、将来を期すべきである。
ビキニ核実験被害は“原爆被害” の一環だと示すものです。という一行のみが面影を伝えているのと、その中の1ページのみが写真で示されているのみである。率直に言えば、この写真も日米会議の資料かどうかはあやしい。後述する「報告会」の目次である可能性も否定できない。
この報告会を境に、日本の学者の中に「許容量以下だから危険はない、無害だ」との論調が強まり、漁港での汚染マグロ検査を取りやめる根拠にされていきました。このままではあまりにも根拠が弱い。
約1ヶ月前より、九州沖や台湾・フィリピン沖で捕獲した魚11隻分を検査したところ、最高522カウントの汚染が確認された。また100カウント以上のものが0.2% あった。骨、内臓に集積を認めた。
…………………………………………………………………………………………………………どうやって、少しでも多くの人に見てもらうか。それが大きな課題ですね。もう1つは、複雑さを大切にしていく、ということです。シンプルに、わかりやすく、ひと言で何かを言い表せば、「なるほど」と思う人はいるでしょう。池上彰さんのように。しかし、国際社会で起きている出来事は、そんなに単純ではありません。GNVの編集原則の1つは「複雑さを犠牲にせずに分かりやすく書く」ということです。難しさや複雑さを犠牲にしたら意味がありません。それどころか、事実と違うものが認識されてしまう可能性があります。
放射線の影響を見るために爆心地からの距離や、放射線を遮る建物などの情報を元に、放射線の量を推定した。そして被爆したときの体の向きから、臓器ごとの線量を計算した。それとがんの発生数を対比させて、がんリスクの解析を行った。
核兵器攻撃による放射線被曝は、①核兵器の起爆後1分程度以内に放出される中性子線やガンマ線などの初期放射線、②中性子線によって土や建材中に生成される放射性核種から放出される残留放射線、③降下した核分裂生成物から放出される残留放射線、④未分裂の核物質(ウラン235、プルトニウム239)の降下に由来する残留放射線、の4つに起因すると考えられる。①は体の外部からの被曝(外部被曝)、②③は外部被曝及び体内への摂取に伴う体の内部からの被曝(内部被曝)、④は内部被曝がそれぞれ問題となる。
【外部被曝は薪ストーブにあたって暖を取ること、内部被曝は薪ストーブの中で燃えている小紛を口から入れることと例えることができます。またSvのインチキは、放射線は当たった部位しか影響がないのに全身化換算するSvという単位で議論するので、健康被害がわからなくなってしまうのです。
目薬は2-3滴でも眼に注すから効果も副作用もあるのですが、その2-3滴を口から飲まして、全身投与量に換算して計算するようなものなのです。
またトリチウムはDNAを形成している塩基に水素として化学構造式に入り、β線を出すだけでなく、元素変換してHeに変わりますので、遺伝子編集しているようなものな のです。
体内に取り込まれた食物や空気中に含まれる放射性物質によって,体内から被曝する場合を体内被曝(内部被曝)という。 この場合はむしろ,透過力の弱い放射線(α線,β線)の方が被曝線量への寄与が大きい。とくにα線は短い飛跡内に集中してエネルギーを与えるため,細胞内のDNAに幾つもの損傷を密に生じさせる。体内被曝による被曝線量は体内に残留している期間の積分値で表す。 これが預託線量である。(「体外被曝と体内被曝」井尻憲一)
これは一種の「掲示板」だ。しかしたんなる掲示板ではなく、議論の流れや賛否の状況をわかりやすく可視化し、テックで熟議を促す。
このプラットフォームを開発したバルセロナは都市再開発の議論には、4万人が参加し、約1500の行動計画が生まれた。
国は国民の情報を電子化するが、データは個々人のデバイスの中にある。だからもし公的機関がアクセスしたら、個人はその事実を把握できる。
これから(人権の普遍化に向けて)、私たちが発明していかなければならない政治とは、現在とは別様な世界のあり方、より良い共生のあり方を考える自由の技法としての政治なのです。
人権は西洋人が考え出した贅沢品ではないか?人権の強調は西洋による文化帝国主義ではないか?
