鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ:04 国内政治 > A 憲法/平和

エスター・ローズ 62年、日本に尽くして

という記事がある。2013年1125日の福祉新聞Web版に掲載されたもので、おそらくは追悼文と思われる。

人となりがかなり詳しく紹介されているのでご参照いただきたい。

写真だけ転載させて頂く。

rhodes
関西が好きだったミス・ローズ(中央)。妹キャロライン(左)、菊地勝子さん(右)と京都で=1975年

というキャプションがついている。

本日の赤旗家庭面で、「昭和とパンの話」という連載の4回目が気になった。

著者は「昭和のくらし博物館」の小泉和子さんという方。

今回の内容は戦後の食糧援助について。気になったのは

初期の援助は米政府からのガリオア・エロア資金、在米日系人を中心とした救援活動によるララ物資、NGOによるケア物資、ユニセフからの援助など…

ただしララ物資についてはGHQの意向で日系人の関与が秘匿され、外国からの援助物資として配布されました。

この時代は私にとては物心のつく以前のこと、ほとんど記憶はない。ただ本当に静岡の田舎までララ物資の恩恵が行き渡ったのかは、その実感はない。きっと都会の飢えた子どもたちに吸い取られたのではないかと思っている。

それはともかくとして、「日系人の関与が秘匿され」たというのは初耳だ。

少し経過を調べてみることにする。

いくつかの文献があったので、そこから膨らませていくことにする。

昭和20年

http://www.a50.gr.jp/jp/lara.html より

11月 サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助、「日本難民救済有志集会」を開催。邦字紙「ロッキー新報」に「故国の食糧危機重大」と題する記事を載せ、「一食を分かち、一日の小遣いを割いても、援助することは、良心的な義務」と運動を呼びかける。

岩崎美智子「ララの記憶」より

10月 東京・上野駅における餓死者は 1 日平均 2.5 人で、11 月の数字では、8 月以降の餓死者は京都 300 人、大阪196 人、名古屋 72 人であった。戦災浮浪児、孤児、非行児など 18 歳未満の要保護児童の数は 40 万人とされる。

餓死者続出の情報が海外でも知られるようになり、次期大統領を狙うマッカーサーは焦ったと言われる。

昭和21年

1月22日 浅野七之助が中心となって「日本難民救済会」が設立される。大統領直轄の救済統制委員会に「日本難民救済会」を公認団体とするように陳情。

当時、各種宗教団体を中心とする海外事業篤志団アメリカ協議会(American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad)が対外的な慈善活動を担っていた。しかしその対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。

4月 海外事業篤志団の傘下組織(特別委員会)としてLARAが結成される。「日本難民救済会」を母体とする。

正式名称は「アジア救援公認団体」(Licensed Agencies for Relief in Asia)。加盟団体は教会世界奉仕団、アメリカ・フレンズ奉仕団、カソリック戦時救済奉仕団、ルーテル世界救済団、メノナイト中央委員会、カナダ教会会議、アメリカ労働総同盟、産業別組合会議、ブレズレン奉仕委員会、ユニテリアン奉仕委員会、クリスチャン・サイエンス奉仕委員会、アメリカ・ガール・スカウト、救世軍、YMCA、YWCAである。

6月 アメリカ合衆国救済統制委員会、日本向け援助団体の設置を認可。

6月 ララ代表が来日。日本政府およびGHQと、運営についての交渉を開始する。ララは「公平・効果的・迅速」を物資配分の「三大モットー」として主張。

9月30日 三者の交渉が完了。ララはGHQの統制のもとに救援物資を送り、日本政府がGHQの指示の下に「受領及配分」を行うこととなる。

ララの駐日代表部は、マキロップ神父(カソリック戦時救済奉仕団)、ローズ女史(アメリカ・フレンズ奉仕団)、バット博士(教会世界奉仕団)が担当する。
ローズは戦前20年以上にわたる在日経験を持つ。バイニング夫人の後任として皇族の英語教師を務めた

11月 「学校給食実施の普及、奨励について」の次官通達。全国の児童を対象にした学校給食の方針を正式に決定する。

11月30日 第一便 (ハワード・スタンズペリー号) が横浜に到着。ララの支援物資(大型トラック100台分)が届き始める。支援は全458便。27年の講和条約まで続く。

全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%。推定で1100万ドル=400億円(当時価)に達した。乳牛や2000頭を越える山羊などもふくまれた。救援物資の20%は米、加、伯、亜などの日系人が集めたとされる。

12月24日 東京の永田町小学校で贈呈式を実施。最初の物資は東京都内の486施設5万人に分配される。

昭和22年 

1月 第二回目の救援物資。最も戦災被害が大きかった8都府県に配布される。その後3月、5月に支援物資が届き、全都道府県に物資が入る。

1月20日 永田町小学校でララ物資による給食が開始。その後全国の主要都市の学童 300 万人に週2回の給食。

7月31日 衆議院本会議において感謝決議を全会一致で可決。

昭和23年 東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の6大都市の約300ヶ所の保育所でララ物資による給食が開始。

昭和24年 全米23の教会諸団体、7万6千の教会が「ゴール1,000万ドル 難民救済の催し」を実施。「日本の子供たちを救おう」と募金活動。

昭和25年 「ララ物資への感謝と日米の友好親善のために女性親善大使の選出する」ことを目的にミス日本コンテストが行われる。第一回目の受賞者は山本富士子。(このコンテストは第2回をもって廃止)

昭和27年

6月 講和条約発効とともにララ物資も終了となる。1,400万人以上、即ち当時の日本人の6人に1人の割合でその恩恵を受けたと言われる。


GHQが日系人のイニシアチブを隠蔽したという経過は確認できなかった。もちろんGHQの日本統治の手段の一つとしてララが利用されたという側面は否定できない。

ただ、それが主要な側面だったというのは、GHQ内の「民政派」の努力(手練手管)を否定することにもつながりかねず、賛成はしかねる。

とにかく「アジア救援公認団体」の構成メンバーを見れば、マッカーサーならずともひれ伏す以外にない「葵の御紋」である。この「権威」を使ったことが、いかにその後の措置をスピーディかつ円滑に進めたかは想像に難くない。ここが勘所である。


呉への空襲は映画の通り何回も繰り返し行われている。とくに7月末、広島への原爆投下の直前は執拗で、広島の原爆投下作戦へのカモフラージュだった可能性もある。呉市民にとっては、ほとんど「慣れっこ」になっていた。

呉戦災を記録する会 によると、

1945年

3月19日午前7時20分 アメリカ海軍の第58機動部隊約350機が、呉軍港への空襲。3時間半にわたり波状攻撃。この時港内には大和など戦艦3隻、空母5隻などが停泊していたが、多くは小破ないし軽微にとどまった。

GunkanHaichi319

呉の戦災より転載(大和は2月28日には停泊していたが、この日は広島湾に退避していた)

3月27日 対日「飢餓」作戦が開始。沖縄上陸作戦を前に、海上補給と応援部隊の派遣を阻止するため、下関海峡、呉及び佐世保軍港、広島湾にパラシュート機雷を投下。

5月5日 B-29約120機、隣接地域の広地区海軍工作庁(広工廠)を空襲。

6月22日午前9時30分 162機のB-29が呉軍港内の呉海軍工廠の造兵部(兵器工場)に空襲。1時間余の爆撃により造兵部は壊滅するが、造船部はほぼ無傷で残される。
海軍工廠では勤労動員の学生を含む約10万人が働いており、少なくとも400人以上が犠牲になったが、新聞には「死者1名もなし」と報道された。
隣接する宮原・警固屋地区、また安芸郡音戸町にも爆弾が降り注ぐ。映画ですずと晴美が空襲に遭ったのはこの時のこととされる。

7月2日0時 B29約150機による呉市街地の戦略爆撃。2時間で16万発の焼夷弾を投下。約337ヘクタールが焼失し、12万5千もの人が家を失う。

7月24日~28日 ポツダム宣言受諾を迫る「対日集中作戦」の第一陣として、5日間にわたる呉沖海空戦がはじまる。のべ1845機の艦載機が攻撃に参加。

7月24日 土佐沖の空母から飛び立った艦載機約870機が、呉軍港内艦艇を中心に爆撃。沖縄伊江島のアメリカ陸軍航空軍も参加する。

7月25日 B29・B24約110機が、港内艦艇を爆撃。

7月28日 第38機動部隊約950機が来襲。戦艦3隻が沈没、空母5隻が沈没ないし大破するなど、ほぼ全ての艦が航行不能となる。

7月29日 呉市民の犠牲者は2062人、軍関係者の死者数は不明。

8月6日 広島に原爆投下。

8月8日 福山に大空襲。

呉 空襲の記録

本日は この世界の片隅に  という映画を見てきた。

アニメ映画で、なんというジャンルと言って良いのか分からないが、とにかく戦時中に呉を襲った空襲を背景とする広い意味の反戦映画だ。

日常をたんたんと描くことで、そこに突然割り込んでいる凶暴な力が浮き彫りになる。

しかしその日常たるや、本当の日常ではない。男がどんどん連れ出され、モノがどんどんなくなり、飢えが当たり前となる日常だ。

その「非日常」を日常化し、取り込みながら生活を作り上げていく、そういう生活の最終的帰結として、空襲は必然的だった。

登場人物たちにはもちろんそのような自覚はない。

自覚するのはこの映画を見た観客たちだ。

もう一つ、その日常は我々戦後世代が経験した時代より遥かに豊かな時代なのだ。

生活必需品は確かに欠乏していた。しかし建物は遥かに立派だし、文化は遥かに豊かだった。子供時代「良いもの」といえばすべて戦前製のものだった。

我々が「豊かさ」を実感するようになったのは、我が家にテレビや電話や電気洗濯機が入るようになってからだ。

しかしその頃もまだ、家そのものは戦前に遥かに劣るウサギ小屋だった。

私はこの映画を見て、空襲が日本の何を破壊したのかをもっと分析すべきだろうと考える。と言うか、軍国主義によって破壊された国民生活が、最終的に崖から突き落とされた時、そして都市機能の全てが失われた時、その責任分担をもう少し明らかにしておいたほうが良いのではないかと考えている。

それにしてもこの映画、マット絵の美しさを除くとあまり記憶に残らない映画だな。何か微妙なずれがある。我々には戦無派に伝え残すべきものがもっとありそうだな。

それはなんだろう。あからさまに表に出すのでもなく、誰にというのでもないが、一種の「憤り」かな。


1844年 パティキュラー・バプテスト派、奴隷問題をめぐり決裂。奴隷制を支持する南部バプテスト信者が分離する。残された北部のグループが「米国バプテスト宣教連合」を組織。(バプテストにはジェネラル派とパティキュラー派があるらしいが良く分からない)

1873(明治6年) 「北部バプテスト」、横浜で布教活動を開始。

1889(明治22年) 「南部バプテスト連盟」(Southern Baptist Convention)が宣教師を派遣。九州を中心とした伝道が始まる。(九州を地盤としたのは北部バプテストとの縄張り協定による)

1895 黒人のバプティスト組織が「全国バプテスト連盟」を結成。

1903年 日本バプティスト西部組合が北九州の若松市で結成されました。

1907年 米国のバプテストの諸教団が合同し「北部バプテスト大会」を開催。「北部バプテスト同盟→米国バプテスト同盟」の母体となる。

1916 宣教師C. K. ドージャーが、福岡に「西南学院」を設立。

1940 西部組合が日本バプテスト東部組合と合同。日本バプテスト基督教団を結成する。

1941 日本バプテスト基督教団は日本基督教団に合同。

1947年4月、E.B.ドージャー宣教師の呼びかけにより、福岡・西南学院教会で「日本バプテスト連盟」結成総会。旧西部組合系の16教会が日本基督教団から離脱して参加。

1958 旧東部組合系教会の一部が、日本基督教団を離れて「日本バプテスト同盟」を結成。教団残留組は教団内の一グループとして「教団新生会」を結成。ともに「北部バプテスト同盟」(現アメリカ・バプテスト同盟)をバックとする。

1962 反ヤスクニ宣言を発表。

1963年 「新生運動」が展開される。福岡を拠点に全国への開拓伝道に取り組む。SBCの牧師・信徒が来日し、伝道協力。

1970年、世界バプテスト大会が東京で開催される。

1970 神学校や各教会において、教会の存在意義・宣教を問う教会闘争が起こりました。靖国神社問題、日韓・在日連帯問題、公害問題、部落問題などに取り組む。

1976年には米国・SBCからの支援を打ち切り、経常費自給化を達成。

1979年に「信仰宣言」を採択。その後“Cooperative Baptist Fellowship”(CBF)との連携を強める。

1992 「日本バプテスト同盟」が「戦争責任に関する悔い改め」を総会で採択し発表。

1988年に「戦争責任に関する信仰宣言」(戦争責任告白)を採択

1995 阪神淡路大震災で、兵庫県内の諸教会が甚大な被害

2002年総会では「平和に関する信仰的宣言」(平和宣言)を採択

2004 南部バプテスト連盟、世界バプテスト連盟からの脱退を正式に決定。

2006 南部バプテスト連盟からの脱退者がCBFを中核に新バプテスト連盟を結成。カーター元大統領らも加わる。

2013年1月現在、全国283の教会、43の伝道所が加盟(九州が75教会)

2016年7月 日本パプテスト連盟理事会声明「なおも希望を持ち続けるために」を発表。参議院選の結果を踏まえ、立憲主義の堅持を訴える。


こうやって、バプティストの歴史を見ていくと、西南学院の宣言はごく自然なものと考えられる。内部事情的に言えば、南部バプティスト連盟との絶縁がかなり効いているように思える。


赤旗の8月15日号に掲載された「西南学院の平和宣言」は大きな反響を呼んでいる。この「宣言」はそもそも4月1日付で発表されたものだが、当時はまったく知られていなかった。

発掘した赤旗は偉い。

文章そのものはそれほど長いものではなく、全文が読めるのでそちらをご参照いただきたい。

と言いつつ、要約を箇条書きにしておく。

宣言の表題は「西南学院創立百周年に当たっての平和宣言―西南学院の戦争責任・戦後責任の告白を踏まえて―」

1.西南学院は、創立百周年を迎え創立者C・K・ドージャーの示した方向を確認する。私たちは、敵対する異質な他者にさえ、しっかりと向き合い、問い合い、愛し合うことこそが人としての普遍的価値であると信じている。

