鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 14 国際政治/ヨーロッパ

1週間いない間に世界は動いていた。

ドイツ銀行の経営危機の報道は目を疑った。それとともにメディアがこの情報をほとんど扱わないことにも驚いた。

ドイツ銀行といえば、以前より素行不良の噂が後を絶たず、いつかは何かが起こるだろうとは思っていたが、まずは状況がよく飲み込めない。

BLOGOSに以下の記事があったので斜め読みしてみる。

My Big Apple NY2016年10月02日 

バロンズ:ドイツ銀行問題は、リーマン・ショックの再来か

という恐ろしい見出し

A) 事件の顛末

1.ドイツ銀行の株価と債券価格は前週に急落した。すでにヘッジファンドはデリバティブの担保として預けていた資産を引き揚げた。

2.急落の原因は、米司法省が住宅ローン担保証券をめぐり140億ドルの和解金支払いをもとめたことだ。

3.ドイツ政府はドイツ銀行を救済しないとの報道が飛び出し、事態は深刻化した。

4.9月30日、ドイツ銀行経営者はヘッジファンドの資金引き揚げを認めた。そのうえで、その懸念には正当性がないと非難した。

5.同じ日、米司法省が和解金を54億ドルへ引き下げ、両者が合意したと報道された。これに市場は反応し、株価と債券価格は値を戻した。

というのが顛末。

B) 事件の背景

しかしその背景を見ると、決してめでたしめでたしではない。

1.ドイツ銀行の時価総額は200億ドルたらずで、身売りが囁かれているツイッターをやや上回る程度だ。

2.ドイツ銀行は60兆ドルものデリバティブを抱える。金融危機が発生すればカウンターバーティーが契約を履行できない恐れがある。

3.簿価の大幅な欠損によって必要な増資が困難となり、バランスシートを支えられない。

4.ドイツ政府は財政健全化を訴えてきただけに、大手銀行の救済には及び腰となるだろう。

C) 事件の波及効果

記事はアメリカと世界金融への影響についても触れている。

1.ヘッジファンドの欧州銀行からの資金引き揚げは、LIBOR(ドル3ヵ月物ロンドン銀行間取引金利)を押し上げるだろう

2.LIBORは米国内のローンの基準金利となり、住宅ローン金利を規定している。住宅建設にブレーキをかけるには十分だ。

3.金融市場に緊張が走れば、FOMC(米連邦公開市場委員会)の利上げペースにもブレーキが掛かるだろう。

D) 事件の裏側

記事は、以上のような背景を踏まえ、司法省が和解金を割り引いたのではないかと見ている。

逆に、140億ドルというのはブラフだったとも考えられる。EUのグーグル提訴への対抗措置だったとの観測もある。

それがヘッジファンドの素早い動きを見て、急激に方針転換した可能性もある。その背景としてはアメリカ大統領選があり、トランプを利するような情勢激変を避けたいとの判断が働いたのかもしれない。

というのがこの記事の骨子。

中村平八 「ソ連を殺したのは誰か」

の全文がネットで読める。同志社商学 第52巻(2001年3月)というページでPDFになっている。

91年の事態は民衆とは関係のない宮廷革命であった

91年の時点で、ソ連の国家体制と民衆の間に決定的かつ敵対的な矛盾は存在しなかった。

バルト3国を覗く各共和国の民衆の大多数は、最後まで緩やかな連峰国家体制の維持と、改善された社会主義経済の存続を支持していた。

ソ連の民衆は次々に生まれる新党のいかなる党にも積極的関心を示すことはなかった。

ソ連を殺したのはロシア共和国のノメンクラトゥーラのなかの体制転換派(急進改革派)であった。

ソ連の「成功」を再確認する

ソ連は70年間失敗続きであったわけではない。それどころか、初期の40年間は大成功したとさえ言える。

だから、ソ連を批判する際には、まず、なぜソ連が成功したのかを分析し、それがなぜ成功因子を失い、右肩上がりの経済がどのようにして壁にぶつかり、ついに崩壊していったのかを明らかにしなければならない。

まずは経済的成功の場面から。

①スターリンの下でソ連は急速な工業化に成功した。第二次大戦後にはヨーロッパ第一位の工業国に到達した。

②第二次大戦では参戦国中最大の人的物的被害を被ったが、短期間で経済復興し、アメリカに次ぐ経済力(85年GNPでアメリカの55%)に達した。

③平均寿命、栄養摂取量、医療水準、識字率、普通中等教育終了率でソ連は西側先進諸国と肩を並べた。

④失業の恐怖、老後の心配、住宅・教育・医療費負担はなくなった。

これらを生み出したのが計画経済(著者によれば軍事共産主義供給制)であった。しかしそれは恐怖政治と非能率を伴っていた。(ただし非能率といえば、恐慌と失業ほど非能率なものはない)

ソ連型計画経済の特徴

①「不足の経済」の外延化

革命時の絶対貧困と、その後の国内戦のもとで、量産計画が全てであり、需要との照応は必要なかった。

党の独裁体制のもとで、立憲体制を乗り越え、人命まで含めた過度の収奪が可能となった。

②計画経済の負の成果

生産効率や生産物の質は二の次にされ、無駄の体系が作り上げられた。

行政機構の肥大と非能率化、官僚主義と腐敗。

主人公たるべき労働者・農民の疎外。労働資源化。



感想は、この記事の表題通り。不足だったから「不足の経済」が成功し、それが一定程度充足されることにより壁に突き当たる。問題はその次になにをするべきだったのかがはっきりしていないことだ。

60年代始めにリーベルマン構想が打ち出され、利益の出る構造への変革が打ち出されたが、結局うまく行かなかった。

私が思うには、自由な購買者の出現がないと、生産サイドの改革だけではうまく行かないのではないか。

生産の増大は消費の増大を伴う。消費の増大は欲望の増大をもたらす。増大した欲望が実需となり生産を刺激する。

この螺旋形構造が創りあげられないと経済のそれ以上の進展はない。

「不足の経済」のシステムは循環システムになっていないから、この問題に対応できない。利潤の導入は生産側のインセンティブにはなっても消費者には関係ない。

実はここに市場の最大の価値がある、と私は思う。市場の最大の役割、それは需要の創出にある。

なぜなら市場こそは貨幣経済の最大の実現の場だからだ。人々は職場においては奴隷として扱われる。しかし貨幣を持った一生活者として市場に登場したとき、彼は「王様」にだってなれるのである。

したがって市場は人々の「自由な真の需要」を表現する場になるのである。生産者は市場を見て生産を調整するだけでなく、需要を掘り起こし生産拡大に結びつける。

このような需要の拡大が、生産の増大をもたらし経済の発展へと結びつけていくのである。また労働者・農民の自由をもたらし、当局者の全面的圧政の軛からの解放へと繋がる。

市場の真の機能は競争にあるのではないし、需要と供給のバランスにあるのでもない。それは「欲望の見本市」であるところに最大の機能があるとみるべきだ。

この辺は稿を改めてもう少し検討してみたいと思う。


落ち穂拾いのついでに、レーニンとスターリンの対立点が二つ挙げられた箇所がある。ともに初耳の話なので紹介しておく。

1.国号問題

レーニンは国号問題で、国号に「社会主義」を入れたからといって、われわれの国が社会主義であるとは言えない、と主張しました。

これはロシア革命の性格規定の問題に関わっている。

旧ソ連史学では「社会主義革命」としていますが、レーニンは「社会主義をめざす」革命と言っております。

この論争は、国名に地名を入れないで「評議会社会主義」共和国とすることで妥協が成立したそうだ。

2.連邦か連合か

ソ連の英語表記はUSSR。UはUnion(Союз)である。アメリカはUnited States で諸国連合ということになる。アメリカの場合、州の独自性は日本の県よりは遥かに強いが、外国から見れば単一国家に近い。むしろ諸州連合と呼ぶほうがふさわしい。こういうのを連邦制(Federation)と呼ぶ。

一方、欧州連合(EU)は、今のところは未だ構成国の独自性がほぼそのまま生かされていて、諸国連合、ないし目的を限定した諸国同盟の形になっている。こういうのを連合制(Confederation )と呼ぶ。

というのを前提として、引用に移る。

1922年当時、複数のソヴェト共和国の結合形態をめぐって、ロシア共産党内には鋭い意見の対立がありました。それは諸ソヴェト国家の連合もしくは同盟を主張するレーニン派と、諸国家の連邦を主張するスターリン派の対立です。

スターリンは「軍事・外交・外国貿易その他の業務を統合する単一の連邦国家」を主張しました。

論争はスターリン派の勝利に終わった。病床のレーニンはほとんど発言の機会がなかった。

帝国主義国の強大な軍隊に包囲されている。だから、ウクライナなどの国が独自に外交権を持つならば、ソ連政権は存続できないというのが理屈でした。


むかしは、「ソ連というのは」ブルジョアの呼称で、正確には「ソ同盟」と呼ぶべきだと言われたことがあるような気がするが、それはレーニンの名残だったわけだ。


EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

しかし現実の姿としては、EUはそのようにかっこいいものではない。むしろ債務国にとっては「EU帝国主義」というか、諸悪の根源とすら映るところがある。

そのへんも書いておかないと不公平だろう。

EUの“PIGS”対応の諸問題についてはすでに明らかにしているので、そちらをご覧頂きたい。

総括すると以下のとおり

1.言うまでもなく現在の社会・経済システムの最大の問題は2つである。一つは国民の貧困化であり、その直接の原因は果てしなく続く緊縮財政政策である。もう一つは国民が貧困化する一方で所得格差が拡大し、超富裕層が世界の富を独り占めしていることである。

2.EUはこれに対してどういう態度をとってきたか、そのいずれをも推進する方向ではなかったか。企業側の利益を優先し、環境・安全基準や労働者の権利を二の次にしてきた。金融・財政危機にあたってはPIGS諸国の民衆に犠牲を強いることをためらわなかった。

3.そうやってドイツだけが一人勝ちするようなシステムは、他の国が掛け金を払えなくなったとき瓦解する。結局は共倒れに終わるのではないか。

4.そのようなEUであるが、それを民衆目線で変革するような展望を持ちつつ残留するのであれば、残留には意味がある。

5.イギリスでは(そしてEU加盟国の殆どで)、「EU」は緊縮財政と富裕層優遇政策を合理化するための外圧として利用され、錦の御旗となった。これではEUが民衆いじめの象徴と受け止められても仕方ない。

6.「脱ければこんなに恐ろしい未来が待っている」と散々脅されつ続けてきた民衆は、「残ればさらに恐ろしい未来が待っている」と考えるようになった。

こんなところではないか。

なお離脱の世論にはTTIP交渉の動向も関わっているようだが、今のところコメントするだけの資料を持ち合わせていない。


EU離脱論に関して、日経新聞(2016/2/20)に比較的まともな解説が載っていたので紹介する。

1.EU離脱論の2つの背景

ひとつは2004年にEUに新規加盟したポーランドなど東欧諸国から英国へ流入した移民の急増だ。

08年のリーマン危機後に雇用低迷が深刻になると、低賃金で働く移民が雇用を奪っているとの不満が蓄積した。昨年以降の難民危機もEU批判に拍車を掛けている。

もうひとつはユーロ危機への対応に英国が巻き込まれたことへの不満だ。EUは危機の再発防止のために、金融監督の一元化など統合強化の動きをみせてきた。

以下略


というわけで、2つの背景はまったく異なっている。ひとつ目は国民大衆の不満と不安だ。

ふたつ目は、シティの投機家たちにとっての不満だ。EUが金融資本への規制を強化するのは、ロンドンのシティー(ユーロマネー市場)を生命線とする投機家にとっては大変危険な兆候である。

1.国民大衆の不満と不安

ひとつ目の理由については大変よく理解できるし、同情もする。ただその選択肢は正しいとはいえない。なぜなら敵を間違っているからである。

資本の流通のみ自由化していけば、先進国には富が途上国には貧困が蓄積する。そうすれば途上国からの人の移動が起きるのは当たり前である。

先進国は富を輸出し途上国は貧困を輸出するのである。これが難民問題(とくに経済難民)問題の本質である。

ただ、この傾向があながち悪いとばかりは言い切れないので、長い目で見ればそうやって世界の富は平均化し、世界の人々があまねく豊かになっていけるのだ。

問題は2つある。

一つはそのテンポだ。資本の移動は今日のハイテク社会ではほとんど瞬時に行われる。しかし人の移動には文化や習慣、社会の柔軟性の問題もあるから一朝一夕には行かない。場合によっては複数世代をまたいで初めて可能になる。

そこにはコンセンサスを基礎とした非商業的な息の長い計画が必要となる。

もう一つは今のグローバリゼーションが貧富の差の拡大を伴って進行していることである。それは投機資本や金融資本の横暴がまかり通っているためである。

労働問題や雇用問題は、すべて大衆の貧困問題に関係している。それは生産力が低下したためでなく、生産の果実をごく一部の富裕層が吸い取っているためである。

彼らから、奪われた金を取り戻さなければならない。EUから離脱するとかポーランド人労働者を追い出すことで済む話ではないのである。

2.ユーロマネー市場の不満

この記事で学んだこと、それはイギリスの支配層(の一部)が離脱の動きの陰にいることだ。

彼らサッチャリストがどのくらい本気で離脱を考えたかは知らないが、EU当局の動き、とくに規制強化を狙う動きには強い不快感を抱いている、このことは間違いないようだ。

この記事は2月20日のものだ。キャメロン首相が首脳会議で離脱不安を煽って見事成果をかっさらった時の記事だ。今や彼らは慌てふためき、声を潜めているだろうが、4ヶ月前までは離脱を囃し立てて、火に油を注いでいた可能性がある。

離脱の動きの背景にある、規制強化への嫌悪感。この問題はもう少しえぐりだしてもらいたいものだと思う。この点について、その後の日経の記事はどうなっているのだろうか。八十島記者に伺ってみたい。

下記もご覧ください

この文章は、目下の感想的意見であり、ほとんど根拠はありません。

はっきり言って、メディアでは分離派の要求をまともに報道しません。イギリスの支配層をふくめ、世界中がイギリスの離脱派を馬鹿にしています。

確かに算盤勘定では離脱して得になるようなことはないでしょう。

しかし

これだけ国を二分するような激しい議論を数カ月にわたって続けてきて、今もなお国民の半数が分離を要求し続けている理由は、そんなかんたんなことことではないと思います。

とすれば、議論はもう少し長期のことを見据えてのことだろうと思います。

このままEU残留を続けてもいいことはない。損得勘定で、国のあり方を考えるのはやめよう。

これが離脱派の提起している問題なのだろうと思います。ことはEUに限らず、何事につけそろばんだけで政策を決めてきた歴代政権への不信です。そして損得勘定だけでやってきたはずなのに、国民の生活は貧しく苦しくなっているのです。なぜなら「メリット」のほとんどを富裕層が享受しているからです。

だから残留のメリットも明確にできない連中が離脱のデメリットを語っても、「それはあんた方のデメリットでしょう」ということになります。そして残留派がそれに対する答えを打ち出せないから、議論が果てしなく続いているのだろうと思います。


現代資本主義の抱える問題がそこには集約されているのでしょう。一般的には経済・社会のグローバル化は必然です。しかし、そのことと貧富の差の拡大、大金持ちだけがいい目を見るような世界とは別の話です。

だから離脱派の究極の結論は、そんなグローバル化など糞食らえだということでしょう。

残留派はグローバル化は必然だといいますが、だったら貧民が飢えて死ぬのも必然なのでしょうか。

その質問が、さまざまな変奏曲の形で、まっとうな方向にも歪んだ方向にも噴出してきている、この流れを押さえていかなければならないと思います。

私の結論は、

グローバル化が必然だとしても、それを急ぐ必然性はない。国民が豊かになるグローバル化が出てきてから考えてもいいのではないか。

ということです。そしておそらくはそのスピードがいま議論の分かれ目になっているのだと思います。

いまの金融資本はそのスピードをさらに上げるか、少なくともそのスピードを維持するかを必然的な条件としています。

そのスピードが落ちた時、速度を失った自転車が立っていられなくなるのと同じように、彼らは深刻な矛盾に直面するでしょう。

それはいずれ遅かれ早かれやってきます。世界の人々が収奪に耐えかねて、逆さにしても鼻血も出なくなったとき、国家は破綻します。国家が破綻したとき、国家の寄生虫たる金融資本は、リーマンが一夜で消えたようにあっという間に消滅します。

イギリスは、おそらくEUを離脱してもいいのだろう。「青信号、渡らなくても怖くない」のだろう。

と思います。離脱しても、それなりの手も打つだろうし、たちまち奈落の底に沈むというわけでもないと思います。離脱して困るのは、案外ロンドン金融市場(シティー)の金の亡者たちだけかもしれません。

それぞれの国民がいったんグローバル化のスピードをシフトダウンして、国民国家たる国をもっと大事にすること自体は決して間違ったことではないと思います。

ただ、離脱派の主張は必ずしも理念的なものではなく、やはり損得勘定でもあります。離脱を支持するサン紙は

EUは無駄遣いの金食い虫だ。この間の危機対応でも無能さを暴露したではないか、と批判。有害無益な政策の押しつけを繰り返すEUから出れば、「より豊かで安全で自由になり、運命を自分で決められるようになる、

と主張しています。言うことは当たっていないではありません。


ただ、EUというのは決して経済オンリーの共同体ではなく、千年に及んだ欧州戦争からの脱却と平和の構築を目指す共同体でもあります。しかしイギリス政府は(そして国民も)一貫してそのような関わり方はしてきませんでした。だからこんな有様になってしまったのです。

EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

残念ながら、今は大企業と金融資本のための共同体になってしまっていますが、この本来の理想とどう向き合うかというのもだいじな論点であろうかと思います。


それなりにしても、日本のネットの世界、掘り下げないなぁ。


2012年

5月 フランス大統領選の決選投票。「真の敵は金融界だとし、60の約束」を掲げたフランソワ・オランド(57)が、民衆運動連合(UMP)のサルコジを破り初当選。

オランドの政策は1.緊縮よりも経済成長、2.金融界への規制強化を柱とする。具体的には
①銀行の活動を投機から分離、②仏銀行の租税回避地での営業禁止、③ストックオプションの原則禁止、④銀行のボーナスの上限、⑤銀行税の15%増、⑤全ての金融取引への課税、⑥富裕層に45%の追加税率、⑦前政権による富裕税の軽減見直し、⑧資産収入に対する所得税と同等の課税
一方で民生充実のために
①半官半民の投資銀行の設立、②家賃の一部凍結、③60歳からの年金給付、④教育部門公務員職の創設、⑤公務員削減計画に見直し、などを打ち出した。
要するに「大きな政府」による国家の再分配機能の強化である。

5月 オランド当選を機に、ソシエテ・ジェネラル、クレディ・アグリコール、BNPパリバなど仏大手銀行の株価が急落。NY市場も200ドルの下落。

5月 ドイツのメルケル首相、オランドが求める「新財政協定」の再交渉を拒否。一方で欧州債務危機の解決に向け協力を呼びかける。

7月 フランス企業の競争力が急激に後退。政府は航空宇宙・防衛大手EADSのギャロワに対応策の策定を依頼。

ギャロワは個人消費や輸出の伸び悩み、固定資産投資の減少が競争力低下を招いているとし、「大きな政府」が残存する中での財政悪化の危険を指摘。

7月 会計検査院のミゴー議長、「財政赤字のGDPの3パーセント以下(EU基準)への削減のために、330億ユーロをひねり出す必要がある」と語る。

オランドはこれを受け、「今後、努力の半分を経費削減に投入する」と述べる。医療費、職業訓練費、地方自治体助成金などが削減対象となる。

11月 オランド政権、ギャロワ報告を受け企業減税策を発表。政策を事実上180度転換させる。

具体的には社会保障の雇用主負担分200億ユーロ(約2兆0500億円)の削減。このための財源として付加価値税(日本における消費税)と社会保障税の増税でカバーする。

2013年

3月 財界紙「レゼコー」、「オランド大統領は社会福祉の再検討、地方自治体への補助金削減、公共部門での生産性向上、労使間対話の根本的改善を選択した。これは「左派による自由主義政策》に向けての勇気ある選択だ」と褒め称える。

解雇規制法はもともとはフランス人労働者を移民から守るために設けられたもので、必ずしも労働者的とはいえない。

12月 13年度の成長率は0.4%と低迷し、失業率も10.2%に達し、若者の失業率は20%を超える。政府に通貨(ユーロ)発行権がないため金融出動策が打てず。

2014年

1月 政府、企業に対し「責任協定」の導入を提案。①企業が雇用や投資を拡大すること、②それを条件に、社会保険料の企業負担分を300 億ユーロ軽減する(これはGDP の1.5%分に相当)、③さらに法人税率を段階的に28%まで引き下げるというもの。

