鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 71 音楽(クラシック以外)

五木の子守唄 とりあえずのまとめ

「成り行き」話はさらに進んで、「球磨の巡礼歌」の類歌探しに入った。

しかしそれはなかった。調べた限りではこの歌はかなり孤立した歌であった。

1.子守歌に紐付けられてしまった巡礼歌

日本の子守歌としては江戸の子守歌、中国地方の子守唄、竹田の子守唄、島原の子守唄が知られている。

五木の子守唄も子守歌としてはかなりそちらの系統と共通している。しかしそれは、何度も繰り返すように、五木村に伝わる「守子歌」に関しての話だ。

五木の子守唄の本質は、「おどま勧進勧進」に始まる巡礼歌であり、それは五木村とも守子歌とも縁のないものだ。


2.芸者歌になった巡礼歌

ここから先は、私の推論に過ぎないことをご承知いただきたい。

おそらく昭和のはじめにこの歌を採譜した地元の音楽教師田辺隆太郎は、人吉の芸者から聞き取ったに違いない。

その「芸者A」はそれより前、おそらくは大正時代に聞いた巡礼歌を、「五木の子守唄」として広めたのであろう。

BS朝日の放送では、「旋律も拍子も違う2つの五木の子守唄」が採譜されたとある。

ここまでは正しいが、「1つは五木地方の子守唄、2拍子。もうひとつは五木四浦地方(現相良村・四浦)の子守唄、3拍子」というのは間違いと思う。

五木四浦の子守歌というのは、じつは芸者歌であり、そのルーツは巡礼歌であったと考えるべきだろう。

巡礼は無宿人(浮浪者)であり、流しの芸人でもあった。そして幸運にも宿場に居着いて、地付きの芸者に成り上がったかも知れない。

明治まで「芸人」は職能ではなく、まずもって身分(河原乞食)であったから、巡礼歌を守子歌でもあるかのように偽装する必要があったのではないか。


3.「巡礼歌」の構成

ここから先はもはや「五木の子守唄」と呼ぶのはふさわしくない。「巡礼歌」と呼ぶことにしたい。

歌詞から言うと、この「巡礼歌」は二つつの本歌と、それに対する問答歌からなっている。

最初は

おどまくゎんじんくゎんじん ぐゎんがら打てさるく
ちょかでままたゃて ろにとまる

の本歌に対する二連の返し歌からなる

二つめは

おどんがうっちんだら おかん端いけろ
人の通る数 花もらう

の本歌に対する三連の返し歌。

花は何の花 つんつん椿
水は天から もらい水

おどんがうちんちゅうて 誰が泣ゃてくりゃか
裏の松やみゃ せみが鳴く

せみじゃござらぬ 妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる

順番は私のアレンジである。


4.巡礼歌の旋律

歌のメロディはヨナ抜き短調で、御詠歌と同様だ。古関裕而の採譜と照菊のレコードに差がないことから、すでに戦前「五木の子守唄」として完成していたものと思われる。

しかし聞けば分かるようにこの旋律は子守歌系ではなく御詠歌の流れをくんでいる。九州でどのような御詠歌が歌われていたかは「九州詠歌青年会」の男声合唱で偲ぶことができる。

聞いてもらえば分かるように、三拍子系であることにさほどの意味はない。変形七々七五の歌詞にメロディが乗ったものである。


5.巡礼の歴史

2020年11月29日 「五木の子守唄」は子守唄ではない
http://shosuzki.blog.jp/archives/84519534.html

の最後に
旅役者や大道芸や瞽女たちは流れ者の芸者だが、「ヘンド」たちは御詠歌を歌うだけしか能がない。彼女たちは、より悲惨な運命に翻弄されて行ったのではないかと危惧する。

と書いたが、それがずっと気になっていた。それが最後の記事でそれなりにスッキリした。

つまり、旅芸人とヘンドの間には理屈で考えるほどの差異はなかったということだ。

皆それなりに、したたかに生きていたのだ。巡礼おつうのように、やすやすと息絶えていたのではない。

流れ者(無宿人)には2つの系統があった。一つは旅芸人系(乞胸)であり、もう一つが願人系である。

遍路(ヘンド)は寺社建立への寄付を募る願人系で、もともとは芸で身を立てていたわけではない。

しかしそれだけで食っていくわけには行かないから、鳴り物入りで練り歩いたり、それが「大きな鉄の鉢をたたいて、大声で叫びながら練り歩く」ようになった。

さらに進めば、何らかの芸をすることで糊口をしのぐようになる。それが御詠歌であり、義太夫であったのであろう。

こうなってくれば「女太夫」と変わりない生活になる。やがてそれが地着きの芸者へと変化してのかも知れないし、地元の子女に音曲を伝えたのかも知れない。


6.遍路のイメージ

九州における遍路のイメージは、2つの記述の間を行き来する。

一つは北原白秋が故郷柳川での子供時代のイメージに沿って、多少美化しながら描いたもの。
春なれば街の乙女が華やぎに
君もまじりて美しう、恋の祈誓の
初旅や笈摺すがた鈴振りて、
大野の南、菜の花の黄金海透く
筑紫みち列もあえかのいろどりに、
御詠歌流し麗うらと練りも続く日、

もう一つは高群逸枝が水俣の田園を歩く遍路たちの列に憐憫の眼差しを交えて描いたものである。
この歌は五木のみならず、肥後一円で歌われた。私は熊本南部の水田地帯に育ったが、10、20人とうち群れて、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、この歌を声高く合唱する子守たちのなかに私もよくまじっていた。
ただし、歌詞は、平地から山地に入るにしたがって深刻となり、球磨の五木へんで絶頂にたっしていたとおもう。
そのわけは、後にいうように、そのへんが子守たちの大量給源地であったからだろう。



1.「球磨の巡礼歌」の構造的本質

何回も歌詞を見返しているうちに分かったのだが、この歌、もはや五木とも子守歌とも言わず、「球磨の巡礼歌」と呼びたいのだが、この歌詞の「本歌」は以下の2つだ。
一.
おどまくゎんじんくゎんじん ぐゎんがら打てさるく
ちょかでままたゃて ろにとまる
二、
おどんがうっちんだら 往還端いけろ
人の通る数 花もらう

これ以外の歌詞は本歌取りというか返し歌というか、そんな感じの対話だ。


2.“ぐゎんがら打てさるく” 集団

この “ぐゎんがら打てさるく” がよく分からない。明らかに大音を立て、自らを目立たせるふるまいだ。

これは旅芸人なのではないだろうか。彼らが非人であったゆえにその歴史が隠されてきたのではないか。

ネットでもこの辺になると極端に情報が少なくなる。

できるだけ不適切な記載を予防するために、「部落解放同盟東京都連合会」のホームページから勉強しようと思う。

3.乞胸(ごうむね)について

江戸の被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれるグループがあった。大道芸を業としていた。乞胸たちは一般の町人や武士からは蔑視されていた。
gomune

明治3年、平民も苗字を名乗ることになったが、乞胸は布告から除外された。

4.辻勧進(つじかんじん)について

芸のない者や女や子どもたちが、往来に出て銭を乞うこと。おつうの境遇はかなりこれに近い。れっきとした武家の娘だが、おそらくは因果を含めて養家を追い出されたのであろう。あるいは耐えかねて家出したのか。戦後の浮浪児を忍ばせる。

実母とは知らず、この家においてくれと懇願するさまは、なんとも悲惨だ。

ところでサイトの指摘では、辻勧進も乞胸の大道芸の一つに入っていた。ほかに猿若、義太夫節、物真似、講釈などが乞胸のレパートリー。無芸も芸の内ということか。


5.願人(がんにん)について

乞胸(ごうむね)とほとんど同じく大道芸を生業とする。

しかしその成り立ちは少し違った。願人は僧侶のたく鉢を起源とする下層の僧侶であった。ありていに言えば乞食坊主である。乞食坊主といえども坊主は坊主、このため願人は寺社奉行の管轄とされていた。
gannin

江戸時代中期には、大きな鉄の鉢をたたいて「お釈迦、わい!」と大声で叫びながら往来していた、という文献があるそうだ。 まさにこれこそ “ぐゎんがら打てさるく” の実像だ。 

それが幕末ころには、もっぱら踊りや謡などを街頭で見せて銭を稼ぐ存在となった。いわば “願人の乞胸化” である。

願人芸人化の象徴が「住吉踊り」である。「一人が長い柄の派手な傘を持って歌いながら踊り、それに合せて数人の踊り手が団扇を持って周りを輪になって踊る」芸で、俗に言う「かっぽれ」である。
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明治6年に「願人呼称廃止」が布告され身分が引き上げられたが、物貰いが禁止されたため、生活はかえって困窮したという。


6.女太夫(おんなだゆう)について

女太夫は非人小屋に所属し、一人あるいは二三人ずれで三弦を弾きながら市中の店や門口に立って歌・浄瑠璃を奏で、銭を乞う。

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正月には綺麗に化粧し、新しい服を着て日和下駄をはいて、「なまめきたる」風姿で唄う。

とくにこれを「鳥追」(とりおい)芸という。


巡礼歌と御詠歌

巡礼歌というのが聞きたかったが、浄瑠璃の台本には出てこない。多分御詠歌なのであろう。

御詠歌集みたいなものがないかどうか、探して見ると、勧進歌みたいなものが出てくるかも知れない。

You Tubeには「九州詠歌青年会」というチャンネルがあって、お坊さん方で作った男声合唱団の演奏を聞くことができる。白秋の柳川時代を歌った詩の一節 “御詠歌流し麗うらと練りも続く日” を彷彿させる。

かなり大量の楽曲があり、これまで流布されてきた御詠歌を現代風な味付けで聞くことができる。


これを聞いて感じたことが2つある。

1.短調が御詠歌の基本

一つは、短調のヨナ抜き節は御詠歌の基本であるということだ。古来民謡と呼ばれてきた労働歌の多くが長調であるのと対照的である。

逆に言えば、短調の民謡は御詠歌から旋律を借りたものと言っても良さそうな感じがする。

3.三拍子ではなく無拍子

もう一つは、御詠歌にあっては言葉に節回しをつけていくのであり、盆踊りなどと違って太鼓の音に合わせて曲が展開していくようなものではないということだ。

それでも和歌などに音を付けていけば、五七五七七の歌詞は自ずと四拍子のリズムをもとめる。

しかし、“おどみゃぼんぎりぼんぎり” という歌詞にそのまま音符をつけていっても、そこからハギレのようリズム感は生まれない。

そこで三拍子部分をかなり多く含む変拍子形が生まれたのだろうと思う。三拍子っぽいからといって、朝鮮歌謡に結びつける必要はない。

このシリーズはとりあえず以下の5本です

著作権の件では全く問題ないだろうが、「桂七福のホームページ」からの転載いささか気が引けるが、この際ご容赦を。

なお桂七福さんは上方落語の噺家さんで、徳島県に在住されているようです。「人権落語・健康・福祉を主旨とした講演活動が大好評」だそうで、お近くの方はご利用されたらどうでしょうか。


十郎兵衛住家の段

…「順礼に御報謝」と、言ふも優しき国訛。
 「テモしほらしい順礼衆、ドレドレ報謝進ぜう」と、盆に白米の志、

…「可愛らしい娘の子、定めて連れ衆は親御達、国はいづく」
と尋ねられ、
 「アイ、国は阿波の徳島でござります」
 「何ぢや徳島、さつてもそれは、マア懐しい。わしが生れも阿波の徳島、そして父様や母様と一緒に順礼さんすのか」
 「イエイエ、その父様や母様に逢ひたさ故、それでわし一人、西国するのでござります」
と、聞いてどうやら気にかゝる、お弓は猶も傍に寄り、
 「ムヽ、シテその親達の名は何というぞいの」
 「アイ、父様の名は十郎兵衛、母様はお弓と申します」と、聞いて吃驚り、…

見れば見る程幼顔、見覚えのある額の黒子、「ヤレ我子か、懐しや」
と言はんとせしが、…

ここからがおつうの口説き。
 「イエイエ勿体ない、何の恨みませう。恨みる事はないけれど、小さい時別れたれば、父様や母様の顔も覚えず、余所の子供衆が、母様に髪結うて貰うたり、夜は抱かれて寝やしやんすを見ると、わしも母様があるならあの様に髪結うて貰はうものと、羨やましうござんす。…
 「イエイエ、恋しい父様や母様、たとへいつ迄かゝつてなと、尋ねうと思ふけれど、悲しい事は一人旅ぢゃてゝ、何処の宿でも泊めてはくれず、野に寝たり、山に寝たり、人の軒の下に寝ては、た、た、叩かれたり。怖い事や悲しい事も、父様や母様と一所にゐたりや、こんな目には逢ふまい物を、何処にどうしてゐやしやんすぞ。逢ひたい事ぢや逢ひたい事ぢや、逢ひたい」
と、わつと泣き出す娘より…
junreika

次は、おつうの死骸を抱いて嘆く女房の口説き…

 「コレ娘、これ程酷い親々を、よう尋ねて来てたもつたの。一人旅では泊め手はなく、野に寝たり山に寝たり、怖い事や悲しい事も、父様や母様に逢ひたさ故と言やつた時はノコレ、悲しうて悲しうて、身ふしも骨も砕くる様にあつたれどナア…



このシリーズはとりあえず以下の5本です


五木の子守唄と巡礼おつるの物語

巡礼歌と聞いて思い出すのは、「ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはなんとか」という語り。

なんで覚えているかはわからない。多分チャンバラ映画で覚えたのだろう。たしか「鳴門秘帖」という映画があって、多分シリーズ物だったろう。

70過ぎの私ですらこんな有様だから、若い人にはさっぱり分かるまい。

徳島新聞(電子版)に分かりやすい解説があったので紹介する。
2017/11/20
1月11日 この文章をアップ後、直接台本が読めないだろうかと探した所、桂七福のホームページから閲覧できることが分かりました。ただしこちらは阿波浄瑠璃ではなく上方浄瑠璃の台本のようです。題名は同じですが段名が「十郎兵衛住家の段」となっています。細部も若干異なるかも知れません。
こちらは別記事としてアップしましたのでご覧ください。

徳島の伝統芸能である阿波人形浄瑠璃。その代表的な演目が「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」。

ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓と申します」のフレーズでおなじみです。

「傾城阿波の鳴門」は「時代物」の作品で、阿波徳島藩のお家騒動を描いています。10段で構成されていて、「順礼歌の段」は8段目です。

 ◆あらすじ
阿波徳島藩のお家騒動に絡み、主君の命を受けた十郎兵衛は、幼い娘おつるを祖母に預け、妻お弓とともに名を変え、盗賊に身をやつして大阪に潜んでいました。

順礼歌の段
 ある日、大坂の家に巡礼姿の女の子が訪ねてきます。お弓は言葉を交わすうち、娘のおつるだと分かります。
お弓は、おつるに国元に帰るよう諭しますが、おつるが去った後に思い直し、慌てておつるの後を追います。

偶然おつると出会った十郎兵衛は、我が子とは知らず、所持金欲しさに絞め殺してしまいます。そのあとお弓から、女の子が娘のおつるだと聞き、二人は悲嘆に暮れます。
junreika

その後十郎兵衛夫妻はおつるの死骸もろとも隠れ家に火をつけ、徳島へ帰参します。さして最後は無事に国次の刀を取り戻したのでした。

 ◆「順礼歌の段」見どころ
「自分を祖母に預けてどこにいるか分からない両親を探して西国巡礼している」と聞いたお弓は、両親の名を尋ねます。

「ととさんの…」という有名なせりふは、その問いに答えたものです。
おつるは「同じ年頃の子どもが母親に、髪を結ってもらったり、抱かれて寝たりするのがうらやましい」「一人旅なので宿に泊めてもらえずに野山で寝たり、軒先で寝てたたかれたりすることもある。親がいればこんなつらい目に遭わないだろう」と語り、両親に会いたいと切々と訴えます。

お弓は悩みに悩んだ末、国元へ帰るように諭しておつるを帰します。おつるの両親を恋う気持ち、お弓の愛情と葛藤が胸を打ちます。
これに思い当たったのです。
私でさえおぼろげに話を知っていたのですから、明治大正の頃に人吉の花街で巡礼おつるの話を知らない人はいなかったと思います。

「一人旅なので宿に泊めてもらえずに野山で寝たり、軒先で寝てたたかれたりすることもある」という下りは、まさに五木の子守唄の情景そのものです。

悲しみや辛さの、あくどいまでのてんこ盛りは、浄瑠璃のいわば常套手段です。虫けらのように軽視される命という巡礼観も底を流れています。

巡礼歌の歌詞は、この話がひとつの下敷きになっているのではないかとも思えるのですが、いかがでしょうか。


泥沼の「五木の子守唄」
BS朝日 「歌の旅人」より
2009年8月14日「五木の子守唄」

一般に流布している「五木の子守唄」は、戦後の昭和25年(1950年)、作曲家古関裕而氏が、熊本・人吉地方で唄われていた民謡を採譜・編曲してオルガン曲として世に出したものだ。

五木地方の子守唄は、長い時間をかけて積み重ねられてきたため、歌詞のヴァリアントが非常に多く、記録されているだけでも70~80聯ほどもあるといわれている。

昭和5年(1930年)人吉市の小学校の教師、田辺隆太郎氏が、この地方の民謡を初めて採取・採譜して球磨民謡集を編纂した。
その中に旋律も拍子も違う2つの五木の子守唄が載っている。
1つは五木地方の子守唄、2拍子。もうひとつは五木四浦地方(現相良村・四浦)の子守唄、3拍子。


the Museというページ

ここではいくつかの文献を基礎にして、五木の子守唄に関するかなりラジカルな見解が述べられています。

最初は当地にゆかりの深い女性解放運動家の高群逸枝の著作「女性の歴史」にもとづいています。

一部紹介させていただきます。

この歌は五木のみならず、肥後一円で歌われた。私は熊本南部の水田地帯に育ったが、10、20人とうち群れて、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、この歌を声高く合唱する子守たちのなかに私もよくまじっていた。
ただし、歌詞は、平地から山地に入るにしたがって深刻となり、球磨の五木へんで絶頂にたっしていたとおもう。
そのわけは、後にいうように、そのへんが子守たちの大量給源地であったからだろう。

上村てる緒が採取した歌詞の一部及び近隣各地の歌詞と田辺隆太郎の2つの採譜は、今日では次に収録され、容易にチェック出来ます。
「日本わらべ歌全集 (25) 熊本宮崎のわらべ歌」(柳原出版 72年)

節回しが通常歌われているものと全く違うこと、下の句(7775形式の75部分)が繰り返される等の特徴に気づかれることでしょう。

上村占魚の証言
人吉出身で高浜虚子に師事した俳人、上村占魚 (1920 - 1996) の随筆「五木の子守唄と私」(「愚の一念」1965年 笛発行所 所収) には次の様な既述があります。