2.西南学院は、先のアジア・太平洋戦争ではこれに加担し、諸外国の人々をはじめ多くの人々に多大な苦しみを与えてしまった。

3.戦後もそのような過去への責任を明らかにせず謝罪してこなかった。天皇の名による侵略戦争によって傷つき、殺された人々の怒り、苦しみ、悲しみを受け止め、「加害責任」を心に刻み込んでこなかった。

4.西南学院は、天皇皇后の御真影の下賜を願い出、「奉安殿」を建設し、宮城遥拝、君が代斉唱を行った。宣教師たちが敵国人として帰米を余儀なくされた時にも、苦悩・悲しみを共有できなかった。体育教育を「軍事教練」の場とし、学院の名で学生を出陣させ、彼らのいのちを死に至らしめ、他国の人々を殺すことを是認した。

5.私たちは、創立百周年のこの時に過去と将来に想いを馳せ、自国本位の価値観を絶対視し、武力・暴力の行使によって人々の尊厳 を抑圧するという過ちを二度と繰り返すことのないよう、今その決意をここに表明します。


ということで、いささかきつい文章だが、これを西南学院のおかれた位置とつき合わせることによって、真意が見えてくる。

西南学院の歴史

1906年(明治39年)にアメリカから「南部バプテスト連盟」の宣教師C.K.ドージャーらが赴任。福岡バプテスト神学校を開校。10年後に西南学院を設立。以後は全国各地のミッション系学校とほぼ同様の経過をたどる。

かつては「南部バプテスト連盟」より多額の補助を受け、宣教師の派遣も受けていた。学院長もこれら宣教師が就任することが通例であった。

西南学院と日本バプテスト連盟との関係は現在も深く、神学部は日本バプテスト連盟の教派神学校としての使命も負っている。

ウィキペディアの「西南学院大学」などには、2000年以降の信仰をめぐる混乱が若干触れられている。

1970年代より、「南部バプテスト連盟」の保守化が進んだ。79年には原理主義者による南部バプテスト連盟占拠が行われた。

元々、南部バプティストは人種差別を内包していた。1939年アトランタで開かれたバプテスト世界同盟大会では、白人と黒人のゲストは異なったホテルを提供され、会場の座席も分けられた。(アメリカ南部バプテスト連盟

この傾向は60年代後半に一定の是正がなされたが、70年代にふたたび保守派が巻き返した。

2000年に、米本国の「南部バプテスト連盟」がキリスト教原理主義に転向し、信仰宣言を改訂した。

「妻は夫に恭しく従うべきだ」と家父長制を強調、女性が牧師になることを制限する文言などを加えた。「連盟」は宣教師に宣言への同意署名を求め、拒否した宣教師は絶縁になった。

またブッシュ・ドクトリンを積極的に支持するなど、政治的右傾化を強めた。

「南部バプテスト連盟」は、2004年には世界バプテスト連盟を離脱するに至った。

この動きが西南学院にも波及し、宣言への署名を拒否した多くの宣教師が解雇され、帰国した。学院長も任期が終わると同時に離日した。

学院にとどまった4人の元宣教師は「南部バプテスト連盟」を離れ、学院の専任教員として採用された。

というような経過を経て、本国の「連盟」とは絶縁しこれまでの方向を一層強化する方針が確立された。「創立者C・K・ドージャーの示した方向」というのはそのことを指す。


ということで、状況としては一知半解なのだ。

結局下記のことが分からなければ、状況は理解できないということが分かった。

1.バプティスト派の由来

2.バプティスト派と南部バプティスト連盟の関係

3.日本におけるバプティスト派の動き

4.日本バプティスト連盟と西南学院の関係

思わぬ深みにハマりそうな予感がする。

 

たしかに言われてみると面白い。「その通り」と叫びたいほどだ。
日本における反米運動の中核をなす人々(私を含めて)は例外なく親米だ。
建国の精神であるメイフラワー号とピューリタニズムに限りない共感を抱く。
アメリカの独立宣言と合衆国憲法を素晴らしいと思う。
アメリカの人々の地域コミュニティ尊重、個人の不羈に我々は大きな敬意を抱く。
その大きな高まりとしてのニューディール精神は戦後日本の、戦後民主主義の旗印であった。
おそらくそれは奇怪な日本型ファシズムの時代でさえも、日本人の憧れの象徴で在り続けた。
日本国憲法への日本国民の支持は、このアメリカ流民主主義への日本国民の憧憬なしには語れないだろう。
そのくらいアメリカの“良質な”民主主義思想は、今上天皇を先頭とする日本人の心を捉えている。それは思い出すさえ不快な戦前日本の非合理主義に対する対決軸を形成しているのだ。
それは日本だけではない。ベトナムが戦後直ちにフランスからの独立を宣言した時、独立宣言の文句はアメリカの独立宣言を引き写しにしたものだった。独立ベトナムほど親米思想の塊みたいな国はなかった。

現代日本の親米派は、これらの思想を毛嫌いしている。そしてこれらの思想と闘った戦前日本の非合理主義を支持し、その復活を狙っている。
戦前非合理主義とは何か。それは中国をはじめとする近隣同胞を力で服従せしめ、なにかといえば武力で解決を図り、コンツェルンのための政治を国のための政治と強弁し、貧富の差を身分の差として国民の全面的な屈服を強い、個人の尊厳などテンから無視する政治だ。
それに反抗するものには国賊の汚名を浴びせ、死罪や拷問などおよそ理不尽なやり方で抑えこむ政治だ。
これらの政治手法はアメリカ流の政治スタイルとは著しく異なる。

今アメリカの支配者たちはその非合理主義者たちを密かに支持している。なぜなら彼らは民主主義の本家であるアメリカでそっくり同じことを繰り返しているからだ。

The Four Freedoms(1941) Franklin D. Roosevelt

1.前置き 「すべての国の権利への敬意」が土台

国内問題について…と全く同じように、国際問題に関する我が国の政策は、大小を問わずすべての国の権利と尊厳(the rights and dignity)に対する decent respect に基づいている。

そして道義的な正義(the justice of morality)は、最後には勝たなくてはならないし、必ず勝つだろう

2.「人類の普遍的な自由」

第1は、世界のあらゆる場所での言論と表現の自由(freedom of speech and expression)である。

第2は、世界のあらゆる場所で、すべての個人がそれぞれの方法で、神を礼拝する自由である。

第3は、欠乏からの自由(freedom from want)である。それは、世界的な観点で言えば次のような経済的合意を意味する。(直訳では、“世界語に訳すなら、次のような経済的理解を意味する”)、

すなわち、あらゆる国で、その住民のために健全で平和時の生活を保障することである。

第4は、恐怖からの自由(freedom from fear)である。それは世界的な観点で言えば、世界規模で軍備を削減することを意味する。

一つのポイントまで削減すべきだ。すなわち、いかなる国も、いかなる隣人に対しても、武力攻撃の行動を起こす立場をとらなくなる、そういうポイントまでだ。それも全面的なやり方でだ。

3.独裁者たちと4つの自由

独裁者たちは爆弾の衝撃によって専制政治の新秩序を作り上げようとしている。4つの自由はそのまさに対極にある。

われわれが追求する世界秩序は、自由な諸国が友好的な文明的社会の中で力を合わせる協力関係なのである。

それは道義をわきまえた秩序である。

それは千年先の幻想ではない。われわれの時代と、この世代のうちに実現可能な形の世界である。

4.米国の歴史と革命

米国の歴史は永続的な平和革命である。そこには強制収容所も、逃走を阻む溝もなかった。

米国は、その運命を、何百万人もの自由な男女の手と頭と心に託してきた。そして、神の導きの下で、「自由」に信頼を託してきた。

5.自由とは何か

自由とは、あらゆる場所で人権が至上であること( the supremacy of human rights )を意味する。

そうした人権を獲得し維持しようと苦闘する人々に、われわれは支援の手を差し伸べる。

我々の強さは、我々がこの目的のもとに団結していることにある。

アメリカンセンターJAPAN ホームページより)

Yuko's Blog 「アメリカ ウォッチ」に親切な解説があるので紹介する。

 米国憲法改正第一条には、「言論の自由」と「信仰の自由」が謳われている。ルーズベルトはこれに第3,第4の自由を加えたものである。

freedom from want とは、人権および国際的権利として、すべての国民は社会的および文化的側面から適度な生活水準を維持する権利があることを強調したものである。(とあるが、これを「欲することの自由」とは、まぁその通りではあるが、流石に意訳が過ぎよう)

最後の恐怖のない自由とは、この戦争は世界が平和と自由のために戦っていることを米国民に知らせる意図があったと思われる。

この文章から、4つというのはレトリックであって、要するに2つの自由であることがわかる。

欠乏からの自由というのは、「生存権」のことである。恐怖からの自由というのは「平和的生存権」のことであるが、もっと差し迫っていて、いわば「平和のために闘う権利」ともいうべき色合いを帯びていることがわかる。

どう闘うかは、この時点ではまだ示唆的なものにとどまっているといえる。

この二つは、「自由」ではなく「権利」として憲法前文に生かされている。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」


私にはこの2つの「…からの自由」が、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」と響き合っているような気がする。

何がどう響き合っているのか、あるいはいないのかはわからない。

フロムはフランクフルトの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。ナチスが政権を取るのと前後して、アメリカに亡命した。

そして、1941年、アメリカが参戦する直前に「自由からの逃走」が刊行された。

時期的には完全にかぶっており、おそらくフロムはルーズベルトの「恐怖からの自由」を聞きながら、そしておそらくはそれに共鳴しながら、論文を書いたのだろうと思う。

学生時代には一生懸命読んだが良く分からなかった。いまになると、分からないのが当然なんだということが分かった。

そもそもルーズベルトの「恐怖からの自由」というのが持ってまわった表現で、「平和への自由」というところを英語の慣用的表現に合わせて逆説的に言っただけの話だ。

要は「平和的生存権」の主張そのものだ。しかも「平和的生存権」一般にとどまらず、「平和のために闘う権利」まで踏み込んで言及したものだ。

だから言論人は、ルーズベルトの呼びかけに応えて、「平和のための闘争を放棄するな。最後まで闘え!」と呼びかけるべきなのだ。文明論などやっている陽気ではないのだ。

そういう文脈で見ると、フロムの文章は情けないほど状況に立ち遅れている。“フロイド魔術用語”への置き換えを除けば理論的寄与は無きに等しい。

戦後フロムらの新フロイド学派がもてはやされたのは、サルトルの実存主義と同じで、スターリン主義の同伴者として位置づけられたからに他ならない。

スターリン主義が地に堕ちた以上、彼らも同じ運命をたどる他ないだろう。

「ニューディール物語」と題しましたが、最初は「大暴落からニューディール 年表」を作成した感想を書くつもりでした。
そのうちに、ズルズルと事実に引っ張られて、「歴史」もどきのものになってしまいました。その割には出典が明らかでなく、筋書きも論争点に着目したゴツゴツとしたものになっています。
もう少し、初めての人にも分かりやすものにしていくつもりです。一番言いたいことは、ニューディールを運動として、民衆と進歩的政権の実践と認識の過程として捉えるべきだということです。
そうすれば、私たちのいまの運動を考えていく上で、ニューディール運動は大きな教訓を与えてくれるだろうと思います。

1.29年の大暴落(Great Crash)

私たちは、教科書的知識として世界大恐慌(Great Depression)を知っています。

しかし、1929年10月にウォール・ストリートで起きた株価の大暴落がどうやって世界大恐慌に結びついていったのかは意外に知らないのではないでしょうか。

それを知るためには、まず大暴落はそれとして別個に理解したほうが良いとおもいます。

2008年に我々が経験したリーマン・ショックと同じで、一応、破滅的な株価暴落とその後現在まで続く長期不況の2つは分けて考えるべきでしょう。

うんと単純化して言えば、大暴落そのものは、生産過剰が証券バブルとなりそれが弾けただけの話で、規模は大きいがある意味では単純な暴落でした。

それが投資家のパニック的な資金の回収によりヨーロッパの金融恐慌をもたらし、世界規模に広がっていきました。これもリーマン・ショックと似ています。

アメリカが風邪を引けば他の国は肺炎になる。これも同じです。

しかしそこから先が少し違っています。リーマン・ショックではアメリカをふくむ各国政府がいち早く財政出動して、金融システムの保護に回りました。

しかしその時のフーバー政権はアクセルを踏まずに逆噴射をかけました。「機長、何をするんですか!」の世界です。

引き締め策は3つの柱からなっていました。高金利・高関税・財政均衡策です。お役所で言えば連銀、商務省、財務省の三役揃い踏みです。とくに金融引き締めは致命的効果をもたらしました。これにより、お膝元の国内金融システムも壊滅的打撃を受けてしまいます。

これでアメリカ経済は失速し、ハードランディングし、長い不況期に突入するのです。


2.大暴落から世界大恐慌へ

その辺りをもう少し詳しく見ておきましょう。

ヨーロッパはなんとか1年半を持ちこたえました。その頃はまだヨーロッパはアメリカに対抗出来るだけの力を持っていたのです。

しかし31年5月になって、ついにオーストリアとドイツが破綻しました。第一次大戦後のベルサイユ体制の歪みが、戦敗国にしわ寄せされたと言われます。

ベルサイユ体制は表面的には、法外な賠償金要求などフランスの身勝手な動きが目立つのですが、所詮は貧乏人同士のいがみ合いです。

ベルサイユ・システムの本当の流れは、ドイツ・オーストリアが賠償金を支払い、それを受けたイギリス、フランスが戦費の借金としてアメリカに支払う。それをアメリカがドイツに投資するという三角形を作っていました。

それが破綻したのは、独・墺への主要投資国であり、随一の資産国であるアメリカが無意味な引き締め策を続けたことにあります。だから独・墺が破綻するとたちまち、英仏が金繰りに窮し、こうして金融恐慌が全欧州に拡散してしまったのです。