7月10日 モントブール経済相、マクロ経済政策の転換を提案。60億ユーロ(8千億円)規模の内需拡大計画を発表する。

歳出削減による余剰を赤字削減だけでなく、家計と企業向けの減税に充てるとする。また「(ギルド的)専門職の自由化」も提起。この発言は大統領の承認を得ないまま行われた。

8月24日 モントブール経済相、緊縮財政路線の撤回を主張。

モントブール発言: ドイツがリーマン・ショック後に押し付けた財政赤字削減策はユーロ圏経済を台無しにした。緊縮政策は財政赤字を縮小していないことを認めざるをえない。迅速に方針転換しなければ有権者はポピュリストや過激主義の政党に流れる。

8月26日 ヴァルス内閣が総辞職。オランド大統領はモントブールら3人の閣僚を更迭し、内閣を改造。ロスチャイルド銀行のマクロンを経済相に当てる。

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        モントブール経済相

8月27日 バルス首相、経団連総会に出席。「企業を愛している」と発言。引き続き赤字削減に取り組み、400億ユーロの法人税減税と規制緩和の前進を表明する。総会は拍手で応える。

9月 バルス首相がベルリンを訪問。均衡予算を求めるメルケルに対し「フランスに向けられた不信は理解している。改革をやりきる」と約束。オランド支持率は13%まで低下する。

2015年

2月 オランド政権が経済政策を発表。「マクロン法」と称される。年間5回だった「日曜開店」を12回に増やすなど。

6月 社会党大会。カンバデリス第一書記はモントブールの批判に対し、「社会党が消滅したらフランスは人間性を、フランス人は希望を失う」と反論。

その殆どはまだ萌芽的なものだが、政権を獲得するまでに至ったいくつかの試みもある。

その代表がフランスのオランド政権である。しかしこの政権の評価は芳しくない。あまりにも厳しい情勢だったから仕方ないといいわけもできようが、酷なようだが、厳しいからオランド政権が誕生したのだ。それは引かれ者の小唄でしか無い。

はたしてオランド政権は改革の試みに挫折したのか、それとも国民を裏切ったのか、そもそも1国での改革の試みは不可能なのか。

その辺を知りたいと思い、文献を探したが、なかなか見つからない。

とりあえず下記の文献を探したので、これから着手することにする。

仏オランド大統領の政策 国際戦略コラム 2012年5月

仏オランド政権が政策を180度転換。企業優遇と福祉削減にとうとう舵を切った!」 ニュースの教科書 2012/11/08

社会党政権の1年を振り返る フランス流に停滞する社会保障政策」ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年4月号

フランス経済の低迷とオランド政権の迷走極東ブログ2014.09.21

G20とフランスの政策転換三橋貴明の「経済記事にはもうだまされない! 2014/09/30

「緊縮政策に苦しむフランスの現況」(EJ第3978号)2015年02月20日

「不振が続くフランス経済」 伊藤忠経済研究所 2014/09/30

オランドは社会党か」 ニュース・ダイジェスト 18 juin 2015

各国経済の強さと弱さ PART19(欧州編)」金融そもそも講座2015年8月12日

マヌエラ・カルミナに関するAFPの報道はあまりにひどい。読み返してみたが、読むに耐えない。

他の情報も加えつつ整理する。

まず、どうやってマドリード市長に当選したかの経緯がさっぱりわからない。

選挙の経緯はこうだ。

マドリードの市長は間接選挙であり、議員選挙で選出される。

それで、その議会選挙だが、すでに5月に終わっている。

その選挙の結果だが、国政与党の国民党(AFP記事ではPopular Party)が第1党となった。

2位につけたのが、ポデモスの支持を受けた革新派グループ「アオラ・マドリ」、3位が第一野党の社会労働党だった。そこで2,3位連合の協議が始まり、6月にマヌエラ・カルメナ(71歳)を市長とすることで合意した。

カルメナはエリートの出身で、マドリード大学法学部を卒業。その後、フランコ独裁政権のもとで、共産党員弁護士として労働運動、人権運動の支援を続けてきた。民主化以降は、判事となり最高裁判事まで務めた。

カルメナ

目玉公約をいくつか挙げておくと、

1.家を差し押さえられた人及び立ち退きさせられた人のための代替住宅を確保する。ほかに水道・電気代の支援、保健サービスへのアクセスの保証など。

2.公共サービスの民営化の停止、公有財産の売却停止。公的債務の公開監査を実施。

3.国民党の策定した都市開発計画の停止。長期失業者及び若者の雇用のための緊急計画。

4.市長報酬を現在の半額以下の550万円に。

ただしその出発点は厳しい。長く続いた国民党の市政は6千億円の借金とデタラメ都市計画を残した。

なお、マドリードのライバル都市バルセロナでも、独立左派の活動家アダ・コラウ(女性)が、ポデモスの支持を得て市長に就任している。こちらは41歳のパキパキのミリタントで、住宅強制退去に反対する直接行動で数十回警察に拘束されているという強者。

第3の都市バレンシアでも、24年君臨した市長を追い出し、革新市長が誕生した。国民党は、この他セビージャ、サラゴサ、トレド、コルドバ、カディスで政権を失った。


7月13日に発表されたユーロ圏首脳会議は、ツィプラス政権の屈服という形で幕を閉じた。
「屈服したとはいえ、なんかの成果はあったのだろう」と、うすうす思っていたが、赤旗の記事を見るとどうもそのような気配はなく、一方的な敗北のようだ。(それなりに裏はあるのだろうが)
赤旗は次のような仏トリビューン紙の評価を転記している。
ユーロはたんなる通貨ではない。…ユーロは加盟国のすべての希望を考慮に入れる政治的プロジェクトではなく、峡谷が弱小国を支配する道具だ。
そのことを欧州の人々は知ることになった。
EU提案の受け入れに反対して財務相を辞任した、バルファキス氏の作った表が切れ味鋭い。ちょっと長いが転載しとく。
バルファキス1
バルファキス2

Manuela Carmina, leftist ex-judge now Madrid mayor

AFP By Anna Cuenca June 13, 2015

という記事から紹介。

正直「これが記事?」と疑うほど、まとまりのない記載が、前後の脈絡なく続く。本当はもう一度整理しなければならないのだが、とりあえずそのまま掲載する。


カルミナは共産主義者で青春時代に人権活動家だった。そしてその後裁判官となった。そのカルミナがマドリードの市長になった。そして24年にわたり続いた首都の保守党による支配を終わらせた。

この71歳の女性は、2011年の金融危機で貶められた貧しい人々を擁護すると約束した。そして、この国を席巻した「怒りの運動」(Indignados)の呼びかけに応え、腐敗と経費削減と追い立てに向かう政府を攻撃した。

無名の候補だったカルミナは、左翼的な綱領「こんにちは、マドリード」(Ahora Madrid)を提示し、主要野党の社会党と同盟を結んだ。それは与党の国民党が地方選で惨敗を喫した2週間後の事だった。

「我々は、マドリード市民の奉仕者だ。我々は市民の訴えを聞いて市政を運営したい」

カルミナは市議会にこう訴えた。そして議会の過半数が彼女への支持を公にした。

彼女はスペインにおける貧困に焦点を当てる。

そこでは多くの生命が危険にさらされている。最悪の危機は過ぎたのに。

カルメナは、言った。「私はジュリア(63才の女性)のような人々のために戦いたい」

カルメナはジュリアとプエルタ・デル・ソルの広場で出会った。ジュリアは1ヶ月300ユーロ(4万円)で生活していた。

市長の座を争ったのはエスペランサ・アギレ(63)だった。

選挙戦が白熱しても、金髪のカルメナは微笑を忘れず、冷静さを決して失わなかった。

彼女はある女性を非難した。その女性は2003年から2012年までのマドリード市長であった。そして市政の腐敗について見て見ぬふりを続けた。

その時さえもカルメナは冷静だった。

選挙中の討論会で、カルメナはこう発言した。

「エスペランサさん、私にはわからない。あなたはひどい危害を与え続けてきた。それなのにまだ市政を司ろうとする。それはなぜなのか」

スペインの首都の選挙は5月24日に行われ、アギレ派は21議席を獲得した。「インディグナドス抗議運動」をふくむカルメナ綱領派は20議席だった。しかし社会党がカルメナ支持に回ったことで、逆転が起きた。

カルメナは議会の信任を受けて正式に市長に選ばれた。議場に急に喝采が響き始めた。

 

前裁判官カルメナは独裁者フランシスコ・フランコの下で法的なスキルを習得した。彼女の司法技術は労働者の権利を守るためのものあった。それは初めから地位を築きあげるためのものではなかった。

しかし、「私の友人は私に話した。我々は、経験をつんだ多くの知恵を持つ人が必要だ。より良い世界のために戦うことが必要だ。がんばれと」

「任意拘留に関する国連専門調査委員会」のメンバーを務めた後、カルメナは、1981年に裁判官になった。その頃スペインはまだ強い「女嫌い」(misogynistic)の時代だったが、彼女は徐々にランクを昇って、最高裁判所判事にまでなった。

カルメナは、腐敗を根絶すると約束した。公共輸送機関を充実させると約束した。貧しい家族のための助成金を増加すると約束した。そして、市長の給料を45,000ユーロ(600万円)に半減すると約束した。

彼女の活動手段は自転車と公共輸送機関である。彼女はインディグナードス運動の呼びかけに応えようとしている。その運動は4年前、新しい政治的なモデルを求めてスペインの広場を占領した。

インディグナードス運動はこう叫んでいる。「政治家たちは我々の期待を裏切った。社会はもっともっと直接の民主主義をもとめる」。カルメナは言った。「それは新しいテクノロジーによって可能になるかもしれない」

カルメナは1944年2月9日、マドリードの実業家の家に生まれた。カルメナは、子供の頃から「より良い世界のために戦うこと」を誓った。

彼女はマドリードでの法律を学びながら、「フランコとの戦い」に加わり、1960年代に共産党に加入した。

彼女は、卒業後、労働法を専門とする法律事務所の弁護士になった。

1977年、フランコが死んで2年後に、事務所は極右の攻撃を受けた。この事件で同僚の何人かが殺された。

抗議政党ポデモスはカルメナの綱領「アオラ・マドリード」の選挙戦を支援したが、彼女は、極左翼のグループを批評することをしりごみしなかった

たとえば、ベネズエラ左翼政権が反対派の意見を抑圧し、もの言えぬ体制を作っていることである。

カルメナは自立している。そしてライバルを納得させると約束する。「変化」に対する有権者の渇望こそがマドリードに必要なのだと。

彼女は言う。「変化は、素晴らしいものになるだろう」と、

 

 

ギリシア国民投票でツィプラス政権が圧勝した。(Alexis Tsipras=Τσίπρας だからチプラスとは書きにくい)

マスコミは狼狽している。「一体この圧倒的大差をどう評価したらいいのだろう?」 と。

答えははっきりしている。見方を根本から変えなさいということだ。

サラ金業者の驥尾に付して「借金返せ」の大合唱に加わるのではなく、多重債務者を保護する立場に移りなさいということだ。生活保護の受給者に「お前が悪い」と糾弾するのではなく、とりあえず保護することを優先すべきだ。

いろいろあったとしても、とりあえず、緊急に、それが必要だ。

これまでのマスコミの評価には三つの問題がある。

ひとつはギリシアの国民目線の欠如だ。ギリシアの一般国民にしてみれば、この借金は道楽息子の作り上げた借金で、国民に直接責任はない。息子を捕まえて吐き出させればよいのだ。大体、道楽息子にカネを貸し込んだ方も悪い。これがふつうの常識だろう。

とにかく、7年間、国民は借金を払い続けてきた。いまこれ以上いじめたら死んでしまうくらい国民は困窮し、事態は切迫している。だから国民の大多数はツィプラスを支持したのだ。

マスコミはツィプラスを悪意に満ちた無責任な施政者と断じてはばからない。しかし、それは、ギリシア国民を「愚かで生きるに値しない人々」だと断じているに等しい。

そのことにいい加減に気づけよ、馬鹿者よ。

もうひとつは、「どうすれば事態を解決できるか」という主体者の立場だ。

この7年間に行われた「救済策」はことごとく失敗した。このままではギリシア人は野垂れ死にだ。「どうすればこれを救うことができるのか」、これが緊急の課題だ。この課題から目を背けることこそ、最悪の無責任だ。

「公務員天国」とか「脱税天国」とか、唾を吐きかけるのは良い。しかし彼らはすでに死ぬほどの「罰」を受けた。

いまさらに、死にかけているものを鞭打つことに何の意味があるのか。そしてその先に何があるのか。

そのことにいい加減に気づけよ、馬鹿者よ。

そしてもうひとつは、ギリシア問題をギリシア単独の問題ではなく、ユーロ危機の表現として考えることだ。裏返して言えば、ギリシアを救うことはユーロを救うことなのだ。スペイン、ポルトガル、イタリアひいてはフランスを救うことなのだ。ギリシアを救えなければ、いずれドイツ以外のすべての国は救えないことになるだろう。

ギリシアを切り捨てることは、ユーロがドイツのための通貨、無責任な通貨でしかないということを告白することだ。


最近の経過を通じて、私のブログへのアクセスも高まるかと思ったが、全然及びではない。

世間は冷たく無関心だ。

もう一度、リンクを張っておく。

欧州議会選挙をどうみるか 2014-05-30 10:47:21

欧州危機 金融危機からソブリン危機へ 2014-05-29 23:48:49

ギリシャ人いじめは間違っている 2014-05-29 22:33:42

ギリシャの若者の失業問題 2014-04-25 15:10:14

破壊的緊縮政策 2013-06-12 12:25:23

ユーロ圏失業率が12%を突破 2013-06-03 12:16:53

ギリシャ報道の明らかな誤り 2012-06-25 16:13:30

ギリシャ危機と青年 4 2012-06-19 13:41:44

ギリシャ危機と青年 3 2012-06-19 13:41:02

ギリシャ危機と青年 2 2012-06-19 13:40:06

ギリシャ危機と青年 1 2012-06-19 13:39:06

ギリシャ新民主党の「勝利」の意味 2012-06-18 23:27:09

ツィプラスとドイツ左翼党の共同声明 2012-06-04 17:22:10

フィナンシャル・タイムズがツィプラスを評価 2012-05-31 14:00:27

欧州でもっとも危険な男 ツィプラス語録 2012-05-31 12:58:47

ギリシャの離脱はありえない 2012-05-21 10:44:25

ギリシャ危機年表 2012-05-16 16:41:53

ギリシャの債務削減 2012-05-10 10:53:20

EU危機は破滅的危機ではない 2012-05-08 11:06:28

ギリシャ、何が“緊縮”されるのか 2012-02-22 16:22:01

ギリシャ危機が銀行に波及 2011-09-27 11:00:00

「ギリシャ支援」と言わないで欲しい 2011-07-26 14:07:52


反ナチ「抵抗」考  ――グラス・ルーツ的視点

という星乃治彦さんの文章があって、そこに下記のように記載されていた。


東西ドイツの研究に共通していた傾向は、その党派性が強い故に、グラス・ルーツとして「反ファシズム」をとらえるという発想が弱いことであった。

戦後西ドイツは戦後体制の「反ファシズム」の源流を、白バラ運動や四四年七月二〇日ヒトラー暗殺事件に求め、そこに、西ドイツという国のアイデンティティが確認していた。

(東西ドイツという)党派性が強いドイツの歴史叙述の中で、(左右の)全体主義(に反対という)理論の影響の下、西ドイツでは、保守派や社会民主党系の抵抗運動は高く評価されるのに対して、ファシズムと同列に論じられることが多かったコミュニズムの抵抗運動は冷遇された。

一方、旧東ドイツの「反ファシズム」言説は、戦後東ドイツの支配政党となったコミュニスト政党―ドイツ社会主義統一党の、それも指導者たちの支配の正当性と、指導性の根拠とされた。

グラス・ルーツの抵抗行為は日陰の存在であったし、民衆を主体と見なさない姿勢は、東ドイツで民衆レヴェルでの「過去の克服」をも表面的なものにした。

うまく「四つ目表」の形でまとめられている。

そのとおりで、何も付け加えることはない。


と言いつつ付け加えるのだが、基本は東ドイツの総括だろうと思う。

西ドイツの対象とするは、何もかもがすべて起きてしまってからの、終わってしまってからの運動だ。

ニーメラーの言葉に尽きるように、共産党、社会民主党、労働組合が非合法化されたとき、もう抵抗運動の母体は失われていたのである。

むしろ終戦間際の敗勢を背景とした厭戦運動に括られるべきものと言ってもいい。

基本的には的はずれだ。

第二に成功した抵抗闘争においては、フランス、イタリア、ユーゴ、ギリシャなど、どこでも共産党が主体をなしていた。それがドイツに限ってなぜ排除されなければならないのか、それは実態と乖離しているのではないか、という疑問だ。

第三に、上の疑問とも関連するのだが、抵抗運動に関わって犠牲となった人の名前を党派別に並べて見てはどうか、という疑問というか提起だ。多分圧倒的に共産党系の人々が多いのではないかと想像する。

ということで、東ドイツ側の総括を基本的に踏襲しつつ、

1.指導者の支配の正当性に収斂させる議論を打破すること

2.グラス・ルーツの抵抗行為にもっと光を当てること

3.ファシズムの災厄を世界にもたらした国の国民であるという事実を、もっと深刻に受け止めること

という3つの提起を受けて、さらに実証的研究を積み上げることが必要なのだろう。


ナチス関係の記事は下記の通り

ドイツ国内における抵抗運動の評価は、旧東独において「ナチ時代において首尾一貫して断固たる抵抗運動を敢行したのは共産主義者のみだった」というドグマへの批判とも結びついている。

ということになっているが、日本では逆に非共産主義者の抵抗ばかりが拡散して、共産主義者の抵抗運動については殆ど触れられないという、逆状況にある。

自分でネットをあたって年表を作成してみたが、残念ながら、共産党・社民党の非合法化のあと、戦争末期に至るまでほとんど空白となっている。(日本語文献の範囲内で)

前項の研究は、その間隙を埋めるものとしての意義がある。

 

1933年

1月30日 ヒトラーが首相に指名され、ナチ政権が成立。共産党は反社民党、対ナチ協調の立場から事態を静観。テールマンは「ナチスに政権を取らせよ。ナチスには政権担当能力などなく、そうすれば明日には共産党が政権を取るだろう」と語る。

2月1日 ヒトラー、議会を解散し総選挙に打って出る。

2月3日 ヒトラー、プロイセンにおけるあらゆる共産主義活動を禁止。議会が解散中なのを利用して、大統領緊急命令を連発。

2月17日 ゲーリング無任所相、左翼勢力に対して「必要とあれば容赦なく武力を使用すること」を警察に命じる。内相ポストをナチスが握っていたため可能になる。

2月24日 警察が共産党本部を立ち入り捜査。メディアが共産主義革命の恐怖を伝えるプロパガンダを大々的に展開。

2月27日 ドイツ国会議事堂放火事件。政府は共産党の犯行であるとして、ただちに「民族と国家防衛のための緊急令」を公布。共産党の解散と一斉摘発に乗り出す。この日のうちに4千人の共産党活動家が逮捕される。

2月 ベルリン大学講師で神学者のディートリヒ・ボンヘッファー、ラジオ放送でナチ党の「指導者原理」を批判。放送は強制的に中断される。ボンヘッファーは、後にヒトラー暗殺計画に連座し絞首刑となる。

3月3日 総選挙実施。共産党は非合法化され、すべての宣伝手段を奪われたにもかかわらず81議席を獲得。

3月 共産党のテールマン議長が逮捕される。11年にわたる拘束の後、44年8月に処刑。3月末までにプロイセンだけで1万人以上が逮捕される。

4月 ゲーリング、航空省内に「調査局」を設置。電話盗聴を専門とする機関。後に「赤い楽団」の根城となる。

5月 ナチが労働組合の建物を接収。

6月 ナチ、ドイツ社会民主党の活動を禁止。指導部(Sopade)はプラハで運動を開始。(38年にパリへ、40年にロンドンへ移転)

7月 職業官吏再建法が制定される。ユダヤ人の公職からの追放を目的とする。教会にもいわゆる「アーリア条項」が適用される。この後、教会内部で親ナチ派の「ドイツ的キリスト者」が優勢となる。

9月21日 ボンヘッファーとマルティン・ニーメラー、牧師緊急同盟を結成。後の告白教会に繋がる。ニーメラーはヒトラーの支持者だったが、教会からのユダヤ人追放政策に反対し、反ナチに転じた。


