鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ:09 社会理論/科学的社会主義 > B 経済理論

「盲、蛇に怖じず」(すみません、差別用語です)で「GDEはナンセンス」と書いたが、まんざら間違っていたわけではなさそうだ。
こんなページがあったので紹介しておく。リンクしようとしたら、間違えて元ページ閉じちゃった。すみません。無断借用になります。

GDEという言い方は、誤解を招く概念ですので使わないようになっていますが、これをGDP(支出側)と読み替えて考えてみますね。

先ほどの式では、

①生産 + 貿易差益 - 在庫品増加 = 国内総供給

国内総需要 = 最終消費支出 + 中間消費 + 総資本形成

ですから、少し書き換えて、

③生産 - 中間消費 = 最終消費支出 + 総資本形成 + 在庫品増加 + 貿易差益

となります。

一国全体では中間消費と中間投入は等しいですから、これの左辺がGDP(生産側)、右辺がGDP(支出側)です。

GDEだと『国内総支出』になってしまい、国内における総需要に見えてしまいます。

が、実際に意味しているのは「国内生産された付加価値に対する支出」ですから、総需要とは異なる概念です。

これでは、用語があまり適切とは言えませんので、2012年基準改定からこの言い方はしていません。

なんだそうだ。
の式が、私の提示した式ですね。ついでに国内総需要の式も提示してくれているので、三つ目の問題も一応解決。

それにしても、経理屋さんや統計屋さんの議論にはあまり加わりたくない。バランスシートの枠の中しか見ず、バランスシートで世の中がわかると思い込んでいる。貸借対照表の左と右がピタリと符合することに無上の喜びを感じる。これはフェティッシュな信心の世界だ。

国民総資産(gross national stock) の勉強

国民総資産は9294兆円(平成25年度末)とされ、米国に続き世界第2位となっている。今年の日本ハムのように、ソフトバンクにはとうてい及ばないが、他球団との関係では“ぶっちぎりの2位”となっている。

この国民総資産から総負債を差し引いたものを「国富」(正味資産)というのだそうだ。日本の「国富」は概ね3千兆円前後(対外純資産込み)で推移している。ということは金融資産=負債が6千兆円あるということになる。

人口1億とすると一人あたり3千万円ということか。ただしここに家計・企業・金融・公共の各部門がふくまれる。家計の総資産はこの内の1/3程度とされる。

「国富」は統計上は

1.生産資産である「在庫」、

2.「有形固定資産(住宅・建物、構築物、機械・設備、耐久消費財など)」、

3.「無形固定資産(コンピュータソフトウェア)」、

4.「非生産資産(土地、地下資源、漁場など)」

5.「対外純資産」

などからなる。金融資産はここにはふくまれない。

無形の文化資本などは勘定に入らない。


しかし、資産というのはあの貸借対照表の絡みで計上されるものであり、分かりにくいというより飲み込みにくいものだ。

竹中正治さんの記事(15年1月)から

NHKが「国民資産が前の年より7.2%増えて9294兆6000億円となった」と報道した。竹中さんはこれに噛みつく。

誰かの金融資産は別の誰かの負債であるから、国内での金融資産・負債は相殺してゼロになる。

株が上がっても、国債が大量に発行されても、それは貸し借りの関係が拡大しただけで、国富は増えない。

一国にとって意味があるのは、相殺されることのない非金融資産(主に土地と建物・設備など)と対外的な純資産(対外資産ー対外負債)だけだ。

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ということで会計学的にはすっきりするかもしれないが、これでは生産を引っ張り富を生み出す流動資産はすっぽり抜け落ちてしまう。簿価ばっかりの抜け殻のような指標になってしまう。

金融資産は、すべて貸し倒れになってしまえばチャラだが、実際にそんなことはありえないだろう。逆に、パブルで高騰した不動産(含み資産)がぺしゃんこになってしまう場合もある。

竹中さんには申し訳ないが、上図のイメージを踏まえたうえで、金融資産も含めた「国内総資産」を指標としていくことになるのではないか。



経済マクロの指標を「身体測定」の論理で考える

いくら経済の教科書を読んでも分からない。経済マクロの指標(ファンダメンタルズ)とは何かということだ。あれもある、これもあると並べ立てるだけでそこに論理的整合性はない。さらに経済マクロは財政マクロ、金融マクロなどと細分化される。

なにとなにをマクロ指標とするかで流派があるようにさえ見える。

そこで素人なりに考えてみた。わかりやすくするために、「身体測定」の論理を用いる。

1.身体測定

身体測定というのは、むかし小学校の頃やっていたもっとも単純な健康診断法である。基本的には身長と体重である。場合によっては座高と胸囲が加わった。短足の私は座高が嫌いだった。座高と健康の間に何の関係があるのか! 俳優やモデルになるわけでもないのに、胴長・短足で何が悪い!

おそらく意味があるのは平均値からの偏差であろうが、実際には大きいほうが良いと考えられた。「健康優良児」という表彰制度があって、昔で言えば甲種合格ということになる。

とにかくこれが一番プリミティブな健康診断である。ものすごく多くの仮定条件がつくので、それだけで決定的なことは言えないにしても、やはりまっさきに掲げるべきマクロ指標であろう。

身長・体重に相当するものは何であろうか。それは総資産であろう。資産と言っても色々あるが、とりあえずネットで総資産とくるめておく。

2.経年変化

身体測定は毎年やって経時変化を見ることによって、大きな意味を持っていくことになる。体は黙っていても成長していく。翌年の身体測定ではほぼ必ずすべての指標が増加している。この増加率が問題なのだ。

この増加は何によってもたらされたか。基本的には食べ物である。食べ物の栄養の内、半分が排出される。残りの半分が体に取り込まれ、その何割かは体を動かす動力として使われ、何割かは古くなった体成分と置き換えられる。すなわち消費される。そして残りの(多分1%くらい)成分が成長に用いられる。

この食い物の生産が国内総生産(GDP:Gross Domestic Product)にあたる。

3.ちょっと付け足し 「国内総支出」というナンセンス

これに対して国内総支出(GDE:Gross Domestic Expenditure)というのがある。排出分と消費分を合わせたものだとすれば、排出分が完全に再利用された場合、かつ総資産がゼロ成長の場合はGDP=GDEとなる。

ただ、ちょっとおかしいのは、食い物の生産には原料や材料が必要なのだが、それは総資産から振り向けられるほかない。だからGDPの分だけ総資産は目減りしているはずである。とすれば総支出と総生産が等しいとすれば、総資産は減っていくのではないか。

支出を生産的消費に向けられる部分と純粋に消費される部分に分けると、生産的消費への支出と生産額がイコールの関係になって、純粋消費分はそれでは埋めきれないのではないか。そう考えると生産分は消費分を上回っていると見るべきだろう。「支出」と「消費」という言葉の異同については注意が必要だ。

多分、国内総支出(GDE:Gross Domestic Expenditure)というのはいわば後知恵で、あまり意味のない統計数字だろう。我々の基本的関心は「売りと買い」にはない。欲しいのはその背後にある「生産と消費」である。「国内総消費」の数字(おそらくは剰余価値と照応)が独立して必要になるだろう。

三面等価:早わかりみたいなページを見ると、Y=C+I+G+(EX-IM) と御大層な式が掲げられている。Y(生産)はC(消費)の他にI(投資)、G(税金)、貿易収支が入りますよということだ。
この式を知っているかいないかが,間違った経済理解(一般常識)に進むか,本物の「経済学」に進むかの,分岐点なのです
しかし私に言わせれば、これは家計簿みたいなもので、「いろいろと金はかかるんですよ」と出口論を語っているにすぎない。
この式をもっと正確に書くなら
Y=Y'(生産経費)+I+G+(EX-IM)と書くべきだろう。
Y'を左に移せば
Y-Y'=I+G+(EX-IM)となる。
Y-Y'というのは生産活動により付加された価値だ。

4.食べれば大きくなる

GDPというのは生産活動に回る資産の割合でもある。成長期には驚くほどガツガツと食べる。エンゲル係数もこれに比例して上がることになる。

戦争中は金の指輪からお寺の鐘まで供出して兵器の生産に集中した。守るべき国民資産を削ってまで生産に回せばたしかに生産は上がる。

したがって、GDPは国民収奪の度合いを示す指標でもある。(正確には総資産に対する総生産の割合)

