鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ:09 社会理論/科学的社会主義 > A マルクス

「主体性」は人間の本質ではない

いじめ、過労死、ストレスなどいろいろ並べてくると、人間の主体性という問題がどうしても避けて通れなくなる。そこで「主体性こそ人間の高次脳機能の本質」だという議論が出てくることになる。

しかし生物学的に見て、主体性の形成というのはそんなに高等な作業なのか、というと必ずしもそうではない。

むしろ、動物は大なり小なり主体性を持っている、という方が正確だろう。

そうすると、人間としての人間的な主体性というのは何なのかと、問題を置き換えなければ生産的な議論とはならないのではないか、とふとそう思う。

我々が生き物というとき、それは実際には動物のことである。もし「じゃぁ植物は生き物ではないのか」と問われると、「まぁそれも生き物ではあるな」と答えるが、心の底では「何をアホなこと言っているんだ」と舌打ちすることになる。

しかし食物連鎖を全体として考えてみれば分かるように、動物の例えば1千倍とか1万倍とかのオーダーで植物生命体があるはずだ。理屈から言えば、そういうレベルで生物界のバランスはとれているはずだ。

よく言えば、動物は生命界のエリートであり、悪く言えば寄生虫である。

生化学的に言えば、植物は炭素と水からできている。動物はそれに窒素を加えることでより複雑な構造を作り出している。何よりも大きな違いは、窒素が加わることで能動性が生み出されている。(あくまでも基本的な特徴付けだが)

栄養学的に言えば植物は独立栄養であり、水を分解することで炭水化物を作り、一方でこれをエネルギー源としつつ他方で炭化水素を高級化し体の構成成分ともする。

動物は従属栄養であり、植物の成長に自らの生命を託している。そして動物界の中にも食物連鎖のヒエラルキーを形成する。


動物は生まれながらに2つの世界に身をおくことになる。

一つは植物の世界に従属して、それに寄生しながら自らの生命を維持する世界である。

そしてもう一つは、食物連鎖の中にあってある時は捕らえ食し、ある時は捕食者から逃れ、生きながらえる弱肉強食の世界である。

もちろん、動物も植物も決して優しくはない自然環境の中に暮らすわけだから、全体としては自然の摂理に翻弄されながら一生を送る存在である。

その2つの世界のそれぞれにおいて、その生命体が動物であること、「動く生き物」であることはどのような意味を持つのだろうか。

それはまずもって、「判断」し「行動」することではないか。超短期的に言えば、自分以外のあるものを見たとき逃げるか捕まえるかの判断である。もう少し長期的に見れば、果実をもとめてさまようときに北に行くか南に行くかの判断は自ら下すしかない。ある程度はDNAやエピジェネティックに準備されているにせよ、最後は自己責任という厳しさを伴っている。

動物が群れを作るとき、それはそういう主体性を(部分的に)放棄することを意味する。そのほうが楽だからというのもある。「自由からの闘争」である。しかし今度は社会のしがらみが襲ってくる。ひどい時は「一億玉砕」などと死を強制される。

戦後流行した「主体性論争」はこの経験が下敷きにある。だから「ローン・ウルフ」であれという主張が導き出される。

このような「主体性」は相当屈折した複雑な心理状況を意味するが、それを「人間のみが主体性を持つ」というところまで敷衍してはならない。主体性と社会性(客観性)の関係は、動物がこの世に現れてからのいくつもの弁証法的過程を踏まえて議論しなければならないのである。

すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

ジョン・スチュアート・ミル

実は経済学・哲学手稿がまだ終わっていない。

結局、へーゲルの論理学があって、それをフォイエルバッハが批判して、マルクスがそれを受け継ぎながらヘーゲル批判をやっているうちに精神現象学まで遡ってしまい、そのうちに「ヘーゲルのほうが正しいんじゃないか」と思うようになってしまい、そんなこんなの中で書かれた手稿だから、読み解くのがとても難しい。

地の文の中でヘーゲルの主張とフォイエルバッハの批判と、マルクス自身の考えが入り混じって並んでいる。

しかも訳文がきわめて読みにくいと来ているから、「挫折するのも当然だ」といまは開き直っている。

フォイエルバッハの所論は飛ばして、とりあえずヘーゲルの精神現象学をマルクスがどう読み解いたかが知りたいのだが、そのためにはヘーゲルの精神現象学を最低のレベルでも良いので理解しなくてはならない。

ということで精神現象学の解説本を読み漁るうちに討ち死にしたというのが現状だ。

そこで今度は、そちらはいったんあきらめて、ミルの方から攻めてみたいと思う。マルクスはけっこうミルを勉強している。それにもかかわらず、ミルへの評価はケチョンケチョンだ。一体それはなぜだろうかというのが、以前から気にはなっていた。

そこでミルの勉強を始めてみた。たぶんまた挫折するだろうが…

まずは年表から

ミル(John Stuart Mill) には詳細な自伝があるようだ。これだけでも変わった人物だ。

ミルに関する論考は、Web だけでも山ほどあるが、ここでは主として小沼宗一「J.S.ミルの経済思想」を参考とした。

ミルの思想はどうしても父ジェイムズ・ミルとの関係を無視して語ることはできない。そこで父ミルの立志伝から起こすことにした。

さらにミルの思想はどうしてもマルクスと関連付けなければならないし、ヨーロッパを覆った革命の波とも関連付けなければならない。そこで年表に赤字で付け加えることにした。


 

1773年 ジェイムズ・ミル(James Mill)、スコットランドに生まれる。生家は靴屋だったが、スコットランド財務判事のジョン・ステュアート卿にその才能を認められ,エディンバラ大学に学ぶ。

1802年 ジェイムズ・ミル、ロンドンに出て著述業で身を立てる。徹底した民主主義者で,富裕な人々の考え方を嫌悪していたという。

1806年 ロンドンで生まれる。父ミルはJ.S.ミルに徹底的な英才教育を施した。(ミルへの教育は,愛の教育ではなく恐怖の教育であった)

1808年 父ミル、「商業擁護論」を刊行。

1810年 父ミル、ジェレミー・ベンサムの知遇を得、ベンサム邸のとなりに寄寓するようになる。

1817年 父ミル、10年を費やした「英領インド史」を刊行。

1817年 デイヴィド・リカードウ、『経済学および課税の原理』を出版。出版にあたっては父ミルの強い勧めがあったとされる。

1818年 マルクスが誕生

1819年 ミル(13歳)、リカードウの『原理』を読む。引き続きスミスの『国富論』に着手。

1820年 ミル、1年間にわたりフランスに留学。父ミルの友人セイ(Jean Baptist Say, 1767-1832)の家にもしばらく滞在。また社会主義者のサン・シモンとも面会している。

1823年 ミル、東インド会社に就職。

1824年 ベンサムの出資により「哲学的急進派」の機関誌『ウェストミンスター・レヴュー』が創刊される。功利主義と民主主義に基づく議会改革運動。

「哲学的急進派」の理論的基礎の一つがマルサスの人口原理である。ミルは誌上で人口制限政策を主張した。

1826年 ミル(20歳)、ベンサム主義に対する深刻な懐疑を抱く。「幸福は目的ではなく、何かの目的を追求する中に見出される」と考えるようになる。

ミルはワーズワースの詩を読んでロマン主義に傾斜。幸福-感情に彩られた思想の状態を会得したとされる。

1833年 ベンサムの死後1年を機に「ベンサムの哲学」を発表。

ベンサムは「人類は幸福衝動という刺激によって支配されている」と考えた。しかしそれは、実際に人類を動かしている多様な刺激の一部にすぎない。
またベンサムは「その目的のためには冷酷で思慮深い計算家である」と考えている。それは人類が実際にそうであるよりも、はるかに誇張されている。

1833年 ジョン・テイラー夫人のハリエットと恋愛関係(不倫?)に陥る。半公認の三角関係は1849年まで続く。

1833年 ミル、『ジュリスト』誌上に「公共財団と教会財産」を発表。社会的害悪の主要な源泉は,無知と教養の欠如であるとし、政府による教育の充実を提唱する。

1842年 マルクス、ライン地方の『ライン新聞』に参加。革命家としての生涯に踏み出す。

1843年 「論理学体系」(A System of Logic)を発表。帰納法によって発見された経験法則を、再度現象の予測に適用して、法則の真理性を確認するという逆演繹法を確立した。

1844年 Essays on Some Unsettled Questions of Political Economy, を発表。マルクスが読んだのはこの本か?

1848年 マルクス、「共産党宣言」を発表。フランスで二月革命、次いでドイツで三月革命。

1849年 ロンドンに入り以後40年をロンドンで亡命者として暮らす。

1848年 「経済学原理」を発表。正式のタイトルは「政治経済学の諸原理」(The Principles of Political Economy: with some of their applications to social philosophy)である。

リカード以来の古典派経済学のフレームワークに従い、「豊かな先進国」イギリスの社会問題に対して、具体的で実現可能な処方箋を書く。
自由放任政策を支持する一方、ロバート・オウエンなどの影響を受けて社会主義的な色合いを持つ。これは折衷主義として、マルクスの激しい批判にさらされる。

1850年 雑誌に「黒人問題」を寄稿。

1851年 ミル、ハリエットと結婚。逆に母や弟妹とは不和になり、二人で別居することになる。

1858年 長年勤めた東インド会社が廃止となる。退社を機に夫婦で南仏旅行。旅行中にハリエットが急逝。

1859年 「自由論」(On Liberty)を発表。(これについては別途検討)

多数者の専制批判: ①たった一人の反対意見が真理かもしれない。②支配的意見は反対意見との論争によって、その合理的根拠が理解できる。③反対意見の中にも真理の一部分が含まれている(常にではないが)

1861年 ミル、『代議制統治論』を公刊。下層階級が選挙権をもつことに反対。教養人に複数投票権を与えることを主張する。

1863年 「功利主義」(Utilitarianism)を発表。

1864年 第一インターナショナル(国際労働者協会)結成。マルクスが指導者となる。

1865年 ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下院議員となる。約4年間の議員生活を送る。ミルは、労働者階級の選挙権、女性参政権を国会に提案。

政治的ポジションは急進的なリベラルであった。アイルランドの負担軽減、婦人参政権、普通選挙制などを主張。ジャマイカ事件で黒人反乱を擁護した。

1866年 資本論第一巻が発行される。

1869年 「女性の解放」(The Subjection of Women)を発表。

1870年 ミル、土地保有改革協会を設立。資本主義的な土地改革を打ち出す。国営・公営農業については認めず。

1871年 普仏戦争→パリコミューン。マルクスが「フランスにおける内乱」を執筆。

1873年 滞在中の南フランスで病死。

1873年 義娘ヘレン・テイラーにより「ミル自伝」が発表される。


ということで、ミルの人となりがほんわかと見えてきた。

1.まず驚くのは、父ミルの広範な人脈である。マルクスが資本論草稿の中で苦闘した相手の名前が、綺羅星のごとく並ぶ。

彼らは一つの星雲を形成していたのだ。そして、学会では進歩派として位置づけられていたのだ。そして父ミルが、かなりその接着剤の役割をなしていたようだ。

2.ミルの関心領域はマルクスのそれと著しく近接している。おそらくマルクスはイギリス滞在中つねにミルを意識していたはずだ。にも関わらず、マルクスは経哲手稿・ミル評注以降徹底的に無視している。まともな理論家として扱っていない。

 3.マルクス主義の分野では、ミルを折衷主義者とするレッテル貼りがもっぱらである。それには二つ理由がありそうだ。ひとつは彼自身がベンサムとワズワースとカントのアマルガムであるということ、もう一つはそれれを融合して新たな思想の地平を作るに至ってはいないということだ。

4.おそらくそれには理由がある。父ミルと違い、彼は党派に属さず孤高を貫いている。それではやはり結局は、人畜無害な評論家にしかなれない。しかしそのことと、彼の政治・経済理論が無力であるかどうかは別の話である。

ミル親子関連の記事

その前のルイ・ボナパルトの治世ですが、これもボナパルティズムという規定が先走っています。今日の我々としては、初期ブルジョア支配の一亜型、ポピュリスト独裁制の亜型として見るべきでしょう。ラテンアメリカの政治史を見ると、この型の独裁制がずいぶんと出てきます。

私の注目するのは、このようなオポチュニスト政権のもとに資本主義政治における基本潮流が出揃って、横一線で張り合うという稀有の状況が出現した時代だというところにあります。なぜならフランスは当時世界で1,2を争う産業大国であるにもかかわらず、欧州最大の農業国でもあったからです。
そして、さすがにフランス大革命の第一世代は消えたとはいえ、いまだに40年前の7月革命、22年前の2月革命を闘った人々がバリバリの現役だということです。いまの日本を考えて見れば、60年安保はすでに55年前、70年安保・沖縄もすでに45年前です。プルードン、ブランキが未だ健在のところにマルクスとバクーニンが割り込んでくるのですから熾烈なレギュラー争いとなるのも当然でしょう。


宮内さんの論文を私なりにまとめてみます。


1.おおまかな布陣

第二帝政の初期の反政府運動は、少数の反動的な「ブルボン王朝派 」のほか、立憲王政主義の「オルレアン派 」、それより左寄りだが保守的なブルジョア「自由派 」、急進的なブルジョア「共和派 」に区別されていた。自由派は第二帝政を承認し、せいぜい議会の権限強化で満足していた。これにたいして共和派はジャコバン主義の継承者を自認し、「民主主義的で社会的な共和国」の基盤の拡大を志向していた。しかしその運動目標は所有関係の根本的改革をめざすものではなく、運動の進め方も議会中心主義となる。これらの政党は第二共和制下の主要政党であったが、ナポレオン三世のクーデタ前後に国外追放になっていた。これらの人々が恩赦で次々帰国しはじめていた。

2.共和派の分裂

1860年代に入ると、ブルジョア「共和派 」は分裂した。「急進派 」、「ネオ・ジャコバン派 」、「ブランキ派 」が並立状態になる。このうち、「急進派 」は1848年の2月革命で主要な役割を演じたが、第二帝政下においては自由派に接近していた。しかし帝政末期にいたると、急進主義の原点に戻ろうとする、より若い世代が登場してきた。「ネオ・ジャコバン派 」は、共和派のうち、より非妥協的で、大衆運動を重視する傾向のグループである。「政治改革は手段であり、社会改革が目的である」と主張する。メンバーの経歴、信条は多彩であった。裏を返せば、言論を主にする統一性のない人々の集合であった。のちにパリ・コミューン議会の多数派を占める。