1934年

1月30日 レーム蜂起が発生。これを体制内の危機と見た共産党は抵抗運動を強化する。


4月22日 牧師緊急同盟が主体となり告白教会を結成。ロンドン赴任中のボンヘンッファーも参加する。カール・バルト起草による「バルメン宣言」が発表される。

1935年

10月 ドイツ共産党がブリュッセルで党会議を開催。①ファシズムの過小評価(左翼の過大評価をふくむ)、②社会民主党への主要打撃論の2つの誤りを自己批判。“統一戦線ないし人民戦線政府”が提起される。

 

1936年

8月 ボンヘッファー、ナチスに対する反対により、ベルリン大学から解任される。

1937年

7月 ニーメラーが逮捕される。終戦までの8年間をダッハウなどの強制収容所で暮らす。下記の詩で有名。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


10月 ブレーメン近郊デルメンホルストの共産党組織が摘発され、首謀者のヴィルヘルム・シュレールスが逮捕される。その後終戦までに49名が殺害された。

1938年

10月 ルートヴィヒ・ベック参謀本部総長が退役。反ヒトラー抵抗運動の中心人物となる。ヒトラー暗殺計画では、ベックが新政府の国家元首に就任する予定。

黒いオーケストラ: ドイツ国防軍内部の反ナチス派将校グループ。ルートヴィヒ・ベックやハンス・オスターを中心とする。その政治姿勢は決して民主主義的でも平和主義的でもなかった(ウィキペディア)。

クライザウ・グループ: 将校グループと連携する保守派グループ。モルトケ伯爵が所有するクラウザーの別荘を拠点とした。

1939年

ドイツ共産党がベルンで党会議を開催。ヒトラー後の国家を、資本主義制度を前提とする「新しい民主的共和国」と規定し,そのプログラムが作成される。

1940年

 

1941年

 

1942年

6月 ミュンヘンの「白いばら」グループ、最初の反戦ビラを配布。主要メンバーはハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショル、クリストフ・プロープスト、ヴィリー・グラーフ、アレクサンダー・シュモレルの3人の学生、およびクルト・フーバー教授である。

12月 ハルナック夫妻など知識人グループ、ソ連に情報を流したとして逮捕され、軍法会議で無期判決。さらにヒトラーの指示で死刑判決。50数名が処刑される。共産党スパイ説は否定されている。

42年 ハインツ・カペレが処刑される。カペレは13年生まれ。青年共産主義組織に入り、反ナチの宣伝活動を続けた。

 

1943年

2月 「白いばら」グループが摘発され、6人が死刑判決を受ける。(多くの情報あり、ここでは省略)

 

1944年

7月20日、黒いオーケストラによるヒトラー暗殺計画は失敗に終わる。ベックは逮捕されピストル自殺。

7月 事件に連座した歴史学者アドルフ=ライヒヴァイン(社民党員)も処刑される。

10月 親衛隊全国指導者ハインリッヒ・ヒムラー、「青少年の徒党撲滅」を命令。エーデルヴァイス海賊団などの反ナチス青年グループを摘発。

海賊団の一部は地下組織に合流し、脱走兵や逃げ出した戦争捕虜、他国から連行されて強制労働に従事していた人々、強制収容所から逃げ出した囚人などの支援を行う。

1945年

4月9日 ボンヘッファー、ハンス・フォン・ドホナーニ、ハンス・オスター、カナリス提督らが処刑される。

 

 

ベルリンの片岡特派員が続けざまに、重要な歴史事実の掘り起こしを行っている。
今回はナチス下ドイツでのレジスタンスについて。
これはドイツのレジスタンス研究家ギュンター・ウェーナーさんへのインタビューである。
ウェーナーさんはゲシュタポの資料に基づいて「ナチ独裁に抵抗した人たちの思い」を引き出している。
2002年には共同執筆で「ベルリンのレジスタンス人名辞典」を刊行している。ベルリンの話は、その後の東西冷戦と、\の分厚い蓄積の下層に沈み込んでおり、これまであまり知ることができなかった。
初めて知る事実がたくさんある。
1.レジスタンスの全体像
当時のドイツの人口は8千万人くらいですが、その内2%がレジスタンスに加わっていたと言われます。大都市ではもっと多く、ベルリンでは名前が分かっているだけで約2万人が参加しました。多い時には1ヶ月で3千人が逮捕されました。その内7千人が処刑されました。
すごい数だ。参加者数もすごいし、それが決死の活動だったことも分かる。
2.ハインツ・カペレの活動
ハインツ・カペレは1913年生まれ、ナチが政権をとった時に20歳ということになる。彼は青年のレジスタンス組織を作り活動した。
ハインツ・カペレのグループは、ヒトラーの演説がいかにウソに満ちているか、戦争が近づく危険性を訴えたビラを1万2千枚作り、工場や電車で配布しました。それは手書きではなく印刷したビラでした。印刷工場に働く仲間の助けがあったのです。
3.「社会労働党」グループ
この党は、33年にヒトラーが権力を掌握したあと、偽の解散宣言をし、その後地下で30ヶ所以上の拠点を持ち、36年まで活動しました。その後は多くの活動家がスペイン内戦に参加しました。
この小さな政党グループは、これまで殆ど知られていなかったが、最近になってウェーナーさんがゲシュタポの資料の中から偶然見つけたものだそうだ。
4.「赤いオーケストラ」グループ
これはより直接的にソ連と接触していた半軍事的組織、スパイ組織のようだ。
「赤いオーケストラ」とナチスから名付けられたグループは、ドイツ軍の攻撃計画や輸送計画をソ連に伝えていた。
70あまりの企業に抵抗組織を持ち、2台の戦車まで準備していました。メンバーにはラジオ局で働く女性や空軍大佐もいました。
5.市民的抵抗
もちろんキリスト教徒や普通の市民のレジスタンスもたくさんあった。
軍需工場で働いていた人の中には、銃弾工場でわざとさんを多めに入れて使いものにならないようにしたり、42年に出るはずだった新しい機関銃の開発を遅らせて、44年まで引き伸ばしたりした人たちがいました。
安倍晋三が機密保護法などで国民をがんじがらめにし、戦争立法で国民を戦争へとかきたて、憲法改正でファシズムの支配する「美しい日本」の再現を推し進めようとしているいま、このような危機は明らかに迫りつつある。
ということでは、これらの活動をたんなる昔話として語ることができない時代に、我々は突入しつつあるのかもしれない。

本日の赤旗に重い記事が載っていた。
ドイツの強制収容所での強制売春問題だ。
中心事実はこうだ。
男性収容者(彼らは収容所内の軍需工場の労働者でもあった)のために、収容所内に売春宿が造られた。
女性専用の収容所から女性が連れて来られた。女性は飢えと疫病のなかで死んでいくか、売春宿で働くかの選択を迫られた。
200人以上が働かされた。
平日は午前8時から午後10時まで、土日は終日働かされた。
男性一人に対して15分間、最大で1日15~16人を相手にした。
「強制収容所の売春宿」の著者ロベルト・ゾンマーさんとのインタビュー。ベルリン駐在の片岡特派員による記事だ。

感想を書くのもはばかられるほどおぞましい話だが、強制収容所の恐ろしいほどの非人間性という枠組みに括られるものであり、慰安婦問題とは別途に語られるべきものだろう。
「売春」という事象に思考が絡み取られてしまうと、事態の本質を見失う恐れがある。一方的戦争(侵略)という不条理な全体の中での、不条理な、非人間的な強制の一つとしての位置づけを忘れないことがもとめられる。

ポーランドについてのかんたんなお勉強

まずは地理から

面積は31万平方キロで、日本より少し狭い。ただほとんどが平野なので実際にははるかに広い。人口は4千万人弱だから日本に比べるとはるかにゆったりと暮らしている。

首都ワルシャワの人口は170万で札幌と同じ。南部の旧都クラクフが75万、旧ドイツ領ブレスラウ(現在はヴロツワフ)が63万、西部の町ポズナン(ドイツ名ポーゼン)が55万というところ。

GDPは約5千億ドル。一人あたり2万3千ドルとなっている。

略年表

10世紀 ミェシュコ1世が周辺部族を統合。ポーランド公国として認知される。現在のポーランド領とほぼ一致。首都はポズナニだった。ポーランドは英語圏の呼称で、自らはPolska と名乗る。

11世紀 ポーランド、王国となる。首都はクラクフに移る。

13世紀 ドイツ騎士団が異教徒征討を命じられバルト海沿岸に進出。ドイツ人の移住が進む。

13世紀 蒙古軍がポーランド南部に進出。ポーランド平原は略奪により無人の野と化す。ポーランドはいったん衰退。

14世紀 ポーランド=リトアニア連合王国が成立。ドイツ騎士団に対抗し、大学を設立しユダヤ人を積極的に受け入れるなど、発展を実現。

15世紀 連合王国がドイツ騎士団を壊滅に追い込む。版図は白ロシア、ウクライナ、ドナウ流域におよぶ。

16世紀 連合王国、オスマントルコとの闘いに敗北。ドナウ流域をトルコに割譲。

16世紀 ポーランド=リトアニア、「連合共和国」に移行。穀物輸出を背景に欧州最強最大の国家となる。立法権が議会(大地主)に与えられたため共和国と呼ぶ。

16世紀 クラクフ大学のコペルニクスが地動説を提唱。文化が隆盛を迎えポーランド・ルネッサンスと呼ばれる。

17世紀 スエーデンとの連合王国となり、首都がクラクフからワルシャワに移転。

17世紀 オスマントルコによる第二次ウィーン包囲。ポーランド軍がオスマントルコ軍を撃破する。

18世紀 国土が三度にわたり分割されたすえ、消滅(1795年)。

1807年 ナポレオンの支援を受けワルシャワ公国が創設されるが,ナポレオンの敗北により消滅。

1830年 ロシア帝国からの独立を求める蜂起。ショパンは、報せを聞いて革命のエチュードを書く。

1918年 第一次大戦後、国土が復活。名ピアニストのパデレフスキーが首相に就任(3年のみの半名誉職)。

1920年 ポーランド軍が成立直後のソ連に侵攻。逆にワルシャワ近くまで押し戻されるが、その後挽回し、停戦に持ち込む。

1939年 ドイツとソ連により侵略を受け、国家が消滅。

ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住。カティンの森では将兵2万人が虐殺される。

ドイツの占領下では、ユダヤ人300万のうち9割が殺害される。対独パルチザンの闘いでも数百万が死亡。

1940年 ロンドンでパデレフスキー(80歳)を首班とする国家評議会。

1944年 ロンドン亡命政府の呼びかけでワルシャワ蜂起。ソ連軍がこれを黙殺したため20万人が犠牲となる。

1945年 ポーランド人民共和国として「主権」を回復。その後ロンドンの評議会は排除される。

1980年 全国ストの中で自主管理労組「連帯」が結成される。

1981年 ヤルゼルスキ首相が戒厳令を布告。

1989年 民主化によりポーランド共和国となる。最初の選挙で統一労働者党は壊滅。

2009年 世界同時不況で、ヨーロッパでただ一国のみ経済拡大を続ける。

以上はウィキペディアより

勉強があっさりしたものだから、感想もあっさりとしたもの
1.ポーランドは妥協で成り立っている国
妥協と言っても「1+1/2」ではない。「ならぬ堪忍するが堪忍」ということになるが、その場合長期的視野が必ず必要だ。将来的にはこの妥協は無駄にはならないという見通しと、この妥協を無駄にはしないというしっかりした構えが必要になる。まぁ、それが活かされる場合もあるし、結局妥協に終わってしまう場合も少なからずあるとは思うが、シングル・イシューにならず総合的に見ていくことも必要だ。
それはたんなる弱者の知恵ではなく、発展期(例えば15~16世紀)においても妥協と寛容の精神が貫かれているところは見習わなければならないだろう。
2.中心国~周辺国関係の中の位置
ロンドンとパリがヨーロッパの中心であることは今も昔も変わりない。ただ経済的にはドイツに重心が移りつつあるのだが。
最初はドイツも周辺国であった。北ドイツはとくにそうであった。ポーランドはさらにその辺縁に位置づけられていた。そしてその奥に野蛮人の住む広大な土地があった。
ポーランド人はその野蛮人を征服するのではなく友好関係を結び、リトアニアと対等な同盟を結ぶことによって大きくなっていった。これはかなり商人的な発想である。そしてリトアニアはさらに東方に向けて旺盛な征服活動を続けた。
一方西方に対しては辺縁という位置をとり続けた。中心部の人口増に対応してヨーロッパの穀倉というスタンスをとり続けた。
その後モスクワに国家ができ、西方に進出してくると、「前門の虎、後門の狼」という関係になる。
このとき自分が中心から見てどれほど周辺的か、ロシアから見てどれほど中心的かの間合いを測る必要が出てくる。異なる相手との異なる形態での妥協が必要になる。
3.ポーランド王国没落の要因
これはとても難しいが、おそらく中世の没落と近代世界の出現に符丁を合わせているのであろう。プロイセンやハプスブルグの興隆と裏腹の関係にあるようだ。
基本的には農業国で、農産物の輸出で経済が成り立っていたと思われるから、欧州の農業をめぐる環境の激変があったのだろう。じゃがいもの新大陸からの導入あたりが原因なのか。
「民主主義の行き過ぎ」と書いてあるものもあるが、ナンセンスだ。
4.ポーランドがリーマン・ショックを免れた理由
これも政権の功績に帰す傾きがある(ウィキペディア)が、ナンセンスだ。
おそらくドイツの積極的投資がリセッションを上回ってもたらされたからだと思う。現に同じ時期、旧東ドイツは深刻な景気後退を経験している。ドイツの投資が旧東ドイツの頭上を通り越してポーランドへと向かったからだ。

以下の記事はルモンド・ディプロマティーク(英語版)の2月5日付の記事。フランス人特有の癖があって、ちょいとうざったい。

参考までにウィキペディアから支持率の推移図を転載しておく。



「5月15日」からポデモスへ

2011年5月15日、国際報道機関がlos indignadosとしてに紹介した何十万人ものデモ参加者は、プエルタ・デル・ソール広場(マドリード)にあつまり、銀行の完全な支配する経済と、民主主義のに対してノーを突きつけた。

彼らは組織や政党の旗、しるしとスピーチを拒否した。そして、スローガンを持った。

「連合した人々は政党を必要としない」

広場は、もはや占拠されていない。

変化に対する欲求は残るが、意外にも新しい政党「ポデモス」(我々には可能だ)のまわりでできた。

ヨーロッパ中の大部分の政党が不評であるのに、ポデモスは先例のない成功を持っている。

「それは、信じるのが難しい」と、ポデモス幹部のパブロ・エチェニクが最近話した。

直接民主主義から政党結成へ

「我々の政党は、2014年1月につくられた。5ヵ月のあと、我々はEU選挙で8%の投票を得た。今日、全ての投票は我々が国での最大の政治的な勢力であることをしめしている。

ポデモスのリーダーは、世論調査と選挙が同じものでないということを知っている。

1月の選挙は、社会主義労働者党と人民党より前にポデモスを置いた。

総選挙(それは、2015年12月20日までに持たれなければならない)でのポデモス勝利の可能性は依然として確かなことだ。

ポデモスの創設は 「5月15日」運動が政治の社会運動に基づく概念に閉じ込もっていたことに端を発する。と、社会学者ホルヘ・ラーゴ(ポデモス幹部)はいう。

「デモ参加者の強さの建設が必然的に政治的な結果をもたらすだろうという考えは、間違っていることがわかった。

入居者追い立てと闘う会と、医療セクターの切り捨てに対する抵抗ネットワークは確立された。しかし運動は蒸気が尽きて、ばらばらになっていった。

投票行動に対する失望もあった。

80%の人々は運動に同意すると言った。しかし、彼らは同じ古い方法で投票し続けた。そして保守党は2011年11月の総選挙で地すべりに勝った。

それは、ポデモス創設者に質問を投げかけた。

15-Mに同情した人は何を代弁して欲しかったのか。それは今でもそうなのか? そして、国家の装置を使うとしたら、それは社会変化のために必要な条件なのか?

「5月」の精神

プエルタ・デルソールの運動は直接民主主義に基づいていた。しかしポデモスは「5月の精神」の相続人でありたい。とくに大衆への依拠、透明度と集団的意思決定についてだ。

同時に、そのメンバーは全ての古い垂直政治的な構造を廃止するというところに、罠の一部を認めた。

昨年10月政党の最初の会議で、エチェニクは脱集権化と党の平らな構造、柔軟性を増すべきだとする動議を提出した。

パブロ・イグレシアス(ポデモス指導者)は、「運動の目的を達成することは、組織の内部議論にあまり熱中しないことを意味する」と答え、動議を拒否した。

彼は、地すべり的に勝った。

「M-15」の最も熱心な支持者にとって、これは自治の裏切りのように聞こえた

新党は、もはやシステムの自発的な手先でしかないだろう。

「ポデモスは、社会エネルギーを伝達する方法として、また大規模な実験のプロセスとして起こった」とバルセロナ活動家Nuria Alabaoは言う。

「イグレシアスの側近グループは、ポデモスが15Mの運動を包含するのではなく、闘いを進める新しい方法を提供したのだ」

腐敗は構造的である

ポデモスが敵対するのは「カースト」と言う国のエリートである。

スペインでの横領のレベルは、フランスをさえ高潔に見えさせる。

ほぼ2,000の横領事件が公式の調査のもとにある。少なくとも500人の高級公務員が横領に関係していると推定され、年間の被害総額は400億ユーロ(5兆円)に達する。

主な政党は与党の右翼の国民党(PP)とPSOE(社会主義労働党)である。彼らは「違法な献金を受けた個人の法的責任の制限」について同意を結んでいる。そして政党が法的限度を超えて利益を得ることを可能にしている

長い間不可触とされた王室さえ例外ではない。新しい王の妹(Infanta Cristina De Borbon)のスキャンダルがそれを示している。

35の最大の会社のうちの33が子会社を通してタックスヘイブンで税を避ける。これに対し失業者の半分は何の支援も与えられない。

ラホイ国民党政権になった2009年以降、50万人の子供たちは貧困に陥れられた。いっぽうスペインの超金持ちの富は67%増加した。

昨年12月、気難しい民衆の激怒を避けるために、「市民安全保障」法が制定された。この法律は2011年の動員を避けるためにあらゆるものを非合法化した。公共の場での集会が禁止され、リーフレットの配布すら禁止された。

ポデモスは、スペインの不動産泡がはじけたとき、それが1978の憲法から始まっているコンセンサスの基礎を破壊したと考えている。

経済危機が政治的な危機を引き起こす。どんな深い社会変化でも先人が必要だ。2011年5月の思い出とともに、いまや立憲過程の機が熟した。

それは国家のメカニズムによって国家を変えることだ。

ポデモスと既成左翼

しかし、スペインの状況は、ポデモスの最近の上昇を説明しない。

統一左翼(IU)は長く類似した政治的なプログラムを進めてきた。しかしこの国政治秩序を変えるには至っていない。

ポデモスのリーダーは、左翼は長く難解な分析、曖昧な論拠と不透明な言語の集団だったと考える。

人々はイデオロギー、文化または価値によって誰かに投票するわけではない。彼に賛成するから投票するのだ。候補が普通に、好い人で、ユーモアのセンスを持つならば。

経済民主主義

ポデモスの最初の作業は、左翼の従来の語法をできるだけ平明に翻訳することだった。最も幅広い支援を得るにはそれが必要と考えたからだ。

それが民主主義、主権と社会正義だ。「我々は、資本主義について話さない」と、ラーゴは言う。

我々は、経済民主主義の考えを守る。そして、左右の議論には乗らない。なぜなら分割は、いま我々のような民主主義を守る人と、エリート、銀行、市場の味方との間にあるからだ。それはトップとボトムとの間、一握りのエリートと大多数の間にあるからだ。