もちろん国や資本家に手持ち資産があれば、そちらを使えばいいのだが、新興国ではしばしば手持ち資産がないから、庶民の資産をひったくることになる。

ラテンアメリカ諸国の経済を分析するときにしばしばこの問題にぶつかる。GDPを収奪強度の指標としてみなければならない場面がしばしばある。

5.突然ですが、心臓突然死のお話

最近の発育曲線は知りませんが、30年ほど前は中学3年から高校1年生にかけてが危険な時期でした。

男子ではいろいろ不整脈が出る時期です。女子では生理不順、貧血、めまいなどが頻発します。

私はこう説明していました。急速に体は大きくなるが内臓は着実にしか成長しないので、ギャップが生じてしまう。そのしわ寄せが心臓に集中する。それは軽自動車のエンジンで大型トラックを動かしているようなものだと。

今では、もう少し心臓独自の事情が関与しているのではないかと思うようになっていますが、人に説得するにはきわめて有効な「仮説」であります。

GDP悪者論ではない。ただGDPを見るときには、その国の資本主義の歴史的発達段階、理論的には「総生産/総資産」の観点が必要だということを言いたかったのです。

6.とりあえずのまとめ

以上から、マクロ中のマクロというのは次のようなものであることが分かった。

国内総資産

国内総需要

国内総生産

国内総消費(生産的消費+純粋消費)

それらがどう関係するかというと、

①国内総資産から原資が抜き出され、生産に充てられる。

②原資(資本)は生産過程で消費され、それを上回る富(国内総生産)としてリターンされる。

③国内総生産から生産的消費分を国内総資産に戻す。残りの富が国民生活の糧として純粋消費されるが、一部は使わずに総資産に付け加えられる。

④増加した総資産の一部は生産のための原資として再利用される。そのための原資は生産が繰り返される度に増えていく。

⑤しかし元手が増えても自動的に生産が拡大するわけではない。総資産からどのくらいの資本が引き出されるかは、国内総需要、とくに純粋消費を目的とする需要によって規定される。

⑥生産の拡大は需要の拡大(欲望の増大)を必須条件とする。したがってGDP成長率は需要の拡大を間接的に示す指標である。

ここを把握するか否かが,間違った経済理解(一般常識)に進むか,本物の「経済学」に進むかの,分岐点なのです

これらがわかると、後はそれぞれを割ったりかけたりすれば出てくるものばかりである。

しかし国内総生産を除けばはっきりした数字では出てこない。だから貯蓄残高とか設備投資残高など出てくる数字を使って近似的に求めることになる。

それを称してマクロ経済学と言っているのではないだろうか。

間違っていたらごめんなさい。


構造主義年表を書いていて気づいたのだが、これは結局フランス共産党の没落の歴史なのではないか。
アルチュセールの項目を記述していてそう思った。
44年10月にパリが解放されたとき、フランス共産党の栄光はその頂点に達した。
フランスを代表する指揮者デゾルミエールは、共産党に指導されたレジスタンスの中心人物でもあった。彼が集会で誇らしげにインターナショナルの指揮をとっている映像がYouTubeで見ることが出来る。
ナチとビシー政権についたものはことごとくパージされた。シャネルのように汚い経歴を隠して生き延びた連中もいたが…
知識人のほとんどは共産党員かそのシンパだった。
共産党の指導者はスターリン主義者でソ連盲従主義だった。彼らはハンガリー事件もフルシチョフのスターリン批判も頬っかぶりして生き延びようとした。
ロシア人はフランスに対して強烈な文化的コンプレックスを持っているから、少々のことは大目に見た。
こうしてフランス共産党は「ソ連共産党の長女」としての地位を享受しつづけた。
共産党のシンパたちも個々の課題では多少違いがあっても、同伴者の位置を保ち続けた。
そこには公認の「弁証法的唯物論と史的唯物論」があり、足らざるところは独特に変形されたヘーゲル弁証法が補完した。ただ党の中核は労働者部隊であり、知識人には多少の“わがまま”は許されていたが。
レヴィ・ストロースの親族論は現代数学で華々しく縁取られているとはいえ、文化人類学の一論文にしか過ぎない。それが、というより彼が脚光を浴びたのは、むしろサルトル批判のためだったのではないか。
その批判は客観的に見て相当筋違いで、難癖をつけているに等しい。にも関わらずサルトルがグダグダと腰砕けになるのは、それが近代ヨーロッパ批判という衣をまとったスターリン批判だったからではないか。
ご本尊は耐えられても、同伴者にとってこの批判は致命的だ。しかもサルトルは第二のスターリンを求めて毛沢東に接近することになるわけだから、ほとんどサルトル側の自滅だ。
これが第一ラウンド。
第二ラウンドになって、本家アルチュセールが登場する。サルトルなら素人のレヴィ・ストロースでも奇襲できたが、共産党とマルクス主義を相手にするには荷が重い。
アルチュセールは構造主義の擁護者として登場し、スターリン批判をさらに徹底しようとする。そのために相当激烈な議論を展開するが、この「客観的唯物論」は弁証法の否定という重大な問題をはらんでおり、思想的な「自爆テロ」となる。
そこに持ってきてカルチェラタンが勃発する。構造主義はその無能ぶりをさらけ出す。フォイエルバッハのテーゼ、「世の中を解釈するのではなく、肝腎なことはそれを変革することだ」という議論こそ、構造主義の最も忌み嫌うところだからだ。(岡本雄一郎さんの「フランス現代思想史」の帯には「いま世界を考えるために」と書いてあるが、我々にとっては「いま世界をどうするか考えるために」であろう)
共産党はソ連の意も受けて、ドゴール体制を支持し秩序回復に動き出す。ただし、このへんの動きは日本のトロツキストへの対応と重ねあわせては困る。日本共産党はソ連や中国の共産党、要するにスターリニズムと闘いながらトロと対峙したのだ。
アルチュセールはこの時期スターリニストに回帰する。「プロレタリア独裁」も丸ごと飲み込む。ソ連のチェコ侵入も黙認する。ある意味では無残である。
結局、69年にフランスで起きたことは戦後進歩思想の崩壊である。フランス共産党は道徳的権威を失い、構造主義は現状変革への無効性を暴露され、後に思想的混沌だけが残った。
若者は仕方なしに構造主義の残滓をかき集めポストモダンを創りだした。そこには何の緊張感もなくただ言葉だけが踊った。フォークソングがニューミュージックに変わっていくようなものだ。歌には世界各国の洒落た和音やコードが付けられ、洗練されていくが、曲の意味はますます失われていく。
そして最後にはその無内容さが暴露され一巻の終わりとなる。
こんな感じかな。

構造主義を年表化しようとするのは、まさに反構造主義的な作業でしょう。


1906年 ソシュール、ジュネーヴでの講義を開始(講義録の発刊は16年)。ソシュールの言語学はすでに論じている。一言、シニフィアンsignifiant(聴覚イメージ)とシニフィエsignifie(概念)は、漢字のつくりと偏のことである。偏が意味で、作りが音である。たいしたものではない。

1935年 ブルバキ・グループ、「公理を満たす数多くのモデルの全体により、その公理が提示 する構造を把握する」ことを提起。3つの母構造(代数的構造、順序的構造、位相的により全数学モジュールを構造(システム)に従属させようとする。(…と書いては見たが、さっぱりわからない)

1949年 クロード・レヴィ=ストロース、「親族の基本構造」を発表。婚姻体系の「構造」を説明する。自覚的な意識や主体性に、いわば、無意識の秩序が先行していることを示す。ブルバキの方法論を応用したことから、方法論的特徴(かっこいい)が注目される。

ピアジェ、発達心理学に抽象代数学を持ち込む。構造主義者の一人とされる。

1955年頃 ラカン、精神分析の手法として脱人格的接触を主張。難解な言葉を吐く変わり者の精神分析医。

アルチュセールはラカンを評価していたが、精神分析については信じていなかったようだ。48年教え子のフーコーが自殺をはかった時、「精神分析によってではなく、仕事によって病気を乗り越えるように」とアドヴァイスしたそうだ。フーコーも後に精神分析を批判しているが、これは後出しジャンケンに近い。