3.ブランキ派の台頭

ブランキ派 」は社会主義者であり、革命家のオーギュスト・ブランキを中心にした秘密結社である。彼は1830年代から革命運動に加わっており、生涯の大半を牢獄でおくった。1865年にもはや60歳にもなるこの老人は、脱獄してベルギーへ亡命した。ブランキの周辺に、若い世代の心酔者が集まって、1867年にブランキストの秘密結社が再建された。組織の中核は、少数の学生、知識人で構成され、同調者は、1868年末に800人にのぼった。ブランキ派は、行動を重視する組織集団であり、規律と統制、大衆運動における献身的行動において、最もまとまった集団であった。ブランキ派とネオ・ジャコバン派は、のちに、パリ・コンミューンの議会多数派を構成する。

4.労働者の勢力拡大

これに加えて、1860年頃から労働者の意識が次第に変貌しつつあった。ジャコバンではなくサン・キュロットの伝統を引き継ぐ労働運動が高まってきた。…全国的に賃上げ闘争や労働時間短縮のためのストライキが頻発した。1863年の総選挙のときには、労働者の候補者リストが提出された。…その後もますます労働者による反政府運動の力が増してきた。そして、その政治代表として第一インターナショナル・フランス支部(1865年創立)が登場してきた。この中には純粋プルードン主義者と革命的集産主義者派があり、後者が主導権を握りつつあった。

5.労働運動の分岐

プルードン派 」は労働者を議会へおくりこむのではなく、既存の国家機関である議会から離れて、社会組織のなかの変革を、コンミューン連合として発展させようとした。そして「政治」を消滅させ、有機的な調和をもつ社会を思い描いた。

マロン、ヴァルランらマルクスの影響を受けた「革命的集産主義者派 」は、政治革命を通じて生産手段の共有制にもとづく平等社会の実現をめざした。一方で、プルードンの連合主義の影響を受け継いで、一切の革命独裁と政治権力には反対した。彼らはバクーニンの無政府主義にも強い影響を受けていた。


これが、パリ・コミューン直前の政治布陣です。なかなかに複雑でしょう。このほかにサン・シモン主義者やフーリエ主義者などの集団もありました。

エンゲルスは「空想から社会主義へ」の中で、ことさらにプルードンを無視していますが、根本的な思想は別として、社会主義のイメージの中にはかなりプルードン主義のアイデアが紛れ込んでいると見たほうが良いのではないでしょうか。

そしてマルクス主義の社会主義観はむしろパリ・コミューンの後のバクーニンらとの論争を通じて鍛えられていくと見るべきではないでしょうか。


年をとって、奥歯の根っこが、とくに虫歯というわけでもないのにグラグラし始める。要するに人体組織のいたるところが萎縮し始める。こっちは話が佳 境に入っているのに、まだラストオーダーも頼んでいないのに、店の奥のほうでは仕舞い支度を始めて、お皿のガチャガチャ言う音がイヤに耳につく年頃となり ました。

そういう年頃になって、不意にパリ・コミューンのことが気になって、調べてみると、それはそれで面白いのは面白いのだけど、ずいぶん買いかぶっていたのだなとわかってきました。レーニンはここからロシア革命のモデルを引き出したのだけれど、それはとんでもない間違いだと思い始めています。

事実は初老期に入ったマルクスが一過性に発狂して、若い気を出したということでしょう。パトスとしては良く分かりますが、それだけの話しです。ゲバラを革命のモデルにしてはいけません。むしろこうやってはいけないという見本として記憶に留めるべきでしょう。

赤旗文化面のトップに大々的にオーウェルの「1984年」の紹介が載せられた。
及び腰の賛辞が並べられていて、正直のところきわめて座り心地が悪い。
原因ははっきりしている。我が日本共産党がかつてスターリニズムを奉じていたことへの自己批判がないからである。
もちろん我々は当事者ではないから、オーウェルに向かって「心からのお詫び」を述べる必要はない。
スペイン人民戦争における政治的諸潮流には、そのそれぞれにそれなりの問題もあったし、そのなかで頑張りもした。いまはまず歴史として虚心坦懐に評価していくほかないことである。
「フランスにおける内乱」の諸規定と同じく、それを今日における闘いの指針とするのはナンセンスである。
爺さんがファシストだった、しかし孫は共産党になった、ということはありうるわけで、そのさいに孫が爺さんの悪行について「心からお詫びする」必要はない。
ただ国家・政府というのは否応なしに継続性を持つわけだから、爺さんの代にやったことでも責任は取らなければならない。
政党というのは国家や政府ではないから、なかなか微妙な位置にはある。
ただ創立90年とかいう伝統を誇りにしてそれを全面に打ち出すのなら、かつてスターリニズムを信奉していた事実は公然と認め、はっきりと自己批判すべきだろう。
そうすれば、奥歯に挟まったものがとれて、この文章ははるかに読みやすくなる。率直に言えばこの「1984年」という本にも色々問題点はあるのだ。
まぁ、とりあえず、次の党大会に向けての第一歩というところか。

「フランスにおける内乱」という文章は、マルクスにしては珍しくスラスラと読める。
なぜなら継起する事態と同時並行で描かれているからだ。彼には国際労働者協会(第一インター)を通じて山のような情報が集まってきていた。それを取捨選択して彼なりに料理して間髪をいれずに発表したわけだ。
しかもそれを「私の本です」というよりは、「第一インターの見解です」みたいな形で出しているわけだから、「資本論」のように考えぬかれた書物ではない。
彼の見解の中で唯一確実なのは、「革命は出来合いの国家機構をそのまま用いることはできない」というものだ。
ただそれも、「国家機構を粉砕せよ」とか「プロレタリアの独裁」というふうに先鋭化することではない。まだ、彼の中では未分化なまま提起しているだけなのだ。うんと一般化すると、「新しい酒には新しい皮袋が必要」ということになる。
人類の生産力が一段とアップする際においては、それに適合するもう一回り大きいガタイが必要なのだ。そのための「脱皮」の作業が革命の意義なのだろう。

第二にこの本は、分析という点では、コミューンよりもむしろそれが打倒したボナパルティズムに精彩を発揮しているということである。資本主義は一方ではブルジョア民主主義を生むが、他方ではその奇形としてのボナパルティスムを生む。現在の政治情勢を見る上でもそれはきわめて有用なツールである。有用なだけに乱用は危険であるが…

もう一つ、コミューンにおいては労働者派が主体ではない。職人や手工業者を基盤とするプルードン主義や、小ブルの陰謀家なども動いたが、少なくとも最初にことを起こしたのは「本土決戦派」だ。ただそれらの威勢のいいだけの連中は、いざ決戦となると縮こまるか逃げ出すかしてしまったから、最後に残った労働者が割りを食ったというのが経過だろう。
3月末のコミューンと4月末のコミューンは明らかにその性格を変えているから、これらをひとっからげにして美化したりクサしたりするのは理屈に合わない。
ただ当事者たるマルクスにとっては、そんなことは言っていられない。とにかく一所懸命肩入れするほかなかったのである。
これらの一連の経過は、私には「光州事件」を思い起こさせる。その瞬間、参加者はみな聖人であったろう。戦い終わった後は、死者に鞭打つことはできないから、純粋な(マキャベリ的な、あるいはクラウゼビッツ的な)政治分析ではありえなかったと思う。
そのことを悪いと言っているのではない。だれだってそうしたろう。しかしだからといって、この文章をその後の世界革命の導きの書とすることはできないだろう。
それはたとえば、ロバート・リードの「世界を揺るがせた10日間」を読んで、革命の真髄を分かったつもりになるのとおなしではないか。
とりとめないが、とりあえず感想まで。

1866年 普墺戦争。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦う。勝利したプロイセンはライン川流域まで勢力を伸ばし、北ドイツ連邦を主導する。

1868年 スペインの王位にホーエンツォレルン家のレオポルトが推挙される。ホーエンツォレルン家はプロイセン王の親戚に当たるため、フランスが強く反対。

1870年

7.12 インタナショナル・パリ支部、戦争反対の宣言を発表する。

7月14日 エムス偽電報事件 スペイン王位の継承問題についてのフランス大使とプロシア王ウィルヘルムが会談。会談後にエムス(保養地)滞在中の王からの電文を、ビスマルクが改ざんして報道発表した。フランス国民の怒りを誘発し戦争を仕向ける狙いだったとされる。

7月15日 フランス皇帝ナポレオン3世、世論の怒りを背景に動員令を発令。

7月19日 プロイセンに宣戦布告。ドイツ国境に侵攻。戦争は最後の軍事的賭けであった。北ドイツ連邦と南ドイツ諸国(バーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国)は直ちにプロイセン側に立つ。
フランス軍は約40万人の常備兵。バゼーヌ、マクマオン、トロシュらの元帥が率いる。プロイセン、およびその北ドイツ、南ドイツの同盟国は約120万人(ただし常備兵ではない)。モルトケ元帥とプロイセン参謀本部が指揮する。


7月23日 「独仏戦争に関するインタナショナル総評議会の第1の呼びかけ」が発表される。

この戦争は、正義の戦争でも、国民的なものでも、フランスの真の利益に合致するものでもない。それはただラインの両岸に専制主義の勝利をもたらすものにすぎない。君主のための戦争は、労働者の眼からみれば、一個の犯罪的愚劣事であるにすぎない。


8月02日 フランス軍が越境しザールブリュッケンに侵攻。

8月06日 ヴルトの闘い。最初の大規模な戦闘。両軍合わせて10万人を超える兵力が激突する。フランス軍2万人が戦死・戦傷・捕虜となる。

8.07 パリに戒厳令が布告される。

8.08 帝政反対のデモがパリで巻き起こる。

8.09 デモの拡大の中でオリヴィエ内閣が崩壊。バリカオ内閣に交代する。

8.14 ラ・ヴィレット大通でのブランキ派の蜂起作戦。警察署を遅い武器強奪を図るが失敗に終わる。

8.16 トロシェ将軍、ナポレオン三世からパリ総督(パリ軍管区司令官)に任命される。

8月16日 メス要塞で孤立したフランス軍13万人が脱出を図る。マルス・ラ・トゥールでプロイセン軍と激突するも包囲を破れず。

8月18日 メスの西方約10kmのグラヴロットで最大の戦い。モルトケの率いるプロイセン第1軍と第2軍(19万名)が、バゼーヌ元帥率いるライン軍(11万名)陣地を攻撃。フランス軍は甚大な損害を与えた後、メスに退却し立てこもる。

8月末 劣勢を打開するため、ナポレオン三世自らが北東部のセダンに進出、メスとの連絡を目指す。プロシア軍はナポレオン三世軍の背方にまわり、パリ・セダン間の連絡を断つ。

8月30日 ボーモン(Beaumont)の闘い。プロイセン軍がフランス軍を攻撃。フランス軍はセダンに退却し立て篭もる。

9月01日 セダンのフランス軍が血路をもとめて攻撃開始。戦死傷者17,000名、捕虜21,000名を出し戦闘中止。

9月2日 ナポレオン3世が降伏。10万の将兵とともに捕虜となる。

9月4日 「皇帝降伏」の報告を受けたパリ民衆が蜂起。数千の住民が国民議会のある「ブルボン宮」に侵入し、現体制の解散を求める。

9月4日 市庁舎に結集したパリ選出の立法院議員(ブルジョア共和派)は、トロシュ将軍を首班とする共和国臨時政府(国防政府)の樹立を宣言。

9月4日 パリ20区の中央委員会代表はセーヌ県における選挙の実施、警察国家の廃止、全フランス人の武装を要求する。リヨンに公安委員会成立。

9月5日 ヴィクトル・ユゴー、19年の亡命生活を終えパリに戻る。国民的英雄として歓迎される。

9月8日 「臨時政府」が戦争継続を宣言(裏では終戦工作)。ビスマルクは講和に持ち込もうとするが、プロイセン軍と世論はパリ進撃をもとめる。

9月9日 「独仏戦争に関するインタナショナル総評議会の第2の呼びかけ」が発表される。マルクスは早すぎる蜂起への警告を行う。

マルクスは、臨時政府首脳陣の裏切り行為を非難しつつも、ことの緊急性に鑑み新政府を支持する。同時に共和制の自由があたえる便宜を利用して「自分自身の階級を組織する」よう訴える。


9.15 国防政府のジュール・ファーブルがフェリエールでビスマルクと秘密会談。停戦を模索するが、交渉は不調に終わる。

9月19日 モルトケの率いるプロイセン軍30万人がパリを取り囲み砲撃を開始。フランス臨時政府はボルドーに撤退する。
軍事マニアのエンゲルスは、ロンドンからパリに行こうとするが、マルクスにとめられたという。

9.22 パリ20区の代表と国民軍司令部がコミューンの選挙を要求する。

9.28 バクーニンとクリュズレらリヨンで蜂起するが失敗に終わる。

10.05 フルランスに率いられた国民軍諸大隊の武装デモ。武装、真剣な軍事行動、ボナパルト派の粛清を要求する。

10月27日 フランス軍の最後の拠点、メスのバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏。フランス軍の組織的な反攻は終わる。

10.30 ティエール、欧州諸国への調停依頼の巡回を終え帰国。ファーブルと休戦条件をすりあわせ。

10.31 パリの民衆的地区の国民軍が市庁舎を占拠し閣僚を一時拘束。新政府の樹立に至らないまま敗走。

11.01 マルセイユでコミューン結成の動き。翌日には失敗に終わる。

11.03 包囲下のパリで区長、助役を選ぶ直接人民投票が行われる。56万対6万票の大差で国防政府が承認される。同時に行われた区長選挙では、政府派が12人、コミューン派が8人を確保。この結果フェリがパリ市長、クレマン・トマが国民軍司令官となる。