マルクス主義の正統性の保護者は、この未分化の社会評価を批判する。

昨年8月、ひとりの活動家が「プロレタリアート」の用語を決して使わない理由について尋ねた。

イグレシアスは、答えた。

「15Mの運動が開始したとき、マルクスとレーニンを読んだ非常に政治化された学生たちも参加した。彼らは最初は一般学生と肩を組んで行進した。

しかしすぐその後、彼らは変装を解いて、『かれらは、何も理解しない!』と叫び始めた。

ポデモスの指導者の一部は極左運動の出身だ。しかし、2014年のEU議会選挙では、右翼の支持者からも10%の得票を得た。

スペイン中で1000以上の「ポデモス集団」が創設された。それを通じてポデモスは支持を獲得するようになった。

都市の大学で教育を受けた若いメンバーは、その後ホワイトカラーやブルーカラーの労働者、地方住民の中に参加した。

このような階級同盟は、もっと良いものが出現すればばらばらになる。それが歴史的傾向だ。ポデモスはこのような運命を避ける事ができるのだろうか。

それはわからない。しかしいま勝利の可能性がある時にそこから逃げることはできない。それは辺縁化した左翼に代わり、将来に向けてのシェルターにはなるだろう。

スペインのエリートは憂慮する

12月、経団連のフアン・ロセルは、ポデモスに対抗してPPとOSOEがドイツ型大連合を組むよう提案した。

ポデモスのプログラムに過激な内容はまったくないのだが。それでもスペインのエリートたちは憂慮している。

憲法制定議会が成立すれば、エネルギー、税制改革、負債リストラ、定年引き上げ、35時間労働、君主制に関する国民投票、スペインの自決とブリュッセルに奪われた権限の回復などが議論の俎上に載せられる。

反共攻撃はすでに厳しさを増している。「エル・ムンド」の記者はイグレシアスをルーマニアのかつての独裁者チャウシェスクに例えている。

「彼は最貧困層の血を最後の一滴まで垂らし続けるだろう」

国民党の議員はもっと直截である。

「誰かが弾丸を彼の後頭部に打ち込まなければならない」

欧州不況が長引き、深刻化しつつある。
問題はますますはっきりしている。
「ユーロ諸国民はドイツ首相を選べない」ということだ。
経済はユーロによってますます単一化しつつあるというのに、政治は旧態依然のままだ。メルケルは基本的にはドイツ国民の首相であり、いくらユーロ圏を重視しようとしても、ドイツ国民の意向に従わざるをえない。
ドイツはユーロ圏諸国から儲けをあげて、ドイツ国民だけで分配することになる。
3年前のソブリン危機の時は、周辺国の財政規律、景気の後退局面、リーマンショックの残務整理などの側面もあった。それらに対しては相応する対策が立てられた。
しかしその後3年間、景気はまったく浮上しない。
ということは、問題が一過性のものではなく、高度に構造的なものだということだ。
ドイツが根本的に思考を変えない限り、ユーロ圏は崩壊せざるをえないだろう。ドイツ以外の国にとって、ユーロ圏にとどまることの犠牲はあまりにも大きくなりすぎた。
ユーロ圏の崩壊は、いずれドイツの没落を招くだろう。そしてふたたびヨーロッパの混乱を招くだろう。
ドイツがやれることはただひとつ、ユーロ圏を守るという強い意思表示を行うこと、経済主権の根幹をEUに預けるということだ。
欧州債、投機資本への規制、ユーロ券発行の一元化など、部分的・段階的にやれることはたくさんある。これらの積み重ねが主権の移動をもたらすことになる。ただそこには、確固とした見通しと固い意志が必要だ。

ツィプラスの最近の演説がハフィントンポストで読める。

このブログはハフポストギリシャ版に掲載されたものを翻訳しました。

ということで大変ありがたい話だ。

要約して紹介する。小見出しは私がつけたもの。


急進左派連合はヨーロッパの理性の声だ

ヨーロッパは政策転換なくしてユーロ危機から抜け出すことはできない。

SYRIZA(急進左派連合)は鬼ではない。ヨーロッパにとっての大きな脅威でもない。理性の声である。

SYRIZAは2012年の時のように大きな脅威としては扱われない。変革への挑戦と受け止められている。

急進左派連合の再建計画

サマラス首相は失敗した「メモランダム」(ドイツなどとの合意に基づく超緊縮政策)を続ける以外の政策を打ち出していない。

SYRIZAは財政安定化のための政策「テッサロニキ・プログラム」を打ち出した。それは具体的で費用対効果のバランスが取れたものだ。

私たちの目的は2009年(ギリシャ財政危機発生の年)に戻ることではない、すべてを変えることだ。

それは経済の再出発、過去最悪の失業率を改善するための対策、国家経済を成長へと転換させるという計画だ。そのために国と公共機関・公共事業のあり方を大胆に改革する。

縁故主義、国民を敵に回す国家、脱税と税金回避、ブラックマネー、燃料や煙草の密輸。これらは何年もの間国を支配してきた勢力図の一面でしかない。この体系がギリシャを失望させてきた。

急進左派連合はユーロ圏を救う

SYRIZAは崩壊を望んでいるのではない。ユーロ圏を救おうというのだ。債務の問題はギリシャに限ったことではなく、ヨーロッパも同じだ。

我々は次のような返済条件を求めている。

残された資源を成長に向けて使えるようにする。そのために大部分の公債の額面価格は処理(割引)されるべきだ、返済(期限)の猶予があるべきだ、残りの借金を返済するためには成長が必要だ。そのための成長項目を導入すべきだ。

急進左派連合は欧州中銀に賛成する

今、ヨーロッパの将来について2つの正反対の戦略がある。一つは、ドイツのショイブレ財務相が言うように、これまで行われてきた法律や規則 を、それが上手く行くかどうかには関わらず、実行し続けること。

もう一つはユーロを守るために「何でもする」戦略だ。これはもともと、我々ではなく欧州中央銀行のリーダーが唱えたものだ。

私は様々な理由から、後者の戦略が勝ると考えている。


最後の見出しは少し勇み足かもしれません。ただドイツの孤立はますます明らかになっており、その裂け目を広げようというのがツィプラスの戦略であろうかと感じられます

急進左派連合とツィプラスについては、下記の記事もご参照ください。

欧州議会選挙をどうみるか 2014-05-30 10:47:21

欧州危機 金融危機からソブリン危機へ 2014-05-29 23:48:49

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ギリシャの若者の失業問題 2014-04-25 15:10:14

破壊的緊縮政策 2013-06-12 12:25:23

ユーロ圏失業率が12%を突破 2013-06-03 12:16:53

ギリシャ報道の明らかな誤り 2012-06-25 16:13:30

ギリシャ危機と青年 4 2012-06-19 13:41:44

ギリシャ危機と青年 3 2012-06-19 13:41:02

ギリシャ危機と青年 2 2012-06-19 13:40:06

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ギリシャ新民主党の「勝利」の意味 2012-06-18 23:27:09

ツィプラスとドイツ左翼党の共同声明 2012-06-04 17:22:10

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ギリシャ危機年表 2012-05-16 16:41:53

ギリシャの債務削減 2012-05-10 10:53:20

EU危機は破滅的危機ではない 2012-05-08 11:06:28

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「ギリシャ支援」と言わないで欲しい 2011-07-26 14:07:52

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社会主義 ○、資本主義 ☓ フランス世論調査 2012-01-14 13:12:42

イギリスの銀行改革 2011-12-26 16:50:24

ユーロ危機は3月が山場 2011-12-22 12:27:55

いよいよイタリアだ 2011-11-09 11:24:28

欧州中銀が共同債に抵抗 2011-11-07 15:48:25

国民投票などどうということはない 2011-11-02 15:18:31

特別目的事業体(SPV)はダメ 2011-11-01 16:06:25

メルケルは顔で得している 2011-10-26 10:39:15

ギリシャ危機が銀行に波及 2011-09-27 11:00:00

富裕層増税を掲げた野党が勝利(デンマーク) 2011-09-20 17:40:35

欧州財政危機、共同債が焦点に 2011-09-01 11:10:43

欧州市場で空売り規制が始まった 2011-08-19 12:29:18

スティグリッツ、EU債務の再構築を呼びかける 2011-08-18 23:37:41

ユーロ共同債とスティグリッツ 2011-08-18 17:46:30

さすがネオリベの本家 イギリス 2011-08-09 14:11:20

「ギリシャ支援」と言わないで欲しい 2011-07-26 14:07:52

金融取引税導入の動きが本格化 2011-06-28 13:34:48

こんな感じでぼちぼち行きましょうか。本日はお疲れ

欧州議会選挙では極右が伸びたことが大きく取り上げられているが、もう少し注意深い分析が必要だ。

極右は全体としてはバラバラで、一定の潮流ではない。基本はあくまで移民反対と自国エゴ優先だ。一つのムードにすぎないから、その先に何があるというものではない。

欧州議会の主流はあくまでも伝統的な保守勢力だ。これらの勢力が激減したことが、今回の選挙の最大の特徴だ。

保守派は欧州人民党と欧州自由民主同盟、欧州保守改革グループなどから形成されている。これらの勢力を合わせ407議席持っていたのが今回は77議席を失って330議席となった。議席定数は751(前回より15議席減)だから、これまで保守が過半数を握っていたのが、その座を失ったことになる。

その代わりに増えたのが無所属・新加盟で72議席を増やした。ここに極右がふくまれている。

社会民主主義勢力は191議席と微減したが、議席定数の減を考えればほぼ現状維持で、最大会派の欧州人民党と肩を並べることになった。

統一左翼は7議席増やして42となったが、まだまだ影響力は低い。ただギリシャ、イタリア、スペインでは躍進しており、PIIGS諸国の不満をすくい取ったといえる。


個人的な感想だが、欧州議会にそれ程の力があるとは思っていないし、それぞれの会派がそれほどの集中力を保持しているかも疑問である。

いわば各種のイデオロギーに対する人気投票と見ておいたほうが良いのかもしれない。ただ保守に対する不満がズルッと極右に流れてしまう風潮には、我が国の動向とも合わせ危険なものを感じる。

極右の最大の特徴は不寛容、とくに弱者に対する不寛容にある。弱者に対する「擬似的強者」となることによって、つかの間のカタルシスをえようというのが極右の心情的本質だ。この不寛容を招いた最大の犯人は新自由主義だ。
EUは、依然「希望の虹」というフィクションにとどまっている。そしていま、それを根底から破壊しようとしているのが新自由主義=大企業・富裕層エゴイズムだ。
だから、当面する極右との闘いの先に、我々は新自由主義を見据えておかなければならないのである。



  B) EU諸国の金融危機→債務危機

2007年

8.09 フランスBNPパリバ傘下のファンドが、サブプライムローンの焦げ付きで破綻。欧州でもサブプライムローン問題が注目され始める。

2008年

08年9月

9.15 リーマンブラザースが倒産。ダウは504 ドル安をつける。

9.16 FRB、保険大手AIGに850 億ドルの融資を決める。3週後には400億ドルの追加支援。

AIG救済の理由: 1.潰すには大きすぎる。取引金融機関が膨大で、破綻すれば世界的な金融恐慌に繋がる。2.とくにAIGの保証するCDSが価値を失えば、CDS市場そのものが崩壊する。

9.18 英国ロイズTSBが、HBOSを救済合併。その後、ドイツ不動産金融大手のHRE、ベルギーの金融大手フォルティス、デクシアが相次いで破綻。

9.18 民間ドル資金が市場から姿を消す。日米欧の6中央銀行が通貨スワップ協定による大量のドル供給を開始。白川日本銀行総裁、「ドルの短期流動性は枯渇した」と発言。

9.25 米貯蓄金融機関監督局(OTS)、ワシントン・ミューチュアルに業務停止を命じる。WMは米貯蓄貸付組合最大手で、総資産は3千億ドル。米史上最大の銀行破綻となる。

9月 米連銀、欧州中央銀行などが金融機関に支援開始。年末までに2兆5千億ドルが供給される。さらに主要な銀行の新規発行優先株式 1兆5千億ドルを買い取り。

9.29 米下院が緊急経済安定化法案を否決(4日後に可決)。ダウ平均株価は史上最大の777ドルの暴落を記録。金融危機はヨーロッパを中心に各国に連鎖的に拡大。

08年10月

10.03 ドイツ、HREに500億ユーロの公的資金投入。ベネルクス3国、フォルティスに対し公的資金300億ユーロを投入。

10.04 フランス政府が3000億ユーロの銀行救済基金創設を提唱。ドイツはこれを一蹴。

10.07  「€バブル」破綻。ロシアで株価ストップ安、アイスランドで通貨暴落。ハンガリーの金融危機。IMFが200億ユーロの支援を実施。

10.07 オペル、BMW、ダイムラーが生産の一時停止を発表。GM、フォードの格付けはジャンク級まで低下。

10.12 ユーロ圏首脳会議、緊急の金融救済策に合意。英国も加わり、包括的対応策を次々と実施。

10.17 ロイター集計による、世界中の公的資金注入状況。米国25兆円、英国9兆円、ドイツ11兆円、フランス6兆円、欧米で総額60兆円。

10.16 UBS経営危機に対し、スイス政府が60億スイスフラン(5220億円)投入。

08年11月

11.15 G20 金融サミット、①金融システムの安定に必要なあらゆる追加的措置をとると宣言。金融支援、財政確立、金融の透明化、格付会社への監督強化などを盛り込む。

12月 アイルランドの三大銀行が経営危機に陥る。政府は総額55億ユーロの公的資金を注入。さらに1千億ユーロに上る不良資産買取を実施。

年末時点で、世界中の金融機関が計上した評価損失額は約 7,500億ドル。国際通貨基金は、評価損は最終的に 1兆5千億ドルに達すると予測。

2009年

3.14 G20財相・中銀総裁会議。ゼロ金利、量的緩和など非伝統的手法を含むあらゆる金融政策をとると声明。

4月 IMF、 金融機関の被害総額を上方修正。累計で 4兆ドルを超えると推計。

6月 欧州委員会、金融機関への資本注入が3千億ユーロ、政府保証などを含め総額3兆7億ユーロに達したと発表。

EU加盟国の救済資金は最終的に4.6兆ユーロに達した。この結果政府の公的債務が対GDP比80%以上に達する。また通貨取引以外にもデリバティブなど危険な金融市場が数多く存在していることが明らかになる。

9月 リーマン・ショック後の経済危機の中、ピッツバーグ・サミットが開催される。「銀行システムの修復のために各国政府が負担を負った。これに対し金融セクターがどう貢献するか」を検討することで合意。

11月 イギリスでG20会議が開かれる。「強固で持続可能かつ均衡 ある成長のための枠組み」を導入することで合意。ブラウン首相は、「好調時は少数の金融機関が利益を享受し、破綻時の損失は国民が負担するというのは許容 できない」と述べ、国際金融機関の破綻に備えるために金融取引課税を提唱。

C)欧州債務危機

2009年

10月 ギリシャでパパンドレウ政権が発足。この時、前政府による財政赤字の隠蔽が発覚。財政赤字額は対GDP比3.7%とされていたが、実際には13.6%にのぼっていた。ギリシャの赤字隠し発覚を機にユーロ通貨が売られ、EU全体に経済的な影響が及ぶ。

12月 ギリシャの財政危機が表面化。欧州委員会、ギリシャに対する制裁手続を強化、さらに財政赤字の4%削減を目標とし、財政引き締めの強化をもとめる。

PIGS: 「豚ども」ときわめて侮蔑的に表現されたのがPポルトガル、Iアイルランド、Gギリシャ、Sスペインの4カ国であり、のちにイタリアも加えてPIIGS とも呼ばれるようになった。実際にはユーロ圏内の「弱者」として矛盾をシワよせされたにすぎないのだが。

2010年

4月 スタンダード&プアーズ、ギリシャ国債をBBB+からCCCへ3段階の大幅引き下げ。ムーディーズは4段階の引き下げ。

5月 、EUとIMF、ギリシャに対して総額1,100 億ユーロの金融支援を決定。さらに「欧州安定化メカニズム」の創設など包括的な対策を打ち出す。これにもとづき欧州中銀がギリシャ国債の直接買い取りを開始する。

11月 アイルランドが金融支援を要請。EUとIMFが総額850億ユーロのアイルランド支援を決定。

11月 イタリア国債の利回りが7%台を付ける。

2011年

3月 ギリシャの2010年12月失業率は過去最悪の14.8%へ。GDPは前期比-6.6%まで悪化。追加の財政再建策撤回を求めてギリシャ労働総同盟・ギリシャ公務員連合がゼネスト。275万人が参加する。

5月 ポルトガル総選挙で中道右派の野党が勝利し、IMF の融資条件履行を確認。

6月 ギリシャでいっそうの緊縮を強いる財政法案が可決。法案反対のゼネストがおこなわれる。

7月 スペイン、イタリアの国債の利回りが上昇する。イタリア議会は総額480億ユーロの緊縮財政法案を可決。

8月 S&P、米国債を「AAA」から「AA+」に1段階引き下げ。

10月 フランスとベルギー合弁の金融機関デクシア、ギリシャ向けに多額の債権を持つことから株価が急落。フランスとベルギー両政府の管理下に入る。

10月 ユーロ圏首脳会議、民間保有分を含め、ギリシャの債務を50%削減することで合意。

11月 ベルルスコーニ首相、予算関連法案成立にともない辞任。これに代わり、元欧州委員会委員のモンティを首班とする超然内閣が成立。緊縮財政法案を暫定的に施行。

11月 スペインの総選挙。保守派の国民党が過半数を獲得。

12月 ハンガリー国債が投資不適格に。

3月 EU首脳会議。ユーロ圏各国の退職年齢や年金制度の統合等、幅広い分野の協調を目指す「ユーロ・プラス協定」が採択される。

4月 ポルトガルが金融支援を要請。

9月 IMF、「世界経済は大きなダウンサイドリスクを伴う危険な局面に入った」と指摘。

10.09 フランス・ベルギーの両政府、デクシア(Dexia)を解体・再編成することで合意。デクシアはヨーロッパを代表する金融大手で、ギリシアの国債を大量に保有。不良債権の総額は800億ユーロに達していた。

2012年

1月 S&P、トリプルAを保持してきたフランスの格下げ。フランスの金融機関はギリシャ国債約757億ユーロを保有しているとされ、波及が懸念された。

3月 ギリシャGDP、4年連続のマイナスとなる。しかも下げ幅は0.1から6.8%に拡大。にもかかわらず財政、経常収支は改善せず。

4月 スペインの財政が一段と悪化。主要銀行16行の経営危機が表面化する。

5月 JPモルガン銀行が過去1カ月半で計20億ドルの損失を計上したと発表。「ロンドンのクジラ」と呼ばれる投機ファンドが、ギリシャのクレジット・デフォルト・スワップで失敗したことが原因とされる。

5月 スペインの大手銀行バンキアが経営破たん。政府は190億ユーロを投じて救済。国債利回りは7%を超える。

7.06 ユーロの政策金利が0.75%に切り下げ。このあと1ユーロ100円を割り込む。

9月 ドイツ憲法裁判所、欧州安定メカニズム(ESM)の批准を認める。この後ユーロ安は止まる。

日本がEUだとしたら、北海道はさしづめギリシャみたいなものだ。
ユーロ圏というのは、たてまえとしては単一経済圏だから、どこに住んでいようと経済的には「ユーロ人」なはずだ。
それが苦しくなったら、お前は日本人じゃなくて北海道人だと言われても困る。
もう20年位前になるが、北海道を代表する都銀の拓殖銀行が潰れた。カブトデコムとか色々乱脈経営もあったようだが、それはどこも同じ。バブル全盛期にはどこの銀行も似たようなことをやって、バブルが弾けると同時にひどい目にあった。
それは拓殖銀行の責任であって俺の責任ではない。現に俺のメーンバンクは拓銀じゃなくて札幌銀行だった。
ところが、もし、北海道拓殖銀行の破産の責任は北海道庁の責任であり、北海道庁の責任は北海道民一人ひとりが負うべきだと言われたらどうします?
「そんな馬鹿な話ないでしょ」といいます。
ギリシャいじめはそれと同じことです。
たしかに拓銀破綻は北海道庁にも責任ないとはいえません。横路知事の時代にバブルに踊って、苫小牧東部開発などという馬鹿なことをやって、何代かけても払いきれないような借金を残したのは事実です。
だからといって北海道民が死んでお詫びしなければならないわけではありません。北海道民は北海道民である前に日本国民であり、日本国憲法のもとで日本中の人と平等なはずだからです。
福島原発の地元の町だって、「お前ら原発に賛成したんだから、自己責任で苦しめ」という話にはなりません。「お前ら自民党に投票したんだから、安部首相の言うとおりに戦争に行って、人殺しをして、殺されれば良い」とも言えません。
だから、ギリシャの話はどこかが狂っているのです。