ウイルスは差別をしない。貧富を問わず一つの社会全部にとって脅威だ。新型コロナは、その地域の根本的な差別をあぶり出す。弱者層は一方的に人命を失い、生計の道を絶たれている。そこでは根の深い不平等があり、それがウイルスの広がりを助長し、さらに不平等を深めている。それぞれの国でウイルスとたたかうとき、そこに差別があってはならない。いま最も危険に晒されている国々は、それらを排除せず、特別な対策を講じるべきだ。
もしその国がウイルスの拡散を抑えることに失敗すれば、すべての国が危険に晒されることになる。世界は、最も弱い医療システムと同程度にしか強くない。このことを明記すべきだコロナ対策は基本的には隔離である。それだけに一層、排除と差別は拙劣なアプローチだ。インクルージョン(包括)は私たち全員を保護する、最も良いアプローチなのだ。
目標1:貧困をなくそう 目標2:飢餓をゼロに 目標3:すべての人に健康と福祉を 目標4:質の高い教育をみんなに 目標5:ジェンダー平等を実現しよう 目標6:安全な水とトイレを世界中に 目標7:エネルギーをみんなに そしてクリーンに 目標8:働きがいも 経済成長も 目標9:産業と技術革新の基盤をつくろう ヒューライツ大阪のサイトより引用 | 目標10:人や国の不平等をなくそう 目標11:住み続けられるまちづくりを 目標12:つくる責任 つかう責任 目標13:気候変動に具体的な対策を 目標14:海の豊かさを守ろう 目標15:陸の豊かさも守ろう 目標16:平和と公正をすべての人に 目標17:パートナーシップで目標を達成しよう |
*現代政治というのはなにかということ、*民主主義制度とは何かということ、*そのなかで人間はどう扱われるのか、
樋口陽一「リベラル・デモクラシーの現在」
この改正案の問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する条項にある。すなわち改正案には「…」と記載されている。
要するに、次長検事および検事長は、定年に達しても内閣が必要と認めれば、定年延長ができるということである。
政府は、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺ぐことを意図していると考えられる。
検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在がロッキード事件を全面解明へと導いた。
『長年綾部市において同和行政に取り組まれていた森山栄治氏を企画室主幹に迎え、同和対策のスタートを切ったのである』(高浜町が発行した記念誌)
“過度な指摘”の内容 県の施設で人権大会と呼ばれる大会が開かれ、健康福祉部や県民生活部などの部長が勢揃いして森山さんの前にズラーッと並ぶんです。意に沿わないことがあると激高し、「1時間立たされたまま怒られた職員もいた」(県幹部)その後も部落解放運動を押し付ける“糾弾”を繰り返す(これについての解同中央のコメントなし)。
【濱田倫三町長の議会答弁】給料について助役が高い、町長が安い、ということは別に当たってはおりません。その人の能力に応じて給料は支払われる。
渡辺さんは高浜町で漁師の長男として誕生。中学卒業後、小浜市で旋盤工として働いていた。青年の勉強会で本格的に原発の研究を始め、立候補に至った。
“糾弾”が怖くて表立って『原発反対』とは言えないけれど、内心はそう思っている人が多かった(会の代表の談話)
町政の実質的なボスは森山助役であった。彼は、かつて京都で味をしめた経験を生かし、自分の住んでいる町内の同和地区に組織した「部落解放同盟」を指揮し、誰かれ容赦なく糾弾を繰り返した。町議会までが町長・助役の脅迫に屈し、その親衛隊に成り下がっていた。…自由にものも言えない空気が町を支配していた。町長・助役は、悪事のやり放題であった。
90年代から金品を関西電力の幹部に渡していたことが分かりました。「上納金、盆暮れには必ず、最低100万置いとかないとダメなんです。森山の運転手が集金に来られる。受注額の数%と…」(高浜町の土木業者)
八木は出世を重ね、社長、そして会長へと上り詰める。その後任として豊松、鈴木も同じコースを登っていった。こうして原子力事業本部で、森山氏から金品を受け取っていた人物が、社内の要職を占めようになった。幹部たちが受け取った金品は急激に増加し、17年には年間1億円以上に達した。
MBSのインタビュー: 90年代に高浜原発の所長だった人物は、「あの人から1時間説教受けたらよくわかります。骨の髄までいかれます。もう2度と出会いたくない。僕が言われたのは、『家に同和の人間を押し掛けさせる』みたいな話。なんか文句あるんやったら『同和をお前の家に動員かけるで』と脅す」