12.02 ロアール地方で抵抗を続けていたロアール軍が重大な敗北を喫する。


1871年

71年1月

1月01日 プロイセンを中核とするドイツ帝国成立

1.05 プロイセン軍、パリ砲撃を開始。

1.07 20区中央委員会、「人民に席を譲れ、コミューンに席を譲れ」の「赤いポスター」宣伝を開始。

1月10日 ルマンの闘い。南部で抵抗を続けていた第二ロアール軍が壊滅。

1月18日 ヴィルヘルム1世、占領中のヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国皇帝に即位。

1月19日 サン・カンタンの戦い。北部軍が壊滅。東部のブルバキ軍もスイスに逃れ武装解除される。

1.21 闘いを敗北に導いたトロシュが罷免される。後任にヴィノア。

1.22 国民軍諸大隊の武装デモ。ヴィノアはこのデモを実力で粉砕する。

1.23 パリ市内の左派への弾圧が開始される。クラブが禁止され、17の新聞が停刊となる。

1月28日 ファーブル新首相がヴェルサイユで降伏文書に調印。暫定休戦に入る。開城と交換に食料補給が認められる。

71年2月


2.01 パリで休戦に抵抗する試み、失敗に終わる。

2.08 休戦協定に決められた「国民議会」の選挙。当選者の大多数は正統王朝派(地方地主)。パリからは43人が選出される。うちティエール、ファーブルらの極右派が6人を占める。

2.12 ボルドーで「国民議会」が開催される。王党派の主導で、ブルジョワ共和派のティエールをフランス共和国行政長官(首相)に指名。

2.15 議会、国民軍への給料支払を停止。

2.24 ヴォクセルで国民軍の代議員大会。2千人が結集する。

2.26 ヴェルサイユでティエール・ファーブルとビスマルクとのあいだに仮講和条約が調印される。50億フランの賠償金、アルザス・ロレーヌ地方のドイツへの割譲で合意。

2.26 パリ市民、ドイツ軍による捕獲を避けるため、大砲を東部・北東部地区に移動。
2月 ティエール政府は「国民軍の大砲は国家の財産である」として、「国民軍」の武装解除を目指す。

71年3月

3月1日 ドイツ軍がパリに入城。これは儀式的なもので、シャンゼリゼ通りを行進した後、東部の外部要塞に退去する。

3月1日 ティエール政府もパリに帰還。政府は「国民軍」の武装解除にとりかかる。

3.03 国民軍第200大隊、代議員会議を開き国民軍共和連盟の規約を採択。執行委員会を任命する。

3.10 ボルドーの国民議会、ヴェルサイユへの移転を決議。

3.10 国民議会、デュフォール法を採択。家賃および手形のモラトリアムが廃止される。

3.11 ヴィノア総司令官、共和派の新聞6紙を発行禁止処分。

3.11 フルランスとブランキに欠席裁判で死刑が宣告される。

3月18日 パリ蜂起


未明 フランス正規軍はモンマルトル丘に配置された「国民軍」の大砲を奪おうとするが、「国民軍」の抵抗にあう。

これに民衆も呼応。モンマルトルの砲台を奪取し、市内各地にバリケードを築く。

正規軍の兵士も民衆に味方したため、政府軍は壊走。民衆と兵士は指揮官の二人を捕らえ銃殺する。
夜 ティエール=ヴィノアの政府・議会・正規軍はベルサイユに逃亡。パリ市内はコミューン派=国民軍左派が制圧する。

3.19 国民軍共和連盟中央委員会、コミューン選挙を告示する。各区の区長は国民軍共和連盟を否認。中央委員会派と区長派の対立に移行。

3月20日 リープクネヒト宛書簡、「パリの連中は負けそうな様子だ。それは彼らの罪だが,実際あまりに入が好すぎることからきた罪だ」と述べ、敗北を予想する。

3月22日 リヨンとマルセイユにコミューン成立。リヨンは3日後に崩壊、マルセイユも4月6日に崩壊。ほかにナルボンヌ、トゥルーズ、サン・テティエンヌ、クルゾにもコミューンが一時成立する。

3.24 国際労働者評議会のパリ連合評議会、コミューン選挙に関する宣言を採択。

3月26日 パリ全区でコミューン選挙。総投票数23万。90名の評議員が選出される。中央委員会派が65名を獲得し区長派19名に圧勝。コミューンは執行と立法を同時に行う直接民主的行政機関となる。
長女のシャルル・ロンゲがパリの評議員となる。娘婿のラファルグがボルドー・コミューンの代表に就任。

3月29日 パリ・コミューンの成立と臨時政府からの自立を宣言。ヴェルサイユへの進軍をためらう国民軍中央委員との摩擦が表面化。
マルクスは「当時完全に無力であったヴェルサイユにただちに進撃し、ティエールとその田舎地主たちの陰謀の息の根をとめる」ようもとめる。

3.29 コミューン内に10の委員会が設立される。戦時中の家賃を免除する政令、質流れ品の売却を禁止する政令などが成立する。

3.30 常備軍を廃止し、国民軍を唯一の武装力とする政令が成立する。

71年4月

4月2日 兵力を再び結集したヴェルサイユ軍が攻撃を開始し、クルブヴォアを奪取。内戦が始まる。

4.02 公務員の給料を大幅に引き下げる政令が成立。ほかに教会を国家から分離する政令などが成立する。

4.03 国民軍、ヴェルサイユに進撃するが撃退される。政府軍は捕虜となったコミューン兵士を殺戮。

4.04 国民軍、さらに敗退を重ねる。

4.04 パリ市民に徴兵令。17歳から31歳までの未婚の全市民が国民軍に編入される。

4.06 ドンブロフスキーがパリ要塞司令官となり戦線を立て直し。

4.08 ファーブル、政府軍建て直しのため捕虜となった兵士の早期送還をプロイセンに要請。

4.12 支払期限に関する政令。一切の債務訴訟が停止される。

4月12日 クーゲルマンあての手紙、「官僚=軍事機構を移すことではなく,それを打ち砕くことが必要だ。ルイ・ボナパルトの皇帝制は国家権力の最もけがれた形態であると同時に,その終局形態である。それに対しコミューンは共和制の積極的形態であり、階級支配の君主制形態ばかりでなく,階級支配そのものをも廃止する」と述べる。

4.16 放棄された作業場を労働者団体の手で再開する。

4月17日 クーゲルマンあての手紙。それまで蜂起に反対していたマルクスは態度を変更「資本家階級とその国家に対する労働者階級の闘争は,パリの闘争によって新しい局面に入った。どのような経過をたどろうとも世界史的に重要なひとつの新しい出発点だ」とする。

4.19 コミューン、フランス人民への宣言を発表。コミューンの綱領を示す。

4.21 コミューン執行権力、9委員会の代表者会議に移行。

4.23 革命的裁判所が設置される。

4.26 ヴェルサイユ軍、イシ・レ・ムリノを占領する。

4.30 地方自治体選挙で共和派が進出する。ルーブル広場で地方共和連合同盟のデモ。

71年5月


5.01 ヴェルサイユ軍、市内への砲撃を開始。

5.04 内通者によりムラン・サケの角面堡が陥落。ヴェルサイユ軍が市内に進出。

5.05 ブルジョア新聞7紙が発行禁止となる。

5.05 ヴェルサイユ軍、クラマールを占領。

5.08 ティエール、商工業代表共和連合の調停を退け、パリ市民に最後通牒を突きつける。

5.09 ヴェルサイユ軍、イシ堡を占領。

5.09 パンの価格がキロあたり50サンチームに固定される。

5月10日 フランス・ドイツ間でフランクフルト講和条約締結。これに基づき、捕虜となっていたフランス軍兵士が一斉解放される。その多くはパリ・コミューンの弾圧に投入された。

5.13 ヴェルサイユ軍、ヴァンヴ堡を占領。

5.15 コミューン少数派、公安委員会に反対する声明を発表。これにもとづき労働組合代表者会議、クラブ連合委員会の会議が開かれる。

5.16 ヴァンドームの円柱が引き倒される。

5.18 公安委員会、新聞6紙を禁止する。

5.19 教育の非宗教化に関する決定。

5.20 ヴェルサイユ軍、ポアン・デュ・ジュール門を突破。

5月21日 ドイツ軍の支持を取り付けた政府軍が、パリ城内への攻撃を開始。第15,16区を制圧する。「血の1週間」が始まる。

5.22 公安委員会はパリ市民に「武器をとれ」と呼びかける。

5.22 ヴェルサイユ軍13万人が市内に入る。シャンゼリゼを占領。

5.23 ヴェルサイユ軍がパティニョルとモンマルトルを占領。コミューン軍司令官ドンブロフスキーが戦死。

5.23 チュイルリー宮殿、パリ市庁舎などが放火され、廃墟となる。

5.24 ヴェルサイユ軍、パリ中心部とカルチェ・ラタンを占領する。捕虜の無差別殺戮を開始。

5.24 コミューンと公安委員会、第11区役所に移転。ダルボア大司教その他の人質を処刑。

5.25 セーヌ左岸を守っていたヴルブレフスキーの部隊が撤収。市の南部がヴェルサイユ軍の手に落ちる。

5.25 シャトー・ドー広場で最後の激戦が展開される。公安委員会のドレクリューズ委員長が戦死。

5.27 ベルヴィルに押し込められたコミューン兵、ペール・ラシェーズ墓地で最後の戦い。立てこもった市民147人は「連盟兵の壁」の前で次々に銃殺される。
パリ国民軍の死者は4000人以上、処刑されたパリ市民は1万7000人。さらに4万3500人以上が逮捕され、強制労働や流刑に処せられた。

5.28 第11,12区の最後のバリケードが破壊される。

5月30日 マルクス、インタナショナル総評議会で「フランスの内乱」を読み上げる。 文章は4月から5月にかけて英文で執筆されていた。

1872年 「共産党宣言」の再版にあたっての序文。マルクスは政治権力の獲得説に代え、国家の破壊説を主張する。


1881年

2月 ニウヴェンフィスあての手紙、①社会主義政府が政権をとるには,そのための前提条件が成熟していなければならない。②コミューンは,「例外的条件のもとでの一都市の反乱でしがなかった。③コミューンの多数の者は,社会主義派でなかった,④かつまた,コミューンが当時なしえたであろう唯一のものは,「有益な妥協」であった



インターネット上では、淡路憲治さんの「パリ・コミューンとマルクス」および、宮内広利さんの「地上の天国に一番近づいたとき~パリ・コミューン考」が参考になりました。



絶対知 要約の要約 は、絶対知 というページに載っている「精神現象学」の「絶対知」の章の(内容要約)という部分を、さらに要約したものである。

「出席者:長谷川、池内、大澤、竹永、加々見、中澤、鈴木、新浪」とされているので、おそらく長谷川訳の本の検討会の記事なのであろう。訳者が自ら主催し、それに参加者がコメントを述べる形の検討会のようだ。

読みやすいとされている長谷川訳だが、それでも歯がたたない。10年も前に買ってそのまま棚晒しになっている。

要するに読みにくさの秘密は、訳の難しさではなく用語の難しさにあるということが分かった。なぜ用語が難しいか、一言で言えばヘーゲルの言葉の使い方がいい加減だからである。とくに絶対知の章でそれが目立つ。それが分かるのは、それだけ長谷川訳が良いからだも言える。

ヘーゲルはなにか思いつくと、それに適当に名前をつける。その定義はしないままに使い続ける。使い続けているうちにその名前のイメージが固まってくるのである。イメージが固まるのは良いとして、そのイメージがその名前の元の意味からはかけ離れたところに行ってしまう。

我々はその用語を元の言葉のイメージで読んでいくからまったく意味が分からなくなる、というのがこんぐらかる理由のようだ。それに大仰な形容詞をつけるから、「これでもか、これでもか」とパンチを食わされて、2ページも行かないうちに脳みそがグロッキーになってしまう。

巷にはヘーゲル用語辞典というのも発売されているようだが、ヘーゲルというのがそういう人なので、たぶんあまり役に立たないのではないかとも思う。同じ言葉でも使い方がどんどん変わっていく可能性がある。「精神現象学」辞典が必要だろうと思う。

逆に言えば、そういう辞典さえあれば、本文など読まなくても良いかもしれない。

そこで「言い換え集」を試作してみようかとおもう。辞典ではなく、勝手な「あだ名つけ」である。もしテキストファイルがあれば、一括置換で全部置き換えちゃうと読みやすくなるのではないかとの期待を込めている。


絶対、純粋、完全: ヘーゲルの大好きな形容詞だが、目障りだから読み飛ばしていこう。

意識: 心象 “イメージ”のほうが意味が広くて良いかもしれない。「潜在意識」、「無意識」などのような心理学的ニュアンスはない。本能と悟性に裏付けられた心象。

対象: 事象 事物そのもの(存在)ではなく、自分の関係する他者であり、しかもその表象だから事象とするのが良いのではないか。

物:モノ 「物はその有用性で考察される。物は本質的に他のための存在なのである」と、きわめてぞんざいに扱われている。カタカナで書くとそういうニュアンスが出てくる。

自己意識: 対象イメージ 自己と言いながら直接には他者についてのことである。他者について自己の中に思い浮かぶイメージが自己意識である。対象イメージが集積すれば、自己の心象を規定するようになる。

自己: 自己イメージ ヘーゲルは徹底した観念論だから。自己をも自己イメージとしてとらえる。だから他者に向き合うときは「自己にとっての意味」が唯一の関心事項である。正直なのかもしれないが嫌なやつだ。

知: 本質 ヘーゲルは、この言葉を多義的に用いているので、前後関係から判断するしかない。知覚の先にあって思考という感じで使うこともあれば、知識とか知恵とかいう意味でも使う。

理性: 社会常識 “理性的な”というと、褒め言葉だがそのようなニュアンスはない。自己意識の集合体くらいの感じか。

良心: 良識。理性の第2段階で、高級な自己意識。個々の事柄を離れて、それらの知(本質)を貫く純粋意志(目的)を把握する自己意識。ふつうはこれが理性だが、先に使っちゃったので、「良識」とあてておく。

精神: 心 「情」でも良いか。「敢闘精神」、「愛国精神」のようなニュアンスはない。精神は良心(世の良識)が個人の知へ投影したものと考えられている。良心(良識)を基盤とするからポジティブなニュアンスはある。いずれにしても理性と並び立つ概念となる。