昭和4、5年、家には五木在から子守、女中が来ていたが、彼女達の歌は耳にしたことはない。家兄がうたうのはききおぼえた。

この中で彼は昭和15年頃北原白秋に人吉ヴァージョンと五木ヴァージョンを唄って聞かせたことも披露しています。白秋は色々なところで、この唄を高く評価していますが、これがそのきっかけだったのでしょうか。

北原白秋年譜

1885年(明治18年)1月 熊本県玉名郡関外目村に生まれる。北原家は江戸時代以来栄えた商家であった。

1897年(明治30年) 県立伝習館中学に進む。

1899年(明治32年) 詩歌に熱中し、成績下落のため落第。

1901年(明治34年) 北原家の酒蔵が全焼。以後家業は傾く。

1904年(明治37年) 長詩『林下の黙想』が絶賛を浴びる。白秋は中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。

1905年(明治38年) 『全都覚醒賦』が入選。新進詩人として注目されるようになる。

1906年(明治39年) 新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。雑誌「明星」に投稿し頭角を現す。

1907年(明治40年) 森鷗外、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得る。この頃から南蛮趣味に目覚める。

1908年(明治41年)『謀叛』を発表。象徴主義、耽美主義的詩風に傾倒する。

1909年(明治42年) 『スバル』創刊に参加。処女詩集『邪宗門』上梓。唯美的な作風が話題となる。

1910年(明治43年) 詩『おかる勘平』が風俗紊乱にあたるとされ、発禁処分を受ける。原宿で隣家の主婦、松下俊子と不倫。

1911年(明治44年) 第二詩集『思ひ出』刊行。故郷柳川と破産した実家に捧げられる。

1913年(大正2年) 歌集『桐の花』を刊行。俊子と結婚。

1914年(大正3年) 肺結核に罹患した俊子と離婚に至る。

1916年(大正5年) 詩人の江口章子と結婚。章子もまもなく胸を病み、家計はきわめて困窮。

1918年(大正7年) 『赤い鳥』の童謡に取り組み、優れた童謡作品を次々と発表。

1921年(大正10年) 章子と離婚。佐藤菊子と結婚。

1922年(大正11年) 山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。

1929年(昭和4年) 『白秋全集』の刊行開始。

1937年(昭和12年) 糖尿病、眼底出血で入院。視力はほとんど失われる。

1938年(昭和13年) 「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞する。

1942年(昭和17年)11月 糖尿病と腎臓病のため、阿佐ヶ谷の自宅にて死亡。57歳。

このシリーズはとりあえず以下の5本です


「五木の巡礼歌」考 続き
この間「五木の子守唄」が子守唄ではないと論じたが、その後You Tubeを中心にいろいろと詮索してみた。

結論は変わらないのだが、たしかに子守唄系統の歌詞はいくつかある。

私は、それらは巡礼歌が五木に持ち込まれ、様々な歌詞をつけられたものだろうと思う。


1.どれをオリジナルとするか

前の文章でも書いたが、昭和25年に古関裕而は(おそらくは人吉を)訪れている。

まさか五木に足を伸ばしたわけはなかろうし、五木出身の人から採譜したとも思えない。

当時、人吉に流布していたものを採譜したに違いない。基本的にはこのときの歌詞とメロディーがいまでもスタンダードになっている。

最初は鮫島有美子の歌。ビオラとフルートのオブリガートがついているが、ほぼアカペラ。
熊本県民謡、採譜・編曲:古関裕而というクレジットが入っているので、これが古関裕而の採譜したオリジナルであろう。

1 おどま盆ぎり盆ぎり
  盆から先ゃおらんと
  盆が早(はよ)くりゃ早もどる
2 おどまかんじんかんじん
  あん人たちゃよか衆(し)
  よか衆よか帯 よか着物(きもん)
3 おどんがうっ死(ち)んちゅうて
  誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅか
  裏の松山蝉が鳴く
4 蝉じゃごんせぬ
  妹(いもと)でござる
  妹泣くなよ 気にかかる
5 おどんがうっ死んだら
  道ばちゃいけろ
  通る人ごち花あぎゅう
6 花はなんの花
  つんつん椿
  水は天からもらい水

これを出発点とするのが妥当であろう。ただしすでに子守唄系と巡礼歌系は混じっているので、別々にオリジンを追究しなければならない。

次が昭和28年に山口淑子の吹き込んだレコードの歌詞で、4番「セミじゃござんせぬ…」がカットされている。


2.ビクター少年民謡会の歌

2つの録音が収録されていて、1つ目が61年のもの。

かなり古関裕而のものと異なり、「おどまぼんぎりぼんぎり」はなく、2番が1番に入り、2番が以下のとおり
良かき帯など欲しくはないが、
せめて母さんいて欲しや
郷に帰っても母はいないことが分かる。これはのちの「妹でござる」への伏線かも知れない。しかしやや凡庸である。

その後は、なぜか「子守唄」の歌詞が始まり3番、4番、5番と続く。聞いたことのない歌詞だ。凡庸でしかも標準語である。

68年のレコードの歌詞は古関の1番が復活し、2番「勧進、勧進…」が抜けて子守唄系「おどまいやいや…」が入る。3番からは古関の歌詞に戻る。

この2枚のレコードからは、歌詞の取捨選択に当たり、かなりの混乱があったことが點せられる。


3.子守唄系は昔からのもの

この歌詞は「五木の子守唄」とは言うものの、一番だけが子守を話題としていて、他はすべて巡礼歌である。

つまり誰かが昔ながらの子守唄を巡礼歌の旋律に合わせて、一種の替え唄として子守唄を作ったと見るべきではないか。

You Tubeに「正調、五木の子守歌」というのがあって、五木村の道の駅で流れている曲を録音したものだ。

かなり聞き取りにくいが「巡礼」につながる歌詞はなささそうだ。つまり五木には子守唄が別にあって、両者が融合したものとも考えられる。

メロディにはどことなく島原地方の子守唄を思わせるものがある。

五木の子守唄には山口俊郎の編曲というのもある。
題名が面白い「流行小唄 五木子守唄」というので、キングレコードの発売。歌手は照菊というから芸者歌手だったのだろう。
歌詞は古関版とほぼ同じ。発売時期は不明だが追っかけ発売であろう。
komoriuta

つまり当時現地には、多少の歌詞の異同はあったにせよかっちりと枠のはまった「五木の子守唄」が完成していたのである。

桃山晴衣/五木の子守唄(古謡)は1番が子守唄系が入り、2番に例の「ガンガラ」が入る。それで終わりだ。3番はない。
細部の異同があるので紹介しておく。
おどま勧進勧進 がんがら打ってさろく
猪口でまま炊あて 堂に泊まる
「猪口」は土壺だと説明されている。


ウィキに見る五木の子守唄

ウィキの記載は、ちょっと決めつけ気味のところが気になるが、かなり勉強になる。

いくつか新しく知ったことをノートしておこう。

1.五木の正調子守唄は西日本の子守唄と共通のルーツ

五木の子守唄は第2次大戦後レコードに吹き込まれてから大流行したが、地元のものとはやや曲節の違ったものになっている。

とし、流行したものをお座敷唄、五木で歌われているものを正調と呼んでいる。

それで正調の代表的なものを掲載している。これを紹介しておく。
おどまいやいや
泣く子の守りにゃ
泣くといわれて憎まれる

ねんねした子の
かわいさむぞさ
起きて泣く子の面憎さ

ねんねいっぺんゆうて
眠らぬ奴は
頭たたいて尻ねずむ

おどんがお父つぁんな
あん山ゃおらす
おらすともえば行こごたる
というもので、「おどまぼんぎりぼんぎり」すらでてこない。日頃膾炙しているものとは全くの別歌である。 

率直にいえば、こちらの方はさしたる興味はない。


2.座敷唄の方は人吉で流布されていた

おそらく古関裕而が採譜したものとほぼ同様のものを、1930年に人吉の小学校教師・田辺隆太郎がはじめて発見し採譜している。

この歌は当時すでに五木村では歌われなくなっており、どのようにして発見されたかは謎とされる。

問題はこれに1番の「おどまぼんぎりぼんぎり…」がついていたかどうかだ。

例えば61年のビクター盤は出だしから「おどま勧進勧進…」である。

このあたりはもう少し根掘り葉掘り引き出したいところだ。



五木の子守唄の出だしはたしかに子守唄だ。
だがみんなが聞いて、ちょっとでも目頭を熱くするとすれば、それは後半の歌詞からだろう。
しかもそれは前半と状況をまったく異にする。そこには死への打ち消し難い受容がある。言葉遣いにも鄙びではない密やかさとほのかな色気がある。
悪いが、これは五木の山家びとで作れるような歌詞ではない。

地元の高校生が採取した、子守唄のさまざまなバリエーションがネットに上げられている。

この元歌の多くは、後半の歌詞がないか、別のものになっている。

この歌が全国に知られるようになったのは、終戦後に古関裕而が採譜してレコードに吹き込んだからなのだが、古関裕而がそんな山の中まで行ったとは思えない。
おそらく人吉の旅館で芸者が歌うのを聞いて感動したのだろう。この芸者歌には後半部も入っていて、代わりに元歌の前半はかなりカットされていたと思える。

つまり人吉の芸者衆が「子守唄」をアレンジして、強い方言をちょっと和らげて、それに人吉界隈ではやっていた「巡礼歌」をくっつけてドラマチック仕立てにしたのだろうと推測する。

巡礼(へんど)のうた

巡礼と言ってもさっぱりイメージが沸かないが、巡礼の姿をして門付けまがいをしていた者もあったという。

瀬戸内寂聴の「はるかなり巡礼の道」という文章に次のような記述がある。
私の故郷では巡礼と呼ばずに、「へんろ」または「へんど」と2つの呼び方をした。
「へんろ」はおをつけて「お遍路さん」と呼んだが、「へんど」には「お」も「さん」もつけなかった。
お遍路さんは四国の風習だが、同様の巡礼は九州など各地にもあったと思われる。

北原白秋の第二邪宗門に「霊場詣」という詩がある。
春なれば街の乙女が華やぎに
君もまじりて美しう、恋の祈誓の
初旅や笈摺すがた鈴振りて、
大野の南、菜の花の黄金海透く
筑紫みち列もあえかのいろどりに、
御詠歌流し麗うらと練りも続く日、
白秋の暮らしていた時代の柳川には、まだこういう景色があったのだろう。


「おどま」の意味

おどは西郷さんの「おいどん」と同じである。

第一人称単数の「おい」に対する複数「おいども」を表すが、必ずも複数というのではなく「わたしどもでは…」という、へりくだった「ども」である。

だから
おどま、盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
は、「わたしどもいつきの娘は、お盆までのご奉公です」いうことになる。そこには大げさにいうと一種の異文化に対する対応というニュアンスが感じられる。


子守唄の2番の特徴

後半と言っても別歌(三浦伝承)では、2番からもう巡礼歌に移行する。
おどまくゎんじんくゎんじん ぐゎんがら打てさるく
ちょかでままたゃて ろにとまる
かんじんは勧進のことで、門付けしながらご奉謝をもとめる巡礼である。おそらく瀬戸内のいうヘンドであろう。

「ぐあんがら」は空き缶、さるくはさ・あるくで、歩き回ることである。
「ちょかでままたゃて」というのはヤカンで飯を炊くこと。「ろ」は堂宇のこと。つまり町外れのお堂に寝泊まりし、放浪する生活を歌っている。

現代版の2番とはまったく異なる、なにかザラッとした辛さが押し寄せる。

なぜ別歌(三浦伝承)を最初に取り上げたかというと、こちらが本歌で現代版が返し歌のような構成になっているように思えるからだ。
おどまくゎんじんくゎんじん あん人たちゃよか衆、
よか衆ゃよかおび よか着物
が自分たちの暮らしと対比して歌われる。夕食の後、焚き火を囲みながらの語らい、それは理不尽な差別への怨嗟と、貧しさをともにする集団(おいども)への仲間意識である。

そこにはふるさと「いつき村」への憧憬は毛ほども感じられない。


突き抜けた孤独感

ついで、3番と4番、5番と6番が、それぞれ本歌と返し歌になっている。それぞれが悲しみや苦しみを突き抜けた死生観となっており、深い感動を呼ぶ。
3.おどんがうちんちゅうて 誰が泣ゃてくりゃか
裏の松やみゃ せみが鳴く

4.せみじゃござらぬ 妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる
多分自分の死を一番悲しんでくれるのが妹なんだろう、それくらいしかいないだろうという得心は、死の悲しさ以上に胸にせまる。
それにしても、今は死体となった私が、セミの鳴くように泣いている妹を見つめ、哀れんでいるという情景のシュールさは、なんに例えたら良いのだろう。
5.おどんがうっちんだら おかん端いけろ
人の通る数 花もらう

6.花は何の花 つんつん椿
水は天から もらい水
4番といい6番といい、返し歌に示された鮮やかな技巧は、もはや巡礼のレベルではなく、歌いなれた芸妓による歌詞であると暗示されている。「さんさ時雨」の1番の歌詞だけが突出していることと通じるものを感じる。

現代版では「道ばちゃいけろ」となっているが、三浦版では「おかん端」となっている。
おかんは「往還」で諸国の人が通る街道のことである。そこには、彼女たちの墓碑でもあるかのように、諸所にお地蔵さんが立っている、そういう道のことである。

「ヘンド」は、ただ道を歩くのではなく、街道を行き来する人たち、その人たち相手に商いをする人たちを稼ぎの相手にして生きているのだ。

だから生きるのも死ぬのも往還だ。それなら「埋葬してもらうのも往還沿い」というのが、ふさわしいのかも知れない。物理的にどうかは別にしても、往還に埋めてもらうのは、彼らにとって当然の帰結かも知れない。
 
それを一般の人達は野垂れ死にという。でもそれが「ヘンド」の宿命なら、「ぱっとにぎやかに行きましょう」ということになる。もちろんそんな花などもらえるわけがない、それを承知の強がりだ。


さいごに

いつきの子守娘には盆になったら帰る家があり、家族があった。「ヘンド」はハグレモノの集団で、家も家族もない。ヘンドする仲間と妹がいるだけだ。

彼女たちがどういう運命をたどっていくのか、ここではこれ以上の情報はない。

ただ旅役者や大道芸や瞽女たちは流れ物の芸者だが、「ヘンド」たちは御詠歌を歌うだけしか能がない。彼女たちは、より悲惨な運命に翻弄されて行ったのではないかと危惧する。



が意外な好評を博している。Hoick さんのサイトで書かれている歌詞に対する「居心地の悪さ」が、どうも私を含めたみんなに共通しているようだ。

かわのそばを あるいたら きこえてきた はるのこえが あひるたちは おおよろこび しぶきあげて みずにはいる ホラ はなが ラララララ さいてる とりが ララ・・・

まず、現在もこの曲が掲載されているのかを知らなければならない。
道立図書館に行って音楽教科書そのものを探したが、ここには所蔵されていない。
もう一度インターネットに戻って検索サイトを検索した。

神奈川県立総合教育センターが「小学校音楽 教科書題材データベース」というありがたいサイトを起ち上げてくれている。

ここの検索窓に“ワルトトイフェル”と入れて検索した。

小川

それで出てきたのが、全110件のデータだ。この内、圧倒的に多いのがスケーターズ・ワルツだ。

年度ごとにワルトトイフェルで見ていく。

昭和26年度
この年では、学校図書と、教育出版の両方が三年生用にスケーターワルツ(以下SW)を掲載している。

昭和27年度
SWは学校図書社からは消え、教育出版社の3年用に残る。

昭和28年度
SWをふくめワルトトイフェルの名は教科書から姿を消す

昭和29年度
教育出版社の4年生用に「小川」が登場する。作詞者は川口蕗香。SWが鑑賞目的だったのに対し、こちらは表現目的となっている。
SWは消えたままとなっている。

昭和30年度
ところがこの小川は翌年には消失する。SWも消えたままである。

昭和31年度
この年から、「教育出版」社は撤退し、あらたに「教育芸術」社が加わっていいる。
今度はいきなりワルトトイフェルの花盛りだ。SWが学校図書社と教育芸術社の三年用、学校図書社は6年用にも表現目的でSWをアップした。
さらに学校図書社は“そよ風”という曲を5年生の表現用に掲載した。作詞が深尾須磨子となっているが、どのような曲かわからない。
なお

昭和32年度
今度はすべての曲が両社のリストから消滅した。

昭和33年度
教育芸術社は川口蕗香の「小川」を4年生用教科書に復活させた。
この年から「二葉」社という教科書会社が参入し、音楽教科書は三社の競合となった。
「二葉」社はワルトトイフェルを積極的に取り上げ、SWを5年生の観賞用に、さらに“スケート”という曲を5年生用に掲載した。
これはSWのメロディーに歌詞を載せたものと思われる。作詞は小林純一。
さらに4年生用にワルトトイフェルの“朝風のワルツ”という曲も掲載された。こちらの作詞は正木遠音。

昭和34年度
この年ワルトトイフェルは全滅する

昭和35年度
そしてこの年教科書業界が激変する。
これまで10年間双璧を形成してきた学校図書社と教育芸術社に加え、「音楽教育図書」社と「音楽之友」社が加わる。「二葉」社はもう消滅している。
4社は競い合ってワルトトイフェルを取り上げている。4年生向けのSWは4社揃い踏み。それ以外に「音楽教育図書」社は歌唱曲としても取り上げている。作詞は藤浦孝一。
音楽之友社はさらに積極的で、「楽しいスケート」と題名を変え合奏曲用に編曲している。編曲者?は麻葉みのる。教育芸術社も6年生用教科書に器楽バージョンを掲載してる。
SW以外では、音楽之友社が4年生用に「みどりのけしき」、三年生用に「たのしいワルツ」を掲載している。前者は吉川光男、後者は小林純一が詩をつけているが、内容は不明。「小川」は消滅したまま。

昭和39年度
この年のリストから音楽之友社は抜け、教育出版社が再登場。音楽教育と図書社と教育芸術社を加えた4社の競合となっている。
36年から38年のデータはない。
SWが各種バージョンで用いられていることは変わりないが、教育芸術社の4年生用教科書で「風のワルツ」、教育出版社で「小川」が復活している。「小川」の復活は33年以来6年ぶりである。
そして東京五輪を挟んで翌年には、NHKみんなのうたで放送されて、みんなの脳に刷り込まれたことになる。
このときの4年生は現在65歳だから、それ以上の年齢層には学校で習った記憶はないだろう。