金沢国税局の税務調査から明らかになったもの。森山は2011年以降、総額3億2千万円の金品を関電幹部らに手渡していた。この金は吉田開発が「手数料」として提供していた。吉田開発は町の公共事業5件を総額約4億5千万円で受注していたが、このうち3億7千万円は電源対策交付金から充当されている。
私が非常に大事だと思うのは、新しい現象、新しい事物が社会に生まれたときに、それにどういう態度でのぞむか…です。開拓者には既成のテーゼはないのです。新しい現象にぶつかったら、それを解明する道は、自分たちが鍛え上げてきた方法論をもって、その新しい現象を考察する以外にないのです
コミューンの指導部にマルクス主義者は一人もいませんでした。しかしマルクスは、コミューンの行動を最大限に評価したのです。
いくら憲法に社会主義と書いていても、資本主義に引かれる考え方、気分が必ず現れる。それは土台に作用して、土台の社会主義部門を腐らせる可能性がある
森友「公文書」の改ざんは、国会と国民を欺き、歴史を冒涜(ぼうとく)し、民主主義の根幹を破壊する未曽有の大事件でした。
安倍政権に日本の民主主義をこれ以上破壊させるわけには断じていきません。
法治主義も、民主主義も、地方自治も踏みつけにしたこの無法な暴挙を転機に、沖縄県民の怒りが、あふれるように全国に広がり、世界に広がっています。
官民あげての「原発輸出」が失敗し、計画を手掛ける日立製作所の中西宏明会長が「もう限界だ」とのべた。
全員が反対するものをエネルギー業者や提供企業が無理やりつくるということは、この民主国家ではない。
志位委員長が12月にベトナム訪問し、青年を相手に講演したものである。さほどの新味はないが、核兵器禁止条約と米朝会談を21世紀論の文脈に織り込み、「北東アジア平和協力構想」と整序したのは理論的前進であろう。
反核運動ではキューバとコスタリカが大きく取り上げられているが、ニカラグア・ベネズエラの取り組みにも注目すべきものだあることを申し添えておく。
Ⅰ.半世紀以上におよぶ友好と連帯の歴史
略
Ⅱ.綱領の世界論
20世紀は戦争の世紀だった。二度の世界大戦があり苦難の連続だった。
しかし20世紀の最大の変化は民族自決権が世界公認の原理になったことである。ベトナム人民のたたかいは、文字通り世界史的意義を持つ。
Ⅲ.21世紀の世界の特徴
21世紀の世界では、「核兵器のない世界」を目指す動きが主役となるだろう。
2017年、核兵器禁止条約が採択された。核兵器に「悪の烙印」が押された。これは歴史的な壮挙である。
国際政治における『主役』が、一部の国から多数の国々の政府と市民社会に交代していくだろう。
Ⅳ.北東アジアと「平和の激動」
この間、朝鮮半島で平和の激動が起きた。党は北朝鮮の核開発反対、対話による平和解決、朝鮮半島の非核化を目指してきた。
激動をつくりだした力は平和を願う各国民衆の力である。根本にも、『世界の構造変化』が横たわっている。
Ⅴ.北東アジア平和協力構想
日本共産党は「北東アジア平和協力構想」を提唱している。東南アジア友好協力条約(TAC)の北東アジア版だと考えている。
それは6カ国協議の共同声明(2005)を基礎とし、東アジア首脳会議の「バリ原則」を条約化するというアジェンダである。
そのために日本がなすべきことは、まず侵略戦争と植民地支配への反省、被害者の名誉回復のための誠実な取り組みである。
Ⅵ.ASEANへの希望
南シナ海問題で大国が関与を増大させている。ASEAN10カ国に分断をもたらす動きもある。
ASEANが困難をのりこえるうえでベトナムがさらに大きな役割を果たすことを願っている。
我々は16年に国際仲裁裁判所の決定を受けASEAN首脳会議が出した「国際海洋法条約の遵守と、紛争の平和解決への共通の誓約」を支持する。
ASEANの最大の教訓は自主独立と団結・統一の維持である。ベトナムがASEAN発展のためにさらに大きな役割を果たすことを望む。
こんな人物が知事になったら、沖縄の支持者だけでなく、中国や北朝鮮は大喜びだろう。祝電どころか、祝意表明の代表団を送ってくるかもしれない。そうなったら、歓迎の中国国旗(五星紅旗)が沖縄中にはためくのではないか。光景を想像するだけでも、ぞっとする。(9月26日、夕刊フジ)
クルーズ船が次々と寄港し、国際通りは人波が途切れない。「観光立県」をうたう沖縄は昨年、観光客数が過去最多の939万人に達し、初めてハワイを超えた。
沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた知事のご遺志がこの先も受け継がれ、これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております
『対立から対話へ』キャンペーンはおかしい。チャレンジする側のスローガンではない。「女性の質の向上」発言も女性票を遠ざけた。菅長官の「携帯電話料金の4割引き」も、沖縄県民をバカにしているのかとの反発を生んだ。