この経過には当時世界各国が採用していた「金本位制」のシステム破綻が絡んでいるのですが、そのあたりは省略します。

ひとことで言うと、世界大恐慌は、欧州発の金融恐慌(もともとは大暴落の余波だが)とアメリカ国内の金融恐慌がシンクロして発生したことになります。


3.大恐慌がもたらしたもの

こうして31年後半から32年末までの1年半、地獄のような状況がやって来ます。

32年度末の実体経済を示す数字が、カタストロフィーの深刻さを如実に示しています。

GDPは1919年から45%減少しました。工業生産は平均で1/3以上低落し、基幹産業の生産は半分以下に落ち込みました。農産物価格も半分以下に落ち込みました。

失業者は1200万人、不完全就業者が数百万人、合計で1700万人に足しました。失業率は25%、労働可能者の4人に一人が失業状態に陥りました。就業者の平均賃金も半分にまで減りました。

6千近い銀行が破産。最終的には1万を超える銀行が破産状態に陥ります。株価は80%以上下落し、それが回復するのは戦後まで持ち越されました

この大恐慌で最も苦しめられたのは失業者です。そのほとんどは、大恐慌が生み出した29年以降の新規失業者でした。

次に、農産物価格の低下と旱魃に苦しめられ、家屋敷を抵当に取られ流浪の民となった多くの農民がいます。かれらも失業者の仲間に加わりました。

南部の黒人小作農(シェアクロッパーといば聞こえはいいが、実態は掘っ立て小屋をあてがわれただけの農場奴隷)たちも、不景気を理由に農場を追い出され、あてもなしに五大湖周辺の工業地帯へと向かい、失業者の大群に加わりましました。

さらにヨーロッパからも多くの移民がやって来ます。彼らはそのまま社会の底辺に沈み、アメリカ国内の失業者群に加わって行きました。

ここまでは労働者・貧困者のレベルだが、31年に世界大恐慌の色彩が強まると、それでは済まなくなり、中間層にも影響が及び始めます。

まず銀行がどんどん潰れ始めます。最初は足腰の弱い地方銀行からで、そのうち都市部の銀行もやられるようになりました。31年だけで2千以上の銀行が倒産しました.32年にはさらに8千の銀行が潰れました。

信金とか相互銀行みたいなところが潰れると、小商いの店や企業が連鎖して潰れていきます。そのうち地方では老舗と言われる会社も同じ運命をたどることになります。

そうなれば地方を支えていた草の根中間層がごっそりといなくなり、そこに膨大な失業者群が生まれます。この年失業者は一気に800万に増えました。

だが、これはアメリカ国内の“風邪ひき”の数字であり、ヨーロッパやラテンアメリカの“肺炎”の方の数字は含まれていません。

こうしてみれば、ある意味では第2次世界大戦は、この時すでに運命づけられていたとも言えます。極言すれば、第2次世界大戦の最大の原因はフーヴァー政権にあったとさえ言えるでしょう。


4.ルーズベルトを押し上げた民の怒り

早くも30年の5月には125万人が参加する労働者・失業者の全国統一行動が起きています.これらの運動の中から「全国失業者協議会」が結成され発展していきます。

やがて貧困問題が深刻になると、闘争形態も激しさを増していきます。デモも「飢餓行進」を銘うって行われるようになります。

「飢餓行進」の代表者はフーバーに面会を求めるが拒否されました。「汝ら臣民、飢えて死ね」ということです。世間の情勢はどんどん厳しさを増し、発する言葉も剣呑なものになってくる。

32年に入ると、ついに死者も出るようになってきました。(南部の黒人の間では古くからあたりまえのことであったが)

3月にはデトロイトで職を求めるデモ隊3000人に対して警官が発砲し,4人が死亡しました.

7月には復員軍人2万5千人がデモ行進。引き続いてワシントンでの座り込みに入りました。「17年(第一次大戦)には英雄、32年には浮浪者」というのが彼らの抗議スローガンでした。

この座り込み行動に対し軍隊が出動し、強制解散させました。この行動は流血の惨事をもたらし、多くの死者を出しています。フーバーの承認なく発砲を命じたのが、ときの参謀総長ダグラス・マッカーサーだったというのは記憶しておいてよいでしょう。

忘れてならないのは、まずもってニューディールが、そうやって追い詰められた民衆の怒りの表現であり、その必然的な方向づけとしてあったという歴史的事実です。

ネオリベの人々は、ことあるごとに「ニューディールが実際のところはなんの役にも立たなかった」とか言って批判しますが、ここまで追い込んだのは当時のネオリベ信奉者たるフーバーと共和党政権であったことを忘れてはなりません。

ニューディールは当時の世相を反映して、政策的には多義的です。なかにはファシスト的色彩を帯びているものさえあります。その一つ一つを切り離して是非を云々しても始まりません。

それが全体として、民衆の怒りを反映し、民衆の願いにそって、民衆ための政治を目指すものであったことが重要なのです。

経済理論というのは、究極的には最大多数の幸福を追求するためにあり、そのための社会実践を補強するためにあります。「市場経済の原理」を守るためにあるのではありません。

これは近代資本主義理論の始祖であるベンサムとジェームズ・ミルの教えでもあります。


5.中継ぎエースとしてのルーズベルト

フーバー政権への嫌悪感は頂点に達しました。もはや一触即発です。

ルーズベルトは、こういう雰囲気の中で体制側の中継ぎエースとして登場しました。

すみませんが、ここで「中継ぎエース」について語らせてもらいます。それまで好調に飛ばしていた先発投手が、勝利投手の権利を目前にして突然、フォアボールを出して崩れ始め、あれよあれよというまに1点差まで追いつめられ、得点圏に走者を残したまま降板、というのが中継ぎ投手の出番です。

中継ぎ投手の役目はまず打者の目先を変えることにあります。先発が力投型なら変化球、軟投型なら豪速球ということになります。

どちらにしてもその目的は目前の危機をしのぐことです。味方は中継ぎ投手に全てを託し、その一球、一球を見守る他ありません。

かと言って、味方は救援投手に全幅の信頼をおいているわけではありません。やはり不動のエースというのはダルとかマー君のような先発投手です。

ルーズベルトの位置づけはまさに体制側の救援投手でした。彼は本質的にはまったく体制側の人であるし、その政策も「ニューディール」というスローガンも含めて曖昧でした。

しかし期待された役割とは別に、彼にははっきりした目標と計画がありました。それは体制側と反体制側の勝ち負けなどとは次元の違うものでした。

彼は市場経済のシステムそのものを変更しようとしたのです。いわゆる修正資本主義ということになります。

その計画は見かけ上はかなりファシストに近いものでした。

ではファシストとFDRはどこが似ていて、どこが違うのか。

似ているのは国家機能を大きく拡大して、政府のイニシアチブにより経済を立て直そうという考えです。

第二には、当座の財政赤字は覚悟の上で政府投資を拡大し、これによる景気回復を図ろうという積極財政策です。

違うのは、経済民主主義と福祉経済の方向に進むのか、大資本の収益確保で生産を軌道に乗せる方向なのか、というところにあります。

アベノミクスで言えば、第三の矢の方向性の問題です。

FDRは経済民主主義という進歩の方向で、資本主義のあり方そのものを変えるところまで見通していました。(おそらく漠然とですが)

これに対してファシストは、せいぜいが農本主義的な後ろ向きのユートピア止まりです。結局大資本本位のシステムを維持することになるから、過剰生産の問題は解決できないし、より深刻にするだけです。

ルーズベルトは政治的民主主義を視座において、それを実現し安定的に運用しうる経済システムの実現を構想しています。

もう一つのファシストとの違いは、リベラリズム(訳しにくいが進歩的自由主義くらいか)です。南部へ行くとほとんど「コミー」(アカ)と同義語です。

英語をやった人ならわかると思いますが、“フリーダム”というのはたんに束縛を受けないという意味の「自由」ではありません。むしろ「権利」と訳したほうがふさわしい場合が多々あります。

かくも生きづらい時代において、原理的権利としての「生きる自由」を尊重することは、そのまま民衆の生存権を尊重することに繋がるのです。

無論、政治家としてのルーズベルトは海千山千のタフな人物です。ただその素性、生い立ち、人脈、政界歴を通じて、民衆を代表する政治家としての構えを形成していたと見るべきでしょう。

ちなみにルーズベルトの祖先はユダヤ系オランダ人の移民です。ルーズベルト一族のセオドア・ルーズベルトはアメリカのキューバ、パナマ侵略の先頭に立った「帝国主義者」ですが、後年には反トラストを奉じ独占資本と対抗した経歴を持っています。(遠縁ではあるが、FDRの妻エレノアの義父役を勤めるなど親しい関係にあった)

彼の訴えたモットーが「スクエア・ディール」でした。訳しにくい言葉ですが、「公正な分前」というか、民衆の取り分を主張したものでした。言葉の上では「ニューディール」にもつながっているように思えます。

basic ideas: conservation of natural resources, control of corporations, and consumer protection.
These three demands are often referred to as the "three C's" of Roosevelt's Square Deal. (Wikipedia)

FDRもハイチ侵略の片棒を担いだ経歴を持っていますが、小児麻痺を患って一度政界を引退したあとは、リベラル派の代表としてニューヨーク知事に復活しています。


6.ニューディールの鮮やかな登場

33年3月4日、ルーズベルトは大統領に就任しました。その1ヶ月前、銀行倒産はついに1万件を超えました。待ったなしの状況です。

彼はそれまでの曖昧な見せかけを突如かなぐり捨てて、次々と革新的な政策を打ち出していきます。

それらはいずれも資本主義の延命を「大義」として打ち出されたものでした。しかしその内容は相当吟味されていて、見せかけの資本主義擁護とは逆に資本主義の改造を目指す施策が忍び込まれていたのです。

就任式の2日後に最初の爆弾発表がありました。議会が招集されるまでの4日間、すべての銀行の営業を停止させたのです。

彼はこれをバンクホリデーと言いました。物は言いようです。もともとアメリカでバンクホリデーというのは祝日のことです。銀行が休みだから、商売も休みになる、ということで祝日が発生したということです。

休業命令ということは、結局預金引き出しの禁止にほかなりません。祝日どころではありません。当然パニックが予想されます。ルーズベルトはいきなり地雷原に突っ込んだのです。

もちろん4日後には銀行を再開しなければならない。実はそのための手立てはうってありました。3月9日の議会開会の冒頭、彼は緊急銀行救済法を提出し、銀行破綻を食い止める姿勢を明確にしました。

この法案は数時間という超スピードで議会を通過し成立しました。

見事な腕前です。

おそらく練りに練った議会運営計画だったのでしょう。提案した法案の多くがこのやり方で議会を通過していきました。

こうして3ヶ月あまりにわたる議会で多くの議案が成立しました。「百日議会」と呼ばれる所以です。成立した法案の集合が「ニューディール政策」です(第一次ニューディールと呼ばれる)。

残念ながら、この辺りの経過を詳しく記した日本語文献はネット上では見つかませんでした。

諸文献から察するに、大多数の資本家はこれを歓迎したようです。モルガンやロックフェラーなどの超巨大資本は、依然としてフーバー式の放任政策、財政均衡政策に固執していたが、ルーズベルトの政策に表立って反対はしませんでした。

政府は彼らのポケットに手を突っ込んだわけではないからです。しかし、後に、労働者が直接彼らのポケットに手を突っ込むようになります。それはニューディールのちょっとした波及効果でした。

先程も述べましたが、ニューディールは本質的には資本主義の延命策であり、資本家階級の擁護策です。それをチープガバメントでやるかビッグ・ガバメントでやるかという違いです。

貧困者を犠牲にすることなく、しかもチープ・ガバメントでやろうとすれば、革命によって「収奪者を収奪する」(マルクス)しかないのですが、それはとりあえずおいておきましょう。

価格を安定させ生産の再活性化に結びつけていくためには、当面生産調整が必要です。それを貧困者に押し付けることなく実施するか、強権的に(すなわち大資本家本位)にやるかの違いです。

後者は生産調整がリストラを呼び、さらに多数の失業者をもたらします。前者をとろうとすれば、必然的に財政出動と国家による調整(国有化もふくめた)、すなわちビッグ・ガバメントが求められることになります。

ここまでは理の当然です。ニューディールは必然だったのです。フリードマンの後知恵的批判は、2つのことを示しているにすぎません。すなわち、ニューディールはやり足りなかったということ、国際協調なしにアメリカの都合だけで行われたということです。


6.NIRA 成立のための前措置

第一次ニューディールの中核は全国産業復興法(NIRA・National Industrial Recovery Act) にあります。

「百日議会」は実に巧みに仕組まれていて、最初は抵抗の少ないもの、即効性が期待できるものから始まり、徐々に政府による生産調整という本丸に近づいていくようになっています。

その辺りを簡単にレビューしておきましょう。

まずは緊急銀行救済法ですが、これは見事に奏功しました。3月末には銀行の4分の3が営業を再開し、10億ドルの通貨がふたたび市場に流通し始めました。

ただケチを付けるわけではないが、株価は前年8月には底を打っており(最高時のわずか1割強ではあるが)、放っておいてもいずれ残った銀行は復興する傾向にはありました。

3月10日には「経済法」が成立しました。これは連邦政府公務員の給与をカットし、退役兵恩給を最大15%減額するというものです。なんでそれが「経済法」なのだ。

ニューディールの精神とは合わないが、ニューディールというものが、そもそもゴッタ煮だということを示しています。(ただ上級公務員の退職金や恩給は、とくに途上国においては法外です。私が大統領でもやります)

4月には「金没収法」が成立しました。これも法の実体と似合わない名称で、中身としては金とドルとの交換を停止するというものです。これで実質的には金本位制が破棄されたことになります。

5月には農業調整法が成立しました。これは農家の保護が趣旨ですが、そのために政府の主導で生産調整を行うというもので、反トラスト法に抵触する可能性はあります。

「農家を保護して何が悪い」という開き直りで、ある意味でNIRAを通すための予行演習ともなっています。

農業調整法についてはちょっと語りたいのですが、本題から外れるので、とりあえず次に進みます。

6月には銀行法(グラス・スティーガル法)が制定されました。主たる内容は連邦預金保険公社(FDIC)の設立にありますが、いくつかの爆薬がひそめられていました。銀行業務と証券業務の分離投機の規制条項や持株会社による銀行所有の禁止条項です。(詳しくは関連記事をご参照ください)

