鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 32 政治革新(各種の運動課題含む)

こんな文章を書いたことすら忘れていたが、読者の方が忘却の彼方から救い出してくれた。有り難いことである。おそらくウクライナ戦争への思いと共鳴するものがあったのでは無かろうか。
第一次碑文論争
「もう過ちは繰り返しませぬから」の碑文に対する批判と再批判。そしてそれを「一億総懺悔」の思想の延長線上には置かなかった広島市民。そこには未来志向と、密かな加害者意識と、主体者であり続ける決意が含意されている。
ひとびとの深い悲しみと静かな決意と叡智に、あらためて胸打たれる思いである。外形的な論争に終わるのではなく、広島と思いをともにすることがだいじであろう。
ireihi

文藝春秋 1980年7月号 94~121ページ
新「新軍備計画論」
ー故海軍大将井上成美氏に捧ぐー

はじめに

「新軍備計画論」というのは、太平洋戦争直前に井上海軍大将が提出した意見書に賛同し、その新版となることを意識して作られた原稿だということである。
森嶋が井上意見書から引き出した最大の教訓は、「日本にできることは戦争を抑止することではなく、回避することだけである」ということだ。
敷衍すると戦争抑止は不可能であり、したがって自衛論は(国家秩序維持機構を除いて)無意味である。やるべきはひたすら開戦を回避し、最悪の場合は開戦することなく降伏する(国家秩序維持機構を保持しつつ)ことである、ということだ。
無条件降伏がけしからんというのは、論理のすり替えであって、無条件降伏しかないときに無条件降伏しないことは、国民にとってこれほどけしからんことはないのである。無条件降伏しかないところまで国家を追い込んだ指導部こそがけしからんのである。
森嶋論文は学徒動員で情報部に配属され、毎日玉砕の報告を暗号解読していた青年が、10歳上ですでに奏任官として軍のトップ機構の一員に潜り込んでいた関に対する、一種の義憤を含んでいると思えてならない。
日本の歴史には二度の有名な無条件降伏がある。一度は勝海舟と西郷との談判による江戸城の無血開城である。そしてもう一度は天皇によるポツダム宣言受諾である。
戦後日本の仮想敵は90年まではソ連であり、今世紀に入っては中国である。どちらもまともに戦っては勝ち目のない相手である。もし攻めてくれば降参する以外にない。しかしその前に、攻めてこないようにあの手この手の外交術を駆使することこそが常道である。


左翼と平和主義者の自衛論

最初は相互の立ち位置を確認した上で、自らの立場を下記のごとく端的に表現する。
私の国防論は学問よりも私の体験ー特攻隊が飛び立っていく基地で、絶望的な物量さと技術差に直面しながら、日本をどうしたら守れるか、国を守るとはどういうことかを考えた34年前ーと不可分に関係している。
次に論争を挑むきっかけになった関氏の論文についてさまざまな事情を書き記しているが、これらにはあまり興味はないので省略する。

続いて森嶋は各界の議論を紹介する。この中で左翼への言及は注目に値する。スローガン的には類似しているため、内容的な違いを際立たせようとしている。端的に言えば一刀両断である。(一面で共産党をこの国で唯一の近代政党と評価もする)

(伝統左翼は)終戦直後に習い覚えたマルクス・レーニン主義の眼鏡を惰性としてかけ続けて、国際政治の現実と関係なく合言葉として国家独占資本とか帝国主義を繰り返しているにすぎないと思う。

これとは別に、歴史の教訓に「無知」な平和主義者の平和論がある。私はこの議論について心配である。なぜならそれは平和憲法を信じ、「日本を侵略する国などあるはずがない」とか「海に取り囲まれた日本に対する奇襲攻撃などあるはずがない」といった希望的観測に立脚しているからである。

善意のみで国際関係を処理できるとい う考えは、水と安全とをただだと考える日本人の俗耳に入り易い。私は、いま戦争の危険があるとか、日本に侵略の脅威がさしせまっているなどとい うつもりはない。しかし、例えば地震などに対応するだけででなく、人為的災害である侵略などの有事に備えるべきである。そのために法律改正の必要があれば行わなくてはならない。

ということで、このあたり森嶋の論理はかなり右に揺れるようにも見える。しかしこれは統治権力・執行権力の問題であり、具体的には警察、海上保安庁、消防庁、公安調査庁などの範囲の問題なので区別して論じるべきであろう。


虎の尾を踏んだヒトラー

当初の議論が欧州の第二次大戦の対応問題にあったため、ナチスとの対応がかなり詳しく触れられているが、ここでは省略する。

一つだけウクライナとのからみで取り上げておきたいのは、ポーランド侵攻を期にイギリスが開戦やむなしの方向にカジを切ったことが、第二次大戦開始の決定的原因となったことである。
ヒトラーはイギリスの弱腰が続くと考え、ポーランド侵攻もズデーデン併合に続くブラフの内と高をくくっていたが、それはイギリスの決意、姿勢、戦争遂行能力の読み違えであった。チャーチルはフランスをいざない、アメリカに事実上の参戦を促し、フランコに中立を強制し、スターリンにさえ秋波を送った。イギリスが開戦を決意した時点で、すでにイギリスと連合勢力の勝利は決していたのである。
というのが森嶋氏の読みである。
日本の再軍備を論じるときも、それが引き金になって、強烈なソ連の カウンター・ブロウを喰らう可能性がある。その場合、責任はソ連になく、国際政治の機微に疎い日本の愚かな冒険心にある。

以下は私見である。
これを今回のウクライナ侵攻に当てはめると、去年の2月、ロシア侵攻開始の時点でロシアの勝利は方向づけられていることになる。米国とNATOを前に譲歩を重ねてきたロシアの不満と不安は沸点に達した。米国のカラー革命という名のブラフはついに拒否された。NATOはウクライナ軍事支援と対ロ経済制裁で乗り切れると踏んだが、ウクライナの基礎的体力はあまりに弱く、ぎゃくに中国と新興国のロリアへの支持は予想以上に強かった。
ロシアの勝利はアメリカとNATOの敗北ということになるが、その最大の原因はアメリカのロシアの勝利への意図と経済的体力の評価の読み違えであり、ヨーロッパの体力の過大評価である。つまり戦いが始まってしまったときに、それに勝てるだけの準備がなされていなかったのである。


「必要最小限の防衛力」とはなにか

この定義は「意味不明で不気味な」命題だ。そもそもの意味は「最小であっても足りている」ということだ。足りていないんじゃ、最小限もへったくれもない。厳密な理論としては、「ソ連が攻めてきたときに防衛するとして、どのくらいあれば足りるのか」という話になる。

関氏は「必要最小限の戦力」の中身をもう少し具体的に例示している。それは安保条約が発動し、アメリカが安保の規定に従って救援に来るまでに(具体的には2週間程度)持ちこたえるだけの戦力ということである。
関氏は「最小限」という言葉を、米軍がやってくるまでの時間つなぎだの意味だというが、だとすればソ連が全力で攻めてきたときにも、最初の一発のパンチで卒倒してしまうのではダメなのだ。

私見だが、去年の2月にベラルーシから国境を超えて入ってきたロシア軍は凄まじい勢力だった。その進撃を押し留めるためには、少なくとも同等の兵力が必要だ。
敵は十分に準備して、訓練もした上で突撃ラッパを鳴らして入ってくる。それに対抗するには同等の戦力でも足りないかも知れないが、とりあえず形式論理的に同等の戦力というのが、「必要最小限」に相当するだろう。

したがって関氏が「必要最小限の戦力は用意しなければならない」というのは、そもそも不可能な要求だ。

アメリカは助けてくれるだろうか

この議論に入る前に、右翼のナイーブな対米信頼を剔抉しなければならない。これは左翼の見解よりたちが悪い。左翼が信頼するのは国際的な正義の世論一般だが、右翼の信頼するのはアメリカ帝国主義の「良心」である。仮にアメリカ帝国主義が正義の味方であったとしても、そう簡単に駆けつけてくれるものではない。
ベトナム戦争とウォーターゲート事件の後、国民のアメリカ政府への信頼は地に落ちている。今後しばらくはアメリカの青年が日本を救うために銃を取ることは絶対にないと信じる。彼らは断固拒否するであろう。

アメリカでは参戦のためには議会での承認が必要となっている、2週間というのは率直に言って不可能だ。

現代に惹きつけて考えると、第二次大戦でイギリスがドイツに宣戦布告したのは1939年9月、しかし一衣帯水の同盟国アメリカが議会の賛成を得て参戦したのは1941年12月だ。ウクライナが侵攻を受けてからはや1年になろうとしてるが、いまだアメリカは参戦の兆しすら見せていない。

つまり「必要最小限」というのは、ソ連の本土侵攻を受けてこれを跳ね返し、1年にわたり戦線を維持できるだけの勢力を指すのである。
それが準備できないのなら武力抵抗はすべきではない。


それは「必要最小限」ではなく「可能な最大限」だ

アメリカだのみでなく、独力で日本を守るという防衛計画をたてることにしよう。
それは日本が「最小限の」核武装をするという前提に立つことを意味する。有核の防衛は、日本自身が冷戦の一つの眼になってしまうことを意味する。米国にすら警戒され、世界の孤児となる危険がある。

したがって現実的な武装は、関氏のいうよ うに無核で、アメリカが日本にして「最小限ここまでして呉れ」という武装をすることである。それはアメリカが「最大限ここまでして良いよ」という範囲になる。
ようするに最小限という曖昧な表現は、その範囲を決めるのが日本ではなくアメリカだということを物語っているのである。


玉砕と降伏 2つの経験

以下に沖縄の海軍部隊司令官太田実少将が、昭和20年6月11日に発信した戦闘概報を再掲する。これは当時森嶋が大村の海軍航空隊大村基地で暗号士として受信・翻訳したものである。沖縄の海軍部隊は、この日午後十一時三十分に玉砕 した。
本土戦(沖縄戦)は海外占領地での戦いとは、その意義も戦い方も違っている。住民がすべて日本人だということだ。
日本固有の領土で、 将兵が全員玉砕することは、正しい処置の仕方とはいえない。首脳部 以外の者は、軍服を脱いで一般市民の中にまぎれこんで、将来を期すべきである。
沖縄戦以後も日本が戦いつづけたことは、かえすがえすも残念だが、ひとたびポツダム 宣言を受諾した後は、日本は立ちなおって、 素晴らしい模範的な対応をした。軍も全体としては秩序整然として降伏したとおもう。

万が一、ソ連が攻めて来た時には同様に毅然として、秩序整然と降伏するより他ない。徹底抗戦して玉砕すれば、その後に猛り狂うたソ連軍が殺到して惨憺たる状況を迎える可能性がある。秩序ある威厳に満ちた降伏を して、その代り政治的自決権を獲得する方が、ずっと賢明だ。

ソ連兵の暴行の記憶

多くの日本人は、ソ連兵が満州で掠奪暴行の限りをつくしたとし、ソ連には降伏すべきでないと考えている。

「しかし」と森嶋は続ける。
この二つの事実は、全く対照的な状況の下で生じた。内地では、戦闘ではなく統治を目的として米軍が進駐した。政府と市民は冷静に秩序整然と米軍を迎えた。しかし満州では満を持していたソ連軍が、宣戦と同時に堰を切ってなだれこんで来た。彼らにとって周りはすべて敵国民である。
日本軍も同じ状況の下では、ソ連兵と変わらぬことを数多く行っている。悲しいことながら、それが戦争の現実だ。(南京事件、シンガポールの華僑虐殺を想起せよ)

武装自衛論は時代錯誤の大艦巨砲主義

第二次大戦 中、戦艦大和や武蔵は主力艦といわれ、潜水艦や海防艦や魚雷艇は補助艦艇でしかなかった。しかし大和も武蔵も何らの戦果をあげることもなく沈没してしまった。彼女たちは沈められるために建造されたようなものであった。
現在ではタンクやミサイルのようなハード・ウェアでなく、外交や経済協力や文化交流のようなソフトウェアが国を守っている。軍隊を増強することにより国を守れると信じるのは時代錯誤だ。もはや中途半端な軍備は国防の力にはならないと心得なければならない。

読後感

私の見るところ、森嶋の所論は「非武装・中立」として括られているが、そのような建付けではない。それは「非戦の哲学」と名付けられるべきものだ。森嶋の世代においては「不戦」と呼ぶ方がふさわしいかも知れない。そして「非戦の哲学」に基づく「戦争回避のすすめ」が展開される。森嶋の文章には日本国憲法の文字はほぼ皆無である。にもかかわらずそこには日本国憲法の精神、8月15日に青空を見上げた人々の万感の思いが満ち満ちている。
長文の論攷であり、そのすべてを紹介することは不可能である。およその骨組みと強調点の紹介のみ行った。またVoiceに掲載された「要約」の一部意味不明なところについて、突き合せしておいた。

1月1日付 北海道新聞
森嶋通夫氏の主張
戦争回避がすべて
ー 戦争準備は日本経済に重荷ー

森嶋_道新記事

多分、これだけ読んでおけば十分ではないか、と思う。非武装の論理や降伏論についてはもっと詳しく書いてある論文(とくに文言春秋の7月号論文)もあるが、端的にその情念を表出し、自衛派の詐欺的論法を一刀両断した文章はあるまい。
この文章を通読すれば「白旗・赤旗」をことさらに取り上げる論者こそが、まさに森嶋氏のぶった斬りたかった相手だということがわかる。本土防衛を呼号して一億玉砕を煽った連中が、自らはノオノオと生きながらえただけでなく、再び歴史の舞台に登場して来たことに、森嶋氏は身悶えするほどの怒りを感じている。
「お前らの言うことを聞くくらいなら、アメリカだろうがソ連だろうが降伏したほうがマシだ」という感情が非戦論の根底にはある、それは権力者の欺瞞と裏切りに対する階級的な怒りなのだ。

以下本文
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私の小論「なにをなすべきでないか… 安全保障論議で考える」に 対し、関氏は「最小限の自衛力は 「必要」と答えられ、この点につい 私の答弁を求められた。

こういう問題を抽象的に論じたり、関氏と異なる想定の下で論争しても無意味だから、なるべく関氏と同じ想定の下で議論したいと思う。関氏の最初の論文 (サンケイ新聞 昨年九月十五日号)には「核戦争に備えたシェルターなど用意すべ きである」と書いているので、以下ではそれにならって、核攻撃を受ける公算もあるものとして論じ ることにする。

歯止めない核武装

まず自衛隊を強化するとして、 無核のままで強化するか、それとも有核にするかだが、無核のままなら、いくら強化しても現状と大した違いはない。

なるほど小紛争の場合には無核の軍隊でも強いほど有効だといえるかも知れないが、その程度の事件は政治的に解決可能だし、軍隊が出動すると事態はかえって悪化する。

また軍隊を戦力としてでなく、政治交渉の際の圧力として用いるとしても、有核の国には無核の軍隊は通用しない。さらに死活の重大事件の際には、その国は核攻撃をすると脅迫してくるに違いない。
いずれにせよ、核時代に無核で戦えというのは、新版「竹やり戦術のすすめ」以外の何ものでもない

当然、核武装せよということになる。しかしその程度はどの程度か。
いまソ連の各兵力を100とすれば、日本は1でよいのか、それとも10か、あるいは50も必要か。明らかに1では0と変わりはない。10でもダメだということになれば、いったいどれくらい必要なのか。

むかし、ワシントン会議で帝国海軍は対米7割の線を、譲歩しうる最後の線だと主張した。このことから、私は自衛隊の将軍たちは、最初、ソ連の4割か5割が戦争技術的に必要最小限だと主張すると思っているが、いよいよ戦争する段になると、必ずこれでは勝ち目はないといいだすに違いないと考えている。

いまこのことを歴史で例証すると、ワシントン会議のあと、日本海軍は対米6割の線で再建されたが、このような戦力では大平洋の中央で米海軍と四つに組んで戦うことは困難である。勝つためには日本海海戦のように、米艦隊を日本近海に引きつけて、地の利を得て撃破するしかない。

こういう考えに基づいて、日本海軍は近海作戦用の強力な防衛艦隊ー航続距離や居住性を犠牲にしてその分だけ重武装した艦隊ーを整備したのだが、いよいよ実際に太平洋戦争をする段になると、海軍の考えはすっかり変わってしまった。

彼らは次のように考えた。対米6割の海軍ではアメリカに勝てない。勝つ唯一の方法は、先制攻撃をして開戦と同時に、対等の戦力にアメリカをしてしまうことである。攻撃こそが最大の防御だ。

こうして真珠湾攻撃が実行されたのだが、その結果、海軍は、近海用の艦隊で大平洋全域で戦うという矛盾を冒すことになり、無残に負けてしまったのである。

同様に、いまソ連と戦うとして、対ソ4割の力では勝ち目はないから、いよいよとなると、自衛隊の将軍は先制攻撃を唱えだすだろう。
彼らの先制攻撃案を封じるには、彼らにソ連と同等の核兵器を与えなければならない。それのみでない。日本がソ連の4割に達する核兵力を持つようになれば、アメリカも日本に対して警戒し始めるだろう。日本には前科があるから、アメリカは神経質になるに違いない。

一億玉砕か降伏か

このような時代になると、日本もまた昔のことを考え始めるだろう。太平洋戦争末期のように、米ソが連合して攻めてくる可能性はないとは言い切れない。そうすると、最小限必要な核兵器は、一挙にして米ソの総量の4割の線まで飛躍する。

しかもこのような破局的状態に達するまでに、すでに軍備は日本経済の大変な重荷になっている。大砲かバターかの問題に、大砲を選んでしまったために、日本人はまた深刻な貧困にあえぐことになるのだ。

以上のような推理に対し、読者の中には、日米安保条約があるから、日本はソ連の4割もの核兵器を持つ必要はないという人もいるだろう。しかしソ連に対して不信感を持つのなら、アメリカに対しても、日本は、南ベトナムや台湾同様、見殺しにされるかもされないという不信感を持つべきだ。

いずれにせよ最悪の事態が起これば、残念ながら日本には一億玉砕か一億降伏かの手しかない。玉砕が無意味なら降参ということになるが、降参するのなら軍備はゼロで十分だ

現在のように核兵器が発達してしまった段階では、戦争が起こればお仕舞だ。我々に残されている唯一の自衛法は戦争を起こさないことであり、そのためには戦争が起こってから活躍する人でなく、開戦前に活躍する人を…する能力をもっと持っていたなら、満州問題は平和的に解決し得たはずである)。

廃墟の中での誓い

不幸にして最悪の事態が起これば、白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を迎えるよりほかない。34年前に米軍を迎えたように、である。

そしてソ連の支配下でも、私たちさえしっかりしていれば、日本に適合した社会主義経済を建設することは可能である。アメリカに従属した戦後が、あのとき、徹底抗戦していたよりもずっと幸福であったように、ソ連に従属した新生活も、また核戦争をするよりもずっとよいに決まっている。私達があの廃墟の中で「あやまちは二度と繰り返しません」と死者に誓ったのは、このような絶対的無抵抗ではなかったのか。

私は人間を信じるがゆえに、アメリカ人とともにソ連人を信じるから、核攻撃の心配はしないが、関氏がそれでも、もし攻めてきたらどうするかと問うなら、私は以上のような形でソ連軍を迎えよ、と主張する。若い人にそう教えることは戦中派の務めである

日本における「有事」の地政学的理解
ウクライナの教訓を下敷きにして

東アジアは裏返しのウクライナ

地図を重ねてみよう。そうするとどうなるだろうか。
ロシアが中国で、アメリカは変わらない。
日本が西欧で韓国は東欧、台湾がバルト三国になる。
かつてソ連と西欧のあいだには中欧・東欧という緩衝地帯があった。
それが次々とNATOの同盟下に入り、NATOとロシアが踵を接する厳しい環境となった。
東アジアでは一点の緩みもなく全境界線がにらみ合いの前線となっている。
そんな中で例えば香港が独立を宣言し、中国がこれを許さないとして干渉し、
香港の独立派勢力が断固として領土を守り抜くと宣言し、
米国が独立派を支持して直接参戦以外のあらゆる支援をすると宣言し、
中国が国境付近に兵力を結集して、いつでも侵攻できる体制を整えたとして、
「あなたならどうします?」ということだ。

非同盟・中立のモデル

米国と同盟関係を結ぶのは、日本の身近に敵と仮想される国が存在するということだ。もし仮想敵が存在しないのなら、同盟関係は不要だし、近隣国にとっては脅威以外の何物でもないのだから、止めるに越したことはない。結果として非同盟・中立のモデル国家が登場する。

私が「歴史的に考えてほしい」と願うのは、中国は日本の仮想敵ではないということだ。旧ソ連は北方領土を奪い、島民の資産を奪い、島民を追放した。兵士をシベリアに送り強制労働に使役した。
だから日本は日米安保に調印し、旧ソ連を仮想敵とした軍事同盟を結成した。
それはNATOが旧ソ連を仮想敵とした米欧同盟であるのと同じだ。
旧ソ連の崩壊後、NATOには欧州を防衛すべき根拠となる新たな敵が必要になった。そこで無理やりロシアを仮想敵に仕立て上げた。「資本主義国ロシア」は白旗を掲げ自国とウクライナ・ベラルーシ以外のすべての覇権を放棄したにもかかわらず、仮想敵にされた。

日米安保は自らの存続のために仮想敵そのものを変えてしまった。文化大革命の傷も癒えぬ間に、天安門事件で存立の瀬戸際に立たされていた中国が、仮想敵に仕立て上げられたのである。これはそもそも安全保障の意味を問われる選択である。

中国は、1949年の建国以来一度として日本と敵対関係をとったことはない。
唯一、尖閣諸島が公的な紛争となっているが、これは日中平和条約で帰属は保留となっていたものである。韓国に対してあれだけ条約の原理性を強調するなら、日本側が(自由航行権等で)決着をつけるしかない。

かくのごとく敵対関係のない相手を、いきなり何の理由もなく仮想敵にするのは理に合わない。中国国内でのあれこれの揉め事を理由にして敵国扱いにするのは、最悪の内政干渉である。

もし中国を仮想敵にすることをを止めるなら、日米安保条約は無意味となる。アメリカのために本土防衛とは関係のない軍事作戦に参加する(参加させられる)ための「同盟」という名の軛(くびき)でしかない。
もし北朝鮮を仮想敵にしようというのなら、それよりも平和条約を締結して国交を回復し、過ぐる日帝時代の植民地支配に対する賠償を行うことが先決である。そうなれば、日米安保はむしろ有害なものとなるだろう。


非戦・平和の原則

こうしてまず非同盟・中立のモデルが打ち立てられる。次が非戦・平和の課題である。
国と国の間で紛争が発生することは避けられない。それを徹底して平和的に、交渉を通じて解決することである。
例えばどこか沖合の小島で領土権をめぐる争いが発生する場合、あるいは島を島として認めずにその周囲の領海権を拒否する場合などが挙げられる。明らかに日本の側に領土としての実体がある場合は、警察権(海保をふくめ)の行使は当然であるが、それを越えるような大規模な干渉があった場合は国際機関の審判を仰ぐことになる。

一番の問題は、北海道から先島諸島に至る固有の領土に侵攻があった場合であるが、これはその場での力関係により判断するしかない。いずれにせよ施政権は実効的に及ばなくなり、一時的に放棄せざるを得ない。
非軍事的な範囲であらゆる可能な手段を取って領土の回復をもとめるほかない。国民全員で戦うにはそれ以外ない。もし現地に武力抵抗をもとめるなら、それは現地の切り捨てという結果を招かざるを得ない。
沖縄では武力抵抗を行い、皇国の防衛のための捨て石となることを求めた。このため島民の1割以上が犠牲となった。千島、樺太では皇軍はすでに半ば崩壊しており、島民はソ連軍の支配下に入ったが、まもなく島民のすべて(1万7千人)が北海道に「強制送還」された。

沖縄戦犠牲者

いまウクライナでは、極右政府と欧米好戦勢力の圧力により、圧倒的な力関係を無視した戦闘が続けられている。多数の犠牲者が生まれ、隣りあい、一部は混住する双方の憎しみがつのらされている。
いま日本人が自らをウクライナの場において考えるなら、いずれの立場を取るべきかは明らかである。
40年前に森嶋通夫が「白旗・赤旗をあげて降参すべし」と毒々しい表現で謳ったのがこの非戦・平和の対応である。それは救急現場におけるトリアージ(救うか救わざるかの選択)のごとく、きわめてリアルで冷徹な発想である。

それは非戦・平和の原則であり、武装・抑止の考えの対極にある。そして抑止はしばしば抑止にとどまらず、抑止力の行使に繋がる。非戦・平和は理想論ではなく、度重なる戦争の惨禍の中から生まれた、民衆にとっての最大の教訓なのである。


武装も自衛もしないという選択

次が武装・自衛、いわゆる「備え」の問題である。
これは非戦平和の原理でほぼ全て片付いている。専守防衛を前提とする限り、戦闘は当初より内地決戦だ。
第一撃で相当なエリアが敵の支配区となるから、少なくともそこの地区の住民は捨て駒にカウントして戦闘を開始しなければならない。境界地域の住民は「人間の盾」にされ、「撃つのも味方、撃たれるのも味方」の世界が広がる。

もちろん、民族には自衛の権利がある。それは断固として主張しなければならない。しかし自衛行動に出ることは、相手によっては莫大な生命の代償を支払わされることを覚悟しなければならない。しかもそれが無駄死にになることも覚悟しなければならない。

皇国の不滅を訴え本土決戦を叫んだ人々は生き延び、親米派の驥尾に付した。彼らの命令で死を選ばされた兵士は犬死と言ってよい。本土決戦=一億玉砕は絶対にいけない。それを前提とするような軍備をあおる人を信じてはならない。敵前逃亡した関東軍幹部を思い起こせ。せせら笑って戦後を生き延びた牟田口を思い起こせ。

日本の未来には “武装も自衛もしない” という選択以外にない。もし中国を仮想敵にしたとしても、「武装も自衛力もない」という前提に立って外交を進めなければならない。「アメリカが来てくれる」という人はウクライナを見よ。もし戦争になればアメリカは参戦せずに経済制裁と軍事援助で応じるだろう。両国民の血は彼らにとっては蜜の味がするだろう。
勝負事においては1対100は0対∞ということだ。「本土決戦」は日本と中国にますます多くの墓石を立てるだけの結果になるだろう。




2000 年ニッセイ基礎研シンポジウム 
森嶋通夫の非戦論関連の記事





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日時 2000 年 10 月 19 日(木)午後 2:00~5:00
場所 帝国ホテル「富士の間」

パネルディスカッション
パネリスト
 森嶋 通夫 氏(ロンドン大学名誉教授・大阪大学名誉教授)
 奥村 宏  氏(中央大学商学部教授)
 細見 卓   (ニッセイ基礎研究所特別顧問)
モデレーター
 嶌  信彦 氏(ジャーナリスト)

このPDFファイルは、森島の基調講演「未来日本への警鐘」というのがあって、講演終了後のディスカッションが記録されている。

司会: 森嶋先生は去年、『なぜ日本は没落するか』という本を書かれておられ、この本
の前書きの中で、このままだと 2050 年までだめなのではないかと述べておられます。
日本はある意味で戦後、高度成長までは成功
モデルのようにいわれてきた。それは政治というよりも、官庁を中心とした官僚主導モデルだった。

森島: 政治というのは政治家の活動であり、官僚が良い悪いは関係ない。日本で一番具合が悪いのは、意志をともにし一緒に行動する党派というものがないことだ。

戦後教育と世代論

森嶋: 「戦争に行った人と戦争に行かなかった人との間に大きい差があるのではないか」ということを思うようになりました。
考えなければいけないのは、「この日本の戦争はいったい何だったのだろうか。あれだけ大勢の人が死んで戦争をしたにもかかわらず、精神的にどんな収穫があったのだろうか」ということです。
この点に関して、我々も含めて日本人は、もっと積極的に自己主張をすべきであったと思います。