ラジオDJになる前の玉城さんは、福祉関係の仕事を努めた後、ロック歌手となりライブハウスで歌っていた。琉球放送に自分の番組を持つようになり、人気ラジオパーソナリティーとして活躍していた。その後さらに政治家を志し、2002年に沖縄市議に初当選。09年には衆院議員に初当選している。小さな子どもたちが「デニー」と駆け寄る場面が印象的だった。ギターを片手に「ロック」音楽を熱唱した。
沖縄県知事選で玉城氏ほど、いわれのない多くの罵詈雑言を浴びせられた候補者がかつていただろうか。ネット上では玉城氏に対する誹謗中傷やデマが拡散された。模範となるべき国会議員までが真偽不明の情報を発信した。
政府があらゆる権力を行使して、私たち沖縄県民をまるで愚弄するように押しつぶそうとする。何なんですかこれは。…そんな人たちには負けたくない。私も一緒に戦う
自民党が割れたか、公明党が割れたか、あるいはその両者であったか玉城氏が当選したことで、新基地建設に反対する沖縄県民の強固な意志が改めて鮮明になった。政府は、前回、今回と2度の知事選で明確に示された民意を率直に受け止め、辺野古で進めている建設工事を直ちに中止すべきだ。この期に及んで、なおも新基地を押しつけるというのなら、民主主義国家を名乗る資格はない。
「法の支配」が「人の支配」(すなわち法の非支配)に転化したとき、それを乗り越える運動としての民主主義が重要になります。
南原繁は政治の目的として「正義」を重視しました。
日米安保を解消して、多元的な平和条約をあらゆる国と結ぶ、まさに「全面講和」こそが憲法9条の精神だと思っています。
変化や変革が生まれる時に創造的なリーダーシップが必要だ。リーダーシップは学ぶことができる。そのためには、行動を起こし、何度も失敗しながら挑戦することが必要である。こうしたリーダーが、人々を巻き込み、多くの人の力を戦略的に用いて社会変革を実現していく
Marchall Ganz, 1943年。ハーバード大学を中退し公民権運動を担う市民運動家となった。48歳になってから大学に戻り、自らの運動経験をモデル化した。オバマ大統領の選挙参謀として、パブリック・ナラティブとコミュニティ・オルガナイジングの手法を用いて勝利したことで有名となる。
一番大きな理由は、私が21歳だったということでしょう。公民権運動の中心にいたキング牧師が、最初に「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」を行ったのも25歳でした。父親はユダヤ教のラビで、私たち家族は1946年から4年間、ドイツに住んでいました。父はホロコーストを生き延びた人たちといろいろな仕事をしていました。両親は、「ユダヤ人虐殺は、反ユダヤ主義の結果ではなく、人種差別の結果なんだ」と言いました。人種差別が起きると、人間がモノになってしまうんです。公民権運動は、このような人種差別に反対するために行なった運動です。
“ナラティブ(narrative)”に、“戦略(strategy)”、“アクション(action)”、“関係(relationship)”、“構造(structure)”を加えたものがフレームワークとなります。もちろん、もっとも重要なものはナラティブです。これが基本中の基本、すべての価値観の土台を構成することになります。
効果的な行動をとるには“手”が必要です。いい戦略は“頭”で考える。“心”には勇気をもたなければならない。この組み合わせが大切です。つまり、強い心を持ち、頭の中には高いスキルを持ち、さらに効果的に手が動くようにしておく必要があります。この3点セットが上手くいく…
丹羽宇一郎さんの書いた「戦争の大問題」という本を読んでいる。
私が以前書いた「保守リベラル」水系を代表する意見なのだろうと思う。
巻頭には田中角栄の言葉が飾られている。そういう水系があるのだ。
だから今、私たちはデモクラシーという流れとリベラリズムという流れをインテグレートしなければならないのだと思う。
その鍵は非戦・平和にある。平和を中立ちにして民主と自由が三角を形成する。
それはデモクラシーの意味を豊富にするだけではなく、一定の変容を迫るものでもある。
去年からずっとそのことが念頭にある。
序文で丹羽さんはこういう
世界の情勢が危ない方向へ行こうとしている。その中で、もっとも危惧されるのは日本の世論に強硬論が目立つことである。
熱狂した国民がいとも簡単に戦争を選ぶことは、9.11直後のアメリカを見ても明らかだ。近年の反中、嫌韓の世論を見ていると、日本が当事国になる危険さえ感じる。
ということで、丹羽さんの強烈な問題意識が「熱狂した国民がいとも簡単に戦争を選ぶこと」への危惧にあることは間違いない。この危機意識は我々世代も同じように共有するものだ。
一方において現実の東アジア枠組み観もきわめてリアルに提起する