1960年頃 構造主義経済学が登場。発展途上国の経済構造は先進国とは異なるものであり、それゆえに経済格差が発生するとし、先進国と発展途上国で経済理論の使い分けが必要と主張。

良く分からないが、プレヴィッシュやミュルダールの発展途上国に関する議論は戦後まもなくから開始されており、ラテンアメリカでは普通「従属経済論」と呼ばれている。誰かがこの潮流に対して構造主義の名を冠したのではないかと思われる。

1962年 レヴィ=ストロース、「野生の思考」を発表。未開人の「神話的思考」は,決して近代西欧の「科学的思考」に劣るものではなく,象徴性の強い「具体の科学」であると主張。その最終章で、先進国中心思考だとして、サルトル(実存主義哲学)の主観や意識重視を批判する。

私注: 主観や意識重視はそのとおりだが、だからサルトルが欧州中心主義だとはいえない。サルトルはアルジェリア解放闘争に深く関与した。“何もしなかった”レヴィ・ストロースのサルトル批判は、けたぐり的な言いがかりだろう。
サルトルの思想は良くも悪しくも同伴者思想であり、マルクス主義、正確に言えばその戯画としてのスターリン主義が廃れば、共に廃れるしかなかったのであろう。

1965年 アルチュセール、「資本論を読む」を発表。マルクスの思想をヘーゲル的弁証法や主観主義などから解放(認識論的切断)するとし、骨格標本化を試みる。

ただしこの際、“ヘーゲル的弁証法や主観主義”は忠誠を押し付けるスターリン主義を指している。
それにしても弁証法の放棄は間違いだ。アルチュセールは70年代に入って、これらの主張を事実上撤回している。

1966年 フーコー、「言葉と物」を発表。構造主義の代表作としてベストセラーとなる。

フーコーの本は叙述的で、随所に彼の思想が散りばめられる(日本で言えば司馬史観)。ただしその叙述は不正確だという。歴史家としてのフーコー」を参照のこと。
エピステーメー(ときどきの社会規範をあらわす造語)として言説(情報のことらしい)を取り上げ、社会のネットワークから端末を取り外し、網(言語)のみを哲学の対象とする。

レヴィ=ストロース、フーコー、ラカン、バルトの四人が構造主義者と呼ばれる。

67年 デリダ、レヴィ・ストロースを「他者を根源的な善良性のモデルに仕立て上げ、自らを弾劾・卑下するにすぎない」と批判。

デリダがどういうつもりで、どう言ったのかは知らないが、日本人としてはきわめてよく分かる。スペインが新大陸を征服した時、ラス・カサスらは先住民を擁護するために闘った。その時に称揚されたのが「高貴な野蛮人」という言葉だった。「王様と私」というミュージカルそのままである。
これは「野蛮人」たる日本人にとっては、悪気はなくても侮辱である。「ジャポニスム」は裏返しの民族中心主義そのものだ。これでサルトルを論破した気になったのなら、まさに噴飯物でしかない。

67年 ピアジェが文庫クセジュで「構造主義」を執筆。フーコーを糞味噌にやっつける。その後フーコーは構造主義から離れる。

フーコーは構造なき構造主義である。フーコーの構造は形象的な図式でしかない。彼は歴史と発生を蔑視し、機能を軽視し、「人間はやがて消滅する」というほどに主体を否定する。

68年5月 フランス5月革命。構造主義は、政治や社会への参画に対処する力を持てず衰退。

デリダ、構造主義の発想の延長線上に脱構築論を打ち出す。ポスト構造主義と呼ばれる。一つの構造が壊されて、新しい構造が作られていく過程を言語過程として捉える。唯物論の自然・社会というところを“一括置換”して「言語」と置き換えれば出来上がる。

1968年 バルト、テキスト論を展開。「文学テキストに唯一の目的、唯一の意味、または唯一の存在」はないとし、徹底した相対論を主張。(人をけむにまく変なおっさん、以上のものではない)

1972年 ドゥルーズとガタリが「アンチ・オイディプス」を発表。この辺りから、マルクス主義の世界と断絶し、実践と遊離し、思索はつぶやきとなり、何を言わんとしているのかが分からなくなる。(認知症の進行と似ている)

1980年 アルチュセール、妻を絞殺して精神病院に収容される。5月革命においてすでに思想的にパンクしている。

1984年 ポスト構造主義が「ポストモダン」と呼ばれるようになる(日本ではニュー・アカデミズム)。表現が一段と難解になり、衒学趣味(文系人間の劣等感を刺激する)に陥る。

1994年 ソーカル事件が発生。ポストモダンはあっけなく消滅する。

ニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルが、科学用語と数式をちりばめた無意味な内容の疑似哲学論文を作成し、これを著名な評論誌に送ったところ、雑誌の編集者のチェックを経て掲載された。直後にソーカルは、でたらめな疑似論文であったと声明。

1995年 ドゥルーズが自殺。

1997年 ソーカル、「知的詐欺」を発表。「われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘する事だ」とし、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリらをなで斬りにする。

2001年 アントニオ・ネグリが「帝国」を発表。


ポストモダンの衰退を社会主義の復権と結びつけて論じた文章が見つかった。

ちょいと難しいので、分かる範囲で書き出しておく。

ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年5月号の文章。

「文化的個別主義」に反対する 左翼の武器、普遍主義

著者はニューヨーク大学社会学部準教授ヴィヴェク・チーバーという人。去年4月の記事だ。

書き出しはこうだ。

果てしがないかと思われた冬の後、資本主義とその新自由主義ヴァージョンに対する世界的な抵抗運動が復活してきている。過去40年以上もの間で、この種の運動がこれほど精力的に全地球規模で生じたことはなかった。

これはまさしく実感。

運動がこのように再出現した結果、この間の運動の退潮によって起きた被害の大きさにも光があたることになった。労働者が保有する運動の手段 は、かつてないほど脆弱になっている。労働組合や政党などの左翼組織は実質を失い、財政緊縮の支配の共犯者とすらなった。

その典型がイタリア共産党のなれの果ての「民主党」だ。

さらに、左翼の弱体化は政治・組織面ばかりではない。理論面でも同様である。

敗北に次ぐ敗北は、空前の知的衰退をもたらした。社会の変革という観念が知の風景から撤退したというわけではない。だが政治的急進性の意味そのものが変わってしまった。

たしかにそうだ。

「資本主義は本質的に抑圧的だ」とか、「世の中は搾取する少数と搾取される多数からなっている」とか、「労働者が団結することが勝利の鍵である」というような命題はいまや時代遅れとされている。

さてこれから構造主義批判が始まる。まず用語の問題。私の言う「構造主義」はアルチュセール、プランツァスからアントニオ・ネグリに至る現状追認派の流れだ。もちろん哲学畑の連中も十把一絡げにしている。