森嶋: 日本経済と社会が没落しないための唯一の救済策は「東北アジア共同体」です。
東北アジア共同体とは何かというと、マーケット共同体ではなく、建設共同体なのです。
1つは中国の奥地開発、朱首相の言葉では西部開発です。それは建設共同体であって、マーケットの共同体ではない。しかし日本の財界が見ているのは海岸線あるいは北京・上海間で、ヨーロッパのようなマーケット共同体です。

森嶋: 中国から見た日本歴史の問題は控えた方がいい。中国にとっては共同体案が一番重要な問題だ。日本もそういう中国事情を読み取る必要がある。ところが、日本人のもっている国際感覚は大いにずれていると思います。

大東亜共栄圏など歴史問題

森嶋: 大東亜共栄圏は歴史問題であり、アジア共同体ができれば、自然に解決するでしょう。私の友達でもう死にましたが、韓国人なのです。その人が言ったのは「大東亜共営圏を復活しろ。ただ、栄えるという字ではない。共に営むという字だ。そういう共営圏は私は賛成だ」と言ったのです。

アメリカの介入

森嶋: 今日本は東アジア諸国に対して、積極的なことは何一つしていません。もしアメリカと中国と朝鮮半島が組んで、日本が仲間はずれになれば、日本はものすごく右傾化するでしょう。そういうことを避けるためにも、もっともっと積極的に出ていかなければなりません。

「うちは捨てられた。今まで共同防衛を考えた仲である国が日本を捨てた」と日本人が反応すれば、アメリカを逆に憎むようになるでしょう。

この人は割と口が滑る人で、つまらない思いつきも多いが、そこは実行力で乗り切っていく、いかにも関西人である。


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それにしてもネットの世界には驚くほど森島流世界観のスペースがない。
関・森島論争についてもまともな論考はほとんどなく、そもそも系統だった紹介さえなされていない。
森島の意見は「非武装中立」という怪しげな言葉に束ねられ、倉庫の奥に放り投げられてしまったようだ。とくにサヨクからの黙殺に近い扱いが気がかりだ。
たしかにワルラス経済学が専攻で、近経的手法を駆使した研究というのは、とてもじゃないが歯が立つものではない。しかし例えばチョムスキーがわけのわからない言語学の専門学者であったとしても、そんなことは知らなくても彼の社会的発言は十分に理解できるし傾聴に値する。
そういう意味からは、彼の社会的発言をあとづけながら彼の政治や社会、倫理などについて整理することは可能なのだろうと思う。チョムスキー学、柳田学などと並んで森島学みたいな研究分野ができても良いのではないかと思う。
その森島学の二本柱をなすのが平和学と東アジア共同体理論であり、後者はさらに統一市場論と脱安保論に分かれる。
それを狩猟するには、恐ろしげな全集や学会誌ではなく、小文や座談会の記事などを拾いながらのほうが生産的な気がする。まぁぼちぼちと始めてみたい。

森嶋通夫の非戦論関連の記事





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昭和55(1980)年。戦争と平和の関・森嶋論争
https://nisikiyama2-14.hatenablog.com/entry/2020/12/27/180242
より引用

このブログは全体として右翼的色調が強いが、関・森嶋論争については客観的に詳しく紹介してくれる。この部分はブログ主個人のものではなく、全体としてVoice誌からの引用と思われるが、詳細は不明である。もちろん本来は原文にあたった上で考察すべきだが、入手には時間がかかりそうなのでブログを利用させていただく。

私はこの論争は「非武装中立」論にとどまるものではないと思う。もっとラジカルな「非戦、絶対平和」論だ。それは未だ十分になされているとは思えない、過ぐる12年戦争をどう総括するか、「もう二度と闘わない」という非戦の決意をどう形に表わし、どのように後世に伝えていくかという問題だ。少なくとも森島の議論にはその切っ先が潜まれている。関は戦中派の気迫に安易に反論ができない。「白旗、赤旗」の表現をことさらに取り上げて騒ぎ立てる外野の観客は縁なき衆生だ。

このブログでは、2021年1月号 Voice 誌「紳士の決闘ー歴史のなかの関・森嶋論争」より、長文を引用している。
この文章から引用させていただく。ご承知の通り Voice は右翼系の雑誌であり、それなりのバイアスがかかっていることを承知の上読んでいただきたい。

河合栄治郎門下の政治学者で東京都立大学名誉教授、早稲田大学客員教授の関と、経済学者でロンドン大学教授であった森嶋通夫のあいだで行われた論争である。
この論争は『大論争──戦争と平和』と題し、1980年1月から、『文藝春秋』誌上で三号にわたって展開された。

Voice編集部がつけたキャッチコピーは下記の通り
歴史のなかの関・森嶋論争
平時の備えを説く関嘉彦と、非無抵抗降伏を説く森嶋通夫。1980年代の防衛論争の劈頭を飾る二人の『決闘』を紐解く。

論争の背景には国際的な対立構造がある。米ソはデタントから一転して、『新冷戦』と呼ばれる状況へと突入しつつあった。
アメリカの力は相対的に衰退し、ソ連が通常戦力のみならず核戦力においても追いあげていた。78年に日中平和友好条約が締結されると、ソ連が強く反発した。このため日本でのソ連脅威論が一層高まっていた。
当時の日本の国内政治では、『地域の不安定要因とならないよう、独立国として必要最小限の防衛力を保有する』との基盤的防衛力構想が浮上していた。
この中で保守層のあいだでは、清水幾太郎の『核の選択』(1980年)、戦後体制をめぐる佐藤誠三郎と片岡鉄哉の対決(1982年)、永井陽之助と岡崎久彦のあいだで行われた戦略的リアリズム論争(1984年)などが行われた。

序幕──『北海道新聞』での緒戦

始まりは、関が『サンケイ新聞』に寄せたコラムに、森嶋が批判を加えたことである。

これに先立ち、関は1978年9月15日の『正論』で、武装自衛論を展開した。
以下はブログ主のまとめたもの。

①イギリスは平和思想の虜となり、軍備に立ち遅れた。このためナチスドイツの台頭を許した。それが第二次世界大戦を防ぐことができなかった理由である。
②戦後日本の一部知識人、マスコミ、政治家の言論のなかには、当時のイギリスに通じる危険性がある。それは歴史の教訓に「無知」な平和主義者の主張する平和論である。
③日本は軍備を行い、危機に備えるべきである。有事のために必要なら法改正を行なうべきである。
④スイスは外国の侵略に対してあくまで戦う決意を示し、民兵組織を整えた。このためヒトラーは侵略を断念した。

森嶋は、『なにをなすべきか』と題して、1979年1月1日の『北海道新聞』で、関(紙面では『S氏』)を『国防主義者』として批判した。以下はブログ主による要約。

①イギリスが軍備を整えていたとしても、戦争はヒトラーがいる限り起こらざるをえなかった。
②もしイギリスが軍備を整え、ヒトラーに勝って、生き延びたとしても、それは『軍備主義者』の勝利でしかない。
イギリスもまた軍備主義者のはびこる国になるから、ナチスが勝った場合と大差がない。
(この項は論旨が通らないので、本文にあたる必要あり)
③歴史の教訓とすべきは、イギリスの政治力である。チャーチルは緒戦で敗退しながら、頑張り抜いて、その間にナチス討伐の連合軍をまとめあげた。
④スイスを守ったのは民兵ではなく中立国という政治的地位である。ヒトラーはスイスの民兵を恐れたのではなく、敵国との交渉の窓口とするために攻撃しなかったのである。
⑤コラムの結び。軍備は果たして国を守るだろうか。われわれの皇軍も、国土を焼け野が原にしてしまったことを忘れてはならない

関の北海道新聞への投稿(1月29日)
①イギリスは軍備を強化するだけでなく、それを背景にして強い対応をとっておけば戦争を防ぎ得ただろう。
②イギリスが軍事的に持ちこたえたから、チャーチルはその政治力を発揮できた。一国の安全は軍事力のみでは守れないが、しかし軍事力なしには同じく守れない。
③スイスと同じ中立国ベルギーは侵略されている。(これは注意喚起ではあるが、反論にはなっていない)
④その意味で国を守る最小限の自衛力をもつべきである。


森嶋のコラム(3月9日)
ブログ主の要約が要約になっていないのだが、読み解きうる範囲でまとまると、
①他国の意図が信じられないなら「抑止力の保持」はやむを得ない。ソ連が信じられなければ、アメリカも日米安保も信じられないからだ。
(この項、いまいち正確とは言えない)
②ソ連の軍備は強大であり、抑止を有効にするための装備は「最小限の防衛力」というには程遠いものとなる。
核兵器を保持して先制攻撃するとしても、ソ連の4割の所持が必要であろう。
③すでに核の時代にいるのだから、唯一の自衛法は戦争を起こさないことである。
④平時に行うべきは平和のために活躍する人を充実させることである。
⑤不幸にして最悪の事態が起これば、白旗と赤旗をもって平静にソ連軍を迎えるほかない(34年前に米軍を迎えたように)

関のコラム(3月10日)
①森嶋氏は最悪の事態も想定しており、論理は明快である。
②日本の防衛の基本は日米安保である。
③「最小限の防衛力」は侵略者の撃退ではなく、日米安保に基づいてアメリカが支援に入るまでの時間つなぎである。核兵器についてもアメリカの抑止力に依拠するほかない。
④通常兵器による小規模な侵略は「最小限の防衛力」で撃退する。
⑤アメリカが信頼できるかどうかは、日本が誠意を示し続けるかどうかに依存する。ソ連は独裁者をいただく全体主義国であり、まったく信用することはできない。

この後論戦の場は「文芸春秋」に移動する。

森嶋の論文『新「新軍備計画論」』
①冒頭の姿勢表明:国防は、ミクロには自分の命の問題である。したがって宗教や哲学まで含んで十人十色の議論となる。決めつける議論をしてはならない。
②私の国防論は学問よりも私の体験──特攻隊が飛び立って行く基地で、絶望的な物量と技術差に直面しながら、日本をどうしたら守れるか、国を守るとはどういうことかを考えた34年前──と不可分に関係している。
③敵が日本を攻撃する確率は低くはない。なぜならそれは、日本攻略によって得られる戦略的利益と、攻略に要する費用(犠牲)に依存するからであり、戦略的利益はきわめて高いからである。
④この攻撃を抑止するために武装するなら、ソ連やアメリカの四割程度の重装備を支えるだけで、全経済力を注ぎこまざるを得なくなる。
⑤アメリカを頼りにする場合、2つの弱点がある。ひとつは援軍が間に合わない可能性、もう一つはアメリカにとって日本は最優先国ではないことである。
⑥軍事による国防は不条理である。これに代え、非軍事的行動で抑止を図ることが生産的である。総生産の2.5%を文化交流、経済援助、共産主義諸国との関係改善などに用いれば、日本はそれだけ安全になる。
⑦それでもソ連が攻めてくるなら、という仮定のもとに、森島は下記のごとく締めくくる。

(日本は過ぐる大戦で)後世に誇るに足る、品位ある見事な降伏をした。
それと同様に、秩序ある威厳に満ちた降伏をして、その代わり政治的自決権を獲得する方が、じっと賢明だと私は考える。

(以下は私見。…白旗、赤旗のような過激なレトリックは止め、負け方を具体的に提示した。また日本人の共通の記憶として、敗戦後日本の原点として、8月15日の無条件降伏を想起せよと呼びかけた)

関の論文『非武装で平和は守れない』

(Voice の評価によれば)これまでの議論に新しい論点はほとんど加えていない。ただし森嶋の『秩序ある威厳に満ちた降伏』へは批判が加えられる。その際、ソ連のような全体主義国家は信頼できないという点が、とくに強調されている。(以下は私見。…鬼畜米英にすら無条件降伏した私たちの経験はどう総括されるのか)

以上

いずれ本文に当たり正確を期すつもりだが、とりあえずこのままアップロードする。
ブログ主の丁寧な紹介に感謝する。明らかにVoiceからの転載と思われる箇所は、Voice誌からと記させていただいた。

続いて行われた日米の専門家会議は、米国による放射能被害の隠匿工作の中軸となった、というのが安倍記者の見解です。

これが連載の後編部分に当たるのだが、枝葉が多すぎてとにかく読みにくい。それなのに幹が見えない。ひょっとすると幹なしの幽霊話かもしれない。一行ごとに論旨がジャンプしていくので、ノートを取るのさえ苦労する。

基本の筋は、多分以下のような流れだ。

1.放射性物質の影響と利用に関する日米会議

1954年11月15日、学術会議との懇談会が開かれた。会議の正式名は「放射性物質の影響と利用に関する日米会議」である。
日米会議
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米国側の実体は米国原子力委員会で、日本側はおそらく「第五福竜丸事件 善後措置に関する打合会」の流れの延長線上にある行政+専門家組織である。

この会議は非公開で、学術会議の会議室で5日間続けられたようである。この会議の議事録や報告文書は公開されていなかったが、この度他資料に紛れ込んでいたのを「発見」された。

ところでこの記事が「怪しい」のは、「会議関係文書が発見された」と言う割には、その文書がほとんどまったく紹介されていないことである。

わずかに
ビキニ核実験被害は“原爆被害” の一環だと示すものです。
という一行のみが面影を伝えているのと、その中の1ページのみが写真で示されているのみである。率直に言えば、この写真も日米会議の資料かどうかはあやしい。後述する「報告会」の目次である可能性も否定できない。


2.日米会議の報告会

記事が主に依拠している事実は、会議の内容を伝達する「報告会」の案内状に基づくものである。

この報告会というのが、ちょっとややこしい経過になっていて、ここまでの経過とは別に政府が「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」(以下「協議会」)を立ち上げていた。

これは研究者も混じえた連絡組織だったようで、のちに「死の灰と闘う科学者」となった三宅泰雄も委員に加わっている。

この協議会の委員を対象に、日米会議の内容を支障ない範囲で伝達しようというのが報告会の目的だった。案内状には「(日米会議の)学術上の内容は、なるべく多くの学者に伝えることによって、この会議の意義が生かされる」と書かれていた。


3.報告会の中身

配布された議事日程によると、「人体に対する放射線の最大許容量」、「放射性物質による汚染の除去」、「放射能測定機と測定方法の基準化」など4つの演題に基づいてレクチャーがなされた。

とくに最初の「人体に対する放射線の最大許容量」がメインテーマであった。

演者は米国原子力委員会の医学部生物課長のボール・B・ピアソン。ただし肩書きは「農芸化学博士」だったようだ。

講義内容は、記事を読む限り「最大許容量」についての一般的議論ではなく、「(米原子力委員会の)報告と決定」についての下達であった可能性がある。

ただしあまり深読みをすることは慎まなくてはならない。これはあくまで「議事日程」に書かれた演題名からの類推に過ぎない。

この後の文章は、正直、額面通りに受け入れられない。
この報告会を境に、日本の学者の中に「許容量以下だから危険はない、無害だ」との論調が強まり、漁港での汚染マグロ検査を取りやめる根拠にされていきました。
このままではあまりにも根拠が弱い。

多分、安倍記者に情報提供した人間が居て、それなりに当時の内部事情も体験しているのかも知れない。他のファイルに紛れ込んでいたマル秘文書を発見したのだから興奮するのも分かる。

しかしまずは「会議関係文書」そのものをしっかり読み込んでほしい。これでは「羊頭狗肉」のそしりを免れ得ない。この記事は、それまでの第一報として受け止めておきたい。

ビキニデー以来の日本における核兵器反対運動の盛り上がりは凄まじいものであった。あらゆるものが音を立てて、轟々と鳴り響きながら、津波のように日本を襲い、飲み尽くし、世界に広がっていった。

まず我々はこの平和のうねりを追体験することが必要だ。その中で起きた様々な逆流も、そのうねりの中の逆流として位置づけなければならない。ここを歴史認識の出発点とするべきだと思う。

赤旗 8月26、27日号に2回連載で
「ビキニ事件: 封印された放射線の影響」
が掲載された。安倍活士記者の署名記事である。

多分、公開された厚生省資料の読み解きと解説を目的とした記事である。
率直に言ってすごく読みづらい文章だ。事実がつまりすぎている。前後二編は別の記事として上げるべきであろう。
別に安倍記者を非難しているわけではない。解説や背景説明なしにこの分量に収めるにはあまりにも内容が濃すぎるのだ。すこし小分けにして、核心的事実と周辺的事実を整理して紹介する。

最初はビキニ被災が判明して直後の政府対応。


1954年

3月19日 第五福竜丸、母港焼津に帰着。

ビキニの核実験で発生した死の灰を浴びたことが判明。乗組員から放射線障害が発生したことから、「死の灰」の有害性が明らかになる。従来米国はこの問題を明らかにしていなかった。

3月29日 内閣が秘密会合「第五福竜丸事件 善後措置に関する打合会」を組織。第1回会合が持たれる。
5月22日 第12回会合が開かれる。厚生省環境衛生部長が「近海物の放射能の件」と題して報告。
約1ヶ月前より、九州沖や台湾・フィリピン沖で捕獲した魚11隻分を検査したところ、最高522カウントの汚染が確認された。また100カウント以上のものが0.2% あった。骨、内臓に集積を認めた。

6月8日 第13回会合では、日本国内での雨に含まれる放射能が問題となった。
1.室戸測候所の職員・家族は天水を利用しており、6名に白血球数減少が見られた。
2.鹿児島県の灯台職員のうち7名が頭痛・吐き気を訴えている。
と報告された。
環境衛生部長は「雨水中の放射能について種々苦労している」と発言した。厚生大臣は「国民の不安感を除去する必要がある」と述べた。

6月8日 定期会合。外務省の報告によれば、「米国原子力委員会関係の専門家が2名来日。非公式に日本側専門家と懇談」している。

懇談の席上、さらに数名の米側専門家を加えて、意見交換を行うことになった。会議の開催方法としては、「日本学術会議が “純粋学術的に意見交換” を行うために、米国専門家を招聘する」という体裁を取ることになった。


内閣の「打合会」についての記述はここで終わる。

この文書は下記表題のファイルを要約紹介したものである。詳細を知りたい方はリンク先をあたっていただきたい。

2021/05/23「東洋経済 ONLINE」
「メディアの偏った報道」解消に挑む阪大教授の志
データで浮かび上がる日本の国際報道の問題点
大阪大学教授
ヴァージル・ホーキンス

研究の目的と方法

2016年、ホーキンス教授は「報道されていない世界」の情報を分析し、伝えるメディア・プロジェクトを立ち上げた。

その名前が「グローバル・ニュース・ビュー」(Global News View:GNV)である。

GNVでは、読売、朝日、毎日の3紙の国際ニュースをピックアップする。

地域ごと、トピックごとに分類し、それぞれの記事の分量や扱い、報道内容の三段階評価(ー、0、+)で色分けする。

これにより国際報道の傾向を分析し、日本のメディアの現状を浮き彫りにしようと試みた。


結果

1.報道の量と広がり

日本の新聞の国際報道は、ニュース全体の10%前後だった。アメリカのテレビ報道では国際ニュースが15~20%とされる。

量が少ないだけでなく地域的な偏りもある。アフリカのニュースが占める割合は、日本の新聞では2~3%、欧米では6~9%である。

2.自国中心主義に基づく報道バイアス

まず、日本のメディアは、「被害者に日本人がいるか」「その出来事と日本人にはどんな関わりがあるのか」を考える。

ついで、日本のメディアは、欧米メディアの報道を追いかけ、欧米メディアの目線で考える。

アフリカの出来事なのに、ニューヨークやワシントンから「アフリカのこの問題について、アメリカ当局はこういう見解を示している」といった伝え方をする。

3.高所得国中心主義

ほかにも問題点はある。

まず、貧困国であればあるほど、報道されない。これは鉄則だ。

次に、人種的な問題がある。まずは日本人かどうか、その次は白人かどうかだ。

変形された人種的な問題もある。たとえばアメリカに住んでいる黒人は注目される。ブラック・ライブズ・マター運動は日本でも注目された。

アフリカの黒人は?  
アフリカでは多くの黒人が亡くなっても注目されない。

このようなことでは、日本の国際化などまったくおぼつかない。


考察

1.この現状をどう変えるべきか、方法はあるか

すごく難しい。今後はますます、解決が難しくなる。

あれこれの問題の前提として報道のビジネスモデル自体が崩壊しつつあること、「ニュースはタダで見るものだ」という考えが報道を飲み込もうとしている危機的状況だ。

これが進めば国際報道の現場はさらに劣化が進み、貧者と劣者はますます貶められるようになる。

これらへのトータルな対応が何にも増して急務だ。

2.著者たちの気構え

大事なところなので、そのまま引用させてもらいます。
どうやって、少しでも多くの人に見てもらうか。それが大きな課題ですね。もう1つは、複雑さを大切にしていく、ということです。シンプルに、わかりやすく、ひと言で何かを言い表せば、「なるほど」と思う人はいるでしょう。池上彰さんのように。
しかし、国際社会で起きている出来事は、そんなに単純ではありません。GNVの編集原則の1つは「複雑さを犠牲にせずに分かりやすく書く」ということです。難しさや複雑さを犠牲にしたら意味がありません。それどころか、事実と違うものが認識されてしまう可能性があります。
…………………………………………………………………………………………………………

ホーキンスさんがそれとなく言っているのは、

欧米諸国のメディアが欧米中心主義で、金持ち優先思想で、白人優先思想だということです。

この文章が密かに言っているのは、

もっと情けないのは日本のメディアで、その3つに加えて欧米追随主義で、金持ち追随思想で、白人追随思想だということです。最悪です。

私たちは胸の内で、つぶやかなくてはなりません。

それは騙されているのではないか? 
それは追随主義ではないか? それは「名誉白人」の思想ではないか?
私たちはひょっとして自分の(アジアやアフリカや中南米の、貧しい、有色の)仲間を攻撃していないか? 


「暁」部隊と被爆: 研究の思い出

はじめに

未だにいろいろなところで暁部隊の被爆障害について問い合わせを受けるが、研究を行ったのはすでに35年も前のことなので、記憶に定かでないことも多い。

そもそもの研究のきっかけは、とりあえず北海道の一民間病院の被爆者医療の取り組みを報告しておこうとしたものだ。「北海道でもやってますよ」という程度のレポートのつもりだった。いま考えると、研究の仕方もかなり雑なもので、方法論的にも問題を抱えている。

ただそんな研究であっても、被曝体験と肝機能異常の発生率の相関関係は画然としたものであった。

これは、原爆被爆における内部被曝の影響を初めて数字で示した研究と言えるのではないか、そんな思いをいま抱いている。

この研究を出発点として、私の考えの変遷をたどってみたい。


1.被爆者検診を担当するきっかけ

1980年から90年にかけて、私の勤務する勤医協札幌病院は、一日外来患者数が1千人に達する市内有数の病院だった。私も連日多くの一般外来患者さんの診療にあたっていた。

その傍らで年2回の被爆者検診も一手に引き受けていた。そして検診期間最後の日曜日には、検診結果の説明をふくめて被爆者の集いを持っていた。


2.「暁」部隊との出会い

A) 酒城無核さん

検診受診者は毎回平均して100人程度、延べ受診者はその2.5倍ほどであった。その中に目立った世話役の人がいた。それが酒城繁雄さん、後に無核と名乗るようになる。

詳しい経過は不明だが、広島の陸軍船舶部隊、通称「暁部隊」の兵士で、本部のある宇品港から船に乗っていく金輪島という基地に勤務していた。爆発と同時に招集を受け、小型舟艇で市内中心部に進出。数夜をそこで過ごしたと言う。

帰道後は札幌市内で働いていたが、広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会に参加。その時に広島で被爆者団体協議会結成の動きを知った。

札幌で戦友と連絡を取り、道庁に被爆者手帳の交付を迫る。このため北海道で登録した被爆者の多くを旧兵士が占めるようになった。

また北海道勤医協と積極的に連絡をとって検診活動を推進した。このため、勤医協は被爆者の側に立って相談に乗ってくれる医療機関として多くの被爆者を結集するようになった。そして渋る道庁に掛け合って被爆者検診機関の指定を実現した。


B) 「暁」部隊元兵士の人々

先輩医師から検診担当をバトンタッチされたのが1983年、「暁」部隊元兵士をふくむ被爆者の方とは、その後10年余りの被爆者検診をともに経験することになる。

「暁」部隊は広島市の東南端、宇品港を中心に半径数キロ内に広がる補給基地で活動する部隊である。この部隊の詳細は、最近発行された「暁の宇品」(堀川惠子 講談社)に記載されている。

北海道からも多くの兵士が配備され活動していた。平均年齢は被爆当時で20ないし23歳。私が検診担当となった83年ころには、まだ60歳前後の現役世代であった。

外見上は申し分なく健康で、同年代の人と比べてもむしろよほど健康そうに見える。考えてみれば当たり前の話で、健康だから兵隊になったのであり、兵隊だから食料は不自由することなく(おまけに糧秣担当だから)、当時の日本人の中でもっとも恵まれた食生活を送っていたことになる。

北海道はさほど大規模な空襲もなかったので、戦後も生活基盤はほぼ無傷で残されていた。しかも北海道は食料・資源基地として重視され、農林水産、鉱業などの基幹産業が大いに振興した。このため戦後日本の中では、もっとも豊かな生活を享受してきた(戦後入植者の悲惨な生活は除く)。


C) 「暁」部隊元兵士のちょっとした異常

「暁」部隊元兵士を一言で言えば、比較的のびのびと行動している印象。被爆者特有の「生き残り」的トラウマは薄いように見える。ただし被爆者と言うより、爆発後入市・援護活動に従事したことにみずからを限定する心的傾向がみられた。

検診を続けていくうちに、私はちょっとした異常に気づくようになった。それは肝機能障害の頻度が高いということだった。気にしなければそれで済んだのだが、やはりなんとなく気になる所見だった。

このことは後で触れる。


3.臨床研究の開始とその動機

A) 厚生省主管の被爆者検診担当者講習会への参加

担当医になって2、3年した頃、道から厚生省主管の被爆者検診担当者の研修会議への参加を命じられた。

実はこれ自体が大きな出来事で、それまで北海道勤医協は検診指定医療機関にはなっていたが、あくまでも任意の参加ということになっていた。検診の主管はあくまでも公的病院であり、勤医協は被団協からの強い推挙のもとで渋々認めていたに過ぎなかった。それが被爆者検診の1/3を実施するようになると、道庁も本格的に認定するようになった。そのきっかけとなったのが担当者講習会への参加だった。

実は、私は2回講習会に参加している。最初は長崎で、2回目は広島である。2回目は、「被爆基準の改定(DS86: 1986年線量システム)があったので新基準を学ぶ必要がある」と道庁にせっついて無理やり認めさせたものである。私にはそれ以上に、やはり広島で勉強しないと勉強したことにならないという思いがあった。また宇品港をこの目で見てみたい、被爆手帳に書かれた多くの住所も自分の足で実感してみたかった。言ってみれば「オタク」である。

講義の内容は、現在放影研で出されているパンフレット(ネット参照)とほぼ同様である。というのは今回ネットでこのパンフに巡り合って分かったことである。読んでみて本当に驚いた。チェルノブイリ、劣化ウラン、フクシマの経過を挟んで、その内容にほとんど変更がないということ自体が驚異である。おそらく石棺に覆われて、化石化しているのであろう。