力で尖閣の取り合いをすれば、日本は中国に勝てない。
では、アメリカが出てきて日本と一緒に戦ってくれるのか。それはありえない。
世界第一の強国と第二の強国が闘うことはありえないし、世界はそれを望まない。
したがって、尖閣を軍事的に守ることは不可能である。したがって、領有権を守るために軍事対応を煽るような世論操作は誤りである。
こんな会話があった。
「野党共闘と言ってもみんな考えは違うだろう」
「違うから共闘なんだ」
ちょっとこの答えは“はぐらかし”だろうと思う。「根っこは同じだ」と信じ合わないと共闘にはならない。
やはりそこには数合わせの共闘だけではなく、「思想の共闘」が必要なのだ。
「思想の共闘」が進んでいるから野党共闘が前進しているのだろうと思う。デモクラートにとって、これは妥協ではない。思想上の前進なのだ。
なぜ思想上の前進が必要か。それは共闘が野党共闘では終わらないからだ。自民党のような保守の人々とも手を組んでいかなければならないからだ。
じつは、北海道の民主勢力は、すでにこの「思想の共闘」を経験している。それが元防衛庁長官の故箕輪登氏とのイラク問題訴訟での連帯だ。
問題はこのような散発的共闘では情勢のテンポには遅れを取らざるをえないということだ。こちらの側から攻勢的に、確信を持って共闘の思想的枠組みを提起していかなければならない。
朝日新聞11月19日付記事は、貴重な情報だが読み込みが必要だと思う。
要旨を紹介しておくと、
1.9月26日深夜 帝国ホテルで前原=小池の秘密会談が行われた。同席者は神津連合会長、ジャーナリストの上杉隆であった。2.憲法改正と安保は小池の方針で合意する。
3.「三権の長」経験者を排除する。
出席者が4人であるとすれば、記事は小池氏のエージェントである上杉氏のリークによるものであろう。相当バイアスがかかっているので、どこまでが事実化を同定するのはむずかしいが
下記は2017年10月02日民進党分裂の形勢 に掲載したものである。
25日 「希望の党」の結党。小池知事がみずから代表に就任。
27日午後 日テレ系が「合流」の報道を開始。
27日 連合の神津会長が記者会見。希望の党一本化を歓迎。
28日両院議員総会への常任幹事会の提案。
1.今回の総選挙における民進党の後任内定は取り消す。
2.民進党の立候補予定者は「希望の党」に公認を申請する。3.民進党は「希望の党」を全力で支援する。
討論の中で、「合流ではない。それぞれの候補者に公認を与えるかどうかは、希望の党側が判断する」(NHK)ということで、合流ではなく解党が正しい。
28日の前原代表の記者会見。
1.どうすれば小選挙区の一対一の構図に持ち込めるか。これが第一の選択肢だ。2.4党での協力ということも選択肢だが、政策理念、方向性で一致しない。
3.解党ではなく、アウフヘーベンだ。
質疑応答の中で、「私は民進党代表をやめるつもりはない。党籍を残したまま、『希望の党』の公認候補になることは法律上問題はない」と発言。
29日 小池が記者会見。リベラル派を「排除する」と明言する。枝野派30人強が対象とみられる。さらに維新と提携する大阪では候補を出さないとする。
30日 民進党の全国幹事会。地方組織や連合が「話が違う」と不満を爆発させる。北海道連は民進党公認の道を開くよう求めたが拒否される。
30日 希望の党若狭議員、50人以上の1次公認者を選定したと語る。多くが自派メンバーで、民進党現職とぶつかることになる。
30日 赤松広隆議員、「新しい政党も選択肢の一つ」と語る。
30日 連合の神津里季生会長が党本部で前原と会談。「排除はおかしい。要望が受け入れられなければ希望の党の候補に推薦は出さない」と語る。
9月30日 前原・小池会談。前原が希望者全員を受け入れるよう求めたが、小池氏は安全保障政策などの一致が必要だと譲らなかった。
10月1日朝 枝野と前原が電話会談。枝野は「あの時の話と違うではないか。自分は希望の党には行かない等の声も上がってきている」と追及。(時事ドットコム)
10月1日午前 枝野代行が記者会見。希望の党に合流しない民進党前衆院議員らを集めて、新党を結成する考えを明らかにする。新党を作るには国会議員5人以上が必要で、参院議員5人の賛同を狙う。
10月1日午後 民進党の玄葉選挙本部長代行と希望の党の若狭が候補者調整を行う。玄葉は100人の民進党出身者の公認を要請。
10月1日夕 枝野と前原が党本部で会談。希望の党の若狭勝前衆院議員と玄葉光一郎総合選対本部長代行も同席。枝野は希望の党に参加できるメンバーのリストを明示するよう要求。玄葉代行は「立候補予定者のうち60人ほどが公認を得られない」と説明。
10月1日 民進党北海道連、逢坂氏を含む道内候補全員について「希望」に公認を求めない方針を確認。