完全で真の知: 義 漢字で書けば「義理」になるのだが、義理という言葉にはあまりにも手垢がつきすぎている。自分で作り上げてきた常識と、良識が精神の働きで和解する(というより吸収合併される)。「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たいこの世界」である。これが義である。まぁ、どうでもいいことだが…

美しい魂: 信念 義には二種類あって、良識が外在的なものにとどまっている場合と、しっかり消化されて自己確信に至っている場合がある。前者は宗教である。しかし信心は自らの実現に対立する概念であるから、実践過程で破綻する。後者は「実現を獲得した概念」と呼ばれる。そんな経過からすれば、とりあえず「信念」がよろしいかと… この辺り、ヘーゲルは締め切りに追われて縒れている。

契機: 場 結構いろいろな使い方をするが、「きっかけ」とか「要因」というニュアンスはない。最初は因子にしようと思ったが、点というよりもう少し広がりがあるので、とりあえず「場」をあてておく。

概念: 枠組み 構造とかスキームというとがっちりしすぎている。もっとカジュアルにフレームを組み立てるという感じがある。

絶対知: 摂理 告白するが、このへんになるとよくわからない。たしかにそんなに簡単に分かってしまったのでは、有り難みがない。
ここまでの積み上げの中で、ヘーゲルは「場」的範疇と実践範疇を書き分けてきた。前者に属するのが意識・自己意識・理性の系列で、後者が知の系列だ。精神は個人に戻された理性であり、本来は「場」に属するのだが、戻るという行為により能動性を与えられている。したがってそれは知と共に二つの実践的契機となっている。
おそらくは精神と知が合体したものが絶対知だ。それは信念(美しい魂)と違って能動性を持っており、精神の発展型としての性格を負っている。

真理: 絶対知、すなわち精神の確信に対応する「場」的範疇が「真理」ということになる。ヘーゲルは「完全で真の内容」といっているが何のことかわからない。要するにヘーゲルの論理は真理を論証できないのである。したがって他の言葉に書き換えようがない。しかしヘーゲルの「真理」は嘘っぱちである。ヘーゲルははっきり言うべきだったのだ。「真理」などというものは存在しないと。

学:

もうこのくらいにしておこう。これ以上はあまり意味のある作業には思えない。

絶対知 要約の要約

1.対象とはなにか

対象とは第一に物一般である。それは感覚的確信に呼応する直接的存在である。第二に、知覚との関係において(知覚される)対他存在でもあり(知覚されない)自立存在でもある。第三に本質としての対象一般は、分析知の働きに呼応する(対他存在である)。

したがって対象は知覚の働きにより規定され、個別性を与えられたり、逆に分析知の働きにより一般化されたりする。

この過程の中で、意識は対象を自己自身として知ることとなる。ただ、その枠組はまだ対象意識の諸形態のままである。

2.対象を自己自身として知ること

観察理性は、無関心な存在としての対象の中に自己(にとっての意味)を発見する。そして自我の存在は物であるという無限判断に到達する。“意味”という不可視のものを対象としているために、この判断は直接的には無精神であるにもかかわらず、精神に満ちているのである。(たしかに無限に持って回った判断だ)

対象はそれ自身として成り立つのではなく、自我と対象との関係により成立する。(ずるい言い方で、“ない”とは言わず“成り立たない”と逃げる)

物はその有用性で考察される。物は本質的に他のための存在なのである。(これはむき出しのプラグマチズムだ)

普通の自己意識は物の知(本質)を存在の直接性において知るのみである。それを内的なものとして知るのは高級な自己意識(良心)である。この良心(意識)は存在を純粋意志(目的)である知(本質)として知り、その知(本質)を絶対存在として知る。

良心は自己の純粋知(高級な思考)を具体的な場として行動によって身をさらす。その結果、精神はその本来の意識と統合されて和解する。これらの契機の精神的統一が和解の力となるのである。最後の契機(良心)がこの統一自身であり、すべての契機を内的に結びつける。(完全な論理の空回り)

3.精神と「完全で真の知」

(精神は良心=世の良識の個人への投影と考えられているようだ)

精神(心)は存在の場として自己の知以外をもたない。その行うことを義務の確信に基づき行う。

現実(のイメージ)は直接的存在としては自己意識にとって純粋知(単純な知識)以外のものではない。自己(の精神)に対するものは、一方ではこの純粋な個別的自己の知であり、他方では普遍的知の知(世の常識)である。個別の自己において、この二つの知は(精神によって)いまだのこる空虚な対立を破棄する。そして「完全で真の知」(真理)が形成される。

意識の自己意識とのこの和解は二重の側面で実現される。つまり、一方では、宗教的精神(宗教心)において、他方では、意識そのもの自身において。前者は潜在的和解であり、後者は自覚的和解である。このふたつの側面の一致が一連の精神形態を締めくくる。

精神の宗教的(潜在的)現れは示されたが、概念(枠組み)の単純な単一性に欠けている。この概念は、自己意識(良識)の側面では、すでに自己確信の精神形態、「美しい魂」として現れている。この概念(信心)は現実化に対立したままであれば、一面的形態(宗教)として虚空に消える。

しかし積極的外化と現実化により、この無対象な自己意識(漠然とした常識)の自己硬直、自らの実現に対立する概念(信心)の確定性はうちこわされる。自己意識は普遍性の形式を得、自己意識に残るのは、真の概念、実現を獲得した概念である。

以下、しばらく省略

4.絶対知と真理

精神の最後の形態は絶対知(摂理)である、絶対知は完全で真の内容(真理)に同時に自己の形式を与える。絶対知はその概念を現実化し、同じくこの現実化において精神の概念にとどまる。

(この形態において)精神は絶対知である。精神の形態(心)のうちに自己を知る精神、概念把握する知である。

真理は真理の現実存在の中にある。(ここにおいて)真理は潜在的に完全に確信にひとしい。

真理は宗教においては精神の確信にいまだひとしくない内容である。内容が自己の形態(概念)を得たことでひとしくなったのである。本質(良き自己意識)が、現実存在の場、あるいは意識にとって対象性をもつ概念(真理)になったのだ。

この場において意識に現象する精神、もしくは、ここでは同じことだが、この場において意識により生み出される精神は学である。(もういい加減にせぇ。何階建てにすれば気が済むのだ)

5.時間と精神

時間は概念(の一つ)である。この概念は目の前にあるものであり、空虚な直観として意識が表象する。

それゆえ、精神は必然的に時間において現れる。精神がその純粋概念を把握しない限り、すなわち時間を抹消しない限り、精神は時間の中にある。

時間は直観による外的な、自己により把握されていない、ただ直観されただけの概念である。概念が自己自身を把握するとき、概念はその時間形式を破棄する。

時間はそれゆえ運命として、自己のうちに完結していない精神の必然性としてあらわれる。この必然性は、意識における自己意識の関わりをゆたかにする。それは直接自体的なものと意識された実体を運動させ、逆に内的なものとして捉えられた実体を実現し、顕示する。すなわち意識自身の確信へ返還請求する。

精神はそれ自体が「認識」という運動である。潜在から自覚への、実体から主体への、意識の対象から自己意識の対象への、同様に止揚された対象、もしくは概念への転換である。この運動は自己にかえる円環であり、その始まりを前提し、終わりにおいてのみこの始まりに到達する。

6.精神と概念

 現実存在が直接に思考である自己意識の形式において、精神の内容は概念である。精神はかく概念を獲得し、その生命の精気のなかに現実存在と運動を展開し学となる。

 学(特定の諸概念)においては、もはや特定の意識形態として概念の運動が示されるのではない。概念の運動は特定の諸概念の有機的運動として示される。

「精神現象学」では知と真理の差異を明らかにすること、両者の差異を破棄することが各契機なのであるが、それに対し、学においては契機が概念形式を獲得しているゆえ、真理の対象形式と自己知の対象形式は同一である。意識における現れから開放された純粋概念とその運動は概念の純粋規定のみに依拠する。現象する精神形態は、学のそれぞれの抽象的契機に該当する。

学の本質である概念は概念の単一な媒介による契機を砕き、諸概念の内的対立に従って表現される。このような学の純粋形態を意識形態のかたちの中に認識することが学の現実面となる。

この現実面に基づけば学はそれ自身の内に純粋概念を外化(放棄・譲渡)する必然性と意識への移行を含む。

自己自身を知る精神は精神概念の把握により直接に自己自身と同一なのである。直接的なるものの確信であり、感性的意識である。それはわれわれの出発した発端である。

精神のその自己的形式からの解放は、自己についての精神の知の最高の自由であり、最高の安定である。

7.精神が自然を、歴史を生成する(あほか)

だが、この外化はまだ不完全なのである。この外化は対象への精神自身の確信の関係を表しているが、この対象は関係においてあるゆえ、まだ完全な自由を獲得していない。知とは自身を認知するだけでなく、知自身の否定、知の限界をも認知することなのである。

限界を知るとは自己を犠牲にすることを知ることである。この犠牲は精神が精神への生成を限定されない偶然的な出来事というかたちで表現する外化である。精神はそのようにして、その純粋自己を精神の外部に時間として、その存在を空間として直観するのである。

精神のこの後者の生成、自然は、精神が無媒介に生命をもって生成したものである。自然、この外在化した精神はその現実存在において永遠に外化して存続し、主体を確立する運動である。

精神の生成のもう一つの側面は、知的な媒介による歴史の生成である。歴史とは時間において外化した精神である。この外化は外化した知自身の外化である。この生成は絵画の回廊として諸精神の運動と連続を提示する。

8.精神はやがて現実存在を去るが、記憶の中に残る

精神の完成は精神がその実体を完全に知ることである。この知ることとは精神がその現実存在を去り、その形態を記憶にゆだねて、自己の内へ向かうことである。自己の内に向かうことで、精神は自己意識(記憶)の暗夜に沈み込む。精神の現実存在は消滅し暗夜の中に保存されている。

こうして保管された現実存在、つまり、以前のものではあるが知から新たに生まれた現実存在は、新しい世界であり、新たな精神の形態である。精神はこの形態で無心に第一歩から始まらねばならず、この形態から再び自身を育てなければならない。記憶は過去の諸精神を保存しており、実際にはより高次な実体形式なのである。精神が外見上自己のみを出発点として最初からその形成を再び開始するとしても、この精神が始まるのはより高次の段階である。

諸精神の連続である歴史の目標は精神の深さが啓示されることである。この深さとは絶対概念である。「啓示」は絶対概念の深さを破棄し、絶対概念を水平にひろげる。啓示はまた自己内在する自我の否定性であるが、この否定性は概念の外化であり、あるいは概念の実体である。

諸精神の保存は限定されない偶然的現われの側面では歴史であり、概念把握された組織化の側面では現象する知の学である。あわせれば概念化された歴史(歴史観)である。

この両者は、絶対精神の記憶(歴史)とゴルゴダの丘(殉教と復活)であり、玉座にある精神の現実、真理、確信なのである。この玉座を欠けば精神は生命を失い、孤立してしまうであろう。(ヘーゲルの最後っ屁)

 

体調の悪い人は読まないでほしい。
以前、動物園でゴリラを見ていた。
体調が悪いらしく、ひっきりなしに下痢している。
そのうち下痢便を食い始めた。
幸いなことに、屋外で、かなりの距離があったから、臭いは到達しなかったが、
ゲロテスクの極致である。
食いながら、うつろな目でこちらを睨んでいる。
「安心せぇ、そんなもの横取りはしないから」

実はヘーゲルを勉強しながら、ふと思い出したのである。
この男、言葉や概念を未消化のまま撒き散らす。
それだけならいいのだが、それをまた食う。
それがまた出てくるときは、もう少し消化されている。
それをまた食う。

これがヘーゲル弁証法だ。
正しいか間違っているかは知らないが、
とにかく猛烈に臭いことは間違いない。

1.意識を離れて存在なし

意識から出発し、「否定の否定」によって次々と発展を続けることによって、現象の背後にある物自体を認識することができるという主張。認識された物自体が真理、真理を認識するのが絶対知ということになる。

対象は、意識の対象として対他的な存在であり、また即自的な存在(物自体)でもある。しかし「物自体」も意識と離れては存在することが出来ず、意識のなかでの存在でしかない

したがって意識の拡大が存在の拡大であり、意識の明確化が存在の明確化であり、真理の拡大である。

これが「精神の現象」に関する概念である。

直接には物自体の不可知性(カント)を批判するものである。悪く言えば、半ばはそのためのレトリックでもある。

2.意識の自己意識への発展

次に意識の自己意識への発展過程を見よう。

意識が現象と相対するとき、意識は仮象を形成することを通して、現象を解明する。このように解明された現象は事象(Sache)となる。そしてそれを捉えた意識は「知」となる。

その意味では「認識論」の範疇に属するものだが、一般的な認識が事物の意識への投射とその受容であるのに対して、ヘーゲルの認識は対象世界へ乗り出す実践的認識である。したがってそれは認識論であるとともに実践論でもある。

そのために認識・実践主体の「主語」=私、私たち、人間、人類が必然的に揺らぎ、時に乖離する。(揺らぐのは意図的なすり替えにもよる。陰の主人公は絶対知の高みにいる我々=ヘーゲルである)

もう一つは、認識・実践主体の側にのみ能動性を認め、対象の側の「逆能動性」が(意図的に)捨象されていることである。これは多くの認識論とは真逆の立場である。しかし対象の側の能動性=反作用なしには「否定の否定」は成立しないから、どうしても再止揚の論理立てが苦しくなる。

自己意識はまずもって無意識的な意識が発展したものだ。我々が使う“自意識”とはまったく異なる。それは事物の「意味付け」の体系だ。諸個人がそれぞれの立場で「意味付け」するから、自己意識は一方では事物に縛られ、他方では個人に縛られる。

その前の「意識」というのは「本能」みたいなもので、今風に言えばDNAに規定されたものだ。こののっぺらぼうな「意識」においては、動物的な生きるすべとかそれなりの悪知恵は働いても自分を客観視出来ない。