著者はこれをポストコロニアル学派と呼ぶ。

ポストコロニアル学派の主張

彼らに共通するのは、社会階級、資本主義、搾取といった概念の否定だ、と著者は言う。

マルクス主義は、ヨーロッパという土壌に形成された杓子定規な枠組みのうちに各地の特殊性を押し込むに過ぎない。

普遍主義という公理は、植民者権力の中心的支柱のひとつである。なぜなら、人類は『普遍的』な特徴をもつとする考え方は事実上、支配者のものだからだ。

普遍主義の神話は、『西欧』こそは『普遍』であるという公理の基盤に立った帝国主義的戦略に属する…

こういう持って回った言い方によって、社会主義を敵視し、階級闘争やグローバルな連帯を結局は否定していくのだ。

そこで問題は社会主義、とりわけマルクス主義が“西欧中心主義にすぎない”のかどうかの検討が必要になる。

マルクス主義の2つの前提

1.資本主義は、地その網に落ちた誰に対してであろうと、制約を押しつけるという法則だ。

2.資本主義が強化されるにつれ、遅かれ早かれ労働者側がそれに反旗を翻すという法則だ。

それらはいずれも、宗教や文化的アイデンティティとは無縁のものだ。それらは過去のあらゆる経験が実証している。

抵抗に生命を吹き込むメカニズムは、個人の幸福への希求と同じく、普遍的なものである。

しかし彼らは、民衆の抵抗を普遍的なものとしてみることを拒否する。なぜなら

社会闘争を唯物論的観点に結びつけることは、ブルジョワ的合理性を割り当ることに帰する。

からだ。しかし多様な要求の根底には生きることへの共通した願いがあるのではないか。

剰余価値の高い部門では、労働者は日々の生存のために闘うよりも、生活水準の向上に専念するだけの余裕はもつ。

だが「南」と呼ばれる諸国や、先進工業国のどまんなかでで増大しつある一部の部門では、別の事態が起きている。

このように批判したあと、著者はポストコロニアリズムが果たした歴史的役割をシニカルな筆致で締めくくる。

彼らは夥しいインクを使って自分たちが建てた風車を相手に闘った。

ローカルな文化と引き替えに、普遍的な権利という観念の信用を失墜させるとは、民衆の権利を蹂躙する専制者に対する、なんと素晴らしいプレゼントだろうか。

 ジェノバの利子率革命というのは、F・ブローデルの『地中海』という本からの引用らしい。注によると、藤原書店の〈普及版〉で1~5巻におよぶという。とても手が出るものではなさそうだから、とりあえずネットで分かる限りの情報で我慢しよう。

まずはこのページから ジェノバ国債の暴落 – 1620年代に利回りが1%から6%に急騰

15~16世紀のイタリア北部は、毛織物の製造とワイン製造が盛んな経済力のある地域でした。そこでは、都市国家ジェノバの国債金利(4~5年物)が指標になっていました。発行量が多く、徴税権で保証された国債であったからです。

しかしイタリア北部の繁栄は、永遠には続きませんでした。

1.ブドウの生産量が頭打ちになります。未開の可耕地が消失したからです。

2.地中海貿易が、オスマン・トルコ帝国の台頭によって遮断されてしまいます。

3.コロンブスが新大陸を発見し、新しい市場が発見されました。

こうしてイタリア北部は没落していくのだが、その過程でジェノバ国債の利率が乱高下したようだ。

1555年 国債金利が9%に跳ね上がる。

1619年 国債金利が1.125%まで低下する。

「これは、確認できる長期金利の歴史において、2003年に日本の国債が1%割れを記録するまで破られなかった最低の水準です」と注釈が付けられている。

1620年代 国債金利が6%に跳ね上がる。

「これはジェノバ国債の買い手がいなくなったためです。イタリアは超低金利の後の金利急騰を経て、衰退していったのです」との注釈。

記事はこれだけなので、事実だけを突きつけられても、なんとも理解のしようがない。

ただ、この記事を読むとジェノバ・北イタリアという地域が経済力を失って没落していく過程で、国債の利子率の乱高下が併発したということは分かる。

正直言えば「そりゃぁ乱高下するだろうなぁ」という程度。水野和夫さんのように「そこに資本主義の秘密がある」と振りかぶるほどのものかという思いはある。

平常時では国債と証券はトレード・オフの関係にある。景気が良ければ投資は証券に向かうから国債の人気は下がる、つまり利率は上がる。逆に景気が悪くなれば国債に投資が集中し、利率は下がる。

ただ不景気が構造的なものとなり、長期化し、やがて国家の屋台骨を揺るがすようになれば、国債からの逃避が起きる。そして最後にはジャンク化する。

この経過をジェノバも辿ったに相違ないということだ。そこには「革命」のカの字もない。それだけなら大騒ぎするほどのこともない。

それでは、なぜジェノバ、ジェノバと大騒ぎするのか?


次が水野さんを盛んに持ち上げている「アゴラ」の解説 400年ぶりに起きているデフレと長期不況(利子率革命) 藤井 まり子

まず冒頭に「利子率革命」の定義。

「利子率革命」とは、デフレと長期不況が異常に長く続く現象を指す。

これは言葉遊びだ。なぜなら世界中が長期不況の氷河期状況にあるからだ。まぁ先に進もう。

400年前の中世末期のイタリア・ジェノバでも、国債の金利が異常に低い時代が20年もの長きに渡って続いた。

この「利子率革命」の前後を丹念に調べてゆくと、明らかに、様々な点で「歴史的大転換」が起きていることが分かる。「中世が終わり、近代が始まった」のである。

と、以下近代の始まりが叙述されていくが省略。

最後が面白いところ、

中世イタリアのメディチ家は、低金利の国債を買い続けるのが馬鹿馬鹿しくなって、東インド株式会社の株式を購入し始めた。ジェノバ国債の金利も、ある日を境に、およそ6%近くまで急騰する。

そしてジェノバは経済史の表舞台から姿を消すことになる。


面白いが、所詮は「中世の没落」の一エピソードだろう。「革命」と言うほどのものではない。

はたしてジェノバの国債が、金融市場にどの程度の影響力を持っていたか分からないし、市中金利との関係も不明である。

近代資本主義の曙を語るのなら、他にもっと総合的な分析もある。中でも「資本主義」の名付け親であるマルクスが出色だろうと思う。


途上国の「開発」の失敗はケインズのせいではない。

前節ですでに、「開発」政策の評価をめぐり、中山さんとの食い違いが生じたのだが、それは次の節で拡大する。

中山さんはブレトンウッヅに始まり、先進国での戦後の復興・発展が60年代後半に壁に突き当たったこと、途上国で開発が貧困化と独裁の強化とをもたらしたこと、社会主義国における計画経済が失敗したことなどから、フリードマンの経済学が評価されるようになった、という流れで説明している。

そのうえで、ショックドクトリンが間違っているという主張を開始することになる。ただ先進国の問題と途上国問題が分離して論じられないために、議論ががぼやけてしまう。

これではネオリベ主義者と同じで、政府の介入・統治が引き起こす問題が大きくなりすぎたというのが結論になってしまう。

私は、ブレトン・ウッズ体制(GATT・世銀)はそれなりに機能したと思う。それは通貨(決済通貨)の統一と、貿易の自由だ。世界の経済は奇跡的な復興を遂げた。貧富の差は劇的に縮小し、曲がりなりにも「福祉国家」と呼ばれるものが登場した。また植民地という経済外的強制も無力化し、崩壊した。 

ただ、それ以上の発展のためには国際労働政策に依る所得の底上げが必須だったが、それがないままに物質的富の消費増大だけが発展の起動力となってしまった。これが「ブレトン・ウッヅ精神」を無視したことの報いであった。

途上国の開発問題は、60年のUNCTAD創設にさかのぼって議論しなければならない。「国連の開発の10年」計画は、結果的に見て大失敗だった。強調しておきたいのは、「途上国で開発が貧困化と独裁の強化とをもたらした」のは60年代に入ってからだということである。

なぜ「開発の10年」が失敗したのか、その総括抜きにチリの自由化も、80年代の「失われた10年」も語れないだろう。

逆に講和条約からオリンピックまで総額8億ドル以上の世銀借款を受けて、日本が超スピードの成長を遂げたのも、そのためだと思う。

東アジアの国は日本の進出を受けこの時期に「離陸」に成功した。またアフリカは旧宗主国と現地白人の強収奪により「暗黒大陸」に逆戻りしてしまった。これらも60年~70年代に秘密がある。

と言っても私にはその秘密は解き明かせていないが…


無駄な規制などない方が良い、というのが規制緩和論者の言い分である。

たしかにそのとおりだが、彼らは実際には無駄であろうと有効であろうと、とにかく規制イコール悪なのである。本音は規制緩和ではなく、規制撤廃、なんでもOKなのだ。

しかし冷静に考えてみよう。本来、規制というのは「悪いことをさせない」ための規制なのである。

元々、資本主義にルールなどなかった。みんな人の迷惑も考えずカネのためならやりたい放題だった。それがイロイロ弊害が出てきて、最後には二つの世界大戦にまで至ってしまったのだ。

だから、イロイロ禁じ手を作って、そのルールの中で競争することにしましょうということになったのだ。もちろんそのルールの中には勝手なものもあるし、官僚の身過ぎ世過ぎのために作られたとしか思えない規制もある。