10月2日午前 枝野氏、連合本部で神津里季生会長と会談。「現状を説明し、私の考えている方向性を話した」と語る。公認漏れの救済を前面に振りかざすと、連合も断りにくいと見たのだろう。
26日の会談は秘密でもなんでもない。10月2日の時点でしっかり記録されている。神津会長が同席していたことも別に秘密ではなかったかもしれない。
合意内容もほぼ予想通りだが、2点ほどだいじなことがある。大量虐殺の話はなかったこと、誓約書の話はなかったことだ。
いずれも微妙なところだ。どちらかと言えば小池側に瑕疵があるようだが、「本当のことは言わなかったが、嘘はついていない」というレベルの話だ。
上杉氏の言葉を信じるとすれば、上杉氏の「排除対象は「三権の長」経験者」ということで合意した。少なくとも小池氏以外は合意したと信じた。もしこれに小池氏が異を唱えなかったとしたら、小池氏の誠意が疑われる。
しかし、そのような雰囲気にまでに詰まっていたのかどうかは分からない。小池氏は前日も「排除する」発言を行っているし、10月1日には誓約書を一斉配布している。
「だから小池氏は合意していなかった、合意したというのは民進側の勝手読みだった」と見るほうが自然なのかもしれない。
こうなると、だいぶ話は見えてくる。
小池氏は民進党との合併を迫られた。これは連合の背後にいる勢力を考えれば問答無用だ。
しかし小池氏には個人的な関係にとどまるにせよ、連合・経団連とはことなる独自の人脈やルートが有るはずだ。
「そうなんでも連合の言うことばかり聞いてもいられないよ」ということになれば、それだけのフリーハンドは与えられている。
そこで、ちょっとばかし突っ張ってみたら、あれよあれよという間に楼閣が崩れてしまった。
これで小池の側は説明できた。
では前原はどうして引き返さなかったのだろうか。結局、引き返せなかった、もう時間がなかったというのが真相であろう。インパールの牟田口司令官みたいなものだ。面の皮の厚さも似たようなものだ。
屠殺の責任者は連合の神津会長ではないか
1.小池氏に「罪」はない
そもそも小池百合子の側には民進党と合同しなければならない必然性はなかった。地盤とカネは魅力だが、負のイメージまで背負い込むことになる。
下記の記事があって、小池没落の瞬間を捉えた描写はそれなりに面白い。
2017.10.24 横田一
「排除」発言を引き出した記者が見た「小池百合子の400日」 なぜジャンヌ・ダルクは墜ちたのか 副題は
希望の星、改革の旗手が一転、リベラル派の「大量虐殺」に手を下す「詐欺師」に豹変した
とかなりどぎついものになっている。
以下が記事の要約
9月29日午後2時の都知事会見で横田さんはこのように質問した。(横田さんは小池氏の「天敵」とされるフリー記者)
前原代表が昨日、「希望の党に公認申請をすれば、排除されない」という説明をした。
一方で(小池)知事、(希望)代表は「安保、改憲を考慮して一致しない人は公認しない」と(報道機関に話している)。
(前原代表と)言っていることが違うと思うのですが、前原代表を騙したのでしょうか。それとも(それともリベラル派排除のために、前原氏と)共謀して、そういうことを言ったのでしょうか。
横田さんは質問の真意を明らかにするためにかなり()で発言を補足している。したがって質問の真意が小池さんに十分伝わったかどうかはいささか疑問がある。
このとき小池さんはいったん答えを保留し、しばらく時間が経ってから横田さんが再質問をしている。
まぁ相当どぎつい表現も使い、質問という形で意図的に挑発している、と取れないこともない。
前原代表が昨日(28日)「(希望の党に)公認申請をすれば、排除されない」と発言した。
そのことについて、小池知事・代表は、安保・改憲で一致する人のみを公認すると発言している。
前原代表を騙したのでしょうか。
それとも共謀して「リベラル派大量虐殺、公認拒否」(を企てた)のですか。
それに対する答えが、以下の通り。
前原代表がどういう発言をしたのか、承知をいたしていません。
『排除されない』ということはございませんで、排除いたします。取捨(選択)というか、絞らせていただきます。
(なぜなら次のように考えているからだ)
安全保障、そして憲法観といった根幹の部分で一致していることが政党としての、政党を構成する構成員としての必要最低限のことではないかと思っております。
この記者会見に同席した週刊朝日の小泉記者は、以下のごとく振り返っている。
油断から思わず出たホンネだったのか。結果的には〝笑いごと〟では済まない発言となったのである。…
メディア戦術に長けた勝負師が見せた、一瞬の油断だった。
たしかに希望の党をめちゃくちゃにしたのは、「排除します」と言い放った小池氏の責任だろうと思う。
それはそれでいい。むしろありがたい話だと思う。
2.前原氏を動かしたものの責任は問われなくても良いのか
しかしこの一言が民進党を崩壊に追い込んだのではない。時間経過を見れば、武装解除して白旗を掲げて屠殺されたのは、民進党上官の責任だ。