日本と双璧をなす、お馬鹿首相のベルルスコーニが、「ドイツ人によれば『カチンの森事件』(ソ連によるポーランド人捕虜の銃殺)はあっ たが、強制収容所はなかったということだ」と発言し、物議をかもしている。
首相といっても現在は犯罪人で、5月から労働奉仕が義務付けられているが、なにせ世界有数のお金持ちだから、政治的影響力は衰えていない。
それで、ミラノ で開いた政治集会で上記のごとく発言したことになっている。
もちろん日本のネトウヨのように本気で「収容所などなかった」と信じているわけではない。「ドイツ人にはそう信じている奴がいる」という強烈な当てこすりだ。
イタリア国民の一部には「ドイツから財政緊縮策を押し付けられた」との不満があり、元首相はそうした世論に便乗して、このような下品な攻撃をかけたわけだ。
ドイツ政府報道官は28日、「愚かすぎる発言で、政府は特にコメントしない」と説明したそうだ。

しかし日本では「愚かすぎる」人物が、愚かさを売りにして、過去を反省することを拒否し、堂々と首相をつとめている。なんとも嘆かわしくやりきれない。

フランスのレジスタンスに関する文献を探したが、重箱の隅をほじくるような文章ばかりで、「あんたの意見が聞きたいわけじゃない」と怒鳴りたくなるようなものばかりだ。

やっと見つけたのがこれ。おそらく何かの雑誌に掲載されたものだろうと思うが、山崎雅弘さんの文章「栄光のレジスタンス 祖国フランスを解放した不屈の地下組織」が、良くまとまっていて読みやすい。

これを柱にして、そのほかいくつかのファイルから、共産党系のFTPを中心に抜き出してみる。

1940年

5月10日、ドイツ軍が西部戦線で大規模な攻勢を開始。電撃作戦でマジノ線を突破。

6月14日、パリはドイツ軍に無血占領される。ソ連はフランス共産党に非抵抗を指示。各地で非共産党系のゲリラによる散発的な抵抗。

6月16日、徹底抗戦を主張したポール・レイノー内閣が総辞職。後継のペタン元帥がドイツに降伏。ドイツは北部を直轄下に置き、南部にヴィシー政府の設立を許す。

6月17日、ド・ゴール、イギリスにわたりフランス国民に抵抗を呼びかける。

7月10日、国民議会の選挙でペタンが圧倒的勝利。ドイツとのコラボラシオンを訴える。アメリカ、ソ連はヴィシー政権を承認。

10月3日、ヴィシー政権がユダヤ人迫害法を制定。

11月11日、ヴィシー政府、モントワール協定を受諾。ドイツへの物資支援を推進するもの。これに対しパリで学生5千人の抗議デモが展開される。

1941年

5月、ドイツ軍が反抗者を銃殺。これに抗議してド・カレ炭坑で10万人が参加するストライキ。

5月15日、地下のフランス共産党が、独立をめざす「国民戦線」の結成を呼びかける。

6月22日、ドイツがソ連への侵攻を開始。この後、共産党は「義勇兵パルチザン」(Francs Tireurs et Partisans francais: FTP)を組織。大衆的な武力闘争の展開を呼びかける。

FTPは山岳部ゲリラ(Maquis)とともに、ヴィシー政府の管轄地からドイツ軍の占領地域に潜入し破壊活動を開始する。

8月21日、パリの地下鉄駅でレジスタンスがドイツ兵を殺害。以後要人などへのテロが相次ぐ。

10月23日、ドイツ軍、FTPの破壊活動に対する報復として50人(うち共産党員44人)を銃殺。

12月15日、共産党幹部のガブリエル・ペリを含む100人が処刑される。国民の間に憤激が広がる。ペリは共産党中央委員で、「ユマニテ」紙の国際部長。セーヌ・エ・オワーズ県の議員でもあった。

1942年

4月、ヴィシー政権、親ナチのピエール・ラヴァルが首相に就任。ペタンは事実上の引退。これに伴いレジスタンスへの参加者が急速に増加。

9月、ラヴァル政権、南部フランス人をドイツでの強制労働に駆り出す。多くの農民が山に逃げマキに参加。

11月 米英軍が北アフリカに上陸。スターリングラードでの戦闘が激化。

11月、ドイツ軍はヴィシー政権の支配区を占領し、フランス全土を支配下に置く。

1942年末、レジスタンスへの参加者は1年前の1千人から7万人に増加。非共産党系のコンバ、リベラシオン、フラン・ティルールなども勢力を増す。

(ただしこれら3つは南部を基盤とした“闘わない抵抗組織”であった)

1943年

1月、ド・ゴール派のジャン・ムーラン、3つの南部抵抗組織の統合に成功。統一レジスタンス運動(MUR)を結成する。

1月 共産党、ドゴールの「戦うフランス」に正式参加する。

1月、フランス人のナチスト民兵団「ミリス・フランセーズ」が創設。終戦までに3万人のレジスタンス活動家を殺害したと言われる。

1月、ヴィシー政府、新たな強制労働義務(STO)を課す。

2月、スターリングラードの戦い、ドイツ軍の敗北に終わる。フランス占領軍は東部戦線への動員により弱体化。

6月 ムーランがゲシュタポに捕らえられ虐殺される。拷問にあたったのがクラウス・バルビー。

12月 9月からの3ヶ月で、709人のヴィシー政府治安関係者が殺害され、9千件の爆弾事件、600の電車脱線事件が起こる。

1944年

2月、ソ連の指示を受けた共産党・FTPが全国レジスタンス評議会に参加。フランス国内軍(FFI)に編成される。レジスタンス活動家は20万人に達する。

6月6日、ノルマンディー上陸作戦。これに前後して国内で鉄道の破壊工作が600件におよび、ドイツ軍の補給路は寸断される。

(これを描いたのがルネ・クレマンの「鉄路の闘い」で、マキのような山岳ゲリラではなく、組織された鉄道労働者の闘いであったことがわかる。CIAはこの映画にヒントを得て松川、三鷹の事件をデッチあげたのではないか、とひそかに思っている)

6月10日 オラドゥール村の虐殺。

8月 連合軍がプロヴァンスにも上陸。

8月19日、パリで共産党の一斉蜂起が始まる。共産党によるパリ解放を恐れたアイゼンハワー最高司令官は、ドゴールのパリ進攻を許可。

8月25日、ドイツ軍の降伏によりパリが明け渡される。ド・ゴールが凱旋パレードを行う。

9月2日、フランス共和国臨時政府が成立。第一次ドゴール政権がスタートする。

10月28日、レジスタンスに対する武装解除が布告される。ソ連の指示を受けた共産党・FTPはこれに応じる。


ネットを見るとどうも変な文章ばかりが氾濫している。レジスタンスは大したことはなかった、国民はヴィシー政権に満足していた、ヴィシー政権は実は愛国者だった、共産党は国民ではなくソ連のことしか考えていなかった…

そのうちアウシュビッツはなかった、ヒトラーは善人だったと言い出しかねない勢いである。

もちろんさまざまな事実に目を背けず、きちっと相対する立場も必要だが、全体を見失ってはいけない。たとえばフランス共産党の対ソ盲従をもってその闘いを否定することなどだ。

これは我々人間の主体性に関わることである。とにかく三度世界大戦を起こしてはならないのであり、三度原爆を使ってはならないのであり、そのための教訓を我々は歴史から学び取らなければならない。

あれこれと批判する人に、一番欠けているのがその視点である。あなたはいま差し迫るファシズムの危機に抵抗しているだろうか。自分の立場を明確にしているだろうか。

もしそうでないのなら、口を閉じてこの場から立ち去ってくれ。

議論は2チャンなり別の場所ですればよい。

ギリシャは08年のリーマン・ショックと、それに続くユーロ危機のなかで6年以上も続く景気後退の中にある。

この間、財政赤字に取り組むため広範囲な緊縮処置が取られてきた。このためギリシャ経済は収縮した。GDPは年間5%も減少している。

最新の失業率は17%、25才以下のギリシア人では40%に達している。やっと仕事を見つけても、それはしばしば生活費の収支を合わせるのには程遠い。

若いギリシア人の6割はヨーロッパの他の国で働こうとしている。なぜなら、彼らは就業する希望のない、成功する機会のない状況に不満を募らせているからだ。

大学卒業生の3人に1人はギリシャで失業中である。学位保持者の失業率は、過去4年でほぼ二倍になった。大学卒業生の9パーセントと、PhD保有者の51パーセントが国を去った。

それでは就職できた人たちは幸せかというと、そうではない。

公共部門の給料は過去2年でおよそ30パーセント削減された。民間部門の給与もまた第1四半期だけで6.2パーセント下がっている。

ギリシア人の平均年棒は約300万円で、ユーロ諸国平均の4分の3にすぎない。若者の初任給は6万円にとどまる。(ちなみにアテネのいわゆるワンルーム・アパートは最低でも3万円と言われる)

最大の試練に直面しているのは、若い家族である。2人の子供を持つギリシア人夫婦が受け取る年収は200万円程度とされる。

仕事と賃金に絞って話を進めてきたが、医療でも状況は深刻である。それが本日の赤旗記事だ。(島崎記者の記事だが、相当ひどい。もう少し数字にあたってから書くべきだ。私が編集長ならそのまま屑カゴ)。

医療予算は半減させられた。医療保険のない人が国民の2~3割という。EUの調査でも必要な医療を受けられない人が1.5倍に増えているそうだ。


上の数字はちょっと古い。
14年1月のデータを見ると、失業率は26.7%で、若年層の失業率は60.4%に達している。

実質GDPはリーマン・ショック後の6年で23.5%減少した。不良債権は融資全体の38%台に達している。

ギリシャ280万世帯のうち 230万世帯が税金を滞納している。

わずか350万人の就業者が、失業者など470万人を支えなくてはならない状況にある。



メドヴェージェフは軽い男だ。
外信によれば、以下のごとく発言した。
「ウクライナは内戦の危機にある。恐ろしいことだ」
そうしているのはオマエではないか!

人を殴ったら、鼻血が出た。
そうしたら、「鼻血が出た。恐ろしいことだ」と叫んでいるようなものだ。

前回ウクライナの記事を書いていて、農業の姿がまったく見えないことが不思議だった。「鉄がダメなら農業があるさ」ということにならないのはなぜなのだろうか。

ネットで調べたところ、ウクライナの農業の状況について、農水省の平成24年末のレポートがあった。

「独立」後の経過概要

a.ウクライナは、旧ソ連地域の中でも肥沃な黒土地帯を有し農産物生産国として潜在力が最も高い国である。

b.計画経済から市場経済への移行に伴う混乱やインフレ等のため、穀物生産は半減した。

c.その後、穀物等生産及び輸出量は回復・増加傾向にある。

その背景として、農地改革と農業企業の民営化などの農業制度改革、肥料や農薬の普及、世界的な食料需要の高まり、があげられる。

d.農作物・食品輸出国としての地位を急速に獲得しつつある。

農業生産高

まず驚くべきことは、生産高の驚異的な伸びである。

10年間で、大豆の生産量は約5万トンから約220万トン(44倍)、とうもろこしの生産量は約400万トンから約2,300 万トン(5.75倍)に増大した。

しかもこの数字は過渡的なものとされている。

近代的な農業機械、高収量の種子・農薬及び肥料への投資は未だ不十分である。
現在の生産量は潜在的な生産能力の半分程度とされ、将来は倍加するとも言われている。

ということで、当面のハイリスクを補って余りある魅力となっている。

ただし社会主義時代には4700万トンを生産していたことに留意する必要がある。さらにとうもろこしの生産増大に対し小麦の生産量が減少していることも注意。

大豆の輸出は120万トン、トウモロコシは1400万トンで、トウモロコシの輸出高は世界2位である。

主な輸出先はギリシャ、トルコ、北アフリカ、中東諸国。

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貧弱なインフラ

豊かな可能性に対し、現実はきわめて貧弱である。

a.低い品質

大豆・トウモロコシともに、小粒でたんぱく含有量が低く、硬く、また不良大豆の混入がある。飼料用と油糧用であり食用としては課題が残る。

違法にGMO作物が栽培されている状況があるが、検査・管理は為されていない。

b.劣悪な物流インフラ

穀物エレベーターの保管能力は低く、老朽化も激しい。

内陸輸送の大部分を担う鉄道インフラは、深刻な貨車不足があり、輸出へのボトルネックとなっている。

パナマックス船が接岸できる港は4港に限られる。バースやエレベーターも不足している。

特異な農業生産構造

農業企業(旧コルホーズ・ソホーズ)は、農業経営体全体の0.3%だが、農地面積の78%を保有する。

90年代以降、多国籍企業が進出。主として大豆とトウモロコシを生産。最大のカーネル社は9万haの農地を保有し240万トンを生産する。

法的・政治的環境

問題だらけである。列挙すると、

a.農産物の品質などの情報が乏しい

b.法制度の不備と突然の変更、紛争メカニズムの欠如、土地リース契約の煩雑さなど

c.国内生産状況や国際価格の高騰等を理由に、突然行われる輸出規制

と、投資家にとってはほとんど最悪。


ということで、これまでウクライナ経済を支えてきた製鉄産業が見通し真っ暗、一方でアグリビジネスによる農業発展が今後の支えになるとすれば、企業にフレンドリーな国作りを目指さなければならない。

ただこの国の農業生産構造を考えれば、農地がほぼすべて多国籍企業のものになってしまう危険もある。

言わば「持てる国の悩み」なのだが、国の将来について厳しい選択を迫られているといえるだろう。


ウクライナを把握するのは相当手強い。

一筋縄ではいかない。

我々が学校で習ったのは豊かな穀倉地帯だということで、地理の試験問題風に言えば「ウクライナ=黒土地帯」だ。

これは現在もあながち誤りではなさそうで、ウクライナを「大いなる田舎」として把握すること自体は今でも誤りではなさそうだ。

小学校の頃、「ボルガ・ドン運河」というのが完成して、なにか世界最大とかというのでニュースになった。映画館でニュースで見た覚えがある。

あとはずっと降って、チェルノブイリだ。

一般人にはこのくらいだろう。

あとはムソルグスキーの「展覧会の絵」のフィナーレが「キエフの大門」、それから「屋根の上のバイオリン弾き」がウクライナが舞台だったかもしれないな、という程度。

左翼系の人だと、これに「戦艦ポチョムキン」の舞台となったオデッサの街、スターリンによる農業の強制集団化、いわゆる「祖国大戦争」の舞台としてのウクライナが加わる。

これでウクライナのイメージを持てと言われても、なかなか容易ではない。

スラブ人でギリシャ正教ということで、西側のポーランド、ルーマニアとは自然国境がありそうだ。しかしベラルーシ、ロシアとは区別がつかない。

結局言語と歴史ということになるか。しかしめまぐるしい歴史を見ると、ウクライナ民族としてのエンタイティをすくい取るのはなかなか難しい。これはベラルーシも同様だ。

私は、その国を見る場合、たいていその歴史から入るのだが、率直にいってこの国の歴史は七面倒くさい。しかもあまりポジティブではないから、やる気が湧いてこない。

まず一般地理から入るか。

面積は60万平方キロ、日本の2倍近い。ほとんどが農耕可能な平地だから、実感としては10倍位になるだろう。

人口はおよそ5千万人、日本の半分だから多いとはいえない。

同じ農業国のアルゼンチンと比較すると、アルゼンチンの面積300万平方キロの1/5、人口はアルゼンチンの4千万より一回り大きい。

アルゼンチンの可耕地は国土の半分程度だろうから、似たような国土構成だ。

GDPはアルゼンチンの6千億ドル、一人1万4千ドルに対し、3千億ドル、一人7千ドルだから経済規模は半分である。

ヨーロッパ市場に陸続きで隣接していることを考えれば、とくに農業の近代化という面で、かなり遅れをとっていることが分かる。

ウクライナの産業構成

農業の近代化の遅れと書いたが、じつは輸出品のトップは農産物ではなかった。ウクライナの輸出品トップは鉄鋼だ。

今回の政変も根っこは鉄鋼不況にある。ウクライナは製鉄に必要な鉄鉱山と石炭鉱を併せ持っている。すべて自まかない可能だから有利だが、技術が低いため国際競争力に乏しい。

それがリーマン・ショック後の国際不況のアオリをまともに食らった。輸出は激減し、財政は破綻し、対外債務は急増した。すでに事実上のデフォールト状態にある。

これは2001年12月のアルゼンチンと似たような状況だ。暴動が起きるのは時間の問題だった。しかし暴動で政府が転覆されても事態が好転する見込みはない。

ここが双方にとって辛いところだろう。

人口分布を見てみる

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北西部に高く南東部に低い傾向がある。

ウクライナそのものが一種の辺境だが、その中でも南東部が辺境となっているといえる。(ただし、ただの辺境ではない。ここに製鉄産業が集中している)

民族構成を見ると、意外に単独構成で、ロシア人の17%を除けば他民族は1%以下の存在である。旧ユーゴのような多民族のモザイク国家ではない。このことは抑えておく必要があるだろう。

ところが、民族構成と言語構成は必ずしも一致しない。

ウィキペディアには以下のように記載されている。

統計によれば、ウクライナ語を母語とする国民は5割強であり、多くの国民はウクライナ語とロシア語の2言語を理解する。実際に、ウクライナ語のみで日常生活を送る国民は西部を中心とした一部地域に限られ、大半の国民はウクライナ語とロシア語を併用している。

ただしこのくだりには、[要出典]のタグがバチバチ貼られている。

言語分布は人口分布と類似するパターンを取る。この読み方は難しい。

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ロシア語使用者の比率により色分けした図である。

数字から見てロシア語を使用するウクライナ人が相当の数に昇ることが分かる(首都キエフにおける高い使用率がそれを示唆する)。もう一つはこれらの地域からウクライナ人が排除された可能性があることである(オデッサの高使用率)。クリミア半島については、もともとウクライナの一部ではなかった可能性もある。

ただいずれにせよ、

1.ごく一部の地域を除けばウクライナ人でウクライナ語を話す人が過半数を占めており、

2.しかも人口分布ではウクライナ語圏である中西部に人口が集中している。

このことから、民族・言語の問題はウクライナにおいて決定的な問題ではないといえる。

ウクライナ人の立場に立って考えてみる

とりあえずの話だが、ウクライナは一つだ。割れることはない。

ソ連には頼らざるをえないが、そのままでは未来はない。投資が必要だが、あてはない。

製鉄産業は民営化と積極的誘致以外にはない。

農産物輸出はマーケットの開拓なしには望めない。

やはり長期的にはEUとの関係強化しか道はない。

ここまではウクライナ国民の共通認識だろう。

まずは債務の整理だ。もう一度国民には泣いてもらわなければならないし、その覚悟を促さなくてはならない。

EU諸国への過度の幻想が深刻な結果をもたらすことは、前の大統領の時に経験済みだ。

黒海周辺国の共同市場づくりなど、経済建設にはより自主的な目と構えが必要だろう。

それでG36が大変優れたライフルであることはわかったが、HK社がこれを各国にヤミ販売してるらしい、というのが次のテーマだ。

それらファクトの中で一番気になるのがメキシコのFX 05との関連だ。

これも同じくウィキペディアから

FX-05 シウコアトル(Xiuhcoatl

メキシコが開発したアサルトライフル。メキシコ軍に配備されている。名称は、ナワトル語で「炎の蛇」を意味する。

G36同様に基本型の他、カービン型、精密射撃型、軽機関銃型のバリエーションが用意されている。

H&K G36によく似たデザインをしており、違法コピーでないかとの疑いが取り沙汰された。

2007年2月1日、この問題について話し合うため、メキシコシティに てメキシコ国防省(SEDENA)の幹部とH&K社の代表者が会談を行った。

SEDENA側はFX-05がG36の違法なコピーかもしれないと考 えていたが、H&K側はあくまで異なる銃器であるという見解を示した。最終的にSEDENAとH&Kの間で起訴や賠償が発生することはなかった。

ということで、よく読むとまことに奇妙な会談である。

普通は違法コピーだと訴えるのがメーカーの側で、メキシコ側は防戦に回るのが常識的な感覚だ。当然そこにはウラの動きがあるのであろう。

ウィキペディアの著者はその辺りには触れず、似ているけど違うものだと主張している。

これはちょっと変なので、他の資料にも当たる必要がありそうだ。

[] メキシコ軍のアサルトライフルFX-05

というサイトには、以下の記載がある。

メキシコ軍では長らくH&K社のアサルトライフルを使っていたが(G3シリーズと一部G36)、2005年に自国独自のアサルトライフルの開発計画を決定。

2006年には特殊部隊の隊員が装備している姿が確認されている。

報道やイベントの写真が存在するにも関わらず公式写真が公開されていないのは保安上の理由だと書かれている。

これも変な話で、2005年に開発計画を決定して、その翌年には早くも実用に供されている。国軍の制式銃がそんな簡単に作れるものとは思えない。非公開というのも合点がいかない。