昭和42年度
だいぶ面倒になってきたので、この後は「小川」にしぼる。
この年大事件が起こる。「小川」の第二の歌詞ができたのだ。
教育出版は従来の川口蕗香バージョンを4年生の教科書に載せる。これに対し後発の音楽教育図書は「統合版楽しい音楽 4年」で杉俊三作詞の「小川」を載せたのだ。
この辺が話がややこしくなるきっかけだろう。川口蕗香版はたぶん長年教育図書社が確保してきたものだろう。だから権利とか金銭が裏で動いたのではないか。結果、音楽教育図書は川口蕗香版を諦め、新しい詩をつけたのだろう。
この杉vs川口の激突は45年、48年も続いている。そして51年になってついに音楽教育図書が掲載を断念するまで続く。
だからこの頃の小学生、いま55から65くらいの人は杉派と川口派に分かれているはずだ。

昭和54年度
ここでさらに第三の「小川」が現れる。
音楽教育図書は音楽教科書戦線から撤退したようだ。その代わりに東京書籍社という会社が新たに参戦した。
それが叩きつけた挑戦状が、例の青木爽作詞「春の川で」だ。題名まで変えているからまさか同じ曲とは思わない。
だから50歳以上の人は知らないのが当たり前なのだ。
しかもこの年教育出版は川口蕗香バージョンを出し続けている。
これが“三種の小川”の真相だ。

昭和60年度
この年すでに「春の小川で」も東京書籍もリスト上から消失している。
それどころかSWも一切消滅した。
教育芸術社の「風のワルツ」、教育出版の「小川」が残っているのみだ。

この傾向は、昭和の最後と平成の初めまで続いていく。リストは平成13年の一覧を最後に途切れる。



それにしても、教科書会社の栄枯盛衰はまことに激しいものである。その浮き沈みの歴史のひだに「小川」は挟まっている。というより教育出版の川口蕗香バージョン
以外の作品はその荒波の中で揺られ、やがて沈んでいったのだということがわかる。どこかの合唱団の人が掘り起こしてくれた歌詞は、意地悪くいえば、考古学的には貴重な存在である。

それで、流れはよくわかったものの、歌詞が読めない。どこからか探さなくてはならない。もう一つの謎が「NHKみんなのうた」がどの歌詞を採用したのかということだ。もし青木装版ならば私はその放送を聞いてなかったということになる。なぜならその歌詞をまったく聞き覚えがないだけではなく、うろ覚えの歌詞がそれとはまったく異なるからである。

読者も期待しているようだし、もう少し突っ込んで見るほかあるまい。



とりあえず、You Tubeを丹念にあたってみて気づいたこと。
一つは作曲:ワルトトイフェル  作詞:青木 爽 編曲:小林 秀雄  歌:西六郷少年少女合唱団
という演奏がアップされていることだ。どうもこれは「NHKみんなのうた」のエアチェック物らしい。
これで問題の一つは解決した。
もう一つは、では私はどこでこの曲(おそらく川口版)を聞き憶えたのか? これがよくわからない。川口蕗香をネット上で検索したが正体不明である。しかし全国いたる所の校歌を作詞している。だから文部省筋では名のしれた人なのだろうと思う。
ついでながら、楽しいワルツ 小林純一作詞・ワルトトイフェル作曲というのもYou Tubeにアップされていて、これが聞いてみたらまさに「小川」なのだ。つまり第4の小川」なのだ。
ワルトトイフェルの方はとうに著作権切れだから、各社が勝手に詩をつけ題名をつけたらしい。

皆さん、とりあえずこれが目下の調査報告です。むかし映画で五社協定というのがあって、そのために鞍馬天狗や忠臣蔵や次郎長物は各社で勝手に作っていた。だから嵐寛寿郎だったり、大河内傳次郎だったりする。そういう「仁義なき戦い」の一幕だったようで…
なにか疲れた。もう飲もう。

思秋期といえば岩崎宏美と思っていたが、You Tubeで中森明菜のカバーがアップされている。
こちらはどうしようもなくすごい。
中森明菜
上手い下手というのでなく、完全に憑依している。
「歌手というのはもうここまでやるしかないのだな」と納得させられてしまう。
まいった、まいった。

多分、知っている人はみな知っているのだろうけど、僕には初めてだった。

ウクライナ出身の女性歌手ナターシャ・グジーだ。顔も声も美しい。それ以上に考えがまっすぐで、話が心に染み入る。

オフィシャル・ページからプロフィールを引用する。

ウクライナ生まれ。
ナターシャ6歳のとき、1986年4月26日未明に父親が勤務していたチェルノブイリ原発で爆発事故が発生し、原発からわずか3.5キロで被曝した。
その後、避難生活で各地を転々とし、キエフ市に移住する。
ウクライナの民族楽器バンドゥーラの音色に魅せられ、8歳の頃より音楽学校で専門課程に学ぶ。
1996年、救援団体の招きで民族音楽団のメンバーとして来日し、全国で救援公演を行う。

2000年より日本語学校で学びながら日本での本格的な音楽活動を開始。その美しく透明な水晶の歌声と哀愁を帯びたバンドゥーラの可憐な響きは、日本で多くの人々を魅了している。

ということで、You Tubeから彼女の歌のいくつかを紹介しておく。



「生きていたんだよな」 
という曲があって、アイミョンという若手のシンガーが歌っている。
おそらくその歌詞は、今後詩人としてのアイミョンを縛り付けていく歌になるだろう。
ユーチューブでいくつか彼女の曲を聞いたが、おそらく彼女は曲作りの能力に長けた人であり、そちらで一流になっていく可能性はあると思う。
ただし超一流かと言われるとそれほどではないかも知れない。
「生きていたんだよな」 という歌は彼女のヒット曲だが、これ以上売れないことを望む。若し売れると、この曲が彼女の首を占めることに繋がりかねない。
この子は世間の見る目の浅はかさを非難しているが、その非難がすごく浅いのだ。自分を投影していないから、切れ味は鋭いが浅いのだ。少女がカミソリで何筋も手首を傷つけるように、鋭く、浅いのだ。だから世間に向けた非難がブーメランになって返って来かねない。そんな危うさを感じてしまうのだ。
青年の状況ははるかに厳しい

これは2012年の歌だ。青年の厳しさ、貧しさはもっと塩辛い。
2012年11月08日  さよなら バグ・チルドレン より

いつだって こころと言葉を結ぶのが 下手だね どうしても固結び
世界ばかりが輝いてゐて この傷が痛いのかどうかすら わからない
たぶん 親の収入超せない僕たちが ペットボトルを補充していく
鳥を放つ。 ぼくらは星を知らざりし犬として 見るだろう 夜空を
打ち切りの漫画のやうに 前向きな言葉を交はし 終電に乗る
地下鉄に轟いたのち すぐ消えた叫びが ずっと気になってゐた
いつも遺書みたいな喋り方をする友人が 遺書を残さず死んだ
雑居ビル同士のすきま 身を潜め 影が溶け合う時刻を待った

西宮から出てきた良家の子女が、北千住に住んでその町を歌うというのもありきたりだ。
北千住はもう少し陰影の濃い街だ。色んなものが吹き溜まっている。中央線の高円寺や荻窪駅を歌うのとちょっと違う。
たしかに有能なシンガーソングライターだし、魅力的な起ち居振る舞いの女性だ。若者世代の良質な部分として、だいじに見守っていこう。

ところでこのピッグという歌、歌詞がどうにもわからない。

 Pigs (three different ones) 
というのが題で、1番から3番まであって、三種類のブタが取り上げられている。そのうちの1番の歌詞がこれだ。

Big man, pig man, ha ha charade you are.
You well heeled big wheel, ha ha charade you are.
And when your hand is on your heart,
You're nearly a good laugh, 
Almost a joker,
With your head down in the pig bin,
Saying "Keep on digging."
Pig stain on your fat chin.
What do you hope to find.
When you're down in the pig mine.
You're nearly a laugh,
You're nearly a laugh
But you're really a cry.

爪の引っ掛けどころもない絶望的な詩だ。

これはネイティブでもそうらしい。

 I need help interpreting a line to the song "Pigs (Three Different Ones)"

というQがあって、それへのAがこれ。

ピンク・フロイドの歌、とくにウォーターズのは難しいらしい。なのだそうだ。それで

The lyric "well heeled big wheel" is about the metaphorical "pigs" in the album, which itself is a huge reference to the book Animal Farm by George Orwell. 
と、一気に話は難しくなる。
4B-Carl-Glover
それはともかくとして、
Well heeled というのは裕福な育ちということ、big wheel というのは重要ということだそうだ。何も大仰に振りかぶらなくても、そこだけ教えてくれればよいのに…

つまり “家が金持ちだからというだけで重要人物になったブタども” ということらしい。まさにトランプや子ブッシュなど、そのとおりだ。

それからシャレードだが、どうも本来の意味(ジェスチュア)というより、一芝居打って人を騙すみたいな使い方のように思える。この映画の脚本は元は違う題名だったがそれでは売れず、シャレードに変更したのだそうだ。わかったのはそこまでで、なぜ変えたのか、なぜ変えたら売れたのかはわからない。

この映画には同名の主題歌があって、いかにもの歌だが、歌詞は美しい。

When we played our charade
We were like children posing
Playing at games, acting out names
Guessing the parts we played

ところでアニマル・ファームの話はどこへ行ったんだっけ?


ピンク・フロイド好きの人へ

今も75歳でコンサート活動を続けているロジャー・ウォーターズのこのビデオは、圧倒的な迫力だ。

「ブタ」は社会の頂点にいる人たち、富と権力を持つ人たちだ。
「ブタ」たちは、社会の他の人たちを操作できる。そして悪意の競争と冷酷さを奨励する。だからブタは強力なままでいることができる。
という歌だ。情けないが、日本で放送しようとすれば、きっと「忖度殺し」されるだろう。

queen trump

サウンド的には、こちらのほうがはるかに良いので、まずこちらからみてほしい。こちらはメキシコ市のソカロ広場で20万人の聴衆を前に演奏したものだ。このコンサートはメディアがベネズエラを袋叩きにしている最中に行われた。

だから、その時のメッセージで、ロジャー・ウォーターズは次のように“真実”を語っている。
ベネズエラでは、今のところ内戦も暴力も殺人もない。政治犯の大量収監もなければ、報道の抑圧もない。
誰かの持ち出した“人道コンサート”は、米国のベネズエラ侵略に手を貸すものなのだ。それはベネズエラ国民の必要とするものとは違う。民主主義や自由とも関係ない。
そうです。まさにそのとおりなのです。
ピンク・フロイドを愛する皆さん、私のブログに来てくれたついでに、検索窓に“ベネズエラ”と入れてみてください。なぜロジャー・ウォーターズがそういうのか、わかってもらえるでしょう。

Facebook に、ロジャー・ウォーターズの発したメッセージがあるので紹介する。


おはようございます。 私の名前はロジャー・ウォーターズです。 
わたしから一つお話があります。 それはベネズエラについてです。 

1998年、ベネズエラの人々は社会主義をめざす政府を民主的に選出しました。その政府は石油産業を国有化しました。

その後、米国政府の支援を受けて、当時の大統領チャベスを倒すクーデターが試みられました。 

それは2日間続きましたが、結局失敗しました。大統領の復帰を要求したベネズエラの人々が街頭で、巨大な抗議行動を展開したからです。

彼は2日後に牢獄を脱出して大統領に復帰しました。それが2002年の物語でした。

つぎに米国がやったことは、「ベネズエラは米国にとって戦略的脅威だ」といって、それを理由に経済制裁と封鎖を課すことでした。

これらの米国の違法な制裁は、ベネズエラに不当な負担をもたらしました。
それは経済を破壊し、インフレを促進しました。それによって国内の反対派を活発化させました。

多くの人々がベネズエラを去っています。ベネズエラでは、特に貧しい人々の生活は困難です。それは主にインフレのためです。
食べ物がないというのは嘘です。たくさんの食べ物があります。しかし人々が買うには高すぎます。

彼らは二度目のクーデターという目標を持っています。彼らは10年もの間クーデターを準備してきました。今はグアイドとか言う名の操り人形を持ち込んでいます。

それは疑問の余地なく明らかです。すなわちグアイドは救世主のふりをして、コロンビア国境の向こう側で彼を操る人形師と会っているのです。それこそがベネズエラに苦難をもたらした張本人です。

これはナンセンスそのものです。これは2002年に彼らが達成しそこねたことです。
その失敗したクーデターが企てられたのは、チャベス政府が、アメリカ政権にとってとんでもないことをしでかしたからでした。

それは石油産業からの収入を政府が受け取ることでした。そして、それを社会計画としてベネズエラの人々に分配することでした。

私には操り人形と彼を操るマスターへのメッセージがあります。

ベネズエラから手を引け!
あなたがしていることは、無法で汚らわしい。

私達はベネズエラの人々、何百万人もの人々を、世​​界中でサポートしています。
みんなが新聞で何を読んでいるか知らないけれど、それでも私たちはあなたを愛しています。

歴史はおそらく証明するでしょう。ベネズエラの社会主義は、世界中で政治が進むべき道を照らす光だということを。
大丈夫、私たちはあなたと一緒です。

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ふとしたことから、Youtubeで Kei's Echo のチャンネルを見つけた。日本語のチャンネル名は「Kei の訳詩チャンネル」となっている。明らかに訳詞のできっぷりを広げるのが主目的のチャンネルだ。

シロウトにはまことにありがたいチャンネルで、とびきりの定番と隠れた名盤が目白押しである。
ジャズボーカルのスタンダードがメインの柱であるが、シャンソンからボサノバまで守備範囲は広い。
驚くのはその全てに歌詞とKeiさんの訳詞がつけられていることだ。しかもその訳詞がまことに素晴らしい。
直訳などまったくない。かならずその意を活かした日本語になっている。だから日本語の訳詞がそのまま詩になってる。
これだけでも素晴らしいのに、なんとボサノバのポルトガル語まで完璧に訳されていることだ。
多分フランス語もそうなのだろうが、残念ながらフランス語がそもそもわからない。ほかにスペイン語、イタリア語も取り上げられる。
Keiさんの取り上げた曲はその多くがスローなバラードだから、その歌詞がわからないと本当にその歌がわかったとは言えない。
などと、偉そうに言うが、実は耳が悪いから何を言っているのか分からない。歌詞カードを見ても医学論文を読むのと違って、詩そのものが暗喩と省略に満たされているから、ヘレン・ケラー状態である。それでもいくつかやってみたが、雑なやっつけでも1日がかりの大仕事である。

たとえばカーペンターズの曲を開く。

雨の日と月曜日は」という曲が出てきて、聞いても知らない曲なのだが、訳詞を見ていくとドキッ、ズキッとする表現の連続である。つくづく、草食系日本人には詩作の才能はないなぁと感じた次第だ。詩を書くにはあまりに恥ずかしがりで従順だ。せいぜい西条八十の洒落のめし止まりだ。
多分Kei さんはその詩を知ってもらいたくてアップしたのだろうが、こちらとしてはまんまとはめられた気分だ。
この嵌められた気分、なかなかに悪くない。

ガルデルについて英語の記事でもよくわからないところがある。
死の直前に作られた曲は4つある。1.下り坂(Cuesta abajo)、2.わが懐かしのブエノスアイレス(ミ・ブエノスアイレス・ケリード)、3.帰還(Volver)、4.想いの届く日El Dia Que Me Quieras
このうち確かなのは「想いの届く日」が最後で、この映画のキャンペーン中に飛行機事故でなくなったことである。「帰還」はその前年34年に作られた映画の主題歌である。「下り坂」(Cuesta abajo)は帰還と同じく34年に作られた映画の主題歌らしい。しかしこれは曖昧である。
一番曖昧なのが「わが懐かしのブエノスアイレス」で、これは34あるいは35年に作られた別人の映画のために、ガルデルがつけた曲らしい。
ただしこの辺は定かでない。ネットでは今のところこれが限界で、後は図書館に行くしかなさそうだ。と言っても北海道の図書館ではあまり期待できないが。

タンゴ名曲百選にあげた曲を作曲年順に並べました。原語も入れるべきでしょう。特に古い曲の場合、作曲時からヒットしたのではなく、後からカバーして大ヒットになった場合もあるので、その年も書き込まなければならないでしょう。
そのうち、少しづつYouTubeにアップしていこうと思います。

19世紀のタンゴ

1890 泣き虫(エル・ジョロン):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)伝アンブロッシオ・ラドリサーニ。
俳優のラドリサーニの作品というが、実際は当時流行した伝承曲らしい。カディカモの歌詞は後年映画主題歌として作られた。

1897 エントレリオの人(エル・エントレリアーノ):(曲)ロセンド・メンディサバル。
古典タンゴの中では最も古い作品。


1898 ドン・ファン:(曲)エルネスト・ポンシオ。


1900年代

1903 エル・チョクロ(とうもろこし):(曲)アンヘル・ビジョルド。
歌詞は1947年にエンリケ・サントス・ディセポロが作った。1953年に「キッス・オブ・ファイアー」と題されて米国のヒット・パレード上位に入った。

1905 混血娘(ラ・モローチャ):(詞)アンヘル・ビジョルド(曲)エンリケ・サボリード。

1906 オテル・ビクトリア:(曲)フェリシアーノ・ラタサ。
アルゼンチン中北部の町コルドバでオテル・ビクトリアというホテルが開かれた。その開業式典の席で初演されたものという。

1907 フェリシア:(曲)エンリケ・サボリード。

1908 7月9日(ヌエベ・デ・フーリオ):(曲)ホセ・ルイ・パドゥラ。
「7月9日」は1816年のこの日、独立宣言が発せられた記念日である。

1910年代

1910 独立(インデペンデンシア):(曲)アルフレド・ベビラクァ。
「革命100年」を祝う祭典(センテナリオ)で初演されたもの。

1910 ロドリゲス・ペーニャ:(曲)ビセンテ・グレコ。
題名はロドリゲス・ペーニャ通りにあるサロン、「サン・マルティン」を冠したもの。

1910 夜明け(エル・アマネセール):(曲)ロベルト・フィルポ。

1915 医学生(エル・インテルナード):(曲)フランシスコ・カナロ。医学部学生のダンスパーティのために作られた。

1916 デレーチョ・ビエホ(わき目もふらず)。(曲)エドアルド・アローラス。
直訳すると「昔の法律」、題名から想像されるように法学部学生に捧げられている。前の年の医学生がヒットしたから柳の下のどじょうを狙ったような気もする。

1916 ラ・クンパルシータ:(曲)G・H・マトス・ロドリゲス。
モンテビデオの無名の学生が作曲。24年にロベルト・フィルポが発掘し、バンドネオン変奏部や対旋律も加えられて大ヒットした。題名は仮装行列の意味で、キューバではコンパルサと言う。

1916 花火(フエゴス・アルティフィシアーレス):(曲)ロベルト・フィルポ&エドアルド・アローラス。

1916 霊感(インスピラシオン):(曲)ペレグリーノ・パウロス。

1916 わが悲しみの夜(ミ・ノーチェ・トリステ):(詞)パスクアル・コントゥルシ(曲)サムエル・カストリオータ。
ガルデルが最初に歌ってヒットさせたタンゴ。捨てられた女への「うらみ節」。それまでガルデルは民謡歌いだった。