放影研パンフ
放影研パンフレット

最近の放影研レポートはDS02 (2002年線量システム)と言われているが、基本的な視点には変更はない。また平成 25 年度外務省委託 「核兵器使用の多方面における影響に関する調査研究」というレポートもネット閲覧可能だが、基本方向は同じである。

B) 放影研パンフの批判

当時の被爆者後障害の日本における学問的状況である。

私はこのパンフには次の3つの問題が含まれていると考えている。ただしそれは、今そう考えているということであって、当時は有力な反論もなかった。

担当医としては、これを信じてこの考え方に沿って放射線評価をするしかなかったのである。

第一の問題 放射線障害の主要原因はX線とガンマ線

アルファ線は大きな粒子なので、紙1枚で止めることができますベータ線も1センチのプラスチック板で十分止めることができる。

それだけです。内部被曝は一切無視されている。

第二の問題 「原爆による死因は爆風、熱線、放射線だった。また火災が発生し多くの人が焼死した」

ここでは原爆の通常爆弾的な威力が強調されている。その結果、放射線の影響は低く見積もられている。また核汚染の問題は無視されている。

しかし、原子爆弾の本質的な問題は放射線被曝と核汚染にある。そのうち前者は軽視され、後者は無視されている。

第三の問題 調査方法が根本的に間違っている

パンフレットでは調査の方法が書かれている。
放射線の影響を見るために爆心地からの距離や、放射線を遮る建物などの情報を元に、放射線の量を推定した。そして被爆したときの体の向きから、臓器ごとの線量を計算した。
それとがんの発生数を対比させて、がんリスクの解析を行った。
こんな「実験モデル」はありえない。これでは通常爆弾的な威力の影響が優越するのは当たり前である。

放射線の影響(被曝効果)を見るのであれば、遮蔽物の有無、体の向きなどの個別因子をできるだけ排除して、放射線のピュアな影響が浮かび上がるような対象設定をしなければならないはずだ。科学とはそういうものだ。なぜならこれは統計学的議論だからである。

それに対してABCCの研究方法は「どうすれば放射線の影響をより少なくできるか?」というタスクに基づいた研究でしかない。そこから出てくる結果は被爆者をマウスに仕立てた放射線防護のストラテジー構築であって、核兵器の脅威を実証的に示すものではない。

だから私は、そこから非常に悪魔的な発想法を感じてしまうのだ。


C) もう一つの教科書 ロートブラット

結局ABCC型の評価基準では爆心からの距離が決定的な要素になる。だから被爆者手帳も、距離に基づいて交付されたり、されなかったりしたのである。

実は当時からABCC-放影研の線量評価には批判があった。それがロートブラットの「核戦争と放射線」(東大出版会 1982年)です。彼は爆弾が爆発したときの爆弾からの直接放射線だけでなく、フォールアウト(死の灰)による被爆、地面に残された残留放射能を重視して、これによる健康被害を重視するよう求めた。
これだと距離や遮蔽物だけではなくその時の風向きや、「黒い雨」の影響も考えなければならなくなる。

この主張は1954年3月の第五福竜丸の死の灰事件に基づいたものだ。第五福竜丸はビキニ島の核実験地点から数10キロ離れて爆発の影響はまったく受けていない。しかし甚大な「被曝」障害を受けた。実は他にも多くの漁船が被爆しているが、政府はこれを隠した。

日本の原水爆禁止運動はこれを機に爆発的に盛り上がり、世界を突き動かしていった。まずイギリスのロートブラッドが動き、翌年には「ラッセル・アインシュタイン宣言」へとつながっていく。運動の仕掛け人ロートブラッドが、ビキニのデータを元に書き上げたのが「核戦争と放射線」である。(この本は絶版になっている。私の書棚の何処かにあるはずだが…)

ただロートブラットの解釈も今となっては不十分だ。たとえばフォールアウトの減衰率はかなり早く、数時間ないし数日間のうちに地表、滞留水から消失していく。多くの生存者は歩けるものは市の中心部から数時間以内に撤収しており、残留放射能の影響はそれほど高いものではない。

もちろんロートブラットは経口・経気道的な内部被曝にも触れているが。比重の置き方は十分とは言えない。

むしろ、被爆の影響が深刻なのは被爆後入市の人たちだが、この人達も遺族探しが目的なので、それほど長期間にわたり滞留することはなかったと思われる。その点では防災、救護、焼け跡整理等で入市し、数日間にわたり現地に滞在し活動した人たちが、もっとも激しく残留放射能の影響を受けていると思われる。

彼らは焼け跡で「ガスを吸い」、汚染された水をのみ、炊事・洗濯をするという形で放射性物質(アルファ、ベータ、ガンマのすべて)を体内に取り込んだ可能性がある。

それがまさしく「暁」部隊の人々である。

D) 広島市の発行したレポート

2007年に広島市国民保護協議会の「核兵器攻撃被害想定専門部会」が発行したレポートではこのような核被害が網羅されている。
核兵器攻撃による放射線被曝は、
①核兵器の起爆後1分程度以内に放出される中性子線やガンマ線などの初期放射線、
②中性子線によって土や建材中に生成される放射性核種から放出される残留放射線、
③降下した核分裂生成物から放出される残留放射線、
④未分裂の核物質(ウラン235、プルトニウム239)の降下に由来する残留放射線、の4つに起因すると考えられる。
①は体の外部からの被曝(外部被曝)、②③は外部被曝及び体内への摂取に伴う体の内部からの被曝(内部被曝)、④は内部被曝がそれぞれ問題となる。
これを読んだあと、放影研パンフを読むと、いかにそれが古色蒼然たるものであるかがよく分かる。


4.「ガスを吸う」ことの意味

実は、「ガスを吸う」という言葉は講習会のあと宿舎に戻るタクシーのなかで、運転手さんから聞いた言葉だ。

講習会の2日目はすこし早めに終わったので、会場近くから電車に乗って宇品を目指した。いくつも停留所があって思ったより遠かった。オリンピックの男子バレーで有名になった専売広島工場があったが他には変哲のない、やや寂れがちな町並みが続いた。宇品の港は閑散として向かいにいくつかの島が見えたが、それだけだ。

何かぐったりと疲れを感じ、帰りはタクシー。
「北海道から来ていて、原爆の被爆者検診の講習会に出ているんです」と話すと、とたんに運転手さんが饒舌になるが、原爆に共感したのか、北海道に興味を持ったのかは分からない。

問わず語りに、「むかしから、広島では言われているのだけど、被爆者の中で特別に症状が重かったり、いろいろ病気が出てくると、“ガスを吸ったんだよね” と言ったり言われたりするんです」と語ってくれた。

そして「爆心地の距離とは関係なく、ガスが溜まりやすいところがあって、そういうところから病人が多く出る」とも話していた。

ほとんど都市伝説みたいな話だが、ひょっとしてこれは内部被曝の話をしているのではないか、という思いがよぎった。

もう一つは、いままで社会運動的関心の対象くらいにしか見ていなかった「暁」部隊兵士が、果たしてほんとうに健常者なのかどうか、内部被曝を受けているのなら遅発障害、あるいはマイクロ障害が発生している可能性はないだろうか、ということが気になり始めた。


5.最初の研究: 成人平均値との比較

帰札後、まず最初に行ったのが「暁」部隊元兵士と一般成人との比較だった。こちらは対象データがしっかり有る。病院で成人病検診を受けた対象者の平均値だ。これと「暁」部隊兵士約100名の平均値とを比較した。

残念ながら元データが見当たらない。いまはあやふやな記憶でたどるしかないが、60歳から70歳の男性、約1千名の平均である。これで年齢はほぼ均一になった。

その結果、GOTとGPT、γGTPで有意差が出た。差は僅かなものであったが、対照群が大きいために有意となった。なお、肝機能異常者のそれ以上の検索、肝炎ウィルスの有無とかアルコール習慣については行っていない。

実は「暁」部隊以外の兵士がここには加わっている。したがって対象となっている群は、実は「暁」部隊だけではなく、「兵士被爆者群」であることをご了承いただきたい。

その数は約10名ほどである。これは2群に分かれ、一つは「暁」部隊の比治山船舶通信部で被爆した人たちである。この人達は完全な直接被爆者で、直撃を受けかなりの重傷を受けている。したがって市内救援活動には参加していない。もう一つは幸の浦、江田島等の秘密基地で特攻艇で出撃すべく待機していた人々である。彼らは所属を暁に移され、救援に動員されたものと思われる。


6.第二研究: 肝機能異常群と正常群のリスク比較

これ以上の「暁」部隊元兵士対一般人の比較は差が出せないと判断したため、元兵士内での群間比較に切り替え、想定されるリスクとの相関関係で有意差検定を試みた。

対象約100人のうち、GOTとGPT、γGTPのいずれかに異常を示したものを異常群、いずれも正常範囲内であったものを正常群とした。両者は各々50名ほどとなった。

この2群について、爆心からの距離、黒い雨に会ったか否か、被爆後の急性症状の有無について調べた。結果として、被曝線量の指標となる爆心からの距離においては有意差を認めず、それ以外の2つで明らかな有意差を認めた。

この結果は、直接にビキニ型被曝の問題を想起させた。第五福竜丸の乗組員は被爆後10日ほどしてから脱毛に始まり肝機能障害へと進む内部障害を引き起こした。

そして最後には再生不良性貧血から出血傾向を引き起こした。貧血治療のため大量の輸血が行われ、そのために血清肝炎を引き起こした方もいた。

しかしそれとは関係なく、被曝の合併症そのものとして肝機能障害も報告されていたので、私は肝機能障害に注目したことを覚えている。

この結果を補強するため、対象100人を無疾患+単疾患群と複数疾患群に分け、同様の検討を行った。また腫瘍なし群と腫瘍発生群に分け、同様の検討を行った。これらにおいても同様の傾向を認めたが、有意差を示すには至らなかった。これについては群への振り分けに主観が入ったり、当時の風潮としてガン告知をしないことが一般的だったためもある。


7.学会発表と反応

これらの結果を最初は札幌医師会の発表会で、ついで広島の後障害研究会のシンポジウムに応募して発表した。札幌での発表は何の反応もなく終わった。

広島での発表もさして期待はしていなかった。終わってからカキ料理で一杯というのが、心づもりであった。

ところが、学会終了後に懇親会がありシンポの発表者は招待された。行ってみると、放影研の先生が寄ってきて話しかけてくる。年は私よりふた周りくらい上で、いただいた名刺には内科の役付の肩書きがあったように覚えている。最初は喜んで話を伺っていたが、どうも私の発表にケチを付けるのが目的だったようだ。

つまるところ、被爆後の入市者の被曝量はほとんど問題にならず、「暁」部隊の兵士は被爆者と言えるほどものではない、というのが言わんとする所だった。

彼の研究の結論としては、原爆の主たる威力は高性能爆弾(爆風と放射熱)ということに尽きるのであって、爆発の瞬間のガンマ線がこれに相乗されたのが被爆の実相だということである。死の灰は一晩で威力を失い。地表の残留放射能も数日のうちに減衰する、というのだ。

その証拠として、彼が長年管理している女性のことも話された。その女性は爆心から600メートルで被爆したが、いまも無傷で健康に暮らしているそうだ。鉄筋コンクリートの影で、奇跡的に助かったらしい。

結局、彼の論理は放影研の論理そのものだ。改定された被爆基準(DS86)の本質を、これほどわかりやすく語ってくれたのは誠にありがたいことだった。

この話はもう少し続く。私と件の先生との会話を、傍らで静かに聞いていた先生がいた。私より何期か上の先生のようにお見受けした。広島大学病院の内科の先生だったが、これもまたお名前を失念した。

放影研の先生が去った後、この先生が静かに語りかけてきた。「ああいう先生なので、お聞き流していいですよ」

その先生は内分泌が専門で、甲状腺の被爆との関連を研究されていた。つまり内部被曝問題の専門家だ。「ちょっと外に出ましょうか」と言われ、街に出た。おそらく先生の行きつけらしくほの暗い静かなバーだった。

「実は先生からの抄録がきたとき、私は注目しました。いままでは内部被曝といっても強烈な死の灰をかぶったとか、黒い雨をたっぷり浴びたという急性放射線障害のことを指していたのです。でも、それだけではない、もっと長期にわたってじわじわと出てくるようなものがあるのではないか。それが欧米では問題になってきているのです。それがスリーマイルとチェルノブイリです」

「原爆被害調査の段階ではそれはあまり問題になりませんでした。原爆の威力があまりに大きかったからです。しかし原発事故では身体被害は純粋な被曝なので、ガンマや中性子だけでは問題は片付かないのです。そんなときに先生の研究が飛び込んできたので注目したのです」

その後、各々の日常診療の話題などを話したのち、高いご評価を頂いたことと、今夜のご親切に感謝しお別れした。残念ながらその後お会いしたことはないが、優れたご研究を行われたものと想像している。

とは言うものの、研究そのものについての評価は「?」であった。「非常に貴重な研究対象なので、ぜひ大事に育ててもらえれば」みたいなことでお茶を濁されたように思う。私はいつも、何でもそうなのだ。自分で言うのは何だが、着眼はいいし、切り口もよいのだが、途中で投げ出してしまうのだ。


8.自分で考えたこの研究の意義

叩かれては持ち上げられの、なかなかに忙しい学会発表だったが、札幌に戻ってからまもなく、今度は中国放送から連絡が入った。夕方のニュース番組で、今年の原爆記念日の放送は、「暁」部隊の被爆について取り上げたいということであった。

「あぁそうですか」と聞き流していたのだが、女性キャスターみずから電話に出られて、「先日の後障害研究会での発表が、地元でかなり話題になっています。これまでとは違う対象を違った切り口で捉えられていると思います」ということで、なんと私をフィーチャーした番組になるというのだ。

私のほうが慌てふためいてしまって、「それほどの研究じゃありませんし、統計学的処理とか対象者の選定とか結構いい加減なんです」と恐れ入ってしまったが、「これはドキュメンタリーなんだからそれでいいんです。切り口も新鮮だし、被爆者検診の実践もふくめて問題提起になります」とぐいと迫られた。

そして連休明けにキャスターをふくめテレビクルーが来札。日曜特別診察をふくめ2日間にわたり撮影が行われた。その放送は8月6日の午後6時というゴールデンタイムに行われた。そのビデオを送っていただいてみることができた。なにかちょっとした有名人になった気分である。

私が検診を初めて5年になるので、そのまとめと言うつもりでやった研究だったが、思わぬ反響を呼んだことから、あとづけでその意義を改めて考えることになった。

手がかりは広島大学の先生の言葉の中にあった。

まず第一はABCC→放影研で打ち出している「DS86(1986年線量システム)」への密かな不信感。そこにこの研究が「統計的事実」として突きつけた反証行為。これに放影研が対抗できる統計的事実がないということ。暁部隊などは関心の外にあったから、調査もせず、データもない。
第二には、死の灰とか黒い雨でない内部被曝のもう一つのタイプ、すなわち慢性被曝という被爆パターン。それが40年を経て未だに統計的な差として現存しているという事実。
第三に、これらを踏まえると、原爆体験は被爆体験と被曝体験と生涯被曝という三重の体験として語られなければならないという結論。

これが私の考えた本研究の意義である。

偉そうなことを言う割にはほんとにチンケな研究で、おこがましいのだが、とりあえずそのように総括しておきたい。


9.チェルノブイリが教えるもの

これから先は、「暁」部隊の臨床研究と言うよりは、内部被曝論についての私なりの考察である。

その最初となったのが、チェルノブイリの原発事故である。私にとっては1987年というのが大きな変曲点になっている。被曝線量の判定に関する新基準「DS86」(1986年線量システム)が、臨床医の前に示された年であり、これを指針としながら「暁」部隊被爆者の検討を開始したのだっった。

チェルノブイリは爆弾ではない、殺傷を目的とした兵器でもない。だから安全性がすべてに優先する、少なくともそのはずの設備だ。それがこのような事故を起こしたことには、もとを糺せば核兵器であったことからくる社会心理学的背景があるのではないか。

原爆の「平和利用」ではなく最初から原子力を使った発電装置を作るつもりだったら、もっと安全性に気を使ったものになっていただろう。

もし原発に同情の余地があるとしたら、その不幸な出自と生い立ちについては斟酌すべきだろう。原発の生い立ちには、その全てではないが、隠された目的がある。すなわち核兵器の原料を生産するという「国家的使命」だ。だから原発の建設のさいは、あらゆるデマとまことしやかな口実と隠蔽工作が用いられてきた。

しかしチェルノブイリは、国家権力がそうやって築き上げてきた「安全神話」を木端微塵にした。たとえ「平和利用」目的であっても核の使用が認められないことが明白となった。その最大の根拠が欧州全土を覆ったフォールアウトと残留放射能による内部被曝である。

だから、国家権力にとっては核汚染と内部被曝については、問題の所在自体すら認めることはできない。ABCC-放影研は未だに「DS86」にこだわらざるを得ないのだろうと思う。

ただこの頃まだ、残留放射線の影響は核種の問題を中心テーマに掲げていた。そこではストロンチウムやセシウムなどの毒性が問われていた。

一方、医療従事者内では医用放射線と並んで「もう一つの核の平和利用」すなわち放射性同位元素の使用が進んでいた。私も臨床医としてほとんど毎日のようにRI検査を組み、テクネチウムやヨードの同位元素を利用して診断していた。私の病院はRIイメージング検査の札幌における一大センターであった。ある意味で放射性物質に対する「慣れ」と「寛容」が発生していたと言える。

前の記事で触れた、放射線治療の権威である西尾先生から以下のようなコメントを頂いた。「拡散OK」とのことなので引用させていただく。
【外部被曝は薪ストーブにあたって暖を取ること、内部被曝は薪ストーブの中で燃えている小紛を口から入れることと例えることができます。またSvのインチキは、放射線は当たった部位しか影響がないのに全身化換算するSvという単位で議論するので、健康被害がわからなくなってしまうのです。
目薬は2-3滴でも眼に注すから効果も副作用もあるのですが、その2-3滴を口から飲まして、全身投与量に換算して計算するようなものなのです。
またトリチウムはDNAを形成している塩基に水素として化学構造式に入り、β線を出すだけでなく、元素変換してHeに変わりますので、遺伝子編集しているようなものな のです。
このバリアーを突破するのには、アルファ線被曝の概念が導入されるまで待たなければならなかった。


10.劣化ウラン弾を巡る論争

3年後に第一次イラク戦争で劣化ウラン弾が大々的に使用された。戦車の装甲を貫く弾頭としてこれほど有効で、「安価」なものはなかった。劣化ウランは核のゴミであり、弾頭への使用は「廃物利用」であり、コストはゼロに近かった。

これが大量に使われ、多くの健康被害が出て、それがアルファ線被曝であるとの仮説が唱えられたときに、それは私の胸にグサッと突き刺さった。これが長期型内部被曝の本質なのかもしれない。

劣化ウラン弾は旧ユーゴスラビアの内戦でもNATO軍により頻用され、セルビア側に甚大な被害をもたらした。そしてそこでも劣化ウラン汚染水の摂取による放射線障害が報告された。

第二次イラク侵攻が起こったのは2003年のことだった。このときの反対闘争の広がりは未曾有のものだった。ヨーロッパ各地で100万人を超える反戦デモがはじまり、それが朝日の移動するように東から西へとぐるりと世界を回った。デモ参加者の総計は1千万にのぼった。札幌でも70年闘争以来となる6千人の市民による集会とデモが行われた。それはインターネットの時代の闘争のあり方を示唆するものだった。

私も、直前にインドのムンバイで開かれた世界社会フォーラムの参加者の一人として、世界の動きを市民に広げるのに頑張った記憶がある。

マスコミでは人質問題を巡って自己責任論が話題の中心となってしまったが、運動面では劣化ウランは核兵器なのかという議論がかなり深刻に展開された。わたしもいくばくかの理論的寄与を行っている。

ここで一つ一つを取り上げていると、とんでもないことになるので、重要なポイントだけ上げておきたい。

まずは核兵器をどう定義するかである。

原子爆弾・水素爆弾はともに核分裂をエネルギーとする爆弾であり、そのために凄まじい威力を発揮する。つまり通常兵器と同じ位置づけのもとに、それをはるかに凌駕する強力爆弾である。

劣化ウラン弾は劣化ウランそのものが爆発力の源になっているわけではないから、少なくとも核爆弾ではない。しかし劣化ウランの保つ特性が爆弾の威力を増すために用いられていることも間違いないから、核使用兵器であることも間違いない。

しかも当初はその重い比重が装甲を貫くための破壊力をもたらすとされたが、実戦で使用する中でそれ自身の爆燃性にも注目されるようになった。つまり一種の「核爆発兵器」化が行われた。

つまり核兵器の定義は3種類あるということだ。第一に核分裂を利用した兵器、第二に核物質としての特性を利用した兵器、第三に特定の物理化学的特性を持つ物質として核物質を用いた兵器、ということになる。

ただ核分裂を用いた核兵器の特別な危険性は明確に区別して重視すべきであり、「核兵器」の用語は第一のカテゴリーに極限すべきだと考える。

劣化ウラン弾は第二カテゴリーに入るのだが、現地イラクから劣化ウラン弾による健康被害が次々と報告されるようになった。札幌でもイラクからの留学医師による報告が行われ、そこで明らかな放射線被害が確認された。

結果は濃淡、地域差はあるにせよ明らかに慢性の放射線暴露による内部障害を思わせるものであった。これまで無害と思われていた劣化ウランによる放射線障害は驚異であった。

これまでのウラン精製過程における内部障害の報告が改めて取り上げられ、かなりの確度で、それらが劣化ウランの放出するアルファ線に由来するものであるとの推測がなされた。

私のまとめは下記に掲載しているのでご参照いただきたい
劣化ウラン弾:その人体への影響 2001年
「劣化ウラン弾無害論」の批判的解説 2004年


13.内部被曝論のアルファ線仮説による精緻化

アルファ線仮説の登場により、被曝問題にコペルニクス的転回が生じた。
アルファ分裂の頻度はきわめて低い。年単位の発生だ。きわめて慢性的にウランの分裂が発生し、アルファ線が放出される。しかしそのアルファ線は、100%体内で吸収される。その衝撃の激烈さは、大部分が通り過ぎていくガンマ線の比ではない。

これまでガンマ線による被曝がもっぱら議論されてきた。死の灰といえども、各汚染物質の体内摂取であっても、被曝のあり様はガンマ線で説明されてきた。

しかし半減期を考えると、ガンマ線では理論的に隘路に突き当たる。被爆後数十年を経て未だに、有意な「体の弱さ」を示す被爆者の本質を説明できないのである。

放射線障害の現れ方はガンマ線とはまったく異なる。動物実験においてはアルファ線照射によりDNA二重鎖の同時切断が見られた。つまり修復不可能な損傷である。
私の感じとしては、アルファ線によるDNA損傷がもっともよく長期の内部障害を説明できる理論なのだが、証明法が難しく、まだ完全な定説になりきったとは言えないかもしれない。

アルファ線仮説が証明されるということは、被爆の影響が生涯にわたり続くこと、続くだけでなく緩やかに進行することが証明されたことになる。

このような兵器が今後も存続することは許されない。そういう国際世論が広がっていくように望む。

だいぶ情勢に遅れていたようだ。アルファ線被曝はすでに教科書的事実として扱われている。
体内に取り込まれた食物や空気中に含まれる放射性物質によって,体内から被曝する場合を体内被曝(内部被曝)という。 この場合はむしろ,透過力の弱い放射線(α線,β線)の方が被曝線量への寄与が大きい。とくにα線は短い飛跡内に集中してエネルギーを与えるため,細胞内のDNAに幾つもの損傷を密に生じさせる。体内被曝による被曝線量は体内に残留している期間の積分値で表す。 これが預託線量である。(「体外被曝と体内被曝」井尻憲一

さいごに

「暁」部隊が私に教えてくれたこと、それは流行を追うだけではなく目前の仕事を一つ一つ大事にすることだ。ただそれだけではだめで、いまひとつ深堀りすることが大事だ。それとともに日頃から幅広く関連分野に興味を持ちづづけることだ。それがないと深堀りの構えは決して形成されない。

むかし地方会の発表で「興味ある〇〇の一例」などとやっていると、「興味あるとは何事だ、患者をモルモット扱いするのか」と叱られたことがある。私はそうではないと思う、患者さんを特殊性としてすくい取るのは、学ばせていただくという精神の発露であり、リスペクトだと思う。ただ「興味ある」という言葉が、今となっては不適切であることも間違いないが。

私の35年前の拙い研究が、いまだに多くの人の注目を集めているのは気恥ずかしいことである。

しかし恥ずかしがってばかりいては、手がかりを与えてくれた被爆者の方、調査研究に協力してくれた多くのスタッフ、私を励ましてくれた多くのメディア関係者に申し訳ない。

記憶がまだ残っているあいだに、これまでの研究の経過を記録に残し、核被害の研究の歩みととも深まってきた私の内部障害への認識をあとづけたいと考えた。これが私なりのリスペクトである。

多くの方々にご叱正をいただきたいと願う次第である。
 
空白込みで12、800文字

「AALAニューズ」編集会議の報告

2月20日、上記会議をネット会議で開催しました。
編集主幹の権限で、内容を報告させてもらいます。

66号にも述べたように、AALAニューズの編集体制を変更し、 「面白くタメになる」をモットーに号を重ねてきました。

基本方向は非同盟運動と多国間主義に立脚し、非同盟諸国に限定せずに世界各国の情報を取り上げてきました。

その際に皆さんには、大手通信社ではなく、各国の自主独立を尊重するような情報提供をお願いしてきました。

この方向については編集会議でも改めて確認されたと思います。

お陰様で、毎回力作ぞろいの記事が並び、他組織からもお賞めを頂いています。が、なかなか読者獲得がうまく行きません。

今後はますます各県組織と協調し、AALA機関紙とも連携しながら、積極的な閲覧・利用を呼びかけたいと思います。

紙面も工夫し、「読みやすく、面白く、ためになる」ニューズづくりを目指したいと思います。

参考までに「AALAニューズ」のURLは下記の通り。
https://www.japan-aala.org/aala-news/

(鈴木 頌)

「AALAニューズ」の編集で、回り持ちの主幹を勤めはじめ3ヶ月が経ちました。
電子版とは言え、いろいろな人が集めっての編集ですから、いろいろなしきたりがあります。
が、最大の問題はそれらのほとんどが不文律でしかないということです。
それというのも、これまで代表委員の田中さんが元新聞記者という経験を生かして切り開いてきた事業だからです。
新聞風に体裁を整えるためにはトップ記事、特集、コラム、トピックス、連載などいろいろな特色づけをしなければならないのですが、いまのところはそれがないまま、次から次へと突っ込んでいる状況です。
まぁ「継続は力なり」と進めています。
おかげでなんとか記事は集まっていますが、やはり一番気になるのは読者数の確保です。各人より読む人のほうが少ないのでは困ります。
それで目下、一番気になっているのはスマホ版の作成です。スマホでもニューズは読めるのですが、両脇のはみ出しはいかんともしがたいのです。
発行担当の人に伺ったのですが、操作が煩雑で時間がかかり、実務的に不可能とのことです。
そこで自分でスマホ版を作ってみました。
一番面倒なのは、日本AALAのホームページにFFFTPでアップすることです。そこで新たにブログを作って立ち上げました。
いまのところは私のメールアドレスを使って登録していますが、そのうち日本AALAのアドレスに移管したいと思います。というかパスワードを共有して編集部員は立ち入り自由にしたほうが良いと思います。(もちろん編集責任者の承認は必要ですが…)

最初はめちゃくちゃに時間がかかりました。PDFからテキストファイルに落とすときに段落記号や、文字特性などが抜け落ちてしまい、1行の文字数も固定されたままです。ただそれなりにスマホの横枠には収まるようです。