ただ、規制そのものは本質的に善なのである。ここは絶対にはっきりさせて置かなければならない。

格闘技というのは元々は殺しあいである。それがイロイロ規制をかけたからスポーツとして成り立つのだ。

カニバサミという柔道の決め技があって、割と最近まで認められていたが、山下選手がこの技をかけられて骨折したことから禁じ手になった。

ウィキペディアより「蟹鋏捕」


余談だが、カニバサミで検索中に面白い記事があったので転載しておく。ただし面白いと思うか不快に思うかは、約束はできない。

「“カニばさみ”されないように気をつけろ」

 某メガバンクの独身寮には近年、先輩から後輩へ語り継がれるこんな“警告”があるという。「カニばさみ」とはいったい何か。入行6年目のAさん(28)が実体験を語る。

「一般職の女子行員(32)にはいまの部署に移ってから先輩としていろいろ教わっていて、部署の飲み会の後、酔いの勢いもあってラブホに入ったんですよ。いざ行為を始めようと避妊具をつけようとしたら、彼女が『今日は大丈夫だから』って」

 そのまま言葉に甘えてノーガードで始めたAさん。だが、もう限界だと思って腰を後ろに引こうとしたその時、信じられないことが起こる。

「彼女の両脚が僕の胴回りを挟み込み、ガッチリとホールドされてしまったんです。振りほどくのも変だし、『まあ大丈夫だって言っていたしな』と……」

 流れに任せたAさん。この時は、職場の上司に「出来ちゃった婚」を報告するはめになろうとは夢にも思っていなかった──。これが、いま独身のアラサー女性たちの間でにわかに急増する“カニばさみ”の実態である。

「独身のアラサー女性たちは、とにかく若い社員を捕まえたい。だから、避妊をさせない。しかも、男の側も上司や周囲から『早く身を固めろ』と圧力をかけられたりするから、結局従ってしまうことになりやすい」(ベテラン銀行員)

 先日、女性誌『an・an』は「プロポーズから出産まで一気に叶える! 授かり婚はこんなにスバラシイ!」との特集を組んだ。出来ちゃった結婚を「授かり婚」と言い換え、カニばさみ女たちは幸せをつかむ。

※週刊ポスト2013年11月1日号

先進国のネオリベと途上国のネオリベ

7年前に書いた文章を再掲しておく。洞爺湖サミットの対抗サミットにおいて、北大の橋本教授との議論を通じて考えたものである。

その時私は、ネオリベラリズムというのはチリのピノチェト政権下で推進されたシカゴ・ボーイズの諸政策をさして用いられ始めたた言葉であり、そこからワシントン・コンセンサスへとつながる流れをネオリベとして限定的に扱うほうが良いのではないかと提起した。そしてポストケインズ、ポスト福祉国家論としてのレーガノミクス、サッチャリズムなどに繋がる流れとは混同しないほうがいいと主張したのだが、それを聞いた橋本教授が一瞬「キッ」となったのを覚えている。


2008.05.27

 整理すればこういうことだと思います。

1.ネオリベラリズムは三段重ね

まず具体的な政策論としては、ドメスティックには日本でもおなじみの「構造改革」論があり、グローバルには「ワシントン・コンセンサス」(米財務省・IMF)としてまとめられた10か条の御誓文がある。

  これを補強する経済理論として「マネタリズム」(フリードマン)がある。マネタリズムというのはマネー・サプライ(通貨発行)が経済規模と成長を規定するという考えで、有効需要が成長を規定するというケインズ経済学に対抗する理論である。

 さらにポスト・モダン理論として、ケインズ経済学とマルクス経済学を串刺しにして「福祉国家」の終焉を打ち出し、市場原理のワイルドな世界の復活を説くネオリベラリズムの思想(ハイエク)がある。

 という三段重ねの構造です。

2.「構造改革」は先進国におけるネオリベ政策の総称

 グローバリゼーションという歴史のトレンドがあり、この大波のなかで「福祉国家」を中心とするこれまでの政策体系が崩壊した。これに対し、先進国経済と社会を守るための枠組みが模索されているのが現状である。

 その中で、保守層の打ち出した延命策として「構造改革」という枠組みが提示されている。

 うんと上品に言えば、こういうことになるでしょう。しかしそれは本当の延命にはなりません。

3.ワシントン・コンセンサスは途上国におけるネオリベ政策

 字面はほとんど同じですが、その目的は債務関連に限定される一方、破壊的影響力はすさまじい。先進国では福祉国家が曲がりなりにも実現しており、そこからの出発だが、途上国にはそもそも福祉国家など存在しない。

 実際の手法としても、ワシントン・コンセンサスを形成した連中は正統派マネタリズムではなく、マネタリズムもどきでしかない。だから両者は分けて考えなければならない。

3.「世界帝国」とネオリベ

グローバリゼーションが歴史のトレンドとして必然だとすれば、その先に見えてくる一つの可能性として 「世界資本主義」あるいは「超帝国主義」というものが浮かび上がってきます。アントニオ・ネグリの世界です。

そこでは少数のワールド・チャンピオン資本がユニバーサルに支配を及ぼし、その下で先進国であろうと途上国 人民であろうと、ひとし並の搾取・収奪を受けることになります。

そのとき構造改革はワシントン・コンセンサスと一体化し、「各国版」としてその一部となり、ネオリベラリズムは本願を成就することになるでしょう。

中山智香子「経済ジェノサイド」を読み始めたが、なかなか進まない。冒頭からかなり挑戦的な主張が並んでいるからだ。

本の副題は「フリードマンと世界経済の半世紀」となっており、こちらのほうが「学術的」にはすんなり収まる。

そこをあえて荒波かき立てようという気構えが、恐ろしげな題名に示されている。

文脈はこうなる。

1.ナオミ・クラインが「ショック・ドクトリン」という書を著して、世界のネガティブな諸事象を列挙し、これをフリードマンらの理論に則った経済政策に依るものだと断罪した。

2.これをかのスティグリッツが、「経済学としては荒っぽい」と批判した。彼はモデル対モデルの対抗の枠で考えようとした。

3.そこで中山さんは、スティグリッツに噛み付く。モデルの問題か。いまや経済学にはあれこれのモデルを超えた「思想」が必要なのではないか、というのである。

私としては、「両方必要だろう」というしかない。そのうえで、スティグリッツのような政策現場にいる人には、往々にして木を見て森を見ない弱点が露呈されるので、労働現場や生活現場との間断なき突き合わせが求められるのだろうと思う。

中山さんの主張は、私が学生だった頃の話を思い出せる。あの頃はケインズ派の最盛期で、大学でも主流は近代経済学だった。それに対して新古典派がいちゃもんを付けるという雰囲気だった。

学生たちは聞きかじりのマルクス経済で、「あれかこれかの方程式やモデルではない。資本主義には根本的な矛盾があり、生産力の発展とともにその矛盾は深化し、ついには高次元の経済システムに揚棄される他ないのだ」と主張した。それは「経済学批判」ではなく、「経済学」そのものの批判だった。

ただ、その先にソ連や中国モデルがなかったといえば嘘になる。慙愧に耐えないところではある。

中山さんも多分似たような気分で書いているのだろうと思う。そしてその先にポラニーあたりを念じているのだろう。

とりあえず、このくらいでヨタ話は止めて、本を読み進めることにしよう、

 

 

次いで中山さんは、経済学の流派を「市場の自由」を中心に図式化する。

単純化すると、次の3つである。

1.アダム・スミス以来の経済学は、すべて市場の自由を前提としている。

2.これを市場以外の社会的関係と適合するようにしたのがニュー・リベラリズムである。

3.逆に「市場の自由」のために社会的関係を適合させようというのがネオ・リベラリズムである。

いわば足に靴を合わせるか、靴に足を合わせるかの違いだ。

文章が少し難しいので、噛み砕いて、さらに私流の解釈を加えると以下のようになる。

1.アダム・スミスにはじまる「経済学」は、「市場の自由」を前提したものであり、市場に任せれば市場のメカニズム(神の手)が自動的に働いて均衡が成り立つというものだった。