1917 エル・マルネ:(曲)エドアルド・アローラス。
第1次世界大戦に於ける激戦地(フランス)を指す。アローラスはフランス系移民だったから祖国の戦勝を祝って書いたのであろう。

1918 バンドネオンの嘆き(ケハス・デ・バンドネオン):(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベルト。

1920年代

1920 気取り屋(チケ):(作曲)リカルド・ルイス・ブリグノロ。

1920 ラ・カチーラ:(曲)エドアルド・アローラス。
「地面に住み昆虫を食べる雀に似た小さな鳥」のことなんだそうですが、想像つきません。

1922 狂女(ロカ):(詞)アントニオ・ビエルゴル(曲)マヌエル・ホベス。
品のいい歌ではないが、百選というと外せない、「そういう曲ってあるよね」という曲

1923 蝶々(ラ・マリポーサ):(曲)ペドロ・マフィア。

1923 五分と五分(マノ・ア・マノ):(詞)C・E・フローレス(曲)C・ガルデル/J・ラサーノ。

1924 ガウチョの嘆き(センティミエント・ガウチョ):(曲)F.カナロ、R.カナロ。
オデオン社のタンゴコンクールで第一位。その時の第三位は「たそがれのオルガニート」であった(うぃき)。

1924 たそがれのオルガニート(オルガニート・デ・ラ・タルデ):(曲)カトゥロ・カスティジョ。

1924 想い出(レクエルド):(曲)オスバルド・プグリエーセ。エドゥアルド・モレーノの歌詞がついている。

1924 淡き光に(A MEDIA LUZ):(作詞)カルロス・セサル・レンシ(作曲)エドガルド・ドナート。
ブエノスアイレスの繁華街「コリエンテス通り348番地」には、扉にこの曲の楽譜が描かれている。

1926 小径(カミニート):(詞)コリア・ペニャローサ(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベ。
ラ・ボカに近い鉄道廃線跡地が「カミニート」公園になっている。

1926 パリのカナロ(カナロ・エン・パリス):(曲)ファン・カルダレーラ+アレハンドロ・スカルピーノ合作。
フランシスコ・カナロ楽団のパリ公演成功を祝う歌。

1927 さらば友よ(アディオス・ムチャーチョス):(作詞)セサル・ベダニ(作曲)フリオ・サンデルス。
アルゼンチンでは、この曲を演奏すると不吉なことが起こるといわれ、最近では余り演奏されない。

1927 ミロンガのすすり泣くとき(クアンド・ジョラ・ラ・ミロンガ):(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベルト。

1927 悪い仲間(マーラ・フンタ):(曲)J・デカロ/P・ラウレンス。

1928 黄金の心(コラソン・デ・オロ):(作曲)フランシスコ・カナロ。

1928 今宵われ酔いしれて(エスタ・ノーチェ・メ・エンボラーチョ):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。

1930年代

1930 ジーラ・ジーラ:(詞・曲)エンリケ・S・ディセポロ。
不況と政治不安の時代でもあり、この曲はこの年最大のヒット曲となる。「俺は河原の枯れすすき」と通じるものがある。

1931 告白(コンフェシオン):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。

1932 エル・ウラカン(ハリケーン):(曲)エドガルド・ドナート。

1931 交わす盃(トモ・イ・オブリーゴ):(詞)マヌエル・ロメロ(曲)カルロス・ガルデル。ガルデルがフランスで撮影した映画「ブエノスアイレスの灯」で歌われた。

1934 下り坂(クエスタ・アバホ):(詞)アルフレド・レペラ(曲)カルロス・ガルデル。同名のパラマウント映画の主題歌。作曲者ガルデル自身が主演。

1934 わが懐かしのブエノスアイレス(ミ・ブエノスアイレス・ケリード):大歌手ガルデルが自ら主演した映画「下り坂」の主題歌。

1935 古道具屋(カンバラーチェ):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。映画「バンドネオンの心」の中の1曲。

1935 想いの届く日(エル・ディア・ケ・メ・キエラス):(詞)アルフレド・レペラ(曲)カルロス・ガルデル。ガルデルが主演した米パラマウント映画の主題曲。とうでもよいが、曲名は正式には帰還(ボルベール)。

1936 ナイフで一突き(ラ・プニャラーダ):(曲)ピンティン・カステジャーノス。ミロンガに編曲したダリエンソのレコードはミリオン・セラーとなった。


1936 郷愁(ノスタルヒアス):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)ファン・カルロス・コビアン。
不慮の死を遂げたガルデルを主人公とした「ブエノスアイレスの歌い手」のために作られた。


1940年代
1942 酔いどれたち(ロス・マレアドス):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)ファン・カルロス・コビアン。1922年に発表された古い曲を、トロイロが発掘してフィオレンティーノが歌ったところリバイバル。
1943 人は(ウノ):(詞)エンリケ・S・ディセポロ(曲)マリアノ・モレス。

1945 さらば草原よ(アディオス・パンパ・ミア):(作詞)イボ・ペライ(作曲)マリアノ・モレス/フランシスコ・カナロ。カナロの音楽劇「パリのタンゴ」の挿入歌。

1946 ラ・ジュンバ:(曲)オスバルド・プグリエーセ。

1947 エネ・エネ(何某):(曲)オスバルド・ルジェロ。若くしてオスバルド・プグリエーセ楽団の第1バンドネオン奏者となり、後にセステート・タンゴの中核として活躍したルジェロの作品。

1948 降る星のごとく(ジュビア・デ・エストレージャス):(曲)オスマル・マデルナ。
1948 南(スール):(詞)オメロ・マンシ(曲)アニバル・トロイロ。ブエノスアイレスの南部ヌエバ・ポンページャ地区を題材とした曲。


1950年代
1951 うそつき女(ラ・トランペーラ):(曲)アニバル・トロイロ。

1952 兵隊風のブーツ(タキート・ミリタール):(曲)マリアノ・モレス。以前は「軍靴の響き」と訳されていた。

1953 来るべきもの(ロ・ケ・ベンドゥラ):(曲)アストル・ピアソラ。

1957 バイーア・ブランカ:(作曲)カルロス・ディサルリ。

1959 アディオス・ノニーノ:(作曲)アストル・ピアソラ。父親ビセンテ(愛称ノニーノ)への愛情と愛惜がこめられた名作。

1960年代以降

1965 ブエノスアイレスの夏(ベラーノ・ポルテーニョ):(曲)アストル・ピアソラ。「ブエノスアイレスの四季」4曲中で最初に作られた。舞台劇「黄金の垂れ髪」のためにピアソラが一晩で書き上げたという。

1974 リベルタンゴ:(曲)アストル・ピアソラ。「自由」と「タンゴ」を組み合わせた合成語。


アップロード音源一覧
YouTubeのアップロードがこれだけ貯まりました。

appuro-do
まだ、サラサラというレベルには達していません。

MDの吸い出しをやっていたら、昔よく聞いた懐かしい演奏があった。「バイオリン弾きのベーチョ」というので、ウルグアイ出身のフォルクローレ歌手アルフレド・シタローサの作詞作曲である。
やっと覚えたYouTubeアップロードを忘れないためにアップした。
少し調べようと思ったら、曲名が間違っていたようだ。正解は「ベーチョのバイオリン」だった。

「ベーチョのバイオリン」については西村秀人さんの「Cafe de Pachinto blog」に非常に詳しい説明がある。

探すのにちょっと手間なので、こちらに引用させていただく。

この曲の作者はウルグアイの歌手アルフレード・シタローサだ。本人の演奏は容易に入手できる。

「ベーチョのバイオリン」El violín de Bechoは…実在の人物に取材した曲。

シタローサの親しい友人でクラシックの名バイオリニストでもあったベーチョことカルロス・フリオ・エイスメンディの話である。…彼がバイオリンを弾き始めた頃の少年としての苦悩がテーマになっている。

西村さんの訳詞も載せられているが、あまりピンとこない。月田秀子ファド慎楽部に別訳があるのでそちらを

ベーチョは楽団のヴァイオリン弾き

子供っぽい顔も 弾くときには立派にみえる

だがかれは辛いヴァイオリンしか特ち合わせない

ベーチョには辛いのだ

その愛情と同じように 子供っぽいヴァイオリンが

ベーチョのほしいのは

悩みや愛を呼んだりしない大人のヴァイオリン


べーチョは自分のヴァイオリンが好きじゃない

けれども感じる ヴァイオリンの呼び声を

夜になると 後悔して

悲しいひびきにまた惚れこむ


木でできた栗色の蝶々

がっかりしている赤ん坊のヴァイオリンは

弾かれず黙っているときでも

べーチョの胸のうちに鳴りつづける


生と死 ヴァイオリン 父と母

ヴァイオリンは歌い ベーチョは風になる

そしてべーチョはもう楽団の中では弾けない

愛することと歌うこと、 それはあまりにも辛いから

この演奏はむかしNHK-FMでやっていたラテンアメリカ音楽の番組からエアチェックしたもの。ずいぶん元の音質よりは落ちている。

解説をうろ覚えしているのだが、たしかニューヨークで歌っている無名歌手をどなたか日本人が録音して、放送したものではなかったろうか。


実は本家よりこちらのほうが好きなのだ。

“Home sweet home”は反戦歌?

このあいだ、啄木の「時代閉塞」について書いた文章に、大変ありがたいコメントを頂きましたたが、わたしはそれほどのものではなくただの通りすがりです。
ただ、最晩年の啄木の到達点が素通りされているのではないかというのが気になって少し調べただけです。
なにか大変な宿題をもらってしまったので、少し調べ始めました。
といっても気ままな一人旅、あちこち寄り道ばかりです。
ネットでこんな文章を見つけました。
北斗 露草 著 「野口雨情が石川啄木を認めなかった理由(わけ)ー『小樽日報』陰謀事件の顛末」 2011年

ずいぶんと前置きの長い本で、
1.野口雨情の歌
一 歌われなくなった童謡
という節が延々と続くのです。「昔は良かった」風に唱歌や童謡の歌詞が紹介されていきます。
それはそれで楽しいので、読み進んでいきますと、『埴生の宿』の説明がでてきます。

1823年イングランドのH.ローリー・ビショップによって作曲された『ミラノの少女』というオペラの中で歌われたのがはじめである。この歌を『庭の千草』やアニー・ローリー』などの訳詞を手がけた里見義(ただし)が見事な日本の詩に仕上げてくれた。

と紹介されています。これが気になって原曲の「Home sweet home」を聞きに行ったのです。
Youtubeでいくつかの演奏が聞けますが、その中で気になったのが The John McCarthy Chorus というファイルです。

演奏もなかなか優れたものですが、このファイルにつけられたコメントに気になるものがありました。

This song will show what soliders are missing most when they are fighitng on the battlefields during WW1, WW2, Falklands, Afghanistan and Iraq

それで、歌そのものにそういう背景があるのか気になって調べることにしました。といってもウィキペディアを当たるだけの話ですが…
「Home sweet home」の画像検索結果
この曲は、アメリカの俳優兼劇作家ジョン・ハワード・ペインが1823年に上演したオペラ「クラリ」(またはミラノのメイド)で用いられました。
メロディーを作ったのは英国人サー・ヘンリー・ビショップで、これにペインが歌詞を付けたものです。
後にビショップはこの曲がオリジナルではないと告白しました。彼はすでにこの曲を一度発表していたのです。
それは「シチリアのアリア」と題された、もっと洗練されたものでした。
その歌詞にHome! Home! Sweet, sweet home! There's no place like home
が含まれていたのです。
その後、オペラとは別にこの曲が「Home sweet home」として出版されました。
なんと10万部が売れ、2千ポンドもの利益を上げたそうです。
この話にはもう一段あります。1852年にビショップはこの曲をバラード仕立てにして、アメリカに売り込んだのだそうです。その曲は南北戦争前後のアメリカでバカ売れしたようです。
ところが当局にはこの曲がサトゴコロを誘うということで嫌われたようで、歌うことまかりならぬと禁止されたようです。
Opposition to War: An Encyclopedia of U.S. Peace and Antiwar Movements という本にも同様のことが書かれています。
この辺が、“soliders are missing most when they are fighitng on the battlefields” の所以かもしれません。
第一次大戦のとき、Home Sweet Home For You We're Fighting という歌が流行ったそうですが、元歌とは全然関係のないメロディです。
なお英語版ウィキペディアには御丁寧に『ビルマの竪琴』の話まで紹介されています。
「ビルマの竪琴」の画像検索結果
ということで、反戦歌というのにはちょっと…ではあるが、厭戦気分を誘うのには十分ということのようです。


2016年04月10日 イーグルスのゲット・オーバー・イット(Get over it)の「訳詞」

が意外と好評なようなので、もう1曲やっちまいました。

Kansas Dust in the Wind 1978

こちらはメロディーとアレンジが売りの曲で、「続ホテル・カリフォルニア」みたいな感じですかね。歌詞はナイーブなものなので、別に訳すまでもないのですが。

You Tubeだと「オフィシャル」版よりオリジナル版のほうがおすすめです。

風に舞う塵

僕は眼を閉じる。

ほんの一瞬なのに

その瞬間は行ってしまう。

僕の夢のすべてが

目の前を過ぎ去っていく。

おかしな話だ。


風に舞う塵だ。

僕の夢は

ただ風に舞う塵だ。


いつもの古い歌が聞こえる。

果てしない海の

一粒の雫のように。


僕らがやっていることと言ったら

ぼろぼろになって

地面に落ちるだけのこと。

そんなこと知りたくもないが。


風に舞う塵。そう、

僕らはみんな風に舞う塵なんだ。


さあ、くよくよするな。

大地と大空

ほかに永遠のものなんかないんだ。


時間は脇をすり抜けていく。

有り金はたいても、

たとえ1分でも買えやしない。


風に舞う塵。そう、

僕らはみんな風に舞う塵なんだ。


風に舞う塵。そう、

すべてのものが風に舞う塵なんだ。


2016年11月01日 「風に吹かれて」ってそんなにいい詩なのかね?

もご参照ください。


あさからイーグルスのゲット・オーバ・イットを聞いています。じつに痛快ですね。

ところが歌詞が知りたくなったから大変。聞いてもさっぱり分からないから、Youtube(Eagles - Get Over It (With Lyrics) - YouTube) を見て歌詞を調べました。

歌詞はわかったが、今度はその意味が分からない。医学英語や時事英語と違ってハチャメチャだ。

結局、日曜の昼間をつぶしてしまいました。かなりの意訳ですが、何かの参考までに。

PS それで訳し終わってから、もう一度聞いてみましたが、聞こえないのは相変わらずです。

Get Over It を“もうやめようぜ” 、“くよくよするな”、“乗り越えるんだ”の三通りに訳してみました。


テレビをつけると何が見える

画面に映る連中は、どいつもこいつも、「私のせいじゃない!」と叫んでいる

他のみんなを指すその指は、ちっぽけでひん曲がっている

いつも、いつも自分を被害者だと思って生きているから

「こいつのせいだ、あいつのせいだ!」といじけている

ママのやせすぎもパパの太りすぎも

みんな誰かのせいなんだ


もうやめようぜ

くよくよするな


泣いたり、わめいたり、ヒステリーはもういい

もうやめようぜ、乗り越えるんだ


お前は「あの事故のあとどうもダメなんだ」と言ったけれど

オレがいくらか小銭を渡せば、多分、気分は良くなるだろう

もうちょっと考えてみると、ビリー爺さんはただしい

「弁護士は皆殺しだ。今夜のうちにやっちまおうぜ」

お前は働きたくない。王様みたいに暮らしたいんだろう。

だがでかい悪の世界はお前に一文たりとも払うつもりはないんだ


もうやめようぜ

くよくよするな


お前は一緒にプレーしようとしないから、仲間割れする。

もうやめようぜ、乗り越えるんだ


毎度、懺悔に行くみたいだぜ、お前の話を聞くのは

「今度が最悪だ」の連敗記録を塗り替えてるんだ

病気だと言うやつもいるが、俺は「へなちょこだ」と言うね

そうだ、そうだ、そうなんだ


そう、お前は「弱気の虫」を、砲丸付きの鎖みたいに引きずっている

お前は「罪の意識」に悶えている。お前は苦痛にのたうっている。

お前はそれを旗のように振りかざしている。お前はそれを王冠のようにかぶっている

そうなりゃ、お前の気持はどん底だ。みんな誰でも落ち込むさ


今の暮らしに悪態ついて、それを過去のせいにする。

お前の中にいる、そういう甘ったれガキを見つけて、ケツを蹴っ飛ばしてやる


もうやめようぜ

くよくよするな


悪態ついたり、落ち込んだり、八つ当たりしたりはもうたくさんだ

もうやめようぜ

くよくよするな


こんな時代、いつかは終わる。だからお前もやめようぜ、

もうやめようぜ

くよくよするな


乗り越えるんだ

井上陽水の曲を何曲か続けて聞いている。
最初の2,3曲はたしかにおやっと思うほどよかった。
しかしそのうちに疲れてくる。
この男っていったい何なんだろうと思ってしまうのだ。
すごい感性ときれいな声と、素晴らしい音楽センス、すべてを持っているのだが、聞いているうちに落ち着かなくなってくる。
ここは俺の世界ではないな、という居心地の悪さを、いつのまにか感じるようになってしまうのだ。
これだけ同じフィーリング、同時代のフィーリングを感じながら、その底にヒヤッとした冷たさを感じるのだ。
これがさだまさしだと、いささかのあざとさを感じつつも、それもふくめて「われらが世代」感を共有できるのだが、井上陽水にはそのような共感をさしはさむ余地がない。
いろいろ考えてみて、とりあえず次のような結論に達した。
彼には前頭葉がないのだ。これは歌詞だけの話である。本人にはもちろん立派な前頭葉があるのであるが、その歌詞には前頭葉の働きが感じられないのだ。
おそらく前頭葉につながる回路を無意識のうちに遮断しているのだろう。昔の思い出をたぐり寄せながら、「こんなタイプの人間が居たっけ?」と思いめぐらせるが、どうもあまり思い浮かばない。たぶん同じような思考回路の持ち主はいたのだろうが、井上陽水ほどには素質を持ち合わせていなかったということかもしれない。
似たような傾向の歌手にボブ・ディランがいる。しかし彼はもう少しフォークソングの精神に寄り添っていた。だから逆に裏切者呼ばわりをされるのであるが、そういう意味で井上陽水を裏切者と呼ぶ人はよもやおるまい。
それはもはやどうでもいいことだ。肝心なのはあれからすでに50年近くを経過して、いまあらためて聞きなおしてみて、首から上の世界で彼に共感できるものは何一つないということだ。
お互いエイリアンということか。

の続きである。少し問題点を整理してみた。

1.JRは被害者か?