中身が多すぎるためもあると思います。写真や図表はあまり載せないほうが良いかも知れません。
ファイル形式との相性ですが、HTMLファイルが意外と良いです。ワードやPDFで文書を作られる方が多いと思いますが、どのアプリでもHTML形式で保存することはそれほど難しくないと思います。

これを全文コピペして、ブログ作成画面に持っていけばほとんど問題なく移動できるようです。

テスト版はこちらです。まだグーグルでは補足されていませんので、アドレスを検索窓に入れてください。

全巻 もくじ

http://blog.livedoor.jp/aala_news/archives/8822839.html

スマホに上記の文字を打ち込むのは、老人には相当の苦痛です。スマホに「お気に入り機能」はあるのでしょうか? でも一度成功すると履歴は残るので次回からの検索は、比較的容易です。(blog と入れると候補窓に出てくる)

一応枠には収まりますが、行末がばらばらになるのは止めようがありません。

ここから各巻目次に飛ぶようにしたいと思います。(と書いたが、スマホからリンク先情報は抜けている)




本日付の赤旗にバイデン就任が報道されている。その中で志位委員長の談話にちょっとだけ違和感を感じたので、素直に感想を述べたい。
志位コメント



一、民主主義への言及なし

私は今度の選挙の意義を、ともかくアメリカの民主勢力が一丸となって、トランプ政権の間違った政策を正すために立ち上がり、とても厳しい状況の中、民主主義を守り抜いたことにあると考えている。

もし敗北していれば、それは世界の民主主義にとって、今世紀最大の危機を招来していた可能性がある。

だから私はバイデンの就任を心から喜ぶものであり、アメリカの民主勢力、とくに進歩派の人々と青年達に敬意を表したいと思う。

その一言がない。これが一点目。


二、「力の政策」の放棄をもとめること

トランプ政権の対外路線を「国際協調に背を向け」たと一括しているが、不十分である。その本質は「アメリカ第一主義」ではなく、それを「力による圧迫」で世界に押し付けた野蛮さにある。

中東においても中南米においても、暴力支配と理不尽な経済・金融制裁が続き、大量の難民や失業者、暴力の連鎖を生み出した。この「力の政策」から脱却するかどうか、この点こそまさに「注目される」べきなのである。

ブリンケン新国務長官は「力の政策」の信奉者のように思われ、サンダースらも国内問題に力を集中すると見られることから、今後も国際情勢は厳しい見通しとなろう。


三、核問題にも触れること


ついでながら、オバマのプラハ演説以来、店ざらしになっている非核化政策にも触れるべきである。

アメリカ政府の態度次第で、北朝鮮、イランの核問題はすぐにでも片付く可能性がある。またイスラエルの核疑惑にも原子力調査機関の査察をもとめるべきである。世界各地に生まれている「非核地帯」に対して核の不使用を宣言すれば、その実効性が担保されることになる。


四、安保を日中問題の足かせにしないこと


おそらく米中対立は世界の覇権をめぐる対立だから、そうかんたんに解決するとは思えない。かなりの長期にわたり続くと覚悟しなければならない。日中問題にもそれが投影することは避けられない。

これは半ばは日本国内の問題である。なぜなら日中問題は日中両国で平和的に解決するしかないからである。日米安保体制についてはいろいろ議論のあるところではあるが、それと日中問題とは混同してはならない。このことは譲れないし、米国はこれを侵すべきではない。


ついでに、国際面にも一言。
特派員の署名入り記事は、いづれも格調高いものだ。ワシントン駐在の遠藤特派員は、あえて最初に17本の大統領令に触れ、逆にトランプの4年間がいかにひどいものだったかを浮き彫りにした。その上で就任演説の要旨を過不足なく伝えている。

なのになぜ?という記事が続く。時事通信の配信記事だ。全国の市民の声ということで4人の意見を載せている。それにつけた見出しが「根深い分断、祝賀ムードなく」だ。
4人の声は、
①67歳男性:バイデン氏は社会の分断を修復できない。②黒人青年 イデオロギー対立に嫌気し棄権。新政権への期待無し。④18歳女性: 必要最低限でも十分助けになる。④38歳白人男性: 「私達の国の敗北だ」と嘆く。

こんなクソ記事になんの意味があるというのだ。どうせ時事通信の記者だって、事務所でテレビ番組を見て書いたに違いない。「ニューヨーク、シカゴ、オークランド発」などと、よくもおこがましくも書いたものだ。


いまや社会は多様化し、課題は複雑になった。その間隙をついて「トランプ現象」が湧き出してくる。
民主主義は制度疲労を起こし、その反対物に転化する可能性も現実のものとなっている。
これを新しいシステムに組み替えることは可能だろうか。

これに対する一つの応えが「デジタル直接民主主義」である。
そもそも社会の大規模化に伴い直接民主主義が手続き的に不可能になったところから、間接民主主義が始まったのだが、直接民主主義は、ある意味でデジタルシステムを用いることに可能になってきている。ざっくりいえばビットコインの発想で議論の中立性と正確性を保証しなら、深めて行けないだろうかということになる。

日経新聞の風見鶏に掲載された「デシディム」(Digital-Demmocracyのことか)というプラットフォームを紹介する。
これは一種の「掲示板」だ。しかしたんなる掲示板ではなく、議論の流れや賛否の状況をわかりやすく可視化し、テックで熟議を促す。
と言われてもなんのことやらさっぱりわからない。
だけどすごいらしい。
このプラットフォームを開発したバルセロナは都市再開発の議論には、4万人が参加し、約1500の行動計画が生まれた。
と書いてある。
台湾でもオードリ・タンが関わった「v台湾」というバーチャル議会が開かれた。

このシステムがもう一つ大事なのはこのネットワークが中央集権型ではなく、ブロック・チェーンの技術を用いた分散型ネットワークであることだ。

ここからさきがよくわからない。
国は国民の情報を電子化するが、データは個々人のデバイスの中にある。だからもし公的機関がアクセスしたら、個人はその事実を把握できる。
また個人が公的データを知りたいと行ったときも自由にアクセスできる。ただしアクセスした記録は残る。

行政のデジタル化が課題ととなっているが、根底にはこのような姿勢が必要であろう。

というのが記事の流れだが、私には情報のブロック・チェーンかというのが魅力だ。これでピアー・トゥー・ピアーのレビューが保証され、談論風発のフォーラム型民主主義が実現するのではないか、密かにワクワクする次第である。

ただしこれには報酬がない。インセンティブのないループが果たして回るだろうか、と思う。結局誰かが無償の努力で回していくしかないのだろう。

昨日は頭にきてハニー中野信子をののしったが、それはあまりに志が低い。こちらまで「脳なし科学者」になってしまう。
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まずは各紙論調をチェックすることにした。

赤旗: 3日主張 
任命を拒否された6人は、安倍政権が強行した反動法案に反対してきた。
それを理由に任命しないのだとすれば、憲法第23条が保障する「学問の自由」を侵害するものです。
推薦候補の任命拒否は、「一定の監督権の行使」なのか?→それが問題なのではない。
①「日本学術会議法」第2条、第3条に照らして違法行為なのだ。
② 「日本学術会議法」第7条(83年の法改正で追加された条項)および政府答弁に照らして違法。

菅政権は異常な特質を継承していることが示された。

信濃毎日新聞 9日

政府の言い分には根拠がない。

学術会議は国内の研究者を代表する機関である。それは科学研究や政策のあり方について提言する。その独立を確保することは、学問の自由の制度的な保障となる。

本来、首相には拒否できる余地はない。

しかし18年に内閣府が、「推薦通りに任命する義務はない」とする見解を明確化した。

(なぜなら学術会議は)首相が所轄する行政機関であり、人事を通じて一定の監督権を行使できる。

内閣府は、公務員の選定を国民固有の権利と定めた憲法15条を持ち出す。

また監督権の根拠には、内閣の行政権を定めた憲法65条と、首相が行政各部を指揮監督すると規定した72条を挙げた。

それ自体、独善的な見解であり、受け入れられない。しかも、過去の国会での答弁と矛盾する。

政府が一方的な解釈で権力行使の枠を広げるのは「法の支配」の原則に反する。

朝日新聞 9日 社説

学術会議問題 論点すり替え 目に余る

首相は任命拒否の理由には答えようとしない。

すり替えの事例

1. 同会議の「必要性」の議論

「組織の形態や役割を検討する」と、論点をすり替え。
これは学術会議の側に非があるという「印象操作」に過ぎない。

2.同会議の実情について誇張と歪曲

A   会員が自分の後任を指名することも可能な仕組みだ(首相発言)
実際は、新会員の推薦に際しては性別や年齢、地域性などに配慮している。

B 学術会議は07年以降、答申を出していない(下村元文相)
政府は07年以降諮問していない。しかし答申ではないが、様々な提言を行っている。20年度だけで83本の提言や報告をまとめた。年間5億円の予算は、そのための連絡費に使われている。

C 今回の対応は学問の自由の侵害に当たらない(加藤官房長官)

しかし当該者の研究・発表が、今回の不利な人事につながったのは疑いようがない。

西日本新聞 7日
首相は拒む理由の説明を

重複分は割愛。

今回の6人は安全保障関連法や特定秘密保護法といった政府の法案や政策に批判的な立場を取っていた。政府に盾突くような学者は公職に任命しない。
という姿勢が読み取れる。

このままでは、「政権の意に沿わない学説は認めない」とのメッセージと受け取るほかない。

しかし首相は「一切関係ない」と断言した。それなら拒んだ理由を説明すべきだ。

首相は「個別の人事に関することはコメントを控えたい」というが、これは個別ではない。6人という集団である。

中国新聞 9日
首相の説明なってない

首相説明の翌日になって、政府側は18年に作成した内部文書を公表した。
そこには「首相は人事を通じて一定の監督権を行使することができる」と書いてある。
しかし文書はこれまで公表もされていないし、その適法性は議会を通じて確認されていない。議会ではむしろ83年の答弁書が通念化されている。

“人権は「普遍」なのか” 

人権概念の発展をあとづけた本を読みたくなり、図書館に行った。意外にも、率直に言って期待に答えるような本はあまりなかった。

とくに1948年の世界人権宣言の後の人権概念の発展過程を、「自由と平等」のもとに整理していくような論考は見当たらない。

なかで題名が刺激的なのと、薄くて2,3時間で読めそうなので、下記の本を借りだした。

岩波ブックレットNo.480 
人権は「普遍」なのか
ー世界人権宣言の50年とこれからー

という本で、人権宣言50周年の記念シンポの記録である。50周年というのは1998年のことだから、かなり古い本ではある。

私が人権宣言(+規約)以降の一大発展と考える「人間開発報告」(93年)と「持続可能な開発」(02年)はここには反映されていない。

1.
最初の講義が「人権の境界」(鵜飼哲)というので、死刑と戦争を題材に人権を語る。聞いただけでうんざりするような「倫理的」命題だ。

「近代ヨーロッパの崩壊とその先に立ち現れる全体主義」などという無内容を乗り越えて、現代人権理論は発展しているし、その一粒一粒としての人権も多彩化している。

それを認めない人との間の議論は不毛だ。

それにしても恐ろしく観念的な議論を繰り返している。

言語学をソシュール派が占拠したように、人権哲学のフィールドにはハンナ・アーレント派がはびこり、腐臭を放っている。

これが、1998年の日本における人権概念と人権思想だったのだということがあらためて想起される。

2.
次の講義が「プロセスとしての人権」(増田一夫)というもので、これぞまさしくアーレントの紹介に過ぎない。

結びの言葉だけ引用しておく。
これから(人権の普遍化に向けて)、私たちが発明していかなければならない政治とは、現在とは別様な世界のあり方、より良い共生のあり方を考える自由の技法としての政治なのです。
何たるレトリカルかつ無内容な、かつアーレント的な文章。2日はいた靴下の匂い!

3.
次の「アジアにおける人権」(坪井善明)はまともな講義。

「飢えというのは物理的な空腹ではなく、それをなんともできない無力感だ」というアジアの人々の声を引用している。

これは非常に大事な指摘だろうと思う。「飢えから逃れ、飢えを克服しようと希望する」ことが人権の核になるのだということを指摘している。

いわば「希望権」だ。それが生存権の根源だ。

坪井さんは“人権は「普遍」なのか” というゲームみたいな問いに、ふたつの補助線を用意している。

一つは歴史的に見ることであり、一つは階級的に見ることである。

フランス人権宣言は革命によって、革命勢力の合意として作られた。

その革命勢力の末裔がベトナムを植民地支配した。

そしてフランス人権宣言は、今度は民族解放勢力の旗印となった。

こうして人権は「普遍化」されたのではないか。

植民地が開放された後も、先進国との間には大きな社会的ギャップが残り、拡大している。

世界はそのような不公平を拒否し、苦闘してきた。そうして人権はさらに多様化し。ブラッシュアップされている。

一方で、欧米諸国の中には過去の植民地支配への反省が見られない人がいる。

彼らは、古いままの人権概念を振りかざして、自分たちの考えの普遍性を僭称しているが、その人権概念が自分たちだけにしか通用しなかった事を忘れている。

このように個別的には、非常に正しい、示唆的な意見をたくさん提起してる。

しかし残念ながら、これを人権枠組みの中に整序するところまではいっていない。

他のシンポジストの意見から見れば、これが時代の制約であった可能性は否めない。

他途中の演題は個別課題の人権なので跳ばす。

4.

最後の演題が「人権の普遍性と文化の多元性」という、なにか語呂合わせのような演題。

主催者の樋口陽一さんのまとめ的発言となる。

冷戦時代、人権というのは資本主義側の専売特許みたいなところがあって、社会主義国では使わなかった。

ベルリンの壁崩壊の後、「人権」は世界の共通語となったが、そこには人権宣言の中核概念たる人権と、かつて社会主義国からブルジョア的自由だと批判されていたような自由がゴチャ混ぜになっている。

白人有産階級だけがおう歌する自由は、大多数の人にとっては自由の剥奪であり人権侵害である。

現代ではこう言える。自由権のみを以て人権を論じる人がいれば、その意見は無視すべきである。なぜなら、大多数の人々にとって自由権は社会権の上に成り立つものだからである。

このあと樋口さんは人権をめぐるいくつかの誤解に答えている。
人権は西洋人が考え出した贅沢品ではないか?
人権の強調は西洋による文化帝国主義ではないか?
などは間違いだ。
それは支配者の言い種だ。
人民大衆は、人権をまさにもとめている。

コロナ禍の中で、人権の著しい不平等と、場合によっては人権侵害が問題になっている。ただ私の気になるのはいわゆる自由権的人権ではなく、社会権・生存権の方である。

私がこの間、口を酸っぱくして言ってきたのは、世界の人権に対する考えは変わってきているということだ。

グローバル化と人権

これまで自由も平等も国家レベルで考えられてきた。
国家があり、憲法があり、それぞれに医療・教育などの制度があって、それを基準に国民としての人権というものが考え語られてきた。

ところが20世紀末から急速に国家間の垣根が取り払われ、ヒト・モノ・カネ・資本の移動が自由化してきた。世界は単一化しグローバル経済のもとに置かれることになった。

グローバリゼーションは世界の人民が等しくチャンスを与えれるべきものとして構想されたはずだ。

しかし貧富の差はますます拡大し、途上国に貧困と戦争が蓄積しつつある。ひとりひとりの人間の法と人道のもとでの平等は、実現されたとも前進したとも思えない。

このような状況だからこそ、自由と平等をグローバルに構想することが必要だ。グローバルな世界のもとで、不自由で不平等な、絶望的な状態のもとに置かれているのは不条理である。それは人権の名のもとに救済されなければならないと思う。

したがって、国民ではなく「世界市民」としての人権が語られる状況が生まれているかのように見える。



「人権」論の発展の歴史

これまで人権の主要な内容として自由権が語られてきた。しかし現在は、自由権と生存権とが一体のものとして語られなければならなくなっている。

人権が人間の自由に関する権利だということについては、英国の名誉革命、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言以来変わりはない。

しかし、1948年に国連が世界人権宣言を発し、それ以来国際的な議論を交わす中で、以下のことが明らかになり、世界的な合意となった。

すなわち

自由権の実現を目指す社会的土台、すなわち社会権が、今日の世界における人権の主要な内容だということ。

社会権は、世界のすべての人の法的平等という考えに根ざすこと。

そして基本的生活権(健康で文化的な最低限度の生活)を前提条件とすること。

さらに、社会権が社会開発に伴なって拡大充実することが、真の自由権拡大につながっていくのだという、「発展的人権」の考えが今日の人権の中核をなす考えになっている。

そして今、我々はコロナの時代を迎えた。その結果、人権は生存権に集中して論じられるようになった。世界中のすべての人の人権はコロナの時代を生き抜く権利として提示されている。

それを示す基本文書が4月に発表されたグテーレス国連事務総長の声明である。


コロナと途上国ファースト

考えていただきたい

自由な社会には社会的平等が必要であり、そのためには基本的生活権の確保が必要なのだ。

米国という一つの国家内でも、平等と生存権の重要性は証明されている。「黒人の命も問題なのだ」というスローガンが、今の時点での人権問題の所在を明らかにしている。

新型コロナによる死者の23%は黒人。米国の人口に占める黒人の割合は13.4%なので随分高い。

黒人は低賃金のサービス業で働いているから休めない。集合住宅に住んでいて、公共交通機関で通勤するから、不特定多数の人と接する機会が増える。 

では黒人が病気になったらどうだろう。黒人は貧しいから保険に加入していない。そもそも黒人地域にはまともな病院がない。

このように差別の垣根は何重にも囲われている。黒人の死への道は掃き清められている。これを差し止めるには思い切った社会政策が必要なのだ。「黒人の命も問題なのだ」


国連の提起に真剣に耳を傾けてほしい

途上国でコロナと闘うためには、ためらいなく、惜しげなく資源を投入する必要がある。多くの国では、そのための資源を十分に確保することができない。

公衆衛生能力の格差は、貧しい国をより高いリスクに晒している。

ユニバーサルな生存権を重視するのは、それが今日における人権の主要な側面であるからだ。平等な権利は互助の精神と表裏一体のものだからだ。

4月、このような状況の中で、国連は事務総長報告「新型コロナと人権」を発表した。

少しその勘所を拾っておこう。
ウイルスは差別をしない。貧富を問わず一つの社会全部にとって脅威だ。

新型コロナは、その地域の根本的な差別をあぶり出す。弱者層は一方的に人命を失い、生計の道を絶たれている。

そこでは根の深い不平等があり、それがウイルスの広がりを助長し、さらに不平等を深めている。

それぞれの国でウイルスとたたかうとき、そこに差別があってはならない。いま最も危険に晒されている国々は、それらを排除せず、特別な対策を講じるべきだ。

もしその国がウイルスの拡散を抑えることに失敗すれば、すべての国が危険に晒されることになる。世界は、最も弱い医療システムと同程度にしか強くない。このことを明記すべきだ

コロナ対策は基本的には隔離である。それだけに一層、排除と差別は拙劣なアプローチだ。インクルージョン(包括)は私たち全員を保護する、最も良いアプローチなのだ。
そして、「ためらいなく、惜しげなく」の発想が「お互い様」の精神に裏打ちされていなければなならないと思うからだ。

国境の枠にとらわれる限りこのユニバーサルな視点は隠れ勝ちになる。ともすれば二の次にされかねない、下手をすればバイキン扱いされかねない途上国の人々に手を差し伸べるにはどう考えたらよいか。

自由権は絶対に必要

自由権は近代社会の中核だ。絶対に外すわけには行かない。

ただその前提が欠如した中では自由権は絵空事だ。途上国や新興国では往々にしてそうだ。ときによっては政治的宣伝手段ともなる。そのことを理解した上で、事実に即してことに当たるべきだ。

それが国連の人権枠組みに関するとらえ方の基本だ。

人権 (とくに生存権)  備忘録

認識は現状から過去に「なぜ、なぜ?」と遡りつつ進むのだけど、認識した結果を自分なりにまとめて書こうとすると川上から書かないと納まりがつかない。

ただしそうやって書くと見栄えはいいが、認識の深まりとは逆方向なので、わかりにくくなる場合が多い。下手をすると読者は途中で挫折しかねない。そのへんは作者の腕の見せ所だ。

ということを前提にしながら、とりあえず川上からの流れ図を(論証抜きに)説明しておく。


1.人権論は米国流の社会契約論を源流とする

A. バージニア権利章典と独立宣言

B. 合衆国憲法(1787)と権利章典(修正第1条-第10条)

 
2.古い不平等と新しい不平等

A. フランス人権宣言

フランス革命のふたつの任務: フランス流社会契約論と「古い不平等」システムの打倒

米国には「古い不平等」(身分制)はなかった。したがって基本文書において平等に関する言及はない。個々人に備わる基本的人権の考えも見られない。

B. 新しい不平等の出現

米国は南北戦争を経験したが、「新しい不平等の出現は遅れた。

C. 憲法の修正条項としては

*修正第13条・奴隷制廃止(1865)
*修正第15条・黒人参政権(1870)
*修正第19条・女性参政権(1920)

にとどまる


3.立法による社会権の付与

A. 第一次大戦後の貧困救済の動きと社会権・生存権

ヨーロッパでは戦勝・戦敗のいかんを問わずインフレ・貧困などが蔓延した

これに対してふたつのアプローチが行われた。

一つは制定限度の生活を権利として認め、国家に義務を追わせるもの(ワイマール型)。
一つは国家の本来的機能・能動的責務として社会福祉を必須とするもの(英米型)である。この場合生存権の思想は無視したままでも話は進む。

B. ニューディーラーの福祉政策

このような自由権偏重の米国社会を打破したのが、ニューディール政策

とくに35年以降、社会保障制度、全国労働関係法が導入され、法体系として実質的に生存権の保障がなされていく。

後半期の政策はケインズ経済学ではなく、福祉経済学の流れを引き継ぐものとして位置づけられる。


C. 四つの自由

40年の年頭教書でルーズベルトが提示したもの。

人権を自由権と認めた上で、思想・信仰の自由に困窮からの自由、戦争からの自由を付け加えた

困窮からの自由は社会権・生存権、戦争からの自由は平和的生存権を指す。
ルーズベルトはこの4つの自由を「第二の権利章典」と呼んだ。これらの内容は日本国憲法の前文にも書き込まれている。(米国内で一般化しているかどうかは不明)

憲法に社会権・生存権を組み込むのは困難なための論理的曲芸である


4.世界人権宣言から国際人権規約へ

A. 世界人権宣言の重要性と限界

ルーズベルト未亡人で国連代表のエレノアがまとめ上げた。4つの自由を世界の宣言に高めた。

しかし、4つの自由の持つ弱点が持ち込まれた結果、社会権は前文等に「散りばめられている」が条文として定式化されていない。

B. 国際人権規約の成立

社会権・生存権をきちっと書き込むことは48年の宣言採択当時からのものであった。

早速この点について人権委員会での議論が始まったが、冷戦のさなかの議論であるため、多くの困難があった。

結局、18年後に国際人権規約が採択された。規約はA規約とB規約に分かれそれぞれ社会権規約、自由権規約と呼ばれた。

これにより社会権(経済的、社会的及び文化的権利)が国際法の最高位となる人権規約で認められ、かつ自由権と同等の重みを持つものとして位置づけられた。


5.社会権の内容が豊富化

人権規約の採択と並行して、個別課題での条約化が次々に成立した。(年表参照

A. 「人間の安全保障」

ここでは社会権・生存権に関連する2つの前進を挙げたい。一つは93年に国連開発計画 (UNDP) が「人間の安全保障」を提唱したことである。

これは国民の生存を国家安全保障の一環と位置づける考え方である。国民を平和のうちに生かし続けることが、国家防衛と並ぶ政府の基本義務だと規定され、国家の本来責務の一環としてビルトインされた。

これは福祉経済の発想に通じるものである。

B. 社会権擁護が社会開発と結び付けられた

もう一つは、国連サミットで「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が採択されたことである。

ここでは生存権そのものが発展する権利として位置づけられ、自由権の基礎をなすものとして位置づけられた。

アジェンダでは17項目の「持続可能な開発目標」が掲げられているが、これはそのまま社会権として位置づけられることも可能である。

ある国の人権状況を総合的に見る際、このような「人権マクロ」に基づいて評価することも必要だ。

C. 人権NGOの活動には注意が必要だ

このように国連レベルでは人権概念が大きく変わりつつある。

しかし多くの人権NGOは冷戦構造を引きずり、「自由権こそ人権の核心である」と主張し、自らのものさしに合わせ、「社会主義国や宗教国家など強権国家には、人権委員会の構成国である資格はない」と拒絶してきた。

自由権は今も究極の人権ではあるが、あまりイデオロギー的に扱ってはいけないと思う。もう少し「人権マクロ」を総合評価する中で人権状況を客観的に発展してくれるように望むものである。

国連と人権 年表

1941年8月 ルーズベルトとチャーチルが大西洋憲章を発表。全ての人類の「恐怖及び欠乏からの解放」と「生命を保障と平和の確立」をうたう。(後の社会権と平和的生存権に該当)

1945年

4月 「国際機構に関する連合国会議」が開催される。50ヵ国の代表がサンフランシスコに結集。「平和を推進し、将来の戦争を防止するための国際機構」の結成で合意。「国連憲章」を採択する。

国連憲章前文: われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から、将来の世代を救うことを決意した。
…基本的人権、人間の尊厳と価値、男女・各国の同権を尊重する。
第1条: すべての人権と自由を尊重し、人種、性、言語または宗教による差別をなくす。

1946年 国連経済社会理事会が、憲章第68章にもとづき国連人権委員会を設置。委員長はアメリカの国連代表でもあったエレノア・ルーズベルト。スイスのジュネーヴに本拠を置く。国際連合の指示に基づき、人権規定の具体化作業に着手。毎年春1ヶ月程度の全体審議を行う。

1947年

5月3日、日本国憲法が施行される。個人の尊重(13条)、法の下の平等(14条)、生存権(25条)、教育を受ける権利(26条)など、「4つの自由」から取り入れられる

1948年 「集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約」が採択される。

1948年12月 人権委員会の提案した「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights)を採択。ユニバーサルな基本的人権の原則を定めた。このあと、12月10日が人権デーとなる。


当初は単一の国際人権章典の作成を目指していたが、まずは国連総会で世界人権宣言を採択することとなる。「宣言」にとどまったため、法的拘束力はなかった。
「人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらした」とし、人権を守ることを平和を守る行動の核心に据える。
「宣言」は30の条文からなり、自由権、参政権及び社会権の三種に大別される。第一条。すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。
エレノア・ルーズベルトはこの宣言を「全人類のための国際的なマグナ・カルタ」と呼んだ。

1949年 人権委員会は、世界人権宣言後、人権規約案の作成に入る。このとき、権利の内容は自由権及び参政権など市民権と政治的諸権利にとどまっていた。

1949年 「人身売買及び管理売春の禁止条約」が採択される。

1950年 第5回国連総会、人権委員会の報告を受け、「自由な人間」の実現のためには欠乏からの自由、つまり経済・社会・文化的諸権利の確保が必要だと判断。規約草案に社会権規定を含めることになる。

1951年 「難民条約」が採択される。

1951年 第6回国連総会、人権委員会での議論を受け、自由権に関する規約と生存権に関する規約とに分けて2つの国際人権規約を作成することを決定。

1952 年 「婦人参政権に関する条約」が採択される。

1953 年  「1926 年の奴隷条約の改正条約」が採択される。

1954年 人権委員会が起草作業を終了。国連総会(第3委員会)での逐条審議に移る。人権に自由権とならべ社会権をふくめた、規約はA、B、ふたつの構成部分に分けて成文化された。