2.しかし「市場」は絶対的な前提ではなく、相対的なものである(マルクス流に言えば歴史的な産物)。しかも生産・交換・消費という「広義の経済活動」の一つの局面にすぎない。

3.したがって「市場」を絶対的な前提とする「経済学」も、その限りでは相対的なもの(いわば「市場学」)にならざるを得ない。しかもそれは、さまざまな社会関係の原則と背馳することがある。

4.このため「市場の自由」に一定の制限を加えて、社会の原則と合わせるようにしようとした。これがニュー・リベラリズムである。昔よく使っていた「修正資本主義」である。

5.いっぽうで、「市場の自由」を守るために、それを損なうものはできるだけ排除しようというのがネオ・リベラリズムである。いわば姫を守る騎士たちを正統づける論理だ。

6.したがってそれは、結果的に「市場」の相対化をもたらす。それは本質的に政治的な「学」であり、「経済学=市場学」の対極にあるものである。

と、噛み砕いたつもりが返ってややこしくなったきらいがある。なお4.には様々な流派があるので、一括りにしてしまうと、また別の議論を呼ぶ可能性がある。

ここまでの議論には概ね同意する。ただし「資本論」を経済学ではないと仮定した上での話である。

 この項には続きがあり、ネオリベの登場する4つの歴史的背景が書かれている。

ヨーロッパが潰れて、アメリカとソ連が生き残り、アジア・アフリカの新興国が独立し、冷戦構造が出来上がったというものだ。

そこでアメリカは自陣営を強化するために「開発」政策を打ち出した。そのため

新自由主義は、市場そのものの理論というより、むしろ市場形成の理論として考案された。

と展開される。

ちょっと待ってほしい。「開発理論」はたしかに議論となった。しかしレーガノミクスやサッチャリズムと、ロストウや世銀・UNCTADの議論は同一視できない。やはり時空的ベースが違うだろう。

この混乱は、以前にも論議した。先進国におけるリストラ・自由化と、発展途上国にIMF・世銀が押し付けた開放経済の押し付けは、少なくとも「政治的」意義はまったく異なるものである。この二つのネオリベはきっちりと分けて議論すべきだろうと思う。

むかし、世界の共産党会議で「81カ国声明」というのが発表されて、必読文献だった。これには世界の三大矛盾というのがあって、先進国における資本家と労働者の矛盾、植民地主義と途上国の矛盾、資本主義国間の不均等発展というのだった。

その内のどの矛盾の表現としてネオリベを捉えるかで位相はまるっきり異なったものとなってくる。

しかしこの調子じゃ、終わりそうにないな。

ピケティの名をアメリカで有名にしたのはこのグラフらしい。

アメリカ合衆国における所得上位1%の所得が国民総所得に占める比率の推移を示すグラフである。

ウィキペディアによると、このグラフは「2011年のウォール街を占拠せよ運動に、大きな影響を与えた」そうだ。

Top1percentUSA

ウィキペディアの記述を見ると、なかなか面白い着想がある。

1.不公平拡大過程の分析

アメリカでは上図のようだが、フランスでは60年代に一度拡大したあと80年にかけて下がり、その後は比較的低い水準で推移している。

したがって、資本主義一般の傾向ではなく、国家の再分配政策がかなり左右する政策課題であることが分かる。

しかしより長期的にはグローバリゼーションの規定を受けるだろう。とすれば、短期と中長期に分けて不公平拡大の規定要因を探ることが必要になる。(短期と言っても戦後70年をそれ以前の1世紀と比較するというスパンだが)

2.クズネッツ理論への批判

クズネッツは、不平等の拡大は、長期的には逆U字の曲線を成すもので、生産性の低い部門から高い部門へと労働力が移動することによって、産業革命の開始とともに拡大が進み、やがて縮小していくと主張した。

理論としてはきわめて飲み込みやすい仮説であり、長期の理論としての有効性は否定されてはいないと(私は)思う。

ただクズネッツの前提とした戦後の復興期は特殊な時期であり、全面的に受け入れられるものではない。という、ピケティの批判ももっともだ。

ようするにケインジアンが描いたバラ色の世界はなかったということだ。

ピケティは、より短期の要因である所得の再分配システムが圧倒的な規定要因であることを主張する。

3.租税の基本構造の解析

ピケティは不公平拡大の短期的要因として税制をあげる。

なかでも強調されるのが資産および資産から生じる所得である。第二次大戦後に先進諸国で共通して格差が縮小したのは、①戦争により資産が喪失したからであり、②その後の高度累進課税により資産蓄積が難しくなったためとする。

ただし、①はアメリカには当てはまらないという弱点を抱えている。事実、上の図でも、大恐慌後の落ち込み、大戦中の耐乏生活をエピソード的にはさみつつも、全体としてはなだらかに70年代にいたるまで下降し続けている。

アメリカの強収奪・強蓄積は明らかにレーガノミクスの導入を通じて開始され、その後の歴代政権により加速されている。

4.直接税民主主義と資産課税

ピケティはこの資産に対する課税を何とかせにゃアカンと言っている。それはまさにそのとおりで、別に「21世紀の資本論」を引き合いに出すほどのものではない。

ただ、資産課税はある意味で直接税民主主義の根幹を侵すものであり、(法人税もふくめ)話はそう簡単ではない。

我々は所得税原理主義者であるべきだ。資産への関与は、基本的には行政的・誘導的手段を用いるべきだ。(農業問題・中小企業問題を考える際にはこの視点は不可欠だ)

私が思うには、問題は、資産から発生する所得の捕捉の困難さにある。だから各国税務当局が苦労しているのだ。

5.もっとダイナミックな格差指標を

ウィキペディアではおおよそ以上のように説明されている。

感想的に言うなら、ピケティの問題意識に賛成である。

ピケティが問題にしているのは貧困ではなく、格差である。格差が問題なのは、不正義であるからだ。それに対し貧困が問題なのは、可哀相だからだ。かたやユニバーサルであり、かたや個別的であり、倫理基準が異なっている。

両者の関係はよりダイナミックに捉えなければならない。このことはジニ係数を巡る議論のなかで痛感される。

「ジニ係数無用論」との議論は非常に疲れる。もっと根本的なところで、時代のトレンドを踏まえた、「過程としての貧困、過程としての格差」の指標を見出す必要があるだろう。


ウィキペディアさん、わかりやすくまとめてくれてありがとう。

でも「21世紀のマルクス」(英エコノミスト)じゃないな。

というわけで、ニューズウィークに載った池田信夫さんのコラム「21世紀にマルクスはよみがえるか」を眺める。池田さんという人は独立派のエコノミストらしい。

クルーグマンが「ピケティは不平等の統一場理論を発見した」と絶賛したそうだ。統一場理論とは、いかにもクルーグマン好みの表現だ。

ピゲティは戦後の数十年こそ特殊な時期で、基本的には格差は一貫して拡大してきたと主張しているらしい。

それはそれで良いのだが、それを前提に、ピケティは「なぜ資本主義で格差が拡大するのか」を説明しようとしているようだ。

池田さんによると、

gを成長率、rを資本/所得比率とすると、r>gとなると資本収益のシェアが高まる。それを投資することで資本蓄積が増えて資本分配率が上がり、さらに不平等化が進む。

のだそうで、これが資本主義の根本的矛盾なのだそうだ。

それで、なぜこの「投資比率」論が根本原理なのかというと、「労働生産性の差が所得格差になる」というこれまでの議論は、単純労働にしか当てはまらないからだそうだ。

いうなれば、「相対的剰余価値論」の否定だ。池田さんの話を前提にすると、これは「21世紀論による資本論の否定」であり、マルクスをよみがえらせるどころか、葬る作業でしかない。

富裕層が多額の報酬を得るのは、彼が自分の所得を自分で決めることができるからで、その子の所得が高いのは親の財産を相続できるからだ

と池田氏は紹介しているが、こんなヨタ話をクルーグマンが“絶賛”するとは思えない。

もっともアベノミクスを“絶賛”したあたりから、クルーグマンもクルい始めているのかもしれないが…

まぁ、もうちょっと待ちましょう。

 

 