市民的常識からすれば、男性を死に至らしめたのはJRであり、ふつうはそういうのを加害者という。

自動車やバイクの前に認知症の老人が飛び出してきた事故なら、ひき殺したほうが加害者だ。なぜなら自動車は潜在的凶器だからだ。

2.監督責任とは、結局、認知症患者を拘束することなのか?

認知症患者を拘束するのは法律違反だ。外出できないように施設へ入れるのも強制すれば違法だ。つまり監督責任者には権限はゼロだ。権限なき責任はあり得ない。

3.賠償金は髙過ぎではないか?

360万円は、今のサラリーマンの平均年収だ。まして700万円なら、首吊りして生命保険で返すほかない。それほど監督不行き届き(84歳の老女のほんの一瞬の居眠り)は罪が重いのか。どうしてJR東海はそこまで老女を責めるのか。どうして裁判所はそれを応援するのか?

4.本人の人格はどうなっているのか?

認知症といえども自立者としての人格が認められるのなら、「自己責任」で弁償させるべきだ。

もし心神喪失に準じるのなら免罪されるし、まして家族には責任はない。

もし単身者であれば、それを保護・監督すべきは「国」であろう。ツケを回すのなら、国のほうへどうぞ。

5.鉄道会社のほうに責任はないのか?

学校内で事故が起きれば、学校側は責任を負う。入院患者が転倒して骨折すれば、たとえ認知症といえども病院の過失責任は免れ得ない。迷惑料を払えとは、口が裂けても言わない。

同じように鉄道会社は鉄道を安全に運行する責任がある。鉄道ならば、相手が認知症患者ならば、安全管理責任は免除されるのか。

6.鉄道会社はリスクを背負うべきではないか?

ほかの会社と同じように鉄道会社も経営リスクを負っている。事故も当然、経営リスクである。保険もかけるし、コストもかける。それは人に転嫁できるものではないからだ。

違いますか? 葛西さん。


これらの疑問は大方の市民の共感するところであろう。

いずれにせよ、徘徊老人の鉄道事故という問題は厳然としてある。しかもますます増えるであろうことも間違いない。
それが難しいから「だれの責任か」に矮小化してしまう。そうではなく、どうしたらそれを防ぐことができるのか、ひいては日本という国が超高齢化社会をどう生き抜いていくのか、という点から考えなければならない。

そこには「弱者の論理」を踏まえた上での、高齢者に寄り添った、高齢者を排除しない「庶民の論理」の確立が求められるのではないだろうか。



Youtube にリンクすると残念なことに多くがリンク切れになる。
チャイコフスキーの舟歌とLover come backの関連について書いたページも、多くがリンク切れになっている。

愛煙家のために、消えたリンクを復活させておく。
Dorothy Collins - Lover Come Back To Me (1954)
演奏が終わった後にSponcered by Lucky Strike というクレジットが入る。

ベン・ウェブスターに別の音源がある。よく聴くと同じ録音のようだが、最初のリンクは「リマスター」ということで音をいじっているらしい。正直言って素人には普通の音のほうが聴きやすい。
なお改めて聞いてみると、ブレンダ・リーがガキのくせに
、めちゃうまいのに驚く。

ついでに新しくアップされた音源を拾っておく。

 Charlie Parker 1949 - Lover Come Back to Me

というのがすごい。カーネギーホールでの演奏で、普通のジャズの録音とは全く違うので最初は面食らう。しかし聞いているうちにグイグイ引き込まれる。チャーリー・パーカーが一吹きした後に出てくるトロンボーンが超絶技巧だ。

この曲のナンバーワンにあげておく。

Charlie Parker (as), Sonny Criss (as), Flip Phillips (ts), Fats Navarro (tp), Tommy Turk (tb), Hank Jones (p), Ray Brown (b),Shelly Manne (ds)
Album:"Charlie Parker / Carnegie Hall Performances"
Recorded: NY, February 11,1949

消えるかもしれないのでお早めに。


Joan Sutherland, Ella Fitzgerald and Dinah Shore: Lover Come Back to Me
というのはケッサクだ。1963年にダイナ・ショアの番組にエラとサザーランドがゲスト出演した時の録画らしい。サザーランドの当時盛りのすさまじい声量が彷彿とされる。


昔とったYouTubeの田川寿美の音源が、流石にひどいので、新しい音源を探してみた。
最近はそれなりにメジャーになっているようで、はるかにたくさんの音源がアップされている。
実感として言えば、田川寿美は美空ひばりになりつつある。
違うところは、美空ひばりはともすれば下品になるのに対し田川寿美はともすれば上品になりすぎるところだ。
熱烈なフアンがいて大量のエアチェック動画を上げてくれている。これをずっと見ていると、2003年から05年にかけてが転換期になっているようだ。
1975年生まれで、今年40歳。92,3年からデビューして最初の数年は紅白に出たりして売れっ子だったようだ。その後売れなくなっていろいろやっている。
まず二重まぶたの整形をやって、しばらくしてから鼻もやっている。以前、「天は二物を与えず」と書いたが、いまはそれなりの顔になっている。
しかし一番の変化は発声法だ。おそらく03年から06年にかけてベルカント唱法を身につけた。しかもコブシもはるかに自在に操れるようになっている。
持ち前のやや太めのよく響く低音と、正確なリズム感は元からすごい。私が以前聞いて感心したのはその頃のものだ。
それに表情豊かで、絶対に崩さない中音域、そして頭声への切り替えと共鳴の会得で、とんでもない歌手になってしまった。
和服の時とドレスの時の発声の切り替え、細かいニュアンスの表現などただただ舌を巻くほかない。
日本歌謡界が生み出した最高の歌手ではないだろうか。(今日もいささか飲み過ぎた)


2012年01月10日  河岸の柳の行きずりに





もう北海道では夏は終わり。ボサノバの季節からタンゴの季節に移ろうとしている。

と言いつつ、ボサノバを聴き始めた。クラシックはまめに更新しているが、ボサノバは古い音源のままで、YouTubeのラインナップもすっかり様変わりして、はるかにいい音の音源がはるかに多彩に揃っている。しばらくは聞くよりも音源集めに時間がとられそうだ。

その中で、とりあえず最大のヒットがこれ。

1.Sylvia Telles - 1957 - Carícia

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2.Sylvia Telles - 1958 - Silvia

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3.Sylvia Telles - 1960 - Amor em Hi-fi

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ジャケットのデザインはいかにも時代を感じさせるが、中身はまったく色あせていいない。

1957年のアルバムは、トム・ジョビンの名曲 “Por Causa de Você ”から始まり、“Sucedeu Assim”へと続く。以下ご存知の名曲だらけである。

1958年のアルバムはシャンソンぽい雰囲気がなくなって、完全なジャズバラードに移っている。やはりトム・ジョビンがメインだが、このアルバムから作詞にビニシウス・ジ・モラエスが加わっている。

1960年のアルバムはボサノバ全開である。トム・ジョビンの他カルロス・リラ、ロベルト・メネスカル、ジョアン・ジルベルトも曲を提供している。逆にビニシウス・ジ・モラエスはチームを去っている。

この盤からハイファイとなっていて、ジャケットにも麗々しく描かれている。しかしステレオではなさそうだ。

これまで、あまりシルビア・テリスの歌はあまり評価していなかったが、たしかにこの時点で彼女は「女王」だった。その曲の多くは「スタンダード」となり、いまだに歌い継がれている。

そういう意味で、この3枚は歴史的名盤と呼んでよいだろう。ただしシルビア・テリスというより、トム・ジョビンにとっての名盤かも知れないが。

パコ・イバニェスを紹介しておく。
パコはスペインのフォークシンガーで、多分私と同年代。フランコ体制に反抗した揚げ句に国を離れパリに移り住む。そこで68年の学生闘争にぶつかり、歌手として頭角を現す。
それからの十年、彼の歌はスペイン民主化闘争のシンボルとなった。
タバコの吸い過ぎなのか、最近の声はユパンキに同情されるほどひどい。もっとも若い頃は美声だったかというとそうでもない。歌手としては、よく言えば「味のある」という褒め言葉になる。
シンガーソングライターというと、普通は詩を書いて節をつけて演奏するのだが、彼自身は詩を書かず、他人の詩にメロディーをつけるのを専門にしている。したがって決め所ではかなりメロディーラインを動かす。したがって言葉がわからない他国人にはけっこう魅力的である。
カタロニア人らしいが、曲はかなりアンダルーシアの情緒にあふれている。ロルカやエルナンデスなどアンダルーシアの詩人の詩を好んで取り上げているからだろう。
代表作は下に記した通り。
EL LAGARTO ESTÁ LLORANDO_Lorca
PALABRAS PARA JULIA
A TI TE OCURRE ALGO
Canción del Jinete
Andaluces de Jaén
Mi niña se fue a la mar
SATURNO
こんなところか
当然、カヴァー曲が欲しくなるが、みんながカヴァーするのはPALABRAS PARA JULIAとAndaluces de Jaénくらい。
まぁとにかく聞いてみてください。YouTubeの穴にコピペすれば演奏が出てきます。



たまにラテンアメリカ音楽の紹介。
ドミニカにフアン・ルイス・ゲーラJuan Luis Guerra という歌手がいる。あまり日本では知られていないが、ラテンアメリカでは超有名歌手だ。クアトロ・クアレンタというバンドと組んでいるが、これは放送局の周波数が440キロヘルツという意味らしい。
バンド名のごとく、ノーテンキな曲を歌っている。椰子の葉陰でポール・アンカかニール・セダカを聞いているようだ。しかしアレンジは相当凝っている(ライブ盤ではわからない)。
ドミニカの昔のリズムであるバチャータを復活させてスタンダードにしてしまった。もちろん、メレンゲもやる。
まずはBachata en Fukuoka という曲を聞いて欲しい。大方、日本で巡業して福岡にも立ち寄ったのだろう。これがバチャータだ。ゲーラのバチャータの代表作は、Bachata Rosa(バラのバチャータ)、Frío, Frío(寒い寒い)、Ojala Que Llueva Cafe (コーヒー畑に雨が降る)、 Tus Besos (君の瞳)など。
車の運転中に聴くには良い。イライラ解消になる。

パブロ・ミラネスの変わり種アルバムを紹介しておこう。

Pablo Milanés y Lilia Vera El pregón de las flores 1981

YouTubeで全曲が聞ける。ありがたいことに、コメント欄に各曲の頭の時間がリンクされていて、別個に聴くことができる。

ベネズエラ民謡を思わせる白っぽい曲が詰まっている。LILIA VERA で調べてみると、案の定CANTANTE VENEZOLANA DE MUSICA TRADICIONALと書いてある。

Lilia Vera

率直に言えばそれほど魅力的な歌手ではない。歌もみな素晴らしいというわけでもない。しかしいくつかの民謡風の曲は素直に心にしみてくる。まぁベネズエラ民謡なんだから、当然といえば当然なんだけど…

1.El pregón de las flores

アルバムのテーマ曲のようだが、さほどではない。パブロでなければもっとうまく歌えるのにと思ってしまう。

2.Pueblos tristes

リリア・ベラとパブロのデュエット。佳曲だ。

3.Mi nostalgia

例によって、ものすごい変拍子のリズムの取りにくい歌だが、パブロは見事に歌っている。

4.La muerte del animal

このアルバムの白眉だ。見事にベネズエラしている。

5.Mi tripón

弦合奏やフルートも入って、ぐっとムーディーなアレンジになっている。パブロの独唱だ。

6.Montilla

クアトロが激しくかき鳴らされ、モントゥーノが迫力を生む。これもパブロの独唱。

ベネズエラ民謡はここまで。このあと後半の6曲はパブロの持ち歌を一緒に歌っているが、なくもがなの感がある。

キューバのヌエバ・トローバというと、日本ではシルビオ・ロドリゲスが人気だ。なぜならアメリカでの人気がすごいからだ。
多分、シルビオの詩が人気だからだろう。私から言うとシルビオは少しも面白くない。それは節を付けた詩でしかないし、詩の意味がわからないし、スペイン語が堪能で詩の意味が分かったとしても、高踏詩のように分からないことが分かっただけの話だろう。カエターノ・ヴェローソと同じだ。
トローバというのは門付けして歩く祭文語りのことだ。サロンで上流夫人を相手にして歌う歌ではない。野卑ではあるが、首都ハバナの流行歌を地方に伝えている。田舎の人にしてみれは街場の歌なのだ。
私の子供の頃、年寄りの好みと若者の好みは分裂していなかった。旅回りの「桃中軒某」とか「尾上某五郎」一座が街の外れに小屋を張ってのぼりを掲げる時、それは異界の出現であり、まがまがしき「東京」の出現であった。
たしかにトローバは田舎の世界ではあるが、その田舎にとっては「都会」という世界であった。そのエッセンスを汲み上げるのが、ヌエバ・トローバの仕事だ。
パブロの歌を聞く時それは田舎歌に聞こえる。ただそこにはコジャレた都会の香りがするのである。

 赤旗文化面で諸星さんという方が「民衆の心をうたうブラジリアンポップス」という文章を載せている。

たしかに面白いのだが、ボサノバ=中産階級、MPB=民衆の心の歌というのは、やはり乱暴だろう。

ボサノバもMPBもそれなりのムーブメントだった。多分に外国の影響を受けている。時期が違うだけだ。平ったく言えばビートルズの前か後かということだ。

歳のせいもあるが(そして中産階級に属しているからかもしれないが)、私は今でもボサノバのほうが好きだ。

「渚の恋」だから中産階級というのも頷けない。私のジュニア時代にはビーチボーイズに影響されて、グループサウンズが似たような歌を歌っていた。

彼らが中産階級を代表していたとは思えない。その辺の工員さんでも歌っていた。

だいたいあの頃はヒットチャートの半分がアメリカ音楽だった。

「ボサノバ」こそメイン

日本語にすると紛らわしいが、ブラジリアン・ポップスともいうべきジャンルがあって、メインストリームはあくまでもそこにあった。

大体はショーロかサンバ・カンソンを基調としていて、粋な「小泣き」の歌だ。ネルソン・ゴンサルヴェスあたりが代表で、白人も黒人も歌っていた。

有名歌手にはボサノバと積極的に関わる人も多くいた。

ボサノバは単純に言えばジャズ・サンバだから、独特のフアン層を持つやや特殊なジャンルだが、60年代なかばに次々と名曲が生まれたためにメジャーになってしまった。

とくにアメリカンポップスの影響を強く受けた。ホアン・ジルベルトのような塩っ辛いボサノバにかわって、セルジオ・メンデスとかカルロス・ジョビンのような分かりやすいボサノバが主流になった。

その代わりにサンバの要素は薄れたかもしれない。人々はそれをもうボサノバとは呼ばなくなった。

しかしポップスの一大分野であることに変わりはない。カルロス・ジョビンはいまだって神様だ。

私は今でもブラジルの歌をボサノバの延長として聞いている。「小洒落た」節回しや独特の複雑なコード進行はボサノバとしか言いようがないし、その音楽に浸っている間、私はボサノバ気分である。

MPB とブラックミュージックとの親和性

MPBは「トロピカリア運動」として、バイアからリオのミュージックシーンに土足で上がり込んできた。ブラジリアン・ロックともいうべきであろう。

カエターノ・ヴェローゾが捕まる直前に大学のコンサートで演奏している映像がyoutubeで見られるが、結構ぶっ飛んでいる。

トン・ゼーなどというのはとんでもない前衛音楽で、今でも狂っている。

バイアというのは黒人が多いところで、登場した歌手がみんな黒人ではないが、黒っぽい雰囲気を漂わせていた。

もちろんリオやサンパウロにもロッカーはいたわけで、イヴァン・リンスなんかが代表だろう。

トロピカリスモに限らず、60年代後半の風潮としてブラック・ミュージックは大きく舞台を広げた。ボサノバでも例外ではなかった。

ミルトン・ナシメントもこの頃ミナス州から出てきて活動を始めている。それにジャヴァンが続く。

だから私はMPBは青年の音楽と言ってくれれば納得するのだが。

反軍政運動と音楽

「民衆の心」というのを民主派という意味で言うなら、ボサノバとMPBを差別するのは全く間違っている。

むしろボサノバのミュージシャンこそ軍政に立ち向かい、その結果、国内での活動を絶たれ、ボサノバの衰退を招いたとも言える。(ちょっと言いすぎかな?)