1955年

4月 バンドン会議などを受けて、非同盟諸国が民族自決権を人権の柱の一つとするよう主張。

67年の国際人権規約の社会権規約と自由権規約の第1条には、「すべての人民は、自決の権利を有する」とし、民族自決の権利を重要な人権としている。
さらに社会権規約は途上国の国内事情などを考慮し、「締約国は規約上の権利の完全な実現を漸進的に達成するために行動をとることを義務づけられる」と規定される。

1959 年 「児童の権利に関する宣言」採択

1960年 国連総会、植民地独立付与宣言を採択。

1965年 国連総会、人種差別撤廃条約(あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)を採択。

1966年 社会権と自由権を二本柱とする国際人権規約が採択される。

世界人権宣言を基礎として条約化された。人権にかかる諸条約の中で最も基本となるものである。
*社会権規約(A規約)は正式には「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際条約」と呼ばれる。
*自由権規約(B規約)は「市民的・政治的権利に関する国際規約」と呼ばれる。

社会権規約は、すべての者の権利として、労働する権利(6条)、社会保障の権利(9条)、相当の生活水準の維持と飢餓から免れる権利(11条)、教育への権利(13条)などが規定されている。
とくに生存権保障(11条)は「人間の生存と尊厳にとって基本であり中核的権利である」として、差別の禁止(2条2項)とともに直接的義務であり、司法審査に服するとされている。

1973 年 「アパルトヘイト犯罪の禁止及び処罰に関する国際条約」が採択される。

1975 年 「障害者の権利に関する宣言」採択

1979年 国連総会で女性差別撤廃条約が採択される。

6月 日本国は、「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)と、「市民的および政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)をともに批准。

国際人権規約の批准は、憲法第98条2項により国内法としての効力をもち、憲法に次ぐ法規範であり、国会制定法よりも優位となる。

1989 年 「児童に関する権利条約」(子どもの権利条約)が採択される。

1993年 ウィーンで世界人権会議、「普遍的・生来的な人権の保護と促進がすべての国家の普遍的義務であるとする「ウィーン宣言・行動計画」を採択。「世界で最も正統性の高い人権思想」といわれる。

1993年 国際連合人権高等弁務官事務所(OHCHR)が設置される。人権委員会と連携しながら実務に当たる。

1993年 国連開発計画(UNDP)が「人間開発報告」を発表。「人間の安全保障」を提唱する。

2001年

8月 南アのダーバンで、「人種差別、外国人排斥及び関連不寛容に反対する世界会議」を開催。

植民地主義が人種差別や外国人排斥などの不寛容をもたらして来たとし、「寛容、多元主義および多様性の尊重が包摂的社会を生み出すことができる」と宣言する。

2002年 南アで持続可能開発サミットが開催され、開発と人権が関連付けられる。

2006年 障害者の権利条約が国連総会で採択される。

2006年 国連総会、人権委員会を廃止し、新たに直属の人権理事会を設立。

人権委員会は構造的な脆弱性のもとに、人権ロビーに掻き回されてきた。人権NGOの多くは冷戦構造を引きずり、自由権こそ人権の核心であると主張し、「社会主義国には人権委員会の構成国である資格はない」と批判してきた。

2007年 先住民の権利宣言、国際総会で採択。

2015年 国連サミット、世界人権宣言を基礎とした我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダを採択。17項目の「持続可能な開発目標」を設定する。

目標1:貧困をなくそう
目標2:飢餓をゼロに
目標3:すべての人に健康と福祉を
目標4:質の高い教育をみんなに
目標5:ジェンダー平等を実現しよう
目標6:安全な水とトイレを世界中に
目標7:エネルギーをみんなに そしてクリーンに
目標8:働きがいも 経済成長も
目標9:産業と技術革新の基盤をつくろう
ヒューライツ大阪のサイトより引用
目標10:人や国の不平等をなくそう
目標11:住み続けられるまちづくりを
目標12:つくる責任 つかう責任
目標13:気候変動に具体的な対策を
目標14:海の豊かさを守ろう
目標15:陸の豊かさも守ろう
目標16:平和と公正をすべての人に
目標17:パートナーシップで目標を達成しよう











人権は国連の活動すべての中心にあります。
今まさに、その人権が攻撃にさらされているのです。

1.人権の中核的な理解

 a.人権は人間の尊厳と価値に関わる

それは人類の「希望の地平」を広げ、可能性の範囲を拡大するものです。

人権は「人々の最高の願望」です(世界人権宣言)

 b.人権は世界にとって究極的なツール

それは社会の「持続可能な開発」を前進させるためのツールです。
それは公平・公正な世界を構築するためのツールでもあります。


2.「世界人権宣言」以後の世界の変化

植民地支配とアパルトヘイトは克服され、独裁政権は倒され、民主主義が広がりました。

市民的、文化的、経済的、政治的、社会的権利をすべて詳しく定める画期的な規約も成立しました。

一世代の間に、10億人が貧困を脱しました。飲料水へのアクセスから幼児死亡率の大幅な低下が達成されました。

女性や若者、少数者、先住民その他が指導する人権運動も前進しました。


3.新たな人権の危機

それでも、人権は現在、ますます大きな課題に直面しています。どの国も例外ではありません。

法の支配は後退しています。

戦火の拡大、人身取引と奴隷化が横行しています。

少数者や先住民、移民、難民、LGBTIコミュニティーは「他者」として中傷され、ヘイト行為の標的となっています。

こうしたギャップを極限にまで拡大しているリーダーもいます。人々を分断し、得票数を増やすというねじ曲がった政治的計算が当たり前になっているからです。


4.世界人権宣言の精神を実現すること

私たちの長年の課題は、世界人権宣言の野心を現実世界の場での変化へと転換することです。

経済的、社会的、文化的権利だけで人々の自由への希求に応えられるわけではありません。

国連としての多様な行動を推進していかなければなりません。

第一に人権の前進を目標とする社会開発です。

平和で公正な社会と、法の支配の尊重を軸とする人権に基づくアプローチは、より恒久的かつ包摂的な開発へとつながります。

人々が極貧状態を脱出するのを支援し、女児をはじめ、すべての人に教育を確保し、ユニバーサル・ヘルスケアを保障し、あらゆる人に平等な機会と選択へのアクセスを確保することです。

そのことで、人々はその権利を要求するためのスキルを獲得できます。

それは「誰一人取り残さない」という呼びかけに沿ったものです。あらゆる形態の不平等・差別を撤廃するために取り組みます。

第二に、危機の時代にあっても人権を守ることです。

危機の時代には人権が最も大きな試練にさらされます。

予防がうまく行かず、暴力がはびこってしまうこともあります。

私たちは「人権を最優先に」をモットーに各種危機に取組みます。


5.さいごに

人々は譲ることのできない固有の権利をもとめています。それは戦争や抑圧、貧困で尊厳を奪われている人々も同じです。

市民的、文化的、経済的、政治的、社会的な人権はいずれも、目的であると同時に、手段でもあります。

国連事務総長報告 「新型コロナと人権」
4月23日

大したものではないが、「ウィルスと差別」に関する記載は傾聴の価値がある。


1.新型コロナはインクルージョンを促す

ウイルスは差別をしません。コミュニティ全部にとって脅威であり続けます。

新型コロナが地域的に過度な影響を及ぼす例が見られます。
それはその地域の根本的な構造的不平等と広範な差別を浮き彫りにしています。特定の社会層が、あまりにも不均衡に、人命と生計の両方を失っています。

そこでは根の深い不平等がウイルスの広がりを助長し、それがさらに不平等を深めるという悪循環を生んでいます。

ウイルスの脅威に対応するとき、そこに差別があってはいけません。差別的な慣行は私たちすべてを危険に晒すことになるでしょう。

国は最も危険に晒されている、または過度に影響を受けている特定のグループに対して、特別な対策を講じなければなりません。

インクルージョン(包括)は私たち全員を保護する、最も良いアプローチなのです。


2.世界的な連帯が不可欠だ

A. 新型コロナとの戦いがそれを要求している

新型コロナウイルスは人類全体を脅かしており、人類全体が反撃しなければなりません。

しかし、多くの国では、そのための資源を十分に確保することができません。公衆衛生能力の格差は、貧しい国をより高いリスクに晒しています。

私たちはすべての国が等しく効果的に対応できるようにする必要があります。

もし一国がウイルスの拡散を抑えるための努力に失敗すれば、すべての国が危険に晒されます。

世界は、最も弱い医療システムと同程度にしか強くないのです。

ウイルスは、国境を越えた協力と集団による行動によってのみ打ち負かされるのです。

B. 先進国には低所得国を支援する必要がある

先進国が低所得国を支援することによって、世界的に人権が実現します。

知的財産制度の柔軟な運営が必要です。治療とワクチンは、世界的な公共財であるべきです。

また、新型コロナウイルスの研究のためには、世界的な統計システムの共有が必要です。

樋口さんの本を読んでいて、言葉が乱舞していると感じた理由は、一つは権利・人権論の考察がないこと、一つはあまりにも早く各論(リベラル対イリベラル)に入りすぎるからだ。

彼は政治学の総論を書いているのだから仕方がない。
しかしいまは、もっと根っこの方の問題、つまり政治哲学(目的論)が問われているのだろうと思う。

なぜならこの本の出版は去年の12月、つまりコロナ前のことであり、いまはコロナ後だからだ。

自由と平等の関係

近代社会において、人間の権利は自由と平等のうちに存する。

自由と平等は二項対立の関係ではない。人間は自由であるべきだし平等であるべきなのだ。
人間は不自由であってはいけないし、不平等であってはいけないのだ。

だから、人は自由であることを求め、平等であることを求める権利を持っている。

しかしふたつの権利はおのずから重み付けが違う。


自由権は原理的で、平等権は具体的

自由を求め、いかなる差別も拒否する権利は、社会的規範の中で暮らす人間にとってもっとも原理的なものだ。
一方平等を求める権利は、限定的で条件付きのものだ。

自由を求める権利は相対的で主観的なものだが、平等を求める権利には具体的な尺度がある。

平等は算術的な平等を意味するものではない。大事なのは、すべての個人が法のもとでの平等を享受することである。
平等の権利とは、良心に恥じることなく暮らしていく権利である。
そのために「まっとうな」生活水準を保持する権利である。


生存権と福祉の義務

注意しなければならないのは、人々の平等を求める権利に照応するのは「まっとうな」生活水準を保持であるということである。

それは憲法25条に規定された「健康で文化的な最低の生活」の維持である。

それ以下の最低の肉体的生存、あるいは傷病に対する療養などについては、本来は国が国民に対して追うべき福祉の義務に属することである。

それを承知の上で、ゼロレベルからの生存権を含めて、「具体的人権」として考えるべきであると思う。

そしてそれを「平等を求める権利」の発展形として考えるべきであろうと思う。


地球規模で考える自由権と平等権

これまで自由も平等も国家レベルで考えられてきた。
国家があり、憲法があり、それぞれに医療・教育などの制度があって、それを基準に国民としての人権というものが考え語られてきた。

しかし、20世紀末から急速にヒト・モノ・カネ・資本の移動が自由化し、ある意味で垣根が取り払われる状況も生まれている。

したがって、国民ではなく「世界市民」としての人権が語られる状況が生まれているかのように見える。

しかしその自由化は偽りの自由化(ネオリベラリズム)であり、強者にとっての自由化でしかない。

もし「世界市民」の社会みたいなものが生まれるとすれば、それは強者の社会でしかなく、弱者には厚い高い国境の壁が妨げとなる。

まずは移住の自由の大幅な拡大が、国際的に合意されなければならないだろう。


世界規模での平等と生存権の考え方

率直に言えば、「まっとうな」生活水準を保持する権利は、途上国においては程遠い現実である。

したがって、ゼロレベルからの生存権をふくめて、「具体的人権」として考える必要がある。

餓死しない権利、集団虐殺やレープから身を守る権利、奴隷労働を避ける権利などから始まり、初歩レベルの教育や医療を受ける権利が緊急に保障されなければならない。

新型コロナに感染しない権利、新型コロナで死なない権利は、まさにここにハマってくるものだろう。

現代民主主義をどう捉えるか

「現実の政治」論というのは三本セットになっています。
*現代政治というのはなにかということ、
*民主主義制度とは何かということ、
*そのなかで人間はどう扱われるのか、
ということの組み合わせです。

現代民主主義というのは現実の政治のあり方で、これは誰のため、なんのための政治なのという視点がまず必要です。

それが「現代」という言葉に凝縮されています。つまり古代でもなく、中世でもなく、近代でもなく現代という時代が要請している政治のあり方です。


民主主義には思想と制度がある

中世においては封建制と身分制度が支配していました。
イギリスやフランスの革命はそれを打ち破って新しい制度を作りました。

それが自由と平等の民主主義制度です。

革命が作り出したものはそれだけではありません。自由と平等は人間にとって何よりも大事なものだという考えです。

これが民主主義思想です。


民主主義思想はリベラリズムと呼ばれるようになってきている

これまで制度としての民主主義と思想としての民主主義は、しばしば混同して用いられてきました。

そのために議論がすれ違うこともしばしばありました。

しかし2015年の有事法制の際に、立憲主義という言葉が民主主義の土台の思想として持ち込まれました。
最近ではより幅広い「リベラル」という言葉も使われるようになりました。

ただあまりにも多くの言葉が一時に持ち込まれたために、頭の中が混乱しています。

例えば最近岩波新書で出た
樋口陽一「リベラル・デモクラシーの現在」
という本を読んでいると、さまざまな言葉が乱舞していて、めまいがしてきます。ちょっと言葉の遊びみたいな気もしてきます。

押さえておくべきは、「リベラル」という形容詞は現代民主主義の思想を表現しており、「デモクラシー」は制度としての民主主義だということです。

これで納まりは良くなるのですが、「リベラル」というのがちょっとうっとうしいのです。
すでに独特の色がついていて、「自由主義」みたいな言い方から、「進歩主義」あるいは「革新的」みたいなニュアンスまでスペクトルが広がっていて、論者ごとにイメージがずれてくる可能性もあります。
そこで「現代」民主主義にしてみたわけです。

「現代の」という形容詞にどう含意していったらよいか、作業としては難しいのですが、多くの人が参加しやすい作業仮説になるのではないでしょうか。

『世界人権宣言』
 (1948.12.10 第3回国連総会採択)

〈前文〉

1.普遍的人権の承認の意味

人類社会のすべての人は、固有の尊厳と平等である権利を持つ。これらは譲ることが出来ない。

2.人権と自由、正義、平和の関係

普遍的人権の承認は、世界における自由、正義及び平和の基礎である。

人権なくして自由、正義及び平和を語ることは出来ない。

3.第二次大戦をもたらしたのは人権無視

人権を侮り無視したことが、ひいては人類の良心を踏みにじる野蛮行為(大戦)へとつながった。

4.目指すべき世界と人権

我々はこの事実を踏まえ、言論及び信仰の自由があまねく承認され、恐怖と欠乏のない世界が実現するよう願望する。

そして、このことこそが、すべての人の最高の願望だと宣言する。


5.専制と圧迫に抗議する自由は保障されなければならない

専制と圧迫が続けば、人々は反逆に及ぶ以外に手段がなくなる。

それは悲劇的なことであるので、法の支配によって人権(自由権)を保護することが肝要である。

6.国連憲章と人権宣言

世界人権宣言は国際連合憲章を元にしており、国際連合憲章における信念を再確認する。

それは基本的人権、人間の尊厳と価値、男女の同権についての信念である。

同時に世界人権宣言は、拡大された自由のもとで、社会の進歩と生活水準の向上とを促進することを目的に掲げる。

7.加盟国の決意の表現としての人権宣言

国際連合の加盟国は、ここに、国際連合と協力して普遍的人権と基本的自由を尊重し遵守することを誓約する。

8.人々のなすべきこと

すべての人民とすべての国とは、これらの権利及び自由に対する共通の理解を形成していかなければならない。

各機関は、この世界人権宣言を常に念頭に置き行動しなければならない。人々にこれらの権利と自由との尊重を指導すること、また人権の遵守を(立法的、行政的)措置によって漸進的に確保するべきである。

9.これらの努力の達成基準
この人権宣言は努力の達成基準としていくつかの点を列挙する。



本文の個別条項の鮮やかさに比べ、なんとなく読みにくい文章である。おそらくは各国のせめぎあい、反人権宣言派の策動の結果であろう。

この全文を理解するには、1941年のFDルーズベルトの「四つの自由」演説を理解しなければならない。

そして冷戦前夜におけるエレノア・ルーズベルトの必死の頑張りを見ておく必要があるだろう。

とりあえずは下記の記事を参照されたい。





本文
第一条 自由・平等であること
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第二条 人種差別の禁止
すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

第三条 自由と安全に関する権利
すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

第四条 奴隷禁止
何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。

第五条 拷問の禁止
何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。

第六条 人として認められる権利
すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。

あとの条文はさほど原則的な条文ではないので省略する。

志位さんのポストコロナ論

このところ赤旗に立て続けにポストコロナ論が掲載された。

日本AALAとしてもコロナと国際連帯の課題は緊急かつ重要となっている。

そのためにも、まず筋となる総論が必要だが、これらの論文が非常に参考になるだろうと思う。


まずは5月18日の志井委員長発言から。

1.新自由主義システムの破綻が明らかに

① 医療費削減などの緊縮政策を押し付けられた国ぐにが大きな犠牲を強いられた。

② 労働法制の規制緩和が、派遣やパートで働く人々に皺寄せされ、そのためにコロナの犠牲が下層労働者に集中している。

③ 外需依存と産業空洞化が、サプライチェーンの寸断化、医療崩壊の危機をもたらした。


2.資本主義体制が本質を問われている

資本主義という体制は、格差拡大と環境破壊という2つの点に矛盾が集中している。

① 格差拡大とコロナ

ウイルス自体は富めるものと貧しいものを区別しない。しかし感染症による犠牲は、貧困のもとに置かれている人々に集中する。

格差が世界的な規模で、異常なレベルまで拡大している。その矛盾がパンデミックのもとで顕在化し、激化している。

アメリカでは、パンデミックのもとで格差があらためて大問題になっている。

また多くの途上国では、医療体制などが弱いために多くの犠牲が出ている。

② 環境破壊とコロナ

今回のパンデミックには、地球規模での環境破壊が深く関わっている。

この半世紀くらい、新しい感染症がつぎつぎと出現している。原因となっているのが、人間による無秩序な生態系への侵入である。

資本主義の利潤第一主義という本性を変えなければ、新型コロナを収束させても、次のより危険なパンデミックに襲われる可能性がある。今回のパンデミックは、資本主義という体制を続けていいのかを問うものともなっている。*1

*1 我々は「原理主義者」ではないから、コロナ問題が「聖書」や「コーラン」や「資本論」や「綱領」に書かれていたとしても、あまり慰めにはならない。


3.民衆の連帯で危機の克服を

深刻なパンデミックにもかかわらず、国際社会が協調しているとはいえない。
国際協調の主要な障害となっているのは米国と中国である。

① アメリカの「自国第一主義」

世界最大の資本主義大国であるアメリカは、パンデミックに対する国際的な取り組みに背を向けている。

WHOに対する拠出金の停止は、アメリカへの信頼をいよいよ低下させている。愚かというほかない。

② 中国の体制的な問題点

中国の初動は遅れた。それは人権の欠如という体制の問題点と結びついていた。*2

中国指導部はパンデミックのもとでも東シナ海、南シナ海などでの覇権主義的行動をやめようとしていない。これは国際協調にとって障害となっている。

こうして、危機のもと米中双方が対立し覇権争いをするという状況に至っている。*3


*2 率直に言って、この問題は検証が必要。どこまでが「人権の欠如」に起因するか、どこまでが「前近代性」という歴史的制約に起因するか。
ただし、その後の武漢でのコロナ制圧作戦は果断かつ圧倒的で、都民の忍苦もふくめ称賛に値する。

*3 「米中双方の覇権争い」の図式はコロナには適用されない。一連の経過を見れば、トランプ政権が一方的に攻撃を仕掛けているのは明らかだ。

③ 国際機関が機能していない

WHOの新型コロナへの対応に対しては、今後検証が必要になる問題点がある。*4 

国連安全保障理事会はこの問題に関して機能していない。

私(志位)は米中に対して、この問題については協調すべきだと言いたい。


*4  WHOの対処に反省すべき点があったとしても、トランプが煽ぎ立てるような「検証すべき点」はない。少なくともアメリカがWHOを脱退するほどの根拠はない。メルケルとマクロンはそう主張している。

④ 民衆の連帯

何よりも、世界の多くの国ぐにと民衆が連帯して、このパンデミックを乗り越えることが強く求められている。

コロナ収束の先は、前の社会に戻るのでなく、日本でも世界でも、よりよい社会をつくっていく。*5 

それによって、次の世界のあり方も決まってくる。

改定綱領を力に、そういう展望をもって頑張りたい。*6 


*5 コロナ問題は収束するのではない。これからが本番だ。そのためには「コロナ問題とは何なのか」をもっと根底的に把握しなければならないと思う。さらに国際協調運動の礎として「世界人権宣言」の精神に立つことがもとめられる。

*6  ここでは「世界の国と民衆の連帯」は具体的には何も語られていない。我々が肉付けをしていくべき課題として提起されたのだろうと思う。



元検察幹部有志の意見書

これは戦争法案のときの憲法学者の総意としての反対表明に続く衝撃だ。

国家の有り様の根底に関する意見書であり、賛否以前に、まずは学ばなくてはなるまい。

朝日新聞は全文をネット上に無料で公開してくれた。ありがとうございます。(その後1日遅れで赤旗も掲載した。これは赤旗のせいではなく、北海道は一日送れになら遅れざるを得ないためである)


1 事実関係について

A. 東京高検検事長の黒川弘務氏をめぐる事実経過

彼は本年2月8日に定年の63歳に達し退官の予定であった。
しかし、その定年は閣議決定により半年間延長された。彼は今なお現職に止まっている。

B. 検察庁法は定年延長を許していない

検事の定年を定めた検察庁法によれば、定年は検事総長が65歳、その他の検察官は63歳である。定年延長を可能とする規定はない。

しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長=留任を決定した。

この決定は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任に法的根拠はない。

2 特別法は一般法に優先する

A. 検察庁法は国家公務員法に優先する

国家公務員法(81条の3)では一定の要件の下に定年延長が認められている。内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定した。

しかし、検察庁法は国家公務員法に対して特別法の関係にある。

したがって、「特別法は一般法に優先する」との法理に従い、国家公務員法の定年関係規定は検察官には適用されない。

B. なぜ検察官は特別か

検察官は公訴権を独占し捜査権も有する。捜査権の範囲は警察を超えて広い。

時の政権の圧力によって公訴権が侵犯されれば、日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊する。

その意味で検察官は準司法官とも言われ、“司法の前衛” たる役割を担っている。

C. 特殊な公務員としての検察官

こうした特殊性・重大性のゆえに、検察官は検察庁法という特別法で保護され統制されている。

例えば「検察官は検察官適格審査会以外によっては罷免されない」などの身分保障規定もこのゆえである。


3.いくつかの法理的問題

A. 内閣による法律の解釈は「法の終わり」

安倍首相は「従来の解釈を変更し、検察官も国家公務員法を適用することにした」と述べた。

これは近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながる危険な考えである。

ジョン・ロックは「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

B. 内閣解釈は国家公務員法にも違反

仮に国家公務員法を適用しても、今回の事例は法の定める「定年延長の要件」に該当しない。

その職員の…職務の遂行上の特別の事情からみて、退職により…著しい支障が生ずると認められる…とき…(同法81条の3)

今回の事例がこの「要件」に該当しないことは明らかである。(このあと人事院規則も例示しているが省略)

4 政府提案の「検察庁法改正案」について

A. 上程自体が矛盾している

今回の検察庁法改正案は、表向きは国家公務員の定年延長に合わせ、検察官の定年も63歳から65歳に引き上げることに目的がある。

一方において黒川氏の定年延長の閣議決定は維持された。すなわち審議入りにあたり野党側は閣議決定の撤回を求めたが、内閣は拒否したのである。

つまり二つの動きは一見無関係に見えるのである。

B. 法案の本質は定年延長ではない

次の段落は面白い。声明文の筆者が自ら「難解な条文」と悲鳴を上げているのだ。
この改正案の問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する条項にある。すなわち改正案には「…」と記載されている。
と書いてあるうちの「…」は省略箇所である。

最高クラスの法律家でも難解とされる箇所は我々にはわかるはずはない。

そこで声明文の筆者の解釈を紹介しておく。
要するに、次長検事および検事長は、定年に達しても内閣が必要と認めれば、定年延長ができるということである。
というのが、声明文の筆者の解釈である。

C. 検察官の人事をめぐる政府との慣行

要するに、これは「定年延長一般」に関する法律ではなく、検察トップの人事を内閣がいじれるという法律である。

これは「検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例」を破壊するものだ。

検察庁法は、定年延長によらずに急変対応するために、臨時職務代行の制度(同法13条)を設けている。これまでなんの問題も起きていない。

D. 法案に対する総括的評価

今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化している。
政府は、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺ぐことを意図していると考えられる。


5.ロッキード世代の確信

A. ロッキード事件という共通体験

ロッキード事件当時、特捜部にいた若手検事の間では、積極派や懐疑派、悲観派が入り乱れていた。

しかし、東京高検検事長の神谷尚男氏は「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ、検察は今後20年間国民の信頼を失う」と発言した。ロッキード世代は歓喜した。

検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在がロッキード事件を全面解明へと導いた。

B. 検察の弱点が付け入るすきを与えていないか

一方、検察の歴史には大阪地検特捜部のように捜査幹部が押収資料を改ざんするという恥ずべき事件もあった。

この事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。

検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。


C. 今は瀬戸際の闘いだ

検察が萎縮して人事権まで政権側に握られ、公訴権の行使に掣肘を受けるようでは、国民の信託に応えることは出来ない。

黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは絶対に看過できない。

なぜなら、それは、検察の組織を弱体化して、時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きだからである。

D. 我々は呼びかける

我々は、内閣が潔く検察幹部の定年延長の規定を撤回することを期待する。

あくまで法案成立に拘るのなら、我々は多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてに呼びかける。

そして法案反対の声を上げて、これを阻止するよう期待する。

姜尚中の「在日」(集英社文庫 2008)を読んだ。

彼がそこまで語ったのなら、その上で一言言っておきたい。それは、彼にはまだ語っていない部分があるということである。それで良いと思う。

彼がある意味で饒舌であればあるほど、それは語りたくない部分を語らないで済ますための饒舌さであることが、皮膚感覚として伝わってくる。

自分を語らず、誰かを語ることで自分を語ろうとする。そこが男なのである。

女は違う。例えば辛淑玉は、闘うときに全部脱いでさらけ出してから語り始める。だから彼女は美しいし、彼女の演説は涙なしに聞けない。

それに比べると、姜尚中の話は未練たらしいし、どこか胡散臭いところがあるが、それは男の話だからだ。

「男は黙ってサッポロビール」なのだ。

最近の赤旗の論調とは著しく背反する議論だが、
愛煙家がタバコをやめられないように、昔の人間は「男らしく」がやめられないのである。

関電・同和疑惑 年表

本当は「関電・解同疑惑」と書きたいところですが、いま出ている資料では確実とは言い切れないので、とりあえず関電・同和疑惑としておきます。

かなり調査報道も出てきてディテールははっきりしてきていますが、その割には全体像が見えないもどかしさを感じます。

NHKの記者は一生懸命やってますが、同和絡みの記述がタブーになっているようです。共産党の役割も取り上げられません。渡辺議員が共産党だとは一切書かれていないのです。

口火を切った朝日はもっとひどく、この件については最低です。毎日テレビと東京新聞が僅かに健闘しています。独立系の示現舎がかなり詳細にフォローしています。週刊誌の記事は使っていません。


10月23日  NHKニュースウェブ “関西電力は森山氏の「被害者」なのか?