フランスの経済学者、トマ・ピケティの『21世紀の資本論』が欧米で話題を呼んでいるそうだ。

「21世紀には小さな経済エリート集団に富が集中し貧富の格差が拡大する」のが論旨というから、別に目新しいものではない。

日本では富裕層が富を拡大させている。

現在、日本の高所得層の上位1%が占める国民所得シェアは約9%に上り、1980年代の7%から2ポイント拡大した。上位0.1%のシェアは2.5%となっている。

フラ ンスやドイツ、スウェーデンは日本とほぼ同じペースだが、米国では10-15ポイント上昇した。

今後は日本も安穏としていられない。

日本と欧州が持つ軌道は米国と似通っており、10年から20年遅れている。この現象が、米国のようなマクロ経済の重大事となって表面化するまで待つべきではない。

ここまでが内容紹介だ。

経済学者でブロガーの池田信夫氏は、企業がキャッシュをため込んで賃上げを抑制しており、これから日本でも、普通の労働者と企業との間で階層間の格差が広がってくるかもしれないと話した。 

この記事からは、何のことやらさっぱり分からない。

フランスで『21世紀の資本論』という本が発行されて、人気を読んでいるということだけだ。

いずれもう少し詳しい記事が出てくるだろう。それまで気長に待つとするか。

「循環型社会基本法下の廃棄物問題の背景と解決への展望」という北大の吉田教授の論文が面白いので紹介する。
ただしかなり以前の論文なので、数字は10年以上のものである。

1.1日7万台の携帯電話が廃棄されている

携帯電話業界の激しい競争の結果、1日7万台の携帯電話が廃棄されている。これは携帯電話が壊れるとか使えなくなるというのではなく、社会的に陳腐化さるためである。

政府の環境保全計画でも何とかしなくてはと言われているが、この経済システムがどのように成り立っているかは、本格的に分析されていない

2.大量流通消費は大量廃棄なしにありえない

これまで、現代社会は大量生産・大量消費社会と呼ばれていたが、実は大量生産・大量廃棄社会である。例えば、パッケージは重要な販売手段だが、それは消費されるのではなく、最初から廃棄される事が前提である。

3.働きすぎと浪費の悪循環

消費社会では、「所得を増やすか、余暇を増やすか」の選択において、所得を増やすことが選択された。

電化製品は骨の折れる、また体力を要する家事労働を解消し、利便性を増した。それでいて人々の幸福感は満たされない。広告と製品差別化、計画的陳腐化、「機能の過剰化」よって、たえず欲望が刺激されるからだ。

消費のための所得を得るために労働時間が延長する、という悪循環をどこかで断ち切らなければ問題は解決されない。すなわち社会的解決(social fix)が必要である。

4.焼却依存の問題

日本の一般廃棄物焼却率は7割に及ぶ。これは廃棄物問題への一種の技術的対応であり、廃棄物抑制への社会的な取り組みを遅らせた。さらにダイオキシン類発生という対価を伴った。

5.「リサイクル至上主義」の問題点

「3R」、すなわち①reduction:削減、②reuse:再利用、③recycle:リサイクルが、この順位にしたがって重要な方法である。

循環型社会形成推進基本法では、その後に④熱回収(焼却) ⑤適正処分を付け加えている。

しかし現実には①、②は軽視され、③か④かという不毛の選択が迫られている。

廃棄物処理の全体系から見れば、リサイクルの本来の目的は、廃棄物の減量化、資源の節約、エネルギーの節約である。

リサイクルのみを進めても、リサイクルにともなう汚染や、かえって資源利用が増大する等の問題が生じる。

さらに重要なことは、リサイクルシステムが大量生産・大量消費を抑えることにはつながらず、「大量リサイクル」になりかねないということである。

リサイクル至上主義におちいらず、あくまでも廃棄物削減の一環として位置づける必要がある。

6.プラごみ、自治体に重い負担

1997年に施行された「容器包装リサイクル」法は、一般廃棄物の約半分を占める容器包装廃棄物のリサイクルを目指すものであった。しかしこの法律はさまざまな問題を抱えている。

一番の問題は、自治体の費用負担が予想以上に大きいことである。

PETボトルの1本当たり約25-30円の収集経費は税金から支払われる。いっぽう容器メーカー等に義務付けられるリサイクル費用は1トン10万円で1本(10グラム)当たり1円にしかならない。また分別収集量と再商品化量が乖離し、保管に係る市町村の負担が増大している

ドイツではガラスに比べプラスチックは、約20倍のコストを事業者が支払うことになっている。

容器包装リサイクル法は循環型社会をささえる基本法にはならない。本当の意味での「拡大生産者責任」の貫徹が求められる。

後略

第1節 ポランニーの機能的社会主義

 論争はミーゼスの社会主義計画経済への批判から始まった。彼は「市場か計画か」という二分法的な思考に依拠した。この方法に最初に疑問を呈したのはカール・ポランニーであった。

ポランニーは 1922年に「社会主義計算問題」を発表し、集産主義的でも,サンデイカリズムでもない,「第三の道」としての機能的社会主義論を示そうとした。

ポランニーは,社会主義経済における経済計算が,社会主義達成のための核心的な問題であることを認める。同時に,そのような計算問題を解決しうるのは,中央集権的社会主義ではなく,機能的社会主義だと主張する。

この「社会主義計算問題」はミーゼスらから批判を受けた。

このため、ポランニーは1924年の「機能的社会理論と社会主義計算問題」で、その批判に答えつつ、さらに自説を展開している。

ポランニーはこの論争の中でどう位置づけられるだろうか。

「社会主義社会における計算問題」の解については三つの主要グループが区別される。市場経済派、市場なき経済派、そしてポランニー派である。

市場派と非市場派は互いに争つてはいるが,問題提起の点では一致している。両者とも,市場経済と非市場経済との理論的対立を、資本主義対社会主義の対立と同一視するからである。そして、社会主義経済を集産主義・国家社会主義的であると同時に、まさに交易も市場もない経済、集権的な指令経済と規定する。

この二つのグループは,ポランニー派に対して、水も漏らさぬ共同戦線を張っている。ポランニーはいわば異端との扱いを受けている。

どこが異端なのか。

ポランニーは主張する。

経済理論: 市場経済か非市場経済かという対立は不可避的なものではない。

経済組織理論: 集産主義かサンリカリズムかという対立は不可避的なものではない。

この対立を乗り越えるものが「機能的社会主義」である。

それでは機能的社会主義とは何か。ポランニーは次のように説明する。

「社会主義経済」は、何よりもまず、その目的によって規定されなければならない。それがどんな姿になるかは、未だ実現していないのだから未確定である。

その目的とは、

1.経済性における「生産の最大生産性」

2.社会関係における「分配及び生産の社会的方向に対する社会的公正の支配」である。


私の感想だが、「社会的公正の支配」ではなく、「生産の最大生産性」(生産効率の最適化)をトップに据えたことは慧眼である。たまたま併読している資本論第三部の冒頭(不変資本の節約)とピッタリ符合する。

また、「社会的公正」も,たんなる労働や諸資源の配分および生産物の分配における公正というのではなく、むしろ重点は、社会的観点からみて望ましい経済の方向付けのことを指すのであろう。

それにしても西部さんの日本語は難しい。


そしてボランニーはこれら経済性と公正性を,全体社会の互いに依存しあう二つの要因として統一的に捉えようとした。

スタティックに考えれば、これらは生産関係と社会関係という二つの社会構造であり、全体社会の二つの切り口である、しかしダイナミックに考えれば、社会主義経済はこれら二要因の「機能的な相互依存関係」として捉えることができる。

その際、生産関係は社会的公正の介入なしに生ずる技術的・自然的費用として,社会関係は、社会的公正の生産関係への介入によって生じる社会的費用として捉えられることになった。

ポランニーは,経済に対し公正が与える「枠組作用と干渉作用」という概念を設定することにより、指令経済(公正によって統制された経済)と,自由経済(公正による統制から自由な経済)との,慣習的な二者択一は止揚できると考えた。


この辺りは、まだ練られていないようだ。いろんな概念を重ねあわせることで見えてくることもあるが、見えなくなってしまうものもある。マルクスが往々にして犯す失敗だ。

人間の持つ自然的存在としての性格と社会的存在としての性格を、それぞれにより発展させていくことが、社会主義経済の目標だ。人間には二つの側面があるのだから、どちらかを捨てるという訳にはいかない。