かくして、ヘーゲルによれば、意識は現実界を媒介(鏡)とし、鏡の背後を透視するというかたちで自己意識の世界を形成していく。

意識が知覚を通じて事物に意味を求め、意味(知)を集積していることが分かる。これは発達心理学でお馴染みの場面だ。この部分は我々の常識から見ても飲み込みやすい図式だ。

3.自己意識から理性へ

自己意識→理性の段階はこれに比べるとややこしい。意識と自己意識の矛盾がこれまでの主要な問題であった。この後は自己意識のもたらす「知」と、対象との不一致が主要な問題となる。対象が自己意識に何度も逆襲するのである。

ウィキペディアにはこう書いてある。

「自己意識」と同質な意識を他者にも認めることによって、他人の「自己意識」をも認識し、単なる自我を超えた普遍的な…「自己」を認識にするに至る。

つまり「自己意識」が「我らの意識」となって、それが理性に集約するというのである。ここでヘーゲルは意識の集団的理解により自我の限界を突破したことになる。(自己意識の“社会意識”へのすり替えとも言える)

人という生物集団は個人として分裂し、認識の作業はいったん自我のレベルに拡散するのだが、それがふたたび諸個人の社会への結合により合一するという過程である。(それは事物の統一性に規定されるからではないか)

「理性」というのも、ヘーゲル独特の用語であって、我々が普通に使うようなポジティブなイメージではない。自己意識の総和、あるいは平均値くらいの位置づけだろうと思う。

「精神」も「時代精神」くらいに受け止めておいたほうが良いと思うが、これについてはヘーゲル自身が結構揺れている。

いずれにしても、ここから絶対知にはまだ長い道のりがある。


つぎは 苫野一徳Blog というページ

ここには精神現象学成立の裏話が載っていて、大変面白い。

本書の当初の計画では1.意識 2.自己意識 3.理性までで、「4.精神」と「5.宗教」の存在はなかった。

それがなぜ組み入れられたかというと、出版社とのいろいろな問題があったかららしい。…

ところが本書執筆中に…契約のページ数に足りないことが分かった。

そこで彼は苦肉の策として、「精神」と「宗教」の章を付けたした。

そういうわけで、実は「精神」と「宗教」の章はある意味蛇足で、そのために本書の内容をいっそう分かりにくくしている原因にもなっている。 

ということで、「3.理性」まで読めば、ヘーゲル認識論は一応卒業だ。

逆に言えば「4.精神」と「5.宗教」は「社会と意識発展の弁証法」という別枠の論理として構えたほうが良いということになる。

4.自己意識の相互承認

苫野さんは「自己意識」が「我らの意識」となる上でのキーワードが「相互承認」だと強調している。

しばらく苫野さんの説明を伺うことにする。

1.単純な相互承認: 運動は端的に両方の自己意識の二重のものである。おのおのがその為すところをなすのは、ただ他方が同じことを為してくれるかぎりにおいてのことでしかない。

2.主と奴の相互承認: 自己意識は、「承認のための生死を賭する戦い」を繰り広げ、その結果、主人と奴隷とに分かれることになる。主人はひたすら自由を「享受」し、奴隷は使役を義務づけられる。

3.奴隷は労働を通して自由になる: 労働(使役)は対象世界を都合のいいように形成する。労働を通して、自己意識は自分の欲望を抑えることを覚える。

この後は「理性」もふくめてかなり俗っぽい話に移っていく。論理の進行にはあまり関係なさそうだ。

5.「事そのもの」と「良心」

ということで、少し飛ばして「事そのもの」に移る。

苫野さんはこう書いている。

この「事そのもの」を自覚することこそが、「理性」のいわば最高境位だ。

以下がヘーゲルからの引用。

「事そのもの」は本質的な実在であり、すべての個体の行為することである。…「事そのもの」は、すべての人々の実在であり精神的な本質である。

さらに「事そのもの」は現実である。これが現実であるのは、意識が自分の個別的な現実であると同時に、すべての人々の現実であるからである。

ということで、「さて、事そのものとは何でしょう」というクイズです。自分自身をふくめて、人々の共通認識ということなのだろう。「社会常識」というとちょっと狭くなってしまうが、そんなところか。

ただこれではその認識の正邪の議論にはならない。

そこで今度は「良心」というものが出てくる。

「良心」の元の言葉はGewissen で、“すべてを知ること”とも訳される。俗っぽく言ってしまえば、「事そのもの」が社会常識であるのに対して「良識」ということになる。

「良識」というものは誰でも持っているわけではなく、「識者」という人々に限られている。

苫野さんは下記のごとく結んでいる。

「良心」、これが精神の最高境位なのだ。それは「事そのもの」を自覚した精神のことである。そしてヘーゲルは、この境位を「絶対知」と呼ぶ。

ということで、ヘーゲルの弁証法が妖刀村正のごとく、ぬらぬらと冴えているのは意識→自己意識のところまでで、後は細部に流石と思われるところがあったとしても、まとめきれずに終わっている感じが否めない。

残された作業としては、自己意識の運動過程をより精細に描き出し、その方向性をより明瞭なものにすることだろう。


6.相互承認と階級関係

承認の問題については草食系院生ブログでも労働と承認の弁証法」という題で触れられている。

まず著者の提示を引用する(この理解には納得出来ない)。

「B.自己意識」の段階では、自と他が切り離され、さらに自己が自己自身を意識の対象とする状態にあります。

そして、自己とそれを観察する自己という二つにわかれた意識が統一されるために「承認」の運動が必要とされているのです。

その最初が「生死をめぐる闘争」だが、かなり観念的なのでとりあえず飛ばしておく。

次が「主と奴」の関係だ。ヘーゲルはこの関係を、現代社会の基本をなす人間関係(支配者と被支配者)と考えている。

るる説明があるが、知りたいことは自己意識 承認 を通じて理性 へと止揚される過程である。

著者は労働の役割に関心があるので、話がそっちにずれていくのだが、結論としては階級社会の発生にともなって、非支配階級の中に「相互承認」が生まれるということだ。

支配階級との間は、そして支配階級内では、相変わらず「生死をめぐる闘争」の関係が続く。しかし被支配階級の諸個人の間では「生死をめぐる闘争」の関係が止揚され、相互承認の過程が働いて、理性が発生するというメカニズムだろう。

以下はヘーゲルの引用の引用。

一見、従属的で非本質的な立場に置かれている奴隷の意識こそが真の独立自存の意識に近い場所にいる 

…一見他律的にしか見えない労働のなかでこそ、意識は、自分の力で自分を再発見するという主体的な力を発揮する。

なぜなら、労働は取得・享受と切り離され、純粋な“働き”として外化するからだ、ということになる。ヘーゲルにとっては「疎外された労働」こそポジティブなものなのだ。ただ労働はこの場面では媒介的なものに過ぎず、本質は支配・被支配という人間関係にあるのではないかと思う。

ところで、長谷川さんは「ヘーゲルはEntäuserung(外化)を使ったが、マルクスは疎外(Entfremdung)と区別しなかった」と指摘しており、マルクスが悪いように書いている。真偽は不明だが頷かせる指摘だ。


7.自己意識と理性の葛藤

目下のところ、肝心の問題は解決していない。自己意識 理性 へと止揚される 過程については説明がないからだ。

今まで聞いた話では、「みんな丸っこくなって、自己意識のすり合わせをして最大公約数をとりましょう。それを理性と呼びましょう」ということにしか聞こえない。

そういうのは、ふつうは止揚とは言わず、慣れ合いと呼ぶ。

もし本気で自己意識を揚棄するなら、自己意識の内的論理によって説明してもらわなければならない。

たしかにその後の「理性論」の展開は、明らかに自己意識と理性の葛藤みたいな様相も呈している。良心についての議論はむしろそうとったほうが分かりやすい。しかしヘーゲルは明示的に展開しているわけではない。

 第三手稿 「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」を熟読する

経済学・哲学手稿は日本語では三つの訳があり、藤野の国民文庫は最も古く、最も読みにくい。

手稿の中でマルクスの観念は奔逸している。前後左右どこに飛ぶか分からない。センテンス一つを5つ分けにしないとならないくらい、読者を振り回す。それを読みこなす上では、藤野の訳が一番良いかもしれない。

岩波の訳はこなれているが、こなれすぎている印象がある。国民文庫で慣れてしまっているので、とりあえずこれで始めて、後で岩波版を参照することにする。

探しものは、エンゲルス風でない「真理」に関する記述だ。ただし見つかるかどうか分からないという、はなはだ頼りない航海になりそうである。

悪文・悪訳の中で、どこまでがヘーゲル批判なのか、どこからがマルクスの主張なのかだけは見失わないように、読み解いていこう。


第三手稿 「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」

(6) ヘーゲル哲学とヘーゲル弁証法

私流に小見出しをつけていく

1) ヘーゲル弁証法を批判しなければならない

弁証法は(ヘーゲルが哲学を展開するための)方法である。

ここでは弁証法を①弁証法一般、②現象学における弁証法、③論理学における弁証法、④ヘーゲル左派と弁証法の関係、について論じていく。(このなかで現象学における弁証法と論理学における弁証法とを分けて論じることがポイントとなる)

ヘーゲル弁証法をどう遇するかということは、我々にとって本質的な問題である。

しかし、これまでのヘーゲル批判は、ヘーゲル哲学の批判ではあっても、ヘーゲル弁証法については“まったく無批判”であった。

(次いで、マルクスはその典型として、ヘーゲル左派の旗頭バウアーを槍玉に挙げる。ここはうっとうしいので省略する。ただし②現象学の弁証法においては、「自己意識」の批判的検討がカギを握ることを示唆していることに注目)

2)フォイエルバッハの三つの業績

(バウアーより前に)フォイエルバッハはヘーゲルの弁証法と哲学を転覆してしまった。(きざし的にではあるが)

フォイエルバッハはヘーゲル弁証法をまじめに批判した唯一の人である。そして弁証法に関する領域で真実の諸発見をした唯一の人である。そしてヘーゲル哲学の真の克服者である。

フォイエルバッハは三つの偉大な事業を成し遂げた。

A ヘーゲル哲学が宗教であることの暴露

フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学は思想の中へ持ち込まれて、哲学的な言葉で詳説された宗教にほかならないと断罪する。それは(感性的な)人間的本質を疎外するもう一つの形式にすぎない。

(フォイエルバッハは「疎外」を常にネガティブなニュアンスで語っていることに注意。マルクスも第一手稿の「疎外された労働」ではフォイエルバッハの使用法に従っている)

B 真の唯物論の基礎と、現実的な科学の基礎を築いたこと

フォイエルバッハは、「人間の人間に対する」社会的な関係を(「人間の自然に対する関係」と)同様に、理論の根本原理とした。

それによって、真の唯物論と現実的科学が結び付けられた。(ここで言う「現実的な科学」というのは自然科学、「真の唯物論」というのは、歴史学も含めた広い意味での社会科学を指すと思われる。この頃のマルクスにとって、「真の唯物論」は「史的唯物論」に近かった)

C 「否定の否定」の否定

ヘーゲルは絶対肯定的なものとして「否定の否定」論を主張した。フォイエルバッハはそのような持って回った論理でなく、おのれ自身が、おのれ自身に もとづいて、おのれ自身の上に立ち上げた肯定的なものを対置する。そのことによって、「人間の人間に対する」関係を構築するのである。(「否定の否定」論 は後出)

3)フォイエルバッハのヘーゲル弁証法批判

フィエルバッハは、ヘーゲル弁証法批判を通じて、現実的なものからの出発を基礎づけようとする。その内容をマルクスは以下のように整理する。

(フォイエルバッハが批判するのは③論理学における弁証法であり、あとからマルクスが批判する②現象学における弁証法ではないことに注意)

A ヘーゲルの出発点は疎外態である (疎外態という言葉は岩波版から)

ヘーゲルの「疎外態」(Entfremdung)は論理的に無限定な抽象体(Logisch: Unendlich Abstrakt Allgemeinen)である。それは固定された抽象物である。その点において、宗教と変わるところはない。つまりヘーゲルは「神学」から出発するのである。(ただし、マルクスは「疎外態」という把握には賛成していない)

B ヘーゲルは疎外態(神学)を止揚することにより「現実」を創りだす

無限から有限へ、抽象から具象へと「現実」が形作られる。その点において、神の天地創造と変わるところはない。そして神学も現実をあつかう「哲学」に外化する。

(これはヘーゲル論理学の論理である。現象学においては意識が自己意識となる過程に相当する。両者を混同したままだと読者の頭は乱れた麻のごとくになる)

C ヘーゲルは創りだされた現実を再び止揚し、抽象的一般を立ち直らせる

このような有限で感性的な現実はフォイエルバッハにとっては肯定的なものであるが、ヘーゲルはそれを止揚してしまう。そしてそして「哲学」は止揚され「神学」が再興される。

以上が「否定の否定」に対するフォイエルバッハの整理だ。(とマルクスは読んでいる)

神学の立場からすれば、自己を外化し、外化することで自己を確証し、外化したものを取り込むという形で自己完結するかもしれない。しかし哲学は神学 のためのジャンピング・ボード(契機)にすぎないことになる。それでは浮かばれない、というのが哲学者フォイエルバッハの言い分である。

4)フォイエルバッハの「否定の否定」批判にマルクスが異論

すまん、私の雑感を入れさせてもらう。

フォイエルバッハは疎外態を「固定された抽象物」とし、宗教のようなものだと批判する。フォイエルバッハにとって、「否定の否定」というのは詰まるところ神学の学的過程である。もし「否定の否定」が学的過程にとどまるとすれば、それは一種のトートロジーとなってしまう。
しかしフォイエルバッハが疎外態と言っているものは、「固定された抽象物」ではなく、むしろ、「原初」というか混沌としたカオスのようなエネルギーの塊としてとらえるべきではないか? そうでないと、何が「有限的な具象化された現実」を作り出すのかという駆動力(契機)が見えてこない。
なぜこのような食い違いが生まれたか。それはヘーゲルに責任があると思う。
ヘー ゲルが②現象学における弁証法を③論理学における弁証法に援用し、その過程で主語がめちゃめちゃになってしまった。現象学の弁証法では主語は 「意識」である。意識というのはゲーテの小説の主人公ウィルヘルム・マイスターだ。燃えるような生の欲望しか持たない若者が、社会を遍歴することによって 自己を見つめ、自己を知り、やがて成熟した大人として巣立っていくという教養小説の哲学版と考えれば、きわめて分か りやすい。
ウィルヘルム・マイスターの意識(パトス)は青年たちに共通したものがある。そのパトス をヘーゲルは「意識」あるいは「自己意識」としてすくい取ったわけだ。それをいつの間にか、「抽象物一般」にまで演繹してしまったから、ヘーゲル論理学の 主語がわかりにくくなってしまった。そしてフォイエルバッハに批判されることになる。