1928年(昭和3年) 福井県大飯郡高浜町西三松で出生。

1949年 京都府庁に就職。その後綾部市役所に転職。綾部市役所では職員として勤務するかたわら、解放同盟の運動にも熱心であった。

1966年 高浜町で原発誘致に反対する署名が2300筆を集める。

若狭原発

1969年 

国が同和対策事業特別措置法を制定。「同和地区」を指定し、公営住宅の建設や道路の整備などを推進。

12月12日 国から関電に対し高浜1号機の設置許可がでる。翌年には2号機も許可が出る。

12月 京都府綾部市職員だった森山が高浜町役場に入る。浜田倫三町長の招聘によるとされる。浜田町長は、関西電力との固い絆が森山の力の源泉だったと証言。
『長年綾部市において同和行政に取り組まれていた森山栄治氏を企画室主幹に迎え、同和対策のスタートを切ったのである』(高浜町が発行した記念誌)
この異例かつ破格の待遇がどういう経過によるものなのかが不明である。町長が解同に弱みを握られ、押し込まれたという見方が最も素直だろうが。

1970年 森山、出身部落に部落解放同盟を組織、高浜支部を名乗る。県下最初の支部であったため、森山は福井県連合会と高浜支部の書記長となる。『部落解放年鑑』では、高浜支部の所在地は大飯郡高浜町西三松 森山栄治方と記載されている。

1971年 福井県の「客員人権研究員」に就任。2018年まで在任。 

1972年 福井県などに対する“過度な指摘”が問題とされ解同役員を退任(解同中央の声明)。
“過度な指摘”の内容 県の施設で人権大会と呼ばれる大会が開かれ、健康福祉部や県民生活部などの部長が勢揃いして森山さんの前にズラーッと並ぶんです。意に沿わないことがあると激高し、「1時間立たされたまま怒られた職員もいた」(県幹部)
その後も部落解放運動を押し付ける“糾弾”を繰り返す(これについての解同中央のコメントなし)。
1974年 高浜原発1号機の運転が開始される。

1975年 高浜町の収入役に就任。

1975年 「女性教員に対する糾弾」事件。女性教師が“差別発言”を咎められ糾弾を受ける。教員全員を呼び出し横並びにさせ、差別文書を回し読みさせた。“謝罪”を迫られた教師はショックから早期退職を余儀なくされる。解同中央は「解放同盟が関与した差別事件ではない」と弁明。

1977年(昭和52) 町長選に反浜田町長派の有力者が立候補を図る。解同の糾弾を受け脳卒中となる

4月 異例の早さで出世し町助役となる。月給は33万5000円で、町長より高かった。
【濱田倫三町長の議会答弁】給料について助役が高い、町長が安い、ということは別に当たってはおりません。その人の能力に応じて給料は支払われる。
関係者の証言:NHK取材による
「町長より力が強かった。森山を通さないと関西電力の仕事はもらえなかった」(地元の建設業関係者)
「話はすべて、森山助役に持って行った。『天皇』というあだ名が付いた」(別の建設業者)
「自分の気にくわない人をどう喝し、精神的に追い詰めた。商売が追い込まれた人もいた」(地元工事関係者)
「町に対して激高していた記憶があり、とにかく厳しい人だった。一方で二面性のある人だった」(地元関係者)

1978年(昭和53)

4月 関電から高浜町へのウラ金疑惑が浮上。町内の五つの漁協に関電からの「地元協力金」が町を通じて支払われた。浜田町長は報道後の町議会で、総額9億円を関電から受け取ったと明かす。
76年は10月に1億円、12月に1億5000万円、77年は6月に6億5000万円を受領。5漁協に計3億3000万円を支払い、残りを地域振興対策費などに計上した

4月 森山、中日新聞のインタビューにこたえる。「3、4号機の総工費は3500億円。仮に1%をもらったとしても、いくらになるか。全国的に原発立地が困難な中で、高浜町は進んで建設を認めているのだ」 森山が助役だった77~87年は、地元協力金などと呼ばれる電力会社から原発立地自治体への寄付金は約36億円に達した。

「原発反対福井県民会議」のアンケート調査。回答した町民の8割が問題の徹底究明や増設反対を支持。(問題は回答率だが…)

1979年

3月 アメリカでスリーマイル島事件が発生。高浜原発3、4号機の建設への反対の声が強まる。

反原発派の候補が町長選に出馬しようとしたが、推薦人だった元町議を説得し出馬を断念させた。

4月 町議選挙で渡辺孝さん(30歳)が、「もの言えぬ町政にもの言う議員を」のスローガンをかかげ、トップと2票差の2位で当選。初の日本共産党町議となる。
渡辺さんは高浜町で漁師の長男として誕生。中学卒業後、小浜市で旋盤工として働いていた。青年の勉強会で本格的に原発の研究を始め、立候補に至った。
高浜原発3、4号機増設をめぐり関電が寄付した「協力金9億円」の使途が大問題になる。共産党の渡辺町議は、関西電力からの寄付金が、役場関係者の個人口座に振り込まれていたことを突き止めた。
町はカネは個人口座に入ったが、それは漁協に3億7千万円、道路や港の整備に5億4千万円が使われたと説明。関西電力はこのほかにも、森山氏の助役在任中に28億円の寄付金を町に投じている。
渡辺町議
               渡辺孝 町議
1980年 「高浜の海と子どもたちを守る母の会」が集めた「増設に厳しい安全審査を求める署名」365人が署名。
“糾弾”が怖くて表立って『原発反対』とは言えないけれど、内心はそう思っている人が多かった(会の代表の談話)
1982年 「前衛」8月号に「<ルポ>原発のある風景」が掲載され、森山のやり口を紹介。
町政の実質的なボスは森山助役であった。彼は、かつて京都で味をしめた経験を生かし、自分の住んでいる町内の同和地区に組織した「部落解放同盟」を指揮し、誰かれ容赦なく糾弾を繰り返した。町議会までが町長・助役の脅迫に屈し、その親衛隊に成り下がっていた。
…自由にものも言えない空気が町を支配していた。町長・助役は、悪事のやり放題であった。
1985年 3、4号機の運転が開始される。

1987年(昭和62) 関電の幹部向けの「人権研修」の講師をつとめる。講義は毎年行われ、2017年まで30年にわたった。

5月 町助役を退職。関西電力の子会社「関電プラント」の顧問に就任。さらに原発関連の地元建設会社、メンテナンス会社などの顧問を歴任。

森山コネクション2

NHK特集の聞き取り取材
90年代から金品を関西電力の幹部に渡していたことが分かりました。
「上納金、盆暮れには必ず、最低100万置いとかないとダメなんです。森山の運転手が集金に来られる。受注額の数%と…」(高浜町の土木業者)
1996年 法務省人権擁護局より人権擁護の功績により感謝状を受ける。

1999年 町がプルサーマル計画を推進。計画の可否を問う住民投票条例の実現を求めて約2,100人が署名する。

2004年 美浜原発3号機で配管が破損し、噴き出した高温の蒸気で5人が死亡。

2004年 プルサーマル計画導入を推進し、反対派の今井理一町長と対立。

2005年 森山氏、町村合併50周年にあたり、30人の町政功労者の一人として表彰を受ける。町長は「過疎化が進んだが、原発誘致で難局を打開できた」と賛える。

高浜町予算

2005年 原子力事業本部を美浜町に移転。副社長以下、幹部クラスの社員を常駐させる。本部長代理だったのが今回辞任した八木誠会長で、このときから金品の提供を受けるようになった。
八木は出世を重ね、社長、そして会長へと上り詰める。その後任として豊松、鈴木も同じコースを登っていった。こうして原子力事業本部で、森山氏から金品を受け取っていた人物が、社内の要職を占めようになった。幹部たちが受け取った金品は急激に増加し、17年には年間1億円以上に達した。
2007年 原発警備会社「オーイング」の筆頭大株主となる。その後の12年間で10倍に売上を伸ばした。また顧問を勤めた建設会社吉田開発は、無入札による特命発注で売上を6倍に伸ばした。

2009年 福井県人権施策推進審議会委員に就任。18年まで務める。

2010年 任期満了に伴い、高浜町教育委員を退任。

2011年 福島事故。関電の原発は次々と運転を停止。4年連続で大幅な赤字に陥る。

2011年 高浜町議会、関電の下請け会社社長や関電社員を兼ねる議員が「高浜原子力発電3・4号機の再稼働を求める意見書」を議会で強行。反対したのは渡辺議員ただ一人だった。議会は「再稼働について、議会としての意見の一致をみました」と発表した。
ほかの原発立地自治体が、再稼働に向けた地元合意の難しさに直面する中、高浜町ではほとんど反対する声は上がりませんでした。

再稼働ための工事には、高浜原発だけで5,400億円あまりが投下された。森山の会社には少なくとも214億円が注ぎ込まれた。現地への資金投下はさらにエスカレートし、総額3億2千万円に上った。

国も原発が立地する自治体に対して、電源三法交付金を支払っている。1基あたり1,400億円に上る。こういったお金の流れというのが、地元の決定過程をゆがめ、特定の業者に集中的にお金が流れる仕組みを作っている。(NHK特集)

森山コネクション3

2017年 「オーイング」の取締役を退任。自宅を京都市から高浜町に移す。

2018年

1月 財務省国税庁金沢国税局の税務調査を受け、帳簿や資金の提供元や供出先が記されたメモが押収された。

2011年から2018年にかけて、関西電力の八木誠会長や、岩根茂樹社長、豊松秀己副社長、森中郁雄副社長らに、「原発マネー」とおぼしき3億2千万円を渡していたことが、明らかとなる。

2月 関西電力側から約1億6千万円相当を返還。

10月 内部調査委員会を結成。委員長の小林敬は元大阪地方検察庁検事正で、証拠改ざん事件で懲戒処分を受けて退官した人物。

2018年末 第一次内部調査報告。報告書には「お前の家にダンプを突っ込ませる」「お前にも娘があるだろう。娘がかわいくないのか?」といった恫喝の記録。
お茶を出した女子職員に「なんでいまドン!って置いたんだ。俺が部落の人間だからか! 差別だ!」などの事例。
MBSのインタビュー: 90年代に高浜原発の所長だった人物は、「あの人から1時間説教受けたらよくわかります。骨の髄までいかれます。もう2度と出会いたくない。
僕が言われたのは、『家に同和の人間を押し掛けさせる』みたいな話。なんか文句あるんやったら『同和をお前の家に動員かけるで』と脅す」
2019年

3月 90歳で死去。

9月27日 上記情報を朝日新聞が報道。各社が追随。
菅原一秀経済産業大臣は、記者会見で「言語道断。ゆゆしき事態だ」と語る。更田豊志原子力規制委員会委員長は、「まだそんなことがあるのか」「憤りを感じた」と語る。

10月2日 関西電力が記者会見。金品の受領を断ると土下座を強要されるなど、断れない力関係にあったと説明(さぞかし楽しい土下座であったろう。できるなら私も、懐ろに小判を押し込まれてみたいものだ)

記者会見での岩根茂樹社長の発言。(森山氏が)『わしが原子力を反対したらどうなるかわからんのか』といったことを相当強くおっしゃった。(当方としては)地元の理解活動が阻害されるということを恐れた。

10月4日 赤旗、国の電源立地地域対策交付金も同町の建設会社「吉田開発」と森山氏を通じて関電幹部に還流していたと報道(内容はちょっとややこしい)
金沢国税局の税務調査から明らかになったもの。森山は2011年以降、総額3億2千万円の金品を関電幹部らに手渡していた。この金は吉田開発が「手数料」として提供していた。吉田開発は町の公共事業5件を総額約4億5千万円で受注していたが、このうち3億7千万円は電源対策交付金から充当されている。
10月7日 部落解放同盟中央本部のコメント
森山氏は、1969年京都府綾部市職員から高浜町に入庁している。1970年部落解放同盟福井県連高浜支部が結成され、福井県内唯一の解放同盟支部の結成ということもあって、部落解放同盟福井県連合会も同時に結成されている。その結成に尽力したこともあって、森山氏は県連書記長(同時に高浜支部書記長)に就任。2年間書記長の要職に就いている。
2年で書記長職を解任されており、それ以後、高浜町の職員として従事するようになる。

10月9日 臨時取締役会が開かれる。八木会長と森中副社長、右城常務、鈴木常務、大塚常務が退任。

11月22日 資源エネルギー庁、電源立地交付金の約8割が原発向けだと認める。

11月22日 福井県が「調査報告書」を発表。県職員109人が同県高浜町の元助役から金品を受け取っていた。吉田開発が県から60億円の公共事業を受注していた。

11月22日 高浜町の特別監査の結果が報告される。森山が取締役だった警備会社「オーイング」が、20年間にわたり随意契約で580件、1億5千万円の町の業務を受注していた。また「吉田開発」も20年間で、少なくとも136件、約19億円の町の工事を受注した。


もともと長い論文を読むのは苦手なのだが、最近視力の低下、集中力の低下が相まってますますその傾向が強まっている。
だから、たいへん荒っぽいものの言い方になってしまうのだが、赤旗「論壇時評」に載った、たった数行の記事が頷かせるものがある。
山口二郎さんが「野党+市民共闘が拓いてきた道、これからの道」(季論21)という文章の中で言った言葉なのだが、評論者の堤文俊さんの紹介が的を得ていると思う。

いま「共闘」にとって大事なことが2つある。
一つは「方向性の共有」だ。
それは「ゴールは違っていても中間点までは一緒に」という意思の共有だ。
第二は、市民の側にあるのだが、共産党を受け入れることを “あたりまえの政治風景” として受け入れることだ。それは反共主義の最終決算だ。

この2点は、共産党がずっと戦略的課題としてきたことだ。時の政府や権力が振りかざす反動的挑戦に対しては、たしかにその都度 “共闘” してきたが、それはついに明日に向かっての共闘へとは発展しなかった。

ある程度の政策的合意を形作らなければ、長期的な共闘はありえない。未来に向かっての共闘、これこそが真の共闘であり、それが今や実現し始めた。ただし時間の余裕はない。闘う人そのものが今や絶滅しつつあるからだ。

もう一つ、それは「旧社会党・総評的な勢力との合意を経てより広い合意を形成する」という従来型戦略によっては不可能である。それは市民的な合意をの中でマルチラテラールに築き上げていくしかないということだ。

それが気が遠くなるようなすり合わせと実践の過程を経て、ようやく形になろうとしている。そういう地点に我々は到達しつつあるのだ。

日本における共闘というのは、見かけ上は共産党と市民運動、それに連合+社会民主党の3つのグループの共闘だが、運動論的には共産党と市民の共同による「連合」の包囲と攻略なのだ。

それを市民の側からはこう表現しているのだろう。

AALA全国大会に向けての準備

1.世界が当面する三大問題と人権

方針案は核・環境・格差を三大問題としている。現実に世界で興っているさまざまな闘いも、これらの問題を巡ってのものである。

注目されるのは、これら多くの運動が人権をめぐる課題として提起されていることだ。

それは平和的生存権であり、持続可能な生活環境を維持する権利であり、差別されずに生活する権利であり、他国の不当な脅迫を拒否する権利である。

これらの権利は人類がともに共有すべき権利であり、我々が思想・信条の違いを乗り越えて擁護すべき権利である。

私は、人民連帯運動の基本的な構えとして、この考えを徹底していく必要があると考える。


2.国際紛争をどう解決すべきか

国際紛争をめぐっては2つの考えが必要だ。

まず、国家や民族の自決権を擁護するという立場である。ホーチミンがいうように「独立ほど尊いものはない」のである。

もう一つは、いかなる紛争であれ、平和的解決を目指すべきだということである。

平和的解決は多国間の協議を通じてしか実現しない。一方的な制裁や脅迫は、決して正しい解決にはつながらない。

7月に行われた非同盟諸国外相会議の声明は、それらのことをきっぱりと示している。


3.「自主的な国作り」とはなにか

総会方針に「キューバとベネズエラ、ニカラグアは「自主的な国作りを続けている」と書かれている。

自主的という言葉には、一般的な「自主」という以上の特別な意味が込められている。

それは「モンロー主義」には従わないという不服従の立場だ。
それはアメリカに支配されてきた歴史への批判と、ホセ・マルティのいう「我らのアメリカ」への誇りだ。

「自主的な国作り」という表現は、そこを読み込んでいくべきだろうと思う。


4.コンセンサスにもとづく運動を

日本AALAはコンセンサスに基づいて運動を展開する組織である。

もともと、多様な意見を持つ人がコンセンサスで共同活動するのだから、一致できない論点が出てくる可能性はある。

それらについては、当面全体方針とはせずに、引き続き研究・議論を重ねながら合意形成を目指すことになる。もちろん、その間メンバーが個人の見解に基づいて意見を表明することは妨げられない。

具体的に、ベネズエラ政権に対する評価の不一致が問題になっている。

もちろんベネズエラをふくめたラテンアメリカ諸国の人々との連帯は、私たちの共通の願いであり、組織としての死活的任務だ。

そのうえで一致点はどこで、不一致点はどこかを明らかにしなければならないだろう。

「一致できない論点は原案から削除する」という意見があるが、アメリカの「制裁」は認められないということは一致できるのではないか。

それは書くべきであろうと思う。

いま間違いなく、アメリカの干渉行為(武力脅迫・経済制裁・金融攻撃)がベネズエラの民衆を苦しめている。

だから、「いかなる情勢変化があろうとも、私達はベネズエラの民衆を見捨てない」と宣言することでは、私たちは一致できるのではないか。

5.不破講演(2005年)の核心

日本AALA50周年の記念講演「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ―いまこの世界をどう見るか」はいまなお示唆に富むものだ。

そこで話された大事なことは、「歴史的出来事の現実の推進力」がどこにあるのかという見方、すなわち「21世紀論」の視点と「変革の立場」を貫くことである。

世界の「99%」がアメリカの一国行動主義を批判し、ルールある平和を擁護する方向、これが21世紀の流れなのだと不破さんは主張する。

さらに世界の進歩勢力の中にも、さまざまな否定的現象が噴出することがあるが、その際も、一般的な評価にとどまらず、功罪を明らかにし、教訓を導き出さなければならない。これが「変革の立場」だと強調している。

以上のような立場を強調し、日本AALAのさらなる発展に向け奮闘したいと考える。

1.ユニラテラリズムの世界に直面して

今世界では非常に複雑な動きが生まれています。
トランプの政治は、当選当時のポピュリスム的言動とは様相を異にしてきています。

一言で言えば、私たちはまったく経験したことのない一国支配(ユニラテラリズム)の世界に突入しつつあります。

ここで私たちは不破哲三さんの言葉を思い起こす必要があります。
私が非常に大事だと思うのは、新しい現象、新しい事物が社会に生まれたときに、それにどういう態度でのぞむか…です。開拓者には既成のテーゼはないのです。新しい現象にぶつかったら、それを解明する道は、自分たちが鍛え上げてきた方法論をもって、その新しい現象を考察する以外にないのです
考えて考え抜いて、答えを求めていくほかありません。

2.歴史の推進力

その際に大事なことは「歴史的出来事の現実の推進力」がどこにあるのかという見方、すなわち「21世紀論」の視点と「変革の立場」を貫くことです。

その際に、AALA50周年事業の一環として行われた不破講演「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ―いまこの世界をどう見るか」(2005年)は、連帯運動の「導きの糸」として未だに輝きを失っていません。

不破さんの時代認識の最大のポイントは、今の時代を「平和の世界秩序をめざす第二の波」と捉えることです。それは第一の波、すなわち第二次世界大戦直後の時期につづく大きな波です。

この第二の波、すなわち「21世紀の波」の特徴は、民族自決がいまや当然の前提となり、諸国民の尊厳を前提に平和の枠組みが作られようとしていることです。

もう一つの特徴は、「99%」と呼ばれる世界の圧倒的多数の人々がアメリカの一国行動主義を批判し、世界の平和ルールを擁護する方向に動き始めていることです。

この講演はすでに14年も前のものですが、その骨太な歴史評価は今もなお輝きを失っていないと思います。

まったく新しい世界政治に対応する上で、私たちは不破さんの提起を、重要な羅針盤として受け継いでいかなければならないでしょう。

3.変革の立場で評価することがだいじ

かつて「社会主義を目指す国」と呼ばれた国でもさまざまな否定的現象が噴出し、その存在意義そのものが問われている場面も目にするようになっています。
もちろんそれらの現象は事実を踏まえて厳しく評価しなければなりません。

ただその際も、功罪を明らかにし教訓を導き出さなければなりません。それが不破さんの強調する「変革の立場」だろうと思います。

なぜここを強調するか、
それは非同盟諸国や非社会主義の進歩的政権を、その欠点も含めどう見るかという課題につながるからです。

たとえばラテンアメリカの左翼政権は、正統マルクス主義ではありません。

別論文ですが、不破さんはパリ・コミューンについて考察したことがあります。
コミューンの指導部にマルクス主義者は一人もいませんでした。しかしマルクスは、コミューンの行動を最大限に評価したのです。
そのことを前提として、不破さんは「共産党がいないところでも新しい革命が生まれるし、科学的社会主義の知識がなくても、新しい社会の探求に進み出るのに不都合はない」と主張しているのです。

同時に、不破さんは中国を引き合いに出してこう警告しています。
いくら憲法に社会主義と書いていても、資本主義に引かれる考え方、気分が必ず現れる。それは土台に作用して、土台の社会主義部門を腐らせる可能性がある
つまり、社会のあり方が多様であるように社会進歩の形態も多様なのだから、状況に合わせて具体的に判断しなければならない。それと同時に、たんなる評論家的ランキングではなく、変革の立場から評価することが大事だということでしょう。

情勢が不透明な中、私たちはこの不破講演の提起に立ち帰り、基本的な姿勢を再構築する必要があると思います。

NHKニュースで沖縄慰霊祭での山内玲奈さんの詩の朗読を報道していました。
「平和の詩」と題された詩の一部だが、見事に要点を外した切り取り(編集)でした。

平和の詩「本当の幸せ」全文および動画は、下記リンクでご覧になれます。


またこの特集と並行して【沖縄戦の写真特集】も組まれています。
戦死した日本の従軍看護婦とみられる女性」の写真は、「モノ」化された10万の生命の象徴です。決して目を逸らせてはいけない「事実」だと思います。

この日、平和への思いを新たにしたいものです。

北海道の革新運動における森谷尚行氏の貢献

おそらく各所で故森谷尚行氏(以下敬称略)の顕彰の動きは始まっていると思うのだが、私自身の個人的な事情もあり経緯については知らない。
手元に資料と言ってもほとんどないのだが、とりあえず一つの同時代証言として書き残しておく。

大まかに言って、森谷の業績は3つある。

第一は学生運動における民主派の担い手としての役割だ。

森谷が北大入学の年に60年安保闘争が始まった。当時の北大学生自治会は唐牛を全学連委員長に送り出すなど極左派の拠点だったが、森谷はその北大自治会委員長となり、極左派の手から大学を守るために大いに奮闘した。
その後北大は全国における民主派の拠点となっていった。私が教養部時代を送った60年後半には学生の1割が民主派の活動家であった。いっぽうで札幌医大や地方の学芸大学にはかなりの極左派が残っていた。
もちろんこれらは森谷一人の手になる成果ではないが、それはやがて北海道が民医連運動の先進となっていくことにつながっていく。

第二は、高揚した学生運動を民医連運動へとつなげていく上で果たした役割である。

もちろん医学部においても戦後民主運動、安保闘争などを通じて覚醒した活動家が存在したが、そのような民主的医師運動と民医連は実のところ無縁であった。民医連も、レッドパージされた労働者が地域で展開する消費者生協的なレベルにとどまっていた。
2つの運動を初めて結びつけて、それを「医師集団の技術建設運動」と位置づけたのは森谷を中心とする同期生たちであった。
言うまでもなく、北海道は全国の民医連医師集団運動の「嚆矢」であるが、それ以上のものではない。時期を同じくして全国では怒涛のような医療運動(老人医療・公害医療・労災・職業病の取り組みなど)と自治体革新運動の波が全国を席巻した。それに比べれば北海道の経験はささやかなものである。
しかし北海道青年医師集団の実践が後に続く全国の医師・医学生にとって文字通りの「極北」となったことは間違いない。

第三は、医師集団の技術建設と結びつけながら、医療民主化の課題・医療戦線統一・「新たなイメージの民医連建設」を語り、現実化していったことである。

「新たなイメージ」というのは、じつのところ、かなり未定型のまま残された思想課題である。それを一言で言えば、民医連を何よりもまず変革を目指す技術者集団として捉え、その思想を鍛え合い、その実践を相互に支え合っていくという視点を貫くことである。
それが森谷を先頭とした北海道民医連の展開である。それは集団的な技術建設を勝ち取った医師集団が、生涯にわたりどうその技術を発揮していくかという提起でもあった。
同時にそれは、それ自体が「統一戦線」の思想に基づいていた。「事務職」という強固な活動家集団が技術運動と結合し、独特な「医療・社会実践」の地平を切り開いた。それを全道数万の社員・協力会員組織が支えた。

繰り返すがこれらの仕事は森谷が一人で成し遂げた成果ではない。しかしもし森谷がいなければ、それらのどれ一つとして成し遂げられなかった可能性がある。

これら3つが成し遂げられた社会条件は、いま切り崩され兼ねない危機を迎えている。これを耐え抜いて次の時代にバトンを繋ぐためには、野暮ったいが、医師・医療技術者がもう一度集団として自己形成を強めていく以外にあるまい。

「民主的集団医療の構築」は未だに民医連医療のキー概念であろうと思っている。


2013年02月14日  徳洲会: 民医連との決定的な差は医師の位置づけ もご参照ください。

種子法と農業

久田徳二さんの講義を聞いた。
「種子法廃止と食と農」と、やや長い題名だが、たしかにこれ以上は切り詰められない中身だ。
「食と農」というのは、政治・経済的に考えれば、食物の消費者と生産者の関係である。
食料というものを巡って、そのまわりに消費者・生産者という社会グループがある。その三角関係が今どう変わってきたのか、これからどう変わろうとしているのか…これが課題の大枠である。
そして、その変化の過程の中で種子法がどのような働きをしているのか、これが具体的な小状況である。

結論からいうと、種子法は生産者から生産の論理を剥奪し、市場の論理でがんじがらめにするものである。一言で言うと生産者が生産者でなくなってしまう、ただの労働者になってしまうのだ。

そうなるとどうなるのか。種子を独占する企業が資本の論理、つまり儲け第一主義を貫徹するのである。消費者の論理は生産者の論理に反映していたが、もはや消費者の論理に対応する生産者はいなくなる。市場経済の存立基盤が根底から失われてしまう。

嫌なら食うな!
これが資本の答えである。

遺伝子組換えとか知的財産法とか、各論的にはいろいろあるが、農業のあり方が根底から変わってしまうところに種子法の最大の恐怖があるのではないだろうか。

種子法と北海道

久田さんの講義は、時間制限もあってずいぶん端折ったものになってしまった。主催者側の勝手で、大変申し訳ないことだった。

それで、質疑応答の中で私が考えたことをちょっとまとめておく。

北海道は農業王国だ。ある意味、農業しかない地域にさせられてしまった。だから農業は生命線だ。だから農業のあり方が変わってしまうのは生命の危機をもたらす。

北海道農業が発展していくためには2つある。一つは日本の農業基地として販路を拡大することだ。もう一つは東アジアで特色を持ったアグリ基地として情報を発信していくことだ。
とくに後者の道は前途洋々だろうと思う。