ネオリベにとっては長年目の敵となった法律で、90年代に破棄されています。その結果がリーマン・ブラザーズの悲劇となったことは、記憶に新しいところです。

こうして資本家や農園主へのサービスを積み重ねながら、少しづつ政府介入の領域を拡大させ、議員の抵抗が減ったところでNIRAが提出されることになります。


7.NIRAの成立

全国産業復興法(NIRA・National Industrial Recovery Act)は、この法律の説明だけでも一つの記事になるくらい、様々な評価がなされる法律です。ここでは簡単な説明にとどめます。

「アメリカ史上最も重要な法律の一つ」と言われますが、実際には短命で37年には「違憲」との判決を受け失効してしまいます。その代わりに新たに制定されたのがワグナー法ですが、この話は後で。

①この法律の表向きの趣旨は、過当競争を避けるために連邦政府が関連団体に協定を結ばせることです。いわば官製トラストであり、ニューカマーの排除をもたらす可能性があります。連邦大陪審の判断のごとく、違憲の疑いもあります。

②具体的な方法としては「工業と農業に“公正な競争”を作り出すために、種々の産業で価格・労働規約を取り決める」ことです。結果として過剰生産に陥っていた各企業の利潤が確保されることになります。

③ここまでは資本家にとって“美味しい”ものです。そもそもこの法律は元は資本家たちの提起したものであり、ムソリーニの「組合国家」を下敷きにしたものとされています。

④法律の謳い文句は、「企業の安定により労働者の賃金の適正化と生活安定を果たし、国民の購買力を回復させる」ことです。そうすれば社会の安定化、ひいてはストライキや大衆闘争の抑制を図ることもできます。

⑤官製トラスト(談合)は資本家の狙いです。そのためのお題目として「労働者の生活安定」をうたうことには異存はありません。これをルーズベルト政権は(結果的に)巧妙に利用したといえるでしょう。

⑥政権はこれだけの“撒き餌”をしたうえで、「労働者の生活安定」のための手段として、労働者の団結権、団体交渉権という毒針を忍び込ませました。それはどさくさ紛れに法律の柱の一つとなりました。

8 ニューディール連合の形成

ここまでルーズベルトは実にうまくやったといえます。議会操縦術といい、その手腕はなみなみならぬものがあったといえるでしょう。

激しい階級対立の中で旗幟を明確にせず、本心を出さないクレバーな政治手法をとっていたとも言えます。

しかしそういう手法でやれるのはここまでです。あとは反改革派との力勝負になります。そうなるとルーズベルトは誰に依拠するのか問われることになります。

その答えがニューディール連合でした。ニューディールを政策的に担ったのはリベラル経済学者で、「ニュー・リベラリスト」と呼ばれます。ケインズだけではなくイギリスの福祉経済学、アメリカのヴェブレンの流れをくむ広範な人脈です。

(ヴェブレン自身は福祉国家論の立場ですが、改良運動に積極的ではありませんでした。ニューディールに主として関わったのはJ.R.コモンズ、A.H.ハンセンら制度学派左派と言われています)

これに比べると、政界にはさほど有力な足がかりはありませんでした。大衆運動がそれを補いました。悪く言えばポピュリスト政権です。

中でも最大の柱が勃興しつつあった産業別の労働運動です。

それまでの労働運動は職人組合的(ギルド)な色合いを強く残していましたが、 労働界に膨大な未熟練労働者、非正規労働者が流れ込んでくると、彼らの要求を受け止めきれなくなりました。

未熟練労働者が主流を形成するようになると、もはやその職種を問うことはなくなります。彼らは熟練労働者の運動(AFL)とは切り離され、単純労働者として産業別組合(CIO)に組織されるようになります。

そこでNIRAで承認された労働者の団結権が生きてきます。労働者には団結する権利があり、団結して闘う権利があります。

技能を持たない単純労働者にとっては、労働組合に入りそこで闘うことこそが、職を確保し生活を守る唯一の合法的な手段となります。

33年末までの半年間でストライキは3倍化しました。組合数も飛躍的に増加しました。しかしこれは口開けに過ぎませんでした。

34年に入ると労働運動が爆発します。7月には西海岸で船員・港湾労働者13万人が立ち上がりました。サンフランシスコでは全市が4日間のゼネストに立ち上がります。

9月には繊維労働者の全国ストが打たれました。敗れはしたものの南部東海岸を中心に50万人が参加する大闘争となりました。

ミネアポリスでは「チームスター」と呼ばれるトラック運転手の組合がストライキに入りました。彼らは州知事の戒厳令まで発しての弾圧を打ち破り、勝利しました。

自作農は農業調整法によって窮地を救われました。農家の総収入はニューディールの3年間で5割増しとなった。その後、農家はルーズベルトの堅い支持基盤となっていきます。

黒人運動もニューディール連合の力強い担い手となりました。黒人はもともとリンカーン以来の伝統を引き継いで共和党支持であったが、ルーズベルトの政策に共鳴して民主党支持に回ります。

階層別の組織も大いに発展しました。とりわけルーズベルト夫人エレノアの指導する婦人組織、平和組織は「ファシズムとの闘い」を呼号し、ニューディール運動のリベラルな性格を一層強めました。


9 保守派の台頭と第二次ニューディール

強大化する政府機能と労働者よりの姿勢に対して、巨大独占資本は危機感を抱くようになりました。

これらの動きは34年の議会中間選挙を前にして一本化します。

モルガン,デュポンらウォール街の巨頭は「アメリカ自由連盟」を結成し、FDRとニューディール政策への反対を明確にした。この連盟にはUSスティール、GM、ATTなどアメリカの巨大資本が網羅されました。さらに、ハーストなど主要メディアもこれに追随しました。

これによりアメリカの政治地図はニューディールをめぐって反対派と賛成派に二分されることになりました。

しかしルーズベルト派は貧困者救済の実績に物を言わせ、中間選挙で共和党・自由連盟・大手メディアの連合勢力を一蹴しました。この時点ではニューディール反対派もまだ手探りの状態だったのです。

35年になると、今度は司法が反改革に乗り出しました。連邦大陪審が、全国産業復興法・農業調整法などに対し「公正競争を阻害しカルテルを容認している」として違憲の判決を下したのです。

自由競争を阻害する国家による生産調整というのは、確かにニューディール派の弱点の一つではありました。しかしそれはニューディール派と反改革派の真の分岐点ではありません。

真の争点は大企業の身勝手と横暴を許すのか、勤労市民・中間層の生活擁護を優先するのかという点にありました。というより、論戦を通じて真の争点が明らかになってきたというべきでしょう。

ルーズベルトは対抗手段をすでに考えていました。すでにNIRAの性格は著しく変わってきています。いまや産業保護の意味は後景に退きました。それに代わってNIRAは労働運動の最大の根拠法となっていました。

であれば、ということで、NIRAの無効化を受け入れる代わりに、より労働者保護の色彩の強い新たな法律が提起されることになりました。それが7月に成立した「全国労働関係法」(ワグナー法)です。

ワグナー法では新たに不当労働行為の排除が盛り込まれました。これはすごい法律で、いまの日本の労働基準法より遥かに上をいくものです。(ウィキペディアの記載はむちゃくちゃで、ナチの賛美に終わっています。ワグナー法と労働基準法の関連についてはいずれ勉強しなければならないでしょう)

この法律に基づいて会社側のでっち上げた御用組合は違法化され、解散させられました。会社側のスパイ行為やブラックリストの作成も違法とされ、不当に解雇された組合指導者の職場復帰が進みました。

このとき議会を通過したのはワグナー法だけではありません。中でも目玉とされたのが、依然として数百万に及んでいた失業者対策事業です。そのために公共事業促進局(WPA)が設立されました

大独占グループが嫌うもう一つの法案、すなわち社会保障法です。これにより内容はともかくとして老齢年金、失業保険などがスタートすることになりました。

証券取引をめぐる不正を取り締まる「証券取引委員会」(SEC)が設置されたのもこの頃のことです。初代委員長にはJFケネディの父が就任しました。こいつが稀代の悪党で、少し語りたいのですが、いまは遠慮しておきます。(それでなくても余談が多すぎる)

これらの方針を含めて、ルーズベルトは「第二次ニューディール」と称し、議会運営を「第2の百日間」と位置づけました。

ルーズベルトはこうして、NIRAの失効を機にニューディールをさらに民衆側に立って展開するようになったのです。

それと同時に、今後ルーズベルトの前に立ちはだかるであろう司法権力と真っ向から闘う姿勢を示しました。

FDRは語ります。「米国の司法制度は幾多の病弊を暴露して居る。もし大々的な司法改革が行われないならば、司法部の権限から憲法までの根本的改正を考慮しなければならない」

これを「司法への恫喝」と考えてはなりません。両者の力関係を考えれば、当時のルーズベルト大統領に「睨み殺す」ほどの力はありません。それどころか、司法の方は明確な権力を持っていました。「違憲」の名で法案を潰し、最終的には政権を潰すだけの権力を持っています。

だからこれは鍔迫り合いの「権力闘争」と呼ぶべきものです。

だからといって、あまり居丈高にやるのもお勧めはできませんが。


10 「王党派」との対決

36年の大統領選挙では両者の対決は一層明確となりました。ルーズベルトが選挙にあたって掲げたのは「ウォール街の経済的王党派を打破する」とのスローガンでした。ここで彼は独占資本との対決の意思を明確にしました。

ルーズベルトは、これまでの曖昧な見せかけを捨て、ある意味で自らの退路を断ったということになります。そして労働者、勤労市民、失業者、農民、黒人の味方として、ウォール街の王党派の敵としてみずからを位置づけることになったのです。

大統領選挙は、マスコミの8割が共和党ランドン候補を支持するという厳しい状況での闘いとなりました。しかしフタを開けてみるとルーズベルトは歴代最多得票率で再選を果たす結果となりました。

(最近5回の選挙で勝者を正確に予測した「リテラリー・ダイジェスト」誌は、ランドンが勝利すると宣言した。…読者は共和党支持者が多かった ウィキペディア)

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    青色がルーズベルト、赤色がランドン (ウィキペディアより)

開始後4年を経たこの時点で、ニューディールは完全に国民(大金持ちを除く)の間に定着したといえるでしょう。


11 ルーズベルトも人の子

見事再選を勝ち取ったルーズベルトですが、36年度の決算を見てビビります。米国の債務残高がGDP比40%に達っしたのです。

今時、GDP比40%なんてちょろいものだが、なにせ今まで誰もやったことのないことをやって、ここまで債務を膨らませると、周りがうるさい。とくに連銀筋が大声でわめき始めます(日本は15年度で248%)

世論調査では国民の3分の2が、これ以上放漫財政を続けることに反対と答えるようになります。

そこでつい、負けてしまったのです。政府は財政支出の削減に動き、FRBは預金準備率を上げる、それもなんと2倍です。ここから「ルーズベルト不況」が始まります。

実質GDPは11%も下がりました。失業率は4%上昇しました。失業者数は1千万を越えたままで推移するようになります。静かにルーズベルトへの失望が広がっていきます。

バーナンキが当時いたらなんというでしょうか。怒りのあまり発狂してしまうのではないでしょうか。

パブル後不況の底入れは、本当の底入れではありません。公共投資によってマインドが持ち直したとしても、隠れ不良資産は山のようにあります。日本の97年不況の最大の教訓です。(アベノミクスもそうなる可能性が大いにあります)

共和党はこう言って攻撃した。「ルーズベルトは労働者のストライキを煽っている。このために生産性が低下して不況を招いた。このままではアメリカが潰れてしまう」

最初にも書いたようにニューディールは間違っていたのでもなく、効果がなかったわけでもない。投下資金量が少なすぎ、期間が短すぎたのです。

しかしニューディールというのは、とにかく世界で初めての、当時としては破天荒な政策です。まずは前向きに評価すべきではないでしょうか。

38年に入って、ルーズベルトは弱気の虫を振り払いました。「国民の購買力を上げること」で「経済を上向かせること」が政府の責任であると主張するようになりました。

そしてふたたび拡大財政に転じます。

しかしその効果を見る期間は与えられていませんでした。ファシズムの脅威が眼前に現れてきたからです。


12 ニューディールから戦時経済へ

39年の年頭、ルーズベルトは演説の中で中立法の廃止,軍備の拡大,全体主義国家への反対,ニューディール政策の「緩和」を打出しました.

「緩和」といえば聞こえはいいが、要するに民生費を削って軍事費につぎ込むということです。

しかしニューディール政策のもう一つの側面、政府の大規模な財政出動と政府による経済統制の強化という意味では、ルーズベルトの意思は(不幸な形で)引き継がれたとも言えます。

9月にドイツ軍とソ連軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦の火蓋が切って落とされました。

この時点でルーズベルトは腹を固めました。「すべてを反ファシズムのために!」です。(国内は固まっていなかった。これまで反ファシズムを強固に主張してきた左翼は、奇妙なことに中立を主張した)

しかし、パリが陥落し、ロンドンが連日空襲にさらされるようになると、アメリカが「民主主義の兵器廠」となることに表向き反対を唱える人はいなくなります。

戦争準備の中で、ルーズベルトは慣例を破って三期目の大統領に選出されました。

41年初頭の第3期目の大統領就任にあたっての「4つの自由」演説はきわめて格調高いものです。

言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由という4つの自由(権利)を挙げ、これを守ることが民主主義を守ることだとして反ファシズムの立場を明確にしました。

この立場が、日本国憲法の基調をなしていると言ってもよいと思います。我々が学ばなければならない必読文献だと思います。(いずれ紹介します)

結局、ある意味でニューディールの真価が試されるはずだった2期目の任期は、前半は政策の失敗とそのあと始末で終わり、後半はニューディールは事実上放棄され、戦時経済へと移行していってしまいました。

しかしニューディールの中で形成されたルーズベルト連合は、第二次世界大戦を通じて生き続け、戦後のアメリカの骨格となっていきました。

それを壊したのがネオリベであり、その壊れる現場を我々は目の当たりにしてきたのです。


ということで、一応お話は終わり。ここまで読み通してくださった方に感謝します。

5月4日 一応書き換えを終わりました。まだまだ書き足りないところがたくさんありますが、それは「ニューディール運動史 外伝」の形で別途加えていきたいと思います。


恐慌の歴史を勉強していて分かったのだが、恐慌の引き金になるのが農産物価格の下落だ。
最初の恐慌はクリミア戦争の終了後に起きたそうだ。それまで兵隊に送るためにせっせと食糧を増産していて、価格も高値で推移していたが、この需要がいきなりなくなった。
このために農産物価格が暴落して、農村の購買力が低下した。
これが内需の減少につながったということだ。まあ、そればかりではないだろうが…
1929年の世界恐慌へと繋がる株価の大暴落も、農業の生産過剰がひとつの原因だという。
TPPの場合生産が過剰になるわけではないが、外国農産物が入る分、市場価格は間違いなく低下するだろう。
農村が崩壊すれば、内需は一気に縮小する。農業王国北海道の住民は仕事をもとめ、生まれた土地を離れ、流氓の旅に出ることになるだろう。
それを上回って工業製品の生産・輸出が増加すれば、日本全体としての計算上はトントンだが、いまの大企業にそれは期待できない。国外生産を増やすだけだろう。
どうやっても計算が合わないような気がする。

それが恐慌に結びつかなければよいのだが…

1929年

9.03 ダウ平均株価、5年間で5倍に高騰し381ドルの高値に達する。

10.24 「暗黒の木曜日」 ウォール・ストリートで株価の大暴落(Great Crash)が始まる。モルガン銀行、チェイス国定銀行、国定ニューヨーク・シティバンク社が協調して買い支えに動く。

10.28 「暗黒の月曜日」 ダウ工業株平均は13%下落し株価は崩壊する。

10.29 「悲劇の火曜日」(Tragedy Tuesday) 約1,600万株が取引され価総額140億ドルが消し飛ぶ。株価は9月の約半分に暴落。1週間の損失は300億ドル(米国の年間予算の10倍)に達する。 投資家の資金回収により金融機関や企業が倒産し、その数は4500社に及ぶ。

大恐慌をめぐる数字は、資料によって異なっています。問題は何時までを大恐慌ととるかであり、株価暴落の直接的影響なの か、その後の欧州諸国の動揺、それに対する米国の対応によりもたらされたものまで含めるか、すなわち33年3月のルーズベルトの大統領就任直前までの3年 4ヶ月を含めるかで、相当中身は変わってきます。

1930年

3.06 共産党と労働組合統一同盟(TUUL)の指導で労働者・失業者の全国統一行動.125万人が参加し空前のもりあがり.