以下の一段落は、フォイエルバッハのヘーゲル批判に対する異論である。

フォイエルバッハの言うように、抽象的一般の研究が神学であり、現実世界の研究が哲学であると規定すると、哲学は神学を肯定することにより自己を否定することになる。これは哲学についてのフォイエルバッハの見方が狭いからそうなるので、彼は「否定の否定」を、もっぱら神学と哲学との対立、哲学の自己矛盾としてしか把握していないからだ。

このあと再びフォイエルバッハの主張の紹介に戻る。このあたりオリジナルのヘーゲルの主張、それに対するフォイエルバッハの批判、さらにそれに対するマルクスのコメントが錯綜するので要注意だ。

フォイエルバッハは言う。(以下の段落は、藤野訳では誰の発言か分からず、岩波版でフォイエルバッハの発言と判明する)

ヘーゲルの「否定の否定」は、「肯定」と同じことになる。すなわち自己肯定である。出発点としての抽象的一般は、「否定の否定」という形で自分自身を肯定する。

しかしそこには感性的確信がなく、自己確証を伴っていない。(「我思う,故に我あり」と言ったって、目にも見えず耳にも聞こえないんじゃ「我あり」とはいえない)

これに比べて、感性的に確実な肯定、自分自身に基礎を持つ肯定というのは、(論理的)媒介なしに直接に示しうるではないか。

マルクスは以上のごとくフォイエルバッハの考えを紹介した上で、下記の傍注を付け加えている。

フォイエルバッハはヘーゲルの「否定の否定」を、抽象物(意識)がそのままに直感、自然、現実であろうと欲する思考だと捉えている。

マルクスはフォイエルバッハの論証にかなり不満を持っている。どこが不満かというと、「否定の否定」をもっぱら哲学の自己矛盾としてのみ把握しているからである。

(ところで、マルクスのフォイエルバッハの引用はかなり不正確で勝手読みで、これを読んでもフォイエルバッハの真意はさっぱり伝わってこない。岩波版の訳注286ページに、フォイエルバッハの本文が紹介されているので参照のこと)

5)「否定の否定」は哲学の枠にとどまらない

マルクスの考えるところによれば、ヘーゲルは「否定の否定」こそ、真実かつ唯一の肯定的なものと主張している。また「否定の否定」こそ、「存在」が自己を実証するための唯一の心ある行為だと主張している。

マルクスの考えるには、ヘーゲルは正しい。そのことによって、ヘーゲルは「歴史の運動」の表現を見出した。

ただしそれは二つの制限を含んでいる。一つはそれは抽象的な論理と思弁にもとづく仮説でしかない。またその「歴史」は人間の現実的な歴史ではなく、人間の発生史(産出行為)であるにすぎないということである。

ヘーゲルにおけるこの「歴史の運動」を、批判的な形態において解明することにしよう。あたかもフォイエルバッハが宗教批判において行ったのと同じ批判の手法で…(このセンテンスは藤野訳ではまったく読み取れない)

ヘーゲル現象学に示された弁証法の分析

ここからさきは、マルクス自身のヘーゲル弁証法批判が始まる。

その最大の特徴は、後の論理学や法哲学でなく、初期の精神現象学からヘーゲル弁証法を抽出することである。マルクスは、この方法でヘーゲル哲学の主客転倒のトリックを打破し、これによりヘーゲル弁証法とヘーゲル哲学とのあいだにくさびを打ち込もうとしている。

1) 現象学こそヘーゲル哲学の真の生誕地

ヘーゲルは歴史の運動(感性的)に対して抽象的、思弁的な表現を見出したに過ぎない。ヘーゲルの描く「歴史」は人間の現実的な歴史ではなく、人間の発生史(人間の産出行為)モデルであるにすぎない。

ヘーゲルの体系を見るためにはヘーゲル現象学からはじめなければならない。これこそヘーゲル哲学の真の生誕地だからである。そこには意識と世界のどんでん返しの秘密が隠されている。

まずは「精神現象学」の目次を並べていく。

(A) 自己意識

(B) 精神

(C) 宗教

(D) 絶対知

2) ヘーゲルのエンチクロペディーの概観

ヘーゲルのエンチクロペディーは、論理学(純粋な思弁)からはじまり、絶対知で終わる。その全体系は「哲学的な精神」の展開と客観化にほかならない。

「哲学的な精神」とは、「世界精神」(抽象的な思惟)が自然と触れ合うことで客観化(外化)されたものである。外化されたものが外化される(否定の否定)ということは、「哲学的な精神」が新たな「信念」として固定されることを意味する。

その最終ゴールである「絶対知」(認識された真理)は、超人間的な抽象的な精神である。

A.外化された論理としての抽象思考

論理学とは、一切の「現実」から切り離された純粋な思弁である。

この論理学が外的自然と出会う時、そこに生まれるのは抽象的でありながら客観的な思考(知識と、知識に基づく思考)である。なぜなら論理学は客観的な事物に縛られてしまうからである。

B.精神への回帰

「世界精神」は現実と触れ合うことで客観化(外化)される。その結果生じた「哲学的な精神」は自己自身とはみなされない。それが思考の遍歴を重ねた末に「絶対知」(真理)を見出して、それを自分と一体化させる。そのことにより自分にふさわしい存在の仕方(ただし抽象的)を獲得する。

(私的な感想を言えば、これは「信念」の自己運動である。ある種の信念(思い込み)をもって事にあたる。その時、現実とのあいだにさまざまな齟齬が生じる。現実との格闘の中で、新たな「真理」に辿り着く。その「真理」を受け入れることで新たな「信念」が形成される。ただし「現実との格闘」は哲学的な精神の中で行われるので、主語は信念であり、自己運動(自己陶冶)の過程はすべて抽象的なものである)

3) ヘーゲルにおける二重の誤り

第一の誤り ヘーゲルは自分を現実世界(疎外された世界)の尺度として立てている。しかし彼自身は現実の人間(疎外された人間)の象徴的存在にすぎ ない。ヘーゲルにあっては、哲学という場で、ファントムとしての自身が現実世界のファントムを相手に格闘(エアーバトル)しているにすぎない。この誤りはヘーゲル哲学の誕生地としての現象学において最も明瞭である。

これを現実世界から眺めれば、ヘーゲルが抽象的世界に自らのファントム(自己意識)を作り出し、そこにヴァーチャルな世界を写しだし、抽象的で絶対的な思考を生産しているさまとして捉えられる。

そこに起きているのは、抽象的思考と現実のもたらす感性との対立である。そしてそれはヘーゲルの思惟の世界の中で対立しているのである。ヘーゲルにあってはこの対立がすべてであり、他の対立はただの見かけ上のものでしかない。

ところで人間的本質は、自己を「自らにとってよそよそしいもの」として対象化するわけではない。ヘーゲルの「疎外」というのはそういう意味ではない。「疎外」という対象化は、自己意識の発生という形態の対象化である。(私の記事ではフォイエルバッハ的なニュアンスでの疎外を「疎外」と呼び、ヘーゲルの言う疎外は「外化」ないし「対象化」としている)

第二の誤り? 対象の獲得はただ意識の中でのみ行われる。

人間の諸力が対象化され、それが再び獲得される経過は、ただ意識の中で、純粋な思考として、抽象的に行われるのみの経過だ。感性的対象は直接に我がものとされるのではなく、対象の持つ抽象的本質として獲得される。

感性的な意識は抽象的なものではない。それは人間が持つ現実の意識である。宗教、富などの社会事象は人間の本質的諸力が生み出したものであり、それが(フォイエルバッハ風に)疎外された現実の姿にほかならない。

これにたいしてヘーゲルは、これらの社会事象を(自己意識が生み出した)精神的存在としてとらえる。なぜなら人間の本質は精神だからだ。つまりそれらの社会事象はヘーゲルにとってはたんなる外的な所与(ファントム)なのだ。

ヘーゲル現象学はなかなか鋭い批判を含んでいるが、これらの観念的な弱点が、ヘーゲルが後に堕落していく秘密の源泉となっている。

4) ヘーゲル現象学への賛美

国民文庫215ページの半ば以降は、現象学に対する賛美である。

現象学はいろいろ問題があるとはいえ、現実批判のあらゆる要素が隠されている。それは疎外された形式ではあるが、宗教、国家、市民的生活などの領域への批判を含んでいる。それは後年のヘーゲルをはるかに凌駕している。

現象学の究極の成果は「否定性の弁証法 」である。それは世界を運動させ産出する原理となっている。

第一に、人間の自己産出がひとつの過程として捉えられていることである。対象化は自己の外化(対置化)として捉えられる。そしてこの外化は止揚すべきものとして捉えられる。

抽象的意識から析出され対置化された人間とは、鏡のこちらから見れば現実の人間であり。その故に真なる人間である。

(第二に)人間(自己意識)が類的存在(現実的な存在)であることを実証するためには、現実に持つ諸力を発揮して活動することが必要である。

それは個別の人間ではなく、人類の総活動によってのみ可能である。そしてその積み重ねとしての歴史の成果としてのみ可能である。

現実の人間は人間自身の労働(事物に働きかける活動)の成果である。ゆえに否定性の弁証法はここにおいて労働の本質を把握するのである。

ヘーゲルは労働(仕事)を人間の本質ととらえる。ただし彼にあっては仕事(刻苦勉励)は肯定的なものとされ、労働の否定的側面は無視されていることに注意が必要だ。

人間は労働を通じて対自的存在になる。ヘーゲルの仕事概念においては、それは自己意識(自己を知る人間)の外化とされる。

これまでの哲学者は自然と人間生活との個々の関わりをみて、それを自己意識の諸契機と捉えてきた。それに対しヘーゲルは、自然へのアプローチを哲学的自覚の行為としてとらえた。その歴史的、発生的把握のゆえに彼の労働論は正しいのである。

そして批判が再開される。

ここでは客観的事物は思考上のものとして現われる。そして主体は自己意識(人間の意識)である。したがって事物が現れてきてもそれは意識(抽象的) の姿を変えたものにすぎない。自己意識は事物の形で現れる抽象的意識に働きかけ、絶対値の形で抽象的意識との同一性をかちとるのである。

すなわち自分自身の中だけで行われる「純粋思想の弁証法」がその成果である。

5) 絶対知に示されたヘーゲルの一面性と限界

どうもマルクスにとっては、これまでの部分は前書きのようである。

絶対知。現象学の最後の章。以下はマルクスによる要約である。

A.「対象化された自己意識」の克服

主要点はこうだ。意識の対象は自己意識である。さらに言えば、対象化された自己意識である。

肝心なことは「対象化された自己意識」を「克服」することである。

「対象化された自己意識」は自己意識(人間的本質)に照応していない。なぜならそれは人間的本質を剥ぎ取られ、疎外されているからである。

疎遠な環境のもとで産出された対象を我が物に取り戻すことは、疎外を止揚し、対象性を止揚することだ。そして人間は対象的でない、唯心論的な存在へと回帰する。

B.人間が自己意識に等置される

では意識が「対象化された自己意識」を克服するためにはどうしたら良いか。ヘーゲルは以下のように説明する。

対象は自己意識の中に帰還する。しかしそれだけではない。人間は自己意識に等置されるのである。

ここで「自己」は人間の抽象である。彼の眼や耳が自己であるように、人間そのものも自己性を持つ。彼の持つさまざまな力は自己性を持つ。それは自己意識とは別の自己性である。

この「自己性」は抽象され固定されると、「抽象的なエゴイスト」としての人間を生み出す。それは自己主張がその純粋な形に、そして思考にまで高められたものである。

ところで、自己意識もまたそれらの人間の自然的本性の一つである。人間の自然的本性が自己意識の要素なのではない。(この最後の1行はマルクスのコメントのようだ。だがそれ以上は展開されない)

人間的本質と自己意識

現実の人間にとっての疎外とは、現実的な疎外であり、それが知識や思考に反映されたものである。

しかしヘーゲルにとっては、「現実の人間」とは自己意識である。だから人間的本質が疎外されるということは、自己意識の疎外にほかならない。現実的な実在的な疎外は、自己意識の疎外が現象として現れたものに過ぎない。これがヘーゲル現象学のものの見方である。(この場合の「疎外」は対象化と読め)

そのために、疎外された「対象的な自己意識」を我がものに取り戻す過程は、すべて自己意識への合体として現れる。

ヘーゲルはこう表現する。ここは「精神現象学」の最終章のマルクス流の抜き書きである。

1.意識の対象は、意識にとっては消え失せてゆくものとして現れる。(「意識の対象」というのは実在の世界。意識にとっては虚ろな過ぎ去っていくものであるが、実在の側から見れば意識こそが過ぎ去る旅人だろう)

2.意識の対象に「物性」を措定するのは、自己意識の外化である。(実在世界の諸物は「意識の対象」とされ、「物性」(意味付け)が措定される。その物性は自己を離れて諸物に所属する)

3.自己意識の外化には(意識が離れるという)否定的な意義だけでなく、(対象が自己にとって意味付けられるという)肯定的な意義がある。

4.自己意識の外化は、外化された自己意識自身にも(意味付けという)肯定的な意義を持つ。

5.対象は再び否定され、止揚されるのだが、この過程で自己意識が肯定的意味を持つのは、対象そのものが否定性を持つからである。(対象に付着した自己意識は、対象の点検・矯正を受けるということか)