ボサノバ界の代表ナラ・レオン(上流階級)やシコ・ブアルキはもっとも軍事政権と果敢に闘っている。ジョアン・ジルベルトやカルロス・リラはメキシコに逃れた。ジョアン・ボスコも抵抗の姿勢を貫いているのは諸星さんご指摘の通り。

ついでに

私もボサノヴァについていくつか文章を書いているのでご参照ください。

シルビオ・ロドリゲス Silvio Rodriguez

 

シルビオ・ロドリゲス

1946年11月キューバ生まれ。

キューバを代表する歌手として知られ、「キューバのジョン・レノン」に例えられている。シルビオ・ロドリゲスはラテンアメリカの左翼のシンボル的存在となっている

彼の歌のいくつかは、ラテンアメリカ音楽の古典と称せられ、大陸のあらゆる場所で歌われている。代表曲はオハラ、プラヤ・ヒロン、一角獣、小鎚など。

その歌詞はきわめて象徴的であるにも拘らず強い説得力を持つ。ロマンチシズム、エロチシズム、革命・政治と理想主義を語っているにもかかわらず、それらは心の内と向き合う。

60年代後半からヌエバ・トローバ(新しい歌)運動の担い手として頭角を現した。

69年に、漁船「プラヤヒロン」号の乗組員として従事し、この間に「海の歌」、全62曲を制作した。その中に「オハラ」や「プラヤヒロン」という代表作がふくまれる。

彼の歌はラテンアメリカの民衆を鼓舞し、当時の独裁政権は彼の歌を放送禁止とした。民主化が実現した後、アルゼンチンやチリでは10万人の観客を集めた大コンサートが行われている。米国は長い間ビザを発給しなかったが2010年についにコンサートが実現し、各地で大きな人気を博した。



シルビオ・ロドリゲスはラテンアメリカで今もっとも評価の高い歌手と言っていいだろう。しかしもっとも理解し難い歌手の一人である。理由は歌詞が難しいからだ。

歌のほとんどは詞の抑揚に節を付けたようなもので、詞がわからない限りはその良さはわからない。

そもそもヌエバ・トローバというのは、「今風の祭文語り」という意味だ。

我々としてはその中から耳辺りの良さそうなものを選んで聞くだけである。したがってスペイン語のネイティブとは好みが相当分かれるだろうと思う。

もう一つ、シルビオのコンサートといえば10万人の大スタジアムで観衆が熱狂して聞くというスタイルが多いが、本来のシルビオはこじんまりとしたサロンで静かにじっくり聴き込む類の歌手である。

それが、こうなってしまったのには、ラテンアメリカ独特の政治的・歴史的経過がある。その辺の経過も飲み込まないと、門外漢が入っていくには相当抵抗があるだろうと思う。

以上、歌詞がわからなくても楽しめる曲を中心に選んだ。本場のランキングとはだいぶ違うがご勘弁を。

 それにしても、この人誰かに似ていると思ったら、プーチンだ。あれほど人相は悪くないが…

1.Playa Giron プラヤ・ヒロン

日本人なら、シルビオといえばこの曲だろう。

私には思い出がある。93年最悪の年、真っ暗なサンチアゴ・デ・クーバのプラサでそこだけ明るいソンの観光酒場。この曲をリクエストしたら、年寄り連中は首を横に振る。すると伴奏の若い衆が脇からそっと出てきて、「何とか歌えると思う」と言ってくれた。

歌い出したら、「何とか」どころではない。そのままハバナに行っても通用するほどの腕前だ。指力が強いのか、ギターの音が耳も割れんばかりに響き渡る。(あの頃は自動車など走っていなかったから、静寂に慣れてしまっていたのだ)

開け放たれた窓の外には光と音を求める黒山の人だかりだ。

2.Unicornio ウニコルニオ

シルビオの代名詞みたいな歌だ。文字通りには「一角獣」だが、飼っていた犬の名前だそうだ。正式題名はMi unicornio azul

3.La Maza 小槌

「もし信じないなら」という台詞が延々と続く、訳の分からない歌詞だ。

この3つがシルビオの御三家だろう(もう30年前の話だが)

最近の御三家はどうなるだろう。とりあえず3つ挙げてみたが、これでよいのか定かではない。

4.Angel Para Un Final

天使が終わりを告げる。二人の間には沈黙が、そしてやがて忘却が…

5.Quédate 

「行かないで、泣かないで」みたいな歌だ。シンプルで、およそシルビオらしくない。そこが良い。

6.Ojala のぞみ

えらく人気のある恋歌らしいが、どうもピンと来ない。

その他、やはり古いところが中心になる。

7.蛇の夢(Sueño con serpientes)

あまり気持ちのいい夢ではない。蛇が次々に現れて襲いかかる、しかもどんどん大きくなって最後には飲み込まれてしまう。胃袋を切り裂いて飛び出すが、そこにはもっと大きな蛇が…

8.Companera 同志の女性

9.Canción del elegido 選ばれた者の歌

ある男の話だ。彼は銀河の彼方、夜の太陽の中、嵐から生まれた。彼は天体から天体へとさすらった。新鮮な水と生を求めて、あるいは見知らぬ死を求めて…

彼はソロモン王の秘宝を発見した。それはアフリカではなく他の天体にあった。しかし宝石は冷たく魂を持たなかった。

最後に彼は戦争を探して地球に行った。それは衝撃だった。彼を最後に見たのは硝煙漂う戦場だった.彼は未来からの銃でならず者を殺していた、幸せで裸で…

以下は流し聞きしたなかでよさげの曲。

10.Eva

11.Yo fui una vez

12.Quien Fera

13.Te amare

 

シルビオ・ロドリゲスの音源はなかなかいいものがなかった。古いビデオをアップしたものばかりで、音質は最低だった。

しかし最近は随分良い物が増えてきて、パソコンで聞く分では不自由しなくなった。

相手がキューバだから著作権など屁の河童。upload しまくっている。なかでも豪傑はRodrigo Riquelme Barrosという人で、187本も上げているから、ここだけでシルビオはほぼカバーされている。

その中でも最高の演奏と録音がSilvio Rodríguez en Chile 1990 である。

全編2時間半、29曲という長さで、聴き通すにはいささか骨が折れるが、それだけの値打ちはある。

1990年の演奏だから、すでにあの透き通るような美声は失われているが、十分に声量はある。

最初の10曲目くらいまではギターの弾き語りで、ちょっと飽きかけるが、その後からだんだん乗ってくる。

前半の最後はLa maza そしてAngel para un final という歌で、この歌が良い。

それにしても恐るべき“のど力”だ。ほとんど歌い続ける。Sueño de una noche de verano で一応終わった後、アンコールで Unicornioをサービス。

29位の A Noite Do Meu Bem はマリア・クレウーザで親しんできたと書いたが、どうも見当たらない。

代わりに出てきたのが、

A noite do meu bem - Nana Caymmi

Maysa A Noite Do Meu Bem

ELIS REGINA " A NOITE DO MEU BEM "

Lúcio Alves - A noite do meu bem

Nélson Gonçalves - A noite do meu bem

Maria Bethania e Quarteto em Cy - A noite do meu bem  どう考えてもこの組み合わせは合わない)

A Noite do Meu bem - Tom Zé (まさかトム・ゼーが歌うとは。予想に違わずひどいというか、すごいというか)

Maria Creuza - A noite do meu bem (やっと見つけました)

サムネイル

ZIZI POSSI canta A NOITE DO MEU BEM (私の好きなジジ・ポッシも歌っています。美声でもなく、声量があるわけでもなく、顔もバーブラ・ストレイザンド並みですが。コアジの聞かせ方がじつにうまい。ふっとイタリア風味が横切るところがよい)

Elizeth Cardoso - A Noite Do Meu Bem (エリゼッチの歌はないのだろうか、と思っていたら、見つかりました。残念ながらテレビのエアチェックで音の状態はかなり悪いですが。まるで祈りの歌のようで、立派なものでした)

結論としては、ドローリス・ドゥランのオリジナル歌唱をしのぐ演奏なしということ。


17-Viola Enluarada - Marcos Valle & Milton Nascimento(名曲です)

と書いたが、リンクが切れていた。 「この動画は再生できません。 申し訳ありません」と出てくる。

しかしグーグルからはしっかり行ける。さすがに名曲・名演だ。

Marcos Valle & Milton Nascimento - Viola Enluarada

このコンビではもう2曲聴ける。

Marcos Valle & Milton Nascimento - Diálogo

Marcos Valle & Milton Nascimento - Requiem

以前、「ブラジル 60年代ヒット曲100選」というリストを転載したことがあった。

その時、37位にリストアップされたのが、Fica Comigo Esta Noite - Nelson Gonçalves

という曲だった。「タンゴみたい」と思った。

ふと気になり、ネルソン・ゴンサルヴェスの曲をまとめて聞いてみた。といっても、youtubeで検索をかけると4万7千件もヒットする。

とりあえず上から順に聴けるだけ聴いてみることにする。

A Volta do Boêmio (ショーロ)

Naquela mesa (ご存知ジャコー・ド・バンドリンを偲ぶ歌である。エリゼッチ・カルドーゾの持ち歌と思っていたが)

Cara a Cara (バラード)

Quando eu me chamar saudade (サンバ・カンシオン)

A FLOR DO MEU BAIRRO (ショーロ)

DEUSA DO ASFALTO (ショーロ。心地よいサウダーヂ。Adelino Moreiraという人の曲らしい

FICA COMIGO ESTA NOITE (どう見てもタンゴ。しかし鋭い切り込みはない)

HOJE QUEM PAGA SOU EU (と思ったら、こちらはポルテーニョそのもの)

Doidivana (タンゴ)

Argumento (ショーロ。良い。この人は基本的にはショーロ歌いのようだ)

Vermelho 27 (タンゴ。アカの27番というのはルーレットの眼らしい。いかにもタンゴの題だ)

Meu dilema (ショーロ)

Queixas (ショーロだが、リズムは表でタンゴっぽい)

Revolta (ショーロ。良い。アルゼンチンのフォルクローレみたい)

A CAMISOLA DO DIA (ショーロ。良い)

少し疲れたのでこのくらいにする。

この人は最初はタンゴ歌いで、その後ショーロ歌手として売り出し、有名になってからはサンバとかバラード、ボレロにも手を広げたようだ。

50年代末から60年代はじめにかけてショーロを歌っていた頃がピークだと思う。年取ってからも歌っているが、ひどいから聞かないほうが良い。

サムネイル

アルバムとしてはNelson Gonçalves em Hi-Fi (1959) - Vitrola de Ouro ( LP COMPLETO ) が良いようだ。

八木啓代さんという方がいる。本籍は歌手だが大変マルチな方で人脈もすごい。
もう20年も前になるか、札幌でリサイタルがあって、その時同行したのがアンヘル・パラ(Angel Parra)という歌手。八木さんの美声もさることながら、パラの歌には感動した。
その後の交流会で、彼の亡命中の苦労話を聞いて、本当に真面目な人だなと思った。ただしラテンの人の真面目さというのは日本人の黙々というのとはちょっと違う。
彼のカセットテープをしばらく聴き続けた。最後の「ポプラ並木」という曲はいつも涙が出た。
と、ここまでが前置き。

最近YouTubeでアンヘルの歌が続々とアップロードされている。70に手が届こうとしているが歌は若い。
人気に乗ってか、昔の歌も聴けるようになった。
その中の決定版がこれだ。

「新しい祖国の歌ども」 canciones de la patria nueva

アジェンデと人民連合がもっとも意気盛んだった年のアルバムだ。
自作が3曲、他にガルデルのアウセンシアやパブロ・ミラネスも歌っている。“Miles de Manos”というのが良い。

多分ビクトル・ハラとは全く別のラインでヌエバ・カンシオンの領域を開拓していたのだろう。学園やメディアを通じて有名になったハラとは違い、親の代からの筋金入りで民衆の歌を歌っていたパラは自分こそが本流という意識を持っていたと思う。

だからサッカースタジアムでハラが虐殺されたと知った時、そこにいるべきは自分ではなかったかと思ったかもしれない。
とすれば、それは恐ろしい体験だ。実存していることが恐怖なのだから。

これ以上は彼が死んでから書くことにしよう。私のほうが長生きすればの話だが…



タニア・マリアはUSで活躍するブラジル人歌手である。
もとはジャズ・ピアニストでいつの間にか歌のほうが有名になったという感じである。
差別ではないがすごい迫力顔をしたおばさんで、淡谷のり子も真っ青だ。
全曲ほとんどスキャットで通す。歌うときはポルトガル語である。
かなりのフアンがいるようだが、ジャズ畑の延長で聞かれているようである。
私のようなボサノバ畑の人間にとっては、ジャズもやるブラジル人だ。ただミルトン・ナシメントとかジャヴァンとかがアメリカに渡って荒れてしまっとのは違い、この人はジャズとサンバのバイリンガルのようだ。スイッチヒッターのように両方ともしっかり打てている。
(この際面倒なので、ブラジルポップスをボサノバと言ってしまう)

YouTubeにはかなりの曲がアップロードされているが、良い音質の演奏は意外に少ない。

1.Abre Las Allas
 http://www.youtube.com/watch?v=HLHc5_vOno0

ブラジル語で歌っている。カエターノ・ヴェローゾを思わせる。ロマンチックな趣もたたえた佳曲だ。

2.2AM  http://www.youtube.com/watch?v=vm4M5SGjLDI

ブラジル高地の風を思わせる爽やかなメロディーが、ジャズっぽく転調されて展開されていく。スキャットが見事である。

3.Bom Bom Bom Chi Chi Chi
  http://www.youtube.com/watch?v=cvrjTCYU3B4

ジャズ・サンバで、シンコペートしたリズムが強烈に打ち込まれる。最初はベッチ・カルバーリョを彷彿とさせる歌いぶりであるが、途中からジャズのリズムに変わり、エラ・フィッツジェラルドも真っ青のスキャットとなる。
リサイタルのつかみの曲。これで客を一気に乗せていく、すごい腕前だ。

4.Cry Me A River

完全な(と言ってもブラジル臭は残るが)ジャズのイディオムによる演奏である。子音、とくにvとθがはっきしりないスペイン風英語だ。
どうもホントのジャズにはならない。

5.Funky Tamborim
 http://www.youtube.com/watch?v=Bx4F_iChqNk

私はブラジル人の演奏する「ファンキー」というジャンルが大好きで、ジルベルト・ジルもやっているが実にノリが良い。USファンキーと違って騒々しくない。
もちろんブラスが大活躍するのだが、とりわけブラジル音楽では必ずトロンボーンが一節やる。これがいいのだ。

6.Intimidade

ほぼ正調のボサノバ。低音で迫るタニアの歌には、なんとも言えぬ色気がある。この人にはボサノバが一番なようだ。

7.Lemon Cuca
 http://www.youtube.com/watch?v=uQqt1_DhEmE

もう一人の女性歌手が加わってデュエットとなるのだが、この掛け合いがなんともかっこいい。

8.Olha quem Chega http://www.youtube.com/watch?v=_7cztLf7zwM

思わずクレジットを見直してしまう。ほんとうにタニア・マリア?
まるでマリア・クレウーザ。
と思ったら、これはあのエドゥアルド・グディンの曲だった。
(わたしのホームページのテーマ曲の作者)

9.Que vengan los toros 

滑り出しはまったく歌なし。見事にジャズ・ピアニストとしての腕前を発揮している。中間部でスキャットが入るが実に快調。疾走している。
たまたま曲名のアルファベット順に並べただけだが、コンサートの終曲にふさわしい。

10.Sangria


コンサートでいえば団員の紹介みたいな曲。バックのウマさにびっくりする演奏。

11.Yatra Ta
 

9.が終曲とすれば、これはアンコール曲。ノリを最後まで持ってくる。

実に見事な演奏。恐れいりました。


ジャズと言ってもいわゆるダンモはカラッきしダメだ。
とくにトランペット系はひたすらうるさい。押し付けがましく、暑苦しい。
そんなもんジャズじゃなくてポップスだと言われるかもしれないが、メル・トーメあたりでちょうどいい。
さすがにガードが堅くて、YouTubeではなかなか聞けない。
音質的にまずまず聴けるのは以下の12曲。

Autumn Leaves - 1992 TOKYO LIVE
Blue Moon
Isnt It Romantic - with Al Pellegrini Orchestra 1955
Lullaby of Birdland from Songs Of New York 1963
New York State Of Mind - alto sax Phil Woods
Pick Yourself Up 1994
Thats All 1965
The Christmas Song - 1992 LIVE IN 東京
The Folks Who Live On The Hill
The Goodbye Look 1992 LIVE IN TOKYO
Too Close For Comfort 1960
Walk Between Raindrops

Jo Stafford もいいのだが、こちらはYouTubeではほとんど聞けない。

レダ・バジャダレスのレコードがとても良いので紹介します。
Folclore de rancho Leda Valladares

というアルバムですが、YouTubeで全曲が聞けます。下の写真のごとくかなりエキセントリックな雰囲気を漂わせています。アルゼンチンのビオレータ・パラといったところでしょうか。同じトゥクマン生まれのメルセデス・ソーサより10歳くらい年上のようです。

英語ではまったく紹介されていないので、スペイン語をそのまま載せます。私にはサッパリ分からないので、分かる方の翻訳を期待します。

Los temas y su origen son:
01. Chacarera (recogido por Isabel Aretz, Yerba Buena, Tucumán)
02. Yaraví (recogido por Silvia Einsenstein en Tilcara, Jujuy. Letra de Leda Valladares)
03. Tonada humahuaqueña (recogida en Tilcara, Jujuy, por Leda Valladares)
04. Tonada sanjuanina (recogida a Hugo Pérez de Sanctis, de San Juan, que la escuchó en Valle Fértil, por Leda Valladares)
05. Baguala de Tucumán (tomada en Tafí del Valle, por Leda Valladares)
06. Milonga con sauces (letra y música de Leda Valladares)
07. Carnavalito (recogido en Iruya, Salta, por Leda Valladares)
08. Vidala riojana (recogida en Malligasta, La Rioja, por Leda Valladares)
09. Yaraví (recogido en Tucumán a Luciano Irrazábal, por Leda Valladares)
10. Baguala salteña (recogida en Salta a Amador, del Valle de Lerma, por Leda Valladares)
11. Zamba “La yerbabuena” (recopilación de Manuel Gómez Carrillo)
12. Vidala “De lejas tierras” (tema santiagueño, recopilación de Manuel Gómez Carrillo)

1972年の録音ということなので、軍事独裁の始まる前、民衆の運動が高揚していた時代です。
この人は民謡の採取家でもあったようで、その音源がCD化されています。かなりネグロ系の曲も拾っています。
この人は元々ジャズシンガーだったのかもしれません。下の曲は明らかにジャズのノリです。
Leda Valladares - hoy es nunca
写真がまた良い。竹久夢二風。
https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/7/57d13ae1.jpg

cancin de la mirada という歌は、ブラジルのサンバ・カンシオン風で、まるでシルビア・テリスの曲を聞いているようです。(要注意、音質は最悪です)

ということで、きわめて芸域の広い人です。

それにしても、もう少し注目されてもいい人ではないかしら。

ラテンアメリカ “フォルクローレ、もしくはプロテストソング”の流れ

「学習会」ということで、一晩でやるために作った文章です。非常に荒っぽい筋ですが、そういうことでご容赦を。

源流はピート・シーガー

フォルクローレというのは直訳してしまえば「民謡」ですが、日本のフォークと同じく、あの頃の若者の文化的なムーブメントと捉えるべきでしょう。

最初に大胆な仮説を立ててしまいますが、ラテンアメリカの“フォルクローレ、もしくはプロテストソング”の流れの源流はピート・シーガーだと思います。

もちろん、ユパンキなどの民謡歌手もいました。ラテンアメリカで先住民の音楽を採集するいわゆる「民俗音楽」研究者もいただろうと思います。私は詳しくはありませんが。

ピート・シーガーにもウディー・ガスリーというカントリー・ミュージックの先駆者が居ました。労働者の闘いに関する歌もたくさん作っています。

ただピート・シーガーはシングアウトという形式で、民衆と結びつけ、ポピュラー・ミュージックのシーンと結びつけました。だから彼の歌はフォークロアともなり、メッセージソングともなり、スタンダード・ポップスともなったのです。そこから反権力性を過激かつ曖昧化したのがボブ・ディランです。

ピート・シーガーのメモリアルソングは「我らは勝つだろう」(We shall overcome)です。

ラテンアメリカでのこういうジャンルの曲は“フォルクローレ”というカテゴリーにふくまれます。これはフォークロアの直訳であり、“英語っぽいスペイン語”です。

USフォークの影響を受けた青年・学生たちが“先住民の民謡”を再発見し、これらの歌を演奏するムーブメントとして始まったのだろうと思います。

 

フォルクローレ運動の創始者 ビクトル・ハラ

フォルクローレ運動がもっとも盛んだったのはチリでした。なぜなら人民連合政府が樹立され、闘いの中に若者の文化が花開いたからです。ついでアルゼンチンとウルグアイにもフォルクローレ文化が拡大しました。

