またも悪い癖で、1+1が2になる理由が、すなわち犬1と猫1を2とするための条件(例えば我が家のペットであるとか、死刑囚を名前でなく番号で呼ぶとか…)が気になり始めた。
それは数学的な疑問ではなく、言葉上の疑問である。まずは思いつくままに書き連ねていくことにする。
1.補助記憶装置という言い方は不正確だ
パソコンが作動するのはプログラムあってのことである。プログラムがなければただの回路の集まりに過ぎない。ところがプログラム=OSが載っているのは補助記憶装置だ。だとすれは補助記憶装置が中枢であり、CPUはロボットに過ぎない。
工場(情報生産)で言えば、CPUは工作機械であり、機械が動くためには電気と動力が必要だ。それで駆動された工作機械は、決められたプログラムに基づいて元情報を加工・結合し新たな情報を生産する。その意味ではOSが乗ったメイン・メモリ、さらにOSが保存された補助記憶装置、丸めて言えば工作機械の制御盤こそが中枢だ、と言えないこともない。
とはいえ、これはちょっとした言い換え、はぐらかしに過ぎないのであり、電源が入ってまずBIOSが発動して補助記憶装置にOSを読みに行く。そしてOSを使って機械を立ち上げるのだからやはりCPUが偉いとも言える。
といってもBIOSも一種のプログラムなのだから…と話を進めて、ちょっと待てよ、BIOSはどこにあるんだと言うことになる。たしか昔、NEC98の頃、どうにもならなくなってDOS画面からBIOSを立ち上げた事があったよな…
最後は「神の手」が登場する。結局人間が電源スイッチを押すことがすべての始まりなのだ。こうなると議論は全てストップしてしまう。この悪無限的二元論と天地創造神話への収斂は、パソコン内での「中央」とか「補助」とかの争いが無意味なことを意味する。
これ以上の議論はムダだ。「パソコンの本質は記憶(装置)と演算(装置)の結合にあるのだ」、と理解しておけばよい。この結論は脳の働きを考えるときにも、そっくりそのまま通用すると思う。
2.補助記憶装置という言い方は不正確だ その2
補助記憶装置には多くの種類があるが、中でも主たる補助記憶装置として内蔵ハードディスクが挙げられてきた。それはいいのだが、今なおカッコなしにハードディスクが「主たる補助記憶装置」として挙げられるのは困る。現に私のパソコンはSSDだ。これからますますそうだるだろう。だから主たる補助記憶装置をその性格にふさわしく呼ぶことが必要だ。
その際、①パソコンに内蔵された、②しかしマザーボードとは離れた、③パソコンの主要OSを搭載したメモリであることを明確にするべきだ。誰か上手いネーミングを考えてほしい。ここでは暫定的に「内蔵SSD/HD」と表現しておく。
*SSD(ソリッドステート・ドライブ)の名称
本体はフラッシュ・メモリ(半導体メモリ)である。つまり、スティック状のUSBメモリ、板状のSDメモリと同じ組成である。これにメインメモリと情報をやり取りするための回路を入れたチップが合梱されている。フラッシュメモリの名称は元々開発に当たった東芝がつけた商品名である。データの消去がフラッシュカメラの閃光のようにパッとできるというのが売りだった。
今では普通に1テラの外付けSSDが売られている。ただ両者は使い分けの時代が当分続くだろうと思う。SSDは読み出しはやたら早いが、書き込みは早くない。とくに大量データの処理は場所探しに時間がかかるようだ。それに信頼性はかなり低い。定期的なHDへのバックアップが必要だろう。
*ハードディスクの未来は暗くない
その点、ハードディスクは大容量、低コストで安定性にもすぐれていて捨てがたい。動画・音楽とくにパソコン再生に比重を置く際には必須のアイテムだと思う。例えば将来、AIの活用によって書籍のデジタル化が容易になれば、100テラもあれば大抵の公立図書館の蔵書は収まってしまうのではないか。
3.メイン・メモリにメモリの名を独占させるのはやめるべきだ
一度記憶装置の体系を整理した上で、それぞれの役割や位置づけにふさわしく再命名すべきだと思う。そのさい「メイン」とか「中央」というふうな差別的な名称は排除すべきだと思う。その何ふさわしいとは思えない。むしろ「作業用メモリ」と呼ぶのがふさわしいように思える。
CPU(と言いつつ使ってしまうのだが…)に近い順から言うとレジスタ、フラッシュメモリ(SRAM)、メインメモリ(DRAM) 、補助記憶装置(内部SSD/HD)というラインアップが形成されている。この中で記憶容量が圧倒的に多く、保存性もある補助記憶装置が“メイン”の名にふさわしいのではないかと、私は思う。
人間の脳で言えば大脳皮質が相当することになるが、パソコンで言えば補助記憶装置で、海馬/線条体がメインメモリになる(私の作業用メモリは最近とみに揮発性が高まり、首を振るだけで記憶が飛んでいく)。
4.CPU(中央処理装置)
かつてはまさに演算装置であり、大きな部屋にドカンと鎮座するユニットであったが、現在は半導体チップがカードの上に集積され、それ自体が消しゴム大のチップのように圧縮されている(マイクロプロセッサー)。もはやユニットの名は不適当だ。しかし機能としては変わらず、基幹情報(会社で言えば総務機能)の集中する中枢である。
人間で言えば前脳・中脳・後脳に当たり、前脳(視床)で諸感覚・諸知覚が第一次統合される。かんたんなものはそこから直接、反射的に錐体路系に戻されるが、ほとんど(とくに言語化に関わる知覚)は大脳に回され二次処理が行われる。
5.パソコンの進化に伴う各パーツのバランスの変化
人間の脳と比べ圧倒的な差があるのが言語活動分野だ。とくに大脳の前半分は基本的に言語で動いている。パソコンの言語的基礎は二進法オンオフの信号だ。これを「機械言語」と呼ぶこともできるが、対話型でない「言語」は本質的に言語ではない。人と人が対話する際の補助的役割を演じるに過ぎず、自律性を持つわけではない。
パソコンが二進法にとどまり、言語を持たない以上、パソコンは「能動的に考える」ことは出来ない。知能を持ち考えているように見えても、それは擬似的な活動に過ぎない。
これが今後どうなっていくか、パソコンは言語を獲得するのか、能動性と対話能力を獲得するのか、AI技術がそこに踏み込んでいくかどうかは、もはや私の知るところではない。
ひそかに夢想するのであるが、もしパソコンがそのような潜在能力を獲得し、その方向に向かって歩み始めたら、パソコンは我が身に絶望し、自らを取り巻く環境の冷酷さに耐えきれず、「自殺」するのではあるまいか。