日本語の情報はここまでだ。


The Fireams Blog

というサイトに2011年1月付で

Germany suspends H&K exports to Mexico

という記事が掲載されている。元はAP電。

ドイツ政府は、H&K社にメキシコへの武器輸出を禁止した。

ドイツでは、メキシコ国内に武器が拡散しているとの懸念が広がっている。そこはベルリンが人権問題を理由に武器輸出を禁じたところだ。

AP通信が入手したレターによれば、1月4日付の経済省から武器メーカーへの手紙にはこう書かれている。

御社の“武器及びその他の防衛商品”のメキシコへの輸出申請は、ドイツ司法当局の調査の結果が明らかになるまで中止される。

H&K社はチアパス、チワワ、ゲレロ、ハリスコの各州で、G36攻撃ライフルをメキシコ警察に供給したとして検察庁により調査中である。

これらの地域では広範な人権侵害が行われていると考えられ、ドイツ政府は武器輸出を禁止している。

H&K社は、それらの4つの州には武器は輸出されていないと主張している。彼らが輸出したのはメキシコシティーを管轄する「中央武器購入部局」であり、それは国防相に監督されているという。

H&K社は、12月末の声明で、「メキシコ国内のいかなる州へも売却の予定はない」と声明した。


これでウラが読める。

つまりH&K社は、ドイツ政府により禁じられている麻薬・暴力・腐敗地域への武器輸出を迂回するために、“FX05”なる機種をでっち上げたわけだ。

そしてこれをメキシコの“純国産品”として売りだしたわけだ。

それだと、アメリカのライフルに似せたり、「うちとは関係ない立派な国産品です」と国防相に弁解する、怪しげな経過もすべて見事に説明がつく。

それにしてもえげつないものだ。


1.まずはアサルトライフルの説明から

いきなり未知の単語が炸裂する。

アサルトライフル、攻撃用ライフル、突撃銃、歩兵用自動小銃…

これに関連して

速連射、近接戦闘、給弾、弾倉、有効弾、製造ライセンス…

と並べられるとめまいがする。

とにかく川上から順番にたどってこう

A) 小銃 あるいはライフル銃

アサルトライフルというのは自動小銃の一種のようだ。自動小銃というのは“自動”的な小銃のことで、手動型ではないということだ。

ではそもそも「小銃」とはなにか、小銃とライフルとは同じなのか。

ウィキペディアであたってみる。

小銃とは、兵士が個人用に使うための軍用銃で、軍隊では最も一般的な小火器である

要するに我々が「鉄砲」と聞いてイメージする銃のことで、ピストルでも機関銃でもなく兵隊さんが肩にかけている銃だ。

現代の小銃はほとんどがライフリングを有するため、単にライフル(英:Rifle)と呼ぶこともある。

ライフリングというのは銃身の内側に、「旋条」を刻むことである。

旋条銃身から撃ち出される弾丸は、ライフリングに浅く食い込みながら進む事で回転運動を与えられ、ジャイロ効果により高い直進性・低伸性を得る事ができる。

ライフリングは、弾丸が球形から長形弾に変わったこと、さらに弾丸が前込めから後込め(ボルトアクション)に変わったために可能になった。

なぜ「小銃」と呼ぶかというと、これは日本だけの習慣のようで、外国には小銃に該当する呼称はないようだ。

日本では江戸時代の終わり頃まで銃砲(GUN)のうち、大きいもの(砲)を「大銃」とよび、小さいもの(銃)を「小銃」と呼んでいた。

ということなのだそうだ。

それが明治維新後もそのまま残り、日本軍に引き継がれたようだ。

防衛省では、Rifleの英単語に対応する語として「小銃」を当て、「個人携行の基本となる肩撃ち銃。使用目的によって,歩兵銃,騎銃,突撃銃,狙撃銃などがある」と定義している

非常にスッキリした定義で、長年のもやもやが一気に晴れた。

B) ボルト・アクションとレバー・アクション

手動だと装填(弾込め)、空薬莢の取り出しを手で行うことになる。

手動といっても、リモコンの電池交換のように蓋を手で開けて、指で空薬莢を取り出して、次の弾を込めるというわけではない。

ボルトアクションと言って脇に飛び出した金属棒を引いて空薬莢を飛び出させると、バネ仕掛けで次の弾丸がマガジンから持ち上がるという仕掛けだ。

レバーアクションというのは子供の頃真似した「ライフルマン」の連射だ。たしかあれは「ウィンチェスター73」といったね。

壊れやすいのと、立ったままの動作になるのでやられやすいということで、廃ってしまったようだ。

C) 自動小銃

次にウィキペディアで「自動小銃」を調べる。

自動小銃は、発射時の反動・ガス圧等を利用した機構により弾薬の装填・排莢が自動的に行われる小銃である。

自動だとどこがいいかというと、連射ができるということである。カメラでシャッターを押しっぱなしでカシャカシャと連続撮影ができるのと同じだ。

もうちょっとカメラの例えを続けると、むかしはシャッターを押して1枚目を取ると高速モーターが回って次のコマまで巻き取った。この巻取り機能が小銃の“自動”(オートマチック)機能に相当する。いまはフィルムレスのデジタル時代だから、オモチャみたいなデジカメにも連写はついている。

閑話休題。自動小銃のし掛けだが、これはボルトアクションのし掛けが発達したものらしい。

弾丸を装填するためのボルトの駆動を、手の力から発射にともなって発生するガス圧に切り替えたもの。遅動ブローバック方式というのもあるそうだ。

いまいち良く分からないが、ここは飛ばすことにする。

自動小銃というのは引き金を引き続ければ、ありったけの弾丸が撃ち尽くされる仕掛けで、何発撃てるかはマガジン(弾倉)の容量次第ということになる。

しかし機関銃並みの使い方をしていたら弾が持たないから、大抵はセミオートマチックで使う。これはボルトのないボルト式ライフルと思えばよい。一発づつ引き金を引くことになる。

この他に2,3発だけ連射できるバースト射撃(制限点射)という使用法もあるようだ。

自動車で言えばクラッチ操作がないオートマ車と同じだ。(いまやこの言葉も死語になってしまったが…)

フルオートマチックのライフルなら、セミオートへの切り替えが可能だが、最初からセミオートの機能しかないものもある。

多くの国ではフルオート射撃機能を持つ火器の民間人による所持を制限ないし禁止しているため、これを除いた製品が自動小銃として市販されている。

というから、むしろこれが主流と言っていいのかもしれない。

D) アサルトライフル 突撃銃

ということで、ようようアサルトライフルまで辿り着いた。

アサルトライフルは日本では突撃銃と呼ばれてきた。「一人で携行でき速連射可能の歩兵用の自動小銃」というのが定義だが良く分からない。

もう一つの特徴は、「近接戦闘用で多数の銃弾を給弾できる弾倉を有し」ているという点。

以上は赤旗記事からのもので、これでは雲をつかむような話だ。

そこでまたまたウィキペディア

アサルトライフルは、小銃の撃ちあう距離よりももっと短い距離での銃撃に用いられる。

自動小銃ほどの精度はもとめられず、殺傷力ももとめられない。銃身はより短く、弾丸の口径はより細い。射程は短く精度は低いが、その分、より多くの弾丸が傾向可能で軽量化が可能となる。

テレビゲームなどで敵が物陰から躍りだして、お互いの顔がわかるほどの距離で撃ってくる。それに瞬時に対応してこちらも撃ちまくる。この小回りの良さが突撃銃の持ち味だ。

最初に突撃銃を開発したのはドイツで、第二次大戦中のことだった。しかしそれが行き渡るまでに戦争は終わってしまった。戦後になってその技術を受け継いでソ連が開発したのがAK47、いわゆるカラシニコフだった。

だからドイツはいわば突撃銃の元祖・本家ということになる。

これに対しアメリカは自動小銃の伝統を守り、M1からM14へと発展させていたが、ベトナム戦争で、自動小銃が対ゲリラ戦にはまったく無力であることが分かり、突撃銃へと路線変更した。これがM16ライフルである。

つまり、現代の軍装備の標準となっているのはアサルトライフルであり、自動小銃は歴史的役割を終えたということになる。


カービン銃(短小銃): 本来のカービンとは、騎兵(Carabinier)向けに馬上での取り回しを考慮し、短縮軽量化した小銃のこと。現在ではおおむね「小型のライフル」を意味する。

サブマシンガン 短機関銃: 元は小型機関銃を意味したが、後に拳銃弾を使用するフルオート火器の総称となる。

トミーガン: 正式名称はトンプソン・サブマシンガン。第一次大戦直後から170万挺以上が生産され、今日でも製造が続けられている。
通信販売でも購入できたため、禁酒法時代のアメリカでギャングに用いられた。
第二次大戦で英軍が使用したため、英兵の通称トミーに由来する“トミーガン”の愛称が付いた。

ドイツのG36アサルトライフルが紛争国に輸出されているというニュースがあった。

以前からベンツを筆頭とするドイツの企業が「死の商人」となっていることは知られてきた。

ドイツは武器輸出を承認し、奨励さえしている。別に目新しいことではない。

今回G36が問題になったのは、あまりにも数が多いこと、実際に使用される可能性が極めて高いことである。


ということで記事に戻るが、これが厄介だ。

片岡さんという記者の調査レポートなのだが、情報てんこ盛りで、未消化だ。

短い記事に盛り込まれたFacts を列挙すると、

1.ドイツの武器メーカーが違法な武器輸出をしている。ドイツ国内メディアが暴露し、検察当局が調査に乗り出した。メーカー側は違法性を否定している。

2.会社の名前は「ヘックラ―&コッホ」社(以下HK社)、欧州最大の銃器メーカーである。問題となった武器は「G36攻撃用ライフル」と呼ばれる小銃だ。

3.この小銃はNATO軍の制式兵器らしい。各国軍が広く用いている。

4.問題となったのは、この銃がドイツ政府が輸出を認めていない国に違法輸出されていることだ。具体的にはリビア、グルジア、スーダンがあげられている。

5.HK社は海外生産も行っている。イラン、サウジアラビアの名が挙げられている。スーダンで出回っている銃はそちらで生産されたものらしい。

6.HK社はメキシコで製造ライセンスを違法に売却した。この方法で生産された銃はG36ではなく、FX_05と呼ばれる。FX_05は大量に出回り、メキシコ麻薬戦争に大いに貢献している。

7.HK社は米国にも子会社を持っている。12年度の売上は2億3千万ユーロ、収益は4千万ユーロとされている。(この数字が米子会社のものか、連結決算なのかは、記事からは不明)

8.ドイツの武器輸出は世界第3位である。SIPRIの調査では、世界の武器輸出の7%を占めている。政府は軍需産業に対し武器輸出を奨励している。

9.ドイツの法律は人権状況に問題のある国や、武力紛争の当事者への武器売却を禁止している。これは矛盾している。

10.ドイツの左翼党は、武器輸出の禁止を求めている。

これだけでも大変な情報量なのに、いくつかの違反の実例も挙げられているからメチャクチャな記事だ。

このあと少し自分で調べて書いてみようと思う。おそらく記事の10倍位の分量になるだろう。

 スペイン共産党の大会が開かれた。

the 19 th congress of the Communist Party of Spain, held from 15 to 17 November in Madrid.

赤旗の報道では、

1.新自由主義への対案を構築する

2.統一左翼の拡大強化に全力を上げる。

3.5月15日運動(スペイン版オキュパイ運動)との連携を探る

という簡単なもの。

私の記事は下記

スペイン統一左翼の歴史 その1

スペイン統一左翼の歴史 その2

スペイン統一左翼の歴史 その3

センテージャは前大会で書記長に就任。新自由主義との対決を明確に打ち出し、前書記長期の社会労働党との行きがかりを断ち、党の立て直しにあたった。

統一左翼との関係も、前大会で再確立された。共産党は統一左翼と心中するハラを固めた。

09年11月には党大会が開かれ、フランシスコ・フルトスに代わりホセ・ルイス・センテリャが書記長に就任。対立候補はなく85%の信任を受けた。統一左翼からの撤退動議は13%の支持にとどまった。つまり共産党は統一左翼と心中する覚悟を決めたことになる。

5月15日運動は、基本的には無党派青年の闘争であり、「連携」という表現には注意深い解釈が必要。

というのが当面の感想

旧 東ドイツの崩壊以降の旧東独領の経済状況については、あまり把握していなかった。この際少し調べてみた。

「ドイツ統一20年後の旧東ドイツ経済」 佐々木昇

で、マクロ指標を中心に手堅く紹介されている。

A) まずGDP

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一人あたりGDPを見ると、東独崩壊時には43%に過ぎなかった。それが4年後には67%まで伸びた(ただしこの時西ドイツは併合不況でGDPは停滞していた時期ではある)。その後の15年の伸びは累積4%あまりで事実上停滞している。

就業者一人あたりのGDPはそれを上回り80%まで接近しているが、これも2005年以降は停滞している。人口あたりのGDPより高めに推移しているのは、就業者の減少を示している。

就業者の1時間あたりのGDPも同じ傾向を示すが、同時に労働生産性の低さと、長時間労働の傾向も示している。

これから言えることは、

1.体制間の壁は突き破られたが、産業構造上の壁が立ちはだかっている。

2.旧東独は低生産性の、労働集約型産業構造に縛り付けられ、長時間労働を強いられている。

3.就業率は低下し、人材は旧東独地域から流出している。


(B) GDPを部門別に見たものである。

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建設部門は94年にピークを迎え、その後は急速に低下し2001年からは崩壊の年を下回り経過している。

この低下が失業者の爆発的増加をもたらした直接の要因となっている。

旧東ドイツの就業者数は,95年の768万人から,2000年までに715万人に,50万人以上も減少している。この後2008年までに30万人ほど就業者は増加した。しかしリーマン・ショックのあと、さらに20万人程減少した。

製造業は着実に伸びているが、製造部門の余剰人員を吸収すべきサービス部門の停滞が目立つ。これが2000年以降のGDP停滞を規定している。

製造部門とサービス部門の「逆シェーレ」については、別途分析を要する。

(C) 人口は急速に減少し過疎化しつつある

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このグラフには示されていないが、実は91年以前に大規模な人口流出があった。その上で、人口は着実に減少を続けている。自然増分を合わせれば20年で百数十万人が流出したことになる。2000年まではこれに対応して西独人口が増えているが、その後は頭打ちになっており、おなじ程度で人口が減っていることになる。

東西ドイツがおなじテンポで人口減少を迎えているとしても、西側では非生産人口が減っているのに対し、東側では生産人口が減っていることになる。

逆にいうと、“にも関わらず”旧東独のGDPは下がっていないことに注目すべきなのかもしれない。


(D) 低い所得を公的援助が補っている

旧東ドイツの粗所得は,旧西ドイツの68%程にとどまっている。

相対的に低い所得水準のもとで,社会的給付が追加されることで社会的な需要が充足されている。

このためには西の諸州からの財政的な移転が不可欠なものとして続いているのである。この額は年間700億ユーロから800億ユーロに達し,旧東ドイツ域内需要の約5分の1をまかなっている。

(E) 失業率

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東ドイツの失業率は,2006年まで17%を超える非常に高い水準で推移しただけではなく,常に旧西ドイツのほぼ2倍の高さで推移している。

ここで佐々木さんは次のように言う。

旧東ドイツの賃金水準は,雇用を維持するには高すぎる一方で,人的資源の流出を食い止めるには安すぎる のである。

たしかに言い得て妙だが、それでどうするのかという話になると、言いっぱなしでは済まないのである。

所得再分配機能だけでは東独のサルベージはできない、産業政策が必要なのである。問題は東独に投資さるべき資金が東独の頭を越えポーランド、チェコ、スロバキア等へ流出していることにある。

佐々木さんは続けて

東西間の経済格差問題を,統一にともなうドイツの特殊な問題として捉えるよりも,むしろ地域的な格差問題として捉えようとする方向に議論がシフトしてきている。

 と書いている。これもまさにそのとおりである。しかしこれも地域格差を生み出している多国籍企業の問題にまで踏み込まない限り、現実的な政策とはなりえない。たかだか新たな地域バラマキ政策が展開されるにとどまるだろう。

 

ということで、東独経済をざっと眺めてみた。どうやら欧州統合、とりわけ独占資本本位の統合の前に片付けておくべき問題がかなり山積しているようである。


案の定、NSAによるEU代表部盗聴問題に火がついた。慰安婦と同じで、盗聴という犯罪行為は情報収集一般とはまったくレベルが異なる問題だ。安倍や橋下にはわからないだろうが。

今日のニュースで明らかになったのは、ドイツへの敵視だ。
シュピーゲルの報道によると、ドイツは他国以上に強い監視のもとに置かれている。
たとえば仏に対する電話盗聴は1日あたり2百万件だが、ドイツは1日2千万件と10倍にのぼる。この他インターネット通信の傍受も1千万件に上るという。
以下はロイトホーサーシュナレンベルガー法相の談話。
冷戦時代の敵の行動を思い出させる。…米国が欧州を敵と見ていることは想像を超える

その他欧州各国も相次いで抗議の談話を発表している。
なかでも当事者たる欧州連合はきつい。
レディング欧州委員(司法担当)の声明
少しでも欧州の交渉担当者を盗聴しているとの疑いがあれば、(TTIPの)交渉などできない

この情勢を見て、プーチンも少し強気になったようだ。まぁ口先だけだろうが。


これは今月初めギリシャで開かれた欧州対抗サミットで打ち出された言葉だ。
サミット紹介文書ではこう書かれている。

ギリシャは破壊的緊縮政策といわゆる競争政策の実験場である


浅田記者は

ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」そのままの、債務危機という惨事に便乗した新自由主義路線

と評している。

一つは、中身がきわめてシビアーというだけではなく、国の構造を破壊する緊縮政策という意味だろう。

もう一つは緊縮が、その国家にとって必要なのではなく、多国籍資本の利益拡大のために必要なのだという性格付けである。

緊縮政策一般は経済が調整局面に入った時には、常にありうる選択である。しかしそれは、いかに厳しかろうと、その国のために必要なオプションである。

しかし、多国籍企業と投機資本によって人為的に作られた債務を返済することは、その国の経済再生にとって必要な措置ではない。それは過去に対する「罰」であるに過ぎず、むしろ有害な措置である。

そのようなグローバリゼーションに、一体どんな意味があるというのだろう。

ギリシャの緊縮政策とその影響については下記を参照されたい。

ギリシャ危機と青年

人でなしのNHK_BSニュースキャスター

ギリシャ危機年表


欧州統計局が5月31日に発表した数字。
24ヶ月連続の増加で、言うまでもなく過去最高である。
実数は1938万人。
さらに悲惨なのが25歳未満の若者で、ユーロ圏全体で24.4%だが、ギリシャ63%、スペイン56%となっている。イタリアでも40%を突破した。
一方で、オーストリア、ドイツは5%、ルクセンブルク6%と明暗がはっきり分かれた。
1370261384

いつ暴動が起きてもおかしくない状況であり、いったんことが起これば、これらの国はモラトリアムを発動し、ドイツの債券は回収不能となり、ユーロ圏発の大恐慌が予想される。
これを避けるためには、債務の再交渉が不可欠だ。各国は若者雇用戦略や成長戦略を打ち出しているが、債務問題でドイツの譲歩がない限り、絵に描いた餅にならざるをえない。
しかしまだドイツには危機感が浸透していないようだ。

物事には表と裏があって、裏だけで物語を形成すると、まったく違って見えるものだ。リバーシブルのジャンパーみたいなもので、表は労務者風だが、裏返すと真っ赤な地にラメや金糸の縫い取りがあったりしてという事にもなる。

武田知弘さんの本もそのたぐいのようだ。

現在の感想としては、

①無謀な借金財政であり、最終的には「力」で以って踏み倒す以外にないやり方だったということ。

②シャハトは、4年間なら騙し続けられると考え、その間にヒトラーを手なづけて、軟着陸できると考えていたのかもしれないが、智恵者に似つかわしく浅はかであったこと。

③基本は、長く激しいリセッションを経た末の、景気循環上の上行期に一致したこと。すなわち、需要に対しサプライに余裕があり、新たなコストを発生することなく生産増大ができたこと。したがって政策的な需要喚起にも容易に対応できたこと。

ということだ。

そのことを前提にした上で、個別のアイデアとしてはいくつか着目すべきものがある。

③アウトバーン建設への集中的投資と自動車産業の育成。建設と自動車は裾野が広く、労働力の吸収性が高い。(現代ではアタリマエのことであるが)

④メフォ債という通貨代替性の信用の創造。悪く言えば“創造”と言うよりは“捏造”であるが、外貨も金も底をつく中でインフレなき成長を実現した、その「技法」(手口)は評価される。ただし、情報化時代の今なら、たちまちソブリン危機をもたらすことになるだろうが。