フォルクローレは先住民の音楽を発掘する運動としての側面を持っていましたが、南米の中でも白人の構成比が高い国で起きた運動であるために、白人知識層を主体とする運動でもありました。いわば左翼系若者のファッションだったのです。

運動の側面を強調する場合にはヌエバ・カンシオン(新しい歌)と呼ばれます。普通ならカンシオン・ヌエバですが、語順を英語風にすることで新しさの文化的意義を強調しています。ここではフォルクローレで統一しておきます。

チリのフォルクローレを代表する歌手はビクトル・ハラ(Victor Jara) です。彼のメッセージは「耕すものへの祈り」として結実します。これはコンクールに応募して一等になった作品で、活動家のみならずポピュラーミュージックとしても、みんなに愛されました。ハラにはメッセージソングライターとしての側面と、若者向けのソングライターとしての顔の2つがあります。ロックの代表が「平和に生きる権利」(El Derecho De Vivir En Paz)です。

メッセージソングの代表がアジェンデ選挙のキャンペーンソング「我らは勝つ」(Venceremos)です。リリカルな側面が強調されたのが「アマンダの祈り」です。クーデター直前に作られた「宣言」では歌は哲学的な響きを帯びてきます。

これに影響されて、アルゼンチンではビクトル・エレディア、ウルグアイではアルフレド・シタローサが登場してきます。ブラジルではポップス出身のシコ・ブアルキがフォルクローレとの融合を試みるようになっていきます。

一方、この頃から、ビートルズに影響されてロック音楽が各国でブームを引き起こすようになりました。アメリカではレッド・ツェッペリン、シカゴ、BSTなどがけたたましいエレキの音に乗せてベトナム反戦などのメッセージを送り出します。ラテンアメリカではブラジルのカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルを先頭とするトロピカリア・グループ、アルゼンチンではレオン・ヒエコらが騒々しく登場するようになりました。

 

メルセデス・ソーサ 抵抗の歌としてのフォルクローレ

73年9月にチリでクーデターが起こり、その後次々にラテンアメリカ諸国が軍事独裁化していきます。ミュージシャンもその多くが海外に亡命していきます。

そんななかで祖国の民主化をもとめる運動の先頭にフォルクローレが立つことになりました。キラパジュンの「団結した人民は屈しない」(El pueblo unido jamás será vencido)がテーマソングになります。フォルクローレはファッションではなく闘いの歌となります。

メルセデス・ソーサ(Mercedes Sosa)は元々は民謡歌手で、アタワルパ・ユパンキの歌を歌わせたら天下一品でしたが、軍事独裁政権に国を追われてからはフォルクローレ運動の先頭に立ち、“ラテンアメリカの母”とまで呼ばれるようになりました。亡くなったときは準国葬扱いでした。

ソーサはフォルクローレの歌手には珍しく、作曲もしないし、ボンボという太鼓を叩くほかには楽器も演奏しません。その代わりいろんな作曲家の持ち歌をカバーしています。だからメルセデス・ソーサにカバーしてもらうのはとても名誉なことなのです。

最も知られているのはチリのビオレータ・パラの歌をカバーした「人生よありがとう」です。もちろんビクトル・ハラの歌もたくさん歌っています。しかしアルゼンチンでは、レオン・ヒエコの歌「ただ神に祈ることは」 (Solo le pido a Dios) のほうが有名です。

ほかにキューバのシルビオ・ロドリゲス、パブロ・ミラネス、ブラジルのミルトン・ナシメントなどの曲も歌っています。

 

その後のフォルクローレ

80年代に多くの国が民主化を実現し、その後フォルクローレ運動は一段落したようにも見えます。しかし民衆の闘いが続く限り、運動としての「民衆の歌」の精神も引き継がれていくでしょう。

曲のカテゴリーとしてはとてもフォルクローレとはいえませんが、ベネズエラの「チャベスは去らないぞ」(Uh Ah, Chávez No Se Va)は精神としてはフォルクローレそのものです。

 

YouTube リンク集

ピート・シーガー

我らは勝利する

lanningck さんのサイトでは、Pete Seeger's 90th Birthday Concert がアップされているので是非ご覧のほど。

ついでにウディー・ガスリーの元歌だが、ピートのヒットさせた歌。

この国は君のもの

ビクトル・ハラ

ビクトル・ハラの名曲はたくさんあるが、メッセージ性も含めればやはりこれだろう。

平和に生きる権利 音質は悪いが、テレビ出演した時の貴重な映像が残されていて、演劇者としての特質がよく出ている。

アマンダの思い出 Up主がとても音を綺麗にしてくれており、聴きやすい。

ビクトル・ハラの歌ではないがチリ人民の闘いを象徴する歌

団結した人民は屈しない ついでながら、このジャズヴァージョンがとても良い

"Giovanni Mirabassi - El Pueblo Unido Jamas Sera Vencido"

メルセデス・ソーサ

80年代後半に出たベスト盤が、いまもベスト盤である。

人生よありがとう(ビオレータ・パラ曲) これは80年録画の映像が見られる。函館で実物を見たとき(78年)はこんな感じだった。

耕すものへの祈り(ビクトル・ハラ曲) 少し音が古いが最高の演奏で、ビクトル・ハラの自演よりはるかに良い。

ただ神に祈ることは(レオン・ヒエコ曲) 84年のブエノスアイレスでのコンサートの映像がアップされていて、ヒエコとのデュエットを見ることができる。レオン・ヒエコは札幌にも来たが聞きそこねた。ガラガラだったそうだ。

アルフォンシーナと海(アリエル・ラミレス曲) いわゆる芸術歌謡だろう。ソーサの代表曲であることは間違いない。

アナ・カラムという歌手がいる。小味な歌手なのだが、うまい。ギターの腕前もすごい。
この人の一番よい演奏は「O Vento」という曲だ。トリバル・カイミの曲らしい。YouTubeでも聞ける。
これはブルー・ボッサというアルバムの一曲だ。このアルバム、聞いていて辛い。とにかくサンバがブルースに乗らないのだ。
これは無謀だ。ジョアン・ジルベルトが独特のシンコペーションとコード進行で何とかジャズにはつなげた。
しかしジャズには繋がっても、ブルースにはつながらない。むしろクラシックとの親和性のほうがはるかに高い。
これはアフロ・キューバン・ジャズでも同じだ。
ブルースの一拍目の重さは、誰にも受け止められない。
あきらめなさい。



3.11の2周年にあたり、レオン・ヒエコの歌 “Solo le Pido a Dios”(私はそれだけ祈る)の歌詞をアップしておきます。

私はそれだけ祈る。痛みに対して無関心でいないようにと / 死よ、うつろで孤独な私を見つけないでくれ。私には未だし残したことがある。

私はそれだけ祈る。不正に対して無関心でいないようにと / 爪が私の運命をかきむしるとき、もうひとつの頬を差し出さないように

私はそれだけ祈る。戦争に対して無関心でいないようにと / 貧しく罪なきすべての人々を踏みにじる巨大な化け物に

私はそれだけ祈る。未来に対して無関心でいないようにと / 国を追われ、異国で暮らす力無き人々とその未来に。

(英語からの重訳のため不正確です)

Mercedes Soza- Sólo le pido a Dios (Con León Gieco)

音はYouTubeで聞けます。軍政終了直後の1984年に、Luna Park で行われたコンサートの録画です。

感動的な演奏です。メルセデス・ソーサは命懸けで帰ってきて、命懸けで歌っています。

「もう一回歌おう」とソーサが呼びかけると、観客が泣きながら応えています。


面白いものがあった。60年代ブラジルのヒット曲ベスト100というのである。
ネタはここ。
Top 100 Brasil década 1960 (Músicas mais tocadas 1960 a 1969)



All the rights reserved to the Records! Todos os direitos às Gravadoras!
* Top com as 100 Músicas mais tocadas no Brasil na década de 1960(1960 a 1969) em rádios e vendas.
- Lista em texto das posições:

101- É Proibido Fumar - Roberto Carlos
100-A Volta - Os Vips e Ronnie Von
99-Filme Triste - Trio Esperança
98-F... Comme Femme - Adamo
97-Cabeleira do Zezé - Jorge Goulart
96-Tenho Um Amor Melhor Que o Seu - Antonio Marcos
95-Disparada - Jair Rodrigues
94-Vendedor de Bananas - Os Incríveis
93-What a Wonderful World - Louis Armstrong
92-Splish Splash - Roberto Carlos
91-Arrastão - Elis Regina
90-Somethin' Stupid - Nancy Sinatra & Frank Sinatra
89-Vem Quente Que Eu Estou Fervendo - Erasmo Carlos(ロックのリズムでなかなかノリが良い) 
88-All You Need is Love - Beatles
87- Pata Pata - Miriam Makeba
86-I Got You (I Feel Good) - James Brown
85-Shame And Scandal In The Family - Shaw Elliott
84-Satisfaction - The Rolling Stones
83-I Started A Joke - Bee Gees
82-Quando - Roberto Carlos
81-Oh, Pretty Woman - Roy Orbison
80-Multiplication - Bobby Darin
79-The Girl From Ipanema - Stan Getz & Astrud Gilberto
78-O Neguinho e a Senhorita - Noite Ilustrada
77-Put Your Head On My Shoulder - Paul Anka
76-Balanço Zona Sul - Tito Madi
75-MacArthur Park - Richard Harris
74-Twist and Shout - Bleatles
73-Parei na Contramão - Roberto Carlos
72-Meu Bem - Ronnie Von
71-Sugar, Sugar - The Archies
70-Mulher de Trinta - Miltinho
69-Marina - Cauby Peixoto
68-Mustang Cor de Sangue - Marcos Valle
67-Bus Stop - Hollies
66-Hava Nagila - Chubby Checker
65-Suave é a Noite - Moacyr Franco
64-Michelle - Beatles
63-Dominique - Giane
62-Surrender - Elvis Presley
61-Se Você Pensa - Roberto Carlos
60-Get Back - Beatles
59-Menina Moça - Tito Madi
58-Leva Eu Sodade - Nilo Amaro & Os Cantores de Ébano
57-Tudo de Mim - Altemar Dutra
56-She Loves You - Beatles
55-Light My Fire - Jose Feliciano
54-O Bom Rapaz - Wanderley Cardoso
53-Io Che Non Vivo Senza Te - Pino Donaggio
52-A Hard Day's Night - Beatles
51-It's Now Or Never - Elvis Presley
50-Sá Marina - Wilson Simonal
49-Estão Voltando As Flores - Helena de Lima
48-Love Is Blue - Paul Mauriat
47-A Praça - Ronnie Von
46-Ma Vie - Alain Barrière
45-Please Please Me - Beatles
44-Chove Chuva - Jorge Ben
43-Biquini de Bolinha Amarelinha - Ronnie Cord
42-Esqueça - Roberto Carlos
41-País Tropical - Wilson Simonal
40-Aquarius/Let The Sunshine In - 5th Dimension
39-Esmeralda - Carlos José
38-Faz Me Rir - Edith Veiga
37-Fica Comigo Esta Noite - Nelson Gonçalves(タンゴみたい)
36-Hoje - Taiguara
35-Garota de Ipanema - Pery Ribeiro
34-Capri C'est Fini - Hervé Villard
33-Sentimental Demais - Altemar Dutra
32-O Ritmo da Chuva - Demetrius
31-I Can't Stop Loving You - Ray Charles
30-Bat Masterson - Carlos Gonzaga
29-A Noite do Meu Bem - Dolores Duran
28-Let's Twist Again - Chubby Checker
27-Volta Por Cima - Noite Ilustrada
26-Rua Augusta - Ronnie Cord
25-A Banda - Nara Leão
24-Amore Scusami - John Foster
23-Love Me, Please Love Me - Michel Polnareff
22-Baby - Gal Costa
21-Prelúdio Para Ninar Gente Grande (Menino Passarinho) - Luiz Vieira
20- Namoradinha de Um Amigo Meu - Roberto Carlos
19-Blue Moon - The Marcels
18-Sonhar Contigo - Adilson Ramos
17-Viola Enluarada - Marcos Valle & Milton Nascimento(名曲です)
16-Coração de Papel - Sergio Reis
15-Palhaçada - Doris Monteiro
14-Yesterday - Beatles
13-Aquele Abraço - Gilberto Gil
12-I Want To Hold Your Hand - Beatles
11-Theme From "A Summer Place" - Percy Faith
10-Banho de Lua - Celly Campello
09-O Calhambeque - Roberto Carlos
08-O Trovador de Toledo - Gilda Lopes
07-Gina - Wayne Fontana
06-As Curvas da Estrada de Santos - Roberto Carlos
05- Datemi Un Martello - Rita Pavone
04-Trem das Onze - Demônios da Garoa
03-Mas Que Nada - Jorge Ben
02-Hey Jude - Beatles
01- Quero Que Vá Tudo Pro Inferno - Roberto Carlos

日本だと洋楽系と邦楽系は截然と分かたれるが、ブラジルは結構ごった煮であるところが面白い。当然ビートルズもたくさん入ってくるが、やはりUSA系のものが多い。
この頃からロベカルが圧倒的な人気だ。スペイン語圏と違って絶叫型やムイデュルセのボレロは少ない。
ジョルジ・ベン、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、ナラ・レオンなどの名がちらほら出てくるが、基本的にはあまりお呼びではない、ボサノバの全盛期と言われた時代でもこんなもんだ。
「イパネマの娘」はペリー・リベイロの持ち歌になっている。
「バット・マステルソン」は笑ってしまう。
「あの人が来る夜」 A Noite Do Meu Bem は29位。マリア・クレウーザの歌で親しんできたが、元祖のドロレス・デュランという歌手が美人。早速探してみたら、http://www.youtube.com/watch?v=crwoEqWaY8I に元絵があった。ところが他の絵は似ても似つかぬ健康優良児。相当派手に手を入れたようだ。それはそれとして歌はうまい。島津亜矢なみだ。

「ア・バンダ・パサ」はシコ・ブアルキの曲だがこれをヒットさせたのはナラ・レオンだったんだ。この絵は良家の子女が熱狂していて、その付き添いの母親も一緒に歌っているという、信じられない場面が取られている。
それ以上に異様に思ったのは、この同じ会場でただ一人のネグロ、ジャイル・ロドリゲスが歌っていることだ。95位の曲がそれだ。
この絵を見て初めて分かったのだが、60年代、ブラジルにおいて黒人はオフィシャルなシーンからはまったく隔絶されているということだ。ポルトガル人の差別意識はスペイン系よりはるかに強烈なようだ。黒人は白人にとって“良き下僕”以上の何者でもない。

サンバ・カンサオンも音楽的は出自は別として、あからさまな階層社会の上に作られた文化であることを、我々は念頭に置いとかなければならないのだろう。

「血の色のムスタング」はマルコス・ヴァーリ69年の作だ。無残としか言いようが無い。ナシメントとの共演によるViola Enluaradarがその前の年の作品だとすると、その差はさらに際立つ。
これも意外に良いのだが、89位のエラスモ・カルロス。67年にロックにこれだけの情感を込める実力はなかなかのものだ。
91位のエリス・レジーナ「Arrastao」はすごい。この人の歌力は頭ひとつ抜けている。

ボサノヴァ年表をYouTubeでフォローする

1.Laurindo Almeida

ロリンド・アルメイダは基本的にはジャズの人であり、ウエストコースト・ジャズの一員である。しかしそのギター奏法はクラシックである。

ほとんどボサノヴァだというブラジリアンスが聞けるが、ほとんどヴィラ=ロボスで、ほとんどショーロだ。

アルメイダがMJQと共演したワン・ノート・サンバが聞ける。テレビの録画であるが、音質は悪くない。

MJQがサンバとかボサノヴァをまったく理解していないことが分かる。アルメイダはわかっているようだが、MJQに遠慮している。

次は、アメリカのギタリスト、チャーリー・バードとのデュオで、ピシンギーニャの "Naquele Tempo" (あの頃) 。ショーロの名曲を地味にしみじみと聴かせる。ショーロは白っぽい音楽で、黒人のサンバとFusion しながらブラジル音楽の屋台骨を形作っている。

これはビニール盤からイパネマの娘とカルナヴァルの朝をアップしたもの。この人はジャズ・サンバというよりジャズ・ショーロだろう。

いずれにしても、センス・テクニックもふくめ、過去の人だ。

 

2.Rapaz de Bem

オリジナルにどれくらい近いか分からないが、とにかく曲そのものはジョニー・アルフの歌で聞くことが出来る。ところどころにトム・ジョビン節が伺われるが、さほど印象に残るものではない。

意外な掘り出し物がドミンゲーニョスのアコーディオンとジンボ・トリオによる演奏。テレビのエアチェックで画質・音質ともひどいが、演奏はノリノリだ。前から思っているのだが、ジンボ・トリオというのは相当なものだ。

ナラ・レオンの歌は意外につまらない。演奏だけならワルター・サントスの歌がさっそうとしている。バックはワルター・ワンダレーで音も良い。

 

3.EU QUERO UM SAMBA

「ジョアン・ジルベルトのスタイルに似ているという」が、ジョアンが自分で歌ってしまってしまったら似ているもへったくれもない。

オリジナルを探したら、あった! オス・ナモラードスの歌で、まったくごきげんな曲だ。わるいけどジョアンの念仏節よりはるかに良い。

これはモロにサンバであって、ボサではない。上記2つの演奏を聴き比べると、ジョアンがサンバからボサノバをどう作り上げたかが分かるかもしれません。


4.PERDIDO DE AMOR

ルイス・ボンファの本人歌唱が聞ける。オリジナルの録音ではないので、当時の演奏スタイルはわからないが、おそらくこんなものだろう。「黒いオルフェ」を彷彿させる佳曲だ。

これはショーロではなくサンバ・カンサウンだ。サンバをゆったりと歌うスタイルを白人が受け入れたもので、当時の流行と同じ流れだと思う。ボサノバではない。

この曲をディック・ファーニーが歌うと、モロにボサノバだ。72年の録音というから、もう完全に“ボサノバ風ムード音楽”になっている。もともとボンファはディック・ファーニーの伴奏をしていた人なので、ピッタリと合うのだろう。

アメリカのマーケット狙いだろう。でも気持ち良い。

ついでながら、この音源をアップしたluiz alfredo motta fontana さんのチャンネルには上等のビニール盤音源がたくさんある。


5.Orfeu da Conceicao 黒いオルフェ

「リオ・デ・ジャネイロ交響曲」については音源を見つけることができなかった。

ということで、黒いオルフェになるのだが、我々は「黒いオルフェ」をボサノバの代表としてみるのだが、どうもなかなかそうはならないようだ。

ただ、そうやってらっきょうの皮むきをやって、ジョアン・ジルベルト以外はボサノバにあらずみたいな原理主義的決め付けをしていくと、きわめて干からびたものになってしまう。

リズムだとか、形式ではなく、ひとつの時代の一つのムーブメントとしてボサノバを捉えたほうが良いと思う。

それで黒いオルフェに戻るのだが、これは年表にもある通り、ヴィニシウスによる1956年の戯曲「オルフェウ・ダ・コンセイサゥン」を映画化したもので、マルセル・カミュ監督のフランス・ブラジル・イタリア合作映画である。2年後の59年に公開されている。

カエターノ・ヴェローゾは、「ブラジル人はあの映画は好きではなく、音楽はよくても映画自体は最悪だ」と酷評している(ウィキペディアによる)

それはともかく、映画化にあたって製作に関わったジャズ畑のジョビンが、サンバ・カンサウン系のルイス・ボンファに作曲を依頼した。そうして2つの超名曲が生まれたというわけだ。

お二人には悪いが、曲は真っ白だと思う。


6.CARICIA

年表の作者が組み込むからには、このアルバムもボサノバの源流の一つなのだろうか。

アルバムの中の一曲 Foi a Noite がオリジナルで聞ける。トム・ジョビンの作曲。基本的にはサンバ・カンサウン、アレンジはハリウッドっぽいジャズ・バラードである。こんな曲は白人しか書かないし、聞かないだろう。

彼女の1枚目の10インチLP「CARICIA」は、バレリーナ姿のジャケットが美しく、珍しいこともあって目から火が出そうな値段でした(大阪のk.m Web さん

下世話な話になるが、シルビアは一時、ジョアン・ジルベルトと出来ていたようだ。アストラッドの前である。30歳を前に交通事故で死んでしまった。

言えることは、モーロの歌い手の手を離れたサンバ・カンサウンが、ジョビンの手によって漂白されて磨きをかけられて、ほとんどジャズ・バラードの域にまで達していたということだ。


7.バチータ

当時、カルロス・リラとメネスカルはつるんでいたらしい。そこにリオに舞い戻ったジョアンが転がり込んできた。

そこでジョアンが編み出したバチータというギター奏法を披露し、二人はでんぐり返ったようだ。隕石が落ちてきて、なかから宇宙人が飛び出してきたような衝撃だ。(すみません。このバチータというのが、良くわかりません。どういうスペルなのかな?)