9月27日、希望の党の結党を宣言した小池氏は、BSフジの番組に出演した。そこで質問に答えて次のように語っている。
民進党からの合流希望者については、自動的に受け入れることはない。一人一人、こちらが仲間として戦えるかということで決めます。
そして判断材料として、憲法改正と安全保障政策を挙げ「本当にリアルな対応ができる安保政策を共有したい」と語っているのである。
つまり、小池氏の側は最初から「排除する」といっているのであり、何らぶれていないのである。
なのに、翌日になって前原氏は議員を集め白紙委任を取り付けているのである。
前原氏は「小池氏はそうは言っているが、最後は全員受け入れの方向で動く」という強い感触を持ったから動いたに違いない。
その感触をどこから得たか、神津会長以外に考えられない。小沢一郎氏ではないかという噂もあるが、ありえない。今や彼にそれほどの力はない。
では神津会長はその感触をどこから得たか。それは経団連に違いないとは思うが、それらしい徴候はまったく示されていない。
3.小池氏の真意は「排除する」ことにあったわけではない
小池氏の発言は決して軽はずみなものではなかった。むしろ、ひょっとすると、舞台効果も狙って小池氏が仕組んだ可能性も否定できない。それはそれで一つの話だ。
彼女はその後に民進党議員一人ひとりに誓約書への署名を突きつけた。公にはならなくても、むしろそちらのほうがはるかに重大な内容をふくんでいる。それは「政策協定書」という名の踏み絵であった。
主な内容は以下のとおりだ。
1、希望の党の綱領を支持し、「寛容な改革保守政党」を目指すこと。
2、現下の厳しい国際情勢に鑑み、現行の安全保障法制については、憲法にのっとり適切に運用する。
その上で不断の見直しを行い、現実的な安全保障政策を支持する。
3、憲法改正を支持し、憲法改正論議を幅広く進めること。
4、選挙協力の協定を交わしている政党への批判は一切行わない(最終段階で付加)
一言で言えば、民進党の国会議員であればとうてい飲めない中身だ。
ジャーナリストの田中稔さんはこう語っている。
国会前で市民と共に戦争法反対を訴えた多くの民進党の前議員がこの踏み絵を踏み、サインをしたという裏切りを絶対に許せない。
まさに議員たちは神(民主主義への信仰)を裏切り、国民を裏切り、自分を裏切ったのである。
4.まだ死んでいない神津会長
毎日新聞にこんな記事が載った。
連合の神津里季生会長は5日、東京都内で開いた中央委員会で、立憲民主、希望、民進、自由、社民の野党5党の国会議員が参加して政策を議論する「連合フォーラム」を来年早々にも設立する意向を表明した。2019年の参院選や統一地方選をにらんで野党連携を促す狙いがある。
とにかくこの男、民進党をバラバラにし国会議員を虐殺に追い込んだのに、そのことにまったく責任を感じていないのである。本来なら「東京裁判」で絞首刑のはずだが、このヌケヌケぶり尋常ではない。
今後もまた、「旧民進三派」を中心にさまざまな形で「野党再編」の動きが出てくると思う。そのときにそれらをどう捉え、どう対応すべきだろうか。
そのことを考えると、この「大惨事」がいかに仕掛けられ、いかに失敗したかを明らかにするのはメディアにとって大きな責任となるのではないだろうか。
ワイマール共和国の成立史を勉強するうち、もう一つの政治カテゴリーに気づきました。
それが「議会主義」です。
実はこれが議論の焦点ではないかと考えるようになりました。
1.議会主義という言葉を覚悟して使おう
この議会主義は民主主義の意味にもなるし、寡占主義の意味にもなります。そして左翼、とくに戦闘的左翼のあいだでは議会主義の評価が、いまだふらつきがあるように思えるのです。
これまでの勉強でわかったのは、さまざまなイデオロギーが実体的な土台を政治・法律の中においていることです。
言ってしまうと当たり前みたいな話で、「だからイデオロギーなんだよ」といわれてそれでおしまいみたいな話ですが、意外と奥深いのです。
2.リベラリズムと立憲主義の同義性
真っ先にこの事に気づいたのは、リベラリズムと立憲主義の同義性でした。ものの本には「リベラリズムの法的表現が立憲主義である」と書いてあるんですね。
「リベラリズム」というのは自由主義であり、自由を何よりも重要な価値観とする考えです。それは「自由とは何か」という考えを根底に含みますから、まず何よりも倫理学であり実践哲学です。
ただそれはきわめて根底的な問いであり、なかなかはっきりした答えが出せるものではありません。ところが政治・法律の観点から見るとそれはきわめてスッキリしているんですね。
それは人間が社会の中で暮らすしか無いのだから、社会はできるだけ個人の自由を尊重しなければならないというのが原点で、これが「社会は…すべからず」という規範集となって集大成されている。これが法律であり、憲法であり、その具体的適用としての各種施策なんですね。