5 ケインズ、「The Industrial Crisis 」を発表。

大恐慌を 1.一次産品の国際価格の急速かつ大幅な下落,2.不動産や株式などの実物資産の価格暴落、3.資本主義経済の支柱である金融銀行信用システムの機能不全 という複合的危機と指摘。その原因を「世界的な投資不足により資本財の生産が減少したこと」と分析。各国が一致して公共投資を行い、長期債券市場の信頼を 回復させることを訴える。

あらゆる点で最も効果的な救済策は, 三大債権国の中央銀行が国際的な長期債券市場への信頼を回復させるために,一致して大胆な計画に参加することであろう。これは世界各国における起業や事業活動を復活させ,物価と利潤を回復させるのに役立つであろう

6月 スムート・ホーリー関税法(Smoot-Hawley Tariff Act)が成立。国内産業の保護のため高関税政策をとる。他の国も報復関税で対抗した結果、アメリカの輸出入は半分以下に落ち込む。

フーバー大統領は均衡財政主義にしばられ、結果的に増税や金融引き締めに動いた。この結果、銀行経営が危機に陥り市中への資金供給が枯渇した。

7 TUULのよびかけでシカゴで全国失業者協議会結成.「仕事か賃金を」のスローガンをかかげ大躍進.

30年 エンパイア・ステートビルが完成。映画「キング・コング」の封切りは32年。

1931年

5月 ケインズがアメリカを訪問し講演。三つの不況対策を挙げる。

①資金の貸手と借手の双方の確信の回復を図ること、②政府の直接的な支援により投資を促進すること、③長期利子率の引下げと買いオペを実施すること。

景気の回復とともに物価も必然的に正常水準に戻ってくる。それが貯蓄と投資の均衡の実現である。下落した物価水準のもとで均衡を回復しようとするデフレ容認派は間違っている。

5.11 オーストリア最大の銀行クレディット・アンシュタルトの破綻。ドイツオーストリアでは、アメリカ資本による復興を目指していたため、大不況によって資本が引き上げられると、資金不足により企業や銀行が次々に倒産

6月 米国の銀行危機が農村部の中小銀行から都市部に拡大。シカゴ、ロサンゼルス、ニューヨークで銀行閉鎖が相次ぐ。銀行貸付が停止状態となり, 銀行組織による民間経済への融資機能が麻痺。

6月 深刻なヨーロッパの状況を認識したアメリカは、フーヴァー=モラトリアムを行う。ドイツ経済を立て直すため、一年間戦債や賠償の支払いを猶予.議会の承認は12月にずれ込む。

7.13 ドイツのダナート銀行が閉鎖。大統領令ですべての銀行が閉鎖される。

米国には金が流入していたが、FRBは国内のマネーサプライを増やそうとしなかった。このためマネーサプライが減少し続けた。ヨーロッパ諸国は金の流出を抑えるために金利を引き上げ、これが不況に拍車をかけた。

7月 南部の綿作小作農(シェアクロッパー)が農園からの追いだしに抗議して激しい闘争を組織。黒人指導者ラルフ・グレイが虐殺される。

7 失業者,ワシントンで飢餓行進. フーヴァー大統領は代表者との会見を拒否する.このとき失業者が800万人を超す.

9.11 英国は金本位制を離脱して変動相場制に移行,チープマネー政策を採用。同時に英連邦を高関税で囲い込む。ポンドの対ドル為替レートは3か月で3割低下する。

英国のドイツへの短期貸付が焦げ付いたため、ポンドへの信認が大きく低下。フランスなどへの短期資金(とくに金)の流出が加速する。

9 通貨激変に直面した各国は金買いに走り、これに対抗するため連邦準備銀行は公定歩合を大幅引き上げ。

10 不況下の金利引き上げにより銀行恐慌が発生し,全国に拡大.この年だけで2千以上の銀行が倒産.

10.11 シカゴ連邦裁判所,アル・カポネに対し,所得税脱税で懲役11年,罰金5万ドルの判決.

1932年

3.07 ミシガン州のフォード自動車工場で,職を求めるデモ隊3000人に対して警官が発砲し,4人が死亡.

5.29 復員兵による「恩給行進」が始まる。「17年(第一次大戦)には英雄、32年には浮浪者」と抗議する。

6月 ドイツの賠償金支払猶予をめぐるローザンヌ会議。賠償金減額で合意するが、米議会の同意を得られないまま流産。交渉に失望したドイツではヴェルサイユ体制の打破を訴えるナチスが躍進。

7.02 ニューヨーク州の改革派知事として実績を上げたルーズベルトが、民主党の大統領候補に指名される。「三つのR - 救済、回復および改革」と「ニューディール」(新規まき直し)を掲げる。

7.08 ダウ工業株平均が底値をつける。最高値の1割まで下落する。その後22年間、大暴落前の株価に回復せず。

7月 退役軍人のボーナス行進がワシトンに到着.2万5千人が籠城作戦を展開。D.マッカーサーの指揮する軍がこれを実力排除。籠城参加者に2人の死者を出す(ワシントンの戦闘)。

11.08 大統領選。再選を狙うフーバーを打ち破り、フランクリン・ルーズベルトが圧勝.フーバーと共和党への嫌悪感が主要な勝因であった。

FDRの公約そのものは財政健全化、均衡予算、健全通貨など一般的な公約に停まる。一方で、「忘れられた人々」について言及し、漠然と「ニューディール」を提唱した。

11月 共産党は全国で10万票余りを獲得。移民者を中心に党員数も1万8千に達する。学生運動や労働運動を中心に影響力を拡大。リチャード・ホフスタッターやダニエル・ベルらユダヤ系学生が共産青年同盟に結集。

12月 全国農民救済協議会が設立される。恐慌発生以来、農民の所得は半減し、全国で100万の農民が借金の返済不能となり担保権強制執行を強いられる。

32年 南部の経済は崩壊。シェアクロッパー(黒人小作農)が自動車工場への就職を期待して北部に向かう。

以下に大恐慌の影響を著す数字を列挙する。文献により数字の異同はある。

①基幹産業の生産は半分以下、農産物価格も半分以下に落ち込む。6千近い銀行が破産。平均賃金は50%低下、失業者は1700万人、非正規労働者が数百万人に達する。
②GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した

1933年

1.05 憲法修正第22条が成立。アルコールの製造と販売を禁止した修正第18条を撤回する。

1 ナチス,政権をとる.直後に国会焼き討ち事件をでっち上げ、共産党を弾圧。

2.14 ミシガン州で全銀行が営業停止.銀行恐慌が激しさを増す。

2.15 マイアミで,大統領就任式直前のルーズベルトが狙撃される(無事).同席していたシカゴ市長アントン・サーマックは死亡.

3.04 ルーズベルト,第32代大統領に就任.デモやストが先鋭化、国内は激動、資本家・政治家はパニックに陥る。

3.06 ルーズベルト、連邦議会特別会期が招集されるまでの4日間はアメリカの全ての銀行を閉鎖すると発表。

この措置は恐慌を起こすことなく実施された。なぜなら①多くの州は既に銀行を閉鎖させていた。これまでに閉鎖された銀行は1万行近くに及ぶ。②「バンク・ホリデー」と表現することで衝撃が緩和された。③連邦政府が銀行破綻を食い止める姿勢を示したからである。

3.09 「百日議会」が開始。ルーズベルト大統領は議会に緊急銀行救済法を提案。大銀行の連鎖破産を防止することを目的とする。数時間の審議で可決成立する。

政府が一定額までの預金の払い戻し(ペイオフ)を保証すると同時に、①財務省が全ての銀行を監査、②不安定な大銀行を連邦政府が支援、③危機の銀行を再編の柱からなる。

3.09 FDRは緊急銀行救済法に引き続き、膨大な数の法案を提出。ニューディール政策がスタート.

ニューディールは、全体として二つの大目的を持っていた。ひとつは迫りくる革命の危機を切り抜けること、もう一つはそのために連邦政府に権限を集中させることである。
後者の手法が新しいものであり、修正資本主義政策とも言われる。伝統的な自由・放任ではなく、ケインズ学説に依拠して政府が介入・統制し、資本主義システムを正そうとした。

政策は8つの柱に整理される。①銀行制度の再建、②企業の救済、③民間資本の投資促進、④レフレによる物価回復、⑤農業の過剰生産を抑制、⑥抵当権執行の抑制、⑦公共事業による雇用の確保、⑧失業者の救済(ただし最低限)

3.10 ルーズベルトは10億ドルの赤字に直面しているとして、議会に経済法を提案。連邦政府公務員の給与をカットし、退役兵恩給を最大15%減額する。これにより連邦予算の均衡を図る。財界向けのアピールと言われる。

3月末 銀行の4分の3が営業再開。10億ドルの通貨がふたたび市場に流通し始める。

4.19 金没収法が制定される。金本位制を破棄し、金とドルとの交換を停止する.

5月 農業調整法(AAA=Agricultural Adiustment Act)が成立。農務長官ヘンリー・A・ウォレスの願望を反映したものとされる。

農業生産の調整を図るために、農地の作付面積を制限したり、過剰農作物を政府が買い取る計画。助成金と生産量統制によって農業従事者の所得の安定化が図られ、購買力が回復した。農家の総収入はニューディールの3年間で5割増しとなる。

5月 証券取引委員会(SEC)が創設される。株式市場を監視し、預金保険制度を含む銀行制度の改革に乗り出す。

初代SEC委員長はJFKの父ジョセフ・P・ケネディ。FDRは稀代の悪玉を登用した理由を「オオカミを捕らえるためにオオカミを使う。彼なら取引のからくりを何でも知っている」と述べた。

5月 民間資源保存局 (CCC)、公共事業監督局 (CWA)、連邦緊急救済局 (FERA)が創設される。失業者を救済する一連の手段として機能する。テネシー川流域開発公社 (TVA)もこの施策の一部。

6月 銀行法(Banking Act of 1933)が成立。第2グラス・スティーガル法と呼ばれる。①銀行と証券(投資銀行)の分離。②連邦預金保険公社の設立、を柱とする。また頭金無しで株式を購入することが禁止される。

6.13 ニューディールの中核となる全国産業復興法(NIRA=National Industrial Recovery Act) が議会を通過する。初めて労働者の団結権が法的に承認されたことから、「アメリカ史上最も重要な法律の一つ」とされる。

法案成立の経過(かなり長い):
1.表向きの趣旨は過当競争を避けるために連邦政府が関連団体に協定を結ばせることである。いわばニューカマーの排除をもたらす官製トラストであり、連邦大陪審の判断のごとく、違憲の疑いもある。
2.法律の目的は「工業と農業に“公正な競争”を作り出すために、種々の産業で価格・労働規約を取り決める」ことにある。結果として過剰生産に陥っていた各企業の利潤が確保される。
3.元は資本家たちの提起したものであり、ムソリーニの「組合国家」を下敷きにしたものとされる。
4.もう一つの狙いは、企業の安定により労働者の賃金の適正化と生活安定を果たし、国民の購買力を回復させることである。さらにそれを通じて社会の安定、ストライキや大衆闘争の抑制を図ることである。
5.官製トラストは資本家の狙いであり、そのためのお題目として「労働者の生活安定」をうたうことには異存はなかった。これをルーズベルト政権は(結果的に)巧妙に利用したといえる。
6.政権は「労働者の生活安定」のための手段として、労働者の団結権、団体交渉権を持ち込んだ。それはどさくさ紛れに法律の柱の一つとなった。

6月 全国復興局(NRA)が創設される。その統制のもとに団結権(組合結成権)と団交権が承認される。その後実際の運動は「妥協点」を大幅に乗り越えていく。

10.13 AFLが,ナチスの労働運動弾圧に抗議してドイツ製品のボイコット運動を開始.

10.17 アインシュタイン(ユダヤ系)がナチスの迫害でアメリカに移住.

11.17 アメリカがソ連を承認.

12.05 禁酒法を廃止する。

12月 NIRA成立後、組合数は飛躍的に増加。これに伴い労働争議参加者も90万人に達する(前年比3倍)。

33年 グレートプレーンで3年にわたる大旱魃(30年に始まる。41年まで旱魃は続いた)。大恐慌とも重なり、多くの農夫が土地を手離し、さらに西海岸へと「大脱出」(エクソダス)を行う。

1934

1.24 ルーズベルト大統領が,ラテン・アメリカへの善隣外交声明.ラテンアメリカへの武力干渉を停止するとともに,プラット修正条項の廃棄,パナマ,ドミニカへの干渉権の放棄,ハイチからの撤退,メキシコ駐兵権の放棄を決定.