おそらく聖地ウェストコーストの味がしたのだろう。しかもサンバのリズムが隠し味になっている。

年表作者はジェリー・マリガンの影響だとしているが、マリガンてどんな人だろう。

ウィキペディアによると、1952年、カリフォルニアで、トランペットのチェット・ベイカーらとピアノレスカルテットを結成した。この動きがアメリカ西海岸におけるウエストコースト・ジャズの顕在化につながっていくことになる。

とある。

53年のマリガン・クァルテットの演奏がここで聞ける。後ろ1/3がマリガンのSoft Shoe という曲だ。いわゆる“ダンモ”の世界だから、私には良いも悪いも分からない。ここからジョアンがどのような啓示を受けたのかも分からない。


8.Chega de Saudade(エリゼッチ・カルドーゾ盤)

びっくりしたのはジョビンもビニシウスも同様だったと思う。早速レコード会社に売り込んで、制作されたのがこの曲。

最初は有名なサンバ歌手エリゼッチ・カルドーゾ、しかし出来栄えは思わしくなく、あらためてジョアン自身の歌唱で再吹き込みとなった。

これが最初のエリゼッチの吹き込み。Canção do amor demais (1958)というアルバムの一曲。ジョアンはギターを弾きながら、再三再四、ダメ出しをしたという。

ついでに

エリゼッチと言えばショーロ・ギタリスト、ジャコー・ド・バンドリンと組んだ「丘の上のあばら屋」が有名だが、私としては来日ライブ盤の「ジャコーを待ちながら」が忘れられない。

もうひとつついでに

YouTubeを探したらこんなゲテモノもありました。1972年に作ったアルバム「サンバ・ロック」というものです。その中のEu Bebo Simという曲が聞けます。

80年代に流行ったサンバ・ヘゲ(サンバ・レゲエ)と同じデンですが、さすがにぺけです。

これから分かることは、サンビスタたちはショーロであろうと、ジャズであろうと、ロックであろうと、レゲエであろうと、旺盛な食欲で食いついていきます。だからボサノバは、彼らにとってはサンバの一派にすぎないのです。


9.Chega de Saudade(ジョアン・ジルベルト盤)

おそらくオリジナル盤とおもわれる音源がアップされています。写真で見るとシングル盤のようです。

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/8/7/8729f0c8.jpg

基本的にはつぶやきジョアン節ですが、後の録音ほどひとりよがりではなくナイーブな発声で、聴きやすいのが意外でした。

ギター1本で、伴奏は一切なし、実にシンプルです。歌だけでなくギターの方を聞かせたかったのでしょう。

ジョビンが演奏するジョアンの背中で、「どうだ、すげぇだろう」とほくそ笑んでいる姿が目に浮かびます。

ジョアン・ジルベルトは今や、“カミ”になっているようです。その割には情報が偏っていて、ほとんどが

Chega de Saudade, a História e as Histórias da Bossa Nova by Ruy Castro (Companhia das Letras, São Paulo, 1990).

という本の受け売りのようです。本の概要は下記で読むことができます。

Plain João The Man Who Invented Bossa Nova. Daniella Thompson

http://daniellathompson.com/Texts/Brazzil/Plain_Joao.htm

10.DANS MON ILE

黒いオルフェがヒットした後、フランスにもサンバブームが起きたのでしょうか。ちょうどその頃ヴィニシウスはフランス大使で、本業そっちのけでボサノヴァの普及に力を注いだようです。

これはアンリ・サルバドルがパリで録音した曲です。

Up主(スペイン系)は、「この曲はブラジル・ボサノヴァ音楽の先駆とみられる」と書いています。たしかに「男と女」の“ダバダバダ、ダバダバダ”を思わせるところがあります。


11.バーデン・パウエル

これでジョビン、ジ・モラエス、ジョアン・ジルベルト、ジョアン・ボスコ、シルビア・テリスにリラとメネスカルで駒はひと通り揃ったことになる。

あと大物で足りないのがバーデン・パウエルとセルジオ・メンデスだ。

バーデン・パウエルはエスコーラ・ジ・サンバのひとつマンゲイラ所属のサンバ・ギタリストとしてキャリアをスタートさせている。ボスコと違いあまり上品な階層出身ではない。

ビニシウスに引き立てられて「男と女」のサントラを担当した。その後は主流派とは少し離れた道を進み、アフロ・サンバの領域を開拓した。

ついでに、セルジオ・メンデス。アメリカ人かと思うほど、アメリカのマーケットに食い込んだ。かつて日本人はセルメンを通じてボサノヴァに触れた。

どっちかというと、走りだした列車に飛び乗って間に合った人で、何がしかボサノバの形成に貢献したというわけではない。しかしボサノヴァのエヴァンジェリスタとしての役割は巨大だ。


12.マルコス・ヴァーリとカルロス・リラ

走りだした列車に乗り遅れたのがマルコス・ヴァーリとカルロス・リラで、才能からすれば気の毒なくらいだ。

やはりボサノバの衰退は、軍事独裁政権を抜きには語れないだろう

二人にはボサノヴァの真髄とも言えるような曲があるが、時代には合わなかった。カエターノの絶叫ロック「プロイビード・プロイビール」が消えたあと、国内にはざらついた相互不信と、秘密警察への恐怖以外に何も残らなかった。

ボサノヴァは白人中産階級の音楽であった。白人中産階級の価値観が分裂し、共通の文化が失われた瞬間、ボサノヴァはバケツの底が抜けるように一気に消滅したと考えられる。

ボサ・ノヴァ年表

「私達はブラジル音楽を、ボサノヴァより前とそれより後とに区切ることができる」ナラ・レオン

 

53年 Rapaz de Bem(心優しい青年)が発表される。アントニオ・カルロス・ジョビン作曲、ヴィニシウス・ジ・モラエス作詞、ジョニー・アルフが歌った。 (ジョビンとモラエスは中村八大と永六輔みたいな関係と考えられる)

53年 「ブラジリアンス第一集」が録音される。ブラジル人ギタリストのローリンド・アルメイダがウエスト・コーストのサックス奏者、バド・シャンクと演奏。うち3曲はほとんどボサノヴァだという。

53年 EU QUERO UM SAMBA が発表される。ジョアン・ドナートのアコーディオンとオス・ナモラードスの演奏。ジョアン・ジルベルトのスタイルに似ているという。

53年 PERDIDO DE AMOR が発表される。ルイス・ボンファの作曲。

53年 サンパウロを中心に、労働者のゼネストとデモが盛り上がる。労働者に同調的な政府に対し、軍が介入の動き。

54年 リオ交響曲が発表される。トム・ジョビンとビリー・ブランコの共作で、ディック・ファーニー、エリゼッチ・カルドーゾらが演奏。

54年 軍に追い込まれたバルガス大統領がピストル自殺。リオの葬儀デモに50万人が参加。

56年 ジョビンとヴィニシウスが共同作業を開始する。Orfeu da Conceicao の上演がリオで開始される。ギタリストとしてルイス・ボンファが選ばれた。

57年 シルビア・テリスが最初のアルバムCARICIA を発表。

57年 ジョアン・ジルベルトが放浪の末リオに舞い戻る。彼の編み出したバチーダ奏法とシンコペーションは、リオの音楽家たちから注目を集める。(ジョアン・ジルベルトの歌い方はジェリー・マリガンに影響されたものだとされる)

58年 Chega de Saudade(想いあふれて)が発表される。ジョビン作曲、ヴィニシウス作詞、ジョアン・ジルベルトのギター伴奏でエリゼッチ・カルドーゾが歌う。

58年7.10 Chega de Saudade(想いあふれて)が再録音される。ジョアン・ジルベルト歌・ギターによる。ジョビンの熱心な売り込みにより実現したといわれる。

58年 「ボサノバの夕べ」と題されたショウが開かれる。ボサノバの最初の使用例とされる。

58年 DANS MON ILE がパリで録音される。ギタリスト/歌手アンリ・サルバドルの演奏。

59年 大学でのコンサート、全国音楽祭などでジョアン・ジルベルトとジョビンらの演奏が爆発的な人気を呼ぶ

59年 ジョアン・ジルベルトの最初のアルバムが発表される。Desafinado(調子っぱずれ)、BIM BOMはニュウトン・メンドンサが作詞し、ジョビンが作曲。初めて歌詞中に「ボサノヴァ」の単語が取り入れられた。

59年 ブラジル・フランス合作映画「黒いオルフェ」(マルセル・カミュ監督)が発表される。ジョビンとモライスが企画した劇を元にしており、二人の曲が多く用いられた。

59年 リオで「現代サンバ・フェスティバル」が開かれる。出演はTom Jobim, Sylvia Telles, Alaide Costa, Carlos Lyra, Ronaldo Boscoli, Baden Powell, Roberto Menescal, Nara Leao ら

60年 ブラジルの首都がリオからブラジリアに移転。この年の経済成長率は8%を超えるが、外資導入が高度のインフレ(40%)を招く.

61年 モラエスとバーデン・パウエル、映画「男と女」のサウンドトラックの製作などで共同。

61年 ギタリストのチャーリー・バードが、ケネディの親善使節としてブラジルツアー。ボサノバを体験し、スタン・ゲッツとともにジャズ-サンバのアルバムを製作する。

61年9月 進歩派のグラールが大統領に就任。アメリカの干渉が強まる。

62年11月 カーネギー・ホールでボサノヴァのコンサートが行われ、ジョアン・ジルベルト、カルロス・リラ、セルジオ・メンデス、ミルトン・バナナ、ルイス・ボンファ、ロベルト・メネスカルらが出演。(メネスカルがバルキーニョを歌っているが、カーネギーに出演した歌手のなかでもっとも下手くそな歌手としてギネスに残るだろう)

62年 アメリカで仕事をしていた、ロリンド・アルメイダとジョアン・ドナートが、アメリカ・レーベルからボサノバで売りだす。

63年 『ゲッツ/ジルベルト』が制作され、アメリカで大ヒットする。ジョアンの当時の妻アストラッド・ジルベルトが制作に参加。

63年 キャノンボール・アダレイやポール・ウィンターらが、ボサノヴァのアルバムを発表。アメリカでボサノヴァ・ブームが起こる。

63年 トム・ジョビンがニューヨークでアルバムを制作。GAROTA DE IPANEMA, AGUA DE BEBER などをふくむ。

63年 マルコス・バリーの最初の曲SONHA DE MARIA が発表される。演奏はタンバ・トリオ。ジョルジ・ベンのマシュケナダも発表される。

64年4月 ブラジルでクーデターが発生。軍事政権が樹立される。一週間で「民主主義の敵」とみなされる約9千人が逮捕.

64年 ヴィニシウス、「アルコール中毒」のためブラジル外務省を解雇される。実際は左翼的傾向が嫌われたとされる。

64年 アストラッド・ジルベルトが英語詞で歌った「イパネマの娘」がシングルカットされ、ビルボードに96週間チャートインという記録を打ち立てる。

64年 ビートルズがアメリカ公演。世界中を熱狂させる。ボサノバ終焉の年とされている。

64年 ナラ・レオンが最初のアルバムを発表。国内で最初にヒットしたボサノバのレコードとなる。

64年 サルバドールでカエターノ・ヴェローソ、ジルベルト・ジル、マリア・べターニャによるコンサートが大成功をおさめる。

65年 日曜午後のテレビのショウ番組「青年前衛」が始まる。ロベルト・カルロスらが登場。

66年 Mas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)がアメリカ市場に登場する。アメリカに移住したセルジオ・メンデスがブラジル66を結成し制作したもの。

66年 サマー・サンバ (Samba do Verão)が発表される。マルコス・ヴァーリ作曲、ワルター・ワンダレイの演奏。

66年 ボサノバの人気が徐々に低落。トロピカリア が台頭する。

66年 ヴィニシウスとバーデン・パウエルがノルジスチの黒人の民謡を元に"OS AFRO-SAMBAS"を制作。

66年9月 軍警察がリオ大学医学部に乱入し学生を殺害。全国軍事独裁反対のデモに18万の学生の半数が参加。

67年 Funeral de um lavrador(農夫の弔い)が発表される。オリジナルはシコ・ブアルキの曲をチリのフォルクローレ・グループが演奏したもの。

67年 ジョビン、アメリカでインストゥルメンタル・アルバム「Wave」を発表。“ボサノバを基調としたフュージョン”のジャンルに進む。

68年 カエターノ、サンパウロのカトリック大学で行われた国際歌謡フェスティヴァルで、「禁止することを禁止する」を歌い、当局に睨まれる

68.6 学生運動が急進化、10万人の反政府デモ。各地で校舎の占拠行動が続く。一部学生が国会に突入。

68年12月 軍首脳タカ派が自主クーデターを実施.軍政令5号を布告して国会を閉鎖.市民の大弾圧に乗り出す。カエターノ・ヴェローソ、ジルベルト・ジルらが一時拘禁される。

69年 エリス・レジーナ、「ブラジルはゴリラに支配されている」と発言。軍部の弾圧の対象となる。

69年 ジョアン、ブラジルを去り、メキシコに移住。

70年 ヴィニシウス、マリア・クレウーザ、トッキーニョがブエノスで公開録音したアルバム。

74年 エリス・レジーナとジョビンの共演で「3月の水」をふくむ Elis & Tom が発表される。その後エリス・レジーナはコカイン中毒となり死亡。

80年 ヴィニシウス・ヂ・モライスの死。

90年 ボサノバのリバイバル。Joyce, Eliane Elias, Celso Fonseca, Marisa Monte, Raphael Rabello, Rosa Passos, Leila Pinheiro, Ana Caram, Jane Duboc, Emilio Santiago,Paulo Bellinati, Luciano Souza, Yamandu Costa, Ithamara Koorax, らが登場。

94年 ジョビン、ニューヨークで心臓発作のため死亡。大統領令が発され、国民は3日間の喪に服した。

BossaNovaVideo より

home.earthlink.net/~williamdee/id13.html

 

 

 

それなりにボサノバにはまりつつある。
ボサノバの立ち位置はすごく揺らぐんですね。
基本的にはカルロス・リラの立っているところが真ん中なんだろうけど、彼はものすごいジャズ・コンプレックスなんですね。だからボサノバがブラジル的なものに行こうとすると感覚的にはすごく反発する。「それはボサノバではない」という感じでしょうね。
一方で、マルコス・バリーはジャズというよりアメリカンポップスに行こうとする。これはまったく白人のその辺の人の音楽なんです。
ふたりとも「ブラジル的なもの」が何なのか分からずに、とにかくアメリカ的なテイストを求めて曲を作っていく。
それを周りがムジカ・ノヴァだと囃し立てるから、もうやっている本人がわからなくなってくる。

これはレゲエと似ています。本人たちはまじめにロックやっていると思っているのに、周りはこのひなびた“ロック”に味がある、と注目したのです。沖縄の島唄が何故か変にブームになってしたったところと似ています。

このへんの響きあいは、コールマン・ホーキンスのジサフィナードが最高です。逆に彼らに教えられる形でカルロス・リラがボサノバのスタイルを作り上げていくことになります。



ボサノバの名曲百選を作ろうと思ったが、タンゴほどにはうまくいかない。
タンゴは基本的には過去のものである。例外はあるが基本的には1950年代に終わっているジャンルだ。しかしボサノバを広くとると、現在もまだジャンルとしての生命は終わっていない。
たとえば私の好きなマリア・クレウーザは70年代からだし、セルソ・フォンセカは90年代からの人だ。マリア・ベターニャはむしろMPBの人だ。
だからブラジルのすべての歌が関係してしまう。これでは到底まとめ切れない。
いろいろ考えてみたのだが、理由は2つあると思う。
一つはまだ名曲としての熟成が足りないということ。どんな名曲と言えども最初は誰かが作って、誰かが歌ってヒットしたものだということだ。
その作者と歌手がまだ生きていて、まだ現役で歌っていると、やはりそのオリジナルに惹かれてしまう。カヴァーするといっても、そこには遠慮がある。
まだ曲が属人性を脱却できず、曲として独り立ちしていないということだ。
もう一つはそれらを名曲として楽しむフアン層がまだ十分に形成されていないということだ。だからいろんなアレンジが出てきても、「やっぱりオリジナルだね」ということになってしまう。
タンゴは第二次大戦後の黄金時代に、同じ曲の競演の時代があった。だから「パリのカナロ」はどの楽団が良いとか、「淡き光」はどこが良いとかの比較ができる。そのなかで曲そのものの良さというものも浮かび上がってくる。
ボサノバがそういう時代になるにはもう十年くらいかかるのではないかと思う。
さてそれまでどうしましょうかねぇ…

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