というより「そうあるべきだ」というのが自由主義の主張であり、それは法律的には「立憲主義」ということになるのです。
以上より、こう言えます。
自由主義・リベラリズムというのは色々な考え方ができるけれど、その中核・実質となるのは立憲主義だということです。
3.デモクラシーと「議会主義」の同義性
同じような論立てで言うと
民主主義・デモクラシーというのは、その中核は「議会主義」なのかもしれない、ということになります。
ということは議会制民主主義、人民的議会主義などという言葉がそもそも変なので、非議会制民主主義というのはありえないのではないでしょうか。
民主主義の反対は寡占政治です。貴族政治とも言いますが、別に貴族でなくとも良いわけで、国民の代表ではないのです。
寡占政治には幅があって究極の寡占は独裁制とか王政ということになります。議員の数があ多くても、被選挙権にいろいろ条件がついて、エリートでなければ議員になれない場合は、厳密な意味で国民を代表していないので、寡占制ということになります。
だから議会主義は代議制であるために一見寡占制にも見えますが、本質的には寡占制の対立物なのです。
こう見てくると、民主主義の根本精神は「法のもとでの平等」主義にあるということがわかります。平ったく言えば「一票民主主義」なのです。
3.政治的平等の持つ意味
そう言ってしまえば身もふたもないようですが、実はこれが妖刀村正的な効果を持っているのです。なぜなら抑圧者、搾取者、収奪者、支配者はつねに国民の少数だからです。
民主主義は大多数の国民が、いざという時には国の主人公となる「可能性」を意味します。その可能性を追求するのが「民主運動」ということになるのでしょう。
話を戻しますが、民主主義というのは巨大な可能性を秘めてはいますが、さしあたっては議会主義だと思います。
大変革期に議会主義が果たして有効な変革手段になるか、それは課題の緊急性にもよると思います。ただ議会主義を放棄すればそれは民主主義という統治手段を一時的にせよ放棄することになります。そういう覚悟を保つ必要があります。
直接民主主義という、条件的にしか存在しない合意形態を持ち出すのは詭弁です。ソヴェートとかレーテとかは主体の“あり方”でしかなく、議会に代わるものとして提示するのはすり替えです。
4.「思想の自由」は民主主義の課題ではない
いずれにしても民主主義は議会主義を中核とするものであり、立憲主義と直接の規定関係はありません。我々がこれまで民主主義と言ってきたものの中には、かなり「リベラリズム」の範疇で捉えなければならないものがありそうです。
例えば「思想の自由」をめぐる問題は、まさに自由の問題であり、民主主義一般よりはるかに根底的な問題として捉え返されなければなりません。
民主主義と自由主義は相互に結びつく傾向が見られるが、これらはもともと別個の原理であって、自由主義的であって民主(主義)的でないことも可能であるし、民主(主義)的であって自由主義的でないことも可能である。ここで自由主義と呼んでいるものは、憲法学の分野で立憲主義と称されているものとほぼ同じものである。つまり、「立憲主義は自由主義を制度的に実現したものである」
②王権の制限された寡占支配 |
④近代民主主義(共和制) |
①専制支配 |
③粗暴な「民衆」支配 |
生産力の拡大にともない、社会システムが進化し、統治システムは①から④へ向かうのであるが、次の3点が必然的傾向となる。
1.①から④の流れは必然である。
2.①から②に向かうが、ときに①から③に向かうこともある。
3.②と③との相互転換はありうる。
4.①から④へ向かうために②を経由するのが必須である。③から④への道はない。
「憲法と人権」という本の一節。
デモクラシーを主張する人の中に、リベラリズムをデモクラシーに収斂させてしまう傾向があったのではないか。
国民が政治における自らの運命の決定者となることがデモクラシーの真髄であるが、それは国民が人間個人として自らの運命の決定者であることを抜きに語ることは出来ない。
これを敷衍すると、
つまりデモクラシーはリベラリズムを前提にして語らなければ、真のデモクラシーとはなりえない。民主主義者は民主主義者である前にまず自由主義者でなければならない。
ということになる。
これを憲法の条文にひきつけてみると、
憲法第13条冒頭 「全て国民は、個人として尊重されなければならない」
ということが出発点となる、のだそうだ。
なお原案では、「その人類たることに依り」(by virtue of their humanity)という一節が付けられていた。
そこでは抽象的な政治主体としての「国民」ではなく、個性を持つ諸個人の集合としての「国民」が主権者となるデモクラシーがうたわれている。