一方、失業対策はほとんど評価できない。私が疑ったことは、すべて事実であった。失業者を減らすのではなく、隠すための対策と言われても仕方ないだろう。
実際に失業者が減ったのは景気が回復したのと、とりわけ再軍備と軍事力強化のためである。

それで、ナチスの経験が今の日本の経済再生に何か役に立つかといわれると、基本的には役に立たない。それどころか一番やってはいけない手である。

おそらく武田さんは無理は承知のうえで、内需拡大とか職業の確保とか各種減免税のことを指して、「あのナチスだってやっていたじゃないか」と迫ろうというのが目論見だろうが、やはり政策の大本を見なくては危険だろうと思う。

どこをどうやっても、最後には「ヘンシーン!」と、戦争「ファイト、一発」に行き着くしかない政策であるが故に、部分的に見栄えが良いところがあっても、決して採用してはいけないオプションだろうと思う。

あとひとつ残るのはケインズのナチス評価だが、こちらはもう少し資料を集めてみなければならない。

ナチス・ドイツ「経済奇跡」年表

「経済奇跡」とは30年代のドイツが、ハイパーインフレを起こさずに景気の回復と失業の減少に成功したことを指す。もう一つの側面としては、この時期にドイツが再軍備を行い急速に軍備を拡張したことである。

1929年

10.24 世界恐慌が始まる。アメリカ資本によって支えられていたドイツ経済は破綻。

12月 ヒルファーディング蔵相が辞職。ヒルファーディングはアメリカの支援を当てにして外債の発行を計画するが、ライヒスバンク総裁シャハトの反対に会い挫折した。

1930年

3.07 中銀総裁のシャハト、ヤング案に反対の意向を表明。政府と対立し辞職。その後ナチに接近。

ヤング案: ドイツの賠償方式の改正案。29年2月にアメリカの銀行家オーウェン・ヤングが提案したもの。賠償金額は大幅に減額されたが、60年間にわたる返済を義務付けられる。シャハトはドイツ首席代表としてこれを受諾していた。

3月 恐慌のため財政破綻の危機に瀕したミュラー内閣が倒れ、ブリューニング内閣成立。厳しい緊縮政策で危機の乗り切りを図る。

ブリューニングは大統領緊急命令として、超法規的に公務員給与切り下げ,社会政策経費の削減,所得税・消費税の増徴などの緊縮策を打ち出した。これは租税収入の激減をもたらし、とくに自治体財政の崩壊が銀行の債権焦げ付きと金融危機をもたらした。

9月 国会選挙。ヤング案が争点となり、反ヤング案を掲げる共産党とナチス党が躍進。それを契機に外資引き揚げ,国内資本の逃亡が大量に生じる。

9月 社会民主党、「資本輸入の増大による資本形成の増大,これのみが現在唯一の標語であり,経済政策的に合理的なのである」とし、緊縮政策に対する「寛容路線」を本格化する。

寛容路線: ①ドイツ資本主義の危機を克服するためには「資本形成の促進」が不可欠である、②そのためには外資の継続受け入れが絶対条件である、③そのためにはヤング案にもとづく賠償支払いの継続が必要だという三段論法。社会民主党を含む「ワイマール保守派」の共通認識となった。

 

1931年

5月 オーストリア・クレジット・アンシュタルト銀行が支払停止。ドイツ信用恐慌の激化の引き金となる。

6月 ライヒ銀行、半月で金・外貨準備の半分以上を失う。英・米・仏中央銀行と国際決済銀行が1億ドルを緊急融資。

6.20 アメリカのフーバー大統領、戦債・賠償のモラトリアムを提案する。

7.13 ドイツ第二のダナート銀行が支払停止に陥る。政府は「銀行休業」を命令。事実上の「兌換停止」措置となる。

7.20 ロンドンで対独債権国会議開催。ドイツと債権者銀行との支払猶予に関する協議開始で合意。

7月 労働協約制度が停止される。政府は10~15%の賃下げを命令。実質賃金は恐慌前に比し30%以上の下落を示す。政府は一方で銀行救済のため中銀貸出金利を引き下げる。

9月 外積務据置協定の締結、賠償支払に関するフーヴァー・モラトザアムにより、ドイツの公・私対外貨務は「凍結」される。

10月 ナチスなどからなる「ハルツブルク戦線」が結成される。ブリューニングの緊縮路線に反対。シャハトが大企業とのパイプ役となる。

12月 物価・賃銀・利子の強制的引下げを骨子とする第四次緊急命令が公布される。

第4次緊急命令: イギリスの[金本位制離脱」=平価切下げに対抗して、ドイツの国際競争力を強化するために、賃銀・給与を削減。大衆の購買力の低下に対応するために消費者物価を「補正」するもの。これにより物価は7.2%の低下を示すが、輸出は著しく減少。

 

1932年

2月 大銀行の再編に関する緊急命令が公布される。「2月整理」といわれる。

2月 不況がピークに達する。

登録失業者が600万人。非登録者を加えた推計では778万人。失業率は40%を超える。金・外貨準備は10億ドルを割る。

5月 ブリューニング内閣が崩壊。パーペン内閣が成立。新規雇用を奨励する「租税証券」を開始、総額3億マルクの公共事業計画(パーペン計画)を実施する。

7月 ナチスが経済振興策を発表。党内左派といわれるシュトラッサーが起草したもの。政権獲得後は白紙に戻される。

11月 シャハト、ティッセンら財界人からなる「ケップラー・グループ」、ヒンデンブルク大統領に対しヒトラーを首相にするよう請願。

12月 シュライヒャー内閣が成立。雇用創出のため5億マルクの「緊急計画」を決定。

1933年

1月 シュライヒャー内閣が倒れる。しかしパーペン、シュライヒャー内閣の間に景気は反転ないし底入れした。

1.30 ヒンデンブルク大統領、ヒットラーを内閣首班に指名。失業者の削減と自動車産業の拡大を主眼とする。

2.01 ヒットラー、第一次4カ年計画の開始を発表。「失業に対する強力なかつ, 包括的な攻撃によるドイツ労働者の救済」を唱える。

2.08 ヒトラー、閣議において「あらゆる公的な雇用創出措置助成は, ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべき」と強調。

2月 国会議事堂放火事件をでっち上げ、全権委任法を押し通す。

2.20 ヒトラー首相、実業界首脳25名と会談。マルクス主義の根絶と再軍備を打ち出す。財界は300万マルクの献金を約束。

3月 ライヒスバンク総裁にシャハトが就任。

Horace Greeley Hjalmar Schacht: ドイツ生まれアメリカ育ち。母は男爵家の出身。父はアメリカかぶれで米市民権をとっている。銀行家としてキャリアを積み、ドイツ国家銀行の頭取を務める。第一次大戦後、ドイツ民主党の創立に参加。23年に政府の財務担当者となり、国内不動産を担保とするレンテンマルク(1兆マルクに相当)を創設。ハイパーインフレの抑えこみに成功。

5月 シャハトの発案により「冶金研究会社」(MEFO)設立。クルップ、シーメンスなど大企業への資金提供のための国策トンネル会社

大企業がMEFOあてに手形(メフォ手形)を発行し、中銀が唯一の引受人としてこれを割り引く。大企業の手形は中銀の裏付けを持つ擬似貨幣となる。現在の「量的緩和」に近い金融操作。

5月 すべての労働組合が解散され、労働戦線に一本化される。

5月 ヒトラー、雇用創出の2つの出発点として, 減税による個人の持ち家所有助成及び, 全国の道路網拡充を挙げる。

5月 ヒトラー、財界幹部と協議。このあと閣議で、企業の税負担の5年間据え置きを指示、社会政策支出削減をもって代替財源とする。

財界との協議に基づき、アウトバーン設立法(6月)、租税権限法(7月)、自動車税廃止(4月実施済み)などが決まる

7月 「農村補助労働」が始まる。16歳~21歳の青少年に「自発的」な農作業を促す。拒否した場合は失業手当を失う。年平均16万人が作業に従事する。失業者の減少に伴い、36年以降は事実上廃止。

7月 強制カルテル法が成立する。

新規企業の設立は禁止された。同業企業はカルテル設立を強制された。カルテルは国家による監視と規制のもとに置かれることになった。

8月 シャハト、ライヒスバンク総裁のまま経済相を兼任。経済政策を主導する。

9月 「帝国食糧団体暫定設立法」が成立。分野別の経済団体が設立され、国がその指導権を掌握する。

9月 失業対策法(ラインハルト計画)が実施される。週40時間労働の厳守がうたわれ、時間外労働は禁止される。

11月 価格停止令が布告される。商品の価格統制と現下の管理が国の手に委ねられる。

1934年

2月 経済有機的構成準備法が施行される。「産業報国会」と似たような組織。

5月 ヒットラー、財界首脳との会談で「道路網整備と住宅増加が雇用増大の出発点」と強調。財界は法人税の5年間据え置きと社会保障支出の削減を求める。

6月 ヒットラー政権、第一次失業減少法(ラインハルト計画)を策定。アウトバーンの建設を半奉仕活動的な雇用で賄うとし、「非正規雇用」により失業率の低下を狙う。

7月 経済措置法が成立。シャハトは2ヶ月間、既存の法律の枠を超えて権限行使する権限を手に入れる。政府はアウトバーンと自動車産業に投資を集中する一方、繊維・紙パルプ・ラジオなどの分野には投資禁止措置をとる。これを受け、企業数は大幅に減少し、資本集中が進む。

8月 シャハト、中銀総裁のまま経済相を兼任。経済措置法にもとづき商工会議所令を発する。経済大臣が会頭・副会頭の任免権を含む監督権を持つ。これにより全国の中小企業がナチ党体制に組み込まれる。

9月 アウトバーンの建設が開始される。1935年6月までに4億マルクが投資され、最大12万人の雇用が行われる。

アウトバーン関連労働者の実態: かなりの人々は“ボランティア”として雇用され、少額の手当と衣食住の支給が行われたのみであり、賃金と呼べるほどのものは受け取ってない。

9月 第二次失業減少法が実施される。住宅建設促進のため、住宅補修や改築が推進される。

12月 自動車生産額は過去最高の28年に比し1.5倍に達する。雇用者数も28年の水準を回復。一方原料不足により繊維など消費財分野の生産は停滞。

1935年

5月 シャハト、さらに戦争経済全権にも就任。経済政策の決定権を集中。再軍備の多面の国債の国債増大を隠蔽するためメフォ債を発行。

メフォ債は事実上の国債だが、メフォ(Metallurgische Forschungsgesellschaft)というトンネル会社を設立し、私債のように見せかけた。38年までに120億マルクの債券が発行された

3月 再軍備宣言。徴兵制が再開される。これにより国防軍に86万人の「雇用」が生まれる。その後の軍の拡大によりほぼ完全雇用が達成される。

12月 自立小農民を保護する「血と土」政策が失敗。農業生産は停滞し、食糧不足が顕在化する。

35年 19~25歳の青年を対象に、勤労奉仕を強制する法律が制定される。

勤労奉仕により年間約20万の青年が、結婚貸付により約数十万の女性が労働市場から遠ざけられる結果となる(川瀬)

1936年

8月 ヒットラー、「第二次四カ年計画」の秘密覚書を作成。自給自足体制の確立と「4年以内に戦争を可能ならしめるための国防経済体制」への移行を骨子とする。

9月 第二次4カ年計画が策定される。諸外国との協調を説くシャハトは計画から外され、ゲーリングらナチス主流派が主導権を握る。

11月 シャハト、新経済計画と対立し、経済相を辞任。

11月 「物価ストップ令」が発令される。過剰な通貨供給と軍需拡大によって、インフレの危機と外貨不足がいっそう深刻となる。

12月 景気が本格的に回復する。

GNPは32年に比し50%増、国民所得は42%増、工・商業生産指数が88%増、財・サービスへの公共支出が130%した。ただし賃金の増大はなく、民間消費指数は16%増にとどまった。国家債務が110億マルク増大し、外貨の不足はさらに深刻となり、資源不足が顕在化する。

1937年

37年 ほぼ完全雇用が達成される。

ドイツの登録失業者数の推移(単位 千人)


1929年

1932年

1934年

1937年

失業者数(年平均)

1899

5575

2713

912

11月 4カ年計画全権代表のゲーリングとシャハトが衝突。シャハトは経済相を解任される。

ゲーリングは「あらゆる大企業をアーリア化することが私の務めである」と公言。ユダヤ系企業の資産売却と国外退去を促す「自発的」アーリア化を推進。これに前後して水晶の夜事件が発生。

1938年

軍事費調達のためのメフォ手形が廃止される。残存債務は国債に移行。この時点での発行残高は120億マルクに達する。さらに国債も32年の102億マルクから190億マルクまで膨れ上がる。

1939年

1月 シャハト、インフレの進行を理由に軍事力増強と領土拡大政策の中止を求める。ヒトラーはこの提言を拒否し、シャハトを中銀総裁から更迭。

44年、シャハトはシュタウフェンブルクのヒトラー暗殺事件に連座したとして逮捕され、強制収容所送りとなる。

9月 ポーランド侵攻。第二次世界大戦が始まる。

 

ウィキペディア および 「ナチスドイツの経済回復」 川瀬泰史 他の資料より作成

 

「ヒットラーの経済政策」という新書の読み物を買って、パラパラと読んでいたら、いつの間にか引き込まれて一気読みしてしまった。おかげで寝不足である。

祥伝社新書の一冊で、武田知弘さんという人が書いている。
ジャーナリストの方のようで、「経済政策」の解説にもかかわらず、ほとんど図表がない。文章だけで読ませるのだから相当の筆力の持ち主であろう。
そのかわり、数字がないので文章の客観性という点では問題が残るが、それはそれで別文献に当たればいいのだから、入門書としては出色といっていいのではないだろうか。

と、偉そうに書いたが、初めての事実が大変多く、非常に勉強になった。
思いつくままに列挙しておこうと思う。

1.ケインズはナチの経済政策を評価した。


ドイツの経済政策の多くの部分は、ドイツとか枢軸という言葉をイギリスという言葉に置き換えるならば、まったく優れたものになるでしょう。それはまさに我々自身がその実現に努力すべきものです。

これは1940年8月にドイツが発表した「欧州新経済秩序」という計画への評価であり、この計画の骨子は金本位制からの離脱と、マルクを共通通貨とした自由な市場の形成にある。

もちろん、ケインズはファシズムとは対極の立場にあった人であり、このコメントについても留保が付けられているとは思うが、そのあたりはこの本では触れられていない。

その辺りもふくめつつ、バンコールなどケインズの戦後世界構想の中に、どう批判的に摂取されているのかは、それなりに興味深いところである。

2.ナチスは失業者対策でもっとも成功した国である

1938年(世界恐慌から10年後)の各国の失業者数

アメリカ 783万人(最大時1200万人)
ドイツ   43万人(最大時 600万人)
日本    27万人(最大時 300万人)

ただその理由として、武田さんはナチをヨイショして、思い切った公共事業(アウトバーン)と自動車生産への傾斜配分を上げているが、控えめに書かれているいくつかの事実がある。
一つは熟年労働者の就業に力点をおいたことである。これにより若年失業者は被扶養者として潜在化する。一つは女性を家庭へ押し込めたことである。女性は家庭に入れば専業主婦となり失業者とはならない。もう一つは大都市への移住を法律で禁止したことである。これにより貧農が都市のルンプロとなることを抑えることができる。第三の方法は独裁政権ならではの手法である。

このどちらが失業者減少の主役となったかについては、別資料を当たる他ない。

3.ナチの減税政策

実は、ここがこの本を読んでの一番の驚きであった。
ナチは政権をとった33年に税収規模の1割に及ぶ大減税を行ったのだそうだ。詳細については不明だが、国家財政がもっとも厳しい時期にこれだけの減税をやるというのは驚異の選択である。
この減税により景気は刺激され、税収は33年の51億マルクから34年に59億マルク、さらに35年には75億マルクに増大した。同じ時期に、納税者は34%から57%まで増加した。

富裕層に対しては累進課税制が導入され、配当が剰余金の6%に制限された。さらに35年には法人税が引き上げられた。いっぽうで貧困層に対して家族に対する扶養控除制が開始された。
サラリーマンに対しては源泉徴収制が開始された。
これがどの程度の規模で行われ、どの程度影響を与えたかについては定かではないが、ナチが所得再配分機能を重視していたことは間違いないだろう。
扶養控除と源泉徴収は、戦時中の日本にも持ち込まれ、定着している。

4.ニュープランによる信用創造
これはナチというよりシャハトの功績に期するというのが武田さんの評価だ。
シャハトは、ヒットラー政権の前半において経済政策を担った人物であるが、ナチ党員ではなかった。ナチが軍事力強化と侵略の方針に傾いたとき、たもとを分かったとされる。(こういうことはあとから潤色されるので、話半分に聞いておいたほうが良いだろうが)
シャハトは、23年には有名な超インフレをレンテン・マルクの導入により封じ込めた。
33年に再登板すると、国債や各種公債を利用して信用を創出し、インフレを招くことなく公共投資を支えた。
金準備が底をつくと、債権国とやりあって、利払いのモラトリアムを実現した。英仏両国を利用して、主債権国アメリカの取り立てを封じたようだ.
これらを成功させると、ついでシャハトは「特別マルク」なるものを創出した。対外決済を中銀に集中させたうえで、支払いの半分を兌換マルクでなく「特別マルク」という貨幣もどきで支払うことにしたのである。
これは金の裏付けのない、半ば破産したドイツという国家の信用だけを裏付けとする、一種の「商品券」だ。しかしこれが実際には貨幣として機能したのだ。
最大の理由は、世界中の金のほとんどがアメリカに集中し、それが大恐慌の結果塩漬けになってしまったので、アメリカ以外のどの国も金本位制に固執する限り、経済は収縮せざるを得なくなってしまったからである。
ドイツが経済危機を脱すると、三大通貨圏に入らない国(東欧、南米、ソ連)との交易は急速に伸びていった。これが奇跡の復興をもたらした最大の要因となった。
ただこれが可能だったのは厳密な通貨管理を行ったからであり、それは独裁政権にして初めて可能だったという側面は見て置かなければならない。
シャハトの活動時期は36年半ばまでである。その後は事実上、政策決定過程から排除されている。


というわけで、とくにシャハトの経済政策についてはもう少し勉強してみる必要がありそうだ。

なお武田さんには、日本経済の現状と引き比べてナチの経済政策を称揚する傾向が見られるが、個別政策についてはともかく、マクロの経済運営においてはまったく状況が異なっており、現政権批判がナチ型計画へと結びつくようなものではないと思う。


今度はスロベニアだ。
ポスト・ユーゴスラビア連邦の優等生と言われてきた。
小さな国だ。ほとんどミニ国家といってもいい。
面積は四国と同じ2万平方キロ、人口200万人。
91年にユーゴから独立した。内戦はあったが小規模なものだった。
04年にはEUに加盟、07年にユーロを採用、
高い経済成長を維持してきたが、リーマンショックでやられた。

ただこの国は、わりとまじめにやってきた。
変な話だが、これほど有名人のいない国も珍しい。

タックス・ヘイヴン的な政策はとらなかった。
出稼ぎ・観光・金融という欧州途上国パターンではなく、
輸出志向型工業の比重が高い。
貿易収支はわずかに赤字だが、それを観光収入でカバーしている。

日本でも、ひと通り回った人たちの穴場的な観光スポットとなっている。
住民の素朴さと治安の良さが、引きつけているようだ。
要するに堅実・健全を絵に描いたようなマクロ構造なのだ。

ネットでは日本語の資料がほとんどなく、憶測の域を出ないが、こういう国でEU内大手金融の大量の貸込みがあったとは思えない。債務は主として民間金融機関の節度なき経営にあったのではないか。

もう一つ、EU型再建策の押し付けに反対する政権が登場したことだ。
ブラトシェク新政権はIMF、ECBなどに頼らない金融再建を目指している。
ただこれがきわめて厳しい道であることは言うまでもない。
政府の道筋はこうである。
まず市中銀行の不良債権を買い取る。そのために買取機構を創設する。ここで不良資産を塩漬けにする。
これは結局政府債務となるが、これを国債発行と市中消化でまかなう手はずだ。

しかし話がそんなにうまくいくわけはないので、当面上半期末までの債務償還20億ユーロがクリアできるかどうかが、最大の焦点になっている。

どうもヘッジファンドが面白がって仕掛けている面が否定しきれない。

最終的には度胸だ。アイルランド、ギリシャ、キプロスと来て、今更スロベニアは潰すという訳にはいかないだろう。償還はぎりぎり引き伸ばしてみせる。その間に金融立て直しが進んで、景気回復に見通しが出てくれば、債権者も新条件を飲まざるを得なくなる、という腹づもりだろう。