その際の最大のブランドは北方系の食物バリエーション・まさに「北海道ブランド」だ。そして、日本産であるがゆえの安心・安全だ。これが付加価値となって圧倒的な競争力を獲得できることになる。

北海道を農業“逆特区”に

昨今は、各地で「特区」が話題になる。大体において良いことはない。加計学園だとかカジノだとか、独占企業や“お友だち”企業に都合の良いことばかりが「特区」の名目でゴリ押しされる。

私は、そういう状況の中で北海道の「農業特区」化を提案したい。

これは、いままでの規制緩和のための特区とはまったく逆の方向での「特区」だ。
つまり、規制を緩和させないで維持し、場合によっては強化し、儲けのためではなく安全を第一にする方向づけを明確にすることだ。企業のためではなく農業のための法的枠組みを整備することだ。そして農民第一の目線を貫くことだ。

TPPなどの国際枠組み、国内法体系のもとではなかなか困難なことであるが、だからこそ「特区」としてやっていけないのだろうかと考える。
もちろんその前にも北海道庁としてやれることはあるだろうし、議会も条例化の努力でこれを支援するべきであろう。
「北海道の自立へ」というスローガンは、公助と共助の隙間を埋めていく、そのような努力を含んでいるのではないだろうか。




昨日は共産党の旗開きに参加した。12年に1回、一斉地方選挙と参議院選挙が重なる年で、大変なようだ。

それで今日は1日遅れで赤旗に載った、志位さんの新年挨拶を読んでいる。

新聞のいいところは、見開きにして机いっぱいに広げて、眺めながら、赤線を引いていくところにある。

ふと気がついたのだが、「民主」という言葉がえらく少ない。意識的に減らしているのかな。

民医連運動華やかなりし頃は、「民主」の花盛りで、なんでも「民主」の冠詞をつけるのがお決まりだった。

日本共産党ではなく、「日本民主党」と呼んだほうがいいのではないかと思うほどだった。

それが今回の「あいさつ」では、数えてみたら僅かに5ヶ所。しかもそのうちの一つは経団連会長の記者会見からの引用である。

まさに様変わりだ。

一応すべて引用しておきたい。

あいさつは全体として三部に分かれている。

第一部は「沖縄と憲法――二つの大きな成果を確信に、“安倍政治サヨナラ”の年に」と題され、全体として2018年の運動の成果を確認する部分だ。
ここでは2ヶ所で「民主主義」の言葉が出てくる。

一つは森友問題に関する言及で
森友「公文書」の改ざんは、国会と国民を欺き、歴史を冒涜(ぼうとく)し、民主主義の根幹を破壊する未曽有の大事件でした。
ここでの「民主主義の根幹」は、議会制民主主義の崩壊を非難する斬口として用いられている。

もう一つはそこから2段落うしろ、強権とウソの政治を非難したあとに
安倍政権に日本の民主主義をこれ以上破壊させるわけには断じていきません。
という使い方をされていて、議会制民主主義よりはもう少し広く、いわば国体存立の精神というか、政治上のモラルをさした使い方となっている。

第一部はこれだけだ。

第二部は、「2019年、何を掲げてたたかうか――四つの課題を一貫して追求しよう」と題され、今年の課題が示されている。

4つの課題とは
1.消費税増税を中止し、暮らし第一で経済をたてなおす
2.大軍拡、9条改憲に反対するたたかい
3.沖縄への連帯のたたかい
4.原発ゼロの日本を目指すたたかい
であるが、民主が出てくるのは沖縄の課題の部分のみである。

一つは辺野古の土砂投入強行に関する記述で、
法治主義も、民主主義も、地方自治も踏みつけにしたこの無法な暴挙を転機に、沖縄県民の怒りが、あふれるように全国に広がり、世界に広がっています。
というもの。

一昔前なら、確実に、法治主義も地方自治も「民主主義」に突っ込んでいた。
非常に民主主義の使い方が限定的で、“丁寧”になっていることがわかる。

ただここまで限定すると、逆にどういう使用法なのか判断がむずかしい。おそらく国法の原論的支柱の一つという扱いなのだろう。
それは主権在民の原則ということに帰結するのだろうか。

第5の「民主」は、非常に注目される。それは志位さんではなく経団連会長の発した言葉だ。
しかも「民主主義」の本質を強烈にえぐっている。

この言葉は原発廃止の課題に出てくる。
官民あげての「原発輸出」が失敗し、計画を手掛ける日立製作所の中西宏明会長が「もう限界だ」とのべた。
さらに中西氏は経団連の会長として、記者会見の席上で以下のように発言した。
全員が反対するものをエネルギー業者や提供企業が無理やりつくるということは、この民主国家ではない。
志位さんによれば、この発言は「原発を存続させるためには国民的議論が必要との認識を示した」ものだと理解される。

実にバブル期以来久しぶりに、日本のものづくり産業本来の、まっとうな意見を聞いた気がする。

ここでの「この民主国家」という言葉は、日本の国体原理としての「民主主義」に対する揺るぎない確信であるとともに、日本国民の民主国家を統治する能力に対する深い信頼でもある。

1951年、マッカーサーは「民主主義において、日本は、まだ12歳の少年だ」と言った。それから70年を経て、我々は成熟し得たと胸を張ってもいいのではないか。
だから、「民主、民主」と叫ぶのではなく、社会に定着した「政治風土」として民主主義を語ってよいのかもしれない。平成天皇を見ていて、まことにそのような実感を抱かされる。

では「民主主義」は政治・経済・社会・文化システムの中にどう整序されるのであろうか。安倍晋三らはどのようにこの民主主義を掘り崩そうとしているのであろうか。
この点について、今年はおいおい考えていきたいと思う。

21世紀、世界と東アジアの平和の展望
志位委員長のベトナム講演

志位委員長が12月にベトナム訪問し、青年を相手に講演したものである。さほどの新味はないが、核兵器禁止条約と米朝会談を21世紀論の文脈に織り込み、「北東アジア平和協力構想」と整序したのは理論的前進であろう。
反核運動ではキューバとコスタリカが大きく取り上げられているが、ニカラグアベネズエラの取り組みにも注目すべきものだあることを申し添えておく。

Ⅰ.半世紀以上におよぶ友好と連帯の歴史

Ⅱ.綱領の世界論

20世紀は戦争の世紀だった。二度の世界大戦があり苦難の連続だった。

しかし20世紀の最大の変化は民族自決権が世界公認の原理になったことである。ベトナム人民のたたかいは、文字通り世界史的意義を持つ。

Ⅲ.21世紀の世界の特徴

21世紀の世界では、「核兵器のない世界」を目指す動きが主役となるだろう。

2017年、核兵器禁止条約が採択された。核兵器に「悪の烙印」が押された。これは歴史的な壮挙である。

国際政治における『主役』が、一部の国から多数の国々の政府と市民社会に交代していくだろう。

Ⅳ.北東アジアと「平和の激動」

この間、朝鮮半島で平和の激動が起きた。党は北朝鮮の核開発反対、対話による平和解決、朝鮮半島の非核化を目指してきた。

激動をつくりだした力は平和を願う各国民衆の力である。根本にも、『世界の構造変化』が横たわっている。

Ⅴ.北東アジア平和協力構想

日本共産党は「北東アジア平和協力構想」を提唱している。東南アジア友好協力条約(TAC)の北東アジア版だと考えている。

それは6カ国協議の共同声明(2005)を基礎とし、東アジア首脳会議の「バリ原則」を条約化するというアジェンダである。

そのために日本がなすべきことは、まず侵略戦争と植民地支配への反省、被害者の名誉回復のための誠実な取り組みである。

Ⅵ.ASEANへの希望

南シナ海問題で大国が関与を増大させている。ASEAN10カ国に分断をもたらす動きもある。

ASEANが困難をのりこえるうえでベトナムがさらに大きな役割を果たすことを願っている。

我々は16年に国際仲裁裁判所の決定を受けASEAN首脳会議が出した「国際海洋法条約の遵守と、紛争の平和解決への共通の誓約」を支持する。

ASEANの最大の教訓は自主独立と団結・統一の維持である。ベトナムがASEAN発展のためにさらに大きな役割を果たすことを望む。

さすがは赤旗で、沖縄知事選が正確に評価されている。
昨日の段階では見えなかったことが、明らかになった。
まずこの表がとてもありがたい。

得票推移
前回選挙との比較だ
1.オール沖縄は総投票数が減った中で3万6千も得票を増やしている。これは敵失による勝利ではないということだ。翁長県政4年間のゆるぎのない組織的前進の成果と言える。
2.保守層を結集した勝利だ。前回は保守が3つに分裂した。翁長派、仲井眞派、そして下地派だ。分裂しなくても翁長さんは勝てたのだが。今回は翁長派以外の保守が一本化した。しかし前回票にさえ届いていない。
3.公明票効果が見られない。内地から5千人を動員したという公明党はどこへ行ったのか。差し引き数万の票は間違いなく動いたと思う。だとすると、それを上回る保守票の雪崩現象が起きたとしか考えられない。

つまり、今回の選挙の最大の特徴は前回選挙に始まった中央依存保守の地盤の崩壊と「オールオキナワ」体制の構築が一気に進行したことにある、と言えるだろう。

つぎに竹下記者の署名記事
勝利の方程式=争点隠しx公明動員x期日前投票
が今回に限って効かなかった。「不敗神話」が崩れた。
1.争点隠しが成功しなかった理由は、玉城側が「翁長の遺言」という形で辺野古の争点化に成功したこと。政治アパシー化が進む若者に対してアムロの一言は効いたと思う。投票直前の世論調査で辺野古反対が7割に達した。
名護では2月に争点隠しで負けたが、今回選挙では1800票差をつけた。
2.公明動員が成功しなかった。内地からの動員と締め付けが孤立した。地元メディアの出口調査で、公明支持者の3割が玉城に投票した。
3.期日前投票でも負けた。地元メディアの出口調査で、期日前投票でも玉城が圧倒した。
中祖記者は選挙の全国への影響について書いている
1.自民総裁選の「地方の反乱」と関連しているかもしれない。さらにこの流れは加速されるかもしれない。
2.野党共闘と草の根民主主義はさらに前進するだろう。

ただし、この2.については私はこう書き換えたい。
2’.「オールオキナワ方式」の本質はリベラル保守の反乱であり、野党共闘とは分けて考えるべきだ。リベラル保守の反乱は、全国でも「地方の反乱」としてその萌芽が見られる。
保守の反乱と野党共闘が結びつけば、政治の流れが変わってしまう可能性がある。
赤旗以外の論調にも触れておきたい。

1.異常な反共攻撃について
反共攻撃の先頭に立ったのは右翼のデマゴーグだった。
元東京新聞論説副主幹、長谷川幸洋はこう述べている。(MAG2 NEWS2018年10月05日誰が「玉城デニー当選なら沖縄は中国に」というデマを流したのかより)
こんな人物が知事になったら、沖縄の支持者だけでなく、中国や北朝鮮は大喜びだろう。祝電どころか、祝意表明の代表団を送ってくるかもしれない。そうなったら、歓迎の中国国旗(五星紅旗)が沖縄中にはためくのではないか。光景を想像するだけでも、ぞっとする。(9月26日、夕刊フジ)
もっと露骨に反中国デマを煽っているのが元海上自衛官のジャーナリスト、恵隆之介氏。2013年に『中国が沖縄を奪う日』という、センセーショナルな題名の本を刊行した。これらの文献がベースになって有象無象のネット右翼がSNSなどで誹謗・中傷・デマを繰り返し、国会議員や元市長などの肩書きを持つ人物が無批判に拡散した。
もう一つの攻撃、スキャンダル報道の「王道」としての内閣調査室=週刊文春によるネタである。(週刊文春と内閣調査室は前川問題を水に流し、よりを戻したようだ)
「週刊現代」の記事、「週刊文春の“隠し子”報道について週刊現代


2.中国攻撃のもう一つの側面
沖縄は基地に頼らない経済を目指して動き始めている。それは翁長県政が切り開いた道だ。国政は辺野古に関連して沖縄に対して懲罰的な予算配分をしている。
そのしがらみが崩れるようなことになると、沖縄の基地としての安定性は根底から揺らぐことになる。
翁長さんは2015年「沖縄県アジア経済戦略構想」を発表した。アジアの巨大マーケットの中心に位置する地理的優位性を生かし、国際ビジネス都市に飛躍しようというものだ。
これが基地に頼らない沖縄経済をどう作るかについての回答だ。
「基地に頼らない経済」の最大の柱が観光、特に中国・アジアを対象としたインバウンドが重要になる。
県知事選の舞台裏 2018年10月4日琉球新報では次のように報じている。
クルーズ船が次々と寄港し、国際通りは人波が途切れない。「観光立県」をうたう沖縄は昨年、観光客数が過去最多の939万人に達し、初めてハワイを超えた。
我々は原発立地が潤っても、結局、原発関連企業以外はすたれていく経過をみている。それが沖縄という島全体で起きていることだ。
観光で生きていくというなら基地はじゃまになる。基地関係者ばかりがのさばる政治・経済のあり方は否定されることになる。「嫌なものは嫌だ」と発言し始めれば、国にそれを押さえつける力はない。
だからおそらく最大の顧客になる中国との関係強化を警戒しているのだ。
しかし沖縄だけなぜ観光立国してはいけないのだ? それもまた「お国のため」なのか。










夜帰ってきてテレビでニュースを見た。驚いた。まさかデニーさんが勝利するとは思わなかった。台風がギリギリ投票に間に合うように、去ってくれたからなのだろうか。
事前の見込みでは組織が期日前投票でぎしぎしと囲い込み、公明党も締め付けを強化しているということで、どうしても足りないなぁと思っていた。各種選挙でも此の処負け続きだったからだ。
天気も組織票の強みを加勢しているかのように思えた。
ところが蓋を開けたらこういう事になった。おそらく沖縄県民の投票行動が劇的に変化したのであろう。他に考えようがない。
前回、翁長さんが勝利したときも、オール沖縄という投票行動パターンが出来上がったが、今回はそれをさらに乗り越える新たな投票行動が示された。その半分は、弔い選挙という事情で説明できるかも知れないが、残り半分はそれ以外の理由だろう。
投票率がどうだったのかが気になるが、もしそれが異常に高いものでなかったとすれば、自民党が割れたか、公明党が割れたか、あるいはその両者であったか、ということになる。
おそらくそれは日本全国での立憲・平和勢力の勝利に向けた水路を示してくれることになるだろう。
早急な総括が望まれる。

とりあえず、ちょっと、各紙の報道を眺めてみる。
琉球新報
選挙戦そのものは力づくの組織戦だった

今回の県知事選は激戦が予想された。しかしフタを開けてみると玉城氏が予想外の圧勝。なんと過去最多得票の大勝という結果。

当 396,632 玉城デニー 無新

  316,458 佐喜真淳 無新 =自公維希

  開票100%
投票率は63.24%だった。これは前回選を0.89ポイント下回った。ということだ。

投票行動の組織率を示す期日前投票だが、5日前で全体の約2割に当たる1万6千票まで達した。これは4年前の知事選と比べて2.4倍多い。これまでにまして組織選であったことが分かる。

創価学会は本土から約5千人を沖縄入りさせた。彼らは学会員や自民党員を投票所へ連れて行く役割を負わされている。そのため、選挙期間中の沖縄のレンタカー予約はたくさんの学会員で埋まっている (アエラ)

それを考えると、「玉城氏が世論調査などでは終始リードし、そのまま、逃げ切って当選」という経過は非常にわかりにくい。

ガチガチの組織戦で、しかも組織票は自公が圧倒している。なのに終始玉城優勢だったというのはどういうことだ。

キャンペーンが勝敗を分けた?

キャンペーンを見ていると、出足の良さは弔い、タマ良し、アムロ良しということになろうが、これでは息切れするはずだ。

私が選対なら、デニーへの個人攻撃・中傷を徹底してやる。タレント上がりに任せられるか、あとはデニーの特異な生い立ちを使って過去を根掘り葉掘りと陰険に掘り出していく、週刊文春の得意技だ。場合によってはアムロいじりも辞さない。

ところが、この空中戦が功を奏さなかったばかりか、逆効果になった可能性がある。

出口調査の非公式な集計だが、玉城候補は無党派層や女性からの多くの支持を得たという。
また支持政党別の投票先では、無党派層の7割が玉城氏に投票した。
もちろん立憲、共産、社民の各支持層はほとんどが玉城氏に入れていた。

つまり、風は最初から最後まで玉城側に吹いていた。ただの風ではない。国家権力が総掛かりでねじ込んでもかなわないほどの強風である。
そのさい、アムロの一言は強烈なメッセージになった可能性もある。
沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた知事のご遺志がこの先も受け継がれ、これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております
非政治的だが、非政治的であるがゆえに強烈だ。
「イデオロギーよりアイデンティティー」というのは翁長さんのキャッチフレーズで、玉城さんも使ったようだ。激烈なイデオロギーを持ち込んでいるのは誰か、非政治的でオールオキナワ的なのはどちらか。それがアムロのメッセージで鮮明にされている。

逆風を招いた自民党のキャンペーン

地元選対の幹部はこう言っているという。
『対立から対話へ』キャンペーンはおかしい。チャレンジする側のスローガンではない。「女性の質の向上」発言も女性票を遠ざけた。菅長官の「携帯電話料金の4割引き」も、沖縄県民をバカにしているのかとの反発を生んだ。
おそらく現地の頭越しに中央でキャンペーン戦略がねられ、それがいちいち逆効果を及ぼした、ということらしい。つまりは中央のおごりと侮りが常につきまとったのである。

ある国会議員は、『沖縄の人たちはよく戦ってくれた』と話した。集団自決を知る沖縄の人は、本土の人がこういう“愛国漫談”をすると、トゲに触れたように敏感に反発する。
そのことがわかって自民・公明の支持者が逃げた。

デニー玉城+翁長一家のタッグ
翁長は死の直前、後事を託したい人物として指名した。翁長は玉城を「戦後沖縄の歴史を背負い、沖縄を象徴する政治家になる」と評した。
県幹部のひとりは、「意表を突く名前でしたが、すぐに『なるほど』と思いました。翁長さんの着眼には唸らされました」と語った。
沖縄タイムスの記者座談会では次のように語られている
小さな子どもたちが「デニー」と駆け寄る場面が印象的だった。ギターを片手に「ロック」音楽を熱唱した。
ラジオDJになる前の玉城さんは、福祉関係の仕事を努めた後、ロック歌手となりライブハウスで歌っていた。琉球放送に自分の番組を持つようになり、人気ラジオパーソナリティーとして活躍していた。その後さらに政治家を志し、2002年に沖縄市議に初当選。09年には衆院議員に初当選している。
デニー
琉球新報は伝えている。
沖縄県知事選で玉城氏ほど、いわれのない多くの罵詈雑言を浴びせられた候補者がかつていただろうか。
ネット上では玉城氏に対する誹謗中傷やデマが拡散された。模範となるべき国会議員までが真偽不明の情報を発信した。
これに対して反撃に立ち上がったのが翁長前知事の妻、樹子さんだった。
政府があらゆる権力を行使して、私たち沖縄県民をまるで愚弄するように押しつぶそうとする。何なんですかこれは。…そんな人たちには負けたくない。私も一緒に戦う
デニー選対の青年局は、翁長知事の息子の雄治くんがしきった。彼の組織したSNS班がネット選挙を盛り上げた。それもデニーさんの勢いにつながった。

琉球新報社説
玉城氏が当選したことで、新基地建設に反対する沖縄県民の強固な意志が改めて鮮明になった。政府は、前回、今回と2度の知事選で明確に示された民意を率直に受け止め、辺野古で進めている建設工事を直ちに中止すべきだ。
この期に及んで、なおも新基地を押しつけるというのなら、民主主義国家を名乗る資格はない。
自民党が割れたか、公明党が割れたか、あるいはその両者であったか
ということで、最初の問いに戻る。もちろんまだ語るだけの材料は出てきていない。
しかし割れたことは間違いなさそうだ。公明党が割れたというのはありえない。ありえないから割れた人がニュースになるのだ。
自民党が割れたのだと考えざるを得ない。それは翁長さんと保守的保守の間にできた亀裂より、さらに右側に亀裂が入ったのであろう。

ニフティニュースに樹々希林の追悼記事が載った。

樹木は芸能界で「政治的」と忌み嫌われるジャンルに踏み込むことも厭わなかった。
彼女は事務所にマネージャーも置かず、自分自身で仕事を選び、現場に趣く。
東海テレビ制作の『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』(6回シリーズ)もその一つ。
残留孤児をテーマにした回では…「(戦争は)人間の世界で止めることができるはずなのに、そりゃ止めなきゃいけないですよね」と言う…
これに対し、普段政治の話をしない笑福亭鶴瓶も、「憲法9条だけはいろたらあかん!」と呼応した。
2015年7月30日、樹木希林は辺野古の新基地建設に反対する人びとが集うキャンプ・シュワブのゲート前に現れた。
座り込みを続ける86歳のおばあ、島袋文子さんの隣に座った彼女は、「沖縄戦から辺野古問題までを熱く語」った島袋さんの手を握り、「辺野古問題を俳優仲間に広める」と応えた。

樹々はその後、沖縄問題にさらに踏み込んでいるようだ。
2016年3月には、沖縄の基地問題に挑んだ映画、『人魚に会える日』の公開記念ショーに出演し語っている。


「遠い島の遠い話になって、私も皮膚感覚で感じることは難しい。沖縄はあまりに美しいから、日本の生贄になっていることも際立って見える。(本作も)生贄が大きなテーマですね」
そして、「この映画がいま誕生したことは、とても意味があることだと思います」と仲村監督らを賞賛している。

加藤節さんの「立憲主義論」
あまり馴染みのない名前だが、政治哲学(特にロック)が専門の方で、私より2つ年上。
院生時代に南原繁(曲学阿世の徒で有名)の薫陶を受けたということで、筋金入りの立憲主義者と言ってよい。
今回は赤旗の「焦点・論点」に登場し縦横無尽に語っている。

1.ロックの政治思想
① 固有権
話は固有権の概念から始まる。固有権は英語でProperty。生命権・健康権・自由権・資産権からなる。
それは人間が人間であることの証となる権利であり、これを守るのが近代政治である。
② 法の支配と人の支配
最高裁長官も内閣法制局長官も時の内閣が決めている。結局は人の支配だとも言える。
法を無視する内閣が出てくれば法の支配は崩れる。
それを防ぐ手だてはないのか。それを探るのが立憲主義である。
③ 抵抗権と革命権
ロックは、法の支配が破綻しようとしたとき、唯一の歯止めは抵抗権と革命権だと主張する。
ただそのままでは現代社会には飲み込みにくい。そこで加藤さんは「リベラルな民主主義」と言い換えている。
④ リベラリズムと民主主義
おそらくここが加藤さんの主張の勘所なのだろう。そのままの言葉で引用する。
「法の支配」が「人の支配」(すなわち法の非支配)に転化したとき、それを乗り越える運動としての民主主義が重要になります。
つまり、「人の支配」を打ち破るのは「法」ではなくて、「多数者の支配」なのだということだ。
これが民主主義(デモス+クラシア)であり、ここに立憲主義と民主主義の結合がある。
さらにそこに「行動規範としてのリベラリズム」(解放実践)がインテグレートされ、「リベラルな民主主義」が出来上がるのであろう。

2.南原繁の「全面講和」論
まず加藤さんは「南原繁は非常に面白い意見の持ち主でした」として、南原がオーソソックスな政治的立場ではなかったことを認めている。
そのうえで、現代日本が彼から引き継ぐべきポイントを列挙していく。
① 憲法9条に反対した南原繁
南原は必要最小限の自衛のための兵力は必要だと考えた。
自衛権は次のようにインテグレートされていた。
自衛権を保持し国際社会に復帰するという主権国家の論理と、国際社会に復帰して国連軍の一員として戦争勢力に対抗するという集団的安全保障が統合されたもの。
これは重要な視点で、憲法前文と9条は切り離せるということ、肝心なのは憲法前文の精神であるということだ。
ただし、世界史的スパンで考えれば、この順序は逆になるかもしれない。
② 政治と普遍的「正義」
南原繁は政治の目的として「正義」を重視しました。
この「正義」は、永久平和を実質的な内容とする普遍的な原理であり、世界はこの正義のもとで単一でなければならないと考えた。
ここから2つの「正義」を前提とする片面講和路線は許せないと断罪した。結果、吉田首相から「曲学阿世の徒」と罵られることになる。
③ 憲法9条の精神
これは南原繁ではなく加藤節さんの考え。
日米安保を解消して、多元的な平和条約をあらゆる国と結ぶ、まさに「全面講和」こそが憲法9条の精神だと思っています。
実践的にはそれで良いのだが、南原繁の意に沿うならば、それは9条というより憲法前文の精神なのではないか。


変なサイトを見つけてしまった。
76京大過激派の人権破壊;作詞・作曲集:反戦絵画:エッセイ
最近のブログ記事を見ると、作者はどうも統合失調の世界に入っているようだ。
ただその記録を読む限り、70年代後半の京大過激派が完全に思想崩壊していることはわかる。そして周りが息を潜めて、過激派が自壊するのを見守っている状況も分かる。
みんな逃げたのだ。民青に任せて。
しかし民青は権力ではないからそこまで仕切れない。だから最後は機動隊が出てきて言うとおりにさせられた。
過激派をおだて上げた「朝日ジャーナル」は沈黙し権力支配へ道を明け渡した。民青に対しあれ程までに居丈高だった新左翼は、権力には羊のように温和であった。全共闘を天まで持ち上げ、民青を悪しざまに罵った人々は、今はそのことにはなかったかのように口をつぐんでいる。

いま野党共闘を語るとき、我々にはあのときの思い出が滓のようにたゆたっている。「野党共闘」は、あのときバリケードの外にいた人間と、内にいた人間のあいだの共闘という意味を内包している。
そこをあいまいにする言葉として立憲主義が用いられるのなら、それは拒否しなくてはならない。民主という概念は決して捨ててはならないものだろうと思う。
だから全共闘思想の誤りは折に触れて突き出していかざるを得ない。「戦後民主主義」は虚妄ではなく野党共闘の出発点なのだ。


マーシャル・ガンツというアメリカ人がいて、オバマ選挙の勝利に貢献したというので大変話題になって、一時は日本でも随分取り上げられたようだ。

中身は地域・社会組織論でその手法が注目されたようだが、日本の若者受け止めが思わず笑ってしまうほど無思想なのだ。何かビジネス書とか自己啓発書を読む雰囲気で話が進んでいく。
マーシャル・ガンツの社会変革の思想は見事に換骨奪胎され、その手法や論理の骨格だけが恐竜の骨格標本のように鑑賞の対象とされる。

佐藤 慶一さんのページではガンツの理論が「コミュニティ・オーガナイジング」として紹介されている。日本語で「地域活動論」といってはだめなのか? この辺がよくわからない。
講演会の横一文字は「ハーバード流リーダーシップ  マーシャル・ガンツ博士」となっている。オバマ選挙で有効だったので、選挙に勝つための秘策「票田組織法」として勉強しようという姿勢なのかもしれない。だとすれば、それは邪道だが、邪道から入っても正しい方向に変わるのは可能だから、とりあえず歓迎。
最初に佐藤さんによる「コミュニティ・オーガナイジング」の説明。
変化や変革が生まれる時に創造的なリーダーシップが必要だ。リーダーシップは学ぶことができる。そのためには、行動を起こし、何度も失敗しながら挑戦することが必要である。
こうしたリーダーが、人々を巻き込み、多くの人の力を戦略的に用いて社会変革を実現していく
これでは全く啓発ものの本と同じだ。
若者の皆さん、彼が若者として活動を始めた頃、日本には遥かに大規模な若者の運動があって、活動の理論もはるかに高度に組織化されたものだったのです。言っちゃぁ悪いけど、アメリカなんか目じゃぁなかったんだよ。
ということをチラチラと考えつつ、マーシャル・ガンツを紹介しておこう。
ウィキペディアによれば
Marchall Ganz, 1943年。ハーバード大学を中退し公民権運動を担う市民運動家となった。
48歳になってから大学に戻り、自らの運動経験をモデル化した。オバマ大統領の選挙参謀として、パブリック・ナラティブとコミュニティ・オルガナイジングの手法を用いて勝利したことで有名となる。
これだけでは流石に足りないので、他の複数の記事から取捨選択していく。