あまり哲学的にならずに、生産効率の極大化と社会的公正の実現を社会主義経済の二つの目標として定立すればよいのではないか。


つぎに,社会主義社会における機能的な均衡(非抑圧的な均衡)の可能性の問題である。

ポランニーは,社会は異なる目的に応じて組織され,その社会的機能を果たす種々の団体,あるいは利益集団から構成されているとし、社会全体の機能は,これら個別の組織の機能の総体として理解されると主張する。(要するに社会分業論)

そして,社会主義社会は,コミューン(地域共同体)と生産諸団体(ギルド評議会)という二つの主要な機能的組織が社会の最高権力を体現するような社会構成になると想定する。

コミューンは,狭義の「社会」あるいは「消費」を代表する政治的な組織であると同時に,生産手段の所有者でもある。その目的は社会的公正と消費者の共通自的を追求することにある。

一方,生産諸団体は, 「生産」を代表し,最大の生産性の追求をその目的とする。

そしてこの二つの組織が相互協定により賃金と価格を設定する。


この部分はあまりにもナイーヴである。

ミーゼスは,「そんなこと言ったって、最終的決定権はどうなるの」と切り返している。もし最終的決定権がコミューンにあれば集権的指令経済となり,それが生産諸団体にあれば,組合的共同体となるのではないかというのである。当然の疑問である。

これに対してポランニーは、「両方とも人間の生活にとって必要不可欠なものだから、どちらかが一方的に勝つとかいうことにはならない」みたいなことを言っているが、一般均衡理論の政治への敷衍化に過ぎず、反論にはなっていない。

ただ大事なのは、社会主義社会においてはコミューンが全権を握るような集権的指令経済はありえないという主張である。

ポランニーは、異なる機能集団を中央集権国家のような単一の組織に併合してしまうことは,社会的な構成要素を不明確にし,人間の道徳的,倫理的意識を弱めてしまうと述べている。ただし「機能的に組織された社会主義移行経済」においては、限定つきでOKということだ。


しかし単一組織への併合は、別に社会主義の専売特許ではない。それはブルジョア民主主義が議会制民主主義として定式化したモデルだ。議会制民主主義こそは「票のもとでの平等」を掲げながら、「異なる機能集団を中央集権国家のような単一の組織に併合」した機構ではないか。

むしろそういう民族国家システムは、社会主義になれば死滅していくと考えるべきであろう。そこを指摘したものであれば、ポランニーの主張には意義があるといえる。


自転車談義は流石に疲れました。
脳みそのスタミナの衰えを痛感します。
「好奇心」そのものはそう衰えてはいませんが、
そのために読まなければならない、
マニュアルの重圧は重くのしかかってきます。
自転車のマニュアルもさることながら、
本丸であるハイエクとシュンペーターとポラニーに行くまでの
出発点の確保のための学習ですから、
あまり深みにハマると五里霧中、
何をやっているのかわからなくなります。

とにかく何とか切り上げることにしましたが、
この世界は相当奥深いです。
とくに制御工学にハマると、脱出不可能かと思います。
階層化し、構築した我々の論理を、
工学的知識がやすやすと追い越していきます。
ミーゼスやハイエクをランゲが叩き伏せたように

1.市場は均衡のあり方の一つにすぎない

一般均衡理論といっても、私ごとき素人に分かるわけはない。ここで均衡理論というのは、需要と供給の二つの曲線が真ん中で交わるあの絵のことだ。

二つの関係は左右に振れても、最終的には交点付近で均衡を保つことになる。

注意しなければならないのは、「それは経済が持つ一般的傾向のことであり、それ自体が市場の機能ではない」ということだ。生産と消費の仕組み全体が、均衡を保とうとすることだ。

2.均衡モデルは「直進」モデルだ

もうひとつ付け加えておきたいことは、均衡論というのは静止局面での評価であり、時間軸を加えた動態的評価ではないということである。

もし時間軸上にこのモデルを置くとすれば、それは「直進性モデル」ということになる。

自転車の重大な発明は、前輪の車軸を僅かに前にずらすことにより、直進性を実現したことにある。

これにより多少のブレはあっても、それは自動的に復元され、高い直進能力を獲得した。(もちろんハンドルを用いる直進能力に比べればはるかに劣るのであるが)

3.市場機能の誤った評価

市場の機能はすべての商品に価格をもたせ、貨幣によって相対化することである。それ自体は需給関係を、素早く交点まで持っていく上できわめて有用な手段である。

しかし、経済の均衡=直進性を維持するものとして市場を位置づけ、絶対不可欠なものと主張することは、“市場原理主義”の主張でしかない。それどころか市場に対する誤ったイメージを押し付けるものだ。

第一に、市場がなくても需要と供給のバランスをとることは可能であり(非効率であるが)、第二に、市場に代わり、より有効なバランサーを発見することは“制御工学”的には可能である(ソ連型の“社会主義計画経済”はそうではなかったが)。

4.市場の本質は欲望の方向付け

ついで問題となるのが、市場というものの本当の働きだ。確かに市場はすべてのものを商品として相対化し、適正な値付けを行う働きもあって、現象的にはそう定義しても良いのだが、より本質的な定義としては「欲望の方向付け」にあるのではないか。

これは、自転車のハンドルからの類推になるのだが、何故人は市場に集まるのかということを考えて見れば、そういう見方が出てきても不思議はないだろう。

市場では売手と買手が相対するわけだが、彼らは物質的欲望を満たしたいという思いにおいて共通している。そういう意味ではベクトルは同じだ。

それが売り買いという行為を通じて、ひとつの流れとなって、経済のストリームの発信源となっていく。そういう結節点の位置に市場というものは置かれている。

欲望の組織化と方向付けというところに、市場の本質があるのではないだろうか。そして需要と供給は、その方向に追随しながらバランスを取っていくのではないだろうか。

5.需要と供給は本質的に非対称

私はどうも需給曲線が経済のダイナミックスを規定する根本原理とは思えない。理由は二つあって、一つは需要と供給は本質的に非対称ではないかということである。

需要は人間にとって本質的なものであり、供給は諸条件に規定された相対的なものである。もちろん需要も供給のための諸条件の一つではあるが、決定的な条件ではないと思う。したがってこの二つを同一平面上に乗せて、その関係を云々するのは適切ではないと思う。

付け加えるなら(あまり本質的ではないが)、貨幣を介在させる限り買い手は売り手に対して相対的に優位にあるのであり、対称性はない。ある意味でこの非対称性こそが競争を産み、市場を活気づけるのではないか。

さらに付け加えるなら、労働市場という商品市場と対極にある市場である。この市場は、ほとんど需要と供給の均衡関係が実現されたことがない。ほぼ一方的に買い手(雇用者)側が支配する市場である。

労働者の側は、雇用者に対抗するために市場を用いることは不可能であり、学歴・ライセンス、何もなければ労働闘争あるいは訴訟という経済外的手段に頼らざるをえない。

6.需要も供給もパラメーターにすぎない

もう一つの理由は、需要も供給も中間項であり、より本質的なもののパラメーターに過ぎないのではないかという疑問である。

ここで労働価値説を持ち出すつもりはない。労働価値説は古典経済学の真髄であり、これを否定するのは馬鹿げたことである。しかし価値論の出番はここではない。

私の言いたいのは、一方における物質の生産と消費、他方における欲望の充足と創出である。

7.文化の形成過程を挿入しなければならない

これは物質が生産され、それが消費者にわたり消費され、物質的消費は欲望の充足となり、欲望の充足が新たな欲望を生む、それが一つの“文化”として新たな生産を刺激する、というふうに連結してメビウスの環を形成する。

このメビウスの環は本質的に前進的である。というのは人間の欲望には限りがないからである。「豊かな人間は豊かな欠乏感を持っている」のである。

この連環が経済を前に進ませる駆動力となり、ひいては生産と消費の新たなバランスを生み出す。需要と供給というのはこの大きな均衡系の中の一部を表現するにすぎないのである。

これが自転車論から引き出した、私の当面の感想である。

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