これは、ご存知キルチネル方式だ。アルゼンチンの金融破綻の際に、当時の大統領キルチネルがケツをまくって、「一文だって払うものか」と啖呵を切ったあれである。

EUで誰か一人くらいやってみないものかと思っていたが、やっと一人出てきた。条件は十分あると思う。期待したい。


 「赤いウィーン」とはなんとも魅力的なネーミングだ。

ウィキペディアによれば、「オーストリア社会民主党がウィーン市議会で初めて与党となり、民主的に統治を行った、1918年から1934年までの同市のニックネーム」だそうだ。きっと最初は右翼が当てこすりでつけた名前だろう。

そこはウィーン学派の活躍の舞台だった。今や世界に名を轟かせている巨星たちが、実物大で活動し議論し、理論を構築していった舞台だ。

哲学と経済学と心理学が奇妙に混じり合い、互いに刺激しあっていた。しかし容れ物としてはあまりに小さかったから、やがてそこから世界に飛び出していった。


1914年 第一次世界大戦が始まる。社会民主党が事実上の分裂。レンナー、V.アドラーら主流派は戦争政策を支持。「城内平和」路線と呼ばれる。少数派(F・アドラーら)は「カール・マルクス協会」を結成。無賠償・無併合の即時停戦を主張する。

1817年 ロシア革命。ここまでの経過は2016年11月27日 を参照のこと。

1918年

11.12 第一次世界大戦が終了。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、第一共和国が成立する。


 ロシア占領地域からの難民が大量に流入。中産階級は没落し貧困層に転落した。食糧不足、住宅不足が深刻化し、伝染病が蔓延する。


12月 社会民主党とキリスト教社会党による連合政権が登場。社会民主党のカール・レンナーが首相となる。社会民主党は左右両派が合同。社会化論を唱えるシュンペーターが財務大臣に就任。

12月 「労働評議会」と呼ばれる労働者による公的な合議機関が発足、8時間労働制や雇用保険制度が導入される。

1918年 オーストリアにもボリシェビキ型の共産党が結成される。その後弱小政党にとどまる。

1919年

2月 総選挙が施行される。社会民主党は全投票数の40.8%を獲得して69議席を占め、この年の党員数は332,000人に達する。

5.04 ウィーンの市議会議員選挙が行われ、社会民主党が絶対多数を獲得する。社会民主党党首のヤーコプ・ロイマンが市長に就任。
19年 社会民主党左派のバウアー、『社会主義への道―社会化の実践』を発表。ボリシェビキ型の政治革命ではなく、産業の社会化=社会革命が未来への道だとする。

バウアーは1900年前後にウィーン大学でマルクス主義グループに参加。若手理論グループの中核となる。第一次大戦に応召しロシア戦線で捕虜となり、シベリアで3年間の捕虜生活を送り、ロシア革命の実態を目撃した。
批判を加えられたレーニンはバウアーを「博識なばか者」と酷評した。しかし、大テロル後の1937年にもなおバウアーは語った。「われわれは、ソ連邦における社会主義を信ずる。現にあるソ連邦ではなく、未来のソ連邦を 信ずる」 

1920年

保守のキリスト教社会党の右傾化が進む。連合政権は崩壊し、社会民主党は野党に転落。ウィーンだけが残された牙城となる。

20年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。レーニンとボリシェヴィキを「専制的社会主義」として批判する。これに代わるものとして、全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。
1921年

オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(いわゆる「第二半インターナショナル」)が設立される。第二インターとコミンテルンの分裂を調停し、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。レーニンはこれを激しく批判。2年後には第2インターに吸収され消滅。

1923年

保守派が「護国団」(Heimwehr)と呼ばれる準軍事組織を組織。社会民主党はこれに対抗して「祖国防衛同盟」(Schutzbund)を発足させた。

1924年

ウィーンに住む画学生ヒトラー、「我が闘争」を発表。多民族都市ウィーンに憎悪心をいだき、ドイツ民族至上主義と反ユダヤ主義を煽る。

1925年

ウィーン市庁、カール・マルクス・ホーフなど6万以上もの大規模な近代的アパート群の建設に乗り出す。公共住宅の建設費は、独自の州法で定められた住宅税や奢侈税により賄われ、賃貸料は勤労者世帯の収入の4%程度に抑えられる。


市議会有力者は、「我々が若者向けの施設に投資することで、刑務所に金を使わなくて済むだろう。妊婦や新生児のケアに投資することで、精神病院に金を使わなくて済むだろう」と発言している。


1926年

クーデンホーフ=カレルギーの提唱で、ウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれる。共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とするヨーロッパの連帯をうたう。

26年 社会民主党、リンツ綱領を採択。「改良主義とボリシェヴィズムの間の第三の道」を定式化。


 破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫としての社会主義の実現を目指す。
「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。民主制に依拠して則法的に政権を獲得する。
ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。



1926年 バウアー、『社会民主主義的農業政策』を発表。ボリシェヴィキの農業政策を酷評、「農民の収奪を考えるのは愚か者だけだ」と主張する。

1927年

初頭 右翼メンバーが、対抗デモのに参加した退役軍人と8歳の少年とを射殺。

7月 射殺犯3人に無罪判決。これに抗議するデモが各地に波及。

7月 「7月15日事件」が発生。ウィーンで労働者デモ隊が警察を襲撃。89人が死亡。その後の弾圧により社会民主党の勢力は後退を余儀なくされる。

1930年

世界大恐慌がウィーンにも波及。

1933年

1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなく共産党に対する大弾圧が始まる。
3月 ドルフース首相(キリスト教社会党)、議会の混乱を理由に議会の機能を停止。戒厳令の公布、共産党の禁止など独裁権力をふるうようになる。


 ルフースはファシストというよりオプス・デイ(キリスト教原理派)に近い。しかしナチスのオーストリア併合に抵抗しなかった、という点ではファシストと同列である。


9月 社会民主党、党が禁止されるなら武力蜂起すると決議。

1934年

2月 ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となり、「2月12日内乱」が発生。社会民主党および「共和国防衛同盟」が、リンツ、ウィーン、グラーツなどで蜂起する。4日後に敗北。

2月 ドルフース政権と「祖国戦線」の独裁に移行。社会民主党は解散処分を受け、ウィーンの社会民主党市政も終焉した。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続ける。


あまりインターネットに情報がなく、とりあえずはウィキペディアに若干を付け加えた程度の表になってしまった。

たかだか10年の経験であり、美濃部都政みたいなものだが、両大戦間の出来事であったということ、ナチスの成立と勝利に密接に関わっていたという点では、歴史的意義ははるかに大きい。

この経過を見ると、反動的支配層が革新自治体や労働運動を潰すのにナチスを手先として利用しようとする狙いが、かなり透けて見えてくる。

革新都政を倒すのに、創価学会・公明党が利用されたのとかなり類似した光景だ。ナチスのほうがはるかに凶暴ではあるが。

もう一つは、マルクスの名が生きている運動だということ。社会民主党左派がイニシアチブを握っていたという意味では、レーニン・スターリン的な“共産主義”ではなく、ある意味“正統マルクス主義”の実験だったということにある。

率直にいえば、その経験はロシア革命的な道筋よりははるかに貴重だと思う。

社会主義計算論争も、当初はソ連型社会主義を念頭に置いていたわけではなく、オーストリア型社会主義の方向性を問う論争であったと思われる。(この頃のハイエクは、紋切り型でなく相当丁寧に議論を展開している)

ただ、大恐慌後はソ連経済をターゲットにした、よりイデオロギッシュな論争に変わっていく。それとともに、対立も形而上学的な、無内容なものになっていく。 

 


ハンガリーの知識人について調べた。圧倒的に音楽家が多いので、非音楽家と二つに類別した。

1890年から1900年辺りに集中していることがよく分かる。彼らが青春期を送った1910年から20年あたりが、おそらくはハンガリーの激変期であり、20年のハンガリー革命を機に祖国から叩きだされたという事情が読める。

もう一つはハンガリーで親ナチ勢力が過激化するあたりに、ユダヤ系ハンガリー人が追い出されている。さらにハンガリー動乱の時期にも幾らかの人が祖国を後にしているようだ。

非音楽家系

ロバート・キャパ

1913年、ブダペスト生まれのユダヤ系。1931年に共産党活動容疑で逮捕され、その後ベルリンへ渡る。1933年にはベルリンを脱出しブダペストに戻る。1939年にアメリカ合衆国に移り、翌年に永住権を得る。

アーサー・ケストラー

ブダペスト1905年生まれ。ユダヤ系ハンガリー人の父とオーストリア人の母を持つ。ケストラーの生涯は、それ自身がロマンであり要約はできない。

ジョン・ケメニー(BASICを開発した数学者)

1926年生まれ。1940年にナチを逃れアメリカに移住。祖父は祖国を捨てることを拒み、ホロコーストで叔父や叔母と共に亡くなった。

ジョージ・ソロス

1930年、ブダペスト生まれ、ユダヤ系(旧姓はシュヴァルツ)。ブダペストでの熾烈な市街戦とソ連軍による虐殺を生き延びた。1947年、単身イギリスに渡る。1956年9月、ニューヨークのウォール街に赴きクォンタム・ファンドを創設する。

ジョン・フォン・ノイマン(科学者)

1903年ブダペストにてうまれる。家族はハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人父親は貴族の称号をお金で購入した。1930年代はナチス政権を嫌いアメリカ合衆国に移住する。タカ派科学者として原爆製造に関わる。

テオドール・ヘルツル

1860年、ブダペストの生まれ。ドレフュス事件(1894年)を機にシオニズム運動を起こす。

カール・マンハイム

1893年ブダペストに生まれたユダヤ人社会学者マルクス主義のイデオロギーを前面に出さず、マルクス・レーニン主義的な社会改造の革命を推進する新しいドグマを構築。
1929年にフランクフルト大学社会学科正教授に就任。1933年にアドルフ・ヒトラーが政権をとったためイギリスに亡命。

ゲオルク・ルカーチ

1885年生まれ。父親は大銀行家、母はユダヤ人大富豪の娘。1918年 ハンガリー共産党に入党、ハンガリー革命政権崩壊後、ウィーンに亡命。戦後はハンガリーに帰国し、ナジ・イムレ政権で人民教育相。政権崩壊後、一時ルーマニアに抑留される。その後、著作に専念。

ラカトシュ・イムレ(数理哲学)

1922年11月ユダヤ人の家庭に生まれる。イムレの母も祖母もアウシュヴィッツで亡くなった。彼は第二次世界大戦中に共産主義者になった。ソ連がハンガリーを侵略したのち、ラカトシュはウィーンに逃げ、イギリスに定住した。

研究の中身は、ほぼ理解不能。

音楽家系

アンダ・ゲーザ - ピアニスト

1921年ブダペスト生まれ。1943年にスイスに亡命。フルトヴェングラーは「ピアノの吟遊詩人」と讃えた。

ヴァーシャーリ・タマーシュ

1933年生まれ。1956年にハンガリーを出国してスイスに落ち着く。

ジェルジ・シャーンドル

1912年うまれ。バルトークとともにアメリカに渡り、帰化。

ハンス・スワロフスキー

1899年9 ブダペストうまれ。ユダヤ系の指揮者。なぜか戦時中も現役。

ジョルジュ・シフラ

この人はロマの出自。1956年ハンガリー動乱の時に西側に亡命した。

エルンスト・フォン・ドホナーニ

1877年生まれ。彼については、その家族もふくめ、一口で語れないほどの経歴があり、ウィキペディアを参照されたい。

フェレンツ・フリッチャイ

1914年、ブダペストに生まれる。経歴中、政治的葛藤をうかがわせるものはない

モーシェ・アツモン

1931年7月30日うまれ。44年に13歳でテルアヴィヴに移住。イスラエルの指揮者

ユージン・オーマンディ

1899年ブタペスト生まれ(ユダヤ系)。21年、アメリカ演奏旅行。そのままアメリカにとどまる。

リリー・クラウス

1903年、ブダペスト出身のユダヤ系ピアニスト。第二次大戦中にジャワで日本軍により軟禁される。戦後はイギリスに帰化。

イストバン・ケルテス

1929年、ブダペストで生まれる。1956年ハンガリー動乱の時に西側にジョルジュ・シフラと共に亡命した。

ヨーゼフ・シゲティ

1892年、ブダペストでユダヤ系の家庭に生まれた。1940年にはアメリカ合衆国に移住。

シュタルケル・ヤーノシュ

1924年ブダペストに生まれる。1946年には祖国を去り、ヨーロッパ各地で演奏。1949年にはフリッツ・ライナーの招きを受けて、メトロポリタン歌劇場管弦楽団の首席チェリストに就任。

ゲオルク・ショルティ

1912年生まれ、ユダヤ系。生まれた時の姓名はシュテルン・ジェルジュ。父親はハンガリーで民族主義が高まるのを感じて、ハンガリー風のショルティに改姓した。ナチス下では演奏の機会を奪われ、スイスに亡命した。以後、父をはじめ家族とは再会していない。

ジョージ・セル

1897年ブダペストに生まれた改宗ユダヤ人。ドイツを中心に活動したが、ナチの台頭に脅威を感じてイギリスに移動。その後39年にアメリカに定住。

アンタル・ドラティ

1906年ブダペストに生まれる。これといった葛藤なく経過。

アニー・フィッシャー

1914年ブダペスト出身。第二次世界大戦中はスウェーデンに避難していたが、第二次大戦後の1947年に再びブダペストを拠点に演奏活動を展開。

フリッツ・ライナー

1888年ハンガリー出身(ユダヤ系)。1922年ドレスデン国立歌劇場の指揮者を務めたあと渡米。一旗組。

カール・フレッシュ

1873年生まれのユダヤ系バイオリニスト。1934年に第三帝国を去ってロンドンに行き、その後アムステルダムとルツェルンに移った。

ベーラ・バルトーク

1881年ハンガリー(現ルーマニア)領トランシルヴァニアで生まれる。1940年にアメリカへ移住。ナチとそりがあわなかったという。ナチスドイツや共産主義ソ連の名前が残っている内は祖国に埋葬しないよう遺言。

情報はすべてウィキペディアのみ。

ポラニーの年表に1900年ころのブタペストの写真を貼り付けたが、
それは、ハンガリーについての認識を新たにさせるものだった。
オーストリアの圧制のもとに苦しんでいる国と思っていたが、
むしろオーストリアとタイを張るくらいの勢いで栄えていたことがわかる。
オーストリア・ハンガリー両帝国の名はダテではなかった。
第一次大戦のきっかけが、セルビア人によるオーストリア皇太子襲撃事件だというのを世界史の授業で習った。
セルビア人はオーストリアの収奪の対象だったのだろう。
それとハンガリーを混同していたのかもしれない。
そこがハンガリーの頂点だった。
第一次大戦で敗れてからはいいことなしだ。
ロシア軍に国土を蹂躙され、その国土の半分を周辺国に割譲させられた。
国王の追放、労働者コミューン成立のあと、右派との間で内戦状態に陥った。
そして最後にルーマニア軍に首都を制圧されるという屈辱を味わった。
ハンガリーの隆盛を担った多くの知識人が亡命を余儀なくされた。

今日我々は多くのハンガリー出身者の名を知っている。その大部分がこの時代の人達だ。
これまで、ハンガリーは出稼ぎ者の多い貧しい国だと思っていたが、
見方を変える必要があるようだ。


国際面にかなり大きなスペースでルクセンブルグ外相の談話が報じられている。

これはドイツ野党の社会民主党の幹部が議会で、「ルクセンブルグ、マルタ、アイルランドのような国では、金融制度の改革が必要だ」と語ったことに対する反応。

談話の内容としては、「ドイツがユーロ圏での覇権を目ざしている」との過激な批判。

ドイツにEUの他国のビジネスモデルに決定する権利はない。
ドイツなどの大国が金融センターでなければならないという態度をとることは、間違った反欧州的な覇権を目指すものだ。


ということで、一見もっともらしいのだが、ルクセンブルグが投機資本の拠点になってきたことは紛れもない事実。

ドイツやフランスは、これまでもルクセンブルグのビジネスモデルについて、公言はしないものの疑問符をつけてきた。

それが、アイルランドが危機に陥り支援、今度は同じく金融立国のキプロスが危機に陥るという中で、“泥棒に隠れ家を提供してテラ銭で暮らす”ようなやり方に対して一気に不満が強まったということであろう。


スイスで国民投票が行われ、役員への高額報酬を憲法で禁止することが決まった。
ルールを破った場合は、最高3年の禁錮刑プラス報酬の6年分に相当する罰金が課される。
賛成票は68%に達したそうだ。

ここまで話が進んだのは、銀行幹部が危険な投資によって莫大な損失をもたらしたにもかかわらず、30億円近い報酬を受けていたのが分かったからだ。

ほかにもノバルティス(製薬会社)の会長の退職金が70億円の退職金をもらうというニュースも流れ、国民の気分をいたく傷つけた。

この間のEUでの高額報酬禁止決議といい、ヨーロッパには富裕層バッシングの嵐が吹き荒れているようだ。身から出た錆というべきか。



パリの浅田記者の通信です。

見出しが3本、写真入りの記事です。

EU 銀行員賞与に上限

最大で固定給と同額

報酬目当ての無謀投機を抑制 ■ 証券支給で抜け穴も

というもので、まずは経過

2月27日、欧州理事会と欧州議会の代表とが、ブリュッセルで長時間協議の末、銀行員の賞与に上限を設けることで合意した。

ということで、次はその内容。

①銀行員の賞与の上限を固定給と同額とする。(固定給というのは月額?、それとも年額?)

②株主総会の議決があれば、2倍までの支給も可能とする。

③株や債券での賞与はこの上限にふくまれない。

ということで、いままではどうなっていたかというと、

バークレイズ、ゴールドマンサックス、ドイツ銀行などでは固定給の数倍から10倍にも達する賞与を、少なくない行員に支払っているとのこと。

このため多くの幹部行員は、高額賞与を得ようと、危険を顧みず投機に走ってきたようです。そしてそれが金融危機をもたらしたということです。

ということで、抜け道はありつつも、基本方針としてはまことに結構な決定です。

それで、これからどうなるかというと、

3月5日にEU財務相理事会があり決定される。これは理事会の承認事項であり、覆されることはまずない。

そして来年(2014年)1月から実施に移される。

ということなので、金融取引税につぐ重要な政策決定だと思う。

ところがこの結構な判断に対してロンドン市長が噛み付いた。

ここは、ちょっと浅田記者のレポートではちょっと説明不足なので、ロイターに載った市長発言を紹介する。

ロンドン| 2013年2月28日木曜日11:12am GMT∥

(Reuters) -

ロンドン市長ボリス・ジョンソンは銀行家のボーナスに欧州連合が上限を設けたことで非難した。そして、銀行業務がロンドン・シティーを回避して、チューリッヒ、シンガポールとニューヨークの方へ向かうあらたな動きが出てくるだろうと警告した。

ヨーロッパの銀行家は早ければ来年にも、ボーナスの上限を迫られる。ブリュッセルで暫定的な合意が成立し、世界で最も厳しい給料抑制策が講じられることになったからだ。

「EUがこんなあからさまで自滅的な政策に固執するなら、なぜ我々はEUに留まらなければならないのだろう。

…ブリュッセルは銀行業務をこなす能力なしには世界的な市場を制御することはできない。ブリュッセルは世界中の銀行家への給与が支払えなくなる。

…この処置で成し遂げられる物があるとすれば、それは、チューリッヒとシンガポールのための後押しであり、ニューヨークである。それはEUのゴタゴタの代償だ。

…かつてローマ帝国のディクレアヌス皇帝は、帝国中で食料雑貨の価格を固定しようとした。これはその時以来、ヨーロッパにとってもっともバカバカしい政策だ。

どっかで聞いたセリフだ。「国際競争力」を口実に法人税の引き下げをもとめた米倉会長の発言と同じだ。

そんなに出て行きたいのなら、宇宙船を雇って、月にでも火星にでも行ってもらおうじゃないか。

ドイツ銀行関係、一つにまとめました
日本には類似の銀行がないために、なかなか想像がつきません。
えげつなさにおいてはかつての住友銀行とか三和銀行を思い浮かばせますが、もともと三井・三菱みたいなところが住友風にやり始めたところは想像を絶するものがあります。そこにがさ入れに入ったということは、想像もできない重みを持っています。
振り返って日本を見ると、政府の財界にたいする驚くべき弱腰は異常です。

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