1.31 米政府,平価切り下げの方針を発表.

7 サンフランシスコで船員・港湾労働者13万人が立ち上がる。サンフランシスコ全市を4日間のゼネストに追い込む。闘いを通じて共産党の影響力が拡大。

8.15 ニューディール政策に反対するモルガン,デュポンらウォール街の巨頭がアメリカ自由連盟を結成.USスティール、GM、ATTなどアメリカの巨大資本を網羅。ルーズベルトのニューディールを激しく攻撃。

8月 ルーズベルトの肝煎でアメリカ青年会議が結成される。左翼組織からYMCA、ユダヤ人青年同盟まで幅広い組織が結集。当初ヒトラー・ユーゲントの手法が持ち込まれようとしたが、これらの傾向は排除される。

9 TUUL,AFLとの組織合体の方針を提起.40万人の組合員がAFLへ一斉加入.AFLは職能別組合に加入できない労働者を,産業別に組織する方針を打出す.

9月 AFLの指導する全国繊維ストライキ。11州の労働者50万人が参加するが敗北に終わる。

10.01 シカゴで反戦,反ファシズムの全米大会.

10 サウスカロライナを中心とした南部海岸部で,11州32万人の参加する織物工場労働者のゼネスト.死者13人を出して終結.

11.06 議会の中間選挙。メディア・自由連盟の反ルーズベルトキャンペーンの中、民主党が共和党に圧勝。

11.23 ナチスの排外的・好戦的政策に警戒が強まる。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに2万人が集まって大反戦集会.

34年 この年、ストライキ参加者は150万人に達し史上最大規模となる。

34年 ミネアポリス・チームスター(トラック運転手の組合)のストライキが勝利する。一時は州知事が戒厳令を宣言するが、最終的には労働者の権利を認める法律が成立。

34年 この年、歳出予算はGDP比10%を超えた。これはフーバー政権時の3倍にあたる。

1935年

1.04 ルーズベルト大統領が年頭教書で第2次ニューディールを提起.

1月 連邦大陪審が、全国産業復興法・農業調整法などに対し「公正競争を阻害しカルテルを容認している」として違憲の判決。

2.07 ルーズベルトは「コート・パッキング」計画を発表。保守派の牛耳る連邦大陪審に対抗して、判事構成の変更に着手する。

ルーズベルト発言: 米国の司法制度は幾多の病弊を暴露して居る。もし大々的な司法改革が行われないならば、司法部の権限から憲法までの根本的改正を考慮しなければならない。

3.19 ニューヨークで,万引きで捕まった黒人に警官が乱暴したことから人種暴動が勃発し,3人が死亡.

4月 第2次ニューディールの目玉として公共事業促進局(WPA)が設立される。これにより失業者対策事業が前進する。

5月 「第二の百日間」議会がスタート。全国労働関係法(ワグナー法)が提出される。違憲とされた全国産業復興法より、さらに明確に団結権が保障される。

7.05 全国産業復興法に替わるものとしてワグナー法が成立.労働者の権利保護がさらに強化される。

8月 社会保障法を制定。老齢年金、失業保険などが設けられる。

7 コミンテルン第7回大会,人民戦線路線を決定.以後共産党は急速に社会ファシズム路線を修正.

8.31 米議会,中立法を採択.

9.08 ヒューイ・ロング上院議員,ルイジアナ州バートン・ルージュの州議事堂で射殺される

ヒューイ・ロングは民主党の急進派であった。28年から4年間ルイジアナ州知事、その後上院議員となる。1932年の大統領選挙ではFDRを支持。その後「富の分配」を提唱し、FDRと決裂。来るべき大統領選ではルーズベルトの最大の対抗馬といわれた。

11.9 ジョン・ルイスら,アメリカ労働総同盟(AFL)内に産別労働組合会議(CIO)を結成.熟練工中心の従来型AFLに対し、未熟練労働者、黒人労働者などを組織。

産業別委員会はAFL左派を形成。組織員数は100万人に達する。末端には共産党の影響を受けた活動家が結集,CIOの5分の1が共産党の影響下にはいる.

1936年

2月 全米黒人会議(National Nigro Conference)が設立される。585組織120万人を結集。黒人諸組織はリンカーン以来の共和党支持を断ち、民主党支持に回る。

8.07 スペイン人民戦争開始.米政府はスペイン内戦に干渉しないとの声明.

8 大企業と結託したAFL指導部,CIO幹部ジョン・ルイスらを除名.

10.30 海運労働者4万人が西海岸の全ての港湾でゼネスト.カリフォルニア各地で,メキシコ人を主体とする農業労働者のストあいつぐ.

11.03 大統領選挙。ルーズベルトは「ウォール街の経済的王党派を打破する」とのスローガンを掲げ、歴代最多得票率で再選を果たす。マスコミの8割は共和党を支持。

12.01 ルーズベルト,ブエノスアイレス米州特別会議で,西半球の共同防衛を提案.反ファシズムに一歩踏み込む。

36年 米国の債務残高はGDP比40%に達する。これにビビったルーズベルトは、財政支出の削減に動く。FRBはインフレを警戒し、預金準備率を2倍に引き上げ、金融引き締めを図る。

1937年

1.06 アメリカがスペインへの武器の輸出を禁止.劣勢であった共和派軍に大きな打撃となる。

1月 スペイン人民戦争に参加するため、アメリカ人義勇兵3千名が組織される。リンカーン大隊、その後ワシントン大隊が編成される。その半数が戦死した。

1 ゼネラル・モータースで5万人の労働者がスト入り.バリケードを作り工場に立てこもる。44日間の工場占拠闘争のすえ勝利.産別労働運動は一気に拡大.引き続きクライスラーの工場占拠ストも勝利。

3.01 USスチールが団体交渉権と週40時間労働を認める労働協約を締結。

4.22 ニューヨークの第4回平和デモに過去最高の人数の市民が参加.

5月 もう一つの自動車メーカー、フォードのリバールージュ工場でも籠城スト。会社の組織した暴力団が自動車労働者組合のオーガナイザー数人を叩き出す。(41年には山猫ストで勝利し、組合を承認させる)

7月 第二次上海事変。日中戦争が始まる。

10月 FDRが、隔離演説(Quarantine Speech)を行う。

世界に無秩序という疫病が広がっている。警告もなく、正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が殺戮されている。疫病の流行から共同体を守るために、平和を愛好する諸国民の共同行動が必要だ。それによって病人を隔離するべきだ。

12月 再び不況が襲う。「ルーズベルト不況」と呼ばれる。予算均衡の立場から財政支出を大幅削減。この結果、軍備拡大策をとるまで1年余りにわたり続く。
 

ルーズベルト不況: 連邦予算を均衡させようとしたルーズベルトの拙速策の結果とされる。実質GDPは11%下がり失業率は4%上昇。失業者数は1千万を越えたままで推移。保守派は大規模ストライキによる労働組合の攻撃によって生じたと攻撃。

37年 南部黒人青年会議(SNYC),リッチモンドで結成大会.自由と平等,正義と人権をかかげ活動を開始.

1938年

4月 ルーズベルト、「国民の購買力を上げること」で「経済を上向かせること」が政府の責任であると主張。ふたたび拡大財政に転じる。

5.26 下院,非米活動調査委員会(ダイス委員会)を設置.親ファシストに対する統制を名目としたニューディール派への攻撃を開始する。これまでに共産党員は7万人に増加.

10月 連邦議会の中間選挙。共和党の勝利に終わる。民主党内保守派とつるんで、ニューディール政策の骨抜きにかかる。

10月 国務省声明。国際連盟の決議に沿って、中華民国における日本の行為をパリ不戦条約違反だと名指し批判。

11.18 産業別組合会議(CIO)がアメリカ労働同盟から独立.ニューディールと集団保障政策を支持すると宣言。

38年 

1939年

1.04 ルーズベルト大統領が中立法を廃止し,軍備拡大,反全体主義国家,ニューディール政策緩和を打出す.

4.01 スペイン内戦、フランコ派の勝利に終わる。米政府,フランコ政権を承認.

4.15 ルーズベルト大統領がヒトラーとムッソリーニに親書を送って戦争拡大防止を要請する.しかし提案は拒否される.

4.30 米国でテレビの普及が本格化。ニューヨークで開かれた万国博覧会の開会式がテレビで実況中継される。

8.02 アインシュタイン,ルーズベルト大統領に,ナチス・ドイツに先駆けて原爆を開発するよう進言する書簡.

8 スターリン,ヒトラーと不可侵条約を締結.共産党に対する不信広がる.ユダヤ系を中心に1万人以上の活動家が党を去る.

9.01 ドイツ軍,ポーランド侵攻開始.第二次世界大戦勃発.スターリンの指示を受けた共産党は、第二次大戦を「世界制覇を目指す帝国主義国家間の戦争」と規定,米国の中立を訴える.

1940年

4.22 ナチス・ドイツ軍が西部戦線を開く。英・仏連合軍がトロンヘイム北方でドイツ軍と交戦.

5.16 ルーズベルト大統領,ナチスに対抗するため年間5万機の飛行機生産と9億ドルの非常支出を求める.

6.14 ナチス,パリを占領.

6.27 ルーズベルト大統領,パリ陥落にともない国家緊急事態を宣言.

9.03 米英防衛協定が調印.

9.05 シカゴで孤立主義者が大集会を開き,中立を主張してルーズベルト大統領の対英援助を批判.

9.16 選抜徴兵制が公布される.

10.14 ルーズベルトレインボー計画(陸海軍統合戦争計画)を承認.

11.06 ルーズベルト,第3期目の大統領に就任.

12.29 ルーズベルト,「民主主義の兵器廠」となると演説

12月 この年末の時点でCIOは組合員数400万にまで発展。

1941年

1.07 ルーズベルトが3期目の大統領就任に当たり、「4つの自由」演説。言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由を挙げ、反ファシズムの立場を明確にする。

3月 武器貸与法が成立。イギリス、ソ連などへの武器援助が本格化する。武器生産の活発化により工業生産が回復。

5.27 アメリカが国家非常事態宣言.「アメリカ政府を暴力によって破壊転覆することの教唆と宣伝」を犯罪とするスミス法を制定.

6 ナチス,「不可侵条約」を破りソ連侵攻(バルバロサ作戦)を開始.共産党は一夜にして方針を180度転換.「国家的団結」の名の下に軍需生産に協力.

8.1 石油の対日輸出を全面禁止.

8.01 ソ連への援助を規定した米ソ協定調印. 計107億ドルの武器・経済援助が行われることとなる.

8.12 ルーズベルト大統領とチャーチル首相が大西洋憲章に合意.ファシズムとの対決とする戦争目的を宣言。

12.08 真珠湾攻撃.FDRは対日宣戦を布告。この後米国は第二次大戦へ参戦。

12.11 ドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告.

 

 

 

 

ニューディールの経過を勉強しようと思って、ネットを探したが、まともに取り上げた文章はほぼ皆無である。そのあまりの徹底ぶりに思わず苦笑してしまうほどだ。

ブログ記事はほとんどがフリードマンもどきの懐疑的な見解で埋め尽くされている。学術記事もケインズの業績と関連して刺し身のつま的に扱うだけだ。要するに批判はするが知ろうとはしない。これにはかなり愕然と来た。

国際的には依然ニューディール神話は健在だし、オバマもニューディールを標榜した。安倍首相お気に入りのスティグリッツも現代版のケインズと目されている。

強調しておきたい。ニューディールはあれこれの政策選択ではない。それは大衆運動の圧力のもたらしたものであり、大衆の呻吟を受け止めるポジティブな姿勢の反映である。

大恐慌のときニューディール批判派は何をしていたか。何のオプションも提起せず、大衆を弾圧し、大衆の苦労については、ただ手をこまねいて見ていただけだ。だから、そもそも批判する資格はない。

ニューディール評価をケインズに収れんさせるのは、政策イシューにことを矮小化するためのレトリックに過ぎない。

フリードマンの批判は、50年も経ってからの後付け批判に過ぎない。しかもそのフリードマン理論の下で展開された新自由主義は、世界経済を目茶苦茶にした。その経過を我々はリアルタイムで見つめてきた。

何よりも、ニューディールはファシズムが世界を支配しようとする瀬戸際に、それと真正面から立ち向かう姿勢を貫いた。戦後世界の民主的立場を代表した。たとえその政策に瑕疵があったとしても、この歴史的役割を我々はしっかり評価しなければならない。

現在、ニューディール本流の伝統は赤狩りの中で途絶えてしまって久しい。リーマンショック後の世界経済が世界大恐慌と通底している以上、我々はその積極的側面を大いに引き出し、その教訓を改めて確認しなければならないと思う。

どうもWeb レベルではGHQの司法改革に関して適当なレビューが見当たらない。

辛うじて分かったことは、司法改革に先立つ戦争協力者への処分は行われなかったようだということ、GHQの司法改革担当者にはそれにふさわしい権限が与えられていなかったこと、結果として改革の試みは挫折し、司法省が最高裁事務局を通じて生殺与奪の権限を握り続けたことである。

興味の中心は、あれだけ新憲法に一生懸命取り組んだGHQが、なぜ同じ気構えで司法改革を推進しなかったということに尽きる。ここがいまいち分からない。

細野長良ら大審院グループと司法省の長々しいやり取りは、実はどうでもいいことである。GHQの姿勢があやふやであれば、そのようなグループの発言力など無きに等しい。

を増補しての感想

年表を作ってみて分かったのは、昭和23年1月6日のロイヤル陸軍長官の「日本を反共の防波堤に」発言は、明確にマッカーサーの顔に泥を塗る行為として行われたということである。

年の初め、マッカーサーは年頭の辞「日本国民に与う」を発表している。まるで天皇きどりである。

しかしこの間に本国では対日政策の変更が準備されていた。昭和22年3月にトルーマン・ドクトリンが発表され、すでに基本線の変更は確認されていた。

それ以降、外堀は徐々にしかし確実に埋められてきた。とくに公務員の「忠誠テスト」はGHQ民政局のニューディーラーには脅威であったろう。

いつの間にかマッカーサーは裸の王様となっていた。そして国務長官にマーシャル元帥が押し立てられた。それは国務省がマッカーサーに全面対決のポーズをとったことを意味する。裏で動いたのはアチソン次官だったろう。