マルクスはこの第5項にこだわって、さらに書き足す。

対象の(内包する)こうした否定性は、自己意識が自己自身を外化するときに初めて出現する。

この外化のなかで自己意識は、実在的人間の衣装をまとう。そして可視化した自己自身を、対象であり自己自身でもあるもの(対自有)として措定する。

(このへんはかなりヘーゲル的論理マジックだ)

6.自己意識はみずから対象化することで、対象的自己をふたたび自己の中に取り戻す(止揚)。このとき自己は他在(One of them)のかたちをとりながら自己意識のもとにある。

7.以上の全体が意識の運動である。そしてこの運動を貫く主要な契機(駆動力)は意識である。

8.対象は全体として体系を持っている。対象は体系を持つことにより、即自的に精神的なものとなる。意識はさまざまな対象に、それらの体系にそって関係する。それは自己として把握される。そして対象を総体として把握する「精神」が形成される。

以上が精神現象学の骨組みとなる。というより、あえて言えばマルクスのヘーゲル現象学理解の骨組みだ。率直に言ってマルクスはヘーゲルやフォイエルバッハを知るための最悪のガイドだ。()内でヘーゲルの筋立てを独自に説明した。


ここで作業を一旦中止する。ヘーゲル現象学というものが、せめて骨組みだけでもわからないと、マルクスの議論にはついていけない。ところがマルクスの文章を読んでも、ヘーゲルが何を言わんかとしているかが全然見えてこない。()の注釈程度ではとうてい間尺に合わない。


マルクスはヘーゲル弁証法の乗り越えに失敗したのかもしれない。酒が入ってのほら話なので、どうかご容赦を。

「ヘーゲルの弁証法は正しい。しかしそれを用いて築き上げたヘーゲル哲学は間違っている」というのはどう考えてもおかしい。

「天地がひっくり返っているのだから、それをもう一度ひっくり返せば良い」というのは、およそ哲学者の吐くセリフではない。しかしどうも終生マルクスはそう信じていたようだ。

資本論の中にマルクス弁証法があるという人がいるが、それはカテゴリー構築の方法としての弁証法だ。

我々がもとめているのは、実在としての世界とその運動、人間の認識する世界との関係である。

実在の世界といっても大小2つあるので、小さい方は感性的実在の世界。大きい方は感性的には把握できないが、論理的には存在するであろう「モノ自体」(カント)の世界である。

ところがカントの生きた時代から比べるとヘーゲル時代の知識ははるかに広がった。そうすると「モノ自体」と考えられてきたものが、感性的実在に変わっていく。

カントとヘーゲルのあいだにはフィヒテとシェリングがいるので、話はかんたんではないが、人間の持つ能動性を計算に入れないと、「モノ自体」問題は解決できないことが明らかになった。

そこで「否定の否定」という形で、歴史的な観点を導入したのがヘーゲルということになる。彼は大変に博識で、ということは新しいもの好きで、しかも要領の良い人物だったから、うまいこと旧体制派の気に入るような形にヘーゲル哲学を仕上げてしまった。

プロテストソングのスターだったはずが、いつの間にか商業ベースに乗ってニューミュージック系の大御所になってしまったのである。

面倒になるのでフランス大革命からナポレオン帝政への歪曲、そしてメッテルニッヒ反動へという苦い時代背景は、この際省くことにする。

当然、若い人々はヘーゲルの変節を詰り、その予定調和的な観念論を批判する。これは当然だ。同時にヘーゲルがいかにして変節していったのかを探る動きも出てくる。

その中にエンゲルスという変な男がいて、ヘーゲル弁証法を使ってイギリスの経済や労働者の状況を批判する文章を発表した。

これが俄然マルクスを刺激した。マルクスはそれまでフォイエルバッハの信仰者として、ヘーゲルの観念論を批判していたが、観念論対唯物論の対立ではなく、弁証法を用いてヘーゲルを批判するというアイデアを思いついた。

ところが「疎外された労働」などの概念を用いて議論を展開するうちに、にっちもさっちも行かなくなった。

そこでヘーゲル弁証法の原点である精神現象学に立ち返って、本当に弁証法が使える方法論であるか否かを吟味してみようということになったのが、この文章であろうと思う。

2日間の休みをかけてわずか10ページ、

経哲手稿の「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」の読解が進まない。他の人達がスイスイと読み解いていくのが信じられない。

少し箸休め代わりに、先達のご意見を拝聴しておこう。

まずはアルント先生の講演ノート。「マルクスとヘーゲルの弁証法 ─絶対的にあらゆる哲学の最後の言葉─」と題されている。[PDF]マルクスとヘーゲルの弁証法から入ることができる。

アルント先生はベルリン・フンボルト大学・神学部教授で、国際ヘーゲル学会 会長でもある。2012年に来日して講演しているそうだ。

以下は抜き書きというかコピペ。

この弁証法は、“絶対的にあらゆる哲学の最後の言葉”です。だからヘーゲル的な外見から弁証法を解放することが,ますます必要なのです (ラ・サールへの手紙1858年)

演題はここからとられている。他に二つの手紙も紹介している。

もしいつかまたそんな仕事をする暇でもできたら,「弁証法」における合理的なものを,普通の人間の頭の人にわかるようにしてやりたいものです。ヘーゲルが発見はしたが,同時に神秘化してしまったからです(エンゲルスへの手紙 同じ年)

もし私が経済的な重荷を首尾よくおろせたら,『弁証法』の本を書くつもりです(1868年)

ということで、経哲手稿の時代、グリュンドリッセの時代、資本論第一部を世に問うた時代に、マルクスは弁証法に大きな関心を払ったようだ。

その中でも経哲手稿の時代には特別な思いがあるようだ

ヘーゲル弁証法が神秘化する側面を,私は30年ほど前に,それがまだ流行していた時代に批判した

アルント先生はこういう。

マルクスは繰りかえして、ヘーゲルは弁証法を「神秘化」したと主張する。ではどこをどう神秘化したのか。マルクスはどのように「脱神秘化」したのか。それが問題だ。

そうなんだよね。だからみんな苦労して経哲手稿を読むんだ。

アルント先生は、資本論刊行後の1872年にマルクスの書いた第二版へのあとがきから引用している。

ドイツの批評家たちは,(資本論が)ヘーゲル的な詭弁だという非難の声をあげている。

マルクスはそう言われることをかなり予想していたようで、そう言われることを期待さえしている。

弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は,彼が弁証法の一般的な諸運動形態 をはじめて包括的で意識的 な仕方で述べたと言うことを,けっして妨げるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには,それをひっくり返さなければならない。

これがとっときの反論である。

 

三浦つとむはエンゲルスを根拠にしてレーニンの誤りを批判しているようです。それが「真理と誤謬」論です。

エンゲルスは『反デューリング論』の中で次のような記述をしています。読みやすくするために、かなり文章を細切れにしています。

真理と誤謬とは、ごく限られた領域に対してだけしか、絶対的な妥当性を持たない。それは全ての思考規定と同様である。

「限られた領域」とは、(真理と誤謬とが)両極的対立において運動するところである。

両極対立というものは(限られたものであって)十全なものでない。これは弁証法の初歩である。

真理と誤謬との対立を、(両極対立の)領域以外に適用することもできる。ただしその際、この対立は相対的なものになってしまう。

大抵の場合、物事の認識には正しいところもあれば間違っているところもあるということでしょう。

(状況が変われば)対立の両極はそれぞれの反対物に転化し、真理は誤謬となり誤謬は真理となる。従って精確な科学的表現法としては役に立たなくなる。

(第一篇 哲学 第九章 道徳と法・永遠の真理 国民文庫Ⅰ p157)

平ったく言えば、「真理も誇張すれば過ちとなる」ということです。

ただ、むしろエンゲルスが言いたいのは、誇張したために誤りとなったとしても、誇張しなければ真理であることが大事なのだということでしょう。それは「本当の真理ではない、従って何ら真理ではない、従ってそれは誤謬である」ということになっては困るのです。つまり真理というのはTPOを持っていて、その条件内では、ますます真実になるということです。

もう一つは、ちょっと難しいのですが、TPOの枠が歴史的には変わりうるとも言っています。「定められた限界内においても、将来の研究によってそれがなおもっと狭く限界づけられたり、それの解釈が変化したりする可能性」があると、エンゲルスは言っています。


ただ、ここで真理と誤謬という言葉で議論するのは、なんとなく違和感を感じてしまいます。誤謬という言葉に対置するのなら、ふつう日本語なら、「正解」というべきではないでしょうか。

この用語上の問題は結構重要です。つまりここでエンゲルスが「真理」と称しているものは、認識の正しさに関わる問題であって、どこかに鎮座ましましているような「客体」ではないということです。

率直にいって、エンゲルスは「真理は存在するか」という問いへの答えをはぐらかしているように見えます。「真理の認識可能性」の問題は、存在論ではなく認識論です。

エンゲルスはときどきこういうことをやります。「自由は必然性への洞察にある」なんていうのは、その典型ですね。

三浦さんが論争を仕掛けた時代には、まだ人口に膾炙していなかったのかもしれませんが、やはり経哲手稿(第3手稿)あたりから入るべきではないでしょうか。

三浦つとむの言語論は独特で、なかなか面倒だが、亀井秀雄さんという方が総括的に説明してくれている。


亀井秀雄 Author's Preface to the English Translation

という文章から

三浦が、『日本語はどういう言語か』で展開した研究の要点は、観念的な自己分裂という概念と、規範という概念にある。

1.観念的な自己分裂

例えば私が鏡に自分を映してみる場合、 現象的には確かに私が見ているわけだが、意識のなかではこれから自分が出かけて行く会合や、これから合う人を思い浮かべ、その人たちから自分がどう見られ るかを予想しながら、髪を整えたり、着て行く衣服を選んだりする。

つまり私は、現実の私の眼で自分の鏡像を見ると共に、これから合う他人の側に立って、他人の眼の位置に自分を置いて自分自身を眺めるわけである。

このように私たちが観念内では自分の眼を二重化している。

それがかれのいう観念的な自己分裂なのである。

と、出だしからえらく面倒くさいシチュエーションを想起しています。もう一つの例示はそれに輪をかけています。

また私が目の前の風景を写真に撮った場合、その写真のなかに自分の姿が写っているわけではないが、どの視点位置から撮ったかは写真の構図に反映している。

このように写真のなかにはそれを撮った人の視点位置が映されてしまう。

このような現象から、映された・表現された対象は鏡としての性質を持つと考えられる。

三つ目の例。

私が誰かに自分の家を位置を教えるために、鳥瞰図的な地図を書いて見せる場合、書いている現実の私は地上に立っているのだが、観念的にはずっと高い位置から見下ろす形で、私の家の位置を地図に書いていることになる。

この地図は、 三浦の理論に即して言えば、観念的に分裂した、もう一人の私の視点を反映する鏡でもあるわけである。

これらは亀井さんの文章からの引用なので、三浦つとむが果たしてそのように語ったのかどうかは定かでありません。
ただ、私の印象としては、きわめて映画的な例示のような気がします。というのも、三浦は戦前・戦中を映画評論を中心に活動していたようなのです。映画を見ながら、あるいはその台本を見ながら、あるいはあるシーンを頭に思い描きながら、例にしているのではないかと想像します。
一般的には即自的自己と対自的自己と言ってしまえばすむことですが…

私たちが話し相手によって「私」「俺」 「僕」などに使い分けるのは、話し手が場面や聞き手との関係を反映させているからなのである。

時枝は日本語を、概念化を経た語と、主体を直接に表出した語とに大別した。三浦は概念化を行うことを客体的表現、主体の視点や立場を辞で現わすことを主体的表現と呼んだ。

2.規範

三浦つとむの理論のもう一つの重要な要点は「規範」という概念である。かれはヘーゲルの『法の哲学』をベースに、意志の対象化されたもの として規範論を展開している。

個別規範: 例えば私が医者から「酒や煙草はやめたほうがいい」と忠告されたとしよう。もし健康を維持するために私が従うことにしたら、この規律は自分の意志で選んだものでありながら、あたかも外部から自分を拘束する命令であるかのような働きをする。この規律は虚構性を含んでおり、単なる意志とは区別されなければならない。

特殊規範: 私が他人と結んだ約束や契約は、一方的に破棄することはできない。約束や契約はお互いの「共通の利益」を実現するために作る「共通の意志」だからである。この特殊規範は「観念的な人格」を担っている。「観念的な人格」の代行を法や、法の執行者た る国家権力に求めることもできる。

普遍規範: 「個別規範」や「特殊規範」はそれを作った当事者だけを拘束する。これに対して、「普遍規範」たる法は共同体のメンバー全員に適応され、個々人の意志を超えた全体意志として作られ、強制力を与えられている。

階級社会にお ける「共同」の利害とはじつは支配階級の「特殊利害」であるが、支配階級によってあたかも「共同」の利害であるかのように偽装され合理化されている。しかし「普遍規範」として成立した法は、個々の資本家や企業の意志と対立し、拘束することがある。

言語の規定をするのに、なぜ、長々とこのような講釈をたれるのか分かりません。スポンサーの吉本隆明へのヨイショかもしれません。ここからやっと本論です。

3.言語規範 

言語規範は人間の長い歴史のなかで自然成長的に育ってきた規範である。それは一まとまりの有節音と概念との結びつきに関する社会的な約束である。自然成長的な規範は、具体的な現象形態を抽象して見出されるものなのである。

現象形態と規範とは区別されな ければならない。私たちが日常的に交換する具体的な発話は言語であり、ソシュールのいう「言語」は言語規範を指すことになる。

ここで、亀井さんは三浦つとむの時枝との分岐を指摘しています。時枝誠記は、ソシュールの言語が観念的な抽象物でしかないと批判したが、三浦は「それもありじゃないか」という意見みたいです。ただそれは言語そのものというよりは、「言語に関する約束事」ととらえたほうがいいんじゃないかということのようです。ただ結局その論争の枠からは抜け出せていないようです。
必要なのは、「猿が人間になるについての労働の役割」と同じように、「ヒトが人間になるについての言語の役割」みたいな歴史的・発生学的観点でしょう。