1960年にハーバード大学入学後、1964年に中退しミシシッピ州の公民権運動にボランティアとして参加する。
その後カリフォルニア州の農場労働者組織のディレクターとなり、80年代から選挙キャンペーンなどに関わる。
大学を脱落した理由を彼は次のように語る。
一番大きな理由は、私が21歳だったということでしょう。公民権運動の中心にいたキング牧師が、最初に「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」を行ったのも25歳でした。
父親はユダヤ教のラビで、私たち家族は1946年から4年間、ドイツに住んでいました。父はホロコーストを生き延びた人たちといろいろな仕事をしていました。
両親は、「ユダヤ人虐殺は、反ユダヤ主義の結果ではなく、人種差別の結果なんだ」と言いました。
人種差別が起きると、人間がモノになってしまうんです。公民権運動は、このような人種差別に反対するために行なった運動です。
ナラティブ(宣言)
“ナラティブ(narrative)”に、“戦略(strategy)”、“アクション(action)”、“関係(relationship)”、“構造(structure)”を加えたものがフレームワークとなります。
もちろん、もっとも重要なものはナラティブです。これが基本中の基本、すべての価値観の土台を構成することになります。
ナラティブというのは彼独特の言い方だが、自らが形成してきた原則的な価値観の表明ということのようだ。そういう点では「宣言」という表現が一番近いようだ。
あとは戦略とかスキルとかノウハウとかガッツだとかいうものだから、二義的なものである。

そこをガッツはこう語っている。
効果的な行動をとるには“手”が必要です。いい戦略は“頭”で考える。“心”には勇気をもたなければならない。この組み合わせが大切です。つまり、強い心を持ち、頭の中には高いスキルを持ち、さらに効果的に手が動くようにしておく必要があります。この3点セットが上手くいく…
本人がそう力説しているのに、紹介者の若者がてんで理解してくれないのが困るのだが。

ということで、日本語ではこれくらいしか読めない。

多分、それはサンダース現象の一部を構成しているのだろうと思うのだが、わざわざ英文で読もうという気にもなれないので、これにて一旦終了。

丹羽宇一郎さんの書いた「戦争の大問題」という本を読んでいる。

私が以前書いた「保守リベラル」水系を代表する意見なのだろうと思う。

巻頭には田中角栄の言葉が飾られている。そういう水系があるのだ。

だから今、私たちはデモクラシーという流れとリベラリズムという流れをインテグレートしなければならないのだと思う。

その鍵は非戦・平和にある。平和を中立ちにして民主と自由が三角を形成する。

それはデモクラシーの意味を豊富にするだけではなく、一定の変容を迫るものでもある。

去年からずっとそのことが念頭にある。

序文で丹羽さんはこういう

世界の情勢が危ない方向へ行こうとしている。その中で、もっとも危惧されるのは日本の世論に強硬論が目立つことである。

熱狂した国民がいとも簡単に戦争を選ぶことは、9.11直後のアメリカを見ても明らかだ。近年の反中、嫌韓の世論を見ていると、日本が当事国になる危険さえ感じる。

ということで、丹羽さんの強烈な問題意識が「熱狂した国民がいとも簡単に戦争を選ぶこと」への危惧にあることは間違いない。この危機意識は我々世代も同じように共有するものだ。
一方において現実の東アジア枠組み観もきわめてリアルに提起する

力で尖閣の取り合いをすれば、日本は中国に勝てない。

では、アメリカが出てきて日本と一緒に戦ってくれるのか。それはありえない。

世界第一の強国と第二の強国が闘うことはありえないし、世界はそれを望まない。

したがって、尖閣を軍事的に守ることは不可能である。したがって、領有権を守るために軍事対応を煽るような世論操作は誤りである。

こんな会話があった。

「野党共闘と言ってもみんな考えは違うだろう」

「違うから共闘なんだ」

ちょっとこの答えは“はぐらかし”だろうと思う。「根っこは同じだ」と信じ合わないと共闘にはならない。
やはりそこには数合わせの共闘だけではなく、「思想の共闘」が必要なのだ。

「思想の共闘」が進んでいるから野党共闘が前進しているのだろうと思う。デモクラートにとって、これは妥協ではない。思想上の前進なのだ。
なぜ思想上の前進が必要か。それは共闘が野党共闘では終わらないからだ。自民党のような保守の人々とも手を組んでいかなければならないからだ。
じつは、北海道の民主勢力は、すでにこの「思想の共闘」を経験している。それが元防衛庁長官の故箕輪登氏とのイラク問題訴訟での連帯だ。
問題はこのような散発的共闘では情勢のテンポには遅れを取らざるをえないということだ。こちらの側から攻勢的に、確信を持って共闘の思想的枠組みを提起していかなければならない。


朝日新聞11月19日付記事は、貴重な情報だが読み込みが必要だと思う。

要旨を紹介しておくと、

1.9月26日深夜 帝国ホテルで前原=小池の秘密会談が行われた。同席者は神津連合会長、ジャーナリストの上杉隆であった。

2.憲法改正と安保は小池の方針で合意する。

3.「三権の長」経験者を排除する。

出席者が4人であるとすれば、記事は小池氏のエージェントである上杉氏のリークによるものであろう。相当バイアスがかかっているので、どこまでが事実化を同定するのはむずかしいが

まず、経過のつきあわせから。

下記は2017年10月02日 に掲載したものである。

25日 「希望の党」の結党。小池知事がみずから代表に就任。

26日夜 前原・小池会談

27日午後 日テレ系が「合流」の報道を開始。

27日 連合の神津会長が記者会見。希望の党一本化を歓迎。

28日両院議員総会への常任幹事会の提案。

1.今回の総選挙における民進党の後任内定は取り消す。

2.民進党の立候補予定者は「希望の党」に公認を申請する。

3.民進党は「希望の党」を全力で支援する。

討論の中で、「合流ではない。それぞれの候補者に公認を与えるかどうかは、希望の党側が判断する」(NHK)ということで、合流ではなく解党が正しい。

28日の前原代表の記者会見。

 1.どうすれば小選挙区の一対一の構図に持ち込めるか。これが第一の選択肢だ。

 2.4党での協力ということも選択肢だが、政策理念、方向性で一致しない。

 3.解党ではなく、アウフヘーベンだ。

 質疑応答の中で、「私は民進党代表をやめるつもりはない。党籍を残したまま、『希望の党』の公認候補になることは法律上問題はない」と発言。

29日 小池が記者会見。リベラル派を「排除する」と明言する。枝野派30人強が対象とみられる。さらに維新と提携する大阪では候補を出さないとする。

30日 民進党の全国幹事会。地方組織や連合が「話が違う」と不満を爆発させる。北海道連は民進党公認の道を開くよう求めたが拒否される。

30日 希望の党若狭議員、50人以上の1次公認者を選定したと語る。多くが自派メンバーで、民進党現職とぶつかることになる。

30日 赤松広隆議員、「新しい政党も選択肢の一つ」と語る。

30日 連合の神津里季生会長が党本部で前原と会談。「排除はおかしい。要望が受け入れられなければ希望の党の候補に推薦は出さない」と語る。

9月30日 前原・小池会談。前原が希望者全員を受け入れるよう求めたが、小池氏は安全保障政策などの一致が必要だと譲らなかった。

10月1日朝 枝野と前原が電話会談。枝野は「あの時の話と違うではないか。自分は希望の党には行かない等の声も上がってきている」と追及。(時事ドットコム)

10月1日午前 枝野代行が記者会見。希望の党に合流しない民進党前衆院議員らを集めて、新党を結成する考えを明らかにする。新党を作るには国会議員5人以上が必要で、参院議員5人の賛同を狙う。

10月1日午後 民進党の玄葉選挙本部長代行と希望の党の若狭が候補者調整を行う。玄葉は100人の民進党出身者の公認を要請。

10月1日夕 枝野と前原が党本部で会談。希望の党の若狭勝前衆院議員と玄葉光一郎総合選対本部長代行も同席。枝野は希望の党に参加できるメンバーのリストを明示するよう要求。玄葉代行は「立候補予定者のうち60人ほどが公認を得られない」と説明。

10月1日 民進党北海道連、逢坂氏を含む道内候補全員について「希望」に公認を求めない方針を確認。

10月2日午前 枝野氏、連合本部で神津里季生会長と会談。「現状を説明し、私の考えている方向性を話した」と語る。公認漏れの救済を前面に振りかざすと、連合も断りにくいと見たのだろう。


26日の会談は秘密でもなんでもない。10月2日の時点でしっかり記録されている。神津会長が同席していたことも別に秘密ではなかったかもしれない。

合意内容もほぼ予想通りだが、2点ほどだいじなことがある。大量虐殺の話はなかったこと、誓約書の話はなかったことだ。

いずれも微妙なところだ。どちらかと言えば小池側に瑕疵があるようだが、「本当のことは言わなかったが、嘘はついていない」というレベルの話だ。

上杉氏の言葉を信じるとすれば、上杉氏の「排除対象は「三権の長」経験者」ということで合意した。少なくとも小池氏以外は合意したと信じた。もしこれに小池氏が異を唱えなかったとしたら、小池氏の誠意が疑われる。

しかし、そのような雰囲気にまでに詰まっていたのかどうかは分からない。小池氏は前日も「排除する」発言を行っているし、10月1日には誓約書を一斉配布している。

「だから小池氏は合意していなかった、合意したというのは民進側の勝手読みだった」と見るほうが自然なのかもしれない。


こうなると、だいぶ話は見えてくる。

小池氏は民進党との合併を迫られた。これは連合の背後にいる勢力を考えれば問答無用だ。

しかし小池氏には個人的な関係にとどまるにせよ、連合・経団連とはことなる独自の人脈やルートが有るはずだ。

「そうなんでも連合の言うことばかり聞いてもいられないよ」ということになれば、それだけのフリーハンドは与えられている。

そこで、ちょっとばかし突っ張ってみたら、あれよあれよという間に楼閣が崩れてしまった。

これで小池の側は説明できた。

では前原はどうして引き返さなかったのだろうか。結局、引き返せなかった、もう時間がなかったというのが真相であろう。インパールの牟田口司令官みたいなものだ。面の皮の厚さも似たようなものだ。


屠殺の責任者は連合の神津会長ではないか
1.小池氏に「罪」はない

そもそも小池百合子の側には民進党と合同しなければならない必然性はなかった。地盤とカネは魅力だが、負のイメージまで背負い込むことになる。

下記の記事があって、小池没落の瞬間を捉えた描写はそれなりに面白い。
2017.10.24 横田一

「排除」発言を引き出した記者が見た「小池百合子の400日」 なぜジャンヌ・ダルクは墜ちたのか 副題は

希望の星、改革の旗手が一転、リベラル派の「大量虐殺」に手を下す「詐欺師」に豹変した

とかなりどぎついものになっている。

以下が記事の要約

9月29日午後2時の都知事会見で横田さんはこのように質問した。(横田さんは小池氏の「天敵」とされるフリー記者)

前原代表が昨日、「希望の党に公認申請をすれば、排除されない」という説明をした。

一方で(小池)知事、(希望)代表は「安保、改憲を考慮して一致しない人は公認しない」と(報道機関に話している)。

(前原代表と)言っていることが違うと思うのですが、前原代表を騙したのでしょうか。それとも(それともリベラル派排除のために、前原氏と)共謀して、そういうことを言ったのでしょうか。

横田さんは質問の真意を明らかにするためにかなり()で発言を補足している。したがって質問の真意が小池さんに十分伝わったかどうかはいささか疑問がある。

このとき小池さんはいったん答えを保留し、しばらく時間が経ってから横田さんが再質問をしている。

まぁ相当どぎつい表現も使い、質問という形で意図的に挑発している、と取れないこともない。

前原代表が昨日(28日)「(希望の党に)公認申請をすれば、排除されない」と発言した。

そのことについて、小池知事・代表は、安保・改憲で一致する人のみを公認すると発言している。

前原代表を騙したのでしょうか。

それとも共謀して「リベラル派大量虐殺、公認拒否」(を企てた)のですか。

それに対する答えが、以下の通り。

前原代表がどういう発言をしたのか、承知をいたしていません。

『排除されない』ということはございませんで、排除いたします。取捨(選択)というか、絞らせていただきます。

(なぜなら次のように考えているからだ)

安全保障、そして憲法観といった根幹の部分で一致していることが政党としての、政党を構成する構成員としての必要最低限のことではないかと思っております。

この記者会見に同席した週刊朝日の小泉記者は、以下のごとく振り返っている。

油断から思わず出たホンネだったのか。結果的には〝笑いごと〟では済まない発言となったのである。…

メディア戦術に長けた勝負師が見せた、一瞬の油断だった。

たしかに希望の党をめちゃくちゃにしたのは、「排除します」と言い放った小池氏の責任だろうと思う。

それはそれでいい。むしろありがたい話だと思う。
2.前原氏を動かしたものの責任は問われなくても良いのか

しかしこの一言が民進党を崩壊に追い込んだのではない。時間経過を見れば、武装解除して白旗を掲げて屠殺されたのは、民進党上官の責任だ。

9月27日、希望の党の結党を宣言した小池氏は、BSフジの番組に出演した。そこで質問に答えて次のように語っている。

民進党からの合流希望者については、自動的に受け入れることはない。一人一人、こちらが仲間として戦えるかということで決めます。

そして判断材料として、憲法改正と安全保障政策を挙げ「本当にリアルな対応ができる安保政策を共有したい」と語っているのである。

つまり、小池氏の側は最初から「排除する」といっているのであり、何らぶれていないのである。

なのに、翌日になって前原氏は議員を集め白紙委任を取り付けているのである。

前原氏は「小池氏はそうは言っているが、最後は全員受け入れの方向で動く」という強い感触を持ったから動いたに違いない。

その感触をどこから得たか、神津会長以外に考えられない。小沢一郎氏ではないかという噂もあるが、ありえない。今や彼にそれほどの力はない。

では神津会長はその感触をどこから得たか。それは経団連に違いないとは思うが、それらしい徴候はまったく示されていない。
3.小池氏の真意は「排除する」ことにあったわけではない

小池氏の発言は決して軽はずみなものではなかった。むしろ、ひょっとすると、舞台効果も狙って小池氏が仕組んだ可能性も否定できない。それはそれで一つの話だ。

彼女はその後に民進党議員一人ひとりに誓約書への署名を突きつけた。公にはならなくても、むしろそちらのほうがはるかに重大な内容をふくんでいる。それは「政策協定書」という名の踏み絵であった。

主な内容は以下のとおりだ。

1、希望の党の綱領を支持し、「寛容な改革保守政党」を目指すこと。

2、現下の厳しい国際情勢に鑑み、現行の安全保障法制については、憲法にのっとり適切に運用する。

その上で不断の見直しを行い、現実的な安全保障政策を支持する。

3、憲法改正を支持し、憲法改正論議を幅広く進めること。

4、選挙協力の協定を交わしている政党への批判は一切行わない(最終段階で付加)

一言で言えば、民進党の国会議員であればとうてい飲めない中身だ。
ジャーナリストの田中稔さんはこう語っている。

国会前で市民と共に戦争法反対を訴えた多くの民進党の前議員がこの踏み絵を踏み、サインをしたという裏切りを絶対に許せない。

まさに議員たちは神(民主主義への信仰)を裏切り、国民を裏切り、自分を裏切ったのである。

4.まだ死んでいない神津会長
毎日新聞にこんな記事が載った。

連合の神津里季生会長は5日、東京都内で開いた中央委員会で、立憲民主、希望、民進、自由、社民の野党5党の国会議員が参加して政策を議論する「連合フォーラム」を来年早々にも設立する意向を表明した。2019年の参院選や統一地方選をにらんで野党連携を促す狙いがある。

とにかくこの男、民進党をバラバラにし国会議員を虐殺に追い込んだのに、そのことにまったく責任を感じていないのである。本来なら「東京裁判」で絞首刑のはずだが、このヌケヌケぶり尋常ではない。

今後もまた、「旧民進三派」を中心にさまざまな形で「野党再編」の動きが出てくると思う。そのときにそれらをどう捉え、どう対応すべきだろうか。

そのことを考えると、この「大惨事」がいかに仕掛けられ、いかに失敗したかを明らかにするのはメディアにとって大きな責任となるのではないだろうか。


要旨
根本的なミスは…「安倍一強体制」に対する有権者の批判が…「一強体制」そのものに向けられているという認識に欠け…ていたことである。
「友達優遇」や「忖度」を小池代表は「しがらみ」と称して批判を加えたが、それらは「一強体制」の結果として生み出され…たにすぎない。
「安倍一強体制」から「小池一強体制」に「一強」の主役を変えるかのような訴えは…有権者は望んでいない。
「小池一強体制」が、「安倍一強体制」よりも強い印象を与え、「一強体制」に疑問を感じている有権者…に敬遠された。

いっぽうで「小池劇場」は、具体的には次の2つの貢献をもたらした。
1つは、「保守」「リベラル」の分類を明確にしたことである。
2つ目は、バッジを付け続けるために自分を売る可能性がある議員の仕分けをしてくれたことである。

この2点目は辛辣この上なく、これだけでこのレポートに二重丸をつけたいくらいだ。
1点目は、保守二党論の可能性へと話が進むが、これについては不同意である。保守の側にそれほどの余裕はない。
また保守とリベラルという区分けも賛成できない。リベラル保守というスペクトラムも存在しうると思う。うまい言い方が見当たらないが、きつい言葉になるが、「反近代」ないし「反動」と言うべきであろう。

1.1年間の政局
今年の政局は、結局「値戻し」に終わった。
6月から片やモリカケ、片や築地で政局は大いに揺れた。都議会選挙で針は大きくリベラルに動いた。
直後の仙台市長選はその象徴で、「野党は共闘」が前面に飛び出した。
野党共闘の一番の弱点は民進党にあり、これをどうするかが政局の焦点になった。共産党との切り離しを狙う連合は、希望への吸収合併という奇策に打って出た。これが成功したかに見えたその瞬間、「排除はします」発言が飛び出した。
この突然の発言に連合はうろたえた。自民党は喜んだ。
しかし一番の受益者は「市民連合」だった。市民連合は息を吹き返し強烈な逆ねじを食らわせた。
「野党は連合」がふたたび息を吹き返した。「希望」は月足らずのままで死んでしまった。
肝心なことは、「野党は共闘」というときの「野党」の中身が問われ、「中身がなければ野党じゃない」というのが国民の共通認識になったことだ。
残念だったのは「野党は共闘」のあとに続くはずだった「比例は共産」までは風が届かなかったことだが、これは次の楽しみにしよう。
もう一つ、これまでずっと語られずに来てしまっているのだが、「労働戦線の統一」がそろそろ正面から取り上げられなければならないのではないか。とにかく労働センターの共闘が、課題別、地域別、産業別に語られ、積み上げられるべきであろう。

2.「排除する」発言がいかにだいじか
「排除する」発言の重要性は、さまざまなスペクトラムを持つ政治諸潮流をどこで裁断すべきかを鮮やかに示したところにある。
それは戦後政治の流れの中でもっとも右側に引かれた境界線であった。
それは今後の政治の基本線を反リベラリズム、反立憲主義に置くという宣言であった。
ここで、リベラリズム、立憲主義という政治的ポジションがいかなるものであるのかが真剣に問われることになった。
これまで「野党は共闘」をスローガンに掲げてきた市民連合や無党派の活動家にとって、そのスローガンの意味が真剣に問われることになった。
果たして「野党は共闘」の先に「希望の党」はあるのか。その際にリベラリズム、立憲主義の旗は捨ててもよいのか。
そういう議論が不意打ち的に投げかけられたし、その答えは寸時の暇もなくもとめられた。
今回の政党再編劇の仕掛け人は言うまでもなく「連合」であった。
だから「排除します」発言から「どうぞ」という決意に移行するまでの議論は、各地での連合幹部と市民活動家の議論の結果であった。
その結果は両者の力関係によって決まった。しかし連合そのものも、「リベラリズムを捨てよ」という上級からの指示には抵抗を感じたに違いない。
その辺のせめぎあいが、投票行動となって現れているのだろうと思う。

たぶん、選挙結果は日本における戦後70年、リベラリズムの定着度が表現されていると思う。
政治学者を名乗る人であれば、ぜひそういう観点から今回の総選挙を分析してほしい。

ワイマール共和国の成立史を勉強するうち、もう一つの政治カテゴリーに気づきました。

それが「議会主義」です。

実はこれが議論の焦点ではないかと考えるようになりました。

1.議会主義という言葉を覚悟して使おう

この議会主義は民主主義の意味にもなるし、寡占主義の意味にもなります。そして左翼、とくに戦闘的左翼のあいだでは議会主義の評価が、いまだふらつきがあるように思えるのです。

これまでの勉強でわかったのは、さまざまなイデオロギーが実体的な土台を政治・法律の中においていることです。

言ってしまうと当たり前みたいな話で、「だからイデオロギーなんだよ」といわれてそれでおしまいみたいな話ですが、意外と奥深いのです。

2.リベラリズムと立憲主義の同義性

真っ先にこの事に気づいたのは、リベラリズムと立憲主義の同義性でした。ものの本には「リベラリズムの法的表現が立憲主義である」と書いてあるんですね。

「リベラリズム」というのは自由主義であり、自由を何よりも重要な価値観とする考えです。それは「自由とは何か」という考えを根底に含みますから、まず何よりも倫理学であり実践哲学です。

ただそれはきわめて根底的な問いであり、なかなかはっきりした答えが出せるものではありません。ところが政治・法律の観点から見るとそれはきわめてスッキリしているんですね。

それは人間が社会の中で暮らすしか無いのだから、社会はできるだけ個人の自由を尊重しなければならないというのが原点で、これが「社会は…すべからず」という規範集となって集大成されている。これが法律であり、憲法であり、その具体的適用としての各種施策なんですね。

というより「そうあるべきだ」というのが自由主義の主張であり、それは法律的には「立憲主義」ということになるのです。

以上より、こう言えます。

自由主義・リベラリズムというのは色々な考え方ができるけれど、その中核・実質となるのは立憲主義だということです。

3.デモクラシーと「議会主義」の同義性

同じような論立てで言うと

民主主義・デモクラシーというのは、その中核は「議会主義」なのかもしれない、ということになります。

ということは議会制民主主義、人民的議会主義などという言葉がそもそも変なので、非議会制民主主義というのはありえないのではないでしょうか。

民主主義の反対は寡占政治です。貴族政治とも言いますが、別に貴族でなくとも良いわけで、国民の代表ではないのです。

寡占政治には幅があって究極の寡占は独裁制とか王政ということになります。議員の数があ多くても、被選挙権にいろいろ条件がついて、エリートでなければ議員になれない場合は、厳密な意味で国民を代表していないので、寡占制ということになります。

だから議会主義は代議制であるために一見寡占制にも見えますが、本質的には寡占制の対立物なのです。

こう見てくると、民主主義の根本精神は「法のもとでの平等」主義にあるということがわかります。平ったく言えば「一票民主主義」なのです。

3.政治的平等の持つ意味

そう言ってしまえば身もふたもないようですが、実はこれが妖刀村正的な効果を持っているのです。なぜなら抑圧者、搾取者、収奪者、支配者はつねに国民の少数だからです。

民主主義は大多数の国民が、いざという時には国の主人公となる「可能性」を意味します。その可能性を追求するのが「民主運動」ということになるのでしょう。

話を戻しますが、民主主義というのは巨大な可能性を秘めてはいますが、さしあたっては議会主義だと思います。

大変革期に議会主義が果たして有効な変革手段になるか、それは課題の緊急性にもよると思います。ただ議会主義を放棄すればそれは民主主義という統治手段を一時的にせよ放棄することになります。そういう覚悟を保つ必要があります。

直接民主主義という、条件的にしか存在しない合意形態を持ち出すのは詭弁です。ソヴェートとかレーテとかは主体の“あり方”でしかなく、議会に代わるものとして提示するのはすり替えです。

4.「思想の自由」は民主主義の課題ではない

いずれにしても民主主義は議会主義を中核とするものであり、立憲主義と直接の規定関係はありません。我々がこれまで民主主義と言ってきたものの中には、かなり「リベラリズム」の範疇で捉えなければならないものがありそうです。

例えば「思想の自由」をめぐる問題は、まさに自由の問題であり、民主主義一般よりはるかに根底的な問題として捉え返されなければなりません。


高木正道さんのDigital Essays より
民主主義と自由主義は相互に結びつく傾向が見られるが、これらはもともと別個の原理であって、自由主義的であって民主(主義)的でないことも可能であるし、民主(主義)的であって自由主義的でないことも可能である。
ここで自由主義と呼んでいるものは、憲法学の分野で立憲主義と称されているものとほぼ同じものである。つまり、「立憲主義は自由主義を制度的に実現したものである」
そこで、デモクラシーとリベラリズムの関係を突き詰めていくと、究極的にはこういう粗暴な問題提起が可能となる。
粗暴な民衆支配か優雅な寡頭支配か
答えははっきりしているわけで、優雅な寡頭支配の方がいいに決まっている。
いいか悪いかというより、真のデモクラシーに到達するためにはその道を通っていくしかないのである。
真のデモクラシーに到達する路は、粗暴な民衆支配の先には開けていない。だから一度寡頭支配の路に戻るしかないのである。
ただ、粗暴な民衆支配の時期を経過することが、優雅な寡頭支配、そして真のデモクラシーへの歩みを早めるか否かについては議論が分かれるところであろう。その可能性はいささかなりとも期待したい。


②王権の制限された寡占支配

④近代民主主義(共和制)

①専制支配

③粗暴な「民衆」支配

生産力の拡大にともない、社会システムが進化し、統治システムは①から④へ向かうのであるが、次の3点が必然的傾向となる。

1.①から④の流れは必然である。

2.①から②に向かうが、ときに①から③に向かうこともある。

3.②と③との相互転換はありうる。

4.①から④へ向かうために②を経由するのが必須である。③から④への道はない。


「憲法と人権」という本の一節。

デモクラシーを主張する人の中に、リベラリズムをデモクラシーに収斂させてしまう傾向があったのではないか。

国民が政治における自らの運命の決定者となることがデモクラシーの真髄であるが、それは国民が人間個人として自らの運命の決定者であることを抜きに語ることは出来ない。

これを敷衍すると、
つまりデモクラシーはリベラリズムを前提にして語らなければ、真のデモクラシーとはなりえない。民主主義者は民主主義者である前にまず自由主義者でなければならない。
ということになる。

これを憲法の条文にひきつけてみると、
憲法第13条冒頭 「全て国民は、個人として尊重されなければならない
ということが出発点となる、のだそうだ。
なお原案では、「その人類たることに依り」(by virtue of their humanity)という一節が付けられていた。

そこでは抽象的な政治主体としての「国民」ではなく、個性を持つ諸個人の集合としての「国民」が主権者となるデモクラシーがうたわれている。

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