国務省は日本に「逆コース」を迫るにあたり、陸軍省を表に立てた。マッカーサーを封じ込めるためである。

それがロイヤル長官の談話であり、陸軍省の派遣したストライク調査団であり、仕上げに送られたドレーパー陸軍次官をトップとする調査団である。

マッカーサーは軍人だから上級の命令には逆らえない、というところを突いたわけだ。

怒ったマッカーサーは大統領選挙に立候補するといってみたり、いろいろ策動を巡らせるが、結局は冷戦システムの中に埋没していくことになる。

を増補しての感想

2013年11月03日

のうち、今回はに手を着けました。1946年(昭和21年)の記述です。


我々は戦後をリアル・タイムで過ごしているから、なんとなく知っている雰囲気になっている。

しかし勉強してみると、実は何にも知らないということがよくわかる。

とくに占領軍が何をしたのか、何をしようとしたのかについては何もわかっていない。戦後史年表のほとんどは日本政府が何をしたかで埋め尽くされている。本当の主語はGHQであるにも関わらず、記述上は日本政府のしたことになっている。まさに「皇国史観」である。

しかし実際に日本政府のやったことはGHQの方針に「日本政府」のハンコを押しただけであり、重要な政策決定はすべてGHQの中で行われていた。吉田首相をよいしょするドラマが何度も作られているが、あれは大嘘で、彼はただのマッカーサーの腰ぎんちゃくに過ぎない。外交官なんてものは“ヒラメ人”というか“手のひら人”というか、しょせんそういう人種である。

歴史を本当に、世界史的視野で知ろうと思えば、GHQの政策の決定過程、とりわけアメリカの本国政府との関係で見ていかなくてはならない。日本人には無敵に見えただろうが、GHQは米本国政府の出先機関に過ぎない。マッカーサーとGHQマフィアの光輝くキャリアは、昭和23年初頭のロイヤル陸軍長官の「日本は反共の橋頭保」発言をもって終わっている。

基本的には2年半足らずの短期間、彼らは思いっきり腕を振るった。それができたのについてはマッカーサーという人物の独特のキャラと押しの強さが結構ものを言っている感もある。それは一種の権力の空白であった。本国政府はソ連とどう付き合うのか、ヨーロッパをどうするのかで頭がいっぱいだった。一方ではルーズベルトの長期政権の下で形成されたニューディーラーをどう扱うのかも深刻な選択であった。

終戦の時点でマッカーサーは本国政府よりも右側にいた。しかし昭和23年初頭のロイヤル発言の時点で、本国政府はGHQよりも右に移動していた。

本国政府がニューディーラーをソ連内通者として排除し、マーシャル長官、アチソン次官ら国務省幹部が日本の直接支配を志向するに及んで、GHQの独自の役割は消失した。それは米政府の反共主義のたんなる執行人となった。重要な政策は彼らの頭越しに本国政府が直接取り仕切るようになった。マッカーサーはていの良いお飾りとなった

こういう流れとして、戦後の日本を把握しておく必要がある。

六面体としての憲法9条 脱神話化と再構築 - 京都96条の会

君島東彦さんが96条の会に寄稿した文章のようである。これの第6章が「世界の民衆から9条を見る」という題名になっていて、なかなかの力作である。本人は「迂遠」と度々コメントしているように、文章のテーマからすればかなり長い「蛇足」になっているが、本来別テーマとして語るべきボリュームと内容を伴っている。その要点を抜き出しておく。後段は私の勝手な感想で、君島さんとは関係ない。


1.憲法9条は世界の平和運動が生み出したもの

憲法9条のひとつの源泉は1928年のパリ不戦条約である。これは提案者の名をとって「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれる。

パリ不戦条約を成立させた原動力のひとつは、1920年代米国の平和運動であった。それは「戦争非合法化」運動と特徴づけられている。

2.平和の理念 消極的平和と積極的平和

平和学の認識によれば、平和とは暴力の克服である。

暴力には戦争という直接的暴力と、社会的不正義という構造的暴力がある。

直接的暴力を克服することは消極的平和であり、社会的不正義を克服することは積極的平和である。

平和とはその両方を克服することを意味する。

3.平和的生存権 憲法前文に即して

日本国憲法に即していえば、まず前文第2段落に注目しなければならない。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」

という規定(平和的生存権)は重要である。

(この規定は、日本国民を対象としたものではなく、「全世界の国民」が対象であることに注意すべきだ。「全世界の国民」に保障されるべき権利だからこそ、日本国民にもその権利が付与されるのである。「恐怖と欠乏」は戦争以外の経済的・社会的理由によってももたらされることがあるが、ここでは戦争に起因する「恐怖と欠乏」に限定されるべきであろう、と私は思う)

4.憲法前文と平和的生存権はルーズベルトの決意

この「平和的生存権」の規定は、ルーズヴェルト大統領に由来するものである。それは太平洋戦争の直前1941年に、ルーズベルト大統領の議会あて教書で「4つの自由」として初めて触れられた。そして同じ年の「大西洋憲章」で展開された。

ルーズベルト発言から推し量れるように、憲法前文の、「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」という表現の中には、差し迫った緊迫感がある。そこで語られる「平和」には、消極的平和と積極的平和の両方の意味が含まれていると解される。

5.憲法前文と積極的平和

ついで前文第2段落のもう一つの部分に話が移る。

憲法前文は、世界には「専制、隷従、圧迫、偏狭、恐怖、欠乏」という構造的暴力があること、我々はこの構造的暴力を克服しなければならないとしている。

そして、9条はこの精神を受けて、日本の武力行使を禁止し、日本の軍隊を脱正統化している。つまり憲法9条は直接的暴力を克服しようとする規定である。

6.憲法前文と「共通の安全保障」

さらに、前文第2段落は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べている。これは「安全保障共同体」の形成と、それによる「共通の安全保障」をめざすことを示唆したものである。

日本国憲法の平和主義はこのようにとらえられる。

(この指摘は示唆に富むものであるが、アメリカがそこまで確信を持って日本の安全保障を認めていたかどうかは定かではない。「安全保障共同体による共通の安全保障」が実現するまでの間は、日本が国を守る自衛権を保留するという意見もある)

7.憲法が定める二つの平和規範

憲法が定めている平和規範には2種類ある。第一の類型は国家権力に対する制限ないし禁止規範である。9条はその典型である。これに対し平和的生存権を含む前文第2段落は、日本の平和政策を方向づける積極的政策規範としての性格を持っている。

アジア太平洋戦争という侵略戦争をした日本にとっては、戦争をしないことは何にもまして重要である。しかし、もし自衛隊を海外に派遣しないのであれば、日本の市民と政府は平和のために何をするのか。専制と隷従、圧迫と偏狭、恐怖と欠乏という世界の「構造的暴力」を克服するために、日本の市民と政府は何をするのか。

それが問われる。これは憲法前文の積極的政策規範の具体化の問題である。


感想

日本国憲法の成立におけるルーズベルトの役割

まず憲法押し付け論との関連だが、君島さんは憲法の思想的源流として、アメリカやヨーロッパの平和的運動の潮流を引き出し、その文脈の上に日本国憲法を置こうとする。その意味では外来的思想であることは疑いない。「日本の青い空」を持って国産であるのを主張するのには無理がある。だからそれが外来思想の輸入であることを問題にするよりは、どういう思想を受け継ぐものであるかを明らかにする方が生産的だ。

「憲法前文と第9条は、日本国民が生み出したのでもなく、アメリカが自国の利害を押し付けたのでもなく、大戦間の世界の平和主義の伝統を引き継ぐものとしてみておく必要がある」ということになる。

その上で注目されるのは、ルーズベルトの位置づけだ。君島さんはある意味で日本国憲法が「ルーズベルト憲法」とも言えるのではないかと指摘する。

「4つの自由」というのは寡聞にして知らないが、どうも太平洋戦争=米国の参戦を前にして(欧州大戦はすでに始まっている)国民への決意の促しという側面を持っているのではないか。つまり当面する危機には断固として武力を持って立ち上がろう。その闘いの後、平和が実現するとしたら、それはどういう平和になるのだろうか、国民はそれにどう関わるのだろうか、という観点から読み解かなければならない。

憲法前文を貫く一種の「理想主義」には、差し迫る戦争への危機感、危機と立ち向かい平和を守る決意が秘められている、という見解には深くうなずけるものがある。私は映画「独裁者」におけるチャップリンの名演説を思い出す。あれこそが憲法前文を貫く精神なのかもしれない。

「ニューディーラーの持ち込み」という認識レベルにとどまっていた私にとっては目新しい提起であり、目下のところそれに応えるだけの知識を持ち合わせていない。

君島さんによる平和の定義

君島さんによる平和の定義は日本語的にはかなり厳しい。「平和」は日本語では形容名詞であり動詞ではない。社会的不正義の克服は、普通は民主、平等、公平、公正などの言葉で呼ばれる。ただ、もちろん、平和を周辺概念と関連付けてより広く捉えようという発想や、それをたんなる状況説明の用語ではなく、実践的に捉えようとする視点は重要だろう。

英語と日本語の枠組みの違いは良くある。しかも重要な概念に限ってそれが表出する。例えば英語で自由=フリーダムというのは、「権利」の概念を強く含んでいる。場合によっては権利と訳したほうが通りがいい場合すらある。逆に「自由勝手」のようなニュアンスはあまりない。またヘルスという言葉はたんに健康というのではなく、保健という実践的概念でもあるし、そこに医療も含まれてくる大変多義的な言葉である。一方で技術=テクノロジーという言葉は日本語よりかなり狭い。むしろ「工学」と訳した方がいいかもしれない。

英語のピースが日本語の「平和」とどう重なり合いどうずれているかは、現場で個別に吟味していくしかなさそうだ。

平和の努力には主権の尊重が不可欠だ

「戦争しない」だけで平和を守れるわけではないことは承知である。それに加えて積極的な平和努力が必要なことにも同意する。そして各種のNGOの努力が有効なことにも、国としての平和推進活動の重要性も同意する。

しかしそれだけで平和は守れるだろうか。もしルーズベルトの精神を云々するのであれば、「平和の敵」への断固たる姿勢がもとめられるし、民族主権の尊重が何よりも優先されなければならない。そして「平和の敵」と戦う人々への連帯が検討されなければならない。それは政府の言う「積極平和主義」や「集団的自衛権」と思想的に対決するために、何よりももとめられる視点であろう。

例えば、ウクライナ問題では断固としてウクライナの主権が尊重されなければならないし、その上に打ち立てられた平和こそが尊重されなければならない。イスラム国問題では、そのすべてではないにせよ、イラクへの理不尽な侵攻が発端であったことを常に忘れてはならないのである。

戦後教育制度の根幹となる文書が、「米国教育使節団の報告書」(1946年3月)である。

文部科学省のホームページにその要旨が掲載されているので、勘どころをサラッと紹介する。

経緯: ジョージ・D・ストダード博士を団長とする米国教育界代表27名が1ヶ月の滞在調査の後発表したものである。

本使節団は占領当初の禁止的指令を前提としつつ、「今回は積極的提案をなすことに主要な重点」を置いたものである。

①中央集権の排除

高度に中央集権化された教育制度は、官僚政治にともなう害悪を受ける。教師各自が職務を自由に発展させるためには、地方分権化が必要である。

文部省は各種の学校に対し技術的援助および専門的な助言を与える。一方で、地方の学校に対するその直接の支配力は大いに減少する。

内務省地方官吏の管理行政を排除し、地方の住民を広く教育行政に参画させる。このため一般投票により選出せる教育行政機関(教育委員会)を創設する。

教育委員会は学校の認可・教員の免許状の附与・教科書の選定に関し権限をにぎる。(現在はかかる権限は全部中央の文部省ににぎられている)

②天皇崇拝の排除

学校における勅語の朗読・御真影の奉拝等の式を挙げることは望ましくない。


③教育の目的と内容

広い知識と深い知識は、一冊の認定教科書や型通りの試験では得られない。個々の生徒の学習体験が考慮されるべきだ。

「修身」は服従心の助長に向けられて来た。今後は自由な国民生活のためになるようにすべきだ。平等を促す礼儀作法、民主政治の協調精神、これらはみな広義の修身(公民教育)である。

地理および歴史の教科書は、神話は神話として認めるが、いっそう客観的な見解となるよう書き直す。(以下略)


④学校制度

義務教育を引上げ修業年限を9年に延長する。最初の6年は小学校において、次の3年は創設されるべき「初級中等学校」において修学する。

さらに3年制の「上級中等学校」をも設置する。この学校は授業料は無徴収、男女共学制、進学希望者全部に学習の機会を提供する。


⑤教授法

つめこみ主義、画一主義は改められる。忠孝のような上長への服従に重点を置く教授法は改められる。

思考の独立を尊重し、個性の発展をうながす。民主的公民としての権利と責任とを助長する。


⑥教員養成と教育機関

師範学校は四年制とし、現在の高等師範学校とほとんど同等の水準に再組織されるべきである。高等教育機関はさらに進んだ研究をなしうるような施設を拡充すべきである。

高等教育機関は、その目的を追求するために、あらゆる自由を保有しなくてはならない。高等教育機関における学問的自由の確立は極めて重要である。

諸要件の維持に関しては政府機関に責任がある。その役目以外には、政府機関は統制権を与えられるべきではない。このため現在の文官制度は廃止するべきである。


⑦学生の自由(この文脈では「自由」を「権利」と読み替えたほうが分かりやすい)

学生にとって保証されるべき自由は、その才能に応じてあらゆる水準の高等な研究に進みうる自由である。

このためにはまず財政的援助が与えられなくてはならない。

とくに女子に対し、今ただちに高等教育への進学の自由が与えられるべきである。同時に女子の初等中等教育も改善されなければならない。


一読した印象としては、この報告は戦後の教育民主化の基本を成すものではない

この報告では、公民教育、軍国主義教育については、「すでに解決された」として殆ど触れられていない。

調査団が関心を持っているのは、教育の官僚統制と画一教育である。

調査団はこれに対して具体的対案を提示している。しかし天皇制と軍国主義はとても解決されたとはいえない状況にあった。それが解決されないと官僚統制も解決されないのである。