ということで、三浦つとむは言語規範論の展開に入っていきます。つまりソシュールの言語とは、かなり守備範囲がだぶることになります。

言語規範には音声的な側面と、概念の側面がある。音声的な側面は感性的・物質的であり、概念の側面は超感性的・非物質的である。

言語規範の持つこの二面性は、「人間が精神的な交通のために実践的に生み出した非敵対的な矛盾の一形態」なのだそうですが、この辺りから、独特の匂いがちょっと鼻につくようになります。そろそろ潮時でしょうか。


ということで、三浦か亀井かどちらの責任かは知りませんが、「言語とは何か」という問題設定に対しては、盛大に的を外している印象です。

1.「欲望」という言葉を限定する

欲望が物質的過程だというのは、表現としてはこなれていない。ヘラーの本に「欲望には物質的欲望と非物質的欲望がある」と書いてあったのが気になったので、「欲望というのは基本的には物質的欲望だろう」と主張したかったのである。

そもそも「欲望」という言葉が多義的である。我々の常識で言うと、“欲する”ことと“望む”こととの間にはかなりのニュアンスの差がある。それに、やや倫理的・文学的な響きを持っている。“欲する”方にウエイトを置くなら、むしろ「欲求」のほうが近いかもしれない。ただ、この場合も“欲する”というのがどちらかと言えば内面的過程なのに対し、“求める”というのはより具体的、個別的なニュアンスがある。

英語ではWants という表現になるだろうが、これだと欠乏に対する“飢え”みたいなものが前面に出てきてしまい、やや狭すぎるような気もする。

とりあえずは「欲し求めること」という動名詞、一つの心理的行為として、「欲望」という言葉を扱っておきたい。このへんの具体的な語感はだいじにしなければならない。

2.価値はどのようにして生まれるか

欲望の対象は価値である。具体的には使用価値である。

ケネーの経済表は、マルクスをふくむ全ての近代的経済学の出発点であろう。

ただ経済学者が経済表の真価を理解しているとは言いがたい。なぜなら彼らはすぐに再生産諸表のモデル化に行ってしまうからだ。それこそ「ケネーの経済表」の批判するところなのだと思う。

私が思うには、それは「価値」とその源泉、そしてその形成過程に関してどのような哲学書にもまさる解答を与えている。

ケネーの目的は重商主義の批判であったが、実際には「経済表」は重商主義を否定するのではなく、それを乗り越えて、経済学に時間軸を持込み、「発展」=価値の付加・創設という概念を付与したのだ。そこに核心的意義があるのだと思う。それは自然エネルギーの固定化、人間の手による使用価値の付加によって実現される。

3.価値と欲望は鶏と卵の関係

マルクス(とヘーゲル)はそれに2つの哲学的事実を付け加えた。

ひとつは、生産(生産的労働)が価値の再生産過程の一コマであるということ、したがって再生産過程としての「営み」の全体を見ていかなければならないということである。

一つは、生産が消費と一体の関係(鏡像的)にあり、消費の過程は欲望の充足過程であると同時に、欲望の生産過程でもあるということである。

4.価値も欲望も拡大再生産される

この二つから言えることが二つある。

一つは欲望の根源が物質的消費過程にある以上、欲望は根本的に物質的(物質規定的)である。それは共同体により社会化され、言語によりシンボル化されるが、そして一見非物質的に見えることはあるが、物質的であることをやめない。

もう一つ、生産の本質は拡大再生産である。したがってそれは欲望(物質的)の拡大再生産をもたらし、それを前提とする。平たく言えば人間は豊かになるほど貪欲になるのである。

これは脳科学では説明できない。


内言語(inner speech)は内言とも言う。内言のほうが間口が広くて良さそうな気もするが、とりあえず内言語で統一しておく。

内言語の定義には二つある

内言語の定義には二つある。

一つは、形態的なもので、「声にして出さない言語」ということになる。

もう一つは、目的的な定義で、「自分自身にのみ発せられる言語」という定義である。

それから派生することとだが、内言語はコミュニケーションという「言語のもっとも基本的な目的」を失った言葉である。その代わりに自由に飛翔する。

いずれにしても外言語から発生し、そこに戻っていく言語(戻らない場合もあるが)ということだ。それは動物が植物の発展によって規定されるのと同じように、外言語の発展に従属した言語である。

二つの定義があるから、二つを満たさない内言語というもあることになる。例えば本を音読する時、形態としては声を出しているので外言語だが、誰に聞かせるのでもなく自分だけに語っているのであれば、「気分」としては内言語と言っても良い。本人にとっては音読か黙読かの違いは、ほとんどどうでもよいことである。

言語の形成過程

言語はまず視覚的知覚と聴覚的知覚の結合として出現する。まずは母親の身振り・手振りと母親の言葉が結びつき、シンボルとなる。こっちが笑ったら向こうも笑うとか、泣いたら御飯が出てきたとかというかたちだ。次いでこのシンボルがコミュニケーションの道具だということに気づく。これは条件付けで強化される。

言葉がある程度溜まってくると、言葉を理解する内言語が育ってくる。これは第一段階の内言語である。最初の内言語は外言語に先立って形成される。おそらく形成される脳内場は知覚性言語野(ウェルニッケ)であろう。

ウェルニッケ野はもともと聴覚の識別をする機能を担っていたとされる。ここで言葉の収集・識別・整理が行われるのだろう。

この最初の内言語は模倣(反復・独語)を通して外言語化される。こちらが形成される脳内場は運動性言語野(ブローカ)ということになろう。

ブローカの機能は、もともと手の動きを模倣(ミラー・ニューロン)することにあったと言われる。

発達心理の場面で問題になるのはこの段階の遅れのようだが、それは発語能力の発達が運動神経の発達を必要としており、一種のスキル(コツ)に属する能力だからであろう。自転車に乗るとか、水泳を覚えるとかと同じだ。

内言語の二つの段階

すなわち、発達段階としては、まず言語刺激(聴覚刺激と視覚刺激の結合によって生み出される表象)が内言語の発達を促し、ついで内言語の表現技術として外言語の形成を促すのである。

これにより、言語刺激が内言語に置き換えられ、それに対する応答が形成され、それが外言語として表出されるというループが出来上がることになる。しかしヴィゴツキーの主張する内言語論はこの段階の内言語ではない。

初期段階においては、内言語は外言語を引き出すための準備手段として機能している。

そこにおいては外言語は外言語ではなく言語的応答にすぎない。外言語というのは道具であり、それは聞いて話して、対話するための手段である。したがって、本格的な外言語の世界はこれから始まるのである。この時点では外言語に照応した内言語の世界もまた未形成である。

このループはやがて猛烈な勢いで回り始める。そして猛烈に回転しながらその成果を蓄積し始める。ここでは外言語と内言語は渾然一体(喃語・言葉遊び)となっている。

やがてそれが異なる「いとなみ」として再分離していくのである。その段階における脳内場はウェルニッケ野やブローカ野より上位に位置しており、はるかに莫大な記憶装置を具備していると思われる。

ピアジェとヴィゴツキーのすれ違い

ヴィゴツキーはピアジェの「生物学的な人間観」を批判した。つまり自然的かつ自生的に言語・思考が発達していくという考えだ。

しかし、「視覚と聴覚との結合から生じるシンボル」の受容という内言語の発生過程は、脳の特定の部位の予定調和的な発達の過程であり、まさに「生物学的」なものだ。

その点ではピアジェのほうが正しい。しかしピアジェがその証拠としてあげた「自己中心性言語」は、実は発達心理学の例証としてあげるべきものだった。

これを批判したヴィゴツキーは正しい。だが少々感情的で論争的にすぎる。ピアジェ自身が後悔しているように「自己中心性言語」はあまりにもひどいネーミングだ。「自分自身に向かう言葉」というべきだ。「自己中心的心性」というのも、「自己回帰期心性」、あるいは「自己確立期心性」という方が正確だろう。

いずれにしても、内言語の基礎には、個体に刻印された遺伝子の展開という「生物学的」発達がある。エンゲルス風に言えば「内言」というのは「否定の否定」なのである。このことも間違いのない事実である。

チョムスキーによる内言語の位置づけ

ついでながら、チョムスキーは、内言語を脳の中に実装された知識体系として理解している。これに対して外言語は内言語を外界に表出する現象だとしているようだ。

これはソシュールの平面的理解への批判としてはあたっているが、カント的で、ちょっと一面的な規定である。内と外とを問わず、言語は言語活動であり営為であって当為ではないのである。

やはりヴィゴツキーの限界は指摘しておかなくてはならないでしょう。なぜなら、ヴィゴツキーの達した時点から、私たちは出発しなければならないからです。

一つは主体の弁証法がふくまれていないということです。自分があって自分を取り巻く集団があって、その中で自己が形成されていくという関係は、自己意識の発生の一面でしかありません。

自己が環境を対象化し、そのことによって自己をも対象化していくという発展の弁証法は、やはり無視できないでしょう。デューイのプラグマチズムを批判する際に、たらいと一緒に水も流してしまわないよう注意が必要だと思います。

ふたつ目は、発達に対する教育の役割を度外れに強調する傾向です。そのような思いは全くないのでしょうが、結果的には発達の許育の隷属化ともとられかねない表現がときどき顔を出します。

もちろん教育の役割はいくら強調してもし過ぎることはないのですが、基本的には、各々の人格が、各々の内的葛藤を通して、すなわち自己の内部矛盾を駆動力として内的に発展していく過程がまずあるのだ、ということは踏まえておくべきだと思います。

三つ目は、少なくとも3,4歳位の子供までにおいては、その発達は、かなりの程度まで生物学的に説明できるということです。したがって過度に社会学的要因を持ち込むことは過ちを生みかねないということです。

人間は寿命が長い分、持って生まれた遺伝子が全面開花するまでは時間がかかります。その間、いわば系統発生を繰り返しているのです。

人間はおぎゃぁと生まれた瞬間すべての人間的能力を具備しているわけではありません。したがって社会的要因はきわめて副次的なものにとどまっています。OSと基本ソフトを積んだだけの出荷時状態のコンピュータのようなものです。あまり教育心理学とか発達心理学などが介入する余地はありません。

ヴィゴツキーの持つこれらの限界は、何よりもまず心理学そのものが黎明期にあったことによって規定されています。そしてヴィゴツキーは開拓者たちに論争を挑んでいることから、論建ての性格上、多少の行き過ぎは避けられません。

さらに、二つの技術的制約が指摘できます。ヴィゴツキーはDNAの存在すら知られていなかった生物学の発展段階に規定されています。CTもMRIもなく、脳科学の基礎は無きに等しい状態でした。

さらに類推の手段としてのコンピュータの概念が全く利用できないという、歴史的限界に規定されています。いまの我々がコンピュータの論理をフルに駆使することなしには議論を展開できないことを考えれば、その限界は明らかです。

哲学的には、マルクスの初期草稿がまだ広く知られていない下で、マルクスとヘーゲルをつなぐ哲学的流れが理解されていなかったという問題も指摘しておくべきでしょう。さらにマルクス主義哲学のスターリン的歪曲が拡大しつつあったという特殊状況も指摘して置かなければなりません。

しかしヴィゴツキーの言わんとしたところは、かなりの程度までピアジェに受け継がれています。したがって我々は安んじて後期ピアジェの言説に従って行くことができるでしょう。

さらにアンリ・ワロンはこの論争や、その後の生物学的理解の深まりも踏まえ、人格形成についてのより包括的な議論を展開しています。

このような観点を踏まえながら、内言語問題に進んでいかなければならないと思います。

ということで、

羽田に2時間も逗留。お陰で前から読みきれずにいた「ヴィゴツキー入門」を一気に読破しました。

といっても、正確に言うと、読んだのは全8章のうち第2章と第3章のみ。後は発達論とか教育論であまり興味はないので省略。新書版でちょうど50ページ、4分の1です。

1.ヴィゴツキーの経歴と業績

理論に入る前に、ヴィゴツキーという人がどういう人かわかっておいたほうがいいと思う。

①ユダヤ人、ベラルーシ出身。つまり田舎の秀才ということ。

②モスクワ大学法学部卒だから、超エリート候補生だ。なぜこのような「脇道」にそれたか。二つ理由がある。一つは1917年、ロシア革命の年の卒業だ。ということは学生時代のほとんどが第一次世界大戦の真っ最中ということだ。日本で言えば安保世代ということになる。

③もう一つは、大学に入った後、かなり道を踏み外したからだ。文学・演劇に興味を持ち、ハムレットの分析などから心理学に興味をもつようになった。良くあるパターンだ。当然左翼化する。ただ革命運動に飛び込むまでには至らなかったようだ。良く言えばバランス感覚の持ち主だ。

④経歴の中で、ここがよく分からないところだが、大学卒業後、田舎に戻って中学の教師をしている。しかも7年間もだ。世の中は、革命が成立して、第一次大戦が終わって、そのまま白軍との長い内戦に入っている。この間に彼は相当心理学を勉強したようだ。

⑤7年後に満を持して論文を発表する。当時ソ連の心理学界を席巻していたパブロフ流の生理学的心理学を批判したものだ。これがバカ受けして、一躍時代の寵児となる。

⑥モスクワの心理学研究所に招かれたヴィゴツキーは、ピアジェの発達心理学に依拠して認識の心理学を展開。一躍、ソ連心理学の主流を形成するようになる。

⑦彼はその後、ピアジェの限界を批判しつつ、唯物論的な発達心理学を展開する。

と、ここまでが大体の経歴だ。

こちらは後日談になるが、ピアジェはヴィゴツキーによる批判をほとんど受け入れた(と柴田さんは言っている)

したがって、ピアジェの特に後半の理論は、ヴィゴツキーとの合作とも言える(この点については検証が必要)

これから先は私の感想になるが、これにさらにワロンが神経線維の髄鞘化仮説と周辺意識論を付加して、ピアジェの中の最後のフロイト残滓を一掃している。

もうひとつ感想、心理学思想の上でのヴィゴツキーの最大の業績は意識を大脳の働きの延長に据えつつ、意識の独自の構造を、その発展過程においてとらえたことだろう。

三木清に関するノートの中でも「心理学」の操作主義的に歪められた構築については触れておいた。

この時点ではDNAは影も形もない。CTもMRも、ポジトロンもない。しかし研究の方向は正しかったと確信する。

こんな背景を念頭に置きながら、論争の方に移っていきたい。

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