ただそれは日本の教育システムをよく知ったうえでの発言というよりは、制度いじりとアメリカ風教育スタイルの持ち込みという印象を持たざるをえない。

地方分権というが、日本においては地方こそが封建主義の牙城であり、彼らは戦災によっても被害を受けず力を温存していた。肝心なのは地方の自治ではなく中央集権的官僚機構の破壊だった。GHQがそれをしゃかりきでやっている最中だった。

それがこの報告の弱点であり、そこが旧体制派に利用されたという側面がある。旧体制派は仕掛けを変えることで、心を入れ替えたふりをすることができる。


私は戦後教育の第一世代の経験者として、これらの制度改編の大波を食らったわけだが、率直に言えば、このシステムいじりが無用な混乱と反感を招き、教育民主化の実を失わせていたのではないかと思っている。

しかしこの報告の本質はそこにあるわけではない。「学問の自由」と官僚統制の排除、分権の徹底という点での毅然とした主張こそが中核である。また「自由」を権利として明確化している点にも特徴がある。

したがって政府には「学問の自由」=学問の権利を守る責務がある、ということも明確にしている。

なおこの文章は報告の「要旨」であり、訳文にもいくつか気になるところがある。原文に直接あたっているわけではないので断言はできないが、どうも「薄めた表現」、「婉曲化表現」ではないかと思うところがある。

 

 

軍部の歴史についていろんな文献があるが、どれもこれも大同小異だ。
刀をもらったとか、銀時計だとか、「人情家だった」などの話にはうんざりである。
そのなかで川田稔の著作は出色ではあるが、悲しいかな類書に乏しいため比較検討ができない。
分かってきたことがいくつかある。
1.天皇制
天皇は荒木貞夫と皇道派によって議会と政府を押さえつけるための方便として利用された。それがうまくいったから、皇道派消滅後も軍部はそれを最大限に活用した。
2.昭和天皇はたんなる飾り物ではなかった
一種の戦後神話として、昭和天皇は軍部支配の犠牲者であり、本質的には平和主義者であったとされている。
しかし天皇は犠牲者でもなく平和主義者でもなく、最初は軍部の精神的代表として、のちには「大元帥」として戦争政策を推進した当事者であった。その故に政治的影響力を発揮しえたのである。
昭和天皇の思想的中核はほとんど狂信的とさえいえる反共産主義にある。かなり聡明であったかもしれないが、この反共原理主義が判断にゆがみをもたらしていると思う。
3.永田鉄山は勝負師である
永田鉄山の資質については様々な評価が下されているが、基本的には勝負師だろうと思う。斬った張ったの修羅場が大好きな人間である。戦略あって哲学なし、軍人としては最高かもしれないが、娑婆の世界では梟雄というべきであろう。
4.「強者の論理」に酔いしれて
「昭和陸軍の軌跡」を貫くのは強者の論理である。いったん始まればそれはどんどん研ぎ澄まされていく。国民は弱者であるにもかかわらず、強者の論理に酔いしれてしまった、
草野球で9番ライトさえおぼつかないのに、王・長嶋になった気分で野球評論する。打たれた投手をボロカスにののしる。怪傑黒頭巾がバッタバッタと斬り倒すのを見て胸がすっとしても、斬られた10人が生きられたはずの10の人生、墓標の前に立ち尽くす親や妻、子供には思いを致さないのである。
それが野球フアンのだいご味でもあるのだが、政治の世界では別の論理を打ち立てなくてはならない。野球評論と政治評論では視点をひっくり返さなくてはならない。自らを弱者の一員として位置づけなければならないのである。


永田鉄山と一夕会 年表

1921年(大正10年)

10月 ドイツのバーデン・バーデンで欧州派遣中の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三人(陸士同期)が非公式会談。軍の実権を握る長州閥の打破、国家総動員に向けての計画で合意。「バーデン=バーデンの密約」と呼ばれる。1期下の東条英機も参加。

永田鉄山

永田 鉄山 1884年(明治17年)生 1920年(大正9年)に駐スイス大使館付駐在武官となる。

Toshishiro_Obata

小畑 敏四郎 1885年(明治18年)生 1915年(大正4年)、ロシア駐在、第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。参謀本部員を経て、1920年(大正9年)、ロシア大使館付武官。しかし入国できず、ベルリンに滞在。

岡村寧次

岡村 寧次 1884年(明治17年)生 1914年(大正3年)から参謀本部で勤務し、同6年には北京駐在員として中国勤務。

1923年(大正12年) 陸軍を支配していた山県有朋が死亡。軍は引き続き長州閥の田中義一が把握。

1924年(大正13年)

宇垣一成が陸相に就任。軍縮という名の近代化を遂行。4個師団約9万人を削減し、機動力と火力、航空機の強化に乗り出す。

1926年(大正15年)

4月 永田鉄山、宇垣陸相の下で国家総動員関係の専門家として中央入り。その後内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に尽力、初代動員課長となる。

永田は第二次大戦が必至と考えた。そこでドイツの経験を踏まえ、資源、機械生産、労働力のすべてを自前で供給できる体制を整えようとした。

1927年(昭和2年)

永田、岡村、小畑を中心に陸士16期~18期メンバーを結集。「二葉会」を結成。会合場所であるフランス料理店二葉亭に由来する。

「二葉会」の後輩にあたる陸士22期~24期が「木曜会」を組織。永田鉄山の腹心にあたる東条が両会の橋渡し役をつとめる。

一夕会
          
ウィキペディアより

1929年(昭和4年)

5月 二葉会と木曜会の合同になる一夕会が第一回会合。1.陸軍の人事の刷新、2.満州問題の武力解決、3.非長州系三将官(荒木・真崎・林)の擁立を申し合わせる。(反長州といっても実態は反宇垣であった)

6月 関東軍の石原、「関東軍満蒙領有計画」を立案。軍事力行使による全満州染料を主張する。

石原莞爾

石原 莞爾 明治22年生 昭和3年に関東軍作戦主任参謀となる。

11月 ウォール街で株価の大暴落。以後世界大恐慌へと波及する。

1930年(昭和5年)

永田鉄山、南次郎陸相の下で陸軍省軍事課長となる。

11月 浜口首相が東京駅で狙撃される。

11月 幣原外相、南満鉄道に並行して走る中国側路線の建設を容認する方針を提示。結果的には、一夕会が満州侵攻の決断を下す引き金となる。

1931年(昭和6年)

3月 宇垣陸相を担ぐクーデター計画が発覚する。三月事件と呼ばれる。最終的に宇垣の同意が得られず未遂に終わる。

3月 参謀本部情報部が「昭和6年情勢判断」を作成。満蒙問題の「根本的解決」の必要を主張する。1.中国主権下での親日政権樹立、2.独立国家建設、3.日本の直接領有、の三つのオプションが示される。

4月 浜口首相が病気辞任。若槻礼次郎が首相に就任。陸相も宇垣から南次郎に交代。参謀総長の金谷範三は留任する。

南次郎1931
         
南 次郎(1931年)

5月 石原、「満蒙問題私見」を作成。「謀略により機会を作成し、軍部主導で国家を強引」することを主張。これにしたがい戦闘準備に入る。

6月 永田鉄山陸軍省軍事課長をトップとする五課長会議、「満蒙問題解決方針の大綱」を作成。「軍事行動のやむなきに至る」ことを想定して、その準備に入るよう主張する。

8.17 「中村大尉事件」が大々的に報道される。参謀本部の派遣したスパイ中村大尉が興安嶺で内偵中に現地兵に殺害された事件。政友会幹部や東京朝日新聞が「国権の発動」を求める。

9月18日 満州事変が勃発。奉天近郊で鉄道爆破事件が起こり、関東軍は中国軍による攻撃として兵を出動させ、翌日のうちに南満州の主要都市を占領。

事件は関東軍の石原、板垣らによる陰謀であった。この作戦を東京の永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、東条英機編制動員課長らが支援した。

9.20 参謀本部の建川作戦部長が現地入りし関東軍幹部と会談。満蒙領有論を退け独立政権樹立を了承させる。

9.24 内閣が事態の「不拡大」声明。日本軍攻撃の正当性を認めつつ、居留民の安全が確保され次第撤退すると明らかにする。金谷参謀総長、満鉄所有地の外側の占領地店より部隊を引き揚げるよう命令。

9.25 7課長会議、金谷参謀総長の命に反し満蒙新政権の樹立を含む「時局対策案」を起案。金谷命令は現地ではうやむやのまま実行されず。

10.08 南・金谷ラインが7課長方針を受け入れ、満蒙新政権を前提とする「時局処理法案」を決定。

10.26 若槻内閣が第二次声明を発表。侵攻部隊の無条件撤退を撤回し、既成事実を容認。

11月 南陸相ら軍中央首脳部、臨時参謀総長委任命令(臨参委命)を発動し関東軍の北満(チチハル)進出を拒否。この後、軍中央は関東軍のハルビン出兵要請、錦州侵攻も認めず。

臨参委命: 参謀総長が出先の軍司令官を直接指揮命令できる権限を天皇から委任されたもの。これにより関東軍司令官は参謀総長の指揮下に入る。

11月 陸軍中央、関東軍の独立国家建設方針を認めず。これにより一夕会は身動きが取れなくなる(川田稔)

12月11日 安達内相の反乱により若槻内閣が総辞職。(川田によれば安達は中野正剛を通じて一夕会と接触した可能性があるとされる)

犬養内閣が成立。陸相には一夕会が支持する荒木貞夫が就任する。

荒木は日本軍を「皇軍」と呼び、政財界など「君側の奸」を排除して親政による国家改造を説いた。その追随者は皇道派と呼ばれる。
対外路線としては「反ソ」を基本とするが、主要な目標は国内改革にあった。

1932年(昭和7年)

1月 荒木陸相、皇族の閑院宮載仁親王を参謀総長にすえ、参謀次長に盟友の真崎甚三郎を充てる。

部課長人事: 一夕会の小畑敏四郎、荒木陸相の下で参謀本部作戦部長に起用される。軍務局長には山岡重厚、永田鉄山が情報部長、山下奉文が軍事課長に就任。 
宇垣派はすべて陸軍中央要職から排除される。

犬養内閣、満蒙は「逐次一国家たるの実質を具有する様之を誘導す」との、「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定。関東軍のチチハル、ハルビンをふくむ全満州占領方針も承認される。

1933年(昭和8年)

6月 陸軍全幕僚会議。参謀本部の永田鉄山第2部長と小畑敏四郎第3部長が対立。対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。

会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対。
「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と主張。
これに対し荒木陸相は「支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁(ウィキペディア)

8月 小畑敏四郎、参謀本部を去り近衛歩兵第1旅団長に転出。

1934年(昭和9年)

1月23日 荒木陸相が病気辞任。後任に林銑十郎。皇道派は大幅な後退を余儀なくされる。

8月 永田鉄山、国府津に腹心を集めカウンター・クーデター計画をを立案。

永田の指導する「経済国策研究会」と右翼団体「昭和神聖会」が、国家改造の上奏請願に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するというもの
ただしウィキは「反永田」で一貫しており、記事出所の信頼性が低い。

永田鉄山、陸軍省軍務局長に就任。

10月 永田鉄山、「国防の本義と其強化の提唱」(陸軍パンフレット)を作成。軍内に配布。軍内統制の強化とともに、陸軍の主張を政治、経済の分野に浸透させ、完全な国防国家を建設するよう提唱する。

11月 陸軍士官学校事件が発生。元老、重臣の襲撃を図った皇道派の村中孝次、磯部浅一らが逮捕される。皇道派はパンフレット「粛軍に関する意見書」を軍部内に配布。永田を統制派の中心として攻撃。

1935年(昭和10年)

7月 陸軍人事異動。皇道派の担ぐ真崎教育総監が更迭される。皇道派はこれを永田鉄山の画策と受け止める。

8月19日 永田鉄山、執務中に相沢三郎中佐に斬殺される。

9月 陸軍内で首脳部交代。林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任。

1936年(昭和11年)

2月 相沢裁判、林前陸相、橋本前陸軍次官、真崎前教育総監を相次いで召喚。林陸相、永田軍務局長に統帥権干犯があったか否かが事件の焦点となる。

2.26 2.26事件が発生。

7.04 相沢裁判は2.26事件以降実質的審理のないまま死刑確定。相沢は銃殺刑に処せられる。

8月 粛軍人事により皇道派の一掃。小畑敏四郎も予備役に編入される。

 

恥ずかしながら全く不勉強で、昭和8年の陸軍全幕僚会議のことなど知らなかった。

なんとなく、2.26事件や相沢事件のことがあって、皇道派というのがファンキーな連中で、「統制派」というのが多少なりともまともだったのではないかと思っていた。

ところが陸軍全幕僚会議の論議を聞いていると、皇道派の方がはるかにまともで、永田鉄山の理論はとても理論とは言えないほどのハチャメチャぶりだ。どうしてこれが主流になったのかがわからない。もう少し勉強する必要があるが、とりあえずメモっておく。


1933年(昭和8年)6月、参謀本部で対ソ・対中路線をめぐる議論があった。参謀本部の永田鉄山第2部長と小畑敏四郎第3部長が対立の軸となった。

ソ連通の小畑敏四郎が対ソ準備を説いた。これに対し永田鉄山は「対支一撃論」を主張した。

ウィキペディアによると、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対した。
「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と主張した。
これに対し荒木陸相は「支那と戦争すれば英米は黙っていないし、必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。

とあるので、両派の対立というより、ひとり永田鉄山が「トンでも理論」で突っ走っていて、ほかの連中が持て余しているという印象だ。

それなのに、その後の経過を見ると、印象はまるっきり変わってくる。

ウィキペディアでは、この論争が皇道・統制両派確執の発端となったとある。

そして2か月後には、小畑敏四郎は参謀本部を去り近衛歩兵第1旅団長に転出している。その年の末に荒木陸相は更迭され、その後皇道派は追い詰められていく。追い詰められたその先が2.26事件ということになる。


どうも話が変だ。バスストップ事件への対応を見ても、荒木貞夫がまともな常識人打倒はとても思えないが、それでもこの会議での発言は永田鉄山に比べれば、少なくともまだまともだ。


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